第13話 断絶を繋ぎ直して(前)


 それは、わたしが羽様に移り住むよりも前。お父さんとお母さんに連れられて、経観塚
のお屋敷を訪れていた、青い空の夏の日だった。

 漸く物心つき始めたわたしは、輝く夏の陽に導かれ、古びた日本家屋から外に出て1人
お散歩を。町のアパートの情景とは全然違う、緑と生命の気配に溢れた田舎の夏に心誘わ
れ。

 緑のアーチを潜って外に行く事は、禁じられてなかった。むしろ脇に折れて山に行くと、
迷うから危ないと。車道に出ればバスも通るけど、ごく稀で速度も遅く。飛び出しでもし
ない限り、ぶつかる怖れとてない。一本道は迷う怖れもなく。通って欲しいと伸びていた。

 田舎なので隣家も遠く近場は山と森ばかり。今日はそのお隣さんが見える処迄行こうか
と。日射病に気をつけてと、笑子おばあちゃんに貰った麦わら帽子を頭に載せ、ずんずん
歩く。

 左には広がる畑とあぜ道。後には今通ってきたでこぼこの道。右手には蒼々たる深い森。
風の音と木々の枝葉が擦れる音と、鳥の羽音が聞えるだけの未舗装の田舎道を暫く歩くと。

「おや、これはこれは」「あれ、まぁ……」

 お母さんより少し年上の、おじさんおばさんに行き会った。お隣さんかな。町のアパー
トに住むわたしは、盆や正月位しか経観塚に居ない。隣が何家でどんな人かも分ってなく。

「こんにちは」取りあえずごあいさつすると。

 羽藤の家のお嬢ちゃんかな、と尋ねられた。
 うんと頷くと、2人はやや不自然な笑みで。

「お散歩かい?」尋ねられて、もう一度頷き。

「お隣さんのお家が見える処迄いく積り…」

 わたしの答に2人は互いに顔を見合わせて。
 おじさんの方がわたしに顔を下ろしてきて。

「おじさん達は、羽藤の笑子さんを訪ねに行く途中でね。水ようかんを持ってきたんだ」

 ……良かったら、案内してくれないかな?
 何となく、隣の家に行かせたくない感じ。

 道に迷う感じもなく、初めてな感じもなく。でもわたしも特に用はなく。甘い物で誘う
感じだけど、見覚えない人だけど。どこかに連れて行かれるのでなくお屋敷に戻るだけな
ら。

 頷いて反転し、先頭を歩き始めた時だった。

 お屋敷の方から、隣町に繋る道をライトバンが1台走りきて。道の真ん中にいたわたし
達は、端に寄って道を空ける。でも車はその侭過ぎ行かず。わたし達の間近で車を止めて
窓を開き。わたしにではなく、2人の大人に。

「さわじりか……この暑い中、夫婦揃って」

 車にはおじいさんが1人乗っていた。笑子おばあちゃんと同じ歳位の、ふさふさに伸び
た白髪と不機嫌そうな額の皺が印象的だった。

「おみとさん。これはこれはお日柄もよく」

 おじいさんは『おみと』さんと言うらしい。
 そしてこちらの2人は『さわじり』さんか。

「いつもいふうどうどう、そうけんで……」
「大旦那様は、今日も一段とおとこ前で…」

 2人は、運転席で座った目線のおみとさんより、頭を低く下げ揉み手と笑顔で歩み寄る。
脇のわたしを掻き分けて。わたしは状況の急変について行けず、暫くその場に放り出され。

「まご嬢様もさいきかんぱつ、同じ学校に通わせて頂いているヒロトも良くして頂いて」

「そろそろ一度ごあいさつに伺おうと思っていた所でございます、かもかわの大旦那様」

 幼心にも、2人がかもかわの大旦那のおみとさんの、機嫌取りしていると悟れた。2人
はそう感じさせようと、見せて分って貰おうとしているのかな。おだてられれば悪い気は
しないと、時代劇でお殿様が言っていたのを思い出す。そのお殿様は悪い殿様だったけど。

「手みやげ持って、羽藤の処に行く積りか」

 おみとさんは厳つい顔をぴくとも変えず。
 おじさんの方が少し焦った様子で弁明を。

「ていさつです。近々ご報告に参ります故」

『おじさん達の使う言葉は、少し難しい…』

 小学校低学年の頭には、かみ砕いてくれないと意味通じない言葉もあり。おばさんも似
た感じで、まいふくの毒とか、くにくの策とか、言っていたけど。わたしは脇で首を捻る。

「懐に飛び込んで金品や情報を掠め取るのも、全て大旦那様の為です」「羽藤に関るのは
装いです。ウチは今後も長くかもかわの下僕」

「ふん……まあ、よかろう。ところで……。
 そこに同道しているのは笑子の孫娘か?」

 おみとさんは視線をわたしに向けてきて。

「誤解です、偶々近くを歩いていただけで」「そうですよ。誰が望んで羽藤なんかと…」

 2人とも何度も頭を下げていたけど。余り数多いと、頭下げる値打が薄まる気がします。
サクヤさんの好物のガチガチな塩鮭は美味しいけど、沢山食べてもしょっぱいだけな様に。

 おみとさんが答を望む雰囲気だったので。

「ゆめいです。初めまして……」「ふむ…」

「こら、しっしっ」「寄りつくんじゃない」

 さわじりのおじさんおばさんは、わたしをその目の届く範囲から退かそうと、隔てよう
と、この身を押してくるけど。おみとさんの『やめい、騒がしい!』の一喝で縮み上がり。

「笑子の孫娘か……なら、○○○の娘だな」

 おじさんとおばさんが左右に退けた間から、おみとさんは車を降りずに鋭い眼差しの侭
で、お母さんの名を口にした。経観塚の人ならお母さんを知っているのかも。わたしは頷
いて、

「お隣さんのお家が見える所迄、お散歩を。
 でも、お隣さんを訪れるのは又次の時に」

 途中でさわじりさんのおじさんおばさんが。
 お屋敷に行く処に出逢ってご一緒する事に。

 傍のおじさんおばさんの顔色はなぜか渋い。
 その様をわたしと見比べつつおみとさんは、

「訪れる必要はない。隣家の主はこの儂だ。
 かもかわは、羽藤とは付き合わぬのでな」

 それだけを言うと、車を走らせ去っていき。

 幼い夏の昼下がり。これが羽藤の隣家鴨川の先代当主で、後にわたしと深い仲になる真
沙美さんの祖父・臣人さんとの出逢いで。その隣家で、わたしを深く想ってくれた博人君
の両親・正義さん雪枝さんとの出逢いだった。


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 それは、わたしが羽様に移り住んだ翌年か。新しい生命を宿した真弓さんのお腹が、だ
んだん大きく膨らみ始めた、青い空の夏の朝に。

「お久しぶりでございます、笑子さん……」
「正樹さん、奥様、お嬢様、皆様壮健で…」

 オハシラ様の祭りが近づくと、沢尻夫妻が訪れる。祭りの手伝いや暑中見舞と称し。羽
藤が司るオハシラ様の祭祀は、昔はともかく今は簡素で多くの人手も不要だけど。何か手
伝わせてとスイカやお菓子持参で訪れるので。

 正樹さんは困り顔だけど、笑子おばあさんは微笑んで。蔵から祭具を取り出す手伝いや、
ついでに蔵の整理も頼み。終った後の収納は、整理済みの蔵に戻すだけなので、羽藤が為
す。

 故に沢尻夫妻は、みんながご神木に出立する拾時頃『又来ます、どうぞ宜しく』と愛想
笑いで帰って行く。子供なのでお祭りへの参加要件を満たさないわたしに、サクヤさんが
添ってくれて、2人でみんなの下山を待つ…。

 わたしが生れる前は、サクヤさんも一緒に祭祀に行っていた様だ。ご神木に特別の事情
を持つサクヤさんは、羽藤の了承を得て毎年夜にもご神木を訪れているので。わたしが生
れてからは『昼は良いよ』と一緒に留守番を。

「わたし、大人しくしていますから……みんなと一緒にお祭りに行ってきて良いですよ」

「あたしが、あんたと一緒にいたいんだよ」

 サクヤさんは、わたしの背中に腕を回して。正面から強く抱き締めてくれて。頬に当た
る見事な胸の弾力も、力強くしなやかな腕の肉感も、優しく確かな声音も想いも嬉しいけ
ど。

 正樹さんやサクヤさんが、屋敷に大人を残す方針を採ったのは。昔は頼んでいたと言う
後片付けを、羽藤で為すと変えたのも。沢尻夫妻への牽制なのだと知ったのは、この頃か。

 わたしが物心つく前から、沢尻夫妻は羽藤を訪れており。お祭りの時幼いわたしは屋内
で大人しくしていたから、物置や庭先で作業して帰る彼らと、良くすれ違っていたらしく。

 沢尻夫妻は人前ではわたしを隔て忌み嫌う。
 他人に羽藤と仲良いと思われたくない様で。

 でも羽藤の大人を前にすると、下僕モードでお嬢様扱いに。状況次第で態度も舌の向き
も変る。そう言う気質をサクヤさんも正樹さんも知っていて。屋敷に残るわたしを案じ…。

「ちょっと大人しくしていておくれ、柚明」

 みんながいる時より、サクヤさんの間合が近い気がして。力強いしなやかさ、大人っぽ
さに心奪われていた。我に返り、室外へ去る美しい後姿を艶やかな白銀の髪を見送るけど。

 帰宅した筈の沢尻夫妻が、蔵の間近に居た様で。サクヤさんに何をやって居るんだいと、
誰何される声が漏れ聞えた。後片付けとか草むしりとか弁明も聞えたけど、サクヤさんの
応対は非好意的で。彼らに早い退去を促して。

「困ったもんだね。未だ羽藤に掠め取れる遺物や家宝が残っていると疑っているのかね」

 自分達で散々むしり取った後だってのに。

 わたしの元に返り来たサクヤさんは、不快感を努めて抑える感じで。わたしを見つめて、

「この家に残った宝と言えば、あんた位さ。
 柚明は、盗ませる訳には行かないからね」

 わたしが冗談を分らず目を丸くしていると。

「あんたは、あたしが必ず守り通すから…」

 再度正面から、この身を抱き留めてくれて。
 わたしは事の背景を問う機会を逃したけど。
 何となくサクヤさんの言葉の意味は悟れた。

 大人が居ないと、子供のわたしが詰問しても咎めても、沢尻夫妻は蠢動を止めぬ。あの
2人は、善意で羽藤に関っている訳ではない。羽藤を嫌いつつ、愛想笑いで訪れる真意も
…。

「サクヤさん、沢尻さん達は帰りました?」

「きちっと帰したよ。未練がましく暫くの間、蔵や中庭の近場をうろついていたけどね
…」

 帰着した正樹さんの問に、サクヤさんが笑みを浮べ、してやったりという答を返すのに、

「余り厳しい応対はしないであげて下さいね。沢尻は羽藤を訪れてくれる数少ない隣人な
のですから……」「笑子さんは全く太平楽な」

 未だ地域の事情に馴染みの薄い真弓さんが、口を挟まず見守る前で。笑子おばあさんの
全てを呑み込んで尚柔らかな笑みを前に。サクヤさんは半ば呆れ、半ば諦めた感じで脱力
し。

「まぁ、取りあえず断交しない程度には応対して帰って貰ったから。あの図太い神経なら、
秋にお萩でも持って来るんじゃないかねえ」

 沢尻夫妻には意図があるから。正樹さんやサクヤさんに好かれてないと分っても訪れる。
正樹さん達も笑子おばあさんが迎えるから来訪を拒む迄は出来ず。みんなが不在な祭祀の
時は警戒するけど、日頃は誰かお屋敷にいる。

「沢尻さんにはお世話になっているの。鴨川に絶縁されてオハシラ様の祭りの維持が難し
くなった時、何度か助けてくれたし。家計の助けに書道華道や裁縫茶道を経観塚に教えに
行く繋ぎや。反物の取引も仲介してくれて」

 幾らかの手数料や差益を得ていたとしても。
 没落地主の家計を支える糧になってくれた。
 それは貴方を育てる糧にもなったのよ正樹。

「蔵に収蔵されて眠るだけの骨董品を多少持ち出されても」「母さん。事情は分るけど」

 没落地主に、今は地域の有力者・鴨川と絶縁した羽藤に、好んで関る者は少ない。笑子
おばあさんは、沢尻夫妻が羽藤の内情を鴨川に流し、金品を掠め取る意図を承知で問わず。

「でも良月の件は酷すぎる。千年以上前から伝わる貴重な品が、いつの間にか鴨川からの
貸与として、郷土資料館で展示されていて」

 離れの蔵にあったという大きなかねの鏡は、お母さんが結婚するより前に、祭祀でみん
ながご神木に行った隙に、持ち出されたらしく。正樹さんが気付いたのも数年経った後ら
しい。

 正樹さんは得心が行かないと。著述家として中央の雑誌に経済関係のコラムを載せつつ、
郷土史研究家も兼ねる正樹さんは。町史編纂や郷土資料館の展示物の監修にも関っており。
考古学や民俗学に造詣が深いなら、古い品物の価値も良く分るから。拘りも格別なのかも。

「鴨川が羽藤の資産管理を任されていたのは、羽藤の執事を担っていた頃の話しです。絶
縁した後で羽藤の品に無断で手を出せば、泥棒です。確かに沢尻と羽藤は絶縁してないけ
ど、沢尻が鴨川の手先として来たなら明らかに」

 わたしが羽藤家の現状や、羽藤を取り巻く近隣との関係を聞かされたのは。この年の秋
・桂ちゃんと白花ちゃんが生れた直後だった。羽藤家の新人だったわたしは真弓さんと2
人、サクヤさんと笑子おばあさんと正樹さんから。今後ここで暮らして行くなら知るべき
事だと。

