第3章 別れの秋、訣れの冬(後)
結論はわたしの回復を待って再度話し合う事になった。先延ばしとか、棚上げとも言う。
「急ぐ必要はないんだよ。未だ願書を出す迄、時はあるし。最終判断はもう少し先で良
い」
考える前提が変る以上、熟考する時間は今から始ると、笑子おばあさんは言いたい様だ。
桂ちゃんと白花ちゃんの風邪が快方に向かい始めたので、わたしが2人から隔離される。
双子は『看病したい』『お医者さんごっこ』と言って騒いだらしいけど、サクヤさんが巧
くその興味を引っ張って、誤魔化してくれた。
『確かにそうですけど、受験には準備が…』
尚も心配そうな真弓さんに、サクヤさんが、
『今の柚明なら、北斗も射程圏内なんだろう。柚明が今の水準を保てば問題はない。願書
を出す時に行き先が決まっていれば良いんだ』
続きは、みんなの体調が良い時にやり直そうと。前提が一致した以上、次は即本題に入
れるから、話の進展はずっと早い筈だ。病人は休んで回復に努める様に、が目前の結論だ。
今は一室に2人きり。涼やかな午前の風が、開けた窓から入り込んで火照るわたしの頬
を撫でる。わたしもまだ、発熱を寒気に感じてない様だ。双子と同じ症状か。桂ちゃんと
白花ちゃんから貰った風邪と思うと少し嬉しい。
そんなわたしを正座の姿勢から見下ろして、
「柚明が良く考えて己の意志を定めなさい」
貴女の将来よ。貴女が全て決められる訳ではないけど、貴女が考えて向き合わなければ。
「願書を出す迄に、貴女の意思を決めて聞かせて頂戴。いつでも良いから。決めたら必ず、
正樹か真弓さんに伝えること。みんなの揃った場所が良いわね。サクヤさんもいれば言う
事はないのだけど、貴女が納得した結論なら、サクヤさんもきっと、応援してくれる筈
よ」
はい。わたしは頷いて、布団の中から左腕を抜くと、寄り添う笑子おばあさんに伸ばす。
「本当は、わたしが看病する立場なのに…」
「世の中は持ちつ持たれつなの。いつも守る側に立てるとは限らないわ。偶には、私にも
貴女の看病をさせて欲しい、甘えて頂戴な」
笑子おばあさんはわたしの手を両手で絡め取って、愛おしむ様に頬に寄せる。それがわ
たしにはくすぐったかった。こぼれる笑みに、
「暖かくて柔らかい手だねえ。白花と桂が抱きつきたがる訳が、分る気がするよ」
こうして風邪を引いた事は久しくなかった。
こうして看病を受ける事も久しくなかった。
何も考えず寝転がっていられる事も久しく。
ずっと前に、そう。このお屋敷で、お母さんと笑子おばあさんに看病を受けて以来かも。
「あの時以来かい。……あれは確か、貴女が小学校に入った歳のお盆だったと思うよ」
お母さんは生前、青珠のお守りに力を入れ直して貰う為に、年に3度は必ず経観塚にわ
たしを連れて訪れていた。お正月と、ゴールデンウィークと、お盆と。青珠は贄の血の匂
いを隠す大切なお守りだけど、その力は電池と同じで放っておくと消耗し失われてしまう。
贄の血が薄く、自身が鬼から匂いを隠すのが精一杯のお母さんは、定期的に羽様を訪ね
て青珠に力を注いで貰う必要があった。あの時も、わたしは風邪気味だったけど、青珠の
守りを失う訳には行かないと、やや無理をして町から経観塚に来て、ここで寝込んで。
『ごめんなさいね、無理をさせちゃって』
お母さんの声が耳に甦る。あの時は、お母さんと笑子おばあさんが、代る代るわたしを
看病してくれた。お母さんも今笑子おばあさんがしている様に、わたしの額に手を当てて、
「何か飲みたい物でもあるかい?」
「ううん。少しだけ、ここにいて」
笑子おばあさんと2人きりの一室は、昔の様だ。扉の向うに、お母さんが居る気がする。
笑子おばあさんは体調が良いのか、わたしに付き添っても疲れた顔を見せないけど、わた
しの手を掴んでくれる腕には、力が余りない。
言葉は要らなかった。肌を通わせるだけで充分だった。心は深く通じていた。案じる想
い、労る心。届かなくても及ばなくても、叶わなくても、この気持は変らない。百年千年
経とうとも、わたしがいつか朽ち果てようと。
贄の血の力も要らなかった。わたしと笑子おばあさんは、瞳と瞳を向き合せ、その肌を
触れ合せ、静かに午前のひとときを過す。風に吹かれる侭に、柱時計の針の進み行く侭に。
鳥の羽ばたきが聞える。草木の靡く音が聞える。窓から吹き込む風の感触は少し涼しい。
経観塚の冬も、そう遠くはなさそうだ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
その来訪者は、わたしが寝込んで3日目の、放課後位の時刻に羽様のお屋敷に姿を現し
た。身体の不調もピークを過ぎ、白花ちゃんや桂ちゃんがそうだった様に、わたしも身を
横たえても寝付くに寝付けない状態になっている。
血の力の修練の中で鋭くなった関知の力も、寝付く事に意を注いで内向きに集中した為
か、彼の来訪に直前迄分らなかった。ふと気がつくと笑子おばあさんが間近にいて、それ
で外に意識を向けた瞬間漸く分って、少し慌てた。
既にそれを関知していた笑子おばあさんは、伝えに来てくれたのだ。眠っていたら起し
てくれる積りも兼ねて。わたしへの用と知って。わたしが慌てて身を起すと、笑子おばあ
さんは黙って頷き、奥の部屋に引き揚げて行った。
熱も引き、怠さも抜けたわたしは、浴衣を着替える暇もなく、玄関でその到着を迎える。
生憎わたしはもう治りかけだ。浴衣でも着てないと普段と全く変らない。病人を見舞う積
りでいた沢尻君は、普段見ないわたしの浴衣姿と来訪を予期した如き出迎えに驚いた様だ。
「か……顔色、良いじゃないか」
風邪で倒れたって聞いたのに。
動揺を隠す為と分る問いかけに、微笑んで、
「もう、治りかけだから。明日から学校に出る積りよ。わざわざ持って来てくれたの?」
「3日目だからな。そろそろ心配もするよ」
学校から持ってきたプリントの束を手に、
「和泉も風邪で休みさ。鴨は持って行って良いと言ってくれたけど、本人同士はともかく、
鴨川と羽藤は家同士がちょっとあれだろう」
周囲に大人の視線がない事を、さり気なく確かめつつ、少し声を潜めてからそう言うと、
「そんな訳で、俺が持ってくる事になった」
「ありがとう。……少し、上がっていく?」
「ん……、あ、ああ、その」
表向きは渡されてしまうと要件は特にない。放置すれば後はその侭帰って貰うだけだけ
ど、彼の真の要件がそれではない事は分っている。彼はわたしの病気見舞を2番目の口実
に備えていた様だけど、元気そうなわたしを見てそれが使えないと考え、心中結構慌てた
らしい。元気でもお見舞いして構わないと思うけど…。
「じゃ、庭に出ましょうか」
言葉に出ない思いを察する鋭さは、幼児の相手をしている内に備わってきた素養だろう。
お話しをしたいとか、抱き上げて欲しいとか、喉が渇いたとか、微かな仕草に現れて暫く
後に意識するそれらを仕草の段階で読み取れる。
沢尻君が、佐々木さんに任せず自らここを訪れた事に、既に意味が込められていた。笑
子おばあさんが奥に引き揚げたのは、昼寝の為ではなく、わたしたちの話を妨げない為だ。
導入部に惑う客人を、わたしは家主として間違いなく導こう。玄関を降りてサンダルを
履くと、彼の間近を通り過ぎて戸を開けて、振り返って微笑みかける。こっちですよ、と。
わたしより、沢尻君の頬の方が熱を持った様に赤く見えたのは気の所為か。外は爽やか
な秋晴れで、枝葉は風に靡きダンスしている。
「縁側があるから、腰掛けても良いのよ」
「ああ、うん……い、いいよ」
真弓さんの手で綺麗に切り整えられた庭の、真ん中辺りに歩み来て、わたしは彼を振り
返った。沢尻君はどう切り出したら良いか迷っていて、あの時に似ている。こういう状況
はわたしも余りないけど、彼も経験が少なそう。
「真弓叔母さんと正樹叔父さんは桂ちゃんと白花ちゃん、いとこの双子を連れて町に買い
出しに行っているの。暫くは帰ってこないわ。
笑子おばあさんは、お屋敷の奥でお昼寝中。写真家で偶に来るサクヤさんも滞在中だけ
ど、森に写真を撮りに行っているから今は不在」
「に、似合っているな。その、浴衣姿」
突然言われて、わたしも少し驚いた。
話を切りだして貰う迄の間を埋める為に話しかけていただけで、本題に入ってくれるな
ら止める謂れも困る謂れもないのだけれど…。
「そう言って貰えると、嬉しいわ」
素直に応えると、却って彼の顔が赤くなる。正面から沢尻君のやや無骨そうな顔を見つ
め、
「ありがとう」
「別に、礼を言われる程の事じゃない」
言ったのは単純な感想だし、今日来たのだって羽藤が休んで3日目だから、そろそろ見
に行った方が良いだろうって、みんなで話した結果だから、別に礼を言われる程の事じゃ。
色々と言い募るのが何か可笑しい。
「わたしが、お礼を言いたかったの」
彼が視線を背けるのは、恥ずかしさの故か。わたしも彼が目を背けてくれるから、自然
に話せ目線を向けられるけど、視線が交わる様になればどうだろう。恥じらうかも知れな
い。
「今日だけじゃなく、いつもわたしを気にかけてくれて、影で見守っていてくれたから」
田舎の町で転入生は非常に目立つ。良くも悪くも人の注目を受け、好意も悪意も受ける。
わたしも、子供付き合いに悩んだ時があったけど、沢尻君は巧みにわたしを含めたみんな
の和を保ってくれた。直接わたしを庇う事はなかったけど、間接的にお世話になっている。
中学校に進んでも、今度は羽様小学校の少人数に慣れたわたし達が、経観塚銀座通中学
校の多人数の中に入る訳で、端で見る程に円滑だった訳じゃない。そんな中で彼は羽様小
学校の面々を気遣っていた。そういう星回りなんだと彼は言っていたけど、わたしの様に
人の心に深く踏み込むのではなく、一定の距離を保ちつつみんなの間を巧く取り持って纏
める彼のそれは、特技と言うより才能に近い。
「わたしがみんなと友達で居続けられたのは、沢尻君のお陰でもあるから」
「それは羽藤の人柄だよ。俺の力じゃない」
俺にはどうやっても、羽藤と鴨川の仲を取り持つなんて芸当は出来ない。お前はやっぱ
り綺麗で誰にも真剣である以上に、強いんだ。
『やっぱり、あの語調だ……』
普段の飄々とした語調ではない。正論を口にしつつみんなに合せる様に微妙に斜に構え、
説き伏せるのではなく窘めたり、皮肉ったり、悪意がない・害意がないという以上に明確
な意志の所在が窺えない、いつもの語調と違う。
まっすぐ意志を伝えてくる。寄り道がない。
3年程前、家族の仇である鬼が再来した日、その直前に強く迫られた時が、思い出され
た。みんなの和を大切にする余り、突出しかけたわたしを諫めてくれた。土砂降りの夕立
の中、わたしを大切に想ってくれた。その想いは結局受け容れられなかったけど、嬉しか
った…。
あの翌月曜日、わたしはみんなの前で沢尻君に頭を下げた。行いが間違っていたと言う
事ではない。それを曲げると言う事ではない。唯彼の心配にしっかり応えられなかった事
に。彼を付き合せてずぶ濡れにしてしまった事に。わたしの言葉や姿勢に不足な物があっ
た事に。
頭を下げて見せる事が大切だった。沢尻君にと言うより、それ以外の人の目に映る様に。
人は感情の生き物だ。誰かが誰かを弾こうとした事を咎めた行いは、今も正しいと思うし、
再度その様な事があればわたしは何度でもそれを指摘する。唯その語調や姿勢が誰かの不
快を招くなら、それはわたしの不徳の致す処。
生きて残れた事が幸いだったわたしに、翌週月曜日に学校に出られた事が奇跡だったわ
たしに、頭を下げる事への拘りは薄かった。少しの驚きと波紋を投げかけて、わたしを巡
る問題は終息した。縺れかけていた糸は解け、絡みかけた子供付き合いは一応平穏を戻し
た。
舞台が羽様小学校から銀座通中学校に変り、メンバーが増えクラス替えとかもあったけ
ど、羽様地方から通うわたしたちの仲は尚も濃い。
