第15話 戦い奪うもの、戦い守るもの(前)


 暫く前から、良くない兆しを感じてはいた。
 それも、己や己の身近な誰かに関る禍だと。

 でもその実体を確かに見通せなかったのは。
 自ら鬼と化した悪影響が尚残っていた為か。

 鬼化とは自身の執着を暴走させる事であり。
 何かを気付き悟り見極める所作の逆なので。

 進級や卒業・就職を控え、気もそぞろな春3月。経観塚も羽様も桜の開花は未だだけど、
生命が芽吹く感触は悟れ。青空を照す日の元で、行き交う男の子女の子の声は活気に溢れ。
波瀾万丈という言葉では過小表現とも言われそうな、わたしの高校生活1年目もあと僅か。

 午後早い時刻に校門で、3年の塩原大悟先輩に会えたのは、互いに学年末テストだった
から。受験や就職で忙しい3年生の3学期は、学年末テストと卒業式しか学校に来ない人
もおり。部活も委員会もない3年生に逢うには、この日でも校門で待ち構えなくば取り逃
がす。その故に目的以外の3年生にも巡り会うけど。

「羽藤か……久しぶりだな」「こんにちは」

 塩原先輩や共に歩む西尾先輩他拾数人も卒業生だ。全員黒髪の五分刈りで揃えた彼らは、
高校に入って肩幅も背丈も手足の太さも更に増し。塩原先輩は背丈が百九拾センチに達し。

 厳つい顔形と荒っぽい言動の故に、他の男の子女の子も、先生を含む大人の一部も避け
て通る彼らとは。3年前たいせつな人を巡って対峙して。やむを得ず荒事にもなったけど。

 真摯に謝ってくれて、仲直りして以降は悪くない関係になり。男の子の世界にいる先輩
達は、荒事と全く無縁ではなかった様だけど。

 友と群れ集う事は、わたしも他の人も為していて悪ではない。体格や声音の大きさは時
に人を怯えさせるけど。他の生徒や先生と摩擦はあった様だけど、重大な過ちには至らず。
無事高校卒業の見込も付いて就職先も決まり。

 周りでは3年生を含む男子女子が、関りを怖れ視線を逸らし道を開け。先輩達はその反
応にも馴れっこで。見下し威張り散らす事もなく、疎外に憤ったり俯く事もなく自然体で。

「就職おめでとうございます。塩原先輩は山田土木でしたね。岩田先輩は西沢自工、中村
先輩は広沢通運、遠藤先輩は平川ガラス…」

「良く憶えているな。俺達全員の就職先を」

 西尾先輩のやや呆れた声にわたしは頷き。

「わたしの大切な先輩の、将来を左右する事柄です。今後何か相談する時の、又はお役に
立つ時のよすがにもなりますし。先輩1人1人が羽藤柚明の大切な人。縁あって同じ中学
や高校に通い、一緒の時を過ごした仲です」

「お前は、俺の周りの誰よりも剛胆だな…」

 親愛に照れて戸惑う男の子達で、まず言葉を発せたのは塩原先輩だ。周囲の訝る視線を
−半分は先輩達への怖れや嫌悪で、残り半分は彼らと親しく接するわたしへの−を横目に。

「ありがとよ。喜んでくれて、俺も嬉しい」

 高校に入った直後、わたしからの親身な関りを、止めた方が良いと彼から言われた。女
の子と関る事が軟派に見えて恥ずかしいとか、過ちを思い返させられそうで嫌とかではな
く。

 言動の荒っぽさを拭いきれぬ先輩達が呼ぶ誤解や悪評が、わたしの信望を損ねると案じ。
廊下や街で声交わすだけで、先輩に向く懸隔や疎外の所為で、わたしが孤立しかねないと。
塩原大悟は不器用な言動と厳つさの奥に、人を想い案じる優しさを備えつつあった。でも。

『わたしは先輩達の強さ優しさを知ってます。友達や家族を守り支えたく想う心を。その
過ちや欠点と同様に……それらはわたしも持っている。それを嫌っては人と関り合えない
わ。

 わたしも含めて人は過ちを犯します。人を傷つけ哀しませる事は誰にもある。償う術の
分らない程重い過ちや罪も、世にはあるけど。幸いわたし達の間では、罪も過ちも浅く小
さく収められたから、お互いの仲も繋ぎ直せた。為した事は取り返せないけど、この先の
人生は開けている。立ち直りは叶う。家族や仲間を大事に想う心を、先輩も確かに抱くな
ら』

 わたしの願いはたいせつな人の幸せと守り。反撃も報復も望まない。守り通せたから、
喪失を防ぎ止めたから、相手に大きな過ちを犯させなかったから。わたしは相手の幸せも
願える。強ければ敵を退けた後で守る事も叶う。

 違う形で会えていれば、親しくなれたかも知れない人と。一度の過ちで決裂して終るの
は残念だ。為した事にはけじめが必要だけど。後はわたしと先輩達の自由意志の関り。彼
らはもう、わたしのたいせつな人を脅かさない。わたしが関る事で彼らにも過ちを犯させ
ない。

『過ちから始る成果も関係も世にはあります。過ちに由来するからと、全て切り捨てるの
は勿体ない。啀み合う仲で終るのは寂しすぎ』

『だが、俺達に関ると、羽藤迄悪い噂を…』

 わたしに及ぶ悪評を尚危ぶみ気遣う先輩に。
 わたしは柔らかに、でも断固たる微笑みを。

 わたしの悪い噂を流す人は、元からいるし。
 人の噂や批評を怖れていては何も出来ない。

『これは羽藤柚明の選択です。その結果はわたしが受け止めます。わたしが悪評を受ける
か否かは、先輩の日頃の言動や、わたし自身の言動や、周囲の噂する人によりますけど』

 先輩達は、邪悪な者ではありません。侮辱や理不尽に荒っぽい応対も返すけど、過ちも
犯すけど、関りを断つべき者ではない。わたしとの一件以降、先輩が他人と揉めた話しも
聞いたけど。無闇に弱者を虐げた話しはない。

 望ましくはないけど、叶うのなら思い留まって欲しいけど。どうにも出来ない事もある。
相手がある話しだし、揉め事を必ず全て穏便に収めてなんて無理は求められない。それで
先輩達の悪評が自身に及ぶなら、受け止める。

 それが先輩の姿形や仕草への誤解冤罪なら、わたしはその無実を信じ訴えれば良く。仮
に本当に為した悪事への悪評なら、先輩を止められなかったわたしへの適正な悪評で。何
れであっても先輩との仲を断つ理由にならない。過ちを犯した時・犯しそうな時こそ関る
べき。

『わたしは仲良い時だけの、順風な時だけの関係を望んではいません。困難に直面しても、
悪い噂を囁かれても、仮に何かの事情で過ちを犯しても。己の風評や印象を守る為に、大
切に想った人との絆を断とうとは思わない』

 桂ちゃんと白花ちゃんを一番に、サクヤさんを二番にたいせつに想うわたしは。他にも
たいせつな人を抱くわたしは。先輩達の誰をも一番にも二番にも、想う事は叶わないけど。

『先輩達はみんな羽藤柚明の大切な人です。
 不束者ですが……宜しくお願いします…』

 諫め押し止め過ちを防ぐ為にも、己が関り続けたい。関る事でわたしを慮って無茶出来
ないと、多少でもその荒っぽさを抑制できるなら、先輩の家族の幸せも支える事に。それ
が少しでも先輩達の無事な卒業と就職に役立ったなら。役立ってなくても良い。無事就職
し卒業できた先輩達と関れた事は、己の幸い。

「もう中々会えなくなるな」「そうですね」

 経観塚は田舎で若者の就職先は多くない。

 和泉さんの農家の様に自営業でなければ。
 役場か農協か信金位しか就職口はなくて。

 先輩達の勤め先は全てが県庁市にあった。

 つまり彼らは今春全員経観塚を出る事に。
 特に塩原先輩は誠子さんと家族で引越を。

 美咋先輩や真沙美さんや博人君の様に県外進学しなくても、田舎では若人の行き先は限
られる。己は来年も再来年も見送る側だけど。桂ちゃん白花ちゃんを間近で見守り導く己
は。

 名残惜しさを感じたのは、わたしだけではない。だからわたしは先輩達に微笑みかけて。

「でも、一緒に過ごした月日は消えはしない。関り合って紡いだ思い出も、先輩達に抱い
たこの思いも。恋でも愛でもないけれど、わたしは先輩達をいつ迄も、大切に思い続けま
す。

 一緒に暮らせなくても足繁く通い合えなくても、大切に思う事は叶う。日々を共にでき
なくても、幸せを願う事は叶う。思いを胸に抱く事だけは、いつでもどこにいてもいつ迄
も叶う。わたしは先輩1人1人を忘れない」

 わたしはやはり年上に対して生意気かも。
 待ち人は先輩達を見送った直後に訪れた。


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「美咋先輩、杉浦先輩」「柚明」「羽藤か」

 テストは全校ほぼ同時刻に終る。3年の神原美咋先輩は、剣道部長になった2年の杉浦
孝先輩と一緒に現れ。塩原先輩の時は左右に避けた他の人も常態に戻り。冬の初め迄杉浦
先輩に集っていた2年の女の子達は影を潜め。

 杉浦先輩は同じ羽様出身で後輩のわたしを、気に掛けてくれて。昨年わたしを剣道部に
誘う事で、美咋先輩との縁を繋げてくれた。わたしは剣道部に入らなかったけど、部員み
んなと親密になり、美咋先輩とは深い絆を結び。

 昨年末からの2人の恋人付き合いは、わたしが美咋先輩に、杉浦先輩の想いに向き合っ
てと勧めた結果だ。美咋先輩は昨年師走半ば、剣道部の引退儀式『在校生選抜VS卒業生
選抜』団体戦の大将戦で、杉浦先輩と向き合い。

 剣道の技量では、美咋先輩が少し上だけど。
 勝負では、運や気合が番狂わせを呼ぶ事も。
 部活では、杉浦先輩も拾本に1本は取れた。

 わたしも観衆の1人として見守った一戦で。杉浦先輩の剣はかつてなかった程に強く速
く。彼は想い人を正面撃破して一本を奪い、興奮醒めやらぬ内に、みんなの前で恋心を告
白し。

 後で聞いた話しでは、負けても告白する積りだったけど。フレーズは考えてなかった様
なので、彼が敗れていれば告白も中止されたかも知れず。美咋先輩が承諾し恋仲になった
結果から見れば、この経緯が妥当だったかも。

 でも2人とも恋人付き合いの経験はなくて。
 不安だからと双方にデート同伴を求められ。

『羽藤は女子だから美咋先輩の、好みや話題も分るだろう? 俺は女心に疎いから、デー
トでも何を喋って何を返せばいいか不安で……頼む。最初の内だけで良いから、一緒に』

『私は今迄杉浦……というより男とは、剣道以外した事がない。恋する乙女の仕草とか見
当が付かない。柚明は中学で男子とデートした経験あっただろ? 付き添っておくれよ』

 2人は相思相愛なのに、剣道であれ程強く繋っているのに、恋仲を意識するといきなり
不器用に。真剣な助け船の要請は、断るのも無情に思えたので。最初の数回だけ同伴を…。

 3人デートは実は初めてではなく、高校に入ってから幾度か為しており。2人ともその
話しを知っていて。中学校の手芸部で肌身を添わせた2年の倉田聡美先輩に願われて、聡
美先輩の彼氏・3年の池上祐二先輩と3人で。

 でも、聡美先輩を恋人にしていながら他の女の子にも馴れ馴れしく、わたしにも近しく
迫る池上先輩や。そんな彼を繋ぎ止める餌に、わたしの同伴を求めた聡美先輩とは異なっ
て。

 2人は本当に純真で奥手に過ぎて。恋仲になっても色恋以外を禁止された訳でないのに。
剣道で今迄長く突き合ってきたのに。恋人になっても剣士でなくなった訳ではないのに…。

 わたしはクリスマスと年始、ぎこちない2人の潤滑油として、デート前半の数時間身を
挟め。恋路の邪魔になって馬に蹴られる前に身を引いて。2人は未だ唇を繋ぐに至ってな
いけど。その仲は着実に進展しているらしく。

「2人でお出かけですか?」わたしの問に。

「ああ」杉浦先輩の短い頷きに美咋先輩が。
「杉浦とはここ一月逢えてなかったからね」

 わたしは月2回位美咋先輩宅を訪ねており。
 相馬党に殺めかけられた記憶を封じる為に。

 為した措置の予後を看る為にお泊りもして。
 彼氏である杉浦先輩より関係は濃密かも…。

 美咋先輩は、女の子に性愛を抱かないのに、男に子にも女の子にも性愛抱ける羽藤柚明
を、厭わず怖れず褥に招いてくれて。肌身を重ね頬合わせ。性愛より強く親愛を伝えてく
れて。

 そう言う人だからこそ例え当人の望みでも、記憶を封じる所作は厭わしかったけど。愛
しい人の思い出を歪める行いは非道だったけど。その心の決壊を止める為に他に術がない
なら。

『……怖かった。怖かった。刀を振るう男達が、人を殺せる拳銃が、鬼を切るという連中
の戦いが……とってもとっても、怖かった』

『私は……所詮女の子だ。今宵はそれを思い知らされた。剣道幾ら習っても、真剣で斬り
合う覚悟は抱けない。大野にも見た事のない本物の殺意……奴らを思い出すと、助かった
今も震えが止まらない。理屈抜きに怖いんだ。競技じゃない、ルールもない、負ければ手
足切り落とされ血を流して死ぬ、本当の戦い…。

 それを受けて打ち勝てる柚明に、その鬼の様な強さにも、私は、見ていて怖くなって』

 美咋先輩の締め付けは、女の子の柔らかさでその目で見た事実を否定したくて。彼女が
見た鬼の羽藤柚明を、嘘や夢や幻にせねば正気を保てないから。鬼切部や鬼の戦いは剣道
達人の想定も越えて、愛しい人を壊しかけて。