 それは唯の昔話や伝奇や言い伝えではなく。
 羽様小学校に通うお友達にも直接関る事で。

 鴨川真沙美さんや沢尻博人君、佐々木華子さんや金田和泉さん、一級上の杉浦先輩や一
級下の北野君、平田詩織さん等殆ど羽様近辺に住む全員と、羽藤柚明の絡みの伏線だった。


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 羽藤家は戦後の農地改革迄羽様の大地主で、明治維新迄付近数か村を束ねる総庄屋だっ
た。各集落の庄屋の上に立ち、地代や年貢・小作人の糧の調整、水争いの裁定やお上が課
す賦役の分担も差配する地域の有力者だった様で。遡れば伝説に出てくる竹林の長者に繋
るとか。

 総庄屋の元に各集落の庄屋がある。羽様には羽様の庄屋として鴨川があった。総庄屋の
職務に忙しい羽藤を支え助ける為に、羽様地方の庄屋と言うより羽藤の執事という感じで。

 明治の地租改正で、羽藤の所有地は羽様地方に限られ。以降羽藤と鴨川は正式に地主と
執事の関係に。オハシラ様のお祭り等の行事では、鴨川の差配で沢尻等近在の者が動員さ
れて。元旦や収穫時は羽藤の屋敷にみんなが詣でて祝いを述べ。その関係は終戦後の農地
改革迄不変だった。地主の土地を全て小作人に払い下げよと、占領軍の指示が来る迄は…。

「そこで鴨川は羽藤を裏切ったのさ。鴨川は、羽藤の土地の小作人への売り渡しを仲介し
て。解放者と言う信望を得て、羽藤に代る経観塚の名家に成り上がったんだ。二百年仕え
た羽藤を裏切って、そのピンチを踏み台にして」

 サクヤさんはまるで当時その場にいた様に、

「戦後間もなく結成された農協の歴代組合長を見てみな。全部鴨川の本家か分家だ。役場
も議会も商店街も、鴨川の意向に尻尾振って。

 羽藤に幾らかの銭を渡し、自分の懐は痛まず、長らく執事をやって得たノウハウと人脈
を生かして小作人に羽藤の土地を切り売りし。解放者の家系だの平等の旗手だのと、時流
に乗って名誉と利得と信望を得たけど、それは全部羽藤から掠め取った様な物じゃない
か」

 羽藤に残ったのは幾許かの山林と、屋敷周辺と、若干の銭だけ。流石に良心が痛んだの
かね。羽藤のお陰で村の有力者になれた先々代は、笑子さんに頭を下げていたね。茶道や
書道や華道や手芸の仕事を回したり。オハシラ様の祭りに寄付も出してきたけど。羽藤が
没落したお陰で鴨川が名家になれた様な物さ。

「あれはあれで良かったの。どの途手放さなければならない土地だったし、戦後の混乱期
に羽藤にはそれに対応できる人がいなかった。偶々鴨川がいてくれたから、円滑に土地の
分配が行われた。値段を安くされたのは占領軍の方針だから。鴨川の所為じゃない。先々
代は正直に、売却した代金を渡してくれました。鴨川はほぼ公正に土地を小作人に分け与
えた。その公正さが鴨川の信望を呼んだなら、それは羽藤から盗んだ物ではなく、鴨川の
功よ」

 笑子おばあさんが笑みを浮べて語るのに、

「はぁ、どこ迄羽藤の血は甘々なのかねぇ」

 飲み干しても喉に引っ掛る位、甘々だよ。

「先々代は良いとして、先代はどうだい? 俺は先々代と違う、みんな平等な現代日本で、
羽藤に気を遣う必要もないと関りを絶ってきて。オハシラ様の祭りへの寄付も止め、役場
や商店街からの支援も止めさせ。経観塚で夜店が賑わい商店が潤うのは、一体何の祭りで
誰の為の祭りか、何人が分っている物やら」

 鴨川は羽藤を何度も裏切った。羽藤の血を啜って名家になり仰せた。その上で柚明の…。

 そんな鴨川に、周囲の家々はみんな揃って尻尾を振って。中でも一番酷いのは沢尻だよ。
味方の顔して入り込んで来て、羽藤の内情を鴨川に流したり、金品を掠め取ったり。笑子
さんが許しているから、敢て介入しないけど。

「鴨川の先代は、個人の平等を心から信じていましたから。過去の因習や身分等に、いつ
迄も縛られていてはいけないと。自立した個人で付き合おうと。根は良い人なんですよ」

 そう言いつつ正樹さんも、沢尻夫妻の動きには眉を顰めていた様で。後で笑子おばあさ
んに苦言(直言かな?)を述べていたみたい。

「ふん。地主から土地を取りあげ分け与えた解放者・平等の旗手、だった先々代の子だか
らと農協の役員や村議になれて。間近な因習や身分の遺産にどっぷり浸かって。あたしは
平等とか正義とか自由とかを、声高らかに叫ぶ連中は、胡散臭くて好きになれないね…」

 サクヤさんの荒れ気味な声におばあさんが、

「実際にはね、鴨川も羽藤を援助し続ける余力がなくなり始めていたの。羽藤も鴨川も収
入の源は結局土地なのだもの。それを手放した以上、羽藤の物でも鴨川の物でもなくなっ
た以上、いつ迄も潤沢な資金が出る訳がない。

 鴨川が得た声望も結局精神的な物で、それで確かな利得を得た訳でもないから。土地も
お金も権利も得た訳じゃない。仲介しただけ。鴨川自身が、みんな平等の世の中で、過去
の解放者の功績を口にしても、通じなくなって来ていたの。その辺も理解してあげない
と」

 真沙美さんの祖父・臣人さんの時から両家は断交した侭で。わたしは鴨川の家に遊びに
行けないし、真沙美さんも羽様の屋敷に来られない。田舎は隣が数キロ先で気易く行き交
いできないけど、それ以上に互いの心が遠い。

 近在の家々は鴨川に倣い、又はその顔色を窺う感じで、羽藤と正面からおつきあいする
家は少なく。別種の思惑や目論見が込みでも、まともに交流がある家は沢尻位なのが現状
で。

「沢尻さんもね、禍ばかりじゃないんだよ」

 生計を維持する為にも、断ち切り難い関係だったのかな。羽藤に農地は残されておらず。
正樹さんは首都圏の大学も病を患って中退し、羽様に戻ってきた為に、望む職に就けてな
く。コラム執筆の原稿料は家族を養うに力不足で。おばあさんの夫、わたしのおじいさん
が第二次大戦に出征し、遺族年金は下りていたけど。

 真弓さんが専業主婦として嫁してきて、桂ちゃん白花ちゃんを生み、わたし迄居候し続
けては。わたしが働いても、子供が稼げる金額に限度がある以上に、家が僻地で望めない。

 おばあさんは機で織った反物も売っていた。沢尻は高額な仲介料を得た様だけど。苦し
い時期の収入に喜んでいた様で。サクヤさんが妥当な値段で扱う業者を見つけてくれた後
も、全ては切り替えず、沢尻に売る分も少し残し。

「沢尻の取り分が、多くあるといいねぇ…」

 一度絆を繋げた以上、酸いも甘いも噛み締めて、決して手放す事はしない。笑子おばあ
さんは多くを語らなかったけど。正樹さんやサクヤさんも承伏し難い甘さや、時に非合理
に映るその行いが。意外な地下水脈を為していて、思いもしない効果を顕す事も時折ある。

 わたしも笑子おばあさんの真意や視野や思索に辿り着くには、到底及ばず。形を真似つ
つ日々の諸々の中で、何とかその視座に近づきたい、感得したいと願い続け想い続けて…。

 高校1年の夏、オハシラ様の祭りを迎えた。


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 オハシラ様の祭儀は羽藤が羽様で執り行うけど、出店や盆踊りやカラオケ大会等の催し
は銀座通で為す。隠す程の祭儀ではないけど、人が近くに雑多に居ては静謐を保ち難いの
で、人を呼ぶ要素は少し遠くにある方が都合良い。

 山の中腹にあるご神木の前で、正午に行う祭儀に合わせ。白花ちゃん桂ちゃんとサクヤ
さんに見送られ、午前拾時に正樹さん真弓さんと出立する。沢尻夫妻は今年から正樹さん
が手伝い不要と断った。わたしは笑子おばあさんの応対を思い返し、断ち切るのはどうか
と思ったけど、余り強く主張出来ず。正樹さんは、良月を始めとする羽藤の品々の所有権
確認や返還・謝罪や賠償も求めているらしい。

 祭祀を司るわたし以外は、今様の洋服姿だ。白い小袖に緋袴の巫女装束を纏うわたしも
祭祀を司る前、中学1年迄はセーラー服だった。敬意を確かに抱くならその時の正装で良
いと。

 似合うよと、真弓さんや正樹さんに言われたけど。何とかそれらしい格好は整えたけど。
和装が似合うのは、凹凸のない体型と誰かに聞いた様な。そう、サクヤさんに聞いた様な。
真沙美さんとは言わない迄も、志保さんや夕維さん位胸があったら、きつくて困れたのに。

 巫女装束で荷を持って獣道を、時に道なき道を歩み行くけど。護身の技の修練の成果で、
藪や木々の間を抜けても衣は破れず汚れない。真弓さんと2人、正樹さんの進みに合わせ
て。

 細く狭い山道は濡れていると難渋するけど、夏の日が照りつける今は乾き、歩みに差し
障りはない。雑草や木々の枝葉を縫って進むと。

 ざあぁっ……。

 急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。

 そこには見上げる程大きな、数百の歳月を雨風と共に過したといった趣のある、大きな
大きな樹が根を下ろしていた。槐のご神木だ。ご神木に遠慮した様に、その周囲は若い樹
も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。

 わたし達は折り畳みの簡素な祭壇を設置し、白布を広げてお菓子やお酒・塩や穀物を供
え。竹林の姫も甘い物好きだと知ったのは最近だ。実体がないので口には出来ないけど、
感応でわたしの味覚や触感を伝えると喜んでくれて。なので例年よりお菓子の編成には凝
った積り。

「オハシラ様、今年もお祀りに参りました」

 笑子おばあさんは祭祀に来たと伝える為に、ご神木に触れる必要があったけど。昼間で
も、わたしは触れずに来訪と所用を届かせられる。想いを注いで草書体で書き綴った祝詞
を読み上げ、次に今の言葉でほぼ同じ内容を復唱し。

「久方ぶりです。オハシラ様のお陰でわたし達は幸せに暮らせています。今後もわたし達
はオハシラ様を語り継ぎ、守り続けます。変らない想いを胸に抱きます。どうか心安らか
にお努めに励み、わたし達を見守り下さい」

 祀りへの参加は小学6年の夏、桂ちゃん白花ちゃんを鬼から生命懸けで守り、大人扱い
されて以降で5回目。祭祀を司るのは3回目。おばあさんの補助抜きの儀式は初めてだけ
ど。今春からわたしは何度か贄の血の力の修練に、オハシラ様に直に触れて、感応も為し
ている。

 強すぎる感応に溺れず己を保ち、滞りなく祭祀を進め。想いを届かせる為の祭祀だけど、
己の想いに耽って形を壊しては、歴代の羽藤とオハシラ様の、想いの積み重ねを踏み躙る。
今は受け継がれた祭祀を進める事を優先し…。

 荘厳さや神聖さは余りない。久しぶりのご挨拶に来た様な。心を込める事は大切だけど、
畏怖や隔絶は不要だと。自然体の親しみの中にも受け継いで変らない遠祖への敬愛を込め。

「僕には余り感じ取れないけど。本当にこの樹の中にオハシラ様が宿っているのかい?」

 正樹さんは羽藤の歴代で贄の血が最も薄く、槐に触れても感応を発動できない。笑子お
ばあさんを介しても、確かに視る事は叶わなかった様で。声に若干の懐疑を感じた。そこ
には物事を盲信しない現代人の気質も影響している。盲信への留保は悪い姿勢ではないけ
ど。正樹さんは郷土史研究家で、学識も深いから。知識は時に先入観となって人の視野を
狭める。

 研究考察の対象として一歩引くと。客観性を持てる代り、深く相手に踏み込んだ理解が
難しくなる。世の中には真偽を問うより相手の訴えに耳を傾けるべき局面がある。幼子の
様にまず受け容れてから詳細を問うべき時も。己が一歩引けば向うも一歩引いて構えて来
る。

 実体のないオハシラ様や心霊に懐疑の姿勢で臨めば、分り合う前に有無の見定めが至難
になる。尤もこの種の感覚は男性より女性が得意なのかも。伊勢の斎王や沖縄の聞得大君
に見られる様に、視える気質は論理的・物質的・男性的な気質と縁遠い。それで言うなら。

「唯の樹ではないらしい事は、人の気配の残り香の様な物は、微かに感じ取れるけど…」

 真弓さんも現身の鬼を戦い倒す剣の達人で。
 贄の民でない以上に物質的な面にやや偏る。

「今度一緒に感応してみますか? わたしを介すれば、より確かにオハシラ様を感じ取れ
ると思います。今日はお祀りでオハシラ様も揺れ動くので、数日置いて落ち着いた頃に」

 唯代々惰性で崇め奉ってきた神様ではない。
 オハシラ様はわたし達の遠祖である以上に。

 鬼神を封じてその暴威から外界全てを守り。
 贄の血の匂いを消す広大な結界を保つ要で。

 贄の民を千年もの間支え導き続けてくれた。
 子々孫々に至る迄敬い続けたい大事なひと。

 その存在は愛しい双子の今と未来にも関る。
 正樹さんや真弓さんにも親しんで貰えれば。

「そうだね。手が空いた時にでもお願いするかな……最近はどうも何かと、忙しくてね」

「柚明ちゃんとオハシラ様の、良い時に…」

 準備も後片付けも含め1時間で祭祀は終る。劇的な変化がある訳でもなく、雲間から光
が差して聖なる声や慈愛が届く訳でもなく。砕けすぎない位で日常の侭、淡々と撤収も終
り。

