第2章 哀しみの欠片踏みしめて(前)
涼やかな青が、秋晴れの様に天の上へ突き抜けている。白い雲が、千切った綿飴になっ
て幾つか浮いている。吹き抜ける風もこの季節には珍しく涼しくて湿気も低く、心地良い。
日中でも、用がなければ雑草も茂るこの区画迄足を伸ばす人は多くない。一緒に来てい
た親戚達も、少し前に引き揚げた。わたしは、別に帰ると言ってここに残らせて貰ったの
だ。
1人墓石の前に佇んで手を合せる。小高い丘の上で、わたしが生れ育った町を見下ろせ
るこの墓地に、今度は久夫おじいさんが眠る。供え物は狐や烏に食い散らされる前に下げ
るので、今死者に捧げられてあるのは花だけだ。
「久夫おじいさん……」
無口なので気難しいと誤解もされたけれど、気持の優しい人だった。哀しみも痛みも堪
え、人を責める言葉や詰る言葉を呑み込み、沈黙を保つ人だった。最も困る者の為にどう
あれば良いかを一番に考える心の暖かな人だった。
わたしは無言の侭、中の人達の冥福を祈る。そよ風が草木の枝を撫でる以外に物音もな
く、町の雑踏もここ迄は届かない。ここなら静かに眠る事も出来るだろう。安らかに眠る
事も。
最期迄、わたしの事で心配させてしまった。
最期迄、わたしの事で哀しませてしまった。
心残りを噛み締める顔で恵美おばあさんに、『(わたしを)気遣ってやってくれ』と言
い残したという。お父さん以外のその兄弟、久夫おじいさんと恵美おばあさんの4人の子
供は皆結婚し、子供を複数授かって、奥さん達と苦労はあれど、日々の幸せを享受してい
る。
わたしだけが、おじいさんの気掛りだった。両親を同時に失い、生れ育った町から逃げ
る様に転居し、年に一度位しか顔を合わせられなくなり、一人残されたわたしの心情を、
先行きを。他の誰も順調だから、当たり前だから、そうでないわたしを不憫に思ってくれ
たのか。気にかけてくれたのか。死の間際迄。
『何一つ役に立てない祖父で、済まないな』
今年正月に逢った時、ぽつりと言った一言は、お父さんの生前の言葉が甦った様だった。
お父さんも、重い定めを背負うお母さんに、何の手助けも出来ず、見守り励ます他に術
のない事を生涯悔しがっていた。間近にいて愛しく思えば思う程、届かない壁が見えてく
る。力になろうと思っても、何でもしよう引き受けようと思っても、叶わない事も世には
ある。
常の人であるお父さんにできる事は限られていて、お母さんの定めを分け持つ事はでき
なくて。それに絶望せず、腐らずに、届かないと分って尚側に居続け、出来る限りを為す。
受け止める、抱き留める。役に立てない悔しさも、側で見守る他ない切なさも噛み締めて。
そんなお父さんの面影が、おじいさんにも。親子はやはり気質が似てくる物なのだろう
か。
『わたしなんかの為に、そこ迄想って……』
両親を失い、生れる筈だった妹を失い、住処を山奥の村に移し。それ迄の生活環境が大
きく変る。そこに母方のおばあさんが居ても、心配は尽きないのだろう。それ迄同じ町に
いて日常行き来していたのだ。力になれるしなるべきだと、おじいさんも思ったのか。で
も、わたしの血が宿す事情はお母さんのそれと同類で、お父さんが如何ともし難かったの
と同様、久夫おじいさんにも如何ともし難かった。
こればかりは、お母さんから受け継いだわたしに流れる血の定めだ。何とかできる術は、
それを連綿と受け継いできた母方の実家、羽藤(はとう)の家にしかない。善意も努力も、
及ばぬ事も届かぬ事も、世にはある。そうする他に術がないと、久夫おじいさんも分って
いた。唯悔しいと、哀しいと。何もできない事が、力になれない事が、役に立てない事が。
ああ、わたしなんかの為に。
そこ迄大切に思ってくれるなんて。
あの禍を呼んだ元凶であるわたしの為に。
『わたしは返しきれない想いを頂きました』
そう応えた時、既に体調が悪く、顔をしかめる事の多かった久夫おじいさんは、至福の
笑みを浮べ、何度も頷いてくれた。自身の心が救われた様に、己の贖罪が成就できた様に。
救われたのはわたしだったのに。生きて残された事を悔い嘆き、絶望と罪悪感に落ち込
むわたしの心を救ってくれたのは、みんなの強く暖かい想いだった。わたしにも生きる値
があると道を示してくれたのは、わたしが生きてある事を尚望んでくれた、みんなだった。
サクヤさん、笑子おばあさん、正樹さん、恵美おばあさん、そして、久夫おじいさん。
生前で逢えたのは正月のその時が最後だった。
棺の中のおじいさんは、安らかな顔だった。生きる者に想いを託し、全てを受け容れた
顔だった。残る者に諸々を委ね、信じ切った顔だった。その想いは、わたしにも向いてい
る。
おじいさんはわたしを案じていた。それに応えなければ。大丈夫、わたしは強くなりま
した。これからもっと、強く生きて行きます。安らかに眠って貰う為に、託された愛情と
信頼に応える為に、ささやかな願いを叶える為に。お父さんとお母さんの想いに応える為
に。
わたしに託された想いは、わたししか返せない。応えられない。叶えられない。だから。
せめて心安らかに。せめて心穏やかに。
「天国で、お父さん達と逢えますように…」
お数珠ではなくお守りの青珠を手に挟んで手を合せ、故人の冥福を祈る。今のわたしは
青珠がなくても安全だけど、ここに来る時は、お父さんとお母さんに深く繋る青珠と白い
ちょうちょの髪飾りを身に付けると決めている。
ここには生前のお父さんやお母さんに繋る物は何もない。生前の久夫おじいさんに繋る
物も何もない。それでも、こうして故人の冥福を祈る場所があるのは、良い事だ。かつて
お父さんやお母さんと住んでいたアパートは、引き払って以降近くを訪れてもいない。わ
たしが何の疑いもなく9年の年月を送り、あの瞬間迄今後も住み続ける事を疑ってなかっ
た、その家に他人が住んで、これも当たり前の様に日々を暮らしていて、今後もそうして
いく前提でいる様を見るのは、気が進まなかった。
想い出が奪われたとの想いより、わたしが元々そこにいなかった様な錯覚を抱きそうだ。
いや、わたしがそこにいた事実の方が錯覚に思える。新たな住人は前からそこにい続けて、
わたしが両親と過ごした日々の方が作り事に。今がないから今に繋る過去迄嘘に思えてく
る。人の想いとは、何とあやふやで脆い物なのか。
過去のない墓石は、過去を思い出す助けにならないけど妨げもしない。それがわたしに
は有り難かった。あのアパートにはもう何もない。想い出は、わたしの心の中にしかない。
久夫おじいさんは、恵美おばあさんや町外れの屋敷が残っているから想い出は繋るけど。
浩一伯父さんや佳美おばさんが語り継ぐから、簡単に風化しないけど。お父さんお母さん
と、生れなかった妹を語り継げるのはわたしだけ。
わたしが刻み続けなければならない。
わたしが抱き続けなければならない。
わたしが受け継がなければならない。
故人の言葉も行いも、想いも願いも。
日々の生活でつい忘れ去ってしまうけれど、墓石の前でわたしは改めて誓い直す。その
為にも墓参りは、年に何度かは不可欠な行いか。特にわたしの様な、怠惰な人間にとって
は…。
「ふう」
瞳を開け、合せていた手を戻し、祈りを終える。心を柔らかに。笑子おばあさんに繰り
返し言われた。心が強ばると、身体も強ばる。できる事も失敗する。瞬間の驚きにも柔軟
に対応できなければ、大切な時にミスを犯すと。
想いに心を占拠されてはいけない。想いは強く深く抱いても、目前の事実に即応できる
柔軟さを残しなさいと。物思いに耽りがちなわたしには、罪悪感や哀しみに潰されそうに
なるわたしには、大切な助言だった。だから、
「心ゆくまで、祈れたかい?」
恵美おばあさんが墓地の出口で迎えてくれた時、驚きはしたけれど我を忘れずに済んだ。
「親と子だけの会話ってのもあるだろうから、終わる迄待っていようって、母さんがね
…」
大柄な浩一伯父さんも細身の佳美おばさんも、娘で三歳上のストレートの黒髪が艶やか
な仁美さんも、活動的に見せたいと黒髪をショートに切り揃えた一歳下の可南子ちゃんも。
わたしは別に帰るから、先に帰っていてと…。
「わたしたちが、待っていたかったのよ」
気にしないで。佳美おばさんが微笑みかけ、
「みんなで、帰りましょ」
一つ下の可南子ちゃんが手を引いてくれる。わたしの為に、車を待たせていてくれたの
か。確かに町外れではあったけど、日も未だ高いし、歩けば町まで三十分掛らない場所な
のに。
「こっちに来た時位は家族同様にして頂戴」
恵美おばあさんの言葉が、嬉しかった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
あれから、3年の月日が流れた。わたしも小学6年生、そろそろサクヤさんの書く政経
面の記事も読んで意味が分る様になってきた。
山奥の生活にも慣れた。豊かな自然はわたしを癒してくれた。新しい家族と友達はわた
しを快く迎えてくれた。世界はわたしを尚愛してくれるらしい。禍を招いたわたしを。た
いせつなひとを失う引き金を引いたわたしを。負い目は尚拭えないけど、心を閉ざしては
いけないと己を叱りつけ、日々を暮らしてきた。
この間、経観塚に避難したわたしが久夫おじいさんの住む町外れの屋敷に足を運んだの
は数える程しかない。お父さんとお母さんの一周忌と二周忌、今年の正月、久夫おじいさ
んの葬儀である今回。2人の三周忌は来月だ。
血の匂いを隠せる今、青珠なしでも危険はないけど、わたしは親戚の集いに顔を出しづ
らかった。祝いの席にわたしが出ると、どうしても場が沈む。みんなわたしを気遣って励
ましてくれるけど、あの惨劇を意識せずにいられぬ様子は声音の違いを聞かずとも分った。
みんな揃っているのだ。2人以上の子供と、奥さんと、ご主人と。仲の良い夫婦や親子
と、時々喧嘩する兄弟姉妹と、噂話に花を咲かせる喋り友達と。その中で、わたしにだけ
誰もいない事が、その事情を推察させる。思い出させる。わたしがそこにいなければ、忘
れられていた筈のお父さんやお母さんの死が甦る。
忘れて欲しくはないだろうけど、忘れてはいけない事だろうけど、それでも、
『わたしは、祝いの席にいるべきではない』
わたしがいる所為で、わたしがいる事で、わたしを見る度に、みんながそれを思い出す。
わたしが寂しさを感じるより、華やいだ雰囲気が冷めるのが申し訳なかった。
久夫おじいさんと話せたけど、生前最後の出逢いは良い物だったけど、でもわたしは祝
いの席に来るべきではない。わたしはみんなに笑って過ごして欲しい。笑いが引きつった
り萎れる事はお父さんもお母さんも望まない。
お父さんの親戚は、みんな満たされている。お父さんは失ったけど、お母さんとお腹の
妹は失ったけど、みんなは人生を謳歌している。わたしがいても影を落とすだけ。気遣わ
せる一方だ。いつ迄も過去に囚われて欲しくない。それはきっと、故人も望んでいない事
だから。
元々頻繁に来られないが、わたしの意識はこの町から離れ始めている。それは想い出か
らの独り立ちなのだろうか。新しい人生への適応なのだろうか。前向きと言えるだろうか。
そんなわたしに、過去を引きずる話がこの時期に持ち込まれたのは、果して偶然なのか。
「少女連続、傷害事件の、再来?」
シッと仁美さんがわたしの返事を抑え込む。町外れの屋敷の子供部屋は、仁美さんと可
