第11話 せめてその時が来る迄は(後)


 一度たいせつに想った人は、羽藤柚明にはいつ迄もたいせつな人。力の限り守りたい人。

「わたしは何度裏切られても、大丈夫だよ」

 それが若菜さんであっても胡桃さんであっても。男の子の誰であっても。たいせつな人。

「そうせざるを得ない時は、裏切っても良い。わたしは、受け容れて嫌わない。その上
で」

 わたしは誰かを守れる人になりたい。誰かの役に立てる人になりたい。たいせつな誰か
が哀しみ嘆く様は見たくない。だからわたしは例え何度裏切られても、助けを求められた
ら必ず応えたい。その幸せに身を尽くしたい。

「人は中々巧く行かない事もあると分るけど。
 わたしがたいせつに想った人に、己を尽くす事を許して欲しいの。誰かが目の前で困り
痛み苦しむ様を捨てておけないの。お願い」

 いつの間にか胡桃さんも若菜さんも、その瞳から涙が溢れ。周りの女の子達迄貰い涙を。
泣かせる積りはなかったのに。嬉し涙は哀しみの涙と違うから、一概に嫌いはしないけど。

「甘すぎる……優しすぎる。羽藤さんはっ」

 詰まった胸と喉から胡桃さんは漸く声を。
 若菜さんも喉を震わせつつ想いを紡いで。

「嬉しい……わたし、何とか生きていける」

「その甘ったるさが、ゆめいさんだから…」

 局外から届いた志保さんの声に、左右の頬はほぼ同時に頷いて。期せずして、左右同時
にこの背に腕を強く絡めて、抱き締められて、

『『このまま、好きになっちゃいそう…』』

 声にならずとも周囲迄感触は伝わったかな。
 胸が詰まって声にならなかったのが幸いか。

 始業のベルは鳴り終えていた。この情景は、初老の担任男性教諭からもしっかり見られ
ていて。涙流す女の子2人を左右に抱き留め頬を合わせた、いかにも誤解を呼びそうな図
を。

 昨日の経緯も纏めて事情聴取されて、色々な人を巻き込んでしまい。事情は全部話して
叱責と納得を頂いたけど。改めて叱られた男の子達との関りは、もう少し整理が必要かも。


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「ごめんなさい。みんなと仲直り出来てから、先生にお話ししたいと思っていたのだけ
ど」

 事情聴取の後、職員室からの帰り、わたしは緑川君達に頭を下げた。先生にも余り強く
叱らないでとお願いしたけど。もう少し巧く事を運べば、もっと穏便に済ませられたのに。

 若菜さんも胡桃さんも、彼らの反応を怖れ、腰が引けていたけど。わたしは嫌い合う間
柄ではないと示したくて。積極的に話しを望み。

 でも、男の子達は互いに視線を交わして小声で語り合うだけで。何か言いたげな表情だ
けど、わたしに答は返してくれず、特段の動きも見せず。今は少し動静を見守る頃合かな。
むしろ動きが生じたのは女の子の間でだった。

 胡桃さん若菜さんと教室に戻ってくると、

「ゆめいさん格好良い」「凛々しかったよ」

 クラスの大多数の女の子に囲まれ喜ばれ。
 前後左右から腕を取られ肩や背に縋られ。
 なぜかみんなお祭りの様に盛り上がって。

 男の子達が動かなかったのは、わたしを囲う女の子達の動きを見て、なのかも知れない。
胡桃さんも若菜さんも、人混みに紛れる程に、みんながわたしに近しく身を寄せて、嬌声
を。

「柔らかく静かだけど」「その甘々がイイ」

 さっきのやり取りは結構鮮烈だったかな。
 好いて貰える事は嬉しくも有り難いけど。
 特別凄い事を為した憶えもないわたしは。
 やや戸惑いつつ人の輪の中に身を置いて。

 なので2人きりのお話しを望む志保さんに応えられたのは、人気のない放課後の学食で。

 志保さんの今日の感想から話しは始った。

「ゆめいさん、元々一目置かれていたから。
 潜在的な好感度に火が付いちゃったのよ」

 銀座通中で鴨川真沙美を凌いだってだけで、前評判は充分以上。鴨川さんが都市圏に出
た以上、あなたが1人注目を浴びるのは宿命ね。男にも女にも甘々で、近しすぎる触れ合
いも、わたしが今更噂する迄もない位に見せつけて。

「家柄あり、成績優秀、容姿端麗、スポーツ万能。苛めを放置しない以上に、苛めた側や
対立した相手も思いやり。男女問わず肌身に抱き留めて、囁き諭す。噂話のネタ満載よ」

 脇が甘いと言うより、甘ったるさの塊ね。

 志保さんはわたしの真偽取り混ぜた噂話を、今後も流し続ける事は前提で。胡桃さんや
若菜さんとの関りも語り広める事は当然として、

「気になる話を聞いたの。これは、簡単に人前で口にしては拙そうだから。そしてゆめい
さんは、聞いておいた方が良い情報だから」

 3年生のごく僅かしか知らない様だけど。

「……神原先輩と、大野先生の間が恋仲?」

 彼女はわたしの声を潜めた反応に頷いて、

「剣道部唯一の女の子で強くて美人。イケメンの若い独身男性が傍にいれば噂も出るよ」

 杉浦先輩との噂が先行し広まっていたから。
 今迄浮上しなかったけど条件は整っていた。

 杉浦先輩が憧れているのは事実らしいけど。
 神原先輩は杉浦先輩を特別視してない様で。
 男子の集まりの中にいて浮いた噂一つなく。

「去年の時点で神原先輩に、剣道で敵う男子が1人もいなかったって話しだから。先輩よ
り一つ上の男の子まで揃ってよ。確かにそれじゃ剣道一直線の先輩の眼鏡には適わない」

 でももう1人いたの。神原先輩より強い男性が。先輩がどうやっても勝てない強い男が。

 神原先輩が大野先生に、勝負を挑んで破れた情景が想い出される。大人の男性で達人の
彼には神原先輩でも敵わないと、誰にも推察できる。志保さんは、大人の男の越えられぬ
強さに、憧れから恋心を抱く展開を夢想して。

「進路の相談に夕方遅く迄応じたり、他の部員がいない夜や休日も特訓に付き合ったり」

 指導が親身を超えている感じはあるのよ。

「大野先生は青春を部活一色に染めるのは勿体ないって、月1回は週末を部活禁止にして。
格技場にも入るなって。それは一つの見識だけど。でも剣道部はその時も格技場を、空手
部や柔道部と輪番で確保して。先生が1人で修行するって聞いたけど。神原先輩を必ずそ
の日に学校で見かける事実を、どう思う?」

 誰もいない場に2人きり、人目に付かない鎖された格技場で、年頃の女の子と独身男性。

「肉体関係迄進んでいるかもって言う声も」

 剣道少女の強気な印象で見落しがちだけど、神原先輩は背も高いし胸もおっきい。ゆめ
いさんは、先生を独占する神原先輩の庭に乱入し嵐を招く存在になるかも。或いは剣道部
唯一の女の子の、女王様の座を脅かすと厭われるかも。ゆめいさんも旧銀座通中3大美少
女の1人だし。女同士、妬まれたり嫌われたり。

 見学の時に、イヤな顔とかされなかった?

「剣道部誘われているって聞いたから、ゆめいさんの判断材料にと思って」「有り難う」

 流石に刺激がきつすぎるので、他に口外しないけど。敢てわたしを案じて伝えてくれた。
その好意に想いを返したく、わたしは志保さんの両手を持ち上げて、顔を瞳を覗き込んで。

「情報の伝をわたしに悟られると承知で、わたしの為に教えてくれたのね。嬉しいわ…」

「いや、まあ。はは……それも話します…」

 志保さんは写真部員だ。部活の先輩がわたしを心に留め、1年生の噂の起点で、わたし
に近しい彼女との緊密な情報交換を申し出て。互いの学年に今広まっている噂話を流し合
い。

「3年生でも知っている人がごく僅か、と言うより気付いていないのね。みんな杉浦先輩
との関係にばかり、目を奪われているから」

 ……その、怒る? ゆめいさん、わたし。

 このお話しはわたしを想ってだけど、大本はわたしの情報を流した結果だ。少し後ろめ
たい感じで反応を窺う、黒髪の長い女の子に、

「海老名志保は、羽藤柚明のたいせつな人」

 わたしは正面から彼女を軽く抱き留めて。

「本当に人を傷つける噂は心に留めてくれている。神原先輩の人生を狂わせるかも知れな
いお話しは。その上でわたしを案じ、怖れず事を告げてくれた。志保さんは、優しいわ」

 人の口に戸は立てられない。志保さんが口を鎖しても、別の人が噂を流すのが世の中だ。
人目にどう映っているのかを、わたしが比較的早く知れるのは、志保さんのお陰でもある。
真に人を傷つける悪い噂でなければ、好奇心は抑えられないし、抑えるべきでないのかも。

「唯、噂を流す時は、誰かを傷つけてしまう怖れと、時に自身が禍に巻き込まれる怖れを、
忘れないで。わたしは志保さんが心配なの」

「その時は、前みたいに又助けてくれる?」

 拒まないと分って寄せてくるその左頬を、

「いつもわたしの助けが間に合って、届くとは思わないで。もしもの事があったらどうす
るの? あなたは可愛い年頃の女の子よ…」

 受け容れて頬合わせつつも一度釘を刺し、

「叶う限り、身も心も尽くすわ。約束する」

 わたしの答は聞く前に彼女も分っている。
 分って聞きたい志保さんの望みに添って。

「そこにどんな事情があっても、例えあなたが何を為していても、危難に面したあなたを
前に、わたしがそれを見過ごす選択はないわ。
 一度わたしがたいせつに想った人は、いつ迄もたいせつな人。幸せを守り支えたい人」

 想いを重ね合わせた肌の、微かな震えは。

「甘すぎる。本当に優しすぎる。胡桃や若菜はゆめいさんの甘ったるさを、未だ全然分っ
てない。わたしも極めていないかも。でも」

 だから安心して身も心も預けられる。何度迷惑掛けても近づける。困った時にも助けを
求められる。何も怖れずに、微笑み求めて声を掛けられる。あなたは出会った3年前から。

「ずっとわたしの心を、捉まえ続けて…!」

 唇は合わせないけど、抱擁は濃密だった。


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「お久しぶりです、池上先輩」「祐二先輩で良いんだよ、ユメイちゃん」「祐二っ、幾ら
何でも最初から、気易く触ろうとしすぎ…」

 気易くこの手を握ろうとする池上先輩から、わたしを守る様に聡美先輩が前に挟まり阻
み。昼休み、写真部の部室にいるのは、2年の聡美先輩と、3年の池上先輩とわたしの3
人だ。わたしは聡美先輩の背から顔を覗かせるけど、2人ともわたしの技量はある程度知
っていて。今のは聡美先輩の、双方への独占欲の現れだ。

 わたし達3人の仲は、現在とても微妙です。

 池上先輩は女好きというか、恋人の聡美先輩の前でも、他の女の子に平然と声を掛ける。
幾ら怒られてもその困惑を受け流し。聡美先輩との仲を断つ気かと思えば、そうでもなく。
時折聡美先輩にも優しく声を掛けて手を握り。2人は既に体の関係迄踏み込んでいるみた
い。

 やや背が高く痩せ気味で、度々指導を受けても、濃い茶色の髪を整髪料で立たせた彼は。

『へぇ、カワイイじゃん。さとみの後輩?』
『オレ、さとみより彼女に恋しちゃおかな』
『中学3年生? 名前は? 家はどこ? 今からハックか喫茶店どう? カワイイ子とは
仲良くしたい。さとみも一緒で良いよ。オレ、カワイイ女の子を悦ばせる事が得意なん
だ』

 聡美先輩の目の前でわたしを望んで来て。
 そのノリの軽さにはわたしも驚かされた。

『倉田聡美は羽藤柚明のたいせつな人です』
『聡美先輩を恋人にした以上、先輩に誠意を尽くして下さい。先輩をしっかり想ってくれ
る人になら、わたしも聡美先輩を通じて仲良くお付き合いするのに、異存はありません』

 でも高校に入ると池上先輩は、わたしを心に留めていた様で。聡美先輩と一緒なら文句
なかろうと、3人デートを求めてきて。それを聡美先輩が了承したのも、驚きだったけど。

『祐二は柚明が高校に入ってから、他の女に声を掛ける頻度が相当減ったんだ。柚明に気
がある間は、祐二は他の女に目が向かない』

 聡美先輩はわたしが彼に心傾かない前提で、彼を引き寄せる餌にわたしを使う積りらし
い。わたしは聡美先輩と濃密な絆を結んだ。緊密な仲を彼に示して、溜飲を下げるのも良
いと。その相手が彼の好むわたしなら一層好都合と。

『でもそれで、良いんですか? 池上先輩がわたしへの想いを抱いた侭で、聡美先輩は』

『3人なら逆に祐二を防げるよ。普通女2人でも男は抑えられないけど、柚明は強いから。
拒めば祐二は単独で柚明に迫る。あんたは強さに申し分はないけど、甘いから1人にした
ら絆される心配がある。あたしは柚明に祐二を渡す気も、祐二に柚明を渡す気もないよ』

 先輩はわたしに強気な笑みを向けて来て。
 倉田聡美には今尚羽藤柚明も標的ですか?
 わたしを信じて頂けるのは、嬉しいけど。

『柚明があたしに付いてくれる限り、祐二は今迄より随分あたしに関ってくれるんだ…』

 わたしは強く弄び引っ張ってくれる先輩を、決して嫌っていないけど。好ましいけどで
も。

 本当にこの2人は危ない火遊びを。でもこうなるとわたしは聡美先輩を捨て置けなくて。
それも2人の思惑かも知れないけど。仮にそうであっても、わたしは聡美先輩を断り難く。

