第10話 夏の終り(後)
「先輩の正解は分っています。誰の責任じゃなく、誰が犯人じゃなく。悪者探しじゃなく、
みんなが仲良く和解して終る事が、羽藤先輩の正解。誰も傷つかぬ様に、みんなが笑顔を
絶やさぬ様に。それが先輩の望みで願い…」
でも。難波南はわたしの正解を知って尚、
「今回だけは、納得できません! ……先輩は好きだけど、大好きだけど、でも今回は」
キライです。先輩を強く深く想う人に目を向けず、悩み苦しませた原因者を向く先輩は、
あたしの愛した先輩じゃない。不誠実です…。
「今の羽藤先輩は、だいっきらいですっ!」
「「うわああぁぁぁんっ!」」「渚、遙っ」
そこで南さんは漸く自身の暴走を悟るけど。
麗香さんや他の視線に気付くけど既に遅く。
幼子は間近な肌触りに縋り付いて泣き喚き。
麗香さんもわたしに取り縋る幼子に屈んで。
2人で幼子達の怯えを鎮める様を前に見て。
南さんは苦い後悔と罪悪感に居たたまれず。
その侭住宅街へ走り去る。わたしは怒気に泣き喚く幼子の肌身を放せずに。麗香さんと
共に幼子に安心を与えねばならず。麗香さんの困惑にも応えねばならず。暫くは動けない。
南さんの家の前に来た時に、驟雨がこの身と心を打ち付けたけど。きっと南さんはこれ
以上の心の雨を2階の自室で1人流している。それに寄り添う事も叶わずに。抱き留める
事も出来ないで。ごめんなさいと謝る事さえも。
心の乱れと受け付けてくれない像は視えたけど。夕刻前迄その窓の下に佇んでから帰り。
盛夏なのに、不思議と夏の終りを感じた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「王子様と村娘の結婚式の夜、人魚姫は人気のない式場の廊下の隅で、1人お月様を見上
げていました。村娘の実家がある浜辺の村に、姫が王子様を抱えて泳ぎ着いた浜辺の近く
に、豪勢な式場を作って午前中から始った式典も、それに続く宴会も、深夜に至って漸く
終り」
廊下の隅に立つとふるさとの海が間近です。穏やかな海、月明かりに照された浜、静か
に打ち寄せるさざ波と潮風。懐かしい磯の匂い。明日朝に泡と消える定めだけど、最後に
ふるさとの海を見て、姫は少し心が安らぎました。
昼の結婚式で、村娘は華やかなウェディングドレスを身に纏い、両親や村人に祝福され
て幸せそうでした。王子様を一生懸命介抱し、一途に想い続けてきた村娘。王子様に抱く
愛は本物です。王子様も可愛い村娘を心底大切に想い。今日は満面の笑顔を浮べていまし
た。
2人はみんなの歓声の中、腕を互いの背に回し、唇を繋ぎ合わせ、終生変らぬ愛を誓い。
人魚姫は最後迄独り見守り支える者でした。
せめて村娘との結婚を妨げて、破談に追い込めば、泡になる事だけは遠ざけられたけど。
2人の本物の愛を妨げる事が不可能な以上に。愛した王子様の爽やかな笑みを思い浮べる
と。
姫はそれを助ける以外出来なかったのです。
姫は王子様の幸せを心から喜びつつ、喜びの涙と共に絶望の涙を流します。人魚姫の望
みは潰えました。必死に嵐の海を王子様を抱え泳ぎ抜いた事も。尾ひれの代りに足を得て、
激痛に耐えてきた日々も。愛しい想いを告げられなかった悔しさ辛さも。誰に知られる事
もなく。一番知って欲しい人に知って貰えず。
もう姫は、泡と消えて行く他に術はない。
誰の心にも、大切な人の心にも残れずに。
姫が生きて愛した跡さえ遺す事も出来ず。
最初からそこに誰もいなかったかの様に。
振り返っても誰に想い返される事もなく。
一瞬、わたしは何に怯え震えたのだろう。
「人目を避けた廊下の隅で、月に照される故郷の海を、姫が1人物憂げに眺めていると」
ぴちゃ。水音が聞えてきます。数は5つ。
月明かりの照す静かな水面に、顔が現れ。
お姉さん達でした。でも、その姿は随分違っています。水面に顔を出したお姉さん達は、
みんな男の子の様に髪の毛が短かったのです。
『お久しぶりね……人魚姫、お聞きなさい』
一番上のお姉さんが、姫の足下に何かをぽいと投げてきました。月光に照されキラリと
光る、それは一振りの短刀です。拾った姫に、
『深海の魔女に、あなたの魔法を解く方法を教えて貰ったの。あなたが泡と消えてしまわ
ないで済む方法を。あなたが人魚に戻って再びわたし達と、仲良く愉しく暮らせる方法を。
もう王子様は結婚式を挙げたのでしょう? 終生変らぬ愛を誓ったのでしょう? あな
たの想いは報われないと定まったのでしょう? この侭ではあなたは明日の朝日を浴びて
泡と消えてしまうのでしょう? なら…』
お姉さん達は、人魚姫に掛けられた魔法を解く方法を教わる為に。美しく波打つ金髪を、
豊かに艶やかな長髪を、5人揃ってざっくり切って、深海の魔女に譲り渡してきたのです。
『お姉さん達、わたしの為に見事な御髪を』
お姉さん達の愛情が姫の心を打ちました。
陸の生き物に、なってしまった人魚姫を。
お父さんやお姉さん達との日々よりも王子様を望み欲して、飛び出して行った人魚姫を。
お姉さん達は、今も変らず愛してくれて。
身を犠牲にしてでも姫を守り助けようと。
『気にしないで。髪は切っても又生えるわ』
『あなたは、明日の朝日までに助けないと』
『わたし達の可愛い妹。絶対助けてあげる』
『その短刀を使えるのはあなただけ。わたし達は足がないから、尾ひれだから。陸の式場
の中に入って、魔法を解く事が叶わない…』
『あなたが、やるのよ。人魚姫、可愛い妹』
でもお姉さん達が語った中身は、為すべき事は、人魚姫に最も残酷な事でした。それは。
『その短刀で王子様の胸を貫いて。彼の息の根を止め、その血を浴びて、海に飛び込むの。
そうすれば海に飛び込んだ瞬間魔法は解けて、あなたは元の人魚に戻れるわ。あなたが泡
と消えてしまう前に、明日の朝日が昇る前に』
もうあなたを愛してくれはしない王子様。
もうあなたの愛を受ける事のない王子様。
あなたを海の泡にする結婚をした王子様。
『わたし達には、王子様よりあなたが大事』
『やるのよ』『頑張って』『勇気を出して』
両脇の柔らかな肌が緊張に固まっていた。
お姉さん達の愛情も、本物だと分るから。
誰かを踏み躙ってでも守り助けたく願う。
全ての想いに応えられない時もあるなら。
誰かの救いが、誰かの害になる事もある。
白花ちゃんも桂ちゃんも、どうして良いか、どうなるべきか、どうなるのか、分らなく
て。読み進むのも怖いけど読み進まないのも怖く。2人ともこの身を左右から柔らかな手
で掴みつつ、それでもお話しを止めないでと願って。
わたしは心持ち言葉をゆっくりと発して、
「式典に疲れた村娘は別室で早くお休みです。家来も女中も村人も、今宵は式典と宴会で
酔って疲れて大いびき。王子様も1人寝室で眠りについた今、起きているのは人魚姫だ
け」
夜の空は月が沈みかけていました。朝迄そう長くはありません。朝日に照されて海の泡
となった後、王子様は挨拶もなく跡形もなく消えた人魚姫をどう想うでしょうか。無礼に
怒っても良い、心に留めて貰えるでしょうか。
それとも女中の1人が唯突然いなくなっただけと、捨て置かれ忘れ去られるでしょうか。
憎まれもせず怒られもせず、心にも残れない。初めて姫を後悔と焦りが包みます。伝えた
い。せめて人魚姫の生きた証を王子様に刻みたい。
『王子様のハートに、わたしの想いを届かせる事が叶うのは、今宵だけ。朝迄の間だけ』
「お姉さんから渡された短刀を胸に忍ばせて、姫は王子様の眠る寝室に入り込みました
…」
幼子が寝静まった頃には、サクヤさんはご神木への出立後で。笑子おばあさんは夫婦水
入らずの促しも兼ねて早く就寝し。正樹さんと真弓さんが想いを交わし合う事は、わたし
の望みだけど。サクヤさんがたいせつな人と想いを交わし合う事も、わたしの願いだけど。
『わたしは、想いを届かせる事を選ばない』
わたしはこの先を知っている。人魚姫のお話しも、羽藤柚明の明日明後日も。人魚姫の
願いと同じく、わたしの願いはたいせつな人の日々の笑顔だ。わたし自身の充足ではない。
視える像が別離を示しても。取り縋れば尚暫く相手を留められると分っても。この手が
掴まない事が、たいせつな人との絆を見過ごし終らせ、その人に別の絆を繋ぐと視えても。
それがその人の真の想いで幸せなら。わたしは見守る者、見送る者、見届ける者を担おう。
オハシラ様が、月光に蒼い力を混ぜ込んで、夜の森を歩むサクヤさんを導いている。た
いせつな人と魂を触れ合わせる喜びに、いつもより大気の蒼が濃密だ。サクヤさんは笑子
おばあさんに出立を告げて、わたしの部屋の前でも立ち止まってくれたけど。わたしは幼
子への絵本の読み聞かせで、部屋を外していた。
心に留めて貰えた事は嬉しかったけど。玄関を出た後ろ姿は迷いなく進み行く。笑子お
ばあさんはその充足を願いつつ眠り。真弓さんと正樹さんは幼子の寝室に戻り。自室です
れ違ったわたしは1人、窓の月明かりを眺め。
サクヤさんは感応の力がなくてもオハシラ様の招きを信じて疑わず。月光の蒼の僅かな
強さを喜びと分って、焦りも惑いも抱かずに。
笑子おばあさんの時よりも尚愛しさが強く。
もうわたしの割り込みも無意味な程絆深く。
お互いに、時を越えて想いを絡ませ合って。
男女の仲でなかろうと、人であろうとなかろうと、二度と触れ合う事も出来なかろうと。
双方は双方を特別な唯1人と愛しみ合って。
双方は双方の特別な唯1人な事を喜び合い。
世の中は最愛に想い合う2人一組が基本で。
わたしは結局誰の特別な1人をも担えない。
わたしはやはり常に独り見守る者で居続け。
この身の最期迄己の想いを遂げる事もせず。
その心に特別な印象を刻みつける事もせず。
その他大勢として忘れ去られ行くのだろう。
数多くいる女中の1人で終る人魚姫の様に。
人魚姫が愛した王子様に一度でも、ナイフを向けた気持が、微かに分った様な気がした。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「こんにちは……。南さん、いるかしら?」
昼休み。給食を食べず速攻で2年生の教室に顔を覗かせたわたしに。可愛い女の子は微
かに震え、その表情はさっと青ざめ固まって。
他の2年生も、様々な噂や日々の諸々で羽藤柚明を知っている。わたしに近しい立場を
隠さなかった南さんの、近日のやや硬い応対も昨日のやり取りも、既に周知の事実らしい。
「給食が終ったら、旧校舎に来て欲しいの」
こう言う時こそ想いを交わし合わなければ。
こう言う時こそ年長者がリードしなければ。
南さんは既に昨日部活を無断で休んでいた。
お話しを望むなら確実な時間帯を狙うべき。
放置しても事は好転しない。わたしの所為でわたしの為に痛めた心なら、わたしが添っ
て癒さねば。患者が涙しても医師は執刀を止めはしない。この行いが招く末は見通せても、
わたしは可愛い妹を想う行いを止めはしない。
南さんは昨日悪い事をしたと分っている。
最近わたしを避けてきた事への罪悪感も。
それは放置しても決して軽減しないから。
一緒にその重さを拭い取ろうと誘い招く。
非難や説教や謝罪や償いは全て後の話し。
南さんは言えば分る優しく賢く強い子だ。
その想いを受け止める処から全ては始る。
でもこの時に、それが叶わなかったのは。
「羽藤先輩。俺の話しに付き合って欲しい」
突如身を割り込ませたのは北野君だった。
更に微妙な空気に周囲が再度静まり返る。
噂にもなった青島さん一家とのあの日以降、北野君とわたしの関りもやや微妙だったか
ら。わたしも北野君も互いに嫌ってはいないけど、むしろ抱く好意は増している位だけど。
でも。
わたしは南さんの反応を確かめる。南さんがわたしとのお話しを応諾するなら、北野君
の申し出は受けられない。でも彼の申し出は、南さんの話しを拒みたい意向を察し、南さ
んが拒む形にならない様に、助け船を意識して。
南さんは強ばった侭答を返せないでいる。
「頼む、先輩。俺の我が侭を、聞いてくれ」
それを北野君は敢て己の我が侭と。南さんに恩着せにならない様に、己の求めで話しを
望むと。その手が強くわたしの左手首を握り。わたしを強引に廊下へ旧校舎へと引っ張っ
て。
離れ行く南さんの瞳は震えて揺れていた。
「北野君……?」「俺、決めたんだ。今…」
北野君はわたしを力づくでは動かせないと分っている。敢て周囲にそう見せる事で彼は、
流れ出る噂の多くを自分に被る積りだ。その様に導くから、従って欲しいと伝わったから。
気配と声音と顔色でびりびり感じ取れたから。彼はわたしも南さんも大切に想っていたか
ら。
わたしは旧校舎で北野君との話しに臨む。
「まず、先輩には幾つか謝っておかないと」
旧校舎の人気のない空き教室で、北野君は決意を固めた表情で語り始めた。わたしに映
画を見ようと誘ってきた、半年前を想い出す。
北野君とは冬の日に、役場ホールで特別上映の映画を見て、未だ物珍しいハックでお昼
も一緒した。冬休み明け、男の子への怯えは拭えてなかったけど。誘ってくれた好意は嬉
しかったし。悪意のない男の子の誘いは受けて己に馴染ませるべきと、積極的に手を握り。
キスはしてないけど。一番にも二番にも出来ないと告げたけど。その上でたいせつな人
として心通わせ合えるなら幸いです、宜しくお願いしますと応え。人は恋仲と噂したけど、
女好きが男と交際と驚かれたけど。わたしは菊池先輩や小野君ともこんな風に接してきた。
北野君は女の子との色々な噂も全部承知で。北野文彦と羽藤柚明の絆を強くすれば良い
と。わたしの行いを責めず縛らず、今迄通りで良いと。そんなわたしを好んだと言ってく
れて。
そんな彼に、わたしが苦味を背負わせた。
『俺……今日の先輩の事は、話さないから』
わたしを守り庇う事を、小学校から望み続けてきた彼に。女の子との噂を纏わせたわた
しを嫌わず、尚求めてくれた彼に。屈強な健吾さんに戦い勝つわたしの姿は、驚天動地で。
男の子より強い女の子との恋人関係は、男の子が守り庇えない関係は、彼が呑み込めずに。
唯彼はそれ以降わたしを避ける様になって。お話しや登下校に誘っても、彼はごめんと
