第3話 母の想い、父の想い
前回迄の経緯
羽藤柚明が、中学1年生になった夏の終り。
賢也君や桜井さん美子さん達女の子多数に、真沙美さんと敵対していると誤解され、2
級上の塩原先輩達拾数人迄も巻き込んだ騒ぎも、酷い結末には至らせず。大多数の人達の
誤解を解いて、仲を繋ぎ直し落ち着いて。その副次効果で真沙美さん和泉さんとは特に絆
深く。
和泉さんとそのご両親に、お泊りに招かれた休日前の学校帰り。商店街で男性に嫌がら
せを受けて、転ばされて荷も溢した女の人を間近に見て。捨て置けず関ったわたしだけど。
荷を分けて持ち、その家路に同行し。塩原先輩のお母さんなら、羽藤柚明のたいせつな人。
話しを聞いた和泉さん達の目は丸かったけど。
参照 柚明前章・番外編第3話「日々に確かに向き合って」
柚明前章・番外編第4話「変らない想いを抱き」
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夏の終りの夕刻前、下校途中に経観塚銀座通商店街で、年配の女性の倒れる間近にわた
しが居合わせたのは、偶然ではない。買い物袋を右手に持った彼女を前方に見た時、右足
が不自由で歩みが危うげな様は、見て取れた。
全く知らない間柄ではない。声を掛け、背後を向かせても体勢を崩しそうなので。追い
つく処で手を伸ばし、荷運びを手伝おうと考えたのだけど。間に合わなかった。彼女は自
ら転んだのではなく、前から来た自転車の籠が、彼女の買い物袋を掠めて転倒させられて。
「いたっ……!」「気をつけろっ、馬鹿!」
非好意というより悪意の宿る声を叩き付け、その侭自転車の年配男性はわたしとすれ違
い。転ばせて謝りもせず、見下し侮る印象が濃く。
彼を呼び止めなかったのは、転ばされた女性を助け起こす方を優先した為で。誰かがそ
れを担ってくれるなら、中学1年生でも大人の彼を呼び止めて、問い質していた処だけど。
人気の少ない田舎の商店街も無人ではない。店の人も買い物客も多少いたけど、助け起
こす人はなく。悪意はないけど彼女への好意もなく。逆に彼女と近しいのは拙いという空
気が窺えて。寄り添ったのはわたしだけだった。
「大丈夫ですか?」「あなた……まさか?」
買い物袋を引っ掛けられバランスを崩して座り込んだだけで、ケガはなさそう。屈み込
んで軽く左肩に手を触れ、意識も確かな事を確かめる。彼女もわたしを分ってくれた様だ。
年齢は四十歳代半ば位。でも生活の苦労や最近の諸々で顔色も姿形も窶れ気味で、ショ
ートの黒髪も手入れの余裕がない所為か艶を欠き。体格は小柄なぽっちゃり体型で、元気
になって微笑むと、愛くるしい感じだと想う。
周囲には買い物袋から、リンゴや白菜等が飛び出していた。それにポン酢の瓶が舗装路
面に落ちて割れて。彼女の所為ではないけど、彼女の所有物が為した結果を前に、収拾せ
ねばと、未だ少し不確かな両の掌を伸ばすのに。
「わたしがやります。おば様はこちらを…」
元々顔色が悪かった彼女の動きは危うくて。為させれば、瓶の破片で指を切る様が視え
た。リンゴや白菜を渡して袋に再度収納させつつ、ガラスの破片は気をつけて一つ処に纏
めてと。
周囲のやや訝しむ目線は気にせず、わたしは間近のお店の人に、ガラスを入れる買い物
袋を一枚下さいとお願いして。掃き清める為のバケツにお水と、箒も貸してとお願いして。
「立てますか?」「ええ、大丈夫。でも…」
彼女の瞳にも己に関って良いのかと、羽藤柚明が自分などに添って良いのかという惑い
が浮ぶけど。彼女に少し離れて貰い、ガラス片を拾い終えた舗装歩道に水を流し、拾いき
れない小さな破片を箒で掃いて、側溝に流し。これで往来に支障は来さない。店員の男性
が、
「済まないねえ……」「お気になさらずに」
お店の人が為して良い範囲だけど、公の歩道は誰が為しても問題ない。有り難うござい
ましたと道具を返し、少し離れて佇む女性に歩み寄る。今日はスーパーの売り出しだった
様だ。買い物袋にはもう一本ポン酢が無傷で入っていた。再度買いに戻る必要はなさそう。
「荷物持たせて下さい。運びます」「でも」
彼女は再度惑う表情を向けてくる。自分を誰だか分っているのでしょうと、関りをわた
しが嫌に思わないのかと、真意を伺う目線に、
「あの件は終りました。大悟さんも謝って二度としないと言ってくれました。先輩との関
係は現在良好です。それにおば様は最初から何も悪くない。わたしに拘りはありません」
見た目に顔色悪く、無理して買い物に来たと分る。右足も不自由そうだし、結構な荷を
持ってこの先もう少し歩かねばならないなら。バスに遅れる事で、多少人を待たせるけれ
ど。
遠慮がちな彼女の先に立って、わたしは買い物袋を右手に持って、左手でその手を引き。
周囲の好奇と不審の視線は承知で、わたしはこの関りを止めはしない。彼女のやや遅い歩
みに伴って、わたしは住宅街の隅の傾いだ平屋に辿り着く。玄関の前の郵便受けにはマジ
ックで『塩原誠子・大悟』と書かれてあった。
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「それで、塩原先輩の家に上がり込んじゃったの、ゆめいさん?」「うん、成り行きで」
和泉さんの問に頷くわたしは、日没直後の金田家で食卓を囲んでいる。和泉さんのご両
親が不在の週末、真沙美さんも含め3人で過ごした夜から二月近く経った。昼の日差しは
まだ厳しいけど、朝夕に吹く風は既に涼しい。
四角いテーブルを今囲むのは、わたしと和泉さんとそのお母様の澪さん、お父様の清治
さんの合わせて4人だ。清治さんは細身で背が高く和泉さんに似た印象があり、澪さんは
少し太めだけど明るく愛らしい人だ。夏休み前から和泉さんを通じて、招きは受けていた。
『あたしの父さんと母さんが、ゆめいさんにお礼をしたいって、ぜひ夕食を一緒にって』
三月程前、和泉さんとわたしは3年の塩原先輩達拾数人に襲われた。真沙美さんの従兄、
鴨川賢也君の依頼だった。賢也君は真沙美さんを大切に想っていて、学業や運動や諸々で
彼女とわたしが競って見える事に我慢ならないと、優った結果は不正の所為だと思いこみ。
真沙美さんは前々から成績優秀・容姿端麗の噂が経見塚迄響いていた。親戚付き合いや
両親の仕事の関係で、農協や町内会を通じて。
『多人数で競っている処の方が成績は良い筈なのに、銀座通小の者が男子迄含め誰も及べ
ない。一部の女子が憧れて付き纏うのも分るわ。銀座通中始って以来の秀才って噂も、間
違いじゃなかった。意外だったのは、それを上回る人が同学年にいた事よ。ゆめいさん』
噂好きな志保さんが背景を教えてくれた。
『ゆめいさんノーマークだったから。経観塚に親戚も友達もいないから、全く知られてな
かったし。しかも羽藤でしょう。今更だけど、大人の世界では羽藤の名は鴨川以上に鮮烈
みたい。先生方は転勤族だから深く考えてないけど、町内会やウチの親戚は噂で持ちきり』
『男子の間では上級生迄含め、あなたと鴨川さんに3年の神原先輩を加えて、銀座通中の
三大美少女って品定めしているみたいだし』
あなた自分の値に気付いてないでしょう?
