第3話 日々に確かに向き合って(後)
この力は全ての人に大丈夫なのか検証されてない。血の繋る人には効果が現れた。真弓
さんにも有効で問題はなかった。でもそれで全ての人に害がないと証明された訳じゃない。
効かない怖れは残っている。副作用の怖れも。
「……でも。……それでもっ!」
この侭では和泉さんが経観塚に留まれない像も視えた。片方の視力喪失がもう片方に悪
影響を与え、両目を失明する悪い未来が目に浮ぶ。周囲の誰にも心を開けず、わたし達も
心開かせられず、離れ行く定めが瞼に映った。
切り替えなければ、食い止めなければ。
哀しみと涙の定めを、変えられるのは。
わたしの為に傷ついた人を、わたしが治す。
それがわたしに、幾分かの犠牲を強いても。
この侭離れ行く定めにはわたしが耐えられない。捨て置けない。その微笑みは絶対わた
しが取り戻す。今は唯、守りたい想いの侭に。
『桂ちゃん、白花ちゃん。あなた達の禍には絶対にならない様にするから。わたしが…』
わたしが決意さえ固めれば、害は及ばない。
わたしが覚悟さえ決めれば、問題は消せる。
『サクヤさん、真弓さん、笑子おばあさん』
ごめんなさい。相談も出来ない侭に、重大な判断を、わたし1人で勝手に下して実行し
ます。全部わたしの所為だから。全部わたしの不首尾だから。全部わたしが責を負います
から。他の誰も悪くないからわたしだけに罪と罰を。羽様のお屋敷に迷惑は掛らない様に
します。たいせつな人には禍を及ぼしません。
「わたしの愛があなたを支え守る。何も怖れる事はない。わたしの腕に身も心も委ねて」
和泉さん。わたしがあなたを、守るから。
「和泉さん……今、痛みを拭ってあげるね」
両手はその侭抑えていて良いよ。顔が痛くなくなったら、自然に力を抜いて退けて頂戴。
「ゆめいさん……?」「少し、静かにして」
上から被せた自身の手を外して唇を寄せる。
指先より唇の方が血の力はより強く伝わる。
傷の上に被せて閉ざされた、和泉さんの両掌の指の隙間の朱を舐め取りつつ、口付けて、
「んっ……」
わたしの力を紡ぐだけではなく、和泉さんの血を口に含み、一緒に混ぜ込んで力にして。
贄の血の方が遙かに強い力の源にはなるけど、今の気掛りは和泉さんの心身への相性だっ
た。
幾ら強い薬も身体に拒まれては意味がない。和泉さんの血も得てわたしの力に混ぜる事
で、自身の輸血に近い状態に出来るのではないか。わたしは鬼ではないので若い乙女の血
を口に含んでも美味しくないけど、良薬は口に苦し。
「ゆめいさん……?」「もう少し、静かに」
血は吸い上げる訳ではなく、漏れた分の再利用に留める。和泉さんの閉ざした掌を通じ、
癒しが口付けて伝わり行くのが分る。大丈夫、浸透している。副作用も拒絶反応も生じな
い。癒しは受容され、和泉さんを賦活させ始めた。
「なんか、気持良い……あったかい感じ…」
怪我した猫の子が母猫に嘗められる様な。
重傷なのに病院に急ごうとの焦りが消える。今は動かず癒されるべきとの、理由も根拠
もない感覚に心を委ね、わたしの腕に身を委ね。
「少しの間、わたしを信じ、全てを委ねて」
あなたに禍を招いてしまったわたしだけど。
守る事も満足に叶わなかったわたしだけど。
「せめてその傷を治させて。わたしの想いを届かせて。あなたの心に少しでも報いさせて。
ごめんなさい。わたしの所為であなたを酷い目に遭わせて。謝っても許してとは望めない
けど、償っても認めてとは求めないけど…」
せめて今少しの間だけ。和泉さんがわたしを受け容れてくれる気持が、治しを強く促す。
和泉さんが生きようと想う気持が治しを早く。
生きようって、強く想って。
抱き留めた全身で、服を越えて癒しを伝え、触れた肌で癒しを流す。和泉さんの痛みを
肌を通じて感応で身に刻み込ませ。これはわたしの受けるべき、わたしの負うべき苦しみ
だ。
和泉さんは身が暖まる錯覚を感じている筈。
傷の発熱とは違う、幼子の柔肌の暖かみを。
「痛みを感じなくなったら、両手を外して」
その方がより直接、強く早く治せるから。
外気に晒すと風が痛いと、傷口を必死に閉ざした和泉さんの両手から、徐々に力が抜け
て行く。自然に解けた腕がわたしの身に絡み、わたしの唇は和泉さんの尚朱が漏れる左瞼
へ。
神話では、天照大神が籠もって固く閉ざした天の岩戸を開くのに、アメノウズメと言う
女神が力を尽くしたと聞く。傷口を固く閉ざした和泉さんの両掌を、その奥に籠もり掛け
た心を開くのに、わたしが力を尽くせるなら。この人に禍を招いたわたしが役に立てるな
ら。
空は尚鈍く曇った侭、夜の帳が降りてきた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
台地には暗くなる迄結局誰も現れなかった。先輩達も賢也君も真沙美さんも、お巡りさ
んもお医者様も呼ばなかった様だ。わたしは横たわる和泉さんの背に腕を回し、左瞼に口
づけて癒しを流し続け、和泉さんはこの背を締める様に腕を回し、絡み合う侭に。2人き
り。
和泉さんの血を含んで力に混ぜ込んだ為か、元々彼女が贄の血の力に相性良いのか、傷
は急速に回復を見せていた。額から頬に掛けての切り傷は、もう薄い線でしかない。さっ
き迄血が迸っていたのに、痕が消え掛っている。
一番重傷で繊細で治しが困難な左眼も同じ。数週間掛けねば、治る筈がない深手が癒え
る。修練でわたしの力が更に増した故か。役に立てる事は嬉しいけど、癒す力の進展は喜
ばしいけど。己の感覚が付いていけない。本当にわたしはお母さんの言った通り血が濃い
様だ。
では、わたしより尚濃い血を持つ桂ちゃんや白花ちゃんは、一体どこ迄行き着けるのか。
この不安を可愛い2人に感じさせたくないから、叶う限り傍に付き添い導きたかったけど。
「これが、ゆめいさんの秘密の一つなんだ」
一つというのは、和泉さんにはわたしの戦う姿も初見で、事実上秘密だった為だ。わた
しも積極的に人に話してない。女の子が戦いに強いなんてみんなに知れても嬉しくないし。
「ええ……この身に流れる特殊な血に宿る力を使いこなすと、傷を治したり疲れを癒した
り、人を痺れさせたり弾いたりも出来るの」
和泉さんの右目を瞬かせての問に、わたしは否定も隠しもしない。覚悟決めてしまえば、
身に余る大事でも平静に行く末を眺められる。己を救いたい我欲を諦めれば、心は穏やか
で。
身を横たえた和泉さんの未だ開いては拙い左眼を、わたしは右手で軽く抑えた侭、左腕
は和泉さんの身に添え両腕に絡まれるに任せ。
「……ごめんなさい、和泉さん。わたし…」
あなたの傷を前に、迷ってしまった。己の力を知られる事を怖れ、あなたの助けを躊躇
った。余計に痛み苦しみを長引かせた。わたしの禍に巻き込んで、わたしを庇って傷を負
ったあなたの治療なのに。和泉さんは元々わたしと居なければ、傷つく事もなかったのに。
「あなたに痛み苦しみを……ごめんなさい」
わたしの懺悔を、和泉さんは受け付けず、
「ありがとう……あたしを、守ってくれて」
悔しかった。でも、嬉しかった。だって、
『わたしの愛があなたを支え守る。何も怖れる事はない。わたしの腕に身も心も委ねて』
『和泉さん。わたしがあなたを、守るから』
和泉さんはわたしが盗んだ台詞を暗唱し、
「あたしがゆめいさんを守りたかったのに」
あたしがその微笑みに尽くしたかったのに。
あたしがこの細腕を支え助けたかったのに。
「本当に身を尽くしてくれた。もうあたしの手で返しきれない位。そして、ゆめいさんが
あたしの守りなんか要らない程強いと分って、守る積りが全然守れず情けなく守られた今
が、愉しく過ごす筈だった今日一日が悔しいよ」
潤む右目が間近のわたしから遠くへ流れ、
「最初から好きだったんだよ。小学3年の」
逢った瞬間にね。童話の国から訪れた優しげで可愛い女の子。羽様の森の奥深くに現れ、
小鳥が唄う声で喋る女の子。お父さんお母さんを亡くした直後で、押し潰されそうな哀し
みに耐えていた、小さなゆめいさん。悪い鬼に微笑みを奪われた様に、俯き内に閉じこも
るのが、自分の何よりも哀しくて、切なくて。
「この人に微笑んで貰いたい。この人に喜んで貰いたい。憂いのない笑顔を浮べて貰いた
い。あたしにできた事は多くなかったけど」
「最初に声掛けてくれたよね。校舎の中を案内してくれて、みんなの輪に入れてくれて」
お世話になって、迷惑かけて。でも和泉さんはいつも元気に応えてくれた。羽様で最初
に『ゆめいさん』と名前で呼んでくれたのも。
「鴨ちゃんも綺麗で好きだったけど、鴨ちゃんは強くある事を望む人だったから。あたし
が支えたり助けたりしようとすると、むしろ嫌って拒んで。守らせてくれなかったから」
まさかこんな事になるとは想ってなかった。
瞬時声を陰らせてから強引に話題を変えて、
「ゆめいさんの家に幼子が生れてからだよね。ゆめいさんが元気取り戻して輝き始めたの
は。
あたし、心の底から嬉しかった。何にも出来なかったけど。殆ど何の役にも立てなかっ
たけど。でも、ゆめいさんが心から生き生きと日々に向き合って、あたしやみんなの声に
応えて、笑ったり困ったり少し怒ったりしてくれた事が、嬉しくて、愛しくて。あたし」
双子にお礼言いたくて何度か羽様を訪ねたんだよ。幼子には分らないから、抱き上げて
心の中で言っただけだけど。あたしの大切な人を甦らせてくれてありがとうって。あたし
の大切な笑みを戻してくれてありがとうって。
わたしの左手に絡む両手の力が少し強く。
「去年の運動会、あたし残念だったんだ…」
ゆめいさんが詩織さんに付きっきりだったのが寂しかったとか、そう言うのじゃなくて。
「ゆめいさんの守りは、誰にも及びようがない程に完璧だったから。ゆめいさんは最後の
数週間、詩織さんの親友で姉で、恋人だった。詩織さんにはゆめいさんは憧れの人で、親
身に抱き留める人で、地獄の底迄連れ添い、無理も一緒に突き抜けられる人だった。身も
心も預けて共に燃え尽きて悔いない人だった」
幸せそうだったよ、詩織さんは。本当に。
少し寂しかったけど。嫉妬したのは確かだけど。それ以上に悔しかったのは、あたしが
誰かをあれ程包む事は、絶対無理と感じた事。守りを望むあたしが、守りに敗北を感じた
事。及ぶ事が不可能と納得させられて。あたしは、
「女の子としてゆめいさんを守る事を諦めた。自身を捧げ尽くせる人の前であたしの中途
半端な守りを見せても、無意味な以上に恥ずかしいし。だから、あたし男役を目指す事
に」
演劇部を選んだのもその為だったんだよ。
「男役として女の子を庇ったり、告白したり、ラブシーンしたり、色々と練習出来るか
ら」
女の子としてはゆめいさんに遙かに及ばないあたしだけど、優しすぎて儚くおっとりし
たゆめいさんを、少し勇気振り絞れば男役として、危険や面倒から守ってあげられるかも。
「悔しかったのは、あたしが悔しかったのは、その企みも今日潰え去った事。ゆめいさん
は普段静かで優しい上に、困難を困難と受け止めず、柔軟に解決策を見出す凄い人だけ
ど」
奥に尚戦う強さ迄を隠し持っていたなんて。
これじゃあたしはどうやっても守れないよ。
「守りたかったのに、支えたかったのに、役に立って喜んで欲しかったのに。なのにゆめ
いさん、女の子でも男役でもあたしより全部遙かに上で。あたしが守ろうとして失敗して、
状況悪くした後で身を尽くして助けてくれて。その細腕に無理な戦いさせちゃって。知ら
れちゃ拙い奥の手迄使わせて。役立たずどころかあたし、ゆめいさんを困らせてばかり
で」
あたしの所為で、あたしが誘っちゃった為に、あたしはゆめいさんを大変な目に遭わせ。
「和泉さんそれは違……」「ゆめいさん!」
わたしの声を中途で止めたのは、和泉さんのいつになく真剣な右瞳に込められた意思で、
「お願い、あたしの前から、羽様から、経観塚から居なくなってしまわないで!」「?」
左腕に絡む和泉さんの両手がひときわ強く、
「おとぎ話の美しい人は、隠した秘密を知られると、その場にいられなくなる。雪女でも、
鶴の恩返しでも、最後は哀しい訣れだけど」
でも、ゆめいさんは去ってしまわないで!
