第3章 別れの秋、訣れの冬(前)


 静かに更ける秋の夜長は、書を読むのに適している。町の喧噪と縁遠い、緑の森に囲ま
れた平屋の日本家屋は、電化製品を揃えていても尚静謐で、吹き抜ける風の音が招くのは、
草木の枝葉が靡く音と涼やかに響く虫の音で。

 窓の外は雲一つない月夜で、青白い輝きが地上を塗り替えている。薄闇は屋敷を取り囲
む森に潜み、庭は淡い月光が染め変え、その真ん中にあるお屋敷は文明の輝きに照される。

 スタンドの明りが灯す子供部屋でこの夜長、わたしが手にとって読む書は日本最古の物
語。

「竹藪の中に一本だけ、輝く竹がある事に気付いたおじいさんは、近くに歩み寄りました。
 金色に輝く竹の中には、珠の様に可愛い女の子が1人眠っています。子供のいなかった
おじいさんは、天からの授かり物だと考えて女の子を連れ帰り、育てる事にしました…」

 わたしはそこで絵本を閉じ、左隣に横たわる桂ちゃんのはだけた布団を被せ直す。そろ
そろ9時を過ぎるけど、中々寝付けない様だ。右隣で、わたしの読み聞かせに耳を傾けて
いる白花ちゃんも、静かだけど眠ってはいない。

 昼間寝かせすぎただろうか。2人とも目が輝いている。秋の夜は暑くもなく寒くもなく、
眠るに悪くない状況だけど、電気を消しても2人の瞼を眠気が閉ざす様子はない。わたし
は2人がむずかり出す前に続きを読み始める。

「女の子は、なよ竹のかぐや姫と名付けられ、すくすくと綺麗に育ちました……」

「ゆめいおねいちゃんみたいに?」

 艶やかな黒髪を強調する為か、絵本の中では向う向きで後ろが正面のかぐや姫を覗き込
む桂ちゃんの問に、わたしは少しはにかんで、

「さあ。どうかしら」

 桂ちゃんが大きくなったら、そうなるかも。

 桂ちゃんに応えつつ、右隣の白花ちゃんがはだけた布団を被せ直す。2人とも発熱を寒
気に感じてない様で、顔が腫れぼったいのに少し目を離すとすぐに布団をはぐってしまう。

「ゆーねぇ髪くろいから、かぐや姫なれる」

 十歳年下のいとこは2人とも、髪は明るいブラウンのストレートで、とても可愛いけど
かぐや姫のイメージではない。わたしもおかっぱに切り揃えてあるから、姫には向かない。

 短く切り揃えた白花ちゃんに較べ、桂ちゃんは最近、やや長めに伸ばしている。男の子
の白花ちゃんと女の子の桂ちゃんを他人から見分け易くするのだそうだ。桂ちゃんも真弓
さんの長い髪に憧れて、真似したがっていた。

 わたしは言葉では応えずに微笑み返し、白花ちゃんの額に掌を当てて、熱を測る。特に
高くはないけれど、油断は出来ない。夜が更けると出てくる熱もある。白花ちゃんの頬が
赤みを増して見えたけど、気の所為か。桂ちゃんの額にも手を当ててみるけど、状況は似
た感じだった。2人とも現状は、一進一退か。

「姫の美しさは国中の評判になりました。遠い都から身分の高い若者が何人も、結婚して
欲しいと牛に引かせた輿に乗って訪れました。
 かぐや姫は、誰を選ぶのだろう。誰の誘いに応え、どこのお屋敷に行くのだろう。町の
人の噂はその事で持ちきりになりました…」

「おねいちゃん、かぐや姫なっちゃダメ!」

 桂ちゃんが突然叫びを挟み込む。

「けっこんダメ。どこも行っちゃダメっ!」

「ゆーねぇ行かないで。ずっとここにいて」

 絵本を支える手を、両方から引っ張られた。絵本の話を追えば、わたしがかぐや姫の様
にいなくなってしまうとでも言う様に。絵本を閉じればそれを止められ、わたしがどこに
も行かなくて済むとでも言う様に。2人の共同作業に、布団の上の絵本がぱたんと倒れ込
む。

「白花ちゃん? 桂ちゃん?」

 2対の双眸は、幼いながらも真剣だった。小さな腕が二本ずつ、わたしの絵本を支えて
いた左右の腕にのし掛って、抑え付けている。少しの困惑と、多くの嬉しさと、そして一
つの諦めを込めてわたしはふうと一息、深呼吸。

「有り難う。白花ちゃん、桂ちゃん、でも」

 わたしは、かぐや姫じゃないから大丈夫よ。

 わたしは絵本から指を放すと、2人の小さな掌をそれぞれに握り返す。熱の所為もある
けど、幼児の肌は柔らかくて暖かい。確かに握って、その言葉に間違いないと肌で伝えて、

「わたしは大丈夫、どこにも行かないから」

 いつも絵本を読んでとせがむ2人だけど、慕ってくれるのは嬉しいけど、今日はわたし
の失敗だった。寝付かせる為の読み聞かせが、2人を真剣にし目覚めさせるのでは逆効果
だ。

 でも、偶にこんな失敗も良いかも知れない。自分で思った程に残念でないのは、わたし
も2人の想いが嬉しいからで、子供の気持が通じる子供だからで。わたしの頬も、少し赤
い。

「喉が渇いたかしら? お茶でも飲む?」

 のぼせを醒したいのはわたしの方かも。

「おちゃ! つめたいのっ」「はくかも」
「分ったわ。ちょっと待っていて」

 水枕は当ててあるけど、水分補給は風邪ひきの幼児には特に大切だ。絵本を読み進めな
くなった以上、仕切直しを考える間も欲しい。

 わたしは布団を抜け出て台所に行く。2人はきっと、わたしが戻る迄布団で大人しくし
てはいられないけど、やむを得ない。風邪引きだからと、日中から散々寝かせ続けたのだ。
この上で尚眠らせるには、羊が二千頭位要る。

 わたしも風邪を引いて寝込んだ時があったけど、寝るだけ寝てしまうと目が冴えて夜に
眠れず困った憶えがある。もう十年近く前の、お父さんとお母さんがいた頃の、話だけど
…。

 気配を察した真弓さんが廊下から首を出し、

「2人は未だ、寝付けないみたいね」
「もう暫く、掛りそうです」

 喉が渇いたみたいで、冷たいお茶でもと…。

 言葉が終らない内に真弓さんは食器棚からプラスチックのコップを幾つか取ると、冷蔵
庫から出したペットボトルのお茶を注ぎ込む。三つ目をわたしに手渡して、

「そろそろ代るわ。貴女も疲れたでしょう」

 すっかり家庭の主婦になった真弓さんから、結婚以前の職に励んでいた頃の姿は窺えな
い。

「いえ……まだ、大丈夫です」
「大丈夫な内に代っておくのが、備えなの」

 余力はいざという時の為に取っておく物よ。

 真弓さんはそう言うと、コップを乗せたお盆を持って、子供部屋に続く廊下へ進み出る。

「今晩は私と正樹さんで2人を看るから、貴女はもう休みなさい」

 はい。仕事から解放されたと言うより、楽しみが終る残念さを少し感じつつ、わたしは
頷いて未だ明るい居間へと向う。わたしには、真弓さんと正樹さんの2人の子供を看る事
は、仕事と言うより楽しみで、趣味なのだけど…。

 その事は真弓さんも正樹さんも笑子おばあさんも全部承知だ。唯、楽しいからと没頭し
過ぎては身体を壊すから、程々で止めるのが大人の賢さか。白花ちゃんや桂ちゃんといる
とつい時間を忘れてしまう。わたしも子供だ。

 居間に入る前にふとした予感が頭を過ぎる。電話がくる。どうやらこの、使えて余り意
味のない関知も、贄の血の濃さ故らしい。受話器に手を伸ばした時に電話の音が鳴り始め
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「はい、羽藤(はとう)です……」

 今はわたしの姓にもなった、笑子おばあさんの家の姓を名乗って電話に出ると、

「ゆーちゃん、おひさっ!」

 わたしの幼い頃の綽名を知る者は多くない。

「杏子ちゃん? お久しぶりね」

 わたしの声を識別して語調をお友達モードに切り替えられる手際よさ。はきはきした声。
瞼の裏に、やや明るい茶色の髪をショートに切り揃えた、活動的な女の子の姿が思い浮ぶ。
その姿はあの夜の直前の夕刻前に、集団下校の中で手を振って別れた小学3年の姿の侭で。

 町にいた頃は一番のお友達だった。小学校1年から3年迄同じ学級で、わたしのやや珍
しい名を憶えきれず、初めて綽名を贈られた。

 何度かお泊りに行ったし、青珠のお守りを巡ってけんかもした。あの時は普段気が弱く
て流されるわたしが譲らなかったので、杏子ちゃんが泣き出して、初めて泣き顔の杏子ち
ゃんに直面したわたしがおろおろして困った。次の日に謝りに行ったら、けろっとしてい
て、

『良いよ。お姉さんは譲ってあげないとね』

と余裕綽々に言われたけど、実は初めてのわたしの徹底抗戦に凄く動揺したと後で聞いた。

 全てが遠く懐かしい昔話。わたしが経観塚に来る前の、お父さんやお母さんと町に住ん
でいた頃の、今は遠く想い出だけに残る日々。

 あの日迄、お父さんとお母さんを失ったあの日迄、幼く幸せな日々は永遠に続いて終ら
ないと思っていた。杏子ちゃんとの日々も昔から続いて今に至り、これからに渡ってずっ
と繋っていくと思って、疑いもしてなかった。

「こっちは残暑が漸く引けてきたよ。そっちはどう? 緑の濃い処なら、風も涼しそうだ
から、もう秋真っ盛りって感じなのかな…」

「そうねえ。先週辺りから熱さが引いて、秋って感じになったわね。蛙や虫の音が、オー
ケストラの真っ最中で、かなりの大音量よ」

 あれから6年が経っていた。お父さんとお母さんを鬼に殺され、その鬼が警官隊に追わ
れて行方不明になり、その脅威から逃れる為に離れた山奥のこの屋敷に転居してもう6年。
わたしも中学3年生で、来春には高校受験だ。

 別れのご挨拶も言えない侭の、転校だった。突然数日の無断休校で、久夫おじいさんか
ら大まかな事情は伝えて貰ったけど、わたしは遂に顔を出す事も出来ず、全てが過ぎ去っ
た。

 何度か所用で町には行ったけど、杏子ちゃんとはあれ以降会えてない。お手紙や電話で
は連絡を取れているけど、わたしの瞼の裏に見える杏子ちゃんは、今も6年前のあの侭だ。
恐らく、杏子ちゃんにとってもわたしの姿は。

「夜遅く電話でごめんね。ゆーちゃんちは幼い子もいるから拙いのは分ってたんだけど」

「大丈夫よ。未だ9時を少し過ぎた位だし、子供部屋まで電話の音は響かないから」

 この位の時刻だから、杏子ちゃんも電話をかけたのだろう。でも、そうやって口に出す
辺りは察しが良い。羽藤家は基本的に夜はそう遅く迄起きてない。わたしも様々な修練に
疲れるので、夜遅く迄お勉強もできないのだ。

「実はね、あたし、転校する事になったの」

 杏子ちゃんがこの時刻に電話をかけてきたのには、それなりの事情がある。そう思って
いたわたしは、この切り出しに続く中身の重さが通常のそれではないと、感じ取れていた。

 電話や手紙で連絡は取れ、少し時間差や手間は感じるけど、わたしたちの交流は意外と
息長く続いて今に至っている。杏子ちゃんが転居しても逢えない状況に大きな違いはない。
今の町にいれば、法事か何かで訪れる時に逢えるチャンスは残るけど、この6年でそれは
実現しなかったし、なくて差し障りなかった。それで杏子ちゃんが電話してきたならそれ
は。

「もしかして、海外?」

 鋭いね、そっちに行ってからゆーちゃんは。

 杏子ちゃんは、その鋭さに満足した感じで、

「エディンバラ、スコットランドよ」
「イギリス? ……かなり遠くだね」

 中々逢えなくなるね、と言う声を呑み込んでわたしは平凡すぎる答を返した。口に出す
とそれが実現する、と迄は思わなかったけど、寂しさを実感してしまいそうで、杏子ちゃ
んにもそう実感させてしまいそうで、憚られた。

「お父さんのお仕事でね。単身赴任も考えたみたいだけど、今いるここも社宅で借りられ
なくなるし。あたしだけ下宿で残ろうかと考えたんだけど、もろに心配されちゃった」

 わたしを襲った鬼による、少女連続殺害事件は、杏子ちゃんの両親の判断にも影を落し
た様だ。3年前にそれが決着した事は、概要をぼかしてその直後に伝えたけど、間近でそ
の様な危険があった重みは、心に染みて残る。

「向うに行けば本場の英語を学べるし、これからは女の子も国際感覚を養うのは悪くない
って、前向きに考えればそうなるんだけど」

 いきなり外国は戸惑うだろう。聞いたわたしが戸惑っている位なのだ。わたしは地理の
知識を大急ぎで頭の片隅から引っ張ってきて、スコットランドの位置や話題を、思い浮べ
る。

