第16話 己が終る瞬間迄(中)



「説明を求めず、噂や猜疑や嫉妬にも左右されず。自分と君の絆を信じて自身を納得させ。
都合のいい女さ。浮気されても放置されても、時折気紛れに応対してやるだけで。許し受
け容れ信じ縋って、いつ迄も一途に待って尻尾を振って。他の男にも女にも股を開かな
い」

 思わず彼の頬へ平手が飛びそうになって。
 視線を強くするに止めるけど彼は黙して。

「あなたが本心から和泉さんを、蔑んでいる訳でない事は分っているわ。でも例え軽口で
も皮肉でも、わたしのたいせつな和泉さんを、侮辱する言葉は受け容れ難い。気をつけ
て」

「……怖いね。一瞬君に、鬼が視えたよ…」

 史さんが浮べる薄笑いは冷や汗を隠しての。

「自分の事は、幾ら酷い噂流されても悪口陰口言われても、愚かに近い程鈍い応対なのに。
君は本当に常に己以外の事にご執心なんだね。気をつけるよ……ぼくも長生きしたいか
ら」

「……ごめんなさい。わたしは、確かに和泉さんを振り回している。その強さ優しさに甘
えて、他の人に関る事を見逃して貰い。事情がある事は言い訳にならない。あなたの言う
通りよ。そもそもわたしは和泉さんを一番にもしていない。確かに咎はわたしにあるわ」

 まず己を省みるべきを。鬼の反動か思春期の不安定さか、わたしは己の不義理を指摘さ
れただけで、憤りを抑えきれず。自身の未熟を痛感する。とても嫁に出せる品質ではない。

 それは直視して。自身の中に受け止めて。
 その上で史さんには告げておかねば……。

「和泉さんには誠意を尽くして。和泉さんは善良で情が深い。好意を交えれば絆が深まる。
あなたがわたしの傍に居易くある為に、若杉の任務の為に、その心に踏み込んで捨て去り。
彼女が涙する展開には、なって欲しくない」

「金田和泉は君の想い人だから、誘惑しないでって言うことかな? 君のモノだからと」

 そうじゃない。わたしは首を横に振って。

「和泉さんがあなたに恋する可能性はあるわ。2人が好き合って恋仲になるなら、わたし
は心から祝う。始りが記憶の操作でも、それからの関りで和泉さんがあなたを好いて、あ
なたが真に和泉さんをたいせつにするなら……若杉も任務と打算だけで生きている訳では
ないでしょ? 結ばれる展開も、なくはない」

 彼の瞳が見開かれ頬が微かに震えて見える。
 それが何に驚きを感じてなのかは敢て視ず。

「でも、あなたは若杉の命でわたしを監視する立場よ。その為に諸々を偽り、5歳年下の
男子高校生を装っている。親密になった後で、和泉さんが哀しむ事にならないかが心配
…」

 出来れば鬼や鬼切部とは関らないで欲しい。
 でも彼女がわたしと関る以上それは難しく。

 だからわたしが守り案じるのは当然だけど。
 若杉の彼と関り続ける事は危うさを秘める。

 和泉さんに事実を報せて忠告出来ないなら。
 予め善処を願える相手は史さんしかいない。

「ぼくが彼女と恋し合っても良いから、哀しませないで欲しい? 巧く行けば君の想い人
を奪う形になるけど良いのかな? それとも女の子の絆は所詮解れると、諦めている?」

 史さんの答え難さを意識した問いかけに。

「金田和泉は羽藤柚明の特にたいせつなひと。その幸せに繋るなら、どんな形で誰と結ば
れてもわたしは幸い。桂ちゃん白花ちゃんを一番に、サクヤさんを二番に想うわたしは、
幾ら強く想いを寄せられても、返せる所作に限りがある。それを承知で尚、清い想いを寄
せてくれる事は嬉しく有り難く。生涯かけて返したいけど……一番には想えない。全てを
抛って彼女を愛し守る事は、わたしに叶わない。

 だから、和泉さんを幸せに出来る人がいるなら。和泉さんが心から想う人が現れるなら。
たいせつな人の幸せはどんな形であってもわたしの幸せ。今迄の想い出や関りで、その未
来を縛りはしない。微笑んで見送りたいの」

 和泉さんとあなたの先行きは、わたしも見通せてないわ。唯、あなたが特定のある人を、
心底たいせつに思っている事は分るから……任務や他の事情で和泉さんの心に踏み込んで。
捨てたり裏切る形で涙させる末は見たくない。

「君はさらりとぼくの核心に踏み込むね!」

「絆を結ぶのでも、親友になるのでも、突き放すのでも。和泉さんには事情を明かせない
から……男の子で年上のあなたにお願いを」

「お願いって言うより強要にも聞えたけど」

 わたしの思い入れや頼み方が強すぎたかも。
 答に詰まるわたしを見て史さんは苦笑いを。

「ぼくに彼女を惑わせる気はないよ。彼女もぼくの監視に介入して来ないし。彼女を揺さ
ぶって君の内なる鬼を見極める手も、あるにはあるけど。止めておく。今釘を刺されたし、
女の子を泣かせるのは好まないしね。でも…。

 君こそ他人を心配している場合ではないよ。ぼくが金田和泉に手を出せない理由は、ぼ
くの結婚が内定したからさ。婚約者の求めは断れないという以上に、婚約者とその想い人
との三角関係が拙いという以上に、結婚を控えて浮き名を流しては拙いとの大人の事情
…」

 御大はぼくを生涯監視に任じる積りらしい。

 史さんが気の抜けた声音で肩を竦めた事で。
 わたしは彼の情報が事実である事と同時に。

 使われる立場故の拒めない心情を感じ取れ。
 若杉の正樹さんへの提案はこの伏線だった。

「君の夫になる諸々の準備を、命じられた」


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「既に若杉は動き出していて。父役を通じ経観塚の警察署長の参加約束を取り付け、田中
剛県議に仲人を頼み。式場や新婚旅行、指輪やウェディングドレスも選定中と聞いたよ」

『警察署長は地方では影響力がある名士…』

 経観塚地方選出の田中県議は、若木葛子さんを銀座通中学校の事務員に推した人だ。わ
たしが高校に進学した去年、中学校の事務員減員に際し、彼女を経観塚高校へ異動させた。
若杉がこの県で蠢く時に、良く力を借りるというか利用する、精力的で世話好きな52歳で。
就職の紹介斡旋や縁談の仲介等はその好例か。

 支援者や関係者に若杉の者がいる様で。県議本人は鬼切部の事情など知らず、若杉の影
も知らず。周囲からの頼み事に善意で応えているだけで、若杉に使われているとは知りも
しないという構図は、全国各地にありそうで。

「由緒ある羽藤の名前は、経観塚より周辺町村に影響力があってね。戦国期の足利将軍が、
畿内より遠国の大名に影響を与えた様な物さ。羽藤の縁談に関れば、自身に箔が付いて次
の衆院選に出られるかもって、彼は乗り気だよ。

 彼の後ろ盾は松下元総理でね。本気かどうか分らないけど、元総理を引っ張り出したら、
警察署長の出席云々どころじゃない。外堀は急速に埋まりつつある。簡単に断れない状況
を用意して、答を待つのが式部さん流かな」

 式部さんは、羽藤が断り難くなり、承諾せざるを得なくする為に、時を稼いでいたのか。

『松下元総理は、昨年叔父さんの処女出版の記念パーティに来てくれて、初めて逢ったわ
たしとも言葉を交わしてくれて……以降叔父さんのコラムの愛読者になってくれたけど』

 小柄で威厳を感じさせない一方、柔らかで気さくで細やかな気配りの人だった。豪放な
印象の田中県議と、タイプはかなり違うけど。相違点に羨みを感じ付き従う事も世にはあ
る。でも誰がどこでどう繋るかは本当に分らない。

【含蓄のある読みが興味深くて愉しかった】

【美しい上に洞察に優れる。唯のテスト勉強ではなく、人間を確かに視ている様だね…】

【人は生涯学び続ける者だよ。最近の若者は才知を誇り、人に見せつけ自己満足に浸る者
が多いが。今宵は久々の収穫か。対峙すれば凜と美しく、頭を下げれば柔らかに美しい】

 松下元総理は若杉の御大と提携関係にあり。
 史さんも2人の会談に臨席した事があると。

「元総理が来るなら、いよいよ羽藤も断り難くなる。式部さんの思い通り進む感じかな」

 若杉は本気でわたしを嫁に欲しているのか。
 贄の血が濃くて術が多少使える位の小娘を。

 護身の技は鬼切部の武力に及ぶ物ではなく。
 学も未熟で花嫁修業も入門編の自身の値を。

 若杉の上層部が読み誤るとは思えないけど。
 わたしの品質ではなく羽藤と繋りたいのか。

『若杉の発想で敵対する怖れがある者と本気で和解するなら、政略結婚が最良なのかな』

 人質と言っても監禁虐待される訳ではない。和解の担保としての人質なら、むしろ若杉
は丁重に扱う。幕府が江戸に住まわせた各地の大名の妻女の様に。そんな煌びやかな生活
は望まないけど。監視が付く等自由は縛られるだろうけど。羽藤の立場や意向を若杉に伝
え、両者の間を繋ぐ役に立てるかも。真弓さんやサクヤさんの様な強さを持たないわたし
には、その役割はむしろ相応しい。羽様で幼い双子を導く事情がなければ、検討に値した
けど…。

『史さんはこの婚姻を望んでない。だから確定する前にわたしに漏らした。嬉しさの故じ
ゃない。彼は希望を叶える為には慎重になれる賢い人。事前に漏らしたのは、自身には覆
せないとの諦めから来るぼやきと、予め報せて羽藤側で破談にしてくれればとの期待…』

 史さんは若杉だ。逆らえば降格や減給、投獄や抹殺もある。真弓さんは意思と剣の強さ
でサクヤさん討伐の命を返上し、鬼切り役も返上したけど。余人にそれは求め難い。歳下
を偽って学校に紛れ、娘を監視する任務もご苦労様だけど。その娘を娶って生涯監視って
……相手のわたしが思い遣るのも微妙だけど。

「だから、他人に同情している場合じゃないって。これはぼくじゃなく君の問題なんだ」

 確かに花嫁や人妻になる上で、今尚わたしは全然未熟で及ばないから。その故に迷惑を
被るのは史さんの方で。問題はわたしにある。そもそもわたしが相馬と諍いを起こしてな
ければ、彼もこんな田舎に来る等なかった筈で。

「君は時折釈尊の悟りを帯びて見える一方で、凡愚の鈍さや勘違いを見せる。分らない
よ」

 最後に史さんは深い溜息を漏らして去って。
 結局わたしに状況を左右できる訳でもない。
 羽様の大人にはこの内容も全て伝えたけど。

 史さん宅へ殴り込みに行こうとするサクヤさんをわたしが、刀を手に切りに行こうとす
る真弓さんを正樹さんが押し止め。この婚姻を画策しているのは、彼やその両親役2人で
はない。出先を切っても何も意味がない以上に、婚姻による和解に対案を返さない内に殴
り込み等したら、正に和解を拒んだ事になる。

「どっちにせよ柚明ちゃんの嫁入りなんて」
「あたしの目の黒い内は絶対に許さないよ」

 若杉と羽藤を長く繋ぐ役は、望ましいけど。
 桂ちゃん白花ちゃんに寄り添い導く為には。

 あと十年は、羽様を離れる訳には行かない。
 では羽藤はどう対応するべきかとなると…。

「ではあなた、お願い」「頼んだよ、正樹」

 真弓さんやサクヤさんが考え倦ねる懸案に。
 正樹さんも良案を楽に捻り出せる筈はなく。

 それはむしろわたしの意志で決すべき事だ。
 相互の譲れない一線を考えれば答は視える。


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 県庁市へ行く日は朝から曇天だったけど…。
 わたしは愛しい女の子と勇躍列車に乗って。

「降り出さなくて良かったよぉ。朝起きや経観塚駅迄の歩きの体力はクリアできたけど」

 雨に降られると濡れちゃうし。走り出した列車の窓から、外へ視線を向ける和泉さんに。

「経観塚も県庁市も午後から雨の予報だから、一応雨合羽と折り畳み傘は持ってきたわ
よ」

 県立経観塚高校の校則で、校区外に出る時は原則制服着用を定められているので。わた
しも和泉さんも、白に紺の夏用セーラー服だ。

 用意周到だねー。和泉さんは隣に座したわたしのバッグを覗き込み、持ち物検査を始め。

「お財布、お茶ペット、着替え、ブラシ…」
「大した物は入っていないよ。日帰りだし」

 通勤通学の時間帯だけど、土曜日は学校もない為か車内は空いていて。この車両もわた
し達以外の乗客は4人だけ。席も離れているので、それ程迷惑にならずにお喋りも出来て。

「お弁当まだあったかい。あれ、2人分?」
「和泉さんも2人分、作ってくれたんだ…」

 そこでわたしも和泉さんのバッグを見つめ。
 お互いに愛情を注いだ手作り弁当2人分か。

「ダイエット進まないね。やってないけど」
「毎日歩いているから多少食べても大丈夫」

 鈍行列車は県庁市まで2時間の行程を進み。和泉さんと授業や部活や家庭での最近の諸
々を語らって。金田家は、春先に家の減農薬農法がテレビで全国放映されて。家業を巡る
状況が、良い方向へ激変しつつある最中だった。

「無農薬農法って、好む人が高値で買ってくれるから、狭い畑でも収益を上げられるけど。
湧いた虫が隣の畑も荒らしたり、作物の病気も遷ったり。熱心な人ほどお隣さんに迷惑掛
けて儲けて嫌われて、仲悪くなるらしいんだ。