「あたしの大切な人。あたしが心から好きになった深い瞳の人。守りたかったのに、守る
事出来なくて、逆に守らせてしまって、この上わたしの所為で居なくなられたらあたし」
失いたくない! この肌触り、この温もり、瞼に触れてくれた唇の感触、穏やかに静か
な声音、愛おしむ視線。絶対絶対失いたくない。
「和泉、さん……?」「分るよ、その瞳っ」
声も瞳も繋ぐ腕もかつてない程強く強く、
「ゆめいさんがその力を揮った後で却って穏やかなのは、覚悟が出来たから。あたし達の
前から、ここから去る事を考えているから」
憂いも悔いもなく、平静にすぎる。今迄隠し通したのに、今迄隠し通す程の秘密ならば、
人目に晒した時点で打つ手を考えなきゃいけない。人前で使う事を躊躇う事情があるのに、
使って全然困ってないのは前提を変えたから。あたし達と過ごす日々を諦めたから。違
う?
「和泉さん……」
感応の力のない和泉さんが、心の内を見抜いていた。今日わたしの事情を知った彼女が、
わたしの結論の間近に。繋ぐ言葉が淀むのは、心を読まれた驚きなのか、燻る己の欲なの
か。
静かにかぶりを振って、和泉さんの願いと問に、従えないとの意思を伝え、瞳を閉じる。
わたしの笑みは、寂しそうに見えただろうか。横たわったその身に屈み込んで、頬に頬寄
せ、
「もうわたしの身の振り方は、わたし1人には決められないの。わたしの一存で、和泉さ
んの傍に居続けますとは、約束出来ない…」
先輩拾壱人と、賢也君と真沙美さん。和泉さんが倒れて血を流す瞬間を多くの人が見た。
誰も救急車を呼ばなかったお陰で、わたしは和泉さんを治せたけど、正にその成功の故に。
為し終えた過去は取り戻せない。
選び終えた選択はやり直せない。
癒しの力を人に使ってしまった。
結果が目に見えて出る時と場で。
和泉さんを治さない選択は、なかったけど。
その痛み苦しみは、捨て置けなかったけど。
だからこそ為した結果は、受け止めないと。
他の誰にも害が及ばない様に。白花ちゃんと桂ちゃんの、生れ育つ場の静謐を守らねば。
わたしはあの時、覚悟を定めていた。和泉さんの痛み苦しみを放置して、離れ行く位なら。
彼女を守った結果、己が去り行く方がましだ。幼子達の傍にいられない心残りは深甚だけ
ど。
「今日の事は、和泉さんの所為じゃないから。わたしが招いた禍に巻き込んで、わたしを
庇う為に傷を負わせ、わたしが返したい想いの侭に、癒しの力を使って晒しただけだか
ら」
その結末はわたしが甘んじて受けないと。
「わたしの、一番たいせつな双子の為に…」
努めて静かに穏やかに右の瞳を覗き込み、
「羽様の家族に迷惑はかけられない。たいせつな幼子を嵐には曝せない。わたしがどうな
るかより、わたしが何を出来るかが重要…」
わたしの身の先行きより、わたしの所為で禍を招くかも知れない白花ちゃんと桂ちゃん
の今後が心配。傍で見守れなくなるかも知れないのは少し寂しいけど、それが最善なら…。
「この後は和泉さんも守れなくなる。ごめんなさい、その暖かい想いに応えられない侭」
「だ……誰も、誰も見てないよ。誰1人っ」
和泉さんは何かに急かされる様に、わたしの言葉を妨げる。この身を掴む腕に力を込め。
「みんな走り去ったよ。誰1人、この場に留まらなかった。先輩達も賢也君も鴨ちゃんも。
その後誰も来ていない。いたのはずっと2人だけ。治したのが誰かなんて分らないでしょ。
あたしは何も見てない。聞いてもいない」
どうして治ったかなんて、知らないもの。
ゆめいさんは、少し武術を使える女の子。
偶々揉め事に巻き込まれた所為で、隠されていた技能を見る事になったけど、その後は。
「あたしは何も知らないから。全然知らないから。あたしはゆめいさんの事を何にも…」
不意にその大きな瞳が潤んで、溢れ返って、
「何にも知らないで、何にもゆめいさんの事知らないで。4年傍にいたのに。こんなに間
近にいたのに。あたし、ゆめいさんを見てなかった。大馬鹿だよっ。好きだったのに、ず
っと大好きだった人が全然見えてなかった」
目が潰れて初めて視えるだなんて酷い皮肉。
額を伝う大粒の涙を拭う事もせず強い声は、
「でも、でも漸く分った。あたしがゆめいさんを守れる方法が。この上なく賢くて綺麗で、
優しくて穏やかに粘り強く、戦いにも強くて癒しの特殊な力迄持つ、でもその人を想う心
の深さと強さが危うさに繋るゆめいさんを」
一番じゃなくて良い。ゆめいさんの一番が誰でも良いから、何番でもあたしを向いてく
れなくても構わないから。今迄もこれからも一番は望まないから。それは全て承知だから。
「ゆめいさんの日々を、あたしが支える。ゆめいさんの事情でその日常が綻びそうな時は、
あたしが繕う。男役でも女の子でも及ばないあたしだけど、その優しさを支えさせて…」
失いたくない。あたしの為に、居て欲しい。
わたしを離さないと、強く強く締め付けて。定めのレールがどこを向いても、想いの力
でねじ曲げると。強い焦りと怖れが肌で感じ取れた。愛おしさと切なさが身も心も包み込
む。
わたしの一番たいせつな人は動かせないけど。判断は全てその幸せと守りを最優先する
けど。この身も心も、和泉さんの想いを一番に受けて動く事は叶わないけど。それでも尚。
流してくれる美しい雫に叶う限りの想いを。寄せてくれる優しさに、今返せる限りの答
を。わたしにそこ迄想われる値があるかとは別に、瞳に宿る綺麗な想いには心の限り向き
合おう。
濡れた右頬にこの右頬を合わせ、
「……出来るだけ、頑張ってみる」
言葉で返せた答はそこ迄だった。
月明りも雲に遮られた暗い中、わたし達はお互いの肌触りと温もりと、微かな吐息だけ
を交わし合い、癒しの力を流し流され、涙を流し流され、尚少しの2人きりの時を過ごし。
夜は闇を深め、わたし達の絆をも深め行く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
和泉さんの家から羽様迄、8キロの道のりを歩き始めた頃は、辺りは既に真っ暗だった。
最終バスには間に合ったけど、顔の傷は痕も消えたけど、未だ左眼の視力は復してない。
降りてから尚少し歩く必要がある和泉さんを、曇りの夜に1人で行かせる事は出来なかっ
た。
和泉さんの左腕に右腕を絡め、月明りもない夜道を家の間近迄共に。田舎の脇道は未舗
装で足元が危うく、片目の人には結構きつい。わたしの随伴は正解だったと想う。間近に
一緒に歩む時間を、和泉さんも喜んでくれたし。
「本当は、上がって欲しい処なんだけど…」
お互いこの格好じゃ説明が大変だし、ゆめいさんも家の人達が心配しているだろうしね。
バスに乗り込む事を最優先したわたし達は、双方とも家に電話を入れられてない。和泉
さんは一緒に顔を出せば、ご両親にわたしも説明責任を負わねばならないと気遣ってくれ
て。
緑のアーチの奥に建つ、羽様のお屋敷に帰り着けたのは、それから更に四十分後の事だ。
「お帰りなさい、柚明ちゃん」
「ただいま、……戻りました」
今日は和泉さんに付き合うのでやや遅くなると言っていたけど、ここ迄遅くなるのは予
測の外だった。叱られると言うより、心配をさせた事に申し訳なくて頭を下げるわたしに、
「お話しは後よ。まず食事の前にお風呂ね」
わたしの汚れた格好を見ても声穏やかで。
「白花、桂。こっちに来なさい。柚明ちゃんはこれからお風呂だから。邪魔しない様に」
真弓さんも正樹さんもおばあさんも、土埃以外に血の跡も混じる汚れを見て、切られた
制服に気が付いて、温かに迎え入れてくれる。その真心が身に余る程嬉しくて、身を尽く
したい程愛しくて。故にこの家族に禍を招くかも知れない己に、悔しさが身を焦がしそう
で。
「ゆめいおねえちゃ、おかえりっ」
「ゆーねぇ、おかえりなさい……」
桂ちゃんも白花ちゃんも、正樹さんに抱き留められつつ、この汚れた身に手を差し伸べ
てくれる。役に立てないどころか、害になりかねないわたしの応えを求めて、視線を声を
向けてくれる。真っ白な信頼を寄せてくれる。
「有り難う、白花ちゃん、桂ちゃん……。有り難うございます、笑子おばあさん、正樹叔
父さん、真弓叔母さん。わたし、わたし…」
済みません、お風呂に入ってきます。
溢れそうな涙を抑え込み、お屋敷に上がり込む。この涙は己の為の涙。己の心細さを訴
えたい涙だ。誰かの為の涙ではない。今からみんなに多大な迷惑を掛ける当のわたしには、
流す事など許されない涙だ。絶対に泣かない。
今わたしには考えねばならない事案がある。
今わたしには決めねばならない覚悟がある。
今わたしには下さねばならない判断がある。
『大切な物の順番を意識なさい。どれが一番大切で、どれは時に諦めざるを得ない物か』
想いの順番を意識する。一番たいせつな想いを軸にして時に抑え、切り捨て、踏み躙る。
全ての想いに応えられない時もある。悔い残しても選び取らねばならない時も。わたしは
最後迄、たいせつな人を守りたい想いの侭に。
いつも心を柔らかに。笑子おばあさんの教えを心に呟く。想いに心を占拠されてはいけ
ない。想いは強く深く抱いても、目前の事柄に即応できる柔軟さを残さないと。今こそ心
を柔らかに。最大の覚悟と決意を要する今だからこそ、ミスのない最善の判断を下す為に。
水と湯を何度も顔に当て、身体に宿る心もふやける程湯に浸かり、埃にまみれた髪も洗
い流し、身も心も清め。ゆっくり気持も落ち着かせ。かなり待たせてしまったと想うけど。
幼い双子は、わたしがお風呂から上がる前に寝入っていた。遅い夕食を頂いた後で、準
備が整うのを待って、己の未来を委ねる為に、わたしはみんなの前に正座して、全てを話
す。
塩原先輩に台地に連れ込まれ、カンニングの自白を強要された事。潔白を言っても届か
ず依頼者と話し合う猶予も許されなかった事。和泉さんが酷い事をされ、嘘でも自白する
と受容して尚その行為が止まらなかった事。反撃に転じた結果、先輩達が刃を取り出した
事。
依頼者だった賢也君が真沙美さんを連れて現れ、2人に助けを求めた隙に迫り来た刃に、
和泉さんがわたしを庇って切られた事。わたしの為に傷を負った和泉さんの、左眼の失明
を見通して、わたしが癒しの力を使った事…。
「贄の血の力を、人目に分る形で使ってしまいました。誰に相談もせず、1人で判断して
やってしまいました。申し訳ありません…」
それがどれ程重大か、分らなかった訳ではない。分った上でわたしは為した。やむを得
ない事情があっても、たいせつな人に禍を招く行いを為した。贄の血の癒しの力を人前で。
明日にはわたしが和泉さんの傷を治したと知れる。その顔に痕もない事が動かぬ証しだ。
隠しようがない。あの場には十四対の目があって、傷つく和泉さんを瞼に焼き付けている。
わたしは両手を付いて、深々と頭を下げ、
「わたしの身の振り方を、示して下さい…」
全てわたしの失態です。この上は、わたしの癒しの力が噂にならない内に、羽様のお屋
敷に迷惑が掛らない内に、みんなに禍にならない内に、この身を処断しなければ。わたし、
「もうどうしたら良いか、考えられなくて」
和泉さんを、助けない訳には行かなかった。あの状況に至れば最早ああする他に術はな
かった。少なくともわたしは考えつけなかった。あの痛みも苦しみもわたしが受けるべき
物だ。
その上で桂ちゃんと白花ちゃんは断固守る。その身に禍は招けない。禍が2人に迫るな
ら、わたしが囮になって人目を引き2人を守る選択もある。この禍はわたしが受けるべき
物だ。
「わたしの生き死にを委ねます。白花ちゃんと桂ちゃんの側にいられなくなるのは心残り
だけど、その傍で役に立てなくなるのは悔しいけど、わたしがいる事で禍を呼ぶなら…」
父方の親戚に預けられるか、真弓さんやサクヤさんのつてで養子に出されるか、全寮制
の学校に転入するか、住み込みでどこかで働かせて頂くか。ここを離れる事は必須だろう。
それもなるべく速やかに。羽様の屋敷に住む娘が妙な力で傷を治したと、噂が広がる前に。
消息を絶つ為には生命を絶つ覚悟もあった。それで桂ちゃんと白花ちゃんに迫る禍が止
まるなら。それが一番たいせつな幼子の幸せを守るに必須なら。4年前のあの夜から、わ
たしの生命は守りたい物の値だった。その為に捧げる事が必要ならわたしに拒む積りはな
い。身体も生命も魂も一番たいせつな2人の為に。
「因果応報……為した事の報いは受けます」
今回は持ち寄る案もない。早い決断と行動が要るけど、失態も原因もわたしにあるけど、
事態がこの手に余るので、考えあぐねて判断を請う。情けないけどわたしは未だに子供で、
全てに対処出来ない。視野は狭く読みは浅く、感情に揺さぶられ、長いスパンで物を考え