でも、あの土砂降りの中でのやり取り以降、沢尻君とわたしが2人で話す機会はなかっ
た。みんなの前で謝るのとは別に、わたしもお話しするべきだったかも知れないけど。彼
の想いに応えられない事を、説明するべきだったと思うけど。一度逃した機会は中々訪れ
ない。彼も注意深く避けていた様な気がするけど…。
彼は基本的に陽気で、みんなの中心にいる。彼が動けば目立ちすぎるし、わたしも結構
人目を惹く存在らしい。狭い田舎町の事、この様に2人きりになれる場も機会も多くはな
い。
「俺、××市の工業高校へ、進学するんだ」
「経観塚から、出るの?」
「うん。機械工学の方に進みたくてさ」
瞼の裏に朧に見える像がある。両手に金属の工具を持って、台の上に置かれた何かを組
み上げる様子が見える。それはわたしのイメージと言うより、最もあり得る予測図らしい。
贄の血の力の修練に伴って得た関知の力には、何が起るかを察知するその先に、何をし
ようとしているかを察知する術があるらしく、こうして面と向っていると像を結ぶ事があ
る。それが絶対な訳でもないが、本人が望む道なので、あり得る有力な未来図と言う事な
のか。
「きっと、巧く行くよ。沢尻君、手先が器用だし、意外と努力家だし」
「元々モノ作りに興味あったから。人と違って機械は壊れない限り指示通り動くしさ…」
意の侭にならない人だから、意の侭になる機械に支えて貰って、世の中成り立つんだよ。
俺は、人の幸せを下支えする機械を作りたい。もっと幼い時は発明家を目指してたんだけ
ど、流石に今の時代じゃそれは難しいみたいだし。
そこで彼は一瞬言い淀んだ。彼が下腹に力を込めている様子が、微かに窺える。
「なあ、俺と一緒に、行かないか?」
それは、今回こそ明確なプロポーズだった。
前回は、彼はわたしを気遣ってくれたけど、みんなに合せる様にとの助言だった。わた
しを想い、好いてくれている事は伝わったけど、あの時彼はわたしを求めなかった。否、
あの話の続きにそれがあったのかも知れないけど、わたしはそれを受け容れられず話は終
って…。
「羽藤の成績なら、都市部のどの学校を受けたって大抵通るだろう。俺も勉強して、どう
にか目標校に受かるメドが付いてきたんだ」
羽藤も、人の役に立ちたい、人の力になりたいって、言っていただろう。経観塚の高校
にその侭行く位なら、俺と一緒に行かないか。もっと積極的に、人に尽くせる方法を探し
に。
「一緒の学校に進学して欲しいってこと?」
彼はわたしの問に意思を込めた頷きを返し、
「俺は羽藤に大きく影響されたと思っている。人生を半分位、塗り替えられた。元々俺は
機械が好きで、人は余り好きじゃなかったんだ。
人は言っても中々聞かないだろう。理屈も通じない事の方が多いし。みんな数学が嫌い
と言うけど、俺に言わせれば複雑な数式より、人の反応の方が難しくて訳が分らない。俺
が人の間を取り持つ様になったのは、皮肉だけど、人と深く関るのが嫌だったからなん
だ」
適当な処で仲裁する。最後迄本音でぶつかる事を避け、妥協点を見つける。みんなにお
互いを意識させ、我を抑えさせて、調停する。俺に飛び火しない内に。俺が醜い争いを見
なくて済む様に。俺が巻き添えを食わない内に。俺の間近な人間の醜い面を見なくて済む
様に。
機械は報酬を求めない。危険を嫌わない。気紛れがない。己を守る為に筋を曲げない…。
「機械と違って、人は己を守りに走る。普段正論を唱えていても、いざという時簡単に節
を曲げる。通常威勢の良い建前を口にしても、自分の事になると基準が違う。相手によっ
て場合によってそれ迄の理屈や応対が全然変る。
それが人間らしさなのかも知れないけど」
夕立の日の彼の言葉が甦る。
『みんなは羽藤程強くない。ダメな事でもダメな時でも、ダメと最後迄言い切れる人間は
そう多くない。羽藤が守った人間が、最後迄羽藤を守り続けてくれるとは限らないんだ』
彼は人の幾つかの醜い面を実際に見たのだ。彼は純真すぎたのかも知れない。一生懸命
皮肉の仮面を付けて、大人の対応を心がけているけど、それは彼の剥き出しの心を守る鎧
で。誰より傷つき易く美しい心の持ち主なのかも。
「羽藤に逢う迄、人間なんて全部不純物の塊だと思っていた。俺自身がそんな中を生きて、
己を思い知らされて来たんだから。でも…」
お前は、どこ迄も人の為に、尽くしていた。
己の痛みや苦しみに構わず飛び込んでいた。
孤立も反発も気にしなかった。自分が決めた助けたいモノの為に、己を惜しまなかった。
「打ち負かされたよ。機械は指示以上に動かないけど、羽藤は、いや人間は指示されなく
ても指示を越えて人を思いやり、守り、庇い、助けられる。力になり、尽くす事が出来
る」
見せられ、教えられ、人生観を変えられた。
俺の仲裁は単なるテクニックだ。みんなに互いの視線を意識させ、我の足し引きを考え
させ、落し所を探る。少し口先が巧くて慣れた奴なら、誰でも修得できる技術に過ぎない。
でも、お前のは違う。お前は平田の心を救い上げた。鴨川とも通じ合えた。どう見ても無
理にしか思えない事が、お前には出来たんだ。
「3年前お前に俺が言った事は、誤りだった。俺の測れる範囲で見えただけの小さな知恵
を、押しつけていた。お前は俺に謝ってくれたけど、本当は俺が謝るべきだった。羽藤は
あの後平田を一生懸命みんなに溶け込ませたよな。平田もそれに応えたし、羽藤の願いを
受けて、みんなも一定程度応えていた」
平田は最後にはみんなの友達として転出していった。羽様小学校のみんなの友達として。
「あれは、佐々木さんや沢尻君のお陰で…」
「俺はその時、2つの事に気付いた。一つは、俺が羽藤、お前に惚れている事。もう一つ
は、その時の俺じゃどう考えても羽藤には釣り合わないって事。人嫌いな奴が、どこ迄も
人の為に尽くす女に惚れたって、望みはないって。
俺が、惚れられる位の男に、せめてもっと良い男にならないとって。その時から、俺は
あの時の事には触れないようにしてきた…」
今でも状況は、基本的に変ってないと思う。
本当は俺は尚告白の資格を己に認めてない。
「でも、時間がないんだ。俺は後数ヶ月で経観塚から居なくなる。お前に、来て欲しい」
お前は俺に希望をくれた。今度は俺がお前に希望を与えたい。お前が今進路について何
をどう考えているか分らないけど、特定の目指す進路が決まってないなら、俺と来てくれ。
今度は俺が、お前にモノ作りで人を幸せに出来るって教えたい。人の為に役立つ道具や、
人の力になる機械を作り出す様を見て欲しい。いや、本当は俺は、一緒にいて貰いたいん
だ。俺はお前しか人に惚れてない。信頼できない。一緒に歩んで欲しい。お前に相応しい
人間になるから少し待ちつつ俺に付き添って欲しい。
「お前が、俺の1番たいせつなひとだ」
熱い語りだった。恥ずかしさも吹き飛ばす、全身全霊の語りだった。沢尻博人の年数の
積み重ねを全部出して、わたしを望み求めてくれた。あの時の気持も強く響いて届いたけ
ど、今回は更に強い。これが恋ではなく愛なのか。
それにわたしは、ノーを応えなければならない。羽藤柚明は、沢尻博人のその求めには、
応えられないと。受け容れる事は出来ないと。今度こそ、わたしもしっかり、応えなけれ
ば。今度こそ、わたしも納得のいく説明をしよう。
「ごめんなさい。わたしはここを離れない」
わたしの意思で離れない。わたしはここに居続ける。わたしは彼に、ついては行けない。
わたしの答は決まっていた。彼の来訪を関知した時から、彼の所用を関知したその時から。
揺れる心に任せてそれ以外の答を出したら、多くの人を裏切ってしまう。多くの人を嘘
で傷つける事になる。何より、自身を生涯許せなくなる。わたしは留まらなければならな
い。
「わたしは今、1番の人がここにいるの…」
それは、わたしに一つの苦い決断を強いる時でもあった。今迄1番だった人を差し置い
て、別の人を1番ですと言い切る瞬間だから。それは彼の所為ではなくわたしの所為だけ
ど。
「ごめんなさい。わたしは、沢尻君を1番にする事は出来ないの。沢尻君は、とてもたい
せつなお友達で、特別に大事な人だけど、1番には出来ないの。今迄も、これからも」
わたしには、この生涯を捧げて尽くさなきゃいけない人がいる。尽くしたい人がいるの。
大切なだけじゃなく特別な人。
特別なだけじゃなく一番の人。
この世に唯1人と、思える人。
「その人の為に、今はここを離れられない」
沢尻君の瞳が曇っていくのが見える。
「桂ちゃんと白花ちゃん、2人のいとこが、わたしのこの世で1番たいせつなひとです」
サクヤさん、ごめんなさい。
秋風が浴衣をすり抜けて涼しく寂しかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「双子には、二親が揃っているんだろう?」
何で羽藤が付いていなきゃいけないんだ。
彼には事情が分らない。それも当然だろう。全てを明かす訳には行かないけど、ある程
度の想いは明かさないと納得して貰えない。きちんと話せなければわたし自身に悔いを残
す。
「あの双子、いえ羽藤の血には特殊な事情があるの。わたしは桂ちゃんと白花ちゃんの為
にここに留まらないといけないし、わたしもここに留まりたい、留まらせて貰いたいの」
わたしのたいせつなひとの為に。わたしの力が及ぶ限り、わたしの心が届く限り。
正面から見据えて返すわたしの視線に、沢尻君はまさかという感じを抱きつつ、
「お前、双子に自分の人生を捧げる気かよ」
そこ迄問われるとは、思ってなかった。それ程わたしの答に宿る意思が並々ならぬ物に
思えたのか。でも、わたしもそこ迄答えるとは自身で思っていなかった。わたしは即座に、
「ええ。わたしが生命尽きる迄捧げる積り」
言い切っていた。ごく自然に、準備も気構えもなかったのに。あったのは、彼に誠実に
応えなければと言う思いだったけど、その故に核心は自然に喉を突いて、言葉に出ていた。
「良いのかよ。いや、今は良いのかも知れないけど。お前、本当に自分を無にして良いの
かよ。人にそこ迄して、悔いはないのかよ」
沢尻君はむしろ心配気味に、
「その2人だって人間なんだ。いつかどこかに恋人を作って巣立つんだ。お前の子供じゃ
ないのに、恋人でもないのに。そこ迄尽くしても、捨てていくか忘れ去るか、そうでなく
ても離れて己の人生を歩んでいく親戚の子に、そこ迄尽くして何も残らなくて、今度こそ
悔いはないのかよ。平田の時とは違うんだぞ」
みんなの顰蹙を買うとか、孤立するとかの問題じゃない。お前、進学以前に自分の人生
を全部他人にあげちゃう積りで、良いのかよ。
彼のそれは嫉妬ではない。本心から、わたしの前途を危ぶんでくれている。わたしの想
いが深すぎて、わたしに害になる事を怖れている。でもその懸念は心配無用だ。なぜなら、
わたしに幾ら害になっても全然問題ないから。
「ええ、そうね」
わたしは、詩織さんを追いかけて全てを抛つ事は出来なかった。2人がここにいる限り、
わたしはここを離れる事が出来なかったから。詩織さんはたいせつな友達だけど、何とか
して助けたい人だけど、それでも一番ではない。何にも代えがたい人ではないの、残念だ
けど。桂ちゃんと白花ちゃんがわたしには唯一の人。
『サクヤさん……』
瞬間、苦い思いが胸を掠めるけど、
「だから、全てを捧げ尽くし、干涸らび朽ち果てても、あの2人がそれを苗床に元気に巣
立って行っても、悔いはないの。幸せなの」
わたしの生命はあの2人の為にある。
わたしに望みをくれたのはあの2人。
わたしを生かしてくれたのは、あの2人。
この2人にわたしは生命で応えなければ。
生命を尽くさなければ。いや尽くさせて。
「わたしが生きる意志を持てたのはあの2人のお陰。わたしが自分に生きる値打を見つけ、
生きる目的を探し出せたのは、2人のお陰」
わたしは沢尻君の視線を強く見つめ返す。
転入して来た頃のわたしを、憶えている?
