第4話 変らない想いを抱き(後)


 何故か真沙美さんは逆に苛立ちが増して。

「ひどい。鴨ちゃん、全部ゆめいさんの所為にして。奪ったのは鴨ちゃんなのに、傷つけ
たのも汚したのも鴨ちゃんなのに、なのに」

「じゃあ何故逃げない。その気になればひっくり返せるのに。奪われる侭を望むかの様に。
全く、抵抗の欠片もなかったじゃないかっ」

 真沙美さんの強い叱声にわたしは素直に、

「ごめんなさい、真沙美さん。和泉さん。わたし、あなた達に報いる術を思い付けなくて。
身を捧げる他に2人の想いに応えられなくて。
 わたしの優先は常に白花ちゃんと桂ちゃん、人生を与えてくれた守りたい幼子に向くか
ら。これ程に暖かく真剣な想いを向けて貰っても、等しい想いを返せない。その事にこの
半月間申し訳なくて、何かで応えなければって…」

 もしこの身体を望んでくれるなら、せめて拒まない。欲されるなら捧げよう。惚れ惚れ
する様な見事な容姿じゃないけど、こんなわたしでも好んでくれるなら、全部明け渡そう。

 2人ともわたしの願いを受け容れてくれた。一番の想いに一番の想いを返せないわたし
の、桂ちゃんと白花ちゃんを愛する故のわたしの願いを。贄の血を秘密にしてくれると。
真沙美さんの為でも和泉さんの為でもない願いに。

「何か返さないと、2人の想いにわたしが何か返さないと、この絆が解れてしまいそう」

 だから真沙美さんにも、わたしを捧げる。
 和泉さんにも望む限り、わたしが捧げる。

 わたしも2人に想いを返したい。役に立ちたいの。その心に心で報いられないのなら…。

「それであんた、本当に良いのかい!」

 そんな事だから羽藤は鴨川にやられるんだ。
 怒気を纏った真沙美さんが、襟首を掴んで、

「鴨川は先々代から3代続けて、羽藤を奪い続けている。先々代は羽藤の土地を売り捌き、
先代は羽藤の祭りを締め上げて、当代は、私の父さんは柚明、あんたの母さんの操を奪っ
て捨てたんだ。何も反撃しなくて良いのかい。せめて逃げて。嫌がって。奪われたら悔し
がって涙位は見せて。そうじゃないと、私…」

 抗う事を望む様に、わたしの襟首を揺らせ、

「死んだ母さんに聞かされたんだ。父さんが母さんと結婚する前、羽藤の長女と、あんた
の母さんと恋仲だったって。幼なじみから始って恋仲になった様を、年配の人はみんな知
っているってさ。先々代、私のひい爺さんは、農地改革では羽藤を踏み台にして信望を得
たけど、生涯羽藤の執事を続けた人で、交際は順調だったらしい。でもひい爺さんが死ん
で、爺さんが鴨川当主になると状況が一変して」

 既成事実が進んでいたのに、身体は交わり合った後なのに、両家は断絶した。爺さんは
ひい爺さんの独断専行を激しく憎み、死後にその方針を悉くひっくり返したと聞いたけど。
似たもの同士の家系だよ。私や多分父さんが爺さんに抱く想いは正にその焼き直しだから。

 父さんは勘当をちらつかされて羽藤の長女を諦め、私の母さんと結婚した。あんたの母
さんがその後、あんたの父さんとどう出会ったかは分らないけど。でも経観塚を出たのが
何故かは、何となく分るだろう。狭い田舎で、傷物にされたと噂の立った娘に婿は来ない
よ。

「真沙美さんのお父さんが、わたしのお母さんの初恋の人で、あっちでも初めての人?」

 わたしの瞳はまん丸になっていたと思う。
 真沙美さんは見下ろした侭で短く頷いて、

「私の母さんもあんたの母さんと知り合いらしい。あんたが羽様に転校してきたと聞いて、
死の床から母さんは私にそれを言い残した」

 因果な一族だろう。敵意の有無じゃなく関る事で鴨川は羽藤を傷つけ奪う。私があんた
と距離を置いたのは、羽藤は全員鴨川を許さず憎むに違いないと幼心に想った事と。私が、
他人を傷つける定めを重ねたくなかったから。

「家の縛りや、定めや、家風から全て切り離されて生きていける強さを、私は欲しかった。
それが持てない間は、幾らあんたが可愛く優しくても、傍で過ごし交わる事が愉しくても、
最後は宿命に流されあんたを傷つけると…」

 近過ぎてはいけない。触れてはいけない。

「あんたの為に、あんたを好いた自分の為に。ずっと関りを抑えてきた。怖くて、怯え
て」

 それでも賢也の所為でこんな事になって。
 私が充分な強さを持たないからあんたを。

「結局あんたは鴨川の所為と鴨川の為を兼ね、危険に己を投じて苦痛を負った。塩原の奪
ったその唇は、鴨川が羽藤から奪った様な物だ。3代の強奪を羽藤は反発もせずに受け容
れ」

 今あんた迄がこの私に奪われて。4代続けて傷つけられて、踏みつけられて失わされて。
それで何の抗いもなく、憎しみもなく、悔しさもなく、受け容れ心平静で。幾ら何でも!

「良いのかい柚明? 本当にあんた、怨敵の鴨川にこの先も尚深く関って。この侭行けば、
あんたの母さんと同じ結末を迎えるのは目に見えるのに。家同士の断絶以上に、女同士で
幾ら惚れ合ったって、絶対結ばれないのに」

 私の所為で、塩原に加え私に迄唇奪われて。将来あんたの大切な人に捧げる物を今こん
な処で汚して。何で抵抗しない。私は一番に想った以上本望だけど、あんたには私は一番
でも二番でもない。そんな相手の強奪に応えて、その清らかさを失い続け。憎んでよ。恨
んで殴り返してよ。愛して強奪を受け容れないで。私を怖れて逃げ去って、心隔てて拒ん
でよっ。

「私にはもうこの気持は止められない。あんたを愛する心が止められない。後はあんたが
拒んで止めて。嫌って憎んで防ぎ止めて!」

 私を食い止めて。そうじゃないと私があんたを傷つけ続ける。私があんたを奪い続ける。
この苦悩を終らせてあんた自身と私を救って。

 雫が頬に落ちてくる。わたしへの想い同士の入り交じった苦悩の結晶が、わたしの頬に。

「真沙美さん、ずっと心を痛めていたのね」

 わたしの心に浮ぶ懸念は、己の先行きの不安ではなく、真沙美さんの今迄の今の痛みで。

「今迄しっかり受け止め守れなくて、ごめんなさい。わたしが頼りなかったから、打ち明
けられなかったんだね。ずっと待たせていたんだね。力不足で頼りなくてごめんなさい」

 ずっと想いの侭に生きられなかったんだね。
 好きな人を好きだよと言うのさえ堪え続け。

 これからは、わたしがあなたの心を支える。
 未だ子供だから出来る事に限りはあるけど。
 わたしは望んで捧げた。抵いは不要だった。

 わたしは大切な人と触れ合う事を好むから。
 あなたの苦悩はわたしが受け止め終らせる。
 嫌わず拒まず憎まず恨まず、愛し合う事で。

 防ぎ止めるのではなく、想いを抱き留めて。
 羽藤と鴨川の宿縁が絡み合うならこの代で。
 断ち切るのではなく確かに絡め繋ぎ止める。

『わたしには、過去は振り切る物でも、捨てる物でもありません。抱き締める物です…』

 哀しい過去、苦い過去、色々あるけど。でもそれが、暖かい想い出に繋っている。良い
事も悪い事も全部セット。受け容れましょう。

「あなた1人で、鴨川だけで背負わないで。

 羽藤が、わたしが分けて一緒に背負うよ」

 主人と家来ではなく、平等な多数の中の個人同士でもなく、特別に大切なお互いとして。
わたしの全てを注いで、鴨川真沙美を愛する。宿縁は全て受け止めて、その上に未来を繋
ぐ。

 両腕を回し、柔らかな身体を抱き留めて、

「羽藤は鴨川を恨んでない。あなたのひいお爺さんも、お爺さんもお父さんも、あなたも、
その時置かれた状況を一生懸命生き抜いた」

 それは羽藤も同じ事だ。終えた事の是非を今更問うても意味は薄い。肌触れ合わせ温も
りを交わせる今が嬉しい。滅ぼし合い潰し合うのではなく、想いを抱き合える今が嬉しい。

 様々な紆余曲折がなかったら、わたし達の今はなかった。わたしが己の過失で家族を失
った末に羽様に転居して、真沙美さんや和泉さん、桂ちゃん白花ちゃんに巡り逢えた様に。

 真沙美さんのお父さんがわたしのお母さんと別れてなければ、わたしも真沙美さんも居
なかったかも。為した事・決した事は変えられない。それは受け止める他にない。そして、

「笑子おばあさんも、正樹叔父さんも、鴨川の誰も憎んでない。心穏やかだよ。お母さん
も生前誰かを憎んだ様子はなかった。後は」

 あなたに奪われたわたしが受け容れれば。

「わたしは、真沙美さんを、憎んでないよ」

 賢也君の事も、塩原先輩達との絡みも含め、あなたに何の責任もない。あなたはあなた
の精一杯を為したわ。あなたをたいせつに想い、助けに馳せたのは誰の所為でもなく、わ
たしの真の想い。わたしは何度あの時あの場に立ち戻ってもあの様に動く。その上でわた
しは、

「これからも真沙美さんを心から愛します」

 頬を合わせる。唇は、さっきの経緯もあるから今は刺激が強すぎる。肌身に癒しの力を
微かに流し、その身と心に安らぎを及ぼして。

 迷惑も負担も何もない。奪うなら幾ら奪っても良い。わたしはこの身の全てであなたに
応える。あなたの願いがわたしの願いだから。わたしに捧げられる限りを、尽くせる限り
を。

「できる事は精一杯やろうね。お互いに幸せを増やして、痛みや哀しみは芽の内に摘んで。
それで尚避けられない禍が来るなら仕方ない。受け止める。それで痛み苦しんでも、わた
しは絶対に真沙美さんへの想いを手放さない」

 風呂上がりの温もりと滑らかな肌触りと。
 しっとりした潤いとシャンプーの香りと。
 何より声と吐息に宿る互いを想う情愛が。
 肉を締め付ける抱擁の中で混ざり合って。

「女の子同士の関係に、限界はあるかも知れないけど、それは行き着いてから考えよう」

 今は唯お互いをたいせつに想う心の侭に。

 真沙美さんの頬を伝う雫がわたしも濡らす。
 2人の想いを繋ぐ雫は、とても暖かかった。


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「あたしのお話、そろそろ良いかな?」
「ごめんなさい、待たせちゃって……」

 普段強気で通してきた真沙美さんが、全てを吐き出し気が抜けて、甘える様にわたしの
胸に首を委ねる。身も心も預け委ねた穏やかな表情は、普段の彼女からは想像が付かない。
強い人は日頃強さを己に課す故に、弱さを表に中々出せない。仁美さんがそうだった様に。
故に崩れて安心な状況に思えると可愛く変る。

「真沙美さん……申し訳ないけど」「うん」

 この上なく柔らかな返事で、真沙美さんはわたしの胸から頭を持ち上げ、布団の上に座
り直す。時刻はもうすぐ日付が変る。真沙美さんが少し気になる様子で首を傾げ見守る中、

「鴨ちゃん、すっかり身も心も委ねちゃって。
 こんな鴨ちゃん、あたしも何度も見た事ないよ。ここ迄見せつけてくれた上でだけど」

 座り直すわたしに躙り寄って、両手が頬に、

「い、いじゅみはん……?」

 ほっぺたを、思い切り横に引き延ばされた。
 行いは悪戯だけど、でもその視線は真剣で、

「あたし、結構本気で怒っているんだけど」

 鴨ちゃんとあたしを見損なわないで頂戴。

「和泉、あんた……」「和泉、さん……?」

 真沙美さんの声には応えず、和泉さんは、

「あたし達の絆は、柚明が身体を捧げないと解れる様な、今夜想いを返さないと崩れる様
な脆い物じゃないと、あたしは思っていた」

『何か返さないと、2人の想いにわたしが何か返さないと、この絆が解れてしまいそう』

 和泉さんは、わたしの言葉を繰り返して、

「心で返せないから身体で返して、本当にあたし達が満たされると想う? あたし達と柚
明の絆は、身体でも心でも何か返されないと解れる程に脆いと、柚明は想っているの?」

 見据える視線を正視できずに逸らすのは、

「あなたはいつも優しいけど、身も心も尽くしてくれるけど、今夜ほんの少し違うのは」

 あたし達が、贄の血の秘密を持ったから?

