第18話 ひざまくら
前回迄の経緯
幼い日、豪奢な銀の髪と豊かな肢体を持つ大人の女性のサクヤさんが、わたしと同じく、
やや小柄なお母さんや笑子おばあさんに膝枕され。心地よさそうに身を預け心を委ねる様
を見て。肌身を重ね想いを通わせる様を見て。
いつかこの強く美しい女性を、膝枕できる日が来るのかと、遙かに仰ぎ見ていたけど…。
年を経るにつれ、この人を受け止める事の重さを漸く悟れ。その深甚な孤独と悲痛に向
き合う事の大変さを肌身に感じ。でもわたしは羽藤柚明だから、サクヤさんを深く想い慕
い愛するから。羽藤の歴代がこの人に抱き受け継いで来た想いを、繋いで次代へ伝え残す。
参照 柚明前章・第一章「深く想う故の過ち」
柚明前章・第四章「たいせつなひと…」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
サクヤさんが膝枕される図を一番古く見たのは、お父さんお母さんと街のアパートで暮
らしていた頃に。お母さんと言うより、笑子おばあさんと心繋げて、羽藤とお付き合い始
ったサクヤさんだけど。嫁ぎ先へ移り住んだお母さんを気に掛けてか、娘を案じるおばあ
さんを気遣ってか。わたしが憶えている限りでも、年に何回か訪れて数日逗留してくれて。
幼かったわたしは、その馴れ初めを知らない侭、好ましい年上の女の人を、お母さんや
おばあさんのお友達として、家族の一員として受け容れて。サクヤさんも、幼いわたしに
お仕事で撮った写真を見せてくれたり、お食事やお風呂やお布団を一緒してくれたりして。
昼過ぎの陽光が柔らかに差し込む居間で。
「んぅ、気持良い」「少しの間だけですよ」
お母さんより背も高く、肩幅もあって胸も大きいサクヤさんが。絨毯に座したお母さん
の膝に頭を置いて、子犬の様に心地よさそうに目を閉じる様は、ちょっと意外だったので。
「サクヤおばさん、お母さんにひざまくら」
「○○○の膝枕は、最高に心地いいからね」
耳掃除していたのと、問う前にお母さんが説明してくれたのは。恥ずかしかったのかな。
サクヤさんも頬が少し赤いけど、離れはせず。
「○○○の耳掃除は笑子さんの次に巧いよ」
○○○と笑子さんがいなかったなら、あたしはこの世の荒波を、生きていけないかもね。
「まぁ、大げさな」「大げさじゃないさー」
あたしは耳と鼻を利かせて生きてきたんだ。
耳が詰まって聞えなくなったらお終いだし。
サクヤさんは、磨いた様なふさふさの長い銀髪を、お母さんの太腿やお腹に擦りつけて、
甘える仕草を隠す事なく見せつけ。お母さんも少しくすぐったそうだけど、拒まず微笑み。
拒まないと分っているからサクヤさんは尚も。
「本当にあんたと笑子さんが居てくれる事が、今のあたしの生きる望みなんだ。その微笑
みや感触があってくれる事がさ……あんた達が居なくなった後なんて、考えたくもない
…」
「柚明が居ますよ。わたしや母さん(おばあさん)の後にも、柚明やその子達が末永く」
この時はそのやり取りの深い意味を、知る由もなかったけど。2人の間には、わたしも
分け入れぬ程強い絆がある事と。サクヤさんが母の答に納得して頷いた事は、見て取れて。
「あぁ、そうだったねぇ……柚明もそのうち、あたしに膝枕をしてくれる様になるかね
ぇ」
『わたしがサクヤさんを膝枕してあげる…』
幼子のわたしには実感が湧かなかったけど。
その内わたしにも大人になる日が来るなら。
遠い未来にはあり得ない話しではないかも。
でも今の膝はサクヤさんの枕には小さすぎ。
わたしは時折サクヤさんに膝枕されるけど。
膝枕する側になるには少し年月が掛りそう。
「柚明の居場所を、取っちまっていたかね」
サクヤさんと視線の高さが合う様に、床に寝転んで、少し見上げる感じでいたわたしは。
ううん、と首を左右に小さく振って答えて。
わたしは2人の会話を追う事が愉しかった。
「サクヤさんならいいよ。お母さんの仲よしだし、わたしは今はひざまくら、いいから」
わたしは自分が譲る事も出来る大人だよと、背伸びして見せたい気持もあって。サクヤ
さんは本当に心地よさそうで、邪魔するのも悪く思えたし。いつでも望めばお母さんは膝
枕してくれるから、取り返す必要は感じなくて。
「そいつは有り難い。柚明の許しが貰えた」
そう言うとサクヤさんは一層のびのびお母さんの太腿に頭を委ね。大人の胸と美貌を持
つサクヤさんが甘える仕草は、見ていると奇妙な。でも見続けていると余り奇妙でもなく。
「良かったですね。柚明の許しが貰えて…」
背後から居間に入ってきたお父さんの声が。
「お母さんの膝枕が許されるのは、この世でサクヤさんとお父さんと柚明だけなんだよ」
「お父さんも、ひざまくらしてもらうの?」
「お母さんはみんなに愛されているからね」
笑顔で言われるとその通りと頷いてしまう。
わたしがお母さんを大好きな様に。お父さんもサクヤさんも、お母さんを好きなのだと。
当たり前だけど告げられて初めて分る。わたしが好きな人ならみんなが好きで当然だった。
「お母さんにも、サクヤさんや柚明が特別にたいせつな人だから、膝枕してくれるんだ」
お母さんが膝枕するのは、お母さんが好きな人だから。サクヤさんもお父さんも、わた
しも。自身が愛されていると改めて報された事は、素直に嬉しかった。その嬉しさを噛み
しめている人は、わたしの傍にもう1人いて。
「この世であたしが膝枕に身を委ねられるのは今の処、○○○と笑子さんだけだからね」
胸も大きく背も高いサクヤさんが、お母さんよりも尚小柄な笑子おばあさんに、膝枕さ
れる像を思い浮べたけど……意外とありかも。サクヤさんは大人に見えるけど、存外甘え
る姿も似合う。笑子おばあさんは誰でも包み込めそうだし。そんなことを思い考えている
と。
「柚明は未だ、膝枕して上げる事は出来ても、して貰う事は出来なさそうだね。その小さ
な膝に乗るのは申し訳ないよ……柚明が大きく豊かに育つ迄、もう暫く待たないとねぇ
…」
もうしばらく。サクヤさんの言葉に促され、思わず自分の手足を見つめる。確かにこの
小さく短い子供の手足では、未だ暫くサクヤさんの見事な肢体を、受け止められそうにな
い。
「もう暫く待てば、わたしもサクヤさんをひざまくら出来る様に、大きく豊かになる?」
「あぁ。柚明がもう少し大人になったらね」
そこへ背後からお父さんの穏やかな声が。
「もう10年も経てば、柚明もサクヤさんやお母さんの様に、優しく賢く豊かで綺麗な大人