南子ちゃんの趣味で華やかに可愛らしい。今夜はここに泊めて貰うわたしだが、子供同士
のお話と言う事で、大人達から隔離されて漸く、
「最初は、あなたに話すべき内容じゃないと思ったんだけどね」
陸上部で主将を務め、姉御肌で少し人付き合いに不器用な仁美さんは、微かにサクヤさ
んに似ている。面倒見が良いというか、一見豪放そうでいて実は細やかで、人を気遣って。
彼女は本当に一度は話すべきではないと考えたのだろう。でも、そう言っていられない
状況が出たのだ。必要な事を必要なだけ話し、喋りすぎを嫌う。久夫おじいさんの孫であ
る。血縁はやはり気質が似てくる物なのだろうか。
「最初に噂を聞いたのは、あたしなんだよ」
可南子ちゃんはそう言うお姉さんを持った故か、末っ子色が染みついている。その声が、
「3年前の事件の再来だって、噂が出たの」
女の子が、刃を持った変質者に襲われた。
噂が尾ひれを付けて浸透するのに時間は掛らなかった。死者迄出した事件は3年経って
も人の記憶に怖れを残している。わたしもその話を聞いた瞬間、無意識に身体が硬直した。
「あの事件は結局、犯人が捕まらない侭…」
わたしの血の匂いに導かれ、襲ってきた鬼。わたしを守って立ちはだかったお父さんと
お母さんを刺し貫いた鬼。名前も付けられなかった妹も含め、みんなの仇である鬼は、警
官の銃撃を身に受けて逃げ、その侭行方不明と。
「だからよ、犯人は生き延びていたって話」
死が確認されてない。屍が見つかってない。それは生存の可能性も示す。でも、同時に
それ以降少女傷害事件はぱったりと止んでいた。生きているなら、事件はそれで終るだろ
うか。
反省したとか、痛い目を見て諦めたとかの推測が利く相手でない事は、対峙したわたし
が身を以て知った。鬼は腕力に長け、爪や牙が鋭いから人を襲うのではない。己の痛みや
無理を省みず欲望に直進でき、何物をも薙ぎ倒して突き進める強さが、本当の怖さなのだ。
鬼は警官も銃も怖れない。それが鬼を傷つけられないからではない。痛手は与えられる。
傷を負っても欲しい物があれば、鬼は妨げる者を踏み躙って進む。鬼とはそう言う存在だ。
故にこの尻切れ蜻蛉な終りは、皆に不安を残す決着だった。逮捕されず死んでもいない
犯人が、どこかで牙を研いでいる恐れが残る。鬼を知る者には、屍がない以上生きている
筈の鬼が、いつ次の殺戮を再開するかが不安で。生きていても、死んでいても説明が付か
ない。
わたしが青珠を胸に抱いても、中々町に来られなかった理由もそこにあった。一周忌は、
事件が止んで相当経過したから漸く行けたが、それは不気味とも形容できる落ち着きだっ
た。
犯人もその死も特定できず、逮捕も出来ず、頻発していた事件は突如止んで、決着した
と言えない侭に時だけが過ぎ。二十人近い小学生や中学生の女子が毒牙に掛り、2人が死
亡した。お父さんとお母さんは含まれてないし、妹は生れてなかったので頭数にも入って
ない。
今も捜査は続いている様だけど、成果の見えぬ状況で体制は縮小されたと聞く。サクヤ
さん等から流れてくる情報でも、わたしを襲ったあの鬼は行方不明で生死も分らない様だ。
「ゆめいさんはその、真相を、知っているのよね。その、犯人の手口とか、顔立ちとか」
可南子ちゃんも、噂にどれ程真実があるか疑っている。所詮人伝の話、根拠の薄い、責
任をとる者のない噂話だ。故に事に身近な者の証言と比較しないと真偽は峻別できないと。
おずおずと申し訳なさそうに、しかし訊かねばならぬと言う感じで、可南子ちゃんは尚、
「一部の子供がパニックを起して病院に収容されたって話もあるの。自分は狙われている、
今度は確実に殺されるって。その内1人は、わたしの隣のクラスの子だったから本当よ」
3年前の連続傷害事件は、その名の通り少女を刃物で傷つける物で、死に至る例は少な
かった。警察が乗り出すのが当初遅れたのも、殺人ではなかった為だという。後半になっ
て、殺人に到る事件が増え、最後は子供でもない大人をその手に掛け。事件の性質が中途
で大きく変っている。そこに複数の犯人が別にいると見るのか、人から鬼への変貌を見る
のか。
生き残れたと言っても、状況は千差万別で、軽傷で済んですぐに学校に復帰できた者か
ら、重傷を負って長期入院した者、心に深刻な傷を負って未だに病床を離れられない者迄
いる。
それでも死は免れた子供達。やり直しの芽を残せた子供達。今回の事件はその生き残れ
た子供達が標的だと。しかも今回は全て殺人だ。確実に生命を奪っている。刺し傷も深く、
出血も多く、その血が周囲に余り散ってない。流れる情報を総合すると、そんな感じらし
い。
犯行場所が遺体発見場所と違うのかも知れないけど、わたしは別の可能性を考えていた。
犯人が生き血を啜る鬼で、その場で吸血したから、血が大量に失われても周囲に残されて
ない可能性だ。でもそれが例え事実でも、警察に話しても、きっと受け付けては貰えない。
「2人目が襲われた話が出た時、2人とも3年前の事件の被害者で、幸運にも生き残れた
のにって話が出たらしいの。その瞬間話が」
繋ったのか。3年前に殺せなかった標的を狙った、3年前の犯人復活による連続少女傷
害、いや、連続少女殺害事件のストーリイが。
「何人襲われているかは確かではないの。学校も警察も口を噤んで、真相は話さない。唯、
複数の女子が襲われた事。それが必ず3年前の被害者な事。学校や世間が再度注意を呼び
掛け、不審者の情報を求め始めた事がね…」
わたしも事件について報道以上の詳細は知らない。知っているのは、犯人と思われる鬼
に襲われ、お父さんお母さんが殺され、自身が死に瀕したあの夜の事だけ。あの鬼が本当
に連続少女傷害事件の犯人かどうかも確かではない。唯あの鬼が、お父さんとお母さんと、
名前も付く前の妹の生命を奪った。その事だけは、事実として心に刻んでいる。
「まあ、あたし達は警察じゃない。捜査のプロでもないから、正確な話を聞いた処で、分
析できる訳でも解決出来る訳でもないけど」
仁美さんは大人だ。自分の力や行いが及ぶ範囲と及ばない範囲を心得ている。できる事
を見極め、その中で最善を為せる。その辺も思い切りの良さもサクヤさんに少し似ている。
「学校では、不安を煽るから不確かな噂話は厳禁ってなっているんだけどさ」
これは言って置かなきゃならない。仁美さんは可南子ちゃんに視線を移し、先を促した。
「電話が来たの、ここに。つい最近、一週間も前じゃないわ。わたしが、出たんだけど」
『ユメイちゃん、イマスカ?』
わたしの所在を尋ねる電話が、この屋敷に。それも、若い男性の声だったらしい。名乗
りもせず、お友達の様な感じでいきなり。出たのが誰か確認もせず、要件だけを短く告げ
て。
『ゆめいさんは、いません!』
可南子ちゃんでなくても怪しさを感じただろう。少女連続殺人事件の噂が再び流れる今。
可南子ちゃんも、わたしの事件の時に一緒に泣いてくれた1人だ。反感の籠もった答にな
るのは、自然な成り行きだった。ただ問題は、
「ここが柚明に関係のある処だと、こっちで認めてしまった様な物だからね、この答は」
探りを入れてきたなら、ここにいないと言う事実より、不在を明確に応えられる繋りの
方に着目してくるだろうさ。確信があるなら、わざわざ電話して存在を示しはしないだろ
う。
「子供は考えなしだから困るよ」
仁美さんの言葉は、その積りはなくてもわたしの過去を指摘されている様で、耳に痛い。
考えなしの行動が、たいせつなひとを失う結果に繋った。それで尚愛され望まれ、守り
通され生き残れたわたしは、せめて人に寛容でありたい。この位の失敗は致命的ではない。
気にならない。生命ある限り取り返しは利く。事実経過より、寄せてくれた想いに応えた
い。
「ごめんなさい。わたし、いないって言えば犯人さんが諦めてくれると思って。わたしの
一言で、ゆめいさんが安全になると思って」
その程度で犯人が諦めると考える辺りがお子様なんだよね。仁美さんはわたしを向くと、
「ごめんよ、柚明。あんたに迷惑かける事になってしまったけれど、そう言う訳なんだ」
仁美さんの仕草に妹への非難はない。指摘も弾劾ではなかった。仁美さんは、可南子ち
ゃんの過ちを身内のミスとして窘めて、一緒にわたしに謝っている。可南子ちゃんを慈し
みつつ、失敗の責を自らも被って一緒にわたしに謝っている。仁美さんはよいお姉さんだ。
やってしまった事は、取り返しがつかない。後は最善の手を打つ事だ。この家がわたし
に繋ると、その誰かは知ってしまった。逆にその経過をわたしが知らない事こそが危うい
と。
決断と切り替えの早さも、サクヤさんに似ている。むしろ可南子ちゃんが申し訳なさそ
うに俯いているのが気に掛る。己が禍を招いたと悔いているのか。かつてのわたしの様に。
「良いのよ。ありがとう」
気持は、伝わったから。
わたしは、可南子ちゃんの肩を抱き寄せて、垂れたこうべをわたしの胸の内に受け止め
た。
「可南子ちゃんがわたしを守りたい気持は伝わったから。暖かくて優しい心はわたしの力
になってくれるから。だから、泣かないで」
慰める側になって、力づける側になって、初めて分った事もある。サクヤさんや笑子お
ばあさんは、わたしを何度もこの様に受け止めてくれた。2人のたいせつなひとを失わせ
る引き金を引いたわたしを。2人のたいせつなひとの生命と引換に生き残ったわたしを。
無条件に愛をくれた。無限大に愛をくれた。無尽蔵に愛をくれた。あの様に、わたしも
…。
この程度の失敗は、失敗の内にも入らない。否、例え致命傷の失敗をしても、わたしは
わたしのたいせつなひとを、この様に力づけて、抱き留める。そうしたいから。守りたい
から。大切にしたいから。心を、汲み取りたいから。
可南子ちゃんが鼻を啜る音が胸から聞える。わたしの危険を招いたと悔いていたのか。
わたしの哀しみを甦らせると自己嫌悪したのか。自身の失敗が他者の不幸に繋ると怖れた
のか。
その怯えが愛おしかった。その哀しみが有り難かった。守る側になって初めて、守る幸
せをわたしは感じた。守られる以上に大きく強い充足感を。確かに簡単ではないがそれに
見合う甲斐がある。これが人の力になるのか。
わたしは守りたかった。力づけたかった。哀しんでも苦しんでも欲しくなかった。いつ
も笑っていて欲しい。涙を零さずいて欲しい。その一翼を担いたい。幸を守る力になりた
い。
「大丈夫、大丈夫だから。わたしはもう…」
一つ一つの仕草が愛しい。寄せられる思いが全て愛らしい。これはわたしだけの錯覚な
のか。でも、今わたしの胸で泣き伏す可南子ちゃんは理屈抜きに愛らしい。抱き留めてあ
げたくなる。その心を癒したい。その心を温めたい。裁きや非難を望む心を解き放ちたい。
それはわたしが自身に望んでいた事の裏返し。
わたしはお父さんにもお母さんにも、こうして許しを貰う事は出来なかった。許してく
れたに違いないけど。生命を失う程の失敗も受容し生命を抛って守ってくれたと分るけど。
わたしを責める幻の声は、胸の奥に今も燻る。
わたしは可南子ちゃんに、許しをあげたかった。確かな形で安心を与えたかった。もう
嘆く事はない、もう悔いる事はない。全てわたしが受け止めた。だからもう二度とこの事
で涙を流さないで。わたしが人一倍過去を引きずる人間だから。心配や哀しみや悔いを引
きずらないで。未来を見つめて生きて欲しい。