「ただいま戻りました」「お疲れだったね」

 わたし達の足音で帰着を察したのか、サクヤさんは幼子と一緒に三和土迄迎えてくれて。

「いえ、サクヤさんこそ、桂ちゃんと白花ちゃんを見て頂いて、有り難うございます…」

 ただいま、桂ちゃん、白花ちゃん。

 言い終える前に飛びついてくる幼子2人を。
 わたしは荷を置いて屈み込んで受け止める。

 この様に何でもない日常を過ごせるなんて。
 ここ数ヶ月の展開から振り返れば夢の様だ。

 わたしに獣欲を抱いた大野教諭を退けた事に始り。不二夏美に生命を脅かされ、報道関
係者の八木さんに彼女との交戦を撮られた上、秘匿の代りに操を捧ぐ寸前迄至り。今年無
事にオハシラ様の祭祀を司れた事が僥倖だった。家族の親愛に包まれた今の日常が奇跡に
近い。

 わたしは守られている。生者にも死者にも。
 サクヤさんにも真弓さんにも正樹さんにも。

 笑子おばあさんやオハシラ様や幼子達にも。
 返しきれない程の想いを守りを注いで貰い。

 その幸せに身を浸しつつ、心を浸しつつ。
 もうすぐ6歳を迎える、2人のいとこの。

 左右から寄せてくれる柔肌に、頬合わせ。
 全身全霊の想いを返すからと、心に誓い。

 想いを新たに紡ぎ直し、巫女装束から浴衣に着替え、わたし達は銀座通の宵宮を訪れる。


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 経観塚名物の通り雨が過ぎ、夏の強い陽が再び照りつけ始めた頃。到着した銀座通では、
今迄一体どこに潜んでいたのかと思う程の人々が、出店の連なる一角を密に歩いていて…。

「ひといっぱい」「お店たくさん」

 田舎に大人数の場は多くない。桂ちゃん白花ちゃんは去年から、社会性を養う為に銀座
通の幼稚園に通っているけど。人混みも幼子には貴重な経験だ。その成果なのか元々の素
養なのか、2人は賑わいにすぐ馴染み。真弓さんやわたしの腕を、早く早くと引っ張って。

 サクヤさんは今年も運転手だからと、浴衣を着ず。女の子はこういう時こそ浴衣が映え
るのに。その見事なスタイルに浴衣を纏えば、胸も腰も艶っぽく衆目を釘付けに出来るの
に。

 真弓さんも笑子おばあさん作の浴衣を纏い。
 胸の大きさはサクヤさんには敵わないけど。
 大人の色香と清らかさを兼ね備えて美しく。
 白花ちゃん桂ちゃんも可愛らしい浴衣姿だ。

 子供は月単位で背が伸びる為、笑子おばあさんの作った浴衣もその侭は着られないけど。
わたしが手を加え、着られる様に仕立て直し。おばあさんの想いを伝え繋ぐのに役立てる
事が嬉しい。愛しい幼子に役立てる事が嬉しい。

 わたしの想いも身に纏い幼子達は先を争い、

「おかあさん、わたあめっ!」「おとうさん、お面っ」「サクヤおばちゃん、リンゴあ
め」「あれなぁに?」「あそこ見てみたいっ…」

 幼子2人に大人3人+1人が振り回される。
 子供の元気は無限に近いと知らされました。
 わたしも少し前迄そうだった筈なのだけど。

 植木の出店の前で足を止め鉢植えに魅入る。笑子おばあさんは去年も根が生えた様に花
を木々を眺め、暫く佇んでいた。にこにこと植木屋のおじさんおばさんと、言葉を交わし
て。あの時に翌年こうなると誰に察し得ただろう。己がこの様な過程を経ると視通せただ
ろうか。そして来年一体どうなるかを今のわたしは…。

「……柚明ちゃん?」「あ……済みません」

 真弓さんの声で我に返る。唯でも笑子おばあさんがいないのに、わたし迄が想いに耽り
笑みを失っては、羽藤の空気が沈む。今は明るく朗らかに。故人の想い出に浸るのは別の
時に。心を切り替え、歩み出そうとした瞬間。

「ゆめいせんぱぁい、おっはよぉござぃ…」

 桂ちゃんの元気さにも通じる馴染みの声は。
 今が朝ではない事を承知で走り寄ってきて。

 小柄な女の子はミディアムの黒髪を揺らせ、一緒していた女の子達から突出し、最初に
わたしの視界に入ろうと。一番にわたしの答を欲し。この目前で急停止してお辞儀の予定
が。

「……まあぁすぅ……ひゃぁ!」「危ない」

 少し手前で躓き転ぶ。その像が視えた瞬間、体は動き出していた。いつか見た様な、よ
く見た様な光景を。彼女の動きが突発的だったので、視えた絵も直前で、応対に余裕はな
かったけど。修練の成果は急な求めにも即応し。

 ぽふっ。躓いて前のめりにバランスを崩す。
 女の子の柔らかな体を、前に出て正面から。

 両腕を背に回し、確かに受け止め抱き支え。
 映画の恋人同士の抱擁に近い、絵になった。

「ふぅ。大丈夫、南さん?」「は、はわ…」

 転んで膝や掌を擦り剥く等の被害は防げた。
 まずその事に安心して胸元に問うわたしに。

 南さんは状況を呑み込むのに少し時が掛り。
 黒髪ショートな知花さんが先に傍で赤面し。

「南ちゃん、昼でも大胆っ」「ふ、ふえ?」

 その声で南さんは事を悟って逆に固くなり。
 この背に回す両腕の締め付けが強くなって。

 大きくないこの胸の谷間に頬埋め身を絡め。
 昼の内から女の子同士で刺激的な絵図かも。

「ああっ、ゆめい先輩、済みません、あの」

 漸く身を離したけど、動転して言葉出ない南さんの黒髪に、わたしは右手を梳き入れて。

「慕ってくれる事も走り寄ってくれる事も嬉しいけど、足下注意。掌や膝を擦り剥いて埃
や血に汚れては、可愛い南さんが台無しよ」

 瞳を覗き込んで語るのは、想いを心に響かせたいから。人を慕い好く行いの故に、痛み
傷つくのは可哀想だ。女の子の滑らかな肌や肉が破れ血を流す様は、叶う限り見たくない。

 両肩を軽く抑えて、想いを込めたお願いに。

「ありがとぉございます」頬染めた答が返り。

 傍には知香さんの他にも銀座通中手芸部の女の子が参拾人はいた。セミロングの黒髪艶
やかな筒井琴音さん。2級下の黒髪おかっぱな新田絵理さん。濃い茶のショートヘアな坂
本陽菜さん。縮れた黒髪の長い原口紗英さん。

 1年生には初見の人もいたけど。わたしは手芸部の伝説の人扱いで名が知れ渡っていて。
好まれ慕われ肌身触れ合う事は嫌わないけど。前後左右を囲まれ声を交わすのは嬉しいけ
ど。暫く道の中央で人の往来を止めて衆目も浴び。

「良かった……先輩が元気に応えてくれて」

 南さんが敢て触れたのは、中学校の後輩に届いた羽藤柚明の悪い噂だ。わたしが高校で、
剣道部顧問の教諭に襲われ処女奪われたとか、恋に破れ捨てられたとか。箝口令を破って
漏れ出て、夏休み直前から広がった不吉の兆し。

 公式には事実は伏せられ、大野教諭は休職扱いで。不祥事隠しと言うより、女の子の重
大事案は、その子のその後の為にも安易に公表出来ないと。大野教諭は罪の甚大さの故に、
拙速に処分出来ない様で。県立高校の教諭は県職員で、校長に解雇の権限はないと聞いた。

 羽様の家族と当事者以外に、大野教諭の真相を知るのは。県庁市にある教育委員会の人
達と、県立経観塚高校の先生方のごく一部で。その間で知られて伏せられている事実では
…。

 わたしを辱めようとした大野教諭を、わたしが独力で撃退したと。置き放しのビデオカ
メラは視点固定で。彼がわたしを嬲る絵は撮れても、わたしが彼を倒す絵は残せず。音声
は美咋先輩の名誉に掛るので、残さなかった。故に先生方の究明は、あの場で何を言って
言われたかより、何を為して為されたかに傾き。

 彼を退けたわたしの無事に、先生方は安堵しつつ首を捻っていた。剣道も習ってない女
の子が、剣道達人の成人男性を倒せた結果は、納得し難く。強がって、又は恥を隠してい
るとの疑念も燻り。病院で検査も受けさせられ。

 強さを顕示しても信用され難いと分るので。詳細は語らず結果を示すのみに留め。わた
しの勝因は『偶々運良く』『当たり所の関係』で彼が悶絶した為とされ。噂もその整合性
を突いて広まったみたい。唯で済む筈がないと。

「酷い噂ばかりで心配したんですよ。ゆめい先輩は強くて綺麗な人だけど、どんな事があ
っても南のたいせつな人だけど。でも酷い噂に心傷めているんじゃないか、誤解や疑いの
視線に元気なくしているんじゃないかって」

「わたしもです、ゆめい先輩」「先輩っ…」

 だからわたしが平然と衆目の場に居る事が、悪い噂の否定に思えて。彼女達はわたしに
詰めかけて、肌身に触れて無事を確かめようと。故にわたしもそれを受け止めて、身に抱
き頬合わせ声音で感触で、健在を伝える事で応え。

「有り難う、わたしを心配してくれて。後輩に心配されるなんて、わたしもまだまだね…。
 でもわたしは無事だから。悪い噂は殆ど根も葉もない絵空事だから。わたしは穢れても
傷ついても萎れてもいない。そして今可愛い後輩からも強く暖かな心の力を貰ったから」

 彼女達の心配や不安を満たす。通う学校が違う今、わたしは後輩を日々訪ねて癒し守る
事が出来ない。こまめに励ます事が叶わない。わたしを案じてくれた清い想いに、少しで
も何かを返さねば。心細さを埋め、活力を注ぎ。

 衆目の前で気恥ずかしい程密な触れ合いを、参拾数人の柔らかな女の子達と交わして別
れ。桂ちゃん白花ちゃんを捜す視界の先に、今は南さんの彼氏となった文彦君の視線があ
った。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「野球部のメンバーと一緒だったんだ。トイレ行くんで、はぐれたけど」「そうなんだ」

 真弓さん達の居る方角が、文彦君の連れの居る方角でもあるので。少しの間一緒に歩く。
わたしが卒業した春以降も紆余曲折はあれど、2人は順調らしく。南さんの気持のムラを
文彦君が巧く受け止めている様だ。夕維さんと翔君の仲に近いかも。今日も昼はお互い部
活の友達と歩き、夜を2人の時にする考えで…。

「県大会の準決勝、惜しかったわね」「うん。まあ、僻地の学校で期待されてなかった割
に、結構行けたかな。もう少し勝ちたかったけど、流石に名門は強さの格が違う。仕方な
いよ」

 悔しさの中にも納得があるのは、やれる限りの事をやり尽くした敗北の故か。彼と言葉
を交わしつつ、注がれる男女幾つかの視線を自然に見つめ返すと、視線の主達は目を背け。

 彼と2人で歩む様にと言うより、羽藤柚明の一挙一動に。大人も含む高校生以上の男女
一定数の視線が注がれ。わたしの様子を窺う様に、反応を見定める様に、深読みする様に。
女の子との密な触れ合いの故ではない。男の子と手を繋ぐ位が、注目に値する訳ではない。

「難波は何か先輩に言ってきた?」「ええ」

 文彦君がわたしに気遣いつつ尋ねる問に。
 わたしは大丈夫と示す為に即答で頷いて。

「わたしが高校で、剣道部顧問の先生に…」
「その先は言わないで好いよ。先輩っ…!」

 話しは分っているよと示す目的だったので。
 わたしを気遣って全てを言わせぬ彼に従い。

「既に町中に噂は広まっているわ。今更神経尖らせても始らない。気遣いは嬉しいけど」

 充分だよと。わたしは心折れてないし萎縮もしてないし、虚勢張っている訳でもないと。
穏やかに柔らかに、わたしの真実を伝えたい。彼はそれに唖然と驚きつつ、ややほっとし
て、

「良かったよ。先輩が簡単にへこむ様な人じゃないって、俺も難波も分っているけど…」

 日々逢って無事を確かめて励ませないので。
 彼は自身の不安以上にわたしの境遇を案じ。

 わたしを案じ心乱れる南さんを気遣う故に。
 焦りを感じても顔色に出さぬ様に己を抑え。

 強く優しく賢明な人を想う心の深い男の子。

 わたしに恋心を寄せてくれて、わたしも好いた大切な後輩で。小中学校を共にした仲間。

「……先輩が元気そうなので、安心できた」

 彼は己の望みを満たし或いは不安を鎮める為に、わたしと手を繋いだ訳ではない。衆目
の前で手を繋いで見せる事で。大人達に羽藤柚明は何も穢れてないと示して守り庇おうと。

 教諭を魅惑して脅し破滅させたとか、子供孕んで堕ろしたとか、退学した(する、させ
られた)とか、対人恐怖症になって人前に出られなくなったとか、都会に逃げ去ったとか。

 夏休み前に数日高校を休んだ事を根拠にし、同情を装って噂する者達の悪意に。文彦君
は、平然と手を繋ぐ姿を見せて抗議を。躊躇いがちなこの手を、強く引っ張る義憤は熱い
程で。結局一番に出来ないと応えたわたしに彼は尚。

「わたし、文彦君にそこ迄想って貰える程に、値のある女の子では……」「俺がこうさせ
て貰いたいんだ。恋人には俺が釣り合わなくて、諦めさせて貰ったけど。せめてこの程度
は」

