縺れた絆、結い直し(丙)


 何というか、姿勢が崩れる躱し方が危うい。昌綱さんの時も余裕はなかったけど、体勢
が崩れる事はなかったと思う。楓さんの攻撃は、昌綱さんのそれよりほんの少し伸びるみ
たい。躱し切れて、服も切られなくはなったけど…。

「楓さんの動きは、初動が読みにくいんだ」

 烏月さんの冷静な声音はわたしに向けて、

「次に何を出してくるのか、右か左か真ん中か、突きか薙ぎ払いか振り下ろしか。楓さん
の動きは予想しにくい。だから対応が難しい。早さでは昌綱さんが少し上だけど、彼の攻
撃は比較的読み易い。心の備えが出来るんだ」

 柚明さんは昌綱さんの初動を読んでいたのだろう。贄の血の力も作用しているのかも知
れない。先に来る攻めが分っていれば、多少遅くても防ぐ事は可能だ。読みを外さない限
り約束事の様に、相手の攻めを的確に躱せる。それも並の達人に叶わない天才の域だけど
ね。

「常人を外れた集中力で、相手の目や筋肉の微かな動きから、次の挙動を察するか。だが、
二流の剣士相手ならともかく、昌綱に、千羽の三強相手に、柚明君はそれを為したと?」

 信じられないと、声を漏らす東条さんに、

「柚明さんは三強並みだ。戦いに向いた身体はなくても、結果が全てを語っている。無手
で千代を一蹴し、昌綱さんの油断を突いた勝利を拒み、再度正面から戦って彼を退けた」

 優しげな外見に騙されるのは、人の性かな。烏月さんの苦笑いは、東条さんへと言うよ
り自身に向いて。お姉ちゃんの技量は烏月さんの推察も越えている様で。微かな震えは武
者震い? 何か笑いも苦笑というより嬉しそう。

「剣士とは、強者を見ると己が対戦する時はどう戦うか、と考えてしまう生き物なんだ」

 戦いを生業とする者の本能かも知れない。
 柚明さんと戦う積りなんて、ないけどね。
 烏月さんは、己の闘争心を抑える感じで、

「昌綱さんは『読まれても応対不能な早さ』を目指して強くなったけど、楓さんは『相手
に読ませない』素早い攻撃で、多くの鬼を倒してきた。体に恵まれず、相手の動きを先読
みして防ぎ躱して、一瞬の戦機を狙う柚明さんの戦い方には、相性が悪いかも知れない」

 柚明お姉ちゃんは数回真後ろに退いていた。時に斜め後ろの左右にも逃れるので、隅に
寄せられはしないけど。でも、何か一つ誤れば入っていておかしくない猛攻の中で、逃れ
る方向迄考えさせられる戦いは、長く保ちそうに思えない。昌綱さんの時も危うかったけ
ど、今回は詰め将棋の様に追い詰められ行く感じ。

 その上で楓さんの動きを察する事が難しいとなれば。柚明お姉ちゃんの唯一の強み(だ
と思う、今迄見た限りでは)が通じなければ。幾ら優れていてもリーチも筋力も体重も劣
る。千羽の強者に勝つ方法が見あたらないよっ…。

 髪を切る様な、袖を掠める様な、入った様にも見える動きが連続する。確かに昌綱さん
との時もこんな感じで、紙一重で躱し続けた末に、結局昌綱さんを撃破出来たけど。でも。

「どんどん紙一重の紙が薄くなっているわ。
 ゆめいの動きをあの女が読み始めている」

「楓さんも、相手の動きを察するタイプだ」

 故に相手に動きを察されて、防がれ躱され、踏み込まれて反撃される不利も知悉してい
る。読まれない動きは、己を敵に見立てた修行の成果だけど、今迄は余り使えなかったら
しい。彼女の動きを読もうとする程の強者は、千羽にもこれ迄倒してきた鬼にも少なかっ
たんだ。

 東条さんが横から、柚明お姉ちゃんの為していた事は、楓さんの特技でもあると補足し。

「しかも昌綱と違って動きが洗練されて隙がない。相手を見下す事も、その力量を読み違
える事もない。昌綱が、早さと威力を武器に最近三強に上り詰めた、荒削りな戦い方なの
に対し。楓さんは、相手の動きを推察できる上に、全ての動きに隙がなく、巧くて強い」

 攻めにも守りにも総合的に強い。女性故の腕力の弱さも修行でかなり鍛錬できているし、
その面では柚明君の方が明らかに劣勢だろう。柚明君には、昌綱以上の難敵かも知れない
な。

「お姉ちゃん、危ないかも……」「けい…」

 突きも振り下ろしも薙ぎ払いも、とても女性の細腕で出せる感じじゃない。あんなのに
当たったら、絶対無事じゃ済まないよ。幾ら修練しても、柚明お姉ちゃんは剣士じゃない。
せめて防具でも身につけていてくれれば未だ。

 柚明お姉ちゃんは躱せても体勢が崩されて、時々真後ろに後退して間合を置き直し。そ
れも楓さんがすぐに詰め直し、攻め直す。避けていると言うより、避けさせられている
…?

「桂さんの目でも、見て感じ取れるかい?」

 目を凝らした様を悟った様で烏月さんは、

「楓さんは良く『鬼を踊らせる』と言われる。素早い振りや突きを連続して繰り出し、一
撃一撃を防がせつつ、後退させたり左右に押したりして、望みの侭に相手を促し導くん
だ」

 相手は防ぐのに手一杯で、導かれていると気付けない。気付けても対処の術が殆どない。

「いつの間にか一隅に追い詰められていたり、左右に振り回されて消耗したり。ほんの僅
かでも判断を誤るか、疲れに動きが鈍った途端、あの連撃に切り刻まれる。その促しに逆
らってみても同じく連撃の渦の中だ。じりじり負けへと追い立てられるか、即息絶えるか
…」

 柚明さんが楓さんの攻撃を、木刀でも全く受けず躱しに徹するのは、ある意味正解かも
知れない。防御されて木刀が跳ね返されれば、一層次の打ち込みが早くなるからね。楓さ
んはそれでも怯まず、打ち込み続けているけど。

「強敵になればなる程、楓さんの強さが引き立つ。皮肉にも柚明君が昌綱を破る位強いか
らこそ、楓さんも久々に全力を出せている」

 東条さんも戦いの展開から目を離さずに、

「楓さんの攻撃は、一手一手が必殺の一撃であると同時に、後々の消耗や追い込みを考え
た戦略的な布石なんだ。即倒せなくても攻め続ける事で優位を掴み、相手を敗北の淵に囲
い込む。守りに徹する敵も翻弄して倒す様は、正に『鬼を踊らせる』様に見える」「…
…」

 柚明お姉ちゃん、躱している積りで楓さんに踊らされているのかな? 一撃一撃の回避
に追われて、ずるずる敗北へと導かれているのかな? 表情に余裕がないのは当然だけど、
この侭じゃ躱し続けても勝ち目が減る一方…。

「一か八か反撃に出た方が、良いんじゃないかな? この侭じゃお姉ちゃんじり貧だよ」

 危険を承知でも、逆襲しなければこの侭負けに追い込まれる。特に受けもせず躱し続け
る柚明お姉ちゃんのスタイルでは、足を止められず息が上がってしまう。消耗しきって身
動き取れなくなる前に、勝ちに行かなければ。

 でも東条さんはそれには却って否定的で、

「むしろ楓さんは柚明君のそれを待ち構えていると僕は想うね。それをこそ標的にして」

 東条さんが推察できるなら多分楓さんも。
 その中に敢て踏み込むのは無謀に過ぎる。

「確かに、歴戦の強者なら、想定するかも」

 だからお姉ちゃんもそれをしないのかな。

 楓さんも二拾歳代に見えるけど、昌綱さんよりは年上だ。鬼切部としての経験も豊富に
違いない。柚明お姉ちゃんより戦いの経験は多い筈だ。その意味でもお姉ちゃんは不利か。

「楓さんが柚明君を無理に端に追い詰めないのは、詰めの甘さの故じゃない。柚明君を左
右に追って振って、消耗させる作戦だろう」

 柚明君の戦い方を見て知って、楓さんはそれに応じ、確実に攻め倒す戦いを選んでいる。
柚明さんが一撃に賭けるカウンター型ならば、それをさせなければ良い。必殺の一撃など
仕掛けず、リーチの長さと腕力と早さと、多彩な攻めで、柚明さんを攻め続けて疲弊させ
る。

「隙を見せず、腕の長さで押して、ゆめいの体力を削り取って、勝ちを掴む積りだと?」

「怖い程的確で冷徹な攻めだ。勿論簡単な話じゃない。柚明君も反撃の機を窺うからね」

 でも、そう攻められると、例え技量で近しくても体に恵まれない柚明君に、打つ手は非
常に限られる。攻めに転じるリスクを取るか、果てしない消耗戦を敗北承知で受け続ける
か。

 楓さんが間合を保てば柚明君の反撃は届かない。届く前に防ぎ止められる。逆にそれを
受け止める事で致命傷を叩き込む隙も作れる。この間合を保つ限り柚明君に反撃の術はな
い。

「僅かでも読みを誤るか早さが落ちれば、即打ち倒すと攻め続け、例えそれに応対できて
も少し後に消耗が響く様に導いて。一か八かの反撃に備えつつ、後は柚明君の疲弊を待つ。
息が上がって足が止まる時を待てば勝ちだ」

「楓さんは、攻め疲れたりはしないの…?」

「難しいね。柚明君が攻撃を受けずに躱す動きに徹する以上、動きは柚明君の方が確実に
大きい。疲弊も柚明君に多く堪る。腕力も脚力も見て分る通り、大柄な楓さんの方が上だ。
高い技量を有する同士、体格差が縮められる事なく双方の優劣に反映したという処かな」

「せいっ、たぁ、はや」「っ、……ぁっ…」

 見た目は誰がどう見ても楓さんの圧倒的な優勢だけど。見た目以上に楓さんが強靱で粘
り強く戦いに巧みなら。都合良い逆転勝利なんて望まない。だから柚明お姉ちゃん、余り
無理しないで。痛い想いや怖い想いしないで。

『充分だから。もう充分以上だからっ…!』

 諦めず尚立ち続ける柚明お姉ちゃんにそれを呼びかける事も出来ないので、とにかくわ
たしはお姉ちゃんの無事だけを、強く祈って。膝の上できゅっと握りしめる両拳に、右隣
から柔らかな掌が触れて、握ってくれたその時。激しく動き続けていた2人の動きが凍結
した。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……っ!」「……ふぅ」

 何があったのか、見ていたけれど分らない。

 攻めに攻めていた楓さんが、突然振り上げかけた木刀を止めて、固まっていた。柚明お
姉ちゃんも右側面を見せた構えの侭で動かず。何かがあったのだという事は感じ取れたけ
ど。

 ヒラの鬼切りを含めた観衆も、他の八傑も大人衆も、為景さんも烏月さんも動きがない。

 わたしに応えてくれたのはノゾミちゃん。

「ゆめいの突きを、五席の女が防いだのよ。

 と言うより、五席の女の攻勢を、ゆめいが止めたというべきかしら? 六席の男に向け
てゆめいが一度為した、木刀の片手突きよ」

 ノゾミちゃんの視た像を、わたしも瞼の裏で視る事で、状況を悟る。柚明お姉ちゃんは
楓さんの猛攻の中でも尚戦意を失わず、反撃の機を窺っていた。全く諦めて等いなかった。

「楓さんは柚明さんを消耗戦で倒そうとは考えてない。否、倒せると見ていない。楓さん
は疲弊で柚明さんの自滅を待つ戦いではなく、踏み込んで必殺の一撃を叩き付ける為に、
相手を崩し追い込み疲れさせていたに過ぎぬ」

 柚明さんの躱す幅が小さくなっていたのは、楓さんが柚明さんの動きを読めてきた以上
に、柚明さんが楓さんの攻撃を見切れてきた為だ。負けない事に関しては柚明さんは楓さ
んにも劣ってない。柚明さんは自滅はしない。疲弊して、息が上がって足が止まる状況は
彼女には訪れない。それを分るから楓さんは、その手で勝利を掴み取る為に、猛攻を重ね
ていた。

 同じ所作でも目的が違うと。それはどうやら、ノゾミちゃんにも共通の見解だった様で、

「ゆめいは反撃したわ。五席の女はそれを待ち構えていたのでしょうけど、受け止めて致
命の一撃を返す積りでいたのでしょうけど」

 それは彼女の攻勢を止めた。ゆめいは又もやあなた達の予測の上限を、超えてきた様ね。

 三上さんも谷原さんも秀輝君も黙り込む中、

「無理もない。千羽でも、手加減しない三強の戦いを見られる事はそう多くないから…」

 烏月さんは東条さん達の見誤りを庇いつつ、

「柚明さんは、昌綱さんに一度放った矢の様な突きを出そうとした。達人にも見える限界
を極めた神速だったが、それが楓さんに防ぎ止められる事迄も、見通していたのだろう」

「五席の女は、振り下ろそうとしていた木刀を瞬時に引いて、守りに備えた。ゆめいの意
図を察したのね。あの体勢から攻撃を止めて、守りに回せる素早さには、正直驚いたけ
ど」

 ゆめいがその侭木刀突きを出していたなら、五席の女の薙ぎ払いで防がれて、体勢を崩
されて、逆にゆめいの方が危うかった。でも…、

「柚明さんは防がれると読み、発動の直前に木刀突きを止めたんだ。楓さんが待ち構えて
いると分っても尚、あそこ迄踏み込んだなら、迎撃を弾く一撃を突き出す手もある処だ
が」

 結果楓さんも、突きを薙ぎ払った後に踏み込んでの、必殺の一撃を発動できなくなった。
流石にそこ迄は楓さんも読めなかったらしい。迎撃を外されて、楓さんの薙ぎも未発に終
り。

 結果双方静止して暫く見つめ合う状態で。
 ふぅ。とりあえず、お姉ちゃんは無事だ。
 勝利よりも、ケガのない事が今は嬉しい。
 未だ終ってないので不安は尚も続くけど。

「ゆめいは自分の戦いを為せているわ。相手の動きに乗じるのは、ゆめいの戦い方なの」

 相手の動きを見て、相手の想いを受けて答を返す。お姉ちゃんの対処は常にそうだった。
今もそれに変りはないのだと。踊らされていたのではなく、敢て踊らされる事を選んだと。
思い返せば、この立ち合いを受けた事自体が、あの問答の経緯がそうだった。柚明お姉ち
ゃんは最初から最後迄、柚明お姉ちゃんだった。

 そんな柔らかくも美しく強靱な人を前に、

「私の攻勢を止めるのね。……動き出した私の攻勢を止められるのは、千羽党でも烏月様
か為景さんか、明良様だけだったのに……」

 流麗な女性剣士は、攻めを即再開はせず、

「貴女とは一度会ってみたいと思っていた」

 明良様からも拾壱年前話しを聞いたから。

 真弓様の鍛錬を受けた、癒しの力を持つ奇妙に甘く優しい少女のお話し。卑劣な脅迫で
操を奪おうとした薄汚いフリー記者を憎まないどころか、明良様に助け出されたその後で。
彼とその幼い娘が鬼に襲われた事を察し、彼らを守りに危険の中へ駆け戻り。秘さねばな
らぬ癒しの力で、己を脅かす者の生命を救い。

 放置すれば手も下さずに口封じ出来た物を。生かせば生かすだけ害になると見えて。そ
の腕で捻り潰せば闇に葬れると分って。最後には己を嫁に捧げるから秘密を守ってと頼み
込んで。その守秘も己の為ではなく2人のいとこの為と。本当に、愚かしい程に甘く優し
い。

「明良様も、余程印象に残ったのでしょう」

 苦笑気味に、いつの間にか出来ていた妹弟子を語り。他者には底なしに優しく甘く、己
には厳しい以前に、当然の如く己を盾に使い。一番たいせつな人の為という優先順位を心
に定めていなければ、見境なく人助けに出て自滅しかねない、愚かしい迄に情愛深い少女
を。

「いつか何かの機会に又逢えればと、呟く姿が嬉しそうで。たった数日、数時間の関りで、
明良様の心に貴女を住まわせる部屋が出来た。明良様は羽藤柚明、貴女を心に留めたの
よ」

 え? それってまさか、明良さんは……。

「幼い頃から明良様の後を追い、剣の修行にも必死に食らいつき、鬼切りの世界にも踏み
込み共に戦い守り合い、涙と汗と血を流し合ったこの私、千羽楓を差し置いて貴女を!」

 全員の呼吸が止まっていた。観衆も大人衆も他の八傑も、為景さんも烏月さんもノゾミ
ちゃん迄もが、暫く吸った空気を吐き出せず。

「うづき、さん……?」「聞いていない…」

 そんな話しは兄さんから全く聞いてない。
 柚明さんを知っていたとは、遂に一度も。

 烏月さんにもこの事実は衝撃な様で、微かに身を震わせて短く声を漏らすのが精一杯で。
烏月さんにとっての明良さんは、わたしにとっての白花ちゃんの様な物なのだ。千羽でタ
ブーと言う以上に、烏月さんのタブーなのだ。

 膝に置いたこの右拳を握った侭の、烏月さんの華奢な左手の方が、今は震えが大きくて。

「東条さん。あなたは、兄さんから何か?」
「いや、聞いてない。僕も、初耳だったよ」

 他に誰か聞いていた者がいたとも思えん。
 東条さんも驚愕に声がやや強ばっていた。
 烏月さんはともかく、東条さん迄が驚く?

 答を求めて東条さんを見ると、彼は珍しく視線を逸らし。応えてくれたのは烏月さんで、

「楓さんは、兄さんと深い仲だったんだ…」

 ああ。そう言うこと! わたしとした事が。
 これ程強く美しい人と烏月さんのお兄さん。
 楓さんの語調でそれを、察するべきだった。

 彼女が抱く明良さんへの敬愛は、千羽党当主だとか、強い鬼切りだったとか言う以上に。

「籍は入れてなかったけど、千羽の誰もが兄さんのパートナーは楓さんだと、暗黙の内に
了承していた。楓さんも兄さんも明言はなかったけど、若杉も知る公然たる秘密だった」

 千羽の人がみんな了承した楓さんの口から、拾年以上も前に明良さんには心に留めた人
がいたと、それがわたしの柚明お姉ちゃんだと。

 それはわたしにも衝撃だったけど。むしろそれは千羽の人にこそ衝撃だろう。紅葉さん
との話の中でも、明良さんは鬼切り以外の癒し部やその他大勢に、慕われ好かれていたと。

「真弓様は鬼を切る使命を返上し、鬼切り役も返上し、絶縁されて千羽を出た。鬼切部で
もなくなった彼女が、鬼切部でもない者に鬼切りの業を教える事は好まれない。その位は
真弓様も分る筈。生計を立てる為に、一般的な武道の技や動きを教える程度は許されても。
貴女が極めた内容はそれを遙かに超えていた。
 贄の民に降り掛る鬼の脅威を考えて尚、護身を超えた貴女の技量を、明良様は訝しみ」

『羽藤柚明の技は鬼切りの業ではない。でも、あれは確かに先代(先々代)が教えた動き
だ。俺以外にその技や生き方を、流儀を教えなかった彼女が。千羽の外で一般人の女の子
に』

 鬼切部に関連しない強者や強い力が、野に無造作にある事は好ましくない。尋常ならざ
る程濃い贄の血が、町中に無造作にある事を若杉が危険視した様に。敵対しないから即排
除迄は考えないけど、鬼切部に対抗できる強さが野にあって、鬼に横流しされたり我らに
牙向く為に使われる怖れには、常に警戒する。

 貴女の技量は拾壱年前既に、千羽の八傑に近かった。余程名のある強い鬼の打倒でも想
定しなければ不要な程、力量は充実していた。真弓様が貴女の求めに応え、尚修行を止め
ない事を、明良様は訝しんでいた。戦いを好まない女の子に幾ら人や鬼を殺す技を教えて
も、使えないのに。護身の術の延長に終るのにと。

「でも私は訝しむ明良様を見て即座に悟れた。鬼切りに出向く度に、辛さや哀しさを堪え
る無表情で帰着する明良様の、自然な笑顔で」

 貴女は鬼を切る技ではなく、人を守り微笑ませる力を求めた。真弓様は貴女の在り方に
共鳴し、鬼切りではなく護りの技を鍛錬した。

「鬼切りの業ではなくても真弓様の流儀を」

 それが帰還した明良様の心を温めていた。

「ほんの僅かな関りが、明良様の心にはいつ迄も、消化しきれぬ輝く石となって残り続け。
真弓様が繋いだ微かな絆は、貴女が想っていたより長く、明良様に残っていたのですよ」

