縺れた絆、結い直し(丁)
「約束通り見せて頂こうか、貴女の真価を」
「随分、お待たせ致しました……為景さん」
柚明お姉ちゃんが右側面を見せて構えて。
為景さんは正面を向き両手で木刀を握る。
三強筆頭の、為景さんとの戦いが始った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「流石に、すぐには動かないか」「ほっ…」
開始直後に為景さんが、怒濤の攻めに出て一挙に勝利を決めてしまうかと、東条さんは
危惧していた様で。傷ついた上に疲弊した今の柚明お姉ちゃんになら、それもあり得たか
も知れないけど。とりあえず両者は睨み合い。
2人は木刀が届くか届かないか位の間合で対峙して。双方相手の技量の高さは分るから、
迂闊に仕掛けられない感じだ。特に柚明お姉ちゃんは攻防の起点になる右肩に傷を負って、
疲労も酷い。体力は浪費したくない処だろう。
唯この睨み合いは体力の代りに気力を使う。いつ相手の必殺の一撃が来るか、いつ必殺
の一撃に行くべきか。互いの姿が目の前だけに、僅かな隙や動きが即、致命傷になりかね
ない。
「お姉ちゃん、傷ついた右肩を前にして…」
昌綱さんの時から、感じていたのだけど。
死角になる左手で木刀を握った楓さんに対峙した時にも、違和感を感じていたのだけど。
柚明お姉ちゃん、戦う時も右だったっけ?
わたしが記憶を呼び起こそうとした時に、
「鬼切り役、首席の男について教えて頂戴」
ノゾミちゃんが烏月さんに、頼んでいた。
それも凄く気に掛るので、わたしも思索は一時棚上げして、右隣の麗人の答に耳を傾け、
「私も実は剣の勝負で、為景さんには今迄に、1回しか勝った事がないんだ」「えっ
…?」
驚きの余り、答も問も浮ばないわたしに、
「最後の勝負はもう壱年半前近くだけどね」
強者は、そう簡単には立ち合わない様です。互いに手の内は読めて、強さも概ね把握済
だから、それに大きな変化があった時以外は別に事情もない限り、勝負はしないと。そし
て、
「為景さんは、桂さんのお母さんがいなければ、先々代の鬼切り役に就いていた人だ…」
お母さんが当代最強の鬼切りだった話しは、聞かされたけど。そう言えば、為景さんの
歳はお母さんの6つ上か。兄弟子だったのかな。烏月さんにとっての明良さんの様に、幼
い頃はお母さんも為景さんに剣を教わったりとか。
「為景さんが鬼切り役に選ばれなかったのは、年下でも桂さんのお母さんの方が強かった
という単純な事実の他にもう一つ、実は彼が千羽の血を引いてないという事情もあって
ね」
当時の大人衆は、千羽の血を引いてない為景さんより、拾代前半の少女でも分家筋の彼
女を好んだ。幼い事を理由に、千羽では通常鬼切り役が兼ねる筈の当主の座を渡さず、お
祖父様が占めたのは桂さんも知った通りだよ。
東条さんがそこでやや沈んだ声を挟んで、
「為景さんは柴田さん達の様に、元は外の人なんだ。彼も8歳の時4歳年下の妹と2人で
千羽に来たと言う。鬼に家族を奪われ、身寄りもない僕の様な者を、その鬼を切って関っ
た千羽党は、引き取って育ててくれて。鬼を憎む気持を共有し鬼切りの道を歩んできた」
哀しげに寂しげな顔は過去を回想した為か。その胸に兆すは鬼への嫌悪か。故に鬼を憎
む気持は人一倍だと。温厚に紳士でも、この人も鬼切部千羽党だった。ノゾミちゃんとい
う鬼を受け容れて共に生きるわたしや、鬼扱いの柚明お姉ちゃんに抱く想いは複雑なのか
も。
「真弓様の当代最強の伝説は、半分為景さんが作ったと言われている。為景さんは真弓様
のパートナーだったんだ。当代最強の戦いに追随出来る者は、当時も少なかったらしい」
鬼を求めて2人で一緒に出掛けるとなれば。お父さんと出会う前の若いお母さんとの間
に、ロマンスとかも生じたのかな。少し気になる。お母さんの鬼切り役は拾代前半から二
拾歳過ぎ迄と聞いた。ちょうど恋に目覚める年頃だ。
「以降為景さんは千羽党のナンバー2だった。兄さんが先々代の教えを受けて育ち行くと
二強となったけど、間もなく桂さんのお母さんがお役目を返上して千羽から絶縁され、代
りに兄さんが鬼切り役について、一強に戻り」
物心ついた時は兄さんが鬼切り役で、為景さんと楓さんの二強だった。私は兄さんを遙
かに仰ぎつつ、まず二強を目指して己を鍛え。でも2人は強靱でね。何度打ち負かされた
か。
「三強の一角に入れた後も、為景さんには一度も勝てなかった。兄さんは、自身も鬼切り
役を継ぐ迄一度も勝てなかったと、苦笑いしながら慰めてくれてね」「お兄さん迄も?」
鬼切り役が配下より弱い訳にはいかないと、必死に挑んで漸く下したと、聞いているよ
…。
「……そんなに強い人なんだ……」
お姉ちゃん、勝ち目あるのかな?
眼前では尚2人が緊迫の対峙を続けている。為景さんは目に見えた攻撃はせず、じりじ
り威圧しつつ前進して柚明お姉ちゃんを隅に囲う様だ。半歩ではなくセンチ刻みで足を出
す。お姉ちゃんは最初少し身を引いたけど、為景さんの意図を察したのか、後は身構えた
侭退かず。だから徐々に、互いの間合は狭まって。
「壱年半前、鬼に身体を乗っ取られた彼が千羽の者を傷つけ殺め、飛び出して行った後」
その話しになるとわたしもノゾミちゃんも、びくっと固まるけど、烏月さんの声は平静
で、
「若杉は千羽に、羽藤白花と彼を追い掛けて飛び出した兄さんの討伐を命じた。彼を匿っ
た者の処断も求められ、大人衆は兄さんの鬼切り役解任と、楓さん達の謹慎処分を決めて。
彼は並の強者ではない。他の八傑が挑んでも返り討ちに遭うだけだ。三強でなければ…」
当時既に若杉の先代は病が重く、鬼切部全体が不測の事態に備えねばならない状態だっ
た。その上で大きすぎる失態を犯した千羽は、若杉から党ごと粛清される怖れさえあって
ね。
「私か為景さんか、どちらかが千羽館に留まる必要があった。1人しか、動けなかった」
私は兄さんや彼を追う道を選んだ。為景さんは謹慎を免れたけど、羽藤白花を黙認した
咎がある。そしてそれ以上に、兄さんの生命に関る今回の使命を、人任せにできなかった。
「説得するにせよ捕縛するにせよ、切り捨てるにせよ。千羽館で結果を待つ心境には、な
れなかった。真に切らねばならぬなら、誰の手でもなく、この手で切らねばならなかった。
兄さんの仇は誰であろうと絶対許せないから。私は答が欲しかった。千羽の多くの者が欲
した『なぜ』への答を心の底から欲していた」
明良兄さんを追い、羽藤白花を追う為に。
「私は全身全霊で戦い、渾身の一撃で為景さんに生れて初めて勝利した。その一度だけだ。
今戦えば……否、お役目を継いで当主となった以上、私は敗れる訳には行かない。故に私
は立ち合えば為景さんにも必ず勝つ。だが」
想いを受けて返す事を、勝つ事以外に最優先を抱く柚明さんは果たして……。彼の後は
もう誰もいない。今迄は、次に想いを交わすべき相手がいた。だが今は違う。柚明さんは、
「初めて負けて良い状況になった。勝利への執着なしで為景さんに勝つ事は叶うのか…」
「そう言えば、さっきのお願い」「けい?」
「柚明お姉ちゃんが大人衆に渡していた封書。
烏月さんや東条さんも一緒に相談していた何事か。谷原さんや三上さんが、お姉ちゃん
が為景さんの手加減を願う為に、賄賂でも贈ったのかと疑った、あのやりとり」「……」
烏月さんも東条さんも、一瞬答に惑うけど。
今の問題はその中身より渡したタイミング。
『昌綱さん・楓さんとの対戦の後に手渡したのは、その種の誤解を避ける為です。そして、
お願いの内の一つは今日の内に申し出ておかないと、準備が間に合わないでしょうから』
敢て立ち合いの中休みに申し出たのって、
『立ち合いを全て終えた後で、わたしが書簡を渡して真意を伝えられる状態かどうか分ら
ないので、合間の時間帯にさせて頂き……』
お姉ちゃん、為景さんに勝てないと見込んでいたのかな。木刀を叩き付けられて、昏倒
するか大ケガ負うかして、まともにお話し出来なくなりそうだから、先に申し出たのかな。
暗い予想ばかりが頭に浮ぶ。美しい額が割られて贄の血が飛ぶ様が瞼に映る。艶やかな
肌が板に倒れて、身動き出来ない様が脳裏に。
「いやだよ、わたし……。そんな、わたしの為に受けた立ち合いで、たいせつなお姉ちゃ
んが痛い目に遭うなんて……。そんなの…」
止めておけば良かった。東条さんと一緒にダメと言い張って、烏月さんに立ち合いの撤
回を願い出れば。痛めた右肩を掴んで傷を再確認させてでも諦めさせれば。お姉ちゃんは、
わたしの前で絶対痛い苦しいを言わないから。仕草にも声音にも顔色にも見せもしないか
ら。
今からでも止められないだろうか。敗色濃厚だから止めるなんて卑怯者も良い処だけど、
見栄や外聞等には構っていられない。何とか、お姉ちゃんが大ケガ負う前にこの立ち合い
を。考えが頭の中をぐるぐる巡っている時だった。
けい。ノゾミちゃんの叱声が強く響いて、
「よく見てなさい。動き出すわ」「えっ?」
最早局面は動き出しており、手遅れだった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ぬん……!」「……はっ!」
微かに動き出しつつも一見保たれてきた睨み合いは、唐突に終止符を告げ。両者の間を
風が吹き抜ける。木刀の動きが見えなかった。
為景さんが両手に持った木刀を、高々と掲げた処迄は追えたのだけど。後は不確かな侭、
柚明お姉ちゃんが真後ろに後退し終える処が。状況が分らない。見た感じ、為景さんが攻
めて柚明お姉ちゃんが退いて躱した様な気が…。
動きはそれで静止する。為景さんも追撃や連続攻撃には出ず、柚明お姉ちゃんも反撃や、
後退や左右への動きも見せず。躱せたのかな。そう思えた時、お姉ちゃんの右脇腹に赤い
線が二本、真横に短く描かれて。あれは模様?
「……っ」「真弓殿なら完全に躱せていた」
お姉ちゃんが微かに顔を顰め、為景さんは尚にこにこした顔の侭、眼光鋭く威圧を続け。
違う。あれは、為景さんの攻撃が掠めて。
「とんでもない振り下ろしだったけど……」
「むしろ超人的なのはその後だ。柚明さんは良くあれを躱せた。否、掠められはしたが」
ノゾミちゃんと烏月さんの声が漏れ聞える。
「為景さんの振り下ろしを柚明君が後退して躱した、けど、躱しきれなかった、と…?」
東条さんには全部は見えなかったみたい。
「為景さんは神速の振り下ろしの後で、左右への薙ぎ払いを追加したんだ。これも神速で。
柚明さんはその全てを読めたのだろう。読めて躱しきれないと見て、真後ろに退いた…」
「ゆめいは致命傷は回避出来たわ。でもその後退さえ完全には間に合わず、その右脇腹を、
右と左への薙ぎ払いの木刀が、掠めたのよ」
木刀に刃は付いていないのに。為景さんのそれは柚明お姉ちゃんの回避の速さを遙かに
超えて、服を掠めて皮を裂いて、贄の血を滲ませて。お姉ちゃんは尚右側面の構えの侭で、
対峙するけど。為景さんはじりっと前進して。
ふぉん……。再び風が吹き抜ける。
今度も何があったか見えなかった。
見えたのは、為景さんが右手一本に握った木刀で、正面の柚明お姉ちゃんを突いてぶれ
て見える姿と。終った後の、右手の木刀振り下ろしを終えた様な為景さんの姿で。柚明お
姉ちゃんは今回も、真後ろに退いていたけど。
「真弓殿なら反撃を返して来た」「っぁ…」
柚明お姉ちゃんの服が、又裂かれていた。
右の乳房の上の根本辺りと、背中の同じ位の高さ。その辺りを二撃、神速の突きが走り
抜けたのか。お姉ちゃんはそれを回避したけど躱しきれず、布地を裂かれてしまったと?
違う。それだけじゃない。右肩の辺りも。
縦にすぱっと、青い布地を切られていた。
為景さんの最後の振り下ろしも、躱しきれなかったんだ。来る事が分っていても、なす
術がないのかな。今度は出血は見えないけど。お姉ちゃん胸が余り大きい方じゃなくて良
かったかも。烏月さん位あったら、あったら…。
「桂さん?」「い、いいえ。そんな事はっ」
思ってもいません。烏月さんは首を傾げていたけど、ノゾミちゃんには心読まれたかな。
「かなり危ういわよ、けい。あの男は神速の攻めをする瞬間以外、動きが全然違う。通常
の歩みや仕草や表情が、攻めに出た時と全く繋らない。だから直前迄動きが読めないの」
「攻防を続けていれば、段々息が分ってくる。攻めて引いて、躱してと言う動きに合わせ
られる。だが為景さんは、攻めない時はあの様に静かに睨んで、じりじり踏み出すだけ
だ」
「打つ手がない。何を為そうにも柚明君のリーチでは、為景さんには届く前に砕かれる」
観衆も、凄まじすぎる応酬に声も出ない。
大人衆も他の八傑も唯見守る他になくて。
為景さんはひとかたまりの連続動作のみで、深追いをしない。唯、いつ動き出すのかが
唐突で読めなくて、いきなり動いたと思えばもう終っている感じで。きっと対峙した鬼達
も、何があったか分らない内に討たれていたのだ。
「いつ迄保つかな。真弓殿ならこの程度…」
苦もなく躱し、反撃を叩き返して来たわ!
ひぃっ……! 裂帛の気合に瞼が閉じる。
この距離を経て、わたしに向いた物ではないと分っても、殺意が怖い。心臓を掴まれる。
「……ぁぁっ!」「ゆめい?」「柚明さん」
瞳を開くと、目の前の状況は激変してないけど。為景さんの攻撃を、直撃は躱しつつ身
を削られて。お姉ちゃんは右足の太腿側面に、真っ赤な線を二本真横に走らせて。贄の血
を滲ませて。もうダメだよ。為景さんには勝てない。明らかにお姉ちゃんより早くて強い
よ。
『また躱しきれなかったんだ。もう、ダメ』
攻めも守りも叶わない。実力の差が見えて分る。幾ら頑張っても一矢も報いられないよ。
「貴女では真弓殿にはなれぬ。真弓殿を追い続け鍛え続けたこの剣に、貴女では勝てぬ」
真弓殿に千羽妙見流を学べなかった覚悟と資質の不足が、貴女の敗因だ。終りにしよう。
「たあぁぁ!」「……はっ!」
瞬間、動きが止まった。そのお陰で見えた。渾身の振り下ろしをしようとした為景さん
が、突如木刀を己の顔の直前に翳して何かを防ぎ。柚明お姉ちゃんは右側面の姿勢から、
木刀突きを出し終えた様に静止し。お姉ちゃんの突きは為景さんの防御にも届いてなかっ
たけど。
柚明お姉ちゃん、逆襲に失敗した? でも、為景さんも停止して。何か気圧されたみた
い。
「これは、昌綱さんや楓さんにもやった…」
矢の様な右腕からの木刀突き。それを?
「違うわ、けい。構図はよく似ているけど」
「今回柚明さんは木刀突きではなく、為景さんに飛び魂削りを放とうとした」「……?」
烏月さんの言葉に、わたしは首を傾げる。
それは確か楓さんの必殺技だ。柚明お姉ちゃんは、確かにそれを使われ身に受けたけど。
人の必殺技をそんなに即座に盗用出来るの? 烏月さんはケイ君、じゃない白花ちゃんの
鬼切りを、受ける事で体得したと聞いたけど。
「……の、様な物だよ。正確に言うならばね。
柚明さんは剣士ではない。あの様に力を塊にして直接飛ばす技は、むしろ術者の領分だ。
柚明さんは日中でも、力の塊を当てる技を備えていたんだ。日光の減衰よりも早く当てる、
接近戦用の技として。楓さんの飛び魂削りを想定できて対応できたのも、その為だろう」
楓さんに見切られた技を、為景さんに漫然と使う柚明さんじゃない。今迄の経緯も伏線
に使い、柚明さんは木刀の先端から力の塊を飛ばして、為景さんに叩き付ける構えだった。
「入っていれば一撃必殺、逆転勝利だったのだけど……あの男もやるわね。ゆめいの意図
を察して、気合を込めた木刀で防御して来た。届かない突きを放つ事に不審を感じたの
ね」
「引いて躱しても木刀から飛ばした力の塊が、為景さんの額を打ち抜いた。左右に躱して
も、届かない突きの故に向きを修正し易い。木刀に気合を注いでの正面防御が唯一の正解
だ」
「攻めに攻めていた中で、突然守りに回って尚しっかり守りきれる。隙のない相手だわ」
「柚明さんは防御を悟って、放つ直前にそれを止めた。だから只の届かない木刀突きに」
一見届かない柚明お姉ちゃんの木刀突きを。
気合を怖れた如く為景さんが防いで見える。
「と言う事は、双方決着付かず?」「ああ」
「為景さんの攻勢を柚明さんが防ぎ止めた。
柚明さんの反撃も為景さんは止めたけど。
それは止められる前に自ら収束したから。
今は読みと技では、柚明さんが上回った」
胸をなで下ろすわたしの前で為景さんは、
「ぬぬ。この技、この動き、真弓殿と違う」
汝の技は断じて真弓殿の流儀ではないっ!
「真弓殿は止められると分っても技は止めぬ。止められる様な技は出さぬ。叩き付けてそ
の侭攻撃に移る。静止などせぬ。一度攻めに入れば敵を倒す迄止まらないのが、真弓殿の
千羽妙見流だ。汝は真弓殿から何を学んだか」
この程度では決して千羽真弓にはなれぬ!
