縺れた絆、結い直し(甲)
わたし達のアパートにお迎えが着いたのは、朝8時だった。四拾歳過ぎの白髪混じりな
渋い男性は筋肉質な体に藍色の着流しで、笑顔に瞳を細め。もう1人は痩身で、黒いスー
ツ姿にきりっと凛々しい弐拾歳代半ばの女性で。
「お早うございます、柚明さん」「お早うございます。本日は宜しくお願いします……」
パフスリーブの薄い青のワンピースを着て、ちょうちょの髪飾りも付け終えた柚明お姉
ちゃんが玄関で応対している。その声を聞きながら、わたしも夏の経観塚で着ていたあの
服を着て、ノゾミちゃんが宿る青珠を手に握り。
ノゾミちゃんの反応がやや鈍いのは、今から行く処との相性の悪さで仕方がないのかも。
「お早うございます……桂さん」
「おはようございます。栞さん」
千羽栞さんは、今月からわたし達と同じアパートに部屋を借りて、住み着いている千羽
党の女性だ。わたし達を見守る為に先日の一件以来、烏月さんの指示で詰めてくれている。
身長百六拾八センチは、わたしより柚明お姉ちゃんよりかなり高い。引き締まった肉体
は細身だけど、胸はわたしよりずっと大きく。仕草も言葉もストイックと言うか無駄がな
い。
飾り気のない黒一色のスーツを上下身に纏うけど、豊かな体型は隠しきれず。容姿も性
格の故かきりっと整って。セミロングの黒髪を後ろで無造作に束ねるだけで、ファッショ
ンやお化粧に殆ど気を遣わない簡素な出で立ちなのに綺麗。有り余る美しさを磨く術を知
らず、使い方を分らず、持て余している感じ。
凛々しい栞さんとたおやかな柚明お姉ちゃんが並ぶと『美男美女』好一対に見えてしま
う。訳もなく、ちょっと嫉妬してしまいます。
「羽藤桂さんですかな? ……初めまして」
千羽為景と申します。年配男性のご挨拶に、物思いは一旦棚に上げ、お姉ちゃんと共に
向き合う。栞さんより拾センチ位高い背は、成人男性の標準かな。常に絶やさず笑みを浮
べ。
「本日は、お二方の案内役と護衛を兼ねて同行する事になりました。どうぞ、よしなに」
右手を伸ばし握手を求めてくる。節くれ立った太い手は鬼切部のキャリアを示すのかも。
お姉ちゃんは一度両手を膝の前に合わせて頭を下げてから、その手を両手で柔らかに包み、
「お早うございます。宜しくお願いします」
手を握った一瞬、笑みが止まった気がした。顔は常に笑顔だけど、何かに気付いた感じ
で、瞳が見開かれた様な。お姉ちゃんの肌触りの心地よさに驚いたのかな。お花の甘い香
りも匂うし。下っ端でも千羽党の拾六人を、この細腕で1人で退けたなんて、未だに信じ
難い。
お姉ちゃんも為景さんも、終始にこやかで。
わたしの手を握った時は、別段驚きもなく。
「羽藤桂です。よろしくお願いしますっ…」
身体の大きな男性や姿形の厳つい人をやや苦手とするわたしだけど。脅かす姿勢もなく
柔和に応対してくれるから、怖さも感じない。
近くに黒塗りの乗用車が一台駐めてあった。烏月さんからは高速道を1時間半、一般道
を1時間強で、三時間弱と聞いたけど。栞さんの運転で、為景さんは助手席で、後部の奥
にわたし、助手席の背後にお姉ちゃんが乗って。
秋晴れが爽やかな休日の朝、わたし達は烏月さんに逢う為に、町のアパートを出立した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
鬼切部千羽党の鬼切り役と当主を兼ねる烏月さんは忙しく、学校も申し訳位しか行って
ないらしいけど。諸々の事情でわたしはこの半月で2度も逢えて、今日逢えたら3度目だ。
前の前の土曜日に、久々に休みが取れたからと訪れてくれた時は、大変な展開になった。
わたしが月一の『あれ』で具合悪かった上に、柚明お姉ちゃんが折角来てくれた烏月さん
に、
『桂ちゃんは烏月さんを好いているわ。烏月さんに欲情を抱いている。烏月さんを奪うか、
烏月さんに奪われたいと想っている。その烏月さんと逢える今朝が、そして逢えた今が最
も症状重いのは、今目にして分るでしょう』
『桂ちゃんを想うなら、烏月さん。この家から出て下さい。……あなたが桂ちゃんの月経
を重くして、苦しめている。あなたは間近の禍も感じ取れず、迫る嵐も気付けない。今の
あなたに桂ちゃんは守れない。
……この家から出て下さい。早急に』
大暴言言っちゃって。烏月さんはそれでも冷静だったけど、わたしの方が居たたまれず、
『ひどいよ。柚明お姉ちゃん……幾らお姉ちゃんでも、言って良い事と悪い事があるよ』
『あれだけ言わないでって、お願いしたのに。烏月さんにだけはって、お願いしたのに…
…。例え本当の事でも、言って良い事と悪い事がある位、お姉ちゃん分っているでしょ
う!』
『そんな事言う人だと、想ってなかったよ』
『柚明お姉ちゃん、だいっきらい!』
体調悪いのも忘れ外に飛び出して。暫く走った後、道路脇に座り込んだわたしを、烏月
さんが近くの公園のベンチで膝枕してくれて。膝の上でわたしがお詫びとお礼を述べた後
に、
『桂さん……私と一緒に、暮らさないかい』
烏月さんは真顔でわたしに問うてくれた。
『桂さんが今の家を引き払って、千羽の私の館に来て、一緒に住んでは貰えないかなと』
一世一代の、真剣勝負の様な気迫だった。
『桂さんを迎えたい。桂さんの日々をこの手で守りたい。桂さんの人生全てをこの私が引
き受けたい。もう絶対危ない目にも逢わせないし、怖れも不安も感じさせはしないから』
贄の血の定めも何もかも私が引き受ける。
『桂さんが今いる家は、羽様の屋敷と違って先祖代々住み続けた家でもない、仮の住処だ。
お母さんの守りがなくなった今、絶対安全と言い難い。桂さんも贄の血を持つと知った訳
だし、千羽も若杉も行く末を心配している』
私が桂さんを、千羽にエスコートするよ。
『わたしが、烏月さんのお家に。良いの?』
『桂さんさえそれを望んでくれるなら……。
それが千羽烏月の、心からの幸せで喜び。
私が桂さんを守る。鬼からも、人からも。
桂さん。あなたが、私のたいせつな人だ』
膝の上のわたしをまっすぐ見下ろす瞳に、
『千羽の家はお母さんの実家……。お母さんは駆け落ちの様に飛び出して、今迄ずっと関
りを持たなかった……。今更の様にわたしがのこのこ顔を出して、迎えて貰えるかな?』
勘当された様な物なんでしょう、お母さん。
拾数年の隔りにわたしは不安を抱いたけど。
『千羽の当主は鬼切り役である私だよ。最終決断は私の物だ。一応、千羽で当主の判断を
代行してくれている大人衆にも、話してみた。反対はなかったよ。快くと迄は行かなかっ
たけどね。【今度逢う事があれば、話してみると良い】と。若杉の承諾を貰えれば良い
と』
『桂さんのお母さんは、それなりに考えあって千羽と関りを持たなかったのかも知れない。
でも桂さんがそれを受け継ぐ理由は特にない。桂さんがお母さんと2人だった頃と今では
状況は全然違う。大事なのはこれからなんだ』
桂さんのお母さんが勘当状態でも、千羽が桂さんにそれを受け継がせる理由も特にない。
桂さんは桂さんとして千羽の家に来れば良い。私もしっかり寄り添って仲を確かに繋ぐか
ら。
鬼切部には受け容れ難い、ノゾミちゃんやサクヤさんとの関りも今迄通りで良いからと、
真摯に寛容に応えてくれて。烏月さんが心底たいせつに想ってくれていると肌身に分って。
でもその最中に、わたしのアパートが若杉の命令を受けた鬼切部の人達に襲われていた。
お姉ちゃんはわたしに危険が及ばない様に、体調の悪いわたしを怒らせ家を外す様に事
を導いた。あの暴言は真意ではなく、わたしをたいせつに想う故の偽りだった。ノゾミち
ゃんの報せで、わたし達はアパートに駆け戻り。
戻った部屋では、狩衣姿の男女多数が倒れていた。更に防護服の人が数人倒れて。もう
数人の防護服が、お姉ちゃんの両腕を後ろに捻って捉まえた処だった。鬼切部を退けた後、
ガス攻撃にやられたらしく、酷く咳き込んで。
防護服の人達を全員打ち倒した直後、起き上がった狩衣姿の人達に、烏月さんは驚いて。
『金時……なぜ?』『烏月様、こんな処で』
起き上がった狩衣姿の男女は、烏月さんを前に戦意を失い。彼らは全員が千羽党だった。
『まさか、秀郷氏を介して大人衆が受けた今日の金時達の使命とは、桂さん達の確保?』
さようで。背の低い中年の男性が頷いて、
『贄の血の民2人を、生命奪わず確保する事。それが今回千羽党が受けた命にございま
す』
濃い贄の血が町中に無造作にある事は危険だと。鬼の前に金棒をちらつかせる行いだと。
烏月さんからは、わたし達の扱いについて若杉では『抹殺』『保護(幽閉)』の結論が
未決だと聞いたけど。若杉の中堅幹部が功績欲しさに『どっちでも良いから先に贄の民を
確保せよ』と独走した様で。烏月さんも知らない内に、千羽党の大人がその命令を受け…。
防護服の人達は、千羽党の失敗に備えて用意した若杉の面々だった。日中はちょうちょ
も飛ばせず、贄の力も触れないと流し込めない柚明お姉ちゃんと、素人のわたしと、昼は
現身を取れないノゾミちゃん。この3人を捉えるのに、千羽党の失敗迄考え備えるとはか
なりの用意周到だけど、お姉ちゃんはその上を行っていた。烏月さんは来たのはこの為で。
苦しい息の中、お姉ちゃんは葛ちゃんに電話を掛けると、家の電話やわたしの携帯や鬼
切部や若杉の人達の通信機が一斉に動き出し、葛ちゃんの音声を流し始め。葛ちゃん、そ
んな機能をいつの間にみんなの携帯や通信機に。
『若杉及び鬼切部千羽党の皆さん、葛です。
まず第一に、羽藤桂さんの家の周囲1キロ以内で為される鬼切部への指示は、千羽烏月
への物を除き全て鬼切りの頭の未承認事項です。直ちにその遂行の無条件中断を命じます。
次に、羽藤桂さん、羽藤柚明さん及びノゾミさんに、若杉を代表しこの度の不始末をお
詫びします。鬼切部の本意ではない一部の暴発が、皆様を危うくし損害を与えた事に、心
から謝罪申し上げると共に、実損回復と慰謝の措置と、今後皆様の平穏な生活を乱さない
事を、鬼切りの頭として確約させて頂きます。
内部統制の乱れは、全て若杉当主であるわたしの力量不足であり責任です。今後この様
な不手際は起こしませんのでどうかお許しを。以降鬼切部の羽藤家への対応は、千羽烏月
に全権を委ねます。その指示に従いなさい…』
桂おねーさん柚明おねーさん、無事ですか。
柚明お姉ちゃんは贄の力で監視や盗撮盗聴の動きを把握していた。この襲撃も先に察し、
葛ちゃんに烏月さんの助けを求めた。全て承知の葛ちゃんは、烏月さんに土曜日午前拾時
から参拾時間、わたし達を守る使命を与えて。
襲撃は、無期限に中断されて終った。小柄で頭の少し薄い年配の金時さんを初めとする
千羽の人も、他の人も葛ちゃんの指示に従い。散らかった部屋の整理や掃除を為し、割れ
た窓ガラスや汚れた絨毯が急遽張り替えられて。
夕刻前に大方の修復は終え、烏月さんが金時さん達を帰らせ。ノゾミちゃんも顕れ4人
になった羽藤家で、全部の脈絡を話して貰い。
『昨日迄にこの部屋に仕掛けられた盗聴盗撮の機械は4百個余り。若杉の少なくとも8つ
の系統が各々別個に、桂ちゃんとわたしの動静を窺っていました。千羽もその一つです』
『わ……』『まさか!』「ゆめい……』
わたし、全く気付けてなかったよっ。
『背景は理解できましたから。鬼を呼び鬼に力を与える濃い贄の血が、町中に無防備にあ
る。わたしは少し前迄オハシラ様で、人に戻れた今も安定したか不確かです。世の平穏を
保つ為に、若杉は現状を把握する必要がある。葛ちゃんも、それは黙認したのだと想いま
す。
千羽が烏月さんに内緒でわたし達の監視を始めたのは、烏月さんの変化を見ての事でし
ょう。経観塚から帰った烏月さんは傍目にも、それ迄より確実に強く美しく柔らかになり
ました。その要因が気にならない訳がない…』
悪意ではなかったと思っています。なので、わたしも桂ちゃんの心を乱す様な事は言わ
ず、黙って見られる侭聞かれる侭に知らぬふりを。わたし達が日々の平穏を心から願い、
それを保つ技量と意思を確かに示せば、若杉や千羽が手を下す必要はなくなる。そう判断
できる材料を与える為に、敢て監視されていました。
ノゾミちゃんは機材を室内各所に付けられたと知っても、何を意味するか分らないから。
機械に意思はないから感応の力でも分らない。わたしは関知の力で設置された時点に遡っ
て、設置者が誰かや指示の系統迄を確かめたけど。
『今回の襲撃に千羽党が使われたのは、烏月さんの反発を見越してでしょう。烏月さんに
秘密でわたし達を監視していた事を明かすと、脅されたのかも知れません。千羽党を巻き
込んで事を為せば、烏月さんも若杉幹部に抗議しづらい。了承の上でしょうと。千羽の当
主として烏月さんは知らなかったと言い難い』
『何て事だ……。千羽の、大人衆が……桂さん、柚明さん、ノゾミにも。申し訳ない…』
『あっ、烏月さん。さっきのお話』『……』
そこでわたしが烏月さんからの誘いを想い出すと、烏月さんは端正な容貌に苦い笑みで、
『そんな話、出来る筈がない。千羽の当主だの最終決定だのと。鬼切りの実働以外、当主
の責務を大人衆に委ね、その動きも判断も懸案も把めず、この事態を防げなかった私に』
私から申し上げる話は、何もありません。
『桂さんにお話しした事も、忘れて貰いたい。
葛様は若杉の膨大な組織人員の統率に身体と時間が足りない現状を自覚しておられたが、
私は身内千羽党の統率がしっかり出来てない己を自覚もできていなかった。恥ずかしい』
端正な顔に苦味を滲ませつつ今後に向けた意志も覗かせ。そう言う訳でわたしは今後も、
『えっと、わたしここに……ノゾミちゃんと柚明お姉ちゃんと一緒に、お母さんの想い出
のあるここに居続けても、良いんだよね?』
烏月さんの寛容で力強い誘いは嬉しかったけど。真剣な求めはこの心を揺さぶったけど。
確かにこの一室は羽様の屋敷と違って仮の住処だけど、わたしにはお母さんと拾年を過
ごした処だった。夏に記憶を取り戻す迄の間、羽藤桂の日々はここに発しここに終ってい
た。想い出が詰まっていた。帰るべき場所だった。その想いを言葉に出す迄もなく分って
くれて、
『桂ちゃんがそれを望む限り、いつ迄も…』
応えてくれたのはやはり柚明お姉ちゃんで。
『良かった。良かったよぉ、ノゾミちゃん』
『私には、何が何だか分らないのだけど?』
『良いの。分らなくても良い。わたしもきちんと説明できないけど、とても嬉しいから』
『桂ちゃんはノゾミちゃんが大好きなのね』
たいせつな人がみんな、笑みを浮べて見守ってくれる。それがこの上もなく嬉しくて…。
一連のお話しが終った後で、柚明お姉ちゃんは烏月さんのお家へのお礼参りを申し出て。
『後日、今日のお礼に千羽の館を訪れても宜しいですか? 出来れば桂ちゃんも一緒に』
叔母さんはそれなりに考えがあって、千羽と関りを断ったのでしょう。でも桂ちゃんが
それを受け継ぐ必要はないと想うの。夏から今迄で桂ちゃんを巡る状況は変りました。烏
月さんと桂ちゃんも深い絆で結ばれましたし、わたしも烏月さんに何度も助けて頂きまし
た。
千羽は叔母さんの実家で、桂ちゃんの血縁。桂ちゃんさえ嫌でなければ、正式にご挨拶
して、お付き合いさせて頂く方が良いと想うの。
『そうだね……わたし、お母さんの方の親戚とか従姉妹とか、全然知らなかったものね』
その申し出を嫌う理由はわたしもなくて、
『藤太君や金時さんにも又会えたらいいな』
その次は修学旅行で、京都でまたまた助けて貰ったりして。葛ちゃんや、なぜかサクヤ
さんや柚明お姉ちゃん迄勢揃いしての鬼退治になっちゃったけど。そのお話しは割愛して。
本日は何度も助けて頂けたお礼を兼ね、烏月さんとは仲良しです、今後も宜しくお願い
しますと、千羽へご挨拶とご報告に一泊です。もしかしたらお母さんの近親者に会えるか
も。
「高速道が渋滞して、中々前に進めません。
この侭では到着は2時間程遅れそうです」
助手席の為景さんが携帯でお話ししている。烏月さんも近くで話を聞いている様だ。紅
葉の季節で、休日はお出かけが増え高速道も混み合う見込みと、昨日ニュースで言ってい
た。
「申し訳ありません。……できるだけ早く着く様に、努力します。はい、安全第一です」
為景さんは電話を切った後、後ろのわたし達を振り向いて『申し訳ない』と頭を下げる。
「いえ、お気になさらずに。安全第一です」
助手席後ろのお姉ちゃんは、柔らかに為景さんの謝罪を受けて。わたしも早く逢いたい
気持はあったけど、逢えない訳ではないから。
運転席の栞さんが端正な顔は前を向いた侭、
「為景さん。一つ提案があります」「ん?」
実はその提案は、後で知った話しでは偶然でなかった。渋滞は前日から予期されていた。
考えてみれば回避の術はなかった訳じゃない。
「もうすぐ次のインターチェンジです。一般道に降りて、私が知っている裏道を抜ければ、
千羽の館にかなり早く着く事はできますが」
最初から、烏月さん以外の千羽党はそうする予定でいた。渋滞に入って、遅れますと千
羽の館に事実報告をして、烏月さんを別の処に誘い出し、外させて、不在の数時間を作り。
わたしはこの時、栞さん達が善意で渋滞回避に努力してくれていると、想っていたけど。
便利な裏道があるなら、予測出来た渋滞などに嵌らず最初から裏道を行けば良かったのだ。
「私があのアパートに来る時に、その道を使う事もあります。道筋は、憶えています…」
為景さんは頷いて、わたし達を振り返り、
「栞が裏道を知っている様なので、一般道に降りてそこを走り抜けたいと想います。巧く
行けば、ほぼ時間通り着くかも知れません」
