第11話 せめてその時が来る迄は(前)


 爽やかな青が空を染め、新緑の香りを含む風が髪に心地良い。背を預けた槐のご神木も、
初夏の適度な日差しと湿気に生き生きとして。

 巨木の幹に身を凭れかけさせたこの姿勢は、頭の固い人に見られたら不遜を叱られるか
も。仮にも相手は神様で、わたしは羽藤家の当主でもない高校1年生の女の子だ。敬意は
確かに抱いているけど。身も心も清めて来たけど。

 わたし達羽藤の血筋が代々祀る遠い祖先で、荒ぶる鬼神を封じるオハシラ様で、愛する
サクヤさんの一番の人に。崇め奉るのではなく、恋人やお友達の様に背中を預けて。日中
の修練で触れ合う必要があるとは言え、額づくとか手を翳すとか、他にも術はあると思う
けど。

 ……ふぅ。一度瞳を開いて深呼吸をして。
 これがオハシラ様の、竹林の姫の望みだ。
 わたしもこれを、望ましいと受け容れた。

 余計な思索に流れ掛る心を整える。今は人目や外聞を気にすべき頃合ではない。心を澄
ませ、背で触れたオハシラ様に意識を添わせ。

 ご神木の幹を吸い上げられる水音を感じる。
 ご神木の根が土の奥へと伸びてゆく感触を。
 ご神木の枝葉が空を望んで芽を伸ばす様を。

 その奥に宿る女の子の気配を肌身に感じて。
 わたしに向けられる想いの波を受け止めて。
 羽藤柚明の整えた想いを確かに伝え届かせ。

 風と陽が心地良く髪を頬を撫でつける中で。
 足音が聞える前に近づく気配は察していた。

「邪魔だったかい?」「いえ……そろそろ」

 引き上げようと、思っていた処ですから。

 晴れた日中でも、この山奥迄わたしを求めて足を伸ばす人は限られる。やや癖のある白
銀の長い髪を揺らせつつ、現れた美しい人は。ご神木を背に座したわたしをやや遠目に眺
め、

「うぅ〜ん。妖精というか天女というか…」

 わたしの砕けた姿勢に叱声も窘めもなく。

『笑子さんにもだけど、本当姫さまにも似てきたね。まぁ、笑子さんが姫さま似だったし、
同じ血筋だから奇妙でも何でもないけれど』

 最近サクヤさんはわたしを見て時折溜息を。

 見事なスタイルのサクヤさんが、この容姿に見とれる事は考え難い。わたしは相変らず
胸の成長も遅れ気味で、同年代でも小さめだ。誰かに重ね見ていると察しは付く。わたし
は誰かに重ね見られる事に、不快はないけど…。

 言葉に出さないのはわたしへの気遣いか。
 故にわたしも読み解けているとは言わず。

「済みません。サクヤさんのたいせつな人に態度が少し砕けすぎかも」「いや、良いさ。
姫さまも崇め奉られるのは好まなかったし」

 元々やや身体が弱く、人と触れ合う機会が少なかった人だから。型式張ると遠ざけられ
たとしょんぼりする位でね。人目に付かない処でなら、むしろお友達感覚の方がお勧めさ。

 悪戯っぽい瞳でウインクして。わたしが背中を預けたご神木の根元迄、歩み寄ってきて。
開花迄は未だ一月以上ある、青々と芽の伸びゆくご神木の枝ぶりを、眩しそうに見上げて。

「新しい話し相手を、姫さまは喜んでくれているかな?」「はい……今の処、良好です」

 笑子おばあさんの逝去から半年近く経った。暫く唯一の贄の血の力の使い手となるわた
しの修練は、その生前から刻限を定めず、呼吸法の様に常時行い続け、時折進展を見て貰
う様になっていた。自習や夏休みの宿題に近い。

『力』の制御はある程度憶えたけど。それも使い手の心の状態に左右される。護身の技の
修練に似て、行き着けば次の課題が姿を現す。

 己自身では気付き難い偏りや見落しもある。何よりわたしは人生経験が足りない。おば
あさんが亡くなって以降、春からわたしは月に一回程、血の力の修練にご神木を訪れてい
た。本当は鬼神の封じには望ましくない事だけど。

【ご神木が贄の血の者に触れたり、力の持ち主と感応を繰り返すと、封じが緩むんだよ】

 だからサクヤさんは羽様に来ても、滅多にご神木へ行かない。サクヤさんは贄の血もな
く感応も使えないけど、大昔竹林の姫がオハシラ様になる迄に深く関っていた。軽々に近
づく事が、愛しい彼女の心を乱すと気遣って。

 オハシラ様が幼かったわたしとの接触を拒んだのも。おばあさんが自身の終りの間近迄、
わたしとご神木の接触に慎重だったのも。在り続けて動じない事が肝要の封じに、俗世に
心揺れ動く未熟者が安易に触れては害な為だ。

【知っての通り、オハシラ様はまつろわぬ鬼神を封じ、悠久の年月をかけてその魂を虚空
に返す、ご神木の封じの要。でもそれは、オハシラ様にとっても容易な事じゃないのよ…。

 集中し己の欲求や想いを抑え付け心を鎮めて漸く叶う。外の雑念が混じったり、オハシ
ラ様がそれに応えようとすると、封じの安定が失われるの。即影響が出る訳じゃないけど、
バランスを失えば封じに綻びが出る怖れも】

 わたしがオハシラ様に感応した時は、オハシラ様がわたしに感応した時でもある。わた
しがオハシラ様の回想を覗いて心揺れる様に、オハシラ様がわたしの回想に心揺れる事も
又。オハシラ様はお役に千年耐え続けた人だから、容易く己を失う事はないだろうけど。
使命の重さを承知で望んで就いた人だから、わたしの様に簡単に心揺れ動く事はないだろ
うけど。

 喜びでも悲痛でも感情の起伏は、鬼神の封じに害となる。想いを流出入させる感応使い
や、その素養を持つ贄の血の持ち主も。故にわたしより血の濃い白花ちゃんや桂ちゃんは、
血の力を肌の下に抑え込む修練を経ない内は、ご神木には近づけられない。まあこの山奥
迄幼子が来るには、もう少し歳月が必要だけど。

「オハシラ様を祀る者は、唯感応の力があるだけでは拙い。強く静かな心の持ち主でなけ
れば、封じを揺らせ解れさせる。心の中迄大人しすぎて、退屈な位が最適なんだけど…」

 姫さまはやや元気な女の子の方が好みでね。
 笑子さんは物静かでお淑やかに過ぎたから。
 柚明位が良い塩梅なんじゃあないのかねぇ。

「褒められているのかどうか、微妙ですね」
「さぁ、どっちなのかは受け取る側次第さ」

 その返事にわたしは首を斜め後ろに向け、

「と、サクヤさんは言っている様ですけど」
「え……、それって、柚明の問じゃなくて」

 姫さまの問だったって言うのかい、柚明?

 サクヤさんは竹林の姫に、とことん弱い。
 声が裏返り、弱って慌てる間近な美人に、

「いえ、わたしのです」「あ……やられた」

 サクヤさんが来た時点で感応は切ってある。封じに影響しない様に感応と会話を並行さ
せる事は未だ難しいので。封じは喜びや感動でも揺さぶられる。世の中は中々巧く行かな
い。

 間近に艶々な銀の髪の人の抗議に先制し、

「心配して呼びに来てくれて、有り難う…」

 想いを込めた瞳でその双眸を見つめると。
 見下ろす頬が別の意味合いで朱に染まる。

 経観塚側から来る風に微かな湿気を感じた。後一時間位で羽様迄、経観塚名物の俄雨を
もたらす雨雲がやってくる。サクヤさんはそれを観月の嗅覚で察して呼びに来てくれたの
だ。今から下れば雨が降り出す迄には帰り着ける。

「戻ります。……オハシラ様、本日は有り難うございました。お祀り迄の間に、もう一回
位来たいと思います。宜しくお願いします」

 立ち上がってご神木に向き合って一礼する。
 傍でその様を見てくれていたサクヤさんに、

「サクヤさんは、オハシラ様とお話しして行かなくても、良いのですか? わたしは1人
で帰れますし。せっかくここ迄来たのなら」

 サクヤさんは念の為に傘を持ってきていた。
 たいせつな人とのお話しを勧めるわたしに、

「雨や風は気にならないけど、今日は柚明を迎えに来たんだ。姫さまと話したい時は別に
その為に来るよ。今日はご挨拶だけで良い」

 オハシラ様も柚明との感応から心を鎮め直さなきゃいけない。鬼神の封じには、喜びも
やり過ぎも疲れも無理も、本質的に害だから。

 サクヤさんは、自身に言い聞かせる様に、

「……姫さま。近い内に、又来るからさ…」

 最後だけ切なさを隠しきれない声と表情で、ご神木を間近に正視して、でも今日は敢て
手は触れず、サクヤさんはくるりと踵を返して。

「帰るかね、あたしの可愛い柚明」「はい」

 肩を並べ身を添わせ、麓迄の山道を下る。


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「……感応で、定めは視えてきたのかい?」

 サクヤさんが問を発したのは、麓迄の道半ばと言った処だろうか。サクヤさんは2人き
りの場を求めて、わたしを迎えに来てくれた。

 わたしが笑子おばあさんにのみ漏らした不安を、サクヤさんが語る事情の詮索は不要だ。
おばあさんが託したのだ。幼子を抱えた正樹さんや真弓さんに明かさず、でもわたしの心
を支える為に頼れる人に引き継いで貰おうと。

 羽藤3世代と一緒に過ごしてきたサクヤさんは、贄の血の力の関知や感応を、相当程度
知っている。なので多くの前置きは不要だと、

「あんたの血の濃さは笑子さんを凌ぐ。力の操りも同様に。兆しの読み解きも癒しの力も
敵を弾く効果もね。それで尚見通せず正体が掴めない禍ってのは、あたしも気懸りだよ」

 余りに漠然としすぎて糸口も掴めないので。話しても人の不安を招くだけだ。せめてい
つ誰がどんな禍に遭うのか悟りたい。でもつい笑子おばあさんにだけ、不安を漏らしてい
た。

「オハシラ様と感応すれば、関知も感応もその効果は更に高まる筈だけど、それでも…」

 見通せてはいなさそうだね、その顔では。

 すみません。わたしは頷く他に術が無く。

 サクヤさんに迄心配を掛けた。見通せない己に苛立つのは自業自得だけど。おばあさん
を最期迄心配させ、サクヤさん迄巻き込んで。尚確かな答に至れない己の力不足が恨めし
い。

「わたしが見通さなければならないのに…」

 贄の血の力の修練が進展するにつれ、関知の精度が増していき、結果が次々視えて来る。
良い物も悪い物も、不確かで可能性を感じられた物事が、次々確定されてゆく。先が分る。

 病人に会うと病の先行きが、友を訪ねると友や家族の少し未来が、新聞雑誌を読むと事
件や政治の展望が。身近な人達の禍も死期も、お友達との断絶も、大凡視えて変えられな
い。

 しかもその範囲はどんどん広がって。その人との親密さや、起こる事柄にも依るけれど、
数日先しか視えなかった物が、遠い未来迄視える様に。断片的な結果の像しか視えなかっ
た物が、その過程や原因や影響迄視える様に。万能には程遠いけど今も力の拡大は進行中
だ。

 でもこれは果たして視えたと言えるのか。

【……何か、視えたのかい?】【いえ……】

 生前笑子おばあさんの何かを察した問に。
 わたしは一度かぶりを振って見せてから。

【唯、わたしが未来に感じる印象が、朧に】

 何が起きるかは視えてこない。それは未だ遙か遠い未来な為なのか、不確定な為なのか。
唯その結果だけが。結果と言うより、その結果を受けたわたしの心の痛みだけが強く響き。

【この幸せも長くは続かない。たいせつな人達との関りは、いずれ根こそぎ断ちきられる。
何もかも残らず失って悲嘆に沈む末が分る】

 桂ちゃんも白花ちゃんもいずれ大きく育ち、愛する人を見つけ親元を離れ往くだろうけ
ど。この笑顔を日々見つめられない時も来るだろうけど。2人に2人の人生がある以上に、
どの途を進んでもわたしは2人との断絶が待つ。隔てられて、声も届かせられない時が訪
れる。彼方に桂ちゃんと白花ちゃんの慟哭を感じた。

 それをわたしは防げない。全てを投げ出し立ち塞がっても止められない。己の限りを尽
くしても2人の慟哭を止められない。全てを失った後のわたしの悲嘆と絶望が朧に視える。

 間近に視える諸々と違って、その像は尚不確かだけど。桂ちゃんと白花ちゃんの涙はき
っと防げない。そう分っても、否分ればこそ。

【たいせつな人の禍を前に、わたしの在り方は変らない、変えられない。だからきっと】

 わたしは禍を受けに行く。愛しい人に降り掛る危難を代りに受けに。及ばない届かない
と分っても。わたしの両親が敵わないと分って鬼に立ち向かい、生命で守ってくれた様に。
無理でも無駄でも己を尽くす。でもその末に。

【たいせつな人を守れずに終る事が、この身を失ってたいせつな人のその先に役立てなく
なる事が、たいせつな桂ちゃんと白花ちゃんの涙を止められない事の末が、心から怖い】

 視えもしない未来の影が、血管が滾る程の怖れと不安と憤りを、今に不吉に投げかけて。

 それをわたしは確かに視る事も叶わず。
 それを避ける術も退ける術も持たずに。

 この身で代りに受けても止められない。
 生命を尽くしても、防ぐ事は叶わない。
 わたしの守りは突き破られて喪失する。

 失われるのが己の何かで終るなら良い。
 傷つき苦しむのが自身で済むなら良い。

 でも、わたしの心底からの哀しみはきっと。
 己の痛みではなく、喪失でも悔恨でもなく。

 わたしが心からたいせつに想った人の傷み。

 白花ちゃんと桂ちゃんは禍に呑み込まれる。
 わたしの真の哀しみは2人の絶望と悲嘆…。

 笑子おばあさんの存在が、定めの歯車を止めていた。定かに見通せななかったのは正解
だった。何がどう作用するかは分らないけど、おばあさんがいる限り禍は生じなかったの
だ。

 その死で霧が晴れ始め。禍の峰が遠望でき始め。一つ定めの歯車が進んだと感じた。嵐
の時に家を支える柱がなくなった感じと共に。

 中学2年の冬休み、わたしが己の禍を見通せなかったのは、サクヤさんが傍にいた故だ
った。サクヤさんがいてくれる事でわたしは守られ、かなりの確率で禍を避けられたから。

 可南子ちゃんを襲う禍を防ぎに入り、己もそれを蒙ると見通せたのは、サクヤさんが出
立した日の夕刻だった。サクヤさんの守りが消失してわたしの禍が確定し、事が見通せた。

 今回はそれよりも更に入り組んでいるけど。
 守りが剥がれる事で禍の確度が増して行く。
 視え始めたのは禍に近づきつつある所為だ。

「視える事より、視えない事の方が良い?」

 感じ取れなくなる位に遠ざかる方が良い?

