第4話 過去と未来のはざま



前回迄の経緯

 羽藤のお屋敷は山深い森の近くにあります。

 笑子おばあさんが子供だった頃より前から、代々の羽藤は羽様の山奥に生えている槐の
大木を、オハシラ様が宿るご神木としてたいせつにしてきました。子供は近付いてはいけ
ないので、羽様に移り住む迄は、わたしもご神木を訪ねる事は、考えてなかったのだけど
…。

 羽藤であるが故に付きまとう贄の血の定め。
 その故にお父さんお母さんを喪ったわたし。

 わたしは己の定めを受け止める強さを得る為に、笑子おばあさんについて羽藤の特殊な
血・贄の血に宿る力の修練を始めたのだけど。中々想う様に進展せず、焦りに囚われたわ
たしはふと、ご神木に訊いてみようと思い立ち。

参照 柚明前章・第二章「哀しみの欠片踏みしめて」

    柚明前章・番外編第4話「変らない想いを抱き」


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 木。

 たくさんの木。

 高く伸びる木々それぞれが、好き放題に枝を伸ばし、空を殆ど覆い隠してしまっている。
わたしが手を伸ばしても抱えきれない程太い幹の古木が立ち並び、丈のある草が生い茂る
狭い道を、視界は前に進み行く。その視点はどうやら子供の目線で、その進み方は早歩き。

 視界がふと後ろを振り返る。

 少し離れて開けた処に、瓦の並ぶ屋根が見えた。平屋の大きな日本家屋。暫く前からわ
たしが住む様になった羽様のお屋敷。離れに見えるのは蔵だった。羽籐代々の遺物が収蔵
された、外から見たより随分奥行きの深い蔵。

 吹き寄せるそよ風に、視界が前へ向き直る。秋を迎えて風も涼しくなっていた。陽も遮
られる山の森に入れば気温も更に低い。道の勾配が段々急になる。獣道でもまだ道らしく
開けていた処を外れ、わたしは草を分けて進む。

 速く、早く、はやくはやく。

 追われている訳ではないけど。人里離れた山の森は昼尚薄暗くやや怖い。住み始めて長
くないわたしには未知の領域で馴染みも薄い。必要を感じて、敢て踏み込んだわたしだけ
ど、行き帰りに時間を掛けては家族を心配させる。足下の草を踏みしめ急ぐ。ざっざっざ
っざっ。

 ざあぁっ……。

 急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。

 そこには見上げる程大きな、数百の歳月を雨風と共に過したといった趣のある、大きな
大きな樹が根を下ろしていた。槐のご神木だ。ご神木に遠慮した様に、その周囲は若い樹
も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。

 時季が外れているので、サクヤさんが言っていた白く咲き誇る多くの花も見えはしない。
天に伸びる巨木はわたしの両手を幾つ繋げても囲いきれぬ程太い幹から多数の枝葉を広げ。

『……この景色には……見憶えがある……』


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 ご神木の前に少し開けた草の広場の片隅で、わたしは独り佇んで、天を覆う見事な枝葉
をやや遠くから眺め見る。もうじき拾三歳の誕生日を迎える晩秋は、日は照っていても空
気は冷たく。中学校の紺色の冬用セーラー服の上に、一枚何か羽織って来るべきだったか
も。

 日が傾く迄はもう少しあったけど、秋の日はつるべ落しで、傾き始めれば加速度が付く。
帰りの時間も考えれば、それ程の余裕はない。暗くなる前に帰らないとみんなを心配させ
る。

「前に独りで来た時は、独特の空気に背筋が震えて長居できず、走って逃げ帰ったけど」

 その方が子供には良かったのかも知れない。小学3年生の女の子が、大人の導きもなく
この山奥に来るのは、晴れた日でも結構危うい。危険な獣は居ないけど、山の天気は変り
易く、雨露を凌げる場所もない。子供の背丈を超える藪が繁り、上空は木々の枝葉が密で
昼尚薄暗く、日が沈めば闇に鎖され足下も視えない。

 目的に執心する内に暗くなって帰途を見失うより。あてどなく山や森を彷徨い歩くより。
この独特の空気に当時のわたしが、己の目的も忘れて怯え、逃げ走り、日が落ちる前に帰
り着けたのは。オハシラ様の導きだったかも。

「……お久しぶりです……オハシラ様……」

 独りで訪れるのは4年前の神無月以来か。

 オハシラ様のお祀りで羽様の家族と一緒に、去年と今年日中訪れたけど。独りで来ると
空気が違う。わたしの受け止め方以上に、ご神木の迎え方が違う。今のわたしはそれが分
る。

 オハシラ様のご神木は、子供が近付いてはいけない神域と聞かされていた。わたしはお
父さんとお母さんの仇である鬼が再来した去年初夏、桂ちゃんと白花ちゃんを命懸けで守
り抜けたあの時、実質大人だと禁を解かれたけど。以降オハシラ様の祭祀にも加えて貰え
たけど。不用意な接近は尚自主規制していた。わたしは修練途上の未熟者、憚って当然と
…。

 前に自らここを訪れたのは、わたしが羽様に移り住んで間もない小学3年生の秋だった。
禁忌を報されなかったのは、わたしが塞ぎ込みがちな都会育ちの女の子だった為だろうか。
自身の意思でここ迄歩み来たのに、結局ご神木をこの位置から遠目に眺め見て、その雰囲
気に呑まれただけで、怖くなって逃げ帰った。

 何と小さく軽く幼い自分。でもそう振り返る今のわたしも、もう少し先のわたしには小
さく軽く幼く見えるのだろうか。そしてわたしが何歳になってもご神木には、子供の様な
孫の様な、小さく軽く幼い存在なのだろうか。

 サクヤさんの一番の人との想い出の場であるご神木。お母さんや笑子おばあさんを初め
とする羽藤が祀り続けてきたご神木。わたしや、桂ちゃんと白花ちゃんを初めとする羽藤
の子々孫々を、見守り続けてくれるご神木…。

 ご神木は千年一日の如く、今日もどっしりと腰を下ろしている。日中にも関らず、神秘
的な雰囲気を滞留させて。周囲は少し開けているから、日の光は差し込むのだけど。関知
も感応も発動不要だった。自然と分らされる。

 唯の大木ではない。宿っている。それを神と呼ぶのか霊と呼ぶのかは定かではないけど。
贄の血の力を修め始めた今のわたしには分る。これがオハシラ様なのかも知れない。幼い
日のわたしは、この常ならぬ気配に怯えたのか。

 何が怖いかも分らない侭逃げ走った幼い日。
 あの時目を閉ざし、耳を塞いだあの印象に。
 わたしは再度向き合おうとしているのかも。

 見上げたご神木の枝葉から漏れる日の光に目を細める。それは堂々として、とても美し
く力強く。そう、あの時も確かこんな印象を抱いたのではなかったか。初めてだったのに。
あの時は紛れもなく生れて初めてだったのに。

 今この印象を抱くなら分るけど。小学3年生の記憶と今が二重写しになるなら分るけど。

『……この景色には……見憶えがある……』

 過去のあの日に感じた既視感は、一体…?