 好奇の視線を共に受け、むしろ半歩前に出て己が受け。さっきの南さん達もそうだけど。
わたしは暖かで強い人の想いに守られている。

 羽藤の家族が見え、銀座通中野球部の面々が目を見開いた頃に、彼はこの手を解き放ち。

「付き合ってくれてありがと。俺は……俺と難波は、大丈夫だから。先輩は余計な処に気
は遣わず、自分の事柄に向き合って欲しい」

 彼はわたしが南さんや文彦君の心の乱れを気に掛けると察し。心配不要だと。南さんを
守り支えるのは、現在彼氏たる自分の役だと。

「それより鴨先輩や佐々木先輩やヒロ先輩に、羽藤先輩の笑顔を見せて。先輩の笑顔は心
に効くんだ。ウチの親はその他大勢扱いだから、今回の噂にも傍観者だけど、中には、そ
の」

 羽藤柚明を貶める噂は、鴨川に気に入られたい幾つかの家の者達が流している。主人の
歓心を買う為に。悪い噂を何度でも繰り返し。

「有り難う。文彦君は、強くて優しいのね」

 噂を振り蒔いた者の縁者は、わたしに向き合うのが辛かろうと。彼ら自身は無実なのに、
苦味や自責で心遠ざかるのは残念だと。彼はわたしなら心繋ぎ止められると信じてくれて。

「大丈夫。真沙美さんも華子さんも沢尻君も、羽藤柚明のたいせつな人。小中学校を一緒
に過ごし、心通じ合えた掛け替えのない人達よ。そして、たいせつな人がたいせつに想う
人は、みんなわたしのたいせつな人。みんなの家族はわたしの家族。わたしの心は折られ
ない」

 諸々の経緯や過去は承知の上で、わたしは彼らを大事に想う。真沙美さんや華子さんや
沢尻君の、父母や祖父母である以上に。彼らも一度は羽藤に心を寄せた地域の仲間。笑子
おばあさんがそうだった様に。わたしも羽藤の積み重ねの上を今後進み行くなら。一度た
いせつに想い合った関係は、決して解かない。それが恩に仇を、愛に憎悪を返される仲で
も。

「わたしをたいせつに想ってくれた人達なら尚のこと。叶う限りの想いを届かせたいの」

 これはわたし自身の願い。誰に嫌われ拒まれても、わたしが手放したくない己の望みよ。

「わたしのたいせつな人達を、心配し気遣ってくれて有り難う。わたしが嬉しいわ……」

 間近で見つめ合った姿勢から。すっと身を寄せて左頬に頬合わせ。野球部員や羽藤の家
族や他の人達の前だけど、背に軽く腕を回して繋ぎ合わせ。たいせつな想いを確かに伝え。

 その絵図に促された様に、幼子達が駆け寄ってきて。親愛を込めた抱擁は終りを告げた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 両の手を、幼子に強く握られ引っ張られ。
 出店の連なりを端迄歩き、反転した頃に。
 雑踏ではやや異質な達人の気配を感じた。

「こんにちは、健吾さん」「お久しぶり…」

 二十歳代後半の屈強な体格の男性は、わたしの挨拶に先を越されたと苦笑いして。麗香
さんと幼子2人を引き連れて、傍に歩み来て。

「麗香さんも先月は有り難うございました」

 青島さん一家とは、出逢って一年強になる。屈強な武道の達人で、元警察官で今は警備
会社に勤める健吾さんと。その細君で歳は二十歳代中盤だけど、姿形は学生で通る麗香さ
ん。背が高く胸や腰の造形も、女の子が見て惚れ惚れする程に見事で。サクヤさんに近い
かも。

 巡り逢いのきっかけは2人の子供・渚ちゃん遥ちゃんが、幼稚園で桂ちゃん白花ちゃん
の同級生だった事で。達人である健吾さんが、わたしの佇まいを只者でないと喝破した為
で。

 奥さんである麗香さんにも懇意にして頂き。
 台所や食卓やお風呂や褥も共にしてくれて。
 親身に触れ合う内に素肌や頬や唇も重ねた。

 それで一度は健吾さんの憤激を招いたけど。
 わたしが女子の故か今は諦めた様に受容し。
 最近は奥さんよりわたしを案じている様な。

 更に渚ちゃん遥ちゃんにも気に入って貰え。
 本当に家族ぐるみで深くお付き合い頂いて。
 想いを信頼を寄せてくれたたいせつな人達。

「こちらこそ」「ゆめいおねー」「おねー」

 麗香さんがわたしに挨拶し終るのを待てず。
 幼子達がわたしに手を差し伸べて答を求め。

 わたしは屈み込んで幼子の腕に囚われ、抱擁を返し。左右の腕の外側から、羽様の双子
が渚ちゃん遥ちゃんの注意を惹いて、仲良し同士の交流に。その間に大人同士はご挨拶を。

 今も時折家族で羽様を訪ねて泊ってくれて。健吾さんはわたしや真弓さんと武道の修練
を。麗香さんは料理や裁縫を共に。幼子達は仲良く遊び。青島家の幼子は2人共男の子だ
けど、同じ学年でも拾一ヶ月生れの遅い遥ちゃんは、体も細く小さくて。白花ちゃんと気
が合って。渚ちゃんは元気な桂ちゃんとウマが合う様で。

 望まれるなら、羽様に迎えても泊りに行ってもと思っていたけど。夏休みならわたしも
幼子も動き易いけど。でも最近は色々憚られ。

「噂は聞いたよ。安心しろ。俺も麗香も全く信じていないし、疑念を抱く様な事もない」

 両肩を大きなその手で軽く抑えて、信頼を伝えてくれて。告げられる親愛は嬉しいけど。
幼子を抱え地元出身ではない若夫婦に、わたしの為に余計な負荷を与えた事が申し訳なく。

 わたしが金銭強請る為に、大野教諭を性交に誘ったとか。他の女生徒に恋した教諭を逆
恨みして、告発したとか。学生妊娠は外聞が悪いと、家族に無理矢理堕胎させられたとか。
他の女生徒にわたしが女同士の恋愛感情を抱いて襲い掛り、阻んだ教諭が誤解されたとか。

『彼女が悪い人物ではない事は、俺も拳で分っている。その上で麗香が隣近所の目が気に
なるなら、幼稚園の送り迎えで保護者同士で少しでも憚りがあるなら。俺から彼女や羽藤
家に、暫く付き合い控えてと頼もう。俺の所為にしておけば、ほとぼりの冷めた頃に麗香
から、彼女に付き合い再開も申し込み易い』

 健吾さんはわたしへの信頼に揺らぎもなく、憚りもないけど。幼子を抱え隣近所や保護
者同士の付き合いがある麗香さんの立場を案じ。麗香さんのわたしに寄せる想いにも気遣
って。彼が悪役を担っても良いと、語りかけた処…。

「私はあなたの潔白と清らかさを知っている。
 あなたが時に、人の罪や過ち迄己に被って、誤解も非難も受けて黙して、大事な人を守
り通す強く優しい女の子だと、他の誰より私が。あなたの想いに実際に守られた、私だか
ら」

 麗香さんは健吾さんへの答を今この場でも。
 わたしを正面から柔らかに抱いて頬合わせ。

「私も虐められていた学生時代、執拗に酷い噂を流され続けた。悪意な連中は根も葉もな
い噂を勝手に紡ぎ、無責任に垂れ流す。問い糺しても言い逃れ、裏で嘲笑って一層愉しげ
に人を貶め。信じてくれる人は誰もいなくて。

 そしてわたしもそんな連中の噂に踊らされ、似た境遇の人を貶める噂の流布に、一役買
わされてもいた。人の噂に心揺らされ、信じるべきではない悪意な話しに耳を傾け、信頼
を繋げたかも知れない人を傷つけて、心離れ」

 自分がそんな弱く愚かな人間だから、人にそうされても、仕方なかったのかも知れない。
でもあなたは別。あなたはどんな辛い時も酷い事されても、報いがなくても恩に仇を返さ
れても、ずっと人の為を想い続け尽くし続け。

 麗香さんは去年、わたしが青島家の内情に首を突っ込み過ぎ、人の噂を招いた事も思い
返しつつ。瞳潤ませ強く肌身合わせてくれて。抱擁は大きな胸がこの胸を圧倒して潰す程
に。

「今こそ私があなたに想いを返すわ。今迄の人生の流れを巻き返したい。ずっと心ない噂
に踊らされ、人から離れ、引き離されてきた。今度こそ私はあなたにしっかり想いを届け
て、自分自身に決着を付けたい。今の私には頼れる強い夫がいる、愛おしいあなたがいる
わ」

 私の人生に深く関ってくれもしない、有象無象の声に左右されるのはもう沢山。私は私
が大切に想い、真実だと信じた者を愛したい。

 麗香さんは、健吾さんの心配を不要だと。
 羽藤柚明を信じ関る判断に、ぶれもなく。

 衆目の前で為す女子同士の抱擁にも躊躇はなく。逆に親愛を見せつけたいと。悪意な者
達にその意図は、既に砕かれ弾かれていると。南さん達や文彦君や、羽様の家族とも同様
に。その熱い程に強い想いが嬉しくて愛おしくて。

「有り難うございます。そして申し訳ありません。麗香さんや、麗香さんの大切な健吾さ
んに、余計な負担を掛けてしまって。お2人には渚ちゃん遥ちゃんもいるのに。わたしな
んかに心を振り向ける余裕はない筈なのに」

 ぎゅっと締め付ける感触が強くなったのは。
 麗香さんはわたしを胸の谷間に押しつけて。

「偶には大人の労りを素直に受けなさい…」

 何度か共にした夜の肌触りや肉感が、思い出されて頬を染める。逆らう気力を持てぬわ
たしを、柔らかに長い腕は絡め取って放さず。

「こういう時位しか、私が完璧超人なあなたの力になれる時は、ないのだから……ね?」

 偶には私にも『姉』らしい事をさせて頂戴。
 こうなるとわたしは頷き従う他に術はなく。

 返される想い等期待できないと、報い等望めはしないと、思って来たけど。今尚わたし
は愚かで力不足な子供だけど。人の幸せを願った末に結べた絆が、多くの想いがわたしを
支えてくれる。この今が心の底から嬉しくて。

 この愛おしい感触に、暫く己を委ねていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 夏の陽が傾く迄家族で祭りを歩いて。羽様に帰るみんなを見送り、お友達との夜に移る。
待ち合わせ場所の大伴酒店前では、和泉さん達が既に居て。幼子との束の間の別れに少し
時間を取られた。遅れてはいない筈だけど…。

「柚明、おひさ」「お久しぶり」「よぉっ」

 真沙美さんと華子さんと博人君の挨拶を受けて、わたしは軽くお辞儀して。5人で薄闇
と宵宮の灯の中を歩き始め。別離は数ヶ月なのにみんな大人びて見えるのは気の所為かな。

 真沙美さんの浴衣は紺の布に紅花が鮮やか。

 華子さんの浴衣は桜色の地に桃の花可愛く。

 和泉さんの浴衣は橙の地に白百合が可憐で。

 わたしの浴衣は薄青の布地に白い蝶が舞い。

 博人君は今通っている工業高校の学生服だ。

「真沙美さん、青城でも成績が首座なの?」

 1年で生徒会書記に就き武道の部活に入り。
 彼女は初心者から文武の両道を目指そうと。
 クラスの信望も厚く纏め役を担って頼られ。

 手紙や電話等で連絡は取り合っていたけど。
 博人君も含めみんなで賞賛すると苦く笑み。

「目の前にそれ以上の女がいるじゃないか」

「あ……」「確かに」わたしを見て頷いて。

 この4人はわたしの護身の技も知っている。中学1年で2級上の塩原先輩達拾数人を退
け、去年は武道の達人の健吾さんを破り。色々な人の事柄に首を突っ込んで。心配してく
れた羽様小出身のみんなに迷惑を掛け通しだった。

 でも女の子として全く至らない羽藤柚明に。
 みんなの視線も声音も優しく親しく暖かく。

「銀座通中では4回同着首位を取れただけで、最後迄あんたに勝てなかった。他の女に負
けるのは、いつか為すあんたへの、リベンジの挑戦権に傷が付く気がして、嫌だからね
…」

 真沙美さんの真意は、リベンジの時迄は縁が繋ると。住む処や学ぶ処や働く処も別々と
なった末にも。繋いだ想いは途切れないよと。勝ち気に隠した強い愛情が胸を温めてくれ
る。

 和泉さんが華子さんと博人君の近況に話題を移すと。華子さんが少し惑う間に博人君が、

「工業高校は男の比率が高いから、華子もモテモテだよ。女は数学が弱いだろって決めつ
けて、教えに来たがる奴がいるわいるわ…」

『も』って何よぉ。『も』って言い方はぁ。

 華子さんは博人君に軽く肘で突っ込みを。

「まぁ、毎朝一緒に登校してくれたり、そこそこ気を遣ってくれているから、許すけど」

 2人の交際は現状順調に進んでいるみたい。
 未だ体を繋げる迄には至ってない様だけど。

 向うの町では既に幾度か逢瀬も重ねていて。
 深い関係に至るのは時間の問題という感じ。

 わたしが望んで勧めた2人の恋仲の進展は、嬉しい様な寂しい様な。羽様の幼子が将来
恋人を連れてきた時には、こんな感触なのかも。

 少し物思いに耽っている内に。話題は羽様に残った和泉さんやわたしに移っていた様で。

「最近も又、無茶やらかしたそうじゃない」
「うっ、華子さん。それは反省しています」

 一応女の子であるこの身を案じ、厳しさを装う華子さんの問に、わたしは平身低頭する。
夏休み少し前から町中に流れた大野教諭との噂で、わたしは注目の人だった。美咋先輩の
人生を救う為でも、危うい行いに違いはなく。羽様の大人にも、こってり油を絞られたけ
ど。

「酷い噂が広まっている様だけど……大丈夫なのね。その様子を見て少し安心できたわ」

 博人君も華子さんも真沙美さんも、噂が入り易い条件にいる。博人君や華子さんの両親
祖父母は、鴨川の歓心を買う為に。真沙美さんの父・平さんや祖父・臣人さんの耳に入る
様に。広く町中に羽藤の噂を流し広めていた。

