第1章 深く想う故の過ち(前)


「あなたは、血が濃いからねぇ……」

 その呟きを初めて聞いたのは、いつの事だったろう。はっきり思い出せないけど心に残
るその呟きは、物心つく前から何度となく聞かされ、心に染み渡っていたのかも知れない。

『かく世い伝』という言葉を最近知った。友達の杏子ちゃんが、マンガかゲームで出てい
たのを憶えていて教えてくれた。お父さんやお母さんを飛び越えて、おじいちゃんやおば
あちゃんの技能が孫に現れる事を言うらしい。

 背中から羽根が生えたり、目から光線が出たり、石の様に身体が固くなって力持ちにな
ったりする性質は、その特別さの代りに親から子に直接伝わる事がないという。物凄い才
能や技能は、何の制約もなく唯好き放題に与えられてある訳ではない。常の人を越えたそ
の素晴らしさは、人の手ではどうにも出来ない束縛とセットなのが世の中のバランスだと。

 持てる者が無限に持てる訳ではない。持てる者にも持てる故の縛りがあり、持てる故の
困りごとがある。ある筈だと。杏子ちゃんは、『天の配剤だよ』と妙に大人びた解説に自
分で納得していた。多分、受け売りなのだろう。

 でも、教えてもらえて、事が少し分った気がする。お母さんやお父さんがわたしを心配
しているのは、その『かく世い伝』の為だと。わたしがおばあちゃんの『何か』を強く受
け継いでしまう事を心配してくれているのだと。

 血が濃い事が、悪い事なのではない。
 少なくともわたしが悪事をした訳ではない。
 それは、まだ幼いわたしも分り始めていた。

 それは招きもしないのに雷雨が屋根を叩く様に、望みもしないのに季節が寒く変り行く
様に、誰かが悪い訳ではなく起り来る不都合なのだと。楽しい休みの日が過ごせば終り行
く様に、ご飯を美味しく食べれば減ってしまう様に、押し止める事が難しい世の中の諸々。
日が昇り沈む様に、つぼみが咲いて散る様に、自然にそうなって行き防ぎ難い世の中の諸
々。

 喋り口調の中にも心配する想いは伝わってくるけど叱ったり怒ったりの印象はなかった。

 誰かが何かする事で、どうにかなる物ではないらしい。誰かが何かした所為で、そうな
った物でもない様だ。新聞やテレビで殺人事件や交通事故を見聞きして、溜息をつく感じ
に似ている。心を痛めはするが打つ手はない、為す術がない様子は窺えた。具体的に何か
すろとかしてはいけないとか話が出た事はない。

 真剣ではあっても、余り切迫した感じでもなかった。大丈夫だとは思うけれど、と言う
枕詞が少なくない頻度でついているのは、心配のしすぎなのかも知れない。実際わたしの
両親には、やや過保護な感じがあったのだ。

 もっと小さかった頃から両親は、特にお母さんはわたしの出血を嫌っていた。わたしも
多くの子供の例に漏れず、つまずいたりぶつかったり、血が滲む様な傷は作っていたけど、
その応対は神経質な程で。と言うか今もそう。

『血』が濃いというのは、何かの才能や体質が強く出てくる事の、大人の言い回しなのか。
最近国語の授業で先生が教えてくれた、比喩という例えの事だと。鬼の様な顔つきとか、
蛇の様に曲がりくねったとか、そんな感じ…。

「おばあちゃんの血?」

 杏子ちゃんはカバンを持ってない方の手を顎に当てて考えるポーズを取りつつ、オウム
返しにそう呟いて一緒に歩みを進めてくれる。杏子ちゃんも比喩の事は思い当たった様子
で、

「何かの才能かしらねぇ。それとも、姿形?
 ゆーちゃんは、顔形が似ているって言われた事とかある? その、おばあちゃんに」

 小学校一年生から一緒のクラスだった杏子ちゃんは、最初に名付けたその綽名を未だに
手放してくれない。学校でみんなといる時も、2人で下校する今も、いつも少しお姉さん
の位置から、面倒を見る感じで語りかけてくる。

 元々活発で微かに姉御肌の片鱗を見せ始めていた杏子ちゃんと、大切にされすぎた所為
か物思いに耽りがちなわたしの関りは、これで結構巧く行っているから問題ないのだけど。
探偵物やサスペンス物も好きな杏子ちゃんは、何か謎の影を感じ取るとそれを解明したが
る、と言うか推理して愉しみたがる。それにわたしは格好の話題を提供してしまったとい
うか、そう言う杏子ちゃんに推理して貰いたかった。

 わたし1人では、正直どこにどの様な謎が隠されているのか、糸口も掴めなかったのだ。

「うん。笑子おばあちゃん、お母さんのお母さんに似ているって、よく言われるよ。お母
さんはおじいちゃん似だったみたいだけど」

 もうすぐ9歳になるわたしには、おばあちゃんが2人、おじいちゃんが1人いる。この
町の外れに屋敷があるお父さんの実家の久夫おじいちゃん、恵美おばあちゃんと、この町
から電車を乗り継いで一日かけないと辿り着けない経観塚(へみづか)と言う山奥に住ん
でいるお母さんの実家の笑子おばあちゃんだ。お母さんのお父さん、母方のおじいちゃん
は既に亡くなっていてわたしは顔を覚えてない。

 行き来が多いのは簡単に行ける町のおじいちゃんおばあちゃんだけど、両親は年に三度
は必ずわたしを連れて母方の実家に行くので、笑子おばあちゃんとも交流はある。そして
血が濃いという話が出るのは殆どが、母方の実家、笑子おばあちゃんの話が出る前後だっ
た。

「じゃあ、その『血』っていうのは、ゆーちゃんの母方のおばあちゃんの血って事かな」

 似ているってだけなら、特段問題にならないと思うけど。それでお母さんが心配してい
るって事は、ゆーちゃんのおばあちゃんも似た悩みを持っていたって言う事かな。ゆーち
ゃんが、そのおばあちゃんが困った事と同じ悩みを持つのかも知れないって、心配だとか。

 後から振り返れば、杏子ちゃん鋭い。小学3年生が、多少サスペンスや推理物が好きだ
とはいえ、少年探偵団でもあるまいし、推理で正解の近くに辿り着けるなんて。でも名探
偵杏子ちゃんが今少し真実に及べなかったのは、正解を正解と確かめる術がなかった事で。

「ゆーちゃんのおばあちゃん、髪の毛が針の様に鋭くなって壁に突き刺さるとか、触った
鉄棒を自在に操ってハンマーにしちゃうとか、そう言う技を使っている処、見た事な
い?」

「ないよ……ないと、思う」

 苦笑いを込めたわたしの返事に少し目を光らせて、杏子ちゃんは尚考える様子を崩さず、

「考えられそうなのは、血筋に現れる病気の可能性とか、なんだけどね。いでん病って言
って、ある血筋の人の家には、最初から病気になる種が眠っているって、話なんだけど」

 最後に最も真っ当な話題を持ってくる辺り、果して杏子ちゃんは愉しんでいるだけなの
か、ちゃんと考えて喋っているのか少し疑わしい。

 唯、生れつき病になる怖れを宿した家系というのは、わたしには結構重たい話題だった。
血筋や生れは取り替えがきかない。お母さんお父さんにも相談しにくいし、確かめにくい。
杏子ちゃんもそれを口に出して良いのかどうか迷ったから、最後に持ち出したのか。例え
本当の事でも安易に触れては拙い話題もある。その入口にいると気付いた杏子ちゃんは、
子供ながらに気を使い、話を強引にねじ曲げて、

「ゆーちゃんのおばあちゃんが昔、綺麗な人だったから、心配しているのかも知れないよ。
ゲームでもお姫様が攫われるのは定番だから。さらわれたり、斬りつけられたり。あたし
の様に可愛い人には何かと受難なご時世だし」

 今日担任の先生に注意を促された、子供を狙った変質者による連続傷害事件に結びつけ、

「ゆーちゃんは、おっとりしていて大人しそうだから、危なそうだし」

 話の持って行き方は強引だったけど、わたしも目先の危機に引きつけられた。わたしも、
血筋という代えの利かない物に病が潜む怖れに正面から向き合うのが、怖かったのかも。

「ありがとう、心配してくれて」

 やや明るい茶色の地毛をショートに切り揃えた杏子ちゃんに、わたしは笑顔で答を返す。
その事になら、わたしは十全の自信を持って大丈夫だよと答を返せた。スカートのポケッ
トからキーホルダーを取り出すと、

「このお守りがあるから、わたしは大丈夫」

 青珠のついたキーホルダーを示す。目に鮮やかな碧は夢に描いた南国の海の色、空の色。
笑子おばあちゃんからお母さんを通じてわたしに渡されたそのお守りは、代々諸々の禍を
やり過ごして、無事を保障してくれたそうな。

 由来は詳しく知らないけど、なくしても不思議に手元に戻ってきてくれるので、家の鍵
を付けて持ち歩いていた。不慮の禍から身を守ってくれると言う効果の程は、単に最近禍
が来なかっただけなのかも知れず、実は確かめようがないのだけれど。

「おばあちゃんからわたし迄、代々大きな禍がない侭受け継がれているんだもの」

 実績は信頼を生む。お守りの効果は理屈では追いきれない。その事を杏子ちゃんも分っ
ている様子で、何度か見た事はあるわたしの青珠のお守りを、改めてしげしげと眺めると、

「そうねえ。あたしも欲しい位の綺麗な石だけど、少し儚げで危なげなゆーちゃんにこそ、
なくてはならないお守りなんでしょうねえ」

 自らをしっかり者だと言外に言う杏子ちゃんに、突っ込みを入れようかと思ったけども
う時間切れだ。四本の足は、わたしのアパートの前に着いてしまった。

「じゃあね、ゆーちゃん、また明日」
「また明日ねぇ。今日はありがとう」

 気を付けてね。連続傷害事件の犯人がこの周囲をうろついている可能性がある。出来る
だけお友達と一緒に帰りなさいと、先生が言っていた事を思い出して、わたしはこの先五
百メートル弱の家路を1人で帰る事になる杏子ちゃんに、一言付け加えて途を左に折れた。

 昨日も今日も滞りなく過ぎゆき、明日も又。常の日々は変る事なく続いてきて、今後も
尚続き行く。それを疑う事もせず、その土台が揺らぐ等考えもせず、わたしはアパートの
一階、一番奥にある家のドアノブに手を掛ける。

「ただい……」

 この日常に異変が迫りつつある事など、それが他ならぬわたしの身に迫りつつある危険
である事など、当時のわたしは考えもしてなかった。血が濃い事も、連続少女傷害事件も、
所詮わたしには遠い世界の話でしかなかった。実際に、危険の刃が目に見えて迫るその時
迄。


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 ドアを開けようとした瞬間、突然視界が闇に閉ざされた。それが誰かの掌である事は一
瞬の後に分ったけど、完全に不意を突かれたわたしは動揺を隠せなかった。連続少女傷害
事件や変質者の話をした後だけに、悪い予想が頭を過ぎる。悪党とかお化けとか云う物は、
標的が都合良く1人になった場面を狙う物だ。

 現実の恐怖に直面させられて、体温が急に低くなった錯覚がある。叫び声を上げようか、
この手を振り払って家に逃げ込もうか。杏子ちゃんに声は届かないだろうが、家にはお母
さんがいる。落ち着くと言うより、瞬時の動きが出来なくて、立ち尽くすわたしの耳元に、

「動くな。お前の生命は我が手の中にある」

 囁きかける、低く抑えた女性の声に、

「その声は……、サクヤおばさん?」

 身体から緊張感が一気に抜ける。途端に動くようになった両の手で、目に掛ったその目
隠しを外して振り向くと、やや見上げる位置に少し背の高い見知った美人の笑顔が見えた。

「声を聞く迄分らないとは、つれないねえ」

 掌の感触であたしだと分って欲しかったよ。

 浅間サクヤさんはお母さんの、というより笑子おばあちゃんのお友達だ。年齢は二十歳
代半ば位に見えるけれど、確かに聞いた事はない。やや癖のある長い髪は、図鑑で見た狼
のつやつやの白銀の毛皮に似て美しく力強い。

 野生動物なんかを撮る写真家だけど、大人の賢さと遊び人の気軽さを併せ持つ自由業の
サクヤさんは、雇われ人で勤め人のお父さんと専業主婦のお母さんの家に育ったわたしに
は、物珍しく話題と興味の尽きない人だった。

 年に何度かは家にも顔を出してくれる。出逢う回数は少ないけど、印象深い人なので忘
れる事は難しい。お母さんより二回り位大きな胸と高い身長と、その体格に見合う怒り肩
だけど、バランスが取れていて、日本人の規格を外れて美しい。フリーの写真家という職
業の為か、わたしにはない野性が感じられる。

