第4話 変らない想いを抱き(前)


「サクヤおばさん、少し、怒っています?」

 わたしの問にかぶりを振るけど表情は硬い。低気圧は話の進行に沿って中心気圧を下げ
続け、記録的な嵐を羽様のちゃぶ台に招きそう。桂ちゃんと白花ちゃんは愉しくお夕食中
だけど、今や上機嫌は2人だけになりつつある…。

 わたしは一旦話を止めて様子を伺いつつ、

「少しどころじゃない程、怒っています?」

 頷かず、唯大きく見開いた瞳を向けてくる。
 それだけで、意思の疎通は充分以上だった。

 真弓さんも正樹さんも、笑子おばあさんも予期していたとはいえ避け得ぬ嵐に困り顔で。

「取りあえず、最後迄お話しな」「はい…」

 事ここに至っては沈黙が雷を呼ぶ。明かさぬ訳に行かない中身を含み、解決出来た事な
ので夕食時に話したけど。他の人は半月程前の経緯は承知で、今の初耳はサクヤさんだけ。

 真沙美さんを人質に取られて身を拘束され、塩原先輩に制服のスカートを切り剥がされ
口づけされた段に入ると、サクヤさんの背に闘気が視えた。真弓さんの元で修練に励んだ
成果以上に、憤りは素人が分る程に立ち上って。

「……真弓、今の柚明の話は本当かい…?」

 話を終えた後のサクヤさんの低めな声音は、台風の目にいる様で。真弓さんの頷きを受
け、

「そうかい……」

 吸い込む息で空気が薄くなった錯覚がある。狼が口を開けて羊を呑み込む錯覚迄も。真
弓さんを向いた俯き加減から顔を起こす様子に、

「サクヤおばさん、真弓叔母さんを怒らないでっ。真弓叔母さんは悪くないの。真弓叔母
さんは、わたしを助けに来てくれたから…」

 でも、その怒声は真弓さんに向く事はなく、

「あたしが怒っているのは、真弓に対してじゃないよ。……柚明、あんたに対してだ!」

 バン! とちゃぶ台を平手で叩く音が響く。

 発された音と裂帛の気迫が、傍の桂ちゃんと白花ちゃんも震わせた。わたしも竦みつつ、

「ごめんなさい……」

 小声で謝る。みんな夕食の箸は暫く前から止まった侭で、ご飯も味噌汁も冷めつつある。
その失われた熱量に倍する憤りを両頬に集め、

「何て無茶をするんだいっ。大事にしなきゃならない嫁入り前の娘の身体で! しかも」

 癒しの力を他人に使ったり、贄の血の事情を話したり、真弓との修練の成果を晒したり。
あんたは元々綺麗な上、羽藤の娘と言うだけで人目に付く立場だと、分っているだろうに。

 半月前の一件では、今迄忠告されて隠してきた、多くの諸々を晒す事になった。不特定
多数に知れ渡る最悪の結末は回避できたけど、危うかった。一度はわたしも幼い双子に禍
となる前に羽様を去ろうと思い詰めた程だった。無事に乗り切れてほっとしたわたしに対
して、サクヤさんは今その経緯を知って、心が嵐で。

「勝手に贄の血の癒しを、人に知られる形で使ってしまって、ごめんなさい。和泉さんを、
わたしの所為で一生を狂わせる傷を負った大切な人を、どうしても助けなきゃいけなくて、
その時は選ぶ余地も相談する猶予もなくて」

 でも、正樹叔父さんや笑子おばあさんの知恵のお陰で、大きな問題にならずに済んだの。
浅慮は深く反省しています。相談もせず勝手をしてごめんなさい。罪も罰も身に受けます。

 今度は深々と頭を下げる。そんなわたしに、

「あたしが言いたいのはそう言う事じゃない。贄の血の癒しもそうなんだけど、柚明がそ
うしなきゃいけなかった事情は分るけど、大事にならず済んだ事はほっとしているけど
…」

 サクヤさんが言いたかったのは翌日の事で。

「最初はともかく二度目はあんた、自ら危険に飛び込んで行ったじゃないか。その塩原達
の処へ鴨川の馬鹿娘と馬鹿息子を助けに、何が待つかは前日の経緯からほぼ承知の上で」

 指摘にわたしは小さく頷く。わたしは危険が待つと承知で、あの廃寺に乗り込んだ。殴
られ蹴られ、服を脱がされ辱めを受ける事は、前日の経緯で推察できた。だからこそ、真
沙美さんがそうされる様を捨て置けず、自ら…。

「真弓叔母さんのお陰で、わたし大丈夫だったから。みんなに迷惑と心配をかけて申し訳
なかったけど、真沙美さんも賢也君も無事だったし、わたしも肌に傷跡も残ってないし」

「ちっとも大丈夫じゃないだろう柚明は!」

 サクヤさんの瞳は更に大きくわたしに迫る。

「痛い思いして、怖い思いして、心を傷つけられたじゃないかっ。あんたは友達や鴨川の
馬鹿娘や馬鹿息子を守れたかも知れないけど、その為にあんたが身を削ったじゃないか
っ」

 その柔肌に拳をねじ込まれたじゃないか。
 衣切り剥がされて辱められたじゃないか。
 あんたの大切な唇を奪われたじゃないか。

 なんて危なっかしい。中学生になれば全くの子供じゃない。子供じゃないあんたは確か
に少し強くなったけど、その代りあんたは子供じゃない女の子が持つ危険に晒されるんだ。

「あんた、自身を気遣わなさすぎだよっ!」

 柚明は自分が穢されても良いと言うのかい。
 人を守って己が傷物になっても良いのかい。
 人が良いにも程があるよ、あんたって奴は。

「お嫁に行けなくなっちまうじゃないか!」

 轟く声に答を返したのはわたしの左隣で、

「ひぎ、ひ、ひ、ひいぃぃん」「桂ちゃん」

 自身が怒鳴られたと想ったのか、緊張感に耐えられなくなったのか、泣き出したのはわ
たしの左で夕食の箸を止めていた桂ちゃんで。サクヤさんの怒気も一瞬抜けて緊迫が薄ま
る。

 何故泣き出したか自身理解できてない桂ちゃんを、抱き留めて頬に頬寄せ安心を伝える。
言葉は泣き叫ぶ幼子に心を伝えるに力不足だ。温もりと肌触りと、微かに通わせる血の力
で。

「大丈夫よ。サクヤおばさんは桂ちゃんを叱った訳じゃないから。桂ちゃんは何も悪くな
いから。悪い事をしたのは、わたしだから」

 わたしの声が少し哀しげなのは、己が叱られた事にではなく、己がなくした物への哀し
さでもなく、桂ちゃんを泣かせてしまったこの結果に。サクヤさんを心配させ、大声で叱
らせるに迄至らせてしまった、己の力不足に。

 その更に左隣では白花ちゃんが声を発し、

「サクヤおばちゃ、ゆーねぇを怒らないで」

 サクヤさんが悪者の様なこの展開を導いてしまった事にも申し訳なく。桂ちゃんを抱き
留めた侭の身が、更に小さくなって行く気が。

「サクヤ……」「あ、ああ。……分ったよ」

 真弓さんに頷き返すサクヤさんはもう冷静さを取り戻している。わたしの無茶に余程驚
いた様で、未だその表情は元に戻りきってないけど。そこ迄招いたわたしが悪いのだけど。

 今はサクヤさんに謝るより、泣き叫ぶ桂ちゃんの心を鎮める方を優先する。小さく温か
い身体の震えを受け止めて、荒くなった息遣いが収まり行く様を、肌を合わせて感じつつ、

「ゆめいおねえちゃん、わるい子だった?」

 間近な問に確かに頷き肯定し、少し苦笑い。

「ええ、そうよ。わたしが、悪い子だった」

 桂ちゃんはとっても良い子。何も悪くない。

 唇が触れそうな程近くから、瞳を見つめて見つめられ、黒目に互いの顔を映し合いつつ、

「危ない処に行って、サクヤおばさんを心配させたのはわたしなの。桂ちゃんも、危ない
処に行ってはダメって言われているでしょう。わたしが危ない処に行ってしまったから
…」

 桂ちゃんまで涙させて、ごめんなさいね。
 左右の瞳の頬を伝う涙を、唇で掬い取る。
 幼子の柔肌は滑らかで温かで、心地良い。
 視線をその肩越しに白花ちゃんにも向け、

「白花ちゃんも驚かせて、ごめんなさい…」

 サクヤおばさんが大声を出すのは、わたしを心配してくれているから。わたしを大切に
想ってくれているから。怒らせてしまった事は申し訳ないけど、とても有り難い事なのよ。

 桂ちゃんがこの侭を好んでいると感じ取れるので、間近に抱き留めた侭、視線を向けて、

「サクヤおばさん、ごめんなさい。わたし……もうお嫁に行けない、傷物でしょうか?」

 贄の血の癒しで傷は痕も残さず治せるけど。サクヤさんが言いたいのは多分そう言う事
ではない。身の穢れ、魂の傷、嫁入り前の娘が。

「桂ちゃんと白花ちゃんに尽くすには、差し障りはないと想うけど、己が選んだ結果だけ
ど。わたし唇は奪われたし、人前で下着姿とか晒されちゃったし、サクヤおばさんや笑子
おばあさんの言いつけも破っちゃったし…」

 喪失の寂しさを実感する。真沙美さんがそうされない為に、望んで代りに受けたやむを
得ない結果だけど。全てを跳ね返せる力量のないわたしには、他に為す術もなかったけど。

『傷跡が残ったって、あんた程可愛い娘はそうそういないさ。貰ってくれる男がいなけり
ゃあ、あたしが貰ってやるから安心しな…』

 そう言って貰えたのは昨年の今頃だった。
 わたしはその資格も失ったかも知れない。

 あの時は桂ちゃんと白花ちゃんを守る為に、鬼に抗って受けた深手を見られてだったけ
ど。今回の傷は肉体的な物ではない。心に刻まれた傷は、心の繋りを断つ効果を持つのか
も…。

「折角サクヤおばさんに大切に想って貰えたのに、わたし手遅れ? 穢されてしまった?
 わたしはたいせつな人に尽くせる心と身体が残せたので、大事だと感じてなかったけど、
わたしが塩原先輩に為された一連の事が、この身と心を取り返せない程穢しているなら」

 その結果サクヤさんに大切に想って貰える資格を失ったなら、仕方ないけど、少し残念。
そしてそれより、サクヤさんの失望を招いた事に謝らないと。心配させ心乱してその末に、

「それは多分罰を受けても取り戻せないから。謝る他にわたしに出来る事はないから。取
り返せない身と心の穢れは、お嫁に行けない傷物のわたしは、もうサクヤおばさんの想い
を受ける資格もないけど。せめて謝らせて…」

【でも、柚明がそれでも良いって言ってくれるなら、それで尚あたしをそう想い続けてく
れるなら、あたしもあたしにできる限りの気持を返すよ。一番と言えないけど、この世で
2番目に大切な人と同着の、2番目として】

 あれ程暖かく強い想いを寄せてくれたのに。
 これ程熱く深い気持を寄せ続けてきたのに。

 わたしの選択がそれを失わせた。わたしにはあれしかなかったけど、こうなると分って
尚あの状況に戻れば今の選択しか採れなかったけど。お嫁に行けなくなる事より、サクヤ
さんにそう言われ繋りを断たれる事が心に痛い。サクヤさんをそうさせた事が申し訳ない。
子供の悪戯と違って取り返しつかない事なら。

「心の底から、ごめんなさい。わたし……」

 深々と頭を下げるわたしにサクヤさんは、

「ああもう。何だいこの空気は、真弓っ!」
「わたしが何も言う必要なく分ると想って」

 真弓さんの簡潔な突っ込みに、おばあさんも正樹さんもそれ以上は不要だと何も挟まず。

 サクヤさんは立ち上がって、温かな肌触りを抱き留めた侭のわたしの間近に歩み寄ると、
屈み込んで桂ちゃんごとわたしを抱き包んだ。ボリュームのある胸が肩に乗って重みが掛
る。

「あたしは柚明が傷を負うのが怖くて心配して言っただけだ。誰もあんたが穢されて取り
返しつかないとか、傷物とか言っちゃいない。あんたが嫁に行けなくなる傷を負いそうな
危うい橋を渡るのを心配しただけだ。その、脅かしにきつく言い過ぎたよ。ごめん、柚
明」

 下着姿の一つや二つ、キスの一つや二つ。

 サクヤさんの頬が妙に赤いのは、怒った直後に謝る経緯の故か、それとも口に上らせた
言葉への恥じらいか。その戸惑いが、奇妙に可愛く感じられる。何というか、凄く純真で。

「柚明の下着姿や素っ裸は、あたしも見たよ。奪われたって言う柚明の唇は今もそこにあ
る。穢されただの奪われただの案じる事はない」

 あんたは今も綺麗で優しいあたしの柚明だ。

「あんたが心に傷を負ったんじゃないかって、隠れて1人涙流して震えていたんじゃない
かって、それが気掛りだったんだ。あんたは人の心配を先回りして察し、人前では静かに
微笑んで影で1人泣く様な不器用な娘だから」

 あんたの大丈夫は、自身に向けて使う時だけ時々信用出来ないからね。サクヤさんはわ
たしの言動は全て承知済と、この身を強く外から包み、愛おしむ想いを肌で伝えてくれる。
その力強い感触が、艶やかな素肌が心地良い。心を伝えるにはやはり言葉だけでは力不足
…。

「あんたが痛み苦しむ様を思い浮べ、1人で熱くなってしまった。あんたに向ける怒りじ
ゃなかったのに、あんたを傷つけた奴らへ向ける怒りなのに、あんたに当たってしまった。
ごめんよ。あたしの想いは何も変ってない」

