第10話 夏の終り(前)


 夏は夜。清少納言が書き残した通り、夏の夜は、日光の暴威もなくて涼やかに心地良い。

「月の頃は更なり。闇も尚、蛍の多く飛び違いたる……又、唯一つ、二つ等、仄かに打ち
光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」

 月が出ている時は言う迄もなく。闇夜でも蛍がたくさん飛び交っている様には趣がある。
ほんの一匹か二匹が、微かに光って飛んで行く様にも、風情がある。雨が降る様も同様に。

 羽様のお屋敷の庭先にも時々蛍が顔を出す。近くの小川が澄んでいて生息に適するらし
い。今年ももう半月待てば、ぼうっと淡く群れ飛ぶ姿を、桂ちゃん白花ちゃんと見に行け
る…。

 その様を思い浮べつつも3人の寝床を整え、絵本を抱えた幼い2人を自室に迎える夏の
夜。白花ちゃんと桂ちゃんを引き受けて間近に過ごす夜も幸せなら、2人を引き受ける事
が真弓さんと正樹さんの役に立てる事も嬉しくて。

「いらっしゃい……桂ちゃん、白花ちゃん」

 幼子が絵本を抱えて入ってくる。並べた枕の左隅で桂ちゃんは、白花ちゃんとわたしが
布団に入るのも待ちかねて、その瞳を輝かせ。

「はやく、はやくぅ」「はい、待ってね…」

 白花ちゃんがわたしの右隣に潜り込んで。
 今宵わたしが読み聞かせる絵本は人魚姫。

 2人の幼子は今年幼稚園に通い出してから、どんどん賢く可愛くなって。お話しの中身
も興味の対象も幅広く成長を見せ。真弓さんや正樹さんにも絵本読んでとせがんでいるけ
ど。真弓さんの好みは金太郎や一寸法師やさるかに合戦などの、勇ましい勧善懲悪が多い
ので。幼子はわたしにはその他の分野をご所望です。

「人魚姫は、人魚の王様の6人の娘の末娘でした。腰から下は、お魚のように生き生きと
した尾ヒレが付いていますが、上半身は長い金の髪が揺らめくとても可愛い女の子です」

 泳ぎが上手で魚と戯れ、貝殻や珊瑚を拾って美しい髪や胸に飾り、時々海の上に顔を出
して良く透る声で歌を歌い、5人のお姉さんやお父さんと仲良く愉しく暮らしていました。

 絵本には青を基調とした海の楽園が描かれていて、山奥の経観塚では中々見ない光景に、
幼子2人は興味津々だ。もう少し大きくなったら、海に連れて行ってあげるのも良いかも。

「ある夜、姫は静かな海の上で大きな船に佇む美しい若者を見つけます。王子様でした」

 時を忘れ見とれる内に、大嵐が間近に迫っていました。静かだった波は逆立ち、風は帆
柱を叩き折って荒れ狂い、大きな船を木の葉の様に右に左に揺らします。王子様が危ない。

 人魚姫は海に潜れば嵐をやり過ごせます。
 深い海の底には大風も大波も響きません。
 静かに通り過ぎる迄待てば良いだけです。

 でも人はそうはいきません。人は海の中では息が継げません。岸に着けないと溺れ死ん
でしまいます。その上人は人魚程泳ぎが巧くありません。海に投げ出された王子様は懸命
に泳ぐけど、大波に弄ばれて今にも溺れそう。

 桂ちゃんも白花ちゃんも、胸の布団の上に立てた絵本の嵐に見入る。暗い夜を稲光が照
す中、船は遠く、溺れかけた王子様を見つめる人魚姫も、幼い双子もその顔色は緊迫して。

「人魚姫は気を失った王子様を抱いて、一生懸命泳ぎました。嵐の大風と大波は、泳ぎの
上手な人魚姫にも大変でした。気を失った男性を抱えて泳ぐのも初めてです。でもここで
諦めては、王子様は溺れてしまいます。尾ひれの力の限り姫は泳ぎ抜きました。日が昇り、
嵐が去った頃、姫は漸く砂浜に着けました」

 左右で小さなため息が2つ漏れて聞えた。
 人の苦難を案じ救出を喜ぶ心優しい子達。

「日が昇っても、王子様は目を覚ましません。姫は王子様を近くの村迄送りたかったので
すが、足のない姫は陸を歩けません。その内に近くに住む村娘が、砂浜を通り掛りまし
た」

 姫は慌てて海に隠れました。王子様を抱えて泳ぐのに必死で、髪飾りも胸飾りも外れて
いて恥ずかしかったのです。村娘は隠れた人魚姫に気付かず、倒れた王子様を見つけ驚き。

『貴女が、私を助けてくれたのですか…?』

 漸く気付いた王子様が最初に瞳に見た物は、心配そうに寄り添う村娘の姿でした。村娘
も王子様を心から案じて、寄り添っていました。美しい王子様に見とれ、心奪われていま
した。

『貴女は私の生命の恩人です。この恩は私の生涯を掛けて返します。妻になって下さい』

 そこ迄言って王子様は再び気を失いました。
 大嵐を乗り切った疲れで限界だったのです。

 娘は大慌てで村人を呼びました。濡れた王子様を暖め乾かし休ませて、お医者様に見せ
なければ。その先は陸の上の話しです。人魚姫に出来る事はありません。姫は隠れた侭で、
村人に運ばれ行く王子様を見守っていました。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 2つの頬が安心して眠りに沈む様を見届け。小用の帰り、正樹さんと真弓さんの寝室か
ら立ち上る気配を感じた。笑子おばあさんは既に寝付いている。2人の邪魔にならない為
に。わたしも2人の邪魔にならない様に、2人が心ゆく迄為せる様に、今宵双子を預った
のだ。

「ん……は、はぁっ」「んふっ、ふっふ…」

 寝室の襖は閉じている。この距離で声が聞える筈はない。わたしに響くそれは2人が聞
いた互いの喘ぎだ。感応の力が拾い上げてしまわぬ様に、常に気を張っておかないとすぐ。

 頬を染める熱は2人の愛の営みを感じて。
 大人の男女が愛を交わし合う様を識って。
 わたしも色香は薄いけど一応年頃だから。
 遮断しきれない。閉ざしきれず心惹かれ。

 正樹さんは血の繋りがあるし、真弓さんは護身の技の修練で日々肌身擦り合わせている。
親しい人の動向は血の力の修練の深化に伴い、察し易くと言うより自ずと察せる様になっ
て。

 盗撮盗聴とも違う。その気になれば詳細に覗けるけど、これは隣室のプロレスごっこを
分る様な。感度を鈍らせなくば感じてしまう。医者でなくても悩みや疲労や体調不良が見
えて分る様に。所在や動きや心の状態も。怒り哀しみ笑い等、心の波が大きければ姿を見
ず声を聞かずとも、お屋敷の外から察せられる。何をしようとしているか、何をしている
のか、成功しそうなのか失敗しそうなのか迄朧気に。

 夫妻の寝室で絵本を読み聞かせし寝付かせるのではなく。白花ちゃんと桂ちゃんを一晩
預ってと頼まれた時。事情は大凡察せられた。少し前迄は笑子おばあさんが見てくれたけ
ど、最近はわたしも幼子を任される程になったし。何よりわたしが2人を好きだから。明
言のない侭それを察せたのは、いつからだったろう。

 正樹さんの感触を、真弓さんの感触を、この肌身で感じる。声も動きも悦びも抱き留め
られた腕の感触も、重ね合う肌触りも体重も。2人の肉感だけではなく、心からの求め迄
が。2人はお互いの性を欲し合い与え合っていた。

 首を左右に振って身を包む様な感応と関知の像を一度断ち切り、幼子の眠る自室に戻る。
でもお屋敷の中にいると、今のわたしは心を構え隔てぬ限り、2人の強い性愛を風か波を
感じる様に分ってしまう。無防備に眠れない。

 白花ちゃんと桂ちゃんは無心に眠っている。
 わたしもその布団に身を潜り込ませるけど。

 意識して、入り込む像をある程度拒み隔て。でも夜に独り眠れずにいると、逆に意識が
そっちに惹かれ行く。真弓さんに抱かれたり正樹さんに抱かれたりした錯覚は、最早視な
くても想い出すだけでこの身を熱く火照らせる。

 明日朝も2人と顔合わせるけど、初めての事じゃないけど、気恥ずかしい。視えてくる
像は今宵の様な現在形だけではなく、誰かの過去の回想だったり、今後の意向を思い浮べ
てだったり様々で。明かさない限り、真弓さんも正樹さんも悟られた事を分らない。わた
しが平静に、知らぬ顔を通せば良いのだけど。

 年頃なので、同級生とそういう話しもない訳ではなかったけど。真沙美さんや和泉さん、
歌織さんや早苗さん、南さんとも、似た事は為していたけど。でもそれは本物に較べれば、
正樹さんと真弓さんの行いに較べれば、聡美先輩に言われた通り、おままごとだったかも。

 唇を合わせる、胸を触る。抱き合って肌擦り合わせ、互いの温かみと肉感を確かめ合う。
でもその先に男女の営みは、わたしの未経験を秘め。これは半年近く前に可南子ちゃんの
学校で、男女拾四人に為されようとした事か。でも今2人はそれを好んで望んで願い欲し
て。

 悪意や害意を及ぼされる事が、全身を舐め回される不快を呼ぶのと反対で、善意や好意
を寄せられると、素肌を優しく撫でられる嬉しさを招く。好ましい人に為されるのとそう
でない者に破られるのは天と地程に違う様だ。

 双方近しい人なので、この間近では2人が感じる欲求も充足も体感出来てしまう。女の
悦びや痛みを未経験の内に識ってしまうのは、どうなのかとも思うけど。更に男の人の欲
求や情熱は、普通女の子に分らない筈の物だし。

『叔母さん、貫かれている……痛いのに…』

 でもなんて嬉しそうに、心地よさそうに。

 痛くも嬉しく、心地良くも嗜虐的な。普段は温厚に静かな正樹さんが狼になり、正樹さ
んを片手で打ち倒せる真弓さんが敢て組み敷かれ、その身に添って女を破られ男を受けて。

 正樹さんの感触も分るけど、わたしが女の子である為か真弓さんの感触の方がやや強く。
身体が繋る感覚にもぞもぞ己も動いてしまう。歴代の感応使いは男女の性の秘め事を、こ
の様に感じて来たのかな。笑子おばあさんは? 半世紀を超えてずっと力の使い手だけど
…。

 お母さんはどうだったのかな。と言うよりお母さんやお父さんもこれを経て、わたしや
弟や妹を宿したのだっけ。おばあさんもこうしてお母さんや正樹さんを、生んだのだっけ。
大人になれば、平静に受け止められるのかも。

 わたしのたいせつな真弓さんと正樹さんが、確かに愛を交わし合う。その営みがわたし
の生に光を与える、双子の生命を導いてくれた。もしかしたら今の営みが、2人の愛を紡
ぐ以上に、新たな生命を育むかも知れない。白花ちゃんや桂ちゃんの妹や弟を生み出せる
かも。

 こうして生命は次の世代に繋がれて来た。
 こうして生命は次の世代に繋がれて行く。
 きっとその内、桂ちゃんも白花ちゃんも。

 大きく可愛くなって、恋や愛にも目覚め。
 2人とも、お嫁さんやお婿さんになって。
 男女の営みを為し、性愛を求め与え合い。

「2人、か。わたしは暫く誰ともそうは…」

 真弓さんと正樹さん、桂ちゃん白花ちゃん。世の中は2人一組が基本形なのかも知れな
い。人魚姫が王子様に恋した様に、真弓さんと正樹さんが互いを満たし合う様に。わたし
は…。

 外を吹く風が雲を払い、月の輝きが部屋の中を青白く照す。月明かりの中、わたしは1
人物思いに耽り、1人心を照され射貫かれて。幼子は静かな寝息を立てて、身動きもしな
い。

「たいせつな人は多くいるけど、でも……」

 その人にとってわたしは最重要ではない。

 その人の幸せを叶えるにはわたしは最適ではない。力不足だったり遠かったり、女の子
同士だったり、別に一番の人が確かにいたり。わたしはその想いを大切に守り支え、その
人の心底の笑みを、幸せを願い求めて来たけど。

「本当に役立てている訳じゃない。どこ迄行っても繋ぎで代り。この手が誰かを幸せに出
来た訳じゃない。わたしは誰にも決定的な役割を果たせていない。中途半端で力不足…」

 真弓さんや正樹さんの様に、人生掛けて誰か1人でも、本当に幸せにする事は叶うだろ
うか。わたしでなければ出来ない様な、役に立てない様な、大切な欠片になれるだろうか。
羽藤柚明でなければダメだと、言われる様な者になれるだろうか。今は無理でもこの先に。

 可南子ちゃんと宍戸さんの仲は、紆余曲折を経て順調らしい。宍戸さんは罪悪感に何度
か心折れ掛った様だけど、可南子ちゃんは粘り強く、寄り添い庇って心を繋ぎ。悪い印象
は全て今春卒業した玉城さん達の悪意と作為の所為となり、2人は冤罪を晴らした扱いで、
他の部員との関係も修復し。2人の仲は周囲には被害者同士の緊密さと思われている様で。

 仁美さんは来春大学受験だ。省吾さんが大学で一年留年したので、一緒に通える年月が
少し伸びると苦笑していた。伯父さん伯母さんに、2人の絆を公認して貰う場に挟まって
から3年経つけど、2人の仲は仁美さんの言葉を借りれば『だらだら続いている』らしい。

 詩織さんから昨日お手紙が届いた。ワープロ字に変ったけど、わたしの感応や関知が深
化しているので、想いの読み取りは支障ない。手書きが難しい程握力が落ちた背景は触れ
ず、心は届いているから安心してと返書を出そう。

