第14話 仰げば尊し



前回迄の経緯

 羽藤柚明も中学校の卒業式を迎えました。愛らしい後輩、頼もしい同級生、お世話にな
った先生。同じ高校に進学する人もいるけど、旅立ちの季節は少なくない別れをも伴いま
す。

 わたしも夏に文彦君や南さんとの恋仲を解消し、秋に沢尻君の告白を退けて異なる幸せ
を選び取り、冬には笑子おばあさんとの永訣を迎え。卒業に伴って更に何人かと違う途を。

 人に出逢がある以上必ず別れは伴うけれど。別れを惜しむ想いも、淋しさ心細さも必然
で。でもそれは、己のみではなく、みんなが抱く想いだから。わたしは己の想いに塞ぎ込
まず、愛しい人が前を向いて進み出せる様に促そう。

 参照 柚明前章・番外編第10話「夏の終り」

     柚明前章・第三章「別れの秋、訣れの冬」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 みちのくの春は雪尚深く肌寒く。それでも3月の終りになれば、陽が照す場所は暖かい。

 経観塚銀座通中学校へ通い始めてはや3年。
 生徒教員が集った体育館に響き渡る歌声は。

「仰げば尊し、我が師の恩
 教えの庭にも、はや幾年(いくとせ)
 思えばいと疾(と)し、この年月
 今こそ別れめ、いざさらば」

 羽藤柚明も、中学校生活最後の日を迎えた。
 正面には後輩が、傍には同級生が立ち並び。

 脇を見れば、正樹さん達保護者や先生方が。
 大人への階梯を進むわたし達を見守り祝い。

 今日が最後と思い詰めると、涙ぐむ女の子の気持も少し分る。何気なく過ごした教室や、
日々行き交った廊下に玄関。中学校の3年間、人生の何分の一かを過ごしてきた。それが
本日で最後となれば、式典となれば感慨も深く。

 わたしは来月から、ここと1キロも離れてない県立高校に通うので、生活環境に大きな
変動はないけど。真沙美さん華子さんの様に、高校は県外の学校に進み、都市部へ移り住
む人もいて。そうなればみんなとお別れだから。

『丁寧な想いの籠もった送辞を有り難う……私からは在校生の皆さんへ、通り一遍の答辞
に代えて、私の想いを伝えたいと思います』

 在校生代表の送辞に、卒業生代表の答辞を返したのは真沙美さんだ。最も秀でた生徒が
為す答辞を、先生方は最後の最後迄、わたしと彼女の何れにするか、思い悩んだと聞いた
けど。生徒や保護者・来賓大勢を前に、凛々しく堂々たる姿を見れば、この選択は正解だ。

『私は唯漫然と月日を過ごす為に、学校へ通っていた訳ではありません。己の意志で生き
て行ける力を培う為に。必要な様々な事柄を身につける為に、学校に通わせて貰いました。

 家の負担は元より、先生方や用務員・事務員の皆さんのご尽力や、この建物や学校とい
う制度を支えてくれた、様々な先達のお陰で。私はこの学び舎で、時に笑い時に泣き、時
に苦い想いも噛み締め。たいせつな事を学んできました。大人になって生きて行く為に
…』

 学業は2人僅差で首位を争い、何度か同着首位も取った。体育はわたしが上回ったけど。
真沙美さんが部活や生徒会役員をこなした点が決定打に。わたしは手芸部員で終ったから。

 長く艶やかな黒髪をお嬢様風にカールさせ、気品と凛々しさを備えた美しい人は。原稿
を手に持つ事もない侭、その言の葉は淀みなく。聴衆の視線を意識を強烈な存在感で魅了
して。

『私達子供は無力な存在です。己の日々の糧を稼ぐ事もできず、願いを叶える賢さもなく、
想いを届かせる術もない。大人の作った安全な箱庭で養われ、そこを出て生きて行けない。
良くも悪くも、自由は制約されています…』

 でも子供はいつか大人になる。ならなければならないと、後ろ向きに捉えるのではなく。
独力で生きて、自身の想いを叶えられる大人になれると、私は前向きに捉えたい。大人に
なった時に、本当に独力で生き、己の想いを叶えられる、賢さと力を持っていられる様に。

『私は今迄学んで来たし、これからも学び続けます……この素晴らしい学び舎を整えてく
れた様々な先達や、この私を今迄作り上げてくれた愛しい友や後輩に、心から感謝しつつ。

 私は己の願いを叶えられる人間になります。
 この胸に秘めた想いを届けられる人に必ず。

 そしてその成就の末に、感謝を込めて私も、先達から学んだもの・受け取ったものの何
分の一かでも、後輩に残し引き継いでいきたい。どうか貴方達も悔いの少ない学校生活を
…』

 それは真沙美さんの心に宿す決意でもあり。
 後輩に向けた激励と言うより叱咤でもあり。

 私的な事柄を普遍的な事柄に重ねて語れる。
 例年の答辞にもない大人びた内容は実は…。

 真沙美さんは後ろを振り返りもしないけど。
 熱く強い想いは肌身にびりびり伝わる程で。

 答辞を終えた後に一度だけ、切れ長の双眸がわたしを捉えたけど。お互い言葉も仕草も
不要で。わたしも想いを込めた瞳を返すのみ。

 生徒全員による『仰げば尊し』の斉唱で。
 経観塚銀座通中学校の卒業式は終了した。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 教室に戻った後は、教諭の短い訓辞を受けて散会だけど。みんなすぐに下校せず。式典
を終えて脱力した者や、賑やかに喋り続ける者や、式典の感涙を引きずった者が暫く残り。
経観塚の外に出る人も、経観塚の県立高校で顔を合わせる人も。名残惜しさは拭い切れず。

 わたしも別れを惜しみたく。式に臨席頂いた正樹さん真弓さんには、先に帰って貰った。
羽様で幼子をサクヤさんに看て貰って居るし。

 鮮烈な答辞を返した真沙美さんは、元々人の輪に囲まれる華やかに人望の篤い人で。女
の子多数に囲まれた今は、近寄る事も難しく。

「鴨ちゃんは最後迄相変らずだね」「うん」

 容姿端麗、学業優秀、運動神経抜群。クラスや部活や生徒会でも指導力を発揮し。強く
賢く華やかな、女の子多数の憧れで。1年の時から同学年の女の子を纏めると言うよりも、
みんなが押し戴く感じで。県外への進学で大多数の人と別れるので。惚れ込んでいた女の
子の幾人かは、恋人との訣れの様に取り縋り。やや困惑しそれをあやす様も華麗に淑やか
で。

 幼馴染みを包む喧噪を、少し離れた処で和泉さんと共に眺める。羽様小出身の同級生で、
高校でも経観塚に残るのは2人だけだ。沢尻君も華子さんと都市部の工業高校に進むから。

 別の一角ではその2人が、男の子の冷かしに苦笑を浮べ。男の子向けの恋愛ゲームでは、
卒業式後に校舎裏の樹の下で告白出来ればハッピーエンドらしいけど。沢尻君は昨冬既に、
華子さんと相思相愛になったと明かしていた。それはわたしへのけじめと考えてもいた様
で。