の女になれるさ……その時には父さんも、柚明に膝枕して貰おうかな」「もう10年……」
「娘の膝枕を待ち望む父もどうかと思いますけど。誕生日を迎えて6歳の柚明では、あと
10年経っても、高校生になるかどうかですよ。未だ少し、早すぎるのではありません
か?」
お母さんが冷静な声を挟むのにお父さんは。
お母さんやわたしへの身びいきを隠さずに。
「君の娘だよ。きっと賢く愛らしく豊かな大人に育っているさ。少し気長に待てばいい」
「柚明に膝枕して貰える時が楽しみだねぇ」
サクヤさんの言葉にお母さんは微笑んで。
「それ迄はみんなで膝枕して、愛でますか」
でもわたしには、お父さんとお母さんを膝枕する時は遂に来なかった。小学3年生の夏、
肌身離さず持つ様言われていた青珠のお守りを手放して、わたしは鬼に襲われ……わたし
を守る為にお父さんもお母さんも生命を落し。
膝枕してくれる人も、してあげたい人も喪ったわたしは。経観塚に住むお母さんのお母
さん、笑子おばあさんに養われる事になった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『○○○が、○○○が死んでしまったよっ』
目を閉じた筈のわたしの脳裏に映った像は。
サクヤさんが笑子おばあさんの膝に縋って。
幼子の様に涙を流し泣きじゃくる姿だった。
『愛してくれたのに……たいせつな人だって、告げてくれたのに。幼い頃から娘の年頃か
ら、肌身を添わせて、過ごしてきたのにっ…!』
それも膝枕と言えたのか。サクヤさんはおばあさんの膝の上で、瞳から涙を溢れさせて。
お母さんは、わたしが生れるよりずっと前から。お父さんに出逢うよりもずっと前から。
生れた時から。サクヤさんと親しく密な時を過ごし、想いを通わせ合ってきた。親子とも
姉妹とも恋人とも違うけど、その全てを合わせた様な関係だった。だからサクヤさんにと
っても、お母さんの存在は大きくて。その突然の死は余りにも大きくて、受け止めきれず。
経観塚に移り住んだばかりのわたしは。笑子おばあさんに招かれたお昼寝の膝枕で偶然、
己の血に潜む関知や感応の素養を発現させて。サクヤさんは幾度も肌身を重ねた人だった
し。その深く強い悲痛は、自然に感じ取れた様で。
それは多分つい数日前の2人の触れ合いか。
同じ膝に身を委ねたから、悟れてしまった。
『愛すれば愛する程に、愛した者が次々あたしの前から去って行く。消えて行く。生命尽
きて答を返さなくなって行く。辛すぎるよっ。
何の役にも立てなかった。寄り添って守る事も、最期を看取る事も出来なかった。笑子
さんと平の次に、たいせつだって告げてくれたのに。柚明と笑子さんと旦那の次に、たい
せつだって告げてくれたのに。いまわの際まで愛しているって言ってくれたのに。なのに。
先に逝ってしまうなんてありかい! こんな早く死んでしまうなんてありかい! 心の
準備も何も出来ないよ。やっぱりあたしは独りなんだ。この世にあたしの最期迄付き添っ
て、寄り添ってくれる者なんていないんだ』
サクヤさん……。笑子おばあさんが答に淀む様は、像を視ているわたしの想いでもある。
大事な人の強い悲哀に、幼いわたしは答もなく立ち竦み。お母さんお父さんを死に至らし
めた者として、詰め寄られた錯覚に心が縮み。
サクヤさんは他人を責める人じゃないけど。心優しく強い女性だけど。それは肌身重ね
たわたしが分っているけど。だからこそ、禍の元凶たるわたしに向けたくても向けられな
い哀しみを、これ程深く抱え込んで。最早この世で唯一甘える事の出来る笑子おばあさん
に、その膝枕に大きく豊かな身を預けて涙を零し。
本当にサクヤさんは笑子おばあさんがいなければ、この世を生きていけないかも知れぬ。
『わたしが居ますよ。サクヤさん』
だから笑子おばあさんは。お母さんを、娘を喪った母の傷心より。膝に取り縋るサクヤ
さんの悲痛に応える事を優先し。サクヤさんの悲痛は笑子おばあさんの悲痛だから。サク
ヤさんに生きて欲しいのは祖母の願いだから。
お母さんが死んでも自身が居る。失っても全てが終りじゃない。『誰かがいる』なんて
空虚な気休めではなく、ここに私がいるから、ここに笑子おばあさんがいるからサクヤさ
んは1人じゃないと。絶対1人にはしないよと。
『わたしが元気でいる間は、サクヤさんは1人じゃないから、心配しないで。それに…』
『だけど、笑子さんもあたしを置いて行くんだろう……あたしはまた、独りになるんだ』
サクヤさんの涙声は絶望を宿して聞えた。
『○○○は先に逝ってしまったじゃないか。
笑子さんが逝くより先に逝っちまったよ。
笑子さんの子が、笑子さんに続いてあたしを愛してくれた愛しい娘が、笑子さんよりも
先に。これじゃ笑子さんが逝ってしまったら、あたしにはもう何も残らなくなってしまう
…。
やっぱりあたしには誰も残ってくれない。
あたしは愛しても愛しても喪うだけだよ』
大切な人が出来ても、出来れば出来る程に、必ず永訣が巡る。最後は己が傷つき苦しむ
と。縋り付き嘆き訴えかけるサクヤさんに。お母さんや笑子おばあさんを好いた事を、人
を愛した事を悔いて、心塞ぎ掛けるサクヤさんに。
わたしは掛けるべき言葉を持ってなかった。
唯その哀しみに竦む他には、為す術がなく。
だから笑子おばあさんがしっかり答を紡ぎ。
サクヤさんの悲哀に向き合う姿は、力強く。
『柚明が居ますよ。あなたを心から好いて肌身を添わせてくる、わたしの愛しい孫娘が』
でもそこにわたしが出るとは思わなかった。母父を喪わせた元凶であるわたしに値がな
いという以上に。幼子が役に立つと思ってなく。
わたしが呆然とする前で、サクヤさんは嘆き縋るのを止めて、腫れた瞳で祖母を見上げ。
おばあさんの笑みはその名の通り極上だった。
『柚明は○○○の幼い頃と同じ様に、否それ以上に、サクヤさんを好いて慕っています』
確かにそれは正解だけど。わたしがサクヤさんに抱く想いは。お母さんにも負けない積
りだったけど。でも、わたし如きの想いでサクヤさんを、元気づけられるとは思えなく…。
『サクヤさんは……柚明を、好きですか?』
サクヤさんは、穴の開く程笑子おばあさんを間近で見つめ続けた末に、こっくり頷いて。
重なって視えたのはそのもう少し前の像だ。
これは近日サクヤさんに刻まれた強い想い。
【サクヤおばさん!】【どうしたんだい?】
