第3話 日々に確かに向き合って(前)
こんにちは詩織さん、お手紙拝読いたしました。色々と忙しくお疲れの中、長文を有り
難う。わたしは日々を元気に過ごしています。
羽様も経観塚も、田畑や森の草木が青々としてきました。今年は冬の積雪が少ない上に
春の訪れも早く、梅雨時迄は今日の様な好天が続くので、やや水不足になると言う話です。
中学生になって二ヶ月経ちました。銀座通中学校は全校生徒二百人弱で、一学年に複数
学級があります。と言っても2クラスですけど。わたしは1組、和泉さんも1組、沢尻君
と佐々木さんと真沙美さんは2組です。学級は別でも教室は隣だし、羽様地方から通うの
で登下校の際に顔を合わせる事は多いですよ。
羽様小の少人数に馴れていたので、突然入り込んだ多人数の場に戸惑ったけど、意外と
他の人も似た状況だと分って、少し安心しています。銀座通中学校に通う人の三分の一は、
わたしの様に小学校は郡部の小規模校で、中学校で初めて経観塚銀座通に通う人の様です。
お互いおっかなびっくりで、自己紹介から始る感じでした。わたしは羽様に来る迄都市
部の大規模校にいた筈なのに、想ったより詩織さんや羽様のみんなに染まっていた様です。
最近漸く級友の顔と名前が一致してきました。
クラブは手芸部に決めました。想い描いた模様や絵柄をこの手で形に為していく作業は、
着実で愉しいです。笑子おばあさんに和裁を教わってもいますし。わたし達郡部から通う
子は、野球部や剣道部の様に遅く迄残っての特訓も難しいので、持ち帰れるのも利点です。
ご質問にお答えしますね。登校は歩きです。中学校になって片道弐拾キロ弱になったの
で、最初は正直迷いました。バスにしようかなと。疲れるとか面倒とかより、登下校に掛
る時間が気になって。結局朝早く出る事にしました。晴れの日で2時間半でしょうか。下
校の方は流石に諦めました。毎日バスで帰っています。
時々夕食の食材の買い足し等も頼まれるし、帰りが遅いと各種の修練の予定がずれ込む
し、何より桂ちゃんや白花ちゃんの近くで過ごせる時間が減ってしまうからです。遅く迄
残る事の少ない部活を選んだのもその為ですし…。
最近笑子おばあさんに機織りを教えて頂いています。前から気になっていたけど、今迄
笑子おばあさんは経観塚に習字や生け花等を教えに出向くのに忙しく、頼みづらかったの。
最近一段落して見えたので、恐る恐る頼むと快諾して貰えました。実はわたしがそう言
いだせる様に、お仕事量減らしていた様です。申し訳ないというか有り難いというか。興
味を抱く様子が顔色に出ていた様です。気持を理解してくれた事も気遣ってくれている事
も、教えてくれる好意も嬉しいけど反省してます。きっと、物欲しげな顔だったに違いな
いから。頼めないと割り切ったなら、顔色にもそぶりにも出ない様にしないと。未熟さを
痛感です。
そうそう、先日少し揉め事に直面しました。和泉さんと参考書を見に銀座通商店街に行
った際だけど、禍の源はわたしの様で、和泉さんも真沙美さんもわたしが巻き込んだ感じ
で。今回、いつもと少し表記が違う事に詩織さんはもう気付いてますか? はい、そうで
す…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
中学校も羽様から徒歩で行くと決めたわたしの朝は早い。今時期なら明るいけど冬には
暗い朝五時に。あくびを噛み殺し布団から身を剥がす。未だこのサイクルに身体が馴れて
ない様だ。目覚まし時計は不要になったけど、体内時計にはもう少し調整の余地がありそ
う。
「お早うございます」「「お早う」」
笑子おばあさんと真弓叔母さんに挨拶して、一緒に朝ご飯の支度に掛る。2人ともわた
しが中学校に徒歩で行く為に更に朝早くなると、今迄より早起きしてくれて。自分の朝ご
飯は自分で作るから良いですと、言ったのだけど。
「年寄りは早起きになっていく生き物なの」
「みんなの分も一緒に作る方が効率良いし」
結果2人の好意に甘えさせて貰っています。わたしもみんなの朝ご飯作りを一緒に手伝
い、五時半過ぎに自らの朝食を頂いて、身繕いを。登校に2時間半は掛るので、少しの余
裕を見込んで六時前には羽様のお屋敷を出なければ。
「白花ちゃん、桂ちゃん、行ってきます…」
布団の中で夢心地の寝顔に向けてご挨拶。
3日に1回位の割合で、2人は挨拶の声にむくっと起きて、寝ぼけ眼で『行かないで』
とスカートを引っ張ってくれる。嬉しいけど、学校休んでしまおうかと想う程悩ましいけ
ど。
「お早う桂ちゃん白花ちゃん。まだ眠い?」
2人はどちらか片方が起きると必ず相方を起す。なのでどちらかが起きると必ず一緒に
動き出す。2人とも寝ぼけ眼で近づいてきてまずスカートの裾を掴む。掴まれる前に抱き
留めた事もあったけど、代りに袖を掴まれた。わたしの身柄は2人に拘束される定めらし
い。
「ゆめいおねえちゃん、おはよー」
「ゆーねぇ、おはよーごらいまふ」
「眠いのなら、まだ寝ていても良いのよ」
一応言ってはみるけど、わたしがいる間に2人が再度寝付いた事はない。正樹さんの話
だと、わたしを見送ってからすぐ寝付く様だけど。自由な方の手で目をこする桂ちゃんに、
「駄目よ、桂ちゃん。そんな風に擦っては」
お顔を洗いましょうか? 白花ちゃんも。
起き出した双子と連れだって台所へ。桂ちゃんはスカートを掴んだら離してくれないし、
わたしはその手を引き剥がせない。スカートの裾をぎゅっと掴む柔らかく温かな幼子の掌
はわたしが放せない。双子の興味を別に引くか、簡単に引き剥がせる誰かの処へ行くか…。
サクヤさんが来ている時は一緒に動いている台所へ、わたしも含む年少組が連れ立って。
正樹さんがこの時刻に寝ている事が多いのは、幼子が寝静まった夜遅くに執筆活動する為
だ。
双子を抱き取って頂き、共々の見送りを受けて学校へ。早く帰る様にするからねと言い
つつ、本気で心にそう誓う。春夏関らず森は朝霧で冷たく、日が照す前の空気が心地良い。
屋敷を囲う緑のアーチを抜け、バス通り迄出ると、山に囲まれた盆地の底は、直射日光
が目に痛い。今日も日の照り具合が強くなりそう。お日様の角度が低く、光や熱が弱い間
に学校に着かないと、後半でお日様に捕まる。わたしは通学路を行く足の動きを少し早め
た。
左側に山と森の縁を見て、右側に平らに広がる水田や畑の原を見て、未だ涼しくそよぐ
風に髪を嬲らせつつ、道路を学校方面に進む。途中2度バスに追い越された。予定の詰ま
っている帰途は時が金なのでお世話になります。
中学校迄弐拾キロの道程は、徒歩で2時間半掛る。それでもこなせているのは羽様小時
代、毎日行き帰り6キロ歩いて鍛えたお陰か。健康な強さを掴む為に歩くと決めて、3年
目。辛くないと言えば嘘になるけど、この辛さがわたしを鍛えてくれるなら。今の汗が明
日の強さの礎になるなら。結構足腰は強くなったと思う。肺活量とか、持久力とか、諸々
も…。
「ふう、着いた……」
微かに汗ばんだわたしが中学校に着く頃が、朝のホームルームが始る十分位前で、みん
なの登校時間帯だ。羽様地方の人は多くバスなので少し前に到着している。わたしも汗を
気にしなければ、もう少し早く着けるのだけど。
「羽藤さん、おはよう」
「お早う……志保さん」
声を返すその間にも、
「羽藤さんおはよう」「羽藤さん、おはー」
漸く憶えたクラスメートの顔は三十と少し。教室を埋める椅子と机は、羽様小ではなか
った光景だ。体育は2組と女子同士、男子同士合同で行う。一学年六十名強は、わたしが
小学3年迄過した都市部に較べればまだ小規模だけど、羽様など郡部の子には充分大所帯
だ。それだけに子供付き合いも複雑になる様で…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ゆめいさん、明日の放課後空いている?」
和泉さんの問に頷きを返したのは昼休み。
廊下で呼び止められたのは偶然か、和泉さんも教室の空気を気に掛けているのだろうか。
「参考書買うのに本屋付き合って欲しいの」
小学3年で転入した当初から、気さくに語りかけてくれた彼女を、名前で呼ぶ様になっ
たのはいつからだろう。焦げ茶のショートヘアに活動的な印象は、少年っぽくて爽やかだ。
「ゆめいさん参考書の選び方も上手だから」
中学になると、流石に少し勉強しないと授業にも付いて行きずらそう。ゆめいさんと一
緒にお勉強出来れば、効率も上がるんだけど。話していて愉しいし、間近にいると嬉しい
し。
すっと傍に添うと、右腕に軽く両腕を絡みつかせ、自然に身が寄り掛り。親愛の気持が、
温もりと共に伝わってくる。触れ合いの過剰に違和感がないのは、和泉さんの人柄の故か。
わたしも人肌の柔らかさに目を細めつつ、
「有り難う。そう言って貰えると嬉しいわ」
参考書選びや勉強の効率良さも、実は贄の血の力の修練に伴う感応や関知等の特殊技能
の顕れだ。先生が伝えたい中身が掴める。言葉に出し切れない感覚や印象が、声音や顔色
や言葉の繋ぎや足音や腕の振り等、様々な物で読み取れ分る。元々先生は生徒に教えよう
としている。受けようとすれば分る物なのか。
意識して教諭の意図や思考を探れば、答が覗けてしまう実質のカンニングだけど、自制
すると言うより、そこ迄する必要を感じない。テストでも授業でも、先生は答に辿り着く
方法を予め教えて問を出す。答もなしに問う先生は少ない。である以上設問は理解出来れ
ば満点取れる様に作られていて、全問解ける筈。
それ迄何度も聞いたり見返したり、試行錯誤せねば分らなかった話が。呑み込み易くな
り、一度で分る様になり、話される途中で結論が見える様になり、聞く前に分る様になり。
言葉に出る前の想いを察する鋭さは、幼子と接する内に身に備わった素養かも。お話し
したいとか、抱き上げてとか、喉渇いたとか、気付いて想う前に、仕草の段階で読み取っ
て。
その応用で、参考書やテスト問題も文面を読むと答への道筋が視え、分り易い書き方か
否かも視え。先生にも簡潔明瞭な設問を作れる人と、そうではない人がいる。参考書や新
聞雑誌にも分り易く熱意を感じ取れる文面と、そうではない物がある。佐々木さんや(海
老名)志保さんの書店行きに付き合って、わたしもその特技を最近自覚した。みんなはわ
たし程行間に宿る感触を重視しないと言う事を。
各種修練と双子の相手に忙しく、勉強に時間を割き難い状況も、その発現を後押しした
だろうか。結果羽様小の高学年では猛勉強もなく学業で首座にいたけど、小規模校の話だ
と気にしてなかった。大勢の前に出れば目立つ程ではないと想っていた。鴨川さんが僅差
にいたから、飛び抜けているとの自覚もなく。転入生のわたしは級友の気持を察し出来た
り、真弓さんや笑子おばあさんとの修練で、感覚を肌で分って進展が早まった事が嬉しく
て…。
わたしの成績が一年生の中で抜きんでていると知ったのは、先々週の中間テストだった。
新たに習い始めた英語含め五百点中四百九拾八点、次点鴨川さんが四百八拾八点で2人飛
び抜け、3位柳原君の四百四拾点を引き離し。
小学校の時の様に、みんなが満点近くを取れるという感覚は、周囲とずれていたらしい。
特別気負いもなく、小テストの感覚で臨んで結果を受け止めた処、みんなの目が見開かれ。
微かにテスト後に良くない兆しを関知したけど、それが成績の不振ではなく好調に由来
するとは想いもしなかった。拙い程に目立つと分っていたら、対応は変っていただろうか。
この時は鴨川さんがほぼ同位置にいる事に、わたしが1人じゃない事にほっとしたけど
…。
「あら、羽藤さん。廊下にこそこそ金田さんを呼び出して、密かに仲間作りに勤しんで」
和泉さんとの語らいを妨げる冷水は、数メートル先に立つ女子達真ん中の野村さんから。
鴨川さん程ではないけど真っ直ぐ長い黒髪が艶やかでやや背が高い。左右に塙さんと川中
さん、後に島崎さんが顔を覗かせ。冷笑気味な姿勢も、数を頼んだ表情も、意図も読める。
わたしの返事を待たず、畳み掛ける感じで、
「カンニング疑惑が晴れないから自重していると想ったら、金田さんから引き込む積り?
