第22話 剣道部その後
前回迄の経緯
高校1年の初夏、わたしは大野教諭の狡知と暴力を打ち砕き、美咋先輩を助け出して絆
を繋ぎ。でも剣道部顧問の突如の不在は、通常想定外なので。部員はみんな事情が分らず。
彼の非道は学校に告発したけど。学校は周囲への影響や被害者の風評を慮り、一部の関
係者以外には真相を伏せると決め。故に剣道部の男の子は教諭の実像を知らず、信じ慕い。
それが美咋先輩に与える影響を見極める為に、わたしも暫く杉浦先輩他剣道部員に関り続
け。
その杉浦先輩が、美咋先輩に抱く想いに。
わたしと絆を繋いだ美咋先輩は、心揺れ。
わたしの真意を告げる時が、近付いていた。
参照 柚明前章・番外編第11話「せめてその時が来る迄は」
柚明前章・番外編第13話「断絶を繋ぎ直して」
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高校1年の初夏、わたしの剣道部入部を画策した大野教諭は、突如欠勤して。顧問の彼
を慕う剣道部の男の子16人は、動揺を隠せず。
何があったかも分らなかったから。教諭からも学校からもまともな説明がなかったから。
わたしと美咋先輩のみが知る真相は伏せられ。
「他の先生方に訊いても、大野先生の事情で分らないって答だし」
「訳も分らない侭じゃ剣道に打ち込めないよ」「大会も近いのに」
突然の事態にみんなの推察も及ばず。彼に見放されたと落ち込む者や。彼の身に何かあ
ったかと案じる者や。学校の応対に疑念を抱く者も現れ。剣道部は舵を失って迷走を始め。
欠勤が2週目に入ると部員の男の子の間に、彼の宅を訪ねて事情を訊こうとの動きが生
じ。
美咋先輩はやや表情が堅いけど平静を保ち。
みんなの話しの行方に黙した侭耳を欹てて。
左隣のわたしがその柔らかな掌を軽く握り。
不審を気取られぬ様に彼女の心を支え守り。
「全員で行くと迷惑になるな」「何人か代表で行くべきだろう」
「部長副部長と1年2年の代表1人ずつ……それに神原と羽藤位か」
1年2年の代表も加わったのは、大野教諭の表の顔の人望を示す。3年の部長副部長に
丸投げしたくないと、逸る下級生を抑える為に、その代表も入れざるを得なくなったのだ。
その相談に、剣道部員でもないわたしが首を挟めているのは。教諭の欠勤直前に、彼が
わたしの剣道部入りを画策し。見学等で部のみんなと関りがあったから。実はそれも建前
で、本心は美咋先輩の様子が心配だったから。
「柚明は剣道部員じゃない。先生の自宅迄付き合わせるのは……」
「袖振り合うも多生の縁です、美咋先輩。入部は出来なかったけど、わたしも大野先生や
剣道部の皆さんと関りました。ご一緒させて下さい、お願いします」
美咋先輩は、わたしが大野教諭に為された事を思い返し、わたしを案じて外れる様に言
ってくれたけど。わたしはむしろ彼女を案じ。わたしはその理屈で外れ得るけど。紅一点
で剣道部最強の少女剣士・神原美咋を、この代表からは外せまい。特別な理由でもない限
り。
そしてその特別な理由を明かせない以上。
わたしが先輩に寄り添い一緒に行くのが。
他の部員に不審を悟られぬ為の最善策だ。
女の子の重大事案は事実でも伏せるべき。
身を添わせ間近でその美貌を見上げ、両腕絡ませ語らう様は、過剰な触れ合いにも映る
けど、人前でも敢て拒まず。己の肌身重ねたい願いより、美咋先輩の心を保つにはこの感
触が必須で。教諭の話題の場を外せない今は。
「付き合わせて悪いな。俺が剣道部入りを勧めた事が、こんな展開に……」
「気にしないで下さい。杉浦先輩の所為ではありません」
一級上の美咋先輩に秘めた想いを抱きつつ。面倒見良さの故に、同じ羽様地方出身の故
に、大野教諭の真意を知らぬ侭に動かされ、善意でわたしに剣道部入りを勧めた彼は。真
相は知らぬ侭わたしを面倒に巻き込んだ責を感じ。でも真相は知らぬので、わたしの教諭
宅随行も、尚少し剣道部に関る事も許容してくれて。
部員多数が望んでくれた以上に。杉浦先輩に誠で応えたい以上に。美咋先輩の様子を見
守る為に、その心を支え守る為に。でも本当はわたしが関り続けたかったのか。強く正し
く美しい少女剣士や、その仲間達の人の輪に。
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美咋先輩は昨秋、大野教諭に蹂躙されてその操を奪われていた。剣道一筋だった先輩は、
お兄様2人の大学進学で逼迫した家計を見て、進路に悩み。教諭が持ちかけた学費安い剣
道推薦を、罠と見抜けずに応じてしまった後で。
全国大会にも出た県内有数の少女剣士でも。
部の紅一点で男子の誰より強い女の子でも。
成人男性で全国級達人である彼には敵わず。
昨秋夕刻、格技場で最後迄練習していた美咋先輩に、彼は強引に迫り。必死の抵抗を打
ち砕き。無理に組み敷き、唇を重ね胸を揉み、下着剥いで。大事な処を貫く様を録画に残
し。
『この関係は、学費の安い剣道推薦という利益に繋げて見られる。とても酷い事をされた
なんて言い出せる立場じゃない。人が見れば、身体を売って剣道推薦を得たに近い状態
だ』
先輩は辱めの映像を握られ、剣道推薦で縛られて、身動き取れず。家族にも学校にも部
員にも相談できず。独り暴力と奸智に拉ぐ日々を重ね。それで彼は熱く流暢に武士道や剣
の道を語っていた。濁った心だの正義だのを。
彼は美咋先輩を虐げつつ、羽藤柚明にも獣欲を抱き。その本性を知らぬ羽様出身の杉浦
先輩を使って、他の部員も使って、わたしの剣道部入りを画策し。人の善意を利用し操り。
『羽藤。お前、剣道部、入ってみないか?』
『大野先生が羽藤の体育での動きを見て、文化部に置くのは勿体ないって……小柄でも羽
藤の運動神経なら期待できると』
『美咋先輩も女の子が入ればきっと喜ぶ。今剣道部に女子は1人だから。先輩は銀座通中
の頃から何かと羽藤を気に掛けていたし…』
『俺も羽藤が入ってくれると嬉しい。羽様地方で剣道やっているのは俺1人だし。同じ道
を歩む仲間って、青春な感じで良いだろう』
次の標的は羽藤柚明。でもそれはむしろ幸いだった。映像と進路を握られた美咋先輩に、
非道の告発は難しい。心の傷を隠したいのは、女の子の当然だ。彼の欲情が己にも向くな
ら。
唯彼を倒しても先輩の憂いは払拭できない。
真相を人に知られる事さえ彼女には怖れで。
教諭は神原美咋を、雁字搦めに縛っていた。
取り戻すのも解き放つのも、容易ではない。
美咋先輩に恋心を抱く杉浦先輩に、踏み込んだ問を発したのは。彼の本音を知りたくて。
『男の子の感触を教えて欲しいの。男の子は、告白する女の子の何を重要と見なすのか
を』
わたしが好いた人に恋心を告げるとして。
胸に秘めた想いの真実を打ち明ける時に。
『わたしが必ずしも清い身ではない真実迄、全て打ち明けるべきと先輩は想いますか?』
杉浦先輩は本当にまっすぐで、色恋に疎く。女の子を虐げる酷い事を想定できない。明
言しないと中身が伝わらない。だからわたしは、中学2年の冬に己がされた事を、彼に明
かし。
唇を8人に回され、唾液を喉に流し込まれ、全裸の姿を晒されて。股も無理矢理開かさ
れ、両の乳房に吸い付かれ、殴られ蹴られ身を揉まれ。男女多数の欲情と憎悪に嬲られ穢
され。両乳房の先端も切り落されかけた。女の子の初めてを奪われずに終えたのは、僥倖
だった。
『羽藤、お前っ!』『男の子に告白する際に、この事は明かすべきでしょうか? 隠すべ
きでしょうか? 聞かされた人はどう思うでしょう? 杉浦先輩だったらどう感じま
す?』
男の子は本当に真を知る事を望みますか? 知って尚好きでいてくれますか? 許して
告白を受けて貰えますか? 或いは忌み嫌いますか? 身の穢れは心の絆も断ちますか?