 桂ちゃんを抱き留めた侭サクヤさんの両腕に包まれているので、抱き返す事は出来ない。
桂ちゃんが状況の変転に付いて行けず、わたしとサクヤさんを交互に見つめ上げる間近で、

「傷物になったって、あんた程可愛い娘はそうそういないさ。貰ってくれる男がいなけり
ゃあ、あたしが貰ってやるから安心しな…」

 良かった。サクヤさんがそう言ってくれるなら、傷つく事も穢れる事も怖くない。迷い
なく大切な人の為に身を抛てる。それを口に出すと又叱られそうだけど。心から良かった。
わたしもずっと変らない想いを胸に抱きます。


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 危うい処を真弓さんに助けて貰い、先生やお巡りさんが到着し、塩原先輩達が補導され
たあの日から半月少し経った。昨年の鬼の襲来と違い、生命に関る深手も負ってないので、
サクヤさんに特段連絡はしてなかった。一時の緊迫が嘘の様に、日々は平穏無事に過ぎて。

 出来るだけ大事にしたくない。その想いは当事者の誰もが抱いた様で、事後の収拾は驚
く程早く滑らかで。お仕事一段落して訪れたサクヤさんに、事後報告して大きな雷を落さ
れたけど、その程度で済んだ事は幸いだった。

【にしてもあんたのお人好しは度が過ぎるよ。
 鴨川なんて、羽藤には代々仇じゃないかい。
 その不良共をたきつけ、悪い噂振りまいた鴨川分家の馬鹿息子や、その馬鹿息子を助け
に無謀を為した鴨川本家の馬鹿娘を、危険を冒して救いに行くなんて、あんたも本当に】

 サクヤさんの怒りも抜けた末の呆れ声に、

【わたしの、たいせつな人の為だったから】

 何故頬が染まるのか、自身分らないけど。

【ああ、もう。甘すぎるのも大概にして貰わないとねえ。……これが羽藤の血なのかね】

 笑子さんも正樹も、あれ程煮え湯を飲まされた鴨川に何でこれ程寛容なのか、理解出来
ない。柚明に至っては鴨川の娘を大切な人と。あたしは辛党だから、甘すぎる血は苦手だ
よ。

【お互いに、長らく関り合った間柄ですし】

【悪い人ではないです。鴨川の本家も分家も。特に賢也君のご両親は気さくな人で、この
件では丁寧に応対して貰えました。真沙美さんのお父さんも、今迄の関りがあるから多少
身構えていたけど、娘想いの良い父親ですよ】

 笑子おばあさんと正樹さんの穏やかな答に、

【これ迄の経緯を分ってそう言えるあんた達を、大人と言うのか、お人好しと言うのか】

 そう長くない付き合いで、時流に乗じて二度三度裏切られ。向うが報復ありと身構える
方が自然さ。報復を怖れ先に潰しに掛られる事もあると、考えもしない羽藤の太平楽さは。

「ゆめいさんって、細心なのか、剛胆なのか、お気楽なのか、今でも時々良く分らない
よ」

 和泉さんに、昨日迄羽様に数泊していたサクヤさんのぼやきと似た事を言われて苦笑い。
人目のある銀座通商店街や経観塚駅前と違い、校門前のベンチは住宅街外れで人通りもな
い。

 演劇部の活動で居残る和泉さんを、わたしが校内で待ち続けるのは、半月前からの事情
で未だ少し目立つ。一緒に帰る為に、一時間早く校門前のベンチに腰掛けて、借りていた
演劇の脚本を読みながら待っていたのだけど。

「未だ人の視線がある商店街を通って、駅前のバス停で待っていた方が安心できるのに」

 羽様行きバスの時間に合わせ、1人部活の居残りを抜けた和泉さんの前に、夏の陽が落
ちかけた学校前に、今いるのはわたしだけだ。鋭角の日光は濃く長い影を乾いた地面に映
し、周囲の草藪も物陰も暗がりが広がって見える。心配の種は殆どないにせよ、1人で外
にいる事に、不安を感じる頃合だったかも知れない。半月前は危険の間際に直面させられ
た事だし。

 先輩の多くは停学になったけど、絶対外出しないって保証はないのに。こんな処で1人
部活が終る迄わたしを待っていてくれたのは。

「あたしが駅前のバス停迄、1人で歩かなきゃいけなくなるって、心配してくれて…?」

 その問は否定せず、でも肯定の答もせず、

「和泉さんと早く、一緒になりたくて……」

 塩原先輩達も停学中で、学校前に顔を出す筈がない。日本の田舎の学校近辺に、そう女
子中学生に危険な人や物がありはしない。何度か探っても気配もなかった。問題はそれで
も怯える心の方に。不安や恐怖と言う物は一度刻まれると、実体を失っても残り続けて拭
い難い。理屈ではなく心情を汲み取らないと。

 なるべく一人きりにはせず、ぴったり寄り沿い安心させる。1人じゃないと肌に感じさ
せる。物理的な危険以上に不安や怖れから心を包み守る。幼子の不安を鎮める所作に近い。

 頬を染める和泉さんを前に、借りていた脚本を閉じてベンチから立つ。持ち主に示して、

「もう少し、借りていて良い? 想ったより台詞に熱があって面白いの」「良いけど…」

 今夜は熟読の暇は与えないよ、ゆめいさん。
 影は二つ寄り添って、濃く長く伸びて行く。


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「お邪魔します……」「どうぞ入ってっ!」

 今宵は家人が1人の金田宅に、その1人の招きを受けて上がり込む。明日は休みなので、
今宵は羽様のお屋敷に帰らずに外泊の予定で。大人の了承は貰ってある。桂ちゃんと白花
ちゃんにはきっぱり『やだ!』と言われたけど。その願いには、逆らい難い物があったけ
ど…。

【半月前の一件の、お礼をさせて欲しいの】

 和泉さんの願いも又、断り難い物だった。

 わたしとの絆を望んでくれた所為で、わたしの傍にいた為に、わたしの禍に巻き込んで、
わたしを守る為に傷を負った、たいせつな人。常にわたしを想い続けてくれた心の暖かな
人。

 わたしを庇って傷を負った左眼の、失明と離れ行く定めを感じてわたしは、唇と舌で贄
の血の癒しを注いで賦活を促し。結果彼女とわたしの絆は深く絡み合った。サクヤさんや
真弓さんの言いつけを破って、わたしは力を人に使い、彼女の身と心にその証を刻みつけ。

 和泉さんとわたしはもう、一線を越えてしまったのかも知れない。何と何を隔てる一線
かと問われれば、巧く応えられないのだけど。

 そう言う訳で、和泉さんの想いのこもった願いは無碍に断れない。火曜日に話を持ちか
けてくれた時には、既にその準備も進行中で、

『父さんと母さんは2名様1泊温泉旅行なの。新春売出しのくじで当たった金賞の有効期
限が半年なの。防虫の農薬撒きも一段落したし。お金加えてあたしもって誘われたけど。
美人女子中生の傷心癒す旅も悪くなかったけど』

 両親が外した時の方が、わたしを招いて突っ込んだ話もし易いと。今迄勉強や遊びで何
度か金田宅を訪れ、羽様のお屋敷に来て貰った事もあったけど、夜を徹した事はなかった。

 和泉さんのご両親も、彼女を1人残すのは半月前の事があっただけに不安だった様だけ
ど、わたしを招くならと了承したとか。逆に言うと1人残る和泉さんを、わたしが責任を
持って預からなければ、ご両親を心配させる。

『問題ないんじゃない? 女の子の宅だし』

 真弓さんの答は前向きで、他には異議の声もなく、承諾はあっさりと。桂ちゃんと白花
ちゃんの了承は中々貰えず、瞳の奥を見つめて語りかけて漸く。結局それも、今朝学校に
行く前に取り消され、困惑するわたしの前で、むずかる桂ちゃんを正樹さんが抱き上げつ
つ、

『桂はこっちで、巧くあやしておくから…』

 そう言う訳で、完全な了承を貰えてないのが心残りだけど。帰ったら、この分は埋め合
わせます。今少しだけ見逃してね、桂ちゃん。

「座って楽にしていて。今お茶淹れるから」

 子供部屋ではなく、1階の居間に通されて、大きなテレビを前にしたソファに座らされ
る。

「気を遣わないで。そんな上品なお客様ではないんだから」「ゆめいさんは座って待つ」

 ぴしりと言われて従わされる。家人の指示には従わねば。わたしをもてなす為に時間と
労力を使う位なら、一緒に動く方が効率的で愉しいのにと、想う自身を抑え付け。それに
わたしのもてなしと言うより、菓子棚や冷蔵庫を見せたくなくてそう言った様な感じも…。

「夕食、少し遅くなっても良い?」「ええ」

 和泉さんが見たい番組があるという訳でもなくテレビを付ける。外は夏の陽が落ちて暫
く経つので、今から作るにしてもやや遅めだ。夕飯の食材は全面的に提供するから、今日
の買い物は不要と和泉さんは言っていた。部活があって一緒に買い物する時間が取れない
為、昨日迄に今夜の献立を考え食材を揃えた様だ。

 その代り。わたしは和泉さんに先制して、

「お料理はわたしに手伝わせてね」「えー」

 和泉さんはわたしをもてなしたい様だけど、わたしは客としてもてなされるより、一緒
にお料理やお皿洗いする方が好き。サクヤさんとも真弓さんとも、一緒に草刈りやお掃除
する事で、間近に触れ合い言葉を交わし心を繋げる。一緒に事に向き合って、仲間になれ
る。美しい横顔や艶やかな肌を傍で見つめられる。

「和泉さんがわたしと一緒の時間を過ごしてくれる。それが今夜の一番の悦びだもの…」

 テーブルを前に向き合った侭、わたしは和泉さんの両手を両手にとって、黒目を正視し、

「和泉さんの気持は有り難く頂くわ。代りにわたしの気持も返させて。もてなす者ともて
なされる者に隔てるのではなく、夜を一緒に過ごす者として、隔てなく心を通わせたい」

 和泉さんが答に窮して両の瞳を瞬かせる。
 ストレートのショートな髪が微かに揺れ。
 赤く染まる頬より身体が少しぎこちない。

 でも振り解かないその両腕に、わたしは和泉さんの承諾を肌で感じ取り、言葉を続けて、

「手を携えたい、視線を交わしたい、心を寄り添わせたい。肩を触れさせ、肌を寄せ合い、
互いの温もりを伝え合いたい。心を繋げたい。その為の今夜なのだもの。ね、真沙美さ
ん」

 和泉さんが言葉の意味に驚くより早く、ガラス窓の外側に転じた視線の先に立つ人影は、
長く艶やかな癖のある黒髪を揺らせて苦笑い。

「こういう展開になる気はしていたんだよ」

 真沙美さんが来て今宵のヒロインは揃った。


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「どうぞ入って、真沙美さん」

 家人ではないけど、わたしは微かに惑う真沙美さんを招き入れる。玄関ベルも鳴らさず、
居間の窓から顔を覗かせたのが、わたしを驚かせる為に和泉さんと示し合わせての事だと
確かめたのは、これに続くお話の中でだった。

 何となく推察は出来ていた。二階の子供部屋ではなく一階の居間に招かれたのは、窓か
らわたしを驚かす為か。テレビを付けたのは物音や気配を紛らわす為で。冷蔵庫を見られ
て拙いのは、3人分ケーキが用意済みだから。

 理屈にすればそうだけど、人の心理は簡単ではない。行動の要因を推察しても、人は意
外と出たとこ勝負で読みづらい。やはりこれは関知の力がわたしの推察を導いているのか。

「私は多分駄目だろうと言ったんだけどね」

 大伴酒店の袋に乾物を詰めて下げた真沙美さんが、玄関から室内に入って来て語るのに、

「あたしの名演技が通じないとは恐るべし」

「見抜かれまくりだよ。っていうか、柚明にはあんたのレベルの偽りは多分、通じない」

 羽藤と関りある鴨川に育った真沙美さんは、贄の血の持つ意味や宿す力をどの位知っ
て?