 サクヤさんの問にわたしは確かな肯定も否定も返せない。禍を回避した、遠ざかったと
確かに関知できれば良いのだけど。濃霧の中で見た朧な影で、危難の遠近は判別できない。

 結局今回も、確かな事は分らず見通せず。
 幾つか留意すべき収穫はあったのだけど。

「うぅーん、笑子さんや姫さまにも見通せなかった程遠く微かな兆しかい。その禍は、柚
明の関知のギリギリ外側にあるんだろうね」

 助言の術がない感じで首を捻る美しい人に。

「ごめんなさい。こんな不確かで怪しいお話しでサクヤさんの心迄煩わせて」「柚明…」

 現状唯一の血の力の使い手であるわたしは、羽様のみんなの支えにならねばならないの
に。不安さえ抱かせては失態なのに。防ぐどころか何が起こるのかさえ、確かに見通せて
ない。

 笑子おばあさんはそんなわたしの未熟や焦燥を案じて、サクヤさんに事を託してくれた。
わたしが1人で抱え込まない様に。全てを内に秘められる程強くない羽藤柚明を危ぶんで。
わたしは未だにみんなに心配される未熟者だ。

 己の現状は情けなく悔しかったけど。その配慮は身に染みる程に有り難い。今は甘んじ
てその配慮を受けて、わたしはご神木と感応しても、禍の正体が見通せなかった事を話し。

「わたしは封じへの影響を抑える為に、感応でも直接の問答は避けています。わたし程濃
い贄の血が触るのは、ここ数百年例がない様なので。意図して一方通行に問わず語りを」

 普通の会話の様に感応すると、感情の起伏も様々な印象も相手に届く。その答も同様に。
問に答え、答に更に問を発し合う事が互いの起伏を増幅させて、封じを一層大きく揺らす。

「わたしはわたしの伝えたい想いだけ伝え。
 オハシラ様はオハシラ様の想いだけを…」

 会話ではなく互いに一方通行に。流入する想いに答は返さず、受け取るだけ。こちらも
予め伝えると決めた想いのみ伝え。双方言い合うだけで通じ合わせない。テレビの討論番
組の成立しない問答に、呆れた事がヒントになった。想いが通じ合うと拙い時には、通じ
合わせなければ良い。言いっ放しと聞きっ放しにする。形式化されたお祀りに近い感じだ。

「不毛な討論番組に迄意味を見いだすとは」

 柚明も笑子さん並に個性的になってきた。
 脱力した声で肩を竦める美人を見上げて、

「褒められているのかどうか、微妙ですね」
「さぁ、どっちなのかは受け取る側次第さ」

 わたしは答の代りにその左腕に己を絡め、

「今回のわたしの問への答は、次回にオハシラ様から貰えます。今回オハシラ様から頂い
た啓示へのわたしの答は、次回返します…」

 直答を避ければ感情の波は相当抑えられる。わたしはご神木に触れるだけで、影響を受
けて力の操りが増す。受けた啓示を後で試すだけで進歩がある。即答がなくても今は充分
だ。禍の実像を見定めたい焦りはあるけど、そこに辿り着く迄に必要な階梯は未だ幾つも
ある。

「微かに悟れたのは、禍が生じる時はもう少し先で、起きるか否かも未確定らしい事で」

 未だ幾つか不確定要素がある様で。それがもっと出揃わないと視えてこない。それらの
要素が出揃うには尚少し時が要る。今週来週の問題ではないらしい。多分数月先も大丈夫。

「未だ時期や関りが遠いのかも知れません」

 わたし達に関る前の段階なら、詳細に視えない事も頷ける。禍がわたし達に辿り着けな
い可能性もあった。台風の進路の様に、時折定めの向きも変る。誰かが防いだり別方向に
招けば、訪れない可能性もあった。そう視えた訳ではないので、予測も難しい話しだけど。

「そしてもう一つ。わたしが禍を見通し難い理由に思い当たる節が。わたしは別の理由で、
この禍に遭えない可能性があります。それは、決して喜ばしい事ではないけど」「柚
明?」

 わたし独り禍を避けられても意味がない。
 そして禍に遭わなければ良い訳でもない。

 首を傾げつつ、続きを促す銀の髪の人に、

「仮にわたしが電車事故で、生命を落す定めだとして。電車に乗る前に車に轢かれて生命
を落せば、電車事故で死ぬ定めは消失します。でもそれは喜べるお話しでしょうか。その
電車にはわたしのたいせつな人が乗るのです」

「柚明。まさか、あんたっ?」「未だ詳細は視えません。見通せない、視えてこない…」

 わたしに何が降り掛るのか。わたしが何を為せるのか、為すべきで、為さねばならない
のか。他の人の事なら断片的でも未来が幾つか視えるのに、自身の先行きが不明瞭なのは。
大きく育って女の子や男の子になって行く愛しい双子に寄り添う像が霞んで不確かなのは。

 視える像より視えない事が何かを暗示する。
 その幸せを見守る事が叶わないと言う事は。
 その守りに尽くす事が出来ないという事は。

 向けられてくる緊迫した双眸に、わたしは叶う限り柔らかな視線を返し、声を穏やかに、

「……わたしが果たして禍を迎えられるのか、たいせつな人を襲う禍の起きる時迄羽藤柚
明が保つのかどうかが、定かではない様です」


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 隣家も数キロ隔たる初夏の羽様の朝5時は。時折響く小鳥の羽音が、逆に静寂さを際だ
たせて涼やかで。最近鳴らせていない目覚まし時計を、今朝も動き出す前に止めて、厨房
へ。

「お早うございます」「「お早う」」

 サクヤさんと真弓さんに挨拶し、一緒に朝ご飯の支度に掛ろうとして。ふと首を傾げる。
声の強さや反応の早さや、足音や仕草やそれに伴う室内の空気の流れがいつもと若干違う。

「叔母さん、今日は体調悪い日ですか…?」

 サクヤおばさんと呼ばなくなって半年余り。
 自然と真弓さんの呼び方は『叔母さん』に。
 未だ時々は『真弓叔母さん』も混ざるけど。

 その真弓さんがやや肌身を強ばらせるのに。サクヤさんはやはり見抜かれたよと言う声
で。

「あたしに分る位だから、柚明には必ず見抜かれるって言ったんだけどね」「大した物じ
ゃないわ。いつもに較べれば軽い方なのよ」

 少し気を張れば大丈夫。主婦は年中無休で四六時中、風邪をひいてもこなすべき職責よ。
あなたからも、羽藤の台所を託された訳だし。

「簡単に寝込む訳にも行かないわ」「……」

 サクヤさんが困惑の表情をわたしに向ける。
 休めと言ったけど聞き入れなかったらしい。

 笑子おばあさんが亡くなった後、わたしは厨房では真弓さんの指示に従うとお話しした。
おばあさんの生前は、日替りで羽藤の厨房の実戦指揮も執ったけど。船頭が複数いては船
も山に登ってしまう。身を粉にして支え働く事は当然として、トップは決めるべきだった。

 ここの厨房を一番古くから使っているのはサクヤさん、次が正樹さんでわたしは3番目。
でも真弓さんは台所は女の城だと、嫁入り以降ずっと正樹さんを料理に携わらせないので。
年の半分位は羽様を空けるサクヤさんがいない時は2人で、いる時は3人でお料理修練を。

「休まなくて大丈夫ですか?」「大丈夫よ」

 真弓さんは返事より行動で答えると、朝食の準備を1人始め。その姿勢は確かに手慣れ
ているけど、その作業は遅滞を見せないけど。

「柚明ちゃん」「大丈夫なら確かめさせて」

 作業の邪魔は承知の上で、背後から軽く両腕を回し、その細身に添って肌身に真弓さん
の現状を視る。真弓さんもサクヤさんもやや驚くけど。その背に左頬を当て瞳を閉じると、
真弓さんは嫌わず受け容れて、動きを止めて。

 出産や子育てを経ても、真弓さんの肌は相変らず柔らかで滑らかで、エプロン越しに心
地良い。刀を振るう人の筋肉質な感触もなく。この細身で鬼切部千羽党の鬼切り役を務め
て、他党に迄も当代最強を認めさせたのだ。今尚わたしが幾ら挑み掛っても全く敵わない
のだ。

 本当に天は1人に二物も三物も与える様で。綺麗に優しく、清く正しく強い人。わたし
の一番たいせつな桂ちゃんと白花ちゃんの、最愛のお母さん。わたしが特別に愛しく想う
人。

『ケガでも病でもない。やはり唯の疲れ…』

 真弓さんの言う通り、今日の不調は今迄見た中では比較的軽く、数時間休めば治る程で。
少しの懸念はその原因だ。羽様の日常生活で、元鬼切り役が疲れ果てる事はやはり考え難
い。

【真弓は時々、そうなる体質らしいんだ…】

 サクヤさんの言葉の通り、真弓さんは羽様に来てから月に1回程度、こうして伏せって
いた。それは何かの病の発作にも思えたけど。

【真弓は原因に迄心当りがある顔だったよ】

 詳しい事情は話してくれないんだけどね。

【日常生活には問題ないという事と、本当にそれで困った時は別に方策があるという事と、
根本的な改善は無理そうな事と。大人の女の生理の様に、受け入れる他にない物らしい】

 何かの兆しを感じたけど、確かに視えた訳ではないので口にしない。精緻に視るには時
間と本人同意が要るけど、真弓さんはそれを望んでない。即座に見通せないのは隠したい
意図の故だ。勝手に踏み込めば覗き見になる。

 間欠的に真弓さんを襲う深い疲弊と脱力は、病でも呪いでもなく唯の疲れだ。今日は症
状も軽い様子だし。階段昇降や車道の横断中や、刃物や炎を扱う時でも気力を保てば問題
ない。

 一分位肌身を添わせ続けただろうか。真弓さんも視られて大丈夫だから、応じてくれた。
端からは、高校生にもなった娘が年長の姉に、歳を忘れて幼子の様に甘え縋って見えたか
も。

「本当に、大丈夫でしょう?」「……はい」

 傍でサクヤさんは手持ちぶさたに肩を竦め。
 腕を解いて身を離すと真弓さんが振り返り、

「柚明ちゃん、わたしの容態は概ね分った上で、癒しを流し込む為に触れたでしょう?」

 真意を見抜かれて、隠さず頷くわたしに。

「敵わないわね。柚明ちゃんの癒しを貰う程でもないと言う気だったのに、先制された」

「お節介でしたら、ごめんなさい。心配になって……断られる前にやってしまいました」

 叔母さんの疲れを全て補うには不足だけど。
 少しでも楽になって欲しくて見過ごせずに。

 振り向いた真弓さんに瞳を合わせて謝ると。
 軽やかな髪を揺らせて細身な人は微笑んで。

「有り難う。少し辛かったから助かったわ」

 わたしの拙速を責めずに受容してくれて。
 この背に両腕を回し想いを返してくれて。
 わたしは強く暖かく心地良い親愛の虜に。

 サクヤさん程大きくはない胸の谷間に迎えられて、わたしはその美貌を真下から見上げ、

「無理はしないで下さいね。叔母さんは白花ちゃんと桂ちゃんの一番の人で、わたしの特
別にたいせつな人ですから」「柚明ちゃ…」

 それは時折桂ちゃんがおねだりに、わたしに縋り付く仕草に似ていたかも。僅かに見せ
た戸惑いは、わたしのストレートな親愛の言葉への照れか、この親密な触れ合いになのか。

 微かに頬を染めつつ、尚わたしを厭わず。
 正面からわたしを抱き留め想いを交わし。

「分ったわ。あなたを余り心配させてもあれだし。白花と桂を送り出した後で、休ませて
貰う。明日に回せる家事は明日に回し、他はサクヤに頼んで。それで良い?」「はい…」

 我が侭言って、すみません。抱き留められつつ、心臓に左頬を当てるわたしの視界には、

「あたしが幾ら言っても頑として休む事を承知しなかった癖に、柚明に抱きつかれると言
いなりかい。ほんと真弓は柚明に甘いねぇ」

「そ、そんな事ないわよ」「ほほぉ違うと」

 なぜか真弓さんは追及に、わたしをより強く抱き締めて。赤かった頬を更に朱に染めて。

「歳も背丈も、真弓の方がずっと上なのに」

 白銀の髪を朝日にキラキラ輝かせた人は、

「仕草は柚明の方が幼い筈なのに、柚明が真弓を操って見える。真弓の強情を柚明が巧く
あやして導いている様に。これは笑子さんの、羽藤の血筋かねえ」「外野、少し煩いわ
よ」