られない。最後は大人に相談する他に術がない。決定打を放った後での相談も酷い話だけ
ど…。
気分は、まな板に自ら上がった鯉だった。
「まず、頭を上げなさいな」
話をするにはまず、お互いの顔を見ないと。
笑子おばあさんの声にわたしは面を上げる。
年長者は皆平静に穏やかないつもの表情で、
「柚明ちゃんは、今回が二度目の実戦ね?」
真弓さんの質問にわたしがはいと頷くと、
「感想を聞きたいの。わたしとの修練は幾ら緊迫しても所詮は修練。負けて失う物はない。
あなたは今日人生で二度目の実戦を経た。昨年の鬼に較べれば学校の上級生なんて可愛い
物だけど、あなたには真剣な脅威だった筈」
奪われかけたのは、尊い物だった訳だし。
瞳は興味深そうと言うより査定する様で、
「戦っていた時の心境と、戦い終えた今の」
「……怖かった。この上なく、怖かった…」
正直に述べる。その美しい双眸を正視し、
「わたしは体重も軽いし身体も細いし、幾ら巧く戦えても、一つ拳か蹴りが入れば危うい。
まともに組むだけで身を捉えられる。先輩達は投げても蹴っても、暫く経てば起きてきた。
後遺症を怖れ加減した為もあるけど、男の人は筋肉があって体重があって、打たれ強い」
そしてもっと怖かったのは人を傷つける事。
相手の人生を壊しかねない自身が怖かった。
「わたしは真弓叔母さんに本物の戦いを教わっています。非力でも急所を突けば人の生命
を奪える。腕を逆さに折れば生涯身体を不自由に出来る。戦い続ければ、わたしが誰かを
酷い目に遭わせたかも。加減しきれず、誰かを守る為に相手の人生を壊せる自分が怖い」
先輩にもたいせつに想い、帰りを待つ人はいる筈なのに。わたしが和泉さんを想う様に、
塩原先輩や遠藤先輩を想う人はいる筈なのに。先輩達の為と言うより、わたしの所作で哀
しむ人が出るのは嫌だ。わたしが感じた類の哀しみを、どこかに作る因になる己が嫌だっ
た。
「そして何より怖かったのは、わたしの勝敗に守るべき物の命運が掛っているという重み、
単独で真剣勝負を担う事の怖ろしさでした」
負けたらたいせつな人を守れない。後ろに誰もいない。自分が守れなければおしまいだ。
その緊迫感は、胸を締め付ける程に怖かった。助けを呼べず人に頼れず、戦う他に術がな
い。
敵が怖いより、己が怖いより、守るべき物を守れるか否かの境目で全てを負う事が怖い。
自身の勝敗に何もかもが掛っている事が怖い。
わたしの素直な感想に、真弓さんは静かに、
「まあ、及第点という処かしらね」
少し優しすぎる気はするけどあなたらしい。わたしもあなたの様に親身に教えるのは2
人目だから、巧く伝わったか気掛りだったけど。
「戦いとは、怖い物なの。幾ら強くなっても、常にその怖さは付きまとう。逆にその怖さ
を感じなくなった時、あなたは己を見失っていると想って。あなたの感触は概ね正解よ
…」
1人目は相手を傷つける怖さに気付くのに少し掛ったけど、彼は千羽の男の子だったし。
「怖れを乗り越えて戦いを選び、最後迄己の真の想いを見失わなかった。現実から目を背
けず、最後迄たいせつな人の傍に添い、確かに守り助け救えた。平常心の鍛錬の成果よ」
あなたは勝敗より尊い物を戦い守れた。否、あなたの戦いはたいせつな人を守る目的限
定だから、守れた結果が即勝利なのでしょうね。幾ら傷ついても、汚れても痛んでもあな
たは。
気の抜けた感じで真弓さんが口を閉じ。その後で笑子おばあさんが今後もその侭中学校
に通うように言ってくれた時は、正直驚いた。
「あなたは失えないんだよ、柚明」
あなたは、わたしの大切な孫娘なんだよ。
この身に替えてでも守りたい人なんだよ。
「大切な孫娘をどうして手放す事出来ようか。それが柚明の為にやむを得ないなら別だけ
ど。折角健やかに綺麗に開きかけたつぼみを、小さな瑕疵で手放すなんて、出来る訳がな
い」
柚明はこんなにも元気に可愛く育っている。強く賢く優しく。去らせるなんて出来ない
よ。わたしが許さない。柚明は、わたし達で守る。禍なんて怖くない。怖いのは柚明を失
う事さ。
「笑子おばあさん……でも、それじゃあ…」
言葉を挟み掛けて口を閉じる。今は笑子おばあさんが語る順番だ。それに耳を傾けよう。
「柚明が去る事は桂と白花の為になるかね? 2人が柚明に深く懐いている事を、抜きに
しても。寂しがる2人を見るのが辛い以上に。
贄の血が招く定めの重さは、柚明が身に染みて知った筈だよ。2人が己の負う定めの重
さに立ち向う強さを得るには、先達の存在はとても大きい。それがないと過酷な位、2人
の血は濃く深い。柚明のそれを凌ぐ程にね」
羽様を生涯離れないなら問題ないけど、青珠を持ち歩いて守って貰うなら問題ないけど、
人の運命は思う通りにならないもの。わたしは、2人も贄の血の力を扱える様になるべき
だと思うわ。定めの重さに見合う修練を通らないと、天の配剤は2人に牙を剥きかねない。
「2人の為にも、柚明には居て貰わないと」
わたしもいつ迄も元気でいられない。気力も体力も下り坂だ。修練にわたしが付き添え
ない時柚明が居ないと、2人はどうなるかね。柚明の血はわたしよりも濃い。白花と桂の
濃さはそれを凌ぐ。修練を始めればその内2人はわたしを越えていく。あなたが先にわた
しを追い越した地点で待ってないと、2人は行くべき途を見失って、惑う事になりかねな
い。
「桂と白花を除けば、ここ数百年で一番濃い贄の血は柚明なんだよ。柚明にしか、2人の
先を導く事は叶わない。いずれ2人はあなたも追い越していくだろうけど、年長の経験者
の存在は後々も長く2人の心の支えになる」
真弓さんにも、贄の血が歴代で最も薄い正樹にもそれは担えない。出来るのは柚明だけ。
贄の血の持ち主として、力を操れる先達として、白花と桂の力になれるのは。分るだろう。
ああ、その通り。でも、その力を衆目に晒したわたしは2人の幼子に禍を。今更の様に
この身が恨めしく悔しい。和泉さんを助けた判断は間違いではないけど、それ迄に何か…。
想いに潰され、再び俯き掛けるわたしに、
「柚明ちゃんが治した傷はどこにあるかな」
正樹さんの問を聞いて、何故大人達がこの重大事に平静で居られたのか、遅まきながら
気付かされた。痕も残さず治すとは傷の証拠もない事だ。目撃証言は別として、最早物証
はない。傷ついた瞬間を写真に撮らない限り、今の和泉さんに汚れや血の染みはあれど傷
は。
正樹さんが温かな微笑みをわたしに向けて、
「痕も残ってない傷を、あったと証明出来る人はどこにいるんだい。痕も残ってない傷は、
最初からなかった事とどう違うんだい。金田さんは元々切り傷なんて、負ってなかった」
元々ない傷は癒せない。金田さんを傷痕迄完治した事が、柚明ちゃんを完全犯罪にした。
君の癒しを金田さんが明かしても、秘密として守ってくれても状況に大きな違いはない。
台地で先輩に襲われた柚明ちゃんは、護身の術で抗った。鴨川の2人が現れて密室が崩れ、
大人を呼ばれると焦った上級生は逃げ散った。
「刃で服は切られたかも知れない。ひょっとしたら掠り傷位は負ったかも。でも金田さん
が顔に傷を負ってない事位は、逢えば分る」
凄い論理の組み立てだった。証拠がなければ無実か。結果がなければ原因もなかったと。
確かにそれでわたしの力は伏せられる。でも、
「それで押し通す事は出来るでしょうか?」
「世の中無理が通れば道理が引っ込む物よ」
真弓さんの答は、少し苦い笑みを含んで、
「今回の件は大事よ。女の子が上級生の男子に集団で暴行され掛った。話は親や学校、警
察に及ぶ。金田さんの痕もない傷なんて、子供の見間違いで流される。少し言葉を繕えば、
その場にいた人も見た像を疑い、忘れ去る」
この失敗は致命傷ではない。致命傷にさせないと、真弓さんは繊手でわたしを抱き包み、
「あなたの守り通した想いは間違いではない。あなたの為した事は過ちではない。あなた
は確かに、賢く強く優しく育ってくれている」
怖かったでしょう。心細かったでしょう。
1人で怖れに立ち向かうのは大変だったでしょう。あなたは本当に争いを嫌う人だから。
包み込んでくれる。身も心も、繊手の華奢さと柔らかさで、滑らかな肌触りと温もりで。
「この問題は大人間の話し合いになるから」
もう子供の問題ではない。明日にも鴨川やその先輩達の家を訪ね、学校を訪ね、話を付
ける。明日は学校に出ても休んでも構わない。無理は要らない。弁明を言い募る必要もな
い。後は大人に任せて。原因は、ここ迄大事になると読めなかったわたし達の見通しの甘
さよ。
情愛がわたしの心を満たし行くのが分る。
想いがこの双眸に熱く堪り行くのが分る。
「わたし達に身も心も委ねて、任せなさい」
あなたが己を子供と自覚するなら大人に守られなさい。わたしや正樹さんやお義母さん
に守られなさい。子供は失敗や悪戯をする物なの。それを一々咎め去らせていたら、家族
なんて成り立たない。わたし達に全て任せて。生き死にを委ねた以上、逆らう事は許さな
い。
「柚明ちゃん。わたしが貴女を、守るから」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
翌朝登校したわたしを取り巻く教室の空気には驚かされた。みんなの間ではわたしと和
泉さんと先輩達の一件は噂が噂を呼ぶ状態で、
「ゆめいさん、あなた和泉さんと昨日放課後、塩原先輩達拾数人に、集団レイプされたっ
て聞いたけど、学校に出てきて大丈夫なの?」
教室に入って即、びっくり顔で歩み寄ってきた志保さんに、正面からそう訊かれた時は、
「大丈夫だよ。されてないから」
応えた後で、中身の凄まじさに気が付いて、耳迄熱が回ったけど。飛び交う噂の一部が
即座に掴めたけど。声も余り低めず近い人には聞えている。この種の不用意発言が、入学
直後彼女が野村さん達に責められた原因なのに。
「本当? みんなその事を噂して凄いよ…」
羞恥より怒りに心が振れるのは、わたしより和泉さんを汚す噂だから。己を抑えるのは、
確かに不用意発言だけど、志保さんが起点ではない噂だから。非礼でも彼女に悪意はない。
噂は既に校内を巡っている。本人だけが知らぬ内に無責任な噂が飛び回るより、向き合い
対応できる様に気付かせてくれる人は貴重だ。
「心配してくれて有り難う。でも、昨日の事なら、わたしも和泉さんも、大丈夫だから」
欠席だった和泉さんの分迄、噂を否定しておく。今朝は久しぶりにバスで登校したけど、
通学バスに和泉さんも鴨川さんもいなかった。
これは昨日から予測済み。わたしは平然と出席して、何も痛手を受けてないと証す必要
があったけど、その分和泉さんは休んで良い。顔の傷が痕もなく治っても、左眼の視力が
戻っても、心に受けた傷は簡単に拭えない。翌朝出づらい事情は分る。話を聞いたご両親
が大事を取って、休みを促した可能性もあった。
「志保、あんた少し物言いに気をつけなよ」
当然の指摘をしてくれたのは歌織さんで、
「まあ、酷い事がなかったと分って私も安心したけど。何種類もの酷い噂が飛び交って」
後から姿を見せた早苗さんが言葉を続け、
「真偽の程も見当が付きませんでしたから」
塩原先輩に連れ出されたという入口は同じ。鴨川賢也君が当初から居たり、後から現れ
乱入したり。真沙美さんも居たとか現れたとか、柚明さんと共々酷い目に遭わされたとの
噂も。柚明さんが先輩のナイフを奪い反撃したとか、中にはそれで和泉さんを切りつけた
との話迄。
「余り酷い噂はこの場で否定して下さると」
「私達も惑わされずに済むし、惑わされるなと他の連中にも言ってあげられるんだけど」
「……有り難う、早苗さん、歌織さん」
その好意が嬉しい。わたしは軽く頭を下げて、早苗さんの左手と歌織さんの右手を握り、
「わたしも和泉さんも、鴨川さんも賢也君も、昨日は怪我一つなかった。わたしと和泉さ
んが塩原先輩達とお話しをしたのは確かだけど、噂で心配される様な事にはなってないか
ら」
わたしが今ここに出ている事がその証し。
わたしは出てきて正解だった。2人揃って休んでいたら、酷い噂を認めるに等しかった。
わたしが登校して噂を否定する事で、和泉さんや鴨川さんに掛る疑惑も噂も、否定出来る。
志保さんの問は明快な否定を導かせてくれた。
「みんなにも、心配を掛けてごめんなさい」
歌織さんと早苗さんと志保さん以外の、わたしの声を聞いてくれる級友全員に頭を下げ。
頭を上げると、教室の反対側にいた野村さん達の間近へ歩む。彼女達が背後の壁に身を
預けるのは、わたしが怖い訳ではないと想う。わたしは敵意も闘志も宿していない筈だか
ら。
その間近で正面から向き合い瞳を見つめ、
「鴨川さんは、真沙美さんは傷一つないわ」