 語りかける方も語りかけられた方も、互いを切なく見つめ合う。それは憎悪でも友情で
も愛しさでも悲哀でもなく、その全部だった。最早取り返せぬ日々への、拭い去れぬ想い
…。

「明良様は貴女に好意を抱いていた。愛と呼べるかどうかは分らないけど。濃い贄の血の
動向や安否が気に掛ると言って、管轄外にも関らず、時々若杉から安否情報を取り寄せ」

 真弓様の動静を探るとの名目もあったし。

「誰も知らないのか」「知る者は、1人も」

 大人衆の段上で、直義さんの問に貴久さんが答えていた。明良さんの想いと行いを知る
者は、楓さんだけだった様だ。よりによって、明良さんと確かに想いを交わした楓さんだ
け。

「一度逢って話してみたかった。真弓様の信を受けた羽藤柚明を、明良様の心に残った羽
藤柚明を、一度見定めたかった……恋敵を」

 貴女にその意識があったかどうかは、問題じゃない。明良様の心の中の問題よ。明良様
が抱いた羽藤柚明への想いが、千羽楓の恋敵。

 柚明お姉ちゃんは楓さんに、右に流した黒い双眸で、右側面を前に向けた構えを保って、
静かに正視を返すのみで、言葉は何も返さず。

「流石に貴女に戦いを挑む訳にも行かなくて。貴女が明良様を好いているかどうかも分ら
ない上に、強い方・勝った方が明良様の心を奪える訳でもない。明良様は賞品ではないか
ら。千羽の八傑が年下の一般人の娘に戦いを挑むのも、勝って当然の弱い者虐めで格好悪
い」

「本気で戦いを挑もうか、考えていた様ね」

 ノゾミちゃんの印象にわたしも同感です。

「半年経っても一年経っても、明良様は継続して貴女の動向や安否を、気に掛けていたわ。
明良様が本当に、貴女を妻に迎えたいと迄想っているかどうか、私は確かめられなかった。
怖くて訊けなくなった。千羽の三強ともあろう者が、己の事になると何とも情けない…」

 嫉妬を抱く自分を冷静に分析できる辺りは、楓さんの心の強さも尋常じゃないと思いま
す。

「明良様が気にかけ続ける限り貴女との絆は続く。明良様を心に定めた私は、例え負ける
にせよ貴女に踏み込まない訳に行かないから。明良様が心底大切に想うなら私にも重大な
人。逢って話せる機会は、その内巡り来ると想っていたわ。拾年前のあの報せを受ける迄
は」

 貴女は二度と手の届かぬ処へ行ってしまい。
 私は貴女から、彼を奪い取る機会を失った。

「明良様は、若杉の手の者から事情を聞いて、『そうか。分った』とだけ応えて押し黙
り」

 掛ける言葉が見あたらなかった。慰める術が思いつかなかった。女として愛したにせよ、
妹の様に想っていたにせよ、心に留めていた人の突然の消失に。私も掛ける言葉もなくて。

「明良様が私を、千羽楓を女として愛して下さったのは、それから暫くの後、私が初めて
明良様から一本を取れたその夜だったわ…」

 明良様の前には、私しかいなくなったけど。
 明良様の心には、貴女はずっと残り続けて。

 私は貴女に、彼を奪われなくなった代りに。
 生身の貴女に、勝って彼を奪う術を失った。

「若杉から鬼を身に憑かせた少年を切る命を受けた時、明良様は運命を感じていたのかも
知れない。貴女が一番大切に想っていた双子の片割れ、羽藤白花を切り捨てず、内に宿る
鬼と戦う道を選んだ彼を千羽館で匿い育て」

 私が事を知ったのは、羽藤白花が住み着いてから半年後だった。鈴音や琴音、栞や為景
さん等、ごく僅かの者が知るだけの極秘事項。

「話を聞いて想ったわ。明良様は真弓様の流儀を行く。真弓様の子で貴女の従弟で、尋常
ならざる濃い贄の血と、千羽の当代最強の血を引いて。心に鬼を住まわせた身で過酷な鬼
切部の修行を望み、たった一つの目的に向けて生命を減らしつつ、気力の限り進む少年を、
この人は切り捨てられない。発覚すれば若杉や千羽への反逆で、討伐が掛る事を承知で」

 真弓様への想い、貴女への想い、そして羽藤白花への想い。明良様は想いの全てを注ぎ。
彼は必死に成長した。内に抱える鬼と共にね。

 道場は静まり返っていた。誰も言葉を発しない。ノゾミちゃんも黙して身動き出来ずに。
拾年前のそれはわたしやノゾミちゃんに関る。正にわたし達こそ、千羽の災いの原点だっ
た。

「そして全てが炸裂したあの日。鬼に心と身体を乗っ取られた羽藤白花が、千羽の者を傷
つけ殺め、千羽館を最後に逃げ去ったあの時。
『楓っ』その一言で、私の刃が止められて」

 拾年愛し育んできた羽藤白花への想い。
 拾年拭い去れなかった、貴女への想い。
 常に敬い続けてきた、真弓様への想い。

 切るべき鬼を匿い育てた明良様の想いに。
 羽藤白花に向けた私の刃が微かに鈍って。
 鬼に憑かれた羽藤白花は市中に逃げ去り。

 せめてあの中で完結させておけば、羽藤白花を斬り殺していれば、明良様の命に背いて
いれば、未だ何人かの生命は奪われず、若杉にも事が発覚せずに済んだかも知れない物を。

 外に逃げ去った鬼は、無辜の市民を殺傷し。若杉に全てが発覚して、明良様は鬼切り役
を解かれ、羽藤白花と共々に討伐対象になって。最悪だった。私はその最悪を、防げなか
った。

「故に奴だけは私のこの手で討ちたかった」

 明良様を救うには奴を討つ他に術はない。
 奴を討って若杉に嘆願する他に術はない。

「でも私は結局誰も救う事が出来なかった」

 東条さんがわたしに事実を補ってくれる。

「若杉は千羽に関係者の処分を優先に求めた。明良様の鬼切り役の解任と同時に、羽藤白
花の隠匿に手を貸した者を処断せよと。その者達が羽藤白花や明良様を追っても無意味だ
と。
 楓さんと明良様との関係の近しさは、若杉にも周知だった。腕は立っても信用ならぬと。
鬼切り役と当主を継いだ烏月君は鈴音や琴音、楓さん達を、一件が片付く迄の仮の措置と
して謹慎所分にした。栞さんは当時、八傑の候補だったのだけど、それも取り消されて
ね」

 それで楓さんは千羽館で監視下に置かれ。
 為景さんは千羽館の不慮の備えに残って。
 烏月さんがお兄ちゃんを切りに経観塚へ。

 と言う事は、楓さんは明良さんが烏月さんに切られた時も、千羽館を一歩も出られず…。

「私は彼の死にも立ち合う事が出来なかった。よりによって妹に、兄を討たせる悲劇を招
き。烏月様は明良様を心底敬愛していた。どうしても討たねばならぬなら、明良様を討つ
のはこの私が為さねばならなかったのにっ…!」

 決して涙は見せないけど、微かに震える肩に途方もない哀しみが視えた。哀しみの奥に、
途方もない憎しみが視えた。憎んでも取り返せる物等ないと承知で、抑えきれない憤懣が
視えた。憎むべき敵さえも失った、虚しさが。

「私は明良様を止められなかった。羽藤白花の息の根も止められなかった。その為に一番
たいせつな人を、この手の内から取り零し」

 羽藤白花は、千羽明良の仇だ。それは夏の経観塚で、烏月さんも抱いていた想いだった。
そしてそれは千羽党みんなの想いでもあって。わたしと柚明お姉ちゃんは、羽藤は仇だっ
た。そして今、仇討ちの舞台と相手が提供された。

「私は壱年半千羽館を一歩も出られず。明良様を切った烏月様が、羽藤白花を追って経観
塚へ行き、貴女達と巡り逢い、羽藤白花が貴女の代りに手の届かぬ処に去ったと報され」

 唯報されるだけ。関る事も出来ず。唯起こり行く様を受け容れる他にない。草木の様に。

 羽藤白花も彼に憑いた鬼も、消失したけど。
 愛した明良様も永久に、失われてしまった。
 明良様は最後迄私を愛し続けてくれたけど。
 私じゃなくて良い。裏切られても良かった。

 死んで欲しくなかった! 鬼切部に追われても、生き延びて欲しかった! 烏月様を切
り捨てても、羽藤白花を切り捨てても、若杉を敵に回しても生きて欲しかった。私を見捨
てても、裏切っても生き続けて欲しかった…。

 それが千羽楓の真の想い。明良さんへの愛を果たしきれなかった慚愧が心を苛み続けて、

「私の仇は真弓様の子で貴女の従弟、烏月様が愛した羽藤桂さんの双子の兄の、羽藤白花。
奴を討つ望みも失った今、この胸によぎる怒りも哀しみも苦味も痛みも切なさも、向ける
相手もいないと諦めていた。幾ら憎んでも羽藤と戦える機会はない。烏月様が愛した羽藤
桂さんは善良に無垢で、戦いを挑めば踏み躙るだけになる。唯の弱い者虐めになる……」

 だが貴女は戦いを受けてくれた。無益な戦いと知って、我ら千羽の想いを受けて、立ち
合いに応じてくれた。叩き潰されると承知で。

「こうして逢う日が来るのは予想外だった」

 明良様を失った後で、貴女と会えるのも。
 二度と戻れぬオハシラ様になった貴女に。
 武道の立ち合いの場で、対峙出来るとは。

「憎悪も怒りも哀しみも、微かな親しみも運命に翻弄された者同士の同情も、全て混みで
叩き付けよう。羽藤白花には遂に叩き付ける事叶わなかった千羽楓の真の想いを、羽藤柚
明に漸く伝えられる愛憎込めた千羽楓の真の想いを、羽藤に抱く千羽の想いに乗せて!」

 恋敵である柚明お姉ちゃん。恋人の仇である白花お兄ちゃんの身代りの柚明お姉ちゃん。
千羽の敵である羽藤の代表の柚明お姉ちゃん。お母さんの流儀を唯一継いだ柚明お姉ちゃ
ん。楓さんとは、決着を回避出来ない関係だった。

 その想いはさっきの昌綱さんにも劣らずに。
 深く重く強く激しく渦を巻いて叩き付ける。

 わたしにはとても受け止めきれない。傍で見ているだけで震えが止まらない。償うどこ
ろか、受け止めるどころか、聞かされるだけで心砕かれる。その殆どは柚明お姉ちゃんに
向いているというのに、身震いが止まらない。

 凄まじい迄の気迫に対峙して、この人は、

「長らく……お待たせしました、楓さん…」

 その全てを分って受け止め、想いを返す。

 最初は『長らく』って大げさに感じたけど。柚明お姉ちゃんは楓さんの想いを、明良さ
んを失った昨年からも、お姉ちゃんが人を失った拾年前からも、全て察して受け止めよう
と。

 お兄ちゃんへの想い。明良さんへの想い。
 やり場のない虚しさに、剣で応えようと。
 楓さんはその想いをしっかり分っていて、

「私を、選んでくれたのだものね。昌綱の次に。彼の想いも本物だったから、私は正直僅
かに怖かった。貴女が昌綱に敗れて、私の処迄辿り着けないのではないかと、怖かった」

 でも、貴女は辿り着いてくれた。嬉しいわ。
 貴女にこの手で想いを叩き付けられる今が。
 私こそこの日この勝負を、待ち望んでいた。

 語りかける楓さんは本当に嬉しそう。戦闘的な笑みを浮べ、爽快な迄に敵意を隠さずに。
その猛烈な闘志を前に、柚明お姉ちゃんは尚柔らかに、本当に静かに穏やかに、透る声で、

「わたしのこの身は羽藤白花で出来ています。わたしが人の身を取り戻せたのは、白花ち
ゃんの血と肉の全てを変えた力を託されたから。ですからわたしは羽藤白花と言って良い
存在。貴女の仇です。どうか遠慮なく、存分に…」

 わたしもこの身と心と生命の限り応えます。

 柚明お姉ちゃんは怯まない、気圧されない。
 力の限り立ち合う事のみが、答だと悟って。
 全てを注いだ応戦だけが答になると知って。

『そして千羽党は剣士です。剣を交える事によってしか、想いの真偽は確かめられない』

 栞さんの言う通りだった。柚明お姉ちゃんはその強さを満たさなくても、受けて立って
いたに違いない。戦い方を、在り方を、立ち合う様を見せる事で、答を返し想いを伝える
他に、千羽に心を届かせる術はないのだと…。

「うづき、さん……?」「……、……さん」

 間近で俯くと黒髪が、カーテンの様に美しい容貌を隠してしまう。わたしは微かな呟き
に思わずそのカーテンに耳を寄せてしまって。

「桂さん、申し訳ない。私も、少し心が乱れている。桂さんを確かに支えて守る積りが」

 わたしの震えを抑える為に、膝に置いたこの右拳に乗せられた、細い左手も震えていた。

「だ、大丈夫っ。わたしは、大丈夫だから」

 何が大丈夫なのかは全然応えられないけど。
 こういう時こそわたしが支えにならないと。
 わたしも心身の震えは抑えきれてないけど。

「逃げないで、見守るって、約束したから」

 烏月さんにも柚明お姉ちゃんにも確かに。
 今こそわたしがしっかり己を保たないと。

「桂さんは強いね……ありがとう、嬉しいよ。
 自身が危うい時こそ、相手が危ういのだと。
 その様に、人を想い愛せる心の強さと優しさが、私が心底好いた羽藤桂、桂さんだ…」

 どっちが勝っても悔いは残るだろうけど。
 黒く深い双眸は微かに揺れて潤んでいた。

「今は見守る他に出来る事は、何もないわ」

 ノゾミちゃんの言葉に東条さんが頷いて。

 烏月さんは心乱されても己を取り戻せる強い人だ。本当はわたしの支えなど不要な筈だ。
烏月さんは、わたしの支える強さを引き出す為に、己の弱さを敢て晒したのかも知れない。

「終らせましょう。千羽と羽藤、私と貴女の定めの絡みに、その全てに今こそ決着を!」

 楓さんの攻めが、再開された。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あれは……!」「なん、だ。あの動き?」

 楓さんの今迄と違う動きに、鬼切りを含む観衆から戸惑いの声が上がる。それはわたし
も今迄に見た事のない、円運動を取り入れた。

「はや、とぅ、せいっ」「……っ、あっ…」

 柚明お姉ちゃんの回避が、一層辛そうに。
 何というか、躱せた後の次の一撃が巧い。

 躱し続けるお姉ちゃんの身にまとわりつく様に、執拗にヘビの様に刃が追い掛けてきて。
直線的で早く強い千羽の剣とは明らかに違う。

 当たっても必殺にはならないけど、それでも木刀は痛みを呼ぶし身体を痛める。数当た
ればそれだけで、柔らかな柚明お姉ちゃんの体は戦えなくなってしまう。必殺の一撃は狙
わず、足を鈍らせ動きを止めて弱らせようと。尚当たりはしないけど、尚躱せてはいるけ
ど。

 振りが小さく隙がないので反撃も難しく。
 お姉ちゃんは間合を掴めず形勢が危うく。

「九州を管轄する鬼切部菊池党に、蛇龍の動きを以てよしとする分派がいると聞いた事が
ある。楓さんは、他流にも興味を抱く人でね。千羽の伝統を重んじる大人衆は良い顔をし
なかったが、構わず積極的に武者修行に行き」

 東条さんが視線は激しい戦いに向けた侭、

「鬼切部だけではなく、野の剣道や柔道空手、ボクシングやその他の術式にも詳しく。女
の細腕の不利を補うには、常にプラスアルファを求めねばと言うのが、楓さんの持論で
ね」

「だが、兄さんの流儀に誇りを抱く楓さんが、他流の動きを真剣勝負に使うとは。使いこ
なせている以上に、楓さんは本当に本気だ…」

 躱せてはいるけど、躱せて一段落出来たというタイミングがなく、次の攻撃が迫り来て。

「ゆめいの動きは、五席の女の千羽妙見流では追い切れないという事なの? 鬼切り役」

「そうではない。柚明さんは初見で戸惑っているだけで、じきこの蛇龍の動きにも対応し
てくる。対応する前に倒しに掛るというのが、東条さんの考えだろうけど、楓さんは違
う」

 楓さんは、柚明さんをこの動きでは捉えられないと分っている。確かに独特で奇抜な動
きだけど、楓さんの真の力を遺憾なく発揮出来るのは、蛇龍の動きではなく千羽妙見流だ。

 勝負はむしろ、柚明さんが蛇龍の動きを見切って対応してきた瞬間にある。そして楓さ
んの勝負所は柚明さんも承知の筈だ。つまり、

「必殺技が来る。これはその、前哨戦だ…」

 それに蛇龍の動きを選んだ理由はきっと。
 烏月さんが言いかけて言葉を止めたのは、

「来るわよ、けい、鬼切り役。五席の女の」

 乱れる様に踊る様に回る戦いの動きの中で、楓さんが勝負を賭けてきた為で。来る…
…!

「えっ!」「なっ!」「なに?」「やはり」

 柚明お姉ちゃんは、蛇龍の動きに対応し始めていた。威力を捨てて、振りも突きも軽く、
代りに手数を増やす。木刀を振り切らず、突ききらず、躱す相手の身体を舐める様に追う。
敵の動きを読む戦い方に、蛇龍の動きを巧く絡め。でもそれは尚お姉ちゃんを捉えられず。
お姉ちゃんも楓さんの動きを読む。千羽妙見流じゃない楓さんは、むしろ読み易いのかも。

 そんな形勢が見えた瞬間、突如楓さんの動きの質が再度変じた。直線的で早く強い千羽
妙見流の動きを戻し、必殺の一撃が襲い掛る。なる程、初見の動きに戸惑い、漸く馴れ始
めて応対できてきた処に、本来の楓さんの動き、渾身の千羽の突きと振りを連続で叩き付
ける。

 受けて応じる柚明お姉ちゃんの動きは常に後出しだ。変化に即応するにも限度がある…。

 その瞬間にこそ、楓さんの本当の勝負所が。

「たああぁぁぁぁっ!」

 突き出された神速の木刀突きは、まさか。
 一本の木刀が残像でぶれて視えるこれは。

 柚明お姉ちゃんが額を打たれた様にぐらつく姿が一瞬だけ見えた。視えたけど、錯覚?