小学校が同じなのに、今更関係を繋ぎ直さないといけないなんて、不徳よねぇ。それも
教室では出来ず、廊下に呼び出すなんて…」
「金田さんが迷惑しているのではなくて?」
背の高くショートな黒髪の塙さんがわたしに視線を向けて問うけど、その答を待たずに
小柄な川中さんがおかっぱの黒髪を揺らせて、
「好い加減、取り巻き作りはあなたに無理だと理解してはどう? あなたと鴨川さんでは
格が違うの。成績で上回りたくてテストで不正したり、友達出来ないから影でこそこそ動
いたり。悪あがきはもう見ていられないわ」
「金田さん、嫌だと思ったら、はっきり断って良いの。わたし達が面倒見てあげるから」
鴨川さんにはわたし達が取りなしてあげる。
島崎さんは親切めいた言い方だけど、表向きはわたしへの敵意で誤解を装うけど、真の
標的はわたしではない。彼女達の眼目とは…。
「あたしはゆめいさんに呼び出された訳じゃない。あたしがゆめいさんを呼び止めたの」
和泉さんは、わたしといると面倒で害があると伝えたい、その意図を分って撥ね付けた。
わたしに近づかないようにという、わたし側に付くのかという遠回しな脅しと問に、むし
ろ和泉さんは珍しく、不快感を露わに見せて、
「ゆめいさんは羽様小の頃からずっとあたしの友達で、鴨ちゃんと常に競り合っていたの。
カンニングの必要なんてないし、それで高得点取って喜ぶ人じゃない。ゆめいさんの友達
作り妨げているって聞いたけど、本当なのね。嫌味を言って離れる様に促しているとか
…」
野村さん達は和泉さんを舐めて掛ったのかも知れない。わたしの前で嫌味を言えば、和
泉さんは不快感を嫌い、その場ですぐ切れなくても自然わたしと距離を置く。わたしもそ
れを見て誰かに声を掛ける事を憚ると。でも和泉さんは、迷いなくわたしを選ぶと明言し。
和泉さんはわたしの右腕に両腕を絡めた侭、むしろしっかり寄り添った侭、視線も声音
も表情も、そして肌から伝わってくる感触迄も、わたしを強く想ってくれる故の義憤に満
ちて、
「あたしはゆめいさんに参考書を一緒に見て貰いたくて、声掛けて立ち止まって貰ったの。
あたしがこそこそ隠れたのは、余計な邪魔が入るとゆめいさんが気を遣っちゃうから…」
あなた達の所為で、ゆめいさん教室の中でもみんなに声を掛けるの、遠慮しているのよ。
声かけた相手があなた達に睨まれるかもって。ある筈ないカンニングとか、鴨ちゃんの人
望に嫉妬中とか噂流して。ゆめいさんは普通に(篠原)かおりんや(結城)さなちゃんと
仲良いだけよ。取り巻きってあなた達の事じゃない。そんな悪あがきしてゆめいさんを孤
立させたい? そっちの方が見ていられないわ。
「あたしの迷惑は、ゆめいさんとの語らいを妨げるあなた達よ。嫌だと思うからはっきり
言うわ。あたしはゆめいさんが好きで自分から寄り添っているの。ゆめいさんは取り巻き
欲しがる人でもないし、誰かを取り巻いて喜ぶ人でもない。あなた達と一緒にしないで」
和泉さんの憤りを前に、わたしは逆に平静さを取り戻す。わたしの為に怒ってくれる和
泉さんに、申し訳ないけどわたしは嬉しくて。優しく強い声が小さな蟠りを清め行く。2
人で怒っても事態の収拾に道筋は付けられない。
わたしは和泉さんの両腕が絡む右腕をその背に回しつつ、左腕もその背に回して包んで、
「有り難う、和泉さん。もう良いわ」
和泉さんの怒りを鎮める為に頬に頬寄せ、
「わたしを想ってくれる、熱い心は分った」
一呼吸、二呼吸。和泉さんの怒りが静まる様に、深呼吸出来る時間ゆっくり抱き留めて。
背後で野村さん達が固まっているけど、気にしない。今更中途半端に留めても印象は同じ。
今は完遂させ和泉さんに与える感触を確かに。
「わたしの為に、それ以上心を乱さないで」
充分だから。もう充分すぎるから。解決は、わたしに絡む事だからわたしの手で為すべ
き。
怒りに染まっていた頬が、別種の想いで更に赤くなって行く。本当に、落ち着かせられ
たのかと言われれば、失敗かも知れないけど。取りあえず心から溢れる怒りの炎を少し鎮
め。
言葉での答は要らない。和泉さんの想いを肌で感じ、温もりで分り、気配で察し、わた
しに後を任せてと確かに伝えると振り向いて、
「野村さん、塙さん、川中さん、島崎さん」
和泉さんから両腕を解き解かれて正対し、
「わたしは、試験で不正をしてはいません」
してない事を証明する事は、難しいけど。
静かに事実を伝える。順々に瞳を見つめ、
「その必要がなくあの点数を取れる事を、鴨川さんが見せてくれています。そして……」
わたしの言動が信じられない様であれば。
「一緒に明日参考書を見に行きませんか?」
前と隣で、同時に息を飲む気配を感じた。
「わたしの勉強法を見て触れて貰えば、実感も沸くと想うの。わたしの今の方法がみんな
に合うかは分らないけど、効率良い勉強のきっかけになれば。みんなが不正なく勉強法の
改善や参考書選びで成績が伸びれば、わたしの成績が不正の結果でない事の傍証になる」
趣味や家事や習い事にも時間を割ける様になるし、毎日をもっと豊かにできると想うの。
猜疑に敵意を返すのではなく、挑発に怒りを返すのではなく。疑念を晴らす行いに付き
合って貰う事で、信頼を繋ぐ。不快は感じたけど、誤解なら解けば友達になれる。お互い
に人生が幅広くなる。拒絶ではなく、我慢や逃げでもなく、相手も自分も和泉さんも共に。
唯責めるだけ、人に求めるだけでは、必要な成果は得られない。想いを曲げるのとは違い、
届かせ方を変える事が、時には必要なのかも。
「明日の放課後で良ければ、一緒に如何?」
「……な、何を言って」
野村さんが後ずさるのは、わたしが怖い訳ではないと想う。自然な笑みの筈だったから。
敵意も闘志も心にも兆してなかった筈だから。合わせて塙さん達も一緒に一歩後ずさるの
に、
「同級生でしょう。一緒に参考書見に行ってもおかしくない。これをきっかけに、わたし
もみんなと仲良くなりたい。誤解を解ければ、きっとわたし達良いお友達になれると想
う」
「……っ!」
不快感は、押しつけあっても消えはしない。でも手を携えれば一緒に消し去る事も出来
る。禍も人の手で福に転じる事が出来る。そんなわたしの促しになぜか彼女達の表情は硬
く…。
「何呑み込まれているの、美子もみさえも」
背後から現れて野村さんと島崎さんの名を呼んだのは、2組の女子・桜井さん達だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「あなた、魔性の女って……本当ね」
現れた桜井さん達2組の女子5人は、別に殴り込みに来た訳でもない。だから怯える事
もない筈だけど、前後からの挟み撃ちと頭数で為す威圧に、和泉さんは不安を感じた様で。
『桜井さんと、沢口さんと、星野さんと…』
野村さん達の動きは一組の女子単独の物ではなく、二組の桜井さん達の動きに連動して
の物だと、志保さんには聞かされていたけど。
「みんな、羽藤さんに丸め込まれない様にね。彼女の後ろには、結城さんや篠原さんがい
るのよ。懐に入られたら、掻き回されるわ…」
「わたしは別に、どっちの側に付くとかは」
わたしは桜井さんにも、明日の放課後一緒に参考書を見に行こうと声を掛けたのだけど、
「良いのよ、別に。気を遣ってくれなくて」
私達は鴨川さんの傍にいるだけで目一杯忙しいから。あなたの相手している暇はないの。
「そうでしょう、美子さん?」「え、ええ」
桜井さんはポニーテールを微かに揺らせながら、わたしの誘いを正面から拒んで微笑み、
「私はあなたがテストで不正したかどうか等どうでも良い。耳にした噂は口にもするけど、
私達が火を付けた訳じゃない。あなたに火種があっただけ。真偽は大事じゃない。唯あな
たや結城さんが蠢くと、鴨川さんに目障り」
わたしとの関りを切ろうとしている。わたしを疑うのでもなく信じるのでもなく、わた
しと言葉を交わす事、心通わす事を忌み嫌い。それは強い警戒と怖れの裏返しなのだろう
か。
「金田さんはあなたにあげるわ。元々羽様の者なんて私達は数に入れてないし。美子さん
達も今後下手に関りは持たないで。私達は鴨川さんに関る人の繋ぎ役であれば良い。その
代り羽藤さんもこれ以上、金田さんと篠原さん達以外の誰かに声を掛けるのは止めて…」
あなたは失格よ、金田さん。羽藤さんの処にでも篠原さんの処にでも好きに行けば良い。
再び憤りの炎に油が注がれる和泉さんより、わたしの答の方が早かった。言うだけ言っ
て、野村さんにも言いっぱなしで、従う物だと決めて掛った見下す目線を、目力で引き寄
せて、
「桜井さん。それは、受け容れられません」
和泉さんを抑える様に支える様に、左手をその右腕に絡めながら、わたしは桜井さんを
正視して、桜井さんにも視線で正視を促して、
「手放したり渡したりする前に、和泉さんは物じゃない。あなたの物だった訳でもない」
声はあくまで静かに、想いの過熱に引きずられない様に、しっかり伝える事を意識して、
「和泉さんはわたしのたいせつな人。鴨川さんもたいせつな人。わたしは誰かをたいせつ
に想う心を、制約はされない。そしてわたしは桜井さん、あなたもたいせつに想いたい」
あなたがわたしのたいせつな鴨川さんを心から想ってくれるなら、同じ人を心から想う
事が出来るなら、気持は通わせられる。わたしに至らない点があるなら改めます。その代
り鴨川さんの囲い込みはしないで。和泉さんにも他の人にも、鴨川さんは大切な人よ。隔
てたり、繋ぎを独り占めするのは良くないわ。
彼女達が鴨川さんを取り巻くのは構わない。仲良しグループはどこにでも生じる。問題
はそれが鴨川さんを囲い込み、余人を弾いたり、妙に隔りを意識させようとしたがる処に
ある。
「失礼があるなら改めます。誤解があるなら解いて貰いたい。わたしは鴨川さんをたいせ
つに想っている。決して悪意は抱いてない」
歌織さんとも早苗さんとも離れる積りはないけど、志保さんも和泉さんもたいせつな人
だけど、鴨川さんもたいせつだから。わたしは野村さんや桜井さんともお友達になりたい。
「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」
一歩前に出て、お辞儀する。お友達を望むにしては大仰だけど、誤解や感情が絡まる関
係を解いて結ぶには、敬意を姿勢に表すべき。桜井さん達が全員一歩後ずさるのは、野村
さん達の時と同じく決して怯えではないと思う。だってわたしは敵意も闘志も抱いてない
から。
わたしが頭を上げて桜井さんの答を待つ為に正視すると、状況は硬直した。桜井さんは
答に悩み、逃げ出したいけど逃げ出せない表情で。それ程の困難は、求めてない筈だけど。
誤解があれば解きたいと伝え、失礼があれば改めると告げ、でも仲良くする相手を縛ら
れないと示し、その上で仲良くしようと求め。なのになぜかその表情は硬直し、視線は泳
ぎ。
状況が固まって、数分経過した頃だった。
「あんた達、そんな処で何をしているの?」
場を動かしたのは背後からの良く透る声で。
鴨川さんが野村さんの背後から姿を見せた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『経観塚でも、鴨川の名は結構大きいのよ』
志保さんが耳打ちしてくれたのは、答案が全て返され成績が確定した先週木曜日だった。
鴨川さんは前々から成績優秀・容姿端麗の話が経見塚迄響いていたという。銀座通小に
彼女と同学年のいとこがいて親戚付き合いの中で、或いは両親の仕事の関係で、経観塚に
真沙美さんの話が漏れ出ていた事情もあって。
『彼女の話は親戚から農協や町内会を通じて、広まっていたの。偶に見た感じでも背が高
く堂々として綺麗だし、受け答えも明快だし』
多人数で競っている処の方が普通成績は良い筈なのに、銀座通小の者が男子迄含め誰も
及べない。一部の女子が憧れて付き纏うのも分るわ。銀座通中始って以来の秀才って噂も、
間違いじゃなかった。意外だったのは、それを上回る人が同学年にいた事よ。ゆめいさん。
志保さんがわたしを見つめて困り顔なのは、
『ゆめいさんノーマークだったから。経観塚に親戚も友達もいないから、全く知られてな
かったし。しかも羽藤でしょう。今更だけど、大人の世界では羽藤の名は鴨川以上に鮮烈
みたい。先生方は転勤族だから深く考えてないけど、町内会やウチの親戚は噂で持ちき
り』
体育も羽様小の頃と同様、わたしは鴨川さんと首位を争っていた。この二ヶ月、個人種
目でわたしは鴨川さん以外に負けた事はなく、鴨川さんもわたし以外に負けた事はない様
な。体育も中間テスト同様、羽様小の首位2人が銀座通中の首位にその侭繰り上がってい
た?
『男子の間では上級生迄含め、あなたと鴨川さんに3年の神原先輩を加えて、銀座通中の
三大美少女って品定めしているみたいだし』
あなた自分の値に気付いてないでしょう?