「それより、私は今回意地悪魔女も良い処じゃないかい。誘って貰えてここ迄来て言うの
も何だけど、折角のあんたと柚明の夜をさ」

 序盤の盛り上がりも崩してしまった様だし。
 わたしを目前にしても真沙美さんは率直で。
 和泉さんが頬を朱に染め視線を逸らすのに。

「本当にこの侭一晩居着いちゃって、良いのかね。今なら私は、夕食頂いた位で引き上げ
ても良いんだよ。和泉も今回みたいな絶好の機会はそうそう数ある訳じゃないだろうに」

 真沙美さんは率直すぎる一方で、その気遣いは細やかで心優しい。真沙美さんの真価は、
堂々たる受け答えや決断力より繊細さにある。率直すぎてきついと誤解されるのは損な処
だ。

 そんな彼女をわたしの転入以前から承知の和泉さんは、受けて怯む事も戸惑う事もなく、

「良いの。鴨ちゃんも一緒の夜で」

 和泉さんが、真沙美さんを今宵招いた意味も逆にそこにある。大人に知られる事なく真
沙美さんとわたしが夜を共に過ごせる機会は、和泉さんが介在しても今宵位しかない。真
沙美さんが羽藤のお屋敷を訪れる事も、わたしが真沙美さんのお屋敷を訪ねる事も、憚ら
れる現状では。和泉さんは両親不在でわたしを招ける状況を作り出せた瞬間に、迷いなく
真沙美さんも招く積りで居た。わたしを驚かせる為にお話は伏せていた様だけど、何とな
く驚かない素地が出来ていたのは、関知の故か。

「こういう展開になる気はしていたんだよ」

 和泉さんの歓迎と、わたしの驚きのなさと受容迄も、真沙美さんは予見できていた様で、

「あんた達も物好きだね。こういう場は2人きりがお約束だろうに。余り他人に与えてば
かり居ると、自分が大切な物を逃し失う事になりかねない。その事は、憶えておいて…」

 先に釘を刺すのも彼女の優しさと率直さだ。同時に自身は欲する物を前に、他人を気遣
って手を拱く事はしないとの意思表明でもあり。何というか、真沙美さんは真剣すぎて、
日常会話でも木刀で打ち合う感じがある。嘘がないというか、自身にも嘘をつけないとい
うか。和泉さんはその意志宿る視線を柔らかに受け、

「あたしにも、譲る積りはないから。ここはあたしのホームゲームだし。強敵を迎え撃つ
には最高の晴れ舞台でしょう、鴨ちゃん?」

 その意味ではわたしも迎え撃たれる側か。

 複雑に絡み合いそうな、でも敢て絡め合わせたい、奇妙な距離感と繋りの中。半月前の
一件を共に乗り越えて、絆を深く結んだ2人にわたしは、改めて両手を揃えてお辞儀して、

「今宵はよろしくお願いします」


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「事ここに至れば、下らない世間体に縛られる必要もないし。今宵は愉しくやろうよ…」

 真沙美さんの発声で動き出すのは、羽様小以来の習い性だ。わたしが頷き、和泉さんが
『了解』と敬礼して3人の厨房が幕を開ける。

「ゆめいさんが和食の達人目指している事は、小学校の家庭科から承知だから」「今宵の
メニューはオムライス。洋食に挑んで貰うよ」

 わたし、いきなりアウェイです。

「私は和食よりむしろ洋食の方が得意だし」
「あたしは勝手知り尽くした己の庭ですと」

「柚明にはこの位ハンデを付けないとねぇ」
「苦手に困るゆめいさんを見てみたいしっ」

 そう簡単に、敗退する訳には行きません。

 家庭科で洋食の知識も少し取り入れていたわたしは、笑子おばあさんに受けた料理全般
の基礎修練も生かし何とか惨敗を免れました。無失点で延長戦の末にPK戦で敗北した様
な。野球で言うなら延長引分再試合で負ける位の。

 オムライスの上にケチャップで名を書く段になって、誰が誰のに書き込むかジャンケン
に委ねたのだけど、みんな熱くなっちゃって。冷静になれば、3人で書いて書かれてだか
ら、誰もが確実に残り2人と関り合えるのだけど。

「オムレツに包みきれないで、炒めご飯少し余しちゃった」「夜食にでもすれば良いさ」

 3人で食卓に着こうとした時だった。玄関前に繋いである犬のタローの吠え声が聞える。

 人懐っこい雑種で、玄関を避け窓に行った真沙美さんにも吠えない、初見の人位にしか
番犬の役を為さない老犬だけど。逆に言うと、陽も落ちて暗くなったこの時に初見の人
が?

 大人がいない今だけに、居るのが女子だけの今宵故に、場を緊張が走り抜けた。真っ先
に廊下のドアに手を掛ける。心配の視線を背に感じたけど、こんな時こそわたしが先頭を。

「確かめてくる」「1人じゃ……危険だよ」

 真沙美さんが返す声に、和泉さんも頷き、

「家主はあたしなの。あたしが、出ないと」
「大丈夫。きっと危険はないよ。それに…」

 関知の力は特段何も伝えてこない。それはつまり、緊迫や危険はないと言う事だ。喜ぶ
事もないけど、哀しい事や痛い事も又ないと。この感触は、今迄も大体そういう事だった
し。

「危険ならまずわたしが受けて対しないと」

 大人の人も男の子もいない今、泥棒や不審者が来たなら、2人を守れるのはわたしだけ。
撃退し捕まえる迄出来れば言う事はないけど。警察を呼ぶ時を稼ぐとか、真沙美さんと和
泉さんを逃がす為の足止めとか。最悪の事態を想定しておく。迷わず即座に対応できる様
に。

 わたしの修練の成果を知る2人は、言葉の意味を確かに分る。自信より実績より、2人
を危険から守り隔てたい想いを視線に込めて。でも緊迫しすぎると心配させるので穏やか
に、

「2メートル離れて付いてきて。わたし、いきなり真後ろに飛び退くかも知れないから」

 わたしが身を盾にして防ぐ事を前提に、2人にもわたしの肩越しに状況を知って貰おう。

 相手の不意を突く為に、敢て外灯は点けず、懐中電灯を右手に廊下を進む。それを点け
るのは、相手の顔に向けた瞬間だ。大きな物を選んだのは、いざという時に叩き付ける為
だ。

 タローは未だ吠え続けている。相手の足音も息遣いも気配も感じ取れた。大人じゃない。
高校生か中学生位の、男の子? 女の子ではなさそう。半月前の塩原先輩を思い出し、微
かに竦む身を心の内で叱りつけ。背後に少し離れて2人が続く。音もなく玄関で靴を履き、
一気に扉を開け放って相手に電灯を突きつけ、

「は、はは……。こんばんは」

 夜半の来訪者に、一応厳しい表情で身構えたわたしを前に、賢也君は飲み物の詰まった
スーパーの袋と両手を頭上に掲げ。やや硬い愛想笑いで敵意のない事を示す。週末の金田
宅は、予定外の客人を招き入れる事になった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 場は奇妙な緊張感に包まれていた。ほっとした様な、でもほっとしきれない、妙な感じ。

 わたしは元々、誰かを動かす事が多く自ら害を為さない賢也君に、怖れはなかったけど、
和泉さんの怯えや真沙美さんの過剰反応が気掛りだった。平静を保つのは自身や賢也君の
為より、背後の和泉さんや真沙美さんの為だ。

 半月前の事件を引き起こした因でもある賢也君は、多くの先輩達と同様、今日金曜日迄
停学で、来週から学校に復帰予定だったけど。今日放課後で停学は解けたと判断出来るの
かも知れないけど。あの一件を共に乗り越えたわたし達の集いを敢て訪れた彼の意図と
は?

「賢也、あんたどうして、今日のここを?」

 少しきつめな真沙美さんの問に賢也君は、

「真沙美ちゃん、大伴酒店で乾物買っていただろ。店から出る処で、聞いちゃったんだ」

 賢也君は停学の2週間、外出せず家で謹慎していた様だ。今日放課後にそれが実質解け
たと商店街を出歩いて、今宵の為に乾物を買い求める下校途上の真沙美さんを見かけたと。

 真沙美さんが持ってきたおやつは塩気の効いた乾物が多い。和泉さんが甘党でケーキや
大福や羊羹が勢揃いだと、長い付き合いの彼女は知っており、自身の好みを買いに寄って。

「金田の家に泊ると耳に入っちゃったんだ」

 真沙美さんはお父さんと時間が合えば、その出退勤の車に乗って登下校する。賢也君は
車で帰る途上の真沙美さんを見かけ、己も飲み物を買って、バスに乗り込みここ迄来たと。

 真沙美さんの表情が苦く硬いのは、女の子同士の語らいの場を崩された事、他の人にこ
こにいると知られた事よりも、羽藤と仲良く夜を過ごす事を両親に知られる事への懸念か。

「手ぶらで来るのも、何だからさ」「あっ」

 和泉さんが驚きの叫びを上げる理由を知るわたしは、それをごまかす為に一歩前に出て、

「差し入れに飲み物持ってきてくれたの?」

「羽藤もいるとは想ってなかったけど、むしろその方が丁度いいや。来て良かったよ…」

「有り難う、賢也君。……みんなで頂くわ」

 背後の2人が口を閉ざすのは、わたしの意図を察した為だ。今日はわたしが飲み物担当
で、既に金田家の冷蔵庫に充分な量は揃ってあるのだけど。それを今明かしては間が悪い。
わたしは確かに、賢也君の好意を受け取って、

「一緒に夕食をいかが? みんなでオムライス食べる処だったの。卵はあるし炒めご飯も
余っているから、拾分待ってくれれば作ってあげられる。わたしもお話ししたかったし」

 良いでしょう? との問は、賢也君に向けてだけど、同時に真沙美さんと和泉さんにも。

 賢也君は元々その積りだったのだ。日も暮れた羽様の間近に経観塚から遙々バスで来て、
何の用もない筈がない。わたしが居た事は予想外だった様だけど、まず家に招き入れよう。

 拾数分後、4人は食卓の四方を囲んで共にオムライスを食していた。真沙美さんの左は
和泉さん、右はわたし、向いに賢也君が居る。

「今更隠し様がないから私は弁明しないよ」

 真沙美さんは、当然賢也君の心に浮んだだろう問に先制して応える事で話の口火を切る。
問われて嫌な事、答える事を避け得ぬ事なら、問われる前に告げてしまうのが彼女の流儀
だ。

「鴨川本家の長女が、羽藤の娘と逢っていた。和泉の家を隠れ蓑にして。それは公表して
も、親に言っても構わない。和泉の家に迷惑を掛ける事になってしまうけどね。私は柚明
と絆を結んだんだ。もう家の都合に振り回されて、この繋りを解く気はない。今回人目を
忍んだのだって、和泉が丁度良い機会を提供してくれたお陰もあるけど、周囲に波風立て
ないで済むのならその方が良いという程度の話で」

 まるで恋人の密会をスクープされた様な。
 対立する名家の子女同士の許されざる恋。
 女の子同士の時点で、許される筈もなく。
 演劇の脚本にするには、ありきたりかな。
 真沙美さんは覚悟を定めた視線を向けて、

「発覚したら止める様な覚悟で、柚明と付き合っている訳じゃない。賢也がそれを許せな
く想うなら、仕方ない。良いきっかけかもね。私は好い加減、爺さんが誇りに想い、父さ
んも従わされて尊ぶ鴨川の家風に耐え難いんだ。『平等の旗手』『羽様の解放者』という
…」

 優等生と言うより想った事を口にする真沙美さんだけど、そう言えば彼女は今迄家の話
は殆どしてない。それは恵まれて満足できた家庭の故か、軽々に語れない程の鬱積の故か。

 わたしや和泉さんの前だと承知で、むしろ聞かせたいという感じで、真沙美さんは胸の
内を語り始める。それは順序立てて話を繋がないとわたし達には全景が見えてこないけど、

「私は柚明と離れる積りはない。それで父さんや爺さんが私から離れるならそれで良い」

 私は人の言動は縛らない。事実その侭を言いたければ言うと良い。私は踏み出したこの
途を曲げる積りはない。隠せないなら隠さないだけだ。後は賢也の心の風向きに任せるよ。

 両親に正面から反する様な真沙美さんの応えに、賢也君が青くなる。語調は平静だけど
強く確かで、逆に胸に溜めた想いの強さが窺えて。わたしと時を刻む事を止めはしないと。
まるで彼女、駆け落ちを考えているみたいな。真沙美さんは行動的な名家の子女で、駆け
落ちという情熱的な言葉が似合ってはいたけど。

「鴨ちゃん……」「真沙美さん?」

 事情を理解する為には先を聞かなければならないわたし達の、問いかけへの答より早く、

「お、俺は別に、真沙美ちゃんが羽藤と付き合っているとか密告する気なんて、ないよ」

 そんな、真沙美ちゃんを困らせる様な事を。

 応えつつ視線が泳ぐのは、そうしようとの気持も半分あった事を伺わせる。賢也君は真
沙美さんを大切に想う故に、彼が見て間違った方に、不幸に進む方向に、真沙美さんが踏
み出すと見えたなら、手段を選ばず引き戻す。わたしを真沙美さんの前に立ち塞がる障害
物と誤認して、手段を選ばず排除を試みた様に。

 わたしと彼女を引き離すのが正道と想えば、彼はそう動く。家の方針に逆らって羽藤と
関りを深める真沙美さんを、不幸に陥る途と思えば、彼は彼女の両親への直言も密告も躊
躇わない。真沙美さんを心から大切に想うから。今の彼にはそうする事に惑いがある様だ
けど。

「……幾ら仲良くたって所詮は女同士だし」

 間違いは起こる筈ないと分っているから。

 何気ないその一言に、瞬間真沙美さんの美貌が更に険を増した。その変化に気付かず彼
は、己の来訪目的に話を移す。真沙美さんはすぐ、少し不機嫌そうな元の姿勢に戻るけど。

 賢也君も真沙美さんとわたしの仲は前提か。両親との衝突は拙いから表にすべきではな
いけど、この交流を公に晒し彼女を困らせる積りはない、今宵の事には口を噤むと賢也君
も、

「羽藤と親友になったって、羽藤と親友の金田と親友になったって、俺は別に。その…」

 俺、今日は謝りたくて、ここに来たんだ。
 賢也君は訥々とその心情を、語り始めた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「今日は謝りに来たんだ。金田にも。羽藤はここにいると知らなかったから、来週羽様を
訪ねようと想っていた。今回は俺が完全に誤解して、みんなに負担と迷惑をかけたから」

 真沙美さんの視線が再度厳しさを増すのは、半月前の一件を想い返した為か。彼の画策
で始った一件が彼の手に余る程に膨れあがって、彼の陥った危地は真沙美さんにもわたし
にも救えず、真弓さんの助けで漸く事は収束した。

 真沙美さんはこの機に大人に全てを話す様に促し、賢也君は全部明かして処罰を受けた。
学業や信望で真沙美さんと競り合って見えたわたしを許せず、根も葉もないカンニングの
噂を流した事。わたしに関る人に圧を掛けて引き離す様に、一部の女子を影から煽った事。
塩原先輩達をお金で動かし、わたしや和泉さんを締め上ようとした末に、依頼した弱味を
握られて、脅され身動き取れなくされた事…。