「国際郵便や国際電話はあるけど、お子様には中々使える値段じゃないし、帰るにも飛行
機で一日以上だしね。今度帰る時はゆーちゃんに飛行場迄、出迎えに来て貰わないと…」

 電車で届く距離なら、思い切って訪れる事も可能だった。国内なら、離れててもその気
になれば逢えると思えた。でも海外では、ヨーロッパではどうやっても子供には届かない。
否、大人だって簡単には訪れる事も出来ない。

「色々な手続きはこれからなの。家財道具の片づけもあるし。受験を控えた女子中学生が
どれ程忙しいか、殆ど考慮に入れてないよね。
 尤も、受験は実質消失しちゃうんだけど」

 日本国にいればこその高校受験だ。これ迄のスケジュールや準備は一旦白紙撤回になる。
人生の重要な通過点も変更で、多くの物を土台から積み直さなければならなくなったのだ。

「ゆーちゃんも、転校した時こんな感じだったのかな? 今迄当たり前にみんなと一緒に
進むと思っていた道が突然なくなって、周りの誰も知らない・行かない道に、1人で進む
事になって。あたしはあの頃単純に『頑張って、元気出して』しか言えなかったし、言わ
なかったけど、直面したゆーちゃんは、凄く心細かったんだって、今になって分ったよ」

 まして、ゆーちゃんはお父さんやお母さんも亡くし……ごめん、余計な事言っちゃった。

 杏子ちゃんが自爆して言い淀むのに、わたしは不快に感じてないと伝える為に口を開き、

「杏子ちゃんの励ましは、届いていたよ」

 確かにあの頃はとても心細かったもの。

 心細さ以上に、哀しみに潰されていた。哀しみ以上に、罪悪感に心が凍っていた。初め
て通う転入先への不安より、喪失感の大きさが心を堅くさせていた。両親の死をみんなは
察してくれたけど、それより罪悪感と悔いが世界を埋め尽くし、心を闇に閉じこめていた。

「わたしが、きちんと受け止められなかっただけ。ごめんなさいね。あの頃は、わたし周
りが全然見えてなくて。折角の励ましを…」

 悲劇の原因はわたしだった。わたしに流れる濃い血が鬼を呼び寄せ、お父さんとお母さ
んを死に追いやった。血の匂いを隠す青珠の守りを、意識のないお母さんにわたしが握ら
せてしまった。守りになればと、交通事故の傷を癒す助けになればと。わたしの血の匂い
を隠す物と知らず、わたしが危ういと知らず。無知は代償を求めてきた。わたしは鬼に見
つかり、お父さんとお母さんはわたしを守る為にその前に立ち塞がって、鬼に貫かれて倒
れ。

 わたしは禍を呼ぶ子だった。わたしがみんなの哀しみを招いた。そのわたしがお父さん
やお母さんや、名も付けられる前に、生れる前に費えた妹の、それらの生命と引換に生き
て残された。例えようもなく罪深い我が生命。

 桂ちゃんと白花ちゃんが生れる迄、わたしの心を包む闇は晴れなかった。生きる事に光
を見出せなかった。守られて、愛されて、多くの生命と引換に残されたわたしに、一体何
が出来るのか。残されても、渡されても、わたしは生命も時間も持て余していた。護る物、
力になりたい物、役に立ちたい物が現れなければ、わたしは生きた屍の人生を送っていた。

 杏子ちゃんの声も、サクヤさんの声も、笑子おばあさんの声も、わたしの生命を繋ぎ止
めはしたけど、心の奥の生きる意欲に火を付けるには届かなかった。あの双子、白花ちゃ
んと桂ちゃんが、わたしの心の太陽になった。護るべき物、護りたい物、護らせて欲しい
物。

 幾つもの生命と引換に残された意味はここにあったのだと。幾つもの思いを託された意
味はここにあったのだと。わたしは漸く生きる目的を見つけ、自身の生命に値を見出せた。
そこで漸くわたしは、内向きに閉じこもっていたわたしに辛抱強く関り励ましてくれた多
くの想いに、遅まきながら気付く事が出来た。

 可南子ちゃんや仁美さんや、詩織さんや…。

「立ち直ってくれて、ほっとしたんだよ。
 何にも出来なかったけど。殆ど何の役にも立てなかったけど。行って元気づけてあげら
れればって、何度も思ったんだけど。でも」

 良かった。そう言ってくれるのが有り難い。

「1年近く、見捨てずに励ましてくれたよね。
 殆どまともな答もできない中で、何があったかもしっかり答えられない事情の中で…」

 鬼の話は口外できなかったし、その前にわたしが外向きに喋られる心理状態でなかった。
杏子ちゃんは多分、壁に喋る感覚だっただろうに。杏子ちゃんは一年近く、ほぼ毎週電話
をくれていた。並大抵の持続力じゃ出来ない。

「そりゃ、あたしのゆーちゃんの為だもの」

 誤解を招き易い表現を好んで取りたがる。

「ゆーちゃん絶対自分から電話切らなかったでしょ。一生懸命助けを求めているんだって、
分ったの。助けてって言えない位大変な状態にいるんだって、分ったの。本当にあたしの
電話が煩わしかったり不要だったら、切っちゃっていたと思うんだ。でも、あたしが切る
迄ゆーちゃんはずっと付き合ってくれた。あたしが励ます言葉に詰まって苛立った時も」

 だから、あたしもずっと電話し続けたの。

「あたしが大好きなゆーちゃんの為に」

「わたしも、杏子ちゃんは大好きだよ」

 わたしの想いも誤解され易いかも知れない。でも、何が誤解で何が真意なのかは、実は
…。

「ちっちっちっ、甘いね」

 杏子ちゃんが右手の人差し指を横に振る様子が目に浮ぶ。やや得意げに、お姉さんが教
えてあげるという語調が昔日を思い出させる。わたしはまたもや、妹分にされているらし
い。

「あたしの大好きはゆーちゃんのとは違うの。
 唯大好きだけじゃなく、特別な人。
 唯特別なだけじゃない、一番の人。
 この世に1人で換えの利かない人。
 あたしにとってのゆーちゃんはそういう人。
 ゆーちゃんはわたしを一番には出来なかったでしょ。それは、分っていたんだけどね」

 どこかで聞いた言葉に、わたしは即座に答が出なかった。それは、その言葉の連なりは、

【母さんにとっての父さんの様な人の事よ】

 白いちょうちょの可愛い髪飾りを、お母さんに頂戴とおねだりした時に、言われた筈だ。
 大切なだけじゃなく特別な人。
 特別なだけじゃなく一番の人。
 この世に唯1人と、思える人。

 そう言う人が出来る迄、見つけられる迄。

【それ迄は、ここにしまっておきましょう】

 両親を亡くし、町の家を引き払う時、わたしはもうお母さんから貰う事が出来なくなっ
たその髪飾りを前に、サクヤさんに告白した。

『この髪飾りを付けて、綺麗になったわたしを是非、見せてあげたいの、見て貰いたいの。
サクヤおばさんに、わたしの一番大切な、特別な、サクヤおばさんに!』

『わたしにはそれは、サクヤおばさんです』

「わたしにはそれは、ゆーちゃんだったの」

 えっ……。声が詰って、先が出なかった。

「ゆーちゃんが別に一番の人がいるって事は、あたしも分っていた。それでもあたしはゆ
ーちゃんを好きだった。振り向いて欲しかった。付きまとって、相談して欲しくて、話し
かけて欲しくて、我慢できずこっちから話しかけ。あたしもゆーちゃんの一番に、なりた
かった。して欲しかった。そう言って欲しかったの」

 ゆーちゃんのお守りの青い珠を欲しがって、けんかした事あったでしょ。綺麗だから頂
戴ってあたしが手を伸ばして、ダメだからってゆーちゃんが断って、代りにあたしの宝物
全部あげるからって更にあたしが手を伸ばして。

 憶えている。これはわたしの大切な物だから、代えられない大切な物だからって断って、
2人で縺れる間に珠が零れ落ち、でも青珠はすぐ独りでにわたしの足元へと転がってきて。

『絶対代えの利かない大切な物だからダメ』

 青珠に覆い被さって、譲れないと断ったら、杏子ちゃんは泣き出した。あの時はなぜ杏
子ちゃんが泣いたのか、わたしも分らなかった。分らなかったから一層おろおろしてしま
った。

 わたしは杏子ちゃんを叩いてないし、非難もしてない。杏子ちゃんは自分の思い通りに
行かない位で泣き喚く子ではなかった。杏子ちゃんを知らない人は、我が侭が満たされな
くて泣いただけに見えたろうけど、わたしにはそう思えなくて、暫く心に引っ掛っていた。

「あたしが姉御肌を目指したのも、ゆーちゃんを護って、相談されて、頼って貰いたかっ
たから。お姉さん目線で喋っていたけど、本当はそれで嫌われないか少し怖かったんだ」

 ゆーちゃん可愛かったから。あたしを頼ってくる姿も、悪ガキに泣かされている姿も、
助けたあたしが囲まれた時逆に助けに来てくれた姿も、一緒に泥だらけで泣き笑った時も、
ゆーちゃんのお母さんに共々に怒られた時も。

「あの悪ガキ達もね、ゆーちゃんが可愛くて、気になって堪らなかったって言っていた
よ」

 ゆーちゃんの血が濃いって言うのは、要するにそう言う事なんだって、あたしは言わな
かったよね、確か。あたしがそれを言うのは、ゆーちゃんを大好きだったって過去形で明
かす時、敗北宣言の時だって、決めていたから。

「杏子ちゃん……」

「きっと、みんなに愛される、愛されたくない者に迄愛されてしまう、そう言う運命みた
いな物を指しているんだよ。おばあさんも優しくて強い人なんでしょう。その血を濃く受
け継げば、ゆーちゃんの様に綺麗で強くなっちゃうよ。それはもう、避けられない定め」

 鬼を呼び寄せる贄の血の定めを、そうと知る術のない杏子ちゃんが半分近く言い当てて
いる。推理で正解の近く迄辿り着けるなんて。その想いの強さが、今更ながらに胸に刺さ
る。

「あたしが付き添えない事が、残念だけど」

 海外に行けば、もう自分の出番はない。日本国内なら、地続きなら、未だ望みはあった。
望みを絶ちきられて、初めて杏子ちゃんは想いを語る。杏子ちゃんは昔から強がりだった。

「サクヤさんだっけ、ゆーちゃんのお母さんのお友達で、写真家の女の人。綺麗な人だね、
活き活きしていて。見た瞬間、敵わないと思っちゃった。ゆーちゃんが入れ込むのが見て
分るし、納得できちゃったよ。あたしも女を磨いて、若さで勝負だあ、と思ったけど…」

 あの事件がわたしたちの一緒の時間を終らせた。わたしの目の前という主戦場は、手の
届かない山奥の村へと移った。杏子ちゃんは挑戦する機会を失った。海外に移り住む事で、
今度こそほぼ完全に。だから、敗北宣言と…。

【うん。サクヤさんが元気で綺麗な侭帰ってきてくれたらいい。わたしにとって、一番綺
麗なのは、サクヤさんだから】

 ごめんね、杏子ちゃんは2番目です。
 心の中だけでそう呟いた事があった。

 口に出した憶えはないけど、顔色や物腰に、姿勢は見えていたかな。わたしは常にサク
ヤさんを仰ぎ見ていた。綺麗で強くしなやかで、この上なく愛おしい。杏子ちゃんにもそ
の素晴らしさを分って欲しくて、お話ししたっけ。

「あたしはあの時、青珠が欲しかった訳じゃないの。確かに、あの青珠はきらきら綺麗で、
欲しい位の石だったけど。あたしは、ゆーちゃんにあたしが一番だと言って欲しかったの。
あたしの為ならお守りの青珠も手放す、あげる、何でも叶える。あたしがゆーちゃんの一
番だって、そう言って欲しかったの。でも」

 わたしはそれを分らなかった。どうしてわたしの大切な青珠を、杏子ちゃんもわたしの
大切な物と分っていて欲しがるのか分らずに、強く欲しがるその腕を拒んだ。どうしてと
尋ねても『ダメなの? あたしがお願いしてもダメなの?』と言うだけで応えてくれずに
…。

「あたし、悔しかったんだ。ゆーちゃんにはサクヤさんって人がいて、多分不動の一番で、
あたしは絶対に並べもしない。青珠を頂戴って言ったのは、あたしは青珠より大切だよね、
青珠のお守りをくれる位あたしって大切だよねって、そんな感じで確かめたかったから」

「……子供っぽい」

 想いを抑えて、率直な感想を短く述べると、

「ああ子供です。子供だったんだから」
「あの時は、小学2年生だったものね」

 ふふっと回線を笑い声が行き交った。

「あたしはどうやっても一番になれないって思い知らされた気がして、泣けてきたんだ」

 母さんに相談したよ。ゆーちゃんの一番になりたい。青珠を譲ってと言っても聞いてく
れない。ゆーちゃんは、あたしより石の方が大切なんだって、泣きながら。そうしたらさ、

