第16話 己が終る瞬間迄(前)
わたしが羽様小学校の3年4年合同学級に転入したのは、小学3年の2学期始めだった。
夏休み前に己の過ちでお父さんお母さんを、鬼の禍に遭わせて喪い。尚残る危険から逃
れる為にそれ迄育った町の家を引き払い。幼い日々の幸せを断たれ、笑子おばあさんが住
む経観塚へ移り住み。姓も母方の羽藤に変って。
引越で学校が変ればお友達とも離れ離れに。
杏子ちゃんには、さよならも言えなかった。
初見の人の前に出る事が、不得手な以上に。
わたしは自身の事情から心塞ぎ込んでいて。
「羽藤ゆめいです。よろしくお願いしま…」
生き残った事を、罪に感じていた頃だった。
今にも未来にも、自身の値を見つけられず。
誰にも何の為にも役立てないと、鬱屈して。
自身の自身を責める想いに塗り固められて。
無形の暗黒に包まれ窒息していたわたしに。
語りかけてくれたのは茶色の髪が柔らかな。
「はじめまして、学校の中案内してあげる」
「よろしくお願いします。金田……さん?」
やや他人行儀なごあいさつ。鬱屈した内心を覗かれたくない、わたしの少し硬い応対に。
「かねだより、いずみがいーな」「……?」
「花も実もある乙女を目指すあたしとしては、お金の印象が強い『かねだ』より、涼やか
な印象の残る『いずみ』で呼んで欲しーなと」
黒目の元気に動く明るい表情に、闊達そうな声音に、思わずわたしも心惹かれ。ほんの
少し、己の外側に他の何かに関心を。己を責め続けたい衝動が・罪悪感が、無風になって。
「いずみ、さん?」「ゆめいさん声きれい」
その声でそう呼ばれると、本当に爽やか。
他の人が驚く程彼女はわたしの反応を喜び。両手を両手で握ってくれて。暖かな手が引
っ張ってくれる。鬱屈しがちで塞ぎ込みがちな、当時の羽藤柚明を、外へみんなへ、世界
へと。
「あたしも、ゆめいさんって、呼んでいい?
はとうさんじゃ、余り強いインパクトがないし……それより、ゆめいさんっていい響き。
夢の中にいる妖精みたい。個性的できれいで整っていて、花も実もある女の子って感じ」
ゆめいさんって呼んでくれた人は、従妹の可南子ちゃん位かな。でも学校が違ったから、
毎日呼んでもらう事はなかった。町の学校でも多くのお友達からは、『はとうさん』で…。
杏子ちゃんは『ゆーちゃん』と渾名を付けてくれたっけ。その呼び方は杏子ちゃんだけ
の物として、心の棚にしまっておいて。今目の前に現れてくれた、元気なこの女の子には。
「実はね、ゆめいの『ゆ』は、夢見の『ゆ』じゃなくて……柚子湯の『ゆ』なんだけど」
「ゆず? 本当に花も実もある女の子だぁ」
見開かれた黒目が、深く綺麗で好ましい。
わたしに関ってくれる事が嬉しい以上に。
仲良くして欲しいのは、わたしの願いで。
好意に好意を返したいのはわたしの望み。
わたしは自身の値を見いだせないでいた。
家族を喪わせた己に値などある筈がない。
誰かのたいせつな人を奪う者に値なんて。
だからこの女の子がわたしに値をくれた。
誰かに望まれ喜ばれる事がわたしの値だ。
誰かに役立ちその笑顔を保ち支える事が。
ショートな髪の子に、わたしは向き合い。
「いずみさん……ゆめいです。よろしくね」
出逢が別れの始めなら、別れは出逢の始りだって、言っていたのは誰だっけ。喪失や離
別を出逢で補う事は出来ないけど、今迄のお友達を今からのお友達で代用は出来ないけど。
わたしを尚求めてくれる人は世界にいる。
わたしには尚たいせつな人がいてくれる。
『ゆめいさん、早く早くっ! 遅いよ……』
転入者の羽藤柚明を快く受容してくれて。
至らぬわたしを引っ張ってみんなへ招き。
『桂ちゃんと白花ちゃん? かわいいっ!』
『ゆめいさんの大切な人なら、あたしにも』
人生最大の幸せを、一緒に喜んでくれて。
一緒にこの幸せを守るよと誓ってくれて。
『あたしは最初からゆめいさんの友達だよ』
『改めてというなら、よろしくお願いねっ』
わたしが失敗した時もやり過ぎた時にも。
詩織さんや他の女の子と深く関った時も。
『あたしが割り込む隙全然なかったからね』
『ま、ゆめいさんが一番生き生き綺麗に映えていたから、見ていたあたしは満足だけど』
欠点や短所の多いわたしを見放す事なく。
陰に陽にわたしを見守り、支えてくれて。
『みぃんな外に、行っちゃうのよねえ……』
羽藤の贄の血の事情を、知って尚厭わず。
癒しの力や関知や感応を、承知で離れず。
『わたしは、柚明の側に、居続けるから…』
わたしの口にも上らせてない望みを察し。
わたしに心添わせ肌身も添わせてくれる。
心優しく芯の強いショートの髪の女の子。
羽藤柚明が心底愛しく想うたいせつな人。
だからこそわたしの所為で、わたしに関り近しくなってくれたその為に。その身に危害
が及んでしまった事、それを防ぎきれなかった事は、痛恨の極みで。わたしは彼女の役に
立ちたく、守り支えたく望み願っていたのに。
『一番じゃなくて良い。ゆめいさんの一番が誰でも良いから、何番でもあたしを向いてく
れなくても構わないから。今迄もこれからも一番は望まないから。それは全て承知だから。
ゆめいさんの日々を、あたしが支える。ゆめいさんの事情でその日常が綻びそうな時は、
あたしが繕う。男役でも女の子でも及ばないあたしだけど、その優しさを支えさせて…』
そこ迄深く強く想いを寄せてくれたのに。
お父様・清治さんとお母様・澪さんにも。
『和泉が嫁に行けなくなる様な事はしないでくれ。和泉の父として望む事はそれだけだ』
『未だ子供の関係だ。親友と姉妹と恋人を混ぜた様な関係だ。断ち切るのは賢い選択じゃ
ない。和泉も羽藤さんが嫁に行けなくなる様な真似は許さないぞ。それを和泉が弁えられ
るなら、私達は暫く、この関りを認めよう』
『和泉は未熟でがさつな娘だが、君を想う気持は本物だ。君に出来る範囲で良い。娘の想
いに応えて欲しい。私達からお願いしたい』
頼まれて確かに承けたのに。約束したのに。
わたしはその想いに願いに期待に応え得ず。
怖い思いさせてその身を心を危難に晒して。
守り通せなかったのは己の未熟と力不足だ。
でもその為に愛しい人が負った負荷と傷は。
復する事・忘れさせる事が罪になりかねず。
わたしにその傷跡を癒す術はあるだろうか。
わたしに尚彼女を想う資格はあるだろうか。
わたしは彼女に関り続けて良いのだろうか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
梅雨明けの空は青く澄んで、天上の底は遠く果てが知れない。白い雲が幾つか、千切っ
た綿飴になって散在し。未だ早い時刻の為か、朝露や夜霧を含んだ空気は涼しくて心地良
い。
羽様小学校の頃から通い続けたこの途を。
高校2年になった今もわたしは独り歩み。
屋敷を囲う緑のアーチを抜けて、バス通りへ出ると。一番陽の長い今は光に溢れ。山林
に囲まれた盆地は、生命の息吹が満ち満ちて。
左側に山と森の縁を見て、右側に平たく広がる水田や畑の原を見て。未だ涼しくそよぐ
朝の風に髪を嬲らせ、経観塚迄は20キロ強で。修練を経た今のわたしには1時間半の道程
だ。
6キロ程進むと羽様小学校があり。昨年夏迄は、1級下の北野文彦君や2級下の芹澤卓
君・新田絵理さん達と、時折この辺で合流し、一緒に歩いた。羽様小以来の幼友達は、わ
たしが高校へ通う様になっても、慕ってくれて。高校は中学校と5百メートルも離れてな
いし。
己が纏った陵辱の噂の故に、大人の意向で一緒に登校出来なくなった事は、己の不徳の
致す処で。望んでくれたみんなに想いを返せず応えられない事は、申し訳なく残念だけど。
大切な人を己の泥で穢す訳には行かない。
冷却期間を置き誤解が解けるのを待って。
多くが納得する状況で関りを再開したい。
元々修練を兼ね独りで始めた徒歩登校だ。
それに今尚わたしと一緒してくれる人も。
「おはよ、ゆめいさん」「和泉さんお早う」
他の人達の目があった時から、わたし達は。
軽く抱き合い又は背後から胸元へ腕を回し。
肌身を寄せ合い頬重ね時に唇で触れる事も。
わたしの修練の進展を知って、和泉さんは。
身を守れる強さを望んで一緒の徒歩登校を。
「ゆめいさんこの朝早くに良く起きて、20キロ近くを歩けるなぁって、思っていたけど」
久しぶりに逢った女の子同士なら不自然ではない位の、多少触れ合い過多な仕草の後で、
肩を並べて共に歩み。親密さは特に隠さない。これがわたし達の通常ですと公に示す。普
段から、触れ合い過多な程親密なお友達ですと。それより濃密な所作は流石に人目を憚る
けど。
それにこの触れ合いは、愛しむだけの所作ではない。むしろ別の目的を潜ませている事
が和泉さんに申し訳なく。陽の下では贄の血の関知も感応も、殆ど身の外へ出せないので。
「慣れって怖ろしいね。目覚まし時計は手放せないけど、実際生活できているよあたし」
和泉さんの家は、お父様・清治さんが脱サラして、羽様に来て農家を始めた口で。経観
塚に馴染みつつも、完全に溶け込んでおらず。今迄も地域的な羽藤との隔絶に、反撥しな
い代り同調もせず。羽藤にもわたしにも親切で。
昨夏からの、陵辱の噂を纏った羽藤柚明への嫌悪や侮蔑や同情にも、反撥しない代り同
調もせず。噂を言葉より日々の挙動で否定するわたしを見て。応対を変える必要はないと。
羽様の家族も、わたしの無事を信じてくれているけど。北野君には、両親と諍いになっ
ては拙いから。家の納得がない内は一緒しません、気持は通じているから大丈夫と告げて。
絵理さんや川島君も同様に。杉浦先輩は朝練でわたしより登校が早く、元々一緒が難しい。
結果和泉さんのみがわたしと一緒の登校を。地域で浮いちゃうとの心配も当人は気にせ
ず、わたしとの触れ合いを喜び。わたしも春の事情から、彼女に触れて容態を診る必要が
あり。
「若い体には変化に対応出来る力があるの。
その気になれば和泉さんは更に伸びるわ。
体格の面ではわたしより有望だと思うし」
わたしがここ迄修練を積み重ねられたのは。
サクヤさん真弓さんという素晴らしい師と。
贄の血の力の福次効果・感応の力の進展で。
羽藤柚明に戦いの素養がない事は承知です。
「ゆめいさんより有望はないでしょ。あたしゆめいさん程強くなれるとは、思えないし」
和泉さんはわたしの護身の技も知っている。女の子が戦いに強いと知られても、嬉しく
ないけど害でもない。隠し通さねば危うい贄の血の事情とは違う。なので成り行きで知ら
れた幾人かには、敢て隠さず。見た通りですと。
でも状況や相手次第で、どの様な動きや技を見せたかはやはり違うので。白川夕維さん
や難波南さんが知る羽藤柚明と、和泉さんが識る羽藤柚明は。印象が人と鬼程に違うかも。
「そうでもないよ。わたしも羽様小に転入してきた頃は、和泉さんより足も遅くて。腕の
力も弱かったし。体格は今も同じ位でしょ」
和泉さんに限らず、他の女の子や男の子が。
本気で時間を掛けて適正な指導を受ければ。
わたしの技量を抜く事はそれ程難しくない。
そう続けようとしたわたしに、和泉さんは。
「体格はほぼ同じって、本当かな? 最近ゆめいさん胸おっきくなってない?」「え?」
和泉さんは、えい! と両の腕を突き出し。
むにっと両乳房の肉を、柔らかな掌が掴む。
恥じらいよりくすぐったさに身を捩るけど。
愛しい女の子の捕捉は敢て外さず囚われて。
「元々胸のないあたしより、ゆめいさんの方が膨らみがあるのは当然だけど……最近はど
うも、それに留まらぬ様な」「そうかな?」
わたしも両腕を彼女の胸に伸ばし軽く触れ。
ひゃ! と和泉さんも小さく悲鳴を上げて。
身を捩りつつでも為される侭に逃げはせず。
お互い恥じらいつつ嫌がってないのは承知。
「サクヤさんに敵わないのは当然として……真沙美さんや早苗さん歌織さん程でもないし。
近頃は膨らみ始めた夕維さんにも後れを取っているし。和泉さんも少し大きくなった?」
そこがウィークポイントだった模様です。
一度両乳房に掛る掌や指の圧力が弱まり。
「少しは追いついてきたかと、思ったのに」
うかうかしていると和泉さんに抜かれそう。
尤も自力で伸縮させられる物でもないけど。
「あたしの手のゆめいさんの乳房への食い込み具合と、ゆめいさんの手のあたしへの食い
込み具合が明らかに違うよ。大きさ違う!」
「わたしの腕が、和泉さんの腕の外から巻いて届いている為だと、思うけど?」「ううん
違う。ゆめいさん明らかにおっきくなった」
あたし毎日お風呂で脱衣所で、鏡見て確かめているんだよ。牛乳飲んで、大きくなぁれ
大きくなぁれって、自分で一生懸命揉んだり。その効果で最近漸く育ってきたのに、ゆめ
いさんがあたしを気楽に引き離して去っていく。あたしが追い抜けそうな数少ない小さな
胸が。
その正確な認識はわたしの胸も抉ります。
「この食い込みの深さの違いは、相手に抱く想いの深さの違い。あたしのゆめいさんに抱
く愛が、ゆめいさんのあたしに抱く愛より深いから、胸に強く食い込むの。こうなったら
この愛を、しっかり胸に刻みつけてやるぅ」
愉しいのか恨めしいのか分らない声を発し。
この胸を悔しそうに嬉しそうに揉みしだく。
その感触にわたしも思わず指先へ力が入り。
お互い正面から胸を揉みしだき合う展開に。
「わたしの胸が、最近少し大きくなったのは、和泉さんのこの揉みしだきのお陰かも
…?」
わたしは自らその手を振り払う事が出来ず。
2人きりで暫く悪ふざけに興じ合っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