可南子ちゃんの身体を強く抱き留めて、
「経観塚には今、鬼を斬れる人がいるの」
だからもう鬼を怖れる必要はない。それは可南子ちゃんを安心させる以上に本当の事だ。
だからわたしはあの屋敷に戻れば安全になる。
「だから、わたしが心配なのはむしろ仁美さんと可南子ちゃん。わたしに繋りがあると知
られた家に住む、おじさんやおばさん、恵美おばあさんが。気を付けて」
漸く可南子ちゃんが泣き止んだ。泣き腫らした顔を上げて、再度滲み出す涙を拭う姿が
愛しくて、今度は頬に抱き寄せた。その涙は嬉しさの故だ。安心できた故に、抑えていた
心が溢れ出たのだ。貰い涙がわたしの瞳にも。
「どうやら、あたしよりあんたの方が姉貴役には向いていそうだね」
端から見れば、少し恥ずかしい。視線に気付いた可南子ちゃんが、微かに迷ってから再
度ぴったり抱きついてきた時は、少し驚いた。こう言う時の可南子ちゃんは、意外と大胆
だ。
仁美さんの視線は、少しの羨望を感じさせ、
「あたしにはそんな、心まで抱き留める事は中々できなくてさ。性質が男っぽい所為かな。
甘えん坊の可南子は、あんたが経観塚に行っちまってから暫く落ち込んでいた位だし…」
「お姉ちゃん!」
「恋人の様に抱きついてなって。いや、どっちかというと母親に抱きつく娘かな。まあ良
いさ。あたしの分迄抱擁されといておくれよ。ちょっと羨ましいけど、年下特権だから
ね」
冷やかしとやっかみを兼ねた、それでも暖かな視線を投げかける仁美さんに、わたしは、
「仁美さん、歳は気にしなくて良いのに…」
「あたしが気にするんだよ!」
姉御肌で通している仁美さんは、人を抱き留める事は多くても抱き留められる事は少な
いのだろう。いつも甘えん坊と見なしている可南子ちゃんの前だから、恥ずかしいのかも。
「その代り、あたしはさ……」
仁美さんは、可南子ちゃんを抱き留めて動けないわたしに這い寄って、可南子ちゃんの
頬と触れあう反対側の空いた頬に、その唇をチュッと口づけした。異国の親愛の挨拶、又
は恋人同士の軽い愛情の確認。前触れもなく為されるそれを、わたしは身動きできない侭
受け止めて、目を丸くし、次に頬を赤らめて。
わたしのその戸惑いと気恥ずかしさ、更に嫌悪ではない表情を見て、仁美さんは微笑み、
「あんたも年下らしく、時にはあたしに甘えておくれよ。恵美おばあさんが言っただろう。
あたし達は家族だ。可南子の前が恥ずかしければ、いない処ででもさ。あんたが受け継ぎ
たい想いの中に、あたし達のあんたを想う気持ちも混ぜ込んで欲しいんだよ」
あの夜の笑子おばあさんの声が、耳に甦る。わたしが全ての元凶だったと知ってしまっ
て、生きる値打ちを信じられず、己の中に閉じこもりたい、死にたいとさえ思った、あの
夜に、
『守られた者が次の世代を、新しい生命を守る事で想いは受け継がれて行くの。私の想い
が娘に、娘の思いが孫に、孫の思いが子々孫々に。縦だけじゃなくてね。友達や夫や、他
のたいせつなひとにも。ねえ、サクヤさん』
ああ、その通り。わたしが可南子ちゃんを可愛く想う様に、仁美さんは可南子ちゃんも
わたしも可愛く想っている。形の現れ方は色々だけど、想いの強さと深さは同じなのだと。
想いを受けて、想いを繋ぎ、想いを伝える。わたしも仁美さんも、可南子ちゃんも皆同
じ。この笑顔を保ちたい。この微笑みを守りたい。その想いを共有し、力を合せて。久夫
おじいさんは最後に、素晴らしい絆を残してくれた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「母さんや父さんに話したら、きっとあんたには話すなって言われる。だから先にあんた
に話した。母さん達があんたに余計な心配をかけたくないって気持は分るけど、危険の所
在は報せるべきだと、あたしは考えたんだ」
仁美さんと可南子ちゃんは、わたしが帰った後で事情を明かし、おじさんやおばさんに
叱られたらしい。大人に話さず子供の判断で動いてしまった事は、確かに問題なのだろう。
でも最終的にその処置に恵美おばあさんは了承したと言う。余計な不安の段階ではなく、
実際に迫つつある危険は、当人に報せない訳に行かないと。あんたは久夫さんに似ている
わねと言う、誉め言葉にも聞える小言と共に。
見えない危険に、次はわたしを狙うかも知れないその危険に、不安と焦りを感じつつも
押し隠し、わたしは帰りの電車に乗り込んだ。行き着く先はローカル線だけど、何度かの
乗り換えを経る前の出発駅は、結構乗客も多くいて、むしろ痴漢の危険を気にすべき状況
だ。
表情は柔和に安穏に。人の心配を増やす真似はしない。唯でもわたしは心配されている。
気にかけて貰っている。わたしは、安全な経観塚に戻るのだ。青珠もあるし、今のわたし
は血の匂いを抑えられる。心配ご無用だった。
「柚明、またな」「ゆめいさんまた来てね」
「また来なさい」「いつでも、待ってるわ」
「ありがとうございます」
浩一おじさんは仕事で不在だけど、恵美おばあさんは佳美伯母さんと、仁美さんと可南
子ちゃんとみんなでわたしを見送ってくれた。みんなの笑顔が爽やかで、和やかで、美し
い。
時間を置いて逢う所為か、一度会うごとに恵美おばあさんが小さくなっていく気がする。
本当に名残惜しそうだった。次に逢えるのはいつだろうと言うより、次に逢う時迄生きて
いたいとの悲壮さを感じるのは、気の所為か。
時は休む事なく刻み続けている。
因と果も休まず巡り続けている。
電車の出発による一つの別れの裏で、電車の出発による一つの再会が動き出している事
に、この時わたしは未だ気付いていなかった。
それを予感したのはどの辺りだったろうか。何度かの乗換えを経て、徐々に都市圏を離
れ、乗客も減り、空席があちこちに見え始めた頃。窓から差し込む赤光が世界を赤く染め
直す頃。定期的な揺れに、ついまどろんでしまう頃…。
最後の乗換駅で降りた十数人の内、同じ方向に行く人は他に1人だった。乗客の殆どは
ここで降りるか、5分後に出る別方面行きの列車に乗る。わたしともう1人の男性だけが、
二十分後に着く、経観塚方面への列車を待つ。
初めてそれを自覚したのは、その時だった。
『あの人、どこかで見た様な。気の所為?』
奇妙な既視感がある。逢った憶えはないのにどこかで見た気がする。間近に居合わせた
気がする。服装や髪型に憶えはない。知り合いの知り合いとか、通り掛って見かけたとか。
百七十五センチ程の背丈は、大人の男性では余り高くない方だ。細身な背広姿は事務系
の勤め人の様だけど推測できるのはそこ迄だ。どこにでもいる特に目立つ要素のない男性
だ。
男性はホームの端のベンチに座って、大人しく列車を待っている。うなだれているのか。
ホームの端と端なので、表情は見えなかった。切り揃えた黒髪を見ても標準的で意味は薄
い。
『なぜ、気になってしまうのだろう』
ローカル線とは言え、経観塚方面行きはわたし専用の列車ではない。わたしの他に乗る
人がいても当然だ。観光地として未整備な経観塚に行く人は、地元の人や関係者が多いが、
わたしも地元関係者全てと顔見知りではない。
男性はわたしの存在を気に留めてない様だ。考え事か何かで、わたしがいる事に気付い
てないのか、気付いていても気にする程親しくはないのか。わたしからは話しかけなかっ
た。どこの誰か思い出せないのでは却って失礼だ。
暫く待った後で来た列車に乗り込む。男性もわたしの前の車両に乗り込んだ。車両が違
えば別世界だ。違和感を残しつつわたしはイスに身を委ね、読みかけの経済誌をまた開く。
ほぼ丸一日掛る移動は時間を持て余すので、出発駅の売店で買ったのだ。別にマンガや
ファッション誌でも良いのだけど、それらは常に目を通している。サクヤさんが書く政経
面の記事を読んで分るには、世間を知る必要があった。暇を持て余す時位勉強の積りで読
む。予習すれば、聞いただけでも単語が思い浮ぶ。
『インターネット世相の反映。ハッキングで市役所の市税滞納者リストを盗み見て、役所
を騙って滞納分の納付を求める詐欺事件…』
『若杉銀行で大規模な顧客情報の流出が発覚。顧客の住所、氏名、生年月日、パスワード
等の個人情報が、推定で20万人分も流出し』
『別れ話のもつれで恋人を殺害。被害者女性は転居していたが、加害者男性は市役所の住
民票データに侵入して、転居先を特定し…』
新聞も雑誌も、明るい話より暗い話が多い。困った話、悪い事、怒る案件の方が、読者
の興味を引くのだと、サクヤさんは言っていた。良い事なら読み手は安心してしまうから、
と。
書く人は大変な事件だ、見ないと大変ですと善意なのだろう。でもそれを素直に読むと、
世の中が暗黒に突き進んでいる気がしてくる。
周囲を見ると既に日は落ちて、車内の頼りない白熱灯に照されても、外は漆黒の闇夜で。
列車は既に暗黒に突き進んでいた。この季節の日没からすると、経観塚駅迄はもう少しだ。
晴れていれば今夜は小望月、人工の照明のないこの周辺は、月明りに青白く染められて
いる筈だが、雲が空一面を覆っている所為か、星の瞬きも見えない。山も森も形状が窺え
ず、列車は闇を一本の光の糸となって突き抜ける。
経済誌をしまい、青珠を出して眺めつつ時の経過を待つ。お母さんの遺品となった青珠。
今はなくても血の匂いを鬼に悟られる心配はないけど、久しぶりに抱くと冷たく心地よい。
眺めると心が落ち着き、時の経過を忘れそう。
わたしを守ってくれた青珠。
お母さんから託された青珠。
鬼の肌を灼き、退けた青珠。
もうすぐ新しい所有者を得る青珠。
わたしは青珠に想いを込め、修練して操れる様になった贄の血の『力』を込める。未だ
青珠に力を移す術は不完全だけど、既に青珠は満度に力を入れられてあるので問題はない。
わたしが想いを託したいだけ。わたしが次の持ち主に伝えたい、繋ぎたい心を込めただけ。
車内放送が、経観塚が近い旨を伝えてきた。3泊4日の荷物を持ち、怠りなく下車の準
備に入る。すぐに改札を出ないと、最終バスに乗り遅れる。バスを逃すとタクシーしかな
い。
旧い駅舎は漆黒の闇の中、寂しげな照明でわたしを迎えてくれた。前の車両の男性がゆ
っくりなのは、バスを使う気がないのだろう。この辺の人か、駅周辺に宿を取った観光客
か。わたしは緩慢なその人を、足早に追い抜いて改札口に向う。その脇を通り抜けた時だ
った。
「……!」
それはどちらが呑み込んだ驚きだったろう。
間近になって初めて感じ取れた。わたしはこの人を知っている。この人と関りを持って
いる。この人は決してわたしと無関係ではない。むしろわたしを求めてここに来たのでは。
そしてもう一つ、恐らく彼も初めてわたしを意識した。何かに気付いた様子で、息を呑
んだ。動きが止まる様をわたしは間近だから感じ取れた。気付かぬ振りで通り抜けたけど、
その侭改札へ行ったけど、彼はわたしが誰か分って驚いたのか。それともわたしの様に…。
「まさか、経観塚の……一緒の、車両に?」
わたしは振り返らなかった。男性が立ち止まった瞬間も足を緩めなかった。素早く年輩
の駅員さんに切符を渡し、改札を潜る。問うてみる気にはなれなかった。心の奥の何かが、
触れるなと告げている。関るなと命じている。
一体あの人はわたしの何なのだろう。
一体わたしはあの人の何なのだろう。
思い出せない侭、忌避するのはなぜ?