 現状この3者は。聡美先輩の惚れた池上先輩がわたしを望むけど、わたしはそれを拒み。
でもわたしが実力行使で彼を退ければ、彼は聡美先輩に仲介を頼み。惚れた彼氏の頼みを
聡美先輩は断れず、聡美先輩を大事に想うわたしはその仲介を拒み難い。奇妙な三竦みに。

「志保さんから神原先輩の噂を聞きました」

 池上先輩はこの様なわたしとの接点が望みなのかも知れないけど。その思惑に敢て乗る。
でも単独で逢うのは拙いので、聡美先輩にも来て頂いて。本当は余人を交えたくないけど。
ここで間違えては後々が厄介だと視えたので。

「ああ、ユメイちゃんが食いついてくれるかなと思ってね。剣道部にご執心の様だから」

 志保さんの情報交換相手は池上先輩だった。消極的な女の子なら、悪い噂を耳にしただ
けで剣道部が危うく思え腰が引ける。そうでなければ、情報の真偽を見極めに尋ねに来る
と。

「柚明が剣道部に重複所属したら、放課後デートの機会が減ると思ったんだろ、祐二は」

 高校に入って一層胸も腰も女っぽくなった聡美先輩の、長い黒髪を揺らせた突っ込みに、

「まぁね。剣道部のアイドルになって、立山達が脇を固めたら厄介だ。ユメイちゃんが強
くなりすぎて、手を出せなくなっても困る」

「良く言うね。今もあたしが仲立ちしないと寄りつけない癖に。感謝の心が足りないよ」

「それは後で愛で補うよ、さとみ……さて」

 痴話喧嘩の様な会話を暫し見せられた後、

「オレが神原と大野の仲を勘ぐった訳を知りたいんだろう? 殆ど誰も噂しない剣道少女
の醜聞を、どうしてオレが察したのかって」

 わたしは素直に頷いた。これは出所不明な噂ではない。上級生の間でも殆ど出回ってな
い、池上先輩発祥の情報だ。だから確かめられる。信憑性を、わたしが聞いて吟味できる。

 彼にはわたしを剣道部から遠ざけたい動機がある。確かめずに話を鵜呑みしては危うい。
サクヤさんから教わった。情報とはそれを語る者の背景事情も見極めなければならないと。

 志保さんはわたしを心配し、やや剣道部に入って欲しくなく、聞いた情報をほぼその侭
わたしに教えてくれた。池上先輩は果たして。

「あそこは、良くない。誰がって、神原でも部員の男拾六人でもない。顧問の大野だよ」

 誰も奴を分ってない。爽やかな熱血教師の裏に、奴は怖ろしい素顔を隠している。オレ
も全部見た訳じゃないけど、見たくもないね。奴は本当に巧妙に本心も本性も偽装して、
隠している。剣道部員も先生父兄も誰も気付いてない。気付いているのは多分、神原だけ
だ。

 表情にも声音にも、怯えと怖れが窺えた。

「オレがユメイちゃんに直接話さず、海老名を使って回りくどく情報を伝えたのも、その
方がオレの危険が少ないからだ。大野はユメイちゃんに目を付けている。オレが1年生の
教室へ、直に話しに行けば奴に気付かれる」

 海老名さんからの情報だけで、わたしが剣道部に尻込みした方が池上先輩には良かった。
こうして直に話す事も余り好ましくないけど。こうして人目を避けて話すなら、未だまし
と。

 でも池上先輩は大野先生の何を知ったと?
 大野先生は唯生徒と恋仲なだけではない?
 彼は大野先生の、何に怖れ怯えているの?

 生徒と先生の恋は確かに問題で醜聞だけど。池上先輩が怖れ怯える意味は薄い。神原先
輩と先生が男女の仲でも、肉体関係に至っていても。当人達は知られて拙い事柄だろうけ
ど。

 池上先輩は深呼吸をして落ち着きを戻し、

「オレ、去年の秋迄神原にも良く声を掛けていたんだ。さとみも知っていると思うけど」

「散々悩ませて貰ったよ。あんた、神原先輩には本気じゃないかって、少しだけ心配で」

「あの時なぜオレは神原に付き纏うのを止めたのか、話さなかったよな」「毎回手厳しく
撥ね付けられたから、いい加減諦めたって」

 池上先輩が苦い、苦い笑いを見せた。それは敗戦を繕う様な、失態をごまかす様な笑み。

「確かに毎回撥ね付けられたけど。何度手を出し声を掛けても、すげない答だったけど」

 でも神原はオレを嫌ってなくて。何て言うのかな。恋愛対象ではないけど、毎日陽気な
ピエロとして、近くを動き回るのは許容され。だからオレも、長期に間近で関り続けられ
た。

「それでもオレは、彼女の傍を確保できれば、その先に繋げられると下心満々だったけど
…。
 オレの付き纏いを止めさせたのは大野だ」

 突然神原が俯き加減になって。あの強い神原が一月位、何も喋らず学校でも、放心した
様に時を過ごし。間近で隙だらけだったから、今こそオレが彼女に踏み入るチャンスだっ
て。

「放課後突然俺の前に大野が現れた。神原の話だと思ったよ。オレと奴は接点なかったし。
剣道部顧問なのは知っていたから。神原はなぜか知らないが消沈していた。そっとして置
いてくれって、言って来ると思っていた…」

 彼に聞き入れる気はなかった。彼はしつこい上にへこたれない。拒んでも聞き流し追い
払われても舞い戻る。神原先輩も一日中剣道部員ではない。部活以外の時に接触を望めば。
人の行動を、意に反して縛るのは至難の業だ。

 でも池上先輩の口から出た言葉は衝撃で、

「黙らされたよ。対抗手段に、オレの恋人を再起不能にするけど、良いかって問われた」

「……!」「ちょっと、祐二……あんたっ」

「爽やかな真顔だった。あいつは、大野は」

 女の子をズタズタにする事をも厭わない。

 神原を守る為じゃなく囲う為に。奴だけの物にする為に。群がるオレが邪魔だったんだ。
色恋に疎い剣道部員と違い、色恋目当てで神原に近づくオレは、奴の邪魔だった。なぜ?

「今更訊くかよ。神原の落ち込みと体調不良。以降月一回の剣道部部活禁止と、尚確保さ
れる格技場。そこに必ず揃う神原と大野。進路相談に遅く迄残り、夜も休日も特訓に添
い」

 何だと思うよ? 一体何があると思うよ?
 牧夫が山羊を守るのは山羊の為じゃない。
 その身を捌いて炙って貪り喰う為だろう。

「祐二、あんたまさか、あたしに危害加えるって脅されて、神原先輩への手出しを止め」

 そんな対抗手段は普通考えつかない。大野先生は教職員なのだ。もっと他にも諫めると
か指導するとか手はあるだろうに。それでは池上先輩に効かないと見切っての言動なのか。
でもそれは脅しと言うにも常識を越えていて。

 衝撃で最後迄言葉を紡げない聡美先輩に、

「怖かったんだよ。そんな事を平然と真顔で言える大野の神経がさ。奴は本気だった…」

 池上先輩の言葉や仕草に、嘘は感じない。

「そのお話しは、先生や他のお友達には?」

「言える訳ないだろう。誰もが大野の表の顔に騙されている。好いて慕っている。俺は見
境なく女に声を掛けると評判悪い。どっちの言う事が真実っぽいか。それに、少しでも漏
れたらマジでどう出るか分らないぞ、奴は」

 逆に誰かから噂が出ないか、怖くて怖くて。それがオレの所為にされそうで。報復がさ
とみに来るとは限らない。奴は心の準備を告げただけだ。オレに直接、来るかも知れない
…。

「ずっと1人で抱えているのが心に重かった。誰かに話したかった。でも話す訳には行か
ず。ユメイちゃんが剣道部誘われていると聞いて、大野が乗り気だって聞いて。危ないっ
て…」

 彼はわたしを案じ、危険を冒してお話しを。志保さんを巻き込みかけた事は今は問うま
い。池上先輩も怯え怖れていた。それでもわたしを案じ情報を伝えてくれた。お陰でわた
しも事がかなり視えて来た。己が為すべき事迄も。

 右隣で震えるもう1人に軽く身を添わせ、

「聡美先輩、大丈夫です。先輩は1人じゃありません。池上先輩は今迄1人だったけど…
…聡美先輩にはわたしと池上先輩がいます」

 温もりと肌触りで安心を促す。強ばる身と心をほぐす。怖い事実だけど、聡美先輩にも
危害が及ぶ怖れがある以上、知って貰うのは正解だった。その不安や怖れはわたしが拭う。
わたしと池上先輩が添う限り独りではないと。

 端からは、わたしが甘え縋って見えるかも。聡美先輩は背が高く胸も大きく、大人っぽ
い顔立ちもあって強く見える。わたしは大平原と迄は言わないけど、胸も控えめで背も低
め。

 やや見上げた姿勢で揺れる瞳を覗き込み、

「この緊迫は長くは続きません。わたしが何とかします。それ迄少し、我慢して下さい」

 お前、何かする積りかよっ。池上先輩が、

「女の子が何とか出来る相手じゃないぞ…」

 ユメイちゃんが優等生でも、1人の証言じゃ信じて貰えない。奴は大人で卑劣で狡猾だ。
オレは具体的に何かされた訳でないし、会話も記録に残ってない。奴は先生や父兄に信頼
されている。逆にユメイちゃんや周辺に危険が及ぶ。奴は確実に影で口封じに動いてくる。

「ユメイちゃんが幾ら強くたって、相手は大人の男で、剣道で神原が敵わない程なんだ」

 何かあっても信じて貰えない。酷い事されて告発したとしても、奴の仮面は剥がれない。
そう言う狡賢さは、子供の及ぶ処じゃないぞ。

「オレはユメイちゃんが危険に近づいて欲しくなくて、事実を伝えたんだ。一緒に闘う積
りもなければ、これ以上大野に深入りする積りもない。危ない事や痛い事は避けようぜ」

 口を噤み身を低くしてやり過ごせば。大野には神原がいる。少なくとも来春迄はお取り
込みだ。ユメイちゃんへの手出しも気紛れさ。

 池上先輩は本当にわたしを心配してくれて。
 思わず一歩前に出てわたしの両手を握って。

「勝てない相手には、逆らうべきじゃない。
 もう大野や剣道部に近づくな。神原にも」

 右隣でこの二の腕に両手で触れて、わたしを案じてくれる柔らかな人も、無言で頷いて。
わたしは無謀を為す人と思われているのかな。2人とも息吹が届き合う位顔が間近く、真
摯に澄んだ瞳が綺麗で、その親愛が強く確かで。

 2人を見上げ、わたしは静かに微笑んで。
 池上先輩も聡美先輩もわたしの大切な人。
 不安や怖れを抱かせたくない大事な先輩。
 極力心配を招かない様に、事実を応える。

「大丈夫です。剣道部には入りませんから」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 放課後、掃除を終えた報告に職員室に入ったわたしを、呼び止めたのは大野先生だった。

「奥寺先生達に、羽藤の部活重複所属に了承頂いた処だ。板倉と多少問題があった様だが、
羽藤が巧く収拾したお陰で痼りも残るまい」

 周囲で先生方が頷いている。大野先生はわたしの剣道部入部の既成事実化を進めていた。

「大野先生、わたしは剣道部に入るとは…」

 先生はその侭、放課後の剣道部に歩み去って行く。わたしは掃除の報告をせねばならず、
その気がない事を奥寺先生達には述べたけど。一度出た噂の伝播を止め難い様に石は転が
り。

 大野先生に釘を刺すにも、放課後では格技場の剣道部に顔を出さねばならない。人目に
はわたしが何度も見学に行って乗り気と映る。翌日午前の休み時間、3年生の教室から出
た大野先生を廊下で捉まえ、真意を問うたけど。

「環境整備だよ。羽藤がその気になった時に、速やかに手続する為の。入部するもしない
も羽藤の決断だ。それは変ってない」「……」

 巧い逃げ口上だった。わたしには自由意思だと建前を語り、他の先生や生徒にはわたし
が剣道部入りする印象を与え、その為の動きを人目に見せる。外堀から埋めていく考えだ。

「立山や杉浦には、歓迎会準備を派手にしない様に言ってある。万が一羽藤が剣道部入り
を翻意すれば、消えてなくなる話しだから」

 往来の中で人に聞える様に言う。これも彼の思う壺だった。密室で語れば好きに変形さ
せて広め、衆目の前ではそれらしく聞える様にお話しを導く。彼は狡猾に賢い大人だった。

「羽藤の道着も注文した。女の子はやはり白無垢が似合うから。金は良いよ。今回は見学
に来てくれた事へのお礼として、俺が払う」

「そんな高価な物は頂けません。それにわたしは未だ、剣道部に入ると決めた訳でも…」

 先生は池上先輩の見立てを越えて、わたしに入れ込んでいた。今年わたしを望んでいた。

「この前軽く触れた時採寸させて貰ったけど、合わないなら取替は利く。仮に剣道部に入
らなくても、時々遊びに来て貰うだけでも歓迎するさ。その時にでも着て貰えれば充分
だ」

「子供がお返しできない金額の頂き物です」

「気にする事はない。神原にもこの位はしているんだ。田舎で剣道をやる女の子は希少だ
からね。少しでもバックアップしたいんだ」

 神原も既に都市部の大学に、剣道で推薦入学の話しを進めている。進学には出費が嵩む。
特技のある子はそれを活かして負担軽減する方が良い。俺が教員免許を取った母校だけど、
剣道では結構名の通った処でね。知人もいる。

「今度の大会では神原を見に来て貰う予定で、出場すれば推薦が内定する。羽藤も神原程
強くなくても、剣道部に入ってくれれば、俺が母校に授業料免除の推薦入学を話し出来
る」