「儂が生涯掛けて追い求め続けた真弓には」
顔が笑みの侭大声を響かせる為景さんに。
「わたしは千羽真弓でも羽藤真弓でもない」
返されたのは柚明お姉ちゃんの静かな答。
「わたしは真弓叔母さんにはなれないし、なろうとは望んでいません。わたしは羽藤柚明
です。あなたのその願いには応えられない」
柚明お姉ちゃんは右側面の構えを戻して、
「確かに叔母さんは信じられない程強く賢く、美しく愛しい人です。今のわたしには到底
及ばない遠い目標。あなたの言う通り今の攻めも、叔母さんなら難なく凌ぎ跳ね返してい
た。攻めに転じて逆にあなたを追い詰め倒した」
わたしにはそれは、とても叶わない事です。
贄の朱を青い布地に滲ませつつ、お姉ちゃんは苦痛を表情にも声音にも姿勢にも見せず、
「わたしは最初から、叔母さんに千羽妙見流を学ぼうとしませんでした。その戦い方を複
製しようとは思いませんでした。千羽妙見流の強さはわたしの素養で到底届かないと言う
以上に、わたしの望んだ強さとは違うから」
わたしは鬼切りの業を望んだ訳ではない。
わたしは鬼を討ちたく願った訳ではない。
わたしはたいせつな人を、守りたかった。
たいせつな人を守り通す力が欲しかった。
「わたしが教わったのは魂です。敵を滅ぼす力ではなく、たいせつな人を守る術を。戦う
覚悟、戦いの気構え、耐える事、凌ぐ事、諦めない事、気を配るべき事、見極める事…」
叔母さんの神髄は、千羽妙見流にあるのではない。千羽妙見流も極めた叔母さんの真の
強さは人を愛し守る強さ。わたしはそれを学び、鍛えられ、己に刻んできた。それが真の
彼女の流儀です。あなたの知る千羽真弓は一側面に過ぎない。真の強さの一端でしかない。
「わたしは羽藤柚明です。羽藤白花の生命を継いだわたしは、彼への問や求めも受けて応
えます。でもわたしは彼女ではありません」
為景さん、あなたの求めには応えられない。
羽藤真弓の答、千羽真弓の答は、返せない。
「でもその奥に潜む、あなたの真の求めになら応えられる。拾壱年前わたしに、更に以前
叔母さんにも重ね見た面影を、望むなら…」
為景さんが構えを解いた。その眼光が鋭い。炯々と輝いた侭、その表情から笑みが抜け
て。為景さんが、微笑みの仮面を拭い去っていた。能面の様な無表情は、凄まじい憤怒を
止める為か。抑え込んだ激情のマグマの膨大さが実感出来る。嵐の前の静けさが道場を支
配して。
「……贄の血の力とは、人の心を盗み見る力なのかな?」「あなたはわたしに分って欲し
く望んでいます。叩き付けたく望んでいます。そうでなければ読み取れない程、旧い想
い」
叔母さんに遂に届けられなかった想い。叔母さんには最後迄叩き付けられなかった想い。
その奥に潜む本当の怖れ。本当の悔恨と悲痛。それを今日ここで届かせる事が出来るかも
と。
「微かでも望んでいたから。抑えても隠しても欲していたから。願っていたから。わたし
は悟れた。そしてそれを受けられる処迄わたしは来ました。来られなかった筈のここに今。
定めなのでしょう。羽藤と千羽の想いを受けて、今日立ち合う事になったのも全てが」
生命の限り受け止めます。あなたの全てを。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
2人の間には怖い程の緊迫感が漂っていた。
それは背負った想いと年月の、重さの故か。
拾年歳を取ってないとは言え、二拾七歳になってない柚明お姉ちゃんが、四拾四歳の為
景さんをむしろ押し返す程に想いが深く強く。為景さんはお姉ちゃんの攻撃を恐れないの
か、構えを解いて右手に木刀を握った侭瞳を閉じ、
「儂は、真弓殿を好いていた。愛していた」
想いを語り始めた。声音は静かに確かで、
「真弓殿は儂の青春だった。拾代前半で鬼切りも八傑も飛び越えての鬼切り役就任。その
強さも速さも鮮やかさも、誰も及ばぬ。成人直前で八傑だった儂も挑戦したが、連戦連敗。
味方相手の戦いに全力を出せぬ儂だったが、例え全力で挑んでも勝てない事は明白だっ
た。誰も一度も勝てぬどころか戦いにならぬ有様。鬼切り役になって見せる戦果はとてつ
もなく。あの誇り高い渡辺党に当代最強を認めさせ」
千羽の多くの若者は当時、男も女も可愛らしい鬼切り役に夢中になり、視線を向けて貰
うだけで頬を染めて大騒ぎ。稽古を付けて欲しいと詰めかけるが、三度切り結べぬ内にど
の強者も叩き伏せられ相手にならず、修行にならず。今の烏月様を思い起こさせますわい。
「儂だけが彼女と多少切り結ぶ事が出来た。
故に彼女の鬼切りは儂の随伴が決め事に」
彼女も若かったから遠慮がない。付いて来れないなら来なくて良いと、1人先走って敵
を倒してしまう。悪意はないが、他の者が追随出来ない。故に儂がそのお目付を任されて。
彼女も鬼切り以外は結構見落しが多かった故。
『わ、お母さん。昔からそうだったんだ…』
「初めて逢った時を今でも憶えて忘れ得ぬ」
背も高くなく手足も細く華奢なのに。その佇まいは達人を越えて自然で。何より心がま
っすぐで、声音も想いも清廉で。座敷童を見た想いに身が固まった。儂は鬼に化かされて
いるのかと。年頃が同じ故か、余りにも似すぎていた。邪気なく向けてくる円らな双眸が。
「思わず全力で挑み掛りたく筋肉が震えた。
己に宿る全ての力を絞って叩き付けたく」
為景さんの声音は危険な程の殺気を帯びて、
「心囚われ申した。未だ子供だったが、その故の穢れのなさが、無垢な笑顔が麗しく。そ
の純真さが鬼を前にするとその侭冷徹な迄に研ぎ澄まされて。その落差も心を震わせた」
その背に凄まじい闘志を立ち上らせていた。
「彼女は未だ恋も知らず、恋に恋する事さえ知らず。鬼を倒す事、人を脅かす者を切る事
が世の為人の為だと素直に信じ。周りが彼女の純真さを分らず、勘違いする事もあって」
儂はもう一度兄になれた気分で複雑だった。
鬼切りを終えても修行以外する事を持たず。剣の修行以外何も知らぬこの儂に、様々な
事を訊いてくる。儂も知らぬが、年上の立場で知らぬと言い難いから、適当に濁しつつ他
の者に尋ねて。だが千羽党はやはり剣の修行主体で視野が狭く、訊いた情報が怪しかった
り、聞いた者が又聞きに行ったり、余計な処で誤解が生じ、食い違いを重ね、笑い話しに
なり。
「真弓殿の青春は、儂の青春でもあった…」
儂は真弓殿のお陰で、再び死んだ魂に、三度生命与えられた。彼女は、儂の太陽だった。
剣の途、鬼切りの途。儂は彼女と共にその途を行く。それで良かった。奥に潜めた真の
望み等求めてはならぬ。今の関りで充分だと。彼女は或いは分っておったのかも知れない
が。彼女の横を固める兄の幸せで儂は満ちていた。
「何度か彼女の涙をこの身に受けた事もある。その哀しみを抱き留めた事も。締め付け壊
してしまわぬ様に、恐る恐る抱き包んだ事も」
例え腕は立っても。力には満ちていても。
拾代前半の、思春期の少女が鬼切り役を。
担って心に、全く傷を負わない筈がない。
誰もが彼女の強さ美しさにしか目を向けぬ中で。彼女は鬼の業に踏み込んで、見て聞い
て触れて感じて切り捨てた。時に人の情迄も。
そう言えば、烏月さんも、夏の経観塚で。
【鬼という物はね、生れついての鬼よりも、人のなれの果てとしての鬼の方が、遙かに多
い物なんだ。敵陣に入った将棋の駒が、裏返って別の働きをする駒になる様に、業の深く
に踏み込んだ人が裏返ると……】【私が斬ってきたのも、大半がそうした鬼だった。もう
幾度となく、繰り返した。鬼となった人の家族や知人に憎まれるのは、馴れているよ…】
お母さんも、人の想いが深く絡み合う鬼切りの中、心に返り血を浴びていたに違いない。
心を痛め、それでも為さねばならないと、烏月さんの様に、必死に乗り越え頑張っていた。
「真弓殿がお役目を返上して千羽を去る時」
儂は戦って彼女を止める事が叶わなかった。
愛した男がいると聞いた。身を許し心を許した生涯唯1人の男がいると。そして千羽の
為した罪を償う術もなく、かの鬼の抹殺命令を撤回させ得ぬ以上、彼女が千羽を出る他に
術はないと、その鬼とも絆を絡めたと聞いて。
「真の想いを叩き付けるなら、その時だったかも知れぬ。真弓殿への愛に混ぜ、行かせな
いと、実力で止めるから覚悟せよと挑めば」
だが儂は同門同流、味方には決して全力を出さぬ。全てを曝け出しはせぬ。彼女は例え
千羽に絶縁されても、儂には千羽真弓だった。剣士の戦いを越えて全ては、叩き付けられ
ぬ。
真弓殿を止められなかった。彼女と共にあの鬼と真実に向き合い、千羽の六拾年前の過
ちを知った以上。真弓殿がその鬼と深く想いを繋げた以上。どっちか片方しか選べぬ以上。
彼女の真の想いを、貫かせる他に術もなくて。
「儂は遂に胸に抱いた愛を告げる事叶わず」
その底に秘めた真の想いも叩き付け得ず。
田舎の忘れ去られた神職の家の男と結ばれ、子を成したと噂に聞いた。専業主婦として
暮らしていると。暫くの後真弓殿の教えを受けた明良様が鬼切り役に就き、青春は遠のい
た。
「真弓殿を再訪する事になったのが拾壱年前。明良様が倒しきれなかった鬼の正体が分っ
て、真弓殿に出て貰わざるを得なくなり。そう」
柚明殿が明良様と共に遭遇したあの鬼だ。
「儂が貴女に驚いた訳も既にご存じか。或いは、拾壱年前のあの時既に貴女はそれを?」
答は求めず為景さんは尚も言葉を続けて、
「貴女は未だ女と言うよりは少女の色が濃く、気配も仕草も双眸も、まっすぐ柔らかで
…」
背も高くなく手足も細く華奢なのに。その佇まいは達人を越えて自然で。何より心に淀
みがなく、声音も想いも清廉で。座敷童を見た想いに身が固まった。真弓殿を初めて見た
時と同じ感触に身が震えた。年頃が同じ故か、真弓殿に重なって見えたあの面影が貴女に
も。
「思わず全力で挑み掛りたく筋肉が震えた。
己に宿る全ての力を絞って叩き付けたく」
戦う事情は何もない。この想いを叩き付ける理由は何もない。そうと分って、貴女が相
当の技量の持ち主だと見えたから。一瞬だけ、この胸に押し隠した想いが思わず蠢きだし
て。真弓殿には遂に向けられなかった真の想いが。
「身構えた貴女を倒したく想ってしまった」
「どういうこと?」「「「……」」」
ノゾミちゃんも烏月さんも東条さんも答がない。未だ話しが見えない。分る事は、お母
さんと深く信頼し合う関係だった事。お母さんに抱いた愛を告げられず秘めた侭だった事。
柚明お姉ちゃんと拾壱年前に出会っていた事。
「真弓殿は、美しく立派な母になっていた」
当代最強の強さは尚秘めた侭、母親の強さ、主婦の強さ、女の強さを身につけて。子供
2人を育てつつ、夫と貴女と温かな幸せを保ち。明良様が貴女を、気に留めている事も知
った。貴女が真弓殿の薫陶を受けた、2人目だとも。
「千羽妙見流ではないにも関らず、八傑に近い技量をその当時、既に保有していた事も」
いつか定めが絡むかと、再び逢う時も来ようかと、想っていた。その、翌年だった……。
為景さんが瞳を閉じて何も語らないのは。
語る必要がなく場の皆が知っているから。
柚明お姉ちゃんは、オハシラ様になった。
明良さんとも楓さんとも、為景さんとも。
肉の身体を失ったお姉ちゃんは、会う事も叶わず。その定めは交わる事なく、今に至る。
「羽藤の家が瓦解した話しを聞いた。真弓様は夫を失い貴女を失い、双子の片割れを失い、
残ったもう1人、桂殿と町に移り住み。儂は真弓殿に千羽に戻って貰えればと考えたが」
真弓殿は当代最強の鬼切りだ。千羽党は常に人手不足で、戦力を欲していた。頭を下げ
て頼み込めば或いは、許されたかも知れぬが。
「過去の記憶を赤い痛みに封じた桂殿は、羽藤にも千羽にも住めないと。出来れば鬼にも
鬼切部にも関らない人生を、送らせたいと」
それが、羽藤白花の望みでもあったから…。
『わたしの所為でお母さん、千羽に戻れず1人で苦労する事になったの? わたしの?』
明良様が連れ帰り匿った、切られた筈の鬼。
儂が彼の存在に気付いたのは、1年位経ってからであったか。その身に鬼を宿し、心に
鬼を憎む心を宿し、悲運の定めを負った少年。彼は、己の先行きがそれ程長くなく、辛く
苦しい途を承知で。唯1人の為に望みを叶える強さを手に入れようと、鬼切りの修行に励
み。
「……貴女を救う為です。柚明殿」「……」
お姉ちゃんが、この上なく哀しそうな顔を見せた。今にも涙が零れそうで、それを必死
に堪えた様な。愛しさと切なさが、見る者の魂を引き込む程に清冽で、心溢れさせられる。
「真弓殿は明らかに無理を背負い込んでいた。
羽様の屋敷を出て、夫も貴女も誰の助けもない中で、心に空洞を抱えた桂殿を1人で扶
育する。鬼切りを千羽や若杉から請け負って、糧を稼ぐ事に焦っていた。自身の先がそう
長くない事を、見通していたのかも知れぬ…」
お母さんは、わたしが大学に行ける位のお金を貯めていたと。税理士さんが言っていた。
泊りの仕事もわたしが大きくなるにつれ増えた気がしていたけど。鬼切りをしていたんだ。
わたしの人生の為にお母さん、自身の生命を。わたしがお母さんに無理をさせ、生命縮め
た。
「明良様に白花殿を保護された借りを感じたのか。桂殿の進学や生活に必要な資金を求め
たのか。鬼を切る事で若杉の疑念を払拭し有用さを示さねば親子の身が危うかったのか」
羽藤も千羽や若杉の組織も支えもない中で、真弓殿は孤軍奮闘し。白花殿の鬼が暴走し
て、行方不明になってからはそれが一層激しくなって。その行方を追い求め、抹殺よりも
早く、その手で決着をつけようと。幾度か見た真弓殿は、生命の残り火で戦っていた。最
早止める事が生命も止めるのではと、思える程に…。
子を思う親は止められぬ。止めようがない。
儂は最後迄付き合い見守る他に、術もなく。
「白花殿と桂殿は真弓殿の仇だ。2人の子供の為に真弓殿は生命を削り、若くして果てた。
羽藤は真弓殿を奪い去った上に幸せに出来ず、哀しみを負わせ酷使して最後には生命を縮
め。
憎かった。心の底から悲憤に震えた。だが、羽藤真弓は憎めない。2人の子供も憎めな
い。羽藤の夫は既に死んでいる。儂が憎むべき相手は、実体を持たぬ羽藤という名前のみ
で」
想いを叩き付ける対象がない。誰もいない。
儂は彼女の子の羽藤白花も憎む事が出来ぬ。
彼女が最後迄案じ続けた2人の子は憎めぬ。
明良様が逝き、真弓殿が逝き、時が過ぎて。
無常に過ぎゆく時の中で、烏月様が追い求めた羽藤白花も手の届かぬ処に去ったと聞き。
深い徒労感に包まれた。何をどう憎んで良いか分らぬ。全てが手遅れだった。真弓殿に
想いを全て、叩き付けておれば良かったのか。愛を奪いに掛れば良かったのか。心悶々と
晴れぬ中、烏月様の口から聞いた事のある名が。
「羽藤桂、羽藤柚明。貴女達2人だった…」
桂殿は大きく成長しておられた。白花殿がそうであれば、桂殿もそうであって当然だが。
柔らかに可愛らしく、千羽とも羽藤とも断絶されて尚その血は争えず瞳も心もまっすぐで。
「そして本当に驚いたのは貴女だ。柚明殿」
拾壱年前と全く変らず。柔らかに優しげに。
達人を越えて自然に優雅な佇まいも昔の侭。
美しさと強さ、賢さと優しさを兼ねて備え。
「今朝の儂の身の震えを、感じておられたか。アパートの前で即、関節を極め倒しに行き
たかった儂の歓喜を、察しておられたか。貴女は正に儂に倒される為に巡り来た様な者
…」
貴女は羽藤であり、真弓殿の再来で儂の年来の願望の標的だった。二度と巡り逢う事も
叶うまいと諦めていた。この儂の想いを全て叩き付けられる人はおるまいと、諦めていた。
千羽の誰にも真弓殿にも絶対叩き付けられぬ儂の本当の全てを、遠慮なく叩き付けられ
る強く美しい敵を。儂の真の望みを叶えて受けられる存在を。昌綱や楓を破れる程の強敵。
この儂の攻めを止められる程の強敵。今こそ。
闘志ではなかった。それは、殺意だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「為景さんにはたった一つ弱点があってね」
左の東条さんがわたしに補足してくれる。
「為景さんは、千羽の者には……味方には、絶対に本気以上を出さないんだ」「……?」
千羽の者や千羽が手を結ぶ者、つまり味方にはその全ての闘志を叩き付けられないんだ。
尋常ではなく強い為景さんだけど、身内の修行や試合では絶対その全てを出し切らない。
無意識に出力を抑えてしまう。仲間を痛めぬ様に。傷つけぬ様に。殺してしまわない様に。
「殺してしまわない様にって、そんな……」
言葉が詰まるわたしに右隣の麗しい人が、
「彼はかなり昔に1人、殺めてしまっているんだよ。千羽の仲間を、たいせつな身内を」
「もしや、4歳年下の妹って、首席の男…」
それはノゾミちゃんだから察せたのだろう。
ミカゲちゃんという妹を持った彼女だから。
「そうだ。為景さんは、自身の妹を殺めた」
その意味では私と同じ鬼切りの鬼な訳だ。
瞬時浮ぶ哀しい笑みに、答を戸惑う内に。
左隣の東条さんが、説明の言葉を続けて、
「為景さんが鬼に家族を奪われ身寄りも失い、千羽に引き取られた話しはさっきしたと思
う。当時彼は8歳、妹の朋美は4歳。残虐非道な鬼を憎む心を千羽のみんなと共有し、鬼
切りの途に励んだのは、自然な成り行きだった」
2人共想いの強さの故か、めきめき腕を上げて行って。為景さんは拾五歳で八傑入りし、
拾九歳の時点で千羽で一、二を争う強者になった。妹の方も拾五歳で八傑候補になる程で。
2人は剣の修行に生命を注いでいた。鬼を憎む心を人を守る剣に託し、千羽の仲間と共に。
「哀しい事故は、その強さと熱心さの故に」
朋美は強かったけど、更に強さを目指していた。そして為景さんは強すぎた。八傑目前
で勇猛邁進する彼女の修行に熱心に付き合った彼は、想いを込めすぎ、想いに応えすぎて。
剣士を越えた何もかもを叩き付けた結果。
「防具を叩き割る一撃を与えてしまってね」
即座に病院に運ばれたけど、頭蓋を割られた彼女は昏睡した侭、再び意識は戻る事なく。
「半年後に彼女は亡くなった。味方に、千羽の仲間に、限界を超えた全てを叩き付けた事
がその生命を奪ったと、彼は己を強く責め」
たった1人の真の身内。その熱心な求めに応えた為に、己の手で生命を奪った。一緒に
歩み行く筈だったたいせつな人が。可哀相に。
「未だ彼も若さの溢れる拾代だった。力の制御にしくじっても無理はない。己の限界を見
通し難い年頃だ。己の限界が日々伸びて行く年頃だ。でも事が千羽の強者になるとその結
果も甚大だ。それを悲痛な事件で悟った彼は。
二度と全てを叩き付ける事はしなくなった。味方限定の話しだがね。どれ程名誉や因縁
の絡む戦いでも、例え劣勢になっても負けても、彼はその全力を出し切る事をしなくなっ
た」
仲間を傷つけたくない。殺したくない。倒すべきは鬼で身内じゃない。負けても身内の
戦いで生命は取られない。例えその危険があっても、決して恩人の千羽に本気は向けぬと。
烏月さんが、右側から言葉を挟んできて、
「だから私も子供の頃は、為景さんの本気を見た事がなかった。彼の本当の怖さを知った
のは、鬼切りの実戦に加わり始めてからだ」
「彼の鬼切りは、本当にえげつなく凄まじい。身内に叩き付けられなくなった分、鬼には
一層遠慮なく。『勝てばいい』『力が全て』の大人衆の流儀をその侭に。鬼や、時に邪魔
してくる人もいれば人に向けても加減はなく」
彼が今柚明君に見せているのは未だ全てじゃない。彼の剣士としての戦い、仲間向けの
部分に過ぎない。鬼切りとしての為景さんの全身全霊は、卑怯も何もない彼の全ては未だ。
「それを、為景さんは出そうとしている…」
「柚明さんは、それを導こうとしている…」
今日でなければならない訳が漸く分った。
羽藤と千羽が関係を結べば、味方になれば、為景さんは仲間になった柚明お姉ちゃんに
全てを叩き付けられない。剣士を越えた何もかもは、殺してしまいかねない苛烈さは。お
姉ちゃんは為景さんのそれを受け止める積りだ。
「為景さんの妹さんが亡くなったのは、為景さんが拾九歳の時……だよね?」「けい?」
6つ年下のお母さんが、為景さん達千羽の他の強者を飛び越してお役目に就く前の年だ。
「為景さんは、お母さんに妹さんの面影を見たのかな。ちょうど同じ位の年頃で、鬼切り
を目指す強く綺麗な女の子……熱意の余り全てを叩き付けて失ってしまったたいせつな人。
それを拾壱年前のお姉ちゃんにも重ね見て」
柚明お姉ちゃんも為景さんと出会った頃は拾五歳。お母さんに護身の術を教わっていた。
「為景さんは強いお母さんに、全力で挑みたかったのかな。どこ迄届くかやってみたかっ
たのかな。愛したなら、戦って勝って奪い取ろうとか、想って葛藤していたのかな…?」
「真弓殿の強さは眩しかった。全身全霊で挑んでみたかった。だが、儂の技は鬼を憎み手
段を選ばず勝つ殺しの技よ。傷つけたくない。間違って殺めてしまえば、儂は今度こそ
…」
愛した女に修行ではなく殺意の技は向けられぬ。例えその故に己が負けようと。彼女が
千羽を出る時こそ挑むべきだったかも知れぬ。羽藤ではなく、儂の妻になれと奪えたなら
ば。だが儂には真弓殿は、最後迄千羽真弓だった。その想いを踏み躙って哀しませる事は
出来ぬ。彼女は儂の太陽だった。その血を引く子らも。所詮儂は真弓殿の兄役で恋人役で
はなかった。
「だが汝は千羽の血を引かぬ。汝にならば」
三重映しの面影と強さ美しさに心震えたが。
拾壱年前は汝に戦いを挑む理由がなかった。
惚れるには最早歳も離れすぎておった故に。
だが今は違う。確かに抱いた激しい想いを。
羽藤への憤りを全て受け止めるというなら。
儂の何もかもを全て受け止めるというなら。
真弓殿に叩き付けられなかった真の全力を。
彼女を奪って若死にさせた羽藤への憤りを。
ぴしっ。全て言い終えぬ内に、為景さんの木刀の振り下ろしが、突如お姉ちゃんを襲う。
柚明お姉ちゃんは、辛うじて身を躱すけど…。
「千羽為景の剣士を越えた何もかもを叩き付けよう。受け止めて砕け散れ、羽藤柚明!」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「狡い、未だ喋りの最中なのに」「けい…」
散々聞いたじゃないの。今の彼は勝てばいい戦いなの。剣士じゃない。正々堂々とか技
を競おうとか、想いを交わし合おうとか考えてない。試合の前提さえ抜きの、殺し合いよ。
「今の彼には、過去の回想さえゆめいの気を引き惑わす為の手の一つなの。自身の想い出
さえも武器に使える。本物の想いだから相手の心に響かせられる。本当に鬼切りの鬼ね」
柚明お姉ちゃんは、為景さんの喋り掛けからの唐突な振り下ろしにも対応し、後退して
躱すけど完全に躱しきれず。右胸側面の青い布地を、縦に切り裂かれて。血は出ないけど。
布地の下のブラジャーの白や、素肌迄見える。
それでも尚戦意を失わず、為景さんに右側面を見せた姿勢で対峙し続けるお姉ちゃんに、
「貴女は本当にしぶとい。確かに真弓殿とは違う強さをお持ちだ。そろそろ儂の太刀筋を、
伸びを見切り始めましたか。ですがこれは」
効きましたかな? どこ迄耐えられるか。
「ん?」「桂君、柚明君の足元を見たまえ」
東条さんの促しに従って視線を凝らすと。
木の実の様な粒々が床に転がって見える。
こんなの、さっき迄はなかった筈だけど?