お父さんお母さんを喪った直後、羽様へ移り住む最小の荷を取りに、迎える者のなくな
ったアパートへ戻った時に。わたしはお母さんの形見の髪飾り、お父さんと結ばれた時に、
身につけたというちょうちょの髪飾りを付け。
サクヤさんに愛を告げて散った時の像だ。
【わたし、この髪飾りを、貰います】
【この髪飾りを付けて、綺麗になったわたしを是非、見せてあげたいの、見て貰いたいの。
サクヤおばさんに、わたしの一番大切な、特別な、サクヤおばさんに!】
母さんにとっての父さんの様な人のこと…。
大切なだけじゃなく特別な人。
特別なだけじゃなく一番の人。
この世に唯1人と、思える人。
【わたしにはそれは、サクヤおばさんです】
想いは届かなかったけど。想い人には別に一番の人が居たけど。でもサクヤさんは幼子
の突然の告白に、真剣に親身に応えてくれて。特別にたいせつな人だと優しく囁いてくれ
て。
【あたしの為に、これからもそれを身に付けて元気で綺麗で居続けてくれるね? 柚明】
【あんたが元気で綺麗で居続けてくれる事が、あたしにとっても大切で特別な事なんだ
よ】
わたしが幼子だったから論外なのではなく。サクヤさんには絶対譲れない、たいせつに
想う一番の人が居て。大好きな笑子おばあさんでさえ、一番に出来ない。お母さんでさえ
も。断りも、ひしひし伝わって来る真剣さだった。
【ごめんよ。あたしには絶対代えの利かない、掛け替えのない人がいてね、あんたを一番
にしてあげる事は出来ないんだ。柚明があたしを一番と言ってくれるのは嬉しいけど、そ
れにあたしは、同じ想いで応える事が出来ない。
柚明を特別に大切だと思うあたしの気持ちは本物だよ。それでも、一番だって想いに一
番の想いで応えてあげられないってのは、我ながら薄情だと思う。ごめん、柚明】
【他ならぬあんたの気持ちには、叶う限り応えたいんだけど、こればかりは許しておくれ。
あたしの一番は、この世に1人だけなんだ】
【あたしはそれに等しい気持を返せないけど。
でも、柚明がそれでも良いって言ってくれるなら、それで尚あたしをそう思い続けてく
れるなら、あたしもあたしにできる限りの気持を返すよ。一番と言えないけど、この世で
2番目に大切な人と同着の、2番目として…。
失礼な話だと言っていて分るんだけどね】
『サクヤさんは、心底わたしもたいせつに』
わたしがサクヤさんを心の支えにして強く慕い想うのと同様に、サクヤさんもわたしを。
それはわたしに望外の喜びだったけど。サクヤさんには当たり前すぎて見落していた様で。
おばあさんはサクヤさんにその事を告げて気付かせ。美しい女性に生きる希望を注ぎ込み。
この愛がサクヤさんの生きる支えの一つに。
この女性の愛がわたしを支えてくれた様に。
『柚明もあなたを好いていますよ。深く強く。母を喪い父を喪い、今迄暮らしてきた環境
から切り離され。不安や悲哀が多いでしょうに。あなたを心の支えにして、幼心に現実を
受け止めようと、一生懸命頑張っている。無意識に羽藤の想い・母の想いを、受け継ごう
と』
想いは受け継がれる。受け継ぐ人がいる限り、人の身体は尽きても人の想いは終らない。
訣れはあっても次の世代が繋って、独りにはしない。笑子おばあさんのサクヤさんへの答
だった。人はたいせつな人がいる限り、希望を抱いて明日を迎えられる。別離は哀しむけ
ど、たいせつな人がいる限り、終りではない。
『約束は、未だ守れています。正樹や柚明が、貴女を決して1人にしませんから』
『…!』
サクヤさんが悲哀ではなく、歓喜の涙を溢れさせ、笑子おばあさんに縋り付く。その膝
枕に豪奢な白銀の髪を預け、頬を寄せ、その身を委ね心を託し。例え事情を全て分っても、
当時のわたしは幼すぎて膝枕をできないから。暫くサクヤさんを愛せるのはおばあさんだ
け。
笑子おばあさんとサクヤさんの間には、お母さんとサクヤさんの絆より尚強い、わたし
の入り込めぬ深い繋りがある。己が愛したサクヤさんの一番になれないのは、少しだけ残
念だったけど。わたしの好いた笑子おばあさんとサクヤさんが、互いを深く想い合う様は、
美しく好ましかったので。その絆の長く強く続く事を、わたしは祈り願い望み愛おしんだ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
羽様に移り住んで7年が経ち、羽藤柚明も高校1年の夏を迎えた。わたしに続いて羽様
のお屋敷に移り住み、正樹さんと結ばれた真弓さんが、わたしの一番たいせつなひと、白
花ちゃんと桂ちゃんを産んで。古びた日本家屋は賑やかになったけど。変化とは時の経過
に伴って、望むと望まずとに関らず生じ来る。
それは招きもしないのに雷雨が屋根を叩く様に、望みもしないのに季節が寒く変り行く
様に、誰かが悪い訳ではなく起り来る不都合なのだと。楽しい休みの日が過ごせば終り行
く様に、ご飯を美味しく食べれば減ってしまう様に、押し止める事が難しい世の中の諸々。
日が昇り沈む様に、つぼみが咲いて散る様に、自然にそうなって行き防ぎ難い世の中の諸
々。
おばあさんが亡くなったのは半年前だった。深く強く想いを交えたサクヤさんは、悲痛
に打ち拉がれて。慰める言葉も探せぬ程窶れていたけど。その消沈は目を覆う程だったけ
ど。
「でも正樹との良い雰囲気を、邪魔しちまったかも知れないね。子供2人の夫婦生活を」
半年経った今は、表向き快活さを取り戻し。それも悲痛が癒えた為と言うより、残され
たわたし達を気遣って。その真の孤独や悲哀を、慰める事も叶わない己の非力は呪わしい
けど。取り繕う気力が戻ってくれた事は幸いだった。
暫く前から、わたしが首都圏で決着付けられなかった不二夏美の禍を鎮める為に、若杉
と千羽の要請で、真弓さんが一時的に鬼切部へ復帰し、羽様を長く外しており。生れて初
めての母の不在を、愛しい双子はしっかり受け止め、日々を過ごしているけど。わたしも
白花ちゃん桂ちゃんを抱き留めて肌身添わせ、不安を癒し欠乏を補う様に、努めているけ
ど。
笑子おばあさんと真弓さん2人が不在では、お屋敷もやや静謐になってしまう。サクヤ
さんが嵐の中、危険を冒して無理に車を飛ばして訪れてくれたのは。実はわたし達を案じ
て。
「叔母さんが耳にしたら、切られますよ…」
縁側に寝転がるサクヤさんを傍目に見つつ。
数日ぶりに陽の照る中庭で洗濯物を干して。
幼子はわたしとサクヤさんの間を行き交い。