 お金の話しで退けようとしたら、はぐらかされた。熱意の籠もる声で進路の話しをされ。
両手でこの肩を軽く抑えられた。肌を通じて流れ込む想いの真を、わたしは今日は耳を塞
がず目を逸らさずに、その奥の奥迄覗き込み。

「大野先生、あなた」「分って貰えたかな」

 池上先輩から話しを聞いて置いて良かった。
 多少でも心の備えが予め出来て幸いだった。

 この人は、彼の表の爽やかさは全て建前だ。
 剣の道も武士道も生徒思いも偽善の仮面だ。
 正樹さんに似た優しげな容貌で心は野獣か。

 受け止めて崩れず何とか自身を保てたけど。
 周囲は美形に見とれたと映っただろうけど。

 微かな緊張は恥じらいではなく衝撃の故だ。
 わたしの力を知らない彼はその侭歩み去り。

「先生、柚明を剣道部に誘うのは止めて!」

 背後から呼び止めたのは、神原先輩だった。
 わたしを一度睨み付けてから、強い声音で、

「柚明に……女に武道は向かない。その気にさせて男ばかりの剣道部に入れてから、自由
意思で辞めるのは難しい。もう誘わないで」

「おいおい神原、俺は羽藤の入部は羽藤に委ねている。やっているのは、羽藤がその気に
なった時の為の環境整備だ。杉浦達の歓迎会準備を止めたいなら、神原から言ってくれ」

 建前は確かにそうなので。神原先輩は一瞬詰まって。でもそこで退く訳には行かないと、

「だって剣道着や進路の話しや、剣道部に入る事が前提の様な」「それは羽藤だけにして
いる訳じゃない。神原にもしている筈だが」

 私は剣道部員です。柚明は違います。
 神原先輩が更に強く声を発するのに、

「嫉妬は美しくないぞ。神原がそんな事を言い出すとは、思ってなかった」「……っ!」

 剣道部員が羽藤を喜んで迎えたがっているのは間違いじゃない。入部するか否かは羽藤
の自由意思だが、部員達にも喜ぶ権利はある。

「剣道部に入る羽藤を余り嫌わないでくれ」
「私は……何も、そんな、嫉妬なんてっ…」

「羽藤には剣道部に入る自由もあるんだぞ。
 神原が嫌っても強制して拒む権利はない」

「先生っ、私はっ!」「苛めないでくれな」

 これでは神原先輩が、わたしが部員に喜ばれた事に嫉妬して、剣道部入りを拒んだ様に
人目に映る。或いは唯一の女の子として得て来た先生の好意独占を、失うと嫉妬した様に。

 違うのに。この強く美しく公正にまっすぐな人が、そんな狭い想いを抱く筈がないのに。

「羽藤。俺は羽藤が一度でも入部すると言ってくれれば、例え誰が反対しようとどんな困
難があろうと、必ず部員として守ってやる」

 断固たる意思を前に神原先輩が言葉を失う。それは表に出た善意ではなく、彼の本当を
知る神原先輩に向けた、裏の意思表明も兼ねて。本気になった彼は神原先輩にも止められ
ない。

 彼が歩み去った後、興味津々な3年生を前に、神原先輩は正面からわたしの両手を掴み。

「柚明……あんたは、絶対に剣道部に入っちゃダメだ。理由はいつか、話せる時が来たら
言うから。今は私を信じて、誘いを断って」

 ダメなんだ。ここの剣道部だけはダメだ。
 絶対あんたを入部させる訳には行かない。

 端からは、神原先輩がわたしを嫌い、剣道部入部を拒む様に強いて見えたかも知れない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「済まなかったな。何か俺達、勝手に羽藤が入部してくれると決めて、舞い上がって…」

 杉浦先輩が少しだけ不納得を漂わせながら、それでもわたしに謝ってくれたのは放課後
で。人目を避けた体育館裏、格技場近くでだった。わたしがお話しを望んで来て貰ったの
だけど。

「でも、おかしいな。立山先輩達は、羽藤が入部を決めたと大野先生に聞いて、歓迎会準
備を始めたって。オレは直接聞いてないけど。まぁ、いずれにしろ羽藤には迷惑な話だよ
な。未だ決めてないのに入部前提で語られちゃ」

 再度頭を下げる彼にわたしは逆に恐縮し。

「ごめんなさい。わたしが見学の場で断っておけば」「それも羽藤の所為じゃないだろう。
大野先生は暫く考えてくれと言っていたし」

「色々ご迷惑掛けて騒がせたのは事実です」

 他の剣道部員にも面と向かって謝らねば。
 でも今のお話しの本題はこの事ではない。

「俺に……相談? それも、恋の事って…」

 俺、剣道はともかく色恋は詳しくないぞ。
 杉浦先輩が珍しく弱気に困惑気味なのに。

 わたしは一度視線を逸らして彼の落ち着きを待ち。自身の心の内も整理して落ち着かせ。

「男の子の感触を教えて欲しいの。男の子は、告白する女の子の何を重要と見なすのかを」

 わたしが好いた人に恋心を告げるとして。
 胸に秘めた想いの真実を打ち明ける時に。

「わたしが必ずしも清い身ではない真実迄、全て打ち明けるべきと先輩は想いますか?」

 そう言う女の子の告白を先輩は受け容れますか? 或いは、喜んで貰えないでしょうか。

「清い身ではないって、羽藤? ……お前」

 杉浦先輩は本当にまっすぐ優しく、色恋に疎く。女の子を虐げる酷い事を想定できない。
明言しないと中身が伝わらない。わたしは心の痛みを押し殺し、女の子ではなく初めて男
の子に、中学2年の冬に己がされた事を語り。

 唇を8人に回され、唾液を喉に流し込まれ、全裸の姿を晒されて。股も無理矢理開かさ
れ、両の乳房に吸い付かれ、殴られ蹴られ身を揉まれ。男女多数の欲情と憎悪に嬲られ穢
され。両乳房の先端も切り落されかけた。女の子の初めてを奪われずに終えたのは、僥倖
だった。

「羽藤、お前っ!」「男の子に告白する際に、この事は明かすべきでしょうか? 隠すべ
きでしょうか? 聞かされた人はどう思うでしょう? 杉浦先輩だったらどう感じま
す?」

 男の子は本当に真を知る事を望みますか? 知って尚好きでいてくれますか? 許して
告白を受けて貰えますか? 或いは忌み嫌いますか? 身の穢れは心の絆も断ちますか?

「先輩の、男の子の本音を、教えて下さい」

 杉浦先輩にはわたしの事柄だと思って貰う。
 わたしの相談だと取って答を貰わなければ。

 男の子一般の本音を知りたいと言うのは口実で、杉浦先輩の在り方を見せて欲しかった。
騙すというか試すというか非礼な手法だけど。彼の在り方を見極めなければ、ならなかっ
た。

 これは後で打ち明けて、謝る事も出来ない。わたしの真意や背景・事情は、終った後で
も明かせない。ずっとわたしが、負い続けねば。それでもわたしは、杉浦孝を知る事が必
須で。己の心身の傷を知られる羞恥等は小さな事だ。

 声の届く処で、耳を欹てている気配がある事は承知している。わたしの穢れから全て耳
にして、杉浦先輩の返答に注視している事も。でも今はそれを明かして場を壊す事はしな
い。問に集中し、答を紡ぐ彼に全身全霊で対して。

「お前は、辛い経験を経ているんだな……」

 男ばかりの剣道部に、入りづらい心情はむしろ当然だろう。杉浦先輩はやや俯き加減に、

「羽藤は語らない方が良いと、俺は思うな」

 男の問題じゃない。女の子にそんな傷を語らせる事が罪作りだ。嘘や隠し事を嫌う俺も、
そこ迄明かせとは言えないよ。男がショック受ける云々よりも、語る羽藤の方が辛すぎる。

「どういう経緯を経ても羽藤は羽藤だ。大野先生から聞いた。クラスの女の子庇って、ウ
チの部の板倉を含む男子達に絡まれたって」

 済まなかったな。剣士が女の子を苛める多数に加わるなんて。美咋先輩や先生に叱られ
て、担任の先生にも話しが通り、本人も反省した様だから、引きずる事はないと思うけど。

「羽様小の頃から変ってないな。賢く優しく綺麗に静かで心が強く。常に他人の為に己を
尽くし。剣道部に入ろうが入るまいが、傷や穢れがあってもなくても、羽藤は羽藤だよ」

 そう言う経験はないに越した事はないけど、あっても羽藤の値が落ちる事はない。無理
に事実を聞かせて相手を驚かせる必要はないさ。いつか知られても大丈夫な程、強く心繋
げば。

「心を強く繋げば受け容れて貰えますか?」

 彼の左手をこの両手で触れて包み込むと。
 その手はすっと引っ込められて頭を掻き。

「そうだな。俺は、受け容れたいと思う…」

 わたしは少しだけ決まり悪そうな杉浦先輩の瞳を見上げてから、柔らかにお辞儀をして、

「有り難うございます。失礼な話しを、不躾な問をして、済みませんでした」「ああ…」

 そこでわたしは物陰に隠れた気配を向き。
 それで杉浦先輩もその人に気付いた様で。
 その人物も気付かれていたと察して現れ。

「恋語りを邪魔したかね。盗み聞きなんてやり始めちゃ、私も終りさね」「美咋先輩…」

 神原先輩がばつの悪そうな顔で歩み来た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「済みません。放課後の大事な時間を。これ以上お2人の部活の障りになっても拙いので、
これで失礼しますっ」「……待ちな、柚明」

 去ろうとしたわたしを神原先輩は呼び止め、

「杉浦とはいつでも話せる。今は柚明に付き合って欲しい。部活には、少し遅れるけど」

 柚明と2人で話したい。心配そうな杉浦先輩に神原先輩は珍しく頼み込んで了承を得て。
場所を変えようという先輩に従って、校舎の屋上に来たわたし達は、その端で2人並んで。

「済みません。神原先輩のたいせつな杉浦先輩に、失礼で厄介な相談事を持ち込んで…」

『?』を表情に見せる神原先輩にわたしは、

「先生に気付かれない為に、杉浦先輩への想いをずっと隠していたんですね」「あんた」

 そう言う察しは、異様に優れているんだね。
 苦労して杉浦の片想いだと装っているのに。
 諦めた感じで少し悔しげに語る美しい人に、

「確証を得たのはついさっきです。杉浦先輩に持ちかけたわたしの恋の相談に、先輩は分
け入らず、素通りせず、注視していました」

 いつも人目を憚って特別扱いはしなくても。
 心に留めた人だからつい気になってしまう。

 池上先輩の聡美先輩の様に脅しを掛けられない為に、報復の標的にされない為に。神原
先輩は杉浦先輩に想いを返す事をずっと抑え。でも、抑えると言う事は、神原先輩も彼を
…。

 人の恋心は外野が触れるべきではないけど。
 親密な語らいが神原先輩に誤解与えたなら。
 2人に亀裂が生じる前に縫い止めなければ。
 双方共わたしのたいせつな人だから。でも。

「その様子なら、あんた気付いているんだね。部員の誰にも知られてない私と大野の仲
を」

 私があの男の目に付かない様に、杉浦への想いを隠していると、読み切ったって事はさ。

 はい。真顔の問にわたしも真顔で頷いて。
 神原先輩は、苦々しい感情を今は隠さず。

「なら、良いさ。所詮私と杉浦は結ばれない。
 先に大野に身を繋がれた私には、もう、ね。
 あんたがあいつを想うなら、告白して答を貰うと良い。少し鈍くて頭が固くて、融通が
利かないけど。まっすぐでいい男だよ、あいつは。この手で掴めないのが惜しい位にね」

「ご、誤解ですっ。神原先輩、わたしは…」

 あの問答は聞かせるべきではなかったか。
 神原先輩は苦い笑みを浮べた侭詞を続け、

「杉浦は鈍いね。女の子が裸を晒すよりきつい問を敢て発したというのに、腰が引けて」

 あれは男子一般の本音を訊いたんじゃない。杉浦孝の本音を訊いたんだ。告白する男な
んて他にいない。女の子が本当に想う人以外に、気軽に話せる内容ではない事位、聞けば
分る。じれったい答を。最善の答は優しく抱き留め、『二度と酷い目には遭わせない。俺
が守る』だろうに。最後迄友や先輩の立場で答を返し。もっと言葉の裏に潜む想いを読み
とれってね。

 わたしに向ける笑みが哀しげで、心に痛い。好いた人がわたしとの恋を叶える事も望む
心の強さは涼やかだけど、その美しさが悲壮で。

 言葉を挟む暇もないのは、彼女がわたしの答も問も欲してない為だ。彼女は杉浦先輩を
盗られ失うと怖れつつ。それを止められない自身の現状に苛立ちつつ。乱れる心を必死に
抑え。杉浦先輩の前途を想い、わたしの前途を想ってくれて。自身の恋心を諦めきれぬ侭、
わたしを祝福しようと無理に心を奮い立たせ。

 触れなかった。恋敵と見なされたわたしが余計な詞を挟み込めば、彼女の心が破裂する。

「落第の答を返さなかった事で、許してやっておくれ。本当にまっすぐ真面目で、努力好
きな良い奴なんだ。欠点迄が長所に見える奴なんだ。私は、もう手を伸ばせないけど…」

 身の不徳の致す処だ。それは仕方ないよ。
 神原先輩は己に言い聞かせる様に俯いて、

「私は、大野と引き返せない処迄来たから」

 あんたは己の傷を、過去を穢れを私にも聞かせた。それは私の傷を知ったと、語りかけ
てくる為かい。一方的に知った立場じゃなく、互いに弱味を恥を晒して、清く正しく偉い
立場からの同情じゃなく、対等に話したいと?

