第16話 己が終る瞬間迄(後)
歩み去る気配を察してわたしは彼を留め。
わたしからも彼に告げるべき事があった。
この様に2人きりで語らう場が最後なら。
「人の定めの絡み合いは容易には解けない」
わたし達は、互いの為人を深く知り合った。それぞれの守る物・譲れない物・目指す物
も。互いに敵意も憎悪もなく、諍い合う必要がない事も。再会できたならどんな時や場面
でも、互いに共通の基盤の上で対峙して話し合える。
「今後も宜しくって言われてもね、君の監視を外れたぼくは、君との接触はもう多分…」
言いかける彼の言葉が終るのを待たずに。
わたしは頭を振って己の想いを言の葉に。
「少しでもわたしがあなたの役に立てたなら、わたしの幸い。少しでもわたしが、あなた
の一番の人の為に役立てたなら、わたしの幸い。あなたは紛れもなくわたしのたいせつな
人で、あなたの愛しい人はわたしも同じく愛しい人。
わたしが今迄どれ程あなたの願いに応えられたか、分らないけど。わたしが今後あなた
の望みにどこ迄役立てるかは、分らないけど。一度結んだ絆を、わたしは解れさせない
…」
彼の両手を両手で掴んで胸元に持ち上げて。
黒い双眸を正面からその奥の奥迄見つめて。
「和解が成立すれば、駐。も若杉の鬼切りに協力出来る。百戦錬磨の剣士や術者に分け入
って、戦場で鬼を打ち倒す役に立つのはわたしの技量では難しいけど。鬼に裏返った者を
人に戻す術や、裏返りの芽を制御し抑え、傷を与えず摘み取る事に。駐。として協力も…。
わたし達の絆は解れない。解れない事が次の巡り合わせを招く。あなたが経観塚に来て
わたしと会えたのが偶然でないなら、この後の互いの関りも双方で選び取った運命よ!」
「君は……まさか、ぼくの、願いを直接…」
彼の笑みが初めて途絶えて、狼狽が窺える。それがわたしには不思議だった。明晰な彼
が、わたしのこの位の応対を予期してないなんて。
「わたし達はもう知らない仲じゃない。敵対関係でもない。監視役でなくなったら尚の事。
会う事に制約が掛るならわたしから解かせる。鬼切りの課題除去の為なら、協力の一環な
ら若杉も断れない筈。わたしはあなたの為にも尽くしたい。あなたの愛しい人の為にも
…」
それが人の世の平安を守るなら。白花ちゃん桂ちゃんの生きる世をより安穏にするなら。
協力は惜しまない。若杉に問題が多い事は承知で。積極的に関り支えて改善を望むべきだ。
「そうして君は若杉さえ籠絡していくのか」
彼は二、三歩仰け反って後退し、顔を伏せ。
暫くの間、深呼吸し、顔を隠す掌の間から。
「見事に填められた。否、ぼくは実は最初から君に填められ終っていて、認めたくないと、
足掻いていただけなのか……5つも年下の娘に掌の上で転がされるとは。いいよ、もう」
上げた顔はいつもの不敵な笑みだったけど。
「ぼくから連絡するよ。君の助けがあると大きく助かる。鬼を抑え制御する君の心と体の
あり方を、ぼくの助けに是非使わせて欲しい。君はもう分っているんだろ? 彼女の名
を」
わたしが頷くと彼はもう一段苦い笑みを。
でももう手の内を隠す間柄ではないので。
「関知や感応の力で知ってしまったとはいえ。
誰からも報されてない名を関りの薄い身で。
特に彼女を深く想う史さんの前で軽々しく。
呼ばう事・口にする事は、憚られたから」
名を報せる事は古代には、添い遂げる事の許諾を意味した。若杉は鬼を切って人の世の
平安を保つ、古き使命を今に引き継ぐ者達だ。わたしの不作為の意味は史さんにも伝わっ
て。
「助けを求めてしまったから、名も教えるよ。
ぼくが一番に想い何が何でも救いたく願う。
鬼の因子を植え付けられ正気を喪わされた。
佐藤ゆめ……結ぶに女と書いて結女……」
