縺れた絆、結い直し(乙)


「谷原さんに教えて貰った通り、オサが激怒して全力以上を出し切れる様に、まずオサと
仲良しな感じで姫って呼ばれていた、同じ一年の女子を狙ったの。将は馬から射よ、ね」

 大人しめでストレートの黒髪長く可愛い子だったわ。動きも悪くなかったけど、あたし
の敵じゃない。指名して、気を失う程に強烈な面を叩き付けた後で、背後に倒れ掛けた処
にもう一撃。そこ迄したら案の定、1年生のリーダー気取っていたオサが割り込んで来て。

「わ、もろに悪役のやり口だよ。力の差のある弱者を、過剰に痛めつけるなんて。正義の
味方を怒らせる為にやる様な、酷い事を…」

 彼女は対戦相手の口真似も器用に交えて、

『あなた、ここ迄やる事ないのではなくて』

『あら、全力出しただけよ。敗れる事が怖くて嫌なら、勝負事などしない方が宜しいと思
うわ。弱いのに、他校との練習試合になど臨むからよ。身内でちまちま経験値でも稼いで、
小成を狙った方が宜しくてよ。あなたもっ』

『あなたね!』『挑戦する勇気あるんだ?』

 相手してあげても良いわ。友の仇が取れるかどうか、やってみなさい。あなたもそこそ
こ強い気でいるみたいだけど、あなたもあたしから見れば雑魚だって、思い知らせてやる。

『しょうこさん、わたしは良いですから…』

『拾本勝負よ。あたしが拾本取る内に、あなたが一本でも取れたなら、あたしがあなたに
も彼女にも謝る。その代り、あたしが拾本取る内に、あなたが一本も取れなかった時は』

 ここに揃った両校の、剣道部員全員の前で、あなたがわたしに土下座するのよ。良く
て?

「こっちの先輩や部長には予め手を回してあったし、向こうの何とか言う先輩お嬢様達は
オサを抑えきれなくて、拾本勝負になって」

「巧く彼女を、土下座させられたのかね?」

 三上さんが坊主頭を彼女に向けて問うと、

「当たり前よっ。そうでなければ、ここに顔を出せる筈がないでしょう。五拾壱本、取っ
てやったわ。彼女が納得しない事は最初から見通せていたから、連続で勝負を受けたの」

 最初の拾本を取り終えて、約束通り両校剣道部員四拾人余りの前で、あたしに土下座し
たオサの耳に、囁いてやったの。もう一回勝負してあげても良い。同じ条件で、あなたが
一本でも取れたらあたしがあなたと姫に謝る。あたしが拾本連取したら、もう一度土下座
を。

『お願いなさい。あたしに、敗者のあなたが。
 あなたは拾回連続あたしに敗れ去ったのよ。
 あたしはお情けで再挑戦を受けてあげるの。
 土下座してのお願いしますと、土下座してのありがとうございますは? さあ早く!』

 鼻高々な彼女にノゾミちゃんも呆れた様で。千羽が止めに入らないからわたし達も見守
る。

「おやおや、本当に元気の良い事だのう…」

 為景さんが笑みを浮べて語りかけるのに。

「遠慮なく叩き伏せてやったわ。彼女の片手面なんて、一度受ければ見切れるもの。弐拾
本取ってから、再度みんなの前で土下座させ、もう一度囁いてやったの。土下座したその
頭を踏みつけながら、もう一回どう、ってね」

「千代ちゃんに宿敵扱いされた相手は、可哀相だな。中途半端に強くなる物じゃないか」

 昌綱さんが肩を竦める気持は共有できる。

「1年生の癖に、あたしに大会で一本取って、生意気な口利いてくるのが悪いのよ」「同
じ1年生で、1年生の癖にはないと思うけど」

 彼女は、秀輝君の突っ込みには応えずに、

「まあ四拾本取られて、尚諦めず挑戦する気力は、認めてあげても良いわ。無駄な努力を
諦めない愚かしさだけど。彼女、最後の拾本は意識朦朧で、何本目かも分らない状態で」

 五拾本目をとっても、カウントできずに突っ掛ってきたの。腹立って、もう一本叩き付
けた上で、仰向けに倒れる前に蹴りを入れて、壁に叩き付けてやったわ。最初に叩きのめ
した姫って子が割り込んで、代りに土下座して、もう止めて下さいお願いします、って謝
って。

「青城の先輩お嬢様も割り込んで、流石にあたしもそこで許してあげたけど。爽快だった。
彼女すぐ気を取り戻して状況分って悔し涙で。『あやしろ、わたし、負けちゃった』って
ね。庇い守ろうとした娘に、逆に肩を抱かれて」

 きっと心も折れていたわ。絶対負けないと正義を背負い、怒りで実力の最大限発揮させ、
それを木っ端微塵に砕いたもの。いい気味っ。

「これで部活剣道から卒業しても、未練はないわ。あたしの目標は楓さんや烏月様なの」

 一般人にいつ迄も拘っている暇はないもの。
 千羽党の誇りに傷を付けた代償は大きいの。

 そこで彼女はわたし達に首を向けて来て、

「分る? あたし達に不用意に関ってしまった事が運の尽き。あなた達もあたしの餌食」

 漸く彼女はわたし達を視界に入れてきた。
 座布団に座ったわたしの間近に歩み来て、

「あなたは、全然素人ね。鬼が憑いている。
 ふぅうん、虐めてみると、面白そうね…」

 ノゾミちゃんが、身構える感触が分った。
 じっと瞳の奥迄見つめられる。わたしは、

「は、羽藤桂です。拾七歳、高校2年です」

「あら、あたしより一つ年上? 胸のサイズが同じ位だから、同じ歳かと思っちゃった」

『ち、千代ちゃんよりは、大きいよっ……』

 あなたが戦力外なのは、見て分るとして、

「あなたが羽藤柚明ね。話しは聞いているわ。千羽の雑兵を退けた、少し強いってお話し
を。
 ふぅうん、可愛いじゃない。髪型が微かにオサを想い出させるわね。姿勢が柔らかくて
大人しげなのが全然違うけど。良いわ、あなたも可愛いから、あたしの餌食に決定よっ」

 振り向くと、正座の柚明お姉ちゃんの顎を右手で摘んで顔を上げさせ、瞳を覗き込んで
いた。まるで女の子を品定めしているみたい。お姉ちゃんは特に不快も見せず、抗う様子
もなく、深い瞳で勝ち気な彼女の双眸を見つめ。

 良い匂いね。それに肌触りが滑らかで温か。
 彼女はくんくんと鼻で匂いを良く味わって。
 それから瞳を見開いて改めて好戦的な声で、

「千羽党八傑の第八席、千羽千代があなたを倒して、片付けてあげる。覚悟なさい…!」

 顎を放された柚明お姉ちゃんは、静かな表情で言葉はなく、両手を付いて一礼しただけ。

「千代、秀輝の右隣に座るんだ。今は大人衆と柚明君の話しの最中だ……」「はあぁい」

 東条さんの促しで、千代ちゃんが板の間に座り、わたし達に向き合う。これで八傑が揃
った。後はお姉ちゃんの選択に移ると言う時。わたし達は待ちに待った麗人の登場を迎え
た。


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「これは、一体どういう事だ? 景勝さん」

 前向きに戻ったわたしの前で、一段高い処に座す美しい人が、景勝さんに詰問を発した。
ハの字に開いた座布団は全てが埋まっている。

 烏月さんはやはり、大人衆の動きは知らなかった。別室でケガをした菖蒲さんや藤太君
達を見て、何があったのかと驚き。この広間に来た時に、わたしの頬の涙の跡も気付かれ
た。烏月さんはまずわたしに歩み寄ってきて、正面間近から美しい双眸で覗き込んでくれ
て。

『桂ちゃんが、涙させられるのを止められず、申し訳ありません』とお姉ちゃんは烏月さ
んに謝ったけど。それは烏月さんの即答の通り、

『あなたが謝るべき事ではない。その位は私にも分る。私こそ、力量不足で申し訳ない』

 烏月さんは、ここでかなり進んでいた事の流れを理解した瞬間、端正な顔を苦く歪めて、

「それは、大人衆の全員が承知だったのか」

「幾つかの仕掛けは担当のみが把握していましたが、大枠は全員一致で動いております」

 景勝さんが応えるのに、烏月さんは自身に添っていた大人衆の上席3名に、視線を向け、

「義景さんも、千鶴さんも、経久さんも、この事は承知か? 知って黙していたのか?」

 新たに座布団に座した年配者3人も頷いて頭を下げる。上席3名はみんなかなり年配の
人達だった。薄い髪に白が混じり、頬や額の皺も深く。五拾歳代、六拾歳代かも知れない。

 首席が烏月さんのお祖父さんの弟(次兄)の義景さんで、次席が烏月さんのお祖父さん
の妹の千鶴さん、参席が烏月さんのお祖父さんの弟(三兄)の経久さん。老いてはいても
千鶴さん迄含め背筋がぴんと張って眼光鋭く。

 みんなわたしよりも柚明お姉ちゃんよりも背が高く、身体も骨太で筋肉質で引き締まり。
引退しても、還暦過ぎても、千羽の人は並の若者よりは遙かに強そうで、気力も充実して。

 烏月さんは、大人衆全員が当主を置き去りで動いていた事に、驚きと憤りを隠しきれず、

「為景さん、八傑も全員この事は承知か?」

「儂は承知しておりました。他の者は、烏月様の前に招集されると思っておった様です」

 烏月さんの空白の時間を作る作為に関った為景さんは、事前に全て報されていたらしい。
他の面々は、烏月さんと羽藤の対面の場に招かれて、お姉ちゃんに挑むと思っていた様だ。
でも、烏月さんにはそもそも柚明お姉ちゃんと八傑、羽藤と千羽が立ち合う事が想定外で。

「栞さんは、この事を知っていたのか…?」

 最後に烏月さんは、壁を背に板に座す栞さんに問を向ける。栞さんはわたし達の警護に
烏月さんが信じて遣わした人だ。彼女がこの作為に関っていたなら、彼女の裏切り以上に、
烏月さんの人を見る目が誤っていた事になる。

「申し訳ございません。承知していました」

 沈痛な表情は、烏月さんに叱られると言うより、その信頼を裏切った己への苦味の様で。
己の裏切りを苦味に感じるという事は、本心は烏月さんの信に応えたかったのだろうけど。
両手を付いて、頭を床に付けて謝る姿を前に、

「知らぬは当主ばかりなり、か。これではとても桂さんを迎えよう等と言える筈もない」

 情けない内情ばかりを見せてしまったが。

「これが現在の千羽の姿なら、やむを得ない。
 全ては私の統率不行き届き、指導力の不足。
 責任は、千羽の当主が取らねばなるまい」

 烏月さんは立ち上がって、一段高い処から板の上に下りてきて、座布団に座ったわたし
の目の前に来て、正座して板に額を擦り付け、

「重ね重ねの非礼で。桂さん達の心を騒がせてしまって、誠に申し訳ない。桂さん、柚明
さん、ノゾミにも。この程度の謝罪であなた達の憤りが収まるとは思えないが、まず千羽
を代表した私の謝罪の気持を受けて欲しい」

「烏月様っ!」「烏月さん」「烏月君……」

 大人衆からも八傑からも、左右の鬼切部からも一斉に驚きのざわめきが沸き起こるけど、

「烏月さん! そんな、良いです。そこ迄」

 一切の雑音より、正面間近で板に額を擦り付けた烏月さんが余りに切なく、痛ましくて、

「烏月さんは悪くない。烏月さんが謝る必要はないの。烏月さんは知らなかったんだし」

 慌てて美しい人に躙り寄り、寄り添ってその両肩に両手を触れて、面を上げてと願うと、

「知らないでは済まされない。無関係では済まされない。これは千羽が為した非礼だ。私
は千羽党の当主だ。統括できなくても、千羽党が為した事には、私が責任を負うべきだ」

 こんなに美しく強い人が。こんなに可憐で華奢な人が。こんなに賢くてまっすぐな人が。
どうして自分の失態じゃない事に膝を折って。余りにも痛ましい。わたしの方が耐えられ
ず、

「許します。烏月さんの謝る事を羽藤は全部許します。わたし、これ以上烏月さんに頭を
下げて欲しくない。自分の所為じゃない事に迄責任を負う、烏月さんの高潔さは美しくて
好きだけど、わたしに謝る必要はないから」

 お願い、面を上げて。もう謝らないでっ。
 充分だから。もう充分以上に謝ったから。
 だからお願い、烏月さんも、微笑んでっ。

 烏月さんは決して千羽党の当主の座を捨てはしない。逃げはしない。鬼切り役を兼ねて、
この人は真面目に必死にその道を進んで行く。曲げる事も折れる事も出来ない人だ。その
先にはきっと、この様に己の所為ではない苦悩に心痛める事もある。喜びより苦味が多い
途である事は間違いない。鬼切部は常に命懸け。烏月さんのみならず、他の人達も命懸け
で挑む以上、苦痛も損失も覚悟せねばならない…。

 でも、それでも。だからこそ。せめて今は。

 わたしの事で、些細な事で、愛しい人の心を痛めたくない。頭を下げないで。この人は
今後もっと大きな苦痛や困難に、心を痛めなければならないのに。わたしはその拠り処に、
癒しになりたいのに。そのわたしが烏月さんを謝らせ、額づかせるなんて、本末転倒だよ。

「わたしは大丈夫だから。わたしは烏月さん程強くはないけど、ノゾミちゃんや柚明お姉
ちゃんもいるから。だからわたしの事で余り心悩ませないで。綺麗な瞳を曇らせないで」

 桂さん……。烏月さんは漸く面を上げて。

 ほんの少し潤んで見上げてくる瞳が、今迄見た事のない烏月さんで、震える程に愛しい。

「尚気遣ってくれるんだね。本当に、申し訳ない。私が桂さん達とより親しく関りたくて、
より確かに守りたくて、より千羽にも馴染んで欲しくて、望んで招いた今日だったのに」

「そうじゃない。今日はわたしが烏月さんに逢いたくて、烏月さんのたいせつな人達に会
いたくて、ご挨拶とお礼を言いに来たのっ」

 羽藤と千羽には三代続けての因縁がある。
 簡単に進む関係ではない事も分っていた。

 それでも絆を結びたかったから。それでも烏月さんとも千羽とも仲良くおつきあいした
かったから。烏月さんは悪くない。わたしが、わたしが望んで招いた事の末だから。だか
ら、

「もう謝るのは止めて。その必要はないから。
 わたし烏月さんに逢えて本当に嬉しいから。
 それが全てを補ってくれる。だから烏月さん、今からわたしをよろしくお願いします」

「桂さん……こちらこそ、宜しく」

 両手を両手で握り合い、胸の前に持ち上げて互いを見つめ合う様が、周囲の人達の瞳に
どう映っていたのかは分らないけど。この数分間はわたしには至福の時間だったし、烏月
さんも心から嬉しそうに見つめてくれたから。

 義景さんの何度目かの咳払いが耳に届く迄、わたし達はその幸せに、身を浸し続けてい
た。


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「その試合は千羽の当主が了承していない」

 一段高い座に戻った烏月さんはその後一旦、お姉ちゃんと八傑の立ち合いの撤回を告げ
た。

「千羽の当主は私か、それとも大人衆か?」

 憤りを込めた強い視線と声音には、大人衆の誰も言葉を返せず。烏月さんの当主権限で
柚明お姉ちゃんと八傑の戦いは、撤回されかけた。そうなってくれれば、お姉ちゃんに危
害が及ぶ心配もなくなって良かったのだけど。

「申し上げます!」

 唯一の異論は、大人衆でも八傑でもなく、

「この立ち合いを回避すべきでありません」

 栞さんだった。烏月さんが信頼してわたし達の守りに遣わした人。その想いを実質裏切
って大人衆の作為を助けた人。彼女は大人衆の策動を烏月さんに、今迄明かさずに来た…。

 烏月さんの不快を買う事は承知で。信に違背した罰をこれから受けるのに、それを重く
するだろう事は承知で。敢て強く透る大声で、

「千羽には千羽の想いがあります。烏月様が桂さん達に抱く想いとは別に、千羽の多くの
者が抱く羽藤への遺恨がございます。烏月様こそ誰よりそれをご承知の筈。その想いを叩
き付けない侭に、羽藤と絆を繋ごうとしても、頭で理解できても、心で納得できませ
ぬ!」

 栞さんの血を吐く様な叫びが響き渡った。

「私は桂さんと柚明さんに接してきました」

 彼女達が心根の優しい人物である事も分っております。彼女達が悪い訳でもなく、不幸
な定めの絡みが今の状態を生んだ事も承知しております。でも、それでも尚、今迄の羽藤
との関りを考えた時に、平静でいられぬ血の滾りを感じる己を、完全には抑えきれません。

 彼女達を知った私がそうなのです。今初めて羽藤と対面した千羽の多くの者がどう思い、
どう考えるか。お察し下さい。お察し下さい。

「烏月様が望む、羽藤との絆には私は反対しません。彼女達が持つ贄の血以上に、是非と
も守りたく想う、愛らしく可憐な少女達です。是非関係は結びたい。仲良くしたい。で
も」

 そうなってしまえば、我らの想いは二度と羽藤に叩き付ける事が叶わなくなる。今迄の
我らが抱いた苦味を、届かせる術が失われる。憎悪も怨嗟も憤怒も、盟友になった羽藤に
はぶつけられない。決して、ぶつけられない!

 先々代の事は言う迄もなく。一年半前から始った羽藤白花の一件でも、千羽の多くの者
が受けた傷は、古傷と言うに余りに生々しく、未だにその収拾が付いたとも言えぬ状態で
す。

「当主の判断には従います。羽藤との盟約は我らも了承します。しかし烏月様、千羽の皆
の想いも分って下さい。皆が皆、賢く発想が柔軟な者ばかりではないのです。一年半前の
あの日から、一歩も動けぬ者もいるのです」

 それが千羽の総意に近いから。圧倒的多数の想いだったから。当主の耳にも漏れる事な
く作為は潜行できたのだ。彼らが羽藤に抱いた蟠りは、命令一つで解消できる物ではない。

「機会は関係を結ぶ前の今だけです。絆を結ぶ前の今しかないのです。羽藤の側では柚明
さんが、我らの想いを受け止めると応えてくれました。これは千羽の皆に見せるべきです。
千羽の多くの者はけじめを欲しているのです。
 そして千羽党は剣士です。剣を交える事によってしか、想いの真偽は確かめられない」

 烏月様が真剣に向き合って2人と心を通わせた様に、ここで真剣に千羽に応じてくれる
羽藤の姿を見せられれば、本当の絆が結べるかも知れません。少なくともけじめにはなる。

 栞さんは大人衆の指示だから従った訳ではない。烏月さんの信を裏切ったのも本意では
なかった。人は感情の生き物で、各々に想いを抱く。大人衆にも八傑にもヒラの鬼切り達
にも、1人1人の想いがあった。その全てが羽藤とは、何らかのけじめが要ると一致して。

 真剣な訴えに、烏月さんも考え込む様子になる。尚この立ち合いを認める積りはないけ
ど、栞さんの強い想いも無碍に退けられない。明晰な烏月さんに微かに迷いが生じ。そこ
に、

「僭越を承知で申し上げます……烏月さん」

 柚明お姉ちゃんが、静かで柔らかな声を。

「千羽の当主は、千羽の方々の気持をまず受け止めて判断すべきと、わたしは考えます」

 栞さんの意見を補強し、大人衆の作為で成立した立ち合いを勧める方向に、助言する…。

「今千羽の方々が羽藤に抱く想いは、烏月さんが夏の経観塚で桂ちゃんに逢う前に、羽藤
に抱いていた想いと同じなのだと想います」

 烏月さんは、きっと今、夏の経観塚で白花ちゃんに抱いた想いを、噛みしめ直している。

「烏月さんとは夏の経観塚で、様々な経験を共にして、桂ちゃんもわたしも心通わせ合う
事が叶いました。でも、その経験を経ていない千羽の多くの方々に、今の烏月さんと同じ
想いを抱いて貰う事も、強い絆を結ぶ事に納得頂く事も、難しいのではないでしょうか」

 千羽と羽藤の関りが必要であり大切な事は確かです。桂ちゃんの為にも、烏月さんとも
千羽党とも絆を結びたい。なら、その関係に魂を宿らせる為にも。ここ迄因縁が絡まった
羽藤と千羽の縁を結び直すには。縺れた絆を結い直すには。想いを交わし合う必要がある。
それが千羽党なら、試合の形を取るのも自然。