『あなたはその石を巡る諍いで、柚明ちゃんを失っても良いの? 大切なお守りを無理に
貰おうとして、くれないからってけんかして、その侭仲違いして良いの? 柚明ちゃんに
あなたが一番って言わせる事がそんなに大切?
 無理に言わせて、それが柚明ちゃんの心からの言葉に思える? それであなたは満足?
 柚明ちゃんが、あなたをどう思ってくれるかは柚明ちゃんの心次第よ。でも、それを無
理に求めたら、あなたは柚明ちゃんの大切な人でもなくなってしまうかも知れないのよ』

「心臓に杭を刺された吸血鬼の気分だった」

 悔しいけれど、残念だけれど、この世にはどうしようもない事もある。人の手や努力で
はどうにもならない事がある。どんなに頑張っても頑張っても及ばない届かない事がある。

 杏子ちゃんは、自分ではどうにも出来ない壁にぶつかって、苦しんでいたのか。わたし
にこそ絶対に相談できない中で、1人悩み…。

『あなたが、まずあなたから見て一番の人になりなさい。頼れる人、守れる人、庇える人
になりなさい。あなたが素晴らしい人になれれば、きっとあなたを大切に想ってくれる』

 その先は、神様と運命と柚明ちゃん次第よ。
 杏子ちゃんは母さんの諭しを口に上らせて、

「2番でも良い。3番でも4番でも構わない。あたしはゆーちゃんを失いたくなかったか
ら。あたしは何番でも、ゆーちゃんの大切な人であれば良いって振り切れたから。いつか
一番を奪う野心は、ずっと持った侭だったけど」

 その野心も、今夜でお終い。ゆーちゃんの助けになれない異国に行っちゃう身では、レ
ース脱落だよ。あ、最初から入れてなんかいないとは、言わないでよね。

 透き通った笑みが、瞼の裏に浮かんで滲む。杏子ちゃんは、最後迄爽やかに終らせる気
だ。

「ごめんなさい。わたしは、杏子ちゃんを一番にする事は出来ないの。杏子ちゃんは、と
ても大切なお友達で、特別に大事な人だけど、一番には出来ないの。今迄も、これから
も」

 傷口に塩を塗ると分って、そう言うしかなかった。他に術を持たなかった。わたし自身
にも、サクヤさんにも杏子ちゃんにも、他の全ての人にも誠実であるには、それしかない。
それが大切な誰かを傷つけると、分っても尚。

 真実は、時に人を傷つける。でも、真実を貫かないと、もっと多くの人を嘘で傷つける。

 サクヤさんの答が耳の奥に甦った。あの時、ちょうちょの髪飾りを身に付け、サクヤさ
んが一番大切な、特別な人ですと告白した時に。サクヤさんの答は、世界一真剣なノーだ
った。

『ごめんよ。あたしには絶対代えの利かない、掛け替えのない人がいてね、あんたを一番
にしてあげる事は出来ないんだ。柚明があたしを一番と言ってくれるのは嬉しいけど、そ
れにあたしは、同じ想いで応える事が出来ない。

 柚明を特別に大切だと思うあたしの気持ちは本物だよ。それでも、一番だって想いに一
番の想いで応えてあげられないってのは、我ながら薄情だと思う。ごめん、柚明』

 ああ、あの切なさが肌に染みて分る。杏子ちゃんがここ迄大切に想ってくれているのに、
とても嬉しいのに、わたしはそれに応えられない。応えたら嘘になってしまう。わたしは
杏子ちゃんに、ノーを応える他に方法がない。せめて全力で応える、せめて本心から応え
る。その位しか、わたしに尽くせる誠意はない…。

 世の中には、一つを望むとそれ以外を手に入れられないと言う時がある。一つを望む為
には、それ以外を諦めなければならない時がある。どんなに大切な物であっても、全部を
望めない時がある。その時が正に今なのだと。

 笑みを含んだ声は、妙に透き通って聞えた。

「分っていたよ。分って抗い続けたんだもの。悔いは残るけど、受け容れるから、ゆーち
ゃんの心には、棘として残さないでね。それと、いっぱい謝って頂戴。あたしが今迄ゆー
ちゃんに向けた想いが、実る見込みがなくなった証になるから。あたしが吹っ切れるから
…」

「ごめん、ごめんね杏子ちゃん、ごめんね」

 嬉しいけれど哀しい。有り難いけど切ない。大切に抱きたいけど決して応えてはいけな
い。想いを載せきれない言葉が交わされるけれど、杏子ちゃんなら分ってくれる。わたし
も全身全霊で応えたから。全力で想いを伝えたから。

 秋の夜長が更けていく。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 残暑の季節が過ぎ去ると、山の秋は急速に深まってくる。朝夕の空気は夏の涼やかさと
違った冷たさを含み、月の蒼い光は透徹した輝きで全ての俗世の塵芥を打ち払うかの様で。

 わたしは、笑子おばあさんに言われる侭に夜の森へ入っていた。懐中電灯は持ったけど、
贄の血の力の使い手であるわたしにも笑子おばあさんにも、足元の不案内は殆ど影響ない。
目を瞑っていても大抵の障害物は避けられる。日が沈んで暫く経つと気温は結構下がるの
で、森の中は藪蚊の飛び交う姿もない。行き先は、

『オハシラ様の、ご神木……?』

「夜に行った事はなかったかね」

「はい」

 オハシラサマのご神木は、子供が近付いてはいけない神域と聞かされていた。わたしは
3年前、お父さんとお母さんの仇である鬼が再来したあの日、桂ちゃんと白花ちゃんを命
懸けで守り抜けたあの日、実質大人としてその禁を解かれたけど、昼間に何度か訪れはし
たけど、不用意な接近は尚自主規制していた。わたしは修練途上の未熟者、憚って当然と
…。

 目視の利かない夜の森だけど、別段イノシシやクマが現れる訳でもなし、足元さえ確か
なら危険は少ない。夜露で草木の枝葉は濡れているけど、地面はぬかるむ程ではない。

 ふと背後で、笑子おばあさんが足を滑らせる像を瞼の裏に感じてわたしは、咄嗟に懐中
電灯を持ってない左手を差し伸べていた。実際に笑子おばあさんが足を滑らせたのは、わ
たしがおばあさんの右手を取った直後だけど。

 笑子おばあさんの体重を支えても、今のわたしは大丈夫だ。6年の間に身体も随分大き
くなったし、真弓さんにも沢山鍛えて貰った。男の人には敵わないけど、筋力もあると思
う。

「大丈夫ですか?」「すまないねえ」

 こういう勘の良さも、贄の血の力を修練するにつれて洗練されてきていた。笑子おばあ
さんも、わたしの所作の前後に驚きはしない。

 唯、笑子おばあさんが最近余り外を出歩かない事が思い起された。足腰が弱っている?
経観塚の町の子に習字や生け花を教えに行くのも、歳を理由に惜しまれつつこの夏で終り
にした。あの時は、少し寂しげな笑子おばあさんが可哀相に見えつつも、外回りで無理に
疲れなくて良くなると、ほっとしたのだけど。

 贄の血の力を使いこなせても、目前に障害物があると分っても、越えられない事もある。
熊の一撃を分っても止められない様に、飛び立つ鳥を追いきれない様に、わたしが真弓さ
んの攻撃を察知しても防ぎ止められない様に。湿った程度のいつもの山の斜面だけど、今
の笑子おばあさんには、きついのかも知れない。

「明日の日中では、ダメですか?」

 わたしなら時間を作りますから。

 振り向いて足を止め、尋ねてみる。おばあさんが全て承知の上で、夜更けにわたしに声
をかけたと分っていても。夜遅くに、2人が揃わなければ出来ない何かだと感じていても。

「そうだねえ。今宵は良い月夜だからねえ」

 にっこりと微笑みかけてくる。全幅の信頼を置いているから、わたしに身を預けるから、
連れていって頂戴という顔だ。余り大丈夫ではないと言外に認めつつも、2人の為に必要
だから、付き合ってくれるよねと言う笑顔だ。断りたい想いを、とろかしてしまう微笑み
だ。

 わたしはどうして、この類の笑顔に弱いのだろう。屈託のない笑顔に頼まれると、断れ
ない。むしろ心から力になりたくなる。これはわたしだけの錯覚なのか。笑子おばあさん
は最近、子供の様に可愛らしく、愛おしい…。

「しっかり手を、繋いでいて下さいね」

 了承の返事は、わたしたちの間には蛇足だ。唯その先に進む為に、より強く笑子おばあ
さんを引き寄せ、血の力を通わせ、懐中電灯もつけ。引っ張りすぎない様に、でも引き揚
げる力で笑子おばあさんの負担を少しでも軽く。

「懐かしいねえ。こうやって強く手を引かれるのは、久しぶりだよ。サクヤさんや、亡く
なった旦那や、そうそう、あんたの母さんにも引っ張られた事があったっけねえ」

 心が懐古に向うのは老いた人の特徴なのか。想い出が心を満たすのは良い事だけど、わ
たしには笑子おばあさんが、わたしたちのいる俗世から彼岸に身を乗り出し行く様に思え
た。

 お母さん、まだ笑子おばあさんは連れていかないで。ふてぶてしい程、長生きして貰う
予定だから。白花ちゃんも桂ちゃんも、いっぱい教え諭して貰うんだから。そっちにはお
父さんも弟も妹もいるんだから、暫く待って。

 想いを願いに変えてわたしは、贄の血の力をもっと強く内から紡ぎ出す。笑子おばあさ
んを想い出の彼方の彼岸ではなく、目の前のわたしへ引き寄せたいと手繰り寄せる。笑子
おばあさんに血の力を大量に流し、現世に踏み止まって欲しい想いを伝え、その身を労る。

「いい感じで力が流れ込んでくるよ。優しくて力強くて安定している。月夜の所為もある
けど、今の貴女の心を現している流れだね」

 繋ぐ手から笑子おばあさんの力は余り感じない。わたしの力を測る為に抑え気味なのか、
自身の体内に集約しているのか。傷を治す以上に、肉体の疲弊の修復にも、贄の血の力は
有効だ。笑子おばあさんにそれは今必須な…。

 はい。わたしは笑子おばあさんが口に出す前に中身を察し懐中電灯の電源を切る。進む
足を止め、笑子おばあさんの様子を窺いつつ次の指示を待とうとして、一度前を向いた時、

「ちょうちょ……?」

 生い茂る森の枝葉に月の輝きも遮られた森の中で、懐中電灯とも違う灯りを目にした時、
わたしは思わず声を上げていた。蛍の様に自ら輝き、気流に乗って揺らぎつつ、それはわ
たしたちの行く手から現れて、近付いてきて。

 何とも幻想的な光景だった。この世の物と思われない、光の粒子で出来たちょうちょは、
お守りの青珠の文様に似て、淡く白く輝いて。

 見た瞬間に、何かが伝わってきた気がした。

 わたしを招く意思、悪意も邪心もない透き通った想い、労り励まし先へ促す誰かの心…。

 笑子おばあさんはこれを察知したから、懐中電灯を消す様に指示したのか。

「お出迎えだねえ」「オハシラ様の?」

 ああ。笑子おばあさんは心から嬉しそうに、

「私を誘(いざな)って、くれるのかねえ」

 わたしの前をひらひらと通り過ぎ、ちょうちょはおばあさんの目の前で踊る。実体を持
たない幻が、二度三度わたしたちの周りを飛び回り、導き招く様に前方の闇へ飛んで行く。

 呆然と見送るわたしに、おばあさんは、

「サクヤさんと初めて逢った頃を思い出すよ。隠す積りもなかったけど、オハシラ様は全
てをご存じなのかねえ。さあ、もう少しだよ」

 ざああっ。

 風が、吹き抜けて行く。森の中では、木立や枝葉で遮られ、突き抜けられない風が、空
気が、道も不要と自由自在に行き交い流れる。わたしも一瞬心を持って行かれそうになっ
た。代りに髪を嬲られて、撫でられて、煽られて。

 わたしたちは森の一角に辿り着いた。樹齢千年に及ぼうかという槐の巨木が一本、どっ
しり根を下ろしている。他の木々はそれに遠慮した感じで、開けている。天は雲が切れて、
仄かな月光が地の全てを蒼く染め抜いていた。

 その真ん中に鎮座して空を支えるかの様に、

「ご神木が、息づいている……」

 日中見るオハシラサマと、それは全然別物だった。昼間見るご神木が死んでいる訳では
ないけど、それは明らかに別の生き物だった。起きている。そう、眠っているのと起きて
いるのとの違い。そういえば贄の血の力も鬼も、日中より夜の方が遙かに活発に作用する
けど。

『オハシラ様も、不可思議なもの。贄の血の力や、鬼に近しくて不思議はない。日中より、
夜こそその真の姿が見えても不思議では…』

「貴女なら感じ取れても、不思議はないよ」

 月の輝きを生命の力として取り込んでいる。そんな錯覚を抱く程、ご神木は活き活きと
…。

「正樹や貴女の母親には、わたしの贄の血の力を介さなければ伝えられなかったけど、今
の貴女にそれは不要。贄の血の力を身に纏った侭、ご神木に手を触れてご覧なさい」

 笑子おばあさんがわたしに望む所作は分る。何を意図しているのかも概ね分る。だから
わたしに返事は不要だった。笑子おばあさんの手を取ってない右手を槐の大木の幹に当て
る。