だから彼はわたしを他人事と捉えきれず。
わたしも彼を他人事と突き放せなかった。
「君より一つ学年が上の18歳。若杉史がこの世で己自身よりも優先できる只1人だよ…」
巡り逢いは繋げれば次の巡り逢いを生み。
望む限りどこ迄も良い連関を導き行ける。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
今週末から夏休みへ突入という平日の夜に。
離れの倉を独り整理していると訪れたのは。
「おや、機織りでなかったんだね」「はい」
窓から差し込む満月の蒼光の中、棚の整理の手を止めてわたしは、銀の髪の長い女性に。
「駐。の遺物が返還されて来る前に、置場の確保にと整理していました。ここにある物も、
来歴の不定かな物や呪的な効果を纏う物もあるから。扱いに慎重を期する物は印をつけ」
手に持っていた木箱を棚の左隅に置いて。
ここ数日は使っていない機に手で触れて。
「暫く機織りはお休みです。根を詰めすぎて、足踏み板……ペダルを痛めてしまいまし
た」
多く流通してない品物なので、取り寄せに時間が掛る様で。騙し騙し何とか使い続けた
けど、もう限界に近く。他にも各所に傷みが来ているから、大規模な修繕が必要かもって。
「笑子さんの前から使われていた機だから。
傷みが来ていても不思議でなかったけど。
最近は笑子さんも歳だったから、使う頻度が落ちて、保っていたのかも知れないね…」
「わたしが、使いすぎてしまった所為です」
機を織る作業が楽しく、反物を待つ人に届けるのが嬉しく。今回は沢尻さんが早くお金
に換えられる様に、博人の学資に出来る様に、急いていた。それが弱った機に負荷となっ
て。
「おばあさんが残した大切な機を、わたし」
「いつか換えなきゃならなかった消耗品さ」
倉の中に入り込んできた白銀の美しい人は。
背後からわたしの右肩に柔らかに手を置き。
「笑子さんも若かった頃は、正樹やあんたの母親の学資にと連日連夜織り続け、部品が次
々傷んでさ。織り上がれば部品代を出しても収支はプラスになる。それでも今のあんたと
同じく、壊れた部品を悼む優しさを見せ…」
「……こうして夜に機を織りつつ、サクヤさんのオハシラ様とのお話しの帰りを、待って
いたんですね……笑子おばあさんらしい…」
明日出立する話しは既に聞いていたけど。
羽様を少し離れる前にご挨拶をする為に。
ご神木へ行って来たんですねとの確認に。
「うん……夜の方が、昼のご神木よりあたしの声が届く様な、あたしもオハシラ様の声が
分る様な、錯覚だけどそんな気がするから」
観月の民は人に較べ嗅覚や聴覚が遙かに優れるけど。感応の『力』はほぼ皆無で。夜風
に乗せて麓のわたしに届く程、明瞭な彼女の想いも届かない。だからそこはわたしが補う。
「サクヤさんの言葉は確かに届いています。
オハシラ様のサクヤさんへの想いも同じ。
その錯覚は今夜に限って間違いじゃない。
オハシラ様はサクヤさんに、行ってらっしゃいって。元気に頑張って帰って来てって」
政略結婚不要で若杉との和解は成立した。
サクヤさんの立場は相変らず微妙だけど。
『駐。のたいせつな人に危害加えない』条件は今迄と同じだから。数十年前の事案を巡る
確執は未解決だけど。若杉は出版・報道業界に圧を掛け、真実を抑え込む今迄以上の応対
は考えてない。と言うより考えつけない様で。それで真実を秘しているから良いとの感触
で。
サクヤさんも今迄の推移を見てこの和解が。
信用に足ると判断でき漸く仕事へ戻る事に。
写真家としての仕事の依頼は結構来ていて。
駐。が彼女を留めた様な状況が続いたから。
少しの間の離れ離れには寂しさもあるけど。
漸く安心して送り出せる今は幸いと言えた。