 賢也君は最後に先輩達に囚われ被害者となった為、原因だけど主犯ではないと見なされ、
停学2週間で済んだ。主犯とされた塩原先輩が停学4週間の他は多くの人が停学2週間だ。
和泉さんや真沙美さんに咎めがないのは勿論、喧嘩両成敗を覚悟していたわたしの反撃も
正当防衛が完全に認められ、お咎めなしだった。

 先生も警察も含め大人はわたしの外見から、実力行使で抗っても微弱と見た様で。わた
しの反撃に先輩達の証言が少なかったのは、2歳年下の女の子に多数で手こずったと認め
るのを嫌った為か。わたしもそこは積極的に証言しなかった。言えば男の子のメンツを潰
す。女の子が戦いに強いなんてみんなに知れても嬉しくないし。なのでわたしが先輩達に
実力行使で抗った事実は噂にもならず、関係者でもごく少数が知るに留まり。根強く囁か
れたのはわたし達が性的暴行されたとの噂の方だ。

 和泉さんのご両親は告訴も考えた様だけど、田舎で法的に争う負担は大きく、それ程の
大事があったのかと逆に波紋も生じさせる。再発防止を徹底すれば、致命的な損失は防げ
たからと、より被害の大きかった羽藤に最終判断を委ねると、この収拾にも納得してくれ
た。

 和泉さんのご両親が、わたしの両手を取って有り難うと、頭を下げてくれた時は、嬉し
さや恥ずかしさより申し訳なさが先に立った。結局わたしは力不足で、和泉さんを確かに
守り切れたとは言えなかったのに。

 和泉さんはご両親に、わたしが護身の術で抗って塩原先輩達から彼女を戦い守った事を、
明かした様だ。どうしても伝えたかったのと、後で謝られた。謝る必要はないのに。護身
の術の公表に消極的なのはわたしの好みだから。

 真沙美さんは被害者だけど、加害者の面を持つ賢也君と鴨川で繋る為に、彼の失態を伏
せたい両家の意向が強く働いた様で。事の収束と沈静化に、尽力してくれた。本家と分家
の絆は親の世代も濃いらしい。危うい処だったけど、幸い真沙美さんは傷一つなかったし。
そうでなければ先輩達は全員親子共々経観塚に住めなくなっていた処だとか。本当かな?

 塩原先輩のお母さん達は穏便な収拾を願い、平謝りを繰り返していた。子供の悪戯で収
まる中身ではなかった上に、地域の名家である鴨川に害を為した事は大人を震撼させた様
で。

 羽藤家も話が大きくなる事は避けたかった。子細を問われれば、和泉さんの瞳の傷やそ
れを治した贄の血の癒しに話が及ぶ怖れもある。わたしの反撃や真弓さんが廃寺で先輩達
を打ち倒した事が、傷害に問われる怖れもあった。例え状況が状況でも、現代日本で暴力
に実力で抗うのは法的にややこしい議論を招く様で。

 話を大きくしたい人はいなかった。収束の条件は整っていた。心ない噂は飛び交うけど、
最善は七拾五日待つ事か。数週間の停学と暫く大人が良く見守る事で、一連の話は決着し。

 賢也君は騒動の原因で、真沙美さんの従兄で身内だ。被害者を前には厳しい顔を見せざ
るを得ないのか。本当の真沙美さんは賢也君の危険を察し、塩原先輩達の元へ彼の解放を
求めに1人で赴く、勇気と優しさに満ちた女の子だ。その厳しさは、彼を大切に想う故の。

 だから真沙美さんは言葉を挟まず賢也君の語りを黙して促し、わたし達も聞き役に徹し。

「あれだけ事を煽って禍を引き起こした末に、俺と俺を助けに来て危うくなった真沙美ち
ゃんを救いに来てくれた。守って貰った。あの末に尚真沙美ちゃんと強く絆を繋げてくれ
た。その為に痛みも辱めも敢て受けてくれた…」

 俺が一番情けない存在だった。
 苦味を込めて彼は言葉を紡ぎ、

「俺、完全に間違っていた。羽藤は真沙美ちゃんの障害物で、へし折らなきゃならない競
争相手だと想っていた。汚い事を平気でやって真沙美ちゃんを脅かす魔女だと想っていた。
カンニングの証拠はなかったけど、俺、絶対やっているに違いないと心底想っていたんだ。
そうでもしないと真沙美ちゃんを上回る筈がないと。全部俺の誤解だった。間違いだった。
実際の羽藤は賢く優しく、真沙美ちゃんと心底仲良い友達だった。それを分らず俺は…」

 何一つ隠さずやった事は全て自供したけど。
 親や先生の前ではやった事に謝罪したけど。

 俺の想いは伝えてなかったから。この一件を経た上で、今迄を振り返っての俺の想いを。

「誤解してごめん。耳を塞ぎ続けてこの事件を招いてごめん。全部俺が悪かった。想い返
せば羽藤は何度も俺に話を求めて来た。俺は敵と話す事なんてないと想って、拒んだけど。
 せめてあの昼休みに逃げ出さず、羽藤に逢って話をしていれば、塩原先輩を頼っちゃ拙
いと言う真沙美ちゃんの忠告を容れておけば、廃寺に連れ込まれる事もなく、羽藤だっ
て」

 女の子には、結構酷い事だもんな。あれ。

 それは身を拘束されて拳を入れられた事か、スカートを切り剥がされ下半身を下着姿に
されて、それを真沙美さんや賢也君達に晒された事か、髪を掴まれディープキスされた事
か。

 たいせつな人を守る為に必要な所作だったから。わたしはそれを選んで自ら受け容れた。
少しきつい事ではあったけど終ってしまえば。取り戻せない喪失ではない。例え取り戻せ
ない喪失でも、たいせつな人の為ならわたしは。当事者のわたしより、真沙美さんや和泉
さんの視線がきつく見えるのは、気の所為かな?

「俺の情けなさが招いた事だから、どうしても謝っておきたいと想って。真沙美ちゃんも
危うくさせた。金田はその前日に酷い目に」

 彼が椅子から立ってその場に土下座して、

「許してと言うより、俺は真沙美ちゃんと血が繋る鴨川だから。俺を嫌う余り真沙美ちゃ
ん迄嫌わないで。真沙美ちゃんは賢く綺麗な、俺の大切な人だから。つい余計なお節介し
て。今回はそれがみんなに迄迷惑になってごめん。俺を愚か者と嫌ってくれても構わない
けど」

 真沙美ちゃんとの仲は切らないで欲しい。
 家同士がどうでも、大人同士がどうでも。

 真沙美ちゃんと羽藤や金田の絆が深かったから。それを失う事が真沙美ちゃんにも良く
ないって、分るから。全部悪いのは俺だから。

「真沙美ちゃんにも負担と迷惑かけてごめん。野村や桜井にもきちんと謝っておくよ。も
う俺は真沙美ちゃん達の関係を邪魔しないから。だからまた学校で、口を利いてくれるか
な」

 最後の願いが賢也君らしい。彼は本当に…。
 あんたねぇ。真沙美さんはやや呆れた声で、

「答は和泉と柚明がお先にどうぞ。私の危害は賢也の為に自ら選んだ物だけど、あんた達
は賢也の所為で選ぶ余地なく来た禍だった」

 話を振られて、わたしと和泉さんは正面から視線を合わせる。和泉さんが微かに頷いて、

「あたしは、ゆめいさんが許すのなら、許して良いよ。あたしが受けた痛手はスカート脱
がされた位だし、ゆめいさんに助けて貰えたから。身体も心も、救い出して貰えたから」

『わたしの愛があなたを支え守る。何も怖れる事はない。わたしの腕に身も心も委ねて』

『和泉さん。わたしがあなたを、守るから』

 和泉さんはわたしが盗んだ台詞を暗唱し、

「今こうして深く繋る事が出来たのも、あの時襲われて、ゆめいさんに守って貰えたお陰。
あの想いは繰り返したくないけど、満たされたから。先輩達が出てくる来週以降は少し怖
いけど、ゆめいさんも鴨ちゃんも一緒だし」

 和泉さんはわたしが賢也君を許して迎え入れる意図を承知でいる。賢也君よりまずわた
しを向いて微笑んで、次に賢也君に瞳を向け、

「今度は賢也君があたし達を守ってくれるんだよね。あたし達が誰かに襲われた時には」

「えっお、俺が、金田や。羽藤を守る…?」

『羽藤は俺が守る必要なんてないだろう…』

 戸惑いが顔色に出る賢也君に和泉さんは、

「まさか、未だゆめいさんに守りを任せる積りじゃないでしょうね? 男の子なんだから、
ゆめいさんも含めてあたし達を守ってくれる位しても、未だ当然のお話なのよ。あたしは、
ゆめいさんに守って貰えるのは嬉しいけど」

 抱き留めて貰えるのは心地良かったけど。

 ゆめいさんが危険に立ち向かう様を思い浮べるだけで胸が潰れそう。見ていられないよ。
こんな華奢な身体で細い腕で、1人で塩原先輩達拾何人に立ち向ったんだよ。これからは、

「痛い想いも怖い想いも、賢也君が被って」

 それと引換にあたしは賢也君を許します。

 了解を求めるのではなく承認してあげる感じで言い切って、和泉さんは喋る順番をわた
しに譲る。黒目が賢也君の困惑を愉しむ様だ。戸惑いつつ受け容れさせられた顔でいる彼
に、

「鴨川賢也は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 わたしは土下座した侭の賢也君の前に屈み込んで、視線を同じ高さにしてから正視して、

「あなたは、真沙美さんに大切に想われた人。危険を冒して助けたいと想わせた人。わた
しはその真沙美さんの想いを守りたい。賢也君は今夜わたしとお話ししてくれた。心を繋
いでくれた。だからわたしにもたいせつな人」

 正視して向けて来る視線を受けて、床に付いた両手を両手で握って胸の前に持ち上げて、

「許すも許さないもない。許して欲しいなら幾らでも許す、何度でも許す。あなたはわた
しのたいせつな人。困った事や悩みがあれば相談して。力になれる限り、力になるから」

 たいせつな人に身を尽くしたいのは当然よ。大切な人が失敗して害が及ぶなら、わたし
は望んで受け止めたい。迷惑も負担も何もない。あなたの痛みを軽減し回避する為なら、
わたしは出来る限りの事をする。わたしは非力で鈍くて愚か者で、及ぶ範囲に限りがある
けど。

「大切なお友達として宜しくお願いします」

「……羽藤が自分を愚か者言ったら、羽藤を分らなかった俺は、一体何になるんだよ…」

 真沙美さんが厳しい語調で賢也君に許しを出して、みんなが和やかさを取り戻せたのは、
スープもオムライスも冷め終えた頃合だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「片付けもしないで悪いけど、俺、帰るわ」

 彼は経観塚行きの最終バスに乗る積りか。

「大人の居ない一つ屋根の下で、年頃の男女が一夜を過ごすのも良い事とは言えないし」

 誰もここに今4人がいるとは知らないけど。
 女の子同士の語らいに入るのも邪魔者だし。

 家に何も言ってないんだ。俺がここに来た事自体、なかった事にした方が良さそうだし。

 賢也君も和泉さんの家でわたしと会った痕跡を出来るだけ消して置きたい様だ。それは、

「うちの両親は余り拘りもないみたいだけど、真沙美ちゃんの父さんと、爺ちゃんがね
…」

 手繰られて真沙美さんに及ばない様にと。

「悪いわね。折角遠くから来てくれたのに」
「良いんだよ。元々俺が原因だったんだし」

 想いを告げて告げられて心の荷が下りた。
 賢也君は漸く彼本来の快活な笑みを浮べ、

「俺達が大人になったら、羽藤だの鴨川だの家の縛りに関係ない大人付き合いをしよう」

 その願いにはみんなも確かに応えて頷いて。

 お互いに確かに変らない想いを胸に抱けば、今は簡単に行かなくても、未来は変えられ
る。

 賢也君を見送ってから、もう一度3人で厨房に入ってお皿洗いをし、その後和泉さんが
冷蔵庫から出したのがショートケーキ3つで。

「賢也君が居る間は出しづらくて」「分る」

 真沙美さんは賢也君が甘党だと明かして、

「分けてとは言わないだろうけど、物欲しげな視線で、食べる私達を見守っただろうね」

「可哀相だよ。その時は分けてあげなきゃ」
「あんたは甘すぎるんだ。飛び入り参加でデザートに迄預かろうなんて、虫が良すぎる」

「いとこは心からたいせつにするものよ?」
「ゆめいさんの家のいとこなら分けたけど」

 可愛い年頃だしねぇ。和泉さんの言葉に、

「白花ちゃんと桂ちゃんになら、迷わずわたしの何もかもを全部あげる。真沙美さん?」

 拾歳離れたいとこと同じ年のいとこでは抱く感覚が違うらしい。同居と別居の違いかも。

「付いて行けないよ。このケーキより甘々」

 甘党と辛党の違いなのかも知れない。真沙美さんはケーキを食べ終えると、お茶を淹れ
て乾物の袋を広げていた。彼女がショートケーキを食する動機は、イチゴにあるそうです。

「そうかも知れない。でも、白花ちゃんと桂ちゃんに嫌われるのは、何よりも嫌だから」

「誰も好き好んで嫌われたくはなかろうに」

 取り留めもない会話を、暫く続けた後で、

「羽藤と鴨川の関係ってどういう物なの?」

 和泉さんはケーキを食べ終え、乾物を前にすると食べるより喋るに口が動き始めた様だ。

「あたしの父さんは、会社を脱サラして、ここの前の持ち主が離農した跡に入って農業始
めた組で、先祖伝来のお話って分らないのよ。羽藤と鴨川って何か決まり文句みたいに話
されていたけど、そもそもどんな因縁なの?」

