第4章 たいせつなひと…(前)
今年の経観塚の冬は、例年より雪が少ない為か、寒さが厳しい。夜に外を歩いていると、
天候が荒れてなくても冷気が肌を刺して来る。
笑子おばあさんの通夜もしめやかに半ばを過ぎ、参列者の多くも引き揚げ、夜を通して
留まる人も殆どが眠り、羽様の屋敷は平穏を保っている。夜の天を駆ける三日月は白銀の
衣を被った山と森を静かに照し、細やかな雪は微風に揺れながら光の粉の如く地に落ちて。
踏み固まってない積雪は、柔らかにわたしの足音を吸収して森の静謐を保つ。その静け
さを破らずに、息を潜める様に森の奥のご神木に達したわたしの前で、わたしの求め人は、
抑えきれない嗚咽の声を漏らしていた。
「……笑子さん……、笑子さん……!」
みんなの前では、子供の様に泣き喚く事は出来ない。世間体と言うより、号泣したい程
深い想いは他の参列者に分って貰えないから。ここを訪れてくれた人達は、皆が皆故人に
関りを持つ者で、それなりにその死を悼み、それぞれに哀しんでくれているけど。違うの
だ。この人が故人に抱く永訣への哀しみの深さは。
やや癖のある長い髪、図鑑で見た狼のつやつやの白銀の毛皮に似て美しく力強い髪を持
つサクヤさんが笑子おばあさんさんに抱く想いの強さは、他の人達の哀しみとは質が違う。
空気の冷たさより、誰にも聞かれない場所を選んで泣かなければならない、誰にも理解
を求められない絶望と哀しみに、心を痛めるサクヤさんの嗚咽が、わたしの心を震わせた。
「こうなると、分っていたんだ。いつか必ず、こうなるって。この想いを味わう事になる
んだって、分っていた。でも、でも……!」
槐の巨木に縋り付いて、身体中でもたれ掛って、全身を震わせて涙を流すサクヤさんの
姿に、見ているわたしが胸を締め付けられた。故人に寄せた想いの深さ、喪失感の大きさ
が、垣間見えた。誰にも埋め得ぬ深い孤独。誰にも明かせぬ深い絶望。その奥に1人身を
浸し。かつての観月の童女は全身で哀しみを訴える。それを唯一共有出来る、槐のご神木
に宿るオハシラ様に。同じ時を共に生きる最愛の友に。
「サクヤおばさん……」
わたしの接近に全く気付かず、と言うより誰が近付いても対応する気などない様に見え
たサクヤさんが、わたしの声にぴくと動いた。その身を委ねていた槐の根元から身を起し
て、
「柚明かい。心配して、来てくれたのかい」
俯いた顔をこちらに向けないのは、泣き顔を見られたくない為か。両手をついて、四つ
ん這い迄身を起したサクヤさんの声は、まだ少し涙声だ。わたしは静かに頷いてから、
「2人きりになれる時と場を捜していたの」
唯心配なだけでもわたしはここ迄サクヤさんを探しに来たに違いないけど。関知の力も
不要で、わたしはサクヤさんがここに来ると分っていたけど。笑子おばあさんとの関りか
らその傷心が気にならない訳がなかったけど。
それ以上にわたしは、サクヤさんに話さなければならない事があった。サクヤさんと2
人きりで。笑子おばあさんが亡くなったこの時にというかも知れないけど、今だからこそ。
「わたし、サクヤおばさんに、謝らないと」
わたしの心変り、生れて初めての心変りを。誰よりも大好きだったサクヤさんへの想い
を、過去形で言わなければならない事を。ずっと変らないと思っていた幼い日からのたい
せつな想いが、そうでなくなった事を言わないと。
「……そうかい」
サクヤさんは短くそう応えると暫く沈黙し、
「あたしへの、天罰なのかも知れないねえ」
ご神木の幹に左手を当てて立ち上がると、俯いた侭、その声は平静を装いつつも沈痛に、
「失ってみる迄、分らなかったんだよ。こんなにあたしが笑子さんの事を好きだったって。
お笑いだろう? 好きだったけど、大好きだったけど、いつかは来るんだと言い聞かせて
いた積りだったけど、いざその時が来る迄」
その深さがこれ程と思ってなかった。
覚悟なんて、何もできていなかった。
俯いた頬を一筋の滴が流れて、地に落ちる。
「こんなに、取り乱して。無様だろう。本当、身に浸みて己の愚かしさが、分ってくる
よ」
サクヤさんが心を痛めているのは、唯笑子おばあさんを失っただけではない。たいせつ
なひとを失う事は心痛だけど、哀しみだけど。
「最期迄、一番にしてあげられなかった…」
大切に想っていたのに。心の頼りにしていたのに。なくしてこれ程、哀しんでいるのに。
尚一番だったよと言ってあげる事が出来ない。あの暖かな笑みに、あたしは最期の最期迄
一番だよと、応えてあげる事が出来なかった…。
あんたにも、そうだったよね。柚明。
「サクヤおばさん……」
先に続ける言葉に惑うわたしに、
「あんたはもう、オハシラ様と感応したんだったね。じゃ、あたしとオハシラ様の関係も、
あたしと笑子さんの関係も知っている訳だ」
あたしが何者なのかも、あたしがあんたを差し置いて、未来永劫絶対手に入らない物を
いつ迄も一番に置き続けている事も、その為に笑子さんさえ一番にしなかった事も、全部。
サクヤさんが心に浮べる過去は、ご神木に手を触れ、贄の血の力を交し合う事で感応し
合い、魂の奥で体感した過去だろう。わたしはオハシラ様の視点で、それを共有していた。
見えたのは新月の夜の物語。わたしが生れるより前の、わたしのお母さんが生れるより
前の、サクヤさんと笑子おばあさんの出逢い。わたしのたいせつなひとたちの物語。
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その新月の夜、サクヤさんは瀕死の重傷を負ってご神木に辿り着いた。サクヤさんは血
塗れで、身体に刻まれた傷は深く、しかも月のない夜だった。周囲に助け合う朋もいない。
痛みや苦しみ以上にサクヤさんの表情には絶望が影を落していた。身体に受けた傷以上
にその瞳に生きる意思は薄く、心には空洞が深く口を開けて。生きていく意味が詰まって
いた処に、生きていく値が詰まっていた処に。
近付く途上から、オハシラ様はサクヤさんの酷い状態を察していた。歩くのも生命を危
うくする状態で、ご神木に来る意志を分っていた。それがサクヤさんの遺志になりかねな
い事も。サクヤさんは死に場所を求めていた。
サクヤさんの刀傷が鬼切部によると、オハシラ様が察したのは難しくなかった。ここ数
十年で、この国で刀を持つ者は激減していた。時代が変り、隣村との諍いや山賊に備える
必要は失せて久しい。刀を持って守らずとも、家財や妻子を奪われる怖れは減っていた。
侍という人々が消えて以降、刀を扱う者でオハシラ様が思い浮ぶのは鬼切部位だ。
オハシラ様が人だった頃、山の神から守る為にと闘ってくれた事もあった鬼切部。その
山の蛇神から彼女を護ってくれた観月の民が。鬼切部は、人に仇為す鬼を斬る者だったの
に。
詳しい事情は経観塚を動けないオハシラ様には分らない。分るのは大切な人が危険な状
態にある事だ。瀕死の重傷で、出血を厭わずここ迄歩み来ている事だ。今目の前で、たい
せつな人が一歩一歩死に歩み続けている事だ。
『わたしにできる事は……』
オハシラ様は実質何もできない。唯草木の如く来る定めを受け止める他に、封じた主を
抱き留め続ける他に、できる事とて殆どない。封じが危うくなった時に、人の夢見に蝶を
送って示唆を与えた程度しか、外界に干渉する術がなかった。オハシラ様は主を封じる為
の者。ひたすら内に向き、内からの噴出に備え、耐え続け、抱き続け、吸い上げ続ける存
在だ。
『だが姫よ、人の形を為して現れるなど、そうそうできることではないぞ。封じの柱に出
来るのは、唯見守ることのみと思って良い』
役行者の言う通りだった。彼女は長くここに居続けるが、できる事は見守り続ける事で、
意思を示す術すら殆どない。今の彼女はご神木に依る者で、半歩も身動き出来ぬ。肉を失
った彼女に、外への接触の術は断たれていた。その贄の血の力は全て主の封じに回ってい
る。夢見に蝶を送る力さえその均衡を危うくする。
その上夢見に蝶を送っても、多くの人は夢としか受け取れない。鬼切部や羽藤の様な心
に準備ある者だけが、巧く波長が合えば通じ得る位だ。それさえ蝶を送っても何を示すか
曖昧で、解釈に惑う様に何度も歯痒さを感じ。
だから、オハシラ様がこの時夢見にでなく、寝付けず起きていた若き日の笑子おばあさ
んの現に蝶を送って招いたのは、奇跡に準じた。彼女は一時的に封じを揺るがす怖れを承
知で、危険な賭けに出た。それは本当は封じの要としてあってはならない行いかも知れな
いけど。
『死なないで。わたしの、たいせつなひと』
それが彼女の意思だった。封じの要になって千年余、ひたすらお役目に耐え続け、世の
主流から忘れ去られ、人の世の苗床になって、主の魂を還しつつ己も人知れず消える定め
を承知したオハシラ様が、長い時の風化と摩耗を経て尚抱き失わなかった、サクヤさんを
想う心。保ち続けた封じを揺るがせ、千年の積み重ねを危うくしても助けたいとの強い想
い。
その心がご神木を揺るがせた。主の荒ぶる心ではなく、オハシラ様の震える心がご神木
を揺るがせた。オハシラ様は現に蝶を作り上げ、麓の羽藤の屋敷に飛ばしていた。己の魂
を千切って与え、己の意之霊を千切って与え。
その蝶は、オハシラ様の心であり身体。
その蝶はオハシラ様自身でもある分霊(わけみたま)。
サクヤさんがご神木に辿り着き、二言三言語りかけて気を失う。丁度その頃、オハシラ
様が必死の想いで飛ばした蝶は、寝付けずに機を織っていた笑子おばあさんの目に触れた。
笑子おばあさんは冬の日だったのに、こんな雪の積もった冬の日だったのに、旧い伝承
を疑う気持もなく、その不可思議な蝶の飛来を受け入れ、森の奥のご神木にまで歩み来て。
オハシラ様にはそれが精一杯だった。彼女には後は見守る他に術がない。サクヤさんは
観月の中でも感応の力は低い方で、瀕死の今、語りかけても疎通は望めなかった。笑子お
ばあさんに飛ばした蝶さえ最後迄保てなかった。
最後の数十メートルは、笑子おばあさんは新月の闇の森を、自力で道を探し辿り着いた。
唯目の前で大切な人が弱り衰え、死の門を潜り行くのを見つめるより他に、為す術がない。
彼女の心の痛みが見える。役に立てない悔しさが見える。その失意が主の封じを弱める
と分っても尚。その浮動が主の封じを揺るがすと分っても尚。出来るのは唯見守る事だけ。
サクヤさんが意識を戻す迄に、どの位の時が経過しただろう。月のない夜はまだ終える
様子もない。幸い天候は今夜の様に雪も風もなかったけど、冷えは徐々に2人を包み行く。
「姫さま……あたしを還しに、現れてきてくれたんですか」
サクヤさんの声の弱々しさは、死に瀕した為と言うより、その心の傷の深さ故だ。独り
ぼっち残された、多くの死を救う事も出来ず、己1人生き残ってしまった事への深い悔い
だ。
それはかつてわたしも抱いた、自身が今生きてある事自体への悔いだ。
どうしてわたしはまだここに生きている?
どうしてわたしは生き残ってしまったの?
『サクヤさんは、この想いを経たから……』
わたしの絶望を察し抱き留めてくれたんだ。
「姫さまと違って、あたしは全然様子が違うから、分りませんか」
サクヤさんはまだ視線が半ば虚ろだ。その心が見ているのは、笑子おばあさんではなく。
「良く里を抜けて、姫さまに会いに行っていた、浅間のサクヤです」
想い出の中のオハシラ様を、見つめている。
「浅間、サクヤさん?」
笑子おばあさんの顔色は、普段と違ってやや青白い。それがオハシラ様が人だった頃に、
少し似ていた。生れつきの病の故に、屋敷の中を歩き回る事も困難だった、竹林の姫の面
影が。サクヤさんが魂を響かせ合った、たいせつなひとの面影が。守りたくて守れなかっ
た、失ってしまったたいせつなひとの面影が。
「ね、やっぱり人違いじゃないかしら?」
わたしは笑子よ、羽藤笑子。
笑子おばあさんが天真爛漫な笑みで答える。
『わたしに、似ている……血縁だものね…』
血が濃いという事が今更ながら理解できた。笑子おばあさんは、わたしより少し大人び
てお淑やかだったけど、わたしの今に似ている。という事は、わたしもあの様に健やかに
老いられる? あの様に可愛らしく老いられる?