俯いて、閉じこもって、塞ぎ込んでいた頃のわたしを。あの頃わたし、心の闇にいたの。
「わたしの不注意でね、わたしが、少女連続殺害事件の犯人に見つかって、襲われたの」
鬼の話は伏せて、わたしは自身の闇を語る。その深さを伝えなければ、あの絶望を教え
なければ、そこからわたしの魂を解き放ち救い出した2人への想いは、到底分って貰えな
い。
「お父さんとお母さんはわたしを必死に庇い、わたしを守って立ち塞がって死んでしまっ
た。犯人は警察に追われたけど、いつ襲ってくるか分らない。だからここに転居してきた
の」
お母さんのお腹には、あと数ヶ月で生れてくる妹もいた。でも、全部なくなっちゃった。
暖かな日々が、平穏な幸せが、何もかも全て。
「わたしが、見つかる様な事をしなければ」
わたしが、禍を招いた。わたしが、家族全員を死に追いやった。親戚みんなの哀しみを
招いた。何にも代えられぬ大切な物を失った。その原因は、わたしだったの。わたしがあ
んな事をしてなければ、今頃お父さんもお母さんも、妹も。わたしが最初からいなければ
…。
咎があったのはわたしなのに、過失があるのはわたしなのに、わたしはお父さんやお母
さんや未だ見ぬ妹の生命と引換に生き残った。貴男の目の前にいるのは、そんな罪深い者
よ。
自分の哀しみさえ本当は語ってはいけない、その資格を持たない、禍の子、不幸を呼ぶ
子。
「身体は救われたけど、サクヤおばさんや笑子おばあさんに諭されて、生きる事は呑み込
んだけど、この人生は抜け殻だった。来た当初のわたしを、沢尻君も知っているでしょう。
わたしは生きる値打も感じ取れずにいた。
わたしは生きる目的も探し出せずにいた。
唯いるだけで、唯動くだけで、何を考えて良いのかも分らず、毎日が過ぎゆくだけで」
2人が生れる迄わたしの闇は拭えなかった。
あの2人が、わたしの心を甦らせてくれた。
2人がわたしに生きる意味を与えてくれた。
わたしは暖かでふよふよした2つの生命を、新しい息吹を前に途方もない嬉しさを感じ
た。
生命とはこれ程愛らしい物だったのか。
生命とはここ迄守りたい物だったのか。
愛らしさは無限大だった。愛しさは無尽蔵だった。この気持は無条件だった。わたしは、
この微笑みを曇らせない。この笑顔を泣かせない。この喜びの為に尽くしたい。この生命
に迫る、この世の全ての危険から守りたい。
「誰かに尽くせる人にって言うのはお父さんの口癖だったの。誰かの役に立てる人に、誰
かの力になれる人にって。でも、わたしにはそんな人はいなかった。尽くしたい人はいた
けれど、わたしがいても足を引っ張るだけで。わたしはずっと禍の子で、役立たずの子
で」
あの2人が、わたしをわたし自身の闇から救い出してくれたの。希望を灯してくれたの。
2人がいなければわたしの今はあり得ないの。わたしがこの先の全てをあの2人に捧げて
も、それで漸く釣り合う位に。その位2人が大切。
「わたしは2人の為にある。今更そこに選ぶとか悔いとか、わたし自身の意思とかないし、
要らないの。2人のお陰で今があるわたしなら、全てを捧げて当たり前。最高に幸せよ」
わたしが心を込めて語りきるのに、
「分らないよ。語られたって、分らないよ」
沢尻君は、混乱していた。何に混乱かというと、恐らくわたしの過去の闇の深さよりも、
「羽藤が双子に尽くしたい気持は分る。でも、お前が双子に一体何を出来るって言うんだ
よ。親戚の子じゃないか。二親も揃っているのに、お前が一体2人に何を出来るって言う
んだ」
羽藤の血の事情って何だよ。断ち切る方法はないのか。お前自身の幸せはどうなるんだ。
「わたしがあの2人に尽くす事が幸せなの」
そしてわたしはあの2人になら役に立てる。
わたしは目を閉じて、彼にそう応えてから、
「これ以上は貴男にも話せない。でも、それでも尚わたしを求めるというなら、方法はあ
るわ。羽藤の事情を教える代り、貴男はわたしと一緒にここに留まって。貴男が一生経観
塚に、羽様に残る覚悟があるなら、わたしも貴男に全部話すし、この身を委ねても良い」
竹林の姫が、贄の血を引くと知られたのは、ほんの些細な出来事からだった。悪意のな
かった人伝の情報が、人の口を経る内に贄の血の事情を知る者の耳に達して、大事になっ
た。
その轍を踏む訳に行かない。杏子ちゃんにも詩織さんにも、可南子ちゃんにも仁美さん
にも羽藤の事情は明かしてない。真沙美さんは鴨川と羽藤の家の関係もあり、和泉さんは
間近で見てしまったから、仕方なかったけど。
貴人達の求婚を受けたかぐや姫に似ているけど、わたしの無理難題は本気だった。彼に
は彼の道を歩んで欲しい。夢を追いかけて欲しい。わたしに関ってここに残るのは賢い選
択ではない。わたしにあるのは双子に尽くせる幸せの日々だ。例えここに残ってくれても、
彼を一番にできない。夢を捨ててここに残ってくれても、彼の一番と言う想いに応えられ
ない。天子様の求めを拒んだかぐや姫の様に。
『かぐや姫は冷酷に見えたけど、本当は難題に進む求婚者を哀れみ、罪悪感を抱いていた
のかも。応えてはいけない事情を抱え、そうやって諦めさせる他術のない己の罪深さに』
真弓さんも正樹さんも、わたしの人生を案じてくれている。でも、この人生の根が2人
に与えられた借り物で、2人がわたしを要しているなら、わたし個人の幸せなんて論外だ。
「事情を知れば、その縛りを断ち切る方法が浮ぶかも知れないだろう。協力させてくれよ。
教えてくれ。俺も何か役立ちたいんだ。お前の自由の為に、お前の幸せの為に」
わたしは、その告白に応えるに告白を使う。覚悟に応えるに覚悟を用いる。想いに応え
るには、全力の想いで。全身全霊で応える。前回はそれが出来なかった。わたしに迷いが
あったから、彼に惹かれる気持が強かったから。わたしに個の幸せを求める気持があった
から。
でも今は違う。今度こそわたしは自分自身に向き合って、沢尻君にも向き合って、わた
しの想いを伝えきる。彼に惹かれる気持より、彼の優しさに身を委ねたい想いより、羽藤
の家を守らなければならないから。桂と白花の生れ育つ場所を、守らなければならないか
ら。
1人の幸せがみんなの不幸せに繋るのなら、それは本当の幸せではない。わたしの大切
な人がみんな、涙を零さず笑みを絶やさず日々を暮していける事こそ、わたしの本当の幸
せ。わたしと言う個を越えた羽藤家の柚明の幸せ。それを守る為なら、わたしは鬼にでも
なろう。かぐや姫の冷酷さを越えてでも、守り抜こう。
「事情を知られたら貴男をここから帰せない。
その事情はわたしだけじゃなく、あの双子の生命にも関る大切な事なの。例え貴男でも、
ここに留まってくれる覚悟がない限り、経観塚を出ていく積りの人に、話せはしないわ」
ここに留まる覚悟をして。一生ここに残ると先に言って。わたしのおじいさん、笑子お
ばあさんの夫になった人は、それを受け容れて土になる迄ここにいた。わたしが今求める
のはそう言う覚悟。あの双子の為に貴男の人生も捧げて貰う覚悟。それでも貴男がわたし
の一番になる事はないと諦めて貰う覚悟なの。
彼を見据えた侭、浴衣姿の両袖をぱっと広げて、威嚇とも抱擁の準備とも取れる姿勢で、
「ここに残ってくれるなら、わたしを抱き留め、わたしの夫になって。わたしは生涯貴男
を一番にも二番にも出来ないけど、不出来なわたしだけど、出来る限り貴男に尽くします。
でも、その積りがないなら、今ここから立ち去って、二度とわたしを求めないで。わた
しと貴男は似た夢を持つけど立ち位置が違う。一度は交われても二度は交われない。帰っ
て、これ迄の全部を想い出にして、諦めて頂戴」
身体の震えは、何を怖れてなのだろう。
心臓の動悸は、何に怯えてなのだろう。
声は強く透るけど、心は千々に乱れている。
必死に自分を抑え込む。動き出したい想いを踏ん張って堪える。今は彼の答を待つ時だ。
「羽藤、お前それ、自分勝手すぎるぞ…!」
「勝手なのは分っているわ。でも、そう言う定めなの。変えられないの。受け容れる他に
ない。わたしが求めているのはそう言うもの。貴男は事情を知らない部外者。だから貴男
には強要しない、できない。だから帰って!」
これ以上何も訊かないで、この侭帰って。
わたしが大声を出すなんて、久しぶりだ。
「わたしは、貴男を求めてはいけないと分っている。貴男をこの定めに巻き込むのは、過
酷でいけない事だと分っている。貴男は夢や望みを持つ人だから、ここに縛りたくないの。
傷を負って迄、これ以上深入りはしないで」
世の中には、一つを望むとそれ以外を手に入れられないと言う時がある。一つを望む為
には、それ以外を諦めなければならない時がある。どんなに大切な物であっても、全部を
望めない時がある。その時が正に今なのだと。
かぐや姫を求めた天子様と違い、ここに終生留まる覚悟があれば彼はわたしと結ばれる。
でもそれは、人生を終りへ向う唯緩慢な歩み。夢や希望と引換に愛を選んだ彼の末路は果
して幸せだろうか。わたしは良い。それが幸せなのだから。わたしにはそれだけが必須な
のだから。でも、わたしに引きずられて彼迄その道を行く事はない。夢も希望もある彼迄
が。
「わたしを取るか、夢を取るか。経観塚に留まるか、町へ出るか。二者択一、どっちもは
ないの。選べるのは一つだけ。わたしの心配ではなく、貴男自身の未来を考えて決めて」
「それで、お前は一体、どうなるんだよ!」
どうあっても経観塚に留まって、双子に自分を捧げ尽くすお前は一体、どうなるんだよ。
尚も強く問いかける彼に、わたしは、
「『わたし』は一番に大切な問題じゃない」
沢尻君の瞳が驚きに見開かれた。そこにもう一歩踏み込んで、その心の壁に爪を引っか
けて、こじ開ける為に力を込める。彼の答が必要だった。諾でも否でも、彼の明確な意志
が欲しかった。それがなければ、彼も諦めきれないし、わたしも諦めの付けようがない…。
「貴男に今一番大切な問題は、貴男自身よ」
見つめてくる沢尻君の視線を見つめ返し、
「わたしの未来はわたしが決めた。貴男は貴男の未来を貴男の意思で決めて。わたしに合
せるも、合せないも、貴男次第よ。わたしの答は決まったから、貴男の答を出して頂戴」
黒目が大きく見開かれる。これははったりでも脅しでもない。わたしの答は既に示した。
この気持は彼が今聞いた通り。羽藤柚明の沢尻博人への全身全霊の想いで答で問いかけだ。
人生をここに埋めるか、埋めないかの問だ。
わたしがわたしの縛り故に既に答を出し終えたけど、彼にはそう応えて欲しくはない…。
『何でなんだよ。何でお前が、お前じゃない奴の為に、そこ迄しなきゃいけないんだよ』
3年前に、沢尻君の言葉はわたしの心を揺さぶった。打ち付ける雨の中で、彼は尚強く、
『お前がお前の事で哀しむなら分る。お前がお前の為に苦しむなら分る。お前がお前の所
為で傷つくなら俺も理解するよ。でも、お前が流す涙は全部、他人の為の物ばかりだ!』
でもそれは既にわたしの前提になっている。
わたしの為の人生は6年前に終りを告げた。後のわたしは預けられた生命、託された生
命、守られた生命、他の生命と引換に残った生命。誰かに捧げ、誰かの役に立ち力になり
尽くす為に、仮にわたしの元にあるだけ。己の為に使ったら横領だ。その事をわたしは3
年前の夕刻に鬼と遭遇し、死を間近にして確かめた。
わたしに真に大切なのは、わたしが生きる値であるあの双子の微笑みで、わたしが生き
る目的であるあの双子の守りだ。その為ならわたしは何度でも命を捧げられる。その為な
らわたしは悠久の封印も耐えられる。わたしは本当に、血の一滴に至る迄、生け贄の一族
の思考発想の持ち主らしい。
「わたしはこの生き方を、変えられないの」
失ったたいせつなひとへの想い。生きて今ここにある意味。業を負う事で漸く振り返れ
る過去。手放せない。幸せを掴めるかどうかは分らないけれど、この先に充足があると信
じて進むしか。哀しみの欠片を、踏みしめて。深く想うた故の過ちも、己の中に抱き留め
て。
彼が伸ばした手はもう一つの生き方への扉。
誰にも開かれてある筈の、しかしわたしが6年前に閉ざした、もう一つの生き方への扉。
それはわたしには選び取る事許されない扉。
そしてわたしが彼に示したのは、わたしの生き方への扉。ある意味残酷で無為な、わた
しは幸せだけど他に夢を持つ人なら決して望まないだろう、誰かの苗床になる人生への扉。
「俺は、ただお前と、羽藤と夢を一緒に…」
「わたしは貴男とその夢を一緒に追えない。
貴男だけで追うか、貴男が夢を諦めるか」
視線で殺す位の気合いを込めていたと思う。
それは、わたしより彼の人生を変える問だ。
心を押し潰す程に重みのある沈黙が過ぎて、
「……ごめん。俺は、ここには留まれない」
彼がその答を出し終えた時、わたしの両腕は沢尻君の肩を抱き包んでいた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「何でなんだよ。この抱き付きは、一体?」
