第24話 心鍛えて
前回迄の経緯
羽藤柚明は高校2年生の夏休みを迎えようとしています。少し前迄は周囲で色々ありす
ぎたけど、それらも漸く落ち着いて。ここ暫くは平穏な日常を、一番たいせつな人・桂ち
ゃん白花ちゃんと愉しく過ごせています。
そして羽藤柚明の日常とは、平穏で長閑な生活を壊しかねない禍への備え、修練を抜き
に語れず。贄の血の『力』の修練は、もう四六時中呼気の如く進めているけど。護身の技
の修練は傍の強い人について学ぶのが最善で。
それは知識や技や筋力の鍛錬のみならず。
それらを扱う自身の心の鍛錬も怠りなく。
参照 柚明前章・番外編第15話「戦い奪うもの」
柚明前章・番外編第16話「己が終る瞬間迄」
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高校2年の夏休みも近い平日の夜8時過ぎ。
夕食後の皿洗いを、一緒に終えたわたしは。
お屋敷の一室で真弓さんと正座で向き合い。
正樹さんは執筆の為奥の部屋に籠っている。
「おねいちゃ」「けい、暫く大人しくおし」
わたしか真弓さんに必ずついてくる幼い双子は、傍でサクヤさんが抱き留め見ていてく
れる。なのでわたしも真弓さんも心おきなく。
「じゃあ、始めるわよ」「はい、叔母さん」
修練に励む事が出来る。今宵は体や武具防具を使う形式ではなく、心の鍛錬だと聞いた。
室内なら戦いの修練ではないと決まった訳ではなく、姿を隠し易くて動きの幅が狭まる室
内での対戦も、過去何度か邸内で為したけど。
「大洋の沖合で、柚明ちゃんがたいせつな人と乗っていた客船が、嵐に遭って沈没した」
そう仮定なさいと、真弓さんは声涼やかに。
わたしは、荒れ狂う暗い波間を思い浮べる。
「嵐の中で、大波渦巻く中で、あなたは救命ボートに乗り込めた。でも、柚明ちゃんのた
いせつな人は、逆巻く海に落ちてしまった」
あなたなら、助けに行くわね。真弓さんの声にわたしは間髪容れずに頷く。傍のサクヤ
さんはわたしの答に苦い顔だけど。仮定の上でもわたしを心配してくれる愛しい人の前で、
わたしはわたしを想ってくれるが故に心の鍛錬を科してくれる、愛しい人に向き合い続け。
白花ちゃん桂ちゃんは、サクヤさんの膝で大人しい。桂ちゃんは最近、真弓さんの方針
で柔らかな茶色の髪を伸ばしている。双子の白花ちゃんと、傍目からも見分けがつくよう
にとの考えで。わたしは見紛う事もないけど。
真弓さんの声音は感情を排除して冷静に。
「でも考えて。嵐渦巻く外洋はボート上でも生命が危うい。救助が至難な以上に、仮に泳
げても危険な以上に。海に落ちたあなたの大切な人は2人。右と左の波間に浮いている」
右の人を助けに行けば、左の救助に間に合わない。左の人を救助に行けば、右の救助に
間に合わない。迷えば両方共が波間に消える。
喉をごくりと、通り過ぎるものを感じた。
「そこで選択よ。右と左、あなたは何れを助けに行くか。それは右の人と左の人が誰なの
かにも依るでしょう。生命の値は等しいけど、個々人にとって生命の値は関り方で違う
…」
真弓さんは生命の重さを肌で感じてきた人だ。だからその言葉の重みはわたしにも分る。
極限状況でギリギリの判断を強いられる事も、時にある。望む選択肢がない事も、時にあ
る。
「迷いが両方を見殺しにする極限の状況、何れかを助ける為に選べば何れかを見捨てる事
になる究極の選択で、あなたはどうするか」
迷わずに答えよという事だ。わたしは真弓さんの言葉に視線に神経を集中して次を待ち。
「2人は省吾さんと仁美さんよ。柚明ちゃんは何れを選ぶ?」「仁美さんを、助けます」
わたしの父方従姉で3つ年上の仁美さんは、大学へ通い始めて2年目で。昨年、5年続
いた勝沼省吾さんとの恋仲を終了したと聞いた。
決裂した訳ではなく、誰に引き離された訳でもなく。仁美さんよりも3つ年上の省吾さ
んは、高卒で自動車整備工場に就職しており。仁美さんの受験を機に、関係解消を申し出
たという。互いの住む世界が違うという理由で。
仁美さんの父浩一さんは建設会社の社長で。省吾さんは機械工作が得意だけど母子家庭
で貧しくて進学は選択になく。釣り合わないと。彼はこの結末を予期していた様で、仁美
さんに望まれても、唇を繋ぐ仲にも踏み込まず…。
『あたしは……省吾に見合う女になれない』
彼を追いかけ、大学を辞めて家族も捨てて、彼に見合う女の子になる選択もあったと仁
美さんは語り。でもそれは出来なかったと。それが自身の省吾さんへの想いの限りだった
と。彼に彼女の住む世界へ駆け上る術がない以上、自身が駆け下りなければ結ばれる目は
ないと。結果それをせず、仁美さんは大学入学を選び。
何れが悪い訳でもない。2人の選択だった。
お互い今と未来を見て、人生を選び取った。
今尚2人ともわたしのたいせつな人だけど。
一度はわたしが仲立ちをした、2人だけど。
「……わたしが選ぶのは、仁美さんです…」
そう。真弓さんは抑揚のない声で短く頷き。
何の論評もせず、わたしに深い双眸を向け。
「2人は飛鷹翔君と白川夕維さん。柚明ちゃんは何れを選ぶ?」「夕維さんを助けます」
翔君と夕維さんは、県立経観塚高校へ一緒似通う同級の仲だ。幼馴染みの2人が恋仲な
事は中学時代から、わたしも含む周囲の了解事項で。夕維さんも疑いもしてない様だけど。
『先のことは分らないよ……特に色恋はさ』
夕維さんを伴わず下校で一緒になった時に。
翔君は周囲の認識は思いこみに過ぎないと。
夕維さんの想いも永続の保証はないと語り。
『夕維は幼馴染みと恋人の区別がついてない。小学2年で交通事故で父さん母さんを亡く
し、父方のじいちゃんばあちゃんの家に、ウチの隣に夕維はやって来て。隣同士で同じク
ラスだったから、今の感じになったけど。夕維が俺に恋してないって事位は、分っている
よ』
彼のその言葉には、一時夕維さんの彼女だったわたしも頷き。翔君にせよわたしにせよ、
愛する人より愛してくれる人、恋する人より受け止めてくれる人を夕維さんは求めていた。
翔君はそれを『幼馴染みの惰性』『偶々長く傍にいたから』『歳の近い者なら誰でもこ
うなっていた』と言い。白花ちゃんや桂ちゃんが、わたしをお嫁さんにすると、好いてく
れるのに近いかも。夕維さんが彼との痴話喧嘩の末に、わたしを彼女に欲した3年前の初