 それを知った父さんは、地域で啀み合うのは拙いって、お隣さんに掛ける迷惑を最小限
に止める減農薬を選んだの。周囲の家と話して理解求めて、毎年試行錯誤を繰り返して」

 和泉さんの家は元々お父さんの清治さんが。
 脱サラして経観塚に来て農業を始めた口で。

 新規就農という以上に無農薬農法でもない。
 研究開発に近い農業経営は中々安定せずに。

 出来た作物の販路開拓にも悩んでいた様で。
 良品だけどそれに見合う値を付けて貰えず。

「知名度がないと、品は良くても県庁市の百貨店は扱ってくれなくて。苦労の末の収穫だ
から、値段高めにしないと採算取れないけど。高くするとこの辺では買い手もつかないし
…。

 特番で偶々ウチの減農薬が取り上げられて。番組の力点は地域との協調にあった様だけ
ど。二回りも大きなウチの作物がテレビに映って。首都圏の百貨店から良い品だ、値段は
幾らだ、何トン卸せるかって問合せが、急に来てさ」

 地方で細々と、取引して貰っていた状況が。
 中央から値段高くてもある限り買いたいと。

 最初に出荷した品も予想以上の好評を得て。
 今迄の苦労や努力が、報われた感じだけど。

『それも、若杉の影ながらの賠償の一環…』

 美咋先輩の時は若杉が、わたし達羽藤も同席の元、父・武則さんに事情を明かし謝罪し、
賠償の中身も相談し了承を得た。記憶を鎖された先輩は、生命脅かされた事への賠償と知
らない。だから若杉の賠償は、美咋先輩の将来を拓く好機が巡る様にするのみで。彼女が
その意志で自力で成功を掴む様に事を導くと。

 進学した大学で、先輩は校内選抜を勝ち抜いて、今年創設された剣道の強化選手となり。
遠征や練習費用の個人負担がなくなる等の優遇を得たけど。広く切磋琢磨の機会を得たけ
ど。若杉は制度の創設や資金面で支えたけど。それは神原美咋が、実力で勝ち取った成果
だ。

 和泉さんと聡美先輩は、本人も家族も事情を知らず、納得も出来ないので。羽藤がわた
しが若杉の賠償を促し見届ける。それも就職先や利権を不当に与える訳ではなく。意志や
努力と無関係に利得や地位を与えては、その人生を歪ませる。なので若杉はその家に両親
に、今迄の努力や苦労が報われる形で収入が増える様に事を導き。娘である和泉さんや聡
美先輩の人生が、切り開かれる様に事を導き。

「信金や農協の融資応対も一変したみたい。
 今迄は借りられる金額の制限が厳しくて。

 秋の出荷迄は家の買物も制約されたのに。
 家計の潤いがあたしのお財布に迄影響を」

 聡美先輩の父・聡さんの職場は、農機具販売会社で。それ迄取引のなかった大手が、彼
の営業を契機に大量取引を始め。会社にも倉田家にも臨時収入が生じ。先輩も国公立以外
の進学が可能になった上、家庭教師が付けられたとか。家庭教師は若杉の者ではないけど、
若く優秀な男性がついたのは、若杉の設定だ。先輩の執心をわたしから離したい意図も込
め。

「父さんから『今まで苦労かけたな』って多めなお小遣いもらって。今までは幾ら成績上
げても、大学進学の見通しなんて立たなかったのが、国公立なら行かせられるかもって」

「今日の資金って……虎の子のお小遣い?」

 月のお小遣いが増えるのは、少し先の話しらしい。折角の臨時収入を、わたしとの遠出
で費やして好いのか問うと。和泉さんは焦げ茶色のショートヘアを揺らせ、極上の笑みを。

「へへへ……今迄派手な使い方してないから、今後も特に使う予定ないし。期待していた
お金じゃないから、使い切っても良いかなって。それがゆめいさんとのデートなら本望だ
よ」

 和泉さんは経観塚での拾数年、修学旅行や学校行事で最低限、経観塚の外へは出たけど、
それ以外は家族旅行もしておらず。お金がない事を苦にしている様には見えなかったけど。
時間よりお金がなかったのだ。それが漸く遠出できるお金を得て、まず誘ってくれたのが
わたし。彼女はそれ程迄にこの日を待ち望み。

 思わずその両手を握って胸の前に持ち上げ。
 頬に頬合わせたのはわたしの本当の気持だ。

 一番の人と二番の人を他に抱く羽藤柚明は。
 どうしても和泉さんを一番に出来ないけど。

 その熱い情愛に一番の想いを返せないけど。
 金田和泉は生涯を掛けて愛しみたい女の子。

「先のことは分らないけど、今日一日は全力で愉しもうよ。それがあたしの願いで望み」

 和泉さんは高校卒業後を見据え始めていた。


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 商店街も百貨店も10時開店なので、着いても少し時間がある。曇天の元わたし達は駅前
のベンチに座して、列車での四方山話を続け。

「桂ちゃんも元気すぎて目を離せないね。古井戸に落ちちゃうなんて。しかも助けようと
した白花ちゃんも、一緒に落ちちゃうなんて。

 水が涸れていて、積った落ち葉がクッションになって。ゆめいさんの勘が良くて、日没
前に気付けて見つけて、無事助け出せて良かった……で、その古井戸はもう埋めたの?」

 和泉さんの問にわたしは首を左右に振って。
 水筒の緑茶をフタのコップに注いで手渡し。

 互いの唇が付いても気にしないのではなく。
 意図して互いに唇を付けた処に唇をつける。

「叔父さんが、素人が埋めても雨や雪の水で、埋めた部分だけ流されて、同じ事になるっ
て。業者さんに連絡して先週現地を見て貰ったの。見積を貰って、工事日程を調整するっ
て聞いたわ。今は板を被せて重しを載せて、間違っても落ちない様に、入り口を塞いだけ
ど…」

「ゆめいさんとこの双子は、森に迷い込んだこともあったし。お屋敷裏の積み上げた薪に
近付いて、注意されていたし。元気に動き回るから、大人が気をつけるしかないのかな」

 正樹さんの印税で、お風呂も漸くガス湯沸器になったけど。今迄使ってきた五右衛門風
呂の薪は、大量にあって廃棄にもお金が掛るので積んだ侭だ。お屋敷は屋根や壁を直す必
要もあって、全てに対応する財力は未だなく。今は危うきに近寄らぬよう促す他に術はな
く。

「サクヤさんも言っていたわね。『完全な守りってのはないんだ、人の努力で守りを完全
にするんだよ』って」「口調がそっくり!」

 感応の力は、ものまねに最適な力なのかも。

「雨が降れば、屋根もないから体は濡れるし。
 日没後は気温が下がるから、体も冷えるし。
 森の片隅は一目で見て分る処ではないから。

 早めに見つけ出せて幸いだった。白花ちゃんと桂ちゃんには、心細い思いをさせて…」

 古井戸はおばあさんからも聞いた事がなく、百年近く使われてなかったみたい。わたし
達もそんな処に、井戸があるとは思ってなくて。運命の分岐は、意外と無造作に転がって
いる。和泉さんや聡美先輩の春先の禍もそうだった。

「人には出来ることと出来ないことがあるよ。見通せる物と見通せない物も。危険がある
って分れば対策できるし。白花ちゃんも桂ちゃんも無事だったんだから……次に活かせ
ば」

 そうね。内向きに自身の過去や悔いに填り込む傾向のあるわたしを、和泉さんは案じて
くれて。声を掛け、外に目を向けさせようと。次に活かしてこそ、失敗は経験として活き
る。重要なのは今からなのだと気付かせてくれて。

 2人肩を並べ、シャッターが開き始めた県庁市の駅前商店街を歩む。今日はお祭りの中
日だった様で、一本向こうの通りには露店の連なりも見え、人通りも多く。天候は雨雲が
低く分厚いけど、わたし達の気分は高気圧で。

「さっさと雑務を終らせてお祭り行こうょ」
「史さんへの贈り物は主任務の筈だけど?」

 わたしもまず課題を片付ける方を好むので。
 和泉さんの提案に乗って近くのお店に入り。

 若杉の監視の気配は感じたけど気にしない。
 史さんには和泉さんとの外出も報せてある。

 人の世に仇為す行いではないと見て貰って。
 羽藤はわたしは無害だと確認して貰う為に。

 どちらにせよわたしの動静には監視がつく。
 和泉さんに心配を与えない様に気をつけて。

 監視も遠目にわたしの所在を確かめる感じで敵意もなく。わたしが、彼らを刺激する様
な荒事や揉め事に首を突っ込まなければいい。それに、現代日本にそれ程揉め事の種なん
て。

「んー、どれが好いと思う?」「そうねぇ」

 2人で携帯のストラップを物色するけど。
 女の子と男の子の好みは違うし彼は年上。

「ゆめいさんやあたしには不要の物だしね」
「羽様はほとんどが携帯電話の圏外だから」

 銀座通では最近携帯電話が通じ始めたけど。それ以外は大部分が圏外で、近隣町村も同
じ。サクヤさんも羽様にいる時は、仕事の関係者に羽藤のお屋敷へ電話して貰う様にして
いる。

「これなんかどーかな?」「少し可愛すぎない? 男の子が付けると浮いてしまいそう」

 いいの。和泉さんは悪戯っぽい笑みを浮べ。

「女の子から贈られたって分る物を付けさせ、若杉君に注目が集まって、質問責めになれ
ば。あたしは願ったり叶ったりっ。ゆめいさんに及ぼす迷惑を、少しは奴も味わうといい
っ」

「でも、和泉さんから贈られた物だと彼が応えれば、和泉さんにも色々注目が集まって」

 それこそ願ったり叶ったりっ。和泉さんは。

「若杉君がゆめいさんの話題混ぜっ返すから、ゆめいさん年明けからずっと噂の人で。若
杉君も噂の人になって、自業自得を思い知ればいい気味だし。その余波で、あたしも噂の
的になれば、ゆめいさんに集まっていた好機の目線が一層分散して薄まって、更に好都
合」

「和泉さん、そこ迄わたしのことを考えて」

 言ったでしょ。あたしがあなたを支えると。
 和泉さんはしっかり意思を込めた微笑みで。

『一番じゃなくて良い。ゆめいさんの一番が誰でも良いから、何番でもあたしを向いてく
れなくても構わないから。今迄もこれからも一番は望まないから。それは全て承知だから。

 ゆめいさんの日々を、あたしが支える。ゆめいさんの事情でその日常が綻びそうな時は、
あたしが繕う。男役でも女の子でも及ばないあたしだけど、その優しさを支えさせて…』

 和泉さんはこの5年間ずっとその言葉通り。
 様々な人と絆を結んだ羽藤柚明を見放さず。

「あたしは特に技能もない一般人だけど。それでもあたしにも出来ることがある。ゆめい
さんには出来なくて、あたしに出来ることが。

 腕っ節の強さや特殊能力で、あたしがあなたを守り庇うことは出来ないけど。あなたが
誰かを守り庇った結果で、埋めきれない穴が日常に生じたなら、あたしが繕う……あなた
が清く賢く優しく強い羽藤柚明を貫き通して、損害や理不尽を被る時は、あたしが支え
る」

 和泉さんがくれた無限の信のお陰で、己が招いた猜疑や不審が、薄らいだ事も多かった。
彼女が発信してくれた善意が、彼女が揺らがずいてくれた事が、人の信を繋ぎ止めた事も。

「わたし、和泉さんにずっと迷惑掛け続けている。ずっとその心の強さに甘え頼って…」

「迷惑だなんて全然思ってないよ。あたしが柚明さんを好きでたいせつで、いつも微笑ん
でいて欲しくて、望んでそうしているんだし。それにあたしは結局、大して役に立ててな
い。ゆめいさんが今迄してきたことに較べれば」

 そうじゃないよ。わたしはかぶりを振って。
 和泉さんの黒い双眸を、正面から覗き込み。

 わたしは彼女に何度も助けられ支えられた。
 それがあって漸く乗り越えられた事もある。

 何より金田和泉がわたしのたいせつな人で。
 あり続けてくれた事が最も嬉しく有り難く。

 その想いに恩義に応えきれてないわたしに。
 この人は常に心寄り添わせて温めてくれて。

「わたしに大した事は出来てないけど、もし何か為せたなら、その成果は傍の人の助けの
お陰で。間違いなくあなたのお陰が大きい」

 本当に有り難う。そしてごめんなさい。未熟で至らぬ処の多い、ふつつかなわたしだけ
ど。迷惑や心配や不安は叶う限り減らすから。叶う限りその心の平安を未来を支え守るか
ら。

「これからも……羽藤柚明を宜しくお願い」


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 史さんへの贈り物は適当に選んで済ませて。
 わたし達は婦人服売場で嬌声を響かせ合い。

 そもそもは和泉さんが、買い物に付き合うお礼に、わたしの服を買いたいと申し出てく
れて。わたしは好んで付き合うのだから、気にしないでと応えたけど。和泉さんは財政が
余り豊かではないし。でも、和泉さんはわたしと一緒に買い物へ行って、わたしの衣服を
選ぶ事が、楽しみで願いで望みだったと語り。

『じゃ、あたしがゆめいさんの服を選んで買うから、ゆめいさんはあたしの服を選んで買
ってよ。それでおあいこ』『おあいこなら』

 和泉さんは今日を待ち焦がれ、今日を期して臨んでいる。応えなければ女の子じゃない。
そう言う訳で乏しいファッション知識とセンスを総動員して、愛しい女の子の装いを考え。