『先輩の、男の子の本音を、教えて下さい』
杉浦先輩にはわたしの事柄だと思って貰う。
男の子一般の本音を知りたいと言うのは口実で、彼の答が欲しかった。騙すとも試すと
も言える非礼な手法だけど。彼の在り方の明示が必要だった。美咋先輩の立ち聞きを誘い。
美咋先輩は教諭の脅しの標的にされぬ様に、杉浦先輩に抱く好意を抑え隠し。杉浦先輩
も不器用だから、憧れ以上の想いは伝えてなく。美咋先輩の真意にも気付けてなく。相思
相愛に近いのに、この侭すれ違うのでは哀しすぎ。
だからわたしは己の心の傷を露わに見せて。
杉浦孝の応対・在り方を美咋先輩に見せて。
『羽藤は、語らない方が良いと、俺は思う』
男の問題じゃない。女の子にそんな傷を語らせる事が罪作りだ。嘘や隠し事を嫌う俺も、
そこ迄明かせとは言えないよ……無理に事実を聞かせて相手を驚かせる必要はない。いつ
か知られても大丈夫な程に、強く心を繋げば。
『心を強く繋げば受け容れて貰えますか?』
『そうだな。俺は、受け容れたいと思う…』
杉浦先輩は手を引っ込めた。刺激的に過ぎる話しだから、受け容れ難いのは無理もない。
その上で尚彼はわたしを気遣って。迷いつつ困りつつ、恋人でもない後輩の傷や恥に真剣
に悩んで答を返し。時間を掛けて心を繋げば、美咋先輩の真実も、きっと受け容れて貰え
る。
教諭を倒しても先輩の憂いは払拭できない。
だからその真相を受容する者がいると示す。
羽藤柚明がその1人である事は当然として。
愛しい人の日々を心を確かに包み守りつつ。
わたしが先輩の分迄危難を受けて弾き返す。
格技場を確保して、部員に部活を休ませた初夏の土曜日午前中。大野教諭の招きに応じ
てわたしは独り赴き。でも彼の狙いを察した美咋先輩は、先回りし彼に戦いを挑んでいた。
美咋先輩がわたしの剣道部入りに反対したのは。剣道部のみんなの好意や、杉浦先輩を
奪われる怖れや嫉妬は微塵もなく。わたしを想う優しさと焦慮のみ。この人は自身が悲嘆
の淵にあるのに、わたしを案じ庇い守ろうと。
『お願い、大野先生。私が先生から一本でも取れたら、柚明を諦めて』
『柚明は、私の可愛い妹だ。たいせつな人だ。男ばかりの中で育ってがさつな私を、可愛
い女の子だと、優しく綺麗だと言ってくれた』
でも気概で天地は覆せない。正義なら勝てる程に武道も戦いも甘くない。心の在り方が
野獣でも卑劣でも強者は強者だ。一本も取れない。勝負は繰り返す程一方的に優劣が見え。
それを百も承知で、美咋先輩は闘い続け。
勝てなくてもその心を動かせればと願い。
何度打ち据えられても立ち上がり。でも。
大野教諭は慈悲を願える人間ではなくて。
『私は、良いから。私は肌を許すから……柚明に手は出さないで。お願い、見逃して…』
遂に力尽き組み敷かれた美咋先輩の懇願を。
踏み躙り穢そうとする彼をわたしは止めて。
『大野さん。わたしが、あなたを止めます』
『わたしのたいせつな人から今後一切手を引いて。もうその健やかな日々を妨げないで』
わたしは彼の策に乗り、敢て手錠に繋がれ。
教諭はわたしも辱め、その映像で脅そうと。
優位を確信した教諭が、わたしの喪失を何度もリハーサルし、心を折ってから貫こうと
した手順の故に。初めてを喪う前に反撃に出られたけど。わたしは全て覚悟で事に臨んだ。
『最後に一つだけ教えて下さい。……あなたは今も、美咋先輩を愛してないのですか?』
『最初が欲情だったとしても、始りが体の関係だったにしても、今あなたは美咋先輩を大
事に想ってないのですか?』
彼は美咋先輩の初めての人、重要な人。教師と生徒の恋愛は問題だけど、真の愛がある
なら話しは変る。体の関係で始っても今心繋っているなら。そこ迄至ってなくても彼が先
輩を愛しているなら。大事に想うなら。でも。
それは生徒と教諭の愛でもなかった。彼は前の職場でも教え子を穢し、経観塚に左遷さ
れたけど。ほとぼりが冷めれば元の職場に戻る積りで。美咋先輩をそれ迄の無聊を慰める
妾に考えており。たいせつになど想ってない。
『……あなたをこの侭野放しにすれば、この先何人もの女の子が、酷い目に遭わされる』
『これはあなたを完膚無き迄叩きのめす為に。わたしのたいせつな人を脅かし涙させるあ
なたに、完全敗北を知らしめて、二度と立ち上がれなくさせる為の、羽藤柚明の闘いで
す』
今のわたしに彼を打ち倒す事は難しくない。
問題は唯撃退すれば済む話しではない事に。
唯彼を倒しても先輩の憂いは払拭できない。
だからわたしは敢て己が嬲られた絵を残し。
『これを、あなたがわたしに性的暴行をした証拠として、学校に提出します』
美咋先輩の進学先の担当者は、大会に先輩を見に来る事が決定済みだ。教諭が推薦を覆
せるのは、彼が教員である限りの話し。なら。
『あなたに失職して貰います。あなたは教職に相応しい人ではない。活計の途を断つ事は
申し訳ないけど。美咋先輩や今後あなたが手に掛ける女の子達を想うなら、こうすべき』
彼は自ら墓穴を掘った。彼がわたしに獣欲を抱いた事は幸いだった。この身を使って告
発すれば、今後彼の所為で涙する多くの女の子の禍が消える。先輩の人生の憂いが拭える。
先輩の日々も未来も、心も確かに守り通す。
独りで堪え続けた涙を、肩の震えを止めて。
美しい強さに、本当の笑みが戻り来る様に。
『わたしのたいせつな人から今後一切手を引いて貰います。もうその健やかな日々を妨げ
ないで。これは願いではなく、宣告です!』
彼を打ち倒した土曜日から十日を経た、翌々週火曜日の放課後。部長の立山先輩、副部
長の江川先輩と、杉浦先輩と1年の白戸君に。美咋先輩と6人で、銀座通の教諭宅を訪ね
る。
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彼の住処は教員住宅ではなく、田舎に不似合いな瀟洒なマンションだった。十日前に彼
を気絶させた後、わたしはこの宅へ入り込み。美咋先輩を辱めた映像を全て回収し。再び
脅しや嫌がらせに使われぬ様に、将来に禍根を残さぬ為に。不法侵入や窃盗になると承知