 話の分る人に一度聞いてみたかったのよね。
 わたしと真沙美さんが視線を合わせるのに、

「あ、言うのが拙い様な事だったら、言わなくても良いんだよ。先祖代々仇同士とか…」

「まあ、話半分、間違っちゃいないけどね」

 真沙美さんは苦笑いして、私から話そうかと申し出てくれるけど、それはむしろわたし
が話すべき内容だ。2つの家の関りは、羽藤が鴨川を羽様に招いた事から始ったのだから。

「二百五十年、だったっけ。鴨川と羽藤の」
「宝暦年間だったわね。羽藤の記録では…」

 思い浮べるのは3年程前、真弓さんが白花ちゃんと桂ちゃんを産んだ直後。羽藤家の新
人だったわたしも共に、サクヤさんと笑子おばあさんと正樹さんから、今後ここで暮らす
には知るべき事だと、羽藤の家の間近にあって遠い家、鴨川家との長い関りを教えられた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 羽藤家は戦後の農地改革迄羽様の大地主で、明治維新迄付近数か村を束ねる総庄屋だっ
た。各集落の庄屋の上にあって、地域や年ごとに変る収量を見て地代や年貢・小作人の生
活の糧の調整、水争い等の裁定やお上が課す賦役の分担も差配する地域の有力者だったら
しい。

 総庄屋の元に各集落の庄屋がある。羽様には羽様地方の集落の庄屋もあった。総庄屋の
職務に忙しい羽藤を支え助ける為に、羽様地方の庄屋と言うより羽藤の執事という感じで。
他の集落の庄屋が、徳川将軍の元で各地を治める伊達氏や島津氏の様な大名なら、羽様の
庄屋は将軍家を支える旗本や老中か。近在で支え合う関係故に、関りも濃く深くなる訳で。

 宝暦年間に疫病で羽様地方の庄屋が絶えて、経観塚の庄屋だった鴨川氏が招かれたらし
い。鴨川氏はその折に当主が羽様に移り住み、弟を分家させて経観塚の庄屋として残した
とか。

「あたしはその頃の事は知らないんだけど」

 因みに、経観塚の鴨川の先代に男児がなかった為、真沙美さんのお父さんの弟が婿養子
に入る形で、現在の賢也君の家があるという。

「明治の地租改正で、羽藤の所有地は羽様地方に限られてね。以降羽藤と鴨川は総庄屋と
庄屋ではなく、地主と執事の関係になって」

 正樹さんのお話にも歴史用語が散りばめられる。羽藤の家は本当に古い歴史を持つ様だ。
経観塚の郷土資料館に出てくる竹林の長者の末裔との伝説も、真相に近いのかも知れない。

 明治以降も主従の絆は変らなかった。その是非は今更問うても仕方がない。昔は平等と
いう発想はなく、主従の絆が当然だったのだ。羽藤と鴨川は密な関係を保って明治を過ご
し、昭和に入り農地改革を迎える。地主の土地を小作人に払い下げろと、占領軍の指示が
来て。

「そこで鴨川は羽藤を裏切ったのさ。鴨川は、羽藤の土地の小作人への売り渡しを仲介し
て、解放者と言う信望を得て、羽藤に代る経観塚の名家に成り上がったんだ。二百年仕え
た羽藤を裏切って、そのピンチを踏み台にして」

 サクヤさんはまるで戦後のその場にいた様に、リアルタイムで見た様に、憤りを隠さず、

「戦後間もなく結成された農協の歴代組合長を見てみな。全部鴨川の本家か分家だ。役場
も議会も商店街も、鴨川の意向に尻尾振って。
 羽藤に幾らかの銭を渡し、自分の懐は痛まず、長らく執事をやって得たノウハウと人脈
を生かして小作人に羽藤の土地を切り売りし。解放者の家系だの平等の旗手だのと、時流
に乗って名誉と利得と信望を得たけど、それは全部羽藤から掠め取った様な物じゃない
か」

 羽藤に残ったのは幾許かの山林と、屋敷周辺と、若干の銭だけ。流石に良心が痛んだの
かね。羽藤のお陰で村の有力者になれた先々代は、笑子さんに頭を下げていたね。茶道や
書道や華道や手芸の仕事を回したり。オハシラ様の祭りに寄付も出してきたけど。羽藤が
没落したお陰で鴨川が名家になれた様な物さ。

「あれはあれで良かったの。どの途手放さなければならない土地だったし、戦後の混乱期
に羽藤にはそれに対応できる人がいなかった。偶々鴨川がいてくれたから、円滑に土地の
分配が行われた。値段を安くされたのは占領軍の方針だから。鴨川の所為じゃない。先々
代は正直に、売却した代金を渡してくれました。鴨川はほぼ公正に土地を小作人に分け与
えた。その公正さが鴨川の信望を呼んだなら、それは羽藤から盗んだ物ではなく、鴨川の
功よ」

 笑子おばあさんが笑みを浮べて語るのに、

「はぁ、どこ迄羽藤の血は甘々なのかねぇ」

 飲み干しても喉に引っ掛る位、甘々だよ。

「先々代は良いとして、先代はどうだい? 俺は先々代と違う、みんな平等な現代日本で、
羽藤に気を遣う必要もないと関りを絶ってきて。オハシラ様の祭りへの寄付も止め、役場
や商店街からの支援も止めさせ。経観塚で夜店が賑わい商店が潤うのは、一体何の祭りで
誰の為の祭りか、何人が分っている物やら」

 鴨川は羽藤を何度も裏切った。羽藤の血を啜って名家になり仰せた。その上で柚明の…。

 サクヤさんが急に言い淀むのに正樹さんが、

「鴨川の先代は、個人の平等を心から信じていましたから。過去の因習や身分等に、いつ
迄も縛られていてはいけないと。自立した個人で付き合おうと。根は良い人なんですよ」

 正樹さんは、そんな事を言っていたけど、

「ふん。地主から土地を取りあげ分け与えた解放者・平等の旗手、だった先々代の子だか
らと農協の役員や村議になれて。間近な因習や身分の遺産にどっぷり浸かって。あたしは
平等とか正義とか自由とかを、声高らかに叫ぶ連中は、胡散臭くて好きになれないね…」

 荒っぽくなる声に真弓さんが苦笑を見せる。

「実際にはね、鴨川も羽藤を援助し続ける余力がなくなり始めていたの。羽藤も鴨川も収
入の源は結局土地なのだもの。それを手放した以上、羽藤の物でも鴨川の物でもなくなっ
た以上、いつ迄も潤沢な資金が出る訳がない。
 鴨川が得た声望も結局精神的な物で、それで確かな利得を得た訳でもないから。土地も
お金も権利も得た訳じゃない。仲介しただけ。鴨川自身が、みんな平等の世の中で、過去
の解放者の功績を口にしても、通じなくなって来ていたの。その辺も理解してあげない
と」

 真沙美さんのお爺さんから、両家は断交した侭だ。わたしは真沙美さんの家に遊びに行
けないし、真沙美さんも羽様のお屋敷に来られない。田舎は隣が数キロ先で気易く行き交
いできないけど、それ以上に互いの心が遠い。商店街を真沙美さんと歩くと感じる視線は
その故か。女子同士の関りにしても、触れ合いや距離感が近しすぎる為ではないと想いま
す。

「今回の一件を契機に、仲良くなれるかも知れないと、打診してはみたんですけどね…」

 禍を福に変えようと言う正樹さんの発想は、笑子おばあさん譲りの物か。ならそれはわ
たしも受け継いで行ける筈だ。わたしもわたしの出来る範囲で、禍の芽を福に変えて行こ
う。

 賢也君のご両親の方が、答が前向きらしい。今迄経観塚と羽様で付き合いがなかったけ
ど、同じ学年の子供を持ち、迷惑をかけて関りを持った以上、これから宜しくお願いしま
すと。

 真沙美さんのお父さんは事件には迅速で誠意ある応対をしたけど、その先の関りには慎
重らしい。先代が、真沙美さんのお爺さんが健在で、当代の一存で方針変更は難しい様だ。

「本家は今迄の経緯があるから、引っ込みが付かないのかも知れない。子供同士の付き合
い位なら黙認する様に話してみると迄、経観塚の分家の方は言ってくれたんだけどね…」

 即改善はされない様です。少し残念。真沙美さんにわたしの大切な人を見て欲しいのに。
わたしも真沙美さんの大切な人を見せて欲しいのに。唯好きだから仲良くとは行かないの
かな。でも希望がない訳でもなさそうだから。今少しは真沙美さんと、ロミオとジュリエ
ットを。お互いに、変らない想いを胸に抱いて。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ふうぅん、そういう事情だったんだぁ…」

「ま、そう言う訳で鴨川は、羽藤を常に意識せざるを得ない後ろ暗さを負った訳なのさ」

 爺さんが声高に平等を尊び鴨川の戦後を誇る心底には、羽藤を裏切った事への罪悪感が
あるのかも。それが正義だと、間違いないと毎回繰り返さければ心平静でいられないのは。
伝統や古さを口にしても羽藤には敵わないし。豊臣秀頼を見る徳川家康の心境に近いのか
ね。

「何か、可哀相……」「あんたが言うなよ」

 鴨川は羽藤が忘れようにも忘れられない怨念を抱くに違いないと、常々怯えているのに。

「この経緯を受け容れて心穏やかと知ったら、爺さんや父さんがいよいよ寝付けない。ま
あ、あれだけの事をした賢也と尚絆を繋げる柚明の家だ。今の私にはあり得る事と分るけ
ど」

 真沙美さんの認識は、わたしのそれとほぼ同じだった。鴨川サイドの主張や異伝も別に
あるのかと想っていたけど、表現の仕方が違うだけで、伝え来た経緯にズレはないらしい。
鴨川はそれを輝かしい功績として記している。みんなに喜ばれたならそれは良い事なのか
も。サクヤさんの憤りは、笑子おばあさんや正樹さんを想ってくれる故で、とても嬉しい
けど。

 小学3年迄町のアパート暮らしで庶民感覚が染みついた為か、わたしはお姫様やお嬢様
の立場を取り戻したく想わない。聞かされても実感がない。羽藤のお屋敷は昔話に出る長
者の館だけど。真沙美さんと主従の間柄とか、和泉さん達近在の人が羽藤の家を畏敬し崇
め奉るとか、逆にわたしが馴染めない。近所の年長者には、その残滓を感じる事もあるけ
ど。

「格式も伝統も確実に上な筈の羽藤の柚明が庶民に馴染み、絶対それに及ぶ筈のない鴨川
の真沙美がお嬢様扱いされて通る皮肉さ…」

 真沙美さんは肩を竦めて、溜息をついて、

「和泉、鴨川の家風に大きな矛盾があるって、あんたも察しているだろう? 経観塚や羽
様の者は馴らされて気付いてないけど。解放者だの平等の旗手だの言いつつ、鴨川は過去
の功績、名家の身分に縋り付いている。平等を導いた鴨川だからと他家に不平等を強い
て」

 母さんが病で死んでから、男子の跡取りを残せと爺さんは父さんに再婚を強いた。今の
養母(はは)も嫁してから弟の真人を産む迄、未だか未だかと責められた。母さんがされ
たのと同じ様に。幼心に呆れたよ。私は跡取りには興味ないけど、他人に男女平等も語る
爺さんが、自分の家の跡継ぎは男子と拘る様に。

「女は子を産む道具じゃない、家を繋ぐ部品じゃないと、偉そうに語っておいて。それに
最後は従わされる父さんも情けなく、正面から憤りを返せない自身も悔しくて。私が賢也
を見て苛立つのは、根っこにある心の弱さが、父さんや私に似ている所為かも知れない
ね」

 真沙美さんが強気を常に保つのは、家にも誰にも縛られず生きたく想う故か。鴨川の家
から離れる未来も視野に入れ、自由を侵されぬ強さを持ちたいと。己の心に反する事を嫌
い、時に周囲から浮く寸前迄強く自己を主張する底には、鴨川の家風と日常への反発が?