鴨川さんを大切に想い心配している彼女達には伝えないと。今日は鴨川さんも休みだし。
一部では既に彼女の酷い噂も湧いている様だ。その場にいたわたしが彼女の無事を証言す
る。
「い、一体何が、あったって言うのよっ…」
黒田さんも松本さんも、噂の大波に呑み込まれ我を失って言葉が出ない。野村さんが辛
うじて敵意と言うより怯えの籠もる問を返す。鴨川さんを大切に想う彼女達には、耳を塞
ぎたい時間だったろう。自分達の強く美しい女神を、心ない噂が引き裂き穢し貶める。兆
す疑念を必死に拒み、飛び交う噂に必死に抗い。
敵意で引き締めないと泣き崩れそうな瞳が、余裕のなさを窺わせる。手負いの獣が獣医
さんも威嚇して近づけない様な、牙と爪を向けるけど一杯一杯で、助けないと即折れてし
まいそうな。そんな痛みもわたしは何度か見た。
「教えて頂戴。昨日あなたと金田さんと、鴨川さんや塩原先輩達の間で、本当は何があっ
たの? それはこれからどうなる物なの?」
震える声は問への答と違う物を望んでいる。自覚はないかも知れない真の求めにわたし
は、
「あなたが鴨川さんを心配する気持は、感じ取れたわ。有り難う。わたしのたいせつな人
を心から案じてくれて。あなたとも絆を繋ぎたく想ったわたしの判断は、正解だったわ」
震えるその両手をわたしの両手にとって。
確かに肌触りを繋いで気持を落ち着かせ。
問の中身や答よりもこちらの方が大事だ。
問への答には残念だけどかぶりを振って。
「先輩達とのお話の中身は、事が先生や保護者の話になっているから、今は言えないの」
昨日の件は、瞳を切られた外は隠さず保護者や学校に伝えると、和泉さんとも確認済み
だ。大人達がどこ迄事情を明かして良いと判断するか分らないから、今は全てを語れない。
「でも、言える事も幾つかあるわ。昨日の件で鴨川さんは、傷一つ負ってない事。彼女は
何も悪くない・負うべき罪もない事。そして、わたしとあなたが鴨川真沙美を今もたいせ
つに想い案じている事。それは確かでしょ?」
野村さんの瞳と心が、光を取り戻して行く。
わたしにも鴨川さんは、たいせつな人なの。
あなた達もそれが同じなら。今も同じなら。
羽藤柚明は今迄も今後もあなたの友達です。
「悪い噂に耳を傾けず、心揺らされないで」
鴨川さんは綺麗で賢く強い人だけど、金甌無欠じゃない。根も葉もない噂に心痛まない
筈がない。野村さん達が寄り添う事で支えになる。わたしも一生懸命守るわ。身を尽くす。
溢れる心にわたしの想いを確かに届かせ、
「たいせつな人に今こそ心を寄り添わせて」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
子供の世界で周知の事実も、大人の耳に入るには時間差があるらしい。昨日の一件を未
だ先生は知らない様で、日常は滞りなく進む。真弓さんは昼前のバスで経観塚を訪れ、鴨
川君や先輩の家・学校に話に行くと言っていた。
正樹さんや笑子おばあさんは数十年羽藤で居続けた。鴨川も絡む話なら、最も羽藤歴の
浅い真弓さんが適任との考えらしい。遅くても放課後には学校を訪れるから、帰りは一緒
と言われた。昨日の今日なので心配させている。暫くは極力静かに大人しく過ごさないと。
その想いとは裏腹に周囲は昨日の件・わたしの所為で、尚雑然とし続けて落ち着かない。
1時間目の後、鴨川君に逢おうと2組の戸に手を掛けたわたしの前を塞いだのは沢尻君で、
「羽藤ならそう動くと想ったけど、昨日の今日であいつと話すの、お前怖くないのかよ」
わたしが賢也君にお話しを望んでいる事で、沢尻君も噂に真はないと分ってくれた様だ
けど、一部でも真実が含まれるなら、面会を望まれてもわたしが嫌って逃げる処か。わた
しの行動が読まれ易いのか彼の読みが鋭いのか。
「別に決闘とか望んでいる訳じゃないもの」
わたしの望みは話し合い。果たし合いではない。結局彼は依頼者で実行者ではなかった。
直接手を下す積りなら既に為されていた筈だ。
「逢って話して、誤解を解きたいの。直に向き合わないと、伝えられない想いもあるわ」
「教室内じゃ目立ちすぎて話にならないぜ」
彼は悪意でわたしを妨げた訳ではなくて、
「拾分の休み時間じゃ満足に話せないだろう。昼休みにでも邪魔の入らない処でゆっくり
話した方が良いんじゃないか。カモケンには俺が伝えるよ。お前が動くだけで人の視線
が」
声でわたしに注意を促すと、わたしが衆目を集めていた。静かにお話しどころか約束を
取り付けるのも大変そう。それを頼めるなら。頭を下げて承諾と感謝の意を伝えるわたし
に、
「邪魔の入らないって事は、お前カモケンと2人きりって事にもなるけど、良いのか?」
状況によっては恋の告白も出来る場面か。
「お前が怖くないのかって事だよ。カモケンは男だから良いとして、お前女の子だろう」
やや呆れた声で窘められた。緊張感が足りなすぎたかも。中学に入っても面倒掛けます。
「付き添いとか要らないのか。和泉がいれば当事者も兼ねるから最適だけど。男でも女で
も誰かお前に添う奴が要るだろ。俺なら…」
「大丈夫。そこ迄迷惑はかけられないよ」
佐々木さんの心を余計に乱しちゃうし。
それは喉に押し止め、彼の善意は辞退して。
校舎脇にある旧校舎一階の空き教室を彼は用意して。当事者の話し合いだから部外者は
遠慮とみんなに告げ、長引けば様子を見に行くとも告げ。彼と想いを繋ぎたいわたしの真
意を分るから、沢尻君も頼まれてくれたのか。
賢也君は不承不承頷いたらしい。直に答は聞けなかったけど、紆余曲折は経たけど、話
し合う場を持てて良かった。今迄に取り返しは効かないけど、今後を良くする事は出来る。
為し終えた行いは変え得ないけど、抱く想いは変えられる。彼の所作への対応は大人に
任せるけど、彼が抱く誤解や怖れを拭いたい。わたしはわたしの出来る限りを。例え事実
関係が明かされて、謝罪や賠償や処罰で事が終結しても、お互いの心に蟠りが残る限り、
本当の解決にはならないと、わたしは想うから。
2時間目の終了後に、真沙美さんが姿を見せたと聞いた。わたしは人目を憚って覗きに
行けなかったけど、志保さんが教えてくれた。少しやつれて見えたけど、飛び交う噂にも
眉を潜めるだけで相手にしないとの姿勢を貫き。間近の桜井さん達の動揺と対照的だった
とか。
3時間目の終了後に沢尻君が、昼休みの賢也君とのお話の旨を真沙美さんに伝え、彼女
も当事者として話に入りたいと、了承の求めと言うより、その告知と確認に1組を訪れて。
「沢尻君、それは少し拙いんじゃない?」
わたしの答より早く歌織さんが脇から、
「鴨川サイドが2人に柚明1人ってのは」
あっち側とこっち側という視点で見るなら、確かに不利というか好ましくなく見えるか
な。
「別に対決する訳じゃない。羽藤が嫌うなら別々に逢う場を設けるけど……どうする?」
「わたしは、全然問題ないわ。有り難う…」
真沙美さんは数を頼んで人に圧を加える人ではないし、わたしは数を頼んだ程度の圧に
屈しはしない。沢尻君はわたしを知り彼女を知るから、他の人が見ると問題ありそうな配
置にも、真沙美さんを挟む方が安心な様子で。
「宜しいですの……柚明さん」「はい」
早苗さんの確認に、わたしは確かな笑みで応えられる。わたしは沢尻君に軽く頭を下げ、
「何から何迄お手数掛けます」「全くだよ」
俺は平穏無事が好きなんだ。これ以上面倒はやらかさないでくれよな。これ以上揉めた
りしたら、お前じゃないともう面倒見ないぞ。
微妙に引っ掛る言葉を残して彼が去って…。
4時間目の終了と共に嵐の幕が上げられた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
和泉さんは午前中ご両親に付き添われ、経観塚の病院で目を診て貰ったと言う。昨夜中
に視力を戻せなかった和泉さんは、左頬を叩かれ、痛くて目を開けないと取り繕っていた。
今朝視力が戻ってもご両親は不安だったのだろう。泥や血に汚れた姿で帰宅し、友達と
2人で男子拾数人に襲われた事は話した様だ。一日休むか病院かの選択で、和泉さんは診
察の結果大丈夫ならその後学校に行くと言って、昼休み半ばに教室に現れて忽ち衆目を浴
びて。
わたしはその頃旧校舎の空き教室で、真沙美さんと賢也君を待っていた。話を望む側が
相手を待たせては失礼だ。給食は摂らず4時間目が終るとその侭行って2人を待っていた。
来るべき2人が来ず、想定外の2人が来て、事は突如動き出す。この面談を知った和泉
さんが己も当事者だと現れたのは順当として…。
「昨日あれだけ、迫ったんだもの。必ず学校に来て、どこかに行ってしまわないでって」
その上であたしが欠席じゃお話にならない。
ゆめいさんは酷い噂に晒されていた様だし。
やや意識して元気を装っているけど、昨日受けた心の痛手も一晩で少しは拭えた模様で、
「悪い噂に1人きり向き合わせたと想うと」
昼からでも学校に顔出して正解だったよ。
「支えると言ったもの。あたしが繕うって」
伸ばされた細腕が背中に回るのに身を任せたのは、誰もいない場所だったからではなく、
「少しはあたしに寄り掛って。守らせてよ」
寄せられた想いがとても愛おしかったから。
拒みたくない程暖かく柔らかな感触だから。
故にわたしは、少し後にもう1人がここを訪れた時も、恥じらいは感じても慌てて身を
引き離しはしなかった。いつも心は柔らかに。彼女の身も心も行いも決して罰には値しな
い。露見した悪事の様に、即剥がすのは嫌だった。
わたしがゆっくり両腕を解いて向き直る中、
「華ちゃん……どうして、ここへ?」
頬を染めつつ話題を逸らす和泉さんの問に、佐々木さんも見せるべき反応に惑う様で。
染めた頬で視線を逸らし、言葉の問にのみ応え、
「真沙美さんから、手紙を預ったの」
手紙って? 彼女は来ない? 賢也君は?
「昼休みに入ってすぐ賢也君逃げ出したよ」
やはり直に問うて答を貰うべきだったかも。伝聞では、真意が受諾か逃避か視えなかっ
た。普通、逃避は想定しないけど。沢尻君への信をその侭、賢也君への信にしたのは失敗
か…。
「博人に面談を承諾してから、どうも様子が変だったの。気づいた時はダッシュで走り去
っていて。3年の教室に行ったらしいわよ」
少し後で塩原先輩達が十数人、表玄関から出て行くのを窓から見たわ。グラウンドじゃ
なく、校門の外へ。賢也君も中にいたみたい。
「真沙美さん、さらさらと何言か書いて便箋に封してわたしに『羽藤さんに渡して』と」
先輩達を追う様に学校の外へ走って行った。
わたしは時間中に学校の外に理由も分らず出る度胸ないし、頼まれた手紙も気掛りだし。
「羽藤さんに渡せば、何か分るかもって…」
その判断が正解か否か不安そうな彼女に、
「有り難う、佐々木さん。お手紙を見せて」
便箋を手渡された瞬間、その意図が視えた。
開かれた便箋に、書かれていた内容は短く、
『郷土資料館裏の、空き地に来て。真沙美』
「賢也君は塩原先輩達に連れられて行った」
視えた像を纏める。繋りと順序を把握する。
わたしの報復か非難を受けると誤解し怖れ、彼は塩原先輩の下に助けを請いに再度走っ
た。でも状況は既に変っている。彼は前回お金で先輩を動かせたから、追加出資で尚動か
せると想っているけど。人はそれ程単純じゃない。
元々先輩達は、賢也君の示す報酬の為だけにわたし達を襲った訳じゃない。人を害する
依頼を受けてお金出させ、共犯に巻き込めば、賢也君も脛に傷を持つ。隠さねばならない
罪を持ち、力で叶わない彼は従う他に術もない。先輩達は最初から後で彼からお金を脅し
取る予定でいた。わたし達を襲う依頼を受けたのは、目先の報酬より糸口を掴む為で。そ
れを、
「真沙美さんは怖れていた。賢也君がその種の関係に絡みつかれて身動きできなくなる事
を案じていた。その上でわたし達をも案じ」
昨日の凶行の成否に関らず、関係は繋った。それを尚お金と行動の交換と思い頼る賢也
君に対し、繋いだ関係に遠慮も不要な先輩達は。
「今尚賢也君が先輩達に踊らされているなら、目を醒まさせる為に、もし既に先輩達に脅
されて身動き取れないなら、救い出す為に…」
これ以上の罪と過ちとを食い止める為に。
「鴨ちゃんは賢也君を助ける為に危険を?」
和泉さんの問にわたしは正視して頷いた。
でもそのどちらでも、真沙美さんの立場は塩原先輩と対立する。彼女は今危うきにある。
「鴨ちゃんを、何とかして、助けないと!」
ええ、そうね。和泉さんの言葉に強く頷く。
状況は激変し切迫している。今為すべきは。
「真沙美さんと賢也君の身も心も救い出す」
「……ゆめいさん? ゆめいさんが、なぜ」
鴨ちゃんと賢也君をそこ迄たいせつに…?