で。
この罪は明かして罰を受ける事が叶わない。明かせば先輩の悲痛も明かす。それを許せ
ない以上、終生己が背負う他になく。罪への怯えより罰への怖れより、彼女の守りと幸せ
が優先だ。己の赦されたい願望等後回し。愛しい女の子の平穏な日々を未来を、守る為な
ら。
そんな訳で間取りも家具の配置も、わたしは既知で。肌身触れた人や一度見た情景なら、
外に居ても室内に何人どこにいるか位は分る。彼は奥の寝室で布団を被って塞ぎ込んでい
た。
「こんにちはーっす」「大野せんせー…!」
男の子はベルを鳴らしドアを軽く叩くけど。
彼は布団の中でぴくとも動かず、答はなく。
事前にわたしが、美咋先輩を安心させる為に述べた予測通りだ。教諭は多分出てこない。
先輩が彼に遭いたくないのも、その宅に行きたくないのも当然だ。真相を知らぬみんな
の不審を招かぬ為に、同伴はしても。叶う限り先輩に負荷が掛らぬ様に、彼が現れぬ様に
事を導き、遭わずに済む確信を与え。彼は多分出て来ない。わたしは彼の心を折ったから。
教諭はあの敗戦で体よりも心に痛手を受け。自ら録った羽藤柚明の辱めの映像が、己の
非道を告発する展開も。武道で敗れた屈辱も社会的立場を一挙に失った実感も、彼を凹ま
せ。世間体の仲に過ぎぬ剣道部員に応じる必要等、彼は感じない。その心象風景も私には
悟れた。
「先生、何があったんですか?」「いるんだったら、答えてよ」
「もうすぐ大会なのに」「みんな先生を待ってます。先生の指導を」
でも男の子は真相を知らず。真相を知る美咋先輩はこの左手を握って、表情固く声を発
さず。男の子はみんな室内への呼びかけや反応に集中して、彼女の固さや沈黙に気付けず。
わたしは男の子達が寄せる教諭への信頼に。
冷水を浴びせる真相の公開を躊躇う以上に。
彼らの純真な善意を熱意を覆す事を躊躇い。
みんなは本当に大野俊政を信じ慕い憧れて。
『女の子の前で格好良い姿を見せたい気持は、分らないでもないが。武術の本道は、相手
を倒してみせる事や勝つ事が全てじゃないぞ』
『相手や己自身との鬩ぎ合いの中で、相互の資質を磨き合い、心身を充実させる事こそが、
人を活かす剣なんだ。目先の相手を倒す事のみに囚われた剣など唯の暴力だ。剣は人の心
を表す。濁った心で剣を振るえば、濁った剣に堕ちる。濁った剣では正義には勝てない』
『正しい力は、必ず悪しき暴力に勝るんだ。
技や力じゃない。正しさこそ強さなんだ』
例え虚偽でも、みんなはその爽やかさに心動かされた。その言葉は、彼には世渡りの道
具だったけど。現代の武道や活人剣の理念の一つだ。教諭は間違った事は言ってない。彼
が理念を外れただけ、行いが過ちだっただけ。
表向きでは爽やかに懇切丁寧で信望も篤く。
杉浦先輩を初めみんなからも頼られ慕われ。
『良い先生だろう? 美咋先輩に憧れて剣道始めた俺だけど、先輩以外で尊敬できる程強
く格好良い剣士は初めてだ。しかも男性で』
『俺もあんな風に心も剣も、強くなりたい』
『羽藤も大野先生に習えば、教わる事が多いと思うんだ。剣道部で美咋先輩に敵う者はい
ないけど、努力重ねて俺も10本に1本は取れる様になってきた。先生の指導のお陰だよ』
正樹さん似の顔立ちは整っていて好ましく。
優しげに若々しくその上で活力に満ち溢れ。
故に彼の真相は他の誰よりわたしが悔しく。
己こそが最もそうであって欲しくなかった。
せめて彼が前非を悔いて真摯に謝罪し償い。
先輩に与えた傷を癒すなら彼を赦せたのに。
「もう練習つらいとか我が侭言わないから」
「先生の教えを守って頑張るからさ」
「もっと教えて欲しいんだ、剣の道や人生訓を…」
拾数分男の子は訴えかけるけど音信はなく。続ける言葉がなくなって、みんな声が途絶
え。美咋先輩が一言も発してないと、気付かれる前にわたしが声を。この場で先輩に声を
発させる訳には行かぬ。その為にわたしが伴った。
「大野先生……羽藤です。羽藤柚明です…」
みんなの声が止み静謐になったドアの前で、己の声が響き渡る。布団の中で彼がぴくと
反応した様が悟れた。でも彼はそれ以上動かず。わたしを前に彼は、物音一つ立てず息を
潜め。
彼はみんなの願いに応えない。わたしの存在を知った瞬間、彼は絶対出まい遭うまいと。
女の子から逃げ隠れする屈辱に、身を震わせ。
「剣道部のみんなが来ています。みんな事情が分らず、不安や混乱を抑えようと必死でい
ます……先生に何があったのか。なぜこうなってしまったのか、話して頂けませんか?」
答はない。ないと剣道部の男の子に見せて納得させるのが、わたしの同伴の目的だった。
みんなには申し訳ないけど、美咋先輩は勿論、善良な高校生に遭わせるべき者では彼はな
い。答がないという結果を暫くの静謐で示した後、
「先生は、ここに居ないのかも知れません」
「でも、先生のクルマは駐車場にあるぞ?」
杉浦先輩の声に賛同する男の子に頷きつつ。
美咋先輩の強く締めてくる掌を握り返して。
「鉄道や長距離バス等の手段を採れば、自家用車を残した侭不在という事もあり得ます」
うーん。彼らの教諭の印象が、居留守と縁遠い事もあって。みんなそうかもと思い始め。
室内に踏み込まぬ限り彼には遭えぬ。そして遭えたならその本性が知れ渡る。美咋先輩
やわたしに為した事を明かす迄もなく、世間体を繕わぬ彼の本性は人を失望させるに足り。
遭わない事、遭わせぬ事が全員の幸いだった。
「先生が経観塚を離れているかどうかは別として」
「いつ迄もここに居続けるとご近所さんの迷惑だな」
「今日の処は引き上げよう」
既に参拾分近く経過していた。6人がドアの前で長時間屯していると人目につく。やむ
を得ないと、帰途を歩み始めたその時だった。
「そう言えば美咋先輩、最近羽藤と随分仲好い様な気が。ずっと手も握り続けていたし」
杉浦先輩の指摘に、立山先輩も江川先輩も白戸君も今気付いたと。美咋先輩が凍り付く。
少し前迄美咋先輩は、わたしを教諭の禍に曝さぬ為に。彼の画策や、わたしの剣道部入
りを望んだ部員多数に反対し。わたしにも厳しく対して。最近のこの急接近は違和感かも。