無意識の命令に逆らえず、足はその侭バス停に行く。わたしが乗るのを待って最終バス
が動き出す。動き出したバスの中から、男性が改札口で駅員さんに詰め寄る様子が見えた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
定年もそう遠くないと言うバスの運転手さんは、わたしが乗った瞬間から降りる停留所
を分っている。田舎だから、人が少ないから、顔も覚えられて、動きも大体把握できる様
だ。
笑子おばあさんの屋敷に住んで、小学校に通い、時々駅や町中に来る。わたしに限らず、
バスを使う沿線住民の生活や家族構成も分っている様だ。田舎では誰もが事情通になれる。
「足元に気を付けてお帰り」
はいと返事をしてバスを降りる。周辺に街灯はない。星明りの届かない茂みを通り抜け、
屋敷に辿り着く。尤も今晩は月も星も出てないので、緑のトンネルの有無は殆ど影響ない。
森を抜けると、開けた一角に大きな平屋の日本家屋が一軒あり、電灯の灯りが溢れ出て。
漆黒は却ってその故に深みを増して思える中、文明の灯はわたしを導く様に輝いて。
「柚明ちゃん、お帰りなさい」
わたしが声を出すより早く、若い女声が戸口を開けてわたしを迎え入れてくれた。足音
は潜めた積りだけど、この人に掛ってはわたしは今尚物音出し放題、気配漏れ放題らしい。
「ただいま帰りました、真弓叔母さん」
わたしより頭半分位背丈の高い真弓さんは、正樹さんのお嫁さん。長く艶やかな黒髪を
髪留めで止め、撫で肩で華奢な身体付きだけど、その性格はさばさばして、サクヤさんに
近い。
「疲れたでしょう。早く上がりなさい」
その声に応えるより早く、ばたばたと幼児の走り来る足音が床を叩く。この3年の間に、
笑子おばあさんの屋敷も人口が倍増していた。もうこの屋敷の最年少者は、わたしではな
い。
「「おかえりなさぁああぁい!」」
賑やかな声と共に、2歳児の双子が現れる。正樹さんと真弓さんの長男と長女、白花
(はくか)ちゃんと桂(けい)ちゃんだ。十歳も年が離れているが、わたしにはいとこに
なる。
身体のサイズが近しい為か、歳が一番近いと肌で分るのか、2人のいとこはわたしをお
気に入りで、学校から帰っても中々身柄を放してくれない。2人とも可愛い盛りなので不
満のあろう筈もないけど毎日が嬉しい悲鳴だ。特に今回は久夫おじいさんの葬儀で3泊4
日家を空けた。幼い子供には1日がとても長い。一日千秋の想いで、待ちかねていたのだ
ろう。
わたしはかつてお父さんがわたしにしていた様に、正樹さんが子供達に今もそうする様
に、屈み込んで目線の高さを2人と同じくし、
「ただいま。桂ちゃん、白花ちゃん」
双子は見分けがつかないと聞くが、やはり他人の故だろう。わたしには2人は似ていて
も、即座に見分けられる。真弓さんは出生届の際に、2人の名前を入れ違えたらしいけど、
それは見分けがつく・つかないとは別の話だ。
「おねいちゃん、おかえりっ」
「ゆーねぇ、おかえりなさい」
名前を取り違えた所為なのか、2歳時点での発育は、元気すぎておてんば予備軍の桂ち
ゃんと、やや引っ込み思案で大人しい白花ちゃんで、顔形は似ていても現れ方は結構違う。
思春期迄は女子の成長が先んじるとも聞いた。
「だっこだっこ」
屈み込んだわたしに、桂ちゃんが倒れ掛る様に身を預けてくる。受け止められる事を露
程も疑ってない。全身を任せきる体勢だ。屈む時に荷は置いたから、手は空いていたけど、
「けい! 柚明お姉さんは長旅で疲れているんだから、余り無理をさせないの」
真弓さんの声も届いてない。もう身を預け、抱き上げられる物だと思っている。真弓さ
んと視線が合うと、真弓さんはウインクしながら右手でごめんの仕草を示して、
「荷物は私が運び込んで置くから、その侭茶の間に上がって貰っても良い?」
「分りました。……?」
そこでわたしは、戸惑う様子の白花ちゃんと視線が合った。白花ちゃんもきっと、桂ち
ゃんの様に抱き上げて欲しいのだろう。でも、わたしの腕力では現状だっこの定員は1名
だ。白花ちゃんは、桂ちゃんよりも大人の言葉を聞き入れる。わたしが遠路で疲れている
との前提が、出足を鈍らせたのか。わたしを気遣って遠慮した白花ちゃんが取り残される
のも可哀相だ。と言って桂ちゃんはもう腕の中だ。
「白花ちゃん……」
わたしは右手で桂ちゃんを抱き上げながら、白花ちゃんに左手を伸ばした。白花ちゃん
はその意味を分って、ぱっと顔を輝かせる。左手に柔らかな子供の掌が繋る。わたしは両
手に花の状態で、羽藤家の茶の間へと帰着した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしが経観塚の屋敷に来てからの3年は、人の流入が続く3年だった。わたしの転入
がその口火を切る形で、続く流入の序章に過ぎないとは、その時は思っても見なかったけ
ど。
わたしが経観塚に転入し、学校に通い始め、夏休みを迎えて安定した頃、サクヤさんは
かねて計画していた長期取材に入った。お父さんとお母さんを失う前の夜、サクヤさんが
訪れた時言っていた、ルポライターのお仕事だ。それが命懸けの取材とは聞いてなかった
けど。
サクヤさんはその取材中に真弓さんと出逢った様だ。わたしが紹介された頃は打ち解け
ていたけど、当初はどうもサクヤさんの敵方、サクヤさんが取材しようとした物を守り隠
す立場の人で、真剣の争いを幾度も経たと言う。
「初めまして、ではないわね。柚明ちゃん。
これからは、羽藤真弓です。よろしくね」
諸々の事柄を全部呑み込んだ、清々しい程さっぱりした挨拶が、印象に深かった。その
端正な正座姿も、一分の隙もない落ち着きも。
一度か二度、紹介される前の真弓さん、サクヤさんと真剣で敵対していた頃の真弓さん
を見た事がある。ただ者ではなかった。今でも真弓さんは決してただ者でないけど、あの
時は諍い最中と言う事もあってか、抜き身の日本刀だった。凛然たる気配も、触れると身
が切れそうな殺気も、何にも屈しない闘志も、全てわたしの持ち得ぬ物、想像のつかぬ物
で。
その諍いは遙々経観塚に持ち込まれ、正樹さんを巻き込んだ後で漸く決着した。正樹さ
んが真弓さんと出逢ったのは未だサクヤさんと敵対中の、戦闘モード出力全開の時らしい。
その強さに惹かれたのか、その美しさに惚れたのか、裏側に隠れた優しさを見抜いたのか。
詳しい経緯は分らないけど、真弓さんは自身の依ってきた立場を捨て、サクヤさんと和
解し親友になった。そのサクヤさんの勧めで、真弓さんは正樹さんの告白を受け容れ結ば
れ。
サクヤさんは、自分と関ってしまった為に、戻る処をなくした真弓さんを思いやったの
かも知れない。でも、一番大きな要素は、真弓さんと正樹さんが互いを分り合っていた事
だ。
真弓さんと正樹さんは、互いに簡単に分け持てぬ重い定めを抱えている。逆にその故に、
相手を思う心・支える心を引き出し合い巧くやって行けたのか。同等な事が、同類な事が。
わたしのお父さんは、お母さんの力になれない事を一方的に悔しがるしかできなかった。
でも、正樹さんと真弓さんは、お互いに補いの利かない定めを持ち合う事で、相手の力に
なれない悔しさ迄共有できるから。力になれなくても尚愛し続ける気持迄共有できるから。
正樹さんは薄いと言っても贄の血を継ぐ羽藤の末裔だ。人の血は呪術に使われる等、特
殊な力を持つという。中でも羽藤の血は特に贄の血と言われ、人外の者達に良く好まれる。
『にえの血……、生け贄の、にえ?』
笑子おばあさん達が鬼と呼ぶ人外の者達に、贄の血は普通の数十倍、数百倍の甘さで匂
う。その効果は、お母さんが鬼に刺し貫かれた時に見て知った。呑んだ訳でないのに、浴
びただけなのに、熔け落ちた皮や肉が目に見えて修復する、銃弾を受けても深く食い込ま
ない。
人の食物も色々あって栄養素やカロリーが異なる様に、人の血も千差万別に違う。わた
しに流れる羽藤の血は鬼を喜ばせる物らしい。有り体に言えば、甘くて美味しいらしいの
だ。
舐めても味は感じないけど、青珠を持たず修練もない身では、血が匂い鬼を導く。大昔
には代々生贄を担っていたのかも。ゲームやマンガに出てくる、無力なお姫様の様な物だ。
わたしは、幼い頃からお母さんに青珠を渡され、手放さない様言われていた。青珠は落
してもわたしの手元に戻ってきたけど。血が濃いという呟きを、意味を知らぬ内に何度も
聞いて胸に刻んでいた。出血を伴う怪我は嫌われ、流した血はふき取られ、過保護な程で。
青珠は贄の血の持ち主を守る物で、それを持つ限り血の匂いは鬼に感づかれないらしい。
他にも幾つか効果はあるけど電池の様な物で、定期的に力を込めなければ消耗して力を失
う。
それが出来るのは、今の羽藤家では笑子おばあさんと真弓さんだけ。真弓さんは羽藤の
人ではないけど、贄の血の持ち主ではないけど、実家に似た術式が伝わってあると聞いた。
大本を遡れば本家と分家だったりするのかも。
真弓さんが正樹さんと結ばれた時、わたしが悩んだのは屋敷を出るべきかどうかだった。
新婚の家に、瘤の様についているのは好ましくない。贄の血の力の修練も滞り気味だった
けれど、青珠があれば血の匂いは隠し通せる。
考えが纏まりきらない侭、笑子おばあさんにそう話をしてみた処、悪戯っぽい笑みで、
「これからは、頑張って小姑を務めて頂戴」
実に楽しげに却下された。
「中々活きの良い花嫁だからねぇ。姑だけじゃ歯が立たなそうでね。貴女に残って貰えな
いと、嫁いびりが姑いびりになってしまうよ。一緒に楽しく、やって行こうじゃないか
い」
瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。
「笑子おばあさん、少し楽しそう」
「少し? その程度に見えるかね」
いえ、間違えました。凄く楽しそうです。
「小姑は鬼千匹に向うって言葉があってね」
笑子おばあさんが口にしたその諺の意味は、
【鬼千匹に匹敵する程恐ろしく、煩わしい】
真弓さんに立ち向うには相応しい役かも。
「実際、花嫁は今迄特殊な職に一途に励んでいたから、日常的な事には殆ど役に立たない
と私は睨んでいるんだよ。炊事、洗濯、掃除、全て貴女の方が先輩だと、考えた方が良
い」
おいおい教えて行かなきゃ行けないけどね。それだって結構苦労すると思うよ。貴女に
いて貰わないと、私も歳だからね、きついんだ。
「嫁と正樹に子供でも出来てご覧。私が孫の面倒をみる間、誰が嫁の面倒をみるのかね」
嫁の面倒はみなくても良いと思いますが。
それ以前に、正樹さんがいると言う事を忘れ去って、わたしが言葉に詰まっているのに、
「そう言う訳で、貴女にはこれからが本番という気持で、頑張って貰いたいんだけどね」
「はい……よろしくお願いします」
違う視点からの話に、わたしの申し出と噛み合わない侭、丸め込まれた感じで、わたし
は屋敷に留まる事になった。暫くの後に、笑子おばあさんの読みの正しさをわたしは知る。
桂ちゃんと白花ちゃんを真弓さんが身籠もったのは、それから数ヶ月もしない内だった。
それが双子だと報され、それが男女1人ずつだと報された時、わたしの驚きは複雑だった。
3年前、鬼に襲われて殺されたお母さんが、身籠もっていて生めなかった、名前も付け
られなかった妹。その更に3年前、わたしが5歳の時、お母さんが身籠もったけど、流産
して生めなかった、名前も付けられなかった弟。
勿論、誰かの代りに誰かを当てるなんて出来はしない。してはいけない。その様に見て
は行けないと、心には強く言い聞かせたけど。それでも、運命の巡り合わせを感じてしま
う。
お父さんもお母さんも、兄弟も失ったわたしだけど、何もかも失った訳じゃない。仁美
さんや可南子ちゃんもそうだったけど、未だ新しい出逢いは巡ってくる。未だ新しい生命
は芽吹いてくる。世界は可能性に満ちている。
笑子おばあさんは、わたしにそれを実感させる為に、肌で感じさせる為に、わたしを経
観塚に留めたのかも知れない。わたしは希望という物を、日の光を浴びる様に感じていた。
尤も、それは嬉しい事であると同時に、子育ての大変さを一部受け持つという事である。
わたしは戦場に形容される赤ん坊の、しかも双子の世話に援軍でかり出される事になって。
お屋敷は、急に人口が増えて騒がしくなった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「どうしても起きていてお迎えするんだって、言って聞かなくてね」
真弓さんが、遅くなったわたしの為に暖めてくれた夕ご飯を、お盆に乗せて持って来る。
「すみません、ありがとうございます」
「2人を寝かせてきたよ」
正樹さんが茶の間に戻ってきた。わたしを囲んではしゃいでいた2人は、十分もしない
内に電池が切れた様に座り込み、同時に寝息を立て始めた。わたしを待って無理して起き
ていた様子が目に浮ぶ。正樹さんが連れて行く間も、2人は全く動かず縫いぐるみだった。
「お疲れさまだったね、柚明」
笑子おばあさんがお茶を啜りつつ労ってくれる。わたしはお父さんの娘としてだけでな
く、笑子おばあさんの代理の立場でも葬儀に参列して来たのだ。大人の付き合いも大変だ。
「青珠をお返しします。ありがとうござ…」
ちゃぶ台の上に置くと、青珠は右九十度に向けて転がり出した。襖の外の廊下の向うの
部屋には、寝付いたばかりの2人がいる筈だ。4対の視線が動かぬ襖をまじまじと眺め見
る。
「どちらかが、青珠を引き寄せている…?」
生前のお母さんとサクヤさんの会話が甦る。
『血が濃い方が、青珠を引っ張る力も強いって事かい。青珠は羽藤の贄の血を護る物、単
純に反応の強い方に来るって話は分るけど』
『私の足下に置いても、隣の部屋にいる柚明の下に転がって行こうとするの。私は、青珠
は誰が自分を必要としているかを、分って動いているのではないかと、思うのだけれど…。
握ってでもいない限り、上り坂でも自然に柚明の処に転がって行く。道を探す様に左右
に振れもするの。ちょっとした怪奇現象よ』
その怪奇現象が、今目の前で起っていた。
だが今それを招いたのはわたしではなく。
「どちらかと言うより、両方なのかしらね」
真弓さんの推測が正確か。隔世遺伝は笑子おばあさんの孫の代に贄の血を濃く刻む様だ。
わたしも笑子おばあさんの2倍強だと、サクヤさんに言われたけど、あの2人は2人とも、
「あの2人は、貴女の更に5割増しかねえ」
笑子おばあさんは、正樹さんが拾い上げた青珠を桐の箱にしまい込む。経観塚には昔か
ら鬼の目を攪乱する結界があって、青珠を身に付けなくても、贄の血の持ち主が鬼に見つ
かる心配がないのだそうだ。サクヤさんがわたしをここに避難させた理由も、そこにある。
ここでは青珠は、唯のお宝として眠るだけだ。
『濃い血を持ち匂う事がどんな定めを招くか、貴女は知っている筈よね。贄の血の力を使
える先達として、宜しくしてやっておくれよ』
こういう展開になるとは、思ってなかった。わたしが必要不可欠になるとは、思ってな
かった。鬼を招いて家族を死に導いた、このわたしが先達として役に立てる日が来るなん
て。笑子おばあさんはこの事迄見通していたのか。
『貴女だけなんだよ。今、私の他にはね』
外から嫁いできた真弓さんも、贄の血が歴代で最も薄い正樹さんも、笑子おばあさんの
代りは出来ない。出来るのは、わたしだけだ。贄の血の持ち主として、力を操れる先達と
して、2人の力になれるのは。年老いた笑子おばあさんはいつ迄元気でいられるか分らな
い。いつ迄も元気でいて欲しいけど、ふてぶてしい程長生きして欲しいけど、もしもの時
には、
『お母さんの様に、お母さんがわたしを守り助け導こうとしてくれた様に、わたしが…』
わたしが、2人の力になる。
わたしが、2人を助け守る。
わたしが、2人を導き招く。
守らなければならない、守り抜きたい、守らせて欲しい。わたしのたいせつなひと達を。
わたしは自分の生きる値を感じ、大きな充足感を憶えていた。わたしはこの為に、今日
迄生き延びてきた。わたしはこの2人の力になる為に、お母さんやお父さんの後を追わず、
この世に留まり続けてきた。この時の為に!