危うく迎えられなかったかも知れない高校2年生に何とか進学出来て、3ヶ月が過ぎた。
進級前の3月半ば、和解した筈の鬼切部相馬党が、わたしに再戦を求め大挙羽様を訪れて。
元々その和解も昨年晩秋、わたしが冤罪で彼らに生命を奪われ掛けて、退けた正当防衛
の収拾で。若杉や相馬も認めて謝罪した通り、斬られる咎が己にはなくて。撃退した羽藤
が、不満を堪えて許し受け容れた和解だったのに。
善悪ではなく敗れた事に彼らは納得行かず。
賠償と謝罪で和解を装って裏で報復を企み。
見通せなかったのはわたしの生涯の失態だ。
彼らは鬼切部の使命を抛ち。わたしを倒す為に、再戦する為に。咎もない倉田先輩や和
泉さん、幼稚園帰りの羽様の幼い双子を攫い。
真弓さんとサクヤさんのお陰で、たいせつな人は全員半日位で、無事に取り戻せたけど。
守り通すのは巻き込んだ者の当り前。むしろわたしとの近しさの故に禍に巻き込んだ事が、
怯えや不安を与えてしまった事が申し訳なく。
更に言えば、真弓さんサクヤさんの助けで何とか出来たけど。己の故に生じた禍を自力
で解決できない力不足は情けなく。自身にも、禍を及ぼしてしまったたいせつな人達にも
…。
その不足分を少しでも補いたく償いたく。
でも力量不足のわたしはそれさえ叶わず。
相馬の強者や鬼切り役の切り札たる神鳥と対戦した消耗は深刻で。3月後半は全て学校
を休み静養に。特に神鳥から受けた痛手が体より魂、つまり『力』に響き。『力』が復し
ないと傷や消耗の治癒も難しい。授業に遅れる心配は少なく。出席日数も足りているけど。
春休みをかけても身を完全には復せなくて。
後遺症を堪えつつ新学期から学校に行くと。
「またインフルエンザだったんだね。災難」
またと言うのは。相馬に最初に襲われて生命落し掛けた昨秋、数日学校を休んだ理由に、
真弓さんが使っていたから。人混みを避けた自宅療養には格好の言い訳か。でもその結果。
「ゆめいさんが病弱って噂、流れているよ」
進級してクラスは別になったけど、海老名志保さんは相変らずわたしに着目を。わたし
に人目を惹く何かがあるとは、思えないけど。
「あたしもそれには荷担しておいたから。美人薄命、美少女には薄幸な儚げな雰囲気があ
ってもおかしくないって」「志保ちゃん!」
傍にいた和泉さんの抗議をわたしは止めて。
志保さんの所作が悪意でないと悟れたから。
「ゆめいさん、去年の夏休み前も数日学校休んだし。中学でも3年の冬休み明けや2年の
冬休み明けも休んで。今回が特別じゃな…」
「有り難う志保さん、わたしの為に」「?」
和泉さんにも薄幸の噂の真意を伝えねば。
愛しい人が志保さんを誤解した侭になる。
「志保さんは、わたしが大野先生に陵辱された噂に連なる出産の噂を、掻き消す為に敢て
意識して、別の噂を流布してくれているの」
春休みは大野教諭に陵辱された噂の頃から9ヶ月で。陵辱され妊娠し流産してなければ、
出産の頃だ。だからわたしが膨れたお腹を出産を隠す為に、羽様の屋敷に籠もったのだと。
そんな悪意な噂の流布を知った志保さんが。
別の噂を広めて、わたしの汚名を拭おうと。
わたしはどの噂にも特に反論や説明はせず。
見た侭の己が真実ですと日々の挙措を示し。
みんなの長い目で見た判断に委ねたけど…。
羽藤の大人は若杉と和解の話しを進めてくれて。若杉も相馬も信頼し難いとの意見には
同意だけど。鬼切部と諍い続けても何の益もない。今の彼らに真弓さんサクヤさん程の強
者は少ないけど、彼らは数に勝り組織で動く。
一手一手退けられても。学校に通う桂ちゃん白花ちゃんや、お仕事に出る正樹さんや知
人友人を狙われては防ぎきれない。買い物最中や睡眠中入浴中迄狙われては対応できない。
彼らは財閥の組織や人員・資材資金を使えて、権力にも食い込んでいる。住処も職も収入
も断たれて、流浪を強いられる末路が目に浮ぶ。
彼らを打ち倒してしまっても、話しは同じ。
鬼切部を喪って、悪鬼が跋扈する獣の世で。
一番たいせつな贄の双子の未来は望めない。
だから可能性の限り、和解の途を探らねば。
今度こそ相馬も真剣に和解に向き合う筈だ。
それに今回は若杉も羽藤に味方してくれた。
実際今回の相馬の動きは、冤罪による誤った処断を撃退された昨秋の報復と、撃退でき
た技量を持つ羽藤柚明の略奪婚で、人の世を守る鬼切部の使命や理念に悖る。無辜の民を
私闘に巻き込んで。処断に値する中身だった。
でも大人同士の話し合いは、容易に決せず。
休戦状態の侭、今尚交渉中なのが気懸りで。
関知の『力』は春先の事情から乱れた侭で。
先行きも視えず今の諸々にも察しが及ばず。
近頃わたしは殆ど誰の役にも、立ててない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「柚明さん……水垢離、ですか?」「ええ」
授業の間の休み時間、結城早苗さんに訊ねられ。教室の自席でわたしは、羽様で最近為
している、修練を兼ねた願掛けを隠さず答え。
「帰宅の遅くない日には、お夕飯の後で近くの小川で、願いを心に念じつつ心身を清め」
早苗さんは多少『視える』体質の人だから。
春からのわたしの変動を感じ取ってしまい。
思春期に伴う心身の変化が、潜在的な素養を一時的に活性化させ。それ迄視えなかった
霊の類が視える様になる。それは当然驚きや動揺を呼ぶ。心霊や恋人への対処は、学校も
教えてくれない。適切に対応すれば問題ないけど。大多数の場合は対処も必要ないけど…。
わたしも中学から早苗さんの素養を知って。
親友・篠原歌織さんの許しを得て共に関り。
時に3人お風呂で褥で肌身合せ心も添わせ。
視えない方向に誘導し、安定する様に促し。
視えても心乱さず平静に対応する術を伝え。
でもその結果彼女はわたしとも深く繋って。
瀕死を経て抑えきれぬ己の乱れを気取られ。
「うわ、水冷たそう。朝晩はまだ、寒いよ」
間近の歌織さんが、ぶるっと体を震わせる。
でも、わたしは動ける様になった4月から。
羽様で過ごす夜には概ね、水垢離してきた。
確かに東北の春や初夏の、夜は肌寒いけど。
「お体は大丈夫ですか? 春先には、少し長い体調不良に、悩まされていた様ですけど」
「簡単に寝込む様な脆弱な体を、心も含めて鍛え直すのも、水垢離の目的の一つなの…」
2人とも、心配してくれていると分るので。
終った後は良く拭いて暖まるよと付け加え。
体調は、心の影響も少なからず受けるから。
頭を冷やし、冷水に動じない心と体を培う。
「柚明はおばさんに武道を鍛えて貰っているんだろ? 水垢離より効果大だと思うけど」
歌織さんはわたしの護身の技を見ていない。
でも昨冬高校生を装ってクラスに転入した。
若杉の監視員・史さんが事実を晒した為に。
真弓さんに師事している事は、知れ渡って。
「その修練を7年続けてこの体たらくだから。
未だに叔母さんからは、一本も取れなくて。叔母さんも『わたしには、戦いの素質とい
う物を感じない』って。たいせつな人を守る技量を求めて、せがんで始めた修練だけど
…」
非常時でもない限り護身の技は使わないし。
この姿形は筋肉質でもなく手足も長くなく。
日頃の姿勢や言動も、鋭さとは程遠いので。
みんなはわたしの力量をやや過小に推測し。
わたしは女の子が戦いに強いと知られても。
別に嬉しくないから、むしろ好都合だけど。
「唯体を鍛えるにも限度があるから。心を鍛えて側面から、少しでも耐久度を上げたいの。
これも悪足掻きに近いのかも知れないけど」
真弓さん達との修練では、癒しや関知や感応をフル活用して全く及んでないから。体を
鍛えるのも当然だけど、感性や感覚・粘り強さや対戦経験も、上げておきたいのは事実で。
「努力家なのですね。決して武道や競技に向いた体格を、持っている訳ではないのに…」
努力家って、言うのかな? わたしは早苗さんの賞賛を宿す言葉に、実感が湧かなくて。
「自分に出来る事は、出来る処迄やってみる。
この手に届かない事は、どうにも出来ない。
この手で何とか出来る事なら。自力で願いに届かせられるなら。可能な処迄やってみる。
ごく平凡って言うか単純極まる考えだけど」
「それを文字通りやれる辺りが努力家なのさ。多分怠け者じゃない柚明には、怠けるって
事が分ってないんだ。頑張る事が通常だから」
そうなのかな? わたしは、己が立ち止まる事で、一歩半歩成長や進歩が遅れ、守りや
助けが届かなくなる。そんな悔いを残したくないから、修練に励んでいるだけで。力を抜
くタイミングを分らず、走り通してきた感じ。
「たいせつな人の為と想えば、自然に熱が入ります。柚明さんや歌織ちゃんもわたくしの
為に、男の子に向き合って庇って守ってくれました。柚明さんの場合は双子の幼いいとこ、
白花ちゃんと桂ちゃんの為なのでしょう?」
わたしの最愛の人が、十歳年下の双子のいとこである事は、日頃口にしている事実です。
「あの年頃の幼子の可愛さは無敵だからね」
「柚明さんの愛し方も愛され方も羨ましい」
2人ともわたしをたいせつに想ってくれて。
わたしの最愛の人なら2人の大切な人だと。
「一番の人は桂ちゃんと白花ちゃんだけど……一番には想えなくてもたいせつな人・愛し
い人・尽くしたい人はいるわ。今のわたしは賢さも心遣いも未熟だけど。少しでも早く進
歩して必要な助けや守りに届かせたい。その一端が、早苗さん歌織さんの為なのは確かよ。
一番でないのはごめんなさいだけど。結城早苗は篠原歌織は、羽藤柚明のたいせつな人」
白花ちゃん桂ちゃんだけ無事なら良い訳ではない。体だけ無事なら、生命だけ保てれば
良い訳でも。父母である真弓さん正樹さんが不可欠な様に。周りの人が豊かで平穏に生き
られる世も、健やかな生育に重要だ。周りの人の生き難い理不尽な世が望ましい筈がない。
わたしも好意や恩義には可能な限り報いたく。
無理が通れば道理が引っ込む。悪意な噂とわたしの否定の進展もそうだった。わたしが
衆目の前で噂を否定すれば噂が退き。暫く人前に姿を見せなければ事実が退き噂が浸透し。
なら無理に引っ込んで頂く為にも道理を通す。
わたしは人を導ける程の者ではない。でも、周囲のたいせつな人を支え助け、危難や禍
や破滅を回避させ、結果その人々との出逢や関りが愛しい幼子を導いてくれるなら。周囲
の人々の支え助けが、わたしの双子への正しい対応を導いてくれるなら。実際は、あれこ
れ考える前に動いてしまっている事が多いけど。
「柚明には人を愛する事の深みを教えられた。自分の好いた想いが満たされる事より、自
分が好いた人の幸せを常に考える。柚明みたいな愛し方をあたしもしたいと、想わされ
た」
「例え一番には想えなくても、心底愛おしくたいせつに想う事は出来る。その人の為に自
身を捧げ誠を尽くす事も。わたくしも柚明さんの生き方に共鳴し、その様に在りたいと」
わたしは賞賛に値する生き方はしていない。
でもわたしの想いが周囲の大切な人に届き。
その人達の在り方を良い方向に変えて行く。
きっかけに、少しでも助け支えになれたら。
その人の笑顔を幸せを増す事に役立てたら。
それはわたしの望み願いで心からの幸せ…。
でも逆にわたしの存在がたいせつな人達に、禍や危難を招くなら。わたしと親しく関っ
た故に、傍にいた為に、わたしに敵意を抱く者に脅かされるなら。防ぎ止める前に安心を
保つ前に。関係を持たねば何もなかったのなら。
わたしが道理を通す事が。理不尽を退けて誰かを何かを守った事が。そもそも己がここ
にいる事が。近しく親しくなった事が。周囲のたいせつな人達に、禍や危難となるのなら。
わたしはここに居続けても良いのだろうか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「んっ……んっんっ!」「さとみ、先輩…」
写真部の部室である視聴覚室で、わたしは倉田聡美先輩に為される侭に、寄り添い抱き
合い唇重ね。更に肉を揉み回されて。他に誰も居ないから出来る所作だけど。長い黒髪を
乱して、やや背の高い女の子はわたしを弄び。
わたしが所作を返そうとする手を、彼女は抑えて主導権を手放さず。わたしは舐める様
に眺められ、或いは反応を返す位で。中学の頃と似ている。あの時も聡美先輩はわたしの
所作を望まず、愛でて攻めて落す事に執心で。
セーラー服の上着を、脱がされるのではなくはだけさせられ。スカートは、下ろされる
のではなく捲り上げられ。でも下着は外され。そう言う処に美的感覚や趣向は、現れるの
か。
わたしに跳ね返す力量があると、聡美先輩も分った上で。跳ね返さないと彼女は分って
抱き締め押し倒し。抓んで揉んで吸い付いて。未だ熟していると言えぬ肌身の感触を反応
を楽しみ。喜んで貰えている事は、嬉しいけど。
「淑やかさや大人しさが淫らに繋る様に、あんたの甘さ優しさ綺麗さは、あたしの欲情を
満たしてくれる。良い遊び相手、遊女だよ」
「聡美先輩の部活への協力で、人物写真のモデルにってお話しだったのに、こんな……」
先輩の彼氏・池上祐二先輩が部長だった写真部は。彼の卒業後、聡美先輩が部長になり。
本人曰く『背が少し高いから目立って先生から部長指名された、中学校の手芸部と同じ』。
経観塚高校の写真部は、早く帰宅したい人の集う部で。部員が顔を見せる事は殆どなくて。
今も部室には先輩唯独り。先輩はそれを見越し、放課後の部室へわたしを連れ込み鍵を
掛け。わたしは文芸部だけど日程は調整済で問題はなく。この仲が問題かも知れないけど。