 一度わたしに告白し、わたしは応諾を返せなかったけど。華子さんに沢尻君への告白を
促し、その恋を繋ぎ成就させた羽藤柚明への。もうわたしへの未練は抱かないとの彼の想
い。そしてもう沢尻君の心は確かに掴んだよとの華子さんの想い。わたしの選択の報いだ
った。これが3人の最良の結論だ。この結末が正解だと、わたしは何度でも迷わず言える。
でも。

 幼い幸せをくれた愛しい人の進む途が訣れ。
 離れ行く様が目に見えて悟れる昨今だから。
 寂寥と充足を同時に感じつつ佇むわたしに。

「……わたしは、ずっと一緒だからねっ!」

「……和泉さん?」

「わたしは、柚明の側に、居続けるから…」

 有り難う。わたしは万感の想いを込めて焦げ茶のショートな髪の女の子に軽く腕を回し、
肌身を添わす。沢尻君の想いに、沢尻君への想いに揺れたわたしを。最後迄何も言わずに
見守ってくれた。わたしを一番に想うと告げ、わたしの一番でも二番でもなくても良いと
言い切り、わたしの想いの成就を願ってくれて。

 今もわたしの複雑な心境を慮って。誰との事にも触れず唯、わたしに抱く想いを告げて。
心に兆す寂寥を拭おうとしてくれて。真沙美さんと同じく羽藤柚明の、特別たいせつな人。

「鴨川さんの答辞の対象は柚明なんだろ?」

 振り返ると声の主である歌織さんに、早苗さんが寄り添っていた。わたしと和泉さんの
情景に似ている。歌織さんは癖のあるショートの黒髪で。やや小柄だけど胸はわたしより
大きく。常に早苗さんを守る感じで傍に添い。その故にわたしと同様に、女の子同士の恋
仲を噂され。わたしも交えた三角関係を噂され。

「印象的な答辞でしたけど、その真意を悟れた方には、更に鮮烈な意志表明ですものね」

 結城早苗さんは歌織さんより少し背が高く。
 ストレートの黒髪をミディアムに切り揃え。
 柔らかに丁寧にでも明確に意思を表す人で。

 1年の初夏、真沙美さんを慕う桜井弘子さんや野村美子さん達女子多数に誤解され、敵
視されたわたしと、2人は強く繋ってくれて。銀座通小出身の2人は、同じ出身の彼女達
と因縁があり。彼女達の敵視が繋りのきっかけになった様な。和泉さんは2人を『火中の
栗を、焼き栗だと拾って食する』と評していた。

 早苗さんが多少視える人で、その故に意図しない物が視えてしまう悩みを抱え。事情を
知る歌織さんと、一緒に気遣い助け守る内に。肌身を添わせ密に触れ合い、心許し合う仲
へ。

 2年の秋に広田君が、早苗さんへの恋心を巧く表せず、困らせ威かし脅かし。歌織さん
と2人、早苗さんを守り身を挟め、彼の想いを届かせる仲介を。早苗さんの答は『ごめん
なさい』だったけど。その展開が早苗さんの歌織さんへの恋心と、わたしへの親愛を繋ぎ。

「お2人さんは相変わらず仲睦まじい様で」

 和泉さんもわたしと歌織さん早苗さんの仲は承知で。親愛と多少の羨みを隠さず、わた
しとの緊密を見せつけに、この腕に腕を絡め。歌織さんも早苗さんもその様を見て微笑み
を。

「あんた達の絆の強さに近しいかな、和泉」

「柚明さんと、和泉さんや鴨川さんとの自然に密な関係は、わたくし達の道しるべです」

 歌織さんも早苗さんも、互いを一番の人ですと、想いを打ち明け合って受け容れ合って。
その上で2人は揃ってわたし、羽藤柚明を二番目の人・肌身許せる女の子と同時に告げて。

『私も柚明を傍で見て色々考えさせられたよ。女の子の柔らかさの侭で、女子にも男子に
も優しく賢く粘り強く、時に凛々しく力強く…。

 誰にどんな噂を流されても、時に助けた当人に裏切られ罵られても、大事に想い続ける。
強さは男っぽさを装う事とは全く別物だって。柔らかく優しく静かな侭で賢く強い。……
羽藤柚明は、篠原歌織の二番目に綺麗な人だ』

『柚明さんはわたくしの二番目に綺麗な人…。
 結城早苗の一番綺麗な人は歌織ちゃんです。
 貴女を一番に想う事はわたくしも叶わない。

 でも貴女はわたくしに罪を教えた。一番でも二番でもない相手でも心から愛せるのだと。
三番以下のその他大勢の為でも、身を抛って助け庇い守り尽くす事は出来るのだと。これ
こそがわたくしの生涯で最高の衝撃でした』

「あたし達は高校でも、柚明や和泉と一緒だから。鴨川さんとは別々だけど、これからも
あんた達の在り方の影響を受けていきたい」

「和泉さんにも柚明さんにも、今後とも歌織ちゃんとわたくしを宜しくお願い致します」

 わたし達も揃って歩み出て。4人の8本の手がお互いに、相手の滑らかな肌に触れ合い。

「さなちゃんもかおりんも、金田和泉の大事な人っ。ゆめいさんの大事な人でもあるし」

「結城早苗も篠原歌織も、羽藤柚明のたいせつな人。2人とも、一番にも二番にも出来な
いけど、この身を尽くし捧げたい愛しい人」

 想いを通わせ合っていると背後から声が、

「おっとここはドロドロ三角関係と言うより、摩訶不思議に複雑な四角形の愛憎が乱れ
て」

 志保さんだった。ストレートの長い黒髪に。
 わたしより背も高く、肩幅広く胸も大きく。

 噂話を聞く事や広める事を好み、元々の話しに尾ひれを付けて広める為に。禍というよ
り人の憤激を招きもしたけど。わたしの耳目が届かない処で飛び交う話しも教えてくれて。
人を見る幅を大きく広げてくれた人でもある。

「柚明の噂で今度は高校デビュー狙うかい?
 人のふんどしで相撲取るのは大概におし」

 更に背後から届いた声の主は、真沙美さんの傍から離れた野村美子さんで。塙美智代さ
んや川中睦美さん、島崎みさえさんも一緒だ。一年の頃は誤解もされたけど、それが解け
た後は良いお友達になってくれて。わたしを通じ歌織さん早苗さんも、最近は悪くない仲
に。

 真沙美さんを慕う女子の大グループは、美子さんと桜井さんの2人が実質のまとめ役だ。
桜井さんは、わたしの同性愛の噂を忌避して、打ち解け切れてないけど。黒髪長く艶やか
な美子さんは、それを耳にしても構わぬ感じで。真沙美さんと別れを惜しみ縋る順を、桜
井さん達に譲って離れ、わたしに声掛けてくれた。