教諭不在という津波の前で、男の子はわたし達の密な触れ合いに気付いてなかったけど。
「仲良くなれればそれに越した事はないが」
「杉浦……これは、羽藤との関係は、その」
美咋先輩は声が上擦り。女の子同士の絆を知られては拙いと焦り。先輩は教諭宅への接
近が招く緊迫で、知らずわたしに肌身添わせ。教諭宅を離れて漸く心解き放たれ。故にこ
れは不意打ちに近く。見抜かれた錯覚に心竦み。
「……はい。美咋先輩と仲良くなれました」
そこは年下でもわたしの方が馴れている。
女の子とのお付き合いも表向きの装いも。
彼はわたし達の絆を見咎めた訳ではない。
素直にこの関係が仲良しに映っただけで。
わたし達は疑念招く程の接触をしてない。
後ろめたさを抱くのは多分に錯覚による。
でも外界との軋轢を避けると言うよりも。
女の子同士の絆に罪悪感を拭えぬ彼女は。
「結果として、剣道部に入らない様にとの美咋先輩の助言に、従う事になりましたし…」
羽藤柚明が神原美咋の説得を受け入れた。
意見の相違がなくなれば人間関係も変る。
そこで合意か。江川先輩が天を仰ぐのに。
「剣道部部長として少し残念だが」「仕方ありません。色々考えた末の羽藤の判断です」
少しならず残念そうな立山先輩を、杉浦先輩が宥める。わたしは美咋先輩を見守る必要
を潜ませ、今後も時折見学に行って良いですかと願い出ると。男の子は二つ返事で了承し。
わたしは尚暫く剣道部に関る事を許された。
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経観塚高校の剣道部は、6月の県大会で団体戦初優勝して、8月の全国大会出場を決め。
個人戦は美咋先輩の2年連続全国行きに加え、杉浦先輩も。特に彼は、団体戦でも初優勝
の原動力となって活躍し、地域の賞賛も浴びて。
顧問不在の緊急事態も、臨時顧問となった山路徹先生38歳をみんな結束して支え。先生
は前顧問の真相を知らないけど、剣道も素人だけど、熱心な体育会系の人で。前顧問の指
導内容を部員に尋ね、それを活かして結果を掴もうと。大野教諭の指導を覆す必要はない。
偽装でも彼の言葉は正道だ。それを活かせば。
「杉浦くん、汗すごいね。タオルで拭こう」
「杉浦君、差入れにクッキー焼いてきたの」
「杉浦クン、胴着がほつれてる。繕おうか」
杉浦先輩は地域全体の賞賛を浴び。2年での全国行きは、昨年の美咋先輩と同じだけど。
男の子の彼は団体戦優勝にも貢献し。夏休み前の格技場は、見学にと2年の女の子が集い。
杉浦先輩は2年なので、同級の子が関り易い様で。数人はマネージャで入部希望したとか。
わたしはそれと入れ替わる様に、剣道部と距離を置き。杉浦先輩狙いを誤認・警戒され
そうで。2年の先輩方が多数いる中で、1年の子は分け入れず、遠巻きに彼を窺う状態だ。
傍目にも、部員でない己の存在は浮いて映る。何より剣道部で美咋先輩を見守る必要が薄
れ。
山路先生は元々の柔道部顧問も兼任しつつ、急速に剣道部を掌握し。前顧問の指導を否
定せず『今迄の成果を彼に見せつけよう!』との促しに、男の子は奮い立ち。真相を知ら
ない故に、部は美咋先輩も巻き込んで再始動し。
『美咋先輩は、剣道部に居続けても大丈夫』
剣道部で美咋先輩を脅かす要素は消失した。今後先輩への応対は、剣道部を介してでは
なく先輩個人と接触して為す。それに彼女の悲痛を慮る者はもう己のみではなくなってい
た。
山路先生は知らぬけど、校長先生初め幾人かは大野教諭の真相を承知で。先輩がお父様
や学校に告げたから。わたしを独り戦場に立たせたくない、唯守られる者でいたくないと。
『今の私は戦えてない。柚明の守りに包まれ身を屈め……今の私は敗者以下、唯守られる
弱者だ……柚明が殴られ蹴られるより辛い状況を、独り戦っているのに。私は唯見ている
だけ。これは私の生き方じゃない。私が学んだ剣の途でも、目指した剣士の姿でもない』
わたしへの暴行のみで大野教諭を失職させ。
神原美咋への所業を誰にも報せないのでは。
『私はあんたに守られ放しになってしまう。
人生を年下に庇い通されて終ってしまう』
『柚明と同じ場所に立ちたい。……年下の可愛い娘を、1人矢面に立たせてはおけないよ。
本当は私の事柄なのに。せめて柚明が返り血を浴び心削られて戦うその場に私もいたい』
『柚明の配慮を無にしてごめん。でも私は。
柚明に唯守られるより守り合いたいんだ』
人間関係に一方通行はないと、和泉さんも語っていた。後方の安全圏で守るのではなく、
戦場で共に戦い守り合うのも一つの選択かも。
「ねぇねぇこの後ハックか喫茶店で」「県大会快進撃のお話し聞かせて」
「私も剣道教えて欲しいなぁ」「どんな女の子がタイプ?」
「悪いけど、部活の後も美咋先輩達と居残り特訓なんだ……全国大会を控えているから」
杉浦先輩は、女の子多数の華やかさに戸惑いつつ、我を見失う事はなく。汗を拭うと立
ち上がり。賛辞には感謝しつつその声や腕に囚われず、進み行く先を見据え。その前には、
「杉浦……浮ついた気持でいたら、全国に出てもすぐ勝ち星を献上して終ってしまうよ」
美咋先輩の竹刀の切っ先があり。凛々たる闘志に、杉浦先輩に群がる女の子は怯み散り。
彼との交流を邪魔するのかと訝り。でも杉浦先輩は正に美咋先輩のその気合を欲していた。
「浮ついた気持でいるかどうか、見て下さい。簡単に勝ち星は献上しない、美咋先輩に
も」
「言ってくれるね。じゃあ、見せて貰うよ」
2人は激しい稽古に入り。暫く打ち合い続けてやまず。他の女の子が分け入れないこの
舞台にこそ、杉浦孝と神原美咋の求める物が。
「きゃぁ杉浦くん!」「ケガしちゃうよっ」
「今の面痛そう」「神原先輩、鬼みたい…」
立ち合いは美咋先輩の圧倒的な攻勢が続き。
杉浦先輩も果敢に反撃するけど中々及ばず。
「杉浦も最近急成長していると思ったけど」
「このところの神原の伸びはそれ以上だな」
『彼女は時折、わたしと修練しているから』