断って。断る度に心痛が視えるので、わたしもしつこい招きは控えたけれど。そんな様子
を、人は更に色々噂したけど、彼は殆ど反論せず。
沢尻君もそうだけど。これ迄戦う強さを明かさなかったわたしを気遣い、健吾さん達の
事実をわたしを想う故に秘してくれて。一度お話ししなければと思っていた。沢尻君とも。
「ごめん。俺、羽藤先輩が青島さんの旦那に戦って勝った話し、難波に話しちゃった…」
彼の話しが南さんに関る事とは類推できた。南さんに話しを望んだ時に割って入った事
で。南さんも関係者に事情を尋ねて回っていたし。彼は南さんの願いを受け、麗香さんに
拒まれたわたしの事を、佐々木さんや沢尻君に取り次ぐ事で関った。あの夜を知る1人で
もある。
わたしが口外せねば、関係者から真相に迫りたく想うのは人の性か。わたしは沢尻君や
北野君にさえ全ての事情は話してない。2人がそれで了解してくれたのは、奇特なのかも。
「他の奴には話してないけど。難波にも話が広まると先輩が残念に思うと釘刺したけど」
それ以外には広まってないと。次善の策は打ったからと、尚申し訳なさそうに語る彼に、
「気にしないで。それは約束でも何でもない。わたしがお願いした訳でもない話しだか
ら」
積極的に明かす積りはないけど、例え話しが漏れ出ても、わたしに誰も責める気はない。
護身の技を明かしてないのは、わたしの好みで必須ではない。女の子が戦いに強いと知
れても嬉しくないけど、特別害な訳でもない。贄の血の事情とは違う。だからわたしも秘
密を願わなかったし約束も求めなかった。心遣いは嬉しかったけど、罪悪感を抱く事はな
い。
「その気持だけで嬉しいわ。……有り難う」
一瞬ほっとした表情が、すぐ俯き加減に戻るのは、罪悪感や苦味の本丸が別にある為か。
両手で両手を握って持ち上げるけど、軽くそれを解かれる。嫌われたのではなく、わたし
にそうされる値がないと北野君は己を責めて。
「未だあるんだ。先輩に謝らなきゃならない事が。難波に、俺、難波に破らせちまった」
羽藤先輩の心の傷、難波にだけ話した心の傷を、難波に漏らさせた。約束を破らせる様
に話しを導いて。俺、それで難波を傷つけて、男が知っちゃいけない先輩の心の傷を知っ
て。
北野君の言葉にわたしも少し身が震えた。
それは冬休み町の可南子ちゃんの学校で。
わたしが男女拾四人に為された事を指す。
唇を繋げ肌を合わせる人には、先に告げない訳に行かないと。知らせず身を重ねる訳に
行かないと、打ち明けた中身を。己の穢れを。約束はしてなかったけど。自ら告げた以上
は、誰にも言わないで等と求めはしなかったけど。
「言い合いになって。あいつは先輩の事を知らなくて俺に訊いたのに、何でも分ると自慢
げだから。先輩の本当を知らないだろうと」
北野君は、南さんが知る羽藤柚明が全てではない、全て知った気でいるなと言った様だ。
でも、わたしと幾度か夜を共にした南さんは、それを逆に何も知らぬ者の知ったかぶりだ
と。
『あなたこそ、ゆめい先輩を何一つ知らない癖に。学校や日中のデートもどきでみんなに
見せている顔なんて、先輩の全部じゃないの。その言葉はあたしがあんたに言うべき事
よ』
南さんは北野君に優位を示したい余り、羽藤柚明をより深く識っていると示したい余り。
わたしが打ち明けた冬休みの一件を彼に語り。心身の深い傷も打ち明けられる程緊密な絆
なのだと、強く繋って深く識った関りなのだと。
唇を8人に回され、唾液を喉に流し込まれ、全裸の姿を晒されて。股も無理矢理開かさ
れ、両の乳房に吸い付かれ、殴られ蹴られ身を揉まれ。男女多数の欲情と憎悪に嬲られ穢
され。
その全てを、男の子に知られた。わたしをずっと慕い好んでくれた北野君に、知られた。
自ら明かした人には覚悟も固められたけど。
我知らず微かに震え、己の胸を両手で抱く。
『彼が最近わたしをやや避けていたのは…』
北野君の心中に蠢く絵図が視える。抑えた欲求を刺激する様に想像図が鮮明に動き出す。
それはわたしが北野君と交わる像に重なって。彼に悪意はないと分るけど。正常な年頃の
子は異性にそれを思い描く物なのだと分るけど。彼が思い描く像を止められないのは、真
弓さんと正樹さんの営みを思い返すわたしに同じ。
「羽藤、先輩……?」「大丈夫、大丈夫よ」
動悸を抑え、平常心を保つ。彼は悪意な人ではない。わたしを慕ってくれた人だ。彼の
真ではあっても全部ではなく、わたしに伝える気もない衝動に、己を乱されてはいけない。
触れて視える物だけに真実が宿る訳ではない。
苦味も怯えられる事も承知で告白した彼に、わたしは確かな視線を返さねば。あなたを
嫌っていないよと。知った事は彼の罪ではない。彼は聞き出したくて、南さんを騙して嵌
めた訳でもない。成り行きで知ってしまっただけ。この身の穢れを彼に嫌われるのは当然
として。
「もう一つのごめんは、羽藤先輩が受けた深い傷を、聞き出す事になっちゃった結果に」
『難波。それ、俺になんか言って良い事なのか? お前を深く信じて話してくれたのに』
南さんは北野君に羨みを抱いていた。わたしと恋し愛し合える男の子が、わたしに関る
事に競合と危惧を感じ。突き放そうと、優位を示そうと、振り払おうと、普通男の子が嫌
う事を告げ。それが何を意味するか、南さんは喋り終えてから悟って青ざめ。彼女が最近
わたしを避けていたのは、罪悪感の故でも…。
そして北野君が最近わたしをやや避けていたのは、嫌った故ではなく。この発覚がわた
しを傷つけると怖れて。わたしへの心遣いで。優しさの故にどう向き合って良いか分らな
く。
「俺は誰かにそれを喋る積りはないし、難波にも二度と喋るなと釘は刺したけど。難波だ
けに罪を犯させるのは可哀相だ。あいこにする為に俺も難波に伝えたんだ。羽藤先輩が青
島さんの奥さんを守る為に、あの夜旦那を打ち倒した事を。半端じゃなく強いって事を」
せめてそうせねば、釣り合いが取れないと。1人南さんを約束破りに放り出す事が出来
ず。わたしに哀しまれ嫌われるなら、怒りや不興を買うのなら。1人ではなく彼も付き合
うと。
「先輩が気分を害するなら俺の所為だ。難波の所為じゃない。だから、嫌うなら俺だけに。
責めは全部俺に向けてくれ。あいつは本当に先輩が好きで、見ていて羨ましい程正直で」
最初は刺々しい言い方がアタマに来たけど、嫉妬も独占欲も恥じらう様も可愛く。女同
士でも良いと俯く様が切なく。無理だと分って、男じゃない先輩が応えきれない時が来る
と分って。先輩が応える限り絶対離れない。初恋だって。守ってくれた優しく柔らかい人
だと。
強い想いが北野君の言葉を通し感じ取れる。
北野君が抱く南さんへの淡い好意迄込みで。
「恋愛は男女の物だと思うけど、俺、難波は捨てておけなくて。一度『見込みがない恋も
どきは止めろ』と言って泣かせて。謝って許されてから、恋敵、兼、相談相手みたいな」
あいつの涙見た時、心臓を締め付けられた。
女の子の涙って、綺麗で切ない物なんだな。
「難波の涙は見たくない。最後にどうなれば良いのか俺も分らないけど、難波を哀しませ
ないでくれ。その、そう言う間柄でも、俺は先輩と難波なら……。難波の所為で先輩が困
ったり哀しんだら、責めは俺が受ける。俺が何とかする。俺の所為で良い。難波と俺が口
を噤めば先輩の傷は知られない。唯俺は…」
知っちゃいけない事まで、知っちゃった。
「先輩が俺程度に守れる人じゃないと呑み込めた。女が次々惚れ込む訳が分った。そこ迄
身を挺して守られたら、男女構わず惚れるよ。綺麗で優しい以上に。平田詩織の時から先
輩は男にも女にも本当に全身全霊で。俺や他の奴が1番の人に注ぐ想いより、先輩が3番
以下その他大勢に注ぐ想いの方が、熱く深い」
想いを抱き続ければ、振り向いてくれる日も来ると想っていた。女の子が越えられぬ壁
に直面した時、助け支えその心を掴めればと。冬休み明け、誰も気付かなかったけど、微
かに先輩が硬く見えた。無事を取り繕っていたけど、取り繕わなきゃならない何かを感じ
て。
「小学校の頃、平田を庇ってみんなに陰口言われ、それを耳にした翌週月曜朝の羽藤先輩
の硬さを想い出した。あの時は先輩がみんなに頭下げて、関係結び直したけど。今回は」
俺が支えられる。助けられる。役に立てる。先輩は平田の時と違ってそれを、何日経っ
ても取り戻せた様子がなくて。一見普通な様子だったけど、ずっと僅かな硬さが抜けなく
て。
「役に立てた気がした。映画見てハック行って一緒に登下校して。先輩愉しそうに笑って、
料理や書道や機織りの話しして。俺のノックやバント練習や球拾いの話しも聞いてくれて。
時間を忘れたよ。周囲の視線や噂に構わず手を握り。背に腕を回して身を重ねてもくれて、
ほっぺた合わせてくれて、柔らかく暖かく」
あの頃わたしは閉ざし掛る心を開き続けようと必死で、己に根ざす怯えを克服しようと
必死で。暫く人に向き合う事、男の子に向き合う事に怯えつつ、必死に受け容れようと…。
そんなわたしを、彼は優しく支えてくれた。
わたしの立ち直りは北野君のお陰でもある。
「難波から初めて先輩の心の深手を報されて。言葉を失った。そんな酷い傷、俺に、男に
癒せる筈がない。そこ迄強い先輩をへこます何かだもんな。知っていたら、俺が竦んでい
た。
でも羽藤先輩はその上で、その華奢な身で、俺が竦んで動けなかった青島さんの旦那に
立ち向って戦い勝った。従妹を守る為に男女拾数人のレイプも耐え……絶対越えられな
い」
何一つ及ばない。女の子の優しさも男の子の強さも、全部備えて越えている。届かない。
これじゃ俺がどんなに頑張っても守れないっ。
「俺はあの夜、青島さんの闘志に怯えて身動き出来なかった。ヒロ先輩の様に前に立ち塞
がる勇気も持てなかった。恋した女の子が目の前で危なかったのに。俺は、北野文彦は」
羽藤柚明の恋人には、全然不釣り合いだ。
その告白こそが、彼の本当の苦味だった。
「北野君、わたしは……」「先輩は一番と二番の人がいるんだろう。俺に注いでくれた想
いは嬉しかったけど、それはもう良いから」
俺は俺の手の届かない人を恋人に望まない。
守れない相手を守るだなんて嘘は言えない。
俺は好いた人の足手纏いになって迄関係を引きずり続ける事は好まない。格好悪いしさ。
「羽藤先輩は眩しすぎる。今でも好きだけど、今迄よりもっと好きだけど。今の俺が望め
る相手じゃない。今回のお付き合いはここ迄だ。羽藤さん、色々付き合ってくれてありが
と」
北野君は自分が振った形で、わたしに責を負わせずにこの関係を終らせようと。一旦終
らせて己に決着を付けないと、この侭続けても苦味が増すだけだと。わたしが夕維さんや
利香さんとの関りを終らせる事を選んだ様に。結果わたしは夕維さんとお友達の関係を残
せ、利香さんと絶縁された。北野君もその様に…。
「正解……それが北野文彦の真の想いなら」
わたしは心を定めた男の子に、一歩踏み出しその手を再び両手で握って、胸に持ち上げ。
少し背の高いスポーツ刈りの黒髪が爽やかだ。
「わたしは、変らない。北野文彦は羽藤柚明のたいせつな人。賢く強く優しい後輩。羽様
に転入したわたしを迎えてくれた大事な仲間。一番の想いを返せなかったからこそ。許し
てくれる限り、寄せてくれる想いに叶う限りの答を返したい。今迄も、今も、これから
も」
間近で見つめた黒い双眸は清く輝いていて。
肌に感じる想いは愛しさと切なさに満ちて。
ずっとわたしを、想い続けてくれた男の子。
わたしの大切な後輩。賢く強く優しいひと。
「望んで貰えた事は嬉しかった。男の子に見初めて貰える事は、女の子の幸せだから…」
男の子に抱いた怯えを拭えたのは、あなたと沢尻君のお陰。その優しさと強さのお陰よ。
その左頬に左頬をピタと合わせる。緊張は伝わってきたけど。心の奥底に秘めた欲求も
視えたけど。わたしはそれを込みで彼を想う。欲求も抱きつつもわたしを慕い案じた北野
文彦を大切に想う。一番の想いは返せないけど。わたしは人と触れ合う事が好き。大切な
人であるなら尚の事。感触は己の肌身に刻みたい。
「望めるなら、今後もたいせつな人として」
肌触りと温もりで肌身に受容を感じた時。
可愛い後輩が憤怒と共に入り込んできた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「……ゆ……羽藤先輩、どうしてですか?」
どうして北野君を振ってしまうんですか。
南さんの心は千々に乱れていた。抑えられない憤怒は、誰にどう向けて良いか分らなく、
「先輩を血塗れに傷つけた青島さんとは仲を戻したのに。どうして先輩をたいせつに想い
心傷めてきた文彦君を、拒んじゃうのっ!」
南さんは会話を戸口で聞いていた。盗み聞きになると承知で気になって堪らずに。わた
しと北野君のどっちがどうなっても、南さんは心平静ではいられなかった。なぜならば…。
「そこ迄優しい言葉掛けて、ほっぺた合わせて想い交わして、どうして恋人にならないん
ですか! どうして一番にしてあげないの」
どう見ても2人お似合いなのに。強く優しい文彦君と、綺麗で柔らかな羽藤先輩は、こ
れ以上ない好一対なのに。どうしてダメなの。
「文彦君もどうしてそんなにお人好しに退いてしまうの。好きなら強引に掴み取れば良い。
先輩を抱いて唇奪えば良い。男の子なんでしょ! 幾ら強くても相手は女なのよ。事実を
先に作ってから、心を追いつかせれば良い」
小柄な南さんは歩み寄って来て、間近で睨む視線で見上げてきて。そう言えば、昨秋の
わたしとの関りも、南さんが座り込んだわたしの唇へ突進してきて、頬に外した後強引に。
北野君はその剣幕に逆に冷静さを取り戻し。
わたしも頬を合わせた姿勢をすっと外して。
「難波……お前、立ち聞きしていたのか?」
「うぅっ、そ、それは。気になったのよ…」
元々ここは、あたしと羽藤先輩のお話の場だったの。あんたが割り込みの立場でしょう。
そこで南さんは突っ込み予防の逆攻勢に、
「先輩が……羽藤先輩がいけないんですっ!