「済みません。神原先輩と大野先生の話しを聞いて、心配になって。何か出来ればと…」

 瞬間先輩の表情が再びきつく引き締まり。

「出来ない事はしちゃダメだ。あんたに禍が掛るだけだ。触らなければ祟りはないんだ」

 今の処大野は他の女生徒に手を出してない。
 手を広げれば人目に付くと奴も分っている。
 私だけだ。そして私だけで良い。生け贄は。

「あんたの為に言っておく。これ以上剣道部に、私や大野に関るんじゃない。深入りすれ
ばあんたが取り返し付かなくなる。何も知らずに言わずに唯剣道は女の子には不向きだと、
大野の誘いを断るんだ。今なら未だ間に合う。
 私の様になる前に早く私や奴から離れな」

 そこには剣道部員みんなの好意や、杉浦先輩や大野先生を、奪われるとの怖れや嫉妬は
微塵もなく。わたしを想う優しさと焦慮のみ。この人は自身の事ではなく、わたしを案じ
て。

 夕方遅く、最後の独り迄格技場で練習をしていた先輩に、強引に迫る先生の像が視えた。
必死の抵抗を打ち砕き。男性を識らない神原先輩を無理に組み敷き。唇を重ね胸を揉んで、
下着を剥いで股を開かせ。手錠を掛けて手摺に縛り。大事な処を貫く様を、剣道部の備品
のホームビデオで、脅す為に撮って残して…。

 正樹さんに少し似た優しげに爽やかな顔立ちで、彼は昨秋から鬼畜の所行を幾度も続け。
女の子の初めてを失わずに済んだわたしの痛手が甚大なら、先輩の心身の傷はそれを凌ぐ。
しかも彼女はそれを、誰にも相談も訴え出る事も出来ず。涙を零して縋る事さえも出来ず。

 唯1人一年近く酷い事をされ続けて止まず。彼は月1回の部活禁止のみならず、日々の
練習や進路相談で、頻繁に夜遅く迄彼女に添い。それで神原先輩も含む剣道部員に、彼は
熱く爽やかに武士道や剣の道を、語っていたと? 濁った心だの正義だのを口にしていた
と?

 震え掛る心身を己の意思で抑え込む。非道を受けた当人を前に、わたしが我を失う非礼
は為せない。今は尚訊かねばならぬ事が、考えねばならぬ事が、為さねばならぬ事がある。
優先は常に己の心の起伏よりたいせつな人だ。

「先輩は、大野先生を愛して体の関係を持った訳では、ないのですね。そして今も尚…」

 大野先生は独身だ。不倫の問題は生じない。教員の職業倫理には触れるけど。高校生に
は神原先輩の様に、大人並みに綺麗な人もいる。教員生徒の垣根を越えて、愛が生じる事
も皆無ではない。相思相愛なら事情は変る。でも。

 そうでもないなら。そこに愛もないなら。
 先輩は言葉では応えず、青い空を見上げ、

「柚明も大野に進路の話しされていたね?」

 剣道の推薦入学の話し。私も現在あれを進めている最中でさ。剣道と進路握られた私は、
身動き取れないのさね。あんたは違うだろう。

 わたしは敢て沈黙して話しの続きを促す。

「兄達が、剣道一直線な人でさ。2人とも」

 2つ上と、その更に2つ上。今は2人とも首都圏で大学生さ。ウチは幼い頃母さんを病
で亡くし、父さんが3人兄妹を育ててくれた。父さんは病に負けない強い子になれと、兄
達に剣道を習わせて。それを私も傍で見習って。

「年上の兄達と練習一緒した所為で、そこそこ強くなって、中学も高校も剣道部で来た」

 男だらけも気にならなかった。家に帰っても男ばかりだから。胸が膨らみ出す迄は自分
が女だって自覚もなかった。この侭兄達を追い続け、剣道を続けたい。好きになっていた。

「いつの間にか、剣道その物に惚れ込んで」

 だからこそ剣道の顧問で達人の大野先生が為した事は、先輩も受け容れるのが辛いのか。
尚剣道を辞められないのも本当に好きだから。でも続ければ続ける程今の先輩は辛さも重
ね。

「それが難しいと見えたのは去年かね。兄達が大学に進学してから、家計が逼迫してきて。
私が後を追うのが難しいって実感できてきた。部屋を借りて生活し、授業料や教材費払っ
て、剣道の強い私立なら他にも寄付金が要る…」

 貧窮に喘いで迄して、女を大学にやるのか。そんな声が親戚や近所から聞えて。男と女
の違いを感じた。実際父さんもやりくりは限界に近くて。これ以上家計に負担は掛けられ
ず。

「大野が持ってきた話しは、渡りに船だった。好きな剣道をやれて授業料などが大幅に免
除。普通は伝もない都市部の名門校から、担当者が見に来てくれるだけでも凄い話しだよ
…」

 でもそれで私は奴と骨絡みの関係になった。
 それで私は奴の陵辱を受け容れざるを得ず。

 私の剣道推薦は、奴と奴の前の勤め先との私的な繋りだ。学校同士の関りじゃない。大
野が一言ダメと言えば、話は瞬時に霧散する。私の運命も人生も、大野の掌の上にあるん
だ。

「私はこの関係を利益に繋げている。とても酷い事されたなんて言い出せる立場じゃない。
身体を売って剣道推薦を得たに近い状態だ」

 大学行って経観塚を離れれば、自然に奴との関りは終る。あと拾ヶ月か。それ迄の辛抱
と思えば。今更女の子の初めてを取り戻す事も出来ないし、訴えても奴は他の教員や生徒
父兄の信頼が篤く、1人の証言では崩せない。

 剣道推薦欲しさに私が迫っただけにされる。大野は私以外には爽やかで指導熱心な面し
か見せない。人が好む青臭い理想論を巧く騙り。奴の狡猾さは柚明も実感し始めているだ
ろう。

 大人には、大人の男には女の子は敵わない。
 剣道でも、腕力でも、言説や狡賢さでもね。

「取り返しの付かない事は諦めるしかない」

 出来る事を前向きに。為せる限りを尽くす。
 神原先輩はそこで苦く痛々しい笑みを浮べ。

「もう私や大野や剣道部に近づくんじゃない。
 あんたが多少出来ると私は知っているけど。
 一度対戦してみたいと思っていた程だけど。

 私が悟れる事は恐らく大野も見抜いている。
 大人の達人に、大野に女の子では及ばない。

 女は負けたら終りだ。男は何度でも犯す迄挑めるけど、女は一度でもやられたらお終い。
特にあんたの甘さ優しさでは、傍の誰かを人質に脅されただけで、手も足も出なくなる」

 柚明にはこの先3年近く高校生活あるんだ。
 大野と同じ屋根の下で過ごし続けるんだよ。
 敵に回すには危険すぎて手強すぎる、奴は。
 打つ手がないと僅かに悔しさが滲む先輩に、

「春に剣道部に誘わなかったのも、最近わたしに剣道は向かないと反対してくれたのも」

「あんたは未だ取り返しが効く。今ならね」

 ずっとわたしを想い案じて、いてくれた。

 大野先生の意に反する危険を承知で。部員や周囲の誤解を顧みず。わたしに誤解される
怖れも厭わず。わたしに同じ痛み哀しみを与えたくないと。必死に守り庇ってくれていた。

 自身こそ誰にも理解されぬ悲惨の中に独りいるのに。誰も助けを望めない苦衷に自身が
いるのに。取り返しの付かない痛み哀しみは、現在進行形なのに。絶望と無力感の中で必
死にわたしを守ろうと。わたしが悲嘆に陥らない様に。人目を憚らず食い止めようと必死
で。杉浦先輩にも明かせない悲痛を抱えた中で尚。その杉浦先輩を奪う恋敵と見なした女
の子を。

「神原先輩……!」「美咋で良いよ、柚明」

 失礼を承知で、わたしは神原先輩に正面から身を添わせ、その首筋に頬合わせ。想いを
癒しに変えて伝えたかった。その痛み哀しみを肌身に感じたかった。拭い和らげたかった。

 先輩は拒まず厭わず、わたしの抱擁を受け止めてくれて。この背に繊手を回してくれて。
哀しみを経て人は強く優しくなるのだろうか。

「神原美咋は、羽藤柚明のたいせつな人っ」

 清く正しく強い人。悲しみを慈しみに変えられる慈悲の人。綺麗に優しく可愛い女の子。

 せめてその心を支えさせて。先輩の痛み哀しみを拭う術もないわたしだけど。そこ迄深
く熱く想って貰えて本当に嬉しい。わたし美咋先輩を全力で守ります。心と力の及ぶ限り。
心底たいせつに想った人が、本当に好いた人と想いを繋ぎ、願いを幸せを叶えられる様に。

「私を女の子言ってくれるかい。可愛いと?
 男勝りで近寄る女子も多くないこの私を。
 あんたは、本当に愚かな程甘く優しいね」

 先輩はこの想いを受け止めてくれて。胸が胸をつぶし合う程に強い抱擁で応えてくれて。
両の頬から滴を零しつつ肌身に頷いてくれて。

「柚明は無理をするんじゃない。危うい橋を渡る必要はない。あんたは私が、守るから」

 あんたの想いがあるだけで、私は強く支えられる。生きる気力となって、守りにもなる。

「大好きだよ、私の可愛い妹」「美咋先輩」

 思いが詰まって言葉が出ず、わたしは唯頬を合わせ、更に強い親愛の想いを返し。優し
い柔らかさ、愛しい強さ、涼やかな賢さ。気高く美しいこの人を、わたしは必ず取り返す。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 陰鬱な雲の低く漂う朝8時過ぎ、セーラー服姿のわたしは格技場に歩み来ていた。休日
の校舎に人気は少なく、体育館裏は静寂に満ちて。輪番では今日の格技場は剣道部だけど、
月一の部活禁止で部員の男の子は誰もいない。

『神原から何か聞かされたのか?』『はい』
 あの翌日、大野先生はわたしを進路指導室に呼び出し、何を話していたのか問うてきた。

『女の子は武道に向かないと。わたしは小柄で華奢で腕力もないので小成も望み難いと』

 それは美咋先輩が、常々語っている事だ。

『それだけか。他に何か言ってなかったか』
『とりとめもないお話しは、しましたけど』

 美咋先輩が自身の傷を敢て語って、わたしを剣道部から遠ざけようとした怖れを、先生
は感じ取っていた様で。わたしが尻尾を出さないのを、彼はやや迷いつつ一応は得心して。

 でも美咋先輩が執拗にわたしの剣道部を厭う現状に。わたしが腰が引ける怖れを抱いた
先生は、一気に事を進めようと決意した様で、

『日曜日の朝拾時、格技場に来て貰いたい』

 剣道部入部は羽藤の意思に任せるが、その判断材料に、是非見て貰いたい物があるんだ。

『部員に予め知らせると、羽藤を過剰に意識して常の姿でなくなりそうだから、部員達に
言わずに来て欲しい。俺も言わないで置く』

 わたしを巧く誰もいない格技場に招く彼の。
 目的はもう視る事も不要に推察できている。
 だからわたしは独り休日の格技場を訪れた。

 禍には、唯逃げて躱すだけでは避けられず、自ら飛び込んで退けなければならぬ時もある。

 でも校門を潜った頃から、不審な感触が。

【おかしい……格技場に人の気配が複数?】

 大野先生はともかく。部活禁止で誰も訪れない筈の格技場に、他に人の気配があるとは。

 相手の指定刻限に着く馬鹿正直は為さない。
 相手の事前準備を確かめる位の余裕を見る。

 本当はもっと早く来たかったけど、休日にこれ以上出立が早いと真弓さん達が不審がる。
今回は色々考え合わせた結果、サクヤさんや正樹さんには、敢て事前に何も話さなかった。

【争いの様な空気の乱れ。それにこの気配】

 格技場に歩み来るに従って、近い過去と現在の像が鮮明に脳裏に映し出され。そこでは
わたしの想定を越えた状況が既に始っていた。美咋先輩が押し倒され、彼に性交を迫られ
て。

『お願い、大野先生。私が先生から一本でも取れたら、柚明を諦めて』『嫉妬か、神原』

 美咋先輩は前日、彼に挑戦状を叩き付け。
 彼はこの日朝7時に先輩をここに招いて。

【壱時間も不要、参拾分あれば叩き潰せる】

 わたしが早く来る事は彼の想定外だった。

 美咋先輩の挑戦を退けて陵辱し、一息ついた頃にわたしを迎える積りで。体格も技も力
も彼が勝る。美咋先輩を蹂躙し、手錠を掛けて口をガムテープで塞いで。脇の更衣室に放
り込んで後、わたしを迎えて襲う手筈だった。

『何と言われても構わない。あなたの相手は私1人です。他の誰にも手は出させない!』

 美咋先輩はわたしの為に、勝ち目の薄い勝負を敢て申し出た。勝って約束で縛れる見込
みは薄い。むしろ負けても負けても諦めない想いを見せる事で、彼の心を揺らがせようと。
敗北もその後に伴う陵辱も蹂躙も覚悟の上で。美咋先輩は捨て身で彼を食い止めようとし
て。

『そんなに俺を独占したいか? 或いはそんなに羽藤が大切か? 自分の様な目に羽藤を
遭わせたくないとでも、想っているのか?』

『柚明は、私の可愛い妹だ。たいせつな人だ。男ばかりの中で育ってがさつな私を、可愛
い女の子だと、優しく綺麗だと言ってくれた』

 美咋先輩は、必死の決意を胸に秘め、闘う気合を瞳に込めて、剣道着と防具に身を包み。

『……良いだろう。一本でも、取れたらな』

 壱時間弱続いた勝負は悉く彼の勝ちだった。大人と子供か。男女の差か。全身全霊で挑
む美咋先輩を、大野先生は的確に受けて躱し反撃し。大野先生は持久力に響く年齢でもな
いので、勝負は繰り返す程一方的に優劣が見え。