「為景さんは、柚明さんの周辺に撒菱を撒いて木刀を振るったんだ。回避に動き回る柚明
さんにこそ有効な、修行ではあり得ぬ技を」
木の床に滲んでいるのは、お姉ちゃんの足の裏から。その柔らかな足の裏に刺さった撒
菱が、贄の血を流し、痛みを呼んで。お姉ちゃんは表情一つ変えないけど、でも動きは…。
「ぬん! ぬん! ぬん!」「……っぅっ」
一方的な攻めなのは今迄通り。でも回避に特化したお姉ちゃんの動きは大きく、広くば
ら撒かれた為景さんの撒菱は、お姉ちゃんの足から気力と体力を奪い去り。躱しきれない。
足の裏に異物が刺さった状態では、幾ら痛みに耐えて全力出しても、踏ん張りが利かない。
肩を裂かれて、服の切れ目から素肌と鮮血が。
「女相手の戦いなら、刃は掠めるだけで有効な武器になる。直撃出来ずとも構わぬ。その
衣、衆目の中で一枚一枚剥ぎ取らせて頂こう。道着と違い、普段着は破り易くて好都合
よ」
掠り傷も千回与えれば血肉絞り尽くせる。
「ひっ……お姉ちゃん」「何ときつい事を」
実際そうする以上に、先に言う事で動揺させる気か。為景さんは、鬼相手、敵相手なら。
「鬼以上に鬼の心で戦える」「東条さん…」
「僕は千羽で本当に幸いだった。千羽である限り、為景さんのあの何もかもには当たらぬ。
あれ程高い技量を持って、本当に手段選ばず、えげつない戦いを為す人を、僕は知らな
い」
最早観衆も大人衆も他の八傑達も声もなく。
女性や子供には視線を向けられない者迄も。
流血の惨事という以上に、為景さんの目指す戦い、大人衆の言う戦いが、余りに凄惨で。
「どこ迄躱し続けられるかな、儂のこの刃を。どこ迄保ち続けられるかな、その精妙な動
き。儂は足裏に最初からゴムを履いておるのでな。汝が辿り着けねば無駄な準備だった処
だが」
動けば動く程体に痺れが回ってくる。どんどん動け。木刀からも撒菱からも儂の想いを。
「毒薬?」「痺れ薬だろう」「そんなっ…」
流石に拙かろうとざわめく周囲を煩いと、
「この戦いは剣道の試合ではない。千羽妙見流と彼女の技の実戦よ。実戦ではどんな事が
起こるか分らぬ。男と女で、最後にどうなっているかも分らぬ。真弓には遂に叩き付けら
れなかった儂の真の想いも、望み通りその身に叩き付けてくれる。守るばかりで敵を倒す
事を眼目とせぬ汝の技では、儂には勝てん」
騙し合いも罠も小道具も戦の内よ。そら!
為景さんの攻撃が速さを増していく。お姉ちゃんの動きが追いついていけない。斜め後
ろに後退して直撃は躱すけど、掠めた木刀は右腕や、右足や、右肩や右胸を次々と抉って。
攻めはいきなり始り瞬間で終る。延々と攻める事はない。でも、その動きは前触れもな
く唐突でとんでもなく疾い上に、隙もなく苛烈に激しい。静の状態にあってもいつ攻撃が
来るか分らない、詰め将棋の錯覚に囚われる。身体より精神の方が先にやられてしまいそ
う。
「負ける……負けちゃうよっ」「けいっ!」
だって。元々凄い為景さんが、撒菱や痺れ薬迄使って、当たらなくても掠めてお姉ちゃ
んの服を剥がせば良いなんてっ。お姉ちゃん、幾ら一生懸命対応しても、無理だよ。素肌
も下着も破けてきている。晒し者になっちゃう。
「もう止めさせて。為景さんの勝ちで良い」
お姉ちゃんにこれ以上、痛く辛い想いは。
わたしが烏月さんに縋り付いて頼むのに、
「烏月君、これは流石に勝負も見えている」
時が経つ程痺れが回り、柚明君だけが新たに撒菱を踏む。為景さんの動きに較べ、明ら
かに柚明君の動きは落ちている。もう限界だ。
東条さんも同調して。お姉ちゃんが未だ立ち続けている内に、本当に何もかも剥がされ
て倒されてしまわない内に、止めさせないと。
「けい、ゆめいは未だ勝負を捨ててないわ」
わたしを叱りつける声はノゾミちゃんで。
「ゆめいは未だ立ち続け、躱し続け、機を窺い続けている。勝機を狙っている。意思には
微塵の揺るぎもない。相手の動きに乗じるのはゆめいの戦い方よ。ゆめいは首席の男の想
いを今受け止めているの。そして羽藤の想いを届かせる積りでいる。未だ諦めてない…」
ゆめいが諦める前に、あなたが先に諦めて降参する? あなたはゆめいの想いを踏み躙
るの? 想いを紡ぎ直しなさい。ゆめいは誰の為に今迄も今も危険を引き受けているの?
「わたしの為だよ。わたしの為だから、もう良いの。お姉ちゃんが為景さんの木刀に打ち
倒されるんだよ。妹さんを殺した程の一撃が来るんだよ。綺麗な肌が血に染まるんだよ」
そんなのわたし、見て、いられないよっ!
この身を挟んででも、止めたいわたしに。
「そこ迄受けて受けきる事がゆめいの目的」
勝って想いを届かせるか、負けて想いを受け止めきるか。どっちでも羽藤の想いの強さ
を千羽に印象づける。最初からゆめいはその積りよ。それを承知で今迄来たのではなくて。
「私は鬼だから鬼の見解を言うわ。ゆめいは鬼の戦いを為している。鬼を止められるのは
鬼か鬼切りだけよ。けいに、止められる?」
立ち合いを止めて逃げ出せば元の木阿弥。
最初からやらなかったのと何も変らない。
ゆめいの今迄の危険や痛みを捨て去るの?
初めて一緒に積み上げてきた成果を抛つ?
あなたは烏月や千羽党との絆を諦めるの?
「ううっ、諦められないけど。けどでも!」
「負けないわよ! ゆめいは、負けないっ」
千年生きた私を破り、ミカゲも倒しあなたの兄に宿った主様迄還したゆめいが。鬼切り
役でもない下っ端に、例え剣の勝負限定でも、どんな不利な状態でも、卑怯な手使われて
も。
「負けるなら私が許さない。だから必ず…」
ノゾミちゃんにも根拠はないと見えて分る。分るけどその強い言葉に思わず声が詰まる
時、
「私も止めるべきではないと想う、桂さん」
烏月さんの確かな声が、言葉を選びつつ、
「真剣勝負の最中に、どちらも戦う意思が確かな内に、他の者が戦いを阻む事は出来ない。
例え配下でもたいせつな人でも。その妨げには戦いに乱入する決意が要る。双方の想いを
踏み躙る覚悟がいる。柚明さんの想い迄も」
柚明さんは、確かに追い詰められつつある。だが彼女はこの侭終る人じゃない。彼女は
たいせつな人を、桂さんを守る為にあの技を桂さんのお母さんに鍛えられた。実戦を想定
した彼女の想いの成果が、この侭終る訳がない。
「彼女は届かせる者、引き替えに叶える者」
夏の経観塚で聞いた言葉を、烏月さんは、
「手段を選ばない為景さんと、痛みを怖れない柚明さん。2人の戦いはギリギリ迄先が読
めない。今の優劣は、未だ勝敗に直結しない。柚明さんは私の大切な人でもある。傷つい
て欲しくない、痛みを負って欲しくない。だが。
今できる事は、ここで見守る事だけだ…」
その左拳が震えていた。烏月さんも割って入りたくで、止めたくて浮きそうな腰を止め。
わたしを抑える事で、自身を抑えようとして。
「けいはゆめいと何を約したの? けいはゆめいと何を為すと決めたの? あなたはゆめ
いから何を託され頼まれたの? あなたは」
何の為に今ここにいて、何を為している?
ノゾミちゃんの真剣な声音に、わたしは、
「わたしは烏月さんと一緒に、お姉ちゃんの立ち合いを見守るって約束した。千羽の想い
を受け、羽藤の想いを届ける。そうして千羽とも烏月さんとも絆を確かに結ぶと心決めた。
わたしはお姉ちゃんに見守ってと頼まれた。お姉ちゃんが千羽の強者と想いを交わし合
う剣士の場に、わたしも臨席する事で、見守る事で一緒に羽藤の責任を果たす、その為
に」
羽藤と千羽には三代続けての因縁がある。
簡単に進む関係ではない事も分っていた。
それでも絆を結びたかったから。それでも烏月さんとも千羽とも、仲良くおつきあいし
たかったから。それはわたしの願いだけじゃなく、柚明お姉ちゃんの願いでもあったから。
わたしの為だけじゃなく、羽藤みんなの願い。
「羽藤と、桂さんと、私は絆を結びたい…」
烏月さんはわたしの右手を強く握り直し、
「あなたを守りたい、支えたい、愛したい。
桂さんのみならず、そのたいせつな人も。
だから私は桂さんとも羽藤とも確かな絆を、千羽党としても結びたく願う。柚明さん
が」
想いを貫き通す様を見守ろう。それこそが。
「来るわよ!」「……!」「お姉ちゃん!」
「死ねええぇぇぇぇい!」「はあぁぁっ!」
為景さんが渾身の木刀突きを振るった末に。
木刀を振り上げた両腕が静止して見えた時。
柚明お姉ちゃんも為景さんに向き合った侭。
右手木刀の振り下ろしを終えて、静止して。
唯一度の決着は秒の千分の壱で決していた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
柚明お姉ちゃんの右手木刀は、為景さんの右肩に振り下ろされて静止していた。為景さ
んの木刀は両手で握られ、振り下ろす寸前の状態で止まっている。見た限りお姉ちゃんの
攻撃が先にヒットした感じだけど。そのお姉ちゃんの右の瞼は閉じられて、血が流れ出て。
「吹き矢……?」「いや、礫を吹いたんだ」
東条さんが、補足しつつ身震いしていた。
「やはり柚明さんは」「ええ、騙し合いよ」
烏月さんとノゾミちゃんとの会話も、分った者同士の物なので繋りません。質問を先に
察してくれた烏月さんが、笑みも強ばりつつ、
「柚明さんは怖ろしい人だ。元々剣士ではないからこそ、剣士の枠に囚われる事なく、為
景さんの剣士を越えた何もかもを、更に凌ぎ。
柚明さんは贄の血の力で、体内の痺れの巡りをかなり抑えていたのだろう。動きの鈍り
もあの危うい程の劣勢も、為景さんの止めの一撃を早く招く偽装だった。反撃出来る内に、
対応出来る内に、為景さんの必殺の一撃を敢て誘って、勝機を見いだした。本当に痺れが
回ってしまえば、流石に対応出来ないから」
騙し合い。柚明さんは相手の策を使って逆に相手を嵌めたんだ。剣士の戦いをした方が、
むしろ為景さんは勝てていたかも知れないね。
「あ……」「騙し合いは術者の領分、か…」
東条さんもそれ以上は言葉が継げない中、
「為景さんはその上で勝利を確実にする為に、礫を吹いた。振り下ろしの直前に、動きを
見極めようとする柚明さんの、右目を狙って」
「痛みと視界不良に硬直した瞬間に、渾身の振り下ろしを叩き付ける。礫を吹く事で彼の
攻撃は一動作増えた分遅れるけど、ゆめいが硬直すれば防御も回避も反撃も更に遅れる」
仮に礫を防いでも、中途半端な姿勢で渾身の振り下ろしを受けては。木刀を叩き折られ
て負けていた。飛び道具は退いても躱せない。例え左右に躱しても、躱した処に振り下ろ
しが行く。動いた直後では、防御も回避も無理。何より礫なんて、誰にも想定も出来なか
った。
「たった一度の、為景さんの必殺の奥の手を。
柚明さんは受けて構わず、その侭自身の右振り下ろしを遂行した。防御も回避もせずに
己の必殺の一撃を返す事だけを。為景さんの振り下ろしは、飛礫を吹いた一動作分遅くな
っている。そこに柚明さんは、痛みに怯まず、驚きに固まらず、右手木刀の振り下ろし
を」
驚かなくば、固まらなくば、怯まなくば。
「柚明君の攻撃が一瞬早くなると言う事か」
「驚きに固まったのは、首席の男の方よ…」
楓さんの時もそうだったけど。飛び魂削りを身の内で紡いだ力で受け止めたけど。でも、
今回はそれと話が違う。物理的な痛みなのに。
2人の硬直が解けた様だ。為景さんの声が、
「……朋美……儂の何もかもが初めて破れた。これこそ正に、儂が生涯追い続ける、真弓
殿の流儀。……最強であって欲しいと願い望み続けた、愛した真弓の戦い……やはり、儂
の全てを越えたこれで尚及ばぬと。正解か……。額を割るのではなく、敢て右肩を打ち据
えてくれたのも、真に貴女らしい甘さ優しさ…」
為景さんが笑っていた。想いを隠す常の仮面の笑いではなく、本当に突き抜けた笑みが。
「答を、返してくれるのですな、柚明殿…」
膝を付き、木刀を取り落とす為景さんに。
柚明お姉ちゃんは、正面から添って抱き。
「わたしに叔母さんの答は返せない。でも」
破れた服で血塗れの肌で臆せず体を寄せ。
わたしの答なら返せます。羽藤柚明なら。
「千羽為景は、羽藤柚明のたいせつな人…」
強く哀しく、熱く激しく、心優しい人。叔母さんを、心底愛してくれた。白花ちゃんの
生命を絶たず、助け鍛えてくれた父の様な人。その所為で、あなたにも悲痛を負わせたの
に。
わたし迄も愛してくれて、有り難う。妹さんの面影を、恋した叔母さんの初見の面影を、
わたしに重ね見た事に罪悪感は不要です。わたしはその2人に重ね見て貰える事が嬉しい。
あなたの想い出の最も美しい人に並べて貰えた事は、羽藤柚明にはこの上なく幸せです。
特に叔母さんはわたしの憧れでもあったから。本当にわたしが並べるとは到底思えないけ
ど。
「身に余る程の幸せです。受け止めました」
自身を叩き潰そうとした人に、頬寄せて。
己の身を削り血を流した人に、囁きかけ。
「だから全身全霊の答を返しました。羽藤柚明の渾身の答を、あなたに。これしか術がな
かったとはいえ、痛めつけてごめんなさい」
一番の人を確かに抱くわたしは、例え一番に想って貰えても等しい想いを返せない。幾
ら大切に想っても、寄せてくれる想いに見合う答は返せない。その人に生命を注がなけれ
ばならないから。でもその中で許されるなら、
「唯一のとは言えないし、1番とも2番とも、言う事もできないわたしだけど。有り難く
嬉しいその想いに、叶う限りの想いを返します。
ふつつか者ですが、宜しくお願いします」
わあああ。言葉も想いも男女の愛とは違うけど、為景さんの求めはむしろ大人の男女の
愛だから、この抱擁は本当に見ていられない。わたし、何に焦っているの? まるで白花
お兄ちゃんと柚明お姉ちゃんの仲を羨んだ様な。
わたしの表情や仕草や気配の動きは、かなり分り易いみたいで。頬は染まっていたけど。
「大人の男にそんな答を返して宜しいのか」
間近でたいせつな人が心配していますぞ。
為景さんがこっちを向いて、柚明お姉ちゃんの焦点をわたしに引き寄せて答を促すのに、
「一番の人を哀しませる答には致しません」
答は迷いもなく明快で。為景さんは更に、
「又、剣士の場で立ち合って貰えようか? 剣士としての儂の想いも受け止めて貰えるか
な?」「はい。機会の許す限り、何度でも」
柚明お姉ちゃんの答は、静かに柔らかで。
年の離れた若奥さんみたいに、心通じて。
ふふふっ。為景さんは笑みを抑えきれず、
「唯甘く優しいのではなく、とことん甘く優しいか。儂が目測を誤る訳だ……やむを得ぬ。
貴女の想いは、今後存分に見せて頂こう…」
力の抜けた為景さんが、柚明お姉ちゃんに抱かれた胸の内で気を失い。長かった戦いは
終りを告げた。因縁の絡みは解きほぐされた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
道場は粛然としていた。動き出す者は少なく、声を交わす者はひそひそ声で。鬼切りの
男性が2人、柚明お姉ちゃんから為景さんを受け取って、両肩を支えて運んで行くけど…。
何か、今迄の勝利とも違った感じなのは。
これでお終いという虚脱感、ではなくて。
本当の始りをみんなは知っていたのかも。
わたしはその時迄思いもしなかったけど。
「やったぁ。柚明お姉ちゃん、完勝だよ…」
終って良かった。右隣の烏月さんの緊張が抜けて行く様が分る。千羽の人には悪いけど、
今はわたしは全てが終った事とお姉ちゃんの勝利を喜びたく。千代ちゃんから数えれば4
連勝。千羽党の八傑に、その内3勝は桁違いの三強相手に。流石に無傷ではなかったけど。
幾つかのケガは贄の血の力があれば治せる。力が足りなければわたしの血を呑んで貰え
ば良い。痛く辛い思いはもう終った。後はこの場を千羽の人達に締めて貰って、落ち着い
てから休息や治療に、癒し部の助けも頼んで…。
わたしも腰が抜けてなければ、柚明お姉ちゃんに抱きつきに、駆け寄った処なのだけど。
そんなわたしの視界の中央で、その待ち望んだ人は、右手に握った木刀をわたしに向けて。
……お姉ちゃん? わたしではなかった。
木刀は、わたしの右隣の麗しい人に向き。
「お待たせしました。あなたで、最後です。
烏月さん……立ち合いを、始めましょう」
えっ?