 見えたのは旧い旧い物語。この町が経観塚と呼ばれる前の、ここが羽様と記される前の、
ご神木とオハシラ様の発祥に繋る、わたしの、わたしたちのたいせつなひとの物語。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 その昔、今は経観塚と呼ばれる地の長者に美しい娘がいた。黒髪豊かで気だての良い娘
は国中の評判となり、多数の若者が求婚した。娘の気を惹く為に太刀を身構え馬に跨る者
や、親の長者に取り入る為に宝物を持ち寄る者で、屋敷の周囲は連日、市が立った様に賑
わった。

 豊かな長者、強い武者、雅な公家、貴い皇子。皆も憧れる者達が娘を求めた。だが娘は
誰にも良い返事をしなかった。最後は山の神が降りてきたが、娘は頷かなかったという…。

『娘よ、お前は天つ神に騙し討たれた我が遠祖の、奪われた花嫁の血を引く者だ。わたし
の元へ、来るが良い。それが汝の定めぞ』

 山の神は人をさらって喰らう怖ろしい神だった。都から呼んだ鬼退治の武者は必死に闘
ったが敵わなかった。遂に山の神がくる段に至り、娘はどこからか幾人かの行者を招いた。

 行者達はどことなく常の者とは違っていた。確かに人と言える者は、その頭と思える者
だけだった。その者は、役行者小角だともいう。

 山の神は鏡の様に目を光らせて、八色の雷を操り天を震わせた。行者達は空に浮ぶ満月
を見上げると身体を獣と化して、挑み掛った。満月の夜のこと故、彼らを観月の行者と言
う。

 山の神は、凄絶な闘いの末に退治されたが、山の神が呼んだ雷は尚鳴り続けた。行者達
は塚を作ると、山の神の御霊を祭り篤く弔った。すると雷はぴたりと止んだという。

 その時から娘の姿が見えなくなった。観月の行者と、何処へ去ったと言われている。こ
の塚に由来して、この地は経観塚と呼ばれる事になった。塚には槐の木が育ち、やがて月
に届く程になった。その木はオハシラ様と呼ばれ、塚に代って祭られる様になった。

 一昨年大改修された経観塚の郷土資料館に、正樹さんが収めたお話の筋はそうだったけ
ど。確かにその中身は、大筋違ってなかったけど。娘は、唯美しいから皆に欲されたので
はない。

『竹林の長者の娘は、贄の血を濃く継ぐ娘』

 わたしはオハシラ様の導きで、遙かな過去を体感する。紙も墨も足りず書き切れなかっ
た様々な想いを、声も音も肌触りも姿形も全て感じ取れる。瞼の裏に頭の中に、胸をうち
振るわせる想いが映る。心地よい感触に身体の重みを忘れ、わたしは夢心地でその中へ…。

『都にいては様々な争いに巻き込まれる故に、娘の祖はこの地に身を隠した。地方への赴
任さえ流罪の如く嫌う古に、自ら僻地を望んで。この地の旧い名は《狭間》。都を遠く隔
たった人知と未知の狭間、人の皇が統べる王化の国とまつろわぬ神々が統べる化外の地の
狭間。
 神の元にいても、人の元にいても、贄の血は常に注視され、欲され、危険視され、捨て
て置かれる事はない。構われぬ為に、誰にも属さぬ狭間に身を置いて、誰にも害も益も及
ぼさぬ事で、隔たる事で禍を避けたのに…』

 向うが放って置いてくれない。
 わたしが、そうだったように。

 贄の血を手に入れたい。独占したい。或いは誰かの手に渡っては困る。誰にも渡したく
ない。欲する者を許せない。誰かの手に渡る位なら、欲する者も欲された娘も討てば良い。

 贄の血が人外の者に膨大な力を与えるから、それを怖れる人や望む人や、それを怖れる
鬼や望まぬ鬼や、様々な思惑が絡まり縺れ乱れ。贄の血の力を欲して、娘に求婚した者も
多かったのだ。その力を他人に渡さぬ為に、愛のない求婚をする役を負うた者も多かった
のだ。娘が好きなのではなく、娘の幸せを願うのでなく、娘を使う為・使われぬ為の多く
の求め。

 その中で、純粋な友愛の情がどれ程娘に強く支えとなった事か。その観月の民は、新月
に生れた故に四つ足になる事も出来ず、観月の民の標準を外れていたけど、正にその故に。
人でありながら妖かしに目を付けられ、皆に忌避される長者の娘と、孤独を分ち合えたか
ら。贄の血で力を欲する大多数の化外の者と違い、同族とさえ違い、長者の娘を1人の娘
として心から慕い、その微笑みを欲したから。

『姫さまっ。やだよ、行っちゃいやだよ!』

 童女は娘を姫さまと呼んでいた。頬を擦りつけ、腕を回し、深く頬を埋めていた。娘も
それを喜んでいた。慕われるのが嬉しい以上に、娘も抱きつける誰かを欲していた。心細
く怖ろしく、でもそれを表に出せはしないと心の奥に閉じこめて。でもこうして抱きつか
れるとその温もりに、離したくない想いが…。

 娘の広く透き通った視界の中でも、その小さな姿は大きく深く刻まれている。必死に慕
ってくれる観月の童女は、わたしもどこかで見た事がある、娘も強く慕った相手だった。

『どこにも行かないで。行っちゃやだっ!』

 娘は返事を出来ぬ状況にいた。誰かの求めに答える事が、どこかで保たれる均衡を崩す。
娘を求めて多数の者達が一点に集い、縁を絡ませ合う事で、娘が誰かに頷いた瞬間に何も
かもが動き出してしまう状況が作られていた。

 長者の館の周囲に詰めかけた求婚者達の間では、既に様々な泥試合が進んでいた。醜聞
で人を陥れる者や、買収して寝返りを唆す等可愛い方だ。目立つ者の排除に野合して取り
囲む者、手を組むと言いつつ裏切りを企む者、諍いの種を蒔いて共倒れを目論む者、脅し
や虚報が飛び交った。眠っている筈の山神を起し招く程、人の怒りと憎悪は渦を巻いてい
た。

 娘が切実に、観月の童女の無垢な心を求めた訳が分る。周囲は欲望と執着の泥沼だった。
屋敷の家人達さえ、それに毒されて揺れ動く。親以外信用できる者が1人もいない。それ
が己の持って生れた血の故と言うなら、誰もがその様に変貌してしまうなら、己がその根
源で禍の子だと言うのなら、この世に望み等抱けようか。観月の童女が、娘にとっての望
みだった。己の贄の血の故ではなく、己の持つ孤独に響き合って心を交わせた唯一の友が
…。

 沢山来た若者の中には、娘を真剣に愛した者がいたかも知れない。娘の定めに心を痛め、
共に歩もうという者もいたかも知れない。でも最早、娘は己の好き嫌いでは答を返せない。
応えた瞬間に、相手も己と共に血塗れの騒ぎの中心に置かれる。その侭で騒ぎが止む見込
みもないが、決着を付ける事もできなかった。終る事ない嵐に長者も娘も為す術がなかっ
た。

 状況に、良くも悪くも終止符を打ったのは、最後に来た山の神の求婚だった。特大の嵐
が群小の嵐を蹴散らし、争点を簡潔明瞭にした。山の神の求めに諾か否か、それだけにな
った。そして山の蛇神が長者の娘を手に入れる事を怖れる者達が、挙って娘を守る図式が
出来る。

『なんで姫さまが謝るの。鬼切りがだらしないからいけないんだ。いっつも威張っている
くせに、役立たずなんだから!』 

『駄目。あの方達はわたしを助けようとして、生命を落してしまったんだから。今更だけ
ど、わたしがあの方の処へ行くことを拒まなければ良かったのよね』

 己の為に幾つもの生命が消えていく。その重みが娘の心を曇らせていた。それはわたし
もかつて抱き、今も抜け切らぬ哀しみだけど。童女はそれを気弱さの諦めと解して熱り立
ち、

『ダメ! ぜったいダメ! あたしがお爺ちゃんに頼むから。お爺ちゃんに頼んで、姫さ
まを助けて貰えるようにするから』

 絶望を拭いたいとの強い想いが見て取れる。でもこれ以上、己の為に誰かが傷つくのは
…。

『もう良いのよ。わたし1人のために、何人もの方を危険な目に遭わせることはないわ』

 娘の思いは、わたしの想い。でも、それでも尽くしてくれた人がいた。生命と引換に守
ってくれた人がいた。そして今のわたしは尽くしたい側にいる童女の気持ちも、よく分る。

『危険なんてないもの! 大丈夫だもの!  お爺ちゃん達の方が強いんだからっ』

『ちょっと、○○○ちゃん……』

 走り去る童女の背中を、娘は追いかけて即座に立ち上がる事も出来ない。贄の血を濃く
継ぎながら、生れつき身体の弱い娘は邸内を歩く事も困難だった。贄の血の力は傷には効
くが多くの病には効かない。人を元気にする作用が病の源も元気にしてしまうらしいのだ。

 追いかける事が出来ず、逃げる事が出来ず、待つ事しかできない。良いものも悪いもの
も、己の定めと受け止める。長者の娘の在り方は草木に似ていた。根を生やし、動けぬ代
りに訪れる全てを受け止める、槐のご神木の如く。

 娘はきっと闘いの行方を見通していたのだ。勝っても思いの侭にはならない己を。残っ
ても尚、童女との関りが今迄の様に行かぬ事を。

 観月の童女は唯娘を守りたい思いで、娘の為に力になりたかった。でも、その純粋な想
いを支える力は小さすぎた。そうではない多数を巻き込まないと、大きな力にはならない。
そして、そうではない多数が仮に勝って残っても、負けて退いても、娘に待つ定めとは…。

【お前達は、今更わたしが手を出さねば、全て丸く収まるとでも思っているのか。わたし
が手を出す迄の喧噪と騒擾を思い出してみろ。お前達はその時一体どこで何をしていたの
だ。最早竹林の姫は、今迄通りの姫ではおられぬ。
 誰の物にならずとも、誰の物になろうとも、姫を狙う者・姫を欲する者の蠢きは終らな
い。最早隠れた姫ではない。最早狭間を揺らぐ事も許されぬ。わたしの手を拒んで、お前
達はその娘を再びあの騒擾の中に戻すというか】

 山の蛇神は傲然と言い放ったが、それは一つの真実だった。最早娘は国中の耳目を集め
る存在だった。隠里は皆に知られてしまった。最早娘は山の神が諦めても、その前の騒擾
と混沌に戻る事しかできない。わたしが幾ら塞ぎ込んでも、あの暖かな日々に戻れない様
に。

 それでも闘いは避け得なかった。主が娘をその侭手に入れる事は余りに危うすぎたから。
雷を操る主と、身体を獣に変えた観月の長達の闘いは、説話の示すとおり主の敗北で終る。

 それでも主の猛りは収まらなかった。力で負けても、主の魂は屈しなかった。主は己の
想いには正直だったから。主には他に、己の心を伝え願いを叶える術を知らなかったから。
破れ散った筈の主の想いが、尚雷を呼び嵐を招く。大地を蠢動させ、周辺の鬼を揺り起す。

『封じるだけではダメだろう。どんな封印を施したとしても、その内それは綻びる。これ
程の魂は中々還らずこの世に留まる。……だから少しずつでも魂を返してやるのよ。動け
ぬように封じつつ、刻をかけて少しずつな。
 奴も山神の眷属なれば、多少なりと土の性を持つ。故に木克土。木は土より力を吸い上
げる。これは魔を祓う木であり、魂を虚空に返す弔いの木。だが、燎原の火を僅かな水で
消す事が敵わぬ様に、時が足らぬ。持てる力を枯らし、朽ちる迄に百年、いや、十年持つ
かどうかも分らん』

 その想いは激越だった。その心は強靭だった。その力は無尽蔵だった。それでも。主は
全身全霊の全てを使い尽くして敗れた。遂に奪い去る事は出来なかった。至らなかった…。

 その想いの真摯さが、その飽くなき執着が、なぜかわたしには心から憎みきれない。怖
いけど、近寄りがたいけど、嫌い尽くせない。

 わたしの胸に沸き起る、主への同情に近い想いは、娘の影響? このご神木とオハシラ
様が封じている、人に害を為し人を喰らい、その血を啜ろうとした主に、彼女はむしろ…。

『……では小角殿、我らの女神にあやかって、悠久の時に耐える石を封じとなさって
は?』

『それでは主が、余りにも哀れだ。
 おぬしらも観月であるからには、想像できぬ事ではなかろう。無限の時を、唯封じられ
るに留まる苦しみは。封じられた者には、滅びを選ぶことさえ、許されぬのだ』

 緩慢な死への道程。安楽死も尊厳死も許されず、削られ行くばかりの生。十年百年終え
る事のない苦行。死を選べずに生き続ける重さは、わたしが少し前迄ほんの少し味わった。

 あれを悠久に続けるのか。石でなくても、木の封じでも、心が乾き凍てつくだろう。主
へのこの同情はわたしの心? 同じ想いを経た共通点が、単純に主を憎めなくしている?