生命の購いは生命で、守りに応えるには守りで。その通り。わたしは、失った命にわた
しの生命の喪失で購うのではなく、次の誰かの生命を守る為に使い切る事で購いとしたい。
わたしは、守られる為に費やされた想いに哀しみと涙で応えるのではなく、誰かの生命を
守り想いを残し受け継ぐ事で応えていきたい。
今迄ずっと最年少で、誰を守る事も出来なかったけど。今迄ずっと一番弱く、誰の役に
も立てなかったけど。力になれなかったけど。これからは違う。愛を注ぐ者がいる。助け
守る者がいる。わたしは3年前の夜以来初めて、生命がある事に心から感謝した。桂ちゃ
んと白花ちゃんは、わたしの生きる支えで全てだ。
目標を得た人生とは、こんなに強く逞しい物なのか。わたしは誰かの役に立ちたかった。
誰かに尽くせる人になりたかった。お父さんの様に、お母さんの様に、自分の全てを抛っ
ても護りたい大切な物を持てたなら、どんなに素晴らしいだろうとずっと望み願ってきた。
そしてわたしには、家族に禍を招いたわたしには、素晴らしい物なんて巡る筈がないと
諦めていた。良い友を作るには己が良い友である事だと本で読んだ。類は友を呼ぶ。己に
相応しい者が寄り添うと。だから、わたしにそんな素晴らしい巡り合せは、ある筈がない。
『白花と桂が生れてから、急速に力の扱いが向上したのはそれを自覚した為なんだろう』
わたしは黙って頷いた。確かにそうだった。
笑子おばあさんに諭され、ここに来て暫く経た頃から、血の力の操りを学び始めたわた
しだけど、当初は全然巧く行かず、挫折の日々だった。才能がないは禁句だった。正樹さ
んもサクヤさんも口を揃え、わたしの血は濃いと言う。お母さんの言葉を嘘には出来ない。
でも、その修練は遅々として進まず、わたし自身をさえ苛立たせる物だった。笑子おば
あさんは焦る必要はない、期限なんてないからと、気長に構えてくれたけど、しまいには、
【己を守りたいって想いが薄いみたいねえ…。
必死さを、どこかから引っぱり出さないと、中々一線を越えられないのよ】
一度感触を掴んでしまえば、一度目安を身体に憶えさせれば、後は何とも出来る。問題
は最初のきっかけだ。絶対に越えられないと思いこんでいる一線を、越えてしまう瞬間だ。
死ぬ程の想い。殺す程の想い。
自分の限界を突き抜けさせる衝動を己の中に養わないと、その壁は突破できない。火事
場の馬鹿力に類似して、絶対に譲れない物や、何が何でも守りたい物を持たなければ、我
を忘れ我を越えてしまう『何か』がなければ…。
そんな物ある訳がない。わたしは禍の子だ。家族全員に死を招いた悪い子だ。わたしは
己が生きる値を尚疑っていた。お父さんやお母さんの処に逝きたいとさえ思っていた。出
来る筈がないと言うより、そこ迄する程人生に意味を感じ取れず、心の底に闇が深く蟠っ
て。
生きる事は重荷で、煩わしかった。サクヤさんや笑子おばあさんに諭され、生きる事を
承諾したが、それはわたしが己に下した罰だ。生きて苦しむ事が、少しでも贖罪になれば
と。託された生命を捨てるのは悪い事だから、苦しくても哀しくても生きなければならな
いと。この生命を最後迄持たされ、生かされるのが、わたしへの報いだと。生きる事は義
務だった。
前向きになろうとしてもダメだった。
守りたい物など、今更どこにあるの?
もう絶対に失えない物を失ってしまった。
守らなければならない物を守れなかった。
その上でわたしは何の為に力を修練する。
凍りついた心。それをほぐす為に笑子おばあさんは血の力を習う様に言ってくれたのに、
わたしはそれを受け付けられずその心を汲み取れず、どうして良いか分らず己を持て余し。
心を柔らかに。文字は読めても、意味が分っても、己の血肉にしなければ、意味はない。
でも当時のわたしにそう言っても、きっと…。
【この男の子が桂ちゃん(今の白花ちゃん)、この女の子が白花ちゃん(今の桂ちゃ
ん)】
真弓さんに双子の赤ん坊を見せられた瞬間、人生のレールが切り替わる音が聞えた。
遂にわたしにできる事のなかった弟と妹が、突如出来たのだ。厳密に言えばいとこだけ
ど、一緒に暮らす以上それは問題ではない。わたしは、この暖かでふよふよした2つの生
命を、新しい息吹を前に途方もない嬉しさを感じた。
生命とはこれ程愛らしい物だったのか。
生命とはここ迄守りたい物だったのか。
愛らしさは無限大だった。愛しさは無尽蔵だった。この気持は無条件だった。わたしの
心に、起きる筈のない津波が起きた。大波が、わたしの凍てついた心を押し流し、消し去
る。
この微笑みを曇らせない。この笑顔を泣かせない。この喜びの為に尽くしたい。この生
命に迫る、この世の全ての危険から守りたい。
身体中の血が沸騰する感触があった。
心臓の奥から噴き出す溶岩を感じた。
凍える心を断ち割る涙は、嬉しさの故の物。この出逢いに、この気付きに、この巡り合
いに。わたしを包む世界の諸々に。今日迄生き延びてきたわたしの選択に、運命に感謝し
た。
己は無価値で良い。禍の子でも良い。でも、そんなわたしでも、この笑顔の為に尽くせ
るなら。無垢な笑顔、無邪気な笑顔、唯の笑顔。それが、わたしには例えようもない程尊
くて。
この2人を守り抜く為に生きる。
この2人の役に立つ為に生きる。
この2人の力になる為に生きる。
わたしの生命は2人の為にある。
わたしに望みをくれたのはこの2人。わたしを生かしてくれたのはこの2人。この2人
に生命を返さなければ。生命で応えなければ。生命を尽くさなければ。いや、尽くさせて。
わたしの及ぶ限り、わたしの届く限り、わたしのなし得る全てを、生命をつぎ込んでも。
笑子おばあさんはこの事迄見通していたのか。
わたしの力の扱いは、この2年弱で劇的に向上した。一年前から、青珠がなくても血の
匂いは抑えられる様になった。呼吸法に似て、コツを掴めばそれは常時出来る。少し前か
ら、力を青珠に注ぎ込む事も試している。未だ不完全でロスは多いけど、その進展は順調
だ…。
「余り急がなくても良いんだよ、柚明」
最近は笑子おばあさんがそう言ってくれる。それが嬉しかった。桂ちゃんと白花ちゃん
の役に立つ、力になれる。それを励みにわたしは力の修練に一層熱を入れ、その向上を加
速させ。真弓さんの料理の腕の向上と競う様に。
「美味しい。これ、叔母さんの味付けね?」
遅い夕食の、このいつもより少し大ざっぱな味つけは、笑子おばあさんの調理ではない。
不味い訳ではない。真弓さんの料理の腕も桂ちゃんと白花ちゃんの産後から、急速に向上
していた。サクヤさんや笑子おばあさんに包丁の持ち方から直されていた頃が、嘘の様だ。
だが未だ違う。未だ及ばない。及ばないと言うよりむしろこれは真弓さんの個性なのか。
この侭伸ばしていけば、別の流儀が成り立つのかも知れない。そんな事を考えていると、
「柚明ちゃんにも隠し通せないのね。
うちの人にも見抜かれたし、まだまだお義母さんと見分けのつかない料理は難しいわ」
真弓さんがやや大げさに、がっくりとうなだれる。羽藤家に住んで長い正樹さんには通
じなかったが、わたしならと思っていた様だ。
「美味しいですよ、充分に。このお料理は」
「何も、同じ味を目指さなくても良いのに」
わたしと笑子おばあさんがそう言うのにも、
「わたしの旦那は、その味で育ってきたのよ。それにお義母さんの味は美味しいし、一流
を修めてから応用を考えるのが基本でしょう」
微かに姑を持ち上げている辺り、戦上手だ。
「これからも、宜しくお願いしますね」
端正に、でも唯しおらしいだけではない真弓さんのお辞儀は、笑子おばあさんだけでは
なくわたしにも向く。料理や洗濯、炊事など日常生活では、意外にも真弓さんは笑子おば
あさんを共に師と仰ぐわたしの妹弟子なのだ。
背丈と言い年齢と言い、どう見ても妹弟子はわたしの方だと、思うのだけど。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
本当にごちそうだと思って食べたわたしと、本当にお粗末だと思って答を返した真弓さ
ん。
「その内、お義母さんが作ったとしか思えない味付けにして出すから、待っていなさい」
それはライバルへの挑戦状か、宿敵への決闘状か。真弓さんは最後の望みだったわたし
に味を見抜かれ、却って闘志を燃やした様だ。そう言う時に、諦めて気力が萎えてしまう
わたしとは対照的だ。細身な身体に贄の血の力とも別種の、蒼い闘志の輝きを立ち上らせ
る。
「真弓叔母さん、目が真剣……」
「刃物を持つ事全てに真剣なんだ、真弓は」
「当たり前です。料理はいつも真剣勝負よ」
その飽くなき意欲が、真弓さんの料理の腕を急激に向上させているのか。桂ちゃんと白
花ちゃんが物心つく迄に、『お袋の味』を確立しておく事が、今の真弓さんの目標らしい。
真弓さんの料理の腕は今尚発展途上にある。味付けの組み合わせや調味料の配分も、試
行錯誤なのだろう。それでも師匠の笑子おばあさんには及ばないけど、充分美味しい物を
作れている。この面では姉弟子のわたしだけど、うかうかしているとその立場も危ういか
も…。
「明日は、学校に行くんだろう?」
明日に備え今夜は休んだ方が良くないかね。
笑子おばあさんの言葉に、わたしは素直に頷いた。この屋敷での生活は、電灯やテレビ
はあっても昼型で、わたしもそれに順応している。一日中の移動で疲れていたのも事実だ。
帰ってきた以上、明日学校を休む積りもない。
話すべき事はあったけど、話そうと思っていた事はあったけど、お腹が満たされ眠さが
勝り始めた頭では話を纏められなさそう。それにここに帰り来た以上切迫した事情もない。
ここにわたしを狙う鬼はいないし、いたならそれこそ鬼にとって最期の日だ。単に鬼の
目を眩ます結界である以上に、今や経観塚は鬼にとって死地とも言うべき場になっている。
「すみません。今日はもう、休みます」
「それが良いよ。両の瞼が重たそうだ」
正樹さんの言葉に続けて真弓さんが、
「明日は金曜日、一日行けばすぐお休みよ」
その声を励みにわたしは寝室へ引き揚げる。
あと一日頑張れば、気楽なお休み、週末だ。その一日が、とんでもなく長く大切な一日
になろうとは、わたしも思っていなかったけど。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
経観塚に来る前なら、朝に弱くないわたしでも起きたかどうかで、寝ぼけ眼を擦りつつ、