「柚明には、倉田聡美をかなり見られ識られてしまったからねぇ。それを承知であたしの
誘いに、乗ってくるとは思わなかったけど」
人物を撮ると事前に周知していた様だけど。
誰がモデルかは来た人以外には秘密として。
先輩は興味を与えなければ新1年生も含め。
誰も部活に来ないよと言ったけどその通り。
「やっぱりあんた、あたしとが良かったんだろう? 素直になりなよ。男を欲しても怖じ
気づき。女同士でも同級生や後輩とのおままごとじゃ物足りなく。あたしに戻って来た」
結果被写体と撮影者の間合は非常に近しく。
舐め回す様に撮られた後で実際舐め回され。
先輩はわたしとの生々しい時間を取る為に。
こうなると見越して事務的な回覧で済ませ。
同じ写真部の志保さんが、2年生になって3ヶ月この密会に気付いてない。わたしも秘
匿に努めたけど。先輩は本当に火遊び好きな。
「人目を欺く行いは、善良なお嬢さんには後ろめたいかい?」「多少は感じますけど…」
校舎内での睦み合いは背徳感があり。鍵を掛けていても安心しきれない。南さんや美咋
先輩の家に泊り、褥を共にした時もそうだったけど。秘め事を為す時は人目が気になって。
でもそんな状況でこそ先輩は燃える。中学校でもみんなの帰宅後とは言え、手芸部の部
室で迫られた。スリルが目的に近く、何か間違えば発覚しそうな状況で事を望み。発覚の
危険を想定出来ず、その後の覚悟が整う人でもないので。そこはわたしが巧く運ぶ。誰も
近寄らず気付かれないのは、実はわたしが…。
わたしも望まれた事は嬉しいし、大切な人の求めには想いを返したく。お互い見知らぬ
仲でもなく、肌身を重ねた間柄で。お互い一番に出来ない以上に、長久な関係にもなれな
いと分った上で。それでも一時でも、真摯に向き合える事もあると、教えてくれた女の子。
先輩の短所も長所も愛しさも肌身に刻んだ。だから先輩もわたしを選び欲し、肌身を寄
せて触れてくれる。黒髪長く少し背の高い、胸の大きな女の子に、わたしも親愛を伝えた
く。
「祐二とは遠距離になったけど、柚明がいれば充分だよ。祐二は町で女に声掛けまくって、
鼻にも引っかけられないで落ち込めばいい」
その声音には若干の強がり・虚勢が窺えた。
やはり聡美先輩を女の子では補いきれない。
池上先輩が大学進学で県庁市に移り住んで、3ヶ月経った。彼は聡美先輩を恋人にして
いながら、他の女の子に声を掛け、聡美先輩の反撥を楽しみ。わたしにもご執心だったけ
ど。
『倉田聡美は羽藤柚明のたいせつな人です』
『聡美先輩を恋人にした以上、先輩に誠意を尽くして下さい。先輩をしっかり想ってくれ
る人になら、わたしも聡美先輩を通じて仲良くお付き合いするのに、異存はありません』
池上先輩は高校で、聡美先輩と一緒なら文句なかろうと、3人デートを求めて来て。聡
美先輩も彼を惹く餌に、わたしの同伴を望み。
『祐二は柚明が高校に入ってから、他の女に声を掛ける頻度が相当減ったんだ。柚明に気
がある間は、祐二は他の女に目が向かない』
わたしは聡美先輩と濃密な絆を結んだ。そして池上先輩には恋心を抱いてない。聡美先
輩は彼が好いたわたしとの親密を彼に見せて、溜飲を下げ。お互い火遊びが好きな人だっ
た。
何かの間違いで、わたしが彼に恋し三角関係になる怖れも、全くないとは言えないのに。
何かの間違いで、聡美先輩がわたしと性愛を交わす仲だと、発覚したかも知れないのに。
聡美先輩は恋人の軽さに憤りつつ困りつつ、彼と別れる気はなくて。その恋仲を続けつ
つわたしの肌身も欲し。池上先輩はわたし達の深い仲に、果たして気付いていたのだろう
か。
「あんた、あたしを思い遣っている積りででも居るのかい? 祐二と中々逢えなくなって、
あたしが落ち込んでいるとでも? 祐二に忘れられそうで、怯えているとでも思った?」
冗談じゃない。聡美先輩は背後からわたしの両胸を抓る様に握り締め。首筋に吸い付き。
「祐二が寂しがる姿を思い浮べると心地良い。少しはあたしの大切さを思い知ると良い…
…後は、あたしを慰める気で肌身を差し出す甘ちゃんな小娘に、身の程知らせてやらない
と。
あたしは柚明になんか縋ってないし、情けなんか願わない。あんたがあたしを恋しくて
遊ばれたくて、飛び込んできた。あんたもおままごとばかりで、欲求不満なんだろう?」
股間に滑らかな手が侵入する。細い指で大事な処を撫でる様に触れられ。体が反射的に
仰け反る。それを逃がさないと抱き竦められ。聡美先輩はわたしを弄りながら愛撫を続け
て。
「聡美先輩には、敵いません……責めるばかりで、わたしには為される侭のお人形さんを、
望むから。でも、今は聡美先輩の求めを、少しでも満たせる事が嬉しい。一番にも二番に
も三番にも出来ないけど、たいせつな人…」
池上先輩は5月の連休に帰郷して、聡美先輩と逢瀬を重ねたけど。以降は余り電話も繋
らず。次に逢えるのは夏休みか。逢いたい想いが欠乏が、堪って行く様子は逢えば分った。
距離を隔て心が仲が離れ行く感触への焦燥も。
中学校で聡美先輩が迫ってきたのは、池上先輩と一時的に逢えなくて鬱積が堪った為で。
彼女の第一の恋愛対象は男の子で、女の子はどこ迄行っても代用品で。それは今も同様に。
その事に特に不満はない。大切な人の不安を鎮め、欠乏を補う役に立てるなら、喜んで。
それ以上になれない己の力不足は残念だけど。何を欲し望むかは先輩の自由だ。わたしは
愛しい女の子の願いに叶う限り応え尽くすだけ。
「せめて、わたしに叶う限りを捧げたいの」
「良い心がけだね。あたしは遠慮しないよ」
この逢瀬が情交が、若杉に史さんに全て露見している事は……この胸に一生伏せておく。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『聡美先輩の心身の容態は安定している…』
聡美先輩に嬲られて一通り征服された後は。
2人床に寝そべって正面間近で向き合って。
行為の余韻に浸りつつ暫く静かに語らいを。
「柚明が、あたしと再びこんな関係になるとは思ってなかった。離れたのはあたしだけど。
柚明も未練タラタラって感じじゃなかったし。もう一度求めても応えてくれるかどうかっ
て。
あたしの愛はむしろ祐二の愛に近い。同じ相手をいつ迄も誰よりも、大事に想い続けら
れる訳じゃない。それよりまず自分が満たされなきゃねぇ……あんたは多分その逆だろ」
わたしはその問に、肯定や否定は返さず。
黒く潤んだ綺麗な瞳を、その奥を見つめ。
「聡美先輩はいつ迄もわたしのたいせつな人。一番にも二番にも三番にも想えないけど、
わたしに叶う事なら身は惜しまない。わたしはたいせつな人の笑顔や幸せに役立つ事が望
みで願い。先輩がわたしを欲してくれるなら」
一瞬聡美先輩は、優しげな瞳を見せるけど。
すぐに視線は力を失って諦めや虚無に浸り。
先輩は自身の愛に、恋人のそれを重ね視て。
わたしを求めた事も代替だと半ば自覚して。
でもだからこそわたしは代替ではない愛を。
長く続く愛もあると先輩の愛を力づけたい。
「あんたの愛は重すぎる……って言った事もあったのに。尚あたしの求めに望んで応える。
暫くの間の軽い愛を、妨げが入れば解れる位のあたしの愛を。その愛にあたしの愛は釣り
合わないと、分って柚明は応えているの?」
「わたしは人に永遠は求めない。報いも返しも要らないの。唯先輩に役立ちたい。先輩に
想いを届けたく望むけど、尽くした分だけ応えてと求める積りもない……わたしは先輩と
識り合えた事が喜びで、今迄が幸せで、睦み合う今が報いだから。先輩は遠慮なくわたし
を求めて。わたしは渾身の想いで応えます」
聡美先輩との愛に未来がないと見通せても。
己が想いを抱くだけなら朽ち果てる迄叶う。
「あたしには永遠を求めないと言っておいて、あんたこそあたしを永遠に想い続ける積
り? 報いのないあたしの愛に欲情にあんたは」
「ごめんなさい。わたしは先輩に、全身全霊の愛を返せない……女の子でしかない以上に、
わたしには先輩を人生の一番にする事は…」
言葉が途切れたのは、唇を重ねられたから。
先輩は聞きたくないのではなく分っている。
女の子の愛では倉田聡美が満たされないと。
承知で身を捧ぐ羽藤柚明を、彼女は分って。
「虫の良い願いに本気で応える柚明が愛しい。嬲って虐めて泣かせたくなる。本当に生意
気で可愛くて、手放したくない。誰かの物になるのがイヤな程に。今更幼い双子とあんた
の一番を争う積りはないけど、羨ましいよ…」
聡美先輩は、わたしが先輩の不安を鎮める為に、欠乏や不満を補う為に肌身を捧げてい
ると分っている。飛んで火に入る夏の虫と嘲る強気の裏側で、本当は助け支えを求め欲し。
今彼女に応えられるのは、その欠乏を補い不安を心配を鎮められるのは、過去に肌身を重
ねたわたしだけ。その因もわたしにあるのだ。
この逢瀬は聡美先輩の求めで始り。わたしも大切な人に応えたく望んだ事だけど。情愛
を交わすのみでない後ろめたさが内心に蟠り。否、わたしの真の後ろめたさはそこでもな
い。肌身を重ねる所作が先輩の心身の現状を探り、必要なら癒しの力を注いで好転を促す。
先輩本人にも真意を隠した実質の裏切りな以上に。
聡美先輩の春先の辛い記憶を封じた所作のこれは後始末。その予後を診て混乱や動揺が
あれば鎮める。それが彼女の最善だったとしても。わたしの罪は今正に現在進行形だった。
「ゆめい……?」「先輩、ごめんなさい…」
『いや、いや……いやいやイヤイヤあぁ!』
昨秋の美咋先輩は自身の想いを声に出せた。
一度全てを見て聞いて受け止めたその後で。
心の容量を越えると分って記憶を封じてと。
『柚明、怖い。怖い怖い怖いこわいこわい』
でも、そこ迄堪えた心の強さが奇跡に近く。
逆に聡美先輩の反応が常の人のそれだった。
解き放たれて箍が外れた瞬間心も壊れかけ。
『さとみ先輩、聡美先輩』『ゆめいぃぃい』
直ちに抱き寄せて、心を鎮められなかった。
わたしはその時点で己の生命がギリギリで。
一番たいせつな幼子に駆け寄る余力もなく。
この春の相馬党の禍を、予見できなかったのは、敵が誰を攫うかを決めたのが、実行直
前だったから。彼らはわたしの関知や感応の『力』を考慮し、予め多数の人質候補を選び。
誰を攫うかは直前迄決めず。故に誰に危難が迫るかは最後迄確かに知れず。早苗さん歌織
さんも、志保さんも標的だった。不在の時を四六時中狙われては守りきれない。幾ら修練
を重ねても、わたしはいつ迄も禍の子だった。
昨秋美咋先輩を人質に取られ生命脅かされ。
やむを得ず己を鬼と化して彼らを打ち倒し。
解き放った時も、苦味を噛み締める結末に。
【……怖かった。怖かった。刀を振るう男達が、人を殺せる拳銃が、鬼を切るという連中
の戦いが……とってもとっても、怖かった】
自由を戻せた後も愛しい人は震えが止まず。
縋り付く彼女を想いの限り抱き留めたけど。
羽藤柚明こそがその震え怯えの真因だった。
【私は……所詮女の子だ。今宵はそれを思い知らされた。剣道幾ら習っても、真剣で斬り
合う覚悟は抱けない。大野にも見た事のない本物の殺意……奴らを思い出すと、助かった
今も震えが止まらない。理屈抜きに怖いんだ。競技じゃない、ルールもない、負ければ手
足切り落とされ血を流して死ぬ、本当の戦い…。
それを受けて打ち勝てる柚明に、その鬼の様な強さにも、私は、見ていて怖くなって】
締め付けの強さは、この肌身の柔らかさで事実を否定したくて。今見た鬼の羽藤柚明を、
嘘だ夢だ幻だと刷り込ませねば、心を保てないから。鬼切部の、鬼の戦いは、剣道達人の
想定も遙かに越えて。愛しい人の精神を壊し。
【あんたは私を喰らわないよね。あんたは私を口封じしないよね。分っているのに、感じ
ているのに。何度も何度も肌身繋げて確かめたのに。奴らも柚明も余りにも遠く離れすぎ
た強さで。今迄柚明にも、こんな苛烈さが隠れていたなんて……怖い、怖い、怖いっ!】
【柚明を傷つけると分って尚、身の震えが止められない。あんたは私を助けてくれたのに。
正にその強さが怖い。奴らを上回ったその気迫が怖い、怖いの! お願い柚明。もっと強
く抱き締めて、この心の体の震えを鎮めて】
甚大な衝撃に美咋先輩は心を壊され。でも。
彼女が渦巻く想いを声にしてくれたお陰で。
わたしは聡美先輩の心の乱れも推察が叶い。
【……柚明は感応の力で、私の今夜の記憶を消せる? 忘れさせる事出来る? 私の心を
操って、安らげる事が柚明には?】【……】
人の記憶を完全に喪わせるのは至難の業だ。
通常人は諸々を忘れ行くからそれに倣って。
思い出さない方向に心を導く事は叶うけど。
人の脳も精神も、緻密で繊細で複雑怪奇で。
感応や癒し等の『力』を狂いなく注いでも。
手を下した結果の先々迄は、読み切れない。
『人の記憶への介入は、経験を操作する事で、経験に基づく人の人生を左右するに近し
い』
博打に敗れ破産して漸く賭事を止めた人が。
酒酔い運転で人を殺めて運転を止めた人が。
忘れてしまえば、同じ過ちを繰り返すかも。
狙われていると分っていれば警戒するけど。
忘れれば無防備に危険へと踏み込みかねず。
心に過去を刻まなければ変れない人もいる。
それは当人のみならず周囲の未来迄変える。
責任を取れるとも償いきれるとも思えない。
でもそれが必須だった。それが人生の改変になろうとも。放置は愛しい人の精神を壊す。
体や生命が残っても魂が壊れては意味がない。購いも償いも届かなくても、為さなけれ
ば!
