第1章 深く想う故の過ち(後)


「ウグ、ググ、ドコダ?」

 お母さんの言葉は図星だったらしい。鬼は慌てて回りに手を伸ばし、振り回しているけ
ど全然見当違い。鬼はわたしを見失った様だ。この間合いがあれば、歩いてでも逃げられ
る。

「でも、お母さんは、お母さんは?」

 この手に青珠があるという事は、お母さんの手に青珠がないという事だ。わたしが守ら
れているという事は、お母さんが守られてないという事だ。立っているのも苦しいお母さ
んにこそ青珠の守りがなくてはならないのに。

 しっ。お母さんは、闇の向うから、声を立ててはいけないと、物音が生命を左右すると、

「私は大丈夫。匂いを消す修練だけは、しっかりしてきたんだから……。良いから、早く
行きなさい。タクシーで恵美おばあちゃんの家に行って、連絡を待って。わたしは……」

 ごふ、ごふごほふぐ、ぐ。

 お母さんのシルエットがぐらつくのが見えた。何かを吐くのを必死で抑える音が聞える。
それを目の当たりにして、鬼を挟んでいるから駆けつけられないとはいえ、背を向け逃げ
るのは躊躇われた。お父さんもまだいるのに。

「早く行きなさい!」

 お母さんは一歩こちらに、と言うより鬼に踏み出した。大丈夫なら、わたしが安全なら
そこ迄出てくる必要はない。お母さんは鬼の耳の良さを怖れている。わたしの足音や息遣
いが、尚鬼を引き寄せる怖れを拭えないのだ。わたしより鬼に気付かれる様に近付く積り
だ。わたしより近くでわたしの音を掻き消す気だ。

 でもその一歩一歩は、鬼に近付くと言うより、お母さんの体力を奪い生命を縮めて行く。
動いちゃいけないのに。病室のベッドを抜け出しちゃだめな絶対安静なのに。お母さんも
わたしを守る為生命を投げ出そうとしている。

 止めて、無理はしないで。わたしから誰もが離れていってしまう。みんなわたしを残し
ていく。いやだ、いやだ。わたしを1人残して行かないで。誰もわたしの為に死なないで。

「グガルルルルル、ルル」

 鬼はお母さんの位置を察知した様だ。物音が、微かな足音と少し荒い息遣いが鬼の向き
を変えさせる。だめ、そっちを向いてはだめ。

 違う。物音だけじゃない。鬼は音だけでお母さんの位置を悟った訳じゃない。血の匂い。

【柚明の出血は青珠の守りでごまかせても、残された血の染みは乾く迄匂い続けるから】

 お母さんは傷口から血を流してここ迄来た。血に宿る力を使う為に身体を酷使し、傷口
を更に開かせた。今でもお母さんの傷口からは血が流れ出続けている。それは既に、お母
さんの生命を危うくする量に、なっている筈だ。

 それより切実に今、身体の外に出てまだ乾いてないお母さんの血は匂い、鬼を呼び招く。
お母さんは血の匂いは抑えられるけど、外に流れ出た贄の血の匂い迄は、消しようがない。

「お母さん、逃げて、鬼が、鬼が……!」

 もう誰にも死んで欲しくない。もう誰にも痛い思いはして欲しくない。わたしの血が欲
しいならわたしから奪って。その代り、わたしのたいせつなひとをなくしてしまわないで。

 わたしを守る為に犠牲になるのは止めて。
 わたしを守る為にいなくなるのは止めて。

 犠牲ならわたしがなる、血ならあげるから。みんなが助かるならわたしの生命あげるか
ら。

「ゆめい……」

 お母さんの瞳が優しく強く透き通っていた。お父さんの最後の時と同じ美しさで、輝い
て。その穏やかさ、その深さは、日常に左右されて怒ったり笑ったり困ったりする瞳では
ない。小さな事に拘りどうでも良い事に口を尖らせる目線ではない。だめ、お願い、その
瞳は!

 わたしはお母さんに駆け寄った。鬼がお母さんの間近にいる事も、もう気にしない。お
父さんの時も、こうして駆け寄れば良かった。わたしはいつも守られて、何もできないで。
こんな酷い子の為にお父さんも、お母さんも。

 そしてわたしの目の前で、本当に間近で、時は最後の瞬間を刻んだ。あと数メートル迄
近づけた処で、漆黒の闇の中でもシルエット以上に顔の輪郭迄も見え始めてきた処で、わ
たしの最後の希望が、目の前で断ち切られた。

 ざしゅっ。

 鬼とお母さんが重なり合い、肉を裂く音が届く。たいせつなひとが、たいせつなひとが、
わたしの目の前で、またわたしの目の前で!

 お母さんの喉笛の下辺りに、鬼の手刀が突き刺さる。目が見えないので、心臓を狙った
腕は上に外れた感じだ。それでも致命傷に違いない。鋭い爪はお母さんの肉を貫いている。
お母さんの動きを止め、確かに掴んで鬼は…。

 お母さんはそれを想定済だったのか。お母さんの力で本気の鬼を足止めする事は難しい。
お母さんの力は、鬼の皮や肉を打ち据える程でしかない。我慢すれば、痛みを乗り越えれ
ば、一撃二撃耐えれば鬼はお母さんを叩き潰せてしまう。それを一番良く知っているのは
お母さんなのに、それを分ってお母さんは。

 闘志のこもる笑みを見せた。生命をかけた、生命を捨てた、最後の何かをやり遂げる為
に。

「贄の血は唯ではあげないから、覚悟して」

 お母さんは鬼の手を防がなかった。お母さんは自分の身を守ろうとはしなかった。鬼の
手は突き刺させて、自分の両手は鬼の顔を挟み込み。その表情は、まだ意思を失ってない。
蒼い輝きがお母さんの身をより強く包み込む。

「ググオオオオウグ」

 鬼の絶叫が響き渡る。お母さんの両腕に挟み込まれたその頭が、熔けている。両頬と言
うより両耳に、お母さんの触れた両手から蒼い輝きが集約し、鬼のそこから煙が上がって。
お母さんは、生命を全て、そこに集めている。

 お母さんは鬼の耳を塞ぐ積りだ。目を潰し、耳を塞ぎ、青珠で匂いを隠せば、鬼はわた
しを辿る術を失う。それ以上に、頭にその蒼い力を浸透させれば、鬼その物を討つ事だっ
て。鬼だって頭は急所に違いない。直接害になる力を流し込まれれば、鬼も唯で済む筈が
ない。

 相打ちになるけど、お母さんも無事で済まないけど。突きだしてきた腕を一本折っても、
鬼はへこたれない。鬼はその腕力や爪や牙以上に、痛みや怖れを踏み越えて食欲や闘いに
突き進める心の怖しさが、最大の武器なのだ。

 鬼を倒すのは難しい。鬼を諦めさせるのは更に難しい。なら、鬼の五感を奪うと。鬼が
わたしを追ってくる事が出来なくさせる。でもそれには一つ問題があった。鬼がお母さん
の血を、贄の血を得て回復してしまう心配だ。

「あなたには呑ませない。あなたに私の血は呑ませない。あなたが得られるのは、こうし
て触れた傷口の血だけ。その快復と、私の力の浸食の傷と、どっちが早くて大きいか…」

 生命を捨てて、それで尚お母さんは賭けに勝ち切れていない。生命を捨てるのは前提で、
それを再度拾えるかどうかも定かではない侭、尚鬼の快復と消耗は運命の天秤に掛ってい
る。

「ウグルルルルル」

 鬼は慌てて、お母さんに突き刺した腕を引き抜いた。自分の生命が危ういのだ。流石に
余裕がないのだろう。その頭を挟み込む繊手の上に爪を突き立て、腕を引き抜こうとする。

 お母さんの胸から赤い流れが迸って、鬼の上半身を染めて行く。贄の血が、呑まなくて
も浴びるだけで鬼の力を倍増させるとわたしが知るのは後の事だけど、この時は血に染ま
る身体より、お母さんの蒼い輝きに灼かれる頭の方が鬼の危機だった。幾ら筋肉隆々でも、
首から上をなくしては鬼とて生きていけない。

「ごふっ!」
「ぐおっ!」

 お母さんの両手の上に鬼の掌が覆い被さり、引き剥がそうと試みる。でもその鬼の両掌
も蒼い輝きに灼かれ、煙を上げ。お母さんは生命をそこに注ぎ込んでいる。お母さんはそ
の掌を潰されても、鬼の頭から離そうとしない。

 夥しい赤がコンクリートの床を染めている。視界を占拠する朱はわたしの心迄塗り変え
る。その紅が尽きる時が終りなのだと、決着の時が最期なのだと、わたしは心の隅で分っ
ていた。お母さんは勝っても生きては残れないと。

 鬼の顔が熔けていく。鬼の頭の皮が剥がれて浮き上がる。お母さんの生命が、鬼の生命
を道連れに、わたしの届かない処へ行こうとしている。それこそお母さんの最後の目的だ。
わたしを守る為に、わたしを鬼が追って来れなくする為に、鬼と一緒にこの世から去ると。

「お母さん、待って。待って、お母さん!」

 わたしはその間近まで駆け寄った。
 血を浴びる程近くまで駆け寄った。

 そうしないと声が届かない。そうしないと瞳に映らない。血塗れでも、苦しみ歪んでい
ても、お母さんがいるのだから。危険でも鬼が間近でも、わたしはもう離れたくなかった。

「あなたは、逃げて、いなさいって……」

 お母さんは目を背けぬ侭わたしを叱りつけようとして、それを最後迄言い切れなかった。

 ゴキッ!

 骨が折れる音が響く。鬼はお母さんの掌を離す為に、腕を叩き折ったのだ。鬼の掌から
は爪が抜け落ち、その掌は皮が焼け爛れていたが、強引にお母さんの腕を引き抜いて離す。

 一歩仰け反って、もう一歩仰け反って、体勢を立て直せない。鬼は頭にかなりの痛手を
受けている。贄の血を浴びてなければ、それは致命傷になったかも知れない。鬼の頭は皮
が落ち肉が剥げ始めている。煙は尚収まらず、お母さんの蒼い力が深く浸透した事を窺わ
せ。

 それでも、それでも鬼は絶命しない。更に一歩仰け反って、それでも倒れる事はせず、
踏み止まって立ち続け、見えぬ目線をこちらに向ける様に、ああもう瞼の中には瞳がない。

「ググ、ガググ、グ、グ」

 まだ諦めてない。まだ執念を失ってない。

 お父さんを、お母さんをここ迄酷い目に遭わせて、それでもまだ生きて動く。さっき迄
の位置で、正面に数歩進めばお母さんが倒れて動けない事を鬼は知っている。匂いは要ら
ない、見えなくても良い、音も不要だ。前に進むだけで良い。逃げれば、少し逃げて躱せ
ば、鬼はわたしたちを全く察知できないのに。お母さんは出血に意識が遠くて一歩も動け
ず。

「逃げて、柚明。……私は、もうだめ。あなただけでも、あなただけでも」

「できないよ、そんな」

 血塗れのお母さんに、抱きつくだけで痛みが走るお母さんに、わたしはひしと縋りつく。

「父さんと母さんの生命を無駄にしないで」

 お母さんはなぜか微笑みを浮べた。それは、私の感触を最期に確かめ、無事を確かめら
れたからだと、わたしはなぜか感じ取れた。お母さんはそう言う人だ。お父さんもそうだ
ったけど、最期にほんの少し自分の本音を出してくれる。でもその本音は美しすぎ、儚す
ぎ。

 もっと醜くて良いから、もっとだらしなくて良いから、もっと情けなくて良いから、ず
っとわたしの側を離れないでいて欲しいのに。

 鬼はその場で踏み止まっている。身体に浴びた血の回復力が、頭に巡り始めている様で、
傷は悪化せず、むしろ治り始めていた。鬼はお母さんの血を吸って傷を治そうとする。お
母さんにはもう抗う術も力もない。お終いだ。

「血ヲ、血ヲ、甘イ血ヲ、呑マセロ」

 人の生命を奪って置いて、人の生命を踏み躙って置いて、人の生命を喰らって自分だけ
快復して生き延びるなんて。そして更に多くの人の生命を喰らって生きて行こうだなんて。

 許せなかった。この鬼をこの侭生かしておく事が、わたしには許せなかった。鬼が生き
てあり続ける事を許したくなかった。そして何一つ出来ないわたし自身も、許せなかった。

「父さんと母さんの子供として、生きて頂戴。あなたの幸せが父さんと母さんの願いだか
ら、あなたが笑ってくれる事が私達の願いだから。あなたには、これからが、あるのだか
ら…」

 折れた両腕を地に突いて、お母さんが立ち上がろうとする。逃げるのではない。鬼を迎
え撃ち、押し止める為だ。身体はとっくに死んでいておかしくないのに、心がお母さんの
身体を突き動かしている。私を守り、鬼を食い止める意思が、身体を無理に動かしている。

 でも、でもどう見てももう無理だ。それ以上動かないで。立ち上がらないで。折れた腕
が体重を支えきれず、大量の出血は身体の動きをこなしきれず。でも心が、心が身体を…。