『……あんたは、私を喰らわないよね。あんたは私を口封じしないよね。分っているのに、
感じているのに。何度も何度も肌身を繋げて確かめたのに。奴らも柚明も余りにも遠く離
れすぎた強さで……怖い、怖い、怖いっ!』

『柚明を傷つけると分って尚、身の震えが止められない。あんたは私を助けてくれたのに。
正にその強さが怖い。奴らを上回ったその気迫が怖い、怖いの! お願い柚明。もっと強
く抱き締めて、この心の体の震えを鎮めて』

 強く優しく美しい人が。甚大な程の衝撃に心耐えきれず。己が巻き込んだ。己が彼女に
限界を超えた傷み哀しみを招いた。この人の凛々しさ麗しさに憧れて、絆を望んだ所為で。
わたしはこの人にその償いに何を為せるのか。

『……柚明は感応の力で、私の今夜の記憶を消せる? 忘れさせる事出来る? 私の心を
操って、安らげる事が柚明には?』

『耐えられそうにない……生命を脅かされた事を、人を殺そうと迫る刃を、殺気を。私は、
あんな奴らが現実に潜んでいる世界を、平穏に受け止めて過ごして行ける程剛胆じゃない。

 背後で草が揺れると心が竦む。傍で風が吹くと身が縮む。月明かりが陰るだけで怯えが
騒ぎ出して。あんたに一日中抱き留められてないと、声も出せない。ダメだよ、私は…』

 償いがその侭罪になるとしても、これは己が為したかった。若杉が遣わす誰かに委ねた
くなかった。美咋先輩が恐怖で正気を危うくしたのは、己の禍に巻き込んだ所為だ。記憶
の封鎖に失敗すれば、本当に心壊してしまう。最も確実に為せるのは、絆を繋いだわたし
だ。

 その為に美咋先輩と、尚肌身重ねる事を許されたけど。それは愛欲の故でも贖罪の為で
もなく。その親愛に応える事が主眼でもなく。彼女の今を未来を支え守る為に、その人生
の輝きの為に。己の事情や想い等介在させない。不可欠な所作を誠意を込めて為し遂げる
だけ。

 美咋先輩は、記憶の封鎖に伴う心身の浮動も順調に推移して。何かを思い出せないとの
違和感さえ深く沈み、予後を看る必要も薄れ。卒業・進学に伴う引越に何とか間に合えそ
う。住む処が違うと頻繁に看る事も難しいから…。

『力』で探る等しないけど。愛しい人の近況は今の己には肌身を重ねる必要もなく、言葉
尻や声音や仕草や気配で窺えて。その上美咋先輩は、想い人への応対の成否に不安を抱き。
彼との恋仲を繋いだわたしに、経緯報告して助言を望み。わたしも経験豊富ではないけど。

 こういう時は耳を傾け気持を共有する事が重要で、解決策は二の次な事が多い。答は美
咋先輩の内に既にある。後は気付けば良いだけで。幼子に向き合ってきた経験が役立った。
桂ちゃん白花ちゃんに感謝です。白花ちゃんは男の子だから、男性経験有りになるのかな。

「俺達はこの後2人だけど羽藤も」
「このあと特に予定が何もないなら、一緒にどう?」

 流石に今の2人は、わたしが挟まらなくば、何をして良いかも分らない状態は脱してお
り。心からわたしの介在も望んでくれていたけど。前半限定なら、別の日なら応諾もでき
たけど。

「残念ですけど、今日は別用がありまして」

 この待機は美咋先輩に逢う為だけど、逢えたお陰でその用は消失した。そして同時に別
用が出来て。先輩2人に禍の兆しは感じない。と言う事は禍は己に関る他の誰かに。愛し
い女の子の誘いに応えられないのは残念だけど。

「お2人だけの愉しい時を過ごして下さい」

 手を握り合う迄する必要はなかったけど。
 触れて感じてダメ押しを。2人は大丈夫。

 己の周囲に生じる何かは2人には無縁だ。
 なら己が関る事はむしろ2人に害になる。

 歩み去る愛しい人を見送っていると……。
 背後から両肩に音もなく腕が伸びて来た。


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「ユメイちゃん、スキあり!」「池上先輩」

 両肩を背後から掴もうとした腕を、躱して何事もなかった様に向き合うと。彼は苦笑し
て諦めて。スカートを捲ろうとしたり抱き竦めようとしたり。良くも悪くも彼は変らない。

 投げ飛ばしたり殴り蹴りして防ぐ訳でないので。一見彼のタイミングがずれただけに映
るけど。彼の動きや体勢を足音や気配で感じ、己の動きや位置を彼が動きを止めざるを得
ない様に導き、防戦の印象も与えぬ様に。女の子が戦いに強いと知られても、嬉しくない
し。

「女の子には、聡美にはワザとかって位簡単に捕まるのに。つれないなユメイちゃんは」

「聡美先輩には捕まりたくも想いますから」

 昨年師走に転入した同級の若杉史さんから、わたしが真弓さんに武道を習っている事は
漏れたけど。わたしの過少申告は概ね受容され。むしろ彼の言葉の方が誇大広告と見なさ
れて。

 経観塚高校で今、多少でもわたしの護身の技を知るのは。塩原先輩達や美咋先輩、和泉
さんや白川夕維さんに、池上先輩と聡美先輩。結構な人数がいる割に話しが広まってない
のは。わたしが力づくの解決を望まない以上に、この身が華奢で武道が似合って見えない
為か。

 喜ぶべきかは微妙だけど。大野教諭に陵辱された噂が流れた時も、この身の細さの故に、
抗っても勝てる筈ないと、噂は信じられ蔑まれ同情もされ。逆に鬼切部相馬党に襲われた
時は、過小評価の故の隙に活路を見いだした。

 今わたしの力量を、本当に知っているのは。

 若杉の者である史さんだけか。美咋先輩は。
 全てを見た為に心を傷めてその記憶を鎖し。

 池上先輩にもこの程度しか見せてないから。
 気易く接してくれるけど、真相を知ったら。

 聡美先輩や和泉さんにも、厭われるかも…。

「先輩は県立大学に進学でしたね」
「三流大学だけど、取りあえず入れてほっとしたよ」

 経観塚は山奥で県庁市の通学圏でない為に。彼も塩原先輩達と同様住処を移さねばなら
ず。美咋先輩の首都圏程遠くなくても、在校生である聡美先輩と、離れ離れになるのは同
じだ。

「聡美先輩は一緒ではないのですか?」
「着替えに先に帰ったよ。3時にハックで待ち合わせだけど、ユメイちゃんも一緒にど
ぉ?」

 池上先輩と聡美先輩の関係も勉強になった。

 恋人である聡美先輩の前でも、彼はわたしも含む他の女の子に馴れ馴れしく。彼は拗ね
られても怒られても反撥を受け流し。別れる積りもなく、時折細やかな仕掛けでその心を
繋ぎ止め。その後は又他の女の子に声を掛け。

 一方聡美先輩も池上先輩を彼氏にしながら、当時中学2年だった羽藤柚明の肌身を欲し
て。彼と暫く逢えず鬱屈していた様で。彼女の中学卒業に伴ってわたしとの関係は終った
けど。高校で再び先輩後輩の仲になると、池上先輩がわたしに着目した事もあって、関係
も再び。

 池上先輩はわたしと聡美先輩の仲や過去を、薄々察しつつ敢て問わず。直接見なければ
なかった事に出来る様で。それは自身の想い人への所業を省みての寛容なのか。女の子相
手なら了承の範囲なのか。彼自身未整理な感が。

「いえ、残念ですが今日は別用があるので」

 残念は聡美先輩に添えない事で。最近聡美先輩が池上先輩と余り逢えてなく、気鬱にな
っており。わたしが彼女を慰めもしたけれど、聡美先輩には『妹』は代用品に過ぎず。彼
女の欠乏を真に補う事は、女の子には叶わない。

 だから久しぶりに想い人に逢う聡美先輩の喜びを、傍で眺めたく思ったけど。逆にその
場に己が身を挟めるのも、邪魔かもと思えて。池上先輩にも禍の兆しは感じられない。な
のでわたしはもう少し他の人の安否を探りたく。

「聡美先輩とお2人の時間をどうぞ。池上先輩の卒業を控え、聡美先輩も関りが薄れる事
を心配していた様ですし。今日はしっかり絆を繋ぎ直して、安心させてあげて」「ん…」

 池上先輩はそこで、前方を歩む美咋先輩達を眺め。一つ歳の違う恋仲で、片方が卒業し
経観塚の外に移り住むと言う点で、二組は共通している。そう感じたのは己のみではなく。

「遠距離恋愛か、何か月保つかな」「……」

 彼は軽妙さを纏いつつ、でも醒めた声音で。
 彼は自らの先行きに美咋先輩達を重ね見て。

「毎日顔を合わせていれば、恋仲も友情も惰性で続くけど。住む処が違えば話題もずれる。
見る物も聞く物も一緒じゃなくなる。共通の話題は古くなって忘れられ思い出は褪せる」

 大人の世界でも遠距離恋愛は長続きしない。
 そんな事をテレビ番組でも言っていたけど。

「池上先輩も聡美先輩と恋仲ですけど……まさか今日は関係解消を告げに?」「いやね」

 池上先輩は左右に首を振って否定しつつも。
 半ば他人事に近い語調でわたしを正視せず。

「今恋仲を解消しようとは思わないよ。でも実際離れ離れになって、共通の話題が減って、
日々の関りが薄れ。基盤が崩れ去った後で思い出だけで、どれだけ気持を保てるか。同じ
町の歩いて数分の高校と中学の隔てじゃない。生活の大部分が全く交わらなくなるんだ
…」

 彼は近い将来の2人の仲が視えている様で。
 怖れや不安と言うより諦めの境地を漂わせ。

「オレの方が言い出さなくても、聡美の方が言い出さなくても、何れ自然に絆は解れるよ。
その頃には……多分それよりも早く目の前に、その穴を埋め合わす適当な誰かが現れてい
る。

 神原なら言い寄る男は幾らでも湧く。杉浦も年末迄取り巻いていた、2年の女子がいる。
彼女達が退いたのは、今の恋仲が卒業で終ると見ている為さ。彼女達の恋仇は遠くに消え
る神原じゃない。ユメイちゃんは気をつけた方が良い。杉浦は唯の好意でも、彼女達が誤
認して妬むかも。ユメイちゃんは可愛いし」

 池上先輩の指摘も的外れとは言い切れない。

 杉浦先輩を囲んでいた2年女子の先輩達は。
 美咋先輩との仲には口を挟まず静観しつつ。

 それとなくわたしを牽制し警戒する空気が。
 鎮まった悪い噂が上級生中心に再度広まり。

 でもそれは杉浦先輩の嫌悪を招いてもいて。

「大学や向うの町で、池上先輩に惚れ込む女の子がいれば、断り切れないかもって事です
か? 或いは先輩がそういう女の子に惚れ込む気持を、抑えきれないかもって事ですか」

 美咋先輩達の想いが簡単に解れると思えないけど。それよりわたしは話題を目の前の人
に。池上先輩は非礼で直接的な問にも平静で。

「両方だよ。更に言えば、その気持を聡美も抱くかもだから、聡美とオレの両方ってね」

『水が器に従う様に人の生き方もモノの在り方も、形に縛られ易い。だから形を失えば』

 彼に触っても、今後に聡美先輩と一緒の像が視えないのは。先日聡美先輩と触れた時に、
彼との像がぼやけていたのは。聡美先輩も形を失えば想いは潰えるかと、今後に不安を…。

「ユメイちゃんは想いが強いから、頷き難いんだな。オレもユメイちゃんを恋人にしてい
たら……やっぱダメか。想いが重くてオレが保たない。ユメイちゃんは誰にも真剣すぎる。
人生賭けて誰かを愛する気にはなれないよ」

 2年前、聡美先輩にも似た事を言われた。

『手芸部を引退して関りも薄れたから、興味も失せたわ……お互い生きる処も違うし…』

『あんたの処女奪っても責任は取れないし。
 人生賭けて迄あんたを愛する気はないよ』

 断ち切れるのではなく自然に解消すれば。
 心の傷も、浅く小さく済ませられるのか。

 それはある意味で、相手への優しさかも。

 想いを伝えたいのが己の欲求でエゴなら。
 抱いても伝えず相手に爪痕残さない事も。

 伝えない事に抱く悔いは、所詮己の物だ。

 わたしはサクヤさんに、彼女が決して応諾できない想いを伝えた結果、今尚その心を傷
め悩ませ苦しめている。優しいサクヤさんは、巌の寿命の最期迄わたしに苦味を抱き続け
る。未熟な己の幼い想い・わたしは既に取り下げた想いを、わたしが死した後迄長久に。
愛しい人に残した苦味は、幾ら想いを注いでも拭い得ず、気にしないでと望んでも取り戻
せず。

 想いとは、伝えれば貫けば良い物ではない。
 告白が相手を傷つけ懊悩させる事にもなる。
 自身の悔いの払拭が相手に悔いを移す事に。

 聡美先輩という恋人がいて、どの女の子も取り合わぬ状態を作れたから、池上先輩は女
の子達に気易く声掛けられた。彼はその様に軽快に女の子と関りたく、わたしの様な応諾
は実は望んでなく。聡美先輩の応対が正解で。そして聡美先輩も彼との気楽な仲が望まし
く。

「今関りを止める気はないよ。でも聡美の気持が薄れるか、オレの気持が薄れたら、解れ
るに任せた方が良い……聡美もそう思うんじゃないかな。オレ達意外と似た者同士だし」

 美咋先輩も杉浦先輩に、大野教諭に為された事を伝えてない。いつ迄も秘する気はなく、
体の関係を持つ前には話すと言っていたけど。杉浦先輩の高校卒業迄恋仲が続いていたら
と。

 剣道部員に残る『教諭はいい人』幻想を砕く事への躊躇や、わたしの力量を伏せたいと
の配慮より。喪失や暴力に拉いだ過去を知られる羞恥や、蔑まれ嫌われるとの怖れよりも。