「有り難う柚明。あんたがそう言ってくれる事で、あたしも己の錯覚に自信を持てるよ」
サクヤさんの近い未来に禍の像は視えない。
若杉関連でも諍いになる事は暫くない様だ。
サクヤさんも今あの事案を蒸し返す意向はなく。当分は仕事に励む積りで。わたしの姿
もその傍に視えない事は微かに気懸りだけど。己の姿は真弓さんや正樹さんの傍にも視え
ず。
「次はどこへ行くんですか?」「九州だよ」
撮るのは花鳥風月だけど、時期は秋口でね。
博多の出版社で打ち合わせる必要があって。
それが終ったら、一度羽様へ帰ってくるよ。
もう半月程でオハシラ様のお祭りだしねぇ。
九州・博多と聞いて思い浮ぶのは福岡の。
「平田……詩織さん、かい?」「はい……」
不治の病に侵されて、療養の為に遠くへ転院・転校してしまった、たいせつな人。逢え
なくなって5年近く経つ。手紙のやり取りは続けてきたけど。直に訪れる事は出来てなく。
【写真送って下さい。ゆめいさんの最近の姿を見たい。でもわたしの写真は暫く勘弁して
……薬の副作用とかで、現状見た目も可愛いと言い難いので。我が侭だけど、ゆめいさん
には転校前のイメージを抱いていて欲しい】
それは彼女の意向もあったけど。それ以上に己の周囲に蟠る禍の芽の故に。わたしに憎
悪を抱いた若杉の若木葛子さんの『死のリスト』には、従姉妹の仁美さんや可南子ちゃん、
杏子ちゃんや詩織さん迄載っていた。葛子さんは失脚したけど。若杉と和解は出来たけど。
『わたしは、容易に羽様を離れられない…』
それは贄の民がオハシラ様の守りのある羽様を離れる事が危うい以上に。己に不慮の事
態があれば、最愛の双子を哀しませる以上に。贄の血が比類なく濃い幼子を導く『力』の
使い手が不在になる事とも別に。贄の血の濃い者は、生れ持つ定めの大きさ故に、好悪の
別なく周囲の定めに波紋を及ぼしてしまう様で。
裏返りの怖れを胚胎する前から。己が詩織さんに禍を持ち込みかねず。オハシラ様の守
りは、それらの禍を未然に防ぐ効用もあって。
訪ねる事が禍となる。特に最近の彼女は病も重く、微かな変動も生命の明滅に直結する。
変動が少しでもマイナスに振れたら、その瞬間生命が潰えて次もない。精神的にも肉体的
にも呪術的にも、変動は極力避けねばならず。
それはオハシラ様への応対に近い。昨秋鬼切部との諍いの際に、自らを鬼と化して以降、
冬になって山奥へ行き難くなった以上に、いつ裏返るか分らない己の状態が、悪しき変動
を及ぼさぬ様に、ご神木へずっと行けてなく。
『行けない。わたしは、行く事が出来ない』
詩織さんの病は二十歳の生存率が半分に満たぬ上に、治療法も未確立で、快復の見込も
悪化を防ぐ術もなく。時計は着実に時を刻み。病状の悪化は『力』を使う迄もなく感じ取
れ。
届く手紙も一昨年からワープロ打ちに変り。
手書きが難しい程に握力が落ちて来て更に。
自身で打てず口述筆記を頼む状況になって。
それを知られたくない気丈さも、わたしを心配させたくない配慮も、想いが届かなくな
る事への怖れも、行間に読み取れ。想いは確かに届いているよと、書き綴り励ましたけど。
最新の手紙は3月だった。でもわたしは深傷の治癒や鬼の反動から、暫く返事を書けず。
連休前に何とか送ったけど、彼女の返書は未だなくて。今迄は大抵一月以内に返書が来た
から。己の返事の遅れが影響を与えたのかも。
「……手紙かい? あたしが預った方が速達より早いだろうね。明後日朝には福岡だし」
詩織さんの手紙には。崩れゆく気力体力を立て直そうとの悪戦苦闘や苦衷が滲み。解れ
行く蜘蛛の糸を掴もうと。わたしの返信を生きる力に、最後の救いにしようと必死だった。
手を握って励ませたなら。間近に語りかけ、直に声を聞いて頷き。瞳を合わせ、胸に抱