「柚明の家が心から羨ましい」「わたし?」

 同じ伝統や格式を持つ筈の、旧家なのに。

「あんたの話を聞いていると本当に愉しそう。互いを想う家族の絆が強く確かで、羨まし
い。家を保つ家族じゃなく、家族を守る家だもの。
 裏切られても土地を手放しても名家の声望が薄れても、それで心折られない。あんたが
塩原先輩に酷い事されても、心折られなかった様に。乱されても荒らされても、自身を取
り戻せる。憎しみにも恨みにも銭にも周囲の噂にも、己を失わされない。羽藤も柚明も」

 儚くか弱く見えるのに、常日頃拾弱なのにその芯の強さ。自分がどれ程辛く厳しくても、
まず人を守ろうと魂が望む。大切な人を守るにはどんな困難にも怯まない。自身を抛って
も助け出す。己を脅かした者迄も救い。私は、

「あんたに惚れた。惚れさせられた。和泉もそうらしいけど。本当に男女も平等なら、女
が女に惚れたって良いだろう? 実は私は人間の平等なんて、信じていない口だけど…」

 私のあんたを想う気持は本物だよ、柚明。
 真沙美さんは、わたしの瞳を打ち抜いて、

「他に一番の人がいても良い。想いを返せと強いる気もない。唯この想いを伝えたい。和
泉がそうだった様に。あんたの想いに報いたい私にはこれしか思い付かない。愛させて」

 身も心も委ねられる、優しく強い惚れた人。
 身も心も委ねて欲しい、私の一番愛する人。
 大切な和泉との絆をも、繋ぎ止めてくれた。
 禍の原因だった賢也も、私の心も救い出し。

「羽藤柚明はこの世で一番、金田和泉はこの世で二番目に、鴨川真沙美のたいせつな人」

 わたしが答を返そうと口を開くより早く、

「二番目の人の前で言っちゃうんだ、それ」

 答を返す和泉さんの、怒ったポーズに頬を可愛く膨らます心中を、真沙美さんも承知で、

「和泉にこそ、聞いて欲しかった。鴨川の因縁も、柚明への想いも、あんたへの想いも」

 柚明の答は半月前に貰ったから。和泉もその目の前で、見て聞いて知った通りだからさ。

 あの日の翌朝授業前、四拾人程の級友が見守る前で真沙美さんは、わたしを細い両腕で
肉が食い込み合う程に強く抱き締めてくれて。柔らかで温かで滑らかな人肌が心地良かっ
た。

『羽藤柚明は、鴨川真沙美のたいせつな人。
 私が惚れた強く賢く、綺麗で心優しい人。
 今迄の事は問わない。今後柚明に失礼や非礼をする人は私が許さない。そう承知して』

 賢也君の煽動で、美子さんや弘子さん達がわたしを真沙美さんと対立する者と誤解して、
真沙美さんを想う故にわたしを敵視し嫌がらせをしていた。その誤解を一掃する荒療治を
兼ねて。敢てわたしへの想いを衆目に晒して、誤解を恐れず言い切る彼女にわたしも答え
て、

『鴨川真沙美は、羽藤柚明のたいせつな人』

 強くて綺麗で賢くて、心優しい愛する人。

『唯一のとは言えないし、一番とも二番とも、言う事できないわたしだけど。有り難く嬉
しいその想いに、等しい想いを返せないのが心底申し訳ないけど……。叶う限りの想いを
返します。ふしだらなわたしでごめんなさい』

 わたしの答は申し訳なさが先行していた。

 わたしは真沙美さんも和泉さんも、一番にも二番にも出来ない。一番と想いを寄せられ
ても等しい想いを返せない。サクヤさんの苦味が想い返された。一番ですと想いを寄せた
幼い日、それを心から嬉しく想ってくれつつ尚、サクヤさんも変らない想いを抱くたいせ
つな人がいて、わたしを一番に出来ないのだと、苦味を込めて語るあの様が。これも因果
応報なのか。それでも承知で寄せてくれる確かな想いに、わたしもサクヤさんがそうして
くれた様に、出来る限りの想いを伝えて返し。

『真沙美さんの想いを送るのにわたしが相応しくないと感じたら、いつでも捨てて良いよ。
一番の想いも返せないわたしに気遣いは要らない。縛る積りは微塵もない。それで尚寄せ
てくれる美しい想いには、叶う限り返させて。
 ふつつか者ですが、宜しくお願いします』

「この上なく確かな柚明らしい答だったよ」

 あの朝の様を思い浮べつつ真沙美さんは、

「だから今ここで柚明の答は求めない。神託と同じで、大切な事は頻繁に訊く物じゃない。
想いを告げるのは己の意思だから別だけど」

 今宵は和泉に聞いて貰う為に招きを受けた。
 伝聞でも雰囲気でもなく直に告げたかった。
 特別に大切でも一番ではなくなった和泉に。
 今の鴨川真沙美の一番は羽藤柚明ですと…。

「田舎の名家は、子供の遊びにも親の気兼ねが絡みついて。本当に我が侭をぶつけ合って、
泣く程争える友達は居なかった。最初は和泉だけだった。喧嘩すればする程、あんたと仲
直りを望んだのは私だった。憶えている?」

 都会の感覚で本当に対等に接してくれたあんたにもあんたの両親にも、感謝しているよ。

 そして柚明が、遠慮なく私の前に立ちはだかって。私に敗北も挫折も教え、心を豊かに
してくれた。全力を尽くして勝った後は勿論、負けた後も爽快で。和泉が好いた気持も分
る。

「分った上で和泉の前で語るのも何だけど」

 苦笑いを浮べる真沙美さんに和泉さんも、

「あたしも同じ想いだからお互い様だよっ」

 2人とも、たいせつな人だけど。ゆめいさんはあたしの一番、鴨ちゃんはあたしの二番。
 綺麗で強くて、賢くて優しく心細やかで。

「鴨ちゃんにもそれは伝えなきゃと想って」

 その為に今日は鴨ちゃんを招いたの。鴨ちゃんが、あたしやゆめいさんに気持を伝える
場を用意しただけじゃない。あたしが伝えたかったから。鴨ちゃんにも、ゆめいさんにも。

「あたしは鴨ちゃんもたいせつに想うから」

 和泉さんと真沙美さんはわたしを前に、温かに言葉を交わし真意を伝え合う。互いに己
に微かな苦味を憶えつつ、でも変らない想いを胸に抱き。譲りはせず、乱れもせず。ぶつ
かり合うにも関らず互いを想う気持も確かで。

 謝罪は口にしない。為した瞬間、同じ想いを抱く相手にも謝れと求める事になる以上に、
謝るべき事ではないと。誰かが誰かを好きになる事は悪ではない。罪でもない。AがBを
大切に想いつつ、Cをもっと大切に想う。世には時にそう言う事もある。そしてこの場に
いる3人は、そんなお互いを受け容れていた。女の子同士という以上に、穏やかに親密な
この三角関係こそ、異色だったのかも知れない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「真沙美さんは、羽藤の血筋の話を……?」

 この2人には、今更隠しても意味は薄い。

 その身に力を及ぼし傷を治した和泉さんと、その完治を見た瞬間理解した真沙美さんに
は、一定の事情は話すべき。わたしが今宵の招きを受けたのは、この身が宿す事情を話す
為だ。真沙美さんも一緒なら更に好都合。羽様の大人にはこの2人限定で既に了承を貰っ
てある。

 わたしの問に真沙美さんは驚く様子もなく、

「贄の血の話かい? 亡くなった母さんから多少聞いたよ。羽藤の他には鴨川だけが知る
秘密だと。爺さんも父さんも信じてないから、口伝は私で途絶えそうだけど。羽藤に仕え
なくなった鴨川に、羽藤の真実を伝え残す必要はないから、もう良いのかも知れないけど
さ。
 羽藤の家系が鬼や妖怪変化に欲される濃く甘い血で、使い方次第では敵を弾いたり傷や
疲れも癒したり出来る、医者泣かせとか…」

 鴨川は羽藤に長く仕えていた。事情が伝わっていて不思議ではない。近代医療のなかっ
た時代、医術に近い事を為して時に人の生命を繋げる羽藤の家は尊崇の対象だったのかも。

 わたしの癒しを実際受けた和泉さんは、それをすっと明かした真沙美さんに驚いた様で、

「わ、そうなんだ。鴨ちゃんその事ずっと」

「私も信じてなかった口だからね。和泉だって疑うだろう? 実際に癒される瞬間迄は」

「まあ、口で言っても中々信じ難いよね…」

 しみじみと語る2人を前に、この特異な力を知って尚怯えも隔ても見せない2人を前に、

「わたしは、血が濃いみたいなの。それは亡くなったお母さんの口癖で、笑子おばあさん
やその古い知り合いのサクヤおばさんも……。わたしがその事を知ったのは、羽様に転居
する直前、お父さんとお母さんを亡くした頃」

 同じ羽藤でもお母さんは薄かったし、正樹叔父さんは殆ど普通の人と変らない様だけど。

【唯、柚明の血は濃いよ。尋常じゃない程】

 鬼と呼ばれる人外の者に、贄の血は普通の血の数十倍、数百倍の甘さで匂う。血に触る
だけで強大な力を与え、身を賦活させる。その効果は、お母さんが鬼に刺し貫かれた時に
見て知った。呑んだ訳ではなく浴びただけなのに、熔け落ちた皮や肉が見る間に戻って力
を復す。警官の銃弾を受けても深く貫けない。

 贄の血は鬼の力の素であり、生命の素でもある。強く欲され求められ、狙われ奪われる。
血筋や生れは取り替えが利かない。その家系に生れれば生涯その定めを伴う他に術はない。
鬼に気付かれ嗅ぎつけられる事を回避せねば。

 そしてその血に宿る力は世に知られぬ様に。奇妙な治癒の力が噂になれば、今の世は鬼
を呼ぶ以上に報道記者等が踏み入ってきて、幼子が育つ日々の平穏や生活を、かき乱され
る。不用意に贄の血や贄の力を晒してはいけない。その噂が鬼の耳に入らないとも限らな
いのだ。

「力を修練すれば血の匂いは隠せるの。なくても青珠のお守りを持てば気付かれなくなる。
わたしも幼い頃、両親に青珠を肌身離さない様言われていたわ。2人がわたしに過保護で、
怪我やお転婆を嫌ったのは、今振り返れば血をまいて、鬼を呼ぶ事を怖れていたのね…」

 あれから4年。お母さんが交通事故に遭い、衝撃と大量出血で意識を失って。生命に別
状なかったのに、安静にすれば治っていたのに。

「わたしは何かお母さんの役に立ちたかった。早く元気になって欲しかった。だから意識
のなかったお母さんの掌に、青珠を握らせて」

 無知な侭、その珠の真の意味を知らない侭。
 わたしが血の匂いを隠す青珠を手放した末。

 わたしの血の匂いに導かれて夜の病院前に。
 少女連続傷害殺人の犯人だった鬼が現れた。
 わたしはその強靱な爪と牙に生命脅かされ。

「お父さんとお母さんはわたしを必死に庇い、わたしを守って立ち塞がって死んでしまっ
た。犯人は警察に追われたけど、いつ襲ってくるか分らない。だからここに転居してきた
の」

 経観塚には鬼の目を攪乱する結界があって、修練がなくても青珠を持たなくても、血の
匂いが鬼に気付かれる怖れはない。サクヤさんがわたしをここに避難させた訳もそこにあ
る。

 お母さんのお腹には妹が、あと数ヶ月で生れ出てくる筈だったのに。全部、なくなった。
暖かな日々が、平穏な幸せが、何もかも全て。

「わたしが、見つかる様な事をしなければ」

 わたしが、禍を招いた。わたしが、家族全員を死に追いやった。親戚みんなの哀しみを
招いた。代えられぬ大切な物を失った。原因はわたしだった。わたしが青珠を手放さなけ
れば、今もみんな健やかに過ごしていたのに。

 咎があったのはわたしなのに、過失があるのはわたしなのに。わたしはお父さんやお母
さんや未だ見ぬ妹の生命と引換に生き残った。幾つも生命を喰い潰して生きる罪深い禍の
子。

「身体は救われたけど、サクヤおばさんや笑子おばあさんに諭され、生きる事は呑み込ん
だけど、この人生は抜け殻だった。転入当初のわたしを、2人も知っているでしょう?」

 わたしは生きる値打も感じ取れずにいた。
 わたしは生きる目的も探し出せずにいた。

「唯いるだけで、唯動くだけで、何を考えて良いのかも分らず、毎日が過ぎゆくだけで」

「白花ちゃんと……、桂ちゃん?」「ええ」

 和泉さんの確認にわたしは正視して頷く。

 2人が生れる迄わたしの闇は拭えなかった。
 あの2人が、わたしの心を甦らせてくれた。
 2人がわたしに生きる意味を与えてくれた。

 わたしは暖かでふよふよした2つの生命を、新しい息吹を前に途方もない嬉しさを感じ
た。

 生命とはこれ程愛らしい物だったのか。
 生命とはここ迄守りたい物だったのか。

 愛らしさは無限大だった。愛しさは無尽蔵だった。この気持は無条件だった。わたしは、
この微笑みを曇らせない。この笑顔を泣かせない。この喜びの為に尽くしたい。この生命
に迫る、この世の全ての危険から守りたい。

 漸く役に立てる。己を尽くせる人に逢えた。
 残された生命を、託された愛を注げる人に。
 身と心を全て差し出し抛って守りたい人に。

 あの2人がわたしを己の闇から救い出してくれた。希望を灯してくれた。2人がいなけ
ればわたしの今も未来も意味を失う。永久に開く筈もなかった扉なの。この喜びも充足も、
痛み哀しむ心も存在出来なかった。生きてなかった。心はずっと死んだ侭だった。だから、

「わたしは桂ちゃんと白花ちゃんの為にある。2人の為にこの身を尽くす。2人の幸せと
守りの為にわたしの生命を注ぐ。羽藤の血の定めは、桂ちゃんと白花ちゃんも縛っている
わ。
 そしてその先達として2人に役立てるのは、わたしだけ。正樹叔父さんは血が薄すぎる
し、真弓叔母さんは外から嫁いできた人で贄の血を持たない。お母さんがいない今、血の
力を扱えるのは笑子おばあさんの他にわたし1人。

 かつてわたしの幸せを奪い去った、取替の利かない生れが、血の縛りが、今はわたしの
幸せを、たいせつな桂ちゃんと白花ちゃんを守る絶対手放せない繋りに。わたしが求め望
む縛りになって。血の定めこそ2人の助けに。
 わたしが血の匂いを隠す修練を受けて、2人にそれを伝え行く。わたしが血の宿命を受
けて、2人に降り掛る禍を防ぐ。この身の全てで2人のいとこを庇い守る。鬼でも人でも、
痛み哀しみを呼ぶ要素は全てわたしが被る」