『それでは、わたしが人柱になりましょう』

 娘が声を上げたのは正にその瞬間だった。
 彼女が、竹林の姫がオハシラ様になると。

『橋を架ける時、城を建てる時、その長久を祈って、人を埋める事があると聞きました。
わたしの身体を取り込ませる事で、贄の血を木の意之霊とし、枯れぬ封じと……』

 観月の童女が取りすがっていやいやを言う。その気持が痛い程分った。わたしも死に行
くお母さんに取りすがってその死を拒み続けた。死に転がり落ちるお父さんを呼び続ける
事で、現世に留めようとした。ダメと分っていても、無理な行いと分っていても止められ
なかった。

 でもわたしは今、娘の心から全てを眺めている。娘はこうするしかない身を悟っていた。

『もとよりわたし1人が狙われていたのです。
 どうぞわたしを、その木の柱として下さい。
 遠き地より皆様方が集まって下さったのは、あの方がわたしの血を得る事で、より大き
な被害が出ることを憂えてのことでしょう?』

 もうあの方はこの封じから外へ出られない。
 娘が屋敷の中から1人で外へ出られぬ様に。

『元凶は主ではないのです。わたしなのです。山の神を封じても、わたしが屋敷に戻れば
元の通り。わたしを巡る諍いは繰り返されます。わたしの血は濃すぎました。わたしは国
中に知れ渡りました。山の神が言った通り、わたしは大本の静かな日々には戻れません。
それどころか、お父様やお母様をあの騒擾に…』

 主は最後迄わたしを求め続けてくれました。
 せめて、その想いに応えたいと、思います。

 娘に戻る処はなかった。行く処もなかった。全てが終る時、娘がいるべき処はこの天地
に最早ない事を、娘はあの時点で見通していた。観月の行者が助けを申し出てくれたあの
時に。

『違う、違う、違う。あたしがお爺ちゃんに頼んだから、だから助けてくれたんだから』

 観月の童女が望んだのは、娘の幸せだった。山の神を封じても、娘が幸せになれないの
では意味がない。童女に微笑みかけてくれる娘がいなくなってしまうのでは、何の為の
…!

『別に、いなくなってしまう訳ではないのよ。かつては人であった小角さまが、立派な角
をお生やしになった様に、わたしの形が変るだけ。そう、貴女と少しだけ近い存在になる
の。
 人の身は百年も経たずに朽ちてしまうけど、封じの柱になれば千年の時にも耐えられ
る』

 それは一つの事実だけど、それに伴って、

『だが姫よ、人の形を為して現れるなど、そうそうできることではないぞ。封じの柱に出
来るのは、唯見守ることのみと思って良い』

『……分っています』

 娘は草木の如く来たる定めを受け容れる。

『いや、いや、いやって言ったらイヤっ!』

 その声は届かない。及ばない。どんなに声を張り上げても、どんなに手足をばたつかせ
ても、その力は余りにも小さくて、儚くて…。

 悔しいけれど、残念だけれど、この世にはどうしようもない事もある。人の手や努力で
はどうにもならない事がある。どんなに頑張っても頑張っても及ばない届かない事がある。

 多分観月の行者達も小角様もこの結末を分っていた。娘がそれを見通し悟り受け容れる
事迄。こうならなければ事が収まらないとも。主に贄の血を渡さなければそれで終りでは
ない。贄の血を巡る争いが絶えねば、今その血を知り狙う者が全て諦めねば事は鎮まらな
い。主の封じに娘を使うのは非情だが妙案だった。更にそのご神木の力で周囲一帯に結界
を張り、贄の血の匂いが漏れ出さない様に、囲い込む。

 心残りを振り切る様に、小角様は意を決し、

『では皆のもの、贄の血を引くこの姫を封じの柱と為し、あ奴の魂が還りきる迄、ご神木
を守って頂く事にする』

『そんなのいやっ! 姫さま、姫さまっ…』

 引き離されていく観月の童女に、娘は人としては最後の声で最後の想いで、声を届ける。
心から大切に想いつつ、応える事の出来ないその心を、逆にその故に最後迄届かせたいと。

『いつでもいらっしゃい。わたしは、いつでもここにいるから。どこにも行ったりはしな
いから。いつ迄も、いつ迄も、いつ迄も…』

 間違いではない。だがそれは永遠の別離でもあった。肌を通わせる事は二度と出来ない。
声をかけて貰う事も、微笑みかけて貰う事も。2つの胸を埋め尽くす哀しみも又真実だっ
た。

 童女の泣き声が遠ざかる。でも、遠ざかるのは童女の泣き声だけではない。全ての物音
も、目に映る像も、ぼやけて薄れ、遠ざかる。消えていく。それは娘の身体が消失し行く
証。

 身体が透けて消えて行く。贄の血が、力が強く作用し、槐の苗に同化する。身体の感覚
も重さも消える。上下が曖昧になる。肌や肉を通し繋っていた外界が、突然内蔵に触れる。
すぐ内蔵も突き抜け、脳や心臓に、その奥の心に達し。己が消える。肉を持つ己が消える。

 その中で、下と言って良い方角に大きな淀みがある。外からは観月の者がそこを見下ろ
して尚何か語っている。大きな塊、尚蠢動する想いの結晶、娘が永劫を共にする同居人…。

『山の蛇神様、いらっしゃい。わたしは貴男からもう逃げられない。貴男もわたしから離
れられない。誰ももう妨げる者はいないわ』

 この封じの中で、悠久にわたしは貴男の物。

 わたしの心は妙に平静で涼やかだ。それは、彼女が定めに従わされつつも、納得できる
答を探し続けた故の後悔のなさ。これは充分得心のゆく範囲の訪れの果てだ。心残りはあ
るけど、全てを手にする事は敵わないのだから。

『愚かしい。今更』

 最早耳に聞えるのも錯覚に過ぎぬその声に、

『今だからこそよ』

 主は己の全てを賭けて娘を求めた。唯贄の血が欲しいだけなら、唯力が欲しいだけなら、
今持つ力迄失う劣勢に陥った時点で退く事も出来た。主は誇り高かったけど、主は最後迄
勝機を窺っていたけど、何より主は娘を求めて止まぬ己の心に忠実だった。

 生きて結ばれる事は出来なかったけど、応えてはいけない想いだったけど、今ならば…。

『わたしは決して諦めはしない』

 主は尚も主だった。己の想いの侭に荒ぶる力は鬼神のそれで、時にご神木を揺らすけど。

『わたしも決して、諦めないわ』

 オハシラ様は主の貫く様な、刺す様な想いを受け止め、抱き包んで。慈しんで愛おしみ。

 主とオハシラ様は千年闘い続けて今に至る。
 主とオハシラ様は千年共に居続け今に至る。

 決して相容れない、受け容れない、でも孤独という一点で奇妙な繋りを感じる。主もオ
ハシラ様も、みんなの中にはいられなかった。主は荒ぶる神として他の鬼に迄眠りを望ま
れ、オハシラ様は存在が騒擾を呼ぶ贄の血の末で。

 みんなの間では、幸せになれない。
 みんなの中では共に生きられない。

『この様に、手足も失って封じられて初めて、彼らは、安住の地を得たのかも知れない
…』

 何という苛烈な定めなのか。否、苛烈な生れを持つ者達への、それは一つの救いなのか。

 その想いは、十数年をしか生きてないわたしの胸に、納められる様な物ではないけれど。

 目を開くと、わたしはわたしに戻っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 ご神木に右手を当てた侭、突っ伏した体勢で外界を忘れ、一体何分経ったろう。未だ呆
けて感覚の戻りきらない身体と心に、笑子おばあさんの握る腕から贄の血の力が流れ込む。
それがわたしを現実へ、此岸へと引き戻した。

 深い吐息は、千年分の想いを吐き出す様だ。

「私がこれを見る事が出来たのは、初めてあのちょうちょに招かれた新月の夜だったわね。
 あれから月日は過ぎ去って、私はすっかりおばあちゃんになってしまったけれど、あり
続けていつ迄も変らない想いは、今も尚…」

 あの人にはいつ迄も、オハシラ様が絶対に代えの利かない、掛け替えのない一番なのよ。
永劫に手が届かなくても、久遠に想い続けるしかなくても。月に手を伸ばす様な物かねえ。
それでもその想いを捨てずに、哀しみと一緒に愛おしんで抱き続けるその姿が切なくて哀
しくて、放っておけないのよね。私も貴女も。

「笑子おばあさん……」

 唯互いを思い合う、純粋な心の触れあいが胸の奥に甦る。千年経っても、人の心を揺り
動かす一番美しい部分に変りはない。耳に甦るあの声は、いつの言葉だっただろう。

『でも、柚明がそれでも良いって言ってくれるなら、それで尚あたしをそう思い続けてく
れるなら、あたしもあたしにできる限りの気持を返すよ。一番と言えないけど、この世で
2番目に大切な人と同着の、2番目として』

 涼風は草木の枝葉を僅かに揺らせ、わたしの髪を軽く揺らす。月は中点を過ぎ、大きく
傾いていた。星空を包む雲は薄く、雨の気配はない。この季節の夜にしては寒気も少ない。

「私はもうそれ程長くないかも知れないけど、貴女がいるものね。良かった。あの人を独
りぼっちにしてしまったら、約束破りになってしまう。指切らないといけない処だった
わ」

 守りたくさせる笑みだけど、心を尽くしたくなる笑みだけど、その笑みはどこか寂しい。
去年亡くなった、恵美おばあさんに似ている。持ちきれない荷を降ろし、身軽になってい
くその様は、解脱とか悟りとか言うより涅槃…。

 放したくない。この侭ずっと握り締めていたい。いつ迄も、いつ迄も離れずに笑い合っ
ていたい。わたしはオハシラ様から手を放し、笑子おばあさんの両の手を、両の手で握り
返して贄の血の力を通わせる。今や力の量だけならわたしの方がずっと強い。強いけど、
伝えたいのはそう言う事ではなく、わたしの想い。いつ迄も一緒に居続けて欲しいこの想
い。

 先が見えているのは、分っていた。人は永遠には生きられない。肉に囚われた身体は百
年を保たせる事も至難と役行者も言っていた。でもその朽ち行く身体だから、こうして触
って確かめ合える。この感触を、少しでも長く。

 笑子おばあさんは、何も言わずそれを受け容れてくれた。過剰な迄の血の力を、想いを。
全部分っているからと。分っていても応えられない物がある事は口に出さず。でも沈黙は
決して唯の受容ではなく、定めが確実に巡り近付いている事を言外にわたしに伝えてきて。

 綺麗な双眸が暖かく強く全てを語っている。

「さあ、帰ろうかね。幾ら涼やかな月夜でも、余り長居をすると夜風は身体に触るから
ね」

 わたしは短く頷いた。わたしたちの間に多くの言葉は要らない。互いの瞳を見つめ合え
ば大抵の想いは伝わっている。ましてこの様に両手を互いの背に回し、強く抱擁し合うな
ら。甘えと労りと愛とごちゃ混ぜにして、わたしは笑子おばあさんを無言の侭抱き締める。

 おばあさんは、それに無言で応じてくれた。今なら良いという様に。今の内にという様
に。出し惜しみのないまっすぐな応えに、わたしはその日が、月で数えられる程近いと悟
った。だから今日はここへ招いてくれたのだ。だから今日は一緒にここに来てくれたのだ。
だから今日は2人だけで、甘えさせてくれたのだ。

 お父さんとお母さんを早くに失い、生きる目的と値打を求めて必死だったわたしを、導
きながら気遣ってくれた。涙を封じ甘えをしまい、お屋敷でも背伸びして大人を装ってい
たわたしを、見守ってくれた。全部お見通しの上で、わたしの気力の限界を見極めつつも、
わたしの成長を信じ願い心から案じてくれた。

 わたしのたいせつなひと、特別に大切な人。もうすぐ永い訣れを迎えなければならない
人。

 せめてその日迄。その刻が来る迄、わたしは間近でこの人を力づけよう。わたしに生き
る希望と力をくれたこの人に、同じ人を大切に想い、同じ人に同じ位大切に想って貰えて
いるこの人に、出来る限りの想いを形にして。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 青々と突き抜ける秋の空は、心に染み渡る。夏の様に肌を灼く熱さもなく、陽の輝きは
涼やかで、見上げる瞳を重点的に照射する様だ。

 経観塚銀座通にある中学校を出たわたしは、商店街の端にある町立病院に足を向けてい
た。時刻は放課後。下校バスに乗る前に、わたしは白花ちゃんと桂ちゃんの薬を頼まれた
のだ。

 2人の風邪は未だ治ってない。2人は午前中に診療を受けたけど、薬が出るのには時間
が掛るので、先に帰って休ませた様だ。田舎はとかく病院が少ないので訪れる患者も多い。
早朝から並んでも診療迄3時間は当たり前で、精算と薬を待つと昼をまたぐ事もしばしば
だ。

 本当の病人は、病院に行って具合を悪くすると言う笑えない笑い話(?)の例になる訳
には行かない。真弓さんに休み時間の合間を縫って手渡されたお金を持って、歩み行くと。