為景さんは、千羽の館にその旨は連絡しなかった。初めて行く道なので何時頃着くか分
らない。遅く着くならともかく早く着いても問題はなかろうと。聞いた時は確かにわたし
も頷いたけど、後でノゾミちゃんに突っ込まれた。為景さんはともかく、栞さんは道を分
っているのだからその見通しは付いた筈だと。
「宜しくお願いします」「お気遣いなく…」
ノゾミちゃんは何かを考え込む印象を伝えてきたけど。自然な善意を装う千羽の2人に、
僅かな糸口を悟って問わず柔らかく応対し続けた柚明お姉ちゃんは、結構凄い人なのかも。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「初めまして、千羽栞と申します」
襲撃の日の翌々日夕刻に、栞さん達はわたし達のアパートを訪ねてくれた。烏月さんか
ら携帯で連絡は貰っていた。烏月さんは千羽や若杉との打合せが忙しく、来る事は叶わず。
『桂さん達の守りに千羽党を数名、同じアパートの空き室に入居させる事にしたよ。ご近
所さんという事になるね。桂さんに不安を与えない様に、全員千羽の女性で固めたから』
ノゾミちゃんともお話しできる様にと夕刻を選んで訪れたのは、いずれも初対面の人で、
「千羽茜と言います。宜しくお願いします」
大学生か社会人成り立ての若い女性だった。
ぽっちゃりした体型で、胸も腰も大きくて。
赤い縮れ髪が鮮やかで印象は華やかだけど。
千羽の家の人だけに礼儀正しく少し堅めで。
百六拾四センチの背丈は、4人中2番目だ。
「千羽友加里です。宜しく」
友加里さんは見た感じ茜さんとほぼ同じ歳。
ショートの黒髪が、飾り気もなく艶やかで。
細身で胸も腰も控えめで姿勢もより控え目。
と言うよりも初対面のぎこちなさが表れて。
身長百六拾二センチは未だわたしより高い。
「千羽小町です。桂さん、柚明さんって呼んで良いですか? わたしも小町って呼んで」
小町さんは今年大学に入った唯一の未成年。
百六拾センチの背丈はお姉ちゃんと同じだ。
わたしよりは未だ2センチ程高いのだけど。
濃いブラウンの、セミロングの髪が艶やか。
スレンダーな体型で一番喋りが元気な人だ。
千羽が4人と羽藤が2人なので、姓で呼んでも誰を呼んだか分らないと、名前で呼び合
う様になったのは自然の流れか。千羽では殆ど全員千羽なので、その方が自然なのだとか。
「常に2人以上ここに詰め、不意の事態に備えます。何かあれば夜中でも構わず呼んで下
さい。私達の主任務は桂さん宅近辺の警戒と監視ですが、勿論お二方の護衛も含みます」
「シャワーの音が聞えていても構わず呼んでね。バスローブ一枚でも、即出て行くから」
小町さんが脇から口を挟むのに茜さんが、
「まあ、桂さんはともかく、柚明さんが助けを呼ばねばならない状況では、この中で本当
に頼れそうなのは栞さん位でしょうけどね」
「栞さんは……、この中で、一番強いの?」
「この中でまともに鬼を切れるのは彼女ね」
ノゾミちゃんがわたしの左上の虚空に浮いて顕れお話しすると、千羽の女性陣は霊体の
鬼の実体化を目の前にして、やや緊張気味で。
「栞さんは千羽党の正規の鬼切りですから」
友加里さんがぼそと呟くのに小町さんが、
「あたし達は兵卒なの。雑兵とも言うけど」
鬼切り役やそれに近い者や、少し落ちて格下の鬼に立ち向かう者の更に下の、時代劇で
言えば『であえであえ』で現れるその他大勢。捜索や偵察や追い込み等人海戦術に使われ
る。
「この前の金時さん達もそうなの。だから」
「その拾六人を1人で退けた柚明さんには」
少なくとも兵卒のあたし達は、助けにならない。茜さんの表情は、やや複雑だったけど。
「今後は、どうぞ宜しくお願いします。
桂ちゃんもノゾミちゃんもわたしも」
柚明お姉ちゃんは、やや値踏みする感じの視線もある千羽の女性陣に柔らかに頭を下げ、
穏やかに居間のテーブルへとみんなを案内し。
来る時刻は報されていたので、早く打ち解けて仲良くなりたいと、お姉ちゃんは栞さん
達4人のお夕飯も、わたしと一緒に用意して、ノゾミちゃんも含め7人のお夕食を愉しん
で。
「羽藤家に残す録音機は5個、撮影機は8個に限ります。残すのは安否確認の為です…」
決して邪な目的に使いません。私生活の侵害も最小限になる様努めます。ここに詰める
者から男性を外したのも、やむを得ず又は誤って、それらを見聞きした場合に備えてです。
最初にその話しをしておかなければならないと、栞さんは若杉や千羽党の人が家中に張
り巡らされた盗撮盗聴の機械を撤去する上で、少しは残さねばならない事情も話してくれ
た。
他の誰かがわたしや柚明お姉ちゃんの動静を盗聴盗撮する事にも、備えねばならないと。
実際に夏休みが終って間もなくの頃、家に上がり込んだ報道記者が、盗聴器を何個か置い
ていった様で。お姉ちゃんは、それも報道記者に想いを届ける為に逆用したらしいけど…。
唯、若杉の盗撮盗聴はその数も設置箇所も尋常ではなく、四六時中わたし達の私生活を
余さず把握する構えだったから。流石にそれは拙いからと、大多数を撤去する事になって。
「既に電源は切られていると聞いております。明日若杉系列の者が入って、撤去する手筈
ではありますが、幾つかご覧になりますか?」
「あたし達も全部は把握できている訳じゃないんだけど、数が物凄い様だから、怪しそう
な処を当たればお宝ざっくざくって感じよ」
お姉ちゃんが洗い物をする間、栞さんや小町さんに、自分の家の中を導いて貰うと何と、
「わ、こんな処に迄」「ひゃ、ここにも…」
これじゃわたしの私生活全て筒抜けだよ。
その、わたしやお姉ちゃんの入浴シーンや、だらしない寝相やおトイレや、陽子ちゃん
とのおふざけや、ノゾミちゃんとの吸血の様や、お姉ちゃんとの添い寝迄が、全部筒抜け
に…。
柚明お姉ちゃんはあの襲撃の後、わたしに額を床に擦りつけて謝ってくれた。他に方法
がなかったとはいえ、わたしのプライバシーを晒して垂れ流した事に、心底申し訳ないと。
わたしをたいせつに想ってくれるお姉ちゃんが、そうせざるを得なかった訳は分るから。
わたしはそこ迄謝らなくてもと、許したけど。その真剣さは、謝られるわたしの胸が詰ま
らされ、涙が滲む位で。決して涙は見せないけど、零れそうな迄に思い詰めた瞳が切なく
て。
その時迄おくびにも出さなかったけど、お姉ちゃん本当に辛かったんだ。自身の私生活
が明かされる事にではなく、わたしの私生活が晒される事に、心を痛めて。そして幾ら辛
くても、秘さねばならない時には、そんなそぶりさえ見せないのも、本当にお姉ちゃんで。
「これはほんの一例です。私達も残らず把握している訳ではありません。必要最小限の設
置箇所については、桂さん柚明さんノゾミさんの了承を得る様に言い付かっております」
録った音声や画像もいつでも査察可能です。部屋の鍵はお二方にお渡ししますので、そ
れ以外のお話しや相談で来て頂いても結構です。烏月様は忙しいので、千羽党へのご相談
やご要望窓口も私達と考えて頂く方が宜しいかと。
「そうですね。宜しくお願い致します……」
洗い物を終えてきたお姉ちゃんと、天井近くに浮いているノゾミちゃんを前に茜さんが、
「今迄撮られた画像と音声も、若杉の命を受けて回収作業中です。非合法に得た情報は原
本を提出し複製は全て廃棄、その後に見つかった場合は若杉流に責任を取らせると警告し、
更に千羽及び若杉に密告受付も設置しました。金銭や地位欲しさの密告を怖れる各系統か
ら、続々と廃棄済み報告と原本が届いています」
「廃棄は確実にするけどさ、その前に確かめても良いよ。廃棄に立ち合って貰っても良い。
桂さん達のプライバシーは守るけど、目的は確かに廃棄され守られたという安心感だし」
「鬼切部にしては良い事を言うじゃないの」
「はは、鬼に褒められちゃったよ、栞さん」
「桂さん達の家族なの。鬼でもきちんと向き合って言葉を返しなさい、小町。今後は毎日
付き合うのだから」「はあぁい。ノゾミさん、お褒め頂いて有り難う。今日からよろし
く」
そう言う訳で、今迄より少し賑やかな日常が再び始った訳だけど。千羽の女性はみんな、
栞さん達の様な美人揃いなのかな。千羽の人の集う場に行くわたしはかなり見劣りしそう。
物思いに耽っている間に車は進んでいて、
「桂さん柚明さん、千羽館に到着しました」
栞さんの声でわたしは現に引き戻された。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
車は武家屋敷っぽい門の前に停まっていた。ここからは歩く様だ。降りて左右を眺める
と、ずっと竹林が続いていた。館の前面は収穫を終えた水田が広がって。遠くに点在する
民家はご近所さんか、又はあれも千羽の関係者か。
千羽館へようこそ。栞さんは為景さんと共に車を降り、わたし達に改めて一礼してから、
「私は車を収納して後から参上致しますので、為景さんの案内に従って奥へ進んで下さ
い」
「はい」「ご丁寧に、有り難うございます」
栞さんはそれを告げる為に車を降りた様だ。礼儀正しすぎるけど栞さんの凛々しさはそ
の方が映える。烏月さんにも通じる千羽党の清々しさか。わたしもお姉ちゃんもお礼を述
べ、為景さんの先導に従い奉行所の様な門を潜る。
「邸内は広いので、暫く歩いて頂きます…」
門を開けてくれた若い男性2人に見守られ、低木や藪も生えた広い庭を進む。2人の緊
張した面持ちは柚明お姉ちゃんの美しさに驚いた為かも。わたしの自慢のお姉ちゃんだか
ら。
道は細く曲がりくねって、前後の見通しが利かない。戦国時代のお城は、石垣や塀で各
所に曲がり角を作って敵の侵入の勢いを弱め、見通しを悪くして分断して攻撃すると聞い
た。
脇道もあるけど、本線と支線は太さが違うので、迷う心配はなさそう。千羽邸には家屋
や倉庫も多くあると、烏月さんは言っていた。
「桂ちゃん、疲れた?」「うん、ちょっと」
拾五分は歩いたかも知れない。一休みが欲しいかなと言う想いを察した様に、柚明お姉
ちゃんはわたしの腰の後ろに右手で軽く触れ、
「あ……あは、有り難う、お姉ちゃん……」
贄の血の力を、癒しにして注いでくれて。
細い指の滑らかさと暖かみが、心地良い。
腰の後ろはお尻に近いから、撫でられるのは人目があると少し恥ずかしいけど、為景さ
んは前を歩いているし、他に誰の視線もない。事実少し疲れていたから有り難かった。関
節の軋みや筋肉の硬さが解けて柔らかさが戻る。
何度も癒して貰っているけど、この素肌の滑らかさと、しっとりした暖かさ柔らかさは
拒めない。それに間近にいると感じるお花の甘い香りも。いつ迄も浸って満たされたくて。
「もう良いかしら?」「んっ、もう少し…」
「癒しの力、ですかな? 贄の血の技の…」
前を向いた為景さんが語りかけてきた時は、かなり驚いた。剣の達人は、見なくても気
配で相手の所在や動きを悟る様だけど。不意に見抜かれ話しかけられると、声音は穏やか
でも心臓を掴まれた様な錯覚で、動揺を隠せず。
「はい。わたしは幼い頃から祖母について修練を受けていましたから。桂ちゃんの方が血
は濃いのですけど、最近迄自身の血筋を知らなかった為に、修練もなく使えないので…」
何も返せないわたしに代り、柚明お姉ちゃんが答を返す。従姉妹にしても近しすぎる触
れ合いを、悟られても動揺の欠片もない辺り、お姉ちゃんって実はかなり剛胆なのだろう
か。
「為景さんも如何ですか?」「いや、結構」
遠慮というより素っ気ない謝絶の答だけど。年配なのに全然疲れた様子もない。千羽党
の人達は、日常ここを行き来しているのだろう。鬼切部なら、この位歩いても疲れないの
かも。
敢て振り向かず、歩みのピッチも変えず。
「千羽にも、似た術を持つ者がおりましてな。鬼の呪いを祓い、疲れを癒す賦活の力。現
状千羽の癒し部は近代医学の助力か、その範囲外で少し役に立てる程で。烏月様に聞いた
話では、貴女の持つ力には到底及ばない様だ」
崖から落ちて瀕死の桂殿の、傷を塞ぎ生命を繋ぎ、半日掛けず痕迄消したと聞きました。
維斗に切られた観月の女の瀕死を救って、数日で全治させたとも。貴女は癒しや治しにか
けては本当に、素晴らしい力をお持ちの様だ。
「一度貴女の真価を見せて頂きたい物だな」
穏やかな語調に微かな含みを感じるのは気の所為? 柚明お姉ちゃんは柔らかな笑みで、
「近い将来、お見せできる事もあるかと…」
お姉ちゃんは烏月さんも癒していた。鬼切部は危険に挑む職だ。今後仲良くなればその
傷を治し疲れを癒す事もあろう。お姉ちゃんがわたしに為した様に、栞さんや烏月さんへ
肌身に癒しを注ぐ想像図は、頬を熱するけど。
「え……あ……」
ふと前方を見ると、脇道への分岐の一つに、和服姿の女の子が1人居た。こっちを見つ
めていた。見られていた。お姉ちゃんに腰の後ろ、お尻の近くを撫でられる様を、正面か
ら。
可愛い女の子だった。歳はわたしより一つか二つ下に見える。高校1年生か、中学生か。
わたしに似た明るいブラウンの髪を、セミロングに伸ばして。身長もわたしより少し低い。
胸も腰も小柄で細身で、性格も控えめそう。思い詰めた表情で、こっちを向いていたけ
ど。紺に紅花の模様の和服が鮮やかで綺麗だった。
「鈴音。どうして、こんな処に。まさか?」
「為景さん、ですか? 申し訳ありません」
鈴音と呼ばれた女の子はぺこっと頭を下げ。
千羽党でも気弱で大人しい子もいるみたい。
いや、それはどこでも当然の事だろうけど。
「その、羽藤桂さんと羽藤柚明さんが来ると聞いて、居ても立ってもいられなく、つい」
弱気そうでも、その声音は切なく必死で、
「逢いたかったんです。どうしてもっ…!」
白花さんの妹さんと、従姉の柚明さんに。
「白花ちゃん……お兄ちゃんを、知って?」
瞬間為景さんの背に憤りが視えた。武道の達人でもないわたしは、殺気も闘志も普通視
えないけど。素人目にも分る程だったのかな。
白花お兄ちゃんは、お母さん同様千羽ではタブーなのかも。でも、と言う事は、その娘
で妹であるわたしと柚明お姉ちゃんの来訪は、烏月さんはともかく千羽の人達にとっては
…。
為景さんはわたし達を隔てる様に前に出て。
大きな背中に少女の歩み来る姿が隠される。
視界が塞がれた、隔てられたと思えた瞬間、
「鈴音ちゃん、初めまして。羽藤柚明です」
お姉ちゃんは前に塞がる為景さんを躱し去り、鈴音ちゃんの正面間近で声を掛けていた。
その驚きは、柔らかな声と素早い動きが起こした微風と、甘いお花の香りの故か。表情に
僅かな緊張と怯えと惑いを見せる年下の子に、
「白花ちゃんのお世話をしてくれて有り難う。そして本当に申し訳ありません。償っても
償いきれない罪を、苦しみや哀しみを与え…」
お姉ちゃんは鈴音ちゃんとは初対面の筈だ。
お兄ちゃんか又は烏月さんに何か聞いて?
それとも関知や感応の力で事情を察して?
声音は、嬉しさと切なさと愛しさを兼ね。
わたしを抱き留める時の様に静かに優しく。
「彼があなたとお姉さんに遺した罪は、全てわたしが引き継ぎます。引き継がせて下さい。
そして彼の想いとわたしの想いを、桂ちゃんの想いも合わせて伝えたい。届かせたい…」
小作りなその手を、両手で持ち上げて包み。
息吹が届く程間近で、円らな瞳を覗き込み。
鈴音ちゃんは見つめ返してもやや反応鈍く。
今更わたしだけ隔てるのも無意味と為景さんも動かない。お姉ちゃんの左から、少しの
羨みも兼ねて回り込むと、本当にお姉ちゃんは鈴音ちゃんに唇が触れる程間近で語りかけ。
見ているわたしの頬が朱に染まる位近しく。
お姉ちゃんの身体が微かに青く輝いていた。
日中だから贄の癒しを触れて流し込もうと。
それは傷を癒すだけじゃなく、心を癒したい時、想いを通じ合わせたい時も使っていた。
でもそれは効果を見せる前に妨げられて。
「鈴音、どこに行っていたかと思えばっ…」
鈴音ちゃんの背後で大人の女声が響いた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
鈴音ちゃんの背から伸びた2本の腕がその身を引いて、柚明お姉ちゃんから引き剥がし。
二、三歩後ろに引っ張り、お姉ちゃんから鈴音ちゃんを守り隔てる姿勢を見せたのは、濃
いブラウンのロングヘアな大人の女性だった。
「あなたは自由に出歩いて良い身ではないと、いつになったら……」「済みません、で
も」
引き離されると、基本的に大人しい鈴音ちゃんは、それに抗う姿勢は見せず、素直に謝
るけど。でも、自分の家の庭を歩き回る事が自由でないなんて、鈴音ちゃんって、一体?
「どうしても、逢って声を聞きたくてっ…」
姉様も、行って良いと言って下さったし。
私の代りも兼ねて、行ってらっしゃいと。
『鈴音ちゃん、お姉さんがいるんだ。でも』
お姉さんも鈴音ちゃん同様に不自由なの?
2人はどうして千羽の家の中で不自由を?
「申し訳ありません。お邪魔してしまって」
女性は三拾歳になるかならないか。身長は柚明お姉ちゃんよりも少し高い程度か。紺の
布地に白の花が彩られた和服が清楚に美しい。子供をしつける様な優しさと厳しさを感じ
た。
「羽藤柚明です。以後宜しくお願いします」
「千羽党で癒し部の権の司(ごんのつかさ)を勤めております、千羽紅葉(もみじ)と申
します。彼女の名前は千羽鈴音。姉の千羽琴音と共に、私の下で癒し部に属しております。
この度はご客人の来訪を前に、その進路を妨げる無礼を致して、申し訳ございません」
「権の司って?」「頭の次席の事よ、けい」
ってことは、千羽党の中で看護や呪詛祓いを担う人達なんだ。紅葉さんがその副の長で、
鈴音ちゃんやお姉さんの琴音さんはその配下。戦場の天使、ナイチンゲールって感じか
な?