それも悪くない未来図に、思えるのだけど。
「姫さまじゃ、ない……」
大切な人に見せかけた弱さや純真さを、慌ててしまおうと、心で身構えるサクヤさんに、
「それにしても良かったわ。あんな方法でサクヤさんが気がついてくれて」
全く警戒もない。血塗れで倒れていた見知らぬ人を怖がる様子もなくぴったり寄り添い。
はー。そこで笑子おばあさんは、顔色と同じ位白くなっていた両手を、胸の前で合せて、
己の息を吹きかけて暖める。
「何の用意もなく出てしまったから、あと小一時間もこうしていたら、わたしが寝込んで
しまうところだった」
「それなら、帰れば良かったのに」
サクヤさんは次第に明瞭になる意識の中で、意識して刺々しく他者を拒む声を出すのに、
「一度はそうしようかと思って、あなたを担ごうとしたんですけど、力及ばず一緒に転ん
でしまいました」
まだこの時のサクヤさんは、笑子おばあさんの独特のテンポに順応し切れてない。問わ
れた事に別の方角から答える処とか、見ただけでそうと分る事を、やって失敗して初めて
分る処とか、それを屈託のない笑顔で語る処とか。この時のサクヤさんは余裕がなかった。
追いつめられ、自ら心を閉ざし深い淵にいた。
「何で放っておいてくれなかったんだ。放っておけば良かったのに」
死にたかった。死んでみんなの処に行きたかった。1人だけ取り残された。こんな時迄、
自分は観月のみんなと一緒でいられないのか。どこにも向けようのない憤りが溢れ出すの
に。
「そんな事をしたら死んでしまうじゃない」
「良いんだよ、それで良いんだ。あたしは死に場所を求めてここに来たのに、あたしは死
ぬ為にここに来たのに。なのにあんたはっ」
身を起こし、笑子おばあさんの白い両手を己の手にとってその不健康な白さに更に憤り、
「どうして助けたりなんかしたんだっ。どうしてこんなに冷たくなっているんだっ」
「わたしの血を呑んだから、かしら?」
笑子おばあさんは、それには淡々と、
「寝付けないで機を織っていたのよ。そうしたら季節外れの紋白蝶が飛んできてね」
白い蝶はオハシラ様の使い。ずっと昔から羽藤家に伝わっている事なので、何の疑問も
感じずに家を抜け出して、蝶についてきたの。
神木の前で倒れたサクヤさんを見つけて…。
「わたしは、家の中でも特別『視える』性質だから、すぐにピンときたの。あなたは普通
の人とは違っているんだなって。
オハシラ様があなたを助ける為に、わたしを連れてきたんだなって」
「オハシラ様……姫さまが?」
ええ。笑子おばあさんの頷きに、サクヤさんは、改めてオハシラ様のご神木を見上げる。
葉の落ちた骨組みの様な枝と枝の隙間から、ひらひらと雪は落ちてくる。
「だけど、お遣いの蝶はすぐに消えてしまったでしょう? わたし1人では持ち上げるこ
ともできなかったのだから、どうしましょう、どうしましょうって途方に暮れていた時に。
ふと、羽藤の血筋に流れている、特別な血の事を思い出したのよ。本当に効くかどうか
も分らなかったのだけれど、口に含ませたらお腹を空かせた赤ちゃんの様に、必死になっ
て飲んでいたわ。お茶碗一杯分くらい」
両手を合わせて器を作る。
笑子おばあさんは生前、贄の血を誰かの役に立てるかも知れない血と語っていた。それ
を持つ故に禍に晒される事もあるけど、それ程に求められ好まれるなら、使い方次第で誰
かの力になれ、別の定めを切り開く力になり得る物だと。聞いた当時のわたしは、何でも
物事を前向きに見れる人だと半ば呆れたけど。
「他の生き物の生命を奪ってまで、物を食べたりするのは、生きるための行為ですから」
サクヤさん、あなたはちゃんと生きたいって思っているんですよ。
笑子おばあさんの姿は見た目で今のわたしと同じ位、十五、六歳か。サクヤさんは今と
変らない感じなので、年上を諭す様に見える。実際、遙かに年上なのだけど。
「そんな事ある訳……」
サクヤさんが信じられないと目を丸くする。
「そうなの?」
「だって、あたしはもう1人なんだよ。なのに、あたしに生きろだなんて。みんなあたし
を残して逝ってしまったのに、あたしにだけ残れだなんて、そんなの」
「それじゃあ、はい。サクヤさん」
サクヤさんの悲痛な声に、瞬時真顔になった笑子おばあさんは、すぐその名の通りの極
上の笑みを取り戻し、小指を立てた手を出す。
失っても全てが終りじゃない。誰かがいるなんて空虚な気休めではなく、ここに私がい
るから、ここに羽藤笑子がいるから浅間サクヤは1人じゃないと。1人にはしないからと。
「わたしが元気でいる間は1人じゃないから、心配しないで」
「だけど、あんたもあたしを置いて行くんだろう。……あたしはまた、1人になるんだ」
観月の民の長寿は、たいせつな人との別離、看取る事を前提とする。大切な人が出来て
も、出来れば出来る程、百年経たずに永訣は巡る。大切な人を作っても、己が傷つき苦し
むだけ。
「ふふふ、それはどうかしら。わたしは長生きする積りだもの。だから、その頃にはきっ
と、孫辺りがわたしと同じ事を言うんじゃないかしら……サクヤさん?」
想いは受け継がれる。受け継ぐ人がいる限り、人の身体は尽きても人の想いは終らない。
訣れはあっても次の世代が繋って、決して孤独にしない。笑子おばあさんはサクヤさんの
深い孤独の奥底からの問に応えていた。人は、大切な人がいる限り、望んでくれる人がい
る限り、希望を抱いて生きて行ける。別離は哀しむけど、何もかも失わない限り続きはあ
る。たいせつなひとがいる限り、終りではないと。
「ずるいじゃないか、そんなの」
サクヤさんの、敗北宣言だった。遠祖だから不思議はないのだけどオハシラ様と同じ声、
同じ顔立ちで、その様に語られては抗えない。サクヤさんは、竹林の姫に徹底的に弱かっ
た。そして笑子おばあさんの天真爛漫な笑みにも、サクヤさんは生涯、抗う事が出来なか
った…。
助かった。救われた。笑子おばあさんの手で、サクヤさんの身体だけではなく、魂迄も。
ご神木も、封じも、オハシラ様の心も。冬の夜でも、粉雪舞い散り始めた中でも、ご神木
は妙にざわついて、力に満ち。千年越しの絶望は、間一髪で回避された。オハシラ様は安
心して再び内向きのお役に戻る。サクヤさんとその大切な人の生きる世の基盤を支える、
最早知る人さえも少なくなったそのお役目に。
笑子おばあさんは言っていた。
『あの人にはいつ迄も、オハシラ様が絶対に代えの利かない、掛け替えのない一番なのよ。
永劫に手が届かなくても、久遠に想い続けるしかなくても。月に手を伸ばす様な物かねえ。
それでもその想いを捨てず、哀しみと一緒に愛おしんで抱き続けるその姿が切なくて哀し
くて、放っておけないのよね。私も貴女も』
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「あたしを観月と分ったのはその時かい?」
サクヤさんが顔を向けず静かに語るのに、
「確かに知ったのは、その時だったけど…」
わたしは、記憶の糸を手繰り寄せつつも、
「人じゃないかもと思い始めたのはもっと前。贄の血の力の修練が進み始めた頃、かも」
幼い頃はわたしが気付く前に声を掛けられていたのに、見つける側はサクヤさんだった
のに、いつの頃からか、それが逆転していた。贄の血の匂いを隠す様になった頃から、サ
クヤさんはわたしの気配に気付きにくくなって。逆にわたしが血の力の修練に伴う関知の
力で、サクヤさんの気配や接近を分る様になり始め。
贄の血の匂いを隠す事で悟られなくなる相手とは? わたしは何から身を守る為に贄の
血の匂いを隠そうと修練を始めたか? それが成功し進展して気付かれなくなる者とは?
『偶に、車を運転する鬼もいるからね』
助手席に乗せられそう語られた事があった。
『鬼は大抵夜に出歩く物だけど、ごくまれに日中でも出歩ける奴もいる。鬼の力は夜の方
が強いのは勿論だけど、昼間出歩ける程の奴は知恵も回る奴だから侮れないんだ』
鬼の行動にも詳しかった。
『鬼は柚明の血に惹かれてきたんだよ。間違いない。だから鬼とは最初に父親と帰る途上
で出逢い、母親が後から助けに来た。鬼は開いている夜間窓口から入るなんて考えないよ。
明るい処より、電気の消えた正面玄関や横の窓から侵入する方が早いし簡単だと考える』
オハシラ様との感応の時に、その心に刻まれた観月の童女を見た瞬間、わたしは姿形の
奥に繋る魂を感じ取れた。サクヤさんがオハシラ様や笑子おばあさんに縁の深い、お母さ
んより旧い友達だという全てに納得が行った。
以降も、基本的にわたしの応対は変ってないと思うけど。サクヤさんの応対には変化の
兆しも見えなかったけど。わたしにとっても忌避も怖れも不要な、たいせつなひとだけど。
変ってしまったのはわたし。
心変りしてしまったのはわたし。
今迄通りでなくなったのはわたしの方だ。
「サクヤおばさん……、いえ、サクヤさん」
わたしは、サクヤさんに更に近付いた。声の届く範囲ではなく、手の届く範囲迄。わた
しの心を、余す事なく届かせたいから。わたしの想いを、肌を摺り合せて届かせたいから。
サクヤさんは顔を上げずに、ご神木により掛って俯いた侭、感情を抑えた声で、
「あたしのこと、怖くなったかい?」
「今、生れて初めて、サクヤさんが怖い…」
わたしは、サクヤさんの俯いた背中に手を触れる。その背がびくっと震えるのを感じた。
一生懸命心を整理し、言葉の繋ぎを確かめて、
「サクヤさんが観月だから怖い訳じゃない。サクヤさんが人でないから怖い訳じゃない」
そんな事、わたしには一番に大切な問題じゃない。わたしに今一番大切なのは、サクヤ
さんを大切に想う気持。1人にさせないと言う笑子おばあさんの約束を受け継ぎたい気持。
でも。わたしは、心の苦味を取りだして、
「わたしがこれから言う事で、サクヤさんを哀しませてしまう事が、心の底から怖い…」
「でも、言わなけりゃならないんだろう?」
うん、と静かに頷き返す。目線は合わないけど。サクヤさんも振り向かず、面を上げず。
わたしも、向けられても恐らく正面から見つめ返すには相当な勇気を要する状況だけど、
「かつて、わたしの一番大切な人は、サクヤおばさんでした。でも、今は違う。わたしの
今一番たいせつなひとは、サクヤさんではありません。そうでなくなってしまいました」
ごめんなさい。わたしの、心変りです。
肌を刺す寒気より、サクヤさんを刺す心の痛みの方が大きいに違いないけど。言うわた
しの苦味より、言われるサクヤさんの苦味の方が濃密に違いないけど。言わない訳に行か
なかった。かつて一番ですと言っていた以上。それが既にそうでなくなった以上。羽藤の
家の長である笑子おばあさんが亡くなった以上。限界だった。これ以上の遅滞は、許され
ない。
「あたしが鬼でも、怖くはないのかい?」
サクヤさんの問は、確かめずにいられない臆病な程慎重な問は、可愛らしい。最早家族
よりも近しいサクヤさんが、例え鬼であろうと狼であろうと、怖れる物でも避ける物でも
ない事は、サクヤさんが分っている筈なのに。
わたしは確かにそうと伝えるのに言葉を使わず、背に当てた掌でサクヤさんの背を軽く
撫でる。贄の血の力を癒す力として流し込む。鬼を弾く様に使うか否かは人に使う時と同
様、使い手の意識と使い方次第だ。どこも痛めた訳でないけど、心を痛めているサクヤさ
んに、癒すより癒したい想いを伝える事で、わたしに怖れも嫌悪もある筈がないと、確か
に伝え。
「じゃあ、笑子さんの死を前にしてかい?」
サクヤさんの問は続く。まるで、わたしが告げるよりも先にそれを言い当てた方が、心
に受ける傷が軽く、浅くなるとでも言う様に。
「あたしは生涯笑子さんも柚明、あんたも一番にしてあげる事が出来なかった。生命を助
けられたのに、心救われたのに、笑子さんを最期の最期迄一番にしてあげられなかった」
あんたもさ。一番だって言ってくれたのに。
「耐えきれなくなって当然さね。一番と幾ら想い続けても、いつ迄も一番と言う想いは返
って来ない。その生涯の終り迄、想いが返されない様を見ちゃ、十年の愛も冷めるよね」
この先百年想い続けても、それは変らない。笑子さんへのあたしの応対が、柚明へのそ
れになるのが目に見える。今の内に離れた方が、傷も浅い。あたしも中途半端に生殺しに
したからさ。最期には、見放されるのも当然だよ。
「あたしへの、天罰なのかも知れないねえ」
逆に笑子さんの様に最期迄想われ続けちゃ、あたしが痛いんだけどさ。返しきれないか
ら。
声音に寂しい笑みを見せるサクヤさんに、
「違うの。そうじゃないの。わたしは、サクヤさんに想いを返して貰えないから、気持が
醒めた訳じゃない。わたしは、等しい想いを返して貰えないから不満だった訳じゃない」
サクヤさんもきっと、あの告白を思い出している。両親を失って、町の家を引き払う時、
『この髪飾りを付けて、綺麗になったわたしを是非、見せてあげたいの、見て貰いたいの。