沢尻君の抗議の声に、わたしは彼の瞳を本当に間近で、今度は柔らかに見据えると、
「答がどっちでもこうしようと思っていた」
涙が零れ流れているのは、わたしの頬だ。
「でもこれは貴男が正解を選んでくれた故」
彼が残る事を選んでくれたら、わたしが彼に抱き留められた。彼が行く事を選んでくれ
たら、わたしが彼を抱き留める積りだった。
「本当はわたしも貴男を好きだったから。出来るなら、残って欲しいと思っていたから」
だから、良かった。そう答えないでくれて。
両腕ごと抱き留めた沢尻君の身体は、中学校に入ってから急に大きくなっていて、筋肉
質でがっしりと大きくて堅い。色男とは言えない顔立ちだけど、澄んだ瞳がとても綺麗だ。
「わたしの態度のどこかに、残って欲しいと顕れていないかと思うと、怖くて怖くて…」
わたしへの同情で、いっときの興奮で、出してはいけない結論に導いてしまうのではと。
「羽藤、俺はやっぱ……」「だめ」
わたしは彼が開こうとした口を右手で塞ぎ、
「男にも女にも二言はないの。貴男は全てを呑み込んで決断を下した。それが全てなの」
それを曲げてはいけない。本当の心を偽ってはいけない。答を出す迄の苦悩を無にする
掌返しは、してはいけない。それがわたしの為にもならない事を、貴男は分っている筈よ。
真実は、時に人を傷つける。でも、真実を貫かないと、もっと多くの人を嘘で傷つける。
「……分ったよ」
わたしの右腕が動いた為に、動かせる様になった左腕を、沢尻君はわたしの背中に巻き
付けてきた。力強い締め付けに、ぴったりくっついていたわたしたちの距離が更に縮まる。
少し息苦しいけど、その位きつく締め付けられるのは久しぶりだ。頬と頬、胸と胸とが
くっつき合う。沢尻君はそれを正面に合せて、
「そう言えば、羽藤は良く誰かと抱き合っていたな。主に女が相手だったけどお前、男に
抱きつく事の意味って、分っているのか?」
「たいせつな物って、抱き留めたくなるの」
わたしは沢尻君の左腕の下から、再度わたしの右腕を彼の背に絡め、その双眸を見つめ、
「わたしはいつもそうだけど、沢尻君が誰かを抱き留める時って、そうじゃないの?」
言われて彼が返答に惑うのが何か可笑しい。
杏子ちゃんでもサクヤさんでも、可南子ちゃんでも詩織さんでも、真沙美さんでも沢尻
君でも。桂ちゃんでも白花ちゃんでも、それは同じ。たいせつな物を放さないのではなく、
逃がさないのではなく、全身で感じたいから。
「わたしは沢尻君を好きだから。心からたいせつな、特別にたいせつな1人だから」
わたしの言葉は、綺麗事に過ぎただろうか。
「俺は男なんだぞ。この侭押し倒すか、奪ってここから連れ去る事だって出来るんだ。そ
んなに無防備に身を任せて、良いのかよ」
彼は巻き付くわたしの左腕を外して自由を得た右腕と左腕で、わたしの両肩を固定する。
腕力は彼の方が遙かに上だ。抱き合うと言うより掴まれるに近い感じになったけど、
「大丈夫。沢尻君なら、大丈夫だから」
結果は見えていた。沢尻君は、彼の想いを受け容れられないわたしを、その侭愛してし
まう事は出来ない。彼と共に歩めないと分っているわたしを、無理矢理奪う事は出来ない。
わたしたちはもう終る他に道が残ってない。決断は下し終えた。それはわたしより彼が
深く分っている。夢を追う為に、わたしを求める機会を放棄した彼自身が。それでも何で
もわたしを奪おうとするには、彼は純粋すぎた。それでは彼の真の望みから、遠ざかるだ
けだ。
そこ迄見抜いている事が、彼の勘に障ったかも知れないけど。そうしたくてもできない
彼に一層苦味を感じさせたかも知れないけど。沢尻君は天を仰いで、真っ青な秋空を仰い
で、
「……俺の望みも、お前が幸せであってくれる事だ。俺がその役に立てないのは残念だけ
ど、いつかどこかで、俺の機械で、お前やお前の大切な人の役に立てる様に、頑張るよ」
両肩に掛る力がふっと抜けた。彼はわたしに寂しそうな笑みを見せる。それは泣き出し
そうな、苦々しそうな、諦めきれないけれど、その定めを受け容れる意思の籠もった笑み
で。
顔を歪めながらも、それでも涙だけは抑え、
「もう、半年もないんだな。お互いに」
わたしは無言で頷き、微笑み返した。
彼は最後にいつもの語調に己を戻し、
「帰るわ。生きていたら、また明日な」
「うん。今日は、ありがとう」
これ以上の言葉は不要とばかり、沢尻君はくるりと背を向けて歩み行く。最後にわたし
は一度駆け寄って彼に小さく耳打ちしてから、歩み去る彼を、姿が見えなくなる迄見送っ
た。
それは、経観塚の外の世界がわたしから遠ざかり行く足音だったかも知れない。白花ち
ゃんと桂ちゃんの為にここに留まるわたしは、羽様の屋敷を中心に生きる様になるのだろ
う。
涼風が、わたしに残る熱を持ち去っていく。
その中でわたしは次の来訪者に語りかける。
「いるのは分っていたわ。もう、出てきて良いでしょう?」
その声に応える様に、佐々木華子さんは隠れていた木陰から歩み出てくる。今迄隠し続
けてきた哀しみと憎悪と愛情を、表に出して。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
この展開の予期に、関知の力は不要だった。沢尻君は気付いてないけど、気付いている
積りでその深さを読み違えているけど、佐々木華子の彼への想いは、幼なじみのそれをと
っくに超えている。気付いてないのは彼だけだ。別の人に視線が向く時は、己に向く視線
に気付かないと言う鉄則はいつの世も有効らしい。
3年前の土砂降りの時もそうだった。沢尻君が雨中を迷い歩くわたしを掴まえ、ずぶ濡
れになりながら語りかけてくれた時、間近で彼女も行方を見守っていた。彼を心配で、思
いやって気になって。自身ずぶ濡れになって。わたしはその時に、彼女の想いを知ったけ
ど。
彼女はその後も注意深く幼なじみの位置を動かなかった。動けなかったのかも知れない。
沢尻君は、ずっとわたしを意識していたから。彼は隠した積りだけど華子さんには筒抜け
だ。
「どうして、どうしてなの?」
赤い縮れっ毛を揺らせ、想いを満載にした佐々木さんがわたしに向けて言葉の刃を放つ。
それは積年の想い。あの3年前より更に前から、今日この時に至る迄、佐々木華子がずっ
と抱き続けて訴える事も叶わなかった恋心だ。
「なぜ、博人の思いを受け容れてあげないの。
あんなに真剣に博人があなたを求めたのに。
何が足りなかったの。わたしにしか話した事ない人嫌いを、他の人に初めて打ち明けた
のに。わたしには一度しか見せてくれなかったあの顔を、あなたには二度も見せたのに」
あなたは博人を嫌いだったの?
涙を溜め込んだ瞳が狂おしい程光っている。
それは彼女が沢尻君に寄せる思いの深さだ。
それは彼女がわたしに向ける憤りの強さだ。
間近まで、憤懣を隠さず歩み来る佐々木さんに、わたしははっきりと首を真横に振って、
「嫌いな訳がない。あれ程素晴らしい人を」
瞬間、わたしの頬に熱が走っていた。佐々木さんの平手が、わたしの左頬を打ち据えて、
「じゃあ、じゃあ何でなのよ!」
何でわたしの博人を、受け容れてあげない。
佐々木さんの左手が、わたしの右頬を打つ。
「どうして彼を哀しませるの!」
更にその右手が、わたしの左頬をもう一度。
わたしはそれを、揺らがずに、受け止めて。
打ち据える華子さんの方が、涙ぐんでいた。
心に抱えた哀しみが、わたしの心臓に響く。
「どうして、どうして打ち返さないの!
何か言いなさいよ。反撃しなさいよ」
あなた出来るんでしょう。本当はあなたは武道の達人で、超能力を使って人を痺れさせ
られるんでしょう。わたし、知っているのよ。なんでやられっぱなしなの。こんなわたし
のひ弱な平手なんて、怖くないとでも言うの!
『必死に調べた。気になって、気になって』
泣きじゃくりながら叫ぶ華子さんと二重写しに、その像が見える。いけないと分りつつ、
惑いつつ、でも気になって、調べずにいられないで。わたしが何度か使ってしまった贄の
血の力の、その場にいた人の証言を拾い集め。それで何になると言う物でもないと思いつ
つ、でも少しでも沢尻君の視点に近付きたく望み。
「勉強もできる、容姿端麗、運動神経も良い。誰にも優しく、誰かが苛めに遭う時は凛と
して抗う。孤立を怖れない。大勢に流されない。みんなを大切に想う。あなた、最高よ。
素晴らしくて、格好良くて綺麗で、わたしも大好きで憧れて、そうなりたいと思って及ば
ず」
思っても思っても及ばなくて、努力しても努力しても敵わなくて、仰ぎ見る他方法がな
くて。でも嫌いになれなかった。いつも人に真剣なあなたを、憎もうとしても憎めなくて。
最後は好きになる他なくて。博人が真剣に好きになった人だから。彼が心から愛した人だ
から。わたしも好きだったから、憧れたから。
「あなたなら、仕方がないと思っていた!」
あなたなら敵わない以上にやむを得ないと、あなたならわたしも諦めて博人を見送るし
かないと思っていたのに。それが、何でなのよ。何で博人が惚れたあなたが、わたしが惚
れたあなたが、あれだけ真剣な求めを断るのっ!
「わたしが惨めな以上に、博人が可哀相…」
幾度目かに頬に当たったその右手を、わたしはその侭行き過ぎさせずに、左手で留めた。
実際、彼女の平手は心に痛い物があったけど、威力は少ない。怯む佐々木さんの手首を握
り、
「貴女はわたしのその事を、告発するの?」
みんなに、世間に、公表でもする?
わたしの背筋を瞬間だけ、寒気が走った。
竹林の姫の故事の再来を、招きかねない。
わたしの問は、答の前に一つの像を結ぶ。
「出来る訳ないじゃない!」
華子さんは、わたしの腕を振り払って叫ぶ。
「わたしが大好きな羽藤柚明を、博人が大好きな羽藤柚明を、例え何がどう違っていても、
あなたの不幸を招くより効果ないそんな告発。彼は今もあなたの幻を心に抱いている。わ
たしはあなたの事が憎らしいけど、今も大好き。彼がそんな告発をして喜ばない事位、あ
なたも分っているでしょう。見くびらないで!」
わたしもそこ迄堕ちてない。あなたに妙な力があって怖いから、黙っている訳じゃない。
あなたなんて怖くない。わたしが唯一怖いのは、博人の失望。彼がわたしをそんな奴なの
かと見下すのだけが怖い。あなたを貶めに醜い手段に走る姿を彼に見られるのが真に怖い。
「彼に嫌われたくない。彼に突き放されたくない。彼の目の届く処にいたい。そうして迄
願っても求められない、絶対に入り込めない、その博人の思いを、どうしてあなたは
…!」
感極まって立ち尽くした侭涙を溢れさせる華子さんの肩を、わたしは両腕で包み込んだ。
「わたしのこの血があるからよ、彼の想いに応えられないのは。わたしが沢尻君と一緒に
行けないのは、あなたが言うその超能力の血のお陰なの。望んで得た訳ではなく、取り替
えもきかない、持って生れた身体を流れるこの羽藤の血が、わたしをここに、留めるの」
博人は特別に大切な人だった。愛していたかも知れない。ついて行きたい想いもあった。
わたしの瞳から又涙が零れ出す。頬を伝い、その下にある華子さんの赤い縮れ髪に落ち
る。抱き包まれて、言葉と動きを失う華子さんに、
「だから、彼の前では絶対そう呼べなかった。
わたしが最初に見た時から貴女が馴染んで常にそう呼んでいた名前を、わたしは絶対に
口には出来なかった。彼の前だけでは」
それ以上近付かれては、いけなかったから。
それ以上踏み込ませてはいけなかったから。
彼がわたしを、抱いた夢や希望より大切に想ってはダメだと、わたしも分っていたから。
「わたしはここを離れない。離れられない」
わたしがこの世で一番たいせつな双子の生れ育つ場所を守る為に。わたしのたいせつな
ひとを守る為に。その幸せの為に。
彼がわたしを得ると言う事は、この地に留まり続ける事だ。夢と希望を、わたしと引換
に諦める事だ。羽ばたく翼を永久に畳む事だ。彼にその道は勧められない。彼にその人生
は求められない。彼の輝きを失わせたくはない。
「あなた、本当に、博人を好きだったの…」
その問に、答など必要だろうか。
「嫌いだと言えれば良かった。彼に向ってそう言えたなら、どんなに気が楽になれたか」
でも、それも出来なかった。言えなかった。
「それもわたしの気持を偽る事だったから。
彼はわたしの偽りを見抜いてしまうから」
何より本心を伝えないと、わたしが悔いを残すから。終れないから。諦めきれないから。
引きずってしまうから。初めてで最後かも知れない、わたしの全身全霊の恋心を。
「わたしの、我が侭に、彼を付き合わせた」
「卑怯だよ……そこ迄分っていて」
博人があなたを好きでいる事を分っていて。
華子さんは絡みつくわたしの腕を振り払い、
「それじゃ蛇の生殺しでしょう。博人はあなたを嫌いになれない侭、自ら諦めた事になる。
あなたが振ったんじゃなくて、彼があなたへの告白を取り下げた事になる。彼が責任を負
うみたい。あなたが、あなたが拒んだのに」
博人にその責を被せて涼しい顔でいるの?