 伝える事が今の関りを重たくすると憂い。
 話す事が彼をこの仲に縛りつけると案じ。

 信や愛は時に相手を縛る重荷や鎖になる。
 強い想いが人を苦しめ、傷つける事さえ。

 池上先輩の在り方は、わたしと違うけど。
 その半生に根差した、彼の生き方なのか。

「今日は聡美にしっかり向き合うよ。じゃ」

 人の心は幾ら学んでも尚窺い知れず奥深い。


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 話す内に羽様行きバスの出立時刻は過ぎ。
 多くの生徒も帰宅して学校はほぼ無人に。

 結局誰にどんな禍が及ぶか見定めきれず。
 ここ数日はこんな焦慮と空振りが続いて。

 次のバス迄は2時間弱の猶予があるので。
 銀座通の幼稚園へ羽様の双子の顔を見に。

 経観塚は田舎町なので、高校も商店街も幼稚園も近接していて。この時刻なら白花ちゃ
ん桂ちゃんの送迎バス出発を、見送り叶うと思っていると。見知った幼子の声が前方から。

「ゆめいおねぇ……」「おねえちゃぁっ!」

 羽様の双子の最初のお友達、青島家の幼子2人が走り寄ってくる。兄の渚ちゃんが4月
4日生れ、弟の遙ちゃんが翌年3月30日生れで。ほぼ一歳違う渚ちゃんの方が体も大きく
元気で、桂ちゃんと元気さん同士で仲が良く。白花ちゃんと遙ちゃんが2人で見守る感じ
で。2人ともわたしに心を開いて、懐いてくれて。

 一昨年の春に知り合ってからほぼ2年経ち。
 羽様の双子もそうだけど幼子の生育は早い。

 屈んで視線の高さを合わせ、2人の小さな体を抱き留め、温もりと肌触り感じていると、

「2人とも相変らずあなたをお気に入りね」
「こんにちは麗香さん。健吾さん」「おぅ」

 幼子を通じて知り合った青島さん夫妻だ。

 幼子の父で麗香さんの夫の健吾さんは、筋肉質で身長百九拾センチ、体重百キロに近く。
短い黒髪に三十歳間近の四角い容貌は精悍で。佇まいからわたしを只者ではないと喝破し
た、眼力と技量の備わった空手と剣道の使い手で。

 麗香さんは身長百七十センチでわたしよりも十センチ高く、胸と腰が大きくてモデルの
様な体型に。黒髪長く整って美しい顔立ちは、二十歳代中盤だけど女学生でも未だ通じそ
う。2人が並んで歩くと、美女と野獣の好一対だ。

 一家は健吾さんが警察官を辞し警備会社に就職した事で、一昨昨年秋に経観塚へ引越を。
わたしと巡り逢ったのは、白花ちゃん桂ちゃん達が幼稚園に入った一昨年の春で。中学校
の帰りが早い時は、双子が乗る羽様行き送迎バスの出立を、こうして見送りに来れたので。
歩きで帰る近隣の園児を迎えに来た保護者のみなさんとも、こんな感じで顔見知りになり。

「今日は旦那が夜勤明けでね。買物に付き合って貰う処なの」「おかいもの」「ものー」

 特に麗香さんには常日頃懇意に接して頂き。

 台所や食卓やお風呂や褥も共にしてくれて。
 親身に触れ合う内に素肌や頬や唇も重ねて。

 一度は青島夫妻の憤激や拒絶も招いたけど。

 わたしは大切な人を愛したい。もう関らないでと言われても、それが内心の悲痛を隠し
涙を堪えた装いだと悟れた以上、放置しておけず。わたしは重たくて面倒な女なのだろう。

 でも麗香さんの、己を犠牲にしても夫・健吾さんの悲憤を拭いたい願いを、捨て置けず。
健吾さんの、職務に誠実に励んで家族を守りたく願った結果の、深甚な失意を見過ごせず。

『……貴女、本当に甘々な位に優しいのね』
『私は、こういう姉か妹が欲しかった…!』
『貴女に縋らせて。青島麗香を受け止めて』

 肌身重ね頬合わせ唇を繋ぐ処迄行って漸く。
 麗香さんは心を拉ぐ孤独と悲痛を解き放ち。
 踏み込まなければ届かせられない声もある。

『……満たされたよ。中学生に、この俺が』

『俺には未だ、一番大事な物が残されていた。俺を求めてくれる人は未だ、確かにいたん
だ。失った物は多くても、納得行かない事は多くても、未だ守らなきゃならない物が確か
に』

『失った物に心囚われ、今目の前の一番たいせつな物に愛を伝えられず、愛されている事
にも気付けずに。俺が、大馬鹿者だった…』

 拳を交え身を傷め打ち倒す処迄行って漸く。
 健吾さんは心を塞ぐ憤怒と絶望を乗り越え。
 深奥に手を伸ばさねば掴み取れぬ答もある。

 訣別も承知で挑んだ末に。悲痛の根は拭えなくても、現実は変えられずとも。今残され
てある物に向き合う様に、今守るべき物を見つめる様に。その認識を視野を変えてと促し。
大切な人の人生を実り豊かに変えられるなら、大切な人の未来を切り開く助けになれるな
ら。わたしは自身の傷み苦しみ哀しみを厭わない。

 以降青島さん一家とは更に親密な仲になれ。
 月に一回の割合で互いにお泊りし合う様に。

 健吾さんとは羽様の森やお屋敷の庭で拳を交え。銀座通の青島さん宅は、社宅と思えな
い程立派な一軒家だけど、その広い庭でも武道の立ち合いには狭く、特に屈強な健吾さん
が存分に動けない。護身の技を余人に知られる事を好まないという以上に、わたしは一応
女の子なので。近隣に音や声が漏れ聞えれば、健吾さんが虐待や傷害を疑われる怖れもあ
り。

 麗香さんや幼子とは、お風呂でもそれ以外でも肌身を交え。羽様の森や庭やお屋敷でも、
銀座通の町並や青島さん宅の庭や家の中でも。幼子に挟まれ囲まれ褥を共に。麗香さんと
は幼子が寝付いた後で、更に濃密な触れ合いも。

 羽藤柚明が大野教諭に陵辱されたとの噂が、町中に広まった時も。夫妻はわたしとの絆
を保ち続けてくれて。そのお陰で世間のわたしへの見方にも好影響が。己の悪評に麗香さ
ん達を巻き込みかねない事が、申し訳なかったけど。重たい関りは一面で強い繋りでもあ
る。

「もうすぐお引越ですね。お手伝いできる事があれば、遠慮なく仰って下さい」
「遥や渚、麗香には、君の来訪が励みになりそうだな」

 年度の変り目は社会人にも人生の変り目で。健吾さんは都市部への転勤が内示され。屈
強な空手と剣道の達人は逸材だ。警察への復職は叶わないけど、今後は要人警護や現金輸
送など、より重要な仕事を任される事になる…。

 元々警察を辞めさせられ、僻地に飛ばされた事が間違いで。数年遅れたけど、遠回りし
たけど。腐らず萎れず励み続ければ、途が開ける事もある。それは健吾さんの頑張りの成
果のみならず、麗香さんの頑張りの成果でも。

 本日は幼子を2人で出迎えその侭店に行き、引越に使う段ボールや掃除用具の買い足し
を。白花ちゃん桂ちゃんは来月から羽様小学校で。引越しなくても銀座通小学校に通う筈
だった渚ちゃん遥ちゃんと、毎日会う事は叶わなくなるけど。経観塚の外へ引越となれば
更に…。

「ここに居られる間はもう余り長くないけど。貴女と一緒出来る時間は出来るだけ想い出
深く尊い物にしたいし、ここを離れても貴女との絆は解れない……わたしが解れさせな
い」

 麗香さんは往来の中でも親密さを隠さず。
 わたしを正面から抱き留めて頬を合わせ。

「貴女が居てくれなかったら、健吾も渚も遥も私も、どうなっていたか分らない。貴女は
私達に希望をくれた、今をくれた、未来をくれた。私には貴女に返せる程の物はないけど、
貴女がくれた物の大きさに見合う物なんてとても返せないけど、生涯で返す積りだから」

「返すだなんて、そんな……わたしは何も」

 わたしは返礼も感謝も望んでない。麗香さん達の苦境を見てられなかったのは、愛しい
人の悲哀を捨て置けなかったのは、己の我が侭で。役に立てる事を探し求め、何とか一定
の成果を残せたけど。未熟な子供の所作が迷惑になってないか心配で。感謝や親愛は嬉し
いけど、恩に感じて貰う事など望みでもなく。

 大切な人にはいつも微笑んでいて欲しい。

 だから敢て言うなら取り戻せた笑顔こそ。
 羽藤柚明の願いで望みで報酬でその他は。

 寄せられるこの愛しささえも望外の幸せ。

 でもわたしの愛しい人は、わたしの躊躇いや戸惑いを押し包み、その親愛を伝えたいと。
柔らかな女性の肌身の暖かさと、その所作に込められた想いの熱が、この頬の血流を増す。

「返し切れてない間は、私達の仲が続いていると言う事だと思って……つまり、一生涯」

 この仲は、住む処が違っても歳月を経ても変らないと。美しい人は抱擁の強さで想いの
強さを表し。わたしもその抱擁に抱擁を返さずにはいられなく。健吾さんの受容にも甘え。
早春の風の冷たさも、心地良い程の熱だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 暫くの逢瀬を終えて、麗香さん達と別れ…。
 幼稚園に着いたのはバスの出立直後だった。

 鬼になった影響で、感度の鈍った己の関知や感応の力では、誰にいつどの様な禍が降り
掛るのか、定かに見通せなかったので。近しい人に逢って触れて確かめるしか術がなくて。

 この耳には昨年師走、美咋先輩とこの生命を脅かした若木葛子さんの声が、残っている。

『あなたのたいせつな人達も……神原美咋だけじゃない。あなたの大切な人達を根刮ぎ悲
嘆の淵に叩き落し、死の後を追わせてあげる。

 若杉の権力を使えば、何でも出来るのよ。
 倉田聡美も、青島麗香も、海老名志保も。

 どこかで突然事故に遭う。不幸な犯罪被害者になる。若い身空で可哀想にぃ……金田和
泉も。不良に絡まれ犯されて自殺するとか』

『首都圏に進学した鴨川真沙美も、佐々木華子も、朝松利香も。中学校に難波南が居たわ
よね、可愛い女の子だったけど。あなたと関りを持ったお陰で酷い目に……私はあなたを
観察してきた。あなたの近しい者は全て知っている。白川夕維も結城早苗も篠原歌織も』

『経観塚だけじゃないでしょう。あなたのたいせつな人は。父方のいとこの、3つ年上の
仁美と、1つ年下の可南子……それにスコットランド在住の幼友達も。海外なら、自爆テ
ロに巻き込まれるなんて筋書もいいわぁ…』

『それに、福岡の病院で死を待つばかりの。
 平田詩織の命運も、少し縮めてあげるっ』

 若木さんはわたしが退けた後若杉で失脚し。
 影響力も活動の自由も失ったと聞いたけど。

 わたしは史さんを始め若杉の監視下にあり。
 何かあればたいせつな友に家族に累が及ぶ。

 その上鬼と化した副作用で、関知や感応の感度が鈍り。以前なら朧気に悟れた事が悟れ
なくなり。人の言動や物事の流れの見定めも難しく。3月を経て徐々に取り戻せている感
はあるけど。一度乱れた心は、鬼化を望む発作にも妨げられ、中々元の様に澄ませられず。

 オハシラ様の心を乱す訳にも行かないので。
 ご神木に行ってその導きを願う事も出来ず。
 冬の山奥には行きづらい事情もあったけど。

 今回の兆しも以前なら、もう少し早くどんな禍が誰に何時どの様な形で訪れるか、悟れ
て備え防げたかも知れないのに。未だに雲を掴む感触で。真弓さんサクヤさん正樹さんに
相談したけど。日常全般に注意して、何か分れば連絡を取り合うという以上の結論は出ず。

 白花ちゃん桂ちゃんも、いつ迄休めば良いか分らない状態で、日々の生活を崩すのは良
くないと、幼稚園を休ませる事はせず。家族とも友達とも、逢って触れて感じる他に術は
なく。『力』の所持は軽々しく明かせないし、曖昧な情報は話しても不安や混乱を招くだ
け。

 園の前では幼子が未だ拾数人、先生に見送られつつ、迎えの人と三々五々に帰る途上で。
その幾人かの挨拶の声に応えて。羽様や隣町方面に園児を送るバスはもう見えない。故に
白花ちゃん桂ちゃんが居ないのは当然だけど。

 微かな疑念を感じたわたしは、子供独特のきゃっきゃっと言う歓声の響く中、先生方の
下へ歩み。あら羽藤さんとこの柚明ちゃんと、年輩女性の先生から声掛けられてお辞儀し
て。

 訊ねて今日桂ちゃん白花ちゃんが、幼稚園の送迎バスでは帰ってない事を確かめられた。

「羽藤さんはお父さんが用事で近くに来ているから、ついでに連れ帰りますってさっき」

 幼稚園に電話が入った直後、若い男性が乗用車で園を訪れ、幼子を連れて行ったらしい。

 正樹さんは確かに今日、近くにある郷土資料館を訪れていた。羽藤の遺物が、沢尻の手
で鴨川からの寄贈名義で、郷土資料館に収蔵展示された経緯を確かめ、返還を求める為に。
彼の気配は数キロ離れても、感じ取れたけど。でもそこに最愛の幼子の気配は、感じ取れ
ず。

 幼子の父と名乗った人物の風貌は、訊けば正樹さん似だけど。先生方の印象を感応で視
ると、正樹さんではなく別人で。でも幼子が騒ぎも拒みもしなかったので、誰も疑わず…。

『違う。その様に誘導されている。先生方も、桂ちゃん白花ちゃんも、薬と術で疑念を抱
かぬ様に導かれ……痕を残したくないから、辿られたくないから。敢て強い術を避け
た?』

