白花の咲く頃に〔丁〕(前)



 肉の体を喪い、オハシラ様という霊の存在として、ご神木に宿って初めて迎える経観塚
の秋。悠久の歳月を掛けて鬼神を封じ、虚空に還す役目を、たいせつな人から受け継いで。

 未だ馴染んだとは言えないけど。未だ安定したとは言えないけど。誰にもこのお役目を
譲る訳に行かないから。桂にもゆーねぇにも、安心して人の生を謳歌して貰う為に。ここ
で未来永劫、しっかり努められると示さねば…。

 たいせつな人の接近は、何となく悟れた。
 元々の僕の感度では悟れぬ遠い隔りでも。
 ご神木は関りの深い人の気配を感じ取れ。

『……ゆーねぇも夏の経観塚で、こうやって僕や桂の接近を、感じ取っていたのかな…』

 ゆーねぇに、桂に、烏月さんに、ノゾミか。
 何れも拾年前の夜や僕に、縁の深い面々だ。

 桂を喜ばせる為も兼ねつつ、桂の守りも兼ねつつ。鬼切部対策に鬼切部の烏月さんを同
伴させたのは、ゆーねぇらしい。でも絆を繋いだとはいえ、ノゾミ連れで経観塚再訪とは。

 ゆーねぇの性分なら、僕が鬼神の封じを引き受けると言っても、任せっきりには出来ず。
様子を見に来る事は予想出来た。だから僕は心配無用と納得して貰う為に、同化に励んで。

 それは必ずしも順調とは言えなかったけど。
 取りあえず封じは保てているので及第点か。

『少し遅いけど、夏休み明けのテストって感じかな……尤も、僕は殆ど学校に通った事は
なくて、勉強の多くは千羽の明良さんや紅葉さん楓さんからの、手習いだったけど……』

 夕刻の経観塚は風も穏やかで。ご神木の幹の中からの視点だけど、周囲が少し開けてい
るので、羽様の紅葉は堪能出来る。穏やかすぎて静かすぎて、僕には少し退屈な程だけど。
夕日に染められた空の向こうに、その平穏無事に少しの波紋を及ぼす、来客の到来を悟れ。

『……来た様だな。贄の娘と、贄の子と…』

 今ご神木の中でまともに思惟を紡ぐ者は。
 僕以外には、封じられた鬼神しかいない。

『わたしの封印を解ける力量の者が来るか』

 元気づけられているのは僕だけではなく。
 むくり、と起き上がった様な思念が届く。

『力量はその通りだけど……お前に開放のチャンスはないよ。ゆーねぇが封じを破る筈が
ない。諦めて滅びる時迄、眠る事だね……』

 暫くぶりに、主がまともに思念を紡いだ。
 僕など眼中にないと、心鎖していたのに。

 そこに主の開放への渇仰を読み取るのか。
 単なる気紛れで退屈に飽いただけなのか。

『贄の娘の性分は、貴様よりわたしが知っている。未熟な貴様にわたしの封じを任せても、
長くは保てない事とて承知だろう。さて…』

 どうやって、己を解き放つ策を巡らすか。

 でも声音に真剣さは感じられず投げやりで。最近の主は何がどこ迄本気なのか、分らな
い。それも僕を騙し嵌める為の見せかけか。気紛れを装ってどこかで突然強行突破する伏
線か。

 僕は2ヶ月経っても封じの中で、衣をまともに作る余力がなく。誰かに姿を見られる訳
ではないから、別に良いのかも知れないけど。まだご神木への同化は、完全には終えてな
い。ゆーねぇによれば十年掛けても完全でなかった様だから、これは気長に構えるしかな
いか。

『誰が来ても来なくても、僕は封じの要を続けて行くのみさ。今鬼神を封じるオハシラ様
はこの僕で、未来永劫僕だから。お前は還されて消失する時迄、開放される事はない…』

 僕は改めて主に向け己に向けて想いを語り。
 暮れゆく赤光に身を晒しつつ『力』を紡ぐ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 2ヶ月前の満月の夜、拾年の時を経て僕とゆーねぇと桂は羽様で再び一堂に会し。拾年
僕に憑き続けた主の分霊を、ゆーねぇが滅ぼしてくれて、僕は漸くその軛から解放された。

 遅すぎたかも知れないけど、何とか間に合えた。僕の生命は消耗され尽くしていたけど。
ご神木に宿れば、その生命に同居できるから。僕が息絶える前に、ゆーねぇとオハシラ様
の交替を出来た。ギリギリそこに届かせられた。

 それもゆーねぇは、自身の継いだ役目だから僕には代れないと。桂とノゾミの助けで生
命繋げた後で、僕と再度封じの要に代ろうと。でも僕はもうその役割分担を代る気はなく
て。