あなただけが綺麗な侭で済ませて良いの?
咎はあなたにある。因はあなたにあるのに。
ああ、彼女が言うのは全てその通り。でも、
「そうしないと彼が納得しない。彼の責任感がその侭に済ませない。わたしが罪深い事は
分っている。彼を生殺しにした事も。それでも尚そうしないと、彼は諦めてくれないから。
拒んだのはわたし。本当は彼が諦めたのではなくて、わたしが彼を諦めさせたの……」
そうしてでも、彼に行って欲しかったから。
ここに留まる事は、彼の為にならないから。
わたしはここを出られない。離れられない。
ここを去る博人を支える事は、出来ないの。
博人の夢を助ける事も、共に歩み行く事も。
「それが出来るのは、貴女よ。貴女なら、博人の夢に、一緒に立ち向える。華子さん…」
泣き腫らした華子さんを見つめる。
多分わたしの顔も涙に歪んでいる。
「博人を、わたしに譲るというの?」
その問に、わたしは再度首を真横に振って、
「譲るなんて出来ない。彼はわたしの物じゃないし、出来てもわたしに譲る積りはない」
この想いは譲れる程浅い物じゃない。華子さんだって同じ筈。譲るなんて言おう物なら、
今度こそ平手打ちでは済まない。わたしがその立場にいても、きっとそうするだろうから。
でも。わたしは目を閉じて、心を鎮めて、
「貴女なら彼を奪い取れる。彼の中にいるわたしの幻から、貴女なら彼を奪い取れる。貴
女になら、貴女に奪われるなら、納得する」
いやいや言う己の声を心の隅に押し込める。
博人と華子を想う心を奥から引っぱり出す。
この先にあるのは、わたしの哀しみだと分っていても。この先にあるのは、わたしの絶
望だと分っていても。わたしはそれに敢て手を伸ばす。掴み取る。せめてその位しないと。
『俺の望みもお前が幸せであってくれる事』
あの仕打ちをしたわたしに、そこ迄言ってくれた彼のこの先を、少しでも幸ある物に…。
わたしの手で及ばないなら、届かないなら。
「わたしから、奪い取って頂戴。貴女にだけ、納得する。わたしの好きだった、特別に大
切だった沢尻博人を、貴女の腕で連れ去って」
涙が幾ら堪っても、逸らさず華子さんを正視して、わたしはその両手をわたしの両手に
握り、想いを込めて、贄の血の力を弱く流す。流れ込む事が分る程度、痺れも感じない程
度だけど、敢てそれを為す事で、想いを伝える。わたしはこの力を持つ故に、ここを離れ
られないのだと。その故にわたしは彼と結ばれず、それが可能なのは佐々木華子の方なの
だと。
「彼はわたしと結ばれても、幸せになれない。彼の歩みに付き添える人は、貴女しかいな
い。頼める人は、貴女しかいないの。お願い!」
彼はこの先で待っている。緑のアーチを抜けた辺りで待つ様、頼んだから。お願いした
から。貴女の心に耳を傾けてと、伝えたから。
華子さんは息を呑んでわたしを見つめ返す。
「余計な事と分っている。でも、わたしは奪われるなら貴女しか許せない。あなたならわ
たしも諦めて彼を見送るしかないと思える」
秘め続けた想いが、一途な心が、分るから。
貴女なら彼の心を開いて、分け入れるから。
ひたむきで変る事のない貴女の思いを、彼の心に叩き付けて、人嫌いの扉を打ち砕いて。
場は整えた。後は貴女と彼次第。わたしの出来るのはここ迄。これ以上は何も出来ない。
「早く行きなさい。彼が待っているわ」
生れて初めての貴女を、博人は待っている。
恋人として想いを打ち明ける貴女を、彼が。
華子さんの目が大きく見開かれた。混乱が全身を巡っていくのが分る。ずっと後ろで控
えて窺うのみだった自身が、光の当たる処に。状況のめまぐるしい激変に、心が乱れてい
る。
そこ迄するお節介への憤激と、そこ迄するお節介への感激が、譲る事なく噴出している。
「あなた、大好きで大嫌い!」
もう一度、わたしを視線で殺す程睨みつけ、
「でも、だからこそ、ありがとう」
華子さんは身を乗り出して、わたしの身体を抱き包んだ。それは彼女の真実の想い。わ
たしを嫌う想いも、好いた想いも、佐々木華子の一つの心・一つの身体に満ち満ちている。
華子さんの身体はわたしより柔らかだった。
「あなたに思い切り諦めを付けさせてあげる。わたしのこの手に、博人を奪い取る。謝ら
ないわ。わたしがこの手で、奪い取るのだもの。わたしの力で、わたしの想いで、わたし
の彼と過ごし重ねた年月で、必ず彼を手に入れる。
さようなら柚明。わたしの大好きな恋敵」
耳元に、囁くと言うよりも教え聞かせる感じでそう語り、華子さんは軽い抱擁を解くと、
くるりと身を翻して、その侭走り去っていく。
わたしは終った過去に過ぎないと言う様に。
これからに全てを賭けると、全身で現して。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
緑のアーチの向う側に人影が消え去っても、わたしは立ち尽くした侭身動きできなかっ
た。その先に何があるのかを、知りたくないのに、気になって仕方がなかった。見れば見
るだけ傷つくと分っているのに、知れば知るだけどっちに転んでも苦い物でしかあり得な
いのに。
瞼の裏に、森の外れに立つ沢尻君が見える。駆け寄っていく華子さんの姿が見える。彼
が言葉をかけ、彼女が何かを返す。その中身は分らないけど、分ろうと思えば無理ではな
い。
2人は想いを伝え合い、抱擁し合う。苦い思いと甘い想い、切ない心と強い絆が、2人
の間を行き交った。2人とも涙ぐみ、わたしを心の片隅に思い浮べつつ、口づけを交わす。
ダメ、と思わず言いそうになった。言いたい己に自己嫌悪しつつそれでも目を逸らせない。
それは、わたしの望みでもあった筈なのに。
それは、わたしが勧めた事だった筈なのに。
関知の力がこれ程に呪わしかった事はない。
見えなければ見えずに諦められた全てが見える。意識を外せば良いのだけど、己を制御
できれば良いのだけど、それが出来なかった。どうやっても、わたしの心が引きずられ行
く。関知の力が伸びて行くのを止められない。
彼の中で、わたしは青春の一ページになる。華子さんとの間を取り持った、惚れた事も
ある1人に過ぎなくなる。想い出の中に埋もれ、華子さんとの昔語りの中に出て来る位に
なる。
遠ざかっていく。距離ではなく、心が。
「華子さん、沢尻君を……。博人を……」
胸の中で騒ぎ出す想いがある。
腹の底から噴き上げたい想いがある。
枯れる事のない涙は、わたしの哀しみの涙。
それに気付いていながら、止めようがなく。
「わたし、自分の哀しみで泣いている。ダメなのに、自分の為に泣いちゃダメだって…」
自分の為に泣いちゃダメだ。わたしの為に多くの生命が犠牲になったのに、それで生き
残れたわたしが、犠牲になった人達の為じゃなくて、自分の寂しさの為に涙を流すなんて。
そんな我が侭許されない。誰よりもわたしに。
そう思って己の為の涙をずっと封じてきた。自分の為に泣けなかった。溢れる想いも抑
え込んできた。なのに、なのに、なのに今日は。幾ら止めようと思っても、涙が止められ
ない。
「終った様だね。……でも、良いのかい?」
笑子おばあさんが間近に来たお陰で、注意が散漫になって、瞼の裏の像が薄れて消えた。
見るべき物は全て見た後だったけど、わたしには漸くそのきっかけを得られた感じだった。
でも、心はむしろ捌け口を見つけた感じで、
「行きたかった。……博人に、彼について行きたかったよぉ!」
自制を打ち破って、叫んでいた。
華子さんに奪われたくない。渡したくない。彼を失いたくはなかった。羽様に残って欲
しかった。わたしを愛して欲しかった。或いは、彼について一緒に外に行きたかった!
腹の底からの叫びが噴き出して、わたしは膝をついてその場にへたり込んだ。強がりは
限界だった。わたしは元々そんなに強くない。あんなに素晴らしい人を、あんなに優しく
て強い人を、このわたしを愛してくれた男性を。
振り捨てたのはわたし。諦めさせたのはわたし。形はどうあれわたしは彼を拒んだのだ。
もっと大切な物の為と言う一番残酷な理由で。こんなに大切に想っているのに。あんなに
大切に想ってくれたのに。わたしはなんて酷い。
「追いかけて行っても、良かったんだよ…」
真後ろに寄り添った笑子おばあさんは、多分本心でそう語りかけてくれたのだろうけど、
「ダメ! それは、出来ないの。絶対に!」
わたしは泣きじゃくりつつ再度叫んでいた。後ろを向いて、笑子おばあさんに縋り付い
て、
「桂ちゃんと白花ちゃんがここにいるからっ。
博人は大切だったけど、特別に大好きだったけど、でも一番には出来ないから。何もか
も捨てて彼と共に生きる事は出来ない。わたしが全てを捧げる一番は、あの双子なの!」
男にも女にも二言はない。わたしは全てを呑み込んで決断を下した。これが全てだった。
わたしはここに居続けたい。2人の幸せの為にここに残り続けたい。それがわたしの一
番の幸せで、生きる目的で、生きる値打ちだ。優先順位は定まっていた。変えられなかっ
た。わたしは桂ちゃんと白花ちゃんの為に生きたい。それが願いで、それが望みだ。それ
なくしては、博人がいてもわたしの生に幸はない。
それを曲げてはいけない。本当の心を偽ってはいけない。答を出す迄の苦悩を無にする
掌返しは、してはいけない。それが博人の為にもならない事を、わたしも重々分っている。
真実は、時に人を傷つける。でも、真実を貫かないと、もっと多くの人を嘘で傷つける。
「双子を取るか、彼を取るか。経観塚に留まるか、町へ出るか。二者択一、どっちもはな
いの。選ぶ前から決まっていた。わたしは決してここを離れない事も、彼を留めてはいけ
ない事も、だから彼とは結ばれない事も!」
世の中には、一つを望むとそれ以外を手に入れられないと言う時がある。一つを望む為
には、それ以外を諦めなければならない時がある。どんなに大切な物であっても、全部を
望めない時がある。その時が正に今なのだと。
心の痛みは半身を引き剥がす程だったけど。
「それでも桂ちゃんと白花ちゃんは失えない。
わたしはあの2人に尽くす事が幸せなの」
2人がわたしの一番だから。何にも代えがたい最愛の人だから。たいせつなひとだから。
『サクヤさん……』
いろんな人への想いを振り切って、一番の人にのみ尽くす。みんなたいせつな、特別に
たいせつなひと達だけど、それでもわたしが選ばなければならない時には、答は常に一つ。
わたしは桂と白花の為にこの生を使い切る。
それはわたしの、心の奥からの真意。でも、
「今だけ、わたしの哀しさの為に泣かせて!
