第13話 断絶を繋ぎ直して(後)


 わたしが被った汚名は、己に繋る者に及ぶ。わたしは桂ちゃんと白花ちゃんの日々の静
謐を守る為に、汚名を被る事を受け容れたけど。その汚名がわたしに繋る友の禍になって
いた。

 わたしは証拠も言質も残してない筈だけど。
 人は確かな証拠に等目を止めていなかった。
 印象で判断し面白い噂話を流し広めていた。

 誠を通して分って貰えるのは、面と向き合った少数で、その他大勢は無責任に噂を語る。
理解してくれる人の輪の中でわたしは世間を見失い。その輪の外にそうでない多数がいる
事を失念し。平さんが示したのは世間一般の見解だ。問題は真偽でも善悪でもない。噂を
多く招いた事だった。わたしは本当に愚か者。

 でも平さんは、愛娘の害となり禍ともなる羽藤柚明の。絶縁を告知した者からの願いに。

『わたし、受け容れます。……わたしが受ける誤解が真沙美さんに及ばない様にするのに、
それが最善なら、断絶を望みます。させて下さい。今迄の罪の何分の一の償いにもならな
いと思いますけど。真沙美さんの、為なら』

『一つだけお願いがあります。……最後に真沙美さんにも、直に謝らせて欲しいの……』

『真沙美さんの為に断つ事が絶対に必須なら、わたしも己を吹っ切る為にしっかり断ちた
い。そうしなければ断てないのは己の弱さだけど。お願いします。一度で良い、直接謝ら
せて』

 平さんはわたしにお母さんを重ね見た様で。
 平さんはそこに自身の過去も重ね視た様で。

【お願いします。父さん……直に、直に彼女に逢って、話しをさせて下さい】【駄目だ】

 わたしの心に響いた声は若き日の平さんの。

【父さん。結婚を約して、身体の関係も持った後なんです。お互い好き合っていたんです。
せめて別れるにしても、一度逢って事情を話して、確かに関係を絶たないと彼女だって】

【羽藤とはもう断交したのだ。二度と会う事も許さんし、語らう事も認めん。もしそんな
様を見聞したなら、羽藤の長女との関係が続いていると見なし、平、お前を勘当する…】

 厳しい声は、平さんのお父さん・臣人さん。

【どうして! 父さんは個人は皆平等だって、恋愛にも身分は関係ないって言っていたの
に。どうして彼女と僕だけは認めてくれないの? 彼女は昨夜もこの軒先迄、来ていたの
に】

 父さんの言う通り離縁したのに。一番害を受けたのは羽藤の彼女じゃないか。最後に一
度だけ、彼女と直に話させて。お願いします。

 それはわたしのお母さんと離縁する前後の。

【せめて謝らせて。想いを直に伝えさせて】
【情が移る。会う事も話す事も一切認めん】

≪私は、直に逢って謝る事も叶わなかった≫

 その悔いは今も平さんの心を苛み揺らし。

『君は、真沙美を心から好いているのか?』

 彼は我知らぬ内にその問をわたしに発し。
 わたしは己の内の真実をのみ確かに応え。

『絆を断たれても、鴨川真沙美はいつ迄も羽藤柚明のたいせつな人です。困った事がある
なら、わたしで役に立てるなら、いつでも』

 平さんはわたしに、離別したお母さんの面影を重ね見て。悪い噂を承知で敢て羽藤柚明
を逐わず。真沙美さんとの女の子同士の関係にも、鴨川と羽藤の対立にも、片目を瞑ると。

『本当に相手を想い合い、深く好意を抱き合う者が引き裂かれる様はもう、見たくない』

 本当は娘を大事に想う心優しく大人しい人。
 事情や背景の為に仲良くできていないけど。

 決して話の通じない人でも悪い人でもない。
 羽藤柚明と分ってからの応対は冷淡だけど。

「済まなかった。これは……返す」「はい」

 わたしは己の水筒を受け取ってから。少し離れて転がっていた、平さんの水筒を手渡し。
瞬時の躊躇いの後で、彼に見えた像を伝える。告げずに歩み去る選択はわたしにはなかっ
た。

「何だね?」「体調、宜しくないのですね」

 冷淡さを装い、関りを終えようとした彼の問への答で。その声音と表情に、険が増した。

 これは夏休みに真沙美さんに逢った時にも。
 彼女が気付いた事にして伝えてとお願いを。

 平さんの健康状態は少し前から良くなくて。
 羽藤と鴨川は断絶中で行き交う事も出来ず。

 話す事も見る事も稀なので悟りにくいけど。
 平さんと直に触れた真沙美さんに直に触れ。

 真沙美さんの無自覚に受けた印象や感触を。
 関知と感応を連携させて兆しを読み解くと。

「なぜそんな事を……?」声音は静かだけど。

 問うて見つめる視線は驚きを超えて厳しく。

「水筒が転がっていたのは、落した為ですね。
 喉詰まりが原因だけど、それだけじゃない。

 最近目測が狂ったり、手元や歩みが危うい事はありませんか? 疲れ気味に見えます」

 仕事熱心は良い事だけど無理をしないで。

 夏の終りとはいえ、直射日光の下での長時間労働は。良くない体調に更に負荷を掛ける。
出来れば寝込んでいて欲しい位の状態だった。

 平さんを大事に想う人がいるのですから。

「君はそうやって無用の気遣いをするから。
 要らぬ誤解やあらぬ噂を、害や禍を招く」

 平さんは薄々感じていた不調に気付かされた事に不快を隠さず。そう促したわたしの言
葉に不吉を感じ。心の奥を、体の奥を覗かれた錯覚に心を鎖し。いつもの硬い姿勢に戻り。

「そう言う事は軽々に口にする物じゃない」

 厳しい声と鋭い目線で。平さんはわたしの侵入を強く拒み。叱りつける様な印象だった。

「特別親しい訳でもない者に、例え視えても気付いても、告げる中身じゃない。周囲の大
勢の、怯えや誤解や拒絶を招くと、君も思い知ったと思うが。悪い噂を招くだけだと…」

 気付いても、何でもないですと素知らぬ顔で通り過ぎて行けば良いのに。誰に似たのか。

 平さんは一服を切り上げて、わたしとの話も打ち切って、田んぼへと作業に戻っていく。

 それ以上彼に踏み込む事は出来ず。わたしは後ろ姿を暫く見送ってから、通学に戻った。


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「おはよー」「おはよっ」「おは」「おす」

 朝の挨拶が交わされる教室に、わたしが足を踏み入れると。気付いた一瞬会話が止まり、
微かな緊張が走り抜け。例の噂の影響なのか、男の子も女の子も多くがわたしの反応を気
遣い窺い。目を逸らし掛ける言葉に惑う様子で。

 わたしは、心を柔らかく平静に保つけど。
 やや隔てを感じてしまうのは、仕方ない。

「お、おはよ柚明」「おは柚明」「お早う」

 睦美さんと美智代さんが、遠慮がちに声を掛けてくれるのに、笑みと一緒に挨拶を返し。

 近くの椅子に座る男の子にも、声を掛け。

「お早う、板倉君、小堀君」「お、おぅっ」

 若菜さんを虐めていた彼ら5人に、割って入って止めてとお願いして以降。一時的に女
の子の間で人気沸騰したわたしは、男の子の多くに苦手扱いされ。谷津君も緑川君も広沢
君もやや応対が硬いけど。その幾分かは夏休み直前から広まった、噂の影響かも知れない。

 オハシラ様のお祭りでは、平然と歩く姿を、男の子と手を繋ぎ、女の子達と抱き合って
頬合わせ、口づけされる姿迄衆目に晒したけど。以降今日迄夏休みで銀座通に行く用も少
なく。わたしの姿が見えない事を根拠に噂は再燃し。わたしが今ここにいる事に驚く人も
いた様で。

『大丈夫なの、あの人』『しっ、聞えるよ』

 感応使いのわたしは、みんなの印象も悟れるけど。己の無事を訴えるのも不自然なので。

 噂はともかく公には『何もなかった』のだ。
 大野教諭の休職と羽藤柚明に関連はないと。

 幾ら無傷を言い募っても、病院の検査で女の子の無事を証しても。剣道達人の成人男性
を女の子が撃退したと納得させるのは難しい。全て伏せた方が誤解も招かない。羽様の大
人も了承した決着を、わたしが壊す訳に行かず。

『羽藤さん……』『どうやって声掛ければ』

 かなり酷い噂だから。胡桃さんや若菜さんが近寄れないのも無理はない。わたしの穢れ
を厭うのみならず。わたしを見る度に、この身を襲った禍を瞼に浮べ、肌身震わせ心竦む
のを。責められはしない。己が招いた結果だ。

 むしろ可愛い女の子を怯えさせ、苦い想いをさせてしまった、己の未熟や不徳が残念で。
柔らかに抱き留めて、その心を慰め癒しほぐしたいけど、今のわたしにその資格はなく…。

 噂が出る迄は、わたしの傍に寄る事を喜び、肌身に触れる度に嬌声を上げていた女の子
の多くは。近寄れないけど隔てるのもどうかと、首を伸ばす感じでわたしから少し距離を
置き。

 そんな空気も読まずに踏み込んで来たのは。
 わたしより少し背が高く少し胸が大きくて。
 黒髪長く艶やかな噂話の達人・志保さんで。

「ゆめいさん。あなた大野先生に休日格技場で犯されて、子供孕んで病院で堕胎させられ、
対人恐怖症になって経観塚から逃げ出していたって聞いたけど。学校出て来て大丈夫?」

「大丈夫だよ。されてないから」

 応えた後で、中身の凄まじさに気が付いて、耳迄熱が回ったけど。志保さんの、好奇心
の侭に衆目も考えない問は。周囲に噂の否定を2人で強く響かせて。わたしの否定も導い
て。

「本当? みんなその事を噂して凄いよ…」

 美咋先輩の名は噂にも上がってない。志保さんはそこに疑念を抱きつつ、微かに不審も
感じつつ。わたしがその名を衆目に晒す事を嫌うと知って、敢て語らず。何より誰よりわ
たしの真偽が最も気に掛ると、正面から問を。

 噂は既に町中に広まっていた。本人だけが知らない内に飛び交うよりも。向き合って対
応できる様に、気付かせてくれる人は貴重だ。志保さんはわたしの反応も込みで、噂を語
る気だろうけど。彼女は震源でも発祥でもない。

「心配してくれて有り難う。でも、わたしは大丈夫。大野先生の剣道部への勧誘は熱心だ
ったけど、わたしに武道は似合わないし…」

 一度や二度否定した処で、夏休みの間に町中に広まった噂の払拭は無理に近い。噂を好
む人のみならず、わたしに親しい人も動揺させられる程、悪い噂は学校中を席捲している。

 でも諦める訳には行かない。真相は明かさない様に大人の間で定められ、語れないけど。
わたしを尚愛し信じてくれる人の想いに応える為に。噂を流した者の意図に屈する訳には。

 真相を語れぬ今のわたしは。折れず萎れず腐らずに。己のありの侭を見せ、根拠のない
噂を、言葉以上に日々の挙動で否定して、羽藤柚明を信じ納得して貰える様に努めるのみ。

 気遣う視線、好奇の視線、嫌悪の視線……。

 信頼も心配も同情も、疑念も嫌悪も蔑みも。

 クラスメートの心の内は、感応使いのわたしだから概ね悟れてしまうけど。心の内など
視なくても、仕草や声音や雰囲気で分るけど。怯まず脅えず落ち込まず、常に心を柔らか
く。

 結局午前中の間、硬い表情の胡桃さんと一度言葉を交わせただけで。視線を合わせると
俯く若菜さんから、答は返して貰えなかった。


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「柚明さあぁぁんっ……!」「夕維さん?」

 B組の教室を飛び出してきた人影は、廊下を歩むわたしに、正面からぽふっと体を預け
てきて。昼休みも半ば過ぎ、衆目の前も構わず気にせず、この胸の谷間に頬を擦り込ませ。
背の半ば迄届く長い黒髪と、華奢な肢体と端整な顔立ちだけど。声音や語調は幼さを残し。

 翔君と又仲違いしたのか。2人の間に挟まった一昨年の夏以降、夕維さんは好んでわた
しに肌身合わせ。女の子同士近しすぎる仲も、翔君はわたしを特例と認めてくれて。2人
の絆が緊密なので、一時席捲したわたしとの同性愛や三角関係の噂も、以後は下火で。で
も、今回の仲違いの原因は羽藤柚明にあるらしい。

 休み時間は志保さん達の質問攻めに応対を。
 後ろ暗いから逃げていると思われない様に。

 他のクラスの子の視線にも柔らかに応えて。
 でもトイレに立つと誰も一緒する人はなく。

 夏休み前だったらみんな挙ってついて来て。
 わたしが使えない程に混んで苦笑したのに。

 視線は感じるので、独りではない歩みの中。
 夕維さんは衝動的に、わたしに飛び込んで。

「柚明さんが、剣道部の先生に酷い事されたって。女の子の大事な処を、破られたって」

 夕維さんは余り人の話しを聞かず、後の事は深く考えず、瞬間の想いで突っ走る。やっ
てから、言ってから拙いと悟る事も多くあり。噂に耳欹てる事は余りなく、最後に知る方
で。

 わたしと親密な夕維さんに、級友が明言できなかった噂が気になって。翔君に確かめた
のか。夕維さんが羽藤柚明の悪い噂を知ると、不快に思うと察し。彼も隠していた様だけ
ど。

『言っておくけど、俺はそんな噂、信じちゃいないからな。唯、羽藤に関して言われてい
る噂を、伝えるだけだ。そこはしっかり…』

 正面から問われては翔君も語らざるを得ず。
 聞いた夕維さんは憤りに教室を飛び出して。
 翔君の予防線は結局役に立たなかった様だ。

「柚明さん、本当なの? 本当に酷いコトされたの? 今傷ついているの? もしかして、
こんなコト訊いて私、凄く傷つけちゃった? 今私が柚明さんを、傷つけちゃった…?」