『家柄あり、成績優秀、容姿端麗、スポーツ万能。全てで張り合っているの、あなた達』
しかも殆どあなたの方が少し上。鴨川信者があなたに煙たい視線を送るの分るでしょう。
『……そうなの……?』『……そうなのよ』
彼は同じ一年の美子さんや弘子さんを裏で煽り、テストで不正した等の噂を流し、男子
に声を掛け、級友をわたしから遠ざけようと。でも男子は集団行動に至らず。和泉さんや
歌織さん早苗さんも、悪い噂や圧力に怯まず絆を保ってくれて。それが初夏の件の引き金
に。
わたしの孤立化に失敗した賢也君は、荒事や揉め事に近しく関る塩原先輩達に、お金を
払って頼み込んだ。真沙美さんを凌ぐ成績を得たテストでの不正の自白強要と、もう一つ。
『今年の一年女子には生意気な奴が2人いるって、俺達の間では噂になっていたけどよ』
和泉さんと2人、3年生の男子拾壱人に人気のない台地へ連れ込まれ、不正の自白を強
要された。弁明も聞き入れて貰えず、依頼者と話し合う猶予も許されず。彼らはわたし達
への強要を後で明かされては困ると、口止めにわたし達の制服を剥いで写真に収めようと。
身を抑えられた目の前で、和泉さんの服が剥がされる。わたしが嘘の自白を受容して尚、
その行いは止まらなくて。先輩達の受けた依頼は、わたしの自白ともう一つ、わたしに寄
り添う人を酷い目に遭わせて遠ざける事で…。
『助けてぇっ、誰か、誰か。ゆめいさん…』
『待って、お願い。もうこれ以上、いやっ』
妥協や交渉の余地はなかった。その非道を防ぐには、和泉さんを救うには、力づく以外
に術がなく。真弓さんから教わった護身の技を使って抗った結果、先輩達は刃を取り出し。
依頼者の賢也君が真沙美さんを連れて現れ。2人に助けを求めた隙に迫り来た刃に、和
泉さんがわたしを庇って顔を、左瞳を切られた。傷つけた箇所の重大さに、先輩も賢也君
も逃げ去って、町外れの台地に2人取り残されて。
わたしとの絆を望んでくれた所為で、わたしの傍にいた為に、わたしの禍に巻き込んで、
わたしを守る為に傷を負った、たいせつな人。常にわたしを想い続けてくれた心の暖かな
人。
和泉さんの失明と離れ行く末が視えたわたしは、それを防ぎ止めようと唇と舌でその左
瞳に贄の癒しを注いだ。サクヤさんや真弓さんの言いつけを破り、わたしは贄の血の力を
人に使い、彼女の身と心にその証を刻みつけ。
和泉さんのご両親には、左瞳に受けた傷もその傷を治して痕迄消した事も明かしてない。
癒しの力を、贄の血の事情を彼女はわたしの為に秘してくれて。塩原先輩達に襲われた事
迄は話したけど。話さねばならなかったけど。
翌日昼頃真弓さんが経観塚に来て、先生や保護者の話しに事は移行する。でもその前に、
わたしは賢也君の誤解を解いておきたかった。心を通わせたかった。真沙美さんとわたし
が敵対関係ではないのだと、分って欲しくて…。
お話しを約束した昼休み、賢也君は先輩達の処に逃げ走った。わたしの非難や報復を怖
れた様で。そんな積りはなかったけど、怯えさせたのはわたしの不徳か。賢也君は更にお
金を積んで先輩を動かそうとして逆に囚われ。
塩原先輩は対価の関係ではなく脅迫の関係を望んでいた。賢也君を暴行傷害を頼んだ共
犯にし告発できぬ立場にして脅す積りだった。賢也君は前日の失敗を責めて先輩達を怒ら
せ、昼休みの間に住宅街外れの廃寺に連れ込まれ。
真沙美さんは正にその展開を危惧していた。
彼女も追って昼休み学校を飛び出したのは。
『今尚賢也君が先輩達に踊らされているなら、目を醒まさせる為に。彼が既に先輩達に脅
されて身動き取れないなら、救い出す為に…』
でもそのどちらでも、真沙美さんの立場は塩原先輩と対立する。彼女は危うきにあった。
『鴨ちゃんを、何とかして、助けないと!』
ええ、そうね。和泉さんの言葉に強く頷く。
例え彼女の頼みがなくても、止められても。
『和泉さんがたいせつに想う人は、わたしにとってもたいせつな人。それがなくても鴨川
真沙美は、羽藤柚明のたいせつな人よ……』
真沙美さんのたいせつな人なら賢也君も又。
駆けつけた廃寺で。わたしは2人を人質に取られて、身に先輩達の拳を受け。スカート
を切り剥がされ、ディープキスされつつ時を稼ぎ。少しきつかったけど、その間に和泉さ
んに、経観塚に着いた真弓さんの助けを導いて貰って。真弓さんの力で漸く事は収束し…。
賢也君は先輩達に囚われた為、原因でも主犯ではないと見なされた。和泉さんや真沙美
さんは勿論、喧嘩両成敗を覚悟したわたしの応戦も正当防衛が認められて、お咎めはなく。
わたしの反撃に先輩の証言が少なかったのは、年下の女の子に多数で手こずったのを隠
したい故か。わたしもそこは強調しなかった。言えば男の子のメンツを潰す。女の子が戦
いに強いなんてみんなに知れても嬉しくないし。なのでわたしが先輩達に戦い抗った事は
噂にもならず、関係者でもごく少数が知るのみで。
真沙美さんは被害者だけど、加害者の面を持つ賢也君と鴨川で繋る為に、彼の失態を伏
せたい両家の意向が強く働いた様で。事の収束と沈静化に尽力してくれた。危うい処だっ
たけど、幸い真沙美さんは傷一つなかったし。そうでなければ先輩達は全員親子共々経観
塚に住めなくなっていた処だとか。本当かな?