 瞬間、2人の攻防は終っていて。両者は木刀を中段に振り抜いた姿勢ですれ違っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 2人ともすれ違った姿勢の侭で固まって。
 息を吐く事もせず、身動き一つない侭に。

「勝ったのか……?」「当たったのか…?」

「一体、どっちが?」「どうなったんだ?」

 観衆にも大人衆にも、他の八傑にもこの攻防は視えなかったらしい。視えたのは烏月さ
んと、為景さんと、ノゾミちゃんだけの様で。ホームビデオでも、撮りきれない速さだろ
う。わたしはノゾミちゃんの視た像を、感応で瞼の裏に、再生映像の如く見せて貰えるけ
ど…。

「昌綱の必殺技だった二段突きは見えたが」

 東条さんもそれがお姉ちゃんに当たったか否か分らないと言い。その後の動きは視えず。

 楓さんは昌綱さんの必殺技だった神速の二段突きを、必殺技に繋ぐ技として使ってきた。
右側面を見せた柚明お姉ちゃんのやや背中側を突いて前に促し、その前面にもう一撃神速
の突きを出して。但し楓さんはそれでお姉ちゃんを倒す積りはなく、それは足止めの技で。

 前後に振って木刀突き二本で真ん中に、左右に逃れられなくして楓さんは、真に必殺の
振り下ろしを。柚明お姉ちゃんは左右に躱せない以上、後退するか木刀で受けるしかない。

 昌綱さんは、二撃目で柚明お姉ちゃんの身を狙ってきた。だから躱せたお姉ちゃんは反
撃出来た。でも今回楓さんは同じ技でも必殺ではなく、お姉ちゃんの身体目当てではなく、
左右への回避を防ぐ意図で突きを出している。突きのポイントが、ほんの少し左右に幅広
い。柚明お姉ちゃんも、その『ほんの少し』を更に左右の外側に躱しての反撃を、封じら
れて。

 そして、躱し終えたお姉ちゃんに来たのは、更に神速の振り下ろし、三撃目で。これが
楓さんの真の必殺技だった。途方もない威力と早さの振り下ろしは、それだけで玄人のブ
ロックを叩き折り、達人の回避を手遅れにする。楓さんの勝負を賭けた、想いを乗せた必
殺技。

 柚明お姉ちゃんはそれを見切って、全力で退く。お姉ちゃんの見切りも、初動の読みも、
動きも疾く鋭くて。楓さんの一撃は凄まじかったけど、回避は成功するかに思えた。でも。

 あれは、何と言えば良いのだろう。

 木刀が伸びた訳ではない。楓さんの腕の振りや足の踏み込みが伸びた訳でもない。木刀
自体は、柚明お姉ちゃんには当たらなかった。お姉ちゃんは今裸に剥いても傷一つない筈
だ。

 でも、それは当たっていた。楓さんの想いを込めた、力を込めた、必殺の振り下ろしか
ら生じたそれは、木刀に込められ、最後の瞬間木刀から振り飛ばされて。柚明お姉ちゃん
の側頭部に飛んで、当たって弾け。あれは…。

「あっ!」「おっ!」「これは」「何とっ」

 硬直していた戦場に動きが生じた。2人共同時にその姿勢から崩れ落ち、両手を付いて。
どっちがどうなったのか、未だ観衆には分らない。大人衆も八傑も注視を止められぬ中で、

「桂さん達は経観塚で私の魂削りを見たね」

 烏月さんは身震いを抑えつつ静かに問うて。
 わたしが黙した侭頷く横でノゾミちゃんが。

「私はそれであなたに一度還されかけたわ」

「では2人は、千羽妙見流の奥義・鬼切りを知っているかい?」「う、うん」「ええ…」

 わたしもノゾミちゃんも経観塚で、ご神木の前で消え掛った柚明お姉ちゃんを繋ぎ止め
る為に、生命と想いを重ね合わせた。力も記憶も流入し合った。あの夜に柚明お姉ちゃん
が見聞きした事の多くは、わたし達の心にも残っている。白花お兄ちゃんが、烏月さんに
揮う事で伝えた、千羽最強の技『鬼切り』も。

「楓さんの技は、魂削り以上で鬼切り未満」

 間合を見切り攻撃を躱し続ける柚明さんを、楓さんはまともな手では追い切れないと見
て、反動も覚悟で一撃必殺の勝負に出た。間合を見切れる柚明さんにだからこそ、利く一
撃で。

「鬼切りは、刀で相手を切るのではなく、刀に宿らせた力を、切っ先から更に伸ばして魂
を撃つ。つまり、ゆめいがギリギリで見切って躱した、その先に伸ばして当てられた?」

 ノゾミちゃんが訝しげに問うのは、千羽の三強でもそれが出来るのかという疑念の故だ。
鬼切り役の烏月さんでさえ、夏の経観塚で白花お兄ちゃんに使われて受けて、漸く体得し
た程の技を。もしそれを使えるなら、先に楓さんが鬼切り役になっていて、おかしくない。

「鬼切り程の威力はない。鬼切り程に伸びもしない。今も髪を切る程の間合で迫ったから、
そこからほんの僅かに伸びて柚明さんを捉えられた。多分威力は魂削りと同程度か少し上。
名付けるなら『飛び魂削り』と言う処かな」

「飛び魂削り……」「なるほど、それで魂削り以上で鬼切り未満だと。感触が掴めたわ」

 でも、魂削りだって充分すぎる威力がある。
 肉体にはダメージはないけど、精神にはね。

「ゆめいは今は鬼ではないけど、それでもあれを喰らったら、唯では済まない事は分る」

 目の前では、崩れ落ちた柚明お姉ちゃんが両手を付いて苦痛に堪えている。絶体絶命に
見えたけど。状況は楓さんも一緒だ。数メートル離れて背を向け合って、互いに受けた痛
手から、崩れた己を立ち直らせようと必死で。

 痛み分け、なのかな? 柚明お姉ちゃん。
 身には傷一つないけど、痛手は甚大な筈。
 駆けつけたいけど、又勝負は終ってない。

 真剣勝負の場に、割り込みは許されない。
 わたしが寄り添うのは終った後か始る前。
 未だ動けない。見守らないといけないの!

 約束したから。わたし、烏月さんと柚明お姉ちゃんにしっかり見守るって約束したから。
勝っても負けても事が終る迄は見守らないと。手出しをしてはいけない、駆け寄ってはダ
メ。剣士達の戦場を部外者が壊してはいけないの。

 震え出す身体を、膝に置いた右の拳を軽くその左手で抑え、自制を助けてくれる美しい
人を見つめ返して、大丈夫だからと瞳で応え。

 でも、楓さんが尚左手の木刀を手放さず必死に握り続けているのに対し、お姉ちゃんの
木刀は右手を離れて床に転がって。戦いを続けるなら、それは手に持たねばならない物だ。

 もう柚明お姉ちゃんには戦う余力がない?
 観衆も状況が分らない侭見守り続ける中。

「楓さんの『飛び魂削り』が当たったなら」

 楓さんの勝ちなのか? 東条さんの問に、

「私も今回はゆめいの負けかと想ったけど」

「柚明さんは怖ろしい。楓さんが魂削りを放って消耗する事を承知して、読み込んで…」

 烏月さんはさかき旅館で、ノゾミちゃんを魂削りで撃退した直後、精根尽き果て廊下で
倒れ込んだ。声を掛けても触ってもぴくとも動かぬ烏月さんを、わたしは引きずってわた
しの部屋で、わたしのお布団に寝かせ。それで己の寝床を失ったわたしは、他に術もなく、
烏月さんの美しい寝姿の隣に身を潜り込ませ。

 つまり。魂削りは膨大な力を必要とする一撃必殺の業だ。楓さんにとっても楽な話しで
はなく。体得していても、それを放つ事で膨大な力を失えば。昏倒はせずとも動きは鈍る。

「楓さんが止めに放った木刀の中段の薙ぎ払いは、威力の乗った鋭い攻撃だった。消耗や
疲弊を感じさせぬ、想いの乗った良い一撃だった。だが、贄の血の力を身の内で守りに作
用させていたのだろう。柚明さんは飛び魂削りを喰らった後、ぐらついた身を心を瞬時で
立て直し、楓さんに中段の薙ぎ払いを返し」

 楓さんを油断と責めるのは酷かも知れない。
 まさかあそこから楓さんの攻めに反撃する。
 だが柚明さんの読みと力が楓さんを上回り。

 すれ違い様の攻防は柚明さんの勝ちだった。
 攻撃直後に撃たれれば楓さんも耐えられぬ。

「お姉ちゃんは敢て楓さんの必殺技を受ける事で、反撃の機会を掴んだの? 烏月さん」

「楓さんも相手の動きを読めて隙のない人だ。柚明さんにも難攻不落だったのだろう。何
とかして崩そうと。反撃の機を掴もうとして」

 必殺の業の後には大きな隙が出来る。特にそれが力を注いだ渾身の一撃であればある程。

 精神の痛手と肉体の痛手。威力の比較は難しいが、数では互いに一撃与えている。でも、
柚明さんのそれが想定して受けに行った一撃なら、気合で防護する積りの処に受けた物な
ら、木刀の振り下ろしを木刀で受けたに近い。

「魂削りが精神に強く響く力なら、贄の血の力も又精神に強く響く力。性質はほぼ同じ」

 お姉ちゃんへの一撃は防がれていて、楓さんの受けた一撃は、木刀が確実に食い込んだ。

「柚明さんはこれを想定していたとしか思えない。流れや勢いで凌ぎきれる一撃ではない。
最初からどの様な攻撃が来るかを分って受け止め、楓さんの踏み込みを待って、こう打ち
返す積りだった。楓さんが柚明さんの間合に踏み込んだのは、今が最初で最後だった…」

 苦痛に顔を歪める美人2人の内、立ち上がれたのは柚明お姉ちゃんで。木刀も拾わず楓
さんに歩み寄る。楓さんは尚必死に身体に気合を通わせ、左手に木刀を握りしめて放さず。

「未だ……未だ、戦えます。私は、未だ…」

 明良様の流儀は負けはしない。鬼切部千羽党の真の流儀は決して敗れはしない。決して。

「もう充分です。充分に、受け止めました」

 屈み込んで、その背から両の腕を回して。

 整った容貌を般若に変えて身に力を通わせようと必死に足掻く楓さんに、柚明お姉ちゃ
んは、その左耳朶に唇を近づけ、囁きかけて。

「明良さんの流儀は負けてはいません。明良さんが目指し続けた真弓さんの流儀は、今回
も勝ちました。本当に、賢く優しく強い人」

 柚明お姉ちゃんは剣士ではない。決着が付いた後に木刀を持つ必要はない。お姉ちゃん
が木刀を拾わず歩み寄る以上、もう楓さんに戦う余力はないのだ。それで尚左手に木刀を
握り締め、立って戦おうと己を奮い立たせる楓さんは、本当に凄い精神力の持ち主だけど。

「千羽の想いは受け止めました。あなたの想いは受け止めました。鬼切部千羽党の強さを、
千羽楓の全ての力を、余す処なく見せられ身に受けました。力も技も想いも覚悟も。もう
充分です。これ以上自身を苛むのは止めて」

 柚明お姉ちゃんの両腕が、繊手が振り解こうと足掻く楓さんの両肩を包んで前に回って、
胸の前で左右が組み合わされて、締め付けて。

「あなたは羽藤白花に一撃を与えました。確かに想いを届かせました。あなたの辛さに較
べれば、何分の一にも満たないでしょうけど。取り返せない幸せの償いには、ならないで
しょうけど。強くてまっすぐな本当の想いを」

 尚足りないと想うなら、わたしはいつでも幾らでも生命の限り、受け止めます。だから、

「もう自身を苛むのは止めて。明良さんへの罪滅ぼしに憎くない者を憎む無理はしないで。
あなたは本当は羽藤白花を憎んでない。明良さんが愛し育てた彼をあなたは心底憎めない。
あなたは明良さんと心も繋っていたのだから。明良さんの大切な物はあなたにも大切な
物」

 羽藤白花を憎めない己を責めるのは止めて。
 彼を切れなかった自身を責めるのは止めて。

「誰にもどうにも出来ない事はある。そうする他に仕方のなかった事はある。取り返す術
のない事も世の中には幾つかあるの。あなたは常に、あなたの最善を尽くしてきた筈よ」

 観衆も他の誰もが粛然と静まり返る中で、

「届かない想い、及ばない力、叶わない願い。世の中に理不尽は付き物だけど、あなた自
身の心に問うて。千羽楓はいつの時点でも常に、千羽楓の全身全霊でたいせつな人を想い
続けてきたのではなくて? その過去を否定する事は、彼の望み? あなたの本当の想
い?」

 楓さんの動きが凍る。柚明お姉ちゃんは楓さんを抑え込みに掛った訳ではない。楓さん
に余力がない事は、お姉ちゃんが分っている。これは心を抱き留めて、想いを通わせる為
に。

「為した事は取り返せない。終えた事にやり直しは利かない。でもその過去に抱くあなた
自身の今の想いは変えられる。あなたはあなた自身の過去を、全身全霊を否定するの?」

 悔いても良い。泣いても良い。震えて誰かに抱きついても良い。どんなに強い人でも痛
みは痛み、哀しみは哀しみ、苦しみは苦しみだから。その限界を超えれば叫びは出る。唯、

「あなた自身の真の想いは、あなたの過去を認められない? 一番たいせつな人を全身全
霊想い続けた過去のあなたを、許せない?」

 及ばなくても届かなくても、欠落や失陥があったとしても。真にたいせつな人を想う故
の行いが、その人の最期を導く事になったとしても。あなたはその時の最善を選んで来た。
もう自身を憎み苛むのは止めて。羽藤白花を憎む以上にあなた自身を憎み苛むのは止めて。

「それが明良さんの望みでもない事を、貴女は分っている。理屈を越えて吐き出したい憤
懣があるなら、わたしが受けます。羽藤の所為である物も、そうでない物も、わたしが受
けます。あなたは、わたしのたいせつな人」

 まるで年の離れた姉に、今日学校であった出来事を、耳打ちしてお話しをする妹の様に。
柚明お姉ちゃんは優しげに、尚心の鎧を脱ぎきらない楓さんの、魂に向けて語りかける…。

「有り難う……白花ちゃんを大切に想ってくれて。生命を絶たないでくれて。拾年もの間、
満足にお礼も言う事も叶わなかった。あなたのその選択が無辜の多くの生命を奪い、千羽
党の多くの人を傷つける末を招いたと分って。明良さんを烏月さんに切らせる結果を招い
たと分って。わたしは酷い女です。それは今更否定はしない。彼を生かしてくれて有り難
う。

 そしてごめんなさい。わたしの一番たいせつな人の為に、あなたの一番たいせつな人を
失わせた。あなたの幸せを断ち切った。あなたに生涯拭えない罪と悔恨を与えてしまった。
あなたの喪失は、苦痛は、哀しみは、怒りは、恨みは、虚しさは、紛れもなく羽藤の所
為」

 それで尚心底から白花ちゃんを憎みきれず。
 明良さんの想いと流儀を確かに受け継いで。
 苦痛も悲憤も罪も悔恨も呑み込んで堪えて。

 鬼切部の真の在り方を見失わず、抱き続け。
 本当に賢く強く優しくて、愛しく綺麗な人。

 楓さんはもう抗う事もせず。唯柚明お姉ちゃんの背後からの抱擁に身を任せ。柔らかな
身が緊密に接するのは、お姉ちゃんの意志だ。その近しすぎる関りを、楓さんはみんなの
前で敢て拒まず、瞳を閉じて脱力して受け容れ。

 黙する楓さんに柚明お姉ちゃんは諄々と、

「羽藤白花は、あなたか烏月さんに討たれたいと望んでいました。彼が自身の生命の終り
方を選べたなら、己を討たせる相手として望んだのは、烏月さんか、あなたか、栞さん」

 栞さんの名が出た時、楓さんに得心の笑みが視えた。本当に白花お兄ちゃんの言葉で意
志なのねと言う、納得の苦笑い。後で知ったのだけど、栞さんが明良さんに抱いた恋心は、
楓さん以外は千羽でも本当に誰も知らなくて。

 観衆の中で栞さんが哀しそうに瞼を伏せる。ああ、栞さんは明良さんの願いに応え、白
花お兄ちゃんを匿う助けをした懲罰に、八傑への昇進を断たれたのだ。そして己のその行
いこそが、恋した明良さんの死に繋ったのなら。

『この立ち合いを回避すべきでありません』

『千羽には千羽の想いがあります。烏月様が桂さん達に抱く想いとは別に、千羽の多くの
者が抱く羽藤への遺恨が。……その想いを叩き付けない侭に、羽藤と絆を繋ごうとしても、
頭で理解できても、心で納得できませぬ!』

『当主の判断には従います。羽藤との盟約は我らも了承します。しかし烏月様、千羽の皆
の想いも分って下さい。皆が皆、賢く発想が柔軟な者ばかりではないのです。一年半前の
あの日から、一歩も動けぬ者もいるのです』

 大人衆の作為に乗ってでも、烏月さんの信に背いてでも、見過ごせなかったんだ。本当
は栞さん自身が立ち合いたかったに違いない。栞さんも、羽藤への憎悪や悲憤を耐えてい
た。まさかその相手を見守る役を任されようとは。

 柚明お姉ちゃんは一瞬栞さんを向いて頭を下げる。それは楓さんの心を開く為に、白花
お兄ちゃんの想いを伝える為に、栞さんの秘めた恋心を明かしてしまった事への、謝りで。
きっと後で正式に謝るからと言う予告なのだ。

「彼は己の生命の終り方も選べなかったから。
 目的の為に生命を使い切る積りだったから。
 明良さんの最期を招いた己を、彼は心底悔いていた。あなた達の想いに応えられず、償
いに生命も差し出せないと、悔しがっていた。その何分の一かでもわたしが拭い取らない
と。羽藤白花の生命と想いを預るわたしこそが」

 例え届かなくても、彼が為さねばならなかった事は、彼が為そうとしていた事は、彼が
為したく望んでいた事は、わたしの真の望み。羽藤柚明が全身全霊注いで叶えたい真の願
い。

「今日は始りです。羽藤と千羽の関りが今から始る様に、楓さん、あなたの想いには今か
らわたし、羽藤柚明が生命の限り応えます」

 うわ。柚明お姉ちゃん、まるでそれって。

「哀しみも、怒りも、憎しみも、恨みも、この身と心で受け止めます。打ち据えても刺し
貫いても良い。一番たいせつな人の幸せと守りの為に、生命を絶たれる事は出来ないけど、
その代り好きなだけ、あなたの想いを叩き付けて。わたしは全て受け止めます。羽藤白花
として、羽藤柚明として、あなたの全てを」

 千羽楓は、羽藤柚明のたいせつな人です。
 後ろからの抱擁がぎゅっと強く締まって。
 楓さんの頬を二筋の滴が流れ落ちて行く。

 その微かな身震いは哀しみと愛しさ故に。
 怒りでも憎しみでもなく強い共鳴の故に。
 楓さんは漸く静かに低く言葉を紡ぎ出し、

「一つ聞いて良い? ……貴女は、明良様を好いていたの? 明良様には遂に聞けなかっ
たけど、貴女は……明良様を愛していたの? そして貴女は明良様に愛されていたの?」

 隣で烏月さんが凍り付いていた。ノゾミちゃんも東条さんも、勿論わたしも注視の中で、

「千羽明良は、羽藤柚明のたいせつな人…」

 優しく強く賢くて、立ち居振る舞い爽やかな人。人の生命以上に微笑みも守れる強い人。

 無茶して危うかった処を助けられて、叱りつけられた時は、厳しい声に感じた優しさへ
の嬉しさを隠せずに、更にもう一言叱られて。でも本当に頼りがいのある、愛しい人だっ
た。

 柚明お姉ちゃんは幸せそうに切ない表情で。
 明良さんへの想いと楓さんへの想いを兼ね、

「わたしは最後迄、一番にも二番にも出来なかったけど、特別にたいせつな人でした…」

 穏やかな声は道場の中に染み渡る様に響く。
 そしてもう一つの問への答も淀みなく進み。

「明良さんの気持は、わたしも訊く事はしませんでしたけど、問う必要はないと思います。
明良さんがなぜ、わたしの話しを楓さん以外、千羽の誰にも明かさなかったと思いま
す?」

 栞さんが明良さんに抱いた想いを、あなた以外には、千羽の誰にも明かさなかった様に。

 拾年間の行いから、答は既に視えていた。
 気付けなかったのは心が近しすぎたから。
 ほんの少し引いて見つめ直せば視える筈。

「余計な誤解を招きたくなかった。わたしも年頃の女の子でしたから。年下の妹弟子を気
に留めただけでも。鬼切りの業ではなくても、叔母さんに鍛えられたわたしの存在が。千
羽では憶測を招きかねないと案じたのでしょう。明良さんは強く優しく、その上千羽のみ
んなに強く愛されて、慕われていましたから…」

 でも、あなたにだけは話した。何もかも。
 他の誰にも明かしづらい事をあなたには。

「誤解を招く心配など微塵もなかったから。
 あなたとは誰より強く心繋っているから。
 全てを打ち明けられる本当のパートナー」

 お分りでしょう? 敢て口に致しますか?
 ほんの少しだけ羨む語調でお姉ちゃんは、

「わたしはその面では、あなたと同じ戦場にも立ててない。彼の想いを奪い合う処迄辿り
着けてない。わたしは妹弟子として心に留められただけ。紛れもなく、あなた1人です」

 千羽楓は賢く強く、優しく華やかに美しい、千羽明良が心から愛した、唯一人の女性です。

 拾年以上絡み続けた因縁が、今決着した。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 道場は何人かの女性の、すすり泣く声に浸されていた。反逆を問われ鬼切り役を解任さ
れたとはいえ。烏月さんに討たれて壱年半経った今も尚。千羽のみんなが敬愛した明良さ
んへの強い想いは、多くの人に根付いていて。

 公式にはどうでも、烏月さん自身が明良さんを敬愛しているのだ。幾ら大人衆が若杉や
他党の目を気にして抑え込もうとも、心は命令で左右出来ない。千羽の羽藤に抱く遺恨の
大きな一つが、明良さんと白花ちゃんの関りにある。大人衆の遺恨の一つさえそこにある。

 最も大きな悲憤を抱く楓さんに、最後の最後迄強く優しく応えきった柚明お姉ちゃんに、
みんなの感触は変り始めていた。華奢な細身で大きな強者に、必死に応戦する姿も印象深
かったのかも知れない。昌綱さんも楓さんも、お姉ちゃんより背も高く筋肉もあって、強
靱だったから。立ち合いに応じて戦い抜く姿が、困難に立ち向かう姿が、観衆の好意を呼
んで。大人衆の思惑を外れるどころか、お姉ちゃんは一部の大人衆の心迄、引き寄せ始め
ている。