 階の違う病室に、長期入院で入ってきた一つ年下の男の子がいて、気になっている様だ。
田中先生が、愛は心にも体にも良く効く薬だと言っていたのを想い出す。状況を尋ねつつ、
可愛い妹の想いを後押ししてあげられれば…。

 そこ迄想いに耽った時点で、改めて世の中は、特別な1人を抱く事、特別な1人になれ
る事の幸せが、大きいのだとしみじみと感じ。わたしはどの場面でも、その1人を担えな
い。

 わたしは唯1人ではなく唯1人にもなれず。
 最後迄脇で見守る独りであり続けるのかも。

 真弓さんと正樹さんを見守る笑子おばあさんの様に、2人の絆を結びつけたサクヤさん
の様に。わたしは誰かにとっての特別の1人になる事なく、特別の1人を得る事もなく…。

 かつて一番と告げた人は、この月夜の下で。
 今一体誰を何を、想い望んでいるのだろう。
 今年もオハシラ様のお祭りが近づいてきた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 やや思い詰めた顔の賢也君に、昼休み旧校舎に呼び出された時、用件は概ね掴めていた。
今は使われてない無人の教室で2人向き合い。恋の告白と噂されても不思議ではない状況
か。そう言えば彼とこうして向き合うのは初めて。2年前にそれを望んだ時はすっぽかさ
れたし。

 最初逢った時は同じ位だった背丈も肩幅も、2年間で少し差を付けられた。でも彼のわ
たしへの姿勢は相変らずやや弱気に緊張気味で。

「真沙美ちゃんの進学先が、決まった……」

 真沙美さんは、高校は都市部の進学校に通うと聞いていた。大学進学を見据え、中学卒
業を機に経観塚を出る人も少なくない。特に鴨川は地域の名家だし、真沙美さんも己の人
生を切り開く為に、学歴や資格を欲していた。

 わたしは近くの県立高校に通う積りなので、真沙美さんと過ごせるのはあと拾ヶ月もな
い。互いの未来の為に、やむを得ない別れだけど。未だどこに行くのかは、聞かされてな
かった。

「青城に決めたらしい。寮とかの設備が整っていて文武両道にバランスが取れていると」

 真沙美ちゃんの実力なら合格は間違いない。
 だから真沙美ちゃんに、告白しようと想う。

「青城は女子校だ。一緒に行く事は出来ない。同じ学校に通っていればこそ、幼馴染みや
クラスメートとして日々顔を合わせられるけど。これからは、今迄の様に付き合えなくな
る」

 彼氏と彼女の関係にならないと、もう真沙美ちゃんとの繋りは望めない。俺はずっと真
沙美ちゃんが好きだった。賢く綺麗な俺の大切な人だ。この侭遠ざかるのは耐えられない。

 遠距離恋愛も覚悟の上だと、言い切った。
 賢也君には、真沙美さんが特別な1人で。

 そして賢也君は彼女の特別な1人を望み。
 その想いは昨日今日に始った訳ではなく。

『真沙美ちゃんの為なんだよ。真沙美ちゃんの障害物のあの女を、脇に除ける為なんだ』

 2年前の件は、彼の真沙美さんへの想いが、わたしへの誤解と重なり暴走した為に起き
た。経観塚銀座通中始って以来の秀才と前評判の高かった彼女を、その最高を凌ぐ成績を
得たわたしを、多くの面で競って見えたわたしを。

『真沙美ちゃんより優れた成績を、まともな手段で取れる訳がない。真沙美ちゃんより優
れた奴がいるなんて認めない。いつでも真沙美ちゃんが俺の一番なんだ。そしてみんなの
一番も常に真沙美ちゃんでなければ……。
 俺の真沙美ちゃんを貶める奴は許さない』

 でもその誤解が解けた末に、賢也君はわたしと真沙美さんの結べた絆を了承してくれて。

『あれだけ事を煽って禍を引き起こした末に、俺と俺を助けに来て危うくなった真沙美ち
ゃんを救いに来てくれた。守って貰った。あの末に尚真沙美ちゃんと強く絆を繋げてくれ
た。その為に痛みも辱めも敢て受けてくれた…』

『俺、完全に間違っていた。羽藤は真沙美ちゃんの障害物で、へし折らなきゃならない競
争相手だと想っていた。汚い事を平気でやって真沙美ちゃんを脅かす魔女だと想っていた。
……全部俺の誤解だった。間違いだった。実際の羽藤は賢く優しく、真沙美ちゃんと心底
仲良い友達だった。それを分らず俺は……』

 彼は自身の謝罪や赦しより、真沙美さんの事柄を優先して望み願った。大切な人だから。

『許してと言うより、俺は真沙美ちゃんと血が繋る鴨川だから。俺を嫌う余り真沙美ちゃ
ん迄嫌わないで。真沙美ちゃんは賢く綺麗な、俺の大切な人だから。つい余計なお節介し
て。今回はそれがみんなに迄迷惑になってごめん。俺を愚か者と嫌ってくれても構わない
けど』

 真沙美ちゃんとの仲は切らないで欲しい。
 家同士がどうでも、大人同士がどうでも。

 真沙美ちゃんと羽藤や金田の絆が深かったから。それを失う事が真沙美ちゃんにも良く
ないって、分るから。全部悪いのは俺だから。

『真沙美ちゃんにも負担と迷惑かけてごめん。野村や桜井にもきちんと謝っておくよ。も
う俺は真沙美ちゃん達の関係を邪魔しないから。だからまた学校で、口を利いてくれるか
な』

『俺達が大人になったら、羽藤だの鴨川だの家の縛りに関係ない大人付き合いをしよう』

『真沙美ちゃんは俺がいる限り大丈夫だっ』

 真沙美さんを想い続ける姿が、真沙美さんと繋り続けたく願う姿が、正直すぎて爽快で。
それで彼は今迄何かを求めてきた訳でもない。唯役に立てる事が望みだと。唯傍にいたい
のだと。近くで同じ時を過ごす事を願いとして。

 真沙美さんには賢也君は唯の従兄に過ぎないけど、賢也君に真沙美さんは従妹以上の存
在だ。だからこそ。唯の従兄に過ぎないなら。困惑させたくないと、彼は真沙美さんを一
番と公言しつつ、敢て恋人関係を求めなかった。親衛隊の位置を動かなかった。人魚姫が
王子様に想いを告げられなくても、傍に添う事を望んだ様に。でも幸せに暖かな時も遂に
終る。

 王子様が村娘と結ばれた時に、姫の恋も生命も絶たれる様に。この侭手を拱いて見過ご
せば、賢也君の望みは絶たれる。傍に添える時間は終り、後に想いを交わす形は残せない。

 形が崩れれば想いは消える。別の街に住み違う学校に通う様になれば、日々顔を合わせ
る者との諸々に心は向く。自然それ迄の友との関りは薄れ想いも萎える。水が器に従う様
に、人の生き方もモノのあり方も、形に縛られ易い物だ。それも刻々変る今現在の形状に。

 別れ行く未来の像が視え、遂に賢也君も。

 人魚姫は足を得る代償として魔女に声を渡した為に、最後まで真実も恋心も王子様に伝
えられなかった。でも賢也君には想いも声も備わっている。あと必要なのは、勇気だけだ。

「羽藤には、告げておかなきゃいけないと」

 お前は女だけど真沙美ちゃんと特別近しい。あの一件を経た以上無理もないけど、真沙
美ちゃんとみんなの前で正面から抱き合ったし。男だったら、完璧に恋のライバルに見て
いた。

『いや、女でも実際手強すぎるんだけどさ』

 姿形も整って優しげで賢く気が回る上に。
 戦う強さに加え心の強さも誠実さも兼ね。

『真沙美ちゃんが心惹かれるのも、分る…』

 心覗く迄せずとも自然に内心が視えて分る。
 賢也君は元々本心を隠しきれないタイプだ。

 賢也君はわたしが真沙美さんに近しすぎる事を危惧しつつ、恋敵と睨みつつ、付かず離
れずを保ってくれた。一部の悪い噂に顔を顰めつつ、その因がわたしとの絆の深さにある
と承知しつつ。敢てこの仲を妨げようとせず。

 真沙美さんを哀しませない為に、真沙美さんを大切に想う故に。掻き回せば事が悪化す
ると。この深い絆を暴露すれば、彼なら簡単にわたしを追い払えたのに。逆に彼はわたし
達の『健全な関り』の保証人を担ってくれた。

『……幾ら仲良くたって所詮は女同士だし。
 間違いは起こる筈ないと分っているから』

 彼はわたしを静観してくれた。信じ見守ってくれた。賢也君の危惧の半分は、真沙美さ
んとわたしの絆の深さではなく、それが衆目に晒される事だった。わたしは賢也君の危惧
や人目を心に留めつつ、学校や人前での真沙美さんとの関りを怪しまれぬ様に抑えに努め。

 わたしが己の情愛に流されて、過ちを犯してしまわぬ様に。胸に秘めた想いが漏れ出た
末に、真沙美さんの負荷や害にならない様に。同じ人を想い合う、彼はわたしの戦友だっ
た。

「それと、俺の決意も羽藤に見せたくてさ」

 腹に力を入れる感触が、見なくても分る。

「俺は真沙美ちゃんに告白する。俺が真沙美ちゃんの一番になる。真沙美ちゃんは俺の恋
人になる。俺がこの手で、俺の彼女にする」

 それはずっと真沙美さんの傍にいるだけで満ち足りていた彼に、革命の様な決断だった。
真沙美さんは堂々と美しく、気品と麗質に溢れた人だから。憧れだけど手を出し難い様で、
今迄中々告白する男の子も現れなかったけど。

 わたしの反応に身構える賢也君は、少し自信なさげでも。敢て苦手に挑む気力が窺えた。

 わたしは一歩前に出て賢也君の両手を握り、

「おめでとう、賢也君。遂に決断出来たのね。頑張って真沙美さんに告白してね」「え?」

 わたしに彼の告白を、妨げる積りはない。
 むしろ全力で歓迎し、祝福し応援したい。

「真沙美さんを好いてくれた事が、自分の事の様に嬉しい。その強さ優しさ賢さ美しさを、
愛して貰えた事が心底嬉しい。わたしの特別にたいせつな人に恋してくれた事が嬉しい」

 握った両手を両手で胸の前に持ち上げて。
 間近に瞳を正視すると彼は戸惑った様に。

「……羽藤、お前、良いのか? それで…」

 俺は真沙美ちゃんを、恋人にするんだぞ。
 金田よりお前よりも、近しくなるんだぞ。

「女の子同士のあれって良く分んないけど」

 羽藤には真沙美ちゃんは、奪われたくない大切な人じゃないのか。俺には都合良いけど、
羽藤に一言もなくお祝いされるのは何か妙だ。

「お前の想いがその程度なら、奪うと言ったら譲れる程度の物なら、良いんだけど。俺も
心おきなく真沙美ちゃんに告白出来るから」

 賢也君のその言葉には首を左右に振って、

「鴨川真沙美は、羽藤柚明のたいせつな人」

 唯一のとは言えないし、一番とも二番とも、言う事できないわたしだけど。その幸を助
け支え守りたい。叶う限りの想いを届けたい人。

 若干怯んだ賢也君の瞳の黒目を正視して、

「譲るなんて出来ない。彼女はわたしの物じゃないし、出来てもわたしに譲る積りはない。
 この想いは、譲れる程に浅い物じゃない」

 わたし何気に凄い事を口にしているかも。

「わたしは真沙美さんを好き。状況を見て場を譲った事はあるけど、想い迄譲った事はな
い。それは賢也君も同じ筈よ。わたし達は同じ人を想い合う、戦友であると同時に恋敵」

 唯、男の子に見初められて告白される事は、女の子の幸せだから。鴨川真沙美が鴨川賢
也に恋される程素晴らしい女の子だと言う事は。真沙美さんの幸せがわたしの幸せ。そし
て賢也君もわたしの大切な人だから。わたしが譲る事はしないけど、祝福したいし応援し
たい。

「たいせつな人が誰かの真剣な想いを受けて、答を返す事を望み願い手助けするのは、そ
の幸せを願う者として当然よ。仮に真沙美さんの答がわたしの望みを絶ち切る答だとして
も。たいせつな人に誰かが抱く本当の想いがあるなら、届く様に導くのは真沙美さんの為
よ」

 真沙美さんの判断の下地を整えるのは当然の行い。わたしが望む答が出る様に、情報を
止めたり加工したり偽ったりするのは、真沙美さんの為ではない。それは己の為の行いよ。

「わたしも真沙美さんを愛している。だからこそ心おきなく賢也君の真実を確かに告げて。
真の想いを届かせて、その答を掴み取って」

 わたしは2年前、真沙美さんに答を返し終えた。それから続く繋りは彼女の厚情による
物で、わたしはそれを望み欲せる資格もない。幾ら愛しく想っても、女の子同士である上
に、一番たいせつとさえ告げられないわたしには。

 わたしは彼女の幸せを望み守り助け支える。誰かが真沙美さんを一番に想い、真沙美さ
んが一番の想いを返すなら、わたしはそれを願い祝う。たいせつな人の幸せがわたしの幸
せ。真沙美さんと賢也君の幸せが羽藤柚明の幸せ。