夏、翔君が強く反対したのは、嫉妬ではなく。言動の危なっかしい夕維さんを案ずるが故
の。
夕維さんは自身の想いを自覚してないから。
悪意ない侭に周囲を振り回してしまうけど。
結果自身に自業自得の害を招き寄せるけど。
『翔君は夕維さんのそんな事情を分って?』
最後に報いのない可能性が高いと分って尚。
彼はわたしの問の意味を承知して苦笑いを。
『恋人じゃなくても、夕維は俺の大切な人だ。妹分というか子分というか。幼馴染みの惰
性でも、近くにいれば笑顔でいて欲しいと思う。不幸に苦しみ哀しめば助けたい。恋人じ
ゃなきゃ女の子を守れないって決まりはないだろ。駐。も日々女の子を助けているし。そ
れに羽藤がお返しを求めたって話しも聞かないし』
言われる通りなので言葉が詰まるわたしに。
『本当の恋人を見つけるまで、夕維を受け止め支えるのが、俺の役だ。夕維が本物の恋人
を見つけられたら、俺はその恋を支え助ける。遂にそういう男が現れなくて、最後に俺を
求めてくれたなら、どうかな。その結果は、俺にとってより夕維にとって、幸せなのか
な』
彼は夕維さんを心底大事に想っているけど。
それは父や兄や弟としての想いに近いのか。
翔君は自身との幸せを、前提に置いてない。
白花ちゃんや桂ちゃんが幼い想いを貫いて、仮に将来本当にわたしと結ばれたなら、桂
ちゃんや白花ちゃんにとってそれは幸せなのか。それはいとこの未来を縛るだけにならな
いか。それを問いかけられた感じもあって。翔君は、
『幼馴染みでも恋人でもさ……毎日近くにいるから、ありがたみを実感してなかったけど。
小さな行き違いが大きな物別れにもなりうる。日常の一つ一つの小さな応対が、実はとて
も大事なんだって事は、羽藤に教えられた…』
夕維さんを深く想う思慮深い男の子。その。
想いを望みを生かすなら。わたしの選択は。
今尚2人ともわたしのたいせつな人だけど。
一度ならずわたしが仲立ちした2人だけど。
己が翔君の未来への扉を鎖す事になっても。
夕維さんを哀しませ涙させる事になっても。
「……わたしが選ぶのは、夕維さんです…」
そう。真弓さんは抑揚のない声で短く頷き。
何の論評もせず、わたしに深い双眸を向け。
「2人は秀彦さんと詩織さんよ。柚明ちゃんは何れを選ぶ?」「詩織さんを、助けます」
羽様小学校の複式学級で同じクラスだった平田詩織さんは1つ年下で。兄の秀彦さんは
わたしの4つ年上だ。平田さん一家4人はわたしが小学6年の夏に、詩織さんの病の故に、
専門の病院がある遠方へ引っ越し。手紙で交際を続けてきたけど、最近返事が来てなくて。
愛しい人の容態悪化は、言外に感じていた。
今のわたしは意図して視ようとしなくても。
届いた手紙から彼女の現況が悟れてしまう。
手書きの便箋が、ワープロ打ちに変わって。
それも難しくなって口述を打って貰う形に。
各種の薬の副作用で顔や体にむくみが生じ。
お風呂に入れず最も可愛い状態が崩れゆく。
彼女は今の姿を見られたくないと拒むのと。
同じ位わたしに来て欲しいと、望んでいる。
本当の平田詩織を、病と闘う今を知ってと。
『夏休み、オハシラ様のお祭りを終えた後で、詩織さんをお見舞いに行こうと想います
…』
全て含めて分っているよと、直に伝えたい。
傷つけても触れて確かめ合うべき時はある。
一時的に幼い双子の前を外す事になるけど。
近づく最期を前に、僅かでも力づけたくて。
病との長く辛い戦いは終局を迎えつつある。
今迄わたしは、何の力にもなれてなかった。
お兄さんの秀彦さんもきっと喜んでくれる。
妹を気遣い想い愛し続けた熱く強い男の子。
「秀彦さんを助けないこの選択は、妹の詩織さんを哀しませ傷つける。終生の重荷となる。
それでもわたしは秀彦さんではなく詩織さんを助けます。責めは生涯わたしが負います」
詩織さんの大切なひとの助けを諦める事は。
咎もない彼を見捨てる選択は忍びないけど。
極限の状況で迫られたなら、わたしの答は。
「躊躇わず答を出せている様だね」「……」
横からサクヤさんが平静な声音を挟むけど。
真弓さんは未だ頷かずわたしへの問を続け。
「2人は鴨川賢也君と塩原大悟君よ。柚明ちゃんなら、何れを助ける?」「えっ……?」
賢也君はクラスは違うけど経観塚高校の同級生で、真沙美さんの従弟でたいせつな人だ。
真沙美さんの大事な人はわたしにも大事な人。助けられる可能性がある限り、助けたいけ
ど。
塩原先輩もわたしの2つ年上で、不幸な諍いは経たけど、和解もできた。お母様の誠子
さんとも分り合えて仲良くなれた。不器用な面はあるけど気持のまっすぐな、大事な人だ。
双方大事な人である上に、双方をたいせつに想う人がそれぞれにいる。気易く選べない。
答に淀んだのは一秒位だと思う。でも真弓さんは、その躊躇が致命的だと判断した様で。
「次に行くわ。2人は北野文彦君と若杉史よ。柚明ちゃんなら何れを助ける?」「え…
…」
文彦君は、羽様小学校の複式学級で同じクラスにもなった1つ年下の男の子だ。お父さ
んお母さんを喪い、心鎖した侭羽様小に転入した当時のわたしを、彼を含むみんなは快く
受け容れてくれて。特に文彦君はこんなわたしを好いてくれて。中学2年の冬から半年位、
休日役場のホールで特別上映の映画を見たり、未だ物珍しいハッキンビーフバーガーでお
昼を一緒したり、恋人の様なお付き合いもした。
わたしより1級下の難波南さんと恋人付き合いする事になって、わたしと彼の関係は終
ったけど。喧嘩別れではなくお互い大事に想い合っているし、わたしの愛しい南さんの恋
人なら、たいせつなひとにならない筈がない。何が何でも助けたい、見捨てられない男の
子。
史さんは若杉が遣わした羽藤柚明監視役だ。本当は5歳年上だけど戸籍を偽り、昨年末
同じクラスに転入し。彼がわたしに為してきた嘲弄や挑発は、羽藤柚明が人に害を為す鬼
になるか否か見極める使命の為で。実は数年前、若杉の任務遂行中に鬼の因子を宿してし
まった、幼馴染みの女の子を治す為で。敢てわたしの心を乱し、それでも暴走しない現状
を示して、鬼の抑え方を見届け参考にしようとの。
春先の相馬党の襲撃では、真弓さんサクヤさんが敵を撃退する側面で、人質開放に努め。
そのお陰で和泉さんも聡美先輩も、一番たいせつな白花ちゃん桂ちゃんも、無事助かった。
わたし監視の任務も適性に厳正に務め、わたしや羽藤が人の世に害を為す者ではないと、