塩原先輩のお母さん達は穏便な収拾を願い、平謝りを繰り返していた。子供の悪戯で収
まる中身ではなかった上に、地域の名家である鴨川に害を為した事は大人を震撼させた様
で。
澪さんと清治さんは告訴も考えた様だけど、田舎で法的に争う負担は大きく、それ程の
大事があったのかと逆に波紋も生じさせる。再発防止を徹底すれば、致命的な損失は防げ
たからと、より被害の大きかった羽藤に最終判断を委ねると、この収拾にも納得してくれ
た。
2人がわたしの両手を取って、有り難うと頭を下げてくれた時は、嬉しさ恥ずかしさよ
り申し訳なさが先に立った。結局わたしは力不足で、和泉さんを無傷に守れなかったのに。
和泉さんはご両親に、わたしが護身の術で抗って塩原先輩達から彼女を戦い守った事を、
明かした様だ。どうしても伝えたかったのと、後で謝られた。謝る必要はないのに。護身
の術の公表に消極的なのはわたしの好みだから。
なので唯の被害者同士ではなく、和泉さんを庇い守った事へのお礼をと。前回招かれた
時にはご両親が不在だった。大人不在の中で真沙美さんも含め3人で、深く絆を絡み合わ
せたけど。今回はご両親が強く望んでくれて。
「折角お招き頂いたのに、時間に遅れてご心配かけて、すみません」「いや、まあ。君が
無事で良かった。その、余りハラハラさせないでくれると嬉しいのだけどね」「そうそう、
ゆめいさんは華奢で可愛い女の子なんだし」
清治さんはわたしが今ここで無事でいる事にほっと胸を撫で下ろし。澪さんも暫く言葉
を失っていた。和泉さんはわたしを知る故かやや馴れた様子で、箸を向けつつ窘める声を。
金田家みんなの危惧は分る。そんな経緯を経た塩原先輩のお母さんを助け起こし、その
家迄荷物を持って伴い、その侭上がり込んで。何かあったなら大変だと。わたしが明朝無
事に羽様に帰れないと、招いてくれた金田家に迷惑が及ぶ。今回はわたしがやや軽率だっ
た。
ごめんなさいと、和泉さんの窘めにもう一度頭を下げる。視線を上げた時にはその口は
野菜サラダで塞がっていて、答はモゴと言う頷きで。緊迫した空気が砕けた処で澪さんが、
「羽藤さんも遠慮せず食べて。お口に合うかどうかは分らないけど、貴女への感謝の想い
を込めて、和泉も手伝って作った物なのよ」
「はい……有り難うございます。頂きます」
明日は休みなので羽様に帰らず、下校時に和泉さんの家に直行し、お夕飯を一緒してお
泊りです。羽様の家族から了解は貰ったけど。先輩宅に上がり込んだ為、時刻が大幅に遅
れ。先輩宅から遅くなる旨電話したけど、所在を言えば心配を増すので、ここに着いてか
ら事情を明かしました。部活もないので早く帰り、澪さんを手伝っていた和泉さんは、わ
たしが手芸部の活動帰り更に道草する事は想定外で。
本当は和泉さんと澪さんをお手伝いしたかったのだけど。わたしは客としてもてなされ
るより、仲間として一緒に作業する方が好きなのだけど。今回は、間に合いませんでした。
「美味しいです、このハンバーグ。野菜サラダもドレッシングが手作りで、良い香り…」
「あたしが愛を込めて、作ったんだもの!」
調理に深く関った事は澪さんも否定せず、
「普段のお手伝いからこの位愛を込めてくれると、わたしも父さんも嬉しいんだけど?」
「あは、はは……それは言わないお約束で」
清治さんも澪さんも、今日の趣旨からわたしを子供扱いではなく、大人のお客様に準じ
る扱いをしてくれて。何か、和泉さんを下さいと言いに来た婚約者の様な錯覚を憶えます。
「心を込めたもてなしをして頂いて、本当に嬉しいです。皆さん、有り難うございます」
「本当はもう少し早く招きたかったんだが」
和泉が一度招いたから。年頃の女の子を頻繁に外泊に招く訳に行かない。大風の被害で
こちらも中々落ち着かなくて。申し訳ないね。
正面に座す清治さんがお礼が遅れた事に謝ってくれるけど、それは謝る必要もない事だ。
わたしは和泉さんを無傷に守れた訳ではない。わたしの傍にいた故に彼女を禍に巻き込ん
だ。怯えさせ危うい想いをさせた事は失敗だった。
「わたしはお礼に値する者ではありません」
招いて頂けた気持は嬉しいけど。お父様お母様には、わたしが謝らねばならないと思っ
ていました。今日お誘いを受けたのは、その為です。もっと早く訪れて、謝るべきでした。
「お二人のたいせつな和泉さんを禍に巻き込んで、申し訳ありません。もっと早く事を察
し、未然に防ぎ止めるべきでした。力で戦って抗わなければ守れなくなる前に」「……」
澪さんがわたしへの答を探し出すより早く、
「塩原先輩の家に上がり込むなんて。先輩の母さんに罪はないけど、あれ程の事されて」
関りのある人は近づくのも嫌がる処だよ。
和泉さんの呆れ声に清治さんも深く頷き。
「自転車がぶつかって罵声だったのも、傍の誰も助け起こさなかったのも。君や和泉はと
もかく鴨川に手を出したから。一つ間違えば彼らは全員、親子共々経観塚に住めなくなっ
ていたかも知れない。最悪の事態は避けられたけど、暫くは肩身も狭かろう。大人でも」
敢て触れない、手を伸ばさないその中へ。
被害者の君が助け起こし、その家迄伴う。
「ゆめいさんは剛胆なのかお気楽なのか不用心なのか。先輩が不在だから良かったけど」
ゲームや昔話で言うと、敵のボスの本拠地、鬼ヶ島みたいな処でしょうに。危険満載だ
よ。
言葉が淀む清治さんに続ける和泉さんに、
「先輩は帰ってきたわよ。おば様の荷物を冷蔵庫に入れた後、見るからに辛そうだったか
ら肩や腰や足を揉んでいる内に」「げっ…」
じゃあゆめいさん、塩原先輩と鉢合わせ?