き、頬擦り合わせ。唇寄せて肌身繋げ、己の全てでその悲嘆と絶望を、受け止め支えたか
った。
わたしはそうすべきだったのかも、或いは。
そうせねば、ならなかったのかも知れない。
【わたしの憧れた人、わたしの恋した人、わたしの心に踏み込んでくれた人、そこ迄大事
に想ってくれた初めての人、わたしのたいせつなひと。愛しています、羽藤柚明さん!】
そこ迄強く想ってくれたたいせつな人を。
そこ迄強く想いを寄せたたいせつな人を。
【わたしも、確かにあなたを愛しているわ】
その気にさえなれば日本国内だから、逢いに行く事自体は、数日学校を休めば叶うのに。
「手紙と写真をお願い。詩織さんに届けて」
わたしは、逢いに行くことが……出来ない。
わたしが最優先する人は詩織さんではない。
例え愛しい人を癒し救う術が己にあっても。
最愛の双子を擲って尽くす事は、叶わない。
わたしは愛しい人を幾人も幾度も踏み躙り。
詩織さんも、和泉さんも、サクヤさん迄も。
特にサクヤさんは、和解の結果、羽藤が若杉に繋って。サクヤさんの同胞を殺めた者と、
竹林の姫や笑子おばあさん、サクヤさんの愛した人がいた羽藤の家が身内に。それを繋げ
たのはこのわたし……己の苦味は己が堪えるのみだけど、愛しい人の悔しさ虚しさは、こ
の手では購えない。最早わたしには、愛される資格どころか愛する資格・想う資格もない。
最早謝る術もないので、別の頼み事に寄せ。
愛しいひとの間近で下げた、わたしの頭は。
柔らかな感触に受け止められ、包み込まれ。
白銀の髪長く美しい人は、無限の慈しみを。
「若杉との和解で、あたしに負い目を感じる必要はないよ。あんたは一番たいせつな人の
為に、不可欠な事を成し遂げたんだ。こうなった以上、白花や桂の日々の安らぎを保つ為
には、若杉との安定した関係は欠かせない」
長くしなやかな二本の腕に両肩を支えられ。
下げた頭は柔らかな胸の双丘に挟み込まれ。
降り注ぐ声音は慈愛に満ち、優しく静かで。
罪に焦がれる心臓を、宥め賺し落ち着かせ。
愛しい人は、わたしの悔恨を見抜いていた。
わたしが隠したから敢て余人の居ない場で。
「あんたはたいせつな人の為に、己を政略結婚に捧ぐ覚悟迄見せた。あたしも真弓も柚明
を犠牲にして安楽を掴む気は、なかったけど。相手次第で婿入りを考える処迄押し切られ
た。あんたの白花や桂に抱く想いの愛の強さにね。
あたしの若杉への恨みについての気遣いは不要だよ。あたしと若杉の関係は変ってない。
真弓が羽様に嫁した時の中身が更新されただけで。結局柚明は若杉の嫁にされなかったし、
仮にそうなっても柚明はあたしの愛し子だ」
一番の人にだけは今後も終生できないけど。
羽藤柚明は浅間サクヤの特にたいせつな人。
それは例え何がどうなろうとも変らないよ。
仮にあんたがこの胸に刃を突き刺してもね。
「サクヤさん……でも、わたし、わたしは」
「あんたの甘さ優しさ賢さは、あたしが良く知っている。今回で、これ迄の事で、あんた
が謝る事も出来ない罪悪感を、幾つも抱えている事も。それを承知で覚悟でこの途を進む
しかなかった事も。あんたはたいせつな人の為に最大限を為してきた。他の者には出来な
い事を、他の者には望めない事を、全力で」
若杉が全てを秘匿する為に懸命な状況では。
愛しい人の為にやむを得ず担う罪もあるさ。
「でもあたしに隠れて哀しむ事は許さない」
若杉が婿入りも諦め和解をするとなった時。
あんたは真弓やあたし達に頭を下げたけど。
「あれは未遂に終った婿入りで、周囲に与えた不安や心配への物で。謝って済まられる程
の物だったから。本当の苦衷をあんたは秘している。謝って済ませられない事への謝罪を、
償えない事への贖罪を。あんたは独り抱き」