【耐えられそうにない……生命を脅かされた事を、人を殺そうと迫る刃を、殺気を。私は、
あんな奴らが現実に潜んでいる世界を、平穏に受け止めて過ごして行ける程剛胆じゃない。
背後で草が揺れると心が竦む。傍で風が吹くと身が縮む。月明かりが陰るだけで怯えが
騒ぎ出して。あんたに一日中抱き留められてないと、声も出せない。ダメだよ、私は…】
お願い、助けて。その声は悲痛さを帯び。
そうさせてしまったのは、このわたしだ。
なら、それを補い償い購い復するのも又。
【生命狙われた事実を忘れてしまうのですよ。彼らが世間に潜む事を忘れてしまうのです
よ。それで良いのですか? 先輩は、今宵生命を落しかけた事を忘れて良いのですか?
今宵生命を奪いかけた者達が、居た事を忘れても。
事実は変らないのに。変えられないのに】
その時の美咋先輩の答こそ本当に痛く辛く。
痛く辛かったのは己ではなくて美咋先輩だ。
【だから忘れたいの。思い出せなくなりたい。柚明に救われた事も忘れてしまうけど、柚
明に抱いた怯えも忘れたい。こんなに柔らかく心地良い柚明を怖れてしまった己自身を…
…ごめん柚明。私はあんた程強くなれないよ】
彼女の心を守る為に、わたしが為せる事は。
愛しい人への償いに、わたしが為せる事は。
わたしが為したい事ではなく、為せる事は。
この所作が彼女の未来も幸せも守ると信じ。
罪への怯えより罰への怖れより、愛しい人の守りと幸せが優先。赦されたい己の願望な
ど後回し。だからわたしは愛しい罪を犯した。この罰と報いは生命ある限り、わたしが負
う。
わたしは贄の血の感応を、大量に流し込み。
美咋先輩の心を操って記憶を鎖した。でも。
今再びこの事態を、聡美先輩と和泉さんに。
「……聡美先輩、ごめんなさい。わたし…」
「今更謝らなくて良い。あたしが柚明の一番になれない事は承知さ。あたしも柚明の愛し
方はできないからそこはおあいこ。あたしが祐二に逢えず淋しがっているだろうって、慰
めに来る小生意気さは。今から責めるから」
聡美先輩と和泉さんの、記憶を鎖した際は。
当人の意向も訊かず若杉の術者に任せ委ね。
先輩はあの日起きた諸々を全て、忘れ去り。
その欠落を埋める別の記憶を植え付けられ。
「わたしは、先輩の気持を訊きもせずに…」
為したのは若杉だけど、言い訳は利かない。
結局わたしは記憶の封鎖を、妨げなかった。
今もその予後を診て、記憶の封鎖を補完し。
心の操作を見過ごす以上に、参画している。
「償いたいなら、肌身で存分に償っておくれ。謝る必要のない処に迄気遣って肌身を添わ
す。そんな柚明の優しい小生意気さは、あたしの格好の好物だよ。簡単には許さないけど
ね」
許されよう筈もない。でも謝る事も叶わず。
記憶の復活は先輩を哀しませ、危難を招く。
己が瀕死の深傷だった事は理由にならない。
わたしが一番のひとを優先した帰結だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「がっ……!」「毎度毎度、お苦しそうで」
叫んでも転げ回っても楽にならない。息も止め悶絶を耐え凌ぐわたしに。史さんは歩み
寄って見下ろして。若杉の羽藤監視、というより羽藤柚明監視の彼は、この事情も承知で。
発作の訪れは関知出来た。聡美先輩との逢瀬を終えたわたしは、彼と科学準備室に2人
きりだ。彼が選んだ科学部も早く帰宅したい人の集う部で。放課後の部室には誰もおらず。
彼はここをわたしの避難所に提供してくれて。或いは若杉が羽藤柚明を鬼と見なし処断す
る際も、人目に付かないようにとの考えなのか。
「全く君はしようがないな。悪鬼が欲しがる肉欲を、自ら導き抑えて苦しむ。倉田聡美を
喰らいたいなら、金田和泉を喰らいたいなら、早く自分に見切りを付けて貪ればいいの
に」
充満する破壊衝動を抑え込むのに必死なわたしは。傍で薄ら笑いを浮べる彼に言葉も返
せず。思い浮ぶ余裕もなく。自身を保つのに、己を縛り付けるのに渾身の状態を数時間続
け。
筋肉の芯が熱い。骨の随が弾けそう。心臓から喉に何かがこみ上げ。手足を思い切り伸
ばして殴り蹴りして暴れたい。人も血も肉も好き放題に喰らいたい。意味もなく叫びたい。
鬼の欲求だ。心が体が鬼を求め欲し。愛しい人と触れ合ったから、性愛が肉欲が溢れ掛け。
昨秋この発作は始って。最初は何故この身に生じるのか、この後どうなるのか、いつ迄
続いて、何度繰り返すのかも分らず。凄まじい渇仰に何度も正気を失いかけ。羽様の家族
と史さん以外に知られてないのは、幸いだった。彼が承知なら若杉が承知と言う事だけど。
「倉田聡美は、羽藤柚明のたいせつな人…」
当初は発作の度に翻弄され。気力を総動員しても振り回され。実は己が鬼を欲している
と気付き。引き金は己の内にある。なら絶対解き放てないと、自身を絞め殺す勢いで堪え。
心を揺さぶられると、鬼になりたい思いが目覚め蠢く。不足を感じた時何かを欲した時、
理性以前の欲求が鬼を欲し。一度鬼になった者はその開放感に心奪われ殆ど人に戻れない。
戻れても鬼の爽快感が忘れられず、人の世の縛りが迂遠で些細で面倒に思え、結局望み願
って鬼に戻る。その強烈な甘美は麻薬に近く。
何度這い上がっても鬼に戻り掛る蟻地獄を。
抜け出せない侭この春再度自らを鬼と化し。
鬼切部の処断対象にされる可能性もあった。
昨冬経観塚へ転入してきた史さんの任務は。
わたしがもし悪鬼であるならその証を掴み。
上司や羽藤の大人に討伐を告げる事だった。
それにしては彼の動きは妙に鈍かったけど。
彼はわたしを監視しつつ挑発し嘲りつつも。
この現状を尚討伐対象と報告してない様で。
内なる鬼との戦いは常在戦場で。いつ迄続くとも、いつ再来するとも知れず。空腹な時、
憤りや哀しみや喜びを感じた時、性愛や肉欲を憶えた時。些細な心の起伏が行動に直結し。
止めるのが至難で。岩は前触れなく転がり堕ちる。欲求は僅かな物で良かった。不足か微
かな物で良かった。鬼は常に隙を窺っている。
羽様の幼子を抱き留めたその後で。美咋先輩の記憶封鎖の術後の経緯を視る為に、肌身
を添わせその情愛を感じた時に。真弓さんサクヤさんと肌身を重ね愛しみ合ったその後で。
これではとてもご神木を訪ねられぬ。オハシラ様の心を騒がせ乱し、鬼神の封じを損ね
てしまう。もう少し己を落ち着かせねば。なので冬が終っても、半年以上ご神木に行けて
ない。その導きは、是非とも必要だったけど。
「聡美先輩はわたしに、人を愛する事の深みと脆さ危うさ儚さを教えてくれた、人生の先
達……いつも笑顔でいて欲しい、支え守り助けたい女の子。怯え震えさせたくないの…」
それは己が怯えられたくない欲だったかも。
己が鬼を潜ませる事を識られたくないとの。
救いは贄の血の『力』の修練の蓄積だった。
時に、人を傷つけ癒し治しもする血の力を。
適切に使う為にわたしは心身の制御に努め。
眠る時も倒れた時も、怒り哀しみや驚きや愛しさに心揺れた時も、諸々に同時に向き合
わねばならない時も。どんな時も過剰でも過小でもない『力』を紡ぐ。常に心は柔らかに。
その修練の蓄積が、鬼の暴発を抑え込む鍵に。
治癒には『力』を必要な時間・必要な箇所に一定出力で流し続ける為に、瞬発力よりも
持続力・速さや広がりや密度の制御が重要で。
退ける『力』も敵を過剰に傷つけぬ為に制御が必須で。わたしの目的は敵の打倒ではな
く、たいせつな人の守りだ。報復でも反撃でもなく、危難を防ぐ最低限の実力行使に止め。
関知や感応は、周囲の諸々を微細に視分け聞き分ける繊細さ、更に平静な心が不可欠に。
自身に長年課し続け、身につけてきた所作が。暴れ出す己と戦うわたしの最大の武器にな
り。
「鬼を受け容れれば楽になれるよ……と言うより、ぼくの前だから苦しむ振りしているだ
けかな。でも、逆に鬼が人を装うのも結構大変だよ。餌を前に自らお預けする訳だから」
何時間、耐え凌いだだろう。何かが生まれ出るのを防ぎ止める様な感じが、延々と続く。
真弓さんの出産に心添わせた事があったけど。苦しさ痛さ不自由さ等の点ではそれに近し
い。
外は既に暗く人の気配もなくなって久しく。史さんは様々な手管で夜の学校への出入も
自在で。疑惑の痕を残す人ではないけど。そのお陰でわたしも人目に付かない一室で、延
々と苦悶していられる。それは感謝すべき事で。
こうして長時間付き合ってくれる。彼の一存でわたしは処断出来るのに。彼は中々わた
しに見切りを付けず。監視が任務と言う以上に彼はわたしに興味津々で。鬼になって人に
戻った者は伝説にも珍しいみたい。血の力を操る羽藤は、若杉から見ると鬼に近いのかも。
「そのたいせつな人を貪りたくて、鬼が蠢いたんだろ? いつ迄抑えられるかな。それと
もぼくの前だから、抑えているフリかな?」
誰かと肌身重ねれば蠢く内なる鬼を。己の心や体を操って数時間遅らせ。その間に聡美
先輩や和泉さんとの逢瀬を終らせ。離れれば過ちは生じない。それに誰とも肌身合わせね
ば鬼が鎮まる訳でもなく。月一で生理が巡れば欲求は蠢く。その他の日常でも欲求は徐々
に溜まり、いつかどこかで満水に至る。なら愛しい人に禍が及ばぬ様に己の鬼を操り導く。
史さんには迷惑とお世話を掛けてしまうけど。
隔てられた処で余人に禍を及ぼさない時に。
数時間から半日掛けて渾身の力で抑え鎮め。
露見したなら討伐を招く怖れもあったけど。
彼は若杉がわたしを監視する為に遣わした。
隠蔽が心証を悪くする以上に隠し通せない。
現状ありの侭を見せ羽藤がわたしが安全と。
人の世に害為す者ではないと納得頂ければ。
一筋縄で行く人物ではない事は百も承知だ。
でも例え戦うより難しくてもこの途こそが。
わたしの一番愛しい幼子の未来を開くなら。
「有り難う。漸く、抑え切れたみたい……」
「毎度ご苦労だね。わざわざ抑え込まずとも、鬼を解き放って肉欲や性愛に、食欲や破壊
衝動に身を任せれば楽なのに。愛人を貪るのが忍びないなら無関係の人を襲っても、ぼく
が相手しても好い。男との淫行も良い物だよ」
薄闇に鎖された、人気のない校舎の片隅で。
汗だくで力尽きたが如く座り込む女の子と。
同級生でも実は5歳年上の中肉中背な男性。
男女の絡みを結ぶ情景には、悪くないけど。
「あなたを貪る訳には行かないわ。他の人も。鬼を解き放ったら抑えきれない。解き放っ
てはいけないの。必ず誰かを傷つけ迷惑が及ぶ。人を貪って味を覚えては後戻りも利かな
いし。
和泉さんや聡美先輩と肌身を合わせるのは、春先の記憶封鎖の予後を診る為で。己の愛
欲を満たす為じゃない。実は愛しい人の気持に応えてない事は、裏切りは申し訳ないけ
ど」
「役得じゃないのかな。女好きの君にはさ」
冷かす語調に視線がきつくなっていたかも。
史さんは肩を竦めてわたしの拒絶を了承し。
「戦闘員じゃないぼくは、当代最強やその当代最強が倒せなかった鬼に師事し、相馬の神
鳥を退ける強者に、無理強いも叶わないし」
「どうせあなたなら、仮にわたしが鬼に負けて裏返っても、対処の術はあるのでしょ?」
彼には任務完遂し帰還するとの想いが強く。それは功績や名声より生きて帰る方に力点
があり。彼は使命に忠実な以上に、絶対生命を落す訳には行かない、必ず生きて帰らねば
と。
用意周到な彼が、鬼の疑惑持ちのわたしと一対一で向き合うのに、備えがない筈がない。
葛子さんは化外の『力』を滅する銀の弾入りの銃を持っていた。誘いは断ると分って為し
た悪戯だ。若杉の彼に鬼と交わる自由はない。
「わたしが誘いに乗っていれば、性愛や肉欲に敗れた鬼として、処断する積りだった?」
「見え透いた誘いに君は乗らないよ。それに仮に交尾したなら、君の同意の有無に関らず、
ぼくが浅間サクヤと羽藤真弓に殺される…」
史さんは何度も鬼の発作に喘ぐわたしの間近で。手助けもせず襲う事もせず監視に徹し。
【この国には、鬼の実在を信じてなくても知らなくても、何かの事情で偶発的に鬼になっ