正樹さんは奥の間に敷いた布団で静養中だ。
「なに、鬼切りの居ぬ間の洗濯って奴だよ」
昨日は雨漏りの修理で屋根に上った正樹さんが、突風に煽られ地面に落ちて重傷を負い。
直後に嵐が来て救急車も呼べず病院も行けず。わたしが肌身を重ね、笑子おばあさんに教
わった贄の癒しを及ぼして、危難を凌いだけど。
愛しい叔父にも幼子にも、心配や不安を及ぼした。彼を説得してか或いは力づくででも、
雨漏り修理は己が為すべきだった。例え雨漏りを放置しても、彼にさせるべきでなかった。
真弓さん不在の間は、わたしがみんなを守らなければならない立場なのに。不足が目立ち。
サクヤさんも。わたしが力不足な故に、全てに対処しきれないと映った故に。嵐の夜道
を駆けつけてくれた。その想いは嬉しいけど。有り難くも愛しいけど。自身の悲痛を隠し
繕い、わたし達の心をほぐそうと陽気に快活に。
己の力不足が愛しい人の心配を招き、危険を冒させた。それは己の情けなさで、失陥で。
一つ誤れば己の所為で、愛しい人を危難に導く事にも繋る。己の所作がお父さんお母さん
の生命を縮めた様に。愛しいサクヤさんを己の未熟の故に危難へ死地へ禍へ、誘う事にも。
わたしもサクヤさんを案じていると伝えて。 無理はしないようにと自重を促し願うけ
ど。
愛しい人はわたしの心配を全て承知して尚。
わたし達への愛しみを尽力を隠そうとせず。
『こっちも連絡の間を惜しんで、赤兎を走らせたから。隣町側から羽様に入るには、何本
か小さな橋の架かった道を行かなきゃならず。増水すると通れない怖れがあって。正樹の
ケガは知らなかったけど、真弓も居ないし心細いんじゃないかと思ってね。どこかで足止
めを食って緊迫の夜を無為に過ごす位なら、無理しても羽様に着いた方が良いと思って
さ』
本当に心細やかで情の深く心熱く清らかな。
わたしが初めて恋し憧れたたいせつな女性。
守り助け支え尽くしたく願う強く愛しい人。
『わたし達を大事に想ってくれるのは嬉しいけど、無理はしないで下さいね。あの大雨と
大風の中、見通しが悪い上に道路も危ないし。どこかで立ち往生してしまったら、逆にわ
たし達が心配する側になっていたのですから』
サクヤさんに何かあったらと思うと。無事に終った今だから、逆に心臓を掴まれた気が。
わたし達を案じる余り、愛しい女性を危難に踏み出させてしまうなら。それは心配させて
しまう脆弱さ未熟さを持つ、わたしの所為だ。守られる必要もなく思われる位強くなけれ
ば。
今目の前にいる銀髪の強く綺麗な人の様に。
でも愛しく想う人の今はやはり心配になる。
なんか矛盾というか迷路に填り込んだ様な。
思い直せば今己が案じるべき人は別にいた。
わたしの為にみんなの為に、人の世の為に。
生命の危険を承知で戦に赴いた大切な人が。
わたしの思索の辿る途をこの人はご存じで。
右手が伸びてきて左頬を髪を軽く触られて。
「真弓は大丈夫だよ。主婦の日常を過ごす上ではちょっとアレな処もあるけど、非日常に
際した真弓に隙は全くない。それに今の真弓には、ここに守るべき夫と子供と柚明がいる。
その内しれっとした顔をして帰って来るさ」
わたしの焦燥を、鎮めようとしてくれる。
銀の髪の人の優しさ繊細さが、愛おしく。
わたしは心地良い痺れを、心に感じつつ。
今少しの間はその心遣いを、受け止めて。
頬を髪を触られる侭に身を任せ心を委ね。
視線で声音で気配で仕草で感謝を伝えて。
「そうですね。きっと、まもなくその様に」
この晴れ上がった空の向うで、遙か遠くで。
愛しい真弓さんは生命を賭して戦っている。
サクヤさんと肌身添わせて心支え合いつつ。
わたしはせめて己に出来る事を確実に為し。
預った羽様のみんなをしっかり守り支えて。
胸を張って、真弓さんを迎えられます様に。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
台風一過で空は晴れて。風が未だ若干強いので気温は涼しく、午睡を取るには丁度良く。
白花ちゃん桂ちゃんは、朝方迄続いた嵐で。
風や雨や雷鳴の音に、怯え通しだったから。
陽が昇り緊迫が抜けて漸く安眠できた様で。
正樹さんも傷の治癒に体力を消耗しており。
贄の癒しの副作用というか、必然というか。
体力を戻す必要に迫られて、よく食べ眠り。
『サクヤさんも。幼子を寝付かせてくれていた筈だけど……縁側で独りで眠っている?』
正樹さんにわたしを見てと頼まれたみたい。
わたしは完治迄肌身重ねる積りだったけど。
彼は大人の羞恥と思慮でそれは拙いと考え。
踏み込みすぎない様に見て抑えて欲しいと。
『確かに昨夜一晩肌身を添わせて、贄の癒しを大量に注ぎ込んだから。後は病院に行く必
要もなく、数日で完治できる迄復したけど』
真弓さんに知られる事を怖れたと言うより。
年頃の女の子と肌身に近しすぎる事を案じ。
でもお目付役のサクヤさんも眠ってしまい。
『サクヤさんも昨夜は嵐の中を羽様に向けて、一睡も取らずに赤兎を走らせて来たもの
ね』
羽様のお屋敷へ無事到着できた今、幾ら睡魔に襲われても大丈夫だけど。白銀の豪奢な
髪を、無造作に床へ投げ出して。しなやかに滑らかな手と脚を、無防備に床に投げ出して。
『正樹さんは、もう肌身を添わせる迄しなくても静養で充分。彼が大人の思慮でこれ以上、
わたしと肌身添わせる事を好まないなら…』
正樹さんは、幼い頃から慕い憧れた愛しい叔父である以上に。今は真弓さんという美し
い女性を妻に持つ夫であり、白花ちゃん桂ちゃんという、わたしの最愛の幼子の父だった。
この世にはどれ程愛を抱いても、踏み込んでは拙い領域もある。禁断の仲に踏み込んで、
羽様の家族の幸せを壊す積りは毛頭ないけど。親愛も過剰に交えては誤解を招く怖れもあ
る。
これ以上は彼への愛ではなく己の為の愛だ。
自身の役は羽藤の家族の幸を見守る人魚姫。
正樹さんに肌身添わす事を諦めたその時に。
手が空いたわたしの前に愛しく美しい人が。
『眠っているサクヤさんも、綺麗で神秘的』
わたし達を案じ想う故に無理して疲れ果て。
今は長閑な陽の元で無造作に身を横たえて。
夏の盛りなので風邪を引く心配もないけど。
何もせずに捨て置く事は出来なかったので。
「サクヤさん?」「……さん、笑子さん…」
何を出来るのか為そうかも定かでない侭に。
わたしは憧れの年上の大人の女性に近づき。
サクヤさんの無意識が関知や感応に繋って。