正確に報告してくれて。サクヤさんを含む羽藤の未来を支え守ってくれたたいせつな人だ。
『状況はどちらか一方しか選べないけど…』
どちらにも、たいせつに想う人がいる。若杉の職場の関係も、地域の繋りも家族も絆も。
史さんにも文彦君にも、同様に愛しい人が…。
決められない。思い返す程に即断出来ない。
即座に声が出ないわたしを見て真弓さんは。
「次に行くわ。2人は可南子ちゃんと倉田聡美さん。あなたは何れを助ける?」「っ…」
可南子ちゃんは仁美さんの妹で、わたしの1つ年下の可愛い子。5年前仁美さんが交通
事故で顔に深傷を負った時、恵美おばあさんも倒れ込んで、わたしに助けを求めてくれて、
信じて頼ってくれて。贄の血の癒しの『力』で体と心の深傷を癒す、繋ぎを担ってくれた。
2年半前の冬、贄の血の関知の『力』で可南子ちゃんに迫る禍を察し。彼女とその想い
人・宍戸伶子さんの間に割って入り、お節介の末に、2人を守り庇い、仲を繋ぐ助けが出
来て。仁美さんや伶子さんのたいせつな人で、わたしの幼い頃を支えてくれたたいせつな
人。
2人は今も、2年半前の危難を共に乗り越えた、密な先輩後輩の関係を保ち続けている。
聡美先輩とは中学校の手芸部が馴れ初めだ。一級上で大人の付き合い方を知る聡美先輩
は、強引だったり意地悪だったり、様々に振り回されたけれど憎めなくて。人の心の表裏
や思いがけない化学変化を、実地で教えて貰えた。
先輩の進学で一度関係は終ったけど、わたしも同じ高校に入った処、先輩の彼氏・池上
祐二先輩も含めた複雑なお付き合いになって。でもその結果今春の相馬党の襲撃で人質に
…。
聡美先輩には何の咎もないのに。わたしに近しかったとの理由で。わたしが原因だった。
強制的に攫われ、奴隷的に拘束され、暴力的に繋がれ。真弓さんサクヤさんの助力で漸
く開放されたけど。その課程で疲弊したわたしは、愛しい人の心の深傷を拭う事も叶わず。
若杉の術者が施した記憶消去の経過観察と補充しかできなくて。術で記憶を書き変えられ、
酷い目にあった事は忘れ去れたけど。逆に生命に関る体験を、忘れさせられたとも言えて。
わたしの所為で傷つき、傷ついた事さえ忘れさせられ、記憶毎奪われたたいせつなひと。
わたしが生涯償わなければならない女の子…。
即座に選べない。答を出せない。どちらかを助ける事はどちらかを助けない事だ。お互
いをたいせつに想う人の、哀しみ迄が視える。
「柚明……」双子を膝に抱えたサクヤさんが。
何か語る前に真弓さんは、見切りを付けて。
「次に行くわ。2人は早苗さんと歌織さんよ。柚明ちゃんなら何れを助ける?」「っ
…!」
結城早苗さんも篠原歌織さんも、銀座通中学校で知り合って。経観塚高校に通う今でも
親友以上の肌身添わせる関係だ。早苗さんの視える資質が、思春期の心身の不安定さの故
に時折顕れる状況に悩み。その安定化と沈静化に贄の血の感応の『力』を及ぼす事になり。
歌織さんは視える資質を持たないけど、早苗さんの状態を疑わず、寄り添って一生懸命
力になろうと努め。日常は大人しい早苗さんの守護を自ら任じ。早苗さんの為に、わたし
という異物の介在も、許し受け容れてくれた。
早苗さんは人の理解や共感を期待せずに生きる強い人だけど。歌織さんにだけ、その理
解や共感を期待してしまう部分が可愛らしく。歌織さんを一番に想いつつ、歌織さんの支
えにも努めるわたしを、許し受け容れてくれた。
互いが互いを一番に想いつつ、二番にわたしを想ってくれる。究極の状況では多分『自
身ではなく相方を助けて』と願うだろうけど。
わたしの異能の『力』を一部分って、尚怯えも警戒もなく、肌身を触れ合わせてくれる。
どちらも掛け替えのないたいせつな人。そしてお互いにとってお互いが最もたいせつな人。
『わたしは、どっちに手を伸ばすことが…』
答えられない。一瞬で、声が出て来ない。
その状況を見て、真弓さんの気配が緩み。
「今宵はここ迄にしましょう。お疲れさま」
今宵の修練は課題をこなせず終了となった。
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「わたしは正樹さんの夜食を作るから……」
真弓さんは決めるとすぐ次の行動に移る。
「柚明ちゃんは、サクヤと子供達を見て頂戴。その侭2人を寝付かせてくれても良いわ
…」
そしてそれ以上続けても、すぐに進展が望めない事はわたしにも自明で。むしろ真弓さ
んは既にこの結果を推測済か。この課程はわたしに、それを分らせる為の所作だったかも。
サクヤさんが解放した白花ちゃん桂ちゃんに寄り添われ、立ち上がれずにいるわたしに。
「柚明ちゃんは優しいから、究極の判断が苦手なのは分るわ。でも、それでは済まされな
い局面もある。あなたは賢いから、その事も既に分っている筈よ。あり得ない筈の危難が
あなたには何度か訪れている。想定外に備える術を鍛え学ぶあなたに、一度あった事が二
度起らないと言い切る事は、出来ないはず」
脅威は、鍛錬の完遂を待ってくれはしない。
危難は、対応の万全を待ってくれはしない。
内なる敵は苦痛や油断や怯懦だけじゃない。愛情の深さや熱さも時には抑え付けなけれ
ば。一番大切な目的の為には、迷いも許されない時がある。瞬時の迷いが全てを失わせる
時も。
慈愛と厳しさを双方込めた深く瞬く双眸が、
「敵はあなたの希望する時や場を選んではくれない。あなたがいつでも対応できる心と体
を保たなければならない。心や体の浮動が致命的な隙を生む事もあるわ。実戦は試合じゃ
ない。やり直しは利かないし、ルールもない。
愛や情けを捨てろとは言わないわ。唯大切な物の順番を意識なさい。どれが一番大切で、
どれは時に諦めざるを得ない物か。今現在がどの位の緊急度か、その心眼で見極めて…」
「言われたねー」真弓さんが歩み去るのに。
銀の髪の人は笑みを浮べて近付いてきて。
「情の深すぎる柚明にしては、良く答えられた方だと思うけど。実際危難に遭った時を考
えると、努力賞じゃ不満なんだろうさ。元鬼切部・当代最強の合格ラインは、高いから」
「わたしが、答えられなかったからです…」
左右に寄り添う幼子達に肌身を触らせつつ。
間近な白銀の豪奢な髪の女性を見上げると。
「初めの内は何とか応えられていた様だけど。
最初の三組は男と女の組み合わせだったね。