もう三強は全部倒した。必要な対戦は終った筈だ。千羽の想いを羽藤は全て受けきった。
羽藤の想いを千羽に全て伝えきった筈だった。この上戦う理由はない。戦う事情もある筈
が。
でもお姉ちゃんの表情は、むしろ今迄のどの時点よりも厳しい真顔で、右側面の構えで、
「明晰な烏月さんが分らない筈はありません。
……わたしの挑戦、受けて頂けますね?」
「ちょ、ちょっと待って。どうしてっ…?」
どうして、柚明お姉ちゃんが烏月さんと。
説明してよ。誰か……そう、一番間近な。
わたしはこの右拳をずっと握って励ましてくれた、柚明お姉ちゃんの勝利を喜んでくれ
た麗しい人を見上げて問うのに、烏月さんは硬く無表情を保ちつつ、わたしに向き直って、
「私は、柚明さんと、戦う積りはないよ…」
この挑戦を、私は受けない。それが正解だ。
微かに身が震えていたけど、応えてくれた。
そうだよ。烏月さんが柚明お姉ちゃんと立ち合うなんて、そんな馬鹿な事が……えっ?
答にほっとしかけた瞬間、違う色の空気に押し包まれた錯覚がした。烏月さんを除いて、
烏月さんとわたしを除いて、全ての流れは逆を向いている。そんな感じが、前後左右から。
烏月さんの更に右側に座していた大人衆が、全員烏月さんの背中を見つめて、頭を下げ
て。
それだけじゃない。視線を背後に向けると、谷原さん達が烏月さんを食い入る様に見つ
め。
観衆も。柚明お姉ちゃんの左右背後に広がるヒラの鬼切りや癒し部や兵卒や、その他の
女子供老人迄含む多数の人達が、視線を注ぎ。
そして入口に、紅葉さんや栞さんに肩を支えられ現れた、昌綱さんや楓さんの視線迄も。
「な、なんなの。この、期待の様な感じ…」
烏月さんの言葉に納得出来ず、その方針を変えて欲しいと、視線で圧を加えてくる様な。
「千羽は全員、烏月君の決起を望んでいる」
視線を向けると、東条さんが俯き加減で、
「鬼切部千羽党の鬼切りの業が、剣士の場の立ち合いで、剣道も学んでない女の子1人に
薙ぎ倒される。千羽はそれを受け容れられぬ。真弓様の鍛錬を受けて尚、千羽妙見流でも
ない技が、千羽の鬼切りを打ち破る無様を千羽は捨て置けぬ。一矢報いる方法がある限
り」
我々千羽党は剣士の集まりだ。剣士が剣の戦いで、剣の素人に敗れる訳に行かないんだ。
柚明お姉ちゃんは剣士ではない。護身の術は身を守る為、又はたいせつな人を守る為で、
鬼切りの業には及ばないとお姉ちゃんが認めていた。そのお姉ちゃんが千羽の強者を連続
撃破した事で、逆に千羽の誇りは地に堕ちた。何としてもその侭ではおけないと。だから
…。
柚明お姉ちゃんは右側面を前に、右手の木刀を伸ばし烏月さんに突きつけた侭静止して。
烏月さんの剣の答が返る迄待ち続ける姿勢だ。その背中には、千羽のみんなの求めが見え
る。
「お姉ちゃん、そんな悪い冗談止めようよ。
烏月さん……そんな事、しないよねっ?」
お姉ちゃんの挑戦を、受けて立つなんて。
そんな悪夢。この2人が立ち合うなんて。
「ある筈がない。私は、桂さんと柚明さんを守りたくて、千羽と羽藤の関係を正式に繋ぐ
意を決し、2人を千羽館に招いたのだから」
烏月さんはお姉ちゃんより観衆に向けて、
「羽藤桂は千羽烏月の一番たいせつな人で、羽藤柚明は千羽烏月の二番にたいせつな人」
あなたと立ち合う積りはない。早く木刀を収め、代りの服を纏い、ケガを治して下さい。
そろそろ痺れが回る筈だ。早く解毒しないと。
お姉ちゃんを気遣う烏月さんに返る答は、
「わたしの身に痺れが回り終える迄、始りを引き延ばしますか。それも結構です。あと拾
五分も待てば、わたしは立っている事も難しくなるでしょう。それからなら、桂ちゃんの
様な素人でもわたしを打ち放題に叩けます」
わたしの勝機はそれ迄の間。後は自動的に烏月さんの勝ちになります。それが望みなら。
それは挑発か、脅迫か。右手を握ってくれる烏月さんの、素肌の下で筋肉がぴくと動く。
何かが胎動した。ノゾミちゃんが思わず身構えたのは、お姉ちゃんにではなく烏月さんに。
鬼切り役の抑えつけても微かに動いた闘志に。
「烏月様!」「烏月様っ!」「烏月さま!」
散発的な男女の声が観衆から上がり始める。
そして烏月さんの右側に控えた大人衆達が。
「烏月様、お願い申し上げます……どうか」
柚明殿と木刀で、立ち合って下さりませ。
義景さんが、経久さんが、景勝さんもが。
「我ら全員、彼女を見誤っており申した。金時達拾六人を退けた後でガス攻撃で窮地に落
ちたと聞き、その程度の技量なら、八傑の誰かで充分勝てると、高を括っており申した」
「だがまさか、三強を3人とも退けてしまうとは。あの為景が他流に後れを取ろうとは」
「我らの失態は重々承知。簡単に捻り潰せると甘く見て、先に打ち倒して溜飲を下げてか
ら関係をと望んだ、我らの自業自得ですが」
「問題は千羽の先行き。この話はすぐに広まりましょう。千羽は惰弱だと。他流の娘1人
に千羽の強者が揃って敗れたと言われ申す」
「事実だから仕方ない。千羽の精鋭が柚明さんに破れたのだ。偽装は不要」「ですが!」
烏月さんの素っ気ない答に、直義さんも長政さんも雅さんも平身低頭して、決起を頼む。
「金時達の襲撃失敗とは、重みが違います」
「鬼切部が道場破りに負けた様な物ですぞ」
「若杉や他党の嗤い者になってしまいます」
「烏月様が彼女を撃破して下されば」「鬼切部の威信を、剣士達の誇りを守って下され」
「今迄の増長、勝手な振る舞い。全て陳謝いたし申す。我ら全員今からは、幼子から出直
す気持で烏月様にお仕え申す。従いまする」
烏月様が起って下さらねば、我ら千羽党は。
誇り高い筈の大人衆が、全員額づいていた。
八傑や観衆の視線が全て集まってきていた。
わたしの間近の烏月さんに、千羽の意思が。
集まって行く。願いが掻き寄せられて行く。
「う、烏月さん……」「……っ、私はっ…」
柚明さんと戦う理由などない。事情もない。
強い意志で、集まる期待を撥ね付けるのに。
「僭越を承知で申し上げます……烏月さん」
柚明お姉ちゃんが、静かで柔らかな声を。
微かに身震いを続ける烏月さんに向けて。
「千羽の当主は、千羽の方々の気持をまず受け止めて判断すべきと、わたしは考えます」
右手で突きつけた木刀は揺らぐ事もなく。
厳しい真顔は、凛々しく締まって美しく。
「千羽の方々の想いは、千羽の烏月さんならばこそ、その身と心で感じ取れている筈…」
わたしは血流を操って、痺れの浸透を抑えています。治癒はしていません。それもそう
長くは保たないけど。なぜかはお分りですね。
為景さんの礫を受けた右の瞳は閉じた侭だ。
恐らく右肩の先々代の木刀の痕もその侭で。
足の下の撒菱は取ったけど。散らばっていた撒菱も念入りに他の人が回収し終えたけど。
右半身の素肌も血肉も下着も破れて、見え隠れする様もその侭で。癒しを及ぼしてない。
「今傷を治さないのは、癒しを及ぼすと身も心も弛緩して、この後の立ち合いに響くから。
烏月さんの疾風の動きに対応不能になるから。傷ついていても緊張状態にある限り、人は
その潜在力を活用出来る。使い果たす迄は…」
お姉ちゃんは、為景さんとの対戦の前に、
『贄の血の癒しは、心身の持つ自然治癒の力を強力に後押しする。でもその結果、体も心
も緊張状態を解かれて、緊張状態から治癒の体制に移行してしまう。腕力も素早さも持久
力も、動体視力も判断力も減退してしまう』
『唯でも劣勢のわたしが、今この身に癒しを施したら、とても為景さんには対応出来ない。
だから立ち合いが全て終る迄は、力を紡いでも自身は癒さない。力の不足じゃないのよ』
お姉ちゃんは烏月さんに勝つ積りでいる?
「ゆめいは勝利の芽の大小で、手を抜いたり力を強めたり出来る様な器用な女じゃないわ。
戦う時は常に全身全霊。それが今は剣士への礼儀で、真剣勝負への礼儀で、鬼切り役への
礼儀になると想っている。救えないわね…」
ノゾミちゃんはもう為す術がないと呟き、
「ゆめいが誰かに負けていれば、それで話しは終っていたのよ。羽藤は千羽の遺恨を身に
受けて。千羽は想いを叩き付けて己の強さを確認し、兄貴分として和解してあげられる」
でもゆめいは生真面目だから、全身全霊で受けて立ち、三強を撃破してしまった。全て
の想いに応えなければと想ってしまったのね。
「千羽は、どんな事情があっても、勝ち逃げする柚明お姉ちゃんを、快く想わない…?」
「ええ。真の最強がもう1人いるというのに、それを抜きにこの侭立ち合いが終れば、鬼
切り役がゆめいに怯えて手が出せなかったとか、囁かれるわ。悪意な者でなくてもそう想
う」
『千羽党は質実剛健な剣士達。好むのは様々な理由より、有言実行か不言実行。どんな事
情でも状態でも、立ち合いを受けて相手を前に控えた今、やめるより行う方が分り易い』
もう、立ち合わないという選択肢が千羽の方に存在しなかった。そして、羽藤がそれを
受けて立たないという選択肢も存在しなくて。
「私は、あなたを傷つけたくはない……!」
勝ち目のない状況はあなたにも分る筈だ。
烏月さんの声にお姉ちゃんは左目を閉じ、
「わたしは勝つ為に立ち合いを受けた訳ではありません。羽藤の在り方を見せて、想いを
通わせ合う為に。千羽の方々の想いを受けて、千羽の方々にも羽藤の想いを届ける為に
…」
不利だから、危ないから、痛そうだからと立ち合いを止めるなら、最初から受けてない。
柚明お姉ちゃんは想いを受け止める為に来た。ならその想いを前にして今更退ける筈がな
い。
烏月さんに託す、千羽のみんなの想いを。
大人衆も八傑もそれ以外の者達も込めた。
鬼切部千羽党の強敵に挑む確かな想いを。
柚明お姉ちゃんは断らない。受けて立つ。
「これは剣道の試合ではありません」
この言葉は今日一体何度使われただろう?
「これは鬼切部千羽党の鬼切りの業と、わたしの技の実戦です。知っている人、たいせつ
な人、深く愛した人と刃を交えねばならない事はないと、烏月さんは断言出来ますか?」
一番たいせつな人を守らなければならない時に、二番目にたいせつな人を敵に回す事が
絶対にないと、烏月さんは言い切れますか?
烏月さんが、否、会場の全てが凍り付いた。
明良さんを切った烏月さんだけに。明良さんを失って大きな悲嘆に沈んだ千羽党だけに。
その原因であった白花お兄ちゃんの妹であるわたしと、羽藤と結ぼうとしている今だけに。
みんなの心の古傷に手を突っ込む様な言葉を。
この人は敢て口にして自覚を促し。それでも戦わなければならない時はあると。鬼切部
でもそうでなくても、一番たいせつな何かの為に、二番目以降の全ての想いを振り切らな
ければならない時があるのだと。果たして鬼切部千羽党にその覚悟はあるかと問いかけて。
それが柚明お姉ちゃんの在り方で戦い方だ。柚明お姉ちゃんはその為に、わたしの願い
を受けてノゾミちゃんを家族に受容してくれた。
自身の仇だったのに、拾年前の非業を招いた張本人を。わたしはそれを知る前にノゾミ
ちゃんと心を交えてしまったけど、そうでない柚明お姉ちゃんに、それがどれ程残酷な事
だったかは、今思い返せば筆舌に尽くし難い。
それでもお姉ちゃんは、ノゾミちゃんを徹頭徹尾守り庇った。生命を繋ぐだけじゃなく、
記憶を取り戻したわたしの前から去ろうとしたノゾミちゃんを、激越な叱責の末に尚留め、
ミカゲちゃんの二重三重の罠から救い、自身を危うくして尚守りを止めようとしなかった。
一番の人の為には全ての拘りを断ち切れる。己の仇も受容でき、二番の人とさえ戦える
と。それを見せろと千羽が望んだ以上、とことん応じて見せようと。この人は優しさ甘さ
にも限りがないけど、厳しさ苛烈さも限りがない。
「わたしは桂ちゃんの為に鬼切部千羽党と手を結びたい。今迄の経緯をご承知頂いた上で、
あなた達と絆を結びたい。その為に必要なら伏してでもお願いするし、求められればどの
様な憎悪も憤怒も抗わず、この身に受けます。
心の整理に戦いが必要なら、どこ迄も付き合います。生命の果て迄立ち合います。その
代り、結べた絆は確かな物であって欲しい」
利害でも好意でもなく、魂で繋って欲しい。だからわたしの在り方を望むだけご覧下さ
い。信頼に足るか否か見て判断して下さい。盗撮盗聴でわたしの日常も既にご存じと想い
ます。偽ろうとしても偽り方に人となりが顕れる筈。
「烏月さん、千羽の想いを受けて立ち合って下さい。あなたに寄せる千羽の全ての想いを、
わたしが受けて応える事で、羽藤と千羽は想いを交わし合える。想いを届かせ合える…」
ここ迄因縁が絡まった羽藤と千羽の縁を結び直すには。縺れた絆を断ち切るのではなく
結い直すには。想いを交わし合う必要がある。それが千羽党なら、試合の形を取るのも自
然。
「わたし如きが鬼切部千羽党の、鬼切り役と剣を交えるのは、身の程知らずと承知して」
勝ち負けに関らず、全力で受けて立つ事で、羽藤と千羽の絡まり縺れた絆を結い直した
い。これは千羽のみならず羽藤も共に望んだ戦い。
「今は千羽の想いを受ける事を第一に考えて、判断を下されますようお願い申し上げま
す」
お姉ちゃんは自身の利得ではなく、常にお互いの今後がどうあれば良いかを考えている。
その為に必要なら、誰かの策に敢て乗る事も、危険や痛みを受けに行く事も承諾できてい
て。
本当に、強く賢く優しく綺麗な愛しい人。
そしてそれに面した、千羽の麗しい人は。
「柚明さん……あなたはこれを承知で、千羽を訪れたいと、言ってくれたのですか…?」
千羽党や若杉にアパートを襲撃された直後、あの申し出の時点でこれを予期していた
と?
柚明お姉ちゃんは申し訳なさそうに頷き、
「或いはこうなるかもとは感じていましたが、口に出す事は憚られました。千羽が誇る最
強の剣士達に、確実に勝つ自信もなかったので。事実、どの勝負も勝敗は紙一重でしたか
ら…。
今度こそ千羽の当主のお許しを頂きたく」
お姉ちゃんは千羽に危機を呼ぶ事で、大人衆が烏月さんに従う様に導いている。大人衆
が独走した罠を敢て受け容れ、打ち破る事で、烏月さんに頼らざるを得ない今を作り出し
た。当主の権限が、威令が、求心力が一気に増し。
お姉ちゃんの静かな求めに、烏月さんの身体が再度微かに震えた。これが、武者震い?
