第4章 たいせつなひと…(後)
わたしに今出来るのは対症療法に過ぎない。まだ患部には手が届かない。でも望みはあ
る。詩織さんが諦めない限り、わたしも諦めない。可能性があるのに手を拱くなんて、出
来ない。今はまだささやかな一歩だけど、いつか必ず。
『鴨川さんと親友になれたんですか。良かったですね。わたしは少し苦手としていたけど、
ゆめいさんが親友になれた人なら、わたしも仲良くなれるかも知れない。そう思いました。
鴨川さんも、そう思ってくれると良いなあ…。
最後の終業式で、鴨川さんもわたしを見送ってくれた事を、今更ながら思い出しました。
不可能ってないんですね。わたしも最近良くならない病状に気分が沈みがちだったけど、
諦めずに挑んでみます。じゃ、お元気で』
手書きだった手紙が、筆圧が減り、いつしかワープロ打ちに変っていた。少しずつ、詩
織さんの手紙に現在や今後ではなく、懐古が増えている事にわたしも気付いていた。先を
見つめるより、後を振り返りたい心境とは?
それは、笑子おばあさんが死の床に就く直前を連想させた。わたしは何度も首を横に振
って、不吉な想像を追い出そうとした。わたしの心からそれを消し去れば、現実の未来か
らもそれを消去できるが如き錯覚に囚われて。
そして、わたしが今開封したこの手紙は、
『……最後の運動会の時、憶えていますか?
ビーチフラッグ争奪の最終組、わたしとゆめいさんで対決して、僅差で負けちゃった時。
この前、夢に見ちゃいました。負けた事は悔しかったけど、結局どの種目でも誰にも最
後迄一つも勝てなかったけど。でも、あの時わたしが流した涙は、悔しさ以上に、全種目
をやり通せた自身への、全種目やり通させてくれたみんなへの、最後の最後迄手加減なし
で闘ってくれたゆめいさんへの、感謝でした。
ゆめいさんも、羽様小学校のみんなも、大好き。あの時に、心の底からそう言えました。
そう言える様に導いてくれたみんなに、心の底から感謝しました。みんな、眩しかった…。
別離は哀しかったけど、一緒にいられないのは寂しかったけど、心が通じ合えている事、
赤い糸が繋っている事が、こんなに心の支えになるとは、転校の寸前迄思いませんでした。
ゆめいさんのくれた言葉と想いは、今迄わたしの心と生命を支え、この世にわたしを引
き留めてくれた一番太い赤い糸です。きっと最期の最期迄、その瞬間迄それは間違いなく。
ゆめいさん、ありがとう。最期の最期迄付き合ってくれて。今わたしが流す涙はゆめい
さんを含むみんなへの感謝の涙です。同時に、わたし自身への感謝の涙。悔しさはあるけ
ど、怖さと悲しさは勿論だけど、最期の最期迄頑張り通せたと心から思うので、流せる涙
です。
わたしはどうやら、わたしの全種目を終えつつある様です。ゆめいさんもどうか、ゆめ
いさんの全種目を最期の最期迄頑張り通して。
わたしの憧れた人、わたしの恋した人、わたしの心に踏み込んでくれた人、そこ迄大事
に想ってくれた初めての人、わたしの永遠に一番たいせつなひと、羽藤柚明さま』
詩織さんの最後の手紙だった。先月は手紙が届かず、安否を伺う手紙を出したのだけど。
これを打ち終えた直後、投函する前に異変が起ったのだと、推察できた。そしてもう一枚、
今わたしの手にある平田佐織さんからの文は、詩織さんの訃報だった。この一月余りで全
てが終ったのだろう。葬儀も含め、何もかもが。
『詩織がお世話になっておりました。詩織の母の佐織です。経観塚で何度かお会いしまし
たね。様々な節に、詩織が色々と返しきれないご厚情を頂き、ありがとうございました』
文面はやはり、過去形だった。
『去る○月○○日、詩織は永眠いたしました。
先月詩織の言う侭にワープロで手紙を打ち終えるとほぼ同時に、詩織は昏睡状態に入り
ました。最後の気力を振り絞った物と思います。最後の最後で意識を取り戻し、数言、私
達と言葉を交わした後で、永眠いたしました。
貴女のことは、経観塚にいた頃から、詩織に何度となく伺っていました。とても綺麗で、
優しくて、強い人だと。憧れの人、恋した人、一緒にいると心が暖かくなる人だと。
こちらに転居してからも、お手紙で詩織を励まし続けてくれましたね。こちらでは学校
にも行けず、病院内で看護婦さんやお医者様との出逢いしかなくなった詩織は、友達も作
れず、寂しそうにしている事が多かったけど、貴女の手紙は詩織の心を繋いでくれまし
た』
詩織さんがわたしの手紙を心待ちにしていた事。それをお父さんお母さんに恥ずかしそ
うに、でも是非見てと見せた事。悪くなり行く病状が、手紙が届く直後だけ持ち直した事。
わたしの手紙を何度も読み返し、抱き締めていた事。病室からも動けなくなりつつある中、
わたしへの手紙に何を書くか熟考していた事。
衰弱して手書きが出来なくなり、心ならずもワープロに頼る事になって、気持が伝わら
ないのではと思い悩んでいた事。わたしが数日手紙を出すのが遅れた為に、とうとう忘れ
られたのかと心沈んでいた事。丁度そんな時に届いた手紙に、うれし泣きする姿を見て、
佐織さんが嫉妬さえ感じた事。恋する乙女の様に瞳を輝かせていた事。生命を注ぎ込む様
に出す前の手紙を読み返し、推敲していた事。
自らキーボードを打てなくなり、お母さんに口述で打って貰う様になった事。それでも、
わたしに必ず返書を出すと、それが詩織さんの生命がある証明だった事。衰え行く身体の
動く限り、詩織さんは必死に生き続けていた。
『貴女が、詩織に残された病室の外との最後の扉でした。貴女が、詩織に残された今現在
との最後の扉でした。貴女が、詩織に残された日常と繋る最後の扉でした。それが最期の
最期迄開いていてくれた事が、どれ程詩織を勇気づけ、元気づけてくれた事か。
友達がいてくれる、励ましてくれる。だから必ず良くなって戻らなきゃ。そう言って詩
織は激痛にも身体の不自由にも死の恐怖にも、手術にも副作用を伴う薬にも耐え続けまし
た。先は真っ暗闇なのに、行き着けば光が見えるかも知れないと、私達を引っ張って前向
きで。危険の方が大きい新薬も、自ら望んで受けました。詩織は尚生きる意欲に満ちてい
ました。その意欲を与えたのは、間違いなく貴女です。
貴女の励ましが、貴女の存在が、詩織を最後迄生かし続けてくれました。身体だけでは
なく、その心迄も。最終的には奇跡は起らずこの結末を迎えましたが、ここ迄頑張り続け
た事が一つの奇跡だとお医者様は言いました。
詩織に悔いはなかったと思います。私達もできる限りの事は尽くせました。そして何よ
り柚明さん、貴女に出来る限りを為して貰えた事が、一番嬉しかった。詩織の母として、
言い尽くせない程有り難いと感謝しています。親は幾ら頑張っても、友達にも恋人にもな
れません。貴女にはその両方になって貰って…。
本当に、ありがとうございました。私達に返せる物は何もないですが、せめて感謝の気
持をお伝えしたいと、手紙を書いた次第です。今後はせめて詩織の事を、心の片隅にでも
残して頂き、偶にでも思い返して貰えれば…』
間に合わなかった。わたしは詩織さんにも届かなかった。贄の血の力の修練を少し早く
始めていれば。わたしが心の闇に沈み込まず、もう少し早くあの状態を脱していれば。後
もう少し早く桂ちゃんと白花ちゃんに出会えていれば。もっと、修練を早く進めていたな
ら。わたしの贄の血がもっと濃い物であったなら。
そこでわたしは我に返った。初めて、わたしは己の血の濃さを不足に感じた。羽藤の家
の贄の血を、人ならざる妖かし達の求め好むこの血を、家族全員の死を招く因となったこ
の血を、かつては拒みたくても拒めずに漸く受け容れたこの血を、わたしは足りないと迄。
笑子おばあさんが、贄の血を誰かの役に建てるかも知れない血だと語っていた事が思い
出される。それを持つ故に禍が巡り来る事もあるけど、それ程に求められ好まれるのなら、
使い方次第では誰かの力になれ、別の定めを切り開く力になるかも知れない物だと。
この身を流れる血の故に、お父さんお母さんを失って羽様の屋敷に引き取られ、詩織さ
んに出会えた。沢尻君や真沙美さんにも出会えた。杏子ちゃんとは別れ別れになったけど、
仁美さんや可南子ちゃんとは遠くなったけど。運命の巡りの輻輳は、時に人の想像を超え
る。
【わたし……、今日は、とても嬉しかった】
【そこ迄言ってくれた人は、いなかったから。わたしの為にそこ迄踏み込んでくれた人は
いなかったから。涙が出る程、嬉しかったよ】
【わたし、ゆめいさんがいるから、学校に来られた。熱を抑えようと思えた。少し位身体
が重くても、出てこようと思える様になった。柚明さんがいなかったら、学校も諦めてい
た。本当は、今日も体調良くなかったの。でも】
体育の授業もきちんと受けられた。それは、
【ゆめいさんと一緒に授業受けたかったから。
ゆめいさんと一緒にお話ししたかっらから。
ゆめいさんと一緒に過ごしたかったから】
【わたし、ゆめいさんを心に思い浮べる事で、これからも、生きていける。ありがとう】
あれ程深く想ってくれていたのに。
あれ程強く慕ってくれていたのに。
何とかして助けたい、大切な人だったのに。
わたしだけは知っている。わたしは己の心の内を知っている。確かに為せる限りの事は
したけど、為せる以上の事には挑まなかった。たいせつな、特別に大切なお友達だったけ
ど。
「詩織さんを、わたしは最期迄一番に出来なかった。それが、わたしの最大の心残り…」
サクヤさんの苦味が思い起された。たいせつなひとだったのに、深く想いを寄せていた
のに、一番には出来なかった。一番大事と心を寄せられても、それに一番の想いを返す事
は出来なかった。最期の最期迄。わたしは何と薄情な。それでも、その罪と業を負うても、
わたしは白花ちゃんと桂ちゃんを一番に想う。サクヤさんが千年オハシラ様を想い続ける
のに較べれば、ヒヨコにも至らない想いだけど。
「詩織さん、ごめんなさい、ごめんなさい」
修練が間に合わなかった所為でもあるけど、わたしは桂ちゃんと白花ちゃんを差し置い
て、詩織さんに一生付き添い支える事は出来ない。仮にわたしの力が詩織さんの病の進行
を止められても、一生沿い続ければ進行を止められるとしても、その為にわたしが桂ちゃ
んと白花ちゃんを守れなくなるならそれは選べない。それが詩織さんの生命を縮める事に
なっても。
詩織さんが特別に大切だったのは真実。
詩織さんを心から想い続けたのも本当。
でも、一番には出来ない。何もかも捨てて捧げられはしない。わたしを捧げる事で、わ
たしが本当にこの身を捧げたい一番が蔑ろになるなら、それは出来ない。出来ないけど…。
「詩織さん。わたしの、たいせつなひと」
頬を伝うのは悔いと覚悟の、永訣の涙。
どこからか詩織さんの声が聞えた気がした。わたしは瞬時涙を忘れ周囲の音に耳を澄ま
す。空は、薄い雲が徐々に密度を増し始めていた。
《わたしはわたしが好きだから言っただけ。同じ気持を返して欲しいなんて、思わない》
そんな事をわたしも言った事があったけど。
心の内に響く声は、確かに詩織さんの声だ。
関知の力が、わたしの想いに一番詩織さんが返しそうな、詩織さんならそう答えるだろ
うと言う声を拾い上げてくれたのか。わたしが作り上げた望ましい答では、ないだろうか。
《最期の最期迄、ありがとう。嬉しかった》
最期の最期迄、何もできなかったわたしに。
暖かな想いが、わたしを包み込んでくれる。
この感触は、詩織さんを抱き留めた時の物。
わたしは詩織さんの人となりを分っている。詩織さんは、そう言う答を返してくれる人
だ。わたしは、満足のいく答を返せなかったけど。
「詩織さん……忘れない。絶対忘れないよ」
せめて忘れまい。詩織さんと過した年月を、詩織さんと交わしたやり取りを、詩織さん
に抱いた想いと、詩織さんから寄せられたわたしへの想いを。詩織さんの為に流すこの涙
を。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「そう……。修練は、今日は止めておく?」