てしまう人は多少いるんだ。鬼切部も、1人残らず見つけ出して斬れている訳じゃない】
【役行者は前鬼・後鬼という鬼を使役した。
今も若杉に仕え・使われている鬼もいる。
浅間サクヤ達観月も昔は若杉の下請だった。存在を許容できる鬼もいる。術や力の研究
の為に、検体にされたり観察目的で飼う鬼も】
監視を拒まないなら、束縛を受容するなら、己の存在も許容されるかも知れない。それ
が一番たいせつな羽様の双子の育ち行く日々を保つなら。軽口や皮肉の裏側で、史さんは
わたしを生存の途へ、導こうとしているのかも。
「じゃユメイちゃん、この辺でぼくは失礼」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
最終バスを降りた頃には、夏の陽も落ちて、羽様は千年変らぬ夜の闇に鎖されていたけ
ど。真っ暗な緑のアーチも、抜ければ羽様のお屋敷の人家の灯があると分るから、迷いは
なく。修練を重ねた今のわたしは、視覚以外で諸々を悟れるので、闇夜を歩くのにも障り
はなく。
今日は帰りが遅くなると理由も告げたので。
大人に不安は与えてないけど大人以外には。
「……ただいま、戻りました……」
「「おかえりなさぁああぁい!」」
開け終えた瞬間2つの塊が飛び込んで来る。
わたしも両腕を開き幼子を渾身で迎え入れ。
「ただいま、白花ちゃん。桂ちゃん」
「おねいちゃん、おかえりっ」
「ゆーねぇ、おかえりなさい」
わたしの一番たいせつなひと。生命に替えても守るのではない。その守りは前提条件で、
その為に己が何を出来るか、この生命をどう使えるか。幼い双子の為にわたしの死も生も
ある。生命に替えても届かない程の状況でも、生命を捧げて必ず愛しい2人を守り愛し抜
く。その為にわたしは生きて、修練を重ねてきた。
その2人を、一番たいせつなひとを。わたしはこの春危難に晒し、自力で助け出せず…。
「あのねゆーねぇ。きょう、はくか学校で」
「かも川のまぁと君と、かくれんぼしたの」
2人はこの春から、わたしも通った羽様小学校に通い始め。それ迄通っていた銀座通の
幼稚園とも異なる、少人数学級にも慣れ始め。1年2年3年合同クラスは7人と聞いてい
た。
「きゅーしょくは、ぶたじるとギョーザ…」
「けい、ぜんぶ残さずに、食べたんだよっ」
傍のサクヤさんの苦笑は。鋭い嗅覚に餃子が利いた訳ではなく、幼子の歓待に。大人よ
りサイズが近しい為か、わたしは幼子に好まれる様で。幼稚園に顔を出した際は、人だか
りも出来て。保母さん達に驚かれ。幼子限定ならアイドル並みだとサクヤさんに冷かされ。
「ずがこうさくで、好きなものをかくって」
「お母さんとゆめいおねぇちゃんをかいた」
思春期迄は男子より女子の方が、心身の成長は先んじる様で。羽藤でも白花ちゃんは言
葉を選んだり、考えてから動くのに。桂ちゃんは活発で、まず声を発し動いてから考える。
一緒にいると、白花ちゃんが話しかけた中身を桂ちゃんが奪う感じで。2人の言いたい
事は分るから。伝わっているよと肌身に応え。2人だから左右に抱き留めて頬合わせられ
る。同時に春から習慣になった、2人の心身に異変のない事を確かめる作業も、並行して
為し。
暫く屈み込んで抱き留めて、幼子の話しに耳を傾けていると。やや癖のある白銀の長い
髪と、見事なスタイルを持つ美しい人が傍へ。
「幼子が愛しい気持は分るけど、いつ迄三和土で語らっているんだね? 夕餉が冷めちま
うよ」「済みません。サクヤさんただいま」
サクヤさんはバスのエンジン音で、わたしの帰着を察し。幼子を夜風に晒すのは良くな
いと、三和土迄一緒しここで揃って待機して。
真弓さんは台所でわたしの夕飯を温め直してくれて。正樹さんは奥の間でコラム執筆か。
サクヤさんが鞄を持ってくれたので。わたしは幼子を左右の胸元に抱いた侭、屋内へ進み。
姿形は細身で筋肉質にはなれなかったけど。
修練の成果で見かけよりも筋力はあるので。
強そうに見せかけられない事が、難点かな。
「お帰りなさい、柚明ちゃん」「ただいま帰りました。遅くなってすみません」
いつものご挨拶だけど。鬼切部と二度も諍いを経て、安穏な日々が突然壊される展開を
経た為に、単なる無事への感慨は互いに強く。当たり前の有り難さや幸せが強く実感され
て。
居間のテーブルには、お夕飯が器に盛られ。みんなは食べ終っているから、お夕飯はわ
たし1人だけど。真弓さんもサクヤさんも、白花ちゃん桂ちゃんも一緒に囲む。幼子達は
夕飯時に真弓さんへ話した今日の諸々を、さっき玄関で話してくれた中身を、ここでも再
度。
愛しい幼子が話しの中で、わたしのご飯やおかずに目が向くと。わたしは自分のご飯や
おかずを、幼子の口に交互に運び。問う必要もない。好きな人が食する物は食したくなる。
わたしは好いて貰えている。それが幸せだった。順位には拘らない。わたしが白花ちゃん
桂ちゃんを一番に愛するのは、2人の一番になりたいからではなく、己が愛したいからだ。
「えい、やー、とぉ」「うん、うんうん…」
話し終えた桂ちゃん白花ちゃんは、この背に共に身を預けテレビの時代劇を観て。前職
が剣士だった真弓さんの影響か、特に桂ちゃんは時代劇好きで。それは春に真弓さんが双
子の目の前で、相馬党を打ち倒すより前から。
内容は把握しきれなくても、悪役や正義漢、善良な町人や娘は分る様で。殺陣のシーン
では手に汗を握り、無意識に手足を振り回して、傍にいる白花ちゃんに当たり。幼子の拳
は痛くないけど。白花ちゃんも怒りはしないけど。
わたしはその頭に軽く手を添えて。桂ちゃんに悪気がないと分るから、怒り出せずに不
満を呑み込む白花ちゃんを。わたしはしっかり看ていますよと。妹を想う良い子ですねと。
真弓さんは瓜二つな幼子を、他の人が見ても分る様に、桂ちゃんの髪を長く伸ばしている。
明るいブラウンの長い髪はまっすぐ柔らかで。
「倉田さんも金田さんも、異変はないの?」
そこでわたしも大人の話しをする事が叶い。
真弓さんの問にわたしは小さく頷き返して。
「はい。若杉の術者は、処置の際も痕を残さないよう、心の傷を最小限に止めた様です」
「そう言う後始末をそつなくこなされても、鬼切部にはちっとも好感を抱けないけどね」
サクヤさんの声にも頷いて。人の記憶の操作は決して褒められた事ではない。真弓さん
もサクヤさんの鬼切部に対する軽口や悪口を、自身は口にしないけど、敢て咎め立てはせ
ず。
「半日位の記憶なので、影響が少ない様です。欠落の穴埋めも若杉は巧くやっていたの
で」
聡美先輩はあの日、池上先輩とハックで待ち合わせデートの予定だった。若杉の術者は、
行く中途で攫われた聡美先輩の記憶を、洋服選びに手間取り遅刻したと書き換え。ハック
前で、史さんの知人の娘の迷子を探していた、わたしや和泉さんに逢い。一緒に探して夕
刻無事見つけ。彼の奢りでハックを一緒したと。
事実を全てなかった事にするのではなく。
鮮やかな一部を自然な形で溶け込ませる。
記憶の封鎖が揺らいでも偽りへ戻る様に。
羽様の双子にその措置はしていない。事情を理解できない幼子は、記憶を鎖すより日々
の諸々で流し去り、自然に忘れる方が良いと。不幸中の幸いか幼子は、攫う時も拘束中も
力づくの必要がなく、扱いも酷くなかった様で。
記憶の操作は叶う限り控えたい。どんな副作用や悪影響が、いつ、どこで、どんな形で
顕れるか……人の心や脳の構造は複雑怪奇で、科学でも呪術でも未だに計り知れぬのだか
ら。
特に桂ちゃんは、わたしが相馬党の立花由香さんに踏みつけられた時、わたしを守ろう
と妨げて、蹴り飛ばされたけど。痛かったしショックだったと思うけど。邪魔者を退かす
蹴りは本気でなかった事や、直後に彼女がサクヤさん真弓さんに倒された事で。心身の傷
も浅かった様で。でも最近、時代劇の勧善懲悪や剣劇に、強く感情移入して見えるのは…。
『何かの術を使われた感じは、なさそう…』
呪術は作用が出てない時は、どんな術かよりその有無が見抜き難い。発作や発熱等の症
状が出てない時は、医師も診断が難しい様に。
わたしも幾度か精査したけど。若杉の術者も視てくれたけど。愛しい双子に今の処、そ
の残滓や影響は窺えず。でも未だ安心は出来ない。後催眠暗示や条件反射に似て、特定の
状況で初めて発動する術もある。要件を満たさなければ生涯潜在し子孫へ持ち越される術
も。だからわたしも日々触れて確かめるけど。
術を使うのは相手を搦め手で崩したい時だ。
相手の内部に意外な背信や欠落を生じさせ。
攻めや守りの要を一時的に機能しなくする。
でもそれは敵が相応に堅固で強大な場合で。
相馬党はわたしを倒すのに、術で崩す必要がなく。人質を取った時点でわたしに逃亡の
怖れはなく。彼らが術に頼る必要は薄かった。
『わたしが勘ぐりすぎかも知れないけど…』
術を知るから敵の術を警戒してしまうけど。
剣で挑んできた彼らが主に用いるなら剣か。
「柚明ちゃんお帰り」「只今、戻りました」
執筆の合間に居間へ来て、正樹さんはわたしの帰着に気付き。これで羽様の家族は全員
揃った。わたしのたいせつなひと。わたしの今迄を支えて、今を支えてくれる愛しい人達。
正樹さんは春先以降、諸々に積極的になり。それ迄は、戦力で劣るし事情に詳しくない
と、若杉や相馬への応対は真弓さんサクヤさんに、委ねていたけど。その及び腰が春の諍
いを誘ったかと思い悩んだ様で。彼に咎はないのに。
笑子おばあさんの没後、羽藤の家長になり。羽様の家族を守り支える責を感じる様は見
て分った。分っても子供は容易に大人を助けられない事も、助けてしまっては逆に拙い事
も。
子供に為せる事に限りはあるし、仮に為せても大人の誇りに触れかねず。しかもわたし
自身が荒事で羽様の大人に不安を与えた因で。
「2人とも、寝付いたみたいだね」「はい」
正樹さんがお茶を一服する間に、幼子は眠りの淵に落ち。時代劇が終って力尽きた様だ。
小学校には馴れてきたけど、未だ体力に余裕がなく。6歳の幼子なら就寝時間はこの頃か。
わたしに寄り掛って寝息を立てる幼子を。
真弓さんサクヤさんがそっと抱き上げて。
寝室へ持ち去られる愛しい人を眺めつつ。
正樹さんに向き合い彼の話しを伺う事に。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「沢尻さんから返事があったよ。こちらの言い分通り、サクヤさんが紹介してくれた業者
の提示額と、同じ額を払う用意があると…」
最初の話しは、わたしが織る反物の納入価についてだった。先週初めに沢尻夫妻が訪れ、
わたしと真弓さんも同席し羽藤の考えを示し、答を待っていたけど。電話で回答があった
と。
笑子おばあさんは逼迫した家計を補う為に。
半世紀近く前から、機織りで作った反物を。
沢尻の伝で納めて収入を得ていたけど実は。
足元を見られて安く買い叩かれていた様で。
鴨川の平さんは羽藤の生計の途を残す為に。
沢尻に密かに羽藤を助ける様に頼んだけど。
沢尻は地域の対立を煽って羽藤を孤立させ。
残った窓口は沢尻のみと無体な取引を迫り。
沢尻が紹介した業者の引取額は安すぎると。数年前サクヤさんは別業者を紹介してくれ
て。でもおばあさんは心遣いを喜びつつ、沢尻との取引も止めず。双方へ交互に納める事
に…。
『沢尻さんもね、禍ばかりじゃないんだよ』
笑子おばあさんの静かな笑みが瞼に浮ぶ。
鴨川に睨まれ地域の多くが羽藤と距離を置く中。思惑込みでも羽藤に関り、助けになっ
たのは沢尻だけだった。笑子おばあさんが書道や華道、茶道や裁縫を教え報酬を得られた
のも、沢尻の根回しの故で。裏にお母さんへの愛を抱き続けた鴨川平さんの配慮はあれど。
わたしのお母さんも正樹さんも、間接に沢尻のお世話になっている。専業主婦の真弓さ
んも白花ちゃん桂ちゃんもわたしの幼少時も。正樹さんの原稿料では養えなかった筈だか
ら。
歴代の羽藤の遺品も、あるだけでは何の益も生み出さない。笑子おばあさんは羽藤の未