美咋先輩はわたしとの修練で、新たな発想や励みを得た様で。剣道への意欲が更に増し
た以上に、様々な状況への応対の幅が広がり。元々持っていた鋭さ強さに更に深みが加わ
り。
「女子に囲まれて、気楽に鼻を伸ばしていた訳ではない様だね。それは認めるよ」「当た
り前です。俺の目標は大会の更に先にある」
打ち据えられ膝をついた杉浦先輩に、美咋先輩は励ましの言葉を掛け。彼の答の真意を
美咋先輩は悟りつつ、知らぬ振りで踵を返し。
2年の女の子達は美咋先輩が、女の子に囲まれた杉浦先輩を、面白くなく思って痛めつ
けたと感じた様だけど。当事者も他の部員も、2人の剣道に抱く想いを知るので気に留め
ず。
「杉浦は、私を嫌な女だと思っているかな? 女の子に囲まれた事を嫉妬して、辛く当た
っていると思われたりは、してないかな…」
2人きりの褥で美咋先輩が漏らした呟きは。
己も相手も奮い立たせようとの、きつい叱咤や遠慮ない打ち合いが、想い人を誤解させ
てないか心配で。彼を想うからこそ敢て厳しく対したけど。厳しく対した事を微かに悔い。
それを彼に謝る事も、説明も出来ないのが彼女らしい。大野教諭の脅迫の心配は失せた
から、美咋先輩も想いを表に顕して良いのに。彼の前では素直になれず、強面を貫き。そ
れで誤解され嫌われる結果を怖れる処が可愛い。
「大丈夫です。杉浦先輩は、誤解しません」
「そうかな? 本当にそうかな? 柚明…」
彼の誠実な人柄は、わたしも美咋先輩も知る通り。その誠実さを知る故に、女の子に囲
まれて誠意に誠意を返す姿に、美咋先輩も不安を抱いた様だけど。2人の仲に心配は不要。
杉浦先輩は爽快な程に、美咋先輩一筋だ。
そこには今も、誰の分け入る余地もない。
清く正しく強く美しい神原美咋こそ彼の。
「わたしが美咋先輩に抱く愛にも負けない位、杉浦先輩も美咋先輩を強く想っています
…」
「柚明っ!」美咋先輩の想いはどうですかと。
尋ねると先輩は声を荒げて話しの口を鎖し。
「今の私には柚明がいる。それだけで良い」
やや癖のある艶やかな赤い長髪を擦り付け。
長身の豊かな胸にこの頬を強く押しつけて。
「柚明が私に、私の値を教えてくれた。穢れた私に尚愛される値があると、肌身に触れて。
手遅れの私を助ける為に、敢て危難に陥って。あの日私は柚明にこの身も心も捧ぐと決め
た。私はあんたの想いに行いに、百分の一も報えてない。その恩義に未だ何も返せてない
…」
杉浦の事はもう話さなくて良い。私は柚明と先に肌身を重ね、絆を繋いだ。柚明が運命
の人だった。杉浦は、今も唯の後輩だ。気遣いは嬉しいけど咲かなかった蕾、終った話し。
「でも美咋先輩を一番に想い続ける人がいる一方で、わたしは先輩を一番に想う事は…」
今肌身を重ねる事が背信になりかねない。
その強い求愛を、拒みきれなかったけど。
本当にこれが美咋先輩の最善だったのか。
女の子同士の愛に抱く後ろめたさ以上に。
その内心には贖罪感や自己嫌悪が尚燻る。
美咋先輩は開きかけたわたしを唇で塞ぎ。
「柚明の一番が私じゃない事は言って貰った。私はそんなあんたを心底愛した。絆を繋げ
てくれた以上、柚明も私を憎からず想ってくれているんだろ? 柚明の一番は望まない。
唯この想いを伝えたい、少しでも恩を返したい。私は今度こそ己の意志で性愛を紡ぐ。も
しこの愛を受けたくなければ、言っておくれ…」
先輩……。わたしは言葉での答の代りに。
既に重ね合わせた肌身に更に腕を絡ませ。
彼女の不安を怖れを怯えを受け止め支え。
愛しい時の終りを見据えながら睦み合う。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夏休み前、わたしが大野教諭に陵辱された噂が流れ。わたしは剣道部と更に距離を置き。
悪意な噂は日々の挙措で否定したけど。部のみんなもそんな事ある筈ないと、強く否定し
てくれたけど。大会を控え注目も浴び、部外の子も訪れる剣道部は、関る事が迷惑となる。
美咋先輩との関りも、月1回位のお泊り以外は接触を慎み。女の子同士の絆を秘すると
言うより、剣道部前顧問に陵辱された噂を纏うわたしが、剣道部の紅一点と繋っていては、
彼女も泥を被りかねない。噂の標的は羽藤柚明らしく、先輩の名が出ないのは幸いだった。
なので夏の日の下校時、杉浦先輩と最終一本前のバスで逢えたのは珍しく。毎日遅く迄
特訓に残る彼は最終バスが常用で、時には銀座通の友人宅に泊ったりもしていた様なので。
「羽藤か。暫くぶりだな」「はい杉浦先輩」
同じ学校でも学年や部活が違えば、互いの近況も違う。わたし達の話しは、授業や先生、
部活からあの噂へ進み。杉浦先輩は噂の真偽より、噂されるわたしの心情を案じてくれて。
他に人目もあるバスである以上に、先輩はわたしを気遣って深く触れず。わたしが平静
に受け止め否定していると感じて、安堵した様で。教諭の実像については己は敢て語らず。
『何も知らない先輩達に真相を報せ心傷つけ、みんなの純真な信頼を砕くより。彼は良い
剣士だったとして、終らせるべきなのかな…』
公には事実は伏せられ、教諭は病気休職で。大人同士の話し合いで、女の子の重大事案
は、被害者の為に襲われた事も秘する事に。罪の重さの故に彼は拙速に処分出来ず。県立
高校教諭は県職員で、校長に解雇権限がない様で。
先日は学校帰り、その彼の復讐・不意打ちを撃退して。美咋先輩には何も報せなかった。
その安全に変化はない。教諭が再び女の子を襲う事出来ない様に処置はした。終った件を
蒸し返し、愛しい人を怯えさせても無意味だ。
「……羽藤?」「少し、お話ししませんか」
羽様のお屋敷迄は尚10キロあるけど、先輩に続いてわたしもバスを降り。彼がわたしに
何か話そうとして、言い淀む様が窺えたので。
「俺が言いづらそうにしているのに気付いたのか?」「はい、先輩は常に正直ですから」
わたしの事で他人に聞かせては拙いお話し。
でもわたしに一度は訊かねばと思い悩んで。
「逆に気を遣わせたな」「お気になさらず」
夏の陽も沈みつつある田舎の森は、他に通り掛る者もなく。先輩の宅はやや奥なのでこ