文彦君は先輩をずっと想い続けていたのに。
優しく広く強い心で見守り続けていたのに。
青島さんの一件も、あたしが話し持ち込んだ所為で関って、揉め事に巻き込まれ。その
後も酷い噂流され心傷めて。でも耐えて堪えて碌に反論もせず。先輩の為です。先輩があ
の一家を庇うから、文彦君もそれを守って」
なのに先輩は北野君との関りを遠ざけて。
あの一家とは再び仲良くお付き合い始め。
先輩を本当に想ってくれる人を放置して。
大事に扱う順番が違います。想う順番が!
「難波、それは違う。羽藤先輩が遠ざかったんじゃない。俺が、俺から避けていたんだ」
あんたは黙っていて! 南さんの雷鳴は、
「あたしは今、羽藤先輩に訊いているのっ。
なぜ文彦君に追い縋って求めないのかを」
未だ冷静な北野君を黙らせる。わたしは視線を一瞬だけ彼に向け、大丈夫と、南さんの
想いを全部吐き出させましょうと、目配せを。
「これ程強く優しく心の広い人におざなりで、カモケン先輩や、佐々木先輩の彼氏の沢尻
先輩に、他の男にフラフラ動く羽藤先輩は不誠実です。絶対、納得できません。あたし
…」
文彦君が小学校の頃から、先輩をずっと仰ぎ見てきたと聞かされて。女の子との噂が例
え全部事実でも、自分との絆が確かならそれで良いと言い切る姿見て。先輩の顔形に寄っ
てきたバカ男だと想っていたら、全然違って。
「あたしより絶対お似合い。あたしは文彦君に先輩取られたと妬んで、芹澤君に更に奪わ
れたと冷笑していたのに。文彦君は芹澤君を心底想って忠告していて、羽藤先輩もそれを
分っていて。新入生を想う気持は繋っていて。
あたしだけがありもしない嫉妬を、自分の嫉妬を鏡映しに見て踊っていた。そんなあた
しの嫌味も受け流して恨まずに、あたしの頼みを、悩みを、羽藤先輩の青島さんの奥さん
との件を相談したら、文彦君は快く受けてくれて、沢尻先輩達にもお話し通してくれて」
あの日以降疎遠になっても、ずっと先輩の不満一つ言わず、酷い噂にも短く否定する他
は反論もなくて。先輩は冬休み酷い事されているから、今回も何があったか心配で心配で。
文彦君はそんなあたしの不安も鎮めてくれて。あたしが嫌って苛立って幾つ意地悪言って
も、肩を竦めて受け流し困った時は助けてくれて。
先輩が冬休みに為された酷い事を知って尚、先輩への想いに揺るぎもなく。逆に聞いて
しまって先輩に申し訳ないと。更に漏らしたあたしが拙いだろうと気遣ってくれて。震え
出すあたしの手を暖かく握って、大丈夫だって。
「聞いた俺が悪いって。謝るのも責めを受けるのも全部任せろって。先輩の戦う強さを教
えてくれて。これで共犯と笑ってくれて…」
分らない。分りたくないです。今回だけは。
「先輩が間違ってます。先輩を一番たいせつに想う人が、心痛めているのに。先輩を心配
して悩み苦しんでいるのに。先輩はそれに向き合わず、むしろ心離れて……。絶対違う」
先輩は優しいけど、甘いけど、好きだけど。
「でも、想う順番が違う筈ですっ。先輩を拒んで扉を閉ざしたあの人や、先輩を血塗れに
したそのご主人と付き合うより先に。大事にしなきゃいけない人が、間近にいるのに!」
南さんの涙が溢れて、瞳が閉じた瞬間に、
「あっ……!」「ごめんなさい、南さん…」
わたしが不誠実だった。それはその通り。
北野君の前だったけど、今度こそしくじらない。背に腕を回し正面から抱き留め、肌を
合わせて想いを繋ぐ。艶やかなミディアムの黒髪に頬を寄せ、熱を帯びた頬を首筋に迎え。
逃がさない様に、肉感を感じ合う程強く締め。小さな胸がドキドキ動くのを肌身に感じ取
る。
「あなたのたいせつな文彦君に、想いを返せなくて、本当にごめんなさい」「先輩…?」
「そして北野君のたいせつな南さんに、想いを返せなくて、本当にごめんなさい」「!」
わたしは南さんを抱き留めてその耳朶に、
「難波南は、北野文彦は、羽藤柚明のたいせつな人。愛しい人。でも、わたしは幾ら熱く
想って貰えても、たいせつな人の順番は変えられない。これ程深く絆を結んで貰えたのに、
ここ迄寛容に強く優しく受け容れて貰えたのに……わたしはそれに等しい想いを返せない。
一番ですという想いを返す事が叶わないの」
この身が女の子で南さんの想いに応え切れない以上に、わたしは2人とも一番にも二番
にも想う事が叶わない。絶対届かないと分って尚、わたしは想い続けたい人が別にいるの。
今こそ、サクヤさんの言葉が身に染みた。
『ごめんよ。あたしには絶対代えの利かない、掛け替えのない人がいてね、あんたを一番
にしてあげる事は出来ないんだ。柚明があたしを一番と言ってくれるのは嬉しいけど、そ
れにあたしは、同じ想いで応える事が出来ない。
柚明を特別にたいせつだと思う、あたしの気持は本物だよ。それでも、一番だって想い
に一番の想いで応えてあげられないってのは、我ながら薄情だと思う。ごめん、柚明…
…』
わたしが得られないのは因果応報なのか。
羽藤柚明は、終生独り見守る者なのかも。
でもわたしは得られないと分った想いを。
最早掴む事は望まない。唯想い続けたい。
この身の果て迄想い続ける事を許してと。
わたしは南さんにも北野君にも等しい想いを返せない。深く心寄せて貰えても、心底愛
しく想っても。更にたいせつな人を抱く故に。
『いっぱい教えて貰っちゃって良いですか』
『ゆめい先輩、よろしくお願いしますっ!』
『賛成です。南はいつも、ゆめい先輩に…』
『先輩がいなくなったら、あたしも……!』
小さく柔らかに、暖かで元気な可愛い子。
溌剌に闊達で、喜怒哀楽豊かな優しい子。
『あたしの最初のくちびる、おいしいよっ』
『怖かった……ありがとう、守ってくれて』
『ゆめい先輩なら、あたしを食べても良い』
『あたしが、渡したい人に渡せましたっ!』
わたしこそ人でなしの非難が至当な者だ。
たいせつな人をどれ程傷つけている事か。
でも、それでも尚わたしは己の真実を応えねばならなかった。強く深い愛を注がれて尚、
わたしは一番も二番も変更を効かせられない。どれ程深く愛し応えたく願ってもそれだけ
は。
真実は、時に人を傷つける。でも、真実を貫かないと、もっと多くの人を嘘で傷つける。
「北野君も、南さんも、一番には想えない」
最初から、終りの見えた関係だったけど。
哀しませるだけの終りになると承知して。
南さんの涙を導いたのは、わたしだった。
その申し訳なさも愛しさも、全て注いで、
「分ってとは求めない。許してとも望まない。
唯、心からごめんなさい。たいせつな人」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
背に回った細い両腕の締め付けが強くなる。
制服の胸元に滲む涙が嗚咽を漏らし続けて。
肌身に伝わる愛しさ切なさは限りないけど。
叶う限りの想いはわたしも渾身で返すけど。
それを感じれば感じる程に、わたしが言葉通り想いを注げば注ぐ程に、南さんにも北野
君にもその限界を噛みしめさせる。わたしは何と罪深い者か。或いは愛その物が罪なのか。
南さんの壁が崩れゆくのを肌で感じ取れた。
胸を潰し合い首を絡め合う感触に心砕けて。
北野君は視線のやり場に困っているけど…。
「ダメだよ。これじゃ諦めきれないよ。ゆめい先輩も文彦君も結ばれなかったら、あたし
どっちも諦めを付けられない。あたし独占欲強いから、嫉妬するから。欲しくなるの。確
定しないと、誰かの物にならないと、希望が見えて心揺らされる。不誠実はあたしなの」
文彦君が誰かに笑いかける姿が不安なの。
ゆめい先輩が誰かの恋人になるのが怖い。
どっちも固く結ばれず、商店の店先に並んでいるの。あたしは2つとも買うお金はない
けど両方欲しくて、両方誰にも渡したくなくて、誰かが近づくと気になって気になって!