「いいえ、お願いします。今日だからこそ」
お昼ご飯の席で、わたしは真弓さんと正樹さんに詩織さんの訃報を伝えた。わたしは感
情を余り上手に隠せない方らしく、真弓さんは人の仕草や表情からその意図や状態を見抜
ける人だ。午前中の話の絡みもある。個人的な話だと、1人で抱え込むのは良策ではない。
心配を掛けない為の隠し事が話をややこしくする時もある。話して差し障りのない事を、
隠す意味は薄い。日々の認識の共有が、非常時に強い絆となる事をわたし達は知っている。
でも、そうやって毎日緊密に心を通わせてきたわたしにも、真弓さんのその答は意外だ
った。沈んだ心を隠す積りはなかったけど…。
『こう言う時こそ貴女は無理を憶えるべき』
結構前に、真弓さんに言われた事があった。
敵は闘いたい時を選んで襲ってはくれない。わたしがいつでも闘える心と身体を保たな
ければならない。心や身体の浮動は致命的な隙を生む。苦しい事や哀しい事があった時で
も、襲われて即応戦できなければ、死ぬのはわたし、たいせつな物を守れないのもわたし
だと。
わたしがそれを思い浮べているのを、多分真弓さんはお見通しなのだろう。静かな声で、
「貴女はもう己を充分把握できている。会得した事を繰り返すなら、今日じゃなくても」
心の痛みや哀しみを乗り越えて危機に応じる精神力を、わたしは備えていると。確かに
身に付いたなら今日励む必要はない。喪に服して良いと。でも、わたしは首を横に振って、
「わたし、後悔したくないんです」
わたしの修練が追い付かず、亡くなっていく人がいる。恵美おばあさんも、笑子おばあ
さんも、詩織さんも。わたしの修練がもっと早く進んでいたなら、役行者の様に病を治せ
る域に辿り着けていたなら、贄の血の力がもっと思う侭に使えるようになっていたなら…。
「わたしの進展が早ければ、助けられたかも知れない。救えたかも知れない。そんな人が
これからも出てくるかと思うと、そんな想いをこれからもするのかと思うと、わたし…」
後で悔いて振り返るのは嫌だ。全力で挑み、限界いっぱい迄急ぎ、それで尚届かないな
らやむを得ない。でも、人の力で及ぶ筈の物に、及んだかも知れない物に、怠惰で届かな
かったなら。それで大切な物を救えなかったなら。
一番大切な、特別な人を、わたしが守れたならどんなに素晴らしいだろう。いや、逆に
守らなければならない時に守れなかったなら、どんなに悔しいだろう。哀しいだろう。
『たいせつなひとを守る。もう失わせない』
そうする術がわたしの中にある。わたしの気持と努力次第で、その力は手に入れられる。
決意が運命を切り開き、及ばぬ物を届かせる。
「今日の様な日こそ、休んではいけないの」
詩織さんの想いに、わたしは精一杯前に進む努力で応えたい。その死を悼みつつ、その
場に哀しみに留まるのではなく、先へ進む力に変える事で報いたい。詩織さんが想いを寄
せた羽藤柚明はその様な人ですと、応えたい。
「柚明ちゃん……強くなったのね」
左横でパスタと格闘して、顔中ケチャップだらけになった桂ちゃんの顔を拭きながら言
う話でもないかとは思ったけど、それを滑らかにできる事に、真弓さんは最も驚いた様だ。
自身白花ちゃんのケチャップまみれの両手を平然と滑らかに拭いつつ、その瞳は炯々と、
「分ったわ。その代り今日は手加減なしよ」
サクヤさんを見つめる時の様に輝いていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
手加減を取り去った真弓さんは、やはりとてつもなく強かった。殺気こそなかったけど、
手に持つのも真剣ではなくて木刀だったけど、その動きの凄まじさは言葉には表しきれな
い。
わたしも日中使える限りの贄の血の力を総動員し、何度か妙手を放ったけど、悉く叩き
落された。時に少し物理法則を曲げたり迄したけど、真弓さんの強さはそれを超えていた。
「お疲れ様。結構、良い勝負になったわね」
三十分程の抵抗戦の末に、結局いつも通りの結果に終り、庭に仰向けに横たわったわた
しに、真弓さんが歩み寄ってきて手を伸ばす。わたしもゼロ迄使い切った体力をすぐ贄の
血の力で補充して、身体を起してその腕を取る。痛みはまだ抜けきらないけど、回復は倒
れた瞬間から進めている。起きるのに支障はない。
「柚明ちゃん。すぐ、起きあがれるんだ…」
一番唖然としたのは、桂ちゃんと白花ちゃんが近付かない様に抱き留めつつ観戦してい
た正樹さんか。特に最後の木刀の三段突きは、防具を付けた熟練者を失神させる威力を持
つと正樹さんも見て分った程だ。贄の血の力を身体の内側に作用させ、突きの当たる箇所
に集めて防ぐのだけど。見かけでは普段着の身体に木刀が突き刺さって見えただろう。実
際、それでは防ぎきれず突き刺さった訳だけど…。
「二つ目まで躱されるとは思わなかったわ」
「三つ目が躊躇いなく突き出されましたよ」
わたしの即答に、真弓さんは苦笑気味に、
「あれはああいう業だからよ。きっと、今の貴女の様な動きや見切りを想定して、練り上
げられた業なのでしょう。大抵の達人でも一つ目を受けきれないのに、先祖は一体何を考
えてここ迄の業をと思った事もあったけど」
その気になれば結構躱す人はいるみたい。
駆け寄ってきた双子の頭に手を乗せつつ、
「それより柚明ちゃん、あの隠し球、いつ考えたの? あれこそわたしの想定外だったわ。
贄の血の力を込めた飛び道具は予期したけど、ガラス玉じゃなくて花びらを使うなんて
…」
「私も、綺麗さに目を奪われたよ」
歩み寄ってきた正樹さんがわたしと真弓さんにタオルを手渡してくれる。お礼を言って、
黒髪の先に珠の滴になって流れ出す汗を拭い、
「ガラス玉は直線にしか動きません。カーブをかけるにも野球選手やサッカー選手の様に、
腕力や脚力のある人達が漸く多少曲げられる位です。贄の血の力を空気に及ぼし、多少軌
道を変える事は出来ますが、焼け石に水です。近接戦闘では、操作の幅が狭くて使えませ
ん。直線的すぎて、達人には軌道を読まれますし。真弓さんの様に間近で激しく動く相手
は特に。
考えたんです。もっと自由自在に動くには、軽い物の方が良いのではないか。微かな力
の干渉で軌道を自在に変えるには、羽根のあるひらひらした軽い物の方が良いのではと
…」
次々に舞い踊る花びらの渦がわたしを守り、真弓さんの視界を覆い、その前後左右から
波の如く包囲して迫る。一つ二つ斬られても怯まず、木刀の振り抜く風に応じて躱し、左
右に割れ、背後に回り、時に正面から叩き付け。堅い実体を持たない花びらは、斬っても
手応えがなく、液体や気体を浴びせられた感覚に近い。それに込めた贄の血の力は強く作
用し。
「瞬間だけ、本気で負けるかもと思ったわ」
「そこ迄言って貰えたのなら、大成功です」
花びらは、わたしの求める条件を満たす物でした。軽くてふわふわしてすぐ曲げられる。
わたしが血の力を鞭の様に、和服の袖の様に、体外に揮って空気を少し動かすだけで、意
志に添う様に向きを動きを変えられる。軽量なので必要なら暫くその場に舞わせても置け
る。
贄の血の力を通わせたそれらを当てる事で、痺れさせたり、弾いたり、打ち据えたり裂
いたりもする。真弓さんが掠り傷だらけなのは、わたしの応戦の痕だ。それを突き抜けて
勝ちを掴める人だから、問題はないけど。わたしが傷痕も綺麗に消すから、問題はないけ
ど。
「ガラス玉と違って生き物なので、贄の血の力を通わすのに時間が殆ど掛らないのも利点
です。拾って即使えますし無尽蔵ですから」
ガラス玉は呪物ではない。今のわたしなら、半日も持ち歩けばビー玉も贄の血の力を浸
透させて青珠の代用品に出来るけど、その様に一定数は揃えられるけど、なくなった時に
即補充できない。真弓さんの様な強敵相手には、それらを使い捨てる感じで次々と放つ必
要がある。必殺技を牽制や威嚇に使う感覚が要る。
生き物である花びらは、即座に贄の血の力を通わせ、その力を暫く込めた状態で保てる。
あって触れば無尽蔵に補充できる。限界が来るのは多分、わたしの力の方だ。流石に青珠
は使い捨てられない。あれは最後の奥の手だ。
花びらを蝶の様に舞わせて闘うのも、詩的で綺麗で見た目は良いけど、わたしの力の性
質を考えた末の選択だ。青い葉も使えるけど、花びらに較べ堅くて重く、操作が少し難し
い。出来るなら花が好ましい。台所で対戦となればキャベツやレタスが舞うかも知れない
けど。
何より、そこ迄工夫を重ね力をつぎ込んだわたしを結局打ち破った真弓さんは凄すぎる。
近付いてみる迄は、ここ迄強さが隔絶しているとは思わなかった。何年か経てば、わたし
が強くなれば、そこそこ迫れると思っていた。
星の遠さを、ロケットの早さで届かなくて漸く知る程に、その差は大きい。迫れば迫る
程にその強さと懸隔を思い知らされる。鬼切部とはここ迄人外に強い人達の集まりなのか。
わたしが素直に感想を述べると真弓さんは、
「私は、特別なのよ」
当代最強は伊達ではない。普通の鬼切部や普通の(?)鬼切り役とも強さの桁が違うと。
その笑みが少し寂しげなのが気に掛ったけど。
「ゆめいおねえちゃん、あそんでぇ」
桂ちゃんが左手を引っ張る。約束を果すべき時が来ていた。脇の白花ちゃんは大人の話
に一区切り付くのを待ちたい様子だったけど、桂ちゃんが待ちきれなくなったと見て分っ
た。
「はい。待たせてごめんね。桂ちゃん…?」
桂ちゃんを向きかけたわたしが動きを止めたのは、真弓さんがふらつくのを感じた為だ。
「叔母さん、大丈夫ですか?」
振り返ったわたしに真弓さんは答も短く、
「大丈夫よ。ちょっと息が上がっただけ…」
「真弓、また例の疲れが出ているのか…?」
正樹さんの心配も無理はない。真弓さんは一月の中で数回、この様に人の見ている中で
脱力し、崩れ掛っていた。それは特段頻度も増えず、深刻さを増す訳でもないけど、持病
の様に恒常的に付き纏っていた。何度視ても、病院に連れて行っても唯の疲れでしかない
為、贄の血の力を浸透させると治るし、唯寝込んでも復調するけど、対症療法でしかない
様で。
見てない時も含めれば真弓さんは、一体どの位の頻度で脱力しているのだろう。危険の
ない時なら問題はないけど、料理で火を扱う時とか、経観塚の町で車道を横断する時とか、
修練の時等に、突如こんな風に崩れ掛ったら。
「大丈夫よ。大丈夫、いつもの事だから…」
「いつもの事だからって、真弓、お前……」
「叔母さん、今日は体調良くないのに…?」
わたしが付き合せてしまったのか。今日の修練を止めても良いと言ったのは、真弓さん
の方が体調が良くないので止めようと言う…。
「馬鹿ね。それならそう言うわよ。これはその瞬間迄、いつ起るか分らない物なの。貴女
の所為じゃない。一度や二度貴女の相手をした位で、体力を空にしていて堪る物ですか」
真弓さんがやや無理した笑みを浮べるのに、
「柚明ちゃん、贄の血の力を……」
「大丈夫ですってば」
抱き留めようとする正樹さんを押しのけ、
「少し横になっていれば、良くなるから…」
でもその腕に力がない。正樹さんがわたしに視線を送るのは、2人で真弓さんを押し切
って贄の血の力を流し、元気になって貰おうとの同盟の誘いだ。でもそれは、今目の前で
遊びを待ちかねている双子に又お預けを招く。
「ゆめいおねえちゃん……」「けい」
わたしの袖を引く桂ちゃんを、白花ちゃんが抑える。ここ数日2人に不安を与えてきた。
桂ちゃんも我が侭ではなく、心ゆく迄向き合って相手をして貰って、不安を拭いたいのだ
ろう。これ以上白花ちゃんに気を遣わせる訳にも行かない。お兄さんとは言え幼子なのだ。
「桂ちゃん、白花ちゃん……」
わたしは真弓さんにさっき使った花びらの中で、まだ形を残している物を数枚拾い上げ、
贄の血の力を軽く通わせると、桂ちゃんと白花ちゃんの周りにひらひらと、舞い踊らせた。
「わあぁ……」「花びら、ちょうちょ」
2人とも、さっきわたしが真弓さんに使った技を自身の周囲に纏わせ目を輝かせている。