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 お父さんお母さんを喪って、羽様のお屋敷に転居してから三月程経った神無月。わたし
はふと羽様の山の中腹にある、オハシラ様のご神木に逢おうと思い立った。自身の血に潜
む力を引き出す助けになるかもと想ったのだ。

 人の血は呪術に使われる等、特殊な力を持つという。中でも羽藤の血は特に贄の血と呼
ばれ、人外の者に良く好まれるとか。それを知ったのも、鬼によって家族全てを喪った前
後だけど。何もなければ、わたしはこの身に潜む真相を、もう少し報されなかっただろう。

『にえの血……、生け贄の、にえ?』

 羽藤の大人が鬼と呼ぶ人外の者達に、贄の血は普通の人の数十倍、数百倍の甘さで匂う。
その効果はお母さんが鬼に刺し貫かれた時に間近で見て知った。呑んでないのに、血を浴
びただけで、熔け落ちた皮や肉が目に見えて修復する、銃弾を受けても深く食い込まない。

 人の食物も色々あって栄養素やカロリーが異なる様に、人の血も千差万別に違う。わた
しに流れる羽藤の血は鬼を喜ばせる物らしい。有り体に言えば、甘くて美味しいらしいの
だ。自分で舐めても味は感じないけど、青珠を持たず修練もない身では、血が匂って鬼を
招く。先祖は大昔には代々生贄を担っていたのかも。

 お母さんがお腹に宿した妹と亡くなった今、その血を引くのは、羽様の古びたお屋敷に
住む母方の親族、笑子おばあさんと、お母さんの弟で新婚の正樹叔父さんと、わたしの3
人。

 思い返せば、わたしは幼い頃からお母さんに青珠を手放さない様に言われていた。血が
濃いとの呟きを、憶える程に聞かされていた。出血を伴う怪我は嫌われ、流した血は拭い
取られ、応対は当のわたしが過保護に思う程で。

 青珠のお守りを持つ限り、血の匂いは鬼に感づかれない。でもその効果は電池にも似て、
定期的に力を込めなければ消耗して力を失う。

 その補充が出来るのは、今の羽藤家では笑子おばあさんと、最近正樹さんのお嫁さんに
来た真弓さんだけ。真弓さんは羽藤の人でも贄の血の持ち主でもないけど、実家に似た術
式が伝わってあると聞いた。何代も先祖を遡れば本家と分家だったりするのかも知れない。

 経観塚には鬼の目を攪乱する結界があって、青珠を身に付けなくても贄の血の持ち主が
鬼に見つかる心配はない。青珠は今は桐の箱に仕舞われて、唯のお宝として眠るだけ。血
の力の修練が停滞気味なわたしも、心配なく学校に通い、経観塚へ買い物に一緒していま
す。

 わたしが羽様に転入し、夏休みを迎え安定した頃、サクヤさんはかねて計画の長期取材
に入った。お父さんとお母さんを失う前の夜に訪れた時言っていた、ルポライターのお仕
事だ。命懸けの取材とは聞いてなかったけど。

 サクヤさんはその取材中に真弓さんと逢ったらしい。わたしが紹介された頃は打ち解け
ていたけど、当初はどうもサクヤさんの敵方、サクヤさんが取材しようとした物を守り隠
す立場の人で、真剣の争いを幾度も経たと言う。

「初めまして、ではないわね。柚明ちゃん。
 これからは、羽藤真弓です。よろしくね」

 諸々の事柄を全部呑み込んだ、清々しい程さっぱりした挨拶が、印象に深かった。その
端正な正座姿も、一分の隙もない落ち着きも。

 一度か二度、紹介される前の真弓さん、サクヤさんと真剣で敵対していた真弓さんを見
た事がある。ただ者ではなかった。あの時は諍い最中と言う事もあってか、抜き身の日本
刀だった。凛然たる気配も清冽な殺気も美しい強さも、全てわたしの持ち得ぬ物ばかりで。

 その諍いは遙々経観塚に持ち込まれ、正樹さんを巻き込んだ後で漸く決着した。正樹さ
んが真弓さんと出逢ったのは未だサクヤさんと敵対中の、戦闘モード出力全開の時らしい。
その強さに惹かれたのか、その美しさに惚れたのか、裏側に隠れた優しさを見抜いたのか。

 詳しい経緯は分らないけど、真弓さんは自身の依ってきた立場を捨て、サクヤさんと和
解し親友になった。そのサクヤさんの勧めで、真弓さんは正樹さんの告白を受けて結ばれ
て。

 豪華な挙式はなかったけど。おばあさんは、実家に絶縁され着の身着の侭でやってきた
真弓さんに、花嫁衣装を機で織って着せて与え。羽様のお屋敷で簡素に式を行い。どうや
ら2人の結婚は、千羽には認められてないらしい。

 なので真弓さんの実家の千羽とは、交流は全くありません。鬼を切る武門の家と聞いた
けど。真弓さんもとんでもなく強い人だけど。その上で細身で華奢で凛々しく爽やかだけ
ど。

 2人が結ばれた時、わたしが悩んだのはお屋敷をいつ出るべきかだった。継母に虐めら
れるとは思わなかったけど。笑子おばあさんや正樹さんの目に叶った真弓さんがそんな事
をするとは思わなかったけど。新婚の家に瘤の様についているのは好ましくない。夫妻に
子供が出来れば、いよいよわたしはお邪魔虫になる。血の力の修練も滞り気味だったけど。
父方の親戚とか、学生寮や下宿とか術はある。

 でも羽様を出るのなら、血の匂いを隠す力の操りは憶えるべきだった。家族全てを喪っ
たあの夜も、交通事故で意識のないお母さんの回復を願って、青珠をその手に握らせた結
果、わたしの血の匂いが漏れ出て鬼を呼んだ。青珠に力を注げる程度に力を操れれば。で
も。

「一体どうやれば贄の血に眠る力を操れる様になるのか、全然感覚が分らないのだもの」

 笑子おばあさんに諭され、ここに来て暫く経った頃から、力の操りを学び始めたわたし
だけど、現状は全然巧く行かず挫折の日々で。『才能がない』は禁句だった。正樹さんも
サクヤさんも口を揃えて、わたしの血は濃いと言う。お母さんの言葉を、嘘には出来ない
し。

 でも、その修練は全然進展を見せず、わたし自身をさえ苛立たせる物だった。笑子おば
あさんは焦る必要はない、期限なんてないからと、気長に構えてくれたけど、しまいには、

『己を守りたいって想いが薄いみたいねえ…。
 必死さを、どこかから引っぱり出さないと、中々一線を越えられないのよ』

 一度感触を掴んでしまえば、一度目安を身体に憶えさせれば、後は何とも出来る。問題
は最初のきっかけ。絶対に越えられないと思いこんでいる一線を、越えてしまう瞬間なの。