 夕維さんは衆目を気にする余裕もなくて。
 この背に回した腕をがっちり締めて抱き。
 大きくないこの胸の谷間に頬を擦りつけ。

『可哀想。こんな柔らかな人が。こんな優しく綺麗な人が。先生に酷いコトされて、学校
からも家からも、口止めされているなんて』

 肌身震わせ溢れる想いを止め得ず涙流し。
 わたしの事をそこ迄強く心配してくれる。
 人目も憚らず抱き締める程に深い親愛を。

 驚きは一瞬で、わたしは少し背の低い可愛い女の子を抱き締め返し。安心を与える為に、
やや力を込めて背に腕を回し肌身に受け容れ。この絵図も噂されそうだけど。今はわたし
を心底想ってくれる夕維さんへの応えを優先に。

「わたしは何より噂の所為で、夕維さんに心配を掛けた事が申し訳ないわ。ごめんなさい。
わたしが招いた誤解であなた迄哀しませて」

 見上げてくる澄んだ双眸を見つめ返して。

「そして有り難う。わたしに直接尋ねてくれて。強く信じ頼ってくれて。わたしを案じ抱
きついてくれて。そこ迄強く想われた事が嬉しい。こうして応える機会を作ってくれた夕
維さんに有り難う。わたしは、大丈夫よ…」

 夕維さんの後方で、彼女を案じて姿を見せた翔君と視線が合った。わたしが大丈夫だよ
と無言で頷くと。翔君は、右手を顔の前に立てて『ごめん』と。暫く夕維さんを委ねると。
その浮動を抑え損なった事に、申し訳ないと。

 翔君の性分はわたしも分るし、わたしが分っている事も翔君に通じている。互いに夕維
さんを哀しませたくない想いは同じ。彼は羽藤柚明の悪い噂を聞いても信じず。仮に全て
が真実でも、隔てる積りは欠片もなく。恋人の夕維さんを、わたしに預けて大丈夫と信じ。

 強く賢く優しい、夕維さんのたいせつな人。
 わたしを信じ、わたしも強く信じた男の子。

「本当に、本当に大丈夫なの? 柚明さん」

「ええ。夕維さんにされた以上の事はされてない、と言いきれば納得して貰えるかしら」

 中学2年の初夏、夕維さんには左の乳房を歯形が残る程噛まれた。傷跡を確かめに素肌
を晒して凝視され、指で抓まれもした。大野教諭には暫く嬲られたけど。羽藤柚明は大野
教諭より夕維さんとの方が絆は深い。2年前の夏の日々を思い返し、夕維さんは頬を染め。

「……そうなんだ……、……良かった…!」

 酷い噂も撥ね付けて、わたしの肌身に縋り付いてくれる。嫌悪も侮蔑もなく、わたしを
信じ心配し、愛し支えようと。人目を憚らず己の真の想いの侭に、羽藤柚明を支えようと。

「むしろわたしの方が力を与えられた。悪い噂に怯まない気力を、夕維さんから貰えた」

 根拠のない噂はじきに鎮まる。いつ迄も嘘偽りは続かない。一瞬一瞬の情報に一喜一憂
せず受け流し、暫く流れを見守って。わたしは傷んでも萎れても心折れてもいない。羽藤
柚明はこの通り。あなたが肌身に感じた通り。

 左腕でその背を再度抱き寄せて、頬に頬合わせ、耳朶に親愛を流し込みつつ。その背後
の翔君に右手を立てて、お願いの姿勢を伝え。今傍で夕維さんを支えられるのはむしろ彼
だ。

 小柄な女の子を解き放つと待っていた様に。
 嫌わず脅えず寄り添ってくれる影があった。


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「柚明はそう言う奴だって分っていたけど」
「相変らず剛胆ですのね。柚明さんは……」

 A組の歌織さんと早苗さんが呆れ顔なのは。わたしが落ち込んでも塞ぎ込んでもいない
事より。衆目の前で夕維さんに熱い抱擁を返した事に。いつもの羽藤柚明を見て、安堵し
て。

 ミディアムの黒髪艶やかで少し背の高い早苗さんと、癖のあるショートの黒髪に小柄で
活動的な歌織さんは、夕維さんと交わした親愛よりも深い、女の子同士の絆を交えた仲で。

 人前では親友のお付き合いに見える程度に留めているけど。わたしに関る噂は銀座通に
住む彼女達の方が聞いている筈で。夕維さんにもそうだけど、心に負荷を掛けてしまった。

「早苗さん歌織さんにも、わたしの所為で不安や迷惑を与えてごめんなさい。気遣ってく
れて有り難う。わたしは大丈夫。もう少し様子を見守っていて。悪い噂はわたしが拭う」

 今のわたしは全てを明かして反論できない。真実を伝え噂を否定してとも頼めない。信
じて様子を見守ってとしか言えない。今は己を確かに保ち、時の経過に事を委ねる他にな
く。

 歌織さんも早苗さんも近しくこの身に添い。
 肩に触れ合い腕を握り合い髪を梳き合って。
 見る人が見ればこの仕草も近しすぎるかな。

「いつでも私達の気持は柚明と共にいるよ」
「柚明さんはわたくし達の綺麗な人です…」
「有り難う。早苗さん、歌織さん。嬉しい」

 愛しい人の感触と想いに暫し身と心を委ね。
 安心を伝えつつわたしも心の力を注がれて。

 振り向いた処で、唖然とわたしを凝視していた女の子達と目が合った。わたし達の親密
過ぎる関りに目を奪われ。物陰に隠れるのがやや遅れた様で。中心人物は桜井弘子さんだ。

 わたしより5センチは背が高く、撫で肩な細身に癖のある長い黒髪と、大きな胸と大人
っぽい容貌で、今はC組の女の子を主導して。わたしに関る悪い噂を流通させる一端を担
い。

「げ、元気そうじゃない……心ない噂を囁かれている割に。へこたれても居ない様だし」

 他の女の子達は噂の当人を前にして硬直し。
 主導者たる桜井さんを中心にして盾にして。

 わたしはそんな彼女達に、その背後で更にそれとなく注意を向けてくる男女多数に向け。

「心配頂いて有り難う、弘子さん。わたしは無傷で大丈夫。不安を与えてごめんなさい」

 でも桜井さんは、この平静さが勘に障った様で。もっと萎れ俯いていれば良かったかも。
わたしの今が彼女達の流す噂を否定して見えた為に。自分達も乗った噂を否定されたくな
いと。嘘偽りを広めた側にはなりたくないと。

「ふーん。聞いた噂と随分話が違うみたいだけど、果たしてどっちが本当かしらねぇ……
相当酷い目に遭わされたって話しじゃない」

 弘子さんは女の子同士の恋愛を噂されるわたしを忌み嫌い。この近しい触れ合いも気色
悪いと。潔癖な彼女は男女の交わりをも厭い。

「大野先生にレイ○された後も、不祥事を隠す学校や家の人に、口封じされて何も言えな
いんでしょ、あなた。中山先生に付き添われ病院に行った事も、みんな知れ渡っているの。
何の為に産婦人科受けたか、応えられて?」

「ちょ、そこ迄言うかい」「桜井さん…!」

 歌織さんと早苗さんが、衆目の前で明かすべき中身ではないと、抗議の声を発するのに。

「貴女達も気になるなら訊けばどう? 屈強な剣道の達人の成人男性に迫られて、女の子
が無事に済む筈がない。女も男も妄りに抱き留め肌身合わせるから、こんな過ちが起こる。

 女は大人しく慎ましやかに生きていればいいのに。他人の問題に生意気に首を突っ込む
から。貴女の生き方が招いた末路よ。手遅れになって今度こそ骨身に沁みたでしょうに」

 病気遷されたの? それとも子供孕んだ?
 堕ろしたの手術したの、それとも産むの?

 勝ち誇ってと言うより、引っ込みがつかなくなった感じで。次々と言い募る弘子さんに。

 わたしは乱れず怯まず言葉静かに柔らかに。

「その問の幾つかには、今は応えられないの。状況が許せば応えたいのだけど。心配や気
遣いに、すぐに応えられなくてごめんなさい」

 口止めされた事実を示唆してしまうけど。
 ごまかしも無視も多くの人には通じない。

 有利な事実も不利な事実も、告げられる事は全て明かす事で、この言葉への信頼を望む。

「でも言える事も幾つかあるわ。羽藤柚明は今も無事で大丈夫。女の子の大事な処も破ら
れてないし子種を宿した事もない。傷んでも萎れても怯えても居ない。今もわたしは桜井
さん達をたいせつに想い、その力になれる」

 あなたがわたしを厭うても蔑んでも。あなたがわたしのたいせつな人である事に変りは
ない。縁あって同じ学校に通い、何度か言葉を交わし肌身触れ合えた、強く綺麗な女の子。

 なぜか怯む姿勢を見せる大人っぽい美貌を。
 ゆっくり近づき正面間近で静かに見つめて。

「事の真偽は弘子さんが見て聞いて判断して。
 耳にした噂が本当かわたしの言葉が本当か。
 わたしはわたしの真実を応えるだけです」

 わたしが自身の事実と想いを述べ終えると。
 弘子さんも女の子達も他の男女も押し黙る。

 歌織さん早苗さんも黙して佇み見守る中で。
 数分後、昼休み終了5分前の予鈴を合図に。

 弘子さん達女の子拾数人も、その背後の男女多数も、最後迄答なく硬い表情の侭で去り。

 誠を通せば分ってくれる人もいるけれど。
 大勢に理解を望むのはやはり難しいかも。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明! 可哀想に。私の為に、あんた…」

 美咋先輩に校舎屋上へ連れ込まれた放課後。
 わたしはいきなり大きな胸の谷間に抱かれ。

 やや癖のある赤く艶やかな長髪に、肢体は大人の女性の豊かさと丸みを帯び。整った容
貌は2歳上である以上に意志と美しさを備え。その迷いもない抱擁に、身を絡め取られる
と。

 2人きりの場だったけど、嬉し恥ずかしで。
 耳迄熱く茹でられて、暫く思考を紡げない。

「柚明。強く賢く美しい、私の愛しい妹…」

 美咋先輩とは、大野教諭を打ち倒した翌週末に、一昼夜お付き合い頂いた。護身の技を
人目に晒す事をわたしが好まないならと、格技場での2人きりから、先輩宅へのお泊り迄。

 わたしの護身の技は、柔道でも空手でも合気道でもなく。鬼切りの業でさえない。その
どれにも対応できる強さを目指してきたけど、剣道も習った事は少なく。去年知り合った
健吾さんに、空手のついでに少し教わった位で。

『丁度良いじゃないか。私があんたに正規な剣道を一から教えるから、その代りあんたは
本当の羽藤柚明を一から私に教えておくれ』

 美咋先輩に剣道を手取り足取り教えて頂き。剣道ではなくても武道を学んでいたわたし
は、良い生徒だった様で。短時間でその動きや思考発想に馴染み、先輩の練習台を努めら
れる程に。一通り汗を流し体も解れた頃に、先輩所望の立ち合いに応え。剣道の試合では
なく、先輩の剣技とわたしの護身の技の立ち合いを。

 中学校以前から少女剣士として、強い女の子として近在に並ぶ者いなかった美咋先輩は。
わたしを以前から気に掛けていて、一度戦ってみたかったと。今は大野教諭を退けたわた
しの技量も承知で、どこ迄届くか試したいと。先輩の強さを目指し続けた拾年以上の積み
重ねを前に、わたしも想いを込めて全力で応え。

 その後は先輩の家に上がって厨房に招かれ。
 2人で夕食を作ってお父様と3人で頂いて。

 先輩はその場で大野教諭の真相を明かした。
 わたしが彼を戦い破り先輩を助けた事迄を。

 先輩はわたしの措置に感謝してくれたけど。
 羽藤柚明の暴行陵辱のみで教諭を失職させ。

 神原美咋への所行を証拠も残さない措置は。
 先輩に『借り』感覚や罪悪感を残した様で。

 先輩は熟慮の末にわたしに守られた侭より。
 お父様にも先生方にも秘密にし続けるより。

『わたしと共に』真実に向き合あう途を選び。
 学校にも全て伝え教諭に賠償を望む意向を。

 わたしの措置を無為にしたと謝られたけど。
 神原美咋の真の想いがわたしの正解だから。

 わたしの考え等視野の狭い子供のお節介だ。
 躊躇いなく先輩の確かな想いと選択の侭に。

 本当に強く潔く心まっすぐな、愛しい女性。
 何度か先輩を涙させお父様に睨まれたけど。

 最後は黙礼されて今後も娘を宜しく頼むと。
 先輩とのお風呂も褥も許されて絆を繋ぎ…。

「一体どうなって居るんだい? あんたに纏わる酷い噂は、あんたが夏祭りを堂々と歩い
て見せた事で、一気に鎮火した筈だったのに。2学期が始ってみれば、逆に燃えさかっ
て」

 正樹さんの出版記念祝賀に随伴し、数日学校を休んだ夏休み前に。悪い噂は流れたけど。
それらはお祭りで、宵宮を平然と長閑に歩む羽藤柚明の姿を晒す事で、払拭した筈だった。

 無理が通れば道理が引っ込むと言うけど。
 わたしが通れば虚偽は引っ込む訳らしい。

 その後の半月弱、わたしが銀座通に毎日顔を出さなかったのは、単に夏休みの為だけど。
毎日銀座通に出向く所用がなかった為だけど。

 わたしが引っ込めば噂が通る結果となり。
 夏休み明けには噂が町中を席捲していて。

 美咋先輩も夏休み後半は、剣道推薦で行く進学先の見学も兼ね。首都圏のお兄様達に逢
って生活面の話しを聞く等、暫く経観塚を離れていて。戻り来てこの状態に驚愕した様で。