これはさっきのとは違い、唯舞い踊るのみで無害だけど、それ故に僅かな力の行使で済む。
桂ちゃんと白花ちゃんも濃い贄の血を持っている。修練せずとも、匂いの形で漏れ出す
贄の血の気配に反応して、2人の周囲を暫く舞い踊る様に、花びらの動きを操作してから、
「暫く、2人で遊んでいて頂戴。叔母さんの様子を見終ったら、すぐに行くから」
2人は花びらに心を奪われ答もない。向き直ったわたしと正樹さんで、両肩を支えると、
「大丈夫よ。1人で歩けるから」
まだこれから洗濯物も取り入れないといけないし、夕飯の支度もあるし、お風呂掃除も。
柚明ちゃんはトイレ掃除だったわよね。それに貴男はまだ、執筆が残っているのでしょう。
真弓さんはわたしの支えを拒み、正樹さんの腕も外して、2対の心配の目線を見返して、
「私は元気よ。何なら柚明ちゃん、もう一戦交えても良いけど。正樹さんを加えて、ね」
それが出来てしまうのが、真弓さんだけど。出来てしまうから騙されてしまうけど。そ
の気になればどこからともなく自身の最大限を引き出してこれるのが真弓さんだけど。で
も。
言われて正樹さんが渋い顔を見せた。正樹さんは若い時に大病を患って以来、身体を激
しく動かす事が出来ない。武術や格闘を男子の職分と見なす人は多い。わたしの修練を見
るしかできない正樹さんは、忸怩たる想いがあるのかも知れない。そこを突く様な言葉は、
逆に真弓さんに余裕がない事を物語っている。
「じゃあ、せめてその掠り傷だけでも」
真弓さんも頑固だから、嫌と言ったら絶対受け付けない。でもこの侭ではわたしも正樹
さんも、心配の芽が拭えない。こんな状態で夕食の準備に火を使おう物なら。
この掠り傷はさっきの修練でわたしが与えた傷だから、わたしが治すべきだ。この提案
には真弓さんも、仕方ないという顔を見せた。その侭回復させる積りでいる事も承知だろ
う。
「服を脱いで貰っても、良いですか?」
むしろ正樹さんに許しを請う感じで。
「昼なので、力を直接肌に流さないと」
傷の数が多いので効率を良くしたい。
「ん、ああ、そうか。じゃ、外そうか」
「何も、気にしなくて良いのよ。貴男」
夫婦でしょう。真弓さんに言われて正樹さんは、一層所在なさそうだ。気遣いと遠慮と、
何より自身が居るだけでしかない事に正樹さんの顔が翳る。お父さんに似ていた。お母さ
んの定めに寄り添う他術がなく、励ますより他術がなく、力になれず助けになれない事を
終生悔しがっていた、お父さんの面影に似て。
縁側に諦めた顔つきで座り込む真弓さんに、わたしが前から寄り添い向き合った瞬間に
…。
わたしの心を警告が走り抜けた。それは有無を言わさず、数秒後の像を明確に伝え来る。
びくと身体が震え、わたしが何かを感じた事が、触れている真弓さんにも、分ったらしい。
「桂ちゃんが、危ない!」
言い切らない内にわたしは走り出していた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
関知の力が久しぶりに、明確にわたしの心に響いた。屋敷の裏にいる双子を取り巻く花
びらを、吹き散らす強い風。花びらが、摘まれた薪の山を滑空し、空へ舞い上がっていく。
それを追いかけて、桂ちゃんが薪の山へと駆け上っていく。禁じられていた事も、瞬間
忘れ去っていた。白花ちゃんが止めようとしたけど、既に走り出していて、間に合わない。
その薪の山は、この春迄使っていた五右衛門風呂の焚き付けだった。ガス湯沸かし器に
切り替えたけど、それ迄溜め込んだ薪の山は、その内整理しようと、積み上げた侭になっ
ていた。結構な重量と大きさなので危ないから近付かないよう、言い聞かせていたのだけ
ど。
関知しなければ、間に合う筈がなかった。
関知しても尚、間一髪の救出劇となった。
薪の山が、踏み抜かれる震動に耐えきれず、崩れて桂ちゃんを巻き込み、その重量と堅
さで柔らかな身体を潰す。その像が浮んだ瞬間、わたしは真弓さんの手当を放り出し、屋
敷の裏へ駆けていた。順番を間違えてはいけない。
わたしが一番たいせつな救いたい者は。
一番失ってはいけない守るべき者とは。
僅かに遅れ真弓さん、その後に正樹さんが続くけど、その動きでは間に合わない。関知
の力で先に知り、最大限に馳せて、辛うじて間に合う。白花ちゃんを左手で安全圏に弾き
つつ、その反動で更に加速を付け、わたしは崩れ掛る薪を駆け上った。真弓さんに鍛えら
れた運動神経がわたしの想いに目一杯応える。
重くて堅い薪の群に、呑み込まれる寸前の桂ちゃんを救い上げ、抱き上げながら尚も流
動する薪の山を踏みつけ、一気に駆け抜ける。桂ちゃんが加わって比重が変るので、足を
踏み外す危険が尚増すけど、わたし自身薪に叩き付けられる怖れが増すけど、感覚と勢い
で、
「ふうっ!」
一直線に安全圏迄走り降りられた。大丈夫、桂ちゃんもわたしも傷一つ負ってない。後
から振り返れば、冷や汗が滲む行いだったけど。崩れた薪の山の後方では、わたしが弾い
た白花ちゃんを真弓さんが抱き留めていた。
「桂、白花、大丈夫か!」
状況を漸く知った正樹さんの声に、
「ううああああああん!」
桂ちゃんが我に返って泣き声を上げる。恐怖を、それ迄抱えて出せなかった不安と共々、
訴えたかったのだろう。抱き上げられた侭しがみついて泣き叫ぶ桂ちゃんを連れて、
「桂ちゃんは、大丈夫です」
薪の山を迂回して、二親の前に抱いていく。
「ダメじゃないか! 桂も、白花も!」
わたしの知る限り、正樹さんが怒りに任せて大声を上げたのは、後にも先にもこの一度
だった。危ないからダメと言い聞かせていたけど。言いつけを破ったのは桂ちゃんだけど。
「薪の山は危ないから、近付いちゃダメだって言っておいたのに、どうしてそれを…!」
「ひぎゃあああああん!」
桂ちゃんが正樹さんの声に怯えて泣き出すのも初めてか。自分がいけない事をしたとは
分るけど、怖い想いをした自分を抱き留めて欲しい、その想いを拒まれた様に感じた様だ。
「……ごめんなさい」
白花ちゃんが謝る。でも白花ちゃんは何もしてない。何もしなかった事は、白花ちゃん
の責ではない。あの時点で即座に桂ちゃんを引き留めろとは、兄とは言え幼子の白花ちゃ
んに求めすぎだ。白花ちゃん迄怒鳴りつけてしまった事が、正樹さんの混乱を示している。
「白花ちゃんと桂ちゃんを責めないで下さい。
2人と遊んで上げられないで、花びらを舞わせて間に合わせたのは、わたしですから」
わたしが2人にきちんと向き合っていれば。2人が花びらに我を忘れ薪の山に近付く事
態は予期できた。わたしの予感が不安を招いたのに、その不安をきちんと拭えず、約束を
果せず心を受け止めれないで、今を招いたのだ。
「わたしが至らないから。ごめんなさいっ」
わたしから言い聞かせますから、これ以上2人を叱らないで。白花ちゃんも桂ちゃんも、
不安を拭って欲しかったんです。もっと早く、わたし達で受け止めて上げる事が必要だっ
た。
「君は甘すぎる! 今だって」
一歩間違えば君が怪我をしていたんだぞ。
正樹さんは苛立ちを隠さず、声を潜めず、
「君がこれを事前に関知できて、神速の動きだったから、辛うじて間に合った。そうでな
かったら、今頃桂が怪我をしていた。それどころか、君を惨事に巻き込み兼ねなかった」
それは、危機を察知する術も回避する術もない正樹さんの、自身への苛立ちだったのか。
大切な物を守る為に出来る事がないのは、辛い事だ。正樹さんは強い心でその定めを受け
止めてきたけど、最近はあの予感の所為で…。
どうする事も出来ない己への苛立ちは、無力感はわたしも感じ続けた物だ。だから分る。
どこに向けて良いか分らない憤り迄。同年輩なら抱き留めていた処だけど、遙かに年長だ
し間近に奥さんもいるので、それは出来ない。
「わたしは、大丈夫ですから」
「君だけの問題じゃないっ!」
まだ鎮まりきらない桂ちゃんを降ろし、わたしは正樹さんの両の拳を両手で軽く握って、
「もう危ない事は、させませんから。わたしが言って聞かせますから。だから、大丈夫」
正樹さんの両腕は震えていた。もしもの事を考えたら、正樹さんの反応はむしろ普通だ。
そして今後この事を考えて危うく想う気持も。それは受け止める。しっかり受け止めるか
ら。
「わたしも、桂ちゃんと白花ちゃんをこれ迄以上によく見るようにしますから」
「桂と白花の親は私だ。危なくさせないのも、2人の監督も私の責任だ。全部背負いきれ
ないのに、1人で全部出来る様な答を返さないでくれ。君だってまだ子供なんだ。君の安
全も私の責任なんだ。勝手に何もかも1人で背負わないでくれ。君は最近少しやり過ぎ
だ」
わたしの答は、正樹さんの大人のプライド、或いは家長の責任感に触ってしまったらし
い。思いは理解できるけどわたしが答に惑うのに、
「ゆーねぇを、叱らないで」
ゆーねぇ悪くない。白花ちゃんが横から、
「叱るの、はくかにして。はくか謝るから」
真弓さんの腕から歩み出てそう言うのに、
「むぅっ……!」「貴男」
正樹さんが言葉に詰まったのは、尚言い募りたい想いと、これ以上は言いすぎだと言う
感覚の鬩ぎ合いを示すのか。怒りに任せて叱ったり怒鳴ったりした事のない正樹さん故に、
逆にこう言う時の落とし所が分らないのかも。
真弓さんが短く言葉を挟むのは、頃合だから引く様にと言う合図なのだと、後で分った。
周りに分る様に言ってしまうより、短く云って正樹さんが自ら気付いた方が、形が良いと。
「貴男」
尚もう少し言いたい想いに迷う姿勢の正樹さんに、もう一度短く真弓さんが言葉を挟む。
それで正樹さんも引き際を納得した様だった。
腕を震わせていた力が抜ける。正樹さんは、静かにわたしの握りを解いて、自嘲気味に、
「結局、役に立てない私の言う事だからな」
いざという時に身体を張って桂や白花を守れるのは、真弓であり柚明ちゃんだ。私に出
来る事は殆どない。常々分ってはいるのだが。
「そんな、叔父さん。わたしは……」
「気にする事はない。君は君の精一杯を尽くして上げれば良い。君に出来る限りの事…」
正樹さんは、全てを言い終えられなかった。
「真弓っ」「叔母さん」「「おかあさん」」
真弓さんがふらついてその場に倒れ込んだ。
空の雲が徐々にその密度を増し始めている。夜半には、本格的な降雨になるかも知れな
い。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
真弓さんの状態はこれ迄になく深刻だった。疲れの酷い状態という事では同じだったけ
ど。下手に救急車を呼んでも時間が掛る上に点滴と安静以上に為す術がなく、移動で疲れ
させるより贄の血の力を注ぎ込む方が有効なのは同じだったけど。一時は呼吸が止まった。
生命を落しかねない疲弊など通常ある筈がないし、真弓さんの日常にある筈がない。どう
考えても尋常ではなかった。鬼切部の真弓さんがこんな事に、否、或いは鬼切部の故なの
か。
「柚明ちゃん、真弓を、真弓を助けてくれ」
正樹さんがわたしに取り縋る。正樹さんに為す術はないのだ。病でも傷でも、老いでも
ない。贄の血の力が利く、これは唯の疲れだ。唯深さがとてつもない。唯その分量が膨大
だ。顔色が青い以上に、身体が冷たくなっていた。
悪い予感がこの事を指す物ではないと思いたい。悪い予感が結局杞憂で、間一髪ででも
回避でき良い結末で終ってくれると信じたい。
「「おかあさぁん!」」
双子の声も、真弓さんには届いてない様だ。
応急処置に、わたしはその場で真弓さんにキスして、口移しに贄の血の力を流し込んだ。
手を触れる程度では間に合わない。正樹さんの専有の筈だけど、緊急時なので許して貰う。
真弓さんは美しい人だったから、眠り姫にキスをする王子様の気分だった。でも、目を
醒ます迄その体勢で居続ける訳にも行かない。
一分位かけてから唇を離すと、首を上げて、
「雲が濃くなって気温が下がり始めています。お屋敷に戻って、布団に寝かせましょう
…」