 気概で天地は覆せない。正義なら勝てる程に武道も戦いも甘くない。心の在り方が野獣
でも卑劣でも、強者は強者だ。例え暴力でも。

 一本も取れない。相手が悪すぎた。同年代なら男子も倒せる美咋先輩だけど。大野先生
も男性の社会人で全国級の強さを持っている。

 それを百も承知で尚、美咋先輩は闘いを。
 勝てなくてもその心を動かせればと願い。

 何度打ち据えられても立ち上がり。でも。
 大野先生は慈悲を願える人間ではなくて。

 爽やかな武士道と生徒思いの建前の裏で。
 卑劣で狡猾な野獣の心で女の子を虐げる。

 わたしが感じた胸騒ぎは己の禍ではなく。
 わたしのたいせつな人に及ぶ危難なのか。

 わたしが訪れる直前迄ほぼ壱時間、闘い抜いて。その全てに敗れた神原先輩の膝が遂に
崩れる。竹刀が弾き飛ばされて、入口近くに転がって。その華奢な身に彼の両腕が伸びて、

「どれ、もう良いだろう? 腕を上げたというより気合で粘った感じだが。負けて汗だく
になったお前も、旨そうだ」「先生っ…!」

 息が乱れた美咋先輩を、組み敷いて防具を外し。抵抗をはね除け袴を剥いで下着を晒し。
大事な剣の修行の場を穢す非道に臨み。今や彼は教員でも剣士でもなく、女の子を襲う一
匹の獣だ。高校生にしては背も高く筋肉質な美咋先輩も、大人の男に抑えられては抗えぬ。

「全てに勝った以上、俺が羽藤に手を出す事はお前の公認で良いな。元々一本位取られて
も諦める気等なかったが。これからは俺が存分に愉しませて貰うぞ。今日一日、ここは鎖
された格技場、誰も助けられる者は来ない」

 戸が開かない。彼は万が一部外者が訪れる可能性に備えて、内から戸に錠を掛けていた。
わたしが来る予定の拾時迄未だ時間はあると。

 今のわたしなら、この木製の戸も蹴破れる。
 でもそこ迄する事はない。今のわたしなら。

「俺の意に反して挑戦迄した以上、懲罰も覚悟だろう? たっぷりお仕置きしてやるよ」

 剥き出しの大人の男の欲情に、美咋先輩が身震いする。初めてではなくても好まない相
手の性欲は厭う物だ。その怯えを彼は喜んで。

「本当にお前は良くできた性愛玩具だ。でかい乳も可愛い顔も媚びた体も、俺を誘う為に
良く育って。俺に貫かれる為に剣道部に居て。適当に強くて他の部員に強面通すのも、影
で俺に股を開くのも堪らんな。こんな田舎に飛ばされて、こんなオイシイ思いできると
は」

 精々叫べ。喘ぎも悶えも好き放題に張り上げると良い。幾ら響かせても外には届かない。
それはお前が上げているのではなくて、俺が上げさせている物だ。お前の全ては俺の物だ。

 初めてを奪っただけじゃない。俺はお前の全部を握っている。お前は何一つ逆らえない。
逆らって見えるのは、俺が許した範囲だけだ。そして俺は理由も事情も不要に適当にお前
に罰を下し、理不尽に虐げて、好き放題に犯す。人生も進路もお前の全ては俺の掌の上に
ある。

 唇を無理矢理奪い、両乳房を手で揉んで。
 太い足ががっちり胴体を抱え込んでいて。

 最早回避も脱出も叶う体勢ではなかった。
 ディープキスから唇を離されて、先輩は、

「私は、良いから。私は肌を許すから……柚明に手は出さないで。お願い、見逃して…」

 ほう。彼の瞳が細くなって、妙な輝きを。

「己は諦めても羽藤を助けたいか。……女のお前がそこ迄女の羽藤を案じるか。面白い」

 彼は取り出した手錠を美咋先輩の右手に掛けて、頑丈な手摺を通してから左手に掛けて。
その細身を立たせず座らせもせずに縛り付け。更衣室から取り出したのは、ホームビデオ
だ。

『部員の動きを撮影して欠点や短所・特徴を掴む目的』のそれで、彼は美咋先輩を穢す様
を撮っていた。手錠は撮影範囲を外れず陵辱する為の小道具だ。彼女が誰かに全てを明か
せば、彼もこれを人目に晒し全てを明かすと。故に美咋先輩は家族にも真相を話せてなく
て。

「今日は羽藤の処女喪失を撮る積りだったが前座にお前との交尾も撮ってやる。ここに後
2時間で羽藤も来る。願うお前の目の前で羽藤を泣き叫ばせて、貫き通すのも悪くない」

 或いは、犯されながら俺に請い願うお前の姿を、羽藤に見せつけるのも、良いかもなぁ。

 喜悦に満ちた顔で美咋先輩の袴を剥ぎ取り。
 下着姿を晒されて身悶えする先輩を見下し。
 美しい顔が絶望に固まるのを彼は愉しんで。

「そんなに俺から一本取りたいなら、今から俺の太い一本を欲しいだけくれてやるっ…」

「そんなことはさせないわ!」

 ヘアピンを差し込んで錠を解き、格技場の戸を開け放って、わたしは中に声を響かせた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 このタイミングが、ギリギリだった。他に美咋先輩を守り庇う術はない。間に合わない。

 助けを呼ぶ暇はなかった。先輩は袴を剥がされ下半身を下着のみにされていた。誰か呼
ぶ迄に彼女は彼に穢される。助けが来ても先輩の酷い場面が人目に晒される。声を掛けて
人を呼ぶと脅しても、止められぬ像が視えた。

『呼べよ。全てを明かせば神原も一蓮托生だ。同級生を苛めから守り庇ったお前が、親し
い先輩の人生を終らせる告発を出来るのか?』

 わたしと先輩の絆の深さを彼は感じている。
 わたしが愚かな程に甘いと彼は知っている。
 美咋先輩はわたしを守ろうと必死に闘った。

 わたしが彼女を捨て置けないと彼は分って。
 先輩を穢す手を止める代償にわたしを招く。
 わたしが直接止めに入るのと何ら変らない。

 卑劣で狡猾な彼だけを止め、美咋先輩を体のみならず心迄守り救う方法は、一つだけだ。

 それはわたしがここを訪れた、当初目的。
 格技場に足を踏み入れ、背後の戸を鎖し。

「大野さん。わたしが、あなたを止めます」

 近くに飛ばされた美咋先輩の竹刀を拾い。
 先輩を組み敷いた侭こっちを向いた彼に。

 竹刀の先を向けて彼を挑発し闘いを望む。
 わたしが彼を実力で止める他に術はない。

「わたしがあなたから一本でも取れたなら」

 美咋先輩を哀しませる事は二度としないで。
 二度とその身に肌に、穢い手で触れないで。
 欲情の籠もった視線も嘲る声も向けないで。
 その人生に二度とあなたの影を落さないで。

「わたしのたいせつな人から今後一切手を引いて。もうその健やかな日々を妨げないで」

 大野先生はわたしを値踏みする様に見つめ。
 正樹さん似の美しい顔に獰猛な笑みを浮べ。

「何をしているのです、から問わないんだな。俺と美咋のこの状態を見て我を失わず、俺
のこの貌を見ても逃げるどころか竹刀を向けて、美咋を助けようと闘いを挑むか。面白い
…」

 互いを守り合おうとして。まるで恋人同士だな、お前達。或いは女同士であれなのか?

 応える必要を感じないので無言を保つのに、

「なら一層ここで両方を、犯して従える意味がある。互いを互いの人質に出来るからな」

「そんな事は絶対にさせません」「ふん…」

 ここで逃げられたら、追い縋るのも絡め取るのもやや面倒と想ったが、却って都合良い。
承知で渦中に飛び込むか。奪われたく望むか。この俺に貪られ貫かれ悲鳴上げたく望むか
よ。

「良いだろう。まともに一本、取れたらな」

 美咋先輩から離れて彼がこちらに向き直る。
 手錠で手摺に繋がれた美咋先輩は声を強く、

「柚明、ダメだ。速く逃げて。あんたじゃ」
「先輩、少しだけ待っていて。今助けます」

 わたしは中へと歩み入り。彼は格技場の中央に歩み来て。拾歩程の間合を置いて正対し。
対峙して、改めて彼の肉体的な優位を感じる。高い背丈も筋肉質な太い手足も。均整の取
れた長身以上に。仕草も歩みも達人の域にある。

 わたしがそれを前に怯まず、尚対峙し続ける事にも不審を抱かず。美咋先輩の言う通り、
彼はわたしを只者ではないと喝破して、敢て誘い招いた。武道を嗜む女の子が彼の標的か。

「防具は着けなくて良いのか? 事ここに至れば俺も遠慮する積りはない。美咋のを使う
なら、着用する時間位は見逃してやるが…」

 彼は美咋先輩を犯す体勢に入って、胴や垂れや籠手は付けた侭だけど、面は外していた。
付け直す必要もないと言う事か。むしろ簡単に潰しては面白くないと、わたしの武装を望
む彼に、わたしは美咋先輩の竹刀を右手一本で突きつけ、無言で見つめ返して答に替える。

 獰猛な瞳が更に闘志を高める様が分った。
 美咋先輩は動けず固唾を呑んで見守って。
 曇天で電灯を付けない場内は昼尚薄暗い。

「神原程に時間は掛るまい……精々愉しませて貰うとするか。決着の先迄、含めてな…」

 お前に掛っているのは神原の乙女だけじゃない。お前の初めてだ。お前は俺に跪き、這
い蹲って肌身を許し、抱かれ犯され貫かれる。

「お前はもう逃げられない。逃げられたのに、敢て逃げず美咋と一緒に俺の懐に堕ちたん
だ。一生飼い殺してやる。お前も神原同様に俺の性愛玩具に貶めてやる。望んだのはお前
だ」

 正樹さん似の顔で、酷い言葉を口にして。

「叩き潰してやる。掛って来い」「はぁっ」

 瞬間だった。彼の右手を打ち据えて、彼の手に持つ竹刀を叩き落し。秒も掛らず元の位
置に後退し戻り終えたわたしを。彼は唖然を通り越し、呆然とした顔で見つめ返して来て。

 剣道及び剣術での優位は想定通りだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「これは、まともな一本になりませんか?」
「ば、馬鹿な……こんな、事が、あって…」

 最初に正対した位置からわたしは、何が起こったのか、未だ呑み込めてない様子の彼に、

「まともな一本でないと言うなら、再度挑みます。竹刀を拾って下さい。続けましょう」

 彼が簡単に負けを悟り、約束を受容する筈がない事は分っている。小柄で華奢な女の子
に一度や二度打ち据えられても、負けを認めたくない気質も。彼も負けず嫌いで誇り高い。

 美咋先輩が視界の隅で、驚く様は分った。

「ふんっ、今から始りだっ!」「はいっ…」

 期せずして、彼が美咋先輩に為した事をわたしが彼に為す事になった。わたしは彼をい
たぶる積りもなく、嫌悪や憎悪を叩き付けて発散する気もないけど。彼がわたしに剣道や
剣術で及ばないと呑み込むには、時間が掛り。

「なっ、馬鹿な。これは、一体どうなって」
「これは、まともな一本ではありませんか」

 再度叩き落された竹刀を再度拾って彼は、

「ふざけたマネを。今度はこっちが行くぞ」

 動き出す剣の向きも速さも伸びも見切れる。彼の竹刀を受ける事もせず鍔迫り合いもな
く、彼の攻撃より先にわたしの竹刀を彼に当てる。弐度、参度、四度、五度、拾度。悉く
小手を。この展開が、わたしの思い通りだと彼に示す。

「これは、まともな一本にはなりませんか」
「これは、まともは一本ではありませんか」
「これは、あなたが認める一本には……?」

「ふざけやがって!」「今からが本気だっ」

「認められぬなら再度挑みます。何度でも」
「あなたが認める一本を取れる迄わたしは」
「竹刀を拾って下さい。続けましょう……」

「くそ、認めんぞっ」「ぬく、もう一度だ」

 確かに彼は美咋先輩も及ばない達人だけど。体に恵まれ才に満ち努力も重ねた強者だけ
ど。元・当代最強の鬼切り役に鍛えられ、その闘いに対応し始めた今のわたしは、それを
凌ぐ。手を誤らない限り、わたしは彼が刃物を振り回しても傷つけず、傷も負わずに打ち
倒せる。

「未だあなたの認める一本はありませんか」

 彼が先輩からあげた勝数を超えた頃、彼に疲れが見え始め。全力の攻めが悉く空振って、
尚わたしのセーラー服にも竹刀にも掠らない。精神的にも肉体的にも、優位から踏み躙る
だけだったさっき迄とは、全く消耗度合が違う。わたしはさっきの彼の様に少し汗ばんだ
位だ。

「……濁った心で剣を振るえば、濁った剣に堕ちる。濁った剣では正義には勝てない……。
 正しい力は、必ず悪しき暴力に勝る。
 技や力じゃない。正しさこそが強さ」

 わたしは彼の剣道部での語りを復唱して、

「わたしに勝てないあなたの剣は、正義の剣ですか? 正しい力で強さですか。或いは」

「黙れっ。唇が痒くなる様な綺麗事を…!」

 彼の突進しての振り下ろしを、避けず躱さず受け止めず。もっと早く踏み込んで、振り
下ろしが届く前に、竹刀を中段に振り抜いて。防具越しの衝撃だけど、彼は膝から崩れ落
ち。

「柚明……あんた。とんでもなく強いっ…」

 尚驚きの抜けきらない美咋先輩に一度微笑みかけてから、わたしは蹲った彼を振り返り、

「あなたに剣士の誇りが残っているのなら。
 敗北を認め、約束を受け容れて下さい…」

 彼が約束を守る人間でない事は分っている。ここでいっとき納得を装っても、後々様々
に策動し、わたしを陥れに掛る事は視えていた。この学校にいる限り彼は人質を取ったに
近い。美咋先輩も聡美先輩も志保さんも和泉さんも。