 真弓さんの想いを受けて、もう少し贄の癒しを流し込み。頬に熱を回した後で身を離し、
サクヤさんと3人で羽様の厨房を切り盛りし。

 羽様の朝は相変らず嵐の様に過ぎて行く。


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 朝食を頂き身繕いを整えて。正樹さんとまだ夢心地にいる愛しい双子にご挨拶してから、
徒歩で学校へ。県立経観塚高校は銀座通中から五百メートルの位置なので、わたしの朝の
動きは春迄と殆ど同じ。登校に2時間弱掛るので、少し余裕を見て6時半には羽様を出る。

 中学校より少し抑え気味な色調の、大人っぽさを醸し出すセーラー服を身に纏い、いつ
も通り銀座通方面へ歩み行くわたしの前途に。

 見知った男の子が道端に1人立っている。
 わたしが通り掛る頃合を待っていた様だ。

「お早うございます、杉浦先輩」「お早う、羽藤。毎朝運動部並の運動量、ご苦労だな」

 杉浦孝先輩は、同じ高校に通う羽様小の出身者。男子の中では標準だけど、壱級下の女
子であるわたしに較べ拾センチ位背も高く肩幅も広く、筋肉質で頭は五分刈りで。高校生
になると、男女の体格差も明瞭に見えてくる。

 複式学級だった羽様小では、5年の時に同じクラスで。嘘や弱い者苛めを嫌う、まっす
ぐ表裏のない性格はみんなに信頼されていた。

 銀座通中でも一昨年は剣道部の主将を務め。高校でも剣道部で2年生唯一のレギュラー
で。今年の大会でも、3年女子の神原先輩に次ぎ、活躍を期待される有望株だともっぱら
の噂で。

 だからこそ、ここで逢う事はやや意外で。

「先輩は、今朝は朝練はないのですか…?」

 杉浦先輩の家は羽様小出身でも、わたしより家が拾キロ高校に近い。始発のバスに乗ら
なくても、もう少し早く出立して高校の格技場で朝練に入っていても、おかしくなかった。

「あるにはあるけど……今日は免除された」

 肩を並べて歩き始める。梅雨の合間の青空は抜ける様で、幾つかの白い雲が浮いていて。

「羽藤は結局、運動部入らなかったんだな」
「はい……幾つか誘いは受けましたけど…」

 中学校と違い、複数の運動部先輩や教諭から勧誘された時は驚いた。県立経観塚高校は
銀座通中を含む経観塚の3中学校に、近隣町村からの通学者も含め、生徒数は一学年二百
人を越える。その中でわたしが注目に値するとは思ってなくて。真沙美さんと競ったわた
しの運動神経は、相当高く評価されたみたい。

 結局わたしは、真弓さんとの修練や桂ちゃん白花ちゃんと共に過ごせる時間を優先して。
遅く迄練習に残る運動部には入らなかった…。

 杉浦先輩は元々口数も多くなく、言葉の繋ぎもそれ程巧くない。口より体が動く方だと
聞いた。順序を考え心を整えて来た様だけど。

「羽藤。お前、剣道部、入ってみないか?」

 やはり申し出は、核心をまず単刀直入に。

「大野先生が羽藤の体育での動きを見て、文化部に置くのは勿体ないって。複数部活の在
籍は、互いの顧問と担任の了承で出来るって。小柄でも羽藤の運動神経なら期待できる
と」

 大野先生は、経観塚高校に勤めて2年目の弐拾七歳の独身男性だ。剣道の有段者で担当
科目は3年生の体育と英語。爽やかな風貌で筋肉質だけど背が高く痩身に見え。切り揃え
た黒髪と声の印象は正樹さんに少し似ている。

「美咋(みさ)先輩も女の子が入ればきっと喜ぶ。今剣道部に女子は1人だから。先輩は
銀座通中の頃から何かと羽藤を気に掛けていたし。どうだろう? 考えて貰えないかな」

 興味がない訳ではなかった。真弓さんの実家の千羽も、表の顔は剣道場だと聞いていた。
技や動きにも通じる物がある様で。健吾さんも剣道の有段者なので、ある程度は教わった
けど。他の流派や同年代の剣士にも興味は…。

「俺も羽藤が入ってくれると嬉しい。羽様地方で剣道やっているのは俺1人だし。同じ道
を歩む仲間って、青春な感じで良いだろう」

 先輩の語調は次第に熱を帯び。商店街や住宅街を、他の通学者の視線の中を一緒に歩み。

「一度見に来てくれよ。特訓や頑張りの成果を互いにぶつけ合う姿は、結構良いもんだ」

 先輩の声が熱を増したのは、わたしが心揺らされた為かも知れない。わたしも真弓さん
相手に全身全霊、力や技をぶつけているから。そうして己の限界が伸びゆく様を感じる事
は、素直に嬉しい。その喜びや実感を同年代の人と共有するのも、悪くないと思ってしま
った。

 真弓さんもサクヤさんもわたしより遙かに強く。既に完成されていて。師匠ではあるけ
ど友でもライバルでもない。共に伸びゆく感じは持てない。競い合う感じは抱けなかった。

 それはわたしに望めないと分っているのに。
 乗り気な感触が先輩に誤解を与えてしまい。

「剣道部は竹刀防具で出費が嵩むから、家族に相談も必要だろうけど。考えてみてくれ」

 熱心で誠意のある声音に、断るべき事情を持ちながら、わたしはそれを言い出せないで。
誘いを確かに断れない侭高校の校門を潜った。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしが高校に着いたのは、朝のホームルームが始る拾分程前で、みんなの登校時間だ。
なので杉浦先輩と歩む様も人目に映り。高校でもわたしは何かと衆目を集めてしまう様で。

「羽藤さん、おはー」「お早う、志保さん」
「羽藤さんおはよう」「お早う、胡桃さん」

 経観塚高校は参拾数名の学級が学年に6つ。銀座通中と同規模の経観塚の3つの中学校
で、都市部へと進学した4分の1強の生徒を除き、近隣町村からそれとほぼ同数のバス・
汽車通学者を受け容れ、田舎にしては大規模校かも。

 羽様小出身者は同級生では、真沙美さんも沢尻君も華子さんも都市部へ出た為に、B組
の和泉さんだけに。一級上でも羽様小卒業時は男女6いたのに、今は杉浦先輩の他に男の
子が1人だ。先輩が同郷のわたしを気遣ってくれる背景も分る。因みにわたしはF組です。

 銀座通中でお友達になれた面々も、利香さんや小野君の様に4分の1が都市部に進学し、
残った面々が6つのクラスに振り分けられた。他の人にとっても話は同じだろうけど、初
対面な人の方が多く、最初はやや緊張しました。

「杉浦先輩と熱く話し込んでいたね。ゆめいさん、剣道部に入るの?」「入らないと思う。
折角誘ってくれた先輩には申し訳ないけど」

 羽様は遠いから、遅く迄残ったり朝練が必要な部活は向かない。杉浦先輩の家は銀座通
や高校にやや近いし、男の子だから良いけど。

 教科書やノートを机に移しつつ、ストレートの黒髪長い志保さんの問にかぶりを振って、

「武道を習っても女の子として、周囲に心配を抱かせる遅い帰宅を、連日は出来ないわ」

「じゃ杉浦先輩の誘い、振っちゃうんだ?」

 ルックスもまあまあ良い、県内有数の剣士かもって有望株なのに。今年の大会の活躍次
第で、高嶺の花になっちゃうかも知れないよ。

「ん……そう言う誘いではないと思うし…」

 周囲には、背が高くショートな黒髪の塙美智代さんや、小柄で黒髪のおかっぱな川中睦
美さんも顔を覗かせ。中学1年の初夏の件を経て、今はD組の野村美子さんと共々仲を繋
げたお友達だ。それにこの春から知り合った、小柄でショートな黒髪の日高胡桃さんもい
る。

「剣道部入ればイケメンの大野先生もいるし。杉浦先輩がダメでも剣道部の紅一点、じゃ
なく弐点として、狙いに行けるかも知れない」

 これは一種のチャンスだと、思うのよね。

「ゆめいさんお料理全般得意だし。朝練や居残り特訓の際に、手作りお弁当やお菓子を作
って餌付けすれば、男心もがっちりと…!」

「海老名さん、視線が虚空を向いているよ」

 志保さんの妄想に美智代さんの声が挟まる。
 続けて睦美さんの少し冷やかな視線と問が、

「大体杉浦先輩は、神原先輩一筋なんでしょう? その話をわたしは海老名さん、あなた
から散々聞かされたよ」「うっ、それは…」

 先回りされて、即答できない志保さんに。

「ゆめいを煽って、又根も葉もない噂話を作ろうとしているの? 本当に懲りない人ね」

「嘘にならないわよ。杉浦先輩が神原先輩に憧れているのは事実だし。ゆめいさんも今日
の話しで心が動けば、噂が真になってくる」

 わたしの感触次第で噂を流そうか流すまいか判断しようとしていたみたい。一応根も葉
もない噂は自重する積りの様です。事実でも、人の恋路を軽々に噂する事に問題は残るけ
ど。

「元・銀座通中3大美少女の2人が、同じ高校の同じ剣道部で愛と恋の一本を奪い合う」

 片や剣道部の一年先輩で中学の頃から追い掛け続けた憧れのお姉さん、少女剣士。もう
片方は小学校時代からの後輩で剣道の素人で、助けてあげたい妹属性。杉浦先輩も悩まし
い。

 志保さんは、小説家向きな人かも知れない。
 そんな事を思っていると、ぼそっと脇から、

「羽藤さん、剣道やったら似合いそう……」

 気弱そうな女の子の小声に、振り向くと、

「柔らかく穏やかで静かだけど、ここ一番って時の羽藤さんは、力強くて凛々しいから」

 まっすぐな黒髪のセミロングな進堂若菜さんは、胡桃さんと同じ経観塚中央中の出身だ。
唯中学時代から、胡桃さんと巧く行ってない様で。わたしに好意を持ってくれても、胡桃
さんが傍にいると、やや近づきづらい様子で。

「防具着けて竹刀を振るう姿はきっと綺麗」

 胡桃さんがショートな黒髪を微かに揺らせ、不快を込めた視線を向ける中で、気弱そう
に、

「神原先輩にもひけは取らないと私は思う」

 でも彼女に返ったのは女子の誰の答より、

「進堂が神原先輩を評価するなよな、進堂の分際で」「お前もう喋るな、場が暗くなる」
「あぁあ、朝から気分悪くなってきたぜ…」

 若菜さんの声に男の子達の罵声が続いて。

『小堀君と谷津君は、若菜さんと同じ経観塚中央中の出身。緑川君と広沢君は汽車通学者。
板倉君は銀座通中の出身で、剣道部員……』

 若菜さんはクラスに巧くとけ込めず。一部の男子に孤立をつけ込まれ、苛めを受けてい
る状態だった。わたしが何度か挟まって止めてとお願いしたけど、一時凌ぎにしかならず。

 そうして何度か庇った経緯の為に、若菜さんはわたしを好いて。今も声を掛けてくれた。
何か言えば罵声が飛ぶ状況に、若菜さんに非好意的な胡桃さんのみならず、志保さん達の
間にも困惑の空気が漂うけど。わたしは敢て、

「有り難う。剣道部に入る積りはないけど」

 そう言って貰えると嬉しいわ、若菜さん。
 男の子達の意図を察して敢て親密な答を。
 小作りな両手を握って胸の前に持ち上げ、

「わたしに神原先輩と競える器量はないけど、若菜さんに好いて貰えると、とても嬉し
い」

 誰かをたいせつに想う心を制約はされない。
 わたしは大事に想う人には親密に接したい。

 それを行動で示すわたしを前に、若菜さんの頬が喜びで血色を戻す。罵声が挟まる怖れ
を承知で声を掛けてくれた彼女の好意に、確かな答を返したい。その想いが届いてくれて。

 唯届いた相手は若菜さんだけではなくて。
 わたしの答を不満不快に感じる人もおり。

「杉浦先輩を振って進堂かよ」「女の手を握ったり抱き合ったり頬合わせて」「羽藤お前
やっぱり女の癖に、女の方が好きなのか?」

 男の子の苛立ちは直接わたしにも向いて。
 竦み上がる若菜さんの怯えが肌身に分る。

「まさか羽藤も進堂の様な根暗人間を、好みはしないよなぁ」「誤解させると可哀相だし。
はっきり言ってやれよ」「じゃないと羽藤が女好きの変態だと、噂流れるかも」「折角の
優等生イメージがボロボロになっちまうぜ」

 衆目を意識した問には衆目を意識した答を。
 わたしは若菜さんの握った両手を離さずに、

「わたしは、若菜さんを好きよ」

 彼らではなく、若菜さんの瞳を見つめて。
 でも声はクラスに今いる全員に届く様に。

「進堂若菜は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 逃げず否定せず、己の真の想いを述べる。

「志保さんや胡桃さんを、美智代さんや睦美さんを好きなのと同じ。縁あって同じ学校に
通い同じ時を共に過ごすお友達。こうして間近に触れてお話しして心通わせられる事は」