 羽藤の血筋に宿る定めも想いも、この身で繋ぎ伝え行く。わたしがその役に立てるなら。

「血の匂いを隠す修練って、塩原先輩からあたしを守った時に見せた、格闘術のこと?」

「あれは、真弓叔母さんから習っている護身の術よ。真弓叔母さんは武道の家の出身でね、
真沙美さんも目にした通り、華奢で可憐な容姿の内に、尋常じゃない強さを秘めているの。
 血の匂いを隠せても、それで禍を全て避けられる訳じゃない。不意に出遭う禍はあるわ。
鬼に遭わずともこの世には、犯罪者や凶暴な獣や人為に寄らない災害もある。その時に確
かにこの手で守れる様に。たいせつな人を迫る禍から守れる力が、わたしは欲しかった」

 力だけが全てではないけど、力がないと全てではない。凶暴な鬼の前で無力に泣いたわ
たしにこそ、力の不足は深刻で必須だったの。

 禍からも危害からも、不安からも怖れからも哀しみからも守りたくて。守らせて欲しく
て。わたしは真弓叔母さんの強さを学ぼうと。たいせつな人を守る力を己の中に培いたい
と。

「習い始めて3年経つけど、未だにわたしは未熟で弱くて頼りない。和泉さんを確かに守
る事は叶わなかった。真沙美さんを助け出すに及ばなかった。この身は未だに非力で脆い。
ごめんなさい、わたしがもう少し強ければ」

「あんたは、充分以上に尽くしてくれたよ」

 真沙美さんの答はわたしの瞳を正視して、

「充分な力がないのに私や賢也を助ける為に、あんたは必死だった。一番にも二番にも出
来ない私達を守る為に、身を削った。例えその特異な力で自身の傷を痕もなく消せても
…」

「痛みも怖さも恥じらいも、消せないものね。竦んで動けなかったあたしを、最後迄守り
庇ってくれた。秘密を明かす事を承知で傷を癒してくれた。身も心も、抱き留めてくれ
た」

「……あんたに、頭を下げさせはしないよ」

 真沙美さんはわたしの声を押し止め、和泉さんに視線を送る。和泉さんも確かに頷いて、

「ゆめいさんが願うのは、常に大切な誰かの事ばかり。詩織さんだったりあたしだったり、
鴨ちゃんだったり。その根にあるのも幼い双子の為で。自分の願いだった事がない。だか
ら今回は願われる前にあたしから約束する」

「あんたはこれからも大切な人の為に、時にはその当人に向けてお願いって言うんだろう。
自分の為じゃない事に、何度でも頭を下げて。せめて今回は柚明に願わせない。その前
に」

 2人はわたしの瞳を正視して声を向けて、

「私のたいせつな人の願いは、私の願いだ」
「ゆめいさんの想いは、あたしの想いなの」

「柚明が望む双子の幸せは、私達の望みだ」
「ゆめいさんの日常は、あたし達が守るよ」

 2人はわたしが願う前に答を用意済みで、

「「羽藤の血の宿命は3人だけの内密に」」

 返される想いを期待すべき己ではないと。
 誠を返される程に値のある己ではないと。
 非力で愚かな禍の子だった筈のわたしに。
 ここ迄温かで確かな想いを寄せてくれる。

 わたしの懸念を、わたしの願いを、求める前に察してくれて。一番の想いも返せないわ
たしに。彼女達の為ではなく、わたしのたいせつな白花ちゃんと桂ちゃんの為に、2人共。

「有り難う……真沙美さん、和泉さん……」

 深々と頭を下げる他に、為せる事がない。

 今宵の序盤はわたしの完敗です。人としての器の違いを2人の友に思い知らされました。
でも、こういう敗戦も時には良いかも。両手を握ってくれる2人の手がとても温かかった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「お風呂、入ろうよ?」

 和泉さんの問が含む幾つかの前提を、わたし達は共に素通りする。彼女の家のお風呂は、
3人で入るにはやや狭い。やや狭いと承知で3人は、誰も問い返しもせず一緒に脱衣場へ。

 気分は去年の修学旅行の再来だった。佐々木さんや詩織さんと一緒に、温泉宿の女湯に。
でもあの時から拾三ヶ月しか経ってないのに。

「うわ、鴨ちゃん。おっぱい育っているっ」

 和泉さんの声にわたしも目線を惹き付けられた。元々大人びた印象の真沙美さんだけど、
容貌の美しさに非の打ち所はないけど、体型も素晴らしい。完成は未だだけど、和泉さん
よりわたしより、彼女は一足早く女性へと…。

「ん……ここでは柚明に勝てたかな」

 完敗です。殆どコールド負けです。

「ノックアウトって程じゃないだろ柚明も」

 真沙美さんの視線は、隠す事を諦めて胸から手を解いたわたしを眺めつつ、和泉さんに。
和泉さんは、焦げ茶なショートの髪が活動的な性格に良く映えて、体つきもスレンダーで。

「あたしはノックアウト負けだよ。ゆめいさんにも敗れて。演劇部で男役1番手だから」

 腰に手を当てて大きくない胸を張るのに、

「大丈夫、和泉さんも未だ成長期だから。これから高度成長するかも知れないじゃない」

「それってゆめいさん、自身への慰め…?」
「希望って言って貰えると、有り難いけど」

 そこで真沙美さんが冷やかに突っ込みを、

「中学校入って3ヶ月で雌雄が決する物かい。まだ期末試験って処だろうに。私は受けて
立つから、何度でも挑んで来て構わないよ…」

 風呂場に歩み去る。和泉さんも言葉程気に留めておらず、場が変る事で話題も気分も切
り替えて。風呂椅子に座ると床に届く艶やかな真沙美さんの黒髪の端をわたしは手にとり、

「手入れするの、大変でしょう」「まあね」

 女は髪長が美しいって、爺さんが短く切る事を許さなかったんだ。一々家の愚痴に繋る
から、修学旅行でも話すの避けたんだけどね。

「本当は和泉のショートに少し憧れていた」
「あたし? 鴨ちゃんが、あたしにっ…?」

「さっぱりして可愛くて、羨ましいじゃないかい。夏の暑い日にはこの黒髪が鬱陶しくて。
この歳まで伸ばし続けていると愛着も湧いてきて、今更切る気にもなれないんだけどさ」

「あたしはゆめいさん位迄伸ばそうかなって、何度も考えたんだよ。イメージに合わない
って笑われそうで、想う度に却下していたけど。まさか鴨ちゃんがショート好みだったと
は」

「隣の髪型は常に魅力的に映る物なのかね」

 そこで真沙美さんの視線がわたしを向く。
 わたしは自身の髪の端を右手で軽く抓み、

「この髪型は、お母さんの手で切った物なの。わたしは杏子ちゃん、町に住んでいた頃の
お友達の髪型を真似て、ショートにしたいと想った事もあったけど、お父さんが『お母さ
んの切った髪の柚明が一番可愛いよ』って…」

 お父さんとお母さんが亡くなって、髪型を相談できなくなったからこの侭で行こうって。

「真沙美さんの長い黒髪は艶やかで綺麗で好きよ。手入れが行き届いていて細やかな優し
さも感じ取れるし。真弓叔母さんも長い髪が艶やかだし、桂ちゃんも長い髪が似合いそう。
 わたしは和泉さんは、今の侭が良いと想う。和泉さんのショートも、間近で見ると柔ら
かくてしっとりしていて、とても綺麗だし…」

「唯動き易くてこの髪型にしていたあたしには、そう言う深みのある話のネタがないよ」

 一般庶民の故か、お気楽な金田家の故か。
 髪型よりその事に残念そうな和泉さんに、

「複雑な因縁話のない人生の方が幸せだよ」
「柚明の言う事、結構当たりに近いかもね」

 和泉は万事に軽やかな方が似合っている。

「褒められている様なあやされている様な」
「和泉さん、悩まないで。多分両方だから」

 背中を流し合う段になって、誰が誰の背を流すかジャンケンに委ねたのだけど、みんな
熱くなっちゃって。冷静になれば、3人で背を流し流されだから、誰もが確実に残り2人
と関り合えるのだけど。わたしも声を響かせました。田舎の良い処は、こういう嬌声を上
げても近所が遠くて、誰にも聞かれない事か。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 お風呂から上がったわたしは、和泉さんと一緒に彼女の部屋で寝床を作る。お客様用の
布団を3つは敷けずに2つ連ねて、枕を3つ。真沙美さんは長い黒髪を乾かすのに時間が
掛るから、ドライヤーも最後にと譲ってくれた。

 和泉さんの遠慮を押し切って一緒に布団を運んだけど、枕を置いて寝場所を決める段に
なると、わたしは真ん中と和泉さんにぴしりと指定されて、大人しく布団の上に座り込み。

「お嬢様って言うより、夢見がちな女の子なんだよね、端から見ると。これでいざとなる
と2つ年上の先輩達を投げ飛ばせるんだから。
 腕も太くないし、触っても身体はあたしより柔らかいし。こりゃ見かけに騙されるよ」

 正面間近に座り、わたしの身体を軽く揉み、両手首をその細い両手にとって不思議そう
に、

「毎日修練しているの? 贄の血の力の操りとは別に、その、ゆめい流格闘術の方も…」

「せめて、羽藤流って言うべきじゃない?」
「じゃ、ゆめいさんの家で他に強い人は?」

 半ば答を察した上で彼女は問う。護身術の修練の話でも、わたしが真弓さん以外の名を
あげない事に、和泉さんも勘づいていた様だ。

「わたしに教えてくれる真弓叔母さんだけ」

『サクヤさんは、強そうだけど。浅間流?』

「羽藤家に伝わる武術じゃないんでしょ?」

 そう言われれば確かに羽藤流も不適当か。

 千羽妙見流は口にしない。そこから先はわたしの秘密ではなく、真弓さんの秘密になる。
それにわたしは鬼切りの業を習っている訳ではない。真弓さんの実家が武道の家という迄
は明かしたから、千羽流かなと応えたけど…。

「だって、ゆめいさんとこの叔母さん、剣道の様に棒を使っていたよ。ゆめいさんはその
前日に塩原先輩達と戦った時、カバンも使わなかった。素手だった。刃持ちの遠藤先輩を
前にしても。流派以前に、種目が違う感じ」

 和泉さん、意外と良い処抑えていますね。

 わたしの護身の術は、町中で平時に脅威に遭う事を想定している。買い物や遊びに出た
先で、桂ちゃんや白花ちゃんが犯罪者や鬼に襲われた時、この手に武器があろう筈もなく、
容易に手に入るとも思えない。守りを主眼とし、いつでもどこでも予期せず即応を迫られ
るわたしの術は、無手で為せねば意味が薄い。

 鬼を討ちに武装して出向く千羽妙見流とは、目指す方向が違う。だからわたしが真弓さ
んに学べるのは、格闘の基礎や戦いに臨む気構え等、基本的な事柄だけだ。わたしの力量
では鬼切りの業を修める事が無理である以上に。和泉さんの種目が違うとの指摘は妥当だ
った。

 もう少し修練が進展すれば、わたしは真弓さんに直接学ぶのではなく、己の思索で独自
の技や動きを編み出し、真弓さんに挑んで試すスタイルに移行するだろう。そこ迄行けて
漸く半人前か。まだまだ途は遠く果てしない。

「わたしは未熟だから、武器を使って先輩達に大ケガ負わせない加減も出来ないし。真弓
叔母さん、あれだけ遠慮なく叩き伏せ、先輩達に悲鳴叫ばせ、1人も骨折させてないのよ。
 降り掛る禍だからとどんな相手にも遠慮も加減もなく反撃していたら、大ケガ負わせた
り後遺症残したり、生命を奪ったりしてしまうかも知れない。わたし、それが怖くて…」

 適正な加減で必要最小に反撃し、生命も奪わず、相手に重傷も後遺症もなく戦いを収め
たい。たいせつな人を守る為に戦いは覚悟出来ても、その為に相手の幸せを奪う事が怖い。

「だからあの日和泉さんを守るのに、力で抗うのが遅くなった。話し合いを求める余り反
撃が遅れ、その間に和泉さんが酷い目に…」

 決裂の時期を読み損なった。もっと早く反撃に出ていれば。和泉さんも傷つかなかった。

「その事も、ごめんなさいね。和泉さん…」
「優しすぎる。甘すぎるよ、ゆめいさん!」

 想わず身を近づけてくる和泉さんの怒気は、あの日のわたしの不手際への憤りではなく
て、

「そんな事じゃ、ゆめいさん敵にやられちゃう。必死になって反撃しないと、幾ら強くて
も修練しても、相手を潰す闘志がない人は襲い掛る人に勝てないよ。傷つける事を怖れて
いたら、傷つけに来る人に敵う筈がないよ」

 不意に伸びた腕に強くこの両肩を掴まれた。
 正面間近で必死に言葉を放ち続ける涙目が、

「体格も大きくて腕力もあって人数も多くて、一対一でも身体掴まれたらおしまいの様な
敵を相手に、相手の心配迄していたら、絶対」

 武器使う使わない以前に、手加減なんか!