 立ち上がろうとして、足がふらつく楓さんに手を差し伸べたのは、紅葉さんと栞さんで。

「ごめん、紅葉、栞。私、負けちゃった…」

 しかも年下の娘に泣かされた。格好悪い。
 でも告げる表情はなぜか吹っ切れていて。
 迎える2人も瞳を潤ませ声を詰まらせて。

「貴女が負けるなら」「仕方ないわよ……」

 紅葉さんに正面から抱きつくのは足下不如意の所為だけど、もう一つの因は紅葉さんが
栞さんを前に軽く押し出して、楓さんを独り占めした為だ。未だ座り込んだ侭の柚明お姉
ちゃんの前へと、栞さんは1人押し出されて。

 2人は正面間近で向き合う形になっていた。
 座った侭のお姉ちゃんと立った侭の栞さん。
 正に許しを請う者と与える者の体勢だった。
 柚明お姉ちゃんは栞さんに深々と頭を下げ、

「後日栞さんの想いも、必ず受け止めに伺います。……そして、栞さんの秘めた想いを大
勢の前に晒してしまって、ごめんなさい…」

 紅葉さんはこの状況演出の為に、楓さんを1人受け止め、栞さんを突き出した。栞さん
はたった今親友を打ち倒した相手を前にして、

「面を上げて下さい。柚明さん」

 栞さんが屈み込んだ次の瞬間。

 ぱぁあん! 掌が頬を叩く音が響き渡る。
 柚明お姉ちゃんの左頬を強く打ち据えて。

「私は貴女の様に優しくはない。甘くもない。私は鬼切部千羽党の鬼切り、千羽栞。為さ
れた非礼は叩き返せと教わってきた。申し訳ないが、私は形にして決着しないと納得出来
ない性分でね。その代りこれで遺恨はなしよ」

 うう、美人だけど栞さんって男っぽく清々しい。喋り口調より姿勢より、その考え方が。
戦う強さと華やかさを兼ねる楓さんに、大人と言うより母性の強さを感じさせる紅葉さん。
この3人、美しさも魅力も技能も全然色合いが違うけど、同じ位の歳で最高に仲良いんだ。

「これで貴女が尚関係を望んでくれるなら…。
 私が抱く想いの全てを、その身と心の折れる迄受けて頂こう。その華奢で柔らかな体で
どこ迄叶うかは、危うそうに見えるが。楓を破った程の者なら、存分に叩き付けられる」

 長くおつきあい願う事になるが宜しいか。

 それは苛烈に熱い、栞さんらしい受容だ。

「千羽栞は、羽藤柚明のたいせつな人……」

 栞さんに返される声はやはり、柔らかで。

 膝立ちで屈んだ栞さんと座した侭見上げる柚明お姉ちゃんは、王子様とお姫様みたいで。
何か物凄く悔しいけど美しくて声を挟めない。

 柚明お姉ちゃんはその侭栞さんの胸に己を預け、繊手を背に回して頬を寄せ、瞳を閉じ、

「羽藤白花として、羽藤柚明として、あなたの全てに応えます……わたしの生命の限り」

 千羽のみんなが、息を呑んで見守る前で。
 栞さんも柚明お姉ちゃんの背に腕を回し。

 見守る側が頬熱くさせられる程の抱擁は。
 もう愛し合っている様にしか見えないよ。

 深呼吸を何回かする程の時間が過ぎた後。
 2人の世界に挟まったのは楓さんの声だ。

「貴女はそうして、何人もの想いを重ねて負い続けて行くのね。背負い切れないと承知の
上で。羽藤白花が失わせた者を巡り、二度と戻らぬ羽藤白花の為に、守りたい従妹の為に。
本当に、愚かしさを越えて甘々に優しい…」

 抱擁を解いた栞さんは、左肩を紅葉さんに支えられた楓さんの、右肩を支える。正座し
直す柚明お姉ちゃんを見下ろして、楓さんは、

「精々その生き方を貫き通すと良いわ。真弓様に認められ、明良様を驚かせた、貴女の物
珍しい在り方が、どこ迄通じて届くのか…」

 私も明良様を、生涯心に抱いて生きて行く。
 もう誰に見せる必要も分らせる必要もない。
 その強さも正しさも己が分っていれば良い。

 貴女を見せられて悟れた事実は悔しいけど。
 本当に貴女は愚かな程に純粋で強く優しく。
 今日は貴女の勝ちよ、羽藤柚明。でも次は、

「貴女が折れてなければ、何度でも想いの全てを叩き付ける。約束したからには必ず…」

 楓さんはその先は語らなかった。最早言葉に出す必要もなく、想いは通じ合っていたと、
気付いた様で。頬を染めつつかぶりを振って。2人に肩を支えられ歩み去り掛けた時だっ
た。

 振り返ったのは紅葉さんだ。硬い声音が、

「……羽藤柚明さん。私は、鈴音と琴音と一緒に待っています。それは、お忘れなく…」

 お姉ちゃんは正座の侭黙礼を返していた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「昌綱様に続き……」「楓様まで破るとは」

「信じられぬ、三強が」「一体どうなって」

 最早ざわめきは、大人衆の一喝でも静止出来なくなっていた。鬼切り役に次ぐ強者・千
羽の三強が、2人倒された。しかも昌綱さんも楓さんも、大人衆の在り方に異論ありと見
せつけて。大人衆の威令の失墜する様が分る。

 でもわたしはそんな事はどうでも良くて、

「ゆっ、柚明お姉ちゃんっ……」「桂さん」

 段上から駆け下りて、抱きつきたかったのだけど。栞さんを羨ましく想った訳じゃなく。
さっきは勘違いで睨む視線送って、余計な不安を与えたし。謝りたかった。一緒に喜びた
かった。見ているだけで凄絶な試合だったし。壱秒の百分の壱遅かったら、一手誤ったら
結果が逆になる戦いだった。お姉ちゃんが勝った事より傷もなく無事でいる事が一番嬉し
い。

 抱きついて確かに大丈夫と、肌身を合わせて確かめたかったのに。この足は長い正座に
耐えられず、情けなくも痺れて身動き取れず。

「急に動くと危ないよ桂さん」「烏月さん」

 間近の綺麗な人に抱き支えられ、漸く床に唇を奪われずに済む。その膝に崩れ掛かって、
腹の辺りに頬が当たる。烏月さんの肌も極上の絹の感触で、いつ迄も頬寄せていたいけど。

 少し足を伸ばそうと促され、痺れる足を伸ばして自ら揉んでみる。つぁ! 痺れるぅ…。

「焦らなくて良いよ。柚明さんとお話しする位の時間は取る様に、景勝さんに言うから」

 暫くそこで足を伸ばして、痺れが取れるのを待つと良い。烏月さんはわたしの間近に顔
を寄せてきて、転んで乱れたわたしの髪をその細い指で整えてくれて。柚明お姉ちゃんに
も良くして貰っているけど、烏月さんにして貰うと、それとは又違ったドキドキがあって。

 何気ない好意なのに、唯近しいだけなのに。
 千羽でも特に年若な男女の視線が少し痛い。
 わたし、何も後ろめたい事はしていません。

 わたしのお腹に住んでいる、もう1人のわたしが音を発したのは、丁度そんな時だった。

「もう3時過ぎだ。桂さんもお昼抜きだったね。おやつでも用意させよう」「い、いえ」

 確かにお昼も食べてないから、お腹は減っていたけど。柚明お姉ちゃんが危険な立ち合
いに臨んでいる時に。わたしだけが安穏と間食を頂く訳には行かない。お姉ちゃんも対戦
が終る迄食べないだろう。わたしはお腹の求めを振り切って、首を左右にぶんぶん振って、

「我慢できます。お姉ちゃんも他の誰も食べてないのに、わたしだけ食べる訳には行きま
せん。格闘技の観戦とは違います。わたしも、お姉ちゃんと一緒に真剣勝負に臨んでいる
の。
 わたしは戦えないけど、戦う術を持たないけど、危険を被る事も出来ない当主だけど」

 せめて羽藤として、千羽の想いを受ける場に立ち合う事で、柚明お姉ちゃんが想いを千
羽に届かせる場に立ち合う事で、一緒に事に臨みたい。見守って欲しいって、お姉ちゃん
は言ってくれたから。全身全霊見守らないと。

 烏月さんの気持はこの上なく嬉しいけど。

「分担は不公平な程わたしに楽で、お姉ちゃんに重い配分だけど。それをこなす限りわた
しはお姉ちゃんと一緒に事に向き合えている。役割を果たせているの。羽藤の責任を分ち
合っている。経観塚の夏の様に、唯守られている訳じゃない。何も出来ずに唯見ているだ
けじゃない。ほんの少しでも何かの役に立てている。我が侭でも、それを壊したくない
の」

 お気遣いを断る形になってごめんなさい。

「けい……」「……桂さん、分ったよ……」

 何も謝る事はないと、見上げた烏月さんはわたしに優しく微笑み返してくれて、続けて、

「では食べ物の代りに、飲み物を用意しよう。桂さんだけじゃなく、柚明さんや他の皆に
も。マラソン選手の給水の様な物さ。鬼切部も長時間戦う場合、水や栄養を補給するから
ね」

 それならわたしも真剣勝負の場を崩した事にならないと。烏月さんは本当に賢く優しい。

 少しの休憩や飲み物を配る指示に、烏月さんが東条さんと大人衆の元へ。それを視線で
追う内に、柚明お姉ちゃんの姿が目に入って。

「柚明お姉ちゃん、大人衆にお話しに…?」

 義景さん達大人衆の上席3人にお辞儀して、何事かお話ししている。横から歩み寄った
景勝さんに、封筒らしい物を渡して。お願いしますと、頭を下げていた。若干の問答を経
る内に、お姉ちゃんを囲む様に貴久さんや雅さん達他の大人衆も、一つ処に固まって来て
…。

 このあと為景さんとの立ち合いに臨むのに。お姉ちゃんは千羽に一体何を申し出たのか
な。烏月さんも東条さんも一緒に考え込んでいる。最後の試合が終った後では遅い事なの
かな?

 足の痺れも取れてきたし、お話しが続く様なら、お姉ちゃんに添いたいなと、添うつい
でに中身も聞ければいいなと思ったのだけど。柚明お姉ちゃんが申し出る事は、多分羽藤
としての何かだから。わたしも関っておくべきだと思うのです。時間がなければ、立ち合
いが全部終った後で聞く手もあるとは思うけど。

 そう思っていたら、ちょっと動きが見えた。長政さんと秀康さんが剣道着の人を数人呼
びつけ、何か指示を出している。他の大人衆は東条さんや烏月さんと一緒に尚話し中だけ
ど。

 突如背後間近から、敵意を宿す鋭い声が、

「大人衆に賄賂でも送って手加減を頼むか」

 いつの間にかわたしの背後間近にいた谷原さんだった。後ろなので表情は見えないけど、

「言って置くが大人衆に幾ら金品や饗応をしても、千羽の剣士にわざと負ける者は居ない。
大人衆も元は殆ど千羽の剣士だ。千羽の誇りを売り渡す様な、腐った性根の者は居ない」

 谷原さんの敵意を抑える様に、やや温厚な三上さんの声も届くけど。その中身は類似し、

「仮に大人衆が承諾しても、そんな命に従う腑抜けた剣士は千羽におらぬ。今更女の涙や
猫撫で声で頼んでも無意味。三強に挑む等という無謀を為すからよ。貧して鈍したか?」

 ノゾミちゃんが、青珠の中で身構えていたと気付けたのはこの時漸く。間近に来たのに
全然気付けなかった。わたしは何の修行もないけど。せめてノゾミちゃんの反応に気付く
べきだった。もう少し余裕があれば、ノゾミちゃんもわたしに教えてくれたんだろうけど。

 害意迄はないけど、敵意は明らかだった。
 谷原さんだけじゃなくて、三上さんにも。

 烏月さんも東条さんも栞さんも傍におらず。ノゾミちゃんは間近の鬼切部の敵意に反射
的に身構えた様だけど。わたしも背筋が凍った。不意に背後に立たれるって、こんなに怖
かったっけ? 陽子ちゃんには良くやられたけど、殺気や闘志の有無でここ迄緊迫感が違
うの?

「剣士の戦いに、汚い下工作など不要ぞ…」
「何を小細工したとて、最早結果は変らぬ」

 振り返った処で漸く、谷原さんと三上さんの言葉の意味が飲み込めてきた。2人は柚明
お姉ちゃんが千羽との勝負に手心を加えて欲しくて、賄賂を送ってお願いしたのだと思っ
ている。金品や何かの約束の引替に、今からの勝負に手加減を願い出ていると、勘ぐって。

 確かに昌綱さんも楓さんも凄く強かったし。為景さんは更に、輪を掛けて強いに相違な
い。できるなら回避したい戦いだったけど。でも。

「柚明お姉ちゃんは、そんな汚い真似をする様な卑劣な人じゃありません!」「けい…」

 わたしは叫び返していた。予想以上の大声にノゾミちゃんだけじゃなく、自身びっくり
したけど。でも、声に宿した憤りはそれ以上。

「柚明お姉ちゃんは、剣士の神聖な道場を賄賂で汚す人じゃありません。争いは好まない
けど、曲がった事も好まない。真剣勝負を重んじる千羽の人達が、そう言った工作を好ま
ない事も分っています。見損なわないで!」

 この立ち合いだって、嫌がり続ければ拒む事も出来たのに、敢て受けた。剣士じゃない
のに敢て剣の戦いを受けた。不利も痛みも敗北も、覚悟の上で受けたのに。今更己可愛さ
にそんな手段に走る卑劣な人じゃない。千羽党にそれが通ると錯覚する愚かな人じゃない。

 わたしの心が沸騰していた。お姉ちゃんを侮辱された事への憤りが、止まらない。こん
なに真摯で優しく賢く、自身よりも常に相手の事を考え続ける、綺麗な人を。その想いを
理解せず、分らずにけなす者が許せなかった。

「柚明お姉ちゃんは、昌綱さんを実力で破ったんです。楓さんにも正々堂々勝ったんです。
その後で賄賂を送って何になるんですか!」

 仮に賄賂を贈るなら、事前に贈って全員取り込もうとする。贈る前に2人と戦って敗れ
ては意味がない。それに昌綱さんも楓さんも為景さんも、賄賂が通じそうに思えない。柚
明お姉ちゃんがその程度見抜けない筈がない。

 のし掛る様な大男に反駁していた。相手が烏月さんの仲間である事も、吹き飛んでいた。
唯悔しく、心の底から怒りがわき出してきて。わたしのたいせつな柚明お姉ちゃんの、必
死の覚悟を、全身全霊の戦いを、貶めないでと。

 ノゾミちゃんの制止も振り切って、わたしは剽悍で大柄な男性2人に、怒りを叩き返す。
いつの間にか、振り返ったわたしの背後に再度気配が近づいている事にも気付けてなくて。

 身体が怒りに震えていた。真剣に年上の男性に頭を下げさせる積りでいた。そんな事を
考える発想の根を、断ち切りたく想っていた。どうしてみんな、お母さんの事も白花お兄
ちゃんもお姉ちゃんの事も、分ってくれないの。

 烏月さんは分ってくれたのに。金時さんや藤太君や菖蒲さん達は仲良くしてくれたのに。
栞さんも楓さんも昌綱さんも、お姉ちゃんと心通わせたのに。紅葉さんや琴音ちゃんや鈴
音ちゃんとも心繋げそうなのに。どうして!

「……桂ちゃん、心を鎮めて」

 後ろから、柔らかな繊手に抱き留められた。
 左の頬に、柔らかな右の頬を触れてくれて。
 心の大波を鎮める為に、肌身を合わせて…。

「わたしを想ってくれる、熱い心は分った」

 一呼吸、二呼吸。わたしの怒りが静まる迄、深呼吸出来る時間ゆっくり肌身に抱き留め
て。間近で見た人達は固まっていたけど、お姉ちゃんは気に留めない。わたしの激情を鎮
める方を優先すると。この抱きつきを完遂すると。

「わたしの為に、それ以上心を乱さないで」

 わたしを想ってくれる気持はとても嬉しい。有り難う、桂ちゃん。もう充分よ。わたし
に掛けられた誤解を解くのは、わたしが為すわ。

「緊張を解いて。心は常に柔らかに。ね?」

 うん。憤激に染まっていた頬が、別種の想いで更に赤く。本当に落ち着けたのか訊かれ
れば、そうじゃないかも知れないけど。とりあえず抑制の利かない激情の炎は、収まった。

「三上さん、谷原さん」

 柚明お姉ちゃんは抱擁を解いて向き直り、

「わたしは本日の戦いに手加減を望んではいません。己の名誉や勝利や痛みの忌避の為に、
賄賂を送って頼んだりはしていません。あの書簡は確かにわたしの願いを書き連ねた物で
すけど、本日の立ち合いには関連しません」

 柔らかに穏やかだけど、きっぱり否定して。
 何も後ろ暗い事はしてないと、姿勢で示し。

 正視を返すお姉ちゃんに、逆に2人が惑う。
 柚明お姉ちゃんは非難も感じさせない声で、

「昌綱さん・楓さんとの対戦の後に手渡したのは、その種の誤解を避ける為です。そして、
お願いの内の一つは今日の内に申し出ておかないと、準備が間に合わないでしょうから」

 立ち合いを全て終えた後で、わたしが書簡を渡して真意を伝えられる状態かどうか分ら
ないので、合間の時間帯にさせて頂きました。千羽の方々にはお手数掛けてしまいますけ
ど。

「中身は対戦が終った後で、きっとお2人にも連絡が行くので、お分りになると想います。
三上さんも谷原さんも対象者の筈ですから」

 一歩前に出て、気圧された様に退く2人を前に、手を膝の前で合わせ深々とお辞儀して、

「お二人の想いも必ず受け止めます。羽藤に抱く強い憤りも、嫌悪も、怨嗟も、哀しみも。
ですからもう少しお待ち下さい。即座に全てに応えきれる強さを持たず、ごめんなさい」

 今日は始りです。次があります。わたしは、為景さんに勝っても負けても、必ず三上さ
んと谷原さんの想いを受け止めに伺いますから。

 お姉ちゃんは怒って等いなかった。悔しがっても哀しんでもいない。唯わたしを心配し、
彼らに切にお願いを。必ず千羽の怒りを受け止めるから、少し待ってと、待たせる事への。

「ゆめいが頭を下げる事はないでしょうに」

 わたしもノゾミちゃんの見解に賛成だけど。唯柚明お姉ちゃんの柔らかな応対が、場を
収拾した事は見えて分った。お姉ちゃんは相手に媚びた訳でもなく、正論で撥ね付けもせ
ず、言うべき事は伝えた上で誠意を込めて応対し、誤解を解く。想いを繋ぎ、事を拗れさ
せない。

 彼らの敵意を受けた上で。わたしをそれらからしっかり庇い守った上で。自分が為さね
ばならない事を、羽藤と千羽の明日を考えて。怒りにも憎しみにも惑わされない。お互い
が今後どう関り合いたいかを考えて、応対する。その在り方が清く強く、優しく美しく。
そしてこの人達も千羽党で烏月さんの仲間だった。

 言い負かされて見えるのを嫌い、明言の承認を返さないけど、三上さんも谷原さんもそ
れ以上、柚明お姉ちゃんへの疑惑を言い募る気は失せていた。敵意が薄れ行く様が見えた。

 そう思えた時だった。背後に少し遠く、千羽の人達のざわめきが感じ取れ。三上さん達
の視線も柚明お姉ちゃんから離れ背後に向く。ノゾミちゃんが背後に注意を向ける様を感
じ、導かれてわたしも振り向くと。モーゼが割った紅海の様に観衆の一部をどかせた中に、
剣道着姿の壮年と老年、二組の男女4人がいて。

 まっすぐわたし達へと、歩み寄ってきた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 観衆はその人達の出現にどよめいていた。

 大人衆や烏月さんは打合せに没頭していて気付いていない。頭頂部がはげ上がり、側頭
部に白髪がボサボサに伸びた老年の男性を先頭に、彼らは道場内の空気など意にも介せず、
わたし達へと直進してきて。谷原さん達ではなく、わたし達が目的なのだと見えて分った。

 先頭の男性は七拾歳以上だろう。背丈は百八拾センチに少し満たない位。背筋をしゃん
と伸ばした姿は筋肉質で、流石に老いの為にやや細いけど、只者じゃない事は見えて分る。
右足を痛めているのか、歩みが少し不自由そうに見えたけど、意志の力で乗り越えた感じ
で、歩む速さはむしろ普通の人より疾い位だ。表情は人の良さそうな笑みを見せているけ
ど。

 右斜め後ろに続くのは、ほぼ同年配の女性。奥さんなのか。やや薄い白髪混じりの髪を
髪留めで留め、木刀を片手に一歩下がって従い。身長は烏月さんと同じ位か。女性にして
は高い方で、肩幅も筋肉もある。凜列とした空気を纏わせているのは、この人も元鬼切り
…?