 わたしが嬉しいの。身に余る程の幸せよ。
 瞬く瞳も染まる頬も震える唇も厭わない。

 女の子はみんな柔らかく可愛く好ましい。
 繋いだ感触も滑らかな肌も嫌う筈がない。

 どうして彼らはこんなに可愛い子を、好いて喜ばせようとしないのだろう。つまはじき
にして泣かせて、困らせようとするのだろう。

 明言に、男の子達から即答は返って来ない。
 唖然として、言葉を紡げない様子は感じた。
 わたしの想いはある程度届いたと思います。

「ゆめいさんらしい、本当に甘々な答だね」

 志保さんの溜息混じりの声に、美智代さんや睦美さん達の、周囲の緊張が抜け。胡桃さ
んも若菜さんも未だ目が丸く。お付き合いの短い人に、この答は少し刺激が強すぎたかな。

 男の子達の確かな反応を貰えるよりも早く。
 担任の男性教諭が来てホームルームが始る。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 昼休みに若菜さんが、南棟の音楽室前の階段で板倉君達に囲まれたのは。彼女が胡桃さ
んとのニアミスを嫌い、やや離れたトイレ迄足を伸ばした為だけど。小堀君達もその傾向
は知っていて。人気の少ない処で前後を塞ぎ。

 事前に察知できなかったのは、男の子達の動きも気持も気紛れな為か。準備していた訳
ではなく、若菜さんの動きを見て、その場でやろうと決めて追い掛けた。だからわたしも。

「お願い、女の子に酷い事はしないでっ…」

 わたしが挟まったのは、若菜さんが床に付き転ばされ、身動きを取れなくされた直後で。

 男の子の包囲をすり抜けて、尻餅をついた若菜さんに屈み込み、手に手を取って力づけ。
若菜さんは心が怯えに固まっている。肌身に暖かみを伝えて、硬さを解きほぐさなければ。

「若菜さん、大丈夫?」「羽藤さんっ…!」

 この身に背中に両の腕が巻き付いて縋る。

 女の子の危難を助けるのが女の子では力不足だけど。若菜さんも、この細身に身を委ね
て安心しきるのが難しいとは承知だけど。今は肌身に叶う限りの安心を与え、動悸を鎮め。

 当惑はむしろ周囲の男の子達の方が強く。

「羽藤、お前っ……」「なんでこんな処迄」

 人目に付かない処で、かなりの乱暴も出来ると思っていた男の子5人は、この介入に動
揺を隠せず。次に苛立ちを抑え得ず。ここでも彼らを妨げに入った事が、勘に障った様で。

「邪魔するなよ、生意気だぞ。女のくせに」
「優等生顔で弱い者苛めはいけませんか?」
「女が女を抱いて守って王子様気取りかよ」

 包囲の輪が狭まる。外からの乱入に一瞬動揺したけど。続く人もいないので、わたしと
若菜さんだけならこの侭やれると思った様で。半身は抱き起こしたけど、走って逃げ出せ
る体勢ではない。座して縋り付かれた姿勢では、その気になれば一緒に蹴り倒されて防げ
ない。

 絡める繊手に強い抱擁で応えつつ、男の子達の動きの牽制に正視を返す。人は正面から
意思のこもる瞳を返されて尚害を為すのには、躊躇いを抱く。誰かが来る迄時間を稼げれ
ば。

 人数と男女の優劣を前にして尚、わたしに退く気配がないと見て、彼らも動きづらくな
った。谷津君の促しは、わたしを退かすと言うより、わたしに迷いを生じさせようとして。

「羽藤も痛い思いをしたくないだろう。今進堂を放り出せば、羽藤は見逃してやるから」

 進堂の所為で酷い思いしても良いのかよ。

 その声に縋り付く若菜さんの心がきゅっと硬くなる。見捨てられる事への怯えが伝わり、
その抱き付きが一層緊密に。でも彼らが真に目を丸くしたのは、恋人同士が愛し合うかの
様な抱擁を、わたしが拒まなかった事の方に。

 今の若菜さんの求めは不安を鎮めたくて。
 女の子同士の愛を求めての抱擁ではない。

 わたしはその不安を強く抱き返して鎮め。
 頬に頬合わせ、胸を潰し合う程肌合わせ。

 肌の奥迄わたしの想いを浸透させてから。
 一度その抱擁を解いて、1人すっと立つ。

 若菜さんが見捨てられたかと瞳を見開く。
 でもわたしの意図は彼らの期待に外れて。

「進堂若菜は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 立って彼らと同じ高さから正視を返して。
 この足はこの身はここを離れないと示し。

「たいせつな人が不安や怯えに竦んでいる時に、わたしが見て見ぬふりする選択はないわ。
大事なお友達の問題はわたしの問題。女の子の事だからこそ、女の子として退けない…」

 お願い。これ以上若菜さんに手出ししないで。若菜さんはあなた達に何も酷い事をして
ないでしょう。どうして困らせ泣かせるの?

 男の子達の動きと表情が固まって止まった。

 苛められっ子は心に余裕がないので、苛めっ子に正面から問を発せない。故に多くの苛
めっ子は問われる事に馴れて無く。正面から『なぜ』『悪いよ』『酷いよ』と問われると、
結構怯む。その場のノリや惰性でやっているだけで、覚悟して為している訳ではないので。

 苛めっ子は特別邪悪な心の持ち主ではない。感覚が麻痺し、やっても良い状況に見えて
魔が差しただけだ。良心を取り戻させれば彼ら自身の意思で収められる。収拾できる。未
だ若菜さんは本当に酷い目には遭わされてない。

 若菜さんの傷が浅い内に、彼らの犯す過ちが小さい内に、綻びを縫い止める。苛めに向
う心の流れを、苛めを促すその場のノリや惰性を、突き崩す答や問を彼らの心に響かせる。

「これは若菜さんの問題じゃない。わたしやあなた達の問題なの。お互いに縁があって同
じ高校に通うクラスメート、大事なお友達よ。そのあなた達が、咎もない女の子を苛める
人であって欲しくない。抗う術のない弱者を虐げて、鬱憤を晴らす人であって欲しくな
い」

 その腕に籠もる力を、女の子を泣かせ弱者を痛める為に使うのは止めて。あなた達は元
々そんな人じゃない。心を澄ませて今迄とこれからを見つめ直して。自身を見つめ返して。

 小堀守は、谷津英彦は、緑川恭二は、広沢良樹は、板倉司は、みんなわたしの大切な人。

「若菜さんに手出ししないと約束して。仲直りして。そうしてくれれば、先生にこの事を
告げる時も、仲直りした事迄ありの侭を伝えるわ。余り強く叱らないでとお願い出来る」

 彼女の腕を解いて、立って向き合ったのは、逃げ出す為でも反撃の為でもない。己に及
ぶ危害が若菜さんに及ばない様に。この身に拳や蹴りが来ても、衝撃が彼女に届かない様
に。

 若菜さんに直接危害が及ばない限り、わたしは実力行使しない積り。剣道部の板倉君も
含め彼らは基本的に素人で、撃退可能だけど。力で退けても心は繋げない。若菜さんがわ
たしと一緒ではない時を狙われるだけになる…。

 心を繋ぎたい。彼らに納得して矛を収めて欲しい。彼らの意思で思い止まって貰いたい。

 でもわたしの問は多少時間稼ぎ出来たに止まり。彼らは女の子の説諭で矛を収める事を、
男の子同士の視線の中で、格好悪く感じて和解を了承できず。苛立ちをわたしに向け直し。
男の子の間では威勢の良い方が格好良く映る。

「うるせぇ! 綺麗な建前を喋りやがって」
「その優等生面を引き剥がされたいんだな」
「女が出しゃばった事を、後悔させてやる」

 座りこんだ若菜さんを、わたしは見捨てられない。正面から緑川君の右腕が左肩に。突
き飛ばそうと言う掌打に近い動きだけど、受けて踏み止まる。反撃はしないけど、若菜さ
んの安全が不確かな中では、簡単に退けない。

 修練を経たわたしは、押された位で容易に動かされはしない。腰を僅かに落して受けて。
身の軽いわたしは、実戦では止まる事は拙く、動き回って相手を翻弄するのが定石だけど
…。

「こいつ……このっ」「手向かいするのか」

 予想に反し、動かせぬわたしに彼らの憤りは集中し。腕力で意の侭にならない女の子は、
彼らの勘に障ったかも。広沢君の腕が左から左肩に伸びて来て、わたしを引き剥がそうと。

 でもわたしは尚引きずられないので、セーラー服の上着だけが引っ張られ、左の肩口か
ら胸元がはだけ。反撃しないけど従いもせず、掴んだその手に両の手を添えて、肌をこれ
以上晒さない様に。小堀君の腕が右から右腕と右肩を掴み、正面から緑川君の腕が再度迫
る。彼らは意地になって、わたしを退かせようと。

 この間に若菜さんに逃げて貰いたいけど。
 彼女は魅せられた様に事を眺めて動かず。

「お願い。力づくは止めて。お互い高校生でしょう。お話しすれば分る。冷静になって」

 でも彼らはわたしの抗いに頭に血が上って。
 言葉は聞き入れられず力でねじ伏せに掛り。

「この、女の癖にっ」「退けったら退けよ」

 男の子3人掛りで容易に動かせないのは修練の成果です。後ろからもう2人の両腕が伸
びて来て、この身は彼らに囚われて。体重に劣るわたしが、抗って踏み止まるのは限界か。
この辺は、女の子が男の子に及ばない処です。

 好ましくないけど、実力行使するべきか。

『反撃迄せずとも、腕を外して足払い位は』

 傍目には男の子5人に掴み掛かられ、セーラー服を剥がされかけて素肌も晒され、結構
酷く見えるけど。意外とわたしは心平静です。瞬間的に力を入れればいつでも腕は外せる
し。今のわたしは彼らを痛めない様に退ける事も。己の羞恥はたいせつな人の安否の次に
考える。若菜さんや男の子達にケガさせぬ事が優先だ。

 身体に力を入れようとした、瞬間だった。
 人気の多くない校舎の隅の、この一角に。

「あんた達、そこで何やっているのさ…?」

 良く透る女声の主は、朝から何度か話しに名前の挙がっていた少女剣士だ。2級年上で
やや癖のある赤毛の艶やかに伸びた、見事な肢体の持ち主。良く整った大人っぽい容貌は。

「神原先輩……」「あぁ柚明かい、おひさ」

 経観塚高校唯1人の剣道部女子にして県内屈指の剣士、神原美咋(みさ)先輩が現れた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 神原先輩とは面識がある。歳が2つ違うので、同じ学校に通うのは中学1年以来だけど。
きっかけは、わたしが銀座通中始って以来の才媛と前評判の高かった真沙美さんを凌ぐ成
績を得て、周囲に波紋を呼んだ3年前の初夏。わたしと真沙美さんと神原先輩を『銀座通
中3大美少女』と並べて語る人がいた模様で…。

 人は3という数を好く様だ。でもわたしは『3』にする為の数字合わせ要員だと思って
いた。人柄や気品や容姿や信望、どれをとってもわたしが、この2人に伍するとは思えず。

 2人とも髪が長くて艶やかで、背も高く胸も大きく。きりっとしていて強く賢く美しい。
男女問わず、憧れる事に納得できる人だった。それに較べれば、わたしはかなりの格落ち
だ。

 特に神原先輩は、銀座通中剣道部で唯一の女子なのに男子の誰もが敵わない程強く。曲
がった事を好まず弱い者苛めを嫌い。表裏無く人に接する。多くの男子女子の憧れだった。

「私が、数字合わせ要員だと思っていたよ」

 なのでその唇からそう語られた時は、わたしが驚いた。おべっかを口にする人ではない
ので、その語調は率直に本心だとは思うけど。

 部活の終りがほぼ同時刻で、途中迄帰りを一緒した時にお話しした。先輩の耳にも三大
美女の噂は既に届いていて。一度話してみたかったと言われ、恥じらいに耳迄赤くなった。
先輩はわたしを実態以上に高く評価していて。真沙美さんへの高い評価には異論も無いけ
ど。

「田舎で武道やる女の子は、多くないからね。男勝りで万人に好かれるタイプじゃない事
は、心得ているさ。あんたの様に柔らかく穏やかな方が憧れ好くには丁度良い。しかも唯
綺麗に柔弱なだけじゃない。あんた芯は強いよ」

 初夏に何があったかは知らないけど、その後も普通に学校通えて。対立した女の子達と
和解した上、塩原達とも祭りを一緒に歩いて。

「苛めを力と意思で跳ね返した経験はあるけれど、あんたの様な収拾は見た事がない…」

「買い被りです。偶々みんな良い人で、巧くその良い面と心を繋ぐ事が出来ただけです」

 先輩には、わたしの性的暴行の噂も届いている筈だ。それを否定する噂と共に。最後は
見て聞いた事実で判断する。そう言う意思を込めた視線で、先輩はわたしをじっと見据え、

「ふぅーん、そう言う事にしておこうかね」

 綺麗な瞳が悪戯っぽくニッと笑っていた。

「あ、それと。柚明あんた、歩き方が整って綺麗で良いね。鴨川(真沙美)もそうだけど、
あんたの方は育ちに加えて、隙がない。剣道じゃなくても、空手か合気道やっている?」

「いえ、あいにく空手も合気道も柔道も…」

 真弓さんとの修練はそのどれでもないから、嘘ではない。若干の後ろめたさは感じるけ
ど。

 それにも先輩は、綺麗な瞳を悪戯っぽく。

「ふぅーん、そう言う事にしておこうかね」

 中学2年生の夏のお祭りの時。早苗さんと歌織さんと、水ヨーヨーを手にそぞろ歩きし
ていた日暮れ直後に。女性の悲鳴や荒々しい男声が聞えて。人垣が出来て通りが詰まって。
感応も不要に、羽目を外した酔っ払いが、女の人を無理に引っ張ろうとしていると分った。

 誰かがお祭りの実行委員会本部へ、警備員や警察を呼びに行った様だけど、未だ来てい
ない。近づくにつれ状況が詳細に見えてきて。歌織さんと早苗さんと3人揃って驚いたの
は。

 二十歳過ぎの女性を背に庇い、竹刀を構えて酔っ払いに対峙していたのは、神原先輩で。
男の子も大人の男性も周囲にいたけど、座り込んだ若い女性を守って立ちはだかったのは、
当時高校1年生の彼女だった。酔った中年男性の右手の甲が腫れているのは、警告を無視
して無理強いに出て、その一撃を受けた為だ。

 神原先輩は赤く長い艶々の髪と、高校のセーラー服をやや強い風に靡かせて。他の荷物
は下に置き、右手で竹刀を男性に突きつけて。真剣勝負に引き締まった容色は冴えて美し
く。

 酔って汗だくで、汚れた男性とは対照的で。
 歌織さんも早苗さんもわたしも魅せられた。

 本当に、威風堂々に、凛々しく清く強い人。
 その口から発される声は良く透って平静で、

「もう止めて下さい。すぐ警察が来ますよ」

 先輩も流石に男性を叩きのめす積りはなく。
 お巡りさんが来る迄の時間稼ぎの様だけど。

 ルールの通じない酔っ払い相手でも退かず。
 剣道を習っていても無謀に近い勇気だった。

 周囲の男性は、男の子は何も言わないの?
 神原先輩を、女の子を助けに動かないの?