来を展望する為に、過去を沢尻に持ち出されても目を瞑り、笑みを保っていたのだろうか。
笑子おばあさんに機織りを学んだわたしも、中学2年から一緒に反物を納め。おばあさ
んの没後も双方の業者に交互に納めて今に至る。
『沢尻の取り分が、多くあるといいねぇ…』
おばあさんは多く語らなかったけど。一度絆を繋げたら、酸いも甘いも噛み締め絶対手
放さず。その甘さ優しさは非合理に映るけど。
わたしはその辺りは合理や正邪のみならず。
情や今迄の関りも勘案して考えたい。でも。
正樹さんは笑子おばあさんが亡くなった今。
その方針に縛られる必要はないとの考えで。
不当に持ち出された遺品返還や賠償を求め。
沢尻と関係が悪化しても正論を通すべきと。
羽藤の家計は正樹さんの本の印税で好転し。
おばあさんが沢尻に頼った処も最早不要で。
反物の納入についても家族で話した。沢尻の業者の引取額は、サクヤさんの業者の引取
額の七割に満たず。高値の方に纏めるべきだったかも。わたしはおばあさんを懐かしむ余
り、後ろ向きになっているだけかも。でも…。
わたしは正樹さん達に沢尻とも交渉を願い。
話し合った末にまず七割に価格を引き上げ。
沢尻夫妻は苦虫を噛み潰して了承したけど。
次に機織りに使う絹糸の卸値も高すぎると。
正樹さんは最早積年の不信や憤りを隠さず。
羽様のお屋敷に業者も招いて一緒に話しを。
沢尻は高額の仲介料を抜いていて、それを省けば引取額は上がると。正樹さんはサクヤ
さんの業者の引取額の八割を求め。わたしの織物は両方の業者から、笑子おばあさんの作
品に遜色ないと、評価頂き。高価でも買い手は付くと言われ。双方の立場は逆転していた。
正樹さんは羽藤の遺品を持ち出した沢尻を。
ずっと腹に据えかねていて。断交も厭わず。
そうなると、正樹さんの主張が正論なので。
沢尻夫妻はわたしに縋り付く他に術がなく。
沢尻は羽藤から得た利益を、博人の学資や生活費に回している。沢尻との関係を絶てば、
都会の工業高校に通う彼の卒業が困難になる。合理や正論が、人の幸せに繋るとは限らな
い。
『若木葛子さんが囁いたわたしに纏わる悪い噂を、学校や地域に好んで広めた沢尻夫妻が。
最初は博人と羽藤のわたしを引き離す目的だったけど。その内わたしを貶す事が目的に
なって。わたしに縋り付き頭を下げる屈辱を鬱憤を晴らす為に、わたしに阿ったその帰途
に悪い噂を流して。憎み恨み憤りつつ、でも今はそのわたしを頼る他にない世の皮肉…』
正樹さんはわたしの願いを容れて、沢尻との取引を残したけど。遺品返還を求める間は、
関りを残した感じで。春にはサクヤさん紹介の業者の9割の額を、今回は遂に同額を求め。
「こちらの要求を、受け容れてくれたからね。今回は取引しますと応えたよ。柚明ちゃん
に、お礼を言っておいた方が良いと付け加えて」
「わたしは、正義さん雪枝さんに助言を求められて……叔父さんの求めは妥当だから、取
引を続けたいなら承諾する他にないと、答えただけです。余計な差し出口かと思いつつ」
先日下校時を待ち伏せられ懇願されたので。
正樹さんに相談する暇もなく応えてしまい。
帰宅後にお屋敷の大人に経緯は伝えたけど。
「いや。柚明ちゃんの助言で沢尻さんも諦めが付いた様だから。沢尻さんに優しい柚明ち
ゃんの宣告が、決定打になったんだと思う」
そこで幼子を寝付かせ終えた真弓さんとサクヤさんが戻ってきて。共にテーブルを囲み。
昨年一度限りでも、実家である千羽の鬼切りを手伝った真弓さんに、膨大な臨時収入が
あり。正樹さんの印税収入も継続的に見込め。沢尻が取引を嫌うならいつでも羽藤が断れ
た。サクヤさんの業者に取引を纏めるだけで良い。
だから正樹さんは正論を押し通す構えで。
わたしはそれ以上の口出しを憚る状況に。
沢尻夫妻は感応で視なくても内心が不平に満ち。わたしが関知で視た、正樹さんとの通
話は丁寧で穏やかだったけど。沢尻夫妻は状況や必要に応じて声音も表情も仕草も装える。
見え透いた世辞や建前や虚偽に真情を注げる。その裏で誰も悟れぬ侭憎悪や憤怒を燃やせ
る。
正樹さんは今迄の経緯や、自身が抱く沢尻への隔意を鏡映しに見て、丁寧で穏やかな応
対の影に蟠る本心を見抜き。でも、否その故に、笑子おばあさんの様な笑顔の応対はなく。
両家には修復不能な溝が顕在化しつつあった。
「ただ、次は沢尻さんを通さず、直接業者と取引すべきだと、ぼくは思っているけどね」
サクヤさんの紹介してくれた業者は、羽藤と直接取引している。サクヤさんは仲介料や
手数料を抜いてない。そもそも沢尻が間に挟まり、一部でも利益を抜き取る事が問題だと。
それだと沢尻が困窮する怖れも生じるけど…。
正樹さんは、尚理性的な応対に止めている。
今迄の憤懣を理不尽で返す事はしていない。
ここで下手にわたしが情を挟んでしまうと。
彼の抑えた炎に、油を注ぐ事になりかねず。
「羽藤の遺品返還の話しも。転売された物は沢尻に買い戻して貰う。郷土資料館へ鴨川名
義で寄付された物も、一度返して貰い、羽藤名義で寄付するか否かは、羽藤が決めたい」
「それ、沢尻さんは、了承したのですか?」
「まともに了解するとは思えないけどねぇ」
真弓さんが沢尻の反撥を懸念し、サクヤさんはまともな履行を期待できないと言うのに。
「沢尻は羽藤の遺物の持ち出しを認めてない。今日も電話で返還や補償を求めたけど、最
後まで事実認定が曖昧で。でも明確に否定出来ない辺りが彼らの負い目を示す。話し続け
れば、沢尻も己の非を認めざるを得なくなる」
正樹さんは多少の時間が掛る事も見通して。
そうせざるを得ない様に沢尻を追い込むと。
「数拾年の決着が一気に付くとは思ってない。でも、変えようとしなければ現実はいつ迄
も直らない。桂と白花が育つ世間が、理不尽な物でなくなる様に。道理が通ると証した
い」
「そう言う事ならば」「巧く進むと良いね」
羽藤の家は桂ちゃんと白花ちゃんを育む。
正樹さんは最も愛しい羽様の幼子の父だ。
沢尻は、わたしの大切な博人を育むけど。
羽藤より愛しい双子より優先は出来ない。
わたしは意見は述べられど決定権はなく。
今は異論を述べるよりも黙する方が良い。
そして話しは鬼切部との関りに移行する。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
若杉は組織的な分業制を採っており。戦闘に長けた者や術に長けた者、監視に長けた者
や交渉に長けた者等を、状況に応じ組み合わせ使い分けている。多くの技能に同時に秀で
た者は得難く育て難い。そう言う希少な者は、特に必要な任務に当て。それ以外の諸々は
複数の連携で対処するのが、若杉の基本姿勢だ。
経観塚へ遣わされた若杉の者は、監視人や、起きてしまった諍いを収拾する交渉人が多
く。
わたしを憎んで暴走した葛子さんや、収拾に訪れた前任の平方顕忠さん、更に前任の若
杉秀臣さんは。サクヤさんと絆が深い羽藤を監視する者で。鴨川の後妻に来た香耶さんは、
鬼切部を抜けた真弓さんを監視する為の者で。
『初めまして。若木書房の村崎式部です…』
艶やかなショートの黒髪に、タイトな紺のスーツ姿で訪れた、真弓さんより同じ歳の美
しい女性は。表向き正樹さんへの執筆依頼だけど。実は春先の諍いの事態収拾の交渉人で。
羽藤では、昨秋わたしが生命狙われた時に、収拾に訪れた顕忠さんの再訪を疑っておら
ず。彼が仲介した相馬との和解だ。破ったのは相馬だけど、若杉は彼の責を問うて使い回
すと。
その予測を覆して訪れたのは初見の女性で。
強い姿勢で交渉に臨む矛先を、逸らされた。
それも微妙に正樹さんの好みを捉えていて。
『あなた』『正樹』『叔父さん?』『…!』
表向きの執筆依頼の話しは、適当に済ませ。
式部さんは怜悧に冷静に冷徹に交渉に入り。
でもその後の展開は3ヶ月経って尚終らず。
春先の相馬党は、若杉の指示で即日撤収し。真弓さんサクヤさんは彼らに、痛撃を与え
たけど。致命傷や四肢を断つ等の深傷は与えず。恨みの芽を残さない様に加減してくれた
様だ。
【妾は今は謝らぬ、今は未だ。一番愛しいみゆみゆを、二度も倒した汝と気易く肌身交え
る気にはなれぬ。だが、必ず内なる諸々を片付けて、妾は再び汝を訪ねる。謝るのは…】
神鳥を内に収めたマキは。気力体力を使い果たして寄り掛るわたしを支え、頬に頬寄せ。
対戦はマキの勝利で良い。わたしは愛しい人を守れれば良く。勝たねばならぬマキと違う。
元々わたしが神鳥に勝つ見込は殆どなかった。
妥当な結果だった。これで諍いが終るなら。
後はこの出逢を幸いに転換したい。そして。
最早敵とは言えぬ、相馬の幼い鬼切り役は。
再び来ると。次は敵としてでなく。わたしに逢う為謝る為、肌身を交え合う為に。その
前に相馬の中を改め直すと。そうせねば羽藤にわたしに向き合えぬと。強い決意が窺えた。
マキには傍にみゆみゆ……朱雀さんが居る。
体質改善は困難だろうけど不可能ではない。
【貴女には、謝る以上に感謝を伝えたい……そこ迄苛烈な目に遭わされて。尚その一味で
ある私を案じ、ミマキ様を気遣ってくれた】
朱雀さん=野崎美憂さんは、尚立ち上がれないわたしをマキに代って抱き留めて。消耗
したその身に残っていた気力体力を、癒しの『力』に換えてわたしに、口移しで注ぎ入れ。
【我々が貴女に為した非道に較べれば、この程度の返しは何十分の一にもならないでしょ
うけど。マキの身も心も助けてくれた貴女に、叶う限りの報いをしたい。生涯を注いで
…】
わたしは、白花ちゃんの解放を確かめた辺りで意識遠のき。限界を随分超えていた様で。
生命は繋げたけど一週間眠り。もう目覚めないかもと家族を青ざめさせた様で。自身は寝
て起きた位で、意識戻せた後が辛かったけど。生きる意志や力が一時的に空になったらし
い。
【無事で、良かった……!】【叔父さん?】
【柚明ちゃんが、目覚めた】【叔母さん?】
【生きた心地しなかったよ】【サクヤさん】
何度も真弓さんやサクヤさんが添い寝して、人肌で温めてくれた様だけど。それは思い
返すと今も、頬を染め全身を温めてくれるけど。
【ゆーねぇ、起きた?】【おねいちゃん!】
白花ちゃん桂ちゃんは、わたしが目覚めた時には既に元気で。寄り添い布団に潜り込ん
でくれて。柔らかい暖かさが、無垢な笑みが肌触りが、例えようもなく有り難く。長い昏
睡が、最愛の2人を不安に陥れていた。己の身は己のみの物ではないと、思い知らされた。
もっと修練を重ねて更に強く賢くならねばと。
交渉はわたしの意識が戻って漸く動き出し。羽藤の大人はわたしの昏睡の間は、話しも
しないと。わたしが目覚めねば、和解等する気はないと。それ程強く大切に思ってくれて
…。
『相馬や若杉との決着はぼく達がするから』
『柚明ちゃんはその身を癒す事に専念して』
『元気なあんたを桂や白花が待っているよ』
わたしは更に一週間褥から身を起こせずに。
身動きも取れぬ侭に幼子を迎え幸せに浸り。
屋内なら這って動ける状態で、更に一週間。
美咋先輩達の卒業式には辛うじて間に合い。
『でも相馬や若杉との和解の話しは難しく』
当座の休戦は叶ったけど。相馬と若杉が連帯して謝罪と賠償、再発防止は約されたけど。
和泉さんや聡美先輩の記憶の封鎖には、得心行くのに時間が掛り。重大な時に昏睡してい
たわたしに、何も言えないけど。どうすれば良かったかと問われれば、答もなかったけど。
若杉は和泉さんや聡美先輩の記憶を鎖し。
2人が襲われた事実をその家族にも黙し。
羽藤が求めたから、賠償には応じたけど。
2人や家族に心当りない幸運は巡るけど。
それが妥当か否か当人も家族も量れない。
羽藤が代りに了承できる事ではないけど。
真相を明かせば関る全員の未来が危うく。
全てを隠す若杉の措置を追認する他なく。
当人達に気取られぬ様に、生命脅かされかけた危難の補填を。羽藤の大人は3ヶ月掛け
て了承し。2人の女の子の動向・落ち着きを見守って。漸く全てを包括する和解の話しへ。