緊急の処置は終えた。今死に瀕する状態は脱したと思う。まだ生命は危ういけど。後は
お屋敷の布団で、添い寝して贄の血の力を通わせる。凍傷の人に人肌が一番良いと裸で寄
り添う話を聞いた事があるけど、それに近い。
正樹さんが有無を言わさず真弓さんを担ぎ上げ、わたしは先に屋敷で布団を敷いて待つ。
わたしが真弓さんを担ぐのはきつかったので、助かった。正樹さんも無理を承知の強行軍
だ。
「おかあさん……」「だいじょうぶ?」
桂ちゃんと白花ちゃんの問いに、わたしは、
「わたしがいるから、大丈夫よ」
桂ちゃんと白花ちゃんの大切な人は、失わせない。2人の大切な人はわたしが守るから。
【2人の幸せを守る為に、全てを捧げます】
正樹さんに手伝って貰って真弓さんの服を全部脱がせ、布団に寝かせると、次にわたし
も服を全部脱いで一緒の布団に潜り込む。流石にその時は正樹さんに、場を外して貰った。
真弓さんの肌は、わたしが付けた掠り傷が幾つも残り血が滲んでいる。脱力して無防備
な真弓さんは、美しい以上に可愛い。その姿を愛おしみつつ、わたしは贄の血の力を紡ぐ。
抱き留めて、冷たい肌をこの体温で暖める。
心から心へ、治って欲しい想いが流れ行く。
素肌から素肌へ、わたしの生命を流し込む。
真弓さんが意識を戻したのは、4時過ぎか。それ迄も、何度か真弓さんに贄の血の力を
流した事はあったけど、今回は極めつけだった。真弓さんは本当に、疲れで生命を落しか
けた。
意識を取り戻されると恥ずかしく、どう応対して良いか分らなかったけど、真弓さんは
即座に事情を呑み込んで、わたしを強く抱き寄せてくれた。自身が危うかった事も、わた
しが何をしたのかも、全部承知している様だ。
「心配させちゃったわね。それに、かなり力を注ぎ込んだでしょう。貴女こそ大丈夫?」
真弓さんの肌が漸く暖かみを戻してきた。
「まだ動いちゃダメです。真弓さんの疲れは、まだいつ倒れてもおかしくない程酷いで
す」
直に触れていればこそ分る。真弓さんは辛うじて目を醒ましたけど、まだ動ける状態で
はない。否、これ迄も本当は動けない状態を何度か誤魔化してきたけど、今日は特に酷い。
「これから夕刻になります。わたしの力の方は心配要りません。それより、もう少し…」
「貴女には世話になりっぱなしね。桂と白花だけでなく、私まで生命を助けられて」
「それが、わたしの幸せですから」
結局わたしが布団を抜け出たのは、夜6時を過ぎた辺りだった。真弓さんの疲弊はまだ
全部抜けきってないけど、もう眠って休んでいれば大丈夫に迄は復した。慣れない夕食作
りに1人で挑む正樹さんが、気になったのだ。
「お腹を空かせたでしょう」
緊急時を理解して大人しくしていた双子に、まず声をかける。2人とも屋敷に帰った後
は子供部屋で大人しく待ちつつ、いつの間にか寝入っていて、さっき起きてきた様子だっ
た。
叔母さんは大丈夫、まだお昼寝だけど。
「今日のお夕飯は、遅くなるから……」
双子の手が届かない棚の上から、お客様用の羊羹を取りだして、2人の前で切り分ける。
「ひみつのたから箱だぁ!」
桂ちゃんが目を輝かせて声を上げる。
高い処は危ないから手を伸ばしちゃダメと言ってあった。そう言う処に甘い物があると
見せるのは良い事ではないけど、やむを得ない。フォークを刺して、2人にその皿を渡す。
「……これを食べて、待っていて頂戴」
「「はあぁい!」」
茶の間に遠ざかる足音を聞きつつ、
「叔父さん、お手伝いします」
「君は良いよ。疲れただろう」
「させて下さい。叔母さんの状態は、安定しました。後は寝て休むだけで、大丈夫です」
「……そうだと、良いんだが」
それでもわたしが割り込んで作業を手伝う事を許容しつつ、正樹さんの額の皺は尚深い。
真弓さんの疲労の原因が、気になるのだろう。賢しげに問うても答は出せぬので黙ってお
く。
七時半を過ぎた夕食には、真弓さんも同席した。普段より食は細かったけど、日中のあ
の状態を経て食べられるのは凄い。みんなに、特に幼い双子に心配を掛けたくなかったの
か。完調には程遠いけど努めて平静を装っていた。
双子も倒れたばかりだと分るので、今日は余り騒がない。食後の片づけはわたしと正樹
さんで引き受け、真弓さんは双子とテレビで『附子』を観ていた。チャンネル権は基本的
に桂ちゃんの起きている間は桂ちゃんにある。
桂ちゃんが落語や狂言、時代劇など和風を好くのは、真弓さんの影響だろう。最近はわ
たしとの修練にも木刀を使うので、一層身近に感じているのかも。正樹さんも郷土史研究
家兼著述家と言う事で古風を尊ぶし、羽様のお屋敷自体が平屋の日本家屋だ。電化製品や
洋風の家具もあるけど、考えてみれば鬼切部からオハシラ様まで、羽様は和風世界だった。
9時を回り、双子を寝付かせてから、
「柚明ちゃん、今日は、済まなかった」
開口一番、正樹さんがいきなり頭を下げたのに、わたしは驚き戸惑った。
「苛立つ感情の侭に物を言ってしまった。悪意があった訳ではないんだ。許して欲しい」
「叔父さん、頭を上げて下さい」
正樹さんがわたしを心配していた事は分る。正樹さんの言った事は全くの間違いでもな
い。苛立ちはあったけど、勝手気侭に敵意や悪意を向けた訳ではない。その位はわたしも
分る。わたしが至らなかった。或いはやりすぎたと。
「それと桂や真弓を助けてくれて有り難う」
心から感謝する。私のたいせつなひとを。
「君が居なければ真弓も助からなかったかも知れない。君と真弓が居なければ、私は何一
つ出来ないのだと、今日は思い知らされた」
正樹さんの苦い笑みに、わたしは率直に、
「今日は偶々、わたしが役に立てただけです。叔父さんに助けられた事もわたしは沢山
…」
「それはそれ、今日は今日だ。桂や真弓が今元気でいられるのは、君のお陰だ。感謝して
もしきれない。そんな君を怒鳴りつけるとは、済まなかった。私も人生修養が足りない
…」
「私からも改めてお礼を言うわね。桂を、そして私を助けてくれて有り難う。一度は貴女
に経観塚を出るよう勧めていながら、貴女が居てくれても私達は日常を保つのも難しい」
或いは、柚明ちゃんはこうなる事も、視えていたのかしら。その問にはかぶりを振って、
「わたしはわたしが役に立てる事が幸せです。
ここにいる事で少しでも力になれるなら」
遠慮なく申しつけて下さい。わたしの力は、まだ成長期にあります。多少の無理も新し
い可能性への挑戦になります。今日も昼から出力全開ですけど、疲労はあってもこの調子
ならまだ行けるし、明朝には全快する感じです。
それより……。わたしの視線が向く事でその問を察した真弓さんは、少しの迷いの末に、
「この不定期な不調は、鬼切部の宿命なの」
鬼切部の秘密について、明かしてくれた。
「柚明ちゃんは、鬼と闘った事があったわね。あの時、傷も深かったけど、身体中が疲れ
切って暫く動けなかったのを、憶えている?」
わたしの頷きに真弓さんは噛み締める様に、
「極言すれば、鬼切部もそうなのよ。柚明ちゃんはあの時、身体中の力という力を絞り出
して鬼に応戦したわね。生き残る為に、勝ち残る為に、桂を守り抜く為に。人の身体に眠
る全ての可能性を一つの闘いにつぎ込んで」
鬼と遭遇したのは金曜日の夕刻だった。真弓さんに鬼は倒され、わたしは生命を拾った
けど、それ迄に負った傷は深く、疲労は重く、月曜日に辛うじて登校したけど、土曜日も
日曜日も殆ど身動き出来ず、贄の血の力をひたすら内向きに、普通は死に瀕する傷を幾つ
も治し間に合せた。普通なら都市部の大病院に行っても生きて戻れたかどうか分らなかっ
た。
「鬼切部は代々、鬼を斬り続けてきた一族よ。地力があるのは勿論だけど、修行で鍛える
のは当然だけど。己の全力を振り絞るだけで足りない時に、持久力や集中力が保たない時
に、私達は未来から、まだ来ぬ日々の自身の生命力を前借りするの。その一瞬に勝つ為に、
その闘いを制する為に、目前の鬼を討つ為に」
鬼との闘いは武道の試合とは違う。時間制限のない、生命のやり取りよ。丸一日掛る事
もあるし、一週間掛る事もあるし、一ヶ月付かず離れず相手の疲弊を窺いあって尚決着が
付かない事もある。二十四時間戦闘態勢を保ち続ける必要もある。普通保たないでしょう。
身体に宿る生命力が、気力や集中力や持久力が、限界を迎える。でも、鬼切部の先祖達
は考えたのね。己が苦しい時は相手も苦しい。そんな状況でも尚闘い続ければ勝利出来る
と。
私達の祖は自身の生命力をまだ来ぬ日々から前借りする術を身に付けた。身体の強化は
目一杯した上で。闘い続ければ必ず初撃より弱まる集中力、瞬発力、持久力等を、己から
己に補充し、疲労もなく闘い続け勝利できる。
寝だめとか、食いだめとかの逆パターンよ。
「わたしが当代最強だったのは、前借りが幾らでも出来たから。寝だめでも食いだめでも、
人には限界がある。それ以上注いでも溜められない。器から水が溢れる様に、零れ落ちる。
生命力の前借りも話は同じ。一定以上借りられない。鍛えれば資質の向上に伴いある程
度前借り範囲や量が増えるけど、限界は来る。筋力を鍛えても刀は防げない。素早さを鍛
えても雷は躱せない。生命力の前借りも同じよ。打ち出の小槌とは行かないの。私以外は
ね」
「真弓は、それが幾らでも出来たと……?」
「個人差よ。ここ迄違えば特異体質と言えるかも知れないけど。私はかなり幅広く前借り
が利かせられたの。ずっと遙かな未来から」
故に必要時はいつ迄も全力で闘い続け得る。必要と思った瞬間、どんな時でも己の最大
限を引っぱり出せる。幾ら闘い続けても疲弊がないかの如く、必殺技を繰り出しては勝て
る。
当代最強な訳だ。元々一撃必殺の鬼切り役の業の数々を、何度出しても更に打ち出せる
なら、大抵の鬼切り役が霞んで見えても不思議ではない。わたしが日中やった様に、必殺
技を牽制や威嚇に使い捨てして勝利を掴める。
「でも、その代償は……まさか」
「鬼切部は一つの闘いを終えたら数週間の休みを貰う。身体を休め、心を休め、傷を癒す。
鬼切部にも鬼を斬る事は大変な以上に、生命力前借りの反動や代償を受ける期間が要るの。
多くの者は数週間でその反動を吸収できる。前借りした生命力の極端に落ち込む時を乗
り切れば、常に戻れる。普通はその位先辺りからしか、借りて来られないから」
「叔母さんは、もっと未来から大量に生気を借りて来られる。借りてきて闘い勝つ。とい
う事は、代償が現れるのも、もっと未来…」
今現れたのがいつ前借りした生命力の反動かは、よく分らない。借りる時もどこの時点
か選べる訳じゃない。その時に一番借り易い処から抜き取る、手が届いた処から抜き取る。
結果いつどこで自身の生命力が欠けるかは…。
「こうして生命力が抜けてみる迄いつが危ういか分らないし、いつに使った生命力の反動
で代償なのかも、定かではないと言う訳よ」
車道の横断中とか、火を扱っている時とか、別の闘いの最中とか、そう言う時にそれが
巡り来たら最悪よね。一応、その時は更に未来の自身から前借りして対応も出来るんだけ
ど。
「そうやって自身の寿命を食い潰す様な事は、出来るだけ避けたいでしょ。だから、生命
力の落ち込む時は大人しく休んで回復を待つの。尤も今日のは酷かった。前借りしようと
する前に意識を失ってしまった。柚明ちゃんに助けて貰わなかったら、息絶えていたかも
ね」
風邪でもひいた時にこれに当たれば大変よ。抵抗力はゼロに近いから、みんなが軽く終
る物でも、私だけ彼岸を渡ってしまいかねない。尤もその時は定めを受け容れるしかない
わね。その前借りをしてなければ、過去の時点で私は鬼に敗れて、息絶えていたかも知れ
ないの。
「鬼切部の寿命は、その日の巡り合せ次第よ。優れた者程危険な闘いに赴き、極限の状況
で生命力を前借りする。巧くその日を躱し続ければ天寿迄生きられる。鬼切部はチームで
支え合い、反動を迎える迄医務班等が看てくれるのだけど、絶縁状態の私はそれも望めな
い。その日がいつ来るか分らないけど、分らない物を気にしてもしようがない。そう言う