『もうゆーねぇはオハシラ様じゃない。僕が継いだんだ。オハシラ様の交替は終っている。
ご神木も受け容れてくれた。今や封じの要は僕だ。ゆーねぇはご神木との繋りを断ち切っ
て、普通の暮しに戻って……桂と一緒にね』

『そんなことできないわ』

 ゆーねぇの答は想定できたけど。責任感という以上に、僕を深く愛してくれているゆー
ねぇは。封じの要という悠久の定めを、僕に負わせる事を厭い嫌い。何とか取り戻そうと。

 でもそう言う人だからこそ。いつも想い人に尽くし、人の為に己を抛ち続け、幾度も魂
迄消失しかけた美しい人だから。僕は心の奥底から、この身に替えて守りたいと強く願い。

 それに僕がここで鬼神の封じを担う事で。
 ゆーねぇは本当の願いに己を捧げられる。

 僕にとっても大切な妹・桂を守り支える。
 僕に叶わぬその願いを後押しできるなら。

 それが両の親を喪った桂の幸せにも繋る。
 何もしてあげられなかった妹への購いに。

『いや、桂にはゆーねぇが必要なんだよ。サクヤさんや友達もいるけど、一緒に住む家族
が必要なんだ』

 母さんを失った桂の寂しさは、家族にしか埋められない。その寂しさは僕が一番良く分
るから。そして、ゆーねぇだけが桂の心の震えと涙を止められるって言う事も、分るから。

『白花ちゃんは血を分けた兄妹よ。それも双子の。それを埋め合えるのは、わたしより』

 勿論僕にも人の世間で、平穏な人生を愉しみたい欲目はあるし。それ以上に桂の間近で、
その日々を支え励まし守りたい気持もあったけど。拾年行方も報せず何もしてあげられな
かった、その埋め合わせは僕の願いだけど…。

 僕が肉を持つ人であってもそれは叶わない。
 僕の両手は犯した罪と人の血に塗れている。

『だけど僕はゆーねぇと違って、鬼として沢山の過ちを犯しているんだ。それが奴の分霊
の所為とはいえ。そんな僕が今更一般人のふりをして桂と暮すなんて、できる筈がない』

『それにこの侭無事に帰ったら、首を持っていかれる事になっているんだ……鬼切部に二
言は通じないだろうし、僕にだってプライドがある。一番丸く収まるのが、僕がオハシラ
様になることなんだよ』

 万が一その事情を見逃して貰えてさえも。
 僕は身も心も既に鬼に蝕まれすぎていた。

『万一鬼切部に見逃されたとしても、この身はもう自力で生命を繋げない。四六時中贄の
血の力を流し込んで貰わないと、満足に息もできない。それにゆーねぇがオハシラ様に戻
ってしまったら、誰が僕の生命を繋ぐの?』

『僕とゆーねぇが同時に生きて存在しないと、僕の生命は後数ヶ月だ。僕はもう単体では
生存できない。身体も魂も限界だ。ご神木に宿る他に僕の存在を保つ術はない。むしろご
神木に、存在を繋いで貰えるというべきかな』

「夜毎わたしが現身を取って生命を注ぐわ」

 ゆーねぇは本気でそうする積りだろうけど。
 霊体が現身を取る負担は想像を絶する上に。

『ゆーねぇの疲弊以前に、封じが危うくなる以前に、僕が昼の間生命を繋げる保証がない。
本当に二十四時間付き添って貰わないと、この身は完全に電池切れなんだ……分るよね』

 羽藤白花はもう自力では生命を繋げない。

 体も魂も分霊との拾年の戦いで燃え尽き。
 この身に宿る生気はほぼ使い尽くされた。

 ご神木に宿る他に生命長らえる術はない。

「主、応えて。主っ!」それでもゆーねぇは。

「あなたの相手はわたしです」尚僕を案じて。

 わたしが戻るから、彼を解き放って下さい。

 彼は継ぎ手ではない。わたしがまだ存在しているのに次が居る筈がない。彼は偽物です。
封じの外に弾いて、外に追い出して。わたしが、悠久にあなたの相手をしますから。あな
たの憤怒を、未来永劫受けますから。どうか。

 でも意外にも、主はゆーねぇを弾いて拒み。

『お前には堪忍袋の緒が切れた。三行半だ』

『鬼神の封じを軽んじるのにも、限度がある。わたしを最優先に考えねばならぬ封じの要
が、ハシラの継ぎ手が、わたし以外に大切な人を心に抱き、神の後妻の責務も果たさずに
怠り、夜な夜な封じを外し、その上勝手に消え掛る。槐に寄るな。お前に継ぎ手の資格は
ない!』