肌身に伝わる柔らかさは無限の慈愛に満ち。
声音の静かさはこの身の焦燥を吹き冷ます。
「水臭い他人行儀は要らないよ。あんたの喜びはあたしの喜びで、あんたの傷み哀しみは
あたしの傷み哀しみだ。その愛の深さ強さの故に、柚明があたしに罪悪感を抱くなら…」
サクヤさんは敢てわたしの罪を晒す事で。
わたしが犯した全てを受け容れ許したと。
「妹が犯した罪は姉が償う。家族が犯した罪はみんなで償う。あたしもあんたの家族だよ。
仮にあんたに罪があるのなら、償える物でもそうでなくても、共に償い、共に罰を受ける。
あたしも柚明の全部を分けて負いたいんだ」
無条件の、無尽蔵の、無制限の温かな心が。
背信したこの身を尚愛おしみ抱いてくれる。
こんなわたしをどこ迄も肌に許し受け容れ。
哀しみではなく、愛しさの涙が止まらない。
『だからこの人にだけは絶対隠し通さねば』
かつて視た深甚な禍を回避できたのか否か。
それさえ今のわたしには見通せてない事を。
或いは既に、どこかでそれは起きていて…。
報せが届く時を、待っている状態なのかも。
今宵は月の輝きも届く静謐な青い夜なのに。幾ら視ようと試みても己の先行きは真っ暗
で。関知の力も及ばぬ闇に鎖され知り得ないのか、闇夜に何か起るのか、己の心が闇に沈
むのか。
視ようとすると、日の射し込む森の中、オハシラ様のご神木が、高々と堂々とそびえる
姿が映し出され。それはとても美しく力強いけど。槐の花の舞い散る像はいつの夏か分ら
ない侭、とても香しく心落ち着かされるけど。
若杉との婚姻が中止され、松下元総理の孫、竜吾さんとのお見合いは、申し込みも未だ
で。悪い兆しも視えない代り良い兆しも視通せず。この夏以降の自身の像が、全く何も浮
ばない。
オハシラ様の導きを頼るべきか。今のわたしは己独りの体ではない。十年位先に真沙美
さんと和泉さんの告白を待たせている以上に。傍に最愛の幼子が居る。わたしに生きる意
味を与えてくれた心の太陽が。何があってもどうやってでも守りたい慈しみたい、愛し子
が。
その導き手になる為に。贄の血の力の使い手は暫くわたし1人だ。桂ちゃん白花ちゃん、
愛しい贄の血の後輩を考え合せねば、己の未来は定められない。双子の人生の苗床を自ら
望み選んだ以上、それは至極当然なのだけど。
『サクヤさんは、漸く羽様を離れて仕事に出られる。昨秋からずっとわたしの所為で不安
に陥れ、羽様に縛り。自由を愛し変化を好み、風の様に吹き止まない愛しい女性を、羽藤
がわたしが長く止めてしまった。いつ迄も止める事は、決してサクヤさんに良くはない
…』
せめて1つお仕事を終らせた、晩秋か冬に。
その時まで見通せてなかったら相談しよう。
サクヤさんの存在に甘えすぎてはいけない。
羽藤が愛しい人の心を削り消耗させては…。
「んっ柚明。あんた……」「サクヤさん?」
抱き寄せられる感触が、少し力強くなり。
頭ではなく体が、サクヤさんに密着して。
気付かれたかも。サクヤさんは鋭いから。
わたしの想う事や望む事を見通して来る。
先程も己の内に秘した悔恨を見抜かれた。
思わず身構えて次の言葉を待つわたしに。
「あんた、最近漸く胸が人並みに、大きくなってきた様だね……顔形は整って愛らしい娘
だったけど、体型が長らく慎ましかったから。
笑子さんもあんたの母親も、グラマーではなかったから、少し心配していてね。妖精の
天使の可愛さ健やかさも良いけど。歳を重ねるとやっぱりお色気がないと、少しばかり残
念だし……柚明?」「もう、サクヤさん!」
気付く処が、気付かれる処が、違っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
史さんが経観塚を離れ、期末試験も終って。後は夏休みとオハシラ様の祀りを待つばか