事よ。対策の術がないから、言わなかっただけ…」
定めを定めと迎え入れ、さばさば語る真弓さんに、正樹さんは答がない。当代最強の代
償は、引退後も尚間欠的に襲うこの不調だと。それは、いつ終えるとも知れず、終生続く
と。
真弓さんは、鬼切部の頼みを受けて助力に行った事もあったし、ご神木の森に迷い込ん
だ双子を捜しに、突如力を絞り出した事もあった。鬼を斬る術の修練の中で得たその業を、
真弓さんは今も尚時々使っているのだろうか。今を乗り切る為に、将来を犠牲にし続けて
…。
なら、真弓さんの今現在はわたしが守ろう。
桂ちゃんと白花ちゃんの幸せに必要な真弓さんの元気は、わたしの贄の血の力で補おう。
「叔母さんには、代りに羽藤の家があります。わたしがいます。桂ちゃんも、白花ちゃん
も。今はわたしのみですが、血の力を修練すれば、双子も叔母さんを癒す力になれます。
その時迄はわたしが叔母さんの生命を満たします」
わたしが経観塚に、羽様に残ったのは正解だった。わたしはここを離れてはいけなかっ
た。この事を知らない侭都市部に移り住んで、訃報の形で変事を知っていたなら、わたし
は桂ちゃんにも白花ちゃんにも顔向けできない。
「柚明ちゃん、真弓をよろしく頼む」
正樹さんが、頭を下げる迄もない。
わたしは真弓さんの力に、なりたいのだ。
わたしは真弓さんの助けになりたいのだ。
真弓さんを大切に想う双子の為にも。
「有り難う。頼りっぱなしになる……」
真弓さんが、お礼を言いかけた瞬間だった。
窓の外の闇が突然不吉な赤い輝きを帯びた。
「どうした! さっきの光は何だ?」
嵐を告げる遠雷の如く、関知はわたしの心に響き渡った。何もかもを明瞭に指し示して。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
なぜ今迄それを感じ取れなかったのだろう。
なぜ今それを感じるようになったのだろう。
この時に至る迄、明瞭に関知できなかった。
この時に至って、突如明瞭に関知ができた。
瞼の裏に多くが見えた。心の中に多くが見えた。わたしは、経観塚を離れなくて正解だ
った。羽様のお屋敷に居続けて、正解だった。わたしの人生で最大の、そして最後の正解
…。
「あの赤い輝きは、蔵の方角に見えたわね」
真弓さんも不吉を感じ取った様だ。鬼切部は人外の者の気配に敏感に反応する。又生命
力の前借りを考えているのか。真弓さんの視線で察した正樹さんが子供部屋に行って戻り、
「桂と白花がいない。布団を抜け出して…」
正樹さんの動きはいつになく早かったけど、答が良い物ではない事をわたしは承知済み
だ。動揺というより、危機感が走り抜ける室内で、
「大丈夫。わたしが覚悟を固めさえすれば」
わたしはこの夜の大枠を見通せた。みんなの為すべき事を、必須な事を、わたしの為す
べき事をも見通せた。微かな怯えはあるけど。
「柚明ちゃん? 何か視えたのね」
「桂ちゃんと白花ちゃんは今危地にいますが、必ず助けます。わたし達で必ず助けま
す!」
わたしは視たくなかったのだ。
視たくなかったから視えなかったのだ。
だから見通す覚悟が出来れば全て見通せる。
何をどうすれば、どの様に分岐するのかも。
誰を守るには、誰が何を為せば良いのかも。
今は唯、己の怯えと対峙する。わたしの目を曇らせるのは、山の蛇神でもなければ鬼の
姉妹でもない。わたし自身の怯えと欲だ。わたしが己を守りに走れば全てが崩れ費え去る。
心を鎮め、事の流れを俯瞰して視る。それから最優先に護るべき物を捜す。そこに至る
為にどの順で何を誰が為すべきかを視定める。何が妨げで、何が手始めで、何が間近か視
る。
「叔父さん。寝室から叔母さんの破妖の太刀を持ってきて下さい。叔母さんは少し留まっ
て。その間にわたしが贄の血の力を流します。同時にわたしも、視えた像を整理します
…」
正樹さんが寝室に駆け込むのを見送りつつ、わたしは真弓さんの背に手を回して血の力
を、
「それは、要らないわ」
中途で真弓さんはわたしの手を無理に外す。
「貴女は闘いを覚悟している。私もそれは感じているわ。なら、貴女にも闘う力を残して
置かなきゃ。補充は有り難いけど、貴女はまだ来ぬ日々から力を前借りする術を知らない。
私はいざとなれば幾らでも前借りできる。それがいつの日か己に牙を剥く事になっても」
私は構わない。それ以上に貴女を失う訳には行かない。取り戻した後の桂と白花の日々
の為にも。私はいつか貴女にお願いしたわね。
【でも、今なら言える。私にもしもの事があった時には、桂と白花をお願いするわ】
【はい。任せておいて下さい】
あの時は、もしもの事なんて想定もできなかったけど。あの時は、唯わたしを認めてく
れただけに思っていたけど。でも、今日の話を考え合せれば、真弓さんの強さの代償が今
後日常のいつどこで噴出するかも知れぬなら。
「想定しないで、もしもなんて言わないわ」
万一の事があれば、私は貴女に桂と白花を頼む積りなの。貴女の人生を狂わせるに近い
願いだけど。お義母さんに倣って頼む積りよ。
真弓さんの視線が、わたしを強く見つめる。
「貴女には、絶対に生き残って貰わないと」
「わたしはいつ迄も、ここにいますから…」
わたしが言えるのはそこ迄だった。そこに、
「太刀を、持ってきた。後は、どうする?」
正樹さんは自分用にバットも持ってきていた。何かの役に立つかも知れないと、何かの
役に立つ積りと、緊張した顔が物語っている。万全な準備の暇はない。もう走り出さない
と。
「場所はオハシラ様のご神木です。桂ちゃんも白花ちゃんも封じを解く鍵として操られて
います。敵は暗示や呪縛が得意な鬼が2人」
叔母さんの敵ではありません。むしろ時間との闘いになる。早く追い付かなければ…!
わたし達は夜の森へ各々の全速力で駆けだした。天空は雲が低くたれ込めて月も星も覆
い隠し、空気は湿気を含んで重く澱んでいた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしは森を疾駆する。既に真弓さんは姿が見えない程先を行き、正樹さんから先を行
くわたしの姿も見えてない。真弓さんは多分既に自身の最大限を未来から引き出している。
今迄寝込んでいたのが嘘の様に、まだ半分も補充できてない身体で、全力疾走する姿は、
森に入って暫くした時点で見失い、今も引き離されていて。関知の力で闇夜でも、足元の
凸凹や木々の枝葉を避け得るわたしだけど、真弓さんの足の長さと脚力には叶わない。
正樹さんは男性だけど、それらの感覚を持たないのでどうしても夜の山道は苦手となる。
既に森は闇に閉ざされ、木々や藪の影が濃く、生い茂る枝葉も足元の危うさも何ともし難
い。
目的地は一緒で分っているので、今は力の限り急ごうと互いの進みに関与せず、唯全速
力で夜の森を駆け抜ける。わたしも体力は万全と言えなかったけど、今は緊急事態なのだ。
『桂ちゃん、白花ちゃん。近付いてはダメ』
離れて。ご神木から離れて。
走りつつ、疾走を身体に任せつつ、心はわたしより濃い贄の血を持つ2人の幼児に呼び
かける。その先に見える事態を回避する為に。その先に待つ哀しみを回避する為に。わた
しの事は諦めても良い。でも、白花ちゃんと桂ちゃんの心に、拭えない傷を刻みたくはな
い。
『白花ちゃん、桂ちゃん。そこでじっとしていて、動かないで。前に出ないで!』
意識の集中が、日が暮れて強まる贄の血の力と連動し、わたしの求める像を導き映す。
ご神木を前に立ち尽くす2人の後ろ姿が明瞭に見える。視えるなら、聞える筈だ。聞える
なら、こちらから声届かせる事も出来る筈だ。
でも声は届かない。2人の心は何かに包まれて、わたしの声を受け付けない。邪視に心
を囚われている。2人を包む込む力を拭うか、その源を断たないと、わたしの声は届かな
い。
『桂ちゃん、白花ちゃん。わたしの、わたしの声を聞いて。届いて! 今行くから……』
双子の周囲には今誰もいない。2人を操る鬼も、ご神木の間近迄は近づけない者らしい。
真弓さんの気配はわたしより少し先にいる。でも、双子を腕に抱き留めるにはもう少し
時間が掛る。2人はご神木の根元迄数メートルの位置にいた。少し歩み出せば、手が触れ
る。2人はそうするように、暗示で操られている。
真弓さんは己の気配を隠してない。むしろ近づき行く己を示して報せ、相手に足止めの
必要を感じさせ、それで相手の所作を遅らせる積りか。迎撃や不意打ちの危険も招くけど。
真弓さんが突如足を止める。思い切り左横の藪に、破妖の太刀を振るう。鬼の少女が邪
視の力の応用で『力』を集約し赤い紐に束ね、真弓さんを絡め取ろうと伸ばした瞬間だっ
た。
『不意打ちは利かないっ!』『おのれぇっ』
怒りを込めた少女の声は、不意の攻撃を見切られても、二の矢三の矢を続けざまに放つ。
姿形はわたしより年下の、中学生位の女の子だけど、鬼の歳と力量は見た目では分らない。
でも真弓さんは、鬼を斬ってきた一族の当代最強だ。鬼の少女は夜にしか姿を現せぬ霊
体で、真弓さんの実家の千羽は、わたしを襲った鬼の様な実体を持つ鬼を斬る事が多いと
聞いたけど、真弓さんの域に至れば話は同じ。
真弓さんは鬼の少女の初撃を防ぎ、二の矢の赤い紐は中間で弾き、三の矢は逆に鬼の少
女が真弓さんの刃を防御相殺した感じで。見る間に攻守が逆転する。不意を突かれたと言
うより、攻撃させて相手の所在を掴んだのか。
鬼の少女は、真弓さんの力量を読み損ねた。不用意に仕掛け、真弓さんの破妖の太刀の
届く間合いに入り込まれた。もう逃げられない。そう思えた時、音もなくその背後に迫る
影が。
「ミカゲっ!」
わたしはもう1人の鬼の少女の名を呼んだ。姉以外に己を呼ばれた事の殆どない鬼の妹
は、思わず呼ばれた方角を向く。それで敵の連携は崩れた。真弓さんは瞬時に体勢を組み
直す。
真弓さんの刃が薙いだ時には、妹の鬼も我を取り戻し、その刃の届く領域を脱している。
それは牽制だからやむを得ぬ。姉の鬼も体勢は立て直したけど流石に容易に攻めて来ない。
真弓さんの力量を知った2人の鬼は、慎重に構えて距離を置く為、真弓さんは両睨みで簡
単に動けない。そこにわたしが漸く追い付き、
「また助けられたわね。危うい処だったわ」
「偶には遅く着く事にも利点がありますね」
わたしと真弓さんは互いの背を守り合う形で2人の鬼に対峙する。真弓さんが先程不意
打ちをしてきた姉の鬼ノゾミに、わたしが真弓さんの背後を突こうとした妹の鬼ミカゲに。
姉と妹の姿形は酷似している。病的な迄に白く透き通った肌、赤い鼻緒の草履履き、ノ
ゾミは右足首に金の鈴、ミカゲは左足首に金の鈴。双方共に、太股が見える程着物の裾が
短く、袴は膝にも届く程長い。非対称の振り袖は、ノゾミは右が鳩羽鼠に花の染め抜き、
左は薄紅で、ミカゲがその正反対だ。共に色の薄い、毛先が少し外向きに撥ねたかぶろ髪。
唯その表情が、姉の強気に対し妹は気弱そう。
「鬼切部……何で、こんなに早く!」
ノゾミは動揺を隠せない様だ。桂ちゃんと白花ちゃんを拐かしたは良いが、こんなに対
応が早いとは思わなかった様だ。彼女達が手を出した家が悪かったと言えばそれ迄だけど。
「叔母さんは姉のノゾミをお願いします!」
わたしは妹のミカゲを。それに真弓さんは、
「大丈夫? 貴女は、実戦はまだ一度しか」
「わたしは大丈夫、力量というより相性の問題です。わたしは実体を持たない鬼の方が」
真弓さんが一対一で破れる事はあり得ない。最悪わたしがミカゲを足止めできれば、真
弓さんがノゾミを切り捨ててご神木まで行ける。勿論、わたしも足止めで終らせる積りは
ない。
「今は桂ちゃんと白花ちゃんを最優先に!」
わたしの言葉に真弓さんは、言葉ではなく行動で応えてくれた。無言の侭ノゾミに向か
って突進する。少女の鬼は2人とも、暗示や呪縛を得意とする。真弓さんにそれらは殆ど
通用しない。数百年前の鬼切部に破れた様に、この2人は練達の鬼切部なら充分倒せる敵
だ。
わたしもミカゲに対峙する。こちらは真弓さん程の力量はないので、まず踏み込んで敵