『鬼神は一度捨てた物を拾いはせぬ』

「まさか主、あなた、わたしに……」

 それは、僕にもまさかだったけど。
 主もゆーねぇの幸せを望んでいた。

『継ぎ手の資格は失ったが、お前は贄の血を濃く持つわたしの好餌だ。今度こそ封じを解
いてお前を奪い貪りに行く。心に留め置け』

 捨てるという名目で、ご神木に繋がれる定めから、ゆーねぇが剥がされる様を傍観して。

 ゆーねぇが継ぎ手を担う限り、主は自由とゆーねぇ双方手には入れられぬ。封じが壊れ
ればゆーねぇが滅びるし、ご神木での日々は封じの中だ。壊す前に封じの要を追い出せば。
否、それ以上に。間近の桂も感じ取れたのは。

「主は、お姉ちゃんの幸せも、望んで…?」

『わたしは受ける者に意志は求めない。要るのは唯、わたしの意志と応える物の存在だけ。
応える物に意志など不要。神の意に応えぬ等許されぬし、応えぬ事等できぬのだからな』

 理解も納得も神の所作に不要だと、主は人の訴えを聞き入れない。返される想い等求め
ぬと、ゆーねぇの意志を踏み躙る。それは僕にも望む処だったけど。不納得なのは唯1人。

「待って、主っ。白花ちゃんを、返して!」

『ふん……。元々のハシラも、継ぎ手も、余りにか弱くて潰し甲斐がなかった。貴様は鬼
切りの技を学んだとか言っていたな。少しは、わたしを楽しませてくれるのだろう、小
僧』

 ああ正にその通り。僕はこの人生を掛けて。

『思い切り楽しませてやるよ。今迄の想いを全部込めて。お前を封じの中で更に鬼切りで
叩き切り、その魂の償還をもっと早めてやる。お前は封じの中から逃げられない。僕の鬼
切りで未来永劫、切り刻まれ続けると良いさ』

『少しは活きの良い贄だな。これなら、多少は楽しめるかも知れぬわ……来い、小僧!』

『行くぞっ、千羽妙見流……』

「待ってっ!」

 わたしが、わたしが担わないと駄目な役を。

 ゆーねぇの魂の叫びが、僕のみならず主の動きも一瞬止めた。止められたと言う事実が、
主にとってゆーねぇがどんな存在かを示していた。主は興醒めした感じで構えを解き、背
を向けて座り込んで何も語らず。僕は外へと、

『僕に譲る気はないよ』

『羽藤の血筋は頑固の血筋でもある。ゆーねぇもそれは、自身と桂で分っているだろう』

『今ご神木の中にいるのは僕だ。ゆーねぇが封じを奪うには、僕を退かせないといけない。

 ゆーねぇに僕を倒して通る覚悟はある?』

 ご神木に宿った僕はいるだけで封じを保つ。僕が説得に応じぬ限り、退かない限り封じ
は今の侭だ。ゆーねぇが僕を退かすには、倒す以外に術はなく、そんな選択はある筈もな
く。

 少し前とは、逆の状況ができあがっていた。

 どうしてもオハシラ様を続けると、言って聞かないゆーねぇを。助けたくてもその術が
なくて、説得するしか方法のなかった少し前迄とは正反対の状況が。僕に望ましい状況が。

『それじゃあ、そういうことだから』

 その様にして封じの要を受け継いで2ヶ月。
 未だご神木への同化途上なのが実態だけど。

 暫くぶりに訪れた愛しい人を安心させる為。
 しっかりオハシラ様として来客を迎えねば。


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 夜の経観塚駅へゆーねぇ達が、降り立つ様が瞼の裏に映るのは。夏に僕がそのホームを
見ていた為か。あの時は鬼切部の追跡を逃れる為に、待ち構え易い列車移動を避けたけど。
陽動に使える逃げ道の一つとして、駅へ下見に行った事があって、情景は頭に入っている。

 ご神木に宿ると、感応や関知が強化されるのは。千年宿った初代のオハシラ様や、ゆー
ねぇが高度で緻密な『力』の使い手として根付き、ご神木がそれに順化した為か。ゆーね
ぇもご神木に宿った時の方が、広く深く遠く迄関知や感応が届くと言っていたけど。その
情報量の多さに、僕も当初はかなり戸惑った。

『それでも、初代やゆーねぇに較べてその精度がかなり落ちるのは、僕が未熟な為かな』

 ご神木に宿る前の僕は、関知や感応を殆ど使えなかったから、それに較べれば遙かに遠
く深く広く見通せるけど。ご神木の記憶に残る女性達の領域には遠い様で。今の僕は、昼
なら桂やゆーねぇの様な極めて近しい人でも、羽様にいない限りその所在を確かには掴め
ず。それより遠ければ漠然とあるか否か分る位で。

