第2章 哀しみの欠片踏みしめて(後)


 佐々木さんは鴨川さんを宥めている。でも、そこで仲間だと反論してくれないのは、正
直心に刺さった。仲間ではないと、一緒にいても本当は受け容れてないと。わたしは何年
居てもここでは所詮お客様だ。少し寂しかった。

「俺も、先にそんな話聞いていたら呼び捨てに出来なかったかもな。生れは選べないんだ。
その辺は、下々が理解して上げないと…?」

 そこで沢尻君が漸くわたしの存在に気付いたらしい。みんなの視線も瞬く間に凍りつく。
気の所為か、微かに空気に、湿り気を感じた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 重い沈黙が場を支配した。誰もが身動きできず、凍りつく。何か言わねばならなかった
けど、誰か言うべきだったけど、声は出てこなかった。フォローの術が見つからなかった。

 硬直を破ったのは、わたしだった。くるりと身を翻し、廊下を一直線に走り出す。ここ
にはいられなかった。いるべきではなかった。いてはいけなかった。わたしの教室ではな
い。ここはわたしを受け容れてくれる場ではない。

「羽藤、待てよ!」
「待って博人っ!」

 後ろから沢尻君の声が聞こえたけど、足は止めない。それに更に続く声は佐々木さんか。

「華子はここにいろ。俺が、行って来る!」

 彼は何をしに来るというのか。みんなの一員でもないわたしに、一体何を求めようと…。

 空の暗さに気付いたのは、グラウンドに出てからだった。山の天気は変り易い。山々に
連なり森の縁にある羽様小学校は、山の天気の影響を強く受ける。さっき迄抜ける様な青
空だったのに、気付けば天空は一面の黒雲で。

 それはわたしの心の内のよう。誰かを庇い誰かを守り、その末にわたしがみんなの一員
でなかった事を知ったこの心の乱高下のよう。わたしこそみんなにそう見られてない事を
知らず、みんなの輪に誰かを入れようと足掻き。

 思い上がっていたかな。何か出来るかも知れないって、自分を過信しすぎたかも。でも、
何かを守れた気がした時は、充実していた…。

 降り始める雨足を避ける気力もなく、頬を打ち始める雨粒を拭いもせず、わたしはグラ
ウンドを迷い歩いていた。沢尻君に追いつかれる迄は、彼のその手に手首を掴まれる迄は。

「羽藤、待てよ!」

 右手首を掴まれわたしの動きが急に止まる。
 重石がついた様にわたしの自由が縛られる。

 みんなから切り離されて、わたしの立場は根無し草なのに。拠り所を失ったわたしを縫
いつけるこの腕を、一瞬振り解こうかと思ったけど、それはせず、振り向き彼を正視した。
彼が果して何を言うか、聞いてみたくなった。

「わたしって、間が悪いのよね。聞いてはいけない話とか、秘密の話とかをしている場に、
なぜか近くに居合わせちゃうの」

 わたしを止める事しか念頭になかったのか、沢尻君はわたしが振り向いても喋りが出な
い。わたしから話しかけたのは彼の話を誘う為だ。鴨川さん達も追いかけてくる様子はな
かった。

 頬を打つ雨粒が、大きく頻繁になってきた。すぐに土砂降りの雨になる。でも中に戻る
気にはなれなかった。心は既にずぶ濡れだった。今更服や身体が濡れても、わたしの心配
等…。

「濡れちまうぞ。戻ろうぜ」

 暖かな掌が、わたしの手首を握り締める。

「貴男こそ、濡れてしまうわ。戻ったら?」

 みんなの一員でもないわたしに、戻る場所なんてない。それを瞳に乗せて送るわたしに、

「俺は羽藤が……に濡れる事が心配なんだ」

 遠雷が、途中で彼の言葉を妨げた。

 発された言葉を聞き逃した事が、腰を引き気味だったわたしの姿勢を、前のめりにした。
妨げられた言葉が微かな距離感を縮めて行く。

「俺が戻りたいのは羽藤を含むみんなの中だ。羽藤が戻らないみんなの中に戻る気はな
い」

 どこかで聞いた様な強い語りに、わたしは正直に目を丸くした。みんなの空気を受けて
それを円く形にするのが彼の調停だ。みんながわたしを外す意向を持ち、わたしが異を唱
えなければ、その方向は自然に定まる。彼の意思など誰も気にしてなかった。わたし迄も。

「……今回は、羽藤が平田を庇ってくれて良かったと、正直俺は思っている」

 いつもの彼の語調と違う。そこでわたしは漸く彼のこの喋りと初めて逢う事に気付いた。
何というか、真摯さを隠してない。いつもみんなの流れに合せる様に、正論を口にしつつ
微妙に斜に構え、皮肉を交え、説き伏せるのではなく窘めるとか変幻自在で、悪意がない、
怒ってないと言う以上には正体不明な喋りが。

「あれは、俺には到底出来ない事だから」

 沢尻君の瞳は、わたしの黒目に固定されていた。誰もいない処を選ぶのは、彼にてらい
があるからか、そう言う一面を隠したいのか。本降りになってきた雨が額を髪を打ちつけ
る。

「俺に、引っ込み思案な平田をあそこ迄連れ出しては来れないし、みんなの反発を買って
迄して平田を庇う事は出来なかった。仲裁役が強い意見を述べちゃ収拾できなくなる以上
に、俺も羽藤程強くないんだよ。正直な処」

「わたしは、強くなんかない」

 今も、折れてしまっている。
 否定するわたしに彼は強く、

「お前は強い。それに綺麗だ」

 雷の轟音と光が世界を染め尽くす。しかし、わたしは言葉の方に驚いて、身動きできな
い。

「家柄なんか関係ない、資産も頭の良さも関係ない。お前の心は、美しくて強いんだよ」

 一体誰が、自分の殻に閉じこもる平田をみんなの前に引っぱり出せた? 半端な同情じ
ゃ人は逆に堅く引きこもる。俺がやっても誰がやっても、事を悪化させるだけだったのに。

 一体誰が、平田に見切りを付け始めたみんなの空気に異を唱えられた? 俺は引き延ば
せただけだ。和泉も華子も本心は望んでなかったけど、声には出せなかった。羽藤だけだ。

 雨が絶え間なく身を打ち続けても、気にならなかった。気になるのは彼の言葉の続きだ。

「羽藤は誰かを守る時に、自分の痛みや犠牲を考えない。自分の全てを賭けて、何も怖れ
ず核心に突っ込める。自分以外の誰かの為に、自分の何もかもを注ぎ込める。そんな事、
普通誰も出来ない。やらないよ。本当に大切な物の為にしかしない事を、羽藤は先にやっ
て、結果、本当に大切な何かに変えてしまえる」

 俺には到底及ばない。彼はそう繰り返し、

「鴨が嫉妬するのも無理はない。鴨は羽藤が輝き始めた2年位前から常に2番目の美人で、
2番目の成績で、抜かれた侭だ。その上であそこ迄無私に尽くせる姿を見せられちゃな」

 それはともかく。沢尻君は、そこ迄話せば鴨川さんを、わたしが嫌わないと分っている。
だから軽く触れて、さっと流す。それ以上は鴨川さんの誇りに触れるから、避けたいのか。

「俺はお前のそう言う処が好きだ。誰かを守る為に必死になり、誰かを愛おしむ為に自分
の傷を怖れない。とても強くて綺麗なんだ」

 その言葉は前置きに扱って良いのだろうか。そこが本題だと、そこが本当に重要な処だ
と、多くの人は言うのでないか。でも沢尻君はそこで言い淀む事なく、彼の本題に入って
いく。

「俺はお前が孤立する様を見ていられない」

 もう2人ともずぶ濡れだ。夕立には少し早いけど、周囲は雨の線が簾の様に視界を塞ぎ、
百メートルも離れてない校舎が目に映らない。

「羽藤の言う事は正しい。それは俺も分る」

 その隔絶感が沢尻君の言葉を促したのか。

「でも、みんなの空気に合せないと巧く行かない事もある。それもお前なら分るだろう」

 わたしの沈黙は、肯定だった。世の中には正論では割り切れない事がある。幾ら善意に
溢れても力及ばず止められない悲劇があった。幾ら意欲があっても汲み取れぬ想いがあっ
た。

 正しいかどうかなんてわたしにも大きな問題じゃない。わたしは唯みんな楽しくいて欲
しい。誰1人欠ける事なく笑っていて欲しい。わたしに大事なのはそれだけだった。そし
てそれはみんなにも大事と信じて疑わなかった。

 その思いがみんなに届いてなかった事が…。
 わたしが、みんなの1人でなかった事が…。

「羽藤なら空気を読める筈だ。転入生の立場も分っている筈だ。雰囲気から外れる者はい
つか弾かれる。羽藤が善意で人に関った結果、みんなから外される様を、俺は見たくな
い」

 みんなは羽藤程強くない。ダメな事でもダメな時でも、ダメと最後迄言い切れる人間は
そう多くない。羽藤が守った人間が、最後迄羽藤を守り続けてくれるとは、限らないんだ。

「お前が、信じて、庇い、守り、手を引いた人間を失って、失意と孤独に落ちていく様は
見たくない。俺は羽藤の輝きを尊く思うけど、いつ迄もその侭折れずに居て欲しいから」

 頼むから傷つく処迄踏み込まないでくれ。
 痛みを負って迄空気に逆らわないでくれ。

「詩織さんにこれ以上関らないでって事?」

 わたしは、静かに問い返していた。わたしが今日みんなの雰囲気に異議を唱えたのはそ
の事でだった。そこでわたしが折れれば、見過ごせば、みんなの空気と衝突する事はない。

「関るなとは言わない。今日の事は既に起きた事だし、みんな了承した話だ。今後だよ」

 みんなの前で、平田に関りすぎないでくれ。2人の時に幾ら近しくても文句はない。明
日以降、みんなに異論を唱えるのは控えてくれ。

「俺は羽藤が心配なんだ。平田とは夏休み迄の関りだ。もう、俺達にできる事は少ない」

「……どういうこと?」

 雨の冷たさも、瞬間忘れた。その諦めの表情に、手の及ばない何かを、感じ取れたから。

 沢尻君は僅かに俯いてから、決意した様に、

「平田は夏休み迄しか学校に来ない。遠くの大きな病院で、長期療養に入るって聞いた」

 あいつの身体の弱さは生れつきの病らしい。今迄騙し騙し保たせてきたけど、本当は二
十歳迄の生存率が半分に満たない、黙っていても弱っていく、遺伝的な難病なんだそうだ。

 わたしが息を呑んで凍りつくのを前に、

「職員室で先生が、平田の実家から電話を受けている処を聞いたんだ。先生も大事な話だ
から繰り返し聞いて、オウム返しに繰り返していたから、事情が呑み込めちゃったんだ」

 あいつは、もうじきいなくなる。いなくなる者の為に、残る者から反感を買う事はない。

 でもわたしにその続きは耳に入っていない。

「詩織さんには、夏休みがない……?」

 打ち付ける雨も、鳴り響く雷鳴も気にならなかった。わたしの心はさっきのやり取りを
必死に手繰り寄せていた。さっきだけじゃなく、少し前からこれ迄の、様々なやり取りを。

「夏休みが、じゃない。学校生活がなくなるんだ。平田は向うではもう学校には通えない。
病室が彼女の生活の主な舞台になると、先生は言っていた。それも、退院の見込みがある
入院じゃない。良くなる見込みより、入院しても悪化を先延ばしするのが精一杯らしい」

『わたし、ゆめいさんがいるから、学校に来られた。熱を抑えようと思えた。少し位身体
が重くても、出てこようと思える様になった。柚明さんがいなかったら、学校も諦めてい
た。本当は、今日も体調良くなかったの。でも』

 体育の授業もきちんと受けられた。それは、

『ゆめいさんと一緒に授業受けたかったから。
 ゆめいさんと一緒にお話ししたかっらから。
 ゆめいさんと一緒に過ごしたかったから』

 詩織さんは昨日まで3日続けて休んでいた。
 その重さをわたしも測り切れていなかった。

 わたしが経観塚を離れた翌日からの3日は、精神的な物とわたしも思っていたけど、鴨
川さんはわたしがいないからズル休みしたと迄言っていたけど、それは逆だ。彼女はわた
しに会えるからと、無理して登校していたのだ。わたしがいないと分ると、心が萎えると、
無理を利かせられない。それが彼女の常なのだ。

 詩織さんが大胆だったのも今になれば分る。残り少なければこそ、先延べに出来ないと
分ればこそ、思いの丈を伝えたい。それを、わたしはどれだけ感じ、受け止められただろ
う。

 雨よ、もっとわたしを打ち付けて。言葉の端々に必死さを覗かせていた詩織さんの心を、
想いを、魂を、わたしは充分汲み取れない侭、汲み取れた積りでいました。なんて愚かし
い。

「平田は最後に思い出を貰えたかも知れない。それは良い事だと俺も思う。でも、これで
打ち止めにしろ。これ以上は、お前の問題だ」

 沢尻君は詩織さんの事を一番に考えてない。詩織さんがいなくなった後の事を考えるの
は、わたしにはずっとずっと順位が後の話なのに。

「平田に幾ら入れ込んでもダメなんだ。お前が浮き上がって1人残されてしまう。平田が
去った後に、みんなの不満はお前に集まる」

 尽くしても残る物は何もない。感謝も友情も残らない。お前は1人取り残される。ここ
で踏み止まらないと、お前は今の平田より…。

 わたしにその声は届かない。届くのは繰り返し繰り返し学校に来てねとの詩織さんの声。
月曜日も火曜日も、水曜も木曜も金曜も再来週もその次の週も。夏休み迄。ああ夏休み迄。