「ゆめいさんは、女の子らしさで既に一つの極みにいるから、今回はむしろボーイッシュ
にしてみましたっ。無理に男の子と張り合うって感じじゃなく、活発な女の子って感じ」

「和泉さんはいつも活動的だから、今日は物静かな文学少女をイメージしてみたの。女の
子らしさを前面に出すのではなく、理知的な感じに整えて。度の入ってない眼鏡をかけ」

 互いにコーディネートし合った服装を見て。
 新鮮さに目を見張りつつこれもありかもと。

 紙包みにリボンを付けて貰って、贈り合い。
 それぞれバッグに大事にしまって心も温め。

 商店街の歩行者天国のベンチで弁当を開き。
 互いの口も心も開き合って箸を通わせ合い。

 午後は映画館で恋愛映画を学ぶ感覚で観て。
 外に出るとスコールの様な雨が降っていた。

「ゆめいさんの傘に入れて」「はいどうぞ」

 和泉さんも傘持参なのは知っているけど。
 わたしもそこを指摘する程無粋ではない。

 肩寄せ合って降りしきる露店の列を歩み。
 露店は強い雨の為に人通りは少なかった。

 わたし達も雨予報に応じ日程は組んでいたけど。日帰り入浴は多少の騒ぎがあった様で
入場停止になっており、補欠だった美術館へ。

 関知では、2人露天風呂に入る像を視たけど、雨は降ってなかった。雨天時に露天風呂
に入る意味も薄い。関知も完全無欠ではない。ここ迄確かに視た像が外れるのは珍しいけ
ど。

 唯、美術館を共に歩む像も視えてはいた。
 同時刻の像を複数視た事も過去にあった。

 あり得る未来が複数だったと言うことか。
 詳細に視れば確度の違いも分るのだけど。

「どーして彫像は女の人だけ素っ裸で、男の人は大事な処を隠しているんだろ。不思議」

「露わにされていたら視線のやり場に困ると思うけど……それは女の人も同じ話しよね」

 館内は閑散としていて自由に観て回れた。
 名前の分る有名なものは全て複製だけど。

 精緻に作られたそれらはサイズも大きく。
 館内の作りや雰囲気も含め芸術に浸れて。

「今に名前残っている芸術家は男の人だから、これは男目線での理想の男性女性像なん
だ」

 この胸の大きさとか腰のくびれとか。男性は服を着ている事が多いけど顔とか髪型とか。

 そう言われると、男性は職業や身分を示す為か、衣服を身につけている事が多く。女性
は女性であると示せればいいのか。衣服より肌見せに力点を感じられるのは、気のせいか。

「理想の顔立ちや体型を描くにしても、時代や地域によって微妙に違う処が興味深いわ」

 女性の芸術家ならどう描き、彫るのかな?
 そう呟くと和泉さんは両手の指を蠢かせ。

「ゆめいさんを粘土で作ってみたい」「実物より少しだけ綺麗にしてくれると、嬉しい」

「ゆめいさんを今以上に綺麗に作るのは、あたしの腕では難しいけど、肉感的にするよ」

「女の子の感性で女の子を作るとどうなるか、面白そうね。じゃわたしも和泉さんを彫
る」

「ゆめいさんに掘られるあたしってのも、充分以上に肉感的な気がする」「でしょう?」

 日帰り入浴で和泉さんの素肌を鑑賞する機会は逃したけど。絵画彫刻も経観塚では中々
観られないので、よい経験になり。商店街の書店で、経観塚と選択の幅の違う書籍の並び
に圧倒され。本の海を泳ぐ感じで時を過ごし。

 夕刻5時発の列車に間に合う様に駅に着き。空は尚明るいけど、経観塚へ行く便はこれ
が最終だ。到着の頃は夏の長い陽も暮れている。でもわたし達の一日はこれでは終らなか
った。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「えーっ列車不通? 普通列車じゃなく?」

 列車が出ないと聞かされたのはついさっき。

 正午からの連続した強い雨で、2つ目の駅と3つめの駅の間の地盤が緩んで、危ういら
しく。駅の構内で最終便は運休と発表されて。

 正午からの雨は、小降りになり始めていて。
 もう少し待てば、出発できそうだったけど。

「当区間は弊社の安全規定により、降り始めからの降水量が基準値を越えた場合、終日運
行休止する区間と、定められておりまして」

 わたしの関知にも、この先の崖が崩れて車両を直撃する像や、崩れた崖に行く手を塞が
れる像は視えないけど。人の生命を運ぶ鉄道をギリギリでは運行できない。経観塚周辺は
山深く、強い雨が降ると山崩れの心配はある。一定の雨量で運転を止める判断は正解なの
か。

「今夜の降水量を見て、明日始発の運行を判断します。既に切符を購入済のお客様は、そ
の切符をその侭ご使用下さい。今宵は当社負担で、提携旅館に宿泊できる様に致します」

 バスによる代替運送も検討された様だけど。
 経観塚に至る県道も雨によって通行止めで。

 和泉さんや羽藤の車による迎えも望めなく。
 今宵は2人で県庁市に泊りの選択が最善か。

「温泉旅館にタダで泊れて、夜の露店も見に行けるよ。雨も小降りで賑わいも戻ったし」

「地盤が水を吸ったから、空は晴れても一晩位時間が経たないと、列車は動けないのね」

 未だ空は薄明るいし、すぐ傍なので。わたし達は駅前の公衆電話で、それぞれの家へ連
絡してから、その侭宿に行く事に。受話器の向こうでは、雨音と幼子の悲鳴が響いていた。

「羽様は今、雨が強くなってきた処みたい」
「雨音が聞えたよ。子供達の悲鳴と一緒に」

「和泉さんの方は?」「父さんが心配気味」
「女の子のお泊りだから」「恋人同伴だよ」

 年頃の娘の父はそこが最も心配なのでは?
 問うと愛しい人はショートの髪を揺らせ。

「可愛い子には、旅もお泊りもさせなきゃ」

 お嫁に行けなくなる様な事は、絶対しないしさせないと、父・清治さんには約したけど。
約束自体が心配の所在示す。わたしは責任がある。それはこうして遠出した時、愛しい女
の子を諸々からもわたしからも守り通す事で。和泉さんはそんなわたしの心中も察して笑
み。

「あたしは、あなたになら委ねられるのに」

 県庁市だけが台風の目の様に雨が弱いけど。
 周辺は経観塚も含めほとんど強い雨らしく。

 夜更けには県庁市も再度雨が強まるみたい。

 帰れる様になったらすぐ逢いに帰るからと。
 桂ちゃん白花ちゃんに固く強くお約束して。

「浮気厳禁だね」と和泉さんに冷やかされ。

 旅館に着くと丁度夕飯時で、食堂へ行くと。
 首都圏から来た大学生の男女多数が同宿で。

 男性40人弱に、女性20人強か。他に数人のビジネス客がいる。全体に男性の多い室内で、
県立経観塚高校のセーラー服は目立った様で。

「わー女の子、女子高生だ」「2人外泊?」
「かわいー」「どこから来たの、何年生?」

 わたし達は女子大生の注目を集めてしまい。
 女子が先行した事は免罪符になったらしく。

 男子学生も、わたし達への注目を隠さずに。
 悪意ではないと分るけど筋肉質な男の子が。

 割って入ってくると和泉さんは自然身構え。
 まずわたしを庇う様に、動いてくれるけど。

「こらこら男子、女子高生を怯えさせてどーする」「18歳未満の女子のナンパは禁止よ」

 女子大生が横から気遣う声を掛けてくれて。
 結果わたし達は女の子に取り巻かれる形に。

「ごめんねー、あいつらも悪い奴じゃないんだけど」「雨で地元の女子大生をナンパでき
なくて、飢えているから」「って、わたし達が女の子扱いされてない事を暴露するなー」

 首都圏の女子大生は武道の部活に属しつつ。
 身なりも仕草も言葉遣いも洗練されていて。

 女性として大人としても学ぶべき処が多く
 可愛がって貰えた事もあって仲良くなれて。

「お友達への贈り物を買いに? 男の子?」
「ひゃ友情から恋心へ進む黄金パターン?」

「何買ったの? ちょっとだけ教えてよっ」
「この2人連れもけっこーいい絵だけどね」

 和泉さんはまっすぐな焦げ茶のショートで。
 さっき男の子が寄ってきた時には反射的に。

 わたしを庇って見せたのでセーラー服でも。
 女子学生には可愛い男の子役に映った様で。

「こんな後輩に守られたら、うれしーかも」
「華奢な子が一生懸命女の子を庇う姿って」

「男の子同士もいーけど女の子同士もいー」
「後輩なら手取り足取り色々教えられるし」

 思い入れ過多な黄色い声が飛び交うと、男の子はやや引き気味に。女という字を3つ合
わせ、姦しい(かしましい)と読ませる理由が実感できました。わたし達もこんな感じに
映っているのかな。でもそのお陰で屈強な男の人と距離を置けて、和泉さんも落ち着けた。

「ウチは男女とも剣道に力を入れていてさ」
「こっちの大学と交流や練習試合も兼ねて」

 合宿に来ていたと。なるほど男性陣は勿論、女性陣も背が高くて立派な体格の美人が多
い。

「今日はお祭りらしいから、一緒に夜店回らない?」「あなた達の先輩とかいるかもよ」

 午後に訪れた時は雨が強く、ゆっくり見て回れなかった。雨も止んだ夕飯後の散策は良
案か。お姉さん達が和泉さんやわたしをお気に入りで。室内だと密着しすぎて来るので…。

「一風呂浴びてから行こ」「あたし達も練習の汗や雨で汚れているから」「一緒に入ろ」

 旅館の露天風呂に浸かる事になって。わたしの関知は結果当りだった。列車の運休は予
期できなかったけど、こんな展開を辿るとは。タオルを取りに部屋へ戻ると、お姉さん達
に人気沸騰した和泉さんは、やや困惑した声で。

「銀座通中でも高校でもぞんざいに男の子扱いだったから、くすぐったいよ」「今も男の
子扱いよ。凛々しく心強いわたしの王子様」

 もー。和泉さんはわたしの返しに腕を組み。

「実質が伴えば男役やって、ゆめいさん守って活躍したいけど。本当に危うい時はあたし
はダメで、あなたに守ってもらうんだもの」

 多少体力はついても、結局あたしは女の子。
 技とか力以前に、気力や覚悟が持てなくて。

「いざという時は、あたしより華奢で綺麗なゆめいさんに守られることになるんだもの」

「和泉さんは華奢で可愛い女の子。わたしの愛しい人だもの。守らせて欲しいのは必然」

 さっき、和泉さんが男子学生からわたしを庇おうと身を寄せてくれた様に。そう言うと、

「カッコだけだよ。お姉さん達には宝塚の男役ぽいって好まれたけど、本当の危難になっ
たら、あたしは男の子の片腕にも敵わない…。

 さっきも、あたしは自身の怯えをゆめいさんが抱くだろうって、思って身を挟めたけど。
ゆめいさんは怯えてなかった。あなたの感触は柔らかで落ち着いて。それがあたしの平常
心を繋ぎ止めて……守られていたのはあたし。

 むしろあたしはああして、身構えないと安心できなくて。自分を守りたかっただけかも。
それもあなたが傍にいたお陰で初めてできた事で、1人だったら多分竦み上がっていた」

 なまじ戦う強さを持つわたしを知るから。
 自身の欠乏を意識してしまう愛しい人に。

 自身の僅かな弱さを見据える誠実な人に。
 違うよと、わたしは間近な瞳を正視して。

「1人なら竦み上がる程の怯えに、誰かを守る為に踏み込んで向き合える。それは本当に
強い勇気の要ることよ。とても嬉しかった」

 例え及ぶか及ぶないかが見通せなくても。
 守りたい人が危ういと思えば身を挟める。

「和泉さんは自身の強さを過小評価している。 あなたはとても強く優しく暖かな愛しい
子。

 羽藤柚明の特別にたいせつで愛しい人…」

 抱き留めて、頬に頬寄せ、唇を添わせて。
 和泉さんも同じくその腕をこの背に回し。
 心を重ね、体温を重ね、鼓動を感じ合い。

「ゆめいさんは人の優しさや強さを見つけて引き出すのが本当に上手。それであたしも乗
せられて、多くの人達も乗せられて、みんなあなたを好きになってしまう。あたしは…」

 そんなあなたと人生を共に歩んでいきたい。

 わたしが答を返す前に和泉さんは身を離し。
 着替えとタオルを手に持って、身を翻して。

「お風呂行こう。お姉さん達が待ってるよ」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 年上の女の子との入浴は蠱惑的で悩殺的で。高校1年の夏に学年全員の宿泊研修で集団
入浴した時も、同級生の発育に舌を巻いたけど。大学生、中には既に成人を迎えた若い女
性の健全な発育は、女の子にも刺激的に過ぎ。視線のやり場に困るのは己が不健全な為な
のか。

 武道を嗜む若い女の子の素肌は、張りがあって健康的で。女性らしい丸みを帯びつつも、
無敵の魅力を放って見え。同学年でも豊満に程遠いわたし達は、貧弱さを隠しきれずに…。

「かわいー」「かわいー」「少し触らせて」

 二の腕とかお腹とか、安全な処限定だけど。だから和泉さんもわたしも年上の女子の求
めを断れず。代りにお姉さん達は、年少組に胸を触っていーよと勧め。触りあっこは仲良
しの確認に似て、決して悪い感じはしないけど。背徳感も楽しめるけど。敗北感は棚に上
げて。

 露天風呂は、女性客がお姉さん達とわたし達だけという事情から、嬌声が響いても迷惑
になってない筈だけど。隣の男風呂にも声は届く。男性客にはビジネス客もいた様だから。