「美子さんも、ゆめいさんとは昵懇の仲だったよね。卍巴の女の闘いが火ぶたを切る?」

 弁明は苦手とする志保さんが、衆目を牽こうと更に話しを煽るのに。美子さんが答を返
すより先に。女の子の声が更にその外側から。

「そこ迄来ると……」「ギャグ漫画だよね」

 榊良枝さんと東川絵美さんだった。2人共、人は恋愛する為に生きていると言い、愛は
男女でなければ成立しない訳でもないと。わたしの同性愛を執拗に噂する一部の女子の前
で、言い切って不評を買っても気にしない強い人。2人共高校に年上の異性の恋人が居る
らしく。

「志保の話じゃ柚明の女の恋人は何人さ?」
「男子の恋愛対象が消滅してしまうわよ?」

 志保さんの噂話は続く程に、現実感が薄まると。良枝さんと絵美さんは、鋭く指摘した
後で、わたしの元を訪れてくれた本題に入り。

「下山さん(佳代)と室戸さん(美紀)が朝松さん(利香)に、最後に一度柚明と逢って
話した方が良いと、勧めに行ったんだけど」

 2人の後ろに下山さん室戸さんがいて、利香さんが居ない事が、不成功を物語っていた。
利香さんの答は『話したくない』か。頭を下げる下山さん達に、わたしは首を横に振って、

「有り難う。気を遣わせてごめんなさい…」

 己の周囲に出来た人の輪を、割って彼女達の元に歩み寄って。その手を握り頭を下げて。

 利香さんのお母さんの死病に首を突っ込み、利香さんに厭われる末を招いたけど。尽く
せるだけの誠を尽くして得た結末は受け止める。利香の生命を繋いだ対価が、わたしとの
断絶なら望んで受ける。その過程で室戸さん達に一時誤解もされたけど、今は良い仲を繋
げた。

「これであの面々も柚明の愛人かい志保?」

 美子さんの突っ込みに、背後で志保さんが答に窮していて。責めすぎても可哀相だから。
わたしは室戸さん達と心通わせてから反転し。

「大丈夫、愛憎乱れる仲にはさせないから」

 美子さんに正面から追及される志保さんの。
 背後から腕を回して軽く抱き留め頬合わせ。
 志保さん越しに美子さんと視線合わせつつ。

「わたしは人を愛するのが望み。幸せに微笑んでくれる事が願い。怒り苦しみ哀しむ様は、
見たくない。一番の人と二番目の人を胸に確かに抱くわたしは、幾ら尊く篤く深い想いを
寄せて貰えても、等しい想いを返せないけど。

 だからこそ、あなたの微笑みに尽くしたい。あなたの幸せと守りに役立ちたい。愛させ
て。身と心を尽くす事を許して。あなたの未来を縛る積りは微塵もない。他に好きな人が
出来た時は自由に飛び立って。あなたを一番にも二番にも想う事の出来ないわたしだけど
…」

 志保さんの耳朶に言の葉と息吹を注ぎ込み。
 その滑らかな左頬にちゅっと軽く唇を当て。

「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」

「柚明さん、みんなの前でほっぺにちゅー」

「誰が噂話の的になるって、これじゃゆめいさんの恋人は、間違いなく志保ちゃんだね」

 夕維さんの驚きの声に続けて、和泉さんがオチを付けてくれて。わたしはみんなを愛し、
その幸せを保つ様に己を尽くすから、愛憎乱れる仲にさせないと、告げた積りなのだけど。

 いつの間にか、周囲は女の子多数が集って輪になって。黄色い声も漏れ始めた人の輪は、
男の子の注視も外輪に招き寄せ。その更に外側から呆れ気味に親愛を込めた女の子の声は、

「本当に、それが私の愛した羽藤柚明だよ」

 桜井さん達を伴って、歩み寄ってきた真沙美さんの静かな一言が、本日最も鮮烈だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 散会後、わたしを含む手芸部の3年生3人と、顧問の藤田美鈴教諭二拾八歳が、部室で
ある家庭科準備室に招かれて。1年生14人2年生10人の女の子は、感謝の気持を伝えたく、
昼のお茶を催したいと。これは結構妙手です。わたし達が主力の去年は、思いつけなかっ
た。

 尤も昨年の今頃迄は、秋の学校祭が部活の花道で。その終了後に3年生は引退し、以降
は受験に専心する為に、後輩との関りも急速に薄れ。他の殆どの部活もそうだけど、この
様に招いても卒業生の参加を望めたかどうか。後輩は、わたし達よりも先へ進み始めてい
た。

「梢子先輩……景子先輩……ゆめい先輩…」

 先生は遅れるので、先に始めていてと言伝があり。菱田梢子さんの跡を継いだ難波南新
部長を代表に。学校祭の服飾喫茶に使った手作り衣装を身に纏い、後輩は揃ってお辞儀し。

「本日は、先輩達専用の服飾カフェですっ」
「私達の、感謝の想いを込めてお持て成し」

 梢子さんも景子さんも一緒に瞠目する前で。

 アオザイやサリー、チャイナドレスやメイド服を着こなした、初々しいウェイトレスは。

 満面の笑顔でわたし達を招き入れてくれて。

「今迄丁寧なご指導ありがとぉございます」
「本日はわたし達の成果を見て頂きながら」
「先輩達と思い出話しに、花を咲かせたく」

 ミディアムの黒髪が愛おしい難波南新部長。
 黒髪ショートで小柄で可愛い小林知花さん。
 セミロングの黒髪が艶やかな筒井琴音さん。

 二級下の黒髪おかっぱな新田絵理さんは羽様小の後輩で。濃い茶のショートヘアの坂本
陽菜さん、縮れた黒髪の長い原口紗英さんも。

「特にこの服飾カフェは、南部長とゆめい先輩の提案で始りましたし」「今や銀座通中の
学校祭の、目玉の1つにもなった催しです」

 今日はわたし達卒業生の為の、服飾喫茶を。
 わたし達に愉しい時を、過ごして欲しいと。

 何かごそごそ動いている感触はあったけど。
 ここ迄素晴らしい催しになるとは予想外で。

「さぁどうぞ」「先輩達の席はこちらです」

「菱田先輩は紅茶ですね」「間淵先輩は…」

「ケーキ持ってきて」「フルーツもどうぞ」

 飾られた室内のしつらえた席に招かれて。
 わたし達は可愛い女の子の饗応を受ける。

「わたし達は柚明の相伴に与った様な物ね」
「後輩達に慕われるのも柚明のお陰だし…」

 言いつつも景子さんと梢子さんは、わたしを挟んで座して不快そうではなく。むしろわ
たしを招く為の場に同席して、邪魔者になるのではと気遣う感じで。わたしは左右のそん
な同輩の手を、この手で握って軽く引き寄せ。

「景子さんと梢子さんは羽藤柚明のたいせつな人。未熟で至らないわたしを支えてくれた。
わたしが後輩の力になり心通わせられたのも、2人が支えてくれたお陰。自分だけで掴め
た成果でない事は、ここのみんなが分っている。この様に心繋ってくれた事はみんなの成
果」