 止めて。もう止めて! わたしは良いから。
 わたしは、無理に生き延びなくて良いから。
 これ以上お母さんが苦しむ姿を見たくない。

 鬼は目の前まで来ていた。鬼もまだ頭から白煙を上げていて、目も耳も利かない様子だ。
でも、その両腕は既に回復を終えている。その爪は元の様に長く伸びている。その一撃で
とどめが刺せる。その一撃で生命は絶たれる。

 そうしたら、鬼はお母さんの血を呑むのか。そうしたら鬼は一層力を増して、顔も頭も
すぐ治るのか。そうしたら鬼はわたしの生命も奪うのか。お母さんとお父さんの必至の抵
抗がなかった様に、何も残さず食い尽くすのか。

 追いつめられて、わたしは激した。お母さんの右隣で鬼に間近に対し、漸くわたしは鬼
への怒りを形に出来た。憎しみが喉から迸る。目を瞑っていられない。瞑ってやり過ごし
たくない。我知らずわたしは叫び、動いていた。

「あっちへ行って!」

 全力で青珠を投げつける。その守りが再度劇的な効果を上げた時、急報を受けた警官隊
が駆けつけて、わたしの生命だけは救われた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 複数の銃声が、闇に浮ぶ影に吸い込まれる。血塗れの鬼は皓々たる照明の中、拳銃の乱
射に、当たる度にびくんびくんと身体が跳ねる。

 跳ねても跳ねても中々倒れず、鬼はその場に踏み止まろうとするけど、銃撃も中々止ま
ず、身体に何十発も弾が食い込む様が見えた。わたしや母さんが近くにいたけど、少し遠
くから撃つ複数の射撃手の腕は正確で、わたしやお母さんを掠るどころか鬼を外す事もな
い。

 お母さんは鬼を自分だけで止めるのが難しいと知っていた。必死の形相で病室から夜間
窓口を経て外に出る最中、お母さんは夜間窓口の受付の人に警察を呼んで貰っていたのだ。

 連続少女傷害事件の犯人がいると、娘を狙って病院間近に来ていると。それは嘘に近い
見込み通報だったけど、鬼気迫る声に押され、外の異変を知った窓口の人は警察を呼んで
…。

 あと少し早ければ、お母さんはここ迄深手を負わずに済んだかも知れない。もう少し早
ければ、お父さんも致命傷を負わずに済んだかも知れない。でも逆に、もう少し遅ければ、
お母さんもわたしも鬼の餌食になっていた。

「あっちへ行って!」

 わたしが放った青珠は、鬼の喉首辺りに当たって鬼を再度仰け反らせた。わたしの血に
宿る力が制御できない侭利いたのか、青珠その物の守りなのか。鬼はお母さんが放った時
と同じ様に、喉首辺りを灼かれて大きく後ろによろめいて下がる。それでも倒れない、膝
を突かない。お母さんの血を浴びた鬼は快復力も防御力も高まっている。顔や頭から上が
っていた白煙が消え、快復に向い始めていた。

 鬼は一時戸惑ったけどそれだけだ。お母さんの時と同じで、肌や肉を少し灼かれるけど、
我慢すれば腕を振るい、足を踏み出してくる。わたしの抵抗なんて、その位の物でしかな
い。

 落ちた青珠が硬質な音を立てて、再びわたしの元に転がってくる。バックスピンをかけ
たみたいに、わたしの足元でぴたりと止まる。それを拾い、血塗れのお母さんの座り込ん
だ肩を抱き、鬼を見据える。見据える事しか出来ず、身動きできず、お母さんの苦しげな
息遣いだけが届く中、鬼が驚きから立ち直って一歩踏み出そうとした時、突如幾つものラ
イトがわたしの背中から鬼に向けて照射された。

 青珠や月の明かりの様に、冷たくひんやりした感じではないけれど、心を落ち着ける感
じ迄はないけれど、人の世を保ち日常を見守る文明の灯り、白熱灯の輝きがわたしたちを。

「被害者が危ない。全員撃てっ!」

 威嚇射撃の暇はない。鬼の太股を狙った数発の銃撃音が、深夜の病院駐車場に響き渡る。
リアルさを追求したドラマでは、刑事も簡単には発砲できないらしい。人質が危うくてど
うしようもない時位にしか、許可されないと。犯人の生命も簡単に殺めてはいけないのだ
と。胴体は狙わずとも、足元への威嚇射撃を抜かした警察官の長の判断は、かなり大胆だ
った。

 子供が近くで危うかったから。照し出されたお母さんや鬼が血塗れだったから。紛れも
なくわたしたちが生命の危機に晒されていると見えたから。躊躇いのない判断を、促した。
それは鬼に対してはこれ以上ない正解だった。

 人を超えた素早さや筋肉の鎧を持ち、回復力も尋常でない鬼は、銃でも簡単に殺せない。
鬼は何発か銃弾を太股に受けても、倒れずにわたしたちへ歩み出す。お母さんやわたしの
血を呑めば浴びれば怪我も治せると言う事か。

 それは、殺人犯が尚殺戮を諦めてない様に、警察の人には映っていただろう。正にその
通りなのだから。この鬼は、わたしたちの生命を奪って己の傷を治そうとしていたのだか
ら。

「やむをえん、胴体も狙え!」

 被害者に近づけさせるな。救護班急げ。

 次々に警察の人がやってくる物音と足音がする。機材を運ぶ音、銃を構える音、鬼に投
降を呼びかける声、わたしとお母さんに安否を問う声、お父さんを発見し仲間を呼ぶ声も。

 ダンダンダンダン。

 鬼の胴体に銃弾が当たる。鬼はそれでも死なないけど、痛みは分厚い筋肉の鎧で止めら
れて中々奥迄食い込まないけど、その衝撃は一回一回、当たる度に鬼を後ずらせている。

「ウンゴオオオオウウウ」

 鬼の雄叫びは苛立ちの故か、痛みの故か。

 わたしの目の前で、普通の人なら蜂の巣にされる位の銃弾を撃ち込まれながら、尚も人
の四肢を保ちつつ、鬼は悔しそうに、

「必ズ、ソノ血ヲ絶ヤシテヤル。呑ミ干シテ、一滴残サズ呑ミ干シテヤル。良ク憶エテ置
ケ、俺ハソノ甘イ血ヲ、決シテ諦メナイ」

 鬼はわたしに語っているのだろうか。鬼はまだ目が見えてない筈だ。その怒りは、ほぼ
生命を奪ったに近いお母さんへの物ではない。青珠を投げて怒りをぶつけた、わたしへの
…。

「今迄ノがき共ノ血トハ違ウ、コンナ旨イ物ヲ、ドウシテ諦メラレヨウ。死ンデモ、ソノ
血ヲ、一滴残サズ、オマエ達ノソノ血ヲ絶ヤス迄、俺ハ決シテ諦メナイ。諦メナイ!」

 鬼はガクンと膝を突く。それは力尽きて膝を屈した訳ではない。警官隊がそう思い銃撃
を一時止めるのを狙った見せかけだ。鬼の受けた銃弾の傷は、お母さんの血の効果なのか、
元々の強靭さなのか、既に治り始めている。元々深く迄弾が食い込んでない。弾が幾つか
ころころと肉の鎧の間から落ちてくる。

 信じられない。殆ど鬼は出血もない。少し赤い線が滲んでいるけど極めて浅い。引っ掻
き傷に似ている。そのお陰で頭や顔の回復に手が回ってない様子は見えるけど、それでも。

「諦メナイゾ!」

 鬼は突如、5メートル近いジャンプをして、ライトの範囲から大きく外れ、誰もいない
闇の奥へ逃げていく。警察の人達はびっくりして、それを更に銃で撃つ事が出来ないでい
る。

 それはそうだろう。十発以上の銃弾を受けて膝を突けば、誰でも力つきて倒れたと思う。
その隙を突く。もし目か耳か鼻が利いたなら、鬼は行きがけの駄賃にわたしをさらってい
ったかも知れない。その位素早くて力強い走りだった。鬼は尚体力に余裕があった。五感
を閉ざされたから、お母さんの知恵があったから、わたしは何とか助かった。わたしだけ
は。

「追え、追え! 緊急配備だ」
「被害者を、病院に運ぶんだ」
「大丈夫か。気をしっかり!」

 何人もの大人の手が、差し伸べられた。

 ああ、それは有り難かったけれど。
 ああ、それはわたしを助けてくれたけれど。
 あと少し、あともうほんの少し早かったら。

「お母さん、お母さん、しっかりして」

 助かったよ。助かったよ。警察の人がいっぱい来て、鬼を追い払ってくれたよ。大丈夫
だから、もう安全だから、わたしもお母さんも安心だから、だから目を醒まして。

 もうお母さんは、すーすー息をする他には喋る事も出来ない。意識も定かではない様だ。
間近に来て、血塗れのわたしとお母さんを見たお巡りさんが、横にいるお巡りさんに短く
首を横に振った。その意味が分ってしまうわたしが厭だ。お母さんは絶対死なせない。

「お母さんを助けて。お母さんを、助けて」

 刑事さんやお巡りさんにお願いしても違う事は分っている。すぐにお医者さんや看護婦
さんが来てくれると分っている。でも待っていられない。お母さんは一秒一秒死に転げ落
ちている。早く、誰でも良いから早く。お母さんは、わたしの妹を身体に宿しているのに。

「今、君の母さんを病院に運ぶから」

 しがみついた腕が引き離される。そうしなければお母さんを運べないのは分った。でも、
この別離が今生の別れになる事も、わたしは分っていた。分っていたけど分りたくなくて、
助けて欲しいけどこの暖かさを最期迄この手に掴まえていたくて。わたしは錯乱していた。

 泣きたかった。でも泣けなかった。泣くのは何に向けてだろう。泣く事は、泣くべき事
実を認めた気がする。別離を、喪失を、わたしはまだ、認めたくなかった。泣けなかった。
でもこの心の空っぽ感は一体、何なのだろう。

「お父さん、お父さん、お母さんを、お母さんを抱き留めてあげて。お母さんに!」

 心がずたずたに千切られていた。何をして良いか分らなかった。何をしなければならな
いのか、わたしは何をしたいのか、分らない。分らない侭、泣く事も出来ない侭、お巡り
さんに抱き上げられ、病院の建物に入っていく。

「お母さん! お父さん!」

 でも、病院の灯りの下に導かれても、わたしの夜は終らない。いや、わたしは夜が終り
新しい朝が始まる事こそ怖れていた。失った物が帰らずに、新しく始めなければならない
朝こそ、わたしには今最大の悪夢だったから。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 どんなに過ぎ去って欲しくない時間でも、時計の針は時を刻む。わたしは空いた病室に
入れられて、血塗れの顔と手を拭って貰い、病院のパジャマに着替えさせられた。

 飲まされた水薬が鎮静剤の一種で、眠りを呼び込む物だと知ったのは、その効果が出て
からだ。その後は、わたしも良く憶えてない。

 何日が経っただろう。病院の一室で、わたしはお巡りさんや刑事さんに何があったかを
訊かれたけれど、答えても実りは少なかった。逆にわたしの訊きたい事には、お巡りさん
達は黙って首を振るだけで殆ど答えてくれない。

 家に戻っても誰もいないし、犯人の生死が確認されてない以上、狙ってくる怖れもある。
保護が必要だ。刑事さんはそう言ってわたしを病室に留め置いた。保護者に連絡が付く迄
の間だと。でもお父さんお母さんが倒れた今、わたしの保護者は誰がなってくれるのだろ
う。

 婦人警官の人やお巡りさんは、優しかったり礼儀正しかったり、悪意のない人達ではあ
ったけれど、鬼という物を見ていない人達だ。幾ら話しても、子供の話として受け取られ
る。

 わたしは騒いだり泣き喚いたりしなかった。出来なかったというか、する気になれなか
ったというか。見知らぬ大人の中に置かれれば、扱い易い子供だったかも知れない。でも
それは極度のストレスを吐き出せずに溜め込んだ状態だと、吐き出さないといけないダム
の満水だと、受け止める人がいなければ危ないと、後で聞かされた。心に負荷が掛りすぎ
耐えきれないので、感覚を遮断しているのだそうだ。

「どんな細かな事でも良いんだ。気付いた事、思い出した事、憶えている事。話して欲し
い。それが、事件解決のヒントになるんだよ…」

「はい……」

 わたしは、求められた事は、素直に話した。それが終らなかったのは、刑事さん達が何
度も同じ事を繰り返し尋ねたからだ。わたしは求められる侭に、何度も何度も同じ答を返
す。

「柚明ちゃん、元気かな。実はもう一度、事件について、聞かせて欲しいんだけれどもね。
何か思い出せた事、気付いた事、前に話した事でも良いから、言ってみて貰えるかな…」

「はい……」

 顔とか、服装とか、印象とか、訊かれるけれど、話す事を信じて貰えてないのか、同じ
事を何度も訊かれる。わたしが嘘をついているから、何度も訊かれるのだろうか。わたし
の言う事が、常識を外れているからだろうか。