 そこにはなぜか見知った人物の姿があった。

 そう気付いたのは見知った大きな車があった為だけど。大きくて赤くて、山道も獣道も
踏破できる、わたしも乗った事のあるその車。

『気付かれてない……』

 車の持ち主は病院出口の脇で、立った侭動かない。何事か考え込んでいる様だ。田舎の
商店街は日中でもそう人が出歩く訳でもない。ぼうっと突っ立っていても危なくはないけ
ど、珍しい。わたしは足音を潜め、斜め後ろからそっと近付いてみる。幼い頃良くされて
いたいたずらを、今度はわたしがやる側になった。

「サクヤおばさん、こんにちは」

「おうわっ!」

 長い銀の髪がわさっと揺れる程、驚いてくれた。それは期待を遙かに上回る成果だった。
絵に描いた様にその人は身構えつつ慌てて振り返り、わたしを視界に入れて漸く我に返る。

「何だい、柚明かい。全く、驚かせて……」

 本当に考え事の最中だったらしい。サクヤさんは斜め背後からのわたしの接近に全く気
付いておらず、不意のど真ん中を打ち抜いた様だ。驚きが抜けきらないのは、わたしに背
後を取られる事が、余程ショックだったのか。わたしも真弓さんについて修練を初めて5
年近く経つ。武道の面でも素人ではない積りだ。

「お久しぶり、サクヤおばさん」

 と言っても、今回はそれ程長く月日を隔ててない筈だ。お盆にちょうちょやホタルを収
めに写真家として訪れ、暫く滞在していった。あれから未だ一月と少し。サクヤさんの来
訪の間隔としては、短い方だ。

 仕事の用事でなければ、サクヤさんは経観塚の町中に特に用もない。直接羽様のお屋敷
に乗り付ける筈だ。こんな処で見かけたのは、

「今回は、僻地医療の取材とか、ですか?」

 サクヤさんが、自分の怪我や病気で病院を訪れる事はまずない。誰かを運び込んだ様子
でもないし、傍らに車を止めて考え込む姿は、今動いている事態を前にした感じでなかっ
た。

 病院の用事で訪れたのでなければ、病院に用事で訪れたのか。サクヤさんのお仕事には、
フォトグラファーの他に、ルポライターというのがある。医療ミスとか、安楽死とか臓器
移植とか、最近は難しい話題も耳にするけど、経観塚の様な田舎の病院を選んでの取材な
ら。

「結構読みが鋭いねぇ。まあ、クライアントからの依頼は、そう言う事なんだけどね…」

 そう言うあんたは、笑子さんの薬でも貰いに来たのかい。問い返してくるサクヤさんに、

「桂ちゃんと白花ちゃんの、風邪のお薬を」

「へー、元気が服を着ている様な2人がねえ。そりゃあ、真弓もあんたも大変だ。見なく
ても分るよ、世界一騒がしい病人達だろうさ」

 サクヤさんが指しているのは、白花ちゃんよりむしろ桂ちゃんの事だろう。わたしが嬉
しさを込めた苦笑いで頷くと、サクヤさんは、

「季節の変り目で、結構流行っている様だからね。あんたも、移されない様に注意しな」

 どうせ看病とか何とかで、ぴったり接しているんだろ。その指摘は羽藤家を知る人なら
サクヤさんでなくても周知の実状だった。サクヤさんは分り切ったわたしの返事を待たず、

「とっとと薬を貰ってきなよ。羽様の屋敷迄、乗せて行ってあげるから」

「取材は、良いんですか?」

 バスは2時間に1本程だから、そう言って貰えるのは有り難いけど。わたしは薬を貰う
だけだから所用はすぐに済むけど。サクヤさんはこれから、取材のお仕事があるのでは?

「ああ。これは、急ぐ話じゃないからね…」

 早く行っておいで。

 微かな違和感に、立ち止まろうとするわたしを、サクヤさんは病院に向けて押し立てる。
こんな処で逢ってしまう事自体が違和感なのだけど、それを考える暇もなく、わたしは双
子の薬を貰う為に、病院の自動ドアを潜った。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「今日はあたしに、やらせておくれってば」
「いいえ、私がやります。見ていて下さい」
「今日は、わたしの当番だった筈なのに…」

 羽様のお屋敷の台所で、真弓さんとサクヤさんがかまどを奪い合う様に、わたしは困り
果てていた。正樹さんが言うには、3人でかまどを奪い合っていたとなる様だけど、わた
しはそこ迄余分に元気ではない。

 お屋敷に着いて早々、熱に顔を赤くしながら自覚症状のない双子の歓迎を受けたサクヤ
さんが、晩ご飯にお粥を作ってあげると言い出したのが事の発端だった。台所に入り込む
サクヤさんを、私が作るから良いと真弓さんが止めに入って、押し問答になって暫く経つ。

「偶には、お手本を見て学ぶのも修練だよ」
「私の成長ぶりを見て頂きたいわ、大先生」

 サクヤさんが大胆不敵な笑みを浮べるのに、真弓さんも蒼い闘志を立ち上らせて対抗す
る。2人とも退く気はなさそうだ。わたしより前からここを庭にしてきたサクヤさんと、
正樹さんのお嫁さんとして主婦が板に付いてきた真弓さん。どっちも己がここの主と譲ら
ない。

「柚明はどっちが良いと思う?」
「柚明ちゃんの考えを聞かせて」

 2人とも1対1では収拾が付かないと悟った様で、その場にいたわたしに意見を求めた。
正樹さんは双子の様子を見ると言って早々に奥に引き揚げている。巧く嵐を回避した様だ。

「今日の夕食当番は、わたしの日ですが…」

 自己主張してみたけど、2人に即座に却下された。2人とも啀み合いながら、そう言う
処では息がぴったり合うのが、なぜか悔しい。

「今日はあたしが来た日だから、特別さね」
「折角来られた大先生に、見て頂かないと」

 にこやかな中に時々殺気が走るのは、気の所為か。2人とも我を張り出したら譲らない。

 お母さんは『羽藤(はとう)の血には頑固の血も流れているの。言い出したら聞かない
って言うのは、私の母さんも正樹も本当』と言っていたけど、その性は血の縛りを越えて
この羽様に住む者全てに伝播するのだろうか。

 誰にも収拾が付けられないと思っていたら、そこに姿を現したのは、正樹さんに双子を
見て貰ったお陰で交代してこちらに姿を現した笑子おばあさんで。速攻で解決してしまっ
た。

「ここのかまどの差配は未だ、私に任されているのですものね。サクヤさん、真弓さん」

 何があったのか問いもしない。笑子おばあさんは事に臨む時に詮索の要らない人だった。
どちらからも、脇にいた私からも一言も聞かずにその概要を理解していて、すぱっと裁く。

「お客様が来た時には、やはり私がおもてなししないとね。今日は、私に任せて頂戴な」

 最近は真弓さんとわたしの料理の腕の向上に伴い、笑子おばあさんが実際に携わる事は、
減っていた。少しの不安を感じて様子を窺うと、笑子おばあさんはにこにこと笑みを浮べ、

「真弓さんは明日お願いね。サクヤさんと一緒に、下ごしらえから修練の成果を見て貰う
と良いわ。サクヤさんも、私達で教えた成果がどうなっているか、実地で検分できるし」

 今の羽藤家は大所帯だ。1人で料理を全部こなすのは結構きつい。少し前迄はわたしと
真弓さんが、笑子おばあさんの総指揮の元で分担して進めていた。最近は笑子おばあさん
を名前だけの総指揮に祭り上げ、真弓さんとわたしの2人で調理をする形が定着している。
当番というのは、メニュー選定から作業指示など、どちらが実質指揮を執るかという話だ。
量的に1人ではきついので、因縁もあって関り深い師弟コンビに任せようと言う事らしい。

「え、真弓と、あたしで。そりゃ良いけど」
「結構よ。……修練の成果、見せましょう」

 2人は、共通の戦場に立つ事で奇妙な戦友感とライバル心を燃え立たせた感じで、互い
に互いを視線で叱咤激励し合っている。2人の瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。

「あたしをがっかり、させないでおくれよ」
「大先生こそ、腕なまってないでしょうね」

 2人の世界の会話を放置して、笑子おばあさんはすっとわたしに目を向けた。微笑んで、

「柚明は今日の私を手伝っておくれ。流石に歳だから、私も1人ではこなしきれないよ」

 わたしの不安を全て拭い去る裁定だった。
 わたしの願いを全て汲み取る裁定だった。

 笑子おばあさんは最近、少しわたしに甘いのではないか。そう思える程に。

「はい! わたし、頑張ります」

 今日はわたしと笑子おばあさんでかまどを仕切る。力仕事は多くわたしに任されるけど、
それはむしろ望む処だ。わたしは近くにいられる事、共に事に臨める事が楽しみで。

 秋の日が今日も平穏に暮れて行く。この日々が、永遠に終らず続いてくれれば良いのに。


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 夕餉の席でわたしの進路が話題になるのは、今日が初めてではない。わたしも中学3年
生の半ばを過ぎた。年明け早々にも高校受験が待っていて、どこを受けるのかで人生も変
る。

 わたしは今通う中学校から五百メートルも離れてない処にある県立高校に通う事で異存
はないけど、正樹さんや真弓さんは保護者としてもう少し別の可能性も考えているらしい。

「柚明ちゃんなら、都市部の良い学校に進学出来るのに。北斗なら、わたしの口利きで特
別編入試験を受ける手筈も整えられるのよ」

 別に裏口入学とかじゃない。正当に実力審査を受ける道を開くだけなんだから。柚明ち
ゃんの実力なら、正面突破は充分可能なのに。

 そう言ってくれるのは嬉しいけれど、わたしは経観塚を離れる積りは、現状ではない…。

 押しつけにならない様に注意しながら、それでも学業成績から見て惜しいとの思いを顔
に滲ませる真弓さんと、わたしの反応にさりげなく注視してくる正樹さんに、応える前に、

「高校なんて無理に行く必要はないんだよ」

 意外な援軍、と言うか話を厄介にしかねない混ぜっ返し方をする人が来たお陰で、今夜
はいつもより話が熱く絡んだのかも知れない。学歴も資格も無用で通してきたフリーの写
真家は、野生の狼を思わせる白銀の癖っ毛を揺らせつつ、決して無責任ではないけど軽快
に、

「自分の生きる道を定める方が、優先だろう。その道を進むに必要なら進学しても良いけ
ど、進学が人生の前提にある訳じゃない。成績が良いから進学を勧めるのはどうかと思う
よ」

 桂ちゃんと白花ちゃんが風邪で別室にいて、大人が意見を闘わせられる状況は整ってい
た。

「何も私だって、無目的な進学を勧めている訳じゃないのよ。柚明ちゃんの意向も勘案し
た上で、進学先を勧めているんだから」

「柚明ちゃんは、医学か法律の道を志したいと考えている様なんですよ、サクヤさん」

 正樹さんの言葉は外れではないが少し違う。

「人の役に立てる仕事に就きたいと、ふむ」

 柚明らしい考えだけど、かなり漠然としているねえ。それで、医療か司法辺りと推察し
てお膳立てをと言う訳かい。まあ、方向として間違ってないと思うけどさ。

「柚明はそれに得心が行っているのかい?」

 そう言われると、賛否どちらとも応え難い今の心情が紛らわしい。誰かの役に立ち、誰
かの助けになり、誰かに尽くせる仕事を望む。その思いは確かなのだけど、それが医学な
のか司法なのかボランティアなのか見極められてない。わたしが世間を知らない子供の所
為だろうけど、自身の行きたい方角はあっても、行き着くにはどこをどう辿るべきか分ら
ない。

 わたしが出来るだけ率直に思いを述べると、

「何を志すにしても、土台が大切よ。天職を見つけられてないなら、許される範囲で高い
学識を得ておくのは、間違いじゃないわ。経観塚の高校からいきなり医科大学や法科大学
を受けても、通る確率はそう高くないのよ」

 真弓さんの意見は概ね正しい。田舎の授業は進学向けではない。大学を望むなら経観塚
の高校は力不足で、相当な独学を必要とする。都市部の名門高校への進学は必要な処だけ
ど。

「それはそうだけどね。でも正樹、あんたは経観塚の県立高校から、現役で○○大の政経
学部に行けたじゃないか。自分を差し置いて、柚明にそれは不可能だとでも言う積りか
い」

「今は当時と状況がかなり違います。あの時も幸運が重なったお陰だし。それより私の心
配は、柚明ちゃんが変な気遣いで経観塚に自身を縛っているのではないかって事の方で」

 正樹さんの不安は、結構正鵠を射ていた。

「柚明が桂と白花を気にする余り、離れるにも離れられないのではないかと心配な訳だ」

 サクヤさんと真弓さんの会話はこんな感じでいつもズバズバ進むけど、今日は正樹さん
や笑子おばあさんさんも混ぜ込んで進み行く。笑子おばあさんは家長の言葉の重みを知っ
ている故に、暫くは聞き役に徹する積りらしい。

「2人のことなら、気にしなくて良いのよ」

 真弓さんは、私達が2人の親なのだからと、

「貴女にこれ以上人生を注がせる訳に行かないわ。既に貴女には2人とも生命迄助けられ
たし、充分すぎる程に面倒を見て貰っている。この先は自身の幸せを考えて生きて欲しい
の。貴女の人生を、2人に捧げる必要はないのよ。
 今は2人とも小さくて分らないけど、自分の為に貴女が人生を棒に振ったと後で聞いた
ら、きっと2人は哀しむし、重荷に感じるわ。そんな事は桂も白花も望まない。2人の為
にも貴女は自分の幸せを追い求めて欲しいの」