ええ。無事だった今なら過剰な心配も招かないので、敢て隠す事をせずわたしは頷いた。
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「ここ迄で良いわ……ありがとう」「……」
住宅街の隅の傾いだ平屋に、わたしが上がり込んだのも成り行きだった。玄関前で誠子
さんは荷物をわたしから奪い、お礼を言いつつこれ以上の関与を拒んだけど。遠慮以上に、
廃材を寄せ集めた『あばら屋』を間近でこれ以上見て欲しくないと。上がって欲しくない、
散らかり汚れた貧しい内情を見せたくないと。
周囲が空き地で隣家が少し離れているのも、精神的な距離を感じさせた。他の人も裕福
と言えないけど、塩原さんの家は貧窮が外観から滲み出て。誠子さんの衣服もくすんで色
あせ。それを彼女も恥じていて見られたくなく。
わたしは奪われる侭に荷を返し、軋む戸を開け玄関に消える誠子さんを見送る。その侭
引き返す方が、誠子さんを傷つけないのかと。思いつつ敢て踏み込んだのは脳裏に浮ぶ像
が。
危ない! 軋む戸を開けて中へ上がり込む。
誠子さんは、玄関で靴を脱ごうとしてバランスを崩し、買い物袋に倒れ込む寸前だった。
両腕でその身を支え、床に座らせ靴を脱がせ。家に帰り着けた事で、気力が抜けた様だっ
た。家の中に誰かいれば任せて帰れたのだけど…。
家の床は傾いて、所々で体重を乗せると歪んでへこむので、舗装歩道よりむしろ危うい。
わたしは誠子さんを押し切って、荷を奪い一緒に家の中に上がり込む。玄関の前で細い廊
下が左右に伸びて、右が台所兼居間で、真ん中が誠子さんの寝室で、左奥の部屋が大悟さ
ん・塩原先輩の部屋らしい。お風呂はない様だ。壁も柱も傷ついたり汚れたり剥き出しで、
客を招き入れられる状況ではなさそうだけど。
「わたしが冷蔵庫に、品物を入れますから」
おば様は座って、少し休んでいて下さい。
右足の不自由を押して買い物に来ただけで、結構な疲労が堪っている。小柄で腕も足も
細く腕力もない誠子さんは、多くの荷物を持ち運ぶには適さない。せめて自転車でもあれ
ば。
「すみませんね。何から何までお世話に…」
「気になさらないで下さい。この位の事で」
荷物の整理を終え、床に足を伸ばした誠子さんに座して向き合う。丸いちゃぶ台も十四
位インチのテレビも食器棚もかなり旧く所々色が落ちていて、室内は埃っぽくて湿っぽい。
誠子さんは上がり込まれた後だから諦めたのか、再度倒れ掛った処を支えた故拒み難い
のか、わたしに早い退去は促さず落ち着いて。
「右足、今もかなり痛みますか?」「ええ」
今も正座出来ず伸ばした状態で座していた。右脛に打撲がある様だ。夏以前から、頻繁
に自転車の籠にぶつけられ転ばされている様で。今回の関連で頻度は増したけど、前から
大人しく小柄な誠子さんを、見下す人がいる様だ。ご主人は最早二度と抗議出来ぬのを良
い事に、内気で心優しい彼女を、大人の虐めの感覚で。
「揉ませて貰っても良いですか?」「え…」
真弓叔母さんに教わっているんです。疲労や打撲を軽減する、マッサージのやり方を…。
『病でなければ、多少癒しの力を及ぼそう』
小柄な中年女性の身に添って、手を触れて、瞳を見つめ了承を求める。拒みきれない様
子を了承と取って、その脹ら脛に両手を伸ばし。贄の血の癒しを及ぼしつつ、右足から太
腿や腹部や肩も。日頃疲れの堪っていたほぼ全身を揉みほぐす感じで。俯せになって貰い
肉感を触れ合わせると、気持よさそうに目を細め。
持久力や握力も要るので、これは一つの修練にもなる。誰かが傷ついた時の応急処置に
と教わっていて正解だった。肌触れ合わせる事で贄の血の癒しを流し込む口実にも使える。
打撲は深刻ではないし他に持病もなさそう。疲れは大凡拭い終えて、額に滲む汗を拭っ
て。窓を見ると秋の日が沈みつつあった。窓際に質素な仏壇があって、人物写真が一枚見
えた。うっとり目を閉じて俯せでわたしの所作に身を任せていた誠子さんが、ふっと我に
返って、
「あたしの主人で、大悟の父なんだけどね」
背の高く厳つい男性が1人、映っていた。
初夏の件でも誠子さんは先輩と2人で謝りに来ていた。その時に父の不在は感じていた。
誠子さんは唯1人の肉親の過ちを、一身に負って必死に詫びていた。真摯な謝罪は脇で一
緒に頭を下げた塩原先輩に、誰の叱責よりも強く響いた様で。大柄な身体を小さくすぼめ。
「生れや身分なんて関係ない。みんな平等で大事なんだって言ってくれた、唯1人の人」
妾の子だったあたしを、帰る家もなく財産もなかったあたしを、誰にも構われずのけ者
にされ虐められるだけのあたしを、引き受けてくれた。貧しくても精一杯母を弔ってくれ
て、あたしに大悟とこの家と想い出を遺して。
「ご挨拶、させて貰って、宜しいですか?」
了承を得て、わたしは写真を飾った仏壇の前で鐘を鳴らして手を合わせる。写真の中の
三拾歳位の若い男性は、塩原先輩に身体つきも顔つきも、醸し出す雰囲気も良く似ていた。
誠子さんのご主人が亡くなったのは、大悟さんが小学1年生の時だという。女性が1人
で生計を立てて、子供を育て行くのは大変だろう。元々裕福でもなければ、それは尚の事。
「生れや身分なんて関係ない。大地主の家に育った羽藤さんには、気に障るかも知れない
けど、それが主人の信念でね。この家に生れ育った所為なのかも知れないけど。努力と意
思は、生れや血筋の壁も乗り越えるんだって。
その所為で周囲と軋轢を生んでも来たけど、あたしは心救われた。みんなが妾の子だと
白い目で見てくる中で、今も白い目で見てくる中で、主人だけ。寄り添ってくれたのは
…」
罵声や嫌がらせは、誠子さんの生れや身分への蔑視の故だった。主人を亡くして大声で
抗議する大黒柱を失った誠子さんへの、侮りだった。そこに貧しさへの嘲りをも追加して。
田舎は人の繋りが緊密だから、人の動きが少なく目に見えるから、誰かの正妻ではない
女性やその子の消息が追えてしまう。昔ながらの名家が残る中で、昔ながらの身分意識も
今に至る迄残り。それが一方では鴨川や羽藤への尊崇に、もう一方では塩原への蔑視に…。
「大悟も小さい頃は虐められっこでね。てて無し子、てて無し子って嘲られ、汚いの貧し
いのと見下されて。生れや身分は関係ないのにどうしてと、泣きながら縋ってきてね…」
大きくなってその悔しさをバネに、弱い者を守れる子になるのだと思っていたら、腕っ
節の強さで人を虐げる子になっていたなんて。今迄のいじめっ子を虐め返していただなん
て。
『今年の一年女子には生意気な奴が2人いるって、俺達の間では噂になっていたけどよ…。
羽藤柚明と鴨川真沙美、お前ら2人なんだ。
小綺麗で優等生で運動も出来て人望もある。
何もかも揃って当たり前の顔をしやがって。
頭良い事と名家の出を前提に人を見下して。
その化けの皮を剥がしてやる。柔らかに礼儀正しい顔を引き歪ませ、泣かせ叫ばせ真実
を中から引っ張り出してやる……』
あの激越な憤りは。あの堪えきれぬ憤怒は。
身分等何する物ぞと言う憎悪に近い想いは。
「大悟があなた達にした事は、弁明出来ない。二度としてはいけない、絶対やってはいけ