こからは見えず、わたし達は宵闇に2人きり。彼は口に出しづらそうだったけど深呼吸の
末。
「羽藤はその……美咋先輩と、女同士の……深い仲なのか? 唇を合わせたりする様な」
わたしは即答せず、彼の表情を覗き込む。
杉浦先輩は、未だ全てを言い終えてない。
「羽藤は中学からそんな噂されていただろ? 俺は信じなかったけど、高校でも尚執拗に。
最近は大野先生との噂迄。俺は、そんな噂は嘘だって分っているけど、羽藤は清くて普通
だって信じているけど……いや、仮に女同士の噂が本当でも、羽藤は大事な後輩だけど」
杉浦先輩は、わたしが中学2年の冬に為された事を思い返して、自身の想定を問い直し。
この歳になれば、好いた人と添い遂げて初めてを捧げた女の子もいると。女の子全てに純
潔を『信じている』と言う事は、逆にそうでない女の子を傷つけかねない。それと同じく。
善意の信の表明が、そうでない場合、わたしが噂通り女の子と性愛交わす者だった場合、
わたしを傷つけかねないと察し。仮に噂通りでも、わたしは大事な後輩だと伝えてくれて。
わたしは静かに、彼の言葉の続きを待つ。
杉浦孝の渾身の問いは、未だ終ってない。
彼の焦慮は噂の真偽ではない。わたしが女の子に性愛抱く者であるか否かは、彼には最
重要問題ではなく。問は羽藤柚明が神原美咋の恋人か否か、杉浦孝の恋仇か否かでもなく。
「先月辺りから2人が随分密着して見えて」
杉浦先輩は美咋先輩を見続けていたから。
他の男の子と違い、美咋先輩とわたしが。
慎んでも剣道部以外の場で時折密会して。
肌身を寄り添わせ、触れ合う様に気付き。
「俺は美咋先輩を尊敬しているし、羽藤も大事な後輩だ。互いに納得できているなら良い。
でも羽藤が噂の所為でそんな女の子と見られ、先輩にそんな仲を強いられているのなら
…」
杉浦先輩は、わたしが美咋先輩に女の子同士の愛を強いられているのではないかと案じ。
「元々美咋先輩は、羽藤が剣道部に関る事に厳しかった。入部を期待し勘違いした俺達が、
先輩を誤解させた処はあったけど。入部するとも言ってない羽藤が、部に近寄る事も嫌い。
それが突然距離感縮まって、拒む感じがなくなって。羽藤が部に来るを心待ちする様に
なって。部活以外で2人が逢っているのを一度見たけど、先輩の瞳は恋する乙女だった」
部のみんなが思っている様に、剣道部入部を巡る美咋先輩の誤解が解けて、仲良くなれ
たならそれで良い。双方合意なら問題はない。
「でも仮に美咋先輩が、年下の素人を強引に従わせたなら。噂の羽藤なら大丈夫と酷い事
を強いたなら。俺は羽藤を助け、先輩を糺さなければならない。剣士は弱者を守る者だ」
わたしが見学に訪れつつ剣道部入りしなかった結果も、その後の美咋先輩との親密さも。
その推察を補強したみたい。美咋先輩は女の子では体格が良くて、わたしは自身が見ても
強そうに見えないのが災いした。彼の焦慮は、
「俺も美咋先輩が悪意や欲情で、羽藤にそんな事するとは思ってない。でも世間には善意
や好意の積りで、お互い納得との思い込みで、実は弱者が堪えている事もあるだろ? プ
ロレスごっこを弱者は苛めと感じたり。大人の世界のセクハラも、やった方は悪気ないと
か。
美咋先輩が了解を得た積りでも。実は確かな了解でなかったとか、そこ迄されるとは思
ってなかったとか。今は止めて欲しいとか」
杉浦先輩は、今の彼女との緊密な関りがわたしの本意ではないかもと案じ。大野教諭に
関る噂では、美咋先輩もわたしを気遣ってくれたから。わたし達2人に秘密の気配を感じ。
2人の間に問題があるなら弱者はわたしだと。
「言いづらいだろうけど、少しでも本意じゃない事があるなら、力になる。美咋先輩も話
しの分らない人じゃない。俺から話すよ…」
杉浦孝は後輩思いの強く優しい剣士だった。
故にわたしの応対が2人の今後を左右する。
「それはわたしが答えるべき中身ではありません。美咋先輩に尋ねて答を貰って下さい」
問に答えれば、わたしと美咋先輩の関係以上に、彼女が今誰を一番たいせつに想うかを
明かす。それは羽藤柚明が答える物ではない。神原美咋が杉浦孝の想いに面して答えるべ
き。
「美咋先輩は話しの分らない人じゃない。杉浦先輩の問にも想いにも応えてくれる。気遣
ってくれるのは嬉しいけど、わたしは大丈夫。先輩は美咋先輩に問と想いを伝えて下さ
い」
彼の懸念は、真実の傍を射貫いているけど、真実その物ではない。わたしと美咋先輩の
女の子同士の絆は、先輩から求められて始ったけど、わたしも心から望み願って受け容れ
た。
「羽藤は、答えられないのか? その、自身に関る事なのに、答を美咋先輩に委ねて…」
それには首を横に振り。答えられない訳ではない。わたしからは答えない方が良いのと。
「本当は応えたいのだけど。先輩の心配や気遣いに、すぐ応えられなくてごめんなさい」
杉浦先輩には暫く不安を残す事になるけど。
わたしは日々の挙措で事実を示し続けよう。
「でも言える事も幾つかあるわ。羽藤柚明は今も無事で大丈夫。わたしは美咋先輩に脅さ
れたり蹂躙された事はないし、それらに屈した事も未だ。大野先生との噂と同じく事実で
はないから、わたしは傷んでも萎れても怯えても居ない。今も羽藤柚明は神原先輩と杉浦
先輩をたいせつに想い、その力になれる…」
「本当に、大丈夫なのか? 美咋先輩に脅される迄の事はなくても、困らせたくないとか
哀しませたくないとか、美咋先輩に責めが及ぶ事を怖れて、口を噤んでいる様な事は?」
彼の心情も理解できた。彼は女の子同士の絆の可能性に迄触れて、真実を問うた。人を
傷つける怖れを含む問は覚悟を要する。その答が『美咋先輩に訊いて』では納得も難しい。
そこはわたしも、何らかの形で応えたくて。
問に答える事は出来なくても、印象位なら。
わたしは背の高い彼を少し見上げ正視して。
「杉浦先輩は、余人に明かしてない羽藤柚明の事実をご存じです。その過去を経て今先輩
の前で大丈夫な羽藤柚明も。大野先生とどんな事があろうとなかろうと、美咋先輩とどん