 わたしの僅かな弱味を、見抜かれていた。

「あたし達に尽くしたいと言うより、あたし達に身を捧げて繋ぎ止めたい様な感じがした
んだよね。あたし達を想ってくれる優しさもあったけど、別の何かも混ざっている様な」

 和泉さんはわたしの両肩を軽く抑えつけ、

「あなた、幼い双子を守る為に贄の血の秘密を保って欲しくて、その対価にあたし達に身
を捧げる積りでしょう? 己を捧げてあたし達を繋ぎ止めようと、想ってない?」「!」

 和泉さん、鋭い。そう言えば彼女はわたしが贄の血の癒しでその傷を治した時も、力の
所在を明かしたわたしの、経観塚を去る覚悟を見抜いてきた。羽様の家族に、何より桂ち
ゃんと白花ちゃんに禍が及ばない様に、噂を呼ぶ前にわたしが去ろうとの意図を見通して。

「嫌なのよ。そういう、何かの支払で身を捧げられても。あたしがあなたの秘密を、たい
せつな人の秘密だからと無条件で引き受ける、引き受けたいこの想いを否定されたみた
い」

 あたしはゆめいさんを守りたいから秘密を共有したの。幼子を愛するたいせつな人の為
に口を噤むの。身を捧げられる対価に、唇を奪わせる対価に、あなたを守る訳じゃないよ。

「あたしは想いを返してなんて求めてない。
 身体を代りに差し出せなんて望んでない。
 絆を保つ為に奪わせてなんて願ってない。
 あたし達が繋いだ絆はそんな物じゃない。
 あなたの想いもあなたに抱いた想いも、秘密を一緒に持つ事で揺らぐ様な物じゃない」

 何を怯えているの? あたし達はずっと変らないよ。返す物なんて要らないから。返す
物がなければ解れる様な、繋りじゃないから。ゆめいさんがあたしを助けてくれた時、ゆ
めいさんあたしの身を返される事を期待した? あたしが贄の血の秘密を守る代りに、あ
なたに対価払えと強いる者だと想っているの?

「身を捧げるのも奪わせるのも、ゆめいさんのあたし達への、本当の想いなら良いけど」

 あたし達を繋ぎ止めたくてする事なら、お断り。そんな事であたし達を繋ぎ止めないで。
対価の関係じゃない。あたし達は、返す物がなくたってお互いを想い合う関係なんだから。

「そうじゃないと、あたしの方が成立しない。塩原先輩達から守ってくれて、失明の傷を
癒して貰って、今こうして元気にゆめいさんや鴨ちゃんとお話しできるのは、全部あなた
のお陰なのに。あたしそれに何を返せば良い? 返せる物なんてある? 出来ないよ
っ!」

 返せなかったら、出来なかったら、あたしゆめいさんのお友達で居られなくなるの? 
ゆめいさんに繋いで貰えた絆がなくなるの? ゆめいさんが言っているのそう言う事だよ。

「白花ちゃんや桂ちゃんを最優先するのは良いよ。あの年頃の子は可愛いし、事情は教え
て貰ったから。でもね、幼子2人ばかり見て、あたし達も他の人も映らなくなったら、必
ず幼子の守りも疎かになる。周りの人がどんな人か見ないと、誰が幼子の味方で敵で、誰
が無害で危険かも、見抜けなくなってしまうよ。あたし達も、あたし達の魂もしっかり見
て」

 友達関係はお互いなの。一方通行はないの。

 あなたは常に守り庇い、助け救ってばかり。漸くあなたの力になる時迄、あたし達の善
意に迄対価を返すのは止めて。あなたの善意と同じく、あたし達の善意はあなたを大切に
想うから。身体を奪えるから尽くす訳じゃない。

『一番じゃなくて良い。ゆめいさんの一番が誰でも良いから、何番でもあたしを向いてく
れなくても構わないから。今迄もこれからも一番望まないから。それは全て承知だから』

 そう言ってくれた人にわたしの為した事は、

『少しはあたしに寄り掛って。守らせてよ』

 侮辱であり、情愛を貶める行いだったと…。

 想いを交えた人に、対価の如く己を差し出すのは、相手を貶める行いだと。対価の関係
を越えて想いが通じ合った者への、非礼だと。

 和泉さんの眼圧が微かに緩んで、微笑んで、

「ゆめいさん、唯でも人に身を尽くす事を好んじゃう人だから。人の喜びを望む余り自身
を捧げる事にも躊躇いない人だから。あたし達を想ってくれる温かな気持も感じたけど」

 確かに気持を整理して。自身に向き合って。

 あたし達に己を捧げる時は、あたし達に抱く想いの侭に。他の誰かの為に生贄に捧げら
れるのは嫌。そんな柚明は受け取りたくない。奪うのも捧げるのも、あたし達の想いの末
に。

「鴨ちゃんも、そう想うでしょう?」
「う、うん……確かに、そうだけど」

 2人の語気は、いつもと正反対で。

 そんな2人に、わたしは深々と手を付いて、

「今日何度目か分らないけど、ごめんなさい。和泉さん。真沙美さんにも。わたしの、思
い違いでした。和泉さんの言う通り、わたし」

 守りたい想いを、取り違えていた。結果を求める余り、目前の人の想いを見失っていた。
桂ちゃんと白花ちゃんを守る想いを暴走させ、和泉さんや真沙美さんとの繋りを貶めてい
た。

 振り返ればサクヤさんは、想いでも身体でもわたしに返す事を焦らなかった。誕生日や
運動会で想いを形にしてくれたけど、節度を持ってサクヤさんらしい想いを寄せてくれた。

【わたしはわたしが好きだから言っただけ。同じ気持を返して欲しいなんて、思わない】

 絆の確かさも対価なんて不要な事も、通じていた。真剣だったけど、過剰ではなかった。
わたしは何年も、それを目の当たりにしても、和泉さんに指摘される迄気付きもしなかっ
た。

「愚か者でごめんなさい。自分がそうされて本当に嬉しいかどうか考えれば分ったのに」

 目の前の人の想いをしっかり受け止めてなかった所為だ。目の前の人を疎かにした故に。
本当に、わたしはいつ迄たっても愚か者だ…。

「身体で釣る様な事をしてしまってごめんなさい。それで釣られる様な人に扱ってごめん
なさい。2人の美しい想いに泥を塗って…」

「もう、良いよ。柚明」

 深々と頭を下げるわたしに真沙美さんは、

「それもあんたが幼い双子を想う気持から出た物なんだから。賢也が私を想って他人に危
害を及ぼした事よりは、遙かにましさ。それにあんたには、確かに私達への想いもあった。
 私に関して言うなら、因縁話の所為で、もうその辺りは突き抜けたと想っているし…」

 鴨川と羽藤、そして真沙美さんのお父さんとわたしのお母さんの話の故に、幸か不幸か、
真沙美さんとわたしはもう、秘密で繋る以上の関係になっていた。親友であり恋人であり、
姉妹であり。故に今のこの関係は、精神的に近親の禁忌に触れかねない危うさも持つけど。

「和泉にしっかり謝って、許して貰いな…」

 真沙美さんとは、妹の様な姉の様な関りで。
 うんと頷いて、右の和泉さんに向き直ると、

「和泉さん、格好良かった。男前だったよ」

 これが褒め言葉になるかはやや微妙だけど。
 和泉さんとは、男役の様で女役の様な間柄。

「直言できる関係って、素晴らしいよね。わたし、和泉さんと絆を結べて本当に良かった。
ごめんなさいと、それ以上に有り難う。これからも迷惑かけてしまいそうだけど、わたし
も和泉さんの迷惑を出来る限り引き受ける」

 改めて、宜しくお願いします。

 今宵は中盤もわたしの完敗です。人としての深みの違いを、彼女に思い知らされました。
でも、こういう敗戦も時には良いかも。2人が抱いてくれる想いと繋げた絆が目に染みた。


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「ま、分ってくれれば、良いんだけどさ…」

 わたしの素直な全面降伏に、和泉さんが頬を朱に染め、視線を逸らすのは、照れの故か。
そんな和泉さんに追う様に、わたしは両手に彼女の両手を取って、視線を己に引き寄せて、

「さっきは瞳を閉じるのを忘れてごめんね」

 間近に視線を合わせ黒目の中を覗き込み、

「和泉さんが嫌でなければ、わたしの唇を」

「ゆめいさん、……あなた?」

「素晴らしい直言への対価、じゃないよ…」

 その直言を受けて、わたしへの強い想いを受けて、心洗われて嬉しくなった、わたしの
真の想いの侭に。あなたにわたしを捧げたい。

「塩原先輩と真沙美さんに奪われた後だけど、それではもう汚されていてダメだというな
ら、止めるけど。でももし、それでも良ければ」

 わたしの想いを、愛を受けて欲しい。

「奪われるのを待つのはわたしの弱さだった。相手に責任を負わせていた。真沙美さんは
それを承知で奪ってくれたけど。捧げるのなら、奪われるのを待つのではなく自らの意思
で」

 両手は和泉さんの両手首を軽く抑えた侭に。逃げようと想えば、拒もうと想えばすぐ解
ける程の拘束だ。和泉さんは少し焦った様子で、

「鴨ちゃんの、目の前だよ……」「大丈夫」

 わたしは一度だけ和泉さんの視線を後追いして、左に座した真沙美さんに視線を向けて、

「真沙美さんも和泉さんの目の前でだった」
「そう言う事じゃなく」「私は良いよ……」

 真沙美さんは静かな声音と視線を返して、

「私は人の想いや行いには干渉しない。和泉と柚明が互いを想い合う様を邪魔はしないよ。
見られて恥ずかしいなら、場を外すけど…」

 気遣いは無用と、気の抜けた目線を返す。
 真沙美さん、ややリラックスしすぎかも。

「そうじゃなく、たった今あんた鴨ちゃんと2人唇を合わせていたのに、それから僅かで。
雰囲気って物があるでしょう。あたしも…」

 惑いつつ、嫌わない表情の動きが可愛い。

「嫌なら拒んでも良いよ。わたしの唇はもう必ずしも清くないから。手はすぐに外せるし、
あなたの意思が拒むなら追いかけはしない」

 それでもわたしは傷つかない。和泉さんがわたしのたいせつな人である事には変りない。
受容にも拒絶にも遠慮は要らない。あなたの本当の想いの侭に。この身も心も、任せます。

 瞳を閉じる。今度こそしくじらない様に、

「ああっ待って。柚明、いや、ゆめいさん」

 和泉さんの唇がわたしの唇に重なったのは、その直後だった。和泉さんは追い詰められ
た鼠となって、わたしの両頬を突如がしっと掴み、唇を寄せて重ね。何というか、責任は
自分も負うと、覚悟した様な彼女の動きは潔い。

 和泉さんの身体は、真沙美さんの時より緊張の故か硬い。最後に反撃された感じだけど、
柔らかく受け止めて、その起伏を肌で宥める。傍の真沙美さんの息遣いも終始穏やかだっ
た。

 今宵わたしは漸く和泉さんにも一矢報いたかも。僅かでも経験の有無は大きな違いでし
た。勝っても負けても、絆は強く想いは深く。わたし達の特別にたいせつな夜が更けてゆ
く。


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 深夜を迎えわたし達は川の字になっていた。わたしの右で和泉さんは仰向けの侭、腰か
ら上半身を左側に寄せ。左で真沙美さんは右肩を下に横向きで、わたしの左手首を胸に抱
き。

「私、怖い……。今が満たされているから」

 気が抜けたというより弱々しい程の声が、

「幸せだからこれからが怖い。得た物は必ず失う、始った物は必ず終る、満ちた物は必ず
欠ける。今が一番嬉しい私は、この後の喪失ばかりが気に掛って怖い。繋いだ絆が薄れゆ
く月日が怖い。今こそ時が止まって欲しい」

「真沙美さん……?」「……鴨ちゃん…?」

 その怯えは抽象的だけど深刻で現実的な。

「柚明は怖くないの? 和泉は怖くない?」

 私は怖い。柚明と和泉と、深く交わり合えたから。心の奥に踏み込み合えたから。だか
らこそ、今夜の幸せが過去の物になっていくこれからが怖い。毎分毎秒過ぎ去る刻が怖い。

「心は変る。恋は冷める。想いは褪せる…」

 ここ迄強く繋いだ絆が解れてゆく未来に私は目を向けたくない。ずっと今に留まりたい。

「和泉や柚明が、どこかの誰かに恋して私の前から去る時が怖い。進学や就職で別々にな
って、この絆が過去の想い出に変りゆくのが怖い。想いが薄れてゆく様は、見たくない」

 漸く繋げたのに。掴めるなんて想ってなかった。絶対叶わないと思っていた幸せだから。
だから怖い。満たされた今が過去になるのが。望月が欠ける様に、薄れて醒めて消えるの
が。

「確かに形のある物に縋り付かないと、身の震えが止まらない。柚明の温もりと肌触りが、
漸く私の怯えを抑えてくれる。それでも一瞬一瞬、過ぎ行く時間に今の幸せが消費されて、
徐々に終りへ向っていきそうで、怖いの…」

 幸せ故に喪失が怖い。幸せ故の、でも深刻な怯えに、わたしより和泉さんが先に応えて、

「鴨ちゃん、あたし達の想いはずっと、変らないよ。あたしは変らない想いを抱くよっ」

 ゆめいさんに抱く想いも、鴨ちゃんに抱く想いも、ずっと変らない。絶対変えないから。

「男の子になんか恋しない。あたしはずっと、ゆめいさんと鴨ちゃんが良い。綺麗で優し
くて強くて、そしてとても愛しい人達だから」

 進学しても就職しても、例え別れ別れになったとしても、あたし達は決して解れないよ。

「本当に怖いのは、実は私なの。いずみ…」

 その一言に、不安を消そうと連射していた和泉さんの言葉が凍る。真沙美さんの怯えは、
彼女の心の内にある。和泉さんの強い声さえ、怯える心の表面を、滑って消えて行くだけ
だ。

「本当に怖いのは、和泉や柚明に忘れられる事じゃない。あんた達の想いが薄れて絆が解
れる事じゃない。私が日々に流され柚明や和泉を見失う時が怖い。自分を信用できない」