『夏休み迄、毎日休まずに学校に来てね』

『わたしも絶対休まないから。わたしも絶対出てくるから。必ず毎日逢おうね、毎日ね』

 切迫した想いが、今になって胸を埋める。

 必死だった。彼女は、わたしの手を取った時も、感謝を述べた時も、抱き合った時も。
学校に来てと言い、自分も来るからと、毎日会おうと約束をしたあの時も。あれは彼女の
必死の宣言だった。出来る最善の約束だった。進行する体内の病魔への、決闘状でもあっ
た。

 わたしが強いなんて、とんでもない。
 わたしよりも詩織さんは遙かに強い。
 沢尻君の頬を、雨が伝え流れていく。
 わたしの頬も、滴が伝い流れていた。

「その想いを切り捨てて、みんなの輪に残る事を選ぶべきだと、沢尻君はそう言うの?」

 彼は詩織さんの気持を受けてない。そこ迄踏み込んでないから、彼女の魂を感じてない。
でもわたしは違う。わたしは、詩織さんを心からたいせつに想う処迄辿り着いた。わたし
は子が親を求める様なその想いを裏切れない。それは、わたしの自分への裏切りだ。わた
しが自分を切る行いだ。わたし自身への背信だ。

 問の形を取ったわたしの答に、沢尻君は、

「俺は、羽藤が心配なんだ」

 違う。その気持ちは有り難いけど、わたしが一番すべき事は、しなければならない事は。

「ありがとう。でもわたしは、大丈夫なの」

 わたしは痛みも哀しみも受け止められる。
 雨よ、幾らでもわたしを打ち付けて頂戴。
 この雨の様に反感も敵意も皆受け止める。

 わたしのこの身で受け止めて、ずぶ濡れになっても押し流されない。今度こそ折れない。
今こそわたしは、詩織さんの想いをこの身の全てで受け止めて、より暖かな想いを返すと。

 孤立は怖いけど、孤立より怖い物がある。
 わたしは誰かを守れる人になると誓った。
 誰かの役に立つと、誰かの助けになると。

 わたしが生きていく為に、わたしが生きる値を得る為に。せめてその位はしなければと。

 ここで詩織さんとの絆を断つ事は、わたしが過去との絆を断つ事だ。わたしがわたしに
生きる値を認めた理由が崩れ去る。わたしが失っても尚たいせつな人達との絆を、この手
で拒む事になる。それだけは絶対に出来ない。

 守られて、庇われて、たいせつな人達の幾つもの生命と引換に、その原因だったわたし
が生き残ってしまった。多くの哀しみと涙を引き起したその償いに、購いに。わたしは唯
己の為に生きる事を自分に許せない。例えわたしが非力でも、幾らわたしが傷つこうとも。

 誰の役にも立てないなら、わたしに生きる意味はない。誰の力にもなれないなら、わた
しに値打ちなんてない。誰かの守りになれないなら、誰かの救いになれないなら、わたし
は何の為に守られて生き残り、何の為に暖かな言葉で何度も心を救われて、ここにあるの。

 詩織さんは今こそ生きる支えを求めている。
 詩織さんは全身全霊でわたしを求めている。

 せめてその想いを裏切らない。せめてわたしのなし得る全てを返したい。他の人にどう
思われるかは二の次だ。人の願いに応えたい。沢尻君の思いには添えなくなってしまうけ
ど。

「ありがとう。わたしを気遣ってくれて…」

 彼がわたしを想う気持も本物だ。沢尻君は、わたしを本気で心配してくれたから、一緒
に雨の中にいる。でも、わたしはその想いに応えられない。わたしはわたしを優先できな
い。

「何でなんだよ。何でお前が、お前じゃない奴の為に、そこ迄しなきゃいけないんだよ」

 沢尻君がわたしの両肩を掴んで揺さぶった。届かない想いを、身体で伝えたいという様
に。打ち付ける雨の中、冷える身体を掴むその手は温かく、揺れは彼の想いの強さを示す
けど、

「わたしはこの生き方を、変えられない…」

 失ったたいせつなひとへの想い。生きて今ここにある意味。業を負う事で漸く振り返れ
る過去。手放せない。わたしにはこの生き方しかない。幸せになれるかどうかは分らない
けど、この先に充足があると信じて進むしか。

「お前がお前の事で哀しむなら分る。お前がお前の為に苦しむなら分る。お前がお前の所
為で傷つくなら俺も理解するよ。でも、お前が流す涙は全部、他人の為の物ばかりだ!」

 彼の指摘に、わたしは瞬間目を丸くした。

「良い子過ぎるよ。お前はどうしてそんな」

 彼の声はわたしの心臓を突き刺す程熱い。

「これ以上余計な物は背負うな。これ以上他人の事情に首を突っ込むな。これ以上善意で
人の反感を買う事はするな。張りつめていつも必死の一歩手前なお前は見ていられない」

 彼が伸ばした手はもう一つの生き方への扉。

 誰にも開かれてある筈の、しかしわたしが3年前に閉ざした、もう一つの生き方への扉。

 それを、握り返せたなら、掴み取れたなら。

 わたしは無言でそれにかぶりを振っていた。彼の気持はとても有り難い。彼の想いは本
物。わたしが詩織さんを大切に想うのと同じ位に、沢尻君はわたしを大切に想っている。
でもそれは、わたしには選び取る事を許されない扉。

 雨が微かに弱まり始めていた。服はもうスカートから靴からずぶ濡れだけど、身体は少
し冷えているけど、明るさが増して来ていた。にわか雨が終る。わたしたちの時間も終る
…。

「ありがとう。そして、ごめんなさい」

 そう言い切った直後、間近に落ちた雷の轟音と光熱が、視覚と聴覚の全てを染め抜いた。

 思わず飛び込んだ沢尻君の濡れた胸の内が、暖かかった。お父さんの腕、お母さんの胸
を、少し思い出した。この侭、抱き留められていたい。この侭、慕われて大事にされてい
たい。思っていたより彼の身体は大きく暖かかった。

 心に宿る、一瞬の迷い。でも、この暖かさの中に無条件に囚われて良い人生は、3年前
に終りを告げた。何も考えず人の温もりに包まれている事は、もうわたしには許されない。

 驚きに目を丸くしている彼の腕から身を引き剥がすと、わたしは大きく首を横に振って、
彼の視線に背を向ける。言葉以上に、姿勢で。言葉にならない、出来ない拒絶の想いを伝
え。

「羽藤、お前……」

 彼の声を振り切って、歩き出したわたしが視界に見つけたのは、少し遠くから心配そう
に見つめてくる佐々木さんだった。何の為に、誰の為に来たかは訊く迄もない。どの位前
からいたか分らないけど、彼女も濡れねずみだ。

「佐々木さん……」
「華子、どうして」

 その事で、わたしの最後の躊躇いが薄れた。沢尻君には想ってくれる人がいる。彼は1
人ではない。詩織さんには誰もいない。わたしがまず誰の想いに応えるべきかの答は見え
た。

 空に晴れ間が見え始める。わたしの心の雨は未だ上がらないけど、終りは多分遠くない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「心が、沈んでいるね」

 笑子おばあさんは、事情を聞かずにわたしの心中を悟っていた。いや、悟る迄もなくわ
たしの顔にそれは表れていたのか。真弓さん達が敢てそれを問わないでくれていただけで。

 お屋敷の庭は、真弓さんが来てから雑草が綺麗に切り払われ本当に庭園みたいになった。
正樹さんやわたしも雑草を抜いていたけれど、ここ迄端正には整えられなかった。やっぱ
り、

『刃物を持つ事全てに真剣なんだ、真弓は』

 その正樹さんは縁側で、桂ちゃんと白花ちゃんの相手をしつつ、庭を使ったわたしと笑
子おばあさんの贄の血の力の修練を見物する。真弓さんは、少し離れた処に立って待機中
だ。

「無理しなくても、良いんだよ」

 ずぶ濡れで家に帰り着いた事に言い訳は利く。下校中でにわか雨に当たれば、近くに建
物がある町中と違い、雨宿りの術は殆どない。バス待合所に屋根はあるけど、間隔は数キ
ロ毎で、その間に雨に当たれば濡れる他はない。傘や合羽を用意しなかったのは不注意だ
けど。

 様々な想いで何度も歪められた顔も、雨のお陰で無様さが不自然ではない。心も一時間
かけて帰り着く間に漸く静まった。笑子おばあさんは、帰りが随分遅れたわたしの『雨に
濡れた』との説明に、着替えるようにとだけ言って。その時既に、気付かれていたのかも。
わたしは嘘は云わなかったけど、笑子おばあさんは人を観る時に詮索の要らない人だった。

 予定より帰りが遅いので後が詰まっている。大急ぎで水浴びして身体を流し、涙も汗も
拭い取ると、ジャージに着替えてみんなが待っている中庭に行く。本当に待たせているの
は、笑子おばあさんと真弓さんの2人なのだけど。

 一雨去った後の空は雲一つない晴天で、じりじり照りつける陽は傾く迄未だもう少しの
時間を残している。水を吸った筈の地面は既に陽光に蒸され、その表面は渇き始めていた。

 帰宅後のわたしは、大きく3つの事柄に縛られる。贄の血の力の修練等の時間と、前後
に割り込む双子の相手と、隙を見つけて行うわたし自身のお勉強と。友達との遊びは、隣
家が数キロも隔たるので頻繁ではなく、学校での休み時間や放課後残っての交流が殆どだ。
故に帰宅後は大部分を羽藤家の面々と過ごすのだけど、これが中々ハードスケジュールで。

『お待たせしてすみません!』
『いやいや、こっちは見物だから』

 正樹さんは見物と言うより、見物に熱心で知らず知らずわたしたちに近付いてしまう桂
ちゃんと白花ちゃんを抑える役だ。最近は2人とも走る事を憶え、学校に行ったわたしを
追いかけようと緑のトンネルに踏み込んだり、色々動き回る。元気なのは良い事だけど、
わたしも修練に没頭すると周りが見えず危ういので、正樹さんに2人を見て貰う事になっ
た。

『わたしもそろそろ、見物の感じかねえ』

 笑子おばあさんが、同調する呟きを漏らす。わたしの血の濃さは、おばあさんの想像を
超える様で、最初の一線を越える時と基本的な力の操りを憶えて以降、進展は驚く程順調
で。

 血の匂いを隠せる様になったのは一年程前。修練が進み始めて1年位の頃だけど、お母
さんはそこに至る迄2年半掛ったと言う。しかもわたしの血は濃い為に鬼を呼ぶ匂いも強
い様で、それを隠すにはお母さんの修得した段階よりかなり先への到達が求められたらし
い。

【血の濃さによる力の強さ以上に、貴女の気合いを感じるよ。貴女は本当に、心の状態が
力の現れ方に直結して出るタイプなんだね】

 今は身体の外に力を及ぼす術を習っている。青珠に力を込めるのはその手始めだ。わた
しと羽藤の血筋に馴染んだ青珠から始め、様々な物に力を移す術を憶える。人の身体に力
を移し及ぼせるようになれば、人を癒したり痺れさせたり、弾いたりもできるらしい。そ
の先には、鬼を退ける物凄い術もあると聞いた。

【私が出来るのは青珠やその他の呪物に力を移したり、望む人の身体や心に力を及ぼして、
気休め程度に癒せる位だけど、貴女なら…】

 役行者の再来になれるかも知れない。大昔の伝説を引き合いに出す程、わたしの血の濃
さは羽藤の長い歴史にも、類例が少ない様だ。後ろには既に2人わたしを凌ぐ例があるけ
ど。

【そうだねえ。だからこそ、貴女には一層先達として2人の導き手として、重い荷を負わ
せる事になるかねえ。一定の段階を超えたら、もう私には導きも招きも無理かも知れな
い】

 笑子おばあさんも到達の限界がある。そこにわたしは徐々に近付いている。そこをわた
しが踏み越えられるという事は、わたしより濃い血を宿す桂ちゃんと白花ちゃんは、更に
先に行けると言う事だ。笑子おばあさんの導きの届かない処に行くのは怖いけど、誰も知
らない空白に踏み込むのは怖いけど、わたしがそこに行き着いて針路を示さないと2人が
惑う。心細さを味わうのはわたしだけで良い。

 あの2人は誰も導けない。あの2人は誰もこの面では守れない。わたしだけ、わたしだ
けが可能性を持つ。やるべき事は決まっていた。わたしの心は定める必要もなかった。あ
の愛らしい2人の為に、あの無垢な瞳の為に。

【わたしがやります。行ける処迄、わたしの及ぶ処迄、桂ちゃんと白花ちゃんが迷わない
様に、心細くない様に、わたしが心と力の続く限り前迄進んでおきます。教えて下さい】

 それが3ヶ月程前。青珠に力を移す方法も、笑子おばあさんのお手本を見て、その感覚
を自分なりに消化してやってみると云う大ざっぱなやり方だけど、やれば出来ない事もな
い。

 後は巧く出来るかどうかだ。力の込め方や制御に歪み撓みがあると巧く行かない。心を
平静に保ち、上下前後左右後先を考慮しつつ。未だロスは大きいけど身体は憶え始めてい
る。

「無理しなくても、良いんだよ」

 今日明日を急ぐ訳じゃない。貴女の力の最近の成長は、驚異的なのだから。毎日そんな
に根を詰めなくても。そう言ってくれるのに、

「いえ……お願いします」

 心が沈んでいる事を、認めたくなかったのかも知れない。わたしはいつも通りだと、折
れたりへこんだりしてないと、今日は何もなかったと。既に見抜かれている事を感じつつ。