苦笑い。でもその華奢な体には闘志が通い。ノゾミちゃんが明確に青珠の中で身を竦め
る。これが鬼切部千羽党の鬼切り役の戦いの気配。
「羽藤の強情は、桂さんだけではない様だ」
「はい。羽藤の血筋は頑固の血筋ですから」
「桂さん……すまないね」「烏月さん……」
一番だった兄さんを切った、壱年半後に。
二番目に愛した人と戦う事になろうとは。
生命の奪い合いではない事のみが幸いだ。
「全ては私の責任だ。後で沢山責めて欲しい。
出来るだけ、痛くしない様には努めるけど。
三強を破った強敵相手に、手は抜けまい」
全身全霊で戦わねば。その想いに向き合う為に。千羽の想いを汲み取る為に。その左手
が最後に、わたしの右肩に軽く触れて微笑み、
「行って来る。帰ったら沢山叱って欲しい」
黒く輝く瞳が透徹して美しく、わたしは。
止められない。もう2人共止められない。
一度だけ、左腕に両手を絡め引き留めて。
潤む程に切なそうな黒い瞳が瞬いていた。
「……烏月さん……武運を、祈っています」
本当に最後の戦いが、始ろうとしていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
道場の中央で柚明お姉ちゃんと烏月さんは対峙していた。景勝さんの審判もない。最早
この勝負は2人が始め、片方が終らせる物だ。
烏月さんは木刀を両手に握って正面で構え。
お姉ちゃんは木刀を右手に右側面の構えで。
わたしは右隣が空席になった一番高い段に1人座し。ノゾミちゃんと共に戦況を見守る。
左下に座す東条さんの左側に、未だ辛そうな顔つきで昌綱さんと楓さんが、座していた。
結果を後で聞く迄待つ気になれなかった様だ。左端には千代ちゃんもいた。栞さんや紅葉
さんは観衆の中にいる。小町さんも茜さんも友加里さんも、菖蒲さんも金時さんも藤太君
も。車椅子観戦の琴音ちゃんに鈴音ちゃんが添い。
「どうなるのかな。どうなっちゃうのかな」
問うてしまうのは己の不安を抑えたくて。
柚明お姉ちゃんの状況はかなり酷い。右肩に先々代の木刀をねじ込まれ。楓さんの飛び
魂削りも当たった。木刀を掠められ切られた服は、右半身の腕や胸や腹や太腿で素肌見え、
下着が見え、掠り傷でも鮮血が流れて治せず。
苦しそうな表情も仕草も声音も気配も見せないけど、苦しくない筈がない。感覚は戦い
に必須だから、血の力で操れても尚、戦闘中に神経は殺さないとお姉ちゃんは言っていた。
足の裏に撒菱幾つも刺さったし、何より右目が礫に潰され閉じた侭なのが見た目に痛い。
視界も不自由だ。その上で相手は烏月さんだ。傷口からの痺れは、今も身体を侵しつつあ
る。
早く決めなければ唯でも少ない勝機が消えて行く。柚明お姉ちゃんには時間制限が掛っ
ている。なら、開始早々速攻だろうか。怒濤の攻めで。それを烏月さんは迎え撃つ感じ…。
「烏月君の性格なら」「必ず速攻に出るわ」
2人の意見が珍しく一致した。なぜなら、
「柚明君は満身創痍だ。戦える状態ではない。烏月君も彼女の為に、苦痛は早く終らせ
る」
「長引けばゆめいの体に痺れが回る。勝因を痺れにしたくなければ、その前に倒すしかな
いのよ。鬼切り役の方がね」「なるほど…」
柚明お姉ちゃんの速攻の可能性を尋ねると、2人は首を傾げた。確かに一理はあるけれ
ど、
「柚明君は今迄回避に徹してきた。技量はあると思うけど、どうかな」「相手は今迄とは
違う。鬼切り役よ。下手に攻めて逆襲を受ければ、それこそ一瞬で終る。難しいわね…」
2人とも、より確実な烏月さんの速攻を躱して反撃する、今迄通りの展開を考えている
様で。でも今迄にも増して厳しい、殆ど活路のない戦いになるだろうとも、意見一致して。
客観的に見て、柚明お姉ちゃんに勝ち目は殆どない。元々剣の勝負で、鬼切り役の烏月
さんが圧倒的に優位なのに、お姉ちゃんにこのハンデでは、対応の術がないという感じで。
でもそれは挑んだお姉ちゃんが一番分る筈だ。
「あ……あのお手紙」「けい?」「桂君?」
「為景さんに勝っても負けても、あの封書を渡せないと分っていたから、お姉ちゃんは楓
さんを破った後の中休みに、大人衆に…?」
『……お願いの内の一つは今日の内に申し出ておかないと、準備が間に合わないで……』
烏月さんに勝利は望めないとお姉ちゃんも。
木刀を叩き付けられて昏倒するか大ケガで。
まともにお話し出来なくなりそうだからと。
それでもこの戦いは回避できないと覚悟し。
『立ち合いを全て終えた後で、わたしが書簡を渡して真意を伝えられる状態かどうか分ら
ないので、合間の時間帯にさせて頂き……』
「お姉ちゃん、傷ついた右肩をまた前に…」
右目は開けないからかなり拙い筈なのに。
昌綱さんの時から、感じていたのだけど。
死角になる左手で木刀を握った楓さんに対峙した時にも、違和感を感じていたのだけど。
為景さんの時も、今も違和感が拭えない。
柚明お姉ちゃんは、経観塚の夏では確か。
「始るわよ……けい」「しっかり見守ろう」
狩衣姿の美しく整った烏月さんと、満身創痍でも姿勢は端正なお姉ちゃんが向き合って。
「あなたと立ち合う事になろうとは……だが、鬼切り役として戦う以上、あなた相手でも
手加減はしない」「したらあなたの負けです」
羽藤にも、千羽に届かせたい、叩き付けたい想いがあります。わたしの二番目にたいせ
つな人に関る六拾年前の過ちには触れずとも、真弓叔母さんへの応対にも、経観塚の夏で
の出来事にも、それ以降今に至る間の諸々にも。
「千羽を代表して、受け止めて頂きます」
「承知した。全身全霊で受けて応えよう」
烏月さんは一度だけ瞳を閉じて見開き、
「鬼切部千羽党が鬼切り役千羽烏月が、千羽妙見流にてお相手いたす。覚悟めされい!」
戦いは開始早々いきなり激しく動き出した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「せいっ、とおっ、はやっ、つぁっ、やぁ」
2人の予測は正解だった。烏月さんは開始早々、猛然と怒濤の攻めを展開し。神速の振
り下ろし、神速の薙ぎ払い、神速の木刀突き。それはどれも三強の必殺技に相当する程疾
く。
烏月さんは全く遠慮も加減もない。本当に全力で、柚明お姉ちゃんを叩き潰しに掛って。
早く終らせる事が慈悲だと考えているのかも。わたしの目では追いきれない程の斬撃が続
き。
柚明お姉ちゃんは守勢一方、躱しきれず。
掠めて切れ飛んだ青い布地が床に落ちる。
髪の毛や贄の血が夕日の染める空に散る。
木刀なのにその切れ味は真剣に近いかも。
でも、今回は守勢ばかりでもいられない。
部活剣道の類とは違って、判定勝ちを狙って優勢の演出に攻めて見せる必要はないけど。
実戦なので最後に相手を倒して残っていれば、その瞬間迄劣勢でも守勢でも問題はないけ
ど。今の柚明お姉ちゃんには、時間制限がある…。
本気で勝ちを望みに行くなら攻めないと。
「えっ……!」「来たわよ」「だがしかし」
烏月さんの突きを躱して間近に踏み込んで。
でも烏月さんもそれは充分想定の内であり。
とてつもない速さで木刀を戻して防御する。
「未発……?」「跳び魂削り」「防いだわ」
止まらない。柚明お姉ちゃんの反撃姿勢にも烏月さんは止められる事なく、ほんの少し
動きが鈍った様にも思えたけど、それだけで。
「柚明君は烏月君の防御を察し、木刀突きの発動を止めたのか?」「ええ。鬼切り役はそ
の判断を見て、更に神速の攻めを仕掛けた」
昌綱さんも楓さんも、為景さんもお姉ちゃんの反撃に攻めを止められた。守勢に回らさ
れ、防がざるを得ず、仕切り直しを迫られた。でも烏月さんはそれで尚止められなかった
…。
烏月さんの攻勢が続く。柚明お姉ちゃんは辛うじて回避するけど、反撃も望むけどその
攻めを止める術がなく。怖い程的確な攻めが、残り時間以上にお姉ちゃんを追い詰めて行
く。疲弊以上に、お姉ちゃんの応対が追いつかず。
「……っぁ、……あぁっ……!」
視界が効いてないのが致命の理由じゃない。
痺れが回りつつあるのが最大原因じゃない。
傷や疲れや消耗が本当の危機な訳じゃない。
烏月さんが強すぎる。唯その一点が全てだ。
昌綱さんの速さと楓さんの隙のなさと為景さんの冷徹さを兼ねて備えて、その上を行き。
お姉ちゃんの動きは今迄よりもむしろ疾い位。必死の想いが残り少ない力を絞り出してい
る。でも烏月さんが全ての面で半歩早く更に強く。
柚明お姉ちゃんが尚倒れずに応戦できている事が奇跡に近い。服が切れ、血肉が飛んで、
その痛みと怖さに尚自壊せず、勝機を窺い続けて。その心身の強さは本当に凄いけどでも。
わたしも烏月さんがここ迄強いとは思ってなかった。背は少し高いけど、華奢で綺麗で
肌も滑らかで。佇まいは整って戦う人の凛々しさを感じさせたけど、信じられない程強い。
「勝ち目がない……勝てないよ、これじゃ」
「この様子なら痺れが回るより早く、ゆめいの守りが崩れるわ」「状態が悪すぎる。せめ
て半日休息すれば、もう少し戦えた物を…」
お姉ちゃんは果敢に反撃を試みていたけど。
烏月さんに全て先読みされて、対応されて。
未発で収めるので致命傷にはならないけど。
それでは烏月さんの攻勢も止める事できず。
じりじり削られている。体力だけじゃなく。
衣も皮も肉も千切られて、贄の血に染まり。
止められない。掠められつつ躱すのが精一杯で。本当に怒濤の攻めが止まったら、その
場に崩れ落ちそうな程にお姉ちゃんは危うく。
一度攻めが止まったのは、烏月さんが間合を欲した為だ。戦いは烏月さんが圧倒的優位
だけど、早く決着せねば勝因が痺れになると。表情にも仕草にも気配にも、焦りはないけ
ど。
柚明お姉ちゃんは疲れの色が顔に出ていた。己を律する事に掛けては誰も及ばぬ強い人
が、堪えきれず。本当に限界なのだと見て分った。息が荒く、汗が止まらず、気配が揺ら
いで…。
烏月さんは、決着の機を見定めた様だった。
「次で決めます。あなたは昌綱さんの二段突きを破った時、言っていましたね。その技は
見た事がある。先々代の突きは三段でもっと早かったと……私の突きとどちらが疾いか」
見て頂こうか! 神速の突きがぶれて見え。
柚明お姉ちゃんが応じる様に、倒れ込む様に前に出るけど、その足取りは緩くて危うく。
「……!」「決まった?」「あれは……?」
すれ違った時、柚明お姉ちゃんの木刀が右手を離れて宙を舞い。両手両膝が床についた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ぬっ……!」「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
烏月さんは大技の後の硬直を解いて、すぐ背後に向き直る。でもその表情に笑みはなく。
柚明お姉ちゃんは精根尽き果てた感じで両手両膝を付いていた。息の荒さも額を伝う汗
も止めようがなく、向き直れたのもやや遅れ。何がどうなったかわたしは見えなかったけ
ど。
木刀は烏月さんの傍に転がっていた。尚戦うなら要る物だけど。今はそれどころでは…。
「ゆめいは最後迄何をやり出すか分らない」
ノゾミちゃんが刹那の攻防を教えてくれる。
烏月さんが放ったのは、昌綱さんの二段突きを越えた神速の三段突きだ。為景さんの様
に一度間合を置き、機を窺って突如踏み込み。右側面の構えの柚明お姉ちゃんの背後に一
撃、次に前面に一撃。これは昌綱さんより、楓さんのそれに近い。二撃目で必殺を狙うの
ではなく、二撃で左右への逃げ道を封じ。三つ目の突きを、回避できない真ん中に叩き付
ける。
楓さんの振り下ろしは、木刀以上に伸びはしない。実際は飛び魂削りという特異な技で、
届かない攻撃を更に伸ばしお姉ちゃんに当てたけど。でも烏月さんの突きは直線にもっと
伸びる。気合と物理攻撃を兼ね備えた必殺技。
「ゆめいはその三撃目に反撃を返したのよ」
幾ら神速でも鬼切り役も三動作。ゆめいは二度躱して反撃で三動作。後は疾さと、四席
の彼が何度も言っていた腕の長さ。体に恵まれないゆめいは、鬼切り役と互角では負ける。
「柚明君の木刀は宙に舞った。烏月君の勝ちだろう」「ゆめいに刺突は当たってないわ」
一体、どっちがどうなっちゃったの……?
「ゆめいは剣士ではない。だからこその技」
ゆめいの反撃は、鬼切り役の三撃目と同時だったけど、矢の様な木刀突きはそれで終ら
なかった。投げたの。ゆめいは届かない間合を補いに、木刀を鬼切り役の顔に投げつけた。
更に力の塊を僅かに遅らせ、時間差攻撃して。
「あ……」「それで烏月君は、木刀を弾き飛ばした後も柚明君に止めを刺せず」「ええ」
鬼切り役は三撃目の突きを放つ代りに、ゆめいの木刀を弾き飛ばしたの。でもその後も、
百分の数秒遅れて迫り来た力の塊を防ぐ為に、防御に気力を通わせて。投げられた木刀を
薙ぎ払った直後に鬼切り役が攻めに出ていれば、逆にその瞬間、力の塊に直撃されていた
処よ。
「全部を出し切った渾身の反撃。決まっていれば大逆転勝利。あんな事は剣士の発想には
ない。鬼切り役も今迄の経緯を見てなければ、或いは防げなかったかも。でも、これで
…」
勝敗は決したわ。ノゾミちゃんは悔しげに、
「ゆめいは武器を失った。木刀は鬼切り役の間近。それに今回の攻防で、気力も体力もほ
ぼ使い切った。痺れも回っているし消耗も疲弊も限界よ。こんな技を尚出せる余力はなく、
出せても彼女は一度見た技は見破ってくる」
「ここ迄か……烏月君相手に、あの状態から良くここ迄戦えた事は、賛嘆に値するが…」
目の前では、木刀を手にした烏月さんが柚明お姉ちゃんの様子を窺っている。勝利の見
込みを失い、武器を手放して抵抗の術を失ったお姉ちゃんの反応を、見極めたいのだろう。
柚明お姉ちゃんは荒い息を整えて、無手の状態で立ち上がって烏月さんに向き直るけど。
「わたしが戦い続ける限り全ては終らない」
尚気力を宿す静かなその言葉に、八傑も大人衆も、烏月さん迄もが驚きに瞳を見開いた。
柚明お姉ちゃんは、声音をやや強くして、
「諦めない限り、挑み続ける限り、当事者の片方であるわたしが手放さない限り、望みへ
の途は残っている。諦めた瞬間、全ては終る。手放した瞬間、望みは消える」「それを
…」
烏月さんは言葉に出しかけてから、それを呑み込み、真意を探る視線で見つめ返すけど、
「これは剣道の試合ではありません!」
柚明お姉ちゃんは敢てその言葉を繰り返し、
「これは鬼切部千羽党の鬼切りの業と、わたしの技の実戦です。武器を失ったから、消耗
し疲弊したから、傷つき痺れに身を侵されたからと言って、鬼は攻撃を止めてくれますか。
たいせつな人を奪う禍を回避して貰えますか。
たいせつな人を守り抜く為に、血の最後の一滴迄、搾り取られた後の抜け殻迄戦わねば
ならない時もある。わたしが叔母さんに鍛えて貰ったのはそう言う戦いです。武器の有無
や、衣剥がれた羞恥や、皮や肉を削がれた痛みで止めて、逃げ出せる類の戦いではない」
千羽党の誰もが粛然とさせられて声もない。
戦いに挑む覚悟では、人後に落ちる筈のない鬼切部千羽党が、女の子1人に気圧されて。
「真に避けられない時は、身も心も生命も全て注いで、一番たいせつな人を守り通す…」
ああ、そうやってお姉ちゃんは拾年前自身の生命も肉の体も捧げてオハシラ様になって。
世間からも、このわたしからも忘れ去られた中で、永劫の封じの要を受け容れて保って。
夏の経観塚では、その想い迄も何度も消失し掛って。さかき旅館でのミカゲちゃん達と
の戦いも、崖から落ちたわたしを救いに顕れた真昼も、白花お兄ちゃんを乗っ取った主と
相打ちして消失し掛った夜のご神木の前でも。
「千羽の皆様、羽藤の想いをご覧下さい…」
誰もが勝負は決まったと、思ったのだろう。
ノゾミちゃんでさえ、そう感じた程なのだ。
でも戦いは未だ終ってない。むしろ今から。
「あたし、こんな相手に戦いを挑んだの…」
左端から千代ちゃんの呻き声が漏れ届く。
柚明お姉ちゃんは右側面の構えを解いた。
「さあ、続けましょう。烏月さん」「……」
「確かに、気力は凄いが……柚明君にもう打開策はない」「終るわ。ゆめいは自ら倒れる
のではなく、鬼切り役に倒されて終る気よ」
とうとう構えを解いた。保てなくなった。
「違う。違うよ、ノゾミちゃん」「けい?」
わたしが震え出すのは、烏月さんの闘志にではなくて、初めて柚明お姉ちゃんの闘志に。
「柚明お姉ちゃんは戦いを諦めてない。全身全霊、想いを届かせる積りだよ。構えを変え
たのは、お姉ちゃんが真の本気になったから。烏月さんが身構えたのはそれが伝わったか
ら。ノゾミちゃん、あの構えに見憶えない…?」
「……っ! けいっ! まさか、あれはっ」
ノゾミちゃんが一番良く見知っているよね。
夏の経観塚であの構えと実際に戦ったもの。
今日ずっと抱いてきた違和感が漸く解けた。
無手の柚明お姉ちゃんは左掌を前方に伸ばし、相手との間合を計る感じで身構えていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「夏の経観塚で、柚明お姉ちゃんがわたしを守る為に、ノゾミちゃんや、ミカゲちゃんや、
主の分霊と対峙した時の戦いの構えだよ…」
これが柚明お姉ちゃんの本来の在り方だ。
贄の血の力を操るお姉ちゃんに馴染んだ。
その技量を最大限引き出せる構えなのだ。
強く確かな想いを届かせる意思を込めて。
「何で今頃……もっと早くに出していれば」
余計な痛みや消耗もなかった物をっ。今更気合を通わせたって、受けた傷は治せないし、
出血も取り戻せない。切り札の使いどころを間違えている。大体今から残り少ない力で気
力で、あの構えからどの程度戦えるというの。
「せめて鬼切り役に最初からそれで向き合っていれば木刀も」「あ、あは。そうかもね」
ずっと温存していたのかな。これ程消耗して傷つく迄使わない方が、拙劣に思えるけど。
それでも柚明お姉ちゃんは未だ諦めてない。
烏月さんが改めて、身構えさせられたのだ。
長い黒髪艶やかな女性剣士を目の前にして。
左手を伸ばした構えから柚明お姉ちゃんは、
「わたしの技は無手が基本です。しかし千羽の強者方に無手では流石に非礼に当たるので、
木刀をお借りしました。ですがこうなった以上、わたしも己の術式に戻らせて頂きます」
あ。そう言う事だったんだ。それで今迄。
「ゆめいの今迄の構えは、剣士向けだと?」
これからは、本当に柚明お姉ちゃんも己の流儀で戦うと。縛りなく全力になると。でも。
「遅すぎるわ。今から立て直しても限度が」
「幾ら優れた術士でも、陽の角度が高すぎる。
力を放っても、接近戦でなければ届かない。
木刀を持たない今の柚明君に、烏月君の攻撃をかい潜って懐に飛び込む事は無理だ…」
打つ手がない状況には、何の変化もない。
東条さんがそう呟いた時だった。局面は、
「烏月さん。決着を付けましょう。……わたしに、鬼切りを使って下さい」「なっ…!」
一気に勝敗を決する動きに、繋って来た。
「今のわたしは烏月さんの、鬼切り以外の技には決して倒れない。倒されるなら、鬼切り
か、そろそろ回り始めてきた痺れにです…」
「最大の技にこそ最大の硬直と好機が潜む」
ノゾミちゃんは今迄の柚明お姉ちゃんの戦いを指折り数え、敢て相手の必殺技を招いて
倒していると指摘した。更にお姉ちゃんが夏の経観塚で、白花お兄ちゃんの鬼切りを直に
見た事も。お姉ちゃんは鬼切りを知っている。
「ゆめいは勝負に出たわ。鬼切り役がこれに乗らなければ、ゆめいは痺れに倒れて終る」
ゆめいは無手でも鬼切り役の木刀から致命傷を躱し続ける積りよ。痺れに倒れる瞬間迄。
鬼切り役が勝っても勝因は痺れの所為になる。鬼切り役には、望ましくない展開でしょう
ね。
「烏月さんがその勝負に乗ってきたら…?」
一発勝負よ。多分一分以内に勝敗は決まる。
「順当に行けば、鬼切りでゆめいが倒される。
でもゆめいが挑む以上は唯では済まない」
「鬼切りは、八傑以上の者は明良様に見せて貰っている。秀輝と千代は先日、烏月君に」
東条さんが緊迫感を宿した声で、続けて、
「あれは、止められる様な技でもなければ躱せる様な技でもない。勝つ方法は出させない
事位だ。柚明君は、本当に勝つ気なのか?」
「お姉ちゃんは諦めていません」「そうね」
わたしもノゾミちゃんも経観塚で、ご神木の前で消え掛った柚明お姉ちゃんを繋ぎ止め
る為に、生命と想いを重ね合わせた。力も記憶も流入し合った。あの夜に柚明お姉ちゃん
が見聞きした事の多くは、わたし達の心にも残っている。白花お兄ちゃんが、烏月さんに
揮う事で伝えた、千羽最強の技『鬼切り』も。
それを敢て求めるのだ。柚明お姉ちゃんは根拠のない虚勢を張る人ではない。何かの考
えがあって、烏月さんに決戦を挑んでいる…。
烏月さんの答は、肩幅よりも広く両足を開いて、空気椅子の様に腰を落したあの構えだ。
背筋はピンとまっすぐで、刀を右肩に担ぐ様にして。魂削りを出す際にも使っていた千羽
妙見流の。向い挑めば必ず破れ、背にすれば必勝を約束される『破軍星』を象った構えだ。
それに柚明お姉ちゃんは挑む積りでいる。
本当に勝てるのだろうか。傷付いた身で。
今迄は勝ち抜いてきたけど。でも今回は。
左隣で東条さんが視線は戦場に向けた侭、
「千羽妙見流が名を頂いているのは、人の寿命を司る北辰・七星の神。その振るう太刀は
肉体ではなく、魂その物を断ち切る。そして鬼とは死者の魂……即ち『キ』を示す言葉」
鬼を、魂を断ち切る北辰・七星の太刀。
「それが千羽妙見流の奥義『鬼切り』だ…」
彼、彼女らの存在その物の名を冠した技。
ノゾミちゃんの感応でわたしもそれを視る。
動きは魂削りと何ら変りない。込める力が段違いなだけで、その早さがとてつもないだ
けで、気合が必殺のそれを越えているだけで。ほぼ同じ業。でもその与える効果は、桁違
い。
「これで決める……勝負っ!」
烏月さんの足が地を蹴った。
正に神速とも言える踏み込み。
その踏み込みによる勢いも、足先から指先に至る全身の力も、鬼切り役である烏月さん
の全てが、余す事なく乗せられた秘剣が閃く。
『間合いが、少し遠い……でも、届く…?』
これも白花お兄ちゃんが見せた時の通り。
間合は遠く、木刀は届かず、それでは素振りに他ならず。寸前迄、わたしもそう見えた。
だけど。
剣先から延びた不可視の力が、柚明お姉ちゃんに達するのが、まざまざと視えた。木刀
の隅々迄力を通わせ、剣先に迄それを満たし、溢れさせ、更に溢れ出させたそれを意志で
紡いで強く束ね、相手の魂に向けて叩き付ける。
躱せない。避けられない。防げない。発動を防ぐ事も無理だ。動き出せば止められない。
結果柚明お姉ちゃんはその真正面に進み出て、吸い込まれる様に片膝ついて鬼切りを受け
…。
その一撃に込められていたのは、肉体的な力の全てではなく、気や魂といった精神的な
物迄を含めた、烏月さんの蓄積の全てだった。
その証拠に、振り切ると同時に烏月さんの体から、体力以上に気力が抜けて。今彼女を
包むのは物凄い脱力感だ。それでも烏月さんが足を踏ん張らせ、必死に己を保つその前で。
「あれはっ……」「ゆめい!」「ばかな!」
柚明お姉ちゃんは鬼切りを、受けていた。
否、受け止めていた。両腕を交差させて。
振り下ろす木刀に敢て踏み込んで。振り抜く前に間近で受ければ、物理的打撃は相当軽
減できる。懐に踏み込んだのは、鬼切りの発動を防ぐ為じゃなく、踏み込んで受ける為だ。
内懐迄踏み込んで、片膝突いて両腕を交差させ、その真ん中に木刀を受けて。そして総
動員させた贄の血の力を、交差させた両腕に総結集させ。鬼切りを正面から受け止める!