 それ迄なかった何かを感じるから、どこかから近付いて来たと分るけど。どの位近く迄
来ているのか、その後近付いているのか、或いは一時遠ざかっているのか、留まっている
のか見当が付かない。ゆーねぇは夏に、経観塚に着く前の、列車移動中の桂の存在を悟れ
たと聞いたけど。そんな神業は夢のまた夢だ。

 バス移動で今宵の内に、羽様の屋敷を訪れたと悟れたのも。桂やゆーねぇの気配が羽様
に着いて漸く。夜でもここ迄近付かないと分らない。尤も、ご神木と羽様の屋敷も相当の
距離があるから、これでも充分凄い事だけど。烏月さんとノゾミも何とか存在は感じ取れ
た。

『未だ顔形も定かに見えてこないし、表層思考も読めない……夜でも羽様でも、桂やゆー
ねぇの様な近しい人でも、気配の大小で元気かどうかや所在を悟れるのがやっと。敵を倒
す為だけに【力】を鍛えて来たから、その扱いに偏りがあるのは当然かも知れないけど』

 だからこそなのか。ゆーねぇが『力』で蝶を出したと悟れた時は、嬉しかった。漸く確
かに愛しい人を感じ取れた。それ迄の感触が、途切れ途切れの無線だとするのなら、肉声
が届いた様な違い。すぐ近くにいると感じただけで、僕の心の力になる。ゆーねぇはそれ
を感じさせる為に、敢て『力』を行使したのか。

 森を抜けて開けた空には月が大きく。
 日本家屋を囲む森は鬱蒼と生い茂り。

 視る迄もなく情景が瞼の裏に映し出される。
 これが、僕の生れ育った羽様の屋敷だった。

 拾年前以前から既に、昔話に出てくる様な。
 風情と歴史の積み重ねを感じさせる建物が。

『僕や桂が生れ育った日本家屋。ゆーねぇや母さん父さん、笑子おばあさんやサクヤさん
と過ごした日々……幼い幸せの揺りかご…』

 夏には桂やご神木の封じを巡って、ミカゲやノゾミとの戦場になり。サクヤさんが僕を
庇って瀕死の深傷を負い、ゆーねぇの癒しで生命繋がれた場。僕がオハシラ様を継いで以
降の数日、みんなの癒しを理由にゆーねぇは、羽様の屋敷に留まって。自身を削ってご神
木に僕に、封じを助ける『力』を大量に注いで。

 ゆーねぇ達が去った後も、サクヤさんは暫く留まって、逢いに来てもくれたけど。怪し
い男達が、羽様の屋敷に火を付けようとして。サクヤさんの手で撃退されたのは良いけれ
ど。以降若杉が屋敷に入り込んで手を加えた様で。

 正直、好感を抱けなかった。僕が鬼切部の標的だった以上に、桂もゆーねぇも濃い贄の
血を持つ。鬼の『力』を激甚に増す贄の民を。若杉なら守り通す面倒を厭い、根絶やしに
する事を考えそうで。若杉をどこ迄信頼出来るのか。屋敷に火を付けに来た連中にも、面
倒な背景がある様で。彼らやその背景を考えた時に、若杉は味方でいる方が未だマシなの
か。

 僕はご神木から一歩も離れる事が叶わない。夢に蝶を飛ばす事もできず、現に影響を及
ぼすのは夢のまた夢で。夜でも霊の存在が現身を作るのは、想像を絶する難事らしい。ゆ
ーねぇは一体、どれ程の無茶を突き抜けたのか。

 それに仮にゆーねぇの様に現身を取れても、経観塚を離れられぬのは同じだ。現状は桂
やゆーねぇが、烏月さんや次期鬼切りの頭である幼子と、繋げた絆に縋る他に術はないの
か。情けないけど、悔しいけど、役に立てない…。

 きぃぃぃいいいん。音にならない音が響く。
 否、それは音ではなく霊的な結界の波紋で。

『若杉は羽様の屋敷に結界を張って、侵入者を監視していて……それをゆーねぇは烏月さ
んに頼んで破らせた。若杉の出動を防ぐ為に。でも、羽藤の桂やゆーねぇが羽藤屋敷を使
うのに、他人に断りを入れねばならないとは』

 羽藤と若杉の仲は拾年前以前から微妙だったけど。今は更に波乱含みなのかも知れない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 桂とゆーねぇが訪れた当日の夜に、僕を訪ねてくれる事も、ある程度予測出来た。2人
の気性を考えれば、例え多少危険があっても鬼の刻限でも、羽様の屋敷迄来て一晩留まる
とは考え難く。最早羽様の夜に危険はないし。