「文彦君にもゆめい先輩にも、あたしの醜い所一杯見られた。可愛くない難波南を沢山見
られた。なのに2人ともどこ迄も受け容れてくれて、心から優しくて、本当にいい人で」
南さんのもう一つの罪悪感も感じていた。
わたしと深く絆を結び、夜も共にして肌を合わせ、身も重ねた南さんだから。わたしへ
の裏切りになると、嫌われると怖れ、わたしにだけは真の想いを悩みを、打ち明けられず。
わたしと北野君との関りは、巧く行っても巧く行かなくても、見ていられないと避け続け。
「北野君が好き。ゆめい先輩が好き。どっちも大好き。2人が結ばれてくれれば諦め付い
たのに。北野君はゆめい先輩に、心から恋していたから。強く優しく想い続けていたから。
届いて欲しいと思いつつ届いて欲しくなくて。ゆめい先輩を男に取られるのもやっぱり嫌
で。独りになるのは怖いけど、人の失敗や不幸を願うのも後ろめたくて、自分が嫌になっ
て」
ゆめい先輩にも文彦君にも向き合えなく。
心痛く苦しくて。どうして良いか分らず。
北野君もこの詞と抱擁に困惑して佇む中。
「南さんはどうしたいと、望んでいるの?」
潤んで揺れる瞳を間近に覗き込んで問う。
「あなたはわたしへの想いは告げてくれたわ。
でももう一つの想いは未だ彼に告げてない。
彼の答、彼の気持、貰ってないでしょ?」
わたしは男の子を好いた南さんに返す答も変らない。絆を結んだ昨秋の夜の言葉を再び、
「あなたの微笑みに尽くしたい。あなたの幸せと守りに役立ちたい。愛させて。身と心を
尽くす事を許して。あなたの未来を縛る積りは微塵もない。他に好きな人が出来た時は自
由に飛び立って構わない。あなたの望みはわたしの望み、あなたの喜びはわたしの喜び」
全力で応援するわ。叶う限り助け支える。
後ろめたさが吹き飛ぶ位に、想いを注ぐ。
「難波南はいつ迄も、わたしのたいせつな人。元気に微笑んで欲しいたいせつな後輩。わ
たしの想いは潰えない。消えはしない。例え学校や職場や生きる処が違っても、あなたが
誰と結ばれても。どんな事の末にも変らずに」
心の限り尽くさせて、守らせて、愛させて。
たいせつな人の微笑みが、わたしの願いよ。
北野君は言葉を挟めず、女の子同士の抱擁を見守っている。その視線も承知でわたしは、
「あなたが恋した男の子は、女の子と深く繋った羽藤柚明を嫌わなかった。お互いの紡ぐ
絆が確かなら、揺れる事ない素晴らしい人よ。後はあなたと彼の想い次第。難波南の真の
想いを、あなたの意思と言葉とタイミングで」
少し立ち入りすぎたかも。恋は周囲が促したり阻んだりする物ではない。場を整えたり
状況を用意する位はしても。3人の場で告白させる積りもない。お邪魔虫は立ち退きます。
再度背に回した腕を締め直し、体を密着させて頬を合わせて。わたしはどの様な事の末
にも、あなたを想い続けますと肌身に伝えて。
2人にする為に歩み去ろうとした時だった。
北野君が目の前に立ち塞がって。そうそう。
「北野君の大切な南さんを、結局涙させてしまった。本当にごめんなさい」「先輩っ!」
頭を下げた時だった。彼の太い両腕がこの両肩を抑える様に伸びてきて。一気に抱き締
め押し倒す体勢に。彼の意図が確かに視えて。
わたしより背の高い男の子を。体重は確実にわたしより3割多い筋肉質の彼を。掴み掛
る右腕を左手で弾き、左手首を右手に掴んで足払いし。空き教室の床に転がし終えていた。
「先輩、一体これ……文彦君、大丈夫…?」
わたしに掴み掛る迄は見えた南さんが、床に転がって呻き声を上げる北野君に添うのに、
「見たか難波。これが羽藤先輩だ。いてっ」
今の、まだ加減してくれてたんだぞ。南さんに添われつつ、彼は身を起こして床に座し、
「本当はこんなもんじゃない。俺に本当の害意がないと分って、難波に見せる為に仕掛け
たって見抜いて、転がすだけに留めてくれた。本当はその気になれば、捻る動きでこの腕
折る事も、床に首叩き付ける事も出来るんだよ。羽藤先輩は女の子だけど、綺麗だけど、
俺程度で強引に掴み取れる相手じゃないんだ…」
南さんが唖然とした顔でわたしを見ている。
北野君に聞かされてはいても、何度も肌身合わせた仲だけに、逆に信じられぬと驚愕し。
失った言葉を繋げられない南さんに向けて、
「結構情けないだろう。俺、これだけ部活で鍛えても、華奢に柔らかな羽藤先輩を、守る
のに全然力不足でさ。到底恋人の用を為さないんだ。でも……こんな俺で良かったら…」
『見込みのある恋人ごっご』から始めないか。
北野君は最後にお返ししてくれた。わたしが明かす事を望まない護身の技を南さんの前
で披露させ、わたしの前で南さんに告白し答を受ける。己の退路を断つ意図も視えたので。
自ら告白する事で南さんの罪悪感を避ける意図も視えたので。これ以上事を引きずらない
という、わたしへの好意も決意も視えたので。
「賛成……難波南は、北野文彦に賛成です」
彼の背に添う南さんもそれに同意なので。
わたしは北野君に自ら唇を繋ぐ南さんを。
数歩の間合いから唇離す迄見守り続けて。
2人は今特別にたいせつなお互いを得た。
南さんと文彦君は今最愛の関係を繋いで。
人魚姫は最後迄独り見守り続ける者だった。
せめて村娘との結婚を妨げて、破談に追い込めば、泡になる事だけは遠ざけられたけど。
2人の本物の愛を妨げる事が不可能な以上に。愛した王子様の爽やかな笑みを思い浮べる
と。
姫はそれを助ける以外に術を持たなかった。
視える像が別離を示しても。取り縋れば尚暫く相手を留められると分っても。この手が
掴まない事が、たいせつな人との絆を見過ごし終らせ、その人に別の絆を繋ぐと視えても
それがその人の真の想いで幸せなら。わたしは見守る者、見送る者、見届ける者を担おう。
患者が涙しても医師は執刀を止めはしない。己の行いが招く末は見通せても、わたしは
可愛い妹を想う行いを止めはしない。南さんと文彦君はわたしを機縁に心通わせ合ってい
た。
いつか離れねばならぬ女の子同士の絆なら。
一番にも二番にも想えないわたしの他にも。
本当に魂も交わり合える関係を結べるなら。
導くのは年長者の役目だ。たいせつな人を想うのは当然の行いだ。わたしの望みはたい
せつな人の幸せだ。わたしとの幸せではない。その上で尚、わたしは2人をたいせつに想
い続ける。2人の親愛には今後も変らず親愛を返し続ける。この身の尽きる時迄も。でも
…。
世の中は2人一組がやはり基本形なのか。
わたしはここでも見守り支える役を担う。
わたしは泡と消え去るのが定めなのかも。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「柚明、あんたに気を遣わせていた様だね」
真沙美さんに賢也君が告白したのはその日の放課後らしい。翌朝、経観塚銀座通を一緒
に学校へ歩むわたしに、真沙美さんは賢也君の告白を受諾し、オハシラ様のお祭りを二人
きりで回ろうとのデートの誘いに応諾したと。佐々木さんや絵理さんも間近を歩む中だけ
ど。
「鴨ちゃん、それイエス言っちゃったの?」
和泉さんの驚きの問に、真沙美さんは隠す事もせず頷いて。どうせ2人一緒に祭りを歩
けば事は知れ渡る。それにわたしに纏わる冤罪目的の噂は、早く解消しておきたいと言い。
「確かに、そうだけど。でも、その答はっ」
「何も婚約した訳じゃない。彼氏彼女の関係になった位で、和泉は意外と純愛指向だね」
いつも元気な和泉さんが頬を染め言葉に詰まると、真沙美さんはわたしに視線を向けて、
「正面から告白されたら、今付き合っている男もいないし、賢也も悪い奴じゃない。断る
理由がない。賢也の想いも本物だったから」
慕われているのは分っていた。後は賢也に恋人へ踏み出す気があるかどうかだけだった。
柔らかにカールさせた長い黒髪を揺らせ、
「男の中では一番にしてやっても良い。それだけの話しだよ。何をするもしないもお互い
の合意が大事のは今後も同じ。私やあんたと、柚明の間柄の様にね」「か、鴨ちゃんっ
…」
絵理さんや芹澤君の視線や聞き耳を感じて、頬を染める和泉さんに、真沙美さんは静か
に、
「出来るだけ、羽様や経観塚に絆を繋いでおきたいんだ。私は来年の春には都市部にいる。
柚明や和泉のいる羽様からも、賢也のいる経観塚からも、遙かに遠く隔たって住む事に」
2年前賢也が和泉と柚明を傷つけていたら、私は終生賢也を許せなかった。幾ら情の面
で忍びなくても、友にも受け容れられなかった。でも柚明のお陰でみんな大きな傷もなく
済み、2人が賢也も含め鴨川を許し受け容れてくれたお陰で、私も賢也も今がある。柚明
や和泉と関係を戻せた賢也だから、私も受け容れた。私達の絆を受容した賢也だから、受
容できる。
「賢也からも、和泉や柚明に繋っていたい」
羽様だけじゃなく、経観塚の中学校や商店街やその他にも出来るだけ多くの繋りを残し
たい。爪痕を残したい。そうする事が、和泉や柚明と一緒に過ごした日々と強く繋る事に。
「私のたいせつな人の順位は、変らないよ」
女の子のわたしを一番に置き、和泉さんを二番に置き、男の子の一番である賢也君を3
番に。意味が呑み込めて脱力する和泉さんに、
「あんたのその一途さも、羨ましいけどね」
何のかんの言って、決定的な言質はない。
喜怒哀楽は見せても秘匿すべき事は守り。
揺るぎなく確かな、特別にたいせつな人。
2人と共に過ごせる幸せを噛みしめつつ、
「もう、あと拾ヶ月切っちゃったものね…」
改めて、月日の着実な進み具合を感じる。
羽様小のみんなが揃うのも、あと僅かだ。
高校に行く段では多くの人の進路が分れる。
みんな一緒ではなく各々の人生に歩き出す。
それはお互いの為に必須な固有の途だから。
それぞれ前途を励まし合うのは当然として。
「残された日々は目一杯大切に味わおうね」
和泉さんの言葉に、佐々木さんも頷いて。
ここ暫くの平穏は彼女もわたしも望む物。
芹澤君や絵理さんの瞳も見つめ返しつつ。
「とりあえずは、オハシラ様のお祭りよね」
羽様小出身者5人で仲良く夜店に繰り出す例年行事も、今回が最後になるかも知れない。
暑さの中で、奇妙に夏の終りを予覚した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夏休み迄の日々は、瞬く間に過ぎ去った。
翌日南さんを伴って、商店街で偶然を装って麗香さんと遭遇し、衆目の中で頭を下げて。
麗香さんが謝罪を受け容れてくれて良かった。麗香さんに関る噂が幾分でも拭えて良かっ
た。
週末は麗香さん宅に泊りに行って。経観塚で起きた窃盗事件の為に、健吾さんが急な夜
勤に出て、麗香さんと幼子2人と夜を過ごし。渚ちゃんと遙ちゃんが寝付いた後は2人き
り、色々な意味で危うくドキドキさせられました。
その翌週末は、歌織さんと早苗さん宅へお泊りに。続けて週末羽様を空ける事に、白花
ちゃんと桂ちゃんは猛反対だったけど。瞳を見つめ頬を合わせ唇奪われて、何とか納得頂
いて。サクヤさんがあやしてくれて助かった。
文彦君の告白を受諾しても、南さんは相変らずわたしに近しくて。周囲の噂は文彦君が
わたしを捨てて南さんに乗り換えた、だけど。それは事実だったけど。3人が互いに親し
い侭なので、噂を流す人達も妄想が繋げなさそうで。傷心を慰めようと、様子見も兼ねて
来てくれた弘子さんも志保さんも拍子抜けして。
堪った悩みを出し切って、南さんも漸く心落ち着いたので。詳細は伏せつつ、手芸部の
みんなの前にわたしが招いて、仲直りを願う。
「個人的な事情で悩んでいた様なの。それは話す訳に行かないけど、それに直接関係のな
い手芸部のみんなに不安を与えたのは、南さんの咎よ。そっちの事情も一段落付いた様な
ので、みんなに謝って仲直りしたいと言うから、聞いて欲しいの。わたしからのお願い」
家庭科準備室に集合した二拾五人を前に。
わたしは短く経過を述べてから頭を下げ。
南さんを中央に招き一歩下がって見守る。
「みんな……ごめんなさい。あたしっ……」
辿々しい言葉で、部員全員に謝る南さんを、みんなはもう一度受け容れてくれる事にな
り。
そこで陽菜さんからの提案は、手芸部で夜店を歩こうと。わたしは初日は羽様で祭祀で、
その後桂ちゃん白花ちゃんと家族連れで、夕刻から旧羽様小の面々で回る。翌日も午前中
は芹澤君達1年生の男の子と、夕刻からは早苗さんや歌織さんとの予定があり。そんなわ
たしの日程を絵理さんが半ば承知して、二日目の午後どうかと、わたしに合わせた提案を。
「「ゆめい先輩と一緒にお祭り歩きたい」」
1年生拾四人のほぼ同時の合唱に、2年生が同時に揃って『賛成です!』と合唱で返し。
景子さんも梢子さんも南さんも一瞬目が丸く。
「まあ……」「そう言うのも、良いかもね」
副部長部長の承諾に歓喜の声が満ち溢れ。
柔らかく暖かな肌がこの身に打ち寄せる。
「私は最近、柚明が保育園か幼稚園の先生に見えてきたよ、梢子」「あら、今更なの?」