「びっくりしちゃった。突然なんだもの!」

 勿論わたしは武道の達人でも何でもないから、いつの間にか背後に忍び寄られたって不
思議でも何でもない。この狭い路地で誰かがいればすぐに分る筈だけど、そこは神出鬼没
のサクヤさん。野生動物を写真に収めるには、気付かれず間近に迫る必要があるに違いな
い。

 そう言う訳で、この展開は余り不自然でもないけど。大人なのに妙に遊び心が抜け切ら
ぬサクヤさんは、こういう悪戯心が良く似合う。それよりもっとわたしが驚かされたのは、

「変質者や連続少女傷害事件の話をしていた割に、不用心だねえ。背中ががら空きだよ」

「杏子ちゃんとのお話、聞いていたの?」

 秘密の話でもなかったので、声を低めてはいなかったから、近くにいれば聞かれていて
もおかしくないけど、そもそもわたしには近くにサクヤさんがいたという自覚がない。

「まあ、聞こえちゃったというか」

 咎める口調にはなってないけど、事実確認をするとサクヤさんは、少しためらいつつ
『立ち聞きする積りはなかったんだ。偶々聞えて来ちゃったんだよ』と弁明して、

「夜にもなれば、家に入ってドアを閉める迄気を抜かないのが、淑女の心がけって物さ」

 夜も出回って野生動物を追いかけ、危険を顧みぬ人の言葉とも思えないけど、言ってい
る事は正論なので頷いてしまう。杏子ちゃん辺りならここが突っ込み処だと、言うのかも。

「青珠の守りで、目に見えぬ禍からは守られているけれど、年頃の娘は目に見える禍にも
気を配らないとね。完全な守りってのはないんだ、人の努力で守りを完全にするんだよ」

 って、こんな処で立ち話も何だね。

「あ、そうでした」

 あいさつも抜きに、話に入っていたけれど。

「お久しぶりです、サクヤおばさん。
 どうぞ、入って下さい」

「お久しぶり、柚明(ゆめい)。邪魔させて頂くよ」

 いつもの日常に、少し、変化が生じた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あら、お久しぶり。サクヤさん」

「仕事の関係でこの辺に来たんでね、立ち寄らせて貰ったよ」

「柚明も帰って来たのか、お帰り」

「お父さん……ただいま。今日は早いのね」

 家にはお母さんだけではなく、お父さんもいた。日没前に、平日に勤め人のお父さんが
いるのは珍しい。一昨日から泊りの出張で今日は帰るだけの日だから、出勤不要だそうだ。

「もうすぐ夕ご飯だから、お父さんとサクヤさんの話し相手をしながら待っていて頂戴」

「はぁい」

 わたしはカバンを自分の部屋に置くと、百八十度反転して居間に向う。お父さんとサク
ヤさんの間に割り込んで、今回のサクヤさんの仕事の中身を訊く。写真家でも、山奥や秘
境の野生動物、珍しい草花を撮るサクヤさんの仕事は、わたしの知る世界とは異なり、一
回一回が新鮮で心躍らされるのだ。

 車も通れない獣道を進んで、山を谷を幾つも超えて、人跡未踏の森の奥で、その日の夜
しか咲かない華を、月光の下で写真に収める。或いは何日も何日も、微かな匂いや物音に
警戒する野生動物を追い続け、日の出の瞬間に岩山の上に立つ孤高の姿をフィルムに収め
る。動き続ける生き物を、被写体に気付かれる事なく、一番絵になる角度に、回り込んで
撮る。

 雑誌に載ったサクヤさんの写真にわたしは、吸い込まれそうになった。野生動物はそこ
で生きていて、一番光り輝く角度から撮られていたし、花や蝶は最も美しく、今この時を
逃したら折れて朽ちる位儚さと危うさがあった。わたしも一時写真家になりたいと思った
程だ。

 イノシシやクマ、蚊や蛭の潜む茂みの奥で。足場も悪いし、雨でも降ればぬかるんだり
滑ったり危険な中を、重たい写真の器材を抱え、颯爽と進むのか。その表情は流石に労苦
に少し歪んでいるだろうか。それともいつもの飄々とした美形に、汗と微かな笑みを浮べ
ているだろうか。泥まみれになっても雨に濡れても、サクヤさんならそれなりに映えて美
しい気がしてくる。そう、サクヤさんこそ生命の限り動き続けるしなやかに強靭な野生動
物だ。

「暫く見ない内に、大きくなったねえ」

 ソファに座っていたサクヤさんは、改めてわたしを見つめると、立ち上がって並び立ち、

「前に逢ってから、まだ半年しか経ってないと思ったけど、子供の成長は早いもんだね」

「身長は百三十センチを超えました」

 小学3年生にしては、やや大きめな方かも。

「ほう、そうかいそうかい」

 近接して立つと、サクヤさんの顔は見上げる位置にあり、真正面はサクヤさんの喉やう
なじ、鎖骨の辺りか。僅かに目線を下げれば、と言うか視線を導かれてしまうのは大きな
胸。余り近くに立つと肩や頭が触れてしまいそうだけど、本人は全く気にしてない様だ。
逆にわたしがそれを意識していると見抜いた様で、

「おっ、子供から女の子になってきたね」

 瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。

 頬を赤らめて俯く頭に、大きいけれどしなやかな右腕が降りてくる。くしゃっと髪の毛
を掻き回す様に強く撫でられる。その侭顔が大きな弾力のある胸に弾かれた。これもサク
ヤさん流の愛情表現で、いつものあいさつだ。

「こうして暫くぶりに見ると、段々笑子さんに似てきた気がするよ。血は争えないねぇ」

 その一言で、わたしはさっき杏子ちゃんと話した血の話題を思い返した。サクヤさんは
随分昔から笑子おばあちゃんを知っているという。お母さんやお父さんに訊くのも良いけ
れど、サクヤさんに訊いてみる方法もあった。

「お茶をどうぞ。柚明も座りなさい」

 お父さんが、お母さんに手渡されたお茶と茶菓子の乗ったお盆をテーブルに置き、わた
しに声をかける。ややふっくらしたお母さんに対し、お父さんはひょろっとした痩せ型だ。

「今回も、いい仕事になったようですね」

 時節のあいさつと言うよりも、サクヤさんがすっきりした表情なのを見て取ったお父さ
んの言葉に、サクヤさんは座りながら頷いて、

「今回は結構まとまった量の仕事をこなしてきたからね。暫くは直接収入にならない長期
取材を出来るだけの財力は整えた積りだよ」

 わたしが喜ぶ事を分ってくれて、サクヤさんは大きくプリントしてくれた今回の成果の
写しを何枚か、手渡して見せてくれる。確かに、その枚数もその中身も、前回や前々回に
見せて貰った写真の数より段違いに多かった。

 写真の良さはよく分らないけど、被写体や枚数の多さで今回サクヤさんが相当な仕事を
こなして来たと分る。多彩で多様で鮮やかで。時に華やかで、時に張りつめた緊張感が漂
い、時に触ると平面から対象が浮き出そうな物も。

「長期取材?」

 わたしが写真から首をサクヤさんに向け直した時、わたしが問いたかった言葉をお父さ
んが発してくれた。一ヶ月二ヶ月かけて写真を撮りに山奥離島へ行く事を、半ば当り前と
捉えているサクヤさんが敢て長期というのだ。

「かなり長くなるの?」

「うーん、相手がある事だから確かな事は言えないんだけどね。一筋縄で行かなさそうな
相手だから、じっくり腰を据えて掛らないと。
 まあ、偶には本業の方も励まないとさ」

「本業……?」

「ルポライターの、方ですか?」

 お父さんの言葉でわたしも漸く思い当った。そう言えばサクヤさんは、元々フォトグラ
ファーではなくルポライター、物書きが本業だったのだ。経済とか事件とかを取材して雑
誌に載せる。それらの記事に添える為に撮り始めた写真が予想以上に好評で、そちらにも
力を入れ始めたと、随分前に聞いた事があった。

 文章の仕事は、難しそうでよく分らないし、最近はサクヤさんも写真を主に撮っていた
様なので、すっかり忘れていた。わたしの興味がそっちにしかないから、忘れていたのか
も。

「見栄えの良い物ばかり追いかけている訳にも行かないのさ、世の中って奴はね」

「?」

 わたしは、話の繋りが分らずに首を傾げる。サクヤさんが今迄追ってきた被写体は美し
い物だったけれど、今度追いかける物はそうではないのか。だから写真ではなく、文字で
記録に収めると。美しさを残さなくても良い物。でも、そんな物をわざわざ取材し記録に
残す意味なんて、あるのだろうか。それがお仕事と言えば、大人の事情なのかも知れない
けど。

「柚明は部屋が汚れていたら掃除するだろ」

 サクヤさんはわたしの顔に浮かんだ疑問を、言葉にしない内に読みとれた様子だった。

「綺麗にするには、ほうきや雑巾やはたきを使うだろう。掃除をすれば部屋は綺麗になる。
でも、それはほうきや雑巾やはたきや、柚明自身が汚れて疲れる事と、引換なんだよ」

 綺麗にするには、汚れを取るには、汚れに立ち向かい、自分も汚れなきゃいけないんだ。
そう説明されて何となく分って来る気がする。

「綺麗にする為に、サクヤおばさんは綺麗じゃない物を記録しようとしているの?」

 綺麗にするには、綺麗にする人が汚れなきゃいけない。綺麗な侭では、綺麗さを取り戻
す事は出来ない。お掃除は正にその通り。そしてサクヤさんは、世の中をお掃除しようと
しているのだと、お父さんが説明してくれた。

 ルポライターとはそう言う仕事だと。世の中の汚れに分け入り、どこがどう汚れている
か記録して、みんなに伝える大切な仕事だと。綺麗な物が好きなサクヤさんでなければ出
来ない、何が綺麗で何が汚れか見分けられるサクヤさんでなければ出来ない大切な仕事だ
と。

「世の中には結構大きな汚れもあるんだ。父さんや母さんでは気付けない隠された汚れも
ある。でも、掃除する方法がない訳じゃない。世の中のみんなだって、綺麗な物は好きだ
し、汚れに気付けば落とそうよって思う人は多い。
 ここが汚れていますよって、みんなに見せれば、みんなが気付けば、何とか出来る事も
ある。みんなに報せるお仕事、それがルポライターなんだって、少し難しかったかな?」

「うん、でも、何か分った様な気がする…」

 綺麗な物が大好きなサクヤさんが、綺麗じゃない物を追いかける仕事を選んだのも、そ
の汚れを取り除いて綺麗にしたいからなんだ。わたしはそんなサクヤさんを好きで良かっ
た。

「本当は、そこ迄上等な動機で始めた訳じゃあないんだけれどもね」

 サクヤさんは、お父さんの正当過ぎる説明に、少し照れていたのかも知れない。

「今回の件には、個人的に抜き差しならない関りもあるのさ。今度は、戻って来れても綺
麗な写真は期待しないでおくれよ」

 珍しく少し険のある表情を見せたサクヤさんだったが、後段でわたしに見せてくれた顔
は優しくて陽気ないつもの笑みだ。あの険は、これから落とさなければならない汚れに向
けての物なのだろう。決意、と言うのだろうか。

 その両方に、強さと優しさと美しさをこの上なく感じ取れて、わたしはサクヤさんがと
ても愛おしく思えてならない。お父さんやお母さんへの思いに似ているけれど、少し違う。
これは杏子ちゃんへの思いに似ているのかな。

「うん。サクヤさんが元気で綺麗な侭帰ってきてくれたらいい。わたしにとって、一番綺
麗なのは、サクヤさんだから」

 ごめんね、杏子ちゃんは2番目です。

「お、言ってくれるようになったじゃないか。
 でも、これ以上おだてても何も出ないよ」

「そのお仕事の後で良いから、また綺麗な写真を撮れたら見せて」

「あんたは本当に写真が好きだねえ」

「写真もそうだけど、わたしはサクヤおばさんが好きなの。わたしは、サクヤおばさんの
撮った写真だから好きなの」

 写真を見るのも楽しみだけど、その写真を撮るサクヤさんの姿を思い浮べるのがわたし
は好き。その写真を撮る為に山野を駆けるサクヤさんが瞼の裏に浮ぶのが心地よい。額に
浮ぶ汗を拭ったり、草藪を掻き分けたり、斜面をよじ登ったりするサクヤさんを夢に見る
のが好きだ。写真を通じてサクヤさんに近づける気がするのが、一番のわたしの目的……。

「はい、夕食が出来ましたよ」

 お母さんの声を聞いた瞬間、思い出した様におなかの虫が声を上げる。慌てておなかを
抑え、俯き加減にお父さんとサクヤさんを見つめると四つの目は暖かな笑みを浮べていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 今日はいっぱい話し込んだので疲れたのだろう。夕食の鍋を四人で囲んで、楽しく食事
を終えた頃、わたしは不意の睡魔に襲われた。見たいテレビドラマもあったけど、意識は
床の下に吸い込まれ、身体はだるくて動かずに、手近のソファに横たわった侭わたしは眠
りの淵に落ち。そして、どれ位経った頃だろうか。