「紅葉さん、お願い。もう少し柚明さんと」
触れて貰えたのに。声掛けて貰えたのに。
桂さんの息遣いも本当に間近だったのに。
それでも諦めきれぬ様子の鈴音ちゃんに、
「帰りましょう。烏月様のご客人の歩みの邪魔をしてはなりません。それにあなたは…」
「謹慎を解かれたとはいえ、勝手に出歩いて良い身ではないと、承知しているだろうに」
お母さんより近所の大人に叱られる方が逆らい難い事もある。柚明お姉ちゃんには駄々
こねられても、烏月さんには言い出せない我が侭も。身内でも、紅葉さんよりやや関りの
薄い為景さんの窘めには、鈴音ちゃんも抗しきれず。でも為景さん、叱る時も笑顔なの…。
「済みませんでした。紅葉さん、為景さん」
引き返す事を了承し。きっとダメな事を承知で意を決してここ迄来たのだろうに。わた
し達を前にしてそれが叶わないなんて可哀相。何をお話ししたかったのか、何を尋ねたか
ったのか、詳しい事情は分らないけど。でも…。
「柚明さんと桂さんにも、失礼致しました」
帰り掛ける2人を、わたしは呼び止めて。
「あの、紅葉さん。初めまして、羽藤桂です。
長く掛らないなら、鈴音ちゃんの用件を聞いてみたいです。渋滞でかなり遅れる予定が、
裏道を来たお陰で随分早く着けましたし…」
どうして自由に出歩けないのかは、分りませんけど。それが今後も変らないなら、今こ
の時を逃すと、中々お話しも難しそうですし。取っ掛りだけでも掴む方が良いと思うんで
す。
桂ちゃん。柚明お姉ちゃんはやや心配げにわたしに身を添わせるだけで、制止はしない。
間に合わなかった所為なのかも知れないけど。
「鈴音ちゃんはわたしと柚明お姉ちゃんを求めてここ迄来ました。わたし達が白花お兄ち
ゃんの縁者と知って。事情を教えて下さい」
間近の柚明お姉ちゃんは哀しげだった。それは夏の経観塚で何度か見た、真相の告知を
拒んだ様子。わたしを想う故にお姉ちゃんは、わたしが記憶を戻す迄決して真相を明かさ
ず。
お姉ちゃんは事情を知っている。お兄ちゃんの関連ならわたしも知るべきだ。わたしは
記憶を取り戻した。幼い日の過ちもそれ以降も、忘れず背負って生きて行くと心を決めた。
強くなる。守られ気遣われ、いつ迄もたいせつな人に寄り掛っていてはダメ。わたしもた
いせつな人を支えたい。支える側になりたい。
そんなわたしに向けられる事の真相とは、
「なら、言いましょう。どうして鈴音と姉の琴音が、烏月様から一年半前に謹慎処分を受
け、それが解けた今も尚、千羽の庭さえ自由に歩けぬ身であり続けねばならないのかを」
紅葉さんの声音には、堪えきれぬ憤怒が込められていた。わたしが白花お兄ちゃんの名
前を出した瞬間に、努めて平静に客人への儀礼を保っていた美しい女人が、般若になって。
「鈴音と琴音の姉妹は、先代鬼切り役の明良様に命じられ、密かにこの千羽館の一角であ
なたの兄の面倒を見ていたのよ。食料を運び、傷を癒し、紙や鉛筆を持ち寄り。切るべき
鬼、切られた筈の鬼、無辜の人を殺傷し続けた鬼である羽藤白花を、鬼切部千羽党の中枢
で」
『白花ちゃんの面倒を見て頂いて、有り難う。そして本当に申し訳ありません。償っても
償いきれない罪を、苦しみや哀しみを与え…』
柚明お姉ちゃんのさっきの言葉はそれを。
「発覚した後で明良様が鬼切り役を解任され、羽藤白花と共に討伐の対象になった事は、
あなたも知っているわね。烏月様は明良様を切った後、あなたの兄を討ちに経観塚へ行っ
た。
この2人は明良様に心酔し、その指示を受け、羽藤白花を庇う手伝いをした為に、若杉
と千羽党では罪人、裏切り者になったの!」
言葉に物理的な力が宿って、殴りつけられた気がした。白花お兄ちゃんに良くしてくれ
た人、お世話してくれた人。烏月さんのお兄さんに頼まれて為したそれが、罪で裏切り…。
「紅葉さん、もう良いです。わたしはもう」
「いえ、ここ迄口にした以上言わせて貰う」
紅葉さんは、鈴音さんの制止を振り切って。わたしの生半可な決意を打ち砕こうと。わ
たしの中途半端な善意を叩き潰そうと。わたしに想いをぶつける事が、復讐であるかの如
く。
「鈴音と琴音は優秀な癒し部の候補だったの。千羽党は現身の鬼を切る剣術主体の鬼切部
で、癒しや呪詛祓いを為す癒し部への評価は低かったけど、2人は特に優れていて。明良
様は派手な戦いや功績のない縁の下の力持ちも見て下さる方で。だから私も栞も楓も、お
慕い申し上げていた。鈴音も琴音も他の者達も…。
奴はその明良様の心に応えず、我らの仲間を傷つけ殺め、町へ逃れて無辜の者を殺傷し。
滅茶苦茶にされた。千羽党は若杉に失態と背信を問われ、面目を失った。千羽のみんなや
烏月様が激怒した背景、お分り頂けますか」
強い視線はわたしの心を貫く様で、わたしはヘビに睨まれたカエルの様に身動き取れず。
身体ではなくて、魂が、心臓が掴まれていた。
「鈴音の目が見えないのは生れつきではありません。あなたの兄のお陰なのですよ、羽藤
桂さん。あなたの兄が、羽藤白花がここを最後に逃げ出す際に、明良様の制止を振り切り、
千羽の者を殺め、鈴音達を傷つけたのです」
鈴音は両目を貫かれて失明し。琴音は両太腿を断たれて二度と立てなくされ。唯間近に
いただけで。2人は鬼切りでも兵卒でもない。彼を世話した仲なのに。捕縛に動いた訳で
もないのに。あなたの兄の行いこそ鬼の所行ね。
「経観塚から戻って来られた烏月様は、鈴音や琴音達への謹慎を、解除して下さったけど。
もう二度と2人に自由は戻らない。永久に光を失った鈴音も、再び立つ事が叶わぬ琴音も。
千羽の庭さえ自由に歩けぬ身の上になった」
ああ、だから鈴音ちゃん姉妹は不自由だと。
わたしのお兄ちゃんの所為で。いや違う…。
拾年前ノゾミちゃんとミカゲちゃんを良月から解き放ち、主の封じを緩めた末の事なら。
お兄ちゃんに、主の分霊を憑かせたのは…。
全ての禍の起点に、拾年前のわたしがいた。
「医師には診せたわ。でもどんな療法を試しても全く好転しない。鬼の呪いなの。この強
力な呪詛は千羽での癒し部では手が及ばずに。若杉にも診せたけど手の打ちようがない
と」
鈴音さんの顔が、哀しげに歪む様が見えた。
返す言葉が出てこなかった。紡げなかった。
「2人は自由を失った上に、千羽で生きる希望も失わされた。身体が不自由になった2人
は今後、千羽を出る事も叶わず終生日陰者を強いられる。仲間の力になり、人に役立つ事
を喜び望む優しい子だったのに。その優しさにつけ込まれて。あなたの兄の所為でっ!」
それを分ってあなたは鈴音に向き合える?
それを分ってあなたは鈴音に何を言うの?
話を聞いた処であなたに一体何を出来る?
話せば話す程哀しみと苦しみが増すだけ。
傷を抉って心の血を迸らせるだけになる。
怒りの奥に憎しみが、憎しみの奥に哀しみが、哀しみの奥に苦しみが、苦しみの奥に深
甚な愛が見えるから。わたしは答を紡げずに。わたしは、開けてはいけない扉を開いたの
か。
「……、……、ごめんなさい、わたし……」
拾年前の禍は終ってなかった。それは多くの傷や痛みを撒いて、今尚各所に涙や叫びが
満ちていて。わたしとわたしのたいせつな人が犯してしまった重い罪。わたしは何を出来
るだろう。取り返しつかない程の過ちを前に。
その全ての原因が拾年前のわたしにあった。
柚明お姉ちゃんだけじゃない。お父さんやお母さんや、白花お兄ちゃんだけでもなくて。
わたし罪の重さに償う術も思いつけないよ。
「あなたは何も知らなかったのでしょう。私もそれを咎める積りはないわ。世間には関係
ない人は幾らでもいる。それはやむを得ない。
唯今迄知らなかったのなら、今後も鈴音と琴音には、知らない侭の存在でいて。どこか
遠くの何者かで居続けて。関りを持たないで。首を突っ込まれるとこっちの古傷が抉られ
て、痛んで哀しんで迷惑なの。烏月様と親しいのは烏月様のお考えだから仕方ない。でも
私達には関らないで。鈴音と琴音には関らないで。心繋ごうとか仲良くなろうとか想わな
いで」
「紅葉さん、あの」「紅葉、言い過ぎだぞ」
鈴音ちゃんの声より早く為景さんが、苛烈な中身は否定せず、客人への非礼を指摘する。
でもわたしはもう、想いを整理して喋れる状態ではなくて。お姉ちゃんが背後から寄り添
い抱き留めてくれたのにも、暫くは気付けず。
「申し訳ありません。無骨な鬼切部の下っ端故に舌が滑りました。これ以上放言してしま
わない為に、これで失礼致します。鈴音…」
行きましょう。鈴音ちゃんもその剣幕に逆らえず、両肩を軽く抑えられて帰りを促され。
わたしは唯、それを見送る他には術がなくて。掛ける声も届かせる想いも、紡ぎ出せなく
て。鈴音ちゃんが向うを振り向きかけた時だった。
「お待ち下さい」
声はわたしのごく間近から。わたしを背後から支えてくれる優しい感触が、この右耳の
少し上からわたしを越え。わたしの声を想いを届かせたい人達の足を、今一度呼び止めた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「初めまして、紅葉さん……羽藤柚明です」
お姉ちゃんは崩れそうなわたしを後ろから抱き支え、こちらを睨む紅葉さんを正視して。
左手をわたしの左腰に巻き付け、右手を右の肩に乗せ、背中に胸を合わせてくれて。温か
な柔らかさに身も心も支えられ、助けられて。甘いお花の匂いを香らせつつ、柔らかな声
は、
「わたし達は本日、羽藤家として参りました。個人としてではなく、羽藤白花の身内であ
る羽藤として訪れました。烏月さんだけでなく、紅葉さんや鈴音さん達を含む千羽の皆様
を」
声音は柔らかで穏やかだけど、わたしを抱き留める感触も、鈴音ちゃん達に向けた視線
も確かに強い意志を秘めて、揺らがず迷わず。
「羽藤白花は、羽藤桂と同じく、羽藤柚明の一番の人。わたしに生きる目的と値をくれた、
愛しい人。この身と心を尽くし守りたい人」
相手の憤怒を承知で、柚明お姉ちゃんは。
確かに言い切って、睨む視線も受け止め。
「彼が犯した罪はわたしが犯した罪。彼の与えた傷はわたしが与えた傷。彼が流させた涙
はわたしが流させた涙です。知らなかったでは済まされない。無関係では済まされない」
彼はもう罪を償う術を失ったけど。傷を癒す術を失ったけど。涙を拭う術を失ったけど。
ならば代りに身内が償い癒し、涙を拭うべき。
「お姉ちゃん!」「ゆめい、あなたっ……」
わたしを支える感触がなくなったと想った瞬間、柚明お姉ちゃんは地面に膝を折って土
の上に華奢な両の掌を付いて、こうべを垂れ。
「関らせて下さい。心を通わせるきっかけをわたしに下さい。償わせて欲しい。わたしの
たいせつな人が犯した罪を、苦痛や哀しみを放置してはおけない。わたし自身に許せない。
今はこの先でお待ち頂いている、千羽の方々に応えに行かなければならないので、この
位の事しかできません。でも、でも必ず!」
紅葉さんの、鈴音ちゃんの、琴音ちゃんの、皆様の想いを直に受け止めます。受け止め
に伺いたい。この身に叶う限り。羽藤が為した事ならば、羽藤が受け止めなければならな
い。
「彼が為し得なかった償いと癒しを、わたしにさせて下さい。羽藤の想いを届かせて…」
お願いします。額を土につけて頼み込み。
想いの強さが違った。抱く覚悟が違った。
わたしの鈴音ちゃんへの申し出は、初見の人への善意だった。柚明お姉ちゃんの紅葉さ
んへの申し出は、身内の罪の贖いだった。お兄ちゃんが為せなかった償いを、遂に望めな
かった癒しの機会を、繋ぎ止めようと必死で。
止める事も寄り添う事も、出来なかった。
無言の内にわたしが触れる事も弾き拒み。
流石に紅葉さんも門前払いは出来ないと。
真剣な問には、真剣な答が返る。真剣な答を求めるには、真剣な問を発さねばならない。
柚明お姉ちゃんの尋常ではない程強い想いが、開く筈のない扉を叩き続けた末に、遂に答
を。
「あなたは鈴音達に、この上尚痛みや苦しみを強いる積り? 年端もいかぬ女の子に…」
でも、その熱い求めに返されたのは、紅葉さんの、真剣ではあっても受容ではない答で。
扉は開かれた訳ではなく、扉の向う側からお帰り下さいと、拒絶を応えられた感じだった。
「哀しみや絶望を思い返させ、更に苦しめようと言うの? 月日が漸く傷を塞ぎつつある
のに、漸く諦めが痛みを鈍らせつつあるのに、漸くこの今に馴染みつつあるのに。再び心
騒がせて、塞がった傷を掻き回し。鈴音達の恨みを、憎しみを、哀しみをぶり返させる?
怒りの炎に新風を送って燃え立たせるの?」
もう構わないで。関らないで。彼女達に静かな日々を過ごさせて。これ以上良くならな
いのなら、せめてこれ以上悪化はさせないで。彼女達は辛い過去を封じ、これからを安ら
かに過ごす事だけが望みなの。全て心の内にしまい込んで、二度と引き出しを開けたくな
い。
謝罪も償いも欲しない。関りたくないと。
紅葉さんは、お姉ちゃんにも硬い拒絶で、
「あなたの自己満足に付き合う気はないわ」
羽藤の罪悪感を解消する為の行いなんて。
償ったと感じさせる為だけの行いなんて。
本当に身も心も震えたのは次の瞬間だった。
きびすを返そうとする紅葉さんに、面を上げず柚明お姉ちゃんは、その声音を更に強く、
「叩き付けなくて本当に宜しいのですか?」
紅葉さんの動きが中途で固まった。為景さんが息を呑む音が聞えた。ノゾミちゃんが青
珠の中で身を縮ませる感触が分った。柚明お姉ちゃんは戦いに挑む様な気合を声に滲ませ。
「紅葉さんは本当に、憎悪を、恨みを、哀しみや苦しみを、羽藤の者に叩き付けなくて宜
しいのですか? それで後悔しませんか?」
桂ちゃんの求めに唯の断りではなく、隠された事情を明かし、自身の憎悪を露わにした
紅葉さんが、本当に無関係の侭で満足ですか。
「知らない侭の存在で、どこか遠くの何者かで居続けて、関りを持たないで、満足ですか。
あなたは本当にそれで、これから後の人生を安らかに過ごせますか。炎は消せますか?」
鈴音ちゃん達の問題じゃなく。紅葉さんとしてはどうですか。それで宜しいのですか?
「柚明さん、あなた」「お答え、願います」
額を土につけた侭お姉ちゃんは強い声で、
「これがわたしの自己満足であったとしても、羽藤の罪悪感を減じる見せかけの行いだと
しても。千羽にとってどうですか。紅葉さんは、心の奥底に秘めた憤りを、炎を向ける対
象を、本当に要らないとお考えですか?」「……」
言葉に惑う紅葉さんにお姉ちゃんは更に、
「毒があるなら吐かせるべきです。膿があるなら出させるべきです。痛みの根を放置した
侭時の経過に任せても完治はしない。我慢するだけではいつか心は疲れ、弱った時に己を
壊し崩してしまう。羽藤が為した事ならば」
抱く想いを羽藤にぶつけるべきではありませんか。敵意を、憎悪を、恨みを、哀しみ苦
しみを。それらは人の心です。為された非道に当然抱く、為した相手に返すべき想いです。
心を閉ざしていては募るばかり、堪るばかり。そしてわたしはそれを受けるべき羽藤の者
…。
「見過ごして宜しいのですか。鈴音ちゃんや、ここに来られなかった琴音ちゃん達の想い
を、叩き付ける機会を失わせて宜しいのですか」
わたしの為ではなく、紅葉さんや鈴音ちゃんや琴音ちゃんの為に、それで良いのですか。
燃やし尽くさず燻らせた侭で宜しいのですか。
紅葉さんが怯んでいた。全力で返した答に、更に突っ込まれるのは想定外と表情が物語
り。為景さんも言葉を挟めず唖然と立ちつくす中、
「千羽の皆様が、羽藤に含む処が多い事は存じています。その想いをまずわたしに下さい。
怒り、苛立ち、苦味、苦しみ、哀しみ。羽藤が今迄受ける事が叶わなかった様々な想いを、
この身で受け止められる限り受け止めたい」
恨みも怒りも憎悪も復讐も、全て下さい。
尚額を土に付けた侭で、身動きもせずに、
「手術は時に傷口を切開し、更なる痛みや出血も伴います。でも敢てそれを為さなければ
決して解決しない傷も病も世にはあります」
彼が為した事に向き合い、犯した罪を償い、与えた傷を癒したい。その為にわたし達は
千羽を訪れました。千羽の皆様の想いを受け止める為に。羽藤の想いを皆様に届かせる為
に。
「彼の犯した罪は彼1人の物ではありません。
彼が生きても死んでも羽藤白花である様に。
わたし達は生きても死んでも羽藤なのです。
彼の罪にわたし達が関らない訳に行かない。
いえ、関らせて下さい。お願いします…」
お姉ちゃんが、唯烏月さんとわたしの絆の報告や挨拶に、守ってくれた御礼に千羽を訪
れた訳ではないと、わたしも漸く分ってきた。お姉ちゃんは羽藤と千羽を、わたし達と烏
月さん以外の千羽のみんなの心を繋げる為に…。
考えてみれば、わたし達は烏月さんと既に強く結ばれている。問題は千羽と羽藤のこれ
からだった。お姉ちゃんは、お兄ちゃんを含む羽藤が千羽に与えた損失を、償おうとして。
お姉ちゃんの必死はお兄ちゃんの為であり、わたしの為だ。千羽との関りが不可欠なの
は、千羽党の助けがより切実なのは、身を守る術を持たないわたしの方だ。お兄ちゃんと
の関りで行けば、わたしは双子の妹だ。お姉ちゃんの尋常ならざる必死とは、わたしの為
の…。
「わたしからも、お願いします。紅葉さん」
だからわたしも地に膝付いて、手も付いて、
「桂ちゃん!」「けい、あなた迄」「……」
お姉ちゃんの様に額に土が付く迄こうべを垂れる。一緒に想いを姿勢に見せる。これで
お姉ちゃんが為そうとする羽藤としての償いに、少しでも役に立てるなら。近づけるなら。
お姉ちゃんはわたしの気持を分ってなのか、妨げはせず、自身は地面に額づいた侭動か
ず。秋の風は涼やかで、空は高く青く澄んでいた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「償える様な軽い過ちだと想っているの?」
苛立ちを含んだ厳しい女声の問に、わたしの右で一緒に額づいていた柚明お姉ちゃんは、
「償えるのかどうか、取り返せるかどうかは、一番の問題ではありません。癒せるかどう
か、涙を拭い苦痛を止められるかどうかは、後の話しです。今はまず、渾身で関り合いた
い」
償えなければ償いが不要になる訳ではない。
取り返せないからと捨て置ける物ではない。
拭えない涙だと諦めて許される事ではない。
その哀しみも苦痛も絶望も、癒せなければ放置して良いとはならない筈。例え届かなく
ても及ばなくても、この身と心の全てを注いで助けたい。癒したい。守りたい。支えたい。
「例えその末に返されるのが、敵意と憎悪の罵声でも、それは羽藤が受けるべき当然の帰
結です。千羽の誰も悪くない。自業自得…」
許しは期待しません。見返りも返される想いも求めません。憤怒や恨みを想いの侭に叩
き付けて頂いて結構です。わたしに、関らせて下さい。お話しに伺う事を、想いを受け止
めに訪れる事を、この想いを届けに行く事を。
「お願いします。紅葉さん、鈴音ちゃん…」
心血を注いだ柚明お姉ちゃんの声にも尚。