 真沙美さんと賢也君は意外とお似合いだ。
 世の中は2人一組がやはり基本形なのか。

「賢也君の好きな想いだけじゃなく、真沙美さんを幸せにしたい想いを、確かに伝えて」

 賢也君は暫くの間目を丸くしていたけど。
 お前、良い奴だな。想いが深く優しくて。

「真沙美ちゃんがいなかったら俺、お前に恋していたかも。真沙美ちゃんが惚れる訳だ」

 賢也君の評価は高すぎる気もするけれど。
 やや熱い左頬にこの左頬を軽く合わせて。

「そう言って貰えると嬉しいわ。有り難う」

 教室への帰り際、誤解に足を弾ませた志保さんの後ろ姿を見たけど。人の口に戸は立て
られないし、為した事をなかった事にも出来はしない。近い未来に小さな嵐の兆を感じた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 教室から飛び出してきた人影は、廊下を歩み来ていたわたしに、正面からぽふっと身体
を預けてきて。昼休みも半ば過ぎ、衆目の前でも構わず、この胸の谷間に頬を擦り込ませ。

「柚明さあぁぁんっ……翔が、翔があぁっ」

 翔君と又仲違いした様だ。2人の間に挟まった去年の夏以降、夕維さんは好んでわたし
に肌身を合わせ。女の子同士近しすぎる仲も、翔君はわたしなら大丈夫と認めてくれてい
る。2人の絆が緊密なので、一時席捲したわたしとの同性愛や三角関係の噂も、以後は下
火だ。

「私がマンダムのプラモデル壊した事を、怒って許してくれないのっ。昨日翔の部屋に入
り込んで、ちょっと手が触れたら落ちて壊れちゃって。あんなプラスチックのおもちゃ」

 夕維さんと翔君の痴話喧嘩は日常茶飯事だ。家が隣で同じ歳で、学校もずっと同じだっ
た幼馴染みは兄妹に近く、些細な事で言い合いしては意地を張り合い、喧嘩しては和解し
て。

 わたしも含め周囲は常の事だと、愚痴を聞いて流していたけど。夕維さんは勢い任せに
考えなしな事をして、痛い目も見る女の子で。翔君と拗れた去年夏、翔君に見せつける為
に、わたしに唇合わせようとしたり、衆目の中を選んで愛を求めてきたり、胸を揉んでき
たり。

 翔君との絆を取り戻せて以降、わたしは2人の仲人役に。何かあれば相談され愚痴を聞
かされ、抱きつかれ縋り付かれる関りになり。噂では翔君とわたしが夫婦で夕維さんが娘
と。

 夕維さん。余り大きくないわたしの胸の谷間から見上げてくる、可愛く小柄な女の子に、

「今回は夕維さんがいけないわよ。翔君にきちんと謝っていないでしょう?」「ううっ」

 言い訳を幾つか考えていた様で、泣きついてわたしを味方にし、翔君と優位に話したく
考えていた様だけど。女の子同士だし人に甘いわたしは、引きずり込めると見た様だけど。

 翔君もそうだけど、お互い中々頭を下げず、意地を張り合って。喧嘩する程仲が良いの
か、仲が良いから常に一緒にいて喧嘩になるのか。

 羽様では毎日幼子が、喧嘩と和解を繰り返している。原因や経緯を巧く喋れる歳ではな
いし、泣いて怒っても原因は全て些細な事だ。どちらかの正否より溢れた気持を受け止め
て、互いを想う気持を思い出させ、仲直りを促し。最後は2人を左右に抱いて、真弓さん
がやる様に、頭を軽くぽんぽんと叩いて心を満たし。

 中学生に幼子扱いはその侭使えないけれど、人は感情の生き物だ。理屈の正否以上に実
は、気持の整理が重要で。向き合わせ、互いの話しを良く聞いて、誤解や気持の蟠りを解
いて、どちらの善悪よりも仲直りしたい想いを導き。

「心からごめんなさいって頭を下げないと」

 今回は夕維さんがかなり分が悪い。華奢な肩を両手で軽く抑え、黒目で黒目を覗き込み、

「夕維さんも大事な物を壊されたり汚されたりした時は、哀しく悔しく想うでしょう? 
物に込めた想いが、台無しにされた気分に」

 夕維さんは、中学3年になってオモチャに拘るのは子供だとか、実用に耐えない飾り物
を好む趣向が分らないとか、女の子の感覚で、壊した物の値は軽微で、翔君の怒りは不当
だと言いたい様だけど。それを言えば、プラモデルを大事にしてきた翔君の怒りに油を注
ぐ。

 頭を下げたくないので、頭を下げる様な事じゃないと論を導きたい様だけど。そう言う
思惑が見え見えの姿勢が、一層相手を怒らせると。人は己の事になると見えなくなる物で。

「人は間違う事もあるわ。過ちを犯した時は、謝って償って、許して貰うのが最善の方法
よ。謝って願う仲直りには、素直さが大事なの」

 両腕を背に回し、小柄な体を軽く抱き留め、左頬に左頬を合わせ、その左耳に言葉を注
ぐ。

 夕維さんは謝罪を受け容れ難い性分なので、親身に接してしっかり中身を伝え切る。理
屈ではなく、あなたを想っての忠告だから受け容れてと、気持に訴える。周囲には頬を染
め瞳を見開き、口元を抑える女の子もいたけど。

 これは完遂する。しないと夕維さんに分って貰えず、翔君と仲直りも出来ない。翔君も
ここ迄分の悪い夕維さんが頭を下げなければ、暫く仲直りに応じてくれないだろう。去年
の様に拗れる前に、2人の綻びを縫い止めたい。

 夕維さんを気に掛けて、教室の戸の影に隠れて様子を窺いつつ、聞き耳立てている翔君
にも聞える声で。周囲のみんなに聞える声で。

「心から謝れば翔君も鬼じゃない。許してくれるわ。何より夕維さんが抱く申し訳なさに
整理が付けられる。この侭謝らず日々を過ごしても、夕維さんの心が晴れないでしょう」

 翔君の大事な物だと言う事は、夕維さんも分っている。謝らずに済ませても、夕維さん
に罪悪感が残る。謝って許して貰う方が良い。

 微かに涙ぐみつつ、頷く感触が伝わって。
 わたしも付き合う方が良い? 尋ねると。
 こっくりと言葉なく合わさった頬が頷き。

「じゃあ、行きましょう。真摯に謝ればきっと許して貰えるわ。それと、今後翔君のお部
屋に入る時は、飾り物を壊さない様に気をつけますって。きちんと約束しましょうね…」

 二組の教室に入ると、慌てて近くの椅子に座って、そ知らぬ顔を決め込む翔君に。わた
しが立ち合うから、夕維さんの謝罪を受けてと求め。夕維さんが謝る様を見守り、翔君が
それを受け仲直りする様を見届けてお役ご免。

 本当は翔君の憤慨も大きく、簡単に許さない積りでいた。わたしの介在を前にして、今
回は夕維さんが謝るべきと呑み込ませる様を見て、彼女への囁きを耳にして。頭を下げら
れて拒むのは子供っぽいと、急遽考え直した。

 夕維さんが昨日謝っても、許されなかったかも知れない。そうなっていれば彼の応対が
酷いと、夕維さんの方が拗れた怖れもあった。夕維さんが当初素直に謝れず、軽く拗れて
わたしに相談し、わたしとの語らいを翔君が聞いて考え直したこの展開が、最善だった様
で。

 行き違いが酷くなる前に解きほぐせて良かったけど。涙を流さない内に絆を結い直せて
幸いだったけど。仕方ないなと言う感じで近しい仲を取り戻す翔君と夕維さんを傍に見て。

 やはり特別な1人を抱く事、特別な1人にして貰える事の幸せをわたしはしみじみ感じ。
意地を張り合う似た者同士故に強く結びつき。互いの存在を空気の様に当たり前に想い合
う。

 世の中は2人一組がやはり基本形みたい。
 わたしはやはりそれを見守り支える者で。
 背後間近に、女の子の気配を複数感じた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「保育園の先生みたいだね。お疲れ、柚明」

 歌織さん。振り向くと早苗さんも一緒で、

「元から末の見えた痴話喧嘩に好んで関るあんたの人の良さには」「包容力に感心です」

 早苗さんは、ミディアムの黒髪が艶やかで、平均よりも少し背が高く柔らかな身体つき
だ。言葉遣いがやや丁寧すぎるけど、人の噂に揺らされず、人の噂を怖れない、芯の強い
人で。

 歌織さんは、癖のあるショートの黒髪と早苗さんを守り庇う少年っぽい語調で、強気な
印象を抱かれるけど。気弱な少女らしさを秘めた優しい人で、実は胸もわたしより大きい。

『和泉さんも柚明さんも大切なお友達です』

『ま、何かあったら相談は受けるからさ…』

『余り酷い噂はこの場で否定して下さると』

『私達も惑わされずに済むし、惑わされるなと他の連中にも言ってあげられるんだけど』

 美子さんや弘子さん達が多数で真沙美さんを取り巻き、わたしに圧を掛けてきた2年前。
わたしに纏わる悪い噂が流れても、早苗さんも歌織さんもわたしとの関係を保って離れず。

 贄の血程強くはないけど、霊能者迄も行かないけど、早苗さんはやや視える体質の人だ。
思春期の心身は不安定で、日頃害にもならず対処も不要な霊の類を、感じ取れる事もある。
無用の怯えが心を乱し、判断を狂わせる事も。

 他者に力を流し込める迄修練の進んだわたしは、早苗さんや、もう少し強く視える利香
さんの助けになりたく望み。早苗さんと深い仲の歌織さんとも深く心通わせ。特に昨秋は、
早苗さんに心を寄せつつ嫌がらせを為してきた広田君を巡って、一層絆も強く深く絡めて。

『柚明……。例えあんたでも、早苗を傷つける様な事をしたなら、唯じゃ置かないよっ』

『歌織ちゃん、違うの。これは広田君達が……柚明さんはわたくしを守って下さったの』

『私は幾ら髪を短く切って男言葉使って歩幅大きくして装っても、男の様な女でしかない。
早苗を守ろうと決意しても、周囲の噂話や視線を気にして、肝心な時に怖じ気づく。あん
たは柔らかく静かで大人しいけど、その芯は強くて硬く、揺らがない。女の優しさに男の
凛々しさを秘めて。むしろ早苗に近いんだ』

『歌織ちゃんは、わたくしの綺麗な人です』

 日頃男っぽい言動を為す歌織さんの、中身が実は違うと、わたしも暫く付き合って感じ
た。それは早苗さんを庇う為に強くあろうと努め、そう見せているだけで。どっちが支え
ているかと言えば、早苗さんの方が芯は強く。

『形がなくなれば想いもその内崩れてしまう。想いを届かせる場がなくなれば、想いを受
ける時がなくなれば、常に密に交わさなければ、形のない心は薄まって消える。響き合っ
てこそ想いは強く確かになる。形が支えてくれてこそ、形のない心も確かに掴める。私は
…』

『羽藤柚明は、わたくしの綺麗なひとです。
 歌織ちゃん以外の全てよりあなたが大切』

『私は……私も、柚明は好きだったからさ。
 早苗以降初めてだよ、心を奪われたのは。
 賢さも美しさも優しさも静かな強さ迄も』

『柚明……あんたといると、あんたが望んで被る損迄一緒に被る。でも、それが嬉しい』

 広田君の早苗さんへ告白する場にと設定した肝試しの廃ビルで、4人の想いはすれ違い。
すれ違った末に漸く真の想いを絡め合わせて。

『歌織ちゃんも柚明さんも許して下さるでしょうけど、自身に許せないと気付いたんです。
 歌織ちゃんや柚明さんの深い想いに、偽りで応える結城早苗で良いのかと。広田君の本
気の告白に、偽りで応える結城早苗で良いのかと。みんなにそこ迄真剣に想われた結城早
苗が、それで良いのかと。良い筈がないと』

『柚明さんは、歌織ちゃんと同じく結城早苗の一番綺麗な人です。お2人を想い返した時、
広田君に身を委ねる事が出来なくなりました。わたくしは歌織ちゃんと柚明さんに、お友
達以上の好意を抱いているのかも知れません』

『だからこそ、その清らかさが失われる様を、黙って見てはいられません。どんな事情や
理屈があっても、わたくしの綺麗な人が、目の前で汚されるのは嫌です。どうしても嫌で
す。
 お願い。柚明さんを奪ってしまわないで』

 歌織さんの家に早苗さんと一緒に泊めて頂いたその夜、わたし達はお互いがお互いに抱
く愛しさの侭に、3人揃って一線を越えた…。

「……で、今週末は私が早苗の家に泊りに行く予定なんだけど、柚明もどう?」「ん…」

 誘われそうな気はしていた。前に早苗さん宅で3人夜を過ごしてから二月経つ。肌身に
見て感じた方が早苗さんの生活環境は掴めるし、そこに漂うモノが濃密なら祓う事も考え。

 鈍い人なら日常に障りないので、気付かれず終るモノでも。過敏になると、視えて心乱
される事もある。幾ら掃討してもわたしに消耗はないし、反撃もあり得ない弱小なモノだ。

 早苗さんに、見えない状態を擦り込ませるにも、やや長く肌触れ合わせ力を注ぐ必要が
あった。綺麗で心優しい2人と心通わせる時も愉しく好ましく。人に役立てる事が嬉しく。

 3者が互いに心底喜び合える間柄だから、

「ごめんなさい。今週は、先約があるの…」

 己の残念さよりも、歌織さんと早苗さんの望みに添えず、残念さを与えた事が悔しくて。
頭を下げてから早苗さんの両手を持ち上げて、

「早苗さんの状態は半年近く安定しているわ。ここ数ヶ月のわたしは何か為したと言うよ
り、安定していると確かめているだけの状態よ」

 次の触れ合いを急ぐ程の状態ではないと。
 確かに伝えて安心だけは与えておきたい。

「何も視えてないでしょう? 最近ずっと」

 頬染めて頷く早苗さんの傍で歌織さんが、

「早苗は安心をあんたに告げて貰う事が嬉しいんだ。あんたに直に確かめて貰える事も」

 歌織さんの言葉はわたしの頬も赤く染め。

「出来るだけ近い内に訪ねられる様にするわ。オハシラ様のお祭りの前には、行ける様
に」

「気を遣わせてごめんなさい。歌織ちゃんも。わたくしが口にすべき事を言わせてしま
い」

「あたしは柚明を招く口実を欲しただけさ。
 まぁ今週は早苗と2人で夜を愉しむかね」

 早苗さんの隣に寄り添う歌織さんは、姫君に添う騎士の凛々しさに満ち。互いを確かに
想い合い、絆を絡め。特別な1人、お互い同士という言葉を想い出す。男女ではなくても、
早苗さんと歌織さんはとても良くお似合いで。