 それはわたしが羽様に移り住むより前から。
 わたしがこの世に生を受けるよりも前から。
 鴨川の先々代・継久さんが亡くなった直後。

 鴨川の先代・臣人さんは羽藤と関りを絶ち。
 鴨川の当代・平さんとお母さんを離別させ。
 近在の家々に羽藤との関係を絶つ様に促し。

 小学3年の秋に羽様小へ転入したわたしも、長く級友だった博人君や華子さんの宅を訪
ねた事は殆どない。僻地でお互い遠く通い難いと言う事情以上に、家と家の心の距離が遠
く。

 わたしの無茶を咎める華子さんの声が弱くなるのは、彼女の所為ではない罪悪感の故に。

「……ごめんなさい柚明。きっとウチの父さん母さんも、お祖父さんお祖母さんも……」

 だからわたしは全て言わせず。謝る必要は全くないと。気持は通じているから大丈夫と。

「気にしないで。華子さんも誰も悪くないの。噂を招いたのはわたしの不徳で不注意だか
ら。わたしは恨んでも怒ってもいない。華子さんや真沙美さんや沢尻君がたいせつに想う
人を、わたしが憎む筈がない。みんながたいせつに想う人は、わたしにとってもたいせつ
な人」

 実の処鴨川は羽藤と絶縁しただけで、羽藤を貶めようと迄はしてないけど。付き従う者
には、主君の意向を忖度し独自の行動に出る傾向があり。中学1年の初夏、野村美子さん
や桜井弘子さん達が、真沙美さんの意向を誤解して、きつく当たってきたのに状況は似て。

「俺も噂を聞いた時は、流石にぎくりとした。羽藤の強さは、去年青島さんの一件で見せ
つけられたけど。外見は華奢な女の子だしさ」

 1つ手違いがあれば、力づくで組み敷かれ、酷い事をされかねない。女の子は常にその
危うさを持つから。わたしが大野先生に処女を奪われたという噂も、真実味を持って広ま
り。

「あたしは噂を否定する為に、ゆめいさんの強さを公表しようよって、言ったんだけど」

 和泉さんの気持は嬉しかったけど。塩原先輩や美咋先輩や健吾さんも勧めてくれたけど。
それは効果が薄いと思うので。噂は好奇心や想像力で勝手に広まる。密室で男と女、教諭
と生徒。面白そうな話しの素材は揃っていた。

 幾ら強さを顕示しても所詮女の子。成人男性が本気になれば、最後は為されてしまうと
人は思う。群衆の前で暴漢を打ち倒す等の活劇を幾度も幾度も演じねば、事実は浸透させ
られぬ。その上今噂を流す者には意図がある。

「……確かに。華奢な羽藤が青島さんの旦那を打ち破る程強いなんて、見た俺が今尚信じ
難いし。剣道達人の男性教諭を自力で撃退したなんて、納得させる処から難しい。その上
噂したい奴らは事実に目を瞑っても噂する」

 博人君は苦い顔で、わたしの読みに頷いて。
 でも羽藤はそれで良いのかと、案じて問を。

「噂を煽る人達に事実を話してと求めても難しいわ。今の最善は、わたしにそんな事実は
ありませんと、姿勢や声音に確かに示し、真実を分って貰える様に、努める事だと思う」

 だからわたしは羽様の大人の了解を得て例年通りに。町中を平然と歩む姿を見せる事で。
悪い噂を否定し鎮め、煽る者の意図を見極めようと。不吉の兆しは尚形状も見通せてなく。
遙かに見通せた禍の暗雲とも違いやや近めに。でもそれはまだ起きるか否かも未確定らし
く。

 未だ不確定要素がある様で、それらが出揃わないと視えてこない。その多くが出揃うに
は尚少し時が要る。今週来週の問題ではない様で。現時点では未だ時期や関りが遠いのか。

 為す者の意志や方策が未決なら、詳細に視えない事も頷ける。成り行き次第で不吉の兆
しが像を結ばない可能性もあった。台風の進路の様に時折定めの向きも変る。誰かが防い
だり別方向に招けば、禍が訪れない可能性も。

 何か気付けば分ったら、密に連絡を取ります、単独行は慎みますと羽様の家族と約束し。

 たいせつな人との時間を、誤解の視線を怖れて手放したくなかったので。案じてくれる
人の想いに応え、不安や心配も鎮めたかった。

「真沙美さんの言葉を、借りて言うなら…」

 間近の強く美しい女の子に正視を向けて、

「誤解したい人には好きに噂させるとして。
 正解はみんなが見て感じた通りですと…」

 曲解したい者や誤解を望む者は大勢いる。
 それを全て釈明し解いて回る事は難しい。
 だから当事者は正解だけ強く述べるべき。

 そう述べると真沙美さんは瞳を見開いて。
 次に両の腕を伸ばしてこの肩を軽く抑え。
 柔らかな頬をこの左頬に合わせてくれて。

「……その通りだよ。私達は、いや私は羽藤柚明を識っている。柚明の真実を知らない奴
らの噂には惑わされないし、そんな奴らの噂に揺らがされる柚明ではない事も分っている。
噂なんてじきに収まる。その後に残っているのは、私の識る羽藤柚明だよ」「鴨ちゃん」

 衆目の前で素肌合わせ。わたしが穢れなき乙女だと、自ら添う事で見せつけて。真沙美
さんは鴨川の彼女が為す意味を、承知で敢て。それを見守ってくれる和泉さんも華子さん
も博人君も。わたしを深く強く想ってくれて…。

 わたしは幸せの星の下に生れ育っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あなたは本当にいつ迄も無茶ばかりして…。
 わたし、あなたにもしもの事があったなら、傍にいて事を防げなかった和泉を責めるよ」

 華子さんはわたしの性分は直せないと見て。
 わたしが無茶をすれば和泉さんを責めると。

「華ちゃんの仰る通り。ゆめいさんの保護者として、目が行き届いていませんでしたっ」

 和泉さんが素直に謝ると、わたしの立場が消失する。わたしは右往左往して、華子さん
にも和泉さんにも頭を下げて許しを請う事に。

「わたし、危険な目に合わない様に努めます。和泉さんの為にも、酷い事はされません
…」

 だから華子さんも和泉さんを責めないで。
 和泉さんに責められる因は、全くないの。
 わたしが反省します。絶対大丈夫だから。

 2人の両手を交互にとって、瞳を見つめお願いを。近しすぎる触れ合いを為すその脇で、

「柚明に酷い事を出来る男なんて、日本中探しても少ないと思うけど?」「まったくだ」

 真沙美さんの指摘に博人君が頷き。酷い噂を多数耳にしても、この面々は疑念も嫌悪も
微塵もなくて。事の詳細には立ち入らずとも、みんなわたしの真実を概ね分ってくれてい
て。

「はい、柚明。……少しの間だけだからね」

 華子さん? 右手首をその左手に掴まれて、華子さんのもう片方が導いて触れた左手首
は。

「沢尻君……?」「華子、お前……?」
「少しの間だけ、恋人のわたしが許す」

 博人君とわたしの手が繋ぎ合わされていた。
 やや驚いた顔の博人君に向けて華子さんは、

「幼なじみと手を繋ぐ位に驚かないの。わたしとだって毎日手を繋いでいる癖に。中々逢
う事も出来ない仲だから、偶に逢った時位」

「でも、華子さん。華子さんとわたしは…」

「ごめんね柚明。でも、こんな事がなくても、夏休み前からこうしようと想っていたん
だ」

 ウチの家族がずっと柚明の害になり続けて。経観塚を離れた今のわたしは、親を諫める
事もあなたを庇う事も出来ない。元々わたしは、望んで敢て誤解を被って人助けする、あ
なたの力にも支えにも、殆どなれてなかったけど。

 それでもあなたはわたしを憎まず嫌わずに。百も承知の小言に耳を傾け、謝る必要ない
事に謝って。他の人助けに一杯一杯で尚、わたしの苦情にも向き合ってくれて。嬉しかっ
た。

「わたしが救われてきた。あなたの様な強さのないわたしは、影で憧れと心配と応援の視
線を送るしかできなかったけど。あなたはこうなった今も尚、柔らかに微笑んでくれる」

 あなたから大事な人を奪ったこのわたしを、愛してくれて。恋仇以上に仇の親族でもあ
るこのわたしを。どれ程害になっても絆を絡め続けてくれて。あなたはどこ迄も羽藤柚明
で。

「あなたが心折れずにいてくれる事が嬉しい。償いでもお礼でもなく。あなたが喜ぶ姿を
見たい。わたしの手であなたを微笑ませたい」

 華子さんは、わたしと博人君とが親愛を交わす手助けを。恋心を譲る事は出来なくても、
機会を譲る事は叶うと。わたしと彼の間に恋が生じる可能性は、双方で断ち切った。今や
互いが互いに抱くのは、友情や信頼や親愛だ。幼少時を共にした、想い出の共有関係だっ
た。

「大好きだよ、柚明。わたしの憧れで恋仇」

 みんなの前で右頬に唇で柔らかに触れてくれるのも。両腕を背に回し、暫く身を拘束し
てくれるのも。佐々木華子のわたしへの強い親愛と同時に。博人君がわたしに抱く親愛も、
わたしとの関りも、彼女が把握し統括すると。

 羽藤柚明には、沢尻博人より佐々木華子の方が深入り済だから、博人が気の迷いを起こ
しても、既に時期遅しだよと。そう示した上で華子さんは、羽藤柚明に彼との繋りを許し。

「有り難う。わたしも華子さんを大好きよ」

 わたしは諸々を込みの強い親愛と友情と信頼に。叶う限り強い親愛で応え。2人の幸せ
はわたしも選び望んだ己の幸せ。たいせつな人の笑顔が今も今後も羽藤柚明の望みだから。

 噂の羽藤柚明が衆目の前で、女の子のキスを頬に受ける様に、博人君はやや慌てたけど。
わたしは望んで受け容れ、抱擁に抱擁を返し。女の子の滑らかな感触に、暫し身も心も浸
し。

「お願いします」「それは男のセリフだろ」

 華子さんとの抱擁を終えて、右手を差し出すと。博人君は苦笑しつつ、左手で受けて一
緒に歩いてくれて。女の子3人は少し後ろを歩み。その気遣いを、彼は知ってか知らずか、

「……俺は、お前を経観塚の外に連れ出したかった。この田舎町は昔から何も進歩しない。
羽藤だの鴨川だの、因習に縛られ。意味のない諍いや騙し合いを暇潰しの様に続け。華子
も鴨も、家族は暖かくても和泉や羽藤も、そんな地域の大人共の重苦しい空気に縛られ」

 特に俺がそう言うのを間近で見てきたから。

 彼の飄々とした姿勢の底に蟠る人間不信の源は、両親への深い諦めだった。唯羽藤を嫌
い憎むのではなく、羽藤を騙し金品や情報を掠め取って鴨川に流す。中には鴨川に渡らず、
その侭沢尻の懐に消えた金品もあり。時に鴨川の目も盗み、笑子おばあさんやわたしの織
った反物を県外の業者に売って、暴利を稼ぎ。鴨川の威を借りて羽藤を締め上げ、選択の
余地を失わせ、自らが優位な立場で裏取引して。

 佐々木を始めとする多くの家々が、戦後の鴨川神話を信じ。『羽様の解放者』に敬意や
畏怖を抱き従い、羽藤と交わらないのに較べ。沢尻夫妻は己の利得の為にその状況を利用
し、利用する為にその状況を固定化し続けてきた。

 それが子供の目にどの様に映ってきた事か。
 去年の秋、わたしに告白した時も博人君は。

『俺は羽藤に大きく影響されたと思っている。人生を半分位、塗り替えられた。元々俺は
機械が好きで、人は余り好きじゃなかったんだ。
 人は言っても中々聞かないだろう。理屈も通じない事の方が多いし。……俺が人の間を
取り持つ様になったのは、皮肉だけど、人と深く関るのが嫌だったからなんだ……』

 適当な処で仲裁する。最後迄本音でぶつかる事を避け、妥協点を見つける。みんなにお
互いを意識させ、我を抑えさせて、調停する。俺に飛び火しない内に。俺が醜い争いを見
なくて済む様に。俺が巻き添えを食わない内に。俺の間近な人間の醜い面を見なくて済む
様に。
 機械は報酬を求めない。危険を嫌わない。気紛れがない。己を守る為に筋を曲げない…。

『機械と違って、人は己を守りに走る。普段正論を唱えていても、いざという時簡単に節
を曲げる。通常威勢の良い建前を口にしても、自分の事になると基準が違う。相手によっ
て場合によってそれ迄の理屈や応対が全然変る。
 それが人間らしさなのかも知れないけど』

 小学6年の初夏の日にも。詩織さんを庇う余り、クラスから浮き上がったわたしを窘め。

【みんなは羽藤程強くない。ダメな事でもダメな時でも、ダメと最後迄言い切れる人間は
そう多くない。羽藤が守った人間が、最後迄羽藤を守り続けてくれるとは限らないんだ】

【お前が、信じて、庇い、守り、手を引いた人間を失って、失意と孤独に落ちていく様は
見たくない。俺は羽藤の輝きを尊く思うけど、いつ迄もその侭折れずに居て欲しいから
…】

「羽藤が経観塚に居続けると、いつか心折られると俺は怯えていた。小学3年の夏、転入
当時のお前は可愛い顔を俯かせ、見ているだけで切なくて。あんな顔には絶対させないと。

 でも大人でもない俺に出来る事は限られて。早くお前を大人のしがらみのない外に、連
れ出さなきゃって。でも、沢尻の俺がそんな事言っても説得力皆無だろ。無理ないよな
ぁ」