「私を守る為に大野を打ち倒し、自身の操も守り通せた柚明が、酷い噂に切り刻まれて」

 こんな展開があって良い物か。危険を怖れず穢れさえ厭わず、手遅れな私を救おうと力
を尽くして。禍の根源を打ち倒したあんたが、賞賛されるどころか酷い噂の餌食になると
は。

 美咋先輩はわたしの両頬を両手で抑えて。
 唇触れる程間近で瞳を覗き込んでくれて。

「余りに酷いじゃないか。報われなさすぎ」

 先輩はこの身の無事も勝利も知るだけに。
 わたしに抱いた深く強い想いを溢れさせ。

「……ごめん。辛いのは私じゃなくあんたなのに。私が取り乱すなんて、全く情けない」

 美咋先輩もわたしと同様真実を語れない。
 何も出来ない事程に辛い事はないのかも。

 清く優しく美しく正義感溢れる人だから。
 わたしなんかの為に深く心傷めてくれて。

 2年の聡美先輩もわたしを案じてくれているけど。彼氏の池上先輩に接触を止められて。
池上先輩は噂に信憑性を感じ、わたしの傷心を気遣い、聡美先輩が禍に巻き込まれる怖れ
も抱き。少し様子窺おうと。噂が町中を席捲する今はそれが妥当か。今聡美先輩を確かに
守り支えられるのは、わたしより池上先輩だ。

「美咋先輩、わたしは大丈夫です。傷んでも萎れても怯えても居ない。心配頂けるのは嬉
しいけど、この程度でわたしは心折られない。それより先輩の不安を招いてごめんなさ
い」

 わたしは締め付けに抗わず、その首筋に唇を寄せ。己の平静さと柔らかさを、温もりと
共に届ける事で、美しい人の心の乱れを鎮め。

「……剣道部顧問の教諭の、女生徒暴行の噂に、私の名が出ないのは意図的?」「はい」

 落ち着いた処でわたしは美咋先輩に、噂の現状が特定の人の意図に依ると推論を述べた。
わたしが噂を鎮めると、後を狙った様にまことしやかな情報が流れ、一層激しく燃え盛る。
大野教諭に休日格技場に招かれた事も。彼に嬲られた様を撮った映像がある事も。先生方
の強い勧めでわたしが病院で検査受けた事も。

 わたしが一つ否定すると、それを覆す様に新しい情報が人の口の端に上る。学校は不祥
事を隠しており。羽藤の大人は世間体が優先で訴え出られず。密かに首都圏で堕胎させた。
或いは対人恐怖症に陥って経観塚を逃げ出し、体裁を取り繕う為に無理矢理連れ戻された
と。繰り返す事で、真偽に関らず印象づけようと。

「この噂は自然発生した物ではありません」

 平さんが言った通り、問題は真偽でも善悪でもなく。今や噂は、多数に語られている事
が現実感を生み。学校内のみならず、銀座通でも羽様でも。哀れみや蔑みの視線は数多く。
同情さえも噂を補足し広め行く。その様に促している誰かが居る。背後に人の意図がある。

 わたしは真実を明かして噂に抗う術を封じられ。学校の先生方や羽様の大人達の配慮も、
こうなっては逆効果だけど。今更事実を語っても相手の術中に填るだけ。信じて貰えない。
言えない事は言えないと、貫き通す他にない。

「その誰かは、神原美咋ではなく羽藤柚明を噂の的にしたい様です。わたしが独り噂され、
注目や蔑みや哀れみを受ける状態を望み…」

 美咋先輩のらしくない焦慮は、それが彼女ではなくわたしを狙う動きの故に。わたしを
愛し守り支えたい故に。いつ噂が己に及ぶか、その名を晒されるかという怖れより、わた
しの傷心を案じてくれて。本当に優しく強い人。

 美咋先輩も学校側の配慮で、公には全て秘するとお父様と合意済みで。わたしの無事を
含めた真相は語れず。下手に噂に関れば、剣道部の紅一点故に、人の疑念は彼女に集まる。

 先輩こそ酷い目に遭わされた。女の子の無事を守り通せたわたしを庇う為に、本当に傷
ついた先輩が危険に踏み込むのは本末転倒だ。噂を招くだけでも、事実を秘めた美咋先輩
には致命傷に近い。それに今更誰がどう事実を明かしても噂は鎮まらない。相手はわたし
の無事を勝利を承知で、敢て虚偽を広めている。

「暫くは持久戦ですけど、人の噂は七拾五日。
 わたしは先輩の為にも、絶対心折られない。
 この噂を全て根拠ない偽りだと退けます」

 それがわたし以上に美咋先輩の幸せの絶対条件だ。相手は分って先輩の名を伏せている。
善意とはとても想えない。全ての噂を信用性ない物と退け、見向きもされぬ様に導かねば。

「何も出来ない先輩の方が辛いでしょうけど。
 早まった事はせずにもう少しだけ見守って。

 必ず勝利を報告します。わたしの戦い方は先輩程鮮烈でないから、焦れったく見えると
思うけど。今回の勝ちはわたしと先輩の2人の勝ちです。強く優しい先輩を、守り支える
と胸に想えば、わたしは絶対に心折られない。

 神原美咋は羽藤柚明のたいせつな人。清く正しく美しい、憧れ惚れた愛しい少女剣士」

 言い終えた瞬間、やや癖のある赤い長髪が間近に迫り。美咋先輩の美貌が視界を埋めて。

 わたしは拒まず、美咋先輩の口づけを受け。背に回す腕に力を込めつつ、強く想いを交
わし合い。先輩の頬伝う涙に、合わせた頬で共に濡れ。暫く青空を雲が行く侭に任せてい
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「奥寺先生、例の件でお話ししたい事が…」

 暫くの後、わたしは1人で職員室を訪ねていた。既に放課後に入って暫く経ち、部活の
指導に出た先生もいて。人数の減った室内はややだれて疲れた、雑然たる空気に包まれて。

 初老だけど背が高く恰幅の良い男性教諭は。
 わたしの声に頷いて近くの女性に声を掛け。

「若木さん、羽藤の事でちょっと良いかな」
「中山先生か井上先生を、呼んで参ります」

 教員ではなく事務員の若木葛子さんは三十二歳。黒髪まっすぐ長く艶やかで、冷やかに
整った容貌に背も高く。百七十センチはある。学校勤めを意識してか、服装も地味で化粧
も薄く、麗質を発揮し切れてないけど。胸も大きく腰もくびれて、大人の魅惑や色香が漂
う。この春迄は銀座通中で事務員だった筈だけど。

 事情を知る女性教諭を呼びに、職員室を走り出し掛ける彼女を、先生は寸前で呼び止め。

「井上先生は今日は体調不良で休みで、中山先生は吹奏楽部の指導中だ。羽藤の件で引っ
張ったと知れては人目につく。挟まってくれるだけで良い。長くは掛らない」「はい…」

 大野教諭の件が発覚して以降。学校側は事情聴取等で、わたしが男性教諭と一対一にな
ると誤解を招く、又はわたしを怯えさせると。2人きりにならない事を徹底しており。空
いていた校長室で、来客用のソファを勧められ。

「2学期初日から出てきてくれて有り難う」

 奥寺先生は何も悪くないのに感謝と陳謝を。
 大きな体が小さく見える程深々と頭を下げ。

 県立経観塚高校の五拾人余りの教諭の中で。
 わたしと大野教諭の真相を知っているのは。

 校長先生、教頭先生、F組担任の奥寺先生、副担の中山先生、1年の学年主任の春日先
生、美咋先輩の担任魚住先生(3年の学年主任)と副担の浜先生、保健室の井上先生と、
事務員の若木さんの計9人で。うち3人が女性だ。

 同じ学校に勤めていても、その他の先生への箝口令は徹底され。事情を知った学校側は
誠実に、女の子の名誉を守ろうと努めていた。だからこの噂の流布には学校側も驚いた様
で。

「生徒の間にもそんな酷い噂が広がって?」
「わたしが聞けた範囲のお話しですけど…」

 若木さんは、隅の電気ポットでコーヒーを淹れてくれた後。わたしから少し離れて座り。
2人きりにしない為に入ったけど、教員ではないから口は挟みませんと、黙して脇に控え。

「中山先生に付き添われ、念の為に検査を受けた事も知れ渡っています。その日の病院の
領収書控えも、コピーがあるという噂が…」

 検査結果も明かせばわたしの操を証明出来るけど。それは出てないし『何もなかった』
立場のわたしが明かす事も出来ず。それを受けて先生はやや迷いつつ、不確定情報だがと。

「幾つかの家に、差出人不明のビデオテープが送られた噂も聞いているが、未だ確認出来
てない。あの日の格技場の2人の有様が流出していると。そもそもそんな映像の存在自体、
関係者しか知らない筈なのに。それにあの映像は原本の他は、羽藤の家と県の教育委員会
の控えに、1本ずつダビングしただけで…」

 教育委員会は大野教諭を処分する為に事実を把握せねばならず。羽藤家に渡したのは学
校側が不祥事隠しする気はないとの証だった。学校側は善意に誠実に事に臨んでくれてい
る。

 それが流出していると、噂する事でわたしの心を傷めようと。あるかないかは別として、
疑い興味を抱く人の脳裏に、耳にした噂が中身を想像させる。相手は己の姿を見せぬ侭に、
人を踊らせてわたしを噂の泥沼に落す意図で。

 先生も思索の糸口を掴めぬ状況に当惑して。

「一体誰が……愉快犯か、それとも恨みか」

 恨まれる憶えと言えば当の大野教諭だけど。
 今回の所作に彼の影が視えて来ない以上に。

 今回の一連の噂で彼は何も得られていない。
 汚名挽回もカバーもフォローも出来てない。

 わたしへの恨みを晴らす気力も彼にはなく。
 自宅にこもって鬱々と塞ぎ込む姿が視えた。

 他に事情を知る者は、美咋先輩とお父様に、羽藤の家族と先生方位か。先輩達がそんな
噂を流す人ではない以上に。そんな噂を弄べば自身が最初に炎上する程、剣道部の紅一点
は立場が危うい。続々と出るわたしの新情報が人目を惹いて、注目されてないだけで。先
輩こそ噂もされては拙い立場だ。この噂は誰の利にもなってない。学校側にも羽藤の家に
も。

「噂の震源が分らない。動機も見えてこない。その上、ごく一部の者しか知らない情報
を」

 まさかと思うが。学校側に情報を流出させた者がいる? 事情を知った少数の者の中に。

 職場の仲間を疑う事を好まない奥寺先生も。
 教諭の誰かを疑わざるを得ないと苦悩して。

 善意に生徒を指導し続けてきた優しい人が。
 悪意も過失もないのに二重三重に心を傷め。

 眠れぬ夜や食の通らぬ日々を表にも出来ず。
 わたしなんかを生徒に持った為に禍に遭い。

 わたしの方が申し訳なさに耐えられなくて。
 その太い両手首を軽く握って信頼を伝えて。

「先生は何も悪くありません。事情を知った先生方もそうでない先生方も、みんな誠実に
努めています。大野さんは酷い人だったけど、そうでない人が大多数である事は分りま
す」

 奥寺先生は羽藤柚明のたいせつな人。生徒を守り慈しむ心に溢れた、優しく強い男の人。

 若木さんが脇にいる事を、承知でわたしは。
 これ以上この人に、負荷を掛けたくなくて。

「わたしは今迄幾度も、根も葉もない噂を語られてきました。だから分る感覚があります。
今回の噂は、自然に発した物ではありません。わたしを狙った特定の意図に基づく物で
す」

 中学1年で男の子達に暴行されたと噂され。中学2年では夕維さんに関って、同性愛を
囁かれ。利香さんと関って霊媒気取りと陰口も。健吾さんと関った去年春も酷い噂を流さ
れて。

 でもだからわたしは一連の真相を見通せる。
 噂を語り広める人の心の動きを辿れる様に。

「悪意な噂を発信しているのは多分唯1人」

 後は好奇心や面白半分に関っているだけで。
 わたしや羽藤に抱く敵意を上手に煽られて。

「それが誰かも徐々に絞られて来ています」

 話しに加わらない姿勢でいた若木さんが。
 驚きの声を呑み込みつつ瞳を見開く前で。

「一連の噂の根源は、大野先生でもなければ、美咋先輩やお父様でもなく。勿論羽藤の家
の誰でもないし、先生方の誰も悪くはないの」

 握った両手を胸に持ち上げつつ言い切って。
 失言かも知れないけど懊悩する先生を前に。
 見通せたわたしが黙ってはいられなかった。

 解決の糸口が視えていると明示するだけで。
 先生の心の負荷は罪悪感は劇的に軽くなる。
 間近で驚きに瞬く黒い双眸を確かに見つめ。

「わたしを気遣い心配して頂いて、有り難う。そしてわたしの為に、迷惑や負担を掛けて
ごめんなさい。でもわたしは大丈夫。奥寺先生や他の先生方を信じています。心折られる
事も萎れる事も塞ぎ込む事もない。先生も落ち込まず仲間を疑わず、暫く状況を見守っ
て」

 わたしが平静に柔らかに学校に通う日々が、徐々に噂を鎮め行く。相手は様々な新情報
を流すけど、証拠品を表に出すと足が付くから。やはり容易には踏み出せず、膠着状態に
なり。

 噂を根強く語る人はいて。疑惑や哀れみや侮蔑の視線は注がれるけど。感応使いのわた
しはその概ねを悟れるけど。信じ心配し頼ってくれる人の為にも、乱れず崩れず己を保ち。