「もう一回、聞かせて貰えるかな。その、お母さんとお父さんに襲い掛かった、鬼の様な
人の話を。その、服装とか、顔形とか、ね」

「はい……」

 確かに鬼の話は中々信じられない話だけど、わたしは真実の侭を話した。だから信じて
貰えないのかと感づいたのは暫く経ってからだ。

 それが警察の事情聴取の方法だと、同じ事を時間をおいて何度も訊いて、繰り返し思い
出させて確実な証言を取るのだと、知ったのは後の事だ。でも、この時のわたしは話した
事を信じて貰えない情けなさと、何よりお父さんとお母さんの最期を何度も思い出す事に、
心が固まって強ばって、内向きに閉じていて。

 あの頃に戻りたい。あの暖かな日々に戻りたい。戻れないならもう日常に戻りたくない。
それ迄いた人達がいなくなって、穴が空いた日常に戻るなんて、わたしには耐えられない。

 だから病室に止まっていた。帰りたいと騒がなかった。誰も迎えに来ない。お父さんも
お母さんも来れないなら、お父さんもお母さんも来れない日常に戻りたくない。帰りたい
処なんてない。帰れる処には帰りたくないし、帰りたい処は二度と帰れない処だ。

 わたしには誰もいない。わたしはどこにも行く処がない。わたしは独り。幾ら話しても
誰もわたしを信じてくれないし、誰にも分って貰えない。わたしのたいせつなひとはもう。

 誰も迎えに来ない。保護者がいない。そんなわたしがここを出る事になったのは、保護
者に当たる人物の迎えがあったからだ。ここ数日の日課になっていた刑事さんの事情聴取
を遮って、踏みならす様な足音と荒々しい声音を伴いつつ、病室のドアを開け放ったのは、

「冗談じゃないよ。酷い目に遭わされて絶対安静の女の子に、連日連日長時間の事情聴取
なんて、何考えてんだいこの国のお上は!」
「通して頂きます。邪魔しないで下さいな」

 小柄で細身で、和服がよく似合うお父さんのお母さん、恵美おばあちゃんと、お母さん
の旧い友達でスタイルが良すぎるサクヤさん。二対の慈しむ目線が、わたしを望んでくれ
た。

「サクヤおばさん……恵美おばあちゃん!」

「ご免よ、柚明。迎えが遅くなっちまって」
「ゆめい、大丈夫だったかい」

 迎えに来てくれる人がいた。わたしの事を心配し、わざわざここ迄来てくれる人がいた。
わたしは独りぼっちじゃ、なかった。その思いが、わたしの中の凍りついた何かを融かす。

「うう、うあ、うわああああん!」

 わたしが恵美おばあちゃんの隣にいたサクヤさんに抱きついて泣きじゃくったのは、今
にして思えば運命の選択だったかも知れない。

 全ての想いを叩き付けわたしは泣き喚いた。怖かった、哀しかった、悔しかった。孤独
だった。胸が張り裂けそうだった。戻り来ない事に、後悔ばかり堪って。誰にぶつけて良
いか分らなかった。その全てを、サクヤさんに。

「あたしはまた、間に合わなかったんだね」

 屈み込んで、わたしがぶつける哀しみを全て受け止めて、サクヤさんは哀しげに呟いた。

 脇に屈み込んでわたしを慈しむ恵美おばあちゃんの視線が、わたしの無事を喜びつつも、
泣き喚く元気に胸をなで下ろしつつも、どこか寂しそうに見えたのは、気の所為だろうか。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「留守電に交通事故の話が入っていたんだ」

 サクヤさんが、お父さんからの第一報を聞いたのは深夜だった。お父さんは恵美おばあ
ちゃんと笑子おばあちゃんにも第一報を入れたけど、お母さんの生命に別状ないと分った
夜遅くサクヤさんも含め第二報を入れており、見舞は急がずとも良いと考えてしまった様
だ。

 状況が急転して以降、連絡を入れられる当事者がいない侭時が経った。警察は久夫おじ
いちゃんにお父さんとお母さんの事を連絡したけど、わたしは病室前に絶対安静の札を下
げられ数日眠り続けており、病院は警察関係者以外出入りを認めず、病室も教えなかった。

『警察が入って長時間面談できる絶対安静なんてあるのかい、ええ!』

 最初に堪忍袋を切らしたのは、心配と行動力の一番大きかったサクヤさんだった。サク
ヤさんは過去に病院も取材しており、事情ありの患者がどの辺りに配置されるかも大凡心
得ている。警察関係者が毎日その辺りを訪れ、長時間居座る事を知ると、瞬く間にわたし
の所在を特定した。一度はわたしを引き取ろうとしたサクヤさんは、身なりが若すぎたの
か、父母の友という血の繋りのない立場の所為か、わたしを引き取る保護者には認めて貰
えずに、久夫おじいちゃんを訪ねて付き合って貰い…。

 自由業という商売は、公の機関の信頼度合いが低い。町外れに屋敷を持つ久夫おじいち
ゃんが電話一本でわたしの引取を承諾されたのは、血の繋りの有無だけではないのだろう。

 久夫おじいちゃんが、駐車場に車を入れる間を待てずに、恵美おばあちゃんとサクヤさ
んが、わたしの病室に駆けつけたという訳だ。

「済まなかったねえ。生命に別状はないって電話が入ったから、すっかり安心して……」

「あたしが、甘かったよ。もっと注意を促しておくべきだった。奴らが動き出した時点で、
あんた達を経観塚へ避難させるべきだった」

 わたし達は取りあえず久夫おじいちゃんの家、町外れの屋敷に向う。長男夫婦と子供2
人と6人で住むにも広い日本家屋は、わたしとサクヤさんを一晩泊めてくれる事になった。

 伯父さんと伯母さんは共働き、わたしの三つ上の従姉と一つ下の従妹も学校で、室内は
テーブルを囲む座布団に四人、漸く落ち着き。

 おじいちゃんとおばあちゃんの顔が少しこけて見えるのは、警察や病院で全てを報され
ていた為か。あの夜から数日、わたしは眠っていたらしい。身体にも心にも最低限の休み
だったと聞かされたけど、それに続く警察の事情聴取の日々も含め、わたしが町外れのお
屋敷に来た時はもう、全てが終った後だった。

「何があったか、ゆっくりと話しておくれ」

 恵美おばあちゃんは何代か遡ると笑子おばあちゃんの羽藤の血に繋ると聞いた。2人と
も鬼を見た事はないけど、鬼の実在を受け容れていた。お父さんを生み育てた人なら話を
聞いて貰える。子供の絵空事とは言わないだろう。サクヤさんは経観塚の家に深く関るお
母さんの親友だ。今迄お父さんとお母さんの最期を話しても信じて貰えないのは辛かった。

 わたしは、ここで漸く聞いて欲しい話を聞いて貰え、聞きたかった話を聞く事が出来た。
通い合わせたかった心が通い、望む訳ではないけど繋げなければならない哀しみが繋った。

 わたしは、テーブルの上に青珠を載せ、憶えている限りをありの侭に話す。警察で幾ら
話しても、壁に向って話している様に手応えがなかったのとは状況が違う。代りにわたし
はお母さんとお父さんのその後を確認できた。

「あいつは凄絶だが良い死に顔をしていた」

 おじいちゃんはそれだけ言って口を噤むと、おばあちゃんがハンカチで、目元を何度も
拭いながら、鼻声になりながら、話してくれた。

 お父さんは警察に発見された時は既に事切れていたという。わたしを守る為に必死に鬼
に立ち向かい、身体を張って、刺し貫かれて絶命したお父さん。お母さんの哀しみや孤独
を分って役に立てない自身にやりきれなさを感じ、それでもお母さんを支える事を喜びに
しそれを果しきれないと悩んでいたお父さん。

 鋭利な刃物の刺し傷と、それに伴う呼吸不全、大量出血。それがお父さんの死因だった。
鬼が来なければ、鬼に立ち向わなければ、わたしがいなければ、負わずに済んだ傷だった。

「お母さんは、お母さんは、助かったの?」

 お母さんはまだ生きていた。あの場ではまだ息をしていた。暖かかった。もうだめだと
分っていても、坂道を転げ落ちる途中だと理解していても、望みは繋いでいたかった。

 久夫おじいちゃんが恵美おばあちゃんに目線を流した。誰が言うか、迷う感じだ。それ
で大凡の成り行きが見えるわたし自身が厭だ。知りたくない。哀しい事は先に知りたくな
い。勘の良さの所為で知りたくない事が次々に感じ取れる。お母さんもそんな事を呟いて
いた。

 恵美おばあちゃんが、迷いつつも意を決し、いつかは知らなければならない事実を告げ
る。

 お母さんは誰にも見送られる事なく2人で手術室に入って行き、無言で出てきたと言う。
2人は、今回は0人になって戻ってきた。それを迎えて包み込んであげられるお父さんも
いない。わたしも側にいてあげられなかった。

「おなかの中の、赤ちゃんも……?」

 サクヤさんが沈痛な面持ちで首を横に振る。お母さんの妊娠は、お父さん以外はサクヤ
さんしか知らなかったらしい。そして誰に知られるより前に生命の芽を断ち切られて果て
た。

 わたしを守ろうとして、わたしを助けようとして。わたしの為にお母さんも、まだ見ぬ
妹迄も。わたしは罪深い子だ。わたしは生命を幾つも食い潰し、1人だけ生き延びている。
わたしに生きていく値打ちがあるのだろうか。お母さんとお父さんと妹の生命も犠牲にし
て。

「そうじゃないよ。そうじゃない」

 言葉に出す前から、サクヤさんはわたしの想いを分っている。それは誰でも言える言葉
ではない。それは誰でも察せる想いではない。まるで経験があるかの様に、わたしの身体
を抱き締めて、心を暖める様に強く抱き締めて、

「柚明の父さんも母さんも、柚明に生きて貰う事が望みだったんだ。生きて、幸せになっ
てやる事が、一番の恩返しで供養なんだよ」

 時々、サクヤさんはおじいちゃんやおばあちゃんよりも年長者の様に、しみじみと語る。

「精一杯幸せに生きて、応えてあげるんだ」

 あんたにできる事は、今はそれしかない。

「親はいつか子供より先に逝く。子供は親の死を看取っていく物なんだ。早すぎはしたけ
れど、哀しすぎはしたけれど、それでも親が子供の死を看取る切なさよりはましな物さ」

 自分の未来が断ち切られる様な痛みがあるからね。サクヤさんにそう言われて、わたし
はサクヤさんの肩越しに、恵美おばあちゃんと久夫おじいちゃんを改めて見つめた。わた
しを元気づける為に、わたしが生きて残れた事を喜んで、笑顔を作ってくれているけれど、
息子と嫁とを瞬時に失った哀しみとやるせなさは、わたしのそれより重いのかも知れない。

 わたしを守る為に、わたし1人を守る為に、お母さんもお父さんもまだ名前もない妹迄
も。わたしは酷い子だ。わたしは禍の子だ。その上わたしは久夫おじいちゃんと恵美おば
あちゃんに、こんな哀しみを持ち込んでしまった。

「久夫さんと恵美さんには、あんたが残った。それが、大きな大きな救いなんだよ」

 未来は断ち切られてない。あんたが生きて残れた事が、せめてもの希望なんだ。あんた
の母さんと父さんが未来を残せた事が、久夫さんと恵美さんに残された幸いなんだ。

 サクヤさんは、わたしに強くそう語りかけ、

「あんたが幸せに生きる事が、あんたの父さんと母さんの幸せで望みなんだ。それこそが
あんたの父さんと母さんが生命がけで守りたかった物なんだ。あんたは無条件に愛を渡さ
れて、望まれたんだ。その生命と、幸せを」

 それを久夫さんも恵美さんも、望んでいる。

 頷く2人の瞳には真実があった。でもその笑顔は綺麗に過ぎる。透明に過ぎる。穏やか
に過ぎる。それは運命を受け容れた微笑みだ。なくした物を諦めた、哀しみの末の微笑み
だ。

 ふたりのたいせつな、たいせつなひとを…。
 わたしのたいせつな、たいせつなひとを…。

「お父さん、お母さん」

 もう一度、口に出してみる。もう答はない。ないと分る故切なさは尽きないけど、ない
筈の答がどこかから返ってきた気がした。お父さんの最期の言葉が甦る。耳の奥に心の奥
に。

「わたしも、誰かの、役に立てる人に……」

 瞳から頬を、暖かな二筋の水が伝う。泣きじゃくるのではなく、唯溢れ出し止まらない。

 誰かに尽くせる人に。誰かを愛せる人に。

 わたしもなろう。いつか必ず。お父さんやお母さんの様に、身を投げ出しても尽くしき
れる人に、いつか必ず、わたしもなろう。

 それがわたしの生き方を決定づけたのかも知れない。お母さんとお父さんの、無条件の、
無限大の愛を受けて、その眩しさに、わたしもその様にありたいと、いや、そうでなけれ
ば収支が合わないと、強く強く胸に刻みつけ。みんなの生命を受けたわたしは、みんなの
気持も受けなければならない。絶対に、絶対に。貰うだけではわたしの生きて行く理由が
ない。