そこで和泉さんが、怪訝そうな顔を見せた。和泉さんは幼少から真沙美さんと間近に接
し、今も想い慕っている。和泉さんが彼女を案じるのは当たり前でも。和泉さんの意外は
それを難なく受容して、強い応諾を返すわたしに。要請される前から既にその気でいたわ
たしに。
間近の佐々木さんも少し意外そうだけど。
わたしには何も不思議な事ではないから。
「和泉さんがたいせつに想う人は、わたしにとってもたいせつな人。それがなくても鴨川
真沙美は、羽藤柚明のたいせつな人よ……」
身を尽くして守り支えたい綺麗な人だから。
強く賢くでも本当は心優しい女の子だから。
確かにお互いを深く想い合えた間柄だから。
真沙美さんのたいせつな人なら賢也君も又。
たいせつな人を守りたい想いを重ね合わせ。
和泉さんの右手と佐々木さんの左手を握り、
「この手に及ぶ限りの事を尽くしましょう」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「佐々木さんは、この手紙を沢尻君に見せて、一緒に先生に事情を話し、助けをお願いし
て。真沙美さんは郷土資料館裏の空き地ではなく、西の廃寺にいる。この手紙はミスリー
ドよ」
手紙には『来て』としか書いてない。『いる』とは書いてない。行間に宿る想いを読む。
「先輩達がいつも集う処に、真沙美さんが出向くの。彼女に場所を選ぶ事は出来ない筈」
言われて2人もそれに思い当たった様で。
「鴨ちゃんなら賢いからやりかねないけど」
「それを読み解けるのね。羽藤さんは……」
「真沙美さんはわたしがこれを知れば助けに乗り込むと感じている。それがわたしにも危
険だと分っている。彼女はわたしの身を案じてくれている。わたしにもその位なら分る」
西の廃寺は、関知の力で情報を手繰り寄せました。一種のカンニングです。真沙美さん
の手紙に宿る想いを探り、彼女の懸念に浮んだ賢也君の行方を感じ取り。真沙美さんの推
測を正解と感じ取れるのは、わたしがそこにこれから乗り込む像が視えたから。わたしが
そこで真沙美さんや賢也君や先輩と逢う図が。
今は迷う時間もない。事前情報がある様な顔で断言し、それを前提に行動と思考を促す。
「和泉さんにもお願いがあるの。わたしは」
……先に行って時間稼ぎをしているから。
五時間目の授業は和泉さんも共々に諦める。賢也君も真沙美さんも来ない状況を気遣っ
た沢尻君が、間近の廊下迄来ていた。説明は佐々木さんに任せる。わたしは彼と彼に続く
人混みを縫って、表玄関から校門へと走り抜け。
真沙美さんや賢也君や先輩達の不在はすぐに知れ渡る。問題はその先だ。佐々木さんに、
まず沢尻君に手紙を見せてと頼んだのは、ミスリードを大人に納得させるには説得力が要
るから。先生達も判断に迷う。まず事実関係の把握から始る。当事者が不在で噂が飛び交
う中、全てを理解して後の出動では遅すぎる。
商店街から住宅街を越え、外れにある廃寺に辿り着く迄に、全力で働かせた関知の力は、
真沙美さんの間近な過去や今現在を拾い出す。それはわたしが関る予定だから。関ろうと
して近づいているから。定めの糸を撚り合わせようとしているから徐々に鮮明に視えてく
る。
『今年の一年女子には生意気な奴が2人いるって、俺達の間では噂になっていたけどよ』
廃寺の縁側中央で、昨日聞いた台詞を口にする塩原先輩を正面に見上げ、真沙美さんは、
『賢也は、返して貰います。それから……』
もう柚明にも和泉にも、手を出さないで。
美しい顔立ちに決意と緊張が映えている。
揺れる黒髪が微かに震え、風にそよいで。
塩原先輩の少し左に、ロープで縛られてタオルで口を塞がれた賢也君が転がされている。
彼はわたしの非難を怖れ嫌って先輩の下に再度走り、昨日の失敗を詰り残金を渡さないと
発破を掛けて、逆にその憤激を招いたらしい。
『……そいつは、ダメだな』
背後を塞ぎ、既に数人の男子が彼女を囲んでいる。すぐに取り抑えないのは余裕の故か。
『従兄が依頼を持ち込んだ過ちは分っています。迷惑料として私が賢也の約束した残金を
払っても良い。でもどのみちこの一件は…』
先輩は柚明達の口封じに失敗した。和泉の顔には深い傷が残った。逃げられないし隠せ
ない。先輩は賢也の事に口を噤んで恩に着せ、後から脅す積りだろうけど、そうはさせな
い。
賢也君を脅しつつ、依頼のみで実行犯ではないから庇えると囁き、生殺与奪を握り締め。
罪を隠し繕う事迄も、脅しの種にしてしまう。坂道を転がり落ちる様が彼女にも見えたの
か。
一晩自首に踏み切る勇気のなかった彼が。
この侭放置すればどうなるのかは視える。
救い出せるのは今この時しかないだろう。
間近に甘く囁く誘惑に心流されないでと。
だから真沙美さんは敢て危険に踏み込み、
『賢也は私が自首させる。事は隠させない。
賢也を返して。一緒に先生達に自首して』
誤った守りをさせてはいけない。痛みを痛みと分らなければならない時も、世にはある。
癖のある艶やかな黒髪を揺らせた願いに、
『だからそれはダメなんだって、分れよ…』
先輩に彼を解き放つ積りはなく、真沙美さんへの害意を最早、隠す積りもなく解き放つ。
彼女も求めれば全てが叶うとは想ってない。
果物ナイフを取り出し、自らの首筋に当て。
『鴨川の女を傷物にしたとなったら、先輩達も経観塚で生きて行くのが難しくなります』
先輩達の動きが、止まった。
『賢也を解き放って。そしてもう柚明や和泉には手を出さないで。先生達に自首をして』
そうでないと、私は先輩に傷物にされたと大人に言います。先輩が無実でも私が首筋に
見える傷を作るだけで、大人は私を信用する。
真沙美さんに戦う術はない。胆力と冷静さはあっても、力づくで従わせる事は出来ない。
先輩を退かせるには覚悟が必須だった。彼女は自ら身を切る構えで先輩達の動きを止めた。
昨日襲ってきた時も、わたし達の告発を防ごうと、先輩はわたし達の裸や下着姿を写真
に収めようとした。口封じに力と知恵を注いでいた。本当に捨て身で訴えられたら、先輩
達はその所行が明かされて困るのだ。彼らは、日の当たる場に出ると弱い立場を心得てい
る。
わたしや賢也君が人に相談できないよう追い込むのが彼らの最善なら、彼女はその逆を。
自ら付けた傷も、先輩達の所為にして訴える。世間に信頼の薄い先輩達と、鴨川の娘の被
害の申し出の、どっちを大人が信じるか。自身の柔肌に傷を付けて、先輩達に冤罪を被せ
る。
『どっちでも私は大人に全部言う。私に切りつけた冤罪迄被る前に、賢也を解き放って』
これ以上の危険を望むかと。そこ迄の覚悟があるかと。自分にはあるから受けて立つと。
先輩達が不快に眉を歪めたのは、それが意外と有効だから。彼女の覚悟に気圧されたから。
状況は硬直した。先輩達には賢也君を放す積りも真沙美さんを帰す積りもないけど。簡
単にはねじ伏せられない。真沙美さんは刃を自身の肌に当てている。でも真沙美さんには、
それが唯一の切り札で、実質進退が窮まった。
数分の硬直の後で塩原先輩の見せた動きは、
『分ったよ、こいつを放せば良いんだろう』
縛られた侭の賢也君を、縁側から中庭に突き落す。それは真沙美さんの気を逸らす餌だ。
『賢也っ……!』『ふごむご、ごむっ!』
その隙を先輩達は見逃さなかった。肌にぴったり当てた刃が少し浮き、それを握る腕か
ら意識と力が薄れた時。真沙美さんの手からナイフが叩き落され、その身は取り抑えられ。
「……ふん、手こずらせやがって」
中庭に降りてきた塩原先輩の前で、左右の腕をそれぞれ男子の腕二本ずつで後に捻られ、
膝を付かされ。為す術を失って尚、簡単に屈せぬ強気に綺麗な瞳は、昂然と睨み返すけど。
「お望みなら、お前を充分に傷つけてやる」
見える処に傷は付けない。俺達が傷つけるのはお前が見せたくない処だ。傷を知られた
くない処だ。お前の他に誰も知らず、明かす事も憚る処だ。だからみんな泣き寝入るんだ。
「まず服を剥がせ。破くなよ。着せて帰さないと、親に気付かれるからな。あくまでも脱
がせた後で何をやったかは、俺達にしか分らない様に。隠し通してやるよ、俺達の手で」
決して善意ではない囁きが心を凍らせる。
「なっ、やめて。ちょっと、せんぱいっ…」
「だからそれはダメなんだって、分れよ…」
次々に伸びてくる腕を防ぐ術も力もなく。
抗う腕を抑え強ばる身の自由を奪い去り。
その意思も誇りも何もかもをねじ伏せて。
「お前のナイフで傷つけてやる。お前が一番嫌う処、切られたお前と切った俺達しか見る
事のできない処、その生意気な気の強さもすっぱり切り落とせる人の目も届かない処を」
「ひっ……や、やめ、……っ」
「望み通り、お前を存分に、傷つけてやる」
「そんなことはさせないわ!」
廃寺の中庭へ繋る門を開け放ち、わたしが声を届かせた時は正にギリギリの頃合だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
声を届かせ派手に扉を開いたのは、彼らの注意を惹いてその動きを止める為だ。昨日よ
り数を増した年上の男の子を前に、わたしが為せる事は多くない。先生達の到着は遅れる。
わたしの時間稼ぎは先生達が来る迄保たない。それも関知の像に視えた。視えて尚わたし
は。
「少し頑張って。今、助けが来るから……」
真沙美さんは無事だ。彼女の気力で長引かせた対峙が、わたしの到着迄彼女の無事を保
たせた。暖かな眼差しを向けて力づけてから、わたしは真沙美さんを傷つけようとする人
に、
「真沙美さんから、離れて下さい」
厳しい声で言い放つ。左手を前方に伸ばした構えは、間合いを計る以上に、助けたい人
への励ましと、立ち塞がる人への最後通告と、動きを見せて彼らの注意を引き寄せる意図
で
決意が、運命を切り開く事がある。
決意が、及ばない筈の何かに届く事も。
わたしは誰かの為に役に立つと心に誓った。誰かの力になると、誰かを守れる様になる
と、誰かに尽くせる人になると。例えわたしが非力でも、幾らわたしが傷つこうとも。そ
の想いに変りはない。目の前に助けるべき人がいる限り、この身が動き続ける限り、わた
しは。
「真沙美さんの血は、一滴たりとも流させません。勿論賢也君の身柄も返して貰います」
揺らがぬ決意を先に見せる。嫌いでも怖くても、踏み込まなければ救い出せぬ時はある。
想いの限り、生命の限り、全身全霊届かせる。
「羽藤さん、あんた、どうしてここに…?」
わたしは問の意味を知って敢て別の答を、
「あなたは、わたしのたいせつな人だから」
拾数人の人と拾数メートルの距離を隔てて。でもその想いは互いにごく間近にあり続け
た。隔たっている様に見えたのはそう見せただけ。わたし達は互いを確かに強く想い合っ
てきた。
我に返った真沙美さんは声に憤りを載せ、
「馬鹿……あんた、想っていたより馬鹿…」
私は鴨川なんだ。羽藤の家の怨敵なんだ!
昨日だってこれ迄だって、ずっとあんたと摩擦続けてきたじゃないか。いつもあんたと
ぶつかり合ってきたじゃないか。厳しいやり取りしてきたじゃないか。私があんたをどう
想っているか、一度ならず聞いているだろう。
「昨日は賢也が、身内がこの狂犬どもをあんたと和泉に差し向けてしまった。誰がどう考
えてもあんたが助けに来る恩も義理もない」
早く逃げ帰って。安全な処に戻って。先生か警察を呼んできて。今なら未だあんたは…。
「間に合わないよ。それじゃ間に合わない」
彼女の声にかぶりを振りつつ、荒れ果てた中庭に足を踏み入れる。何人かの男子が間近
にいるけど、昨日の経緯を知って警戒してか、容易に仕掛けてこない。わたしの歩みは塩
原先輩の前で捉えられた真沙美さんに直進する。
「あなたの助けが間に合わない。それに家同士の宿縁を言うなら、羽藤と鴨川は本来支え
合う間柄だった筈。むしろこれは元々の姿」
引き返して大人を呼ぶにも、まず真昼にわたしが外にいる事から説明が要る。事情を分
って貰いここ迄大人を導くには三拾分、1時間掛るか。信じて貰えない怖れもある。その
間に彼らが2人を連れ別の処に移動したら?