 早苗さんも歌織さんも、特別な1人を見つけ出せていた。お互いの、かけがえのない1
人になれていた。その幸せに満たされていた。相方に想いを水の様に注ぎ合い注がれ合っ
て。

 好一対な2人に向ける祝福は本物だけど。
 わたしはやはりそれを見守り支える者か。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「どうしたの、みんな?」「ゆめい先輩っ」

 家庭科準備室に足を踏み入れた放課後、待ちかねた知花さん琴音さんが駆け寄ってきて。

 掃除当番で遅れたけど、放課後早い頃合だ。1年生部員拾四人を迎えて二拾七人に倍増
し、常に話し声の絶えない賑やかな手芸部の筈が。誰かに怒られた直後の様にしゅんと静
まって。

「絵理ちゃんが、陽菜ちゃんや紗英ちゃんの求めで先輩の小学校時代のお話ししてたら」

「南ちゃん不機嫌そうに低い声で『暫くあたしの前で羽藤先輩の話ししないで』って…」

 交互に経緯を教えてくれる。一緒に盛り上がっていた1年生の陽菜さんや紗英さん達は、
何が悪かったのか分らない侭身を竦め。粛然とした中、南さんは1人で部室を去った後で。

 新田絵理さんは、おかっぱの黒髪艶やかで、小柄で華奢な二級下の羽様小出身だ。一緒
の学級になった事はないけど、羽様小は小規模校で生徒全員お友達。運動会や遠足も一緒
で、今思えば頬が染まる様な言動も見られていた。

 景子さんも梢子さんも驚く大量の新入部員は、嬉しい事にわたしを慕って好んでくれて。
南さんは春から実質2年生のリーダーとして、わたしで手が回りきらない1年生のお世話
を、率先して引き受けてくれて。わたしに一番近しいとの自負が、わたしの代りを担う方
向に。

 唯、絵理ちゃんは中学校以前の、南さんも知らない羽藤柚明を知る故に、互いに競合意
識があった様で。南さんがわたしとの近しさを見せつけ過ぎだと、思う人も一部にはおり。

「最近南ちゃん少し様子が変です」「ゆめい先輩のお話しすると、俯いて不機嫌そうで」

 1年生の多くも、南さんを先頭とした手芸部の密な関りを、受け容れ馴れてきただけに。
最近の南さんには2年生も対応が追いつかず。次に何をどうすれば良いかみんな分らなく
て。

 最上級生としてその不安を鎮めなければ。
 南さんもみんなもわたしのたいせつな人。

「分ったわ。南さんとはわたしがお話しする。きっと話しづらい事を抱え、どうして良い
か分らない状態だと思うの。誰にどう相談すれば良いかも分らない悩みって、経験な
い?」

 わたしは傍の知花さんと琴音さんだけではなく、周囲に来た2年生や後に控えた1年生
にも届く声で、女の子達の瞳を順々に見つめ。

 南さんもみんなもわたしを慕ってくれた。
 だからわたしが、原因を聞いて助け守る。
 みんなとの行き違いも、必ず修復出来る。
 知花さんの右手と琴音さんの左手を握り、

「少し見守っていて欲しいの。南さんは何の事情もなく他人に不快を与える子じゃないわ。
きっと何か訳がある。原因さえ取り除ければ、元気で明るい南さんが帰って来てくれる
…」

 琴音さんや知花さん達2年生の頷きを貰い。わたしは更に後ろで椅子に座した絵理さん
に歩み寄り。華奢な両肩を軽く抑え、瞳を覗き、

「不安を与えてごめんなさい。その場にいてあげられれば、この状況も防げたでしょうに。
こうなる迄気付けないわたしは先輩失格ね」

 他の部員達は瞳を合わせて気持を伝えれば、動揺を鎮められるけど。南さんの不快を直
に受けた1年生数人は、肌を合わせる迄せねば、沈んだ心を癒せない。絵理さん達と結ぶ
絆が、後で南さんと絵理さん達の和解に生きてくる。

「新田絵理は、羽藤柚明のたいせつな人よ」

 左頬に左頬を合わせ、耳朶に言葉を注ぎ、

「きっと全てが良い方向に回るから。わたしが良い方向に導くから。あなたは今回何も悪
くない。唯少しだけ、見守っていて頂戴ね」

 絵理さんの無言の頷きを確かに感じてから身を離し、わたしはその傍にいた2人を向き、

「坂本陽菜と原口紗英は、羽藤柚明のたいせつな人。強く賢く可愛らしいわたしの後輩」

 ショートの濃いブラウンの髪艶やかな陽菜さんと、縮れた長い黒髪の可愛い紗英さんの、
左肩と右肩にわたしは両の腕をそれぞれ回し。2つの頬がこの両頬を挟む様に、肌合わす
様に抱き留めて。2人がそれを望むと分るから。柔らかく暖かな肌から愛しい想いが流れ
込む。柔らかく暖かな肌へと愛しむ想いを流し込む。

「わたしを好んで慕ってくれて有り難う。とても嬉しいわ。わたしに返せる物は多くない
けど、叶う限りの想いを返すわね。今回あなた達は何一つ悪くない。心を柔らかに保って、
仲直りの日を待っていて。わたしが必ず…」

 お互いに心通わせられる様に事を導くわ。

「「ゆめい先輩っ……」」「「先輩っ!」」

 陽菜さんと紗英さんが、今迄の心細さに涙を滲ませ頷く様に、周囲にいた他の1年生も
感極まって、わたしに詰めかけ肌身を合わせ。昨秋も確かこんな感じで、今の2年生達に
…。

「手芸部のみんながわたしのたいせつな人」

 女の子の暖かな想いの波に身を浸しつつ。
 女の子の柔らかな感触に心迄満たされて。

「わたしは、たいせつな人を愛でるのが望み。幸せに緩んだ笑顔が好き。元気に日々を過
ごしてくれる事が願い。傷み苦しみ哀しむ姿は見たくない。みんなの幸せに役立ちたい
…」

 密着感が頬染めるひとときを終え、身を離したわたし達に。景子さんが力の抜けた声で。

「わたしには難波さんの焦りが、自分の事の様に実感出来るわ。年下の可愛い競争相手が
大量に出来て、追い上げられる側になった」

 あなたはみんなに優しく暖かいけど、みんなはみんなではなくあなたを望んでいるのよ。
相変らず男女問わず好まれ慕われているけど、

「あなたは人に甘いから。良く注意しなさい。好かれる事・愛される事が必ず良い結果を
生むとは限らないと、昨秋あなたも思い知ったでしょう。難波さんはあなたへの思い入れ
が特に強い様だから。可愛さが憎さに転じても転じなくても、女子のあなたには特に厄介
よ。
 だからこそ難波さんの想いをくみ取れて対応出来るのも、あなたなのでしょうけどね」

 言葉尻はややきついけど、それはわたしを案じる故に肝に銘じて欲しく望む故で。隣で
同じ3年の梢子さんが頷きつつ苦笑している。

「有り難う、景子さん。心配してくれて…」

 わたしは景子さんへの感謝を表しに、歩み寄ってその両手を、しっかりと両手で握って、

「心に刻むわ。それに確かに対応出来てこそ、わたしも好み慕ってくれた人の幸せを、守
り助け支えられる。今回は、わたしに任せて」

 たいせつな人の苦悩解消には、たいせつな人達の不安解消には、わたしが役に立ちたい。

 承諾を願うわたしに景子さんは力が抜けて、

「ダメって言っても、あなたは踏み込んでいくのでしょうに?」「言う積りもない癖に」

 梢子さんの突っ込みに頬を朱に染めつつも、

「暫くあなたに任せるわ。折を見て状況を教えて……無理はしない様にね」「有り難う」

 部長副部長の快い承諾を得て、わたしは南さんとのお話しを求め、1人部室を後にした。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 何度か夜を共にして、肌を合わせ心に刻んだ南さんの気配は、校舎にいる限り所在を大
凡把握できる。理科室前の廊下に歩み行くと。

「……羽藤さん?」「ゆめ……羽藤先輩っ」

 人気の失せた放課後の廊下で、何事か立ち話をしていた佐々木さんと南さんに察されて。

 佐々木さんはわたしを前に平静を装うけど。
 南さんは明らかにわたしとの対面を嫌って。

「あ、あたし、これで失礼します。じゃ…」

 南さんは佐々木さんとの話を中断し、小走りに去る。追い掛けたかったけど、出来なか
ったのは。佐々木さんとまともに向き合うのも話しかけられたのも、暫くぶりだったから。

 佐々木さんは背後方向に先に南さんが逃げ去って、タイミングを逃したと感じたみたい。

「あの後も、青島さん一家に関り続けているらしいわね。巧く行っているの?」「うん」

 青島渚ちゃんと遙ちゃんは、今春経観塚の幼稚園に通い始めた白花ちゃんと桂ちゃんの
お友達だ。その父で警備員の健吾さんは、若く強壮な剣道と空手の達人で。母の麗香さん
は、女性らしい豊かな体つきの心優しい人で。一家4人は揃ってわたしと心通わせてくれ
て。

 でも3ヶ月前の週末、わたしと南さんは寒空の中で窓の外に閉め出され、雨に濡れて泣
き叫ぶ幼い兄弟を見つけ。わたしの問に麗香さんは『これはウチの事です』と扉を閉ざし。

 幼子は何度か小さな身体を叩かれていた。
 幼子は何度か家の外に閉め出されていた。
 叫びや激しい物音は近所にも響いていた。

 羽様の大人に相談しても、他家の中で起きた事に両親が介入を拒む以上、打つ手はなく。
悩むわたしを南さんは心配してくれて、北野君を通じて沢尻君や佐々木さんに相談が行き。

『お前がいとこの双子を可愛がっていて、それと同じ歳の幼子が酷い事されて。目の前で
見れば問い質す気持も分るけど、他人の家だ。親戚でも友達でもない。深入りは止めと
け』

『……でも……でも、だって……』

 沢尻君と佐々木さんの言う事は妥当だけど。
 みんながわたしに抱く心配を感じ取れて尚。
 わたしは我が侭と承知で黙っていられずに。

『2人は未だ4歳児よ。……幾ら酷い目に遭わされても、酷い目に遭わせたその親に縋っ
て、許しをお願いする事しか知らないの…』

『桂ちゃんと白花ちゃんのお友達なの。わたしのたいせつな人の日々を支えてくれる、愛
しい人達なの。何とかして守り助けたいの』

 佐々木さんは困惑しつつこの手を取って。

『顔を上げて、羽藤さん。毎度の事だけど』

 あなた、本当に損な人。好んで危険や傷を受けに行く。そこ迄深く関る必要はないのに。
奥深く踏み込まなければ、通り一遍の善意で流しておけば、苦痛も哀しみもなかったのに。

 相手の窮状や怯えを見抜き助け関った為に。時に振り回されて多くの誤解も招き、人の
絆危うくし、その為に酷い目や辛い目に遭って。それで尚懲りる事を憶えない。本当に本
当に。

『あなたはわたしの大好きな羽藤柚明だわ』

『こんなに綺麗で華奢なのに、無茶ばかり』

 2人はわたしが冬休みに、男の子への怯えを抱いた事も喝破して。でも青島さんの問題
が生じる迄、わたしの心の傷を気遣って敢て触れず。この問題を耳にしてわざわざ忠告を。

 わたしは結局その忠告を裏切った。謝って麗香さんと絆を繋ぎ直したわたしは、健吾さ
んの悲憤の暴走を止める為に身を割り込ませ。健吾さんの目の前で麗香さんの唇を奪った
末、健吾さんと武道の立ち合いをする事になって。

 沢尻君は忠告を裏切ったわたしを、危険を承知で北野君と助けに来て。痛い思いさせた。
わたしの力不足で、守りたいたいせつな人にケガを負わせ、血を流させ。健吾さんとの立
ち合いには、勝って彼と心も繋ぎ直せたけど。

 北野君はわたしが戦う様を見て、割り込めなかった自身に忸怩たる想いを抱き。彼は何
も悪くない。罪悪感など不要なのに。わたしを力で守れないとショックを受けて。男が女
を守る恋人関係と違いすぎて受け容れられず。

『俺……今日の先輩の事は、話さないから』

 北野君は苦味を隠しきれずとも、尚わたしを気遣って。今迄戦う強さを隠していた事や、
この一件を晒しては拙い事迄も考えてくれて。

『俺は平穏無事が好きなんだ。これ以上面倒やらかさないでくれよな。これ以上揉めたり
したら、お前じゃないともう面倒見ないぞ』

 沢尻君の包容力や柔軟さにも瞠目だけど、

『あなたが血塗れでなかったら、博人にケガさせたあなたを引っぱたいている処よ。その
事は憶えておいて。あなたは本当に大好きだけど大嫌い。博人の心配を分っていながら』

 佐々木さんは、わたしと健吾さんの決着直後に、正樹さんと現場に着いた。その場にい
た人は皆わたし達の戦いを秘したので、彼女はわたしの護身の技を知る事なく。わたしと
沢尻君の破れ血に染まった制服を見て青ざめ。