志保さんは力の抜けた声でわたしを眺め、
『家柄あり、成績優秀、容姿端麗、スポーツ万能。全てで張り合っているの、あなた達』
しかも殆どあなたの方が少し上。鴨川信者があなたに煙たい視線を送るの分るでしょう。
『そうなの……?』『……そうなのよ』
あなた程思慮深く観察眼もある人が気付けないなんて、やっぱり自分の姿は自分には見
えない物なのかしらね。まあ、そう言う訳だから、あなたも鴨川信者には少し注意なさい。
その当人、鴨川真沙美さんが今目の前に。
「廊下、ずっと詰まって通れないんだけど」
平静で良く透る美声に、
「あ、ごめんなさい……」
和泉さんの肩を軽く押し、慌ててわたしが廊下の隅に身を寄せると、それを契機に野村
さん達も桜井さん達も隅に寄る。それで漸く、十数分わたし達が往来を止めていた事に気
付かされた。同時にこのやり取りが多くの人に見聞きされていた事も。当然鴨川さんにも
…。
動き出すざわめきに、緊張感もそれ迄の経緯も全て押し流されて行く。その先頭を切る
鴨川さんは、わたしの間近を通り過ぎる際に、その整った表情は全く変えず最小限の声音
で、
「余り、私達に関らないで。お互いの為に」
和泉さんも目を見開くけど、鴨川さんはその侭二組の教室に歩み去る。反応の間もなく、
他の生徒の雑踏が通り過ぎ。わたし達に言葉を掛ける者はいない。今やわたしのみならず
和泉さん迄が火中の栗だ。気付けば桜井さん達はおらず、野村さん達も一組の教室に引き
上げる処で。仲直りのチャンスを逃したかも。
「行っちゃったねぇ」「又お話し出来るよ」
和泉さんの少し残念そうな声に微笑み返す。
機会はこれが最後ではない。同じ学校に通う以上、機会は連日巡り来る。逃した魚は大
きい気がするけど、気持を失わない限り何度でも挑む事は出来るから。そんなわたし達に、
「美子や(桜井)弘子迄デートに誘うなんて、悪意があるならあんたかなりのやり手だ
よ」
声の主の篠原歌織さんと、その脇の結城早苗さんは火中の栗を焼き栗だと食すタイプか。
ミディアムの黒髪が艶やかで少し背の高い早苗さんと、癖のあるショートの黒髪に小柄で
活動的な歌織さんは、わたし達の間近に来て、
「彼女達を怒声で黙らせたり理屈で詰まらせた事はあるけど、にこにこ友好的に凍り付か
せるなんて初見な以上に考え付かなかった」
「余り面白がる処では、ないでしょうに…」
脇に添う早苗さんが窘めるけど、2人が銀座通小の同窓生に抱く憤懣は最近に始る物で
はない様で、声音も表情も痛快だったと語っている。他人事の様に言わないでと、その様
を見て今迄放置し黙っていたのかと、隣の和泉さんが今度は彼女達に、憤りを向けようと
する動きを、その腰に軽く右手を回して抑え、
「わたしは本当に野村さんとも桜井さんとも、仲良くなりたい。鴨川さんとの関係の様
に」
皮肉でもなければ嫌味でもない。彼女達の思考を凍らせる為の策でもない。入学直後に
不用意な言葉遣いをした志保さんを執拗に責めた時は、野村さん達を窘めたけど、わたし
は野村さん達を嫌ってない。むしろ彼女達を嫌っているのは銀座通小の経緯を引きずる…。
「ふーん、本当に? あそこ迄言われても」
わたしの瞳を覗き込んで歌織さんは問う。
「あれだけ根拠ない噂流され、不快な事を言われ、友達との仲離されそうになっても?」
「生命を取りに、来ている訳ではないもの」
所詮子供の世界の可愛いやり取りだ。二度も鬼に襲われ生命危うくされた事に較べれば。
わたしの答は、少しずれていただろうか。
「誤解や行き違いをなくせば、野村さん達も心を開いてくれると想う。不快さはあるけど、
押しつけあうより共に解消した方が良く眠れる。和泉さんがわたしを、確かに大切に想っ
てくれていると分ったのも、彼女達のお陰」
「普通中学生は生命を取りに来ないけどね」
早苗さんが目を見開き、歌織さんがやや唖然とした感じで突っ込みを入れるのに、和泉
さんも怒りを忘れ毒気を抜かれて立ちつくす。
「自分の怒りに任せて敵意を返すのではなく、相手と己がどうなりたいか考えて誠意を返
す。桜井さんや野村さん達では及べない訳です」
「ま、何かあったら相談は受けるからさ…」
「和泉さんも柚明さんも大切なお友達です」
2人はそれを伝えたかった様だ。桜井さん達に虐められる様なら、助ける意図を感じた。
そうはならない展開が2人にも予想外で、見守る内に機を逸したらしい。その好意に、わ
たしは両手を膝に揃え頭を下げて謝意を表し、
「有り難う、その時は宜しくお願いします」
そうでない時もたいせつなお友達として。
早苗さんは、こちらこそお願いしますと軽く頭を下げて応え、歌織さんを促し教室に入
っていく。ふと視線を間近に戻すと、和泉さんはわたしの応対に肩を竦めつつ、苦笑いで、
「あたしは単純にゆめいさんがかおりん達の方に入っていく流れだと想っていたんだけど。
鴨ちゃんが弘子さんや美子さん達に担ぎ上げられた様に。ああ迄阻害されたら嫌でもさな
ちゃん達に寄らない訳に行かないかなって」
でも、そうならないのがゆめいさんかな。
かおりん達も、良いとこあるんだけどね。
やや拘りは感じるけど、多数の威圧を受けて尚己の意思を貫ける歌織さんや早苗さんの
在り方は爽快だ。わたしもそれは感じるのだけど。中々みんな仲良くとはならないらしい。
「……そろそろ次の授業だよ。教室入ろう」
和泉さんに促されて教室に入ろうとした時。
背後に視線を感じた。野村さんや桜井さんのそれに類似した、でもそれよりも強い敵意。
わたしに誘われ和泉さんも共々に振り向くと。
「鴨川……賢也君?」
黒髪を切り揃えた中肉中背の男の子の鋭い視線が、わたし達に向けられて。今向けられ
て来る敵意より、悪い兆しを微かに感じた…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
バスを降り車道を折れ、陽光の眩しさから逃れる様にわたしは緑のアーチに入る。傍目
には森に迷い込む童話の主人公に見えたかも。緑のアーチの奥にあり、森が垣の如く周囲
を巡る羽藤のお屋敷は、お伽話に出そうだけど。
「柚明ちゃん、お帰りなさい」
声を出すより早く、若い女声が中庭からわたしの帰りを迎えてくれた。足音を幾ら潜め
ても、この人に掛ってはわたしは今尚物音出し放題、気配漏れ放題らしい。当代最強の鬼
切りだったこの人に、気配を察されず近づいて挨拶出来る日は来るのだろうか。中庭から
は白花ちゃんと桂ちゃんの足音や声も聞える。
「ただいま帰りました、真弓叔母さん」
中庭に足を向けると、正樹さんと戯れる双子を前に真弓さんは洗濯物を干し終えた処で。
弾かれたゴムの様に走り来る双子を屈み込んで受け止めて、抱き留めて。身を開け放ち身
を預けられ、頬擦りされる侭に温かさと愛しさを全身に感じつつ、叶う限りの想いを返し。
わたしは人と触れあうのが、嫌いではない。それが大切な人であれば尚の事。触れて、
触れて貰って。分って、分って貰う。それは身に余る程の幸せだ。その喜びに身を浸しつ
つ、
「ただいま帰りました、正樹叔父さん」
「お帰り、柚明ちゃん。……相変わらず桂も白花も、柚明ちゃんがお気に入りの様だね」
双子の肩越しに、さっき迄2人と共にいた正樹さんが苦笑を浮べている。抱き留める腕
を緩める視界に、縁側から笑子おばあさんが、
「お帰り、柚明」「ただいま帰りました…」
最近血の力の修練は毎日為してない。刻限を決めて為すのではなく、呼吸法に似た感じ
で四六時中力を紡ぎ続け、操り続け、その質や量を一日数分、笑子おばあさんに視て貰う。
土曜や日曜に少し時間を取って、やや綿密に進展を視て貰う。自習や夏休みの宿題に近い。
毎日確認や調整が要る状況から脱しつつあるらしい。成長を僅かでも実感できた事は嬉
しかった。まだまだ未熟なわたしだけど、確かに進展中だと。たいせつな人を守れる力は
一歩一歩着実に成長していると。幸せを保ち守り支えられる強さに己が近づく事が嬉しい。
守りたい幸せを、抱き留めている今が嬉しい。
「それじゃ、修練を始めましょう」「はい」
ずっと抱き留めていたい温かさと柔らかさだけど、それに流されると本当に己を見失う。
わたしを好んで肌を寄せてくれる可愛らしい2人には申し訳ないけど、一度2人をやや強
く抱き締めてから立ち上がって鞄を持ち直し、
「今着替えてきます」「その必要はないわ」
ジャージに着替えようと自室に向きかけたわたしの動きと姿勢を、真弓さんは声で制し、
「柚明ちゃんも中学生になって二月経って落ち着いた頃だし。そろそろより実戦に近いス
タイルに移行した方が良いと想うの」「?」
わたしが歩き出さないので白花ちゃんも桂ちゃんも膝下に再び身を寄せてくる。着替え
に部屋に行くわたしに付き従いたがる双子を引き留めに、正樹さんも間近迄歩み来ていた。
今迄も実戦形式だったと思うけど。真弓さんの加減はあっても、わたしは今尚非力でも、
為してきた素手の格闘は。でなければ、両親の仇の鬼が羽様を訪れ、桂ちゃんと白花ちゃ
んの生命を脅かした一年前に、わたしは時間稼ぎも出来ず、生き残れもしなかった筈だ…。
考え込むわたしに正面から歩み寄って来て、
「脅威はあなたが動き易い姿の時に襲ってくれる訳ではないわ。危険はあなたが動き易い
服に着替える迄待ってくれる訳ではないわ」
攻撃と違い守りに待ったは利かない。いつでもどこからでも誰からでも、及ぶ脅威に対
応出来なければ、大切な人の守りは叶わない。不意打ちに応戦出来るレベルに至らなけれ
ば。
「今即全部は求めないけど、取りあえず…」
歩み寄ってきた真弓さんは、前触れもなく制服のスカートの裾を摘んで、たくし上げた。
「きゃっ! ま、真弓叔母さん……?」
素足も下着も露わになるのを慌てて両手で抑えるけど、既に手遅れだ。間近にいた正樹
さんが目を覆う暇もない。何をするのと言う問も忘れて顔中に熱が回るわたしの心臓に、
左の掌が突きつけられていたと気付いたのは。
「守りががら空きよ。両手も注意力も散っている。これじゃあ自身も誰も守れないわね」
その通りだった。
両手も思考も下着の白や素足やスカートに、正樹さんや幼い2人の視線に向いて、己の
守りも誰の守りも、出来ない状態になっていた。心臓を貫かれていた。抵抗も叶わず倒さ
れた。
「こういう事よ。花の乙女には恥じらいも大切だけど、緊急時にはそれを棚上げする度胸
や覚悟も要る。まともに戦えればもう素人ではないあなただけど、精神的な動揺や縛りが
その動きを制約すれば……分るでしょう?」
ジャージなら、裾をめくられる心配はない。だから今迄考えもしてなかった。でも実戦
になれば、白花ちゃんや桂ちゃんを連れた町中等で、鬼ではなくても犯罪者に襲われたな
ら。高台に立つ事も強風に煽られる事もあり得る。着替える暇等ない。普段着又はよそ行
きの服装でいる時に、危険に遭遇しない保証はない。
「白花、桂、こっちに来なさい」
固まっていた正樹さんが漸く双子を引き剥がしてくれる。少し動きがぎこちなく感じら
れたけど。羞恥より、己の隙の危うさに愕然とするわたしに、真弓さんは尚涼しげな声で、
「わたしの顔面に回し蹴りを出してみなさい。勿論、入れる積りで」「……はい」
わたしの攻撃を防げない真弓さんではない。むしろわたしはこの人にいつか一撃与える
事を目標に修練に励んでいる。加減のない全力の右回し蹴りを、前触れなく風と共に出す
と、
「威力は少し不足だけど、速くて良い動き」
でも。真弓さんは左頬に当たる寸前で、わたしの足を右手で掴んで止めていた。止めた
手を放さずに、動かずその侭わたしを見つめ、
「蹴りを振るえば、素足や下着を人目に晒す事も覚悟しなければならない。恥じらいに心