 南さんも知花さん琴音さんも後輩みんなも。
 わたしを支え導いてくれたたいせつな恩人。

「今日はむしろ、わたしが感謝を伝えたい。
 有り難う。素晴らしい席を設けてくれて」

 可愛い後輩に向けて、丁寧にお辞儀すると。

「ゆめい先輩っ……行かないでっ、寂しい」

 絵理さんがこの胸に飛び込んできて涙声を。
 絵理さんは羽様小でも共に過ごした仲だし。

 仲良く触れ合い語らい想いを通わせてきた。
 名残惜しさはわたしも含め全員が抱く想い。

 だからわたしはその想いを渾身で受け止め。
 去る者の代表として後輩の心に想いを刻む。

「水が器に従う様に、人の生き方もモノのあり方も、形に縛られ易いもの……部活という
形を失い、同じ学校に通う在り方を崩されて、親しい人との関りが薄まり行く事への不安
や寂しさは、わたしも同じく感じているわ…」

「……ゆめい先輩っ」「せんぱいっ……!」

 絵理さんに続いて、左右に陽菜さん紗英さんが縋り付き。更に1年生の女の子が次々と。
修練で鍛えたわたしは絶対倒れないと、みんな分っているから、遠慮なく渾身で縋り付き。

 女の子にも性愛抱けるわたしを承知で、景子さん梢子さんも敢て咎めず。羽藤柚明を信
じてくれて。南さん達2年生は、1年生の前を意識して、続けて飛び込む事を控えている。
わたしは可愛い女の子の髪を撫でつつ。南さん達や左右の景子さん梢子さんに視線を配り。

「卒業は……別れは、時の流れに沿って訪れ来る、わたし達の手に及ばない人の世の理」

 それは招きもしないのに雷雨が屋根を叩く様に、望みもしないのに季節が寒く変り行く
様に、誰かが悪い訳ではなく起り来る不都合なのだと。楽しい休みの日が過ごせば終り行
く様に、ご飯を美味しく食べれば減ってしまう様に、押し止める事が難しい世の中の諸々。
日が昇り沈む様に、つぼみが咲いて散る様に、自然にそうなって行き防ぎ難い世の中の諸
々。

「いつ迄も一緒には居られない。みんなそれぞれ人生があるから、別々になる時も来る」

 この関係も永遠には保てない。人を巡る状況は刻々変る。今迄がそうだった様に。でも。

「わたしとあなた達が逢えたのも。日々変りゆく時の流れの中にいたから。いつ迄も動か
ず澱む沼に、新しい出逢も成長もないの。今を噛み締めたい想いは分るけど、この今があ
るのも変り続けて来たお陰。良い事も悪い事も全部がセットよ。摘み食いは出来ないわ」

「「羽藤さん」」「「「ゆめい先輩っ」」」

 それを踏み締めた上で、噛み締めた上で…。
 相手に求めるのではなく己の想いを伝えて。
 愛しい人の淋しさ心細さを、前向きに促す。

「わたしは、手芸部であなた達と繋いだこの絆を解かない。交わした想いは手放さない」

 卒業しても手芸部を離れても。わたし達はもう、部活や学校にのみ根差した仲じゃない。
きっかけは学校や部活だったけど、進む時の流れの中で、想いを育み合ってきた。この想
いは途切れない。みんなずっとたいせつな人。

「心が変るのも、恋が醒めるのも、想いが褪せるのもその人次第よ……わたしは変らない
想いを胸に抱くわ。繋いだ絆は、解れない」

 一緒に暮らせなくても、足繁く通い合えなくても、たいせつに想う事は叶う。日々の幸
せを見つめられなくても、毎日を共にできなくても、その人の幸せを願い愛する事は叶う。
例えその当人に忘れ去られる日が来ようとも。

「心に抱く事だけは、為そうと想えばどこにいても、どんな状況でもいつ迄でも叶うもの。
わたしは絶対あなた達1人1人を忘れない」

 景子さん梢子さんも、ぴったり肌身沿わせ。
 南さん達2年生の子も、想いを抑えきれず。

 押し寄せる柔らかな感触を受け止め抱いて。

 顧問の藤田教諭の入室は正にその時だった。

 長い黒髪を後ろで束ねて垂らした背の高い年長の女性は、室内の空気に苦笑い浮べつつ。

「貴女は本当に最後の最後迄貴女らしい…」

 先生にも抱きつく女の子も居て。先生もわたし同様抱き留めて落ち着かせ。暫く懇談し、
想い出を語らい、名残惜しさを味わった後で。

「互いに睦みし、日頃の恩
 別るる後にも、やよ忘るな
 身を立て名を上げ やよ励めよ
 今こそ別れめ、いざさらば」

 後輩の紡ぐ手順に従いあの歌を再び斉唱し。
 想い出は尽きないけど終りの時は迫り来る。

「ゆめい先輩……あたしも、絶対忘れない」

 南さんが我を忘れて、この胸に飛び込んだのは、別れ際で。1年生を前にしっかりしな
ければいけないと、己を抑えていた様だけど。本当に最後の最後になって、抑えきれない
で。

「ゆめい先輩は難波南の、ずっと一番の人」

 零れる涙も拭わずに。ミディアムの髪の愛しい後輩は、最後だからとひしとこの身に縋
り付き。わたしも滑らかな肌身を渾身で抱き。衆目の前だけど、その額に軽くこの唇を当
て。

 言葉以上に瞳は物を言う。言葉以上に肌を重ねる事で心は伝わる。昔わたしがお父さん
に見せられ教わった行いを、今は愛しい妹に。

 わたし達が2人で為した交わりに較べれば軽い所作だけど。南さんは頬を耳迄赤く染め。
でも嬉しそうに、もう一度この胸に頬を埋め。

 羽藤柚明の手芸部員も、これで完遂です。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明、あんたには話しておきたかった…」

 和泉さんの部屋に並べた2つの布団と3つの枕。真ん中が定位置のわたしに対し、ネグ
リジェ姿の真沙美さんは、左隣で真顔で語る。右の和泉さんも聞き入る今は、午後11時過
ぎ。

 春休みも既に半ばを過ぎ。明後日には真沙美さんも出立予定だ。和泉さんの家で3人こ
うして睦み合うのも、暫くは望めないだろう。

「私は遠回りな途を選んでいる。それしか選べないからだけど。どんどん柚明と離れて行
く……柚明と一緒になりたくて選んだ途が」

 真沙美さんの強い想いは、出立の時が近くなるにつれ、一層ひしひしと感じ取れていた。

『私は唯漫然と月日を過ごす為に、学校へ通っていた訳ではありません。己の意志で生き
て行ける力を培う為に。必要な様々な事柄を身につける為に、学校に通わせて貰い……』

「子供は……女は結局、非力だよ。今の私は独りで稼ぐ方法もなく、家に守られ養って貰
わなければ、生きて行けない。自身の願いを実現する自由も、己の想いを表す自由もない。