 僕に拾年宿った主の分霊(わけみたま)も倒され、ノゾミは桂の守り手になった。ご神
木の側面に蟠るミカゲの気配も、消失を待つ春の残雪で。幾ら怨念を抱いても、満月の夜
にすら現身も取れず、漂うだけで。それを消し去れぬ現状が、僕の非力の証なのだけど…。

 山道に入った辺りで、漸く僕はゆーねぇや桂の存在以上に、表層思考を悟れる様になり。
桂の心に響く人の声も、分る様になってきた。心の内を覗く様な事はしない。顔色を見て
怒っているか泣いているか喜んでいるか読む位。

 でも双子の兄妹の故なのか、幼い時を共に過ごした故なのか。桂の印象は僕の印象に密
接に繋ってきて。桂の視た物は僕にも視えて、僕の想いは桂の想いに近く、視えてきたの
は。

 木。

 たくさんの木。

 高く伸びる木々それぞれが、好き放題に枝を伸ばし、空のほとんどを覆い隠してしまっ
ている。深い……林か森か。幹の太い古木が立ち並び、たけのある草が生い茂る狭い道を。
幼子の視点から、今の視点から、眺めて進む。

『桂の印象が僕の記憶を呼び起こしている』

 かつてミカゲの邪視に操られた僕が。
 同じくノゾミの邪視に操られた桂と。

 鏡に宿る双子の鬼と共に進んだ拾年前の夜。
 あの夜も清冽な月の光に夜の森は息づいて。

 振り返ると、瓦の並ぶ屋根が見えた。
 僕が桂と共に、生れ育った羽藤屋敷。

 時代劇で見る様な、立派な構えの門はないけど、拾年前から変らない見事な屋敷だった。
拾年前より昔から、笑子おばあさんが生れるよりも前から、主がご神木に封じられるより
更に前から。羽藤の贄の血筋はここで生きて。

 離れに見えるあの蔵は僕の過ちを宿す処だ。
 双子の鬼の禍を、千年封じ続けてきたのに。
 僕達が拾年前の夜に入り込んで、解き放ち。

 あの夜に始る禍は、羽藤の家族のみならず。明良さんを巻き込んだ末に、千羽や多くの
無辜の生命を殺め、烏月さんに兄を討たせる結果を招き。僕は満足に謝る事さえできてな
い。

 その烏月さんと、拾年前の禍の張本人であるノゾミとが、ゆーねぇと一緒に桂を守って、
鬼の刻限に闇の森を進む。人の世はどこで何がどう転ぶか、本当『人生万事塞翁が馬』だ。

 道の勾配がだんだん急になる。舗装されていなかったとはいえ、まだ道らしい道だった
道を外れ。草を分ける様にして、桂の視点はやや息を切らせた印象を伴いつつ、山を進む。

 ざっざっ、ざっざっ。ざっざっ、ざっざっ。

 ざあぁっ……。

 急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。

 そこには見上げる程に大きな、数百の歳月を過したといった趣のある槐の大木が根を下
ろしていた。周囲は遠慮した様に、若い木も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。

『外の視点でご神木を見るのは久しぶりかな。自分と言うより、新居を見られている感
じ』

 鬼神を封じて還す為に、羽藤の祖先が太古、鬼神と共に宿ったご神木。笑子おばあさん
やお父さんお母さんやゆーねぇ、代々の羽藤が祀り続け。でも拾年前のあの夜に、そのオ
ハシラ様を僕達の手が還してしまい。その所為でゆーねぇに大変な苦難を強いてしまって
…。

 通り過ぎる秋の夜風に、無数の緑色の葉が。
 ゆらりと揺れて幾つか散って、闇に消えて。

 暫くは誰も言葉を発さずその場に佇み続け。
 月明りに照されて輝く巨木を4人は見上げ。

 僕への憎悪は容易に拭えなかろう烏月さん。逆に僕が容易に憎悪を拭えぬノゾミ。止め
られず、過ちを犯させてしまったたいせつな妹。僕を憎む事で少しでも心晴れるなら、む
しろ存分に憎んで欲しいのに、愚痴も漏らさず傷みや苦しみにも微笑み続けた、愛しい女
性…。

 ご神木の近く迄来てくれて、漸く僕もみんなの表情が見えて分り。その顔色を見渡せて。

 主はふて腐れた様に寝転んで向うを向いて。
 でも興味津々に僕や外界の状況を探り続け。

 興味ない風を装う強がりが子供っぽいけど。
 今はこの邂逅を妨げないでくれる事が幸い。

「夏も昼には何度か、来た事があったけど」

 夏の夜と同じく丸い月が地を照し天を走る。
 その真ん中に鎮座して空を支えるかの様に。

 桂の感触は仕草にも顔色にも見えて顕れて。
 それは僕がゆーねぇを訪れた夏と同様に…。

「やっぱり違う。ご神木が、息づいている」

 日中のご神木が死んでいる訳ではないけど、それは別の生き物だった。眠っているのと
起きているのとの違い。贄の血の『力』も鬼の『力』も化外の物で、昼よりも夜に強く働
く。