 禍が形を取りつつある。それも最愛の幼子を巻き込んで。最悪の展開だった。わたしは
関知や感応を使えず、見当違いに駆けずり回った末に、一番たいせつな人の守りを疎かに。

『先生方に伝えても、混乱させてしまうだけ。先生方は何も知らない。術を使う者の存在
を報せる事は、口封じの危難を呼びかねない』

 今となっては彼らが暴力で攫う挙に及ばず、幼稚園の先生や他の幼子や保護者に被害が
出なかった事を、不幸中の幸いと考えるべきか。園の先生や近在の住人に防げた相手では
ない。

「あのぅ、お電話をお借りしたいのですが」

 緊迫や焦りは心の内に仕舞い、疑念を招かぬ様に努め。重大な時や危うい時こそ、平常
心を保たねば、出来る事にも失敗する。笑子おばあさんも言っていた、心を常に柔らかに。

 まず郷土資料館の正樹さんに電話をかける。でも電話は誰も出ない以前に通じず。線を
切られている? 正樹さんや資料館の職員の気配は感じるけど。電話が繋らなくなった事
に気付き、困っている感触は何とか悟れたけど。

 やむを得ず諦め羽様のお屋敷へ電話する。
 幸い少し前からサクヤさんも羽様にいた。

「サクヤさんですか? 柚明です。はい、叔母さんも居ますか? ……まず郷土資料館で
叔父さんの安否を確かめて。わたしは桂ちゃん白花ちゃんの気配を辿ります。ダメなら郷
土資料館へ。何か掴めたら携帯に掛けます」

 羽様は携帯電話の圏外だけど、銀座通では最近、使える様になり始め。わたしは公衆電
話か近隣で借りて掛ければ良く、この近辺で愛しい人に何かあれば、鈍った感応でも分る。

「警察に伝えるかどうかの判断は、叔母さんやサクヤさん、叔父さんの判断に委ねます」

 歩きではなく車での移動なら、痕も刻まれ難く。毎日肌身を添わせた濃い贄の血を宿す
気配でも、辿りきれるかは微妙で。少しでも痕が残る内に辿らねば、愛しい幼子を見失う。

 かねてから懸念を伝えておいて正解だった。
 冗長な説明抜きで即座に肝要を伝えられる。

 商店街の裏通りを辿り始めたわたしの前に。

 作務衣の男性に追われた十歳位の女の子が。
 助けを求めて現れたのは、その直後だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「誰か……誰か、助けてたもれ!」「…?」

 幼子だけど甲高くない、やや低めな声が。
 脇道から飛び出して、間近で転んで倒れ。

 急用があっても、膝擦り剥く子供を見て。
 素通り出来ず、助け起こそうと屈み込む。

 でも、触れようとしたこの掌を女の子は。
 顔上をげぬ侭、小さな掌で鋭く払い除け。

 子供サイズの濃淡に彩られた青い和服が。
 肩で息をしているのは、走り疲れた為か。

 女の子は十歳前後、癖のないポニーテールの金髪が艶やかだけど、異国人ではなさそう。
先祖返りか。わたしや白花ちゃん桂ちゃんが、贄の血の薄い母や父から濃い血で生れた様
に。

 息が上がった為か続く言葉は出ないけど。
 複数の成人男性に追われている事だけは。
 走り捜し、追いかける者達の接近で悟れ。

「どこへ隠れた?」「所詮は子供の足だ…」
「早く捜せ!」「遠く迄行けるとは思えぬ」

 百三十センチ程の背丈に、華奢で滑らかな肌は疾走の為か汗ばんで。それは長時間走っ
た疲労と言うより、普段走った事のない体が、短時間でも無理を強いられた結果なのだろ
う。

 取りあえず追手の視界の外へは逃れたけど。
 大人多数からその足で逃げ切るのは無理か。

 でも今の日本で、二桁以上の男性が白昼に。
 女の子を追い回すなど、通常は考えられず。

「汝は妾(わらわ)を助けてくれるのか?」

 整った容貌に視線を惹き付けられた。黒い双眸に怜悧さと勝ち気さ、又は意志の強さが
窺え。言葉遣い以上に精神年齢の高さと育ちの故か、姿は幼いけど大人びて映り。深窓の
令嬢か、芸事の家元等の身内か。この歳の子供の和服姿は、今の日本の庶民では考え難く。

 この手を一度払ったのは考えての所作ではなさそう。追われていた緊張故の条件反射で。
捉まりたくないとの強い意志と切迫感が悟れ。

 わたしの前に飛び出した事は、女の子の幸か禍か、わたしの幸か禍か。周囲には幼稚園
帰りの幼子や保護者もいて。唐突な飛び出しは注視を集め。切迫した様子も全力で走った
疲労も人目を惹く金の長い髪も、揉め事に巻き込まれないかという、不安を抱かせた様で。

 わたしも、女の子とは今初めて会ったので。
 立場は少し離れて見守る人達と同じだけど。
 立ち位置が近いので拒んで去る事も難しく。

「妾は自由が欲しい。例え僅かの間でも!」

 幼子にお願い目線で縋られると、小さな掌で制服のスカートを掴まれると。白花ちゃん
桂ちゃんに為された時に似て抗い難く。触れた掌は温かく柔らかく、強く願いを訴えかけ。

 でも触れ合って動きが止まったその瞬間に。

「いたぞ、あそこだ」「もう見失うなっ!」

 女の子が飛び出してきたその小路を伝って。
 男性が2人声を上げながら駆け寄って来る。

 女の子はこの右太腿に縋り付いた侭立てず。
 その為に一瞬だけどわたしも身動き取れず。

「少し待っ……」「退けい!」「邪魔だ!」

 幼稚園帰りの幼子や保護者も見ている前で。
 わたしはいきなり彼らの力づくに直面して。

 落ち着いて事情を話してくれれば。両者の経緯を知らぬわたしに、女の子を絶対渡さな
い等と拒む積りはない。納得できる事情があれば、女の子の拒絶が『仕方ない』位に軟化
すれば……でも彼らはそれらの手順を踏まず。男性は2人とも二十歳代中盤で、百八十セ
ンチを超える背丈に、筋肉質で作務衣を纏って。

 己が突き飛ばされるだけなら、受容できた。打撃を痛手にせず、宙で姿勢を制御して着
地できる以上に。突き倒され汚れ傷つく位なら。でもわたしが突き倒されれば、縋り付い
た女の子も巻き添えになる。ケガをさせてしまう。

 健吾さんや塩原先輩の体があれば、せめてサクヤさんの見事な肢体があれば。彼らも躊
躇したのかも。問答無用に問答無用を返すのは、真弓さんやサクヤさんの流儀なのだけど。

「はっ!」「……なぁっ?」「なんだぁ!」

 わたしは、女の子を引き剥がそうとした男性の、繰り出された右手甲に右掌を添え。彼
は右フックの要領で女の子の右肩後ろを掴み、引き剥がそうと。わたしはそれを防ぎ止め
ず、逆に加速させ空振りさせ、握って捻ってバランスを崩し倒れ込む様に導き。周囲には
わたしの前で、彼が勝手に倒れたと映っただろう。

 連携してわたしを突き飛ばし、女の子から引き剥がそうと。敢て一瞬遅く、この左肩を
打ち据えようとした男性の掌打も。わたしは防ぎ止めず、その右手首を左手で掴んで加速
させ左に逸らし。踏み出された足を軽く払い。こちらも彼が目測を誤って自ら倒れたと映
る。

 男性故の筋肉質で重い体と、玄人故の動きの速さ鋭さが、空振りや転倒に衝撃力を与え。
躱されるのは彼らも予想外だった様で、心の準備もなく。2人ともすぐには起き上がれず。

 でもその時には既に、この身を背後から捕捉され。わたしより二回り以上体が太く、二
十センチ以上背の高い、三十歳代の男性の左腕が。この左腕ごと背後から胴体を締めて自
由を奪い。その右腕はわたしの右上腕を抑えつつ、この口と鼻に薬品付きの布を押しつけ。

 更にその右手の指が、目の前で妖しく動き。『力』の発動を感じた。薬品付きの布は口
と鼻を塞いだ侭取れず。周囲は作務衣の男性多数が取り囲み。倒れ込んだ2人が起き上が
り。

「生命は取らぬ。起きた時には全て忘れよ」

 右足に縋る女の子を引き剥がそうと、更に別の男性の手が伸び。女の子の拒絶の思いが
ひしと伝わる。彼らに女の子への害意はなさそうだけど。その拒絶を軽んじる感触も悟れ。
右太股に縋りつく力が思いが一層強さを増し。

 わたしは背後の彼が術をかけようと右手を挙げた為に、動かせる様になった右腕を使い。
布を当てられる前から息を止め、薬の効果は防いでいる。彼の『力』は己の『力』で防ぎ。

 軽く肘打ちして身の拘束を解かせた上で。
 彼が倒れるより早く彼の為した事と同じ。

「暫くの間諸々を忘れて、何も考えないで」

 わたしは呪言の助け不要に、己を拘束した彼のみならず、周囲にいた作務衣の男性5人
に同時に術を及ぼして。彼らは暫く動かない。そこでわたしは左太股にしがみつく女の子
に手を触れて。怯えさせない様に笑みを見せて。

 少し離れた処では、幼子やその保護者・通行人が、何があったのかと様子を窺っている。
簡潔な説明も難しいので、ここは素早い離脱を選び。女の子も長居したくはないだろうし。

「汝は相馬の兵(つわもの)に一体何を?」

 女の子の戸惑いは、わたしの『力』の行使にではなく。練達の彼らが先に『力』を行使
したのに効かず、逆に術をかけられた結果に。でも今は説明をする時間的な余裕もないの
で。

「危害は加えてないわ。少しの間夢を見て貰っているだけ……暫く追っては来られない」

 最低限の答を返し、僅かの間でも自由を望むその思いを導く為に手を取って。それが表
向き子供の我が侭に過ぎずとも、周囲の大人の迷惑でも。奥に切実な想いが境遇が根ざす
なら。間近に触れて関った以上見捨てられず。

『それに女の子の背景は、白花ちゃん桂ちゃんにも関係ある。この子を追ってきた作務衣
姿の男性達が、多分羽様の幼子も連れ去った。今の日本で術を使う者なんてそう多くいな
い。関り続ければ、愛しい双子へ辿り着ける…』

 この子の登場で、元から微かだった羽様の双子の気配は霧散して。痕を辿れなくなった。
この子も贄の血とは違うけど濃密な何かを身に宿し、周囲の気配を掻き乱してしまう様で。
サクヤさんは未だ携帯電話の圏内迄来てなく。この瞬間の判断はわたしが下さねばならな
い。

「これも定めなのでしょう……ついて来て」

 二度目に差し伸べた手は、振り払われず。
 わたしと彼女の定めはこの瞬間絡まった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「いらっしゃいませー」「くるしゅうない」

 マニュアルに従った丁寧なお辞儀と挨拶に。
 古風な応対を返す女の子と共に入ったのは。

 テスト終りの高校生等で賑やかに混み合う。
 ハッキンビーフバーガー経観塚銀座通店で。

 サクヤさん達とは早く合流したかったけど。
 愛しい双子の行方を捜し辿りたかったけど。

 女の子はここへ至る過程で疲れ果てており。
 何か飲ませ食べさせ休息を与えねばならず。

「知っておるぞ。貴賎貧富の別に関らず先着順で、店員の前に並ばねばならぬのだろう」

 未だ2時前で聡美先輩の姿も見えないけど。
 2年女子の先輩達や桜井弘子さん達も居て。

 注視を注ぎ囁き交え、でも声は掛けて来ず。
 金の髪と和服の青の鮮やかさは人目を引く。

 榊良枝さん東川絵美さん達とは会釈に留め。
 噂の種を蒔いた事は己の咎と受容するけど。

 今は見知った人を事に巻き込みたくなくて。
 ここ迄至るにも更に多少の紆余曲折があり。

「驚いたぞ。汝があれ程強いとは予想外だ」
「余り言わないで下さい。恥ずかしいです」

 あの後も作務衣の男性達を更に二度退けた。
 最初の叫びを聞きつけて彼らは次々参集し。

 一度目は背後から4人が飛び苦内を放って。
 足止め目的でも本物の刃は刺されば傷つく。

 悪戯や冗談で使える物ではないのに彼らは。
 幾ら女の子の確保に焦っていると言っても。

 昼間他に人通りがあり得る町中で躊躇なく。
 周囲に目撃者もいなかったのは幸運による。

「女の子が戦いに強いと知られても、特に嬉しくはないし」
「珍しいモノの見方だのぅ」

 女の子を急かしても大人の足は振り切れぬ。
 逃げ続ければいずれ他の通行人も巻き込む。

 わたしは角を曲がった処で女の子を休ませ。
 勢いの侭角を折れた彼ら全員を罠に掛ける。

 小路の両脇に絹糸を蜘蛛の巣の如く巡らせ。
 絡め取れば多少の腕力や術では解き得ない。

 絹糸は『力』で強度を増し更に痺れを招く。
 笑子おばあさんに教わった機織りの応用だ。

「妾の周囲は皆、戦う強さがなければ無価値と言うぞ。故に強くない女は男に劣ると……
みゆみゆ位か。強さのみが人の値ではないと、囁いたが。その他は下女も大人衆の女共
も」

 二度目は作務衣の男女20人程が前方を塞ぎ。
 十字路の左右後方からも男性5人ずつ迫り。

 苦内を投げず前後の距離を詰めてきた事で。
 投網でわたし毎捕獲する彼らの意図が悟れ。

 携帯電話を使う以上に彼らの動きは連携し。
 子供の足で逃げ回っても追跡網は脱せない。

 話し合いも聞かぬなら敢て彼らに囲ませて。
 一つ処に多数を集め撃破して網を突き破る。

「人の値は強さだけではないわ。強さを否定はしないけど。賢さ優しさ穏やかさも、普段
見えない心の強さも、人の値打ちで個性なの。特にあなたの様な女の子の、美しさ綺麗さ
愛らしさには、他では代え難い値打ちがある」