 彼は声を間延びさせて切実さを削るけど。
 繋いだ掌から感じる想いは失意の極みで。

 彼にわたしと結ばれる途はなかった。羽様に残って親族と縁を絶ち、羽藤に与して生き
ても彼は幸せになれない。桂ちゃん白花ちゃんを一番に愛し、羽藤の想いの積み重ねの上
を生きるわたしに、彼と外に出る選択はなく。彼にわたしと羽様に残る選択はなかったの
だ。

 これが変えられない定めなのか。何度あの時あの場に戻って選択をやり直しても、幾度
心裂かれ涙流しても。わたしはこうしていた。羽藤柚明と沢尻博人の解はこれしかなかっ
た。

 だから今少しだけは互いの想いを繋ぎたい。
 華子さんの好意で許された暫くの間だけは。

 過ぎ去った日に想いを馳せて親愛を交わし。
 今を確かに進み往ける様に励まし合おうと。

 でもささやかな願いは届かせる事が難しく。
 この繋いだ両腕はすぐ乱暴に引き離された。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 闇に灯が妖しく浮ぶ宵宮の賑わいで。向うから来る人影が、鴨川家だと悟れた頃だった。
老いて尚壮健な臣人さん、細身で温順そうな平さん。平さんの後妻で真沙美さんの継母・
香耶(かや)さんは、真弓さんの二つ年上で、ショートの黒髪が艶やかで。羽様の幼子の
1つ年下の真人(まさと)君は、真沙美さんの母違いの弟で。今は香耶さんに抱かれ寝入
り。

 鴨川家の行く手は貴人の視察の様に、人が除けて道が空き。結果、互いは互いを視認し
合い。傍の真沙美さんは『鴨川様のお通り』という姿勢に不快感を滲ませたけど。それよ
り何より、突然わたし達の間近に伸びた腕が、

「離れて。だめっ! あなた、博人とは…」

 繋いだこの手を引き剥がしたのは、博人君との間に割り込んだ、博人君の母・雪枝さん。
抗う間もなくわたしを渾身の力で突き飛ばし、

「人目の前で、鴨川の旦那様と大旦那様達の前で、事もあろうに羽藤と手を繋ぐなんて」

 修練の成果で転倒は回避したけど。遠慮ない引き離しは、羽藤への隔意を物語り。後か
ら現れた正義さんも、わたしと雪枝さんの間に更に割り込んで。雪枝さんの行いを咎めず。

「やっぱり佐々木さんのお嬢さんとがお似合いだ。手を繋ぐのは恋人同士でなくっちゃ」

 羽藤の女を息子から引き離す以外、後先考えてなかった雪枝さんは。前後を繕おうとす
る夫の声に助けられ、間近の華子さんの手を取って。わたしを気遣う博人君に強引に繋げ。

「鴨川の大旦那様、旦那様、若奥様、若様」

 それでも未だ不穏当だと分って正義さんは。
 大声で衆目を鴨川の方に導きごまかそうと。

「お晩でございます。今宵も皆様健やかで」

 美辞麗句を連ね平身低頭し、博人君の頭も抑えて下げさせて。でも臣人さんは眉間に皺
を寄せた硬い表情で。平さんも困った様な姿勢を保ち。香耶さんのみ社交辞令で場を繕い。

「ゆめいさんっ……」「柚明……大丈夫?」

 和泉さんと真沙美さんが傍に添ってくれる。
 2人に心配は要らないよと笑みを返す内に。

「……行こうか」「はい」「畏まりました」

 わたしの無事を、又は反発がない事を見定めた感じで、臣人さんは当主夫婦に先を促し。
沢尻夫妻の尚続くお世辞の途中で。拒まないけどその世辞を、鴨川は大事にも有り難くも
感じてない。鴨川家は真沙美さんに視線を向けつつ、わたし達や沢尻夫妻の脇を歩み去り。

「ごめんなさいね。ちょっとやり過ぎて…」
「鴨川の前では、沢尻は小さい家だから…」

 鴨川が通り過ぎた後で、沢尻夫妻は謝罪の言葉を。幼い頃は蔑ろにしてきた沢尻夫妻も、
去年から鴨川の前以外では、わたしを羽藤の大人並に扱っていた。過去を反省した訳では
ない。羽藤柚明が値を持ち始めた結果だった。

 笑子おばあさんに学んで織った反物が好評を博し。おばあさん亡き今、金の卵を産む鶏
はわたし1人。羽様の大人が揃って沢尻に冷淡な中、羽藤との繋りもわたし頼りになって。

 人前では息子と手を繋ぐなど許せないけど。突き飛ばす迄してしまったけど。今後を考
えた時、わたしの機嫌を損ねた侭なのは拙いと。彼らは大国の狭間で揺れる弱者の悲哀を
装い。わたしの理解というよりも哀れみを誘おうと。

「もう良いよ。行ってくれ、父さん母さん」

 わたしに媚びて縋る雪枝さんと正義さんに。
 真沙美さん和泉さんに迄縋る夫妻に博人は。

「俺が誰と手を繋ごうが俺の勝手だ。鴨川の前でも誰の前でも知った事か。俺は父さん母
さんの意向を入れて、華子を恋人にした訳じゃないし、柚明を諦めた訳でもないんだ…」

 羽藤は俺の家族である父さん母さんを嫌えない。憎めない。拒めない。今迄長らく接し
てきて、未だ彼女を分らないのか。分らないだろうさ。沢尻には人は裏切り騙す物だから。

「分らないならせめてここから去ってくれよ。
 俺の視界から声の届く範囲から消えてくれ。

 実のない世辞で鴨川を不快にさせた様に。
 実のない謝罪で柚明を汚すのは俺が嫌だ」

 その口でついさっき迄羽藤の酷い噂を語り。
 その口で別れた瞬間に羽藤の酷い噂を流す。

 羽藤は全部受け容れて赦し終えているから。もうこれ以上口先での謝罪に意味はないか
ら。早く俺達の目や声の届く範囲から消えてくれ。

 わたしは沢尻夫妻の困惑よりも、博人君の心中が切なくて。正義さんにも雪枝さんにも、
手荒な事は危ないから気をつけてと諭しつつ。今日の事は根に持ちませんからと両手を握
り。夫妻は潮時を察し頭を下げつつ雑踏に消えて。

「酷い目に遭わせてしまって、ごめんな…」

 博人君は、彼の激発を抑えに寄り添っていた華子さんと一緒に、間近に歩み寄ってきて。

「俺はもう経観塚で、お前を見守ったり割り込んで庇う事が出来ない。華子を一番にした
俺は、お前を一番にも想えない。沢尻の害は続くけど。俺は止める事も控えさせる事も」

 何も出来ない位の事で、彼は傷み哀しんで。
 わたしに助力できない事は彼の咎ではない。

 これは雪枝さん正義さんとわたしの案件だ。
 彼はわたしに精一杯の想いと守りをくれた。

 一体博人に何を謝り償う必要があるだろう。
 なのにその表情は苦渋に満ちて声音は震え。

「お前が俺程度の男に守れる女じゃあないってのは、悟れたけど。お前が決して心折られ
ない、尋常じゃなく強い人間だってのは、分ったけど。でもその上で俺に信じさせてくれ。
経観塚にいない俺は、もう何も出来ないから。

 俺が守らなくても、俺が居なくてもお前は大丈夫だって。羽藤は俺の心配や怖れや読み
の上を行き続けた。今後も俺の不安や怖れや読みの上を行き続け、絶対心折られないと」

 それは博人の傷んだ心の叫びにも聞えて。
 わたしは華子さんごと2人を抱き包んで。
 博人の左頬と華子さんの右頬に頬合わせ。

 わたしが愛した人の、愛してくれた人の。
 腕の中に己を預け、この腕で受け止めて。
 彼らの怯えを拭いたい、傷みを癒したい。

「わたしはずっと大丈夫。沢尻君と華子さんだけじゃない。みんながたいせつに想う人は、
全員わたしのたいせつな人だから。わたしが雪枝さんや正義さんに抱く想いはこの通り…。

 わたしは心折られない。いつ迄もたいせつに想い続ける。千年昔から羽藤は想いを紡ぎ
続けてきた。わたしもその積み重ねを引き継ぐ者だから、大丈夫。みんなも心傷めないで。
わたしはこの親愛を込めて、みんなの家族に対するわ。そしていつか必ず心通じ合わせる。

 現状がこうなのはわたしの力不足、わたしの努力不足。でも絶対この侭では終らせない。
必ずみんなの家族も幸せな決着に導くから」

 大人の事情は、子供づきあいにも濃く影を落していた。博人君は『大人は大人、子供づ
きあいと関係ないよ』と自然に接してくれたけど。そう言う応対を取り難い方が常だろう。

 唯、小学校ではそうして人の揉め事や不和を丸く収める彼の主導で、わたしも真沙美さ
んも詩織さんも含む、みんなの輪が繋がれた。お互い引け目を感じる必要のない友達だよ
と。わたしは沢尻の想いにも確かに守られていた。

 今更ながら、幼い頃の無邪気さが尊く懐かしい。今もその想い出を抱けるわたしは幸せ。
その想い出を共有し、申し訳なさなど抱かないで、竦まないでと手を握り合える友がいる。

 大人の事情の為にわたし達の輪が引き離されるのは、己以上にみんなに寂しい。この友
の輪はわたし独りを慈しむ物ではなく。みんなが互いを想う気持の集積だから。せめて手
に届く範囲の事は、他人の思惑や悪意や敵意に左右されたくない。この手で守り支えたい。

 そしてわたしが大人になれた暁には。この手で大人達の気持も解き、絆を繋ぎ直したい。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしが帰宅した頃は既に、幼子達とその父母は寝室で。若い時に大病を得て、無理の
利かない体質になった正樹さんは、昼の祭事や幼子達と歩いた疲れの故か、早めに就寝し。

 幼子達はわたしの不在時、男性では寝付かせられぬらしい。笑子おばあさんか真弓さん
かサクヤさんが添わないと、むずかる訳でないけど寝付いてくれず。それは最近わたしも。

 真弓さんが一週間不在だった夏休み当初も。正樹さんでは力及ばず結局わたしが添い寝
を。常に居るべき誰かが不在だと、男では不安を補えないのかもと、生前笑子おばあさん
は…。

 なので羽様の屋敷では、湯上がりで一層肌艶増したサクヤさんが、ちゃぶ台の前で1人、
バスタオルで見事な銀の髪を撫でつけていて。

「ただいま帰りました」「お帰り、柚明っ」

 お風呂に入る様に促される。祭祀の前には身を清めたけど、あれから随分歩き回ったし、
夏なので汗も出た。夜のお風呂は元々これからご神木に行く、サクヤさんの禊ぎ用だけど。

 ちゃぷっ……。

 覗く者もいないけど、タオルで正面を隠し風呂場に入り湯を被る。サクヤさんや真沙美
さんの様に見事な肢体なら、憚る事なく堂々と入れるのかな。同年代でもわたしは胸の成
長がやや遅れ気味で。サクヤさんの言葉を信じて、第4コーナーでの追い込みに期待です。

 薪で湯を焚く五右衛門風呂を、ガス給湯に替えたのは先月だ。正樹さんの新刊出版によ
る印税収入を見込み、念願を叶えた。屋敷の裏に堆積した薪の山は、処分も費用が掛る為、
竈に使いつつ様子見に。髪に優しいシャンプーを泡立て、諸々の嫌な事を共々に洗い流し。

 若い子はみんな珠の肌だけど。贄の力や護身の技の修練の影響か、我ながら肌艶良い方
だと思う。大人の女性の豊かさは開発途上で。筋肉は女の子の限界なのか、真弓さんの鍛
錬を受けても、余り太くなってないけど。真弓さんもサクヤさんも、細身で信じられない
程強いし。必要な箇所を鍛えれば足りるのかな。

 強さを望むには、更に背が高く体重もあり、筋肉質な方が有利だけど。女の子に男の子
の体格は望み難い以上に、望むのも微妙な処で。鬼切部や戦士を目指す訳ではないし。サ
クヤさんの様に見事な肢体になれるなら良いけど。

 人には分という物があるとおばあさんは言っていた。わたしはこの位が丁度良いのかも。

 体も流し、湯に浸かって上気した頃に風呂を上がる。白花ちゃん桂ちゃんと入る時は百
まで数えるけど、今は夏で湯冷めの心配も少ないし、ちゃぶ台で待たせているだろうから。

「今上がりました」「こっちにいるよ」

 サクヤさんは縁側に腰掛け月見酒か。わたしは愛しい人より短い髪を、贄の力の裏技も
使い乾かす作業を追いつかせ。真弓さんが幼子と寝付いたのは、わたし達への心遣いかも。

「お注ぎします」「うぅん……今宵は遠慮」

 サクヤさんはお酒を持っても、呑んではいなかった。コップに注いだ艶やかな滴を掲げ、
望月を見上げて暫しを過ごし。呑んでも酔う人ではないけど、これからご神木に行くなら。
心底慕う想い人に逢いに行くなら。出る前の一杯は憚られた様で。でも本当に大きく煌々
たる月の夜だから。愛でないのは勿体ないと。

 その気持はわたしも悟れたので傍に添い。
 出立迄同じ月を眺めて一緒の時を過ごす。
 暫くは互いに言葉も不要に肌身を添わせ。

 長くしなやかな腕が心地良い。大きな胸も深い息遣いも好ましい。図鑑に出てくる狼の
様な白銀の髪は艶やかで。その美しさを薄闇の中に照して、浮き彫りにする青白い輝きは。