ない事。大悟の歪みを止められなかった。その事は本当にごめんなさい。ごめんなさい
…」
力があれば何でも叶う。知恵があれば何でも叶う。身分も地位も富も知恵と力で乗り越
えて掴めると。その意味を大悟ははき違えて。あなたや鴨川さんを、尊い血を無意味に憎
み。
大変な事をしてしまった。人を傷つけて。
小さな体を丸めて頭を下げる誠子さんに、
「……わたしは、彼を憎んではいません…」
身分や生れに、それ程大きな意味はない。
確かにそれは一面の真理だった。学んできた事や憶えてきた事、今己がどうありたいか
の方が大事な時もある。わたしはたいせつな人を守れる者でありたく願う。己が何者であ
るかを決めるのは、血筋や生れだけではない。
「わたしのたいせつな人の傷は浅く抑えられましたから。先輩も心から謝ってくれました。
おば様のお陰だと思います。おば様が哀しむ姿を見て、先輩は真剣に反省してくれました。
おば様の優しさが、先輩を導いてくれました。後はわたしの問題です。わたしが良い後輩
になれれば、先輩はきっと応えてくれる筈…」
両の手を、両の手で胸の前に持ち上げて、
「塩原誠子さんは、羽藤柚明のたいせつな人。だからおば様が大切に想う大悟さんも、わ
たしのたいせつな人。心を繋ぎたい先輩です」
唯一のとは言えないし、一番とも二番とも、言う事もできないわたしだけど。叶う限り
の想いを注ぎます。守り助け支えたい大事な人。
「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」
互いの頬が赤かったのは夕日の所為だけではないと思う。大悟さんが、塩原先輩が西尾
先輩達数人と帰り着いたのはその直後だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「げっ、お……お前」「な、何で羽藤が?」
一緒だった遠藤先輩や岩間先輩が目を丸くして絶句する。先月のオハシラ様のお祭りで、
塩原先輩や桂ちゃんと一緒に歩いた仲だけど。
「お帰りなさいませ。お邪魔しています…」
正座して、折り目正しく頭を下げるけど。
大悟さんを含む2つ年上の男子5人はわたしより、誠子さんの説明を求めて視線が泳ぎ。
「買い物帰り商店街で転んだ処を、助け起こされて。荷物を運ぶのを手伝って貰ったの」
塩原先輩は無言で頷いてから自室に向かう。
尚動揺が抜けない男の子4人がそれに続き。
表情も動きもぎこちなかった。ここを去りたいけど、帰り着いてわたしを見た途端去る
のでは、逃げた様に見えて嫌だと感じている。この感触はわたしが即帰っても引きずりそ
う。
わたしも帰り際だったけど。電話を借りて遅くなる旨を伝えた後、誠子さんが持って行
こうとしていたお菓子のお盆も頼んで借りて。
「良いの?」「大丈夫です。お気遣い無く」
心配そうな顔の誠子さんに微笑みを返し。
すたすたと、そう長くない廊下を歩いて。
お菓子ですと、先輩の部屋の戸口で声を。
声はなく視線で相談した様な間合の後で。
開けられた部屋の奥から塩原先輩の声が、
「中まで運んでくれるか? 羽藤」「はい」
男子5人が座すと流石に部屋も狭く感じる。壁の穴を隠す目的も兼ねた水着姿のアイド
ルのポスターが貼られ、四角いテーブルを4人が囲んでマンガ雑誌を開く中、塩原先輩は
奥のベッドに座していて。足の置き場が難しい。
失礼します。部屋の真ん中をテーブルと男の子4人が占めているので、縫う様に進んで。
お菓子や飲み物のお盆をテーブルに置くと、
「ここに座るか、羽藤?」「はい」
何かの用向きがある事は察して貰えた様だ。
先輩の座したベッドの隣を示され、並んで座る。中村先輩の手で出口は閉ざされた。並
ぶと右隣に改めて大柄な塩原先輩、目の前間近にテーブルを囲む先輩4人の、視線がある。
思い思いに雑誌を読んだり音楽を聴いたり、時に一緒にゲームやテレビを見てお話しす
るのが先輩達の常らしい。わたしという異物が入り込んだ為に、今日は少し緊張気味だけ
ど。
「男の部屋は初めてか?」「……」
無言で頷く。わたしも少し緊張しています。羽様は隣家が数キロ隔たるので、友達の家
を訪れる事自体が少ない。女の子の家なら何回か訪れたけど、男の子の部屋は物珍しかっ
た。
先輩達の反応はやや硬い。護身の術で抗った経緯があるし。その上で間近に1人踏み込
む事が、彼らには脅威に見えたかも知れない。怯えてない怖くないと平静を装う様が少し
不自然だけど、実はそれはお互い様で。オハシラ様のお祭りを一緒に歩いて関係を繋ぎ直
すきっかけは掴めたけど、双方とも意識は尚被害者と加害者を引きずっている。だからこ
そ。
わたしから心を注いで踏み込まなければ。
わたしから心を開いて受け容れなければ。
害を与えられたからと害を返したり、隔てたりしていては、世界はいつ迄も半分以下だ。
「先輩、お願いがあります……。出来る時だけで良いの。おば様の買い物に付き合って」
『?』の顔色が並ぶ前で、わたしは誠子さんが買い物の行き帰りに意地悪されている事を、
小柄で内気な誠子さんが抗えない事を話した。大悟さんは幼い頃に受けた虐めを、大きく
強くなって克服したけど。誠子さんにそれは求められない。守り庇い支える人が必要だっ
た。
「先輩の太い腕なら、重い荷物も楽に持ち運べます。黙って添うだけで、大きな体で意地
悪を未然に防げます。仮に理不尽をされても、強い力でおば様を守り庇い、支えられま
す」
その手で守れる人が間近にいます。支えなければならないたいせつな人は間近にいます。
毎日一緒しなくても良い。仕返しも反撃も考えなくて良い。唯誠子さんが酷い目に遭わさ
れない様に、遭わされた時即助けられる様に。
わたしは先輩の間近な左腕に軽く触れて、
「この太い腕はたいせつな人を守る為に…」
「この太い腕に、酷い目に遭わされたのに」
何を言い出すのかと思って聞いていれば。
腕を解かれた。太い2本の腕は逆にこの両腕を絡め取って、ベッドに仰向けに押し倒し。
周囲の先輩達も驚きに固まる。体重を掛けられ身動き封じられたわたしに先輩は真上から、
「そんな事を言いに来たのか? そんな事を言う為に俺の部屋迄のこのこ1人でやって来
たのか。お前馬鹿か? 3ヶ月前に酷い目に遭わされた女の子が、酷い目に遭わせた男の
部屋に、乗り込んできて言う言葉がそれか」
この身も表情も微かに硬いかも知れない。
でも今必要なのは拒絶ではなく心開く事。
「たいせつな人の為です。おば様の為です。
塩原誠子さんは羽藤柚明のたいせつな人」
誠子さんは先輩を心から愛しつつ、先輩がわたしに為した事を心底哀しみ、この身を真
剣に案じてくれた。先輩の為に深々と頭を下げつつ、わたしをも想って心を痛めてくれた。
その誠子さんが謝罪や賠償の後も、嵩に掛った他人の理不尽に虐げられる姿は見るに堪
えない。それを口実にした見下し蔑む行いは見てられない。既に解決した事が次の禍を呼
び招くのは放置出来ない。わたし達の事柄を、誠子さんを虐める理由に利用されたくはな
い。
「おば様は先輩を心から愛している。先輩もおば様をたいせつに想っているのでしょう?