でも男同士・女同士の組み合わせになると、即答できなくなって……柚明は昔から誰に
も甘いけど、女に特に甘々だから。真弓も人が悪い。今宵の問答は柚明の性分を知悉した
上での、答に詰まると分ってやったハメ技だ」
「己の底が浅い事を、思い知らされました」
ま、いいんじゃないかね。修練なんだし。
サクヤさんは気楽そうな声でウインクし。
「真弓の『実戦に次はない』ってのは正論だけどさ。その実戦に備える為の修練なんだし。
不足を分って直し満たして行くのが修練さ」
真弓も当初から柚明の正答は期待してない。
出来る事なら何も修練する必要はないしね。
サクヤさんの読みは悔しいけど多分正しい。
「その上で、真弓も多分意図して、本当にきわどい問は、避けている。可南子と仁美とか、
和泉と鴨川のバカ娘とか正樹とあたしとか」
サクヤさんの提示は充分身を震わせたけど。
敢て言わない部分にこそ真に究極の選択が。
「一番たいせつな人を2人持つ柚明には、きつい修練だろうけど。2人を同時にたいせつ
に想い続けるなら、避けて通れない途かね」
そこ迄言ってから銀の髪の人は力を抜いて。
幼子がわたしに左右から張り付く様を眺め。
「あたしは、自分の一番たいせつな人に逢いに行って来るよ。あんたは、あんたの一番た
いせつな人をたんと愛しんでいると良いさ」
今からですか? 夜更けにとの問いかけに。
逢いたい想いはいつでもだよ、と微笑んで。
サクヤさんは宿題への助言をくれて、最後は独りで考えなさいという感じか。わたしに
沈思の時間を残して、幼子2人にわたしを独占する時間を残して、夏の夜更けに歩み出し。
わたしは愛しい幼子2人との夜を過ごす。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
幼子を寝付かせる頃合なので、わたしは真弓さんと正樹さんの部屋に、桂ちゃんと白花
ちゃんのお部屋に入って。幼子2人を左右に布団に入り、前からの絵本の続きを読み語り。
「……いつまでも、仲良く、幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし……おしまい」
絵本を読まない時は、2人の日々の話しを聞いたりも。わたしの帰りが早い時は、2人
駆け寄ってきてお話しし。お夕飯の時にもお話しし。双子は真弓さんに話した後で、わた
しにもお話しすると決めている様で。お夕飯の後も時間があれば、再度お話ししてくれて。
お風呂やお布団でお話ししてくれる事もあるけど。時折わたしに話ししてと振ってもくる。
「おねえちゃん。おはなし、おはなし」
「ゆーねぇの、おはなしを。きかせて」
白花ちゃん桂ちゃんは、わたしを好いてくれる故か、わたしの話しは何でも聞きたがる。
この年の子供は好奇心旺盛だし。話して問題ない学校生活を、かみ砕いてお話しするけど。
2人は理解する事よりも、わたしの話しを聞く事を喜び。間近で肌身に感じる事で安心し。
そしてわたしは2人の喜び安心する様を愛で。
話しを聞く内に寝入ってしまう事もあれば。
瞳を輝かせて話す側を再度志す事もあって。
「あのね。今日はくかね、がっこうでね…」
「おねぇちゃん! けい今日がっこうで…」
幼子の話しを聞く事は幼子にとって重要だ。筋道を辿って話す事は、人の世を生きる為
に大事な技能だ。白花ちゃん桂ちゃんは、贄の血を尋常ならざる程に濃く宿す故か、双子
のテレパシーなのか、互いの間では言葉抜きに感情や思考を交わし合う様で。その故に言
葉で話し合う事が少なめで。この先、世間に出て様々な人と出逢うなら、日々言葉で想い
や考えを伝え合う事に、馴れておく必要がある。
2人の言葉や身振り手振りは、幼子が伝えたい中身を表現するのにはやや足りないけど。
毎日子供の世界から新しい言葉や考えを見つけ学んで進歩する様は、愛らしく微笑ましく。
わたしは贄の血の感応の『力』で、愛しい双子の想いや考えが分るし、関知の『力』で
幼子や周囲で起きた事柄を知る事が叶うけど。2人の想いを肌身に受けて、伝わっている
よ、分ったよと返す事も重要だ。人は自身の想いや考えが伝わった事に充足を憶える物だ
から。
思春期迄は、女子の成長が男子に先んじるらしく、何事にも活発で積極的な桂ちゃんと、
物静かで良く考え込む白花ちゃんは、傍から見ると瓜二つの為に、良く男女を間違われて。
活発な桂ちゃんが、男の子の白花ちゃんに。
大人しい白花ちゃんが女の子の桂ちゃんに。
真弓さんが出生届を間違えて、女の子に付ける予定の名前を白花ちゃんに、男の子に付
ける予定の名前を桂ちゃんに、付けてしまった言霊の効果かどうかは、定かではないけど。
「むにゃ、ゆーねぇ」「おねいちゃん……」
2人が話し疲れるとわたしが話す側に代り。ゆっくりお話しする内に、幼子の瞼が落ち
てくっついて。左右の吐息が寝息に変るのはいつも決まってほぼ同時。互いに間近の相方
が、眠りに落ちて良い安心感にいると確かめて…。
双子はわたしに密着しなければ不安なのか。
眠っても暫くは幼い柔肌が夜着に張り付き。
窓から差し込む夏の夜の月光は青く涼やか。
耳に届く物音は羽様の森の枝葉のざわめき。
『最近2人には心配のかけ通しだったから』
毎日間近に接している最愛の双子には、自身の深傷や不調を隠し通すのが非常に難しい。
微かな仕草や声音の違いで、気配や佇まいの違いで心配を不安を呼んでしまう様で。ここ
数ヶ月はケガも病もないから、問題ないけど。
『この身は、最早己一人の物じゃない……』
贄の幼子を深く愛した事が、贄の幼子の深い愛を招き寄せ。二人に心配や不安を及ぼす
事が、二人の日々や生育に影を落す様になり。日常を危うげなく過ごせれば良いだけなの
に。
柚明お姉ちゃんは常に、平静で安穏でなければならない。深傷に倒れるとか病に伏せる
とか、悲嘆に暮れるとか涙に濡れるとかしていては、幼子の心を曇らせる。でもその当り
前が如何に難しいか、日常を保つ事がどれ程困難か、この一年で思い知らされた感もあり。
「わたしは、尚も未熟で危うい処だらけ…」
誰かの為に役に立てる人生を。お父さんの想いを受けて、そう生きられる強さ賢さを目
指して今迄歩み続けてきたけど。未だに目前の幼子2人を慈しむ日常を、保つ事が難しく。
肉体的な強さも素早さも、機転も賢さも日々の諸々も。何もかもが足りてない。足りぬ事