 そうしようとした1人が、隅で頬を抑え座り込んでいた。三十歳前の細身の男性は力及
ばなかった様で。もう1人が今お巡りさんを呼びに走り。他の人はそこで警察待ちに転じ。

『わたしなら、この酔った人は抑えられる』

 体格が良く腕も太いけど、動きを見ても特に武道を嗜む様子もなく、その上酔っている。
血の力を使わなくても、ケガさせずに鎮められたけど。人垣をかき分けないと近づけない。

 と思っていると、男性が先輩に再度掴み掛ろうとして、躱されて逆に強い一撃を受けて。
鮮やかな先輩の動きと、男性が転ばされた結果に、周囲の安堵と好意の声が交差するけど。

「いけない……」「柚明?」「柚明さん?」

 歌織さん早苗さんの問に答は不要だった。

 頭に血が上った男性は、ポケットからナイフを取り出したのだ。でも、逆上のさ中だけ
に刃物は危険すぎた。間違えば大ケガにもなるし、女の子の肌に傷でも残れば後々に響く。

「てめぇ、思い知らせてやる」「危ない!」

 酔った男性にも、神原先輩の緊迫が伝わったのだろう。怯んだと思ったのかも知れない。
優位と勝利を確信し、足踏み出したその時に。

 ぺしゃっ。それは男性の顔面の至近で。
 防ごうとした彼の左手に当たって破れ。

 放物線を描いて飛来した水ヨーヨーに、男性は思わず防ごうと両手を翳し。翳した故に
その左手に当たって割れた水ヨーヨーの水を被り。彼の集中は一瞬全て失われ隙だらけに。

「今だっ!」「なぬっ?」

 その一瞬で充分だった。神原先輩は彼の右手に竹刀を叩き付け、握ったナイフを取り落
とさせ。額に面を叩き付け、彼の戦意も意識も失わせ。周囲から賞賛の声と拍手が響く中、
お巡りさんが漸く駆けつけて事は収拾されて。

 先輩も事情聴取を受けに実行委員会本部へ。
 わたし達は漸く動き出す人の流れに乗って。
 それぞれ別方向へ声も視線も交わさぬ侭に。

「柚明さん……」「柚明、水ヨーヨーは?」

 早苗さんと歌織さんの問に苦笑いしつつ、

「人混みの中で落したみたい。可愛い絵柄を気に入っていたんだけど。……買い直すわ」

 実は驚きはその少し後に。今宵もここ迄と家の近い2人と別れて、最終バスに乗る為に、
街灯の照す夜道を1人歩むわたしの後ろから。走り寄ってきたその影は、わたしを呼び止
め、

「事情聴取が長引いてさ。祭りも終っちまったね。捉まえられて良かった」「神原先輩」

 先輩は銀座通小出身で、バスで帰る必要はない。先輩の家は反対方向だ。彼女が走って
ここに来た訳は、もう一つしか思いつかない。夜店も閉まり人影も減った、夜更けの通り
で。

「あんたに渡したい物があってさ」「…?」

 背後に隠した右手に何か持っている。全力疾走で来たのか、汗ばんだ肌に色気を感じた。

「あんた、あの場にいたよね」「……はい」

 何の事ですか、等というとぼけは通じない。
 通じさせないと怖い程の真顔が語っている。

「私の立ち回り、見ていたね」「……はい」

 そこで先輩は目の前に水ヨーヨーを出して。
 あの時男性の顔に弾けた物と同じ色柄のを。

「声が聞えたんだ。何度か聞き慣れた声が」

 危ない! ってね。そしておあつらえ向きに水ヨーヨーが、酔っ払いの顔面に飛来した。

「これがないと、私も結構危なかったかも」

 流石に刃物相手に立ち合った経験はないし。
 そう言う訳で、これ受け取って貰えるかな。

『先輩は、わたしの行いをお見通しです…』

 この人にはこれ以上隠し通せない。それ以上に彼女の感謝と好意は素直に受け止めたい。
わたしは先輩を助けたく思ったし、助けた事に悔いはないし、感謝や好意は素直に嬉しい。
護身の技の公開に消極なのはわたしの好みだ。女の子が闘いに強いと知られても嬉しくは
ないけど、知られても致命的に拙い訳ではない。

 緊迫の立ち合いや事情聴取や叱責の後で尚。
 わたしに想いを返そうと、買い求めたのか。

「本当は問い質したくて堪らないんだけど」

 受け取ると、ニッと悪戯っぽい笑みを浮べ。
 あんたどうも意図して猫被っている様だし。

「そこは人の事情だから。でも、あんたの柔らかな強さの背景が、分った気がするよ…」

 経観塚高校に進学してきたなら、剣道部入ってみないかい? 手芸部のあんたも様にな
っているけど、あんたは武道も似合いそうだ。

「……あの、神原先輩……、わたしは……」
「答は来々春で良いよ。それ迄考えといて」

 結局その促しに添えなかったわたしだけど。この春に積極的な誘いがなかったのは、わ
たしの事情を『察して』くれて、なのだろうか。

 今目の前に、男の子女の子多くの憧れであるその人が現れて。局面を一挙に塗り替えた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あんた達、女の子1人によってたかって」
「やべ……」「まず……」「神原先輩だ…」

 広沢君達も神原先輩の武名と、それ以上に弱い者苛めや理不尽を好まないまっすぐな気
性は承知なので。わたしを5人掛りで取り抑えていた状況を見られた瞬間、拙いと悟って。

「い、行くぞ」「わ、分った」「お、ぉう」

 わたしを捨てて逃げ走る。場には制服の肩口が少しはだけたわたしと、背後に座り込ん
だ侭の若菜さんと、神原先輩の3人が残され。あっさりとした、でも中途半端な終局だっ
た。

 助けて貰えたお礼を述べようと向き直ると。
 先輩は手が触れる程間近迄歩み寄っていて。

「柚明ならあの程度の連中、簡単に退けられるだろうに。何で抵抗もせずこんな目に…」

 わたしが言葉を挟む暇もなく、細い両手がこの身に伸びて軽く触れ。肌の見え過ぎる制
服の左肩を整えてくれて。破られてはいないので、少し皺が寄るけど一応これで、大丈夫。

 柔らかな指はわたしの肩から上腕部に降り、ウエストに触れて腰に至る。軽く埃を払い
つつわたしのケガの有無を確かめ。軽い触感で、わたしが竦んでいれば脱力させてくれよ
うと。

「ケガもないし強ばってもいない。一見酷い目に遭わされていた様だけど。あんたやっぱ
りわざと反撃してなかったんだ。何て甘い」

 先輩は最初はわたしの無事に喜び、次のわたしの対処に呆れ、最後にわたしを睨みつけ。

 若菜さんは、暫く局外に放置されている。

「正論やお願いで、いつでも苛めっ子や悪党と仲良くなれると思っているのかい。この世
には、善意や情けの通じない奴もいるんだよ。今は私が挟まったから良かったけど、あん
たがこの侭無抵抗でやられたら、背後の彼女迄酷い目に遭わされる処だったんだろうに
…」

 あんたは力不足じゃなく、故意に禍を防がなかった事になる。あんたの所為になるんだ。
勝てない敵でも猛然と反撃して怯ませなきゃ。

「話しが通じる相手かどうかの見切りも大事だろうに。あんたは武道に向かないね……」

 先輩は座り込んだ侭の若菜さんに一度視線を向けてから、その無事を見て取って、敢て
屈み込まず。若菜さんはわたしの管轄だと…。

「反撃できる時に反撃しないと、一度やられては取り返しの効かない場合もあるんだよ」

 それは心底わたしを心配する故の諫言で。
 本当に強く清く大胆に、美しく優しい人。
 わたしも憧れる心のまっすぐな少女剣士。

 神原先輩はわたしが素直に頷く様を見て、

「2人とも無事で良かった。そして済まなかった。あの中の1人はウチの部の板倉だろう。
剣道部員が女の子を多数で襲うなんて。本来そんな卑劣は止めるべきで、守る側であるべ
き剣士が。申し訳ない。そっちの、彼女も」

 先輩は、本当はこれを一番言いたかった。

 無事で良かった、ごめんなさいと。でも後半は神原先輩が謝るべき事ではない。むしろ
わたしが先輩にお礼述べたいのだけど、言葉のタイミングが取れなくて。とりあえず今は、

「同じクラスの進堂若菜さんです」
「進堂若菜です。初めまして……」

「初めまして。板倉はきっちり2人に謝りに行かせるよ。約束する。それから進堂さんも
柚明もこの事は、包み隠さず先生に話して」

 こういう事は隠すといけない。告げ口と言われようと何と言われようと、隠さず人目に
晒すこと。人目に晒されて拙い事をしていたのかと、苛めっ子達に問い返してやれば良い。

「柚明が同じクラスにいるから、余り酷い事にはならないと思うけど。やれる事は何でも
やれる間にやっておくのが良い。……取り返しの付かなくなってしまうより前に、ね…」

 瞬間ふと先輩の瞳に影が差した様な気が、
 そこで昼休み終了5分前の予鈴が鳴って。

「おっと拙い。私は次の授業の準備で音楽室に用事があって来たんだった。進堂さんに柚
明、悪いけど、そう言う事で後は宜しく…」

 その後わたしは若菜さんの無事を確かめると言うより、怯え竦んだ心をほぐす為に寄り
添って。結局5時限目の授業を潰してしまい。神原先輩にお礼を述べる事も、出来なかっ
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 放課後、谷津君達は下校する若菜さんに追い縋ったりはしなかった様で。掃除当番も部
活もないのなら、今日は早い帰宅がお勧めだ。

 わたしが掃除当番後、部活もないのに校内に残ったのは、神原先輩にお礼も述べたくて。
剣道部の見学も杉浦先輩に勧められていたし、他にも少し。体育館裏の格技場で活発に動
き回る多くの気配を感じた。今は神原先輩を感じないけど、練習熱心な彼女は必ず来る筈
だ。

 唯、体育館裏は人気が少ない。格技場が使われてない時や、みんなが中で使用中の時は、
付近に人の目もなくて。わたしが男子4人に追い縋られたのも、そんな死角での事だった。
彼らの動向も感じたけど、逃げる積りはない。自らお話しに出向こうと思っていた位なの
で。

 小堀君達の威圧に促され、学校敷地と外を隔てる、高さ弐メートル半のコンクリート壁
を背に追い込まれる。前方に体育館は見えても窓はなく、右手奥の格技場も又同じ。声を
出しても中々届かないだろう。守り庇う人を持たぬ今は、わたしも彼らの招きに逆らわず。
これで彼らもわたしも心ゆく迄お話しできる。

「未だ先生に、俺達の事言ってない様だな」

 広沢君の確認に、わたしは素直に頷いた。

 若菜さんが仕返しを怖れて渋るので。今迄の経緯も一度先生に告げたけど、以降は言っ
てない。子供の世界では告げ口や先生に頼る事、苛められたと認める事は、恥である様で。

 先生が四六時中護ってくれる訳でも目を光らせてくれる訳でもない。先生に彼らを一度
や二度叱って貰えても、それ以外の殆どの時間で仕返しされるのでは、採算が合わないと。

 わたしはそれに賛同はしてないけど、別に思う処があったので。今日の事も先生に話し
てない。彼らはわたしのそんな応対を、怖くて告げ口できないと見たのか。怖れ故に先生
に言えぬなら、一層怖れる様に黙らせようと。

「お前も進堂の様にされたくなかったら…」

 小堀君が、壁を背にしたわたしの左頬間近に腕を突き出して威嚇する。殴る様に見せか
けて壁に手を付いて。それで怯えを招こうと。

「今の問題は進堂じゃない、羽藤なんだよ」
「女の癖に女を庇って、俺達の邪魔したり」
「余り生意気言っていると、お前も犯るぞ」

 彼らは人目も届かない閉鎖された場所での優位を確信し。有無を言わさず従えと。脅し
が利かないなら痛めつけると。女の子1人に有効な反撃は出来まいと。逃げ道も塞いだと。

「抱きつける奴はいないぜ。さあどうする」
「俺達にでも抱きついてみるか、女好きが」
「男女構わず抱きつけたら本物の変態だな」
「ちゅっぱちゅっぱ抱いてやるぜ、存分に」