 死ぬ程の想い。殺す程の想い。

 自分の限界を突き抜けさせる衝動を己の中に養わないと、その壁は突破できない。火事
場の馬鹿力に類似して、絶対に譲れない物や、何が何でも守りたい物を持たなければ、我
を忘れ我を越えてしまう『何か』がなければ…。

『じゃあ、わたしには、無理かも知れない』

 そんな物ある訳がない。わたしは禍の子だ。家族全員に死を招いた悪い子だ。わたしは
己が生きる値打ちを尚信じられずにいた。己が生きる意味を尚見いだせずにいた。お父さ
んやお母さんの処に逝きたいとさえ思っていた。出来る筈がないと言うより、そこ迄する
程人生に意味を感じ取れず、心の底に闇が蟠って。

 生きる事は重荷で煩わしかった。サクヤさんや笑子おばあさんに諭され、生きる事を承
諾したけど。託された生命を捨てるのは悪だから、辛くても哀しくても生きねばならない。
生きる事は自身への罰で報いで、義務だった。

 前向きになろうとしてもダメだった。
 守りたい物など、今更どこにあるの?

 もう絶対に失えない物を失ってしまった。
 その上でわたしは何の為に力を修練する?

 凍りついた心。それをほぐす為に笑子おばあさんは血の力を習う様に言ってくれたのに、
わたしはそれを受け付けられずその心を汲み取れず、どうして良いか分らず己を持て余し。

 一向に進展しない血の力の修練に苛立ったわたしは、ふと近道を思いついた。羽藤の家
が代々お祀りしているオハシラ様のご神木に、お願いするのはどうか。羽藤の1人である
わたしの願いを聞いて貰う事はできなかろうか。

 夏にご神木の前で行うオハシラ様のお祀りには、子供なので参加してないけど。大凡の
場所は聞いて知っている。大木なので誰が見ても、間違いなくご神木だと分るとも聞いた。

 血の匂いを隠す力を備えれば、どこに住んでも鬼の脅威に怯えずに済む。お友達やサク
ヤさんにも危険が及ばない。経観塚を離れても青珠なしで生きていける。新婚の家に小姑
として居続けて、迷惑をかける事もなくなる。

 未だ陽は高い。山道も雨が降ってないから濡れてないし、天気も晴れだ。さっと行って
夕刻迄に帰ってくれば、誰にも気付かれない。それで血の力の扱いに、突破口が見つかれ
ば。


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 そう思って山道を、途中から獣道もない中、背の高い藪や枝葉をかき分けかき分け。小
学3年生の女の子には、結構な冒険だったけど。草藪に身を揉まれる事を怖れなければ何
とか。

 言われていた通りご神木は見てすぐ分った。
 天に向けて巨木は枝葉を広げ、聳え立って。

 周囲は遠慮したかの様に、他に木も生えず。
 幾百の歳月を過ごしたと見て分る古い存在。

『……この景色には……見憶えがある……』

 この時なぜわたしはそう感じたのだろう?

 馴れない山道を、藪に絡まれ土に手を付き、息を切らせて辿り着いたのに。いつの間に
か汗が引けていた。それは高地の空気の清涼さだけではなく、その独特に霊妙な空気の故
か。

 微かな風の音の他には、動く物音もない。
 鳥も獣も虫迄ここを敬う様に寄りつかず。

 静謐は空っぽではなく、何かに満たされ一杯になったが故の。揺らがない存在感を示し。

 いる……。ご神木に何かがいる。
 樹には入る隙間もない筈なのに。

 でも、ご神木は唯の樹ではなかった。
 他の樹が持たない何かを宿している。

 ご神木が動物の様に、息づく感触が視える。
 すうはあ、すうはあ、幹の下の呼吸が分る。

 ご神木が、或いはその幹の中に潜む何かが。
 根から何かを吸い上げる様を、感じ取れる。

 眺めただけで、雰囲気の違いが視えて分る。肌身に伝わる。それはむしろ、わたしに分
らせたい位活発に。或いはオハシラ様はこの時、わたしを出迎えてくれていたのかも知れ
ない。

 でもわたしは常の人には見えぬ何かを畏れ。その存在や感触を感じ取れてしまう己に怯
え。そちら側に引き込まれるのではと背筋が震え。身を翻し、後ろも振り向かず坂を駆け
下って。

 わたしは何に怯えて逃げ帰ったのだろう?

 唯心の奥の奥から、ここに長居してはいけないと、ここに近づいてはいけないと。心が
焦り怯え乱れだし。心臓や胃袋を掴まれた様に、魂が全力で人肌を求めていた。確かに触
れて縋り付ける肉感や温もりを渇仰していた。わたしが肉を持つ生きた人である事を、誰
かに縋って抱きついて確かめないと安心できず。

 殆ど息を継ぐ暇もなく、転がり落ちる様に羽様のお屋敷まで駆け戻り、葉っぱや土に汚
れた身の侭で、庭先に出ていた正樹さんの左の足に縋り付いた。飛びついてしがみついて。

「柚明ちゃん……?」「怖い……こわいっ」

 オハシラ様のご神木が、怖かったっ!

 暮れてきた陽の鮮血の赤が怖かった。
 薄暗くなり行く藪や木陰が怖かった。
 独り取り残され迎える闇が怖かった。

 この侭人の世界に、家に戻れない気がした。
 山に潜む何かに取り込まれてしまいそうで。
 羽藤の他には殆ど訪れる人もいない片田舎。
 隣家も数キロ隔たり、行き交う事も少ない。

 昼は小学校にも通うけど、日の沈んだ後は戸外には、月や星の明かりの他には何もなく。
舗装されてない道は車も一晩中一台も通らず。聞えるのは、虫の音と鳥の羽音と、風の音
と。

 正樹さんや笑子おばあさん達がいなければ、人の世界は数キロ先迄遠ざかる。電気の光
とテレビの音声に満ちた現代文明は、何と心細くか弱い存在か。何と危うく脆弱な物なの
か。

「1人は怖い。お山は怖い。森は怖い……」

 人がいない。1人もいない。あそこに居続けると、わたしも人でなくなってしまいそう。
わたしも人でなくなって、戻って来られなく。

 生きる事が煩わしかった筈のわたしなのに。
 生きる値も目的もなかった筈のわたしが尚。

 浅ましく人に縋り付いて己を守りたく望み。
 己が己で居続けたくて震え泣き喚いていた。

 否、目的も値もない故かも知れない。守るべき大事な物を持たねば人は唯生きるのみだ。
鳥獣の如く反射的に死や痛みから逃れたがる。怖ろしい物や訳の分らない物を、厭い嫌っ
て。

 わたしは暫く泣くと言うより、正樹さんの優しい人肌を、欲して求めてくっつき続けて。

 漸く落ち着いて人の言葉が心に入る様になった処で、わたしは何があったのか、正樹さ
んの促す侭に順序を追ってお話しして。真弓さんが傍にいたと気付いたのはこの時だった。