サクヤおばさんに、わたしの一番大切な、特別な、サクヤおばさんに!』
今わたしが付けているこの白いちょうちょの髪飾り。青珠のお守りに描かれた文様に似
た、それを少し丸く可愛くした感じの、淡く輝く髪飾り。一番たいせつなひとを見つけら
れた時、貰えるとお母さんに言われた髪飾り。
大切なだけじゃなく特別な人。
特別なだけじゃなく一番の人。
この世に唯1人と、思える人。
『わたしにはそれは、サクヤおばさんです』
そう言いきった時の答を、わたしも憶えている。成就しなかったけど、届かなかったけ
ど、それは世界一真剣な答だった。サクヤさんは9歳の子供の想いに真剣に応えてくれた。
『ごめんよ。あたしには絶対代えの利かない、掛け替えのない人がいてね、あんたを一番
にしてあげる事は出来ないんだ。柚明があたしを一番と言ってくれるのは嬉しいけど、そ
れにあたしは、同じ想いで応える事が出来ない。
柚明を特別に大切だと思うあたしの気持ちは本物だよ。それでも、一番だって想いに一
番の想いで応えてあげられないってのは、我ながら薄情だと思う。ごめん、柚明』
『他ならぬあんたの気持ちには、叶う限り応えたいんだけど、こればかりは許しておくれ。
あたしの一番は、この世に1人だけなんだ』
『でも、柚明がそれでも良いって言ってくれるなら、それで尚あたしをそう思い続けてく
れるなら、あたしもあたしにできる限りの気持を返すよ。一番と言えないけど、この世で
2番目に大切な人と同着の、2番目として』
サクヤさんは、実は純情で臆病で、可憐で義理堅い。そう言う一面を、知れば知る程に、
わたしはますますサクヤさんを好きになった。誰が一番でも良い、誰が2着で並んでも良
い。
『わたしはわたしが好きだから言っただけ。同じ気持を返して欲しいなんて、思わない』
幼い想いは、ずっと変らないと思っていた。いつ迄も、わたしは仰ぎ見続ける積りでい
た。誰がいても、誰を大切に想っても、サクヤさんには代えられない筈だった。等しい想
いが返らない事は最初に報されていた。それでわたしの気持は萎えた事も揺らいだ事も一
度もない。ずっと不動の一番だった。でも、でも。
「サクヤおばさんはたいせつな人だったけど、今でも大切に想う気持は変らないけど、も
う一番じゃない。わたしの一番だったサクヤおばさんはもういない。今いるのはサクヤさ
ん、特別に大切だけど一番じゃないサクヤさん」
「柚明、あんた……」
「ごめんなさい。わたしの心変り。わたしのいつ迄も変らないと思っていた心が、心が」
わたしには、この生涯を捧げて尽くさなきゃいけない人がいる。尽くしたい人がいる。
大切なだけじゃなく特別な人。
特別なだけじゃなく一番の人。
この世に唯1人と、思える人。
「桂ちゃんと白花ちゃんが、わたしの一番たいせつなひと」
サクヤさんは、その次です。
冬の中天で三日月が傾きかけていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「実はもうとっくの昔に、そうなっていた」
白花ちゃんと桂ちゃんが生れて、わたしの心を照し出して、わたしに生きる意志を与え
てくれた瞬間に。わたしはあの双子の為に生きるんだって、あの双子の幸せの為に全部を
捧げるんだって、あの双子こそが代えられない一番なんだって、分っていた。それなのに。
「今迄引きずってきたのは、わたしの所為」
もっと大切な人が出来るなんて。サクヤさんよりも更に好きな人が出来てしまうなんて。
強い求めを受けたあの秋の日に、わたしはそれを口に出した。沢尻君の求めを断った時、
告白を退けた時。でも肝心のサクヤさんには、言えなかった。せめてその時言うべきだっ
た。
サクヤさんを哀しませる事が怖かった。サクヤさんの失望が怖かった。あれ程一途にオ
ハシラ様への思いを抱き続けるサクヤさんの前で、十年保たずに想いの対象が入れ替わる
とは、わたしはなんてふしだらな。
「笑子おばあさんがいる間は甘えていられた。贄の血の力の使い手で、大人で。笑子おば
あさんがいる間は、わたしは白花ちゃんも桂ちゃんも唯好きで、守りたいだけでいられ
た」
最後に頼れた。相談できた。お願いできた。一番後ろにいて、受け止めてくれた。色々
な事に気遣い注意し、招き導いてくれた。でも。
「笑子おばあさんはもういない。贄の血の力の使い手は1人だけ。その面で双子の守りに
なれるのはわたしだけ。もう頼れる人はいない。わたしはもう、気の迷いも許されない」
わたしの生れて初めての心変りをはっきりさせないといけなくなった。曖昧に出来ない。
幼い頃からずっと抱き続けてきた想いが終る。
「笑子おばあさんの葬儀の夜に、サクヤさんが哀しむ夜に、言わなければならなくなった。
全部わたしの所為。わたしが、ぐずぐず引き延ばしてしまった所為で、今に至って……」
サクヤさんはなぜか驚いた様子で顔を上げ、
「あんたの心変りってのは、あたしが観月だからとか、最期迄笑子さんを一番に出来なか
ったとか、いつ迄もあんたを一番に出来ない事に耐えられなくなってとか、じゃなく…」
「桂ちゃんと白花ちゃんには代えられない!
わたしの一番は、一番たいせつなひとは」
サクヤさんの腕がわたしを抱き包んだのは、その時だった。わたしの嗚咽を、包み込ん
で、
「そんな、そんな事で。柚明、あんた」
義理堅いにも程があるよ、あんたは。
「あんたには、あたしが観月だとか人じゃないとか、いつ迄も一番になれないとか、そん
な事はどうでも良い事だったんだね。それを分ってやれないなんて、笑子さんを失って取
り乱していたからって、あたしは本当に…」
抱き包んでくれる両腕が、暖かくて力強い。
「サクヤさんには、言わないと。言わないと。
一番大好きだった、サクヤおばさんに…」
「ああ、もう分ったよ。確かに分ったから」
少し荒っぽく、でも確かにわたしを抱き留めて、サクヤさんはわたしの心を受け止める。
そうされて、懐かれて初めて分った気がする。わたしが感じていたのは心細さだったのだ
と。
これ迄笑子おばあさんが被っていた責任を、今後わたしが負わなければならない重さへ
の。贄の血がわたし以上に濃い双子の先行きを、その面ではわたししか助けられない故の
怖れ。
沢尻君の時の様に、縋り付ける笑子おばあさんはもういない。贄の血の力やオハシラ様
を巡って生じる異変や新しい事態に、話を聞ける笑子おばあさんはもういない。最後の判
断を相談できる笑子おばあさんはもういない。
今後何かあった時、何か生じた時、迫られた時、応えなければならないのは、わたしだ。
判断を下すのも、責任を被るのも。そしてわたしが何にも優先して守るべき者もあの双子。
サクヤさんであってはいけない。どちらかしか守れない究極の時、迷えばどちらも失う
極限の時、羽藤柚明が選ぶのは浅間サクヤではなく羽藤桂と羽藤白花なのだ。家長の重み
とは守る家族の幸せの重さだ。わたしにはまだ正樹さんと真弓さんがいるけれど、わたし
が負う責任は部分的だけど。それでも重たい。
迷いを呼ぶ要素には全て決着を付けなければならなかった。思考停止は許されなかった。
限界だった。吹っ切る事が必須だった。何よりも、わたしの心の中で完全に決着する事が。
「あんたは本当に、昔から自分より他人の事ばかり考えて。あたしは最初からあんたを笑
子さんと同着2位にしかできないと言っていたのに、今更あたしを一番から降ろしたって
気に病む必要なんて何もないのに、本当に」
サクヤさんの声は心に届かない。わたしは、サクヤさんにわたしの想いを、訴えたかっ
た。でも尚わたしは心残りを捨てきれない。サクヤさんを愛し求めた年月に終止符を打つ
事が、サクヤさんが一番の日々に幕を引く事が怖い。
「サクヤさんがあれだけ真剣に応えてくれたのに、あれだけ困らせて哀しませたのに、そ
の想いを、わたしの方から裏切るなんて…」
「ああ、もう。良いんだって。あんたがあたしを何番にしても、あたしは柚明が特別に大
切な人である事に、違いは何もないんだから。柚明もあたしを特別に大切に想ってくれて
いるなら、それで良いじゃないか。充分だよ」
あんた自身がかつて言っていたじゃないか。
『わたしはわたしが好きだから言っただけ。同じ気持を返して欲しいなんて、思わない』
「あたしは、あんたに一番に思って貰わないと哀しんだり、怒ったり失望したりする様な、
小さな人間じゃない積りだよ。かなり大きいって言う以上に、人間でもないんだけどさ」
サクヤさんは胸を反らせて悪戯っぽく笑う。
瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。
「サクヤさんも、オハシラ様の次の2番目を、白花ちゃんと桂ちゃんにしても良いから。
正樹さんや真弓さんの後に、その他の大切な人のずっとずっと後にわたしを置いて良いか
ら。 何番でも良いから、誰の後でも良いから」
サクヤさんのたいせつな人に入れて置いて。
「一番ですって、言って貫けなかったわたしのお願いだけど、それを生涯保ち続けられな
かった、心変りしたわたしのお願いだけど」
サクヤおばさんの前では歳を忘れる。わたしはその前ではいつ迄も、小さな子供の侭だ。
「ああ、ああ。他ならぬあんたの気持だから。あたしに叶う限り、今夜は何でも応える
よ」
しなやかな腕に包まれてその胸に懐かれて、わたしは久しぶりに心の赴く侭に、わたし
はわたしの願い事を口にしていた。鬼の襲来したあの日から絶えて久しい、わたしの願い
を。
【うん。サクヤおばさんが元気で綺麗な侭帰ってきてくれたらいい。わたしにとって、一
番綺麗なのは、サクヤおばさんだから】
今は遙かに遠く霞むあの時を思い返しつつ、
「今夜だけ、わたしが一番のサクヤおばさんでいて。わたしも今夜だけ、サクヤおばさん
が一番の柚明になるから。明日からサクヤさんは一番じゃない。だから今夜だけ、今だけ
わたしの求めに応えて。わたしが一番のサクヤおばさんとして、わたしの血を飲んで!」
言い切っていた。
「柚明、あんた?」
「サクヤおばさんと一つになりたい。笑子おばあさんが、この中に一つとなって今でも生
きて流れている様に。赤い血潮になってサクヤおばさんといつ迄も生き続けている様に」
サクヤさんの大きな胸の谷間に右手を当て、
「この中に笑子おばあさんはまだ生きている。この中で笑子おばあさんはずっと生き続け
る。感応の中で、笑子おばあさんのそれだけが羨ましかった。いつ迄もサクヤさんの力に
なって残り、生命を繋いで役に立てる、素晴らしい巡り合せが。ここにわたしも織り込ん
で」
「あたしは、今は怪我もしてないし、別に」
戸惑いの声に、被せる様に、
「わたしが、飲んで欲しいの」
わたしはサクヤさんの瞳をひたと見据えた。
わたしもいずれ生命が尽きる。役行者の言葉を引く迄もなく、笑子おばあさんがそれを
示していた。人の寿命は観月に較べ短く儚い。いずれわたしもサクヤさんの記憶に残るだ
けになる。わたしの子か孫か、桂ちゃんや白花ちゃんの子か孫が、想いは継いでくれるけ
ど。
「わたしだけの想い、羽藤柚明の想いを、混ぜて欲しいの。サクヤおばさんを一番大切に
想っていられる最後の夜に、サクヤおばさんを一番に想うわたしの赤い糸を、サクヤおば
さんの中に縫い込ませて欲しいの。お願い」
サクヤさんが写真を撮る様になったのは、それが残り続ける物だから。その時の想いや
姿や表情が、いつ迄も、時を経ても、亡くなっても尚残り続ける物だから。わたしの残せ
る物に悠久に保つ物は何もないけれど、でも。
「悠久に続くサクヤさんの中に、わたしの一部でも一緒にいられるなら。許されるなら」
これはわたしのお願い。誰の為でもなく、このわたしの、羽藤柚明のお願い。浅間サク
ヤへ向けたわたしの全身全霊のお願い。
一番にしてとは望まない。わたしもサクヤさんを一番には出来なくなった。サクヤさん
は月の寿命を生きる巌の民で、わたしは散り急ぐ桜花の民だ。わたしは瞬く間に老いて逝
き、サクヤさんはその後に長い別離を味わう。しかもその限られた間でさえ、わたしにも
サクヤさんにも互いに一番大切な物がそれぞれにあって、互いに交わり合う事は永劫にな
い。
一度は交われても、二度は交われないとは、誰に言った言葉だったろう。わたし達は最
初から一度も交わり合えなかったけど、一度も互いを一番同士にする事が出来なかったけ
ど。
こんなに大切に想い合っていても通じない。
誰かを大切に想う心が強い故に、届かない。
それは分っているけれど、納得するけれど。
望んで選んだ運命だから、受け容れるけど。
「幻でも良い。せめて一夜だけ、サクヤおばさんの一番にして。わたしも今夜だけ、サク
ヤおばさんを、桂ちゃんより白花ちゃんより、誰より大切に想うから。その証を残させ
て」
「……分ったよ」
少しの逡巡の後で、サクヤさんはわたしの求めを受け容れてくれた。完全なわたしの我