 柚明との愛を叶える術もなく、この想いを衆目に明かす事も出来ない。親の反対を押し
切って、家を出て自活する力もない。今の私は名家の箱庭に囲われた、人形に過ぎない」

「真沙美さん」和泉さんは沈黙を保っている。

「私は柚明と人生を共にしたい。一緒に歳を重ねたい。惚れたんだ。柚明に一番の人も二
番の人もいる事は承知で。あんたが一番に想う幼子の成長を支え、白花ちゃん桂ちゃんが
大人になって巣立った後で。あんたに特定の人がいなければ……私はあんたを迎えたい」

 その頃には私も大学を出て職に就いている。家の縛りを踏み破り、絶縁されても勘当さ
れても、あんたと暮らせる様になっている筈だ。

「鴨ちゃん、そこ迄見据えて経観塚の外へ」

 思わず漏らす和泉さんに真沙美さんは頷き。
 でもその双眸はわたしの瞳を一度も外さず。

「私は和泉と立場が違う。田舎の名家の縛りの上に、鴨川と羽藤の家の対立がある。爺さ
んは絶対に柚明との恋仲を認めない。元々女の子同士だし、経観塚は小さな田舎町だから。

 ……私は父さんの様に、勘当すると脅された位で、愛して肌身重ねた人を、諦める人生
は送りたくない。その諦めのお陰で生れた私がそれを口にするのは、皮肉の極みだけど」

 真沙美さんが都市部の名門・青城女学院への進学を選んだのは。家格に相応しい育ちを
させたい親の思惑以上に。真に自立できる大人になりたいとの、彼女の強い意志に基づく。

『でも子供はいつか大人になる。ならなければならないと、後ろ向きに捉えるのではなく。
独力で生きて、自身の想いを叶えられる大人になれると、私は前向きに捉えたい。大人に
なった時に、本当に独力で生き、己の想いを叶えられる、賢さと力を持っていられる様に。

 私は己の願いを叶えられる人間になります。
 この胸に秘めた想いを届けられる人に…』

「私は人の心は縛らない。禁じる積りもない。柚明が誰と恋し愛し合うのも自由だよ。和
泉が高校で日々を共に過ごす内に、柚明と唯1人の関係になる結末にも、覚悟は済ませ
た」

 鴨川真沙美が羽藤柚明と、真の望みを願いを想いを叶える可能性は。経観塚を出て高等
教育を受け、自活できる職に就く、その先にしか見えなかった。女の子同士の関係以上に、
羽藤と鴨川の対立には解消の術が見えなくて。

 わたしと一緒に経観塚高校に通った真沙美さんに、卒業後待つのは。役場や農協に勤め
つつ、どこかの男性と結ばれるお見合いか恋愛結婚の途だ。羽藤であり女の子であるわた
しと、逢瀬を重ねる途はない。田舎で、特に鴨川では女の子が、結婚しない事は許されぬ。

 それを厭うなら、経観塚の外で高等教育を受け、経観塚の外で職を掴み。経観塚の外に
生活の基盤を持つ他に途はない。己の定めを切り開くには外に飛び出すしか。彼女は家と
断絶しても、わたしとの想いを貫き通す気で。

 でもその為に経観塚の外へ進学する事が。
 正にその羽藤柚明と数年間遠ざかる事に。

 一番華やかで青春咲き乱れる学生時代を。
 真沙美さんには究極の矛盾で遠回りかも。

 でもその先にしか希望が見えないのなら。
 この人は揺るがず前へ、唯前へ進み出す。

 怯えても震えてもその途は決してぶれず。
 何と強く賢く、一途に心の熱い人なのか。

「経観塚に残っていたら末路が見える。3年愛を交わせても、その後二度と柚明と共に歩
めなくなる。もう想い出にして諦めるなんて出来ない。一過性の儚い経験とかで終らせた
くない。私はあんたと生涯共鳴し続けたい」

 私の想いが拾数年保てぬ怖れが高い以上に、その拾数年であんたの方に、生涯を共にし
たい唯一の人が現れる可能性が高い事は承知だ。柚明の様な可愛い娘に拾数年、誰も寄り
付かない事は考えがたい。私の惚れた女なんだし。

 それでも、これしか私の可能性がないなら。
 覚悟を定め、願いに歩み出す他に術はない。

「どれ程小さな可能性でも、私は希望に繋る途を選ぶ。柚明には待っていてとか求めない。
私は柚明を縛らないし、己が心折れる怖れもあるし。私が勝手に柚明を迎えられる女にな
ろうと努めるだけ。その間に柚明が幼子のどちらかと、又は二番のサクヤさんと、和泉と、
その他の誰かと結ばれたなら、それで好い」

 私も柚明への想いを拾年以上、貫き通す自信がない。本当は同じ高校に通いたい。日々
間近に触れ合ってなければ、同じ学校に通う形を失ったら。日々の目先の諸々に心逸らさ
れる内に、想いが崩れてしまいそう。だから。

 真沙美さんはわたしに何の返しも求めず。
 唯己自身への誓いだとその決意を述べて。

「私は私の出来る限りを為すよ。私は柚明を迎えられる女になろうと、勝手に努めるから
……お互い約束はせず、その時々の全力を尽くせばいい。柚明は柚明の真の想いの侭に」

 羽藤と鴨川には累代続けての因縁がある。

 それでも絆を結びたかったから。それでも私は柚明と身も心も重ね合わせたかったから。

 その想いは中学1年のあの夜からずっと。

『鴨川は3代続けて、羽藤を奪い続けている。先々代は羽藤の土地を売り捌き、先代は羽
藤の祭りを締め上げ。当代・私の父さんは柚明、あんたの母さんの操を奪って捨てた……
父さんが母さんと結婚する前、あんたの母さんと恋仲だったって……先々代、私のひい爺
さんは農地改革で羽藤を踏み台にしたけど、生涯羽藤の執事を続けた人で、交際は順調だ
った。でも爺さんが当主になると状況は一変して』

 身体は交わり合った後なのに、両家は断絶した。爺さんはひい爺さんの独断専行を激し
く憎み、死後にその方針を悉くひっくり返し。父さんは勘当するという爺さんの脅しに屈
して羽藤の長女を諦め、私の母さんと結婚した。

 因果な一族だろう。敵意の有無じゃなく関る事で鴨川は羽藤を傷つけ奪う。私があんた
と距離を置いたのは、羽藤は全員鴨川を許さず憎むに違いないと幼心に想った事と。私が、
他人を傷つける定めを重ねたくなかったから。

『家の縛りや、定めや、家風から全て切り離されて生きていける強さを、私は欲しかった。
それが持てない間は、幾らあんたが可愛く優しくても、傍で過ごし交わる事が愉しくても、
最後は宿命に流されあんたを傷つけると…』

 近過ぎてはいけない。触れてはいけない。

『あんたの為に、あんたを好いた自分の為に。ずっと関りを抑えてきた。怖くて、怯え
て』

 あの頃から、真沙美さんは強さを求め続け。肉体的な強さではなく、己の意志を貫き通
せる強さ。生活の糧を自分で稼ぎ、家や目上の人の意向に従わされずに生きて行ける強さ
を。その為に経観塚の外への高校進学を予め考えていたのなら、中学校の3年は彼女には
正に。