愛しい女性の夢見を共に視てしまっていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
毛布を掛ける必要もなかったし、起こさなくても障りはなく。特に目的もなく近寄って
しまった為に。わたしは己の心の制御が不充分で、身近な人を前に触れぬ侭、関知や感応
の『力』を発動させて。サクヤさんとは何度も肌身を重ね、深く想いを交えた間柄だった。
最近の『力』の進展は、親しい人なら傍にいれば最早触れる必要もなく、その近況や内
心が悟れる様になって。意識してブロックせねば自動的に様々なモノが、過去や未来や遠
方から、色々な像や音や匂いや肌触りを、視せ聞かせ伝えてきて。今回も気を抜いた瞬間。
『……笑子さん……、笑子さん……!』
視えたのは、サクヤさんの深甚な悲哀と。
その更に奥底に抱える久遠の孤独だった。
その光景はわたしも半年前に見た、笑子おばあさんの通夜の夜更け。雪が積った羽様の
山奥で、オハシラ様が宿る槐の巨木に。身を投げ出して泣きじゃくる、サクヤさんの姿だ。
他の人もいる場では、子供の様に泣き喚く事は出来ない。号泣する程深い想いは、他者
に理解されないから。葬儀に訪れてくれた人は皆関りを持つ人で、祖母の死を悼んでくれ
たけど。違っていた。この人が故人に抱く永訣への悲痛の深さは、他の人達とは質が違う。
『こうなると、分っていたんだ。いつか必ず、こうなるって。この想いを味わう事になる
んだって、分っていた。でも、でもっ……!』
槐の巨木に縋り付いて、凭れ掛り全身を震わせ涙を流すその姿には、見ていたわたしが
胸締め付けられた。故人に寄せた想いの深さ、喪失感の大きさが垣間見えた。誰にも埋め
得ぬ深い孤独。誰にも明かせぬ深い絶望。かつての観月の童女は独り全身で哀しみを訴え
る。それを唯一共有出来る、ご神木に宿るオハシラ様に。悠久の時を共に生きる最愛のひ
とに。
笑子おばあさんは、わたしが生れるよりずっと前から。お母さんが生れるよりもずっと
前から。サクヤさんと親しく密な時を過ごし、想いを通わせ合ってきた。親友とも姉妹と
も恋人とも違うけど、その全てを合わせた以上の存在だった。だからサクヤさんにとって
も笑子おばあさんの存在は大き過ぎて。その死は余りにも大き過ぎて、心に受け止めきれ
ず。
『喪ってみる迄、分らなかったんだよ。こんなにあたしが笑子さんの事を好きだったって。
お笑いだろう? 好きだったけど、大好きだったけど、いつかは来るんだと言い聞かせて
いた積りだったけど、いざその時が来る迄』
巌の寿命を持つ観月の民であるサクヤさんと羽藤の繋り・悲哀は。羽藤の遠祖・竹林の
姫が、鬼神を封じたご神木にオハシラ様として宿り、別れ別れになった千数百年前に遡る。
彼女こそ、千年を経た今も、サクヤさんの強く慕い愛する『一番たいせつな人』だった。
優しく語りかけ手を握り、頬に触れ膝枕して、幼いサクヤさんと心通わせた相愛の人。人
と鬼の隔ても軽く乗り越え、強く絆を繋げた人。
遙かな昔、その美貌と尋常ならざる程に濃い贄の血の故に、姫は鬼神・主の求めを受け。
【姫さまっ。やだよ、行っちゃいやだよ!】
【どこにも行かないで。行っちゃやだっ!】
事は主や姫だけの問題ではなかった。まつろわぬ山の神である主は、朝廷やその後ろ盾
である照日の神・更にそれらに属さぬ多くの人外にも、警戒されており。主が姫の濃い贄
の血を得れば、強大になりすぎると怖れられ。
【ダメ! ぜったいダメ! あたしがお爺ちゃんに頼むから。お爺ちゃんに頼んで、姫さ
まを助けて貰えるようにするから】
【危険なんてないもの! 大丈夫だもの! お爺ちゃん達の方が、強いんだからっ】
サクヤさんの願いは、中途迄は叶えられた。主に姫は渡せないと、鬼切部や観月の長達
や、役行者も巻き込んだ大きな戦になってしまい。
主は役行者や観月の長達に倒されたけど。
倒れても尚地を震わせ雷を呼ぶ鬼の神を。
封じる為に竹林の姫はご神木に身を捧ぐ。
でもそれはサクヤさんには痛恨の結末で。
【違う、違う、違う。あたしがお爺ちゃんに頼んだから、だから助けてくれたんだから】
サクヤさんが望んだのは、姫の幸せだった。山の神を封じても、姫が幸せになれないの
では意味がない。彼女に微笑みかけてくれる姫がいなくなってしまうのでは、何の為の
…!
【いや、いや、いやって言ったらイヤっ!】
でもその声は届かない。及ばない。どんなに声を張り上げても、どんなに手足をばたつ
かせても。その抗いは余りにも小さく儚くて。姫は肉の体を喪って、曖昧な霊の存在にな
り。
悔しいけれど、残念だけれど、この世にはどうしようもない事もある。人の手や努力で
はどうにもならない事がある。どんなに頑張っても頑張っても及ばない届かない事がある。
【そんなのいやっ! 姫さま、姫さまっ…】
以降サクヤさんは、二度と姫と言葉を交わす事も触れ合う事も叶わず。膝枕される事も
なくなって、それでも慕う想いは断ちきれず。心に深い哀傷を負った侭、永い年月が流れ
て。
50年前の冬、観月の里は鬼切部千羽党の夜襲を受けて、サクヤさん以外全員が殺められ。
同胞を全て喪った美しい人は、自身瀕死の深傷を負い。せめて愛した姫に看取られようと、
死力を振り絞って羽様に辿り着き。ご神木で意識失った愛しい人に贄の血を与え、その生
命を心を繋いだのが、笑子おばあさんだった。
【何の用意もなく出てしまったから、あと小一時間もこうしていたら、わたしが寝込んで
しまうところだった】
【それなら、帰れば良かったのに】
サクヤさんが意識して刺々しく応えるのに。
【一度はそうしようかと思って、あなたを担ごうとしたんですけど、力及ばず一緒に転ん
でしまいました】【何で放っておいてくれなかったんだ。放っておけば良かったのに!】
死にたかった。死んでみんなの処に行きたかった。独りだけ取り残された。こんな時迄、
自分は観月のみんなと一緒でいられないのか。どこにも向けようのない憤りが溢れ出すの
に。
【そんな事をしたら死んでしまうじゃない】
【良いんだよ、それで良いんだ。あたしは死に場所を求めてここに来たのに、あたしは死
ぬ為にここに来たのに。なのにあんたはっ】
身を起こし、笑子おばあさんの白い両手を己の手にとってその不健康な白さに更に憤り、
【どうして助けたりなんかしたんだっ。どうしてこんなに冷たくなっているんだっ】
【わたしの血を呑んだから、かしら?