が侭を。笑子おばあさんの葬儀の、その夜に。サクヤさんは間近なご神木を見上げて苦笑
し、
「今夜は柚明の為の夜だ。笑子さんにもオハシラ様にも、今だけは目を瞑って貰おうさ」
柚明が桂と白花に見逃して貰うのの引換だ。
わたしの頭に、サクヤさんのしなやかな左腕が降りてくる。くしゃっと髪の毛を掻き回
す様に強く撫でられるのが気持ち良い。この感覚も久しぶりだった。幼い頃を、思い出す。
そういえば、わたしがお父さんとお母さんの仇だった鬼を退けたあの日以降、サクヤさ
んはわたしにこれをしていなかった。大人に、扱われていたんだ。そして今は、子供扱い
に。どっちも嬉しい。どっちもサクヤさんのわたしを想う気持ち。でも、サクヤさんが今
これをするのは、多分今夜これが最後という事だ。唯一度の我が侭に応えてくれたこの時
のみと。
瞳を細めて、それを満身で受けるわたしの肩に、二本の腕が軽く絡む。それは抱き締め
るのではなく、軽く抑える感じで、
「あたしも、一度で良いからあんたを迎え入れたいと、思っていたんだ。あたしの中に」
あんたは珠の様に可愛らしかったからね。
オハシラ様は永遠に届かない。笑子さんももう及ばない。あんたも、そう長くない先に
あたしには思い出す事しかできない物になる。ならその前にあんたの一部でも迎え入れた
い。
「今夜だけ一番の、あたしの柚明を」
その囁きが耳に心地良い。そして、
「首筋に行くよ。あたしの犬歯で肌を食い破るから少し痛い。ちょっと耐えておくれ」
美しい顔が近付いてくる。まるでキスの様。唇は外して首筋に向かうけど、白銀の癖っ
毛が視界を埋めて、サクヤさんを間近に感じる。これ程間近に感じるのも、久しぶりだっ
た…。
鋭い刃が肌に突き立つ。ゆっくり食い込んでいく。肌の弾力が破れて、中身がしゅっと
滲み出る。出血した。少し痛い。思わず身体がびくっと震えた。サクヤさんがそれに感付
き怯えた様に止まるのが肌で分る。わたしは、
「大丈夫。痛いのは、少しだけだから」
サクヤさんは歯を立てている最中だから喋れない。わたしは身体から力を抜いて、サク
ヤさんの為すが侭に身を委ね、その侭やって良いよと示す。わたしの想いが溢れ出て行く。
サクヤさんがまずわたしの中に入らないと、穴を穿たないと血潮は外へ流れ出ない。サ
クヤさんがわたしの肉に食い込んで、傷つけてくれないと、より強く結びつけない。人と
は、傷つけ合って初めて分り合える生き物らしい。
サクヤさん、もっとわたしの深く迄入ってきて。もっとわたしを深く抉って。そうすれ
ばする程、奥の奥にサクヤさんを迎えられる。わたしの核心が、サクヤさんに触れて貰え
る。
サクヤさんの唇が閉じたわたしの首筋の傷口に、暖かな何かが堪っている。それを暖か
な舌が舐め取っている。生き物の様にそれは肌の上を這いずり回る。流れ出る血潮と熱い
想いが、外へ流れ出していく。微かな緊張の籠もる身体から、微かな緊張を抱く別の身体
へと、生命の素が想う心と共に流れ込んで…。
『わたし、サクヤさんの中に、入っていく』
サクヤさんがわたしの血を飲み下していく音が聞えた。口の動き、喉の動きが、ぴった
りくっついているから、感じ取れる。サクヤさんの身体がわたしの血を求めていると分る。
涙は、哀しみの故ではなく、嬉しさの故に。
わたしは求められている。わたしは必要とされている。大切な人に、一番たいせつなひ
とに欲されている。それが何より嬉しかった。いつ迄も、この侭くっついていたい。この
侭離れずに。今こそ、時が止まってくれたなら。
限られた時を、噛み締めて。一呼吸一呼吸に気力を込めて。瞬く間に過ぎ去る、甘い時。
サクヤさんにとって、わたしと過した全ての想い出も、この夜の様に短く儚い物で、後に
は刻まれた記憶にしか、残らないのだろうか。
でも。いや、そうだからこそ、
「ありがとう、サクヤおばさん。
わたしは今、とても幸せです」
今この時を確かに強くしっかり刻む。
後から幾度振り返っても、思い返せる様に。思い出せない程心が摩耗し、果てしなく長
い時が過ぎ去り、振り返れぬ程遠ざかった果ての末にも、素晴らしかったと応えられる様
に。全てを失う絶望の闇の向うでも光抱ける様に。
今この時を、最高に輝かしく甘い時に。
「そして、さようなら、サクヤおばさん…」
わたしの一番たいせつなサクヤおばさんは、わたしの明日にもういない。二度と戻らな
い。それは胸に秘めた想い出の中に残るだけ。サクヤさんの身体に流れる赤い血潮に残る
だけ。
明日からは、わたしの大切なサクヤさん。
わたしの幼い想いの残り火にも終止符を。
最初で最後の甘く暖かい夜が更けて行く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
いつしか経観塚は春を過ぎ、幾つかの別れと幾つかの出会いを経て、初夏を迎えていた。
最終の一便手前のバスで羽様に帰り着いたわたしは、目に飛び込む伸び盛りの緑と梅雨
明けの直射日光に目を細め、その奥の日本家屋に足を向ける。微かな危惧が心を掠めるの
は、関知の力の導く処だ。良い感触ではないけど、この位ならそう酷くない。その見分け
も曖昧で、慣れるのに経験が必要だったけど。
「ああ、柚明ちゃん。お帰り」
玄関のお迎えが、正樹さんだった事がまず違った。わたしの気配を察し、戸口に至る前
に真弓さんが出るか声を掛けるのが羽藤家の常だ。桂ちゃんと白花ちゃんの声も足音もな
い。気配の残り香があり、少し前迄近くにいて、そう遠くに行ってないとは分るのだけど。
「叔母さん、具合悪いの?」
自然に口をついて出た言葉に、正樹さんは、
「昼前に身体に力が入らないと言って、座り込んだんだ。昼は作りますって無理して作っ
たんだが、片づけはわたしがした。それは良いんだが、その後もどうも思わしくない…」
朝出る時は、特段の兆は感じなかったけど。
「無理矢理寝かしつけた。と言うより、真弓も諦めた感じで寝込む事を承知してくれた」
風邪でも引いたのかと薬を勧めたんだが。
「大丈夫だと断られた。寝ていれば治ると」
それで大丈夫なのかどうか。正樹さんは不安を隠さず、分る限りの情報を伝えてくれる。
「熱はないみたい。病気とは少し違うかも」
わたしは並んで廊下を歩きつつ、正樹さんの説明を聞きつつ、関知の力も併用して真弓
さんの状態を『視て』いた。正樹さんが見た真弓さんの状態を、言葉に出来ない感触まで
その表情や仕草や印象から読み取って、診る。医者が患者の顔色や肌の艶を見て診断に活
かすの行いの応用に近い。探偵が依頼人の挙動から状況や人柄を読み解く行いに通じるか
も。
学生服を脱ぐ暇もなくその侭寝室に行くと、
「柚明ちゃん……、お帰りなさい……」
「起き上がらないで。寝ていて下さい」
真弓さんが、わたしの接近に部屋の戸を開ける迄気付かないのは、快復の為に内向きに
集中していた為か。真弓さんは、引退したとはいえ鬼を斬る人々・鬼切部千羽党の一員で、
その中でも鬼切り役というエースを担い、当代最強と言われたらしい。不調の時に自身で、
保全又は快復の術を心得ていて不思議はない。その真弓さんが、昼前からわたしが帰り着
く迄掛って尚寝込んだ侭な事が気に掛ったけど。
わたしは正樹さんと寝室に入ると、起き上がろうとした真弓さんを寝かしつけ、その額
に手を当てる。入ってきた勢いの侭に有無を言わさず診察に進む。真弓さんは困惑気味に、
「少し疲れただけよ。うちの人は心配性で」
「日中に座り込むなんて、尋常じゃあない」
額に当てた右手からの感触に、重大な異変を報せる物はない。尚も言い募りたい様子の
正樹さんが、わたしの集中を妨げない様にと口を噤む。三十秒掛らずに額から右手を放し、
瞳を開いて集中を解くわたしに、真弓さんは、
「ね。大丈夫でしょ。唯の疲れだって……」
正樹さんの視線は、真弓さんの言葉よりむしろわたしの判断に重きを置いていた。真弓
さんが人を心配させない為に、大丈夫でなくても虚勢を張るのではないか、相手が真弓さ
んだけに巧く取り繕われ、その虚勢を見抜けないという事が、正樹さんの真の心配らしい。
「確かに。病気ではない様です。でも……」
生気が随分落ちています。まるで徹夜したか吸血されたか、全力で闘うかした後みたい。
「それって、どういう……?」
「症状で言えば唯の疲れです。よく食べ、お昼寝して、体力を復すれば良いだけ。病でも
ないので薬も不要です。病院に行ったら点滴か、ビタミン剤を貰えるかも知れませんが」
問題はない。身体のどこにも特段の原因はない。逆に言うなら、特段の原因がないのに
ここ迄生気が衰えている事が問題なのだけど。真弓さんが主婦生活で疲れ切る事は考え難
い。当初こそ巧く行かない事もあったけど、それも力の加減の問題で、精神的な疲れで、
肉体はここ迄疲弊しなかった。鬼切部の仕事で生命をかけていたなら、あり得る位の疲れ
方…。
「生きたビタミン剤で、体力補充しますね」
疲労の快復にも贄の血の力は効く。病がないなら、あっても真弓さんの様に若くて強靭
な人なら、病巣の活性化より自然治癒が勝る。
ここ迄体力が落ちた原因が分らないのは少し気になったけど。どこにも病巣もなく、手
で直に触れても真弓さんが身体に力を入れた痕を感じ取れないのが、少し気になったけど。
「大丈夫よ。柚明ちゃん、そこ迄しなくても、少し横になっていれば、じきに治るから
…」
「夕食作りをわたし1人に任せようとしても、そうは行きませんからね。治って下さい」
戸惑う真弓さんの布団を剥ぎ、服の上から手を当てる。素肌に触れる方が効果的だけど、
重傷でないのに服をはだける迄は躊躇われた。正樹さんも隣にいる。旦那様だから良いと
言う見方もあるけど、旦那様の前だけに、ね…。
「ちょっと、柚明ちゃん」
「心臓に直接流します。真弓さんは健康で若いから、効果が劇的でも受け止められますし、
その方が早く効きますから」
傾きかけた日に照される中、身体から微かに滲み出す青い光を掌に集め、真弓さんの心
臓辺りに手を当てる。効率的に力を使う為に、特に日中は間に距離をおかずぴったり触れ
る。真弓さんの肌は艶があり、筋肉も弾力がある。
『サクヤさんの肌に、少し似ているかも…』
胸の大きさは流石に一歩も二歩も譲るけど。
流れ込む感触に、真弓さんの身体が敏感に反応した。熱とも違い、痺れとも違い、密着
しているのに風が吹き抜ける様に、肌から肉へ骨へ浸透し。分らない位に抑える事もでき
るけど、それは力を弱める事で効果も弱める。
その侭の姿勢で集中を続ける事三十分余り。
「ふう……」
思ったより、わたしの方が疲れてしまった。表に見えたより真弓さんの疲労は深刻だっ
た。起き上がろうと出来た姿にわたしも騙された。あれは真弓さん故にできたのだ、他の
人なら意識が保てない。唯の疲れだから、寝ていれば大丈夫なのだけど、それでもこの疲
弊は…。
「柚明ちゃん、その位で良いから」
途中で真弓さんがわたしの手を外して拒んだ為、満度に力を注げなかったけど、その時
点でわたしの力が半分位持って行かれていた。真弓さんの症状は、常の男性の全体力の4
回分位を空にした状態だった。一生懸命力を注ぎ込んだので、半ば以上は戻せたと思うけ
ど。
「すみません。わたし、まだ未熟で」
「充分すぎるわよ。それよりむしろ」
真弓さんの目が、深呼吸で息を整え直すわたしに心配を向けてくる。後ろから正樹さん
が身体を支えてくれた。それ程わたしが危うく見えていたらしい。癒す側になる事を望む
わたしとしては、何とも情けない現状だけど。
「わたしは大丈夫です。途中で止められちゃったから、ですけど。……まだまだですね」
「私の為に貴女が倒れる事にでもなったら、本末転倒よ。桂と白花に、何て言われるか」
そこでわたしは心の引っ掛りを掴み直した。
目の前の真弓さんに集中してしまったけど。
すぐ終えられると甘く見て深入りしたけど。
今迄妙にこの家が、周囲が静かだったのは。
「白花ちゃんと、桂ちゃんは?」
「庭で、遊ばせていた筈だけど」
正樹さんの答に、わたしは首を横に振る。
「それは、わたしが帰り着く少し前迄です」
今2人は庭にはいません。それどころか、
「お屋敷の周囲に、2人の気配を感じません。残り香の様な物は、微かにありますけど
…」
外は日が落ちかけていた。夕焼けは今宵と明朝の晴天を約すけど、わたしの心の太陽を
約してはくれない。心のど真ん中に置かなければならない大切な物を脇に置いてしまった。
贄の血の力を役に立てられると、舞い上がってしまっていた。わたしはなんて愚かしい。
「多分、森に迷い込んだのね。最近あの子達、森にも遊びに行くようになっていたから
…」
ダメだって言って置いたのに、あの子達は。
真弓さんが真顔に戻ってガバッと起き上がる。まだ体力は半減状態でも、気合いを入れ
ると即動かせてしまうのがこの人の凄い処だ。