 緑川君が嘲りを意図して一歩前に出た瞬間、わたしも一歩前に出て、彼の身体を抱き包
み。驚きに固まる彼の左頬に左頬を確かに合わせ。

「緑川恭二はわたしの大事なクラスメート」

 わたしは男の子を嫌っている訳ではない。
 女の子が柔らかく滑らかで心地良い様に。
 男の子は硬く強く逞しく頼りがいがある。
 わたしの感覚は人と少しずれているかな。

 そう思いつつ、心身固まって答を返せない緑川君の背に腕を回し、彼の胸板を感じつつ。
肌身に感じる男の子の欲求は視ない。それは年頃の誰もが抱く衝動だ。行動に移す積りの
ない想いに振り回されず、平常心を強く保ち。

「大事な人なら、いつでもこの位の事は出来るよ。わたしは女の子だから、男の子を守り
庇うのは中々難しいけど。困った時にわたしで役に立てる事があったら相談して。いつで
も気軽に頼って貰える仲になれたら嬉しい」

「羽藤……お、お前、一体、何を言って?」

 裏返る声音も高まる動悸も悪意じゃない。
 視えて感じた物だけが真実とは限らない。

「緑川君だけじゃないよ。小堀君も谷津君も広沢君も、ここにいないけど板倉君もみんな。
若菜さんと同じく羽藤柚明のたいせつな人」

 興奮と混乱を鎮めたい想いを込めて、背に回した両の腕にやや力を入れて、総身でぎゅ
っと抱き締めて。すり、と頬を擦り合わせて。

「先生に今日の事を話してないのは、みんなと仲直りして、その事も纏めてお話ししたか
ったから。誤解や仲違いはあったけど、無事仲直り出来ましたと、報告したかったから」

 そうすればあなた達も強くは叱られない。

 若菜さんを傷つけかけた事は、事実だから先生に言うけど。思い止まってくれた事や仲
直り出来た事も、事実は伝える。先生の指導や叱責を待たず、お互いの意思で和解したい。

 傷を浅く留めたからこそ仲直りもできる。

「あなた達は元々弱い者苛め好む人じゃない。女の子を傷つける人じゃない。過ちは誰に
も起こり得るけど、互いの気持を通じ合わせる事で、それは酷くなる前に回避できたか
ら」

 わたしが若菜さんを守り庇ったんじゃない。
 あなた達がその意思で踏み止まってくれた。
 わたしはきっかけ。そこに居合わせただけ。
 あなた達は強く賢く優しい立派な男の子…。

 抱擁を外し、右にいた小堀君の両手を握り。

「一緒に板倉君の処に行きましょう。神原先輩から話しが通って、板倉君は今頃きっと職
員室で、今日の事を先生方に叱られている」

 男の子が4人で現れた時に、それは視えた。
 神原先輩が放課後すぐ格技場に来ないのも。

「話しは必ずみんなに及ぶ。その前に自ら明かす方が良い。わたしも一緒に行くわ。仲直
り出来た末迄、事の経緯を丁寧に説明する」

 板倉君を1人叱られた侭にしておけないよ。
 仲直りしましたって一緒にお話しに行けば。
 彼もあなた達も受ける叱責を軽く出来るわ。
 この侭じゃみんな唯叱られるだけ。お願い。

「羽藤は一体、誰の為に誰に何を頼んで?」

 谷津君の突っ込みにわたしは迷わず即答を。

「谷津英彦は、小堀守は、緑川恭二は、広沢良樹は、板倉司はみんなわたしの大切な人」

 いつも健やかに笑っていて欲しいお友達。
 男の子達が、気圧されて見えたその時に。

「そこで何をしている? 女の子1人に…」

 暫く前から物陰で様子見をしていた気配。
 剣道部顧問の大野先生が声と共に現れた。


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 直接話した事ない大野先生だけど、噂では。爽やかな風貌にその語調も涼やかで、指導
も懇切丁寧で。女子にやや甘い様だけど。生徒に慕われる、若く指導熱心な剣道の達人と
か。

 唯この時は、広沢君達はわたしを力づくで従わせようと、人目を憚っていた。和解でき
た後ならともかく、未だ流動的なので。彼らは先生を見た瞬間、後ろめたさに逃げ走った。

「まずぃっ!」「やばいよ!」「逃げよう」

 もう少し様子見を続けてくれれば、仲直りできたのに。男の子との仲直りは明日以降に。

 和解の機会は今が最後ではない。同じ学校に通う以上機会は連日巡り来る。逃した魚は
大きい気がするけど、気持を失わない限り何度でも挑む事は出来る。わたしの想いはある
程度届いた様なので。それよりも今は目前の。

 人目の届かない空間は2人きりになった。

「羽藤君だったね……大丈夫だったかい?」

 先生はわたしがもう少し危うくなるのを見て待って、助けに入ろうとしたみたい。でも、
流れが男子多数の女子苛めという定番に行かないので、タイミングを見極め損なった様で。

「お気遣い頂いて、有り難うございます…」

 間近に歩み来た大野先生にお辞儀を返す。

 お話しするのは初めてだ。背丈は壱メートル八拾五センチ。肩幅があって筋肉質だけど、
背が高いのでやせ気味に見える。切り揃えた柔らかな黒髪は正樹さんに似た印象で。強さ
や厳しさを表に出さないけど、相当の達人だ。歩き方が違った。何気ない仕草にも隙がな
い。その辺は武道に縁のない正樹さんと少し違う。

「男の子達に、囲まれていた様だったけど」
「お互いお話しに、夢中になっていました」

 にこやかな美形の瞳が一瞬すっと細くなる。
 わたしの答の真偽を見定めたい感触だった。

 被害者は苛めを恥じて隠す傾向もあると…。

 わたしは教諭の双眸に静かな正視を返して。
 自身の言葉に嘘はないと姿勢で示して答に。

「それなら良いが。問題があれば、教科も担任も持ってないけど、遠慮無く相談してくれ。
担任には俺が話しを通す。板倉の件の様に」

 板倉君は大野先生と神原先輩の事情聴取を受け、担任の奥寺先生に話しが移された様で。

 正面から彼の右腕がこの左肩に軽く伸び。
 わたしの無事を確かめたいと言うよりも。
 わたしの肌に体に触れてみたい様な感じ。

 直に触れば男性の秘めた欲求も視えるけど。全部見通しはしない。耳を塞いで心を閉ざ
す。それは常の男性なら、女性に感じる物だから。知らないふりを装える位には大人です。
行動に移す積りのない想いに振り回されはしない。

 わたしが肌身合わせて親愛を交わす様に。
 先生もわたしに親愛を伝えたく望むなら。
 わたしは素直にはいと応えて頷いてから、

「そう言う時が来たら宜しくお願いします」

 そこで杉浦先輩から剣道部見学を勧められた旨を話すと、先生は大いに喜んで。間近な
格技場へ付き添って導いてくれて。神原先輩は職員室を出た後で先生と別れ、教室の荷を
整理してこちらに来る様だ。それを待ちつつ。

「羽藤柚明です。よろしくお願いします…」
「羽藤だよ」「本物の羽藤だ」「すごい…」

 何が凄いか分らないけど、歓迎されました。板倉君と神原先輩を欠くだけで、拾五人い
た部員全員の大多数がわたしに走り寄ってきて。

「俺2年D組の錦織」「俺は、3Bの猿渡」
「こっち、こっち座って」「お茶淹れるよ」

「お気遣いなく。見学に来ただけなので…」

 詰め寄る男の子達の熱気に押されつつも、

「みんなの手を煩わせて、部活の差し障りになっては本末転倒です。隅で見てますから」

「そうは行かないよ」「折角の見学者を…」
「女の子なんて久しぶり」「まあ真ん中へ」

 杉浦先輩は少し離れた処で苦笑い。軽くお辞儀はしたけど、他の男の子が多く傍に来て
こちらから中々近づけない。招かれる侭に壁際真ん中辺りに腰を下ろし。何組か並行して
進む、部員の試合形式で打ち合う様を見学したけど。気合の入り方が普段とも違うみたい。

「たあぁぁ!」「とおぉぉ!」「いやあぁ」

 みんなそれぞれ渾身の一撃を打ちつけ合い。
 大野先生は苦笑いを堪えつつ指導に立って。

「女の子の前で格好良い姿を見せたい気持は、分らないでもないが。武術の本道は、相手
を倒してみせる事や勝つ事が全てじゃないぞ」

 未だ踏み込みが甘いとか、相手の動きを良く見定めろとか、具体的な指示を挟めつつも。

「相手や己自身との鬩ぎ合いの中で、相互の資質を磨き合い、心身を充実させる事こそが、
人を活かす剣なんだ。目先の相手を倒す事のみに囚われた剣など唯の暴力だ。剣は人の心
を表す。濁った心で剣を振るえば、濁った剣に堕ちる。濁った剣では正義には勝てない」

 正しい力は、必ず悪しき暴力に勝るんだ。
 技や力じゃない。正しさこそ強さなんだ。

「良い先生だろう? 美咋先輩に憧れて剣道始めた俺だけど、先輩以外で尊敬できる程強
く格好良い剣士は初めてだ。しかも男性で」

 少し休みに入った杉浦先輩が、右隣に座って荒い息の中、壁に背中を預けつつわたしに、

「俺もあんな風に心も剣も、強くなりたい」

 率直に語る先輩は正直少し格好良かった。

「羽藤も大野先生に習えば、教わる事が多いと思うんだ。剣道部で美咋先輩に敵う者はい
ないけど、努力重ねて俺も拾本に壱本は取れる様になってきた。先生の指導のお陰だよ」

 美咋先輩の卒業迄に、追いついてみせる。
 熱く語る、汗ばんだ横顔が微笑ましくて。

『立ち合って勝って、告白する積りなのね』

 彼の決意の握り拳を、両掌で包み込んで。
 おっ? 少し驚く杉浦先輩の瞳を見つめ、

「わたし、先輩を応援します。頑張って…」

 先輩の恋路も応援します。出来る事は幾らもないけど、励ます位しか考えつけないけど。

 それは言葉にせず、代りに掌を強く繋ぎ。
 先輩も僅かな戸惑いを見せつつ微笑んで、

「おう、頼む。羽藤の応援は結構効くから」

 そこでふと注がれる、複数の視線に気付く。
 部員の多くが頬を染め、動きを止めていた。

 この様が、恋の語らいに近しく見えたのか。

 杉浦先輩と共々に改めてそう気付いた瞬間。
 剣道着姿の神原先輩が1人格技場に現れた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明! あんた、何で。こんな処にっ…」

 神原先輩の、驚きを込めたやや大きな声に。
 わたしは杉浦先輩から手を離して振り返り。

「昼休みのお礼を未だ、言えてなかったので。
 杉浦先輩から剣道部の見学も勧められたし。
 さっきは大野先生にも助けて貰ったので」

 語りつつ間近に軽く駆け寄って頭を下げて、

「助けて頂いて、有り難うございましたっ」

 そうする間も両脇で男の子の声が次々と、

「杉浦が声掛けたら見学に来てくれたんだ」
「巧く行けば入部してくれるかも知れない」
「先生も彼女の重複部活所属に乗り気だし」
「剣道部も華が増えてきっと楽しくなるよ」

 賑やかに響き始めた歓声を一喝したのは、

「私は、柚明に剣道部は、勧めないよっ!」

 あんたには武道は向かないと言った筈だ。
 神原先輩は整った容貌を厳しく引き締め、

「ここは男の巣窟だ。女の来る処じゃない」

 予想外の叱声に周囲の高揚が一瞬で冷める。
 何人かはバンザイの手の下ろし処に迷う位。
 劇的な迄に空気が冷えて冴え渡った頃合に。

「俺は良いと思うよ。美咋先輩」「杉浦…」

 杉浦先輩は背後からこの左肩に掌を乗せ、

「剣道は強くなる為の技じゃない。大会で勝つだけが目的じゃない。心身の鍛練や成長も
大事なら。羽藤は真面目で素直だ。部に融け込んで良い励みになる。美咋先輩がいる以上、
今更女の子の入部に差し障りはないだろう」

 杉浦先輩の問に神原先輩はやや怯みつつ、

「人には事情って物がある。見学に来たって即入部に繋る訳じゃない。過剰な期待は抱か
ない事だね。武道は基本的に男の物なんだ」

 神原先輩の言う事も分る。剣道部も神原先輩以外は、全員男の子だ。そう言う環境に女
の子を招くには、招く側も招かれる側も、相応の心構えや準備が要る。新入男子を招く様
に行かないと。杉浦先輩も答に悩んだその時、

「神原は手厳しいな。確かに武道の経験が全くない女の子が、今から部活掛け持ちで男だ
らけの剣道部に入るのは、きついと思うが」

 大野先生が、空気を和ませに言葉を挟む。

「神原は独りでずっと頑張ってきただろう?
 招く方と招かれる方に気持があれば、決して無理じゃない。問題は羽藤がその気になる
かどうかだ。入部を期待しすぎるとプレッシャーになるから、少し冷ます必要はあるが」

 実態を見て考えて貰う事は、悪くないさ。
 先生は神原先輩も他の部員も宥める様に、

「最後は羽藤の自由意思で決めて貰う。その判断材料を与える為に、剣道部の実情を見て
貰いたい。入部は前提じゃないと言う事で」

「……、……分りました」「「はぁい…」」

 神原先輩の不承不承の頷きの後に、男の子達の少し残念そうな了承が返る。神原先輩は、
わたしに再度睨む様な頼む様な視線を向けて、

「あんたは……剣道部に入っちゃダメだよ」

 なぜかその表情に、優しさと悲哀の影が。
 印象を整理出来ず、問を発する暇もなく。

 大野先生がこちらを瞳を細め凝視する中。
 彼女も含む全員は試合形式の練習に戻り。

「……気にするな、羽藤」「杉浦先輩……」

 肩を叩いて元気づける声を掛けてくれて。

「美咋先輩は剣道に真剣だから。人にも己にも厳しい。生半可な気持で入れば、羽藤が困
ると気遣っている。先生は羽藤に入れ込んでいるけど、俺達も入部して欲しいけど、無理
に誘いはしないから。じっくり考えてくれ」