「じゃあ、始めようかね。集中してごらん」

 はい。わたしは目を閉じて自分の中を流れる血の流れを感じ取る。集中して脈拍や心臓
の鼓動を掴み、暖かな血の流れに耳を傾ける。自分が自分の体内に、沈み込んでいく感じ
だ。

 日の照す中では、身体の外に出る力が減殺される。そんな昼でも外に効果を及ぼす事が、
今の目標だ。鬼は夜にのみ来るとは限らない。夜の方が鬼の力も強まるけど、昼に動ける
鬼もいるとサクヤさんは言っていた。二十四時間対応できなければ、可愛い2人は守れな
い。

 身体が微かに軽くなるのを感じる。流れる血の一滴一滴の中に、宿っているだけの力を、
調整して方向や速度を揃え、一つの力へ束ね直す。呼吸を整え、筋肉や皮膚に意識を集め、
全身を巡る力が大きな流れに纏まる様に促し。

「ゆーねぇ、あおくなっちゃった」

 状態は見なくても分る。お母さんがそうだった様に、肌の外迄蒼い力が滲み出しうねっ
ているのだ。最初は夜しかできなかったけど、力の集約が巧くなるにつれ、昼でも出来る
ようになってきた。強い陽光に照されて、出る端から掻き消えるけどそれを補充し、わた
しの周囲を蒼い陽炎となって、取り巻いている。

「髪の毛迄、蒼い輝きを帯びてしまうの…」

 真弓さんの呆れた様な声が届く。全身に力が行き渡ると、髪も蒼い輝きを帯びるらしい。
でもまだまだ。わたしが行き着こうとしているのはここじゃない。わたしが行き着かなけ
ればならないのはここじゃない。もっと先だ。

 身体の重さが減っている。足の裏に地面を感じない。重力は身を捉えても、足元から強
い風が身を押し上げている。でもその状態を保つのは難しい。浮力と重力は危うい均衡の
上にある。それは、砂粒を重ねたお城に近い。

「柚明ちゃん、身体が浮いて……」

 正樹さんの声が聞えた頃、集中が限界に来た。力を束ねる心が萎えると同時に、血に宿
る力は勝手に騒ぎ、身を包んでいた蒼い力は霧散する。わたしは、抱かれていた赤ん坊が
放り出された様に尻餅をついて目を醒ました。

「きゃあっ!」

 失敗した。上手に着地したかったのに。力を出すだけじゃダメだ。力を巧く操り、抑え、
使い終え、身体に収める迄使いこなせないと。刀が鞘に収まる迄、無駄なく流麗である様
に。

「大丈夫かい、柚明ちゃん」

 正樹さんが駆け寄ってくる。自分の声がわたしの集中を乱したと、誤解しているのかも。

「大丈夫です。いたた……」

 十センチ位浮いた処でいきなり崩れたので、少し腰を打ち付けた。でも、大した事はな
い。

「余計な声を上げてしまって、ごめん」

「いえ、そうじゃないです。丁度、わたしの集中が途切れ掛っていただけで」

「おねーちゃだいじょうぶ?」「ゆーねぇ」

 正樹さんの抑えが消えた双子が走り寄ってくる。双子はわたしが心配なのか、わたしに
甘えたいのか、その両方か、正樹さんを追い越して、座り込んだわたしの胸に飛び込んで。
2人を受け止めて押し倒されそうになりつつ、

「それに、人の声が挟まった位で途切れる集中じゃ、使い物にはなりませんから」

「まあ、それは言えてるわね」

 声を聞く迄、真弓さんも間近な事に気付かなかった。わたしが血の力を使いこなせても、
この様に忍び寄られて気付かなければ、鬼から身を守るなど夢のまた夢だ。まだまだわた
しは発展途上にある。2人を守れると自信を持って言えるのは、一体いつになるだろうか。

「今後それは補えば良いとして、凄いのね貴女は。まさか本当に人が空を飛ぶ様を見られ
るなんて思ってなかったわ。それも間近で」

 真弓さんは、指摘すべき処はズバズバ言い、誉める処は誉める。落差が大きすぎると言
う人はいるけれど、己にも他人にも正直なのだ。正直すぎて人付き合いが巧くないとの印
象は、真弓さんのわたしへの印象でもある様だけど。

「まあ、飛ぶと言うより浮く感じですけど」

 自分の事なので当たり前に受け容れたけど、やはりこれは珍しいのか。現状は微かに地
面から浮くだけで、力の強さを図る以上は役に立たない。人の身体は結構重く、並大抵の
力では支えられないのだ。故に素早い動きは期待もできず、桂ちゃん達が歩く方が早い位
だ。

「若い頃は私も出来たんだけどね、夜なら」

 笑子おばあさんが歩み寄ってきて、

「昼に出来てしまうとはね。それにまだまだ力の集め方が巧くない。巧くやれば貴女なら、
浮いた侭正樹と鬼ごっこして逃げ切れるよ」

 わたしはまだ力を使いこなせてない。水を撒く積りで握ったホースが、勢いで暴れ回る
のを抑えられない状態に似ている。誰かを守る筈の力に、振り回される様ではまだまだだ。

「もう一回、やってみます」

 身体が浮いたのは今日が初めてだ。今迄にも浮遊感はあったけど、無重力も感じたけど、
大地から離れたのは今日が初めて。この感覚を憶えたい。双子を正樹さんに放して貰って、
続きを申し出るわたしに、笑子おばあさんは、

「今日はこの位にしておきなさいな」

 焦って進む事ばかり考えるより、じっくり構えるのが貴女の性分だった筈だよ。勢いを
外され答に惑うわたしに、笑子おばあさんは、

「新しい段階に達したんだ。今日の成果はそれで充分だよ。時には短く切り上げてそのゆ
とりを他に振り分けるのも賢い人生の配分さ。得意教科を伸ばすだけじゃなく、他の教科
もやらないとバランス良い守りは出来ないよ」

 攻めて勝つなら、得意技があれば事足りる。相手の備えや守りを、突き破ればそれで良
い。でも守りはそうは行かない。いつどこからどんな襲撃があっても、対応し防ぎ食い止
めなければ守れない。何かに特化した技や力が1つ2つあれば良いとはならないのだ。守
り勝つには実は、攻めて勝つより高い技量が要る。真弓さんも、敵の正体を見極めて攻め
に出るのが良策と言っていた。最大の防御は攻勢か。

「はい……ありがとう、ございました」

 順調な血の力の修練を終えるのは残念だけど、次の修練もわたしには大切だった。使え
る様になった贄の血の力を、どう使うかという点で、こちらの修練もとても重要性が高い。

「じゃ真弓さん、ばとんたっち」
「お願いします、真弓叔母さん」
「では、始めましょうか。貴男」

 正樹さんは尚わたしに手を伸ばす桂ちゃんと白花ちゃんを両手に抱え、安全圏まで退く。
笑子おばあさんが正樹さんの隣の縁側に座り、次は真弓さんを師と仰いでの護身術の修練
だ。

 わたしが立ち上がるのと同時に、真弓さんが着流しのスマートな身体で、軽く身構える。
真弓さんは、産後も体形が殆ど崩れていない。サクヤさん程胸は大きくないけど、整った
顔立ちと、背が高く細身ですらりと筋肉質な身体は、バランスが取れていて美しい。向き
合うと、わたしが明らかに見劣りするのが分る。

 実はこの修練の方が、肉体的に痛くて辛い。何しろ真弓さんの強さと早さは半端ではな
い。経観塚に住んでから、その刃物の面は隠しているけど、必要に応じてそれを出し入れ
する様をわたしは何度か見ている。味方であれば力強いけど、敵に回すとこの上なく怖ろ
しい。

「お義母さんはああいったけれど、私は逆よ。

 こう言う時こそ、貴女は無理を憶えるべき。

 敵は貴女の闘いたい時を選んで襲ってくれない。貴女がいつでも闘える心と身体を保た
なければならない。弱ければ弱い程、未熟であればある程、心や身体の浮動が致命的な隙
を生む。どんな苦しい事や哀しい事があったかは聞かないわ。唯、そう言う時でも襲われ
て即座に応戦できなければ、死ぬのは貴女だし、たいせつな物を守れないのも貴女なの」

 羽藤家の面々に隠し事は利かない。見抜かれると言うより、わたしが隠せないだけかも
知れないけど。分って受け流した笑子おばあさん。分って告げるべき事を告げる真弓さん。

「いつも程度の手加減で行くわよ」「はい」

 真弓さんが本気になれば、素手でもわたしは一分保たずに縊り倒される。贄の血の力を
結集しても、木刀やバットを持っても、結果は変らない。対応や守りが追い付かないのだ。

 真弓さんの攻めは止められない。防げない。凌げない。方法を捜すなら、やられる前に
やってしまう位か。それこそ最大の防御。でも、真弓さんに致命傷を与える等誰に可能な
のか。多少の痛手を与えても、本気の真弓さんは退かない。むしろ手負いの獅子になって、
時間制限が出来たかの如く猛然と攻め掛ってくる。その心の在り方は、むしろ鬼のそれに
近しい。鬼を倒すには心を鬼にせねばならないのかも。

 産後暫く経ってから、真弓さんのリハビリを兼ねて、わたしが真弓さんの強さを習いた
いと申し出て、この修練が始ったけど。それから2年、多少身のこなしを憶え、対応の術
を身に付け、素人ではなくなったわたしでも、真弓さんの足元にも及ばない。真弓さんは
今尚わたしを失神させない程度に加減している。そうでないとわたしの技量が上がらない
から。

 負ける中でも、痛めつけられる中でも、何か得る物を。そう言う発想も、実は真弓さん
の中ではかなり焦れったい長期戦志向で、わたしに合せてくれている。真弓さんは出会い
頭の一撃で瞬殺が最も効率が良いと、常々…。

【私の業は、多分貴女には継げはしないわ】

 貴女には闘いの素質という物を感じない。

 そう言う点でも正直な真弓さんはズバリと、

【それどころか、貴女程闘いに向かない人も珍しいでしょうに。普通なら、私の業は習え
なくても、そこそこ迄はついてこれる。達人とか玄人とか言う辺り迄ね。でも、貴女は】

 優しすぎる。相手を倒すとか潰すとか言う発想が貴女に見えない。貴女がなぜ強さを求
めるのかは聞かないけど、貴女が欲している強さは私が教えられる物じゃないわよ、多分。

 切れ長の視線が、わたしの覚悟を見定める。

 指摘は正鵠を射ていた。わたしが元々気が弱く、おっとりしていて、闘いに向かない事
位、十年もわたしをやっていれば分って来る。それでも、わたしが今の侭でいる事は許さ
れなかった。弱い侭で、みんなに守られる侭で、無力で唯助けられるだけの存在でいる事
は…。

【お父さん……! お母さん……!】

 あの夜が甦る。何もできなかった夜。誰の助けにもなれず、多くの生命と引換に守られ、
目の前でたいせつなひとを失った夜。わたしが鬼を招き寄せたのに、鬼はわたしが目当て
だったのに。お父さんもお母さんも、お母さんのお腹の妹も。わたしは何の役にも立てぬ
侭、鬼に生命を奪われるのを見ているだけで。

 無力な侭では、弱者の侭では、わたしは今後も禍の子だ。それでは、わたしがわたしを
許せない。だから贄の血の力の修練も始めた。でもまだ足りない。それはわたしが鬼から
身を隠すだけだ。誰かの役に立てる訳ではない。匂いを隠す以上に鬼を防ぎ止める力がな
いと。

【少しでも強くなりたいの。わたしを守る為に身を投げ出す人がなくても良い様に。わた
しの前で犠牲が出ない様に。大事な物を守れる様に、たいせつなひとの力になれる様に】

 真弓さんはとてつもなく強いけど、その業は特殊で普通の人は身に付け得ない。唯その
初歩なら、その業に至らない身のこなしや一般的な技なら、わたしも扱えるかも知れない。

 護身術というのはその為だ。わたしは真弓さんと向き合う事で自身を守る術、誰かを守
る術を学ぶ。真弓さんがそれに応えてくれたのは、誰と言わずとも、桂ちゃんと白花ちゃ
んの守りを意識している事を、見抜いた為か。

 毎日血の力の修練の後に、真弓さんと素手の格闘を行う。真弓さんが加減してもわたし
に勝ち目はないけど、最近漸く掠められる様になった。それ迄わたしの攻撃もどきは、ブ
ロックさせるどころか掠りもしなかったのだ。

 先に真弓さんが攻撃しては修練は秒で終る。だから最初から中盤迄、ひたすらわたしが
真弓さんを攻め続ける。攻撃の術も一から真弓さんに教えて貰った。真弓さんはそれを躱
し、『突きが甘い』とか『そこ、もっと踏み込む』とか指導する。最初は桂ちゃんが歩く
より頼りなかったけど、毎日の繰り返しと指導の良さで、徐々に格闘の様な形になって来
た。

 わたしが攻め疲れる前に、真弓さんが攻めに転じる。以降は守りの修練だ。真弓さんは
一撃でわたしを沈めない為に、わたしの防御の上から打ち据えたり、拳を平手に変えて吹
き飛ばしたり。わたしは耐えつつ防ぎつつ反撃の機を探るけど、その機は訪れる筈もなく、
真弓さんの『そろそろね』の一撃で沈められ。