「だが柚明さん、あなたは戦いを好まな…」

 ノゾミちゃんも、わたしと一緒にじっと柚明お姉ちゃんの言葉に、聞き耳を立てている。

「わたしは戦いを好みませんけど、避けて通れぬ場合もあります。今の痛みを怖れる余り、
今後に蟠りを残すなら、戦いは今為すべき」

 わたしは羽藤の想いを受けて、羽藤を代表して立ち合いに臨みます。千羽は千羽の想い
を受けて、千羽を代表して立ち合いに臨んで頂きたい。想いを交わし合いましょう。わた
しは害を為した側として、千羽の想いを受ける責務があります。そしてわたしも羽藤の想
いを千羽に届けたい。届かせる場を頂きたい。

「わたし如きが鬼切部千羽党の、強者と剣を交えるのは、身の程知らずと承知の上で…」

 勝敗に関らず、全力で受けて立つ事で両家の蟠りを払拭したい。千羽党は現身を持つ鬼
を切る剣術主体の鬼切部。想いの真偽を見て頂くには剣術で立ち合うのが最良かと。千羽
の強者を失望させない程度には戦う積りです。

「桂ちゃんにはわたしが了解を頂きます。烏月さんの、千羽の誰かの所為にはさせません。
これは千羽のみならず羽藤も共に望んだ戦い。
 今は千羽の想いを受ける事を第一に考えて、判断を下されますようお願い申し上げま
す」

 お姉ちゃんは自身の利得ではなく、常にお互いの今後がどうあれば良いかを考えている。
その為に必要なら、誰かの策に敢て乗る事も、危険や痛みを受けに行く事も承諾できてい
て。

 本当に、強く賢く優しく綺麗な愛しい人。
 そしてそれに面した、千羽の麗しい人は。
 諦めた様な切ない表情を浮べ、頭を下げ。

「……柚明さん……、……申し訳ない……」

 遂に千羽と羽藤の立ち合いが承認された。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「桂ちゃん、少し心配かけてしまうけど…」

 この人は頭を下げてわたしの瞳を覗き込み。
 寄り添ってわたしの心配を心配してくれる。
 自身がこれから危険や痛みへ踏み出すのに。

 わたしの所為で、わたしの為に、千羽の猛者と戦うのに。謝るのはお姉ちゃんではなく、

「ごめんなさい。わたしが応対間違えて、立ち合いを受ける前提のお話しした所為で…」

 あれがなければ、柚明お姉ちゃんはもっと。
 言いかけるわたしを制してかぶりを振って、

「違うわ、桂ちゃん。それは桂ちゃんの所為じゃない。この立ち合いは、受けて応えねば
ならない、避けて通れない途だったから…」

 桂ちゃんの失敗ではない。必然だったの。
 桂ちゃんは偶々その場に居合わせただけ。
 桂ちゃんは何も悪くない。哀しまないで。

「烏月さんと仲良くしたい。千羽と絆を結びたい。それはわたしの願いでもあるから…」

 桂ちゃんも、今も確かにそうなのでしょう。

 両肩を、軽く抑えて語りかけ。甘いお花の香りが心地良い。日中でもお姉ちゃんの癒し
が肌に浸透する錯覚が、心を安らげてくれる。

「相手は千羽の強者だから、痛い目を見るかも知れないけど、負けても生命を落す心配は
ない。だから安心して、見守って欲しいの」

 柚明お姉ちゃんが羽藤を代表して、千羽の強者と剣を交える。わたしは羽藤の当主とし
てその様を見守る。それがわたし達の役割分担だと。烏月さんが千羽の当主として千羽の
人の戦う様を見守る様に。わたしは羽藤が避けて通れないこの戦いをしっかり見守る事で、
お姉ちゃんと2人一緒に羽藤の責務を果たす。

「何も出来ずに見守る方が辛いと想うけど」

 想いは一つ。わたしの痛みが桂ちゃんの心の痛みになる様に、桂ちゃんの哀しみはわた
しの哀しみ。わたし達羽藤は一緒に、一体で事に臨んでいるの。わたしが千羽に届ける羽
藤の想いは桂ちゃんの想いも含む。わたしが受ける千羽の想いを、桂ちゃんも受け止めて。

「想いは必ず通じるわ。2人で受け、2人で届け、通じ合わせる」「柚明お姉ちゃん…」

 これは心を交える為の立ち合いだ。縺れた絆を結い直す為の戦いだ。何かを奪い踏み躙
る為に争う訳じゃない。絡まり合った宿縁を解いて、結び直す為のわたし達の共同作業だ。

 相手側がどう思うのかは、別として……。

「うん……頑張って。全力を、出してきて」

 千羽の人達はもう、お姉ちゃんとわたしの寄り添い合う親しさにも、抱き合う近しさに
も、見慣れた様で、受け容れた様で。烏月さんや大人衆を右に、八傑を正面に向き直ると、

「さて、誰を指名なされるかな、柚明殿?」

 大人衆首席の義景さんが短く問うてくる。

 八席の千代ちゃんは小柄だけど身軽そう。
 七席の秀輝君も、細身だけど俊敏そうだ。

 六席の昌綱さんは、強靱かつ鋭く見える。
 五席の楓さんは、流麗で無駄がない感じ。

 四席の東条さんは静かな中に強さを秘め。
 参席の谷原さんは研いだ刃が視えている。

 次席の三上さんは盛り上がった筋肉の鎧。
 首席の為景さんは何を秘めるか分らない。

 武道をまともに習った事のないわたしには、もう誰がどの位強いのか見極め付かないけ
ど。栞さん達ヒラの鬼切りとも隔絶した強者達だ。出来れば柚明お姉ちゃんの相手は、傷
つかずに対処可能な、比較的弱い相手だと良いけど。

 では……。静かに穏やかな声は迷いなく、

「昌綱さん楓さん為景さん、お願いします」

「……何と!」「まさか!」「やりおった」

 ざわめきは大人衆だけではなく、八傑や周囲のヒラの鬼切りの間からも。烏月さんが瞳
を見開く様が見て取れた。誰を選んでも楽な相手はいないだろうけど、お姉ちゃんの選択
は、そんなに驚きに値する物だったのかな?

「ああ、間違いなく、とんでもない選択だ」

 一段高い当主の座から烏月さんは、状況に置き去られ掛るわたしを気遣って答を返して、

「柚明さんは八傑の中から、何の予備知識もなく三強を、実力が下の者から順に3人だけ
選んだんだ。それを見抜けた眼力も凄いが」

 その3人に挑む危険と困難を分らない彼女ではなかろうに。柚明さんは敢て一番困難な
途を選んだ。分って最強の3人を選んだんだ。

「8人の反応は、見ていると中々面白いわ」

 ノゾミちゃん。真剣勝負を前に面白いは不謹慎だよと言ったけど、ノゾミちゃんの指摘
も言葉遣いはともかく、間違いじゃなかった。

「選ばれなかった5人は、自分を無視された、軽視されたと憤り。六席の男と五席の女は
自分の次を指名された事で、己の敗北が前提かと憤っている。ゆめいは勝ち抜く積りでい
るから3人指名した。かなり刺激的な答よね」

 首席の笑い目の年長者、あれだけが笑みを浮べ続けても心閉ざして、全く読めないけど。
その程度の浮動は、見せて特に問題ないのに。

「受けて立とうじゃないか。俺で終らせる」

 昌綱さんが両拳を握りしめて立ち上がり。
 次に楓さんが、柔らかにすっくと立って。

「余り期待しないで、待たせて貰います…」
「貴女の真価、果たして見せて頂けるかな」

 為景さんが、ゆっくりと立ち上がった時。
 異論の声が別方向からお姉ちゃんに向け、

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。羽藤柚明」

 千代ちゃんだった。正座した柚明お姉ちゃんに駆け寄って来て、間近で上から見下ろし、

「あなたはあたしの餌食だって言った筈よ。
 どうしてあたしを選ばないのよ。怖じ気づいたの? 最初から負けて当然な最上級者に
当たって、さっさと散ってしまう積りっ?」

 あなたはあたしがやっつけるって決めたの。
 あたしを選びなさい。あたしと戦いなさい。
 あたしと立ち合って、あたしに敗れなさい。

「千代っ、静かにっ」「千代、止めなさい」

 東条さんや為景さんの言葉も耳には入らず、柚明お姉ちゃんを見下ろし睨み難詰を続け
る。それが不意に止んだのは、お姉ちゃんが千代ちゃんの間際ですっと立った為で。その
侭立てばぶつかった筈だけど、そこはお互い身のこなしの良い者同士だ。巧く互いを躱し
合い、

「わ、あ、あなた。一体何の積りなのよ!」

 柚明お姉ちゃんが千代ちゃんの正面間近でその両肩を軽く挟んで。詰め寄られていても、
その語りかけは仕草も視線も表情も優しげで、

「ごめんなさいね、千代ちゃん」

 本当は千羽の全員の相手をしたいのだけど。するべきだけど。時間がない以上に、わた
しも全てに応えきれる程強靱ではないから……。

「指名した3人は唯強い訳じゃない。3人が羽藤に、この立ち合いに込める想いの強さは、
八傑の中でも格別なの。この3人の想いには、是非とも応えなければならない。全ての人
に、千代ちゃんの想いに今応えられない事は、わたしの力不足で申し訳ないけど。折角求
めてくれたのに応えられないのは残念だけど…」

「やっぱりお姉ちゃんも【千代ちゃん】って呼ぶんだ」「けいは余分な事に気付くのね」

 柚明お姉ちゃんは、抱き留められて身体も表情も固まった千代ちゃんの、耳に優しく言
葉を注ぐ。愛を囁く様子に見えてしまうのは、お姉ちゃんが愛の結晶な人だから。千代ち
ゃんに愛が深いのではなく、人一般に愛が深いから。それ以上ではないと思う。多分きっ
と。

「あなたの想いにも必ず応える。今日一日で、千羽の想いを全て汲みきれるとは想ってな
い。今日は始りよ。あなたの想いには後日必ず応えてあげるから。今日は、ごめんなさい
…」

 声音は静かで穏やかな以上に、情愛が深く細やかで。脇で見ていると本当に誤解しそう。
上気して立ちつくす千代ちゃんを、背後から東条さんが優しく抑えて引き下がらせ。対戦
内容が確定したのは、1時を過ぎた頃だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「義景さん。対戦会場は既に用意済みか?」

 烏月さんの読みの通り、この立ち合いを仕組んだ大人衆は対戦場所の準備も終えていて。

「第一道場に移って頂く事で、柚明殿に異存がなければ」「わたしに異存はありません」

 この場の全員が別会場に移る事になる様だ。
 ヒラの鬼切りも八傑も大人衆も立ち上がり。
 秩序のないざわつきが広間に拡散し行く中。
 痺れた足に後ろからお姉ちゃんが触れて、

「あ……あは、有り難う、お姉ちゃん……」

 贄の血の力を、癒しにして注いでくれて。
 細い指の滑らかさと暖かみが、心地良い。

 ふくらはぎや太腿に添って撫でられるのは、女の子同士でも人前で、少し恥ずかしいけ
ど。すぐに立てない状態だったので有り難かった。最初の瞬間は足の痺れがむしろ倍加す
るけど、撫でられる程に急激に痺れが引いて力が通い。甘いお花の香りが心を満たし疲れ
も拭うけど。

「もう良いかしら?」「んっ、もう少し…」

 そう言えば、お姉ちゃんの戦いを前にして、無駄に力を使わせては拙いのでは。ほぼ癒
しが終った後で気付く、わたしもわたしだけど。お姉ちゃんは肌でわたしの想いを察した
様で、

「大丈夫よ。この位なら、問題はないから」

 右頬に間近に囁く姿勢はいつもと変らず、

「で、でも」「ゆめいには戦いの勝敗より己の危険より、けいの足の痺れが重要なのね」

 そんなわたし達の元に歩み来たのは、烏月さんと栞さんの2人で。心情には汲むべき物
があるけど、烏月さんの信を裏切り、柚明お姉ちゃんを戦いに引きずり出す片棒を担いだ
栞さんは、わたし達に申し訳ないと頭を下げ。烏月さんが一緒に頭を下げるのは上司の故
だ。

「気にしないで下さい。栞さんの所為ではありません。立ち合う事になったのは定め…」

 これ以外に千羽と羽藤の蟠りを解く方法は、どちらの家にも恐らくなかったでしょうか
ら。

「柚明さん……あなたはこれを承知で、千羽を訪れたいと、言ってくれたのですか…?」

 千羽党や若杉にアパートを襲撃された直後、あの申し出の時点でこれを予期していた
と?

 烏月さんの問はわたし達の問いでもあった。

「烏月さんの前で立ち合いを受ける形が望ましいと想っていましたが、巧く流れを掴めま
せんでした。千羽の当主を関与させず、事後承諾させて面子を潰し、申し訳ありません」

 お姉ちゃんが即承諾しなかったのは、景勝さん達に策略や挑発ではなく真意で戦いを求
めよと言うのと同時に、烏月さんが、千羽の当主が知らないという形は避けたかった故で。
柚明お姉ちゃんは最初から戦いを覚悟でいた。

「我らの想いもご存じだと? それでは…」

 栞さんは今更の様に力が抜けて肩を落し、

「大人衆の策を烏月様にもあなた方にも告げず見過ごした私が、心底愚か者だ。最初から
想いが届いていると分っていれば、こんな策動に乗らなかった物を。本当に申し訳ない」

 板の間に額を付ける栞さんを、楓さんと東条さんが気遣う様に見つめていた。烏月さん
も一緒に頭を下げるのに、柚明お姉ちゃんは、頭を上げて下さいと、栞さんの両手を取っ
て、

「千羽栞は、羽藤柚明のたいせつな人。わたしの一番たいせつな桂ちゃんと、その家を見
守る任務は、誠実に務めてくれていますから。強く賢く優しくて、信頼に足る凛々しい
人」

 穏やかに柔らかな声は本当に、不快の欠片も感じさせず。むしろ栞さんへの好意が強く。

「一緒に頭を下げてくれる上司を持てて、栞さんは幸せですね。そして、唯命令に忠実な
だけではなく、意志を持って心を持って、時に主君に苦い直言も為せる部下を持てて、烏
月さんも幸せだと、わたしは想います……」

 人は時に過ちを犯します。意図しなくても犯す過ちも世にはあります。過ちの全てに報
いや償いが必要だとは、わたしは想いません。

「今日の立ち合いは定めでした。栞さんも大人衆も、偶々この場にいただけです。誰かが
その役を担わなければならなかった。栞さんが拒めば別の誰かが代りにこの結果を導いた。
 ここ迄絡み合った絆を解いて紡ぎ直すには、こうする他に術はなかったのです。お互い
に定めを果たしましょう。わたしは今日の成り行きを、過ちとも失敗とも想っていませ
ん」

 栞さんの両手を、胸の前で握り合わせて。
 たおやかなお姉ちゃんと凛々しい栞さん。

 瞳と瞳、頬と頬、唇と唇が、近すぎます。
 栞さんの頬の朱は、心動かされた以上に。
 ノゾミちゃんもわたしも正視を恥じらい。

 烏月さんや他の人も頬を染めて見守る中。
 お姉ちゃんは穏やかに、怯まず躊躇わず、

「縺れた絆を結い直したい。心を通わせたい。絆を繋ぎたい。桂ちゃんもわたしも。その
目的の為に、一緒に心と力を合わせましょう」

 今から為す事を成し遂げる事が大事だと。
 間近に向き合い瞳を覗き合い頷き合って。
 柚明お姉ちゃんは誰にも情が深すぎます。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「栞さんはけじめとして、暫く桂さん達の担当から外れて貰う。千羽館にいる間は東条さ
ん、申し訳ないが彼女達を世話して欲しい」

 答を待たずに大人衆との打合せに赴くのは、信頼の深さの証しか。背は高く筋肉質だけ
ど、切り揃えた黒髪と整った容姿、自然に柔らかな物腰が、強さ以上に安心感も与えてく
れる。

「敵手として対峙したい想いもあったが…」

 その柔肌を打ち据えるのは気が進まない。
 世話役の方が気楽に出来て、有り難いよ。
 人の良さが、姿勢にも声音にも滲み出て。

 わたし達の守りと案内にわざわざ男性を配する以上、人格と実力を備えた人なのだろう。

「そうね。三強を除けば残り5人に飛び抜けた強弱はないけど、敢て1人選ぶなら彼ね」

 わたしも次席や参席の人より、この人が八傑の残り5人のまとめ役に見えた。三上さん
は鷹揚と言うより関心のない事は受け流す感じで、谷原さんは己の敵と標的にのみ焦点を
合わせる感じで。仲間や味方を意識してない。東条さんが担っているから、お任せなのか
な。

 その東条さんの案内でギシギシ鳴る廊下を進むと、さっきの広間より大きな、体育館程
もある建物に入る。入る直前に見えた人影は、

「あっ、茜さん、友加里さん。小町さんも」

 柚明お姉ちゃんと八傑の戦いを見せる為に、千羽党は総動員を掛けたらしい。衆目の前
でお姉ちゃんを叩き潰す積りで。羽藤の立ち合う様を見せる事は、お姉ちゃんの望みでも
あったけど。厳しいアウェイの対決になりそう。

「今日は羽藤家全員でウチに来るからアパートの警護も不要で、観戦せよって指示なの」

「千羽の側は三強が揃い踏みだそうですね」

「健闘は祈っておくよ。一応関係者だから」

 立ち止まる内にその後ろに見えた人影は、

「菖蒲さん。藤太君。動いて大丈夫なの?」

 他にも数人の兵卒仲間が一緒だったけど。

 みんな着替えて血の痕も拭い取れていて。

「応急処置は終えました。終えた者から会場に座して、戦いを待つようにとの指示です」

「お姉さんが強いと幾ら話しても(千羽の)誰も納得してくれなくて。ずっと惰弱と言わ
れてきたから。これで漸く真実を分って貰える。相手が相手だけに少し不安だけど。八傑
は少しきつすぎかも。しっかり強さ見せてよ。俺達拾六人が1人に撃退された話が、俺達
の惰弱の所為でないと、分って貰える位には」

「応援、有り難う。全力を尽くすわね……」

 脇で見ていると、藤太君を柚明お姉ちゃんが微笑み励ましている様にも見えるのですが。
 金時さん達残り数人も、処置は終えており、着替えが済み次第、観戦に入ってくるらし
い。処置が終えたという事は、処置に当たっていたスタッフも仕事から解放されたという
訳で。

「ここ迄は来られた様ですね。羽藤さん…」

 紅葉さんが目の不自由な鈴音ちゃんを後ろから支えつつ現れて。鈴音ちゃんは紅葉さん
の腕に方向調整を掛けられつつ、車椅子を押していた。その車椅子に座す、鈴音ちゃんと
同じ模様の和服の少女なのだろうか。鈴音ちゃんと同じ、明るいブラウンのセミロングの
髪の子が。お兄ちゃんが二度と立てなくした、

「千羽琴音です。先月拾六歳になりました」

 おしとやかな女の子だった。鈴音ちゃんは元々は活発で、失明で大人しくならざるを得
なくなった様な、闊達さの欠片を感じるのに。琴音ちゃんはもう少し、現状を受け容れて
いるというか、元々の大人しさがしっくり来て。

「立ってお辞儀も、しっかり正座も出来ないので、この姿勢から失礼します。先程は妹の
鈴音の無理に応えて頂いたそうで、有り難うございました。桂さんと柚明さんに逢える日
を、わたし達は心待ちにしておりました…」

 微かにその声音が震え、瞳が潤んでいた。
 それは嬉しさか哀しみか、或いは憤りか。

 身長も2人はわたしとほぼ同じ。体型も細身で華奢で、よく似た姉妹だ。年の違いも2
つ迄はないだろう。胸も腰も控えめで可愛い。でも2人揃って容姿は整っていて、動きも
楚々として可憐だから、美人の素養は充分です。

 わたし達が挨拶を返すより早く、待ちかねた感じで鈴音ちゃんが間近の姉に首を近づけ、

「姉様、桂さんと柚明さんはやはり綺麗?」

 こうして2人は支え合ってきたに違いない。

 目は見えないけど車椅子を押せる鈴音ちゃんと、歩けないけど行く先が見える琴音ちゃ
んは、裏切り者で罪人扱いの千羽の家の中で、紅葉さんの助けを受けつつも身を寄せ合っ
て。

 それを招いた原因はこのわたしだったのに。

「ええ、とても。桂さんは人の心を温めるお日様で、柚明さんは人の心を安らげるお月様。
深い色合いの瞳が美しく、魂を奪われそう」

 悪意も害意も憎悪も欠片も感じさせないで。
 心から満たされた様子で見つめ返してきて。
 何とお詫びし償って良いのか分らないけど。

「は、羽藤桂です。拾七歳です。さっきは鈴音ちゃんに、不用意なお話しをして、紅葉さ
んにもご心痛を与えて、済みませんでした」

 鈴音ちゃんも紅葉さんもいる場なので一緒に謝る。今度こそ心構えをしっかりと、やや
言葉遣いが硬いわたしの肩に、後ろから触れ、

「琴音ちゃん初めまして。羽藤柚明です。今回は羽藤白花の想いを届ける為に訪れました。
羽藤白花への想いを代りに受けに訪れました。羽藤の想いを届かせる姿を、千羽の想いを
受ける姿を、どうかその魂でご覧頂きたく…」