を知って挑んで、努めて尚も届かなく。今の平穏が保たれているのも、己の功績でも何で
もなく、強く賢い人達が傍にいてくれるから。
わたしは禍を呼ぶ様な失態を、幾度か重ね。
迷惑や不安や心配や危難の因になってきた。
小学6年の時お父さんお母さんの仇の鬼が。
羽様を訪れ愛しい幼子の生命脅かしたのも。
わたしが招いた禍だった。鬼は羽藤柚明の足跡を追って、3年経って羽様を訪れたのだ。
今のわたしならあの鬼が来ても撃退できる。
問題は巡る禍の困難度も上がっている事で。
『わたしの何気ない所作が、そうなるとは思いもしなかった所作が、禍を招き寄せている。
経観塚へ、羽様へ、たいせつな人達へと…』
不二夏美の禍が経観塚や羽様に、わたしのたいせつな人に降り掛らずに済んだのは、僥
倖に過ぎない。千羽党が不二夏美を追い詰め、真弓さんが一時的に現役復帰して首都圏へ
出向いて、わたしの手が届かなかった鬼の処断を完遂してくれたから、食い止められたの
だ。
鬼切部が動いてなくば、鬼は更に跳梁していた。彼女は必ずしも、関りのない人迄憎み
恨む悪鬼ではなかったけど。復讐の為に生存の為に、路傍の花を踏み潰す如く、無辜の生
命を奪っていた。鬼切部が討つべき鬼だった。
わたしは彼女の鬼に至る迄の凄絶な道筋を、知って戦き手を拱いた。処断すべき者を処
断できず見過ごして。鬼切部ではない己が関るのは不適切な以上に、この手に余る者だっ
た。
なのにわたしはそんな悪鬼と関りを持った。白花ちゃん桂ちゃんとは関りのない、一面
識しかない八木博嗣さんを守る為に、彼の生命を狙った夏美さんの前に身を挟め、防ぎ妨
げ。鬼に関る事がどれ程危ういかは、幼い日、お父さんお母さんの最期で思い知った筈な
のに。
八木さんの影に、白花ちゃん桂ちゃんと同じ歳の幼い娘・要ちゃんの存在が視えた事は、
理由にはならない。桂ちゃん白花ちゃんの生存に、八木さん父娘の存在は全く関りがない。
わたしの甘さが自ら禍を招いていた。それが一番たいせつな幼い双子にも禍を招く事に…。
『鬼が贄の血を呼んでいる……の? わたしの贄の血が、鬼に呼ばれて誘い出されて?』
不二夏美が、首都圏で討たれて終ったから。
羽様に鬼が顕る悪夢は、杞憂に終ったけど。
それは真弓さんが羽様を空けて首都圏まで出向いて、悪鬼を速攻で討ち果たしたからだ。
真弓さんが出向いてなければ、不二夏美の討滅は遅れ、その遅れた時間で彼女は復讐を
果たし終えた末に、羽様を訪れたかも知れぬ。わたしは首都圏から離れる事で、彼女の禍
を一時的に回避したけど。鬼の追跡を塞ぐ所作は為せてない。真弓さんが出向いて悪鬼を
切ったから、彼女との定めの絡みも切れたけど。そうでなければその先に、お父さんお母
さんの仇の鬼と同様に、羽様に鬼が訪れる展開も。最愛の幼い双子が悪鬼と巡り逢う事も
或いは。
今になって考えると、背筋を走る物がある。
真弓さんが現役復帰して鬼を切った行いは。
過剰に見えて実は最低限の一手だったのだ。
そこ迄せねば、贄の民は鬼を振り切れない。
『どこ迄修練を重ねれば、どこ迄【力】や護身の技を極めれば、羽藤柚明は自身や周囲に
禍を招かない様に、悪鬼や禍から適切に距離を置いて行動できる様に、なるのだろう…』
大人の適切な思慮分別が、身につかない。
月明りの冷たさが、今は心の水枕だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
眠りについた幼子を左右に独り思索は進む。
不二夏美の禍は真弓さんが断ち切ってくれたけど。わたしの不用意は、去年から今年に
かけて弾けていた。大野教諭や若木葛子さんを通じ、相馬党との全面戦争に至る諍いの連
鎖も、自身の所作に始る。こんな結果を招くとは思わなかったなんて、言い訳にならない。
贄の血の関知の『力』は、こういう流れを読み解いて、最善の判断を下す為の技能なのに。
美咋先輩と繋げた絆は正解だけど。彼女を大野教諭の軛から解き放つ以上に、彼の次の
獲物はわたしだったから、回避は至難だったけど。彼を打ち倒して教師人生を終らせた行
いが、彼を虫籠扱いで眺め愛でていた若木葛子さんを怒らせ。彼女が流したわたしの悪い
噂を辿った正樹さん達が、彼女の解雇を導き。
羽藤監視こそ真の任務である若杉の彼女は。
経観塚にいられなくなる事が任務の失敗で。
蹉跌はエリートの誇り高い彼女を激怒させ。
相馬党を私的に招いてわたしを嬲り殺しに。
美咋先輩によかれと思って、為した所作が。
先輩に、拭えない深い傷を刻む結果となり。
その上で、退けられた相馬党は憤怒を抱き。
若木さんを抜きに、羽様の幼い双子を攫い。
『原点にはわたしの所作がある……わたしが為した事の流れの末に次々と禍が、わたしだ
けではなくわたしの愛しい人達に巡り迫り』
最終的に相馬党の禍も自身の手には余って。
真弓さんサクヤさん正樹さんの助けを受け。
たいせつな家族に危難を及ぼし誰も守れず。
何も読めず何も防げず何も役に立ててない。
『でも今回ばかりは、何をどうすれば良かったのか、過去に遡っても見通しが利かない…
…どの時点でどうすれば良かったのか、その時点で持っていた経験や知識で、考えても』
美咋先輩に関らず、その悲哀を見捨てておけば良かったとは、思えない以上に。大野教
諭は先輩を虐げつつ、わたしに照準を合わせていた。同じ学校に通ってその悪意を躱し通
すのは至難の業だし。彼に思いの侭に虐げられる事は、己はともかく後にも被害者を生む。
彼を愛してない若木さんの憎悪は想定外だ。
彼女が私的な繋りから鬼切部を招いた事も。
『それを予期できなければならなかった?』
若杉でも鬼切部を呼びつけるなど容易に出来ない。鬼の禍があっても、若杉は組織で動
く筈で。その指揮系統を私的なコネで骨抜きにして、直接高位の鬼切りを招き、わたしに
冤罪を被せ抹殺する。私怨を晴らす為に警察や自衛隊を動かす無茶苦茶は、予測できまい。
でもそれを切り抜けた結果、次の禍は生じ。
そこで生命絶えていれば先に何もないけど。
彼らを打ち倒し、退けてしまったからこそ。
相馬党は若木さんを抜きに、再戦を望んで。
その為に、わたしを戦場に引きずり出して打ち倒す為に、彼らは白花ちゃんと桂ちゃん、
和泉さんと聡美先輩を拐かして人質に取って。刃を当てて生命脅かし拭えぬ怯えを心に刻
み。