りの羽様は、本格的な夏を迎えて陽光照りつけ。
お喋りする為に、敢て2つ手前の停留所でバスを降り。羽様の田舎道をわたしは和泉さ
んと肩並べ、少し汗滲ませつつ徒歩で下校を。
「ゆめいさん……今年はご両親のお墓参りに、行けてないでしょ。夏休み後半とか行
く?」
今年は若杉との和解の絡み等があったので。
仁美さんや可南子ちゃんも訪ねられてなく。
久夫おじいさんや恵美おばあさんの墓参も。
オハシラ様の祀りが終った夏休み後半なら。
「あたしも一緒に行って良い? ゆめいさんの、あたしの愛しい女の子の幼い頃を育んだ
町を歩いてみたいし。ゆめいさんのお父さんお母さんにも、ご挨拶しておきたいなって」
「和泉さんは羽藤の家には、受け容れられているしね。後お付き合いする上でわたしが許
しを請う人と言えば、お父さんお母さん位」
そう受けて応えた処、愛しい人が異論を。
「そこ違う。ゆめいさんが許しを請うんじゃなくて、あたしが許しを請うの。ゆめいさん、
あたしのお父さんお母さんには許しもらっているじゃない……あたしの行動が遅れなの」
あれは確かに許諾だけど子供の初恋に近く。
生涯添い遂げますと願い出た訳ではないし。
「あたしも、本当の告白はまだまだ先。自活できる大人の女になってからって告げた通り。
それは承知の上で。中一でゆめいさんはあたしに、あたしのお父さんお母さんに踏み込
んだ。真の想いを告げてくれた。でも高校2年のあたしは、あなたのお父さんお母さんに、
未だ踏み込めてない。これは勇気の問題…」
戦う勇気では、どうやっても敵わないけど。
こんな面でも、常にあなたに後れを取って。
それじゃいけないと思うんだ……あたしが。
助け守られてばかりじゃ、あたしがあなたに見合わない。金田和泉が羽藤柚明に。友達
も恋愛関係もお互いだよ。一方通行はないの。
その持論に向けて頑張り続ける彼女は好き。
己を望む理想像へ引き上げようと挑む姿が。
「それは違うよ……わたしは、分っている。
和泉さんは今迄動かなかった訳じゃない」
それに恋人付き合いに、今の保護者への挨拶はともかく、亡父亡母に許しを請うなんて、
今の世では少数派だと思う。尤もそれは和泉さんのとても好ましい個性だとも、思うけど。
『わたしと和泉さんの親密な未来は視えない。
否、わたしの先行きが全く何も視えてない。
和泉さんの未来は断片的に視えてくるけど。
その像に羽藤柚明が関って視えないのは』
その流れに逆らう様に。わたしは愛しい女の子の提案に頷いて。同行はわたしも望むと。
言霊で己の望む未来を引き寄せる。視えない定めを放置していてもいつ迄も先は分らない。
行き着いてみなければ見渡せない景色もある。動いて掻き回して初めて視えてくる物もあ
る。
若杉との和解は成立した。今後は何か禍が巡った時に、わたしを監視する鬼切部へ逆に
助けを求める事も叶う。運命に怯え塞ぎ込む人生を、白花ちゃん桂ちゃんに残したくない。
備えを心構えを整えてわたしも前に進まねば。
「一緒してくれると嬉しい。わたしも今の和泉さんだけじゃなく、今の和泉さんを作った
今迄や周りの人達を、込みで愛しているから。同じ様にわたしの過去に興味を持ってくれ
る事は嬉しい。幼い日々を見られ知られる事は気恥ずかしくもあるけど、和泉さんにな
ら」
「新婚旅行みたい。いや、婚前旅行かな?」
お互い前向きに、夏休み後半の日程を調整する事にして、再会を約して行く途を別れ…。
歩み来た羽様の緑のアーチの内側に、お屋敷の入口前に、トラックが一台停まっていた。
大伴酒店のご主人と共々、4トントラックから降ろした荷物を、倉へ運び込んでいるのは。
「沢尻さん……」「柚明ちゃん……お帰り」