 鴨川は、裏切り者の家だから。柚明の家を何度も奪っただけじゃなく、自分の家でさえ。

「人の行いや想いが、置かれた状況や立場で変る様を私は何度も見てきた。愛する対象を
どんどん乗り換えていけるんだよ、人間は」

 父さんは、柚明の母さんを捨てて私の母さんと結婚し、その死後に今の養母と再婚した。
恋仲だった以上、父さんは柚明の母さんを愛したんだろう。でも結局爺さんの脅しに屈し、
想いを曲げた。父さんは私も母さんも愛してくれた。でも、母さんの死後爺さんの指示で
今の養母と結婚した。弟も生れた。父さんは今養母も弟も愛している。爺さんもね、ひい
爺さんが死ぬ迄何一つ逆らえない人だったと。

「人は置かれた状況で愛する物を変えられる。己の心も変えられる。今は和泉や柚明が大
切でも、進学や就職で別々の人生を進む内、そこらの男と知り合って結ばれて、あんた達
をいつの間にか忘れ大切にも想わなくなるかも。他の誰でもなく私がそうなりそうで、怖
い」

 私は未だ男を識らない。その後で自身がどう変るかも分らない。巡る時間の中で、あん
た達を大切に想わず、忘れ去っていそうな自分が怖い。女の子から女に変った後の自分が、
今の想いを抱き続けられるかどうか分らない。

 進学し、就職し、恋愛し、結婚し、出産し、育児する内に、あんた達を心の隅に避けて
ゆく様が分る。職場や町で日々他の人と言葉を交わす内に、あんた達を忘れそう。人は状
況に流される。まして女の子同士の絆なんて…。

 想いの侭に生きるなんて男でも楽じゃない。爺さんもひい爺さんが死ぬ迄逆らえなかっ
た。父さんも私も爺さんの前に何一つ逆らえない。多少賢いとか手に職を持つ位で、渡っ
ていける程世の中は甘くない。鴨川を継げもしない私は、高校から経観塚の外に出る積り
だけど。その先であんた達との関りが薄れるのが怖い。漸く確かに繋げた最初の絆が、時
と共に解れてゆくのが。今から徐々に終りへと向うのが。

 私は自身が変りゆくのが怖くて堪らない。
 どうして良いかも分らない。唯、怖いの。

「変らないよ。あたしは絶対変らないよ!」

 和泉さんの声が真沙美さんの声に被さる。

「男の子なんか好きにならない。柚明と真沙美以外は愛しないよ。あたしの父さんと母さ
んは今も愛し合っている。変らない愛もある。あたしの柚明と真沙美に抱く気持はそれだ
よ。女の子同士でも、強く抱けば絆は解れない」

 和泉さんの昂ぶりは、真沙美さんの危惧が自身も浸食して思えたから。子供っぽい程の
反駁は、言わないと自身に認めてしまいそうだから。自身がその不安に直面して怖いから。

「時が経っても、生きる道が違っても、住む処が変っても。柚明、あなたも何か言ってよ。
鴨ちゃんの、真沙美の不安を鎮めてあげて」

 男の子なんて要らないって、あなたからも。

 理屈というより実感で押された和泉さんは、数で押し返そうとわたしにも強く求めるけ
ど、

「わたしは、真沙美さんを縛れないよ。真沙美さんが、未来に好きな男の子や男の人と会
って大切に想う事を、ダメだとは思えない」

 震える声は真沙美さんを想う故に逼迫して、

「だって今鴨ちゃんは、それに怯えているんだよ。この先どうでもいい様な男に出会って、
恋し愛され、それであたし達への想いが薄れる事を怖がっているのに。それを認めちゃ」
「それが真沙美さんの、真の想いなら正解」

 真沙美さんの怯えは、感じるよ。それが、

「気休めや勢いで拭えない怯えだって事も」

 それは招きもしないのに雷雨が屋根を叩く様に、望みもしないのに季節が寒く変り行く
様に、誰かが悪い訳ではなく起り来る不都合なのだと。楽しい休みの日が過ごせば終り行
く様に、ご飯を美味しく食べれば減ってしまう様に、押し止める事が難しい世の中の諸々。
日が昇り沈む様に、つぼみが咲いて散る様に、自然にそうなって行き防ぎ難い世の中の諸
々。

「いつ迄も一緒には居られない。みんなそれぞれ人生があるから、別々になる時もある」

 進学や、就職や、恋愛や、結婚や。この関係をいつ迄も繋ぎ止めるのは、難しいのかも。
人を巡る状況は刻々変る。今迄がそうであった様に。出会や別れを経て人は変り行く物だ。

 きっと和泉さんは早足で颯爽と歩く大人になる。真沙美さんは情熱と冷静さを併せ持つ
華やかな女性になる。2人とも行く先々で誰もが振り返らずにはいられない程綺麗な人に。
男も女も憧れずにはいられない程美しい人に。その様が瞼に浮ぶ。思い浮べるだけで愉し
い。そう成り行く2人と間近に居られる今が幸せ。

 奇妙な事に、自身の成人した先は思い浮ばない。わたしが子供で世間知らずな為なのか。
大学に行ったり職に就いたり、大人の恋愛をする自身が視えないのは。高校に進んだ先の
己の像が、妙に薄くぼやけて不確かなのは…。

 わたしは自身の心を目先の話題に引き戻し。

「新しく愛する人ができる事は、悪じゃない。
 未来に恋する人ができる事は、罪じゃない。
 誰かを誰かが大切に想う事は素晴らしい事。
 桂ちゃんと白花ちゃんに逢えたのも、真沙美さんや和泉さんに逢えたのも、日々変りゆ
く時の流れの中にいたから。いつ迄も動かずに澱む沼に、新しい出逢も成長もないよ。今
を噛み締めたい想いは分るけど、この今があるのも変り続けたお陰なの。受け止めないと。
良い事も悪い事も全部がセット。摘み食いは利かない。自分に都合良く世界は動かない」

 始りがあれば終りがある。確かにその通り。
 それを踏み締めた上で、噛み締めた上で…。

「わたしは、真沙美さんと和泉さんに繋いだ絆を解かない。交わした想いは手放さない」

 この先わたしが誰かに恋しても、いつかどこかで誰かと結ばれても、結婚し子供が生れ
ても、わたしは和泉さんと真沙美さんを愛し続ける。桂ちゃんと白花ちゃんへの想いと同
じ。誰かを大切に想ったら、今迄の誰かを外さなければならないの? わたしのたいせつ
な人に定員はないよ。わたしが今真沙美さんと和泉さんを2人たいせつに想う様に。桂ち
ゃんと白花ちゃんを2人たいせつに想う様に。

「心が変るのも、恋が醒めるのも、想いが褪せるのも、その人次第。別の誰かを大切に想
ったら、消失する訳じゃない。わたしは…」

 あなた達がそうしても、そうなっても。変らない想いを胸に抱く。繋いだ絆は解れない。

「真沙美さんのお父さんは、今真沙美さんを愛してないの? 真沙美さんのお母さんを今
愛してない? 死別だから、抱き留めて愛せなくはなったけど、想い迄も消えたと想う?
 或いは、わたしのお母さんへの想いも…」

 わたしは今もお父さんとお母さんを心から好き。変らずに好き。いつ迄も好き。そのお
腹にいた弟も妹も。サクヤさんも桂ちゃんも白花ちゃんも。真沙美さんも和泉さんも大切。

「新しく愛する人ができる事を怖れる事はないよ。他の人と結ばれる事に怯える事もない。
その人をわたしや和泉さんより大切に想い愛する事も、罪でも悪でもない。それはきっと
素晴らしい事よ。わたし達への想いが薄れるとか、絆が切れるとかとは、全然別のお話」

 想う人の数だけ愛は増える。絆も結べる。
 わたし達もこれから更に深く想い合える。

 一緒にいられる時間は尚続く。想いを深め合える時間は尚続く。絆を紡ぐ時間は尚続く。

 一緒に暮らせなくても、足繁く通い合えなくても、たいせつに想う事は叶う。日々の幸
せを見つめられなくても、毎日を共にできなくても、その人の幸せを願い愛する事は叶う。
例えその当人に忘れ去られる日が来ようとも。

「わたしは、和泉さんと真沙美さんに今夜愛された事が幸せ。愛を受けてくれた事が幸せ。
一番の想いを返せない事だけは申し訳ないと想うけど。わたしは常にわたしの精一杯を」

 本当に怖いのは、想いを返されなくなる事じゃなく、想いを抱けなくなる事だ。でもそ
の怖れは拭い去れる。その怯えは克服できる。返されるかどうか別として、想いを抱くだ
けなら最期の最期迄叶うから。己の気持だから。

「……そうだね柚明。あんたの言う通りだ」

 落ち着いた深い溜息の後で真沙美さんは、

「あんたは私の言う通りであり、和泉の言う通りでもあり、その両方を束ねて越えている。
魂の震えが、止まったよ。怯えの実体は消えた訳じゃないのに、この絆は脆く儚い侭なの
に。殆どの初恋が敗れて散る様に、殆どの初体験が一生の絆にならない様に、終りも別々
の人生も避けられないと、実感した上で尚」

 それを正面から受け止めて怯えを拭えた。

 大切な人は1人と限らない様に、2人と限らない様に、今目前にいるだけとも限らない。
新しく想う人が現れても、今迄大切だった人への想いが消える訳でもない。柚明と和泉を
私はいつか一番に想えなくなるかも知れない。私はいつかどこかの男か女と想いを交わし
絆を結ぶかも知れない。でもそうなった末にも、

「私は今夜を決して忘れない。今ここで抱いたこの想いは決してなくさない。いつ迄も和
泉と柚明は大切な人。変らない、解れない」

 家同士が断絶していても同性同士の絆でも、この先進学や就職で別々の人生を歩み、生
きる場も時間も異なる様になっても、大切な人。私の全てを注いで愛した優しく綺麗で強
い人。

「あんた達に愛された幸せは生涯忘れない」

 部屋を覆う閉塞感が、薄れていた。暗い見通しが、事実認定を変えない侭に拭えていた。
左右の息遣いは穏やかに静かにわたしを挟み。

「あたしも柚明と真沙美を愛せて良かった」

 反対側の声も穏やかさと己を取り戻して、

「あたしは元々ゆめいさんと鴨ちゃんを愛したかったの。役に立って微笑んで欲しかった。
鴨川の家風に笑顔迄縛られていた鴨ちゃんや、お父さんお母さんを亡くして微笑みを奪わ
れていたゆめいさん。とっても可愛くて綺麗な人達が、どうしてこんなに哀しげなのっ
て」

 守りたかった。支えて助けて、微笑んで欲しかった。それはあたしに叶わなかったけど。

「あたしは2人が今も大切だし、今後も大切。先の事は分らないけど、他の人を好きにな
る予定も積りもないから、あたしの愛はずっと2人だけに。心も身体も、あなた達だけ
に」

 本当だよ。本当に本当だからね、あたし。
 左から、微かに笑みの吐息が漏れて届く。

 いつの間にか、わたしの右手も和泉さんと握り合い、左は真沙美さんがこの身に沿って。
言葉はやはり、想いの全てを伝え切るには力不足な物らしい。わたしは肌身で想いを受け
て、変らない想いを2人に伝え、繋いだ絆を確かに絡め。人肌の温かい夜が静かに更ける。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


『取りあえず、次はお祭りだよ。華ちゃんと沢尻君も含めて、羽様集団で行くんだから』

 夜更けに和泉さんが告げてから、早2週間。

 わたしや真沙美さん達を中心に乱れ飛んだ噂も、七十五日を経ずに下火を迎えつつある。
他人の事より年頃の中学生には男子も女子も、間近に迫った夏休みや、その前半に位置す
るオハシラ様のお祭りに誰と行くかが関心事で。

 昼休みに真沙美さんを追って学校を飛び出したわたしへの評価は、真沙美さんと同様に
『剛胆だね』だった。その後暫く自重した為、賢也君を巡る状況がある程度迄明かされた
為、やむを得ない状況の故だと分って貰えたけど。

 真沙美さんとの抱擁も、わたしの普段が普段だけに受容されたみたい。振り返ればわた
しは和泉さんと頬を合わせたり、美子さんの両手を両手に取ったり、泣き伏す志保さんを
胸に受け留めたり、色々肌触れ合わせていた。今迄その前歴のない真沙美さんの方が、み
んなに衝撃だった様で。でも真沙美さんもあの時以降は普段と変らず日々を過ごしている
し。

 一部に『羽藤は女が好き』と言う噂が出た様だけど、気にしない。軽やかに頷きました。
嫌いな方が自然なの? と訊ねると、みんな首を横に振る。それで周囲は自然と鎮まって。
わたし別に男の子を嫌っている訳でもないし。

 美子さん達に敵視されていた頃から声をかけてくれた歌織さんや早苗さん、和泉さんに
加え、あの一件を経て美子さん達が、わたしへの誤解を解いて、お友達になってくれて…。

 わたしの護身の術は、乱れ飛ぶ噂の中にも出てなかった。先輩達も口を噤んだ侭らしい。
むしろ噂と言うなら、わたしや真沙美さんが、その前日にはわたしや和泉さん達が、塩原
先輩達拾数人に性的暴行をされたとの噂の方で。

「羽藤さん、その、来週のお祭り初日に…」

 だから、否定してもまとわりつく噂の残滓を突き抜け、クラスの小野君が一緒に宵宮を
歩こうと誘ってくれたのは嬉しかった。周囲よりわたしが噂を気にしていたのかも。でも。

「わたしと?」「うん、他に予定なければ」

 バスケ部の一年生エースで、容姿も爽やかな小野君は、結構女子にもてると聞いたけど。
わたしなんか誘っていて良いのかな? もっと小野君に憧れている、可愛い娘はいるのに。

 わたしはごめんなさいと、かぶりを振って。

「初日は予定が入っているの。わたし羽藤でしょう? お祭りの儀式に出ないといけない
から。夕方から家族と一緒に宵宮見て回って、夜には羽様小のメンバーで歩く予定だし
…」

 もし小野君2日目空いていて、志保さんも一緒で良いなら、日中出店を回るのは如何?