「柚明ちゃん今日は少し意固地だったわね」

 庭に転がったわたしに歩み寄ってきた真弓さんが、見下ろして声をかけるのに、わたし
は素直に頷いた。隠そうとした心の浮動を悉く見抜かれていた事が、思っていたよりわた
しの勘に障っていたらしい。いつもより長く真弓さんの攻めに倒れず、執拗に立ち続けた。

 そのお陰で身体は余計に痛手を受けたけど、逆にわたしの今の限界に挑んだ感じになっ
た。倒れたくなくて、いつもの様に料理されたくなくて、やや本気で挑み掛っていた。真
弓さんは故意にわたしを挑発しこれを招いたのか。格闘には闘う心が重要だ。馴れ合いと
思えば、できる域にも至らない。それに身体を動かすと理屈を超えて、心の鬱積を飛ばす
事もある。

 切り替わった頭と心で向き合えば、袋小路に思えた事に突破口が見つかるかも知れない。
体育会系の人には常識でも、わたしにはこれは新鮮な発見だった。全力を尽くし終えた後
の敗北は、修練の故か妙に清々しく心地良い。

「でも、その位の気合いじゃ、まだ不足ね」

 真弓さんはやはり真弓さんだ。今日のわたしの粘りを誉めつつ、この程度ではダメだと。
倒されないのではなく、相手を倒すようにと。わたしの発想の弱点をしっかり指摘してく
る。

「柚明ちゃんは優しいから、少し位小姑虐めをしても憎んでくれないし。平静な心は贄の
血の力を操る上でも武術でも、玄人になれば有効なんだけど、初心者はアクセルになる心
の偏りがないと向上が遅れるの。とにかく数を重ねて動きの方から憶える他になさそう」

 真弓さんは後に尾を引く痛みや傷を残さない術も心得ている。相当痛めつけられた様で
も、明日の朝になれば痕も残らない。だから毎日繰り返せ、わたしもここ迄進歩できた訳
だけど。最後は珍しく投げ飛ばされて、背中から地面に叩き付けられたわたしの、空を向
いた視界に入るのは、間近な2つの顔と声で、

「おねいちゃん、おひるね?」「ゆーねぇ」

 それを正樹さんが抑えないのも、真弓さんが遠ざけないのも、今日の修練の終りを示す。

「今日はこの位にしましょう。私も貴女の様な可愛い子を痛めつけるのには、少し罪悪感
があるのよ。次の修練も待っている様だし」

「はい……」

 次は真弓さんも一緒に弟子となり、笑子おばあさんのお料理修練に移る。一転わたしが
姉弟子になる訳だけれど、笑子おばあさんは、

「柚明は今日はもう良いよ」

 今日の護身術の修練は結構きつかったろう。雨の中を歩いて帰ってきて、疲れてもいる
し。

 何より、わたしに何かあったと見抜いている事を隠さない。そうでありながらそうと言
わず、わたしに休みを促す笑子おばあさんに、

「怠けると、真弓さんに追い付かれちゃう」
「大丈夫だよ。簡単には追いつけないから」

 貴女のさじ加減の細やかさは、真弓さんには中々真似が出来ないんだよ。上半身を起し
たわたしに、桂ちゃんと白花ちゃんが張り付いてきて、わたしは身動きが取れなくなった。

「貴女を休ませる為に痛めつけたんだから」

 真弓さんは普段の様に双子を窘めはせず、

「今日一日分は、私に追い付かせて頂戴ね」

 瞳の奥から、星が輝く音が聞えた気がした。

 笑子おばあさんもそれを止めはせず、2人で厨房へと歩き出す。真弓さんが振り返って、

「柚明ちゃんには桂と白花を見て貰いたいの。うちの人もこれから仕事に入るみたいだか
ら。最近2人とも行動半径が広がってきて、誰かが目を配っていないと、危なっかしいの
よ」

 仕事と言うよりそれは、わたしの楽しみで趣味で実質ご褒美なのだけど、真弓さんはそ
れを分って言っている。何があったかは聞かないと言いつつ、聞かずともわたしに何かあ
ったと把握している。だから心を癒す双子の世話をわたしに任せると。羽藤家の面々は…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 羽藤家の夕食の支度始めは、真弓さんのお料理修練の為に、かなりの間を置く。夏の陽
は傾き始めていたけど、夕刻迄は少しあった。にわか雨の後の地面も茂みも、照る陽に乾
かされ、湿気や水滴は藪の奥深くに潜むだけだ。

「桂ちゃん、白花ちゃん、ちょっと待って」

 わたしは、はいはいしたり走ったり忙しく動き回る桂ちゃんと白花ちゃんを、取りあえ
ず目の届く処に置く様にその動きを追い続け。特に桂ちゃんは、わたしが何かに集中して
いると寄ってくるけど、こうして桂ちゃんを見ていたり、大人しく座っている時には、自
分の目先に興味を移し、どんどん進んでいってしまう。動く物に、興味があるという感じ
だ。

 引っ張られる様に、白花ちゃんとわたしも壁も塀もない庭を出て、緑のアーチに足を踏
み入れていた。わたしは毎日数分掛らず通り抜ける森の道だけど、2歳児の双子はここが
最近漸く到達した冒険の最前線だ。見る物全てが自分を呼び招いて見えるのかも知れない。

 白花ちゃんも興味の赴く侭に、目先の草花や蝶々に目を取られ、手を伸ばす。この辺り
に蜂の巣はなかった筈だけど、怖さを知らない幼児なので、間違いがないか心配する内に、

「桂ちゃん……」

 又桂ちゃんが視界の外れに遠ざかっている。

 白花ちゃんが一つの物に興味を抱く間がやや長く、余り歩みを進めぬ内に次の何かに立
ち止まるのに対し、桂ちゃんは良く走り回る。走って騒いで、ふと目に映る物に興味を抱
く。それぞれ思いの侭なので放っておくとその間合いは結構離れる。1人で2人を見守る
には、近くにいて貰う必要がある。適当な処で白花ちゃんをだっこして、桂ちゃんの近く
迄行く。

『沢尻君の善意を、振り切ってしまった…』

 詰まる処、心残りはそれだった。他の事はそれぞれ自分が何とか出来たり、諦めたりで、
わたしの心の中で決着出来た。詩織さんには、残る時を悔いなく全力で寄り添って報いよ
う。みんなの空気からわたしが浮いている事には、わたしができる事はない。わたしはみ
んなに仲間として受け容れて欲しいけど、詩織さんを受け容れないみんなの意に添う積り
はない。

 問題は、沢尻君の好意を振り切った事への気拙さが、わたしの中に蟠っている事だった。
悪意や敵意に怯まない事はわたしの心次第だ。でも、彼の強く純粋な好意は、わたしの心
を揺さぶっていた。それを受け容れられないわたしの生き方を揺さぶっていた。結局わた
しは彼の問いかけに、言葉で拒絶できなかった。背を向けて、目線を逸らし、姿勢で示す
しか。

 わたしの心に、迷いがあったからだ。彼の差し伸べた手を掴みたいわたしがいたからだ。
断らなければならない誘いと分っていたけど、過去を振り捨て身軽になりたいわたしもい
た。その過去があるから今のわたしがあると分っていても、哀しい過去と暖かな想い出は
全てセットで、それが全て揃っていなくてはわたしの現在も未来もないのだと、分ってい
ても。

『俺は羽藤のそう言う処が好きだ。誰かを守る為に必死になり、誰かを愛おしむ為に自分
の傷を怖れない。とても強くて綺麗なんだ』

『何でなんだよ。何でお前が、お前じゃない奴の為に、そこ迄しなきゃいけないんだよ』

『お前がお前の事で哀しむなら分る。お前がお前の為に苦しむなら分る。お前がお前の所
為で傷つくなら俺も理解するよ。でも、お前が流す涙は全部、他人の為の物ばかりだ!』

 心を打ち抜く視線と言葉だった。熱く己を叩き付け、その代りわたしの心に踏み込んで、
答を求める好意は本物だった。それにわたしも本心で応えなければならなかった。なのに。

「沢尻君の気持に、わたしは全く応えられてない。断る事さえきちんと出来てなかった」

 ノーにしても、門前払いに近いノーだった。わたしの真意を伝えず、結果だけ示して追
い払った感じだ。彼はわたしに真剣に本心からの言葉をぶつけてくれたのに、わたしは自
分を晒す事を怖がって、心を見せず背を向けた。

「嫌われちゃったかな。心を打ち明けてくれたのに、心を隠した侭ノーで応えるなんて」

 話しかけられた白花ちゃんが、首を捻る。

 断るなら、イエスの時以上にわたしの真意を伝えないと。善意の申し出に対し、それを
受け容れられないわたしの心を明かさないと。それもなくて、自分の揺れる心を扱いかね
て、問への答だけノーで済ませるなんて。

 サクヤさんに告白した時の事を思い出した。白いちょうちょの髪飾りを、わたしがこの
世に唯1人と思える誰かに出会えた時にくれるとお母さんが約束してくれた可愛い髪飾り
を、町の家を引き払う時に、もう手に入れられなくなると思い、サクヤさんがその人です
と言いきった時。その想いは本物だったけど。サクヤさんがわたしの一番大切な唯一の人
だったけど。でもサクヤさんには別にこの世に唯1人の人がいて、絶対譲れない大切な想
いがあって、わたしの想いには応える事が出来ないのだと、哀しい瞳で真剣に応えてくれ
た時。

 サクヤさんの答は世界一真剣なノーだった。子供のわたしに、大人のサクヤさんは真剣
に、正面から応えてくれた。心の底からの想いが、伝わってきた。サクヤさんが申し出を
嬉しく思ってくれた事も、それを受け容れられぬ事情も、それを残念に思うサクヤさんの
想いも。

 わたしも嬉しかったのに。沢尻君が真剣に心配してくれた事が、わたしの心に踏み込ん
でくれた事が、わたしに好意を抱いてくれた事が。なのに何も伝えられなかった。何も返
せなかった。閉ざしただけで、拒んだだけで。

 気拙い思いはその故だ。きちんと想いに想いを返せなかった、その故だ。きちんと想い
を整理せず、全て振り捨ててイエスを言いたい自分がその奥に隠れている。揺れた侭のノ
ーは気分次第でイエスにもなる。しっかり応えてないノーはイエスへの道筋を残している。
過去から逃れたがっている、わたしがいる…。

 過去を引きずり続ける性分なのに、いやそれ故になのか。何も考えず人の善意に飛び込
んでしまえと囁くわたしがいる。ダメなのに。人に包まれるのではなく、人を包みたいの
に。人に守られるのではなく、人を守りたいのに。考える自分が重たくて全て投げ出した
くなる。考える事を捨て、感じる侭に暖かく甘い処を望むわたしがいる。一番ダメなわた
しがいる。

 過去から逃れられる物なら。
 煩わしい全てを脱ぎ捨てられるなら。
 自身から逃れて身軽に爽快でいられるなら。

 心に迷いが過ぎる時に、過去からの使者が訪れるのは、わたしには偶然に思えなかった。
その巡り合わせは、わたしへのメッセージだ。今のわたしを、過去のわたしを、わたしが
今ここにいる訳を、その因を、正視なさいと…。

 わたしたちは、緑のアーチを桂ちゃんに引っ張られる感じで、ずんずん前に進んでいく。
これ以上行くとアーチを抜けて、車道に出る。1時間に1本もバスの通らない田舎道だけ
ど。

 この先は、行かせるべきではない。桂ちゃんがこれ以上進もうとしたら、方向転換させ
よう。白花ちゃんを脇に下ろし、少し注意して桂ちゃんの様子を窺い始めたその時だった。

 そよ風で、偶に枝葉が靡く音が届く位の静けさの中に、異質な音が混ざり込む。それは
聞き慣れた音だったけど、馴染んだ音だったけど。バスの停車する音。バスの扉の開く音。

「?」

 わたしは微かに首を傾げた。違和感がある。

 羽様の屋敷以外に用があってあのバス停に降りる人はいない筈だ。隣家は1キロ離れて
いるし、バス停がなくても運転手に告げれば即降りられる事を、近隣の人は皆知っている。
バス停は乗る為に待つ場所で、降りるのは沿線どこでも自由自在が、田舎のバスの良い処。

 羽藤家の面々は揃っている。ここを訪れる人は多くないし、今時間に来れば帰りのバス
が夕食時に食い込むので普通避ける。サクヤさんなら自家用車だ。思い当たる人がいない。

 バスの扉の閉じる音。バスの発車する音。

「桂ちゃん、ちょっと待って」

 森の入口により近い、バス停により近い位置で這い回る桂ちゃんの近くへと、歩み寄る。
白花ちゃんの頭に、今出来たばかりの野の花で編み合わせた冠を乗せ、その場に待たせる。
心のどこかに、不安があった。心のどこかに、予感があった。これは、虫の知らせだろう
か。

 足音が森の外からやってくる。
 わたしを訪ねて、やってくる。

 陽は西に傾き始め、周囲は赤光に染め上げられて、逢魔が時がすぐそこに迄迫っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「やあ、久しぶりだね。ユメイちゃん……」

 その男声に聞き覚えはない。知己に向けた馴れ馴れしいに近いその声は初めて聞く筈だ。

 その姿にも見覚えはない。昨夜経観塚駅で一緒に降りただけで見知った仲でもない筈だ。

 では何故、わたしが既視感を憶えるのか?
 では何故、わたしが危機感を感じるのか?