……寝付けないで機を織っていたのよ。そうしたら季節外れの紋白蝶が飛んできてね】
白い蝶はオハシラ様の使い。ずっと昔から羽藤家に伝わっている事なので、何の疑問も
感じずに家を抜け出して、蝶についてきたの。
神木の前で倒れたサクヤさんを見つけて…。
【わたしは、家の中でも特別『視える』性質だから、すぐにピンときたの。あなたは普通
の人とは違っているんだなって。オハシラ様があなたを助ける為に、わたしを連れてきた
んだなって】【オハシラ様……姫さまが?】
ええ。笑子おばあさんの頷きに、改めてご神木を見上げると。葉の落ちた骨組みの様な
枝と枝の隙間から、ひらひら雪は落ちてくる。
【だけど、お遣いの蝶はすぐに消えてしまったでしょう? わたし1人では持ち上げるこ
ともできなかったのだから、どうしましょう、どうしましょうって途方に暮れていた時に
…。
ふと、羽藤の血筋に流れている、特別な血の事を思い出したのよ。本当に効くかどうか
も分らなかったのだけれど、口に含ませたらお腹を空かせた赤ちゃんの様に、必死になっ
て飲んでいたわ。お茶碗一杯分くらい】
笑子おばあさんは生前、贄の血を誰かの役に立てるかも知れない血と語っていた。それ
を持つ故に禍に晒される事もあるけど、それ程に求められ好まれるなら、使い方次第で誰
かの力になれ、別の定めを切り開く鍵になり得る物だと。聞いた当時のわたしは、何でも
物事を前向きに見れる人だと半ば呆れたけど。
【他の生き物の生命を奪って迄、物を食べたりするのは、生きるための行為ですから。サ
クヤさん、あなたはちゃんと生きたいって思っているんですよ】【そんな事、ある訳…】
サクヤさんが信じられないと目を丸くする。
【そうなの?】【だって、あたしはもう独りなんだよ。なのに、あたしに生きろだなんて。
みんな、あたしを残して逝ってしまったのに、あたしにだけ残れだなんて、そんなのっ
…】
【それじゃあ、はい。サクヤさん】
サクヤさんの悲痛な声に、瞬時真顔になった笑子おばあさんは、すぐ名前の通りの極上
の笑みを取り戻し、小指を立てた手を出して。
失っても全てが終りじゃない。誰かがいるなんて空虚な気休めではなく、ここに私がい
るから、ここに羽藤笑子がいるから浅間サクヤは独りじゃないと。独りにはしないからと。
【わたしが元気でいる間は独りじゃないから、心配しないで】
【だけど、あんたもあたしを置いて行くんだろう。……あたしはまた、独りになるんだ】
観月の民の長寿は、たいせつな人との別離、看取る事を前提とする。大切な人が出来て
も、出来れば出来る程、百年経たずに永訣は巡る。大切な人を作っても、己が傷つき苦し
むだけ。
竹林の姫を喪った後、サクヤさんが一度羽藤と永く関りを断ったのも、新たな別離に怯
えた為、愛する事が悲哀に繋ると知った為だ。出逢う事が訣れを招き愛する事が悲痛を導
く。
巌の民と桜花の民の間には、絶望的な寿命の隔りがある。共に時を過ごしても共に終る
事は叶わない。喪失や離別を避けるには、誰とも出会わず愛さずにいる他に術がない。で
も笑子おばあさんはその絶対の壁を、サクヤさんの千年の苦悩を、軽々乗り越え微笑んで。
【ふふふ、それはどうかしら。わたしは長生きする積りだもの。だから、その頃にはきっ
と、孫辺りがわたしと同じ事を言うんじゃないかしら……サクヤさん?】
想いは受け継がれる。受け継ぐ人がいる限り、人の身体は尽きても人の想いは終らない。
訣れはあっても次の世代が繋って、決して孤独にしない。笑子おばあさんはサクヤさんの
深い孤独の奥底からの問に応えていた。人は、大切な人がいる限り、望んでくれる人がい
る限り、希望を抱いて生きて行ける。別離は哀しむけど、何もかも喪わない限り続きはあ
る。たいせつなひとがいる限り、終りではないと。
姫は封じを危うくしても現に蝶を飛ばせて、笑子おばあさんをご神木へ誘い。おばあさ
んは初見の血塗れの女性に怯えも見せず、自身の血を想いを捧げ、膝枕して確かに心通わ
せ。2人共サクヤさんに生きて欲しいと強く願い。
生前、笑子おばあさんは言っていた。
『あの人にはいつ迄も、オハシラ様が絶対に代えの利かない、掛け替えのない一番なのよ。
永劫に手が届かなくても、久遠に想い続けるしかなくても。月に手を伸ばす様な物かねえ。
それでもその想いを捨てず、哀しみと一緒に愛おしんで抱き続けるその姿が切なくて哀し
くて、放っておけないのよね。私も貴女も』
だからその想いを受け継ぐお母さんの死に、サクヤさんは心底哀しみ。生命と心の恩人
だったおばあさんの死に、心の支えを砕かれて。
『その深さがこれ程とは思ってなかった。
覚悟なんて全く何もできてなかったよ』
夏の日差しの中で背中を丸めた美しい人の頬を、綺麗で悲壮な滴が流れ落ち床を濡らす。
『こんなに、取り乱して。無様だろう。本当、身に浸みて己の愚かしさが、分ってくる
よ』
サクヤさんが心を痛めているのは、唯笑子おばあさんを喪っただけではない。たいせつ
なひとを喪う事は心痛だけど、哀しみだけど。
『最期迄、一番にしてあげられなかった…』
サクヤさんの一番は千年経ても竹林の姫で。
わたしのみならず母も祖母も2番目だった。
でもサクヤさんは優しく情愛深い人だから。
寄せられた故人達の強く優しい想いに対し。
一番の想いを返せなかった事に深い悔恨を。
返せぬ侭に終った結果に強い罪悪感を抱き。
『大切に想っていたのに。心の頼りにしていたのに。なくしてこれ程、哀しんでいるのに。
尚一番だったよと言ってあげる事が出来ない。あの暖かな笑みに、あたしは最期の最期迄
一番だよと、応えてあげる事が出来なかった』
愛してくれたのに……たいせつな人だって、告げてくれたのに。凍える真冬の新月の夜
に、見ず知らずの鬼のあたしへ、危険も顧みず己を削って血を与え。生命の恩人である以
上に、魂を救ってくれたのに。壊れた心を繋ぎ止め、何度も肌身を添わせて過ごしてくれ
たのにっ。
『あたしは終生、一番の想いを返せない侭』
その悔恨と慟哭は底知れぬ深さを感じさせ。
その傷心と悲痛は埋め合わせる術も探せず。
『愛すれば愛する程に、愛した者が次々あたしの前から去って行く。消えて行く。生命尽
きて答を返さなくなって行く。もらえた恩義や想いを万分の一も返せない侭に、次々居な
くなって行く。寂しいよ。辛すぎるよっ…!