これで退け終えたのだろうか。禍は全て去ったのだろうか。昨冬も若杉と相馬の謝罪を
受けて和解に応じたけど。終った様に見せかけての今春だった。それをわたしが視通せな
かったのは。彼らの隠蔽が巧妙だった以上に。
禍の影は感じ取れていた筈だ。今と同じく。
姿迄は視えずとも、影を落している事位は。
でも事実はそれ以上探り当てられなかった。
一番たいせつにせねばならない者の危難を。
『羽藤柚明の内心が平静に戻れてなかった以上に……わたしが平穏を欲し望んで、その他
の不穏な兆候を見落していたから……なの? わたしが平穏を望み和解を求め、無意識に
諍いの兆しから目を逸らそうとした、から』
戦争への道は、平和を唱える者によって敷き詰められる。という諺を思い返す。自分が、
自分達が望めば平穏や安穏が保たれる訳ではない。乱を望み戦を欲する者は世に実際いる。
1つ間違えればそうなってしまう状況はある。その危うさを正視せねば、飽きる程に見定
めなくば、子細に至る迄把握し尽くさなければ。知らない事が惨劇を食い止める機を失わ
せる。
乱に走る者達が身動きできない様に、目を光らせ先手を打ち、周囲を固める事で事前に
諍いを封殺する。諍いを起こさせない体制は、善意にのみ頼るのでは長持ちせず完成しな
い。
安穏を平穏を望み願う気持は王道だけど。
物事を人を見定める時に想いが先走ると。
望む未来に繋る事柄しか視えなくなると。
都合の悪い事から目を背け瞼を鎖す様に。
楽観が悲観への道を開く……なら反対に。
最悪を想定する事が希望を手繰り寄せる。
『虚心な姿勢で対さなければ。戦を望む気持も厭う気持も、視点を歪ませる……。愛も憎
しみも合理も執着も、正当不当も好き嫌いも、視野を狭め視点を歪ませる怖れを内包す
る』
読み解く事、見極める事が羽藤の贄の血の特典なら。それを自ら手放す行為が如何に危
ういか。危うかったか。昨秋迄のわたしが先を見通せなかったのは。そして今のわたしが。
瞼の裏に映るのは、青空に向けて屹立する。
或いは星空に向けて影を広げる、槐の大木。
千年の樹齢を誇る霊木に宿るオハシラ様は。
百年も生きてない小娘の悩み等お見通しか。
「守ろうとする想いが、今を保ちたく願う気持が、心の盲目を導いて安穏を崩すなら…」
その失態の責任は全て視通すべき己にあり。
どの様に悔いて嘆いても償い補えはしない。
それは心に刻みつけ。でも今は幸いな事に。
たいせつな人は喪われてない。ここにいる。
元気に賢く愛らしく、今正に育ちつつある。
その守りを立て直せるのも又、わたしだけ。
正樹さんは歴代で贄の血が最も薄く。真弓さんもサクヤさんも、外から羽藤に参入した
人で贄の血を持ってない。白花ちゃん桂ちゃんは、千年の中で最も贄の血が濃く、わたし
より濃いけど。贄の血の力は、心の在り方に大きく左右される。段階を経て心を鍛えねば、
有り余る才や運命が本人に牙を剥きかねない。
暫くは、ご神木のオハシラ様に心通わせて。
わたしが羽藤の先行きを視て読み解かねば。
何度も巡った禍を防げないどころか、禍を。
呼び招いたと気付かぬ愚鈍なこの身だけど。
己の力不足や未熟非力は百も千も承知して。
他に人がいない今この身を心を尽くさねば。
『何もかもを捨てろとは言わないわ。唯大切な物の順番を意識なさい。どれが一番大切で、
どれは時に諦めざるを得ない物か。今現在が平時か緊急時かを、己の心の目で見極めて』
真弓さんの言葉を整理し、かみ砕き復唱し。
夏休み初日の夜、己は心の修練に再び挑む。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
真弓さんは何の予告も兆しなく、お夕飯の片付けを終えた後で、心の修練の再開を告げ。
わたしの護身の技は、お屋敷や町中で平時に脅威に遭う事を想定している。買い物や遊
びに出た先で、桂ちゃん白花ちゃんが犯罪者や鬼に襲われた時、いつでもどこでも即応を
迫られる。それは一種鬼切りより難しいかも。
わたしは既に冬の日も、雪や寒空の元で修練をしている。雨の日も風の日も。鬼や犯罪
者が人を襲う際、季候の良い晴れた日を選んでくれる保証はない。鬼が出るのはむしろ夜。
場所も中庭に限定せず、最近は近くの小川の河原や、浅瀬に入ったり、森や麓の藪でも。
敵が襲ってくる際に、見通しの良い平らな処を選んでくれる保証はない。様々な状況に対
応できる強さが必須だった。どんな時でもどんな相手でもどんな場所でも、即座に的確に
対処する。食事中でも入浴中でも睡眠中でも。
夕食後の発動は正当すぎて、わたしよりむしろ傍の正樹さんや幼子を、驚かせない為か。
サクヤさんが先日羽様を出立したので、今宵は間近で幼子を抑え見守る役を、正樹さん
にお願いし。心の乱れを厭う修練だからこそ、わたしの心の浮動に敏感な愛しい幼子や近
親者を傍に置いて為す。心配をさせぬ様に、不安に陥れぬ様に、動揺を悟られぬ様にせね
ば。それは敵に意図を見抜かれない修練にもなる。
『元々大切な人を守る以外戦いを考えないあなたが戦う時とは、どうしても回避できない
時、負けられない時、失敗が許されない時』
己の傍で愛しい人が危難に晒された時だと。
この様に傍で愛しいひとを守るべき時だと。
真弓さんは正座で向き合い、課題を述べる。
「設定は前回と同じよ。あなたとたいせつな人が、沖で海難事故に遭って。あなたは救難
ボートに、愛しい2人は逆巻く波の右と左に。右の人を助けに行けば、左の救助に間に合
わない。左の人を救助に行けば、右の救助に間に合わない。迷えば両方共が波間に消え
る」
前回の様に何かがごくりと喉を通り過ぎる。
「そこで選択よ。右と左、あなたは何れを助けに行くか。迷いが両方見殺しにする極限の
状況、何れかを助ける為に選べば何れかを見捨てる究極の選択で、あなたはどうする?」
白花ちゃん桂ちゃんは、正樹さんの膝で大人しい。桂ちゃんは先日、わたしの裁縫鋏で
自身の髪をざっくり切って。後で真弓さんに切り揃えて貰ったけど、伸ばしていた明るい
茶の髪は短くなって。傍目に双子は見分けが難しくなって。わたしは見紛う事もないけど。
正樹さんは執筆活動が一時的にスランプらしく。気分転換にむしろ好いと言ってくれた。
わたしの遅々たる歩みに、付き合ってくれて。その優しい彼の間近で、真弓さんはいきな
り。
「2人は沢尻博人と正樹さんよ。柚明ちゃんは何れを選ぶ?」「叔父さんを、助けます」