の攻撃を受けてから切り返すとは行かないが、
「わたしの名を、貴女はなぜ知っているの」
抑揚のない声でミカゲが問う。その意図を察してわたしは左の腕で己の視野を塞ぎ止め。
質問への答より、その際に無意識に相手を、瞳を見据えてしまう事をミカゲは狙ったの
だ。
「少し考えれば分るでしょう。ここは羽様よ。贄の血の力の使い手は大抵、オハシラ様に
感応している。あなた達の過去はお見通し…」
視野を塞いだ事で動きが取れないと思ったミカゲが、力を赤い紐に束ねて何本も、わた
しの身体に放ってくる。紡いだ贄の血の力を、肌の表面に出してわたしはミカゲの赤い紐
を次々と触れる端から弾き飛ばし、切り裂いて、
「あなた達の戦い方も得意技もお見通し…」
身体を緊縛し、肌を裂き肉を抉るその力も、わたしの贄の血の力で相殺できる。ミカゲ
はわたしを直接縛る事が難しいと知ると、周囲に蜘蛛の巣状に紐を張り巡らせ、わたしの
動きを制約しようとする。数で包み込む積りだ。
「させないわ!」
わたしも贄の血の力を身体の外に放出する。腕の振りに合せ、青い力が闇の中で、赤い
力と触れ合って相殺し、爆ぜる。赤い力の紐が為す網目を、青い力の鞭と風が切り裂き崩
す。
「それも読みの内……」
ミカゲが喋りで、わたしの視線を再び誘う。
ミカゲが動きで、わたしの視線を三度誘う。
瞳を見ない様に、力のこもった瞬間の彼女の瞳を、見ない様に。邪視に囚われない様に。
視線を振ってそれを躱し、気配で察してミカゲの所作に応戦する。眼で見て闘えないの
はきついけど、気配は動きが見える前に分るので、何とか対応は間に合う。両親の仇だっ
た鬼と違い、強靭な腕力や爪の一撃必殺がなく、わたしは実体を持って尚贄の血の力を鬼
と似た感じで使えるので相性は悪くないけど、年を経たミカゲの術と力は百戦錬磨で、わ
たしの力量では中々闘いを優勢迄持ち込めない。
時間がない。桂ちゃんと白花ちゃんは今この時も、ご神木に歩み続けている。容易に崩
せぬ鬼の赤い力を前に、わたしの心に焦りが芽生えたその時だった。丁度ミカゲも、局面
打開の決定打を放つ隙を探っていたのだろう。
来る! 関知の力が一瞬後を映し出す。
わたしの左斜め背後上に強い気配が顕れた。巨大な蛇の頭が、大きな赤い双眸を輝かせ
る。それはわたしの頭を一呑みに出来そうな位の。わたしは蛇の動きに先んじて、力を込
めた左の手を背後に振るう。肉体と力の両方籠もった一撃は、ミカゲのかなりの力をつぎ
込んで実体化させた大蛇と激しく反応し粉砕するが。
「その手には掛らないわ!」
半瞬遅らせてミカゲはわたしの右斜め背後上にも同じく大蛇を実体化させていた。時間
差攻撃だ。先に出た方に気付いてもそちらに集中が偏って他ががら空きになる。先に出た
方に対応できても迎撃に全力を注ぐその間にもう片方が牙を剥く。その目論見を、続けざ
まに力を込めた右手を背後に振るって粉砕し。
「一撃ずつで、両方とも倒してしまうとは」
ミカゲが驚いたのは反応ではなく力の量か。実体化した程の鬼の力を瞬時に2回相殺し
た。力が弱ければ、動きを読めても応対できない、防げない。故に強引に攻めも出来、正
解に出来る。しかし地力が強い相手はそう行かない。
そしてミカゲのその言葉も、一種の罠だ。
驚いて見せたのも、次の所作を隠す為の。
わたしは力をより強く紡ぎだし、わたしの周囲半径2メートル四方を、一気に青い輝き
で包み込む。ミカゲがわたしの周囲に張り巡らせた有形無形の鬼の力を、纏めて消し去る。
両親の仇の鬼に対峙した時に、無我夢中で行なった結界に準じる青い力場だ。力の使い方
としては非効率で、続ければ無駄遣いだけど、強力で堅固な守りで、短時間で止めるなら
今のわたしに問題はない。それはミカゲへの示威である以上に、足元の闇に四方から迫り
来ていた幾匹もの大蛇への迎撃も、兼ねていた。
上半身に注目を集め、闇に隠れて下半身を攻める。その目論見を、粉砕して反転攻勢に。
青い力場を、破裂させる感じで周囲に放つ。老獪なミカゲが張り巡らせた赤い紐を、一
気に剥ぎ取る。点や線ではなく、面となって迫る青い力にミカゲは思わず仰け反り、守勢
に、
「ぐっ。まさかこの力、役行者……?」
「残念だけど、その域にはまだ遠いわ」
でも、あなたの魂を還す位ならわたしにも。
わたしの答に邪視が又輝いては、空ぶった。わたしが応える時に視線を合せたがるとミ
カゲは察しているけど、それはわたしも承知だ。そして空ぶったミカゲが、邪視から力の
集中を解く瞬間こそ、わたしの真の狙いだ。わたしは青い力を最大限込め、呪縛の視線を
ミカゲの瞳に送り込む。鬼の業を、こっちがやる。
無表情なミカゲの瞳が、驚きに見開かれた。
わたしは鬼に呪縛された事がある。贄の血の力を使えるようになって、人を痺れさせた
り弾いたり、鬼のなす事と同種の所作も為している。なら、呪縛もできない筈がない。
わたしは呪縛でミカゲの動きと力を封じた侭更に贄の血の力を紡ぎ、花びらをわたしの
周囲に舞い踊らせる。季節は丁度夏真っ盛り。オハシラ様の神木から遠くないこの辺りに
は白い槐の花が幾つも届いている。それを使う。
「そ、そんな、……主さま……、うう……」
ミカゲは力を体内に巡らせて、呪縛を解こうともがく。元々の力量はミカゲの方が上だ。
呪縛を同時に打ち合えば、多分わたしは勝てなかった。だからミカゲが呪縛に失敗して力
を別の技に転用する流れを見ていた。ミカゲが呪縛に失敗し、力を瞳から抜く時を狙った。
決まった技は力量が違っても容易に覆せない。関節を極めてしまえば、腕力の差で外すの
が至難な事に似ている。戦局はわたしが握った。
白い花が蝶の群になって、ミカゲの周囲を包み飛ぶ。ミカゲは肌の上から着物の上から
赤い力を滲み出させて応戦するけど、呪縛されているので思う様に応戦できず、躱せない。
白い蝶の舞い包む中、青い力が膜の様にミカゲを赤い輝きごと包み消し行く。後もう少し。
「柚明ちゃん、大丈夫か!」
正樹さんが追い付いてきた。わたしはミカゲへの呪縛を外せないので、振り向かない侭、
「こちらは大丈夫です。真弓さんも鬼と闘っていますけど、きっと大丈夫。それより桂ち
ゃんと白花ちゃんを。ご神木へ急いで!」
形勢の優劣は見て分った様で、正樹さんはわたしの促しに沿って、ご神木に駆けて行く。
わたしも早く決着を付けてしまわないと拙い。わたしの目的はミカゲを倒す事ではないの
だ。
強力な鬼だから、元々わたしより長寿で力量の大きな鬼だから、中々決定打にならない
けど、この侭白い花の蝶で包み込んでいけば。
その時だった。後もう少しと言う時だった。
遠雷にも似た、何かの波動が森にいた全員の心を駆け抜ける。心臓を突き刺す痛みが…。
「オハシラ様が、竹林の姫の魂が、還った」
遂に落ちてきた雨粒が額を髪を打ち始めた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしが定めをもっと早く受容していれば、展開は変っただろうか。視たくない未来に
もっと早く得心していれば、流れを変え得ただろうか。いずれにせよこうならざるを得ぬ
と、遅まきながらわたしはあの瞬間に、覚悟した。わたしは草木の如く来たる定めを受け
容れる。
それがたいせつな誰かの幸せに必要なら。
それがたいせつな誰かの助けになるなら。
わたしの心を甦らせてくれた人の為なら。
「オハシラ様……」
悠久の月日を重ねてあり続けた一つの世界が還り行く。主と共にあり続け、この世の果
て迄終らぬ筈だった結界が還り行く。永遠に続く封じ等ないけど、完全な守り等ないけど。
この歳月を重ねた末に、お役を果たしきれず中途で逝かねばならぬ娘の思いは如何程か。
世の主流に忘れ去られ、そのお陰で平穏が保たれている事さえ羽藤にしか伝え残されぬ中、
ひたすらお役に徹し己を捧げた娘の思いは如何程か。娘と主との、相容れぬ中でも奇妙に
通じる悠久の関係は、崩れて二度と戻らない。
遠雷に似た封じの崩壊は、わたしとミカゲの対峙にも甚大な影響を与えた。封じの崩壊
に伴う余波が全ての力を吹き散らし、ミカゲは自由を取り戻した。わたしも彼女も共に体
勢が大きく崩れ、少しの間身動きが叶わない。
「くあああああぁあぁつ!」
耳に届く悲鳴はミカゲの物ではない。では、
「姉さま……」
己の姉の断末魔の叫び声にも眉を動かさず、
「封じのハシラは還った。封じの要は崩れた。もう私達の目的は達した……」
ミカゲが実体を解いていく。もう闘う必要はないと。後は要を失った封じが崩れて、中
から鬼神が出てくるのを待てば良いだけだと。ここで劣勢な闘いを尚続ける意味は薄いと
…。
「くっ……! でも今、急ぐのは」
ミカゲの気配を追う事は尚可能だったけど。衰弱した彼女を討ち果す事は可能だったけ
ど。戻る処迄追って依代に止めを刺すべきだけど。
大切なのは、桂ちゃんと白花ちゃん。
急ぐべきも、白花ちゃんと桂ちゃん。
強くなる雨粒が打ち付ける中、わたしはご神木へ駆けて行く。そう遠くない距離を走り
抜けたわたしは、オハシラ様の気配を喪失したご神木の前で立ち尽くす正樹さんと真弓さ
ん、その前で呆けて座り込む双子の姿を見た。
みんな外傷はない。真弓さんのお陰か、オハシラ様を還すと解ける呪縛だったのか、白
花ちゃんも桂ちゃんも疲れ切っているだけで、心も身体も異常はない。それは良かったけ
ど。
ピカッ。本物の雷が近くに落ちる。
雨はいよいよ本格的になり、大地の全てを押し流す様に叩き付ける。それは竹林の姫の
涙雨だったのかも知れない。或いは、主の…。
「真弓、どうだ」
正樹さんの問に、真弓さんが青く光らせた右目をご神木に走らせる。それは鬼も含めた
人ならざる物を、見定め見通す鬼切部の術だ。
「駄目ね。もうこの木の中にオハシラ様はいないわ。彼女は、還ってしまった」
そうか。正樹さんの声は沈痛だった。
「ええ、奴が出てくるのは時間の問題よ。まだ綻びは小さいから、大きな魂は出て来れな
いけど、封じの要がない以上。ひとまず、私が抑えてみるけど、きっと何時間も保たない
んじゃないかしら。本当にどうしましょう」
雨の中、わたしは静かに歩み寄る。真弓さんはもうわたしの気配に気付いているだろう。
「真弓」「何です、貴男?」
「私が、私がオハシラ様を継ぐことは出来ないだろうか?」
正樹さんが、決意を込めた声を絞り出す。
「私にはオハシラ様と同じ血が流れている。私がオハシラ様の穴を埋めれば、封じは元の
状態に戻る筈。少なくとも、その綻びとやらが大きくならなければ、主は出て来れない」
己を省みないのは、羽藤の家の習いらしい。血筋はやはり気質が似てくる物なのだろう
か。
「ええ、そうね。だけどそれは出来ないわ」
「どうして?」
「貴男を愛しているから。……なんて理由だけなら良かったんだけど、もっと現実的な問
題なの。貴男じゃ力が足りないの」
「しかし、私の身体には……」
「流れているけど、薄いの、特別。長い羽藤の歴史の中で、一番一般人に近いのは、貴男
よ。濃さで言えば、お義母さんの三分の一位で、うちの子の十分の一位かしら」
「真弓、まさか?」
「馬鹿ね、そんな事しないわ。心を鬼にした処で、無理なんだから。これも……」
真弓さんは沈痛な溜息をもらして、
「現実問題絡みでね、ある程度力の使い方を知らないと、オハシラ様になれないの。貴男
は視えもしないでしょう。それはあの子達も同じ。そう言った事は何も教えてないから」
「母さんは知っていたみたいだけど」
ええ。思案に惑う感じで真弓さんは頷き、
「お義母さんが亡くなったのは去年だから」
「ではわたしなら、大丈夫ですね」
お父さん、お母さん、わたしにあの時の勇気を分けて。生命を抛って守ってくれたあの
時の、たいせつな人に己を捧げ尽くす勇気を。
約束を果すべき、時が来ていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「わたしは笑子おばあさんから、力の使い方の手ほどきを受けていますから」