 沈み掛った表情が急に甦り、甦りきる直前に再び萎える。男の子の故か、小野君が分り
易いのか、傍にいると心の浮沈は大凡読める。わたしが志保さんを誘った事に、呆れ気味
で、

「海老名は羽藤さんの噂を流した相手だろ」
「うん。でも、もう仲直り出来たから……」

 志保さんも関係者だった事は意外だった。

 関知や感応の力も万能ではない。悟られたくないと心を閉ざす人の思惑や背景は、掴め
ない事もある様で。その上に人の良さや親身な応対を被られると、見抜くには習熟が要る。

 わたしに敵意を抱いた訳ではないけど、噂が好きで、それを語って人の反応やみんなに
及ぶ様を見るのが好きで堪らない志保さんは、賢也君が語った噂を、信じる信じないに関
らず校内に伝播させる放送局を自ら担っていた。

 失言癖なだけではない。彼女のそれは他人から聞いた噂を軽々に語り、自身で追加し膨
らませ行く性分が、一部漏れ出した物だった。

 悪意を抱く訳ではないから、わたしに好意的な噂も流したり、わたしに関る噂を直に伝
えてくれたりした。それでわたしの反応を窺ってもいた様だけど。明確な悪意がないから、
わたしに敵意を隠さない人達と違って、中立の立場で噂を流せた。聞く方も事実かもと思
って受け容れる。それが少し厄介だったけど。

「確かに謝って貰えたし、わたしもそれを受けて仲直りしたから。今は大切なお友達よ」

 わたしのカンニングの噂も、発祥は賢也君だけど広めたのは志保さんだ。塩原先輩達に
襲われた翌朝に、性的暴行の噂を流せたのは、賢也君から情報を貰えた為で。彼はその場
に真沙美さんがいた事を紛らわす為に、わたし達の噂を流そうとして策に溺れた。志保さ
んは噂の顔ぶれに、独自に真沙美さん迄加えた。

 真沙美さんを大切に想うわたしは、彼女の不在中に流れる噂を否定し、美子さん達の不
安を鎮め、逆に心を繋いだけど。わたしが真沙美さんに抱く真の気持を分って貰えたけど。
事が終熄し賢也君が全てを明かすと、彼女の行いも浮き彫りになり、みんなを唖然とさせ。

 暴力沙汰に関与なく、敵視しただけの弘子さんや美子さんに処分はなく、注意で済んだ
けど。性的暴行の嘘の噂を流した志保さんは、先生の注意よりその後の級友の目線が厳し
く。

 耐えきれず昼休みに泣き崩れた志保さんを、土下座を続ける志保さんを、わたしはみん
なが遠巻きに見守る中、頬を平手打ちした後で抱き留めて。みんなにも許してとお願いし
て。

 みんなは了承してくれたけど、経緯が経緯だけに心の底迄得心出来てない。蟠りを拭う
には時が要る。許して迎え入れた以上お友達の筈だけど、感情は簡単に切り替えられない。

『ゆめいさん、わたしを誘ってくれるの?』

『志保さんにわたしの実像を知って欲しいし、わたしも志保さんを知りたいから。駄
目?』

 だからわたしが率先して、彼女と絆を結ぶ。高みから哀れむ様にも見えるけど、言葉を
交わし共に過ごす内に関係は平らかになる。一度の過ちで全てを切り捨てるのは寂しすぎ
る。

 害を与えられたからと害を返したり、隔てたりしていては、世界はいつ迄も半分以下だ。

『柚明はそう言う奴だって分っていたけど』
『相変らず剛胆ですのね。柚明さんは……』

 歌織さんと早苗さんとは、和泉さんも含めて二日目の夕刻以降に一緒に出歩く。年に一
度のお祭りは、結構予定が込み入っています。

「まあ、良いけどさ。俺も、菊池先輩も一緒にってお願いしようと、していた処だから」

 どうやら小野君は、同じ部活の菊池先輩に頼まれた様です。確かに上級生が面識のない
年下の女の子を、お祭りに誘うのは難しそう。でもわざわざわたしを好むとは先輩も物好
き。

 お祭りを控えて、昨日から羽様のお屋敷にいるサクヤさんに、夕食の場でその経緯をお
話ししたら、不機嫌そうに眉を寄せて、

「あんたは人が良いというのか懲りないというのか。あれだけ男に酷い目に遭わされて」

 怒られはしなかったけど、嘆かれました。

「小野君も菊池先輩も、塩原先輩や遠藤先輩と関係のない人よ? 志保さんも一緒だし」
「ああ、今時の若い娘は本当に不用心だね」

 あんたには、知らない相手への怯えって物がないのかい。大事な嫁入り前の娘の身体で。

「あんたは狼の開けた口に望んで飛び込んで行きかねない。危うくて見ていられないよ」

 わたし、そこ迄向う見ずではない積りです。

「その上初日も男と一緒に夜店を歩くって」
「沢尻君は、小学校から一緒だったお友達よ。佐々木さんや和泉さん達も一緒に歩くし
…」

 サクヤさんは僻みっぽい語調で真弓さんの感覚をぴくぴく引っ張る。真弓さんは抱擁も
お泊りも、女の子同士には大胆な迄に寛容だけど、男の子が関ると即座に警戒態勢に入る。
どこで誰とどの位の時間何をしたか。どの様に感じ相手の反応は。次を約束したのか断っ
たのか曖昧か。逐一把握しないと不安な様で。

 手を握るとか背中を合わせるとか、一緒に下校するとか位でも妖怪アンテナが立つ様で、
やや心配過剰です。心配させる事態を招いたわたしとしては、当分は指摘も出来ないけど。

「全員で最終バスの時間に帰るから大丈夫」

 真弓さんの早期警戒網の誤動作を招こうと企むサクヤさんの声色に、わたしは心配ご無
用と言葉を重ねる。最後迄他に女の子も居て、2人きりじゃなく、遅すぎない内に帰りま
す。小野君や菊池先輩との2日目もそれに準じて。

「あんたは自覚が足りなすぎる。男はみんな羊の皮を被った狼なんだ。欲望の塊なんだよ。
特に柚明みたいな可愛い娘を、捨て置く奴がいる筈がない。隙を見て豹変する。爽やかな
声や優しい物腰に騙されて、気付いた時は逃げられない。多少修練したと言っても、押し
倒され抱き締められては、その細腕じゃ…」

 ぶるぶると首を真横に振って、思い浮べた絵図を追い払うけど、わたしにも桂ちゃんに
も白花ちゃんにもそれは『?』でしかなくて。わたしが女の子の危機感なさ過ぎなのか
な?

「あなたが狼言うのも、どうかと想うけど」
「……余計なお世話だよっ。あたしはね…」

 真弓さんの突っ込みにやや怯む。今回はどの場でも3人以上で、女の子も挟まるので真
弓さんの警報は鳴ってない様だ。サクヤさんが真弓さん以上に、わたしを心配気味なのは、

「柚明ちゃんも偶にはサクヤを相手に修練してみても良いかもね」「真弓叔母さん…?」

 あなたが男の子に、実際どの程度抗えるか見当付かないから、サクヤも過剰に心配する。
サクヤもある程度人の強弱は見抜く筈だけど、柚明ちゃんは華奢で細身だし、サクヤはあ
なたの事になると溺れるから。対戦して肌身で強さを知れば、冷静に心配もできるでしょ
う。

「溺れるって、何だい真弓。その言い方は」

 サクヤさんの困惑気味な抗議を受け流し、

「柚明ちゃんもわたしとの修練だけではその進展を測りにくいし、わたしとの戦いに順応
しすぎると戦いの幅が狭くなる。そろそろ他に相手を探し、対戦してみるのも良い頃よ」

 確かにそれはその通りだったけど。でも。

「サクヤおばさんと?」「柚明と、かい…」

 少し思案する感じで眺め合うわたし達に、

「狼への対処を実地で学べる貴重な機会よ」

「狼……サクヤおばさんも、豹変するの?」
「な、何言っているんだい柚明。あたしは」

 話の経緯から、お互いが想像したのは多分、突きや蹴り等の応酬ではなくて、和泉さん
や真沙美さんと為した様な寝技の攻防で。サクヤさんは多分襲う側、わたしは襲われる側
を。

 ぶるぶると2人首を真横に振って、思い浮べた絵図を互いに追い払うけど、桂ちゃんと
白花ちゃんにはそれは『?』でしかない様で。漸く女の子の危機感を感じました。頬が少
し熱いです。サクヤさん相手だと想うと、必ずしも嫌でもなくて、更に顔に熱が集まるけ
ど。抗っても無理矢理サクヤさんに組み敷かれ身動き出来なくされる図を想い浮べると、
その。

 言葉を継げなくなったわたし達に向けて、

「お祭りを控えた今は何かと忙しいから、落ち着いた後か次の機会という事になるかね」

 気持を整理する間はあると気付かせてくれたのは、笑子おばあさんで。修練でもサクヤ
さんと対戦するなんて、考えた事がなかった。その視野の狭さこそが、わたしの未熟さか
も。

「宜しくお願いします。サクヤおばさん…」
「ああ……ああ。今度機会が、あったらね」

 奇妙な沈黙で一旦途切れた話を繋ぐのは、

「おとこの子は、みんなみんな狼さん…?」

 桂ちゃんの問に、正樹さんは少し苦笑い。

「大好きな人の前では、狼さんになってしまう事もあるんだ。大好きな人が、食べてしま
いたい程可愛いと、思える時もあるんだよ」

 幼子相手だけど、含蓄のあるお返事です。

「おとうさんも、狼さんなっちゃうの…?」

 白花ちゃんの問は、微かな不安を込めて。

「桂と白花が眠った後で、時々お父さんも狼になる事があるんだ。お母さんに向けてね」

 羽藤家唯一の狼さんの実感が語られます。

「おかあさんを、食べたりしちゃうの…?」

 桂ちゃんの不安を宿す問には微笑み返し、

「食べたら、いなくなってしまうだろう?」

 うん、と頷く桂ちゃんに、穏やかな声は、

「居なくなったら寂しいから、食べないよ」

 お父さんの狼は、お母さんを大切にだっこするだけだ。だから、安心して良いんだよ…。

 真弓さんとサクヤさんが共々に頬を染める。笑子おばあさんだけが1人平静に箸を進め
て。わたしも少しもじもじしています。まだ平常心が不足気味です。桂ちゃんや白花ちゃ
んの様に、お話しを真っ直ぐ受け止められません。

 やっと安心した顔を見せる桂ちゃんの隣で、もう一段の安心を欲しがる白花ちゃんの問
が、

「はくかの狼もゆーねぇ食べずにいれる?」

 羽藤家の唯一に次ぐ狼候補の現在の心配は、わたしの様で。白花ちゃんと桂ちゃんにな
ら、わたしは食べられても本望だけど。そう応えると白花ちゃんは絶対嫌だと言うだろう
から、

「大丈夫よ。白花ちゃんが狼さんになっても、わたしは食べられずに傍に居続けるから
…」

 白花ちゃんの求めに先回りし、抱き上げて頬に頬を合わせる。肌身で言葉を補い想いを
伝える。温かな柔肌が滑らかに心地良い脇で、

「あーっ。けいも狼さんなるぅ。なってゆめいおねえちゃん食べずに、傍に居続けるぅ」

 何と、狼候補もう1人出現です。わたしの身も風前の灯火かも。でもその危うさがわた
しには望ましく、微笑ましくて。その日が来るのが嬉しい様な、嬉しい様な、嬉しい様な。

 残り少ない一学期の日々は瞬く間に過ぎて。
 槐のご神木の花満開なお祭りの日が訪れた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 オハシラ様の祭儀は羽藤が羽様で執り行うけど、出店や盆踊りやカラオケ大会等の催し
は銀座通で行う。隠す程の祭儀ではないけど、人が近くに雑多に居ては静謐が保てないの
で、人を呼ぶ要素は少し遠くにある方が都合良い。

 山の中腹にあるご神木の前で、正午に行う祭儀に合わせ、午前拾時頃からみんなで山へ。
子供はご神木に近づいてはダメだけど、一年少し前に羽様を訪れた鬼に抗い、桂ちゃんと
白花ちゃんを命懸けで守り抜けたあの日から、わたしは実質大人だとその禁を解かれてい
る。

 幼子2人はサクヤさんとお屋敷で留守番だ。サクヤさんは羽藤の家族なので、以前は一
緒にご神木迄行っていたとか。ご神木に特別の事情を持つサクヤさんは、羽藤の了承の上
で、毎年日中の祭儀と別にお祭り当夜にご神木を訪れているらしい。近年は白花ちゃんと
桂ちゃんのお留守番を看る為に『昼は良いよ』と。

 祭儀を司る正樹さん以外は、正装と言っても動き易い今様の洋服姿だ。わたしも中学校
のセーラー服で良いと。変らない敬意を確かに抱くなら、装いは時代時代の正装で良いと。

「来年は柚明に執り行って貰うのも良いね」

 祭儀を司る者は家長の指名だ。5年前迄はわたしを連れて羽様に帰ったお母さんが司っ
ていた様だ。正樹さんは血が薄すぎて、形式的に要件を満たしても、実質を保つのにおば
あさんの補助が要る様で。大人扱いならわたしの方が良いと。正樹さんも特段異議もなく、