 彼らの動きを見定め投網の直前にわたしは。
 信じて身を任せてと囁き女の子の腰を持ち。

 渾身の力とバネでその身を前方空中へ放り。
 空中3メートルを縦回転で舞うのに合わせ。

 走り抜けて前方にいた20人中男性17人のみ。
 掌打で倒し女の子を再度の渾身で受け止め。

 悶絶した17人が道を塞ぎ後続も追い縋れず。
 この位の力業を為せねば到底鬼には抗えぬ。

「戦いに勝たずとも……強くなくとも人には生きる値がある?」
「少なくとも、わたしはそう思っているし、わたしの周りの人達も」

 女の子は不思議そうな顔でわたしを見つめ。
 双眸には疑念と同時に微かな煌めきも窺え。

 力づくに走る追手多数を撃退したわたしが。
 強さが全てでないと語るのは矛盾だろうか。

 街路では彼らに見つかるとお店に駆け込み。
 一応追手は振り切れたけど殲滅はしてない。

 重傷も負ってない彼らは体勢を立て直せば。
 一人の通報で再来する恐れを胚胎している。

「ご注文は?」
「全国展開ればーばーがーと数量限定卯良島ばーがーと、夏季限定ぽーらーべあーと、こ
のしぇいく6種類とぽてとと、なげっととさらだを全部くれろ!」
「……」

 女の子はお金を持たぬのでわたしの奢りに。

 彼女は日頃欲した物は買いに行かせており。
 お金の支払いを知識としてしか知ってなく。

 それが日常の女の子は相当なお嬢様らしい。

 でも作務衣の男女は身代金目的等ではなく。
 力づくに走る強引さはその危機感の裏返し。

「上座下座関りなく、先に入った者が空いた席を好きに選べるのだったな?」「ええ…」

 窓側ではなく二階の奥の座席に座したのは。
 鮮やかな和服姿を外から見られぬ為だけど。

 店内でも彼女は他のお客や店員の目を集め。
 長居をしてはお店や他のお客に迷惑が掛る。

 史さんの父役が勤める警察は気易く頼れず。
 今回の相手は若杉に繋るかも知れないので。

 でも女の子の目的地はどうやらここらしく。
 バーガーやポテトを頬張って満面の笑みを。

「改めて初めまして。わたしは駐。柚明…」

「知っておる」女の子は素っ気ない答を返しつつ、わたしの驚きを所望した様で。でもわ
たしが分り易く驚いて見せぬのに、やや不満そうな顔で。自ら名乗ったわたしの意は察し。

「ミマキじゃ。汝にはマキと呼ぶ事を許す」

 ファーストネームを教えてくれた。どう呼ぼうか迷いがあり、一方的に言い当てるのも
如何かと思えたので。名を知る事は古代には、添い遂げる事の許諾を意味した。言葉遣い
のみならず、生活環境も古風らしい彼女にそれを為す事は、刺激が強すぎる可能性も感じ
て。

「マキちゃんで、良い?」「呼び捨てせい」

 その代り年上でも妾は汝を柚明と呼ばうぞ。
 柚子の柚に天地神明の明で良いのであろう。

 マキは歳は幼くても、大人びて賢い以上に、身分の敷居高い世界に生きていて、しかも
かなりの上位者らしく、大抵の者は呼び捨てに。でも外の世間がそれとは違う事も知って
おり。自身が呼び捨てされる事を了すれば、自身の他者への呼び捨ても、通用させられる
と考え。

 了承を求めず拒絶も疑わず告げれば良しと。
 ポテトを頬張る笑顔はお嬢様よりお子様で。

 でも幼さを残す端正な容姿には心惹かれた。
 歳の違いは少しだけど羽様の幼子とは違う。

 この歳で大人に近しい明晰さと知識を備え。
 愛らしさの奥に凜とした意志や覚悟を持ち。

 更にはその身が受け継いだ血に滲むモノと。
 残っている幼さの不均衡が映えて危うげで。

「今や父も妾を呼び捨てにせぬ。妾が特に夜這いを許すは、みゆみゆと汝の2人だけぞ」

 わたしの返礼も求めずマキは両手に肉で。
 一口ずつ交互にかぶりついて肉感に浸り。

 慣れない幼子なので手も頬もテーブルも。
 和服の袖も汚すけど気にする様子もなく。

 飲物を飲まないと喉を詰まらせるわよと。
 注意しても聞く耳を持たずその1分後に。

 予告通り喉を詰まらせてその背をさすり。
 わたしのウーロン茶を飲ませて漸く一息。

「ハックに来るのは初めてなの?」「うむ」

 満足や意外感が秒変りで表情や仕草に現れ。自身の選択の結果なら、想定通りの満足で
も想定以上の喜びでも想定外の失望でも、全てが成果で充足だ。味も食感も喉越しも手の
汚れも、店員さんとの応答も椅子の座り心地も、彼女には何もかも初めてで開け行く新境
地で。

 その様は羽様の幼い双子、白花ちゃん桂ちゃんに通じ。数年前の己も思い返され。表情
や仕草や声音の移り変りの豊かさが愛らしく。

「前に一度、みゆみゆが持って来てくれての。冷めて本来の味を失っていると謝っていた
が、妾はそもそも本来を知らぬ。大人衆も下女下男も、俗世や異人の物を食しては、身の
清さが薄め穢され、『力』が落ちると嫌っての」

 ファーストフードに使う保存料や着色料は、体に悪いとか。肉や野菜を育てる飼料や肥
料には、有害な物があるとも聞いたけど。各種オマケや濃く強い味で、若者の人気を集め
ているけど。子供に多く食べさせるべきでない、手作りの方が良いと。でも『力』への影
響…。

 ティッシュで頬や顔を拭き取るとマキは。
 心地よさそうに為される侭に瞳を閉じて。

「時折会う身代り達は、雑誌やテレビラジオも許され。年1回程この様な物の食も許され、
故意に世俗に近しくされて。妾に変事があった時の代用品に、世俗よりは身を清く保つが。
同等に清いと『あるーら』が依巫を迷い憑き誤る怖れがあるから、故意に差を付けるとか。

 身代り達から伝え聞き妾も所望したのだが、清い身が口にする物ではない、異人や俗人
の食物と断られ。みゆみゆに話したら、こっそり持ってきてくれての。でも発覚してみゆ
みゆが謹慎になって。持ち寄る者に累が及ぶのでは所望できぬ。故に自ら訪れる事にし
た」

 そこでマキはわたしをまじまじと見つめて。
 シェイクを持たぬ左手でこの右手首に触れ。

「似ておる……強さのみが人の値ではないと言いつつ、相馬の兵(つわもの)に戦で勝り。
剣術体術の他に『力』も扱えるのに、無闇に妾の内心を覗く事はせず。綺麗な容姿も滑ら
かな肌も爽やかな香りも。幼子の気紛れを叶えに身を尽くす、生真面目な甘さ優しさも…。

 表向き恭しくても、本心は幼子と侮り神獣の器と厭い、心にもない世辞で妾を使い回す
傍の者共と違う。仕え守ると言って妾の日々を縛り奥座敷に閉じこめる者共とも。初めて
逢った妾を汝は、何も問わずにまず助け…」

 心を開きかけたマキの日々が僅かに視えた。わたしは関知や感応の『力』で、他者の私
生活や過去を覗き見はしないけど。普通に見て聞いて接すれば、自然に推し量れる事も多
い。名探偵が依頼人に会うだけで多くを分る様に。占い師が依頼人に会うだけで多くを悟
る様に。

 マキは内心を知られぬ様に、膨大な『力』を肌身に纏わせ、他者の察しを遮断していた
けど。澄ませた耳の傍で大声を発するに似て。強烈な匂いで犬の鼻を眩ませるに似て。で
も。

 わたしには見せても良いと心を開き。視えたのは、学校に通う事さえも許されず、広大
な屋敷の奥の一角で起居する事を強いられた、十歳の女の子の静謐に鎖された日々だった
…。

 大人は多数傅いて様々な面倒を見てくれる。食も身の回りの品も高級な自然素材を厳選
し。勉強も礼儀作法も正規以上に躾けられ。沐浴でも体を洗って貰え服も着替えさせてく
れて、自ら動く必要はなく。年に数度家の手伝いをこなせば、後は奥座敷に鎮座するだけ
で良く。

 代りに全く自由がない。常に大人の監視下にあり、子供の好き放題が許されない。屋敷
はホテルより部屋数があるけど、外に出られぬ以上に屋敷内でも、往来の範囲が制限され。
窓の向うに外界が見えない。そもそもマキの起居する部屋や廊下に、外の見える窓がない。

 学校に行ってないマキに訪れる友はおらず。

 時折会う『身代り』達はマキと同年代でも。
 似た境遇の血縁でも、友と言うより同僚で。

 のみならず、世俗の穢れに触れさせまいと。
 大人はマキに外の娯楽や情報をほぼ与えず。

 みゆみゆさんが唯一マキの願い望みに応え。
 外界の情報を隠れて多少繋いでくれたけど。

 それさえ謹慎など処分の対象であるらしく。

 言葉遣いが古風なのも、挙措が普通の子供らしくないのも。マキの望みや選択ではなく、
周囲の育て方だ。今に生れて今を生きるなら、今に応じた生活があって良いのに。彼らは
…。

『追手が再度……町中を探し歩いている…』

 作務衣の男女多数が走り回る様子に、表情や動作に焦りと必死さが滲む有様に。町を歩
む人の眉を顰め厭う気配を感じたけど。妨げぬ者に害は為さぬので、敢て誰も踏み込まず。

 マキを見失った事は甚大な失態で。邪魔な女子高生に武器を向け、守るべき無辜の民へ
の躊躇や遠慮を忘れる程に。確かにマキは贄の血とも異なる特異な何かを宿すけど。その
強大な気配は、鬼や霊を怯えさせる程だけど。

 逃がす事を嫌うなら、連れてこなければ良いのに。観光やマキの情操教育に来た訳では
ない。彼らが彼らの事情でここ迄連れ出して、逃走を許したのだ。彼らは誘拐犯等ではな
い。彼らの目的はマキの強奪ではなく奪還だった。

 マキの帰るべき処は彼らの元で。マキも家出を望んだ訳ではなく。鎖された日々を嫌い、
羽を伸ばしたく出歩いただけ。それは立場や使命を省みぬ無責任な逃避だったけど。マキ
は大人げなくて当然の幼子で、課せられた束縛は余りに厳しく。わたしはその心情も分り。

 いつ迄も連れ歩く積りはないけど。速やかに保護者の元に、作務衣の男女の元にマキを
帰すべきだけど。体を休ませる少しの間位は。今の生を味わう事は今に生れた子供の権利
だ。

 戻ればマキには束縛の日々が待つ。時折家を手伝い、それ以外は相馬の奥座敷で出動を
待つだけの、多くを与えられても自由のない歳月が。それはご神木に封じられた主に近い。
今さっき会って少し一緒しただけの部外者に、その在り方を否定する資格はないけどせめ
て。

 今の世に生れた幸せを殆ど知らない幼子に。
 今を生きる楽しみを少しでも感じて欲しく。

 多分わたしは今余計な処へ踏み込んでいる。
 でも例えお互いの立場がどうであろうとも。

 この歳の幼子に罪や咎があるとは思えなく。
 可能な限り助け支え守りたい可愛い女の子。

 この行いが後で己にどんな悔いを導いても。
 甘んじて全ての結末をこの身に受け止める。

「似ていても、みゆみゆには敵わないがの。
 みゆみゆの方が、汝よりもずっと上ぞ…」

 マキは小さな体で何個目かのバーガーに食らいつき。わたしに感応が通じると分るから、
口に食べ物を頬張った侭もぐもぐ喋り。自身が好いた者を語る瞬間程に誇らしい時はない。

「剣や術の強さでも、正しさでも賢さでも優しさでも綺麗さでも愛らしさでも、歳でも胸
の大きさでも。みゆみゆは女の中で最も強く美しい、妾だけの僕(しもべ)なのじゃ…」

 マキは他の誰よりもみゆみゆさんを信頼し。マキの語感で受けた印象は。身長百七十五
センチの均整が取れた肢体に、二十歳少し過ぎの美貌。やや低い良く透る声にストレート
の黒髪長く艶やかで。鍛えられた視線や気配は凛然として……わたしの見知った人物だっ
た。

 彼女に引き渡すのなら、マキも拒絶はしなかろう。マキの目的はほぼ達成され終ったし。

「ふうぅぅ……満足満足、気分は極楽じゃ」

 マキはハックを食べてみたかった。お店に来てみたかった。他のお客の後に並び、店員
に注文して品物を受け取り、支払をしてみたかった。それは相馬の屋敷では、決して叶わ
ず許されぬ。様々な人に囲まれ、色々な物に満たされ、諸々を為して貰えるけど。俗世に
交わる事は許されず、覗き見る事も許されず。

 白花ちゃん桂ちゃんが羽様のお屋敷を庭を、森を自在に遊び回るのに較べ。幼稚園に行
き、家族でお話しし一緒にお風呂に入り、テレビを見て絵本を読んで貰えるのに較べ。マ
キにその様な日々はなくて。肉親も声の届く処に住まず、みゆみゆさん以外とは添い寝も
なく。この様に旅先で逃げる事でしか自由を掴めず。

 今のこの満足は子供の気紛れの結果だけど。
 実は深刻な束縛や鬱屈の反動で事は危うい。
 作務衣の男女や家族親戚は一体どう考えて。

「みゆみゆさんは、経観塚に来ているの?」

 わたしは一番たいせつな桂ちゃん白花ちゃんの安否を確かめ、早く取り戻さねばならぬ。
ハックで潰す暇など本来なく。目前の幼子の心を乱さぬ為に、状況に冷静に向き合う為に、
焦りを伏せるけど。むしろわたしの心情はマキを探す作務衣の男女の焦りや切迫感に近い。