 彼は常時危害を加えられる。脅せばわたしを自在に縛れる。悪い噂を流し事件をでっち
上げ、わたしを追い詰める事も狡猾な彼には可能だ。敵対したなら一度で全て決着せねば。

 理屈や善意に頼っても叶わない。それではたいせつな人を守れない。既に複数の女の子
を涙させてきた彼の処断を躊躇えば、わたしのみならず多くの人達の不幸を招く。だから。

「くそぅ、これでも喰らえっ」「ぬっ……」

 彼は屈んだ姿勢から、美咋先輩の脱がせた袴を左手で、わたしの視界を覆う様に投げつ
けて。わたしの動きが止まった瞬間、落した竹刀を右手に拾い、袴の影から渾身の突きを。
流石に達人の力の乗った一撃は、重くて痛い。

 鳩尾の少し上に、彼の全体重を載せた突きが入り、この身は壁に弾き飛ばされ。首筋が、
頑丈な木製の手摺に当たって痛い。それを追って彼はわたしに躍り掛って、この身を床に
組み伏せて。この胴をがっちり両足で抑えて。

「小生意気な娘が、手間掛けさせやがって」

 荒い息の下、彼は勝利宣言も早々に、わたしの頬に、張り手の様な平手打ちを連打して。

 美咋先輩の悲鳴が、やや遠くから聞えた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「先生……大野先生、止めてっ。柚明を…」

 その声が途切れ途切れなのは、彼の張り手が脳髄を揺らすから。組み敷かれた状態では、
防ぎに翳す両手も掴まれ、有効に防御出来ず。彼の腕はこの顔面を打ちつつ、時に胸を揉
み。

 胸を揉む手を止めに両手を伸ばすと、彼は空いた顔面を打って来る。痛手と屈辱と無力
感で、わたしを屈従させようと。唇を強引に奪って舌を入れ、唾液を喉に流し込んで来て。
噛み切る前に腹に拳が入って、押し入られた。

 善意や好意を寄せられる事が、素肌を優しく撫でられる嬉しさを招くのと反対で、悪意
や害意を及ぼされると、全身を舐め回される不快を呼ぶ。特に身に触られると感応使いの
わたしには効果も激甚で。欲情や憎悪が強かったり、人数が多いと己の心が押し流される。

 外部から押し入る想いに呑み込まれぬ様に、一層強く己を保つ。願いを想いを確かに抱
き。痛みや息苦しさや羞恥で想いを折られぬ様に。わたしが為そうと決めた事は始ったば
かりだ。

「先生! 卑怯だよ。勝てないからって汚い、酷い。いつも言う事と全然違う。剣の道は
どうしたの。武士道は、武道とは、互いの心身を向上させ合う為じゃないの? 女の子の
顔叩かないで。唇奪わないで。胸を穢さないで。止めてっ。私の可愛い柚明を傷つけない
で」

 美咋先輩の必死な叫びに彼の声は冷然と、

「そんな青臭い子供向けマニュアルで、道場剣法でお前はどれだけ強くなった、美咋!」

 剣道は闘いだ。人生は潰し合いだ。甘い話しに騙された奴からカモにされて一丁上がり。
俺が信じてもいない建前を語るのは、俺の周囲の者の目を眩ませる為だ。俺の人生の為だ。

 正しくても濁っていても、強さは強さだ。
 暴力だろうが卑劣だろうが、勝利は勝利。
 彼の哄笑も打撃も胸を揉む手も止まらず。

「相手が再び立ち上がれない様に、再び逆らえない様に。体にしっかり止めを刺し、心に
怯えと震えを刻み込むのが、武道の本筋だ」

 俺がそこ迄しないのは、そこ迄する必要がない敵だから。或いは衆目の中で俺が悪役に
映って、次の展開で不利になるから。女なら人目を避けて辱め、心を折るのは理の必然だ。

 どんな手段でも勝てば良い。剣に拘る事はない。時に友を襲うと脅し、デマや威圧で精
神的に苛んで、弱い処を崩し腐らせ自壊させ。教師や大人としての信望や知識と舌先三寸
も使う。武道に正義を語る奴は、俺の様な確信犯か、俺の様な奴に嘘を吹き込まれたカモ
だ。

「ははっ、ざまあみろ! 散々勝ち誇っても、一度組み伏せられたら終りかよ。だから女
は虐げ易いんだ。俺の為の生け贄なんだよ…」

 この姿勢から彼に拳を伸ばしても届かない。体重を掛けた打ち下ろしが自在に出来る彼
と、重力に逆らうわたしの優劣は明瞭だ。彼とわたしの体重差も組み打ちになれば大きく
響く。

 どの位打ち据えられただろう。欲しい侭に舌を入れたディープキスの後で。彼はこの右
手首に手錠を嵌めて、手摺を通して左手首にも手錠を嵌めて。わたしは身動きを封じられ。

「これでお前も完全に、俺の性愛玩具だ…」

 身動き取れなくなったわたしから離れて。
 彼はホームビデオをわたしへと向け直し。

 手錠を通した手摺の高さが中途半端なので、わたしは座る事も出来ずに力なくぶら下が
り。乱れた制服や髪はどの様に映っているだろう。

「お前の扱いは何も約束していなかったな」

 お前は今から俺の思う侭に踏み躙られる。
 鮮血をまき散らして身も心も悶え苦しめ。

「己自身の選択の末を泣いて悔いると良い」

「これがわたしの、選択の末であるのなら。
 美咋先輩は解き放ってくれるのですか?」

 何度も一本を取られた事を思い返し、彼は不愉快な顔を隠さず。この顎を右手で掴んで、

「今のお前がそんな事を言える立場なのか」

 わたしが怯まずに彼の眼を見つめ返すと。
 彼は不愉快そうにわたしの腹に膝蹴りを。
 胃袋がひっくり返る衝撃を総身で堪えて。

「あなたは約束しました。破るのですか?」
「口約束を俺が素直に守ると思ったのか?」

 彼は髪を右手で掴んで引っ張り揺すって、

「お前らは俺の性愛玩具だと言っただろう。
 双方の恥ずかしい姿を撮って永久保存だ」

 彼は美咋先輩の悲鳴を受け流し。ホームビデオに映る角度で、セーラー服の上から大き
くないこの胸を執拗に揉みしだき。唇を重ね舌を入れ、唾液を喉に流し込み。胸元を大き
くはだけさせ、首筋に好き放題に吸い付いて。

 腕は全く使えない中、足を掴まれ持ち上げられた。その侭彼の手はスカートの下に伸び。
下着を脱がされる。やや汗ばんだそれを彼は、剥ぎ取ってからわたしの目の前で破って見
せ。この様にわたしの女の子も、破って見せると。

「俺は服を着せた侭犯すのが、好みなんだ」

 美咋先輩も袴は剥いだけど、上半身の剣道着は脱がせてなかった。懐に手を突っ込んで
その胸元は乱していたけど。裸に剥くのは男性全員の常識ではない様で。制服も下着も全
て剥ぎ取られた方が視覚的には好都合なのに。これでは実際に陵辱させないと絵に残し難
い。

 彼はスカートの中へと下半身を割り込ませ、がっちりわたしの上半身を抑えつつ、股間
を股間にあてがって。ぴったり腰を繋ぎ合わせ。

 でも彼は未だ袴を脱いでない。映像的にはわたしの処女喪失に映っただろうけど。彼は
未だわたしを嬲って遊ぶ気だ。間近な処女喪失をリハーサルし、わたしを苛み愉しむ気だ。

「どうだ。これが男の感触だ。良いだろう」

 膨張した股間が押し付けられる。わたしは下着を剥がされたので素肌に彼の体温が分る。
蠢く感触も何かが彼の袴や下着の中に溢れ行く様も。美咋先輩の時から彼は欲情しっ放し。

 何度も腰を動かしてわたしを擬似的に犯す。胸を揉みつつ唇を合わせ、この肌を舐め回
し。わたしに敗北感を刻み、抵抗の気力を失わせ、怯えさせて愉しむ。一度だけの初めて
を何度も脅かして、彼はわたしの心をへし折ろうと。

 精神的に初めてを失わされたに等しいけど。
 2年前の冬も遂にそこ迄至らなかったけど。

 心の大波を、今は無理矢理にでも抑え込む。
 悔しさや悲嘆や情けなさは、後で幾らでも。

 窮地にある時程、己を見失ってはいけない。
 その場その場の感情に流されてはいけない。

 為すべき事と周囲の状況を確かに見定める。
 暴れても叫んでも無駄だ。今は耐え忍ぶ時。

 わたしはまだ大丈夫。戦えて耐えられる。
 自身を保たせ、気力を残し、好機を探る。

 己が助かる好機ではなく、たいせつな人の心迄助ける好機を。身も心も傷つけられた後
でも、わたしは決して意志も我も見失わない。一体何分彼はわたしを嬲り遊び苛んだだろ
う。

「もう充分か。お前も体が馴れてきた様だな。心の方も諦めで受け入れ体勢が整って。む
しろ欲しくなって堪らないんじゃないのか?」

 そこでおもむろに彼は身を離し、わたしの正面間近に立って、袴と下着を自ら脱いで…。

 男性のそれを生で見るのは久しかったので。わたしも流石に息を呑んだ。白花ちゃんの
それは今もお風呂を一緒するので、週に何度か目にするけど。大人の男性のそれを見るの
は。

 お父さんや正樹さんと、お風呂を一緒した時以来か。でもその時も幼子のわたしを前に、
それは力なく垂れ下がっていた。彼のそれは今、蛇の鎌首の様に力強く先端を向けて来て。

「先生止めて! 柚明だけは見逃してっ…」

 先生の相手は私でしょう。やるなら私を。

 手錠を解けず手摺に縛られた美咋先輩の悲鳴が、身悶えする音と一緒に届いてくるけど。

「今から欲しいだけ、お前の望み通り、俺の本当にまともな一本を、くれてやるからな」

 乱れたセーラー服の上に、待ちきれない蛇の口から、欲望の液が飛んできて、付着して。
それに怯える様を彼は尚少し愉しみ嬲ろうと。でも、その意図に従わされる訳には行かな
い。

 震え出しそうな心を奮い立たせ。竦み掛る体に意志を通わせて硬直を防ぎ。今わたしが
己を失っては、全てが水の泡になる。それは羽藤柚明の為よりも、わたしのたいせつな人
の為に許されない失態だ。常に心は柔らかく。

 例えわたしは彼に貫かれても、己の意思は手放さない。この身を彼に犯されても、心に
決めた為すべき事は完遂する。彼の子供を孕んでも、優先はたいせつな人の幸せと守りだ。
敗北も羞恥も陵辱も穢れも、己の事は後回し。

「最後に一つだけ教えて下さい。……あなたは今も、美咋先輩を愛してないのですか?」

 身震いを抑えてわたしは低い声で問を発し、

「最初が欲情だったとしても、始りが体の関係だったにしても、今あなたは美咋先輩を大
事に想ってないのですか?」「あぁん…?」

 何を言い出すかという顔で首を傾げる彼に。

「わたしの口封じ目的なら、他にも方法はあるし、せめて先輩の前を外して為すべきです。
美咋先輩の目の前で別の女の子と体を繋いで、あなたは美咋先輩が哀しむと想わない
の?」

 あなたは美咋先輩の初めての人です。美咋先輩の重要な人です。教師と生徒の恋愛は問
題だけど、本当の愛があるなら話は変る。例え体の関係で始っても今心を繋げているなら。
そこ迄至ってなくても、先生が本当に先輩を愛しているなら。先輩をたいせつに想うなら。

「己の在り方を見直して。あなたが本当の愛を美咋先輩に抱いてくれるなら、わたしは」

 届かない事を知ってわたしは願う。
 断られると視えて尚わたしは望む。

 この世には善意や情けの通じぬ者もいる。
 彼は野獣の笑みを狡知の笑みに差し替え、

「今更処女喪失が怖くて命乞いか。愚かな」

 自分が本当に危ういと分って後悔したか。
 ここ迄踏み込んで俺の情に縋り付く気か。

「素直に『助けて下さいお願いします』を言えないのか。頭を下げて、泣きついてみろ」

 彼の股間の蛇の先から、間欠的に欲望の液がわたしに飛んで。セーラー服に染みを残す。

「答はその身にくれてやる。美咋の前で羽藤に体を繋いで俺の欲情を注ぎ込み、羽藤の前
で美咋に体を繋いで俺の欲情を流し込んで」

 甘ったるい子供の恋愛幻想なぞ虫酸が走る。
 お前らは俺の欲望を発散する性愛玩具だよ。
 俺が元の職場に戻る迄の無聊を慰める妾だ。

 いずれ俺は元の職場に復帰する。美咋、お前が剣道推薦で行く大学の附属高校だ。ほと
ぼりが冷めれば数年で戻れる話だったからな。エリートコースに戻れば俺は再び、女も金
も名誉も欲しいだけ、犯りたい放題好き放題だ。

「お前らはそれ迄の、使い捨てなんだよ!」

 美咋の言う通りお前は武道には向かないな。
 ここに踏み込んできた事が既に過ちだった。
 まあいずれお前は囲い込む積りだったから。

「最初からお前は俺の掌の上にいたんだよ」

 ははっ、汚れたセーラー服がよく似合うぜ。
 美咋もそうだった。嫌々と首を振りながら。
 最後は俺の一本で女に目覚め叫びを上げて。

「お前も諦めて、女の運命を受け容れ…?」

 かちゃっ。それは小さな物音だったけど。

 彼の声が中途で止まったのは、わたしがヘアピンで手錠を解錠した音に、気付いたから。
彼は美咋先輩を穢す為に鎖した扉を、なぜわたしが開けて入れたか、漸く思い返した様で。