 車椅子に座すその左手を握り、瞳を合わせ。
 琴音ちゃんが赤くなる気持はわたしも分る。
 お姉ちゃんは、頬も瞳も唇も近し過ぎるし。
 優しげで穏やかで、何でも許しそうだから。
 本当に、わたしの自慢のお姉ちゃんだから。

「千羽の八傑と立ち合うと聞きました。それも三強と……尋常ではなく強い人達ですよ」

 紅葉さんが添える声に、琴音ちゃんはわたしを見つめ、柚明お姉ちゃんを見つめ、不安
を隠しきれずに。鈴音ちゃんの車椅子を握る手も微かに震えていた。確かに柚明お姉ちゃ
んは静かで穏やかで、戦う人に見えてこない。烏月さんや栞さんなら、女性でも美人でも
戦う人の気迫を感じ取れるけど。こうして傍で接しても、感じ取れるのは優しさや愛しさ
で。

「心配してくれるのですね。有り難う……」

「私の心配は、貴女が千羽の強者に叩き潰されて逃げ帰るのではないかという事です。八
傑との立ち合いは私も報されていましたが」

 紅葉さんが促していた鈴音ちゃんの正装は、柚明お姉ちゃんが八傑と立ち合う様を見に
来る為だった。鈴音ちゃんが裏口を通るわたし達を待てたのも、事前に漏れ聞いていた為
で。

 千羽の強者に惨敗して、面目を失った羽藤が逃げ帰るか、千羽と気まずい関係になれば、
わたし達に会う機会を失うと焦って。鈴音ちゃんはあそこ迄歩み来た。漸く話しが繋った。

 罪人で裏切り者の癒し部の姉妹は、お姉ちゃんの立ち合う晴れの場の観戦も許されない
と危惧していた。大人衆は千羽全員に羽藤を叩き潰す様を見せたくて、2人も招いたけど。

「三強を選ぶなんて。まさかわざと敗れて逃げ帰り全て有耶無耶にとか、考えている?」

 微かに疑念を宿した声音と視線の鋭さに、

「これは通過点です。勝敗は最早問題ではありません。千羽の挑戦を羽藤が受けて立つ事
に意味があります。わたしが次へ繋げます」

 全身全霊を尽くします。どうかご覧下さい。
 柚明お姉ちゃんは綺麗に丁寧に頭を下げて。
 紅葉さんは美しい顔立ちでも終始声は硬く、

「この立ち合いも、通過点に過ぎないとお考えなら、それで結構です。貴女の勝敗も今後
を左右はしないのだとお考えならば。羽藤の、貴女達の想いを、今は見せて頂きましょ
う」

「健闘をお祈りします」「頑張って下さい」

 琴音ちゃんと鈴音ちゃんの応援を受けて。
 わたし達も戦いの舞台に足を踏み入れた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 会場は体育館程もある木造の道場だった。

 入口から見ると左側の壁際が一段高くなっている。偉い人達はそこに座して見守る様だ。
その真ん中辺りが更に一段高く、烏月さんが座している。それ以外の三方は既に、壁を背
にした二百人以上の老若男女に囲まれていた。

 何人かホームビデオを手に持つ男性もいた。でも運動会の子供を撮影する感じとは雰囲
気が違う。柚明お姉ちゃんの技を研究する為か、千羽の強者の勇姿を録る為か、お姉ちゃ
んを叩き伏せる様を残す為か、或いはその全てか。

 殆ど剣道着姿だけど、就学前の幼児は洋服姿だ。抱きかかえられる歳の幼児に迄この立
ち合いを見せたいらしい。真ん中に開けた空間が千羽の三強と柚明お姉ちゃんが戦う場か。

 烏月さんの高い段を挟んで右側に大人衆が、左側に八傑が数人座している。雑然とざわ
めいていた空気が、東条さんに導かれたわたし達の入場を見ると、水を打った様に静まっ
て。緊迫の場に踏み込むのは、少し気後れします。

 柚明お姉ちゃんに頑張ってと声を掛けると、抱き留められた。繊手がこの背を軽く拘束
し、甘いお花の香りが芳しく。頬に感じる肌触りが、柔らかさと温かさが不安を鎮めてく
れる。初見の人達の驚きの視線は感じたけど、お姉ちゃんは親愛にも抱擁にも迷いも怯み
もなく。

「ええ。全身全霊を尽くしてくるわ。桂ちゃんは、烏月さん達と一緒に見守っていてね」

 降り注ぐ声は陽光の如く心を照し、わたしの進路を示してくれる。その胸の内で頷くと
お姉ちゃんは、わたしの肩越しに烏月さんに、

「桂ちゃんのこと、お願いします」

「任されました。……桂さんは、私の隣に」

「烏月さん……? お隣で、良いの……?」

 羽藤の当主は千羽の当主と同格だから、並んで試合を見守ると、一番高い段に招かれた。

 黒髪艶やかな麗しい人の左隣は、お内裏様の隣に座るお雛様の気分です。好意的と言え
ぬ千羽の中で、一番頼れる味方は烏月さんだ。柚明お姉ちゃんが添えない事への、配慮か
も。わたしの左側に、一段低く東条さんが座した。三方から届く千羽の人達の視線が少々
きつい。

「桂さんは、何があっても私が守る。そして、柚明さんにも大事がない様に事を運ぶか
ら」

 わたしを安心させようと、その細い左手でわたしの膝に置いた右手を握り。強く静かに、

「今迄千羽の者が様々に不快な想いをさせて、申し訳ない。分り合えれば決して悪意な者
達ではないのだけど。全ては私の不行き届きだ。柚明さんやノゾミも含め、今日の事が終
った後で改めて謝罪と償いはするよ。そして…」

 視線を前方の千羽の大勢の人達に向けつつ、

「柚明さんの受けてくれたこの立ち合いが、今迄縺れた千羽と羽藤の絆を解いて、繋ぎ直
すきっかけになる様に。共に見守ろう。これは羽藤と千羽の、桂さんと私の共同作業だ」

「うん、そうだね。よろしくお願いします」

「私がいれば鬼切り役迄は要らないのに…」

 千羽は剣を交える事でしか想いを交えられない。当主はそれを見守る事で職責を果たす。
お姉ちゃんの様に戦う術を持たないわたしは、今はこの職責を烏月さんとしっかり果たそ
う。

 会場中央に四人の男女が座して向き合って。
 わたしから見て右側に、柚明お姉ちゃんが。
 左側に為景さん、楓さん、昌綱さんが座し。

 4人の前に進み出た景勝さんが、立ち合いの始りを告げる。観衆に紹介されて柚明お姉
ちゃんは、正座の姿勢から柔らかくお辞儀し。

「鬼切部千羽党の皆様、初めまして。羽藤柚明と申します。本日は羽藤白花の身内として、
羽藤を代表し千羽の強者と想いを交わす機会を頂き、有り難うございます。彼が与えた傷
を癒し、彼が流させた涙を拭い、彼が為し得なかった償いを為しに、わたしは参りました。
 彼に向けるべき想いは、羽藤に向けるべき想いは、わたし達が受け止めます。わたしと、
烏月さんの隣に座している桂ちゃんの2人で。千羽の強者達に、皆様の想いを託して下さ
い。わたしは羽藤の想いを抱いて立ち合います」

 大勢の好意とは言えない視線を受けても。
 凜として、でも穏やかに、良く透る声で。

 ざわめきが鎮まって行く。気圧されたのではなく千羽も想いを強者達に託そうと促され。
敵地でも多数相手でもお姉ちゃんは変らない。相手の最良を促し求め、自身の最善を尽く
す。

 お姉ちゃんが面を上げると、景勝さんは、

「柚明殿も、剣道着に着替えが必要であろう。それに竹刀防具も用意致さねば。千羽も当
主を始め女性剣士はいる故に、道具一式は揃えてある。紅葉、別室への案内と手伝いを
…」

「ゆめいを着替えさせず先に紹介したのは和装が多数の中で部外者を印象づける狙いね」

 お待ち下さい。お姉ちゃんは静かな声で、

「着替えも防具も不要です。それと竹刀も」

 景勝さんの手配の動作を押し止める。一体何を考えているのかと、訝しむ声の渦巻く中、

「わたしの護身の技は、平時に脅威に遭う事を想定しています。買い物や遊びに出た先で、
たいせつな人が犯罪者や鬼に襲われた時、この手に武器防具がある筈もなく、容易に手に
入るとも思えない。守りを主眼とし、いつでもどこでも予期せず即応を迫られるわたしの
技は無手を基本とします。防具で身を重くし、攻撃の当たる面積を増やす事は好みませ
ん」

 これは剣道の試合ではありません。鬼切部千羽党の鬼切りの業と、わたしの護身の技の
立ち合いです。千羽の方々の防具装備は拒みませんが、わたしはむしろこの侭で結構です。

「千羽の八傑に、三強に防具なしで挑むか」
「我が侭をお許し頂けるなら、どうか……」

 良いだろう。景勝さんの憤りを感じさせる問に頭を下げた柚明お姉ちゃんに、了承を返
したのは、最初の対戦相手となる昌綱さんで、

「彼女がそう言うのなら。下手な気遣いで彼女の全力を出せなくさせても、負けた後の逃
げ口上が増えるだけだ。お望みの通りに…」

 テニスとかやった方が似合う爽やかな青年だった。背も高いし顔立ちも女の子に好かれ
そうな感じで。秀輝君も東条さんも整った容貌だけど、秀輝君は未だ少し線が細く、東条
さんは人の良さが滲み出過ぎて生真面目そう。

「だが君も、中々面白い事を言う。常在戦場と剣豪を気取る者はよく言うけど、むしろそ
の言葉は君の流儀に相応しいのではないかな。平時にも脅威に備え、戦時も平時のスタイ
ルを崩さず戦える。平時も戦時も異ならずと」

 確かに鬼を倒す為に、我らは武装し情報を集め気合を高めて戦いに臨む。全てを準備し、
敵の不意を打つ事を最善としてきた。だがその正反対で守る為に、平時に戦時の気構えを
残し全てに備え、対処する戦いがあるとはね。

「言葉にすれば簡単に『逆も又真なり』だが。果たしてそれは成立するのか否か。面白
い」

 見せて貰おうではないか。その身を持って、この身に刻みつけて貰おう。俺も防具は着
けずに立ち合う。彼女の可愛い顔や素肌を叩きのめすんだ。その位の危険は負うべきだろ
う。

「彼女の竹刀が俺に届けばの話しだけどね」

 これは剣道の試合ではありません。柚明お姉ちゃんの答は尚静かに、でも苛烈な中身を、

「竹刀は部活剣道などのスポーツの道具です。千羽党は現身を持つ鬼を切る、剣術主体の
鬼切部と伺いました。真剣とは言わずとも、せめて木刀を使うべきかと」「なっ、貴女
…」

 驚きの声は、爽やかな容貌に危険な光を宿らせた昌綱さんではなく、その隣の楓さんで、

「……承知で言っているの? 防具も着けず、木刀で。当たった時の痛手は甚大なのに
…」

「鬼とも竹刀で戦う方には勧めませんけど」

 これは剣道の試合ではありません。柚明お姉ちゃんは千羽党を挑発するかの如く、同じ
言葉を繰り返し。本気で向き合えと言う事か。人も鬼も切ってきた千羽の側が逆に気圧さ
れ。

「確かに千羽でも、本気で打ち合う際に竹刀は使わないわ。剣道は、千羽では偽装の技」

 修行さえ基本は真剣に通じる木刀にある。
 楓さんはお姉ちゃんの覚悟を問う感じで、

「無用の気遣いは、一切不要という訳ね…」

「わたしの技は無手が基本です。しかし千羽の強者方に無手では流石に非礼に当たるので、
木刀はお借りしたく望みます。剣士でもない者が剣士の場で立ち合う事を許されたにも関
らず、我が侭が多くて申し訳ございません」

「良いわ、むしろそれは私達の望みだから」

 剣士でもない者を剣士の場に引きずり出して叩きのめす以上。多少融通は利かせないと。

「慢心と片付けられぬ様に結果を見せろよ」

 わたしの左で少し離れた処に座す三上さんが、坊主頭を向けて温厚に野次を飛ばすけど、
その声音に棘を感じるのは、相手にされなかった立場を、わたしが見て知った為だろうか。

 審判予定の景勝さんが言葉を挟めない内に、

「では勝敗はどうするかな? 大人衆は剣道の2本先取の公式ルールを考えていた様だが。
覚悟済みの柚明殿なら、その様な既成のルールが我らの戦いに不相応とお分りだろう…」

 はい。お姉ちゃんは為景さんの問に頷いて、

「簡素で宜しいかと想います。手段は問わず、相手に負けを認めさせるか、戦闘不能に陥
らせた側を勝者とする。それだけで」「ほう」

 為景さんの瞳だけが一瞬笑みを途絶させた。

「生死が掛らない限定を除けば、正に鬼切部の戦いよ。充分なご覚悟、為景感じ入った」

「ぶちのめしてやるって意味だ、憶えとけ」

 谷原さんが野次で意味を補足するけど、柚明お姉ちゃんはそれにも柔らかくお辞儀して。

「我らの立ち合いはスポーツではない。生命の奪い合いこそない物の、戦いだ。勝敗を決
めるのは審判ではなく、戦う当事者同士よ」

「審判は始りと終りを告げる位の存在か…」

 良かろう。景勝さんは一度だけ、大人衆やわたしや烏月さんのいる背後を振り返り、了
承を取ると言うより、そうすると視線で告げてから前に向き直って頷いて。今日は見た人
の行いの意味が何となく悟れる気がするのは、

「私が多少、感応の力を及ぼしているのよ。
 そうでもしなければ桂は鈍すぎて、人の所作を一々説明しなければ分らないのだもの」

「あは……ノゾミちゃん。ありがとう……」

「私も桂さんに分り易い様に、叶う限り簡潔に状況を説明する様にしよう。千羽の技や動
き、思考発想、それに人となりや実績等は」

 千羽党当主の鬼切り役が良く知っている。

 目の前では三強と柚明お姉ちゃんが両端に引いて距離を置き。左側で為景さんと楓さん
が正座で待ちの姿勢に入り、昌綱さんが防具を着けない狩衣姿で木刀を持つ。右では柚明
お姉ちゃんが、茜さんから木刀を受け取って。

「うぅっ、胸がドキドキしてくる……」
「あなたが戦う訳ではないのよ、けい」

 それは分ってはいるのです。それでも尚。

「だからこそ、なのだろうね。桂さんには」

 たいせつな人の危険が心配で堪らないと。
 右手を握ってくれる感触が少し強くなる。

 その所為で何人かの観衆の、特に年若い男女の視線が、却って鋭くなった気もするけど。

「だ、大丈夫。生命取られる訳じゃないから、安心してって、お姉ちゃんも言っていた
し」

 冒頭から烏月さんを心配させちゃダメだ。
 己の心を確かに強く持って乱れず崩れず。
 しっかり見守る事で羽藤の責務を果たす。

 烏月さんともお姉ちゃんとも約束したから。
 直接痛まないわたしは泰然と見守らないと。

 観衆も鎮まり、景勝さんが第一試合の始めを告げに、2人を真ん中に呼び寄せようとし
た時。突如柚明お姉ちゃんの木刀が、床に叩き落される音が響き。細い首筋に別の木刀が
突きつけられて。相手は、千代ちゃんだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「なぬっ!」「あれは?」「千代めっ……」

 予想外の事態に、誰も身動き取れないで。
 わたしに見えるのはお姉ちゃんの背中だ。

 柚明お姉ちゃんが受け取った直後の木刀が床に叩き落され、その細い首筋に別の木刀が
突きつけられて。ここからだと首に突き刺さったのか寸止めされたのか、確かに見えない。

「千代様っ」「どいてなさい、茜。邪魔よ」

 千代ちゃんの短い指示で至近の茜さんが遠ざけられ。他の人達も少し間合いを置くけど。

 静まり返る緊迫の中、お姉ちゃんは倒れないので、千代ちゃんの木刀は首に突き立った
訳ではなく、突きつけられただけの様だけど。お姉ちゃんの右手が千代ちゃんの木刀を止
めた様にも見える。でも木刀は叩き落されたし。

「籠手一本を決められた状態、なのかな?」

「いいえ、違うわ」「柚明さんは木刀を叩き落される前に手放したんだ。そうでなければ、
手が痺れてそれに続く動きに対処できない」

 ノゾミちゃんを烏月さんが補足するけど。

「良く今のを躱して対応できたわね。でも。
 あなたはあたしの餌食だって言った筈よ」

 お姉ちゃんの向うで千代ちゃんの声だけが。

「あたしはあなたを叩きのめす為に、オサとの決着も早めに切り上げて帰ってきたのよっ。
あなたの為に、あなたの相手してあげる為に。なのにどうしてあたしを敵に選ばない
の!」

 昌綱さんや楓さんに、やられた後のあなたに勝っても意味はない。最初に無敗に傷を付
ける事に意味があるの。あたしに敗れなさい。

「あたしを振り向いてくれないなら、無理にでも振り向かせる。割り込んででも奪い取る。
あたしは今迄努力で届かなかった事は一度もなかった。今度も必ず勝ち取れる。あなた」

 若杉に鬼扱いされている様ね。拾年樹の中にいて歳も取れず、中身は年増なのに外見だ
け小娘だって。鬼よ。あなたは化外の力を使う鬼婆よ。あたしの功名に相応しい相手だわ。

「千羽党八傑の第八席、千羽千代があなたを倒して、片付けてあげる。覚悟なさい…!」

 駆けつけようとするわたしの膝を、烏月さんが軽く抑える。ノゾミちゃんも引き止めて。

「大丈夫よ。ゆめいはまだケガ一つないわ」

「千代は柚明さんの不意を突いて木刀を叩き落し、返す刀でその首筋に木刀を突きつけて、
戦いに割り込む積りだったのだろう。自分の方が腕は上だと示しつつ。だが、柚明さんは
千羽党では誰も考えない応対を見せた。これは多分彼女が剣士ではない為なのだろうね」

 柚明さんは叩き落される前に木刀を手放し、自由な右手を残した。剣士なら剣を落され
まいと硬く握る処を、柚明さんは剣を手放し自由な右手で、首筋への木刀突きに手を添え
た。

「叩き落されたんじゃ、ないの?」「ああ」

 分っていると。千代の動きはお見通しだと。千代が挑戦の為に首筋に突きを寸止めする
と承知で、柚明さんは木刀を止めるのではなく、止まった木刀に手を添えた。見切ってい
ると。

「千代の顔が緊迫しているのは、一見思い通りに見えても、内実が思い通りではない為だ。
柚明さんの底は私の想像以上に深いらしい」

「小娘の動きも考えも、ゆめいの掌の上よ」

 千代っ! 景勝さんが叱声を発するけど。
 千代ちゃんは応えもせず視線も逸らさず、

「これは剣道の試合ではないのでしょう?」

 鬼切部千羽党の鬼切りの業と、羽藤の技の実戦よ。実戦なら敵は前にだけいるとは限ら
ない。脇から突然襲い掛ってくる敵も防げなければ、たいせつな人は守れないのではなく
て? 正面の相手としか戦えない技で、いつでもどこでもたいせつな人を守りきれるの?