「あんたと過ごせたこの歳月は珠玉だった」

 卒業式で仰げば尊しを唄った時の、真沙美さんの溢れていた涙は。彼女の幼い幸せの終
りへの惜別であり、羽藤柚明への想いの熱さ。この人は本当に、人生を注いでわたしを愛
し。

「真沙美さん……ごめんなさい。わたしは」

 そこ迄想いを寄せられて、この身に過ぎた愛を注いで貰えても。わたしは等しい想いを
返せない。沢尻君の想いを退けた非道を再度、サクヤさんに最早一番ではありませんと告
げた非道を再度……この強く愛しい女の子にも。

 この世で羽藤柚明が己を捧げ、生きて尽くしたい一番の人は。変えられない。故にこそ。

「わたしが、あなたの願いに希望を残す事が、あなたの幸せになるかどうか分らない。真
沙美さんの貴重な青春を浪費させると感じつつ。わたしは、愛しいあなたの想いを支えた
い」

 待っているわ。羽藤柚明は鴨川真沙美を。

 女の子2人が息を呑み、暫し沈黙する中。

「桂ちゃんと白花ちゃんが、わたしの一番愛する幼子が、立派な大人になって羽様を巣立
ったその後に。真沙美さんの想いが途絶えてなければ。わたしはあなたの求愛に臨みます。

 わたしの二番に愛しいサクヤさんは、終生想いを寄せる人がいる。わたしは永遠に手が
届かない……手が届かない事がわたしの望み。わたしの心底愛した人が、本当に好いた一
番の人への想いを、叶わなくても抱き続ける事が、わたしの願い……その想いが断ち切ら
れ、わたしが一番になる日の来る事は望まない」

 こんなわたしを一番に、想ってくれる人もいた。でもわたしは今迄まともに、その尊い
想いにも応えられなかった。今後拾数年は愛しい贄の幼子を、導かなければならないから。

「それを承知で、拾数年後にも尚このわたしを想い続けてくれるなら。或いはわたしも」

 応えられるのか。応える事を許されるのか。
 相手の青春を、棒に振らせるとも承知して。

 わたしの拾数年先の像が、視えてこないのは微かに気懸かりだけど。今はそれより目の
前の愛しい人の想いへの答を優先し。間近で瞳を見開いて身動きもしない強く美しい人に。

 この深い想いを最早わたしは拒み通せない。
 返しを求められずともわたしが返さずには。

「この形を何と呼んで好いか分らないけど」

 女の子同士という以上に、2人一組の恋仲でもなく。夫婦でも婚約者でも愛人でもない。
何の縛りも確約もない。将来お互い求愛できる様になっていようと、己に誓い合うだけの。

「でももう唯のお友達じゃない。同じ学校に通う形は崩れても、わたし達は肌身を重ね唇
繋げ、互いを深く想い合える。真沙美さんも和泉さんも、羽藤柚明の特にたいせつな人」

 今迄しっかり受け止め守れなくて、ごめんなさい。わたしの頼りなさでずっと待たせて。
今もこんな程度の答しか返せない。そこ迄真剣に熱い想いを寄せて貰えたのに、力不足で。

「でも、あなたのその想いには応えたいの。
 それが、あなたを苦しめる事になっても。

 あなたが真の願いに生きる事を望むなら。
 わたしはあなたの真の想いを、支えたい」

 幾度か意見が異なって衝突もした。間近で深く関り合えば誤解も生じた。でもお互いに
心の底では、相手を想い合い分り合っていて。互いの間に何が隔てて横たわっていようと
も。強く求め求められ、惹かれ合い、想い想われ。

【わたしには、過去は振り切る物でも、捨てる物でもありません。抱き締める物です…】

 哀しい過去、苦い過去、色々あるけど。でもそれが、暖かい想い出に繋っている。良い
事も悪い事もセットで全て受け容れる。中学1年のあの夜から、3人の想いは変ってない。

『あなた1人で、鴨川だけで背負わないで。
 羽藤が、わたしが分けて一緒に背負うよ』

 主人と家来ではなく、平等な多数の中の個人同士でもなく、特別に大切なお互いとして。
わたしの全てを注いで、鴨川真沙美を愛する。宿縁は全て受け止めて、その上に未来を繋
ぐ。

 両腕を回し、柔らかな身体を抱き留めて。
 あの時も、わたしはこうして語りかけた。

『できる事は精一杯やろうね。お互いに幸せを増やして、痛みや哀しみは芽の内に摘んで。
それで尚避けられない禍が来るなら仕方ない。受け止める。それで痛み苦しんでも、わた
しは絶対に真沙美さんへの想いを手放さない』

 一緒に暮らせなくても、足繁く通い合えなくても、たいせつに想う事は叶う。日々の幸
せを見つめられなくても、毎日を共にできなくても、その人の幸せを願い愛する事は叶う。
例えその当人に忘れ去られる日が来ようとも。

 今もこれからもその想いは尽きる事なく。
 己の想いを述べる事で愛しい人を促して。

「応諾を返せるかどうかは確約できないけど……その時を迎えられたなら、羽藤柚明は鴨
川真沙美の求愛に……渾身で臨みます……」

 唇も肌身も想いも繋ぎ合わせた夜は過ぎ。
 想いの熱さは唯互いの胸の内に刻まれた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 早朝の経観塚駅のホームには、珍しく人影がやや多い。真沙美さんと華子さんと沢尻君
の出立が同じ列車になったのは、田舎の列車の便数の少なさの故だけど。同じ日になった
のは、これ以上遅らせられない迄羽様に居続けた為で、それぞれの名残惜しさの故なのか。

 真沙美さんの男の恋人・賢也君や父である平さん、義母である香耶さんも見送りに来て。
平さんや沢尻君の母・雪枝さんはこの列車で共々新居に行き、引っ越し荷物の整理を手伝
うとか。華子さんのご両親は沢尻君の父・正義さんと共に、引っ越しトラックで移動中だ。

「和泉も羽藤も、わざわざ朝早く俺の見送りに来て貰って悪いな」「勘違いしないで。2
人の目的は博人じゃなく鴨川さんとわたし」

 分って敢て突っ込みを誘う沢尻君に、華子さんの即応が返って、周囲の空気を和ませる。
鴨川と羽藤が居合わせて、気拙い空気を感じるのは大人だけ。子供は関係ありませんよと。

 賢也君が真沙美さんと別れを惜しむ左隣で。
 わたしは沢尻君に向き合って別れの言葉を。

「わたしはわたしの選び取った幸せに、己を尽くすわ。あなたはあなたの選び取った夢に、
『人の幸せに役立てる機械を作る』夢に向けて頑張って。そして、それより前に、その夢
の途中でも。あなたの傍にいるたいせつな人をしっかり見つめ、その幸せを大事にして」

「……本当に羽藤はどこ迄も羽藤だよな…」

 沢尻君はわたしの言葉に苦笑いを見せて。
 傍の華子さんに手を伸ばし軽く肩に触れ。

「俺の願いは、羽藤がいつ迄もその羽藤であり続けてくれる事、お前が幸せであってくれ
る事だ。お前の幸せに、俺はもう役立てないけど、いつかどこかでお前やお前の大切な人
の役に立つ機械を作ってみせる。華子は…」