紅葉さんの答は感情を敢て抑えて冷徹に、
「勘違いしないで下さい。羽藤、柚明さん」
拒絶なのだろうか。伏して願っても届かない程、羽藤が千羽の人達に与えた傷は深く大
きいのだろうか。柚明お姉ちゃんが土下座してお願いしても届かない程、千羽の恨みは…。
「……私は鬼切部千羽党の、癒し部の権の司です。私に、羽藤を代表したあなたの申し出
を受けるか拒むかを決める権限はありません。お話しがあるなら、関りを求めるなら、千
羽党の当主にお話しして下さい。私達も烏月様が了承したとなれば、断る訳に参りませ
ん」
「紅葉さん……」「あ、えっと、その……」
「回りくどいけど了承の意味ね。鬼切り役を通して話しをすれば、了承するという事よ」
羽藤と千羽は未だ正式な関係を持ってない。今日が初めだ。だから今から行く対面の場
で、正式な関係を結んでから来てと。手続を教えてくれるのは、手続を踏めば受容すると
いう。
「有り難うございます」
柚明お姉ちゃんが漸く面を上げて。わたしも一緒に面を上げ、紅葉さんを見つめるのに。
微かに雰囲気が変っていた。説明が難しい程に微妙な違いだったけど。羽藤に抱く憤怒は
変らないけど。関りさえも拒み嫌う姿勢から、その拒み嫌う想いを全力で叩き付ける姿勢
に。
鋭い視線は変らない侭、簡単に心は開かないとの姿勢は保った侭、今後に繋る芽だけは
残してくれた。応えた後で、紅葉さんはもう一度、鈴音ちゃんの両肩を後ろから軽く抑え、
「では私達はこれで失礼します。私達にも招集が掛っていますので。早々に鈴音と琴音の
身支度をしなければ。行きましょう、鈴音」
鈴音ちゃんもその感触を分ってか抗わず、
「はい……柚明さん、桂さん、ご機嫌よう」
芽は残されている。希望は残されている。
永訣ではないから一時の別れも了承して。
「紅葉さん、本日は一体どなた様の元へ?」
首をもたげて間近な美貌の人に問う声に、
「あなたが是非逢いたいと望んでいた人の前へよ。余り時間がないから、急ぎましょう」
紅葉さん達は暫く歩んでから、座った侭でその背を見送っていたわたし達を振り返って、
「あなた達がこれから逢いに行く千羽のお歴々も、簡単には心を開きませんよ。あなた達
が羽藤を背負って千羽に面談するというなら、土下座も入り口程度に考えて頂かなけれ
ば」
少しは期待したのです。簡単に萎えたり折れたりされては、鈴音の想いが糠喜びに終る。
そんな事にでもなれば今度こそ、私があなた達を許さない。必ずお歴々の前を越え鈴音と
琴音の前迄辿り着いて。それが羽藤白花の身内として訪れたあなた方の最低限の責務です。
「余計な独り言をしてしまいました。失礼」
「ご助言に感謝します。心に止め置きます」
「……あ、ありがとう、ございましたっ…」
曲がりくねった脇道を、2人の背中が見えなくなる迄、座った侭で見送って。緊張の場
を凌ぎ切れたと想えた瞬間、張り詰めていた背中も心も糸が切れた操り人形の様になって。
滑らかな繊手に身も心も支えられていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ごめんなさい。桂ちゃん迄額づかせてしまって。足にも額にも掌にも、土を付かせて…。
晴れで地面が乾いていて幸いだったけど」
自身の汚れに構わず、柚明お姉ちゃんはハンカチでまずわたしの額と掌を拭ってくれて。
自身の掌を拭うのは、この両肩を抱き支えて語りかける時に、わたしの身を汚さない為で。
気力が抜けて、少し立てないわたしの為に、地面に座り込んだ姿勢の侭抱き留めてくれ
る。その暖かさに、柔らかさに、心地良い香りに。
張り詰めた風船が弾ける音が心に響いた。
「ごめんなさい! ……わたし、わたしっ」
不用意にお兄ちゃんのお話しに踏み込んで、紅葉さん怒らせちゃった。千羽の中では微
妙な事柄だって、少し考えれば分った筈なのに。
怒らせて、お姉ちゃんのお話しを拗らせて、土下座迄させちゃった。わたしの綺麗なお
姉ちゃんなのに。何一つ悪い事してないお姉ちゃんなのに。わたしが汚しちゃった。わた
し、
「いつ迄もお姉ちゃんに迷惑掛け通しだよ。
いつ迄もお姉ちゃんに頼りっぱなしだよ。
いつ迄もお姉ちゃんの負担になり続けて」
全ての過去に向き合うって覚悟したのに。
二度と逃げない忘れないと決意したのに。
強くなるって、わたし自身に誓ったのに。
お姉ちゃんの支えがないと話し纏められなくて。纏められない様な事ばかり呼び招いて。
いつ迄もわたし役立たずだよ。足引っ張ってばかりいるよ。揉め事起こして解決出来ずに。
「お姉ちゃんに助けて貰って後で謝るだけ」
こんな弱音を吐く事自体が弱さなのだけど。
もう己の中に堪った想いを抑えきれなくて。
瞼に堪った熱い大粒の滴も我慢できなくて。
その柔らかな首筋に頬を寄せて縋り付いて。
こんな情けないわたしをこの美しい人は尚、
「桂ちゃんがわたしに謝る事はないの。桂ちゃんは何も悪くない。賢く強く、優しい子」
本心からそう言ってくれていると分るから。
本当にそう想って慈しんでくれているから。
溢れる涙が止められない。綺麗な服を涙で汚してしまうと分っていても、頬を離せない。
受け止めてくれると確信できて、初めて安心して涙は流せると、陽子ちゃんは語っていた
けど。その通りだった。わたし、柚明お姉ちゃんの前では夏以前よりも心が弱く幼い様な。
本当に子供の様に縋り付き噎び泣くわたしに、
「桂ちゃんの全てを受け止めさせて。わたしはその為に今ここにいるのだから。大丈夫よ、
どんな桂ちゃんでもわたしの最愛の人。羽藤桂と羽藤白花は、未来永劫、羽藤柚明の一番
たいせつな人。身も心も生も死も、全てを注いで捧げて支え守る、わたしの心の太陽…」
無尽蔵な愛で受け止めてくれて。無条件の愛で抱き留めてくれて。無制限に愛を注いで
くれて。この温かな柔らかさと間近にいられる自身の今が、心底嬉しい。底なしに深い罪
を犯し、甚大な痛みを負わせたわたしを、尚許し受け容れ、助け守り、支え愛してくれる。
お母さんもいない夜、時折己の犯した過ちを思い返し、暗闇で震えるわたしを、確かに
触れて支えてくれて。一緒に罪を負うからと。絶対独りにしないからと。何一つ過失のな
いお姉ちゃんに、膨大な苦痛と哀しみを与えて、生命も体も失わせ、何度も魂を削らせた
咎人のわたしに。このわたしに最期迄付き添うと。
嬉しい。身に余る程の幸せがわたしの心を繋ぐ命綱で。罪悪感に潰されない最後の砦で。
こうして縋り付く事が、お姉ちゃんの迷惑で負荷だと分って尚、己の弱さを抑えられない。
この感触がいつでもなければ。この抱擁が何度でも返されなければ。心を支えられなけ
れば。わたしはいつ再び心を閉ざし、暗闇の繭に籠もってしまうか分らない。いつ罪悪感
に潰されて、現実から逃げ出してしまうかも。本当に、本当にこんなわたしを。お姉ちゃ
んはどこでもいつでも何度でも、支えてくれて。
「本当はわたしだけで受け止める積りだった。桂ちゃん迄額づかせてしまったのは予想外
で。びっくりしたでしょう? 千羽が羽藤に抱く想いの中身は想像が付いたけど。桂ちゃ
んに一番辛い事柄に当たってしまった。予めお話ししておくべきだったわね。ごめんなさ
い」
お姉ちゃんが謝る必要は何もない。これは、経観塚の夏で全て思い返せた、お兄ちゃん
の妹であるわたしが、想定出来ない方が落第だ。お姉ちゃんが予め言わなかったのは、お
兄ちゃんに関る事がわたしの心を乱すと分るから。わたしが危ういと感じたから。お姉ち
ゃんは多分最初から紅葉さん達を後で訪ねる積りで。
きっとわたしを烏月さんの元に預け、1人で千羽の人達の憎悪と罵声を受けに行く気で。
偶々鈴音ちゃんがわたし達の来訪を漏れ聞いて、ここ迄無理して歩み来ていたから、わた
しもお話しに関れたけど、そうでなかったら。わたしは又何も知らない侭に、柚明お姉ち
ゃんにだけ、痛みを背負わせてしまう処だった。
どうしていつも独りで、なんて怒れない。
わたしも一緒に償うよ、なんて叱れない。
こうして縋り付き涙を零したわたしには。
お姉ちゃんの見通しは正しかった。紅葉さんの憤怒に直面して、わたしは頭が真っ白に
なって。己を保てたのもお姉ちゃんのお陰だ。結局わたしは何も出来ずに、柚明お姉ちゃ
んに話しを纏めて貰って。何もかもが情けない。
首筋に頬寄せた侭謝りの言葉を口に出しかけるわたしに先んじて、柔らかな声は静かに、
「わたしは桂ちゃんと白花ちゃんの事なら幾らでも何でも喜んで受け止める。迷惑にも負
担にも思わない。2人の為に為せる事なら全てが喜び。身も心も全て預けて頼って頂戴」
人は想ったら、即強くなれる訳ではないわ。
誰かに縋り付く弱さは決して悪ではないの。
桂ちゃんは未だ心の深い傷を癒せていない。
元気な時には気付かないけど、ひとたび傷口に触れてしまえば、苦痛や哀しみに強ばっ
て身動き取れなくなるのは当たり前よ。特に桂ちゃんは間近にお母さんを亡くしたばかり。
「自身を責めないで。桂ちゃんは悪くない。
人並み以上に桂ちゃんは頑張っているわ」
経観塚の夏で全てを思い起こせてから未だ3ヶ月しか経ってない。桂ちゃんは本当の傷
口を漸く見つめ返せた状態なの。焦らないで。
「わたしは己の罪に向き合える迄に何年も掛った。桂ちゃん達に逢えなければ、今も心の
闇を彷徨っていたかも知れない。桂ちゃんが、己の行いやその結果や反応に、怯え震え、
哀しみ痛み、誰かに頼り縋り付くのは当然なの。
わたしが一緒に全て受け止める。桂ちゃんが望む限り、わたしが最期迄寄り添うから」
甘い花の香りで包み込んでくれて。柔らかな肌触りを返してくれて。肌身の温かさが心
迄暖めてくれる。縋り付けば縋り付く程強く、
「桂ちゃんは今、自身に向き合えたから怯えているの。過去を直視出来たから震えている。
桂ちゃんは、徐々に確かに強くなっているわ。即座に全ては求められない。人の成長は段
階を踏んで進み行くの。焦らないで。そして」
心の弱さは悪ではないわ。体の強さが人の値に直結しない様に、心の強さ弱さも人の値
には直結しない。自身を責めて傷つけないで。体と同じで幾ら望んで鍛えても、無限に強
くなれる訳じゃない。強くなれない人もいるの。そして例え強くなくても、強くならなく
ても、
「わたしは、どんな桂ちゃんも、大好きよ」
より強く、背中に回る両の腕が締まって。
わたしが柚明お姉ちゃんの肉に食い込む。
贄の血の癒しの暖かみが心の奥に浸透し。
乱れていた心も息遣いも、静まって来て。
「今回はむしろ有り難うなのよ、桂ちゃん」
左右の頬を伝う涙を、柚明お姉ちゃんは唇で触れて掬い取ってくれて。拾年前以前にも
これはして貰っていたけど。嬉しかったけど。今は嬉しさと恥じらいが重なって、頬が赤
く。
唇が唇に触れそうな間近でお姉ちゃんは、
「桂ちゃんが紅葉さんを怒らせてくれたから、お話しが繋げたの。そうでなければ、紅葉
さんは冷静さを保った侭、わたしの申し出を拒み通したかも知れない。燻る恨み憎しみを
押し殺して心隔てたかも。彼女の憤怒を引き出してくれた事で、桂ちゃんの導きで、紅葉
さんも己の想いを自覚して、耳を傾けてくれた。
今日はわたしが有り難うなの、桂ちゃん」
お母さんがしてくれた様に、この頭を繊手で軽くぽんぽんと叩いて微笑みかけてくれて。
だからわたしは救われる。途方もない苦痛と傷を負わせたけど、お姉ちゃんがこうして微
笑んでくれるから、わたしは尚自身を許せる。この人の想いに応える為になら生きたく願
う。
この美しい従姉の瞳を二度と哀しみに曇らせない為に、わたしはもっと強くならないと。
この人の役に立てる様に、せめて足を引っ張らないで済む様に。遠く遙かな道のりだけど。
「さあ、行きましょう」「うん」
柚明お姉ちゃんの手を受けて立ち上がると、その繊手が素早くわたしの膝下の埃を払っ
てくれて。その侭自身の膝下も全て拭っちゃう。わたしはお返し出来ず、為される侭でい
ると。
「あ、柚明お姉ちゃん。おでこ」
わたしは今度こそと、自分のハンカチで滑らかな額の素肌に少し付いた土埃を拭い去る。
お姉ちゃん、お返しをしたいわたしの気持を察し残してくれた? 用意周到な人だから…。
「有り難う、桂ちゃん」「えへ」
少しでも役に立てた事が嬉しくて。形に見えて何かできた事が嬉しくて。間近に寄り添
うわたしを、両の手とその身で受け容れつつ、
「お待たせしました」「では行きますかな」
為景さん、ずうっとここにいたんだっけ。
紅葉さんの言葉に応えられず硬直し、お姉ちゃんに助けられ、縋り付いた処から。抱擁
も頬擦りも唇で涙を掬い取って貰う様も全て。
見られたと言うか、見せつけたと言うか。
今更の様に又々頬が染まるわたしに較べ。
お姉ちゃんは所作も声音も静かで穏やか。
視線のやり場に困る様に、あっちを向いていた為景さんは、前に歩き出したけど、突然、
「取り返しの効かない過ちも、世にはある」
声音に笑みを感じなかった。前を向き数歩先を行く表情は見えないけど。肌身に感じた。
わたしは何の修行もないけど、それでも感じ取れる程に深い隔意が、その背中に漂う様を。
「償う術のない程重い罪も、癒す術もない程深い傷も、慰める術もない程の悲痛も苦悩も。
汝らの想いは真剣と見たが、真剣になれば全てを受け止めきれると、勘違いしない事だ」
善良そうな笑みを絶やさない人だったけど。安心感を与える柔和さだったけど。それが
抜け落ちた今、この男性の表情を見るのが怖い。笑顔が失せていれば怖いけど、それ以上
に笑顔の侭でいたら尚怖い。鈴音ちゃんの無茶を咎める時迄笑顔なのに、違和感を抱いた
けど。
本当に常に笑顔を保つという事は、にこやかな時も本当は何を考えているか分らないと
いう事だ。好意も善意も見せかけでしたという事だ。打ち解けて仲良くお話ししてきた今
迄が営業用スマイルでしたという事だ。そう言えば常に顔は笑みだったけど、瞳は時折…。
能面の様な感じ。心の内が計り知れない。
笑みや静かな声がもう全然信頼できない。
「……それは、存じております」「ほう…」
怯えて竦むわたしを間近に触れて支えて。
今度も応えてくれたのは柚明お姉ちゃん。
強ばる心をほぐす様に、左手を巻き付け右手を重ね、寄り添って。尚柔和に静かな声で、
「叶わない願い、結べない絆、癒せない心身の傷、取り返せない喪失、やり直せない過去。
幾ら強く想い欲しても、力及ばない事もあるこの世の無常は、わたしが思い知りました」
今から臨む幾つかも、そうかも知れません。被害者に為せても加害者には為せない事。
千羽に出来ても羽藤には出来ない事。彼に望めてもわたしには望めない事。その逆も又然
り。
「わたしは限られた人の身です。この程度の者が何を為しに来たかと嘲笑されて終るかも
知れない。それでもわたしは羽藤として千羽を訪れなければならない。彼の想いを引き継
げるのは、最早わたし以外にいない以上は」
「千羽が抱く憤怒も怨嗟も知りもせぬ癖に」
唯甘く優しく情が深いだけでは、千羽の遺恨を解く事などとても叶わぬ。癒し部の権の
司と話せた位で、これから向き合う者達とも話が通じる等と楽観せぬ事だ。せめて全ての
因である真弓が来るなら微かな芽もあろうが。年端も行かぬ娘共に受け止め切れる筈がな
い。
「想えば叶う程千羽は甘い相手ではないぞ」
「わたしが戦い続ける限り全ては終らない」
為景さんの言葉も歩みもピタと止まった。
わたしもお姉ちゃんと足を止め、間近なその背を眺めるけど。為景さんの硬直は初めて。
柚明お姉ちゃんは、声音をやや強くして、
「諦めない限り、挑み続ける限り、当事者の片方であるわたしが手放さない限り、望みへ
の途は残っている。諦めた瞬間、全ては終る。手放した瞬間、望みは消える」「それを
…」
為景さんの声音が、初めて上擦っていた。
表情は見えないけど、握りしめる両拳が微かに震えていた。白花お兄ちゃんの事を話し
た時以上の心の揺れが、必死に抑え込む様子から逆に窺えた。為景さんは振り返りはせず、
「汝は誰の言葉か分って言っているのだな」
お姉ちゃんの返事は待たず、息を吐いて、
「唯甘く優しいだけではないか。良かろう。
羽藤の想い、存分に見せて貰うとしよう」
もうすぐ玄関です。そう言って振り返った為景さんは、にこやかな笑みを戻していた…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
再び歩き出してすぐ、曲がりくねった道は終り、平屋の日本家屋が見えてきた。町内会
館の様に広い玄関の真ん中で、1人立って迎えてくれた、背の高く凛々しい美貌の女性は、
「お疲れ様です。桂さん、柚明さん」「?」
黒い剣道着に着替えた栞さんで。わたし達は千羽館の裏口から細道を通って、その裏玄
関に着いたらしい。順調に歩いて拾数分、紅葉さん達とのお話を経て三拾分以上掛る間に、
栞さんは正面に回って車を収納し、黒い剣道着に着替えて、わたし達の到着を待っていた。
「儂は一度ここで失礼する。貴女方と正式な場で対面する為に、正装に着替えねばならぬ
のでな。ここからは栞の先導に従うと良い」
質問の暇を持たせぬ感じで、笑みを浮べた侭為景さんは、奥の戸口に消えて行き。栞さ
んはどうぞと左の戸口へわたし達を促すけど。促される侭にわたしもお姉ちゃんに続くけ
ど。
【千羽は何か考えているわ。わざわざ千羽の多くにも気付かれぬ様に、裏玄関に回らせて。
柚明はとっくに感付いている。周囲の言動を良く見聞なさい、けい】「ノゾミちゃん…」
ノゾミちゃんはこの訪問に余り乗り気ではなかった。烏月さんに切られる心配はなくな
ったけど、鬼切りが多数いる千羽党の本拠は鬼に心地良い場ではない。歓迎される客では
ない以上に、鬼の侵入に備えた結界や呪物で、邸内も自由に動けず現身も取れないのでは
と。
『けいもゆめいが一緒なら青珠の守りは不要だし、千羽館で鬼の危険はない。鬼が伴う事
で鬼切部とあなた達の話しを拗らせかねない。けいは鬼切り役といちゃいちゃする予定だ
し、私に目を向けてくれない場へ一緒しても…』
『の、ノゾミちゃん! わたし、そんな…』
わたしが頬を染めて否定しきれない内に。
ノゾミちゃんの問はお姉ちゃんに向いて。
『私が付き添う意味は薄いのではなくて?』
『今回はノゾミちゃんに、是非千羽館へ付き添って欲しいの。お願いできないかしら?』
お姉ちゃんが、自身の意向で明確に頼むのは珍しかった。いつも相手の意向を伺いつつ、
相手が望むならと言う感じで招くのに。ノゾミちゃんの乗り気ではない意向を聞いた上で。
『ノゾミちゃんは桂ちゃんの最後の守りよ。
わたしも烏月さんも栞さん達も、桂ちゃんに四六時中付き添う事は叶わない。常に傍に
いられはしない。あなただけなの。青珠に宿ってどんな時も桂ちゃんに一緒出来て、鬼か
らも鬼切部からも確かに守る事が叶うのは』
『まあそうね。昼には、出られないけど…』
ノゾミちゃん、お姉ちゃんのおだてに巧く乗せられ、浮いた現身で気持よさそうに小さ
な胸を張って。柚明お姉ちゃん、乗せ上手?