梢子さんは、1年生2年生の女の子に詰め寄られて身動きできないわたしを前に、苦笑
を浮べて肩を竦める景子さんに、微笑み返し。わたしは本当にあり余る幸に身を浸してい
た。
文彦君は南さんとわたしの関りを、今後も責める積りも縛る積りもない様だ。主と客が
変っただけで応対は同じ。同性の関係には関与しないと。沢尻君とは何かの話しを経た様
だけど、2人とも男の話しだと黙して語らず。殴り合いとか決裂とかはなってない様だけ
ど。
「大丈夫。先輩の心の傷は喋ってないから」
沢尻君は、望んで添ってくれた文彦君からわたしを振って捨てた事に、何かの事情を察
した様で。文彦君の人となりを知る彼だから、怒ったり問い詰めたりはしなかった様だけ
ど。わたしに事情を聞きに来なかったのは、振られた女の子の傷心を気遣ってなのでしょ
うか。
文彦君は南さんに抱いた想いや、告白の経緯を一部明かす事で、その納得を得たらしい。
でも文彦君は、南さんが元の恋人であるわたしと尚も親しく近しくて、心安らかなのかな。
文彦君が疑念に揺れれば、南さんに不快が及ぶかも。わたしは余り近しすぎない方が良い
のではと、南さんに2人きりの場で尋ねると、
「大丈夫だと思います。文彦君はそんなあたしに告白しました。彼はああ言ってもゆめい
先輩を断ち切れてない。未だ引きずってます。あたしと先輩が繋る事は彼の望みの様だ
し」
間接的にでも繋る方が、良いのだろうか。
男心も女心同様、複雑怪奇かも知れない。
「それで、南さんは良いの? わたしを諦め切れてない文彦君と、恋人関係で」「はい」
誰もいないからと、南さんは小柄な身体を正面からわたしに添わせ、背に腕を回しつつ、
「あたしもゆめい先輩を未だ好きです。文彦君が許してくれる限り、この関係は続けたい。
文彦君が幾ら願っても、ゆめい先輩は文彦君とあたし程に強く繋る事は出来ない。胸を触
ったり唇重ねたりは、できないでしょう?」
確かに。男の子相手には限度がある。頬を合わせ服を着た侭抱き合う迄だ。その先に踏
み込めば、相手の子が真弓さんに瞬殺される。わたしも男の子と素肌交えるのは未だ少し
…。
「ゆめい先輩が文彦君の力づくも退けられると実感できて安心したし。先輩が心変りして、
文彦君をあたしから奪いに掛る事だけが、嫉妬深いあたしの今の心配です。2人にくっつ
かれたらあたしが余るから。あたしと身体を重ねる事は、ゆめい先輩が女の子と関係を続
ける事は、それがないと言う証でもあるの」
ずっと信じさせて下さい。卒業の日まで。
羽藤柚明は優しく賢く強く清く、そして。
あたしに最後迄愛を注いでくれた人だと。
「終りが見えているから、後もう少しだけ」
「正解よ……それが南さんの真の想いなら」
肉感を肌触りを暖かみを確かめ合いつつ。
互いの互いを想う気持を満たし合いつつ。
愛しく幸せな日々が少しずつ過ぎて行く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
オハシラ様の祭祀に参加するのは、小学6年生の夏、桂ちゃんと白花ちゃんを命懸けで
守って大人扱いされて以降で、今年で4回目になる。祭祀を司るのは昨年に続き2回目だ。
出店や盆踊りやカラオケ大会等の催しは銀座通で行うので、羽様の祭りは静謐に始り簡
素に終る。その方が神を祀るには良いのかも。
山の中腹のご神木前で、正午に行う祭祀に合わせ、笑子おばあさんと正樹さん真弓さん
と山道を。祭祀を司るわたしは白い小袖に緋袴の巫女装束です。護身の技の修練の成果で、
藪や木々の間を抜けても衣は破れず汚れない。
良く似合うよと真弓さんにも正樹さんにも、笑子おばあさんにも言われたけど。何とか
それらしい格好には整えられたけど。和装が良く似合うのは、凹凸のない体型だとどこか
で聞いた様な。そう、サクヤさんに聞いた様な。真沙美さんとは言わない迄も、歌織さん
や夕維さん位胸があったら、きつくて困れたのに。
そのサクヤさんは双子とお屋敷でお留守番。サクヤさんは羽藤の家族なので、以前は一
緒にご神木迄行っていたとか。ご神木に特別の事情を持つサクヤさんは、羽藤の了承を得
て、日中の祭祀と別にその夜にご神木を訪れている。近年は幼子を看る為に『昼は良い
よ』と。
祭祀を司るわたし以外は、正装と言っても動き易い今様の洋服姿だ。変らぬ敬意を確か
に抱くなら、装いは時代時代の正装で良いと。
「わたしに補助させておくれ。オハシラ様の祭祀に関れるのも、これが最後かも知れない
からねぇ」「おばあさん」「「お母さん」」
笑子おばあさんは、自身の末が視えている。視えて尚乱れず崩れず。残り少ない日々を
淡々と刻み続け。果たしてわたしはその心の強さを幾分かでも、己の物に出来るだろうか
…。
揺れる心に未熟を思い知らされる。尋常ならざる濃い血を持つわたしだけに、強い力を
紡げるわたしだけに、力を司る心は更に強くあらねばならぬ。辿り着くべき処は遙か遠い。
細く狭い山道は、雨や夜露で濡れていると難渋するけど、夏の日が照りつける今は乾き、
登りにも下りにも差し障りない。大人の目線程に伸びた雑草や、木々の枝葉を縫って進み。
ざあぁっ……。
急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。
そこには見上げる程大きな、数百の歳月を雨風と共に過したといった趣のある、大きな
大きな樹が根を下ろしていた。槐のご神木だ。ご神木に遠慮した様に、その周囲は若い樹
も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。
わたし達は折り畳みの簡素な祭壇を設置し、白布を広げてお菓子やお酒・塩や穀物を供
え。
笑子おばあさんが瞳を閉じてご神木に触れ、数回の深呼吸を経てから瞳を開いて手を放
し、祭祀が始る。わたしは自ら想いを注ぎ草書体で書き綴った祝詞を手に持ち読み上げて、
その後に現代の言葉でほぼ同じ内容を復唱する。
『久方ぶりです。オハシラ様のお陰でわたし達は幸せに暮らせています。今後もわたし達
はオハシラ様を語り継ぎ、守り続けます。変らない想いを胸に抱きます。どうか心安らか
にお努めに励み、わたし達を見守り下さい』
荘厳さや神聖さは余りない。久しぶりのご挨拶に来た様な。心を込める事は大切だけど、
畏怖や隔絶は不要だと。自然体の親しみの中にも受け継いで変らない遠祖への敬愛を込め。
「柚明は今度、私と夜にご神木に来ましょう。今のあなたなら、触れれば様々な像は視え
ると想うけど、今日はその為に来た訳じゃない。祭祀を滞りなく終らせる為にも、あなた
が思う存分に感じ取る為にも、感応は夜が良い」
笑子おばあさんはわたしの祭祀にも補助し続けていた。正樹さんの場合は血が薄すぎて、
オハシラ様に想いを繋げない為だけど。わたしの場合は血が濃すぎて、贄の力が強すぎて、
視えすぎてわたしに影響が出る事を懸念して。
日中のご神木は、眠ったに近い状態だけど。陽光の燦々と降り注ぐ中、蒼い輝きは幹や
枝に収納された状態だけど。何かは感じ取れる。他の大木と異なり、人の意思を微かに感
じる。
日中は贄の血の力も殆ど身の外に出して作用させられない。出す端から陽光に照され風
に散らされ消されてしまう。人魚姫が海の泡と消える様に。だからご神木もオハシラ様も、
眠った様な状態なのか。吸血鬼の棺桶の様に。
でも例え日中でも今のわたしなら、血の濃さと修練で得た感応なら、触れれば様々な何
かを感じ取れる事が分った。それがわたしの心に与える影響を、おばあさんは案じている。
わたしも微かに見えすぎる事を、怖れている。
オハシラ様と真に向き合うのは別の時に。
でもその時はそう遠くはないと感じ取れ。
笑子おばあさんの先がもう長くないなら。
その前にわたしが全てを、引き継がねば。
羽藤の血筋の伝承を、贄の血筋の本当を。
覚悟を心にしみこませつつ、本日は羽様の家族と一緒に回る、経観塚の宵宮に向います。
準備も後片付けも含め1時間で祭祀は終る。劇的な変化が見える訳でもなく、雲間から
光が差して聖なる声が聞える訳でもなく。他の神社の祭祀もこんな感じなのだろうか。砕
けすぎない位で日常の如く、淡々と撤収も終り。
夕刻前から白花ちゃんと桂ちゃんとサクヤさんも交えて、みんなで経観塚の夜店を回る。
オハシラ様の祭祀を司っても特別扱いはなく、一般参加者として夜店を回る。ここではわ
たしも真弓さんも浴衣に着替えた。逃げ回ると言うより、動き続ける桂ちゃん白花ちゃん
を捉まえて浴衣を着せて。サクヤさんも浴衣を着れば、胸がきつくて色っぽいと想うのに
…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
銀座通では、今迄どこに潜んでいたかと想う程の人が、出店の連なる一角を密に歩いて。
経観塚で他にこれ程人が混み合うのは、年末年始の売出し位か。本当に、人が垣を作って。
「うわわわ」「すごいね」
最初は人混みに呑まれ立ち止まっていた白花ちゃんも桂ちゃんも、その賑わいに馴染み。
華やかな灯火が導く侭に足を踏み出し。真弓さんやわたしの腕を、早く早くと引っ張って。
「おかあさん、わたあめっ!」「おとうさん、お面っ」「サクヤおばちゃん、リンゴあ
め」「あれなぁに?」「あそこ見てみたいっ…」
幼子2人に大人4人+1人が振り回される。子供の元気は無限に近いと、知らされまし
た。わたしも少し前迄はそうだった筈なのだけど。
「おひさ、柚明」「聡美先輩。お久しぶり」
招かれたので家族から少し外れてご挨拶。
中学生が夏休みなら高校生もほぼ同じだ。
経観塚の高校に進学した聡美先輩に声を掛けられ、頭を下げる。先輩は一級上の彼氏と
肩を並べて出店を歩いていた。今のわたしは田舎の祭り位の雑踏なら、肌を合わせた人の
所在は分る。今は通う学校も違うけど、一度ならず濃密に身を重ねた仲だし、来年には…。
『後輩みんなの憧れの柚明お姉さんは、年下の扱いに長けた包容力のある人でしたと…』
『男にも女にも好かれ、男も女も拒まない』
『みんなに愛される次代の部長。あたしにも愛されてくれるわよねぇ、羽藤新部長…?』
『お互いにこれは遊び。深く心を込める必要なんかない、唯の火遊び。だから、あなたも
あたしを一番に想ってくれる必要なんかない。その代り今瞬間は燃え上がってくれない
と』
『あたしの想いはこの通りだよ。あんたはあたしのこの想いに身体でお返事すれば良い』
『先輩と後輩の立場の違いを思い知りな。
でも、その芯の強さが愛しいよ、柚明』
力強く弄び引っ張ってくれるその在り方は、わたしが好みだったけど。先輩は大人の見
切りも心得ていて、部活の縁が切れると同時に肌身合わせた仲は終り。先輩はわたしと絆
を結ぶ前から、高校に彼氏がいると聞いていた。
「へぇ、カワイイじゃん。さとみの後輩?」
身を乗り出し問うてきた、やや背の高くやせ気味な人が聡美先輩の彼氏、池上祐二さん。
濃いブラウンの長髪を整髪料で立たせている。
「オレ、さとみより彼女に恋しちゃおかな」
軽いノリで聡美先輩の前でわたしを誘い。
「中学3年生? 名前は? 家はどこ? 今からハックか喫茶店どう? カワイイ子とは
仲良くしたい。さとみも一緒で良いよ。オレ、カワイイ女の子を悦ばせる事が得意なん
だ」
「ちょっと、祐二っ」「別にいーだろう…」
こんな感じで聡美先輩も彼女にされてしまったのだろうか。こんな感じで聡美先輩を彼
女にしながら、他の女の子にも声をかけて? 聡美先輩が目の前にいて尚こうであるなら。
「キリストは言った、汝の隣人を愛せよと」
「そう言う意味じゃ、ないでしょうにっ!」
聡美先輩の抗議も恒例の事と受け流しつつ、わたしの顎に右手を当て、品定めする感じ
で覗き込む。気易い感じで初見の人には失礼だ。聡美先輩もわたしも年下の女の子で、思
い切った事は出来ないと見くびっている。軽いノリで勢いで進める処迄行こうとの図々し
さが。
「整った顔立ちだけど、活きがよさそーだ」
顎に当てた手を外しに伸ばすわたしの右手を予測し、この右手首を握って掴む。彼のそ
の動きを読んで躱し、逆にその左手首を掴み。
バランスを崩して顔を顰めた彼の上半身を、やや荒っぽく引き寄せて強めにギリッと握
る。力を込めた様に見せないけど、結構痛い筈だ。一見すれば、彼がわたしに話す為に屈
み込んで見えたかも。わたしは彼より背が低いから。
「倉田聡美は羽藤柚明のたいせつな人です」
わたしは聡美先輩に聞える位の低い声で、
「聡美先輩を恋人にした以上、先輩に誠意を尽くして下さい。先輩をしっかり想ってくれ
る人になら、わたしも聡美先輩を通じて仲良くお付き合いするのに、異存はありません」
聡美先輩は祐二さんのそう言う処に困り悩みつつ、別れる覚悟も持ってない。彼を諭す