誰の為でもなく、わたしの哀しみの為に」
心は変らないから。意思は曲らないから。
例え幾つ悔いを残しても、どれ程大きな傷を刻んでも、わたしの生きる道は定まったか
ら。これはもう諦めた物への未練なのだから。
誰に求めたのかさえ、定かではない求めに、
「……思い切り、泣きなさいな」
笑子おばあさんが受け止めて応えてくれた。
全身全霊の号泣が、屋敷の庭に響き渡った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「わたしを、この羽様に留まらせて下さい」
白花ちゃんと桂ちゃんは寝付かせてある。
夕食の後、わたしはみんなが揃う場で、真弓さんと正樹さんにお願いした。予め食後に
話をと言っていたので、笑子おばあさんもサクヤさんも進路の話を予期していた様だけど、
「柚明ちゃん、貴女……」
「わたしは白花ちゃんと桂ちゃんの為に生きたい。あの双子がわたしに生きる意味をくれ
ました。あの双子がわたしに生命を吹き込んでくれました。わたしの今があるのはあの2
人のお陰です。わたしは生命で返したい…」
2人の幸せに力を尽くす事がわたしの幸せ。
2人の笑顔の礎になる事が、わたしの望み。
わたしで役に立てるなら、力を尽くしたい。誰の為でもなく、それがわたしの幸せだか
ら。そうしたいのがわたしの願い、わたしの想い。わたしの望みはたいせつなひとみんな
の幸せ。どこかで1人、幸せになる事が望みではない。わたしを経観塚に、この屋敷に留
めて下さい。
笑子おばあさん亡き後この屋敷の主になる正樹さんと真弓さんに、正座して頭を下げて、
「わたしにも、桂ちゃんと白花ちゃんの為に尽くさせて下さい。力にならせて下さい」
サクヤさんと笑子おばあさんは黙っていた。真弓さんと正樹さんの答が先だと待ってい
る。
「将来の事は、どう考えて、いるんだい?」
正樹さんの問に、行かせて頂けるならと、
「経観塚の県立高校に行きたいと思います」
恐らく正樹さんの問はその先だ。わたしは、
「大学は望みません。学歴が必要になったら通信教育もあります。今のわたしは学歴が必
要かどうか確かでないし、それは後で取る事も出来ます。その後の就職は見えないけど」
3年間の高校生活の中で見定めていきたい。
「医学も司法もボランティアも、それなりに人に役立てて意味がある事だけど、わたしは
わたしが一番大事に思った人に尽くしたい」
そこに悔いを残したくない。わたしの答に、
「貴女の若さには無限の可能性があるのに」
尚もわたしの幸せを模索する真弓さんに、
「わたしはわたしが一番幸せになれる道を探し当てたと思っています。愛したい者を愛し、
尽くしたい者に尽くし、守りたい者を守る…。
わたしの本当の幸せは、この世で一番たいせつなひとの側にいて、役に立てる事です」
贄の血の力の使い手は、1人になります。
せめて双子がその力を操れる様になる迄。
「十年か十五年位、でしょうか。2人が己を制御できるようになるには。わたしもまだ修
練の途上の身ですから、断言は難しいけど」
それ迄はわたしは双子の近くにいるべき。
「それならお義母さんも、言ったでしょう。
オハシラ様のご神木に何とかして貰えば」
「それは多分、難しいと思います」
わたしは笑子おばあさんに視線を動かすと、
「笑子おばあさんがわたしに今迄、長くそれをしなかったのと、きっと同じ理由で」
笑子おばあさんが直接修練を付けてくれたのはわたしを可愛がりたかっただけではない。
ご神木に、オハシラ様に安易に頼ってはいけない事情があったから。やむを得ない状況が
あるならともかく、極力避けたい事情がある。
「ご神木が贄の血の者に触れたり、力の持ち主と感応を繰り返すと、封じが緩むんだよ」
サクヤさんが簡潔に言葉を挟む。だからサクヤさんは羽様の屋敷に来ても、中々ご神木
の近くに行かない。サクヤさんは贄の血の持ち主ではないけど、関りがある似た様な立場
だから。行きたい思いは募っても、軽々に近付く事がオハシラ様の心を騒がすと分るから。
笑子おばあさんが静かにそれを受け継いで、
「知っての通り、オハシラ様はまつろわぬ鬼神を封じ、悠久の年月をかけてその魂を虚空
に返す、ご神木の封じの要。でもそれは、オハシラ様にとっても容易な事じゃないのよ…。
集中し己の欲求や想いを抑え付け心を鎮めて漸く叶う。外の雑念が混じったり、オハシ
ラ様がそれに応えようとすると、封じの安定が失われるの。即影響が出る訳じゃないけど、
バランスを失えば封じに綻びが出る怖れも」
わたしがオハシラ様に感応した時は、オハシラ様がわたしに感応した時でもある。わた
しがオハシラ様の過去を覗いて揺れ動く様に、オハシラ様がわたしの過去を覗いて揺れ動
く事もあり得た。わたしの心の浮動が、繋り合う事でオハシラ様にも伝播する。オハシラ
様はお役に千年耐え続けた人だから、容易く己を失う事はないだろうけど。使命の重さを
承知の上で望んで就いた人だから、わたしの様に簡単に心揺るがされる事はないだろうけ
ど。
「その心を、煩わせたくはない処だね」
贄の血の力の使い手が途絶えたりせぬ限り、避けたい選択肢だ。前回笑子おばあさんが
そこ迄言いきらなかったのは、それがわたしを経観塚に留める様に後押しすると感じたか
ら。わたしがここに残った方が白花ちゃんと桂ちゃんの為になると、封じの為にもなると
明確になっては、行きなさいとは言いづらくなる。
真弓さんの言い分に与すると言うより、わたしの自由意思の余地を、残したかったのだ。
それを今明かすと言う事は、わたしの想いを受け止める方向に、傾いている事を示すのか。
わたしの自由意思が選んだ残留を許す方向に。
「やはり分っていたのかい。関知の力も勘の良さも感応の深さも、すっかり私を上回って。
もう私に教えられる事は殆どないよ。貴女はもう今からでも、その侭教える側に回れる」
柚明はここに残る覚悟を固めている。この想いを覆すのは、並大抵の事じゃ出来ないよ。
笑子おばあさんは、尚注意深く言葉を選びつつも、真弓さんと正樹さんに視線を向けて、
「羽藤の血は頑固の血でもあるからね。言い出したら聞かないって言うのは、本当に…」
傾きかけた流れに棹さしたのは真弓さんだ。
「お義母さん! 例えお義母さんでも、従いかねます。柚明ちゃんを尚ここに縛るなんて。
偶々その血に生れつき、偶々血が濃いだけで、この上尚他人の犠牲を強いるなんて酷すぎ
る。柚明ちゃんは今迄一体どれだけの苦悩を…」
真弓さんは明らかに普段の冷静さを失っていた。前回話した時もそうだったけど、わた
しの事になると最近、とても感傷的というか。
「柚明ちゃんは血の力を修得しました。運命を受け止め切りました。血の匂いを隠せるし、
鬼が来ても退ける力さえある。漸く自由に自身の為の人生を迎えられるようになったのに、
また人の為に自身を……。もう充分でしょう。
これ以上、これ以上、私の可愛い柚明を」
「真弓、あんた……」
サクヤさんが何かに気付いた様に目を見開いた。笑子さんがそれに静かに頷いて、
「柚明も分るかね。真弓さんは、貴女の母親なんだよ。だから、貴女の為を想う時に貴女
の意思を受け付けない事もある。他人ではそこ迄踏み込めない。強要できない。人生に責
任を持てないからね。でも、真弓さんは貴女の人生に踏み込んででも、貴女に幸せになっ
て欲しいと願っている。押しつけになっても、貴女が最後に幸せになればと。母の思い
さ」
親は子を全力で守る。鬼が相手でも、定めが相手でも。憎くない物でも正論でも何でも、
子供を脅かす物とは守り闘う。そう言う物さ。丁度貴女が、白花と桂を思うに似た想いだ
よ。
言われて、わたしも真弓さんも目を丸くして互いを見つめ合った。己の気持は分るけど、
人の想いはこんなに近くいても中々通じ合えない。それを瞬時にしみじみ感じさせられた。
「真弓さんも分って頂戴。柚明も桂と白花の母親なんだとね。なに、貴女がいても良いじ
ゃないかい。愛情が倍になるだけなんだから。柚明は愛を注ぐ相手をずっと、求めていた
の。
貴女が桂と白花に愛を注ぎ、その成長を見守りたいと望む想いは、柚明の想いでもある。
それを理解してあげて。見方によっては犠牲とも言えるけど、それは貴女の人生をも犠牲
だと言うに等しいことなんだよ。真弓さん」
貴女が感じる幸せを、柚明も感じている。
献身は唯の犠牲じゃない。幸せでもある。
穏やかな語りかけに、真弓さんは尚抗い、
「だからと言って、生れついた血の為に人生の一番華やかな時期を、経観塚に縛られ…」
真弓さんは、わたしが沢尻君に出した問と同じ物を胸に抱いていたのか。ならわたしの
答は一つ。わたしは羽藤柚明。沢尻博人ではない。羽藤の血を受け、この屋敷に住み育ち、
ここに今いるみんなの為に、生きる事を望む。それを一番の幸せに、想うから。
「生れついた血の為に人生の一番華やかな時期を、お役目に縛られていたあんたはどうな
んだい。その事を悔いているのかい?」
サクヤさんが真弓さんに問いかけた。
「あんたは元々分家筋だ。別に望まなければ、本家に有資格者がいなくても、あんたが鬼
切り役を継ぐ必要は薄かった。当代最強と迄は行かなくても、他の分家にも役を受けられ
る人材はいただろうに。鬼切り役が空位だった時期も何度かあったじゃないか。それでも
あんたは血の縛りを、役目を納得して受けた」
「それは最も適任な者が受けるべき職だ…」
そう言いかけて、真弓さんは口を閉ざした。
それを敷衍すれば、唯一の贄の血の力の使い手であるわたしはここに残るべきだとなる。
「あんたは不幸せだったかい?」
少なくともあんたの太刀筋からは、犠牲になったとか自分の意志じゃなかったとか、そ
う言う吹っ切れなさは感じ取れなかったけど。
「誰かの為に己を尽くす事が幸せな事がある。誰かの為に役立てる事、誰かの力になる事
が、望みである事も。己を基準に全てを測れないと考える事は分るけど、柚明はあんたの
同類だ。世間一般の基準で見る事は間違いだよ」
「悔いではないけど、真弓叔母さんにも多少の心残りはあったのではありませんか。わた
しが今、そうですから」
わたしは真弓さんの瞳を見つめて、
「他の人生を選べたかも知れない。他の道があったかも知れない。その道にも幸せがあっ
たかも知れない。その思いは、今もあります。
でも、その道に進んでも、わたしは本当の幸せは掴めない。その道に進んで彼と結ばれ
ても、そのわたしには白花ちゃんも桂ちゃんもいないから。一番たいせつなひとがいない
から。それを抜きに、わたしに幸せはない」
全てを得る事は出来ません。心残りを全部なくす事は出来ません。だからわたしは一番
たいせつな人の為に生きる幸せを選びました。心残りを承知で。真弓叔母さんと、同じ様
に。
わたしの心を救ってくれたのは、ここにいるみんなです。罪悪感に潰されて心を閉ざし、
塞ぎ込むしかなかったわたしが今ここにこうしてあるのは、桂ちゃんや白花ちゃんのお陰。
「わたしの全部で恩返ししたい。応えたい」
ここにいさせて欲しいのは、2人の近くにいさせて欲しいのは、桂ちゃんや白花ちゃん
の為と言うより、わたしの為。我が侭かも知れないけど、それがわたしの望みで本心です。
「わたしは返しきれない想いを頂きました」
せめてその何分の一かでも、返したい。受け継ぎたい。受けて、繋ぎ、伝えていきたい。
「羽藤の血の縛りは今や、わたしが役に立てる力を与えてくれた、わたしの望む縛りです。
この定めはわたしを、桂ちゃんと白花ちゃんに巡り会わせてくれました。失った物は多か
ったけど、今わたしがあるのはそのお陰です。変え得ぬ定めは、わたしをきつく縫い止め
てくれる赤い糸。禍福は糾える縄の如しです」
【わたしには、過去は振り切る物でも、捨てる物でもありません。抱き締める物です…】
今は血の縛りもこの定めも、抱き締める物。逃れる物でも断ち切る物でもなく、受け止
め乗り越え、そしてわたしの中へと包み込む物。
哀しい過去、苦い過去、色々あるけど。でもそれが、暖かい想い出に繋っているんです。
良い事も悪い事も全部セット。揃ってなければわたしの過去ではない。致命的な過ちを犯
した過去も、わたし自身の過去です。だから、
「時に想い出の欠片は心に突き刺さるけれど、その痛みも受け容れてわたしです。哀しみ
の欠片を踏みしめて、その痛みに涙を流しつつ、それでも過去をしっかり持って明日に向
う」
それは過去だけではなく今もそうであり、
「これからも、未来永劫、終生変る事なく」
真弓さんと正樹さんを、静かに見据える。
真弓さんの瞳に迷いが見えるのは初めてだ。
正樹さんは目を閉じて、沈思に入っている。
2人の思いは一心同体。揺れる時でも一心同体。その2人にわたしは改めて頭を下げる。
「あたしには、柚明が白花と桂を自分の嫁に下さいと頼み込んでいる様に見えてきたよ」
サクヤさんの呟きに、笑子おばあさんが、
「そうかもね。正樹と真弓さんが頷きがたいのも、案外そう見える為かも知れないわね」
可愛い子供を、誰かに半ばでも委ねる事になるのは、不安で怖い物だから。それが最善