『オハシラ様も、不可思議なもの。贄の血の【力】や、鬼に近しいもの。日中より、夜に
その真の姿が見えるのも、自然なのかな…』

 桂が不可思議なモノに畏れを抱かず。むしろ好奇心に導かれる様に進み出るのは、手を
伸ばすのは。贄の民の裔である僕には、拾年鬼を宿した僕には、好ましかったけど。拾年
前の夜より前も、桂は僕を伴ってご神木へ…。

『わたしの内側の何かが引っ張られている』

 それは拾年前以前の桂にも窺えていた感触。
 活発で行動的な幼子だったけどそれ以上に。

 ノゾミに手を引かれたあの夜よりも前から。
 ご神木の独特の気配に、幼い桂は誘われて。

 禁じられずとも人の寄り付かぬ蔵や山奥へ。
 禁じられても幼い桂は夜に闇に進み出して。

『そもそもどうして、わたしは拾年前の夜』

 お母さんが倒れて間もない時に蔵になど。
 普通の子供はそんな行動を取るだろうか?

『ノゾミちゃんがわたしを呼べた筈はない』

 良月はあの時も尚封じの札に巻かれていて。
 桂の贄の血が付いてやっと声を出せたのだ。

『森で遊んでいた幼いわたしも、道に迷い』

 あの夜より前も僕と桂はここを訪れていて。
 幼い僕と桂を留めたのはゆーねぇの『声』。

【桂ちゃん、白花ちゃん。近付いてはダメ】

 拾年前以前からゆーねぇは贄の血の『力』を扱えて、時折不思議な業も見せ。幼い僕達
はそれを不審にも思わず、日常に受け容れていた。この時も声の届く範囲にいなかった筈
のゆーねぇが、頭の中に直接話しかけて来て。

【離れて。ご神木から離れて……そこでじっとしていて、動かないで。前に出ないで!】

 深まる夕闇で僕達は確かな物を求めていた。全てが色合おを失う薄闇で、自分達の存在
も薄れそうで。確かな何かに触れていたかった。目前の巨木は確かな物だった。それに触
る事で僕達は、触れた自身も確かに保っていたく。

 そうしてないと、僕も桂も闇に呑み込まれて消えてしまいそうで。大人が迎えに来る迄
残っていたかった。でもそれ以上に幼い桂は、ご神木の不思議な雰囲気に心惹かれ。そも
そも僕達がご神木に辿り着き、歩み寄ったのも。

【ごしんぼく……?】

 今の桂の様に幼い桂も、ご神木に進み出し。
 幼い桂の様に今の桂も無造作に腕を伸ばし。

『桂、触れてはダメだ。桂は血が濃すぎる上に修練を経てない。直に触れてしまえば、竹
林の姫の千年の記憶から、ゆーねぇの拾年の傷み苦しみ迄、無防備な心に一気に流れ込ん
で、正気を壊しかねない。ダメだ、桂っ…』

 でも桂は夢現な以上に関知や感応の『力』を持たず。僕にも声を届かせる『力』はなく。

 僕は肝心な時と場でいつも役立たずだった。
 密かな危機を未然に食い止めたのは今宵も。

「触らないで……。桂ちゃん、お願い…!」

 無意識にご神木の傍に歩み寄っていた桂が。
 ゆーねぇに、背後から抱き締められていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


『わたしは一体、何をしようとしていたのだろう……無意識に、ご神木へ手を伸ばし…』

 肌身に強く触れる感触で、夢心地から覚め行く桂に、ゆーねぇの柔らかな声が注がれる。
ゆーねぇは人目を憚らず、その細い身をしっかり抱き締めて。桂も拒まずそれを受容して。

「お願い桂ちゃん。ご神木には触らないで」

 声音は静かだったけど、同時に真剣だった。

「桂ちゃんは贄の血が濃すぎるの。修練がなくても『力』の操りを知らなくても、羽藤の
遠祖が千年宿ったご神木は、白花ちゃんの意図に関らず桂ちゃんと感応を始めてしまう」

 その繊手は桂の両腕ごと背後から抱き包み。

「修練もない素養だけでのご神木との感応は、堤防もなく濁流を招くに近いの。ご神木の
千年の想いが、見た事も聞いた事も感じた事も全て無秩序に流れ込む。良い物ばかりでな
い。哀しい事、悔しい事、様々な想いが渦を巻き。己を律する修練を経ないと奔流に己を
見失ってしまう。膨大な想いの洪水が混乱を招く」