たった1人の肉親、大切な家族でしょう」
「お前、他人を心配している場合か。自分が危ないと思わないのか? 一度害を為した男
達の群に、1人で踏み込んで。まさかお前」
この状況でも俺達を撃退出来ると言うのか。
微かに他の先輩達も緊張に身を固めたけど。
その問にはわたしも首を横に振って否定し。
「それは難しいです。この部屋は狭く身を躱す余地がありません。男の子5人に掴み掛ら
れたら、2つ年下の女の子に逃れる術は…」
先輩はベッドの上で、わたしの胴を両足で挟み込んでいた。本気で抑え込む体勢だった。
贄の血の力を痺れに使えば尚逃れられるけど。わたしの身柄は今、塩原先輩の腕の中にあ
る。
「じゃあ何で踏み込んでくるんだよ。この前の祭りでもそうだったけど、お前明らかに向
こう見ずだぞ。自力で逃れられない場所に何で好んで。……俺達に、俺に惚れたのか?」
俺に襲ってくれと言っている様な物だぞ。
「それはありません。残念だけど……口づけを交わした仲だけど、わたしが先輩をたいせ
つに想う気持は、恋でも愛でもありません」
わたしは例え塩原先輩と完全に和解しても、彼を一番にも二番にも想えない。恋はしな
い。
その上で尚、わたしはこの体重を掛けての抑え込みが、彼の真意ではないと分っている。
今の彼は敵ではないし身を脅かす者でもない。
「塩原大悟さんは強く優しく賢い人。おば様が哀しむ様を見て、わたしや和泉さん達に頭
を下げる様を見て、心を痛めて悔いていた」
母の愛を目の当たりにした先輩が、その母と一緒に棲まうこの家で、その間近で、わた
しに酷い事を出来はしない。おば様を更に哀しませ苦しませ、心痛める事を出来はしない。
のし掛る体重と両腕を掴む太い両腕の力が瞬時更に倍加した。図星を見抜かれたという
不快以上に表情には強い憤怒が窺える。年下の女の子がこの状況で平静なのは、生意気だ
ったかも知れない。先輩は間近から低い声で、
「手が出せない立場を、嘲笑いに来たのか」
いいえ。それには一度首を左右に振って。
わたしが敢てこの場に踏み込んだ理由は。
「先輩のお父さんのお話しを、聞きました」
先輩は話しの繋りを掴む為に、わたしに先を話せと無言で促す。他の声が挟まらない中、
「先輩がわたしや真沙美さんに抱いていた苛立ちが、漸く少しだけ分った気がしました」
わたしは9歳で両親を亡くす迄、町の賃貸アパートで育ちました。お嬢様なんて感覚は
ない侭羽様に来て、羽藤のお屋敷に棲まう様になって、その実感もなく暮らしてきました。
「でもその事こそが、先輩の憤りなんだって。恵まれた羽藤の家に育ったわたしが、それ
を自覚しない侭に暮らしていた事が、幼い頃から必死に身分の壁に直面して来た先輩に
は」
『今年の一年女子には生意気な奴が2人いるって、俺達の間では噂になっていたけどよ…。
羽藤柚明と鴨川真沙美、お前ら2人なんだ。
小綺麗で優等生で運動も出来て人望もある。
何もかも揃って当たり前の顔をしやがって。
頭良い事と名家の出を前提に人を見下し』
「わたしは、己の生れも血筋も自覚してなかった。羽藤の家に育ちながら、羽藤の名が負
うべき多くの物を備えてなかった。何も知らず弁えず、無自覚にその上に居座っていた」
羽藤には、羽藤の辿ってきた歴史がある。
寄せられる想いに、応える責務があった。
それは今だけの話しではなく、わたしだけの話しではなく。お父さんお母さん、正樹さ
んや笑子おばあさんやその前の祖先から連綿と続く。想いが世代を超えて繋るなら、歴代
の羽藤に寄せられた想いも又世代を超えて繋る筈で、わたしが負わねばならない物だった。
「わたしは羽藤の家に生れ育った。羽藤の裔の身の上を、自覚しなければいけなかった」
前提は人の行動の根本に作用する。日々の行いが一見何も変らなくても違いは滲み出る。
言葉尻に、声音に仕草に、視線や指先の動き一つに。わたしが羽藤なのにその自覚もなく、
知らねばならぬ事を知らずに、当たり前の顔で過ごしていた事が、先輩の勘に障っていた。
それを強く感じたのが生れや血筋で対極の塩原先輩だったのは、偶然ではなく必然だった。
身分を知らなければ驕りも差別もないけど、それで平等だから良いだろうでは世間は通
らない。それ迄の蓄積を、正も負も引き受けてから全ては始る。良い事も悪い事も全部が
セットだ。血筋も生れも今更変えられない以上、それに伴う諸々を自覚する処から全ては
始る。
人は何もない処に突然発生する物ではない。
両親や親族や祖先が負ってきた想いがある。
生れた時点で人は既に定めの輪の中にいる。
特にわたしには羽藤の贄の血という縛りが。
「血筋も生れも全てではありません。同時に、過去の行いも全てを決する訳ではありませ
ん。わたし達には今抱く想いがあります。今からの選択で未来は変えられます。わたしは
…」
血筋や生れに全て寄り掛らない代り、先輩との今迄の経緯にも全て寄り掛る事はしない。
過去は全て承知でこれからを紡いで行きたい。変えられぬ物は仕方ない。人生かけて受け
止めます。唯、今からでも変えられる物はある。
先輩はおば様を大切に想っている。おば様を哀しませたくないと想っている。おば様は
わたしにとってもたいせつな人。同じ人を想う心なら繋げられる。そして大悟先輩がおば
様のたいせつな人なら、わたしにとっても…。
「今迄己自身の事に、無自覚に鈍くてごめんなさい。これからは自身に確かに向き合って、
日々を過ごし、先輩にも対します。おば様や先輩を心から大事に想います。そして……」
大事な事に気付かせてくれて、有り難う。
のし掛っていた男の子の肉体が離れたのは、その暫く後の事だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしの話しに、暫く問は挟まらなかった。金田家の3人はやや表情が硬いけど、話し
始めたら途中で止めても不安を残す。わたしが塩原先輩に夏以降も望んで関り続ける理由
は。
「二度とあの様な事態は招きません。わたしが先輩と関係を結び直したのも、その為です。
先輩は決して悪い人じゃない。信頼を繋げば禍も福に出来る。先輩達だけじゃなくその家
族とも関る事で、安心の絆もより太く強く」