『千羽の館では、色々なお話しを多くの人達とする事になるわ。烏月さんも忙しい人だし、
わたしも桂ちゃんの傍を離れる事があるかも知れない。千羽は武門の旧家で格式が高いわ。
その対応や言葉遣いに桂ちゃんが惑うかも』
桂ちゃんの心を支える為に、寄り添って助けて欲しいの。やや時代がかった言葉や行い
の意味を読み解くとか、言葉尻や身振りで注視すべき処を伝えるとか。のんびり屋さんの
桂ちゃんが気付けない処、見落しそうな処を。
『けいが不安だから、私の助けも欲しいって事なのね? ゆめいとけいでは頼りないから、
私に支えをお願いしますという事なのね?』
浮いた現身で悪戯っぽくやや見下す視線は、何かの交換条件を考えている感じだったけ
ど、
『そうよ、ノゾミちゃん。お願い出来る?』
柚明お姉ちゃんは更に一枚上手(?)で、
『ちょ、ちょっとゆめい。あなた、人に頼み事をする時に、一々相手と頬寄せ合うの?』
中学生位の女の子の現身を両手で抱き寄せ、頬に頬寄せ問うていた。左頬同士触れ合わ
せ、
『これはお礼の気持よ。本当は望ましくない千羽館に、わたしの願いを受けて桂ちゃんに
同行してくれる、ノゾミちゃんへの感謝を』
すり、と頬擦りする様がわたしの頬迄赤くする。ノゾミちゃんの頬の感触も、お姉ちゃ
んの頬の感触も、日常的に知っているだけに。わたしが頬擦りされた様な錯覚で、少し熱
い。
ノゾミちゃんは必ずしも嫌がる様でもなく。
でもそうして為される事に恥じらい戸惑い。
『私は未だ、受けるとも断るとも答えて…』
引き離そうとする手に力が入らない様で。
『桂ちゃんの為の願いを断るノゾミちゃんでない事は、わたしが知っているわ。有り難う、
ノゾミちゃん。わたしもあなたを大好きよ』
お姉ちゃんはノゾミちゃんの心中を知ってか知らずか、躊躇もなく腕を回して抱き続け。
ノゾミちゃんは、頬を染めた侭両手両足をバタバタさせて抗いつつ、尚抱き竦められた侭、
『わ、分ったわよ。けいが不出来な子で誰かの支えがないと、何をしでかすか危うい事は
私も分るから。寄り添って面倒を見れば良いのでしょう? 分ったから身を離しなさい』
そう言う訳で、秋晴れの休日わたし達は、
「羽藤家の方々が、いらっしゃいました…」
板敷きの渡り廊下を何分か歩いた末、烏月さん達が待つ筈の、会見の広間に案内された。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
会見の間は、木造の道場の様な広間だった。廊下を歩んでいた時と同じく、歩くとギシ
ギシ鳴る構造は、武家屋敷の忍者対策なのかも。正面中央に時代劇のお殿様の様に、一段
高く座る座が作られているけど煌びやかさはなく、全体的に簡素で質実剛健な印象を伝え
てくる。
左右を壁や戸に仕切られ、上がり込むと背後の入口も閉められて。千羽党の人達は、ざ
っと見た感じで男女五拾人近くいただろうか。
左右の壁を背に、剣道着姿で向き合った男女四拾人弱は、若い人が多い。流石にわたし
よりも年上だけど、みんな三拾歳代位迄かな。栞さんはわたし達を招き入れた後、左側の
壁際に空いていた処に、板の間の上に正座して。
知った顔を探したけど殆ど初見の人だった。小町さん達や金時さんや藤太君や菖蒲さん
が、いるかと想ったのに。人手不足と聞いたけど、千羽党は結構頭数多いのではないでし
ょうか。
入口と向き合う奥に、一段高い座の前に控える感じで、座布団がハの字に拾枚敷かれて、
男女が7人座っている。狩衣姿で年長の人が多い。烏月さんが言っていた千羽の大人衆か。
高い段の上には誰もいない。恐らくそこが烏月さんの座る処だと想うけど。高い段や年
配者と向き合う位置に、座布団が1枚だけ敷いてあった。わたし達は2人だけど、1枚?
「桂ちゃんの座よ。わたしは後ろに座るわ」
【主客とそれ以外の差、みたいね。けい…】
座布団は千羽の側も正面の拾枚と高い段の1枚だけ。左右の人は皆板の上に座している。
柚明姉ちゃんの柔らかな両足を、板の上に直に座らせる事に、少し惑いを感じるわたしに、
「修練を経ているわたしは、板の間でも多少の間なら大丈夫。気にしないで座って頂戴」
口にも出してないのに心を察されていて。
わたし、そんなに分り易い表情だろうか。
ご挨拶済んで一段落したら、お姉ちゃんのもお願いしよう。そう想いつつ座布団に座り、
お姉ちゃんが右斜め後ろの板の上に直に座り。
「ご客人方、遠路ご苦労」
左右五枚ずつの座布団は、高い段に近い左1枚と右2枚に座る人がいない。左の2番目
に座る、黒髪を短く切り揃えた端正な男性が、
「鬼切部千羽党の千羽景勝と申す。千羽党当主を後見し、その実務を代行する大人衆の第
四席である。烏月様の父君の弟で、叔父に当たり申す。生憎烏月様は、只今大人衆の上席
3人と共に、年少部の修行成果の発表に臨席する為に、暫く座を外しており申す。今暫く、
ここで烏月様のお帰りをお待ち頂きたい…」
空いた座布団3枚は、その3人の分だと。
わたしが考え付けたのは、そこ迄だけど。
【なる程。けいの訪問と行事をぶつけ、渋滞で遅れると連絡を入れれば、空いた時間を有
効に使おうと鬼切り役は行事に向かう。裏道を通ってけいが早く着けても、行事最中だか
らと鬼切り役をすぐに呼び戻さない。鬼切り役不在の暫くに、一体何を企む積りかしら】
ノゾミちゃん? やや考え込む呟きに、つい意識が正面の景勝さん達から、逸れるけど、
「独り言よ。あなたはきちんと挨拶なさい」
はい。折角お客様として対してくれたのに、きちんと正視しないと失礼になる。人は見
た目が9割という話しもある位、最初は大事だ。髪は真っ黒だけど四拾歳以上には見える
重厚な顔立ちの男性に、正座の姿勢から頭を下げ、
「初めまして、羽藤桂です。9月に拾七歳になりました。わたしのお母さんが、千羽の人
だったという事は、夏の経観塚で知りました。
烏月さんには、経観塚でわたしを生命懸けで守って頂きました。以降も仲良くおつきあ
いさせて貰っています。先日も、京都の時も、柚明お姉ちゃんもわたしも守って頂きまし
た。
本日は、烏月さんに助けて頂いた事へのお礼と、仲良くさせて頂いていますというご報
告と、ご挨拶に来ました。千羽の皆様、ふつつか者ですが、よろしくお願い致します…」
やや長い挨拶を舌を噛まず述べられるのは、練習の成果です。敷居が高そうな旧家でど
んなお話をしようか、逆にどんな口ぶりや話題が拙いのか。わたしが不安を相談出来たの
は、藤原のノゾミちゃんと柚明お姉ちゃんだけど。
生前ノゾミちゃんは病で座敷牢だったから、公式の場は未経験で。お姉ちゃんも拾年ご
神木の中だったけど、羽様の屋敷に住んでいた頃に、多少旧家としての経験があったらし
く。
『桂ちゃんが普通に敬意を抱いて話しかければ充分だと思うわ。格式に拘る事はないの』
千羽の人の問にも自由に応えて良いし、疑問があれば失礼にならない範囲で問うて良い。
気付かず失礼になった時には、わたしが対応するから大丈夫よ。形式に囚われて自身を見
失わない事が大事。素の桂ちゃんで良いのよ。桂ちゃんは人前に出して自慢できる可愛い
子。
【うう、お姉ちゃん、わたしに少し甘すぎ】
わたしは自身をそこ迄高評価できないよ。
『必ず千羽の人達も、桂ちゃんの愛らしさを分ってくれるわ。……わたしが、保証する』
瞳を覗き込まれると又頬が染まる。柚明お姉ちゃん、行いの一つ一つに心が宿っていて、
人並み外れて綺麗で艶やかで、近しいと女の子同士でも恥ずかしい。毎日繰り返しても馴
れてこない。いつ迄も新鮮に胸ドキドキする。陽子ちゃんと頬が近くなった時の弐拾倍位
に。
『唯、初対面の人の前では緊張するかも知れないから。最初の口上だけ考えておきましょ
うか。桂ちゃんが何者で、何を為しに訪れたのか、心を込めて簡素に伝え。それが巧くで
きれば、落ち着いてお話しも進むと想うの』
わたしがご挨拶して、柚明お姉ちゃんがご挨拶して、後はフリートーク。お話しして拙
い処に迷い込んだり、又はどうして良いか分らなくなったら、ノゾミちゃんかお姉ちゃん
に助けて貰う。そうならないのが一番だけど。
「鬼切部千羽党の皆様、初めまして。羽藤家で当主後見の次席を任じております、羽藤柚
明と申します。当主とは従姉妹の間柄で、当主の父の姉が、わたしの母に当たります…」
って事は今、羽藤家の当主って、わたし?
事前に相談がなかったのは当然という事?
良いのかな? 年上はお姉ちゃんなのに。
右後方から届く柔らかな声は淀みもなく、
「夏の経観塚では烏月さんに、わたしの一番たいせつな人を守って頂き、わたしも助けて
頂き、深く心を通わせて頂きました。先日もわたし達を助け守り、絆を繋いで頂けました。
その後も色々守りの措置を為して頂き、京都でも守って頂きました。感謝申し上げます」
まず一度、頭を低く下げる感覚が分った。
自然で知的で穏やかに好意を確かに伝え。
公式な場でもお姉ちゃんは綺麗に整って。
「先日は心ならずも、千羽の皆様に苦痛を与えてしまい、大変申し訳なく思っております。
本日はそれ以外にも、羽藤が千羽に為した諸々の謝罪と償いを考えて参りました。両家の
当主同士は現状、心通い合わせ親密な状態にあります。その事にも感謝申し上げ、願わく
ばこの絆を両家の間柄にも広げ、近しく関りたいと望み、ご挨拶とご報告に参りました」
千羽の剛健さを前にした為か、一層柚明お姉ちゃんの柔らかさが対比されて、印象深い。
「本日はお目もじを得ました事を、非常に幸いに存じます。今後も宜しくお願いします」
「これはこれは丁寧なご挨拶、痛み入る…」
ノゾミちゃんの感触では、冒頭で羽藤の諸々の謝罪と償いに触れた事に、景勝さんは多
少ならず驚いていた様で。明言はしないけど、お兄ちゃんやお母さんの件迄含むとも取れ
る言い方に。お姉ちゃんは交渉人向きなのかも。
「ご両名の事は、烏月様からも幾らか伺っており申す。我らの当主と心親しくして頂けた
様で。その、観月の娘や、若杉の当主や、羽藤の当主に憑いて視える小鬼迄含め色々と」
話を振られたならわたしも説明しなければ。わたしもなるべく早く千羽の人に、ノゾミ
ちゃんが今は無害で敵でもないと、紹介したく。
「ノゾミちゃんです。最初はわたしの贄の血を狙って顕れて、柚明お姉ちゃんや烏月さん
とも敵だったけど、今ではわたしの青珠に宿って、わたしを守ってくれる無害で可愛い鬼
になりました。今も時々わたしの贄の血を呑みますけど、生命に関らない少量ですし、そ
れで青珠も贄の血の匂いを隠す力を補充できるので、助かっています。烏月さんや葛ちゃ
んにもお話しをして、了解は貰っています」
鬼を切る事を生業としてきた人達にとって、鬼と仲良くという在り方は、想像外だった
のかも。景勝さんは言葉を失い、他の大人衆や左右の壁を背にした男女の殆ども、唖然と
息を呑み。何の修行がなくても雰囲気は掴めた。顔に驚きが視えるもの。お姉ちゃんがわ
たしの顔色で心を察する時も、こんな感じなのかな。わたしはそこ迄読み易くないと思う
けど。
「昼なので、今は姿を顕して、千羽の皆さんにご挨拶は出来ません。ご了承ください…」
お姉ちゃんを真似たけど、巧く言えたかな。烏月さんや葛ちゃんがノゾミちゃんを許し
た事って、こうしてみると凄い決断だったんだ。
「うむ。挨拶と言えば、我らも未だ主だった者を紹介しておらなんだ。各々に挨拶せよ」
【心の乱れを立て直す迄の時間稼ぎの様ね】
景勝さんのすぐ隣で、濃いブラウンの髪を景勝さん同様に五厘に刈った背の高い男性が、
「鬼切部千羽党大人衆の第五席千羽直義(ただよし)と申す。烏月様の母の弟でござる」
「鬼切部千羽党大人衆の第六席、柴田長政と申す。大恩ある千羽に身と生命を拾って頂き、
今は大人衆の隅に座す事を迄お許し頂けた」
直義さんも成人男性の平均より背が高いけど、景勝さんは更に五センチ位高く、長政さ
んは更に長身で2メートルに近い。筋肉質な身体は引き締まり、長身の故に細身に見える
けど、体重は九拾キロを超えるだろう。やや年配だけど、当主の周囲を固める参謀と言う
よりも、その侭肉弾戦に移れそうな猛者達だ。
明るいブラウンの髪の長政さんに続いて、
「千羽政子です。元は癒し部の司を勤めておりました。真弓さんは、存じております…」
この人は細身で華奢で。ややきつい語調は、重低音な男性達に引けを取らない為なのか
も。五拾歳代だと思うけど、肌の艶も若々しくて。艶やかでまっすぐな黒髪を後ろで束ね
ている。
政子さんに続き大人衆の女性がもう1人、
「立花雅だ。千羽の家に弟共々拾って頂けて、大人衆に迄認めて頂いた。羽藤の方々には
大いに含む処がある。ご承知置き願おうか…」
黒髪のショートヘアの女性は表情が硬くて。女性陣は流石に身長もやや低く、体つきも
華奢だけど、でも尚柚明お姉ちゃんより5センチ近く高い。である以上確実にわたしより
も。
「鬼切部千羽党大人衆の第九席、千羽貴久と申す。千羽真弓は我が姪だ。俺は千羽の血を
ひかぬ外部の者だが、俺の妻の兄の娘が羽藤桂殿、あなたの母親でござった」「えっ…」
濃いブラウンの髪を短く切り揃えた四拾歳代後半と見える男性は、景勝さんの制止に先
んじて、わたしの驚きに更に畳みかけて来て。大人衆の中では低めだけど、それでも成人
男性の平均を超える身長はのし掛る様に前傾し、
「真弓の一件で我が家系は、千羽の中でも面目を失い、大人衆への代表輩出も暫く閉ざさ
れて、漸く許されても下から二位の有様で」
千羽の家名に泥を塗り、我らの家名に泥を塗り、塗炭の苦しみを味わわせてくれた上で、
今更千羽邸にのこのこと来たか、真弓の娘よ。お前は、お前の母やお前の兄が為した事を
…。
「やめい! 今は挨拶ぞ。次の者が控えている事を考えよ!」「……はっ、ははっ……」
景勝さんの野太い叱声に、言い募っていた貴久さんは瞬時に萎縮し黙り込む。景勝さん
の大音声に、思わずわたしも首を竦めていた。
【ふん。上役に弱くて下に威張る、典型的なタイプね。けいが年下で与しやすいと考えて、
あなたの傷を掘り返して責め、威勢良い処をみんなに印象づけたかったのでしょうけど】
中身より、畳みかけてくる声や気合が怖かった。それを更に叩き伏せる様な景勝さんの
大声も。わたしを気遣ってくれたと言うより、進行の妨げだと邪魔者を乱暴に蹴飛ばす様
で。場がぴりぴりするだけで、安心感が湧かない。
【あの器じゃ拾人に入れたのが幸運な位よ】
ノゾミちゃんの呟きに、応える暇もなく。
最後の人物は、成人男性にしては高めな身長と綺麗に剃った坊主頭に、筋肉質の肉体で、
「鬼切部千羽党大人衆の第拾席、千羽秀康と申す。一年半程前迄現役の鬼切りであったが、
ある鬼に受けた傷の為に戦えなくなって現役を退き、今は大人衆の末席を埋めておる…」
まさか、その傷って。鈴音ちゃんや琴音さん達が、一年半前に負った傷と同じ理由で?
「左右に控えしは、千羽党のヒラの鬼切りだ。二、三欠けている他はほぼ全て揃ってお
る」
当代最強の娘を直に見たいと申しての。息子の方は一年半程前に半数位は見ておる故に。
そこ迄言って、秀康さんは景勝さんに主導権を戻す。景勝さんは落ち着きも戻していて、
「千羽の家は無骨者揃い故に、ご客人を愉しませられる遊びも話題も何もないが。今暫く
年長者共にお付き合い頂こうか」「はい…」
後は烏月さんの到着を待てば良い筈だけど。
それ迄の間にまさかあんな事になるなんて。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「時に、羽藤の当主は武道は何を嗜んでおられるのかな?」「武道、ですか。特には…」
当主と呼ばれても未だしっくり来ないけど。
景勝さんの世間話にわたしは首を傾げつつ、
「スポーツは嫌いじゃないけど、得意な程でもありません。部活も特に入ってないです」
「剣道とかもしないのか。空手や柔道は?」
趣味特技を問われたと、思ってわたしは、
「時代劇は好きです。お侍さんが刀を振るうシーンはわくわくします。渋い忍者や綺麗な
くのいちの活躍も。印籠を出すと悪党が平伏する瞬間は、何度見ても胸がすーっとします。
教育テレビで剣道の達人が時代劇の殺陣を解説するのもよく見ます。動き一つで剣豪に
なれたり、素人に見えたり、面白いです…」
落語のお話しもしようかと思ったのだけど。
それを遮る様に直義さんがやや驚いた声を、
「健康な年頃の女子が何もしておらぬのか」
「当代最強の娘なら素養も余る程あろうに」
秀康さんが相づちを打って、景勝さんも、
「勿体ない。人生の無駄遣いを」「はぁ…」
千羽の人達は体育会系だった。人は特段の事情がない限り武道を嗜むと思っていた様で。
何もしてないと言う答にみんな不思議そうで。世間の常識は千羽の非常識なのかも知れな
い。
やや詰まったお話しを繋ぐのは女性陣で、
「羽藤の血には特殊な力が宿ると聞きました。貴女も羽藤の癒しの力を使えるのです
か?」
政子さんの問には、素直に首を横に振る。
彼女は千羽で元・癒し部の長だったっけ。
「わたしは、使えません。血は濃いと言われていますけど。柚明お姉ちゃんの様な人の傷
を癒したり夢に入れる力は、わたしはまだ」
その内身につけようとは思っているのです。
贄の血の匂いを自力で隠し傷を癒せる位は。
怠惰を指摘された様でやや肩身が狭かった。
「では血の匂い香って鬼に狙われても、身を守る武術の憶えもなく、為すが侭に血を吸わ
れて鬼に力を与えるだけで、何も出来ないと言われるのか。あなたは?」「は、はい…」
雅さんの突っ込みは、かなりきつかった。
確かにわたしは濃い血を持つけど、血が宿す力を使えない。柚明お姉ちゃんより濃い血
なら、わたしは戦って己を守れる上に、お姉ちゃんより人の役に立てる可能性もあるのに。
何一つ武道も習ってなくて、鬼どころか痴漢や不良学生に絡まれても切り抜けられない。
誰かの負担になるばかりで、誰かの足手纏いになるだけで、誰も助ける事も出来なくて…。
「叔母さんは、当主に千羽の事も羽藤の贄の血筋も、伝えていませんでした。それを伝え
る事は、彼女の忘れた過去を呼び起こす怖れがありました。心を壊す怖れがありました」
言葉を挟んでくれたのは柚明お姉ちゃん。
「わたしがオハシラ様を継いでご神木に宿った為に、当主に力の扱いを教える者は居ませ
んでした。祖父祖母もなく、父も兄も失った当主は、哀しみの記憶を自ら封じたのです」
その声が哀しげなのは、自身の苦痛や哀しみではなく、わたしの哀しみを思い浮べてだ。
「千羽を、羽藤を、過去を思い返させる事が、心の鮮血を呼び招く。心の深手を負った幼
子を前にした、叔母さんの苦衷をお察し下さい。鍛えて強くなれるのは、ある程度元気に
育った後の話しです。当主はその前に既に途を断たれていました。けが人は鍛えられませ
ん」
彼女には普通の子供として育って、平凡でも確かな幸せを掴んで欲しい。強さ迄は求め
ない。それがわたしと叔母さんの願いでした。
「当主の育ちについて、当主と真弓叔母さんには、負うべき罪も責も咎もありません…」
「別に、羽藤の在り方を責める積りはない」
直義さんが静かに口を挟むけど、それは直義さん1人の見解に思えた。少なくとも貴久
さんと雅さんは明らかにその見解と別向きで、
「まともに己の身も守れぬ役立たずの現状に、違いはなかろう。当代最強の鬼切り役の娘
が、鬼どころかそこらの犯罪者からも身を守る術も持たぬとは。縁続きな事が情けないわ
ね」
役立たず……。きつい言葉に黙り込むと。
雅さんの言葉に貴久さんがより強い声で、
「娘がそうなら母もそうだ。お役目を返上した時点で、当代最強でもなければ鬼切りでも
ない、唯の役立たずに堕していたのだろうに。鬼も切らずに、その後も生き恥を晒し続
け」
「これ、口が過ぎる。烏月様の客人の前で」
直義さんが発する言葉は耳朶を滑り行く。
生き恥……。お母さんのわたしとの日々や、拾年前以前の羽様での日々が、生き恥な
の?
わたしが向けた視線の問を貴久さんは分った様で、わたしに強い正視を返して口を開き、
「鬼を切る以外に値のない千羽の鬼切り役が、鬼を切らなくなったなら、役立たずで生き
恥以外の何であろうか。自決でもしてくれれば、未だ若杉に対して面目も立った物を、全
く」
おめおめと生き延びた上で禍の双子を生んで、生家にも千羽の家名にも泥を塗りおって。
「役立たずじゃ、ないです……!」
心が沸騰していた。胸の動悸を抑えられなかった。烏月さんに逢いに来たこれ迄の経緯
も、お姉ちゃんが間近な事も吹き飛んでいた。視界が真っ赤だった。それはわたしのたい
せつな物を汚された怒りで、貶められた憤りで。
「お母さんは、役立たずでも、生き恥でもありません……。わたしが知るお母さんは、確
かに鬼は切ってなかったけど、だから値打ちがないなんて、そんな無茶苦茶な、酷い事」
頭も身体も熱く激しく血が駆け巡っていた。
背後から抱き留めてくれる腕が邪魔な程に。
「鬼を切れなかったら、値がないというの?