 知りたい事も知りたくない事も、順番も準備もなく流し込まれる。知ってはいけない事、
知る事が哀しみに繋る事迄も。だから、ご神木に子供は近づいてはいけない。濃い贄の血
を持って修練のない人や、夢と現が定かではない子供は、膨大な情報で正気を危うくする。

 僕も夏の経観塚で触れた時は、思わず正気を失いかけた。敵を倒す『力』の操りと違い、
僕の関知や感応はお粗末で……踏み止まれたのは、ゆーねぇの助けと、それを受けられる
程度には修練を経ていたお陰だ。今の桂では。

「桂ちゃんは夏の経観塚で、多くの辛い過去を思い出したわ。今尚解きほぐせてない記憶
はあるけど、徐々に取り戻せている。ご神木に触れて濁流を招かなくても、必ず全て思い
出せる。わたしも力を尽くすから、だから…。

 ご神木に直接訊くのはしないで、お願い」

 夏の経観塚でも桂はその様に願われていた。
 夢心地に虚ろな侭で鈍い思考は記憶を辿り。

「お姉ちゃんの願いって、いつも願う人の為の物だったよね……自分自身の願いは脇に置
いて、わたしや白花ちゃんの為に、わたし達が傷つかない為に、わたし達にお願いって」

 腕の締め付けを解かない侭緩め、その場で桂は振り向いて美しい従姉と間近に向き合う。
唇が頬が触れ合いそうな間近で瞳を覗き込み。桂からも滑らかな細身にその腕を回し絡ま
せ。

「どうしてとか、何の為にとか、説明がなくても、お姉ちゃんの願いは受け容れる。だっ
てお姉ちゃんは、わたしのそんな願いを幾つも幾つも、心傷めながら叶えてくれたもの」

『無意識に夢心地に、足が出て手が伸びてしまっていたけど。たいせつなお兄ちゃんが宿
るご神木だけど。あの夜も今も、わたしはご神木に魅せられた様に歩み寄っただけで……
触ってどうしようか考えていた訳でもなく』

「わたし、ご神木には触らない。白花ちゃんとはお話ししたかったけど。お姉ちゃんの願
いを振り切って哀しませても、自分の願いを貫きたいとは、やり遂げようとは、思わない。

 お姉ちゃんに、本当にのんびり微笑んで欲しい。幸せになって欲しい。これ以上わたし
やわたし以外の誰かの為に、傷みや哀しみを負う必要はないよ。厳しい戦いは終ったんだ
から。烏月さんの様に強く美しく正しい人が、わたし達を助けて守って、くれるんだか
ら」

 もうこの人を手放しはしない。最も近しく愛しいこの人と、二度と離れ離れになること
は許さない。もちろん忘れることも。どんな鬼や神が行く手を塞いでも、わたしは絶対に。

「わたし、お姉ちゃんを心配させることはしない。お姉ちゃんの願いはいつも、わたし達
願う人の為だから。わたしお姉ちゃんの言葉に従う以上に、気持を汲み取れる様になって、
お姉ちゃんにいつ迄も笑っていて欲しい…」

 この夏迄、拾年この人がいた事も忘れていた。未来を犠牲にして守られていた事さえも。
事もあろうに、こんなに近しく愛しい存在を。その歳月は取り返せないけど、それを笑っ
て受容する優しい人に、無限大の慈しみに少しでも報いたい。未来で報いる事はできるか
ら。

『桂はゆーねぇへの、僕や烏月さんや母さん父さんへの罪悪感を、尚拭い切れてない……
無理もないけど。それは或いは、生涯背負って行くべき十字架なのかも、知れないけど』

 僕が添ってあげられたなら。同じ罪を持つ僕が傍で励ましてあげられたなら。ゆーねぇ
への罪悪感も償いも、半分に分ち合えたのに。ゆーねぇが償いや報いを求める人物ではな
い事は、僕も桂も分っている。でもだからこそ。

 そんな優しく強く愛しい人に、与えてしまった傷み苦しみは、本当に心苦しくて。桂の
悔恨は僕の悔恨だ。せめて僕が同罪を、或いはもっと重い罪を背負って生きて見せたなら。
桂はどれ程安らかに過ごせるか。兄として僕は、拾年何もしてやれず。拾年経った今も尚。

 ゆーねぇの桂への答は、そんな僕への答も兼ねていた。この美しい従姉は桂を想いつつ、

「有り難う。その気持だけで、満たされる」

 桂の頭の上に載せられる、ゆーねぇの掌の柔らかな感触は。僕も同じく感じている事を、
想定して承知して。母さんがしてくれた様に、否昔ゆーねぇが幼い桂や僕にしてくれた様
に。ぽんぽんと、軽く柔らかく頭を叩いてくれる。無尽蔵の愛は、確かに僕に迄。充分に
過ぎた。