「巫女装束を新調しなければならないかな」
「巫女装束って白い小袖に緋袴の、ですか」

 わたし似合うかな。想い浮べてみるけど。

「可愛いでしょうね。柚明ちゃんの巫女姿」

 真弓さん、余り期待し過ぎないで下さい。

 体型も容姿も、見て惚れ惚れする程良いと言えないわたしは、装いに負けてしまうかも。
愉しみだけど、身につける迄はやや不安です。

 細く狭い山道は、雨や夜露で濡れていると難渋するけど、夏の日が照りつける今は乾き、
登りにも下りにも差し障りない。大人の目線程に伸びた雑草や、木々の枝葉を縫って進み。

 ざあぁっ……。

 急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。

 そこには見上げる程大きな、数百の歳月を雨風と共に過したといった趣のある、大きな
大きな樹が根を下ろしていた。槐のご神木だ。ご神木に遠慮した様に、その周囲は若い樹
も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。

 わたし達は折り畳みの簡素な祭壇を設置し、白布を広げてお菓子やお酒・塩や穀物を供
え。

 笑子おばあさんが瞳を閉じてご神木に触れ、数回の深呼吸を経てから瞳を開いて手を放
し、祭儀が始る。正樹さんが祝詞を読み上げ、その後に現代の言葉でほぼ同じ内容を復唱
する。

『久方ぶりです。オハシラ様のお陰でわたし達は幸せに暮らせています。今後もわたし達
はオハシラ様を語り継ぎ、守り続けます。変らない想いを胸に抱きます。どうか心安らか
にお努めに励み、わたし達を見守り下さい』

 荘厳さや神聖さは余りない。久しぶりのご挨拶に来た様な。心を込める事は大切だけど、
畏怖や隔絶は不要だと。自然体の親しみの中にも受け継いで変らない遠祖への敬愛を込め。

 準備も後片付けも含め1時間で祭儀は終る。劇的な変化が見える訳でもなく、オハシラ
様からお返事が聞える訳でもなく。他の神社のお祭りもこんな感じなのだろうか。砕けす
ぎない位で日常の如く、淡々と撤収も終って…。

 夕刻前から白花ちゃんと桂ちゃんとサクヤさんも交えて、みんなで経観塚の宵宮を回る。
ここではわたしも真弓さんも浴衣に着替えた。逃げ回ると言うより動き続ける桂ちゃんと
白花ちゃんを捉まえて浴衣を着せ。サクヤさんも浴衣を着れば色っぽくて美しいと想うの
に。

 銀座通では、今迄どこに潜んでいたかと言う数の人が、出店の連なる一角を密に歩いて、

「うわわわ」「すごいね」

 最初だけ人混みに呑まれて、立ち止まっていた桂ちゃんも、その賑わいにすぐに馴染む。
華やかな灯火に導かれる侭に、足を踏み出しつつ白花ちゃんやわたしの腕を、引っ張って。

「おかあさん、わたあめっ!」「おとうさん、お面っ」「サクヤおばちゃん、リンゴあ
め」

 幼子2人に大人4人+1人が振り回される。子供の元気は無限に近いと、知らされまし
た。わたしも少し前迄はそうだった筈なんだけど。

「真沙美さん、こんにちは」「ああ、柚明」

 夏休みなので級友が出歩いていても遭遇しても奇妙ではない。家同士の関りがあるので、
見かけたわたしが家族の輪から離れて声をかけるのに、真沙美さんは少し恥ずかしそうに、

「賢也がどうしてもって言うから、夜にあんた達と一緒に歩く迄の時間限定で、ね……」

 賢也君を引き連れる様に出店を歩いていた。困惑は、わたしと話す様を見られる懸念よ
り、賢也君と歩く様を見られる事への懸念か。賢也君が荷物持ちなのは頼んだ側の弱味だ
ろう。わたしは自然に状況を受け容れて微笑み返し、

「真沙美さん、浴衣の紅花が鮮やかで綺麗」

 燃える紅が情熱的な彼女には良く映える。

「柚明こそ、その蝶の模様、手織りだね…」

 青白い蝶はおばあさん手製のお気に入り。
 互いに手を伸ばし布地と文様を触り合う。

 その様が女の子同士でも近しすぎて見えたのか。学生服姿の賢也君が脇から言葉を挟み、

「羽藤は家族と来ているのか?」「うん…」

 白花ちゃんと桂ちゃんは幼子だし、笑子おばあさんも歳だから、夜6時を目処に羽様に
帰るの。わたしは残って真沙美さんや和泉さん達と合流する積りだけど。軽く頭を下げて、

「それ迄の間、真沙美さんをお願いします」
「真沙美ちゃんは俺がいる限り大丈夫だっ」

 賢也君はまるで恋のライバルに頼りがいを見せつける様に、己の胸をどんと左拳で叩く。
柔らかに微笑むわたしと、力の入る彼を前に、

「賢也じゃ、頼りないんだけどね。正直…」

 視線を投げかけつつ言い淀むのは、わたしを引き合いに出すと、賢也君に分が悪い為か。
2人のそぞろ歩きを邪魔しても悪いし、わたしもまだ白花ちゃんや桂ちゃんと歩く頃合だ。

「それじゃあ、また」「うん、後でね柚明」

 真沙美さん達と別れて、振り返ると見かけたのが、出店から少し外れた処に佇む沢尻君
と和泉さんの2人で。声を掛けようか否かを一瞬迷ったけど、和泉さんに先に気付かれて、

「わっ、ゆ、ゆめいさん」「ああ、羽藤か」

 2人とも、少しどぎまぎした感じなのは?

「い、今遭ったばかりなの。演劇部の面々で、非日常の中を歩む人達を観察しようって
…」

 少し離れた処に男の子2人と女の子が4人。でも、沢尻君は確か演劇部ではなかった筈
だ。

「あたしも今、1人でいる沢尻君を見かけて、話しかけた処なの。本当だよっ」「そう
…」

 信じて欲しいと焦る声に一応話を了承する。演劇部の面々もいる事だし、和泉さんの言
葉は声音や顔色や仕草からも多分本当だ。別に、そうであってもなくても特段問題はない
けど。

「華子が羽藤や和泉と夜に回る前に、下見をしたいと言ってさ。時間も少しあったから」

 沢尻君が事情を明かす。偶々和泉さんが傍に来て話しかけた時をわたしが見かけた様だ。

「華子のトイレ待ちで立っていたら和泉が」
「そ、そうなの。決して誤解はしない様に」

 和泉さんが怖れるのは何の誤解でしょう?

「そう言う訳だから、あたしはもう暫く演劇部の面々と人間観察に立ち戻らせて頂きます。
怪しい動きを見せたら、その辺の壁や障子の目から窺っている事もあるので、宜しくぅ」

 実に器用に誰にもぶつからずバックで去る。
 それを不思議そうに2人で見守っていると、

「あら、羽藤さん。未だ時間早いのに…?」

 佐々木さんが戻り来て、わたしが沢尻君と2人で誤解を受けかねない状況になっていた。

「家族で歩く内に、見かけたもので、つい」

 少し離れた処に立つサクヤさんを示して、

「もう少し家族で回らなきゃいけないから」

 むしろ夜より今がメインの佐々木さんを邪魔しては拙い。馬に蹴られて死ぬ羽目を見る。
沢尻君の言動にはその実感が不足気味だけど、わたしから佐々木さんの前で、そうと伝え
るのは更に拙い。2人の仲は2人に任せるべき。わたしに出来るのは2人を2人にする事
位だ。

 挨拶も早々に来た道を戻る。知った顔にも動揺しない様に。平常心はいつでも重要です。

「ゆめいおねえちゃん……金魚すくいっ!」

 リンゴ飴を預けられたわたしが、桂ちゃんに空いた手を引っ張られたのは、目の前で白
花ちゃんが金魚掬いをしくじった直後だった。

「ゆーねぇ、けいが金魚、ほしいのって…」

 挑戦したけど金魚の方が上手だった様だ。

「あかいの。赤い金魚さん、かわいいのっ」

 指差し叫ぶ桂ちゃんの丸い頬が愛らしい。
 これはもう応えない訳には行かなかった。

「はい。今取ってあげるから、少し待って」

 一匹残らず桂ちゃんに、位の意気込みで。

 少しの間集中して、赤い金魚を数匹手中に収め、瞳を輝かせた白花ちゃんに手渡した時、

「……桂、ちゃん……?」「あれ」「あら」

 目の届く範囲に、姿が見あたらなかった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 真弓さんもサクヤさんも笑子おばあさんも、わたしの金魚掬いと白花ちゃんの喜ぶ様子
と、周囲の賑わいに気を取られ、周辺から桂ちゃんが抜け出ていた事に、今漸く気付いた
様で。

 幼子2人は背が低く、すぐ人混みに紛れてしまう。目印にと真弓さんが持たせた風船も、
少し離れればやはり紛れる。周囲は気配が雑多に過ぎて辿る事も難しい。真弓さんもサク
ヤさんも、分け入って探す他にないと察して。

「桂が……迷子に? 仕方ないな、探そう」

 正樹さんは、田舎の祭りで人出の数も所詮限られるから、そう焦る事はないと言いつつ、

「真弓は上手側、サクヤさんは下手側、柚明ちゃんは一本下の上手側、僕はその下手側を
探すよ。母さんは白花と一緒に本部事務局で。迷子を届けに来る人がいるかも知れない
…」

 出店の端迄行って反転して戻ってくること。

「それで見つからなければ放送をかけて貰い、事務局や駐在さんにもお願いしよう。大丈
夫、子供の足だ。意外とその辺ですぐ見つかる」

「ごめんなさい。わたし、良く見てなくて」

 みんなとはぐれた桂ちゃんは、今この時にどれ程心細く寂しいだろう。真弓さんや正樹
さんを求めて涙を浮べているかも。行くべき途を見失って途方に暮れているかも。泣いて
叫んでもこの雑踏では少し離れると届かない。その不安を拭いたかったのに、その怖れを
受け止めたかったのに。心を守りたかったのに。

 温もりが欲された時傍にいてあげられない。
 たいせつな人は常に気に留めるべきだった。
 お祭りで気分が浮れて大切な人を見失って。
 自責に心を押し潰されそうになるわたしを、

「あなたの所為じゃないよ、柚明」

 目の前に向き合わせてくれたのは、笑子おばあさんだ。縮まる両肩を軽く抑えてくれて、

「少なくとも柚明だけの所為じゃない。柚明だけの責任でも。だから、柚明が1人で悔い
る必要もないの。探し出すのは、みんなで」

 責任の所在は一番に大切な問題じゃない。
 黒目がわたしの荒れる心を鎮めてくれて、

「柚明に今、一番大切な問題は、何?」
「桂ちゃんを、早く探し出したい……」

「その正解の為に、柚明の真の望みの為に」

 そうだった。やれる事がある限り、一刻を争うなら争う程に、責任の所在や自責に囚わ
れている暇はない。今一番大切な事に全力を。

「確か桂は、ネズミの風船だったね、真弓」
「ええ、今もまだ持っていればの話だけど」

 サクヤさんや真弓さんが今動き出したのは、わたしが立ち直るのを待ってくれた故なの
か。わたし、本当に愚か者。桂ちゃんを探しに行くみんなの足迄止めて。でも己を責める
のは後回し。今は為さねばならない事に向き合う。

 幼子だから風船を持ち続けてはいないかも知れない。夜の帳が落ち始めた中、夜店の隅
や物陰にも注意しつつ、探す必要がありそう。

 各々に歩み出したわたし達だったけど。
 探しても視界に求め人は見えてこない。
 辿っても心にその気配は浮んでこない。

 視線を低め足を急かし、でも見落しがない様に。少しずつ募る焦りに、心が徐々に曇り
行く錯覚を憶えつつ。周囲に視線を確かに向ける。急ぐ時こそ慎重に丹念に事を為さねば。

 場に残る気配も、次々に歩み来る人の雑踏に掻き消され、辿るのは無理だった。ここ迄
人が多くなければ、桂ちゃんとすれ違った人に掠め残った気配を飛び石で辿れた筈だけど。
多すぎて、絡まり過ぎ、薄くなりすぎている。間近迄行かないと、力による探りも届かな
い。己の未熟と力不足が悔しい。もっと修練して、更に微細な気配も感じる様になれてい
れば…。

 宵宮を行く人々はみんな華やかで幸せそう。
 わたしもさっき迄は幸せに満ちていたのに。
 すぐ傍を行き交ってもこの心は酷く乱れて。
 己を保って必要な所作を為すのが精一杯で。
 人の想いは何と脆くて危うい物なのだろう。

「うわああぁぁん!」

 間近で響く子供の泣き声に、想わず身が固まった。桂ちゃんではない。くじを引いても
当たりが出ないと、出店の前で地団駄を踏む幼子は桂ちゃんと同じ年頃だったけど。間近
のおかあさんに縋って、何とかしてと訴える

 他の家の子供だったけど、母を求め縋るその想いに、わたしの感応の力が強く惹かれた。
わたしは今、その子を探している訳ではない。分って欲しい想いが心に強く響いてくるけ
ど。

 その様を見て受け流し、探りを続けに人混みに視線を戻した処で、心が何かに引っ掛る。
瞬間人混みの気配も物音も心の視界から消え。己の中で何かが目覚める予感に鳥肌が立っ
た。

 わたしは今、何故心を強く引っ張られた?
 あの幼子に強く求める想いがあったから。

 間近とはいえ、わたしを求めた訳ではない幼子の訴えが、強い求めがわたしに作用した。
声や仕草や足音じゃない。わたしは母を求める幼子の強い想いに、心の水面を揺らされた。