「あたしはあなたに挑み掛った。あなたは受けたくなくても戦いを受けなければならない。
千羽のおじさま方の対応は気にしなくて良いわ。みんな優しいの、勝った者に対しては」

 順番を違えようがルールを犯そうが、戦って勝ってしまえば、あなたを倒せれば、罰も
注意位で済む。結果が全て。それが実戦に即す千羽党よ。あなたはこうして挑まれた以上、
戦いを受けなければ叩きのめされるだけなの。だから受けて叩きのめされなさい、羽藤柚
明。

 そう言えば、千代ちゃんは大切な八傑の揃う場に遅れたのに、殆ど注意もされなかった。
勝ったかどうかの確認だけで。逆に金時さん達は、お姉ちゃんを挑発する材料にされたと
はいえ、負けた事を理由にあれ程酷い目に…。

「あなたが金時達拾六人を退けた後で、ガス兵器にやられて捕まって、烏月様に助けられ
た話しを聞いて、あたし本当に腹が立った」

 千羽党がガス兵器に劣る事になるじゃない。
 鬼切部が科学部隊に劣る事になるじゃない。
 あたし達が役立たずみたいに言われるのよ。

 あなたを倒して、千羽の屈辱を拭わないと。
 金時達だけじゃなく千羽が惰弱と嗤われる。
 汚名挽回して武功を立てるのはこのあたし。

「あたしと立ち合いなさい。この木刀をその柔弱な身の奥に叩き込ませなさい。痛みと屈
辱でその優しげな皮を剥ぎ取ってあげるっ」

 お姉ちゃんは表情は見えないけど、声音は静かで、でもそれは決して怯えなどではなく、

「確かに、千羽の業もわたしの技も実戦対応。体重による階級もなければ男女の区別もな
く、武器の種類や有無も問わない。不意を突く事、突かれる事は戦場でも日常でもあり得
る話し。決めた相手としか戦えない技では使えない」

 間近な可愛い女の子剣士に向き合いつつ、

「あなたの言う通りよ。可愛い剣士さん…」

 でも。そこでお姉ちゃんは向う側で、対戦を心待ちにしているだろう昌綱さんを見つめ、

「昌綱さん、申し訳ありません。こういう事になってしまいました。わたしはお二人同時
にお相手しても結構ですが?」「「な!」」

『千代ちゃんを相手するから、少し待ってじゃなく、2人同時に来ても良いなんてっ…』

 唖然としたため息は、昌綱さんや千代ちゃんだけじゃなく、景勝さんを始め観衆全体か
ら。舐めるなと、憤りのざわめきが広まる中、

「……これは、剣道の試合ではありません」

 羽藤のお姉ちゃんが千羽の在り方を説く。

「千代ちゃんが言った通り、これは鬼切部千羽党の鬼切りの業と、わたしの技の実戦です。
実戦なら、敵は1人とも限らない。そう言う状況でもたいせつな人を確かに守り通す為に、
わたしは真弓さんに技を鍛えて頂きました」

 いつでもいらして下さい。楓さんも為景さんも、他の八傑や鬼切りの方々も拒みません。
挑まれて守る為に避けられないなら戦うのみ。わたしが鍛えられた戦いはそう言う物でし
た。

 あ、あなたねぇっ! 憤る千代ちゃんに、

「実戦なら千代ちゃん、あなたもわたしの答など不要の筈。実戦で鬼が戦いを受けると応
える迄、あなたはこうして打撃を与える事を待つの? 早くその木刀を突き出しわたしを
打ち倒さないと、反撃が行くわよ」「っ!」

 威嚇しつつ、答を待つ姿勢の千代ちゃんに、逆に実戦とは答など待つ物ではないと告げ
て。声は尚柔らかだけど、お姉ちゃんの言葉は千代ちゃんの強気な挑発口調より遙かに苛
烈だ。

「……俺は、見守らせて貰うよ」

 千代ちゃんが答に詰まる間に、周囲のざわめき等意に介さず、昌綱さんは木刀を置いて
楓さんの左隣の板の上に座し。2人掛りになる気も千代ちゃんを下がらせる気もない様で。

「獲物を横取りされたのは俺だけど、それでも奪い返したら逆恨みされかねない。千代ち
ゃんの不興は買いたくないし、綺麗な彼女を2人掛りで虐めるのは好みじゃない。彼女は
もう千代ちゃんに貪られてしまった後だし」

 人の食べ残しは頂かない主義なんだ。気力の抜けた声で昌綱さんは言い切るけどそれは、

「昌綱さんは、千代ちゃんと柚明お姉ちゃんの勝敗を見切った?」「積りの様だけど…」

 ノゾミちゃんの声は不審そうに断定を避け。

 ノゾミちゃんも柚明お姉ちゃんが千代ちゃんに簡単に負けはしないと見ている様だけど。
それはわたし達の身贔屓とか目算違いとかで、実は千羽の八傑は末席でもとてつもなく強
いとか。あって欲しくない事態だけど、もしや。

 お姉ちゃんが見た目に強そうじゃないから、どれ程の実力か分らないから不安が拭えな
い。オハシラ様を辞めて人に戻った柚明お姉ちゃんは、確かな身体を持つ代りに切れば血
が出て生命も落す。青い力でちょうちょも飛ばせるけど、日中は出す端から消えてしまう
と言っていた。有効に使うには触る事が必須だけど。木刀の間合で直に触れる事は無理に
近い。

 烏月さんもノゾミちゃんもその事を承知で、柚明お姉ちゃんを評価しているのかな。烏
月さんの表情で形勢の優劣を読み取れないかと、美しい横顔を見つめるけど。見つめ返し
てくれた麗しい人は、重ねた掌の握りを強くして、

「私達は手出しも口出しも出来る訳じゃない。今は成り行きを見守ろう。桂さん」「は
い」

 昌綱さんと戦う前に、柚明お姉ちゃんはまず千代ちゃんと戦う事になった。がんばって。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「千代ちゃん。譲った以上は、しっかり羽藤の彼女の本性を、皆の前に晒しておくれよ」

 戦いを横取りされた事への不満を願いに変えた昌綱さんに、千代ちゃんも気を取り直し、

「分っているわ、昌綱さん。あたし達は鬼退治の剣法の使い手、鬼切部千羽党。眼前に鬼
を見て逃げ出す事はなく、戦って勝たない事もない。覚悟なさい。あなたに千羽の実戦の
厳しさを教えてあげるわ、鬼婆羽藤柚明っ」

 こんなに綺麗なお姉ちゃんに、鬼婆は酷い。
 抗議の声を上げようとした時、事は動いた。

 柚明お姉ちゃんの背中が僅かに右にぶれて、左首筋を掠めた千代ちゃんの木刀が、わた
しの視界に入ってくる。千代ちゃんの姿も共に。

「あの近接した間合で、突きを躱すか……」

 左隣の東条さんが、やや驚いた呟きを漏らすけど、2人は既に次の動きへと入っていて、

「なっ!」「あの娘」「何を?」「ひっ…」

 柚明お姉ちゃんは木刀突きを躱して右前方に肉薄して、華奢なその肩を両手で抱き包み。

 その左首筋に、柔らかな唇を触れさせて。
 綺麗な女の子同士だけに、妙に艶っぽい。
 観衆全てが頬を強ばらせ、声も出ない中。

 千代ちゃんも驚きの余り、身動きできず。
 拾数秒、お姉ちゃんは首筋に吸い付いて。
 衆目の中で、2人の少女は身を絡め合う。
 否、お姉ちゃんが絡みつき捉えた感じか。

 烏月さんもノゾミちゃんも、唖然として。
 千代ちゃんは漸く我を戻し振り払うけど。
 な、一体何を、あなたっ? 慌てた声に、

「千羽の実戦の厳しさを教えてくれるお礼に、わたしも鬼の実戦の怖さを教えてあげる
…」

 鬼切りの可愛い娘が、鬼と戦って敗れでもしたなら、その後にどんな定めが待つのかを。

「鬼扱いされたなら、鬼で応えねば」

 柚明お姉ちゃんは尚平静な表情で、

「あなたは実戦経験はある様だけど、味方に守られたり優勢な状況で武功を上げただけ」

 敵が弱かったり、少数だったり傷ついていたり。本当に危険を感じた事はないでしょう。

 千代ちゃんの表情が動きと共に固まった。
 大人衆も八傑もみんな息を呑む様が見え。

 千羽の『勝者は許す』傾向は間違いじゃないけど、千代ちゃんへの甘さはそれだけじゃ
なかった。力が上の八傑も歳が上の大人衆も、千代ちゃんを有望な可愛い子だと甘やかし
ていた。それをお姉ちゃんは初対面で喝破して、

「力の劣る相手を嬲る戦いしかしてないわね。千羽の強者には手加減され続けたのでしょ
う。素質とやる気を兼ね備えた少ない女の子だと。安全な戦いに導かれ、楽な武功を上げ、
八傑迄昇進させて貰った。素養も意欲も確かにあるけど、この侭ではあなたが危うすぎる
…」

 あなたは実戦の鬼の本当の怖さを知るべき。
 お姉ちゃんは声音は尚柔らかだけど真顔で、

「今のが実戦だったなら、鬼に血を吸い尽くされて絶命していたわよ。対応が、振り解く
動きが遅い。千羽の八傑が鬼に食い殺されて、血で力を与える不名誉を残す処だったわ
ね」

 う、うるさいっ。黙れこのぉ、鬼婆めっ!

 木刀を振り上げ、正面からジャンプしてお姉ちゃんの面を狙ってくるけど。凄い跳躍力
とかなりの早さだけど。柚明お姉ちゃんは一歩前に踏み出して軽く跳び、振り下ろす前の
千代ちゃんを絡め取って、両腕の自由を封じ、

「ひっ!」「またか」「何と!」「ああっ」

 今度は千代ちゃんの右の首筋に唇を当て。

 振り払おうとする動きを意に介せず、その両手両足を抑え、暫くの間執拗に吸い付いて。

 ああぁぁっ! 拾数秒後に振り払うけど。
 お姉ちゃんが外してあげたと見て分った。

「今度は振り解きが少し早かったわね。努力が窺えるわ。でも、不用意にジャンプして制
御の利かない宙に身を置くのは考え物よ…」

「ふっ、ふざけたマネをっ。あたし怒った」

「千代、落ち着くんだっ。挑発に乗るな!」

 堪りかねたのか、秀輝君の声が届くけど、

「あと2回、機会を上げるわね。次は右の頬に、その次は左の頬に、最後は真ん中に…」

 怒りより、千代ちゃんの身が怯えに竦んだ。
 勝たなければ、負けては大変な事態になる。

 今迄勝って見せつけよう、勝って土下座させよう、勝って功名を得ようとしか考えてな
かった千代ちゃんが『勝たなければ失う』と。千代ちゃんの身震いは、多分未だその唇を
誰にも明け渡してない為だ。それを衆目の前で敗北の末に女の子に奪われる。それは余り
に。

「ゆめい、もしかして怒っているのかしら」

 人に戻った今尚鬼扱い、しかも女の歳の話しに分け入り、年増だの鬼婆だの。ゆめいが
愛するけいの前で、あの物言いは女として頭に来るかも。ゆめいの鬼を印象づける挑発は。

「ノゾミちゃん?」「私の憶測よ」「……」

「最後を迎えるのはあなたよっ、おばさん」

 千代ちゃんが怯えを闘争心に変えて、猛烈な攻めに出る。突きを繰り出し、右に左に薙
ぎ払い。挑発に乗って突っ掛った様にも見えたけど、お姉ちゃんは木刀を手放して無手の
侭だ。間合を置き時間を置くより、武器を持つ優位で一気に決めるべきと、考えたのかも。

 千代ちゃんは達人だった。重く長い木刀を的確に振るい。あたしの様な素人じゃなくて
も、その猛攻は長く凌ぎ難い。連続した突きや振り下ろしは早く力が乗って。小柄で華奢
な身体でも、八傑に選ばれた事が納得できる。

 でも、お姉ちゃんはその上を行っていた。

「何とっ」「むうぅ」「早いか」「巧い…」

 その猛烈な攻めが一度として掠りもせず。
 躱し続けて尚その間近に居続ける巧妙さ。

 確かに木刀のない処にいれば安全だと理屈上は言えるけど。それを千代ちゃん程動きが
速く巧みな達人の間近で、やってみせるとは。間違えば、次の瞬間に木刀がその身を捉え
る。

「くっ、このっ、たあっ、はぁっ、てやぁ」

 千代ちゃんもそれを分っている。敵が間近という事は攻撃も届かせられると。だから躱
されても体勢を立て直し、お姉ちゃんのいる処に突き入れ、薙ぎ払い、振り下ろし。でも。

 柚明お姉ちゃんは、動きが全て見えている様に、刃の来ない処に、刃の通り過ぎた後に、
刃の届かない角度に自身を置き。何度振るっても掠りもしない。肌が触れ合う程傍にいて、
千代ちゃんは幾ら追い掛けても捉えられない。

「大振りのしすぎね。後ろががら空きよ…」

 千代ちゃんの背後から柚明お姉ちゃんはその胸に両手を回して抱き締めて、その右頬に、

「ひいぃっ! は、放しなさい、このぉっ」

 しっかり唇を当てて。危機感に総身の力で振り払う千代ちゃんの動きに乗る様に、ふわ
りと後方に遠ざかり。向き直った千代ちゃんの表情は硬く強ばり始めていた。息も荒くて、

「早さと力のある良い攻めだけど、守りが余りに脆く粗雑よ。それでは予定外の何かがあ
った瞬間に、勝利もその他も全て失われる」

 今迄気付かぬ内に周囲に勝ちへ導かれていた千代ちゃんは、守りの修行が甘かった様で。

「大丈夫。あなたは素養も才気も溢れている。これから努めればきっと立派な剣士になれ
る。烏月さんの様な、強く柔らかな鬼切りに…」

「烏月様の名をお前が口にするなあぁぁ!」

 あたしの憧れの人を、あたしの目指す先を。
 あたしがいつか挑む人を、お前なんかがぁ。

 怒号と共に千代ちゃんの剣撃が襲い掛る。

『千代ちゃん、もしかして烏月さんの事を』

 その想いが、なぜか自分の事の様に分る。

 だとすれば、敬愛する烏月さんの目の前で他人に唇を脅かされた今は、千代ちゃんの人
生最大の喪失の危機かも。八傑の1人として、剣士として鬼切りとして、1人の恋する女
の子として。心臓を掴まれる怯えを感じ取れた。

 思わず応援したくなってしまう。柚明お姉ちゃんを侮辱した相手だけど、その必死さが
切なくて。勝ち誇る姿には奢りを感じたけど、劣勢になって尚挑み続ける姿は危うく可憐
で。

「あたしの烏月様をお前達羽藤等に渡す物か。
 烏月様はあたし達千羽党の誇りで憧れなの。
 あたし達千羽党は、誰でも烏月様の為なら生命も差し出せる。身も心も明け渡せるのっ。
 あたしの全ては烏月様の物なんだからぁ」

『この女には絶対負けられない! 絶対に』

 怒りと危機感が千代ちゃんの最大限を引っ張り出す。今迄にも増して猛烈な突きと振り
が迫るけど。お姉ちゃんの対応はその更に一枚上を行き。鋭い突きも完全に見切れている。
渾身の振り下ろしを前進しつつ躱し、正面から両手で肩を軽く抑え、その左頬に唇を寄せ、

「ひいぃっ!」「千代っ!」「千代ちゃん」

 瞳を見開いて身を固くする千代ちゃんを励ます様に、大人衆や八傑の間から声が上がる。
お姉ちゃんは千代ちゃんの両肩を軽く押して、身を離すけど。必死の攻撃を悉く躱され渾
身の一撃も躱されて、逆に簡単に身を捉まえられ4度も唇で触れられて。肉体的な打撃は
なくても精神的な打撃で、もう千代ちゃんは…。

「最後のチャンスね。次は真ん中に行くわ」

 戦うのを止めて逃げ出す? 許しを請う?

 柚明お姉ちゃんの表情は真顔で、声音は静かでも容赦なく、姿勢には一部の隙もなくて。
最早逆転が可能には思えなかった。ここ迄来て千代ちゃんも、それを呑み込まされた様で。

「うう……あ、あぁっ……」「「千代っ」」

 千代ちゃんは心を立て直しきれず隙だらけ。
 辛うじて木刀を構えるけど、気力が抜けて。

 励ます声もみんなの視線も、周囲に多くの仲間がいる事さえも心の視野から抜け落ちて。
覇気が抜け、怖れと絶望感で、千羽千代は剣士ではなく、唯の震える女の子に戻っていた。
でも柚明お姉ちゃんはすぐの決着を望まずに、

「鬼にお願いは通じない。土下座も無意味よ。あなたが青城の宿敵を叩き潰す迄終れなか
った様に、鬼も可愛い女の子を貪り尽くす迄終らない。あなたは鬼と戦い始めた。戦いと
は、己の都合で勝手に止められる物ではないの」

 戦いには相手が伴う。簡単に相手を踏み躙れる時を除き、好きに放り出す事は出来ない。
お姉ちゃんは、千代ちゃんの視点から抜け落ちていた、そのごく当然な事柄を諄々と説き。

「あなたの答を見せて。千羽千代は、劣勢になったら、敵わない敵には、不利な状況では。
どうするの? 逃げ出すの? 屈服するの? 鬼切部として、千羽の八傑として、烏月さ
んの仲間として、千羽千代はどうするの?」

 良く透る声が一瞬だけ強く響き渡った。

「あなたの真の想いから、答を返して!」
「ううぅ……あぁ、ああ、ああぁぁっ!」

 お姉ちゃんの叱声に応える様に、木刀を両手に千代ちゃんは、神速の早さで踏み出して。

『絶対勝つ。負けられない。何が何でも!』

 表情が鬼気迫る程に緊迫し。肉体はその絶対の指令を受けて、早く力強く伸びて跳ねる。

 猛烈な振り下ろし。それを躱すお姉ちゃんに更に横殴りに木刀の薙ぎが迫る。更に躱さ
れても止まる事なく斬撃が。今迄よりも更に鋭い渾身の一撃が、連続で振るわれ続ける…。

 お姉ちゃんは躱し続けているけど、でも。

 千代ちゃんに較べ、柚明お姉ちゃんの動きはその間近を巡る。確実に余分で大きい筈だ。
立ち合いが長引けば、負荷の差が響いてくる。疲労が堪れば動きの切れも早さも鈍る怖れ
が。

 目にも止まらぬ動きを続ける両者だけど。
 この応酬を続ければ優位は千代ちゃんに。

「捉えたああぁぁっ!」「「やったか?」」

 大人衆や八傑が思わず腰を浮かせた。お姉ちゃんの躱した方向に追い縋る様に、千代ち
ゃんの木刀が迫って、薙ぎ倒すと思えた瞬間、

「いや……、ダメだ」「……決まったわね」

 烏月さんとノゾミちゃんの声が重なって。

 千代ちゃんの木刀が手首を離れて宙に舞い。
 お姉ちゃんは千代ちゃんに腕を絡みつかせ。
 その侭仰向けに、板の上に押し倒していた。

 両の繊手が両の繊手を板の床に抑え、細いけど締まった両足が狩衣姿の胴にのし掛って。
千代ちゃんは力づくで外そうと、可愛い顔を真っ赤にして力を込めて暴れるけど、拘束は
接着剤の様に微動だにせず。わたしもお姉ちゃんに組み伏せられたら、逃げられなさそう。

 見上げる怯えた瞳を美しい双眸は見下ろし。

「これが千羽千代の答なのね? 真の想い」
「うぅ、あぁぅっ、だ、ダメ。外せない…」

 間近の静かな声音に、その表情が凍結した。
 右の頬と左の頬の次は真ん中だと思い返し。
 お姉ちゃんは今迄約束を違えた事は一度も。

「綺麗で強くまっすぐな想い。可愛い子…」
「……い、イヤ、ち、ちょっと、待ってっ」

「絶望的な劣勢でも勝利を諦めず、全力を尽くし渾身の攻めを為す。千羽千代は最後迄剣
士で鬼切りで千羽の八傑だった。鬼切部千羽党の厳しさを存分に見せて貰えた。だから」

 わたしもあなたに、鬼の戦いの怖さを教えてあげる。ほんの少しだけど、参考になれば。

 その声音は静かに穏やかだけど。抑えた身体は万力の様で、千代ちゃんのどんな抵抗も
成果を見せず。怖れと絶望が可愛い顔に兆す。本当にお姉ちゃん、千代ちゃんの唇を奪
う?