「柚明の血は、かなり濃いみたいだね」

 確認する様なその声は、サクヤさんの声だ。

 その話題が、落ちかかるわたしの意識を、くっと現に引き止めた。身体は疲れの侭に泥
の様に横たわりぴくりとも動かない。その為か、みんなわたしが眠り込んだと思っている。

 意識だけがまどろみつつ尚現に止まり続ける中で、目も開かぬ中で、耳に流れ込む声は、

「私の代が薄かった反動、なのかしら」

 お母さんが言いたいのは『かく世い伝』か。

「あんたも、正樹程じゃあないにしろ、薄い方だって言われていたからね」

 サクヤさんの口から出たマサキと言う人は、笑子おばあちゃんの実家に住んでいるお母
さんの弟で、わたしの叔父さんに当たる。お母さんは正樹さんとの2人姉弟、お父さんは
男ばかり5人兄弟の4番目だ。

「私が母さん(笑子おばあちゃん)の3分の2位、正樹が私の半分位。正樹に到っては殆
ど普通の人と変らないと、母さんも」

「贄の血が匂わない、か。それはそれで、鬼に狙われる事なく生きて行けるから、却って
良い事なのかも知れないけれどね。でも、その子供達の世代がどうかは、分らないんだ」

「私はもう薄まりすぎていて分らないんだが、柚明の血はそんなに濃い物なのかね?」

 お父さんの声は多少の不安を帯びて聞えた。痩身なので、神経質に見られ易いと普段は
温厚と従順を前面に出すよう努めているお父さんだけど、この話題になった時には小刻み
に貧乏揺すりをするなど、動揺を隠しきれない。

『確か、お父さんの実家もかなり遡ると、笑子おばあちゃんの血、羽藤の血に繋るって』

「母さんより濃い贄の血は初めて見ました」
「笑子さんの2倍強って所かね、見た感じ」

 わたしはやはり『かく世い伝』で血が濃い。その事を再確認し、心に刻みつつ、わたし
の疑問は更にその先に跳ぶ。血が濃いと、どう問題があるのだろう。両親やサクヤさんが
心配しなければならない何が、あるのだろうか。鬼とか贄(にえ)の血とか、聞いた気が
するけど、何がどう繋るかわたしはよく分らない。

「贄の血として匂い、鬼を呼び寄せる怖れがある濃さの下の限界は、私位なの。私より薄
い人、正樹みたいな人は、贄の血として匂う事はないから、鬼に狙われる心配は低くなる。
その代り薄い血に宿る力も微弱で、修練しても贄の血の力を使いこなせないし、鬼を見つ
ける事も出来ない。退ける力も術もない」

 血が濃いと鬼を見つけたり退けたり出来る代りに、血が匂って鬼にも見つかってしまう。
薄いとその力がない代りに、見つけられる心配も薄まる。背中から羽根も生えないし、身
体が石の様に堅くもならないけど、贄の血がどういう物かは分らないけど、杏子ちゃんの
言っていた話に符合するので、呑み込み易い。

「襲われる怖れと回避の力が比例していると言う話なら、何度か聞かされたよ」

「私は母さんにお願いして、必死に贄の血の扱い方を習ったわ。この町で暮らしていける
様に、この人とどこでも行ける様に。私の濃さでは殆どの力は使える程にならなかったけ
ど、贄の血の匂いを抑える事には成功した」

 身体に流れる血を使いこなせば、安全になれるのか。お母さんは、そうして大丈夫に…。

「唯、柚明の血は濃いよ。尋常じゃない程」

 青珠の守りが利いているから、あたしの様にそう知っている者でないと気付けないけど。

 サクヤさんの声に頷いたのは、お父さんだ。

「だから、出血には気を付けています。普通の子供なら膝小僧を擦りむく位、女の子だっ
てない訳じゃない。それが生命に直結しなければ絆創膏を貼って済ませても良い。でも」

「柚明の出血は青珠の守りで隠せても、残された血の染みは乾く迄匂い続けるから」

 わたしはこのお守りで護られている。青珠がなければ、血の匂いを嗅ぎつけた鬼に狙わ
れる。狙われて捕まったらどうなるのだろう。

「あんた達が柚明に多少過保護だと聞いて、そう言う事なのかと思ってはいたけれどね」

 サクヤさんの語調は静かで、お父さんとお母さんのこれ迄の対応に得心がいった感じだ。

「青珠の守りも、定期的に力を入れ直さなければならないと言う話は、承知しています」

 半年を超えて保たせるのは難しいとの話も聞いているので、その点も気を付けています。

「私では青珠に守りの力を流し込める力はないから、年に3度は母さんに入れて貰いに行
っているのだけれど。勿論、柚明も連れて」

 私たちは年に何度か、笑子おばあちゃんの家に行っていた。電車のローカル線を乗り継
いで、山奥の緑が綺麗な村へ。ほぼ定期的に、年末年始と、ゴールデンウィークと、お盆
と。

「いつかは柚明にも事実を話して、力の扱い方を憶えて貰わなければ、ならないけれど」

 もう少し大きくなって、事の重さに耐えられる位大人になってくれるのを、待ちたいの。

「それだけ濃い血を持って生れた以上、力の扱いを憶えなければならないのは宿命だろう。
生れつきからは逃れられない。巧く折り合いを付けてやって行く他に術もない。だが、も
う少し大きくなる迄は、普通の子供として」

 青珠を手放さない様に繰り返し言われてきたのには、そう言う事情があったのか。わた
しはその宿命がどれ程重いのか予想もつかず、考えもせず、日常の延長で聞き流していた
…。

 そんな重大事に直面した経験もない以上は、仕方なかったかも知れないけど。青珠があ
れば大丈夫だと、お母さんが習えたならわたしも大人になる頃には憶えられると、単純に
楽観的にそう見通して、危機感も特に抱かずに。

 唯そんなわたしでも、両親とサクヤさんがわたしの身を心から案じてくれている事だけ
は感じ取れた。みんなわたしを護ってくれている。それが言葉の端々から分る。それがわ
たしに根拠のない楽観を植え付けていたのか。

「幸せな時の過ぎ去るのは瞬く間のこと…」

 お母さんは、私の顔に掛る前髪を手で拭い、

「この青珠が、今迄母さんや私を守ってくれた様に、柚明やその大切な子達をも、守って
くれます様に……」

 大人の愛に護られて柚明の夜も更けて行く。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「鬼切部が、動き出しているらしい」

 サクヤさんがその言葉を出すと、場を微かに別の種類の緊張が包むのが分った。

 おにきりべ、という言葉はわたしの頭の中では異質な響きで印象に残った。鬼を切る人
の事だろうか。現代日本に鬼という言葉が出た以上に、鬼を切る人という存在は不思議で
謎めいているけど誰もその疑問を口にしない。

「例の連続少女、傷害事件?」

 サクヤさんにお母さんが尋ね返したのは、昼間に先生から注意され、杏子ちゃんとも話
していた変質者の話だった。鬼という、妖怪変化の親戚みたいなあやふやな存在が、急に
現実の血肉を持つ脅威になってきた。

「ああ。鬼がらみの可能性が、あるらしい」

 ジャーナリストに近いサクヤさんは、そう言った情報入手の途がある様だ。真剣と言う
より、鬼切りに微かに非好意的なのか、サクヤさんの語調はいつもより低く不機嫌に近い。

「まだ確定じゃなくて、鬼切部の手先が警察や鑑識から情報収集を始めた段階らしいけど、
運良く生き残れた子供の証言や遺体の傷口に噛み傷と引っ掻き傷が多い事、それに血の損
傷が多い事が疑いを招いたみたいだね。警察でも鬼切部でも、とっとと動いて犯人を捕ま
えてくれれば何も問題はないんだけれどさ」

「鬼切部の疑いが当たっていれば、この辺りをうろつき回っている鬼がいる事になる?」

 お父さんの問い返しが、サクヤさんの懸念だったらしい。単なる変質者の傷害事件でも
危ないけれど、相手が鬼であれば更に大変だ。鬼がわたしの血の匂いを、辿って来るかも
と。

「こういう場合は最悪の事態を前提に考えた方が良いよ。青珠がある限り、柚明の血の匂
いに呼ばれる鬼は現れはしないけど、街角でばったり出会して襲われる怖れは消えてない。
 この犯人が鬼だったなら、この町の周辺で贄の血とかは関係なく、唯子供の血を求めて
うろついている鬼って事になる。危険だろう。

 柚明を家に囲い込む形になって、窮屈かも知れないが、出来る対策は打っておくべきだ。
長く学校を休ませる事は難しいけれど、学校や町内会、近くの交番にも防犯を促し、必要
最低限以外は外に遊びに行かせないとか…」

 犯人が捕まって事件が解決する迄だけでも、それは必要だね。お父さんが頷く声が聞え
る。

「最近は、鬼の様な人も多くなってきているから、鬼と人の区別が付きにくくて困るよ」

 全くね。お母さんの答は微かに笑みを含んで聞えた。サクヤさんがひとしきり情報を伝
え、対応を促して、仕事終りとばかり砕けてくるのに、合わせた感じだ。

 ところでさ。サクヤさんのその声に、お母さんが向き直る気配が感じ取れた。

「その青珠は贄の血に引き寄せられるんだろ。なくした時に、柚明じゃなくあんたに引き
寄せられる心配はないのかい?」

 サクヤさんの質問の辺りから、流石にわたしの意識も怪しくなってきた。両親やサクヤ
さんの心配が多少なりと見えてきた満足感が、心を緩ませたのか。身体は既に縫いぐるみ
で動かない中、心も床下に引き込まれつつある。

「大丈夫よ。私より柚明の方が、遙かに強く青珠を引っ張っているから」

 お母さんの声が遠のいていくのが分る。

「血が濃い方が、青珠を引っ張る力も強いって事かい。青珠は羽藤の贄の血を護る物、単
純に反応の強い方に来るって話は分るけど」

「私の足下に置いても、隣の部屋にいる柚明の下に転がって行こうとするの。私は、青珠
は誰が自分を必要としているかを、分って動いているのではないかと、思うのだけれど」
 握ってでもいない限り、上り坂でも自然に柚明の所に転がって行く。道を探すように左
右に振れもするの。ちょっとした怪奇現象よ。

 サクヤさんはその夜遅くに、帰ったらしい。サクヤさんは自分が長期取材に没入して他
に気を配れなくなる前に、サクヤさんにとって大切な人の様子を確かめたかったのだろう
か。わたし達が、笑子おばあちゃんの家に行く前に、植木や花に水をやっておきたくなる
様に。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「サクヤさんなら、また来るそうよ。納入した写真を編集部が確認して、報酬が振り込ま
れる迄は動き出さないって、帰りがけに言っていたわ。仕事場の整理もあるんですって」

 今日は来ないかも、知れないけれど。

「長期取材に入るのは来週末か再来週だって言っていたから、それ迄に一度は顔を出して
くれるんだろう。柚明と風呂に入りたかったが振られてしまったと、残念がっていたぞ」

 翌朝目を醒ましたわたしを待ち構えていたのは、全く変らぬ普段の日々だ。お父さんは
バス通勤なので、わたしより少し早く朝ご飯を食べ終っていて、二言三言話した後でお仕
事に行く。わたしが朝ご飯を食べ終える頃に、杏子ちゃんが迎えに来てくれて一緒に学校
へ。

 結局、少し話が見えてきたけれど、昨晩の長い話の全部を憶えておく事は出来なかった。

 杏子ちゃんに伝えたい気持はあったけれど、それは思い止まった。お母さんやお父さん
がわたしを思って隠していた事を、盗み聞きの様な情報で伝えてしまうのは、気が進まな
かった。重大な話の様だったし、何より昨日の話は長く、わたしがきちんと整理できてな
い。

 夢現だったので上手に聞き取れなかったし、大人の間では分って交わしているやり取り
が、わたしには初耳で思い浮ぶ単語が出てこない事もあったし。今でも昨夜の話を全部憶
えているかどうか、あやふやだ。

 昨日の話を杏子ちゃんに持ち出せなかったもう一つの大きな理由は、例の事件の所為だ。

「4組の石崎絵里香さんが、中央公民館裏の空き地で発見されました。生命に別状ありま
せんでしたが、意識不明の重傷だそうです」

 ざわ、ざわ、ざわ。

 これ迄噂というか、どこか他人事でみんなも事件を受け止めていたのだと思う。そんな
凶悪な犯人もこの世の中にどこかにいるのね、位の感覚で。それが急に身近に間近に迫っ
てきた。顔見知りの人、すぐ身近にいる人が襲われた。次はわたしが襲われるかも知れな
い。危険は肌身に迫ってきている。鳥肌が立った。