だと分っていても、正面から迫られると簡単にイエスとは言い難い。それも又、親心かね。
人親の経験を持つ笑子おばあさんの言葉が、押し切った様に見えた。最後の躊躇いの正
体を見透かされ、自身も気付いてしまった以上、
「柚明ちゃんの意思は、受けられない」
正樹さんはそう言ってわたしの申し出を断ってから、でも、と改めてわたしに頭を下げ、
「桂と白花の為に、留まってくれ」「貴男」
正樹さんは真弓さんの躊躇いに首を振って、
「柚明ちゃんの人生をここに縛るのは、柚明ちゃん自身じゃない。わたしたち夫婦であり、
羽藤の家だ。責任を負うのは、わたしたちだ。君の幸せも不幸せも、悔いも心残りも全部
わたしたちに帰結する。そう承知してくれるなら、桂と白花の為にここに留まって欲し
い」
そうするしか術がない事は見えてきていた。
その他の道が非常に狭隘な事も困難な事も。
わたしがここに留まれば多くの障害は解消する。それがわたしの望みだから。その役に
立つ事がわたしの願いで、生きる意味だから。
「君が桂と白花の母を担ってくれる代りに、わたしたちも君の父と母を担う」
こんな事は言う迄もない事だが、一度はっきりして置くべきだ。息を呑むわたしの前で、
「親は、子供の人生に巣立つ迄、責任を負う。君がここに残り続ける限り、君の幸せには
わたしたちが全責任を負う。そうだろう?」
「正樹叔父さん……」「貴男……」
「桂と白花の為にここに残る事迄、柚明ちゃんの自己責任にはさせられない。それしかな
いなら、その責任位はわたしたちで負おう」
それは正樹さんの心遣いで、非常に嬉しい事だけど、残る以上わたしの想いは変らない。
正樹さんもそれを承知で尚、そう言っている。
「柚明ちゃん。貴女は、折角自己主張したと思ったら、自分の利益にならない事ばかり」
真弓さんの涙は、自身が追う事が出来なかった心残りを、せめてわたしには自由に追い
求めて欲しいという想いの結晶だったのかも知れない。わたしはそれを受けられないけど。
わたしはここで双子に尽くす幸せで、真弓さんのその想いに応えよう。充実した日々を
送る事で、心残りを追うよりもここに残る事が間違いなく幸せで正解だと見せつける事で。
「ゆめいおねいちゃん!」
寝かしつけた筈の双子が入ってきたのはその時だった。2人とも寝付けずに、或いは眠
いのを我慢して様子を窺っていたのか。どうやら黙っていられなくなったのは桂ちゃんで、
白花ちゃんはずっと抑え役で話の成り行きを見守っていたらしい。ストレートに喜びを表
してわたしに突進してくる桂ちゃんと、少し遅れ、喜びを涙にして歩み寄る白花ちゃんは、
「あんた達、まだ起きていたのかい」
サクヤさんの驚きの声も眼中にない感じで、
「ゆーねぇ、かぐや姫ならないよね。月に行っちゃったりしないよね。ずっといるよね」
「お母さんに、月の人を追い払ってもらうようにお願いしたの。お母さん強いから」
桂ちゃんを抱き留めながら、歩み寄る白花ちゃんの頭に手を乗せて、わたしは微笑んで、
「ありがとう。白花ちゃん、桂ちゃん」
わたしも嬉しさで流す涙迄は禁じてない。
「大丈夫。わたしはどこにも行かないから。
ずっと、ずっとこの羽様に居続けるから」
まさかそれが実現するとは、この時はわたしも思ってなかったけど。
「これからも、よろしくお願いします」
わたしはここにいられる事になった。いや、わたしはここにしかいられなくなったのか
も知れない。桂ちゃんと白花ちゃんのいるこの経観塚にしか。
羽様の秋が、終りつつある。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
今年の冬は、雪が少ない為か寒さが厳しい。
病人に良い気候ではないけど、鬼神でもないわたしには、天候を左右は出来なかった…。
「様子は、どうなんだい?」
笑子おばあさんの寝室を出てきたわたしに、サクヤさんが食い入る様な視線を送ってく
る。その後ろには正樹さんと真弓さんの姿もある。子供達は遠ざけてあった。白花ちゃん
も桂ちゃんも笑子おばあさんの容態が良くないと聞かされたけど、死という物を実感出来
てない。
わたしは、目を伏せて首を左右に振って、
「受け付けてくれる贄の血の力が、どんどん弱くなっています。わたしの手ではもう…」
修練と称し笑子おばあさんの身体に贄の血の力を流し込む様になって半年以上経つけど、
最近は容態の悪化が止められない。どこが病巣で、どこがその影響を受けただけの箇所な
のか分って、ポイントを絞ってそこに幾ら力を流し込んでも、現状維持すらおぼつかない。
力が足りないなら良い。この身から更に力を絞り出すだけだ。技術が足りないなら良い。
集中力を高めて挑むだけだ。でももう笑子おばあさんは薬を受け付けられなくなっている。
贄の血の力も結局は外部からの助けだ。それを受けられない程に、その身体は弱っている。
『病院は結構よ。消毒薬の匂いは、重病人の錯覚を起させるからね。畳の上で逝かせて』
そう言って笑子おばあさんは入院を拒んだ。最期の我が侭だから、許してねと付け加え
て。結局誰もその微笑みを断る事は出来なかった。
今尚意識はしっかりしているけれど。
寝たきりになっても血色は良いけど。
手足の筋肉の衰えは、覆う術もない。
破れかけた袋に激しく水を注ぐとどうなるか。壊れかけた器に補修の為に釘を打ち付け
るとどうなるか。その身体はもう贄の血の力さえ微弱にしないと受け付けられなくなって。
サクヤさんが羽様を離れないのもそれを分るからだ。森で写真を撮ったり多少している
けど、夕食前に屋敷に帰り着く。日中いる事も多い。直接編集部に届けて報酬や経費を交
渉していたのを郵送で済ませ、相手の言い値で済ませるのは、今ここを離れられない為だ。
「柚明ちゃんは、良くやってくれているわ」
真弓さんは、わたしの右肩に手を掛けて、
「昨日回診のお医者様が言っていたでしょう。もういつ逝っていても不思議ではないっ
て」
貴女の所為じゃないわ。これは人の定め。
人に生れた以上朽ちる身体は百年保たない。
「貴女はもう、休みなさい。ずっとお義母さんに付きっきりでしょう。力を流し続け…」
「大丈夫です。一息ついたら、戻らないと」
わたしが側に居続けないと。力を流し込まないと。わたしがいる限り笑子おばあさんは
死なせない。わたしが目を瞑っている間に死んでしまう事が怖い。間に合わない事が怖い。
お父さんやお母さんの時と違う。今度こそわたしがたいせつなひとの生命を繋いでいる。
ここで手を放す事は、呼吸器を外すに等しい。わたしが諦めるか、倒れるか休むかする事
は、その生命を絶つにも等しい。今それを出来るのは誰でもなく、わたし1人だ。だから
こそ、
「わたしが助けなきゃ。漸く助ける力を持てたのに。笑子おばあさんに教えて貰えたのに。
使えるようになったのに。今こそ要るのに」
張りつめて胸が一杯になっているわたしに、
「大丈夫な内に代っておくのが、備えなの」
余力はいざという時の為に取っておく物よ。
「容態は小康状態よ。良くなる見込は薄いけど、急変する迄はこの変らない。急変した時
は貴女にお願いするから、即座に呼ぶから」
真弓さんはそう言うと、視線を横に流して、
「今晩は私とサクヤでお義母さんを看るから、貴女はもう休みなさい」
サクヤさんが頷きかけた時、わたしの関知の力が、笑子おばあさんの微かな声を拾った。
振り返って寝室を見つめるわたしに、みんなの視線が集まってくる。わたしは短く頷いて、
「笑子おばあさんが、わたしたちみんなにお話があるそうです。最後に、と言って……」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「わたしの遺言として、聞いて頂戴」
笑子おばあさんは、わたしが流し込む微弱な贄の血の力で幾分血色が良く、まだ死相は
出ていない。唯その視線は時々虚ろになって、現ではない彼岸の向うを眺めている様であ
り。
「柚明。貴女に、桂と白花を託すわね。二親はいるけれど、羽藤の事情を汲んで、引き受
けておくれ。人生の中で一番華やかで愉しい時期を迎える貴女に、一番重たくて換えの効
かない辛い役を科す事になってしまうけど」
その顔が歪むのは苦痛の故ではなく苦悩の故だ。それにわたしは叶う限りの笑顔で応え、
「喜んで尽くします。それがわたしの望んだ幸せです。心配しないで、わたしは大丈夫」
2人の幸せを守る為に、全てを捧げます。
力を流し込む為に両手で握り締めた左腕を、少しだけ強く締めて、わたしの想いを伝え
る。
笑子おばあさんは頷くと向きを微かに変え、
「正樹と真弓さんには、柚明を託すわね。
桂と白花のいる貴女達に更に荷を任せる事になるけど、2人で支え合って柚明の先行き
を見守って頂戴。柚明の人生に幸多かれと」
「この生命がある限り、柚明ちゃんを哀しませる事はしない。大丈夫です」
「柚明ちゃんの幸せは、私が守ります」
笑子おばあさんは2人の答にうんうん頷き、
「サクヤさんには、柚明と正樹達を含めたみんなを、見守って欲しいの。それぞれに強さ
と弱さを併せ持った、わたしが愛したたいせつなひとたち。愛する物を見守る事は、愛す
る者の死の看取る事にも繋るけれど」
桂や白花の様に新しい生命は生れ出てくる。
柚明の様に、それを目の当たりにする事で視野が開ける人もいる。私はここ迄だけど…。
「暖かな想い出は残るでしょう。そしてこの想いを受け継ぐ人達が、更に続いてくれる」
「笑子さん、弱気な事は言うんじゃないよ」
「私が一番心配なのはサクヤさん、貴女よ」
「……言ってくれるじゃないかい」
サクヤさんが涙声で強がるのに、
「約束は、守りましたからね。私の子や孫が、貴女を決して1人にはしませんから」
「分ったよ。笑子さんの大切なひとたちの幸せは、あたしが守るよ。必ず、守るからさ」
サクヤさんの瞳にはいっぱいの涙が今にも零れ落ちそうだ。そして、笑子おばあさんの
微笑みは透き通り、今にも消えてしまいそう。
「サクヤさん、正樹、真弓さん、柚明、白花に桂。繋っていくのね。私が終っても、私の
想いは終らない。互いを思いやる心が、引き継がれ。そう信じて逝ける私は幸せ者だね」
「みんな、みんなきちんと繋ぎますから」
間違いなくこの想いを、繋ぎますから。
暫くの間、言葉にならない時が過ぎる。
「ありがとう。柚明、もう良いよ」
もう贄の血の力は要らない。と言うよりも、微弱にしか流し込めない血の力は効力がな
い。唯手を触れる以上の、何でもなくなっていた。
「もう少し、もう少し力を抑えればまだ…」
「これ以上抑えても、効果が出ないよ。貴女を一晩中看護させて病にする訳には行かない。
贄の血の力の発動が持病や潜在期の病を賦活させると、わたし達も漸く知ったの。それに
もう贄の血の力では、この身体は救えない」
言われなくても分っていたけど、言われる迄止める気はなかった。いや、言われても止
める気はなかったけど。この身体は前より更に強く贄の血の力が出せるのに、その侭流し
ては、笑子おばあさんの身体を壊してしまう。本当に役に立ちたい時にわたしは役立たず
だ。
「役行者なら、わたしが早くその域に達していたなら、病も治せたかも知れないのに…」
「定めは受け容れないと。ねえサクヤさん」
その時に出来る最善を尽くして手が及ばないなら諦めるしかない。後になって新薬や新
技術が出てきても、その当時はなかったのだ。それは言われれば分るけど、理解はするけ
ど。
涙が溢れそうになった時、笑子おばあさんの声にならない声の指示が、わたしに届いた。
「真弓叔母さん。電気を、電気を消して!」
分らない侭指示に従う真弓さんの横で、サクヤさんだけがこれから起る事を知っていた。
人ならざる気配に真弓さんが本能的に警戒を見せるのに、正樹さんが大丈夫とのっそり
立ち上がって、ゆっくり窓のガラス戸を開く。外は月の輝きが青白く照す静かな夜で、風
は殆どなく、開けても冬の冷気はゆっくり流れ込んでくるだけで。その微かな気流に乗っ
て。
「ちょうちょ……」
幻想的な青白いちょうちょが一羽、顕れた。
蛍の様に自ら輝き、気流に煽られて揺らぎつつ、それは窓の彼方から現れて、入り込み。
みんな言葉を失っていた。気配で誰もが呼吸を押し殺していると分った。それをオハシ
ラ様の遣いだと、みんなは理解していた。笑子おばあさんから話を聞かされていた以上に、
その美しくも儚い光景が、この世の者ではなく、同時に悪しき者と最も縁遠く見えたから。
光の粒子で出来たちょうちょは、お守りの青珠の文様に似て、淡く白く輝いて。誰も身
動きできない中、ちょうちょは笑子おばあさんの枕元迄やってきて、ぱたぱたと羽ばたき。
見た瞬間、何かが伝わってきた気がした。
これは、わたしだけの錯覚なのだろうか。
それとも、贄の血の持ち主の感応の故か。
みんなも同じ事を感じているのだろうか。
わたしたちを労る意思、悼む想い、大切に抱く心。悪意も邪心もない、透き通った想い。
そして笑子おばあさんを励まし先へ促す心…。
この先? 笑子おばあさんのこの先って?