「……い、イヤよ、お願い、少し待って!」

 涙混じりの願いにも応える声は穏やかに。

「鬼に敗れた可愛い娘がどんな目を見るのか、少女剣士でも鬼切りでも話しは同じよ。そ
の身で感じ取って、今後に生かして貰えれば」

 何もかも奪い去られる。想い迄も砕かれる。
 土下座も懇願も脅しも気迫も、通用しない。
 踏み躙られ、身を繋がれ、貪り尽くされる。

 千代ちゃんに最早打つ手はない。周囲の観衆も滑らかで素早い動きに、固まって応対出
来ず。大人衆や他の八傑や、烏月さんは更に遠い。助けはこの瞬間誰からも間に合わない。

「待ってお願い。あたし、未だ誰とも。憧れの人に捧げる筈の唇が……。いやっ、やめて、
お願い、唇だけは許して。未だ初めてなのに。誰か、誰か助けて。……烏月様あぁぁ
っ!」

 上の顔が、すっと間近な顔に下りて行って。
 2人の少女の肌が片方の意志にのみ繋がれ。

 確かにお姉ちゃんは、左右の頬の真ん中へ。
 悲鳴と同時に、左右の瞳から涙が飛び散る。

「いやああぁぁぁっ……、あ、ああ、あ?」

 わたしは何を、見たくなかったのだろう。

 思わず目を閉じて身を強ばらせた次の瞬間、膝の上の右拳への烏月さんの握りが少し強
くなって、左の掌に握った青珠がぴりっと痺れ。断末魔の少女の悲鳴は、妙に弛緩し尻す
ぼみ。

「ゆめいは、やはりゆめいだったみたいね」
「柚明さんだから、心配はしてなかったが」

 お姉ちゃんは公約通り、千代ちゃんの鼻の頂に柔らかな唇を触れさせていた。奪って失
わせたのは唇ではなく、千代ちゃんの戦意で。怒りの欠片も感じない。むしろ千代ちゃん
への愛情が感じ取れ、見ているだけで頬が熱く。

 柚明お姉ちゃんは怒ってない。お姉ちゃんは自身への侮辱で、己の事で怒る人じゃない。
この人の想いは常に、他の誰かの為に紡がれ注がれてきた。それは今千代ちゃんに向いて。

「ごめんなさいね。少し怖い想いをさせすぎたかしら。人を脅かしたり哀しませるのは好
まないから、真意を見抜かれない様に装う事に気をつけたのだけど、成功しすぎたかも」

 鼻の先から唇を離し、今度は安堵に瞳を潤ませる年下の少女剣士に、柚明お姉ちゃんは、

「あなたの剣士としての、鬼切部としての在り方は強靱だった。あなたは今でも強いけど、
素養も才気も溢れる程にあるから。短所を補い長所を磨き、心を鍛えればもっと強くなる。
戦いの怖さを知れば、あなたは更に強くなる。
 人を守れる鬼切りに。たいせつな人を守り通せる鬼切りに。あなたなら、必ずなれる」

 力の抜けた華奢な身に腕を回して抱き留め。
 その左頬に左頬を合わせて、想いを伝える。
 千代ちゃんはそれを跳ね返す気力もなくて。

 と言うより、安堵の涙に両頬を濡らしつつ。
 細い両腕を柚明お姉ちゃんの背に絡みつけ。
 声にならない嗚咽を暫く漏らし続けていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「千代を下がらせろ!」「「「ははっ」」」

 散々罵って敵意ぶつけた柚明お姉ちゃんの胸の内で、何も奪われずに済んだ千代ちゃん
が落ち着き。しゃくり上げる感じは残しつつ、受け答えできる程度に収まったと見えた瞬
間、雅さんの怒号が挟まった。菖蒲さんと友加里さんに両肩を支えられ、悄然と歩み去る
けど、

「次はこうはさせないから、憶えてなさい」

 精一杯の負け惜しみと分ったけど、この時点で尚そう言えるとは。彼女が道場を出るの
を見送って、漸く観衆にざわめきが戻り始め。

「末席とはいえ八傑を、無手で一蹴するか」

 東条さんが唖然とした呟きを漏らす。ノゾミちゃんが小さな胸を張る感触を伝えてきた。
鬼切部が退けられる事は鬼には爽快なのかな。お姉ちゃんが無事で、千代ちゃんもケガや
喪失がなかったのでわたしもほっと出来たけど。お姉ちゃんが唇を繋げないでほっとした
けど。

「この程度では終るまい」「烏月さん…?」

 烏月さんの表情は憂いや危惧が却って深く。烏月さんは千代ちゃんとの帰趨は視えてい
て。問題は昌綱さんから、真の危険は今からだと。

「三強は誰1人とってもこの程度の戦いで凌げる様な相手ではない。柚明さんも今見せた
技量が全てではないと思うが、故にこそ以後の立ち合いはこの程度の応酬では終るまい」

「やっぱり、みんなとんでもなく強いの?」

「他の八傑なら、拾本戦えば拾本私が勝てる。
 千代が青城の宿敵にやったと言うあれだよ。
 東条さんからも拾本取ろうと思えば取れる。
 だが三強は誰をとってもそれが保証できぬ。
 口で説明するより見て貰うべきだろうね」

「確かに三者三様に並々ならぬ技量だけど」

 ノゾミちゃんの感触も、佇む三人の強者の技量の底を測りかね。唯ノゾミちゃんも柚明
お姉ちゃんの体術や剣術は見た事も対戦した事もない為、読み難いという事では同じ様で。

「誰の底が一番深いのかは、一番深い者以外の底が、全員見えた時点で分るって感じね」

 話している内にも柚明お姉ちゃんは、千代ちゃんに叩き落された木刀を拾って、楓さん
の隣に座して形勢を見ていた昌綱さんを向き、

「お待たせしました。始めましょう」

 筋肉質な痩身が応えて立ち上がる。

「昌綱さんっ」「昌綱さまぁあ」「千代ちゃんの仇を」「千羽の強さを見せつけてくれ」

 若い女子からの歓声があるのは当然として、若い男子からの歓声はやや意外だった。女
の子には持てそうな、女の子を好きそうな今風の容貌だけど。実力の故か千羽の結束の故
か、昌綱さんの技量に寄せた強い信頼が感じ取れ。鋭く獲物を狙う瞳は強烈な自信を感じ
させる。

 両者前へ。審判の景勝さんが2人を招き。

 白い狩衣姿の昌綱さんと、青い布地に白いちょうちょの文様のパフスリーブのワンピー
ス姿の柚明お姉ちゃんが、間近に向き合って。お互いに木刀は右手に持っている。あれ
…?

 微かな疑念が頭の隅を掠めるけど、確かな形として掴む前に、事は次に動き出していた。

「八傑の末席は倒せた様だけど、その程度の動きや技で三強に挑むのは、無謀に過ぎる」

 戦う前から勝負は見えていると昌綱さんは、

「手加減する積りはないよ。その身で無謀の報いを存分に受けると良い。千羽の実戦の真
の厳しさを、俺の想いと共に受けて貰おう」

 柚明お姉ちゃんは黙して頭を垂れただけ。

「よく言うわね。さっきはゆめいではなくて、八席の小娘の勝利を前提に喋っていた癖
に」

 ぼそっと呟くノゾミちゃんに烏月さんが、

「昌綱さんの悪い癖なんだ。初見の相手の力量を低めに評価する。見下してしまう。己が
属する千羽党への自己評価がやや高すぎてね。でも、そうさせるだけの実力が彼にはあ
る」

 今の彼には殆どの強者が有象無象、十把一絡げの雑魚でしかない。この試合でほぼ間違
いなく柚明さんの本気が見られる。出せなければ確実に敗れ去るから、出さざるを得まい。
それでどこ迄届くのか、昌綱さんに及ぶのか。

 烏月さんの瞳も剣士のそれになっていた。

「向き合えば、体格差が明瞭に過ぎるわね」

 ノゾミちゃんの指摘には頷かざるを得ない。
 昌綱さんは戦いに適した肉体を持っている。

 身長も三拾センチ近く違う。手足も太さ以上に長さが違って。それだけでも絶対不利だ。
その上で相手が並の技量でないというのなら。後は精神的要素に望みを託す他にないのか
も。

 景勝さんが2人に礼を促し、2人が立礼を交わし終え互いを視界に入れたタイミングで。
景勝さんは『始め』の声を掛けて身を引かせ。

 戦いの第一戦は、意外と静かに滑り出した。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……」「ほう」「これは」「構えない?」

 構えないのは昌綱さんだ。柚明お姉ちゃんの出方を窺ってなのか、敢て構えず、間近で
不用意な程の自然体で佇んで。王様か殿様が相手を見下ろす感じにも見えた。何をしてき
ても応対できると、攻撃を誘う感じにも見え。向き合う側に、打ち込む勇気を求める感じ
だ。

「柚明さんの構えも」「何とも変則的な…」

 烏月さんの呟きを補ったのは東条さんだ。

 わたしが今迄時代劇の殺陣やスポーツニュースで見た剣道でも、全く見た事のない構え。

 お姉ちゃんは体の姿勢を真横に変えていた。

 右肩を前に、左肩を後に。昌綱さんに右の横向きになって、瞳を横目に相手を見据えて。
右手に持った木刀は、反った刃の部分を相手に向けてだらりと下げ。それのみで静止して。

「これは剣道の試合ではなく、柚明さんは剣士でもない。定石の構えを取らない可能性は
考えていたが」「剣士でもない者が剣士でも多く為さない定石外しを扱えるのか、ね?」

 烏月さんの疑問をノゾミちゃんが噛み砕き。

「ああ。利点がない訳ではないが、利点より欠点が多いから定石になり得ず、ごく限られ
た者しか使いこなそうとしない、それを…」

 2人は相手の様子を窺いあって暫く動かず。

「利点の一つは防御面積の狭さだろう。昌綱さんの突きは尋常ではなく疾い。柚明さんが
彼を知らなくても、千羽の三強を敵に回せば攻撃の早さは推察できる。心臓や鳩尾に来た
突きを躱しても、胸や肩に当たる怖れは高い。躱す積りでも、木刀で弾くにしても、守る
面積が少なければ、それだけ攻撃は防ぎ易い」

 東条さんが反対側で更に補足してくれて、

「攻撃でも片手面又は片手突きの姿勢だから、リーチの差を補う効果もある程度見込め
る」

 両手で持つよりも、威力は落ちるけどね。
 そこからは烏月さんが再度この手を握り、

「防御面積が減る一方で、動きは難しくなる。特に昌綱さんが左から木刀で薙いできた場
合、柚明さんには死角だ。振り下ろしや突きには有効だが、昌綱さんは確かに右利きだが
…」

「木刀を持った右肩が相手に丸見えよ。攻防の起点を全部晒してゆめいは大丈夫なの?」

「柚明さんは体格に恵まれてない。攻撃の威力を補う為に、振り回しの遠心力を見込んだ
のかも知れない。あの姿勢から自身の左側に木刀を回し、昌綱さんに振り下ろす積りで」

「だがその動きは目に見えて分り易く、木刀を一回りさせるなら、確実に遅れが生じる」

 東条さんの指摘には、烏月さんも頷いて、

「全ては柚明さんの取捨選択だ。見守ろう」

 ううっ……。大丈夫だよね、お姉ちゃん。

「ゆめいは自分から、攻めには出ない様ね」

「互いに相手の技量の底が読み切れてない」

 不用意に攻めて己を晒し、体勢を崩したくない処だろう。烏月さんが応えたその時に…。

 こおぉん。木刀のぶつかる音が、一度だけ響いた。前触れもなく、事は動き出して終り。

「?」「大丈夫よ。ゆめいは防ぎ止めたわ」

「確かに柚明さんは防ぎ止めはした。だが」

 わたしに見えるのは、何かの動作を終えて元の体勢に戻ろうとする昌綱さんの姿だけど。
柚明お姉ちゃんには何も動きがない様に見え。昌綱さんが木刀の突きを繰り出したのか
な?

「ええ。ゆめいの右肩を狙って軽く、反応を窺う感じかしら。動きはかなり速かったけど、
ゆめいも木刀でその先を弾いて外させ、男の方はそれで引いた。互いにそれ以上はなく」

 昌綱さんの攻める瞬間も、柚明お姉ちゃんが守る瞬間も、見えなかった。お姉ちゃんは
反撃に出ず、昌綱さんも追撃はせず、お互い引いて様子伺いに戻った様だけど。わたしが
見たのは昌綱さんが弾かれた木刀を引く処か。

「確かに今の一撃は外す事が出来た。だが」

 烏月さんの表情は緊迫している。未だ昌綱さんは全然実力を出してないらしい。既にこ
の早さは千代ちゃんのそれを遙かに凌ぐのに。もし柚明お姉ちゃんがもう本気なら、それ
は。

「この程度は防げるか。だが、分るだろう」

 二度三度やって、果たして同じく防げるか。
 木刀を通じて及ぶ痺れに何回耐えられるか。

「昌綱の一撃は早い以上に重いんだ。木刀で受けて防いだとしても、掌や手首、腕の筋肉
に痺れが残る程にね。彼女の細腕では、早さに対応できたとしても何度も受けられまい」

 東条さんの補足で、昌綱さんが柚明お姉ちゃんに語りかけた意味を悟る。右隣を見上げ
ると、烏月さんは試合に心を集中させていた。

「守りが不利なら、攻めに出る他にないわ」

 ノゾミちゃんはそう言うけど。昌綱さんがそれ程強いなら、その位は予測済みの筈だし、
千代ちゃんの様に守りが脆い事もあり得まい。焦って攻めれば、却って墓穴を掘る事にも
…。

「賢いのか愚かなのか。攻めては来ないか」

 昌綱さんも柚明お姉ちゃんの攻めを待っていた様だ。でも動きのないお姉ちゃんを見て、

「まあ良い。3分……否、2分あれば充分」

 突然目の前の柚明お姉ちゃんを捨て置いて、隙だらけを承知で段上に座す烏月さんを向
き、

「烏月さん、お願いがある。俺は彼女を……、羽藤柚明を2分以内で倒す。それが出来た
ら烏月さん、あなたは俺の恋人になってくれ」

「なっ?」「ばっ!」「何とっ」「昌綱っ」

 ざわめきは観衆や八傑から、憤りは大人衆のお歴々から。わたしも驚いた。烏月さんは
綺麗で強く賢くて、千羽でもみんなの憧れだろうけど。千代ちゃんも栞さんや藤太君も慕
っていたけど。誰かの恋人にと迫られる日が来るとは。いや、恋しても自然な年頃だけど。

 烏月さんも驚いたのか、ずっと握り続けていてくれた膝上のわたしの右拳の握りが弱く。

「昌綱貴様」「何という不遜」「痴れ者め」

 千羽のみんなの前で告白する。それも相当な度胸に違いない。まるで主君の娘に結婚を
申し込んだみたい。柚明お姉ちゃんも暫く動く姿勢はなく、話しの行く末を見守る姿勢で。
昌綱さんはどんな攻撃も受けて反撃できると示しつつ、高段の大人衆や八傑や烏月さんに、

「俺はずっと烏月さんに憧れていた。惚れていた。千羽の多くの男も女も、そうだろうが。
唯、俺の想いや実力では中々届かないと想っていた。及ばないと想っていた。烏月さんは
この数年で急激に強くなったから。でも…」

 俺も三強になった。まだまだ強くなる。楓さんも為景さんも抜いて、俺は更に強くなる。
烏月さん、あなたも抜いてだ。俺が千羽の一番になる。その時は、俺の愛を受けて欲しい。

 わわっ、言っちゃったよ。こんな場面で。

「ふざけるなこの痴れ者が」「分を知れっ」

 怒号は大人衆の経久さんと千鶴さんから。
 それは景勝さんや雅さんにも、伝播して。

「唯でも当主への口の利き方が過ぎるのに」
「三強になって間もない若造が減らず口を」

 そう言えば、千羽党で烏月さんの呼び方が『烏月様』じゃなかった人は、東条さん(烏
月君)と昌綱さん(烏月さん)だけだった…。

 観衆の方は未だ驚きが抜けきってないのか、非難も同調も出てこない。大人衆の猛然た
る反発に、声を上げるのを躊躇っているのかも。でも昌綱さんは、目上の猛反発も意に介
せず、

「強ければ認めるんでしょう? 実戦に則す千羽党では……。違いますか、ご老人方!」

 危険な程の瞳の輝きが、わたし迄竦ませる。この人は本気だ。仲間でも目上でも阻むな
ら突破してやる、止めてみろと言う感じ。柚明お姉ちゃんにした様にやるならやって見ろ
と。

「俺が羽藤柚明に打ち勝って、千羽の面目を取り返したら、俺も千羽から報償を貰いたい。
烏月さんを妻にくれとは言いません。それは俺が彼女に実力で勝って奪う積りですから」

 鬼切り役も千羽の当主も、この手に掴む。
 わわわっ。謀反の予告の様にも聞えるよ。

「千羽党は強くなければならない。強ければ何でも出来る。俺は今迄あんた達大人衆にそ
う教わってきた。何か間違いがありますか」

 あんた方の在り方を返されただけだろう。

 大人衆が言葉を失う。昌綱さんは本物の殺気で大人衆に、文句があるなら止めて見ろと、
挑発と脅迫を同時に為した。現役最強の剣士の刃の様な気迫を前にして、現役を離れた大
人衆は流石に応えて戦いを挑む訳にも行かず。

「昌綱っ、冗談も程々にしろ。他の家の者を前にした公式の場で、私的な事柄を。烏月君
の気持も考えず、一方的に話しを進めて…」

 左隣にいた東条さんが、大人衆の援護というより烏月さんを守ろうと、言葉を挟むけど、

「他の家の者を前にした公式の場だからこそ、この取り決めは公式になる。烏月さんの気
持を考えるのは、求めへの答を貰ってからだ」

 答も貰わない内から、気持など分る物か!
 昌綱さんは東条さんに挑み掛る様に応え、

「あんたはそうだったんだろう、東条さん。
 烏月さんの気持を察し、烏月さんの辛さを察し、烏月さんの涙を察して、いつも少し遠
くで見守って。及ばないから、届かないから、俺達では背負いきれないから。最後は彼女
に、任せきりで。俺はもうそんな日々は嫌なんだ。
 俺は幸い、それだけの力を備えつつある。
 俺は烏月さんに踏み込んで、答が欲しい」

 それは、恋敵への宣戦布告に近い物かも。

「あんたは確かに優しい。強く賢く視野も広い。幼い頃から俺も烏月さんも明良様が忙し
い時は、あんたに剣を教えて貰った。大人衆の『強さが全て』とは違う流儀を、明良様の
流儀を教えて貰えた。感謝している。でも」

 三強になれたのはあんたじゃない。烏月様が鬼切り役になって八傑を抜け、二強になっ
たその後を埋めたのは、結局あんたじゃなく、この俺だ。東条誠八郎ではなく、千羽昌綱
だ。

「優しいだけじゃ、賢いだけじゃ、礼儀正しく見守るだけじゃ、ダメなんだ。強くなきゃ、
強引に貫かなきゃ、打ち破らなきゃ救えない。俺は、絶対に烏月様なんて呼びはしない
…」

 崇める存在じゃない。守りたい人だから。
 それは恐らく東条さんも同じなのだろう。

「文句があるなら出て来て良い。羽藤柚明と纏めて打ち倒すだけだ。俺はあんたの気持は
考えない。俺はあんたの様に周囲のみんなの気持を考えて優しくは出来ないし、する積り
もない。俺が考える相手は烏月さんだけだ」

 烏月さんへの途を阻むなら、打ち倒すだけ。
 柚明お姉ちゃんとの対戦もそれに利用して。

 昌綱さんは本当に、烏月さんを愛している。
 何者をも貫き通す強い想いに引き締まって。
 東条さんが、腰を浮かせ掛った瞬間だった。

「……良いだろう。昌綱さん」

 烏月さんが沈黙を破って、東条さんを止め、

「5分だ。5分以内に柚明さんを倒せたなら、私は暫く昌綱さんの恋人になろう」「な
っ」

 東条さんが何か言おうとわたし越しに瞳を向けるけど、大人衆からも反発の声が上がる
けど、観衆や他の八傑もどよめいているけど。

「柚明さんは容易には倒せぬ。心して掛れ」

 烏月さんはやや冷たい無表情でそう応え。
 昌綱さんは無言で一礼してから向き直り。

「そう言う事になった。まあ、諦めてくれ」

 烏月さんは柚明お姉ちゃんが勝つと想っているのかな。それとも、5分に延ばしたのは。

「烏月君、千羽の想いと名誉をかけた戦いに、昌綱の私的な想いや戦いを混ぜ込ませて
は」

「烏月様、なぜあの様な」「もしや烏月様」

 大人衆からも疑念の声が巻き起こるけど、

「あなた達の誰にあの男を止められたの?」

 ノゾミちゃんの一言が、ざわめきを制した。昌綱さんの求めを受けなければ、羽藤との
立ち合いどころではなくなった。昌綱さんに退く気はなく、大人衆に立ち塞がる覚悟はな
く。東条さんが受けて立っても状況は滅茶苦茶だ。更に言えば昌綱さんを力で止められる
人は…。

「柚明さんが、折角受けてくれた立ち合いを、千羽の想いも託した立ち合いを、壊す訳に
は行かない。それに昌綱さんも想いは真剣だ」

 今はその立ち合いを見守るべき時だ。

 周囲の誰も反駁を返せず、烏月さんの促しに従って2人の対峙に視線を向け直す。昌綱
さんは爽やかな顔立ちに剽悍な笑みを浮べて、

「では始めよう。苦しみは長く続かせない。
 5分は要らない。2分で終らせるっ…!」

 昌綱さんの猛攻が始った。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 昌綱さんの斬撃は神速の上に威力に満ちて、しかも留まる事がない。千代ちゃんの攻撃
も早くて力の乗った素晴らしい連撃だったけど、それが子供の遊びに思える程にレベルが
違う。

 柚明お姉ちゃんの回避にもさっき程の余裕はない。最初の一撃が重かったのか、以降の
攻撃は全て木刀でも受けず、躱す事のみに特化して。千代ちゃんの時には斬撃を躱しつつ、
唇を寄せる為にその周囲を巡る動きを見せていたけど、そんな余裕は最初からなく。躱せ
てはいるけど、髪や袖を掠める程ギリギリで。