 わたしから離れ華子さんを背後から抱き。
 二人肌身合わせつつわたしに正視を向け。

「華子の幸せは、俺と華子で決める。羽藤の願いは受け止めるけど……左右はされない」

 わたしの願いだから、華子さんを幸せにするのではなく。2人の意志で共に幸せを作る。
博人君も華子さんも更に前へ進み出していた。そして彼も最後迄わたしの愛した博人だっ
た。

「じゃ行くわ。生きていたら、又その内な」
「色々有り難う。風邪とか引かない様にね」

 和泉さんと話しに離れた彼の代りに、和泉さんの前を離れた華子さんが歩み寄ってきて。
赤い縮れ髪を微風に揺らせた可愛い女の子は。

「わたし、罪悪感は抱かないよ。あなたはあなたの選択を選び、博人は博人の選択を選び、
わたしは彼を掴み取った。難関だった工業高校に合格できたのも。博人やあなたの助けは
受けたけど……届かせたのはわたしだから」

 虚勢に近い強がりは、華子さんが尚危うさを感じる為か。彼がわたしに想いを残してい
ると、わたしに流れる怖れがあると。だから。

「ええ。華子さんは華子さんの幸せを全力で守り育てて。今の幸せは完成型じゃない。否、
いつ迄も幸せは完全にならない。だからこそ、どこ迄高めても尚その先へ人は進み行け
る」

 わたしは大切な華子さんの心を安んじる為に、彼女とその想い人の絆を強く繋ぎ止める。
両手を両手で軽く握り、間近に瞳を正視して。

「わたしは己が選んだ幸せに邁進する。お互い幸せを叶えましょう。あなたの幸せの為に
わたしにできる事があるなら、身を尽くすわ。愛しい華子さんの幸せを守り支え叶える為
なら、誰かの未練を振り払う事も躊躇わない」

「あなたは本当に損な人……でも好きよ…」

 華子さんはわたしの言葉が宿す想いを悟り。
 その手を解いてこの身を抱き寄せ頬合わせ。

「羽藤柚明を貫き続けるあなたが、わたしには眩しくも羨ましい。自分のことを考えるの
で手一杯なわたしには、あなたの在り方は時に煙たく、嫌味に思えた事もあったけど…」

 大人もいる前だけど。胸を潰し合う程の抱擁は、華子さんの強い意志なので敢て拒まず。
頬を伝う感涙が触れたこの頬も濡らすに任せ。

「これからも宜しく、わたしの愛しい恋仇」
「華子さんはいつ迄も羽藤柚明の愛しい人」

 解き放たれてわたしは、最後に真沙美さんに向き合う。羽藤と鴨川の対立を引きずって、
大人は渋い顔だけど。ここが別れの場と分っているから、敢て割り込み引き裂きには出ず。

「ここが私の新しい出発だ……あんたとの」

 わたし達の仲は終らない。大人は今を別れの場と捉えているけど。真沙美さんもわたし
も和泉さんも、今の別れを惜しみつつ、更に前へ進み出す為の、出発の場だと受け止めて。

 真沙美さんの瞳に微かに浮ぶ涙は、永訣への寂寥ではなく、ひとときの別れでも千秋の
想いだと。そして日々に向き合う内に想いが掠れ途切れる事への、現実的な怖れと不安の。

 だからわたしは、万感を込めた頷きを返し。
 わたしの想いが途切れないよと、示す事で。

 進み出す事に怯えず、立ち止まらないでと。
 想いは紡ぎ続けられると、彼女を励まして。

「行ってらっしゃい。わたしは待っている」

 抱擁の腕はどちらからともなく相手を包み。

 触れ合う頬は互いの涙に濡れて想いを繋ぎ。
 互いの心にこの瞬間を永遠に刻み込んで後。

 駅のホームに良く透る、歌声が響き渡った。

「朝夕馴れにし、学びの庭
 蛍の灯火、積む白雪
 忘るる間(ま)ぞなき、往く年月
 今こそ別れめ、いざさらば」

 進む途は別れても、想いは悠久に離れない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 列車の出立を見送って後、他の人は皆帰り。
 和泉さんとホームで、余韻に浸っていると。

 わたしに寄り添う和泉さんの囁きが耳朶に。

「あたしは逆に、鴨ちゃんの途を選べない」

 和泉さんの家は農家経営が安定しておらず。
 高校進学で娘を県外生活させる余裕がない。

 彼女がわたしとの想いを叶えようと、真沙美さんの望む様な職を掴む為に、大学に進む
にも、経観塚という僻地から目指す他になく。高校卒業時も和泉さんの家に、娘を大学に
通わせる余力があるかどうかは不確かな状況で。それは、真沙美さん以上に高いハードル
かも。

「あたしもあなたとの関係を、青春の想い出にして諦める積りなんてない。一過性の儚い
想いとかで終らせる積りはないよ。あなたに抱いたこの愛しさは、魂の奥底からのもの」

 人にはそれぞれ事情がある。だから和泉さんは今与えられた状況を、渾身で生き抜くと。
わたしと寄り添いつつ、大学受験を目指すと。後ろから、この胸に腕を巻き付けて身を預
け。

「あたしの想いは離れない。柚明が桂ちゃん白花ちゃんやサクヤさんを、終生あたしより
大事に想い続けても好い。真沙美やそれ以外の誰かを生涯のパートナーに選んでも。むし
ろあたしは柚明が一番や二番の人を、想い続ける様を見つめたい。あたしが自覚して柚明
に惚れたのは。あなたが詩織さんを想い身を尽くす姿を見た、小学6年の運動会だった」

 あたしだけを見てとは願わない。あたしを一番にしてとも望まない。想いを返してとも
求めないよ。あたしはあなたを愛したいだけ。羽藤柚明は金田和泉の生涯で一番愛したい
人。

 和泉さんも、その想いを貫き通す難しさを肌身に感じ始めている。その上わたしは彼女
に納得の行く答を返せない。どれほど篤く強く望まれ願われ想われても、わたしの答は…。

 それを分って、全て承知して尚心折れずに。
 焦げ茶のショートの髪艶やかに愛しい人は。

「柚明が幼子やサクヤさんと結ばれても、真沙美と結ばれても、それ以外の誰と結ばれて
もあたしは好いから。受け容れて笑顔で見送るから……今少しの間はあなたを愛させて」

 その想いを受け止めて。渾身で受け止めて。

 ゆっくり腕を解いて振り返り、愛しい人を。
 閑散たるホームで、正視した侭抱き留めて。

 人目はないと確かめつつ、頬合わせ唇重ね。
 溢れ出た愛を、わたしの想いを伝えていた。

「金田和泉は羽藤柚明の特別にたいせつな人。一番にも二番にもできないけど、この身を
捧げて尽くしたい愛しい人。美しく尊い想いを注いでくれて有り難う、心から嬉しい。あ
なたに等しい想いを返せないわたしは、本当に情けない。幾ら謝っても謝りきれない。こ
の罪を償う術が探せない。女の子が女の子に想いを告げるだけで、大変な勇気が要るの
に」

 それを承知で尚想いを寄せ続けてくれる。
 この愛しさにわたしは他に返す術がなく。

「見込はないと、門前払いすべきだったかも知れない。あなたを失恋の立ち直りやその後
の新しい恋や愛に進ませず、生殺しにしているだけかも。でもその愛の強さにわたしは」

 何も応えず振り捨てる事が、できなくて。
 できる限りの愛を返す他に、思い至らず。

 何より愛しい人が心に抱いた真の想いを。
 この手で叩き折る事はどうしてもできず。

「もう少しの間、この勝手な愛を返す事を許して。一番にも二番にも想えず、あなたに充
足を与えられる見通しもないわたしだけど」

 あなたの許しを得られるのならわたしは。
 金田和泉の愛に羽藤柚明の愛を返したい!