 左手を外せば、右手は外せなくても手摺から自由は取り戻せる。かなり汚れてしまった
セーラー服姿で、わたしは再び彼に対峙して。

「もうこれ以上聞く必要はありません。必要な絵も充分に撮って頂けました。後はあなた
を退けて、美咋先輩を解き放って帰るだけ」

 無手の侭左手を前方に伸ばした構えは、相手との間合を測る以上に、最後通告を兼ねて。

「痛い思いをしたいなら、遠慮はしません」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あなたはそうやって前の勤め先でも、女の子を泣かせたのですね。そしてそこでは勤め
続けていられなくなって、経観塚に来た…」

 なぜ剣道の達人で将来有望な彼が、この田舎に来る事になったのか。エリートコースを
外された事情も視えた。彼の毒牙の被害者は美咋先輩が最初ではない。彼は最初の勤め先
となった母校で、己の生徒に手を出していた。

 学校と女の子の両親の合意の元、彼は示談金を払い、年度途中で休職に。年度末で田舎
の学校へ飛ばされた。災難は事情も報されず、教員不足の中、喜んで受け容れた田舎の方
だ。彼は赴任した昨年早速美咋先輩を手に掛けて。

「わたしだけの問題じゃない。あなたをこの侭野放しにすれば、この先何人もの女の子が
酷い目に遭わされる。わたしが今日あなたを一度も先生と呼ばない理由は、既にお分りで
すね? あなたに人を教え導く資格はない」

「ふざけた事を、もう一度ねじ伏せてやる」

 剣も持たない娘1人、簡単に踏み躙って。

「なっ! 馬鹿な?」「はああぁぁぁっ!」

 殴り掛る彼より早くその間合に踏み込んで、防具に守られた腹に掌打を当てる。頬や額
を狙えば一撃で昏倒させられるけど、情けを掛けると言うよりも、彼を沈めるのは未だ早
い。

 体重はわたしの2倍以上ある筋肉質な彼が、浮いて後方に数メートル吹き飛んだ。美咋
先輩も飛ばされた彼もその威力に目を見開いて。元々わたしの技は無手の闘いを想定して
いる。彼は剣を持たねばその動きも技も相当落ちる。

「素手の格闘なら更に負ける気はしません」

「馬鹿な。羽藤は華奢で小柄でリーチも短い。体重も軽いし手足も細い。竹刀の突きや拳
や張り手も喰らい、相当な痛手を受けた筈だ」

 娘の体で尚戦えて動ける筈がない。気力も尽きて立ち竦む筈だ。心に痛手も受けた筈だ。

「セーラー服に付いた穢い染みも含めてな」

 動揺させて次の瞬間、彼は床に屈んで竹刀を拾い、わたしに向けて突きを放つ。でも彼
の動きも意図も全部視えていた。彼のこれ迄の言動を見ていれば、大凡次の動きは読める。

 右手竹刀の突きを躱し、左足で竹刀を蹴り飛ばす。下着を剥がされた今、蹴りを放てば
彼に見られる事は承知の上だ。羞恥は一旦棚上げし。必須な動きには微塵の躊躇も挟まず。

 彼が竹刀を取り落しても敢て追撃はせず、

「竹刀を拾って下さい。続けるのでしょう」
「武士の情けの積りか? 後悔するぞ羽藤」

 竹刀を拾い直して、笑みを戻す彼に向け、

「相手が再び立ち上がれない様に、再び害せない様に。体にしっかり止めを刺し、心に怯
えと震えを刻むのが、武道の本筋でしたね」

 わたしも武士道や剣の道なんて、信じていません。正しい事が強さだなんて気休めです。
だからこそ優しく清く正しい者に強くあって欲しい。少しでもたいせつな人を庇い守れる
強さを備えたい。その為にわたしは今迄守りの技を教わってきました。あなたの人を虐げ
る強さと違う、たいせつな人を守れる強さを。

「これはあなたを完膚無き迄叩きのめす為に。わたしのたいせつな人を脅かし涙させるあ
なたに、完全敗北を知らしめて、二度と立ち上がれなくさせる為の、羽藤柚明の闘いで
す」

 己の痛みや羞恥や悲嘆や穢れで、心挫けたり我を見失ったり出来る類の闘いではない…。

「あなたはもうこれ以上、何も得られない」

 そしてもうこれ以上わたしのたいせつな人の何も失わせはしない。もう涙は流させない。

「美咋先輩、もう少しだけ待って。今彼を片付けて手錠を外します」「柚明、危ない!」

 瞬時守りたい人に視線を移したその隙を。
 彼の人柄なら必ず狙い襲うと読めていた。

 彼はその場に再度屈んで、美咋先輩の袴を掴み。起き上がる動きでそれを、わたしの視
界を覆う様に再度投げつけて。さっきの様に、袴の影から渾身の突きをこの鳩尾へと放っ
て。

「もう一度、これを喰らえっ」「ぬっ……」

 でも二度同じ事は通じない。と言うよりわたしは、初回も防げる攻撃を敢て受けただけ。

 鳩尾を狙って迫る彼の体重を載せた突きを。
 わたしは先輩の袴の影から左の掌に受けて。
 右腕で左腕を支え、腰を落して受け止める。

 わたしは今尚手足も細く身も軽いけど。それでも鬼からたいせつな人を庇い守る闘いを、
元鬼切り役に習ってきた。普通の達人の攻撃を防げなければ、とても鬼には対応できない。

 袴を挟んで竹刀の突きを、この手で止めて止めきったわたしに、彼の驚愕の呻きが漏れ。

「なん、だ。そんな、見えて、止めたのか。
 だが、そんな、俺の体重を掛けた突きを」

 その侭竹刀を跳ね上げ、腕を掴んで足払い。

「ぬがあぁぁああ!」「大野を、投げた…」

 身を翻しつつ彼の見事な体躯を宙に浮かせ、その侭床に投げ落す。頭から落すのが本当
と真弓さんに教わったけど、今は背中から落す。それでもかなりの速度で衝撃だ。彼は一
瞬気を失って、床に横たわって暫く起き上がれず。

「柚明、あんた、凄いなんて物じゃない…」
「ははっ、強い。強いな、羽藤。だがっ…」

 お前も所詮は子供だな。止めを刺せない。

「頭から落す事も腕を極めて折る事もせず。
 甘いのか小生意気に賢いのか。まあ良い」

 力や技で凌いでも彼との闘いは終らない。
 床に身を横たえた彼は狡猾な笑みを浮べ。

「重傷を負わせれば事件になる。目端の利くお前なら分るだろう。骨折や内臓破裂の様な
重傷を相手に残せば、過剰防衛で暴行罪だ」

 お前が届くのはここ迄だ。美咋は既に俺に犯されている。全てを晒せば俺は破滅だが同
時に美咋の人生も終る。お前は今後も美咋を俺から守れない。美咋の進路は俺が握ってい
る。俺が一言言えば剣道推薦の話しは消える。幾ら強く賢くても小娘に出来る事は限られ
る。

「どんな手段でも勝てば良い。剣に拘る事はない。お前が神原を守りたければ、結局俺に
従う他に方法はないんだよ。可哀相になぁ」

 酷い目を見て戦い勝った末に無意味とは。
 最初から手遅れだったんだよ、全てがな。

 美咋を庇いに俺に身を差し出すか。ええ?
 それとも俺に逆らえぬ美咋を見捨てるか?

 勝ち誇る彼に背を向けて、わたしは冷然と、

「勘違いしないで。あなたを頭から落さなかったのは、聞かせるべき事があるからよ…」

 ホームビデオの電源を切って中身を出して。

「これを、あなたがわたしに性的暴行をした証拠として、学校に提出します」「なっ?」

 先輩の進学先の担当者は、大会に美咋先輩を見に来る事が既に決定済みだ。彼の言葉で
推薦が覆るのは、彼が教員である限りの話し。教員でなくなった彼の意見は響かない。な
ら。

「あなたに失職して貰います。あなたは教職に相応しい人ではない。活計の途を断つ事は
申し訳ないけど。美咋先輩や今後あなたが手に掛ける女の子達を想うなら、こうすべき」

 わたしがあなたの卑怯な手を、敢て受けて危難に落ちたのは、この絵を撮らせる為です。
あなたが生徒を犯そうとした証を残す為です。あなたがわたしに欲情を抱いた事は、幸い
でした。この身を使ってあなたを告発できれば、今後あなたの為に涙する多くの女の子の
禍が消える。美咋先輩の人生の憂いが一つ拭える。

 彼の哄笑が蒼く変じて行く。わたしを後で脅し苛み愉しむ為に撮ったそれが、彼の人生
を破滅に導く。自業自得の最たる物か。愕然として、それを壊そうと猛然と駆け寄る彼に、

「わたしのたいせつな人から今後一切手を引いて貰います。もうその健やかな日々を妨げ
ないで。これは願いではなく、宣告です!」

 一度身を躱してから全ての中身を告げ終り。再度迫る彼の左側頭部に、右上段の回し蹴
りを叩き付けて、昏倒させ。わたしの大事な処を彼に見られるのも、これが人生最後だろ
う。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 気絶させた彼の懐から鍵を取り出し、まず美咋先輩の手錠を外す。先輩は悲しみより怖
れより怒りに燃えて、両腕を掴んで睨み付け、

「柚明の馬鹿っ! ……危ないじゃないか」

 瞳も頬も唇も間近に過ぎた。その瞳はわたしの視界を覆い尽くす位に大きく見開かれて。

「ごめんなさい……助け出すのが遅くなっちゃって。それに、心配、掛けちゃいました」

「掛けちゃいましたじゃないよ、あんたっ」

 彼の欲望の液で汚れたこのセーラー服故に。わたしも両手で先輩の両腕を握り返すのみ
に。身を触れ合わぬ様に抑えたのだけど。先輩は渾身で全力で、わたしの肌身に正面から
迫り。

「柚明が酷い思いをさせられたじゃないか!
 柚明こそ深い傷を負わされたじゃないか」

 怒りの次に悲しみの涙を流させてしまった。
 わたしはたいせつな人を守るのに尚力不足。
 でも、そんな未熟で愚かで非力なわたしに。

「有り難う、柚明。穢れた私なんかの為に。
 その身を危難に抛って、助けてくれた…」

 先輩は全て承知で正面から身を重ねてきて。
 双眸の滴を溢れさせつつ頬に頬合わされて。
 強い親愛が肌身に伝わって押し流されそう。

「強く心配頂いて有り難う。心から嬉しい」

 今はお互いの掴み取れた希望を喜び合い。
 柔らかな肉感を重ねてお互いを慰め合い。

 彼には暫く目覚めない様に痛打を与えた。
 起きる前に気配で察せるから捨てて置く。

 暫くの抱擁の後で、先輩はやはりわたしの今日の行いに、危うすぎると憤りを露わにし、

「あんたは何て危うい綱渡りを。一つ誤れば、あんたはあの侭大野に奪われていたんだ
っ」

 奴を退ける技量があっても、敢て痛撃を受けて手錠に繋がれるなんて。奴の欲情は柚明
も分っていただろう。伸るか反るかの博打を、あの狡猾な獣相手に。手錠が外せなかった
り、気付かれてヘアピンを奪われていたりしたら。

「私なんかの為に、既に穢された後で手遅れで取り返しの効かない私なんかの為に…!」

 わたしが女の子の初めてを失う寸前迄至った事に、先輩は強く憤って。多分真弓さんや
サクヤさんにも叱られる。他人の為に、わたしがそこ迄傷や危険に踏み込む必要はないと。
故に羽様の家族には敢て事前に告げなかった。それでもわたしは美咋先輩を、救いたかっ
た。

 強く激しく憤ってくれる間近の美しい人に、

「綱渡りではありません。今日の勝算はほぼ拾割でした。多少見込み違いはあったけど」

 彼が脅しの材料に陵辱の様を撮る事は視えていた。彼はわたしを欲している。彼に事を
運ばせ撮らせれば良い。最後迄意の侭にされる必要はない。女の子を辱めている絵が撮れ
た辺りで切り上げる。彼が好んで撮る以上失敗はない。後はいつの時点でテープを奪うか。

「わたしは彼を失職させる積りでした。わたしを狙い、この先も数多くの女の子を手に掛
けて、美咋先輩のこの後の人生にも絡みつき、生涯禍となり続ける彼は、捨てて置けな
い」

 彼は美咋先輩の進学先の付属高校に戻る積りでした。同じ町に住んで、大学の剣道部に
臨時コーチとして割り込み、大学の女の子を狙う積りでした。高校の女の子も狙いながら。

「彼が企み通り前の職場に、美咋先輩の傍に行けたら、彼は必ず先輩に付き纏う。先輩は
経観塚高校でのあと拾月ではなく、彼にこの先の人生ずっと付き纏われる事になります」

 美咋先輩の顔色が蒼くなる。先輩も彼の剣道推薦が口封じの為の利益供与とは分っても、
その先々迄見据えた布石とは思ってなかった。先輩も教諭には転勤がある事を失念してい
た。

「剣道推薦は美咋先輩を一生囲い込む彼の企みでした。彼を失職させなければその鎖は終
生解けない。逆に彼を教職から叩き出せば」

 将来迄及ぶこの懸案は一挙に解決できる。
 重ね合わせた頬を外し、間近な瞳と唇に、

「わたしはこれから汚れた服を着替え、彼の教員住宅を訪ねてきます。先輩の酷い様子を
撮ったテープの回収に。鍵はここにあるので。先輩の酷い事された映像は一つも残さな
い」

 彼の告発は羽藤柚明への暴行のみで為す。
 その為にわたしを襲う映像を残したのだ。

 これは相当大きな問題になる。教育委員会や警察も関るかも知れない。世間一般には伏
せても、多くの人が関らない訳には行かない。美咋先輩の不名誉を多くの人に晒したくな
い。

「彼を失職させるには、1人の告発で充分」

 推薦を受ける人がその件に関ったとなれば、例え被害者の立場でも、進学先が好ましく
思わない怖れもあります。お父様が彼に賠償を望むにしても、公に晒さず示談にすべきで
す。

「あんた、そこ迄考えて……私の将来を気遣って、自ら大野の欲情を受けに行った…?」

 私が己の傷を握られて身動き取れない中で、柚明は己に傷を作って私の将来も救おう
と?