 でも正樹さんは真弓さんの前でも構わずわたしをひょいと抱き上げ、笑子おばあさんの
下に行こうと。真弓さんも一緒に行こうと声を掛け。2本の腕にだっこされた侭奥の間へ。

「心に抱いた不安や心配は、心を許せる人にお話しすれば、随分軽くできるんだ。そして
愉しい事は、お話しする程に増えていく…」

 結局わたしは何が怖かったのか、確かに説明できなかったけど。笑子おばあさんは4人
の場でわたしのお話を、正樹さん以上に懇切丁寧に聞いてくれて。わたしが一体何を怖れ
たかを、全部分った様に頷きつつ答は出さず。

 答は不要だったのかも知れない。笑子おばあさんの結論は、にこにこ微笑みを浮べつつ、
『無事で良かった』と『オハシラ様のご神木には、子供は近づいてはいけない』の2つで。

 どうしてを問う気にもならなかった。言われなくても行く気など起きなかった。羽藤が
代々お祀りしている大事なご神木だと聞かされていたけど。それは大人の世界のお話しだ。

 笑子おばあさんはわたしを肌身に抱き留め。お話しに耳を傾けわたしの怯えや焦りに頷
き。言い表しきれぬ何か迄察しようとしてくれて。それで充分だ。わたしは守られている。
大事に思われている。人の輪の中にいる。わたしは肉を持つ人としてこのお屋敷に居所が
ある。それを肌身に確かめられただけで充分だった。

「柚明はわたしが守るから。大丈夫だよ…」

 耳に間近に囁きかけてくれる親身な想い。
 縛らない程に軽く引き留めてくれる両腕。

 わたしの乱れを受け止める柔らかさ強さ。
 その傍にいてくれる正樹さんと真弓さん。

 お父さんお母さんはいないけど。妹も弟もいないけど。この上にサクヤさんがいてくれ
れば、今のわたしに望みはない。たいせつな人、温かな人、優しく強い人。その輪の中で。
わたしは幼い幸せに満たされて守られていた。


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 わたしは余り冒険心のある女の子ではない。おしとやかとは言い難いけど、お転婆には
なりたくてもなれない口で。元気に走り回る子を見ると、生き生きとした様が少し羨まし
い。

 秋の山登りはわたしには一世一代の冒険で。
 もう一度とか雪辱を期すとかの気も起きず。

 その印象は長く心の奥に積み残された侭に。
 何よりも懸念の根の根が一つ拭われたから。
 オハシラ様に助けを願う状況はなくなって。

 血の力の操りの修練は尚遅滞した侭だけど。
 わたしが羽様を、このお屋敷をいつ出るか。

 考えが纏まりきらない侭、笑子おばあさんにそうお話ししてみた処、悪戯っぽい笑みで、

「これからは、頑張って小姑を務めて頂戴」

 実に楽しげに、その申し出を却下された。

「中々活きの良い花嫁だからねぇ。姑だけじゃ歯が立たなそうでね。あなたに残って貰え
ないと、嫁いびりが姑いびりになってしまう。一緒に楽しく、やって行こうじゃないか
い」

 瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。
 この人はおしとやかな侭悪戯っ子になれる。

「笑子おばあさん、少し楽しそう」
「少し? その程度に見えるかね」

 いえ、間違えました。凄く楽しそうです。

「小姑は鬼千匹に向うって言葉があってね」

 笑子おばあさんが口にした諺の意味とは、

【鬼千匹に匹敵する程恐ろしく、煩わしい】

 真弓さんに立ち向うには相応しい役かも。

「実際、花嫁は今迄特殊な職に一途に励んでいたから、日常的な事には役に立たないとわ
たしは睨んでいるんだよ。炊事、洗濯、掃除、全て柚明の方が先輩だと、考えた方が良
い」

 おいおい教えて行かなきゃならないけどね。それだって結構苦労すると思うよ。柚明に
いて貰わないと、わたしも歳だからきついんだ。

「嫁と正樹に子でも出来てご覧。わたしが孫の面倒をみる間、嫁の面倒は誰がみるかね」

 嫁の面倒はみなくても良いと思いますが。

 それ以前に、正樹さんがいると言う事を忘れ去って、わたしが言葉に詰まっているのに、

「そう言う訳で、あなたには今からが本番という気持で、頑張って貰いたいんだけどね」

「はい……よろしくお願いします」

 違う視点からの話に、わたしの申し出と噛み合わない侭、丸め込まれた感じで、わたし
は屋敷に留まる事になった。暫くの後に、笑子おばあさんの読みの正しさをわたしは知る。

 真弓さんが身籠もったのは、翌年の春、雪が溶け出す頃だった。それも男女の双子だと。

 お父さんもお母さんも、弟妹も失ったわたしだけど、何もかも失った訳じゃない。未だ
新しい出逢いは巡ってくる。未だ新しい生命は芽吹いてくる。世界は可能性に満ちている。
笑子おばあさんは、それを肌身に感じさせる為に、わたしを羽様に留めたのかも知れない。

「こっちの男の子が桂(今の白花ちゃん)で、こっちの女の子が白花(今の桂ちゃん)
よ」

 真弓さんに双子の赤ん坊を見せられた瞬間、人生のレールが切り替わる音が聞えた。遂
にわたしにできなかった弟と妹が出来た。この暖かでふよふよした2つの生命が、新しい
息吹が泣き声が、わたしは途方もなく嬉しくて。

 生命とはこれ程愛らしい物だったのか。
 生命とはここ迄守りたい物だったのか。

 愛らしさは無限大だった。愛しさは無尽蔵だった。この気持は無条件だった。わたしの
心に、起きる筈のない津波が起きた。大波が、わたしの凍てついた心を押し流し融かし去
る。

 この微笑みを曇らせない。この笑顔を泣かせない。この喜びの為に尽くしたい。この生
命に迫る、この世の全ての危険から守りたい。

 身体中の血が沸騰する感触があった。
 心臓の奥から噴き出す溶岩を感じた。

 凍える心を断ち割る涙は、嬉しさの故の物。この出逢いに、この気付きに、この巡り合
いに。わたしを包む世界の諸々に。今日迄生き延びてきたわたしの選択に、宿縁に感謝し
た。

 己は無価値で良い。禍の子でも良い。でも、そんなわたしでも、この笑顔の為に尽くせ
るなら。無垢な笑顔、無邪気な笑顔、唯の笑顔。それが、わたしには例えようもない程尊
くて。

 この2人を守り抜く為に生きる。
 この2人の役に立つ為に生きる。
 この2人の力になる為に生きる。
 わたしの生命は2人の為にある。

 わたしに望みをくれたのはこの2人。わたしを生かしてくれたのはこの2人。この2人
に生命を返さなければ。生命で応えなければ。生命を尽くさなければ。いや……尽くさせ
て。笑子おばあさんはこの事迄全てお見通しで?