「男子、覗いたら死刑だからね」「死刑になる前に悩殺だけど」「それは糸屋の娘だよ」

 空は流石に月も星も見えない曇り空だけど。
 初夏の夜の涼風は湯に火照る体に心地良く。

 近い年代のお姉さん達との語らいも愉しく。
 年上の恋愛談義や経験譚は傾聴に値します。

「背中流し合おうよ」「ウチの流儀なんだ」

 風呂椅子を円形に並べ、拾数人が輪になって前の人の背を流し自分の背中を流して貰う。
輪を持って尊しと為す、等と言って笑い合い。その内随所で背中を流す筈なのに、体の各
部の触り合いに移行して。更に嬌声を響かせて。

「散々揉んで貰えたから、少しは大きくなったかな」「わたしは小さい和泉さんも好き」

 和泉さんは、その小ささの故に人気沸騰で。小さいお姉さんでもわたしより二回り大き
いから。仲間内で劣性だった人は優越感を欲し、大きな人は妹を慈しむ様に。わたしも含
め可愛がって貰え。和泉さんは苦笑いだったけど。

「私達もよー」「お胸は大きさが全てじゃないっ」「その内大きくなるから安心なさい」
「胸より尻が好きな男もいるし」「あたしもお尻の方が好きだな。特にこの辺」「ひぁ」

 裸のお付き合いの後は、一緒に露店周りへ。
 お姉さん達は泊りを予期し浴衣も用意済で。

 竹刀を持つ手に団扇を持ってそぞろ歩きを。
 わたし達は校則により夏用セーラー服です。

 雨が上がった夜の露店は、仄暗い中に灯が。
 揺らめく様が、妖しくも華やかに美しく…。

 それに照されるお姉さん達も妖しく華やぎ。
 その内みんなは幾つかの集団に自然と別れ。

「あ、美咲さん……男の人に声掛けられて」

 見つけたのは、わたしが少し早かったけど。
 声に出せたのは、和泉さんの方が少し早く。

 わたし達もこの頃には、お兄さんお姉さん達の注目が薄れかけ、漸く2人で歩けており。

「割って入ろうか?」「少し様子を見よう」

 お姉さん3人組が地元の若い男性3人に声掛けられて、立ち止まり。でも困った表情で
もないし、人目が届く処だし。当人が嫌がってないのなら、人の恋路を妨げるのは無粋だ。

 笑顔で言葉を返し、仲間のお姉さん2人を向いて一言二言声を交わし。合意して3人が
一緒に男性3人に、ついて灯りを離れて行く。部長の明美さんと行き交った時に、一応事
実は伝えたけど。明美さんは驚いた様子もなく。

「美咲はナンパ待ちだから、ほっといて正解。それより香苗を見なかった? あいつは世
間知らずで、誘われると断れないから心配で」

「男子の山本さんや北原さん達5人と一緒でしたよ。女子は理恵さんと京香さんと3人」

 歩み去った方角を問われて、和泉さんが指で示すと。明美さんは独りそちらへ歩き出し。

「大丈夫かな」「同じ大学の部員同士だし」

 事件にでもならない限り介入は憚られた。
 わたし達は今日逢ったばかりの仲。でも。

 明美さんのお祭りらしくない鋭い歩みを。
 間近で見かけた康子さんに事情を訊かれ。

「あー明美ねぇ。香苗に随分ご執心だから」

 ばらけると初めて触れられる話題もある。
 康子さんはそれ以上何も語らず歩み去り。

「ご執心……。明美さんと香苗さんって?」
「ええ、2人は女の子同士の深い仲みたい」

 和泉さんの問いは確認程度の意味を宿して。
 わたしの答も分っているよ位の意味合いを。

「明美さんは4年生で部長、香苗さんは2年。年下の面倒を見る内に親密になったのね。
女の子同士の絆を受け容れる人は多くないから、明美さんは一層離れ難い想いを抱いてい
る」

「でも理恵さん達について、男の子と一緒に歩く香苗さんに、イヤそうな感じはなかった。
むしろさっき迄より解き放たれた感じもして。装いなのかも知れないけど、もしかした
ら」

 和泉さんも人の表情や動作から、その心の内を推し量る鋭さを持つ。わたしの感応でも。

「香苗さんは男の子とのお付き合いも嫌ってない。それに明美さんは危惧を抱いていて」

「香苗さんはその想いを束縛に感じている。あたしがゆめいさんに抱く焦りに近いかも」

 嫉妬とか独占欲とかあたしも結構黒いし。

 和泉さんの率直過ぎる言葉に、わたしは敢て即答を返す。疑問の余地を、入れさせない。

「わたしはあなたを束縛には感じてないよ」

 繋いだ掌を強く握ると、愛しい人は寂しげに笑み。わたしの想いは通じていた。でも尚。

「大人になって行くってことは、難しいことの難しさを、分って実感していくことだね」

 不意に和泉さんはわたしに寄り掛ってきて。
 この右肩に左頬を当てて暫く動かず喋らず。

 多数の賑わいが、間近を行き交うその中で。
 わたしも彼女も言葉を発さず敢て動かずに。

 軽く抱き留め合い愛しさを温もりを共有し。
 そんなわたし達の上に一つ二つ滴が落ちて。

 夜半から再び雨になるとの予報だったっけ。

「旅館に戻ろう」「うん、一つ屋根の下に」
「一緒のお部屋だったね」「褥も一緒だよ」

 わたし達2人も夜も、未だ始ったばかりだ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 早く帰着した康子さん達から、宴会場にしている男子の部屋へ招かれて。ウーロン茶で
暫くお付き合い。夜が更けて宿に帰着する人が徐々に増え、会話やゲームが盛り上がる中、
わたし達は明日の始発に乗るからと、部屋を辞し。美咲さんも香苗さんも明美さんも、わ
たし達の居る間は、帰り着かなかったけど…。

「今日はいろいろ、有り難うございました」
「こっちこそ、色々愉しませて貰ったから」

 愉しいひとときを共に出来た、人生の先達にお礼を述べ。わたし達は2人の部屋へ戻り。

 窓の外は月明りもなく、周囲の電灯も消え。
 遠い外灯が心許なく淡い光を、届けて来る。

「女の子同士の恋仲を続けるのって難しい」

 和泉さんは香苗さんと明美さんの行く末を。
 双方の仕草や声音や雰囲気から察した様で。

「明美さんは元々の恋心より、ようやく得た女の子の恋人を、数少ない理解者・仲間を手
放したくなくて、香苗さんに縋り付いている。でも逆に香苗さんはそれを束縛に感じて
…」

「少数者だっていう意識が、思考や判断に影を落しているのね。女の子の愛に応える女の
子はもう現れないかもって焦りが、明美さんを駆り立てている。逆効果と分っていても」

 踏み込まなかったのは、初見で他者の色恋に深入りする事への躊躇以上に、わたしに為
せる事がないから。香苗さんは既に明美さんを厭っていて。男の子と付き合えば彼女を振
り切れると、京香さん達に紹介を願っており。香苗さんの恋愛対象は女の子に限定されな
い。

 明美さんは己の束縛が恋人の心を遠ざけた事を感じつつ。引き戻そうとするだけで自身
を省みる発想がなく。他者の忠告を聞き入れる余地もなく。そう遠くない先の破綻が視え。
わたし達の介在で、その流れは変えられない。

「お互いに悪い人じゃないのに」「悪意ではないからこそ己を省みる事が難しいのかも」

 和泉さんはわたしの答に暫く沈黙した後で。

「あたしもあなたを縛りたかった。縛って自分の物にしたかった。他の人なんか向いて欲
しくなく。いつもあたしを向いて欲しかった。明美さんの焦りや執着はあたしこそ良く分
る。でも人の心は縛れば逃げる。あたしはあなたを喪う事が怖くて、踏み出せなかっただ
け」

 自虐的な笑みを浮べる愛しい人にわたしは。

「和泉さんはわたしの想いを支えてくれた。

 色々な事情でわたしは、他の女の子と深く関って。たいせつな人と告げたのに、あなた
に向き合う事が少なかったのは、わたしの咎。

 でもあなたは温かく見守り続けてくれた」

 和泉さんは、わたしの頬に頬を重ねつつ。

「ほとんどの場合、ゆめいさんの本命になれないと見切れたから、口を出さなかっただけ。
倉田先輩や南ちゃんや、北野君や神原先輩も。

 ゆめいさんは想いを受けて返していたけど。その愛しさは、白花ちゃん桂ちゃんや、サ
クヤさんへの想いを凌ぐ事はない。その次位にいる筈の、鴨ちゃんへの想いにも及ばな
い」

 かおりんやさなちゃんとゆめいさんが肌身重ねる仲に、あたしが割り込まなかったのは。
少し離れて見守って、口を挟まなかったのは。ゆめいさんを一番に想わない関係だったか
ら。

 かおりんの一番はさなちゃんで、さなちゃんの一番はかおりんで……ゆめいさんは元々
さなちゃんの『視える体質』を改善しようと、肌身を添わせる内に、心も繋いでいったけ
ど。

「わたしも歌織さん早苗さんを一番に想う事は叶わないから。その点ではお互い様って」

「うん。かおりんもさなちゃんも悪い子じゃないから。ゆめいさんが望むならあたしは良
いんだ。でもあたしには、あなたは一番たいせつな人だから。あなたが一番じゃない場に
参加は出来ない。しても必ず壊してしまう」

 ゆめいさんも敢て声掛けなかったでしょ。
 あたしの気持を分ってくれて、ありがと。

 和泉さんはわたしの答を待たず更に先へ。

「沢尻君と鴨ちゃんには、本気で負けるかも、ゆめいさんの一番を取られるかもって怖れ
た。鴨ちゃんには、人生を掛け一生を掛けてゆめいさんを想う、決意の強さに圧倒されそ
うに。沢尻君にも。桂ちゃん白花ちゃんを越えてゆめいさんの一番を、掴み取られそうで
怖くて。

 でも例えあたしが口出ししても、その先がどうなるか分らなくて。逆効果になるのが怖
くて、結局あたしは見守る以外に何もせず」

 違うよ。わたしは金田和泉を識っている。

「何もしなかったんじゃない。あなたは思慮深く状況を見守って……必要な時は身を挟め、
わたしを守り庇い助け支えてくれていたわ」

 でも和泉さんは静かに首を左右に振って。

「あたしは鴨ちゃんや沢尻君と違って、今迄一生を見通して人生を掛けて、あなたを愛し
ていなかった。今現在の愛しさは本物だけど、未来を将来を考えて愛してなかった。それ
は刹那の愛で、青島麗香さんや他の人達と同じ。

 あたしは目先の愛しさに溺れ、あなたの優しさに甘え、日々の幸せに流されてきた…」

「そうじゃない事は、わたしが分っているよ。
 和泉さんがそうする他に術のなかった事も。
 今やっとそれを語れる様になった背景も」

【あたしは逆に、鴨ちゃんの途を選べない】

 和泉さんの家は農業経営が不安定で。鴨川の様に娘を町外へ高校進学させる余力がなく。
真沙美さんはわたしと人生を共にするために、女の子同士の絆を容れ難い田舎の世間を出
て、生活の基盤を経観塚の外で掴む為に、大学を目指し都会へ出たけど。和泉さんはそれ
を出来ず。経観塚の高校から大学進学を目指すしかなく。それさえ家の経済力と相談が必
要で。

 中学校卒業の時、真沙美さん達を見送った経観塚の駅で、見送り終えた寂寥の漂う中で、

【あたしもあなたとの関係を、青春の想い出にして諦める積りなんてない。一過性の儚い
想いとかで終らせる積りはないよ。あなたに抱いたこの愛しさは、魂の奥底からのもの】

 人にはそれぞれ事情がある。だから和泉さんは今与えられた状況を、渾身で生き抜くと。
わたしと寄り添いつつ、経観塚から大学を目指すと。その可能性が雲を掴む様な状況で尚。

 今春その要件が漸く満たされた。若杉の賠償とは知らぬけど、和泉さんのご両親の今迄
の努力が結実し、彼女の未来に漸く薄日が差して。だから将来を考えているとわたしに語
れた。夢想ではなく可能性が視えてきたから、

【わたしの想いは離れない。柚明が桂ちゃん白花ちゃんやサクヤさんを、終生あたしより
大事に想い続けても好い。真沙美やそれ以外の誰かを生涯のパートナーに選んでも。むし
ろわたしは柚明が一番や二番の人を、想い続ける様を見つめたい。わたしが自覚して柚明
に惚れたのは。あなたが詩織さんを想い身を尽くす姿を見た、小学6年の運動会だった】

【わたしだけを見てとは願わない。一番にしてとも望まない。想いを返してとも求めない
よ。わたしはあなたを愛したいだけ。羽藤柚明は金田和泉の生涯で一番愛したい人……】

 だから和泉さんはそこ迄しか言えなかった。

 その先を、本当の求めを口に上らせられず。
 わたし達は現状幼い初恋の延長の様な物で。

 将来を展望して人生を語らうに至ってなく。
 特に女の子同士だとその途も未開拓だから。

 今迄は考えてもどうにもならなかったけど。

「あたし大学に行く。父さん母さんが、今の収益なら、国公立なら行かせられるって…」

 ゆめいさんは、高校卒業後も羽様に居続けるんだよね。桂ちゃん白花ちゃんを間近で導
くには、羽様を離れられない。沢尻君の告白を断ったのも、一番愛しい幼い双子の為だし。