が揺らいだり、注意を逸らされたりするのは、秒の十分の一、百分の一が死命を制する闘
いでは、致命傷になりかねない。分るわね?」
真弓さんは掴んだわたしの蹴り足を放さず、笑子おばあさんや正樹さんにわたしの素足
や下着が見える様に固定する。わたしの動揺を誘いつつ、その動揺と向き合うように促し
て。
「相手は刃物であなたの肌を引き裂くかも知れない。組み合う中で服を引きちぎるかも知
れない。下着姿になっても、一糸纏わぬ姿になっても、大切な人を守る為に全力で戦えな
いと、あなたは自身に悔いを残す筈よ……」
内なる敵は苦痛や油断や怯懦だけじゃない。恥じらいも美意識も時には抑え付けなけれ
ば。一番大切な目的の為には、迷いも許されない時がある。瞬時の迷いが全てを失わせる
時も。
「恥じらいを捨てろとは言わないわ。唯大切な物の順番を意識なさい。どれが一番大切で、
どれは時に諦めざるを得ない物か。今現在が平時か緊急時かを、己の心の目で見極めて」
真弓さんが右足を放してくれる。ふらつくのは蹴りを掴まれた疲弊ではなく心の痛手で。
深呼吸は、身体よりむしろ心の立て直しだ。
心を柔らかに。笑子おばあさんの教えを心に呟く。心が強ばると、身体も強ばる。でき
る事も失敗する。瞬間の驚きにも柔軟に対応できなければ、大切な時にミスを犯す。
想いに心を占拠されてはいけない。想いは強く深く抱いても、目前の事実に即応できる
柔軟さを残しなさいと。今こそ心を柔らかに。真弓さんがわたしに言いたいのもそれだか
ら。
「源義朝は湯殿で、お風呂場で武具や鎧を手放した隙を家来に裏切られて討ち取られたわ。
敵はあなたの闘いたい時を選んで襲ってくれない。あなたがいつでも闘える心と身体を
保たなければならない。心や身体の浮動が致命的な隙を生む事もあるの。戦いは試合じゃ
ない。やり直しは利かないし、ルールもない。
あるのは結果だけ。守れた結果か守れなかった結果かの二者択一。どんな時でも場所で
も相手でも、襲われて即応できなければ死ぬのは貴女だし、大切な物を守れないのも貴女。
元々大切な人を守る以外戦いを考えないあなたが戦う時とは、どうやっても回避できない
時、負けられない時、失敗が許されない時」
美しい瞳をわたしに向けて、真弓さんは、
「普段着での対応を身につけるべき頃合よ」
中学に入って制服がわたしの常になるなら、制服姿で修練すべきと。より実戦に即すと
は、常日頃襲われても応対出来る様にという事で。普段着は穴を空けたり擦りむくと代り
がないので、制服姿で修練する。制服も穴が開いたり解れたりするけど、買い足せば数は
補える。
費用が嵩んでしまうけど、柔道着や剣道の防具の様に、武道の修練に一定のお金は掛る
と、笑子おばあさんは笑って了承してくれた。手芸部のわたしとしては服を大事にしたい
けど、大切な物の順番を考えればやむを得ない。桂ちゃんと白花ちゃんを守る力を備える
為だ。
白花ちゃんと桂ちゃんはまだそういう事が気になる歳ではないけど、以降正樹さんはわ
たしの修練を前に完全には平静でいられない様で。場を外そうかと申し出て、真弓さんに、
「あなたの視線がある中でないと、柚明ちゃんの修練にならないでしょう、平常心の…」
むしろ場に男性の目を置いて意識させたい。
柚明ちゃんの平常心の鍛錬に付き合ってね。
他の男性を呼び招く訳に行かないでしょう。
「そりゃ当たり前だ」「じゃあ、お願いね」
その笑みを正樹さんは断れなくて。結果従前の様に、笑子おばあさんと並んで双子を抱
き留めつつ、わたしの修練を縁側で見守って。意識するとお互いの心を乱すので、余り触
れない様に。恥じらいに耐え、乱されない心を保つのも重要な修練だと、己に言い聞かせ
て。
お父さん、お母さん。たいせつな人を守れる強さを手に入れるのって、結構大変です…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
バスを使うわたしの帰宅は、小学校の頃とほぼ同じ刻限だ。血の力の修練がなくなって、
以後の日程が繰り上がる。笑子おばあさんのお料理修練を真弓さんと受け、成果は夕食に。
夕餉の席で、その日の事や気付いた事を話す習慣も変ってない。専業主婦の真弓さんと、
月に数回経観塚等に華道や茶道を教えに行く笑子おばあさんと、執筆活動が主な正樹さん
なので、夕食時はみんな揃うのが通例だ。サクヤさんもいれば本当に全員揃いなのだけど。
「鴨川……かい」「……はい……」
前から羽藤と鴨川の家同士の関係は、わたし達の間に不発弾の様に横たわり続けていた。
今迄はそれは大人の世界の話・家同士の話で、子供付き合いには関係ないと扱ってきたけ
ど。
「そうも行かなくなってきたみたいなの…」
小学校と中学校の状況の最大の違いは、級友が増えた事だ。羽様小の頃は男女込みで全
員が揃わなければ、遊び一つ成立しなかった。わたしはみんなを大切に想っていたけど、
全員揃わなければ困る現実もあった。それが…。
中学校では友達を選べる様になった。気の合う者が好きに集い遊ぶ幅がある。逆にこの
大人数で一つにとはなり難い。部活も違うし、趣味も選べ、友達も好みに応じ距離を取れ
る。
「好みの合う子で仲良しグループを作る事は問題ないと想うの。全員と深く繋る事はこの
人数では流石に難しいし。わたしも志保さんや歌織さん達と良くお話ししている方だし」
唯、みんなの間に深刻な軋轢が生じるとは、想ってなかった。それもわたしを挟んだ形
で。
「2組で鴨川さんを中心に、大きなグループが出来た話は聞いていたの。鴨川さんは美人
で賢くて指導力もあって、来る者を拒まない人だから、慕う人は出ると想っていたけど」
それが人を選別して弾いたり無理に誘ったり上下を意識させ、他の人と軋轢を起す要に
なるとは。彼女がそう言う人でないだけに…。
「その動きに乗る形で、1組でも野村さん達が他の人を入れようと動いていて。歌織さん
や早苗さんはクラスが別だし、関係ないと」
以前から銀座通小であった様なの。グループに入れとか入らないとかのお話は。2組の
桜井さん達と、野村さんや川中さん達は繋っているみたい。でも鴨川さんが担がれたのは、
唯美人で賢くて指導力があるだけじゃない…。
「鴨川の名があるから、担ぎ上げられた?」
正樹さんの確認にわたしはこっくり頷き、
「そして桜井さんや野村さん達がわたし、と言うより羽藤の名を気に掛けている様なの」
わたしは野村さんや塙さんと仲良くしたいけど、嫌われるというか警戒されるというか。
「最近迄余り意識はしてなかったけど、志保さんが歌織さんや早苗さんとも仲が良いから、
わたしもそっち側につくのかっていう感じで。休み時間に話す時も、視線を向けられた
り」
わたしとのお話しを躊躇う人も、出始めて。わたし、鴨川さんの対抗馬に目されている
みたい。1組で野村さん達の流れに沿わない人達が、わたしを核に鴨川さんに対抗する仲
良しグループを作ろうとしている、みたいに…。
実際そんな動きはない。志保さんも歌織さん達にも特段の意図はない。野村さん達が自
らの意図を鏡映しに見ているのかも。疑心暗鬼が蜘蛛の巣の様に絡むのも多人数の弊害か。
「鴨川さんは、あの通りの人だから。来る者は拒まず、去る者は追わず。不快に思ったら
率直に言うけど、認める処は認める。そして他人の動向には、必要以上に介入をしない」
己の部下でも家来でもない人に己の意思は押しつけられないと、考える人だから。桜井
さんや野村さん達も鴨川さんに見えない処で動いている。そしてそれ以上に気に掛る人が。
「それがもう1人の鴨川という訳なのね?」
「2組のもう1人の鴨川君、鴨川賢也君…」
銀座通小出身で同じ歳の鴨川さんの従兄。
切り揃えた黒髪に、やや厳つい顔立ちは鴨川さんと余り似てない。何度かお話ししよう
と求めて、未だ巧く行ってはいないのだけど。
「贄の血の力で分ったの。わたしのカンニングの噂の起点が彼だって事が」「……そう」
真弓さんが見解を示さず先を促すのは、扱いが難しいから。噂とは起点が分らない物だ。
わたしの力や言葉を信じない訳ではないけど、問うても彼は自供しないし、追及するにも
証拠はない。告発するにも根拠は公表できない。
「彼はわたしを敵視している。嫌っているというより怖れている。羽藤だから。羽藤の名
を一番気に掛けているのは彼みたい。わたしを鴨川さんの前にある障害物と誤解している。
羽藤は鴨川と敵対する定めだって。わたしと鴨川さんは、決して悪くない関係なのに…」
今日昼休みの廊下でのお話も最後迄眺めていたけど、最後迄一言も発さず。問うても返
してくれない。言葉を投げかけても背を向ける。拒む。通り過ぎる。そして影で桜井さん
や野村さんを煽り、噂を流し。分ってもわたしの手の届かない所で動いている。それがわ
たしのみならず、和泉さんや他の人に迷惑を。男子の間でも軋轢が起きているみたい。2
組では沢尻君が困っているという話も聞いたわ。
最近はその視線に籠もる敵意が濃度を増し。
「彼や桜井さん達が今迄してきた事は、多少害はあっても乗り越えているから、問題はな
いの。尚わたしと仲良くしてくれる人はいるし、わたしもそれなりに対応しているから」
これは日常報告だ。真弓さんや正樹さんに何か求める訳ではない。為す術を訊くと言う
より、こうしているけど問題ないでしょうか、他に良い方法はありそうですかと訊く感じ
で。
「唯、今後の事が少し心配」「と言うと?」
正樹さんの促しにわたしは言葉を選んで、
「鴨川君の瞳に宿る敵意は、実力行使を考え始めている。関知の像に不吉な影を感じるの。
何が起るか視えないのは、彼が何をしようか考えが纏まってない為かも知れないけど…」
わたしは今迄具体的に虐められた事がなく、直に見た事もない。上靴に画鋲を入れると
か、机の中にソースを撒くとか、体操着を切り刻むとか、テレビや雑誌で幾つか目にした
位だけど。殴る蹴るとかお金をせびるというのも。
「そう言う事を、わたしじゃなくてわたしに声を掛けてくれる人、仲良くしてくれる人に
及ぼし始めた時、わたしでは対応が難しい」
学校に置く物を四六時中見守り凶行を妨げる等無理だ。離れた処にいる友達に及ぶ害を
防ぐのは至難の業だ。吉良邸討ち入りの様に、やる側はやりたい時に出来てしまう。でも
防ぐ側は二十四時間防ぎ続けねば守り通せない。
攻めは容易く守りは難し。これは護身術の修練にも言える。だから白花ちゃんと桂ちゃ
んを確かに守る力を備える為に、並ではない力量に己を鍛えねばと……。それはさておき。
「彼の心には憤懣が堪っている。想った様にわたしが孤立せず、和泉さんや志保さん達が
関り続けて、わたしが尚わたしであり続けている事に苛立っている。わたしを鴨川さんの
対抗馬に見る人がいる現状を、嫌っている」
わたしが塞ぎ込んで成績が落ち、学校も休みがちになれば、彼は満足するかも知れない。
でも流石にそれは出来ない。わたしは日々に、精一杯向き合いたい。桂ちゃんと白花ちゃ
んに貰えた生きる値と目的だ。簡単に捨て去れない。その上で彼の理解を得る術を探すし
か。
近日中に次の動きがある。否、現時点でもう動いているのかも。血の力の修練に伴い発
現しつつある関知の力は、わたしに様々な事を示唆してくれるけど、万能ではない。特に
わたしに知られる事を嫌う者、害意や悪意抱く者の意図や行動は見通し難く、その存在や
背景も比較的間近にならないと視えてこない。
今のわたしに分るのは彼の敵意が確かな事。その払拭が困難な事。現状に彼が決して満
足出来ておらず、近日何らかの動きがある事…。
「真沙美さんとも賢也君とも、余人を交えずお話しして、誤解を解いて絆を繋ぎたいけど、
今迄も中々機会がなくて。賢也君はわたしを嫌ってきっかけも掴み難いし、真沙美さんも