式部さんから電話で、提案があったらしい。
そこで微かに羽様の大人3人が眉を顰めた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
相馬は二度、80歳過ぎの男性3人を遣わして頭を下げ。正式な和解の条件調整は若杉に
任せ、全て受容すると述べ。締結の際に再度訪れ謝ると。真弓さん達に粉砕された事もあ
り、若杉が関った和解を破った負い目もあり、相馬は従う他に術がなく。その若杉の提案
が。
『若杉が指定する男の元へ、羽藤柚明が輿入れすること。これで両家は縁戚となり、羽藤
は鬼切部の身内になり相馬とも味方になる』
「わたしが、若杉の殿方に、お嫁入り…?」
齢は保護者の許諾があれば辛うじて満たす。
でも今のわたしはお嫁に出るには未熟過ぎ。
相馬にも略奪婚を望まれたけど、それ程の値が己にあるとは思えず。最近わたしの評価
はバブルしている。家計のやりくりも庭の手入れも真弓さんに遠く及ばないし。もっと料
理や機織り、書道茶道、華道や和裁洋裁を極め、人前に出せる様になった後ならともかく。
周囲の空気が殺気立っていく中で。色々考え込んでいたわたしは、取り残された感が…。
「羽藤はこの条件は断る。人質を出せと言うに等しい条件は認められない。村崎さんに重
ねて4週間後の答を求められたから、4週間後も断りますと告げて、電話を切ったけど」
「当然です! 期限を待たずに断って結構」
「政略結婚なんていつの世の積りだね全く」
真弓さんもサクヤさんも聞いた瞬間憤激し。 正樹さんの断り方が生ぬるいと詰る感じ
で。
「柚明ちゃんは今、贄の血の力を使える唯1人の羽藤の家族なの。幼い双子の先達として、
末永く傍にいて貰わないと困る以上に、わたしや白花や桂のたいせつな可愛い家族なの」
「笑子さんからも柚明の父母からも、柚明を宜しく頼まれているんだ。嫁にも出す積りが
ないあたしの柚明を、よりによってその生命を脅かした若杉なんぞに……冗談じゃない」
「ぼくも同じ意見です。柚明ちゃんは未だ高校生だし、例え卒業し成人しても、本人が望
み選んだ相手でもない限り、結婚なんて…」
考えてみればわたしは再来年に高校卒業し。
更に2年経てば、二十歳で成人式を迎える。
人を想定できないから考えてなかったけど。
笑子おばあさんは16歳で祖父を婿に迎えた。
「結婚自体わたしも桂も白花も許しません」
「柚明は誰の嫁にも婿にもさせないよっ!」
「いや……気持は分るけど。落ち着いて…」
成熟した魅力溢れる女性には今尚遠いけど。
お嫁さんに望まれる事は女の子の幸いかも。
思い返してみると桂ちゃんや白花ちゃんは。
羽様で毎日毎夜わたしを望んでくれていた。
「柚明ちゃんはどんな男にも女にも渡さない。どこの誰でも奪いに来る者は切り捨てま
す」
「柚明は経観塚の外のどこにも行かせないよ。ずっと桂や白花やあたしと共に過ごすん
だ」
「それは、柚明ちゃんの意向も訊かないと」
一番たいせつな2人の幼子に日々望まれる。
それはどこの誰に望まれる事よりも嬉しく。
終生育み支え尽くし愛せるなら幸せだけど。
十歳の差と重婚になってしまう事が問題で。
「柚明ちゃんを守るのはわたしの責務です」
「柚明の意思よりもあたしが守りたいんだ」
「真弓……サクヤさん……」「あ、あのぉ」
少し自身の想いに浸りすぎていたわたしは。
女傑に責められる正樹さんの左脇から声を。
「唯断ると、和解も断ったと受け取られる怖れがあります。わたしは唯一の血の力の使い
手として、白花ちゃん桂ちゃんの傍にいる必要があるので、この提案は受け容れ難いけど。
断るにしても対案を返す必要があるかと…」
式部さんが敢て4週間後の答を望んだのは。
何か別案を示して欲しいと言う事なのかも。
彼女の真意は尚分らないけど今言える事は。
投げ返すべきボールは羽藤の手の内にある。
「なるほど……」頷き考え込む正樹さんに。
サクヤさん真弓さんも冷静さを取り戻し。
「ではあなた、お願い」「頼んだよ、正樹」
2人は考える事を正樹さんに委ね。台所へ一升瓶と湯呑みを取りに行き。肩を竦めた叔
父を見つつ。わたしは女傑2人のお酌をして。
急いで焦って自らを追い詰めても仕方ない。
常に心を柔らかく普段通りの在り方を保ち。
見通しきれない明日にも怯えずに進み出す。
羽藤の家族は色々あれど今日も和やかです。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
小窓から差し込む月明りの元、わたしは機を織り進む。経糸の間に一本一本緯糸を通し。
面を為し模様を為す迄反復し。完成は尚遠いけど、徐々に形を為す様を見つめつつ、己の
手で完成に導く作業は着実で、わたしは好き。
羽様のお屋敷は、周囲数キロに隣家もなく。道路に街灯はなく夜に付近を通る車も少な
く。耳に染み渡る物音は、虫の音か風の音か、草木の枝葉が擦れる音か。倉は電球も灯る
けど、月明り以上にわたしは闇夜でも障りがなくて。
母屋では白花ちゃんと桂ちゃんが、愛しい2人の幼子が、父母と安らかな眠りについて。
今宵は起きても寝ても風が涼しくて心地良い。
『これなら、夏休み迄に織り上げられそう』
ペダルを踏んで経糸を上下に分ち、杼をその間に差し入れて緯糸を通わせ、反対側へ届
かせる。筬(おさ)で組み合わせた経糸と緯糸を手前に打って、布にして。その繰り返し。
近日は夜通しの作業の故か、進捗も順調で。贄の血の癒しで疲労を拭う迄もなく。常に
身に纏う『力』の余録で、今のわたしは数週間不眠不休でも障りがなくて。家計には余裕
が生じ始めていて、完成を急ぐ必要は薄いけど。
「寝付けないのかい、柚明」「サクヤさん」
サクヤさんの羽様滞在も半年近い。わたしが相馬党に生命狙われた昨年末から、わたし
を羽藤を案じて留まってくれて。春先の襲撃に際しても、真弓さんと共々即応してくれて。
以降も羽様に逗留し。写真やルポライターの仕事はその為に、暫く請け負えてなく。羽
藤はサクヤさんに食費や家賃等求めないけど。収入がない事はサクヤさんの日々を制約す
る。わたしが羽藤が、愛しい女性を縛っていた…。
背後に寄り添う人影は、月明りで薄明るい倉の中で、織り掛けの布を見つめて眼を細め。
「人の子は進歩が早いね。笑子さんの反物に較べても遜色ない程の物を織り上げるとは」
いえ、まだまだです。わたしは手を止めて。
「前回よりきめ細かく滑らかに、織りなせたけど。おばあさんの作には遠く及んでない」
真弓さん達も、連夜の機織りは知っている。体調を崩す怖れはないので。時折様子を見
に来てくれる。今宵はそれがサクヤさんだった。
「笑子さんも最後迄言っていたよ。『前より巧くなったけど、母には尚及ばない』って」
サクヤさんが笑子おばあさんに触れるのは、久しぶり。何日と言う程ではないけど。わ
たしは没後もおばあさんを、日々のお手本にしているから。わたしの双眸は輝いていたか
も。
前向きを自身に課した正樹さんは、笑子おばあさんの話しを避けている。家長として家
族を守り養う為に、正樹さんは現在に現実に、『現』に向き合わねばならず。幽事(かく
りごと)となった人の想い出に、浸る事を控え。
サクヤさんも正樹さんを気遣ってか、近頃その話題には触れず。サクヤさんにはおばあ
さんは、半世紀を共にした生命と心の恩人だ。その逝去を受け容れ難く、隣室に居そうな
錯覚を尚抱くわたしより、その感触は強い筈で。
自身の過去を払拭すると言うより、悲嘆に浸るのを厭うと言うより、サクヤさんは多分。
『おばあさんっ子のわたしを、気遣って…』
笑子おばあさんに憧れ、その様にありたく日々努めるわたしに。サクヤさんが気付き指
摘するのは当然で。外見や仕草でも似て見えた事は嬉しく。中身が及ばないのは承知です。
でも正樹さんは、わたしのそういう在り方が気懸りなのかも。いつ迄も過去に故人に囚わ
れて、現実に今に向き合えず、後ろ向きだと。
正樹さんの今も、必要に迫られての変化だから。サクヤさんも正樹さんが、今に外に現
実に向き合おうと、努めている事が分るから。彼の前ではなく、彼の居ない時と場を選ん
で。
「柚明を気遣った積りで居たけど、どうやら笑子さんを語りたいのはあたしで。気遣って
くれていたのは実は、柚明の方だったかね」
艶やかな銀の長い髪を月光に揺らせ輝かせ。
愛しい人は悪戯っぽくわたしにウィンクを。
サクヤさんが羽藤を気遣う様に、羽藤もサクヤさんを想っている。わたしも真弓さんも
勿論正樹さんも。彼もサクヤさんの気遣いは察し。察せたから気遣って、敢て口にしない。
春にはわたしの為に鬼切部との全面戦争を覚悟で、若杉を脅し動かして来援してくれた。
愛しい双子や真弓さんを危難に晒すと覚悟で。穏やかさも激しさも思慮深さも全て愛おし
い。サクヤさんの次に想いを寄せたたいせつな人。
「笑子さんを語って柚明に喜んで貰えた以上に、笑子さんを語れた自身が嬉しい。柚明が
あたしに、笑子さんを語る機をくれた感じで。柚明を受け止める積りが、逆になったね
ぇ」
「いえ、有り難うございます。わたしもサクヤさんからおばあさんの話しを聞けて嬉しい。
寝付けず母屋を抜け出して、迷惑を掛けてはいけない立場で、夜更かしして心配をかけ」
鬼化した後遺症というか副次効果というか。
春以降贄の血の力の紡ぎが強く抑えきれず。
疲れないと言うより落ち着けず眠れもせず。
特に夜は暴走や興奮の半歩手前が常態化し。
関知はかなり、感応はやや鈍くなったけど。
戦いや癒しに用いる『力』は飛躍的に伸び。
鎮まらないのは鬼化への欲求の一形態かも。
水垢離や夜の機織りは己の鬼を抑える為に。
「安心をし。柚明は若杉になんか渡さない」
伸びてきた長くしなやかな腕に身を囚われ。
愛しい女性の強く優しい囁きに心を囚われ。
サクヤさんは分っている。わたしの心を揺らす要因を一つ一つ潰す事が、鬼の衝動を消
す事だと。身の内に油が堪っても引火を防ぐ。真弓さんやサクヤさんが、今尚武道の修練
をしてくれるのは。身の内に残る衝動を発散させる為で。わたしが三度鬼に堕ちぬように
と。
「柚明の視た禍が、この事かどうかは分らないけど。あんたは羽藤とあたしが守り通す」
若杉への嫁入りや鬼化が、以前わたしが朧に視た本命の大きな禍か否か。今の乱れた関
知では視通せないけど。次のわたしの鬼化は、本当に常態化して戻れなくなる怖れがあっ
て。若杉に嫁ぐ事は、愛してくれる家族みんなを哀しませるけど。拒めば和解が破綻する
怖れがあって。何れもが回避も撃退も至難だけど。
「もうこれ以上柚明に重荷を負わせはしない。
正樹も真弓もあたしもあんたが大事なんだ。
白花や桂の導きとか以上に柚明が愛しい」
わたしが笑子おばあさんにだけ伝えた不安。鬼や鬼切部の関る禍は、鬼切部が仇のサク
ヤさんや、鬼切部から絶縁された真弓さんには、明かし難く。明かす事が禍に繋りかねな
くて。でも回避の術も視通せなかったから。己に収めきれず、おばあさんに助けを求めて
しまい。
おばあさんは最期、サクヤさんにそれを託した。サクヤさんは鬼切部に憤懣を抱くけど、
羽藤の家族を愛しているから。幼い双子の未来も考えると、不安や懸念の形が見えない内
に諍いに入る怖れは、真弓さんより少ないと。
事情を知れば真弓さんは、元鬼切部の来歴に自責を抱く。真弓さんは責も咎もないのに。
鬼切部がわたしの禍に関ると知れば、芽を断つ為に暴走しかねず。わたしを想う気持の強
さや責任感の故に、サクヤさんより危ういと。
昨秋わたしが襲われた後も、真弓さんにこの事は明かさず。サクヤさんは相馬党への殴
り込みを考えつつ、幼子の親である真弓さんを煽る情報は与えず。春に全て明かしたけど。
明かさざるを得なくなったという方が正解か。
結局諍いは回避できなかった。それともこれは軽く済んだ内なのか。一応死人は出てな
いし。マキや朱雀さんとは分かり合え、和解の芽も残せた。或いはこれも本命の禍ではな
いのか。今も尚、見通せないのが心配だけど。