真弓さんはその可能性に、思い当たっていたに相違ない。受け容れたくなかっただけだ。
わたしと同じ。見たくない物は目の前にあっても人は見ない。でもそれでは拙い時もある。
嫌な物でも嫌いな物でも誰かが見据えないと。
「確かに、柚明ちゃんは才能あるけどね。でも、これはうちの子達がやったことだから」
「でも、他に方法がありませんよね」
わたしの心は定まっていた。あの赤い輝きを見た時に。白花ちゃんと桂ちゃんの命の危
険を視た時に。わたしが封じの継ぎ手を担わなければ、赤い蛇を纏わせた山の神が封じを
破り、この場のみんなを喰い殺すのが視えた。
多分真弓さんがこの先の人生全ての力を呼び集めても勝つ見込みの立たない強大な蛇の
神が、赤く輝く星の神が。数時間後この場に。逃げて間に合う物ではなく、隠れてやり過
ごせる物でもない。そして恐らく近代兵器の全てを投入しても神を殺す術などありはすま
い。
桂ちゃんと白花ちゃんが、喰い千切られる。
あの像は、双子が以前森に迷い込んだ時視たわたしの像は、あり得ない事ではなかった。
むしろ今からの選択ミスが招く事態の一つを、あの頃から関知の力は危惧していたのかも
…。
防げない、倒せない、敵わない、抗えない。主を止める術が選択肢に浮ばない。主の強
さはわたしの関知の全てを超えている。そして主は甦ればほぼ間違いなく双子の生命を奪
う。
それはさせない。双子はわたしが守り抜く。
あの蛇神は絶対解き放ってはいけない者だ。
白花ちゃんと桂ちゃんの為に、この世の終り迄眠り続けて貰わなければ、ならない者だ。
わたしの全てを引換にしても。わたしが何を失おうとも。一番たいせつな、ひとの為に。
「柚明ちゃん、君は、オハシラ様になる事が、それが一体どういうことか、分って…
…?」
正樹さんは、贄の血は薄いけど笑子おばあさんの贄の血の力を介して、感応はしていた。
なら、封じの柱になるという事、主を抱えて永劫に神木に依り続ける事を、分っている…。
『だが姫よ、人の形を為して現れるなど、そうそうできることではないぞ。封じの柱に出
来るのは、唯見守ることのみと思って良い』
彼女はずっとここに居続けるが、できる事は見守り続ける事で意思を示す術も殆どない。
ご神木の槐に依り、半歩も身動きが出来ない。肉を失った存在である彼女に、外界への接
触の術はない。その力は全て封じに回っていく。
終わる時も知れず、世の中から切り離され、知った人の全てが息絶える永劫の時の彼方
迄。悠久の孤独、永劫の無為、久遠に唯あり続け。それは人の幸せの全てを抛つよりも、
場合によっては死よりも厳しい終りの見えぬ定め…。
【ええ。わたしが生命尽きる迄捧げる積り】
それがわたしの望みだった筈だ。わたしが、心に想い定めたこの世で一番たいせつな人
の為ならば。両親や、生れる前に息絶えた妹の生命と引換に生き残れたこの罪深いわたし
が、生きる値を持てたのは、生きる目的を持てたのは、生きる意志を持てたのは、双子の
お陰。何の為に今迄この生命を繰り越し保ってきた。
【だから、全てを捧げ尽くし、干涸らび朽ち果てても、あの2人がそれを苗床に元気に巣
立って行っても、悔いはないの。幸せなの】
「桂ちゃんや白花ちゃんと一緒に過ごせたこの6年間、わたしはとても、幸せでした…」
文字通り2人はわたしに人生をくれました。闇に沈んだわたしが、再び前を見つめる事
が出来たのは白花ちゃんと桂ちゃんのお陰です。
瞳の裏に浮ぶのは愉しく愛おしかった日々。
「この年月がある限り、それを胸に抱く限り、生きても死んでも、わたしの生命に意味は
あった。姿形の在り方がどう変っても、この想いを保つ限り、わたしは悠久に幸せです」
今この時を、確かに強くしっかり刻む。
後から幾度振り返っても、思い返せる様に。思い出せない程心が摩耗し、果てしなく長
い時が過ぎ去り、振り返れぬ程遠ざかった果ての末にも、素晴らしかったと応えられる様
に。全てを失う絶望の闇の向うでも光抱ける様に。
腕の震えを抑え込む。怯える心を封じ込む。
泣き顔は駄目。最期の泣き顔は後味が悪い。
今は唯、己の受け容れる定めに静かに従う。
わたしには、わたしの個の幸せより大切な物がある。わたしには、わたし自身より守り
たく想う人がいる。わたしには、わたしの何を犠牲にしても絶対失いたくない笑顔がある。
「桂ちゃん、白花ちゃん。わたしは、いつでも、ここにいるわ……いつ迄も、いつ迄も」
【大丈夫。わたしはどこにも行かないから。
ずっと、ずっとこの羽様に居続けるから】
わたしに真に大切なのは、わたしが生きる値であるあの双子の微笑みで、わたしが生き
る目的であるあの双子の守りだ。その為ならわたしは何度でも命を捧げられる。その為な
らわたしは悠久の封印も耐えられる。わたしは本当に血の一滴に至る迄、その最後の一滴
に至る迄、生贄の一族の思考発想の持ち主だ。
わたしは出来るだけの笑顔を答に代えて、
「笑子おばあさんとの約束、憶えてますか」
【2人の幸せを守る為に、全てを捧げます】
「約束を、果してきますね」
「待ってくれ。私もあそこで、母さんに約束したんだ。私達が君を、君を託されたんだ」
【この生命がある限り、柚明ちゃんを哀しませる事はしない。大丈夫です】
正樹さんはわたしの腕を掴んで止めるけど、
「わたしが一番哀しむ事は、何ですか?」
わたしは正樹さんの必死な目線を、焦りと哀しみが渦巻く目線を、静かに見据え言葉を
紡ぐ。為すべき事も、それがわたしにしか為せない事も、明確に見えた。正樹さんも多分、
見たくないから見えてこない口なのだろう…。
「それは……」「分りますよね」
桂ちゃんと白花ちゃんがこの世で1番たいせつなひと。わたしの全てを捧げ尽くすひと。
「わたしが哀しむ事が何か分るなら、この手を放して下さい。わたしが桂と白花を守る為
に行う事を、止めないで下さい」
正樹さんの手が力無く下がる。それ以外に術がない事を、彼は見て分らない人ではない。
【柚明ちゃんの幸せは、私が守ります】
止めたいのは山々だけど、止めてはいけないと分る故に、止められないで立ち尽くして
いる真弓さんに、約束ですよと、語りかけて、
「わたしの幸せを、守って下さいね」
瞼に堪るわたしの涙は、誰の為の涙だろう。
雨が全身を打ち付けてずぶ濡れにしている。でも、わたしはもう風邪を引く心配はない
…。
「風邪を引かない様に、注意して下さいね」
桂ちゃんの瞳に意志の輝きが戻った。ノゾミの方がミカゲより、邪視の呪縛は弱いのか。
白花ちゃんももうすぐ意識を戻す。大丈夫だ。
「人が1人突然いなくなるので、学校とか住民票とか、問題が出るかも知れませんけど」
後々の事に心残りは尽きないけれど、
「叔父さん、叔母さん、お願いします」
わたしの笑みは寂しそうに映っただろうか。その仕草に訣れの気配を感じたのか、桂ち
ゃんが声を限りに、わたしを呼び止めてくれる。
「ゆめいおねえちゃん!」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
幼い泣き声が遠ざかる。でも、遠ざかるのは桂ちゃんの泣き声だけではない。全ての物
音も、目に映る像も、ぼやけて薄れ遠ざかる。消えていく。それはこの身体が消失し行く
証。
身体が透けて消えて行く。贄の血が、力が強く作用し、ご神木に同化する。身体の感覚
も重さも消える。上下が曖昧になる。肌や肉を通し繋っていた外界が、突然内蔵に触れる。
でも……。身体は容易に消えようとしない。
確かに同化は進んでいるけど、その進み具合は遅々として、満足のいく物ではなかった。
感応した時に体感した、竹林の姫の時と違う。これでは時間が掛りすぎる。ご神木の封じ
を立て直す前に、主が出てきてしまいかねない。
ご神木に触れた部分は同化して透けていくけど、そうでない部分は心臓が脈を打ち肺が
息を継ぎ尚生きようとし続けて。同化を拒んではいないけど、生きる事も諦めてはいない。
『身体が、生命力に溢れすぎている……?』
生贄とは、基本的に死んで役に立つ存在だ。捧げる儀式で斬り殺す事もあるし、埋める
者も埋め殺してから効果が出る。唯槐に寄り添うだけでは駄目なのか。竹林の姫は元々身
体が弱く、生気が乏しかった。自身が諦めればその瞬間に生命の火が消えそうに、儚かっ
た。でもわたしはそうではない。贄の血の濃さと力の扱いは資格を満たすけど、健康優良
以上、真弓さんに鍛えられた為に肉体的にやや強い。
そしてわたしに尚未練がある。悔いがある。
ほんの少し怖いから。ほんの少し嫌だから。
もう少し、双子の側に居続けたい。もう少し、2人の笑顔を側で見つめたい。わたしの
幸せは、桂ちゃんと白花ちゃんの幸せだけど。それを側で見たい、これはわたしの怯えと
欲。
わたしが白花ちゃんと桂ちゃんと、日々を過ごしたく願っている。断ち切れない程強く
欲している。そうする事が無理だと分るのに、ここでわたしが継ぎ手にならないと、その
笑顔が2人毎消えてなくなると分っているのに。
駄目。駄目なのに。心が言う事を聞かない。
怯む心を叱りつけ、たじろく体を叱りつけ、
「叔母さん、お願い」
わたしは既に一部槐に同化して、離れられない。張り付いて、接着されたに近い状態だ。
「最後のお願い……。わたしを、斬って!」
この侭じゃ時間が掛りすぎる。主が、主が出てこようとしているの。主が出てきてしま
った後で封じを立て直しても、意味がないわ。
「わたしの生命力を低下させて、同化を急かすの。それしか間に合わせる術はない。その
破妖の太刀で、わたしを斬りつけて!」
主が封じの綻びを、内から押し広げている。出口が見えたと知って、そこに手を伸ばし
ている。ご神木の力が妨げているけど、オハシラ様なしじゃ本気になった主は、何十分も
抑えられない。わたしの同化はこの侭じゃ、明日の朝迄掛ってしまう。わたしを斬り殺し
て。
どちらにせよ槐と同化して失うこの身体。
これからは同化して一つになるこの生命。
「わたしの一番の幸せは、わたしの大切な人がみんな、涙を零さず笑みを絶やさず、日々
を暮らして行く事だから。桂ちゃんと白花ちゃんが陽光の下で微笑んで過ごす事だから」
わたしの幸せを守る為に、わたしを斬って。
「柚明ちゃん……」
真弓さんの涙声が背後から聞えた。手を伸ばせば届く距離。でもわたしはもう振り返る
事も叶わない。構えた太刀の硬質な音がする。
刃が、来る。身体を2つに、裂いていく。
でも、その瞬間はいつ迄経っても来ずに、
「……出来ない。私には、出来ない……!」
真弓さんが力無く崩れ落ちる。刀を持った真弓さんがこんなに弱々しいのは、初めてだ。
「叔母さん、早くしないと、主が、来ます」
わたしも贄の血の力を全力で紡いでご神木に流しているけど、残った身体の機能は全部
それにつぎ込んでいるけど、封じの要のないご神木に幾ら力を流しても、足止めにも修復
にも及ばない。綻びを縮める力にもならない。
「早く、早くわたしの身体を斬って!」
そうしないと、わたしのたいせつなひとが、一番たいせつなひとの幸せが、叔母さんと
叔父さんの一番たいせつなひとの未来が消える。
「力を……、力を持って来られないのよ…」
真弓さんは今日は生命力前借りの精算の日。生きる力の低下する日だ。恐らくここ迄真
弓さんは更に未来のまだ来ぬ日々から、生気を前借りしたに違いない。だがそれは無理を
押し通す尋常ならざる強い想いがあって為せる。微かでも迷いがあると為せない。真弓さ
んはみんなの幸せを守る為、鬼を倒す為に無理を利かせられた。その無理が利かせられな
い…。
真弓さんには、わたしも桂ちゃんや白花ちゃんと同じ位、大切な物だったのか。嬉しい
けど、涙が零れる程嬉しいけど。それじゃ目前の危機は防げない、止め得ない。常なら心
を鬼にして太刀を振りかぶる事も出来た。でも今の真弓さんにそれは求められない。なら、
「叔父さん、お願い。叔父さんが斬って!」
刺しても良い。わたしの生命を絶ち切って。
「柚明ちゃん。君は私に……」
私に君を、刺し殺せと言うのか!