戦う事以外、お母さんに値はなかったの?
お父さんと結ばれて、わたし達を生んで育ててくれた日々が生き恥だなんて。この拾年、
お母さんはわたしを一生懸命育てて支えてくれました。漸く思い返せた拾年前迄も、お父
さんを愛し、白花お兄ちゃんや柚明お姉ちゃんや、サクヤさんやお祖母ちゃんと、仲良く
羽様で暮らしていました。みんなに頼られて、愛されていました。役立たずじゃないで
す」
わたしはひ弱な役立たずが事実だけど。
わたしは何と言われても呑み込むけど。
お母さんを蔑む言葉を放置は出来ない。
「鬼を切らなくても、お母さんはわたしのたいせつな人です。生き恥でもありません…」
「千羽では役立たずなのよ。鬼を切るしか能がない、鬼を切る以外何一つまともに出来な
かった千羽真弓は、お役を返上しその姓名を変えた時点で、生き恥で役立たずな物なの」
鬼に魅惑されて鬼に寝返り、千羽を捨てた恥知らず。雅さんの声は冷たく硬質に響いて、
「千羽は鬼を切る家よ。それを為せなくて千羽の者の人生に何の意味があるというの?」
「鬼を切る事だけが人の値じゃありません」
「己の身も守れず常に誰かに守られる者が」
貴久さんの言葉が冷然と響いて心を抉る。
「烏月様に何度も鬼から守って貰えた身で何を言うか。弱くて鬼も切れぬ役立たずだから、
守って貰うしか術がなかったのであろうが」
鬼切部を抜けたお前の母も、唯守られるだけの一般人に堕したのだ。鬼を切る使命を捨
てた故に、その人生の値も同時に捨てたのだ。その後に何が残っている物か。正に生き恥
よ。
「切るべき鬼と意気投合し、千羽の使命を抛り捨て、己の定めから逃げ出して。どこの馬
の骨とも知れぬ男の元に転がり込んで、勝手にまぐわい、生家の家名に泥を塗り。その息
子は千羽の先代を惑わせて禍を招き、娘も千羽の当代を惑わせ、更に面倒を持ち込んで」
お前は誰のお陰で今無事を保ち、これからも守られると思っているのだ。まともに己を
守る力も技も持たぬ身で。母親や兄と同様に、己が生き恥である事を理解しておらぬのか
…。
「弱き事、鬼を切れぬ事、守られる事は千羽では悪なのだ。恥なのだ。侮蔑の対象なのだ。
嘲られて当然な罪なのだ。くたばったお前の母も、兄もお前も、役立たずの生き恥だっ」
「違います! お母さんは、お母さんは…」
憤激で涙が零れそうになる。胸に詰まった怒りと哀しみで、言葉も想いも紡ぎきれない。
そんなわたしの正面の嫌な物全てを視界から消し去って、受け止めてくれる柔らかな肌は、
「……桂ちゃん、お願い。心を鎮めて……」
お姉ちゃんに正面から抱き留められていた。
薄い青のパフスリーブのワンピースが、わたしの憤りを受け止めて、包み込んでくれる。
周囲の人達の驚きの感触も伝わってきた。
でも今はそれに気を配る心の余裕もなく、
「お姉ちゃん……わたし、わたしっ……!」
昂ぶってぶるぶる震えるこの身も心も抑え。
首筋にこの左頬を当て耳元に穏やかな声を。
「桂ちゃんは何も悪くない。桂ちゃんのお母さんも白花ちゃんも何も悪くない。生き恥で
も役立たずでもない。強くて綺麗で優しい人。それはわたしが知っている。分っている
わ」
その時点で漸く、ノゾミちゃんもわたしを鎮めようと声掛けてくれていたと気が付いた。
憤激でわたし、自分以外何も見えなくなって。
公式の場でも人前でも、激して心溢れそうなわたしの為に、お姉ちゃんはわたしを正面
から抱き留めて。好意的じゃない人達の多くの目線を承知で、強く素肌を合わせてくれて。
「……わたしは良いけど、わたしは役立たずで良いけど。お母さんが、お母さんがっ!」
家族の事で人に責められて憤激するなんて、お父さんがいない事を男の子に執拗に言わ
れ、陽子ちゃんに助けて貰った小学5年生以来だ。まさか千羽の多くの人の前で、こんな
言い合いになって涙ぐむなんて、思ってなかったよ。
お姉ちゃんの綺麗な服に涙を擦り付け汚してしまう。でも今は、溢れた心を抑えられな
くて。むしろ今迄我慢してきた分の滴が、肌身に伝わる優しさで、逆に誘い出された感じ。
お姉ちゃんはわたしの気持を分っている。
お姉ちゃんは何もかも受け止めてくれる。
だからわたしも全部を預けて頼り切れる。
千羽の大人の前でも涙を拭い付けられる。
心の炎を包む込む声音はとても涼やかで、
「桂ちゃんの言っている事に間違いはない。
桂ちゃんの想いに何一つ間違いはないわ。
同時に、千羽の言う事も誤りではないの」
涙のピークが過ぎた処で、柚明お姉ちゃんの言葉に、わたしは瞳を上げて見つめ返すと、
「彼らには彼らの生き方があるわ。千羽が鬼を切る事以外に人に値を認めないというなら。
それが千羽の在り方なら。彼らが何を言おうと想おうと、責める事も阻む事も出来ない」
でも、わたし達は千羽ではない。羽藤なの。
お姉ちゃんはわたしを再度胸元に抱き寄せ、
「桂ちゃんが叔母さんや白花ちゃんに抱く気持は正解よ。わたし達は、鬼を切らなくても
強くなくても叔母さんを大好き。鬼に体も心も乗っ取られても白花ちゃんを大好き。いつ
迄も愛し続けられる。遠く離れても逢えなくなっても決して心は途切れない。千羽の人が
知らない値を、わたし達は抱き続けられる」
周囲の人達が、息を呑む様子を感じた。
貴久さんも雅さんも誰も言葉もなくて。
それは柚明お姉ちゃんの言葉の中身に?
それともこの抱擁の近しさにだろうか?
広い一室に、良く透る静かな声が響く。
「それが羽藤の在り方よ。千羽とは違うわたし達の生き方。彼らが千羽の見解を言いたい
なら好きに言わせておけば良い。わたし達はわたし達の想いを抱き続けるだけ。千羽にも、
羽藤の想いを責める事も阻む事も出来ない」
想いをぶつけ合わせる事は、不要だった。
譲らず曲げず、でも押し付ける事もせず。
柚明お姉ちゃんの在り方は、草木の様で。
ノゾミちゃんも思わず引き込まれていた。
「彼らにわたし達の想いを押し付ける事は出来ない。その代り、彼らも彼らの想いをわた
し達に押し付ける事は出来ない。立場が違えば物の見方は変る。鬼切り役を返上した叔母
さんは、千羽には不要な人だったのでしょう。でもわたし達には、鬼切り役であってもな
くても、叔母さんがたいせつな愛しい人だった。
彼らは彼らの道を行けば良いわ。わたし達はわたし達の在り方を保ちましょう。ね?」
お母さんが生前、なぜ千羽の実家を紹介しなかったのか、分った気がした。お母さんが
千羽から縁を切られ、駆け落ち状態になっても羽藤に嫁ぐと心を決めた理由も。こんな親
戚なら要らない。お母さんだけで充分だった。
二度三度、大人衆の誰かが咳払いして向き合うようにと促すけど、お姉ちゃんは分って
尚暫く、衆目の中で女の子同士の抱擁を続け。
わたしの落ち着きを見計らって、斜め後ろの定位置に戻ってから、大人衆の人に正座の
姿勢で頭を下げて、手を付いてお姉ちゃんは、
「わたしが勘違いしておりました」「ん?」
声音は尚穏やかだけど、やや冷たい気が。
「千羽の大人衆と名乗る以上、もう少し大人の対応をして頂けると、考えておりました」
初対面の場でこの様な非礼な言動を、平気で為してくるとは想像の外でした。最低限の
礼儀位は心得ている物と考えて臨みましたが、
「桂ちゃんに伝えておくべきでした。子供の口喧嘩にまともに答えても、意味は薄いと」
貴久さんと雅さんが、わたしと同じ歳位にしか見えない柚明お姉ちゃんに子供扱いされ
た事に、憤激の声や姿勢を見せるよりも早く、
「景勝さん。桂ちゃんを幾ら挑発し怒らせても無意味です。桂ちゃんは、心優しく賢い子。
幾ら自身を嘲られても、叔母さんや白花ちゃんを侮辱されても、わたしに実力による報復
を命じたり頼んだりする子ではありません」
わたしを戦いの場に引きずり出したいなら、わたし本人を挑発した方が、まだ宜しいか
と。
「えっ、お姉ちゃん」【ゆめい、あなた…】
そう言う事だったのか。これ迄の流れは。
わたしも言われて初めて気がついたけど。
景勝さんを初めとする大人衆も驚きに目を丸くして、即座に答を返せない。貴久さんも
雅さんも、子供扱いされた上に反駁の場も与えられず素通りされ、景勝さんの反応を伺い。
ノゾミちゃんの声がみんなに聞える様に、
「けいの弱さをつついて来たのは、けいを怒らせ、けいは何も出来ないから、結局ゆめい
に報復を頼み縋ると読んでの挑発だったのね。決裂させゆめいをけしかけさせる、又は戦
いを受けさせようと。千羽は、戦う気満々よ」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ノゾミちゃん、声に出すと聞えちゃうよ」
「良いじゃない、ゆめいが明かした事だし」
周囲が、微かにざわついていた。柚明お姉ちゃんはまっすぐ景勝さんを見据えて動かず。
景勝さんも彫像の様に身動きをせず。応えるべきは景勝さんの筈だけど、魅入られた様で。
「千羽はこの前の襲撃失敗を根に持っているのよ。下っ端でも千羽の拾数人を、1人で退
けたゆめいに報復したくて、手ぐすね引いて待っていた。鬼切り役のいない場を作ったの
は、そんな行いを彼女は絶対許さないから」
その為に同じ日に行事を重ね、予め分っていた渋滞に入り込み、遅れると事実を連絡し、
鬼切り役が行事に向かう様に事を導いてから、裏道を抜けて早く着く。早く着くとは決し
て連絡せず、裏道から裏玄関に通す事で、鬼切り役が気付かぬ様に、この広間迄誘い招き
…。
「烏月さん、今後は千羽党当主としての勤めにも積極的に関るって、言っていたものね」
先日の襲撃を防げなかったのは。金時さんや藤太君や菖蒲さんがわたし達の捕縛の命に
動いたのは。己が千羽党の当主として実務を見てなかった為だと。鬼切り役の実働にのみ
力を注ぎ、千羽党を統率してなかった為だと。烏月さんは真剣に悔やんでいた。それを今
から取り返そう、千羽党を確かに把握しようと。
烏月さんは、忙しい鬼切りの合間を縫って、千羽党の動きや判断や懸案に積極的に関ろ
うとして。自身だけではなく、千羽の他の鬼切りや鬼切り以外の動向や状態にも目を向け
ようと。それは本当に大変だけど、烏月さんは、
『より千羽党の隅々迄見える様になったよ。
今迄見えなかった己の姿を見ている様だ』
疲れ気味でも充実した声で語っていたけど。
年少部の修行成果発表に立ち合うと言うのもきっとそう。今迄は誰かに任せていた事を、
今後は自ら見ますと。深く関る事は時間や気力を消耗するけど、それに応じた成果を残す。
烏月さんに直に見て貰えた少年少女は、大いに勇気づけられる。当主に直に事をお話し
出来れば、大人でもやる気が湧くだろう。こんなに賢く強く、努力家で真面目な人だもの。
「そこを逆に突かれたのよ。大人って老獪ね。実務に慣れてない鬼切り役を、実務で囲ん
で巧くあなた達から遠ざけた。彼らの思惑では、泣き出したけいが頼むか、それを見かね
たゆめいが激怒して、千羽に、役立たずじゃない、弱くない処を見せようと戦いを申し込
むと」
後で鬼切り役に弁明する為にも、羽藤の側から挑戦した形の方が良いのでしょう。ゆめ
いを千羽の精鋭で叩き潰して気分爽快な処に鬼切り役を迎え、その様を見せつけたかった。
「けいとゆめいに嫉妬しているの、彼らは」
あなた達に鬼切り役の心が傾いて行くと。
ノゾミちゃんはわざわざ声が聞える様に、
「さて、喝破された千羽はどう動くかしら」
なぜお姉ちゃんが、ノゾミちゃんの同伴を頼んだのかが分った。お姉ちゃんが誰かに全
力で応対する時に、事の流れを把める聡いノゾミちゃんがいてくれると、わたしが助かる。
時代劇で言えば悪巧みを喝破され、平伏するか逆ギレて『であえであえ』の場面だけど。
千羽党の大人衆は一筋縄では行かない相手で、景勝さんは喝破された事をなかったかの様
に、
「柚明殿は羽藤白花と近しい間柄だとか?」
己への求めに応えず素通りし、柚明お姉ちゃんに重厚に穏やかな声音で問いかけて来て。
「さすがは大人ね。厚顔無恥も使いようよ」
「ノゾミちゃん、声が聞えているってばっ」
「私は彼らに聞かせているのよ、けい……」
「桂ちゃんと双子ですから。羽藤白花は羽藤桂と同じく、羽藤柚明の一番たいせつな人」
柚明お姉ちゃんは怯みも迷いもなく応え。
左右の男女も大人衆も息を呑む様が分る。
お姉ちゃんが、様々な事情を承知で言いきったと分るから。千羽の憎悪も恨みも承知で
言い切ったと分るから。まっすぐな憤りより、敢て言い切るのかという当惑も混ざってい
て。
「一番たいせつな人、ですか……。貴女は彼を、羽藤白花を、好いて、いたのですか?」
政子さんの問は、むしろわたしの心にさざ波を立てた。斜め右後方に耳を、そばだてる。
白花ちゃんは拾年前、柚明お姉ちゃんを大好きだった。わたしも大好きだった。でも今
のお兄ちゃんは年頃の男の子だ。子供の愛と違う愛をお姉ちゃんに抱いてもおかしくない。
お姉ちゃんも年頃の女の子だ。それに大人の愛で応えても不思議はない。夏の経観塚でも、
2人はお互いに生命を注いで相手を想い合っていた。唯それが、家族の愛か男女の愛かは、
柚明お姉ちゃんがわたしとお兄ちゃんのどちらをより愛しているのかは、遂に訊けなくて。
だからこの問への答は気になった。心の緊張はノゾミちゃんには多分丸見えだろうけど。
振り向いて、応えるお姉ちゃんの瞳を間近で見つめて聞きたい気持を抑えるのが精一杯で。
お兄ちゃんはもうオハシラ様になったけど…。
耳に注がれる平静な声はやや沈んでいた。
「愛しております……桂ちゃんと同じ様に」
「家族として? それともオトコとして?」
雅さんの問はやや意地悪にも聞えたけど。
「全ての意味を込めて愛しています。桂ちゃんと同じく白花ちゃんはわたしの一番の人」
お姉ちゃんは大人衆と違って答を拒まず。
でもお姉ちゃん、その答って、わたしも?
「ハシラに懸想する鬼と、鬼を恋い慕うハシラか。異形同士、獣の如き性愛よのう。いと
こ同士の血の近しさも弁えず、穢らわしい」
貴久さんが再び口を挟んできて。お姉ちゃんに答を求めるのではなく、脇に首を向けて、
「羽藤は鬼に通じる家系。観月の娘との関りに始って、鬼に取り憑かれても祓う気力もな
い当主や、鬼を宿した男と交尾を望む娘。鬼に力を与える贄の血の存在が脅威である以上
に、鬼に心通わせるその在り方が問題だな」
「戦う力も気合も持たず、鬼に心を蚕食され、抗う術もなく生きた侭食されても、そうと
気付かずに。もう片方はハシラを中途で止めて放り出し、逃げ帰ってきた役立たず。烏月
様も惑わされて関係を持ったとしか思えない」
雅さんも柚明お姉ちゃんを横目に見つつ、
「せめて鬼に取り憑かれた、助けてと素直に縋ってくれるなら、ましな物を。烏月様と逢
えた偶然を良い事に、己を守る力も持たぬ役立たず共が、生き恥晒し鬼を憑かせ平然と」
「我らの手で、鬼を祓ってやってはどうかの。同時に鬼を呼ぶ羽藤の気質体質を変える為
に、多少気合を入れて差し上げるというのは…」
「それも鬼切部千羽党の勤めかも知れぬな」
わたしの挑発に失敗した彼らは、柚明お姉ちゃんを挑発に掛っていた。お姉ちゃんの問
には答えずいつの間にか移行していた。大人は話しの運びも巧く、しかもお姉ちゃんが挑
発に乗らないなら、千羽から戦いを挑もうと。
「その腑抜けた根性、叩き直して進ぜよう」
雅さんが動き出そうとして、ノゾミちゃんが緊張に身を固めた時だった。お姉ちゃんは、
「景勝さん、これが千羽の在り方ですか?」
雅さんや貴久さんのやりとりを素通りして、この場の最高責任者の見解を問う。お姉ち
ゃんは私的なお喋りの形を取った2人の嘲りに、まともに応えるに値しないと顔色一つ変
えず。無視された憤りを2人が返す前に更に続けて、
「人に仇なす怪異を討つのが鬼切部の使命と、わたしは烏月さんから聞きました。人に仇
なさない鬼も討ち、人に害なさない者の根性を叩き直すのがあなた達の在り方ですか?
ならあなた達は、千羽党でも鬼切部でもない」
鬼切部千羽党の鬼切り役にして当主の言葉が間違いないなら、大人衆の言葉が間違いに
なる。確かに、柚明お姉ちゃんの言う通りだ。
「過去にもそんな者がいたとは聞いています。人に害をなした訳でもない、鬼切部に協力
してきた鬼の村を新月の夜に焼き討ちし、女性1人を残して皆殺しにした、千羽党を名乗
る集団がいたと。鬼切部に良く似た紛い物が」
広間全体の空気がまたもやざわっとした。
左右の鬼切りの人達が、今にも柚明お姉ちゃんに飛び掛ってきそうな、憤りを漲らせて。
お姉ちゃんの声は怯えもなく強く透って、
「千羽党は、過去の過ちに向き合える方々でしょうか。過ちを認めて受け止められる心の
強さをお持ちでしょうか。叔母さんはそれを受け止めました。若杉や千羽が隠す鬼切部の
過ちを探る1人のルポライターを、鬼だと抹殺を命ぜられ。彼女と戦う中でその真相に辿
り着き、鬼切部の在り方を外れた行いに疑問を感じ、抹殺の使命を返上しました。分家出
身で千羽全体を動かせなかった叔母さんには、それが精一杯の誠意で抗議だったのでしょ
う。
あなた達はどうですか? あなた達は何と戦い誰を守るべきか確かに応えられますか?