『あなたの向こう見ずが周りの人に、禍を招いているのよ。関係薄い誰かの為に、間近の
人を危険に晒し。あなたは博人の優しさにつけ込んで引きずり回し傷つけたの。分る?』

 佐々木さんの、わたしへの非難は正当だ。
 忠告と心配を裏切ってみんなに禍を招き。

『もう絶対に無理しないと約束する迄、わたしあなたを許さない。本気で反省して頂戴』

 以降暫く、対立した様な状態になっている。
 わたしも仲直りをしたい想いは山々だけど。
 破る前提でお約束を結ぶ訳にも行かなくて。

 わたしはたいせつな人が危うければ、守りや助けに身を挟む。他に術がなく間に合わな
ければ、己で危険を被りに出る。人の痛み哀しみを、代りに受けてでも防ぎたく望むから。

 後は分って貰う他ない。無闇に危険に身を曝す気はないと。叶う限り安全で穏便な途を
探しますと。努力の姿勢を見せて理解を求め。

 彼女はわたしを憎み嫌っている訳ではない。
 この身を案じるが故の憤りだとも分るから。
 だけどわたしはその求めには添えないので。
 強い情愛にわたしは叶う限りの答を返そう。
 賢く強く優しい赤い縮れ毛の華やかな人は、

「海老名(志保)さんが、あなたの噂を部活経由で下級生に蒔いている。あなたが人妻を
誑かし、その夫迄奪い取ったとか。3年では朝松(利香)さんが、目を輝かせていたわ」

 大人の女性や男性との繋りなんて、中学生には普通ないから。関りがあるだけで、噂に
信憑性を与えている。あの家の問題は解決した様だけど、あなたは心繋ぎ直せた様だけど。

 双眸はわたしへの堪えきれぬ憤怒を宿し、

「羽藤柚明は噂の泥に汚されて。あの人達との噂は消しようがない。あなたはいつも人助
けして損を負って、取り返さずに堪えて終る。この件も、せめてあの夜の経緯を明かせ
ば」

 何かあった事は確かで、何があったかは不確かだから。一部では誹謗中傷が飛び交って。
中にはあなたがあの屈強な男に処女を奪われ、逆上した奥さんに斬りつけられたって噂迄
も。

 佐々木さんはわたし以上にわたしの噂に立腹し。この今を招くと承知で青島さん一家に
関って、悔いもなく懲りもせぬわたしに憤り。

「あなたが喋らないから。弁明せず事実も明かさないから。面白半分な噂が流れ放題…」

 あなたが傷を負っているのよ。羽藤柚明が。

 あの家の幼子を気に掛けて、雨の中助けてずぶ濡れになり、血塗れにもなったあなたが。

 なぜ何も弁明しないの。全部話しなさいよ。
 彼女はわたしの真実に疑いも抱いていない。

 だから明かせば誤解は解けるのにと憤って。
 それはわたしへの強い信頼と心配と情愛で。

「何も語らず身の潔白を分って貰うなんて都合良い話、わたしや博人達位しか通じない」

 世間が向ける好奇の目線や、悪意な噂を気に掛けて。自身を守りに出て。あなたが他人
の為に、黙って泥を被る様は見ていられない。あなたに想いを寄せる者は皆納得行かない
の。

 その1人は佐々木華子であり、もう1人は。

「もう博人を振り回さないで! 受験控えて、経観塚の外を見据えた大事な時期なのに
…」

 あなたが自重しないと、あなたを気に掛ける博人は己の将来に集中出来ない。あなたも
分っているでしょう? 博人が羽様の仲間に、色々あったあなたに特に気を配っている事
を。

 自身の人生など省みず、自身の人生を助けてくれる訳でもない人を助けて、汚名被って。
それであなたが落第するのは自業自得だけど。

「博人を巻き込まないで。巻き込む状況を作らないで。彼の進路をねじ曲げないでっ…」

 間近に詰め寄られ、両腕を掴まれていた。
 潤んだ双眸が間近で、狂おしい程に輝き。

 沢尻君に恋を告げられぬ切なさが、人魚姫に重なって見えた。幼なじみ故に、今が近し
い関りだから。それを壊して確実に恋人関係を掴める保証もない故に。沢尻博人を心底愛
しつつ、彼女はどうしても想いを告げられず。

 強い想いは触れて一層、わたしを揺らす。
 沢尻君を想い、わたしを案じる強い心が。
 切なく愛しく、この身を胸を心を震わせ。

 分っている。わたしは分っている。羽藤柚明はここでは人魚姫の役だ。佐々木さんが沢
尻君に抱く想いを支え守るのがわたしの役だ。声があってもわたしは沢尻君に告白しない
し、沢尻君がわたしに告白する場面もない。佐々木さんの特別な1人が沢尻君で、佐々木
さんが彼の特別な1人を望む想いが明らかな以上。双方共に一番にも二番にも想えないわ
たしは。

 わたしは2人の間に割り込まない。踏み込まない。彼女の悲哀や涙や絶望をわたしは望
まない。たいせつな人の幸せがわたしの幸せ。佐々木さんと沢尻君の幸せが羽藤柚明の幸
せ。

 佐々木さんと沢尻君はきっとお似合いだ。
 世の中は2人一組がやはり基本形なのか。
 わたしはここでも見守り支える役を担う。

「言葉での返事は要らない。行動で示して!
 もう二度と博人の心騒がせる事しないで」

 彼女がわたしの両手を握ってきたのは、わたしの抱擁を未然に防ぐ為だ。一度握って振
り解いて懸隔を示す為だ。彼女はわたしと想いを交わすのではなく、拒む意思を示す為に。

 佐々木さんはわたしを嫌ってない。深く案じてくれている。でも彼女の一番たいせつな
沢尻君の、害になりかねないわたしの在り方を放置出来ないと。わたしと肌身合わせると、
拒む心を折られると警戒し。佐々木さんはぴしと右手人差し指をわたしに突きつけ牽制し、

「オハシラ様のお祭り迄様子見させて貰うわ。あなたが平穏無事に過ごせたら、例年の様
に羽様の5人で夜店を歩きましょう。5人揃って行くお祭りは今年が最後になると思う
し」

 わたしが頷いて異議がないのを確かめて。
 佐々木さんは最後にわたしに一つ情報を。

「博人も北野君もあなたも、この前の事を詳しく話してくれないから。わたしは独自に芹
澤君や難波さんに事情を聞いて回ったけど」

 難波さんも別口であなたに聞けない事、教えて貰えない事を、聞き回っているみたい…。

「わたしも訊かれたのよ。この前青島さんの家であった事について。何を見たのかとね」

 情報交換になっちゃった。気をつけなさい。
 彼女、あなたに何か含む処があるみたいよ。
 佐々木さんはわたしに注意を促してくれた。

「有り難う……」「あなたの為じゃないの」

 頭を下げたわたしに、彼女は強い声音で。

「何か起きそうなら未然に芽から摘み取って。
 あなたが何か起こせば博人の心を騒がせる。
 これ以上あなたは何にも関って欲しくない。

 わたしの望みはそれだけ。あなたは暫くの間、執行猶予中の身だって事を忘れないで」

 結局この日、南さんは帰宅した後だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……ほう、中々見事なもんじゃないかい」

 夕食後、おばあさんの前で書道の修練成果を見せるわたしに、サクヤさんが首を挟める。
真弓さんと正樹さんは、双子が墨汁をひっくり返したりしない様に、少し離れて抱き留め
抑え。2人がご機嫌斜めなのは、わたしに近寄れない為か、サクヤさんに近寄れない為か。

 笑子おばあさんは書道も華道も茶道もこなす多才な人だ。どれも趣味を越えて師範の域
にあり、週に数回経観塚に教えに行っている。正樹さんが収入を得る様になる迄は、その
稼ぎと遺族年金で羽藤家はやりくりされていた。

 羽様に住む様になると、お料理や護身の技や血の力の操りの修練に並行して、園芸や機
織り、和裁や編み物も習い始め。種目が多く、勉強や白花ちゃん桂ちゃんの相手もあるの
で、隣家が遠くお友達と遊ぶ事が少ないとはいえ、どの修練にも時間は余り多く取れてな
いけど。

「最近は大学生でもまともに筆字を書けない男女が多いのに、草書体を使いこなすとは」

 サクヤさんの驚きはわたしの驚きでもある。
 笑子おばあさんのお仕事の合間を縫いつつ。
 わたしは全ての種目で成果を実らせ始めて。
 おばあさんの教え方の巧みさは勿論だけど。
 贄の血の力の修練に伴う副次効果の顕れだ。

 相手が言いたい事・伝えたい中身が掴める。言葉にならない感覚や印象が、声音や顔色
や言葉や手足の振り等で読み取れる。師が伝えようとしているなら、弟子が望めば分る物
か。

 相手の意図や思考を探れば、答を覗くカンニングだけど。自制すると言うより、探る必
要を感じない。テストでも授業でも、先生は答に辿り着く方法を教えて問を出す。笑子お
ばあさんや真弓さんはお手本を示してくれる。

 だから設問は全問解ける様に作られている。お手本をなぞれば茶道も華道も書道も和裁
も園芸も料理も機織りも、ほぼ同じ成果に至る。こつを掴めれば攻撃も防御も見切りも出
来る。

 それ迄何度も聞き返し見つめ返し、試行錯誤せねば分らなかった話が。呑み込み易くな
り、一度で分る様になり、話される途中で結論が見える様になり、聞く前に分る様になり。

『血の力の関知や感応が進み始めた辺りから、あなた感覚を掴むのが急速に巧くなってき
て。最初は基礎体力も乏しかったから、何年掛けてもどこ迄行けるかと、想っていたけど
……。
 僅か4年で達人レベル迄修練が進むとは』

 常に爽快な迄に本音を語る真弓さんの賛嘆は大きな成果だ。武道以外でも最近は笑子お
ばあさんが瞳を細めてくれる事が多くなって。

 手習いの多くはテスト問題と違い、常に定まった答がある訳ではない。生き物の様に状
況が変れば最良の答も微妙に違う。それでも基本やお手本と言う物はあるし、笑子おばあ
さんが抱く最良な形の像がある。答の一つが。

 言葉に出し難い微妙な感触や違いを悟れば、進歩も習熟もずっと早く確かになる。真弓
さんの武道の修練もそれに同じ。臨機応変・自由自在に、でも正答を出さねば即行き詰ま
る。まず師が思い描く理想の姿を己に憶え込ませ。基本を修めてから、自分なりの応用を
目指す。わたしはまだまだどれも未熟で道半ばだけど。

「伸び伸びとしていて、良い字だねぇ……」

 文字を書いた半紙を持って瞳を細め。ここ数日笑子おばあさんは夏の暑さに体調不良で、
修練を一緒出来なかった以上に、少し辛そうだったから。元気に喜ぶ姿を見られて嬉しい。

 夕飯の準備をサクヤさんと真弓さんに頼み、寄り添って贄の癒しの力を注いで正解だっ
た。食前に体調を良くすれば食欲も増し、消化も良くなるから体力も気力も湧く。笑子お
ばあさんの肌身に添う事はわたしの喜びだったし。

「おばあさんの懇切丁寧な教えのお陰です。
 それでもおばあさんには遠く及びません」

 まだまだこれから沢山教えて頂かないと。
 ふつつか者ですが宜しくお願い致します。

 食事前に為した様に、小柄な浴衣姿に身を添わせる。わたしも書道に臨む為に浴衣姿な
ので、同じ位の身長と体格で並ぶ絵図になり。年は離れていても、笑子おばあさんは機知
に富み穏やかに朗らかで、少女の様に可愛くて。

 わたしの肌触りを喜んでくれている事が分るから。この親愛が望まれていると分るから。
わたしが触れ合いたい想いを伝えつつ、それよりまずおばあさんの求めに応え、身を重ね。

 わたしは望まれている。欲されている。わたし以外為せない癒しの力で、笑子おばあさ
んを支えている。それが嬉しい。わたしでなければならない、欠かせない欠片になれた気
が。換えの効かない唯1人になれた気がした。羽藤笑子の特別な唯1人に、なれた気がし
た。

「本当に、柚明ちゃんには敵わないわねぇ」

 真弓さんの言葉は、各種の分野で期待に応えるわたしへの印象だったけど。お料理以外、
真弓さんに追い抜かれた分野は未だないから。でもわたしはおばあさんへの密着を、女の
子同士でも近しすぎる触れ合いを言われた様で。賞賛に頬染めてしまうのは奇妙ではない
けど。

 そしてこの密着を羨ましがるもう2人が。

「おねえちゃんっ!」「ゆーねぇお習字?」

 解き放たれた幼子達は、おばあさんに寄り添う反対側から肌を合わせ、おばあさんの持
つ半紙の文字を覗き込み。白花ちゃんが首を捻り、桂ちゃんが唇を歪め考え込む様が分る。

『よめないよ……』『これがいい字なの?』

 幼子は今春幼稚園で活字をお手本に文字を習い始めた。草書体の様な字を脱しようとし
ている最中だ。だから敢てそれを書くわたしも、それを褒めるおばあさんも理解出来ずに。

『ひらがなやカタカナだけじゃなく、漢字もたくさんよめて偉いねと、幼稚園の先生にほ
められた事があるわたしも、全然よめない』

『よめないのはきっと字がきたなすぎるせい。蛇がぐにゃぐにゃ踊ったあとの様な、きち
んとしてないよめない字なんだもの』

 わたしが幼い頃に抱いた印象をその侭抱き。白花ちゃんも桂ちゃんも、わたしに肌身合
わせた事で、不満の多くは解消できた様だけど。

『おばあちゃんの部屋にも、同じ様に汚い字が飾ってあるけど、わたしがもらった賞状よ
りりっぱな額縁に入っていたりするから気に入らない。……真似してあんな字を書いたら
怒られるに決まっている』