「怒られる……」そこでマキは珍しく弱気に。

 満たされたからこそ、罪悪感を思い返して。

「マキではなくみゆみゆさんが怒られる?」

 わたしの確認に、マキは俯き加減で頷いて。
 みゆみゆさんはマキの外出に必ず伴うので。
 作務衣の男女と共々に経観塚には来ていた。

 マキは飛び出した自身の咎も罰も覚悟済み。
 でもそれで守り役のみゆみゆさんが叱られ。
 罰される事に申し訳なさを感じ悔いを抱き。

 マキは賢い。何を為すべきかは分っている。
 わたしは幼子の真の想いを形にする方向に。
 それがわたしの真の願いへと近付く事にも。

「落ち着いたら行きましょう……あなたの本来いるべき処へ。あなたを待つ者達の処へ」

 わたしが伴うからと付け加えると、マキは目を丸くして。マキもわたしもお互いを分っ
ている。分っているからこその驚きの視線に。

「あなたの……と言うよりあなた達の求めをまずわたしが満たすわ。だからあなた達にも、
あなたにもわたしの願いに応えて欲しいの」

 マキの小さな両手を己の両掌で包み込んで。
 胸の上で合わせて視線を黒い双眸に注ぐと。

 マキは一度俯いてわたしから視線を逸らし。
 微かな逡巡はこの感触を好んでくれての…。

 でもこれ以上知らぬ者同士では居られない。
 僅かな猶予は既に限度一杯使い尽くされた。

「潮時かの。相馬の兵はここに迫っておるし。妾が街を歩く事で騒ぎを招き、妾の見聞き
したかった市井が荒らされる。はっくに来れた、下々とも語らえた。望みは叶った、と言
うより汝に叶えて貰えた。しかも汝はお人好しに、妾の回りの者の願い迄叶えてくれると
いう」

 これでは妾も汝の願いに応えねばなるまい。

 迷いを吹っ切りマキはわたしへ視線を戻し。
 その姿勢は気配は覚悟は最早幼子ではなく。

 わたしが敢て触れなかった真の名を明かし。

「鬼切部相馬党が鬼切り役・相馬御間城が。
 相馬党当主の命に基づいて使命を果たす。

 この様に関って相見えるとは想定外だが。
 羽藤柚明、汝に挑む総大将がこの妾じゃ」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 古来から幼子は神霊の力を宿すと信じられて来た。大人に育ち行く力を未使用で、人の
世に生れて年数を経てない幼子は、完全に俗世の者ではなく、生前の世界・異界や彼岸の
性質を残すとされ。体力が弱く疫病や栄養失調に罹り易い為に、死の世界に半ば足を踏み
入れた存在とも見なされ。そう言う旧いしきたりや発想は、都会より僻地の方が長く残る。

 実力主義が浸透し始めた武士の時代・建武の新政期に、朝廷が奥羽へ遣わした陸奥太守
の憲良(もりよし)親王は、5歳の幼子だったと、郷土史研究家の正樹さんから教わった。
名将北畠顕家等補佐の大人は添えられたけど。幼子を総大将に任ずる判断は非合理だ。そ
れで言うなら鬼という非合理の塊を討つ鬼切部こそ、幼子の霊力に着目しても不自然はな
く。

 出会った時から、マキが常の幼子と違うとは感じていた。艶やかな金の髪や鮮やかな青
い和服が、人目を惹く以上に。幼い容姿に似合わぬ古風な言葉遣いや、独特の物の見方捉
え方以上に。この歳で強い『力』を身に纏い。相馬の鬼切り役とは流石に思わなかったけ
ど。

 幼子は自我が未確立だから、思いを隠す事が苦手で。覗き見等不要に、分って欲しいと
望み願うのが子供だ。桂ちゃん白花ちゃんも、遥ちゃん渚ちゃんを始めとする多くの幼子
も。

『汝は妾(わらわ)を助けてくれるのか?』
『妾は自由が欲しい。例え僅かの間でも!』

 だから幼子より少し歳が進んでも、しっかり力を防ぎ心を隔て隠すマキの応対は驚きで。
ハックで見せた子供らしさや、わたしに助けを求めた時の素直さを見る程に、落差を感じ。

 わたしが関知や感応で見抜こうと試みても、出来たかどうか。本当に幼い頃から心を隔
て隠す修行を積んできた。否、積まされたのか。人一般には心を鎖し『力』を警戒する様
にと。

 わたしも尋常ではない事を感じ取れた位で。
 マキの正体や実力を見極めるには至らずに。

『力』で探ろうとは試みなかった事もあって。
 隠したい事知られたくない事は誰にもある。

 作務衣の男女は、邪魔者のわたしを敵視はしても、マキへの害意はなく。その意志を軽
んじる感触はあれど、隔て厭う感覚はあれど。相馬の兵である作務衣の男女には、マキは
雲の上の存在で、奪還は最優先事項で。それでも問答無用に武器を用いるのは、問題だけ
ど。

 苦内を投げて来る前から、彼らが相馬党だとは分った。声音や動きや気配等の表現し難
い感触で。一度対すればその集団の流儀や特徴は掴める。彼らが双子も連れ去った。禍の
正体はこれだった。全てはわたしを引きずり出す為に。鬼切り役のマキが動員されたのも
その為で。でも故にこそわたしは彼らの元に、彼らに囚われた愛しい双子の元に辿り着け
る。

「妾に敵意を感じないのか? 討つのなら。
 一対一で向き合った今こそ最大の好機ぞ」

 マキの瞳は興味深そうに、わたしの出方を窺い。その姿勢は一見お子様でも、声音は気
配はどんな変事にも対応する鬼切部のそれで。腕力や剣術の強さはなくても底知れぬ
『力』を感じる。並の術者や高僧神主とは格が違う。

 マキもわたしが素人ではないと分っている。相馬の精鋭多数を敵に回すより。自身を討
ち取るか、捉えて人質にする方が有利と示唆し。わたしのどんな挙動も退ける自信がある
のか。

 傍の席にも高校生や大人の若者は多数居て。
 でもそれぞれ自身の話しや食事に集中して。

 マキやわたしの会話を真に受ける者はなく。
 無辜の彼らを巻き込むべきではない以上に。

「あなたとは戦いたくないの。これ程綺麗に可愛く柔らかな女の子とは。相馬の鬼切り役
で、わたしを討つべく遣わされた総大将でも。元々わたしにあなた達と戦う理由はない
わ」

 彼らとは昨年師走に戦う羽目になったけど。
 あれは若杉の葛子さんの暴走による過ちで。

 わたしが人を貪る悪鬼ではないと相馬党も。
 認めたからこそ年末に謝罪使が羽様を訪ね。

 今後わたしやその周囲に危害を加えないと。
 賠償もすると和解を望まれ受け容れたのだ。

 それでも羽藤の大人はわたしを愛する故に。
 被害者として完全に納得し切れてないけど。

 わたしがサクヤさん真弓さんに和解を願い。
 敵味方問わず誰の傷つく姿も見たくなくて。

 鬼切部と諍い続ければ桂ちゃん白花ちゃん。
 最も愛しい人を守り育てる環境を保てない。

 だからわたしも、生命を奪いに来た彼らを。
 相馬も若杉も誰1人殺めず生かして帰した。

 若杉は窮地打開に一度鬼と化したわたしを。
 尚監視しているけどそれ以上の動きはなく。

 なのに相馬党の謝罪や和解は、実は虚偽で。
 わたしはともかく、罪もない双子を攫って。

『今迄何も動きを見せてなかったのは、今日の決起を伏せる為の、見せかけだったと…』

 悟れなかったのは、己の関知や感応が鈍っていた以上に。相馬党も関知や感応への対応
を承知で、偽装や面従腹背や隠蔽にも熟達し。和解を喜んでいた羽藤が愚かなのか。和解
したと思いたく、もう戦いはない、誰も危難に遭わずに済んで欲しいとの。願いが希望が
視野を曇らせ。愛しい人に迫る危難を見過ごし。

 野獣はその間爪を牙を研ぎ機を窺っていた。
 相馬はこの戦いに何を望み欲し求めるのか。
 わたしを討つ事で何を得られ又は守れると。

 尤もマキは必ずしもその意図に添ってなく、私的な目的の為に一時的に職場放棄し、奇
異な縁でわたしと巡り逢い。総大将でも幼子は、どこ迄今回の件に深く関り承知している
か不詳で。白花ちゃん桂ちゃんの行方を問うなら。マキを補佐し全体を統括する大人がい
る筈だ。この事態を問うて向き合うべき実質の首魁が。

 仮にマキに逢えてなければ、わたしは作務衣の男女を倒し、愛しい双子へ繋る糸を手繰
り寄せた。尤も彼らは逃亡したマキを探す為に街に散った。でなければ彼らも人目に付く
動きを控え、手掛りを辿るのに苦労したかも。マキは自身がわたしに出会ってくれた以上
に、貴重な手掛りをわたしにくれた。その上で華奢に整って幼く可愛いその容姿は敵視し
難く。

 わたしはマキを真正面から静かに見つめて。
 テーブルの上でその両手を両手で軽く握り。

「例えあなたに鬼切り役を為さねばならない定めがあっても。仮にあなたがその定めに納
得していても。お互いが戦う他には術のない、決して譲り合えない関係でも……あなたが
戦う必然はない。幼いあなたが血を流す必要は。

 わたしはあなたを傷つける事を厭う以上に。あなたがわたしを傷める事で、その心が荒
む事を厭う。無垢に優しく綺麗な心が血に染まる事を厭う。どうしても戦わねばならぬな
ら、他の誰かに任せて。幼子にはそれを望む権利がある。強さの問題ではなく、子供の手
を血に染めてはダメ。だからわたしは決してあなたに討たれないし、あなたを討つ事もな
い」

 わたしはあなたと戦う以外の方法で、己の目的・たいせつな双子を取り戻す願いを望み
を叶える。そして叶うなら、あなたの願いも望みも満たす事に協力したい。助け支えたい。

 敵対関係は承知だ。互いに立場の縛りがある事も分っている。それでも尚、戦う以外の
解決策を探したい。そして最悪戦う事になったとしても、幼子を巻き込む事だけは避ける。

 不可能に近い事を承知で述べるわたしに。
 マキは興味深そうにその黒い瞳を瞬かせ。

「似ておる……みゆみゆも妾の出陣に常に乗り気でなくてな。鬼切り役が出る程の敵では
ないとか、配下に手柄の機会を与えるべきとか言って、妾の出陣を厭い。一度だけ、2人
きりの場で『子供が手を血に染めるのは良くない、大人が為すべき。どうしても回避でき
ぬ時は、みゆみゆが代りを務めます』と述べ。

 だが結局みゆみゆは代りを務められなんだ。昨年妾の代りに経観塚へ、娘の鬼を討ちに
出向いたみゆみゆは、鬼を討てずに敗れ去り……妾なら討てた鬼をみゆみゆや、共に赴い
た大人は討てなかった。だから妾が赴いたのだ。

 汝の勝利が、妾をここに赴かせた因でもあるのに。汝が昨年末に相馬の鬼切りを倒して
退けた事が、この今に繋っているのに。妾をこの戦場に引きずり出したのは、汝でもある
のに。汝は妾に戦わぬ戦うなと言う皮肉よ」

 マキは黒い双眸に冷淡な知性の影を覗かせ。
 整った容貌で静かに喋ると声に迫力が宿り。

「良かろう。汝はその言葉に添って足掻くと良い。その末に何が開けるか妾も楽しみだ」

 通常これ程の敵意を前にしては間合を置き。
 不意打ちの怖れを警戒しつつ話す物だけど。

 マキもわたしもハックの椅子に間近に座し。
 傍の人の嬌声も聞える中で一見静かに対し。

「マキがわたしを挑むべき相手と分っても。
 今仕掛けてこないのはお店の中だから?」

 逆にマキがわたしを今すぐ討たない事を。
 問うとマキは淡々とシェイクを飲みつつ。

「妾は総大将じゃ。配下の武功を見届け賞するのがその心得で。仮に自ら敵を討つにせよ、
その局面は最後の最後。先鋒の様に一騎駆けして敵の雑兵にでも討たれては、全軍崩壊ぞ。
今川義元や龍造寺隆信の例は辿りとうない」

 ハック来たさで配下から逃れ、初めての街中を独り走った幼子の言葉だけど。マキはわ
たしの技量も評価し、ここで仕掛けても簡単には終らないと見て。傍の無辜の民の迷惑も
慮り。わたしが戦いを挑むなら応戦して倒すけど。そうでなくば場所を変え味方を待つと。

「汝が妾……と言うより相馬の大人に用があるらしいとは感じていたが。妾も、相馬の大
人も汝に用があっての。この様に街中で巡り逢い、助けられるとは思ってなかったが…」

 わたしもですと応えるとマキは瞳を輝かせ。
 確かにそうじゃお互い様かのと笑い出して。

 相馬の鬼切り役が、配下の兵から逃げ走り。
 わたしがマキを助けて相馬の兵を戦い退け。

 只者ではないと分り合いつつ想いを通わせ。
 人の定めはどこでどう変転するか分らない。

 でもその一時的な錯綜も徐々に解けて来て。
 事の背景が視えてきた以上いつ迄も現状に。

 留まれはしない。お互い前へ進み出さねば。
 それが好ましく想う同士敵対し合う途でも。

 自身の立場に基づく定めに向き合わなくば。
 話し合いや和解の可能性に挑む事も叶わぬ。

 わたしは店に入ると同時に、自身とマキの気配を周囲に紛れさせていた。木を隠すなら
森であり、人を隠すには人が集う場だ。今のわたしは気配を隠せば、サクヤさんや真弓さ
んにも、その存在を気取られ難くなっており。

 作務衣の男女がここに当たりを付けたのは。
 気配追跡を諦め街を探し回って見あたらず。
 消去法でここしかないと辿り着いた結論か。

「汝の望みが叶うかは確約せぬが、汝が逢いたい者に逢える処迄案内しよう。黄麟や青龍
は諫言しそうだが、街で騒ぎを起こすより汝が来る方が話しは早い。妾に伴え」「はい」