桜井さん達が隔てるし。2人とも家に帰ると羽藤と鴨川の関係で、電話も掛けにくい…」
今後に備えて、予め事情を伝えておきたい。何かあった時、危急を要する時、一から説
明せずとも良い様に、事情が見えず困る事がない様に。何もなければ、あっても子供の世
界で収まるなら、その旨追加報告をすれば良い。
何もない事が一番だけど、何かあった時には即応できる様に。それはわたしと言うより、
わたしのたいせつな人に関るから。わたしも、翌日にそれが訪れるとは想ってなかったけ
ど。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『商店街に行くなら買い物をお願いするわ』
翌日放課後、和泉さんと2人連れだって書店に赴くその途上、銀座通商店街のスーパー
に足を踏み入れたのは真弓さんの依頼の故で、
「ごめんなさいね。わたしの買い物にも付き合わせちゃって」「良いの、気にしないで」
放課後残って貰ったのは、あたしのお願いだし。幼い想い人に逢いたくて、帰りに気が
急くゆめいさんを、経観塚に引き留めたのは。ゆめいさんと2人スーパー歩くのも愉しい
し。
スーパーの黄色い籠を右手に持つと、通路は広くない為、和泉さんは左間近に触れそう
な辺りを並んで歩く。今日は売り出しではない様で、四時少し前の店内は余り混んでない。
「でも、ゆめいさんとこの叔母さんって、若くて綺麗なのに、そう言う面もあるんだ?」
お料理で塩と砂糖を間違えるって偶に聞くけど、塩と砂糖を間違えて買うって初耳だよ。
活動的なので小柄な印象の和泉さんだけど、こうして間近に歩くと意外と背丈は低くな
い。わたしとほぼ同じ位。癖のないショートな焦げ茶の髪と、くりくり動く黒目が人懐っ
こい。
「週末の売り出しで一週間の食材を買うんだけど、出発前に買い忘れない様に書き留めた
メモから間違えたみたい。真弓叔母さん、気持を締めている時は、視野も広く観察眼も鋭
く非の打ち所ないけど、一旦気を抜くと…」
コーヒーと言いつつお茶を淹れたり、色物の洗濯に漂白剤入れたり目が離せなくなるの。
和泉さんも何度か羽様を訪ねてくれた時に目の当たりにしたから、状況は分ると想うけど。
「あんな感じで、幼子の出生届の名前も?」
取り違えたお話はその時に知られている。
女の子の桂ちゃんはともかく、男の子の白花ちゃんは『?』だった様で、和泉さんが訊
ねると苦笑いと共に真弓さんが事実を明かし。まあ、白花ちゃんも悪い名前ではないから、
わたしは変らず好きだから、問題はないけど。
「看護婦さんとかやっていたら、赤ちゃんを取り違えていそう」「それはないと思うよ」
真弓さんの擁護と言うより素直な印象の侭、
「お仕事や大事な場で気を引き締めると、そう言うミスはなくなるから。気の持ち方だと
想うの。気を緩めて良い処では、思いきり緩んじゃうのね。逆に言うと、元々のんびり屋
さんで、状況に応じて気を引き締められる様に後からスイッチを取り付けた感じかしら」
『鬼切部の厳しい修行や命懸けの闘いの中で、きっと必要に迫られての事だと思うけど
…』
真弓さんは言っていたっけ。
【恥じらいを捨てろとは言わないわ。唯大切な物の順番を意識なさい。どれが一番大切で、
どれは時に諦めざるを得ない物か。今現在が平時か緊急時かを、己の心の目で見極めて】
真弓さんも、きっと同じ関門を越えたのだ。たいせつな物を守れる力を求め、越えたの
だ。真弓さんも生れた時から強かった訳ではない。修行を積んで必死に励んで、今の強さ
を得た。わたしに真弓さん程の素養はないけど、逆にわたしは当代最強の鬼切り程は求め
ていない。
何でもない日常で間違って、笑子おばあさんや正樹さんに平謝りする真弓さんは可愛い。
それを克服しあの強さを得られるなら。あの可愛さにもあの強さにも、あの美しさにも及
ばないわたしだけど、少しでも近づけるなら。
「ついでに牛乳と卵」「手慣れているねー」
週末の買い物は一家総出だから。1人に何個限定っていう品物は頭数が多い方が良いし。
応えつつ、前方から来る男女に道を空ける。
和泉さんも左横から真後ろに位置を変えて。
『若い男女……新婚さんかな、恋人かな?』
背の高い痩身の男性が先に立って籠を持ち、黒髪の長い女性が財布を左手に後ろについ
て。年の頃は二十歳代中盤か、後半か。時折男性が微笑みつつ振り向くと、女性も笑顔を
返し。傍目に見るだけで心温まる、日常のひととき。
和泉さんも2人の後ろ姿を眺めていた。それが分るのは、わたしも振り返って和泉さん
迄視界に入れたから。十数秒その侭だったろうか。和泉さんが振り返ってわたしの瞳を見
つめると、黄色い買い物籠を右手ですっと奪って前に立ち、空いた右腕にその左腕を絡め、
「ちょっと練習。演劇部員として」「あ…」
演劇部は女子が4分の3を占める為、女子に男役が回ると聞いていた。和泉さんは髪が
ショートだし、身長も低くないから、男役が回る確率は高い。目の前で自然に幸せそうな
男女を見て、リードする側を参考にしようと。
「服装を整えれば恋仲や新婚に見えるかな」
意識して肩を怒らせ、背筋を伸ばすのに、
「籠持たせちゃって、悪いよ」
「あたしの練習に協力お願い」
少しの戸惑いを宿した声に、悪戯っぽい瞳が振り向いて、その様もさっきの男性に似て、
「人様の視線を感じる恥じらいに耐えるのも、俳優の修行なの。心は動じずしっかり身体
を動かして声を響かせる。後でお礼するから」
人の視線が気になってしまうのは、自意識過剰ではないと思う。でも和泉さんは心底愉
しそうに笑いかけてくれたし、わたしも本音は嫌でなかったから。その左腕に身を添わせ。
「……平常心の鍛錬って、結構大変かも…」
新妻の嬉し恥ずかしって、こんな感じなのかな。わたしの応諾を肌で感じて、和泉さん
は更に少し頬を染め、引っ張る腕に力を込め。恋人の男役らしい、芝居掛った良く透る声
で、
「さあ、君の望む侭どこへでも行こう。次はお肉売場かい、野菜売場かい、それともお魚
売場かな。僕の愛が君を支え守る。何も怖れる事はない。僕の腕に身も心も委ねるんだ」
町に住んでいた頃も、わたしは杏子ちゃんの妹分というか、質問役兼聞き手だった様な。
人の役割に主と従があるとするのなら、従を担うのはわたしの性分というか、適性らしい。
わたしも招かれる侭にその腕に身を絡め、
「嬉しいわ和泉さん。では、レジ迄お願い」
買うべき物は、もう買い終えた後だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
わたしがその気配と兆しに気付けなかったのは、心平常ではなかった為か。学校を出て、
級友の視線を気にしなくて良い為か、和泉さんの歩みは常より躍っていた。商店街の放課
後は、級友と遭遇する可能性も尚あったけど。
学校でも、幾人かの級友の視線を承知で尚わたしに微笑みかけてくれた和泉さんだけど。
わたしと関り続けると明言してくれた和泉さんだけど。心に重たさは感じていたのだろう。
腕の振りは解き放たれた様に、足の動きは飛び跳ねる様に。わたしもそれに望んで誘わ
れて、好んで巻き込まれ、喜んで心奪われて。心から愉しそうな和泉さんといるのは、わ
たしも嬉しかったから。人の視線や反応を気にして過ごす日々は、わたしにも重たい物だ
った様だ。それを気付かされ、揉みほぐされて。
和泉さんとの時間に没入したいと、和泉さん以外を暫く忘れたいと、色々な気遣いや注
意を一時棚上げしても心の全てを注ぎたいと。そう想ってしまっていた。してしまってい
た。その結果、わたしは躱せたかも知れない禍を。
「参考書を買った後、もう少し付き合って」
美味しいクレープ屋さん教えて貰ったの。
荷を持ってないわたしの右手を左手で軽く引っ張って、和泉さんは軽快に歩みを進める。
半歩手前から振り返ってわたしを視界に収め、進むわたしと並行して後ろ歩きで進みつつ
も。
「地味に人気爆発って評判は、日本語間違えていると想うけど。毒味してみたら、あたし
の口に合ったから、是非ゆめいさんにも…」
わたしの両手が危険を察して和泉さんの両手首を捉え、後ろ歩きを止めたけど遅かった。
その侭だとぶつかった筈の彼にはぶつからずに済んだけど、禍には遭遇してしまっていた。
ぶつかったぞ謝れと来る流れは回避出来ても、相手に悪意がある以上結局揉め事は躱せな
い。
こんなに間近に悪意が迫る迄気付かなかったなんて。迂闊だった。日中の町中で、日常
の延長でこれ程明快な危害に出会う等普通想定はしないけど、わたしは関知出来た筈なの
に。数日前から感じていた不吉な兆しとは…。
「……? どうしたの」
状況が呑み込めてない和泉さんを引き寄せ抱き留める。既に周囲は敵意に塞がれていた。
正面から抱き竦められた和泉さんがその存在を分ったのは、それが正面だけではなく背後
にも左右にも多数現れたから。わたし達は年上の男子二桁余りに前後左右を囲まれていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「女同士で仲良く抱き合って羨ましいなぁ」
「俺達からも是非お話しがあるんだがねぇ」
逆立った髪型や上から目線で威嚇してくる。
嘲笑する声はわたし達の動揺を誘う挑発だ。
竦んでも怒鳴り返しても相手の術中に填る。
和泉さんが、周囲に迫る高い視線からの威嚇に身を震わせる。心が竦む。言葉が詰まる。
不意を突いた逃げ道を塞ぐ囲みに、促される様に逃げ道を求め、怯えに視線が泳いでいる。
わたしは和泉さんの怖れを鎮めに、抱き留める両腕に力を込め、その肩越しに前を塞ぐ
背の高い男子に瞳を向けた。顔に馴染みは薄いけど、服装は毎日見慣れた中学校の制服だ。
「塩原、先輩……?」「俺の名は有名かよ」
和泉さんの身がその名と声にびくと震えた。荒事揉め事に好んで関る彼の名は、和泉さ
んも周知か。噂話に疎いわたしが耳にする位だ。中学生と思えない肩幅と背丈、盛り上が
った筋肉に、齢の差2つで埋め得ぬ差異を感じる。鋭い視線に宿った友好的とは言えない
意図も。
「羽藤柚明と、金田和泉だな」「……はい」
彼らは待ち伏せていたらしい。でもわたし達が今日この時間にここを通り掛ると、彼ら
はどうやって知り得たのか。わたし達は通常バスで帰宅なので商店街は素通りする。今日
は偶々書店に寄る為に長居したけど。それより今迄関りも殆どない男子の上級生が何故?
手芸部や演劇部にも先輩はいるけど、その繋りでもない。両部の先輩も忌避する人達だ。
漸く状況を認識した和泉さんが、無意識にわたしの背に腕を回して力を入れる。男子多
数に囲まれてその空気に押される様に、わたし達は普段絶対出来ない強い抱擁で支え合い
そんなわたし達のどちらに向けてなのか、
「ちょっと話があるんだ……。つきあえよ」
塩原先輩が無理に腕を引っ張らないのは未だここが人目に付く場所故か。出来るなら合
意の上で行った様に見せたいと。でも逃がさないとの意思も視えた。多人数での囲みは脅
し以上に、担いででも連れ出す意思の表明だ。
「ここで出来ないお話しですか?」「ああ」
人目のある処で応対すべきだ。年上の男子が数を頼んで女子に為す話が、される側に良
い物である筈がない。わたしは極力平静に会話を繋ぎ、処を変えられるのを避けようと…。
せめて時間を稼ぐ。女子2人が体格の良い上級生男子拾名以上に取り囲まれた現状を暫
く保ち続ければ、誰かが異変を察してくれる。でも彼らにはそれこそが望ましくない展開
で、
「人目のある処でやっちゃ、流石に可哀相だろうよ。せめて人目の付かない場所の方が」
「人に聞かれて拙いのは、俺達じゃなくお前達の方なんだぜ。脛に傷持っているのはよ」
右側から別の声が届く。確か遠山先輩…?