「おやおや、幼心に笑子さんに柚明を取られて嫉妬かい? それとも柚明に笑子さんを取
られて嫉妬かい? 肌身合わせて仲良さそうだから、負けてられないさねぇあんた達も」

 サクヤさんが幼子2人の頭に両手を下ろし、明るいブラウンの髪をくしゃっと掻き回す
と、2人の関心もサクヤさんに移り。賑やかに触れ合う傍らで、書道の道具を片付けてい
ると、

「柚明ちゃんには、白花と桂を寝付かせて貰って良いかな」「はい、任せといて下さい」

 正樹さん達に頼まれるのは珍しくないけど。今回は、サクヤさんも含め大人の話しなの
で、幼子は寝付かせておきたいと。本当はわたしも混ぜるべきだけど、と真弓さんは頭を
下げ。

「後で柚明ちゃんにも事情はお話しするわ。
 今夜は抜きで話しを進める事を許してね」

「気になさらないで下さい。わたしは未だ子供ですから。漸くお話を分る様になった位で、
意見を挟める立場でない事は弁えています」

 質問する程度は出来ても、話しを左右出来る識見はない。中学生は世間的に見れば半人
前以下の存在だ。叶う限りお話しにも関って、羽藤の責を担いたいけど。己の生き死には
一昨年委ね終えた。わたしに異論は存在しない。

 それに参加は叶わなくても、わたしは今からの話しの中身も概ね把握出来ており、その
結論も大方視える。その上で考えを言葉にして整理し、伝え合う行いは重要だけど。それ
は今為さねばならない緊急の物でもないから。

「わたしは己に役割がある事が嬉しい。白花ちゃん桂ちゃんの相手はわたしの喜びです」

 わたしは常に2人一組の幼子に、絵本を読み聞かせ寝付かせて、その幸せを独り見守る。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「人魚姫は王子様に、恋をしてしまいました。お城に行って王子様に逢いたい。でも姫に
あるのは海を泳ぐ尾ひれだけ。陸を歩く足が欲しい。姫は深海の魔女に相談に行きまし
た」

 暗い海底に潜む年老いた魔女に相談に行く、絵本の人魚姫の表情の硬さは、お話しを辿
る白花ちゃんと桂ちゃんの表情の硬さでもある。

「魔女は人魚姫の求めを知ると、間近でなければ聞き取れない、低く嗄れた声で三つのお
話しをしました。……姫が全てを承知して決意の眼で頷くと、魔女は小さな壺に入ったお
薬と、陸の上で村人が着る服を渡しました」

 これで人間になれる。王子様の元へ行ける。
 人魚姫は踊る様に深海から浜辺に泳ぎ着き。

 魔女のお薬を飲み、村人の服を身につけて。
 生えてきた2本の足で陸を歩み始めた瞬間。

 痛いっ! 痛い、痛い痛い、いたいたた…。
 両隣で、幼子2人がびくっと身を震わせた。

「魔女が言った通り歩く度に姫の足は、貝殻の破片を突き刺された様に激しく痛みます」

『姫を魔法で人間に変える事は出来る。しなやかな尾ひれの代りに、陸を歩く2本の足を
生やす事は出来るよ。でも人魚は元々海に住む者だ。陸に生きる人とは生きる世界が違う。
 人魚として長く生きてきた姫が、突然足を得て陸を歩いても、人の様に巧くは走れない。
陸を歩く度に姫は、足の裏から刺される様な、人が感じた事のない激しい痛みを感じる
よ』

 砂浜に倒れた姫の瞳から、ぽろぽろぽろぽろ涙が零れ落ちました。力強いお父さんも優
しいお姉さん達も、陸に上がった姫を助けられません。姫は今からずっとたった独りです。

「それでも姫は立ち上がりました。痛みは激しいけれど、耐えれば前に進めます。姫は王
子様に再び逢う為に、痛みを承知で足を貰いました。姫の望みは叶いました。お城に歩い
て行ける。苦しくても逢いたい人の元に行き着ける。姫はそれを励みに歩き始めました」

 桂ちゃんも白花ちゃんも、陸を歩む人魚姫の先行きに、食い入る様に視線を送っている。

「お城に辿り着いた姫は、王子様の身の回りを世話する女中の1人になれました。魔女に
美しい歌声を譲り渡した人魚姫は喋れません。色々な秘密を漏らせないと思われたので
す」

 喋れなくてよかったね。桂ちゃんは、終り良ければ全て良し、王子様に逢えたとにこに
こ微笑んでいるけど。白花ちゃんは絵柄にハッピーエンドの華やぎがない事に不審そうだ。

「王子様は、人魚姫を憶えていませんでした。
 嵐の中、姫に抱えられて浜辺に運ばれる迄、王子様は気を失っていました。王子様は浜
辺で一度起きたけど、傍にいたのは村娘でした。人魚姫は村人や王子様に、飾りの取れた
姿を見られるのを恥じらって、隠れていました」

 王子様の生命の恩人は、その村娘になっていました。村娘も王子様に一目惚れし、疲れ
切って動けなかった王子様を献身的に介抱していました。王子様は優しく頑張る可愛い村
娘に好意を抱き、結婚を申し込んでいました。

 桂ちゃんも白花ちゃんも、お話しの展開に目が丸くなっている。良い事をしたら良い報
いがある。あるべきだ。そう思いたい幼子に、でも、必ずしもそう行かない事もあるのだ
と。

「貧しい庶民の村娘との結婚に、反対する家来もいましたが、王子様の愛は揺るぎません。
人魚姫の王子様のお世話は、王子様と絆を結び行く村娘のお世話にもなっていきました」

 姫はどれ程王子様に想いを打ち明けたく思った事でしょう。王子様の生命を助けたのは
わたしです。嵐の海で、王子様を抱えて浜辺まで泳ぎ着いたのはわたしです。わたしは王
子様を深く愛しています。結婚して下さいと。

 でも人魚姫は、陸を歩く足を貰うお代にその美しい歌声を、魔女に譲り渡していました。
どれ程胸に想いが詰まっても、どれ程瞳に涙が溢れても、一言も喋る事が出来ないのです。

 桂ちゃんと白花ちゃんの表情が凍り付く。
 魔女は最後に嗄れた声で言っていました。

『魔法は姫と王子を、結びつける迄しか効かないよ。巧く王子と結ばれれば良いが、仮に
その望みが絶たれたら、姫以外の女と王子が結ばれ、姫と王子との未来が消えた時は。姫
も海の泡となって消える。なくなるんだよ』

 双子は思わず、ぶるっと身体を震わせた。

『二度と魚と泳ぎを競ったり、珊瑚や貝殻拾ったり、姉や父とお話ししたり、海の上に顔
を出し美しい声で歌う事も叶わない。それでも王子を追い求めるかね。足を付けても人魚
と人は、所詮住む世界の違う生き物なのに』

「全てを承知で、姫は頷いていたのです…」

 美しい歌声を譲っても。2本の足の代りに力強い尾ひれを失っても。その足で歩く度に
痛み苦しんでも。王子様を愛したかったから。最早姫に王子様抜きの人生はなかったので
す。

 2人は絵本を食い入る様に見つめていた。

「王子様は女中にも家来にも優しい人でした。姫も親切にされました。でもそれは恋人へ
の愛ではありません。特別な1人、替えの利かない唯1人への想いではありませんでし
た」

 姫は王子様に真実を告げる事が出来ない侭。

 ごく間近にいて、王子様が村娘と絆を深め愛を語らう様を、見守る他に術がなく、遂に。

 王子様と村娘の結婚が正式に決まりました。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 双子が寝付いた頃には、大人の話も終っていた。居間では真弓さんと正樹さんがテレビ
ニュースを聞き流しつつ、2人肌を合わせていて。濃密な男女の営みではないけど、夫妻
水入らずの親愛に割り込むのは、お邪魔虫だ。

 戸口の傍に立たない限り、殺気のない人の気配を真弓さんは察知しない。幼子の眠る寝
室から出た処で、わたしは廊下の奥の闇に視線を向けて。用を足して自室に戻ろうと思っ
たのだけど。心に届く感触に、引っ張られた。

 サクヤさんと笑子おばあさんが奥の寝室で、素肌を合わせ想いを交わす様が分った。濃
密な絡みではないけど、互いを想う優しさと愛しさが満ち溢れ。今のわたしは心を閉ざす
寸前迄隔てないと、それらを感じ取れてしまう。意識せねば、感応の力が自動的に拾い上
げて。

 夕食前も書道の修練後も、肌身を合わせ愛しさを伝え合った笑子おばあさんと。夕刻お
屋敷の玄関で迎えた時に、大きな胸の谷間に抱き留めてくれたサクヤさんと。両方わたし
のたいせつな人。特別にたいせつな人だけど。

 その2人が、わたしの分け入る隙もない程深く強く心を繋げ。白花ちゃんと桂ちゃんが
わたし達に抱いた羨ましさを、嫉妬を感じた。

 悔しいけど嬉しい。2人ともわたしのたいせつな人だから。わたしがその役割を担えな
い事は悔しいけど。2人が互いに幸せを与え合う事は嬉しくて。嫉妬を感じつつ、わたし
は嫉妬を喜んで。嫉妬される程深い2人の絆が愛しく。嫉妬する程2人を慕う己が嬉しく。
わたしに叶わない幸せを与え合う様は己の無力を示すけど、2人の幸せはわたしの幸せ…。

 サクヤさんはお母さんより前から、笑子おばあさんと深い仲だった。年齢の計算が合わ
ない事は分っている。神出鬼没にわたしを驚かせたサクヤさんが、血の匂いを隠すわたし
の気配を分り難くなった事も。傷の治りが早すぎる事も、真弓さんに近い強さを持つ事も。
オハシラ様や羽藤の贄の血筋に深く関る事も。

 わたしに見せてない多くの面を、サクヤさんは真弓さんや正樹さん、笑子おばあさんと
共有し。特におばあさんにしか見せない切なく愛しい視線は、優しい仕草は心を打ち抜く。
傍にいるだけで胸が詰まる程の情愛が、今宵は笑子おばあさんの想いと深く強く絡まって。

 見てはだめ。視てもいけない。分っている。わたしは分っている。羽藤柚明の配役は羽
様でも人魚姫だ。わたしは得られぬ物を求めて割り込みはしない。愛した2人の幸せな時
は妨げない。その末にこの想いが泡と消えても。わたしは己の幸せを掴む為に生きている
訳ではない。たいせつな人の充足がわたしの願い。

 2人はお互いを特別に愛しみ合っていた。
 双方は相手を欲し望み求め、与え合って。

 その人に巡り逢え、心に抱き、想いを交わし合えた幸せが、さざ波の様にわたしの心を
洗い続ける。もう長くない幸せを噛みしめて。あり余る幸に身を浸し。その喜びを感じ合
い。

 暫くぶりにわたしは人肌恋しさを持て余し。笑子おばあさんとサクヤさんの親愛への羨
みもそうだけど。真弓さんと正樹さんの先日の印象が、未だ濃密だったかも。白花ちゃん
と桂ちゃんの柔らかな感触と暖かみを望もうと。2人の寝室に戻って静かに戸を開けてみ
ると。

 幼子は、わたしの抜けた肉感や温もりを補いに、意識のない侭互いに互いへ抱きついて、
頬合わせ。世の中はやはり2人一組が基本なのだろうか。最早わたしの入り込む隙はなく。

 わたしは今宵も独り見守り続ける者だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしは常になく心身昂ぶって、1人自室の布団で寝付けずに。外は雨は降らないけど
結構風が強い様だ。雲が吹き散らされるのか、時折窓から月明りが入り込み、わたしを照
す。

 今宵の大人の話しは笑子おばあさんの事だ。昨春からおばあさんの紡ぐ血の力は低下し
て。わたしが修練を名目に頻繁に添って癒しを注ぐので、肌も張りや艶はあるけど。暑さ
に体調崩すおばあさんは初めて見た。力の素になる生気が衰えている。この侭減り続けれ
ば…。

 経観塚に手習いを教えに行くのもこの夏で終りにする様だ。教え方が巧く可愛い笑子お
ばあさんは老若男女問わず人気者で、随分惜しまれた様だけど。慣れ親しんだ人達と遠ざ
かるおばあさんが、少し寂しそうだったけど。

『そうだね。わたしもあと少しだし。柚明にわたしの残り全てを注ぐ為にも、もう糧を稼
ぐ為に使う気力と体力はないかも知れない』

 オハシラ様の祭祀や、羽藤の家の言い伝え。
 笑子おばあさんの印象的だった経験の数々。

 その全てをわたしに伝え遺してくれる為に。
 幼い双子に繋ぐ想いを、委ねてくれようと。
 何よりもこのわたしを愛し育む事を望んで。

 想いの深さと愛しさに胸がいっぱいになる。
 暫くは風の音も月明かりも感じ取れぬ程に。

『真弓さんと、正樹や白花や桂と、サクヤさんと過ごす時間も、取れるだけ取りたいね』

 真弓さんも正樹さんもサクヤさんも言葉に詰まる様が視えた。己の終りを隠さず見据え
て揺らがず。誰もが目を逸らしたくなる衰えの先を柔らかに示し。わたしとの触れ合いを
拒まないのはそれを肌身に伝えようとして…。

 今生命の危機にある訳ではない。今日明日危うい訳ではない。でもわたしの関知には笑
子おばあさんのいない来年の夏が視えていた。そしておばあさんに幾ら親身に肌触れ合わ
せても、来年の春以降の像が何も視えてこない。