「急いで捜さないと。日が暮れてからでは見つけづらくなる。夏でも気温が下がれば…」
真弓さんは途中で言葉を切ったのは、息が続かないのではなく最悪の予想が浮んだ為だ。
「真弓は寝ていなさい。柚明ちゃんも」
私が行って来る。正樹さんが立ち上がるけど、真弓さんもわたしも、それには従えない。
と言うか既に一緒に立ち上がっていた。正樹さんが顔をしかめるけど、何か言うより早く、
「貴男では、白花と桂の気配を探る術がないじゃないの。誰かが付かないと探せないわ」
「気配の残り香を辿れば、双子の行動に後追いでも近づけます。近付いていけば、関知の
力が2人を映し出してくれます」
わたしも真弓さんも、体力不足気味だけど、敵と戦う訳じゃない。唯、力も技も扱えな
い正樹さん1人では難航が予測できた。どちらか片方が行かなければ2人の所在は掴めな
い。
「柚明ちゃんはここで休んでいて。桂と白花、或いはどっちかが帰ってくるかも知れな
い」
貴女は今疲れ切っているわ。私に力をくれた為に。その力で、私が2人を捜し出してく
るから。貴女はそれ以上、無理をしないで…。
「私なら、多少は気配を感じ取れる。起きて動ける以上、体力仕事は私の担当よ」
真弓さんは気遣ってくれたけど、わたしもそれは受け容れられない。桂ちゃんも白花ち
ゃんもいない事に帰着して早々気付きながら、わたしはそれを棚上げしてしまった。気配
がそう遠くないと言うだけで、追いかけて目で確かめる事もせず、真弓さんの治癒をすぐ
終らせてからと甘く見て。これはわたしの失態。
少しふらつく足に力を込めて馴染ませて、
「手分けして、捜しましょう。その方が…」
わたしと真弓さんは、一つの元気を半分こにした状態だ。どっちもこれ迄の十数分で互
いが万全ではない事を明かしている。見ていられないのは正樹さんだったのかも知れない。
『羽藤(はとう)の血には頑固の血も流れているの。言い出したら聞かないって言うのは、
私の母さんも正樹も本当』とお母さんは語っていたけど正にその通りです。実感しました。
「分った、3人で行こう」
遭難する様な山じゃないけど、夏の夜だけど、天気も良いけど、それでもふらついた女
子の足で迷い込む場所じゃないんだ、本来は。
正樹さんは怒ると言うよりも困った語調で、
「3人で行って、みんなで帰って来よう」
わたしの耳元を掠めていく風を感じたのは、その時だった。逢魔が時を迎えて、わたし
の贄の血の力も関知の力も強化されていたけど、それでも辛うじて微かに届く、この感触
は?
「オハシラ様……?」
まだ夕日は落ちておらず、蝶を放てる状況ではない。多少強まってはいても、オハシラ
様は基本的に内側に向いた存在で、外に何かを訴えかける事は稀少で。蝶に至らない、本
当に微かな風の呼び込む気配程度。笑子おばあさんでも見過ごしたかも知れない位微かな。
「柚明ちゃん?」「何か、感じたの?」
2人の声にわたしは首を横に振る。何をどう応えて良いか分らない。この緊急時に、で
もこの感触は切り捨てられない。何かが含まれている。今である事にも、何かの意味が…。
そこ迄して緊急に伝えたい、何かがある。
意識を吹き抜ける風に心を寄り添わせる。
目を閉じて、見えない物を視ようとする。
そうする事で、感じ取れる何かがある。そうする事で、視えてくる何かがある。それは、
「ご神木です! 桂ちゃんと白花ちゃんが」
わたしは思わず叫んでいた。この距離を隔て、山奥のご神木のその前に手を繋いで立つ
双子が見えた。わたしの意識がオハシラ様の促しに応えた為に、この遠距離で繋ったのか。
自身驚きだったけど。こんなに遠隔で力が働いた事は初めてだったけど。でも、わたし
の感覚は確固としてそれを映し、伝えてくる。これは未来図でもなく、そうしようという
意志の投影でもなく、今そうである事の実況だ。
「2人はご神木の近くにいます。急いで!」
状況を察した真弓さんが、無言で頷いて走り出す。それをわたしと正樹さんが追う形で、
わたしたちは薄闇の森へと分け入って行った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしは森を疾駆する。既に真弓さんは姿が見えない程先を行き、正樹さんから先を行
くわたしの姿ももう見えてない。真弓さんは、いざという時には常に自身の最大限をどこ
からか引き出してきて、即座に使える人だった。
今迄寝込んでいたのが嘘の様に、まだ半分程しか補充できてない筈の身体で、全力疾走
する姿は、森に入って暫くした時点で見失い、今も引き離されていて。関知の力で、闇夜
でも足元の凸凹や枝葉を避け得るわたしだけど、真弓さんも鬼切部で類似の技を修得済ら
しい。
正樹さんは男性だけど、それらの感覚を持たないのでどうしても夜の山道は苦手となる。
日が暮れたばかりでまだ薄闇だけど、森は既に木々や草藪の影が濃く、上半身に迫る枝葉
はともかく、足元の危うさは如何ともし難い。
目的地は一緒で分っているので、今は力の限り急ごうと互いの進みに関与せず、唯全速
力で山の緑を駆け抜ける。わたしも体力は万全と言えなかったけど、今は緊急事態なのだ。
『桂ちゃん、白花ちゃん。近付いてはダメ』
離れて。ご神木から離れて。
走りつつ、疾走を身体に任せつつ、心はわたしより濃い贄の血を持つ2人の幼児に囁き
かける。オハシラ様が人の夢見に蝶を飛ばし、現にも蝶を飛ばせた様に、日暮れ前にわた
しに風で微かにでも囁きかける事が出来た様に。
『白花ちゃん、桂ちゃん。そこでじっとしていて、動かないで。前に出ないで!』
きっかけはオハシラ様が与えてくれたけど、以降わたしの脳裏で神木の前に立つ双子の
像が消えないのは、わたしの力だ。意識の集中が、日が暮れて強まる贄の血の力と連動し
て、新しい可能性を引き出している。桂ちゃんと白花ちゃんが神木を見上げ立ち尽くして
いる姿が視える。視えるなら、聞える筈だ。聞えるなら、こちらから聞かせる事も出来る
筈だ。
白花ちゃんが、周りをうろうろ眺めている。
『そう、その侭動かないで。ご神木に近付かないで、そこを動かないで。今行くから…』
桂ちゃんがそんな白花ちゃんの右手を引っ張る。どこを見ているの? 唇がそう動いた。
真弓さんの気配はわたしより少し先にいる。でも、双子を腕に抱き留めるにはもう少し
時間が掛る。2人はご神木の根元の間近にいた。あと数歩歩み出せば手が触れてしまう程
近い。
2人は深まり行く闇の中、頼れる物を求めて太い幹に手を触れたがっている。その気持
は良く分かるけど、少し待って。今行くから。ご神木には、手を触れないで、近付かない
で。
2人の贄の血は濃すぎる。何の修練を経なくても、触れれば即座にオハシラ様と感応す
る程、2人が生れ持って得た力は大きく強い。でも何の修練もなく、心の準備もなく、自
我もできてない幼児がオハシラ様と感応する事は危うい。子供が近寄る事を禁じたのは、
それなりの理由がある。その上桂ちゃんと白花ちゃんは、伝説にある贄の血の陰陽を満た
す。
『ごしんぼく……?』
桂ちゃんは、殆ど反射的にご神木に歩み寄っていた。近付くとか、離れるとか言うより、
ご神木と言われてそれを確かめようとした感じだ。思わず、心臓が止まりそうになった。
ダメ。そこに近付いてはダメ!
『触らないで!』
びくっと、わたしの声が通じたかの様に桂ちゃんの動きが止まる。電流でも流れた感じ
で止まった桂ちゃんの、伸ばしかけた手の先にご神木の幹があった。ご神木は何も示さず
何も見せず、唯古木として立ち尽くすのみだ。光や音を示せば子供の興味を引いてしまう
…。
ご神木は何もできなかった。してはいけなかった。するべきなのはわたし達だ。止めな
ければならないのはわたし達だ。ご神木を守りオハシラ様を守り、白花ちゃんと桂ちゃん
を守らなければならないのはわたしの役目だ。
桂ちゃんにはご神木への興味が宿っている。ご神木と示され確かめたい気持が残ってい
る。もう少し幼い子なら、手に取る物を何でも口に入れる感覚だ。声が中途半端に届いた
所為か。それに心囚われて、興味が向いて、わたしの声が届いても、意識の上を滑ってい
く…。
『白花ちゃん、桂ちゃんを止めて。後ろに、後ろに手を引いて下がって』
わたしは左隣の白花ちゃんに、訴えかけた。白花ちゃんはご神木よりわたしの声が気に
なる様だけど、声の内容よりどこから響いてくるかが気になっている様で、動きに繋らな
い。
『わたしはすぐ行くから。もう近くだから』
時間稼ぎで良い。もう少し神木から離れて。間違っても触らない様に、あと二歩下がっ
て。
『わたしは後にいるわ。白花ちゃんの後よ』
くるりと白花ちゃんが振り返った。初めてご神木から離れる動きが出来た。今更ながら、
わたしの声は声として双子に届いている様だ。
『そう、踏み出して。こっちよ』
桂ちゃんの手を片手に繋いだ侭、白花ちゃんが一歩、二歩、ご神木とは逆に歩み始める。
どこ? どこ? と惑う声が、聞えてきた。
『ゆーねぇ。けいは、ここにいるよ。げんきだから、早くむかえに来てあげて』
白花ちゃんは、思いの侭に森に入り込んでいく桂ちゃんに、危惧を抱きながらも引き留
めきれず、付き合って一緒に迷い込んだ様だ。幼児の視点は低く、草藪が視界を覆い隠す
と帰り道はすぐに見えなくなる。桂ちゃんは道に迷った事を自覚して、森の中で自分に引
き合う何かを察し、ご神木まで歩み来たらしい。
『ゆめいおねえちゃん?』
白花ちゃんの声に、人恋しさを思いだした桂ちゃんが、ご神木とは反対を向いた。そう、
あと数歩踏み出して、そこで動かないで。もうすぐだから。あともう少しだから。
『ゆめいおねえちゃん!』
わたしを求める声が胸を締め付ける。
この声を守る為に、わたしはいる筈だった。
この声に応える為にわたしはいた筈だった。
それなのに。最優先してあげられなかった。
真弓さんも大切な人だけど、癒す事は間違いではなかったけど、その前に桂ちゃんと白
花ちゃんの行方を、確かめておくべきだった。森に迷いかけていた双子を屋敷に連れ帰っ
て、それから真弓さんを診るべきだった。そうしていたら、何の問題もなかったのに。今
頃は家で一緒に夕飯を食べて寛いでいられたのに。
わたしが手順を間違えた所為で、正樹さんや真弓さんに、夜の森を走らせる事になった。
真弓さんは折角回復しかけたのに無理をさせ。これではわたしの癒しも雲散霧消だ。
『ゆーねぇ、早くけいを、むかえに来て…』
縺れる足が焦れったい。抜け掛る力が恨めしい。2人の声が招いているのに、わたしの
力は限りがあるのか。2人を想う心は限りないのに、2人が寄せる想いも限りないのに…。
『ゆめいおねえちゃん!』
『ごめんなさい。今行くから、今行くから』
一直線上にご神木の周囲の開けた森の一角が見えた時、2人の心の内から迸っていた叫
びが突如停止した。それがなぜなのかをわたしは一目で見て分る。真弓さんが辿り着いて、
跪きながら双子を両手にしっかり抱えていた。
「「おかあさあぁぁぁん!」」
2人の幼児の泣き声が森に響く。でもそれは緊張から解放された故の号泣だ。嬉しさの
反映の泣き喚きだ。わたしは急にふらついてきた足腰にもう一度力を込め直し、最後の数
十メートルを走り行く。やはり真弓さんの、母の力は絶大なのだと、心に強く感じながら。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「桂も白花も、ダメじゃないか」
ご神木の近くは、子供が近付いちゃいけない処だって、言ったのに。
帰り着いた屋敷の居間で、正樹さんは2人を強く窘めていた。叱声に近かったけど、大
声になるのは辛うじて抑えている。温厚な正樹さんでも叱りたくなる状況だけど、事が大
きくなりすぎて怒るに怒れなくなった感じだ。
「「ごめんなさぁい……」」
2人とも心配をかけた事は分っている様で、小さな身体を更に小さくして、正座して謝
る。そんな姿迄可愛く見えるわたしは、2人を愛しすぎだろうか。2人が無事で、オハシ
ラ様が無事で、お屋敷に帰り着け、わたしは十全に満足だったけど、大人は今後の事を考
える。
同じ失敗を繰り返さない様に、繰り返させない様に、どう言えば心に刻んで貰えるかを
考えつつ喋る。その所為で、どうしてもややお話が長くなってしまうけど。偶にお話の長
さで子供の心に刻もうとする人も、いるけど。
わたしも安心に沈みたがる心を奮い立たせ、
「もう、ご神木には近付かないで」
桂ちゃんと白花ちゃんに言い聞かせる。
あそこは子供が近付いちゃいけない処。危ない処なの。白花ちゃんと桂ちゃんの為なの。
2人の目を見つめ、わたしの目を見つめさせ、
「森に行く時は必ず大人の人に付き添って」
迷ったら、みんなが心配するのよ。桂ちゃんも白花ちゃんも、お父さんやお母さんが心
配をして涙を流すのは、見たくないでしょう。離れの蔵にも、屋敷の裏の薪の山にも、森
の奥のご神木にも、近付いちゃダメ。分った?