事で巧く行く芽が残るなら。聡美先輩と祐二さんの恋人関係を危うくさせない事を前提に。
答を求める気はなかったけど。聡美先輩に想いを注いでと告げるだけの積りだったけど。
ちょっとやり過ぎたかも。祐二さんは思わぬ展開に、腕の痛みに驚愕しつつ頷いて。大き
な動きがないので聡美先輩以外誰も気付かず。
挑発してわたしの防戦を招き、それを絡め取って、拒めない体勢に持ち込む積りでいた。
聡美先輩の前でこの唇狙っていたみたいです。聡美先輩の憤りを愉しむのも彼の思惑の内
で。でもそれは望ましい恋愛ではないと思うから。
「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」
わ、分った。祐二さんの答を得たので右手を放し、一連の動きに驚いた聡美先輩を向き。
「先輩の恋人に、失礼をしちゃいました…」
ごめんなさいと謝ると先輩は笑みを浮べ。
「その位罰が当たってもいい男さ、祐二は」
「っ! あーいて。ひでぇよ、遊びなのに」
彼の気持は遊びだけど、される女の子は遊びで済まない。特に遭って数秒でキスなんて。
「女遊びは恋人の前では御法度だよ、祐二」
祐二さんはわたしが聡美先輩より背が低く華奢なので。一度の失敗では納得行かず諦め
付かない様だけど。間近で離れず、実際以上に痛い振りで、罪悪感を誘って隙を窺うけど。
「おぉ羽藤か。久しぶり」「塩原先輩……」
祐二さんとは同学年の筈だけど、高校2年になった塩原先輩は、肩幅も筋肉も身長も大
人以上で、傍にいるだけで威嚇になる。祐二さんも引き時を察し、聡美先輩の手を引いて。
「またねユメイちゃん」「ありがと、柚明」
雑踏に消え行く2人を見送ってから、先輩達に向き直る。今日は先輩は男の子拾人程で、
「お久しぶりです。遠藤先輩、岩田先輩…」
夜店を回っていたらしい。中村先輩はイカ焼きを、遠山先輩はフラッペを右手に持って。
わたしが祐二さんに絡みつかれている様を見て声を掛けてくれた。大柄な男子拾数人が挟
まれば、祐二さんが一目散に逃げると分って。
「助かりました。ちょっと困っていたので」
「本当は困ってもいなかった癖に。まぁ…」
先輩達はわたしが自力で切り抜けられると知って、その上でわたしが荒事を好まないと
分って、声を掛けてくれた。大柄な男の子は声を発するだけで、未然に争いを抑止できる。
「少しでも、お前の役に立てて良かったよ」
お礼に頭を下げて、戻ろうと振り返ると正樹さん達が視界におらず。幼子達の赴く侭に、
少し離れてしまったらしい。わたしは所在を察せられるので。先輩達の向かう方角が同じ
なので。暫くご一緒しませんかと声を掛けて。男の子拾人余りの中を進むのは一昨年以来
だ。
早苗さんと二人歩む歌織さんや、演劇部の人と集団で歩む和泉さんや、島崎さんや塙さ
んや川中さんと歩む美子さん達ともすれ違い。
拾数分後、先輩達と離れてわたしは羽様の家族の最後尾に自然に戻り。最初に気付いて
くれたのは、真弓さんではなく笑子おばあさんだった。わたしを信じつつ案じていた様で。
サクヤさんの射的や正樹さんのおみくじに付き合いつつ。笑子おばあさんは植木の前を
暫く動かず。白花ちゃんと桂ちゃんはヒヨコを眺めて喜んで。ウサギを眺めて欲しがって。
真弓さんが生き物は死ぬ迄面倒見る必要があるから、幼子には早すぎるとぴしりと断って。
そうでないと、わたしが買ってしまったかも。
夏の遅い夕暮れが刻々と迫り来る。明るく愉しい時は終り、涼やかに星の輝く宵も近い。
桂ちゃんと白花ちゃん、真弓さんと正樹さん、サクヤさんと笑子おばあさん。わたしの
日々を支えてくれる人達との暖かなひととき。わたしが守り支えたい人達との穏やかな日
常。心満たされ、いつ迄も続いて欲しい愉しい時。
わたしは、あり余る幸に身を浸している。
この時が、過ぎてしまうのが勿体ない位。
今こそ、本当に時が止まってくれたなら。
でもそれは叶わぬ願いだと知るわたしは。
一分一秒を噛みしめながら。触れて見えて聞える全てを、心に刻み込みながら。わたし
は中学生最後のお祭りに、渾身で向き合って。
家族と回る後半は、妙に男女つがいとの邂逅が多かった。幼い兄弟を連れた健吾さんと
麗香さん、翔君と夕維さん、文彦君と南さん、賢也君と真沙美さん、佐々木さんと沢尻君
…。
幼子の疲れも考え、夏の日が落ちる前にみんなは帰る。わたしは友達と夜店を回るので
まだ残るけど。笑子おばあさんには添って贄の癒しを注いだけど。基礎体力が落ちている。
もう無理は禁物だった。サクヤさんに支えられつつ、赤兎に乗り込む姿を見送り。椅子に
沈んで寝息を立てる、幼い双子の姿を見送り。
遠ざかるたいせつな人を前にして、なぜか。
手を伸ばしたく想った。届かないと分って。
羽様に帰れば触れ合えると分っているのに。
手を届かせられなくなる様な錯覚に怯えて。
それは今宵の事ではなく何かの暗示に想え。
遠ざかり隔てられ喪う事は己の定めなのか。
胸に兆すのは笑子おばあさんの終りのみならず。夏の終り、幸せの終り、或いは自身の。
遠い未来から今に向けて投じられた影なのか。何か迄は分らなくても、在る事だけは確実
に。いつの事か分らなくても来る事だけは確実に。
涼しさと異なる何かに身を震わせ。震わせる事で何かの兆を振り落し。わたしは今に気
持を向け直す。日々に確かに向き合わないと。あり余る幸を、今はしっかり噛みしめない
と。
愉しい夏、お友達とのお祭りはこれからだ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「黒川君、川島君。少しお願いがあるの…」
浴衣美人4人と沢尻君に、南さんと文彦君が遭った処で、わたしは少し離れた処にいた
羽様小出身の一級下の男の子2人に声を掛け。
「詩織さんに、みんなの集まった写真を送りたいの。このお祭りを背景に」「先輩……」
真沙美さんは県外の青城学園に行く。他にも経観塚を出る人はいそうだし。来年以降お
祭りでも、羽様小出身の面々が顔を合わせる事は難しい。それぞれに生きる道は分れ行く。
詩織さんの知る面々が集うお祭りはこれが最後だろう。だからこそ残したい。カメラの扱
いを、サクヤさんに教わっておいて良かった。
「詩織さんって?」「羽藤先輩の想い人だ」
南さんの問いに、文彦君が答えてくれる。
小学6年の1学期迄一緒だった、1つ下の級友。難病で遠くの病院に長期入院する為に、
離れ離れになった人。おかっぱに切り揃えた黒髪はわたしに少し似ていた。黒目の大きな
瞳も大きく開かない口も。生れつき体が弱く、人と接点を作るのが下手で。でも可愛い後
輩。羽様小で最初に名前を覚えた、たいせつな人。
『わたし……、今日は、とても嬉しかった』
『そこ迄言ってくれた人は、いなかったから。わたしの為にそこ迄踏み込んでくれた人は
いなかったから。涙が出る程、嬉しかったよ』
唇も合わせ、素肌も添わせ、心も重ねた。
『この手を放さないで、ゆめいさん。
この繋いでくれた手を放さないで。わたしをみんなに学校に繋ぎ止めてくれるこの手を
放さないで。わたしを置いていかないで!』
熱く深く想いを交わして、絆を確かめた。
『良かったよ。みんなと出会えて、みんなと心通わせて、みんなと一緒に羽様小学校で』
『わたしの憧れた人、わたしの恋した人、わたしの心に踏み込んでくれた人、そこ迄大事
に想ってくれた初めての人、わたしのたいせつなひと。愛しています、羽藤柚明さん!』
【わたしも、確かにあなたを愛しているわ】
幼い日々を共に過ごしてくれた愛しい人。
「柚明は昔から恋多き女だったから」
「恋するよりも恋される方だけどね」
「来る者拒まずだから、色々騒動に巻き込まれるのよ。きちんと反省して貰わないと…」
「お言葉ごもっともです。反省しています」
「俺には華子が羽藤の姉か母に見えて来た」
黒川君と川島君が言葉挟めずにいる内に。
「はい、はいはいはいっ! 賛成ですっ。あたしが撮ります」「南さん?」「難波……」
「あたしは羽様小の出身じゃないから。撮る人が1人必要ならあたしに任せて。ゆめい先
輩を外す訳に行かないし、他の人達だって」
元気に一気に語って胸を右手で叩くけど、
「難波お前」「カメラの扱い知っている?」
「ううっ、そ。それは……あう、あうぅぅ」
文彦君とわたしの問に瞳をうるうるさせ、
「……使い方、教えて貰っていーですか?」
わたしと文彦君が左右に寄り添い、南さんにカメラの扱いを教える。最初は機械に詳し
い文彦君にお任せと想ったのだけど、南さんが機械に疎く、分らせるのに手間取り結局は。
「これは、みんなの想い出にもなるから…」
全員に手渡すべき。そうなると南さんが写った一枚もあるべきと、今度はわたしが撮る
事に。写真の腕前はプロからの直伝ですから。
北野文彦、黒川太一、川島広志、沢尻博人、佐々木華子、金田和泉、鴨川真沙美、難波
南。たいせつな人達、たいせつな時間、たいせつな場の形。永遠に保てないからこそ、繋
いだこの一瞬を悠久に忘れない様に。心にも残し。
いつの間にか芹澤君や絵理さん達も交えて、羽様小出身者プラス幾人かで賑やかに夜店
を回り。みんなで帰りの最終バスに駆け込んで。
お祭りが終り行く。夏が終り行く。
明日もお祭りはあるけれど、楽しみだけど。
明日以降も暑さは続くけど、尚夏だけれど。
過ごし行けば、必ず末を迎えると。
それは招きもしないのに雷雨が屋根を叩く様に、望みもしないのに季節が寒く変り行く
様に、誰かが悪い訳ではなく起り来る不都合なのだと。楽しい休みの日が過ごせば終り行
く様に、ご飯を美味しく食べれば減ってしまう様に、押し止める事が難しい世の中の諸々。
日が昇り沈む様に、つぼみが咲いて散る様に、自然にそうなって行き防ぎ難い世の中の諸
々。
わたしが感じていたのは夏の終りではなく、幸せの終りかも知れない。笑子おばあさん
との日々、真沙美さんや和泉さん・沢尻君や佐々木さんとの日々、南さんや文彦君との日
々。心解き放たれて、暑い日差しに困らされつつ喜びつつ、時に驟雨にも濡れる夏の様な
月日。
清冽な満月は中天を駆け上りつつあった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
杏子ちゃんの乗った列車が、北関東を襲った集中豪雨による崖崩れで立ち往生し、経観
塚に来れないと報されたのは、夜9時過ぎだった。直撃はなかった様だけど、土砂の除去
や路盤の弛みで、運行の見込みが立たないと。さっき杏子ちゃんは自宅に戻り着きお電話
を。
「ごめんね、夏休みはもう予定が一杯で…」
疲れもあって声が沈痛に低い幼馴染みに、
「ううん、気にしないで。杏子ちゃんは悪くない。逢えないのは、わたしが前回すっぽか
した所為だから。でも……無事で良かった」
冬以降も、可南子ちゃんとは逢えない巡り合わせだ。電話では良くお話しするのだけど。
春休みには、浩一伯父さんと佳美伯母さんが仁美さんと可南子ちゃんと、宍戸さんもご
家族と一緒に、経観塚に遙々お礼を述べに来てくれて。わたしが外す訳には行かなかった。
ゴールデンウィークは、幼稚園で風邪を移された桂ちゃんと白花ちゃんが高熱を出して。
真弓さんは行っても良いと言ってくれたけど。熱に魘されながら『行かないで』と袖を握
る幼子を前に、わたしが羽様を外す事は出来ず。
結果とうとう杏子ちゃんは夏休み経観塚を、羽様のお屋敷を訪ねてくれると。でもわた
しの関知は、逢えない末を瞼の裏に映していた。
手際良くはきはきした声。瞼の裏に映るは、やや明るい茶色の髪をショートに切り揃え
た、闊達な女の子の姿で。家族全てを喪った幼い夜の直前に、集団下校で手を振って別れ
た小学3年生の侭で。心に刻まれた絵は幼い夜の直前の。和泉さんや歌織さんに近い印象
かも。
『ゆーちゃんって、呼んで良い?』
町にいた頃は一番のお友達だった。小学校1年から3年迄同じ学級で、わたしのやや珍
しい名を憶えきれず、初めて綽名を贈られた。
冬には間近迄、5キロ位の処迄行ったのに。
わたしの不首尾で、とうとう逢う事叶わず。
『……うん、わたしの事情で、行けなくなっちゃったの。杏子ちゃん、本当にごめんね』
『良いよ、ゆーちゃん。人には色々事情がある物だから。ゆーちゃんが心底あたしに逢い
たかったって事も、それがどうしても出来ない事情がある事も、その声で分ったから…』
あたしは気長なの。ゆーちゃんの気持を繋ぐ為に、一年以上毎週電話し続けたり、スト
ーカー並に粘り強いの。今宵逢えなくてもあたしの想いは変らないよ。ゆーちゃんだって
そうでしょう? あたし達、相思相愛だもの。
元気に返してくれる心遣いが心に染みた。
わたしの傷心も声音で分って尚指摘せず。
無事を装う声に騙された振りしてくれて。
本当に、強くて優しいたいせつな人……。
「絶対逢おうねって、心待ちにさせたのに」
今度は杏子ちゃんの沈む声音にわたしが、
「延びれば延びただけ逢えた時が嬉しいよ」