 だからあなたは羽様で待っていてくれる。

 和泉さんは初めて羽藤柚明を縛りたいと。
 正視されたその双眸は深く黒く煌めいて。

「わたしも、柚明に告白できる人生の基盤を作る。柚明が白花ちゃん桂ちゃんを見守る拾
数年は、わたしも一緒に見守るよ。そして幼子が育って巣立ったその後で、もし柚明が誰
とも結ばれてなかったなら、他に特別な人がいなかったなら、わたしが柚明に求愛する」

 真沙美は柚明と人生を共に歩む為に、今正に人生の大迂回をしている。大人になった時、
経観塚の狭い世間に認められなくても、女の子同士で愛を紡ぐ基盤を作る為に。今を犠牲
にしても数年を費やしても、一時的に離れ離れでも、その後に終生の悔いを残さない為に。

 金田和泉は漸くそのスタートラインに立ち。
 羽藤柚明を人生を掛けて求めたいと予告を。

「わたしも真沙美の後を追う……追って人生の大迂回をして、柚明に告白できる大人の女
になる。それであなたとは何年か離れ離れになるけど、暫く一緒に歩めなくなるけど…」

 その後に……終生の悔いを残さない為に。

 柚明が最愛の桂ちゃん白花ちゃんのどちらかと、二番に大切なサクヤさんと、或いは真
沙美や他の誰かと結ばれる可能性も、考えた。でもわたしは今を諦められない。羽藤柚明
を諦められない。今柚明は誰とも結ばれてない。仮に誰と結ばれてもわたしの想いは終ら
ない。

「柚明を終生愛したい。自分が柚明の一番になれるかどうかは問題じゃない。二番にも三
番にもなれなくても、わたしはあなたを愛したい。それはあなたを縛ることになるけど」

 瞬間の怯えは、女の子同士で愛し合う事への背徳感や罪悪感ではなく。その愛が強すぎ
て束縛に感じられ、忌避を招かないかとの不安だ。でも彼女はその怯えを覚悟で乗り越え。

「迷惑ならいつでも言って。わたしの想いは変らないけど、あなたの前から姿を消す位の
ことは出来る。あなたが嫌うならその意志に添う事もわたしは。最愛の柚明の願いなら」

 わたしは強く抱き留めてその震えを鎮め。
 唇を重ねる事でその先は何も言わせずに。

 数十秒後和泉さんが落ち着いて唇を離し。
 今度は互いに胸を擦り付けて肌身を重ね。

「柚明は羽様を動けない。動かない。ならわたしが動く。動き回る。柚明を求める資格を、
あなたを守り支え助け庇える社会人の強さを、あなたが待つ年月の間でわたしが手に入れ
る。

 待っていて。答が拒絶でも良い。もっと愛しい好いた人がいると断って良いから。誰と
結ばれても誰を愛しても、わたしの求愛に向き合う日まで、柚明は羽様で待っていて!」

 鮮烈な告白の予告に心臓を打ち抜かれた。

 わたしが抱く愛しさを遙かに越える熱に。
 揺らがされたのはこの魂以上に未来かも。

 でも、今のわたしは確かな答を返せない。

「わたしは、あなたの人生を振り回している。成果の見えない物にあなたの貴重な年月を
捧げさせ……その上でわたしはもう、己の行く末を己では決められない、変えられない
…」

 せめて求愛に応じられる可能性があるなら。
 最愛の双子が巣立った後で独り身でいれば。

 中学校卒業直後の真沙美さんに応えた様に。
 その求愛に向き合いますと応えられたけど。

『清治さんや澪さんの寛大さに、甘え許され続けて来られたこの仲だけど。いつ迄もこの
状態は保てない。ご両親が和泉さんの幸せを願うなら、男の子と結ばれる未来を望むのは
自然で。わたしは暫くの間を許されただけで。将来を考えれば2人に不安が募るのは当然
で。子供だからと許されて来た今迄の仲は、どちらにせよ一度、終らせなければならなか
った。

 その上で和泉さんの求愛に応え、女の子同士大人の関係へ進むなら、羽様の家族や清治
さん澪さんにも、向き合わなければならない。でも、和泉さんの求愛を受ける事は、例え
白花ちゃん桂ちゃんが巣立ったその後でも…』

 今のわたしは若杉の求婚を受けている身だ。

 和泉さんを人生の伴侶に迎える事は至難で。
 今後の歳月も空振りに終らせる怖れが高い。

『それどころか、若杉と緊密になったわたしの傍に居続ける事は、和泉さんを危うくしか
ねない。己の存在が愛しい女の子の禍に…』

 むしろ今宵、絆を断つのが愛しい人の為か。

 何年か後に涙させるより、今涙させる事で。
 金田和泉の損失と傷を叶う限り小さく留め。

「もしかして柚明の悩みは、あたしとのことより、若杉君や、おにきりべとのこと…?」

 和泉さんは時々わたしの想定を越えてくる。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 多重人格とは違うと思うけど、和泉さんも博人と似て、真剣さが一定を越えると心の状
態が変る。それは半ば無意識の所作らしく…。

 わたしの呼び方が『ゆめいさん』から『柚明』に、真沙美さんの呼び方が『鴨ちゃん』
から『真沙美』になり。自身も『あたし』から『わたし』に。他の人の呼び方は変らない。
和泉さんにとってわたしと真沙美さんは特別らしく。愛しさが満ち溢れるとそうなる様を、
わたしは何度か見て普通に受け容れ今に至り。

 でもその独特な心の構成は、若杉の術者にも想定外だった様で。彼らはそうではない時
の和泉さんに、記憶を封じる術を掛けたけど。それでは記憶の封鎖は、不完全だったらし
い。

 一瞬だけど、身も心も凍り付くのが分った。
 仮にこの先和泉さんが、真相公開を志せば。

 生命脅かされた彼女が、謝罪や賠償を求め事を公にしたく望むのは、当然だけど。記憶
を残していると知られれば、鬼切部の実態や失態を知られれば、彼らは真相を伏せに掛る。

『白花ちゃん桂ちゃんを守らなければならないわたしは、鬼切部に抗い通す事が出来るだ
ろうか。今も和泉さんや聡美先輩の記憶の封鎖を見過ごし、補完迄しているわたしが…』

 わたしの怖れは和泉さんに迫る危難より。
 それを招き見過ごしそうな己への嫌悪か。

 どちらかを選ばねばならない究極の時に。
 双方に手を伸ばせば両方喪う極限の場で。

 わたしは和泉さんを選ばない。羽藤柚明が選ぶのは、最愛の双子・羽藤桂と羽藤白花だ。
それは変えられない。変えられないけど……。

 考えるのは後回し。鬼切部の対応が不確かな現況で、和泉さんを怯えさせてはいけない。
今は冷静になって、彼女の事実に向き合おう。

 愛しい女の子は間近で柔らかな声音を保ち。

「普段は忘れてしまっているの。この状態になると思い出せるんだ。思い出すって言うの
かな? こっちの方が夢みたいな感じだけど。

 学年末テストの最終日、学校帰り路地裏で。
 わたし、忍者みたいな人達に襲われ攫われ。

 鬼を切る人達だってその後の柚明と彼らの。
 問答で知ったけど。鬼切部ってなるのかな。

 柚明は怯まず凛々しく、問い詰めていた」

『わたしのたいせつな人に乱暴しないで!』

『わたしも羽藤も、人の世にもあなた達にも敵対する積りはありません。平穏な日々を望
む無辜の民です。今すぐ全員解き放って!』

『鬼切部相馬党の剣士が揃いも揃って、女子高生1人を倒す為に、幼子も含む無辜の民を
人質に取る様は、武士道や鬼切部の理念からも外れている気がしますけど……?』

 和泉さんはあの経緯を、詳細に憶えていて。

「丘の上で桂ちゃんと縛られて人質にされて。
 もう一つの丘には倉田先輩と白花ちゃんが。

 あなたは鮮やかな和服の女の子と共に現れ。
 槍や刀や棒を振り回す大人と一騎打ちして。

 光の鳥みたいな奇怪な何かに胸を貫かれて。
 もうダメって時におばさんとサクヤさんが。

 乱入して敵を次々に打ち倒して、あなたも。
 無理に無理重ねて、尚起き上がって戦って。

 最後はどの様に助かったか憶えてないけど。
 泥に塗れても戦うあなたは凛々しかった」

 和泉さんも、わたしを柚明と呼ぶこの状態でなければ、思い返せない様で。だからその
日常生活にほとんど影響はなく。美咋先輩も思い返さなければ、怯えもぶり返さなかった。
通常の記憶だったから封鎖が必須だったけど。和泉さんはこの状態には容易にならない上
に。

「これは夢だって思っていた。かなり荒唐無稽だし。その日の記憶は別に確かにあるし」

 若杉の術者が、植え付けた記憶もあるから。
 物証も証人も、巧妙に用意されているから。

 和泉さんも今迄突き詰めて考えようとせず。
 擦り剥いた膝に当てた史さんのハンカチや。

 和泉さんが叩き落した彼の携帯ストラップ。
 そのハンカチは、和泉さんの家に今もある。

 彼が壊されたストラップを付け続けるのは。
 事実を刷り込み彼女の罪悪感を促す以上に。

 それが若杉史のたいせつな物だからだけど。

「でもあなたに助けられた夢は、あなたがわたしを助ける為に必死に戦う姿は、嬉しくて。
夢でも良いから抱き続けている事にしたの」

 和泉さんはあの凄惨な戦いの応酬を思い返しても。わたしに怯えを感じる事なく。添わ
せた肌身は静かに落ち着き。彼女の記憶には、暴力的に連れ去られ無理矢理拘束され、わ
たしの血飛沫が飛ぶ情景も現実感を帯びて残り。それでも彼女は、鬼のわたしを厭わず怯
えず。夢でも悪夢なら怯え震え厭い忌み嫌うべきを。

 驚愕だった。相応の気構えがあった剣士の美咋先輩も、鬼のわたしを見て怯え厭い。頭
で敵ではないと分っていても、本能が肌身が震え出し。わたしを怖くないと刷り込もうと、
必死に肌身を抱いて締め付けて。その心に刻まれた怯えは、相馬の剣士に生命を脅かされ
た事より、彼らを打ち倒した鬼のわたしへの。

 聡美先輩も同じく。屈強の剣士を倒し、神鳥も退けたわたしへの、暴走する力への怯え
は自然で。制御が効かず、触れれば愛しい人も傷つける暴走を見て。だから記憶を封じね
ばならないと若杉も考え、わたしも諦めざるを得ず。それを、和泉さんは静かに受け容れ。

「夢なら怯えるのは無意味だし、真実ならこの生命は柚明に救われた。怯えるのが間違い。
あなたに救われたこの生命なら、あなたに喰らわれても捧げても悔いはないよ。中学1年
の時にわたしは柚明に全てを委ねた。その時わたしは生涯かけて柚明を愛すると決めたの。

 ……女の子同士が人生を共にする事は簡単じゃない。別れ別れの末路の方が確率は高い。
過失でも故意でも、あなたの手に掛る程間近にいられる事、あなたの腕の中で終れる事は、
そうでない終りに較べればそう悪くないよ」

 和泉さんは生命がけでわたしを愛していた。

 その想いはもう止められないし、阻めない。
 その傷や損失を避ける故にと止めるなんて。

 傷や損失を承知して進み出す者への冒涜だ。
 どれ程狭隘な途でも愛しい人の真の想いは。

 届かせられる様に願い望む他に、術もなく。

「夢はその後が途切れがちで。知らない男性2人が催眠術みたいに、わたしへ『全て忘れ
よ』『憶えておくべき中身はこれぞ』って」

 問題だった? これを憶えていることが問題なら、忘れるよ。柚明の『力』で消せるの
ならそれでも。柚明が宿す贄の血の力をわたしは良く知らないけど。あなたならそんな技
を隠し持っても不思議じゃない。肌身も想いも重ねた柚明なら。忘れた方が良い物なら」

「大丈夫。あなたはその侭のあなたで良い」

 和泉さんは特に愛しい人を前にしない限り、この状態にならないし、なっても心は乱れ
ず。和泉さんの通常では、記憶は封鎖されている。彼女はそれを取り戻そうとしてない。
口外する意向もなく。敢て処置する必要はなさそう。何よりわたしはこれ以上罪を重ねた
くなくて。和泉さんの心をこれ以上掻き回したくなくて。

「夢でも何でもわたしがあなたに抱いた愛と。
 あなたがわたしに抱いてくれた愛は本物…。

 金田和泉は羽藤柚明の特別にたいせつな人。
 焦げ茶の髪柔らかに心強く優しく愛しい子。

 この身を捧げて守りたく想う願う女の子」

『あなたが知らない処で脅かされた事への償いは、あなたの知らない処で補わせるから』

 彼女の事実を若杉に伝えるべきか否かは。
 羽様の大人に明かして相談する事として。

「未だ和泉さんの問に答えてなかったわね。
 若杉や史さんと、わたしの今の関りを…」

 和泉さんがそこ迄熱く求めてくれた以上。
 わたしも己の今を明かさない訳に行かぬ。

 羽藤が宿す贄の血が、鬼や妖かしに甘く香り食餌に好まれ、使い方次第で鬼を弾いたり、
傷や疲れも癒したり出来る事は、和泉さんも既に識っている。わたしの血が特に濃い事も、
幼い双子が宿す血が更に濃い事も。羽藤の家が、羽様で千年の歴史を持つ旧家である事も。

 史さんの若杉が、彼の否定に反して若杉財閥に繋りを持つと明かし。若杉から羽藤に史
さんを想定した縁談が申し込まれた事を伝え。

「今時、お見合い結婚……家と家との話しなんて、ドラマでも中々見ないけど。柚明は法
律上結婚可能な年齢に、やっとなった辺りで。若杉君は男の子だから18歳にならないと
…」