 2人の背後に続く感じで壮年の男女が歩む。2人とも五拾歳以上だろう。白髪混じりの
髪も豊かな男性の身長は、烏月さんと同じ位で。ショートな黒髪の女性の方が背が高い。
こちらも夫妻か。男性も女性も元は鬼切りなのか、体つきも筋肉もこの歳にしてはありす
ぎる位。

 観衆も誰もこの4人の進路を留めず妨げず、問う事もせず。そして先頭の老人は特に己
の直進を妨げる者等いる筈がないという感じで。

「壱年半前の不祥事の責任を取って、大人衆を退いて以降は、皆の揃う場に出る事も余り
なくて久しかったが。皆、息災な様だの…」

 先頭の老人がわたしの正面間近に歩み来て、握手出来そうな範囲で立ち止まって語りか
けて来る迄、一分経ってない。でもその言葉は内部向けで、わたしは即応えられずにいる
と。

 はい。右斜め後ろの老いた女性の短い答に。
 老いた男性はわたしを視界に収めて頷いて。

 わたしに、微笑みかけてくれる。周囲の緊迫感からは浮いていて、怖さは感じなかった。

「千羽党の先々代当主、烏月様のお祖父様だ。
 右斜め後ろは奥方で、烏月様のお祖母様だ。
 後ろの2人が、烏月様のご両親。4人とも現役の頃は、千羽の八傑以上にいた人達さ」

 事情が分らないわたしに、秀輝君が背後から声を届かせて教えてくれる。ああ、なる程。
でもその声は何かを心配する様な響きを伴い。

 不思議には思っていたのです。千羽の重鎮たる大人衆に、烏月さんの両親や祖父母が1
人もいない事に。景勝さんや直義さん、義景さんや経久さん。弟や義理の弟はいるのにと。

『白花お兄ちゃんの一件で、責任を取らされたんだ。明良さんの両親や祖父母だったから、
大人衆を辞任か解任かされて、それで今迄公式の場に顔を出す事が出来ずに、今漸く…』

 後で聞いたのだけど、お母さんは分家の出なので、鬼切り役は継いだけど、千羽党の当
主は烏月さんのお祖父さんが継いだのだとか。お母さんから明良さんへの代替りの時、当
主の座も孫の明良さんに一緒に譲られて。今は烏月さんが鬼切り役と当主を兼ねる。なの
で、千羽での烏月さんのお祖父さんへの呼び名は、

「先々代、お加減は宜しいので?」「羽藤など見たくもないと、言っておられたのでは」

 三上さんと谷原さんが呼ぶ通り『先々代』

 大人衆の立場を失った彼らは、羽藤と千羽の会見の場には、公式の場には同席出来ない。
だからこうしてみんなが参集した試合の中の、休み時間で何とか直接言葉を交そうとし
て?

 三上さん達に一歩踏み出した柚明お姉ちゃんは、振り返ると今はわたしの右斜め後ろで。
わたしが先々代の正面間近にいた。ノゾミちゃんはやや首を傾げる感じを伝えてきたけど。

「羽藤桂さんと、羽藤柚明さんだったかな」

 鬼の憑いたお嬢さん。声音は平静だった。
 威圧感もなく嫌味も闘志も感じさせない。

 老いても筋肉質で精悍な肉体だったけど。
 谷原さん達の様な、敵意もなさそうだし。
 今度はわたしがしっかり受けて応えよう。

 ご挨拶位なら、わたしだって出来るのです。
 わたしは両手を膝の前で重ねてお辞儀して、

「初めまして、羽藤桂です……」「そうか」

 その声は妙に短く。ノゾミちゃんが何かに気付くけど。わたしも妙な空気を感じたけど。
微かな不審を感じつつ、面を上げた時だった。

 平静な声音を変えず、目の前の先々代は右手を軽く後ろに出して何かを求め。右斜め後
ろにいた烏月さんのお祖母さんは、言葉も指示も不要に木刀を、先々代に渡して握らせて。

 木刀を確かに握った先々代は、正面間近のわたしに向けて、その侭木刀を振り下ろした。

 そ、そんな。本気で、わたしに、攻撃を?

「喰らうが良い。千羽妙見流、魂削り…!」

 木刀の反りの部分が見る間に迫る。額を割られる。止められないし逃れられない。ご挨
拶の積りでいたし、例えこれを分っていても、素人のわたしにこの一撃は、対応不能だっ
た。

『やられる……!』

 目の前が真っ暗になった時。わたしはなぜか額にではなく、腕や腰に痛みを感じていて。

 わたし、額を割られずに済んだのかな…?
 三半規管が乱されて、身体が揺れていた。

 目を開くと妙に視界が低く。そしてさっきの瞬間から立ち位置が、少し左にずれている。
それでわたしは転ばされた事、己があの位置から突き飛ばされた事、助けられた事を悟り。

 突き飛ばされたわたしの位置に挟まった柚明お姉ちゃんの背中に、木刀は隠されていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 烏月さんのお祖父さんの動きに、迷いはなかった。最初から、にこにこ微笑み警戒を抱
かせず、いきなり初撃で決める気でいたんだ。わたしを、羽藤を叩き潰す積りで来たんだ
…。

 そんな事など露知らず。と言うか悟れて対応出来る方がおかしい。怒りも憎悪も分らせ
なかったもの。まさか初見でいきなり、木刀攻撃なんて。貴久さんや雅さんも、挑発や宣
告をしてから柚明お姉ちゃんに挑もうとした。まして千羽の三強との立ち合い最中に、逢
って挨拶したわたしにいきなり必殺技なんてっ。

「けいっ……、大丈夫?」「あたたた……」

 ノゾミちゃん。わたしは、大丈夫だけど。
 わたしを庇いに割り込んだ、美しい人は?

「柚明お姉ちゃん!」

 額を叩き割られる位置に、わたしを突き飛ばして割り込んだ柚明お姉ちゃんは、両手で
木刀を白羽取りして、打撃を防ぎ止めていた。でもそれは本当に、額のぎりぎりで危うく
て。いや、魂削りなら刃は止められても効力は…。

「うぬぬぬ、防ぐかよ、鬼女。だが……!」

 魂削りは当たっていよう。気力も出まい。
 この侭押し切って捻り潰してやる、鬼め。

 年老いても太く張った豪腕は、柚明お姉ちゃんの繊手の挟みを、押し切ろうと力を増し。
初撃を止められたのも奇跡に近い。わたしを突き飛ばして割り込んで、その木刀を挟み防
ぐなんて。でも先々代は尚、その状況から力任せに、お姉ちゃんの額に木刀をねじ込もう
と力を込める。烏月さんや大人衆が漸く気付いた様だけど、駆け寄る動きも間に合わない。

「……っぁあっ!」「うぬ、ぬうぅ……お」

 柚明お姉ちゃんは豪腕の木刀を、身を左にずらしつつ、右側に捻り振り下ろさせて躱し。
危なかった。幾ら鍛えてもあの細腕では、先々代の豪腕を正面から防ぐのは難しかろうに。

 烏月さんのお祖父さんと知る故か、お姉ちゃんは反撃せず、その行いを止めようと声を、

「あなたの想いはわたしが受けます。桂ちゃんを害するのは止めて」「聞く耳持たぬわ」

 先々代は振り抜かされた木刀を構え直し。
 その顔は仮面が取れた様に憎悪に歪んで。
 漸く身を起こした状態のわたしへ一撃を。

「明良の仇は羽藤の全員よっ! 死ねぇぃ」

 躱せない。立っていても躱せなかった振り下ろしを、座り込んだ姿勢で躱せる筈がない。
盾も木刀も持たないわたしは、今度も唯打ち据えられるしか術がなく。振り下ろされる木
刀が妙に鮮明に見える中、身動きも取れずに、

「お止め下さいっ!」「ぬぬう、小癪なっ」

 柚明お姉ちゃんの左掌打が、振り下ろしに直角に当たって、一撃を大きく横に外させる。

『今度も助かった。と言うか助けて貰えた』

 と思えた時だった。先々代は、わたしの目の前に背中を動かしてきた美しい人を標的に。

「なら、貴様から先に始末してくれるわ!」

 無手の柚明お姉ちゃんに木刀を振り下ろす。
 それは確かに早かったけど。凄かったけど。

 楓さんや昌綱さんの振り下ろしに較べれば遅い。老体でこの動きが出来るのは凄いけど、
素人にはどうにも出来ない剛力と速さだけど。お姉ちゃんなら問題なく躱せる筈、だった
…。

「……お姉ちゃん、なんで、避けないの?」

 躱せる筈なのに。反撃しなくても、左右に退ける事は簡単な筈なのに。目の前の柚明お
姉ちゃんはこの時に限ってそれを為さず。その背はわたしの前から動く気配も感じさせず。

 木刀に何かが当たる音が聞える。わたしの位置が柚明お姉ちゃんの背中なので、状況が
見えてこない。二度三度、木刀の振り下ろしや薙ぎ払いが来ている様子は感じ取れたけど。

「掌打で弾いているわ。とりあえず大丈夫」

 ノゾミちゃんが教えてくれる。でもなぜ?

 木刀の振り下ろしにほぼ直角に掌打を当て、角度をずらせ狙いを外させる。尋常ならざ
る見切りと速さと力が必要な技だけど。直撃は受けないから、腕も折られず済みそうだけ
ど。

 でもどうして、柚明お姉ちゃんは回避せず、敢て防御を? 今迄と違うのは。直撃を避
けても達人の攻撃だ。防げば確実に手を痛めるのに。お姉ちゃんの手、柔らかくて細いの
に。

 けい。ノゾミちゃんの声がわたしに向いて、

「ゆめいはけいを庇って動けないのよ。あの爺の狙いはあなた。這ってでも動きなさいな。
あなたが背後から身を外せれば、ゆめいは自由に動けるわ。あなたの盾になっているの」

 ああ、そうか! わたしの目の前に背があり続けるという事は。わたしを庇って神速で
動いた柚明お姉ちゃんが、一度も身を躱さないのは。わたしがここで座り込んでいる為で。

『わたし、またお姉ちゃんに守られて、庇われて、危険や痛みを、その身に負わせて…』

 動転しているわたしは未だ、確かに立って走れない。這ってでも、とにかく早く柚明お
姉ちゃんの負荷にならない様に。そう考えて、左に這い出してその位置を外そうとするの
に。

「桂ちゃん、待って。動かないで! わたしの背後から出ないで。危ない」「えっ…?」

 先々代は、柚明お姉ちゃんの背中から這い進むわたしに、照準を合わせてくる。お姉ち
ゃんは、わたしが木刀から逃げ切れないので、わたしを庇う為その直線上から外れられな
い。這って動いたわたしの前に、愛しい人の背がずれてくる。庇われる体勢を、抜けられ
ない。

「あの爺、けいを狙えばゆめいが躱せないと分っている。ゆめいが鬼切り役を気遣って反
撃しないとも承知で。木刀は痛みを感じない。素手で受け続ければ、ゆめいの身が削れい
つか倒せると分っている。正に鬼切部の戦いね。左右じゃなく背後に逃げて、けい」「う
ん」

 動き出そうとした時だった。老いた声は、

「何をしておるか! ……俊基っ、英治っ」

 その女の身を抑えろ。両側から捉えよっ。

 儂の木刀が当たらないではないか。いつ迄目の前で防がせて放置しておくか。千羽党の
戦いを、千羽党が見て動かぬのか。馬鹿者が。早く鬼を討つ助けを為せ。そやつを拘束し
ろ。

「ですが先々代」「柚明殿は現在試合中で」

 流石に三上さんも谷原さんも、わたしを庇って防戦一方の柚明お姉ちゃんを、拘束する
事は想定外だった様で。未だ立ち合いを残しているのに、こんな騒乱を認めて良い物かと。

 戸惑う彼らに裂帛の気合を乗せた怒声は、

「馬鹿者が! 鬼との戦いに形式も何も関係あるかっ。勝てばいいのだ。貴様らは鬼切部
千羽党として今迄一体、何を教わってきた」

 どんな手段を以てしても鬼を討って滅ぼす。
 その他に千羽党にどんな存在意義があるか。

「鬼切部千羽党の先々代の命が聞けぬか!」

「って、何なのよ、これ」「ノゾミちゃん」

 柚明お姉ちゃんの前方から、何かの粉がわたしの処迄飛んでくる。お姉ちゃんに振りか
けられて、その背に座り込んでいたわたしの口にも少し入ってきた白い粉は、しょっぱい。

「お塩?」「清めの塩を目潰しに使うの…」

 ノゾミちゃんが視てわたしの脳裏に伝えてきた像がぶれるのは、清めの塩の影響なのか。
先々代の右斜め後ろにいたお祖母さんが、先々代の支援に目潰しに、柚明お姉ちゃんの顔
面を狙って塩を掛けたのだ。もう戦いは、一対一でもなければ剣士の戦いでもなくなって。

 柚明お姉ちゃんは相手の初動を読む。相手の動きを見極めるのがお姉ちゃんの生命線だ。
その目を潰しに掛られては。細かな粉を広範にばら撒かれては防げないし、塩を防ごうと
すれば、とてもお祖父さんの木刀を防げない。

「柚明お姉ちゃん!」「「先々代っ…!」」

 周りからも声が届くけど、先々代の動きは止まりもせず。お祖母さんは止めに入ろうと
した烏月さん達の、前に挟まり足止めをして。烏月さんの両親は祖父母の後ろで身動き取
れずにいる。こうなるとは思ってなかった様だ。止めたいけど止められる立場ではないら
しい。

「決めたぞ!」「くぅっ……」

 先々代の木刀が柚明お姉ちゃんの右肩に叩き付けられていた。防ごうとして止められな
かったのか、お姉ちゃんの繊手が右肩に食い込んだ後の木刀に絡めていたけど、手遅れだ。
薄い青色の布地に木刀は、深々と食い込んで。

 千代ちゃんにも昌綱さんにも楓さんにも直撃を許さなかった柚明お姉ちゃんが、こんな
処で。こんな卑怯な手段で。酷い。酷すぎる。

「何をなさるか、お祖父様。お祖母様もっ」

 大人衆と一緒に駆けつけた烏月さんが少し遠くから、強い声で制止するけど、先々代は、
叩き付けた木刀に更に体重を掛けて、お姉ちゃんを床に押し潰そうと、満身に力を込めて。
柔らかな撫で肩から骨の軋む異様な音がする。

「祖父が孫の仇を討って何が悪い。鬼切部が鬼を討ってどこが悪い! 儂の大切な嫡孫を、
当代最強と呼ばれる日を心待ちにしておった儂の明良を、奪った羽藤が目の前にいるのに、
討たずに放置するお前達の方が分らぬわっ」

 それに続けたのは烏月さんのお祖母さん。

「さっきから立ち合いごっこは見ていました。千羽の三強ともあろう者が何と無様な。ま
ともに一対一の勝負など、する必要はないというのに、形に拘り大魚を逃して。情けな
い」

 折角千羽邸に鬼を誘い込んだのに。なぜ皆で一斉に掛って始末しないのですか。次々と
戦いを挑めばとっくに勝っていた。儀式を装うのは良い。でも形に拘ってずるずる勝機を
逃す愚行は、見ていられない。全ては鬼を欺き不意を突く為の罠ではなかったのですか?

「敵が強いなら、数で潰せば良いでしょう」

 烏月さんだけではなく、千羽のみんなが唖然としていた。勝つ為に手段を選ばないとい
うのはそう言う事だと。鬼を討つ為にはそうでなければならないのだと。理解はするけど。

『だけど現身を持つ鬼の多くは、見かけを凌ぐ膂力を持っている物なんだ。童女や老婆の
姿をしていても、易々人を引き裂いたりする。
 だから、機先を制する事で封じられるなら、そうするに越した事はないんだ……』

 烏月さんは夏の経観塚でも言っていたけど。

 凶悪な鬼が相手なら、結果が大事なのも分るけど。その鬼の犠牲者を増やさない為には、
正々堂々立ち合って逃して被害を増やすより、大勢で包囲して不意を弱点を突いて、早く
息の根を止める事が重要なのかも知れないけど。

「彼女は人ではないわ。人の化身は持てども、若杉に鬼と判定された化外の物。人ならざ
る力を使い、樹木に宿って現身を作り、血を啜り力に変えて己を癒し、歳も取らず生き続
け。例え人の血肉を戻しても元通りな筈がない」

 貴女、今も血を力に変えられるのでしょう。
 力で人を癒す事も操る事も叶うのでしょう。
 人ならざる化外の力を備えたのでしょうに。

 その上で、鬼である羽藤白花に欲情を抱き。
 烏月の鬼切り役の使命遂行を妨げた鬼女め。
 一件整った姿形の奥に醜い情念を隠し持ち。

「やってしまった事は、取り返せないのよ」

 先々代夫妻の言葉は、柚明お姉ちゃんの心を抉っていたかも知れない。一度鬼になった
が最後、外見は取り戻せて見えても鬼は鬼だ。二度と人にはなれないのだと。そして続け
て、

「その娘もっ。鬼に憑かれて鬼を受け容れ」

 鬼は根絶やしにせねばならぬ。生かせば人を惑わしいつか必ず禍を起こす。千羽はその
苦味をこの数拾年、ずっと味わい続けてきたではないか。絆されおって、惑わされおって。
鬼を受け容れた者は鬼の仲間も同然ぞ。祓い落せねば共々に切り捨てるのが我らの流儀ぞ。

「今その肩胛骨を木刀で断ち割ってくれる」

 幾ら手を添えて外そうとしても最早無理ぞ。
 腕力でその身に残る戦う力を根こそぎ奪い。
 霊力を宿すこの木刀で魂ごと削ってくれる。

 昼では鬼の力も揮えまい。千羽館に踏み込んだ事が最後の判断ミスだったと悟れ、鬼女。

「千羽の痛みを羽藤に拾倍返ししてくれる」

 体重を掛けた木刀を右肩に受けた柚明お姉ちゃんは、膝を折って堪え忍ぶけど。繊手を
幾ら絡めても、先々代が満身の力を込めた木刀は弛まず、じりじり骨に食い込んで。後ろ
から見ていても、骨の形からあり得ない程木刀は華奢な右肩に入っていて。派手な音はし
ないけど、もう肩胛骨を折られているのでは

 老いたとは言え体格が違い、腕の筋の太さが違う。体重を掛けられたら、お姉ちゃんに
抵抗の術はない。それどころか生命も危うい。

「……あなたの想いは、受け止めます……」

 わたしの位置からは表情は見えないけど。
 声音はやや苦しげでも尚静かに優しげで。

「わたしはこの為に千羽を訪れました。順番の後先はありましたけど、間違いなくわたし
はあなたの想いも受け止めに、参りました」

 人か鬼かの定義には拘りません。わたしを鬼と呼びたいなら鬼でも良い。喜んで迎え入
れられる事など期待していません。どうぞ憎しみを、恨みを、憤りを、叩き付けて下さい。

「柚明お姉ちゃん!」「柚明さん、少し待って、今……お祖母様。そこをお退き下さい」

「あなたこそ目をお醒ましなさい。あなたは鬼切部千羽党の当主で、鬼切り役なのですよ。
鬼を切ろうとする行いをなぜ妨げるのです」

 実力行使に踏み切れず、動きが遅滞して。
 距離はそう離れていないのに。なのにっ。
 柚明お姉ちゃんは全てを見えて尚平静に、

「わたしは羽藤白花です。わたしの生命は彼の生命。この身の組成の殆どは、白花ちゃん
の身を変えた物。彼の全てを引き継いだ以上、彼の負債も全て引き継ぐ。わたしはここに
来なければならなかった。彼が伝えたかった想いを伝えに、彼が受けるべき報いを受け
に」

 お望みならば今ここででも。あなたの悲憤の全てを受け止めます。逃げず躱さず防がず
に、あなたの蹴りも拳も木刀も身に受けます。一番たいせつな人の守りと幸せの為に、今
は未だ生命を絶たれる事だけは出来ませんけど。

「その代り、この身はあなたの想いの侭に」

 柚明お姉ちゃん、今とんでもない事をっ。

「唯、桂ちゃんに罪はありません。白花ちゃんの罪に桂ちゃんは責がありません。どうか、
打ち据えるならわたしだけに。その刃を桂ちゃんには向けないで。それさえ約束して頂け
るなら、この木刀に絡めた手を外し、撃たれる侭に己を差し出します。誰の所為でもなく、
わたしとあなたの合意の元で、思う存分に」

「ゆめい、あなた」「お姉ちゃん、やめて」

 柚明お姉ちゃんが右肩に木刀を叩き付けられたのは、先々代の一撃を止められなかった
のではなく。木刀を絡め取る為に。両手で抑えてわたしに向く余地をなくする為に。敢て
受けに行ったのだと。先々代は己の一撃が入ったと思って更に押し付けていたけど、それ
はお姉ちゃんの望みでもあった。繊手は木刀を外して己を守る為じゃなく、わたしに向き
かねない木刀を己に押し付け抑え止める為の。

「……貴様、儂を嵌めた積りでおるかぁ!」

「あなたの想いは確かに受けています。強い哀しみ、怒り、明良さんへの情愛も含め…」

 唯この罰は、痛みは、桂ちゃんに向けるべき物ではない。羽藤白花に、わたしに下さい。

 真後ろで顔は見えなかったけど、ノゾミちゃんの感応で送られる像も清めの塩でぶれて
いるけど、わたしの脳裏には柚明お姉ちゃんの全身全霊の訴えが、確かに視えた。この人
は本当に、どこ迄もわたしを守る事にのみ!