あなた達は何者ですか? 誰の為に、何を為すべき者達ですか? お答え、願います」
沈黙が広間を支配した。左右も前も誰1人囁く声もなく静寂を保つ。お姉ちゃんの問は、
烏月さんの言葉に従うか否か、烏月さんが信じた鬼切部の在り方に従うか否かの問だった。
それを否定するのなら、彼らはわたし達に切り掛れる。若杉の一部に鬼扱いされた柚明
お姉ちゃんも、ノゾミちゃんと心通わせ共に生きて行くわたしも、鬼で敵だと言い切れる。
サクヤさんが若杉や千羽を嫌う気持が分った。わたしも烏月さんや葛ちゃんとの関りがな
ければ、親戚でもこんな人達とは関りたくない。
暫くの沈黙の後で口を開いた景勝さんは、
「貴久、雅、戯れが過ぎる。折角の客人を本気で怒らせては、笑い話にもならぬぞ……」
またもや大人衆は論破された処で口を噤み、話しを有耶無耶に。お姉ちゃんの問に応え
ず、何もなかった扱いで。ノゾミちゃんが唖然とする感触をわたしも共有した。この人達
は恥知らずだ。人にきつい問を発しつつ、それを受けての反問が、己に都合悪ければ応え
ずに流す。とても誠意ある大人の応対に思えない。
「暫く、口を閉じておれ!」「「ははっ」」
事が動き出したのはその直後からだった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「義兄上、もう宜しいでしょう。羽藤は激情で誘き出される愚者ではない。もう余り時間
もない。この上は正面から挑戦すべきです」
景勝さんを向く直義さんの語調には、貴久さん達の挑発への微かな嫌悪を感じた。わた
し達に好意を抱く迄は、行かないけど。景勝さんは是も非も応えず、黙してそれを聞いて。
「柚明殿、桂殿。先日は我が千羽党の雑兵が若杉の命を受けて、貴殿らの宅を襲って撃退
され申した。我らも後で烏月様に説明を求められ、きつくお叱りを受けた処だが。さて」
景勝さんは、又別の話しに移っちゃった。
これ迄のお姉ちゃんへのお話しや、それを受けてのお姉ちゃんの問い返しに一切触れず。
「雑兵でも千羽党の拾六名。鬼切りの補助を為す為に、武技は身につけておる。剣道でも
柔道でも合気道でも、常の人に劣る筈がない。彼ら全てを柚明殿1人で退けたと聞いた
が」
今度は先日の襲撃のお話しを振ってきた。
お姉ちゃんは、これも又柔らかに受けて。
両手を付いて頭を垂れて、謝罪の姿勢を。
「その節は、申し訳ありませんでした。桂ちゃんのたいせつな人である烏月さんの仲間に、
痛みを与えてしまいました」「いやいや…」
景勝さんは鷹揚に手を振って、謝罪は不要と応え。当然だけど。わたしのたいせつなお
姉ちゃんを襲って撃退されて、痛い想いをしてもやむを得ないと、人並み以上にのんきな
わたしが思う位で。お姉ちゃんお人好しすぎ。藤太君や菖蒲さん達も、悪い人ではないけ
ど。
「問題は我らが痛みや傷を負った事ではない。我らの襲撃が失敗に終った事、柚明殿に千
羽党の拾六人が撃退されたという事実の方だ」
景勝さんは、柚明お姉ちゃんがそれ迄の問に答がない事に食い下がらず、逸らした話題
に応える流れに、重厚な容貌にほっと笑みを。
「柚明殿は、武道を何か学んでおられたのか。烏月様からは、柚明殿は青い力を扱え、傷
を癒し鬼を退けると聞いたが。日中は化外の力は身の外に出せぬ筈。昼に身を守る術の有
無は聞いておらなんだ。柚明殿の技はまさか」
「護身の技です。真弓叔母さんに鍛えて頂きました。たいせつな人を確かに守れる様に」
お姉ちゃんが肯定した瞬間、大人衆だけではなく、左右に控える男女もざわつき始めて。
わたしのお母さんが元鬼切り役だったという話しは、夏の経観塚であの後教えられたけど。
今迄沈黙を守っていた巨漢の長政さんが、
「鬼切りの業を、彼女が貴女に教えたと?」
お姉ちゃんはその問には首を横に振って、
「いいえ。鬼切りの業はわたしの技量では極めるのが困難ですし、わたしは鬼切りを目指
した訳ではありません。わたしの望みは倒す事ではなく守る事。敵を討ちに出向く鬼切り
の業と、たいせつな人をいつでもどこでも守りたいわたしの望みは、目指す方向が違いま
す。叔母さんには、鍛えて頂きましたが…」
わたしの技は鬼切りの業ではありません。
「ふむ。鬼切りの業ではない技で、鬼切部を退けたか。となると、一層話しは厄介だな」
秀康さんが髪の毛のない頭をさすりつつ、
「雑兵とはいえ鬼切部が、一般人に敗れて退けられるなど、あってはならぬ。鬼切りの業
が流出していたなら、それも大問題になる処だったが。その心配がなくなった反面、今度
は金時達の失態と弱さを責めねばなるまい」
「金時さん達、更に罰を受けるんですか?」
金時さん達は悪意でお姉ちゃんを襲った訳ではない。命令に従っただけだ。生命を奪う
積りもなかった。お姉ちゃんも逆らう事の出来ない鬼切部の事情は心得ていて恨みもなく。
襲撃の日の修復作業から、藤太君や菖蒲さん達と心通わせ。わたしにも怖がる事はないと。
お話ししてみるとみんな誠実な人達だった。
だからこそみんな命令に誠実に従ったのだ。
対立する事情が解ければ憎み嫌う事はない。
烏月さんの仲間ならわたしもたいせつな人。
未だ拾四歳の藤太君や、わたしと同じ歳の黒髪ショートな菖蒲さんは、鬼切部の任務に
今回が初参加で。凄く緊張し、柚明お姉ちゃんのたおやかさ、美しさに気後れしたと苦笑
いして。この経験を今後に生かそうと語って。
烏月さんは金時さん達に重罰を考えたけど、わたしとお姉ちゃんのお願いで寛大な処置
にして貰った筈だ。罰されるべきは、指示を下した若杉の中堅幹部や、千羽の大人衆の方
だ。
わたしの瞳の問に応えたのは秀康さんで、
「烏月様が下したのは、任務失敗に伴う罰だ。今の話しは、その様な弱き雑兵を鍛え直し
て性根を入れ替え、強くする修行の話し。罰ではない。まあ、やる事は似た様な物だが
…」
「どうかな。その技を少し披露して貰う事は出来まいか。雑兵でも千羽の拾六人を退けた
技量は気になっての。ここに揃うた鬼切りも、柚明殿の武技を見たいと臨席した様な物
…」
景勝さんがわたし達の視線を左右に誘いつつ問いかける。言葉に導かれる様に、栞さん
を含む左右の剣道着の男女はみんな、正座の姿勢から頭を下げて、お願いしますの姿勢に。
【とうとうゆめいに正面から挑んできたわ】
その求めにお姉ちゃんは、柔らかな声で、
「精強なる千羽党の皆様に、披露できる様な技ではございません。所詮は女子の細腕…」
「その精強なる千羽党を退けたのは貴殿ぞ。
見て参考にしたいのだ。野にその様な技があるなら、我らも参考にせねばなるまいて」
鬼切りの業も進化する。新たな強者に出会えばその技や力を見て憶え、己の物と為して
行く。そうせねば我らも時代遅れの遺物になってしまう。我らが今後も鬼切りの力を増し、
人の世の平安を守り続ける事は貴殿達の望みでもあろう。烏月様も更に強くなり、それを
補佐する我らも更に強くなる。桂殿どうかな。
「貴殿や貴殿のたいせつな人の平穏を守る力が増す事は、貴殿の望みにも叶うと想うが」
どうか、柚明殿との試合をお許し頂きたい。
景勝さんは初めて、頭を下げて頼んできた。
「えっ、えっと。その……」
景勝さんは私怨ではなく、人の世を守る鬼切部の進歩の為に、お姉ちゃんの技を見たい
と頼んできた。烏月さんや烏月さんを助ける人達が強くなる事が、強さを求め続ける事が、
世の平安を保つ為に必要だから、試合に応じて欲しいと。主張は理解できた。最初から良
好な関係だったなら、承諾したかも知れない。
「簡単には、了承できません……」
いやですと言い切るのも波風を立てそうなので、拒絶の言葉もやや弱く。千羽の人が羽
藤に好意を抱いてない事も、柚明お姉ちゃんに先日の報復を欲している事も、分った後だ。
試合となれば、お姉ちゃんも痛い想いをしかねない。良好な関係でも、躊躇いがある処だ。
「別に生命迄取ろうとは、思っておらぬ…」
柚明殿の技を見せて頂く為に、我らの側も打ち込んでみる。その程度とお考え頂きたい。
「この後で烏月様との会見もある。それに響かぬ様に、時間も掛けず危険もない程度に」
秀康さんも髪のない頭を撫でつつ温厚に、
「千羽党に守られる世の中の無辜の人々の為、烏月様の為と思うて、受けてはくれぬか
な」
「ううっ、そう言われると、断り難い……」
【けい、しっかりなさい。言葉だけじゃなく、姿勢や顔つき、今迄の流れからも相手の真
意を掴み取るの。あなたが流されてはダメよ】
千羽党はゆめいよりけいが与しやすいと思って、ゆめいの事をあなたに振ってきたのよ。
「柚明殿は桂殿の承諾がなければ試合に応じてくれなさそうでな。確かに当主の前で当主
の承諾もなしに勝手に受ける訳にも行くまい。真意が受諾であっても桂殿の承諾は必要
…」
「わたしへの求めはわたしに願います。桂ちゃんに責を負わせる物言いはお止め下さい」
お姉ちゃんが声を挟んだ瞬間。景勝さんはくわっと眼を見開き、わたしが竦む大音声で、
「俺は今当主に問いかけておるのだ。従者が勝手に口を挟むではない。非礼であるぞ!」
直後、お姉ちゃんの啖呵が切り返されて。
「当主への問なら、当主からに願います!」
相手に非礼を問う資格はないと、叩き返す。
お姉ちゃんの声は初めて微かな怒りを含み、
「羽藤は千羽の臣ではありません。小さくても関係は対等。千羽の当主でもない者の問に、
羽藤の当主が答を強いられる必要はありません。千羽の当主はいつ見えられるのですか?
羽藤の当主をいつ迄待たせるのですか?」
景勝さんの答はない。またもや自分の都合悪い問に答えず、黙り込もうとする大人衆に、
「千羽は名門と言いつつ、礼儀も弁えぬ東夷(あずまえびす)ですか。桂ちゃんが本来応
える必要のない側用人の雑談に、好意で応えたにも関らず、非礼な言動の限りを尽くし」
景勝さん。柚明お姉ちゃんはそこで、敢て板に両手を付いて、頭を垂れて、声音を強く、
「千羽の憤りを、恨みを、哀しみを、憎しみを叩き付けたいとお望みなら、そう仰って下
さい。わたしを叩き潰して鬱憤を晴らしたいと願うなら、そう申して下さい。わたし達が
千羽を訪れたのは、千羽の皆様の想いを確かに受け止め、羽藤の想いを届かせる為です」
羽藤がこれ迄に為した事は、謝罪や賠償で済ませられる事ではないと、分っております。
甚大な損失や、哀しみや苦痛を与えた立場も、分っております。でも、いえ、だからこ
そ!
「羽藤は千羽に、償いをしなければならない。わたし達は白花ちゃんに代って、千羽の皆
様の想いを受け止めなければならない。怒りも、哀しみも、苦しみも、絶望も、やるせな
さも。
それは羽藤が千羽に与えた物です。千羽から羽藤に返されなければならない物です。そ
の回収は羽藤の義務です。白花ちゃんの身内として、彼を愛した者として捨て置けない」
痛みから逃げる積りはありません。千羽の望む以上の償いは為す積りでいます。その為
にと求められる事を、拒む積りもありません。
「復讐の為に立ち合えと、申して頂ければ」
罪に応じた罰を下すと、申して頂ければ。
わたしは桂ちゃんを説得して応じたのに。
「叔母さんを侮辱して、桂ちゃんを侮辱して、ノゾミちゃんを一方的に祓おうとして
…!」
羽藤の側が抱く怒りも、ご理解頂きたくて。
届かせたくて、本日は千羽を訪れたのです。
胆力もある千羽党の年配者が皆、お姉ちゃんの初めて見せる怒気に気圧されて、沈黙し。
「罪も犯さず人を害した事のない桂ちゃんを、問答無用で襲って連れ去ろうとした千羽党
に、わたしが憤りを感じてないとお想いですか」
たいせつな人に、一方的に危害を加えようとした者に、何の蟠りもないとお考えですか。
いつも優しく穏やかな、柚明お姉ちゃんの弾劾は、傍で聞くわたしが震える程に鋭くて。
「思惑や策略は不要です。挑発や侮辱はあなた達の品位を下げるだけです。千羽の真の想
いで求めて下さい。景勝さんの真の想いで求めて下さい。お話しは、そこから始ります」
床に額を付いた侭動かずに答を待つ。答を本当に求めているから、貰える迄待ち続ける。
これでは景勝さんも応えない訳には行かない。
「これは、一本取られたかも知れませぬな」
長政さんが沈黙を破ると秀康さんも頷き、
「義兄上、もう宜しいでしょう」「景勝殿」
直義さんに加え政子さん迄が景勝さんに。
柚明お姉ちゃんに、応えるべきと促して。
貴久さんと雅さんは、口を閉ざしている。
黙っておれの暫くは未だ続いている様だ。
景勝さんは、彫像の如く身動きをせずに。
漸く口を開くけど、またもや答を返さず、
「八傑を招き入れろ」「はっ」
左右に控えていた剣道着の男性が2人立ち上がり、わたしが入ってきた後方の戸を開く。
現れた男女数人の先頭は、為景さんだった…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「栞さんも、鬼切りなの?」「ええ、まあ」
栞さんと茜さんと友加里さんと小町さんと、柚明お姉ちゃんとノゾミちゃんとの夕食時
に。わたしはさっき出た千羽党の話を訊いていた。
「どこの党も鬼切りは、鬼切り役とそれ以外に二分されるの。千羽党では烏月様が鬼切り
役で、私の様な鬼切りが五拾名弱いて、他に鬼切りに至らない兵卒が九拾名程いるわ…」
金時さんや藤太君や菖蒲さんの様な人か。
「どこの党にも共通する役は鬼切り役だけで、他の鬼切りは、基本役なしの下っ端だけ
ど」
「それでは困る時もあるの。鬼切りにも新米やベテラン、腕の強弱もあるから。基本は基
本として、鬼切り役に近しい腕を持つ強者と、そうじゃない者の扱いを分ける必要があ
る」
あ、この煮物美味しい。茜さんの舌がお姉ちゃんの煮物に向いた穴を、小町さんが埋め、
「千羽では鬼切り役に近しい、その職も代行可能な強者という事で、八傑という役を設け
ているの。8人の強者。常に8人揃った訳でもなく、時々空席もあった様だけど。ん?」
「八って、末広がりで縁起が良い数字だね」
わたしの言葉に小町さんはニッと笑って。
「まあ、それが起源って説もありかもねぇ」
通説は、源頼朝を助け鎌倉幕府創設期を支えた千葉氏を始めとする名門『関東八館(や
かた)』に因んだとか、鬼切部千羽党が発足した当初管轄していた板東八カ国に因んだと
か。八館筆頭の千葉氏は千羽氏の本家筋なの。
「烏月様も一年半前迄八傑のお1人でした」
友加里さんが補足してくれる。烏月さんも修行して強くなったのなら、鬼切り役になる
前があると。なるほど、確かにその通りです。
「八傑も8人いれば、それぞれに力量差があってね。本当に鬼切り役に代れる、互角に近
い力量を持つ者から、ヒラの鬼切りより強いけど、八傑ではやや見劣りする者迄色々で」
役ではないけど、八傑の中で特に強い者を『三強』と称しているの。3人いれば三強で、
2人なら二強で、みんなが概ね強いと認めた者を別格扱いにして。今は3人だから三強と。
「烏月様も鬼切り役に就く迄、1年程三強のお1人でした。烏月様が鬼切り役に就いて八
傑を抜けた為、暫く二強になっていましたが、3ヶ月前に1人、八傑の中でめざましく腕
を上げた者がいた為に、三強に戻っています」
友加里さんの説明にうんうん頷いてから、
「栞さんは、その、千羽党の中では……?」
瞬間、栞さんを除く三人に、触れては拙いとの感触が走り抜けたけど。栞さんは平静に、
「私? 八傑には入れてないわ。ヒラの鬼切りよ。一度推挙を受ける処迄は行ったのだけ
どね。鬼切り迄なれる者に女子は少ないから、明良様や烏月様に良く目を掛けて頂いたけ
ど。
一緒に戦いに出た事も、余りないわ。私の力量不足で、鬼切り役の戦いについて行けな
くて。あれ程の技量の持ち主の相方を務めるのは大変なの。限界という物を、感じたわ」
努力だけでは届かず越えられない壁もある。
誰でも金メダルを取れる訳ではない様にね。
努力の果てに血筋や素養の差が見えてくる。
努力を届かせる血に恵まれた人は羨ましい。
烏月様や楓の様に努力で想いを叶えた人は。
そう言われると、贄の血の濃いわたしとしては、わたしより薄いのに頑張っている柚明
お姉ちゃんを前に、ちょっと肩身が狭いです。
千羽では、烏月さんに次ぐ鬼切りの強者達、千羽の八傑と呼ばれる男女が目の前に現れ
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
一列に入ってきた狩衣姿の男女は、わたしと柚明お姉ちゃんの左側にその侭腰を下ろす。
大人衆を左に見て、壁を背にした剣道着姿の鬼切り達を背に、わたし達に向き合う感じで。
高校生位の男の子や、社会人らしい男性数人に、栞さんや紅葉さんと同じ位の年頃の女
性も1人、そして最年長は先頭の為景さんで。
「千羽の八傑でござる。千羽党では、鬼切り役である烏月様に次ぐ猛者達。雑兵拾六人を
1人で苦もなく退けた柚明殿には、並の鬼切りでは、相手に不足があると思うて揃えた」
景勝さんはもうお姉ちゃんの答は聞かず、
「八傑も柚明殿の噂を聞いて、是非手合わせ願いたいと申してな。逸る彼らを抑えるのが
大変だった。8人全てと立ち合えとは申さぬ。誰と戦うかは柚明殿の選択にお任せしよ
う」
つまりこの中の誰かとは戦えという事か。
選択の幅はないに等しい。みんな強者だ。
「義兄上、拙い。……千代が、来ておらぬ」
もう否とは言わせぬとお姉ちゃんに対戦の受諾を迫る景勝さんに、直義さんが耳打ちし。
「本当だ」「確かに、7人しかいない様ね」
栞さんの話では八傑に現状欠員はいない。
つまりこの場に1人来てない人がいると。
またもや大人衆がざわめき、景勝さんの、
「どうなっているのだ?」「申し上げます」
苦々しげな問に頭を下げて答を返したのは、入室した八傑の中で一番若い、わたしと同
じ歳位の男の子だ。明るいブラウンの艶やかな髪を自然に伸ばしていて、やや細身で美男
だ。
「千代は、因縁の相手をぶちのめすと言って、部活剣道の練習試合に、行ってしまいまし
た。時刻迄に戻ると言い残していきましたけど」
間に合わなかったらしい。景勝さんの重厚な表情が睨みつけるけど、男の子はわたしが
竦みそうな目線の圧力を受けても尚自然体で。だって己の事じゃないもんと顔が語ってい
た。
「青城、であったかな? 相手の高校は…」
「谷原さんが余計な知恵を付けるからです」
「何、活きの良い若人の求めに応えた迄よ」
事情を知る八傑達が囁き声を交わす。ざわめきは大人衆でも左右に控える鬼切り達でも、
「たいせつなこの場に遅参するとは、幾ら経久様や千鶴様のお気に入りでも、流石に…」
「烏月様が抜けて八傑の女子が楓様だけになったとはいえ、未だ八傑には早すぎたのだ」
「受けた屈辱を自力で何としても取り返そうとの覇気は、認めても良いのではないかの」
事が巧く流れて行かぬ事に苛立ったのか、
「良い。どうせ千代は末席だ。7人いれば充分、この中から相手を見繕って頂く。羽藤の
当主桂殿と従者の柚明殿だ。各々挨拶せよ」
景勝さんはざわめきを叩き伏せる大音声を上げ、わたしはまたまた身を竦めて。憤怒を
込めた強い促しに、八傑の7人は威儀を正し、
「千羽党八傑の七席、千羽秀輝、高校2年生。羽藤白花とやり合いたかったな。女の子は
戦う対象じゃない。柚明さんだっけ、俺を指名したなら、痛い思いなく負けさせてあげる
よ。俺、大人しげな女の子には優しいんだ……」
やや悪戯っぽく軽い感じの男の子だった。
その右側は大学生位の背の高い男の人で、
「千羽党八傑の六席、千羽昌綱、二拾三歳。
烏月さんと楓さん以外の女を相手する積りは俺にはないね。敵じゃないから。手加減す
る気もないので、指名頂く際は覚悟願おう」
秀輝君も身長は百八拾センチ近かったけど、昌綱さんは更に拾センチ近く高い。切り揃
えた黒髪に容貌も整って、中肉中背で。女の子に人気のありそうなスポーツマンという感
じ。
「千羽党八傑の五席、千羽楓です。指名頂けたなら女同士でも遠慮しないのでご用心を」
綺麗な人だった。今迄にも栞さんや紅葉さんの話しの中で、何度か名前が出ていた様な。
同じ年代なのかな。弐拾歳代中盤から後半で、明るいブラウンの長い髪が艶やか。背丈は
烏月さんより少し高い位か。姿勢の基本が整って相当強そう。7人中唯一の女性。千代さ
んって人が入れば2人。八傑は男性が多いです。
「千羽党八傑の四席、東条誠八郎だ。君達の事は、烏月君から伺っているよ。彼女も中学
生迄は、明良様に代って僕が剣を教えた事もあってね。今回はやむを得ずこの様な仕儀に
なった。指名頂ければ全力でお相手しよう」
強さと温厚さを、兼ね備えた様な人だった。歳は弐拾歳代後半か。身長は昌綱さんと秀
輝君の間で成人男性にしては平均より少し高い。切り揃えた黒髪とその表情に誠実さが窺
えた。
「千羽党八傑の参席、谷原英治だ。あんたが羽藤白花の姉か。俺を指名したら、奴に受け
た屈辱を拾倍返ししてやる。覚悟しておけ」
黒髪のぼさぼさな細身の人だった。身長は秀輝君と同じ位だけど、それより手足が細く
長い。睨み付ける視線は、完全に敵意だった。技を見せて等という感じはもう欠片もなく
て。
「千羽党八傑の次席、三上俊基だ。この中でも、俺を指名する無謀は多分しないと思うが、
指名してくれたなら、全力でお相手しよう」
筋肉の塊の様な人物だった。身長は昌綱さんより更に高い。そり上げた坊主頭に、太い
手足は充分以上に長く。人の良さそうな笑みを浮べているけど、牛でも倒せそうな感じだ。
そして最後に、わたしのよく知った人物が、
「千羽党八傑の首席、千羽為景だ。年長者なので首席になっておる。柚明殿の技量は道中
見せて頂いた。素晴らしい胆力と知性の持ち主よ。儂も拾年若ければ惚れたかも知れぬ」
そう言えば、次席の三上さんは参拾歳代中盤な感じだったし、参席の谷原さんも参拾歳
代に見えた。これは強さの序列じゃないの?