 わたしはこの男性を知っている。この男性の、被った人の皮ではなく、その本性の方を。

 わたしはこの人物を憶えている。わたしの記憶に潜んで忘れ去れない、その本当の姿を。

「あなた、なのね……」

 わたしの問は、答を心に受け容れる為の時間稼ぎだった。彼の答は不要だった。わたし
は自身が一番避けたい物が答だと分っていた。

 昨日見かけたのは決して偶然ではない。
 今日の巡り合いは決して確率ではない。

 彼はわたしを求めてきた。求め続けていた。この3年間、ずっとわたしを。

 わたしはこの求めに応えなければならない。否、この求めにこそ、応えなければならな
い。3年前から続く全てに決着を付ける為に。わたしは未来に向う為にまず、過去に向き
直る。過去に今に、恐怖に彼に、そして己自身に…。

「大きくなったね。見違えたよ。でも、君だという事は匂いで確かめる必要もなかった」

 百七十五センチ程の背丈は、成人男性では余り高くない。やや乱れた黒髪に細身な背広
姿だけど、昨日と違って内側から盛り上がる筋肉で服がパンパンに張って、大人が子供の
服を着た様で。それは3年前の印象に通じる。俯き加減の表情は見えないけど、顔を確か
める必要はなかった。わたしも彼を知っている。

「君の名前は特徴的だからね。住民票データをハッキングすれば捜すのは難しくない。警
察の捜査資料に侵入して被害者情報を一覧で手に入れられた時は驚喜したよ。僕の実績を
全て奴らが丁寧に収拾してくれたんだって」

 3年前の事件は特定の誰を狙うと言うより、手近に襲える子供を狙った計画性の薄い犯
行と聞いた。それを警察が綿密に記録した為に、犯人自身がその情報を入手した為に、生
き残った子供の所在や氏名がその手に渡ったと…。

 情報化時代では、情報が容易く人手に渡る。わたしの名は捜し易かったかも知れないけ
ど、わたしの情報が知らない内に探せる処に置いてある。それを辿るのは善意の人と限ら
ない。

 身体付きや顔立ちで見れば、彼は未だ若い。見た感じでは三十歳代に達してない。子供
から見れば大人でも、大人の間では若者なのか。

 赤光を背に受けてその姿は不吉に翳り、表情が見え難い。開いた口がぽっかり空白なの
が、あの夜を思い出させる。頼りない街灯に照されて、あの時も表情が見えぬ侭シルエッ
トだけが濃く深く、口だけが大きく開いて…。

 3年前の事件で生き残れた子供達が次々に襲われたと言う噂は、事実だった。警察に侵
入して得た情報で不足すれば、それを元に市役所の住民票データを漁る。所在を特定出来
れば相手は無防備な子供だ。わたしが経観塚に転居した事実も、彼の知る処となったのだ。

 経観塚で柚明と言う名は多くない。羽様には民家も少ない。わたしの所在は検索不要だ。

「この力を取り戻すのに、3年近く掛った」

 噛み締める様に語る。その表情は窺えないけど、身体の筋肉がぴくぴく動いて感情の浮
動を示す。3年前は彼にも分岐点だった様だ。

「君の母さんのお陰でね。あれから随分の間、全く力が出なくなってしまった。人を襲う
気持になれない。鬱憤を発散しようと思えない。穏やかな日々は参った。全然暴れられな
い」

 お母さんの贄の血の力は、彼の表面より内面に浸透していた。銃撃を逃れた後、彼は己
の中に鬼の衝動、鬼の心、騒ぎ出す血が薄れ消え掛っていると気付き、愕然としたと言う。

 お母さんは鬼を打ち倒す力がなかった。だから鬼の五感を断ちに出た。視覚や聴覚や嗅
覚を贄の血の力で灼き、わたしを狙えなくする事に力を注いだ。鬼は腕や足を折った処で、
へこたれない。諦めない。挫けない。欲望の為には、怖れも痛みも乗り越えて襲ってくる。

 だから探せなくするのが最善と。鬼の肌や肉を打ち据えるのが精々なお母さんの力では、
それが限界と。鬼の腕や足ではなく、感覚器官や頭に、贄の血の力を注ぎ込んだ副作用が。

『彼の中の鬼の心と力も灼いちゃったんだ』

 お母さんがそこ迄考えていたかは分らない。あわよくば、頭という急所を血の力で灼い
て、鬼を絶命させる積りではいたけど。内面深くへの浸透を狙った様だけど。鬼の肉体で
はなくその奥の、精神を灼く迄考えていたのかは。

 結果彼は、肉体を鬼と化すその心を大部分失った。警察から彼が逃れ得たのは皮肉にも、
鬼の肉体が力を失って人の身体に戻り、人相も手配のそれとは激変してしまった為だろう。
同時に鬼切部の捜索に引っ掛らなかったのも。

 せめて一度でも直に逢っていれば、鬼切部なら変り果てても、識別できたかも知れない。
でも、鬼の心を大部分焼き尽くされた初見の人から鬼の気配を読みとる事は不可能に近い。
彼が捕まりもせず、鬼切部に斬られもせずに、今尚生きている理由は、彼が人に戻れた故
だ。そしてこの2年程事件が途絶えたその理由も。

 でも、それを彼は喜んでない。望んでない。人になど戻りたくないと。折角鬼の呪縛か
ら解き放たれたのに。折角人の心を戻せたのに。

「当たり前じゃないか。鬼って、君達は言うのかい。それになれた僕は強くて特別なんだ。
選ばれた存在なんだ。希少価値があるんだ」

 もう平凡な、多数に紛れる1人じゃない。
 唯一の、絶対の、強靭な力を持つ1人だ。

 誰とも違う。誰にも負けない。誰も要らない。誰も僕の定めに取って代る事は出来ない。
僕は特別だから、普通じゃないから、やりたい放題の素晴らしい力と定めを授かったから。

 彼は目線をうっとりと朱の宙に向けて流す。

 折角強くなれたんだ。折角何物をも怖れない強大な存在になれたんだ。どうして今更…。

「ちっぽけな人間に戻らなきゃいけない!」

 彼は鬼としての生を望み願っていた。彼は常の人として生れ育った己の生に満足できず、
鬼を自ら受け容れたのだ。望んで鬼になったのだ。鬼の心を求めたのだ。ああ、何て言う。

「見てくれよ。3年だ。3年かけて、漸くここ迄、戻ってきた。一生懸命、戻したんだ」

 沈み行く夕日を背に受けて、そのシルエットは黒く濃く、背広姿が弾けそうな筋肉の盛
り上がりが見て取れた。気の所為かさっきより更に一回り大きく膨らんで見える。夕刻な
ので力が増し、鬼の変化が加速しているのか。

「君に会えたんで鬼の身体が喜んでいるよ」

 冗漫に語るのは、自慢したいからなのか。

 越えてはいけない一線を二度も越え、人に戻れたのに鬼の道に望んで進み、鬼の力と心
を復して喜んでいる。その喜びを語っている。お父さんとお母さんとお腹の妹を殺した鬼
を、この人は望んで求め、誇らしげに語っている。

 わたしの血が凍結したのは恐怖の為だけじゃない。わたしの心が硬直したのは危機感の
為だけじゃない。暴れる血が抑え切れてない。

「最初の内は衝動も起らなかった。花を見ても摘み取りたいと思えない。うるさい子供が
いても怒鳴りつけも出来ない。理不尽な物言いをされても怒りが沸いてこない。心の隅に
クーラーがある感じだ。不完全燃焼で、自分の中で、身体の中で心の中でもがき続けた」

 双眸が赤く輝いた。それは夕焼けを受けての物ではなく、鬼の力、鬼の術。人を呪縛し
て、食い付き取り込む、人ならざる鬼の力だ。

 その足元に桂ちゃんがいる。何も知らずに、目の前を飛ぶ蝶々に目を奪われている。そ
れはとても愛らしくのどかな姿だけど、その手の届く領域に彼はいた。屈めば掴める位置
に桂ちゃんはいた。わたしは身動きを出来ない。

 それが鬼の術と力の所為である様に装うのが精一杯だ。機会を窺いつつ、心を柔らかに。
今こそ、今迄教わった全てを生かす時。生かさねばならない時。落ち着いて、落ち着いて。

「ここ半年だ。漸く子供を襲って血を呑んで、回復が加速した。最初の1人を襲うのが大
変だった。心に重りがあるみたいに嫌がって」

 踏み切れないんだよ。君の母さんに植え付けられた余計な心が、後ろ髪を引っ張ってね。
だから過去の実績を追いかけた。初めての子供はどうしても襲えなかったんだ。自分の過
去を繰り返すんだと己に言い聞かせて、漸く。それを振り切るのに、随分時間が掛ったけ
ど、

「何人かの生命を奪って、血を飲み干した」

 でも、足りなかった。甘みが、だよ。君の母さんの様に美味しくないんだ。子供の血は、
確かに大人に比べ暖かく、甘くて旨い。でも、君達の血は全く別格だった。身体の中に染
み渡って生命を沸き出させる感じがあったんだ。

 あれをもう一度味わいたい。その為に君を捜し出す。同じ車両に乗っていたとは思わな
かったな。匂わなかったので気付かなかった。あの夜は甘くて良い匂いが導いてくれたの
に。

 まあ良いさ。こうして再び会えたんだから。これも人ならぬ身に見初められた君の定め
だ。

「両親に名を呼ばれていたから、君の名は憶えていた。あの夜は印象深かったから特別に。
君の母さんの血の味も、極上だったから…」

 他の子供の血を啜ると力が戻るのは感じた。でも、あの夜の充足感、幻の味は得られな
い。3年前、子供を襲う内に身体に満ちた力が戻り来るにつれ、満たされぬ飢えも身体を
巡る。

 その口から、3年前の言葉が繰り返された。

「必ズ、ソノ血ヲ絶ヤシテヤル。呑ミ干シテ、一滴残サズ呑ミ干シテヤル。良ク憶エテ置
ケ、俺ハソノ甘イ血ヲ、決シテ諦メナイ」

 あの鬼だった。3年前、わたしの血の匂いに導かれて襲い掛ってきて、お父さんとお母
さんと、お母さんのお腹の中の妹を惨殺したあの鬼が、家族の仇がわたしの目の前にいた。

 名状し難い想いの渦がわたしの中を、激流になって駆け巡る。それは果して怒りなのか、
憎しみなのか、哀しみなのか、怖れなのか、その全てなのか。強いうねりが心を呑み込む。

 もう逃げ場はない。ここは鬼の目を攪乱できるけど、ここを知って追い求めてきた彼の
目はごまかせない。何よりここを逃げ出せはしない。桂ちゃんと白花ちゃんがいるここを。

「漸ク、ココ迄辿リ着イタ。探シ出セタ…」

 視線に、射すくめられた。赤光の中でもその瞳は尚鮮烈に赤い輝きを放ち、わたしの心
と身体を縛り付け。蛙が蛇に睨まれた時はこんな感じなのか。身体の中に赤い輝きが染み
込んで、内側からわたしを抑える錯覚がある。

 3年前の再来だ。あの時もこうだった。わたしは何も出来ぬ侭、わたしは唯される侭で。
鬼の目線に、赤い呪縛に心も身体も地面に縫いつけられて、重く縛られて身動きが取れず。

「血ヲ、血ヲ、甘イ血ヲ、呑マセロ」

 その声も3年前に聞いた。全てあの時の侭。この鬼は正に過去からの遣いだった。姿形
も、紡ぐ言葉も、内面迄も。彼は過去を取り戻そうとしている。過去を再現しようとして
いる。

「柔ラカナ身体ノ中ヲ流レル、甘ク暖カナ血潮ヲ。コノ様ニ、細イ首ヲ喰イ千切ッテ…」

 わたしの無力を思い知らせる為か、前菜の積りか、鬼は足元の桂ちゃんを無造作に摘み
上げ、その首筋を口に寄せる。一気に喉笛を喰い千切ろうと、開いた口から牙を覗かせる。

 躊躇は不要だった。わたしは瞬時に鬼の呪縛を霧散させ、右手で小さなガラス玉を投げ
つける。それは呪物でも何でもないけど、ここ数週間身に付け、呪物でもない物に贄の血
の力を移し及ぼす修練の教材にしていた物だ。

「ナニ、動ケル、ノカ? ぐおあっ……!」

 ガラス玉は狙い通り桂ちゃんを摘み上げた鬼の右手首に当たって、何かを焦がす音を響
かせる。鬼は熱したフライパンに触れた様に桂ちゃんを抛り捨て、慌てて手を引っ込めた。

 あの時のお母さんと同じだ。お父さんが鬼に身体を貫かれ、わたしも鬼に囚われると思
えた3年前の夜、お母さんが鬼の側頭部に叩き付けて大きくよろめかせたあの一撃。鬼の
力と対になる蒼い力。青珠程の力はないけど、常日頃身に付けて血の力を通わす事で、そ
の偽物位の効果はある。お母さんはあの時、お父さんから貰った結婚指輪を投げつけてい
た。

「桂ちゃん!」

 雑草の茂る地面に放り出される桂ちゃんを、ダッシュして身を投げ出しながら抱き留め
る。素早く身を起し、何があったか分らない様子の桂ちゃんを抱き直すと、間髪入れず飛
び退いて鬼の腕の範囲を逃れ。腹立ち紛れの鬼の腕が、その位置を薙ぎ払ったのは、半瞬
後だ。

「っつぅっ……!」

 左腕のジャージが切り裂かれ、蒼い布地に赤い直線が三本、滲み出していた。肌を裂か
れた痛みを感じたのはその朱を目にしてから。でも幸い、その痛みは肉や骨には達してな
い。

 未だ動ける。未だ闘える。未だ逃げられる。未だこの身体は桂ちゃんと白花ちゃんを守
る為に動かせる。今はそれで充分だ。泣く暇も怯む暇もない。頭と心と身体を動かすだけ
だ。