 いつもより、打ち抜く様な清冽さが濃く。
 これは、唯の月明かりじゃない。きっと。

「オハシラ様が、想いを伝えてくれています。
 サクヤさんやわたし達を見守っていますと。

 今のこの触れ合いも含め愛でていますよと。
 夜だから、大きな月の丸い晴れた今だから。
 オハシラ様も想いを届けられて嬉しそう」

 言葉に表すのはサクヤさんに知らせる為と。
 オハシラ様に伝わっていますと応える為に。
 でもその言葉は己自身の心にも染み渡って。

「姫様の元にはこれから行くのに。困ったもんだねぇ。桂や白花の様に、待ちきれないで、
あたしと柚明の仲を羨んでくれるのかい?」

 桂ちゃんも白花ちゃんも、近しく触れ合うわたし達を前に、黙っていられず待ちきれず。
割り込み抱きつき、張り付いてくれたけど…。

 わたしにもオハシラ様にも親愛を隠さず。
 心を開き穏やかにサクヤさんは語りかけ。

 笑子おばあさんの若い頃に似た、女の子の容貌が脳裏に浮ぶ。オハシラ様は蒼光に軽や
かな笑みと、微かな羨みの感触を込みで伝え。

「お楽しみですねって。わたし達を愛していますって。心通わせ合っているサクヤさんも
わたしも。白花ちゃん桂ちゃん、真弓さん正樹さんを含め、みんな愛していますって…」

 わたし達の親愛を喜んでいる。サクヤさんが人の世に幸せを見つけ、想いを交わし合う
様を喜んでいる。見守り祝福し応援している。サクヤさんの喜びを自身の喜びに感じてい
る。そしてサクヤさんもそんな彼女の喜びを愛で。

「……笑子おばあさんも含めた羽様の家族を、いつ迄も変らずに、愛し続けていますっ
て」

 オハシラ様もサクヤさんも互いを深く想いつつ、わたしの想いも喜んでくれて。場面は
譲れど想いは譲らず。互いの幸せを望み願い、その想いを尊重し合い。羨み嫉妬も抱きつ
つ、それも隠さず、その上で大事に想いますよと。

「あんたは本当に、笑子さんにも姫様にも良く似たね。その愛らしさも想いの深さも…」

 言いかけて急に言い淀むのは。誰かに重ね見る事が、わたしに非礼と思えた故か。本当
にこの人は生真面目に義理堅い。言い淀むサクヤさんに、わたしは更に強く肌身を添わせ。

「気にしないで。血縁に面影を重ね見るのは当然よ。サクヤさんは悪くない。笑子おばあ
さんやオハシラ様に重ね見て貰えてわたしは嬉しい。サクヤさんの想い出で最も綺麗な人
に重ね見て貰えた事は、羽藤柚明の幸せです。特に笑子おばあさんはわたしの憧れだか
ら」

 わたしが人として女の子として、2人の先達に遥かに至らない事は承知済み。サクヤさ
んにそこ迄想われる値がない事は了承済みだ。その上で、わたしの仕草や面影が、サクヤ
さんの美しい過去を思い起こす力になれるなら。その助けやきっかけになれるなら。どう
ぞ存分に羽藤柚明をお使い下さい。わたしは己がサクヤさんに愛されるより、愛したサク
ヤさんの幸せに、少しでも役立てる方が嬉しいの。

「行ってらっしゃい、サクヤさん。オハシラ様と心ゆく迄お話しを」「柚明、あんた…」

 わたしに未練や罪悪感を残しては、サクヤさんが快くご神木に歩み出せない。わたしは
愛した人が一番の人への想いを素直に向けられる様に、その一番の想いを貫き通せる様に。
微笑みかけて力づけ、しっかり前へと促して。

「笑子おばあさんが、わたしのお母さんが。
 サクヤさんを快く、送り出していた様に。

 愛した人の望みこそが、わたしの願いで。
 愛しい人の充足こそが、わたしの幸せ…」

 もう一番には想えないけど。この身も心も、全て捧げる事が叶わなくなったわたしだけ
ど。だからこそ己が為せる事には全身全霊を注ぐ。羽藤柚明は未だ数拾年は、愛しい人の
帰りを待てる。問を発し、答を返し、肌身に添える。

 そんなわたしを、しなやかな腕は絡め取り。身が折れそうな程強く締め。肉に肉が食い
込む抱擁の中で、滑らかな首筋に押しつけられた耳元へ、温かな吐息と共に注がれる想い
は、

「あんたは、絶対に忘れない……千年経っても万年経っても、あたしに終りが訪れる迄」

 姫様の裔だからじゃない、笑子さんの孫だからじゃない、○○○の娘だからじゃあない。
羽藤柚明だから。あんただから絶対あたしは。

「羽藤柚明は未来永劫、浅間サクヤの二番目にたいせつな、愛しい女だ」「……嬉しい」

 わたしが貰える想いとしては充分すぎた。
 おばあさんの言葉を借りるなら分の極み。
 これ以上を望んでは、きっと罰が当たる。

 サクヤさんがわたしに抱く苦味も拭いたいけど。わたしに罪悪感等、抱く必要はないと
呑み込んで欲しいけど。この人は生真面目に義理堅いから。今は最低限の心の整理だけを。

 潤んだ瞳を見上げて深くまっすぐ覗き込み。
 黒目に映った自身の瞳も幸せに潤んでいた。

「夜は短いですよ、わたしの愛しいサクヤさん。一番の人とのたいせつな時を、存分に」

「……行ってくるよ。あたしの愛しい柚明」

 清冽な月の輝きの、濃く美しい夜だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あんたらしいよ。本当に、羽藤柚明だ…」

 豆電球の灯る和泉さんの寝室で、左隣で肌身寄せ合う真沙美さんが、呆れた様に呟きを。
右に寄り添う和泉さんの感触も、闇なのに気配で分る。湯上がりでふやけた互いの素肌は、
くっつき合うと赤子の様に柔らかに心地良く。吐息が少し湿って温いのは、夏の暑さより
わたし達の間に恥じらいの熱が回っている為か。

 高校が違うわたしと真沙美さんは、訪ね合う事も叶わないので。中学校の頃の様に和泉
さん宅に2人が訪れ、3人夜を褥を共にする他に、ゆっくり逢える機会がなく。春からは
2回、和泉さんと2人夜を褥を共にしたけど。

 清治さんと澪さんの心配げな感触は、最近の悪い噂だけではなく。和泉さんとわたしの
女の子同士の恋仲が、高校に入っても続いている事への危惧でもある様で。和泉さんは可
愛い年頃の女の子だ。いつ迄も女の子のわたしと恋仲でいる現状を、憂う気持は分る積り。
関係を整理すべき時が、近いのかも知れない。

 故に真沙美さんも含めて過ごす3人の夜は。
 澪さんと清治さんにやや安堵を与えた様で。

「こういう時のゆめいさんは、頑固だから」

 深く案じてくれるが故に、真相を全て話してと望む2人に。気持は嬉しいけど訳ありな
のと、全て明かす事は免じてとわたしは願い。

 中学2年の冬、可南子ちゃんを守る為に男女拾四人に為された事も、全て伝えた愛しい
2人だけど。あの時はわたしに触れる和泉さんと真沙美さんの問題だった。何も話さず肌
身を重ね、己の穢れに触れた後で、傷つけ哀しませる事は出来ず。己の恥なら話した上で
嫌われ拒まれても、それで済む。でも今回は。

「剣道部と言えば神原美咋が関ってない筈がない。庇っているんだね」「ゆめいさんの行
動パターンは、あたし達何度も見ているし」

 真沙美さんも和泉さんも洞察力が深い上に。
 わたしを本気で真剣に心配してくれるから。
 己の未熟もあって事の概ねは悟られたけど。

 尤も、剣道部顧問の大野教諭の名が、婦女暴行の罪状と一緒に噂に流れた時点で。紅一
点の女子剣道部員・少女剣士の誉れも高い美咋先輩を、無関係と思う者はむしろ少ないか。

「それには……わたしは、応えられないの」

 応えて障りのない処迄は応えたけど。剣道部に執拗な勧誘を受けた事や、美咋先輩の名
誉には関らない羽藤柚明の現状とか。具体的には、女の子を破られてない事、等を。でも。

 美咋先輩の名誉に関る部分だけは。深く案じてくれた早苗さん歌織さんにも、全ては明
かせず。多少関る志保さんや聡美先輩にも話せずに。羽様の大人にしか全てを話してない。

 それはわたしの為ではなく、美咋先輩の為に口外しない。しない以上一言も漏らさない。
事実はこの胸に留め置く。美咋先輩がお父様と担任の先生に全て明かし、大野教諭と示談
に臨んだ話しは聞いたけど。それも人に語るべき中身ではない。奇妙にも、羽藤柚明に較
べて神原美咋の名は、噂にも出てない様だし。

 真偽を確認しに問う人へのわたしの答は、

「神原美咋は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 それ以上、お話しする事は、ありません。

 彼女を貶めるかも知れない、誤解させるかも知れない事は口にしない。それはわたしと
彼女の間の事柄で、他人に明かす事ではない。その事を分ってと、お願いを込めるわたし
に。

 仕方ないねと真沙美さんは肌身を寄せつつ。

「あんたの口の堅さ、と言うより義理堅さ生真面目さは、私も識っているから。概ねの状
況は悟れたし、詳細は敢て訊かないで置くよ。あんたの人を想う気持は私も愛した物だ
し」

 そこで真沙美さんはわたしに覆い被さって。
 唇が触れる程間近に美しい双眸は迫り来て。

「その代りあんた自身の無事は、確かめさせて貰う。剣道部顧問の男性教諭は全国級の達
人で、神原美咋も男子部員も先生方も敵わない程強かったって話しで。あんたは幾ら強く
ても年頃の小娘だ。その性格の優しさ甘さ危うさは、あんたより私達が良く識っている」

 考えてみればあんたは一体どの位強いのか。私が実際に見たのは3年前、2級上の塩原
先輩達拾数人に対した時だけだ。確かに動きは素人じゃなかったけど、その位で本当に達
人の成人男性を撃退できるのか。実戦は実力以外の要素にも左右される。3年前の私や賢
也の様に人質を取られれば、為す術もない事も。

 あんたは大人しく華奢に優しげで、全く強そうに見えないから。武道の家の出の叔母さ
んに6年鍛えられていると聞いても。2年前の冬に従妹を庇う為、1級上の男女拾数人を
退けたと聞いても。去年は武道の達人の警備員と正面から立ち合って、倒したと聞いても。

「確かめずにいられない。あんたは本当に酷い目に遭っていても、他人を哀しませる事を
嫌い、無理に大丈夫と応えかねない娘だから。私にもあんたを心配させておくれよ。女の
子の侭でも大人の女になっていても、羽藤柚明は鴨川真沙美の一番たいせつな愛しい人
だ」

 和泉さんも言葉を挟み込めず黙する中で。
 真沙美さんはわたしに全ての気力を注ぎ。

「私に何も語らず、独り傷み哀しむ事は許さない。傷があっても無傷でも、あんたは男の
獣欲に対峙して心を震わせた。私はその心を支え助けたい。守らせて欲しいんだ。その傷
に分け入ってでも、私の想いを届かせたい」

 医師には患者が傷み苦しんでも、手術せねばならない時がある。真沙美さんは非難や誤
解も承知で覚悟で、案じた羽藤柚明の真実を、女の子の大事な処の真実を確かめようとし
て。

「ちょ、鴨ちゃん。そこ迄やっちゃあ…!」
「柚明は、自身の傷みはとことん隠し通す」

 真偽を確かめる方法は直に触る他にない。
 和泉が出来ないなら私がやる、見ていて。

 真沙美さんはわたしが抗えない様に組み敷いて。否、彼女はわたしが抗う気になれば跳
ね返せる事は分っている。これは真沙美さんが全力で全身でわたしに触れたい想いの故の。

「鴨川真沙美は、羽藤柚明のたいせつな人」

 体には全く力を込めず唯為される侭に従い。

「わたしを心配してくれる熱い気持はとても嬉しい。真実は話せないと拒んだわたしを尚、
心から案じて踏み込んでくれて。有り難う」

 わたしはあなたを一番にも二番にも、想う事は叶わないけど。清く尊いその想いに等し
い想いを返せないけど。だからこそ、己に為せる全てを注いで、あなたの想いに応えたい。

「わたしはあなたに、お嫁さんに行けなくなる様な事は、決してしないけど……あなたの
全てを受け容れます。愛しい真沙美さん…」

 和泉さんが言葉を失って硬直する傍らで。

「良いんだね? 私の確かめるという意味が。今迄私も和泉も触れた事のない処だっ
て?」

 腹を、胸を、頬を、首筋を、唇を、ここを。

 真沙美さんは下着の上から股間に指で触れ。

「直に触って確かめるんだ。その先あんたに愛欲を抱く私がどう出るか。例え無傷でもこ
の私が、あんたに初めてを刻むかも知れない。今宵のあんたにはその覚悟もあるんだ
ね?」

「たいせつな人の望みは、わたしの望み…」

 例えそれで今宵わたしの女の子が彼女に破られても。それはわたしを愛してくれる故の
行いだから。受け容れます。痛くてもそれは哀しい事じゃないから。捧ぐ己に悔いはない。

 大事な処に愛しい人の細い指を感じつつ。
 彼女に罪悪感残さない様に確かな受容を。

「どうか心ゆくまで、羽藤柚明を確かめて」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「行くよ、柚明……」「か、鴨ちゃんっ…」

 和泉さんが息が届く程に間近で見守る中。

 真沙美さんはわたしの無事の確認と、わたしへの愛撫を兼ねて行い。わたしの腹に滑ら
かな指で触れ、絡めた手首から二の腕に触れ、肩口や胸元や首筋に頬を寄せ、或いは唇繋
げ。

 和泉さんが緊張に動けないのは、その先への怖れだ。3人の間では中学生の頃から既に、
胸も触れ合い唇も繋いでいる。下半身だけは、『和泉さんと真沙美さんが、お嫁さんに行
けなくなる様な事』をわたしが己に禁じたので、お互い自主規制になったけど。真沙美さ
んが今宵それを展望しているから、和泉さんは…。