 鬼、なのだろうか。昨夜サクヤさんが話していた、血を求めてうろつき回るという、鬼。
人を襲い、血を啜り、肉を喰らう恐ろしい鬼。それが、わたしの家の近くにいるのだろう
か。

 鬼でなくても、それは充分に深刻な問題だった。人の安全や生命が脅かされているのだ。

「今日から暫くの間、全校生徒には集団登下校をして貰います。また、帰宅後の外出は原
則禁止とし、塾などの習い事に行く場合も保護者同伴か2人以上の友達で行く事とします。
 帰宅後は必ず学校の担任に連絡を入れる事、また不審者を見た場合には即座に連絡を
…」

 サクヤさんが言っていた対応策が、一斉に取られていく。流石に鬼は想定してないけど、
これだけの対応をとれば子供を襲う毒牙とて簡単には罪を犯せまい。

 日常とは言えないが、学校や世間は緊急時でも、それなりに一日の流れをこなしていく。
犯罪者は大人社会では偶に現れる物で、備えは必要でも、来るか来ないかも分らぬ物を待
ち構えて、生活の全てを抛つ訳にも行かない。

 相手が犯罪者でも鬼でも、そうなのだろう。日常を壊しに来る者は防ぎ止めねばならな
い。でも、備えの為に日常が食い潰されるのは本末転倒と。出来る限りの安全を確保し、
事の解決を望みつつ、世間は日常を保とうと望む。

 この時点迄、この日の夕刻迄は、わたしを巡る状況はまだ、日常とは言えなくても通常
に収まる物だった。どんどん状況が変り行く。その流れに、微かに薄ら寒い物を感じつつ
も、知り始めた事実に怖れを感じつつも尚、わたしはまだこれ迄の大きな流れから、外れ
てないと思い続けていた。思い続けていたかった。

 杏子ちゃんや先生や、サクヤさんや両親に包み込まれていた、これ迄の9年間の延長に、
今夜も明日もあると。今日会えた人は必ず明日も逢える、さよならは次に逢う迄の繋ぎの
別れと、信じて疑わなかった。

「ゆーちゃん、また明日」
「また明日ね、みんな気を付けて」

 似た方角の子供はクラスを問わず一緒に帰るとされたので、今日の下校は十数人の集団
になっていた。わたしの家迄に数人の家を巡ったが、それでもバイバイと手を振る杏子ち
ゃんの後にはまだ4人の同学年の友達がいる。

 最後の子供は、距離が短くても前の家からタクシーで行く徹底ぶりで、仮にそこを狙う
変質者がいても、気付かれずに襲い掛る事はできないだろう。目撃者がいれば通報できる
し、大抵はそれを怖れて手出しをしない。窓を破られ家に侵入されたら打つ手はないけど。

 みんなの姿が消える前に、わたしは玄関に駆け寄り、扉が開かない事を知るとポケット
から青珠のついた鍵を取り出して、自ら扉を開け放つ。お母さん、いないんだ。

「家に入ってドアを閉める迄、気を抜かないのが、淑女の心がけ、と」

 しっかり鍵をかけ、安全を確かめると電話口に小走りで駆ける。担任の先生に、無事帰
宅できましたと確認電話をする。先生から1人で外に出歩かない様に、ジュースやおやつ
がなくても我慢して家で待つ様にと諭された。

 わたしは食い意地の為に危険を冒す程勇敢ではないし、家にはお茶のペットボトルも何
本かある。塾や習い事もしてないし、今日はお友達ともお勉強や遊びの約束もない。

 お母さんの不在が気に掛ったけど、机におやつと一緒にあった紙が事情を教えてくれた。

『市立病院に行って来ます、遅くなるかも知れないから、おやつを食べて待っていてね』

 結果から言うと、わたしはこの言いつけには背く事になる。間もなく入った一本の電話
が、わたしを病院に向わせる事になったのだ。

 ぷるるる。ぷるるる。ぷ……。

 電話が3度迄鳴らない内に、わたしは受話器を取り上げる。相手を待たせるのは悪い気
がするし、わたしは電話が鳴りそうな気配をなぜか感じ取れる妙な特技がある。これも昨
日の話にあった血の濃さの効果なのだろうか。確かに杏子ちゃんに不思議がられたけど、
余り活用できた特技ではなさそうな気もする…。

「はい……」

 名乗ろうとしたけど受話器の向うはわたしの返事でわたしをわたしだと分った様だった。

「柚明か?」

 少し緊迫したその声は、お父さんの声だ。

「うん。今、帰って来たところ」

「良いか、落ち着いて良く聞くんだ。これから父さんが迎えに行くから、家で待っていな
さい。母さんが、交通事故に遭った」

 え。わたしは、頭に知っている単語が届いたにも関らず、暫く意味を理解できなくて返
事が出来なかった。母さん、交通事故?

「病院に行こうとしていた所、大通りで突っ込んできた車に撥ねられたらしい。病院が間
近だったから即座に運ばれた様だが、保険証を持っていたんで、すぐ連絡が入ったんだ」

 生命には別状なさそうだが、安否を確かめにこれから父さんも病院に行く。タクシーで
迎えに行くから、柚明は家で待っていなさい。

「母さんは、大丈夫なの?」

 わたしも、動揺の余り聞いても意味のない事を口にしていた。それを確かめに、これか
らお父さんはわたしを連れて病院に、お母さんの元に行こうとしているというのに。でも、
お父さんはそれで冷静さを取り戻したらしい。

「ああ、大丈夫だ。きっと、大丈夫」

 お父さんは半ば自分に言い聞かせる感じでそう応えると、今行くから待ってなさいと言
い残して電話を切った。職場から休みを取ってタクシーを飛ばしてくると、どの位時間が
掛るのだろう。外に飛び出したい思いを抑え、徐々に暮れゆく赤い空を睨んで、青珠のお
守りを握り締めながら、時を過ごし、時を待つ。

 お母さんを心配し、お父さんを待ち望むわたしの心は、既に連続傷害事件を片隅に押し
やっていて、それ以前の鬼とか、血の濃い薄いの話題なんて、片隅にも残っていなかった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「せ、先生っ。妻の、妻の容態は……?」

 面会謝絶の札が下げられた病室の前で、お父さんが若いお医者さんに食い付いていた。
わたしの間近には若い看護婦さんが、もう少し離れてもう1人年輩の看護婦さんが、お医
者さんとお父さんの両方を心配する様に困った表情で立ち尽くしている。

 病院には着いたけれど、お母さんのいる病室の前迄来たけれど、そこから先へ進めない。
すぐに逢わせてもらえないのは、容態が悪い事を示すのか。確かめられない事が、わたし
の不安を高める。お父さんもそうだった様で、若いお医者さんに詰め寄って、声を荒げる
が、

「落ち着いて下さい。生命に別状ありません。意識がないのは眠っているだけです。おな
かの赤ちゃんも、大丈夫ですから」

『おなかの、赤ちゃん?』

 お医者さんの必死の説明で、漸くお父さんの力が抜けた。白衣を掴んでいた両手が下が
り、ほうと息を吐き出すと、

「そうですか……済みません、取り乱して」
「お気になさらずに。取りあえずこちらへ」

 容態の説明をするのだろう。難しい話である以上に、お母さんの怪我の状態を詳しく話
す事になるので、子供は入れて貰えない。ついていきたい思いが顔に出ていたのか、若い
看護婦さんに『ここで待っていましょうね』と引き留められた。お父さんも振り返って、

「少しお医者さんと話してくるから、待っていなさい。そんなに長くは、掛らないから」

 そうしてわたしは病室前の廊下に残された。

 緊迫している筈なのに手持ち無沙汰なわたしは、日が落ちて暗くなった窓の外を見つめ、
白熱灯の人工的な灯りに照される室内を眺め、時を過ごす。騒いでも回りに迷惑だし、看
護婦さんやお医者さんが時間を取られてお母さんの看護や手術が出来なくなるかも知れな
い。

 お母さんの容態は心配だったけれど、直接顔や寝ている姿を見られないので、どんな状
態なのか想像もつかない。出血している処とか見てしまえば、わたしも泣き叫ぶとか倒れ
るとかしたかも知れないけど。こういう場で子供にできる事は殆どない。役に立てる事は
殆どない。それが少しわたしを気落ちさせた。こう言う時だからこそ何か役に立ちたいの
に。

 子供なので、大人しくしているのは余り得意ではなかったけれど、ベンチに座ってスカ
ートから足をぶらぶらさせて、状況が変るのを待つ。青珠の輝きを見つめていると、心が
不思議と安らいでくるのが分る。焦りも熱も、蒼い輝きが吸い込んで打ち消してくれる様
だ。

 体調が良くない時も心が沈んだ時も、この輝きがわたしを元気づけてくれた。常に近く
にあるので自覚もしなかったけど、青珠はわたしを禍から守るだけでなく、わたしの日常
を見つめてお守りしてくれていたのだろうか。

 何分経ったか定かでないけど、看護婦さんが外して1人になって、閑を持て余してから
暫く過ぎた頃、お父さんがお医者さんと一緒に通路から戻ってきた。お父さんの様子はさ
っきより随分落ち着いている。お話は、お母さんの容態は、そう悪くはないのだろうか?

「母さんは、大丈夫だそうだ」

 生命に別状がないと説明されて、お父さんも納得できたという事は、本当に大丈夫なの
だろう。その声にも、わたしを安心させる為という以上の落ち着きを感じられた。

「かなりの衝撃と出血だったらしいが、事故現場が病院の間近で、すぐに搬送して手当で
きたのが幸いしたらしい。出血が多いので体力が落ちているのと、暫くは絶対安静なので
入院が必要だが、精密検査をして大丈夫なら、何日か様子を見て退院もできると言う話
だ」

 面会謝絶となっているけど、大量出血で疲労しているから、お見舞いが次々に来るのは
体力的に拙いという事だけで、容態が悪い訳でないらしい。それを聞いて幾分ほっとする。

「今は疲れて、眠っているらしい。揺さぶったり、起こしたりしなければ、様子を見る位
なら良いと、お医者さんが言ってくれた」

 お母さんを轢いた車の運転手は、後で聞いた話では多くの余罪があって、その場で警察
に逮捕されたらしい。お父さんもお母さんも、顔を見る事も謝罪を受ける事も叶わなかっ
たけど、わたしもお父さんもこの時はお母さんの様子が気掛りで他の事はどうでも良かっ
た。

「今晩は母さんの寝顔を見て、帰る事にしよう。母さんの眠りを邪魔しない様に、大きな
声を出したり、揺さぶったりはせずに、ね」

 お父さんの言葉にわたしはこっくり頷いた。

 お母さんは疲れている。傷ついて疲れた身体を休めに眠っている。今は眠らせてあげる
のが、お母さんの為になる。頑張ってと元気づけるのは、明日お母さんが目を醒した後だ。

 抱きついて無事を確かめたい、抱き留めて貰って安心したい、その思いを抑え込んでわ
たしは病室のドアに目を向ける。でもお父さんは、すぐ病室に入っていこうとしない。お
医者さんも看護婦さんも、それを待つ感じで少し離れている。お父さんはわたしを見つめ、

「話して、おかなければならないな」

 わたしも聞きそびれていたけれど、

「母さんのおなかには今、赤ちゃんがいる」

 お父さんは屈み込んで、わたしの瞳を見据えて話し始めた。大事な事を話そうとする時、
お父さんは必ずこうやって、わたしの瞳を覗き込む。黒目の中には、わたしが映っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしを生んだ時お母さんは、かなりの難産だったらしい。それが笑子おばあちゃんの
血の所為かどうかは分らないけど、わたしを生んだ時も、一時はもうダメだとお医者さん
が諦めかけたと聞かされた。お母さんが、どうしても生みたいって、お願いしてお願いし
て、漸く産み落としてもらえたのだと。

 その話を聞いたのも実は5歳の時。お母さんが、わたしの弟を生もうとして生めなくて、
やむなく流産してしまった時にお父さんから。確かその時も、こんな病室の前だったと思
う。

 お父さんもお母さんも、もっと子供が欲しかったのだろう。わたしも弟ができると聞か
され、心待ちにしていた。小さい生き物はみんな可愛い。子犬も、子猫も、ハムスターも。
お父さんとお母さんの子供なら、わたしの弟ならどれ程可愛い物だろう。これ迄わたしは
お父さんとお母さんに愛されてばかりだった。今度はわたしも愛する側になってみたい。
予定日を聞き出すと、わたしは毎日何回もカレンダーを眺め、青珠を眺めて日々を過ごし
た。

 予定日迄半月になったある日、お母さんが突然苦しみだした。幼稚園から帰ったばかり
のわたしは、おろおろしながらお母さんの指示で病院に電話をかけ、救急車に来て貰った。

 大急ぎで運ばれたお母さんは、おなかの中の弟と2人で手術室に入っていったが、出て
きた時は1人だった。処置は間に合わなかったらしい。わたしが、もう少し早く電話をか
けていれば、弟は助かっていたかも知れない。