「ふざけおって。鬼の言う事などに聞く耳を持つ千羽党だと思ったか。さっさと砕けよ」

 先々代は更に力と体重を掛けてお姉ちゃんの抑えた悲鳴を導いて、問答無用と答を返し、

「鬼が人の頼みなど聞き入れるか。鬼が人の願いなどに応えるか。鬼は常に己の執着での
み動く。人を喰らい血を啜り、欲望の侭に踏み躙る。そんな鬼の願いや頼みに、儂が応え
てやる必要がどこにあるか。貴様の右肩はもうじき砕ける。次は左肩よ。両手両足を砕い
て動けなくしてから、妨げる術も失った貴様の前で、貴様の大事な従妹を叩き潰してくれ
るわ。泣き叫ぶ様を貴様に見せつけてやる」

 貴様の眼前で贄の血を流し転げ回る様を。
 その様を夢想してかニヤリと笑みを浮べ、

『鬼だ。……この人、この人こそ鬼だよ…』

 柚明お姉ちゃんが一瞬だけ身を震わせた。
 それは今からわたしに及ぶ危害を恐れて?

 それとも、そこ迄お願いしても受け容れてくれない烏月さんのお祖父さんへの、怒り?

「俊基、英治、何をしておる。早くこの女の肩を抑え、木刀に絡めた手を外すのを手伝え。
お前達の望みでもあったろうに。羽藤白花への、羽藤への復讐は汝らの誓いでもあろう」

 先々代は、三上さんをまず強く睨み付け、

「お前の師であった秀康を再起不能にされて、師の借りを弟子が絶対返すと誓ったのは嘘
か。どんな手段を使っても復讐するとの熱い誓いを忘れたのか。それでも貴様は鬼切部
か!」

 更に谷原さんにも視線を送って、叱声を、

「その左胸に刻まれた鬼の爪痕を、痛みと屈辱を忘れた訳ではあるまい。生死の境をさま
よって。必ず同じ処に同じ痛みを返してやると、握りしめた拳と気合はどこへ行った!」

 ああ、この2人も白花お兄ちゃんに抱く痛憤があって。今日の対決を心待ちにしていた。
柚明お姉ちゃんの指名を受けられず、積年の憤懣を叩き付ける場を持てなかった2人は…。

「鬼は鬼切部の前に砕け散るだけの存在だと、その身に思い知らせてくれる。想い等通わ
せ合う必要はない、受け止めて等貰わなくて結構だ。儂は儂の想いの侭に叩き付けるの
み」

 後ろの娘も待っておれ。叩き潰してやる。
 2人揃って小綺麗な顔から潰してくれる。

「三上さんっ、谷原さんっ。……お願い、わたしのお姉ちゃんに、酷いことしないでっ」

 さっきわたしが怒鳴りつけちゃった2人。
 ああ、まさか今こんな結果を導くなんて。

 2人は左右から、柚明お姉ちゃんの肩を片手で抑え、更にもう片方の手を伸ばし、先々
代が叩き付けた木刀に絡む繊手に手を伸ばし。屈強な2人の腕に掛れば、傷ついたお姉ち
ゃんは抗えない。塩で目を潰された上に動きを封じられたお姉ちゃんは、自由を戻した先
々代の木刀にめった打ちにされる。ノゾミちゃんも日中だから、青珠の外に力を及ぼせな
い。わたしに語りかけ、像を見せるのが精一杯で。

「生きて帰れると思うな、羽藤も鬼もっ…」

「止めて……やだよ、止めてええぇぇっ!」

 烏月さん、わたしのお姉ちゃんを助けて。

 烏月さんのお祖父さんだけど、たいせつな人だと分っているけど。わたしの柚明お姉ち
ゃんを、傷つけさせないで。わたしのたいせつな人にこれ以上傷を刻ませないで。お願い。

「千羽の怒りも恨みも憎しみもわたしが受けるから。この生命差し出すから。身も心も全
部捧げるから、柚明お姉ちゃんを助けて!」

 瞬間、疾風が吹き抜けた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 疾風は、烏月さんの前に立ち塞がっていたお祖母さんを躱し去り。少しの距離を瞬時に
詰めて、先々代の木刀を握る両手をがっちり止めて。説諭の時は終えた、今は行動の時と。

「お祖父様。千羽の当主は、貴方ではない」

 私の一番たいせつな桂さんの心の支えを。
 私の心底たいせつに想う柚明さんを……。

「あなたでも、これ以上は傷つけさせない」

 どうしてもと言うなら私も実力行使する。
 憤りを、尚冷静さで押し殺し烏月さんは、

「うぬぬぬ、烏月。この、親不孝者めがっ」

 ぎりっと手首を締め上げて、握った木刀を放させる。短い悲鳴と共に先々代の両手を離
れた木刀は、反りの部分を谷原さんと三上さんが握っているので、床に落ちる事はなくて。

「?」「この2人も、今回は味方だったわ」

 ノゾミちゃんの言う通りだった。谷原さんも三上さんも、先々代の指示に従って柚明お
姉ちゃんの肩を抑え、木刀に絡めた繊手を外させたのではなくて。木刀を先々代から取り
上げ、お姉ちゃんを助け立たせる為に動いた。

「剣士の神聖なる立ち合いの場へ部外者が」

「勝手に割り込んでくるのは迷惑だからな」

「有り難うございます……助けて、頂いて」

「助かった。ノゾミちゃん、助かったぁ…」

 柚明お姉ちゃんの右肩を支える三上さんが、

「誓いは嘘ではない。忘れてもいない。師の借りは弟子の俺が必ず返す。どんな手段を使
ってでも。だが、手段を選ばない以上、汚い手段に限った話しでもない。俺は必ず師の借
りを返す。それが今ではないだけの話しだ」

 左肩を支える谷原さんも視線は厳しいけど、

「左胸に刻まれた鬼の爪痕を、痛みと屈辱を、俺は決して忘れていない。俺は必ず同じ処
に同じ痛みを返す。それは心に刻んでおけ!」

 柚明お姉ちゃんの想いは2人に届いていた。

 順番は違っても必ず1人1人の想いを受けると。千代ちゃんに、昌綱さんに、楓さんに、
栞さんに。順々に受け止めていった様に。例え為景さんに勝っても負けても、必ず想いを
受け止めに行くからと。その誠意が伝わって。

 相手が応えてくれる迄、誠意を注ぐ。無駄に思えても、仇で返されても、響いてない様
に見えても、中途で止めず最後迄。誠意を注ぐ事が、幸せであるかの様に。その成果が…。

「有り難うございます。谷原さん三上さん。
 必ずお2人の想いも、受け止めますから」

 感謝の心を返す柚明お姉ちゃんの正面で。
 精悍な老体は全身を激怒に震わせていた。

「儂の命を断るのか。儂を誰と想うておる」

「あなたは確かに、千羽党の先々代当主だ」
「だが、それだけだ。今の当主は烏月様だ」

 先々代の命が許容されない事を、谷原さんも三上さんも分っている。そして鬼切部千羽
党に命を下せるのは、先々代でもなければ先代でもなく、今の当主たる烏月さんだけだと。

「命令なら、烏月様を通じて出して下され」
「俺達は、その他の命令に従う積りはない」

「この、役立たず共め。鬼に絆されおって」

 鬼に家族を奪われ、天涯孤独になった末に、千羽に拾われた恩を忘れ。鬼と心通わせる
か。なら貴様達も鬼だ。全員鬼だ。鬼を一匹残らず滅ぼすのが鬼切部、その為には人さえ
切り捨てる。その為に我らは明良迄切り捨てた!

 なぜ鬼を討たないか。なぜ鬼と話しなど。
 烏月さんのお祖母さんも歩み寄ってきて、

「その通りです。烏月、考え直しなさい…」

 さもなくば、千羽は三度同じ過ちに遭う。

 ああ。これも明良さんの一件の故なのか。
 白花お兄ちゃんの一件が狂わせた歯車か。

 烏月さんの祖父祖母が、鬼にここ迄敵意を抱く様になったのは、間違いなく壱年半前の。

「お二方は、大きすぎる喪失と悲憤に目が眩んでいる。経観塚の夏以前の、私の様に…」

 今のあなた方は鬼そのものです、お二方。
 烏月さんは哀しげな瞳で祖父を見つめて、

「兄さんは確かに大きな存在でした。私も深く敬愛していたし、千羽の誰もが慕っていた。
その失敗と死に哀しみ、悔い嘆くのはやむを得ない。でも、悲しみに沈む余り、兄さんの
真意迄を見失っては、兄さんが浮ばれない」

 私も一年近く心の闇を抜け出せずにいた。
 夏の経観塚である人に問われて気付く迄。

 烏月さんは視線を柚明お姉ちゃんに向け、

【鬼を憎む故に鬼を斬るか、人を守る為に鬼を斬るか。鬼切部の真の存在意義は何か?】

「お祖父様は今、鬼を憎くて切ろうとした。
 己の情に振り回されて、羽藤を切ろうと。
 人の世の為でも、誰かを守る為でもなく」

 それは鬼切部の在り方ですか? 鬼切部千羽党の在り方ですか? 明良兄さんが生涯目
指し続けた先々代・真弓様の在り方ですか?

「私も壱年半前のあの日以降、兄さんの想いにも己の行いにも想いにも向き合えなかった。
哀しみが大きすぎてまともに見つめ返す事が出来なかった。何が正しいのかも定かに応え
られず、唯目の前の敵を倒す事に、仇を討ち役目を果す事のみに、己を追い込んでいた」

 兄さんの想いを見失い、己の想いを見失い。

「それを察して、見つめ返す様に促してくれた人がいました。否、正確には1人の鬼が」

 どうかそれに気付いて。己を見つめ直して。
 目を逸らしている事に、蓋をしている事に。

【そうしなければ、この先幾ら鬼切りの業を究めても、心を閉ざし鬼の身体だけ斬って倒
しても、あなたが目指した先代や、先代が目指した先々代の鬼切り役には、近づけない】

 強さの問題じゃない。それは在り方の問題。

「鬼を憎む故に鬼を斬るのか、人を守る為に鬼を斬るのか。鬼切部の真の存在意義は?」

 烏月さんは自身の心を抉りつつ、再度その問を、お祖父さんとお祖母さんに問いかけて。
答を返さず俯く老年の2人に静かに諭す様に、

「今の私は応えられる。確かに応えられる」

 ここにいる千羽の皆にも、聞いて欲しい。

「私の名は千羽烏月。維斗の太刀を担う千羽党の鬼切り役。人に仇なす怪異を討つのが、
我ら鬼切部の使命。千羽党当代の鬼切り役としての勤め。……人に仇為さぬ物は対象外」

 鬼は人の心にも生じて宿り、人の中からも生れ出る。鬼の根絶には、人の根絶が必須だ。
それが無理な事はみんなも分っていると想う。鬼も人の心から生れ出る物なら、人と同じ
だ。悪しき者、害になる者は討つ。それで充分だ。

 我らは人の世の平安を守る者だ。鬼を滅ぼす為にいる訳ではない。鬼を憎むのは鬼の悪
行を憎む故だ。鬼を切るのは人を脅かすから。鬼が仇で憎いから切るのではない。そして
…。

「羽藤桂は千羽烏月の一番たいせつな人で、羽藤柚明は千羽烏月の二番にたいせつな人」

 みんなに届く様に聞える様に、烏月さんははっきり言い切って。祖父祖母に向けて更に、

「これは烏月個人の想いです。ですがこれを基に、私は千羽と羽藤の家同士の交際も繋ぐ
積りです。大人衆も多くが受容の流れにあります。柚明さんが危険を承知で立ち合いに応
じ、勝敗に関らず想いを剣で交えてくれた事で、千羽の多くも分り始めてくれています」

 羽藤は敵ではありません。羽藤白花は禍を為したけど、羽藤は本日それを謝り償い関係
を結びたいと申してくれました。千羽は武門の名家、それ程了見の狭い家でないと思って
いますが、明良兄さんならどう応えていたか。

 栞さんも景勝さんも直義さんや秀康さんも、けじめは必要だと感じていたけど、絆を結
ぶ事自体は認める方向にある。烏月さんの強い意志の故でもあるけど、先々代の様に断固
討ち滅ぼすという考えは千羽でもそう多くない。

「人は痛みを越えて明日に進まなければならないのです。必要なけじめはあるけど、それ
を終えて尚相手を拒み続けるのは頑なです」

「ぬぅ、烏月。お前迄も、絆されたのか…」

 お前も明良の様に真弓の様に、羽藤に鬼に惑わされ、この千羽を離れて行くというのか。

「鬼があれば即討って何が悪い。鬼に憑かれた人を討ってどこが悪い。鬼ごと人を断たね
ば禍が広がるだけだと、分らぬお前達ではなかろうに。何を躊躇っておる。たおやかな外
見に惑わされた腑抜け共が。お前らはこの2人が、明良の仇だと分っておらぬのか…!」

「明良兄さんの仇は、私、千羽烏月です!」

 烏月さんの声は低く、覚悟を宿して響く。
 その身は微かに震えても心は揺らがない。

「私はその故に、決して千羽を離れはしない。敬愛する兄さんをこの手で殺め、その未来
を断ったこの私は、兄さんが目指した在り方を、兄さんが作りたかった千羽の未来を、兄
さんが守りたかった人の世を、その想いを全て引き継がねばならないから。私は罪も業も
全て背負って、千羽に留まり続けます。例え誰を愛そうとも慕おうとも、私が千羽を離れ
る事はあり得ない。私は終生、千羽烏月です…」

 だから烏月さんはわたしを招く事しかできなかった。わたしの家が狭くて小さい以上に、
千羽を出る事は、烏月さんには不可能だった。お兄さんの全てを継ぐ為に、成し遂げる為
に。この人は本当に強く優しく、賢く生真面目な。わたしが好きになった人。心から強く
想う人。

「兄さんが最後迄千羽と羽藤白花を両方諦めなかった様に。私は最後迄千羽と羽藤を両方
諦めない。確かに強く想い続ける。守り続ける。桂さんと羽藤白花を、最後迄両方とも諦
めず生命を尽くした柚明さん、あなたの様に。

 あなたが羽藤白花の、羽藤の罪も業も全て引き受け絶対逃げ出さない様に、この私も」

 そして若杉からの命を受けて、私にそれを命じたお祖父様、千羽党の大人衆も同罪です。

「全ての仇を討っていけば、最後は己に帰り来る。お祖父様は自身を最後に討つお積りで
しょうが、そうして全ての仇を打ち終えた時、一体何が残りますか。羽藤を討ち、私を討
ち、大人衆を討ち、千羽の過半を討って、後に誰が残りますか。何が始められ、続けられ
るのです。後に残るは哀しみと憎悪と虚しさだけ。
 誰が喜ぶのですか。明良兄さんは喜びますか。それが兄さんの遺志だと想いますか?」

 千羽は戦いを否定しない。しかし何も得る物のない、勝って虚しいばかりの戦いに何の
意味があるのです? 剣士の集団だからこそ、千羽は戦いの意義に拘る、勝敗に拘る。勝
って意味を持たない争いは、誰の為の行いか?

「だから柚明さんは最後の最後迄、お祖父様に反撃しなかった。想いを繋ぎたかったから。
悲憤を受け止めたかったから。心が通じると信じ続け。私の祖父を傷つけてはいけないと。
その気になれば彼女は木刀から贄の血の力を逆流させ、人の心臓を止める位出来た筈だ」

 お二方は柚明さんを傷つけるか、柚明さんに反撃されて生命落す事で、命懸けで和解を
決裂させ、再び羽藤や鬼を憎む集団に千羽を戻したかったのでしょう。数ヶ月前迄の様に。
私が夏の経観塚から戻る前迄の様に。でも…。

「柚明さんは命懸けで和解を求めた。そして命懸け同士の想いのぶつかり合いは、柚明さ
んの勝利です。私が動かなくても、三上さんと谷原さんがお祖父様の指示に従わず、柚明
さんを庇って守った事実が示した通りだ…」

 お祖父さんとお祖母さんの表情が固まる。

「桂さんを守り、お祖父様の悲痛を想い、己に受ける事で、憎しみの連鎖を終らせようと。
あなたをこの侭、鬼の心に落さない為に…」

 私に言える事はそれだけです。理解出来ても心に響かないなら、言葉に意味は宿らない。
経観塚の夏迄の私がそうであった様に。後は行動あるのみ。この上で尚私のたいせつな人
を害するなら、私は千羽党当主としてあなた達を阻みます。止められなかった父上母上も
その世話役から外し、全員謹慎処分とします。

 烏月さんの最後通牒だった。

「烏月君、今の処分は……?」

「もう一度何か為したら、です。今は注意に止めます。しかし、本当にもう一度何か為し
たなら、先々代の当主とその奥方でも、その娘でも婿養子でも、我が近親でも躊躇わない。
 この判断は他の家の者も含めた公の場での、鬼切部千羽党当主千羽烏月の公式表明で
す」

 烏月さんの力で、一つの危機が回避された。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「後悔するぞ。必ず、後悔するぞ、烏月…」

 烏月さんの指示で、男女6人のヒラの鬼切りに護衛され、或いは押し包まれて、退場を
促される中、先々代は周囲のみんなに向けて、

「鬼や鬼に通じた者と関り合って、千羽は今迄幾度苦杯を舐めて来たか。明良の過ちを又
繰り返すのか。仇も取らず、屈辱も返せず」

 遺恨を思い起こせと、なぜ鬼などと分り合おうとするかと、なぜ羽藤を受け容れるかと。
不安を疑念を攪拌するその老いた声に、烏月さんは静かな中にも覚悟を宿す平静な声音で、

「私はもう何度も後悔しています。鬼だけではなく、人と関り合う中に於ても。今更鬼と
の関りを断てば、悔いが消失する訳でもない。悔いを減らすより、私は愛を増やしたい
…」

「ふん。明良を切っておきながら、明良を愛していた等と、よく言うわ。儂の明良を…」

 鬼などと、心通じ合わせようとするから。

 瞬間、烏月さんの肩に悲哀と憤りが立ち上るけど。今にも溢れそうな何かが見えたけど。

「兄さんの志は私が継ぎます。及ばないからと投げられる立場ではない。届かないからと
諦められる立場ではない。せめてその位はせねば、この生命が今ある事さえ許せなくなる。
 見ていて欲しい。この生涯をかけ、行ける処迄全身全霊私が辿り行く様を。兄さん…」

 言葉に出し切れぬ想いを抱えて、互いの想いは交わる事なく。鬼切り達に歩みを促され、
進み出そうとしたその足が、再度止まるのは、

「柚明お姉ちゃん……一体、何を?」

 自身を木刀でなぶり殺しにしようとした相手を前に、その正面に敢て正座して向き合い。

「ご挨拶が遅くなり、大変申し訳ありません。
 初めまして、羽藤柚明です」

 6人の鬼切りに囲まれた、4人の男女の立ち姿に、深々と正座の姿勢から、頭を下げて。

 先々代が微かに額の皺を寄せたのが見えた。
 答を返さない4人の男女に、お姉ちゃんは、

「本日は、羽藤が為した事への償いと謝罪に、千羽の想いを受け止めに、私達は参りまし
た。羽藤白花の想いを千羽に届かせる為にも……。
 羽藤白花が為した禍への報いは、わたしが受けます。怒りも憎悪も、殺意も憤怒も全て
受け止める積りで来た事に、嘘はありません。
 もう暫く、お待ち下さい。わたしのこの身は脆弱で、全ての想いを一度に受けきる事が
叶わない故に。今は立ち合いの最中なので」

 必ず、皆様方の想いも受け止めに伺います。

『お姉ちゃん、幾ら何でも、自身を殺す事に迷いのない人の想いを受け止めるなんて…』

 それじゃ柚明お姉ちゃん、生命奪われるよ。
 ノゾミちゃんも唯視線を向かせ続ける中で、

「明良さんのお父様、お母様、お祖父様、お祖母様。わたしのたいせつな人の近親の方々。
 千羽明良と千羽烏月は、羽藤柚明のたいせつな人。だから皆さんは、わたしにとっても
たいせつな人。その哀しみや憎しみ、恨みを受け止めるのは、わたしの願いで、望みです。
 この様な形で巡り逢った定めは残念ですが、己の限りを尽くします。もう少しだけお待
ち下さい。大人衆を通じお話しがある筈です」

 本当に、申し訳ございませんでした……!