な事があろうとなかろうと、今先輩の前でわたしは大丈夫。それで納得頂けませんか?」
美咋先輩に問うた後なら、わたしも杉浦先輩の問に全て隠さず答えます。後出しになり
ますけど、わたしの事実に変りはないですし。
「俺は羽藤を心配して訊いているんだが…」
「『わたし』は今一番大切な問題じゃない」
似た様な台詞をかつて沢尻君に言ったけど、あの時と違うのは。あの時はわたしが彼の
答を欲したけど。今のわたしは杉浦孝の答を欲してない。彼は大事な先輩だけど、恋して
はいないし。彼にとっても己は想い人ではなく。
彼は美咋先輩に直に訊くべきだった。それをせず回り道したのは、後輩への気遣い以上
に答が怖かったのか。想い人が女の子同士の性愛を交わす姿より、年下を虐げる姿の方が。
でもならばこそ彼は美咋先輩に向き合わねば。
「先輩にとって今一番大切な問題は、わたしではなく美咋先輩に抱く想いではありません
か? わたしは美咋先輩じゃない。彼女の言葉や行いは答えられても、宿した想い迄は答
えられない。代りに告げる事もいけないの」
既に薄暗く星の瞬く道端でわたしは静かに。
見つめてくる男の子の視線を見つめ返して。
「答は自身で美咋先輩に尋ねて掴み取って」
わたしは相変らず年上に対して生意気だ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
経観塚高校の剣道部は、残念ながら全国大会の初戦に敗れ。杉浦先輩は3回戦、美咋先
輩は準決勝進出で夏は終り。わたしは真弓さん不在のお屋敷で、幼い双子を見守る為にそ
の勇姿を見に行けず。夏休み明け登校すると、
「ゆめいさん。あなた大野先生に休日格技場で犯されて、子供孕んで病院で堕胎させられ、
対人恐怖症になって経観塚から逃げ出していたって聞いたけど。学校出て来て大丈夫?」
「大丈夫だよ、されてないから」「本当?」
あの噂が再燃して、校内を席捲していて。
真相を語れない今のわたしは。折れず萎れず腐らずに。己のありの侭を見せ、根拠のな
い噂を言葉以上に日々の挙措で否定して、羽藤柚明を信じ納得して貰える様に努めるのみ。
学校祭準備に忙しい晩秋、事務員若木葛子さんの辞職を知った。彼女が噂の根源だった。
女性教諭少ない田舎の高校で、女の子の重大事案に対処する為に、箝口令の例外で彼女は
真相に触れ。彼女は若杉の羽藤監視員なので、様々な方法でわたしの動きを捕捉し、何故
か憎悪して噂を流し。正樹さん達や先生方は連携してその証拠を掴んで、彼女を失職させ
た。
裏に若杉が居ても、否、居ればこそ。若杉が居るとの理由で解雇を阻む事は自滅行為だ。
若杉が理不尽に挟まっていると晒されるだけ。故に相応な理由があって正当な手続を経れ
ば、教員でもない彼女は、校長権限で解雇出来る。
発信源を失うと、噂は下火になって行き…。
「わたしも陪席して良いのですか? 真剣勝負の場に。一時期程人は詰めかけなくなった
けど、今年は剣道部が注目されていますし」
「私は誰よりも、柚明に見て貰いたいんだ」
剣道部3年生は、学校祭翌月の『3年生選抜VS在校生選抜』団体戦を締めに引退する。
3年大将が美咋先輩で、在校生大将が杉浦先輩なのは妥当な人選か。山路先生が忙しくて、
その開催が師走半ばに遅れたのは実は僥倖で。
その間わたしと美咋先輩は、若木さんと鬼切部相馬党の襲撃を受け、生命の危難に瀕し。
心身の傷を癒すのに時が掛り。彼女の記憶の封鎖にも時を要し。その具合を看る為も兼ね
たお泊りの褥で、団体戦への陪席を確認され。
「団体戦は、毎年部外者の観衆も受け容れている。柚明が来ても違和感は全くないよ…」
美咋先輩はわたしの為に格技場で特等席を用意する積りだから、違和感は拭えないと思
うけど。わたしもその勇姿を見たいので頷き。でも、わたしへの笑顔に続けた厳しい声音
は、
「杉浦を徹底的に打ちのめして決着にする」
その声音に迷いを感じた。気合の不足を強い言葉で補う様な。本心とはずれている様な。
彼女の心は多少ならず揺れている。杉浦先輩と立ち合う事にではない。問題はその後に…。
杉浦先輩は対戦が決まった後、美咋先輩に対戦の後で告げる事があると述べ。必ず勝っ
て、敗者となった彼女にその場に臨むと続け。
杉浦先輩はあの後も美咋先輩に己の想いを告げきれず。わたしが彼女に無理強いされて
いる訳ではない、とは分ってくれた様だけど。
『美咋先輩の卒業迄に、追いついてみせる』
杉浦先輩は初夏の格技場でそう語っていた。
彼はこの立ち合いに勝って告白する積りか。
この頃合を逃せば、交際の期間がなくなる。
でもだから美咋先輩はここで拒み通す為に。
彼が申し出を引っ込める様な圧勝を望んで。
「今の私は柚明が居る。他には誰も要らない。
この重ねた肌身の間に挟まろうとする者は、誰だろうと遠慮なく叩き潰して追い返す
…」
わたしによりも自身に言い聞かせる様に。
この身を強く締めて唇を這わせる彼女に。
「美咋先輩……杉浦先輩の想いに、向き合って下さい」「柚明、あんた何を言うんだ!」
わたしは愛しい人の不快や叱声を承知で。
「彼の想いにどう応えるかは、美咋先輩のお考えです。わたしには何も言えない。でも」
門前払いは良くない。彼の想いも真剣なら。
向き合って受け止め、熟慮して答返すべき。
「柚明は、私に離れられたいの? それとも、柚明が私から離れる事を望んでいるの
…?」
男なんて欲しくない。私は柚明さえいれば。
杉浦では、柚明に強さも優しさも及ばない。
「逆に私が柚明の相手では不足かい? やはり女では柚明の女を満たしきれないかい?
この絆が尋常じゃないのは分っている。でも私は女だてらに竹刀を振り回すし、あんたは
あの大野を無手で打ち倒した。尋常じゃない。大野から私を助け出してくれたあの行い
も」
私は柚明に恩を返したい。抱き留めて愛を伝えたい。柚明の一番や二番が別にいるなら
それで良い。私は何番でも構わない。この愛を受けてくれるだけで良い。柚明の一番は望
まない。柚明はそれで尚私を遠ざけたいの?