寄り添っても結局何の役にも立てなかった。
一番たいせつな人だって告げてくれたのに。
子や孫の次に愛しいとも告げてくれたのに。
分っていたって哀しいよ! 心の準備なんて出来なかったよ! やっぱりあたしは独り
なんだ。この世にあたしの悠久に付き添って、寄り添ってくれる者なんて、いないんだ
っ』
サクヤさん……。今やその豪奢な銀の髪を、膝枕して心を支える笑子おばあさんもいな
い。せめてお母さんが存命だったなら、膝枕してその悲痛を受け止められたのに。正樹さ
んはケガで動けない。竹林の姫は槐の巨木に宿って身動き取れず、膝枕も出来ず想いを受
けて抱き返す腕もなく。今サクヤさんに寄り添える者は誰もいない。その悲哀を孤独を抱
き留める羽藤の者はもう誰も。愛しい人の強い悲哀をわたしは見ておれず。その美貌に手
を添えて、そっと持ち上げて自身の膝の上に載せ。
己に叶うか否か等考えている暇はなかった。己如きがこの人の、悠久の孤独を拭える筈
のない事は分っていた。百年も生きてない己に、この人の深甚な悲痛を慰め得る筈がない
事も。それでも。この愛しい人の涙を止めたかった。わたしもサクヤさんに健やかに生き
て欲しく。
『わたしが居ます、サクヤさん……』
この膨大で悠久の孤独を悲痛を哀傷を前に。
震え出し逃げ出したくなる自身を叱咤して。
今はこの膝に取り縋り涙を零す愛しい人の、悲痛に応える事のみを優先し。肌身に受け
止めて心に癒しを注ぐ事のみを考えて。サクヤさんの悲痛は、わたしの悲痛だから。サク
ヤさんに生きて欲しいのは、羽藤の願いだから。
わたしは笑子おばあさんからお母さんから。
羽藤の想い・サクヤさんへの想いを引継ぎ。
桜花の民の短い己の人生を・生涯をかけて。
巌の時を生きる愛しい人へ、想いの限りを。
「柚明、なのかい?」「はい、サクヤさん」
美しい女性は愛しく哀しい夢見から醒めて。
わたしの膝に仰向けに髪を預けた状態から。
膝枕された姿勢は変えずに潤んだ両の瞳で。
今を現世を羽藤柚明を静かに見つめてきた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「丁度10年かい。あんたに膝枕されるとは。
あんたの父親の見込は正解だった様だね」
サクヤさんは目覚めた瞬間、膝枕の状態を知り。わたしが夢見に寄り添ったのだと悟り。
承知でその姿勢を脱そうとせず。わたしは既におばあさんやオハシラ様と感応し、サクヤ
さんの過去も正体も知っている。今視た視ないの問題ではないと、気付いて諦めたみたい。
人の内心を覗いてしまった結果にも、白銀の髪長な綺麗な人は不快を見せず、穏やかで。
わたしはその寛容に甘えつつ、黒い瞳を覗き込み。代りに己の内心を、全て隠さず明かす。
「サクヤさんも愛してくれたわたしのお母さんが、夫に選んだ人です。わたしの父です」
10年の時を経て、わたしは父の言葉通りに愛しい人を膝枕する事が出来た。サクヤさん
の長久の悲痛は受け止められずとも。己の想いを形にして伝える事は叶う。何も出来ずに
歯噛みするより、砕け散っても挑む方が良い。
「あの時膝枕したかった愛しい人は、わたしにもサクヤさんだけになってしまいました」
「ああ、そうだったねぇ。柚明、あんたも」
サクヤさんが中途で言い淀むのは。母父の喪失を、思い起こさせたくないとの優しさだ。
わたしよりわたしの事を気遣って。本当にこの人は、いつも誰かをたいせつに想い続けて。
お互いのたいせつな人は多く鬼籍に入った。以降大事に想う様になった人も多いけど。
今尚目の前の愛しい人は健在だけど。笑子おばあさんの喪失も、お父さんお母さんの喪失
も、他の何かでは補えない。喪失は喪失だ。サクヤさんにとっての竹林の姫も。喪った物
を別の何かで補う等出来ないし、してはいけない。
サクヤさんの優しさに、わたしはその頬を両の掌で軽く触れて。愛おしむ事で答に代え。
初めてのサクヤさんの膝枕だけど、大人を膝枕するのは初めてだけど、この重さが幸せの
重さか。わたしは美しい人を守り庇う錯覚に浸りつつ。だから一層自身の心を奮い立たせ。
「お互いに長くない年月で、多くの愛しい人を喪いましたけど。サクヤさんには未だわた
しが居ます。羽藤柚明がこの先も数拾年は」
笑子おばあさんが亡くなっても、己が居る。失っても全て終りじゃない。『誰かがい
る』なんて空虚な気休めではなく、ここにわたしがいるから、羽藤柚明がいるからサクヤ
さんは独りじゃないと。絶対独りにはさせないと。
「わたしが元気でいる間は、サクヤさんは独りじゃないから、心配しないで。それに…」
でもそれは、笑子おばあさんやお母さんの顔形に仕草に言葉に想いに、重なって。愛し
さは喪失の想い出に、未来への怯えに繋って。その想いは声音は表情は、わたしの知るサ
クヤさんから信じられぬ程儚く弱々しく。今迄の積み重ねがある故に、この人の心痛は深
い。
「だけど、柚明もあたしを置いて行くんだろう……結局あたしはまた、独りになるんだ」
サクヤさんの心の傷みが肌身に感じ取れる。
『だって、あたしはもう独りなんだよ。なのに、あたしに生きろだなんて。みんなあたし
を残して逝ってしまったのに、○○○も逝ってしまったのに、笑子さんも逝ってしまった
のに、あたしだけいつ迄も残れだなんてっ』
『結局笑子さんは逝っちまったじゃないか。
○○○も柚明も百年保たない桜花の民だ。
やっぱりあたしには誰も残ってくれない。
あたしは愛しても愛しても喪うだけだよ』
大切な人が出来ても、出来れば出来る程に、必ず永訣が巡る。大切な人を作っても、己
が傷つき苦しむだけ。いつもの明るさを拭い去って、縋り付き嘆き訴えかけるサクヤさん
に。お母さんや笑子おばあさんを好いた事、人を愛した事を悔いて、心塞ぎ掛るサクヤさ
んに。
今言葉を届かせられるのは、わたしだけだ。
その悲痛を拭えなくても、受け止めなくば。
笑子おばあさんやお母さんの姿を思い浮べ。
自身が受け継ぎたい羽藤の想いを強く抱き。
「サクヤさんは独りになりません。わたしが独りにさせません。竹林の姫の末裔で笑子お