 部外者を迎えてやや浮き足立っていた剣道部は、神原先輩の一喝で己を取り戻した様で。

「たあぁぁ!」「とおぉぉ!」「いやあぁ」

 試合形式で、何組かが並行して打ち合う。

 高校の剣道部ともなれば、中学校迄に経験を積んだ者もいて、結構鋭い応酬も見られる。

 1年生が上級生に敵わないのは当然として。杉浦先輩が、3年生に競り勝つ様が印象的
で。他の部員も手抜きや手加減はないけど。杉浦先輩の気合は今日だけの物ではなく、中
学生から想い人を、ずっと追いかけ続けての物で。

『剣道部で一番強い男の子は杉浦先輩かな』

 3年生の部長、立山先輩を下した処で、神原先輩に挑戦する瞳を向ける。彼女も3年生
の江川先輩を退けた処だった。決して弱い相手ではないけど、彼女は力業で男の子を圧し。

 他の部員も2人の対決が頂上決戦だと分っていて。日常の部活練習なのにやや緊迫して。
先生も含めみんな手を止めてその様を見守る。神原先輩は高校3年生の女の子にしては立
派な体格だけど、杉浦先輩は更に少し背が高い。

「せぃやっ!」「とぉおぉ!」

 既に双方相当の運動量だけど動きは鈍らず。間合を詰めつつ保ちつつ、主導権を奪い合
い。

 そう言えば剣道も大会等では男子と女子は別々だ。武道に限らず運動系部活は概ねそう。
この様に男女が対決する事はまずあり得ない。神原先輩は田舎の剣道部で女の子独りなの
で、練習相手を求めて男子と共にいるけど。普通男子と女子は競技が成立しない位技量が
違う。

「つあぁぁ!」「ぬくぅぉ!」

 だから高校の剣道部で男の子に競り勝つ神原先輩は本当に凄い。本来こういう対決はあ
り得ぬ物で。勝てなくて当たり前で。でも今、県立経観塚高校の剣道部最強は、神原先輩
だ。男子に勝てる彼女は、女子では県内最強かも。

「やっぱり神原には敵わないか」「杉浦も良く粘ったけど」「神原先輩相変らず強いな」

 両者への賞賛と溜息が交錯する中、杉浦先輩はわたしの傍の床に座り込んで、荒い息を、

「お疲れ様。惜しい処でしたね」「ああ…」

 タオルで額を拭うわたしに為される侭で。
 神原先輩や他の男の子の視線を感じつつ。

「簡単には取らせてくれない。だからこそ」

 心地よさそうに瞳を閉じつつ、息を整え。
 一瞬だけ爽やかな笑みを浮べ、それから、

「挑戦しがいがあるって物さ。そうだろう」

 闘志を瞳に宿す。次の挑戦は今から始ると。本当に杉浦先輩は、剣道が好きで、剣道部
が好きで、神原先輩が好きなのだと視えて分る。そんなわたし達の目の前で、杉浦先輩に
勝利した神原先輩は、大野先生に向き直っていた。

「良いぞ。掛ってこい、神原」「つぁぁぁ」

 事務的な迄に冷淡な促しを受け、神原先輩は憎悪でも抱くかの様に、猛然と斬りつける。

 これが本当の頂上決戦だった。大野先生は本当に達人で。エリートコースを歩む人傑が、
なぜこの田舎に赴任してきたのか奇妙な程で。神原先輩の激しい攻めを、力と速さと技の
全てを彼は、完全に見切って防ぎ、弾き返して。

 反撃の機を窺っているのではなく、神原先輩に攻めさせて、練習させている。その気に
なれば彼は即座に攻めに転じて彼女を倒せる。

『健吾さんの剣道や空手とは立ち合ったけど、剣道でなら大野先生の方が上かも知れな
い』

 反撃は一瞬。稲妻の面が叩き付けられて。
 神原先輩は防ぐ動きに出る前に破られた。

「闘志を抑え切れてないな。動きが読める」

 男の子達も神原先輩も、暫くは呆然として。
 分っていて打つ手がないという感じだった。

 そこで先生の指導は終り、後は各々の練習に移行して、夕刻に散会し。先生は車で送る
と言ってくれたけど、丁度バス時刻でもあり。

「杉浦あんた、柚明と同じ羽様地方だろう。
 剣士なら女の子をきちんと送って帰りな」

 神原先輩の促しで杉浦先輩とバスで帰る。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「へぇ、剣道少女ねぇ」「柚明ちゃん…?」

 夕食時に、サクヤさんの気の抜けた声に続いた真弓さんの問は、わたしの意思の確認か。
白花ちゃんの左頬に付いたご飯粒を取って口に運びつつ、わたしは問にはかぶりを振って、

「わたしは剣道部に入る積りはありません」

 遠方から通うわたしは通学手段も限られる。遅く迄残ったり朝練が必要な部活は望めな
い。真弓さんとの修練の時間も、取れなくなるし。竹刀防具を揃えるのに費用が掛ると言
うより、

「桂ちゃんや白花ちゃん、叔父さん叔母さんやサクヤさんと過ごす時には替えられない」

 わたしは護身の技を真弓さんから教わっている。重ねて武道を習う意義は薄い。部活剣
道の現実は優勢勝ちの争奪で実戦に適さない。一対一で、女同士、高校生同士、剣と剣限
定のフェアプレー前提で、生命の危険も想定しない闘いだ。それでは鬼や犯罪者は防げな
い。

『犯罪者や鬼は時も場も選んではくれない』

 剣道も無駄ではないけど、剣のない時や使えない時、折れた時の事も考えて置かないと。
それらは部活でも道場でも教えてはくれない。わたしの求める強さは学校の剣道部にはな
い。

「……わたしの心配は、剣道部入りじゃなく、その杉浦って先輩と、顧問の男性教諭よ
…」

 柚明ちゃんも年頃なんだから。男の子や先生でも独身男性との関りには、注意しないと。
剣道部は神原さん以外全員男子なんでしょう。

「飢えた狼の群に羊を放り込む様な物よ…」

 真弓さんの心配は、そっちだった様です。
 想定を外されて、即答できないわたしに、

「もしかして、柚明、あんた?」「いいえ」

 サクヤさんの重ねた問に答が間に合えた。

「杉浦先輩はずっと前から神原先輩一筋です。大事な人だけど、わたしが杉浦先輩に抱く
のは唯の好意で、恋ではありません。杉浦先輩が神原先輩に抱く恋心は、応援したいけ
ど」

 神原先輩は、後輩の男の子が寄せる憧れの目線に気付いているのかな。それはともかく。

「叔母さんやサクヤさんが案じる様な事は」
「顧問の教諭の方はどうなんだい、柚明?」

 言い終える前にサクヤさんの突っ込みが、

「聞いた話しでは、正樹に近い位良い男だって話しじゃないか。端正な容姿に爽やかな喋
りに剣道の達人でしかも若く独身。あんたから聞いた情報は、随分好意的な印象だけど」

 わたしが好意を抱いているのではないかと。
 わたしが好意を越えて好いているのではと。

 サクヤさんのストレートな表現に、似ていると言われた正樹さんが、少し戸惑っている。

「叔父さんの若い頃に、わたしが幼かった頃に見た叔父さんに少し似ています。姿形が」

 にこやかで暖かで、人を気遣いこまめに声を掛け、でも荒げる事も怒る事も殆どなくて。
大人だけど若く独身だから、背伸びすれば届くかもって思えてしまう。導いてくれそうに。

 わたしの眼鏡が好意的に歪んでいる訳ではなくて、みんなの評判が好意的なのだと思う。

「でも、気をつけるべきね。鬼でなくても」

 指導熱心で爽やかに優しくても独身男性。
 状況が揃えばどの様に動くかは分らない。

「あなたは綺麗で可愛い年頃の女の子なの」

 真弓さんは抱擁もお泊りも、女の子同士には大胆な迄に寛容だけど、男の子が関ると即
座に警戒態勢に入る。どこで誰と、どの位の時間何をしたか。どの様に感じ相手の反応は。
次を約束したのか断ったのか曖昧か。逐一把握しないと不安な様で。手を握ったり背中合
わせたり、車で送ってくれるという話し位で、妖怪アンテナが立つ様で、やや心配過剰で
す。

 心配が要る程の事はないですと応えると。

「ああ、今時の若い娘は本当に不用心だね」

 心配過剰気味な美人はもう1人傍にいた。

「あんたには知らない相手への怯えって物がないのかい。大事な嫁入り前の娘の身体で」

 同性にも羨まれてきただろう見事な胸を揺らせつつ、サクヤさんは箸先をわたしに向け、

「あんたは狼の開けた口に望んで飛び込んで行きかねない。危うくて見ていられないよ」

 わたし、そこ迄向う見ずではない積りです。
 男性への警戒は大人の女性の本能なのかな。
 とすればわたしの警戒の欠如は子供の故か。

 2人とも美人だから色々危うかったのかも。
 わたしはスタイルも見事な程ではないから。
 今一つそこ迄の警戒心は根付いてないけど。

「でも大野先生は少し気懸りです」「…?」

 桂ちゃんと白花ちゃんが食事に一生懸命な脇で、大人達の訝しむ目線に向けてわたしは、

「何て言うのか、全てが建前っぽいんです」

 そう見えるだけなのかも、知れないけど。
 誰にでも多少の裏表は、あるだろうけど。

 わたしを剣道部に誘う動きも杉浦先輩じゃなく、大野先生が大本だった。先輩もわたし
の剣道部を心から勧めてくれたけど。彼の気持を導きつつ、実はそれは先生の望みであり。

「柔らかな人当たり、熱心な指導、剣の道についての話し、みんなに好かれる爽やかさ」

 でもその見事な揃い方が逆に腑に落ちない。
 わたしが気にしすぎなのかも知れないけど。
 引っ掛るのは正樹さん似の姿形の故なのか。

「武術の本道は、相手を倒してみせる事や勝つ事が全てじゃない、と言うのはともかく」

『……濁った心で剣を振るえば、濁った剣に堕ちる。濁った剣では正義には勝てない……。
 正しい力は、必ず悪しき暴力に勝るんだ。
 技や力じゃない。正しさこそ強さなんだ』

 わたしは大野先生の言葉を復唱してから、

「正しさこそが強さなら、弱者は悪になる。
 踏み躙られた者には納得できない話です」

 サクヤさんが苦い表情で声を呑み込んだ。

「優しさや善意を抱く者が強くあって欲しい、とは想いますけど。願いと現実は違いま
す」

 濁った剣でも達人は達人。正しくても力なき者は無力。それが現実です。わたしはそれ
を呑み込んで、呑み込まされて、たいせつな人を守る力を、叔母さんに教えて頂きました。

「せめてわたしは、優しさや賢さを強さと兼ね備えたい。たいせつな人の心迄守る強さを。
世に理不尽は尽きないけど、その暴威からたいせつな人を守れる盾にわたしはなりたい」

 正しい事ほど強い事はありません、と言うフレーズをどこかで読んだ憶えはあったけど。

「正しい事が強さだというのは気休めです」

 それを大人が真面目に語る事が嘘っぽい。
 或いはわたしは良識に添ってないのかな。

 まっすぐ見つめた先で真弓さんは頷いて、

「確かに、そうね。強さに正邪の区別はない。強さと正しさや心の清さは直結しない。正
義で邪悪に勝てる程世の中は甘く出来てない」

 正しい事が強さではなく、強くなる者に正しくあって欲しいと。適切に力を行使できる
者であって欲しいと。それは自明の理ではなくて、そうあって欲しい人の願望に過ぎない。
想えば叶う程に、世の中は巧く行かない物よ。

「唯それは、競技となった今の剣道に求められないかも知れない。実戦を想定せず、殺す
覚悟や殺される覚悟のない人に、そこ迄は」

 真弓さんは少し溜息ついてわたしを正視し。

 あなたが他の人から隔絶し始めているのよ。
 太平に馴れた今の武道からも大きく隔たり。

「鬼切部とも違うけど。あなたは市中の武道家でも持てない類の覚悟を抱き始めて。技や
力の進展も目覚ましいけどそれ以上に。本当に甘く優しく、でも厳しく苛烈で。正直あな
たがどこ迄伸びるか、わたしも見通せない」

 鬼切部の闘いに対応し始めてきている事も。
 高い技量を今尚多くの人に隠せている事も。

「あなたに関しては正直予想外の連続よ…」
「済みません。わたしが至らないばかりに」

「そうじゃないよ。真弓は柚明の高度成長に驚いているんだ。それは素直に喜んで良い」

 サクヤさんの言葉に、正樹さんも頷いて。
 桂ちゃんと白花ちゃんの視線迄集まる中。

「料理は真弓に抜かれたけど、家事全般に精通し。書道も華道も茶道も洋裁和裁も機織り
も柚明ちゃんの方が巧い。優しく華奢に綺麗な上に強く賢く、己の意思や見解を確かに持
って言葉に出来て、尚場を弁えて思慮深い…。
 非の打ち処のない女の子も、いるのだね」