「……うん、そうだね。あたしも楽しみ…」
杏子ちゃんは敢て同じ答を返してくれて。
「それ迄は電話で愛を交わし合いましょう」
「ゆーちゃん、結構発言が大胆になったね」
「お友達の影響だと思います」「あっ」
ふふっと回線を笑い声が行き交った。
「思い出話が又堪っちゃう。もう逢えた夜は眠らせないから、覚悟してね。ゆーちゃん」
「有り難う。いつ迄も好きだよ杏子ちゃん」
外出に疲れた幼子は父母と寝室で就寝し。
サクヤさんは笑子おばあさんの奥の間に。
電話を切って、わたしは独り薄闇に佇む。
2人一組が世の基本なら、わたしは余り。
誰のどの場面でも遂に唯1人にはなれず。
遂に唯1人をこの手に掴む事も為さずに。
見送って、見届けて、見守って、終える。
想って、願って、祈って、保って、支え。
「それで良い。それが望み。それが願い…」
望む物を得られないのが、己の定めでも。
羽藤柚明が例え終生何も得られなくても。
願い続ける事は叶う。掴む事は求めない。
身の終り迄たいせつな人を想い続けたい。
その人の幸せを、想い望み願い喜びたい。
静かに更ける羽様の夜は、煌々たる満月の清涼な輝きに照され、静かに時を刻んでいた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「柚明……起きているかい?」「……はい」
答と同時に自室の襖を開けたサクヤさんに、わたしは夜更けでも外行きのセーラー服姿
で、正座した姿勢から柔らかくお辞儀して微笑み。
「行ってらっしゃい、サクヤおばさん」
「……んんっ、ゆっ、柚明、あんた?」
オハシラ様とお話しに、ご神木迄行くのでしょう。危険な獣は居ないけど、雨も朝迄降
る気配はないけど。夜は視界が効かないから。
「……気をつけて、行ってきて下さい」
想いを綺麗に顕したく思って、少し畏まってみたのだけど、逆に驚かせたみたい。サク
ヤさんは少し話す積りなのか、部屋の中へ踏み入ってきて。床にあぐらで座って第一声は、
「柚明は今年は夜のご神木に来ないんだ?」
「はい……帰りを待つ積りでいました……」
2年前の祭りの夜には、サクヤさんのご神木との話しを邪魔しない様に、近くの藪に隠
れて終る迄見守って、帰り道を一緒したけど。
去年は夜半に小雨模様で、サクヤさんからお屋敷に止まる様に言い渡された。わたしが
風邪をひけば、必ず白花ちゃん桂ちゃんに移ってしまう。毎日肌身添わせる2人の為にも、
わたしは体調を崩してはいけない者なのだと。
わたしは指示に従ったけど、不満な顔に見えたのかな。今年はわたしが一昨年の様にご
神木迄付いてくる、或いは付けてくると考え。それなら一緒に歩もうかと訪れてくれた様
で。今笑子おばあさんに一言告げてきた処らしい。
わたしは軽やかにこの首を左右に振って、
「あれは一度限りの禁じ手です。わたしが傍で待っていると思わせては、サクヤおばさん
がオハシラ様と心ゆく迄お話しできなくなる。気遣わせたり急かせる事は、わたしの望み
ではありません。先に休んでいる積りでした」
正装は外出の為ではなくご挨拶の為です。
心優しいサクヤさんはわたしを気に掛ける。夜露に濡れないか、夜風に身を冷やさない
か、疲れないか怖くないかと案じてしまう。結果、サクヤさんが一番の人と想いを交わせ
なくなっては本末転倒だ。わたしの願いはたいせつな人の充足だ。己が満たされたい訳で
はない。
冬のあの一件の後には、わたしの心の傷を癒す為に、唇も重ねてくれたけど。穢れたわ
たしを強く優しく、隅々迄清めてくれたけど。愛しさは深く強く感じ取れたけど。それは
どこ迄強くても、一番の人への愛ではなかった。その優しさは王子様が女中や家来に向け
た物。どこ迄もこの人の一番は、たった1人なのだ。
深く強い情愛を感じれば感じる程に、満たされれば満たされる程に、限界を噛みしめる。
優しさが隔てを感じさせる事も、世にはある。南さんにわたしが噛みしめさせた類のそれ
を。わたしが噛みしめるのは正に因果応報だった。
サクヤさんの想いは変らない。そんなサクヤさんをわたしは好いた。だからこそわたし
の想いの届け方は、サクヤさんの願いを叶える方向に、少しでも役に立てる様に。心残り
や気拙さや、苦味の類が少しでも減じる様に。
「たいせつな人と心ゆく迄お話ししてきて」
視える像が末を示しても。取り縋れば尚暫くサクヤさんを留められると分っても。この
手が掴まない事が、この人との絆を見過ごし、この人にオハシラ様との絆を繋ぐと承知で
も。それがその人の真の想いで幸せなら。わたしは見守る者、見送る者、見届ける者を担
おう。
泡と消えても王子様の幸せが人魚姫の望み。
その他大勢で忘れ去られる事も受け容れて。
わたしに特別な1人は得られないのだろう。
わたしは誰かの唯1人にもなれぬのだろう。
己が朽ちて涸れる迄この人の絆は終らない。
そして何よりもわたしが心底望んだ物とは。
たいせつな人が、真の望みを確かに抱いて。
心から生き生きと、日々に向き合うその姿。
その上わたしには最早彼女を願う資格さえ。
「夜は短いですよサクヤおばさん」「……」
言葉に詰まる愛しい人を、この先へ促す。
想いを返されない事は、哀しみじゃない。
一番にして貰えない事は、苦痛じゃない。
返される答は最初の時点で、分っていた。
わたしはそれで萎えも揺らぎもしなかった。
サクヤさんが常の人ではないと気付いても。
何一つ変る事のない、わたしのサクヤさん。
変らない想いをずっと胸に抱いて来たけど。
その一番の人との幸せを、願ってきたけど。
その想いは今尚ずっと抱き続けているけど。
自身の成就は望まない。サクヤさんには一番の人が確かにいる。その人を諦めたり失っ
たりする事態は、サクヤさんの不幸だ。わたしはそれを願わない。わたしの愛に、一番の
愛が返される日が来ません様に。それが常にわたしの真の願いで、真の望みで、真の想い。
『たいせつな人に尽くせる事が幸せ。愛する事で満たされる。幸せに報償は要らないの』
きっとサクヤさんがそうなのだ。ずっと前から、笑子おばあさんに会う前からもずっと。
絶対届かないと分ってもその想いを抱き続け。未来永劫叶う事がないと分って萎える事な
く。
何と強く哀しく愛しく切ない、可憐な人。
わたしが初めて恋心を告げた、一番の人。
ずっと一番に抱き続けたかった愛しい人。
わたしはその一番を願う資格も手放した。
もうこの想いは泡と消えて行く他にない。
例えこの先奇跡が起こって、サクヤさんがわたしを一番に想ってくれても、一番に愛し
てくれても、わたしが等しい想いを返せない。真沙美さんも和泉さんも、早苗さんも歌織
さんも、南さんも詩織さんも、一番にも二番にも出来なかった様に。サクヤさんも一番に
は。だからこそ、叶う限りの想いを注ぎ続けよう。
わたしはサクヤさんが一番の人を胸に抱き全力で愛する様を、その想いを守りたい。返
される想いは望まない。一番ではない程の愛を返してくれるなら嬉しいけど、望外の幸せ。
わたしが望むのは愛した人の幸せで喜びです。行く前に声を掛けてくれただけで充分すぎ
た。
窓から差し込む月明かりが強く濃く蒼く。
「オハシラ様が喜んでくれています。サクヤさんがわたしに抱く想いを、オハシラ様に抱
く想いを。わたしがサクヤさんに抱く想いを、オハシラ様に抱く想いを。嫉妬も込みで愛
し見守り、この先も長くそうであり続けます様にって。……そして今宵待っていますっ
て」
行ってらっしゃい、わたしの愛しいサクヤおばさん。一番の人との大切な時を、存分に。
気付いた時には、わたしはサクヤさんの大きな胸に抱き留められていた。降り注ぐ声は、
「……行ってくるよ。あたしの愛しい柚明」
サクヤさんは多くを語らなかった。言葉には尽くせない想いを瞳に溜めて。唯わたしを
抱き留めて肌身に強すぎる程の肉感をくれて。抱擁は数分で終ったけど、この感触は長久
に。幸せな時は、後で振り返れば一瞬でも、いつ迄も光り輝いて、この先の闇を照してく
れる。
夏が終り、秋が来て、冬に心鎖されても。
わたしは終生この幸せを胸に抱き続ける。
末に絶望の闇が仄見え始めて来ていても。
強く揺らがされない心を保ち先を見据え。
たいせつな人に、想いの全てを届かせる。
あり余る幸に身を浸し、心満たされつつ。
抱擁を続ける、愛しい人の出立を促して。
わたしは最期迄、唯独り見送る者だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
蒼く濃い月明りの招きを受けて、サクヤさんが森を進み行く後ろ姿を、わたしの感応で
追いきれなくなった辺りで、心に別の印象が。
「……はい。今参ります」
笑子おばあさんが招いている。肉声で呼ばなかったのは、他の人を起こしたくない為か。
わたしは服を着替えず奥の間に進み、襖を開ける前に屈んで小声で確認を取る。力に頼り
すぎると、わたしを思い浮べただけで呼ばれたと、勘違いした事があって。鋭すぎる耳や
鼻は、却って困る事もあるとサクヤさんも…。
入って良いよとの小さな声に、襖を開く。
「今日はお疲れでしたか?」「そうだねぇ」
部屋に入って姿を見て声を聞くと、わたしの関知も感応も一気に読み解く情報が増える。
灯りがなくても、今のわたしは力さえ不要に歩みも動きも困らない。満月も煌々と輝いて
いるし。布団に横たわるおばあさんの左横に、己を潜り込ませて寄り添わせ、肌身に癒し
を。
夜になれば蒼い力は身の外に出せて、数十メートル先迄及ぼせる様になったけど。肌身
合わせるにも手首を握れば可能だけど。多く肌身を合わせた方が効果が温厚で治癒に良い。
効果が早く隅々迄行き渡らせ易く。何よりお互いが肌触りや温もりを感じ合えて心地良い。
笑子おばあさんも望みだと分るので。最近は真弓さん達の前でも、寄り添って肌身を合
わせて癒しを注いでいた。立場は孫と祖母だけど、関りは仲の良い姉妹に近しくて。おば
あさんは少女の様に微笑み絶やさず可愛くて。
「しっかりした力の紡ぎ方だね。優しさと強さと、何より安定感があって整っている…」
この肌触りと温もりを好んでくれて。流し込む贄の癒しを、羽藤柚明を味わってくれて。
おばあさんはわたしを通じてお母さんの感触も感じ取っている。わたしが招いた禍の末に
喪わせた、笑子おばあさんのたいせつな娘を。哀しみつつ愛しみつつ、わたしを抱き留め
て。
わたしも笑子おばあさんを感じ取る。おばあさんの中に残るお母さんの感触を感じ取る。
愛しみつつ哀しみつつ、その身を抱き留めて。
『あなただけでも、生きて残れて良かった』
『わたしの娘が、どの様に孫娘を守ったのか。
わたしの娘が、どの様にその生命を使い切ってその生を終えたのかを、教えておくれ』
深く哀しみつつ、禍の子であるわたしを。
引き取って、羽様の家族に迎えてくれて。
『力の扱いを憶えなさい。わたしが教える』
『あなたに流れる血に眠る力を、自身の手で操れるようになりなさい。それはあなたの物。
あなたでなければ抑えの効かない、固有の定め。あなたが持って生れた天の配剤なのよ』
わたしに、生きる道を指し示してくれた。
禍の子を福の子に転じようとしてくれて。
『あなたの母親は、修練で得た力であなたを守り切れた。あなたが血に眠る力を操る様に
なれば、あなたも誰かを守れるかも知れない。力が全てじゃないけれど、力がないと護れ
ない時もある事を、柚明は身を以て知った筈』
決意が、運命を切り開く事があるんだよ。
決意が、及ばない筈の何かに届く事もね。
『守られた者が次の世代を、新しい生命を守る事で想いは受け継がれて行くの。わたしの
想いが娘に、娘の想いが孫に、孫の想いが子々孫々に。縦だけじゃなくてね。友達や夫や、
他のたいせつな人にも。ねえ、サクヤさん』
『濃い血を持ち匂う事がどんな定めを招くか、あなたは知っている筈よね。贄の血の力を
使える先達として、宜しくしてやっておくれ』
桂ちゃんと白花ちゃんが生れて、わたしの人生は激変した。わたしが不可欠になるとは
思ってなかった。鬼を招いて家族を死に導いたこのわたしが、先達として役に立てるとは。
漸く自分以外の誰かに尽くせる時が来た。
託された生命を、注ぐ相手に巡り逢えた。
『貴女だけなんだよ。今、私の他にはね…』
穏やかに心優しい人。乱れず崩れず、終りを見据えて尚、為すべき事を見極め続けた人。
それで尚心を融かす笑みを絶やさなかった人。この人が今宵微かな感応で招いてくれたの
は。
サクヤさんに付いて行かなかったわたしを。
サクヤさんを蒼惶の下で見送ったわたしを。
『この微かな寂しさを察してくれての招き』
嬉しい。特別な唯1人も得られず、特別な唯1人にもなれないわたしだけど。定めは受
け容れる積りのわたしだけど。でも尚人の温もりを欲してしまうこの未熟さ・弱さを、笑
子おばあさんは察してくれて。愛してくれて。