 彼が齢を5つサバ読みしている事は語らず。
 わたしが一部好事家の目に止まった様だと。
 史さん経由で得た大きな動きも一定明かし。

「そっかぁ。警察署長に県議の先生に元総理に若杉……去年の夏の叔父さんの新刊出版が、
柚明の社交界お披露目になっちゃったんだ」

 柚明は楚々として綺麗だし、知識以上の賢さ柔らかさを持つし、その上で優しく甘いけ
ど話せばしっかりしているし。娶りたい男が出るのは不思議じゃないけど。でもお見合い。

 和泉さんはそこに不満の要点がある様で。

「あいつは柚明に惚れているの? 博人や真沙美の様に、心から愛しているなら。柚明も
あいつを愛した場合に限り、わたしも納得するけど……今の話しは家の事情でしょう?」

 愛もないのに家の都合で。一生を左右する話しなのに。羽藤の家は拒絶すると思うけど。

「柚明のおじさんの執筆の仕事が、出版社やスポンサーの、狭い内輪の意向に左右される、
断りづらい状態だってことは、分るけど…」

 わたしの先行きを案じてくれる愛しい人の。
 唇に唇を重ねて声を止めて冷静さを促して。

「史さんとは結ばれないよ。彼は家の意向に逆らえないけど、わたしが拒むから。若杉の
意向を、彼を拒めるのはわたししかいない」

 和泉さんは羽藤柚明が、清い乙女ではないと識っている。男性との初めては未だだけど、
この肌身は既に拾人以上の男女に踏躙された。穢れは一般に厭われるから、中学3年の冬
以降肌身を添わせた人には、己がされた事は伝えた。その上で尚嫌わず肌身を寄せてくれ
る、和泉さんの想いは愛は本当に嬉しく有り難い。

 その事を改めて告げて深謝の想いを伝え。

「でもその上でわたしが答を許されるなら」

 特別に愛しい金田和泉へ答を返すのなら。
 羽藤柚明の渾身の言葉でなければならぬ。

「桂ちゃんと白花ちゃんが、わたしの最も愛する幼子が、大人になって羽様を巣立ったそ
の後に。和泉さんの想いが、もし途絶えてなかったなら。この身がどうなっているかに関
らず、わたしは和泉さんの求愛に臨みます」

 わたしの二番に愛しいサクヤさんには、終生想いを寄せる人がいる。どうやっても手が
届かないけど、想いを寄せ続けたく願う人が。最期迄己の手が届かない事が、わたしの望
み。わたしの心底愛した人が、本当に好いた一番の人への想いを、抱き続けられる事が、
わたしの願い。その想いが断ち切られ、わたしが一番に繰り上がる日の来る事は、望まな
い…。

 こんなわたしを一番に、想ってくれる人もいた。でもわたしは今迄まともに、その尊い
想いにも応えられなかった。今後拾数年は最愛の贄の幼子を、導かなければならないから。

 これ程の想いを寄せてくれたのに。身に余る程の愛を注いでくれたのに。わたしは鬼だ、
人でなしだ。それでも尚、彼女は全く怯む気配もなく。人非人を承知で、長く待たせると
承知で、人生の最も華やかな歳月を棒に振らせると承知で。応えない訳には行かなかった。
それでも断って愛しい人の心を折る事はもう。

「全てを承知で、拾数年後にも尚このわたしを想い続けてくれるなら。或いはわたしも」

 一緒に暮らせなくても、足繁く通い合えなくても、たいせつに想う事は叶う。日々の幸
せを見つめられなくても、毎日を共にできなくても、その人の幸せを願い愛する事は叶う。

「応諾を返せるかどうかは確約できないけど、その時にこの身がどうなっているかも分ら
ないけど。その時を迎えられたなら、羽藤柚明は金田和泉の求愛に、全身全霊で臨みま
す」

 相変らず己の未来は視えてこない。鬼の反動に呵まれつつ、わたしの関知や感応は徐々
に戻り始めていて。他の人の未来は、他の物事の先行きは、視える様になりつつあるのに。
自身の先行きだけは、特に夏以降の先行きが。分厚い霧に阻まれて、見通しが利かないの
は。

 映るはオハシラ様が宿るご神木の姿のみ…。

 未来が存在しないのか。或いは、選択による変化の幅が大きすぎ、この視界で捉え切れ
ぬのか。若杉への答の末が読み切れない為か。視えた事柄の意味を読み解く事は難しいけ
ど、視えない事の意味を読み解く事は更に難しい。

 和泉さんの未来にわたしが登場しないのは。

 わたしが彼女との関りを持てなくなる故か。
 単に視た時点にわたしがいないだけなのか。

 なら視える処迄進んで視渡す他に術はない。

「わたしも、あなたが求愛するに足る大人の女に、あなたの求愛に応えられる大人の女に、
なってあなたの告白を待つ。経観塚で羽様で、修練を重ねつつわたしは待っているから
…」

 求愛が終焉を記すかも知れないと感じつつ。
 始点に立たなくば永遠に何も始らないから。

 わたし達は互いにその時へ向けて共に歩む。
 視えない未来を愛しい女の子と展望しつつ。

「今暫くの間だけ」「幼い初恋に全力だよ」

 雨音は、衣擦れの音を覆い隠してくれた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 翌週わたしは夕食後、幼子を早く寝付かせ、正樹さん真弓さんサクヤさんとお屋敷の居
間でお話しを。若杉の提案はわたしの存在が要になっている。本人の意志を示さなければ
話しは先へ進まない。そして最愛の白花ちゃん桂ちゃんの為に、この和解の話しは進めね
ば。

「羽藤と若杉の和解を完成させる為に、わたしの婚姻を条件付きで了承したいと思います。

 条件は3つ。1つ、若杉への嫁入りではなく若杉の殿方が羽藤へ婿入りすること。2つ、
婚姻時期を羽藤柚明の高校卒業後とすること。3つ、若杉の婿を若杉史以外とすること
…』

 条件付きでも若杉との政略結婚を受諾する内容に、正樹さん達大人は入口から猛反対で。
条件を述べる迄辿り着くのが大変だったけど。

「ほう……」「柚明ちゃん」「考えたわね」

 サクヤさんも正樹さん真弓さんも考え込み。

「婿入りは悪くないかもね。若杉は柚明を人質に羽藤を従わせる気だろうけど。どっこい、
竹取物語さ。若杉に千羽や渡辺の度胸はない。この条件を受けて羽様へ来る奴は居ない
よ」

 和解しても婿に来る奴は居ないって寸法だ。
 サクヤさんが笑みを浮べるのに真弓さんも。

「確かに、元・千羽の鬼切りと観月のサクヤに加え、相馬の神鳥を退けた贄の血の術者迄
が揃う、今の羽様へ乗り込む程に無謀な者は。鬼切部にも、そうそう居ないと思うけど
…」

「第一候補を外す事で、若杉の選定も迷走を強いられる。婚姻を柚明ちゃんの高校卒業の
後にした事も。実行迄に暫くの猶予が出来る。時間があれば良案が生れるかも知れない
し」

 サクヤさんも正樹さんも、この提案が若杉に諦めを促す、或いは時間稼ぎが目的と見て、
声音が和らぐけど。真弓さんは尚心配そうに、

「でも、危険を承知で名乗り出る男がいたら。功名心で、婿入りを望んで羽様に来る男が
居たら。高校卒業迄の時間も、若杉が男を選ぶ時間となるかも。柚明ちゃんにこれ以上僅
かでも危険を負わせる事は、私がイヤです…」

 その気持は有り難いけど、本当嬉しいけど。

「大丈夫さ。功名心に燃えて、柚明の婿になるって奴が現れても……追い返せばいいのさ。
小姑の苛めに耐えかねて、実家へ帰るなんて、TVドラマにも良くある話しじゃないか
い」

 それでは和解は完成しない。添い遂げねば。

「柚明ちゃんの真意は、この条件で若杉が婿を出せない展開、ではないみたいだね…?」

 はい。わたしは正樹さんに向けて頷き返し。

 適切な方が来れば結婚はやぶさかでないと。
 和泉さんや真沙美さんには申し訳ないけど。

 これはわたしも含めた羽藤の最善の選択だ。
 わたしは本当に若杉が遣わす人の嫁となる。

「わたしは、鬼切部が全て極悪非道の集団だとは思っていません。取り返しのつかない非
道を犯した過去はあるけど、中には話せる人もいる。関りを全て断てばいいとは思えない。

 若杉の中に、羽藤とわたしと真摯に向き合ってくれる人がいるなら。男女に関らず絆は
結ぶ事も出来ると、思っています。勿論人柄を良く分り合ってからのお話しですけど…」

 でもこの和解は、嫁入りでは完成しない。
 婿入りであって、初めて安定させられる。

 羽藤が若杉に人質を出しても、若杉はサクヤさん真弓さんの監視を止めない。わたしを
人質に取って鬼切りの戦力に使う事も難しい。人質で従わせた、反逆の怖れを胎む戦力と
しては、この2人は大きすぎる。扱いきれない。羽様の家族を人質にわたしを使い回す手
もあるけど、わたしに戦力としての価値は低いし。

 結局、信を結ばず人質を取る政略結婚では。
 若杉も唯監視に人を割いて神経を使うだけ。

 なら逆に若杉の人に羽藤に婿入りして貰い。
 羽藤の在り方を日常をつぶさに見て理解し。

 信を繋いだ中で監視される方が遙かに良い。
 お屋敷で毎日接すれば装いも嘘も不可能だ。

「あんた、若杉の誰かに組み敷かれて犯されるんだよっ。それで良いって言うのかい!」

「顔も見た事のない、素性も定かでない、あなたに害意を抱く者かも知れないのよっ!」

「柚明ちゃんの幸せは家族全員の願いなんだ。君を犠牲にして家が助かるなんて途は、例
え白花や桂の為であっても、ぼくは選ばない」

 みんなわたしを想う故の強い叱声だけど。
 わたしは、犠牲になる積りはありません。

 わたしは己の想いを強く語る事で応える。
 一番たいせつな人の安穏を保つ最善手を。

「桂ちゃん白花ちゃんに人生を捧ぐと決めた時も、犠牲とか全然思ってなかったし今も尚。
わたしは望んで喜んで、2人の幼子の導きをさせて欲しいのです。それと同じく。わたし
は望んで喜んで、若杉と羽藤の間を繋ぎたい。わたし自身も含む羽藤の家の為に家族の為
に。

 わたしのお父さんは、全く普通の人でした。お母さんと深く愛し合えたけど、贄の血を
持ち『力』扱うお母さんの定めを、助け支えられない事を残念がり、悔しがっていまし
た」

 己の過ちの為にお父さんが鬼に立ち向かい、戦って力尽きたあの夜。お母さんの哀しみ
は。お父さんの人生を鬼の禍に、贄の血の定めに、巻き込み死なせてしまった事への悔い
でした。

 愛し合えても乗り越えられない壁がある。
 関る事は巻き込む事であり阻みきれない。

「わたしは幼い頃から、それを見て感じてきました。小学6年生の時に、お母さんお父さ
んを殺めた鬼が、羽様へわたしを追ってきて、最愛の桂ちゃん白花ちゃんを脅かした時
も」

 美咋先輩も聡美先輩も和泉さんも。わたしと関り合った為に、己が被るべき害を受けた。

 贄の血の濃さが潜在的な『力』の大きさが、禍の定めを宿すのか。誰にも禍を及ぼさぬ
為には、己は世間と隔絶されるべきかも。でもわたしは今後も、絶海の孤島に住まう訳に
行かない。己の事情ではなく。白花ちゃん桂ちゃんの健全な育成に、人との関りは不可欠
だ。

 今後もそれは阻みきれない。わたしは濃い血を持つし、白花ちゃん桂ちゃんは更に濃く。
若杉が注視する状況は変えられない。なら…。

「関る事が誰かを巻き込む事になりかねない。
 なら、その対処を分っている人に理解者を。
 人生の伴侶を捜し求む事はダメでしょうか。

 一番には愛せないし、一番にしてとも望まないけど。それでも分り合えて、信頼や絆を
繋げれば、一緒に未来を望み語らえるなら」

 お父さんが、お母さんを最期迄心から愛し、生命を捧げ悔いのなかった事も分っていま
す。壁を越えられずとも、寄り添う事は叶うとも。でもその為にお母さんは最期に深甚な
悔いを。

 どちらが正しいのか、どちらも正しいのかは分らない。それは生涯を掛けて掴み取る己
の結論。だからわたしは可能性を確かめたい。

「サクヤさんと叔母さんが住まう羽藤の家へ、わたしの夫に婿入りを望む人なら、若杉で
も選び抜かれた人でしょう。史さん程ではなくても、様々な適性と強い心や覚悟の持ち主
で。無闇に敵意を振りまく者である筈がない…」

 わたしの方が学ぶ事が多いと思う。心通わせた上で肌身を重ねるなら、得心の上でなら。

「これが、今のわたしの最善の結論です…」

 わたしは本心から婿入りを受け容れる積り。
 後は来てくれる人を見て良く識ってからで。

 和解を壊したくはない。むしろ和解に婚姻が不可欠なら、それを最高の結果へ繋げたい。
政略結婚が必ず心の伴わない、無理矢理な物になると決まった訳ではない。問題は実質だ。

「羽様のお屋敷に居れば、白花ちゃん桂ちゃんを導けるし、サクヤさんや叔父さん叔母さ
んの助けも望めますし……如何でしょう?」

 誰が来るにせよ相手次第、そう考える事で。
 羽藤の大人は若杉に、答を返すと意を決し。

 わたしは又我を押し通してしまったのかも。
 でも羽藤の血筋は頑固の血筋でもあるから。

「あたし達の審美眼は、けっこう厳しいよ」
「柚明ちゃんは男にも女にも甘すぎるのよ」
「我が家の小姑はかなりの強者揃いだから」

 わたしの夫になる人は、結婚自体が禍かも。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 甘やかに愉しい日々は、風の様に過ぎ去り。
 経観塚・羽様の安穏な日常は、普段通りに。