 笑子おばあさんはわたし達に言っていた。

【定めは受け容れないと。ねえ、真弓さん】

 人は永遠に生きられない。鬼や犯罪者に襲われずとも、百年保たず病や老いで死は巡る。
それは受け容れる他に方法のない定めだけど。

【予め分れば心の準備は出来るじゃないかね。期限を報されれば、どうしてもやって置か
ねばならない事に優先して取り組める。時間の使い途をより絞り込める様に、なるんだ
よ】

 終りのない幸せは存在しない。それを心に受け止めて。尚乱れずに崩れずに。己の終り
を見据えて尚この人は、何と強く確かなのか。この静かな強さをこそわたしは引き継がね
ば。

【今の幸せを確かに身に受け止めなさい。終りは必ず巡るけど、だからこそ今の幸せをし
っかり心に刻みつける事が、大切なんだよ】

 そこでわたしは今の自身に焦点を戻して。
 ふと俄に、月光の蒼が鮮烈に感じられた。
 いつもより、打ち抜く様な清冽さが強く。
 これは、唯の月明かりじゃない。きっと。

『オハシラ様が想いを伝えてくれているわね。サクヤさんやわたし達を見守っています
と』

 笑子おばあさんは、オハシラ様に分っていますと応える為に、想いも外に解き放つので。
覗く気のなかったわたしも感じ取れてしまう。夜だからオハシラ様も、想いをこの麓迄届
かせて。笑子おばあさんもそれに想いを返して。

 わたしの感触を正解と保証するその声に。

『今宵は笑子さんとの夜なのに。困ったもんだね姫様にも。幼子の様に、あたしと笑子さ
んや柚明の仲を羨んでくれているのかい?』

 サクヤさんも夕食の席で笑子おばあさんと親密に接し、双子の羨みを受けていた。感応
の力のないサクヤさんも、オハシラ様に応える為に心を開いた今は、その親愛が溢れ出て。
おばあさんへの親愛もオハシラ様への親愛も。

 オハシラ様も桂ちゃんや白花ちゃんの様に、わたしの様に、サクヤさんと誰かの親愛を
羨むのだろうか。静かに窓から入り込む蒼光は、わたしの心を照す様に洗う様に清かった
けど。

『それもあるけどね、サクヤさん……オハシラ様は、わたし達を見守っていますって。お
楽しみですねって。わたし達2人ともを愛していますよって。想いを届けたかっただけ』

 わたし達の親愛を喜んでいる。サクヤさんが人の世にも幸せを見つけ、想いを交わし合
うを喜んでいる。見守り祝福し応援している。サクヤさんの喜びを自身の喜びに感じてい
る。

『サクヤさんに感じ取れる力がないから、わたしを通じて伝えられればって想っている』

 だから笑子おばあさんは敢てオハシラ様の感触を口にした。そうでなければサクヤさん
は、意識して気付く事は叶わなかった。今宵の交わりには障りになり得る第三者の想いを、
躊躇わずサクヤさんに確かに告げて届かせて。微かな誤解迄きちんと拭い。サクヤさんと
オハシラ様の絆を喜びつつ、妨げず、結び繋げ。

 オハシラ様と笑子おばあさんは、互いにサクヤさんを想いつつ、互いを喜び合っていた。
場面は譲っても想いは譲らず。サクヤさんの幸せを望みつつ、その想いを尊重し。第四者
(と言うのかな?)のわたしはそれを眺めつつ心を鎮め、そのどちらにも気付かれぬ様に。

 わたしが入り込めない深い絆で結ばれたサクヤさんと笑子おばあさん。そのサクヤさん
を更に心招くオハシラ様。3人が互いを強く想い合い、認め合い。羨みや嫉妬も抱き合い。

『有り難う笑子さん。そしてオハシラ様も。
 気持は伝わってきたよ。心が清められた。
 嬉しいよ。あたしの、一番たいせつな人。
 明日にもご神木に、一度ご挨拶に行くさ。
 でも今宵は笑子さんとの夜なんだ。暖かな想いは分ったけど。申し訳ないけど、今から
暫くは笑子さんと2人きりにさせておくれ』

 青い輝きが少し柔らかになった様な気が。

『ふふ、承知しましたって、オハシラ様が』

『そこ迄は言わなくても分るよ。あたしの姫様なんだ。心を込めてお願いすれば、無碍に
断る人じゃない。……その分だけ、明日に追加料金が発生しているかも知れないけどね』

 いたずらっ子のニッとした笑みが視えて。
 思わず愛らしさに微笑みが浮んでしまう。

『うんとお仕置きして頂ける様に、いっぱい悪さしましょうか?』『酷い事言うね。自分
には掛ってこないと分って、笑子さんは…』

 箸が転げた時の様な笑い声が、心に響く。
 2人とも本当に少女の様に、屈託もなく。

 双方共に今宵はお互いの特別な唯1人で。
 わたしはここでも、独り身守る者だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明。あんた、賢也に告白されたって?」

 登校時、経観塚銀座通へのバス到着とわたしの徒歩がほぼ同着だったので。商店街を共
に歩むわたしに、真沙美さんが耳にして口にした噂の内容は、やはり真実から離れていて。

「わわっそれ本当? ゆめいさん」「ん…」

 隣で和泉さんが瞳を見開き、傍を歩む芹澤君や絵理さん達も声が詰まり。羽様から通う
バスなので羽様の者は概ね一緒だ。北野君や沢尻君や佐々木さんは、部活の朝練等の為に
一便速い始発バスで来るので、別だったけど。

 賢也君は未だ真沙美さんに告白してないらしい。先にわたしから明かす訳に行かないと、
答に少し惑うわたしに、真沙美さんは淡々と、

「(桜井)弘子さん達や男子が話していた」

 あんたが昼休み賢也に旧校舎呼び出されて。
 賢也の表情がマジだったからそうだろうと。

 和泉さんも真沙美さんも3年生では1組で、わたしは2組でクラスが違う。クラスを越
えて行き交いもするけど、教室を外した行き先迄は互いに詮索しないので噂で知ったらし
く。

「私の耳に入ったのはかなり遅いと思うよ」

 真沙美さんに想いを寄せる賢也君と彼女に非常に近しいわたしは、真沙美さんに微妙な
関りだから周囲が気遣い、その耳に入るのも遅くなる。既に校内に噂は広く流布している
だろうとの真沙美さんの観測は、多分正しい。

 賢也君もわたしに決意を告げる為に全力で、人目を気にする余裕もなかった様だし。志
保さんの後ろ姿を見た時に感じた嵐の兆って…。

「私は人の心は縛らない。禁じる積りもない。恋も告白もするもしないも、本人の判断
だ」

 鴨川の家の縛りに苦味を感じてきた真沙美さんだけに。自由とそれを担保する強さを求
めてきた真沙美さんだけに。才色兼備でスポーツ万能で、みんなに持ち上げられる立場に
あって尚、人に指示する事もされる事も嫌い。重要な事になればなるほど本人次第を透徹
し。

 むしろ困った顔を見せたのは、こちらも初めて噂を耳にした和泉さんで。和泉さんもわ
たしに近しい人で、わたしに関る噂の伝播は遅かった様だ。他の子達の視線も一時忘れて、

「だって鴨ちゃん。賢也君はともかく、ゆめいさんはあたしや鴨ちゃんのたいせつな…」

 力づくで奪われたり従わされるゆめいさんじゃないけど。でもゆめいさん甘く優しすぎ
るから。真剣な求めには応えちゃう人だから。

「想いに応える処から始って、本当の色恋にならないとも言い切れないでしょ。賢也君が
今迄抱いた鴨ちゃんへの想いを止めてゆめいさんに告白するなら、相当な覚悟だろうし」

 北野君や健吾さん、沢尻君とわたしの異性関係の多さが、和泉さんの懸念を招いていた。
真沙美さん和泉さんとは、2年前の事柄で深く絆を繋げたけど。冬休みの件も明かして尚、
2人は肌を合わせ唇を重ね合ってくれたけど。

 最近は早苗さんや歌織さん、南さん、麗香さんや健吾さんとの関りもあり、交わりがや
や減っていた。都度経緯は全て話し了解を貰えていたけど。その度に想いを交わし合い身
も心も繋げてきたけど。数が問題な時もある。

 想いは躊躇わず何度でも伝えて繋ぎ直す。
 僅かな綻びでこの絆を解れさせない様に。

「鴨川賢也は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 わたしは和泉さんの瞳を見つめて静かに、

「そして金田和泉と鴨川真沙美は、羽藤柚明の特別にたいせつな人。3人とも一番にも二
番にも出来ないけど、優先順位は変ってない。賢也君より、真沙美さんと和泉さんが大
事」

 賢也君の想いに応えるのは、和泉さんと真沙美さんを傷つけない範囲で。北野君の想い
に応えた様に、一番にも二番にも想えないわたしだから、叶う限り彼にも想いを返したい。
でもそれが和泉さんや真沙美さんの想いを傷めるなら、わたしは彼との関りも断ち切れる。

 わたしは新田さんや芹澤君達の視線や聞き耳の間近だと承知で、敢て確かに言い切って。

『大切な物の順番を意識なさい。どれが一番大切で、どれは時に諦めざるを得ない物か』

 想いの順番を意識する。一番たいせつな想いを軸にして時に抑え、切り捨て、踏み躙る。
全ての想いに応えられない時もある。悔い残しても選び取らねばならない時も。わたしは
真沙美さんや和泉さんにさえ、一番の想いは返せないと非道に応えてきた。だからそれ以
外では、叶う限り2人への想いを優先したい。

「わたしのたいせつな人の順位は変らない。
 だからこそ、ごめんなさい。わたしは…」

 和泉さんや真沙美さんの順位を、繰り上げる事も叶わない。賢也君を繰り上げる事が叶
わない様に。わたしは酷い女だ。その重さを承知で、わたしは一番の人を二番の人を、想
い続ける。真沙美さんと和泉さんをその次に。

 賢也君云々よりも、わたし自身が和泉さんや真沙美さんに申し訳なく、俯き加減になり
かけて。それは逃げだと己を叱咤して、敢て視線を向け直す。酷い事を告げたのがわたし
なら、せめてその結果には向き合わなければ。

「いつ迄も、真沙美さんと和泉さんを特別にたいせつに想うから。この想いは悠久に…」

 芹澤君や新田さんや、他にも登校途上の他の子の視線に入っていたけど。声も漏れ聞え
ていたけど。誤解を招く言動は先生にも忠告と警告を受けたけど。それでも想いの真は届
かせないと。和泉さんは互いの想いを繋ぎ合わせたくて、自身の想いを露わにしてくれた。
これに応えねば、わたしが2人に申し訳ない。この親愛は聞かれても真に拙い内容ではな
い。

 和泉さんが受容の表情で溜息を漏らす脇で。
 真沙美さんも受容を表情や仕草に見せつつ。

「賢也が柚明に告白するのは悪い事じゃない。私は賢也に恋人関係を求めなかった。だか
ら賢也の行動を縛る何物も私はない。それで柚明の心が賢也に傾いても、柚明の想いな
ら」

 私はあんたが一番だけど、あんたを掴む事が私の目的じゃない。あんたを縛って囲って
己の物にしたいなら、とっくにやっていたさ。そんな事であんたの心を手に入れられるな
ら。

 瞬間その双眸に問答無用の凄味を宿して。
 彼女ならその気になればやっていたかも。
 その強い想いもわたしは愛しく切なくて。

「私も和泉も、柚明の真の想いが大切なんだ。柚明は柚明の真の想いで、誰にも答を返せ
ば良い。あんたがこれ迄常にそうだった様に」

 その強靱で深い想いに頷いて。この身に余る程の2人の情愛に確かに頷いて、わたしは、

「例え賢也君に告白されてもわたしの想いは変らない。北野君に映画やお昼に誘われお付
き合いしても、たいせつな人の順位が変らなかった様に。それに今回の賢也君の用件は恋
の告白ではなかったし」「……そうなの?」

 和泉さんは基本的に、わたしの言葉を全て信じ疑ってない。問は先を促す為の接続詞だ。

 新田さんや芹澤君の少しほっとした気配も悟れた。顔を見なくても息遣いや仕草が分る。

 わたしは賢也君の真実は明かせないので。

「敢て言うなら、宣戦布告って感じだけど」

 今は未だ全部お話しできないの。もう少しして状況が許してくれたら、隠さずお話しで
きるのだけど。了解を願うわたしに真沙美さんも和泉さんも、いつもの事だと笑みを浮べ、

「ゆめいさんの話せる時に、お話ししてよ」
「例え話せなくても私達の絆は揺らがない」

 本当にこの2人が繋いでくれた絆は勿体ない程有り難い。強く深い想いに浸っていると、

「3人で熱々だねぇ」「羨ましい限りです」

 お話しを半ばから聞いていて、邪魔せぬ様に暫く言葉を挟まないでいてくれた。歌織さ
んも早苗さんも、少しの羨ましさと微笑みを。それを真沙美さんも和泉さんも、自然に受
け容れて一緒に歩み。たいせつな人達が互いを許容し合い、大切に想い合う。笑みが笑み
を、絆が絆を増幅し。それがわたしは心底嬉しく。

 わたしは、あり余る幸に身を浸していた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 放課後、わたしは部活に少し顔を出した後、銀座通商店街を歩んでいた。梢子さんと景
子さんの承諾は貰っている。南さんが部活に顔を出さず帰った様なので、様子伺いも兼ね
て。

 オハシラ様のお祭りも近い。その前に夏休みに入るので、大抵は学校で逢える内に予定
を決める。去年は二日目日中に手芸部で回ったけど、秋に絆を結んだ南さんは果たして…。

 桂ちゃんと白花ちゃんを乗せた幼稚園の送迎バスは出発した後らしい。バスに乗らない
近所の子が、お母さんに添われつつ歩む様子に目を細め。顔見知りにはご挨拶に頭を下げ。