 わたしは組み敷かれた体勢から、抗わない。
 為される侭に受け容れて、肌身で答を返し。

 真沙美さんはわたしを深く案じ愛している。
 わたしはその想いに満足に応えられてない。

 愛しい人に、確かな安心を与えられてない。
 後は体で己の無事を応える他に、術はない。

 乳房の先に唇で触れてくれた時には、わたしも熱い吐息を返す以上に、真沙美さんの胸
に軽くこの手で触れたけど。真沙美さんは負けず嫌いに吐息を堪え、この首筋を甘噛みし
つつ、女の子の大事な処に左手の指を伸ばし。和泉さんが間近で両手で目を覆い。3人の
間に息を呑む緊迫が走り抜け。数秒の硬直の後。

 わたしの大事な処に触れて動かない真沙美さんの左手を、和泉さんの右手が抑えていた。

「もう、良いでしょ。確かめたなら離れて」

 柚明の無事を確かめる為だから、柚明が拒んでいないから、あたしも止めなかったけど。
この先は許さない。例えあたしの二番にたいせつな真沙美でも。柚明がお嫁さんに行けな
くなる様な事は、あたしが許さない。離れて。

 和泉さんはわたしの右から押し戻す構えで。
 2人の視線がわたしの間近でぶつかり合う。

「柚明は私の全てを受け容れると言ったんだ。私が柚明との性愛を叶えたいとして、あん
たはそれを止めるのかい? それは誰の為だい。柚明の為? それともあんたの愛欲の
為?」

 真沙美さんはわたしの大事な処に触れた侭。
 冷静な声で和泉さんの覚悟を問い質すのに。

「未だ柚明が真沙美に想いを返す覚悟を固めてない。される事だけ受容して、自分がする
事は禁じた侭。想いが繋りきってない。この侭やってしまったら、真沙美がきっと悔いを
残す。あなたはこれで柚明との恋を終りにする積りかも知れないけど。悔いと諦めを柚明
への想いと一緒に、終生抱く積りだろうけど。そんなの絶対良くない。終り方が哀しす
ぎ」

 和泉さんの声に真沙美さんが瞳を見開いた。

「真沙美と柚明が本当に望み合うなら、あたしは応援する。祝福する。守り庇う。あたし
の部屋で2人が2人だけで性愛を交わすのも、あたしは受け容れる。でも、今は未だ
…!」

 人間関係はお互いなの。一方通行はないの。

 柚明が真沙美に同等の想いを返す覚悟がない内に、一方的に愛してしまうのは。例え柚
明が許しても、真沙美が自身を赦せなくなる。あたしは柚明も真沙美も好きだから。酷い
終り方になって欲しくない。お節介の末にあたしが柚明を真沙美に、取られる事になって
も。

「柚明の覚悟が不足な内に、やってしまうのはダメ。今夜は女の子の無事を確かめる迄」

 和泉さんは自身が愛欲を抱く事を否定せず。その上で真沙美さんの愛欲も否定せず。手
続が足りないと。わたしの覚悟が未だ不足だと。真沙美さんの焦りや密かな諦めを、叱り
つけ。恋仇を想い人の前で叱る和泉さんは凄い人だ。

「……あんたも、確かめるかい? 和泉…」

 真沙美さんは負けを認めた様に手を離す。

「あたしは良い。識るべき中身は識れたから。鴨ちゃんが目の前で確かめたから。女の子
の大事な処は、何度も触る処じゃない。触れたらあたしが止まらなくなるかも知れない
し」

 そう言って。右からわたしに覆い被さって。
 腕を絡めて頬合わせ、唇繋ぎつつ涙を流し。

「ゆめいさんが無事で良かった。本当にっ」

 わたしは、分不相応な程に愛されていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ごめん柚明。私は又やってしまう処だった。
 和泉が止めてくれて助かったけど、鴨川は。
 結局羽藤を、傷つけようとしてしまう…」

 わたしを真ん中に再び3人添い寝するけど。
 真沙美さんは気力が抜けた様に弱々しくて。

「鴨ちゃんっ……」「真沙美さん……」「前に話した鴨川と羽藤の因縁、憶えている?」

 それが中学1年生の初夏、全ての誤解を解いて、初めて3人で夜を褥を共にした時の…。

『鴨川は3代続けて、羽藤を奪い続けている。先々代は羽藤の土地を売り捌き、先代は羽
藤の祭りを締め上げ、当代・私の父さんは柚明、あんたの母さんの操を奪って捨てたんだ
……。

 死んだ母さんに聞かされたんだ。父さんが母さんと結婚する前、羽藤の長女と、あんた
の母さんと恋仲だったって。幼なじみから始って恋仲になった様を、年配の人はみんな知
っているってさ。先々代、私のひい爺さんは、農地改革では羽藤を踏み台にして信望を得
たけど、生涯羽藤の執事を続けた人で、交際は順調だったらしい。でもひい爺さんが死ん
で、爺さんが鴨川当主になると状況が一変して』

 既成事実が進んでいたのに、身体は交わり合った後なのに、両家は断絶した。爺さんは
ひい爺さんの独断専行を激しく憎み、死後にその方針を悉くひっくり返したと聞いたけど。
似たもの同士の家系だよ。私や多分父さんが爺さんに抱く想いは正にその焼き直しだから。

『父さんは勘当をちらつかされて羽藤の長女を諦め、私の母さんと結婚した。あんたの母
さんがその後、あんたの父さんとどう出会ったかは分らないけど。でも経観塚を出たのが
何故かは、何となく分るだろう。狭い田舎で、傷物にされたと噂の立った娘に婿は来な
い』

 真沙美さんの父・平さんが、わたしのお母さんの初恋の人で、初体験の相手で、失恋の。

『私の母さんもあんたの母さんと知り合いらしい。あんたが羽様に転校してきたと聞いて、
死の床から母さんは私にそれを言い残した』

 平さんの前妻(真沙美さんの実母)雛乃さんが亡くなったのは、わたしが羽様に移り住
んだ年の冬だった。男子の跡継ぎを欲した臣人さんは、翌年に香耶さんを平さんの後妻に
迎え。その翌年に待望の男子・真人君が生れ。真沙美さんが、いつか鴨川の家を出される
と決まった瞬間だった。鴨川の次代は真人君だ。

『因果な一族だろう。敵意の有無じゃなく関る事で鴨川は羽藤を傷つけ奪う。私があんた
と距離を置いたのは、羽藤は鴨川を許さず憎むに違いないと幼心に想った事と。私が、他
人を傷つける定めを重ねたくなかったから』

「因果の極みだよ。私は己の愛欲を振り切れず捨てきれず、諦める為に柚明に酷い事しよ
うと、傷つけようとした。あんたの尋常じゃない甘さは分っている。どんな酷い事しても、
その身に初めてを刻んでも。あんたは私を嫌わない。私はそんな柚明に酷い事をした己を
恥じて、諦め離れ行く様に、己を暴走させた。和泉の言う通りだ。結局私は己の事情で柚
明を傷つけようと。鴨川の因果の轍に填って」

 真沙美さんが都市部の名門・青城女学院に進学したのは、名家に相応しいからではなく。
いつか鴨川の家を出されるから1人で生きる術を欲した訳でもなく。それらの事情以上に、

『家の縛りや、定めや、家風から全て切り離されて生きていける強さを、私は欲しかった。
それが持てない間は、幾らあんたが可愛く優しくても、傍で過ごし交わる事が愉しくても、
最後は宿命に流されあんたを傷つけると…』

 近過ぎてはいけない。触れてはいけない。

 鴨川の家風に逆らって、わたしと絆繋ぎ続けて勘当された時の為に。それでもわたしと
交わり続ける為に。真沙美さんは家や親との訣別も視野に入れ、独りで生きる術を求めて。

「でも現実に別の町に住んでしまうと、日々心が薄まって行くのが分る。目先の間近の人
や物事に心誘われ、羽様の和泉や柚明を思い返す回数が減る。柚明との想いを叶えたくて
選んだ道が、逆に柚明と遠ざかる今を導き」

 和泉は柚明を真剣に想っている。毎日同じ学校で、触れ合い想いを通わせ合える。私は
年に数度羽様に帰っても、まともに柚明の家を訪ねられず、柚明を家に迎える事も出来ず。

「もう諦めた方が良いのかも。和泉と柚明の前途を祝い応援するべきかも。どんなに頑張
っても、鴨川と羽藤は交われないのかもって。でも己の想いに自分で諦めは付けられなく
て。どうしても柚明への愛を絶つ事は出来なくて。

 最後は自分を追い込むしかないと。柚明に嫌って拒んで貰いたかったけど。あんたは甘
く優しく賢いから、事情を気持を察してくるかも知れない。己が恥じて離れる様に導けば。
……和泉に見抜かれたのは、想定外だけど」

「あたしだって鴨ちゃんの事を好きだから」

 和泉さんは闇の中で見えない胸を張って。

「鴨ちゃんらしくない動きをしていたもの。
 鴨ちゃんなら、今迄ダメだった大人の愛を敢て求めるのに、別に理由は付けないと思う。
何かのついでに、どさくさに紛れる事はない。大好きだからさせて頂戴って迫ると思う
の」

 その洞察は、深く強く人を想う故なのか。

「わたし、そこ迄真沙美さんを見抜けてなかった……。和泉さん、有り難う。わたしの傷
じゃなく、真沙美さんとの縁が絆が、切れる危険を見過ごしてしまう処だった。そして真
沙美さん、ごめんなさい。気付いてあげられなくて……わたし、人の心の痛みに鈍感で」

「あんたの所為じゃない。私の弱さだよっ」
「ゆめいさんは、される事には寛容だから」

 人間関係はお互いなの。一方通行はないの。
 和泉さんの言葉が、今更の様に胸に沁みる。

「わたし、和泉さんと真沙美さんと出会えて良かった。深く絆を繋げられて良かった…」

「私の最高の親友で最強の恋仇だったから」

「未だ過去形にするのは早いよ、2人とも。
 あたし達は未だ終ってなんかいないもの」

 未だあたし達の絆は続く。未だ夏休みは終らない。何度でも逢う事は叶うから。3人の
健やかな夜は今から始るの。あたし達の夜は。

 豆電球の照す夜も、暖かく愛おしかった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


『真沙美さんに話しておきたい事があるの。
 お父様・平さんの最近の様子について…』

 夏休みも瞬く間に終り、博人君や華子さん、真沙美さんも羽様を離れ。サクヤさんも暫
く仕事でお屋敷を外した、空の青い晩夏の早朝。

 常の如く、鳴る前に目覚まし時計を止めて起き。真弓さんと厨房で朝食を作り、食した
後でセーラー服に着替え。夢心地の幼子2人に挨拶して、6時半頃に出立する。二十キロ
の道程の半ばを過ぎて、時刻は朝7時過ぎか。

 青い穂の田を縫って延びる、未舗装の道を歩むわたしの視界に。車道に背を向け道の脇
に腰掛けた、三十歳代後半の男性の姿が見え。

 近づくと、お弁当を食べていた様で。間近に水筒が転がって、中身の緑茶が零れており。
屈み込んだ姿勢はやや苦しげで。順調に朝食を頂く姿には見えず。わたしはやや足を速め。

「はい、どうぞ」己の弁当用のお茶の水筒を。
「うぅ、済まん」喉詰まらせた平さんに渡し。

 蓋のカップに移す余裕はなく、直に水筒に口を付け、ごくっごくっと飲み干して。結構
辛い状態だったらしい。顔色も青かったので、背に触れて状態を確かめつつ、軽く癒しの
力を流し。暫く彼が落ち着くのを待つ。水筒を返して貰うと言うより、少し心配だったの
で。

「……ふぅ、はぁ、助かった。有り難う…」

「精が出ますね。朝食にも戻らず、日の出から昼迄お仕事ですか? 残暑も厳しいのに」

 平さんは未だわたしが誰かを分ってなく。

「あぁ。いつもなら一服を兼ねて朝食に戻る処なんだが、今年は長梅雨の影響で稲穂の生
育が遅れていてね。一気にやってしまねば」

 それで朝ご飯を弁当にして、作業場所である田んぼの傍の道路に腰掛け、朝食の最中に。

「ってお前。羽藤……?」気付いて驚く声に。
「はい、お早うございます」頭を下げて応え。

 そこで彼は漸く困惑を顔色に見せたけど。
 わたしを見ても柚明の名が暫く浮ばずに。

 思い浮べたのはわたしのお母さんの顔か。
 平さんはお母さんと幼馴染みだったから。

 わたしよりお母さんの方が印象深いのか。
 セーラー服姿は細かな相違をかき消すし。

「ど、どうして、こんな時間にこんな処に」
「通学です。わたしはいつもこの頃合に…」

 平さんは臣人さんに従って、お母さんと離別し羽藤と断交した。以降行き会っても挨拶
一言交わす位で。わたしに声掛けた事も殆どなく。言葉を交わしたと言えば中学2年の晩
秋に。真沙美さんとの絶縁を求められた時位。

『……君と、真沙美との間柄が、女子同士にしては近しすぎるという悪い噂も聞いてね』

 わたしとの恋仲を噂された女の子は数多く。

 志保さん、利香さん、夕維さん、早苗さん、歌織さん、和泉さん、真沙美さん。他にも
手芸部の聡美先輩や高岡先輩、一級下の南さん。

 数の多さ故にどれも根拠薄く思われた様で。

 わたしは、たいせつな人に困り事があれば、力になりたく役立ちたくて、割り込んでい
た。己が関る事で解決できるならと。結果わたしが禍を導き招く印象を、局外の人は抱く
様で。

『経観塚は余り大きな街じゃない。悪い噂は一度浸透したら中々払拭できない。根拠のな
い噂でも、女同士で恋だの愛だの囁かれる事自体が迷惑なんだ。真沙美にも、鴨川にも…。

 君の真偽や善悪を問う積りはない。君の趣向は君や君の家族の問題だ。だがこうも良く
ない噂が多くなるとね。君が級友相手に霊媒ごっこに耽っているという噂も聞いている』



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