「うぉうらぁ」
奇声を上げて左から男の子が1人飛び出し、わたしの肩を掴もうとする。彼は昨日あの
場にいなかった。端から見れば、彼がわたしの目の前で一回転する曲芸に、手を添えただ
けに見えたかも。迫りくる太い腕を僅かに躱し逆に引っ張り、足払いで身を浮かせ、勢い
の侭に前屈させて、くるりと回しつつ右に投げ。
その場にいた全員が、息を呑んで静まった。
「ここ迄、通してやれよ」
塩原先輩の声に、彼らは黙って道を開けた。モーゼが切り裂いた紅海の様にわたしは歩
み、背後は再び彼らに閉ざされ。踏み込んだ敵意の真ん中で、わたしは為せる限りを届か
せる。
「これでお前も、間に合わなくなった訳だ」
状況は昨日より不利だった。彼らは一度わたしの抗いに直面した。今回はそれを踏まえ
ているから、前回より隙もないだろう。わたしは今日も単独で、彼らは尚数を増していた。
個で集団に勝つ事自体が難しい上、彼らは身動き出来ない真沙美さんと賢也君を捉えて
いる。見捨てる選択がない以上、戦う他に途はない。正面撃退の他には最早術はないのか。
「もう少し時が経てば大人がここに来ます」
先輩達との昨日の件は、既に叔父さん叔母さんに話しました。和泉さんもご両親に事情
を明かしています。今日にはわたしの家の人が賢也君の家にも、先輩達の家にも、学校に
も事情を話しに、事を収拾しに来る予定です。
「これ以上罪を重ねないで。わたし達を帰して下さい。そうしてくれたら、今迄の事は隠
さない代り、わたし達を帰してくれた事も隠さず大人に伝えます。もう先は見えてます」
ここに来る時も大人を呼ぶ様に頼みました。
じき大人が来て事は収拾されてしまいます。
先輩達の間に動揺が走った。昨日和泉さんに傷を負わせた時点で、彼らも唯では済まな
いと感じただろうけど。もうすぐここに大人が来るという目前の脅威は足元を揺らがして。
「事を収拾しましょう。先輩が思い留まってくれれば、それが先生の感触も好くします」
真沙美さんを放して、賢也君も解き放って。
「……そいつは、ダメだな」
でもやはり、彼にわたしの想いは通じない。
ここに踏み込んだのは失敗だな。お前が中庭の真ん中に来た時点で、大人の助けはない。
「すぐに大人の助けが来るなら、お前が危険を冒してここに踏み込む必要はないだろう」
塩原先輩の叱声が周囲の動揺を収め、逆にわたしの焦りを誘い出す為に、更に言の葉を、
「お前にも助けは間に合わない」
背景を読まれた。先生の助けは間に合わず、わたしの時間稼ぎはそれ迄保たせ得ない。
詰め将棋は順調に詰みつつある。でも尚わたしは望みを手放さない。目前に助けなければ
ならない人がいる。たいせつな人が。今動けるのはわたしだけだ。わたしが何とか保たせ
る。
勝たなくて良い。わたしの目的は彼らの打倒ではない。たいせつな人を守る事だ。その
目的に向け、油断なく周囲に目を配り、思索を紡ぎ、相手に答え、己を失わず。為せる限
りを届かせる。心は常に柔らかく、平常心を。
『あなたが戦い続ける限り全ては終らない』
真弓さんから教わった言葉を心に諳んじ。
諦めない限り、挑み続ける限り、当事者の片方である己が手放さない限り、望みへの途
は残っている。諦めた瞬間全ては終る。手放した瞬間望みは途絶える。失う事を許せない
なら、歯を食いしばってでも挑み続けないと。
わたしは先輩の言葉を肯定も否定もせず、
「わたしは、一刻も早く真沙美さん達を助けたかっただけ……間に合わなくても、間に合
わせる。わたしのこの手で、間に合わせる」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
真沙美さんの声が挟まったのはその時で、
「あんた、馬鹿だよ。……大馬鹿だよっ!」
私はあんたを襲う依頼をした賢也を助けに、ここに来たんだ。あんたの根も葉もないカ
ンニングの噂を流し、弘子や美子を煽ってあんたを追い込もうとした賢也を。和泉の人生
を狂わせ、あんたの人生も狂わせかけた賢也を。
「あんたが賢也や私を助けに来るなんて…」
昨日和泉さんを抑え付けた2人に、両腕を後ろに捻られて身動き取れない真沙美さんが、
わたしに怒りの声を向けるのを、塩原先輩は仲間割れと思ったのか、喋らせようと静観し。
「あんたがお馬鹿じゃダメなんだ。私が3年勝てないあんたが、私に敗北も挫折も教えた
あんたが、私が乗り越えたいと想ったあんたが、自ら危険に飛び込み共倒れする馬鹿じゃ。
羽藤柚明は私には常に最高の憧れなんだ!」
あんたは私の少し上にいた。時には並んだ。私はあんたと、間近で必死に競り合ってき
た。負けた時は悔しいけど、全力を尽くして及ばない位素晴らしい人が間近にいてくれる
事が、仰ぎ見る眩しさが同時に心の底から嬉しくて。
勉強でも、運動でも、友達関係でも、全て。
「……あんたが詩織を守った様に、私も賢也を守りたかったんだ。詩織と違って賢也は弱
く愚かな奴だけど、それでも私をたいせつに想ってくれる、私のたいせつな従兄たから」
私があんたに及ばないのは受け容れるけど、あんたが及ばない瞬間なんて見たくないん
だ。
「私の柚明が酷い目に遭わされるのは嫌!」
風が止み、空気が音を全て失う。その中で、
「……ずっと感じていたよ。だからこそ…」
言葉にせずとも、そぶりに見せなくても。
鴨川真沙美は羽藤柚明に心繋っていたと。
口を塞がれて声が出せない賢也君の両目が、見開かれていた。真沙美さんは多分今日初
めてそれを口に上らせたのだろう。だからわたしもこんな中ではあるけれど、初めての答
を。
「あなたが賢也君をたいせつに想い決して見捨てなかった様に、わたしもあなたをたいせ
つに想い決して見捨てる事はしない。あなたが賢也君を助けに危険に飛び込んだ様に…」
この身と引換にしても必ず助け出すから。
先輩に尚動きはない。この間が好意の故ではないとは分っている。今は想いを届かせる。
「中学校ではお互いに新しいお友達が出来て、中々羽様小の頃の様には関れなかったけ
ど」
時に厳しい指摘を受け、時に厳しい指摘を返し、互いに全力で競り合って。少し緊張を
伴う位のお友達関係があっても良い。わたし達は互いにそれを受け容れ、愉しんでもいた。
中学校に入って様子が変ったのは、真沙美さんが賢也君を意識した為だ。銀座通中始っ
て以来の秀才との前評判だった真沙美さんが、噂を凌ぐ実力を発揮しても首座にいられな
い。それを賢也君が受け容れられず、真沙美さんは彼の蠢動を抑えきれず。彼に煽られた
桜井さんや野村さんの動きを彼女が放置したのは、下手に解決しては賢也君をもっと別の
行動に駆り立てる、この様な事態を招くと怖れて…。
『余り、私達に関らないで。お互いの為に』
賢也君の納得がない限り、わたしが真沙美さんと仲睦まじくても解決はない。故に彼女
はわたしと暫く距離を置き、時間を掛けて彼を説き伏せようと。わたしもこうなる前に何
とか彼とお話しして、分り合いたかったけど。
昨日も賢也君が為した依頼を明言せず、勿体ぶるのを突き動かしあの台地を案内させた。
真沙美さんが昼休みの話に入ろうとしたのは、彼に自首を促し、一緒にわたしに謝る目的
で。今も真沙美さんは彼の動きをギリギリ追えた。この廃寺に辿り着けた。わたしを危険
に巻き込まない為にミスリード迄瞬時に考えて為し。
「真沙美さん。綺麗で賢く、強く優しい人」
わたしが心から愛した特別にたいせつな人。
想いはずっと繋っていた。わたしはそれを疑わないと言うより、元々何度裏切られても
手放す積りもなかったけど。真沙美さんも絆を繋いでくれていた事は、この上なく嬉しい。
「あなたを救いたい想いは和泉さんも同じ」
それは今も変らない。昼休み学校に来た和泉さんは、あなたを強く想い案じていた。わ
たしのたいせつな和泉さんが心から好いた人、わたしがたいせつに想い微笑みを守りたい
人。
「もう少し頑張って。今、助けが来るから」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「そろそろ、良いか」「……はい」
お話しする時間を待ってくれて、有り難う。
塩原先輩に一応、お礼を言う。先輩は決して好意で時間をくれた訳ではないけど、その
お陰でわたし達は心を繋げたし、時間稼ぎにもなったから。真沙美さんの表情が『要らな
いだろう、そんなの』と語る様も視えたけど。
「良いさ。絆を繋いだ後の方が拷問は効く」
見る側も、見られる側も辛さが倍増する。
真沙美さんと賢也君の顔が、引きつった。
「身構えたって無駄だ。……分るだろう?」
塩原先輩の促しで、遠藤先輩が真沙美さんの頬にナイフを当てる。それで、充分だった。
「中学一年生の女の子1人を相手に、二つ年上の男の子拾六人が、人質で脅しますか?」
わたしは一応突っ込みを入れてみたけど、
「俺達は戦いを望む訳じゃない。平和主義者なんだ。お前相手に強さを見せて、何になる。
勝って当然、負ければ恥の勝負なんて誰がやるか。俺達が欲しいのは、結果なんだよ…」
他の面々はともかく塩原先輩に迷いはない。
昨日の如く、両腕と肩を背後から岩田先輩と中村先輩に掴まれた。わたしは逆らわない。
昨日は不意を突いて腕を外せたけど、同じ事を元々腕力が上の相手に為すのは簡単ではな
い。昨日と同じ人選はそれを見込んでなのか。
そうと分っても、女の子の頬に刃を当てて脅されれば抗えない。癒しの力で傷は治せる
けど、連日為すのは流石に拙い。抗っても囚われても結果は同じ時間稼ぎだ。わたしが代
りに受ける事で、真沙美さんの痛みを避けうるなら。わたしは選んで身の拘束を受容する。
「馬鹿、あんた。あんたが捕まっちゃ意味ないでしょう。先輩が大人しく私達を帰す気が
ない以上、あんたが囚われたらおしまい…」
逃げて。せめて抗って戦ってよ。私の為に無抵抗で囚われるなんて、あんた大馬鹿だよ。
刃が頬を切りそうになるのも構わず届かせる強い声に、何よりこの身を想ってくれる必
死の叫びに、わたしは静かにかぶりを振って、
「駄目だよ。わたし、そんなに先は考えられない。目先の真沙美さんが、一番に大事…」
身を預けるのが怖くない訳ではない。でも、これが最善の筈だから。わたしなら多少は
…。
「あっさりし過ぎて、面白くないな」
もっと罵るとか悔しがる等の反応を期待していた様で、塩原先輩は間近で少し意外そう。
「まず抵抗力を削いでおくとするか。自力で立っていられない位迄、体力削らせて貰う」
瞬間下腹部に息が止まる様な痛みが走る。
遠慮ない全力の拳が腹にめり込んでいた。
身体が強ばり、くの字に曲がろうとするけど、抑える4本の腕の拘束がきつく締まって。
「ぷっ……く、はっ」「意外と丈夫だな…」
給食を摂らなかったのは、正解だったかも。
2つ3つと、左右の遠慮ない拳が腹に入る。
暫くは、短い悲鳴しか喉から出ない。そんなわたしに少し向こうから届いてくる叫びは、
「柚明……先輩お願い止めて。私の柚明を」
真沙美さん、今は自身が危ない時なのに。
その声に振り返った塩原先輩は、冷徹に、
「今年の一年女子には生意気な奴が2人いるって、俺達の間では噂になっていたけどよ」
羽藤柚明と鴨川真沙美、お前ら2人なんだ。
小綺麗で優等生で運動も出来て人望もある。
何もかも揃って当たり前の顔をしやがって。
頭良い事と名家の出を前提に人を見下して。
「その化けの皮を剥がしてやる。柔らかに礼儀正しい顔を引き歪ませ、泣かせ叫ばせ真実
を中から引っ張り出してやる。俺が掴んだこの胃袋から、その弱さを吐き出させてやる」
お前等が弱くて惨めな存在だとその身に刻みつけてやる。力の前で己の無力を思い知れ。
わたしは間近なその罵声には敢て応えず、
「遠藤先輩、真沙美さんの頬から、ナイフを外して……。真沙美さん、少し動くだけで頬
が切れてしまう。わたしはもう逃げられない。身を抑えられて抗えない。もう人質に意味
はない。だから安心して刃を外して。お願い」
「余裕だな。お前が今拳に晒されているのに。……少しは自分の心配でもしたらどう
だ?」
「自身の心配は、最期で良いの」
贄の血の力で己を治せる以上に、修練で痛みへの耐性がある以上に。わたしが彼の注意
を引き拳を受ける事で、少しでも真沙美さんに及ぶ危害が先送り出来るなら。助けが着く
迄の時が稼げるなら。犠牲はまずわたしから。わたしはまだ耐えられる。差し出せる物が
なくなる迄、わたしの身も心も大切な人の為に。
「……有り難う」
遠藤先輩は塩原先輩の指示を待たず、真沙美さんの頬のナイフを外してくれた。間欠的
に下腹に入る拳に顔を歪め、息を乱されつつ、わたしは小さな成果に、相手に短く礼を述
べ。
塩原先輩は微かに不快そうに眉をしかめて、
「お前は自分の心配をしな。……まあ、しなって言わなくてもそうせざるを得なくなる」
制服のスカートに伸ばす手の先にはハサミがある。抵抗の術もなく、十八対の目の前で、
「昨日お前達を襲った事は既に通報済みなんだろう? なら、今更お前の身繕いを残して
帰しても無意味だ。隠せないなら、お前も何も隠せなくなる様、身包み剥ぎ取ってやる」
逆らう術も今はない。為される侭にわたしのスカートが切り刻まれた。布きれにされて
剥ぎ取られた。わたしの下半身は下着のみに。声は上げても無意味なので息を止めて堪え
る。
先輩は身をずらして、真沙美さんや賢也君から、他の人達からわたしの姿が見える様に。
真沙美さんと賢也君が目を逸らし、わたしも思わず自身の両目を閉じて身を縮めるけど。
「絆を繋いだ相手の、涼しい姿を目にした気分はどうだ? 目にされた気分はどうだ?」
先輩は徐々に衣を剥ぎ取っていたぶる気だ。徐々にわたしの心を責め潰す気だ。次は上
を剥がして下着だけにする。下着を剥がして丸裸にして、この身に傷を穿つのは最期の最
期か。未だ時は稼げる。わたしは心折られない。
「何か言って見ろ。何か、応えて見ろ」
答を求められたなら、応えなければ。
「恥じらいはあるけど、真沙美さんになら、見られても良い……これが、羽藤柚明だから。
真沙美さんの想い描く程強くも綺麗でもないけど、真沙美さんの言う通り大馬鹿だけど、
これが今のわたしの精一杯だから。むしろこのわたしは真沙美さんだけに、見て欲しい」
塩原先輩はわたしが己を見失い泣き叫ぶ事をご期待だけど、それには添えない。どうな
ってもわたしは、たいせつな人の守りを望む。わたしの姿形や在り方は一番に大切ではな
い。何を為すか為せるかが、常に一番重要だった。恥じらいも悔しさも怖れも心の奥に収
納する。わたしの痛手に罪悪感を抱きそうな人に、わたしは痛手を受けてないから大丈夫
だよと…。
「わたし、愚かさでもあなたより上みたい」
でも笑みは、流石に少し苦かったと想う。
「馬鹿……本当に、私の為にあんた、でも」
真沙美さんは、瞳を潤ませつつ正視して、
「柚明……あんた、綺麗よ……どうやっても及ばない程、今のあんたは綺麗で、好き…」
逆にわたしの意図を汲み取って励ましを。
この状況になって尚、人を気遣うなんて。
その強い想いに応える為に、報いる為に。
わたしは己を見失わない。今為すべきは、
「塩原先輩。どこ迄服を剥いでも、肌を肉を切り裂いても、わたしの想いは断ち切れない。
先は見えています。もう止めましょう」
ここに助けが間に合わなくても、昨日の事は既に大人に告げてある。わたし達は今日こ
こで進退窮まったけど、先輩達も詰め将棋だ。
「ふざけるなっ。たとえ捕まるにしても…」
お前の想いをへし折った、その後の事だ!