「い、一体何のお話しですか? あたしとゆめいさんに。三年男子の先輩がたくさんで」
突如わたしの抱擁を解いて、和泉さんが振り返る。怖さを隠せない己を、掘り起こした
勇気と勢いで乗り越えて、やや強ばらせつつ詰まっていた空気を肺から一気に吐き出して、
『ゆめいさんを、守らなきゃ……あたしが』
背筋に込めた想いが視えた。わたしを想う故に自身の怖れに立ち向かい、意思を紡いで。
あたしが、誘ったのに。あたしが今日ここに連れ出さなきゃ、出会わなかった禍なのに。
優しすぎるこの人を、大人しすぎるこの人を、いつも穏やかで綺麗な、この上なく愛しい
この人を。この場はどう見てもあたしが男役っ。
「話の中身を教えて貰わないと従えません」
わたしの返事や動きを不要と後ろ手に抑え。艶やかなショートの髪を振りつつ、一歩前
に、
『ゆめいさんに応対させちゃ、いけないよ』
昨日もゆめいさんは弘子さんや美子さんに、あたし以上にしっかり応対したけど、本当
はあたしが誘った話だから、全部あたしが受けて返さなきゃいけなかった。あたしの気持
は見せられたけど、あの流れは、ゆめいさんが全てを被る様な流れはあたしの望みじゃな
い。
『あたしは守られたいんじゃない。あたしが守りたいから。あたしの大切な美しい人を』
「和泉さん」「大丈夫。あたしに、任せて」
最悪わたしは先輩達の壁の一角を突き崩し、和泉さんを引っ張って逃げる事も考えてい
た。諍いも荒事も好まないけど、彼らの害意は偶発的ではなく計画的だ。容易に解き放ち
はしない。無理に身を掴まれたなら、力づくで振り解く他にない。どこかに連れ込まれて
からそれを為すより、人目につくここの方が未だ。
撃退は不可能ではないけど、和泉さんを守りつつでは困難だ。この数に囲まれて、年齢
と男女の違いによる体格の差も明確に見えた。その上わたしは唯でも目立つ存在らしい。
これ以上噂の種になりたくない。女の子が戦いに強いなんてみんなに知れても嬉しくない
し。
強行突破は奥の手として、大声で人目を引くのが次善の策で、相手が大人しく出る限り
話を引き延ばしてこの場で時間を稼ぎ続ける。わたし達が動きなく、先輩達を刺激もせず
大人に気付かれ状況が変ってくれるのが最善だ。でも和泉さんは緊迫感に耐えられず、早
く身を解き放たれたい焦りの故に、大声を出すと先輩を刺激し、逆に次の動きを招き寄せ
て…。
「ここで大声上げちゃったら先輩達も拙いでしょう。揉み合いになったら、あたし達をど
こかに連れ出す前に人の目に止まりますよ」
「そうだな。確かに、それは拙いよな……」
塩原先輩は声音を全く変えず平静な侭、ポケットから取り出したカッターの刃を、右手
で向き合う和泉さんの左の頬に静かに当てて、
「ひっ……!」
主導権は瞬時に奪い去られた。和泉さんも必死に搾り出した勇気だったけど、相手は殴
り合いや脅し合いを経た猛者で、役者が違う。
田舎の商店街の人通りは昼も余り多くない。刃を見せても大声出して暴れない限り、短
時間なら気付く者もいまいとの、塩原先輩の大胆な見切りは妥当だった。この状態で対峙
し続ければ流石に気付く人も現れるだろうけど。
刃を突きつけられて尚時間稼ぎを続けられる人は多くない。頬に当てられた刃で折角の
勇気を根こそぎ削がれた和泉さんは、冷静さも見通しも失って、竦む以上に思考が回らず。
「お前さんも大声を出しちゃ拙い立場だって、分るだろう。人目に止まる前に、頬に刀傷
を作りたくないよな。俺達には顔の傷の一つ二つ唯の傷害だけど、女には結構拙いんだ
ろ」
お嫁に行けなくなるもんな。ざっくり刀傷で羽藤に毎日向き合うのだって、辛いだろう。
表情の強ばりと止まる息と、瞳の硬直で勝敗は見えた。主導権は完全に失われ。その刃
は同時にわたしの選択も全て封じた。身の硬直した和泉さんを連れて強行突破は叶わない。
「血ぃ、見るぞ。大人しく従わないと」
従う他に術はない。和泉さんは肺が恐怖に潰されて、搾り出した勇気は霧散して、立っ
て歩くのがやっとで。先輩は刃を頬から外すけど、和泉さんの間近で左脇腹にそれを当て。
わたしの背にも果物ナイフがつんつん刺さる。
「大人しく来てくれりゃ文句はないんだ。こんな物騒な物はもう突きつけない。その代り、
少しだけ付き合って欲しいんだ。分るよな」
目先に餌をぶら下げる事も忘れない。それが和泉さんをより巧く促し操れると彼は知っ
ている。硬軟を巧く使い分ける。塩原先輩は粗暴なだけではなく知能犯の素養もある様だ。
わたしは多少切られても己の傷を治せるけど。和泉さんが傷つく事を計算には入れられな
い。
声を出すと先輩達を刺激するので、わたしはなるべく和泉さんに肌を合わせ、身を寄り
添わせ、温もりで励まし。舗道の片隅に買い物袋を置いたけど、気付く人は期待できない。
彼らの目的地は、商店街から一キロ弱離れて人気のない造成途上で放棄された台地だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お前には退いていて貰おう」「きゃっ!」
大声も人の耳に届かない町外れで、拾壱名の男子に囲まれて、わたし達の連行は取りあ
えず終りを迎えたけど。それは次の行いの始りでしかなくて。彼らにはこれからが本番だ。
後ろから脇から、和泉さんの心を支えようと手を触れていたわたしの目前を、豪腕が和
泉さんの細身を無造作に薙ぎ払って引き離す。
「和泉さん! ……っ」
ふらつく和泉さんを支えたくて、動く身を背後から、両肩も両腕も太い男の子の腕に抑
えられる。和泉さんは遠藤先輩が抑え付けた為に、倒れはしなかった。でも引き離された
事で、わたしの心配と自身の心細さの両方に、彼女の両腕は宙を泳ぎ、視線はわたしへ流
れ。
「抑え付けとけよ」「分った」
和泉さんよりわたしに先に、塩原先輩は用があるらしい。身動き取れぬわたしに正対し
た先輩が瞳を瞬かせた。微かな疑念が見える。和泉さんが薙ぎ払われた時は、我知らず動
いたけど、わたしは身の拘束に強く抗ってない。視線や表情や身体の緊張から、わたしが
この状況でも意外と平静でいる事を察された様だ。
わたしも隠す積りはない。小さな脅しに一々びくつくと思われては、話が先に進まない。
油断を誘える代りに、脅しが利くと無駄な時間を費やされる怖れもある。和泉さんは今は
怖れに固まっているけど、この状態が長く続いて心身に負担が掛ればどうなるか分らない。
早く状況を打開して、安心させてあげないと。
「わたしにお話しがあると、伺いました…」
敵意ではなく、哀願でもなく、冷静に話を聞いて応える意思を伝える。状況は理屈や対
話が成り立つか疑問だけど、だからこそ冷静に相手の伝えたい事を聞いて応対しなければ。
或いはわたしは対抗する力を隠し持つから、尚平静さを保てているのかも知れない。修
練もなく力も持たない唯の女の子では、この状況はとても平静には受け容れられないのか
も。
力に頼るのは最後の最後に。他に術をなくした時だ。どうにも回避できない時だ。守る
べき物を守るのに他に打つ手がない時だけだ。今は未だ、相手の意図が見えてない。相手
との話はこれからだ。まずは誠心誠意を尽くす。
四本の腕に拘束されたわたしに塩原先輩は、
「相談を受けたんだよ。下級生から」
テストでカンニングしてシラを切り通した奴がいる。そいつの真実を暴いてくれと。噂
になっても先生にもクラスメートにも嘘を突き通し、真実を告発した奴が嘘つき扱いだと。
「それは……!」「ああそうさ。お前だよ」
俺達はお前の不正の告発を頼まれたんだ。
「今年の一年女子には生意気な奴が2人いるって、俺達の間では噂になっていたけどよ」
先生にもクラスメートにも、全く気付かれずカンニングして。後から噂が立っても何一
つ尻尾を掴ませず、誰の追及にもシラを切り通し、逆に噂が根も葉もない様な印象を与え。
「告発した奴が悪い様な流れは本当すげえよ。その思い切りと剛胆さ。誰もが騙される訳
だ。でもお前、大馬鹿。五百点中四百九十八点なんて、不正やったって自白した様な物だ
ぜ」
先生やお友達は優しく訊ねる位だからシラを切り通してもお前の心も痛まないだろうが、
「俺はそうは行かないぜ。身も心も痛い目を見る前に真実を話して楽になった方が良い」
塩原先輩の右にいた、西尾先輩が持っているのはCDラジカセだった。それに向かって
喋れという事か。彼らの言って欲しい内容を。
「後で発言を覆せない様に、記録させて貰う。今日ここで自白した内容は確かな資料とな
って残る。もう不確かな噂とはならない。羽藤の声で、羽藤の不正の真実を形に残すん
だ」
身を解き放たれたのは脅威ではないと見られた故か。わたしは塩原先輩に、即是か非か
を応える事はしない。和泉さんの様子を見て、視線で力づけて頷いて、それから間近の彼
に、
「わたし、塩原先輩とお話しするの、これが初めてです。少し誤解というか、行き違いが
あって、こういう場でのお話になったけど」
お話しできる事は、良い事だと思います。
誤解を解くのも、仲良くなれるのも、絆深めるのも、全部お話しできてからの事だから。
先輩の求めを分るにも、わたしの想いを分って貰うにも、まずお話ししなければならない。
「わたしは先輩に求められたらむしろ1人でお話しに応じていた処だけど、今日のやり方
は少し強引だったと想うけど、結果がみんなに納得出来る形になれば良いと想うから…」
両手を膝に揃え、敬意を示すお辞儀をし。
「話し合いは大切です。わたしも先輩のお話を誠心誠意受け、叶う限りの答を返します」
空は曇り始めているけど、雨の気配はない。経観塚は通り雨が時々豪雨になるけど、わ
たしの見た感じでは、この雲は雨をもたらす濃さには足りない。唯、視界が少し暗くなる
…。
「非礼をしていたなら、謝ります。申し訳ありませんでした。……どうか許して下さい」
今度は深く頭を下げ、心からの謝罪を示す。
周囲の他の先輩達から、吐息が漏れ出した。和泉さんも緊張を忘れて、丸い目を瞬かせ
る。和泉さんを抑え付ける遠藤先輩も、目の前の塩原先輩も唖然とした様子が表情に出て
いた。
わたしは頭を下げた侭意志と言葉を紡ぎ、
「分って為した訳ではないですが、知らず為していたかも知れません。どの様な非礼か教
えて頂ければ、繰り返さない様に努めます」
非難に理屈を跳ね返しても気持は繋げない。
怖れに敵意や警戒で応えても心は開けない。
彼らの腕力は脅威だけど、彼らの害意は危険だけど、為される侭は拙いけど、それに力
や正論で抗う他にも方法はあるかも知れない。今後も近い地域に住み、同じ学校に通うな
ら。
「その代り、誤解があるなら解いて貰いたい。わたしは先輩に悪意を抱いていません。後
輩として良好な関係を繋ぎたいと想っています。至らない点があったらご指導下さい」
そしてわたしの気持と真実も分って欲しい。
わたしは本当に試験で不正をしていません。
面を上げて、塩原先輩を正視する。その瞳を正面から見据えて、確かに意思を伝え切る。
緊迫感が少し減じた様に思えたのは、この気持が先輩達に、少しでも伝わった所為なのか。
睨み合いの沈黙とは少し異なる、先輩達もそれぞれに考え込み少し惑う感じの沈黙の末、
「……そいつは、ダメだな」
塩原先輩は迷いを断つ様にわたしの願いを断って、わたしの右肩を正面からどんと突く。
後ろによろめく身体は、さっき背後から腕を伸ばしてわたしを抑えた先輩達にぶつかって。
「た、たーちゃん?」「どうするんだよ…」
背後の2人は微かに惑う声で指示を求める。
さっきの様に問答無用で身柄を拘束しない。
わたしの求めも全く無意味ではないのかも。
でもそれは塩原大悟さんの心には届かない。
「馬鹿野郎が。俺達は依頼を受けたんだ。受けた以上今更出来ませんでしたはねえだろう。
ガキの使いじゃねぇぞ。舐められて堪るか!
その化けの皮を剥がしてやる。柔らかに礼儀正しそうな顔を引き歪ませ、泣かせ叫ばせ
真実を中から引っ張り出してやる。岩田も中村もしっかり掴んでおけ。絆されるな。春迄
小学生だったガキに丸め込まれるんじゃねえ。俺がこの胃袋から本物を吐き出させてや
る」
再び両肩と両肘が掴まれて身が拘束された。塩原先輩は目線も鋭く、わたしに歩み寄っ
て、
「わたしは本当にカンニングをしていません。真実わたしは潔白です。先輩達が依頼され
ているのなら、その依頼人とわたしにお話しをさせて下さい。依頼した人に真実を分って
貰って、依頼を撤回して貰う様に頼みます…」
それで先輩達の面子は潰れない。少しの時間があれば良い。今からでもお話に行きます。
誰が塩原先輩達に依頼したかは分っている。
お金を払って彼らを動かした事も今分った。
彼がわたしに悪意を抱き、害意を促している事を先輩は理解して依頼を受け、今ここに。
わたしが和泉さんと参考書を買う為に今日の放課後少し商店街を歩く情報も彼が。先輩達
はお金を貰って事を請け負った以上、嘘でもわたしの自白を証拠に録らなければならない。
それでも。依頼者がわたしへの誤解を解き、依頼を撤回してくれれば。渡した前金や繋
った関係の処理は後回し。今は目前の危害を止める。和泉さん迄巻き込んだ。わたしの事
で、わたしの所為で。これ以上怖い思いはさせられない。この場を鎮め依頼人と直接話せ
れば。
「だからそれはダメなんだって、分れよ…」
左手で乱暴に髪を掴まれた。制服の襟を右手が掴み、ぐっと引っぱり胸元の肌を外気に
晒す。動けないわたしが身を固くさせるのに、
「喋るか喋らないかだ。俺達の受けた依頼は真実を調べろとかじゃない。依頼人が俺達に
示した真実を、お前の口から喋らせ記録に残す事だ。痛い想いや嫌な想いの後で喋るより、
今の内に喋る方が良い。喋りたくなければ」
どんな手段を使ってでも喋って貰うだけだ。
「いやぁっ、何するのっ!」
迸るその悲鳴はわたしの喉からではなく、
「和泉さん……。彼女は、違うでしょう?」
目を向けたその先では、遠藤先輩他2人の6本の腕に抑え付けられ、和泉さんが抗って
いるけど。制服を脱がされようとしている?