沢尻夫妻と向き合ってご挨拶を交わす内に。
倉から現れた正樹さんが声を掛けてくれて。
『駐。の遺物返却、今日になったんだ。正確には研究の為の一時貸出って名目だけど…』
丁重に積んだので隙間はあるけど、トラック1台分の荷は膨大で。事前に倉を整理して
おいて良かった。でも、展示物の4割を占めるこれらが欠けて、郷土資料館は大丈夫かな。
「これは柚明お嬢様、いつも清楚に美しく」
「反物の出来も、これ迄になくお見事で…」
空疎な美辞麗句を満面の笑みで心情も込め。
感応の力がなくば見抜けない徹底した装い。
憎悪と憤懣の荒れ狂う心を完全に抑え込み。
夫妻はわたしにも正樹さんにも柔和に応え。
沢尻も望んでの返還ではない。研究目的の遺物貸出という装いも、羽藤の所有権を認め
てない為だ。正樹さんは遺物を羽藤の所有と主張していて、その矛盾はいずれ沢尻を追い
詰める。正樹さんの強い求めで渋々引き渡したけど。この事態は沢尻夫妻には正に悪夢で。
近寄ると心が押し流されそうな強い憤怒も。
正樹さんは全く読み取れぬけど無理もない。
完璧な迄の感情抑制・演技は鬼切部並みだ。
邪推して漸く辿り着ける真相もあるのかも。
「叔父さん」「いずれ柚明ちゃんに視て貰いたい処だけど、こっちは真弓と2人で積み込
んでおくから……桂と白花を看て欲しい…」
駐。の遺物は考古学や歴史学、民俗学に資する貴い品である以上に。歳月を経て様々な
人の手を経て、呪的な効果を纏った物もあり。精査は必要だけど。相応の封印もされてお
り、即座に危険はなさそう。封印の効果で、逆に精査しないと詳細が分らないけど、今の
処は。
お屋敷の内に幼子の心の震えを感じたので。
はいと応え三和土へ入り帰宅を告げるけど。
飛び出して来る筈の幼子の迎えも声もなく。
答もない侭に、突如幼い号泣が屋内に響き。
声はわたしの部屋からだ。2つの小さな気配も感じる。間違えようもなく愛しい感触を。
「こらっ。『ただいま』って言ったのに誰も返事をしてくれないと思ったら、またお姉ち
ゃんのお部屋でいたずらしていたのね…?」
愛し子の姿を無事を確かめたくて足が急く。
幼子が気付ける様に音を立てて戸を開けて。
「片付けている積りだけど、お裁縫の道具とか危ない物もあるから、勝手に入っちゃ…」
駄目と続けようとした言葉が、止まった。
前にも勝手に部屋に入りこみ、医学書を破いてしまって、大泣きしつつわたしの帰りを
待っていた事があり。今回もその程度の事だろうと、慌てず部屋へ来て驚愕に言葉を失い。
わたしもまだまだ修練不足です。心を乱され。
「けっ、桂ちゃん!? ……桂ちゃんよね!? その髪の毛、どうしたの!? はさみなんか持
って……どうしたのっ!?」
まず桂ちゃんの手から裁断鋏を取り上げて。
手にした学生かばんの中へしっかり仕舞い。
ぎゅっと抱き締めて身の無事を確かめつつ。
「桂ちゃん、一体どうしたの? 何があったの? 白花ちゃんは……何か知っている?」
「あのね……ぼくが、けいちゃんにね……」
白花ちゃんの説明で経緯は概ね把握できた。
白花ちゃんは、平時の応対が鋭くないけど。
非常時も平時に劣らず動ける特性が仄見え。
白花ちゃんが桂ちゃんの前で、わたしをお嫁さんにすると言い。桂ちゃんがいつもの後
から横取り『わたしもー』で続き。でも今日の白花ちゃんはそんな妹の応対を予測済みで。
お嫁さんを迎えるには、男の子でなければならないと、最近得た知識を告げて優位に立ち。
桂ちゃんはわたしをお嫁さんにする為には、男の子にならねばいけないと、せっかく艶
やかに伸びた柔らかな髪に、自ら鋏を入れたと。真弓さんに似た明るいブラウンの綺麗な
髪に。
幼子の想いだけど、故に純粋で強い想いに。
呆れつつも、心の片隅で微笑みが漏れ出て。