「応えられる限りの答を捧ぐ。不束者だけど、これからも羽藤柚明を宜しくお願いしま
す」

 和泉さんに責任は負わせない。この告白はわたしから。感情を解き放って、一息で言い
切るわたしに向けて、間近な愛しい人の答は。

「これからもよろしく、あたしの一番の人」

 春風は桜色で、少し暖か過ぎた気がします。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 羽様への帰着は、正午近くになっていた。

「……只今戻りました」「お帰り、柚明っ」

 今の羽様でわたしを名のみで呼んでくれる人は、サクヤさんだけだ。お屋敷の前で幼子
を見守っていた様で。傍の白花ちゃん桂ちゃんが、顔を輝かせ、競って足下に飛びついて。
わたしは屈み込んで幼子と瞳の高さを合わせ。

「おねぇちゃんっ」「ゆーねぇ、おかえり」
「ただいま。2人とも良い子にしていた?」

 うんっと頷きつつ肌身を寄せる幼子に向け。
 白銀の髪の長く艶々な人も歩み寄ってきて。

「あんたの帰りを迎えるって聞かなくてね」

 そう言うサクヤさんも、幼子を見守りつつ。
 わたしの帰りを、ここで待っていてくれた。

「有り難うございます、サクヤさん。桂ちゃん白花ちゃんも有り難う、とても嬉しいわ」

 柔らかな明るい茶の髪を寄せてくる幼子に。
 わたしも肌身を繋げて想いを返し愛を伝え。

 二番にたいせつな人を見上げて想いを送り。
 わたしのたいせつな人。特別たいせつな人。

 お母さんも笑子おばあさんも想いを寄せた。
 羽藤柚明の初恋の人で今は二番に愛しい人。

 サクヤさんは、わたしに涙の残り香を感じ取ったのか。友の旅立ちを見送りに出た事は、
知っているから。声音がいつもより優しげに。

「別れはどんな時も寂しく心沈むものだよ」

 サクヤさんは微かな愁いを瞳に湛えつつ。
 屈み込んでわたしの左頬に右手で触れて。

「又逢える様な別れでも、心は繋っている別れでも。進む途が別れ往く、住む世界が変り
ゆく、日々見る景色が異なる様になる別れは。見送る側こそ寂寞を感じてしまうものさ
ね」

 それは長い時を生きたサクヤさん故の印象なのか。この人は進路の別れ等より遙かに重
い永訣を、幾重にも重ねてきた。つい最近は笑子おばあさんと。愛しい人であればある程、
必ず看取る側であるサクヤさんの傷みはどれ程か。拾五のわたしには想像も付かないけど。

「大丈夫です。愛しい人は、例え直に触れ合う事も言葉交わす事もできなくても。胸に想
いを抱くだけで、この心を温めてくれます」

「……柚明あんた、まさか逆にあたしを…」

 わたしはこの人に慰められるのではなく。
 むしろこの人の傷みを少しでも拭いたい。

 愛しい年長女性の心遣いに感謝を返しつつ。大丈夫ですと応えつつ。わたしも更に先へ
と進み出す。サクヤさんの慰めを受ける以上に。この胸の想いを伝えて愛しい女性を癒し
たい。

 羽藤柚明が、この人の寂寞を埋める程の存在ではないと承知でも。この身も百年保たず
朽ちる末が分っていても。この生命ある限り。報いは望まない。わたしは愛を贈りたいだ
け。

「巡り逢えた事が幸せです。胸に抱けた事が幸いです。哀しむ暇もない程に人が愛しい」

 サクヤさんに逢えた事、笑子おばあさんに逢えた事。正樹さんや真弓さんに、逢えた事。
真沙美さんや和泉さん、歌織さんや早苗さんや南さん。そしてわたしに生きる値をくれた
桂ちゃんと白花ちゃん。みんなわたしのたいせつな人。特別にたいせつな心から愛しい人。

 笑子おばあさんとの永訣は、真沙美さんとの別離は、博人君と華子さんの見送りは淋し
かったけど。逢えた事、触れ合えた事、心通わせた事は、幸せだった。哀しみは不幸せと
は違う。傷みも淋しさも、不幸せとは別物だ。わたしには尚愛しい人が傍に沢山いてくれ
る。

「逢えない事は不幸せじゃない。哀しくても辛くても打ち拉がれても幸せは感じ取れる」

 失って淋しく想う優しい想い出は、断ち切られて哀しく想う愛しい言葉や仕草は、心の
底に残り続ける美しい記憶は、わたしの幸せ。

 手に届かない陽が身を暖めてくれる様に。
 手の届かない人もこの心を温めてくれる。

「想いを抱き続ける事だけは、わたしの事だからわたしに叶う。わたしは終生忘れない」

 愛しい女性は白銀の髪を揺らせて暫し黙し。
 わたしの言の葉の真意を察して瞳を見開き。

「あんたは、本当に強くなったね、柚明…」

 知る人ぞ知る涙脆さを隠しに頬寄せてきて。
 暫し滑らかな頬に触れて想いを交わすけど。

 間近な幼子の競争意識を招いて割り込まれ。
 涙を見られたくないと先に屋内へ駆け足で。

「もうお昼だよ。桂も白花も柚明もおいで」

 はいと応え、抱き留めていた幼子を解放し。
 お屋敷の中へ促して、一度後ろを振り返る。

 そこには何の変哲もない羽様の日常があるけど。新緑に満ちた春の情景があるけどでも。

 そんな日々を繰り返し、人は前へ進み往く。
 出逢と別れを重ねつつ、未来への一直線を。

 幼子が育ち往く事が、大人に成り行く事が。
 別れに近付くのは不思議ではない筈だけど。

 雄々しく巣立つのと違う別れを朧に感じる。
 涙の気配は唯の淋しさではなく悲嘆の故の。

 それでも人は今に留まる事が叶わないから。
 進み出さねばならないならわたしが先頭に。

 笑子おばあさんの護りは消失したけれど…。

 その教えをこの胸にいつ迄も生かし続けて。
 羽藤柚明も新しい日々に向き合い歩み出す。

「……今こそ別れめ、いざさらば」


「柚明前章・番外編・挿話」へ戻る

「アカイイト・柚明の章」へ戻る

トップに戻る