 尤も、それは嬉しい事であると同時に、子育ての大変さを一部受け持つという事である。
わたしは戦場に形容される赤ん坊の、しかも双子の世話に援軍でかり出される事になって。
お屋敷は、急に人口が増えて賑やかになった。


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「あの秋の日から4年近く経ったけど。それもオハシラ様には僅かな時間なのかしら?」

 愛しい双子は揃って3歳になり、わたしも経観塚の中学校に通う様になって半年経った。

 以降オハシラ様に助けを願う状況もなくて。
 何より大きな懸念の根が一つ拭われたから。

 贄の血の力の修練は、白花ちゃん桂ちゃんが生れて以降劇的に進展した。既に血の匂い
を抑える術も、青珠に力を注ぐ術も確立した。他の人に『力』を注いで心身の疲れや傷を
癒す術も備えた。直接肌身に触れる事で、人や鬼も弾ける程強く力を紡げる様になって来
て。

 人の仕草や言葉遣い、顔色や声音や気配で、その人の思惑や心身の現状、為そうとして
いる事やその成否迄が視える様になり。幼い頃時々見た物の怪の類が確かに視える様にな
り。

 あれは錯覚ではなかった。修練が無く素養だけなので、焦点を合わせ続けられなかった
だけで。野山や学校や羽様のお屋敷や、己や友達の周囲に常在するそれらは、害のない虫
や腸内細菌にも似て。全てが敵な訳ではない。人が無自覚に抱いて発した想いの欠片もあ
る。

 去年の夏に詩織さんが引っ越した後の空き家を、わたしは今も時々訪れている。詩織さ
ん達が残していった想いと心通わせ合う為に。それは懐かしさを満たす以上に修練の一つ
だ。

 心が通じれば無闇に厭う事はない。相手が何者で何を思うか分らないから不気味で怖い。
適正な間合や、心通わせ合う術を身につける。何でも問答無用に祓えば良い訳ではないか
ら。

 人に害を為せる程強い霊体、生きた人を物理的に害せる鬼の様な強靱なモノは、熊や獅
子を倒す人程に希少なのだとも、分って来た。時々そう言う希少な物と出会う事もあるけ
ど。

 去年初夏、お父さんお母さんと妹の仇の鬼が、わたしの行方を辿って羽様迄来て、桂ち
ゃんと白花ちゃんに牙を剥いた。助けを呼ぶ暇がない中、愛しい双子に及ぶ害を防ぐ為に。
真弓さんに習った護身の技と、笑子おばあさんに習った血の力の、総力を注いで戦い守り。

 未熟なわたしが鬼に敵う筈はなかったけど、時間稼ぎは叶い、白花ちゃんの報せで駆け
つけて来た真弓さんに、鬼は切られて息絶えて。瀕死の深手を負ったわたしが、金曜夕刻
から月曜朝迄の3泊2日、羽様で寝込んだだけで歩ける迄に復せたのは、癒しの力の成果
です。

 贄の血の力は桂ちゃんや白花ちゃんに触れば触る程、更に引っ張り出される感じがする。
拾歳年下のいとこも、濃い血の持ち主だった。

『2人の為にも、柚明には居て貰わないと』

 笑子おばあさんに言われた事を想い返す。

『柚明の血はわたしより濃い。白花と桂の濃さはそれを凌ぐ。修練を始めればその内2人
はわたしを越えて行く。あなたが先にわたしを追い越した地点で待ってないと、2人は行
くべき途を見失い、惑う事になりかねない』

 わたしは笑子おばあさんに託されていた。
 わたし達のたいせつな、幼子の行く末を。
 全然未熟で、及ばなくて、頼りないけど。

『桂と白花を除けば、ここ数百年で一番濃い贄の血は柚明なんだよ。柚明にしか、2人の
先を導く事は叶わない。いずれ2人はあなたも追い越して行くだろうけど、年長の経験者
の存在は後々も長く2人の心の支えになる』

 真弓さんも、贄の血が歴代で最も薄い正樹さんもそれは担えない。出来るのはわたしだ
け。贄の血の持ち主として、力を操れる先達として、2人の力になれるのはわたしのみだ。
わたしの人生はたいせつな双子の為にある…。

 守らなければならない、守り抜きたい、守らせて欲しい。わたしのたいせつなひと達を。

 今もわたしの力は着実に伸び続けている。
 力を及ぼせる広さや深さや、保つ長さも。
 見通せる過去も未来も、関りの把握迄も。
 水が砂に染み込む様に感覚が届いて行く。
 結果わたしは幾つか禍の兆も見通す様に。

 昨秋は交通事故に遭った仁美さんの絶望を察し町へ赴き、顔の深手に癒しを注いで心を
繋いだ。今年初夏は和泉さんの斬られた左瞳に別れ行く定めを感じ、唇を寄せ癒しを注ぎ、
行く末をねじ曲げた。オハシラ様のお祀りの夜には、ご神木とサクヤさんのお話しの終り
をこの位置で待ち。帰りを一緒した時に随分前のお母さんを、自身の今と未来に重ね視た。

 わたしと2人夜の森を歩む事は初めてでも。
 その様に2人夜の森を歩む事は過去にあり。

『お母さんの想いが視える。ご神木の帰り道、サクヤおばさんと2人夜の森を、腕を絡め
て心寄せて、絆も想いも結びつけて。……お母さんも、サクヤおばさんを深く愛してい
た』

 視えたのは、2人ともわたしのたいせつな人で、同じ行いを同じ森で同じ夜に為した故。
今と過去の行いや想いの重複が、脳裏に像を。わたしがサクヤさんの左腕に身を絡めた様
に、少女だったお母さんもその左腕に身を絡めて、

【私サクヤさんに変らない想いを抱くから】

 彼と結ばれても、結婚し出産し育児に忙殺されたその先でも、サクヤさんに抱く想いは
変らない。日々諸々に向き合って、想いを形に表しきれなくても、確かに抱いて変らない。

【生命尽きる迄、サクヤさんを想い続ける】

 サクヤさんを放したくないと、今の想いを放したくないと、幸せな時を放したくないと。
真沙美さんのお父さんとの別離を、鴨川と羽藤の断絶を分るかの様に。数年先に待つ悲運
を破局を喪失を、お母さんは感じていたのか。

 重なったのは、オハシラ様のお祀りの当夜、サクヤさんと2人一緒の帰り道だけじゃな
い。同じ人に寄せた想いだけじゃない。過去のお母さんの前途に悲運が兆した様に、今の
わたしの前途にも。重なる像はわたしの前途にも、悲運や破局や喪失が、幸せの終りがあ
ると…。

 和泉さんや真沙美さんと絆を繋げた夏の夜、

『何となく感じるの。わたしはいつか多くを奪われ喪失する日が来るって。それは女の子
に生れついたなら普通に感じる予感なのかな。将来どこかで男の子と普通に交わる日が来
る事への、未知への怯えなのかも知れないけど。

 でも、和泉さんが心配する通り、望まない相手に奪われ失わされる気もするの。誰かを
守る為にこの身を抛った末に。その日を望む訳じゃないけど。危険を好む訳じゃないけど。
たいせつな人に迫る禍を防ぐ為にわたしが抱く想いは多分変らない、変えられないから』