「あんたはみんなに望まれているよ。今でもほら、久夫さんも恵美さんも、柚明を心から
心配して、慈しんでいる。間違いない」

 あんたが生きる値打ちは、確かにあるんだ。

 流れ出る涙は誰の為の涙だろうか。いなくなってしまったひと達の為に、わたしのたい
せつなひと達の為に、その死をわたしは漸く受け止めて、心から悼みつつ感謝して。みん
なの犠牲の上に残されたわたしのこの生命に。

 わたしは生きていきます。
 わたしは幸せになります。
 わたしは誰かの為に尽くせる人になります。

 決別の涙。感謝の涙。決意の涙。そして、ちょっとだけわたし自身の為の涙。寂しさは
拭えないけど、この手にはお父さんとお母さんのぬくもりは残っている。この心にはお父
さんとお母さんの魂が残っている。それを宿し続ける限り、わたしも生きていく値がある。

 そう信じる事で、わたしは漸く朝を迎える事を自分に認めた。お父さんとお母さんを失
った夜に続いて来たる、2人のいない朝を。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 鬼は結局、捕まらなかったらしい。途中で一度追いつめかけた末、激しく抵抗した為に、
かなりの銃弾を撃ち込んだ処、川に落ちたと言う。恐らく生命はないと、警察は言ってい
た様だけど、サクヤさんはそれを疑っている。

「鬼って奴を知らない者の言いそうな事だ」

 鬼をそう簡単に倒せるとは、わたしにも思えない。あの鬼は、底知れぬ生命力と執念に
身を包み、生半可な打撃では傷も負わせられない。その傷さえも、すぐに回復してしまう。

 わたしは間近で見たから分る。あれは日本刀で首でも落さないと殺せない。ハンマーで
心臓でも潰さないと倒せない。ガソリンでもかけて、真っ黒に灼き焦がさないと終らない。

 鬼を知っていると言うサクヤさんも、久夫おじいちゃんも恵美おばあちゃんも、警察の
話には懐疑的だった。普通の人なら、普通の犯罪者なら伯父さんも伯母さんもいるこの屋
敷で充分安全だけれど。あんな鬼が現れた日には。警官隊だって掴まえきれなかったのだ。

 青珠を持つわたしは、人に紛れていれば気付かれないけど、鬼は今もこの町を歩き回っ
て、見境なく子供を餌食にしているかも知れない。その鬼は、わたしの血を必ず吸い尽く
すと言って逃げ、まだ死体は確認されてない。

 話す事に疲れ、泣き疲れ、先に布団に寝かされたわたしは、それでも心が落ち着かずサ
クヤさん達の話に耳をそばだてる。前もこんな事があった気がする。随分前の話だけれど、
その時も、こんな感じで疲れて寝入ったっけ。

「柚明は、経観塚に連れて行くべきだね」

 サクヤさんの声は沈みがちだった。わたしが起きている時は、わたしを元気づける為に、
無理に陽気に力強かったサクヤさんだけど、お母さんとお父さんの死はショックだったら
しい。久しぶりに逢った直後だけに、迫り来る危機を知って報せた直後だけに、何とか防
げなかったかと自身を責める想いも強い様だ。

「うちは、構わないんですよ」

 柚明ちゃんに来て貰っても、この家は狭い訳じゃない。むしろ、持て余している位です。

 年輩の男性の声は、久夫おじいちゃんではない。浩一伯父さん、お父さんのお兄さんだ。

「新しい家族が増える事は好ましいわ。可南子も仁美も、喜びこそすれ」

 女声は伯父さんの奥さん、佳美伯母さんだ。大人衆が揃って、わたしの行く末を案じて
くれている。その模様を、仁美さんや可南子ちゃんの眠る子供部屋ではなく、今夜は客間
に寝かされたわたしは、密かに聞いていられる。

「あんた達の善意は疑っちゃいないよ。それは柚明にとっても有り難い話だろうし、あた
しもそう言って貰える事は嬉しいんだけど」

 サクヤさんは、恐らく眉を顰めながら、善意を謝絶しなければならない事情を説明する。

「青珠の守りしかない今の柚明は、とても不安定で危うい。同じ血の持ち主で、力を使い
こなせる先達である母と一緒だから、この町で暮らす事にも笑子さんは承諾したけれど」

 結果、それで防ぎきれなかった。仕切直しは、守りの万全な処でやらなければならない。

 柚明を狙って来るかも知れない禍は、柚明がここにいれば家の者や近所に迄降り掛るか
も知れない。それ迄覚悟して護れと言うのは、あたしにも言いづらいし、あんた達だって
難しいだろう。鬼がまだ生きていて、柚明を探し続けているなら、半端な脅威じゃない。

「柚明の事を詳しく知らない鬼は、経観塚迄は追って来られない。向うには笑子さんもい
るし、経観塚は鬼の目を攪乱できる場所でもある。血の匂いを隠せる程度に力の扱いを憶
える迄、柚明は経観塚に置くべきだ。これには笑子さんも同意見だったよ。転校とか住民
票とか、手続きはあるだろうけれど」

 わたし、転校するんだ。お母さんもお父さんもいないし、どうなるのか先の事は考えて
なかったけれど。経観塚、あの山奥の屋敷に行く事になると。寝ぼけ眼の所為か、わたし
の感触はわたしの事なのに、どこか他人事で。

 とりとめのない思索の間、大人の話も又思索の間だった様で、暫くは無言だったらしい。

「その方が、柚明の為になるのなら」

 無口な久夫おじいちゃんが、最初に同意の声を出した。理由も言い訳も言う人ではない。
全ての事情を考慮して、判断だけを口に出す。そう言う人だ。続く恵美おばあちゃんの声
が、

「寂しくなるけど、仕方ないね」

 ゆめいが病院で、最初に抱きついたのは、わたしではなくサクヤさん、あなただったわ。

「羽藤の笑子さんの血を濃く継いでしまったゆめいは、母親を失った今、笑子さんの処で
育つべきだと、分っていたのかも知れない…。
 詳しい事情は分らないけれど、サクヤさん、あなたも笑子さんと深い関りがある方、あ
なた達を、経観塚をゆめいが選ぶのは、あの子が受け継いだ、血の定めなのかも知れな
い」

 人には、幾ら善意や意欲が溢れていても手を伸ばせない領域がある。努力で及び得ない
物があった様に。お父さんがお母さんを救い上げられぬ苦味を感じていた様に。わたしが
お父さんやお母さんを助けられなかった様に。それと同じ思いをおばあちゃんは今わたし
に。

「孫を、ゆめいを、よろしくお願いします」

 多分そうする事が最善なのだ。恐らくそれがこういう場合の最上手なのだ。一刻も早く、
両親の四十九日に立ち会えぬ侭、わたしは翌日サクヤさんの車で、生れ育った町を離れる。

 出発は、朝ご飯のすぐ後にそれらの事情を説明された後、昼少し前だった。学校は無断
休校した侭だけど、お別れの挨拶もない転校だけど、久夫おじいちゃんが、学校に事情を
説明してくれると言う。

 夜逃げの様に慌ただしい、何もかも振り捨てる様な移動だったけど、わたしの安全と周
囲に害が及ぶ怖れを考えたら、もうこの屋敷にも学校にも暫く寄りつけない。少し時を置
いて、状況が落ち着けば話は別だけど今は…。

 サクヤさんも、鬼の噂を話していたあの夜に即座に動けなかった事を悔やんでいるのか。
その時の慎重さを、取り返そうと言う感じで、その動きには遠慮がなく、大胆で素早かっ
た。

「来たい時はいつでも、来ると良い」
「気を落とさないでね、元気でねっ」

 おじいちゃんもおばあちゃんも、伯父さんも伯母さんも2人の従姉妹も、みんなわたし
を慰めてくれて、気遣ってくれて、元気づけてくれて。役に立てない事を許してだなんて。
わたしこそ何も誰の役にも立てていないのに。

「ありがとう。ありがとう、ございます…」

 これだけの善意を受けても、わたしに返せる物は何もない。唯、みんなに迷惑が掛らな
い様にここを去るのが精一杯で。お母さんやお父さんの時と同じだ。強く深い情を受けて
も、わたしに返せる物は何もない。ああ。

 別れより、その事に胸を潰されそうになるわたしの心中を、なぜかサクヤさんは的確に
把握して、わたしの瞳を屈み込んで覗き込む。その仕草も誰かに似ていて、懐かしく切な
い。

「それでも、生きていればいつか返せる恩義もあるだろうさ。生きてない人間に返せる物
は限られているけれど」

 サクヤさんは、大きな車の高い助手席にわたしをちょこんと乗せると、そう語りかけて、

「生きている人になら、色々と役に立てる事だってある。そう言う日もいつかは来るさ」

 その日の為に、生きて大きくなるんだよ。

「あたしの、様にね」

 サクヤさんは胸を反らせて悪戯っぽく笑う。
 瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。
 それはそれで人の役に立つのかも知れない。

「事が落ち着いたら、またいつでもおいで」

 あなたはわたしたちの大切な孫なのだから。わたしの大切な子供の、忘れ形見なのだか
ら。

「恵美おばあちゃん、ありがとう」

 それが、生れ育ったこの町で受けた見送りだった。わたしの行く先は視えないけど隣に
はサクヤさんがいる。いつでも戻っておいでと言ってくれる人もいる。それで充分だった。

 いるべき人がいなくても、人は生きていけるし、生きていかなければならない。たいせ
つなひとがいなくなっても、毎日の日は昇る。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「法事に立ち会う事で、顔を見られる怖れがある。一応身内だけの物だけど、どこで葬儀
があって誰が亡くなったかなんて、棺桶や花の動きから結構分る物なのさ。参列者や人の
出入りを、物陰からでもチェックされたなら、顔が覚えられているあんたは、拙いんだ
よ」

 鬼は大抵夜に出歩く物だけど、ごくまれに日中でも出歩ける奴もいる。鬼の力は夜の方
が強いのは勿論だけど、昼間出歩ける程の奴は知恵も回る奴だから侮れないんだ。そして、

「連続少女傷害事件の鬼は、夜間だけじゃなく夕刻や早朝にも犯行に及んでいるらしい」

 奴の行動時間に日中迄含まれるのかは確かじゃないが、こういう場合は最悪の事態を前
提に考えた方が良いよ。どこかで人の皮を被りつつ、獲物を探しているかも知れないんだ。

 サクヤさんは、せめて四十九日が終る迄は町外れの屋敷に居続けたいと言ったわたしに、
すぐ離れなければならない事情をそう説明し、

「学校にも転校の挨拶はしない。見られたら、あんたの同級生に害が及ぶかも知れないん
だ。相手が知能犯なら、そうやってあんたを追いつめて、炙りだしてくる怖れさえあるし
ね」

『杏子ちゃんに、お別れは言えないんだ…』

 事情を話せない侭いなくなる事が、何があったか全然伝えられない事が、友達を心配さ
せるので心残りだけど、非常時だ。仕方ない。

 流石に鬼の話はしないけど、少女連続傷害事件の犯人にお父さんお母さんを殺された事、
逃亡した犯人に尚も狙われる怖れを伝えれば、学校も了解すると。わたしが心に大きな傷
を負って、おばあちゃんのいる田舎に転地療養する事になったと言えば、名目は充分らし
い。

「二度と逢えない訳じゃないさ。一件が解決するか、落ち着くかすれば、ここを訪れる事
は無理じゃないし、その内こっちに再び住む事も出来ない訳じゃあない。今は取りあえず、
緊急避難さ。日の高い内に、町を離れるよ」

 状況の急変に、心も身体もついて行きづらいのは分る。でも、今はあんたの身を守る事
が最優先なんだ。あんたの父さんと母さんが残した大切なあんたを、守り抜く事が。だか
ら暫くは、あたしを信じてついてきておくれ。

 サクヤさんの表情は、引き締まって美しい。それは闘いに備える戦士の美しさだ。勝負
に臨む棋士の真剣さだ。写真を撮る時もサクヤさんはこの様に獲物を追うのだろうか。狩
人が弓矢の点検をする様な緻密さが、抱いていた豪快なイメージと違って、新鮮で爽やか
だ。

「うん。サクヤおばさんを、信じる」

 そう言うわたしの頭にサクヤさんのしなやかな左腕が降りてくる。くしゃっと髪の毛を
掻き回す様に強く撫でられるのが気持ち良い。

 サクヤさんについていけば良い。それはわたしに久々の、大船に乗った安心感を与えた。
お母さんとお父さんがいなくなって、ずっとわたしの心は羅針盤をなくし、彷徨っていた。
どこを向けば良いのか、その判断が良かったのか悪かったのか、何を目指せばよいのかが、
分らない侭日々目の前の事に対応するだけで。

 身を預けきってしまえる安心感、無条件に未来を委ねられる信頼感。これが子供にどれ
程大切な物か。サクヤさんの運転に身を任せ、その赤い車で町の中心部へ向い、そこを通
り抜け、着いたのは意外にもわたしの家だった。時刻はほぼ正午頃、太陽は頭上で輝いて
いる。