 深々と頭を下げてお願いする。殺され掛けたのに。踏み躙られ傷つけられたのは、柚明
お姉ちゃんの方なのに。怒りも敵意もないどころか、その優しげな表情には哀しみが濃く。

 千羽の観衆から、すすり泣きが漏れ聞えた。
 明良さんを失った事実は痛く憎々しいけど。
 それに真剣に向き合い償う、この姿勢にも。
 己の罪ではない事に生命迄捧げる姿勢にも。
 身につまされる故に心揺らされて震わされ。

 先々代の悲憤も分るから。柚明お姉ちゃんの覚悟も分るから。両方哀しく辛いからこそ。

 その和解を心から千羽の人達も望み願って。

 ここ迄して漸く。千羽の多くの人達に、柚明お姉ちゃんの覚悟と真意とが、届き始めた。

 届くか届かないか、分らないからこそ届け続ける。分って貰える迄送り続ける。望む答
が返るか返らないかは、一番の問題ではない。柚明お姉ちゃんに一番大切な事は、誠意を
届け続ける事。想いを送り続ける事。答は結果に過ぎない。唯想いを分って欲しいだけだ
…。

 両者は暫く無言でいた。傷の痛みも全く感じさせず、頭を下げて微動だにしない柚明お
姉ちゃんと。無言でその姿を見下ろす先々代。数分経過しただろうか。漸く返ってきた答
は、

「取り返しの効かない過ちも、世にはある」

 償う術のない程重い罪も、癒す術もない程深い傷も、慰める術もない程の悲痛も苦悩も。
真剣になれば許される等と勘違いしない事だ。

 歩み去る。お姉ちゃんへの、羽藤への、鬼へのどうしても拭えない憎しみに、顔を歪め。
心に募る想いを抑える感じで、奥さんや娘夫婦や、鬼切り6人を伴って、悠然と歩み行く。

 決裂だった。ここ迄想い願っても届かない。
 この優しく綺麗に全く咎もない愛しい人が。
 下げなくて良い頭を下げて求め続けても尚。

「取り返しの付かない事は、ある物なのよ」

 ノゾミちゃんが哀しげに呟いたその瞬間、

「……それは、存じております!」「ほう」

 柚明お姉ちゃんは正座で頭を下げた侭の姿勢で、歩み去り今は背中に位置する先々代に、
尚強く声を届かせてもう一度その足を止めて。紅葉さんの時と同じだった。戦いに臨む程
の気合で、拒み去り行こうとする心を引き留め。

「叶わない願い、結べない絆、癒せない心身の傷、取り返せない喪失、やり直せない過去。
幾ら強く想い欲しても、力及ばない事もあるこの世の無常は、わたしが思い知りました」

 今から臨む幾つかも、そうかも知れません。被害者に為せても加害者には絶対為せない
事。千羽に出来ても羽藤に出来ない事。羽藤白花に望めても羽藤柚明の技量では望めない
事も。

「わたしは限られた人の身です。為せる事には限りがあります。生命を尽くしても届かな
い事はある。それでもわたしは羽藤として千羽を訪れなければならない。彼の想いを引き
継げる者が、最早わたし以外にいない以上」

「儂の憤怒や怨嗟の深さを知りもせぬ癖に」

 唯甘く優しく情が深いだけでは、千羽の遺恨を解く事などとても叶わぬ。烏月らを一時
丸め込んだ程度で、千羽の悲痛を癒せたなどと思い上がるな。許されたなどと誤解するな。
喪失は永遠に埋められぬ。明良は二度と戻り来ぬ。儂の孫はもう永久に、帰ってこぬのだ。
貴様の為している事は見せかけと一時凌ぎだ。儂は騙されはせぬ。決して鬼に、心は開か
ぬ。

「想えば叶う程千羽は甘い相手ではないぞ」

「わたしが戦い続ける限り全ては終らない」

 先々代の言葉も呼吸も、ピタと止まった。

 柚明お姉ちゃんは、声音をやや強くして、

「諦めない限り、挑み続ける限り、当事者の片方であるわたしが手放さない限り、望みへ
の途は残っている。諦めた瞬間、全ては終る。手放した瞬間、望みは消える」「それを
…」

 貴様は誰の言葉か分って言っておるのだな。

 先々代は振り返ってお姉ちゃんに歩み寄る。
 お姉ちゃんも座した侭先々代に向き直って。

 ヒラの鬼切り達も、次に何があるのか気遣いつつ、傍に添いつつ未だ動きは制止しない。
烏月さんの両親もお祖母さんも、見守る中で。先々代は正視する事が怖い無表情だったけ
ど。

「面を上げるが良い、羽藤柚明」「はい…」

 漸く名前で呼んでくれた。これはもしや。

 そう思った瞬間、正座の柚明お姉ちゃんが半身を起こした瞬間、痛めた右肩に右蹴りが、

「あの女の教えか! 鬼と交わり意気投合し、鬼切り役を返上してどこぞの男とまぐわい
果てた、千羽党の恥晒しの教えか! 貴様っ」

 柚明お姉ちゃんを蹴り倒し、更に掴み掛かろうとして鬼切り達に制止されていた。その
表情は再度修羅になって、地獄の業火を瞳に宿し。ああ、わたしのお母さんは先々代には、

「あの女さえいなければ、あの女さえ子をなしていなければ、拾八年前に討ち滅ぼしてお
いたなら、儂の明良は死なずに済んでいた」

 明良を惑わせ、明良の人生を狂わせ、明良の栄光を泥に落した。奴の双子が為した禍が、
儂の明良の生命も誇りも奪った。儂の全てを。

 左右から鬼切りに制止され届かない中で。
 ぺっっ。お姉ちゃんの顔に掛かったのは。

 先々代の飛ばした唾液だった。ツバを吐きかけるという表現はあるけど、そこ迄嫌う…。

 絶対に分り合えない関りもある物なのか。
 ツバを掛けられた右目は閉じた侭だけど。
 お姉ちゃんは哀しそうな顔で見つめ返す。
 頬を伝うそれがお姉ちゃんの涙に見えた。

 大人衆や烏月さん、東条さんも再び慌てて駆け寄ってくる中で、尚も先々代は抗い叫び、

「明良を返せ。儂の明良を、明良を返せっ」

 儂の人生の希望を返せ。返せええぇぇっ!

 憎悪以上にその哀しみと怒りが心に痛い。
 烏月さんのお祖母さんも両親も哀しげに。

「貴方……可哀相に……」「お父様っ……」
「ダメです、先々代。これ以上は、もう…」

 烏月さんのお父さんが羽交い締めにして。
 鬼切り達に身を抑えられ強制退場となり。

 道場には、深い哀しみと苦味が残された。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 道場には、何とも言い難い空気が滞留していた。柚明お姉ちゃんが必死に届かせようと
した想いが、先々代に頑なに拒まれ振り切られ。最後の最後迄、和解の兆しも感じさせな
い苦く哀しい結末に、千羽の人も怒りや哀しみを、誰にどう向けて良いか分らない感じで。

「……柚明お姉ちゃん、だいじょうぶ…?」

 少しだけ怖かった。柚明お姉ちゃんがお話しして最後迄決裂なんて、初めてだったから。
お姉ちゃんが心揺らされ、哀しみに沈んだかもと、気懸りで。背中に手を差し伸べたけど、
振り返るその表情を見るのが少しだけ怖くて。

 お姉ちゃんが哀しみに沈む絵は見たくない。
 わたしの美しい人が、心底愛しく想う人が。
 お花の香り漂う静かに優しく穏やかな人が。

 失意や絶望に顔を曇らせる様は見たくない。
 何一つ咎はないのに。原因はわたしなのに。
 それらを受けた末に心折れたらわたしの…。

「……心配してくれて有り難う、桂ちゃん」

 振り返ってくれた表情は柔らかな笑みで。

 少し哀しげだったけど、わたしに笑みを返してくれる。嬉しい。わたしが弱く揺れ易い
から、確かに笑みを返してくれる強さ優しさを保つ柚明お姉ちゃんは、本当に心の命綱で。

 こんなわたしの弱さが、縋り付く姿勢が柚明お姉ちゃんには負荷なのかも知れないけど。
どこ迄も許し認め愛してくれる、この人がいなければ。どんな哀しみにも痛みにも絶対揺
るがない強い優しさがなければ。わたしは…。

 頬にではなくその胸元に抱き留めてくれて。
 わたしはツバに汚れても頬を嫌わないけど。
 何に誰に汚されても一番清らかな人だけど。

 お姉ちゃんがそれを望まないと分るから逆らわない。胸元の柔らかさも暖かさも愛しい。

 柔らかで温かな感触はいつも通り。甘く香るお花の匂いもその侭だ。柚明お姉ちゃんが
無事であってくれて嬉しい。わたしを魂ごと抱き留める心と体を保っていてくれて嬉しい。

「どうぞ……」「……有り難うございます」

 茜さんがお姉ちゃんに、ティッシュを渡す。
 それで柚明お姉ちゃんは、頬の唾液を拭い。

 千羽の人達の視線は感じたけど、今はこの幸せに浸りたい。完遂したい。柚明お姉ちゃ
んの許しの侭に、心細さを不安を全部預けて。何度でも幾らでも肌身に想いを通じ合わせ
る。

 わたしのたいせつな人。特別にたいせつな人。わたしの何もかもを受け止めてくれる人。

 暫くの抱擁を、解いたのはお姉ちゃんで。
 他にも言葉を届けねばならない人がいた。

 柚明お姉ちゃんはわたしを解き放ってから、間近に歩み来た黒髪の艶やかな人に頭を下
げ、

「烏月さん。助けて頂いて、有り難うございます。そして、烏月さんのたいせつな人を確
かに守りきれず、心配を掛けてごめんなさい。わたしはいつ迄経っても力不足で頼りな
い」

「あなたが謝る事など何一つありはしない。
 それは全て私が謝らねばならない事です」

 あなたは充分な力量を持ちながら、最後迄一度も祖父に反撃しなかった。桂さんを庇い、
祖父を気遣い、想いを受け止め、絆を求めて。

「申し訳ない。千羽はあなたを傷つけてばかりだ。愛しく想う人なのに。心底守りたい人
なのに。桂さんを傷つけんとする祖父を止められず、あなたを傷つける手を止められず」

 正面間近に歩み来た烏月さんは、その場で膝を折って両手を床に付いた上で、額づいて。

「烏月さん」「烏月様!」「烏月君っ……」

 わたし達も跪いて身を起こしてと頼むけど。
 烏月さんは左右からのわたし達の願いにも。

「兄さんの事でも、先々代鬼切り役の事でも、あなたには何一つ咎がないのに。桂さんに
もあなたにも、憎まれる理由も嫌われる所以もないのに。私は礼を言われるには値しな
い」

 心から悔しそうに苦味を込めて語る声に。
 わたしは唯全力で烏月さんに取り縋って、

「もう頭下げないで。これ以上哀しまないで。烏月さんは悪くない。烏月さんが謝る必要
はないの。烏月さんはわたし達を助けてくれた。わたしとお姉ちゃんの恩人です。だから
…」

 顔を上げて。苦しまないで。わたし達の為に心を痛めるのは止めて。烏月さんが本当に
わたし達を想ってくれている事は、分るから。千羽のみんなの想いと板挟みな事も分るか
ら。

「今回は烏月さんのお陰で助かったの。謝る必要なんて何もない。ありがとう、危ない処
を助けてくれて。わたし、本当に烏月さんを大好き。確かに頼れる、賢く強く優しい人」

 心底たいせつに想う愛しい人。だからもう。

「許します。烏月さんの謝る事を羽藤は全部許します。わたし、これ以上烏月さんに頭を
下げて欲しくない。自分の所為じゃない事に迄責任を負う、烏月さんの高潔さは美しくて
好きだけど、わたしに謝る必要はないから」

 お願い、面を上げて。もう謝らないでっ。
 充分だから。もう充分以上に謝ったから。
 だからお願い、烏月さんも、微笑んでっ。

 烏月さんは言っていた。終生千羽烏月だと。
 決してこの人は己の途を見失う事はしない。

 明良さんの目指した途を最後迄進んで行く。
 強く正しく清く賢く、人を守れる鬼切りに。
 千羽党を率いて、千羽党をその様に導いて。

 だからわたしはこの人が守るべき日常の象徴になろうと。守って良かったと思える人に、
せめてなろうと。鬼と戦う術もないわたしは。守られ続け何一つ返す力も持たないわたし
は。

 だからわたしが烏月さんを煩わせたくない。わたしは烏月さんを安んじたいのに。励ま
し支え、力づけたいのに。烏月さんがわたしの為に思い悩んで頭下げるのでは、本末転倒
だ。

「烏月さんのお祖父さんの言い分は分ります。柚明お姉ちゃんを傷つけた事は納得行かな
いけど。でも烏月さんはお祖父さんを大切に想いつつ、お姉ちゃんも守ってくれた。本当
にありがとう。とっても賢く優しく、強い人」

 お姉ちゃんは無事だったから。わたしは全然大丈夫だから。もう思い悩まないで。わた
し達の所為で、綺麗な瞳を曇らせないでっ…。

 桂さん……。烏月さんは漸く面を上げて。

「その優しさが千羽烏月の生きる力になる」

 間近に正視すると、黒い瞳が微かに潤んで、心臓が止まる程美しい。瞳の深さに心が引
き込まれる。いつの間にか両手は互いを支える様に絡め合わせていた。無意識だった。そ
の侭抱き寄せ合って、頬を合わせようとしたのはどっちの意思だったろう? でもその瞬
間、烏月さんが動きを止めて我に返って、右横を、

「……」「……あ、柚明お姉ちゃん……?」

 他の人の視線は忘れても、烏月さんも間近の柚明お姉ちゃんだけは気にした様で。この
近しすぎる関りが、わたしも他の人はともかくお姉ちゃんの前でだけは拙いかなと。烏月
さんが気付かなければ、その侭抱き合って頬合わせていた。勢いで行っちゃっていたけど。

 柚明お姉ちゃんは柔らかな笑みを浮べた侭。
 わたしの心配や烏月さんの気遣いは不要と。

「烏月さん、察しすぎです。桂ちゃんに気遣わせるのは、わたしの本意ではありません」

 むしろ絶好の機を逃した烏月さんに苦言を。
 済みません。烏月さんが頬を染め俯くのに。

「柚明、さん……?」「わわっ、お姉ちゃ」

 両腕でわたし達の背中を挟む様に押して。
 烏月さんとわたしは抱き合わされていた。

 烏月さんの大きな胸がわたしの胸を潰し。
 柔らかな頬が触れ合い、首筋が艶やかで。
 促されるのも恥ずかしいけど心地良くて。

 その外側から柔らかく細い腕に包まれる。
 感触も声音も、わたしの全てを許容して。

「2人とも、わたしのたいせつな人。特別にたいせつな人。愛でるのは姿形だけじゃない。
愛おしいのは生命だけじゃない。愛したのは魂迄含めて。わたしの全てをかけて、あなた
達の全てが大切。だからあなた達がたいせつに想う人は、確かにわたしのたいせつな人」

「私もです、柚明さん」「……わたしもっ」

 羽藤と千羽には三代続けての因縁がある。
 簡単に進む関係ではない事も分っていた。

 それでも絆を結びたかったから。それでも烏月さんとも千羽とも仲良くおつきあいした
かったから。烏月さんの大切なお祖父さんお祖母さんなら、わたし達にもたいせつな人だ。
わたしが烏月さんをたいせつに想った時、同時に彼らもわたしのたいせつな人達になった。

 悔いは増えるかも知れない。悩みも苦しみも増えるかも知れない。でもそれ以上にわた
しは、烏月さんの言った通り愛を増やしたい。お姉ちゃんは分ってくれている。わたしの
望みを願いを分って、全身全霊で応援してくれている。だからわたしは、その想いに怯む
のではなく応えなければ。信じた途を精一杯行く事で、烏月さんと千羽党と確かな絆を結
ぶ。

 烏月さん、羽藤桂をよろしくお願いします。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ゆめい……あなた未だ、この立ち合いを続ける積りなの? 三強の最後の1人とも…」

 注視の中で3人の抱擁を終え。道場中央に視線を送る柚明お姉ちゃんに、ノゾミちゃん
が声を挟む。静かに意思を秘めて整った横顔は答を不要に想わせた。この人は、止めない
限りわたしの為に、進んで危難を受けに行く。

 止めないと。そう考えたのはわたしだけではなかった様で。わたしの声より、半瞬早く、

「自信過剰も好い加減にしたまえ、柚明君」

 東条さんがお姉ちゃんに詰め寄っていた。

「君は千羽党を甘く見ているのか。その体でまともに戦える筈がない。相手は千羽の三強
だぞ。三強筆頭で最強の、為景さんだぞ!」

 周囲の観衆や大人衆にも届く大きな声で。
 その細い両肩を抑えて掴んで揺さぶって。
 この剣士もお姉ちゃんを心配してくれて。

「連戦の消耗以上に、先々代の魂削りを受け、右肩に木刀を打ち込まれ、ねじ込まれた
…」

 先々代を気遣ってくれた事は有り難いが。
 その為に君はとても甚大な代償を払った。

「もう立ち合いの続行は不可能だ。それより君の身体をすぐ癒し部に見せなければ。場合
によっては救急車も呼ばねばなるまい…!」

「そうだよ、もう無理だよ。今日はここ迄で充分だよ。お姉ちゃんの想いは、千羽の多く
の人達に届いているよ。八傑の人達だって」

 最初から紳士だった東条さんは別としても、先々代が現れた時注意を促す声を挟んでく
れた秀輝君や、お姉ちゃんを守り庇ってくれた三上さんと谷原さん。柚明お姉ちゃんが危
険を承知で受けた立ち合いは効果を見せていた。大人衆が向けてくる視線さえ変り始めて
いる。

「谷原さんや三上さんにお願いした様に、烏月さんのお祖父さんにお願いした様に、為景
さんにも後日別の時にとお願い出来ないの?
 わたしもう、お姉ちゃんが痛み苦しむ姿は見ていられない。柚明お姉ちゃんは確かに強
いけど、勝ってもいつも紙一重で危ういよ」

 昌綱さんや楓さんへの勝利も紙一重だった。次に控える為景さんは、三強筆頭でお姉ち
ゃんの指名でも最後になった強者だ。予定外の消耗がなくても危うい相手に、こんな状態
で。

 柚明お姉ちゃんが困惑を表情に見せるのは、わたしが我が侭を言い出す時と決まってい
る。でも、今は我が侭でもこれ以上の立ち合いを止めたく願った。求めた成果は充分出て
いる。

 予想外の傷も受けた。これ以上無理して危険に挑む事はない。為景さんの想いは別の時
に受け止めると約束すれば。お姉ちゃんは約束を違えない。それは烏月さんだけじゃなく、
他の人にも浸透している。分って貰える筈だ。

「今立ち合いを取り止めても、やむを得ない事情は誰にも分る。始めてしまえば試合は誰
も止められない。今止めればあなたを傷つけた先々代の所為だが、この侭始めれば敗因は、
全てを承知で戦いに臨んだあなたの自信過剰、己を見る目のなさになる。万全じゃない状
態で、為景さんに叩き潰されて終る積りか…」

 東条さんが柚明お姉ちゃんの両肩を掴んで正面間近から強く迫る。お姉ちゃんが今ここ
で右肩の痛みを僅かでも顔に出してくれれば、立ち合い回避は確定だ。わたしもその滑ら
かな左腕に縋りつき、烏月さんにも止めて欲しくて、意見を求めて首を曲げようとした時
に。

「ゆめいあなた、右肩の傷をなぜ治さないの? 力が不足な訳ではないでしょうに…」

 木刀をねじ込まれた右肩は、服をはだけさせないと見えないので、男性の目もあるここ
では確かめられない。でも、さっきは誰の目にも分る程、木刀は肉に骨に食い込んでいた。
傷になってない筈がないし痛くない筈がない。戦いより治療に、強引に話しを持って行こ
う。お姉ちゃんの苦痛は一刻も早くなくしたいし。その侭試合を雲散霧消に出来れば一石
二鳥だ。