少し早いバス通勤のお父さんの出勤を見送り、顔を洗う早い時刻。今のわたしはその頃合
が、学校に行き始める時間だ。真夏でも森は朝露や夜霧で冷たく日が照す前の空気が心地
よい。
屋敷を囲う緑のアーチを抜け、バス通り迄出ると、山に囲まれた盆地の底は身を覆う物
もなく、晴れた日は直射日光が目に痛い程だ。お日様の角度が低くて、光や熱がやや弱い
間に学校に着かないと、日射病になってしまう。
屋敷から小学校迄、徒歩で6キロの道程だ。慣れた今のわたしでも着く迄1時間近く掛
る。徒歩にし始めた頃は、一時間半も掛っていた。結構足腰は強くなったと思う。今日は
どんどん日の照り具合が強くなるだろう。だらだら歩いていると、お日様に捕まる。わた
しは数日ぶりの通学路を行く足の動きを少し早めた。
左側に山と森の縁を見て、右側に平らに広がる水田や畑の原を見て、未だ涼しくそよぐ
風に髪を嬲らせつつ、道路を学校方面に進む。途中で一度、バスに追い越された。運転手
さんの顔は、わたしも覚えてしまった。微かな汗を拭い、それでもバスを使おうとはしな
い。
2年前迄は通学に使っていたけど、健康な強さを掴む為に歩く事を決めた。当初は少し
辛かったし、今も辛くないと言えば嘘になるけど、この辛さがわたしを鍛えてくれるなら。
「ふう、着いた……」
羽様小学校は、厳密に言うと羽様にはない。『はざま』と言う字名は、笑子おばあさん
の屋敷の一帯を指す。羽藤様が転じたとの噂が本当か嘘か分らないけど、その羽様に隣接
した別の場所に立つにも関らず羽様小学校とは。
わたしが徒歩で着く頃が、朝のホームルームが始る十分位前で、みんなの登校時間帯だ。
近所の子はこの位に出ても間に合うし、バスや家族の車に乗って来る人も大体この頃合だ。
「羽藤さん、おはよう」
「お早う、佐々木さん」
声を返すその間にも、
「羽藤さんおはよう」「羽藤さん、おはー」
出会う人全てと挨拶を交わすのも、人が稀少な場所の故か。自然とみんなの顔を憶えて
しまうし、同時に憶えられてしまう。人数が少ないので、その範囲もクラスや学年に縛ら
れない。一年生の子でも六年生のわたしと顔見知りで、挨拶を交わし合うのが当たり前で。
因みにわたしは経観塚に転居した時に笑子おばあさんの姓、羽藤に変っている。今のわ
たしは羽藤柚明。最初は違和感があったけど、桂ちゃんと白花ちゃんが生れてからは2人
と同じ姓が好ましい。2人の家に嫁いだ気分だ。
「お早う、みんな。爽やかに朝を迎えたか」
背の高く恰幅の良い男性教諭が、元気良く教壇に立って、教室を占める5名の6年生と
4名の5年生を眺め見る。最初は厳つく見えたけど、外見と違って金子先生は温厚な人だ。
全校生徒が二十六人の羽様小学校は、複式学級体制だ。先生方も少なく、生徒数もクラ
ス分けするに至らないので、1年生と2年生、3年生と4年生と言う感じで、2学年が一
緒のクラスになり、1人の先生の授業を受ける。
授業では、5年生は5年生の教科書を開き、6年生は6年生の教科書を開く。先生が5
年生に授業する間、6年生は予め指示された項目を進める。暫くすると先生はその進展を
確かめ、6年生の授業を始める。その間5年生は先生の指示で別項目を進め。経観塚の町
中にある銀座小学校以外は全部こうだと聞いた。
四十人近いクラスが学年に6つ7つが当然な町から越してきた時は驚いたけど。学年を
越えてお話しし、遊ぶ状況は更に驚いたけど。馴染んでしまえば、それ程奇想天外でもな
い。
「羽藤は、おじいさんを亡くしたんだったな。
ご愁傷様。余り、気落ちしない様にな」
「はい。心配させて、すみませんでした」
何日か休む事になった時、笑子おばあさんの意を受けた真弓さんが、事情は伝えてある。
隠す必要がある事でもないと、真弓さんは先生がみんなに事情を話す事にも了解していた。
「羽藤なら授業に遅れる事はないと思うが」
休むとどうしても、授業に遅れる。分らなくなり、面白くなくなる。学校に来るのが億
劫になる。分らなくなり始めたら、つまらなくなったら、先生に言って欲しい。どこがど
う分らないか分れば、大抵の事は解決できる。
先生は名指しを避けたが、最近休みがちな5年生の平田さんに語ったのだろう。身体が
弱い平田さんは、今学期に入ってから休みが多くなっていた。今日は来ているけど昨日迄
3日続けて休んだらしい。体調不良と聞いたけど、原因は身体の不調だけではないのかも。
「学校は出来るだけ休まない様に。事情や悩みがあるようなら、先生方も相談に乗るから。
先生が厳つくて怖そうだったら、保健の山城先生とかに相談しても良いんだぞ」
名指しして当人が気に病まない様に、みんなに向けて語る。みんなに向けて言うべき事
でもあった。人は皆、それぞれに悩みを抱く。今先生に見えてない悩みを抱える子が他に
いるかも知れないと、そこ迄先生は考えている。
「じゃ、授業を始めるぞぉ……」
しかし子供とは、基本的に大人の話を聞き流して省みない。心に留めない。わたしも人
の事は言えないけど、興味のある話・面白い話しか耳に入れないし、行わないのが子供だ。
禁止された事も、何の気なしにやってしまう。
意識して背く訳ではない。心に留めてないだけ。でも、だからこそ子供は、何の気兼ね
もなく禁止された事をやってしまう。躊躇いや遠慮がない。無垢だから、無垢な侭残酷に。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ゆめいさん、早く早くっ!」
「和泉さん、ちょっと待って」
給食当番だったわたしは、同じく給食当番で一緒に片づけを終えた金田さんを追いかけ、
教室に向う。この後の5時限目は体育だから、みんな食べ終ると同時にジャージに着替え
て、体育館でバレーをする。どうせ着替えるなら、着替えて先に遊ぼうとの発想だけど、
少人数なのでみんな歩調を合せないと成り立たない。当番ではないみんなは着替え終えて
いる頃だ。
人は皆好き嫌いや得手不得手がある。束縛感がイヤと影で話す人もいたけど、声には出
しづらい様だ。中途で外から入ったわたしは、こういう場には積極的に溶け込むべきだ。
そう考えたのも2年前から。最初は溶け込む溶け込まない以前に状況が呑み込めなかった
し、身体はみんなと共にあっても、心は1人閉じこもっていた。周りを考える余裕もなか
った。
世間も家族も一人一人が支えないと成り立たない。人数が多い処では、一人のみんなに
占める割合が低いから実感しないけど、少人数の世間では、自分がいない又はいる事で頭
数が足りたり足りなかったりが即座に見える。
「みんな、もう行っちゃってるよ」
金田さんは教室に飛び込むと、ジャージを入れた袋を持って、反転する。体育館の隣の
女子更衣室に行くのだ。追いかけようとしてわたしは、教室に残っていた人影に気付いた。
「詩織さんも、早く行こう」
平田さんに声をかける。彼女は未だ着替えてない。平田さんは、なぜかわたしの声にぱ
あっと頬を赤らめながらも、少し俯き加減に、
「わたしは、今日は体調、良くないから…」
語調と姿勢に弱気が宿っている。平田さんは身体が弱いので、体育を積極的に好む方で
はない。風邪を引いたりして、見学で過ごす事も少なくない平田さんだが、今日これ迄の
印象では、いつもよりむしろ元気そうだった。
「見学、するの?」
「授業は出るけど」
遊びには行かない。自分はお呼びではない。身体が弱くて遊び相手にならない。招かれ
ざる客は行かない方が良いと、顔に書いてある。最近のみんなには、そんな空気もあった
けど。
でも少人数の中でみんなに外れるのは辛い。外す方も気拙いし、外された側も居所がな
い。百人の中の十人と十人の中の1人は質が違う。百人の中の十人に仲間はいるけど、十
人の中の1人に仲間はいない。仲裁に立つ人も捜しにくい。少人数は一旦拗れると修復し
づらい。だからわたしは未然に溝を埋めるべきと思う。みんなが楽しく笑える様に、一点
の曇りもなく笑える様に。誰1人涙を流さずに済む様に。
「一緒に行こう」
一つ年下の級友に声をかける。引っ込み思案になって、みんなから遠ざかってはダメだ。
みんなは自覚して平田さんを無視したり、仲間外れにしている訳ではない。でも、今平田
さんが自ら離れれば、それがきっかけに……。
閉じこもってはダメだ。自分の心の内しか見なくなってはダメだ。他の誰かを意識して、
他の誰かの姿を見て知って、その視点で自分を外から見つめないと、自身が見えなくなる。
「でも、みんなはきっと……」
おかっぱ頭に揃えた黒髪は、わたしの髪型に少し似ている。身長も1歳下なのにわたし
と余り変らない。黒目の大きな瞳も、大きく開いた事のない口も、どことなくわたしに…。
みんなはわたしを望んでない。その言葉を、わたしも何度口にし、思いに上らせただろ
う。そして彼女も馬鹿ではない。みんなが自分をどう見ているか、直接言われずとも薄々
分っていればこその、積み重ねがあっての思いだ。
わたしはそう言う時にどうすれば良いのか、自身の体験を適用する事でしか対応できな
い。彼女はわたしではない。彼女がわたしの通ってきた道を必ず進むとは誰も保証してい
ない。それを分った上で、彼女の心の内に踏み込む。踏み込まないと、扉を開けて貰えな
い。わたしは視線が俯きがちになる平田さんを見据え、
「『みんな』は一番に大切な問題じゃない」
平田さんは、びっくりした様子で顔を上げ、わたしを見つめ返してきた。続きが気にな
った様だ。『みんなも待っているよ』や『みんなも貴女を嫌っている訳じゃない』等のや
や無責任な慰めや気休めを、予測していたのか。それなら受け流したのにと、瞳が語って
いる。
そこにもう一歩踏み込んで、その心の壁に爪を引っかけて、こじ開ける為に力を込める。
「わたしの今一番大切な問題は、詩織さん」
見つめてくる平田さんの視線を見つめ返し、
「わたしがあなたを誘っているの。例えみんなが貴女を求めなくても、わたしは貴女を求
めている。わたしと一緒に、行きましょう」
黒目が大きく見開かれた。これは気休めでも慰めでも、期待でも予測でもない。わたし
が平田さんを求め誘ったのは事実、この気持は平田さんが今聞いた通り。みんなは別とし
て、羽藤柚明は平田詩織を求めている。その事実に、閉ざしかけた双眸が大きく揺れ動く。
それをわたしはひたと見据えて、動かずに、
「それでも、みんなの処に行くのは怖い?