「今日の事を先生や親に告げ口されても困るからな。保険って奴だ。下着か、素っ裸にし
て写真に収める。公表されたくなかったら今日の事は黙っているんだな。羽藤、お前も」
塩原先輩はわたしの前に広がった視界を自身の身体で閉ざし、沈黙でその先を示唆する。
口封じは勿論、わたしにも為すと。わたしには言う事を聞かなければ一種の拷問も兼ねて。
「ちょっと、やめ、いや、だめったら…!」
塞がれた視界の向うから悲鳴が届く。遠藤先輩達の動きや息遣いが聞える。子羊の抗い
は殆ど意味をなしてない。事は緊急を要していた。今為せる事、今為さねばならない事は。
「塩原先輩、お願い。和泉さんへの行いを止めさせて。彼女はわたしの疑惑や噂とは関係
ありません。偶々今日一緒にいただけです」
放してあげて。帰してあげて。お願い。
瞳を見つめて願うのに、冷徹な目線は、
「余裕だな。お前はこれからあれを為されるって言うのによ。……関係あるのはお前なん
だぜ。少しは自分の心配をしたらどうだ?」
どれだけ泣き叫んでも声は誰にも届かない。ここに来る用事のある奴はいない。お前達
に助けは来ない。さあ、わたしカンニングしましたと、しっかり形に残すんだ。泣き声で
も良いが、聞き取りにくいかも知れないからな。
確かにわたしも己に迫る危険は怖いけど。
「助けてぇっ、誰か、誰か。ゆめいさん…」
いやああああぁ。
その声を耳にすれば自身の心配は後回し。
「お願い。和泉さんだけでも帰してあげて」
「お前は自分の心配をしな。……まあ、しなって言わなくてもそうせざるを得なくなる」
塩原先輩はわたしに自白させる事しか考えてない。わたしの望みに聞く耳を持ってない。
なら、その心に声を届かせる方法は2つだけ。理非を越えて、真偽を越えて。わたしは先
輩の間近な瞳に、再度意思を込めた視線を送り、
「先輩、自白します。……しますから、和泉さんを放してあげて下さい。お願いします」
嘘でも良い。今和泉さんに及ぶ暴行を止める最も有効な方法がそれならば。和泉さんの
笑顔を守るのに必須ならば、わたしはそれを為せる。わたしの名誉など元々そう重くない。
真実を曲げ、嘘をつく心の重みを嫌っただけ。
それは今だって好きになれないけど。でも。
「事実でも虚偽でも構いません。先輩達の望む自白を吹き込みます。ですから、どうか和
泉さんを解き放って、無事に帰してあげて」
わたしの答に塩原先輩は漸く満足そうに、
「やっと喋る気になったかよ」「はい……」
西尾先輩から受け取ったCDラジカセを前に置き、勝利した瞳を塩原先輩は向けるけど。
「和泉さんを、和泉さんを放してあげて!」
約束は未だ履行されてない。と言うか、塩原先輩はわたしの身から手は放したけど、遠
藤先輩には何の指示も下してない。和泉さんは今スカートを無理矢理脱がされた処だった。
しゃがみ込んで泣いて抗う和泉さんに、遠藤先輩達の腕が尚伸び続ける。それを塩原先
輩は止めもしない。瞳も向けない。これは?
「わたしが声を吹き込めば依頼は叶う筈です。保険が欲しいならわたしを写真に撮れば良
い。もう和泉さんの服を剥ぐ必要も、ここに留める必要もない筈です。早く帰してあげ
て!」
「だからそれはダメなんだって、分れよ…」
塩原先輩の答は、わたしを凍り付かせた。
「俺達が受けた依頼はそれだけじゃないんだ。生意気な羽藤柚明の心身に痛手を与える事
と、羽藤に寄り添う連中も同じ目に合わせる事…。
お前、余程依頼人に嫌われたな。或いは心底怖れられているか。お前に立ち直れない痛
手を与える事と、加えてお前に添う奴らに同じ痛手を与え、二度と寄り付かなくさせる事。
その他の奴らもそれを見て、間違ってもお前には近づこうとしなくなるようにと。まあ」
そう言う訳でさ、お前の話は受けられない。
どっちにしろ、腕づくで証言は貰うんだが。
「お前は喋っても喋らなくても同じ目に遭う訳だが、それでも喋った方が早く楽になる」
妥協の余地は最初からなかった。
わたしの見通しが甘かったのだ。
依頼人はわたしを深く怖れ拒み嫌い。
実行者はわたしの声を聞き入れない。
「ゆめいさん、お願い。見ないで、ひっく」
待って、お願い。もうこれ以上、いやっ。
その声がわたしの魂を震わせる。たいせつな人の悲鳴が、わたしの意思を引っ張り出す。
自身の心配をしている余裕などなかった。
塩原先輩はわたしと和泉さんを害する事しか考えてない。わたしの望みに聞く耳を持っ
てない。その心に声届かせる方法は2つだけ。一つは求めを全て満たす事、そしてもう一
つは。理非を越えて、真偽を越えて、わたしは。
身を縛る腕を、力づくで振り払っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『力が全てじゃないけど、力がないと護れない時もある事を、柚明は身を以て知った筈』
決意が、運命を切り開く事があるんだよ。
決意が、及ばない筈の何かに届く事もね。
非力に哭いたわたしに途を示してくれたのは笑子おばあさんだった。お父さんとお母さ
んが鬼からわたしを守る為に、生命を抛ってくれた様に、身体を張って助けてくれた様に。
わたしは真弓さんに強さを教わる事を望み。
『少しでも強くなりたいの。わたしを守る為に身を投げ出す人がいなくても良い様に。わ
たしの前で犠牲が出ない様に。大事な物を守れる様に、たいせつな人の力になれる様に』
わたしも誰かを救い守る人になるのだと。
わたしに託された生命は無駄ではないと。
『たいせつなひとを守る。もう失わせない』
わたしは誰かを守りたい。守れる様になりたい。与えらるだけの人生から与える人生に。
生命の購いは生命で、守られて継いだ生命は次の生命の護りに使う。それでわたしはわた
しに生きる値を認められる。愛されたなら愛を返したい。守られたなら誰かを守りたい。
悔しいけど、残念だけど、この世にはどうしようもない事もある。人の手や努力ではど
うにもならない事がある。どんなに頑張っても頑張っても及ばない事がある。だから人の
手でどうにかなる事は、努力で何とかできる事は、何とかしよう。全身全霊立ち向かおう。
事ここに至っては、最早他に術はなかった。
わたしは予告なしに右肩と右腕の拘束を身体を捻って外し、右肘で鳩尾を少し外した辺
りを突いて岩田先輩を剥がす。瞬時の後に左肩と左腕も外し、中村先輩にも同じ事をなし。
年長の男の子はわたしより腕力が強いけど、抑える箇所は不正確だ。振り解く事は難し
くなかった。抑えようとする塩原先輩の喉を正面下から掌打で突き上げる。わたしの反撃
は予想外だった様で、先輩の防御は僅かに遅れ。
「くはっ!」
ひっくり返る塩原先輩を尻目に、わたしは和泉さんを抑え付ける遠藤先輩の元へ馳せる。
他の人達は事態の急変に未だ付いていけない。わたしが敵だと認識される前に逃げ去りた
い。
遠藤先輩の首筋に背後から手刀を叩き込み、気絶させる。座り込んで抗う和泉さんの上
に屈み込んでいた1人の腹に下段蹴りを見舞う。背後からその両腕を抑えていたもう1人
が状況を悟ったけど、間に合わせない。和泉さんの左腕を捻っていたその左手首を掴んで
捻り、彼女の腕を放させた上で身体を一回転させて。
「和泉さんしっかり」「いやあぁ、離して」
和泉さんは尚身を揺すって抗い続けている。目を閉じて泣いて暴れている。わたしが背
後から抱き留めても、先輩達の為した身の拘束と勘違いして身を震わせ、逃れようと抗っ
て。
「離れて離して。寄らな……触らないで!」
「和泉さん、わたしよ。感触を想い出して」
背後からぴったり身を付け、肌触りで正気を戻してと囁いて。男の子の筋肉質な身体と
違う感触を伝えて安んじる。猶予は余りない。先輩達が予期せぬわたしの反撃に、目を見
開く間位だ。その間に何とか気持を立て直して。
間近に聞いたあの言葉を耳元に流し込む。
「わたしの愛があなたを支え守る。何も怖れる事はない。わたしの腕に身も心も委ねて」
ぴくとその肌を駆け抜ける電流を感じた。
繋ぎかけたその意識を辛い現実に向き合わせる為に、辛い現実に見合う程の甘さはない
けど、わたしの叶う限りの想いで引っ張って。
「和泉さん。わたしが、あなたを守るから」
戻ってきて、わたしのたいせつなひとっ。
「ゆ、め、い、さん……? あ、あたし?」
涙に濡れた頬に、背後から首を寄せてぴったりわたしの頬を重ね合わせる。汚れも痛み
も哀しみも共に抱く。抱かせて欲しい。たいせつなひと。わたしの特別にたいせつなひと。
わたしの禍に巻き込んでしまった大切な友達。
瞳に輝きが戻ってくる。身体に意思が戻ってくる。意思が紡ぐ確かな言葉が戻ってきて。
「良かった。戻ってきてくれて……」
未だ歩ける状態ではないけど。未だとても安全と言えない状況だけど。抱き留めて、何
とか目前の状況に向き合える様に。和泉さんが我を取り戻せた頃、塩原先輩が身を起した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
状況は決して有利ではない。真弓さんに教わった護身の術も、使い手がわたしでは威力
も切れ味も減殺される。腕も足もリーチが足りず、身の軽さ故に鋭く攻めても威力を欠く。
華奢な身体は一撃受ければ、忽ち窮地に陥る。
わたしが実力行使に慎重だったのは、それを嫌うと言うより、先輩達と絆を繋げる芽を
信じたと言うより、力での勝利が困難だった為かも知れない。中学一年生の女子が2歳上
の男子二桁を相手に戦えば普通勝ち目はない。
個で集団に勝つ事自体が難しい上、今のわたしは身動き出来ない和泉さんを抱えている。
見捨てる選択がない以上、戦う他に途はない。抱えて逃げるのは無理で、今の彼女に走る
事は求められない。一撃与えて逃げる途が閉ざされた以上、正面撃退の他には術がなかっ
た。
「この場から去って頂く事は出来ませんか」
求めても無意味かも知れないけど、呼びかけてみる。時間稼ぎしても人気の全くない台
地だけど、和泉さんの回復を待つにも、わたしの息を整えるにも少しの間なら意味はある。
「わたし、抵抗します。徹底的に抗います」
妥協の余地は殆どない。和泉さんは深く傷つけられた。それをなかった事には出来ない。
さっきと状況は違っていた。譲れる要素は殆どない。先輩達は引けない処に迄踏み込んだ。
「……そいつは、ダメだな」
塩原先輩は喉元をさすりつつ、わたしの求めを拒絶した。何の見返りも今はない。唯帰
って頂戴と、今日の事は最早明かさぬ訳に行かないと、伝えるわたしに。それですごすご
帰る位なら、ここでわたし達をねじ伏せると。
『真弓さんはとてつもなく強かったけど、1人だった。先輩達は動きも鈍く、攻撃も守り
も的確じゃなく、撃破は可能だけど、多数』
その違いを呑み込んで。その特長を心得て。彼らも素人ではないけど、生死に関る戦い
は未経験の筈だ。わたしは真弓さんにその類の戦いを教わり、一度は鬼との実戦を経験し
た。
攻めに出る。腕力でも頭数でも不利なわたしに、守りに回って対処しきれる自信はない。
攻めて、攻めて、攻めまくって、相手を守勢に回らせる。怯えさせ警戒させ、活路を望む。
正面から掴み掛って来る西尾先輩の、伸ばす右腕を内側に躱しつつ前に踏み込み、右手
首を両手で掴み、くるりと背を向け腰を落し、
『わたしより大きく腰が高い人は投げ易い』
一本背負いで投げ飛ばす。頭から落すのが本当だと真弓さんに教わったけど、そこ迄は
踏み切れず背中から地面に落す。呻きが漏れるより早く、左右から4本の腕が伸びてきた。
わたしは小柄で非力だから、殴る蹴る迄せずとも腕で捉えれば充分だと思っているらしい。
『最後迄そう侮って貰えれば嬉しいけど…』
左に迫る先輩の脛を後ろ左回し蹴りで薙ぐ。わたしのそれは牽制ではなく、転倒を強い
る決め技だ。リーチの短いわたしは、中々相手に拳を届かせられない。遠心力を加えて威
力も増せる回し蹴りは、体重が軽く技の威力にも不足するわたしには、数少ない頼みの綱
だ。
蹴り足を畳みつつ身の回転は止めず逆に加速し、ほぼ半回転して右に迫っていたもう1
人の先輩に、左の裏拳を当てる。気配を読めるわたしは見なくても距離と位置が大凡分る。
3人倒れたのを見てカッとしたのか、4人目の先輩は、遠慮も加減もなく正面から正拳
突きを放ってきた。その動きは素人ではなかったけど。当たれば顔を潰されただろうけど。
髪が風にそよぐ間合で拳を躱しつつ前進し、懐に踏み込みわたしの掌打をその頬に当て
る。掌打は拳と違い骨を砕き難い代り、振動を伝えて気絶させ易い。カウンターで入った
から、身が軽く腕力はなくても必殺技に準じた筈だ。
今の処、わたしは無傷。息継ぎしつつ後退し、和泉さんを背に庇う態勢に戻る。未だ不
利な状況に違いはない。わたしは誰にも再起不能の痛手を与えてない。気絶させただけだ。
暫く間を置けば起き上がる。わたしは一撃受ければ捻り潰される。そうせずとも、がっぷ
り四つに組むだけでわたしは彼らに囚われる。
故に、先輩達の戦意は尚潰える筈もなく、
「ふ、ふざけやがって。もう手加減しねえ」
起き上がった遠藤先輩が出したのは商店街でわたしの背に押しつけた果物ナイフだった。
刃を見せれば多少肝の据わった相手も震え上がる。それは彼らの世界の経験則の様だけど。
「刃物は使わないで。遠藤先輩……」
わたしの怖れは切られる痛みでも残る傷でもない。切られても刺されても、わたしは血
の力で己を癒せる。カッターでも果物ナイフでも、刃物を持てば殺傷力は大きく増すけど、
対処不能な訳ではない。真弓さんに、刃物持つ人への対応も教わり始めたわたしの怖れは、
「わたしは未だ、刃物持ちの人に加減できる程強くない。本当に大ケガをさせてしまう」
真弓さんとの修練は、生命のやり取りに準じる物だ。その侭使えば非力なわたしでも素
手で生命を奪い得る。勿論加減の術も教わったけど、修練途上のわたしに完全は求め難い。
和泉さんを守る為に敗北が許されない今のわたしに、刃物持ちの人を前に適切な加減は…。
骨を折ったり腱を断ったり。後遺症を残す傷を負わせかねない。むしろその事にわたし
が怖い。どうしても退けない状況だけど、手加減しては敗れて全て失う窮状だけど、故に
こそ。やり過ぎて彼らの人生も壊しかねない。
「お願い、刃物は使わないで」「なにおぉ」
わたしの求めははったりに聞えただろうか。
或いは刃物に怯えた哀願に見えただろうか。
極力冷静に応じても中々真意を届かせ難い。
相手が冷静でなければ意思も伝わりにくい。
状況を変えたのは、わたしの反撃でもなく、先輩の刃でもなく。声が届かない筈のこの
台地に、外から訪れた人影で。役者が揃った時、人生を壊しかねない一撃が、振り下ろさ
れた。
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関知や感応を働かせていれば、彼らの接近をもう少し早く分れたかも知れない。先輩達
との荒事に神経を注ぎ、遠藤先輩の刃に意識を集中した為に、声が外に届かない場所故に。
わたしも誰かが来る可能性は、失念していた。
だから賢也君と真沙美さんの到来を感じた時は、わたしも驚きと動揺が表情に出た。塩
原先輩や和泉さんが分るには、もう少し時が要るけど、2人は確実にここに歩み来ていた。
真沙美さんと賢也君の会話を数分遡って悟り得たのは、修練による力の強化と言うより、
話す内容がわたしに関る案件だった為なのか。塩原先輩に事を委ねた依頼人は賢也君だっ
た。
『羽藤さんの、化けの皮を剥がすだって?』
賢也あんた、羽藤さんに何をする積りで。
真沙美さんは今日の件を、知らなかった。
『真沙美ちゃんの為なんだよ。真沙美ちゃんの障害物のあの女を、脇に除ける為なんだ』
彼の生の想いが漸く視えた。心に聞えた。
『幾ら桜井や野村を煽っても、羽藤は全然へこたれない。男子を束ねて圧を掛けようにも、
沢尻や柳原が異を唱える。真沙美ちゃんの輝きに邪魔な羽藤を潰す為なんだ。これ程面倒
な相手じゃなきゃ、俺もここ迄しないけど』
真沙美ちゃんより優れた成績を、まともな手段で取れる訳がない。真沙美ちゃんより優
れた奴がいるなんて認めない。いつでも真沙美ちゃんが俺の一番なんだ。そしてみんなの
一番も常に真沙美ちゃんでなければ。その為にどんな手を使っても、どんな奴に頼んでも。
俺の真沙美ちゃんを貶める奴は許さない!