 きっと和泉さんは早足で颯爽と歩く大人になる。真沙美さんは情熱と冷静さを併せ持つ
華やかな女性になる。2人とも行く先々で誰もが振り返らずにはいられない程綺麗な人に。
男も女も憧れる素晴らしい人に。その様が瞼に浮ぶ。思い浮べるだけで愉しい。そう成り
行く2人の傍に居られる今は幸せだったけど。

 奇妙な事に己の成人した像は視えてこない。大学に行ったり職に就いたり、大人に成り
行く己の姿が視えない。高校に進んだ先の己の像が薄くぼやけ。女の子や男の子になり行
く愛しい双子に添う像が、霞んで不確かなのは。

 視える像より視えない事が何かを暗示する。
 その幸せを見守る事が叶わないと言う事は。
 その守りに尽くす事が出来ないという事は。

『……わたしは……羽藤柚明は、もしや…』

 確かな像が視えた訳ではない。誰がいつどこでどうなるか悟れた訳でもない。わたしの
関知や感応は未だ伸び始めで、好きに見通せる訳ではない。確実に分るのは精々数日先や
数週間先の、己か深く関る誰かの事で。遠い未来の断片が視えても読み解けない事も多い。

 今切迫した大きな禍は、何も感じてない。
 でも心奥に、不安の芽は横たわっていた。

 日々はこんなに満ち足りているのに。幸せは溢れているのに。桂ちゃんも白花ちゃんも
可愛く育ち。笑子おばあさんもサクヤさんも元気で。正樹さんも真弓さんも新婚生活を謳
歌して。お友達とも深く強く絆を結べたのに。

 わたしは一体、何を視ようとしているの?
 或いは一体何が視えなくて焦っているの?

 夏頃から感じ始めた漠然とした不安と怯え。それはいつの事か、誰の事か、何なのかさ
えも分らない侭、心の隅に居座って。気の迷いかと思って暫く放置し、様子見していたけ
ど。

 その後も伸び行く関知や感応で尚見通せず。でも気の迷いではない事も徐々に分り始め
て。未だ遠い先の事柄なのか。未だわたしに関り薄い段階なのか。未だ見通す力が不足な
のか。

 この歳になって己が説明できない怯えを相談するのは気が引けた。笑子おばあさんも正
樹さんも真弓さんも、育ち行く幼子で手一杯なのに。中学生になったわたしが心煩わせて
は拙い。わたしは今年も迷惑や心配を掛けた。

 これ以上わたしの事で家族を振り回せない。わたしも守る側を志した。形状も定かでな
い己の悩みで、人の助けを望んではいられない。笑子おばあさんは兆しの読み解きに長け
た人だけど。せめて自身で整理し説明できないと。

 それに間近に一つ解を得る方法があった。
 わたしは暫くぶりにご神木を独り訪れて。

 燦々と降り注ぐ陽の下でも、周辺の少し開けて何も生えてない処に霊妙な雰囲気を感じ。

『この景色には……確かに見憶えがある…』

 無自覚な侭ご神木に足を踏み出していた。

 夏に祭祀に参加した時に家族で一緒に入り込んだ、樹も丈の高い草も生えてない間近迄。

 幾つかの絵図が瞼の裏に浮んでは消える。
 見覚えのあるこの景色に重なって視える。

 ご神木を切なそうに見上げる真弓さんや。
 その幹に愛しげに頬寄せるサクヤさんが。

 抗議する様に、駄々こねる様にその幹を。
 強く叩きつつ、涙溢れさせる像も視えて。

 悲嘆と絶望にこの胸が締め付けられたけど。
 それはいつの何を誰を悼んでいるのだろう。

 近づけば近づく程に、ご神木間近の空気にわたしの力が反応して、更に鮮明に像を結ぶ。
もう少し近づけば関知が伸びて全てが視える。わたしの力が、引っ張られる様に伸びて行
く。

 怒り哀しむサクヤさんが鮮明になり。涙の伝う頬や口元が間近に映り。何か訴えている。
声は聞えないけど、唇の動きが視えて来て…。

 瞬間、ご神木の周囲の空気に、オハシラ様の強い意志に、わたしは拒まれて、弾かれた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 ご神木の間近に開けた空間は、二重の結界の内側だ。贄の血の匂いを隠し、不用意に近
づく人を無意識に遠ざける結界が、羽様周辺を四拾キロ半径で覆う他に。ご神木間近で半
径数十メートルの狭い結界が、悪意を抱く霊体の鬼を拒み隔て入らせぬ様に張り巡らされ。
ご神木に直接触れられぬ様に強く弾く効果を。

 内側の結界は、実体を取れぬ弱小な物の怪のみならず、かなり強い鬼でも霊体なら寄せ
付けない。この周辺が清浄なのはその為でもある。お父さんお母さんの仇だった鬼の様に、
肉体を持つ物は防ぎがたいけど。それでも心に作用して相当怯ませる事は叶う。今この肌
に痛みの錯覚を伝え、怯ませ足を止めた様に。

「オハシラ様……どうして? わたしは…」

 もう少しでサクヤさんの声も聞けたのに。
 あと僅かでその嘆きや訴えが分ったのに。
 それを阻むかの様に、正面から風が強く。

【下がりなさい。離れなさい……】「…?」

 オハシラ様の声を聞いたのは初めてだった。
 女の子の良く透る声は強く厳しく心に響き。

 彼女の意思が心に届いたのは初めてだった。確かに感じ取れる。日中なのに、陽光の下
でオハシラ様は力を揮って、わたしへ想いを…。

 でもその馴れ初めが、拒絶や弾きや拒みになってしまうとは。地面から足に、空気から
肌に、進む事を阻む感触が纏い。押し戻したい意思を感じる。下がりなさいと厭う印象が。

 神様はやはり軽々しく触れては拙いのかな。
 わたしは叶う限りの誠意を込めてご挨拶を。

 人ではなくても、不思議な物でも、害意や悪意のある物でなければ怖れ隔てる事はない。
オハシラ様と交流できれば、贄の血の力も更に向上が早まるだろうし。笑子おばあさんや
サクヤさんにも、成果として報告できるかも。

 良い印象を抱いて貰おうと、敵意や悪意のある存在ではありませんと、敬意を込めつつ、

「初めまして、オハシラ様。わたし、っ!」

 わたしは、語り終える事ができなかった。
 左掌に、電流を流された様な痛みが走る。

 実際にはケガはない。それはオハシラ様が、わたしの心に及ぼした錯覚の痛みと分るけ
ど。

 でもそれは遠慮のない拒絶の意向であり。
 わたしと話したくないとの想いが視える。
 下がりおろう、触れるでないと断り弾き。

 印象は艶やかな髪長の可愛い女の子なのに。
 おしとやかに小柄な、高校生位の綺麗な人。
 でも目前に視えた表情は、きつく締まって。
 わたしを睨む様に正視して、力を煽り続け。