わたしじゃあ、頼りにはならないかな。
それとも、わたしと一緒じゃ、イヤ?」
羽様小学校の5年生4名の内、女子は平田さんだけだ。6年生は5名中の4名が女子で、
クラス9名の半分は女子だけど偏りが大きく、心を開きにくい状況ではある。年齢や性別
を変えられない以上、気の持ち方や対応を変えていかなければ。そして、年下の悩みは年
上が面倒を見る。仁美さんも、そう話していた。子供の人生経験は1歳違いでも結構大き
いと。
平田さんの心に切り込んだわたしの問いに、
「そ、そんな事、ない!」
恐らく最後の一節にだけ、大きく否定の意味を込めた声の大きさに、自身びっくりした
様子の平田さんに、わたしは彼女が3つの問を全て否定したと見なして、手を取った。
彼女がわたしに好意を持つ事は分っていた。わたしも馬鹿ではない積りだ。平田さんが
わたしをどう見ているのか、直接言われずとも薄々分ればこそ、積み重ねがあっての行い
だ。
「じゃ、行きましょう」
みんながあなたを受け容れてくれるかどうかは分らない。でも、できる事はやらなきゃ。
あなたからみんなに背を向けてはダメ。みんなの気持を、先にあなたが撥ね付けてはダメ。
「わたしが、一緒に行くから」
自分はこの世に1人ではない。サクヤさんがわたしの身体と心を抱いて、そう感じさせ
てくれたから、わたしは今ここに生きていられる。誰かが心から望んでくれれば、心から
感じ取れれば、それが人の生きる支えになる。
わたしはそれを伝えたかった。誰か1人にでも心から望まれれば生きる値を感じ取れる。
前向きに生きる姿は好感を呼ぶ。その存在を心から望む人は現れる。最悪ここにわたしが
いる。あなたを求めるわたしがここにいると。
「……うん」
微かに涙ぐんだ声と共に、平田さんはわたしの手を握り返してくれた。この涙は悪い涙
ではない。でも、こんな涙さえも不要な位に、幸せに満ちた世の中に出来れば良いのに。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
今日の体育館は5年生と6年生の割当てだ。他の学年の子はグラウンドで、今いるのは
この後に体育の授業がある5年生と6年生だけ。
「遅いよ、ゆめいさん……」
金田さんの声の直後、みんなの間を走った違和感は錯覚ではない。それに気付かぬ風を
装い、平田さんの掌を強く握ってから放すと、
「さあ、みんなで始めましょう」
平田さんも含むみんなに向けて言う。
「平田さん、体育は見学じゃないの?」
昨日まで3日も休んでいたんでしょ。
鴨川さんが遠回しに言いたいのは、体育を見学する程体調が悪いなら、遊びにも参加で
きないよねと言う事だ。確認の形を取った誘導に、1歳年長の上から見下ろす言い方に、
「わたし……今日は、元気ですから」
平田さんの答は精一杯の勇気だろう。問われたのは本人だ。わたしが代って応える訳に
も行かない。望む回答をちらつかされながら、それと違う答を敢て口にする平田さんに、
「チーム組み、どうしようか?」
鴨川さんは平田さんの瞳を見て、その斜め前にいたわたしに視線を投げかける。平田さ
んにもわたしにも、それ以上は何も言わない。後ろを振り返って『みんな』の感触を求め
る。
「奇数になっちゃうね」
金田さんが少し考え込みながら、
「誰か1人審判に立つ、かな。順番に」
みんなの視線が向うより早く、平田さんが何か言うより早く、わたしが次に声を上げて、
「わたしがやるわ」
折角、参加させる為に平田さんを説き伏せて連れてきたのに、最初に審判では可哀相だ。
2巡目以降なら誰かが担うべき役だから平田さんに回る事もあるけど。後はチーム分けだ。
「5年生対6年生で、やってみる?」
「止めてくれよ。平田を入れたら、永遠に5年は6年に勝てないって」
佐々木さんの提案は、5年生の北野君に一蹴された。子供の1歳の年齢差は体格や技術
に大きく響くと言う。でも、5年生は平田さん以外全員が男子で、6年生は5名中4人が
女子だ。それ程戦力差があるとは思えない…。
「それより、男子対女子にしようよ」
同じ5年生の黒川君の提案は逆に、
「冗談! 平田さんを入れて、女子が男子と試合になると思っているの?」
鴨川さんが却下した。6年唯一の男子の沢尻君が抜けて敵方に行き、代りに平田さんが
入るのでは競技が成り立たないと迄言い切り、
「巧く組めないわね。平田さん、あなた最初の1回だけ審判やってくれないかしら。その
間に考えましょう。羽藤さん、入って」
テストで面倒な問題を後回しにする感じで、平田さんを審判に指名する。わたしが流さ
れて了承すればみんなそれを通す。その構図が目に見えた。平田さんを外す意思がみんな
にある訳ではない。でも、反対の声がなければ、大きな声がみんなの無言の了承で通る。
これは田舎でも都会でも変る事のない人の実相だ。わたしが了承すれば、最初に審判を申
し出たわたしが審判を平田さんにお願いと言えば…。
「そんなに巧い組み合せを考える事はないの。得意不得意をカバーし合うのがチームの筈
よ。誰もがいつも最善の仲間と組める訳じゃない。チームワークって元々助け合う事でし
ょう」
わたしは戦力差を合せたがる声に異議を唱えた。戦力が伯仲した方がゲームは楽しめる
けど、その為に誰かを弾いて本当にゲームを楽しめるだろうか。尤もらしい理由を付けて、
みんな自分が何をしているのか分っているの。
少人数の世間では、子供でも拗れを怖れ正面からの衝突は避ける。己の為でもないのに、
声の大きな誰かに意見し流れに棹さす行いは、後から考えれば無謀だった。わたしが周囲
から孤立しかねない状況だった。いや実際は…。
「5年生でチームを組む事に問題あるの?」
北野君に問いかけると、スポーツ刈りの小柄な北野君は、俯き加減に目線を逸らせて、
「平田が入ると、足引っ張るんだもん」
緊張の糸が張りつめた。言ってはいけない事を、何気なく。いけないとも分らない侭に。
無邪気な残酷さが、平田さんの心を突き刺す。それにも気付かず、配慮できず、推察でき
ず。そんな事をわたしもかつて、やってしまった。だから言わずにいられなかった。それ
が、人の心に、どの様に響くのかという事だけでも。
「羽藤さんの方が綺麗だし、動きも良い。俺、羽藤さんとならチーム組みたい」
平田さんの身が竦むのが見なくても分った。
「やるなら勝ちたいよ。なあ」
男の子とはこういう生き物なのか。目先の勝ち負けに、どうでも良い勝ち負けに拘って、
大事な物を忘れて気付かない。田舎には都会の人が忘れた心の清らかさや優しさがあると
聞くけど、それは幻想だ。田舎も都会も、人の心にそれ程大きな違いはない。
「勝てる状況を自分で作って、その上で勝つ事に喜びを感じているのなら、止めないわ」
あなたを勝たせてくれるメンバーを選んで、勝ち続ければ良い。優秀な仲間の力だけで
勝てる、あなたが活躍しても活躍しなくても勝てるチームを作って、勝たせて貰えば良い
わ。
わたしは、怒っていただろうか。耳に入るわたしの声は大きくなかったけど、北野君だ
けでなく、同じ5年生の川島君や黒川君迄が、わたしの目線を怖れる様に後ずさる。それ
は各々の良心に恥じる思いがあった所為だろう。決して、わたしの眼光が怖いからではな
くて。
「それが望みなら、中学生でも先生でも連れてきて勝てば良いわ。鴨川さんも」
話を振られた鴨川さんがぴくと震える。相手を無意識に傷つける人は、傷つける事に無
自覚な為に、傷つけられる事への覚悟もない。反撃を受けると予想もせず、直面して初め
て狼狽える。みんなで真綿を締める様に、誰1人責任を負わない形で自然に進めていたの
に、失敗し止められ問い返されて、困惑している。でもせめて、己の行いの結果位は受け
止めて。
「競技で相手を倒す事が、目的じゃないのに。休み時間に愉しむバレーに、戦力とか拘っ
て。人を弾き出して、それで本当に楽しめるの」
鴨川さんが何かを言おうとして、口を噤む。
言えば言う程、自爆になると感づいた様だ。
こう言う時は大人しく叱られる流れに乗る。
それはそれで、巧い処世術ではあるけれど。
「羽藤さん、わたしはもう……」
平田さんがわたしに寄り添い袖を引っ張る。彼女も本質はみんな仲良しを好む気の弱い
子だ。わたしがここ迄畳みかけるのを怖がっている。その結果わたしが孤立する事、自分
の所為でわたしが反発を受ける事を怖れている。でもそうじゃない。むしろこれはみんな
の…。
「これは、詩織さんの問題じゃない。詩織さんを外して、それで楽しく遊べるかもと思い
かけた、みんなの問題なの。そんな事がある筈ないと、即座に拒まなきゃいけなかった」
世の中には、流されちゃいけない時が偶にある。絶対少数で、孤立すると思っていても、
声を上げなきゃいけない時が偶にある。乗ってはいけない誘いがある。それがこの時だと。
「わたしは『みんなで』遊ぶと思ってきたの。一人一人が遊びたい友達や人数を好きに選
んで遊ぶなら、それはそれで構わない。わたしもわたしでそうするわ。でもわたしは今
『みんなで』遊ぶと思っていたの。『みんな』が揃わないなら、わたしはこの遊びから降
りる。
詩織さんが参加できない遊びには、加わらない。詩織さんじゃなくても、誰か1人でも
入る事を拒む遊びには入らない。それでわたしを入れてくれないなら、それで構わない」
みんなとは全員のこと。誰かを除いたみんな等あり得ない。みんな揃うからみんななの。
口を閉じると重々しい沈黙が場を支配する。
わたしは己の心を述べただけだ。みんなに直接何かを勧めた訳でも、答を求めた訳でも
ない。だから逆に応えづらかったのか。わたしも上手に話せたとは思えない。唯、その核
心は伝わったと思う。私の想いの強さと共に。
みんなも容易に動けなかった様だ。微かに自覚していた人も無自覚な人も、目を逸らせ
たい瞬間を問われたのだ。応えは他のみんなと同じか違うか、口にして責任を被れるのか。
みんなとして応えるか、個として応えるのか。打ち合せて動いた訳でないが、一堂に会し
た中で進んでいた事に自分だけ違うで通るのか。
「分ったよ。全く、羽藤の言う通りだ」
責任を被る覚悟を要する第一声は、沢尻君だった。少し背の高い、均整の取れた体格に
厳つい顔つきだけど、基本的に陽気な人物だ。
「チーム割を変えよう。5年の中に俺と鴨川が入って、代りに黒川と北野が、6年に入る。
男女も2人ずつ、5年も6年も半分ずつだ」
悪くないだろう。ニッと微笑む。
それで場が打ち解けた。これが人徳なのか。小ささいとは言え児童会の長を委される訳
だ。こういう調整力は、わたしの及ぶ処ではない。
「えっと、Aチームが黒川君と北野君と華ちゃんとあたし。Bチームが沢尻君と鴨ちゃん
と川島君と詩織さん。審判がゆめいさんね」
金田さんが、入り組んだ状況を言葉に直して整理する。変則的な、何の秩序もないごち
ゃ混ぜの編成だけど、沢尻スペシャルと本人が言う他に名付けようのない組み合せだけど。
「これなら文句ないだろう。羽藤も、北野も、黒川も、鴨川も、平田もさ」
『わたしは別に、文句なんて……』
言いかけるわたしに、意味ありげにウインクする。他の人の文句を、わたしの主張と故
意に同列に扱い、場を収める積りか。正当な主張を正当と言うだけでは、不当とされた側
の面子や嫉妬で収拾がつかなくなる事もある。わたしや平田さんに文句がある筈もない。
問題は他の面々で、故に沢尻君が文句と予防線を張った訳で。反発の声は、挙がらなかっ
た。
「決まり。さっさと始めよう。もう時間…」
その通りだった。沢尻君が言い終える前に、5時限目の5分前を報せる予鈴が鳴り響い
た。
「あちゃあぁ、時間だあ」
金田さんの諦めた声が、場に張りつめた空気を一気に抜き去った。バレーは出来なかっ
たけど、それより大事な何かは保つ事が出来たと思う。わたしと言うより、みんなの力で。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「今日は、ありがとう」
平田さんは帰り際にそう言ってくれた。感謝される程の事を中々出来ないわたしは、感
謝される事に慣れてないので、上手に応対できなかった。気持は、伝えられたと思うけど。
みんなは、平田さんをみんなの輪から外そうとした無意識の動きを自覚した。自覚した
以上、次から無自覚には動けない。そして意識して平田さんを外そうとする人は、きっと
多数派ではない。サクヤさんのルポライターの仕事はこの様な効果を求めての行いなのか。
みんなが知らなければ、意識が薄くて通ってしまいそうな危険な事、いけない事、本当
は悪い事を、みんなの前に見せつけて、自覚させ、それで良いのかとみんなの良心に問う。
正面から問われて尚いけない事、危険な事に踏み込もうという人は多くない。みんなで何
とかしようとなる。サクヤさんは、きっとわたしの何十倍もの勇気を必要とするのだろう。
反発も、孤立も、妨害もある世の中だから…。
校門前のバス停迄来た時だった。数人の児童がバスを座って待つベンチを前に、突然平
田さんはわたしを振り返った。わたしの両手に両手を伸ばし、逃がさない感じで掴み取る。
陽は眩しいけれど、木陰なので、風は涼しい。
家が遠い平田さんは、バスでなければ通学も帰宅もできない。家まで十五キロはあるし、
身体の弱い彼女は歩く訳にも行かない。だから友達も中々出来ないと前に聞いた。わたし
は手を握り合える程に近い友達になれたのか。
「ゆ、じゃない、羽藤さん……」
「詩織さん?」
ちょっと驚いた。平田さんは、余り行動的な性格ではなかったから。いきなり両手をそ
の両手に取って揃えて、胸の前迄持ち上げる。胸の前で、お互いに両手を組み合せた状態
だ。
近くに年少の子達がいる事も、想いで胸が一杯な平田さんの視界には入ってない。年少
さんの視線は少し気になったけど、言うと話に水を差す事になりそうなので、黙っていた。
「わたし……、今日は、とても嬉しかった」
平田さんの頬が、微かに赤くなっている。
『わたしの今一番大切な問題は、詩織さん』
平田さんはわたしの言葉を口に上らせて、
「そこ迄言ってくれた人は、いなかったから。わたしの為にそこ迄踏み込んでくれた人は
いなかったから。身体が弱く家も遠く、誰にも構って貰えない、返す物も何もないわたし
に、心を明かしてくれた。危険を冒してくれた。守ってくれた。涙が出る程、嬉しかった
よ」
話しかけてくれた。励ましてくれた。力づけてくれた。手を握ってくれた。瞳を見つめ
てくれた。いつも、見守ってくれていたよね。今日だけじゃなく、もっと前から、ずっと
…。
彼女も馬鹿ではない。わたしが送り続けていた気持に気付いていて当然だ。内に閉じこ
もりがちな、わたしに似た性癖を持つ、だから何かと気になって止まない、身近な女の子。
身体が弱くて、5年生で唯1人の女の子で、人と接点を作るのが下手で。でも可愛い後
輩で級友。わたしが羽様小学校で最初に名前を覚えた、わたしのたいせつな友達。
「ゆめ、は、羽藤さんって、手が温かい…」
こうして持っていると、心迄暖められそう。
愛おしむ様にわたしの手に頬を寄せるのに、
「柚明で良いのよ、詩織さん」
「ゆ、め、い、さん……」
平田さんの顔が一層赤くなるのが見て分る。
その熱が伝わってわたしの頬も染めていく。
年少組の視線がやや気になった。平田さんと同じバスに乗るから彼らもここに居続ける。
場を変えたかったけど、事は動き出していた。
平田さんの見つめる瞳は、熱と力を帯びて、
「わたし、ゆめいさんがいるから、学校に来られた。熱を抑えようと思えた。少し位身体
が重くても、出てこようと思える様になった。柚明さんがいなかったら、学校も諦めてい
た。本当は、今日も体調良くなかったの。でも」
体育の授業もきちんと受けられた。それは、
「ゆめいさんと一緒に授業受けたかったから。
ゆめいさんと一緒にお話ししたかっらから。
ゆめいさんと一緒に過ごしたかったから」
その視線は、わたしの瞳に挑み掛る様に、
「鴨川さんに望まれない返事迄できちゃった。
みんなゆめいさんがくれた力。みんなゆめいさんと一緒にいたお陰で生れてきた力なの。
1人では絶対に出来なかった。1人では絶対に越えられなかった。閉じこもって、塞ぎ込
んで、何も変えられなかった。変えようと思えなかった。全部、ゆめいさんのお陰なの」
だから、ありがとう。
胸の前で握り締められた両手に、更に力と熱が加わる。見据えてくる視線が強くて深い。
それは平田詩織の全力の想いだ。平田詩織がわたしに今言いたくて堪らない全ての想いだ。
「わたしも、ゆめいさんの様に、強くなる」
瞬間、わたしの目が驚きに丸くなるのが平田さんにも見えていたと思う。それは平田さ
んの思いの深さへの驚きだけではなく、その中身、わたしが強いと言われた事への驚きで。
わたしが、強い? 自覚した事もなかった。
わたしはずっと役立たずで、わたしは誰の力にもなれず、守れないどころか、鬼を呼び
寄せて家族に死を招いた、禍の子だったのに。みんなを哀しませる子だったのに。それ
が?