 仕事場から駆けつけてきたお父さんと2人、病室の前で一晩を過ごした。わたしはそこ
でお父さんからお母さんの流産を報された。お母さんは一生懸命生ませてと、生みたいと
お願いしたけれど、お医者さんはお母さんの身体と生命を守るので精一杯と決断したらし
い。

「母さんが無事で、良かった」

 生れる筈だった子供が、生れられなかった、生めなかった事は残念だけれど。お父さん
は哀しみに顔を歪めながら、わたしの小さな手をその大きな両手で包み込んで、

「済まないな。弟は、生れない事になった」

 母さんには代えられない。

 お父さんのその一言には、どれ程の苦味が混じっていたのだろう。そしてそれを口にす
る為に、どれ程の想いを込めたのだろう。わたしは、頷くだけで言葉を返せなかった。

 世の中には、一つを望むとそれ以外を手に入れられないと言う時がある。一つを望む為
には、それ以外を諦めなければならない時がある。どんなに大切な物であっても、全部を
望めない時がある。その時が正に今なのだと。

 まだ名前も付けられてなかった弟。
 まだ顔も見てない、声も聞いてない弟。
 触る事もできない侭、遠くへ去った弟。

 その弟の生命と、生れる筈だった生命と引き換えに、お母さんの生命は繋ぎ止められた。

 悔しいけれど、残念だけれど、この世にはどうしようもない事もある。人の手や努力で
はどうにもならない事がある。どんなに頑張っても頑張っても及ばない事がある。だから
人の手でどうにかなる事は、努力で何とかできる事は、何とかしようとお父さんは言って、

「母さんを、責めないでくれ」

 お母さんは、精一杯頑張った。生命の限り、頑張った。一番傷ついているのはお母さん
だ。

「次の時に、頑張ってもらおう。
 おなかの中の子が戻ってくる事はないけど、おなかの中の子も柚明と同じでこの世にた
だ一人きりの、かけがえのない宝物で、もう一度生むなんて事は出来ないけど。お母さん
が元気なら、まだ弟や妹を生む事はできるんだ。
 誰かを誰かの代りになんて出来ないけれど、今のおなかの子の代りはいないけれど、生
きている限り努力する事は出来るんだ」

 5歳児には、難しい話だったかも知れない。でも、お父さんとわたしは家族だった。一
緒に暮らして、お話もしていた。この時に意味迄憶えられなくても、この時に全文暗唱で
きなくても、毎日の暮らしでその様な心の持ち主と話をしていれば、自然とその思いは擦
り込まれていく。わたしは、一生懸命お父さんの静かな言葉を聞き取って、考えて、頷い
て。

 おなかの中の弟は、この世にかけがえのない一人きり。生れる前に、生命の炎が消えて
しまったけれど、わたしにはたった一人の弟。忘れまい。お母さんとお父さんが待ち望み、
わたしも待ち望んで、大好きだった弟を……。

 瞼から涙が溢れそうになるわたしを見つめ、

「母さんと、弟の為に、泣いてあげると良い。自分の為じゃなく、自分が痛かったり悔し
かったり哀しかったりするからではなくて、自分以外の誰かの痛みや哀しみの為に、泣い
てあげられる人に、柚明にはなって貰いたい」

 きっと母さんも、そう願っている。

「本当に哀しいのは誰か、本当に切ないのは誰か、それを察して、何とかできる事は何と
かして、どうにも出来ない事は共に悲しんであげられる。そう言う人に、そう言う人に」

 そう言うお父さんの顔には、二筋の滴が流れ落ちていた。その黒目に映るわたしからも、
涙がこぼれ落ちているのが分る。それが正面から見えるのは、お父さんが屈み込んで、わ
たしを正面から見つめ、話しかけている為だ。

 わたしは声を振り絞って、涙がこぼれ落ちない様に、身体に力を入れ、青珠を握り締め、

「お父さん、お父さんはどうして泣いているの。お父さんは誰の為に涙を流してるの?」

 その問いかけにお父さんはわたしを正視し、

「お前の為だよ、柚明。生れる事が出来なかった弟と、生む事が出来なかった母さんと、
弟を心待ちにしていたお前の哀しみに。父さんは何もして上げられなかった事が残念で」

 ああ、こんな時に迄お父さんは、お母さんやわたしの事を思ってくれている。その愛情
と大きな腕に包まれて、わたしは病院の廊下で朝迄の眠りに落ちてしまった。

 翌朝、病室のベッドに腰掛けていたお母さんは、諦めというか脱力というか、気が抜け
て、わたしとお父さんが入ってきても、疲れた頬に微かに笑みを浮べるのが精一杯だった。

 それでも微笑もうとするなんて。わたしたちの心配を軽くする為に、わたしたちに元気
なお母さんを見せて安心させる為だけに、微笑みを作ろうと迄するなんて。

 泣き顔を見せまいと、お母さんを心配させない為に泣かないと、一生懸命自分に言い聞
かせてきたのに、涙の線が一気に緩む。泣いちゃだめだ、泣いちゃだめだ。絶対に涙は…。

「だめだったのね。私」
「今は、ゆっくり休みなさい」

 言いかけるお母さんにお父さんが寄り添う。どんな慰めも意味を為さない、届かない。
だから短く、唯お母さんがお父さんの大切な人なのだと、お母さんが無事であった事が良
かったと、それだけを優しく強く伝えて、後はベッドの上からお母さんが伸ばしてきた腕
を巻き付かせて、代りにしっかりと抱き留めて。

 言葉以上に瞳は物を言う。言葉以上に肌を通わせる事で心は伝わる。その事をわたしは、
お父さんの脇で目の前で見て知った。

 お父さんのその優しさが、お母さんの必死を緩ませたのか。お父さんの胴に顔を寄せて、

「あなた、柚明。……ごめんなさいね」

 二筋の滴が、お母さんの頬を伝って落ちた。それを目にした時わたしの我慢も弾け飛ん
で、
「お母さん、泣かないで。泣かないで」

 言いながら、わたしも涙を溢れさせていた。

「わたしは良い子にするから。わがまま言って困らせないから。言いつけをちゃんと聞く
良い子になるから。だから、泣かないで!」

 わたしがお母さんを泣かせた訳ではない事は分っている。わたしが何かをする事でお母
さんの哀しみを拭い去れはしない事も分っていた。でもわたしは何かをしたかった。しな
ければならなかった。わたしはお母さんに泣いて欲しくなかった。笑っていて欲しかった。

 何か、何か、何か。

 泣きながら、叫びながら、お母さんの涙を止めたいと、それだけを思いつつ。そのわた
しを止めたのは、頭の上に載せられたお父さんの暖かな掌の感触で、

「泣かせてあげなさい」

 お父さんは、お母さんを抱き留めた侭わたしを見つめ、大きな掌でわたしの頭を撫でて、

「母さんは、生れる事の出来なかった子供の為に、泣いているんだ。柚明の弟の為に、泣
いているんだ。弟に会えなかったお前の為にも。お前が母さんや弟を思って流した涙と同
じなんだ。流さないといけない涙なんだ」

 自分の為に泣くのではなく、自分以外の誰かの為に泣く。大切な、大切な物の為に流す
涙は止めるべきじゃない。それはそうだけど。でもわたしは、お母さんに泣いて欲しくな
い。お父さんにも他の誰にも、泣いて欲しくない。

「お母さんは一番大変だったのに。お母さんは一番痛い思いして辛かったのに。お母さん
は、誰に泣いてもらえるの? お母さんの心の悲しさには、誰が泣いてあげられるの?」

 全力で、泣きはらした目を向けて問うわたしに、お父さんの掌が頭の上で動くと、

「柚明が泣いてあげてるじゃないか。父さんも、柚明も、母さんと生れられなかった子供
の為に、泣いてあげられる。泣いてあげよう。
 しっかりと悲しんで、しっかりと心に刻んで、思い切り泣いて、そして明日に向き合い
微笑むんだ。いつでも誰かの為に泣く事のできる、美しい心を持った侭で」

「お父さん……お母さんっ!」

 わあああああああ。

 わたしはお父さんの腰に縋り付いて、漸く大声で泣く事が出来た。力の限り、心の限り。
わたしの為ではなく、お母さんと、生れる事の出来なかった名もなき弟の為に。生れない
事でお母さんの生命を繋いでくれた、お母さんの恩人であるわたしの弟と、その弟が世に
出る日を心待ちにしていたお父さんお母さんの為に。わたしのたいせつなひとたちの為に。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 あれから、いつの間にか3年が過ぎていた。

 お父さんとお母さんは、きっとまだ子供が欲しかったのだ。子供が欲しくて、再度チャ
レンジしたのだ。諦める理由は見当たらない。身体を考えれば、お医者さんは反対するか
も知れないが、それで諦めるお母さんではない。

 お母さん曰く『羽藤(はとう)の血には頑固の血も流れているの。言い出したら聞かな
いって言うのは、私の母さんも正樹も本当』

 と言う事は、もしかしてわたしにも、その頑固の血は、流れているのだろうか。それ以
前から、わたしは血が濃いと言われているみたいだし。余り自覚はないのだけれど、その。

「前回の事があったから、余り早く話して柚明を気落ちさせる結果になっても拙いと思っ
て、暫く伏せておこうって話していたんだ」

「もしかして、今日お母さんが市立病院に行くって書き置きは……?」

 そこで漸く、わたしにも話が繋って見えた。

 お母さんは、おなかの赤ちゃんの様子を検査して貰う為に市立病院に行こうとしていて、
近く迄来た処で事故に遭った。病院が近くてすぐに搬送されて処置できたのも、当り前だ。
お母さんは病院に行こうとしていたのだから。

 ああ、しかし。今日病院に行こうとしなければ、事故に遭わずに済んだのに。それは言
っても仕方のない事だけれど。病院が近くて処置が早く、お母さんもおなかの子供も大丈
夫だった事で良しとすべきなのだろうけれど。

「今日の検査で異常がなければ、柚明にも話そうと、母さんと相談していたんだ。こんな
形で話す事になるとは思ってなかったが、おなかの子も母さんも別状がなくて良かった」

 今度は、妹になるそうだ。

 お父さんは尚心配気味なわたしを元気づけようとして、良い話題を全部晒す積りらしい。
わたしもそれは聞きたくて堪らない話だったので、身を乗り出して聞き入っていた。一瞬
だけ、お母さんの安否が脇に押しのけられた。

「いもうと……?」

 男の子でなかった事は、幼いわたしに少し複雑な想いを抱かせた。男の子だったらわた
しは生れなかった弟の生れ変りに思えていた。それは生れなかった弟にも、今おなかにい
る赤ちゃんにも、向けてはいけない物の見方だ。

 どちらもこの世に唯1人の、それぞれにかけがえのない、お母さんとお父さんの子供で
わたしの兄弟だ。どちらもどちらの代りになんて出来はしないし、なれもしない。いけな
い事だと分っているのに、そう考えてしまうわたしは悪い子だ。神様はそんなわたしの考
え違いを招かない様に、気遣ってくれたのか。

 そうではないと。前の男の子とは違う子だ、生れなかった弟の生れ変りではないし、そ
の様に見てもいけないのだと、わたしに言い聞かせる様に、今度は女の子がお母さんのお
なかに宿っている。妹だ。今度はわたしの妹だ。

「先々週の検査では順調で、問題ないと言っていた様だから、すくすく育っている筈だ」

 いつの間に。お母さんもお父さんも素振りも見せてないから、話される迄毎日一緒に暮
らしていて気付きもしなかった。お母さんが病院に行っていた事も、今日迄知らなかった。

「サクヤさんには、隠せなかったけれどね」

 お父さんが、悪戯っぽい目で付け加えると、深刻そうだった雰囲気が一気に明るくなっ
た。本当にお母さんもおなかの妹も大丈夫なんだ。そう実感できると、わたしもほっと落
ち着く。

「さあ、落ち着いたら母さんの寝顔を見ていこう。大声で叫んだり、揺さぶるのはダメだ
けど、近くで囁く位なら良いだろう。起きなくても声はきっと、夢の中に届いているよ」

 わたしがこくりと頷くと、お父さんは立ち上がってお医者さんと看護婦さんに向き直り、

「時間をとらせて済みません。では、よろしいですか?」

 お医者さんは静かに頷くと、面会謝絶と書かれたプラスチックの札を外し、病室のドア
を開ける。お母さんを起さないようにと電気を消された侭の室内は、窓から入り込む月光
に照らされ、青白く輝いていた。


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「お母さん、寝ているね……」

 お医者さんに続いてお父さんが、その後にわたしが続き、看護婦さんが最後に入ってド
アを閉める。室内は薄暗いが、看護婦さんも電気はつけない。月と星の輝きが、室内を真
っ暗にしないでいるので、様子は見える。

「眠っているだけです。傷の痛みが出ないよう麻酔は打ってありますが、安静にしていれ
ば傷口もこれ以上広がる事はないでしょう」

 ベッドの上で仰向けに動かないお母さんに歩み寄るお父さんに、後ろからお医者さんが
小声で話しかける。顔は月光に照らされた所為か出血の所為か、青ざめて見えたが表情は
穏やかで、お昼寝している様だ。左腕にチューブがついていて、枕元の点滴に繋っている。

「柚明、おいで」

 お父さんに呼ばれて、わたしはお母さんの間近に寄った。お父さんは点滴のついてない
方の手首を軽く握って、わたしにそれを渡す。お母さんの腕は、いつもと変らず暖かかっ
た。それを感じ取れる事でお父さんが安心できたのだろう、だから、わたしにも触るよう
にと。

「大丈夫だ。母さんも、おなかの子供も」

 ここで確かに息づいている。生きている。

「今夜はもう容態に変化はないでしょう。
 お疲れでしたらお帰り頂いて、ゆっくり休んでから明日また出てきて頂いた方が……」

 お医者さんはお母さんが大丈夫との前提で、わたしたちに帰って休んだ方がよいと勧め
た。ここにいてもできる事はない。お父さんもわたしも急いで来たから泊りの準備もして
ない。容態が悪いなら泊り込んで見守るけど、お母さんは眠っているだけで様子は安定し
ている。傷の痛みと闘うお母さんに、お医者さんはともかく、わたしたちは何もできない。
何も…。

 わたしは何の役にも立てない。お医者さんの様に、お父さんの様に、何かしてお母さん
の役に立つ事が出来ない。子供だから。でも。

 でもわたしも何かしたかった。しなければならなかった。わたしはお母さんに、苦しん
で欲しくなかった。いつも楽しそうに笑っていて欲しかった。その為になら、わたしだっ
てできる事は何でもしたい。何かをしたい。

 何か、何か、何か。そうだ!