 過剰な程の賞賛に頬が上気するのが分る。
 正樹さんに、そこ迄褒めて貰えるなんて。

 耳迄熱く血が巡り体温が上がったみたい。

 己の思い上がりに釘を刺して置かないと。
 高すぎる評価を裏切る事になりかねない。

「わたしは、それ程優れた者ではありません。今のわたしに麗質の欠片が見えるなら、そ
れは笑子おばあさんや叔父さん叔母さん、サクヤさん達の教えのお陰です。わたしは尚未
熟者ですが、今後も一層宜しくお願いします」

 己を戒める為に深々と頭を下げるわたしに。幾つかの溜息が返ってきて。歳不相応に謙
りすぎて生意気に映ったかな。真弓さんの声は、

「……良い花嫁になれるわ、柚明ちゃんは」

 どんな舅や姑とも、巧くやって行けそう。
 その左隣で笑みを含んだ正樹さんの声が、

「真弓と巧くやって行けているんだからね」
「? それはどういう意味ですか、あなた」

「姑や小姑があたしだったら、笑子さんや柚明程滑らかには、始らなかっただろうねぇ」

 サクヤさんが瞳を輝かせて口を挟むけど。

「それはあなたこそが特殊なのよ、サクヤ」

「あたしは何の変哲もない、唯のフリールポライターだよ。売りは美人独身二十歳だけ」

「真実に迫る報道関係者が、年齢詐称を…」

 大野先生に抱いた引っ掛りは、羽様の大人も特別な危険には感じなかった様で。一般的
な男性への注意喚起に止まったけど。どちらにせよ、わたしは剣道部に入る積りはないし。

 敬して遠ざけていれば、問題は起きない筈だった。敬して遠ざける事が、出来ていれば。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 翌朝教室に着いたわたしに、広沢君達は何か言いたげで。わたしも男の子達とのお話し
を望んで、早めに登校したのだけど。彼らの視線に怯えた若菜さんが右腕に取り縋るので、
動けずに。でも男の子達に特段の動きはなく。むしろ動きが生じたのは女の子の間でだっ
た。

「進堂さん、あなた、好い加減にして…!」

 胡桃さんがわたしの左腕に両腕を絡めて。
 わたしに肌を合わせつつ若菜さんを睨み、

「貴女の所為で羽藤さんが迷惑しているのが、見て分らないの? それとも分って迷惑掛
けているの? 昨日も羽藤さんを危ない目に巻き込んで、5時間目迄一緒にすっぽかし
て」

 胡桃さんは、小学校も中学校も一緒だった若菜さんに、春からずっと冷淡だった。それ
は唯の嫉妬や、理由のない嫌がらせではない。

「もう羽藤さんに付き纏わないで。巻き込まないで。貴女の問題は貴女1人で解決して」

 悲劇なのか喜劇なのか。可愛い女の子に左右から取り縋られて、わたしは争奪の対象に。
志保さんが興味深そうに両目を瞬かせる前で。

「ルミ……ごめん。でも、でもわたしっ…」
「今更綽名でなんか呼ばないで。裏切り者」

 ショートな黒髪を揺らせて強く拒む声に。
 セミロングの若菜さんは萎縮するけれど。
 縋る腕は逆に一層強く総身を絡めて来て。
 胡桃さんも負けじと肌身を重ねて添わせ。

 男の子達が動かなかったのは、この絵図を前にした為か。何とも入りづらい情景だろう。

 わたしは少しの間為される侭に、女の子の奪い合いに身を任せつつ、2人が各々の想い
をさらけ出し、一息ついた頃合を見計らって。左右の腕が触れた女の子をこの身に抱き寄
せ。

「日高胡桃と進堂若菜は、2人ともわたしのたいせつな人。幾らでも迷惑を掛けて欲しい、
役に立ちたいわたしの可愛いクラスメート」

 若菜さんの右頬にこの右頬を、胡桃さんの左頬にこの左頬を当てて、3人密に身を重ね。

「胡桃さん、わたしを心配してくれて有り難う。わたしが好んで人の揉め事に分け入って、
己の所為で招いた禍を。真剣に気遣ってくれて嬉しい。……心配させてごめんなさいね」

 羞恥に頬が染めるのは、実は当人達より周囲で見守る側かも知れない。男の子や女の子
多数の視線があると承知で。わたしは女の子2人を抱く両手を離さず、肌身を添わせ続け、

「わたしが若菜さんに関ったのは、わたしの願いだから。若菜さんが困って哀しむ様を見
過ごせなかったから。わたしの我が侭なの」

 男の子と揉めたのも授業すっぽかしたのも、先生に注意されたのもわたしの所為。若菜
さんの所為じゃない。彼女を責めないであげて。若菜さんは自身の禍を耐え凌ぐのに必死
なの。

「胡桃さんを粗略にはしない。胡桃さんがわたしの大事な人なのは変らない。この通り」

 抱き留める腕に少し力を入れて身を重ね。
 想いを受け、想いを届け、想いを交わす。
 女の子の頬の感触は、暖かくて柔らかい。
 胡桃さんはわたしの想いを受け容れつつ、

「羽藤さん優しすぎ。甘過ぎっ。この人は」

 若菜さんが告発の兆しを察して身震いを。
 裏切り者。胡桃さんの弾劾は低く響いて。

「小学校で友達だったのに、中学校で松岡さん達に苛められた時、その手下になってあた
しを苛めたの。友情裏切って、あたしのノート汚したり、のけ者にしたり、上靴隠して」

 苛められた事を明かすのは、子供心に恥となる。だから胡桃さんも、それを自ら明かす
のに相当の緊張を必要として。若菜さんへの憤りと、わたしに分って欲しい想いを込めて。

 そして苛めの一員であった若菜さんもまた、過去に後ろめたさを抱いていて、微かに震
え。小学校でお友達だったなら、その溝は両者とも今尚ずっと、引きずり続けているのだ
ろう。

 わたしは2人を離さず、抱き留め続ける。

「あたし、どれだけ心細かったか。友達に裏切られて、どれだけ悔しかったか。頼れる友
達なくして、1人泣き寝入りした。なのに」

 高校入って松岡さん達とクラス別になって、頼れる人がいなくなったから仲良くした
い? あたしが漸く羽藤さんと仲良くなれたその脇に、そ知らぬ顔で座ろうとして。許せ
ない。

 左半身に擂り付く動きに、力が籠もって。

「貴女だけは、絶対に許さないからっ…!」
「だって、だって仕方なかったの。だって」

 この右頬に頬合わせた女の子の声も震え、

「わたしも苛められそうだったの。従わないと、2人で苛められるだけだった。2人じゃ
多数には敵わない。それに松岡さんは、わたしが従わないなら、ルミを引き入れるって」

 わたしは1人になるのが嫌だった。1人苛められるのが怖かった。孤立したくなかった。
仲間に加えて貰うには、言いなりに貴女への嫌がらせの実行犯やるしか方法がなかったの。

「だから見捨てたって言うの! あたしを裏切って1人助かったと言うの。貴女酷い…」

「松岡さんに従って、ルミに嫌がらせしていた時、ずっと心痛んでいた。悔やんでいた」

 でも、従わないとわたしが苛めの標的に。

「嫌々やっていたから許してとでも言うの」
「謝りたかった。ずっと仲直りしたかった」

 でも中学校では、遂にそれを言い出せず。

 松岡さん達と別のクラスになれて、ほっとした。もう従わなくて良いと気が楽になった。
でも逆に、松岡さんの仲間でなくなった途端、その守りもなくなって、男の子達に絡まれ
て。

「怖い思いしたくない。孤立するのはイヤ。
 わたしに羽藤さんとのお付き合い許して」

「都合の良い物言いね。本当に自分勝手な。
 やられた側の気持を貴女も味わえばいい」

 さっさと羽藤さんから離れて。あたしのお友達に禍を持ち込まないで。貴女が苛められ
る側になったからって、人に縋るのは止めて。

「どうせ自分に都合が悪くなれば、羽藤さんも見捨てて逃げ出すんでしょう。貴女なら」

「そんな事しないっ。羽藤さんは恩人よ…」

「小学校からの幼馴染みを裏切った人が?」

 胡桃さんの言葉は容赦なく若菜さんの心を抉る。声や肌の震えは若菜さんが抱く罪悪感
でもあり。彼女の過去の行いを知ったわたしが、離れてしまうかもと言う怖れでもあり…。

「親友裏切る人が裏切らない相手って言うと、もう後は恋人位しかないでしょう。無理
ね」

 この一言が止めになったかに思えた。胡桃さんの緊張が抜けるのは、言うべき事を言い
終えた達成感で。若菜さんの緊張が抜けるのは、想いが届かないとの諦めが浸透した故で。

 双方の言葉が止まる時が、わたしの時だ。

「わたしは……構わないよ。恋人でも、親友でも姉妹でも。わたしを望んでくれるなら」

 2つの肌身の驚きが、周囲の驚きの気配と一緒に押し寄せるけど。わたしも何と大胆な
台詞を言うなと、我ながら呆れつつ。でもその想いはわたしの真の想いだから、隠さずに。

「日高胡桃と進堂若菜は、2人ともわたしのたいせつな人。幾らでも迷惑を掛けて欲しい、
役に立ちたいわたしの可愛いクラスメート」

 同じ言葉を再度2人の耳元に注いでから。

「胡桃さんは、悲しい想いを経ていたのね」

 左腕の力を少し強めて、想いを注ぎつつ、

「わたしは、あなたを決して裏切らないわ」

 裏切りという言葉に若菜さんが固まるけど。今は胡桃さんに想いの全てを注ぐ。2人を
抱き留めた腕は両方離さず。多くの視線や反応は今は棚上げし。届かせるべき想いを優先
し。

「若菜さんの危難を見過ごせなかった様に、わたしは胡桃さんが危うくなった時も、決し
て見放す事はしない。力の限り守るから…」

 誰が遠ざかる事があっても羽藤柚明はあなたから離れない。いつ迄もわたしの大事な人。
一度たいせつに想った人は、羽藤柚明にはいつ迄もたいせつな人。心を尽くし守りたい人。

 熱い想いを寄せてくれて有り難う。嬉しい。

「若菜さんに近しく接して見えるのは、若菜さんが今危ういから。胡桃さんから離れて若
菜さんを選ぶ訳じゃない。不安を与えた事は、ごめんなさい。それはわたしの配慮不足
…」

 胡桃さんはいつ迄もわたしのたいせつな人。

「そして胡桃さんにお願い。わたしが若菜さんを大事に想う事を許して。わたしにはどっ
ちもたいせつな人。片方を取って片方を切るなんて事は出来ない。双方守りたい人なの」

 胡桃さんに負担は掛けない。心配させない様に努める。男の子達とも仲直りの最中なの。
もうすぐ収まる。折角同じクラスになれたお友達よ。男の子達も含め、誰が良い悪いでも
なく、みんな仲良く笑い合える仲になりたい。

「胡桃さんと若菜さんの過去は、昨日すっぽかした5時間目に、若菜さんから聞いたの」

 若菜さんは、自身の過去を悔いていたわ。

 目先の孤立から逃れようと友達を裏切った。その事に悔いを抱き、謝りたくて止めたく
て、仲直りしたくて。でも自分が苛めの標的になると怖れて何も出来ず、酷い事を続け。
それは若菜さんの弱さであり、失敗でもあるけど。

「若菜さんはずっと罪を感じていた。その事は分ってあげて。若菜さんも苦しんでいた」

 若菜さんも苛めの怯えの中にいた。胡桃さんの様に実害は受けてないけど。その害を胡
桃さんに転嫁したけど。それで安楽を貪れた訳じゃない。若菜さんもずっと己の良心に苛
まされてきた。悪いと分っても謝れず償えず止められないもやもやを、ずっと抱き続けて。
それを晴らせる力を持つのは、胡桃さんなの。あなたの許しには、大きな力が宿っている
わ。

「でも、でもこの人は、カナはあたしをっ」

 許したくない。今迄の経緯を振り返れば。
 為された事を返さないと、気が晴れない。
 それはいけない事なの? と問う涙声に、

「今すぐ許してとは求めない。今の胡桃さんの立場で許したくない気持は当然よ。わたし
は若菜さんに関りたいけど、胡桃さんとの仲は変らないし、胡桃さんに若菜さんと仲良く
なってと無理強いもしないわ。お互い仲良くなれなくても、2人ともわたしの大事な人」

 その上で。わたしは慎重に言葉を選んで、

「もし許してあげられる心の準備が出来たら。若菜さんの心からの謝罪を受けて仲直りし
て。彼女をもう一度お友達に迎え入れて欲しいの。これは若菜さんではなく、わたしのお
願い」

 幼馴染みが不幸な経緯で引き裂かれ、引き裂かれっぱなしで心痛め合う姿は、見るに堪
えない。憎み続ける事も罪悪感を抱き続ける事も、双方が辛い。お互いに不幸の連なりだ。
心が爽快に晴れ渡る事はない。悪い事は為したけど、酷い目痛い目は経たけど、それでも。

「今からやり直せる事はある。これから取り返せる物はある。どうにも出来ない物も世に
はあるけど、何とか出来る物も世にはある」

 胡桃さんの気持が整ったらで良い。その心が整わない内に無理にとは求めない。唯わた
しが若菜さんと接し続ける事を許して欲しい。

 そう願うわたしに胡桃さんは尚不納得で、

「この人は裏切りの前科持ちよ。今羽藤さんに庇って守って貰えても、都合が悪くなれば
逃げ出したり、害する側に寝返る様な人よ」

 そんな人を信用できるの? 友達にする?
 その問にこそ、わたしは微笑み、頷いて、

「わたしを心配してくれて、本当に嬉しいわ。胡桃さん。熱い気持を、有り難う。でも
ね」


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