羽藤家は旧い館で、最近の家屋の様に子供に優しいとか安全等を考えて建てられてない。
危険を全て囲うには膨大な手間とお金が掛る。今は近付かないよう促すのが、最善策だっ
た。
「「はあぁい」」
2人の返事を待っていた様に、真弓さんが、
「はい、じゃあお小言はここ迄。ちょっと遅くなったけど、夕ご飯にしましょう」
切れ味鋭く話の流れを断つ。言い足りなさそうな正樹さんに、気付いて気付かぬ振りで、
「柚明ちゃん、お疲れの処悪いけど手伝って。
私も歳でね、昔の様に無理が利かないの」
さっきあれ程の無理を見せた人が言うのは、果して冗談なのか本気なのか。いずれにせ
よ、羽藤家の厨房に立つのはわたしの望む処です。
普段騒がしい位元気な双子が、大人しく夕食を迎えたのは、疲れの所為もあるけど、そ
れ以上にみんなの心配が堪えたのかも知れない。良く動いた所為か、食べる量が五割増に
なった事が、大人達を安心させてくれたけど。
食べた直後から眠気が差すのも、今日の事情の故か。布団に着けず茶の間で縫いぐるみ
になった双子を、真弓さんと寝室に持ち帰る。
今夜はどうやら絵本の読み聞かせは不要だ。
子供達の時間が終り、大人達の時間が始る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「でも、良かったわ。柚明ちゃんが、2人をきちんと教え諭してくれて」
最初に真弓さんが触れたのはその事だった。
『もう、ご神木には近付かないで』
あそこは子供が近付いちゃいけない処。危ない処なの。白花ちゃんと桂ちゃんの為なの。
『森に行く時は必ず大人の人に付き添って』
迷ったら、みんなが心配するのよ。桂ちゃんも白花ちゃんも、お父さんやお母さんが心
配をして涙を流すのは、見たくないでしょう。
「わたし、出過ぎた事を言っちゃったかも」
本当は正樹さんや真弓さんが言うべき事を。
「いいや、あれは間違いではないよ」
簡潔に纏めすぎているけど、その方が子供に分り易いかも知れない。もう少し長くお小
言する積りだったんだが、真弓も望んでなかったみたいだし。正樹さんは少し苦笑いして、
「一番役に立てなかった私の言う事は、ね」
「そんな、叔父さん……」
やや影のある微笑みは、お父さんを思い出させた。一生懸命お母さんの役に立とうとし、
助けになろうとし、力になろうとして、でも贄の血の裔であるお母さんの宿命は受け止め
きれず、それでも間近で支えようと心を尽くし、届かない事に苦味を感じていたお父さん。
わたしがかける言葉がなくて言い淀むのに、
「私や真弓が言いたい事は、纏めればそう言う事だ。私達は柚明ちゃんも含めて白花と桂
を愛している。危ない事をすると心配だ。だから心配させる危ない事はしないでくれと」
「はい」
「柚明ちゃんが口を挟まなかったら、私が割り込んで仕上げに掛ろうかと思っていたの」
私には丁度良い頃合だったわ。真弓さんは、
「でも、貴女は2人の今後を考えて、必ずしも2人に喜ばれない事でも、言う事が出来た。
それは、貴女の2人への愛が一つ深まった証。貴女が子供の愛から脱して、大人の愛を身
に付けつつある証よ。良い兆候だと私は思う」
柚明ちゃんがそれを言い出しそうな気配があったから、今日は少し様子見していたのよ。
そこ迄察されているとは。本当に、大人と子供の人生経験の違いを痛感する。贄の血の
力を幾ら使えても、人を癒せても痺れさせても弾いても、子供は子供、大人は大人だと…。
学ぶべき事は多い。教わるべき事は多い。世の中の事、一般的な事、常識的な事、当た
り前の事。わたしはまだ世の中を知らなすぎ。もっと大人にならなければ、もっと良く人
を知らなければ。わたしが双子を良く導けない。
「これからも、よろしくお願いします」
「まあ、私も正樹さんも双子の監督不行き届きという、大人にあるまじき失態をしたので
すもの。柚明ちゃんがその歳で隙のない大人になられたら、私達の方が困るのだけど…」
「全く、その通りだ」
ところで。正樹さんの堅さが取れるのを、真弓さんは待っていたのだろう。わたしが訊
ねるより早く、わたしの質問に先制する様に、真弓さんは居住まいを正すと真顔になって、
「あの2人とオハシラ様の封じとの、特別な関りについて、教えて頂戴」
お義母さんに、一度尋ねたのだけど……。
「自身の死後に、柚明ちゃんに訊いてって」
もうすぐ亡くなる自分より、今後その定めと長く共に生きる貴女に話させた方が良いと。
何となく雰囲気で、お義母さんが白花と桂を、唯贄の血が濃い羽藤の末裔である以上に、
オハシラ様や封じに密接に関ると見なしているのは分ったの。秋口に思い切って尋ねたら、
『わたしの死後落ち着いてから、柚明に訊いておくれ。きちんと答えられると思うけど』
万一贄の血の陰陽と言って分らなかったら、柚明にもう一度ご神木と感応してきなさい
と。
「大切だけど急ぐ事じゃないって。唯桂と白花をご神木に近づけない様にと、それだけ」
それは単にオハシラ様と贄の血の濃い者が感応してしまう為ではない。感応を繰り返せ
ば封じが揺らぐけど、直接的な危機じゃない。感応を繰り返せば幼い子供は現と幻を区別
できなくなる怖れがあるけど、本当の危機じゃない。血の濃さ以上に男女揃いに意味があ
る。
笑子おばあさんの配慮が見える。わたしに、贄の血の力についての全権を任されたわた
しに、最初の仕事を預けてくれた。その気になれば笑子おばあさんは、すぐ答えられたの
に。
「貴女達はご神木と感応していた。入手した情報はオハシラ様発信なのね。分ったわ。お
義母さんが言わなかった事を、教えて頂戴」
わたしははいと頷いて、一つ深呼吸をすると笑子おばあさんに託された宿題に向き合う。
「贄の血の陰陽とは、贄の血の持ち主の男女を指します。修練の有無は問いません。贄の
血が濃い男女が揃えば、条件を満たします」
槐のご神木は弔いの樹。遙かな昔に倒されたまつろわぬ鬼神の魂を、永い月日をかけて
還し往く。強大無比な山の蛇神とその妄執を永劫に封じ、悠久の時をかけ、少しずつでも
力を削り、虚空に還す。贄の血の娘を人柱・オハシラ様としその身体を取り込ませる事で、
贄の血を木の意之霊とし、枯れぬ封じとした。
「今もご神木の根元で主は眠り続けています。千年以上の時を経ても、多少力を削がれて
も、主は尚強大な鬼神で、この先今迄と同じ位の月日を経ても尚、その魂は還しきれな
い」
人を喰らう鬼神。竹林の姫を喰らおうとした山の神。まつろわぬ蛇神、赤く輝く星の神。
主は最後に贄の血の娘を欲しました。主が今甦れば白花ちゃんや桂ちゃんが直接危うい
事は察せられると思いますが、その封じを解く鍵なのも、桂ちゃんと白花ちゃんなのです。
「役行者の結界は、人には緩やかに作用して無意識に遠ざける程度ですが、主の眷属なら
大多数の鬼を近づけない程に強く拒絶します。かなり昔に、主を解き放つ事を目論んだ鬼
が人を暗示で操って騒ぎを起し、鬼切部に斬られた事があったそうですが、その時も鬼達
は直接近づけないので、ご神木を切らせるか燃やそうとして諍いを生み、事が発覚した
と」
綻びを繕う者がいる限り封じは永劫に保つ。ご神木が大地の力を吸い上げる。オハシラ
様がそれを受けて、封じを保つ。鬼神から吸い上げた力も、多くは槐の花にして散らすけ
ど、その一部はオハシラ様が封じに転用している。
経観塚一帯から贄の血の気配を隠し、羽様の森に人も鬼も寄せ付けず、まつろわぬ鬼神
をご神木の根元に抑え込んで、悠久の時をかけて山の蛇神を無力化して行く。魂を還す…。
外から破るには、主に近しい程の存在でなければ、破るどころか辿り着く事も叶わない。
凝って還れぬ魂を、還る事を拒む魂を、誰も届かぬ処に隔絶し、知る人が皆息絶えて逝く
時の孤独の果てに、大きな流れへと還し行く。
「でも、分って欲しいのは、オハシラ様も又、凝って還れぬ魂の一つという事。主を還す
目的の為とはいえ、当人が望んだとはいえ、オハシラ様もご神木に依って常の世の流れか
ら外れた、取り残された遠き昔の、本来はとっくに還っているべき人の魂だという事で
す」
主を還す為に役行者の所作で吸い上げる側に回り、主と違い削られる事なく力を補充さ
れ続け、悠久にあり続けるオハシラ様ですが、それも大きな流れからはみ出た存在なので
す。
いつ迄も枯れ果てぬ存在など、本来はない。
いつ迄も朽ち果てぬ存在など、本来はない。
それは人為で支えられている。役行者の措置とオハシラ様の思いで保たれている。どち
らかが崩れると、主よりも先にオハシラ様が、封じの要が欠落する。封じを破ろうとする
者がいなくても、否、敵意のない過ちの方が予測し難い分封じには危うい存在かも知れな
い。
「桂と白花が、どうなれば封じの鍵に…?」
その侭で。その侭でいる事が、封じの鍵になる要素となります。故に笑子おばあさんは、
2人に贄の血の力の修練が必要と考えました。わたしは真弓さんの静かな問に簡潔に答え
て、
「贄の血の濃い者は皆、その素養を持ちます。双子の必要はなく、男女であれば結構なの
で、兄妹でも親子でも親戚でも、贄の血を濃く持てば、別の家系でも条件は満たしますが
…」
「桂も白花も修練がない方が条件を満たす」
はい。正樹さんの確認にわたしは頷いて、
「オハシラ様のご神木に、男女の贄の血の持ち主が、同時に触れる事。それがオハシラ様
の魂を還して、封じの要を解き放つ方法です。
贄の血の力は男女で一対となって働く様で、男女が同時に触れる事は、磁石のS極とN
極に引っ張られるに近い状態を、生じさせます。
わたしも双子に両手を掴まれると、体内で激しい力の流れを感じます。わたしは肉を持
つ身なので、己を失う事はありませんが…」
その乱れはわたしには愛すべき乱れだけど。
肉を失い力だけ、心だけの存在になっているオハシラ様には、それは致命傷になり得る。
「感応を繰り返すとオハシラ様が危ういというのも、大本を辿れば原因は同じ。オハシラ
様が、悠久にあり続ける為に力を吸い上げる贄の血の資質が強化された、その為なのです。
役行者のその措置で、オハシラ様は時に主からも力を吸い上げ、ご神木が吸い上げた大
地の力も活用し、環流もさせつつ、己と結界を永く保ちますが、その資質故に、感応した
者や触れた贄の血の濃い者の影響も強く被る。
出しては入れる、迎えては送るその資質が、何者の力も受けて、環流させてしまう。通
常はそれが感応という心と力のやり取りに留まります。ですが、贄の血の陰陽の制御され
ない力が、直流に繋いだ電池の様に増幅しつつ、同時に触れた男女の間を激しく行き交う
と、その間でオハシラ様は、感応を遙かに越えて激しく揺さぶられ、最後には還ってしま
う」
「じゃあ、例えば白花と柚明ちゃんも…?」
正樹さんの問にわたしは首を横に振って、
「その心配はありません。わたしが拒みます。
贄の血の力を修練すれば、力を出さない事も制御できます。白花ちゃんがご神木にわた
しと一緒に触れ、贄の血の力を無秩序に流し込んでも、わたしが己の力をゼロに抑えれば、
オハシラ様が還ってしまう事はありません」
白花ちゃんも桂ちゃんも、或いはどちらかが贄の血の力を修練して出さない事を制御で
きる様になれば、危機は避けられます。笑子おばあさんが2人の修練を必要と考えたのは、
その侭では封じを開け放つ鍵となる2人に、鍵をかける術を憶えて欲しいという事でした。