『塩原先輩に頼んだんだ。あの女はまともな尋問じゃ口を割らないし、大抵の男女は逆に
丸め込まれる。魔女には狂犬がお似合いだよ。夷を制するには夷を用いる、だったっ
け?』
わたしの自白の収録と、わたし達に痛い目を見せる依頼に、賢也君は1人数千円を半額
前金で渡し。わたしが和泉さんと書店に寄ると教え、ここで為すと先輩達から教えられて。
男子十数人で威圧すれば、事を吐かずにはいられまい。楽観的な賢也君に対し、真沙美
さんの緊迫は、彼女がそんな事を望まぬ為で、むしろ賢也君のその行いを危ぶんでいる為
で。
『大丈夫だって。羽藤でも、あのごろつき達とにこにこお話しは出来ないだろうからさ』
『そんな事を心配しているんじゃないよ…』
賢也君は真沙美さんの不安を、失敗の怖れと受け取った様だけど。真沙美さんの不安は、
『賢也あんた、あの狂犬がどれ程厄介な奴か分って、言っているのかい? あいつらは』
『まあ見てよ。今頃羽藤は、塩原先輩のちょっときつめなお叱りを受けて、涙ぐんだ声で、
テストでの不正を自供しているだろうから』
小高い丘を迂回して、人目の付かない台地に到達し視界が開けた2人の前に視えたのは。
遠藤先輩の刃に左の二の腕を切りつけられ、間一髪で制服を切られるに留まったわたし
と、その間近でスカートを無理矢理脱がされた末、下着の侭で座り込んで尚動けない和泉
さんで。
「これは……」「一体どういう事なんだい」
先輩達の服装が結構土にまみれて汚れ、本気で殺気立っている事も賢也君には予測外か。
「真沙美さん、賢也君……」
先輩達の視線も新たに現れた2人に向く。
「羽藤さん、あんた、服切られて。和泉…」
2人の視線が、事の重大さに凍り付いた。
いつも凛々しく、積極的に事に向かう真沙美さんが、驚きと動揺に身動き出来ずにいる。
埃っぽい微風で癖のある長い黒髪がそよぐ他に動きが消えた。瞳までが大きく見開かれて。
最早試験での不正の問題等、吹き飛んでいる。
「鴨川君、お願い。塩原先輩達を止めてっ」
わたしの願いは依頼人に。今彼が来てくれたのは、幸いかも知れない。わたしが力で先
輩達を退けなくても、和泉さんも助かるかも。
「わたしが幾ら頼んでも止めてくれないの」
最早頼んだ人にも止め得ないかも知れないけど。でも、2人のどちらかに大人を呼んで
来て貰えれば。和泉さんと人気のない台地に密封された状況は綻んだ。それを前提にこれ
以上罪を犯さないでと、先輩達に求めれば…。
「それとも誰か、大人の人を呼んできてっ」
「喋るんじゃねえっ!」
近寄ってからでは、下手をすると賢也君も真沙美さんも捕まりかねない。それを危惧し
遠目から大声を響かせたのが、刺激になった。わたしが事の露見を招く元凶に見えたらし
い。
遠藤先輩の刃が閃き迫る。左肩に向け振り下ろされる。わたしは強い声を発する為に足
を止めていた。躱せなくても掠り傷だ。力を使えば痕も消せる。その読みが外されたのは、
「ゆめいさん、危ないっ!」
わたしの前に飛び出した和泉さんが、代りに顔に刃を受けて、鮮血を迸らせた為だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
目の前を血飛沫が舞って、時間が止まった。血潮を飛び散らせつつ、和泉さんが転倒す
る。額から頬に掛けざっくり食い込む刃が見えた。
遠藤先輩への反撃も防戦も忘れて、わたしは和泉さんの傍に屈み込む。和泉さんは両手
で顔面の左上部を抑えており、固く閉ざした指の隙間から、赤い血潮が溢れ出してきて…。
「和泉さん。和泉さん、しっかりしてっ!」
「いたい……いたい。痛い、痛いよおぅぅ」
早く医者に診せないと。事はもう、学校や警察ではなく、病院の話だった。顔は女の子
の生命だ。和泉さんの切りつけられた箇所は、左眼を含む。一刻も早く最善の処置をせね
ば。
「少し我慢して、安静にして。お願いっ!」
間近の先輩達を振り返って視線を向けて、
「和泉さんを病院に運ぶのを手伝って。それと和泉さんが病院に着いたらすぐ診察や手術
ができるよう、先にお知らせに走る人を…」
反応が妙に鈍い。時間が、止まっていた。
先輩達は皆驚きに硬直し、一歩後ずさり、
「お、おれ……、そ、そんな積りじゃ……」
遠藤先輩の弱気な声が全てを物語っていた。
為してしまった過ちに魂が怯え竦んでいた。
最早わたしをどうこうするどころではない。
こんな形で諍いを終えるなんて最悪だけど。
でも今は、そんな事を問うても意味がない。
今は最善の処置を。間に合う内に為せる限りを。立ち止まって震えるのではなく動いて。
「先輩、お願いします。わたしじゃ、和泉さんを抱えて歩けない。お願い、力を貸して」
和泉さんは軽傷だけど、心身のショックでまともに歩けない。抱えて担いで行かないと。
「お、俺、おれ……」「馬鹿、逃げるぞ!」
帰趨を決めたのは、塩原先輩の一声だった。逃げれば直面せずに済む。責を負わずに済
む。俺達はここにいなかったと、みんなで証言し合えば良い。病院に担ぎ込めて軽傷で済
んでも、経緯を話せば警察沙汰で、学校に知れる。
「あ、ああ」「そ、そうだ」「しらねっと」
漸く身を起こせた西尾先輩を最後尾に、上級生は全員土埃を上げて走り去る。そんな…。
「和泉が、和泉が怪我をしているんだよっ」
「ダメだってば、真沙美ちゃん。逃げよう」
少し遅れつつ、賢也君が真沙美さんを引きずって去る。厄介事に関りたくないし、真沙
美さんを関らせたくないと。男の子の腕力を真沙美さんも振り解けずに、視界から消えて。
『羽藤さん、和泉。ちょっと、賢也あんた』
『諍いの場に真沙美ちゃんがいちゃいけない。先生は必ず、その場にいた全員を叱る。怒
る。真沙美ちゃんは何も知らない。知らなかったんだ。実際真沙美ちゃんは何もしてない。
起きた事は取り返せない。取り返せない事に関っちゃいけない。俺達はいなかったんだ
…』
そこでわたしは他の気配を追う事を止めた。去る人に注意を裂く余裕はない。今心を注
がねばならないのは、すぐ傍に身を横たえた大切な人だ。今わたしに一番大切なのは、わ
たしの代りに痛みを負い血を流した和泉さんだ。
この時既に、わたしの覚悟は定まっていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
人の気配が急に失せた事を、和泉さんは感じているだろうか。否、そんな事は最早和泉
さんにはどうでも良いのかも。手で抑えてない右の瞳も必死に見開き、わたしを見つめて、
「目が、左の目が、痛くて開かないよっ…」
固く閉ざした両手の指の隙間から、赤い液体が尚も溢れる。掌の下で見えずともわたし
には視えた。傷の深さも感じ取れた。前に飛び出し刃を受けた和泉さんは、額から頬に掛
けて顔を深く切り裂かれている。眼球も傷つけられている。この侭では、失明もあり得た。
経観塚の病院に、眼科医は常駐していない。週3回県庁市の大学病院から診療に来るけ
ど、今日はその日ではなかった。それに経観塚に眼科の手術の設備はないと聞いた。県庁
市に搬送され緊急手術しても、視力を戻せる可能性は高くない。顔の傷はそう酷くないけ
ど…。
わたしが抗って先輩に刃を取り出させたのが失策なのか。わたしが一緒に商店街を歩い
て和泉さんを禍に巻き込んだのか。わたしが和泉さんの優しさに甘えて絆を望んだ所為で。
『わたしを庇って、又目の前で大切な人が』
いつ迄経ってもわたしは災厄の子だ。
どこに行ってもわたしが諍いを招く。
わたしを好いてくれる人が、危難を蒙る。
わたしに寄り添ってくれる人が酷い目に。
和泉さんは、わたしの代りに刃を受けた。
その想いに報いるには、償いと贖いには。
『駄目だよ、柚明。血の力を使っちゃ』
傷口を抑える和泉さんの、両手の上に翳した右手が凍る。サクヤさんの警告が耳に甦る。
『血の力を不用意に使うのは拙い。贄の血筋の存在を、衆目に晒す事になるからね。例え
善意でも、事実が知れ渡れば違う反応も出る。世の中は、必ずしも善意な者ばかりじゃな
い。鬼の様な人間もいるんだよ。それこそ本物の鬼が贄の血を狙って来るかも知れない』
サクヤさんは言ったけど。そう言ったけど。
『それはあんたの大切な桂と白花の行く末にも関る。成功できても、その傷を完治させ心
救えたとしても、その成功の故にあんたの癒しの力が、贄の血筋が世に晒されるんだ…』
『贄の血筋は知られない事で長く安穏を過せたんだ。少しでも違う者を見つければ、人は
よってたかって来るからね。鬼切部の様に権力で口を封じでもしないと、魔女狩りに遭う。
優しい心は分るけど、彼女を疑う訳じゃなく、その効果を察する者が出るかも知れない
…』
特に人を癒すなんて物珍しい力を持つ血筋は興味の的だろう。見知らぬ記者に四六時中
カメラやマイクを突きつけられ、付き纏われ、生活に踏み込まれる様も想像できた。でも
…。
『羽様のみんなの為にも、あんたの可愛い桂や白花の為にも、血の力を晒すのは拙いよ』
1年前はわたしが招いた禍で、たいせつな幼子を死の淵に追いやってしまった。辛うじ
て禍は回避したけど、それもわたしの力で守れた訳ではない。わたしは尚桂ちゃんと白花
ちゃんを、まともに守る力も持たない子供だ。