博人はわたしを愛し、因習に囚われたこの土地を一緒に出ようと誘ってくれた。裏切り
裏切られの渦巻く世間に失望しつつ、尚わたしの在り方を好んでくれて、共に人生を切り
開こうと申し出てくれた。白花ちゃん桂ちゃんを一番に想うわたしが、その申し出を残酷
に断っても尚、たいせつな友に扱ってくれて。
彼と歩む先にも別の幸せの形は視えていた。お母さんがお父さんと出逢って、羽様の外
へ出る決意を固め、共に人生を切り開いた様に。わたしには勿体ない程素晴らしい男性だ
った。でも、彼に付いて行ったその先に、今わたしが一番に想う桂ちゃん白花ちゃんとの
幸せはない。それは結局『別の形の幸せ』だった…。
わたしが今ここに生きてあるのは。わたしが今ここで心を意思を持って存在できるのは。
白花ちゃん桂ちゃんを愛しむ気持を胸に抱けた故で。それを二番に降格させる事は出来ず。
博人を因習深い羽様に、贄の血の定めに繋ぐ事は好ましくなく。幼い双子を一番に想うわ
たしは、彼を一番に想う事は出来ない。家族以外では唯独り、愛しく想った男の子だけど。
正樹さんと比べても答に迷い躊躇う程だけど。
「正樹さんも博人もどっちもたいせつだけど。桂ちゃん白花ちゃんの父を、喪わせる訳に
はいかない。例え生涯悔いを抱く事になっても、誰のたいせつな人を涙させる事になって
も」
わたしは博人ではなく正樹さんを優先する。
その答に正樹さんは幼子を抱いた侭硬直し。
真弓さんは無表情の侭頷いて、次の問へと。
「2人は金田さんとサクヤよ。柚明ちゃんは何れを選ぶ?」「サクヤさんを、助けます」
和泉さんは、わたしが羽様小学校に転入して以来の親友で。真沙美さんと同着で愛しい、
幾度もの苦労を友に乗り越えてきた女の子で。今年春には生命の危難に遭わせたにも関ら
ず、全部承知でわたしへの想いを繋ぎ続け、将来を人生を共にしたいと熱く深く望んでく
れた。
わたしが桂ちゃんと白花ちゃんを一番に。
サクヤさんを二番に想う気持を晒しても。
和泉さんはわたしを想い続けたいと語り。
返される想いを期待しないと肌身を重ね。
生涯をかけて想いを返させて欲しい人で。
人生をかけて気持を繋ぎ続けたい女の子。
「でも、白花ちゃん桂ちゃんを想う時、サクヤさんの存在は他の人と重みが違う。人なら
ざる世界との繋りを断ち切れない、濃い贄の血を宿す桂ちゃん白花ちゃんの傍に、観月と
いう好意的な人外のひとがいてくれて、付き合い方を学び馴染む事が叶う。守りを願える。
この僥倖は、竹林の姫や笑子おばあさんや、お母さんや正樹さんが繋いでくれた、天賦
の定め。贄の血の幼子の未来を左右するかも知れない好条件。わたしは……卑劣です…
…」
サクヤさんと和泉さん。わたしの心の内で二番と三番の違いは決定的ではない。それを
わたしは一番たいせつな桂ちゃん白花ちゃんにとってとの視点で、軽重の判断した。幼子
の為とは、『幼子の所為にした』と言う事だ。そもそも2人を比べる時点で、双方に非礼
…。
滲みかける涙をわたしは堪え拒み抑え込む。
これは己の為の涙で言い訳の涙でしかない。
わたしが己自身に、涙流す事を許せるのは。
全てをやり尽くし結果が出終ったその後だ。
「わたしの選択は、サクヤさんです」「…」
正樹さんの膝の上で、幼子は雰囲気を察してなのか大人しく。正樹さんも敢て黙する中。
「2人はわたしと鴨川真沙美。柚明ちゃんは何れを選ぶ?」「叔母さんを……助けます」
唇を噛み締めつつ、声を絞り出す。和泉さんと真沙美さんと真弓さんは、わたしの心の
内では同着三位で、優劣を付けられないけど。皆生涯をかけて尽くしたい愛しい女性だけ
ど。白花ちゃん桂ちゃんの母は、喪わせられない。己に選択の余地があるなら。選ばない
事が全員を喪わせるなら、わたしは。己個人の好いた人ではなく、己の一番好いた人の未
来に不可欠な人を選ぶ。何度同じ状況が巡っても…。
わたしを愛してくれた人への、わたしが愛した人への非道は、生命ある限り己が負う。
真弓さんはわたしの答に無表情な侭で更に。
「2人はわたしとサクヤよ……柚明ちゃんは何れを選ぶ?」「叔母さんを、助けます!」
即答を返す。迷う事が真弓さんの生命を危うくするなら。サクヤさんを見捨てる事にも
躊躇はしない。わたしの心の内では、真弓さんはサクヤさんに及ばないけど。己が好いた
人ではない。一番たいせつな幼い双子の為に。
「2人はわたしと正樹さんよ。柚明ちゃんは何れを選ぶ?」「叔母さんを、助けます!」
正樹さんは幼いわたしの憧れだった。いつも博識で温厚で優しく強く情愛深く。サクヤ
さんに恋したのと正樹さんに恋したの、どっちが先なのか思い出せない位、2人は深くわ
たしの中に根付いていた。全身を預けられて、心を委ねられる人だった。真弓さんも好き
だけど、愛しいけど。一緒に過ごした年数より、幼いわたしの心にどっかり鎮座している
から。
それでも。
白花ちゃん桂ちゃんにとって、父と母と。
何れかしか残せぬ状況に見舞われたなら。
何れかしかこの手に救えないとするなら。
「幼子にはお母さんを残すべきです。この判断は誤りかも知れない。叔母さんにも桂ちゃ
ん白花ちゃんにも、拒まれるかも知れない」
その上で尚、わたしはわたしの判断で選ぶ。
最愛の幼子の父を見捨て母を助ける選択を。
「真弓、もう良いだろ。流石にこれ以上は」
正樹さんが言葉を挟んだその時に。真弓さんは怖い程平静な声で最後の選択肢を示した。
「2人は桂と白花、2人共あなたの一番たいせつな人よ……柚明ちゃんは何れを選ぶ?」
「答は、出終っています」わたしは顔を伏せ。
その問はこの修練の最初に用意されていた。
諸々はここに辿り着く為の道程に過ぎない。
わたしは一番の人を2人同時に抱いている。
最もあって欲しくない状況は容易に察せた。
現に春の相馬党の襲撃では、白花ちゃん桂ちゃんが2人隔たって人質にされ。何れかを
助けに突撃しても、相馬党の強者の撃破が至難な以上に、もう片方の生命が奪われる状況
だった。この究極はあり得ない話しではない。
だからわたしも迷わず答を紡ぐしかなく。
この答が正解かどうかは、分らないけど。
「右と左の何れが桂ちゃんで白花ちゃんでも。
わたしはその瞬間により危うく見えた方を、全身全霊で助けます。そして助け終えた後
で、残る片方の救助に全身全霊を尽くします。その結果、後回しになった方の子が助から