「お母さん……」

 安らかな寝顔は何も知らぬかの様だ。静かな寝息は傷の痛みや苦しみも知らぬかの様だ。

「帰ろう、柚明。今夜はここにいても、父さん達には何もできない」

 お父さんの掌が静かにわたしの肩に触れる。お父さんもわたしもここで役立てる事はな
い。容態が安定しているのなら、明日出直そうと。

 わたしもこくりと頷いた。この手を握り続けていたかったけど、帰るのは名残惜しかっ
たけど、それはわたしの気持だ。お母さんが助けを求めている訳じゃない。お母さんの邪
魔にならない様に、お医者さんの邪魔にならない様に、お父さんの邪魔にならない様に…。

 わたしはお母さんの手を握り締め、そこでわたしに出来るだけの事をした。わたしにで
きる事は少ないが、きっと青珠なら、お母さんとおなかの赤ちゃんを一緒に守ってくれる。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 今から考えれば、病院近くに鬼が寄ってくる条件は整っていた。お母さんが事故の怪我
で鬼を呼び寄せる贄の血をまいていて、病室でも処置の途上で更に出血をした。お母さん
は贄の血の匂いを抑えられるけれど、それは眠っても意識を失っても有効だと後で聞いた
けれど、でも身体の外に出てしまった血の匂い迄は抑えようがない。それは乾く迄、水気
を失ってかさぶたになる迄匂い続けると言う。

 事故現場も病院の間近だ。救急車や院内の廊下、手術室や病室も血の匂いは宿った筈だ。
夜遅くになればもう匂いは消えているだろうけど、そうなる迄にその匂いに引き寄せられ、
この辺をうろつく鬼がいても不思議ではない。

 正面玄関は既に閉まっていたので、お父さんとわたしは救急患者や夜間診療を受ける人
の為に開いている裏口を通って外に出る。外は既に町の灯もまばらになり始め、煌々と照
す静かな月の輝きが世界を青白く染めていた。

 昼は一杯に埋まる広い駐車場も、今はがら空きで寂しい。正面玄関からはすぐ大通りに
出るが、裏口からは広い駐車場を横断し百メートル程歩かなければならない。タクシーで
駆けつけたわたしたちは、帰りもタクシーか。

「大通り迄出れば、拾えるさ」

 人の気配と白熱灯の輝きを後ろに、月明りの下に歩み出す。裏口の受付で電話を借りて、
タクシーを呼んで待つ方法もあったが、大通り迄出ればタクシーは二十四時間走っている。

 誰もいないと言うより、誰かいても分らない夜の空気に、わたしたちは身を晒していた。
連続少女傷害事件が頭の片隅を過ぎったのは、虫の知らせだろうか。それとも唯人気のな
い暗い処が連想させただけなのか。

 わたし1人なら怖くて裏口へと帰っていた。でも今は、手を引いてくれるお父さんがい
る。心配ご無用だった。お父さんも怖れる様子もなく、町の灯に誘い寄せられる様に進み
出し。

「母さんもおなかの子も大丈夫で良かった」

 お父さんは確認する様にそう口に出して、

「明日も母さんの様子を見に来よう。父さんも会社を休むから、柚明も学校を休んで病院
に行く事にしよう」

 大丈夫だと分っていても、お医者さんの言う事に納得できても、起きたお母さんとお話
しして無事を確かめたい。お父さんの思いはわたしの思いでもあったから、わたしも頷く。

「すぐ元気を取り戻すさ。問題なのは出血の多さだけで、それも輸血で半ば解決出来てい
るらしい。明日の精密検査で脳や内臓に異常がないと分れば、傷口が塞がるのを待ちなが
ら静養するだけで、退院も遠くはないって」

 やれやれ、お父さんはまた役に立てない侭だ。本当に大事な時に、男は使い物にならな
いって本当だ。お父さんは自嘲気味に呟いた。そこには血の濃い薄いの問題でも、殆ど役
に立てない事への悔しさがあるのかも知れない。

 お父さんはお母さんを大切に思い、守りたく思い、役に立ちたいと思い、できる事なら
何でもしようと引き受けようと決意を固めているのに、できる事が殆どない。大切な人に
何もしてあげられない。一緒にいて見守る事しかできない。苦しくても哀しくても慰める
位しか、話を聞く位しかできない。

 それは悔しくも情けない思いになろう。弟が生れられなかった時、わたしもお父さんも
何もできなかった。慰めも充分言えなかった。お母さんの哀しみを汲み取るのが、精一杯
で。お母さんの血の濃い薄いの話は少し違うけど、お父さんにできる事がないと言う事で
は同じ。

 この件ではわたしは、今は役に立てなくても、大きくなればお母さんの力になれる。わ
たしは早く大人になれば、お母さんを助けられる。早く大人になりたい。それがわたしの
希望であり願いでもあった。でも、お父さんはその点でも、お母さんの助けにはなれない。

 お父さんは、お母さんを本当に大切に思っていて、尽くしたいのに、役に立ちたいのに、
何もできない苦味を噛み締め。それは今後も変らない。お父さんはお母さんの役に立ちた
いと思う事で役に立てない悔しさを引きずっていく。お母さんを心から愛していればこそ。
お母さんと間近に接し、深く理解すればこそ。どうやっても、人の手では超えられない壁
がある。どんなに努力しても及べない物がある。お父さんは、お母さんを想えば想う程に
……。

 お父さんの孤独。深い深い孤独。それでもお父さんはお母さんを愛し、その側に居続け
る事を望む。哀しみも悔しさも全部受け止めて。役に立てなくても力になれなくても、心
に痛みや傷を負っても、お母さんを愛すると。

 お父さんはお母さんに近く居続ける。静かに笑顔を絶やさずに、お母さんと日常を共に。

「お父さん……」

 わたしはお父さんのその心の強さと寂しさを例えようもなく美しいと思った。こう言う
時のお父さんは心から暖かくて愛したくなる。お父さんを愛し、生れ育った山奥の実家か
らここに嫁してきたお母さんは、大胆だったけど間違いじゃなかった。きっとお父さんの
素晴らしさをお母さんは分ったのだ。多分お父さんも、お母さんの素晴らしさを分ったの
だ。そして、2人は愛し合って、わたしが生れ…。

 わたしの回りは愛に満ちている。お父さんも、お母さんも、サクヤさんも杏子ちゃんも、
みんな大好きな人ばかり。大切な人ばかりだ。みんな笑い合って暮らせていけたら良いの
に。涙を零す事もなく暮らせていけたら良いのに。

 と同時にわたしは、わたしにできる事は全てやるのだと、やるべきなのだと思っていた。
お父さんに出来ない事で、子供のわたしができる事なんて、今は殆どないけれど。わたし
は十二分すぎる位愛されている。この愛をみんなに返してあげなければ、罰が当たりそう。

「お母さんは、大丈夫だよ」

 わたしはお父さんを力づけてあげたかった。子供のわたしにできる事は殆どない。だけ
ど、お母さんにしてあげられた事が、お父さんの大切なお母さんの為にとしてあげられた
事が、お父さんを力づけられるかもと、そう思って、

「お母さんも赤ちゃんも、青珠に守られているから。だから、きっと良くなるよ」

 ふっと辺りが暗くなった。いつの間にか月が黒雲に包まれて、夜が闇に閉ざされていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明……お前、青珠を母さんに?」

 お父さんの声が硬直した。声だけじゃなく、足の動きも表情も、全てが凍結して固まっ
た。

「うん。お母さんと、おなかの赤ちゃんに」

 禍から守ってくれる青珠のお守り。傷を負ったお母さんと、おなかの赤ちゃんにこそそ
れは必要だろう。わたしは後で返して貰えば良い。お守りの力で2人が早く退院できれば、
返して貰うのも早くなる。必要としている人の処に助けがあるべきだ。わたしはそう思っ
て病室でお母さんの手に青珠を握らせたのだ。

 意識のないお母さんは、青珠を握らせると軽く掴んでくれた。今のお母さんがお守りを
必要としている事を、無意識に身体が分っていたのかも知れない。わたしはそれに満足し、
力になれた事を嬉しく思っていたのだけど…。

 珍しくお父さんは顔をしかめた。それはわたしが悪い事をした時、怒る直前の顔に似て。
しかしお父さんが次に喉から出したのは、叱る声でもなく窘める声でもなく、焦りの声で、

「今すぐ母さんの処に戻るんだ。行こう」

 お父さんは珍しく、わたしの納得を求めず、諭しもせず、行動を先に起す。引っ張られ
て、百八十度向きを変えるのに戸惑うわたしを、お父さんは静かに、しかし強く引っ張り
寄せ、

「青珠は柚明の為の守りだ。あれがなければ、柚明の守りがなくなってしまう」

 駐車場は月光が失せて、薄暗闇から漆黒に様相を変えていた。駐車場を半ば歩み来てい
たわたしたちは、戻るにも同じ歩数と時間を要する。裏口の夜間窓口の灯りが遠く頼りな
いのは気の所為か。むしろその小さな灯りが周囲の圧倒的な闇を深め、質感を与えている。

「柚明が母さんの身を案じる気持は分る。だが、あれがなければ柚明は血の匂いを……」

 お父さんがわたしの瞳も見ず手を引いてひたすら急ぐのは珍しい。話すと言うよりもそ
れは、お父さんの独り言か。それを言い終えられなかったのは、それが目前に現れた為で。

「……だれ?」

 夜間窓口のある裏口とわたしたちとの間に、誰かが立っている。漆黒の闇の中、シルエ
ットは男の人らしいと分ったけど、顔立ちも服装も確かには見えない。唯その雰囲気が異
様で、普通の人ではないと、なぜか感じ取れる。

 人の様だけど、人ではない。服を着て、二本足で、こちらを向いているけどあれはわた
したちと同じ人ではない。殺意と敵意に赤い目を輝かせたあれは友達になれる物ではない。
人の眼はあんな風に不吉に赤く輝きはしない。

 視線に、射すくめられた。闇の中で、その瞳がなぜか赤い輝きを放ち、わたしの心と身
体を縛り付ける。蛙が蛇に睨まれた時とはこんな感じなのか。身体の中に赤い輝きが染み
込んで、内側からわたしを抑え付ける錯覚がある。睨まれるだけで竦み上がって動けない。

「あれが、鬼なのか……」

 お父さんが苦虫を噛み潰した声を出すのを聞いた。目線は目前の赤い双眸に縛り付けら
れて自由が利かない。荒い息遣いはわたしを、お父さんではなく確実にわたしを捉えてい
る。

 服装は、お父さんが仕事に行く時に着る大人の背広姿だった。唯、ネクタイや上着やワ
イシャツが、掻きむしった様に乱れて普通じゃないと示している。ぼさぼさの髪と、開い
た侭の口が見えたのは、目を凝らした所為か。空は黒雲が月を包み込んでいて、頼りない
街灯も位置が遠く、闇は深くて時は鬼の刻限だ。

 背丈はお父さんと同じ位か。身長百七十五センチは男の人では余り高くない。細身だけ
ど、内側から盛り上がる筋肉で服がパンパンに張って、大人が子供の服を着ているみたい。