 遠慮なく全力でやっつけないと。殴って蹴って叩き潰さないと。ゆめいさんがそれをさ
れそうだったのに。その美しい顔が、滑らかな肌が、艶やかな髪が、連中の汗やヨダレに
汚される処だったのに。拾何人の男の腕に掴まれて、服も下着も剥がされる処だったのに。

「それでも良いの? あたし嫌、嫌だよっ」

 肩を揺さぶる目線からわたしは瞳を外す。

 和泉さんの言葉は正論だったから。わたしが常々真弓さんに言われる事でもあったから。

 たいせつな人の守りを望み、戦う強さを求めつつ、力の行使に怯える。矛盾はわたしに
あった。適切に加減できる迄強くなれば解消できると修練に励んできたけど。真弓さんの
言う通り、わたしは戦いに向かないのだろう。

「こうして、のし掛られちゃうんだよっ…」

 詰まった会話を行動で切り開こうと、和泉さんはわたしの上半身を仰向けに押し倒した。

「どうするの? ゆめいさん、奪われるよ」

 この侭ゆめいさん酷い目に遭わされるよ。
 わたしに馬乗りに座ってそう告げるのに、

「この状態なら、ひっくり返せる」「え?」

 わたしは軽く身に力を込めて己の上半身を浮かせ、和泉さんの身体も浮かせ。和泉さん
の上半身を抱き留めつつ、右脇に寝せて押し倒す。実戦ではないので出来るだけ衝撃を与
えぬ様に。ふわっと柔らかな身に覆い被さり、

「ね、出来たでしょ」「うわ、やられた…」

 やられたのに、何故か和泉さん嬉しそう。

「最近寝技も教えて貰っているの。体格に優る人が、子供や女の人をどうかしようと想っ
たら、絡みつくのが安全確実だから、される側こそ要警戒だって。主眼は相手の攻めをど
う凌いで寝技の状態を脱するか、だけどね」

 この態勢は未だ甘く、跳ね返す余地はあったけど。和泉さんはわたしと密に肌が触る事
に嬉しそう。その右足を抜けさせて左の腰に巻き付かせ、左腕で彼女を導きつつ再度ひっ
くり返し、さっきの位置と態勢に2人を戻す。

「でも、こうして返せるのも相手が和泉さんだから。身が軽い女の子だから。例え素人で
も大人の男性、ううん、塩原先輩の様な男の子でも、多分わたしの力と技では返せない」

 わたしは体重も軽いし身体も細いし、幾ら巧く戦えても、一つ拳か蹴りが入れば危うい。
まともに組むだけで身を捉えられる。先輩達は投げても蹴っても、暫く経てば起きてきた。
後遺症を怖れて加減した為もあるけど、男の人は筋肉があって体重があって、打たれ強い。

「……男の子には、敵わないよ」「ダメ!」

 和泉さんは再びわたしの両肩を抑えつけ、

「ダメだよ、そんなの。優しさに秀でて強さが中途半端なんて。敵を傷つける事に怯えて、
手加減してダメージ与えられず、組み付かれ押し倒されたら、ゆめいさんが危ないのに」

 敵はあたしじゃない。塩原先輩も遠藤先輩もあたしより腕力もあって、体重もあってケ
ンカ慣れしているのに。せめてもっと強くあって。誰にも奪われない程強くあって。どん
な卑怯な手もお見通しな位に強く。でないと。

「絶対ゆめいさん奪われるよ。こんなに綺麗で、こんなに華奢で。それなのに誰かを守ろ
うと、身を抛つ事だけは止めないんだもの」

 あたし、ゆめいさんに守って貰えるの嬉しいけど。抱き留めて貰えて心地良かったけど。
ゆめいさんが危険に立ち向かう様を思い浮べるだけで、胸が潰れそう。見ていられないよ。

「あたし、鴨ちゃんを助けてとゆめいさんにお願いした後で後悔した。鴨ちゃんは大切だ
ったけど、何とかして助けかったけど、ゆめいさんにそれをお願いする事が、ゆめいさん
がそれを承ける事が、一体どういう事か…」

 ゆめいさんの守りは自身を抛つ事だった。
 身体を挟めて大切な誰かを庇う事だった。
 守りたい人の苦痛を代りに負う事だった。

 塩原先輩にその唇を奪われたと聞いた時。
 それはあたしが、失わせた物なんだって。

「あたしは考えなしに、ゆめいさんに危険を頼んでいた。自分が絶対出来ない事を愛した
人に。あたし、なんて酷い事を」「違うよ」

 美しい瞳が、自責に陰るのを止めたくて。
 愛した唇から迸る想いを、わたしは塞ぎ、

「それは和泉さんの所為じゃない。わたしが真沙美さんを助けたいと望んだから。和泉さ
んの願いがなくても、わたしはそうしていた。和泉さんが止めても、わたしは必ずあの様
に。和泉さんが悔いる事は何もない。わたしにも、後悔はないから。少し痛い目は見たけ
ど…」

 柔らかに笑えるのは守り通せた成果の故か。
 何より和泉さんの悔いを拭う自然な笑みを。

「この身が代りに受ける事で、たいせつな人の痛み苦しみを避けられるなら、受け容れる。
あの程度で終る物も、もっと深く痛い物でも。それが取り返しの効かない物であっても
…」

 わたしが助けたく想うから身を挟む。
 わたしが守りたく願うから身を盾に。
 わたしが救いたく望むから身を抛つ。
 それは誰の為でもなく己の為だから。

「ダメだよっ。それじゃ……あたしが嫌っ」

 抑えると言うより、身を屈め顔を近づけ、

「この頬も、この瞳も、この髪も、この唇も。全部力づくで奪われるんだよ。のし掛られ
て、抑え付けられて、抗う事も出来ないでっ…」

 痛いんだよ、怖いんだよ、汚されるんだよ。

 その時だけの痛みじゃない。体の傷を治せても心の傷は取り返せない。お嫁に行けなく
されるかも、女の子の大事な物奪われてなくするかも知れないのに。自分じゃない誰かを
守る為に、それどころか敵に情けを抱く為に。

 この身を案じて揺れる瞳をわたしは見上げ、

「その時になれば……仕方ないよ。いつも都合良く相手を退けられるとは限らない。わた
しがそこ迄強くない事位は、分るもの……」

 それでもたいせつな人の危険は見過ごせない。迫る禍があるならこの身を盾にしてでも。

 わたしには痛みより怖い物がある。たいせつな人を再度失う事が、わたしの本当の怖れ。
たいせつな人の涙や哀しみこそが、真の怖れ。それを避けるには、防ぐには、守り通すに
は。

「傷つけるならわたしから。奪うなら、まずわたしから。踏み躙るなら、まずわたしから。
強いからじゃない。耐えられるからじゃない。わたしは、誰かが傷つき哀しむ事に耐えら
れないから。たいせつな人が目の前で痛む姿を見ていられないから。自身に許せないか
ら」

 真沙美さんの頬へと伸ばされた塩原先輩の刃を、己の左手で受けて血と肉で止めた様に。
非力でも、わたしはたいせつな人を守りたい。その末にこの身が傷や痛みや汚れを負って
も。

「それで守りが届くなら」「ダメだよっ…」

 黒目がわたしを呑み込む程間近で潤んで、

「ゆめいさんがこうやって組み敷かれるのは、悪意な男の腕に落ちた時なの。元々大切な
人を守る以外戦いを考えもしないゆめいさんが、戦って敗れる時って、逃げられない時、
囚われた時、助けの望めない時。大切な人の為でも、それが鴨ちゃんやあたしやあの双子
の為でも、あなたが酷い目に遭わされるのは嫌」

 あたしのたいせつなあなたが、汚される。
 あたしの一番愛したあなたが、奪われる。

「どこかの悪意な男に、奪われ失う位なら」

 和泉さんの両掌が、わたしの両の頬を挟む。
 愛おしむ様に、又は逃がさないという様に。
 瞳に、喉に、掌に、震える程の緊張が漲り。

「今の内に、ここでわたしを、奪い去る?」

 もう初めては奪われた後のわたしだけど。
 わたしの正視に和泉さんの瞳が見開かれ。
 触れ合わせた肌が緊迫に硬直し動かない。

 彼女の身体も魂も、震えていた。わたしは、唯その答を待って見つめ返すだけ。わたし
の問は促しではない。どの様に受け取るかは和泉さんの心に委ねる。金田和泉の真の想い
に。

「何となく感じるの。わたしはいつか多くを奪われ喪失する日が来るって。それは女の子
に生れついたなら普通に感じる予感なのかな。将来どこかで男の子と普通に交わる日が来
る事への、未知への怯えなのかも知れないけど。
 でも、和泉さんが心配する通り、望まない相手に奪われ失わされる気もするの。誰かを
守る為にこの身を抛った末に。その日を望む訳じゃないけど。危険を好む訳じゃないけど。
たいせつな人に迫る禍を防ぐ為にわたしが抱く想いは多分変らない、変えられないから」

 誰かに貪り喰われる前に、誰かに引きちぎられる前に、好いた人に奪って貰えるのなら。
既にこの唇は初めてを奪われたけど。もう和泉さんにも清い唇で応える事は出来ないけど。

「ゆめいさん……?」「あなたが望むなら」

 持てる限りを捧げる。幾度でも捧げるよ。
 正視した先の黒目に映るわたしが揺れる。

「どうしてそんなに綺麗な視線を返せるの?
 どうしてそんなに静かな言葉を返せるの?
 どうしてそんなに穏やかな表情で唆すの?
 あたし、勢いでゆめいさん奪おうとしていたのに、こんなに確かに見つめられて、息遣
いも平静で。すぐ跳ね返せる筈なのにあたしに身も心も委ねた侭、奪われる事に微笑み」

 口づけされる側は、瞳を閉じる物だった。
 和泉さんの可愛い容貌を見つめたい余り。
 わたしがそう気付くのに、少し遅すぎて。

「出来ないよ! あたしには、出来ないっ」

 和泉さんは間近な首を逸らせて身を離す。

「あたしがゆめいさんを汚すなんて。あたしがゆめいさんを奪うなんて。人に取られるの
が嫌だからと、自分が先に奪えば良いなんて。ゆめいさんが奪われ失わされるのは同じだ
よ。ゆめいさんが受けて負う傷は同じだよっ…」

 罪の意識に苛まされた様に、押し倒したわたしの身体から離れて、部屋の隅に身を縮め。
怯えた小動物の様に小さくなって。心を身体を震わせて、それでも瞳の雫を必死に堪えて、

「例え誰かに奪われるのでも、汚されるのでも、失わされるのでも。ここであたしが同じ
事をやって良い理由には、ならないよっ!」

 欲しいけど。肌触れ合わせて離れたくない程愛しいけど。好きだけど。でもあたしがゆ
めいさんを奪い去るなんて。傷つけるなんて。

 原罪に怯える様に、わたしから瞳を逸らす。
 心が千々に乱れ、感情が波打ってうねって。
 瞳に堪る滴は、彼女の魂の震えに揺らされ。
 その心を抱き留めようと身を起しかけた時、

「ああ、もう! 奪う時に迷うんじゃない」

 髪を乾かし終えた真沙美さんが入ってきた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 風呂上がりから結構な時間は経過していた。真沙美さんは盗み聞きと言うより、入るに
入れず推移を見守っていたのか。和泉さんがわたしを奪うなら、挟まらない積りでいた様
だ。

「……鴨、ちゃん?」「あぁ焦れったいね」

 真沙美さんは雰囲気を壊す為か、苛立ちを抑えきれないのか、足を踏みならして部屋に
押し入る。その侭部屋の中央部迄来て、漸く上半身を起こせたわたしの間近に屈み込んで、

「そうやって手を拱いていると取り逃がすと、どうして分らないんだい、あんた達は
っ!」

 和泉さんを正視してその視線を引き寄せて、その両腕でわたしの肩を再び布団に押し倒
し、

「奪うなら相手の意向なんか構うんじゃない。
 汚すなら相手の答なんか訊くんじゃない」

 己の想いの侭に。唯自分の真の想いの侭に。
 その頬が瞳が唇がわたしの間近に迫り来て、

「嫌なら抗ってみてよ。逃げるか、戦うかして、あんたの意思で私を拒んでみて。私の想
いを跳ね返して。羽藤が鴨川を打ち破って見せて頂戴。そうしない限り、私の想いがあな
たを踏み躙る。自由勝手なのは勝者だけ!」

 真沙美さん、わたしの抗いを待っている?
 わたしに拒み通して欲しいと願っている?

 わたしの肌触りを求めつつ、わたしを気遣い怯えるのは、真沙美さんも同じ。わたしの
抵抗を招き、及ばない結果を受け容れようと。負けを半ば望んでいる。それに応えるべき
だったのかも知れない。その怯えを察し、彼女を拒み通すべきだったのかも。でもわたし
は組み敷かれた侭動かずに、身に力さえ込めず。

「なんで、なんで逆らわないのさ、柚明…」

 私は和泉と違う。余分な情けは掛けない。
 あんたが逆らわないなら私は止まらない。

「警告は、したからね」「真沙美さん……」

 わたしの両肩を抑える腕に体重と力が乗り。
 息遣いが間近で、少し熱っぽく微かな音を。

 わたしは今度はきちんと瞳を閉じていた為、真沙美さんの美貌を間近で見る事は叶わな
い。身と心を揺らす微かな震えはわたしのではなく、肌を合わせた真沙美さんから伝わる
物で。

 拾五度位首を傾げて、正面から顔が重なる。
 わたしの唇の上に、確かに柔らかな感触が。
 わたしの身も心も突き破ろうと温かな舌が。

 見守る和泉さんの声にならない叫びが届く。
 でも構わずに真沙美さんの意思はわたしに。
 痛い程の愛しさが、わたしの中に流れ来る。

 それは贄の血の力の修練に伴う感応の故か。
 わたしを欲する想いと優しい怯えが共々に。
 整理のつけられない激情に突き動かされて。

 半月前に塩原先輩に奪われた唇が、再び。

「鴨ちゃんひどい。ゆめいさんを無理矢理」

 隅で見守っていた和泉さんに、真沙美さんが応えたのは数分後、長い長い口づけを漸く
切り離したその後で。塩原先輩に強要された口づけも長かったけど、真沙美さんのはそれ
を凌ぐ。息継ぎも忘れる抱擁に和泉さんの目は丸く。わたしは身も心も開いて全て受容し。

「拒んでないだろう? 柚明は最後迄身動きせず、奪われる侭逆らいもせず。私の想いに
屈従した。奪われ失う事を、柚明が望んだ」


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