 マキは相馬党の集合場所に招く積りだけど。
 危険を怖れ嫌っては幼子の元に辿り着けぬ。

「踏み込まれる前に外へ出るぞ。街中で騒ぎにならぬ様に、兵は妾が鎮める。離れるな」

 汝もこの先は人気のない方が都合良かろう。

 相手の了承を確かめず告げて終らせるのは。
 お嬢様の育ちの故か鬼切部の武断さの故か。

 マキの真意を分るので抗わず共に店を出て。
 わたしもマキよりその背後の者に用がある。

 欲していた繋りを漸くこの手に掴み取れた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ありがとうございました」「見送り大儀」

 店を出てすぐ、作務衣の男女多数に遭遇し。
 マキは自分が無事だと告げて、彼らを抑え。

「妾はもう逃げぬ。みゆみゆの処へ案内せい。この娘も伴うぞ」
「え……!」「ミマキ様」

 作務衣の男女は40人程で。青年から壮年迄年齢層広く男性が9割で。数少ない女性も含
め全員何かの武道を鍛え。でも鬼切りの域には至らず。昨年対した久秀さんの様な支援要
員か。彼らも緊迫し今にも飛び掛って来そう。

「娘が只者でない事はお前達も分っておろう。人目もある。街中で騒ぎは控えよ。娘は伴
うと言っておる。五柱神の処へ引き入れた後で、お前達の好きにすれば良い」
「ですがっ!」

 マキの意に反しても、連れ帰るのが彼らの任務だから。その帰還に異はないけど、わた
しの随伴には嫌悪し警戒し。わたしの随伴というマキの意に従う必要はないと考え。殺す
迄はせずとも、先程の報復に袋叩きにして路地裏に打ち捨てたいと。ざわめきが収まらず。

 周囲の通行人からは奇異の視線が注がれて。ここで人目を集めたくはない。身構える作
務衣の男女に、マキは仕方ないと言う顔を見せ。この右手を握って抑えてから、頬に顔を
寄せ。

「暫く妾の虜になれ柚明。悪い様にはせぬ」

 ちゅ、と軽く右頬にマキの唇が触れた瞬間。
 目には視えない、強力な『力』が身を縛る。

 恐竜の前足かぎ爪に横合から掴まれた様な。
 二の腕と腹と太腿とを、太い枷が抑え付け。

 これが、マキの持つ『力』の一端だろうか。
 早い動きという以上に、敢て抗わなかった。

 マキを拒んだり退けては、作務衣の男女を。
 興奮させて、諍いになりそうだったので…。

 街行く人に拘束する物の姿は見えぬ。わたしの硬直が分るだけ。日中なのでマキは肌身
に触れて『力』を及ぼした。一度掛けた技は、間接を極めた状態にも似て、外す事が難し
く。

「妾が敵を捉えた。これなら問題あるまい」
「であるなら」「問題ないかと」「どうぞ」

 彼らを倒して双子の居所を聞き出す選択は、ここでの大騒ぎを意味する。マキを人質に
彼らを牽制し、双子の元へ行く選択もあるけど。幼子を人質に取る行為が厭わしい以上に、
マキが大人しく人質になるかどうか。周囲の街行く人に見られ警察に通報される怖れもあ
り。作務衣の男女にフリーなわたしを受け容れる余地がない以上、この展開はやむを得な
いか。

 今のわたしは見えない巨鳥の爪に横合から体を鷲掴みされた状態で、体の自由が利かず。

「膝から下は動かせるから、歩けはするぞ」

 巨大な爪は、わたしを持ち上げる事も地に押しつける事も自在だけど。人目に不審に映
らぬ様に、辛うじて足が付く高さでわたしを引きずり。膝下を動かせば足はついて行ける。

 作務衣の男女は周囲の不審を招かぬ様に。
 多くの者が通りの向うや前方に身を隠し。
 マキやわたしの周囲には10人程が伴って。

「向うに着いたら一度解き放つ故に、暫く従って伴え。今の妾に汝を討つ気はない。今回
汝を討つのは、妾の役目ではないからの…」

 一応声は出せるけど。それはマキが、わたしが余計に叫ぶ事はしないと見ているからで。
必要ならいつでも口を塞ぐ以上に喉を潰せる。わたしも他の人を巻き込む積りはなく。今
はマキを信じ従い連行される。サクヤさん真弓さん正樹さんと、連絡を繋いでおきたいけ
ど。

「拘束の強さを試しておるのか? 無駄ぞ」

 本気で拘束を解こうとした訳ではないけど。
 どこ迄出来るかとの感じで満身に力を込め。

 力を込める程、不可視の爪は肉に食い込み。
 贄の血が数滴歩道に落ちた所で抗いを止め。

 その瞬間、マキが微かに動揺を見せたのは。
 その内で何かが蠢く感触と繋りがあるのか。

『マキ自身とは別に、マキの中には何か居る。憑かれている、と言うより憑かせてい
る?』

 わたしの宿す濃い贄の血は、鬼や妖かしに甘く香り良く好まれる。その故にわたしは幼
い日に鬼に襲われ、お父さんお母さんを喪い。鬼から逃れ羽様へと移り住み。笑子おばあ
さんに贄の血の匂いを隠す『力』の扱いを学び。

 今のわたしは贄の血の匂いを隠せる以上に。濃い血が宿す『力』の扱いを憶え、大抵の
鬼や妖かしを寄せ付けぬ迄になれたけど。偶に血を零した時、霊の類のざわめきは感じ取
れ。わたしは己の血の効果を今この瞬間も実感し。

「妾が解除を命じぬ限りその拘束は解けぬ」

 マキはこの抗いを無駄だと短く告げたけど。
 わたしが敢て無駄と分って抗う意味を訝り。

『この拘束はマキ自身の術ではない。これはマキがマキに宿る何かに命じた結果……だか
ら贄の血にその何かが反応した事は、マキの予想外で。何かに対する指示を締め直した』

 拘束の強さは変らない。わたしが満身に力を込めても、恐竜の前足の爪はこの肉に食い
込んで、もう少し贄の血を零すだけ。何かはもう、その匂いにも惑わされずに拘束を続け。

 マキに初めて会った時から感じていたけど。
 その膨大な『力』の気配はマキのみならず。

 別の何者かを宿らせ憑かせた効果なのかも。
 ご神木もオハシラ様や主を宿している様に。

 狐憑きや犬神憑きの話しは聞いた事がある。
 強力な『力』を持てば彼らを従え使う事も。

『力』を幼子が制御し使いこなすのは難しい。
 むしろ指示して誰かに任せ手綱を引く方が。

『それでもマキが膨大な【力】を持たなくば、大した【もの】は宿せない。この拘束にも
膨大な【力】を感じる。素養がなければ逆に生命を吸い尽くされそうな、凶暴な迄の何
か』

 贄の血はマキに憑いた何かの食欲を誘って制御を緩ませ。マキは手綱を締め直し。マキ
は人だから贄の血の匂いに惑わされない。微かな齟齬は、マキ自身の術なら生じなかった。

「それを知れても、如何程も汝に有利になったとは思えぬが」「そうかも知れないわね」

 マキは聡い。わたしが得た成果を推し量り。
 でもその成果に意味は薄いと事実を指摘し。

 マキに憑いた何かが敵として。マキもわたしへの戦意を否定しない。操られたり強いら
れた訳ではない。制御を失えば『それ』は贄の血を欲し暴走するかも知れず。マキは血を
欲しないけど、贄の血は鬼にはこの上なく甘く香る餌だ。マキの制御がある方が良いかも。

 市街地を抜け、銀座通から羽様と反対方向の人家に乏しい原野を歩み。昨年末相馬党に
囚われ連れ込まれた廃屋跡を、更に過ぎて…。

 1時間の後、わたしはそこへ辿り着いた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 この辺りは隣村との境で、銀座通から羽様と逆向きに続く原野が終り、丘陵地帯へ差し
掛る。付近20キロに人家はなく。相馬党は小高い丘の数カ所に分散して来訪者を見下ろし。

 複数の人質を纏めていては、一気に取り返される怖れがある。捉えた側に保持出来る頭
数があるなら、分散は好手だ。奪還する側は、全てを一度に取り返さねばならず、攻め難
い。

 周囲は雪も既に融け。雑草は場所によって、膝下位から視界を遮る高さに伸び。均一で
はないので、地面の高さが不揃いな事は見ても分らず。対面する形になった丘は、見た限
り草も生えず木もまばらで岩や土塊が見え隠れ。

 彼らがいる丘の高さは、何れも3階建ての建物位で、そこに至る凸凹の山肌を登る事は
可能だけど。武器と敵意を持った集団が陣取った高所に、正面から近付く事は危ういかも。

 マキの術に囚われ、作務衣の男女10人程に前後左右を固められつつ、丘を見上げる所に
至り。歪な半円形に展開した小高い丘の各所から、距離を置いて見下ろされる位置だ。彼
らのいるどの丘の頂迄も百メートル程はある。

 彼らは丘の上でわたしを出迎え。否、出迎えたとの形式で注意を惹きつつ。周囲の藪に
兵を隠し。身を屈め気配を抑えても、人数も練度も戦意も分る。羽様の幼子の気配は感じ
ない。関知や感応を遮る術を使っているのか。

『兵は全員で49名で、上級の剣士は17名…』

 彼らから何かの動きがあると思っていると。
 動きは丘の上からではなく正面の草陰から。

「ミマキ様!」雑草を掻き分け走り来た声に。
「みゆみゆ!」マキが声に向かって走り出し。

 わたしの拾数メートル前方で、背の高い雑草に見え隠れしつつ。主従は強く抱き合って。

 彼女は人前では、マキから賜った特権を鞘に収め。他の者と同様にミマキ様と呼ぶけど。
背が高く黒髪長く艶やかに若く美しい鬼切部相馬党の女性剣士。昨年末にわたしを鬼と誤
認して、この生命を奪いに現れ戦い退けた…。

「久しぶりね、羽藤柚明。息災で嬉しいわ」
「朱雀さん。どうしてあなたがこんな事を」

 彼女の本名は野崎美憂(みゆう)。幼い頃から見知っていたマキは、みゆみゆと通称し。
2人は姉妹でないけどそれに近しい密な仲で。

『覚悟なさい。人の世に仇為す悪鬼よ…!』

 若木さんの偽情報を信じた相馬党が、わたしの討伐に遣わした剣士の長。悪鬼を討ち無
辜の人を守る使命に忠実で。幼子に好かれる様を見て分る様に、人一般には優しく誠実で。
あの様な出逢がなければ良い仲を繋げたのに。

 相馬党も情報の真偽は確かめたけど。大野教諭が美咋先輩の進路を握って辱めた事実は、
わたしにも獣欲を抱き撃退された事実は。女の子の重大事案は伏せるべきと、学校も保護
者も考え。それを漏らし解雇された若木さんの事実も公表されず。その隠蔽がわたしの感
応や関知による作為で、悪鬼たる傍証にされ。

 若木さんは、暴行虐待でわたしから悪鬼の自白を取れと相馬党に命じ。自白があれば彼
らは羽藤の大人の抗議にも、鬼切部の悪鬼討伐と言い張れる以上に、わたしを嬲る目的で。

 故に若木さんは。唯一の女性で、敵でも女子を嬲る事を厭う朱雀さんが、場を外す様に。
鬼切り役のマキにわたしの力量を過大に伝え心配させ、朱雀さんに長電話する様事を導き。

『済まなかったな。我が配下が酷い事を…』

『鬼切部は人に仇為す悪鬼を討つのが使命。
 鬼を苛み虐げ辱めるのは、使命ではない』

 わたしに為された辱めを朱雀さんは止めてくれて。知らぬ内に若木さんの指示で美咋先
輩を攫った事にも異議を唱え。悪鬼に容赦はないけど、相馬党は決して悪逆無道ではない。

 だから白花ちゃん桂ちゃんを攫う様な事に。
 朱雀さんが心から賛同しているとは思えず。

 昨年末も美咋先輩の証言でわたしが悪鬼ではないと分ると、討伐を躊躇い。上司である
若木さんの指示で、討伐は覆せなかったけど。

『やむを得ない。相馬党も鬼切部の一員。その指示に従うのが我らの職分……不憫だが』

『せめて、辱めや苦しみ少なく済ませよう』

『鬼切部の失陥は鬼の跳梁を許し、無辜の民の犠牲を増やす。鬼切部はいつでもどんな場
合でも、鬼を討てる体勢を保たねばならない。相馬党の体勢にひびが入れば。立て直す迄
の間に無辜の民が、悪鬼に襲われ喰らわれる』

『鬼切部に過ちは、絶対に許されないのだ』

 だからわたしも彼らを力づくで退ける他になく。罪もなく討たれる事に不納得な以上に。
美咋先輩を口封じさせる訳に行かず、一番たいせつな羽様の幼子に捧げたい生命を喪う訳
に行かず。あの侭では、若木さんがわたしの近しい人へ及ぼす危害を、止められなかった。

 でもその為にわたしは自らを鬼と化して。

『我らが鬼を、作り出してしまったのか…』
『遠慮はせぬ。我が過ちを断つ思いで…!』

 最後迄朱雀さんはわたしを討つ事を厭い。
 流麗な剣筋をやや鈍らせてしまったかも。

 そのお陰でわたしは生命拾えたとも言え。
 そのお陰で再び生きて相見えられたとも。

【彼女とは仲を繋ぎ直したいと思っていた】

 今後もわたし達が経観塚で生きていく以上。
 東北地方を司る相馬党との関りは終らない。

 サクヤさん絡みで50年前から、羽藤の件は千羽党管轄となったけど。贄の血を宿す羽藤
は、鬼の禍に関る怖れを潜在的に持つ。真弓さんサクヤさんが居ても、変事の際に鬼切部
が近場に居ると心強い。助けを頼めなくても、真弓さんサクヤさんの動きを、敵と誤認さ
せない為にも、昨年の過ちを再来させぬ為にも。関りを拒み厭うのではなく積極的に関る
べき。

 若杉とは、若木さんとの失敗経験を省みて、後任の若杉史さんとの繋りを保ち。真弓さ
ん監視員である鴨川香耶さんとも悪くない仲を。彼らの任務が監視なら、羽藤はしっかり
監視され、彼らにその無害を示せば良い。互いの立場と求めを尊重できれば、関係は安定
する。