その為に加害者と被害者に隔てるのではなく心を繋ぐ。二度と不幸な誤解を重ねない為
にむしろ深く関る。本気で相手をたいせつに想う事で心を導く。未遂で終れたから、防ぎ
退けたから、傷が浅かったから、やり直せる。
決して遊びや無謀で塩原先輩に関っている訳ではないと、心配を招く事は承知で、成功
を信じ見守って欲しいと願うわたしに。金田家の3人は暫く沈黙し。澪さんの静かな声が、
「顔を上げなさい、羽藤さん」「はい……」
頭を上げた正面間近で清治さんは冷静に、
「どうやら、私達が読み違えていた様だ…」
私と澪は今日君に、和泉を守ってくれた事への感謝と同時に、その危うさを窘めようと
思っていたんだ。君が己の強さに過剰な自信を抱いて、力づくでの解決を考える様になっ
ては危ないと。幾ら鍛えても女の子だからね。
和泉を守ってくれた事は嬉しいけど、その成功で、戦いを前提に応対する様になっては
危ういと。あの翌日鴨川さんの危険に君が1人で飛び込んだと聞いて。オハシラ様のお祭
りでも彼らと一緒に歩いたと聞いて。今日も彼の家に乗り込んで間近に添ったと今聞いて。
「和泉を守ってくれた強さと勇気には感謝の言葉もないが。他の人を想う優しさは分るが。
叶う限り危険を避けて事を運んで欲しいと」
「和泉もあなたを大切に想っている。あなたが被る痛みや恐怖は和泉を心配させる。だか
らあなたに無謀は控えてとお願いしようと」
ご両親は、わたしの身を心配してくれて…。
気持の温かさに自然にこうべが垂れてくる。
「だが君の応対や想いはそれを越えていた」
招くのが遅くなった分、君の様子も漏れ聞えていてね。君はあの一件の後も強さを表に
出す事はせず、柔らかな応対を心がけていて。塩原君達とお祭りの往来で手を繋いで歩い
た話しも、衆目の前で頭を下げた話しも聞いたけど。それも強さ故の自信過剰や無謀と言
うより、関係を繋ぎたい想いの表れなのだろう。
「それも自身の為ではなく、和泉や鴨川さんの安心の為に」「本当に、優しく賢く勇気に
満ちた可愛い子。和泉が頼る気持も分るわ」
頬を染めて言葉に詰まる和泉さんも含め。
「心配して頂いて、有り難うございます…」
2人のたいせつな和泉さんを確かに守れなかったこのわたしを。彼女が禍を蒙ったのは
わたしの為でわたしの所為なのに。それで尚、2人はわたし迄を心配し気遣ってくれてい
る。その想いにもわたしはしっかり応えなければ。
「無茶はしない様に努めます。荒事や揉め事は極力回避します。わたしも争い事は好みま
せんし、安心して欲しい人達の不安や心痛をわたしが招く様では、逆効果ですから……」
わたしの望みは、たいせつな人達がみんな、涙を零さず笑みを絶やさず日々を過ごすこ
と。
「金田清治さんも、澪さんも和泉さんも、わたしのたいせつな人、特別にたいせつな人」
心を温める夜が更けて行く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
デザートも食し終えた後、皿洗いを手伝おうとして、澪さんに柔らかに断られた。わた
しはもてなす側ともてなされる側に隔てるより、隔てなく作業を一緒したかったのだけど。
「羽藤さんには、主人の話し相手をお願い」
澪さんは和泉さんだけを伴い台所へ行き。
わたしは清治さんと2人で向き合う形に。
少し遠くから皿洗いの水音が聞える中で、
「君には娘の事で、本当にお世話になった」
改めて頭を下げるのは、本題への枕詞だ。
夫妻は、和泉さん抜きでの話しをお望み。
静かに続きを待つわたしに、清治さんは、
「君は、和泉の事をどう思っているかな?」
こういう話しを、父の立場でするべきか。
敢て訊いたのは、君も分っていると想う。
娘は君に、友情以上の好意を抱いている。
「和泉は昔から活発な子でね。小学校でも同学年に男子が少ない所為もあって、みんなを
引っ張ったり、盛り上げる為にバカやったり。ピエロを望んで引き受けてきた処があっ
て」
性格もサバサバしていて、君や佐々木さんの様な女の子と並ぶと男役が似合って見える。
演劇部でも早速男役が回ってきたと、年頃なのに元気すぎて。そろそろ色恋に目覚めない
物かと想っていたら。少し困った笑みを浮べ、
「女の子に恋していたと。年上の不良拾数人に襲われた処を、死力を尽くして守ってくれ
た末に惚れ込んだ相手は、女の子だったと」
澪に聞かされた時は正直驚きに固まったよ。
むしろ和泉に守られる程に大人しく可憐な。
でも君は誰よりも強く賢く穏やかに優しく。
男の子ならば話しは簡単だったのだけどね。
清治さんの困惑はむしろわたしを気遣って、
「和泉の様子を見ていると、本当に日々君を好いていて。そして君は、女の子の和泉が想
いを寄せるのが理解できる程に情愛が深い」
一年前の運動会を憶えているよ。一歳下の平田さんに、もうすぐ去って行く女の子に君
は最後の最後迄全力で向き合って。縋り付いた彼女を君は、衆目の中で確かに抱き締めて。
平田さんのお母さんが漏らしていた。君が平田家全員の生きる希望を繋ぎ止めてくれたと。
「そしてこの夏に君は、金田家の生きる希望を繋ぎ止めてくれた。危険も痛みも承知で」
君は1人で逃げる力を持ちながら、最後迄和泉を守る為に踏み止まった。翌日には鴨川
さんを守る為に敢て危険に踏み込み、その後も再発防止の為に、望んで彼らに関り続けて。
しかもそれも脅しや牽制ではなく、彼らとも心を繋ぐ事で。その家族にまで心を注ぐ事で。
「本当に君には感謝の言葉もない。そして和泉が心寄せる理由が実感出来る。君と和泉の
絆を常識で判断するのは間違いかも知れない。和泉と言うより、君を。素晴らしい人だ
…」
清治さんは、和泉さんが女の子のわたしを好いた事を毛嫌いせずに、理解出来ると言っ
てくれた。そう言う関係にあるこのわたしを。娘を誤った途に引き込みかねない羽藤柚明
を。
「澪とも話したんだがね。和泉を抜きに…」
でもだからこそ、清治さんの表情は苦く、
「男の子に恋する程度なら、中学1年生のお話だ。焦らずに、話を聞きつつ知らぬ顔で見
守る選択もあっただろう。こういう事を経れば深く心通わせても無理はない。身体の関係
にさえ慎重であってくれれば、黙認しても」
だが相手が女の子となれば、女子に恋された君も色々戸惑うだろう。その、君が迷惑や