 鬼もすぐに気を取り直し、体勢を立て直す。

「驚いたな。君の母さんの一撃を思い出すよ。尤も本当に痛かったのは、最後の奥の手位
だったけどね。それもこの生命を奪うには至らなかった。分るだろう、抵抗が無駄な事
が」

 君も母さん並に抵抗の術を憶えた様だけど、君の母さん並に僕の敵ではない。懐かしい
ね。僕の肌を灼いたり、打ち据えたりする程の力が君にもある事が、嬉しくさえ思える。
抵抗を踏み躙って手に入れる赤い糸が、楽しみだ。

 鬼には過去を懐かしむ余裕がある。腕を振るえばわたしの背骨は容易く折れるし、牙や
爪を立てればわたしの肉も容易く引き裂ける。走って逃げ切れないのは互いの足を見比べ
れば一目瞭然だ。彼は既に全てを手に入れた積りでいる。だから過去の再現を愉しんでい
る。

「ふぎやああぁぁぁんん!」

 尚続けようとした彼の語りを、中途で妨げたのは、我に返った桂ちゃんの泣き声だった。
事の子細は分らずとも、己に好意的でない他人が何かしようとしたと後追いで分ったのか。

 歩き始める迄桂ちゃんは良く泣く子だった。白花ちゃんの五割増では利かなかったと思
う。何故泣くのか分らない事も多く、通りすがりや近づきかけた時、突如泣き出す桂ちゃ
んにわたしはどうして良いか分らず、おろおろして真弓さんや笑子おばあさんに助けを求
めた。

 どうやらそれがわたしを求めて、わたしをお気に入りで、わたしを見かけたり欲すると
泣き始めるのだと分った頃には、桂ちゃんは立ち歩きを憶え始め、動き回ってわたしをお
ろおろさせる様になったけど。確かにわたしは桂ちゃんが泣いている間ずっと離れず、泣
き止む迄付き合っていた。側にいたいと望むなら泣き止むより泣き止まない方が巧い訳か。

 その頃を彷彿とさせる泣き声は、3年前にいなかった桂ちゃんの存在主張は、過去に拘
る鬼の勘に障ったらしい。語りを寸断された鬼は露骨に不快そうで、再び殺意が瞳に宿る。

「邪魔ダナ。ソノがき共ハ」

 左斜め後ろにやや離れている白花ちゃん迄、抹殺対象らしい。誰も生かして残す気はな
いと。その殺意に桂ちゃんの泣き声が響き渡る。それにはこの状況でわたしも少々困った
けど。この侭抱いていられる状況ではなかったけど。

「桂ちゃんの血も白花ちゃんの血も、一滴も流させはしません! この身に代えても…」

 それは彼に向けてと言うより、わたし自身に向けての言葉だ。絶対逃げてはいけないと、
この2人を守れずに終る事は己に許さないと、わたし自身に言い聞かせる。心を鎮め、贄
の血の力を紡ぐ。真弓さんに教わった護身術を、今こそ満度に生かす。たいせつなひとを
守る。誰が何がどうなっても結果さえ残せれば良い。桂ちゃんと白花ちゃんを守れればそ
れで良い。

「桂ちゃん、少しの間だけ、我慢して」

 泣き止まぬ桂ちゃんを、鬼の様子を窺いつつ後ろに降ろす。両手が塞がっては動けない。
桂ちゃんは、わたしを求めて手を伸ばすけど、それをごめんなさいと断って、鬼に対峙し
て、

「過去の再現が望みなら、再現しましょう」

 あなたは今度も欲する物を得られないわ。

 鬼の双眸がわたしを向く。それで良い。わたしに意識を集めて貰う。桂ちゃんと白花ち
ゃんに視線が行かない様に、誘い導く。わたしの言葉と動きを、殊更に見せつけなければ。

 助けを呼びに行く余裕はない。声を上げても届くまい。様子を見に来て貰える幸運は望
めない。わたしが鬼を退ける。倒せなくても良い。時を稼ぎ、足を止め、わたしが助けを
呼びに行ける状況を作れれば。桂ちゃんと白花ちゃんを巧く逃がすか、鬼を気絶させれば。

 勝算の有無は問題外だった。護るべき物がある限り、避けられないなら、闘うしかない。
お母さんもお父さんも、そうだったのだろう。力を知恵を絞りだし、及ばない・届かない
と分って尚立ち塞がった。痛みと苦しみと、生命迄を引換に。それに較べれば今のわたし
は。

「白花ちゃん、屋敷に逃げて。桂ちゃんも」

 一瞬だけ首を横に振って白花ちゃんを見る。

 真剣な眼差しが通じたのか、普段から聞き分けの良い白花ちゃんは、緑のアーチをよた
よたと奥に向い始めた。全速でないのは緊迫した状況では当然か。でも、間近で恐怖を感
じ、泣き出した桂ちゃんにそれは通じてない。

「シャッハァア!」

 そちらに注意が向いた一瞬に、鬼が動いた。

 鬼は動き出した白花ちゃんを狙ってわたしの前を駆け抜ける。即応できなければ出遅れ
て白花ちゃんを襲われていた。十数メートルの距離も移動に2秒掛ってない。筋肉の盛り
上がった腕を振り下ろせば、爪が肉を裂かなくても白花ちゃんを腕力で潰せる。わたしは、

「させないわ!」

 鬼の動きに合せ2歩前に出て、交差の瞬間、鬼の左側頭部に掌を伸ばす。鬼の動きを妨
げ、同時に中枢を灼く。真弓さんに倣った動きは、高速で駆ける鬼の左側頭部を左手で打
ち据え、蒼い力を流し込む。逢魔が時を迎え、鬼の力と同様わたしの贄の血の力も強化さ
れていた。

「グオウグ!」

 掴んだ訳でないので掌が触れたのは瞬時だ。当たった勢いで、鬼の頭は反対側に仰け反
る。否、勢いを利用しつつ鬼は力の浸透を嫌ったのか。これでは皮の上に痛みを与えただ
けだ。接点を固定しないと、長く力を及ぼさないと。でも不用意に近付けば、一撃必殺の
腕や牙が。

 一瞬遅れて大きく振りかぶられた鬼の左腕に、わたしの胴体はへし折られそうになった。
真弓さんなら右腕一本でブロック出来るけど、わたしがそれをやっても内蔵迄全部潰され
る。

 わたしは鬼の首を求めて更に半歩踏み出す。鬼が振る腕の一番破壊力のある範囲の内側
に、台風の目に入り込む。逃げて逃げられる間合いじゃない。逆に踏み込んで安全を保ち
つつ、右の掌を突きだして、鬼の左側頭部に添える。

「ぐぎゃっ!」

 再度、贄の血の力を流し込む。出来れば中枢を、出来れば同じ処を、出来れば長い時間。

 鬼が薙いだわたしは左肘の内側で、掌で掴む事が出来てない。縺れ合う程近接した中で、
わたしは更に左手を鬼の額に伸ばし。真弓さんに教わった掌打の技は、わたしの非力もあ
って強靭な鬼の肉体に有効とは言えないけど、贄の血の力を流し込む接点作りには使い得
た。

「がおおおぉぉぉ!」

 威嚇なのか、悲鳴なのか。鬼の右手が苦し紛れにわたしを突き飛ばす。わたしの身体は、
心臓が止まる程の痛みと打撃に飛ばされたが、それ自体が鬼の動揺を物語っていた。わた
しを掴まず貫かず、弾き飛ばすに留めた事実が。

 まともに闘えば多分わたしは鬼に敵わない。贄の血の力を幾ら及ぼしても、肉や骨に浸
透する前にわたしの手足が折られ胴を貫かれる。触らなければならないけど、掴まれては
拙い。近接するのが必須だけど、同時に最も危うい。血の力を修練しても、実戦投入には
もう一段何かが要る。それが真弓さんの……。

「きゃっ!」

 失神しそうな痛みが胴体を貫く。それでも気を失わず立ち上がれたのは、修練のお陰だ。
真弓さんに散々やられて痛みや苦しみを感じ、耐性が出来た故に心も身体も立て直しが早
い。

「オ前、3年前ノ母親ノ力ト、全然違ウゾ」

 鬼が、白花ちゃんを忘れてわたしを向いた。その表情から懐古や余裕が消え、わたしへ
の殺意や闘志が剥き出しで、それより驚きや躊躇いが窺え。鬼はわたしを脅威に感じてい
る。

 白花ちゃんは視界の隅で、緑のアーチを奥へ消えていく。もう少し時を稼げば、白花ち
ゃんは屋敷に着いて最強の守りを期待できる。後は桂ちゃんを何とか上手に逃がし切れれ
ば。痛みを堪えつつ立って身構えるわたしの前で、

「キエエエエエェイ!」

 鬼が漸く泣き止んだ桂ちゃんに、何かを投げる。害意を込めた行動は全て防ぐ。防いだ
後で確かめる。わたしは可能な限りの俊足で2人の直線上に立ちはだかって、右下腕部に、

「いつっ……、これ、果物ナイフ?」

 刺さった刃がわたしの贄の血を流出させる。

 鬼には牙も爪もある。刃物の必要などない。だからわたしも、彼が別に凶器を持つなど
考えてなかった。しかし今の彼は過去を懐古し、3年前の犯行をなぞっている。かつて使
用した果物ナイフ等の刃物を持ち歩いていたのか。

「おねいちゃん!」

 真後ろの桂ちゃんが、崩れ落ちるわたしを心配して寄ってくる。ダメ、今は離れてと…。

「ぐうっ、あうっ」

 刃物は更に飛来する。今迄彼もそれらの刃を投げる等考えてなかった様だ。鬼の腕力で
放られた刃物は、わたしの身体に深く刺さり骨に達する。右太股と左肩と。心臓右側に刺
さりそうだった刃は右手の甲で無理に受けた。躱せない。躱したら刃物は桂ちゃんに当た
る。鬼はそれを知って放っている。鬼は桂ちゃんとの線上からわたしが動けないと察して
いる。

『わたし1人で、鬼を退けるのは、無理…』

 少しでも動きが鈍れば鬼に捕まる。踏み潰される。へし折られる。さっきの攻防も薄氷
の上にあった。鬼がわたしを捉え損ねたお陰で未だ生命がある。最後の時に鬼がわたしを
捉えていれば、或いは苦し紛れではなく全力の一撃でこの身を貫いていれば、終っていた。

 まして傷を負った状態で。息が上がった状態で。桂ちゃんを後ろに抱えて身動きできぬ
状態で。多少贄の血の力を使えても、効果を及ぼすのに時間が掛り、一撃必殺の鬼の手足
に敵わない。ダメだ。やはり生きて残れない。助けを呼びに行く隙と暇が、見つけられな
い。

 鬼は刃物を使い果したのか、わたしが動けないと見たのか、歩み寄ってきた。桂ちゃん
がいる限りわたしは逃げられない。攻める他に術はない。凌げない。でも身体に受けた刃
の傷は、黙っていても悲鳴を上げ血を噴いて。

「漸ク足ヲ止メタ。コレデ3年前ノ通リダ」

 あの時もお母さんは事故の傷で動けないで、わたしを守る為に出てきても、その生命を
的にするしか術がなく。わたしもその再現を…。

『それで、桂ちゃんを守りきれるなら良い』

 でも、ここに警官隊は来ない。呼んでない。3年前に助けを呼んだのは、お母さんだっ
た。わたしはどこにも助けを呼べてない。本当に相打ちに持ち込まないと、わたしの屍の
傍らで桂ちゃんが喰い殺される。それだけは絶対。

「ゆめいおねいちゃん、血が、あかい血が」

「大丈夫、大丈夫だから」

 屈み込んだ姿勢で鬼に正対した侭、視線だけを桂ちゃんに向け、痛みを堪え笑みを作る。
多少の無理はあるけど全く嘘の笑みでもない。ああ、お父さんもお母さんも、こうして痛
みの中でも、守るべき者の為に闘える自身に満足したから、笑みを浮べたんだ。心の底か
ら、守るべき者を持ちその為に尽くせる事が、嬉しかったんだ。自分がその場で守れる位
置にいた事を、その巡り合わせと定めに満足して。

「わたしが桂ちゃんを守るから。桂ちゃんの微笑みを守るから。血の最後の一滴になって
も守るから。それがわたしの生きる値で目的だから。桂ちゃんの為に今迄繰り越してきた
わたしの生命だったから。だから、大丈夫」

 桂ちゃんの為だと思えば力が出せる。
 たいせつな人の為なら己を尽くせる。

 わたしの生命の値は守りたい者の生命の値。
 わたしの生命の目的は守りたい者を守る事。

 だから大丈夫。最後の最後迄大丈夫。わたしが生命を使い切ってもそれは負けじゃない。
わたしの負けは自分の値や目的を投げ出す事。守りたい者を守れず、目の前で奪われ失う
事。それを防ぎ止められるなら、わたしに悔いは。

「だっておねいちゃん痛いよ。くるしいよ」

 痛みに歯を食いしばる姿を、見られていた。でもそれはわたしが受けるべき、わたしの
故の痛みだ。桂ちゃんに責がある痛みじゃない。元々この鬼はわたしを追ってここに来た
のだ。桂ちゃんや白花ちゃんは、巻き込まれた側だ。わたしが鬼に喰い殺されるのはやむ
を得ない。でもその他の人に被害が及ぶのは防がないと。