「お出迎えだねえ」「オハシラ様の?」
ああ。真弓さんの問いかけに、笑子おばあさんは心から嬉しそうに、頬を緩ませてから、
「私を誘(いざな)って、くれるのかねえ」
みんなの前をひらひらと通り過ぎ、ちょうちょはおばあさんのすぐ側で踊る。実体を持
たない幻が、二度三度みんなの周りを飛び回り、別れを告げる様に窓の外の闇へ飛んで…。
「サクヤさんと初めて逢った頃を思い出すよ。これがあるかも知れないと思ったから、入
院したくなかったのさ。やはりオハシラ様は全てご存じなのかねえ。さあ、もう終りだ
よ」
「……おばあさん?」
触れる身体に生命の気配を感じない。何をどう伝えても返ってくる返事がない。反応が
ない。意思の欠片も感じ取れない。それは…。
「母さん」「お義母さん」「笑子さん!」
笑子おばあさんは、静かに事切れていた。
最期迄、その名に相応しい引き込まれそうな笑みを浮べて。その笑顔で頼まれたなら、
どんな事でも断れない、そんな笑みを暖かに浮べた侭の、眠る様な最期だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「正樹の子だろ、泣くんじゃないよ。
ほら、あっちを見てみな。あんたの大好きな柚明だって、泣くのを我慢しているんだ」
「……でも、でも、桂は泣いているよぅ…」
幼い双子のすすり泣く声が、葬儀に訪れた大人達の貰い涙を誘う。サクヤさんは一生懸
命諭して、泣き止ませようとしているけれど、逆に自身の涙を誘われていた。暖かな想い
出があればある程、別離の悲しみも又深く重い。
わたしも何度か涙を止められず、漸く止めたと思ったら再度流れ出す繰り返しの中で…。
「ちょっと、受付に」
関知の力が、わたしが迎えるべき客の到来を報せてくる。涙を抑えて立ち上がった。笑
子おばあさんの葬儀だから、大抵は正樹さんや真弓さんが出迎えるべき大人の客人だけど、
「あなたは、鴨川さん、でしたね」「はい」
正樹さんが敢て尋ねるのは、鴨川と羽藤の家同士の関係があるから、聞かずに通すと後
々に支障が出る為だ。知っていて通すのかと言われるかも知れないけど、知らずに通す管
理手落ちより故意の方がましとの判断だろう。
「鴨川と羽藤の家の関係は、知っています」
真沙美さんは、意図してお嬢様を印象付ける為の、緩やかなカールの髪を揺らせながら、
「私は鴨川の主ではないので、鴨川の羽藤への対応を決める権限は持ちません。今日も鴨
川を代表しての参列ではないとご承知下さい。私が今日訪れたのは、たいせつな友達、私
の柚明のおばあさんの葬儀だからです。柚明の一友人として、参列を許して頂けます
か?」
真沙美さんが、むしろ周囲に聞える様にやや大きめな声でそう言うと、真弓さんが頷い
て受け容れる。わたしが出たのは丁度その時、
「真沙美さん、気を遣わせてごめんなさい」
もう少し早く出て迎えていれば良かった。
それに真沙美さんは、むしろあの口上を大人達に聞かせた方が、話は通り易いと言って、
「良いのよ。この位の事は、あんたのおばあさんの葬儀への参列には代えられないから」
遠くない将来に関係がなくなる鴨川の家だけど、血と生れは取り替えが利かないからね。
「そう言えば、真沙美さんも高校は町へ…」
「養母(はは)との折り合いがつかないから、この方が私は良いんだよ。あんたと別々に
なるのは少し寂しいけど。あんたこそ、北斗とか都市部の有力な進学校を目指せたのに
…」
まあ、お互いにそれぞれ事情があるからね。
わたしの家が抱える事情を多少知る真沙美さんは、わたしの事情を多少知る真沙美さん
は、この場でそれ以上突っ込んで訊きはせず、
「今は残り少ない日々を、より濃密に」
わたしの耳元で囁く。その向うから、
「鴨もやっぱり来たのか? 葬儀日程、報せて置いて正解だったな」
沢尻君が華子さんと姿を現したのはその時だった。2人は、隠す事なく手を繋ぎ合って
いる。むしろ見て貰いたいと、わたしの蒔いた種の成果を確かめて欲しいと、言う感じで。
微かな痛みは心に刺さったけど、もうそれを取り戻そうとか、追いかけようと言う気に
ならない。わたしの中で、諦めがついたのか。笑子おばあさんに思いの丈を吐き出して泣
き喚き、その笑子おばあさんが彼岸を渡った事で、わたしの想いも解脱か成仏か出来た様
だ。
『ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁を愛おしく、哀しと思しつる事も失せぬ』
竹取物語の一節が心を過ぎる。心の在り方が変れば、事の受け止め方も変る。かぐや姫
は天の羽衣を着た瞬間、養父母や天子様への淡い好意も全て消え、怜悧で平静な唯の天女
に戻る。記憶が想いから情報になった感じか。
今のわたしも、それに近いのかも知れない。今のわたしは決断を終えた羽藤柚明。彼と
結ばれる可能性に心揺らせた羽藤柚明ではない。あの時のわたしなら、この場に来る度に
何度でも心揺れ動き悩み苦しんだに違いないけど。今のわたしは、それを静かに受け容れ
られる。天女の羽衣と違い全く平静とは行かないけど。
でも、そのお陰でわたしは暖かな笑みで2人を見つめられる。その先行きを心から祝福
できる。それが出来るわたしにだから、2人とも堂々とその恋の進み具合を見せてくれる。
わたしも深く関った、強く美しい2人の心のやり取りの結晶を。わたしの訣れの向う側を。
「沢尻君、華子さん、今日はありがとう」
「ご愁傷様」「気を落とさないでね」
2人は労りの言葉をかけてくれる。
「柚明、わたしも博人の行く工業高校に行く事になったの。両親の説得に時間掛ったけど、
滑り止めの受験校で譲歩したら認めてくれた。博人と違ってわたしの合格率はまだライン
ぎりぎりなんだけど、これから追い込みよ!」
思いは深くあるけど、互いに口にはせず、
「頑張ってね。貴女の持てる全てを出して」
「勿論よ。必ずわたしの力で、掴み取るわ」
華子さんの答は沢尻君をわたしから奪い取ったあの時の様に力強い。わたしは彼を向き、
「沢尻君も、頑張って。華子さんが受かっても貴男が落ちちゃったら、意味がないのよ」
「もう少し俺の力量を信用して良いと思う」
羽藤と鴨には最後迄敵わなかったけどさ。
彼は少し頬を膨らませ、ふっと力を抜き、
「何とかなるよ。一緒に勉強もしてるんだ」
目指す学校が同じなら、傾向や対策も同じ。2人が夜遅く迄顔をつき合わせて勉強する
様が瞼の裏に浮ぶ。それに微笑ましさを感じても悔しさはない。微かに寂しさは感じるけ
ど。
じゃ、後で。3人は揃って座布団の敷かれた場所に歩み去っていく。それを見送る様に、
「みんな外に行っちゃうのよねえ」
そうぼやく金田さんは残留組だ。春からもわたしと同じ経観塚の高校に行く。和泉さん
は偶然巻き込まれた形で、わたしの贄の血の力を目の当たりにしてしまったのだけど……。
「色々あったけど、良い面々だったわよねぇ。
と言うより、あなたがそう作り替えてくれた様な気が、わたしにはするんだけど」
わたしの反応を窺う興味深い視線は、好奇心豊かな金田和泉の常のそれだ。ショートの
まっすぐな焦げ茶の髪を、さらりと揺らせる仕草が杏子ちゃんの成長した姿を連想させた。
「買い被りよ。みんな元々良い面々だった」
強く優しく少し脆い処があって、でもわたしのたいせつなひと達。今迄も、これからも。
わたしの答に、和泉さんは頷くと、
「わたしは、ずっと一緒だからねっ」
「……和泉さん?」
「わたしは、柚明の側に、居続けるから…」
わたしの右手を左手で軽く触れて握ると、去っていく。この別れはいっときの物だから、
次に逢う迄の繋ぎの別れに過ぎないからと、行動で現す様な軽快さで。
尚も詰めかける参列者に応対しつつ、わたしはサクヤさんの気配がなくなっている事に
気がついた。同時に、それがあるべき場所も察しがつく。これには関知の力も不要だった。
少ないとはいえ雪の積もった羽様の森の、奥に開けたご神木の一角で、誰にも気付かれ
る事なく嗚咽を漏らすサクヤさんを、心底からの絶望と哀しみに身を浸すサクヤさんを見
つけたのは、その三十分位後だっただろうか。
「サクヤさん……」
空気の冷たさより、誰にも聞かれない場所を選んで泣かなければならない、誰にも理解
を求められない絶望と哀しみに、心を痛めるサクヤさんの嗚咽が、わたしの魂を震わせた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
経観塚の冬が過ぎ、春が来る。
旅立ちの季節は、別れの季節。
わたしは中学校を卒業し、少し離れた処に建つ県立高校に通うけど、そこに行かない面
々も多い。それは中学校になってから知り合ったクラスメートについても言える事であり。
幾つかの永訣を経て、幾つかの別離を経て、新しい春が再び始る。そこには別れた人・
失った人との想い出を胸に抱きつつ、尚引き継いだ人との生活があり、新しい出逢いがあ
り。
「行ってきます」
「「行ってらっしゃい!」」「気を付けて」
桂ちゃんと白花ちゃんの見送りを受け、真弓さんと正樹さんの見送りを受け、わたしは
日々を歩む。たいせつな人達とのたいせつな日々を。いつ迄も守り続けたい暖かな日々を。
【幸せな時の過ぎ去るのは瞬く間のこと…】
いつか、お母さんがそう言っていた。
【この青珠が、今迄母さんや私を守ってくれた様に、柚明やその大切な子達をも、守って
くれます様に……】
経観塚には鬼の目を攪乱する結界があって、青珠を身に付けなくても贄の血の持ち主が
鬼に見つかる心配はない。青珠は今は桐の箱に仕舞われて、唯のお宝として眠るだけだけ
ど。
わたしは、わたしの大切な子達を守ろう。
たいせつな子達の幸せな時を守り抜こう。
【濃い血を持ち匂う事がどんな定めを招くか、貴女は知っている筈よね。贄の血の力を使
える先達として、宜しくしてやっておくれよ】
【貴女だけなんだよ。今、私の他にはね…】
耳の奥に、笑子おばあさんの言葉が甦る。
『お母さんの様に、お母さんがわたしを守り助け導こうとしてくれた様に、わたしが…』
わたしが、2人の力になる。
わたしが、2人を助け守る。
わたしが、2人を導き招く。
守らなければならない、守り抜きたい、守らせて欲しい。わたしのたいせつなひと達を。
【守られた者が次の世代を、新しい生命を守る事で想いは受け継がれて行くの。私の想い
が娘に、娘の思いが孫に、孫の思いが子々孫々に。縦だけじゃなくてね。友達や夫や、他
のたいせつなひとにも。ねえ、サクヤさん】
ああ、その通り。わたしが桂ちゃんや白花ちゃんを深く想う様に、真弓さんや正樹さん、
サクヤさんは、わたし迄も深く想い。現れ方は色々だけど、想いの強さと深さは同じだと。
想いを受けて、想いを繋ぎ、想いを伝える。わたしも、桂ちゃんも白花ちゃんも、真弓
さんも正樹さんも、サクヤさんも皆同じ。この笑顔を保ちたい。この微笑みを守りたい。
わたしは誰かの為に役に立つと心に誓った。誰かの力になると、誰かを守れる様になる
と、誰かに尽くせる人になると。例えわたしが非力でも、幾らわたしが傷つこうとも。そ
の思いに変りはない。死んでも終りじゃない。死んでも約束は守る。死んだ人達との約束
が有効な様に、わたしの誓いも生死に関らず続く。笑子おばあさんにも、堅く約束したの
だから。
『2人の幸せを守る為に、全てを捧げます』
【いつでもいらっしゃい。わたしは、いつでもここにいるから。どこにも行ったりはしな
いから。いつ迄も、いつ迄も、いつ迄も…】
あの、悠久にあり続け、永劫に終る事のないオハシラ様の様に。わたしもそれに倣って。
『わたしは大丈夫、どこにも行かないから』
『これからも、未来永劫、終生変る事なく』
『大丈夫。わたしはどこにも行かないから。
ずっと、ずっとこの羽様に居続けるから』
槐のご神木に白い花の咲き誇る夏が来る。