「昌綱さまぁ」「行けぇい」「やっちゃえ」

 ノゾミちゃんも行方を見守るけど、感触が少し硬い。間近で鬼切部が強さを見せる事は、
ノゾミちゃんを無意識に身構えさせるみたい。

「あれは厄介よ。空振りに終った後でも隙がない。身体のバランスが良いから体勢が崩れ
ないの。だからすぐ次の一撃に移行できる」

「本来なら、空振りは攻め手に意外と大きな負荷を与える。受け止めて弾いて貰えた方が、
次の一撃を出し易い物なんだ。柚明君もそれを知って躱す事に特化しているのだろうが」

 東条さんは、それで疲れる昌綱さんではないと、逆に躱し続ける柚明お姉ちゃんの疲れ
を危惧する。木刀で受け止めれば動かずに済むけど、躱し続けると留まる事を許されない。
攻める側以上に守る側が動く事を強いられる。

「体力勝負なら男に分がある。柚明君の体は女子高校生で、しかも華奢で細身だ。この侭
行くと体力を削られるのは、柚明君の方だ」

 力や早さが欠けてくれば、技があっても使いこなせず、攻めも守りも精彩を欠く。その
僅かな差異が、達人相手には致命の隙になる。柚明君はむしろ攻めに転じなければ危うい
が、とても攻めを為せる状況ではない。これでは。

 歴戦の東条さんも、柚明お姉ちゃんの身体と体力を前提にすると打開策が思いつかぬと、
渋い表情だ。未だ一分経ってないけど、もういつ陥落してもおかしくはないという感じで。

 烏月さんを見上げてしまうのは、もう少し希望的観測は聞けない物かなとの願いだけど、

「柚明さんは確かに巧く躱せている。あの攻勢を持ち堪えている事が既に瞠目に値する」

 早さでは昌綱さんの方がかなり上なのに。
 動きの巧みさと読みで、回避して。だが。

「あの回避では、昌綱さんの攻めは凌ぎきれない。昌綱さんのあれは未だ、全力ではない。
もし柚明さんの今が全力なら、息が上がらなくても捉えられるのは、柚明さんの方だ…」

 ううぅっ。一層きつい観測が返ってきた。

「流石は特練の飛車」「その侭千代の仇を」

 三上さんと谷原さんの声援が、昌綱さんの背中を更に押す。観衆も羽藤との戦いに意識
を戻し、その鋭くも疾い攻勢に目を見開いて。

「……そう言えば、特練の飛車」「けい?」

 その言葉は聞いた事がある。憶えがある。

「せいごーさん、そう。せいごーさんだっ」

 教育テレビで時代劇の殺陣を解説していた、若白髪が渋い男の人っ。アナウンサーの人
に、『剣道の達人で特練の飛車』って言われてた。

 烏月さんは、同じ人に思い当たった様で、

「武田清剛氏の事だね。私も何度か見た事はあるよ。あの人は剣道も解説していてね、初
心者向けに分り易く、でも要点を簡潔に抑えた中身は、年少組に教える時に役立つんだ」

 あの人は剣道の世界でも指折りの実力者だ。
 千羽党に入れば、すぐ八傑になれる位のね。

「特練の飛車というのは、昌綱さんの様な直線的な攻撃スタイルを持ち、修行・練習と言
った努力を尋常ならざる程に積み重ね、凄まじい強さを持つに至った者への俗称なんだ」

 なるほど。あそこ迄強くなるのに努力は当然伴うから、むしろあの直線的な攻撃スタイ
ルを持つ人と言うべきかも。その要素を満たせば、複数人いてもおかしくはない訳ですと。

「昌綱さんも偽装と力試しを兼ね、何度か剣道の大会に出ていてね。私が物心ついてから、
特練の飛車と呼ばれた強者は6人見たが…」

 女性剣士への贔屓で鳴海夏夜を推す人が多いけど、誰か一番を選ぶなら、双方を見た私
としては武田清剛を選ぶね。3ヶ月前迄なら。

 3ヶ月前? そう言えば、友加里さんが、

『3ヶ月前に1人、八傑の中でめざましく腕を上げた者がいた為、三強に戻っています』

 昌綱さんは柚明お姉ちゃんの指名でも最初だった。三強の並びでも端で、何より年若だ。

「昌綱さんが、新たに三強になった人…?」

 ああ、そうだよ。烏月さんは確かに頷き、

「そして今なら、確かに言える。私が知る6人の『特練の飛車』で最強なのは、鳴海夏夜
でも武田清剛でもなく、確実に千羽昌綱だ」

 目の前では、昌綱さんの猛攻が続いている。お姉ちゃんが一度も反撃しないのは、その
隙がない為か。躱せてはいるけど、わたしの目には当たった様にしか見えない攻めが終ら
ず。

 観衆も他の八傑も大人衆も、昌綱さんの勝敗ではなく、いつ勝つか、いつ終えるかに焦
点が移り始め。お姉ちゃんは本当に辛うじて持ち堪えているけど、昌綱さんの攻めが今中
断したらその場に崩れ落ちそうな程危うくて。

 八傑の中でも三強が別扱いな事情が分った。千代ちゃんも確かに強いけど、昌綱さんと
同列には扱えぬ。更にこの上に楓さんと為景さんがいて、鬼切り役の烏月さんがいる。本
当に柚明お姉ちゃんはとんでもない人を相手に。

「けい。ゆめいが危ないわ」「ノゾミちゃ」
「ほぼ2分……これで終りだ、羽藤柚明!」

 昌綱さんが止めだと、両手で木刀を確かに握って、必殺の一撃を振り下ろす体勢に入る。
柚明お姉ちゃんが危ない。観衆も大人衆も他の八傑も、烏月さんもノゾミちゃんも思わず
緊迫し、わたしも瞳を向けつつ瞼を閉じて…。

 お姉ちゃんに当たる鈍い音は聞えなかった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 周囲は妙な静けさに包まれて、動きがない。

 お姉ちゃんに木刀が当たる音も、お姉ちゃんの悲鳴も、板の床に倒れる音も、聞えずに。
時間が止まった様に、観衆もみんな息を呑んだ様な静寂の中、瞳を恐る恐る開いてみると。

「あ……お姉ちゃん……まだ無事みたい…」

 何と言ったら良いのだろう。2人は彫像となっていた。故に音はなく、観衆も他の人も
それを前に声も出ず、板の間は静謐に包まれ。

 昌綱さんは、両手に握った木刀を振り上げ、今正に振り下ろそうとした姿で固まってい
た。その表情は凍り付き、呼吸さえ止まっていて。

 柚明お姉ちゃんは、昌綱さんの首筋に右手に持った木刀を片手で突き出した状態で静止
していた。わたしには突き刺さった様に見えたけど、首の皮に当たる寸前で止めたみたい。
その踏み込みは一本の槍の様に、鋭く美しく。

 見えた侭にノゾミちゃんが事実を言葉に、

「決まったわ、けい。ゆめいの逆転勝ちよ」

 ゆめいは情けをかけたけど、そうでなければあの男、木刀で喉を突かれて悶絶していた。
手加減がなければ生命も危うかった。実力はあったけど、終盤迄ずっと優勢だったけど…。

「昌綱の悪い癖だ。敵を侮り、己に敗れる」

 一段低い左で東条さんが不機嫌そうに呟く。千羽の剣士が負けた事、三強の1人が負け
た事、何より昌綱さんが油断で負けた事に、声が苦々しく。烏月さんを巡って微妙な関係
でも、やはり千羽の仲間の敗北は悔しいみたい。

 漸く観衆も他の八傑も大人衆も、呑み込みたくない状況が呑み込めてきた様で、ざわめ
きがさざ波の様に広がっていく。昌綱さんの強靱さが分るから、圧倒的な優位だったから、
後はいつどの様に勝つかの段階に見えたから、そこからの逆転敗北がみんな信じられない
と。

 動いたのは三強の次席、楓さんだった。
 景勝さんの勝敗の宣告を待つ事もせず。
 無言の侭すっと立って、次は自分だと。
 瞳を向けて来る美しい人を止める声は、

「楓さん。申し訳ありませんが、もう少しだけお待ち頂けないでしょうか?」「……?」

 その首筋に木刀を突きつけた侭、柚明お姉ちゃんは、尚身動き出来ずにいる昌綱さんに、

「あなたは本当の力を見せてない。本当の想いも見せてない。あなたが真の想いを向けて
くれない限り、わたしも真の想いを返せない。応えられない。この立ち合いは、千羽の想
いを羽藤に届かせる為の申し出だった筈です」

 羽藤の想いを届かせるのは、千羽の想いを受けてからです。千羽が先に真の想いを向け
てくれないと何も始らない。これがあなたの実力ですか。これがあなたの真の想いですか。
千羽の三強の想いと力とは、この程度ですか。

 声音は柔らかだけど、真顔の柚明お姉ちゃんは静かな姿勢の侭、千羽の皆の肝を冷やす。

「昌綱の油断を、柚明君は分っていたのか」

 お姉ちゃんも本気ではなかった。東条さんが唖然とした呟きを漏らす迄、わたしは見て
も分らなかったけど。昌綱さんが本気ではないと分り、その程度にしか応えてなかったと。
でも、昌綱さんのあれを油断というのは酷な気がする。あの凄まじい猛攻を。それに未だ
見せてないお姉ちゃんの本気って、一体…?

 その上で、柚明お姉ちゃんが続けた言葉は、わたしも千羽の誰も予想だにしなかった物
で、

「未だ勝負は付いてない。これは剣道の試合ではありません。この立ち合いの勝利条件は、
相手を戦闘不能に陥らせるか、相手に負けを認めさせた場合のみ。昌綱さんは未だ傷一つ
ついてはいませんが、負けを認めますか?」

 そうだった。彼が負けを認めるか戦闘不能に陥る他に、お姉ちゃんの勝利は確定しない。

「柚明さん……?」「……ゆめい、まさか」

 烏月さんとノゾミちゃんの呟きが同時に。

「あなたの真の想いを見せて下さい。わたしはそれを受け止めたい。お答え、願います」

 昌綱さんは一瞬目を丸く見開いて、次に、

「くくっ……勝敗が実質決したこの状態から、再度戦う機会をくれるというか? 羽藤の
護身の技とやらは、捉えた勝利を逃す様な技か。そんな甘い応対で、大切な人は守れるの
か」

 むしろなぜ首を突かなかったのかと、敵に情けは無用だろうと。苦笑いしつつ、柚明お
姉ちゃんの甘さを突き放しに掛る昌綱さんに、

「本日の立ち合いは、羽藤が千羽の想いを受ける為の物です。勝敗は必須ではありません。
わたしが守るのは心迄含めて。千羽の皆様の悲憤や憎悪を受ける事で、わたしの大切な千
羽の皆様の、痛みを拭う助けになれるなら」

 柚明お姉ちゃんの在り方は甘いのではなく、目指す方向にそれが最善だと想う故の選択
だ。千羽は羽藤の敵ではない。試合は互いの想いを通わす為で、勝利や叩き潰す目的では
ない。勝ち進まないと最後の人と想いを交わせないから、昌綱さん達には勝たねばならな
いけど。

 大前提は想いを通わせ合う事に、想いを受けて応える事に。その真の想いを存分に出さ
せない内に勝ちを掠め取っても意味はないと。あの猛攻さえも本当の想いがないと見通せ
て、再度挑めと言える柚明お姉ちゃんって、一体。

「昌綱さんが戦意を失ったなら、退く事は責めませんし拒みません。昌綱さんの真の想い
の侭に、選択を為して下さい」「……っ!」

 お姉ちゃんは昌綱さんの首に突きつけた木刀を引いて、元の右側面を見せた構えに戻り。
未だ戦うなら身構えよ、掛って来いとの感じ。漸く掴んだ致命的な優位をあっさり手放し
て。谷原さんも三上さんも秀輝君も、言葉もない。栞さんや藤太君達観衆も大人衆も静ま
った中。

 昌綱さんは一度瞳を閉ざし、深呼吸して、

「楓さん。申し訳ないが、あなたの出番はやはりない。……彼女の情けに仇を返してみよ
うと想う。もう既に一本取られて、勝っても気持良い勝利はない俺だけど。彼女の甘さに
全力で噛みついて、叩き潰す事で応えたい」

 楓さんが無言で、板の床に再度座した時。
 見開いた双眸は静かに強い意志を湛えて。

「千羽党八傑の六席で三強の一角、千羽昌綱、全身全霊で挑み掛る。覚悟して貰おう
か!」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「昌綱さん、時間はもう良い。今はとにかく、勝つ事だけに集中しろ。柚明さんは尋常で
はなく強い。千羽の三強に、匹敵する程に…」

 烏月さんは、昌綱さんが未だ残る『5分』を気に掛け心乱される事を気遣った様だけど。
昌綱さんへの助言はお姉ちゃんの強さ故に? 昌綱さんへの想い? それは仲間として?

 しっかり膝の上の右拳を左手で握りしめてくれるけど、心も瞳も強者2人の戦いに向き。

「まさか、ゆめいがここ迄やれるとはね…」

 ノゾミちゃんの呟きも、やや力が抜けて。
 観衆も想像以上を見せられて同じ感じか。
 わたしもずっと驚きっぱなしなのだから。

 夏の経観塚でもわたしを守って戦いづくしだったけど。確かな肉体を持たず霊体だった
柚明お姉ちゃんは、主に青い力で鬼と戦って。町に帰って来てからは、平穏な日常だった
し。強さを見せつけたり、誇ったりする人ではないとは、知っていたけど。まさかここ迄
とは。

 確かにお母さんに教わったとは聞いたけど。
 お母さんが強かった話しも少し聞いたけど。

 いつも抱き留めてくれる感触は柔らかで温かで、強さや硬さに繋る感じはなかったから。
愛しさと心地よさに包まれて、心迄安心できたけど、その奥にこれ程の強さを持つなんて。

「2人の状況は、さっきと似た感じだね…」

 昌綱さんが柚明お姉ちゃんを攻めている。

 お姉ちゃんはやはり、木刀でも昌綱さんの打撃は受けず、避ける事に特化して。右手に
持つ木刀は下ろした侭で持ち上げず、防御も応戦もせず。あの一瞬以外一度も攻めをせず。

 お姉ちゃんの動きは昌綱さんよりやや遅い。足の筋力の違いかな。動きの巧みさと先読
みで、辛うじて躱せているけど。髪や袖を掠める程、木刀が当たって見える程、僅差で躱
す。これなら姿勢を横にして防御面積を減らして正解か。柚明お姉ちゃんは胸もわたしと
同じ位だから、横になっても膨らみも大きくは…。

 右に左に、上段に中段に下段に、突きに薙ぎ払いに振り下ろしに。昌綱さんの攻めは今
迄より更に早い。お姉ちゃんは何とか対応できているけど、今にも敗れそうな程危うくて。
今度も昌綱さんがずっと主導権を握り続けて見える。この侭じゃあの猛攻は長く支えられ
ない気がするけど、さっきもこんな感じで…。

「ああ、その通りだよ、桂さん。故に凄い」

 烏月さんは視線が攻防に目が向けた侭で、

「ゆめいは六席の男の、更に早くなった攻めに対応できているのよ。やや遅れながらも」

 ゆめいも速さを上げてきているの。あの男に僅かに遅れる位に抑えつつ。それは、僅か
に遅い位で応対できると見切っている証しよ。

「あれは柚明君の限界ではなく、昌綱の攻撃に応対できると見切って抑えた出力だと…」

「本気の昌綱さんに柚明さんが尚力を抑えているとは思えないが。見えた事実は、柚明さ
んが昌綱さんの動きと同等でなくても、戦えるという事だ。そう言うスタイルなのだろう。
相手の兆しを読み、見切り、己の初動を早め、動きの早さ自体は及ばなくても対応出来
る」

 入った様に見えるけど、入ってない。その微妙さに観衆も思わず声を上げ、声を落して。
2人の攻防は、最初のそれを越えて長く続き。

 双方玉の汗は散らすけど、息は荒れても。
 動きは双方鈍る兆しも見せず神速を保ち。

 まるでこう攻めるから躱してという約束の上での応酬の様に、力と早さが乗った美しい
動く芸術品で。相手を叩き潰そうと猛る力強い闘志と、静かでも決して折れない闘志とが。

「昌綱は、必死の努力を好まない性分でね」

 特練の飛車の異名に不似合いなその過去を、東条さんが話してくれる。視線は2人の流
れる様な立ち合いに向いた侭、心は過去に向き、

「千羽の中でも昌綱は、体にも恵まれ素質もあって。他の者の様に必死に努力しなくても、
常に良い処迄行き着けたんだ。だから必死の頑張りを必要としなかったのかも知れない」

 人並みの努力はするけど、それ以上の必死を彼は必要とせず、経験せずに成人を迎えて。
高校生の半ばで八傑にもなれたし、剣道でも特練の飛車と呼ばれたし。大人衆から『もう
少し覇気があればもっと早く育つのに』と苦言されながら、順調に育ち行く様を喜ばれて。

 苦戦しても負けても、必死に強くなろうとか望まず。みんなと一緒に強くなれれば良い、
その内強くなるから良い。そんな少年だった。

「彼より年下の烏月君が、明良様を目標に必死に努力して強くなって、己を抜き去り三強
になっていくのも喜びつつ、余り意に介せず、焦り出す事もなく、自分の上位に受け容
れ」

「今とは随分違う感じですね」「ああ……」

 今見ている昌綱さんは抜き身の刃の様で。

 闘志や敵意に満ちて。柚明お姉ちゃんだけじゃなく、大人衆や東条さんにも剥き出しで。

「一年半前なんだ。昌綱が変ったのは……」

 東条さんが言い淀んだのは、戦いの状況が変化した為だと想いたい。ずっと攻めて攻め
て攻め続けていた昌綱さんが、突如その攻め手を止めて、2人は間合を置いて再び対峙し。

「なるほど、烏月さんの言う通りだ。あんたは今にも攻め落せそうでいて、絶対落ちない。
お世辞にも強く見えないのに決して崩れない。あんたが戦う時は回避できない時だから、
受けた以上徹底して戦うと。確かにその通り」

 双方共に呼吸は荒い。でも互いの姿勢に隙はなく。昌綱さんは右手の木刀を柚明お姉ち
ゃんに突きつけ、お姉ちゃんは右側面を昌綱さんに向け木刀は右手で下ろした侭の構えで。

「なら、俺の想いを受けて貰おうか。千羽昌綱が羽藤白花に向ける想いを、千羽の羽藤へ
向ける想いに乗せて、必殺の業と共に…!」

 烏月さんが心持ち硬い表情を見せたのは。
 昌綱さんの想いの原点が一年半前だから。

「俺は烏月さんを好いていた。いつからかは憶えてない。明良様や東条さんに直に剣を教
えて貰う事が実は特待生で、才能や血筋に恵まれた者の特典だと知った頃かも知れない」

 明良様の後ろをついて歩いていた女の子が、いつの間にか竹刀や木刀を手にして、俺の
横で一緒に剣を習い始めて。彼女は明良様を心から尊敬し、早く強くなりたい、早く明良
様と共に活躍したいと、心躍らせて修行に励み。そんな彼女が中学生で八傑になって俺と
並び、高校に入って俺を抜き、為景さんと楓さんに次ぐ三強になったのは当然で俺も喜ん
でいた。

「俺もその内、強くなれば良いと想っていた。明良様がいる限り千羽党は心配ない。必死
にならなくても、じき烏月さんにも追いつける。実際東条さんにも追いついた。上にはも
う数人しかいなかった。道は開けて見えていた」

 それが……一年半前。そう、一年半前だ。
 昌綱さんの声は、わたしにも向いている。

「あんたの従弟が、明良様にこの千羽館で匿われていた、切られた筈の羽藤白花が、鬼の
小僧が、何もかもをぶち壊してくれたっ!」

 奴は匿ってくれた明良様の恩も忘れ、世話してくれた琴音や鈴音達に仇で報い、雅さん
の弟の景則さんを初め、何人もの生命を奪い。

 握り拳が震えていた。怒りが滾っていた。

『大人衆の雅さんが羽藤に厳しかったのは』

 ノゾミちゃんを受容したわたしを祓おうとしたのも。鬼に弟さんを奪われた恨みの故か。
千羽党が特に羽藤に厳しい事情が肌で分った。事は、鈴音ちゃんや琴音ちゃんだけでもな
い。仲良く等したくないと、拒みたい気持が分る。

「秀康さんを再起不能にし、谷原さんにも大ケガを負わせ、挙げ句の果てに町へ逃れて一
般市民を殺傷した。結果全てが若杉に知られる事となり、明良様は鬼切り役を解任されて、
千羽党に羽藤白花と明良様の討伐令が下され。
 羽藤白花は俺が討ちたかった。仲間の仇だけじゃない。烏月さんを、俺のたいせつな烏
月さんを哀しませた奴を俺は許せなかった」