『瞼の裏に映るのは、オハシラ様のご神木』
槐の巨木が日の射す中で、天に向って堂々と伸びている。それだけが鮮明にくっきりと。
自身の先行きを視ようとしても、正樹さんや真弓さんの先行きを視ようとしても、桂ちゃ
んや白花ちゃんの先行きを、視ようとしても。
『暫くご神木を訪ねられてないから……オハシラ様が招いてくれているのか、或いは自身
の内に後ろめたさがあるのかな。でも鬼切部と戦って心身が乱れ、裏返りの発作を抱えた
この状態では、とてもご神木は訪れられない。せめてもう少し状態を落ち着かせないと
…』
千年の時を見てきたオハシラ様なら、悩める小娘に適切な導きを与えてくれるかも知れ
ない。でも、その為に近寄るわたしが乱れをご神木に及ぼして、負荷になる訳には行かぬ。
オハシラ様には、鬼神を封じて減衰させつつ、己のみならず白花ちゃん桂ちゃんの子や孫
の代まで、末永く羽藤の裔を見守って頂かねば。
人の世の諸々は人の手で切り抜けなくば。
「わたしの感じた禍は、わたしにとっての禍は、わたしのたいせつな人を哀しませる物…。
だからわたしもその禍は絶対防ぎ通します。
桂ちゃん白花ちゃんに、サクヤさんに叔父さん叔母さんに、わたしのたいせつな人に迫
る禍は、見通せても見通せなくても必ず防ぐ。
でもわたしは叔母さんやサクヤさん程強くないから、全てに対処しきれないから。未だ
独りでは何もかも守り切れはしないから…」
大きなその胸へ、愛しい人に後頭部を押しつけられて、顔が埋まる。言葉が止まる。否、
わたしが大きな胸に頬を埋めるのを、愛しい人が後押ししてくれたのか。視えるわたし故
に、視えない事は一層不安だろうと。サクヤさんはわたしの内心の焦りを、察して案じて。
いざという時の助けを願おうとした口を封じられ。それ以上喋らなくて良いと。喋らな
くても分っていると。更には願う様な仲ではないと。助け支え守り合うのは家族の常だと。
その手の微かな震えは申し訳なさはわたしを想う故の。わたしの脆さがこの人に心配を…。
「笑子さんだって全て見通せた訳じゃないし、全てに対応できた訳じゃない。柚明は良く
やってくれた。そこ迄しなくてもいいって処を遙かに超えてね。元々柚明独りの禍じゃな
い。禍が既に終った物でも今から生じる物でも」
豊かな胸に押しつけられる感覚が強まり。
「柚明の禍は羽藤やあたし達みんなの禍で。
柚明を愛したいのはあたし達の願いだよ。
独りで背負い込んで、潰れないでおくれ。
これ以上たいせつな人を喪うのは沢山だ。
あんたには、あたしや真弓がついている。
もう二度と柚明に酷い想いはさせないさ」
わたしは勿体ない程の愛に包まれている。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『若杉君への贈り物を買う為に県庁市へ?』
うん……和泉さんは心情の説明に困りつつ。
週末わたしを日帰りの遠出に誘ってくれて。
他のお友達や先生も行き交う高校の廊下で。
穏やかな陽光に照されつつ愛しい女の子は。
「ゆめいさんが暫く学校休んだ直前、期末試験の日。学校帰りハックの前で、若杉君に遭
ったの憶えている? 遭ったと言うより、ゆめいさんと若杉君がいる処に、あたしが割り
込んだ感じで。そこであたし若杉君が、ゆめいさんにまとわりついているって誤解して」
若杉の術者は、偽りの記憶を刷り込む際に、和泉さんが史さんに好感を抱く様に操作し
た。軽い罪悪感を与え、わたしに最も近しい和泉さんが、監視役の彼の動きを妨げない様
にと。
その気になれば彼らは過去を捏造し、恋心も信頼も好き放題に植え付け又は除去できる。
これが記憶の操作の危うさだけど。偽りを剥いで真相を晒す事は、和泉さんや家族の禍と
なる。真相の暴露を若杉は許さない。漸く認めさせた影ながらの賠償も潰え去る。今は若
杉の所作を補い、損失の少ない方へ事を導く。
史さんはわたしに付き纏いすぎた為か、周囲の疑念や不評を買い。中でも和泉さんには、
わたしが鬼の揺り返しに苦悶する様も見られ。堪える間、史さんを付き合わせた事も知ら
れ。不安を抱かせて、完全に拭えない侭今に至り。
彼女の焦慮を若杉は察し。放置すれば史さんの羽藤柚明監視の邪魔になると。史さんに
暴言を吐いたとの偽りの記憶で、ガス抜きと罪悪感を与え。結果和泉さんは何かせねばと。
「若杉君は、知人の娘さん……マキちゃんの迷子捜しをしていて。偶々通り掛ったゆめい
さんに声掛けただけなのに。ゆめいさんに馴れ馴れしい若杉君を、あたしが意識し過ぎて。
街中で大声で失礼な事を言って。携帯電話を叩き落してストラップ壊しちゃって。謝り
はしたけど。マキちゃんを見つけるのが、夕方にずれ込んだのも、あたしの所為だったし。
焦って転んで膝擦り剥いて、その若杉君に手当てもして貰って……ゆめいさんの癒しの力
は、街中じゃ使えないから、助かったけど」
和泉さんは、羽藤の血が宿す特殊技能を一部だけど知っている。真弓さんに護身の技を
学んでいる事も。春先の記憶を消去されても、それ以前迄は消し得ない。多量に消せば欠
落に気付かれる。偽りの記憶で埋めても不整合が生じる。欠落に気付かれては操作は失敗
だ。そして失敗の怖れが高い所作を若杉はしない。
わたしが聡美先輩や和泉さんに肌身添わせ、継続的に容態を診ているのは。若杉が2人
の記憶を不要に追加改変してないか、監視や牽制の意味を込め。禍を未然に防ぐ意味を込
め。
「今も若杉君の姿勢は、気に入らないけどね。ゆめいさんに惚れたと言って、やる事は薄
笑い浮べて付きまとい。ゆめいさんのある事ない事喋って、責任も取らず。ゆめいさんだ
から受け流せるけど、他の子なら困り果てるよ。普通女の子には、男の子を振り払えない
もの。
全部悪い噂でもないけど、悪い噂も平然と流すし。ゆめいさんを人の注目や監視で囲い
たいみたい。惚れたっていう割にゆめいさんに配慮もないし。っていうか、分っていてわ
ざと人目を集めて、嫌がらせしている様な」
わたしに関る事では、相変らず彼女は鋭い。
真相迄は知らずとも、史さんの意図を察し。
「だからこそ、文句を言える様に『借り』はなくしとかないと。若杉君が悪い奴じゃない
って分ると、きつい事言いにくくなりそうで。自分の中でケジメ付けておきたいし。ゆめ
いさんにお付き合い頼むのは、デートの誘い」
高すぎない位の品を彼に贈りたく。経観塚でちょっとした買い物を考えると、お店や品
揃えに不足を感じる事もあり。県庁市迄行けばその点は相当改善する。でも平日は難しく。
史さんの好みは分らないけど、和泉さんもそこは求めてない。独りより複数の視点と発
想で探す方が、より良い物を探せると。わたしと買い物一緒したいとの願いも潜め。彼に
贈り物するけど、関係は改善するけど。好いた訳ではないと示したい、彼女の想いも窺え。
「県庁市迄列車で2時間だから朝一で行こう。買い物やお昼ご飯、そぞろ歩きや日帰り入
浴、帰りの終電迄ゆっくりじっくりしたいから」
「わたしは良いけど、和泉さんは早起き大丈夫? 銀座通のお友達の家に泊めて貰う?
バスだと7時の始発列車に間に合わないよ」
誘い水を振ると、和泉さんは自信ありげに。
「遠足や修学旅行は寝坊も早起きもできるのです。最近はゆめいさんとの早朝徒歩登校で、
耐性も体力も増しているし。そう言えばゆめいさんとの遠出って、学校行事以外で初?」
「わたしが慶弔以外では、余り経観塚の外には出てないって、事情もあると思うけど…」
和泉さんも農業経営が不安定でお金不足で。
わたしも贄の血の故の事情は克服したけど。
愛しい羽様の幼子は一日たりとも離れ難く。
経観塚の外へ出るとお泊りになり易いので。
「史さんへの贈り物についても、予め調べておきたいわね。どんな物が喜ばれそうか…」
「本人に訊いちゃう訳には行かないよ。志保ちゃんにでも聞いてみる? 後は男子とか」
一緒に何かを考え、実現していく事は嬉しく愉しい。それが好ましい人とならば尚の事。
県庁市には映画館も美術館も、催事で人を呼ぶ百貨店もあり、夕刻迄半日近く一緒出来る。
楽しみは思いついた時、既に始っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「鬼の反動を隠す以外で男を誘うとはね?」
「分っているのでしょ……和泉さんのこと」
放課後わたしは人の意識の隙間をすり抜け。
余人に悟られぬ様に史さんと進路相談室で。
「和泉さんはあなたに恋心を抱いてないけど、植え付けられた申し訳なさと好感で、あな
たへの不審や警戒が弱まっている。この先もわたしの傍にいれば、和泉さんもわたしに近
しい人だから、あなたとの絡みは生じ得るわ」
彼がある向きと強さの想いを抱く事が鍵に。
それを広く浅い感応で察知するとわたしは。
意識を集め、彼の心から日時と場所を視て。
彼も視て貰える様に予め心を開放しておく。
わたしが史さんに逢いたい時は、感応を送ると彼の持つ呪物が反応して、分って貰える。
時には直に逢って取り留めもない話しの裏で、メモの切れ端を渡し合い。軽く触れて感応
も。
スパイごっこの様だけど。周囲に気取られず鬼切部や鬼の案件を進める為の、これは本
物の隠密行動だ。その気になれば、教室の喧噪の中でも。みんなの意識を別の方向へ誘い、
又はその無意識の狭間に滑り込んで、平常の声音で彼と、他言無用の話しも出来たけど…。
秘密が漏れれば若杉は躊躇なく口封じする。
彼への応対は周囲みんなを禍から守る為の。
「ウチの術者が余計な刷り込みをした様だね。ぼくは事実を伝えただけで、特に何をして
欲しいとも附さなかったのに、先走った事を…。
昨年末以来、君が鬼の反動を堪える様子は、ぼくが隠した積りだけど、金田和泉の存在
は見落していた。まさか何の技能も持たない一般人が、ぼくの目をかいくぐって君との絡
みを見て、黙していたとは。常の人なら何かの反応がある処だよ。君の為を想って、事情
も分らない侭敢て何も見てない振りを通すとは。
若杉の監視が気付けず見られていたなんて、赤っ恥だけど。教えて貰えて幸いだよ。突
然背後から声掛けられたら、反射的に口封じしてしまったかも知れないし。真相を多数に
暴露されれば、大規模介入も招きかねないし」
その懸念があるから、和泉さんに断りなく。
和泉さんが、わたしの苦悶や史さんがそれを他の人達から隠している事実を。見ても敢
て黙している事を、彼には伝えた。史さんは気付けなかった事に、衝撃を受けた様だけど。
和泉さんは特段の技能も心構えもない常の人だけど、わたしに関しては時折鋭く。わた
しを想ってくれる気持の強さ熱さ深さの故に、他の人に隠し通せた事を見抜かれたりもし
た。優しさや思慮深さ・信じる想いの深さの故に、わたしの気持を察してくれて、事情が
分らず説明ない侭で状況を見守ってくれた事も多く。
何度助けてもらったか分らない恩人だからこそ。史さんが、突然彼女の存在に気付いて、
反射的に手を下してしまわぬ様に。この告知が和泉さんへの背信になると、覚悟の上で…。
「彼女に処置の必要はないと思っていたから。彼女はぼくと君の関りを疑いつつ心配しつ
つ、敢て割り込んでこなかった。最初はぼくと君との恋仲を本気で疑って、見る勇気がな
いのだと思ったけど、違った。今迄の彼女の動静を見るに。彼女は君が必要を感じて為す
事は、必要なのだと自身を納得させて、見守って」
自身の失態を晒すその経緯も、彼は報告したらしい。それは彼の任務だけど。その為に
和泉さんへの措置に若杉上部の余計な判断で、史さんへ好意や罪悪感が植え付けられたけ
ど。彼がそれを求めてなかったのは、事実らしく。
彼は肝心な事を隠し通す為に、それ以外では任務に関る事でさえ、虚偽も隠し事も極力
避けている。と言う事は、転入当初わたしに発していた、『惚れた』云々の言葉も実は…。
和泉さんが彼を訝り疑い警戒している様に。
実は史さんも彼女をやや苦手に感じ敬遠を。
一般人に若杉が一本取られた様な状態だし。