「若杉君、はいこれ」「携帯ストラップ?」

 和泉さんは朝の教室で無造作にそれを渡し。
 やや驚いた表情を見せる史さんに、続けて。

「春の日は、ごめんなさい。あの時の応対は、あたしも悪かったと思うから。携帯ストラ
ップを壊しちゃったから、これはその代りに」

「金田さんはユメイちゃん一筋だと思っていたけど……ぼくに乗り換えてくれるのかな?
 ユメイちゃんに惚れたぼくとしては、女の子でもライバルが減れば嬉しいけど、ぼくも
結構一途でね。君の想いには応えられな…」

 残念賞。和泉さんは史さんの言葉を遮って。

「壊した侭じゃ居心地悪いから。ゆめいさんがあたしのたいせつな人なことは変らないし、
ゆめいさんに何かと付きまとう若杉君が迷惑なのも変らない。これは借りを返しただけ」

 要らないなら捨てても良いよと和泉さんは。
 渡す事が大事で、後の扱い迄は縛れないと。

 史さんはいつもの静かな笑みを絶やさずに。
 その場でストラップを携帯につけて。でも。

「壊れたストラップは……取らないのね?」
「端が欠けてしまったし、色も薄れたけど」

 脇からのわたしの指摘に史さんは頷いて。

「壊したのはぼくの失態で、贈った人の咎じゃないから。女の子からの好意は断らない主
義だけど。返せと言われる迄返さないのも」

「それも、誰かからの贈り物だったんだ?」

 和泉さんが得心したのは、その扱いが他と違って見えたから。大事にしていると分った
から。故に和泉さんも罪悪感を抱き、返さねばと思った訳だけど。若杉は時に自身の真の
想いも任務に使う。彼はたいせつな人に貰った大事な品を、敢て壊して和泉さんを怯ませ、
わたしに近しくいる為の障害を後退させた…。

「あげた物を返せとは言わないけど……今後もゆめいさんに付きまとうなら、ゆめいさん
の迷惑にならない様にして」「留意するよ」

『もう付きまとわないで』が『迷惑にならない様に』に変ったのは。彼の目論見の成功を
示すのか。その行いが唯の嫌がらせではなく、意味のある所作かもと和泉さんも察した為
か。

「参ったよ君の想い人には……折角本当に大事な物を自ら壊して、罪悪感を抱かせたのに、
代りの品を贈ってくるとはね。効果半減だよ。これじゃ、好き放題に君につきまとえな
い」

 放課後、2人きりの場で彼が、和泉さんの企みに協力したわたしへ、苦情を述べるのに。

「和泉さんのまっすぐな性分を知っていれば、この位の返しは想定できていたでしょ
う?」

 むしろあなたは、このやり取りを通じ和泉さんと打ち解ける事で、障害を弱めようと…。

「そこ迄読めていれば諸葛孔明だよ」「日本の太公望・藤原不比等と同名のあなたなら」

 無理じゃないのではなくて。そう応えると。

 彼はそう言う事にするよと、苦笑いを浮べ。

「若杉の、と言うより式部さんの提案に、ああいう答を返すとは。お陰で君の夫になり損
なったぼくは、夏休みを前に転校指令だよ」

 前振りもなく重要な話しを彼は振ってくる。でも、羽藤が若杉に返した答の結果、わた
しの夫になる途を断たれた史さんが、若杉上層から異動を命じられたのは事実らしく。こ
の展開も、わたしの願いの範囲にあったから…。

「任務失敗にはならないのでしょう? 始める前に、わたしの夫になる前にその任務が中
止になったのなら、あなたの経歴に傷は…」

「もしかして、そんな事を気遣ってくれたのかな? 確かに正式な失敗にはならないけど、
女子高生の夫になりかけた後で断られるのは、人目にも男心にも傷つく展開だと思うな
ぁ」

 いかにもの困り顔は本心を隠すと言うより。
 本心を使ってわたしの反応を引き出そうと。

 彼は最後迄若杉の使命に全力で挑む以上に。
 羽藤のわたしの本心を知りたいと望んで…。

「純真な男心を傷つけても、守り抜く値はあったと思うわ。たいせつな人とあなたの絆を、
わたしとの結婚で長久に断ってしまうより」

 史さんも年頃の男子なら、心に決めた女の人がいて不思議はない。いかに若杉の命令と
は言え、いかに鬼を討ち人の世を守る鬼切部の使命とは言え。結婚は人の一生を左右する。

 離婚という方法もあるけど、わたしの監視が任務で使命なら、その為に夫になるなら期
間はわたしの一生だ。それは史さんの人生を縛り、彼を想い想われた女の子を哀しませる。

「あなたが特定のある人を、心底たいせつに想っている事は分るから。哀しい末は視たく
ない。後は、誰がどう動けば良いか見通せば。今回あなたは動けない。動けたのはわた
し」

「君はぼくの為にあんな答を若杉に返したと言う積りかい? 冗談! ぼくは君の監視で、
君を悪鬼と報告したなら、抹殺に繋るその見極めを委ねられている。今この瞬間も。君も
分ってない筈はない。この関係の危険さを…。

 報告次第で、君も君のたいせつな家族も皆殺しになる。生殺与奪を握る立場にいるのは
ぼくなんだ。君は子猫の前で蹲る虎を気遣っている。敵に準じる若杉の手先を前にして」

「あなたが言ってくれたでしょう? お互い縁あって同じ高校に通うクラスメート、大事
なお友達って。この暫くで幾つか分った事もあるし……若杉史は羽藤柚明のたいせつな人。
公正で思慮深く粘り強さと打たれ強さを兼ね備えた賢明な人。勿論羽藤の答は羽藤を最優
先にした答だけど。それだけじゃない。叶う範囲で他の人の幸せも守り支え助けたいから。

 互いの過去や立場がある事は承知の上で。
 譲れない処を尊重し合えば関係は保てる」

 若杉史の使命は羽藤柚明の抹殺ではない。

 わたしが人の世に害を為す者ではないと。
 しっかり見て分って貰えれば共存できる。

 その為にも監視の仕事に励んで貰う事が。

「仮にわたしがあなたの目で見て、人に害を為す悪鬼だったなら。そんなわたしに最愛の
幼い双子を、正しく導く等叶わない。むしろ討って貰う事、討たれる事が人の世の為…」

「君は、ぼくの判断がこうなると読んで?」

 彼の問は確認程の意味もない。答を分って訊いている。だからわたしはかぶりを振って。

「深読みや関知の『力』を使う必要はないわ。

 鬼切部の使命は、悪鬼を討って人の世の安寧を守る事。若杉史は鬼切部の使命に忠実に
励む。わたしは人の世に害を為す者ではない。鬼切部の使命に忠実で有能な人が、羽藤柚
明をしっかり監視すれば、こうなるのは自然」

 黒い双眸が見開かれたのは、本心からか。

「あなたは若杉の信任に応え、厳格に適正に使命を任務を遂行した。その誠実さはわたし
との信頼も繋いだ以上に、サクヤさんを含む羽藤と鬼切部の関係を繋いだ。あなたはわた
し達家族の恩人で、間違いなくわたしのたいせつな人。恋人にだけはならなかったけど」

 あなたには特別な唯独りの人がいる。あなたを特別な唯独りと、想ってくれる女の子が。
その仲の成就がわたしの願い、わたしの望み。わたしがあなたの一番になる事は、欲しな
い。

「わたしの手があなたに届かない事が、あなたの手がわたしに届かない事が、互いの幸せ。
わたしがあなたの妻になる以上に。あなたが一番に想う人を諦めて、一番ではないわたし
と結ばれる以上に。あなたを一番に想い想われた女の子が、望みを絶たれる事が可哀想」

 元々わたしの監視任務を受けたのも、その子の為なのでしょう? そのストラップをあ
なたに贈った女の子。わたしより一つ年上で、若杉の任務を行う課程で、鬼の禍を受けた
…。

「君はさらりとぼくの核心に踏み込むね!」

 少し踏み込みすぎたかも知れない。相手の反応を探り合う会話は彼の好みと、合わせて
来た積りが。史さんは、最早困惑を隠さずに。

「ぼくや彼女に慈悲や貸しを与えた積りなら、意味は薄い。ぼくは恩に仇も返すし、彼女
は今ここでぼくがこの任務を為しているとも理解できないから、君の恩義も……空振りだ
よ。

 若杉の命令で動くだけのぼくが、君の監視から離れて、してやれる事は何もない。君は
君と羽藤の提案通り、ぼく以外の若杉の男と、顔も見た事のない誰かと結ばれれば良い
さ」

 言い募り、わたしの反応を見ず答を待たず。
 若杉史は、監視対象の前から足早に去って。

 以降彼は2人きりの場を望まず。他の人がいる時も、執拗な程関って来たのが嘘の様に。

 距離を置いて監視という考えも、あるけど。
 わたし、彼に嫌われてしまっただろうか…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「織物が出来たので沢尻さんに連絡します」

 翌週に期末試験を控えた平日の夜、羽様のお屋敷でわたしは大人に完成した反物を見せ。
幼い双子が目を輝かせてくれるのは、人様に披露できる品質の物に出来た故だと想いたい。
価格も合意できた今は、早く沢尻に渡したく。と言うより沢尻が早くお金に換えられる様
に。

「前より尚出来が良いよ」「きめ細やかね」

 サクヤさんや真弓さんにも、褒めて貰えて。
 正樹さんも人手に渡るのは惜しいと好評を。

「柚明ちゃんは就職も不要に、これで生計を立てていけるかも知れない。芸術家や文筆家
や写真家の様に、資格も雇い主も不要にね」

 そう言えば正樹さんも病の故に学歴は大学中退で、資格も車の運転免許位だけど、著述
家兼郷土史研究家で。蓄積した知識や眼力で、経済関係の評論を雑誌掲載して本を出した
り、経観塚郷土資料館の監修等で収入を得ていた。

 わたしが高校卒業後も羽様に居続けるなら。役場や農協に職を望む他に。笑子おばあさ
んに学んだ幾つかの技能を、活かす手もあるか。詩織さんを助けたくて志し始めた医学の
途は、羽様にいては実現が難しいと分っているから、通信教育などで取っ掛りを掴んでお
くとして。

「写真家として言わせて貰うなら、柚明の美的センスは少し大人し過ぎだね」「あなたの
美的センスが外れすぎているのよ、サクヤ」

 サクヤさんがわたしや真弓さんに、選んで着せたがるセクシーすぎる衣装を思い返せば。
真弓さんの混ぜっ返しも得心行くので。敢て否定せず、柔らかな双子を間近に抱き留めて。

 正樹さんからの話しにみんなで耳を傾ける。

「経観塚の郷土資料館から、歴史的遺物の詳細な調査研究を頼みたいと話しがあってね」

 郷土資料館からの依頼というのは、形式で。

 正樹さんは古鏡・良月を始め羽藤の遺物を。
 返さなねば法的手段に訴えると伝えた結果。

 沢尻さんが泣きついて役場を動かした様だ。

「郷土資料館が収蔵・展示している羽藤の遺物を、調査研究の名目で羽様のお屋敷へ移し。
返却を有耶無耶にする事で許して欲しい?」

 公の施設に収蔵・展示された以上、今更理由もなく遺物を移せない。理由を聞かれれば、
沢尻の過去の所業が明かされる。沢尻は何とか汚点が付かない様に、様々な理屈を考えて。

「沢尻が遂に折れてきたかい。いい気味さ」
「その申し出、受け容れるのですか……?」

 サクヤさんがウインクと笑みを見せるのに。
 真弓さんは正樹さんの納得の有無を注視し。

「本当は事実を全て明かして、堂々遺物を取り返したいけど。相手が徹底抗戦すれば、訴
訟になって年単位の時間が掛る怖れもある」

「調査依頼を受けてしまえば、沢尻さんの提案を了承したと、夫妻は受け取るでしょう」

 現物を抜きに調査研究は出来ず。依頼の受諾は遺物を預る事で。沢尻提案の了承と受け
取られかねず。この辺りは若杉との和解交渉に近いか。断れば断交を意味しそうな辺りも。

「その後で実は了承してないと、遺物を郷土資料館に返した上で、再度返還を求めれば」

「沢尻さんとの関係が拗れてしまいそうね」

 真弓さんがわたしの心配を補ってくれると。
 調査研究を天職とする正樹さんは少し迷い。

 真弓さんは、正樹さんが迷った侭判断を下せば、悔いを残すと案じ。正樹さんはまっす
ぐな人だから、自身に疚しさを感じてしまう。

 そんな彼に囁いたのは銀の髪豊かな美人の。
 気楽そうな声音が実質を取ればいいのさと。

「返されるなら受け取ればいい。元々羽藤の物なんだ。受け取ってからどうするか考えて
も遅くないさ。その後で沢尻を許すも、許さないも正樹の判断で良い。元々沢尻が卑劣な
やり方で、信頼を壊した処から始ったんだ」

 責任は羽藤にない。それは本当に正論で。

「しっかり調査研究すれば、郷土資料館の依頼には応えた事になる。その後で郷土資料館
へ遺物を返しても返さなくても。遺物が手元にあれば選択の幅が出る。良月をどうするか、
沢尻にどう対するのかは、その時の判断で」