「わたしは、強くなんか、ないよ」
買い被りよ。そう言って否定したわたしに、
「わたしが絶対に出来ない事を出来た。
わたしが絶対に言えない事を言えた。
わたしの中に勇気をくれた。誰が何と言っても、ゆめいさんはわたしの中では強い人」
手を握り締めた侭、強い視線を送ってくる。それは信仰に近い程強い想い。生きる支え
になる程深く根差した強い想い。彼女をここ迄強く言いきらせる。わたしはひょっとして
…。
「ゆめいさんは、わたしを、守ってくれた」
わたしに返せる物は、何もないのに。
みんなの反発を受けるかも知れないのに。
わたしがゆめいさんの立場でも出来ない。
他人を守る為に、みんなに逆らうなんて。
「ゆめいさんの心はとても強いわ。わたしは、それに触れる事でやっと少し、力を貰えた
の。全てはゆめいさんが呼び覚ましてくれた力」
強さとは、腕力や剣術や、贄の血の力を指すのではない。誰かを守る為に危険に踏み込
む勇気、誰かを庇う為に身を投げ出す覚悟、代りに痛みや苦しみを負う決意、反発や孤立
を招くと分って踏み越える気概を、指すのか。
財力も権力も本当の強さではない。強さの材料にはなるけど、その核心は使う者の心に
宿る。想いの強さが本当の強さだ。そしてわたしが求め欲する強さは、人を守れる強さだ。
いつでもどんな時でも、みんなが笑って過ごせる様に、涙を零さずにいられる様に。た
いせつなひとを守る。たいせつなものを守る。わたしは詩織さんに教えられた。ああ、お
父さんもお母さんも、その様にわたしを守り…。
「わたし、ゆめいさんを心に思い浮べる事で、これからも、生きていける。ありがとう」
わたしは漸く、誰かを少し守る事が出来たのか。とても小さな成果だけど、非力なわた
しには充分すぎる成果。始りは小さな処から。小さくても大切な物はある。とても大切な
物が。初めて守れたこの小さな想いは大切な物。
わたしは詩織さんの握り締める腕をゆっくり外して、詩織さんの肩を両腕で抱き寄せた。
詩織さんは驚きに目を丸くしたけど、身体は拒まなかった。少し緊張に堅くなったけどす
ぐにそれは緩んで、詩織さんの両腕がわたしの背中に絡みつく。背丈が余り違わないので、
わたしたちの抱擁は頬を摺り合せる形になる。
「わたしこそ、ありがとう。あなたに、大切なことを教えて貰えたわ」
甘く暖かな時間。体温が被服を乗り越えて伝わってくるという事は、わたしの体温も詩
織さんに伝わっていると言う事だ。年少さん達の視線もあったけど、気にしない事にした。
今はこの至福感に包まれていたい。耳元で、
「月曜日も、必ず学校に来てね」
詩織さんの囁きにわたしは頷く。すると、
「火曜日も、必ず学校に来てね」
その囁きに、わたしは再び頷く。すると、
「水曜日も、木曜日も、学校に来てね」
わたしが頷き返す前に詩織さんは続けて、
「金曜日も、再来週も、その次の週も」
夏休み迄、毎日休まずに学校に来てね。
「わたしも絶対休まないから。わたしも絶対出てくるから。必ず毎日逢おうね、毎日ね」
子供が親を求める様にわたしを求める詩織さんに、わたしは暫く抱き締めた侭頷き続け。
当分わたしは経観塚から離れられそうにない。
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バスに乗る詩織さんを見送ってから、わたしは校舎に引き返す。少し前にジャージを忘
れた事に気付いていたけど、詩織さんとの話を外せなかったので、後回しにしていたのだ。
忘れ物に気付いたら即引き返すか諦める他に選択肢のないわたしが、やや遅い時間に校
舎に戻り来なければ、彼らの会話が耳に入る事もなかっただろう。普段の行動にない事を
すると、普段見聞きできない物を見聞できる。
「博人、あんた何とかしてよ、あの女を!」
玄関に入ったわたしの耳に、教室から届いた鴨川さんの声はかなり大きい。微かに悪い
予感を抱きつつも、わたしは教室に歩み行く。博人とは沢尻君の事。人の出入りの少ない
ここでは、小学6年になればみんな幼なじみだ。
「鴨、あれはやりすぎだって」
沢尻君の声はやや小さく、宥める感じだ。
「平田を外そうとしているのが、見えすぎだ。あれじゃ羽藤の言う通りだよ。平田が自ら
引っ込むなら別だけど、今日の鴨は強引すぎた。
墓穴を掘るって言うより、填りかけてたぞ。羽藤は追及を中途で止めたけど、あれは事
を荒立てない為にそうしたんだ。次に同じ事をしたら、今日の分迄纏めて二倍返しで来
る」
わ、見抜かれている。
「でも、みんなの前であそこ迄言うかい?」
「羽藤さんてあんな大胆だと思わなかった」
川島君と黒川君の声が交互に聞えて来た。
「言っている事は間違いじゃないんだけど」
「よく言えるよ、みんなに向ってお説教を」
「生意気なのよ、あいつ。この前越してきたばかりで。大体何なの、いきなり羽藤って」
鴨川さんの想いは想いだけで理屈がないけど、逆にそれ故に大きな憤懣の蓄積が窺えた。
「まあまあ、あれはあれで収まったんだ。良いじゃないか。あの場で文句が出なかったん
だから、みんなもあれに了解したんだろう」
沢尻君が、みんなの突き上げを食っている。そんな状況だろうか。わたしの意見を容れ
た仲裁をした為に、みんなの意見をとりまとめた責任者の故に、不満の捌け口になった
と?
みんなが完全に納得し綺麗に決着したとは、わたしも思ってない。唯、誰も責める結果
にならず、誰にも責を負わせず、丸く収めたのは沢尻君だ。それに納得しないなら、それ
は。
「わたしは、あれでも良いと、思ったけど」
漸く沢尻君を擁護する声が佐々木さんから出た。金田さんと北野君は、帰る姿をさっき
見たので、今教室にいるのはこの5人だけか。
「華子は博人が右と言えば右と言うからね」
鴨川さんの憤懣は佐々木さんに迄飛んだ。
「そんな、真沙美さん。何も、わたしは…」
言い淀む佐々木さんに代って、沢尻君が、
「八つ当たりは俺迄にして置いてくれよ、鴨。
羽藤の言った事は正論だ。鴨も反論できなかっただろう。あの場で先に黙り込んだのは
鴨だったしな。俺が収めなかったら、鴨は羽藤の話をどう受けて返す積りだったんだ?」
そう言われると、鴨川さんの声が止まった。
わたしが流れを押し止め、収拾に沢尻君が新しい流れを作り出した。それに不満があっ
ても、彼らは一度出来た流れを覆しはしない。気に入らない空気でも、出来て今ある以上
は、誰かがそれを打ち破る迄従うと。その時が来れば、一斉に噴き出すと言う事でもある
けど。
「俺は納得した訳じゃない。沢尻さんが言ってみんなが了解したから、従っただけだよ」
川島君は自分の見解を最後迄あの場で出さなかった。その真意はこう言う事だったのか。
それに続けて鴨川さんの声が、
「あんなの、無視して良かったのよ。自分勝手な意見、誰の支持もないお説教なんて…」
おいおい。沢尻君がもう一度原点を見ろと、
「やりたきゃ無視するが良い。みんなでするならそうしても良い。でも、ここは少人数な
んだ。平田の上に羽藤迄抜いて、みんなって言えるのか。それでみんなが成り立つのか」
不満を含んだ沈黙が場を支配した。彼らにもどうするかの見通しがない事を示す沈黙だ。
だから沢尻君の仲裁であの場が収拾したのに。
「今更あれに異議を唱える積りか? 平田はともかく羽藤が黙っちゃいない。俺の収拾を
壊しておいて又俺に頼むなんて、なしだぞ」
彼が纏め役を投げ出したら、それを担える者はいない。それを分っての脅しに、黒川君
と川島君の声が急に弱くなる。ある程度言わせて不満のガス抜きをし、飴と鞭を使い分け
元の鞘に収め。沢尻君は巧い調停役だ。でも、
「あたしは、納得した訳じゃないからね!」
鴨川さんは中々腹の虫が収まらないらしい。
大体なんで、みんなあの女を呼び捨て出来ないんだ。お姫様に触る感じでちやほやして。
ちょっと可愛い位で。都会育ちがそんな良いかい。来た頃は身体も弱く、俯いてばかりで、
詩織の同類だったのに、少し調子に乗ったらみんな綺麗だの頭が良いの優しいの誉め放題。
「俺は呼び捨てにしているけど、そう言えば俺1人だけか。羽藤って呼び捨てているの」
沢尻君が、気付いた様にそう応えるのに、
「俺達は年下だから」
黒川君が2人分纏めて逃げを打つ。感情の話に填りすぎるのは危険という現実的な判断
が透けて見えた。でも考えてみればその通り。
わたしは何故か近所の大人にも未だ『羽藤さん』『羽藤さんのとこのお嬢さん』だった。
新参扱いだからと思っていたけど違うらしい。打ち解ければ『ゆめいちゃん』でも良いの
に、年長者になればなる程、敬語調が強くなって。
「良い家の生れだからって良い気になって」
「実際良い家柄なんだからしようがないさ」
そこは沢尻君も否定しない。
「爺さんから聞いたんだ。羽藤家は、戦後の農地改革迄は羽様の大地主だったし、江戸時
代には付近数か村の総庄屋だった。遡れば経観塚の郷土資料館に出てくる竹林の長者の子
孫だって、これは嘘か本当か分らないけど」
羽藤の家を呼び捨て出来る大人は、転勤族の学校の先生位だって、爺さんは言っていた。
「羽様って地名も羽藤様が転じた物だって」
佐々木さんが横から言うのに、
「明治にこの学校を建てる時も、羽藤が多額の寄付をしたそうだ。羽様にないのに羽様小
学校なのも、それに感謝を表してだって…」
「それが気に入らないの! お姫様の癖に」
鴨川さんの本心が漸く聞けた。
「突然土足で入って来て。仲間でもないのに、仲間の顔で、仲間の様に掻き回して、偉そ
うに正論言って。みんなの空気を勝手に壊して作り替え、それで当たり前なのが許せな
い」
あたし達の庭を、よそ者が。お姫様ならずっと手の届かない処にいれば良い。中途から
割り込んで来て。この田舎迄逃げてくるなんてただ事じゃない。人に言えない事情がある。
「全部が違うんだよ。そこは、わたしたちもそう言う人なんだって、受け止めないと」