 正樹さんや真弓さんは、大人の対処をしていた様だけど。その先は子供の手が届かない
から。わたしは己が為せる事を確実に。今の羽藤柚明を見せる事で、悪意な噂を否定して。

 実った稲穂がこうべを垂れる秋を迎えた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 金色の穂が微風にそよぎ、さわさわ波立つ収穫期の羽様を。なぜか微かに心波立ちつつ、
早朝わたしは通学に歩む。何か視えない物が視えそうな、あと一息で起る事が悟れそうな。
頭に浮び掛った閃きの様な、心の整理が付く間際の様な。吉凶を超えて微妙な直前の感覚。

 空は青く。雲は白く。未舗装の道は曲がりくねって延びていて。人家も遠く人気も殆ど
ない羽様の早朝は、風の音や鳥の羽音が響く位で。何の変哲もなく千年一日の如く始って。

 学校で何かあるのかな。でも、なぜか今日は学校で先生やお友達に逢う像が思い浮ばず。
学校に着いた像が視えない事が、己が学校に辿り着けない事を示すと、思い当たった瞬間。

 耳に届く機械音は、稲刈りに働くコンバインの音だ。この辺は鴨川の土地だから、朝早
くから働いているのは平さんか。音に導かれ、道路から少し低い田んぼへと視線を向ける
と。

 数十メートル程先の稲穂の海を掻き分ける。
 農業機械の進路は不規則に曲がりくねって。
 運転席の男性の姿は仰向けにひっくり返り。

「危ない……!」

 あんな姿勢で操作する筈がなく、とても操作されている動きではなく。気を失っている。
自動車並の大きな機械は、主を失って迷走し。操縦者に意識がなければ止める事も出来な
い。振り落されて機械に巻き込まれでもしたなら。

 考える暇もなく、わたしは道路を外れ田んぼに飛び込み、稲穂を掻き分け疾駆していた。
止めなければ人の生命に関る。そして迷走する自動車並の農業機械に時間的な余裕はない。

 事は一刻を争う。周囲に他に人影はない。
 助けを呼んで来るより、止めた方が早い。

「平さん……平さん、しっかりしてっ…!」

 意識を戻してくれる事を期待して声を掛けつつ、迷走するコンバインに走り寄る。操縦
者を失った農業機械は、下手をするとわたしも巻き込みかねない。稲穂に視界遮られつつ、
機械の音や熱と足裏に響く振動と空気の流れで。その進路を推察し、間近に沿って併走し。

『ダメだ……反応がない。気絶している…』

 なら、いよいよこの手で止める他にない。
 多少の危険は伴うけど、今のわたしなら。

 コンバインの速度は余り速くない。タイミングを合わせれば、乗り込む事は難しくない。
既に運転席に平さんが座している為、動いて揺れる1人乗りの農業機械で、わたしの足場
は不安定だけど。振り落されればわたしこそ、機械に巻き込まれる怖れが高いけど。でも
…。

 修練で身のこなしを鍛えて大丈夫な以上に。
 彼の危難を前にわたしに傍観の選択はない。

 わたしのたいせつな人で真沙美さんの父で。
 お母さんの初恋の人を見捨てられはしない。

 農業機械を操った事はないけど。道路に乗り上げない様に時間稼ぎの操縦を。贄の力の
感応で、気を失った平さんの意識に入り込み。止める方法を盗み見て。まず機械を止めね
ば。

「ふぅ。止まった……」機械音が停止して。

 わたしは静止した農業機械の上で汗を拭う。平さんが振り落され巻き込まれる危機は回
避した。でも問題はこれから。平さんは機械が迷走したから気を失った訳ではない。気を
失って操縦出来なくなったから機械が迷走した。

 その平さんは、苦しげな表情で動きなく。
 左手で額に触れて様子を視る。否、診る。

『脳卒中……それも重い、生命に関る……』

 贄の癒しは使えない。高度になったわたしの力は、病の全てに不適合な訳ではないけど。
脳の血管はその各所が劣化していて、破れた処を補強すれば他の箇所が破れる。全体に力
及ぼせば血流が増して、脳内の出血が増える。

「絶対安静。そして救急車を呼ばなければ」

 贄の癒しが届かないなら、現代医療に委ねるしかない。ここから一番近い民家は鴨川だ。

「あんた、羽藤?」「雪枝さん、正義さん」

 いったん未舗装の道路に出ると、道路の脇で朝の弁当を広げる沢尻夫婦に声掛けられた。
収穫期なので、朝食に自宅へ戻る暇も惜しみ、いつかの平さんと同じく作業場の傍で食事
を。

「平さんがコンバインの上で、気を失っていたの。機械は止めたけど、脳内出血で絶対安
静で……わたしが鴨川に事情を伝え、救急車呼んで貰います。それ迄の間彼を看ていて」

「ええっ、そりゃ大変だ」「あれまぁ…!」

 わたしは2人に同じ言葉を再度繰り返して。
 動かしてはダメと噛んで含めて伝えてから。

 3キロ少し離れた鴨川のお屋敷に疾駆する。
 鴨川の家にわたしが行くのは不適切だけど。

 今は一刻を争う。羽藤柚明の足が最も早い。

「お早うございます。鴨川さん、羽藤です」

 古びた日本家屋から姿を現したのは、羽様の幼子より1つ年下の男の子、真人君5歳と。
その母で平さんの後妻で真沙美さんの継母の。

「貴女……羽藤柚明さん……何のご用で?」

 香耶さんは整った顔立ちに懐疑の色を見せ。
 歩み寄ってこようとする幼子を屈んで抑え。
 彼女も鴨川の嫁なら羽藤との絶縁は承知だ。

 言葉を交わす事も厭い隔てる姿勢の彼女に。
 平さんが倒れた事と絶対安静を簡潔に伝え。
 救急車を呼んでと頭を下げて頼むさなかに。

「何、だ……お前、まさか、羽藤、柚明…」

 屋敷の奥から現れたのは、臣人さんだった。
 臣人さんは比較的屋敷に近い所の稲刈りを。
 なので朝食を取りに屋敷に戻って来ていて。

 有無を言わさず隔て拒もうとする彼に対し。
 説明して事情を分って貰うのに時間が掛り。
 漸く緊急時を理解して貰えた時、背後から。

「大旦那様、若奥様」「うぬ、沢尻の…?」
「雪枝さん、正義さん? どうしてっ…!」

 沢尻夫妻は、絶対安静で動かさないでと言い置いた平さんを、抱えてここ迄運んできて。

「コンバインの隣に、放った侭じゃいけねぇし」「とにかく布団に寝かしてあげないと」

 動かしてはいけないのに。生命に関るのに。
 絶対安静だと、しっかり何度も告げたのに。

 2人とも高校生の娘の言葉に重きを置かず。
 背負って抱えてかなり揺らせて衝撃与えて。

「お2人は、平さんを死なせたいのですか」

 夫妻はわたしの言葉を思い返し、今になって拙いと思い至った様だけど、最早手遅れで。

 自身の言葉の重みのなさが、恨めしかった。
 子供の言葉では、人を動かすのに力不足だ。

 それは沢尻夫妻の所為ではなく、己の不徳。
 あの時2人に、暗示を掛ける迄しておけば。

 この事態は招かなかった。己の判断ミスだ。
 今はとにかく、出来る限りの措置をせねば。

「そうね。取りあえず布団に寝せましょう」

 ここ迄連れてきた以上、軒先に寝せるより室内へ。香耶さんの判断に従い、男性2人は
平さんを慎重に中へ運び。香耶さんと寝室に布団を敷き。雪枝さんが電話で救急車を呼び。

「何、来ないだと? 一体どういう事だ!」

 臣人さんの大声に雪枝さんは縮こまりつつ、

「他の処で急病人が出て、行く最中に事故に遭い。救急車その物が、壊れて動けないと」

 経観塚に1台しかない救急車が動けない。

 今わたしに出来る事は、桶に水を汲んでタオルを絞り、平さんの額に当てて汗を拭う位。

 臣人さんの大声は廊下から寝室に迄響き。

「痴れ者が! ウチは鴨川だぞ。『羽様の解放者』で『平等の旗手』の鴨川だぞ。その名
を出しても来ないというのか。来れぬのか」

「救急車が壊れてしまっては、難しいかと」

 香耶さんが冷静な声を挟むのに、臣人さんは憤懣で顔中を赤くしながら、受話器を奪い。

「……来れぬならそっちから医者が来い!」

 大伴酒店のタクシーを頼む他に、鴨川のライトバンに乗せる手もあったけど。絶対安静
な病人を素人が運ぶのは危うすぎた。危険を冒して無理に運んでも、経観塚の病院で処置
出来ず、県庁市の大学病院に回される可能性も高く。それ以前に最早彼は、どこに運んで
も……。現状では往診に来て貰うのが最善か。

 医者の到着迄は事が動かないと見通せた時。
 鴨川の屋敷に上がり込んでいた羽藤の娘に。
 臣人さんを初めとする視線が集まってきた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「今日の事には礼を言う。だがもう充分だ」

 臣人さんは、やはり冷淡な拒絶を変えず。
 寝室で眠る平さんの傍に座したわたしを。
 みんなの前で見下ろしつつ帰りなさいと。

 わたしは通学の途上だった。そこへ戻れば。
 わたしは一日普通の高校生活を送れるけど。
 わたしの関知にその像は浮んで来なかった。

「鴨川の臣人さんに、お願いがあります…」

 もう暫くの間、わたしが平さんの傍に添う事を、許して下さい。半日、否数時間で良い。

「彼の求めに応える事を、わたしに許して」

 正座の姿勢から額づいて彼に許しを請うと。
 強い拒絶の意図が渦巻く様が確かに視えた。

「羽藤を最後にこの屋敷に入れたのは、もう弐拾年も前か。その時はお前の母だったが…。

 鴨川は羽藤と断交した。どんな理由があるにせよ、お前が今この屋敷に居る事が特例で。
本来なら、三和土から追い出されていて無理ない立場だ。用が済んだら帰って貰う……」

 鴨川の側に、羽藤に求める物など何もない。
 彼の鋭い宣告に、わたしは首を左右に振り。

「臣人さんはそうかも知れませんが、彼はわたしを求めてくれています。今この瞬間も」

 意識がないのに、わたしの右手を握って離さぬ平さんの右手を、繋げたそれを彼に見せ。

「平さんの真の想いです。病で死の淵にあり、意識が混濁して彼は漸く本心を強く顕し
て」

 実は平さんに、本当に求められているのは羽藤柚明ではありません……わたしの母です。

 臣人さんの表情が不快から驚きに変じる。

「何度か、母の名前を呟いていましたから」

 お母さんにとって、平さんが初恋の人で初体験の人で失恋相手だった様に。平さんにと
っても、お母さんが初恋の人で初体験の人で失恋相手でもあった。嫌い合って別れた訳で
はない。だからこそ平さんの心には、お母さんを傷つけた事への悔いが、強く残り続けて。

 しかもお母さんはわたしが小学3年生の時に生命を落した。平さんの所為ではないけど、
彼と結ばれていれば、あの最期はなかったと。彼はその事にもずっと悔いを抱き。雛乃さ
んと結婚し真沙美さんを産んだ後も、雛乃さんの没後香耶さんと結婚し真人君を産んだ後
も。羽様に移り住んだ羽藤柚明迄をも気に掛けて。

 お母さんの娘だから。初恋の人の娘だから。不幸を負わせたと実の娘の様に愛してくれ
て。わたしに関る噂を近在の家々から集めていたのは、気懸りだったから。誰かの為にと
無茶や無謀に踏み出すわたしが心配で。臣人さんにはそう言えないから、情報収集の名目
を…。

 幾度かの叱声も。2年前の真沙美さんと別れなさいとの宣告もその撤回も。愛娘への配
慮と同時にわたしへの配慮で。故にわたしは幾ら厳しくされても、迷わず彼を慕い続けら
れた。それは彼の羽藤への贖罪だったのかも。

 そして生死の淵に沈み込んだ彼が今。意識混濁し、心が諸々の縛りから解き放たれた今。
彼が心に最も深く想う事は、わたしでもなく。

「今平さんが掴んでいるのは、羽藤柚明ではありません。わたしに重ね見た母を、繋ぎ止
めようとして。手遅れを償い補おうと。彼はずっと心痛め続けてきました。せめて今は」

 錯覚でも幻でも彼に答を返したい。嘘でも応えられるのは姿形似た母の娘のわたしです。
わたしにとっても父の様に慕ってきた人です。この手を暫く握り返し続ける事で、少しで
も彼の救いになれるなら。心安らげられるなら。

『この手を放さないで、ゆめいさん』

 4年前の夏の日に。眠ってしまった詩織さんに握られた己の手を、兄の秀彦さんと別室
でお話しする為に、放してしまったわたしは。起きてきた詩織さんに、再度強く握られて
…。

『この繋いでくれた手を放さないで。わたしをみんなに学校に繋ぎ止めてくれるこの手を
放さないで。わたしを置いていかないで!』

 手を放した事は失敗だった。どんな事情があっても、繋いだ人に置き去られると思わせ。
信を裏切り不安を抱かせた。心からの求めに応えた繋りは、勝手に外してはいけなかった。

 二度と同じ失敗を大事な人に繰り返さない。
 わたしにこの人を見捨てて去る選択はない。
 畳に額づいて総身で強く請い願うわたしに。

「用が済んだら帰って貰うぞ」「はい……」

 平さんの手がずっとわたしを握り続けて離さない様子に。臣人さんは縦皺の深い眉間を
更に険しくしながら、厳しい声で了承を告げ。引き返し掛ける背中が少し小さく見えた気
が。