 お父さんも鬼を見るのは初めてだった様だ。呆れとも怯えともつかぬ声の後、一瞬で目
前の危機に頭を切り換えて、わたしの手を握り、

「柚明、逃げるんだ」

 言われてわたしは我に返った。心を視線を釘付けにされていた事にも、気付かずにいた。
あれは鬼の使う術や力なのだろうか。お父さんは、わたしの手を引っ張って後ろに回すと、

「父さんが時を稼ぐから、鬼と反対の方へ」

 鬼が飛びかかってきたのは、その時だった。

 話しかけたり、警告や威嚇で時間を稼ぐ事も出来なかった。鬼は鬼の目的の為に全てを
薙ぎ倒して進む。鬼の目にはわたしもお父さんも警戒するに足らない物に映っていた様だ。

 二十メートル程あった距離が、あっと言う間に縮まっていく。鬼の足は信じられない程
早く力強く、躍動的だった。これではわたしの足どころかお父さんの足でも逃げ切れまい。

 お父さんが、わたしを逃がすには足止めが不可欠と見たのは正解だった。問題は、果し
てどうやれば常の人が鬼を足止めできるのか、どの程度足止めできるのかと言う事だけれ
ど。

「ぐおっ!」

 お父さんが、わたしを離す為に前に出て鬼に立ち向かう。お父さんは格闘技や武道に通
じてもいないので、殴り倒す事は考えてない。両腕を頭の前で交差させて顔面をガードし
て、

「お父さん!」

 初撃はガードした腕に当たった様だ。お父さんの身体ががくんとよろめき僅かに下がる。
鬼の怖ろしさを聞かされ、力で遙かに及ばないと知っていたから、失神しない様に顔を守
りに出たのが成功した。鬼は一撃でお父さんの頭を打ち抜いて終らせる気だったのだろう。
当たり所が悪ければ一撃必殺、そうでなくても失神位させて、邪魔な動きもできなくなる。

「ぐはっ……腕が、折れたか?」

 でも、これで状況が良くなった訳ではない。初撃を防いだだけに過ぎぬ。鬼の腕を折れ
た訳でもなければ、足を断ち切れた訳でもない。武器もなく素手で鬼に対するお父さんは
時が経つ程不利になっていくのが目に見えていた。

「ぐるる、ぐる、ぐるる!」

 鬼は何事か喚きつつ、お父さんを打ち据えようとする。間近な距離から、首を薙ぐ感じ
で鬼の右手が振り払われる。その腕の早さも力も凄まじい。初撃を受けた衝撃で緩みかけ
たお父さんのガードでは防ぎきれそうにない。

 両腕が弾かれて、その侭首も折られる。その様が瞑った瞼の裏に浮んだ。走って逃げる
どころではなかった。その時間も気力もない。ガスという肉と肉がぶつかった音が耳に届
く。

「ぐおおっ、くそ、この」
「ぐるるるるるる」

 お父さんの首は、へし折られていなかった。お父さんは鬼の腕が振るわれる瞬間、前に
進んで鬼に肉薄し、結果振るわれた腕の一番破壊力がある領域の内側に入り込んでいたの
だ。

 動かなければ、逃げようと後ろに下がっていれば、鬼の腕や爪がお父さんを捉えていた。
鬼は太い腕の筋肉も恐ろしいけど、その両手両足に長く伸びた太い爪も、光沢を放って不
気味だ。心臓を抉ったり顔を裂いたり出来そうな、爪と言うより手に付いた牙に近い物だ。

 後ろにはわたしがいる。その意識がお父さんに前に出る事を、死中の活を選ばせたのか。
この時だけそれは正解だった。例え全力で飛び退いて鬼の腕を逃れても、そこから更に伸
びる爪を逃れるのは至難の業だ。お父さんが生き延びるには、あの様に間近に組み合って、
あの腕と爪の動きを抑え込んだ方が良いのか。

「柚明、早く、逃げるんだ!」

 言いながらお父さんは体重をかけて鬼に組み付く。両腕でその脇を抱え込み、その侭押
し倒そうとする。足を止めて時を稼ぐ積りだ。でも鬼の足腰は強靭で、余り良い体勢では
ないのに、お父さんの体重をかけた必死の組み付きにも揺るぎもしない。後ずさりもしな
い。

『助けを、呼ばないと』

 逃げると言うより、お父さんを助けなきゃ。

 子供の力で何とかできそうな相手ではない。辺りにお父さんに手渡せる武器も見当らな
い。別の処から、大人の人を呼んでくる他お父さんを助ける方法はない。こうしている間
にも、お父さんは一歩一歩鬼の為に死に瀕していく。

 どこへ? どこから? 一体誰を?

 一番近く人がいる夜間診療窓口はお父さんと鬼の向う側だ。横の病院の建物は夜なので
人気がない。窓を叩いても人が出てくるには相当掛る。大通りへ出て助けを呼ぶしかない。

「うがが、くっ、この」
「ぐるるるるるるる、ぐっ」

 体育会系と縁のなかったお父さんに、その活劇は奇跡に等しい展開だった。人の及ばぬ
腕力と恐ろしい牙や爪を持つ鬼を相手に、素手で立ち向かい、致命傷を二度も逃れたのだ。

 でも幸運の種もいつかは尽きる。持てる力の違いは対峙を続ける程明らかになる。お父
さんは堪えつつ凌ぎつつ、尚死の淵に足を進めている。わたしの為に、わたしを守る為に。

 鬼は腕を振るえず、組み付かれて動きを止められ、苛立ったらしい。脇に巻き付くお父
さんの肩を、己の両腕を振り下ろして強引に引き離した。腕を振り回す間合いはなくても、
力任せの剛腕に、必死の抵抗も及ばない。お父さんはこの時、両肩の骨を砕かれたらしい。

 鬼は、尚も組み付くお父さんの身体を膝蹴で引き剥がしてから、俊足を飛ばして一気に
わたしの間近に迫る。この鬼が、連続傷害事件の犯人か。子供を狙い、切り裂き、喰らい、
その血を啜り、今わたしの血を狙ってここへ。

「巧ソウナ、匂イダナ」

 鬼はまともに口を利いた。鬼は獣とは違うのか。今迄言葉を交わさなかったのは、必要
がなかっただけなのか。赤い瞳は凶悪さの中にも知性を秘め、わたしの間近で輝きを放つ。
不吉な宝石の赤。鬼は、造作もなくわたしの襟首を掴んでこの身を持ち上げる。

「くるしい、放して……」

 手足をバタバタしても、鬼の片手も揺るがせられない。こんなに呆気なく捕まるなんて。
こんなに簡単に生命を握られるなんて。折角お父さんが立ち向って時を稼いでくれたのに。

「良イ匂イダ。コンナ巧ソウナ匂イハ、感ジタ事ガナイ。飲ミ干スノガ、楽シミダ」

 動けないわたしの顔に、鬼は顔を近づけて、くんくんと匂いを嗅ぐ。いつその牙に食い
ちぎられるのか、この腕に首をねじ折られるか。わたしは恐怖に固まって、身動きもでき
ない。

 瞳の赤が、閉じた瞼の裏に迄侵入してくる。わたしの周囲が、漆黒の闇でも月光の碧で
もなく、朱の霧に染め尽くされて行く。わたしの喉はその朱を受け付けられなくて、ゲホ
ゲホと咳き込んでいた。意識が遠くなり掛る…。

「柚明に、手を出すな!」

 お父さんが鬼に追い付いたのは、その時だった。膝蹴りの痛みと両肩の激痛に顔を歪め
ながら、尚体勢を立て直し、必死に鬼をわたしを追いかけてきたのだ。

 まともに組み付いても敵わない。お父さんは鬼の牽制の左腕を倒れて躱し、身を転がせ
つつ体重に勢いを付けて鬼の足に組み付いた。鬼を転ばせてわたしを放させ、同時に足止
めもする考えだ。組み合うと言うより絡みつき、自分を重石にする積りなのか。

 鬼もこの動きには虚を突かれた様で、思わずわたしを取り落とす。それでも鬼はお父さ
んのそのタックルもどきにぐらつきはしても倒れない。鬼の足腰は信じられない程強靭だ。

 お父さんは腕だけではなく足も、鬼の左足一本に絡めて、動きを止めようとする。わた
しを逃がす為に、わたしを逃がす時間稼ぎに、お父さんは生命を捨てようとしている。

 そんな、止めて。止めて!

 お父さんが死んじゃう。わたしの為に死んでしまう。鬼に殺されてしまう。殺さないで。

「柚明、早く、逃げるんだ!」
「でも、お父さん、お父さん」

 わたしは何を言いたかったのだろう。
 わたしは何を望みたかったのだろう。

 考えのまとまらないわたしに、お父さんの声は生れて初めて、叩き付ける様に怒鳴って、

「お前に生きて微笑んで貰う事が、父さんの幸せなんだ。それを守る為なら、大切なお前
の笑みを守る為なら、父さんは何でもできる、何でもやれる。鬼の一匹や二匹、怖くはな
い。腕の一本や二本、痛くもない!」

 だから生きて、生きて幸せになってくれ。

「母さんとお前の幸せがあれば、父さんはそれで良い。それだけが残れば、それだけ…」

 でもそんなお父さんの望みを鬼は打ち砕く。ささやかで暖かな、わたしには欲がなさ過
ぎて切ない位のお父さんの望みを鬼は握り潰す。それこそ鬼の所行だった。奴は正に鬼だ
った。

 尻餅をついたわたしが起き上がるより早く、

「貴様、邪魔ダ。……死ネ」

 何度も邪魔された事が、勘に障ったらしい。鬼の身体とは言え、大人の体重が食い付け
ば動きを縛られる。度々邪魔する相手を、鬼は路傍の石ではなく敵と見た様だ。そうなれ
ば、鬼の対応は透徹しており、結果は素早かった。

 ふんと足を思い切り振って、強引にお父さんを引き剥がすと、放置せず追いかけて、起
き上がるよりも早くその胴に太い爪を突き立てる。心臓を狙う必要などなかった。鬼の爪
は下手な刃物よりも鋭く堅い。手刀で突けば、易々と服を破り、皮を裂き、肉を抉って生
命を絶つ。内臓を掴み出す迄もなく、胴を刺して引き抜くだけで、人はほぼ致命傷を受け
る。

「ぐふっ、ぐ、がっ!」

 漆黒の闇は結果を定かに見せないけど、短い叫びはその様を推察させて余りある。わた
しは目に映る全てを拒絶したくて瞳を閉じた。

 全ての考えが消えた。頭が真っ白になった。何もかも捨て、お父さんに駆け寄りたかっ
た。それを必死に思い止まり、遠くから悲鳴でお父さんの安否を確かめるのに、動きで応
えたのは鬼だった。最早これ以上の攻撃の必要はないと、わたしを眺める赤い瞳は語って
いる。

 わたしはこの時に、初めて憎しみを知った。たいせつなひとを奪う者への、たいせつな
ひとを傷つける者がいる事への、深い憎しみを。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ぬぐぐ、ぐがが、がうっ」

 尚届くお父さんの叫びが、わたしを我に返らせた。まだ、お父さんの生命は費えてない。
でもそれは、致命傷を受けた後の生命の残り火で、唯わたしを鬼から遠ざけたい執念が死
に行く身体を突き動かしているだけで。

「ナン、ダ。手ガ、抜ケナイ……」
「抜かせて、堪るかっ!」

 声に宿る闘志に、わたしの心臓が縮み上がった。お父さんは鬼の形相で、鬼の腕を握り
締める。離さない。絶対にその腕を放さない。相手が鬼の剛力でも、その身を胴を刺し貫
かれても、否、刺し貫かれたからこそ、なのか。

 お父さんは自分が助からないと知っている。諦めている。その上で、今引き剥がされた
ら立ち上がれないから、今振り捨てられたら二度と足止めできないから、鬼がわたしを襲
うのを防げないから、死んでも鬼にしがみつく。お父さんは生命と引換に少しの時を稼ぐ
気だ。

「動クナヨッ!」

 鬼は再度赤い瞳でわたしの視線を呪縛する。

 ああこれは錯覚でも何でもなく、鬼の術で力なのだ。人の心を身体を縛り付ける金縛り
は、唯でもガクガク震えて立ち上がれないわたしの全てをコンクリートの床に縫いつける。

 しかし、動けないのはわたしだけではない。

「お前も、動かさん!」

 お父さんはその腹に刺さった鬼の腕を握り締め、立ち上がる鬼にしがみついて離れない。

「この生命ある限り、お前はここで止める」

 柚明は絶対に守る。何があっても、相手が誰でも、この身体が砕けても、柚明は守る!