「わたしの、家……?」
「ああ、そうだよ」

 意外な展開に目を丸くするわたしに、サクヤさんは悪戯っ子の瞳でニッと微笑み、

「緊急避難とは言っても、向うに着いて即必要な物とかもあるし、一度は寄らなきゃね」

 マグカップとか、歯ブラシとかバスタオルとか、買い直すのも何だろう。下着とかもさ。

 サクヤさんは、わたしがそれらの小物に結構拘っている事を知っていた。それに流石に
肌着とかは、人のを借りる訳にも行かないし。

「あたしので良ければ貸してやるんだけどね。でもまあ、あたしのを着て似合うには、柚
明でもあと十年位は、掛るかねえ」

 瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。

 見事な体型を見ると、努力で手が届かない物を改めて感じる。お母さんとお父さんを考
えれば、わたしがそうなる見込みは殆どない。笑子おばあちゃんや恵美おばあちゃんの血
を『かく世い伝』しても、望みは薄い。それは、贄の血より切実な宿命なのかも知れなか
った。

「十年経っても、そうなれるかどうか……」

 わたしの苦笑いをサクヤさんは軽く流して、

「足繁く立ち寄るのは拙いけど、今回限りと言う事で、お天道様にも見逃して貰おうさ」

 さりげなく周囲に目線を配りつつ、サクヤさんは先に車を降りると、わたしを助手席か
らお姫様だっこで降ろしてくれた。サクヤさんの車は車高が高いから、わたしが乗り降り
するのはやや大変だけれど、ここ迄大切に扱われるのはやっぱり、非常時の所為だろうか。

 近所の様子もいつもと同じだ。状況が変りすぎたわたしが見ると、何の変哲もない事が
不思議だけどこれが当たり前なのだ。犯罪者が近くにいても日常生活に大きな影響はない。
周囲に人影が見えないのは、昼時の為だろう。

「誰も入ってきてはいない様だね」

 玄関の鍵を確認し、新聞受けの束を見、更に庭が暫く掃かれておらず埃が堪っている事
に目を向け。こういう時のサクヤさんはとても用心深い。入る直前にも、周囲に視線を振
って眺めてくる者がいないかどうか確かめる。

「家に入ってドアを閉める迄、気を……」
「……抜かないのが、淑女の心がけだよ」

 わたしは再びこの家に足を踏み入れた。もう誰も迎えてくれる者もない、もう誰を迎え
る事もない、恐らくもう来られない、わたしの9年近くを育んでくれたわたしとお父さん
とお母さんの家に。今はサクヤさんと一緒に。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ただいま……」

 何日か前までは毎日を過ごしていた家に、今はもう誰も住んでない家に、わたしは入る。

【お帰りなさい、柚明】

 お母さんの声が、耳に届いた気がした。

【あら、お久しぶり。サクヤさん】

【仕事の関係でこの辺に来たんでね、立ち寄らせて貰ったよ】

【柚明も帰って来たのか、お帰り】

 こんな会話が確かにあった。少し前に、お父さんの声もお母さんの声も、ここで確かに。

【もうすぐ夕ご飯だから、お父さんとサクヤさんの話し相手をしながら待っていて頂戴】

「はぁい」

 口に出してみたわたしの返事に、サクヤさんが不思議そうな顔を見せた。わたしはそれ
についての説明はせず、家の中に上がり込む。

「日中だから、鬼が襲う事はないだろうけど、ここが柚明の家だと鬼は知らないだろうけ
ど、一旦離れたらここも簡単に立ち寄れないから、大切な物はしっかり持って出るんだ
よ」

 本当は、サクヤさんはその為にここに立ち寄ってくれたに違いない。夜逃げの様に何も
かも振り捨てる移動になったけど、誰にも挨拶さえ出来ない侭の転居になったけど。せめ
て長く住んだおうちへのお別れと、家にある想い出の宿った小物位は持っていける様にと。

 サクヤさんは見かけは豪快で、飄々として、時折荒っぽい仕草も見せるけれど、本当は
とても心が細やかで、優しくて。わたしはそんなサクヤさんを好きで良かった。

 お母さんが毎日ご飯を作っていた台所。お手伝いしたいって割り込んだけど、包丁の持
ち方がなってないって、叱られて、直された。

 お父さんやお母さんと一緒に夕食を食べた居間。サクヤさんも一緒に食べた夜が遠く懐
かしい。ここで毎日テレビを見て、話をした。

 お父さんとお母さんの寝室。お父さんが定期入れをなくしたって、珍しく慌てていた時、
お母さんがタンスの奥からさっと取り出した。

 わたしの部屋。ベッドの回りは縫いぐるみ。ランドセルが置いてある。時間割やプリン
トがその侭だ。机の上は、お母さんの書き置きと食べかけのお菓子があの時の侭動いてな
い。

『市立病院に行って来ます、遅くなるかも知れないから、おやつを食べて待っていてね』

 この文章を書いた時、お母さんはおなかの中の妹と一緒に元気だった。お父さんもお仕
事中で、こうなるとは夢にも思ってなかった。そしてわたしも、毎日が何事もなく来ては
去っていく事を、疑ってもいなかった。

 この時に戻れたなら。この時に帰れたなら。
 その気はないのに、涙が零れそうになる。

『泣いちゃだめだ。泣いちゃだめだ』

 自分の為に泣いちゃダメだ。わたしの為に多くの生命が犠牲になったのに、それで生き
残れたわたしが、犠牲になった人達の為じゃなくて、自分の寂しさの為に涙を流すなんて。
そんな我が侭許されない。誰よりもわたしに。

 鼻の奥がツンとするのを堪えて、その書き置きを握り締める。お母さんの、最期の文だ。

 瞼に堪る熱い水を、流れない内に掌で拭ってなかった事にすると、後ろでサクヤさんが、

「柚明、あんたの気に入りのコップや小物を見繕ってみたよ。良いかどうか見ておくれ」

「ちょっと待って」

 もう一度目を閉じ、瞳を拭う。深呼吸して振り向くと、サクヤさんはどこから探したの
か段ボールに、色々と品物を詰め込んでいた。

「あたしは物に、余り拘らない方だからねぇ。何が柚明にとって大切かどうかには、今ひ
とつ自信が持てなくてさ」

 そう言いながら、サクヤさんは年に一度か二度しか来ないのに、その時にわたしが使っ
ていたり身に付けていた小物をしっかり幾つか収納している。目聡い。気付いてなかった
けれど、わたしがサクヤさんを見つめるより、サクヤさんはわたしの事をよく見ていたん
だ。

 感傷に浸っていると、幾ら時間があっても足りない。わたしは溢れ出る想い出を心の隅
に一旦押し込んで、目の前の作業に集中した。やる事があれば人は考える事を棚上げでき
る。

 わたしが衣服や縫いぐるみを少し追加して、車の後部に詰めそうな程度の荷物が出来る
と、

「こんなもんかね」
「こんなもんかも」

 サクヤさんの口調を真似てみる。サクヤさんはニッと微笑んでわたしの額を指でつつく。
そろそろ出発かな。日が暮れない内に町を離れたい、遅くなっても今日の内には経観塚に
着きたいって、サクヤさんは言っていたっけ。

「あ、そうだ!」

 良いかなと思った処でわたしは突如思い出し、お父さんとお母さんの寝室へ飛び込んだ。

「これ、これ」

 鏡台の引き出しにある、白いちょうちょの髪飾り。青珠のお守りに描かれた文様に似た、
それを少し丸く可愛くした感じの、淡く輝く髪飾り。お父さんがお母さんにプロポーズの
時に贈ったと言う、幻想的な色合いの逸品だ。

「……」

 恐る恐る、鏡台の前で、自分の髪に留めてみる。わたしもお母さんがそれを付けている
のを殆ど見た事がない。お母さんにとって大切な物、晴れがましい時に付けたい特別の物
だったのだろう。お葬式の時にお棺に一緒に入れてあげれば良かったのかも知れないけど。

「ほう、似合うじゃないかい」

 後ろから見ていたサクヤさんが、声を挟む。

「綺麗だったから頂戴ってお母さんにお願いしたの。でももう少し大きくなってからって。
 この髪飾りを付けて、綺麗になった柚明を是非見せてあげたい、見て貰いたい誰かが現
れる時迄、もう少し待っていなさいって…」

 杏子ちゃんじゃダメなの? わたし、この髪飾りを付けてお友達に見て貰えたら嬉しい。

 そう言って、駄々をこねた覚えがあった。この髪飾りは可憐でとても美しい。お友達や
先生に、見せてあげたいと思ったのに。これを付けたわたしを見て貰いたいと思ったのに。

『母さんにとっての父さんの様な人の事よ』

 少し考え込んで、お母さんはそう言った。

 大切なだけじゃなく特別な人。
 特別なだけじゃなく一番の人。
 この世に唯1人と、思える人。

 そう言う人が出来る迄、見つけられる迄。

『それ迄は、ここにしまっておきましょう』

「そう言ってお母さんは鏡台の引き出しに」

 でももうここには来られない。お母さんがわたしにこれを渡す事は出来ない。今これを
持ち出さないと永久に手に入らない。お母さんとお父さんの想い出でもあるこの髪飾りを。

 わたしは一つの決意を持って、目の前の鏡に視線を移す。鏡像には、髪飾りを付けたわ
たしとそれを覗き込むサクヤさんの姿がある。映っているのは、それだけだ。それで充分
だ。

「サクヤおばさん!」
「どうしたんだい?」

 その勢いに、サクヤさんは驚いた声を返す。振り向いたわたしを見る目が点になってい
た。

「わたし、この髪飾りを、貰います」

 言い切った。目の前にいるサクヤさんと、目の届くどこにもいないお母さんに向けて、

「この髪飾りを付けて、綺麗になったわたしを是非、見せてあげたいの、見て貰いたいの。
サクヤおばさんに、わたしの一番大切な、特別な、サクヤおばさんに!」

『母さんにとっての父さんの様な人の事よ』

 大切なだけじゃなく特別な人。
 特別なだけじゃなく一番の人。
 この世に唯1人と、思える人。

 言いながら、頬が真っ赤になっていくのが自分で分る。身体中の血が、頭に全部上って
きたみたい。心臓がばくばく言ってうるさい。その気恥ずかしさを、決意と勢いで乗り越
え、

「わたしにはそれは、サクヤおばさんです」

 告白と、言うのだろうかこれは。

 お母さんとお父さんの想い出の品。大切で特別で唯一の人に出逢う迄、待つよう言われ
た品。だからそれを手に入れる為、と言う何か逆算したみたいな、急ごしらえな気はする
けど、そうじゃない。わたしはずっとそう思っていた。わたしはサクヤさんを好きだった。

 口に出してみて、初めてそれを整理できた。はっきり分った。お母さんとお父さんのい
ない今、いた頃からかも知れない、わたしは確かにサクヤさんを心から特別に、好きだっ
た。

「……柚明」

 呆気に取られていたサクヤさんが、漸く言葉を継いだのは、一分位経ってからだろうか。
笑い飛ばされるのは覚悟していた。この髪飾りを持ち出す言い訳と思われるのは厭だった。
お父さんとお母さんを失った穴を埋めようと縋り付いている、とは思って欲しくなかった。

 タイミングは悪かったかも知れない。でも、思いついたら即行動に移さないと、せっか
くの炎が冷めてしまう。瞬間の想いが伝えられない。何より、一刻も早く、知って貰いた
い。

 自分の想いを言い切ってしまうと、身体の熱も急に冷めてくる。サクヤさんの想いがど
うなのか気になって、サクヤさんがどう受け止めたか気になって、身体が微かに寒くなる。
日中なのに、暖かい筈なのに、身体はドキドキを続けながら、でも手足は急に冷えてきて。

 笑われるか、怒られるか、嫌われるか、疑われるか。良い方向に想像が向わない。直感
でないが、なぜか考えが暗い方に向きたがる。

 そんなわたしに、サクヤさんは、

「……大胆だねえ。明るい内から」

 少し呆れた声を出し、その腕を、

「でも……嬉しいよ。ありがとう」

 頭にくしゃっと置くのではなく、わたしの両肩に回して抱き留めてくれた。本当?