なかったなら……それは全てわたしの責任です」
一番たいせつな人に優劣は付けられない。
どっちも羽藤柚明には最も愛しい幼子だ。
このわたしに生きる希望を与えてくれた。
己の生命より重くて当然と言える存在だ。
でも迷い悩む間に2人共喪われるのなら。
何れも助かる一縷の望みに全てをかけて。
それが不可能に近い絵空事に映っても尚。
わたしは何度でも月にもこの腕を伸ばす。
「……正解。それがあなたの真の想いなら」
真弓さんの声音は脱力して、1つの修練の終りを感じさせた。正樹さんが幼子を解き放
つのも、桂ちゃん白花ちゃんがわたしの元に駆け寄ってくるのも、止めず見守り微笑んで。
「あなたが最後にどんな答を返してくれるか、どっちを選ぶか選ばないか。あなたもお義
母さんに似て底知れないから、気を張り詰めて問を発したけど。想定以上の答だったわ
…」
「正解だったかどうかは、終ってみなければ分りません。両方無事に助けられれば正解」
左右の足に腕に胸に寄り添って来る暖かな肌身の感触を愛で喜びつつ。答えるわたしに。
真弓さんは正面から、ずいっと近付いてきて。端正な美貌が間近に迫るだけで、胸が高鳴
る。この人は常に抜き身の刃の美しさと清冽さを。
「あなたは元から情愛が深いのに、過酷な育ちがそれを更に熱く強くして。その愛がわた
し達の子供に巡ってくれた。この天運は正に誰にも配る事の出来ない天の配剤。贄の血の
尋常ではない程濃い、その故に膨大な『力』の素養を秘め、過酷な定めの回避が至難な白
花や桂には、贄の血の濃い先達として以上に、未来を照し導いてくれる光の如き存在…
…」
柔らかな腕に、抱き包まれた。白花ちゃん桂ちゃんを座して左右に受け止めたわたしは、
身動きできず、積極的に身を委ねる事も出来ないけど。真弓さんの抱擁は柔らかく暖かく。
「でもその情愛の深さ故に、強い母性の故に、贄の血の事情の故に。あなたに2人の導き
を頼んでしまう事になって。白花や桂の想いを受けて貰う事を、お願いする結果になっ
て」
あなたは正に今、豊かに花開こうとしているのに。青春の真っ盛りなのに。あなたを羽
様に、幼子に、今迄の育ちに家に絡め取る様な事になってしまって。本当にごめんなさい。
真弓さんも正樹さんも、わたしが幼子の為に生きる事、羽様に留まる途を選んだと、知
っているから。白花ちゃん桂ちゃんの為に己の人生を犠牲にさせたと、申し訳なさを抱き。
でもそれは違う。わたしがここに留まるのは、桂ちゃん白花ちゃんの為だけど。それはわ
たしが幼い双子に愛されたからではなく。わたしが幼い双子を愛したから、愛したいから
で。誰の強要でもなければ犠牲にした積りもなく。
だからわたしは真弓さんを、正樹さんの前だけど白花ちゃん桂ちゃんに肌身添わせつつ。
抱き返す感じで頬合わせ、耳元へ声穏やかに。睦み合いの中での愛の告白に似た感じだけ
ど。
「それがわたしの願いで、望みでしたから。
謝られる事でも感謝される事でもないの。
むしろわたしの我が侭を叶えてくれた叔父さん叔母さんに、わたしが謝り感謝しなけれ
ばならない。その想いはいつも抱いています。そもそもわたしが白花ちゃん桂ちゃんに逢
えたのも、叔父さん叔母さんのお陰でしたから。
むしろわたしの所為で、わたしの行いや贄の血が羽様に次々と禍を招き、叔父さん叔母
さんや白花ちゃん桂ちゃんに迄、禍を招いて……守らなければならない立場なのに……」
「その事についてなのだけど、もしかしたら。
柚明ちゃんに巡り来る一連の禍については。
白花や桂の贄の血の濃さが、招いた禍かも知れないの。柚明ちゃんは自身の血の濃さが、
羽様の家に禍を招き寄せ、白花や桂やわたし達を巻き込んでいると、思っている様だけど。
本当は逆で……わたし達の子が、あなたに禍を招いて巻き込んでいるのかも知れない…」
その発想は今迄なかったので、やや驚いた。
確かに、幼子達の贄の血はわたしより濃く。
「桂も白花も未だ幼くて、自身の贄の血の匂いを抑える術も、『力』を制御する術も知ら
ない。経観塚にいるから、オハシラ様の結界のお陰で血の匂いは悟られないけど。他の作
用は及んでいるのかも。あなたが小学6年の時に訪れたあの鬼も、あなたの贄の血に引か
れたと言うよりも、白花と桂が羽様に誘い込んだのかも知れない。あなたには毎日桂と白
花がすり付いて、ほぼ一心同体となっているから。本当の処は分らないけど、でも……」
双子が歩き始める迄、柚明ちゃんが羽様に来て3年位、羽様に鬼の兆しは全くなかった。
でも双子の生育に伴って、柚明ちゃんが徐々に禍に晒される様になり。段々鬼や鬼切部の、
若杉等の影がちらつき始め。わたしやサクヤがいる以上、羽藤が贄の血を宿す以上、素通
りでは終れない事は、分っていた積りだけど。
「羽様に止めた事が、白花や桂を頼んだ事が、あなたに禍を及ぼしているのではないか
と」
だから真弓さんはわたしの修練を今も尚。
鬼切部の強者級に対応できる様になって。
大抵の鬼や犯罪者を退け得る技量を得て。
尚も真弓さんが修練をつけてくれるのは。
「どんな禍にも対処できる技量を、身につけて欲しいとの願いだったのですね。桂ちゃん
白花ちゃんを鬼からも、時には鬼切部からも守り通せる、禍を防ぎ止める技量をって…」
「そうじゃない。そうじゃない。桂や白花の所為であなたに及びかねない禍を、せめてあ
なたが自力で退けられる様に。わたしやサクヤの手が及ばない届かない時も、あなたが」
真弓さんはわたしの身を深く案じてくれて。
尚未熟で脆弱なわたしを強く愛してくれて。
どちらでも同じです。わたしは真弓さんの頬の暖かさ滑らかさ心地よさに、頬染めつつ。
「この修練で得た技量がわたしを守り、わたしが守りたい者を守らせてくれる。有り難う。
わたしが一番たいせつな人の為に、必要な助けを為せる、その素養を整えてくれて……」
わたしは今後拾年或いはそれ以上、白花ちゃん桂ちゃんの為に、羽様に留まるのだから。
真弓さんに鍛えられたその素養は、確実にこの身を守り、愛しい幼子の護りにも役立てる。
千年の昔から羽様の奥に鎮座して。わたし達羽藤を優しく見守り導いてくれる。槐の巨
木に宿るオハシラ様の様に。己の如き小さな存在は、その足元にも及べない事は承知して。
一番たいせつな桂ちゃん白花ちゃんの為に。
この身を心を捧げて悠久に守り愛し続ける。