 必死の顔は鬼の如く、痛みと苦しみと危機感に歪みつつ、その瞳はどこ迄も透き通って。
綺麗だけれど、例えようもなく清々しく美しいけれど、それはこの世の物ではない輝きだ。
この世の物ではなくなる事を、受け容れた者の美しさだ。わたしの好きな綺麗さではない。

 わたしはお父さんに生きて欲しい。この世の者であり続けて欲しい。わたしを叱ったり
励ましたり、諭したりして、一緒に生き続けて欲しい。わたしの前からいなくならないで。

 ああ、それなのに、それなのに。

「漸く俺も、役に立てる、時が、来たか…」

 その声が、どこか嬉しそうに聞えたのは気の所為だ。その声が、なぜか清々しく悔いな
く聞えたのは錯覚だ。わたしはお父さんに生命を捨てて守られても嬉しくない。お父さん
がいなくなってわたしだけ残っても嬉しくは。

 それはお父さんの遺言だったかも知れない。行動と言葉と、その底に心を込めてわたし
へ。今のわたしへだけではなく、お父さんは最早逢う事の叶わない未だ見ぬ未来のわたし
へも。

「誰かの為に、役に立てる人生を、柚明も」

 だから今は逃げるんだ。逃げて、逃げて生き延びて、幸せに。柚明、柚明、ゆめい、ゆ。

「お父さん、お父さん!」

 心が、溢れ出る心がわたしの金縛りを内側から突き破った。身体の自由を取り戻し、喉
から叫びを吐き出して、わたしは必死にお父さんの反応を求め続ける。声がある限り、物
音がある限り、気配がある限りお父さんはまだ死んでない。生きている。絶対に死なない。

 生きている証が欲しい。今だからこそ、一分一秒でも、絶える事なくお父さんが生きて
ここにある事の証が欲しい。なくなりそうな今だからなくならないで欲しい。ああ、ああ。

 わたしの声で、わたしの声が生む頑張りで、お父さんを死の淵に引き留め。残酷だけど、
死にそうな人を死なせないのは非情だけど、わたしは分って止めなかった。止められなか
った。お父さんが幾ら苦しんでも痛がっても、死んで欲しくないわたしの思いが先に立っ
た。

 わたしはなんて我が侭で、酷い子供なのだろう。わたしは自分の思いの為に、お父さん
が苦しむ事をしている。自分が生きていて欲しいから、お父さんを無理に生かそうとして
いる。誰かの為なんて、考えられそうにない。それでも。それでも、わたしの声は止まな
い。

 わたしの声を生命綱にして、わたしとの繋りを赤い糸にして、這い上がってきて。落ち
ていかないで。消えてしまわないで。わたしを残して、逝ってしまわないで!

 でも、時は無情に全てを刻む。

「邪魔ダ」

 鬼は一言そう言うと、必死に絡みつくお父さんの生命の炎を吹き消す様に、力づくでそ
の腕から貫いた身体を振り払う。人を超えた剛腕は、血塗れのお父さんの身体をコンクリ
ートの床に叩き付けて、その全てを終らせた。

 短い叫びとドサという物音と。『それ』は鬼の腕からも現世の縛りからも解き放たれて。

 それがお父さんの抵抗の最後だった。頑張って頑張って、頑張り抜いた末の最期だった。
痛みの中で、苦しみの中で、微かに微笑んで見えた気もするけれど、それで終りだなんて。

「手間ヲ、取ラセヤガッテ」

 尚微かに動いているけど、それはもう生命を宿す器ではない。それは壊れて、生命が漏
れ出るばかりの『生きていた物』に過ぎない。鬼を止める術を持たない、鬼を止める意思
も持たない、それはお父さんの、お父さんの…。

 たいせつなひとが、いなくなってしまった。

「いやあああああ!」

 天の闇を仰いだわたしの絶叫が虚しく響く。

時が止まっている気がした。いや、永遠に止まって欲しかった。わたしの回りで、二度
と流れ出さないで欲しかった。でももう遅い。例えその望みが叶ったとしても、お父さん
の絶命はもう変え得ない、元には戻せない。

 世の中の全てを拒絶したかった。
 目に映る全ての物が間違って見えた。

 鬼がこちらに向き直る。後は疾風の早さでわたしの息の根も止めに来るだろう。お父さ
んの様にわたしも物言わぬ壊れた器になるのだろうか。この身体を流れる生命を全て吸い
尽くされてしまうのだろうか。お父さんが必死になって、生命を捨てて守ってくれたのに。

 振り向いて、逃げ出す隙さえ与えられない。

 鬼の凝視に縛り付けられ、その姿が視界で大きくなっていくのを、防ぎ止める術もない。
生暖かい赤い霧が、両の瞼の裏まで浸食した。わたしもお父さんの処に行かされる。その
時。

「柚明、逃げなさい!」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 聞える筈のないその声が、耳に届いたのは鬼がわたしに迫り来る直前だった。邪魔者を
片づけ、心ゆく迄わたしを襲えると思い、わたしに集中した隙を狙う様に、蒼い輝きは鬼
の側頭部を直撃して、鬼を大きくよろめかせ。

 視界の朱が、再び三度、急速に引いていく。

「お母さん……!」

 お母さんは怪我をして、病室で麻酔を打たれて眠っている筈だ。意識もなく、勿論声も
届く筈もなく、この状況を知る術もないのに。その姿は病院のパジャマ姿に裸足で髪も乱
れ、息も荒く。故にわたしはそれが、事故で傷を負って寝込んでいる筈のお母さんだと分
った。

 お母さんの表情は凄絶だった。傷の痛みとか疲れとか、そう言う物と闘ってここ迄無理
をしてやってきたのだ。ここに迄来る事自体が、お母さんは生命がけだったのに違いない。
額には玉の汗が浮いていたし、右手で抑えた左の腹の染みは、まさか傷口が開いている?

「柚明から、わたしの夫から、離れなさい」

 繊手を突きつけ、お母さんは鬼に言い放つ。お母さんは鬼の存在を知っていた。それが
わたしたちの脅威で天敵と知っていた。だから、最初から必死で、生命その物・身体全て
を武器にして叩き付けないと、己を守り抜く事さえ至難な相手と分って挑む。それは生命
がけと言うより、生命を捨てて拾いに行くに近い。

「ぐるるるるるる! 敵カ?」

 お母さんが叩き付けた蒼い輝きは、修練して使える様になった血の力なのか。それに鬼
は初めて大きくよろめいた。お父さんの必死の打撃にも、殆どぐらつかなかった鬼が。月
光を思わせる淡く青白い輝きが、お母さんの身体を仄かに包み、その姿を浮び上がらせる。

 鬼はそれに脅威を感じたのだ。お父さんを敵と見なすのに随分掛ったのに、お母さんを
即時に敵と見なしたのはその力が脅威だから。鬼はお母さんを、警戒している。訝んでい
る。でもそれで、状況が良くなったとは言えない。

 お母さんは重い怪我人だ。今日車に轢かれたばかりで、大量に血を失い疲れ切っている。
腕力でお父さんに劣るのは勿論、今でも本当は麻酔で頭も足元もふらふらの筈だ。とても
闘える状態でないし、元々お母さんは鬼との闘いを想定して血の力を修練した訳ではない。

 血の匂いを抑えるのは鬼から身を隠す為だ。鬼を倒したり退けたりする力の使い方と違
う筈だ。その上お母さんの血は薄い方で、その故に力も強くないと、サクヤさんも言って
…。

「お母さん逃げて。鬼は、鬼はお父さんを」

 その先は、言いたくなかった。
 言わなかったけどそれでも伝わってしまう。

 この距離を隔てても、漆黒の闇の中でも、お母さんの哀しみが見えた気がした。あれ程
愛していたお父さんを失ってしまった、目の前で為す術もなく死なせてしまった、その悔
しさとやるせなさは、どれ程の物なのだろう。

 その思いを振り払うように、かぶりを左右に軽く振って、お母さんは意思を宿す一言を、

「あなたを逃がしてからよ、柚明」

 お父さんが生命をかけて守り抜いたあなたの生命を、私がここで護れなくてどうするの。

「あなたが生きてくれないと、お父さんの想いも生命も、浮ばれないのよ。あなたは、生
きてくれないとダメなの。……私の為にも」

 わたしは生きなければならない。お父さんの言葉を受け止めて、生きなければならない。

『誰かの為に、役に立てる人生を、柚明も』

 お母さんの力になれないと悔しがっていたお父さん。わたしを守る為に生命をかけた事
に嬉しそうだったお父さん。最後迄誰かに尽くせるか尽くせないかを考えていたお父さん。

 そのお父さんの最後の言葉、最後の想いを、引き継がなければ死んでもお父さんは悲し
む。

「2人で生き残りましょう。私があなたを絶対に守り通すから、あなたは逃げなさい!」

 お母さんの身体を蒼い輝きが包み込む。この時お母さんも死を覚悟していたに違いない。
お父さんが鬼に向き合った時の様に、わたしを守る為に全て抛つ覚悟は固まっていたのだ
ろう。鬼に向き合うという事はそう言う事だ。鬼に向き合ってでも守らなければならない
物を持つと言う事は、その覚悟を自覚する事だ。

「柚明が逃げ切れたら、私も後を追うから」

 それがどれ程至難か、多分知ってお母さんは言っている。わたしを逃がす事はともかく、
その後でお母さんが、鬼から逃げ切れる可能性はそう高くない。むしろお母さんは囮に…。

 お母さんが、蒼く輝く小さな玉を放り投げた。それは青珠のお守りだ。わたしがお母さ
んに託した、禍から守ってくれる、笑子おばあちゃんの家に代々伝わる、白いちょうちょ
の文様が刻まれた、美しい蒼いお守りの珠だ。

 お母さんの身体を包む蒼い輝きに似たお守りは、投擲の力不足かわたし迄届かず、振り
向く鬼の顔面に当たって弾かれ、乾いた音を立ててコンクリートの床に転がる。それがお
母さんの狙いだと知るのは結果を見てからだ。

「ウゴゴオオオォォウ」

 言葉にしにくい雄叫びと共に鬼が仰け反る。

 蒼い輝きが目に刺さったのか。顔面と言うより両目を抑えてその場に蹲る。鬼が膝を突
くのは初めてだ。青珠の輝きは鬼に害なのか。わたしたちを守る力なら、鬼に毒でもおか
しくはない。でもここ迄効果があるなんて。これはいつでもそうなのか、それとも、力を
使えるお母さんが投げた事に意味があったのか。

 当たって痛い程の勢いもなく、重い物でもないのに。針が刺さった様に、焼け爛れた様
に、苦しみ悶え。青珠に宿る力も、母さんが修練して使える様になった贄の血に宿る力と
同じ色だ。青は鬼の赤と対になる輝きなのか。

 遮る物はないけど、鬼の手に弾かれ九十度近く向きを曲げた筈の青珠は、何と再び向き
を変え、わたしの方へころころ転がってきた。惰性と言うには奇妙な、坂道を斜め上に転
がる感じで。ここは平坦なコンクリートの床だ。どうやっても、わたしへと届く筈がない。

 なのに、青珠は今、わたしの目の前にある。拾ってくれと言わんばかりに。生き物の如
くわたしに寄り添い、生命宿る様に光り輝いて。飼い犬が遊んでくれと主人を見上げる感
じだ。

「それを身に付けて、放さないで!」

 わたしは屈んで青珠を拾う。蒼白い輝きはわたしの手に良く馴染み、冷たくも心地よい。
身体のぎこちなさが、縛られた感じが隅々から消し去られていく。そうなって初めて、わ
たしがいかに鬼に深く魅入られていたか分る。

 金縛りを実感する前に、わたしは既に鬼の気で身体を重くされていた。鬼の意志の前に、
その身体から赤い力は滲みだし、わたしを包み込んでいた。それを抜き去らないと、それ
を拭い取らないと、鬼の絆は断ちきれない。わたしを捉え続ける。一度リセットしないと。

 同時に鬼の視界を灼いて、動きを鈍らせる。

 足元に届いた青珠はわたしを守り、わたしに浸透した鬼の気配を消し、わたしの身体を
心を生き返らせてくれる。この感触がわたしを守ってくれている。同時にお母さんの声が、

「青珠の守りであなたの血の匂いは感づかれない。逃げなさい、鬼が立ち直る前に、ぐ」

 ぐふっ。その口から声とは違う物が噴き出すのが、噴き出したそれを無理に抑える音が、
わたしに迄届いている。だめだ。この侭置いていったら、病院の前とは言えお母さんは…。

「鬼の目は巧く灼いたわ。鬼の回復力は驚異的だと聞くけれど、青珠の力は鬼も苦手の筈。
暫く目は見えない。でも、鬼の本当の得意は鼻なの、匂いなの。青珠を持っていれば、血
の匂いは気付かれないわ。目眩ましになる」

 目も鼻も利かない鬼は間近でもあなたを捉えられない。足音の届かない処迄逃げなさい。
息遣いの聞えない処迄逃げなさい。それで大丈夫。物に紛れて人に紛れて、やり過ごせる


第1章・深く想う故の過ち(後)に進む

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