「……もう、本当になんてことするの……」
こんなに可愛い女の子が、わたしなんかの為に勿体ない。呆れた声を作って言ったけど。
しゅんと萎れる姿を見てられなくて、最後迄叱り続けられず。否、わたしの声には微かな
がら嬉しげな響きが混じっていたかも知れず。
「真弓さんにお願いして、ちゃんと綺麗に切ってもらわないとね。こんな風にざんばらじ
ゃあ、せっかくの可愛さが台無しだもの…」
『あなた、この古鏡は、どこに置きます?』
瞬間耳に入ってきたのは倉でのやり取り。
真弓さんを思い浮べた為か、彼女を巡る。
声が耳に像が瞼の裏に、入り込んできて。
『良月か……これはぼくも良く調べてみたいから、手が届き易い棚の前の方に』『はい』
正樹さんも取り返す筆頭にあげていた古鏡、良月は。わたしも関知や感応の未熟だった
中学1年の頃、郷土資料館でガラスケース越しに見た位で、詳しくないけど。羽藤がわた
し達が受け継ぐ物だから、映り込んできたのか。
その瞬間、脳裡を一陣の突風が駆け抜けて。
鮮明に映るのは、山奥に生い茂る槐の巨木。
月明かりの元で青空の下で、枝葉を伸ばし。
槐の花の舞い散る像は香しく爽やかだけど。
そこにわたしの像は映らない。羽藤柚明は。
真弓さんサクヤさんは稀に何度か映るけど。
愛しい双子を導く為、オハシラ様を祀る為。
羽様に留る羽藤の裔が全く映らぬ事情とは。
『オハシラ様は何かわたしに伝えようと?』
視るという己の所作の裏には、視せるという他者の所作が潜む事が多い。視て欲しいと
の想いと、視たい想いが重なって結果となる。ご神木が視えたのは、オハシラ様がわたし
に。
お祀りの前に一度はご神木を訪れねばと思っていた。でも己の心身は未だ完全に落ち着
いておらず。裏返りの衝動は、頻度は減り間隔は開いてきたけど、時折巡ってくる。そん
なわたしが行く事は、オハシラ様の心を乱し封印を壊しかねず。もう少し間を置かねばと。
行かねばならない事は分っている。オハシラ様の求めに応じねばならない立場も。その
求めを悟れるのは今や羽藤でもわたし独りだ。そのわたしが長く外していたのは己の失陥
で。取り返さねば、多少己の何かを犠牲にしても。
「早めに、行かなければ、ならないわね…」
幼子を抱き留めながら呟いたその時だった。
「おねいちゃん行っちゃやだ。やだやだ!」
「ゆーねぇ、遠いとこ行ってしまわないで」
思わぬ強い反応に、心が身が固まったのは。
わたしと同じ像を幼い双子も垣間見た為か。
幼子達は無意識に関知や感応を発動させて。
隔絶や喪失の兆を視て怯えを抱き縋り付き。
濃い贄の血が3人交わって力が増している。
だからわたしは強く抱き留め確かな感触で。
決して居なくはならないよと言霊を重ねて。
強い力なら定めも変えられるかも知れない。
「大丈夫。わたしはどこにも行かないから。
ずっと、ずっとこの羽様に居続けるから」
真沙美さんと和泉さんの告白に臨む以上に。
羽藤の守り神・オハシラ様を支える以上に。
一番たいせつな幼い双子を守り導く為に…。
この人生に輝きをくれた2人へ報いる為に。
わたしは言霊で、自身の定めを羽様に繋ぐ。
『わたしはこの生き方を、変えはしない…』
失ったたいせつなひとへの想い。生きて今ここにある意味。業を負う事で漸く振り返れ
る過去。手放せない。わたしにはこの生き方しかない。幸せになれるかどうかは分らない
けど、この先に充足があると信じて進むしか。
わたしは2人を愛し守りたかった。桂ちゃんと白花ちゃんに、己を尽くし捧げたかった。
その幸せを支える事が羽藤柚明の正解だった。愛しい2人の微笑みが羽藤柚明の願いで望
み。
2人に贈る愛が断たれる末を感じ取れても。
己が終る瞬間迄、この歩みを止めはしない。