 鬼切り役としての最初の仕事が明良様の討伐で、明良様が庇っていた羽藤白花の討伐で。
敬愛していた明良様が、どうしてそんな事を為したのか、千羽の大多数も分らずに混乱し。
目の前には深手を負わされた秀康さんや谷原さんや、生命奪われた景則さん達の骸があり。

 取り縋って泣き叫ぶ家族、心の痛みに耐える親族や仲間。なぜこんな事にと問うても応
える明良様も居ない。烏月さんはそれを見て、唯全てを被って前に進む他ないと剣を取っ
た。妹の彼女が責任を取らないと、千羽の強者として事を収拾しないと、背負わないと。
己の内に秘めた明良様への敬愛も全部閉じこめて。

「明良様を討つ為に。羽藤白花を討つ為に」

 烏月さんは右横で黙して聞いている……。

「俺と東条さんは見たんだ。両親にも祖父祖母にも若杉にも、絶対動揺を見せられない烏
月さんが、たった1人になった時『どうして、兄さん』と呟く様を。泣いてはいなかった
けど、その孤独と心の痛みが切なくて。だが」

「大人衆は誰にもその討伐を許さなかった」

 東条さんが補足してくれる。確かに、白花お兄ちゃんを経観塚迄追ってきたのは、烏月
さん1人だった。前の鬼切り役の明良さんを、お兄さんを切ったのも、烏月さんだと聞い
た。

「技量が、届かないと。奴は尋常ではなく強いと。並の八傑が及ばない程に強いと。事実
秀康さんも谷原さんも景則さんも返り討ちに遭っていた。技量の及ばない者が何人行って
も犠牲者が増えるだけだと。俺は初めて己の無力を心底悔いた。即強くありたく願った」

 楓さんが明良様との深い関りから、千羽で謹慎となり。三強の1人は不測の事態に備え
て千羽館に残らねばならず。烏月さんは自ら申し出て、明良様と羽藤白花を討ちに行った。

「いつかじゃダメなんだ! 今じゃなきゃ」

 今強くて役に立てないと、意味がないっ。

「優しいだけじゃ、賢いだけじゃ、礼儀正しく見守るだけじゃ、ダメなんだ。強くなきゃ、
強引に貫かなきゃ、打ち破らなきゃ救えない。俺はもう、烏月さんが哀しみに1人耐える
様を見て、手も出せない無力は嫌なんだっ!」

 激しい叫びに観衆も大人衆も静まり返る。

「初めて必死という事を知った。初めて死に物狂いという事を知った。初めて己の全てを
剣の修行に注ぎ込んだ。そして今の俺がある。
 羽藤白花を討つ為に、俺は三強になった」

 俺は楓さんも為景さんも必ず越える。烏月さんも凌いで、千羽の最強になる。俺が千羽
の鬼切り役になり、当主に就く。両方とも烏月さんから奪って、彼女を宿命から解き放つ。
烏月さんが何をどう抗っても覆せない程強くなり、奪って強引にがっちり抱えて守るんだ。
大人衆の言う通り、力で全て押し通してやる。

「強くなきゃ彼女を守れない。その意志を踏み躙って奪い取らないと彼女を解き放てない。
強引でも戦ってでも奪い取ってでも、俺が戦いも痛みも哀しみも全部引き受ける。俺は他
の者の気持は考えない。周囲のみんなの気持ち迄考えて優しくは出来ないし、する積りも
ない。俺が想う相手は烏月さん唯1人だ…」

 哀しくも強くまっすぐな人。不器用すぎて切ない程に烏月さんを好いた人。この人をこ
うさせたのが、鬼に憑かれた白花ちゃんなら。

 その源は拾年前のわたし、羽藤桂にある。

「経観塚の夏の事は聞いたよ。烏月さんにも誰にも届かぬ処に行ってしまった、羽藤白花。
彼が悪い訳ではなく、全ては彼に憑いた鬼の為した事だとね。だが例えそう言われても」

 奥歯を噛む音が、ここ迄聞えた気がした。

「烏月さんを哀しませたのは事実だ。仲間を害した事も事実だ。俺の憤りも千羽の憤りも、
理屈では収まらぬ。羽藤が千羽の想いを受けるというなら、あんたが俺の想いを受けると
いうなら、羽藤白花に代って受けて貰おう」

 俺が千羽の三強と認められた、この業を。

「今日を俺の始りの日にする。羽藤白花には叩き付ける事叶わなかったが、代りに受けて
散って貰おう、羽藤柚明。千羽の、千羽昌綱の憤怒を、絶望を、憎悪を、受けてみろ!」

「……けい?」「こ、怖くないよ。怖くは」

 ノゾミちゃんにはそう応えたけど、多分お見通しなのだろう。声音や表情や仕草で全部。

 怖かった。逃げ出したい程に怖かった。昌綱さんの怒り以上に、その哀しみが怖かった。
千羽の人達の心の痛みが怖かった。その源のわたしが今ここにいる事が怖ろしく。でも…。

 それに向き合っているのはわたしじゃない。敵意と憎悪を受け止めているのは、罪の正
視を強いられたのは、何の咎もない柚明お姉ちゃんだった。本来わたしが受けるべき想い
を。わたしのたいせつな人が、わたしの所為でわたしの為に、わたしの罪の報いを、咎も
ない柔肌に受けようとしている。それを前に見て。

 わたしはここを逃げ出せない。最低限ここで見守らねば。お姉ちゃんと一緒に羽藤の責
務をしっかり果たす。ここを逃げ出す様では、お姉ちゃんに顔を合わせられない。例えお
姉ちゃんに許されても、己が己を許せなくなる。

「大丈夫だ。私が一緒にいるよ……桂さん」

 烏月さんは、わたしの立場を全部分って。
 千羽の仲間を前にしたその立場も分って。

「私が桂さんを支える。一緒に、見守ろう」

 はい。烏月さん迄気遣わせてはいけない。

 わたしは精一杯気力を保ち、目の前の情景を焼き付けようと、烏月さんと一緒に視線を。

 昌綱さんは正面から右手の木刀を突きつけ。
 お姉ちゃんは右側面を見せて静かに動かず。
 双方共に相手の出方と戦機を慎重に窺って。

 観衆も大人衆も他の八傑も、三強も烏月さんも声もなく。わたしも緊迫の静けさに胸を
潰されそう。さっきは動く芸術品だったけど、美男美女の対峙は構図も整って美しく。で
も空気は全て濃密に闘志が詰まった液体の様で。

 静から動への移行は、前触れもなく突如、

「これで決める! つあああぁぁぁぁぁ!」

 昌綱さんが、柚明お姉ちゃんに突進して。
 右から左に物凄い早さで木刀を振り抜く。

 お姉ちゃんがさっき迄の様に、木刀が起こす風に煽られた様に、右斜め後ろに退き躱す。
腹を切られた様に見えるけど、大丈夫な筈だ。昌綱さんは振り抜けた木刀を今度は左から
右に振り払う。右側面の構えからは死角だけど、お姉ちゃんはそれも左斜め後ろに退き躱
して。

 昌綱さんの必殺技って? さっき迄の猛攻より、確かに更に早く気合は乗っているけど。

「未だ業は見せてないわ……これは前段よ」

「実戦では連続した動きの中で使う業も多い。昌綱さんも柚明さん相手では、単発では外
される怖れがあると見たのだろう。一連の攻めの中から機を窺い、突如発動させる積り
で」

 ぬん! 凄まじい早さの振り下ろしが迫る。
 柚明お姉ちゃんは髪が散る程の間合で躱し。

 滑らかな額が割られたかと思えたその瞬間。
 烏月さんとノゾミちゃんと東条さんの声が。

「来る……!」「ええ……」「昌綱っ…!」

 昌綱さんの稲妻の振り下ろしを、右側面の姿勢で僅かに後ろにずれて躱すお姉ちゃんに。
昌綱さんの勝負を賭けた神速の突きが迫った。

「えっ……?」『今、木刀がぶれて見えた』

 いや、木刀が同時に二本見えた様な気が。

 勝負はその瞬間に決していた。瞬きの後にわたしに見えた図は、すれ違った2人が互い
に背を向けた、もう決着の後の図で。ノゾミちゃんの感応を通じ、瞼の裏でも見ていた為、
後追いで漸く事は把握できたけど、この目には2人の攻防の神髄はとても追い切れなくて。

「決まった」「そうね」「決まったのか?」

 すれ違った侭で2人は暫く身動きしない。
 全てを出し尽くした様に身も心も固まり。
 見守る道場の誰もが、少しの間声も出ず。

 昌綱さんの必殺技は神速の二段突きだった。

 とてつもない早さの突きを2つほぼ同時に繰り出す事で、一つ目を躱せても躱せた方向
に追って突き出す。読みを極め初動を早めて、一撃目を何とか躱せても、躱した後に迫る
二撃目の神速は躱せない筈だ。昌綱さんの木刀がぶれて二本に見えたのは、残像だった…
…。

 でも、お姉ちゃんはその二撃目迄も躱した。

 ノゾミちゃんの感応で、ノゾミちゃんの目が追えた、神速を越える動きをわたしも視る。

 稲妻の振り下ろしを退き躱した柚明お姉ちゃんの右側面やや背後、死角気味な処を狙い、
昌綱さんの神速の一撃目が迫る。お姉ちゃんはその突きがその早さでそこに来ると、分っ
ているかの如く、退く動きを止めて前に躱し。

 それもとてつもない動きだけど。読みというより未来予知に近いけど。なぜそうできる
と言う領域の神懸りだけど、オハシラ様にはそう言う力があるのかな。或いは贄の血の?

 昌綱さんはその回避を待っていた。それは一撃目を回避させて、二撃目で貫き通す業だ。
背中を木刀が掠めて回避できた瞬間、回避できた筈の木刀が、神速で右脇腹に突き刺さる。
それは躱せる筈ない決着の一撃だった。でも。

 柚明お姉ちゃんは、後ろに退き二撃目の突きも躱し。分ってないと出来ない動きだった。
そう来ると想定しても尚、躱しきるのが至難な体勢で、状況で、お姉ちゃんは神速を躱し。
業を外され硬直した昌綱さんの左を走り抜け。右腕に持った木刀がその左脇腹を捉えて薙
ぎ。回避が神速なら反撃は神速さえも越えていた。

 観衆は殆ど、何がどうなったか分ってない。

 大人衆も他の八傑にも見えてなかった様で。すぐ左の東条さんにも見えなかった程なの
だ。観衆も息を呑んで両者を見守った侭声も出ず。烏月さんと三強の2人は見えていた様
だけど。ノゾミちゃんが真顔で身を震わせる気持が分った。柚明お姉ちゃんは信じられな
い程強い。

 先に動きを見せたのは、柚明お姉ちゃんだ。
 硬直を解いてゆらりと立って、振り向いて、

「その業は、わたしも見た事があります…」

 実際に、この身に何度か受けた事も……。

 お姉ちゃんの服の前後、鳩尾と心臓の背後が真横にすぱっと切れていた。木刀が掠めた
のか、真空が刃となったのか。当たっていたらと想像すると、わたしが身震いさせられた。

「でも、叔母さん、桂ちゃんのお母さんの突きは三段で、もっと早かった。早くてバネの
ある、力と想いの乗った良い攻撃だったけど。後少しでしたね」「ぐっ……が、はぁ
っ!」

 硬直で耐えていた昌綱さんが崩れ落ちたのはその時で。周囲からざわめきが巻き起こる。

 それでも尚立て直そうと、戦意を失わず戦う限り勝利の芽はあると、崩れた身体を無理
矢理立たせようと、足掻く昌綱さんに向けて、

「わたしの答も返しましょう。羽藤の千羽への答だけではなく、羽藤白花に代っての羽藤
柚明の答も、千羽昌綱へのわたしの答も…」

 白花ちゃんはわたしより更に強い。あなたは強いけど、強くなったけど、白花ちゃんに
は及ばない。届かない。敵わない。今は未だ。

「あなたは未だ強くなれる。更に強くなれる。彼を上回る事も可能かも知れない。明良さ
んの教えを心の奥に抱いて失わないあなたなら。優しく強い人を守れる鬼切りにきっとな
れる。たいせつな人を守れる強さを手に入れられる。烏月さんを凌ぐ事さえ出来るかも。
でも…」

 お姉ちゃんの声は尚柔らかに静かに続き、

「烏月さんは簡単には奪えない。彼女が尋常ではなく強い以上に、わたしが簡単には奪わ
せない。千羽烏月は、羽藤桂と羽藤柚明のたいせつな人。強く凛々しく愛しい人。例え彼
女を一番に想い、恋し愛し守りたく望んでも、桂ちゃんもわたしも、気易く譲る積りもな
ければ退く積りもない。わたしの可愛い妹を」

 お姉ちゃん、何気に凄い事言っています?
 誰も声挟めない静謐の中、良く透る声は、

「烏月さんを欲しければ、まず彼女が示した条件を満たして。わたしを5分以内で倒しな
さい。それが叶わない限り、あなたが烏月さんを恋人に出来る時は巡り来ないと思って」

「あ……」「確かに」「それは」「なんと」

 それは他家の者を交えた公式の場で、千羽の当主が明言した確かな約束だ。大人衆も八
傑も観衆も唖然とする中で、柚明お姉ちゃんは崩れて起き上がれない昌綱さんに歩み寄り。

 尚立って戦いを望む激しい表情を、屈み込んで間近に正視し視線を合わせ。今にも掴み
掛りそうな猛獣を前にして。満身創痍でものし掛かれば、たおやかな身を押し倒せそうな
のに。怖れも敵意もなく、両の肩を軽く抑え、

「あなたはまだまだ強くなれる。わたしより遙かな先迄行き着ける。あなたの想いを受け
止めるのは、今日限りの話しじゃない。羽藤白花に代ってわたしが、あなたに敵わなくな
る迄受け止めます。今回あなたは良く戦った。鬼切部千羽党の強さを、見せつけて貰え
た」

 大人衆と明良さんの双方の教えを合わせた、千羽昌綱の本当の想いと技量の全てを確か
に。

 意識を繋ごうと必死な彼の身を両腕で包み。
 左頬に左頬を合わせ癒しの力を心にも注ぎ。

「今はもう、お休みなさい」
「ぬあぁっ……くそぉっ!」

 両肩を支える繊手を一度弾き飛ばし、逆にその細い両肩を両手で握り締め。その侭お姉
ちゃんを押し倒すと思えた時。昌綱さんは諦めた様に、その胸の内で力を抜いて気を失い。

 背後で楓さんが静かに闘志を燃やしていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 楓さんの指示で、ヒラの鬼切り男性2人が昌綱さんに歩み寄る。すぐ意識を取り戻した
昌綱さんは、2人に両肩を支えられ、紅葉さんの手配で癒し部の治癒を受けに、場を外す。

 歩み去る中で、彼は一度だけ振り返って、

「良いだろう、羽藤柚明……確かに憶えた。
 何、乗り越える強敵が1人増えただけだ」

 苦々しい表情に、なぜか笑みは爽やかで。
 景勝さんの宣告は誰の目にも不要だった。

「三強を、倒すとは」「昌綱を、破るかよ」

 三上さんと谷原さんが、それ以上の言葉を失っていた。秀輝君は喉から息が出ていない。
大人衆も沈黙した侭声がなく、ヒラの鬼切りを含む観衆も反応の仕方が分らずに静まって。

 彼の退場で漸くざわめきが蘇る。大人衆が急遽首を付き合わせ打合せを始め。昌綱さん
の敗北より、不遜な姿勢が問題だったらしい。すぐ楓さんとの対戦が始ると、わたしも想
っていたのだけど、拍子抜け。待たされる中で、柚明お姉ちゃんはわたしに笑みを向けた
けど。

 わたしは微笑み返さず、頬膨らませて睨み返す。勿論嫌っている訳じゃない。唯次の対
戦も控えた今は、反省し肝に銘じて貰わねば。わたしは間近の美しい人の首筋を見つめつ
つ、

「昌綱さん、最後お姉ちゃんに掴み掛って」

 筋肉質な男の人だし、体重もある。千羽の強者なら木刀を落しても戦う術はあるだろう。
柚明お姉ちゃんは優し過ぎるから。抱き留めに行ったけど、想いを交えに屈み込んだけど。

「けいは、あの侭身を掴まれて、寝技に持ち込まれたら危うかったと、言うのかしら?」

 うん……。わたしはノゾミちゃんに頷き、

「昌綱さんが卑怯な人や勝ちに拘る人じゃなくて、助かったのかなって。お姉ちゃんは華
奢で細身な女の子だし。幾ら動きの速さや剣術で上回っても、組み打ちになったら体重と
体力勝負になるよ。無警戒に抱き留めに行って。昌綱さんの最後の表情凄かったから…」

 最後に柚明お姉ちゃんの両肩を掴んでから、諦めた感じで力を抜いて、気を失って。も
し昌綱さんが負けを認めず、勝ちを諦めず押し倒していたらと思うと。あの太い手足と重
い身体で抑え付けられたら、どうなっていたか。

 千羽の多くの人達が見る中で密着した男女2人、どんな絵図が展開されていたか。思い
浮べるだけで冷や汗が止まらない。お姉ちゃんは確かに強いけど。危ういよ。不用意だよ。

 それには同感と左隣の東条さんが頷いて。

「確かに、実戦では僅かな判断の誤りが勝敗を決する事もある。甘さや情けが優劣どころ
か一度決まった筈の勝敗を逆転させる事もね。
 柚明君は未だ若いというか、実戦経験が足りないのだろう。修行を幾ら重ねても、本当
に命懸けで鬼と戦ってない者には分り難い感覚だよ。生と死の、勝ちと負けの見切りは」

 優しさ甘さは実戦では致命的な害も招く。

 あの様な反撃の芽も残さないのが、真の鬼切部の戦いだ。柚明君は鬼切部ではないから、
そこ迄は求められないが、確かに不用意だね。あそこは止めを刺すか、相手が完全に戦闘
不能、又は戦意喪失したかを確かめるべき処だ。

「昌綱が珍しくあそこで諦めてくれて、幸いだった。あの日以降の昌綱は、劣勢でも気絶
せぬ限り戦い続ける、凄まじい勝利への執着、粘り強さを持っていてね。あの侭寝技にで
も持ち込まれたら、柚明君の方が危うかった」

 うんうん頷きながら、昌綱さんが紳士で良かったとほっとしつつ烏月さんを見つめると、

「……鬼切り役。八傑でもこの程度なの?」

 ノゾミちゃんが、肩を竦める印象を伝えてくる。わたしと東条さんの会話に呆れた様で、

「本当に六席の男とゆめいの攻防を、最後迄見て悟れたのは、三強の残り2人と鬼切り役、
貴女しかいないという事かしら?」「え?」

 どういう事? 東条さんとわたしのお話し、見る処どこか間違えていた? ノゾミちゃ
んに話しを振られた烏月さんに、答を求めて視線を向けると。麗しい人は微かに苦笑いし
て、

「桂さん、東条さん。昌綱さんは、紳士だから柚明さんに掴み掛るのを止めた訳じゃない。
柚明さんは優しいだけで、不用意に昌綱さんに歩み寄り、屈み込み抱き留めた訳じゃない。
 彼女は見切っていたんだ。昌綱さんが既に反撃の力もない事を。あの一撃で彼の余力を
根こそぎ奪ったと分っていたから、柚明さんは敗北が決まった昌綱さんに想いを届かせる
為に、歩み寄り屈み込んで抱き留めたんだ」

 え? わたしの声には東条さんの驚きも重なっていた。あれは実は危うくなかったの?

「昌綱さんもそれは分っていた。唯、三強の誇りだね。千代の様に唯抱き留められて終る
のは、自身に許せなかったのだろう。限界を超えた意地で、動ける筈のない身を無理に動
かし、敢て一度その抱擁を振り解いて、掴み掛り押し倒す姿勢を見せてから、力尽きた」

 柚明お姉ちゃん、全然危うくなかったの?