 それを為せるなら。それを感じ取れるなら。

 わたしが探すだけではなく、向うが求めてくれる想いを探す。片方から手を伸ばすだけ
ではなく、差し伸べられた手を掴む。桂ちゃんがわたし達を求めて縋る想いを、感じ取る。
気配の残り香ではなく、桂ちゃんが今わたしに向けてくれる想いを、辿る事が出来るなら。

 人は間近に多数いるけど、想いは雑多に行き交うけど。でも、親にはぐれた子供の強い
求めは、様々な諸々を越えて届く筈だ。感じ取れない筈がない。わたしと桂ちゃんは濃い
贄の血の定めに、一緒に縛られ繋がれている。

「……こっちで、良いの? 桂ちゃん……」

 想いの深さ、絡みの太さ、絆の強さを視る。招く声は必ず聞える。誰よりわたしに響い
て届く。己を呼ぶ声の発信源を遡る。出店を外れ暗がりに踏み入るわたしの前に見えたの
は、桂ちゃんと制服姿の塩原先輩の2人だった…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「桂ちゃん、塩原先輩……」「羽藤、かよ」

 異色の組み合わせにわたしも続きが出ない。出店の灯りはすぐ背後、叫び声は届くだろ
うけど、今ここに人目はない。出店の裏の暗がりで木々が生い茂る林の外れに、何故2人
が。

「う、う、うわあぁぁん!」「桂ちゃん!」

 固まっていた桂ちゃんが、泣き声と共にわたしに駆け寄ってくる。わたしも迎えに走り
出し、拾メートル程の隔てをすぐゼロにする。屈み込んで涙を流す頬を胸に抱き、温かい
感触を交わし合い、号泣を発する唇を肌に受け。言葉は泣き叫ぶ幼子に心を伝えるに力不
足だ。温もりと肌触りと、微かに通わせる血の力で。

「羽藤……俺は、何も……」

 屈んだ姿勢で半ば無意識に、わたしは塩原先輩から桂ちゃんを両腕で庇い身構えていた。
先輩も一学期中に停学は既に解けていたけど、まともに向き合うのは、あの時の廃寺以来
で。

「うわああぁぁん! ……ひっく、ひっく」
「お、俺は何も、してないぞ。た、唯……」

 彼の言葉に応えないのは、今は幼子の求めに応えたいから。心細さにはち切れた想いを
受け止めたいから。この身の全てで抱き留めたと示す事が大切だから。彼の弁明を拒む訳
ではない。無視する訳でも、信じない訳でも。

「良かった。……無事に元気でいてくれて」

 唇が触れそうな程に近くから、瞳を見つめて見つめられ、黒目に互いの顔を映し合って、

「桂ちゃん。わたしの、たいせつなひと…」

 左右の瞳の頬を伝う涙を、唇で掬い取る。
 幼子の柔肌は滑らかで温かで、心地良い。

 号泣が嗚咽に変り、心の津波が引き終えた辺りで、幼子の両肩を再度胸の内に抱き留め、

「塩原先輩。わたしの大切な桂ちゃんを…」
「だから俺は、その辺で迷子を見かけて…」

 中途で良い淀んだ彼の沈黙を埋めて続け、

「保護して下さって有り難うございました」
「おう……って俺の言う事、信じるのか?」

 素直すぎる弁明の受容に怪訝そうな彼に、

「はい……信じない方が良かったですか?」
「い、いや。そう言う訳じゃないけどさ…」

 桂ちゃんの号泣は今迄心細かった為だ。わたしに逢えた安心の故だ。彼に何かされた訳
ではない。肌を合わせなくてもその位は分る。

 桂ちゃんの震えが恐怖か唯の心細さか位は。
 寒さで震えるのと心が震えるの位違うから。

 桂ちゃんを腕に抱いた侭先輩の間近に歩み寄り、彼の背後の木の幹の下に落ちているゴ
ムの切れ端を手にとる。人の殆ど来ないここで起こった事なら、わたしの関知でも辿れた。

「風船、桂ちゃんの手を離れて、ここ迄飛んで来たんですね。木の枝に、引っ掛って…」

 ゴムは、ネズミの風船のなれの果てだった。

 風船を追って暗がり迄踏み込む桂ちゃんを見かけた先輩は、その後を追ってここ迄来て、

「風船を、取ってくれようとしたんですね」

 でも木の枝葉に擦れた風船は結局割れて。
 そこで桂ちゃんは己を迷子と漸く気付き。
 彼が事務局に迷子を届けようとした処に。

「わたしが来た訳でしょう?」「ああ……」

 わたしへの応対が尚少しぎこちない彼に、

「わたしの不注意で、たいせつな人を人混みの中で見失ってしまって……助かりました」

 素直に深々と頭を下げる。今迄にどんな経緯があろうと、彼が一体どこの誰で何者でも、
たいせつな人を保護してくれた事実に、感謝する。桂ちゃんが無事だったのは彼のお陰だ。

「お前の、知り合いだったのか。その……」

 証拠も証人もないし、人さらいに誤解されると諦めていたよ。ほっとした少し気弱な表
情が奇妙に親しみを持てる。桂ちゃんは幼子で証言できない怖れはあったけど。普段の行
いが行いだけに、誤解を招きそうだったけど。

「従妹なんです。わたしのたいせつなひと」

 唯闇雲に人の心を隔てたいとは思わない。
 特にたいせつな人を助けてくれた恩人に。
 返すのは警戒でも敵意でも怖れでもなく。

「右の掌、血が滲んでいるわ。もしかして」

 風船を取ろうとして幹や枝で擦り剥いた?

「あ、ああ。こんなの、掠り傷だよ。お…」

 間近に歩み寄って、その手を取って眺め。

「絆創膏を持っているの。貼っておくわね」

「大丈夫だって。こんなの、いつもの事だ」
「バイ菌が入って化膿するかも知れないわ」

 桂ちゃんがお転婆で良く膝小僧を擦り剥くから、絆創膏は外出時は常に持ち歩いている。
挟んであった浴衣の帯から取り出して、未だ人肌の暖かみを持つそれを先輩の右手の甲に、

「……わりぃな」「こちらこそ。桂ちゃんの為に擦り傷作らせちゃって、ごめんなさい」

 気付かれない位に癒しの力を流しておく。
 大きくて硬い男の掌に愛おしむ様に触れ。

「羽藤。お前って、意外と、さ……」「?」

 先輩は間近で見下ろして何かを言いかけ、

「いや、別に。……何でもない。さんきゅ」

 わたしは右手を離して傍の桂ちゃんの左手に繋ぎ、残した左手をその侭彼の右掌に絡め、

「少し一緒に、歩きませんか?」「え…?」

 先輩も宵宮に来たんでしょう、お友達と。

「ああ、遠藤や岩間達と、一緒だけどさ…」

 はぐれた時に桂ちゃんを見かけたらしい。

「じゃあ、先輩がお友達に合流するか、わたしが真弓叔母さん達に合流する迄、一緒に」

 暗がりから、灯火の照す華やかな場へと。
 大中小と非対称な三人並んで、歩み行く。

「は、恥ずかしいぞ、俺。それに羽藤お前」

 桂ちゃんと2人で『?』を顔に出すのに、

「お前、嫌じゃないのかよ。怖くないのか」

 嫌ってないけど、周囲の視線を引くのが気になるみたい。直接関係のない2年生も含め、
学校中にあの一件は知れ渡っている。わたしと先輩が連れだって歩く姿は奇異らしく、覗
き込む目線と驚きの硬直を、何組か見かけた。和泉さんを含む演劇部員とか、小野君とか
…。

「……正直、少し怖いです」「じゃあ何で」

 先輩は今わたしに悪意を持ってないから。
 桂ちゃんの恩人にわたしの心を返したい。
 足を止めて、先輩の瞳を見上げて応えて。

「これ以上後味の悪い関係を続けたくないの。
 害した者と害された者に隔てるのではなく、同じ学校に通う者として隔てなく心を通わ
せたい。先輩に敵意がないなら、わたしが心を開けば、穏やかにお話しも出来る筈です
…」

 わたしが心を投げかける事で、先輩も気持を投げ返す事が出来る。わたしが閉ざさなけ
れば、諦めなければ、求め続ければ叶うかも。怖くない訳ではないけど、できる事は諦め
たくない。心を通わす事が無理と知らされる迄。

「お前、傷ついてないのか? あれだけの事されて、俺を恨んでないのか? 今更俺と仲
良くなりたいって本気で想っているのか?」

 むしろ加害者の方が、被害者の報復と言うより、拒絶を想定しやすいのかも知れない。

 わたしは迷いなく己の真意の侭に頷いて、

「生命を取りに、来ていた訳ではないもの」

 力で傷を治せる以上に、修練で痛みに耐性がある以上に、生命失った訳ではない、手足
落された訳ではない。鬼にお父さんお母さんを奪われたのとは次元が違う。今回の損失は
わたしが受け止める限り、収まりが付く物だ。

 絶対許せない損失は防ぎ止めたから、塩原先輩とも今後が望める。和泉さんも真沙美さ
んも失わず終えたから、彼を未だ受容できる。お父さんお母さんを奪ったあの鬼に、それ
はできなかった。類似の孤独が響いても、特別な定めの心細さを抱き合えても、彼と日々
は共に出来なかった。一緒に生きられなかった。

『出逢い方が違っていれば、あの鬼とももっと違う接し方があったのかも知れない。鬼で
はなく、彼として向き合う事が出来たかも』

 充分な強さを持てば、たいせつな人を守れる以上に、敵も許し和解出来るかも知れない。
退け守り防げた後で、滅ぼさず隔てもせずに、心交えられるかも知れない。誤解を解いた
り想いを通わす間を持てて敵を友に出来るかも。

 真沙美さんや、美子さん達や、志保さんや。
 サクヤさんと真弓さんの絆が、そうだった。

 わたしに残る怖れも、嫌悪も不信も、自身で拭える。たいせつな人を脅かされなければ、
わたしに誰と戦う理由も事情もありはしない。誰かを拒み隔てる理由も事情もありはしな
い。

「こうして自身に先輩の感触を、肌身で馴染ませたいの。怖くないって言い聞かせたい」

 害を与えられたからと害を返したり、隔てたりしていては、世界はいつ迄も半分以下だ。

「わたしは先輩を憎んでも嫌ってもいません。
 やり直しは利くと想います。未だ半年以上一緒の学校に通う訳ですし、後輩として良い
関係を繋ぎたい。わたし、下級生なのに生意気な口を利いて、沢山非礼をしちゃいました。
事情はあったにせよ、先輩達の憤りに油を注いでいました。それには一度謝りたくて…」

 ごめんなさい。往来の中だけど頭を下げる。

 誠意を込めて、相手の答を待つ。
 そんなわたしに、目の前の人は。

 やや困惑気味に、ぎこちなく少し声が震え。

「おう。そ、その……分れば、良いんだ…」
「許して、頂けます?」

「まあ、その、何だ。今後は、よろしくだ」
「有り難う。分って貰えて、わたし嬉しい」

 その後遠藤先輩や中村先輩とも五月雨に合流し、驚きに固まる面々を塩原先輩とわたし
で和やかに混ぜ込んで、桂ちゃんを伴って本部事務局で待つ白花ちゃん達の元へ帰り着き。

 男の子拾人弱に囲まれての帰着に、サクヤさんと真弓さんが瞬時戦闘態勢を見せるけど、
わたしが先輩達に笑顔でお辞儀して場を収め。サクヤさんが、真弓さんより半瞬早くわた
しに詰め寄って、両肩を抑えつつほっと溜息を、

「これ迄の経緯を承知で手を繋げるあんたを、不用心と言うのか、お人好しと言うのか
…」

「少しだけ、怖かったけど。でも桂ちゃんを見てくれた恩人だし、害意もなかったから」

 飢えてなければ狼だって、対応次第で害を為させず付き合う事も出来るかも。真弓さん
とサクヤさんには揃って甘いと叱られたけど。

「男は突然狼になる物なのよ、柚明ちゃん」
「あんたは一体、大胆なのか太平楽なのか」

 やはりわたし、女の子の危機感薄いかな?