「2人が最初からオハシラ様に力の扱いを学ぶ事がいかに危ういか、お分りですね。片方
ずつ修練するにしても、ご神木に足繁く通う様になれば、過ちが絶対起きないと限らない。
双子の兄妹はとても近しい存在です。遊びに学びに一緒に動き回る姿が、目に浮びます」
そして、その仲の良さが悲劇を生むなら…。
お母さんを想う故に悲劇を生んだあの轍を、踏ませてはならない。悪意のない行いが過
ちの引き金になる危うさを、残してはならない。そんな危険はわたしが未然に取り除く。
わたしが双子の師になればその危険は回避できる。
「意外に思えますが、千数百年その事態は起りませんでした。贄の血の濃い者が男女揃っ
て物心つかない状態は余りなかったからです。親子であったり兄妹であったり、叔母と甥
であったり年齢差があれば、年長の方は大抵血の力を修練し、オハシラ様に感応していま
す。封じを解いてはいけない事や、その解き方を知ってしまえば、不用意に近付かなくな
るし、一緒に近付いて触ろう等とはしなくなる…」
双子故に。どちらも物心つかない幼子故に、この危険がある。2人の血は濃い。何の修
練を経なくても、触れれば即感応してしまう程、2人が生れ持って得た力は大きく強い。
2人がご神木に触れれば、間違いなくオハシラ様は還ってしまう。その先に待つのは甦っ
た鬼神、今や誰も抑える術を持たない山の蛇神だ。
感応の中で見た、身体に蛇を住まわせた赤い鬼神の見事な体躯と、指し貫く視線がわた
しを向く。ニヤリと笑う。力と自信に溢れた笑みは精悍だけど、絶対解き放ってはいけな
い者。白花ちゃんと桂ちゃんの為に、この世の終り迄眠り続けて貰わなければならない者。
「そんな事は絶対させません!」
わたしは瞼の裏に浮んだ像に思わず身を震わせ、強くそれを否定した。それがいつか起
り来る事であるかの様に明瞭に映って見えたのは、単なるわたしの想像とは思えなかった。
正樹さんと真弓さんが驚きの目線に、わたしは漸く我に返った。瞼の裏側に映った像に、
暫く心を奪われていたらしい。話の最中に心が飛んでしまうとは、わたしは少し過敏かも。
「疲れている様ね。貴女も今日は体力を…」
使ったでしょ。真弓さんは柱時計を見て、
「状況は分ったわ。なら、対策を講ずるだけよ。大丈夫。貴女も私も、正樹さんもいる」
貴女のいう通り、そんな事態にはさせないから。私達みんなでたいせつな物を守るから。
桂も白花も、ご神木もオハシラ様も、貴女も。
「2人が森に入らなければ良い。白花は言う事を聞く子だし、桂だって言われて逆らう様
な子供じゃない。柚明ちゃんの言いつけは2人とも特に良く聞くし。今日の事が逆に良い
薬になってくれれば、今後暫くは大丈夫ね」
真弓さんはやや楽観的な見通しに、わたしの心も少し落ち着く。わたしは2人の守りを
意識する余り、2人を取り巻く危険ばかり見つめていたのかも知れない。それは必要な事
だけど、わたしは常にそれに備え警戒するべきだけど、バランスを失っては日常が崩れる。
わたしが守りたいのはみんなの日々の幸せだ。
「1人で全部を背負い込まないで。わたしたちは贄の血の力では役に立てないけど、相談
に乗れる事もあるし、力になれる事もあるわ。体力仕事ならむしろ大人の領域なのだか
ら」
「君が折れてしまったら誰もいなくなる。だから、無理をしないで、任せられる事があれ
ば、遠慮なく私達に任せて欲しい」
わたしは支えられている。尚守られている。わたしが白花ちゃんや桂ちゃんを大切に想
う様に、わたしも真弓さんや正樹さんに大切に想われている。1人ではない。それがとて
も心強かった。オハシラ様もそうなのだろうか。この様に、羽藤の末裔が祭り続け、想い
続け、伝え続け、忘れ去られない事で、支えられ励まされる故に、お役を続けられるのだ
ろうか。気の遠くなる程の年月、果ての見えぬ未来迄。
誰にも憶えられなくなる程辛い事はない。
誰からも忘れ去られる程哀しい事はない。
オハシラ様の一番の支えは、最早触れ合う事は叶わないけど、心だけは永遠に通じ合う、
共に悠久の時を生きるサクヤさんなのだろう。サクヤさんもそれを分るから、その想いを
未来永劫抱き続けるのだ。例えこの先誰が現れても、誰と通じ合えても、絶対代えの利か
ない、掛け替えのない一番たいせつな人として。
わたしたちは世代を越えて想いを繋ぐしかできないけど、せめて伝え続ける事でオハシ
ラ様を支えたい。遠祖の想いを継ぐ事でオハシラ様の太古から今迄の行いが無為ではなく、
わたしたちの今を支えていると、更にはわたしたちが今後オハシラ様を支えていきますと。
決して、忘れはしませんと。
常に想いを抱き続けますと。
それはわたしだけの想いではなく、正樹さんや真弓さんの想いでもあり、桂ちゃんや白
花ちゃんに、承け継いで繋ぎ伝え行く想い…。
たいせつなこの人達の為なら、わたしは本当にこの身の全てを、捧げられる。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
幸せで平穏な日々は、瞬く間に過ぎ去る。
羽様の日常にも、様々な出来事があった。
桂ちゃんが長く伸ばした髪を自ら切ってしまったり。白花ちゃんが涸れ井戸に落ちた桂
ちゃんを助けようと2人揃って落ちてしまったり。いつもの様に唐突にサクヤさんが訪れ、
真弓さんと酒豪同士飲み交わす中、面白がって双子迄酔わせてしまったり。正樹さんが経
済誌に載せていたコラムが一冊の本になる事になって、東京で行われた出版記念パーティ
に、真弓さんの代りにわたしが付いて行ったら、奥さんと間違われたり、愛人と間違われ
たり、援助交際と間違われたり。真弓さんが鬼切部のたっての願いと助力を請われ、2週
間程の外出中に、お屋敷が嵐の所為で停電し、双子と正樹さんと不安な一夜を過ごしたり
…。
経観塚は基本的に田舎の山村だ。世を揺るがす事件の多くもここ迄は影響しない。大き
な異変もなく、わたしたちの日々は小さな起伏を連ね、家族の絆を確かめ合い更新されつ
つ、その休日を迎える。運命の夜に繋る日を。
「何か、不安事がありそうね」「はい……」
朝から少し曇り気味の天空を、わたしが眺めて動かない様を、真弓さんに見られていた。
贄の血の力の修練や関知の力は、笑子おばあさんの死後も進展している。今誰がどこで
何をしているか。これから何をしようとしているか。何が起ろうとしているか。その先に
どんな可能性や分岐があるのか。知ろうと意識しなくても、必要な事、重要な事、身近な
事が、日々わたしの心を訪ね来る。全てが明らかでも絶対確実でもないけど、その多くが
直接或いは間接に、わたしに示唆を与えてくれる。逆に言うと全く無意味な物は殆どない。
その事を少し前から真弓さんも正樹さんも感付いた様で、わたしが1人で眉を顰め物思
いに耽る様を心配していたらしい。最近正樹さんが隠しても尚不機嫌なのは、掲載中のコ
ラム執筆が巧く行かない所為だけではない…。
我に返ったわたしは静かに首を横に振って、
「確かに視えた訳では、ないのですけど…」
わたしの心を哀しみが埋め尽くしている。
わたしは幸せの中にいる筈だった。暖かな家族の輪の中で。サクヤさんも元気に仕事に
励んで特段トラブルもない様で、高校生活も順調、友人も先生や近所の関りも問題ない…。
「わたしが哀しむ事が、起ろうとしています。或いはどこかでもう起きていて、報せが届
くのを待っている状態なのかも、知れません」
心を雲が埋め尽くし、胸を哀しみの予兆が塞いでいくのが分る。まだ何もないというの
に、まだ空は多少曇った程度に過ぎないのに。先を視ようとすると、月も星もない闇だけ
だ。
関知の力も及ばない闇に閉ざされて知り得ないのか、闇夜に何かが起ると言う事なのか、
或いはわたしの心が闇に沈むという事なのか。最近わたしの先行きも、視えなくなってい
た。
視ようとすると、日の射し込む森の中、オハシラ様のご神木が、高々と堂々とそびえる
姿が映し出され。それはとても美しく力強いけど。槐の花の舞い散る像はいつの夏か分ら
ない侭、とても香しく心落ち着かされるけど。
オハシラ様に相談しなさいという事かも知れない。贄の血の力の使い手は暫くわたし1
人だ。桂ちゃんと白花ちゃん、贄の血の後輩の事を考え合せないと、わたしの未来は定め
られない。わたしが双子の人生の苗床になる事を望み選んだ以上、それは間違いないけど。
漠とした不安は、正体が見えない故なのか。見えてしまえば何と言う事もない不安なの
か。そしてその不安よりやや強く、心を満たす哀しみの予感。心を浸食する様に黒い霧が
蟠る。
「先に知る事で、心の準備は出来ますが…」
「その悲しみを避ける術もないという事ね」
人のやり取りの一部から、哀しむべき中身の大凡が見える己を、厭に思った事もあった。
勘の良さの所為で知りたくない事迄次々に感じ取れる。お母さんもそんな事を呟いていた。
今はそれも、己の定めと受け止めているけど。先に知るか後に知るかの違いに過ぎないけ
ど。
真弓さんも鬼切部の血筋に連なる。勘の鋭さは元々だし、相手の微かな仕草や語感から
次の所作を読み取る術も心得ている。似た経験があるのかも知れない。これから大切な物
を失いそうな予感、喪失が現実になり行く時を刻む焦り。為す術がなく、逆に最善を為す
事自体それに近付き行くかも知れない苛立ち。
「向き合いなさい、としか言えないわね…」
貴女が嫌に思う物だからこそ、貴女が忌避したい物だからこそ、全力で向き合いなさい。
「貴女が嫌う事は何? 避けたい事は何?」
真弓さんは、わたしが一番たいせつなひとに及び迫る危害を思い浮べたと、承知の上で、
「たいせつに想う人に、及び迫るかも知れない危害の察知は、無駄ではないわ。その事自
体は止められなくても、予め知る事・備える事で、続く悲劇を未然に防げるかも知れない。
私の感覚に感じる物も視える物もないけど」
何か感じる事があったら、すぐ相談して。
真弓さんは現状特に何も感じてないらしい。真弓さんも間近に起る事や身近に迫る危険
は察知できるけど、やや時間を置いた事や少し間合の離れた物、又は直接の危険ではない
物の関知は、贄の血の使い手の方が本職らしい。
真弓さんも正樹さんもわたしの感覚に信を置いてくれている。それはとても嬉しい事な
ので、わたしも精一杯応えたい処なのだけど。
「……貴男はお仕事に励んでいて下さいな」
朝ご飯の茶碗洗いを手伝おうとの正樹さんの申し出を、真弓さんはにっこり笑って断り、
「次の締切まで、そう時間がないんでしょう。編集さんの言う通りに直すにせよ、編集さ
んを説き伏せて持論を貫くにせよ、練り直しが足りないと、どっちでも巧く行かないわ
よ」
茶碗洗いして、洗濯して、昼ご飯の後に掃除をして。その後の修練の時に白花と桂を見
て貰うけど、それ迄は執筆に集中して結構よ。
食器を2人で分担して持って立ち上がると、
「今日明日に巧く行く感じじゃないんだ。何というか、心の中に名状し難い苛立ちがある。
贄の血が薄すぎて、何の力もない筈の私だが、ここ数日、柚明ちゃんが顔を曇らせ始めた
辺りから、どうも嫌な雲行きでね。得体の知れない、嫌な予感が胸に沸き出して止まな
い」
とてもコラムを書き綴る気になれないんだ。
「こんな事は初めてだ。私が根拠のない予感を抱くなんて。ほぼ同時期に柚明ちゃんも何