自身が疲れて癒しが欲しかったのではない。わたしの心を癒そうと想って、招いてくれ
た。心優しく細やかで、抱き留めたい程愛しい人。今その暖かく穏やかな視線はわたしに
注がれ、
「あの人にはいつ迄も、オハシラ様が絶対に代えの利かない、掛け替えのない一番なのよ。
永劫に手が届かなくても、久遠に想い続けるしかなくても。月に手を伸ばす様な物かねえ。
それでもその想いを捨てず、哀しみと一緒に愛おしんで抱き続けるその姿が切なく哀しく、
放っておけないのよね。わたしもあなたも」
サクヤさんへの愛しさが、わたしへの愛しさが、肌身を通じて流れ込む。サクヤさんへ
の愛しさを、笑子おばあさんへの愛しさを、肌身を通じて流し込む。お互いがお互いに決
してその人の一番にはなれないと分った上で。その一番の人への想いを愛おしみ、その一
番の人との絆の永続を望み喜び願いつつ。わたし達はより強まった気のする蒼惶の下、肌
身を添わせ、目の前のお互いに心も深く添わせ。
例え己の最期迄誰の唯1人にもなれずとも。
例え己の果てる時迄唯1人を得られずとも。
わたしは愛したかっただけ。この生命も想いも託された物。多くの生命と引替に残され
たわたしは、唯己の生存や楽しみの為に生きる事を許さない。永遠にはなり得ず、いずれ
生命尽きて朽ち果てる己なら。たいせつな人の幸せを保つ為なら。泡と消えても本望です。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「東の空が白み始めてきました。もうすぐ日の出、人魚姫が海の泡となる時は間近です」
姫は遂に王子様に、刃を振り下ろす事が出来ませんでした。最期迄血塗られる事のなか
った短刀を持ち、海に面した廊下の窓際で人魚姫は、夜の闇から光を得て、色合いを戻し
て行くふるさとの海を、独り眺めていました。
「王子様の胸に刀を突き刺し、その血を浴びて海に飛び込めば、人魚姫は人魚に戻れます。
泡にもならず、歩く度の激痛もなくなります。尾ひれは力強く大洋を深海を、泳ぎ進めま
す。でもその先、姫には何が残っているでしょう。
お魚と一緒に泳いでも、珊瑚や貝殻を拾って胸や髪に飾っても、お姉さん達やお父さん
とお話ししても、海の上に顔を出して美しい声で歌を奏でても。王子様は居ないのです」
それだけではありません。その王子様を殺めた事実が常に姫について回ります。その王
子様を求めて、全てを抛って陸の生き物になった人魚姫が。その王子様を殺めてそれ以上、
欲しい物などこの世のどこにあるでしょうか。
王子様を想って様々な苦痛にも耐えてきたのに。王子様を求めて多くを喪ってきたのに。
その王子様を、己が生き残る為に殺めて、その先に生き残った姫に、何が残るでしょうか。
桂ちゃんも白花ちゃんも緊張に震えながら読み進むわたしを、絵本の中を見守っている。
「その生命を絶つなんて。その幸せを絶つなんて。漸く村娘と結ばれて、幸せに式を挙げ
たばかりの王子様を、己の都合で生命奪うなんて。それも姫自身が愛し望んだ王子様を」
例え姫の愛を受ける事が絶対になくても。
例え姫に愛を向ける事が永遠になくても。
姫を海の泡とする結婚をした王子様でも。
殺められはしない。それが姫の決意でした。
例えこの侭この身が、海の泡と消えようと。
誰1人振り返って思い返す者も居なくても。
姫が生きて愛した証を誰にも刻めなくても。
王子様の心にも残れずに、忘れ去られても。
姫の心は最期迄王子様を想い続けています。
それで充分でした。それ以上は要りません。
お姉さんから渡された短刀を、海に抛って返します。申し訳ないけど。たいせつな御髪
に換えて貰ってきてくれたその情愛に、応えられないのは申し訳ないけど。涙が頬を伝う
のは、己が泡と消える事が哀しいのではなく、お姉さん達の想いに応えられない哀しさで
す。お姉さん達を哀しませてしまう事への涙です。
王子様を短刀で刺して、海に戻ってくる人魚姫はいませんでした。ここにいるのは、王
子様を心から愛し、泡と消え行く人魚姫です。
「東の空は晴れて雲一つありません。きっと今日も良い天気になるでしょう。一日を見守
る暖かなお日様が昇る時が、姫の終りです」
笑子おばあさんとの日々の終りも、中学校生活の終りも、確かに視えてきていた。羽藤
柚明の伸びやかに過ごした夏も終りつつある。尚幸せは続くけど、尚守り支えたい日々は
続くけど。一つの区切りが迫っている。諸々に確かな答を出さねばならない秋(とき)が
…。
笑子おばあさんはきっと、知って知らない振りをしてくれた。それはわたしの意思と言
葉とタイミングで告げるべき物だから。他の人が促したり、阻んだりする物ではないから。
わたしは絵本を読み進む。この人生に光をくれた愛しい双子を、布団の左右に眺め見て。
目の前で今わたしを求めてくれる瞳に応えて。
「朝早いので、未だ起きてくる者は居ません。式典と宴会に疲れ、みんなぐうぐう眠って
います。王子様も村娘も、家来も女中も村人も。姫のお姉さん達は海から5つの顔を覗か
せて、短刀を捨てて佇む姫を見守っていました…」
『ごめんなさいお姉さん達。折角わたしの為にそこ迄してくれたのに、応えられなくて』
姫が涙を零しつつ、頭を下げる様を見て。
お姉さん達はもう見守るしか出来ません。
お姉さん達も王子様を愛する姫の想いを。
最期迄見届ける他に術がなかったのです。
いよいよ東の空が明るく輝いて来ました。
『でも、そこ迄強く想ってくれて、心からありがとう。本当に大好きです、お姉さん!』
最期迄姫を愛し続けてくれた優しいお姉さん達に訣れを告げて、姫が歩み行くのは王子
様の寝室です。もうその胸に刺す短刀はありません。人魚姫の最期の望みは、泡と消える
最後の瞬間迄、王子様の傍で過ごす事でした。
未だ昏々と眠っている王子様のベッドに寄り添って。その頬に頬を寄せた時。大きく開
けた水平線の向こうから、強く眩しい輝きが顕れて、地上の全てを照し出し、貫き通して。
「人魚姫は、海の泡となって消えました…」
陽の光はある物とない物を峻烈に隔てる。
オハシラ様や贄の力も容赦なく打ち祓う。
「姫の体は瞬く間に崩れ、細かな粉となって風に運ばれ、海に落ち小さな泡になってしま
います。お姉さん達が幾ら掬い取っても形になりません。金の髪が豊かに揺らめく、人魚
姫という可愛い女の子がいた証は、最早この世のどこにもありません。欠片も残りません。
人魚姫が、生命の終り迄王子様を深く愛し、その幸せを願い続けた真実を知っているの
は、その5人のお姉さんと、お話しを最後迄読んでくれた良い子の皆さんだけです。お終
い」
「いやだああぁぁ!」「姫さまかわいそお」
「姫さま大あらしで、いのち助けたのに!」
「いたい思いしてがんばって近く居たのに」
やはり最後には2人を泣かせてしまった。
豊かに長い金髪が可愛い人魚姫の絵柄を気に入って、手に取って見ていた白花ちゃんか
ら奪った桂ちゃんが、正樹さんの買い物籠に入れた絵本。結末を知るわたしは回避したか
ったのだけど。2人は勧善懲悪・冒険物ではない絵本は、優先的にわたしに持ち込むので。
白花ちゃんと桂ちゃんの願いは断れなくて。
心優しい幼子2人が納得できないと視えて。
最後の最後迄、読み進む他には術がなくて。
「「うえぇぇぇえん。かわいそおぉぉお」」
「ごめんなさいね。白花ちゃん、桂ちゃん」
読み終えた本を閉じ、両腕を左右の幼子の頬に回して、軽く触れつつ、この身に寄せて、
「最後が哀しいお話しになってしまったわね。
陸に住む王子様に人魚が想いを告げるのは、余りに大変な事だったの。真実を告げる声
を手放した人魚姫は、こうなるしかなかった」
お話の筋は変えられない。絵本に明記された事を曲げる訳には行かない。誰かが作った
話しでも、作った人の想いが込められている。たいせつな人に曲げて届かせるのは良くな
い。幼い涙も哀しみも、時には心の滋養に必要だ。
「唯、わたしは想うのだけど……」
人魚姫は決して、不幸せではなかったと。
いえ、姫は幸せだったのではないかなと。
2人は、わたしの次の言葉を待っている。
「王子様とは結ばれなかったけど。海の泡になってしまったけど。痛みや苦しみや生命助
けた頑張りに、応じた報いは返ってこなかったけど。王子様を最期迄確かに愛し続けられ
た姫は、きっと最期迄確かに幸せだった…」
嵐の海を王子様を抱えて必死に泳ぎ抜いたのは。王子様に褒めて貰う為じゃない。王子
様にお嫁さんにして貰う為じゃない。王子様を助けたかったから。王子様に溺れ死んで欲
しくなかったから。そして王子様は助かった。
「桂ちゃんも白花ちゃんも、王子様が助かって良かったと思ったでしょう」「「うん」」
姫は一生懸命頑張ったけど、一生懸命頑張っても報われぬ事もある。届かない事も及ば
ない事も、どうにも出来ない事もこの世には。
「姫は王子様を愛したかった。王子様の愛が欲しかったのも確かだけど。それより姫が王
子様を大事に思いたかったの。王子様が幸せになってくれる事が、姫の願いだったから」
わたしが白花ちゃん桂ちゃんに、いつも元気ににこにこ笑っていて欲しく願うのと同じ。
王子様のいない海の中で、幾ら魚と一緒に泳いでも、貝殻や珊瑚を拾って胸や髪に飾っ
ても、お父さんやお姉さん達とお話ししても、海の上に顔を出して美しい声で歌を奏でて
も。
「王子様に出会ってしまった後の人魚姫には、最高の物ではなくなってしまっていたか
ら」
望みを諦め生涯を海で送るより。その末に願いが叶わなければ、海の泡になるとしても。
「誰か特別な1人を抱き、誰かの特別な1人になると望んだ。それを抱く幸せに目覚めた。
それは痛くても辛くても、幸せな事なの」
『逢えない事は不幸せじゃない。哀しくても辛くても打ち拉がれても幸せは感じ取れる』
本当に大切な物は、自身の内に宿す物だ。
王子様を掴む事ではなく、王子様を心に抱く事。人魚姫は最期迄王子様を刺さなかった。
王子様の幸せを、人魚姫は望んだの。可哀相だけど、何とかしてあげられればと想うけど。
精一杯を尽くした後、姫はきっと満足だった。
「海の泡と消えちゃったけど、姫は哀しいだけの最期ではなかったと思う。人の幸せを望
み願い、危険や苦難に怯まず、その手で助け泳ぎ抜く、強く優しい心の持ち主ですもの」
「ゆめいおねえちゃんみたいに?」「ん…」
話しを突然振られて瞬時考え込むけれど、
「だめっ。ゆーねぇ、にんぎょひめダメっ」
白花ちゃんの叫びが強く。幼い両腕がこの左腕に巻き付いて、頬を寄せて、目を閉じて、
「泡になっちゃダメ。きえちゃダメ。いなくならないで……!」「あ、けいもダメっ…」
想い出した様に桂ちゃんも右腕に巻き付いてきて。幼子2人は競う様にわたしに左右か
ら柔らかな肌を合わせ、声を大きく響かせて。
「ゆーねぇぜったい」「にんぎょひめダメ」
『ゆーねぇはぼくの』『たいせつなひと…』
「「ぜったい、いなくなっちゃダメっ!」」
2人の声が一致して、わたしの進路を一つ塞ぐ。わたしは幼かった頃、海を元気に泳い
で王子様に一途な人魚姫に、一番の人を想い願うひたむきさに心惹かれ、憧れたのだけど。
それは本気で望む前に潰えた様で。同時に寝かせ付ける為の絵本読み聞かせの意図も潰え。
わたしを望んでくれて、わたしを好んでくれて、わたしを想ってくれる。その優しく愛
らしい肌触りに、わたしは心迄暖められつつ。少しの困惑と諦めを込めて力を抜いて深呼
吸。
「有り難う。白花ちゃん桂ちゃん、嬉しい」
やや強く左右の腕で両脇の頬を抱き寄せ。
その感触でわたしは消えないと安心させ。
この身は、簡単に潰える訳には行かない。
笑子おばあさんの最期が遠くないのなら。
暫く贄の血の力の使い手は、1人になる。
愛しい幼子を導き招ける者はわたしのみ。
千羽の真弓さんも、血の薄い正樹さんも。
浅間のサクヤさんもそれが叶わない以上。
「大丈夫。わたしはどこにも行かないから。
ずっと、ずっとこの羽様に居続けるから」
わたしは王子様を追い掛けて、遠くに行ってしまう事はしない。わたしの王子様は遠く
のお城にはいない。わたしの可愛い王子様は羽様の古びた日本家屋で、5年近く前に生を
受け、2人元気溌剌に生き生き育って輝いて。
わたしの生に光を当てて蘇らせてくれた人。
わたしに生きる値と目的を与えてくれた人。
漸く巡り逢えた、愛しさ限りない一番の人。
「大切なだけじゃなく特別な人。
特別なだけじゃなく一番の人。
この世に唯1人と、思える人」
わたしにとって、それはあなた達2人よ。
様々な想いがよぎる中、わたしは確かに、
「桂ちゃん、白花ちゃん。あなた達が一番」
わたしはどこに行く事もしない。生きても死んでも羽藤柚明は、羽藤桂と羽藤白花の為
にある。力も生命も想いも全て。愛した2人の為になら、泡になった末にも守り続けよう。
夏が終り、秋が来て、冬に心鎖されても。
わたしは終生この幸せを胸に抱き続ける。