「ゆめいさんって、細心なのか、剛胆なのか、お気楽なのか、今でも時々良く分らない
よ」

 夜に合流した和泉さんに、真弓さん達の小言と似た事を言われて苦笑い。真沙美さんも
佐々木さんも、暫く口が塞がらなかった様で。誰に頼まずともこの話は瞬く間に広まりそ
う。沢尻君はそれが何より悪い噂の払拭になると、半ば呆れた講評をくれた。噂に一部で
も真実が含まれるなら、多数の行き交う場で遭遇してもわたしが嫌うのが正当な対処の筈
だから。

「私と親密な姿も見せつければ良いよ柚明」
「それは又色々お話を複雑にしそうな気が」
「華ちゃん、気にしない。家同士も性別も」
「少しは気にしようよ。世間体もあるし…」
「真相の方は気にしなくて良いのか羽藤は」

 5人のお祭り練り歩きが終え、最終バスで羽様のお屋敷に帰り着けたのは、桂ちゃん白
花ちゃんが眠りについて暫く経った後だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 羽様の森は大きな満月に蒼く照されていた。天に輝く星空の元、地は夜露がキラキラ瞬
き。薄闇も森に入れば枝葉に遮られて濃密だけど、贄の血の力の修練で、わたしは視覚が
真っ暗でも問題ない。夜でも地面の凹凸に躓く事はないし、暗闇でも枝や蜘蛛の巣は避け
られる。

 日中来た時と様相を変えて、静かに佇む山を森をわたしは1人進む。実の処わたしは和
装で山道を行くのも差し障りはない。木の枝で浴衣を擦ったり、転んで埃や泥に汚す心配
も殆どない。流石に夜露には多少濡れるけど。

 夜の山に入るのも、夜のご神木に近づくのも、多分初めて。夜に出歩く用もないわたし
は今迄、陽が落ちた後は外へ出た事も少ない。

 ご神木へ近づく事への禁は解かれたわたしだけど、昼には祭儀で何度か訪れはしたけど、
不用意な接近は尚自主規制している。わたしは修練途上の未熟者だ。憚って当然な以上に、

「招かれている。これは、オハシラ様…?」

 森の奥に、見えない向うに、心が引き寄せられる錯覚を、特に夜に感じる。外に出ると、
山へ引き込まれそう。子供が森に、ご神木に近づいてはいけないというのはこういう事か。
大人でも心を確かに持たないと、誘われる…。

 今のわたしは確かな目的を持って、ご神木に向っているけど。以前より強い導きを感じ
つつ、近づけば近づく程確かな存在感を感じつつ。でも、わたしの目的はご神木ではない。

 ざあぁっ……。

 急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。

 鎮座するご神木を前に、遠慮した様に若い樹も丈の高い草も生えず、少し開けた一角で。
日中は折り畳みの祭壇を置き、白布を広げてお供えを捧げた緑の絨毯が広がる。おばあさ
んが瞳を閉じて触れたご神木をやや遠く眺め。

 わたしは外れの一角に留まって、そこから歩み出す事はせず、月明りの下の像を1人声
もなく見つめて時を待つ。静謐を破らない様に。特別な人の特別な時を、壊してしまわな
い様に。たいせつな人の想いがこもる暫くを。

 サクヤさんは笑子おばあさんの為した様に、右手を胸辺り迄軽く持ち上げ、ご神木に触
れ合わせ、額も幹に触れ合わせ、身動きせずに。距離は参拾メートル位あっただろうか。
呟きが聞える距離ではなかったけど、唇の動きが見える間合ではなかったけど。熱く哀し
い想いがご神木へと流れ込む。そしてご神木は…。

『ご神木が、息づいている。応えている…』

 日中のオハシラ様とそれは全然別物だった。昼間見るご神木が死んでいる訳ではないけ
ど、それは明らかに別の生物だった。起きている。そう、眠っているのと起きているのと
の違い。そういえば贄の血の力も鬼も、日中より夜の方が遙かに活発に作用するけど。

『オハシラ様も、不可思議なもの。贄の血の力や、鬼に近しくて不思議はない。日中より、
夜にその真の姿が見えても不思議ではない』

 月の輝きを生命に取り込んでいる。サクヤさんの想いを力に取り込んでいる。何と生々
しい。通り過ぎる風に、咲き誇る白い花がゆらりと揺れて散る。ちょうど槐の花も満開だ。
サクヤさんの白銀の長い髪も蒼い月光を受け、単なる美しさを越えて幻想的な彩りを帯び
て。

 どのくらい、見守り続けていただろうか。

 月が傾き始めた頃に、サクヤさんは静かに槐から額を離し、手を放し。満開に花をつけ
た頭上の枝を見上げてから、こちらに歩んで。

 ここ迄は、サクヤさんとご神木の大切な時。
 でもここからは、サクヤさんとわたしの…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明、あんた1人で、こんな夜更けに…」
「心ゆく迄、ご神木とお話できましたか?」

 サクヤさんは鋭いから、お話の邪魔にならない様に少し離れて終りを待っていた。わた
しの存在を悟られて気が散らない様に。山道の途上は見通しが悪いので、広場の片隅で…。

 余人を交えず溢れさせたい想いもある。
 人前では見せられない心情とかもある。

 わたしはサクヤさんの想いなら幾らでも何でも受け容れるけど、身も心も差し出すけど。
どんなに心を開いても、年下には見せる事を望まない、受け容れ難い想いもある。その人
とだけ、ご神木とだけ共有したい想いもある。

 艶やかな眉間に皺が寄って、少し不機嫌そうなのは、わたしの夜歩きを咎めたい意図か。

「家に入ってドアを閉める迄、気を……」
「抜かないのが、淑女の心がけですよね」

 お屋敷の玄関で、笑子おばあさんに気付かれました。サクヤおばさんとご神木のお話は
邪魔しません、終るのを待って迎えて一緒に帰って来ますと応えたら、頷いてくれました。

 この夜歩きは了承済みですと、羽様の森に危険はないと、もう子供の脅威はわたしに及
ばなくなり始めていると応えるわたしに、サクヤさんはわたしを尚子供扱いに咎める瞳で、

「ご神木への禁は解かれたと言ってもあんた、嫁入り前の娘が1人で夜に出歩くなんて
…」

「確かサクヤおばさんも、美人独身二十歳でしたよね……その、嫁入り前の若い女性…」

 流石に今は二十歳ではないと、思うけど。
 サクヤさんの微かな怯みに、言葉を挟み、

「わたしにも、心配させて貰えませんか?」

 一緒に帰れば、わたしもサクヤおばさんも1人夜歩きじゃなくなります。サクヤおばさ
んもわたしを心配しなくて良いし、わたしも。

 わたしはサクヤさんを心配したい。未だ力は及ばないけど、未だ大人とは言えないけど、
もういつ迄も守られてばかりはいない。サクヤさんの、大人の見る光景を、その肩越しで
良いからわたしも一緒に見つめたい。並んで事に対処するのは未だ少し先でも、何もせず
守られて終りたくない。わたしも役立ちたい。

 その想いを視線に載せて、届かせるのに。

 サクヤさんの頬が、蒼い月明りの下でも微かに色付いて見えた。咎めようと強く響いて
いた声音が、身の震えが、緊張が失せて。それは唯守る者の枠にわたしを収めようとして、
収めようとして、遂に諦めた気の抜け様で…。

 わたしはこの夜、又一歩前に踏み出した。
 小さいけれど、決して退く事のない一歩。
 それを目の前の美しい人は喜んでくれて、

「柚明があたしを案じて迎えてくれるかね」

 声は柔らかに、右腕はふわりと肩に届き。

「仕方ないね。一緒に、行くかい」「はい」

 その受容は単にお屋敷に共に帰る受容ではなく、その一緒は単にお屋敷に着く迄の一緒
ではなく。守られる者から、守り合う者へと、半歩の更に半分でも進みつつある事の証し
で。

 わたし達は羽様の山を森を、2人で下りる。生き生きとうねる白銀の髪を、月光を受け
て艶やかな肌を、見事なプロポーションを間近に見つめ、温かな息遣いと涼やかな声を受
け、静かに澄んだ山の奥で清く美しい想いに触れ。

 手を携え、視線を交わし、心を寄り添わせる。肩を触れさせ、肌を寄せ合い、互いの温
もりを伝え合う。心を繋ぐ。蒼い月光も澱む暗闇も今宵は全てわたしとサクヤさんの為に。

 今この心の殆どはサクヤさんが占めている。片隅に届くオハシラ様の招きは、感じても
触れず、積み置いた侭にして。今宵はサクヤさんと、話さなければならない事があったか
ら。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「サクヤおばさん訊いて良い?」「何だい」
「わたしの……お母さんのこと」「んっ…」

 サクヤさんの瞳が少しだけ険を増したのは、真沙美さんが話してくれた、真沙美さんの
お父さんとわたしのお母さんの経緯を聞いた後で。わたしを気遣ってくれたのか、お母さ
んを気遣ってくれたのか、又はその両方なのか。

「鴨川の馬鹿娘が、喋っちまったのかい…」

 正樹さんも笑子おばあさんも、わたしを案じて今迄言えなかった。恋仲以上に肉体関係
や離別の話だし、わたしは本当に子供だったから。今大人かと問われても答は曖昧だけど。
でも少なくともそのお話を受けられる位には。

「真沙美さんも、わたしに向き合うのが複雑だったんだなって。わたしが何も知らずに過
ごしたこの数年、同じ歳の真沙美さんはずっとこの複雑さを背負っていたんだなって…」

 わたしが幼くて頼りになれない子供でいた事が、周囲を気遣わせていた。その事実に漸
く気付かされて、わたしは申し訳なさと共に、今迄包んで守り続けてくれた想いの温かさ
に、

「有り難う、サクヤおばさん。笑子おばあさんにも正樹叔父さんにも、お礼言わなきゃ」

 聞かされて大丈夫な位迄、柚明は強くなりました。みんなのお陰です。だからもう抱え
続けないで打ち明けて。本来わたしの話なのだもの。わたしもみんなと一緒に事に向き合
って重さを負う。一緒に羽藤の家を支えたい。

 そして、わたしがサクヤさんに訊きたい事はその先にある。事実確認はその前段だった。

「その複雑さを越えて、わたしを愛してくれた真沙美さんに、わたしも叶う限りの想いを、
愛を返したい。わたしも、真沙美さんと和泉さんを両方とも一番には想えないのだけど」

 サクヤおばさんがわたしを大切に想ってくれる様に、2人を心からたいせつに想ったの。

 瞬間サクヤさんの瞳が哀しげな色を帯びた。
 でも。変らない想いを胸に確かに抱きつつ。

「これだけ縁の絡み合った真沙美さんとの絆を、お母さんはどう想うかな? その前に和
泉さんも真沙美さんも、女の子なのだけど」

 お母さんは、お母さんとお父さんは、鴨川を憎んでいたかな? 真沙美さんのお父さん
をお母さんは恨んだかな? お父さんは? もしそうなら、わたし親の仇を愛する事に…。

 わたしが物心つく前から既にお母さんの知り合いだったサクヤさんなら、生前遂にお母
さんがわたしに話せなかった、話さなかった若き日の、恋や離別への問に答えられるかも。

 月明かりの下、瞳を見上げて発した問に。

「もしあんたの母さんが鴨川の当代を憎んでいたなら、あんたはどうするんだい、柚明」

 サクヤさんは答の代りにわたしに逆問を、

「あんたは鴨川の娘とその父親を憎んで今の絆を断ち切るかい? それともあんたの母親
への想いを断ち切って今の友を取るかい?」

 応えても良いけど、応えて良いのかと。問への答がわたしの意に沿わない物だったなら、
どうする積りかと。真実を伝える事が、わたしを傷つける怖れがある。それを承知で答を
求めるのかと。受け止める覚悟があるのかと。

 これが大人に成り行く階梯なのだろうか。
 わたしの答を待つ、突き放し気味な瞳に。
 わたしは視線と下腹に、意思と力を込め、

「応えてサクヤおばさん。わたしはどちらでも受け止める。お母さんが真沙美さんのお父
さんを、最後迄憎んだのでも許したのでも」

 真実は、時に人を傷つける。でも、真実を貫かないと、もっと多くの人を嘘で傷つける。
わたしがしっかり己と事実に向き合い受け止めないと、己の所為で他の人に重荷を負わせ
てしまう。人に身を尽くす事を望むわたしが、自分の為に周囲に禍や負荷を及ぼしてしま
う。

 例え2人の答が真意が、わたしの想い願う物ではなくても、望み欲する物ではなくても。

【幸せな時の過ぎ去るのは瞬く間のこと……。
 この青珠が、今迄母さん(笑子おばあさん)や私を守ってくれた様に、柚明やその大切
な子達をも、守ってくれます様に……】

【あなたが生きてくれないと、父さんの想いも生命も、浮ばれないのよ。あなたは、生き
てくれないとダメなの。……私の為にも……。
 父さんと母さんの生命を無駄にしないで】

 いつも微笑みかけてくれていたお母さん。
 わたしを守る為に全てを抛ったお母さん。
 わたしの所為で生命を絶たれたお母さん。

 最早見る事も叶わない温かに明るい笑顔の裏に、遂に見る事も叶わなかった悲嘆や恨み
や憎悪の炎が烈々と燃えていても。真沙美さんのお父さんや、真沙美さんも許さず認めず
最期迄、最早覆す事も叶わない拒絶を胸に終えたのでも。良い事も悪い事も全部がセット。
摘み食いは利かない。自分に都合良く世界は動かない。どんな答でもわたしは受け止める。

「お母さんが真沙美さんのお父さんを憎んでいても、真沙美さんを憎んでいても、真沙美
さんはわたしのたいせつな人。同時に例えわたしのたいせつな真沙美さんを憎んでいても、
お母さんはわたしのたいせつな人」

 たいせつな人の大切な人は、わたしにとってもたいせつな人。たいせつな人の抱く大切
な想いは、わたしにとってもたいせつな想い。

 お母さんに憎悪や恨みがあるなら、それはわたしが継ぐ。真沙美さんが今そのお父さん
に抱く情愛も、共に抱く。真沙美さんのお父さんをわたしは憎みつつ尚、たいせつに想う。

「どっちかを切り捨てるなんて出来ない。行いは一つでも、想いは幾つも胸に抱ける。こ
の胸が広ければ、心が強ければ。相反しても引き裂かれても想いは両方手放したくない」

 真沙美さんのお父さんも、恋仲だった時はお母さんを愛してくれた筈だ。成就できなか
ったのは残念だけど。お母さんが傷や哀しみを負ったのは悔しいけど。お母さんが生命の
終り迄許さなかったなら、憎み続けて終えたなら。わたしもそれを、胸に抱く。たいせつ
に想った心が生んだ憎しみだから。その上で、

「わたしは、真沙美さんと和泉さんに繋いだ絆を解かない。交わした想いは手放さない」

 お母さんは望まないかも知れない。哀しんで憎んで許さないかも。そもそも女の子同士
だし。でも、わたしが確かにたいせつに想った人だから。わたしを大切に想ってくれた人
だから。不承諾もこの身の全てで受け止める。

 良い想いだけ継げはしない。負の遺産も引き受ける。わたしはお母さんとお父さんの子
供だから。羽藤柚明として贄の血の定めに向き合う様に、お父さんとお母さんの想いも又。
もうわたししか、継げる者はいないのだから。