「もう一つお願いがあります。臣人さん…」

 何を言うかと、振り向かず立ち止まる背に。

「真沙美さんを呼び寄せて下さい」「……」

 それが何を意味するのか彼も即座に悟って。
 怯えと怒りを混ぜた硬直した顔で振り返り。

「平さんの重大な時です。学校を休んでも実の娘が逢って話すのは、無駄ではないと…」

 見開いた眼でわたしをまじまじと見つめて。

「……良いだろう。それと羽藤の家にも連絡しておこう。それで羽藤がお前を引き取りに
来た時は、儂の知る処ではないぞ」「はい」

 そろそろ学校では授業が始る頃か。関知で視た通りわたしは学校に行けない様だ。色々
新規に噂される気はするけど、やむを得ない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


【お願いします、父さん……一時的でも良い、羽藤への援助を減らして下さい】【駄目
だ】

 わたしの心に響く声は若き日の臣人さんの。

【鴨川も家計苦しいんです。名家と言っても、唯近在の農家に土地を譲る仲介をしただけ
で、鴨川は何も得ていない。無闇に資金援助を続けても鴨川が潰れる。母さんの薬代も出
せてない。妻も最期迄満足に医者に診せられず】

【鴨川は羽藤に仕える家だ。それが羽藤の土地を売り捌く羽目になって。先代にも顔向け
出来ん。せめて資金面で支える位はせねば】

 厳しい声は臣人さんのお父さん・継久さん。
 この像は幼い平さんが見た彼の父と祖父の。

【どうして! 日本国民はみんな平等なのに。地主も小作も庶民も天皇も、身分差別はな
くなったのに。どうしてそこ迄、羽藤に尽くす必要があるんです。自分の家族より大事
に】

 母さんは毎日苦しい咳が止められないのに。
 妻は手遅れになる迄病院にも行けなかった。

【それでも羽藤にお金送る方が大事ですか!
 笑子さんもそこ迄して貰う事はないって】

 臣人さんが羽藤への資金援助の削減を頼むのは、鴨川の家族が貧窮に苦しんでいるから。
でも継久さんは厳しい顔で、かぶりを振って、

【羽藤は今ご主人が亡くなって奥様1人だ。
 農地もないその苦境は察するに余りある。

 その様に追い込んでしまったのは鴨川だ。
 元々鴨川は、羽藤を支える家だったのに。

 今羽藤を支えねば鴨川に存在意義はない。
 儂は断固として羽藤への援助は止めぬぞ】

 小学4年生の秋、愛しい双子が生れた直後。
 サクヤさん達に受けた説明が、脳裏に蘇る。

『羽藤に幾らかの銭を渡し、自分の懐は痛まず、長らく執事をやって得たノウハウと人脈
を生かして小作人に羽藤の土地を切り売りし。

 ……羽藤に残ったのは幾許かの山林と、屋敷周辺と、若干の銭だけ。流石に良心が痛ん
だのかね。羽藤のお陰で村の有力者になれた先々代は、笑子さんに頭を下げていたね。茶
道や書道や華道や手芸の仕事を回したり。オハシラ様の祭りに寄付も出してきたけど…』

 その善意が、罪悪感に伴う贖罪が、鴨川の家を経済的・精神的に歪ませ。臣人さんの母、
平さんの祖母で継久さんの妻・豊(とよ)さんは、薬代に不自由し。臣人さんの妻で平さ
んの母・冬美さんは、肺炎を拗らせ生命喪い。そこ迄して、継久さんは羽藤に償おうとし
て。

【これ以上鴨川が鴨川である理由を否定する様な事を言うなら、臣人、お前を勘当する】

【父さんは、母さんを見捨てる気ですか?】

 臣人さんの問に継久さんは沈黙で応えて…。

 そして次の像は何年か経った絵図だろうか。
 平さんが今伏せる、この寝室のこの布団に。
 老いた継久さんが伏せって臣人さんが沿い。

 襖を微かに開けた平さんが覗き見る視点で。

【儂も豊の処に行くか。臣人、済まなかった。儂はどうしても羽藤を見捨てられず、お前
達に困苦を強いて。だが、鴨川は元々羽藤に仕える為に羽様に招かれた。存在意義を捨て
て残って何になろう。今後も羽藤を大事に…】

【……断ります。もう二度と羽藤に資金援助などしない。私はこの時を待っていた。私が
鴨川の全権を握る瞬間を……復讐の時を!】

 臣人さんは継久さんを、冷然と見下して。

【私の母を妻を見殺しにして、奪い去った仇は羽藤と貴男、鴨川継久だ。今こそ私が昔年
の恨みを叩き返す。今迄の方針を全て覆す】

 それが鴨川の家を家族を守る事になって。
 私の恨みを憤怒を憎悪を晴らす事になる。

 羽藤への資金援助など二度としない。商店街や農協や役場に頼んで出させていた援助も、
今後は全て止めさせる。私の手で。貴男は…、

【草葉の陰から見守っていて下さい。鴨川は羽藤と断交します。平の婚姻も解消させます。
内々に佐々木から娘を貰う話も進行中です】

 平さんの前妻・雛乃さんは、華子さんの叔母(父の妹)だった。華子さんと羽藤柚明の
定めの糸も、博人君抜きで深く絡まっていた。

【さぁ薬を飲んで下さい。羽藤への援助を止めた金で買ってきた薬を。もっと早くできて
いれば、母さんも妻も助けられた薬をどうぞ。

 平も見てないで入ってきなさい。丁度良い。今から鴨川は羽藤と断交する。お前と羽藤
の○○○の婚約も取りやめる。今後一切逢う事も電話する事も、手紙のやり取りも認めな
い。
 鴨川は二度と羽藤と関り合う事はしない】

【父さん。そんな、急に】【臣人、お前っ】

 未だ若い平さんの戸惑う声を、塞ぐ様に。

 ごほ、ごほごほ、ごほおっ。継久さんの。
 苦しげな咳と身を掻きむしる様な物音が。

 ああこうやって、鴨川は羽藤と断絶し……。
 臣人さんは、継久さんや平さんとも断絶し。

 中学1年の夏、夜を共にした真沙美さんは。

『死んだ母さんに聞かされたんだ。父さんが母さんと結婚する前、羽藤の長女と、あんた
の母さんと恋仲だったって。幼なじみから始って恋仲になった様を、年配の人はみんな知
っているってさ。先々代、私のひい爺さんは、農地改革では羽藤を踏み台にして信望を得
たけど。生涯羽藤の執事を続けた人で、交際は順調だったらしい。でもひい爺さんが死ん
で、爺さんが鴨川当主になると状況が一変して』

 既成事実が進んでいたのに、身体は交わり合った後なのに、両家は断絶した。爺さんは
ひい爺さんの独断専行を激しく憎み、死後にその方針を悉くひっくり返したと聞いたけど。

『似た者同士の家系だよ。私や多分父さんが爺さんに抱く想いは正にその焼き直しだ…』

 わたしはずっと、平さんも臣人さんも憎めなかった。幾ら厳しい応対や隔て厭う姿勢に
接しても。その訳を悟れた気がする。継久さんの贖罪感も分るけど。臣人さんも理由なく
羽藤を恨み憎んだ訳ではない。全部がそれ迄の積み重ねの上にある。大事な人への愛に深
く根ざした、やむにやまれぬ憤怒だったから。

 平さんが結局臣人さんに従ったのも。勘当を怖れた以上に父を見捨てられなかったのだ。
母も妻も失った臣人さんが、継久さんを捨てたその後で、息子に迄見捨てられては寂しす
ぎる。心優しい平さんは己の父に殉じたのだ。

 笑子おばあさんは生前こうも言っていた。

『実際にはね、鴨川も羽藤を援助し続ける余力がなくなり始めていたの。羽藤も鴨川も収
入の源は結局土地なのだもの。それを手放した以上、羽藤の物でも鴨川の物でもなくなっ
た以上、いつ迄も潤沢な資金が出る訳がない。

 鴨川が得た声望も結局精神的な物で、それで確かな利得を得た訳でもないから。土地も
お金も権利も得た訳じゃない。仲介しただけ。鴨川自身が、みんな平等の世の中で、過去
の解放者の功績を口にしても、通じなくなって来ていたの。その辺も理解してあげない
と』

 鴨川は羽藤への資金援助を止め。臣人さんは家の立て直しに励んで今に至る。真沙美さ
んが首都圏の名門女子校に通えるのも、その成果。悪い人なんていなかった。唯激しい時
代の流れの中で、各々懸命に生きてきただけ。

 更に視えてくる像は。これは平さんがお母さんと離別して少し後、鴨川の屋敷の客間で。
向き合った相手は、若き日の沢尻夫妻だった。

【実は父に内密で、お願いがあります……】

 平さんは沢尻夫妻に、情報収集の名目で羽藤と繋り続ける様に頼み。継久さんが笑子お
ばあさんの為に繋げたけど臣人さんが断った、華道茶道・裁縫書道の教授の途を。生計の
途を弟の等さん(賢也君の父)も通じて残して。

【でも坊ちゃま。もし旦那様に知られたら】

【知れば父は許さないでしょう。だから密かに頼むのです。羽藤の反物を扱っていた業者
にも、再度来て貰える様に頼んで欲しい…】

【やはり坊ちゃまは、羽藤の○○○さんを】

 平さんの贖罪だった。自身が鴨川を勘当されてはそれも叶わなくなる。鴨川である内は、
直接支えられなくても、影ながら手配出来る。

 平さんは発覚すれば勘当される怖れの中で。結ばれる可能性のなくなったお母さんへの
想いと悔いを胸に抱き。密かに羽藤を案じ続け。わたし迄深く気遣ってくれて。色々な噂
を届かせ不安にさせた。どれ程心配を掛けた事か。

 わたしを深く想ってくれた人。わたしが深く慕う人。わたしが強く愛し愛された真沙美
さんの父で、わたしのお母さんも愛し愛された初恋の人で。わたしにとって父に近しい人。

 身を横たえた侭昏々と眠り続ける平さんの。
 額に合わせた己の額を離して面を上げると。
 香耶さんが入ってきて襖を閉じた処だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 往診に来た医師が、夜に又来ると言い残して帰ったのは、午前拾時位か。点滴等の処置
はしたけど、設備もない一般家庭では出来る事に限度がある。収穫期で忙しい沢尻夫妻も、
何かあれば参りますと帰り。鴨川の屋敷にわたしが居続ける事に、不納得そうだったけど。

 昼前に真弓さんが心配して状況確認に来て。
 缶のお茶を差し入れ頂いた後で羽様へ帰り。
 両家は尚断絶中で特例扱いはわたしだけだ。

 急に閑散とした日本家屋で。わたしは独り、意識を戻さない平さんに添って、時を過ご
し。人の視線がなくなったのを見計らって、彼の額に己の額を合わせ、贄の癒しと感応を
試み。

 今彼が何を伝えたいのか。この手を握る想いを悟りたかった。同時に何とか贄の癒しで
病状悪化を止めようと。賽の河原の石積みの様な所作だけど。緩慢に死に向かい行く平さ
んを前に、放置の選択はわたしにはなかった。

 脳の毛細血管の破れた箇所を治すと、血圧が増し、他の処に負荷が掛って破れる。そこ
も塞ぐと更に別の処に負荷が掛る。全体に面として癒しを及ぼせば、血流が増して全体の
出血が増す。だから破れた箇所を治して塞ぎ、それで破れる所も事前に治して強化し、更
にその為に負荷が掛る所を先に察して手を打ち。

 ピンポイントに力を何十箇所、何百箇所に及ぼす。面として全体に力を及ぼしては拙い。
何千箇所になっても破れる処にだけ、数ミリ以下の範囲に力を集め。実はこれを幾らやっ
ても溢れた出血は戻せない。これ以上の悪化を止めるだけ。否、悪化の加速を鈍らす程で。
既に全体の血管が劣化していて、時間稼ぎにしかならない。そして幾ら時間稼ぎをしても。

 医師は隣町や県庁市の大学病院に救急車を頼まなかった。親族に連絡した方が良いとも
言い残し。つまりそう言う事なのだ。可能性は贄の癒しにしか残ってない。否、実はもう。

「人に見られたら誤解されるわよ、貴女…」

 香耶さんは、夫に口づけていたと見える所作を見ても、動揺もなく冷静で。平さんの右
手に握られたわたしの傍に、正座で向き合い。

「ごめんなさい。入り込みすぎていました」

 経観塚の外から嫁してきた人だけど、香耶さんも羽藤の癒しの力を承知で。平さんが握
った腕を放さない以上に、わたしが身を繋ぎ続けたい気持を察してくれて。努めて冷静に、

「大事に想う人の為なら、本当に恥も外聞も、己の負う傷も穢れも厭わないのね。その歳
で、中年男に望んで肌身を合わせ、報酬どころか賞賛も感謝も求めず。誤解や苦悩や傷み
が待つと分っても、どんな事情や経緯のあった相手でも。助けるのに迷いも怯みも躊躇も
ない。その無私な尽くし方には嫉妬さえ憶えるわ」

 わたしの在り方は香耶さんを、多少ならず苛立たせたらしい。こういう時だし大人の自
覚を持つ彼女は、高校生の小娘にそれをぶつけはしないけど。夫の心を奪うとか唇を奪う
とかの誤解ではなく、わたしの姿形や言動が。

「ごめんなさい。わたしは未熟者なので…」

 稲穂の海を疾駆したセーラー服は、藁の屑や埃が付いて。払い落しても綺麗と言い難く。
女らしさ豊かさでは随分劣るから、嫉妬される心配はないけど。みすぼらしく見えるかな。
巧く応えられてないと感じつつ謝るわたしに、

「まあ、良いわ。それより、夫の容態は?」

 香耶さんはわたしの答に不正解と応えつつ、夫の容態を問うて。今更気休めは告げられ
ぬ。

 真沙美さんが着く迄は何とか保たせたい。

 そう述べると怜悧な顔を少しだけ曇らせ。
 平さんの死が間近い事へのショックより。

「貴女は、結果が見えた戦いを、敗北の瞬間を少し伸ばす為だけに、己の全てを注ぎ込め
るの? 真沙美さんが帰着する迄の半日夫を保たせる為に。学校を合理的な理由も出せず
に休み、誤解を噂を招きつつ、仇の鴨川に頭を下げ。誰にも理解されない癒しの力を注ぎ。

 もう夫の死は見えているのに。貴女の父でもなければ親族でもない。ほんの数時間だけ、
彼の終りを先延ばしするに過ぎないのに…」

「鴨川真沙美と鴨川平は、羽藤柚明のたいせつな人です。わたしを深く想ってくれて、わ
たしも深く慕い想う愛しい人。この手に最期の面会を叶える力があるなら、尽くしたい」

 その危難を前に去る選択はわたしにはない。

「わたしに彼を救う力はありません。どんなに悔しく思っても、病を治す力はわたしには。
出来るのはこの位。病に掛らない様に、もっと前から様々に手を打てれば、今の事態を回
避する事も出来た筈なのに。わたしは…!」

 大事な人なのに。いつ迄も元気でいて欲しい人なのに。真沙美さんのお父様で、お母さ
んの恋した人で、香耶さんのご主人で、わたしの父に近しい人なのに。助けられない…!