「柚明は綺麗だよ。とっても綺麗で可愛い。

 その髪飾りも、よく似合っているよ」

 サクヤさんは、わたしの告白を受け止めてくれた。正面から抱き留められて、わたしが
むしろびっくりして身動き取れないでいると、

「あたしの為に、これからもそれを身に付けて元気で綺麗で居続けてくれるね? 柚明」

 サクヤさんは、わたしに生きる元気を与える為にそう言ってくれたのかも知れない。わ
たしの必死そうな姿勢と顔つきに、傷つけまいとそう言ってくれたのかも。わたしは熱く
なりすぎていた。サクヤさんは前後の見境のつく大人だ。微かにそう言う思いが掠める中、

「あんたが元気で綺麗で居続けてくれる事が、あたしにとっても大切で特別な事なんだ
よ」

 一番と言い切れないのは、悪いと思うけど。

 それでわたしはサクヤさんが本心で、わたしの言葉と想いに応えてくれていると分った。

「ごめんよ。あたしには絶対代えの利かない、掛け替えのない人がいてね、あんたを一番
にしてあげる事は出来ないんだ。柚明があたしを一番と言ってくれるのは嬉しいけど、そ
れにあたしは、同じ想いで応える事が出来ない。
 柚明を特別に大切だと思うあたしの気持ちは本物だよ。それでも、一番だって想いに一
番の想いで応えてあげられないってのは、我ながら薄情だと思う。ごめん、柚明」

 力を込めて抱き締める、サクヤさんの声は沈痛だ。そこにどれ程の想いが籠もっている
のか。わたしは、こんな答を望んでなかった。ここ迄真剣な答を期待してなかった。それ
はノーではあるけれど、それはわたしが様々に悪い方向に考えていたノーと全然違ってい
た。

「サクヤおばさん、そんな、そんな」

 わたしは自分の想いを出すだけで、それが人にどの様な想いを呼び起させるか、考えて
なかった。わたしに様々な想いがある様に、サクヤさんには様々なサクヤさんの想いがあ
る。真剣な言葉には真剣な答が帰る。鏡に映る像の様に返され、困ったのはわたしだった。

「他ならぬあんたの気持ちには、叶う限り応えたいんだけど、こればかりは許しておくれ。
あたしの一番は、この世に1人だけなんだ」

 真剣に過ぎた。サクヤさんがここ迄深くわたしの熱意に応えてくれるなんて。

「わたしは良いの。わたしがサクヤおばさんを一番に思っているだけで、サクヤおばさん
がわたしを一番に思って欲しいなんて、言わないから。わたしが好きなだけ。謝る必要な
んて全然ないの。わたしは、わたしは」

 わたしの想いは子供の想いだ。そんなわたしにそこ迄真剣に悩むサクヤさんが痛ましい。
そこ迄真剣に苦悩して、誠実に応えるサクヤさんが。わたしの為にそれ以上苦しまないで。

「あたしはあんたの想いに、応えてないんだ。あんたの全身全霊の心をあたしは断ってい
る。それでいて尚あんたはあたしに思いを寄せる。あたしはそれをも受け止められずに、
断って。
 あたしは結構、酷い奴だよ」

 自嘲気味な口調。抱き留めるその腕が緩む。
 わたしはお父さんの孤独を身を以て感じた。
 わたしはお母さんの孤独をも身近に感じた。

 捧げても捧げても届かない想いと、捧げられても捧げられても受け取り切れない想いと。
サクヤさんはわたし以上に苦しいのか。飄々として、荒っぽさを装うけれど、その奥には
哀しみがある。いつも隠されて見えないけれど、それは深くぱっくり口を開けて塞ぎがた
い。わたしはそこを覗き見てしまった。ああ、

「お願いだからそれ以上自分を貶めないで」

 わたしは、サクヤさんを抱き留めていた。

「わたしが悪かったの。わたしが、わたしの勝手な思いだけを言っちゃったから。サクヤ
おばさんの気持も考えないで、言っちゃったから。誰でも好きな人がいて当たり前だもの。
 誰でもそれぞれに一番の人がいて、当たり前だもの。わたしがわたしの一番を勝手に言
ってサクヤさんの気持を縛っちゃった。ごめんなさい、わたし悪い子です。悪い子です」

 サクヤさんを悲しませてしまった。一番大切なのに、特別な人なのに、わたしが悲しま
せてしまった。わたしは酷い子だ。唯喜んで欲しかったのに。これじゃ、疑われた方がま
しだ。笑い飛ばされた方がましだ。子供扱いの方が良い。わたしなんていない方がましだ。

 悪い考えが、ぐるぐる回るわたしの耳元に、

「柚明は悪くないんだよ」

 サクヤさんの声が静かに響く。その声音にはもう、沈痛な響きは感じない。わたしを励
ます気持が、自分の哀しみに向き合う意思が、

「あんたがたった今、言ったじゃないかい。
 誰でも好きな人がいて当たり前だって。誰でもそれぞれ一番の人がいて当たり前だって。
柚明が誰かを好きになる事は、全然悪くない。それだけの気持を寄せて貰えるって事は、
凄く嬉しい事なんだよ。本当に、本当にね」

 あたしはそれに等しい気持を返せないけど。
 サクヤさんはそこで微かに俯き加減になり、

「でも、柚明がそれでも良いって言ってくれるなら、それで尚あたしをそう思い続けてく
れるなら、あたしもあたしにできる限りの気持を返すよ。一番と言えないけど、この世で
2番目に大切な人と同着の、2番目として」

 失礼な話だと、言っていて分るんだけどね。

 良いだろうか、と許しを請う感じのサクヤさんに、珍しく弱気のサクヤさんに、わたし
は奇妙な可愛さを感じて何だか嬉しくなった。サクヤさんは実はとても純情で臆病で、可
憐で義理堅い。意外な一面を、知れば知る程に、わたしはますますサクヤさんを、好きに
なる。誰が一番でも良い、誰が同着で並んでも良い。

 わたしはサクヤさんを抱き締める腕にぎゅっと力を込めて、その柔らかい頬に頬を寄せ、

「わたしはわたしが好きだから言っただけ。同じ気持を返して欲しいなんて、思わない」

 そこ迄真剣に応えてくれたからそれで良い。
 サクヤさんは今迄のサクヤさんの侭でいて。

 わたしもこの瞬間に、今迄の気持が変った訳じゃない。ずっと好きだったのだ。自覚し
てなかったけど、今迄と何か変った訳じゃない。この気持は今迄の侭。今迄培った想いが、
今後もあるだけ。サクヤさんが今迄のサクヤさんでいる様にわたしも今迄のわたしでいる。

「あんた、見かけに寄らず大人だね」

 サクヤさんに抱かれるのは結構あったけど、サクヤさんと抱き合うのは今日が初めてだ
った。髪飾りを付けた侭、わたしは暫くサクヤさんの背中に手を回し、凭れ掛って時を過
す。

 この髪飾りは今からわたしの大切な物です。わたしと、わたしのたいせつなひとの物で
す。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 荷造りが済んだのは、二時の少し前だった。

 ここを引き払うのは少し後だが、わたしはもうこの家に住みはしない。想い出は尽きな
いけれど、いる筈の人がいない事がわたしに否応なく現実を呑み込ませてもくれた。

 留守電に入っていた杏子ちゃんのメッセージを聞いた時は、その場で電話して事情を話
し、お別れを言いたい思いに駆られた。杏子ちゃんの家には行かなくても、電話位ならと
言う思いが胸を過ぎったけれど。

「電話なら、経観塚からでも、できるよね」

 自分に言い聞かせる様に、受話器を置いた。わたしたちはここに結構長居している。今
はこの身体がここに長くある事が良くないのだ。それに電話すればきっと逢いたくなるだ
ろう。

「今のこの国は、通信事情が良いからねぇ」

 狼煙も伝馬も飛脚も不要さ。
 その気になれば国内は全て電話一本だよ。

 その言葉を支えに電話機を離れ、わたしは住み慣れた家を出る。ドアを開けて荷物を外
に運び出し、サクヤさんの車のドアを開ける。

「旅立ちって、新婚旅行みたいだね」
「って言うより夜逃げだろ。こりゃ」

「白昼堂々って処が。ブーケ投げたりとかも似合いそう」

 わたしの瞳は、きらきらと輝いていたかな。

「構わないけど、花束を投げるのはあたしだからね。柚明は花婿役だよ」

「サクヤおばさん、花婿似合いそうなのに」

 肩幅もあって背丈も高いし。あたしが花婿じゃ、並んでも小さくてちょっと格好つかな
いよ。胸は、サクヤさんの方が大きいけれど。

 そう言うわたしにサクヤさんは悪戯っぽく、

「プロポーズは古今東西、婿の側がする物さ。それをされちまった以上、あたしが花嫁に
なるしかないだろう。ちょうちょの髪飾りを付けた可愛い花婿がいたって、問題はない
さ」

 車の後部座席に荷物を積み込もうとすると、

「良いよ、あたしが持つから」

 サクヤさんは、わたしから荷を奪い取ると、わたしを助手席にかつぎ込んで、ドアを閉
め、

「小さな花婿には、これは難しいからね」

 わたし自身が乗り込むのが難しい高い席に、段ボールの荷を乗せるのは結構難しい。で
も、

「サクヤおばさん、少し過保護」

 わたし、甘えちゃうよ。そう言うわたしに、

「あんたには、それ位で丁度良いんだよ。お子様が何もかも抱え込んで、ずっと堅い顔を
崩さないのは、あたしが見ていられないんだ。
 甘えてめろめろになるのが新婚旅行ってもんだろう。柚明なら幾らでも甘えて良いさ」

 その分だけ、あたしも甘えさせて貰うから。

 サクヤさんは多くない荷をさっさと後部に積み込むと、もう一度周囲にわたしたちを狙
う視線がないか探りを入れて、それで漸く安全を確認できた様子で、運転席に戻ってきた。

「さ、行こうか」

 サクヤさんが敢て短くそう言うのに、わたしは頷いて、もう一度わたしの家を振り返る。

 家は、わたしが住んでいた頃ともさっき訪れた時とも何も変る事なく、あり続けている。
わたしが9年近くを過ごした家。お母さんとお父さんと、何の疑いもなく日々を送った家。
ここから学校に行き、杏子ちゃんの家に行き、夕方必ず帰ってきていた家。誰もいなくな
ってもわたしの帰りを待っていた家。今恐らく二度と戻らないわたしを、無言で送り出す
家。

 この家にはもう、戻らない。
 この家で過ごした日々はもう、戻らない。
 これからはわたしの記憶にしか残らない。

 さようなら、お父さん、お母さん。
 さようなら、今迄の、暖かな日々。
 わたしは今、ここを旅立ちます。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしたちが山奥の笑子おばあちゃんの屋敷についたのは、夜もかなり更けた頃だった。

 高速道路をぶっ飛ばし、二回トイレに立ち寄っただけで、車は道を突き進む。途中で高
速道路を降りて一般道に入ったけど、交通量の少ない裏道を選んだサクヤさんは殆ど速度
を緩めなかった。取材であちこちを車で飛び回る為か。サクヤさんは異様に裏道に詳しい。

「偶に、車を運転する鬼もいるからね」

 言われてみればそうだった。鬼だって現代に生きていれば、その位はするかも知れない。
人だって賢くなったのだ。鬼だけがいつ迄も時代劇に生きているとは限らない。鬼に拳銃
を持たれた日には、手の付けようもないけど。鬼に金棒の諺も、その内直すべきだろう
か?

 自分ができる事は、誰かもできると考えるべきだ。サクヤさんは、つけてくる車でもあ
ればそれを振り切る走りを意識していた様だ。お陰で、乗り心地は余りよいと言えなかっ
た。

 特に、経観塚近く迄来ると山道が整備されてなかったり、舗装が剥げたり凸凹していた
りと、車体が大きく揺れて大変だ。夜も更けて暗くなり、街灯が殆どないのでライトをつ
けてもどこで曲がるか直前まで分らないのに。サクヤさんは道を分っているから良いけれ
ど、わたしは感覚がついて行けずに振り回される。

 あと三十分この調子で走り続けたら、止まって休もうと言っていた。そんな日も落ちて
夜空に月が昇り始めた頃、わたしたちは経観塚の町から車で十五分走った処にあるお母さ
んの実家・笑子おばあちゃんの屋敷に着いた。

「お帰りなさい、サクヤさん、柚明」

 笑子おばあちゃんと逢うのは2ヶ月ぶりだ。前にお母さんと来た時もいらっしゃいでな
く、お帰りなさいと語りかけてくれた。背丈は百五十八センチと小柄で、艶のある肌と、
細身で引き締まった身体は前に見た侭だ。癖のない見事な長髪は、流石に白い毛も目立つ
けど、枝毛がなく艶やかで羨ましい位だ。

「色々大変だったでしょうけれど」

 笑子おばあちゃんも既にサクヤさんから事情は聞いている。少しだけ表情を曇らせると、
その事は後回しという感じで暖かく微笑んで、

「長旅で疲れたでしょう。まずは上がって」

 わたしのお母さんは、笑子おばあちゃんの娘だ。わたしの話になれば、おばあちゃんは
自分の娘の死と最期を聞く事になってしまう。わたしを見れば、それを思い出す事になる。

 でも、笑子おばあちゃんはそれを全て承知の上でわたしを迎えてくれた。その哀しみも、
その微笑みも、偽りのないおばあちゃんの心。お母さんを想う深い心とわたしを想う深い
心。わたしはその深い想いに、何を返せるだろう。

「夕食の準備もしてあります。どうぞ」

 正樹さんが後ろから姿を現した。お父さんより少し横幅が広い、大人の平均的な体格に、
切り揃えた癖のない黒髪に、温厚そうな顔の人だ。経観塚の家に来ている時も、正樹さん
の怒鳴り声や叫び声を聞いた事が一度もない。

「お久しぶり、柚明ちゃん」

 正樹さんは、屈み込んで同じ視線から、

「大切な話は、食事の後にしよう。母さんが柚明ちゃんが来ると聞いて、普段の五割増し
に腕を振るって晩ご飯を作ったんだ。とても叔父さん達だけでは、食べ切れそうにない」