視線はわたしの瞳を食い入る様に直視する。
わたしもその綺麗な双眸を確かに見つめて。
「そうではありません。わたしが美咋先輩を肌身に受け容れたのは、先輩の強さ優しさ美
しさに憧れ、心から望み願ったからです…」
なら! 美咋先輩は声を低く抑えつつも。
「何で私と杉浦を繋げようと? あいつが私に好意を持っている事は私も承知だ。あいつ
が悪くない男だって事も認めるよ。でも!」
私があいつを受け容れて恋仲になったら。
私と柚明の今の絆は終ってしまうだろう。
「先輩は、杉浦先輩を受け容れるのですか」
わたしは美咋先輩に、杉浦先輩の想いに向き合ってとは勧めたけど。彼の想いを受け容
れて、恋仲になってとは勧めてない。そうなる事もあり得るとは承知しているけど。門前
払いに拘るのはむしろ、彼女が杉浦先輩を…。
「っ! 柚明を愛する私がそんな事する筈」
美咋先輩の声に力がないのは、杉浦先輩に抱く好意を自覚したから。彼の誠意に優しさ
に強さに向き合った時、その告白を受けた時、承諾を返してしまいそうな自身を感じたか
ら。
美咋先輩はその恋心を押し殺し。わたしに申し訳ないと。彼をわたし以外の者を愛する
事は裏切りだと。応諾してしまいそうだから、門前払いせねばと。恋心の所在も認めない
と。
「柚明が私に、私の値を教えてくれた。穢れた私に尚愛される値があると、肌身に触れて。
手遅れの私を助ける為に、敢て危難に陥って。あの日私は柚明にこの身も心も捧ぐと決め
た。私はあんたの想いに行いに、百分の一も報えてない。その恩義に未だ何も返せてない
…」
「充分以上に報いて貰えていますよ、先輩」
わたしも美咋先輩の豊かな肢体を軽く締め。
筋肉質でも女の子の肌は滑らかで柔らかい。
「元々女の子に恋しない美咋先輩が、わたしの為に肌身を繋げ、自身を捧げてくれました。
捧げてくれた以上に、その所作に宿した想いが嬉しかった。わたしは充分以上に報われた。
だから先輩はもう無理をしないで」「柚明」
元々神原美咋に、女の子に恋や愛を抱く性向はない。友愛や親愛は抱いても。それは元
々羽藤柚明に、女の子にも男の子にも恋や愛を抱く性向があるのと同じ。善でも悪でもな
い。わたしは喜んでこの今を受け容れたけど。先輩は、わたしの為に己に無理を強いてい
た。
『原因はきっとわたし。初夏の格技場で…』
美咋先輩への陵辱抜きに、羽藤柚明への陵辱のみで大野教諭を告発し、失職させようと。
わたしは敢て彼の策に落ち、辱めの絵を録らせた。彼はわたしを手錠に繋ぎ、馬乗りで殴
ってこの胸を揉み唇を奪い、腰を繋げて嬲り。
唯彼を打ち倒していれば。傷みも辱めもなく終えていれば。美咋先輩はわたしに感謝し
ても、罪悪感迄は抱かなかった。でもわたしが全て承知で選んだ展開に、わたしより美咋
先輩が『己の為に』『己の所為だ』と自責し。償わねば報わねば返さねばと、焦慮に駆ら
れ。彼女をそうさせた原因は己の浅はかさだった。
わたしは、美咋先輩の感謝や返礼を欲して。
彼女を悲嘆の淵から助け出した訳ではない。
神原美咋の笑顔こそがわたしの報償。故に。
己は彼女と性愛を交わすべきではなかった。
強い想いをわたしは拒みきれなかったけど。
本当にこれが、美咋先輩の最善だったのか。
『でも、受け容れる他に選択はなかった…』
大野教諭に蹂躙された美咋先輩は、自身を獣欲に屈した値のない存在と嫌悪して、己を
責め。他者に肌身を許せなくなりかけていた。
わたしが美咋先輩の肌身を拒んでいたなら。
美咋先輩はそれを自身の穢れの故だと感じ。
誰とも肌身重ねる事許せなくなってしまう。
その後で美咋先輩は穢れてないと語っても。
百万言より拒絶という行いの方が刻まれる。
杉浦先輩の恋心も誰の想いも届かなくなる。
『最早強くも賢くも清くもないと、思い知らされた私だけど。満足に暴力に抗えもせずに、
組み敷かれ続けてあんたに救われた私だけど。あんたの想いがあるだけで、私は強く支え
られる。今日を明日を生きる気力が湧くよ…』
だからわたしは望んで美咋先輩と肌身繋げ。
己が神原美咋に抱いた欲情の故にではなく。
勿論美咋先輩の償いや返礼の受容でもなく。
彼女が向けてくれた愛への応答より優先に。
神原美咋が愛される値を持つと納得する迄。
その傷心を癒し未来へ向き合える様に促す。
『でも美咋先輩は、女の子に性愛を抱かないから。それが普通ではなく思えて、後ろめた
さを拭えず、必要以上にこの絆の露見を怖れ。彼女にはそれは普通の所作ではないから
…』
人前でわたしが為す触れ合いは、女の子同士の友愛・親愛と見なせる程度だ。神原美咋
の同性愛を噂する者はいない。過剰に周囲の視線を気に掛けるのは、わたしとの親密を問
われただけで固まって答に詰まるのは、彼女が自身の性向に反し、無理を重ねている証だ。
己の所作の副作用か。褥を共にすればする程に、美咋先輩は自身が普通ではない、秘さ
ねばと心を硬くして。彼女が杉浦先輩に抱いた好意は、彼女自身に矛盾を突きつけていた。
そろそろとは感じてはいた。終りの頃合は。
美咋先輩との絆は長く保てぬと視えていた。
「美咋先輩がわたしを深く想ってくれる事は、本当に嬉しい。でも、それと別に美咋先輩
は、杉浦先輩を深く強く想っています。それは悪い事じゃない。恩知らずでも背信でもな
い」
それは愛の不足でもなく醒めたのでもなく。
親愛を交わし合う仲こそわたし達の最善で。
「美咋先輩の微笑みに尽くしたい。先輩の幸せと守りに役立ちたい。愛させて。身と心を
尽くす事を許して。先輩の未来を過去や恩義で縛る気はないの。他に好きな人が出来た時
は自由に飛び立って構わない。先輩の望みはわたしの望み、先輩の喜びはわたしの喜び」
全力で応援します。叶う限り助け支えて。
後ろめたさが吹き飛ぶ位に、想いを注ぐ。
「神原美咋はいつ迄もわたしのたいせつな人。いつも微笑んでいて欲しいたいせつなお姉
様。わたしの想いは潰えない。消えはしない。例え学校や職場や生きる処が違っても、先
輩が誰と結ばれても。どんな事の末にも変らず」
心の限り尽くさせて、守らせて、愛させて。
たいせつな人の微笑みが、わたしの願い…。
「わたしの願いは美咋先輩の幸せです。だからわたしの報いは先輩の幸せ。先輩が無理な
く幸せに微笑んでくれる事がわたしの報い」
自由と愛を。わたしがそう語りかけると。
美咋先輩はわたしの頬に頬を摺り合わせ。
「柚明……あんたは生涯私の一番の女の子だ。誰の告白を受けても、誰と恋し愛し合って
も、私は終生柚明を愛し続ける。性愛じゃなくてもこの想いは、誰への想いよりも深く強
い」
「嬉しい……わたしには、分の極みです…」
美咋先輩の心は定まった。彼女は対抗戦で。
杉浦先輩の問に想いに真正面から向き合う。
その決着が結論がどのように決まろうとも。
わたしは唯たいせつな人の幸せを望み願う。