「幾ら強くても年頃の女の子が何て事を!」

 両肩を痛い程強く掴まれて揺さぶられる。
 でもわたしは逆に気力が抜けて柔らかで。
 この怒りはわたしを案じてくれるからだ。
 心を乱した事は申し訳ないけど有り難い。

「杉浦先輩には、暫く事実を明かさない方が良いと思います。美咋先輩も杉浦先輩も両方
まっすぐで、嘘や隠し事を嫌う人ですけど」

 美咋先輩も見ましたね? わたしが杉浦先輩に問を発した時の、杉浦先輩の答と応対を。

「ああ、あんた。あの問いかけは、まさか」

『男の子は本当に真を知る事を望みますか? 知って尚好きでいてくれますか? 許して
告白を受けて貰えますか? 或いは忌み嫌いますか? 身の穢れは心の絆も断ちますか?
 先輩の、男の子の本音を、教えて下さい』

「柚明自身の告白じゃなく、私の傷や恥を杉浦が受け容れるか否か、見定めようと…?」

『あれは男子一般の本音を訊いたんじゃない。杉浦孝の本音を訊いたんだ。告白する男な
んて他にいない。女の子が本当に想う人以外に、気軽に話せる内容でない事位、聞けば分
る』

「杉浦に傷や恥を話したのも全て私の為?」

『もっと言葉の裏に潜む想いを読みとれ…』

「……それは全く、私の事じゃないかっ!」

 怒りより自責に身を震わせる美しい人に、

「話を聞いて杉浦先輩は動揺していました」

『羽藤は語らない方が良いと、俺は思うな』

 男の問題じゃない。女の子にそんな傷を語らせる事が罪作りだ。嘘や隠し事を嫌う俺も、
そこ迄明かせとは言えないよ。男がショック受ける云々よりも、語る羽藤の方が辛すぎる。

『心を強く繋げば受け容れて貰えますか?』

 最後にわたしがその手に触れて問うた時。
 その手はすっと引っ込められて頭を掻き。

『そうだな。俺は、受け容れたいと思う…』

「彼は手を引っ込めました。刺激的に過ぎる話しですから。理屈以上に感性の面で受け容
れきれないのは、無理もない。でも、彼はそれで尚わたしを気遣ってくれていました…」

 迷いつつ困りつつ、恋人でもない後輩の傷や恥に真剣に悩んで、答を返し。時間を掛け
て心を強く繋げば、美咋先輩の真実もきっと受け容れて貰えます。その真の想いも込みで。

「先輩の傷を、今明かす必要はありません」

 先輩は、先輩の意思と言葉とタイミングで、神原美咋の真の想いを杉浦孝に伝えて下さ
い。傷を語るにしてもそれは心を強く繋げた後に。

「柚明は私の為に、杉浦を想う私の為に…」

「不安を与えて済みません。杉浦先輩はわたしのたいせつな人だけど。まっすぐ強く優し
い素晴らしい人だけど。この想いは後輩が先輩に抱く唯の好意です。恋ではありません」

 人の恋心は外野が触れるべきではないけど。
 親密な語らいが美咋先輩に誤解与えたなら。
 2人に亀裂が生じる前に縫い止めなければ。

 わたしには、両方ともたいせつな人だから。
 2人には幸せを願いを恋を叶えて貰いたい。

「杉浦先輩は爽快な程に、美咋先輩一筋です。誰の分け入る余地もありません。わたしは
唯の後輩で幼馴染み。美咋先輩は心配無用です。……余計な気遣いだったら、ごめんなさ
い」

 言葉足らずな弁明を重ねるわたしを前に。
 先輩は憤りを越えて、再び三度涙を浮べ。

 わたしはこの短時間で、強く美しい少女剣士を、憧れの先輩を、何度怒らせ涙させたか。
深く心配を掛けて胸を喉を詰まらせて。己の力量の不足が、至らなさが罪深く申し訳ない。

「あんた最初から全部私の為にこの困難を!
 私を身も心も将来迄も救い守る為に自ら」

 だからせめてわたしは己の想いを偽らず、

「神原美咋は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 清く正しく強い人。悲しみを慈しみに変えられる慈悲の人。綺麗に優しく可愛い女の子。

 せめてその心を支えさせて。先輩の痛み哀しみを拭う術もないわたしだけど。そこ迄深
く熱く想って貰えて本当に嬉しい。わたし美咋先輩を全力で守ります。心と力の及ぶ限り。
心底たいせつに想った人が、本当に好いた人と想いを繋ぎ、願いを幸せを叶えられる様に。

「羽藤柚明の全身全霊を注いで、守ります」

「……私なんかの為に、既に穢された後で手遅れで、取り返しの効かない私なんかの為に。
 何て危うい綱渡りを。一つ誤れば、柚明はあの野獣の好き放題に奪われていたんだ!」

 私の事情など斟酌している場合じゃない。
 幾ら強くても、敢て窮地に落ちるなんて。
 どこかで一つ手筈が狂っていたらあんた!

 わたしを想う故の叱声は、後輩に恋心を見抜かれた、美咋先輩の照れも含んでいたかも。

「綱渡りではありません。今日の勝算はほぼ拾割でした。多少見込み違いはあったけど」

 先輩の起伏を鎮める為に、声は穏やかに。

「スカートや上着を剥いでくれれば、目に見えて簡単だったけど。着せた侭で為す方を好
む人だったので、想定が少し狂いましたが」

 服を剥がされる事なく、肌を晒す事なくそれらしい絵を残すには、実際に陵辱させねば。

 彼が嬲り苛む事を愉しんでくれて助かった。
 自身の女の子を破られる事なく証を残せた。

 でもそれは彼が最初から、わたしを貫き犯し孕ませていても同じ事で。わたしは必要な
絵を残す為なら、受容する覚悟は出来ていた。たいせつな人の幸せを守る為に必須な事な
ら。

「手錠は2秒あれば外せますけど、彼に気付かれ防がれても。映像さえ残せれば決定的な
失敗ではありません。最初に多少抗って、手錠で縛る必要を彼に認識させて。その後敢て
手錠に縛られて、映像を撮る余裕を与え…」

 覚悟がなければ闘いは挑めない。彼の活計を断つ積りなら、己の天秤にも相応の重量は
載せねば。彼を失職させればわたしの勝ちだ。他に幾つ何を失っても己の損失は耐えられ
る。

「あんた、何て事を……! 女の子には、失っちゃいけない物だって、あるんだよっ…」

 女は負けたら終りだ。男は何度でも犯す迄挑めるけど、女は一度でもやられたらお終い。

 先輩はこの頬を両手で優しく包み込んで、

「やられては取り返し効かない場合もっ!」

 こんなに可愛い胸が、こんなに綺麗な瞳が、こんなに柔らかな頬が、こんなに愛しい唇
が。何もかも奪われて失う処だったじゃないかっ。もっと自分を大事にしないと、柚明、
あんた。

 わたしはその先輩の掌を更に包み込んで。

「大丈夫です。例え全て失敗して、奪われて喪ったとしても、わたしの想いは残ります」

 幾つか大事な物、喪いたくない物はあったけど。全て喪う訳ではない。何もかも喪う事
はない。生命も想いも体も明日も残っている。

 神原美咋の将来を覆う黒雲は拭い去れた。
 わたしは愛しい先輩の定めを掛け替えた。

 その結果さえあればわたしは満たされる。
 大きく潤む瞳を正面間近から覗き込んで、

「今からやり直せる事はある。これから取り返せる物はある。どうにも出来ない物も世に
はあるけど、何とか出来る物も世にはある」

 美咋先輩は双眸を大きく見開いて沈黙し。
 わたしはだめ押しに間近で微笑みかけて。

「そうですよね、美咋先輩」「柚明あんた」

 ……そうだね。あんたの言う通りだ……。

 溢れ出る熱い想いは胸を喉を突き上げて。

「今からやり直せる事はあるっ。これから取り返せる物はあるっ。奪われて喪わされてど
うにも出来ない物も世にはあるけど、私にもあるけど。何とか出来る物も未だあるっ!」

 激しい愛しさの侭その唇はわたしに繋がれ。
 確かに伝わる親愛をわたしは厭う筈もなく。

 肌身に流入する熱く強い激情に押し流され。
 感じ合う肉感の柔らかさ暖かさの虜になり。

 やや癖のある艶やかな長い赤毛が波打って。
 その美しい双眸から滴は溢れて止まらずに。

 嬉し涙に、わたしも貰い涙で頬を濡らして。
 暫くの間、2人身も心も重ね合わせていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「間近な禍を退けて、少しは本命の禍を見通せる様に、なってきたのかい?」「いえ…」

 わたしはサクヤさんの問にかぶりを振って。

 サクヤさんや真弓さんや正樹さんの、強く真摯な叱責を頂いてから暫く経つ。大野先生
は休職扱いで、以降姿を見ていない。先生方や教育委員会は大騒ぎで、わたしも数度羽様
の大人と一緒に呼び出され、事情聴取を受け。

 サクヤさんがわたしをご神木迄探しに来てくれたのも、過剰気味な心配もわたしの所為。
わたしが人目を忍んで独り涙しているのではないかと、優しく美しい人は気遣ってくれて。

 森が開けると青い空と白い雲が目に眩しい。
 山道を下るにつれて徐々に坂もなだらかに。

 サクヤさんは一つ禍を越えた事で、わたしの定めの変化の有無を、案じて問うて。確か
に変化はあったけど。余り大きな変動はなく。

「見通せない状況には、変りは無しかい…」

「遠く遙かな高山に至る道中に、幾つも小高い連山がある感じです。一つ一つ越えて近づ
かないと、遠すぎて本命の禍に至る途が視えてこない。同時に回避の途も視えてこない」

 最初の交差点で車に轢かれる定めは躱せても、事故を起こす電車の出発駅には未だ遠い。
途中で歩道が陥没していたり、頭上から鉄骨が落ちてきたり、路上で通り魔に襲われたり。

「それらの幾つはもしかしたら、本命の大きな禍にも、関っているのかも知れないけど」

 どちらにせよ、羽藤柚明は事故を起こす電車の出発駅に辿り着く事も容易ではない様で。

「俯かせる様な話しになってごめんなさい」

 言葉に出す程に状況は暗くない気もするの。
 今回の禍も損失軽く最善の終りを導けたし。
 こんな感じで一つ一つ禍を越えて行ければ。

 その中で人の絆を繋いで己を更に高めれば。
 大きな真の禍も避けて終れるかも知れない。
 出遭うにしても退ける術を見いだせるかも。

「話しが通じない相手はいるけど、どうやっても和解不能な相手もいる事は承知だけど」

 若菜さんや胡桃さんのわたしを望んでくれた想いが、クラスみんなの繋りを深めた様に。
志保さんや池上先輩がわたしを案じてくれた想いを、美咋先輩の悲痛の緩和に繋げた様に。

 一つ一つの行いは連関している。一つの言動が、受けた人や見聞きした人の心に響いて、
更に影響を与え行く。一羽の蝶の羽ばたきが、巡り巡って嵐になると言う理論はあるらし
い。非力で未熟なわたしでも、日々に全身全霊を注ぐ事で、大きな禍を防ぐ一助になれる
かも。美咋先輩の悲痛な定めを差し替えられた様に。

「あんた、自身を悲観して己を軽々しく抛つ様になっている訳じゃあ、無いんだね…?」

 サクヤさんの心配は、そこにあったみたい。

「あんた程の力の持ち主が、感じ始めた悲嘆の影。幾ら見定めようとしても確かに視えぬ
不気味な兆し。察し取れるのは良くない感触。あんたは力の確かさ故に、重病の告知に似
て、希望を根刮ぎ失ったんじゃないか。己を見失い気力が潰えたんじゃないか。今回もそ
れで安易に己を抛ちに行ったんじゃないかって」

 わたしの心が虚無に陥る事を案じてくれて。

「心配かけて本当にごめんなさい。今回はどうしても美咋先輩を助けたくて、我が侭を」

 決して己を捨てて掛っている訳じゃない。
 美しい瞳を見上げてわたしは言葉を紡ぎ、

「わたしはかつて無い程に己の生に執着しています。死にたくない。終りたくない。たい
せつな人を襲う禍に、辿り着けもせず散りたくはない。桂ちゃんと白花ちゃんに迫る禍に、
立ち塞がる事も叶わず終れない」「柚明…」

 己を盾にしてでもたいせつな人を守る為に。
 何が何でも禍の起きる時迄己を保たせねば。

 己を捧ぐ事が必須なら、禍に立ち会わねばならぬ。たいせつな人に降り掛る禍を己に受
けて防ぐ為に。受けて確実に食い止める為に。

「わたしはもっと強く賢く、ならないと…」

 青空の隅に黒雲が見えた。未だ遠いけど。
 あと少しでここ迄達し、俄雨をもたらす。
 この定めの改変は、己の手では届かない。

 でも変えられぬと分るからこそ。わたしは禍に向けて自身の歩みを急がせる。まるで禍
に恋い焦がれ、その遭遇を望んでいるみたい。

 己に残された時はそれ程長くない。だからこそわたしは悔いなく日々に全力を注がねば。
せめてその時が来る迄は、周囲に溢れるたいせつな人の笑みと幸せを、叶う限り守りたい。


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