 わたしは誰かの為に役に立つと心に誓った。誰かの力になると、誰かを守れる様になる
と、誰かに尽くせる人になると。例えわたしが非力でも、幾らわたしが傷つこうとも。そ
の思いに変りはない。死んでも終りじゃない。死んでも約束は守る。死んだ人達との約束
が有効な様に、わたしの誓いも生死に関らず続く。

 ここで桂ちゃんを守れなくては、わたしは結局禍の子だ。3年経っても何も変ってない。
あの鬼の様に同じ処を堂々巡りしているだけ。

「今度コソ、全テ吸イ尽クシテヤル!」

 鬼は赤い瞳をわたしに向けて、咆哮を上げ、

「今迄ノがき共ノ血トハ違ウ、コンナ旨イ物ヲ、ドウシテ諦メラレヨウ。死ンデモ、ソノ
血ヲ、一滴残サズ、オマエ達ノソノ血ヲ絶ヤス迄、俺ハ決シテ諦メナイ。諦メナイ!」

 鬼はわたしの間近に歩み来て、3年前の台詞を再現した。どこ迄も過去に縛られたがる。
わたしの過去も幸せも壊したのは貴男なのに。

「桂ちゃんは、お屋敷に逃げて頂戴」

 鬼とわたしは一対一だ。鬼の行く手をわたしが妨げれば、桂ちゃんだけは屋敷に着ける。
守る対象が1人だから、鬼の目移りを気にする必要もない。白花ちゃんが先に逃げてくれ
て助かった。後はわたしが生命を尽くすだけ。

『怪我はいずれも生命に達する物じゃない』

 特に心臓右に飛来した刃を防げたのは生死を分けた。真弓さんの修練のお陰だ。傷の痛
みと出血は体力を奪うけど未だ動ける。贄の血の力も紡げる。桂ちゃんを守れる。なのに、

「イヤだよ。けいはおねいちゃん、いっしょじゃないとイヤ。おねいちゃん、いっしょ」

 こんな時にまで慕ってくれなくても良い。
 こう言う時位、わたしの言う事を聞いて。

「桂ちゃん!」

 年に一度も出す事のない、強く叱る声にも、

「おねいちゃん、死んじゃう。けい逃げたら、おねいちゃん、死んじゃう!」

 図星だった。わたしの決意や覚悟を知る筈もないが、鬼とわたしの力関係や状況を分る
筈もないが、桂ちゃんはわたしが死に臨んでいると感じている。桂ちゃんを逃す為に生命
を引換にしようとしている事迄感じている?だからここを逃げないと、絶対に離れないと。

 わたしも絶命し行くお父さんを、無理にこの世に引き留めようと、声を上げて答を求め
続けた。逃げなさいとの言葉を聞かず、わたしが声を上げ続ける限り、必ず応えて生き続
けるとの錯覚に囚われて。わたしの声が生む頑張りが、心残りが、お父さんを生かしてと。

 あれはお父さんには酷い事だったけど間違いじゃなかった。今わたしは桂ちゃんの声を
聞く度に、心の奥底から力が沸いて出ている。苦しいけれど嬉しい。嬉しいけれど危うい
…。

「けいがいないと、おねいちゃん、死んじゃう。あかい血をだして、死んじゃう!」

 座り込んだ桂ちゃんの叫びが、わたしの危機感を煽る。わたしは未だ死ねない。先に死
ねない。せめてこの鬼を一緒に冥土に引き込まないと。桂ちゃんの前にこの鬼を残しては。

「死ぬともさ。こうして赤い血を噴いてね」

 その時が来た。わたしは桂ちゃんに注意を向けつつも、鬼の動向も忘れてない。3年前
にお母さんにした様に、鬼は心臓目がけて鋭い爪の手刀を繰り出す。あの時は既に目を灼
かれていたから鬼の狙いは狂った。今回わたしは故意に狙いを外させ、絶命を少しだけ後
に延ばし、鬼の身体を拘束する。3年前にお母さんがやったのと同じく血の力を頭に流す。
今のわたしの力はお母さんよりも格段に強い。巧く行けば、わたしが息絶える前に鬼が絶
命する。最悪でも鬼は暫く身動き取れなくなる。桂ちゃんは、その間に何とか屋敷に逃れ
て…。

 どがっっ。

 肉を突き飛ばす音、体が弾かれる音。更に、

「くきゃっ!」

 わたしは鬼の前蹴りに、瞬時気が遠くなる。鬼は爪でわたしの胴を貫かなかった。足の
裏で屈強な筋力で蹴ってきた。思惑を外された。

「3年前ハ、危ウク僕ガ消サレソウダッタ」

 彼は、3年前の無念を晴らそうとしている。最後の失敗を成功に書き換える積りか。守
り手を潰し、守られた子供も殺し、血を啜ると。

 予測を外されたわたしは対応できず、左胸に蹴りを受けて、桂ちゃんの横に飛ばされた。

「ダガ、消サレルノハオ前達ダ。血ヲ飲ミ尽クサレテ、喉笛喰イ千切ラレ、死ニ絶エルノ
ハオ前達ダ。特別ナ定メヲ持ツ強者ハ僕ダ」

 配ラレタ人生ノかーどガ違ウ。オ前達普通ノ者ハ特別ナ僕ノ生贄ニ、ナレバ良イ。死ネ。

 桂ちゃんが危うい。地面に叩き付けられた背も、息が止まる程蹴られた胸も、痛みを感
じる暇はない。鬼が桂ちゃんに腕を振り下ろす、その前にバネ仕掛けとなって起き上がる。
桂ちゃんを守る。守る。守る。何があっても。

 目の前で鬼の振り下ろす腕が止まる。わたしの動きに鬼も即応した。鬼は尚、わたしの
贄の血の力を怖れているのか。もう片方の腕がわたしを薙ぎ払う。横っ腹に食い込む腕に、
再び気が遠くなる。でもここで気を失ったら、桂ちゃんは鬼に……。必死で気持を立て直
す。

 でももうそれが精一杯だ。身動き出来ない。鬼が動きを止めたのは、わたしを叩く必要
がなくなった為か。立っていられずに膝を突いたわたしには、逃げる力も抗う力も殆どな
い。

「桂ちゃんから、離れて!」

 それでもわたしは鬼を睨んで、声を上げる。鬼の爪や剛腕は怖いけど、それ以上に怖い
のはわたしが怖さの為にこの場を逃げ出す事だ。今は無理しても桂ちゃんの前に立ちはだ
かる。

 贄の血の力を紡いで、身構えた全身に纏う。どこからどう身体に当たっても、必ず血の
力に触れると示す。身体中を蒼いうねりが包む。左胸を蹴れば左胸から、横っ腹を薙げば
横っ腹から、鬼の足や腕に蒼い力を流すと見せる。

 それで退く鬼でもないが、触れば確実に一定量肌の上に浸透する。相打ちに出来なくて
も、少しでも痛手を与え、わたしが倒れた後に鬼が桂ちゃんを追いかけにくくしなければ。

 たいせつなひとを守る。必ず、守る。
 この身に代えても、生命に代えても。

 想いが動かない身体を動かす。鬼の一撃に骨や内臓がどうなっているかは分らないけど、
お願いだから今少しの間だけ、保って頂戴と。一生分の無理をここで使い切っても良いか
ら。

「ゆめいおねいちゃん!」

 真に緊迫した時は桂ちゃんは泣かないのか。一つ桂ちゃんの動向が分った。生きて残れ
たら、子守の参考にしよう。その声を聞き流し、

「わたしは砕け散る迄諦めない。絶対敵う筈のなかったお父さんとお母さんが、3年前わ
たしを守り抜けた様に、わたしもここで貴男の思いを打ち破る。絶対に桂ちゃんの血は与
えない。絶対に桂ちゃんの生命は奪わせない。欲しいなら、わたしから奪いなさい。わた
しの抵抗を最後迄受け止めてから奪いなさい」

 ぷふっ。口と鼻から血が溢れた。横っ腹への打撃は、内蔵を破ったのか。息が上がって
くる。汗が滲む。痛みに集中が掻き乱される。それを無視し、膝を突いた侭、鬼に正対す
る。

 死を間近に感じた。3年前のあの時の様に。

 でも、あの時とは違う。わたしは今、死にたくないのではなく、死んではいけないのだ。
たいせつなひとを守る為に、最後の瞬間まで。わたしは守られる側ではなく、守る側にい
る。

 真に怖いのは何も守れずに死んで行く事だ。役に立てず犬死にする事だ。守った者が残
るなら、この生命の使い切り方にも意味がある。

『何でなんだよ。何でお前が、お前じゃない奴の為に、そこ迄しなきゃいけないんだよ』

 その疑問に、今なら応えられる気がした。

『お前がお前の事で哀しむなら分る。お前がお前の為に苦しむなら分る。お前がお前の所
為で傷つくなら俺も理解するよ。でも、お前が流す涙は全部、他人の為の物ばかりだ!』

 その通り。わたしの為の人生は3年前に終りを告げた。後のわたしは、預けられた生命、
託された生命、守られた生命、他の生命と引換に残された生命だ。誰かに捧げ、誰かの役
に立ち力になり尽くす為に、仮にわたしの元にあるだけ。わたしの為に使ったら、横領だ。

「ぐう、ぬううおお。ナゼダ。ナゼ、ナゼ」

 特別ナ存在デアル僕ニ、ソコ迄逆ラウノダ。逃ゲモ諦メモセズ、尚抗イ続ケル。強大ナ
僕ニ、特別ナ運命ヲ手ニ入レタ僕ニ、逆ラッテ無駄ト分ッテ、勝テナイノニ、ナゼ反抗ス
ル。

 鬼は全身に立ち上るわたしの蒼い力に気圧されたのか。或いはわたしの疲弊を少し待て
ば自然に倒れると思ったのか。来るべき筈の一撃は来ず、代りに来るのは戸惑いの言葉で、

「オ前ノ両親モソウダッタ。絶対ニ勝テル訳ガナイ定メヲ分ッテ尚、立チ向カッテキタ」

 愚カニモ生命ヲ落スト分ッテ立チ塞ガッタ。

 アレハ、自ラ死ヲ望ンダニ等シイ。自殺ダ。犬死ニダ。無駄死ニダ。結局娘ヲ3年、生
カシタダケダッタ。徒労ダ。何モ残セナカッタ。

 わたしの微笑みは怒りの故か、喜びの故か。鬼が何故か、半歩後ずさるのが、音で分っ
た。強い感情で、紡ぐ贄の血の力が更に増強する。

 確かに愚か。絶対勝てない者に挑むなんて。自分が一番大切な者は、己しか守るに値す
る者がない人は。でもわたしには、その気持が分る。守られる側から守る側に回って初め
て。己より大切な者を抱え、鬼に対峙して初めて。

 守るべき者を守る為には、世界中を敵にしても闘わなければならない時がある。喜んで、
守り闘う時と場にいられる己の星の巡りを心から喜んで、わたしは事を為し、己を捧げる。
親子はやはり気質が似てくる物なのだろうか。それは生け贄の血の一族に相応しい発想か
も。

 日が暮れていくのが暖かさの消失で分る。
 鬼の発散する朱にも似た、夕焼けが終る。

 わたしの生命の終りは、その日没が終り切るよりも早いだろうか。心残りはあるけれど、
今は終る瞬間迄、成せる事を全て成すだけだ。

 わたしの力もどんどん増しているのが分る。勿論鬼の力も同様に増しているのだろうけ
ど。

 鬼は何故かわたしに最後の一撃を与えない。わたしの時間切れを待っているのか。夜の
到来を待っているのか。そんな時を待たずとも、鬼が小指で突けば、わたしは倒れそうな
のに。

 瞳を開けて、鬼を見据える。最後の瞬間を、最後迄、できる事はしっかりやらなければ
と。

 悔しいけど、残念だけど、この世にはどうしようもない事もある。人の手や努力ではど
うにもならない事がある。どんなに頑張っても頑張っても及ばない事がある。だから人の
手でどうにかなる事は、努力で何とかできる事は、何とかしよう。全身全霊立ち向かおう。

 そうして目を開き続けたから。
 そうして向き合い続けたから。

 人の手が及ばぬ筈の何かに届く瞬間を見た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ぐおおおおおう!」

 森に響き渡る音は鬼の絶叫。
 視界を染める朱は鬼の鮮血。

 鬼は一瞬で、肩の付け根から強靭な両腕をすっぱりと切り落とされていた。今正にわた
しに伸びようとしていた太い両腕が消え失せ、鬼の背中に刺さった長い刃が、心臓を突き
抜けて顔を見せた。鬼は口から叫びの代りに鮮血を迸らせて、地に倒れ伏す。その向う側
に、

「真弓叔母さん……」

 幸運はわたしに微笑んだ。お料理修練で屋敷にいる筈の真弓さんが、ここ迄来るなんて。
経観塚を、単に鬼の目を攪乱させる場以上に、鬼にとっての死地に変えた唯一最大の要因
が、真弓さんなのだ。それは、真弓さんが正樹さんと結婚する迄勤めていた職に、関りが
ある。

 真弓さんは鬼を切る人達、鬼切部(おにきりべ)の一員だった。真弓さんはその中でも
鬼切り役と言われるエース級の要員で、当代最強と噂されたらしい。人外の強さを持つ鬼。
その鬼をこの様に一撃で斬ってしまえるのだ。