か感じ取っている。でもその正体が視えない。私に視えないのは無理もないが、そこ迄感
じている柚明ちゃんにも視えて来ないとは…」
食器を下げる私達に付いて、台所まで来る。
「何か視えている物があるなら教えて欲しい。
何の役に立てなくても、私は羽藤家の長としてみんなが心配なんだ。守りたいんだ…」
思いがけず真剣な問に、真弓さんは食器を水に浸しつつ、わたしの方を眺め見る。真弓
さんが感じ取れる事が特にない現状、後はわたしの感触を明かす他に術はないとの促しか。
「わたしも確かな事は分らないですけど…」
真弓さんが洗った食器を濯いで並べて行く。桂ちゃんと白花ちゃんが、こちらを不安そ
うな顔で窺う様が視界の隅に入った。大人が余り良い空気ではない事を子供は鋭敏に察す
る。
布巾で台所の周囲を拭きつつ、廊下から顔を覗かせる白花ちゃんと桂ちゃんに歩み寄り、
「少し難しいお話だけど、2人が心配する事はないのよ。暫く2人で、遊んでいて頂戴」
昼ご飯と修練の後で、遊んであげるから。
黒い2対の瞳に向けて、確かに約束する。
後に飴を約束してこの場を立ち退かせると言うより、普段通り、平常の日程を示す事で
2人を安心させたい。その気持が通じたのか。
「おねえちゃん……」「行こう、けい」
尚も気になる様子の桂ちゃんを、白花ちゃんが引っ張る感じで、子供部屋に行く。桂ち
ゃんは、わたしたちの不安が深刻な事を察しているのか。白花ちゃんは逆に大人に心配を
かけない様に、気遣っているのかも知れない。
「子供達の前で、余り心配を表に出すと…」
「ああ、済まない」
真弓さんの指摘に正樹さんが苦笑を見せた。正直さは良い事だけど、幼子に不安を抱か
せるのは良くないと。でも、実はわたしこそ正樹さんに、不安を与えていたのかも知れな
い。得体の知れない何かを感じるなんて中途半端な予感を、言葉や仕草に示してしまった
為に。
「ごめんなさい。わたしが、ちゃんと感じ取れないから。感じ取れない侭に中途半端な事
を言ってしまったから、叔父さん迄不安に」
「柚明ちゃんが謝る必要はないの」
正樹さんが不安を感じたのは、自身の予感の所為よ。貴女の所為じゃないわ。
「でも、贄の血の力の使い手として、視るべき者はわたしなのに、分らなければならない
のはわたしなのに。それが全然果せてない」
だから、みんなを不安にさせてしまった。
だから、みんなに安心を与えられてない。
わたしの力が足りない為に。及ばぬ為に。
笑子おばあさんに相談できたら。亡き人に頼りたがる発想を、首を横に振って追い出し、
「わたしが、役に立たないといけないのに」
「1人で全部背負い込まないで」
真弓さんが背中からわたしの肩を抱き包む。
「貴女は良くやっている。大人が不安を分ち合う事は悪くないわ。分る限り常に最新の情
報を共有し、互いに目標と立ち位置を確認し合うのは、家族では当たり前なの。子供に迄
不安を及ぼしたのは、貴女の失態じゃない」
貴女に責任が幾分かあるにしても、貴女だけの失態じゃないわ。それは私達みんなで共
に負う物よ。貴女1人で、背負い込まないで。
言葉と身体で、わたしの心を包み込む。
「今貴女が分る限りの情報を教えて頂戴」
再確認しましょう。真弓さんの促しに、
「わたしにもここ迄何も分らない状態は珍しいので、何とも応えようがないのですけど」
不安がない訳ではないけど、努めて隠し淡々と応える。不安を増幅し合わない様に。暗
い空気はみんなの顔も曇らせる。気分や推測は出来るだけ排し、視えた事実に依って立つ。
唯瞼の裏に映るのは、オハシラ様のご神木。
槐の巨木が日の射す中で、天に向って堂々と伸びている。それだけが鮮明にくっきりと。
ここ数日、見えるのはずっとそれだけだ。
自身の先行きを視ようとしても、正樹さんや真弓さんの先行きを視ようとしても、桂ち
ゃんや白花ちゃんの先行きを視ようとしても。
「ほんの一度か二度、サクヤさんと真弓さんの姿は見ました。ご神木の前で、それぞれ1
人で、向き合って見上げる様に、枝葉からの木漏れ日の中で、立ち尽くしている姿が…」
でも、動きもないし、声も聞えなかったし、どういう状況で何があるのか、あったのか
は読みとれない。その像はどうやらオハシラ様の招きや示しではなく、わたしの関知の様
で、答は己の内にある。己の関知の意味を読みとれない現状は不甲斐ないけど、オハシラ
様に感応して読み解く術を教えて貰う他方法は…。
「オハシラ様に問いかける事で、何か分るかも知れません。不用意な感応は慎むべき処で
すが。特に、贄の血が濃くて感応の力の強いわたしは、封じに影響を与えかねないから」
でも、そうも言っていられませんね。
食器洗いを終え、洗濯機に向うわたし達に追随する正樹さんの視線は、平静を繕えず揺
れていた。正樹さんは血の薄さの故に、今迄勘が働いた事が殆どない様だ。それでわたし
も惑う程得体の知れぬ予感に直面すれば心も揺れる。その不安をわたしも汲み取るべきだ。
正樹さんはみんなが心配で堪らないのだ。何かしなければと、己を追い込んでしまう前に。
「夜に、オハシラ様を訪ねてみます」
それが必要だと、言う事かも知れませんし。
心に浮んだ像は日中だったけど、感応に適するのは夜だ。贄の血の力もオハシラ様の力
も夜に強く顕れる。感応を何度も為すのは良くないので、一度で素早く終らせたい。
「もし良かったら、叔父さんも叔母さんもご一緒しませんか。叔父さんはわたしと一緒に
触れても贄の血の陰陽は満たしませんし…」
「私の血が薄すぎる事が良いのか悪いのか」
正樹さんが、複雑な苦笑いを浮べるのに、
「何が起るか見えない以上、私達が先に日常を食い潰して疲弊するのも、意味がないわ」
平静に日常を過しましょう。真弓さんは、
「何かが来るなら、来てから応対すれば良い。備え続けて疲れたら何の為の備えか分らな
い。いつでも何にでも対応できる様に、日常自然体でいれば良い。心や身体の浮動は致命
的な隙を生む。得体の知れない不安に振り回されるのも同じこと。ここには当代最強の元
鬼切り役と、役行者を目指す贄の血の力の使い手がいる。不意を襲っても簡単には破れな
い」
日常を壊しに来る者は、防がねばならない。だが、備えの為に日常が食い潰されるのは
本末転倒と。出来る限りの安全を確保し、事の解決を望みつつ、世間は日常を保とうと望
む。
わたしたちも、この幸せな日常を保とうと望んだ。桂ちゃんと白花ちゃんを包む、暖か
で穏やかな日々を、何に代えても守りたいと。たいせつなひとを、たいせつなものを、守
り通したいと。その為に何を引換にしようとも。
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時刻は、朝の仕事が一段落した頃合、十時半頃だったと思う。わたしは関知の力で郵便
屋さんの訪れを悟ると、偶然を装って車道まで降りていき、わたし宛の手紙を受け取った。
電話が来るのを直前に分る様に、郵便屋さんの来訪は一時間前から分る。余り役に立つ
特技ではないけど、電話の時とのズレは多分、電話は掛ける所作の始りを関知するのに対
し、郵便は郵便屋さんが集配に出る時なのだろう。
「羽藤柚明様。平田佐織……平田、佐織?」
詩織さんからではなかった。手書きの宛名も詩織さんの字ではない。でも名前に見覚え
はある。それは、詩織さんのお母さんだった。詩織さんではなく、そのお母さんが手紙
を?
羽様小学校で6年生の1学期迄一緒だった、1歳年下の級友。おかっぱ頭に切り揃えた
黒髪は、わたしに少し似ていた。黒目の大きな瞳も、大きく開いた事のない口元も。閉じ
こもりがちな、わたしに似た性癖を持つ、だから何かと気になって止まない、身近な女の
子。
生れつき身体が弱くて、1級下で唯1人の女の子で、人と接点を作るのが下手で。でも
可愛い後輩で級友。わたしが羽様小学校で最初に名前を覚えた、わたしのたいせつな友達。
詩織さんは夏休みに入って早々、遠くの大学病院で長期療養に入る為、転出して行った。
彼女の身体の弱さは生れつきで、二十歳迄の生存率が半分に満たない、黙っていても弱っ
て死に至る、遺伝的な難病らしい。
退院の見込みのある入院では、ないと言う。病の進行の加速を止めるのが精々で、進行
を遅滞させるのが限界で、病の進行自体は現代医療も止められないらしい。莫大な入院費
も、半ば研究の為に詩織さん自身を差し出す代り、無償になったのだと後で知った。詩織
さんの両親がどんなに頑張っても稼げない金額の上、そもそも未知の病気の研究は幾ら掛
るか想像も付かず、成否の見込みさえ立たないのだと。
『わたしはそれで納得しているの。わたしの為にお家が破産するよりずっとまし。それに、
わたしの身体で研究が進んで治療法が見つかれば、わたしが生き延びられる希望が出来る。
同じ病を抱える他の人達の、希望にもなれる。
わたしは、ゆめいさんと違って人を助けたり力づけたりは中々出来ないけど、それでも
何かの役に立てるなら。この身体とこの病を、誰かの役に立てさせる事が、出来るなら
…』
詩織さんとは1月に1回程度、手紙のやり取りを続けていた。わたしは受け取って概ね
3日以内に返書を出すけど、詩織さんは体力的な問題もあるのでそうは行かないのだろう。
身体の自由を失いつつある詩織さんに、病院内でも電話口に来て貰って長時間話をする
のはきつい。携帯電話は病院内では御法度だ。杏子ちゃんがわたしを元気づけるのに、電
話と言う手段を使えたのは、わたしが自宅にいて、精神面はともかく五体満足だったから
だ。
それに手紙は、電話と違って何度でも読み返す事が出来る。電話口から届いた言葉は心
に刻むだけで消えるけど、人伝に届けられた文は心に刻む以上に、抱き締める事も出来た。
それが正当な使用法なのかどうかは別として。
『写真を送って下さい。ゆめいさんの最近の姿を見たいのです。でも、わたしの写真は暫
く勘弁して。先日、頭蓋の切開手術をする為に髪を全部剃っちゃいました。薬の副作用と
かで、現状見た目も可愛いとは言い難いので。我が侭ですけど、ゆめいさんには転校前の
わたしのイメージを抱いていて欲しいのです』
わたしは関知の力で詩織さんの現状を視てしまった事を、口が裂けても言えなくなった。
各種の薬の併用で酷使された肝機能・腎機能が低下し、顔や全身にむくみが出る。黙って
いても汗の滴る真夏でも自力で風呂に入れないので看護婦さんに身体を拭いて貰う状況は、
幾ら心配に思っても視るべきではなかった…。
『写真ありがとう。どんどん綺麗になっていくゆめいさんの姿に、羨ましさと嬉しさが百
%ずつです。胸、少し大きくなっていますね。わたしももうすぐそうなり始めると思いま
す。
今日から点滴の色が変りました。アメリカで臨床試験中の新しい薬を試すのだそうです。
お母さんは渋ったけど、わたしが説き伏せちゃいました。今迄効果の見えなかった薬より、
効果があるかも知れない新薬に賭けようと』
わたしが贄の血の力の修練を急いだのは、詩織さんの力になりたかった為でもある。書
店に注文して医学書を取り寄せたのは、将来向けの勉学と言うより、贄の血の力を絞り込
んで病巣だけ外して及ぼす、実践の為だった。
贄の血の力は傷や疲労には効くが、多くの病や老いには効かない。人を賦活する作用が
病の源も賦活してしまうのだ。でも、役行者は多くの人の病も治したと言う。贄の血の力
は完璧ではないけど、望みがない訳じゃない。