「なっ柚明さん……」「はあぁぁぁぁあ!」
2つの膨大な力がぶつかり合って弾ける。
『魂削りが精神に強く響く力なら、贄の血の力も精神に強く響く力。そして鬼切りも又』
風が、閉ざされた道場の空気が爆心から吹き付けてくる。錯覚じゃない。膨大な力が…。
「馬鹿な! 鬼切りを受け止めるだとっ…」
「あり得るの、そんな事が」「ある筈が…」
楓さんの問に、昌綱さんも答えきれない。
力と力、魂と魂の全てを注いだ激突の末に。
全能力を出し尽くした烏月さんがふらつく。
その時が柚明お姉ちゃんの真の狙いだった。
受けて耐えて凌ぎきって、間近に残れば…。
交差させた腕を解いて、鬼切りを受け止めきったその両腕を、間近の烏月さんの腹部に
突き出す。柚明お姉ちゃんの両手の掌打が…。
「くぁっ!」烏月さんを数歩のけぞらせる。
「っぁあ!」お姉ちゃんも同時に崩れ落ち。
凄絶な消耗戦だったけど。必殺技を出し終えた烏月さんの方がより無防備だった。柚明
お姉ちゃんの掌打は、内部に衝撃を届かせて。
「烏月様っ!」「烏月君!」「鬼切り役っ」
烏月さんが血を吐きつつ仰向けに倒れて、
「……う、烏月さんっ……、しっかりっ!」
駆け寄っていた。もう立ち合いの勝敗など、どうでも良かった。唯たいせつな人が心配
で。
「しっかり! 目を覚ましてっ!」「ん…」
烏月さんはまだ完全に気を失っていない。
唇から鮮血を漏らし、呻き声を上げつつ尚、微かに首を左右に振って必死に意識繋ごう
と。こんなに強く艶やかで端正な人がなんて酷い。屈み込んで寄り添った次の瞬間、背後
に物音。
「けい……ちゃん……、あぶない……わ…」
柚明お姉ちゃんだった。体力の限界迄使い果たしたのか真っ青な表情で、烏月さんに向
けて這い進もうとして。止めを刺す気なの?
烏月さんに、未だ完全に倒れきってない烏月さんに、柚明お姉ちゃんは止めを刺すの?
「も、もう止めて! 烏月さんを、傷つけないで。わたしの、わたしのたいせつな人を」
思わず烏月さんを背後に庇って叫んでいた。
柚明お姉ちゃんは動ける。烏月さんは確かな意識もない。双方共に酷い状態だけど今守
るなら烏月さんだ。お姉ちゃんは説得すれば。
「これ以上戦う事はもうないよ。もう止めて。烏月さんも柚明お姉ちゃんもどっちもたい
せつな人。傷ついて欲しくない大事な人なのに。
こっちに来ないで、近づかないで。そこから動かないで。烏月さんを、虐めないでっ」
お姉ちゃんは二メートルも離れてないけど、立って動けず、烏月さんを背に庇って座り
込んだわたしと視点がほぼ同じ。右目は閉じた侭でも左目は確かに開いているし、例え2
人の2対の目が潰されたって互いの存在は分る。
「けいちゃん、そこは危ないわ、どいて…」
「退かないよっ。烏月さんを虐める柚明お姉ちゃんの言う事は聞かない。もう止めてよっ。
こっち来ないで。烏月さんを傷つけないで」
わたしのたいせつな人を傷つける人は嫌い。
烏月さんを傷つけに来る人はだいっきらい。
その時背後で微かに何者かが蠢いた感触が。
「けいちゃん……、違うの。そこは危ない」
「お姉ちゃん、どうしても烏月さんを…?」
「ぬああぁぁぁ!」突然背後で大きな動きが。
烏月さんが必死の形相で立ち上がっていた。
足下危ういけど、今にも仰け反りそうだけど、必死に右手に木刀を握りしめ、まだ戦え
ると。未だ終ってないと。まだ負けてないと。でも頭がぐらついて、確かに立っていられ
ず、
「烏月さんっ。大丈夫?」「ぬくく、ぬぅ」
わたしに倒れ掛ってくる。気付いて受け止めなければ、烏月さんもわたしも大変だった。
わたしは迷わず、その身も口から流れる血も服に受け止め、その侭立って烏月さんを助け
支え。お姉ちゃんが危ないと言ったのは…?
その感触に烏月さんは漸く気を取り直し、
「桂さんか……申し訳ない。少し、退いて」
寄り掛りつつ、寄り掛かってはいけないとわたしを軽く押して、自力で立とうと努めて。
「もしかして、烏月さんも未だ、戦いを?」
「未だ戦闘不能も戦意喪失も確かめてない」
開始時点では勝利条件はそうだったけど。
烏月さんは唇から血を流しつつわたしに、
「鬼切り役は、負ける訳には行かないんだ」
尚木刀を握り締め。鬼切りを受け止められ反撃を返されても、その強い意志は崩れない。
「危ないから、少し下がっていて」「え?」
一歩、一歩渾身の力を振り絞って踏み出し。
でも、烏月さんの視線の先に捉えた人は…。
お姉ちゃんは、立ち上がる事ができてない。
「ま、待って烏月さん。お姉ちゃんに、止めを刺すの? 柚明お姉ちゃんにその木刀を」
今度はわたしはお姉ちゃんの前に割り込む。
勢いの侭に正面から、お姉ちゃんの前に座り込んで、背後になった烏月さんを見上げて、
「烏月さん。もう止めようよ! ここ迄戦えばもう充分だよ。わたし、烏月さんにもお姉
ちゃんにも傷ついて欲しくない。これ以上」
「桂さん。未だ決着は、付いてないんだ…」
お姉ちゃんは息が苦しくて言葉が出ない。
今はわたしがお姉ちゃんを抱き支え庇い。
「もう決着なんてどうでも良い。わたしのたいせつな人が傷つけ合って欲しくない。わた
しの望みはそれだけです。お願い。これ以上お姉ちゃんを虐めないで。戦いを止めて!」
もう見ていられない。これ以上お互いに。
「傷つけ合うのなら、両方だいっきらい!」
道場がしんと静まり返った。少しの間だけ、物音が全て消え去った。囁き声もざわめき
も。わたしの叫びが全ての音を消し去った様に…。
「……烏月さん」「柚明お姉ちゃん……?」
沈黙を破ったのは、柚明お姉ちゃんの声。
立ち上がれない侭、這い進む姿勢を止め。
辛うじて立っている烏月さんを見上げて。
「参りました。……わたしの負けです……」
お姉ちゃんは両手を床について額づいて。
自身の戦意喪失を対戦相手に告げていた。
「身の程知らずに鬼切り役に勝負を挑んでしまいました。鬼切部千羽党の強さを身に思い
知らされました。わたしは本当に未熟者…」
最後の戦いの勝者は烏月さんで確定した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お姉ちゃん、烏月さん、しっかりして!」
状況はほぼダブルノックアウトに近かった。烏月さんは必殺技を放った後の硬直に受け
た、柚明お姉ちゃんの渾身の掌打の大ダメージで、勝利確定の直後に再び昏倒した。千羽
の人達が慌てて駆け寄っていたけど、遂にわたしの見ていた間は意識を戻せず、担がれ運
ばれて。
柚明お姉ちゃんも満を持して総力で防いだとはいえ、受けた鬼切りは甚大で。それ迄の
無理も、回り始めた痺れも一気に表面化して、視線も虚ろで座った姿勢を保てない。烏月
さんに駆け寄りたい想いを抑え、世話役を任された東条さんがわたし達に添ってくれたの
は、助かった。勝手も分らぬ人の家、だったから。
「友加里君、茜君、菖蒲君、小町君。柚明君を応急処置する為に運び出す……手伝って」
解き放たれた様に動き出す、雑踏の中で、
「どっちに添うの、けいは?」「え……?」
烏月さんと柚明お姉ちゃんの、どっちに寄り添うのかと。ノゾミちゃんに、尋ねられた。
2人とも大ダメージで、起き上がれない。
客人と当主だから、収容先は別々だろう。
寄り添って励ましたい。お話しをしたい。
でも今この時にそれが叶うのは片方だけ。
たいせつな人。2人ともたいせつだけど。
「き、決まっているよっ!」「けい……?」
「ここは千羽館だよ。烏月さんを心配してくれる人は沢山いる。でもお姉ちゃんを心配す
る人は殆どいない。わたしが、添わないと」
お姉ちゃんには叱りたい事も訊きたい事も、伝えたい事も沢山ある。烏月さんにも沢山
あったけど。それは次に持ち越そう。仕方ない。
「お姉ちゃんの泊る部屋って、わたしと同室ですか?」「ああ……ついでに案内しよう」
柚明お姉ちゃんは、身動きはできないけど、意識はやや混濁しつつも朧にあって、話し
かけると答を返す。自分で治せるから大丈夫と千羽の癒し部の治癒を謝絶し、お部屋に運
んで貰う事だけを願い、みんなの腕に身を委ね。
千羽の癒し部が、治癒では現代医学の補助位で、柚明お姉ちゃんの右肩や右目の様な重
傷には手が及ばないのだと、後で聞かされた。お姉ちゃんの癒しは、常の人が持たざる特
異な力のその中でも、尋常ではなく強力らしい。
ぐったり動けないお姉ちゃんを、お部屋に運んで貰って、お布団敷いて。東条さんに外
して貰い女性陣で、血に汚れた服を脱がせる。桶に水を汲んで、濡れタオルで汚れを拭い
て。外傷が浅い為か、癒しの力が効いているのか、傷からの出血は止まっていた。浴衣を
着せる。
小町さん達も、お姉ちゃんの素肌の柔らかさときめ細かさに、頬染めていた。間近に接
すると甘く香る、お花の匂いの心地よさにも。
手足に力の入らないお姉ちゃんは、為される侭に下着も脱がされ、身体を拭かれ、着せ
替えられて。虚ろな視線は力なく、恥じらう余裕もなさそうだ。でもそれを為す側は。血
糊を全て拭き取ると、柚明お姉ちゃんの生れた侭が力なく横たわっていて。その無防備が
わたし達全員を竦ませる。拭き取るわたし達の手の方が震えてしまう。この華奢な身で千
羽の三強を破り、烏月さんと打ち合った末に、一度は昏倒させたのだ。今尚信じ難いけど
…。
生命に関るケガではないし、柚明お姉ちゃんは全て自力で、明朝迄に治せると言うので。
後は静養の時間が必須となる。2人の時間が。
「ありがとうございました、助かりました」
「いえいえ、こちらこそ本日は柚明さんには、色々な意味で本当に凄いモノを見せて頂
き」
さっきの試合のこと、だよね、小町さん?
柚明お姉ちゃんをお布団に寝かせた段階で、千羽の女性陣は引き上げて。夕飯はもうす
ぐと聞いたけど、お姉ちゃんはとても食べられる状況じゃない。わたしも喉を通らないか
も。
2人きりになって振り返った時、お姉ちゃんは微かに哀しげな、切ない顔を見せていた。
「結局、定めは乗り越えられなかった……」
お姉ちゃん? 歩み寄るわたしに返してくれたのは、静かな笑みで。心を消耗した為に、
お姉ちゃんの心の内が覗けて見える様な気が。色々な心配や思索や、わたしに見せず済ま
せていた諸々が、今なら覗き見出来る気がした。
「烏月さんは、本当に強い。綺麗で優しく」
わたしよりずっと頼りに出来て確かな人。
窓から差し込む夕日がわたし達を染める。
「けいちゃん……ごめんなさいね、色々と」
せっかくの烏月さんとの週末を台無しに。
右目を眼帯で覆ったお姉ちゃんは、布団の傍に添ったわたしの願いを察し、左手を伸ば
してくれて。左手で受け止めると、夏の経観塚で手を握ってくれた夜と逆の構図になった。
でもこの繋りが、今もわたしを支えてくれる。
お姉ちゃんには、強い治癒の力がある。心の力さえ取り戻せれば、必ず全て取り返せる。
だからわたしは心配しても取り乱す事はせず。わたしが乱れて心配させては、逆効果だか
ら。
烏月さんとは二度と逢えない訳じゃない。
今日の成り行きと結末は残念だったけど。
深く想いを交わせる日もきっと、訪れる。
今は一番近しい人に、心の全てを注ごう。
「言いたい事は沢山あるけど、今は言わないから。思い切り言える様にしっかり治して」
頷いて、静かに目を閉じるお姉ちゃんに、
「柚明お姉ちゃん、わたしの血を呑む…?」
鬼切りの威力は絶大だ。柚明お姉ちゃんは心の力に甚大な痛手を受けている。それを補
わないと癒しの力も紡げない。右目も右肩も、腕や胸や太腿の掠り傷も、普段のお姉ちゃ
んなら朝を待たずに、問題なく治せる筈だけど。
白花お兄ちゃんの鬼切りを受けた烏月さんは、柚明お姉ちゃんの癒しを受けても、翌日
の夕刻迄身動きもできなかった。贄の血の力を総結集し、かなりを相殺しても尚凄い筈だ。
お姉ちゃんがわたしの流血、健康を損なう吸血を好まない事は分る。それが存在を保つ
力に直結した夏の経観塚でも、柚明お姉ちゃんはわたしを傷つける事を厭い続けた。けど。
「お姉ちゃんは羽藤の為に、わたしの分も背負って立ち合いに臨んで傷を負った。その癒
しにはわたしも役立ちたい。力になりたい」
羽藤の為に受けた傷は、羽藤が治したい。
せめて出来ること位では、役に立たせて!
わたしの強い求めにお姉ちゃんは微笑み、
「けいちゃんは優しいのね。有り難う、嬉しいわ。その気持だけで、わたしは充分よ…」
羽藤の血筋は頑固の血筋か。柚明お姉ちゃんは心から嬉しそうに左目を細めつつ、わた
しの申し出はやはり受け容れず。言葉を続け、
「人の身体を戻したわたしは、人の理に縛られる。人の血を大量には受け付けられない」
オハシラ様だった頃とは体の組成が異なる。余り多く呑めないのだと、申し訳なさそう
に。何も悪くないのに。わたしの申し出に添えない程度の事に罪悪感を憶える必要はない
のに。
この人はどこ迄も人の事ばかり心配して!
「唯、けいちゃんの血はわたしより濃いから、大きな力を得られるのは確かよ。わたしの
血で紡ぐより、遙かに大きな力を紡ぎ出せるわ。だから、一時的に大きな力を必要とする
時に、申し訳ないけどお願いする事があるかも知れない。綺麗な素肌を傷つけてしまうけ
ど…」
己の為に使う気はない。常に誰かの為に。
本当に愚かしさを越えて優しく甘いひと。
何もかもを捧げて繋ぎ止めたい愛しい人。
「ううん、気にしないで。わたし、お姉ちゃんの力になれるなら、少し位痛くても全然平
気だから。お姉ちゃんの為なら、痛くても血を流してもわたし、喜んで受け容れるから」
あ、わたし今、言葉を間違えてないよね。
「幾らでもお願い聞き入れるから。わたしに出来る事なら幾らでも頑張るから。だからも
う1人で全部背負う事はしないで。わたし」
少しでも、お姉ちゃんの助けになりたい。
少しでも、お姉ちゃんの力になりたいの。
こうして話しかけている事が、実はお姉ちゃんの休息を妨げているのかもと気付いた時、
「じゃあ、少しだけお願いできるかしら?」
けいちゃんが好まないなら、無理には求めないけど。けいちゃんが、許してくれるなら。
「素肌を合わせる……添い寝?」「ええ…」
寄り添うだけで柚明お姉ちゃんは、わたしの素肌から漏れ出る力を何割か使えるらしい。
血を失う訳ではないので、失血の怖れもない。少し疲れが残るかも知れないとお姉ちゃん
は、それにも尚心配気味で恐る恐る申し出るけど。
いや、もしかしたらお姉ちゃんは、それ以外の意味で恐る恐るなのかも知れないけど…。
「全然、全然っ構わないよ。わたしっ……」
わたしとお姉ちゃんは唯の従姉妹の関りじゃない。経観塚の夏を共に乗り越えたわたし
達は、互いを混ぜて『半分こ』した。不足な時は幾らでも補い合う。この身も心もわたし
1人の物じゃない。柚明お姉ちゃんとわたしはお互い共有物だ。覚悟はとうに出来ている。
わたしの方が、ドキドキしていたのかも。
一度繋いだ手を離し己の服に手を掛ける。
部屋の外にも、人の気配は感じなかった。
下着姿になった時点で、浴衣を纏うかどうか微かに惑い、振り向いてお姉ちゃんに問う。
「けいちゃんの望みに合わせるわ」「うん」
お姉ちゃんには経観塚の幼い日、添い寝して絵本を読んで貰った。お風呂に入れて貰い、
髪や体も洗って貰った。素肌と素肌を合わせて抱かれて、五右衛門風呂に一緒に浸かった。
遮蔽物はより薄い方が、むしろない方が。
肌から滲み出る力は、より多く伝播する。
今更恥じらう事はない。そして例え恥じらっても尚、嬉しさが上回るから。たいせつな
人の為に、今こそ羽藤桂が必要不可欠だから。
自身の意思で、全てを外して振り向いて。
「わたしの衣も、脱がせて貰えるかしら…」
柚明お姉ちゃんは、未だ手足に力が入らないらしい。わたしは、頬を染めつつも頷いて。
2人一糸纏わずに、素肌を触れ合わせる。
面積多く触れ合う様に腕を足を絡め合い。
頬も肩も首筋も胸元も確かに触れ合わせ。
甘えている様で甘えられている様な気も。
暖かみを交わす事が力の流出入なのかな。
誰の視線もないけど、夕日の暖かみも届かない布団の中だけど、相手の視線が間近い事
が頬に熱を呼ぶ。それを打ち消すのはお互いの触れ合う肌の暖かさ。熱は熱をもって制す。
愛しい人の柔らかな肌の感触が、わたしの全ての不安を鎮め、心を安らかにしてくれた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
大人衆の政子さんが夕食が出来たと伝えに、お姉ちゃんの容態とわたしの様子を見に訪
れて声を失った。お姉ちゃんは、見られて狼狽えるわたしを一度強く抱き締めてから、静
かに身を離し。政子さんに少し待ってと頼んで。
わたしに浴衣を着る様に促し、自身も浴衣を羽織って。政子さんを中に招き、布団の上
に身を起こして応対を。わたしは恥じらいで冷静に受け答え出来なかったので、助かった。
烏月さんは日没直後に意識を戻したらしい。掌打の痛手は凄かった様だけど、衝撃はほ
ぼ均等に伝わったらしく、内臓がどこか破れる等の支障はなく。癒し部の手当が一番有効
な類の痛手だとか。お姉ちゃん、治し易い痛手を考えて放ったのかな。用意周到な人だか
ら。
「明日の予定に、障りはないと申しておりました」「そうですか……。心から申し訳あり
ませんでしたと、お伝え願います。再度対面した折に、自ら述べる積りではありますが」
それと、千羽の皆様のたいせつな烏月さん達を痛めてしまい、申し訳ありませんでした。
今回は元々一泊二日で、羽藤と千羽の関係を結び、仲を深める積りだった。大人衆の策
動で一連の立ち合いが挟まったけど、その終了後に関係を結ぶ予定でいた。千羽も当主が、
羽藤も柚明お姉ちゃんが動けなくなったので、実質延期になったけど。立ち合いを終え想
いも通じ合えた今、お話しは拾分で済むと思う。
烏月さんとお姉ちゃんの体調さえ戻れば。
2人とも後に蟠りを引きずる人じゃない。
政子さんの応対は妙に素っ気ない。わたし達の素肌の抱擁を見ての感触を隠している?