「私も真弓もいるし、母さんもいる。大丈夫、この地にいる限り、桂と白花に心配はな
い」

 そう言われると、二親がいるのに心配とは言えないけど。真弓さんと正樹さんでは不安
とは言えないけど。でも、わたしは桂ちゃんと白花ちゃんの側にいたい。いさせて欲しい。
2人の為と言うよりむしろ、わたしの為に…。

「2人ともあんたになついているからねえ」

 離れたくない想いはむしろあんたの方か。

 サクヤさんの指摘が図星だったので、わたしは応える言葉がなくて俯いた。高校進学は
未来を見据えた話の筈だけど、目前の話で共に住み共に生き共に過ごしたい人がここにい
るのに、別の処に転居するのは望ましくない。詰まる処、わたしの一番の問題はそれだっ
た。

 それがわたしの我が侭に思えるから、強く主張しづらくて、今に至っているのだけど…。

「別に、永久の別れになる訳じゃないのよ」

「遠いとは言っても陸続きだ。何かあれば毎週でも駆けつけられる。心配は要らないよ」

「貴女の為の人生を歩んで貰わないと、貴女に幸せになって貰わないと、私達も困るの」

 真弓さん達はわたしの為を思って勧めてくれている。桂ちゃんや白花ちゃんの為も思い
つつ、わたしの将来を見通して話してくれている。断りがたい。これは断ってはいけない
話なのではないか。そう思いかけた時だった。

「いやだぁ!」

 甲高い幼児の声が、わたしを包みかけていた流れを吹き払う。ぱたぱたと足音を立てて
入り込んできたのは桂ちゃんと白花ちゃんで、

「おねいちゃん、行っちゃダメ!」
「ゆーねぇ、どこにも行かないで」

 両側からわたしの腕を取って引っ張る。どこかに連れて行かれぬ為に、わたしの両腕を
塞ぐ積りなのか。応える言葉に惑うわたしに、2人は一層不安を感じたのか、いよいよ足
を踏みならし、『行かないで、行かないで』と繰り返す。いつも元気な桂ちゃんだけでな
く、白花ちゃん迄一緒になって地団駄踏んでいた。

「白花、桂、静かになさい」

 真弓さんが叱りつけるのは、2人が寝てなければならない風邪引きさんだからだ。でも、
今日に限っては一瞬鎮まった桂ちゃんに対し、白花ちゃんが真弓さんの言葉を聞き入れな
い。

「ゆーねぇを連れて、行かないで」

 真弓さんと正樹さんに、正面からお願いする姿には、幼いけど男の子を感じさせられた。

「おねいちゃん行っちゃやだ。やだやだ!」

 桂ちゃんはわたしに抱きついてくる。その姿も、ついこの前オハシラ様のご神木で体感
した観月の童女に似て可愛らしさが限りない。どうにかする術を捜す白花ちゃんと、どう
にかしたい想いをぶつける桂ちゃんと、双子の思いは似ているけれど、現れ方は微妙に違
う。

「反対に2票って処かい。ま、2人とも半人前以下だから、合せて1票って感じだけど」

「サクヤ、面白がってないで真剣に考えて」

「あたしはふざけてなんかいないよ。それに、真剣って言う意味ではそこのおちびさん達
も決して負けてはいないと、思うけどね」

「やだったらやだっ。やだやだやだ!」

 叫ぶ事で議論を止め、流れを止める。桂ちゃんは難しい事を感覚で分って為すタイプら
しい。この侭2人に叫ばせて置く訳にも行かない。わたしは縋り付いてくる桂ちゃんの頭
に手を置いて、伸ばし始めた髪を軽く撫でて、

「風邪引きさんなのに、起きて来ちゃだめ」

「ゆめいおねいちゃん……。行かないで!」

 それには明確な返事はせずに、微笑みかけ、

「お顔が涙で濡れちゃっているわ。洗ってこないと、可愛いお顔が台無しよ」

 円らな瞳が見開かれ、黒目の中にわたしが見える。多分桂ちゃんはわたしの黒目の中に、
自身の泣き腫らした素顔を見ているのだろう。映るわたしの笑みが寂しげなのは気の所為
か。桂ちゃんの頬を撫でて、涙の痕を手で拭うと、

「お顔を洗ってきましょう。白花ちゃんも」

 視線を向けると、真弓さんも頷いてくれた。話はひとまず中断だ。2人を再度寝付かせ
ないと、食卓も片づけられない。将来より目先の事情に促されて、わたしたちは動き始め
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「しかしまあ、何なんだろうねえ」

 あたしが来て去る時には、陽気に手を振って見送ってくれるのに、柚明がどこかに行く
となったら数日空けるだけでもこの世の終りみたいに泣き喚くとは。扱いに差がないかい。

 真弓さんと正樹さんが食器を洗うその脇で、双子の顔を水に浸して絞ったタオルで拭う
わたしに、サクヤさんが少し不満そうに言うと、

「サクヤおばちゃんは、また来るもん!」

 桂ちゃんの中ではしっかり分類されているらしい。元々偶に来る人が去るのと、いつも
いる人がいなくなるのでは、印象も違うのか。

「ゆめいおねいちゃん、絵本読んで!」

 白花ちゃんの顔を拭う間に、桂ちゃんは先程の事は忘れ去り、布団に戻る気満々でいる。

「あたしが読んであげるよ。どのお話だい」

 サクヤさんはわたしの進路の話が終ってないので、寝付かせる役を代ってくれる積りだ
った様だ。でもそれは、地雷への導火線で…。

「かぐやひめ!」

 ぐっとサクヤさんが怯むのが見えた。

『この前、かぐや姫はダメだったんじゃ…』

 子供の気紛れだから、話の先が気になっただけなのかも知れないけど。すると顔を拭わ
れた白花ちゃんが、わたしを見上げて、

「かぐや姫は、5人のお侍のプロポーズにも応えないんだよ。天子様のプロポーズにも応
えないんだ。気になって、お母さんに先を読んで貰ったの。かぐや姫行っちゃわないの」

 だから、ゆーねぇかぐや姫になって良い。
 見上げてくる視線はまっすぐ輝いていた。

『でも、全部は読んで、貰えてないのね…』

 求めに応じてしまうと、最後にとんでもない爆弾が炸裂しそうだ。サクヤさんもサクヤ
さんなりの事情でかぐや姫は苦手としている。

「別のお話はどうだい? ほら、何かさ…」

 それがサクヤさんには更なる地雷になった。

「鬼たいじ! ももたろう」
「鬼たいじ! いっすんぼうし」
「鬼たいじ! しゅてんどうじ」

「桃太郎や一寸法師はともかく、酒呑とは」

 サクヤさんはげんなりした顔を隠さない。

「真弓おばさん、勇ましいお話が好きみたい。『さるかに合戦』や『かちかち山』とかも
お話しするけど、基本的に勧善懲悪ね」

 わたしはそう言う傾向をやや意識して、わらしべ長者やかぐや姫を選んでいたのだけど。

「桂と白花の将来も、心配になってきたよ」

 どこかの瞳から星が輝く音が聞えた気が…。

「サクヤぁ、何か言った?」

 聞いて聞えてない振りの、真弓さんの問に、

「い、いや別に。白花と桂に、絵本でも読んでやろうかと思ってねえって、正樹あんた」

 茶碗洗いを終えたばかりの正樹さんが脇に挟んでいるのは『眠り姫』。和ものが拙いな
ら洋ものと言う訳か。流石大人の視野は広い。と言うより、正樹さん双子の寝付かせ役を
…。

「サクヤさんは、柚明ちゃんの身内として母さんや真弓と一緒に、話に参加して下さい」

 正樹さんは柔和な笑みを浮べた侭、桂ちゃんを右手で抱き上げる。でも、

「あんたは良いのかい?」

 サクヤさんの問は当然だろう。さっきのやり取りでもサクヤさんは真弓おばさんや正樹
さんの考えとやや異なっている。わざわざ意見の違うサクヤさんを入れて、自分を外せば。

「柚明ちゃんの人生を、多数決や大事な人の欠席状態で決めようとは、思っていません」

 柚明ちゃんの将来の為に、柚明ちゃんも含めてみんなが納得できる結論を得る為の話し
合いです。意見が同じ者が多くいても意味は薄い。むしろ異なる意見を示し合って結論を
見出すべきです。特に柚明ちゃんにとってサクヤさんは、欠けてはならない大切な人です。

「でも、あんたはその場にいられない事に」

「白花と桂の親は、私と真弓です。風邪引きの子供を放っては置けないでしょう。最低限
どちらかが付くべきです。柚明ちゃんには申し訳ないが、やむを得ない」

「そんな正樹叔父さん。申し訳ないなんて」

「私は真弓と一心同体です。真弓とも柚明ちゃんの将来について、話してきました。真弓
の意見は私の意見、真弓が反対なら私も反対、逆に真弓が納得するなら私に否の答はな
い」

 どの様な結論になっても、真弓は柚明ちゃんの為を思って話に参加してくれる事が分っ
ています。どちらかがいれば結構なんですよ。

『すごい……』

 心が通い合っている。独りよがりではなく、互いの意見を充分交えた上で、情報や想い
をやり取りした上で、共通の基盤に立って共通の目的を確認し合えているから、どっちが
議論の場に立っても同じ判断を下すと。常に心を通わせているから、いざという時に多少
離れても心は解れない、揺らがない、崩れない。

 平然と、当たり前に言うけど、それがどれ程希有な事か、どれ程難しい事か。何十年も
連れ添った夫婦でも、一緒に育った兄弟でも、親子でも、通じ合えぬ事も多いこの世の中
で。

「想いがあるならしっかり言って、真弓を説き伏せるんだ。難敵だけど、口でなら決して
崩せない相手じゃない。想いに理の筋を一本通すこと。悔いの残らない様にね」

「貴男、余計な入れ知恵をしないで下さい」

 台所を拭き終えた真弓さんが後ろから来る。

「おっと、退散退散」

 真弓さんから逃げる様に、正樹さんは空いた左手で白花ちゃんの腕を引いて子供部屋に
引き揚げる。双子は勢いに流される感じでわたしの前からさしたる抵抗もなく連れ去られ。
振り回されている様で、難敵な双子を簡単に。

 絶妙だった。真弓さんについても、正樹さんは主導権を握られている様で、実は握らせ
ているのではないか。真弓さんはただ者ではないけど、正樹さんもそれ以上かも知れない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「さて、では今度は私から話して良いかね」

 笑子おばあさんを正面に、真弓さんとサクヤさんを右左に見たわたしの位置は、法廷ド
ラマの被告人を連想させた。和風のちゃぶ台は見方によっては円卓の騎士とも言えるけど。

 再開した話の先陣を切る感じで話し始めた笑子おばあさんに、サクヤさんも真弓さんも
緊張の色を見せた。羽藤家の柱である笑子おばあさんの発言は、全てを決する重みを持つ。
今迄流れを注視しつつ、その重みを分る故に見解を述べず聞き役でいた笑子おばあさんが、

「老いと病には、贄の血の力も無力でねえ」

 違う方角から話から始めるのは、笑子おばあさんの常の手法だ。人によってはそれを誑
かされたとか騙されたとか言う人もいるけど、改めて同じ話をされるとやはり頷いて、同
じ結論に得心する。わたしも真弓さんも、サクヤさんもそれを知るだけに、最後迄順序よ
く話を聞き考えを整理しようと静かに集中する。

「今も私と繋るサクヤさんなら、病院に私の容態を聞きに行こうと迄してくれたサクヤさ
んなら、私の現状は感じていると思うけど」

 それでわたしもサクヤさんが経観塚の病院前にいた理由が分った。あれは取材ではない。
笑子おばあさんの容態が気掛りで、病状を知りたくて、聞き出そうと思い悩んでいたのだ。

 幾ら友人でも、本人抜きに直接病状を聞きに行っても真っ当な方法では教えて貰えない。
サクヤさんはジャーナリストに近い立場と経験を生かし、やや真っ当ではない手段ででも
真相を聞き出そうか心悩ませていたのだろう。

 出来るかどうかではなく、やって良いのかどうか。聞いてサクヤさんが耐えられるのか。
後で笑子おばあさんに迷惑がないか迄考えて。本人に知られずに病状を知る術はないのか
と。

「仕事とは、違う様な雰囲気だったけど…」

 そう言う事だったのか。なら、あの悩みは病院に行く途上での悩みだ。サクヤさんは笑
子おばあさんの実状を未だ、聞き出せてない。わたしの不意打ちは、良かったのか悪かっ
たのか。それでも状況証拠はあるらしい。サクヤさんは勘も鋭いけど、行動に移す際は根
拠がある。ジャーナリストだけあって、何の確証も準備もなく、標的にぶつかる事はしな
い。

「薬が減っていましたね。でも、快方に向っていると思えなかった。推測できたのは…」

 真弓さんも気付いていた。気付いて気付かぬ振りを装っていた。みんなに不安を与えた
くないと言うより、崩したくなかったのかも。元気な笑子おばあさんという望ましい一つ
の幻想を。いつ迄も元気だという暖かな虚構を。