「サクヤさん」「サクヤ貴女」「確かに…」

 これは参考に出来る発想かも。笑子おばあさんの智恵に通じる様な。心を常に柔らかく。

「次は、若杉との和解についてね。サクヤ」

 あいよ。サクヤさんがわたしの両膝で寝入った幼子を両手に、寝室へ行って戻ってきて。

「若杉は柚明ちゃんの対案に、基本的に了承と応えてきたよ。だが、これで果たして…」

 本日電話で式部さんから答があったみたい。
 でも彼は婚姻の話しが進む事に複雑そうで。

「若杉は羽様への婿入りも婿の差し替えも了承した。但し婿の差し替えは一度とし、どう
しても問題があるなら、離縁で対応すると」

 結婚後に離縁となると結構な面倒が生じる。
 簡単に何度も差し替え時間稼ぎされるのを。
 阻むと同時に羽藤側の意向も多少は容れて。

「最後に婚姻時期について、入籍は柚明ちゃんの高校卒業後で了承するけど……披露宴や
婿入りは、夏休みにも速やかに進めたいと」

 若杉は和解を決着させたい様だ。今更ひっくり返す積りは羽藤もないけど。長々続けた
くないのか。式部さんが成果を示したいのか。急がねば史さんの様に差し替えられるのか
も。

「未だこっちは、名前も顔も見てないだろ」
「まずお見合いです。人柄も分らないのに」

 サクヤさんも真弓さんも闘志に満ち溢れて。

「向こうは式場やウェディングドレスの選定、参列者の根回し迄しているらしい。婿が史
君でなくなっても、警察署長や役場幹部・田中県議や、更にその上を招こうとしている様
で。ぼくからは日程ありきではなく人ありき、当人同士の納得がないと、絶対了解しない
と」

「当然です! しっかり釘を刺して下さい」
「名士揃えて受諾を強いるとか何時代だね」

 サクヤさん真弓さんは正樹さんに詰め寄り。

「柚明ちゃんは今、贄の血の力を使える唯1人の羽藤の家族なの。幼い双子の先達として、
末永く傍にいて貰わないと困る以上に、わたしや白花や桂のたいせつな可愛い家族なの」

「笑子さんからも柚明の父母からも、柚明を宜しく頼まれているんだ。嫁にも出す積りが
ないあたしの柚明を、顔も見た事のない何処ぞの男に盗られるなんて……冗談じゃない」

「ぼくも同じ意見です。余りにも話しが急ぎすぎだ。柚明ちゃんも感受性鋭い思春期だし、
しっかり相手を吟味しないと後に悔いを…」

 火がついてしまった2人は鎮められない。

「わたしも桂も白花も未だ婿を認めてない」
「柚明を易々くれてやる訳には行かないよ」

「いや……気持は分るけど。落ち着いて…」

 なのでわたしは暫くその推移を見守って。

「柚明ちゃんはどんな男にも女にも渡さない。どこの誰でも奪いに来る者は切り捨てま
す」

「柚明は何処の男や女の好きにもさせないよ。ずっと桂や白花やあたしと共に過ごすん
だ」

 ずっと桂ちゃん白花ちゃんや、サクヤさん達と過ごせるなら。それは最高に幸せだけど。
未来永劫羽様に留まり続けても良い程だけど。羽様で告白を待つ約束もした。例え人妻に
なって断りを返す結果が見えても、真沙美さんも和泉さんも想いは途絶えない。せめてわ
たしはその告白に、全身全霊で向き合わなくば。

「柚明ちゃんを守るのはわたしの責務です」
「柚明の意思よりもあたしが守りたいんだ」

 2人ともわたしの真意は分ってくれている。その上で無理強いな結婚にならぬ様に、厳
しく応対してくれている。そう分るから正樹さんも、困惑の中に嬉しさが窺えて。わたし
も。

 正樹さんの交渉にこの身を委ねる事として。
 羽様は今年も槐の花が咲き誇る夏を迎える。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 月日は戻る事なく着実に進み。提案に対して返した答は、相手の次の反応を招き寄せる。

 期末試験も近い夏の日の放課後、図書室で。

「今年も夏休みの間、それぞれに課された条件を満たした小説を書いて頂く予定ですが」

「はい、はいはい賛成、わたし賛成ですっ」

 文芸部部長の高岡千秋先輩に進行を任され。
 中学校の手芸部の時の様に議事を進めると。

 あの時と同じ様に元気な挙手と声音が響き。
 わたしを追って経観塚高校文芸部に入った。

「はいはい難波さん。少し鎮まる鎮まる…」

 銀座通中の手芸部でわたしと深く繋った南さんを、勝手を知った高岡先輩が巧く操縦し。
その大多数がわたし目当てという新入部員の女の子22人を迎え、文芸部は44人の大所帯に
なり。部活が終ってもわたしを囲んでくれて。それはとても嬉しく有り難く、愛おしいけ
ど。

「和泉さん、ちょっとお願い」「ょーかい」

 感応の『力』を及ぼす迄もなく、人の意識を誘導し、又はその間隙に身を置けば。四十
数人に気づかれずに、身を隠したり、抜け出す事は叶うけど。わたしに執心な人はいずれ、
不在に気づくから。その後の収拾をお願いを。

 和泉さんはわたしの求めに、説明も理由も不要と頷いて。史さんとの時間を作る助けを。

「あれ、ゆめい先輩? どこ行っちゃったかな……松本先輩、金田先輩、知ってます?」

「今日は帰ったかな。バスの時間も近いし」

『南さん知花さん琴音さんごめんなさいね。
 この埋め合わせは後でしっかりするから』

 後ろ髪引かれる心に響いてくるのは、筒井琴音さん小林知花さんが南さんに話しかける。

「駐。先輩、時々忍者の様にいなくなるね」

「そーそー。その瞬間まで隣にいた様な気がしていたのに、気がつくと……奇術だよね」

 似た様な事を直後に史さんからも言われた。
 余人を巧く遠ざけた科学準備室で2人きり。

「君は一体どんな魔法を使って、式部さんの目論見を潰したんだい?」「なんのこと?」

 鬼の裏返りも徐々に間隔が開いて、ここ一ヶ月位なくて。その間は死ぬ程の苦痛だけど、
何度か凌ぐとどの位の時間で終るか、どれ程の苦悶が頂点か悟れ。終りを待てば良いと割
り切れて。それでも彼のお世話になったけど。

 羽藤柚明監視の任を解かれ、明日に県立経観塚高校の生徒でなくなる彼は、脱力気味で。

「婿入りがなくなった。若杉は婚姻抜きで羽藤と和解を決めた。こんな展開は初めてだ」

 わたしは未だその話しを聞いてない。羽藤の大人も朝時点ではそんな情報は持ってなく。

「式部さんの呻き声の気持が分る。羽藤は若杉の要員を、ふるいに掛けているみたいだ」

 式部さんの最初の蹉跌は、田中県議だよ。

「彼は世話好きで利用し易い一方、一本気だから拗らせると面倒でね。ぼくは巧く取り入
って気に入られたけど。夫を差し替える段で、都合良かった部分が逆に障害になって。若
杉史と羽藤柚明の婚姻だったのに何の積りかと。誰でも良いなんて話しがあるかと怒り出
し」

 彼は彼なりに若人の幸せを願っての行いで。
 若杉に利用されている等と思ってないから。

 突然顔触れが変ったのに進む結婚の手筈に。
 尚従う役場の幹部や警察署長へ苦言を呈し。

「式部さんは彼の後ろ盾である松下元総理に、彼を抑えさせようとして、深みに濱って
ね」

 松下元総理は、君を知っていたんだって?

 地元名家の婚姻を仲介し田中県議が名声を得る。それに花を添える積りで居た元総理は。
改めて誰の結婚か訊ね県議から事情を聞いて、若杉史は知らないけど、羽藤柚明は承知だ
と。

「若杉御大に直通電話が入ってね。羽藤柚明は成人後に元総理の孫・竜吾さんと見合させ
るから、暫く婚姻の話しは控えて欲しいと」

 確かにそんな事も言っていた気はしたけど。

『一番下の孫が君の一つか二つ上なのだがね。ロックをやりたいとか言って突然髪を立た
せて茶色に染めて、全く何を考えているのやら。地元も親戚も呆れかえってね。君の様な
才色兼備の大和撫子に、添い遂げて貰えれば…』

 社交辞令と思っていた言葉がまさかここで。

「御大も元総理の求めは断り難い様でね。トップダウンで婚姻無しの和解が決裁された」

 ということは。わたしは喋りつつ考え考え。

「史さんが外された任務を完遂する人が出ない展開は、史さんの立場に多少はプラス?」

 わたしの問に、彼は皮肉げな笑みと声音で。

「あぁ全く有り難い事にね。監視対象の5つも年下の小娘に、婿入りを拒まれその後を心
配され、幼馴染みの存在迄暴露され。本当に立つ瀬がない。唯一の救いは明日で君の前か
ら姿を消せる事だ。後任を心底哀れに思うよ。君程図太く不敵で面倒な監視対象はいない
…。

 君には当分更に厳重な監視がつく。誤解を呼ぶ動きは控える事だ。中には葛子さんの様
に寝た子を起こして討ち取って、功績にしたいと考える、悪鬼に勝る者もいる。君を追い
込み裏返らせ、一度鬼になった者は必ず鬼に堕ちると示し、君達の皆殺しを望む者もね」

「でも、あなたはそういう者ではなかった。
 その事は為されたわたしが、分っている」

 彼はわたしの答にも今更驚く素振りはなく。
 だからわたしは彼が心底驚いていると分り。

「あなたが執拗にわたしを挑発して、裏返りを促したのは。わたしが己の感情を抑えきれ
ない悪鬼だと示し、討伐したかった若杉上部の意向よりも。わたしが鬼を抑え切れたなら、
鬼の制御・操作の実例を間近で見られ、手法の確立に進める・進みたいあなたの意向…」

 あなたの執拗さはわたしへの敵意ではなく。
 若杉への忠誠より更に別に愛しい人のため。

 意志の力で鬼の裏返りを防げる実例を示し。
 あなたの愛しい女の子を生命繋ぎ救おうと。

「鬼の裏返りを抑え解消させる研究の継続と、その身の保全を訴えようと。でもその為に
わたしと結婚してしまっては、例え彼女が完治しても。あなたの残念さ以上に彼女の方
が」

 彼を庇って鬼の反撃を受け、鬼の因子を宿し、裏返りの怖れを秘めた女の子。史さんの
幼馴染みで、恋心抱き合いつつも告白に至ってない微妙な仲は、2年前に砕かれ。鬼切部
が鬼を出す訳に行かないと、彼女は厳重隔離され。鬼になった者を人に戻す研究の実験体
に供する事で、当面の生命は繋れているけど。

 事故や不幸な経緯から鬼に裏返る者はいる。
 味方を無辜の民を切るのみならず治せれば。

 取り戻す事が出来ればどれ程素晴らしいか。
 でも現状鬼の抑制の手法解明は困難を極め。

「彼女は身内の若杉だった事、使命遂行中の公傷だった事や、あなたが傍に添って守り続
け、上部に取りなし研究名目で、何とか生命繋れたけど。手段を尽くしても中々改善せず。

 以降彼女に添う事に専心し、鬼切部の任務さえ避けてきたあなたが、その傍を外す事を
承知で受けた。功名も富貴も欲さず、大切な人の治癒快復のみ願う、あなたが受けた使命
なら。わたしの特性に理由が潜む。駐。柚明を見て知って、深く掘って解明する事で希望
に繋げたい。その為のあなたの任務受諾…」

 他の若杉なら、己の鬼の反動を見た時点で、討伐対象と報告して自然で。逆恨みでも葛
子さんとの過去があり、サクヤさん真弓さんに連なる駐。のわたしに、好意的な若杉は多
くない。順当に進めば駐。柚明は、即処断か研究材料として終生隔離監禁だった。でも彼
は特に指示のない事を逆手にとって、厳正に任務に努めて上部の意図を越え。この今を導
き。

「全てお見通しだった訳かい? 君は全く」
「あなたのわたしへの対し方を見ていれば」

 概ね悟れてくると思うけど。そう答えると。
 悟れる方が尋常じゃないよと、彼は苦笑い。

「君は本当に男にも女にも必要以上に甘いね。
 遭った事もないぼくの幼馴染みを気遣って。

 自身を政略結婚に差し出す事を了承しつつ。
 ぼくを政略結婚の任務から外してくれる」

 元総理の絡みは誰にも想定外の天災に近く。
 何もなければ君の婚姻は今頃成立していた。

「でも、全くの幸運に見えて……これは君だから招き寄せられた、巡り合わせの末なのか
も知れない。君以外の誰にもこの結末は導けない。君にしか招き寄せられない結末の形」

「それは、わたしが導けた結末じゃないわ」

 松下元総理との出逢も、正樹さんのコラムを出版社の人が支え、読者が好んでくれたお
陰で。咋夏若杉が真弓さんの首都圏行き・出版祝賀への随伴を承諾していれば、代りにわ
たしが行く事もなく。大野先生がわたしと美咋先輩に獣欲を抱かなければ、葛子さんや相
馬との諍いも生じなかった。物事は絡み合っている。己が為せた事はごく一部でしかない。

「かも知れないけどね。そこに君が介在してなければ、絶対生じなかった事柄や人の縁が
あるのも事実さ。それが回り回って君の守りになったのも、幸運なら空恐ろしい幸運だ」

 史さんは皮肉っぽい笑みを絶やさず語り。

「君のあり方は参考になったよ。ぼくが解決を望む事柄に、それをどれだけ役立てられる
かは不確かだけど……逢えて良かった。この使命を受けた事は、ぼくには正解だったよ」


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