一応わたし達は客人だから、気遣って? 誤解を呼び招く絵図だった。と言うか本当は、
わたしは本当に嬉しかったから、見られた様は誤解とも言えないかも知れないないけど…。
お姉ちゃんも、回復したと言うより人に向き合うからと、布団の上でも背筋を伸ばして、
「わたしの方も、予定に障りはありません。
その旨も千羽の皆様に、お伝え頂きたく」
「承知しました……あなたがそう言うなら」
政子さんは元千羽の癒し部の長だったから、『手当て』の語源にもなった肌触れ合わせ
ての治癒も承知の様で。お姉ちゃんが簡潔に説明すると、表情は硬い侭だけど理解して頷
き。その上で嬉しそうだった様は見られたけど…。
柚明お姉ちゃんは夕食も頂けないけど、わたしは食べた方が良いと勧められた。お昼も
おやつも食してないから、お腹は減っていた。わたしの活性化が、肌から受ける力も増す
のと重ねて勧められたので、夕ご飯は頂く事に。それとお風呂も。東条さんの気遣いで、
お膳一式をお部屋に運んで貰えたので、お味噌汁だけでもと、お姉ちゃんの口に少し含ま
せて。
2人の食事が互いの血色も妙に良くした後。千羽のお風呂を頂いて、その熱を冷めない
内に柚明お姉ちゃんと分ち合う。わたしは1人で少し熱くなりすぎていたかも知れないけ
ど。
ノゾミちゃんは拗ねた様に、夜中青珠から出てこなかったけど。本当は柚明お姉ちゃん
の癒しを妨げない様に、遠慮していたのだと分るので。家に帰ったら、贄の血あげるから。
今晩だけは、少し我慢してね、ノゾミちゃん。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「……柚明お姉ちゃん?」
陽は既に高かった。時刻は八時半過ぎで。
休日だけど、お泊りにしては寝過ごした。
柚明お姉ちゃんに力を融通した疲れかな。
今は目覚めも良く気分もスッキリだけど。
布団の中に、他に誰もいないと気が付いて、むくと起きる。微かに胸騒ぎを感じた。唯
傍にいないだけかも知れない。トイレか朝食に外しただけかも知れない。でも心は波打っ
て。
起きてみると、素肌で抱擁し合った侭で眠りに就いた筈なのに、浴衣を纏わされていた。
「ノゾミちゃん。お姉ちゃんを……あれ?」
青珠がない。日中現身を取れないノゾミちゃんが、自らの意思で出歩くとは、思えない。
その不在には少なくとも他に誰か関っている。誰もわたしに添えない時の為にと、お願い
してついて来て貰ったノゾミちゃんを、なぜ?
一緒にいないなら、いる所も一緒だろうか。
2人揃ってわたしを外す。何か隠している。
わたしに知られたくない何かを為している。
心に波打つ嫌な兆を打ち消したくて、わたしは急ぎ浴衣を脱いで、下着を纏い服を着る。
「おはようございますっ」「お早う、桂君」
廊下では、板の床に木刀を置いて東条さんが座していた。一晩中、わたし達の警護を?
と言う事は、お姉ちゃんの動向も見聞きした? 視線を向けると、先に話しかけられた。
「柚明君から言伝を預っているよ。朝ご飯を食べて荷物の整理を済ませてから、第一道場
に来て欲しいと。青珠を少し借りるともね」
第一道場って、昨日立ち合いをやった…?
「今お膳を運んでこさせよう。少し待って」
「柚明お姉ちゃんは、今どこにいますか?」
問うていた。流される侭ではいけないと胸の奥で、何かが囁く。この焦りに近い感触は、
一体何なのだろう。唯別の場所にいるというのではなく、別の場所にいる様に事を導かれ
ている。隠れた侭何かが進められている気が。
東条さんの表情が微かに困惑の色を見せた。
当たりだ。わたしに言いづらい何かがある。
わたしは余計な言葉は継がず、じっと東条さんの瞳を見つめる。達人同士の読み合いは、
隠し事を悟られた時点で全て喝破されている事も少なくない。わたしはとてもその領域に
は至らないけど、はったりを掛ければ柚明お姉ちゃんを昨日見知った東条さんなら、全て
見抜かれたと勘違いして、話してくれるかも。お姉ちゃんの従妹のわたしは全部お見通し
と。
わたしの想いを込めた演技は成功だった。
東条さんは、困惑を隠す事を諦めた顔で、、
「……参ったな。付いてきたまえ、桂君…」
板張りの廊下を暫く歩く。この途は、昨日大人衆に面談した道場から、立ち合いをした
道場への、移動の途の逆さまだ。わたしは今、最初に大人衆や八傑と対面したあの道場へ
…。
「たあぁぁぁ」「仇いぃぃ!」「……ぁっ」
朝からやけに気合の入った声が耳に届く。
何かを投げて床に叩き付ける鈍い物音も。
何かを殴りつけ蹴りつける様な音も響き。
妙な胸騒ぎはその方向に、近づくにつれ。
男女幾つかの気合の声は昨日聞いた様な。
東条さんが、足を止めて襖を開けた地点は、もう数十メートル行くと最初に面談したあ
の道場に行き着く、その手前のやや広い一室で。
「四席の男っ、あなた何をやっているの?」
ノゾミちゃんは、わたしが東条さんにはったりを掛けてここへ案内させたと察した様だ。
「けいはゆめいと違う。とぼけ続ければもう少し時間を稼げたのに。騙し続けるのを諦め
るのはともかく、ここ迄連れてくるなんて」
日中は現身を取れないノゾミちゃんだけど、取り憑かれた状態のわたしはいつでも声は
聞えるし、見鬼を使える千羽党の人もお話しは出来る。でも、ここにもお姉ちゃんは不在
で。
室内には弐拾人弱の人が座していた。大人衆や八傑を中心に、栞さん等鬼切りも数人程。
でも大人衆や八傑には、やや欠員があって…。
「桂さん、お早う」「おはようございます烏月さん。これは、一体どういう事ですか?」
大人衆の欠員は、雅さんと秀康さん。八傑の欠員は三上さんと谷原さん、それに楓さん。
癒し部の人達が数人いたけど、紅葉さんも琴音ちゃんも鈴音ちゃんもいなかった。琴音ち
ゃん姉妹は、正式要員ではないから別として。
ノゾミちゃんをわたしから遠ざけ一体何を。
時間を稼ごうとしたのは誰の何を隠す為に。
わたしの問に烏月さんは苦い表情を見せて、
「柚明さんの申し出を受けたんだ。千羽が」
「喰らえぇぃ」「かああぁぁ」「……っあ」
部屋の中迄向うの道場から叫び声が届く。
尋常ではない想いを込めた生命の雄叫び。
砂入りの袋を振り回し叩き付ける様な音。
烏月さんはそれを耳にする度に哀しそうで。
昨日お姉ちゃんと三強が戦った様な叫びが。
……! 今繋った。胸騒ぎの正体が見えた。
振り向いて襖の向うの、廊下の向うの声の源の道場に、視線を向けて。認めるのが怖い。
「お姉ちゃん!」「気付いたのね、けい…」
気付いたのねって、ノゾミちゃんこれを?
室内を振り向くわたしにノゾミちゃんは、
「青珠を持ち出されたのよ。陽が昇れば私は基本的に青珠を出られない。日の出直後にゆ
めいは起き出し、素肌のあなたに浴衣を着せてから、青珠を持ち出してこの部屋に来た」
ノゾミちゃんを引き離した意図は、わたしに真相を報せない時間稼ぎだ。ノゾミちゃん
は聡いから事を察して分る。わたしの問に答を拒み難いと分って。終る迄暫く隠し通せれ
ばよいと。知られては拙い、何かを隠す為に。
わたしは、烏月さんに向けて問うていた。
「お姉ちゃんは、一体何をしているんですか。
お姉ちゃんは、今何をされているんですか。
昨日千羽の想いを受けて受けきったのに」
烏月さんに負ける迄、戦いにも応じたのに。
その上で千羽は羽藤に、お姉ちゃんに何を。
黒髪の美しい人は深い悲しみを瞳に乗せて、
「昨日楓さんとの立ち合いの後で、柚明さんが大人衆に渡した封書を憶えているかい?」
ああ、谷原さんと三上さんが次の立ち合いの手加減を賄賂で頼んだのかと疑った、あの。
あの中身については未だ尋ねてなかった。
「柚明さんからの千羽への依頼が2つ、書かれていたんだ。その内の一つを、桂さんが起
きて朝食や諸々の整理を終える迄に、出来れば終らせたいと。気付かれない様に、せめて
最中ではなく終了後に知られる様に。桂さんの哀しみの回避が柚明さんの願いだからね」
『……お願いの内の一つは今日の内に申し出ておかないと、準備が間に合わないで……』
柚明お姉ちゃんは、最初からこれを考えていた。わたしが疲れで少し起床が遅い事迄も。
『立ち合いを全て終えた後で、わたしが書簡を渡して真意を伝えられる状態かどうか分ら
ないので、合間の時間帯にさせて頂き……』
柚明お姉ちゃんが昏倒でもすれば、その後に打合せは出来ない。お姉ちゃんは敗北の次
を見ていた。夏の経観塚以降、相当力を失っても血や添い寝を欲しなかったお姉ちゃんが、
昨夜それを求めたのは。自身の消耗や重傷を、翌早朝に立て直さねばならなかった事に加
え、わたしを疲れさせ目覚めを遅らせる事迄も…。
昨日夕刻の政子さんとのお話もその事を。
柚明お姉ちゃんは、千羽館で為さねばならない事を、もう一つ残していた。想い出した。
これはわたしに、為した事さえ見せず報せない積りで。だからわたしに声を掛けず、ノゾ
ミちゃんを引き離し、気付かれぬ内に1人で。
『本当はわたしだけで受け止める積りだった。桂ちゃん迄額づかせてしまったのは予想外
で。びっくりしたでしょう? 千羽が羽藤に抱く想いの中身は想像が付いたけど。桂ちゃ
んに一番辛い事柄に当たってしまった。予めお話ししておくべきだったわね。ごめんなさ
い』
お姉ちゃんはそう言っていた。そして一度はわたしも、その囁きを耳にして察した筈だ。
【……お姉ちゃんは多分最初から紅葉さん達を後で訪ねる積りで。……きっとわたしを烏
月さんの元に預け、1人で千羽の人達の憎悪と罵声を受けに行く気で】
紅葉さんにも鈴音ちゃんにも言っていた。
【許しは期待しません。見返りも返される想いも求めません。憤怒や恨みを想いの侭に叩
き付けて頂いて結構です。……お話しに伺う事を、想いを受け止めに訪れる事を、この想
いを届けに行く事を……】
わたしは脇でずっとそれを聞いていた筈だ。
お姉ちゃんは『わたしが』と1人で為す事を告げていた。立ち合いはわたしとノゾミち
ゃんも混みで、一緒に臨んで受け止めたけど。
【羽藤白花が為した禍への報いは、わたしが受けます。怒りも憎悪も、殺意も憤怒も全て
受け止める積りで来た事に、嘘はありません。
もう暫く、お待ち下さい。わたしのこの身は脆弱で、全ての想いを一度に受けきる事が
叶わない故に。今は立ち合いの最中なので】
必ず、皆様方の想いも受け止めに伺います。
烏月さんの、お祖父さんとお祖母さんにも。
【明良さんのお父様、お母様、お祖父様、お祖母様。わたしのたいせつな人の近親の方々。
千羽明良と千羽烏月は、羽藤柚明のたいせつな人。だから皆さんは、わたしにとっても
たいせつな人。その哀しみや憎しみ、恨みを受け止めるのは、わたしの願いで、望みです。
……もう少しだけお待ち下さい。大人衆を通じお話しがある筈です】
「お姉ちゃんは一体何をしに、何をされに」
わたしはそれを分っている筈だった。柚明お姉ちゃんに間近に添い、その一挙手一投足
に見とれ、魂を惹かれ、共鳴し続けてきたわたしは、知っている筈だった。なのにそれを
正面から見て知る事が怖ろしくて、人に問う。
その重さにノゾミちゃん迄が口を閉ざす中、
「柚明さんは千羽の憎悪や恨みを受けている。
昨日の立ち合いと違い、無抵抗で全てを」
烏月さんの静かな声が真相を余す処なく。
「景則の仇」「父さんを返せ」「明良あ!」
あの物音は、あの雄叫びは、あの肉を投げつける様な、叩き付ける様な物音は、全てが。
「お姉ちゃん!」「行ってはダメよ、けい」
ノゾミちゃんの声には、柚明お姉ちゃんの願いも宿ると分るから、一度だけ足を止める。
「ゆめいはあなたにこの様を見られたくない。無様だとか醜いとかじゃない。傷つけられ
る自身の姿を見ればけいが心痛めると分るから、絶対見せてはいけないと、言い残された
の」
例え何を為されているかを悟られても、聞かれても、肌で感じられても、見せないでと。
「見てけいが心を痛めれば、その分だけゆめいが更に哀しむの。その事も分って、けい」
それは分るけど。分るんだけど。分っても。
「でも! でもどうしてっ! お姉ちゃんは、昨日散々千羽の想いを受けたのに。心の傷
を拭いたいお姉ちゃんの想いは、多くの人に響いた筈なのに。全身全霊、必死に戦って烏
月さんに負ける迄戦い抜いたお姉ちゃんの在り方を見て、未だ不納得なの? 烏月さん
っ」
その場の大人衆が皆視線を伏せた。ここにいる人達はそこ迄求めてないと、感じたけど。
千代ちゃんも秀輝君も、済まなさそうに視線を逸らす。若くして鬼も人も切る覚悟が出来
た彼らでさえ、この状況は余りに重すぎて…。
「確かに柚明さんは羽藤を代表して、千羽の想いを受け止めた。千羽の殆どの者が柚明さ
んの清冽な想い、甘すぎる程の優しさ、強く揺るぎない決意を、想像を遙かに超えて見せ
られた。私はその侭千羽が羽藤と絆を結べると想っていたのだけど。柚明さんが異議を」
『確かに羽藤は千羽の想いを受け、羽藤は千羽に想いを届かせた。でもそれは、あくまで
公式の話し、家と家同士の想いに過ぎません。剣士の面目、鬼切部の威厳、千羽妙見流の
名が負う重さ。様々な公式の想いには、昨日の立ち合いで一定の答は返せたと思います
が』
人は感情の生き物です。非公式な、個人的な憎悪や恨みには、わたしは未だ応えていま
せん。羽藤白花の全てを継いだわたしは未だ。
「柚明さんは、自ら復讐の的を望んだんだ」
『彼に与えられた傷は、彼に与え返さねば癒せない。立ち合いで反撃されては恨みは晴れ
ません。与えた傷を受ける事で、初めて相殺。この生命を奪われる事だけは出来ませんが
…。
実際に恋人を、父を母を、兄弟姉妹を殺められた者は。心に宿した憎悪を、己の手で返
さない事には納得できますまい。人生の希望を未来を断たれた者が、心の痛みを一度も直
接打ち返せぬ侭に、わたし達羽藤と結んで仲良くせねばならない。それは一つの地獄です。
せめて傷つけ失わせた方々に。直接恨みを返す機会を。それでも納得頂けるとは到底思
えないけど。彼が与えた痛みの所為で流した涙を、一度も返させないのは哀しすぎます』
「昨日は武士の面目があったから、柚明さんにも反撃の術がある、立ち合いの形を取った。
でも剣士でもない女子供老人に、それは到底望めない。そして本当の絶望や無力感・恨み
憎しみ、痛み哀しみは、身近な者にこそ宿るのだと。その想いこそ受け止めなければと」
羽藤ではなく、個人の羽藤白花として。
千羽ではなく、個人の恨みを受け止めに。
鬼は退治されねばならない。仇は討たれなければならない。理不尽な哀しみには報いが
なければいけない。今の彼女ならそれに応えられるし、応える事こそが責任だと。彼の生
命を受け継いだ以上、罪も罰も皆受け継ぐと。
『柚明お姉ちゃん、そんな事迄考えて…!』
「第四道場に今いる者は、羽藤白花に人生を奪われた者かその近親者。羽藤白花に憤怒を
返すべき者達。その資格を持つ者達だよ…」
弟の景則さんを殺された雅さんと、景則さんの2人の子供、拾四歳と拾壱歳の男の子だ。
足の腱を断たれて再起不能にされた秀康さんとその妻子と、愛弟子の三上さん。肺を貫く
瀕死の重傷を負わされた谷原さん。失明させられた鈴音と、再び足腰立てなくされた琴音、
その親代りの紅葉さん。明良兄さんを奪われた両親祖父母……。楓さんと私も資格を持つ。
他に誰も見届ける者もいない。入れない。
審判や判定は不要。当事者が全てを決す。
「羽藤白花に恨みを持つ者以外、入ってはいけない。これは千羽ではなく、羽藤白花に傷
つけられた者達の、憤怒を叩き付ける場だ」
柚明さんは全てを受け止める積りでいる。
羽藤と千羽が本当に蟠りなく結べる様に。
両者が絆を結ぶ前でなければ出来ないと。
「理不尽に襲った禍で生じた、愛に根ざず憎しみの連鎖を、己に受けて終らせる気で…」
お姉ちゃんは未だ鬼切りを受けて半日しか経ってないのに。血を呑んでないから、力も
足りない筈なのに。こうなるなら無理してでも血を呑んで貰えば良かった。ああ、過去は
いつ迄も引きずり続けねばならないのか。それでわたしはいつ迄も、たいせつな人を苦し
めねばならないのか。柚明お姉ちゃんの過剰な迄の優しさ甘さが、心に痛い。そこ迄しな
くて良いよ。間近のわたしを心配させないで。
「わたしは……わたしは何か出来ないの?」
「あなたは、あなたの兄ではないわ。けい」
「彼の罪を背負える者は彼1人。代りに背負える者など居はしない。唯奴の生命を柚明さ
んが引き継いだ結果、柚明さんは奴の罪の償い迄も引き継いだ。実際は罰や恨みや報復な
のだけど、彼女はそれを心底喜んでいる…」
『琴音ちゃん初めまして。羽藤柚明です。今回は羽藤白花の想いを届ける為に訪れました。
羽藤白花への想いを代りに受けに訪れました。羽藤の想いを届かせる姿を、千羽の想いを
受ける姿を、どうかその魂でご覧頂きたく…』
『わたしのこの身は羽藤白花で出来ています。わたしが人の身を取り戻せたのは、白花ち
ゃんの血と肉の全てを変えた力を託されたから。ですからわたしは羽藤白花と言って良い
存在。貴女の仇です。どうか遠慮なく、存分に…』
『あなたの想いは確かに受けています。強い哀しみ、怒り、明良さんへの情愛も含め……。
唯この罰は、痛みは、桂ちゃんに向けるべき物ではない。羽藤白花に、わたしに下さい』
「愛した人の役に立てるとね」「ううっ…」
柚明お姉ちゃんの甘さに憤りさえ感じる。
そこ迄する事はない。例え生命継いでも。
苦痛や罰や償い迄を継ぐ必要はないのに。
もう少し気易い途を一緒に進みたいのに。
あの人はいつも望んで選んで苦難の途を。
お兄ちゃんはもう戻って来れないのだし。
わたしを見て欲しい。目の前の羽藤桂を。
これは白花お兄ちゃんへの嫉妬だろうか。
「わたしは愛した人の役に立ててないよっ。
いつも足引っ張ってばかりだよ。わたし」
烏月さんにわたしは何を嘆いているのか。
わたしの苦悩などお姉ちゃんに較べれば。
被る必要のない罰を承けている人を前に。
この位の苦味を訴えて縋る己が情けない。
そんなわたしをこの凛々しく美しい人は、
「いつも役に立てるとは限らない。人の技や力や立場には限界がある。私は最後迄、兄さ
んに役立てる処迄辿り着けなかった。桂さんは桂さんの縛りの中でよく頑張っているよ」
わたしの震えも涙も、受け止めてくれて。
「……烏月さん……!」
抱き留められて漸く感じた。烏月さんも身を震わせている。柚明お姉ちゃんの過剰な迄
の購いを、止めに行きたい想いを堪え。彼らの恨み憎しみも正当だから、お姉ちゃんの清
く強い想いを心底愛するから。今からそれを止めさせても、誰の益にも繋らない。始めた
なら最後の最後迄貫かないと意味を成さない。柚明お姉ちゃんはいつもそう。自身の痛み
苦しみに構わず、他人の悲嘆を拭ってばかり!