 内側の結界からわたしを弾き出そうと試み。
 肌身にぴりぴり痺れや痛みの錯覚を届けて。
 贄の血の力を使いこなせばできる技だけど。
 わたしは鬼じゃないのに、敵じゃないのに。

 心和らげて欲しく、誤解なら解いて欲しく、是非とも仲良くして欲しくて。サクヤさん
の一番たいせつな人は、この人なのだ。たいせつな人のたいせつな人は、わたしにとって
も。

「いたっ! いた……。オハシラ様っ……」

 心を繋げたくて、力を防戦には一切使わず、感応を伸ばす事にのみ意を注ぐわたしに対
し。

 オハシラ様の女の子はわたしの伸ばす感応を悉く断ち切って、錯覚の痛みを更に強めて。

 血は流れないけど。錯覚だと分るけど。それは本当に紙で肌を切る痛みを、間断なく及
ぼされる感じで。神経の奥の奥に響いてくる。本当に殴られた方が未だ耐えるのが楽な程
に。

「どうして拒むのですか? オハシラ様はわたしをご存じなのでしょう? 去年も今年も
お祀りには来ましたし、今年はお祀りの夜にサクヤさんとのお話しの終りを待って…!」

 いつっ! 一層痛みが激しく数多くなり。
 オハシラ様の硬い表情がいよいよ厳しく。

 可愛い容貌は故意に感情を抑え無表情で。
 オハシラ様がわたしに返した感応の図は。

『うん。サクヤおばさんが元気で綺麗な侭帰ってきてくれたらいい。わたしにとって、一
番綺麗なのは、サクヤおばさんだから……』

 これは、幼い夜の直前のわたしの言葉だ。

『この髪飾りを付けて、綺麗になったわたしを是非、見せてあげたいの、見て貰いたいの。
サクヤおばさんに、わたしの一番大切な、特別な、サクヤおばさんに!』

 大切なだけじゃなく特別な人。
 特別なだけじゃなく一番の人。
 この世に唯1人と、思える人。

『わたしにはそれは、サクヤおばさんです』

 ぴしっ、一層弾く力が強く痛みを届けて。

【あんたが悪い子なら、一体どこの誰が生命を捨てて迄、あんたを鬼から守る物かい!】

【傷跡が残ったって、あんた程可愛い娘はそうそういないさ。貰ってくれる男がいなけり
ゃあ、あたしが貰ってやるから安心しな…】

【あたしを心配してくれて有り難う、柚明】

【真剣に心配してくれた想いが嬉しいんだ】

 一つ一つがサクヤさんの想い。オハシラ様はサクヤさんがわたしに抱いた想いを知って。

 弾く力、拒む意思、隔てる心が更に強く。
 続けざまに彼女がわたしに流し込む像は。

【あたしがいるよ、柚明】

【誰がいなくなっても、あたしは居続ける】

【あんたが誰を得ても、誰を失っても、誰と巡り会い断ち切れても、あんたがついの時を
迎える迄、あたしは居続けるから】

【拾二歳の誕生日おめでとう、柚明】

【まぁ偶には、痛みや哀しみを抱き留める以外の抱擁も、あって良いかも知れないね…】

 ご神木の中で、右手を前方に伸ばしたオハシラ様の強い正視はわたしを向いて。拒む力
の操りは日中なのにいよいよ確かで。強い風が枯れ葉を飛ばし砂を飛ばし、わたしの頬を。

 ぴしっ。左の頬を何かが掠めて肌を切る。
 少量だけど、贄の血が神域を朱に染めて。

「ごめんなさい。……失礼しますっ……!」

 今回もご神木から逃げ走る結果になって。

 最後の瞬間、硬い無表情を変えない侭のオハシラ様が、なぜか寂しげに哀しげに視えた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 頬の傷は本当に浅かった。血の力を通わせれば、日暮れ迄に血は止まり、痕も残るまい。
問題はこの心の動揺や、オハシラ様との溝で。

「一体、どうして、オハシラ様。折角逢えたのに。初めてご挨拶できたのに、こんな…」

 オハシラ様を祀る羽藤の裔が、オハシラ様に弾かれた。サクヤさんの一番たいせつな人
に拒まれた。心を繋ぐきっかけも掴めなかった。オハシラ様はわたしとサクヤさんの絆に
不納得なのか。オハシラ様にとって、わたしはサクヤさんを惑わす浮気相手に見えたのか。

 山の日は落ち掛っている。足を速めるべきだけど、お屋敷にその侭帰るのも躊躇われた。
今のわたしは暗くなっても足下は危うくない。秋の冷気も血の力を紡げば障りはない。何
より乱れた心の侭でみんなの前には出たくない。無事を繕える程度には想いを立て直さな
いと。

 ご神木に戻る気にはなれなかった。オハシラ様はわたしを傷つけて迄触れ合いを拒んだ。
血を流す事、浅くても傷付ける事で。それで尚引かない選択もあったけど。敢て女の子の
頬を傷めて促した強い意志は、受け止めよう。

 オハシラ様は、わたしの贄の癒しを分っている。皮一枚の傷位すぐ治せると分っている。
だからそこ迄為せたのだろうか。日中樹の外に力を及ぼすのは、あの程度でもオハシラ様
には相当な消耗の筈だ。わたしも日中は、贄の血の力は直に触れないとまともに使えない。
元々吹いていたそよ風を操るだけでも大変だ。

「そこ迄して拒まれた、嫌われた……ん?」

 そこでふっと脳裏に浮ぶのは、促しの侭に離れる瞬間の、オハシラ様の寂しげに哀しげ
な表情で。優しげに綺麗な顔立ちは、引き締まって敢て感情を殺していたけど。それはわ
たしに抱いた憤怒を抑えると言うより、それとは別の想いを隠したい故ではないだろうか。

 オハシラ様には最後迄憎悪を感じなかった。強く弾く意思は感じたけど、拒み通す想い
は強かったけど。サクヤさんとわたしの関りを視せて伝えて来たけど。その上で拒み弾け
ば、その所為で嫌っていると印象づけられるけど。感情的に拒んだと話の糸口も断ち切れ
るけど。

 夏の夜の、真沙美さんのお話しが心に兆す。

『因果な一族だろう。敵意の有無じゃなく関る事で鴨川は羽藤を傷つけ奪う。私があんた
と距離を置いたのは、羽藤は全員鴨川を許さず憎むに違いないと幼心に想った事と。私が、
他人を傷つける定めを重ねたくなかったから。

 家の縛りや、定めや、家風から全て切り離されて生きていける強さを、私は欲しかった。
それが持てない間は、幾らあんたが可愛く優しくても、傍で過ごし交わる事が愉しくても、
最後は宿命に流されあんたを傷つけると…』

 近過ぎてはいけない。触れてはいけない。

『あんたの為に、あんたを好いた自分の為に。ずっと関りを抑えてきた。怖くて、怯え
て』

 哀しくも辛い告白。真沙美さんのお父さんがわたしのお母さんの初恋の人で、初体験の
人で、勘当に脅されて結婚を諦めた関りだと。真沙美さんはわたしを嫌ってなかった。で
も傷つける定めに怯えて4年も近しく交われず。