 この程度の事で贖罪になるとは思わない。
 この程度の事で何か為せたとは思えない。
 それでもしないよりは遙かにましだから。

 己の全てを注いでも完遂したい。その為に己が多少不利益を被っても、誤解を受けても。
行き違い続けた親子の絆を繋ぐ最後の機会を。奇跡は求めない。常にわたしは為せる限り
を。

「どこ迄も貴女は他人の事ばかり考えて…」

 香耶さんはなぜか少し困った様な表情を。
 艶やかなショートの黒髪を微かに揺らせ。

「……貴女には逢いたくなかったの。貴女の噂は耳に入っていたから。甘く優しく美しい、
人に己を尽くす事を好む少女。人の幸せを望み願い、人の涙や困難を捨て置けない。愛も
情も深すぎて、男女問わず心惑わす魅惑的な女の子。そして今の夫の初恋の女の一人娘」

 真沙美さんとも中々打ち解け合えなかった。
 どうしても彼女の後ろに前妻の姿が視える。

 貴女には更に濃く貴女の母の残像が視える。
 指弾されている錯覚がして後ろめたかった。

 貴女達の母は彼を愛した女達よ。私の様にこの家に入る為に、彼を愛した訳じゃない…。

 私の使命は貴女と分り合う事でなかったし。
 鴨川と羽藤の断絶は、良い隔てだったのに。

 貴女は遂にそれも乗り越えてきてしまって。
 私との心の隔ても繋いでしまう積りなのね。

 香耶さんの力の抜けた声に、わたしは肯定も否定も返さず、自身の想いを述べて伝える。

「人には1人1人、今に至る迄の事情や縛りや背景があります。誰とでも仲良くなるのは
難しい。でも、譲れない物は譲れないとして、それ以外の面で心通わせ合えるなら。香耶
さんは優しく強く、賢く美しい女性です。わたしが学び倣いたい事は多いですし、わたし
が香耶さんの力になれる事も、多少はあると」

 互いを分り合うのは、味方にする場合も敵に回す場合も、決して損ではないと思います。

「事情の許す限り、わたしは香耶さんをたいせつに想い、その幸せの為に尽くしたい…」

 不束者ですが、よろしくお願い致します。
 香耶さんに、この答は想定外だったのか。

 美しい瞳を見開いて暫く息を呑んだ後で。
 すっと立ち上がると元来の怜悧さを戻し。

「もう少し夫の事をお願い。こんな私も今は妻として、彼を心から愛しているのだから」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 陽が沈み周囲は薄闇に包まれ。昼食は口を付けないのも悪いので、少し頂き。平さんに
握られた手を放さずずっと添い続け。臣人さんや香耶さんも、真人君のお世話や夕飯作り
で場を外し。寝室はわたし独りになっていた。

 わたしから見て、正面方向の襖を開け放ち。
 豪奢にカールした長い黒髪の、麗しい人が。
 帰着してくれた。彼の間際に、間に合えた。

「漸くこの家に上がってくれたんだね柚明」

 真沙美さんはわたしより背が高く怒り肩で。
 ウエストは細いけど胸が大きく大人っぽく。
 肌身に抱き留められると柔らかで心地良く。

「有り難う、柚明。父さんを助けてくれて」

 有無を言わさぬ気迫で強く抱き留められて。
 その侭唇も合わせそうな程に頬摺り合わせ。
 瞳から溢れた滴が互いの頬を濡らして繋ぐ。

「真沙美ちゃ……あ」「賢也君こんばんは」

 真沙美さんの後方、開いた入口に賢也君が見えた。平さんの弟・等さんが、最終列車で
着いた真沙美さんを、家族共々車に乗せて来た様で。夜に至り一日の仕事を終え、近在の
家の人も事情を知って、続々参集しつつあり。

 女の子同士の緊密な抱擁は、幾度も噂されてきた関係の故に、衆目に晒すのは拙いけど。
賢也君は外からすっと襖を閉じて。わたし達を少しの間、平さんの前で2人にしてくれて。

 暫くの後、平さんの眠る寝室に鴨川の人達とわたしが揃っていた。臣人さん、香耶さん、
真沙美さん、等さん、等さんの奥さんの明子さん、賢也君。その他の人達は寝室に入りき
れないと、別室で待機して貰い。平さんは少し前に、真沙美さんの声で意識を戻していた。

「済まない……こんな時に、倒れるなんて」
「父さんっ……」「平よ……」「あなた…」

 平さんは握った侭だったわたしの手を外し。
 わたしは彼の傍を臣人さんに譲って下がり。

「夢を、見ていた。遠い昔の届かない幻を」

 それはお母さんと過ごした日々、雛乃さんと過ごした日々。香耶さんと過ごした日々…。

 その瞳は間近を見ず、虚ろに遠くを眺めて。
 見憶えがある。それはおばあさんの最期に。

「父さん、申し訳ない。僕は、貴男を裏切っていた。○○○と離別し羽藤と断絶したけど、
僕は等や沢尻さんに頼んで、羽藤に生計の途を残して来た。父さんの方針に反していた」

 父さんが言う通り、鴨川に羽藤を支えて双方保たせる財力はない。祖父の様に羽藤を支
えれば先に鴨川が潰れる。だから父さんの鴨川の立て直しに僕も協力してきた。まず鴨川
が自立する事が大事という、父さんは正しい。

 でも羽藤を見捨てる事は出来なくて。○○○の家が衰え傾く様を、捨て置く事は出来ず。
彼女の家も保つ様に、生計の途を残してきた。僕は羽藤も祖父も憎めなくて断ち切れなく
て。

「それで等にも迷惑を掛けた。生きている間に謝っておきたかった。真沙美にも香耶にも。
僕は良い父でも夫でもなかったと思う。雛乃にはゆっくり謝ろう。柚明、君にも父親風を
吹かせた口を利いて済まなかった。君の母を泣かせ傷つけたこの僕が、どの面下げてと思
いつつ。君は危なっかしくて捨て置けず…」

「お前は……儂を憎んで、おらぬのか…?」

 臣人さんの驚愕は、誰より最も大きくて。

 臣人さんの人生の推力は、それ迄に蓄積した憤懣だった。羽藤と羽藤を助け続けた先々
代・継久さんを憎む彼は、その反対を行く事に血眼になって。故に彼は人生の終盤に至り、
己も継久さんの様に最期に全てを覆されると怖れ怯え。お母さんと離別して羽藤と絶縁し、
言われる侭に雛乃さん、その死後は香耶さんと結婚し、従い続ける平さんに彼は怯え怖れ。

 その日が来る事を怖れつつ、今更謝る事も引き返す事も出来ず。従順さの奥に憎悪を宿
すに違いないと、過去の自らを思い返しつつ。その全てがこの瞬間消失した。平さんは既
に臣人さんに反していたという以上に、最期迄憎悪も恨みもなく。ごめんなさいと穏やか
に。

「柚明や真沙美の受け売りですけどね。鴨川臣人は、鴨川平のたいせつな人です。裏切っ
た事は申し訳ないけど。悔しい事や哀しい事はあったけど。その上でたいせつな父です」

 鴨川継久がたいせつな祖父であった様に。
 平さんは臣人さんの握る右手を握り返し。

「ずっと有り難う。先に逝く不幸を、ごめんなさい」「……この、大馬鹿者がっ……!」

 臣人さんが言葉を詰まらせるのに。平さんはしがらみから解き放たれた聡明さで静かに。

「僕の死後は羽藤との断絶を解いて下さい。
 近在の家々には、父さんより僕が羽藤を強く嫌っている印象になっています。僕の死は
良いきっかけになる。羽藤も代替りしました。
 明言して仲を繋ぎ直さなくて良いから…」

 平さんの気遣う言葉でわたしも漸く悟れた。
 臣人さんは笑子おばあさんを愛していたと。

『羽藤の家を潰し笑子おばあさんを鴨川に迎えて養おうと。2つの家を保たせられぬなら、
羽藤を家ごと鴨川に迎える積りで。羽藤の家を憎みつつ、笑子おばあさんを愛してしまい。
継久さんへの憤怒から手法は正反対だけど』

 平さんがお母さんを愛した様に。臣人さんも笑子おばあさんを好いたけど、届かなくて。
でもずっと気に掛け続けて。羽藤への執着は、一面笑子おばあさんへの拘りでもあったの
か。何と不器用に入り組んだ、熱く哀しい想い…。

 平さんはそれに気付いていた。察していた。もう充分でしょうと。笑子おばあさんが逝
き、羽藤を潰す目的も消失した。後は臣人さんの心の整理だけ。平さんはおばあさんが逝
去した年の初めから、断絶の終りを模索し始めて。

 自身の思わぬ急変で先を導けなくなった今、彼は自身の死を和解のきっかけに供したい
と。自身が羽藤嫌いの悪役を担う気だ。この人はずっと今迄、父や祖父や羽藤を全部想い
続け。

「真沙美……鴨川の家はずっと、羽藤を愛し続けてきた。愛するが故に近づいて、傷つけ
てしまうけど。それでも関らずに居られない。放っておく事が出来なかったんだ。それが
夜空の月に惚れて、手を伸ばす無謀な行いでも。祖父も笑子さんのお母さんを、好いて叶
わなかったと聞いた。その羽藤の田畑を安く売り払う役を担わされた祖父は、辛かったろ
う」

 その贖罪意識が、罪悪感が羽藤への必死の資金援助に繋り、臣人さんの憤怒に繋ったと。
誰も悪い人などいない。誰もがみんな、その時々のたいせつな物を守りたくて必死だった。

「執事の家系だからじゃない。偶然でもない。
 鴨川は羽藤を支え守りたく想う家柄だから。

 祖父も父さんも僕もずっとそうだった様に。
 お前もしっかり鴨川の血筋を受け継いで」

 三代が届かなかった羽藤との絆を、断絶を繋ぎ直してくれたのは、真沙美、お前だった。
叶うなら、真人も羽藤の次代と、深く絆を…。

「等、賢也と明子さんの居るお前には済まないが、時々本家も気にして欲しい。最期迄頼
み事ばかりだな。我が侭な兄貴で済まない」

 平さんは苦しい息でも不思議な程穏やかに。
 臣人さんと香耶さんにも言葉を遺し最後に。

「真沙美、お前はしっかり研鑽を積んで、自由を手に入れると良い。経済的な自由以上に、
憎しみや縛りからも解き放たれた真の自由を。お前は羽藤と鴨川の因縁を、乗り越えられ
た。負の連鎖は僕の代で終らせる。お前の代には真っ白な未来を希望を可能性を、遺した
い」

「父さん……。私は、貴男を祖父さんの言いなりに、柚明の母さんを捨てた臆病者と……。
憎しみを抱いても怯えてまともに言い出せず、最期の瞬間を待っている物とばかりっ
…!」

 ごめんなさい。私も何も分っていなかった。
 父さんの気持を考えず。問いもせず勝手に。
 己の中で作り上げた像を蔑み、憎んでいた。

 人の心に分け入らず、人の心を受け容れず。
 私が愚かでした。浅はかで、狭量でしたっ。
 美しい瞳を溢れさせ。悔恨を込めた嗚咽に、

「それはお前の心に届く言葉を持てなかった僕の咎だ。お前は何も悪くない。真沙美は清
く正しく美しい、自慢の娘だ」「父さんっ」

 最期になって分るなんて。悟れるなんて。
 今迄の拾数年、私は一体何を見て生きて。

 何も分らずに、逝かせてしまう所だった。
 終生誤解を、抱き続けてしまう処だった。

『柚明が居てくれたお陰で漸く辿り着けた』

 父の頬に頬寄せて滴を零す真沙美さんを。
 平さんは静かに受け止めた後でわたしへ。

「君には、感謝している。真沙美を暴漢から守って貰えただけじゃない。その心迄も救っ
てくれて。真沙美は元々賢い娘だが、君に逢えて更に花開いた。僕も何度か眼開かされた。

 ……真沙美は強く賢く優しい娘だが、人を心配させまいとする余り、傷を隠し痛みを溜
め込む処がある。君にもその傾向は窺えるが。暫くの間、賢也と君に真沙美を頼みたい
…」