 事を滑らかに進める才能では、正樹さんはお父さんを凌ぐ。お父さんは努めて穏やかに
しているけど、正樹さんは意識せずとも元々温厚でにこやかだ。努力で及ばない物は意外
と世の中多いかも。そんな事を思っていると、

「そりゃあ有り難い。急いでいたから、あたしも柚明も、昼もおやつも大した物を食べて
ないんだよ。おなかの皮と背中の皮が……」

「柚明がおやつにされなくて良かったわね」

 笑子おばあちゃんが声を挟むのに、

「しないよ。どこの国に花婿を食べちまう花嫁がいるかいね。カマキリでもあるまいし」

「花婿……? 花嫁……?」

 きょとんとした顔を隠さない正樹さんに、サクヤさんはふふんと言う笑みを見せて、

「事情は夕餉の席で話してあげるよ。長らく独身を貫いてきたサクヤさんも、とうとう告
白される時がやってきたって、事の次第を」

 瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。

 悪戯っぽい視線がわたしの方を眺めている。それで、誰が何を言ったかは分るだろうと
言う感じだ。わたしは昼間の事を思い出して顔から火が出そうに真っ赤になっていたと思
う。

「でも今夜のこの組み合わせは、新婚旅行と言うより、駆け落ちって感じかね。それはそ
れでロマンがあって良いかも知れないけど」

 サクヤさんの呟きを聞きながら、わたしたち2人を眺める笑子おばあちゃんに、横から、

「人さらいに、間違えられますよ」

 正樹さんの指摘が一番真っ当に聞えた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 夕食の時は笑子おばあちゃんが、わたしの告白をサクヤさんから聞いて、腹を捩って笑
っていた。息が苦しくなる位笑える姿にわたしはほっとしたし、笑子おばあちゃんも元気
を見せたかったのだと思う。悲しんでいても、元気だよと示してくれる気遣いが嬉しかっ
た。

 正樹さんも涙が出る程笑っていた。お母さんもお父さんも亡くなった事を知り、それを
充分哀しみつつ、笑う事には笑える。笑っても、人を不快にさせない。それは人徳なのか。

 わたしは顔を真っ赤にして俯いて『はい』か『いいえ』しか言えない状態で、サクヤさ
んは顔を赤くしつつ反撃したけど、自爆気味だった。わたしたちはどうやら、待ちかねて
いた羽藤家の夕餉の肴にされてしまった様だ。

「柚明をおやつどころの話じゃないよ。羽藤の血がこんなに恐ろしいとはね。あたしごと
まとめて食べられた様な物だろうさ」

「ええ、ごちそうさまでしたっ」
「久々に胸一杯になりましたよ」

 笑子おばあちゃんの仕草は、大人だけれど、どこか悪戯っぽく年を感じさせない可愛さ
がある。正樹さんにも感じるその印象には、サクヤさんのそれにも繋る物があって。

 笑子おばあちゃんが月に2回、経観塚の町にある書道教室に教授に行くだけで、日頃の
倍の子供が詰めかける理由が分る。年相応の姿形なのに、その仕草が親しめて可愛いのだ。

 笑子おばあちゃんは、他にも生け花やお茶等の先生もやっているという。羽藤の家は近
所では名の知れた旧家らしく、良家の子女として恥ずかしくない習い事は一式教わってい
るので、生計を立てて行くには困らない様だ。

「しゃあしゃあとこの親子はっ」

 サクヤさんが呆れた辺りで遅い夕食はお開きになって、食後の大切な話に移る。笑子お
ばあちゃんが洗い物を終えるのを待って、わたしは青珠を4枚の座布団に囲まれたテーブ
ルに置くと、笑子おばあちゃんが覗き込んで、

「殆ど力をなくしているね。危ない処だよ」

 青珠に想いを込めて、何かに投げつけたり押し当てたりしなかったかい。

 思い当たる事はあった。お母さんは鬼に青珠を叩き付けていたし、わたしもそれを1回
やった。経過は省略しそれを先に説明すると、笑子おばあちゃんは納得した感じで、頷い
て、

「それはね、青珠に込められた守りの力を一気に吐き出させる奥の手なんだよ。瞬間的に
大きな力を出せるから、鬼を退ける事も不可能じゃないけど、大抵青珠はそれで力を使い
果たしてしまうからね。力を込め直さないとお守りとしての効果も失ってしまうんだよ」

 二回も効果があったのは、未だ青珠に充分な力があった為か、一度目の後で誰かが青珠
に力を充填できた為か。笑子おばあちゃんは黒く大きな双眸で、わたしの瞳を覗き込んで、

「余程大変な鬼だった様だね。青珠を二度も叩き付けないといけないなんて」

 笑子おばあちゃんはそれで、お母さんが生命を落した事情を理解できた様だ。そんな凶
暴で強靭な鬼に会った日には、その鬼からわたしを守るには、生命が引換になると。生命
を投げ出してもわたしを護れたのは僥倖だと。

「あなただけでも、生きて残れて良かった」

 ゆっくりで良いから、話して頂戴。

 心からしみじみと笑子おばあちゃんは語る。

「わたしの娘が、どの様に孫娘を守ったのか。
 わたしの娘が、どの様にその生命を使い切ってその生を終えたのかを、教えておくれ」

 わたしは憶えている限り全てを話した。哀しみも、悔しさも、怒りも、憎しみ迄、全て
を伝えた。わたしの行いもお母さんの行いも、お父さんの行いも。伝え聞いたその最期迄
も。

 哀しみを新たにし、胸に思い返すその行い。でも、本当の断崖はその後に待ち構えてい
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 日中から夕刻にかけての強行軍は、わたしを疲れさせていたけど、布団に入ってもわた
しを泥の眠りに引き込まず目を冴え渡らせた。身体から緊張が抜けきらず高ぶった侭でい
る。

 寝付けなくて、部屋の外の灯に気付いたわたしが、その襖に近付いたのは偶然ではない。
わたしは何度か、こうして眠った筈の時間に耳を澄ませ、大人の話を聞いていた。サクヤ
さんや笑子おばあちゃんが、わたしを案じてお話ししているのかも知れない。わたしの事
を話しているなら、気になるのは当然だろう。

 わたしはそうしてその壺を開けてしまった。
 開けなければ良かったかも知れぬその壺を。
 哀しみをより深くする事になる絶望の壺を。

「……鬼は最近あの町の周辺で子供を連続して襲っていたらしい。気を付ける様に言った
んだけど、まさかあの時期に立て続けに…」

 交通事故は単なる不運だ。相手は普通の人間で、唯の不注意で、そこに作為はない。相
手が余罪持ちのやや悪質な人物だっただけで、事故の怪我自体は生命に響く物ではなかっ
た。贄の血を事故現場や病院にまいた事が、お母さんの一番の不運だと。この時期に事故
に遭わなければ、鬼を呼び寄せる事もなかったと。

 サクヤさんの声に、続けて正樹さんの声が、

「未だ鬼は、捕まってはいないのですか?」

「ああ。鬼切部は動き出したけど、柚明に話した通り、あの夜以来奴は行方を眩ました侭
さ。新しい被害者も出てない様子だし、あの町周辺はかなり長期戦を強いられそうだね」

 鬼切部が鬼を切ったって報道はされないけど、蛇の道は蛇だよ。そう言う情報を仕入れ
る裏ルートからも何も流れてこない処を見ると、捜索は両方とも難航しているみたいだね。

「柚明をここに避難させたのは正解ね」

 笑子おばあちゃんの声が短く挟まる。
 柚明は鬼の、顔を見てしまっている。
 柚明は鬼に、顔を見られてしまった。

「でも、青珠の守りがあったのに襲われるなんて、鬼は柚明ちゃんや姉さんを知っていた
のでしょうか。それとも子供ばかり襲っていて、あの夜偶然柚明ちゃんに当たったと?」

 正樹さんの心配は、青珠の守りに予期せぬ穴があったのではないかという事の様だ。今
迄気付かなかった穴があるなら、今後はそれを承知の上で対策を立てねば危ういと。偶然
の不運なら手の打ちようがないけど、人の注意や努力で何とかできる禍なら回避や防御も。

「柚明が青珠の守りの範囲から外れたのよ」

 笑子おばあちゃんが、首を横に振る仕草が瞼の裏に浮んだ。それに続いてサクヤさんが、

「柚明は青珠を、母親に握らせたらしい…」

 あいつだって普通なら、柚明に青珠を手放させはしない。唯あの時は事故や麻酔で意識
を失って、身体が守りを欲していたんだろう。

「そうじゃないと、柚明ちゃんを襲った鬼に姉さんが青珠を投げつけられる筈がないか」

 贄の血が歴代で最も薄いという正樹さんは、血の話になると聞き手と言うか尋ね手にな
る。

「柚明は母親を思って、青珠を握らせたんだろう。お守りだと知っていて、効果を信じて
いればこそ、役に立つ時だと思ったのかもね。確かにそれは間違いじゃない。鬼は実際病
院近く迄来ていた訳だし、本人は相当の重傷だったんだ。唯問題は、失神や睡眠のさ中で
も最低限血の匂いを隠せる母親に比べ、柚明は青珠がないと血の匂いを隠す術がない事
さ」

「柚明ちゃんが青珠から離れた為に、近く迄来ていた鬼を、招き寄せる事になったと?」

『わたしが、青珠から離れた為に、鬼を?』

 サクヤさんの沈黙は無言の頷きなのか。代りに話を引き継いだのは笑子おばあちゃんで、

「病院で処置を受けてから夜まで、数時間経っているわ。事故現場の血も、搬送中に零れ
た血も、手術室で流れた血も、夜迄には乾いている。鬼が仮にその匂いに導かれて来ても、
途中で手掛りは断たれているの。でも……」

『でも……?』

「柚明の前では、言えなかったけれどもね」

 サクヤさんが、哀しげな声で静かに語る。

「鬼は柚明の血に惹かれてきたんだよ。間違いない。だから鬼とは最初に父親と帰る途上
で出逢い、母親が後から助けに来た。鬼は開いている夜間窓口から入るなんて考えないよ。
明るい処より、電気の消えた正面玄関や横の窓から侵入する方が早いし簡単だと考える」

 鬼は、わたしの血に惹かれてきた?

「血の匂いに導かれながら、標的を見失って欲求不満な鬼の前に、血の匂いを隠せない柚
明が、青珠の守りの範囲を外れて匂い立つ」

 笑子おばあちゃんが簡潔に要約してくれた。

「それじゃまるで柚明ちゃんが鬼を呼び招いたみたいに聞える。最後の一押しとは言え」

「その一押しがなければ絶対安全だったかと言われれば、そうでもないんだよ。既に獣は
近くで腹を空かせていた訳だからね。でも」

 サクヤさんは場にわたしがいないからこそ、

「柚明が青珠を持っていたら、或いは鬼と遭遇せずに済んだかも知れない。父親も母親も
あの夜に最期を迎える事は避けられたかも」

 お父さんもお母さんも、死なずに済んだ?
 お父さんやお母さんの死はわたしの所為?

「そう気付かせては拙いから、柚明にそう感づかれない様に、ずっと触れなかったけど」

「これ以上柚明を悲しませたくないからね」

 こればかりは説明のしようがない。説明して分って貰った時からが、柚明の悲劇だから。

 笑子おばあちゃんはサクヤさんのその思いも分っていた様子で、自然に話を引き継いで、

「父と母を失った原因の一端に、己の優しさと無知が根差しているなんて、辛すぎるよ」

 特にその優しさが悲劇を招いたなんてね。

「何て事だ。母親を思う優しさの故の親切が、己とその周囲に禍を招き寄せてしまうなん
て。
 柚明ちゃんが姉さんを大切に思って、役に立ちたいと望んで、回復を願って青珠を握ら
せた。その結果、青珠の守りを外れた数分で、両親を失ってしまうなんて。優しさが、大
切な人を思う心の深さが、禍を招いたなんて」

 わたしの優しさが、禍を招いてしまった。
 わたしの親切がお父さんお母さんを死に。

「柚明は優しい良い子に育っているよ。唯その優しさが、今回は裏目に出てしまったのさ。
あたしが柚明をここに連れ帰ったのも分るだろう。誰かが怪我をしたり病気になった時に、
柚明がその手に青珠を預けてしまえばさ…」

 頬を伝う涙を拭った訳ではない。鼻を啜ってもいなかった。泣き声の一つも上げてはい
ない。だがそのどれよりも、ここ数日に心から迸ったどの慟哭よりも深い痛みが、わたし
の心臓と頭を駆け巡っている。サクヤさんはなぜかわたしのそれを感じ取れた様だ。

 気配に気付いた感じで慌てて襖を開けるサクヤさんに、わたしは身を隠す術も意思もな
く、唯立ち尽くして、涙が頬を伝うに任せて。みんなの口と視線が硬直してわたしに集ま
る。

「って、柚明、あんた、いつからここに?」

 その問には最早殆ど意味がない事を、わたしの涙は無言の侭に答えていた。

「わたしが、いけなかったの?」

 それは確認したかったのか、否定して欲しかったのか。良かれと思ってした事が、みん
なを死に追いやったと、わたしは知りたいのか知りたくないのか。お父さんも、お母さん
も、生れなかった妹までが、わたしの所為で。

「わたしが、わたしが鬼を呼び寄せたの?」

 わたしのこの血が、濃い血が鬼を呼び寄せ、お父さんやお母さんを、死に追いやった
の?