次の瞬間塩原先輩は、わたしの髪を掴んで身動きを止め、この唇に上からその唇を重ね。
「んんっ……、んっ、んっ……!」
男の子と唇を重ねるのは、初めてだった。
サクヤさんには何度も抱き留められたけど。和泉さんの瞳や仁美さんの頬を治す為に、
唇を寄せた事はあったけど。詩織さんの吐瀉物を吸い出す為に唇を数度合わせたけど。で
も。
4本の腕に背後から拘束され、髪と顎を掴まれて、回避は不能だった。先輩の顔が近づ
いて覆い被さる。唇が重なって口の中に舌が入り、わたしの拒絶を突き破って縦横無尽に。
わたしが、蹂躙されていく。
意思は通じず唇は吸い付いて外れず、生暖かい体温と共に唾液が喉に無理に流し込まれ。
わたしに彼の想いが無理矢理入り込み、陵辱する。真沙美さんの叫びが聞えるけど、遠い。
何もかもが妙に現実感を失って、ゆっくりと。
「お前等の想いなんてこんな物だ」
何か奪われた気がした。想いが穢された気がした。内側から害意が浸透しゆく気がした。
わたしが人に癒しを及ぼす様に、わたしが悪意に塗り替えられる気が。これは感応の力の
逆効果か。わたしが塩原先輩の思いを混ぜ込まれて行く。害意にわたしの心が浸食されて。
受けた衝撃が見えるのか、先輩が満足そうに見下ろす。わたしは身を拘束されないと立
っておれず。真沙美さんの悲鳴も耳朶を滑り。
足から腕から、緊張が抜ける。力が抜ける。入らないのではなく、入れようという意思
が。思索が紡げない、人を見つめられない、言葉を返せない。己の心が見えない。何を為
すべきか、考えられない。平常心が、保てない…。
「お前の想いは、俺がへし折ってやった!」
涙が、溢れそう。頭がぐらぐらして、考えが働かない。想いが、紡げない。己が何者で、
何を為すべきか、この重要な時に抜け落ちて。拾おうとするけど、心が動かない。わたし
は、
「柚明、しっかりしてよ、柚明。羽藤柚明」
そう。真沙美さんが呼ぶ通り。わたしは、
「私の惚れた羽藤柚明はもっと強い女の子」
そんなに強くない事はこれで明らかだけど。
わたしは所詮この程度の者でしかないけど。
「一度も守ってあげる事も出来ない内に心折れてしまわないで。鴨川の目の前で羽藤が折
られてしまわないで。私の目の前であんたが崩れてしまうなんて嫌。柚明、羽藤柚明!」
わたしを、呼んでいる? わたしの名を…。
「わたしは……羽藤、柚明……」
その意味を想い返す。己の名の持つ意味を。
わたしの名前は、羽藤柚明。羽藤の家に育ち、そこで生きる意志を貰い、生きる目的と
値を掴み取れた。返しきれない想いを受けた。いつか返さねばと思っていたけど、わたし
の生涯をかけて、返しきろうと思っていたけど。
たいせつな人をもう二度と失わない為に。
たいせつな人の涙を絶対に招かない為に。
わたしの願いを想い返す。わたしの望みを。
『大切な物の順番を意識なさい。どれが一番大切で、どれは時に諦めざるを得ない物か』
想いの順番を意識する。一番たいせつな想いを軸にして時に抑え、切り捨て、踏み躙る。
全ての想いに応えられない時もある。悔い残しても選び取らねばならない時も。わたしは
最後迄、たいせつな人を守りたい想いの侭に。わたしは流入した想いも己の怖れも抑え込
む。
『わたしは何物でも良い。結果が残れば。わたしのたいせつな人の幸せと守りが残れば』
平常心は保てない。でもわたしは想いの嵐を突き抜けて、一番たいせつな人を強く抱く。
『一番たいせつなひとの為に。桂ちゃんと白花ちゃんの為に、日々の小さな諍いで己を見
失って、心を閉ざしてなんか居られない…』
生命を失う訳じゃない。先輩達が何を為そうとこの諍いで奪われる物は高が知れている。
わたしのたいせつな物はわたしの身にはない。だからわたしは己を全て抛てるし踏み躙れ
る。自身の痛みを分って踏み越えられる筈だった。
【濃い血を持ち匂う事がどんな定めを招くか、貴女は知っている筈よね。贄の血の力を使
える先達として、宜しくしてやっておくれよ】
【貴女だけなんだよ。今わたしの他にはね】
わたしは己を失えない。元々この生命はわたしが禍を招いた幼い夜に、両親が捧げた生
命の引換だ。想いを受け繋ぐ為に託された物だ。たいせつな人の守りに使う物だ。この程
度の損失に心揺らされて、それで己を見失い、たいせつな人を失ったり哀しませたりして
は。
わたしは本当に唯の禍の子で終ってしまう。それが許せないから、己に認められないか
ら。わたしは今この場にいるのではなかったのか。誰かの役に立つ為に、誰かを救い守る
為に…。
「思い知れ。賢くても強くても優しくてもお前等非力な者が幾ら想いを込めても、所詮」
意味のなかった遠雷が再び意味を得て届く。再び意思が戻り来る。分る。わたしは想い
を紡いでいる。考えている。尚力を込められる。
『わたしが諦めない限り望みは残っている』
平常心ではなく、更にそれを突き抜けて。
髪を右手で掴まれて、頭をグラグラ揺さぶられていたと、気がついた。わたしは首筋に
力を込めて、意思を戻した事を示すと同時に、
「想いは折れても、立ち直りますよ、先輩」
先輩の顔が凍結したのは何故だろう。決してわたしが怖い訳ではないと想う。わたしは
この時も敵意も闘志も宿していない筈だから。わたしは好んで戦う訳でもなければ、憎ん
で争う訳でもない。守らねばならない人がいて、救わねばならない人がいるから、身を尽
くす。
わたしは常にその一番の想いに自身を捧げ。
その他の想いは全部抑え切り捨て踏み躙る。
そう出来る今がとても幸せ。守りたい物を抱き、その守りに力を尽くす今がとても幸せ。
そうさせてくれる守りたい者の存在が嬉しい。ありがとう、わたしに身を尽くさせてくれ
て。
何故この微笑みにたじろぐのです、先輩?