 実母に続き実父を喪う真沙美さんの悲痛を。
 受け止めるべきは彼氏の賢也君とわたしだ。

「それはわたしが願う事です」「そ、そう」

 気持を巧く言葉に出せない賢也君を主導し。
 わたしは自身にもその承諾を浸透させつつ。

「鴨川真沙美は、羽藤柚明のたいせつな人。
 清く正しく美しく、強く賢く愛しいひと。

 真沙美さんをたいせつに想う人の願いは。
 真沙美さんがたいせつに想う人の願いは。

 心から叶えたいわたしのたいせつな願い」

 力にならせて下さい。身も心も尽くさせて。
 そして、鴨川平は羽藤柚明のたいせつな人。

「……わたしの、もう1人のお父さん…!」

 断絶も、時の果てに潰え去ろうとしていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 夜半に再度訪れた医師や看護師が、検査や点滴の取替を一通り終えた後。今夜は泊り込
むと香耶さんに客間へ案内されて。再び触れようと伸ばした癒しの手を、平さんは謝絶し。

「君には真沙美を頼んだ筈だ。僕が助からないのは分っている。これ以上、助からない物
に総力を注いで、助けられる物を取り零しても、君が悔いを残すだけだ。真沙美が帰る迄、
保たせてくれたので充分だ。……有り難う」

 君が居てくれなければ、僕の想いを父さんにも等にも香耶にも真沙美にも、伝える事が
叶わなかった。君のお陰だ。君は祖父迄含めた鴨川の断絶を繋ぎ直してくれた。君にも君
の母にも祖母にも、散々な事を為した鴨川が。その果てに挙って君に心繋がれ救われると
は。君が羽藤との断絶を繋ぎ直してくれるとは…。

「わたしは殆ど何も為せてなんか居ません。
 鴨川の想いを繋ぎ続けたのは平さんです。
 両家の断絶を繋ぎ直したのも平さんです。

 羽藤もお母さんもわたしも大事に想ってくれて。わたしはその愛に何も応えられずに」

「目の前にいてくれた事が、報いだったよ」

 本当に君は○○○に生き写しで。静かに賢く優しく甘く柔らかく、危うい程に情愛深く。
君が真沙美と心を通わせる様が、見ていて嬉しく愉しく。一緒に微笑み合う様が好ましく。
錯覚でも幻でも青春を思い起こさせてくれた。君の母とあの様に語り笑い合った遠い日々
を。

 ああ、こんな時になんて爽やかな笑みを。
 その視線は心は夢心地に、彼岸を見つめ。

 最早わたしには逢う事の叶わない人影を。
 懐かしそうに脳裏に浮べて、瞳を潤ませ。

「有り難う、あやめ。柚明を遺してくれて。
 有り難う、雛乃。真沙美を遺してくれて」

 その直後に平さんは昏睡に陥ってしまい。
 明子さんが慌てて医師を呼び戻したけど。

 この侭暫く小康状態が続くと診断されて。
 最早わたし達に為せる事は残っていない。

「夜も遅い。今夜だけは泊る事も許そう…」

 沢尻や佐々木や杉浦や新田や、近在から参集してきた人達の前で。臣人さんは、みんな
には急変があれば呼ぶから帰る様にと告げて、等さん一家とわたしに今宵は泊る様にと告
げ。

 残った面々で遅い夕食を。昼に出されたおにぎりを囓った位で、1日殆ど何も食してな
かったけど食欲はなく。でも実父の最期を間際に控えた真沙美さんを前に、わたしが萎れ
るのは失礼なので。極力平常を装い、真沙美さんに食を促しつつ、己も常の半分位は食べ。

 皿洗いを一緒したいと申し出て、断られた。香耶さんは門前払いではなく応対に惑う感
じ。臣人さんは夕食でも一言も発さず、食後は独りで平さんに添い。この侭断絶を続ける
のか、断絶を止めるのか、意図を窺いがたい感触で。余人に判断は下せないと。等さんが、
香耶さんと明子さんで洗うから、真沙美さんとわたしはお風呂で、疲れと汚れを拭う様に
と勧め。

 そう言う状態なら、お風呂も一緒は望めず。羽藤の家に今宵の泊りを報告して後。真沙
美さんが上がるのを待ってわたしが入り。夜着は真沙美さんのを借りる事が、許されたけ
ど。

「鴨川も旧家だから部屋は余っている。手狭な想いはさせないから、安心して欲しい…」

 お客様扱いは余り好まないけど。羽藤柚明は色々な噂を纏わせている。家の断絶がなく
ても、特に好意的でなければ忌避して当然か。わたしと真沙美さんの仲は色々噂も招いた
し、鴨川の屋敷に羽藤が上がっただけで更に噂を呼ぶ。大人が判断を下すなら、これが穏
当か。

 真沙美さんも平さんの昏睡以降言葉少なで。
 わたしは客間の1つを宛がわれる事になり。

 午前0時近くに医師が小康状態を確かめて。
 今宵は休もうと全員寝室に引き上げる事に。

「子供の頃は真沙美ちゃんと同じ部屋で夜も過ごしたんだけど、今は年頃の女の子だし」

 賢也君はわたしに歩み寄ってきて小声で。

「羽藤も知っているだろ。経観塚高校の校則では不純異性交遊は禁止なんだ。異性間は」

 真沙美さんに正規に告白し恋人関係を繋ぎ、双方の両親に公認された賢也君が、不純な
のかに疑義はあるけど。彼は自分が今宵彼女を訪ねる事はしないとわざわざ伝えに。それ
はわたしのみならず真沙美さんにも伝達済みで。

 最近妙に賢也君は、気配りが巧いと言うか懐深いというか。頼れる男の子になって来て。

「間近に格好の、生きた教本が居るから…」

 さらりと応え、彼は己の寝室に引き上げて。

 月明り照す薄闇の中、独り眠らずにいると。
 静かな足音と気配が廊下を歩み寄ってきて。

 部屋の襖を静かに開く音と共に微かな声が。

「……柚明、起きている?」「……ええ…」

 蒼光は心を洗う様に照す様に清らかだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしが彼女を訪ねる訳には行かなかった。

 ここが鴨川の家だからではなく。拒まれる怖れや、家の人に見つかる怖れ以上に。真沙
美さんを一番にも二番にも出来ないわたしが、ここで自ら彼女に踏み込む事は余りに罪深
い。

 ここは和泉さんの家ではなく、その抑制もない。肌身合わせれば真沙美さんは、今迄に
蓄積された隔ての全てを乗り越えてくる。為されるわたしに悔いはないけど、愛する己に
迷いはないけど。わたしと彼女は今宵、互いの身に初めてを刻み合う事になるのだろうか。

 でも彼女がその意志でわたしを訪れるなら。

「ようこそ、真沙美さん……どうぞ入って」

 彼女の人生に、未来に責任を持てないわたしが、彼女の後々に爪痕を残すかも知れない。
一番に想われても、一番の想いを返す事の叶わないわたしが、そこ迄踏み込んで良いのか。
真沙美さんの望みは分っている。でも彼女を生涯一番に愛し守る事の叶わないわたしに…。

 でも迎えるわたしに拒む意志は欠片もなく。
 入り来る彼女には最早迷いも躊躇いもなく。

「柚明……寒いんだ、心が。……暖めて…」

 向き合って話す事などしない。黒髪の艶やかな人を、己の温もりの残る布団に招き入れ。
桂ちゃん白花ちゃんに寝物語する時の様に穏やかに迎え。真沙美さんは布団に入るなり震
える身で強く絡みつき。この首筋に頬寄せて。

 触れ合う肉の感触と肌触りが互いの存在を確かめさせてくれる。シャンプーや石鹸の香
りが心地良い。深い息遣いに動く胸が愛しい。背に回る細腕が、絶対に放さないと強く絡
み。

 それは肉親の最期を間近に控えた強い怯え。父の死のみならず、人の生命の儚さに、己
や己が愛した人の有限さに抱く、拭えない怖れ。何もかも時の彼方に消して行く摩耗への
怖れ。

「父さんが、父さんが、死んでしまうっ…」

 こうなって初めて分った。私が見下し嫌いつつ、ずっと父さんに心を支えられていたと。
私は柚明が危難を承知で助けに来てくれる迄、柚明をこれ程愛していると気付けない愚か
者だったけど。父さんにもそうだった。深く愛されていたのに、強く想われていたのに私
は。

「こうなる迄、父さんの立場も気持も考えた事がなかった。柚明がどうして父さんに優し
く甘いのか分らずに、分ろうとせずに。祖父さんの気持も、ひい祖父さんの気持も顧みず。

 柚明が居てくれたから、漸く間に合えた。
 柚明が居てくれたから最期でも心繋げた。

 祖父さんも父さんも、私もみんな柚明に。
 酷い事を為し続けた羽藤に揃って救われ。

 父さんは全てを愛し庇い守っていた。誰に何をどう思われても、結果さえ残ればいいと。
まさしくあんたの在り方だ。私は間近で肌身にそれに接して、何も気付けてなかった!」

 寒い、寒い、心が寒い。自分は何て愚かしい女だ。ずっと恵まれ続けていたのに。この
天恵を、今迄感じ取れなかった事が、人生の中で一番悔しい。もっと感謝を伝えておけば。
もっと暖かく接しておけば。間に合えたけど、柚明のお陰で最期に漸く間に合えたけどで
も。

「私を愛してくれた人は、どんどん手の届かない処にいってしまう。母さんも、父さんも。
柚明はいつ迄も居てくれる? 経観塚に帰って来たらお帰りって迎えてくれる? 私は」

 なんて自分勝手な事を。柚明もその内好いて惚れた人が出来れば、どこかに移り住む事
もあると分っていて。最初から一番にも二番にもなれないと、承知で始めた繋りなのに…。

 でもその言葉に反し両腕は、わたしの背中を締め上げて。わたしの胸元に深く頬を埋め。

「怖い……終りを間近に見てしまう事が怖い。人の生命にも、親子の縁にも終りの時が来
る。そんな事は分っていたけど、百も千も承知で居た筈だけど、……何も分っていなかっ
た」

 私は柚明も喪うの? いつか別れ別れになるの? ううん、明日明後日、私が関東に青
城に戻ってしまえば、冬迄逢いに来られない。その間に柚明は私を忘れてしまわない? 
絆解けてしまわない? いつ迄も、いつ迄もあり続けると想っていた父さんは、居なくな
ろうとしている。柚明も、柚明もそうしていつも強く穏やかに微笑んでくれるけど、でも
…。

「喪うのが怖い。手放すのが怖い。手の内に握った幸せが、遠ざかってしまうのが怖い」

 真沙美さんは時の流れを怖れている。愛も憎悪も生命も絆も全て押し流す、留められぬ
時の奔流を、平さんの死を前にして実感して。

『私、怖い……。今が満たされているから』

 かつて3人褥を共にした和泉さんの部屋で、

『幸せだからこれからが怖い。得た物は必ず失う、始った物は必ず終る、満ちた物は必ず
欠ける。今が一番嬉しい私は、この後の喪失ばかりが気に掛って怖い。繋いだ絆が薄れゆ
く月日が怖い。今こそ時が止まって欲しい』

『心は変る。恋は冷める。想いは褪せる…』

 女の子同士の絆とは儚さの最たる物かも。
 後に何一つ残せる物とてないこの関りは。

『確かに形のある物に縋り付かないと、身の震えが止まらない。柚明の温もりと肌触りが、
漸く私の怯えを抑えてくれる。それでも一瞬一瞬、過ぎ行く時間に今の幸せが消費されて、
徐々に終りへ向っていきそうで、怖いの…』

 だから真沙美さんは今宵、かつてなかった程強く激しくわたしを求め。肌触りで肉感で
息遣いで汗で涙で、互いの愛欲を感じ合って。女の子を破る積りも破られる積りもないけ
ど、それに気を使えない程今宵の絡みは荒々しく。

『本当に怖いのは、和泉や柚明に忘れられる事じゃない。あんた達の想いが薄れて絆が解
れる事じゃない。私が日々に流され柚明や和泉を見失う時が怖い。自分を信用できない…。

 鴨川は裏切り者の家だから。柚明の家を何度も奪っただけじゃなく、自分の家でさえ』

「鴨川は裏切り者じゃなかった。諸々の事柄にはやむを得ない事情があったわ。そして」

 わたしは何度裏切られても、大丈夫だよ。

「そうせざるを得ない時は、裏切っても良い。わたしは、受け容れて嫌わない。その上
で」

 わたしは誰かを守れる人になりたい。誰かの役に立てる人になりたい。たいせつな誰か
が哀しみ嘆く様は見たくない。だからわたしは例え何度裏切られても、助けを求められた
ら必ず応えたい。その幸せに身を尽くしたい。

『人の行いや想いが、置かれた状況や立場で変る様を私は何度も見てきた。愛する対象を
どんどん乗り換えていけるんだよ、人間は』

「あなたのお父さんはわたしのお母さんをずっと想いつつ、真沙美さんのお母さんを終生
愛し続けた。わたしを気遣いつつ、生涯あなたを大事に想っていた。香耶さんや真人君を
深く愛しつつ、あなたを忘れはしなかった」

 あなたのお祖父さん・臣人さんも、笑子おばあさんを終生想い続けていた。形は歪んで
しまったけど、遂に想いは届かなかったけど。時の流れの果てにも摩耗しない想いはある
わ。

「そして激しすぎる時の流れの果てに、仮にあなたが想いを見失っても。何も怖れる必要
はない。わたしがあなたを忘れない。わたしはあなたが今胸に抱く真の想いを憶え続ける。
この絆を、この夜を。この愛しさ恋しさを」

 わたしは今もお父さんとお母さんを心から好き。変らずに好き。いつ迄も好き。そのお
腹にいた弟も妹も。サクヤさんも桂ちゃん白花ちゃんも、真沙美さんもいつ迄も愛おしい。

「本当に……私を見失わないで居てくれる?
 本当に……私の想いを憶えていてくれる?