 そんな中で、特に良く知った幼子の声が。

「ゆめいおねぇ……」「おねえちゃぁっ!」

 2人の4歳児、渚ちゃんと遙ちゃんが走り寄ってくる。同じ学年だけど、双子ではない。
兄の渚ちゃんが4月4日生れで、弟の遙ちゃんが翌年三月三十日生れで。ほぼ一歳違う渚
ちゃんの方が身体も大きくて元気だ。なので渚ちゃんが桂ちゃんと元気さん同士仲が良く。
白花ちゃんと遙ちゃんがそれを見守る感じで。2人ともわたしに心を開いて、懐いてくれ
て。

 屈み込んで視線を同じ高さに合わせ、駆け寄る2人を受け止める。小さな体を両手で抱
き留め、その温もりと肌触りを受けていると、

「2人とも相変らずあなたをお気に入りね」

 こんにちは。女性にしては背が高く、胸も腰も見事な曲線を描いた若い美人のご挨拶に、

「こんにちは……今からお買い物ですか?」

 わたしも屈んだ姿勢から軽く会釈を返し。

 麗香さんにはあの夜、健吾さんと立ち合って痛めつけたその直後に平手打ちされたけど。
夫を案ずる妻の想いは当然だ。愛する人を傷めた者への怒りは正当だ。叩かれた痛みより、
そうさせた己が申し訳なくて。夫を強く愛し守るその想いは、わたしにはむしろ好ましく。

 翌日正樹さんに伴われ謝罪に行った時には、麗香さんも健吾さんも落ち着いていて。諸
々を込みで謝るわたしに、2人とも諸々を込みで謝ってくれて。2人はわたしに謝る事は
何もしてないけど。お互いそれで過去は清算し、今後は仲良くしましょうねと絆を結び直
せて。

 麗香さんは、長く艶やかな黒髪に背が高く、見事な美貌と肢体の持ち主で。その表情も
最近は生気に溢れて輝いて。先日は夫の前で唇を重ね、その少し前に成り行きで体も重ね
た。わたしのたいせつな人、特別にたいせつな人。桂ちゃんと白花ちゃんの最初のお友達
の両親。

「ええ……経観塚は通り雨が多いから、子供を連れて買い物はどうかと思っていたけど」

 長く降る雨ではないと分ってきたので、スーパーで止む迄待てば良いと、悟ったみたい。

 健吾さんの悲憤の根は拭えてないけど、2人でそれに向き合うと、夫婦の絆も取り戻し。
身体を思い切り動かして、想いを晒して吐き出して、吹っ切りが付いたのかも知れない…。

 2人は再びお互い唯1人の美女と野獣に。
 世の中は、やはり2人一組が基本なのだ。

 誰かの一番を担えないわたしはここでも。
 独り見守り支える者を心静かに受容する。

 不相応を望めばわたしが他者の涙を招く。
 健吾さんは雄々しく逞しくて好きだけど。
 麗香さんは美しく心優しくて好きだけど。
 渚ちゃんも遙ちゃんも可愛い盛りだけど。

 幾ら愛しく身も心も添わせたく想っても。
 強くその想いを受けて返したく願っても。
 届かせてはいけない想いも、世にはある。
 受け取る事を許されぬ想いも世にはある。

 入り込んではいけない領域を肝に銘じて。
 たいせつな人の笑顔がわたしの真の願い。
 絵本の人魚姫はわたしのはまり役だった。

「先週は色々付き合ってくれてありがとう。
 随分疲れたでしょう? 健吾も始めたら燃え尽きる迄やりたがるし、あなたはあなたで
全力で応えたその他に、渚や遙の相手をして、その上で私のお料理や裁縫に迄付き合わ
せ」

 柔らかに、語りかけてくれる麗香さんに。
 幼子と触れ合いつつその美貌を見上げて、

「わたしは大丈夫です。麗香さんに役立てて、とても嬉しかった。健吾さんも、渚ちゃん
も遙ちゃんもたいせつな人。快い疲れでした」

 先週末は、麗香さん達が一家4人で羽様のお屋敷を訪ねてくれて。羽様の双子も幼い友
達の来訪に大はしゃぎで。4人で庭や緑のアーチを探検して回り、追い掛けるのが大変で。

 ご挨拶と大人のお話しの後、2つの家族が見守る前で、わたしは健吾さんに空手を習い。
彼が修めた正規な武道にも興味があったので。お手本を見せて頂き、基本から教えて頂い
て。

 一通り教わった後で、健吾さんご所望の武道の立ち合いを為し。憎悪はないけど遠慮も
ない健吾さんの闘志に、相対するのはやや怖かったけど。麗香さんの前で健吾さんに掌打
や蹴りを当てるのも気が引けたけど。雑念を払い、彼の全力にわたしも己の全力で応えて。

 でも健吾さんに与える痛手は、贄の癒しが不要な位に抑える。終った後で助け起こす際
に分らない程度に流し込むけど。長く肌を合わせると麗香さんの不安を招く。癒しの力の
所在を悟られない様に。これも一つの修練だ。

 事情を知らない他人を家庭に招き入れても、贄の血の事情も力も隠して気付かれない様
に。それは羽藤家と言うより、羽藤柚明の修練で。笑子おばあさんも正樹さんもその様に
過ごして今に至っている。経験不足なのはわたしだ。

 夕刻、麗香さんは笑子おばあさんのお料理修練をわたしと一緒に受けて。その間健吾さ
んは、真弓さんと武道の立ち合いを所望して。正樹さんは、4人の幼子に振り回されてい
た。

「じゃあ、今週も疲れさせちゃって良いかしら? 楽しみに待たせて貰うわ柚明ちゃん」

 今週末はそのお礼にと羽藤家が青島家に招かれて。歌織さんの招きに添えなかったのは、
この先約の為です。でも羽様では笑子おばあさんが体調を崩し、サクヤさんの帰郷も視え
たので。わたし1人がお泊りさせて頂く事に。

 わたしもサクヤさんと過ごしたく想うけど、今回の滞在はオハシラ様のお祭りで、期間
も結構長くなる。わたしはもうすぐ夏休みに入るから、サクヤさんにも心ゆく迄寄り添え
る。

「屋内や庭で武道は無理だから。今回は渚や遙や私に、色々みっちりと応えて貰うわよ」

「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」

 素直に柔らかに一礼すると、美しい人は、

「何かこの歳でお姑になった気分ねぇ。確かに料理も裁縫もあなたの方が巧いけど。私も
現役の主婦よ。中学生に負けてはいられない。今週末を見てなさい。思い知らせてあげ
る」

 意欲満々な麗香さんに、頷いた時だった。
 曇り出す空より早く、人の嵐が渦を巻き。
 突風を吹かせ、局面を急展開させて来た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしも麗香さんとお話しするのが愉しく。
 間近な2人の幼子に肌身に応える嬉しさに。
 怒りの気配に気付けたのは声が届く直前で。

「……ゆ……羽藤先輩、どうしてですか?」

 麗香さんの表情がやや硬かった。幼子達に掴まれた侭なので、屈んだ姿勢で背後を向く。

「どうしてこの人達と、仲良く親しげにお話しなんかしているんですか、先輩はっ…!」

 南さんだった。逢う事を望んでいた後輩は、今その身と心を震わせて。渚ちゃんと遙ち
ゃんが傍で、意味が分らずきょとんとしている。

「先輩はこの人達の所為で、色々迷惑蒙ったのに。先輩を想う人達も、この人達の揉め事
に巻き込まれたのに。酷い噂流されて、誤解に誤解重ねられて。それでも先輩の事を強く
確かに想い続けている人達を放置して、どうして禍の張本人と仲良くなれるんですか!」

 南さんはわたしと共に、寒空の雨の中、窓の外に置き去りにされた幼子2人を見ていた。
麗香さんを問い詰めるわたしも見た。先日の健吾さんとの立ち合いは、北野君と沢尻君と、
正樹さんの他に知る人はいないけど。佐々木さんは何かあった事は分っている。菊池君達
1年生もわたしが青島家に駆け戻った事迄は。

 南さんは証言を集めていた。見て聞いたわたしの行いを反芻していた。わたしに纏わる
噂を溜め込み、憤りを募らせていた。わたしに問えない中身の噂に、心を煩悶させていた。

「カモケン先輩の告白も受けたって聞いたし、佐々木先輩は沢尻先輩との関係を気にし
て」

 その上噂では、この人のご主人に先輩が酷い事されたとか、この人がそれを見て逆上し
て斬りつけたとか、男女身体を繋れたから心も繋って言いなりに惚れさせられているとか。

 違うと否定しつつ、事実は何一つ話さずに。
 潔白ならあった事全てを明かせる筈なのに。
 明言しないのは噂を全て認めているみたい。

「先輩、一体この人の家で何をしたんですか。何があったんですか。どうして肝心な処は
何も明かしてくれないんですか! あたし…」

 分らない。分りたくないです。今回だけは。

「先輩が間違ってます。先輩をたいせつに想う人達が、多く心痛めているのに。先輩を心
配し悩み苦しんでいるのに。先輩は禍の種に、問題起こした人の方に心注いで。絶対違
う」

 先輩は優しいけど、甘いけど、好きだけど。

「でも、想う順番が違う筈ですっ。先輩を拒んで扉を閉ざしたその人や、先輩を血塗れに
したそのご主人と付き合うより先に。大事にしなきゃいけない人が、間近にいるのに!」

 麗香さんが困惑していた。幼子が固まっていた。田舎の商店街も流石に多少人目はある。

「南さん、落ち着いて。まず深呼吸して…」

 抱き留めたかった。背に腕を回し、肌を合わせ悪い言葉を止めたかったけど。出来なか
ったのは、大声に怯え固まる幼子を支えていたから。今この肌触りを放しては危うかった。

 南さんは一度困惑する麗香さんを睨み付けてから、屈んだ侭のわたしを見下ろし。でも
わたしの言葉は肌身合わす程の効果を持てず。艶やかなミディアムの黒髪を揺らせ、瞳を
潤んだ雫に揺らせ、小さな胸を怒りに揺らせて。

「子供達も子供達だわ。あれ程の事をされた親に、何もなかった様に懐いて。先輩があな
た達に関った所為で、どれだけ酷い噂流されたか分る? それで先輩を想う人達がどれ程
心を痛めたか。鶏の様に少し前をすぐ忘れ」

「止めて南さん。お願い、怒りを和らげて」

 南さんを向かない様に、その怒気に触れぬ様に。わたしは2つの頬を胸に抱き寄せ、微
かに癒しの力を心に及ぼす。幼子に罪はない。南さんは抑えきれない憤りを、向けるべき
ではない者に向けている。でもこれは、南さんより麗香さん達を優先した姿に、映ったか
も。

「南さんのお話しは後で聞くわ。わたしが聞いて欲しいお話しもあるの。今少しその憤り
を抑えて。2人きりで想いを繋げましょう」

 幼子はわたしが抱き寄せている事で、辛うじて泣き出さず己を保っている。ここで抱擁
を放しては、怯えも涙も号泣も抑えられない。

 でも後回しされる事に南さんは不納得で。

「イヤ、今お話しして。ここでお話しして。
 今ここで先輩とこの人達の関りを全部明かして。何もかも隠さず、全部洗いざらい!」

 南さんは麗香さんとの関係に羨みを抱いていた。自身のではなく、別の誰かの苦味をわ
たしに分らせたく、分って欲しく望んでいた。自身の納得の為にあの夜の事実も知りたく
て。

 でもその求めには羽藤柚明は応えられない。

 強く見開かれた瞳の前で、わたしはゆっくり首を左右に振って。背後間近で麗香さんが、
周囲の視線を感じつつ、固唾を呑んでわたしの答を見守っている。守らねばならない人が。

 2つの黒目を下からじっと見上げて見つめ、

「青島麗香は、青島渚は、青島遙は、青島健吾は、難波南は、羽藤柚明のたいせつな人」

 それ以上、お話しする事は、ありません。

 青島家の家族4人を、貶め誤解させるかも知れない事は口にしない。それはわたしと青
島家の間の事柄で、他人に明かす事ではない。南さんは隠し事が不得意だ。たいせつな後
輩に秘密を持たせ、心に荷を負わせたくはない。

 麗香さん達は今、立ち直ろうとしている。
 一つ一つ幸せを、作り直そうとしている。
 終った事を蒸し返して苦しませたくない。

「たいせつな人を誤解の淵に落したくない」

 この事が人に知られれば必ず悪い噂になる。わたし達の繋いだ絆が逆に脅かされる。口
外すれば1人の誤解を解く前に、悪い噂が多数に広まって、たいせつな人を傷つけてしま
う。

 それはわたしの為ではなく、麗香さん達の為に口外しない。しない以上一言も漏らさな
い。わたしの意志で事実を胸に留め置く。他の人達の言動迄は、わたしには縛れないけど。

 背に腕を絡めたかった。首筋に胸を添わせたかった。頬に頬合わせ、耳朶に言葉を注ぎ、
肌触りと温もりで心を繋ぎたかった。そうすれば、想いを届けられたかも知れない。でも。

「今犯人捜しをして、誰が幸せになるの? その人を問い詰めて、笑顔が取り戻せる? 
難波南は羽藤柚明の意見を、常に察して賛成してくれているけど、今回はどうかしら?」

 今一番大切な事を、あなたは何だと思う?

 その答を難波南は知っている。知って尚得心行けず、首を横に振らせたのは己の不徳だ。
わたしを守りたく庇いたくて堪らない想いを。わたしを想う人の苦衷迄をも察する優しさ
を。わたしは受け止めきる事が叶わずに、決裂を。優しく強く賢い子故に、想いの熱さが
決裂を。


「夏の終り(後)」へ進む

「柚明前章・番外編」へ戻る

「アカイイト・柚明の章」へ戻る

トップに戻る