わたしの唇は、幾ら奪われてもここにある。わたしの魂は、幾ら踏み躙られても息づい
て。想いはわたしが自ら折れない限り折られない。折れても折れても、意思が戻れば立ち
直れる。
「わたしは先輩の拳も唇も受けました。次は何を頂けます? わたしは心を、頂きたい」
何度唇を奪っても、例えこの操を奪っても、わたしの心は砕けない。わたしの想いは折
られない。わたしの身体は砕けても、想いは…。
「お前の顔を引き裂いて、お前の心も引き裂いてやる。怯えて強ばり、泣き喚いて見ろ」
先輩はわたしの頬に剃刀の刃を当てるけど、
「お試しになりますか? わたしの肌や肉を引き裂けても、想いを引き裂けるかどうか」
わたしは自身の痛みは怖れない。贄の血の力で己を治せる以上に、修練で痛みへの耐性
がある以上に。己が痛みを受ける事で誰かの涙を避けられるなら。たいせつな人の嘆き悲
しみを見る位なら、己が痛む方が遙かにまし。この身は最後の最後迄、守りたい想いの侭
に。
わたしの答に先輩が確かに焦りを見せた時。
「柚明ちゃん、大丈夫?」
待ちに待った大人の助けが、間に合えた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「和泉さんにもお願いがあるの。わたしは」
……先に行って時間稼ぎをしているから。
五時間目の授業は和泉さんも共々に諦め、
「和泉さんは経観塚駅前のバス停に行って」
真弓叔母さんが着く頃なの。一番確かで頼れる味方。わたしが保ち堪えていると伝えて。
真弓さんが間に合えば大丈夫。そして真弓さんは説明も理解も納得も抜きにわたしの求め
に応じてくれる。確かに即座に応えてくれる。
先生達の助けは間に合わない。わたしの関知には、真弓さんの助けもギリギリ間に合わ
ない像が映っていた。わたしがスカートを切り裂かれ、腹部に何発も拳を入れられ、ディ
ープキスされたこの情景は、或いは間に合わなかったと言えるのかも。真弓さんは、わた
しが声を響かせ入ってきたあの扉から現れて。
「助けが、間に合ってしまいました、先輩」
非力でも、想いが届く事はある様ですね。
先輩が新たな敵に目が向き、真弓さんと視線が合い。わたしも視界に収めた真弓さんは、
瞬間頬をピクと震わせ、美しく冷たい笑みで。
「年下の女子1人に男の子がこの人数で寄ってたかった以上、問答無用で文句ないわね」
真弓さんは木刀より少し長い木の棒を持っていた。走り来る途上で、街路樹を支える棒
を一本抜き取り拝借したらしい。和泉さんは真弓さんの全力疾走に振り切られたのだろう。
猛然と迫る真弓さんの攻撃は、一応生命を奪わない程に加減しているけど、先輩達には
それが手加減かと言う痛撃で。華奢で細身な真弓さんだけど、その威力と速さは鬼も凌ぐ。
塩原先輩が、眼光に射抜かれた様に退いた。
わたしはその隙を見逃さず、身を拘束する4本の腕を剥がしに掛る。動揺と注意散漫は
2人の先輩も同じ様で、私は昨日と同じく…。
真弓さんは二分掛らず彼らを全員薙ぎ倒す。僅かな心配は、縛られて放置された賢也君
ではなく、尚身を抑えられた侭の真沙美さんだ。女の子の頬に刃を当てて脅しに掛れば、
やや面倒だ。自ら拘束を振り解いたのは、人質になって真弓さんの足を引っ張りたくない
事と。
「動くな、鴨川の顔に傷を」「させないわ」
後退した塩原先輩が、真沙美さんの頬に突きつけようと伸ばした剃刀を、左手で受ける。
伸ばした手の平で剃刀を包み込み、走り寄った勢いで先輩の腕を押し返す。力のぶつかる
左の掌に、食い込む刃の感触は伝わったけど。
「わたしがこうして防ぎ止めれば、たいせつな人は傷つかない。わたしが代りに痛みを受
ければ、愛する人は痛まない。昨日もこうしておけば良かった。遠藤先輩の刃をわたしが
こうして、避けずにこの身に受けておけば」
出された瞬間、血と肉で包み込んでおけば。刃は人を害する機能を封じられ、和泉さん
は痛みも苦しみも受けなかった。本当にわたし、愚か者。真沙美さんに大馬鹿と言われる
のも道理だ。目に見えて分る事を気付くのが遅い。
わたしには痛みより怖い物がある。たいせつな人を再度失う事が、わたしの本当の怖れ。
たいせつな人の涙や哀しみこそが、真の怖れ。それを避けるには、防ぐには、守り通すに
は、
「傷つけるならわたしから。奪うなら、まずわたしから。踏み躙るなら、まずわたしから。
強いからじゃない。耐えられるからじゃない。わたしは、誰かが傷つき哀しむ事に耐えら
れないから。たいせつな人が目の前で痛む姿を見ていられないから。自身に許せないか
ら」
贄の血の流れ伝う左腕に、更に力を込める。
放さない。人を傷つける刃は解き放たない。
力が及ばなくても身で刃を止められる様に。
わたしは非力でもたいせつな人を守れると。
想いを強く抱けば届かせる事も時に叶うと。
その瞳に微かにわたしへの怯えが瞬いた時、
「ぐおっ」
塩原先輩の右肩に木の棒が振り下ろされて、周囲に立つ人影は真弓さんだけになってい
た。
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「大丈夫……? わ、ゆめいさん、その姿」
和泉さんが来た時には騒動は決着済みで。
真沙美さんの傍に座り込んでいたわたしは、問われて下半身の下着姿を改めて見つめ直
す。と言っても周囲に身を隠す布もなく為す術も。
「ま、良いよ。あたしも昨日ゆめいさんに濃密なサービスショット見せ放題だったから」
想わず両手で両目を覆いつつ、和泉さんはその指を開いてわたしを見つめる事を隠さず、
「これでおあいこ」「和泉、あんた?」
一緒に座り込んでいた真沙美さんが対面して驚くのはその顔に傷痕もない為だろうけど、
「……そうかい、あんた羽藤柚明だものね」
大凡理解出来た顔で、問を喉に押し戻す。
「鴨ちゃん……?」「……真沙美さん?」
逆に触れる問を出すのかという苦笑いで、
「私は鴨川真沙美だよ。羽藤とは縁がある」
和泉さんは尚少し訊きたそうだったけど、
「……柚明ちゃんも、鴨川さんも大丈夫?」
全員を深手も重傷もなく打ち倒し、賢也君のロープを解いて気付かせた真弓さんが傍に。
拘束を解かれただけの真沙美さんは良いけど、わたしは下半身が下着だけで少し恥ずかし
い。
「私は大丈夫です。助けて頂き、有り難うございました」「わたしも大丈夫……あら?」
真沙美さんが立ち上がって気丈に答を返す隣で、わたしも立ち上がろうとしたのだけど、
「ゆめいさん、足元ふらついているよ」
和泉さんに左肩を支えられた。力が抜ける。それは心身の異常ではなくむしろ正常の故
で、
「気力、抜けちゃったみたいです……」
和泉さんの腕に身も心も委ねていた。
心はほっと落ち着いている。喪失に泣き出しみんなを心配させないか気掛りだったけど、
不思議な程悔いも哀しみもない。わたしが鈍いのか、己が無価値な事を思い出せた所為か。
自制すると言うより、己を抑える必要を感じない。たいせつな人の無事が心の底から嬉し
くて。それだけがわたしの心を満たし尽くし。
そして右隣で左腕を伸ばしてくれたのは、
「漸く私にもあんたを支えられる時が来た」
真沙美さんが右肩を支えてくれた。たいせつな友達に両肩を支えて貰い、漸くわたしは
地に立てる。わたしは尚非力で頼りないけど、
「私はこうしてあんたを支えたかったんだ」
「支えさせてくれてありがと、ゆめいさん」
返しきれない想いを寄せてくれる人がいる。その事が、多少でもその守りに役立てた事
が、守れた結果が無上に嬉しい。危機が去った為か、身体も心も張りが抜けて情けなく崩
れる。
「あんたらしいよ。誰もが竦み上がる危険にも、必要なら無茶やって自ら飛び込む癖に」
「むしろそう言う時の為に、普段は省エネして充電しているのかもね、ゆめいさんは…」
もしかしたら、真弓さんのあれはそう言う。
普段の気の抜け方はこういう緊急時の為の。
今の強さと凛々しさを掴み取れて尚、真弓さんが普段は気の抜けた状態で居続けるのは。
正樹さんも笑子おばあさんもわたしもそれを支える事で真弓さんの充電に協力し、その
守りの助けになれるなら。そしていつか真弓さんの守りを直接支え助けられる程わたしも。
わたしのこれは修練不足の電池切れだけど。
「遅れてごめんなさいね。怖い目にあって大変だったでしょうに。でも、柚明ちゃんは」
確かに守り抜けた。その手で大切な物を。
正面から真弓さんが首に腕を伸ばし、頬を寄せてくれる。動き回って少し上気した真弓
さんは艶やかで、肌を傍に見るだけでわたしの頬が朱に染まる。和泉さんも真沙美さんも
間近だったけど、気恥ずかしさは少しあったけど、わたしは素直にその頬に頬を合わせて。
「有り難うございます。助かりました。
やはり平常心って、中々保てません」
結局わたしは心乱され、最後は乱された心を立て直せず、想いの強さだけで突き抜けた。
確かにいつもより視野は広く、その時一番守らねばならない物を見通せて、躊躇なく全力
で馳せられたけど、あれは平常心とは違う物だ。いつも通りを非常時も保つのって、大変。
「まだまだ未熟です」「そうじゃないわ…」
真弓さんはわたしの言葉にかぶりを振った。
「あなたのそれは無心と言って、平常心の更に上の状態。全てを視野に入れる様に気を配
るのではなく、気を配らなくても全て視野に入っている。あなたはわたしが教える前から、
いつも通りを越えて己の全力を尽くす術を」
あなたは意識しなくても、意識の下で人を愛せる様に。あなたは平常でも無意識下でも、
常に人を守りたく望んでいる。間近にいれば。
わたしの身も心も支える人達を見つめて、
「周囲にそれが浸透しない筈がないものね」
先生達が着いたのはその少し後の事だった。
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その日は色々あったけど、全てに収拾は付けられず、翌朝も1時間目と2時間目は先生
の事情聴取が予約済みの銀座通中学校に、普段通りを意識し徒歩で登校したわたしの前に、
「真沙美さん……」「お早う、柚明」
玄関から教室に通じる廊下の前に、真沙美さん達が勢揃いしていた。真沙美さんは彼女
を慕う桜井さんや野村さんに、1人残らず今朝登校時に、ここへの集合を指示したという。
真沙美さんを先頭に拾数名もの女子の群れ。何事があるのだろうと他の人も多数顔を出
し。佐々木さんや志保さん、歌織さんや早苗さん、和泉さんや沢尻君に、柳原君に賢也君
まで…。
真沙美さんの目的はわたしで、その双眸はわたしを正視して、わたしの行く手真ん中に、
「みんな良く見ていて」
少し癖のある長い黒髪を揺らせ、美しい人がわたしの間近に歩み寄って、手を差し伸べ。
わたしはその意図を分って彼女の繊手を受け、握手ではなく、ぐっと身を引き寄せられて
…。
「真沙美ちゃん」「真沙美さんっ」
幾つかの驚きに見開く瞳と叫びの飛ぶ中で。
抱き留められた。両腕の上から確かに柔らかな腕が背に回る。人目を前にして怯まない。
と言うより彼女はこれを見せる為にみんなを。逃がさないという感じで互いの肉に食い込
む程確かに身を絡め。頬に頬寄せ、瞳は間近に、息遣いは重なり。見る方が頬を染め、正
視が恥ずかしい程の抱擁だ。でも真沙美さんの確かな意思は分るから。その想いは真剣だ
から。
この抱擁は拒まない。嫌わない。完遂する。
真沙美さんの想いをわたしが否定出来ない。
その想いが確かに嬉しい自身も否定しない。
そしてそう想われる限りわたしはそれを受け容れる積りでいた。自ら求めはしないけど、
そう促す気もないけど寄せられる心は嬉しい。わたしも返せる限りの想いを返すべきだっ
た。
「私と柚明の関係は、今見ている通りだよ」
身をぴったりと重ねた侭彼女はみんなに、
「羽藤柚明は、鴨川真沙美のたいせつな人」
私が惚れた強く賢く、綺麗で心優しい人。
今迄の事は問わない。今後柚明に失礼や非礼をする人は、私が許さない。そう承知して。
「私の言いたい事はそれだけ。柚明は…?」
何かみんなに言っておく事あればどうぞ。
少し背の高い視点からの柔らかな視線に、
「真沙美さん、これじゃ誤解されちゃう…」
真沙美さんは尚抱き留めた腕を放してくれない。それは暖かく柔らかく滑らかで決して
嫌な感触ではなかったけど、慈しみと愛しさが感じられてわたしも放したくなかったけど。
「誤解したい奴には好きに噂させるとして。
正解の方を教えて貰うよ。この私にもね」
曲解したい者や誤解を望む者は大勢いる。
それを全て釈明し解いて回る事は難しい。
だから当事者は正解だけ強く述べるべき。
確かに真沙美さんの言う事は妥当だけど。
男女四拾人強の、視線の集まり来る中で、
「鴨川真沙美は、羽藤柚明のたいせつな人」
強くて綺麗で賢くて、心優しい愛する人。
わたしは真沙美さんにも向けて己の心を。
「唯一のとは言えないし、一番とも二番とも、言う事できないわたしだけど。有り難く嬉
しいその想いに、等しい想いを返せないのが心底申し訳ないけど……。叶う限りの想いを
返します。ふしだらなわたしでごめんなさい」
真沙美さんの想いを送るのにわたしが相応しくないと感じたら、いつでも捨てて良いよ。
一番の想いも返せないわたしに気遣いは要らない。縛る積りは微塵もない。それで尚寄せ
てくれる美しい想いには、叶う限り返させて。
「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」
本当は深くお辞儀か、三つ指付いて言う処だけど、抱き留められた侭なので、その首筋
に頬を寄せ、少しでも頭を低くして伝え切る。その侭もう暫し、肌を寄せていたかったけ
ど。
「はいはいそこ、いつ迄もくっつき続けない。
ゆめいさんも鴨ちゃんも、独占禁止法の対象だから。お互いが独占し続けちゃ大困惑」
和泉さんが授業が近い旨を報せに声を挟む。
いつの間にか、朝のベルは鳴り終っていた。
和泉さんの声に、みんなも漸く動き出し、
「私、目眩が……」「弘子さん、弘子さん」
桜井さんが調子が悪そうで、2組の星野さんや沢口さんがその身を支えている。抱擁を
解いたわたしと真沙美さんが様子を窺うけど、
「今日は弘子さん、少し具合悪い様なのね」
美子さんが苦笑い気味にわたしに向けて、
「こっちはこっちで、巧く収めておくから」
1組の美子さんが請け負うのも妙だけど。
「よろしくお願いします。お大事に」
「それ、あんたの言う事じゃないだろうに」
歌織さんの突っ込みは、その通りだけど。
「まあ、それが……」「柚明さんですから」
中途で台詞を奪い取った早苗さんと、教室に戻る雑踏の流れに乗る。和泉さんが明日書
店に行こうと誘ってくれた。あの経緯を経て尚誘ってくれる確かな気持に、わたしは勿論。
晴れやかな一日が、目の前に開けて行く。
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……雨降って地固まると言うけど、その通りになれて本当に良かった。一時は相当緊迫
したので。色々な人にお世話になり、沢山の人に迷惑掛け、多くの人に支えられ、漸く大
きな哀しみもなく終われました。紆余曲折はあったけど、それで繋げた確かな絆は宝です。
一番の収穫は、真沙美さんも含む誰とも毎日当たり前にお話し出来る様になった事です。
真沙美さんの周りの人ともお話ししています。美子さんとか弘子さんとか、みさえさんと
か。賢也君とも少しお話ししました。恥ずかしがり屋さんなので、余り多くは喋れてない
けど。
わたしも新しく人を知り、教えられました。視野の狭さや身の至らなさや、気遣いの足
りなさや誤解を招く言動や。顔から火の出る想いを重ねる日々です。先生や友達に恵まれ
て、羽様の家族みんなの想いに包まれて、詩織さんを想う今が心から幸せ。みんなが居て
くれる事がわたしの支え。わたしの気力の源です。
日々目先の事柄に振り回されるわたしだけど、想いを寄せてくれる人を忘れず、今わた
しがいるのは何故か、誰のお陰か、何の為かを心に確かに抱き、毎日を精一杯過ごしてい
きたい。綺麗に纏められなくてごめんなさい。
次のお手紙待っています。どうか無理せず日々に確かに向き合って、思い残しの出来る
だけ少ない詩織さん自身の正解を。羽藤柚明。