「力が足りないなら、濃い贄の血があるよ」

 微かに東条さんにも戸惑う気配を感じた。

 お姉ちゃんが、人の血を力に変えて使える、鬼に類似した技能を持つと、再認識させる
言葉は千羽党の前では失言だったかも知れない。でも今はわたしはそれに気を配る余裕も
なく、

「わたしの血を呑んで、力を補って癒して」

 だってわたしのたいせつなお姉ちゃんが。
 傷んだ侭でいる姿が、見ていられなくて。
 押し付けに近く聞えるわたしの求めにも、

「有り難う、桂ちゃんは優しいのね。でも」

 わたしは大丈夫よ。柚明お姉ちゃんは、困惑気味だけど、穏やかな笑顔を返してくれて。

「今傷を治さないのは、癒しを及ぼすと身も心も弛緩して、この後の立ち合いに響くから。
為景さんの疾風の動きに対応不能になるから。傷ついていても緊張状態にある限り、人は
その潜在力を活用出来る。火事場の何とかよ」

 贄の血の癒しは、心身の持つ自然治癒の力を強力に後押しする。でもその結果、体も心
も緊張状態を解かれて、緊張状態から治癒の体制に移行してしまう。腕力も素早さも持久
力も、動体視力も判断力も減退してしまうの。

「唯でも劣勢のわたしが、今この身に癒しを施したら、とても為景さんには対応出来ない。
だから立ち合いが全て終る迄は、力を紡いでも自身は癒さない。力の不足じゃないのよ」

 心配してくれて有り難う、桂ちゃん……。
 その微笑みは優しく強く穏やかで。でも。

「君はまだ為景さんに勝つ積りでいるのか」

 唖然とする東条さんに柚明お姉ちゃんは、

「勝敗の如何に関らず全身全霊を尽くします。それが剣士への礼儀であり、真剣勝負への
礼儀であり、為景さんが抱く想いへの礼儀でもあります。為景さんは、ずっとそこで想い
を胸に秘めた侭、待ち続けていてくれました」

 千代ちゃんと立ち合う間も、昌綱さんと立ち合う間も、楓さんと立ち合う間も、先々代
に向き合う間も。そこで微動だにせず、叩き付けるべき想いを抱きつつ。わたしが誰かに
負ければその瞬間、全てが露と消える状況で。

「この上また次に等と言えるでしょうか?」

 笑みを浮べつつ、その引き締まった肉体は、板の上に座してから、壱ミリも動く事をせ
ず。柚明お姉ちゃんを、その戦いを見守ってきた。お姉ちゃんが勝ち残ると信じ。楓さん
も言っていた。お姉ちゃんが昌綱さんに敗れて終り、想いを叩き付けられなくなる事が怖
かったと。為景さんはその想いをもう二度三度経ている。

「つ、次は為景さんから始めればいいよっ」

 もう一度昌綱さんや楓さんと立ち合う必要はない。今回は千羽が柚明お姉ちゃんの技量
を知らなかったから、色々時間が掛ったけど。もう誰もお姉ちゃんの実力を疑う者はいな
い。

「次を約束すれば、きっと分って貰えるよ」

 わたしが為景さんにお願いしても良いっ。

 今にも為景さんに駆け寄りそうなわたしを。
 柚明お姉ちゃんは両手で正面から抱き留め。
 頬に頬合わせ、これはわたしを宥める仕草。

「彼の想いは今日でなければ受け止められないの。昌綱さんや楓さんは、お願いすれば後
日に出来たかも知れない。でも彼だけは、為景さんの想いだけは今日でなければ、羽藤が
千羽と関係を結ぶ前でなければいけないの」

 でも、いきなり最強の為景さんに挑む事は、流石に千羽も許しはしなかったでしょうか
ら。

「この立ち合いが今日でなければならない事情は、千羽の方々がご存じの筈と想います」

 柚明お姉ちゃんの視線に、東条さんの姿勢が怯む。それは分っている事を問われた顔だ。

「それに、千羽はどんな事情があっても勝ち逃げするわたしを、快く思わないでしょう」

 八傑の千代ちゃんを退け、三強の昌綱さんと楓さんを倒し。ここ迄来て、本当の真打ち
を前に撤退されては、確かに不快だろうけど。

「千羽党は質実剛健な剣士達。好むのは様々な理由より、有言実行か不言実行。どんな事
情でも状態でも、立ち合いを受けて相手を前に控えた今、やめるより行う方が分り易い」

 お姉ちゃんは、千羽の人達の心の奥を察していた。わたし達に一番好意的な東条さんは、
千羽の多数の想いの代表ではない。その勧めを受けて立ち合いを止める事も、今なら可能
だけど。それは千羽の真意から微妙にずれる。それでは千羽のみんなと本当に心から想い
を通わせたい、お姉ちゃんの意図から外れると。

 柚明お姉ちゃんは東条さんに向き直って、

「わたしは勝つ為に立ち合いを受けた訳ではありません。羽藤の在り方を見せて、想いを
通わせ合う為に。千羽の方々の想いを受けて、千羽の方々にも羽藤の想いを届ける為に
…」

 不利だから、危ないから、痛そうだからと立ち合いを止めるなら、最初から受けてない。
柚明お姉ちゃんは想いを受け止める為に来た。ならその想いを前にして今更退ける筈がな
い。

 お姉ちゃんは千代ちゃんの挑戦も受けた。
 先々代の木刀も、その身で受けて応えた。

 お願いしても挑まれれば、お姉ちゃんは応える人だ。為景さんはお姉ちゃんが行くから
待っている。行かないなら千代ちゃんや先々代の様に踏み込んでくる。結局は同じだと…。

「これは剣道の試合ではありません」

 柚明お姉ちゃんは、今日何度か口にした苛烈なその言葉を、ここでもう一度繰り返して。

「これは鬼切部千羽党の鬼切りの業と、わたしの技の実戦です。傷ついた時、疲弊した時、
不利な時、禍が来ないと誰に断言出来ますか。相手はこちらが体調万全な時を選んでくれ
るとは限らない。傷や疲れが癒える迄待ってくれる保証はない。そう言う状況でもたいせ
つな人が襲われたなら、わたしは残る力の全てを注いで、生命の限り防ぎ守り応えるの
み」

 それが柚明お姉ちゃんの在り方で戦い方だ。それを見せろと千羽が望んだ以上、とこと
ん応じて見せようと。この人は優しさ甘さにも限りがないけど、厳しさ苛烈さも限りがな
い。

 言葉を返せず、冷や汗を流す東条さんに、

「それに、今立ち合いを止めれば原因はこの傷で、烏月さんのお祖父様の所為になります。
立ち合いに応じれば、負けても原因は傷を承知で戦いに臨んだわたしの了見違い、身の程
知らずです。痛みは元から覚悟の上。真剣を使わない勝負です、ご心配には及びません」

「あっ……」「そう言う考え方もあるのね」

 ご納得、頂けましたでしょうか? 柚明お姉ちゃんの柔らかな笑みの問いかけに、東条
さんは最早返す言葉がなくて。言葉を挟まず状況を見守っていた烏月さんが、諦めた顔で、

「羽藤の強情は、桂さんだけではない様だ」
「はい。羽藤の血筋は頑固の血筋ですから」

 烏月さんは柚明お姉ちゃんの意思が押し止められないと分っていた。分って何とか止め
られないかと、東条さんやわたしの説得を見守っていた。ノゾミちゃんも、きっとそう…。

 柚明お姉ちゃんは再度東条さんに向き直り、

「ご心配頂き有り難うございます。ご厚意はとても嬉しかった。求めに応えられなかった
事は申し訳ないけど、わたしを案じてくれた想いに応えられるよう、全力を尽くします」

 東条さんもここ迄来ると頷く他に術はなく。
 その深い瞳は最後にわたしを視界に収めて、

「桂ちゃんもわたしを案じてくれて有り難う。嬉しかったわ。その優しい想いに応えられ
なくて、ごめんなさいね。もう少し、想いを受けて届かせたい人がいるから。あと少しだ
け、頑張って見守って頂戴。為景さんは強いから、桂ちゃんを心配させてしまうと想うけ
ど…」

 少し哀しそうに瞬くのは、わたしが柚明お姉ちゃんを案じて震える事への、自責の想い。

 でもこの人は確かに己の行く道を見据え。
 為さねばならぬ事からは決して逃げない。

 優しく穏やかな微笑みでわたしを包んで。
 背に腕を回し頬に頬合わせ、魂を繋げて。

「……生命を落す心配はないから」「うん」

 勝っても負けてもこれが最後だ。負けても経観塚の夏の様に、消えてしまう訳じゃない。
出来れば危険もない様に、立ち合いを回避したかったけど。こうなれば今願うのは唯一つ。

「お姉ちゃん。頑張って……勝ってきてね」

 一番痛みのない結末は多分、それだから。
 そしてもう一つ、伝えねばならない事が。

「さっきはごめんなさい。わたし、柚明お姉ちゃんが油断して昌綱さんを抱き留めたと思
いこんで、戒める積りで睨む視線送って…」

 素人考えで浅はかな事をして、お姉ちゃんを心配させた。心に痼りを残した。その事は
謝っておかないと。もしわたしの事が少しでも心に引っ掛っていたなら、速やかに拭い取
らないと。最強の人に挑む前に、どうしても。

 一生懸命謝罪を紡ぐわたしの言葉を止めたのは、柔らかな腕のより強い抱擁で。肌身に
これ以上の謝りの言葉は不要と伝わってくる。見上げた双眸は静かに温かに穏やかに微笑
み、

「桂ちゃんの気持は届いて来たわ。真剣に心配してくれた事は嬉しかった。それが誤解に
基づく物でも、この身を気遣ってくれた優しい想いに違いはない。有り難う、桂ちゃん」

 謝らなくて良いと。苦に思う必要はないと。
 想いは通じている。全て許し終えていると。

 この人はわたしの失敗も誤解も全て受け容れる。何一つ余さず汲み取ってくれる。受け
止めなくても良い想い迄掬い取って呑み込む。そうする事が幸せであるかの如く、微笑ん
で。

 わたしの頭の上に、柚明お姉ちゃんの右手が乗った。お母さんがいつもしてくれた様に、
いや昔お姉ちゃんが幼いわたしにしてくれた様に、ぽんぽんと柔らかく頭を叩いてくれて、

「一緒に、千羽の想いを受け止めましょう」

 わたし達は、最後の戦場にも一緒に臨む。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 烏月さんに先んじて高段に座すわたしに、

「けい……私は果たして、ここに来るべきだったのかしら?」「……ノゾミちゃん…?」

 珍しくノゾミちゃんが弱気に問うてきた。

 言いづらい事を口にする感じが、いつもの強気と違って可愛らしいけど、声音は真剣で、

「あなたとあなたの兄を唆し、主様の封印を綻ばせたのは私よ。主様の分霊をあなたの兄
に憑かせ、あなたの父を失わせ、羽藤の家を瓦解させ、千羽に禍を招かせた因もこの私よ。
 ゆめいはあなた達を守る為に槐に宿り鬼神を封じ、拾年忘れ去られた中で己を捧げた」

 原因は羽藤ではなくむしろ私にあるのに。

 羽藤のゆめいが千羽の損失に頭を下げて痛みを受け、非難や憎悪や罵声を受けて、危険
を承知で立ち合い迄を受け。私は見守るだけ。果たして私はここにいる資格を持つのかし
ら。ゆめいが謝る咎は、けいと言うより私の咎よ。

 そうか。ノゾミちゃんが千羽館来訪に気乗りしなかったのは、白花お兄ちゃんの遠因が
わたしと言うより、ノゾミちゃんにあると…。

「ゆめいは私に、一緒に謝れとさえ言わなかった。唯けいに付き添って欲しい、としか」

 実際為している事もけいに付き添うのみ。
 憎悪や罵声を受けるべきなのは私なのに。

「けいと共に生きて行く途を選んだ私は、千羽の怒り哀しみを、けいが感じる様に感じ取
れるけど。けいの想いは私の想い。けいの印象が私の印象。申し訳ないと思えてくるけど。
 私の謝罪を誰も求めない。千羽は私が鬼だから人の心など期待してないのかも知れない。
でも、ゆめいは私に何を望んでここに招いたの? 本当に唯けいに付き添わせるだけ?」

 現身を取れないけどきっと瞳は潤んでいた。
 償いたいのにその術を知らず何も出来ない。

 わたしと同じ状況に、ノゾミちゃんもいた。
 ずっと考え込む様子だったのはそう言う…。

「うん。きっと、それがお姉ちゃんの望み」

 問われて漸くわたしも気付いたのだけど。

 わたしに付き添うという事は、柚明お姉ちゃんが千羽の想いを受け止める場に臨む事だ。
わたしが見守る事で、柚明お姉ちゃんと一緒に千羽の想いを受け止める様に。ノゾミちゃ
んにも、わたしに付き添う事で、千羽の想いを一緒に受け止めて欲しいと、いう事なのだ。

「けい……?」「柚明お姉ちゃんは、わたしにも、一緒に謝ってとは、言わなかったよ」

『分担は不公平な程わたしに楽で、お姉ちゃんに重い配分だけど。それをこなす限りわた
しはお姉ちゃんと一緒に事に向き合えている。役割を果たせているの。羽藤の責任を分ち
合っている。経観塚の夏の様に、唯守られている訳じゃない。何も出来ずに唯見ているだ
けじゃない。ほんの少しでも何かの役に立てている。我が侭でも、それを壊したくない
の』

「……きっと、ノゾミちゃんにも、それを」

 今更取り返せない事はある。償いきれない罪はある。最早手の届かない過ちも。わたし
もノゾミちゃんも共にそれを犯してしまった。でも、だからこそ向き合わない訳に行かな
い。

「ゆめいが千羽の想いを受け、千羽に想いを届ける様を、私に見なさいと? 向き合いな
さいと? それが、私の償いにもなると?」

「羽藤として、一緒に向き合っているもの」

 わたし達は家族だって、柚明お姉ちゃん言ってくれたでしょう。ノゾミちゃんも含めて。

「ノゾミちゃんは羽藤の一員だよ、確かに」

 だからわたしを心配した時に、ノゾミちゃんに付き添ってと頼んだ。信じた相手でなけ
れば預けられない、頼めない。こうして想いを交わす場にわたしが臨む事で、罪に向き合
い、過去に向き合い、羽藤の責任を分ち合って果たす様に。それを更にノゾミちゃんにも。

 わたしの悔恨が深い様に、ノゾミちゃんの悔恨も深い。こうしてわたし達と暮らす以上、
人の心を持って生きる以上、暗闇の繭はノゾミちゃんの心にも常に添う。わたしの様に…。

 だからこそ、少しでも一緒に償おうと。
 その重さ辛さを一緒に減じて行こうと。

 支えてあげるではなく一緒に支え合う。
 真実に過去に己自身に共に向き合って。

 柚明お姉ちゃんは罪の報いを殆どその身で受けきる中で、少しだけ分けてくれた。見守
る役・想いを交わす場を支える役を担わせてくれる事で。全て受けきったらわたしやノゾ
ミちゃんが償った事にならない。だからわたし達を少しだけ混ぜ、でも大多数は自ら被り。

 千羽との関りは、鬼であるノゾミちゃんにも重要だ。鬼切部に敵視されない為にも、ノ
ゾミちゃんは今後も一層、鬼切部に緊密な繋りを持たねばならない。わたしもそうだけど、
烏月さん達千羽党との関りは切っても切れぬ。

 きっと柚明お姉ちゃんは、ノゾミちゃんの千羽党への顔繋ぎ迄兼ねて。だからこそ、わ
たし達の為だからこそ、お姉ちゃんはこの立ち合いも中途半端で終れない。本当に用意周
到な人、いつでもどこでも全身全霊な人、少しは手を抜く事も憶えて欲しい位に愛しい人。

 ノゾミちゃんも漸く得心出来たと、同時にその甘さ加減に呆れ果てたと、溜息をついて、

「であるなら、けい。私達も心を込めて見守るわよ。この一戦も、見届けるには覚悟が必
要だわ。ゆめいが中途半端で終れない戦いは、私達にとってもそうなのだから」「うん
…」

 そこでわたしの右隣に黒髪艶やかな麗しい人が戻り来て。わたしを元気づけようと微笑
みかけてくれて。道場は、鎮まり始めていた。

「最後の一戦だ。共に、見守ろう」「はい」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「久方ぶりであったかな。この夏で、ちょうど拾壱年になると思うが……」「……はい」

 柚明お姉ちゃんが道場の中央で、為景さんと向き合ったのは拾数分の後。夕刻迄はもう
少しあるけど、既に日は西に傾き始めていた。

 為景さんは白い狩衣姿に乱れもない。やはり防具は身につけず、その木刀は右手に握り。

 柚明お姉ちゃんの白いちょうちょの模様が描かれた薄青いパフスリーブのワンピースは、
結構汚れ傷んでいる。昌綱さんや楓さんの攻撃が幾度か掠めて切られているし、先々代の
木刀や蹴りも受けた。満身創痍な筈だけど疲れも痛みもおくびにも出さず、応対は滑らか。

 年齢も性別も体格もキャリアも本当に対照的だ。そして全てが為景さんに有利に見える。
本当に戦いが成立出来るのかと、不安になる位に。いや、柚明お姉ちゃんは今迄も見かけ
の不利を覆して勝ってきた。今は、信じよう。

「本当に拾壱年前から、何も変ってない…」

 儂の記憶にある侭の、当時の侭の貴女だ。
 桂殿はもう、儂をお忘れの様子だったが。

「為景さん、わたし達を知っているの…?」

 為景さんは、わたしには『初めまして』と挨拶したけど、お姉ちゃんとは、そう言えば。
烏月さんも東条さんも分らないとかぶりを振る中、更に右側から大人衆の義景さんが声を、

「拾年以上前、千羽党が鬼切りの助力を頼みに羽様に人を遣わした事があった。千羽では
助力を頼んだ事実は明良様位しか知るまい」

 お母さんがタブーだから、助けを求めた事実も伏せていたみたいです。そしてその時に。

「為景さんは、羽様のお屋敷に来ていたんだ……お姉ちゃんとも、わたしとも、そこで」

 拾壱年と言っていた。楓さんが柚明お姉ちゃんのお話しを、明良さんから聞いたのも拾
壱年前と言っていた。お母さんの事柄や贄の血の事情から、拾年前の夜以前既に、お姉ち
ゃんの定めは鬼切部千羽党に絡み始めていた。

「夏の日だった。山奥の屋敷に足を踏み入れた儂は、鬱蒼たる木立の中に、貴女を見た」

 座敷童が現れたのかと思い申した。この世の物とは思えない、不思議な気配を漂わせて。
整った容貌も愛らしかったが、艶やかな髪も滑らかな素肌も清楚で上品だったが、黒い双
眸も今と変らず人の心を吸い込む程だったが。

「姿は人でありながら、その様は妖精だった。手に留まらせた小鳥と語らい、リスやウサ
ギと共に歩み。陽光の中でもその佇まいは幻想的で神秘的で。思わず息を呑み、目を見開
かされた。儂は、鬼に誑かされているのかと」

 柚明お姉ちゃんは柔らかな笑みを浮べて。

「突然身構えられたので、わたしは少し驚きました。只者ではないと分りましたけど…」

「ちょうど厄介な鬼に難渋して、真弓殿に助力を求めに来た処だったのでな。目に触れた
異質な物に、つい過敏に反応してしまった」

 にこにこした顔は変えない侭で為景さんは、思い出話しはその位で良かろうと声音を低
く、

「昌綱も楓も破り、儂の前迄来れましたな」

 途中余計な邪魔も一つ二つ入りましたが。
 結果には影響もなかろうて。儂の勝ちだ。

「貴女の技量は昌綱より上で、楓と互角かほんの少し上。儂や烏月様よりは、下と見た」

 三強クラスの剣士が野にいる事は驚きだが、真弓殿に師事すれば、そこら位迄は辿り着
く。貴女は彼女の強さの何割も受け継げておらぬ。所詮当代最強の足元にも及び得ぬ劣化
コピー。護身の術と称しても素養の不足を示しただけ。拾壱年前も今も、その事実に変り
はない侭か。

「儂を最後に指名したのは、儂の後に誰も指名しなかったのは、正解だ。貴女は儂の後に
はもう、誰とも戦う必要も心配もない故に」

 相変らずにこにこと、表情は温厚だけど。
 声も穏やかに静かで仕草も大人しいのに。
 その身に満ちる闘志は既に怖い程全開で。

 柚明お姉ちゃんが向き合えている事が驚きだった。修行も何もないわたしも見えて分る。
為景さんは柚明お姉ちゃんを殺す構えでいる。顔は笑った仮面の侭でもその目が笑ってな
い。


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