少しは、身近のわたしの心配も考えてよ。
お姉ちゃんに抱きつけないから、烏月さんに迄迷惑掛けちゃっているんだよ。わたしは、
烏月さんの胸元に頬寄せられて、嬉しいけど。
幾人かの罵声や暴行を受け終えた柚明お姉ちゃんが、わたしに心配掛けぬ為に身を清め、
第一道場で待つわたしの元に白い剣道着姿で戻り来たのは、陽が中天に至る少し前だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
昨日立ち合いをした道場には、多くの人が集まっていた。午前中柚明お姉ちゃんに復讐
を叩き付けた人達も、遂に手を下せなかった人達も、それ以外の人達も。一番高い段に烏
月さんが座し、右に大人衆、左に八傑が控え。
高い段の前の空間に、和装の琴音ちゃんと鈴音ちゃんがいる。足の筋肉が全く効かない
琴音ちゃんは、鈴音ちゃんに身を寄せていた。
少し離れてヒラの鬼切りを含む観衆が囲み。菖蒲さんや藤太君や、小町さん達も一緒に
見つめてくる中、柚明お姉ちゃんが入ってきて、
「……もうわたしを、1人にしないでっ!」
衆目の前だったけど、わたしはお姉ちゃんに正面から抱きついて大声を叩きつけていた。
その胸元に頬を埋め、柔らかな両胸に涙を何度も擦り付け、無事を確かめないと気が済ま
なかった。散々痛い想いした後に、望んで復讐受けに行く人だから。己を鬼神に捧げる人
だから。もう誰かの為に、痛み哀しみを負うのは止めて。それが白花お兄ちゃんの為でも。
間近に人がいる事、周囲の視線が向いてきている事に、気付くけど、分るけど。わたし
ももうそれを気には留めない。駄々こねる幼子の様に、わたしは暫く肌身に付いて離れず。
押し倒してこの侭奪い従えたかった。誰かに傷つけられる前に己の所有物にしたかった。
この時わたしにその力があれば、為していたかも知れない。腕も足も頬も胸も、触って揉
んで締め付けて、わたし色に染めたく想った。他の人など想わず望まず、わたしだけを見
る様に、繋いで縛って囲いたく願った。そうすれば優しい心も柔らかな素肌も、傷つく事
は二度とない。哀しむ事も苦しむ事も何もない。
そんな邪念に近い迄の想いを、きっとこの人は知って全て受け容れて、尚抱き留めて…。
漸くわたしが心落ち着いた頃に景勝さんが、
「では、見せて貰おうかな」「はい」
柚明お姉ちゃんはわたしを招いて、一緒に癒し部の姉妹へとゆっくり歩み寄る。左隅か
ら紅葉さんが食い入る視線を送って来ていた。
柚明お姉ちゃんの真価を見せる場面だけど、お姉ちゃんは昨日の連戦と受け止めた鬼切
り、今朝のあれでその力をほぼ使い果たしている。
「ご存じの通り、わたしは昨日烏月さんの鬼切りを受けており、今尚力が復していません。
なので、外から力を借りて為そうと思います。桂ちゃんは力の使い方は知りませんが、わ
たしより遙かに濃い贄の血の持ち主です……」
桂ちゃん、お願い出来る? その促しに。
わたしは頷いて、左手の指に刃を当てて。
痛みはほんの一瞬だ。そしてこの小さな痛みが、長く続いた痛みの日々に、終止符を打
つ力になれるなら。わたしが役に立てるなら。
柚明お姉ちゃんの繊手がわたしの左手を包み込む。握った手と手の僅かな隙を、流れ込
んだ血が埋める。わたし達を繋ぐアカイイト。柚明お姉ちゃんの力になる事はわたしの喜
び。
整った顔を俯かせて指先に唇を近づける。
赤い花の蜜に惹かれる様に、髪留めの蒼白い蝶がゆっくり降りる。前後左右で微かに溜
息が漏れ聞えた。見つめる方と見つめられる方、恥じらいがより強いのはどっちだろうか。
真昼の光の中でも微かに青い輝きが、柚明お姉ちゃんの素肌から漏れ始めてその身を彩る。
「はーー」
しっとりと水気を含んだ吐息が指先に掛る。
そろりと伸ばした舌が、その指先に触れた。
「んっ」
恐る恐る、小鳥が餌を啄む様に、舌の先端だけで控えめに拾い上げる。
傷口の熱と舌の熱とが一瞬だけ溶け合って、次の瞬間に割って入る空間が熱を奪ってい
く。
何とも言えない感覚が幾度か繰り返された後で、舌は最後に舐め取る動きで引っ込んで。
こくっ……。
小さく喉が上下に動く。口に入った生命の素を、飲み下す。続いて、少し長いため息が。
「ふう……」
艶めかしかった。清楚で甘く優しい柚明お姉ちゃんが、この時は耽美に妖艶で。魂を蕩
かされた視線、力が満ちて行く恍惚に満ちた頬、微かに乱れただけでドキドキさせられる。
千羽の人達も本来目的を忘れる程に。間近の琴音ちゃんも盲目の鈴音ちゃん迄が、声音
や気配でうっとりする程に。空気が生暖かい。
わたしの贄の血で力を補えた美しい人は、
「まず琴音ちゃんからよ。足に触らせてね」
紺の和服の裾をめくる。恥ずかしげに身を捩るけど、お姉ちゃんは正面から、その裾を
太腿の上まで大きくはだけ。細く滑らかで綺麗な素足だけど、その両太腿前面に、不吉な
青黒い線が3本横に走っていた。鬼の呪いだ。
壱年半前、白花ちゃんの身を乗っ取った主の分霊が、琴音ちゃんを爪で薙いだ時刻んだ、
神経や筋肉の動きを断って二度と立てなくさせた根源。千羽の癒し部にも若杉の術者にも、
拭い取る事出来なかった強力無比な呪詛の塊。
その右足の青い線を、柚明お姉ちゃんは間近に顔を寄せて、良く眺め。更に顔を寄せて。
「はっ……、ゆ、柚明さん」「んんっ……」
逃げる事に躊躇い頬を染める琴音ちゃんの、その太腿に唇で触れ。わたしも想わず身を
乗り出した。ノゾミちゃんも烏月さんも他の人達も、その艶めかしさに視線を釘付けにさ
れ。
可愛く白い太腿に、麗しい唇が口づけて。
その様が、背筋をゾクゾクさせて美しい。
「呪詛が、主様の気配が、消えていくわ…」
目に見えて分る。わたしの血で紡いだ力が、柚明お姉ちゃんの口移しで琴音ちゃんの右
足の素肌の奥に浸透し、青黒い色を消して行く。一分後お姉ちゃんが唇を離した時には、
もうそこに青黒い鬼の呪いがあった痕跡がなくて。
「さあ、左足も取り戻しましょう」「……」
心地よさに目を細める琴音ちゃんも、歳不相応に恍惚として。恥じらいも忘れた様に柚
明お姉ちゃんに為される侭に、裾をめくられ素足を出し、その唇に触れられて微かに震え。
「暖かい……柔らか。それに甘い良い香り」
左太腿に覆い被さり唇を繋げる姿も艶めかしくて。少し焦りを憶える。わたしにもあん
なに綺麗に心地よさそうに添って、吸い付いてくれたのかな。わたしのお姉ちゃんなのに。
「呪いが……」「鬼の呪いが消え去った!」
喜ぶより驚きに広がり行くざわめきの中、
「暫く足を全然使えてなかったから、歩ける様になるには暫く掛るけど、もう大丈夫よ」
次は鈴音ちゃん。その綺麗な瞳を見せて。
やっぱりですか。お姉ちゃん、彼女にも。
その上半身を軽く抱き、左目の上に顔を寄せて唇を合わせる。可愛い女の子同士が顔を
合わせる様に、なぜだか身が震えて堪らない。
暫く経ってから唇を離し、右目の上に顔を寄せ唇を合わせ。どっちも整った顔立ちの綺
麗な女の子だけに、見ている方が恥ずかしい。
「いきなり全ての光が入ると大変だから、少しずつ馴らす様にしなければね」「はい…」
お姉ちゃんはハンカチで鈴音ちゃんの瞳を覆う様に目隠ししていた。こっちも主の分霊
が残した呪いは、滞りなく除去出来たみたい。
「これで完了です。わたしの力で為せばもう少し時間が掛って難渋したでしょうが、桂ち
ゃんの血は特に濃いので。秀康さんの古傷も、谷原さんの傷痕も、時間があればこの後
に」
そこでお姉ちゃんは再度鈴音ちゃんと琴音ちゃんを前に見て、正座の姿勢から頭を下げ、
「これで償えたとは思っていません。例えこれで鈴音ちゃんの目が光を戻しても、琴音ち
ゃんが走れる様になっても。2人のこれ迄の痛み哀しみは消えはしない。青春の一番華や
かな壱年半を、絶望の闇に落した事実は変えられない。過ぎ去った時間は取り戻せない」
羽藤の罪は永劫に、消えはしないと分っています。だからこそ、2人の幸せにこれから
も少しでも役立ちたい。力にならせて欲しい。
「……本当に、申し訳ありませんでした…」
額づいた侭で、暫く動かないお姉ちゃんを左右から抱き起こしたのは、癒し部の姉妹で。
「柚明さん」「わたくしはあなたに逢えて」
とても幸せです。2人の声音が重なって。
2人の手が左右でお姉ちゃんを包み支え。
「白花さんが言っていた通りでした」
「優しすぎる位に優しく、愛しい人」
桂さんもいらして下さい。わたし達を治す力の源をくれた人。わたし達に光と翼をくれ
た人。どうかわたし達の感謝の気持を。羽藤白花さんと、羽藤桂さんと羽藤柚明さんは…。
柚明お姉ちゃんの左脇に挟まって、わたし達は4人輪になって抱き合い。耳に届く声は、
「「琴音と鈴音の、特別にたいせつな人」」
わたしが言葉も返せぬ中、お姉ちゃんは、
「鈴音ちゃんと琴音ちゃんは、わたし達の」
特別にたいせつな人。優しく愛しい強い人。
情愛が情愛を導き、増幅し合って強く繋る。
お姉ちゃんは、歩み寄ってきた紅葉さんに、
「今のわたしにはこの位の事しかできません。でもこれからも叶う限りの事をさせて下さ
い。白花ちゃんの償いであると同時に、2人はもうわたし達のたいせつな人です。その前
途がより活気づいて豊かであって欲しく望むのは、当たり前のお話しですから」「あなた
は…」
なぜこの癒しを最初に見せなかったのです。
紅葉さんは問わずにいられないと言う声で。
「千羽の傷をかなりの部分癒せるこの能力を。
見せずにわざわざ剣技の立ち合いに応えて。
今朝は恨みや憎しみに無防備に身を晒して
そこ迄して想いを汲み取ろうとしなくても。
最初からもっと楽に千羽と手を結べたのに。
あなたは分って遠回りして、自身に苦難を招いている。一体何を考えているのです?」
不審の声に柚明お姉ちゃんの答は静かで、
「わたしが先に癒しを見せれば、千羽の皆様は想いの侭に、わたしを打ち据える事が出来
たでしょうか? 蹴り倒せたでしょうか?」
恩人に憎しみは返せなくなります。仲間を癒すかも知れない者に、恨みを叩き返す事は
躊躇います。わたしは己の痛みを逃れる為に、癒しの力を取引道具に扱う積りはありませ
ん。
周囲が粛然としていた。それは、そうすべきであり当たり前だろうとの思惑の正反対を。
敢て辛く苦しい道を選んだ事に意味があった。
「わたしは千羽の皆様が抱く悲憤を受け止めに来ました。皆様が胸に抱いた憤りは、一度
は出さねばならない物です。憎しみも恨みも愛した人を理不尽に失わされた故の想いなら。
遠慮のない本当の想いを受けるのでなければ、わたしがここを訪れる意味はありません
…」
文字通りだと。言葉通りだと。その侭だと。
恨み憎しみ憤りを受けて、受け終ってから癒しで購いを為して、心を込めて関りを望む。
癒しを見せつけ手出しを控えさせ、怒りを抑え付けて和解するのは、真の和解ではないと。
それは本当にその身で受けて受けきった人の言葉でなくば、信じようがない話しだけど。
「わたしに皆様の憤怒の全てを受け止めきれるとは想いません。喪失を全て取り返せると
も想いません。唯少しでも取り戻せる物があるなら、取り返す術があるなら、わたしは全
身全霊を尽くしたい。尽くす為に関る事を皆様に許して欲しい。わたしの一番の人が与え
た損失を償わせて欲しい。力を尽くさせて欲しい。本日はそのお願いにも参りました…」
家同士の関係が結ばれても、千羽の1人1人と心迄繋らなければそれは望めない。千羽
の隅々迄受け容れて貰わねば、入り込めない。首を突っ込まれる事に不快な方がいる事も
承知で。想いを届かせに伺う事をお許し下さい。
お願い致します。正座の姿勢で額づいて。
願いは紅葉さんだけではなく場の全員に。
頭を下げて答を待ち続ける。昨日からの蓄積が柚明お姉ちゃんの言葉に魂を込めていた。
「あなたは本当に、愚かしい迄に愛の深い」
紅葉さんの答は場の全員の想いを受けて。
「絶対拭い終えられぬと分って。決して償いきれぬと分って。永遠に取り戻せぬと分って。
尚私達に関りたいと望むのね? あなたは」
良いでしょう。天地終る迄あなたに償い続けて貰います。私達の抱いた悲憤を、未来永
劫に購い続ける事を、私はあなたに許します。
拒絶よりも厳しい受容に、お姉ちゃんは、
「有り難うございます。心から、嬉しい…」
涙が溢れそうな程喜んで。声を詰まらせ。
心から望んでいると見えるから。視ているわたしもノゾミちゃんも、胸がいっぱいで声
が出ない。千羽の人達も多分そうなのだろう。啜り泣く男女の声があちこちで漏れ聞える
中。
「羽藤として、千羽にお願い申し上げます」
柚明お姉ちゃんは烏月さんに向き直って、
「千羽に羽藤と盟約を結んで頂きたいのです。羽藤を……どうか桂ちゃんをお守り下さ
い」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
柚明お姉ちゃんは、喜びに綻んだ表情を既に真顔に戻していた。高い段に座す烏月さん
に、正座の姿勢から見上げて言葉を紡ぎ出し、
「現在羽藤が千羽に差し出せる物は、わたしのみ。桂ちゃんは尚濃い血を持つけど力を扱
えず、鬼ならざる千羽の力にはなれません」
羽藤が盟約に差し出す土産は、羽藤柚明の全身全霊、皆様がご覧頂いたわたしの全て…。
贄の癒しも、呪詛祓いも、兆の読み解きも。千羽の癒し部にわたしの手法やコツを伝え
て、その力を更に引き出し伸ばす事も、可能です。お望みならば鬼切りの支援に、気配の
察知による索敵や、罠を見抜いたり逆に仕掛けたり、戦場で疲れを癒す以上に力を増す等
も出来ます。同行し直接鬼切りを為す事も厭いません。鬼切り役には流石に及びませんで
しょうけど。
「羽藤柚明の持てる全てを、盟約の代償に」
その代り千羽も全身全霊で、桂ちゃんをお守り頂きたい。危険でも敵が何者でも怯む事
なく、守り抜いて頂きたい。その為に千羽に危険と犠牲を強いるのは覚悟の上で。それに
値する危険と犠牲は、わたしが差し出します。
大人衆や八傑の多くが瞬間、目を見開いた。
昨日から今迄の経緯で、柚明お姉ちゃんの力量と在り方を、彼らは余す事なく見てきた。
千羽の三強を粉砕し、烏月さんをも倒しかけ。壱年半誰も為せなかった癒し部の姉妹の呪
詛を祓い。どれ程不利で危うくても、守りたい物を確かに守り絶対崩れない。思慮深く苦
難を怖れず。愚かを越えて甘く優しく、同時に透徹して厳しく苛烈な性分も、意志の強さ
清さや言葉の信頼性も、今更疑いの余地はない。
「千羽党の組織を上げた全身全霊に較べ、わたしの全身全霊は小さくか弱いと承知の上で。
千羽が損な関りにならない様に、この身を想いの侭にお使い下さい。乗り潰す感じで使っ
て頂いて結構です。わたしは、厭いません」
伏せた面を上げずにお姉ちゃんは続けて、
「そしてわたしに万が一の事があった時には、桂ちゃんを千羽に保護して頂きたいので
す」
「えっ?」「柚明さんっ!」「ゆめい……」
場の誰よりもわたしが驚いた。柚明お姉ちゃんがそこ迄考えているとは想ってなかった。
「サクヤさんは血の匂いを隠す術を持たない。ノゾミちゃんは存在を繋ぐ為に桂ちゃんの
血を必要とする。守りに酷使すれば健康に響く。そして桂ちゃんは、未だ成人前の女の子
です。千羽や若杉の、大人の守りがどうしても要る。
どうかどんな時にも、どんな危険からも。
わたしの一番の人を確かにお守り下さい」
お姉ちゃんは最初から最後迄常にわたしを。わたしの守りを増やす為だけに全部の危難
を。誰に寄り添い肌を合わせ唇重ねても、白花ちゃんを深く想いつつ、その上でわたしの
安全と未来を、羽藤桂を考え続けていてくれた…。
この人のどの行いの中にもわたしがいた。
それをわたしはどの位感じ取れただろう。
烏月さんと仲良くなれると、喜んでいたわたしの脇で、この人はわたしの為に様々な痛
み哀しみを負う事を望み。策略も強敵も復讐も全部承知で受けて受けきって、信を繋いだ。
三代続けての因縁を福に繋ぎ直そうと。羽藤と千羽の絡めた過去を、縺れた絆を結い直し。
烏月さんは敢て声を冷静に保って右を向き、
「大人衆の意見を聞きたい」
「義景は賛意にございます」
「千鶴も賛意にございます」
「経久も賛意にございます」
「景勝も賛意にございます……」
末席の秀康さんに至る迄誰1人異論はなく。
烏月さんは更に左を向いて平静な声で問を、
「八傑の意見を聞きたい」「八傑は皆、烏月様の想いと一つにございます。御意の侭に」
頭を下げて応えたのは、首席の為景さんだ。
連なる7人が同時に頷いて、賛意を伝える。
烏月さんは頷いて、正面のわたし達を見る。
いや、わたし達の背後左右の千羽の全員を。
「本日は敢て、鬼切部千羽党の全員に訊こう。
羽藤を代表した柚明さんの盟約の申し出に、意見のある者は申せ」「申し上げます
っ!」
声を上げたのは聞き慣れた声。栞さんだ。
前に進み出てから正座して当主を見上げ、
「我らの想いは今や烏月様の想いと同じです。
蟠りを残しても、恨みや憎しみを消しきれなくても、悲憤や喪失に涙する事があっても。
我々は羽藤との盟約を喜びたく想いまする。
烏月様の想いに応え、従いたく望みまする。
烏月様は、昨日この場で、申されました」
『悔いを減らすより、私は愛を増やしたい』
私も、この場の皆も同意見にございます。
柚明さんには何度も何度もそれを見せつけられました。この情愛に応えられなくば、千
羽党は何の為に誰を守り戦うべきでしょうか。悔いを増やしても尚、掴み取りたい情愛で
す。
こういう人達をこそ、私達は守りたい。
危険も犠牲も承知で守る値のある人達。
一度言葉を切ってから、凛々しい表情で、
「私の名は千羽栞。破妖の太刀を担う鬼切部千羽党の一員。人に仇なす怪異を討つのが、
我ら鬼切部の使命です。千羽党当代の鬼切り役と志は皆同じ。人に仇為さぬ物は対象外」
人の世の平安を共に守り行く。鬼を滅ぼすのではなく、鬼を憎むのではなく、人を守る。
「真弓様が目指し、明良様が行き着けなかった処へ、烏月様が向かおうとなさるのなら」
我ら千羽党は生命の限り付き従いまする。
どうぞ烏月様の想いの侭に。間違って見えた時には諫言します。指摘します。共に見定
めます。ですから、最後の最後迄ご一緒に…。
異論の声は上がらない。紅葉さんも琴音ちゃんも鈴音ちゃんも、金時さんも藤太君も菖
蒲さんも、友加里さんも茜さんも小町さんも。烏月さんの両親とお祖父さんお祖母さん迄
が、悔しさも含めた涙を流しつつ、異議を唱えず。
千羽党の若き当主は晴れやかな笑顔を浮べ、
「桂さん、柚明さん。今日から羽藤は千羽の盟友だ。絡み合った因縁も宿業も全て混みで、
千羽は羽藤と絆を繋ぎたい。あなた達と私の仲の様に深く強く、想いを絡め合わせたい」
段の上から降りてきて、わたしの前に屈み込む。柔らかな両手が両手と握り合わさって。
羽藤と千羽の縺れた絆は、今結い直された。