苦悩を帯びた声が返る。ああ、その通りだ。
真弓さんにさせられなかった事を正樹さんに頼むなんて、わたしは何と酷い事を。でも、
「誰かがわたしの生命を絶たないといけない。誰かがわたしを傷つけないと、みんな滅び
る。みんな死んでしまうの。羽藤家の長として」
わたしは正樹さんに、やりすぎを承知で畳みかけた。それは日中に叱られた事を満たす
けど、躊躇ってはいられなかった。どんな手段ででも、正樹さんにわたしを斬らせないと。
「みんなが心配なら、みんなを守りたいなら、わたしを哀しませる様な事を招かない為
に」
笑子おばあさんの代りに言います。
関知の力が導く侭に、わたしの口は告げる。
「柚明を斬りなさい!」
瞬間、背中から心臓に向けて冷たい何かが貫くのを感じた。それがきっと、人生で一回
位しか感じる事の出来ない、致命傷の感覚だ。
「正樹にしては、上出来だね……」
笑子おばあさんが言ったに違いない言葉を言い終えると同時に、傷から血が噴き出した。
それは、贄の血が歴代で最も薄く、羽藤の家に生れながら羽藤の者でないかの如き想い
を抱きがちな正樹さんに、笑子おばあさんがかけた最大限の誉め言葉だった。血が薄い事、
家族みんなと違う事を否定せず、厳然と受け容れ、正樹さんにも受け容れさせ、その上で、
本人の努力を・成果を認めた時の誉め言葉…。
関知の力でこんな事を分るのはきっとカンニングの様な物で、正樹さんと笑子おばあさ
んの親子関係に土足で踏み込む物だろうけど。正樹さんの涙は、哀しみと懐かしさを兼ね
て。
「母さん……そして、柚明ちゃん、ごめん」
絞り出す沈痛な声にわたしは努めて明るく、
「漸く、わたしを哀しませずに、済みそうですね、叔父さん。……ごめんなさい、わたし、
叔父さんと笑子おばあさんの、大切な想い出に迄、入り込んで、しまっ、ゲホゲホっ…」
わたしの身体の生命力が、中枢を破壊されて急速に落ち込んでいく。槐のご神木への同
化がそれに反比例して、急速に進みつつある。成功だ。これなら、十分経たずに同化でき
る。言い換えればその前にこの身が死ぬと言う事。
「わたし、やっぱり、叔父さんの、言った通りでした。背負いきれないのに、1人で全部
できる様な答を返して、子供なのに、勝手に何もかも背負って、少し、やりすぎでした」
結局わたしに出来るのはこの程度でしかないのに。白花ちゃんと桂ちゃんの未来を側で
見守る事も、導く事も、監督する事も、出来ないのに。己が一番、視えていませんでした。
「桂ちゃんと白花ちゃんを、お願いします」
わたしに、輝きをくれたひとを。
わたしの一番たいせつなひとを。
わたしが、永遠に愛するひとを。
「真弓っ、触るなっ!」
正樹さんが拒むのは、真弓さんが正樹さん1人に責任を負わせない為にと、わたしを貫
いている刃の柄に、手を伸ばそうとした為だ。
「柚明ちゃんを斬ったのは、この私だ。他の誰にもこの責任は分け与えない。その罪も罰
も、誰にも分け与えない。私1人で、充分だ。……破妖の太刀を、汚して、済まなかっ
た」
正樹さんが身体から太刀を引き抜いていく。
息苦しさが増すと思ったけど、同化の進展が早い為か、苦しさを感じる機能も落ちてい
るのか、余り変らない。感覚が遠のいて行く。
「柚明ちゃん。私、貴女に、何と謝れば…」
真弓さんが血塗れのわたしに取りすがってくるのが分る。立ち上がれないで、わたしの
膝下に絡みつく感じだけど、もうその足も半ばなくなっていて。最早体温も感じ取れない。
「そうそう、サクヤさんに伝えて下さい…」
最後に一つだけ、思い残しがあった。きっとサクヤさんは、今夜のこの結果に憤慨する。
残った人、特に真弓さんに、誰にも向けようのない哀しみと怒りを、ぶつけるに違いない。
だから真弓さんに頼めば、一番確かにサクヤさんに伝えて貰える。わたしの最期の想いを。
「オハシラ様を守れなくて、済みませんでしたと。サクヤさんの一番たいせつなものを守
れなくて、済みませんでしたと。それから」
もう言葉が紡げなくなっている。肺も喉も同化しつつある。次のこの一言が、最後かも。
「わたしは、望んでこの選択をしましたと」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
もうわたしを打ち付ける雨粒はない。雨は尚降り続けているけど、残された人達の心を
顕わす様に、雷鳴を伴い地を叩き続けるけど。
外界はわたしに干渉できない。
わたしも外界に干渉できない。
全てが遠ざかっていく。その中で、主の魂が封じの綻びに、外界の口に手を掛けようと
している。わたしの同化は進みつつあるのに、ご神木は主の魂を抑えようとしているのに
…。
誰かが、近くの誰かが主の鬼の魂に共鳴し、外界へ招いている。鬼の心を、鬼に近い憤
怒と憎悪が方向を示し引っ張っている。わたしの同化が間に合わなくなる。ハシラの継ぎ
手として機能し始めるのが、間に合わなくなる。
呼ばないで、鬼の魂を呼ばないで!
それは、漸く呪縛が解けた幼い心。
「お父さんが、ゆーねぇを、斬った」
お父さんが、大好きなゆーねぇを。
「ゆーねぇを、叱らないでって言ったのに」
ゆーねぇ悪くないのに。悪くないのにっ。
幼い目が、哀しみを受け止めきれずに揺れていた。還らぬ大切な物の喪失を前に、小さ
な心が荒れ狂って、溢れ返っていた。
「はくかは、いくらでも謝ったのに。
はくかはいくらでも叱られたのに」
どうして、ぼくのたいせつな人を!
「嫌いだ。お父さん、大っ嫌いだぁ」
怒りと憎しみが幼い心を染め抜いて、鬼の心に共鳴した。わたしは綻びから出てくる主
の魂を間一髪で、己と一緒に叩き落したけど。封じの外に引っかけた『手』に当たる部分
を取り零してしまった。それは、先んじて外に出ただけあって、主の中でも最も外に出た
い、封じを外したい、その想いの結晶の様な物で。
他の部分と切り離されても、それは主の分霊として宿る物を捜し、己を呼び招いた物に
引き寄せられ、その心を乗っ取った。白花ちゃんは怒りに心を囚われていた。その怒りに
加勢して、便乗して、その侭心に入り込んで。
真弓さんがそれに気付いたけど、もう遅い。
わたしはご神木の中の主本体を抑えるので手一杯だった。継ぎ手に移行中のわたしは外
に心を伝える手段がない。蝶を飛ばすどころか、風を吹かせる力もない。視る事、知る事、
聞く事は出来ても、告げる事も報せる事も…。
赤く輝く視線は既に、白花ちゃんではなく、主の目線だ。乗っ取った身体の血を啜って
も己の足を食べる蛸に等しいと、周囲を見れば贄の血が同じ位濃く無力で小さな獲物が1
人。
わたしは何もできない。何も伝えられない。
双子の幸せを守る為に継ぎ手になったのに。
双子の未来を繋ぐ為に継ぎ手になったのに。
わたしには結局何も為せないのか。何も残せないのか。わたしは結局禍の子で終るのか。
白花ちゃんの身体を使い、主の分霊が凶器と化した腕を伸ばす。白花ちゃんの腕は小さ
く短いけど、鬼の力を受けて目一杯に強化されており、桂ちゃんは全く無防備で動けない。
鮮血が噴く。視界を染めて行く多量の赤は、
「けい……」
正樹さんの胴から噴き出す流血だった。
桂ちゃんの前に立ちはだかり、正樹さんは己を差し出して娘を守った。幼子の抜き手は
深く彼の腹部に刺さり、抜き取られて更に多量の血を噴いた。ああ、それは恐らく致命傷。
たいせつなひとが、いなくなってしまった。
「貴男っ!」
真弓さんが鬼の気配に、もう一度まだ来ぬ日々から力を引っ張り寄せて、破妖の太刀を
構え直す。白花ちゃんの身体を乗っ取った主の分霊は、流石にその身体では対抗できぬと、
一言二言言い捨てて、その場を走って逃げて。
真弓さんもそれを追える状況ではなかった。構えただけの破妖の太刀は、既にべっとり
と血に濡れている。それは誰が誰を斬った血か、思い返した瞬間に、真弓さんもその場に
立ち尽くすのが精一杯で。力が再び抜けて崩れる。
「貴男、しっかりして。あなたあぁぁっ!」
真弓さんが寄り添った時には、正樹さんは虫の息だった。桂ちゃんは極度の緊張と疲労
でその場に倒れ。多くの人が、多くの大切なものを一挙に失って、運命の夜は更けて往く。
雨は降り止まない。わたしの心の雨も降り止まない。槐の花を散らせ、多くの生命を散
らせ、わたしの想いを幾つも散らせ、雨は全てを押し流して行く。時も押し流されて往く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
日の射し込む森の中、槐の巨木が天に向って堂々と伸びていた。それはとても美しくて
力強い。白い花の舞い踊る様は、それが幾度目の夏でも、とても香しく心落ち着かされる。
今日はこの巨木を訪ねる人がいた。枝葉からの木漏れ日の中、巨木に向き合って見上げ
る様に、その幹に軽く手を触れて立ち尽くし。
「正樹は、結局助からなかったよ……」
声は少し沈んでいた。良い報告ではない所為だろうけど、ワイルドな普段の彼女らしく
ない。やや癖のある長い髪は、図鑑で見た狼のつやつやの白銀の毛皮に似て美しく力強い。
「白花は、あれ以来行方不明だ。主の分霊が憑いた侭にせよ、白花が身体を奪い返したに
せよ、どこかで情報が入って良いんだけどね。鬼切部が、怪しい。もう少し調べて見る
よ」
槐の幹を、愛おしむ様に撫でながら、
「桂は……。桂は全部、忘れたってさ」
サクヤさんは哀しげに瞳を俯かせて、
「あの夜の事は、6歳児には重すぎた様でさ。双子の兄を失い、父を失い、あんた迄失っ
た。何か思い出そうとする度に、赤い頭痛がするって、痛い痛いと毎日毎日泣いて、泣い
て」
最後には真弓も、火事で全部焼けたって話にして、傷口を塞いでしまった。正樹は父親
だからいた事になっているけど、白花もあんたも、桂の中では最初からいなかった扱いさ。
その頬を、二筋の清い水が伝い行く。
酷い話だろう。あんたは、忘れない事を失った者達との一番の絆にして生きていたのに。
事もあろうにそのあんたを、あんなに近しかったあんたを、いたって事も忘れ去るなんて。
声に非難の色はない。唯哀しみが濃く深く。
「稼ぎの事情もあって、真弓は桂と2人で町に引っ越した。羽様の屋敷に戻れば桂が記憶
と一緒に痛み迄戻すから、住めないらしい」
桂には、あんたと暮らした年月は最初からなかった事になっているんだよ。想い出迄も。
桂は無邪気で可愛いけどさ。悪気がある訳じゃないと分るけどさ。でも、あんまりだろう。
「真弓の処に行ってきた。どやしつけてやろうと思ってさ。あんたがいながら、当代最強
のあんたがいながら、このざまは何だって」
泣かれたよ。あの真弓が、ぽろぽろぽろぽろ涙を流して、あたしに崩れかかってきたよ。
「あんたに、申し訳ないって。あそこ迄して貰いながら、あんたの幸せを守りきれなくて、
あんたに合せる顔がないってさ。あたしは」
真弓があんな風に、泣き崩れるのなんて見た事もないし、想像も出来なかったよ。結局、
あたしも約束を、守れなかった口だからねえ。
【分ったよ。笑子さんの大切なひとたちの幸せは、あたしが守るよ。必ず、守るからさ】
「結局約束を果せたのは、あんた1人だけ」
義理堅いにも程があるよ、あんたはさ…。
「それ以上強い事は言えなかったよ。真弓は、桂の成長を待って、事実を話す積りらし
い」
伝言を預ったよ。暫くは来られないからと。
残された幸せだけでも守ると、伝えてって。
そうそう。白く淡い輝きを帯びたちょうちょの髪飾りを、彼女は槐の巨木の根に置いて、
「羽様の屋敷から持ってきたよ。これは眠らせて置くより、あんたが身に付けて似合う」
あんたは、珠の様に可愛らしかったから。
不意にその美貌が、激情に大きく歪んで、
「何で、何であんたが、あんたがっ」
望んでなっただなんて。そんな、そんな。
幹を叩き付ける震動が想いの強さを示す。
「あたしは何度手遅れを見れば良いんだ!」
泣き崩れる様が愛おしい。幹を通じて流れ込む感情のうねりは、本当は封じを揺らす物
だけど、わたしはそれが例え様もなく嬉しい。
《有り難う……来てくれて……嬉しい……》
整理された言葉ではなく、漠然とした想いしか伝えられないけど。耳に届くと言うより、
肌を通じて、震えで伝えるのが精一杯だけど。わたしの反応に、彼女は驚きに目を見開い
た。
伝わった。大切な人に、想いが、漸く。
それが精一杯だけど。今の限界だけど。
槐の白い花が又1つ2つ、散っていく。
「血が……あんたの血が、あたしの中に流れていたんだ。あんたはあたしの中で息づいて
いる。そうかい、そう言う事かい。ああ!」
サクヤさんの中に流れるわたしの血を介して共鳴できる。心が、微かにでも伝えられる。
哀しみの中に嬉しさも混ぜた涙が溢れ出る。
《わたしは……幸せです……今でも尚……》
たいせつなひとの幸せを護れれば。
その人に忘れ去られても構わない。
誰1人、わたしを知らなくなっても。
誰1人、わたしを憶えていなくても。
わたしが大切な人の為に尽くせているなら。
わたしが大切な人の幸せを支えているなら。
わたしはその事実で幸せ。とても、幸せ…。
誰に知られなくても、わたしが知っていれば良い。誰に忘れ去られても、わたしが守り
通せれば良い。返される想いなんて求めない。わたしが、たいせつなひとを守りたかった
の。
《わたしはわたしが愛したから為しただけ。気持を返して欲しいなんて、思わない。憶え
ていて欲しいとも、感謝して欲しいとも…》
サクヤさんの嗚咽は、深甚な哀しみと喜びの混ざり合った、言葉に為しえぬ想いの津波。
「……せめて、あたしは、忘れないから」
あたしは、悠久にあんたと過ごすから。
誰が朽ち果てても、誰が干涸らびても、あたしはあんたを忘れない。ずっと、ずっと同
じ時を生き続ける。今こそあたしはあんたと一緒の時間を生きられるんだ。あたしだけが。
「全てが終る、長い時の彼方の滅びの日迄。
主を還し終ってあんたも還る最期の日迄」
この様にして、わたしは悠久に時を刻む。
この様にして、わたしは永劫に時を刻む。
風が吹いて、満開の槐の白花を散らせ行く。