「ええ。確かにゆめいの甘さ優しさはけいの知る通りだけど、同時にあの女はやる事為す
事が用意周到の塊なの。けいに不用意なんて言われる様な危うい橋を、渡る訳がないわ」

 わわ。ノゾミちゃん、今何気に酷い事を。

「本当の鬼の戦いを経てないのは、一体どっちなのかしら? ゆめいは千年を経た鬼であ
る私やミカゲや、主様の分霊を打ち倒したの。槐の中で拾年間、鬼神その物を抑え続けた
の。
 人の相場でゆめいを測ると、月や星が掌より小さいと思いこむ類の錯誤を犯すわよ…」

 ノゾミちゃんは本気で不快を見せていた。

 柚明お姉ちゃんを測り損ねる事は、お姉ちゃんと戦いを繰り広げた自身や、ミカゲちゃ
んや、主を測り損ねる事に繋ると。見損なって貰っては困ると。それは自分やお姉ちゃん
への侮辱に繋ると。言葉に詰まる東条さんに、

「柚明さんは、昌綱さんの気性も三強の意地も推察できたのかも知れない。どちらにせよ、
掴み掛る迄が彼の限界だった。彼女がそれを昌綱さんに許したのは」「武士の情け…?」

 烏月さんは、わたしの問に端麗に頷いて、

「武士の情けというのはね、桂さん。形勢が決した後で、敗者の想いや強さに敬意を抱い
た場合に、大勢に影響しない範囲で、敗者の意地や名誉を多少通す事を認める、勝者の側
の儀礼なんだ。反撃の余地がある者や、余地があるか否か分らぬ者に、武士の情けは与え
ない。戦いの最中に敵に情けを与える事は」

「宋襄の仁、だったっけ? 漢文で習った」

 敵軍に情けを掛け、攻め掛る好機を見逃し、体勢を立て直したその敵軍に撃破された王
様のお話し。情けを掛けてはいけない時と場と相手を、見分けられない愚かしさへの戒め
だ。

「そう。柚明さんは愚かな程には甘くない」

 烏月さんはわたしを涼やかな瞳で見つめ、

「桂さんにだけは愚かを越えて甘いけどね」
「あ、はは、……それは否定できないかも」

 微かに羨ましさを感じたのは、気のせい?
 烏月さんもお兄さんを思い出したのかも。

「あっ、拙い!」「桂さん?」「けい…?」

 大人衆の打合せが終った様で、景勝さんが次の試合開始を告げに出てきて、周囲のざわ
めきも鎮まり始めてきた頃に。わたしは漸く、

「柚明お姉ちゃんの動きを誤解して、根拠のない反省求めて、睨む視線送った侭だった」

 慌ててお姉ちゃんに視線を向け直すけど。
 景勝さんと、歩み出た楓さんを前にして。
 お姉ちゃんにこっちを向く猶予はなくて。

 どうしよう、わたし。次の強敵を前にしたお姉ちゃんの心に、懸念材料を残しちゃった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 道場は未だざわめきが収まっていないけど。
 向き合う美人2人には既に緊張感が漂って。

「長らく……お待たせしました、楓さん…」

 柚明お姉ちゃんが柔らかにお辞儀すると。
 狩衣姿の端麗な女性剣士は真顔の視線で、

「貴女とは一度会ってみたいと思っていた」

 烏月様からも栞からも話しは聞いていたし。
 ついさっきには紅葉からも経緯を聞いたわ。

「こんな形で逢えるとは予想外だったけど」

 睨むより窺う感じでお姉ちゃんを見据え。
 華やかに力強い、戦う女神って感じです。

「防具は……付けないのね。五席の女も…」

 あ、そうだ。気付いた声を上げるわたしとノゾミちゃんに応えてくれたのは東条さんで、

「柚明君が防具なしなのだ。千羽の剣士が防具を付けるのは沽券に関る。と言う以上に」

 鬼切部も正規な武装は道着か狩衣姿なんだ。防具に身を固めるのは、修行で味方を痛め
ない為でね。鬼は基本的に闇や影に潜む少数の強者だ。身軽じゃないと追い切れないんだ
よ。

「……強いんだよね? 昌綱さんよりも尚」

 当たり前の事を訊いてしまう。柚明お姉ちゃんに余計な懸念材料を与えた後ろめたさで、
何かせずにはいられなくて。例えその強さを聞き出せても、今から教えるのは無理なのに。

「先代鬼切り役の明良様の本気に、まともに応戦できたのは、為景さんと楓さん、それに
三強に上がった後の烏月君だけだった。あの日以前の昌綱も、次席の三上さんも参席の谷
原さんも、僕もとてもついて行けなくてね」

 三強の条件を敢て言うなら、鬼切り役の本気に太刀打ちできる者、と言う事になるかな。

「昌綱は最近三強に列されたけど、烏月君が鬼切り役になる前の三強に入る前から、楓さ
んは為景さんと2人、八傑の二強だった…」

 口で言うより、見て貰う方が早いだろうね。昌綱を倒した柚明君程の力量の持ち主が相
手なら、楓さんの真価も遠慮なく発揮されるよ。

『ううっ、柚明お姉ちゃんが強いから千羽の猛者も、本気で掛ってくるという訳ですか』

 元より楽勝できる甘い立ち合いじゃないとは承知だけど。千羽は羽藤を、柚明お姉ちゃ
んを叩き潰す積りだから、遠慮も加減もないのだろうけど。せめて他の八傑が相手なら…。

 だってどう見ても勝てそうに思えないもの。
 相手が女性の楓さんでも背が高く腕も長く。

 夏の経観塚でもわたしを守って戦いづくしだったけど、目の前で昌綱さんも倒したけど。
それを見ても尚お姉ちゃんに強さは感じない。柔らかく静かで穏やかで。対峙する姿は凛
々しいけど、心身に無理を重ね、己を奮い立たせている様に見えてしまうのは、思いこ
み?

『どうか、柚明お姉ちゃんに酷いケガがない侭に、全てが早く終ります様に』「けい…」

「楓さまぁ」「昌綱さんと千代ちゃんの仇」
「真の三強を見せてっ!」「楓さん、頼む」

 女の子の黄色い声が優勢だけど、男性の声援も混じる。背丈は烏月さんより少し高い位。
引き締まって筋肉質な身体だけど、女性の豊かさも目に留まる。整った容貌を締めた今は
凛々しいけど、微笑んだら華やかになりそう。胸は烏月さんと同じ位だと思う。お姉ちゃ
んもわたしも、ここでは勝ち目がなさそうです。

 木刀を左手に持って。楓さんは左利きか。
 お姉ちゃんは今回も、右側面を前に構え。

 あれ? 昌綱さんの時も感じたこの違和感。楓さんが左利きなら、死角の関係からも木
刀は左手で持つべきで、楓さんに向き合うのは左側面じゃないのかな? 否、それ以前に
…。

 事の進展はわたしの当惑等構ってくれず。
 楓さんは正面からお姉ちゃんに語りかけ、

「貴女は真弓様の教えを受けたそうですね」

 鬼切りの業は習わなくても、真弓様に鍛えられる事で、彼女の戦いを知ったならそれは。

「明良様が生涯目指し続けた先々代の流儀」

『力が全て、勝てば許す』と説く大人衆の流儀と異なる、明良様を通じて教わった千羽党
のもう一つの在り方。真の鬼切部の在り方を。

 楓さんは柚明お姉ちゃんの答を待たずに、

「先々代は千羽では、明良様にしか直接剣を教えなかった。拾代前半で鬼切り役に就いて、
鬼切りに奔走し、お役目の返上は二拾歳過ぎ。人に教える暇がなかったというのが、実情
でしょうけど。未だ長く千羽に留まれば、他にも直接教えを受ける者は出たのでしょうけ
ど。
 貴女だけなのですよ。先々代、真弓様の教えを直接受け、今生きてこの世にいるのは」

 わたしも烏月様も昌綱も、東条さん達他の八傑も、直接真弓様から教えは受けていない。
明良様を通じて感じ取れただけ。それでも…。

「私は、明良様の流儀を最も深く受け継いだ者の1人だと、自負しています。つまり貴女
が教わった先々代の流儀を、保っていると」

 貴女と立ち合う事で、それを確かめたい。

「貴女を打ち倒す事で、先々代の流儀、明良様が目指し続けた真弓様の流儀はこの千羽に、
私達に残っているのだと。私達が伝えるこの剣が唯一の本物なのだと。明良様の進んだ途
は過ちではなかったのだと証しを立てたい」

 どよめきは観衆よりもむしろ大人衆の方で。
 ヒラの鬼切りを含む観衆も驚いていたけど。

 烏月さんのお兄さんとは言え、鬼切り役を解任されて、その烏月さんに討たれた先代を、
過ちではなかったと公言する事が、どれ程大変な事か。明晰な楓さんに分らない筈はない。

 否、彼女はむしろこの時を待っていたのか。
 千羽の全員の前で勝って証しを立てようと。

 他の家の者もいる公式の場で表明しようと。
 楓さんは良く透る声をむしろ高い段に向け、

「昌綱は心の奥に烏月様を守りたく慕う想いを秘めつつ、その為の力を欲して敢て大人衆
の流儀を受け容れ、唯強さを目指して三強に迄なった。でも、貴女はその極限を引き出し
た上で、彼を打ち破った。彼の哀しみを受け、彼の痛みを感じ、彼の願いを共有した上で
尚、彼の極限を打ち破って、魂迄抱き留めた…」

 大人衆が推す千羽の在り方は、昌綱と共に羽藤柚明に破られた。勝ったのは羽藤柚明で
あると同時に、本来の千羽の流儀。彼女が真弓様から受け継いだ、明良様の目指す在り方。

 烏月さんの握ってくれる右の手が、緊張に震えていた。今少しは烏月さんもわたしに何
を応えるより、楓さんの言葉を一言一句聞き逃すまいと心を傾け。前のめりに視線を注ぎ。

「その羽藤柚明を破るのは、大人衆が語る千羽の在り方ではなく、明良様の教えを受けた
この私、千羽楓。真弓様の教えは明良様にこそ受け継がれて我らに来たと、ここで彼女を
打ち破って証明する。羽藤柚明は所詮剣士ではない。真弓様の流儀を継ぐには力不足…」

 大人衆の流儀は昌綱さんと共に敗れ去った。だからこれからの戦いは、どっちが本物の
お母さんの流儀か決する戦いだと。最早大人衆は戦場にすら立ってないと楓さんは言い切
り。

「勝つのは明良様の教えを受けた千羽楓だ。
 同門同流の対決は勝った方が本物で最強」

 昌綱さんの語調も苛烈だったけど、楓さんのそれは更に輪を掛けて苛烈で。ここ迄の強
さを持つ人達なら、その肝っ玉も太くて当然だろうけど。千羽の大人衆って、千羽の剣士
達にも余り良い印象を、抱かれてないのかな。

「ふふふっ……」「烏月、さん?」「……」

 烏月さんが、戦闘的な微笑みを見せたのに、ノゾミちゃんが身を竦ませる様を伝えてき
た。間近な鬼切り役の闘志に、反射的に身構えてしまう様で。普段は強気なノゾミちゃん
も今日は鬼切部の本拠の故か、時々弱気が窺える。

 烏月さんは楓さんの大人衆への通告を喜んでいた。昌綱さんの時はそれを冷静さの下に
隠していたけど、今回はそれを隠す気もなく。烏月さんも、大人衆に抱く鬱積があったの
か。

「いや、失礼。実に楓さんらしい。昌綱さんが実質は脅しでも、未だ一応形だけは大人衆
に承認を求める姿勢なのに対し、楓さんは大人衆の承認さえ欲してない。見て悟れと…」

 最近の若者には覇気がないだの、反骨精神がないだの、自分達で抑え付けておきながら、
それを忘れて常々大人衆は愚痴っていたから。存分に覇気と反骨を見られて幸いだと思う
よ。

「自分達に返されるのは想定外だろうけど」

「鬼切部の内幕も、色々あるものなのね…」

「何を語っても結局剣の勝負でしか決められない。剣の勝負で勝った方の意見が通るのが、
千羽党に共通の気質ではあるのだけどね…」

「やっぱり体育会系だね。千羽のお家って」

 艶やかで華奢な烏月さんだけを見ているとそう思えなかったけど、こうして多くの千羽
の人と会う内に、その印象が濃くなってくる。ならばこそ、剣で想いを交わし合うという
柚明お姉ちゃんの立ち合い受諾は、正解だった。

 気迫で圧倒された大人衆からは返る言葉もなく、観衆や八傑からも反駁の声はあがらず。
烏月さんも為景さんも、敢て言葉を挟まない。

「大人衆の許し等求めぬ。見ておくが良い。
 大人衆が裏切り否定した明良様の流儀を」

 楓さんは返事は要せず、告げるべき事は告げたという感じで、お姉ちゃんに向き直って、

「始めましょう。千羽党八傑の五席、三強の次席、千羽楓。羽藤に向けて剣で物申す!」

 言い終えた瞬間に突風の様な木刀突きが。
 お姉ちゃんの右肩から首筋を掠めていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「大丈夫、入ってないわ。でも」「ああ…」

 ノゾミちゃんの不安げな声に烏月さんが、

「楓さんは最初から油断の欠片もない。今の一撃にも力と気合が乗っている。全力だよ」

 柚明お姉ちゃんは真後ろに大きく下がっていた。倒れないから、突きは外せた様だけど。

 躱せた筈の柚明お姉ちゃんの右肩の服の布地が、切れていた。楓さんは連続攻撃には出
ずに反応を窺うけど。お姉ちゃんも反撃はせず、様子を窺うけど。でも、昌綱さんの必殺
技と似た効果を、初撃から与えてくるなんて。

「今の動きは六席の男より少し遅いわ。さっきのゆめいなら、服も切らせず躱せた筈よ」

「柚明さんの構えでは右が死角だ。普通の達人相手なら、後れを取る心配もない処だが」

 お姉ちゃんが後退して空いた間合に、楓さんが踏み込んで。最初と同じ位の距離に戻す。
お姉ちゃんは攻めには出ず、後退も左右に回る事もせず。木刀を右手に下げて右半身を見
せた姿勢の侭で、瞳を右に流して戦機を窺い。さっきはそこからの一撃に服を切られたけ
ど。

「あの間合は楓さんの間合だ。柚明さんの間合ではない。柚明さんの木刀は、届くまい」

 もう半歩踏み込もうとすれば、楓さんの迎撃が来る。後退すれば嵩に掛って追撃が来る。
右側は死角だし、左に動いても死角が広がる。攻めや反撃どころか、守りも難しい形勢だ
が。

「一撃振らせた後で、踏み込む積りかしら」
「でも、お姉ちゃんは反撃できなかったよ」

 それどころか、服切られて。躱し切れてもいない。敢てしなかったのかも知れないけど。

「問題は、柚明さんが真後ろに退いて間合を取った事だ。昌綱さんとの立ち合いでも、柚
明さんは殆ど真後ろには後退してなかった」

 思い返せば、確かに。頷き返すわたしに、

「昌綱さんの攻撃の伸びを見切れたと言う以上に、真後ろに退くと後の行動範囲が狭まる
んだ。今の後退で、柚明さんの背後に壁が近づいたのが、桂さんにも見えて分ると思う」

「真後ろへの後退は相手との間合を保てる一番有効な手段だけど、同時に後ろの余白を使
い切り、自らを追い込む諸刃の剣でもある」

 東条さんが脇から解説してくれる。そうか。柚明お姉ちゃんが、右か左に斜め後退して
いたのは、後ろの余白を使い切らず、尚左右に回り込んで中央に戻る余地を残す為だった
と。

「その通り。追い詰めようと、相手も端に寄って来るからね。巧く回り込めれば、今度は
逆に相手を端に追い込める。端は行動の範囲が限られるから、追い詰めた側に有利だ…」

 だから、柚明お姉ちゃんの背後への後退は、不利を分って尚、そうせざるを得なく追い
込まれたのかもと語る東条さんに、烏月さんも、

「柚明さんは死角とはいえ、楓さんの突きを躱しに真後ろに後退して、尚躱しきれず服を
切られた。間合を掴めないとかなり厳しい」

 ううっ……柚明お姉ちゃん、大丈夫かな。

「楓さんのもっと大きな隙を、もっと踏み込んだ攻撃を待っているのかも知れない。昌綱
の時の様に。だが、楓さんはそう巧くは…」

 美人同士の間に緊迫した沈黙が暫く続いて。
 柚明お姉ちゃんに動きがない事を見定めて。
 楓さんが動き出した。左手の木刀が振られ。

「疾い……」「死角からっ」「お姉ちゃん」

 柚明お姉ちゃんは右からの木刀の横薙ぎを、左斜め後ろに退き躱すけど。それでも回避
はギリギリだった。更にお姉ちゃんに落ち着く暇も与えず、楓さんの踏み込んだ攻撃が続
き。

 右から左、上から下、鋭い突きも含めて。

 あらゆる方向から、柚明お姉ちゃんの回避した処に、先回りする様に木刀が迫り。お姉
ちゃんは、目先の一撃一撃を躱すのに手一杯なのか、反撃も出来ず間合を離す事も出来ず。

 昌綱さんの時とも違う、鋭さ以上に広がりを持った連続攻撃が、柚明お姉ちゃんの動き
を思いの侭に寄せて、囲い込む。何というか、お姉ちゃんの避ける向きが操られている様
な。

「ゆめいが相手の動きに対応しづらいみたい。
 早さは六席の男よりやや劣って見えるけど。
 充分に対応できておかしくないのに妙ね」

 ノゾミちゃんの言う通りだった。柚明お姉ちゃんは、楓さんの攻めを躱せてはいるけど、
目に見えて危うく。急に調子が落ちたみたい。リーチの差では楓さんが優位だけど、それ
はさっき対戦した昌綱さんの方が、尚上だった。

 物理的な要因でなければ、精神的な要因?
 わたしが胸に手を当てて思い当たる事は。

「もしかしてさっきのわたしの応対、心に引っ掛っているかな。油断大敵を戒める積りで、
微笑みかけてくれたのに、頬膨らませて睨み返しちゃった。お姉ちゃんは全然油断じゃな
かったのに、わたしの勝手な思いこみで…」

 全力の戦いに臨む人に余計な懸念を与えたかも知れない。特に柚明お姉ちゃんはわたし
を常に気に掛けてくれるから。役に立とうとしてわたし、最悪の迷惑掛けてしまったかも。

 その心配がお姉ちゃんに、注意散漫や心の迷いを招き、敗北を呼ぶ事にでもなったなら。
楓さんのあの凄い木刀の一撃を、滑らかな柔肌に叩き付けられる原因にでも、なったなら。
大好きな綺麗なその顔を痛みに歪ませちゃう。

「……けい?」「どうしよう、わたし……」

 今から声を響かせても、却ってお姉ちゃんの注意を引っ張って、致命的失敗を招きそう。
失陥を取り返す術が見つからない。こうしている間もお姉ちゃんは、一方的に攻められて、
見るからに危うくなっているのに。誤解してごめんなさいって声も掛けられず。情けない。

 俯くわたしに、間近の麗しい人は平静に、

「……大丈夫だよ、桂さん」「烏月さん…」

 救いを求め瞳を潤ませ、見上げてしまう。
 そんなわたしに艶やかな黒髪の長い人は、

「柚明さんの勝敗は桂さんの所為じゃない。
 それは全て、柚明さんと楓さんの所為だ」

 柚明さんは、桂さんに睨まれた位で落ち込み悩む人じゃない。桂さんが怒っているなら、
なぜ怒っているか直に訊いて、誤解なら解き、己に非があれば謝って償う人だ。己の内に
抱え込んで判断や行動に支障を来す人じゃない。真剣勝負にそんな障りを持ち込む人でも
ない。

「桂さんがなぜ睨み付けたかは分らなくても、本気で嫌ってない事も通じているよ。柚明
さんの為を想っての行いだって、言う事もね」

 表面で幾ら波が立っても、深い処で確かに繋っている。先々週の土曜日の様に。必要な
ら誤解を受ける事も厭わない。敗者の汚名も救援される弱者も受容して。尚その判断と行
動に惑いはなく。彼女の全ては桂さんの為で、不可欠な行いだから躊躇もない。睨まれた
り怒られたりした位で揺れ動く浅い絆ではないと私は思っていたけど、桂さんはどうだ
い?

 確かに。わたしは言葉を噛みしめつつも、

「わたしがお姉ちゃんを大事に想っている事は、お姉ちゃんも分っているとは想うけど」

「なら、大丈夫。私と桂さんの絆が固く確かな以上に、柚明さんと桂さんの仲は強靱だ」

 うわ。烏月さん今、何気に凄い事言った?
 その意味に気付いたわたしの答より早く、

「けいの真意は表情を見れば一目瞭然だもの。ゆめいは気にもしてないわ。今回はけいの
所為では何も起きてない。と言うより顔を見なくても声音で真意が見え見えなけいが、ゆ
めいの心を揺らすなんて、夢物語も良い処よ」

 ううっノゾミちゃん今、何気に酷い事を。

「柚明さんが桂さんの所為で敗れる事はあり得ない。桂さんのお陰で勝つ事はあってもね。
 だからもし柚明さんがこれから楓さんに敗れるなら、その原因は確実に柚明さんと楓さ
んのどちらかにあり、どちらかにしかない」

 今は2人の立ち合いをしっかり見守ろう。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 目の前では楓さんの一方的な攻勢が続いていた。柚明お姉ちゃんは昌綱さんの時の様に、
応戦もせず受け止めもせず、ひたすら躱し続け。昌綱さんにもそうして最後に勝てたけど、
千羽の三強に同じ手が何度も通じると思えないし。それ以上にさっきと危うさの質が違う。


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