 真相から目を背けていたのはわたしも同じ。間近にいて、笑子おばあさんの贄の血の力
が夏以降急速に衰えている事に目を瞑っていた。労って、薬を勧め、お茶を濁していた。
それで対処できる物ではないと心の底で分りつつ。

 打つ手がなかったから。薬も手術も効かないと分っていたから。贄の血の力も近代医療
も及ばない老いの終着点が間近にあったから。その前に、人は本当に為す術を持たないか
ら。

「薬が減ったのは薬の消化が私の身体に負担になるから。肝臓や腎臓が耐えられないから。
薬も飲めない位弱ってきたって事。歳だもの。その位は覚悟しているし、隠しはしない
わ」

 柚明の修練を兼ねて贄の血の力を毎日の様に流し込んで貰っているけど、それも日々の
健康を維持するだけ。老いは、止められない。

「私はもう長くはない。その事を前提に話をしなければならないわ。ここに贄の血の力の
使い手は、1人しかいない。分るでしょう」

 みんなそれを知りながら、それを避けて話していた。一番大事な要点を、知って知らぬ
振りで通ろうとしていた。本人だからなのか、その肝要を笑子おばあさんはしっかり見据
え、

「事は柚明の将来だけではないわ、真弓さん。
 白花や桂や、貴女達一家の未来に関るのよ。
 贄の血を引く者として、特に濃い者として、柚明の将来は私の不在を前提に話さない
と」

「お義母さんは、桂と白花の為に柚明ちゃんをここに留めておきたいとお考えですか?」

 真弓さんが珍しく先走って、笑子おばあさんの話が全て、終らない内に問いかけるのに、

「前提を話しただけだよ。そう遠くない将来、私はこの世の者ではない。柚明は唯一の力
の使い手になる。白花や桂の先達は1人だけ」

 贄の血が招く定めの重さは、特別な血と職に努めてきた貴女なら、幾らかでも感じ取れ
るでしょ。白花や桂が己の負う定めの重さに立ち向う強さを得るには、先達の存在はとて
も大きい。それがないと過酷な位、2人の贄の血は濃く深い。柚明の重さを、凌ぐ程にね。

 ゆっくりと、笑子おばあさんは語りを紡ぎ、

「柚明には母親がいて、私がいた。桂と白花には? 貴女も正樹もその代役にはなれない。
単なる二親ではダメな事は承知しているわね。

 ここを生涯離れないなら問題ないけど、青珠を持ち歩いて守って貰うなら問題ないけど、
人の運命は思う通りにはならないもの。私は、2人とも贄の血の力を扱える様になるべき
だと思うわ。定めの重さに見合う修練を通らないと、天の配剤は2人に牙を剥きかねな
い」

 桂ちゃんと白花ちゃんが贄の血の力を修練する。それは良い。でも誰についてするの?
笑子おばあさんの不在を前提にするなら、結論は見えている。わたしに諾以外の答はない。
2人の為なら、2人の幸せの為なら、2人の人生を豊かにする苗床にわたしがなれるなら。

 先達がいるかいないかは、教科書のある勉強とない勉強の違い位大きい。わたしはそれ
を受け容れる心の用意は、とっくに出来て…。

「だからって、柚明ちゃんをここに縛り付ける理由にならないでしょう。柚明ちゃんには
柚明ちゃんの人生があります。白花や桂の為にその人生を捧げさせる訳には行かないわ」

 笑子おばあさんが双子の将来も勘案しているのに較べ、真弓さんはわたしの人生に絞り
込んで話している。話は未だ噛み合ってない。

「真弓叔母さん、わたしになら気遣いは…」

「貴女は自己主張が弱すぎるの。大事な処で、貴女はいつも人に譲ってばかりなんだか
ら」

 ぴしっと言われると、その通りなので言い返す言葉がない。わたしは人が喜ぶ姿を見る
のが好きだ。譲って良い物なら、何でも譲る。杏子ちゃんが青珠でわたしを試したのも、
それ以外の物ではわたしが譲ってしまうからだ。

「桂や白花の事は後で考えれば良いわ。未だ子供なんだし、先は長い。でも柚明ちゃんは
目の前なの。青春真っ盛りなの。今を逃しては得られない大切な経験もあるでしょうに」

「私は何も、柚明をここに留めておくべきだと言っている訳じゃあないのよ、真弓さん」

 そこで笑子おばあさんは、珍しく少し熱くなっている真弓さんを宥めに掛る感じで、

「贄の血の力の修練に、確かに先達は重要な要素だけど、全てじゃない。毎日私が柚明に
教えた様にしなくても修練の方法はあるの」

 真弓さんがはっと我に返って、自分が熱くなっていた事に気付いたのを確かめて、

「長い羽藤の歴史には、贄の血の力の使い手が不在な時期もあったみたい。でも、血が途
絶えずに子孫を繋げば、素養のある子は生れてくる。師がいなくても血の力の操りは受け
継がれてきた。伝えてくれる者がいたから」

 サクヤさんに流れる笑子おばあさんの視線を見て、そう言われて、わたしは気がついた。

「ご神木の、オハシラ様……」「そう」

 この前わたしも体感した。あれは身体で感じる光景だったけど、オハシラ様とわたしの
力が通い合う事で、わたしの贄の血の力の操りも影響を受けていた。導かれた感じだった。

「2人の血は濃いから、ご神木に感応できる。オハシラ様に導いて貰えれば良いの。私達
の大本の先達は動けないけどご神木の中にいる。触るだけで導きになるわ。やりすぎると
現と幻の境があやふやになるから、危険だけど」

 だから子供はご神木に近付いてはいけない。

「柚明の存在は大きいけど、なくて出来ない訳ではない。大きく制約はされるけど。そう
言う前提を私は話したのよ、真弓さん」

「……済みませんでした。熱くなりすぎて」

「熱心なのは良い事よ。それは、貴女が柚明を大切に想ってくれている証なのだから…」

 笑子おばあさんはそこで一つ溜息をついた。長時間のお話は、今の笑子おばあさんには
結構な負担になっているのでは、ないだろうか。

「でも、私は柚明ちゃんには自分の為の人生を送って貰いたいの。これは私の本心よ」

 真弓さんは視線をわたしに向けてきた。

「貴女はこれ迄、重い定めに向き合ってきた。それを自らの努力で受け止め乗り越えてき
た。定めに見合うだけの負担は果したと私は思う。白花と桂の生命も助けて貰ったし、今
もお世話になっている。でも、もう良いの。そろそろ自身の幸せを考えて。恋も愛も、そ
の他に様々な素晴らしい事も、貴女を待っているわ。
 あの子達の成長に、経観塚に縛られて人生を終らせる事はない。あの子達の親は、私達
なの。貴女に、そこ迄して貰わなくても…」

 貴女は自分で自分の定めを乗り越えた。贄の力を操れる様になり、3年前に鬼も退けた。
漸く貴女は自身の為に生きられる様になった。貴女は未だこれからなの。貴女の為の未来
を。

 真弓さんの言葉を遮ったのは、笑子おばあさんではない。ずっと沈黙を保っていた声は、

「誰かに尽くす事が幸せな人生も、あるだろうにさ。自分の為の人生だけが幸せだなんて
狭い視野は、あんたには似合わないよ」

 サクヤさんは、不機嫌と言うより何か引っ掛りを感じるという語調で、

「あたしはあたしのたいせつなひとがいてくれるから、生きていける。その人を心に思う
だけで、心の力になる。自分の為の人生を幾ら生きても、それで幸せを感じる奴と感じな
い奴はいるんだ。あんたがやろうとしているのは『自分の人生』の強要じゃないのかい」

 反応を窺う様なサクヤさんの問いかけに、

「貴女は長く生きて、色々知っているからそう言えるのよ。柚明ちゃんは未だ中学生なの。
未だ世界の広さだって見えてない年頃なのよ。二十年も生きてない内に、人に尽くす幸せ
を憶えただけで、その先迄定めさせて良い?」

 もっと広い世間を見て欲しい。見た上で色々感じた上で、自身の進む道を定めて欲しい。
その為にも、ここで過した日々は無駄じゃないけど、ここに居続ける事は進展にならない。

「桂と白花の為じゃなく、貴女自身の為に」

 真弓さんはサクヤさんに応えつつもわたしを視野の真ん中に収め、そう語りかけて来る。
その深い想いと強い目線に、わたしは正面から本心を露わにする他に術がない事を感じた。
通るか通らないかは別として、わたしも本音で応えなければ、話の結論に悔いを残しそう。

 口を開こうとしたわたしは次の瞬間、笑子おばあさんに駆け寄っていた。関知の力の導
く侭に、真弓さんの前を通り抜け、わたしのたいせつなひとの背を抱えて支える。一瞬遅
れて、サクヤさんも真弓さんも異常を知った。わたしの両腕は、笑子おばあさんが俯いた
侭ちゃぶ台に倒れ込む瞬間を防ぐ事に成功した。

「笑子さん」「お義母さん」「おばあさん」

 意識の有無を確かめるのに、みんなは声での答を求める。でもわたしは、抱き留めて肌
で感じている為、一足早く笑子おばあさんの意識がある事を確認できた。脂汗が額に浮き、
顔色が少し青いけど、少し休めば大丈夫そう。

 贄の血の力を、ポイントを絞って流し込む。

「柚明。贄の血の力は、病に使っちゃあ…」

「大丈夫。病巣に及ぼすと病の源も賦活させてしまうけど、その影響を受けて不具合を起
した臓器なら、傷と一緒。贄の血の力で治せます。対症療法にしか、なりませんけど…」

 病巣には力を及ぼせない。自然治癒の力が老いで衰えている笑子おばあさんより、病巣
の活性化が勝ってしまう。どこに病巣があるか知り、どこが影響を受けた不具合か見極め
ないと、贄の血の力が副作用を呼びかねない。

「柚明ちゃん、貴女……」

 書店に注文して医学書を入手していたのは、勉強の為と言うより実践の為だったの。真
弓さんの問に、わたしは隠す必要もなく頷いて、

「何とかして助けたい人がいるんです。生れつきの血筋に宿る病で、二十歳迄生きられな
いと言われて、学校も行けず病院で二十四時間病と闘い続けている人が。たいせつな人が。
 でも、わたしの力は傷には効くけど、病にも老いにも効かなくて。役行者は多くの人の
病も治したと聞きました。贄の血の力は完璧ではないけど、望みがない訳じゃない。わた
しはその道を探していました。オハシラ様に、その答への道を示された気がしたんです
…」

 未だ対症療法に過ぎない。まだ患部には手が届かない。でも、望みがない訳じゃあない。
詩織さんが諦めない限り、わたしも諦めない。可能性があるのに手を拱くなんて、出来な
い。今はまだささやかな一歩だけど、いつか必ず。

「もう少し、我慢して下さい」

 笑子おばあさんの頬に、赤みが戻ってくる。長く話して疲れただけか。もう大丈夫だろ
う。そう思えると、ふっと気が抜けてきた。今になって額に汗が滲んでくる。息も少し荒
く…。

「歳だねえ。話し合いもしっかり出来ない位、気が短くなってきているみたい。柚明
…?」

 なぜかその声が、少し遠い。地面が、と言うより頭の中が揺れている気がする。サクヤ
さんに呑まされた、御神酒に酔った時の様に。そう言えば身体が少し熱い。それに少し怠
い。上下と左右が確かではない。前も後も揺れて。

「柚明!」「柚明ちゃん!」

 サクヤさんと真弓さんの声が上から降って来るのは、仰向けに寝転んでしまった所為か。
笑子おばあさんの手が額に触れたのを最後に、わたしの意識は一時途絶えた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 サクヤさんが案じていた通り、わたしは桂ちゃんと白花ちゃんに接しすぎて、その風邪
を移されたらしい。笑子おばあさんに流し込む為に、贄の血の力を最大限に発揮した結果、
体内全域で風邪の菌迄賦活してしまった様だ。

 人を治す望みを持つわたしが、その為の力で自爆しているのでは、笑い話にもならない。

「贄の血の持ち主でも、貴女程血が濃くなければここ迄一気に酷くはならないのだけど」

 常の人を越えた特殊技能は、人の手ではどうにも出来ない束縛とセットなのが世の中の
バランスだと、杏子ちゃんが言っていたっけ。

 持てる者が無限に持てる訳ではない。持てる者にも持てる故の縛りがあり、持てる故の
困り事がある。ある筈だと。それが天の配剤。リスクとデメリットは必ず伴う定めの一つ
と。

「贄の血の力の強さも善し悪しだねえ。人を治す筈の力が、己の病を重くするなんて…」

 笑子おばあさんが水に浸したタオルを絞って、寝込んだわたしの額の上に載せてくれる。

 結局当のわたしが倒れ込んでしまったので、お話もあれでお開きになったらしい。そう
いう訳で、わたしは珍しく学校を休み、贄の血の力の修練も護身術の修練もお料理修練も
ない、久方ぶりの完全な休日を手に入れていた。

「すみません。折角笑子おばあさんが、無理して長いお話に参加してくれたのに」

「良いんだよ。私も丁度、力尽きかけていた処だったから。あの辺が限界だったんだね」


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