「四拾四でも一応現役。宜しくお願い申す」
この人もニコニコ笑みを絶やさないけど。
いつも笑みを浮かべている人は実は怖い。
朝の最初からずっとお姉ちゃんの様子を観察していたんだ。柚明お姉ちゃんに対した時、
一瞬瞳の笑みが絶えた様な気がしていたけど。あれは錯覚じゃなかった。技量を探って、
一瞬驚いていたんだ。そしてお姉ちゃんは多分それを承知で、にこやかに受けて対してい
た。
【けい、一応挨拶を返しなさい】「あっ…」
考え事はひとまず心の棚に収納し、わたしは向き合った座布団の上で居住まいを正して。
鬼切部の人達の多くは、烏月さんの様に見鬼を使える。ノゾミちゃんの存在は視える筈だ。
「はい、羽藤桂です。よろしくお願いします。
あの、八傑の皆さん。今わたしに憑いている鬼はノゾミちゃんという、無害で可愛い鬼
なので、切ったり祓ったりしなくても大丈夫です。あと、柚明お姉ちゃんはわたしのたい
せつな人で、間近に抱き留められると暖かくて柔らかくて肌触りも滑らかで、甘いお花の
香りも漂う綺麗で華奢な人なので、対戦する時も出来るだけ痛くしない様お願いします」
この一言が拙いとわたしは全く分らずに。
「けい、あなた。又やったわね」「えっ?」
わたし、ノゾミちゃんと柚明お姉ちゃんの事を想って喋った積りだけど何か拙かった?
ノゾミちゃんの呟きに理由を求めるけど。
答より早くその理由は景勝さんの口から。
「羽藤の当主は、柚明殿が立ち合いを受ける事を了承頂けたか。話が早くて、有り難い」
「えっ? えっえっえっ」「そう言う事よ」
痛くしない様にと言う事は、試合を受ける事が前提なの。ゆめいは未だ、試合を受ける
事を了承していない。唯挨拶を交わすだけで、喋る順番をゆめいに回せば、ゆめいはゆめ
いなりの考えで話を運んでいた物を。あなたが、千羽のゆめいへの挑戦を受けてしまった
のよ。
「彼らの強引な進めに流されたり引っかけられるゆめいではないと思っていたけど、羽藤
には引っ掛り流される者がいたのだものね」
「そ、そんな。でっ、でも、柚明お姉ちゃんが未だ受けたと言わない限り、お話しはっ」
「当主が承諾した以上、羽藤家の者としては拒む訳には行くまいて。どうかな、柚明殿」
ううっ。景勝さんはわたしの承諾を命令の様に扱って、お姉ちゃんに試合の受諾を迫る。
千羽ではそうかも知れないけど、羽藤も同じく扱わないで。言葉の取消をお願いしようと、
口を開きかけた時だった。柚明お姉ちゃんが、
「受諾する前に景勝さん、まず全ての仕掛けを晒して下さい。わたしの答は、その後に」
大人衆の方にまたまたざわつきが広がる。
お姉ちゃんは、大人衆が戦いを強いる為に未だ何か仕掛けを用意済みと、見抜いていて。
景勝さんがお姉ちゃんの求めにまともに応えたのは、それが受諾を前提にして聞えた為か。
でもお姉ちゃん、立ち合いを受けちゃうの?
失言を訂正出来ない侭、訂正を割り込ませる余地がない侭、どんどん話しが進んでいく。
貴久さんの目配せで、左右に控えた鬼切りの男女が1人ずつ立って場を外し。数分の後、
さっきわたし達が入ってきた正面の入口から、今は左方向から、更に幾つかの人影が現れ
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「桂様、柚明様、お久しゅうございます…」
わたし達より高いけど、成人男性にしては低めな身長に、平凡な容姿に白髪混じりの薄
い髪。わたしも一度見知ったその中年男性は、
「金時さんっ! どうして、千羽の中でっ」
全身に殴打の青い痣を描き、血が滲んだ姿でよろめきつつ歩み来て。身体を縄で縛られ、
剣道着姿の鬼切りに引っ立てられ。金時さんだけじゃない。未だ幼さの残る藤太君も、女
の子の菖蒲さんも、同じ様に普段着姿の各所を破かれた感じで、見える素肌は青痣で、頬
も腫れて膨らんで、全身に鮮血が滲んでいて。
拾六人。わたしの家を襲撃し、柚明お姉ちゃんに退けられた千羽党の兵卒が、全員罪人
扱いで縛られ、時代劇の下手人の様に。女性も6人いるのに、普段着姿の時に酷い目に…。
「どういう事ですかっ、景勝さんっ……!」
問うていた。金時さん達はわたし達の家を襲撃したけど、命令に従っただけで、恨みも
憎しみもなく。襲撃が中断された後は、お話ししてみると誠実で、みんな悪くない人達で。
わたし達にも快く応対し、家の修復に力を尽くしてくれて。偉くないけど、強くないけど、
目の前の不誠実な大人衆よりずっといい人で。
わたしの問に景勝さんは瞳を横にずらして、答弁を貴久さんに任せる。黙っておれの暫
くは終ったらしい。秀康さんや直義さんは他の鬼切りの多くと一緒にこの状況に驚いてい
た。
「襲撃失敗の罰とは別に、雑兵共の強化特訓を行いましてな。本当は柚明殿には八傑では
なく彼らと再度試合頂き、修行成果も見たかったのだが、少々やり過ぎてしまった様で」
秀康さんが言っていた事を既にやっていた。
それもわたし達が訪れるこの時に合わせて。
千羽党は仲間を痛めつけて何をしようと…。
「特訓の内容は、主に打たれ弱さの克服だ」
雅さんがわたしに向けて、金時さん達に為した『特訓』の中身を話してくれる。それは、
「彼女の細腕に、素手や素足の一撃か二撃で気絶させられ、失態を晒した事が致命の問題。
殴られても蹴られても、気を失わず反撃できる心と体の強さが必要だという結論の元で」
1人1人、鬼切り3人に囲ませて、自由自在に殴る蹴るさせて防がせ、或いは受けさせ、
痛みにも気を失わず、受け続ける様にと命じ。蹲れば蹴り飛ばし、倒れたならば水を掛け
て。
「兵卒の人1人に、鬼切り3人で周囲から同時に……それって、唯の、拷問でしょう?」
栞さんや烏月さんに、鬼切りと兵卒の格の違い、強さの違いは聞いている。一対一でも
全く歯が立たない位の、素人と玄人の違いがあるのに。1人に3人で。それはもう虐待だ。
「再び彼女と立ち合って勝てる迄、毎日繰り返し強化を続ける。これは懲罰も兼ねておる。
鬼に通じる羽藤に心を開き、仲良くなったと聞いたのでな。金時や藤太や、菖蒲達は…」
貴久さんはわたしの言葉を否定しなかった。
「その様な心の甘さは鬼切部には不要。その甘さが失態を招いたのだと、身に思い知らせ
ねば。任務に失敗し、事もあろうにその敵に心通じ、鬼に繋った千羽の面汚し。役立たず
の恥知らず共を、尚特訓して使ってやろうというのだから、我らも充分慈悲深い者よ…」
千羽の仲間を、この人達は何だと思って。
景勝さんは雅さん達の舌が余計な方向に暴走するのを止める意味も兼ねて、言葉を挟み、
「金時達が脆弱だったのではなく、柚明殿が強かったのだと、真弓の鍛えた技が勝ってい
たのだと言うなら、特訓は無意味かも知れぬ。柚明殿が千羽の八傑と、ある程度でも戦え
る程強いのであれば、金時達の敗北も失態も責めには値すまい。それを示して貰えるのな
ら、彼らへの特訓は中止という選択もあろうが」
「愚かしい。ゆめいを戦いに引きずり出す為に自分の身内を痛めつけるなんて。けい?」
「そんな事の為にっ……金時さん達を……」
わたし達が仲良くなった所為で、金時さん達が見せしめに痛めつけられた? 柚明お姉
ちゃんを引きずり出す駒として、身内に酷い事をされた? そんなのって、ありなの…?
烏月さんはきっとこの事を未だ知らない。
実務に振り回し、実務で埋めて目隠しし。
「お気遣い下さるな……桂様」
震えるわたしを気遣ってくれる年輩の声は、目の前の金時さんだ。口を切って鼻血出し
て、胴着の各所も擦り傷で汚し、痛い思いをして、
「これは千羽党の中の話し。桂様と柚明様には関りのない事。久々にきつい修行になり申
したが、生命は取られぬと分っておる。鬼切りに出向く覚悟に較べれば、遙かに気易い」
我らの弱さは鬼切りの際には致命傷となりかねない。この様に鍛えて頂ける事は、決し
て悪意ではないと思ってお受けしており申す。
「羽藤の方々には、我らの成り行きに気遣うことなく、会見を進められたく」「でも!」
金時さんは自分の事はわたし達に関りない、己の特訓に気遣わないでと言ってくれるけ
ど。
わたしは何とかその束縛を解き放ちたくて、駆け寄ろうと思うけど、足が痺れて動けな
い。縛られた金時さん達に駆け寄って触れたのは、
「今、癒しの力を流します。少し我慢を…」
柚明お姉ちゃんで。わたしの想いを察してくれたのか。お姉ちゃんも金時さん達の惨状
を放置できなかったのか。血塗れの中年男性の両肩を、柔らかな両腕で軽く触れて挟んで。
「藤太君も菖蒲さん達も、少しだけ待って」
今は昼なので、お姉ちゃんも癒しの力を及ぼすには、1人1人素肌で触れるしか方法が
ない。藤太君や菖蒲さんや、後ろに未だ多数その様に痛めつけられた兵卒の人がいたけど、
全員治す積りでいたお姉ちゃんを妨げる声が、
「千羽の者に余計な事はしないで頂こう!」
景勝さんの野太い声が響き、お姉ちゃんの傍に近くから、鬼切りの男性が2人近づいて。
その行いを止める様に、離れる様にと促して。お姉ちゃんがその声に応えに前へ向き直る
と、
「柚明殿には、未だ答を貰っておらなんだ」
何度もお姉ちゃんの問を流し答を有耶無耶にした景勝さんが、お姉ちゃんに答を求めて、
「我らの仕掛けはこれで全部でござる。我らは羽藤が気に入らぬ。烏月様と仲良くする事
が気に入らぬ。明良様が羽藤に転んだ真弓を慕い、羽藤白花を庇っていた事も気に入らぬ。
千羽の鬼切り役が、三代続けて心を奪われた事に納得できぬ。その為に何度も何度も禍
を蒙り、家名を汚し、大きな代償を払い続けてきたのは千羽の側だ。塗炭の苦しみを舐め、
若杉や他党の物笑いの種となり、祖霊に顔向けできない日々を過ごしたのは千羽の側だ」
あくまで立ち合いを拒むなら、我らも金時達の特訓は千羽の事として、進め行くのみだ。
烏月様に申し上げられても良い。大人衆全員で烏月様にお詫び申し上げるのみ。しかしっ。
「この侭波風もなく、千羽と羽藤が関係を結べる等と思わないで頂こう。せめて烏月様の
決定の前に、我ら千羽の大多数の想いを羽藤に叩き付けねば、我らも武士の面目が立たぬ。
か弱い女子2人故、両家の関係は受けざるを得ぬと思っておったが。烏月様の意向に最
後は逆らう事は出来ないが。柚明殿が戦いも受けて立てる強さを持つと知れた、先日の襲
撃失敗は幸いだった。我らの憤怒を叩き付ける対象が見つかって、千羽党には幸いだった。
烏月様が着く前にこの館を逃げ出し、二度と千羽に関りを持たぬと言うなら、ここは見
逃しても構わぬ。だが烏月様と、千羽と関りを望むというなら、羽藤よ、千羽の想いを受
けて立て。千羽の憤怒を受ける為に立ち合え。
羽藤に今迄抱き続けた千羽の積年の想いを叩き付ける戦いの場に、逃げず向き合え!」
千羽はどうやっても羽藤を逃がしたくなかった。戦いの場に引きずり出したかった。叩
きのめしたかった。柚明お姉ちゃんが高い技量の持ち主でも、本当に戦いを好まない穏や
かな人だという事は、盗撮盗聴で知れていた。だから、彼らはお姉ちゃんに戦いを受けさ
せようと、あの手この手で怒らせようと挑発し。
漸く分った。景勝さんが何度も恥知らずな問答を為し、汚い程の不誠実でお姉ちゃんや
わたしの神経を逆なでし続けたのは。その重厚に硬い無表情は、己の行いへの苦味の故で。
本当はこの人もそんな事は好んでなかった…。
「最初から、言って下されば良かったのに」
お姉ちゃんの声音が哀しそうなのは、戦いに応えても拒んでも、既に金時さん達が酷い
目に遭った後だからだ。先に言ってくれれば、せめて先に一言脅してくれれば、その時点
で。
戦いを好む柚明お姉ちゃんではないけど。
誰かが痛む位なら己で痛みを被りに出た。
可憐に過ぎるから中々そう見えないけど。
この人は、必須な戦いには自ら踏み込む。
誰かを守り庇うには傷も痛みも厭わない。
「鬼切部千羽党の強者に、わたしの様な細腕で挑むのは、身の程知らずでございますが」
柚明お姉ちゃんは良く透る声音で、尚穏やかに静かだけど、景勝さんを確かに正視して、
「立ち合いを受けさせて頂きます。つたない技ではありますが、千羽の皆様の想いを受け、
羽藤の想いを千羽の皆様に届かせる為に、全身全霊を尽くします。宜しくお願いします」
羽藤は千羽の強者との戦いを受けて立った。
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傷ついた金時さん達は、身の拘束を解かれ、別室で千羽の癒し部に、診て貰う事になっ
て。場は脱力感に包まれていた。お姉ちゃんが試合を受諾した為に、千羽の人達も落ち着
いて。
「かなり強引に試合を承諾させた。全員と戦う必要はない故、相手は柚明殿が選ばれよ」
景勝さんから進行を委ねられた直義さんが、良く透る声で柚明お姉ちゃんの答を求めた
時。
誰も招いていないのに、わたし達の左側の正面入口の戸が開け放たれて。一瞬烏月さん
が着いたのかと思ったけど、そうではなくて。いたのは確かに高校生位の女の子だったけ
ど。
「すっみませえぇぇん! 遅れましたぁっ」
開け放った入口に見えたのは、両足を開いた女の子が1人。烏月さんより身長がかなり
低く、わたしと同じ位か。白無垢の剣道着だったけど、運動の後なのか汗で体に馴染んで
いる。明るいブラウンの縮れ髪を長く伸ばし、華奢な身体は手足も胴も細く、身も軽そう
で。
もしかして、この人が千羽の八傑8人目?
「未だ終ってないわよね、あたしの獲物。未だ残されてあるわよね、あたしの踏み台…」
千代っ! 秀康さんの叱声が飛んだけど、
「もーしわけございませんっ。千羽千代、標的を完膚無き迄に叩き潰し、只今帰還しまし
たっ。今から加わってもよろしーですか?」
流石にその侭広間には踏み込んでこず、室内の了承を求めるけど、これ迄で充分大胆だ
った。答を貰う迄の僅かの間に、わたしと柚明お姉ちゃんに視線を泳がせ。ノゾミちゃん
も視ているのかも知れない。八傑の1人なら。
直義さんの視線に判断を求められた景勝さんは、重厚な表情に微かに苦々しさを浮ばせ、
「宿敵には、勝ったのか?」「もちろんっ」
二度とあたしに向き合う事が出来ない位迄。
剣道も止めちゃうかもって程に叩き潰した。
「……勝ったのなら、まあ、良かろう……」
入るが良い。景勝さんの消極的な了承を受けて、長政さんが呼び招くと、女の子は八傑
の座す場に歩み来る。席次は秀輝君の右になると思っていたら、女の子はそこで留まらず、
「遅れてもーしわけございませんでしたっ」
大人衆に向けてしおらしく陳謝してから、
「谷原さん、三上さん、ありがとうっ。お陰でオサを巧く挑発できて、木っ端微塵にして
やれたわっ。公式戦の恨みを練習試合で、ここ迄明快に晴らせるなんて、もう最高っ!」
語調も仕草も質実剛健な千羽党では浮いて見えるけど、年少の女の子剣士を、みんなが
大目に見ている感じが分った。彼女もそれを自覚し、勝ち気で可愛い少女を意識して装い。
「千代ちゃんに役立つ事が出来て幸いだよ」
「宿敵を撃破できたのは千代ちゃんの力だ」
ぼさぼさの黒髪の谷原さんは満足そうな答を返し、坊主頭の三上さんは笑みを浮べて彼
女の健闘を称え。東条さんが脇から渋い顔で、
「お二人ですか、子供の諍いに余計な知恵を付けたのは。余り人目に付く派手な動きはし
ない様にと、大人衆にも言われていたのに」
「相手の全力を引き出す術を教えただけよ」
「心残りは、早く解消させてやらねばなな」
2人が応える脇で為景さんが口を挟んで、
「相手は青城女学園だったか? 公式戦で千代から唯一、一本取った女子がいるという」
「油断よっ。舐めて掛っただけなんだからっ。大会だって、取らせたのは一本だけで、残
り二本は文句なく取って打ち倒したんだからっ。オサなんて本来、あたしの敵じゃないの
よ」
何か、わたし達を置いて千代ちゃんを中心に話しが展開してます。景勝さんや直義さん
も渋い顔をするけど、叱りつける事はしない。
「それでも結局納得できないで、今日の練習試合で再戦して、叩き潰さなきゃ気が済まな
かったんだろ。そこそこ、強かったんだ?」
秀輝君が、返る反応を承知で冷かすのに、
「ふん! 所詮はお嬢様剣道よ。オサ達の部活剣道なんて、結局は女同士、高校生同士の、
フェアプレー前提のスポーツだわ。特練の飛車の親戚って聞いたけど、あの程度の親戚な
らきっと大した事もない。特練の飛車って言うのは、昌綱さんの様な強い人を指すのよ」
どこかで聞いた単語も混ざっていた様な。
「有り難う、千代ちゃん。で、宿敵を粉砕してきたんだ? どんな展開だったんだい?」
昌綱さんが彼女の自慢話したそうな雰囲気を察して誘いかける。女の子のリード巧そう。