ばあさんの孫で、お母さんの娘であるわたし、羽藤柚明が先達の想いを受けて。羽藤の歴
代が愛した美しい人を、絶対孤独にはしない」
羽藤には尚桂ちゃんと白花ちゃんがいます。
羽藤の想いは次へと受け継がれて続きます。
受けた想いをわたしが未来へ伝え残します。
綺麗な女性の双眸が膝枕の上で見開かれた。
「竹林の姫の想いも笑子おばあさんの想いも、お母さんの想いも今尚わたしの中に生きて
います。想いを繋ぐ限り決して終る日は来ない。サクヤさんの体を、わたしの贄の血が想
いを宿して、今も巡り続けている様に。羽藤の想いもわたしの愛も、この身が喪われた後
迄も、あなたの内で久遠に生き続けて終らない…」
サクヤさんの絶望は、お母さんも笑子おばあさんも竹林の姫も望まない。勿論わたしも、
桂ちゃん白花ちゃんも。愛に根差す離別の悲哀は避けようがないけど、羽藤が個々の生命
を超えて、想いを語り継げば。歴代の想いを受け、個々の想いを重ねて次に繋げれば。そ
の絶望は避けられる。その孤独は避けられる。愛しい人はいつ迄も羽藤の歴代の想いと共
に。
わたしもサクヤさんも、笑子おばあさんの通夜の夜更け、ご神木での情景を思い出して
いる。雪の積る羽様の森の奥で、ご神木の根に身を投げ出し、号泣していたサクヤさんを。
探して辿り着いたわたしが歩み寄り。愛しい女性の一部に加えて欲しく、わたしは己の血
を呑んでと願い、その我が侭を叶えて貰った。
『かつて、わたしの一番大切な人は、サクヤおばさんでした。でも、今は違う。わたしの
今一番たいせつなひとは、サクヤさんではありません。そうでなくなってしまいました』
もう一番に想う事が出来なくなったから。
羽様の幼子に己の生を捧ぐと決めたから。
サクヤさんを一番に愛し想う最期の夜に。
その証を互いの身に刻みたいと望み願い。
最早一番ではないと告げたこのわたしに。
愛おしい年上のひとはどこ迄も情愛深く。
『違うの。そうじゃないの。わたしは、サクヤさんに想いを返して貰えないから、気持が
醒めた訳じゃない。わたしは、等しい想いを返して貰えないから不満だった訳じゃない』
【わたしはわたしが好きだから言っただけ。
同じ気持を返して欲しいなんて思わない】
幼い想いは、ずっと変らないと思っていた。
いつ迄もわたしは仰ぎ見続ける積りでいた。
誰がいても誰をたいせつに想っても、サクヤさんには代えられない筈だった。等しい想
いが返らない事は最初に報されていた。それでわたしの気持は、萎えた事も揺らいだ事も
ない。ずっと不動の一番だった。でも、でも。
『サクヤおばさんはたいせつな人だったけど、今でも大切に想う気持は変らないけど、も
う一番じゃない。わたしの一番だったサクヤおばさんはもういない。今いるのはサクヤさ
ん、特別に大切だけど一番じゃないサクヤさん』
わたしには、この生涯を捧げて尽くさなきゃいけない人がいる。尽くしたい人がいる。
大切なだけじゃなく特別な人。
特別なだけじゃなく一番の人。
この世に唯1人と、思える人。
『桂ちゃんと白花ちゃんが、わたしの一番たいせつなひと……サクヤさんはその次です』
白花ちゃんと桂ちゃんが生れて、わたしの心を照し出して、わたしに生きる意志を与え
てくれた瞬間に。わたしはあの双子の為に生きるんだって、あの双子の幸せの為に全部を
捧げるんだって、あの双子こそが代えられない一番なんだって、分っていた。だからこそ。
「愛させて。サクヤさんを愛し、その幸せと笑みに尽くす事をわたしに許して。その綺麗
で強く優しい心を、支え助け守らせて欲しい。これは羽藤歴代の、そしてわたしの願いで
す。
もうサクヤさんを、一番には想えなくなったわたしだけど。白花ちゃん桂ちゃんを一番
たいせつな人にしてしまった羽藤柚明だけど。それでも、否だからこそ、叶う限りの想い
を届かせたい。わたしが初めて恋し憧れた今もたいせつに想う強く綺麗な女性へ。一番に
想えなくても、生命を注ぎ生涯を掛けこの身を捧げ、愛し尽くす事は出来ます」「柚明
…」
わたしもいずれ生命が尽きる。役行者の言葉を引く迄もなく、笑子おばあさんがそれを
示していた。人の寿命は観月に較べ短く儚い。いずれわたしも記憶に残るだけの存在にな
る。想いは未来へ残せても、体は朽ちて滅び行く。
最早一番は望まない。わたしもこの愛しい人を一番には出来なくなった。サクヤさんは
月の寿命を生きる巌の民で、わたしは散り急ぐ桜花の民だ。わたしは瞬く間に老いて逝き、
サクヤさんは後に長い別離を味わう。しかもその儚い間でさえ、お互いに一番たいせつな
人を別々に抱いていて、交わり合う事はない。
一度は交われても、二度は交われないとは、誰に言った言葉だったろう。わたし達は最
初から一度も交わり合えなかったけど、一度も互いを一番同士にする事が出来なかったけ
ど。
こんなに大切に想い合っていても通じない。
誰かを大切に想う心が強い故に、届かない。
それは分っているけれど、納得するけれど。
望んで選んだ運命だから、受け容れるけど。
「わたしの生命と想いが尽きる迄愛させて」
わたしの想いをサクヤさんは肌身に受けて。
膝枕の侭滑らかな両手を伸ばして頬に触れ。
愛しい人の双眸の潤みは悲哀の涙ではなく。
「人の成長は早いね。散り急ぐ桜花の民だからなのか。少し前迄の幼子が、瞬く間に千年
の想いを吸収し、それより強く深い愛を抱く。笑子さんもあやめも、あたしを膝枕して受
け止めてくれたけど。柚明もそうしてくれるのかね。一番に想う事も出来ないあたしを
さ」
「愛させて欲しいのは、わたしの願いです」
わたしはむしろ、力強さを印象づけたく。
「あなたの微笑みに尽くしたい。あなたの幸せと守りに役立ちたい。愛させて。生涯身と
心を尽くす事を許して。この愛でサクヤさんを縛る積りは微塵もない。別に一番の人が居
る事は元より承知です。わたしの願いはあなたの一番の愛の成就です。あなたの望みはわ
たしの望み、あなたの喜びはわたしの喜び…。
おばあさんの約束は羽藤が守り通します」
美しい人はわたしの膝枕で微笑んで頷き。
その双眸を鎖すと身も心もわたしに委ね。
肌身添わせた侭で2人静かに時を過ごす。