負担を感じないのかと、それが気懸かりでね。
清治さんはわたしを気遣ってくれている。
女の子の和泉さんに、想いを寄せられて。
わたしが迷惑に負担に、思わないのかと。
和泉さんを心から案じつつ、その想いを理解して、悩みつつ受容しながら、尚わたし迄。
複雑な思いを重ねつつ、わたしや和泉さんの想いを叶う限り尊重し、傷つかない方向をと。
「……申し訳ありません。お父様」
居たたまれなさと愛しさの双方で心一杯で、わたしは椅子に座した侭では向き合えなく
て。清治さんの左間近に跪いて、その瞳を見上げ。許しを請い願う姿勢をまず確かに見せ
てから。
「金田和泉は羽藤柚明のたいせつな人です」
和泉さんがわたしに寄せてくれた想いはこの上なく嬉しく有り難い。心底愛しく想う人。
迷惑にも負担にも思いません。わたしで足りるなら、良いのなら、お望みなら。わたしが
和泉さんの幸せを支える事が願いだったのに、確かに守る事も出来ずに哀しませたその上
で。
お父様とお母様に、ここ迄受け容れて頂けるとは思って居ませんでした。わたし迄気遣
い案じて頂けるとは。お二人の大切な和泉さんに過ちを招きかねないこのわたしが。確か
に守りきる力に不足したわたしが。ここ迄の想いを頂ける。その事が身に余る程幸せです。
その有り難さが身に染みるだけに。その温かさが心に浸透すればする程。その強く優し
い想いに応えきれない己が悔しくも呪わしく。
「その上で申し訳ありません。清治さんと澪さんの大切な和泉さんの想いに、わたしは等
しい想いを返せない。この身が女の子で和泉さんの想いに全て応えられないという以上に、
わたしは和泉さんを一番にも二番にも想う事が叶わない。絶対に叶わないと分っていて尚、
わたしには別に想い続けたい人がいます…」
今こそ、サクヤさんの言葉が身に染みた。
『ごめんよ。あたしには絶対代えの利かない、掛け替えのない人がいてね、あんたを一番
にしてあげる事は出来ないんだ。柚明があたしを一番と言ってくれるのは嬉しいけど、そ
れにあたしは、同じ想いで応える事が出来ない。
柚明を特別にたいせつだと思う、あたしの気持は本物だよ。それでも、一番だって想い
に一番の想いで応えてあげられないってのは、我ながら薄情だと思う。ごめん、柚明』
わたしは真沙美さんの想いにも和泉さんの想いにも応えられない。一番と言ってくれて、
深く心を寄せて貰えたのに。心底愛しく嬉しく想いつつ、それに等しい想いをどちらにも
返せない。更にたいせつな人を別に抱く故に。
『一番じゃなくて良い。ゆめいさんの一番が誰でも良いから、何番でもあたしを向いてく
れなくても構わないから。今迄もこれからも一番は望まないから。それは全て承知だから。
ゆめいさんの日々を、あたしが支える。ゆめいさんの事情でその日常が綻びそうな時は、
あたしが繕う。男役でも女の子でも及ばないあたしだけど、その優しさを支えさせて…』
そこ迄強く深い想いを寄せてくれたのに。
わたしこそ人でなしの非難が至当な者だ。
たいせつな人をどれ程傷つけている事か。
でも、それでも尚わたしは己の真実を応えねばならなかった。強く深い愛を注がれて尚、
わたしは一番も二番も変更を効かせられない。どれ程深く愛し応えたく願ってもそれだけ
は。
真実は、時に人を傷つける。でも、真実を貫かないと、もっと多くの人を嘘で傷つける。
「金田和泉は、羽藤柚明のたいせつな人…」
再度の詞に清治さんが複雑な顔を見せる。
「唯一のとは言えないし、一番とも二番とも、言う事できないわたしだけど。有り難く嬉
しい想いに、等しい想いを返せないのが心底申し訳ないけど。叶う限りの想いを返した
い」
和泉さんの想いを注ぐのにわたしが不相応と感じたら、いつでも捨てて頂いて結構です。
一番の想いも返せないわたしに気遣いは不要です。縛る積りは微塵もない。それで尚寄せ
てくれる美しい想いには、叶う限り返したい。
「わたしの願いは和泉さんとそのたいせつな人の微笑みです。それに差し障ると感じた時
には、それを叶えられないと思えた時には」
いつでも告げて下さい。わたしは皆さんの最善を選びます。わたしが和泉さんの涙や不
幸を導くと、この関りが正常ではなく許せないとお考えなら、絆を断たれる事も望みます。
「わたしに気遣いなく、和泉さんの幸せを最優先に考えて下さい。わたしは子供で視野が
狭く考えが浅い。大人の考えには及びません。本当に和泉さんの為だとお父様お母様がお
考えならば、どんな答にも従います。そして」
例え絆を断たれても、和泉さんも清治さんも澪さんも羽藤柚明のたいせつな人。一度た
いせつに想った人は、いつ迄もわたしのたいせつな人。その幸せを守り支えたい愛しい人。
いつの間にか水洗いの音が鎮まっていた。
戸口には澪さんと和泉さんが立っていて。
父と夫の答を固唾を呑んで見守っていた。
「こんなに複雑な気分は初めてだ。君が男子なら、なぜ娘を一番に想ってくれないのかと、
一番ではないのに誤解させる程深く想うなと、詰め寄って胸ぐらを掴んでいる処だろう
に」
同時に君が男子ではない事が心底悔しいな。
君が娘を心底愛してくれていると分るから。
散々頑固親父を演じて君達の想いを試して、試練乗り越えさせてから祝福してやった物
を。
お父様は力の抜けた声でわたしの肩に触れ、
「和泉が嫁に行けなくなる様な事はしないでくれ。和泉の父として望む事はそれだけだ」
未だ子供の関係だ。親友と姉妹と恋人を混ぜ合わせた様な関係だ。断ち切るのは賢い選
択じゃない。清治さんは己を納得させる様に、
「和泉も、羽藤さんが嫁に行けなくなる様な真似は許さないぞ。それを和泉が弁えられる
なら、私達は暫くの間この関りを認めよう」
「そうね……」「父さんっ」「お父様……」
澪さんの了承と和泉さんの歓喜が届く中、
「羽藤さん。和泉は未熟でがさつな娘だが」
想いの深さで及ばなくても、君を想う娘の気持は本物だ。君に出来る範囲で良い。娘の
想いに応えて欲しい。私達からお願いしたい。
「有り難うございます、お父様。嬉しい…」
触れた肌の暖かみに、心迄暖められつつ、
「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」