「であるのなら……オハシラ様も、もしや」

 オハシラ様が拒み弾いても、わたしを忌み嫌っているとは限らない。人の絡みは中々思
い通りに行かない物だ。その人を想う故に敢て傷める事もある。真弓さんが護身の技の修
練で連日わたしをこてんぱんにしている様に。この血を流す拳や蹴りが愛を伝える事もあ
る。

 わたしはサクヤさんがオハシラ様をたいせつに想う事を嫌わない。厭わない。たいせつ
な人が一番たいせつな人に想いを寄せて満たされる様を見る事は、わたしの幸せでもある。
わたしとサクヤさんが近しい事で、オハシラ様がわたしを嫉妬し、憎み嫌うとは限らない。

 それはオハシラ様がわたしにそう印象づけようとしているのかも。別の理由を隠す為に。
サクヤさんが心底愛した一番の人が、サクヤさんの想いを分らない筈がない。わたしも笑
子おばあさんも、どこ迄行っても同着二位だ。わたしに分ってオハシラ様に分らない筈が
…。

 なら、日中に力を揮い、女の子の頬を傷つける迄して拒んだ想いは。弾いた意図は。憎
悪嫉妬でなければ、それ以上に強い好意でしかあり得ない。中途半端な想いでここ迄踏み
込めはしない。悪意でないなら、比類無く深い情愛だ。そうでないと説明が付けられない。

【あんたが悪い子なら、一体どこの誰が生命を捨てて迄、あんたを鬼から守る物かい!】

 己が青珠を手放した事が家族全員を喪わせたと知った小学3年の羽様の夜。わたしが最
初に死んでいれば良かったと口走った時、この頬を叩いて諭してくれたサクヤさんの様に。

 無表情を保ちつつ、強い想いを胸に秘めて。
 でも必須な事を為すその手は絶対緩めない。

 強く賢く優しい人。わたしのたいせつな人。
 いつ迄も、守り続けさせて欲しい槐の精霊。

 わたしの誤解も承知の上で、わたしを想う故に、わたしを傷つける行い迄為せる強い人。

 きっと今頃幾重にも心を痛めているだろう。
 無理に心通わせようとして酷い事をさせた。

 女の子の頬を傷つけるなんて、傷つけた方の心が痛むに違いない事を。わたしは愚か者
だ。子供っぽく歩み寄る事しか知らず、真意を察せられなかった自身の幼さが申し訳ない。

 サクヤさんとわたしの関りを視せつつ弾いてきたのは、わたしに嫉妬を誤認させる為だ。
感情的に拒んだと想わせて諦めさせ、遠ざける為だ。それは夕暮れが近くて危ないから帰
りなさい程度の促しではない。当分オハシラ様にわたしが近づかない様に、触れない様に。
わたしはオハシラ様に深く関っては拙いのか。

「……違う……でも……なら……もしや…」

 そんな筈はない。わたしは羽藤柚明、オハシラ様を祀ってきた羽藤の裔だ。血の濃さ以
上に、笑子おばあさんと正樹さんの次の世代ではわたしが年長だ。深く関らなければなら
ない立場だ。わたしより濃い血を持つ双子の先を導く為に、わたしは進んで羽藤を担わね
ばならない。仮に拒まれても一時的な措置だ。

『わたしが未熟だから未だ早いと言う事?』

 もう少しであの像はもっと鮮明に視えた。

 オハシラ様から離れて、あの霊妙な空気から離れて、わたしの関知も感応もいつも程度
の感度に戻らされ。彼女の望みはこの結末か。

『違う。力が未熟だから出直してきなさいは、あり得ない。オハシラ様に近づけば力が引
き伸ばされてきた。感覚が呼び起こされてきた。未熟を厭うなら、オハシラ様はむしろわ
たしを傍に呼び招いて力を伸ばそうとする筈…』

 なら、逆か。わたしの力が伸びない事を。
 彼女の真意は。確か適切な言葉があった。
 未熟ではなく、その反対。成熟でも無く。

「わたしが弾かれ拒まれたのは、未熟ではなくて、早熟? 贄の血の力の進展に、心の強
さが追いついて来てないと、言う事なの…」

 真沙美さんから聞かされる迄、わたしはお母さんの初恋も初体験も悲恋も報されてなか
った。正樹さんもおばあさんもサクヤさんも、わたしを案じて言えなかった。肉体関係や
離別の話だし、わたしは本当に子供だったから。

 受け止められる心の強さを持つ迄は、伝えられない事もある。贄の血の話しもわたしは、
お父さんお母さんの死の前後迄知らずにいた。視えるからと言って視える全てを見通す事
は、時に心を痛めると。確かな心の強さを備えない内に、血の力だけ大人並みに強くなっ
ても。

 オハシラ様は、わたしを深く案じてくれて。

 わたしが暫くは笑子おばあさんの下で、羽様の家族やお友達の中で、女女に心の強さも
充実させ行く事を望んで。拒み弾いてくれた。話せば話す程、交われば交わる程わたしの
力はオハシラ様に感化されて伸びて行く。最善は門前払いだった。わたしの誤解も恐れず
に、むしろ誤解された侭暫く隔てられればとさえ。

 本当に、賢く強く綺麗に優しい、愛しい人。
 サクヤさんが心から深く愛した訳が分った。

 強く凛々しい表情がこの胸をときめかせる。
 ずっと心に抱き続けたく想うたいせつな人。

 彼女の想いに応える為に。わたしは日々に確かに向き合って、修練に励んで心を鍛える。
たいせつな人を確かに守り通せる強さを掴む。彼女のその促しは、猶予の所在を示してい
る。この先に漂う暗雲は事実でも、それは未だ少し先だと。今は己の充実に意を注ぎなさ
いと。

 いつか必ずご神木に独りで向き合える様に。
 オハシラ様と心ゆくまでお話しできる様に。

 全てを見通して怯まない強い心を備えよう。
 それが桂ちゃんと白花ちゃんの守りに繋り。
 己より血の濃い2人の先を照す道標になる。

「あの景色には、確かに見憶えがあった…」

 日の射し込む森の中、槐の巨木が天に向って堂々と枝葉を広げ。それはとても鮮明に美
しく力強い。槐の花の舞い散る像はいつの夏か不明でも、とても香しく心落ち着かされる。

 わたしが視た絵は過去のいつかではなく。
 小学3年生の時に視た像は今の更に先に。

 修練もないけど素養だけで、あの時感じ取れたのは、ご神木の過去ではなく未来の絵だ。

 不吉や不安の正体は尚見当も付かないけど。どんな暗雲や悲嘆かは尚分らないけど。立
ち止まっても退いても、わたしの望む生き方は貫けない。今は唯、見通せる処迄行き着こ
う。末に何があるのかは、辿り着かねば分らない。


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