 でも相馬党との人の関係は未だ繋げてなく。昨年末に謝罪使は訪れたけど。彼らは任務
が終ると帰ってしまい、彼らは経観塚に人を遣わしてないので。出来れば複数窓口が欲し
い。一方に支障が生じた際にも、話しが叶う様に。

『朱雀さんにその最初を担って貰えたなら』

 出来れば会った事があり、多少でも為人の分る人が良い。でも相馬党の男性とすぐ密な
仲になるのは難しく。己の小さな拘りだけど、すぐに解消できなくて。己の心こそ御し難
い。

 朱雀さんは女性だし、歳も余り離れてない。少し年上なので教えて頂く事もあると思う
し。清く優しく美しく、悪や鬼に厳しいのは鬼切部として当然で、無辜の人を守る使命の
厳しさの反映ならむしろ好ましく。誤解の故に一度は敵対したけど、分り合えない人では
ない。

 以降3ヶ月わたしが動き出せなかったのは。自ら鬼と化した副作用で、鬼になりたく欲
し求む揺り返しを抑えるのに懸命で。この醜態を見せる訳に行かず。漸く安定して来たの
で、春休みに行動を起こせればと思っていたけど。

 まさかこの様な形で、再会を果たすとは。
 その想いは、彼女の側も抱いているのか。

「人は、今迄の流れの上に生きている者よ」

 マキを抱き留めた侭、野崎美憂さん−朱雀さん−は何とも言い難い表情を見せ。己を倒
した敵を前にした苦味も。誤認で殺めかけた無実の者が、生きて元気な事への救済感や嬉
しさも。再び敵として向き合う定めに抱く更なる苦味も。彼女こそ諸々の思いを胸に詰め
ていた。それらを整った容貌の下に抑え込み。

「あの様に不幸な出逢を経てなければ、私達の関り方も、違っていたのかも知れないけど。
最早互いの関係は個人の手ではどうにも出来ない。行き着く処迄行き着く他に術がない」

 今回の一件の総指揮も彼女ではない様だ。
 形の上の総大将はマキだけどそれ以上に。

「貴女には感謝しておく。ミマキ様を助けてくれた事、ミマキ様の願いを叶えてくれた事。
そしてミマキ様を人質にする等の形で、その清い身も心も傷つけようとしなかった事を」

 彼女の最優先は、常にマキの心身の安全で。
 それはわたしの桂ちゃん白花ちゃんに同じ。

 故にマキに危害を及ぼす怖れのある敵から。
 守り庇い引き離そうとするのは当然だけど。

「ミマキ様、本陣へ参りましょう」「うむ」

 マキは朱雀さんの肌触りを心ゆく迄堪能し。
 その肉感に心落ち着けてから漸く歩み始め。

「みゆみゆ、今日妾ははっきんびーふばーがーを訪れたぞ。羽藤柚明を『とも』にしての。
あれは中々出来る娘じゃ。初見で妾を只者でないと見抜きつつ、事情説明も求めずまず幼
子の助けに身を尽くし。妾を守り逃がしつつ、相馬の雑兵多数を幾度も退けて尚誰も殺め
ず。『力』も技量もあって器量が良い。胸や腰の大きさはみゆみゆが勝るが、柔らかく心
地良かった。妾の話しを良く聞き妾にも心開き」

 2人の姿は草藪に隠れて見えなくなるけど。

「そうだ、忘れておった」前方やや遠くから。
「約束だからの、解放は」マキの声が届いて。

「解き放たれた……」巨鳥のかぎ爪は消失し。

 周囲では作務衣の男女が慌てて身構え直す。
 怖れに駆られ臨戦態勢に入る彼らにマキは。

「お前達の役は羽藤柚明を討つ事ではない。
 妾を連れ帰る事が任務ならばそれに従え」

 作務衣の男女はマキの後を追って藪に消え。
 丘の上から声が届いたのはその直後だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 相馬党では、鬼切り役に次ぐ強者が五柱神5人で、それに次ぐ者が奥州拾七万騎17人で。
五柱神でも朱雀は女性枠らしい。相馬党は女性剣士が少なく、特別枠を設けねば強者22人
に女性0の事態も生じると。特に鬼切り役が幼子なら女性を置きたい事情も分る。故に朱
雀になる者は、相馬の女性最強であれば良く、下位の鬼切りに劣る事もあり。第七席の相
馬顕胤さんや第八席の南郷宗正さんと、互角の技量を持つ朱雀さんは、相馬では珍しい様
で。

 千羽党では、明良さんの前の鬼切り役は真弓さんで、千羽のみならず全鬼切部で当代最
強を謳われ。鬼切り役に次ぐ千羽の八傑8人には、ほぼ常に女性が複数いると聞いたけど。

 彼らは、自由を取り戻したわたしがマキに追随するのを防ごうと。わたしが今切実に求
める物を丘の上で見せつけて。そこで漸くわたしは愛しい人の、今の無事を確かめたけど。

「ゆめいおねえちゃん!」「ゆーねぇ…!」
「桂ちゃん、白花ちゃん。だいじょうぶ?」

 幼い双子は百メートル程離れた2つの丘で。
 作務衣の男性の腕に囚われ元気そうだけど。

「ゆめいさんっ!」「柚明、これ何なの…」
「和泉さん……に聡美先輩。どうして…?」

 桂ちゃんの囚われている丘には和泉さんが。
 白花ちゃんのいる丘には聡美先輩が囚われ。

 さっき池上先輩と話した時、聡美先輩と連れ立つ像が不鮮明だったのは。将来2人の仲
が解れるからではなく、今日彼女が危ういから。マキとハックにいた間も、聡美先輩が近
付く気配や未来は視えず。捕まっていたから。池上先輩と話していた頃、既に聡美先輩は
…。

 同様に和泉さんも。彼女はわたしを深く案じ愛してくれるから、暫く銀座通に留ると知
れば一緒を望んでくれる。でも曖昧な懸念に付き合わせるのは申し訳なく。背景を報せる
訳には行かず。わたしの禍に巻き込みそうで。触れて『力』を及ぼし帰宅を促したのだけ
ど。

 目を離した隙を狙われた。己の居ない時と場を襲われては、防ぐ事も守る事も叶わない。
攻める者は己の目や手が届かぬ一瞬を待てば良く。一つの体で全て守り通す事は不可能で。

 2人の危難を確かに予見できなかったのは。敵が誰を攫うか決めたのが実行直前だった
為。彼らはわたしの関知や感応の『力』を考慮し、予め多数の標的を選び。誰を攫うかは
直前迄決めず。なのでわたしは誰に危難が迫るか最後迄確かに知れず。美咋先輩も麗香さ
ん達も標的だった。事前情報と頭数と立案能力があれば、『力』にも対抗できるのか。わ
たしに関った所為で。わたしはいつ迄も禍の子だ…。

 動きは次の瞬間、和泉さんの唇から強く。
 それは彼らへの怯えと怒りとわたしへの。

「ゆめいさん! この人達普通じゃない。時代劇な格好と言葉遣いで、ゆめいさんに遺恨
があるとか何とか訳分んない。倉田先輩や罪もない桂ちゃん白花ちゃん迄攫って、あたし
も……早く逃げて警察呼ん……んうぅっ!」

 和泉さんは作務衣の男性に口を塞がれて。

 尚少し喋ろうと藻掻いた末にぐったりと。
 薬か術で無理矢理意識を奪われたらしい。

 桂ちゃん白花ちゃんが静かになったのも。

「わたしのたいせつな人に乱暴しないで!」

 すぐに駆け寄りたい想いを堪えて唇を噛み。
 正面小高い丘に立つ先頭の男性に向き直る。

 今は無理にでも心落ち着け冷静に事に対し。
 全員の無事な返還を安全な帰宅を導かねば。

「よくぞ来た羽藤柚明……遭えて嬉しいぞ。
 俺が鬼切部相馬党の五柱神筆頭・黄麟だ」

 年は明良さんと同じ位か。容姿も少し似て。
 男性の平均以上に背が高く筋肉質で整って。

 意識を彼にだけ集めすぎない様に注意する。
 左右の藪に相馬の者が尚拾数名潜んでいる。

「初めまして、羽藤柚明です。相馬党の鬼切り役から、伴えばわたしの逢いたい者に逢え
ると聞いて、付いてきました。でもこれは一体どういう事ですか? どうしてわたしのた
いせつな人が、あなた達に囚われて……?」

 彼らは人質を持ち強者多数で高所に陣取り、藪に兵を隠す等圧倒的に優位だ。対するわ
たしは独りで。真弓さんやサクヤさんに事は未だ伝わってなく。即ここで戦って敗れる事
は、羽藤の大人の探索の糸を断つ。すぐ取り返そうと戦いに走るより、今は時間稼ぎの局
面だ。

 桂ちゃんと和泉さんが囚われている丘では、黄麟さんの隣に彼より少し背が低く細身な
男性が、姿を見せ。まっすぐな金髪はわたしよりも長く。黄麟さん共々白い狩衣を身に纏
い。

「我は鬼切部相馬党の五柱神次席・青龍っ」

 続けて、離れた白花ちゃんと聡美先輩が囚われた丘に。こちらも白い狩衣の三十歳過ぎ
で、背が高く筋肉隆々たる黒髪短い男性が現れ。わたしの注意を散らせようとしている?

「俺が鬼切部相馬党の五柱神参席・玄武だ」

 玄武さんの隣にも、中肉中背の三十歳過ぎの黒髪少し薄い男性が、白い狩衣を身に纏い。

「相馬党・奥州拾七万騎が首席、阿倍貞時」

 そして更に少し離れた別の丘でも男声が。

「相馬党・奥州拾七万騎が次席、南部晴直」
「相馬党・奥州拾七万騎が参席、清原元嗣」

 白い狩衣の男性は各所の丘から次々と名乗りを上げて。気合と声音で注意を惹いて来て。

「相馬党・奥州拾七万騎が四席、藤原義道」
「相馬党・奥州拾七万騎が五席、伊達晴宗」

「相馬党・奥州拾七万騎が六席、畠山政長」
「相馬党・奥州拾七万騎が九席、斯波義守」

「相馬党・奥州拾七万騎が拾席、安東義季」
「相馬党・奥州拾七万騎拾壱席、伊達朝宗」

 左右前方の複数の丘で、男声は次々と響き。この時点で半ば逃げ道は塞がれた。と言う
より塞がれた事を確認できた。背後しか逃走路がなければ追手も迷わず全力で迫る。1人
でも逃げ切る事は至難の業だ。元よりそれは承知だけど。分って乗り込む他になかったけ
ど。

「歓迎するぞ、小娘」「手ぐすね引いて待っておったわ」「今こそ相馬の真の力を見よ」

 何れも鬼を切る武者達、強者の中の強者で。
 しかも、隠す事なく見せつける闘志は滾り。

 不用意に対していては威圧され竦まされる。
 戦って叩き潰す彼らの流れに呑み込まれる。

 わたしは見える動きにも見えない動きにも。
 気を配りつつ深呼吸を。心は常に柔らかく。

「羽藤は鬼切部に敵対する積りはありません。今後も良好な仲を繋ぎたいと願っていま
す」

 大人でもないわたしが、羽藤の方針を語るのは不相応だけど。相馬に今それを伝えられ
るのは、今この場にいるわたしだけ。羽藤が安穏な日々を望む無害な存在だと分って貰う
には、鬼切部や人の世に害を為す者ではないと分って貰うには。確かに伝える事が必須で。

 彼らの醸し出す戦いの雰囲気に流されない。
 羽藤は若杉とも相馬とも講和を結んだのだ。

 挑発は自ら仕掛けたくないと言う事を示す。
 彼らが仕掛けた形跡を残したくない事情が。

 若杉も絡んだ講和を勝手には破り難いのか。
 どうかその事情が無益な争いを抑える様に。

「わたしも羽藤も、人の世にもあなた達にも敵対する積りはありません。平穏な日々を望
む無辜の民です。今すぐ全員解き放って!」

 聡美先輩や和泉さんに、多少の事情は知られるけど。既に相馬が鬼切部を名乗っている。
事後処理も考え、詳細は伏せる様に努めつつ。

「あなた達の要求を教えて。伝えて貰わないとわたしも何を為せるか分らない。譲れない
物はあるにしても、話し合う事は出来る筈」

 強く響かせた声に応えたのは黄麟さんで。

「なら、話し合いでお前は我らの望みを叶えるか? お前が我らの求めに応えるか…?」

 なら応えて貰おう、叶えて貰おう。我らの求め、我らの望み。黄麟さんは声を張り上げ。

「我らの求めは羽藤柚明、お前の身柄だ!」

 相馬党はやはり昨年の遺恨を晴らす気か?


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 五柱神筆頭の黄麟さんが、この集団でマキに次ぐbQで実質の首魁で、今回の首謀者か。
野性を感じさせる美男で、獲物を狙う視線は細く鋭くて。背は高く肩幅広く躍動感に溢れ。

 マキは戦場に付いてから全く声も挟まない。
 総大将でも配下の指揮は大人に委任らしい。

「昨年は我らの出先が失礼した。お前が鬼ではないという事は、相馬も一度認めたからな。
我らも鬼でない者は切らぬ。我らの前で鬼になれば話しは別になるが……問題は。我らの
手の者がお前に敗れた事実。鬼でもない者に鬼切部相馬党の精鋭が、撃退された事実だ」

「貴様は千羽の元鬼切り役と同棲中らしいな。貴様その技を盗んだか習ったか。十代前
半で千羽の鬼切り役に就いた天才で、当代最強を謳われながら、狩るべき鬼と意気投合
し役目を返上した、鬼切部の恥でもあるあの女の」

 隣に立つ青龍さんはやや年下で大学生位か。青龍さんと並ぶと細身で華奢に映る。2人
とも強い……わたしでは、勝利を望み難い程に。

 それに続き他の丘にいる剣士達が口々に。


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