 その強さは尋常じゃない。わたしが多少修練しても足元に及ばないのはむしろ当たり前。
正樹さんとの結婚に伴い寿退職したとはいえ、その力量が消えてなくなる訳でもない。

 生き残れた。生命が費えたのは、鬼の方だ。

 全身の力が萎えて消失していく。その侭あの世に逝ってしまいそうな位の脱力感だった。

「柚明ちゃん、大丈夫? ……けい!」
「う、う、う、ううわあああああん!」

 そこでわたしの傍らにいた桂ちゃんが、わたしに寄り添いながら大声で泣き喚き始めた。
不安げな顔で駆け寄ってくる真弓さんに、

「桂ちゃんは、大丈夫です……」

 泣き喚いて無事を訴える桂ちゃんから目線を移した真弓さんが、わたしを見て顔を強ば
らせる。わたしはそんなに酷い状態だろうか。

「柚明ちゃん、貴女……。贄の血の力が…」

 え? 言われて自分と周りを見つめると、

「わあ、雑草も地面もみんな蒼くなって…」

 わたしを中心に半径1メートル程の領域が全部蒼白く染まっていた。既に蒼い力は解い
たので徐々に薄らいでいたけど、贄の血の力が強化されると、髪が蒼くなる様に、周囲の
物全てを蒼く染めてしまうのか。面白いかも。

「結界に近い物があるわね。貴女に触れなくても、この領域に入るだけで、蒼い力が及ぶ。
流石の鬼も攻撃を躊躇い立ち尽くしたのね」

 無我夢中で、贄の血の力を総動員し、わたしは堅固な守りを組んだ様だ。鬼は攻めあぐ
み、わたしの気力と体力の消耗を待ったと…。

「柚明ちゃん、けい、真弓ぃ……」

 正樹さんが、屋敷の方から白花ちゃんを抱いてやって来る。わたしのもう1人の生命の
恩人は、白花ちゃんだった。屋敷に逃げ込んだ白花ちゃんは、お料理修練中の真弓さんの
裾を引っ張り『おに、おに』と訴えたらしい。集中し始めたら没入するタイプの真弓さん
のお料理修練が中断されたのは恐らく初めてだ。

 真弓さんがわたしの両肩に手を回し、軽く抱いてくれる。強く抱くと身体に触る程わた
しは酷い怪我らしい。涙はわたしの瞳からではなく、真弓さんの双眸から流れ出している。

「2人を守ってくれたのね。ありがとう」

 そんな酷い傷迄負って、怖ろしい鬼に立ち向ったのね。ごめんなさい。こんな間近にい
て気付けないなんて、私も最近は全然ダメね。そう言う真弓さんにかぶりを振ってわたし
は、

「守ってもらったのは、わたしの方です」

 わたしはむしろ守られた側、救われた側だ。白花ちゃんが真弓さんを呼ばなかったら、
わたしは生き残れなかった。桂ちゃんの声が間近になければ、心が萎えて今迄保たなかっ
た。そして最後は真弓さんに。わたしは守る側を担うには未だ荷が重い。未だ強さが足り
ない。それを今日は続けざまに思い知らされたけど。

「守り通せて、良かった」

 それだけは本当の本音。間違いのない真実。

「バ、馬鹿ナ……、コノ、僕ガ、特別ナ定メヲ、人生ヲ、与エラレタ筈ノ、僕ガ、ナゼ」

 鬼の呟きにわたしはびくっと身を震わせた。鬼はもう、致命傷を受けている。腕を斬ら
れ足を斬られ、身動き出来ず絶命を待つだけだ。

「特別な死に方が出来て、良かったわね」

 真弓さんは鬼に向けて、酷薄に近い語調で、

「鬼切部に斬られるなんて、滅多に巡り来ない特別な定めよ。普通に生きていたら、まず
出来ないわね。望みは、叶ったでしょうに」

 言葉を紡ぐ気力もないのか、鬼は紅く目を光らせる。その鬼の脇にわたしは屈み込んだ。
鬼には、こうなったから尋ねたい事があった。

「柚明ちゃん。もう、危なくはないけど…」

 心配そうな真弓さんに頷きつつ、わたしは俯せに横たわり顔を横に向けて動けない鬼に、

「貴男は、普通に耐えられなかったのね…」

 鬼は、何を言うと睨む目線を向けてきた。

「多数の中の1人、目立たない1人、周りと同じ色の1人でいる事に耐えられずに、鬼を、
特別な定めを望んで受けた。鬼に逃げ込んだ。普通でない事の定めの重さを知りもしない
で、普通でない事に伴う痛みも苦しみも考えず」

 普通の血に生れていれば、お父さんもお母さんも元気でいられた。襲われるなんて心配
せず、妹も生れて平穏な日々を過ごせていた。幼い頃から出血を気にする事もなく、鬼の
影に怯える事もなかった。普通でないから、それに伴う様々な特別な定めが押し寄せてく
る。

 普通を嫌う。普通を拒む。わたしが一度は手に入れてみたいと思って、諦めた普通を捨
てる。わざわざ鬼になろうとする。特別な定めに足を踏み入れる。なぜそんな勿体ない…。

「でも貴男は、鬼の定めにも耐え切れてない。普通に耐えられず、多数の1人に耐えられ
ない者は、特別な定めの孤独に耐えられない」

 貴男がわたしを追い求めたのは、わたしが普通の人ではなかったから、なのでしょう?

 鬼は無言だった。

「貴男は仲間を求めていた。特別な定めや立場に酔いつつも孤独に潰され、同胞を求め彷
徨っていた。ここに来てから、貴男は何度もわたしを殺せた。殺意を抱きつつ貴男はわた
しを殺さなかった。貴男に孤独があったから。わたしを殺せば貴男は又1人になる。逃げ
られても殺してもダメなら闘い続ける他にない。終らせる気はなかった。それは寂しさの
故」

 わたしが学校でいつ迄もお客様である様に。

 普通に耐えられず鬼を選んだ時、彼は真の孤独に踏み込んだ。唯1人で、誰にも理解を
求められない。お母さんの事が思い出される。お父さんが幾ら側で抱き留めても、贄の血
を持つ者と持たない者の壁があって、助けようのない事、力になれない事があって。理解
してくれる者がいる程に感じ取れる孤独がある。

 正樹さんと真弓さんの様に、似た孤独を持つ者同士で逢って愛し合える例はごく僅かだ。

「普通の生を受け容れず、鬼の孤独に耐えられず、普通ではない者を求めて、ここ迄来た。
貴男はわたしの血に導かれてきたけど、それは贄の血が美味しい以上に、この血が持つ定
めの孤独に、引き寄せられた為ではないの?
 こうなったのは宿命だけれど、どちらかが生きて残れないのは定めだけれど、分ったの。
貴男の孤独はわたしのそれでもあったから」

「今更ノ話ダナ。何ヲ言イタイ」

 鬼は感情を抜き去った短い答を返してきた。

「貴男が望むなら、貴男を人に戻してあげる。消えゆく生命は戻せないけど、戻す積りも
ないけど、人としての死を望むなら、わたしの力で、貴男の中の鬼を、消してあげられ
る」

「僕ニ普通ノ人ニ戻ッテ死ネト言ウノカ?」

「どっちにしても今更の話よ。一度人に戻った鬼が再び鬼になって終わるのも、更に人に
戻って生を終えるのも。一本通った筋なんてない。それに、どっちにしても終りだから」

「確かに……でも、良いのかい。と言うより、君は僕が人として死ぬ事を、許せるのか
い?
 君の両親の生命を奪い、君を脅かした僕を、許して人の終りに導いて、悔いはないの
か」

「……貴男のやった事は、決して許さない」

 だからわたしは、例え貴男が助かる見込みがあっても助けはしない。許しはない。でも、

「貴男の孤独が分るから。貴男は選択次第でみんなに、普通の人に戻って生を終えられる。
最期迄特別な定めの孤独を望むなら構わない。でも、貴男が最期にその孤独を拭いたいな
ら、孤独を拭う為に、経観塚迄来た貴男になら」

 わたしは真に特別な血を引いている。その力を使えば、貴男は普通に戻って終えられる。
何とも皮肉な話だ。でも、わたしはそれを受け容れよう。わたしが人と違う事、違う技を
持ち違う事情を抱え、困難も弱点もある事を。

「他人の同情よ。鬼で終る? 人に戻る?」

 彼は元々普通の人だ。それが鬼になっただけだ。戻る道が残っている。彼は戻れなかっ
たけど、手遅れだったけど。わたしとは違う。でも僅かに、特別な定めと言う接点があっ
た。

 その故に共感でき、その故により深い断絶を感じる。あれ程人から隔たっても戻る道が
彼にはあり、わたしにはない。わたしは鬼より、普通から遠く隔たった者なのだと改めて。

「許されないと聞いてほっとした。この上で許されちゃ綺麗すぎて嘘臭いし心残りになる。
……折角の情けだ、人として死なせてくれ」

 出逢い方が違っていれば、この鬼とももっと違う接し方があったのかも知れない。鬼で
はなく、彼として向き合う事が出来たのかも。過去は直せないけど、最早変えられないけ
ど。

「さようなら……」

 贄の血の力をもう一度紡いで、鬼の額に手を当てる。鬼は、いや彼は微かに苦しそうな
表情を見せたけど、眠る様にその生を終えた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「そうか。あの鬼が姉さんの仇だったのか」

 贄の血の力は治癒にも効くらしい。わたしは幾つか深い傷を受けていたけど、外傷も多
々あったけど、力を放散し続けた結果、急速に回復に向っていた。最初は絶対即病院送り、
それも経観塚じゃなく都市部の大病院でないと手が付けられないと正樹さんは言ったけど、
結局その正樹さんに背負われて屋敷迄運んで貰い、静養と言う事に落ち着きそうだ。

 幸い明日は土曜日だ。月曜には学校に行けると笑子おばあさんが太鼓判を押してくれた。
『贄の血の力の修練に丁度良い。足りなければ補うけど柚明には多分要らないよ』との事。

 正樹さんが遅れてきた笑子おばあさんに白花ちゃんを預け、真弓さんが桂ちゃんを抱き
あげ、みんなで屋敷に戻る。彼の骸は、真弓さんが鬼切部に連絡し処置してくれるそうだ。

 わたしが彼を人に戻した処置は望ましかった様だ。鬼の屍という物的証拠がなくなれば、
実績を証明し難いけど、真弓さんは既に現役ではないから不要だし、世間に鬼や鬼切部の
存在を出したくない立場ではその方が良いと。

「鬼の肉体で死なれたら、怨霊になる怖れも残るし、強靭なその骸を被りたがる他の鬼等
が絡む事もあるし。厄介なのよ、鬼の屍は」

 わたしの他人の同情は最善に近かったのか。

「良く頑張り通せたね。桂と白花を守って貰えて、本当に今日はありがとう」

 正樹さんの背中は広くて、お父さんを思い出す。安心を肌で感じると、涙が滲んできた。

「家に着いたら服を脱いで頂戴ね。お義母さんが洗濯する間に、包帯巻いてあげるから」

 真弓さんは闘う人だから応急処置も得意だった。わたしも護身術の修練で度々処置を受
けた。笑子おばあさんが服を洗う間に、手早くわたしを包帯女にするだろう。適材適所か。

 屋敷に着いたのは月も高く上り始めた頃で。
 正樹さんと双子を閉め出して、真弓さんは、

「いたたた……」「少し我慢して」

 結構傷物になったわたしの肌を、真弓さんが白い包帯で巻き取る。わたしは思ったより
傷が深く大きい事に、真弓さんはそれらが既に深手ではない事に、肌を晒して見て驚いた。

 笑子おばあさんは『数日も経てば痕も残らないよ』と言っていたけど、本当だろうか?

 一番の重傷は横っ腹と左胸か。その他にも身体中に傷があるので、全部脱いで巻いて貰
う事になる。真弓さんの目線が時々値踏みする様に輝くのは、きっと気の所為だ。桂ちゃ
んが大きくなった姿を、連想しているのかも。

「これで、過去は振り切れたの?」

 包帯を巻きつける真弓さんの問に、わたしは静かにかぶりを振った。心は常に柔らかく。

「わたしには、過去は振り切る物でも、捨てる物でもありません。抱き締める物です…」

 哀しい過去、苦い過去、色々あるけど。でもそれが、暖かい想い出に繋っているんです。
良い事も悪い事も全部セット。揃ってなければわたしの過去ではない。致命的な過ちを犯
した過去も、わたし自身の過去です。だから、

「時に想い出の欠片は心に突き刺さるけれど、その痛みも受け容れてわたしです。哀しみ
の欠片を踏みしめて、その痛みに涙を流しつつ、それでも過去をしっかり持って明日に向
う」

 そうありたいとの、わたしの目標ですけど。

「……強くなったわね」

 真弓さんが静かに後から両腕を回してきた。

「最初に逢った頃には、貴女がこんなに強くなるなんて思ってなかった。守る対象にこそ
なれ、誰かを守れる様になるなんて思ってなかったわ。技や力の事じゃなくて、心がよ」

 お義母さんの眼力の方が正しかったみたい。

「でも、今なら言える。わたしにもしもの事があった時には、桂と白花をお願いするわ」

「真弓叔母さん……」

 それは信頼の証だ。鬼を斬る程の人から信頼を勝ち取れた。それも桂ちゃんと白花ちゃ
んを、真弓さんにとって一番たいせつな人を、何かあった時にお願いすると。最高の信頼
だ。

 短いけど、重い意味を持つ長い約束の申し出に、わたしも短く、深い想いを込めた答を、

「はい。任せておいて下さい」

 哀しみを乗り越えたからこの嬉しさがある。

 失ったたいせつなひとへの想い。生きて今ここにある意味。業を負う事で漸く振り返れ
る過去。手放せない。幸せを掴めるかどうかは分らないけれど、この先に充足があると信
じて進むしか。哀しみの欠片を、踏みしめて。


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