 青珠を渡さなくても、母さんは病院で眠っていれば生命は助かっていた。おなかの妹も。
わたしが何もしなけばあんな事には。わたしを守る為に、鬼に刺し殺されたお父さんも!

 わたしが余計な事をしなければ、みんな楽しく暮らしていけたのに。お母さんも元気に
退院できたのに。数ヶ月もすれば妹も生れて名前を付けられ、一緒に暮らしていけたのに。

 全部わたしの所為だ。わたしの余計な親切心が招いた禍で、たいせつなひとが、みんな。

 わたしは立ち尽くした侭、唯涙が溢れ出て止まなかった。倒れ込む事も抱きつく事も出
来なかった。身動きできなかった。わたしはこの場のみんなの大切な人を死に追いやった。

 その元凶はわたしだった。わたしだった!

 その思いが、身体はみんなの間近でも心を遙か遠い処に抛り捨てる。目の前が暗くなる。

「わたしが、青珠を手放しちゃった所為で?
 わたしが、わたしがみんなに禍を招いた」

 血の濃い薄いの話、青珠の守りの話、全てが繋っていく。流れる涙を放置してわたしの
頭は猛烈に回る。考えれば考える程明らかになる。わたしの行いがあの夜の引き金だった。

「わたしが、わたしが、わたしが、わた…」

「柚明、しっかりおし!」

 サクヤさんが、わたしを抱き留めてくれる。それにもわたしの肌は鳥肌を立て、びくっ
と震えた。サクヤさんの大切なお友達だったお母さんの死を呼び寄せたのは、わたしなの
だ。

 その肩越しに、笑子おばあちゃんと正樹さんの哀しげな顔が見えた。わたしの為なんか
に悲しまないで。わたしは笑子おばあちゃんの娘をおなかの孫ごと死に追いやった悪人で
す。正樹さんの姉さんを手の届かない処にやった張本人です。わたしなんか心配しないで。

 わたしにはその資格がない。悲しまれる値がない。怒られて当然、憎まれて当たり前だ。

「柚明……」

 サクヤさんの瞳をまともに見られなかった。
 抱き留められる資格なんて、ある筈がない。
 わたしは抱擁を拒絶しようとして身を捩る。

 でも、サクヤさんはわたしを強く抱き締めて離さない。わたしの心を引き留めるように。

「ごめんなさい、ごめんなさい、わたし…」

 みんなのたいせつなひとを。わたしが余計な事さえしなければ、今でも元気で楽しくい
られたのに。久夫おじいちゃんも恵美おばあちゃんも、他のみんなも悲しまなかったのに。

「わたしは酷い子です。悪い子です。禍の子です。わたしは、わたしは、みんなの…!」

 責めて欲しかった。裁いて欲しかった。誰かに罰して欲しかった。守られて、愛されて、
多くの生命と引換に生き延びたこのわたしが、実は悲劇の原因だったなんて。そんな不平
等は許されない。許される筈がない。咎人はわたしなのに、何の過失もないお父さんやお
母さんや、生れる日を待ち望んでいた妹迄が…。

 わたしがのうのうと生きていける筈がない。わたしが幸せになれる訳がない。なって良
い筈がない。死んでいった者が認める筈がない。そんな天秤の釣り合わない事、許される
筈が。

 どうしてわたしはまだここに生きている?
 どうしてわたしは生き残ってしまったの?

 死ぬべき理由のない人達が生命を落として、その原因を作ったわたしが守られ生き延び
る。神様はどこを見ているの? むしろわたしが、

「最初にわたしが死んでいれば、誰も……」

 そう言いかけたわたしの頬を、パァンと平手が打ち据えた。軽快な衝撃と音が、溢れ出
して止まないわたし自身への憎しみを止める。一瞬呆けたわたしを、腕が一層強く抱き締
め、

「あんたが悪い子なら、一体どこの誰が生命を捨てて迄、あんたを鬼から守る物かい!」

 お父さんは柚明が大切だから生命を捨てて鬼に立ち向った。お母さんは柚明が大切だか
ら殺されると分って鬼の前に立ち塞がった。

 サクヤさんは、目を逸らし塞ぎ込もうとするわたしの顔を掴んで、屈み込んだ自分の顔
に無理矢理向き合せる。サクヤさん、涙目だ。

「あんたの大好きな父さんや母さんが、必死で守った物は値のない物なのかい。大好きな
父さんや母さんや、おなかの妹の生命と引換に繋いだあんたの生命は悪い物かい。あんた
の人生が悪くて値打ちがないなら、身を捨ててあんたを助けたその想いはどうなるんだ」

 死にたいなんて、死ぬだなんて、馬鹿な事。

 サクヤさんはそこで、苦笑気味に笑子おばあちゃんを振り返った。笑子おばあちゃんの
Vサインは、誰に向けての物なのだろう?

「あたしも笑子さんの前では、格好良い事を言える立場ではないけどさ」

 あんたを望む人は未だ多くいる。この世に1人でも本当に大切な人がいて、想いを寄せ
てくれるなら、それだけで生きる値は十分さ。

「今の柚明には、生きている者の想いと、生きてない者の想いが重なって掛っている。柚
明1人の気持で生きる死ぬは決められないんだよ。あたしもそうだけど、望んでくれた者
の為に生きるんだ。生きなきゃ、いけない」

 わたしは独りぼっちじゃない。わたしを尚望んでくれる人がいる。尚心配してくれる人
がいる。たいせつなひとが、わたしにはいる。サクヤさんの言葉がわたしに染み渡ってい
く。

「柚明の中に、両親も妹も生きている。忘れずに胸に刻んで、生きている筈だろう。柚明
が1人の気持で死のうとする事は、柚明の中に残された両親や妹を殺す事に等しいんだ」

 わたしは、簡単には死ぬ事も許されない。

 自分が守った者、繋る者、残した者が、消える事を、お父さんもお母さんも多分悲しむ。

 そしてわたしの無意味な死は、わたしだけが憶えて忘れないお父さんやお母さん、生れ
なかった妹の存在を消すに等しい事なのだと。

 誰にも憶えられなくなる程辛い事はない。
 誰からも忘れ去られる程哀しい事はない。

 憶え続ける事は哀しみを引きずる事だけど、それはわたしの哀しみだ。死んでしまった
人達の、生命を投げ出してわたしを助けた人達の真の哀しみは、その生きていた全てを忘
れ去られる事だ。それに、憶え続ける事は哀しみだけじゃない。暖かな日々にも繋ってい
る。哀しいからと言ってそれを捨て去れはしない。そこにわたしの一番大切な物が詰まっ
ている。

 わたしは生命を託された。わたしは生命を預けられた。わたしは生きなければならない。
生きてこの哀しみと記憶を抱え続ける事が…。

「もっと前向きに考えなさいな」

 笑子おばあちゃんが、間近に歩み来ていた。老いていても歳の割にはかなり艶やかな肌
に、憎みようのない笑顔を浮べ、でも声は力強く、

「力の扱いを憶えなさい。私が教えるから」

 え……?

「貴女に流れる血に眠る力を、貴女自身の手で操れるようになりなさい。それは貴女の物。
貴女でなければ抑えの効かない、貴女の定め。貴女が持って生れた天の配剤なのよ」

 その言葉、どこかで聞いた様な気がする…。

「貴女が一生経観塚を出ないなら、安心かも知れない。貴女が一生青珠を手放さないなら、
大丈夫かも知れない。でも、身の安全を保つだけで終える人生なんて虚しいでしょうに」

 笑子おばあちゃんはわたしにそう語りかけ、

「貴女のお母さんは、元々贄の血の薄い、力の殆どない子だった。正樹と違って、鬼に嗅
ぎつけられる程の濃さはあるから、中途半端に血が匂うから、一生ここから出られないと、
あの子も私も諦めていたよ。良い人を見つけて運命に挑む決意を見せる迄のあの子は、気
が弱く、優しさと弱さを合せた様な子だった。
 決意が、運命を切り開く事があるんだよ」

 決意が、及ばない筈の何かに届く事もね。

 あの子が柚明の父さんに惚れ込んで、経観塚を出る決意をしなかったら、柚明は今ここ
にいない。あの子が毎日、薄い血から絞り出した弱い力を必死に操る修練に励み、贄の血
の力を操る術を身に付けなかったら、今もここで安穏に暮らせていたかも知れないけれど。

「柚明は母さんが父さんに出逢わない侭人生を終える事が果して幸せだったと思うかい」

 わたしは首を横に振っていた。お母さんはお父さんに会えて本当に幸せだった。お父さ
んもお母さんに会えて本当に幸せだった。わたしもお父さんとお母さんの子供で良かった。

 その先にこの結末が待っていても、その先にこの結末があると先に分っていても、お父
さんもお母さんも迷わずこの道を選んだ筈だ。わたしにも分った。特別な人、唯一の人を
選び取れたお母さんは幸せだった。お父さんも。

「貴女の母さんは、修練で得た血の力で柚明を守り切れた。貴女が血に眠る力を操れる様
になれば、貴女も誰かを守れるかも知れない。力が全てじゃないけれど、力がないと護れ
ない時もある事を、柚明は身を以て知った筈だろう。修練すれば贄の血の匂いは抑えられ
る。青珠を誰かに預けても安全になれるんだよ」

「わたしが、力を……誰かを守る、力を…」

「誰かを守れる力を備えておく事は、悪い事じゃない。特に柚明は血に眠る力を操れる様
にならないと、青珠なしでは鬼を次々に呼び寄せて、この家の周囲から動けないしねえ」

 わたしの血は『かく世い伝』で濃い。黙っていても匂い、鬼を呼び寄せ、周囲に禍を招
く。鬼を呼び寄せて、お母さんやお父さんの様に、正樹さんやサクヤさん迄、巻き込んで
しまう。この侭では本当にわたしは禍の子だ。

「貴女が守られた様に、いつか貴女も誰かを守れる様に、力の扱いを憶えなさいな。柚明
にも守りたい人がいるんだろう?」

 そこでわたしは抱き留められた侭のサクヤさんを振り返った。昼の告白の話を思い出す。
一番大切な、特別な人を、わたしが守れたならどんなに素晴らしいだろう。いや、守らな
ければならない時に守れなかったなら、どんなに悔しいだろう。哀しいだろう。わたしは
お父さんもお母さんも守れなかった。守られてばかりで、最後は生命まで投げ出させて…。

 余りにも不平等な結末。でも、そうして守られたわたしが、誰かを守る事ができるなら、
わたしの『人生の借金』も少しは返せるかな。

『たいせつなひとを守る。もう失わせない』

 そうする術がわたしの中にある。わたしの気持と努力次第で、その力は手に入れられる。
少なくとも、禍を招かないようにできる。決意が運命を切り開き、及ばない物を届かせる。

 わたしは誰かを守りたい。守れる様になりたい。与えらるだけの人生から与える人生に。
生命の購いは生命で、守られて継いだ生命は次の生命の護りに使う。それでわたしはわた
しに生きる値を認められる。愛されたなら愛を返したい。守られたなら誰かを守りたい。

 サクヤさんはワイルドで、中々わたしが助ける様な事はなさそうだけど、もしその機会
が訪れたら、すぐに助けて上げられるように。たいせつなひとが困った時に、危うい時に。

 人の手では及ばない事も世にはあるけれど、努力で及ぶ物なら人の手で何とかするべき
だ。わたしができる事には全身全霊で挑むべきだ。生命の購いに、代償に、想いを受け継
ぐ為に。

「守られた者が次の世代を、新しい生命を守る事で想いは受け継がれて行くの。私の想い
が娘に、娘の思いが孫に、孫の思いが子々孫々に。縦だけじゃなくてね。友達や夫や、他
のたいせつなひとにも。ねえ、サクヤさん」

 無言で頷き返すサクヤさんの顔も流れる熱い水で歪んで見えない。見えない侭、涙を止
められない侭、わたしは何度も何度も頷いた。言葉が出ては来ないけど、心は定まってい
た。

 わたしの生命の使い道が見つかった。
 わたしの行くべき先が定まった。

 溢れる涙は決意の涙。わたしの、わたし自身を憎み閉じこもる事で、託された責任の本
当の重さに向き合う事から逃れたがる弱さを、乗り越えさせてくれたこの場のみんなへの
感謝の涙だ。わたしに生命を与えてくれた、この世のどこにもいないみんなへの感謝の涙
だ。

「わたし……なります。必ず……なります」

 わたしのわたし自身への誓い。保証も担保も不要なわたしの今から未来に向けての約束。

 わたしは生きて、幸せになります。
 わたしは誰かの為に尽せる人になります。
 わたしは誰かを守り通せる人になります。

 こうして、わたしの新しい人生が始った。


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