 大丈夫。わたしは想いの重さに折られない。
 心引き裂かれても、両方とも断ち切らない。

「教えてサクヤおばさん。わたしは大丈夫」

 声は真っ直ぐ透ったけど、右腕はサクヤさんの左腕に絡まっていた。震えを止める温も
りや肌触りを、心が欲していた。止め難い身の震えは心の震えだ。わたしはまだ誰の支え
もなく全てを受け止められる程に強くはない。

 そんなわたしにサクヤさんは微かな笑みで、

「恨んではいなかったよ。心に傷は刻んだだろうけどね。過去の事として乗り越えていた。
あんたの父さんに逢えた為かも知れない。あんたの父さんの方が複雑な憤りを抱いていた。
愛した女を父親の一言で諦められるのかと」

 お母さんはお父さんに全て打ち明けた様だ。
 その、身体の関係をした後で離別した事も。
 お父さんはお母さんの様々な話を全て受け。
 羽藤の贄の血の定めの諸々の話を全て知り。
 お母さんと共に人生を歩むと応えてくれた。

 お父さんは、真沙美さんのお父さんがお母さんと離別したから巡り会えた。その侭結ば
れていたなら、逢えはしなかった。故にお父さんは単に真沙美さんのお父さんを憎めない。

「あたしも想ったよ。何もない侭、父親の脅しに屈して女を諦める様な鴨川の当代とあん
たの母さんが結ばれていたら、それは幸せだったのかどうか。涙も悔しさもなく初恋は成
就したかも知れないけど、あんたの母さんは、あんたの父さんと逢わずに人生を終えてい
た。それであんたの母さんは幸せだったかい?」

 哀しみを乗り越えたから今の嬉しさがある。

 白花ちゃんと桂ちゃんを鬼から守り抜けた一年前、わたしはそう実感したけど。桂ちゃ
んと白花ちゃん、真沙美さんや和泉さんに逢えたのは、全て失った夜の故でもあったけど。

 逆に哀しみに出会ってなければ今の幸せも。

「あんたの父さんは良い男だった。正樹の次位に良い男だった。幸せな時は短かったけど。
元々人の生は数十年、瞬く間に散る花や葉だ。あの程度の男と一生過ごすのと、嘆き悲し
んだ後でもあんたの父さんと結ばれるのと…」

 禍福は糾える縄の如し。運命の巡りの輻輳は時に人の想像を超える。わたしがそうだっ
た様に、お母さんもお父さんも。2人が出会わなかったなら、わたしも生れなかったから、
2人もわたしの所為で死ぬ事はなかったけど。その代り2人が結ばれる幸せもなかったと
…。

「鴨川の馬鹿息子や塩原達を受け容れる様には、その辺の草葉の陰で目を丸くしているか
も知れないけど。禍を福に転じたがる処はあんたの母さん譲りの太平楽かね。でもまあ」

 お母さんも、そうだったんだ。正樹さんの素養も笑子おばあさん譲りなら、当然お母さ
んも。わたしはおばあさんから、お母さんを経てその素養を? これはお母さんからの…。

「柚明が頑張って生きている様は、見えるよ。自分の限界を越えてでもたいせつな物を守
ろうとする姿は、生者にも死者にも確かに映る。柚明が満ち足りて幸せなら、今抱く絆が
柚明の両親の望んだ幸せで良いんじゃないかね」

 わたしの幸せはお父さんお母さんの幸せ? わたしが幸せならお父さんお母さんは、ど
んな形でも喜んでくれる? それで良いの?

「あたしとの絆も、桂や白花との絆も、女友達との絆も、柚明が心底納得出来ているなら。
想い出にいる父さん母さんに話しかけてみな。柚明こそ2人を良く知る筈だ。あんたの両
親なら、あんたと似た答を返す気がするけど」

 たいせつな人の大切な人は、わたしにとってもたいせつな人だ。お父さんもお母さんも、
そうであるなら。わたしが身を尽くしたく望む人達と、繋いだ絆を許し認めてくれるかも。
美子さんや賢也君、志保さんや塩原先輩に絆を求めたわたしの想いが、お母さん譲りなら。
そのお母さんを全て受け止めたお父さんなら。

「わたしの真の想いが正解……そう想える」

 答は自身の内にあった。わたしは答を知っていた。気付いてなかっただけ。そこに導い
てくれたサクヤさんに、心の底からお礼を伝えたい。絡めた腕に身を添わせ、心も添わせ。

 お母さんの微笑みが視えた。確かに感じた。心から愉しそうに幸せそうに見上げる瞳の
向うに映っている物は? 心が何かに引っ掛る。瞬間サクヤさんの存在さえ心の視界から
消え。己の中で何かが目覚める予感に鳥肌が立った。

 わたしと2人夜の森を歩む事は初めてでも。
 こうして2人夜の森を歩む事は過去にあり。
 わたしは今と過去を重ね合わせて感じ取れ。

「お母さんの想いが視える。ご神木の帰り道、サクヤおばさんと2人夜の森を、腕を絡め
て心寄せて、絆も想いも結びつけて。……お母さんも、サクヤおばさんを深く愛してい
た」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 視えたのは、2人ともわたしのたいせつな人であり、酷似した行いを同じ森で同じ夜に
為したから。今と過去の形や行いが重なる事で、想い迄も重複し瞼の裏に像を手繰り寄せ。

 想わず告げていた。過去でも未来でもどこかの今でも。これ程明瞭に視えたのは初めて。
今わたしがサクヤさんの左腕に身を絡める様に、若き日のお母さんもその左腕に身を絡め、

【私サクヤさんに変らない想いを抱くから】

 彼と結ばれても、結婚し出産し育児に忙殺されたその先でも、サクヤさんに抱く想いは
変らない。日々諸々に向き合って、想いを形に表しきれなくても、確かに抱いて変らない。

【生命尽きる迄、サクヤさんを想い続ける】

 サクヤさんを放したくないと、今の想いを放したくないと、幸せな時を放したくないと。
終り行く先を分るかの様に。数年先に待つ悲運を破局を喪失をお母さんは感じていたのか。
わたしはその暗雲を、濃い血に宿る力で分り。

 過去のお母さんの前途にあった悲運だけじゃない。それは今のわたしの前途にも。重な
る感覚はわたしの数年先にも、悲運や破局や喪失が待つと、終り行く幸せを暗示して…?

『報われない結末は、重なっているのかも』

 想いが届かない事は、お母さんの前から定まっていた。サクヤさんには確かな一番の人
が常にいて、他の何者が幾ら想いを寄せても、望む事は出来ないのだと。掴む事は叶わな
いのだと。月に向けて手を伸ばす仕草なのだと。

 でも大きくて手が届きそうな満月の夜だったから。背伸びすれば声届かせられそうな程
生々しく近しく見えたから。嘘でも見せかけでも錯覚でも、想いが届きそうに感じたから。
お母さんのその夜もわたしと一緒のこの夜も。お母さんはわたしの様に生命終る迄この人
を。

「あんたは尋常じゃなく血が濃いんだった」

 苦味の籠もる声がわたしを今に引き戻す。

「弐拾年も前かね。祭りの夜、オハシラ様からの帰り途に、こんな立ち位置でこんな事を
されて、こんな返しをあたしはしていたけど。それでも、そこ迄事を悟れる程の力とは
…」

 いつの間にか『力』も子供のそれではなく。

 拾年以上の時を経ても見上げた今と同じく。艶やかな白銀の髪も、悪戯っぽい瞳も、美
しく整った容貌も、抜群のプロポーションも浅間サクヤのその侭で。幾つか生じる疑問は
素通りする。それは今一番に大切な事ではない。

「大切なのはわたしが今抱く想い。今瞼の裏に視えたお母さんの想い。オハシラ様を想う
心を羽藤が代々繋ぐ様に、わたしはお母さんのサクヤおばさんを想う心も継いで繋ぐ。2
人共いつ迄もわたしのたいせつな人だから」

 サクヤさんの語りは搾り出す苦さに満ちて、

「あたしは羽藤にとって、鴨川以上に因果な者かも知れない。こうして傍に居続ける事で、
次々羽藤を傷つける。あんたの母さんも正樹も人の子の成長は早く、いつの間にか恋に目
覚め、愛を抱き始めてね。あんたもそうさ」

 気付いた時は愛を寄せられていた。いつの間にか大人になっていて、あたしを支えたい、
守りたい、一緒に生きたいと。一番になれなくても、大切に想わせてと。想いたいのだと。

 ああ、それは羽藤家代々の資質で素養かも。
 この太平楽も、男女問わず抱ける愛も絆も。
 サクヤさんに寄せる想いも、血筋の故かも。

「あんたの母さんも、あたしは結局終生一番に出来なかった。あんたもそう。そうなる末
が目に視えているのに、想いを寄せて身を寄せて。狼の口に自分から飛び込んでくる…」

 せめて応えられれば良いのに。せめて愛を受けて一番だと想いを返せれば良かったのに。
女同士でも母と娘に跨っても、その愛に応える事が出来るなら、鬼畜にだってなったのに。

 わたしの両肩を抑える腕が、震えていた。

「返す事が出来ない。あたしの一番と言ってあげられない。死ぬ迄待っても死んだ後でも、
あたしは未来永劫、あんたもあんたの母さんも一番と言ってあげられない。どうしても」

 想いを抱き続けたい人がいるんだ。あんた達の強く温かな想いをはね除けて、退けて迄、
絶対答の返らない想いでも抱き続けたい人がいるんだ。ごめん、柚明。あたしは酷い女だ。

「あたしは、あんたを幸せに、出来ない…」

 大きな胸にも納めきれない苦悩が瞳を揺らしている。力強い腕にも抱ききれない悔いが
身を震わせている。わたしを想う故に、わたしを愛する故に、サクヤさんは己を責め続け。

 要らない。わたしの所為で流される涙はもうこれ以上。わたしを想う故に苦しまないで。

 溢れ出る想いを受け止めたくてわたしは、

「わたしは今が幸せです。サクヤおばさん」

 俯く頬を流れる雫を、身を伸ばし唇で掬い取っていた。桂ちゃん白花ちゃんの怯えを受
け止めた様に、仁美さんや和泉さんの傷を塞ぎ止めた様に、その想いと心の傷をわたしは、

「これ以上、わたしの為に、哀しまないで」

 わたしの為に、わたしの所為で、流される涙なら。わたしが受け止めなければ。わたし
が拭い去らねば。わたしが笑顔へ導かないと。驚きに身を固め無言で見つめ返す美しい人
に、

「お母さんの想いはわたしが継ぎます。お母さんがサクヤおばさんに抱いた愛は、わたし
の愛と混ぜ合わせて、わたしの生命の終り迄。お母さんもわたしもサクヤおばさんの一番
は望んでない。悔いはないから心傷めないで」

 望んだのは、サクヤおばさんの幸せな笑顔。
 心から生き生きと、日々に向き合うその姿。

「わたしは泣き顔は嫌い。嬉し涙は別だけど、涙も不要で毎日にこにこ笑い合う日々が好
き。大好きな人が、たいせつな人が、日々を笑って過してくれる事が、わたしの一番の望
み」

 想いを返されない事は哀しみじゃない。
 一番にして貰えない事は苦痛じゃない。
 返される答は最初の時点で分っていた。

 わたしはそれで萎えも揺らぎもしていない。
 変らない想いを胸に抱いて、ずっと抱いて。

 想いの成就は望まない。サクヤさんには一番の人が確かにいる。その人を諦めたり失っ
たりする事態は、サクヤさんの不幸だ。わたしはそれを願わない。わたしの愛に、一番の
愛が返される日が来ません様に。それが今のわたしの真の願いで、真の望みで、真の想い。

「柚明、あんた……」「心底の、納得です」

 わたしが望むのはサクヤさんの幸せだ。
 わたしとサクヤさんとの幸せではない。
 身体も心も必須ではない。わたしは唯、

「たいせつな人に尽くせる事が幸せ。愛する事で満たされる。幸せに報償は要らないの」

 わたしはサクヤおばさんが一番の人を胸に抱き全力で愛する様を、その想いを守りたい。

 唯愛したい。愛を受けて欲しい。返してとは望まない。一番ではない程度の愛を返して
くれるなら、それは嬉しいけど、望外の幸せ。わたしが望むのは愛した人の幸せで喜びで
す。

 暫くは言葉ではなく熱い吐息だけを交わし。

 月明りの創り出す濃い影が重なり合って。
 蒼い輝きが照し出す恋い心を重ね合わせ。

 大きな胸の内から尚も潤む瞳を見上げると、

「いつか気が向いたらで良い。サクヤおばさんの一番の人のお話も聞かせて。わたしのた
いせつな人が一番の人に抱く想いを、話して良いと想えた時で良いから、わたしにも…」

 その愛も共有したい。サクヤさんが一番大切に想う人を、わたしもたいせつに想いたい。
その人との幸せを想い、喜びを望み、想いの成就を願いたい。その求めにサクヤさんは無
言で頷き、その胸に強くわたしを押しつけて。

「あんたを一番に出来ないあたしは、大馬鹿者だよ。なんて勿体ない。こんなにいい女が
目の前にいるって言うのに……」「大丈夫」

 わたしは、馬鹿も決して嫌いではないもの。

 わたしの答にサクヤさんは黒い瞳を輝かせ、今宵幾度目かも分らない、正面からの熱い
抱擁で捉えくれて。吐息も温もりも巡り巡る。

 お互いの腕と愛とを相手に絡み合わせつつ。
 わたし達は変らない想いを胸に抱き続ける。


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