 一番は望まない。私の望みはあなたの幸せ。あなたが一番の人に想いを届かせ結ばれる
事が私の願い。それは最初から承知だったから。でもあなたの心の片隅でも、何番目でも
良いから、その胸の内に鴨川真沙美の居所を…」

 その侭この胸の内に潜りたいという感じで。
 涙に濡れた頬を唇を何度も強く擦りつけて。

 自身に刷り込ませ、わたしにも刷り込ませ。
 お互いに、無尽蔵の愛を奪い合い与え合う。

 今宵をわたしは逃げ込む想い出にではなく。
 明日に臨む為の足場たる想い出とする為に。

「逢えない事は不幸せじゃない。哀しくても辛くても打ち拉がれても幸せは感じ取れる」

 一緒に暮らせなくても、足繁く通い合えなくても、たいせつに想う事は叶う。日々の幸
せを見つめられなくても、毎日を共にできなくても、その人の幸せを願い愛する事は叶う。
例えその当人に忘れ去られる日が来ようとも。

「わたしは真沙美さんに今宵愛された事が幸せ。愛を返せて、愛を受けてくれた事が幸せ。
あなたを常に、この胸に想い抱ける事が幸せ。一番の想いを返せない事だけは申し訳ない
と想うけど。わたしは常にわたしの精一杯を」

 本当に怖いのは、想いを返されなくなる事じゃなく、想いを抱けなくなる事だ。でもそ
の怖れは拭い去れる。その怯えは克服できる。返されるかどうか別として、想いを抱くだ
けなら最期の最期迄叶うから。己の意志だから。

 美しい女の子は、肌身合わせた侭頷いて、

「私も今夜を決して忘れない。今ここで繋いだ想いは絶対なくさない。いつ迄も柚明は私
の一番惚れた、凛々しく愛しく恋しい乙女」

 だから忘れない為に貴女を強く刻ませて。
 羽藤柚明を鴨川真沙美の、身にも心にも。

 例え今宵が人生最後になっても、何年経ってもどこにいても、必ず熱く思い返せる様に。

 その願いにわたしは、静かに頷き繋って。
 涙は哀しみの故ではなく、嬉しさの故に。

 わたしは求められている。心から必要とされている。たいせつな人に、特別に愛しい人
に欲されている。それが何よりも嬉しかった。いつ迄も肌身繋げていたい。この侭悠久に
離れたくない。今こそ時が止まってくれたなら。

 限られた時を、噛み締めて。一呼吸一呼吸に気力を込めて。瞬く間に過ぎ去る、甘い時。
後で振り返れば、わたし達の出逢いも青春も何もかも、この夜の様に短く儚い物で、後に
は刻まれた記憶にしか、残らないのだろうか。

 でもしかし。否、逆にそうであればこそ。

 襖の向こうに香耶さんの気配を感じても。
 わたしは真沙美さんとの愛に全てを注ぎ。

「有り難う、柚明。私は今、本当に幸せ…」
「良かった。あなたに心から喜んで貰えて」

 襖の影から動き出す様子もなかったので。
 わたしも今この時を強く確かに己に刻む。

 後から幾度振り返っても、思い返せる様に。思い出せない程心が摩耗し、果てしなく長
い時が過ぎ去り、振り返れぬ程遠ざかった果ての末にも、素晴らしかったと応えられる様
に。全て失った絶望の闇の淵でも尚光抱ける様に。

「今宵を最高に甘く愛しいわたし達の時に」

 平さんが亡くなったのは翌早朝の事だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 臣人さんはわたしの葬儀への参列を許してくれた。羽藤との断絶を即止めはしないけど。
笑子おばあさんの葬儀に、真沙美さんが個人として参列した例に触れ。羽藤とは別にわた
しは良いと。他の人を前にした場でも、時折ふっと気力の抜ける様子が、心配だったけど。

 真沙美さんは気丈に己を保っていたけど。
 張り詰めた悲哀が見ているだけで切なく。

 寄り添って慰めたかったけど葬儀の間は。
 故人の親族と参列者は長く一緒も出来ず。

 羽藤に隔意を隠さない近在の家々の大人達の中で。等さんも明子さんも忙しくてわたし
を気遣う余裕はなく。それとなく引っ掛けて来る足を躱したり、ぶつかってくる肩を躱す
位は問題ないけど。囁かれる噂は沢尻夫妻の。

 倒れて絶対安静な平さんを、わたしが鴨川の屋敷迄運び込んだ為に、生命を縮めたとか。
臣人さん達に色仕掛けを試みて失敗したとか。酷い噂はわたしの行動に便乗して尚も流さ
れ。

「正義さん雪枝さん、こんにちは」「…!」

 わたしは自ら歩み寄り。振り返る沢尻夫妻とその語りに耳傾けていた大人達に会釈して。

「お2人が絶対安静な平さんを、わたしが動かさないでとお願いしたのに、運び出して彼
の生命を縮めてしまった。その手を止められなかった事を、わたしは生涯悔い続けます」

 夫妻がたった今喋った事と、反対の内容を強く堂々と響かせて。2人の瞳を見つめると、
2人とも後ろめたさに視線を逸らし後ずさり。公正に物事を見れる人には、それでどちら
が真実を語っているかは、一目瞭然に分る筈だ。そうでない人にはわたしが注げる言葉は
ない。

「でもその上で、わたしはお二人をたいせつに想い続けます。沢尻正義さんと沢尻雪枝さ
んは、羽藤柚明のたいせつな人。わたしの大事な博人君のご両親で、同じ羽様に住んで助
け合う地域の仲間。わたしの願いは、同じ過ちを繰り返さないで欲しい、それだけです」

 和泉さんや杉浦先輩達も、緊迫して見守ってくれたけど。わたしは沢尻夫妻を糾弾した
い訳ではない。誹謗中傷は、繋ってくれる人の禍としない為に否定するけど。この噂の発
祥も彼らではない。彼らは羽藤への敵意に踊らされ、ある人物の意図に煽られているだけ。

 過ぎた事は取り返せない。それより今後の過ちを防ぐ事に力点を。しっかり諭して改善
を促すには、断絶ではなく仲を繋ぎ続ける事が必須で。己の願いが届かなかった悔しさは、
変え得ぬ結果が出た後で、独り涙すれば良い。

「貴女は本当に、癪に障る程心が強いのね」

 葬儀で忙しい筈の香耶さんが、わたしに2人きりの話しを望んで。わたしの噂に続いて
大人達は、夫を失った若い香耶さんが、鴨川に留まるか実家に帰るかを、噂していたけど。
結論は視通せていた。彼女の使命は尚未完だ。

 招きに従い、母屋と別に建つ古い蔵に入り。
 薄暗がりで、やや背の高い美人に向き合い。

「貴女、逢う前から分っていたみたいね?」

 香耶さんの隠さず問うてくる涼やかな瞳に。
 わたしも装う必要は消失したので頷き返し。

「はい。あなたが若杉の監視役と言う事は」
「千羽……今は羽藤真弓専門の、監視役よ」

 わたしが羽様に移り住み、真弓さんが羽藤に嫁いだ年の冬、雛乃さんは逝去して。臣人
さんが後継男子を望み、平さんの後添えを求めた事は、若杉には願ってもない天佑だった。

 近在の家々は羽藤の動きを噂で語り。沢尻は羽藤に入り込み、その内情を臣人さんや平
さんに流す。自ら動いて察知される危険なく、何ら不自然な工作も不要に羽藤家を見張れ
る。

「当代最強の鬼切り役といえども。数キロ離れて交流もない家の後妻が、何の動きもなく
噂話を聞いているだけでは。よもや監視されているとは気付けまい、と思っていたけど」

「去年気付けたので、真弓さん達には伝えてありました。それで特に問題なかったので」

 今迄動かなかっただけ。それはお互い様。

「確かに。私の使命は真弓が不穏な動きを見せたら伝えるだけで、真弓の打倒でも抹殺で
も妨害でもない。真弓が平穏に日々を過ごす限り、何の問題も障りもない。お互いに…」

 貴女、賢く甘い優しい以上に図太いのね。

 若杉の密偵の正体を明かす香耶さんの前で、尚平静に柔らかなわたしへのそれは褒め言
葉。

 わたしが今日香耶さんの求めに応じたのは。彼女の正体を知って尚、敵対する気はない
と伝えたかった。真弓さんは羽様で幼い双子や正樹さんと営む平穏な生活が望み。香耶さ
んも夫との愛の結晶を育んで羽様で生きて行く。

 真弓さんに非常時が訪れない限り、香耶さんにも非常時は訪れない。わたし達の利害は
衝突しない。わたしが香耶さんの所作を妨げ食い止める時は来ない。お互い譲れない物は
あるけど、その上で心繋ぐ事も無理ではない。

 そして香耶さんに更に、伝えるべき事は、

「若木さんが一身上の都合で、事務員を辞めると聞きました。……有り難うございます」

「私は何も、貴女を庇う証言や葛子に不利な申告を為した積りはなくてよ。唯積極的に葛
子を庇いに動かなかっただけで。使命に忠実に己が掴んだ情報を、その侭伝達しただけで。
それが葛子に有利に働いたか不利に働いたかさえ分らない。感謝されるには値しないわ」

 と言うより、貴女やはり分っていたのね。

「若木葛子が浅間サクヤに関り続ける羽藤の家を監視する、若杉の要員だったって事を」

 やや警戒気味な彼女にわたしは黙して頷き。
 若木さんこそ元々若杉の羽藤監視員だった。

 若杉はサクヤさんの関係で、真弓さんが嫁ぐ前から、半世紀前から羽藤を笑子おばあさ
んを監視していた。今その担当が若木さんで。

 香耶さんは、真弓さんの一件があって別系統から追加補強された、真弓さん専門の監視
役で。故に若木さんと直接の上下関係はなく。

 引っ掛りは感じていた。若木さんは3年前経観塚に移住して、地元採用が原則の銀座通
中の事務員に応募した。住処を変えて望む程の職ではない。生活の糧よりも、経観塚や銀
座通中への拘りを感じた。県議のコネと噂を聞いたけど。その更に裏に若杉が居たのかも。

 教員ではないとわたしに直接関る事を避け。
 気付かれぬ様に影で羽藤に関る情報を集め。

 でもそれは今迄特段害にならなかったから。
 今回の噂を流される迄わたしも敢て触れず。

 羽藤の異常なしが伝わればそれで良かった。
 問題は夏休み前、そこに異変が生じた事で。

 彼女はなぜか大野教諭との一件を噂に流し、羽藤柚明を貶めようと。夏休み明け噂の源
を辿れた段階で、わたしは正樹さん達に相談し。2人は先生達と密かに連携し、彼女の所
作の証拠を掴んで解雇を求め。相手が何者でもわたしに害為す者は許せないと。迷惑や心
配を掛け続けたわたしに、そこ迄して貰えるとは。

 裏に若杉が居ても、否、居ればこそ。若杉が居るとの理由で解雇を阻む事は自滅行為だ。
若杉が余計な処に理不尽に挟まっていると晒されるだけ。故に正当な理由があって手続を
経れば。教員でもない彼女は、校長権限で解雇出来る。懲戒免職しなかったのは『何もな
かった』羽藤柚明の真相を、噂に流した罪状が『存在しない』筈だから。形だけは辞職で。

 彼女は噂の源を辿られると思ってもおらず。
 若杉が背後にいれば何をしても安泰と侮り。

 証拠を挙げられ追及されて漸く愕然として。
 必死に処分を覆そうと試みたけど叶わずに。

 職務と無関係な、女の子を貶める噂を広めて自滅した。それは若杉の知る処ではないと。
香耶さんも町を席捲する酷い噂を、淡々と伝えて職責を果たすのみで。同僚を積極的に庇
う動きに出ず。若木さんは来週職を解かれる。

「葛子の支援が、私の使命に入ってなかっただけよ。葛子は私の上司でも部下でもないわ。
その蹉跌や遅滞は私の使命遂行には響かない。下手に動けば葛子との繋りから私の正体が
晒される。結局貴女には悟られてしまったけど。別に貴女の為に何か動いた訳ではないわ
…」

 勘違いしないでと冷淡に語る香耶さんに。
 わたしがお礼を言いたかったのと応えて。

 続けてわたしは彼女の誘いに応じた本題を。
 わたしが香耶さんに伝えたい内容があった。

「わたしはこの真相を、真沙美さんや臣人さんに伝える積りはありません。香耶さんが平
さんの奥さんで、真沙美さんの母である事に違いはないから。始りがどうでも平さんと心
繋いだ事は確かだから。真人君の母だから」

 鴨川香耶は、羽藤柚明のたいせつな人です。
 その日々に、憂いを差し挟む事は望まない。
 わたしで役立てる事があれば、尽力したい。

「これからも、末永く宜しくお願いします」
「……監視対象から宜しくなんて前代未聞」

 呆れた中にも微かに嬉しそうな笑みを浮べ。

「このやり取りも伝えさせて頂くわ。私の失態と取られる怖れは高いけど、貴女のその太
平楽に図太く甘くしたたかな性分は、通報に値する。その結果上部がどう判断するかには、
責任は持てないけど」「承知しました。では、序でにわたしの言葉も若杉に伝えて下さ
い」

「貴女まさか、話に応じたのはこの為に?」

「漸くわたしも、若杉に声を届かせる事が叶う様になりました……香耶さんのお陰です」

 わたしも真弓さん正樹さんもサクヤさんも、人の世に仇為す積りも、若杉に敵対する意
図もない。千年そうだった様にたいせつな人への想いを紡ぎ、平穏に日々を過ごす事が望
み。

「あなた達とも良好な関係を、保ちたいの。
 敵対も断絶も、互いを傷つけ哀しませる。
 たいせつに想う人は、双方にいる筈です。

 利害や損得は調整出来る。譲れない処はあるけど。誠心誠意を尽くせば歩み寄れる処も。
若杉とサクヤさんの断絶を繋ぎ直して欲しい。その為に出来る事があるなら己を尽くしま
す。
 不束者ですが、宜しくお願い致します…」


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