 ご神木上空に何頭も舞う大きな光の蝶が。
 月明りを照り返し収束して幹に流し込み。

 幸せだった。ゆーねぇに途方もない負担を掛けた僕だけど、大変な回り道を通ったけど。
こうしてその代りに役立てている今はとても。元々僕が主の分霊に乗っ取られて終れなか
ったのは。終って当然な己を今迄保たせたのは、心を繋ぎ続けたのは。愛しい人を心に抱
けたから。これ以上哀しませられない人がいたからで。僕が今あるのは全てゆーねぇのお
陰だ。

 少しでもその役に立てている今が、愛を交わし合える今が、僕には余録で。生きて残る
積りさえもなかった僕には、こうしてゆーねぇを想い続けられる今が、望外の幸せだった。

 その上で生き別れた可愛い妹に再会して。
 その幸せの支えに迄役立てているのなら。

 僕は千年万年このお務めに励み続けよう。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 烏月さんが僕に向ける視線の違いは、夏のあの夜以降感じていた。ゆーねぇや桂と心通
わせた以上、いつ迄もあの頑なな状態ではいられないと思っていたけど。彼女は僕の想像
をも超えて、強くしなやかに柔らかくなって。

 彼女は最早憎しみに心を縛られてはいない。
 敵を悪を憎む心は抱きつつ、でも囚われず。

 何がよりたいせつか見極められる怜悧さと。
 たいせつな物を守り通す強い意志を宿して。

 僕が明良さんに関った所為で、兄を討たせ。
 尋常ならざる悲痛を与えてしまった女の子。

 でも彼女は強く正しく鬼切りの途を見定め。
 今は桂やゆーねぇの守り手になってくれて。

『そして僕には全く予想外な、拾年前の夜を招いた元凶で、紛う方なき仇だったノゾミ』

 夏の経観塚でも、ミカゲと共々桂を脅かし。
 ゆーねぇを滅ぼし掛けた恨み骨髄な小鬼は。

 何の気紛れか、桂を守ってミカゲと敵対し。
 桂と心通わせた末に、お守りの青珠に宿り。

 今は誰も疑う者のない桂の守り手になって。
 それで犯した罪がなくなる訳ではないけど。

 償う術も取り返す術もない事はそれとして。
 今後桂やゆーねぇを支え愛してくれるなら。

『主への情は尚残しているけど、桂やゆーねぇの方がたいせつだと、明確に言えているし。
疑り深い鬼切部が了解したなら、大丈夫か』

 ゆーねぇや桂でなければ、こんな展開はあり得ないと呆れつつ。苦笑いしつつ受容して
いる自分に気付いて。サクヤさんが口にしていた『羽藤の太平楽』とは、これを指すのか。

 そこで4人の視線が僕の、と言うよりご神木の側面根元に集まったのは。ノゾミや烏月
さんはともかく、桂にも気付かれた。ゆーねぇは桂が気付かねば、知らぬ振りを通す気だ
った様だけど。こうなるとも察せていた様で。

「烏月さん、お姉ちゃん。あの揺らぎはまさか、良月を埋めた……」「やはり、そうか」

 烏月さんは、ゆーねぇ達が為したミカゲの弔い、良月の欠片の正確な埋葬場所を知らぬ。
でも良く見れば月光の眩い夜だから、ご神木側面の根元の土が、盛り上がって位置を示し。

「柚明さんに討たれたミカゲの怨念が、鏡の欠片に残り、地縛霊となって滞っている?」

 烏月さんの冷静な声にゆーねぇが頷き返し。

「良月を埋めた時は、わたしがオハシラ様を続ける積りでいたから、ミカゲも還せる見込
だったけど。白花ちゃんには難しいみたい」

 そこで烏月さんはゆーねぇに直截に問うて。

「祓ってしまわなくても大丈夫なのですか」
「夜でも再び現身を取る力はないでしょう」

 桂は夏の経観塚で、ノゾミとミカゲの共通の依代である古鏡、良月を粉々に砕き割った。

 依る呪物が壊れぬ限り、滅びない霊の鬼も。
 呪物を喪えば、又は呪物との繋りを喪えば。
 浮遊霊となって拡散し薄まって消えて行く。

 桂と心繋げたノゾミは、依代を守りの青珠に乗り換えて生命繋げたけど。実はノゾミの
青珠への依り憑きを陰で助け、ミカゲも共に青珠に憑いて。その翌日夕刻に、再び顕れて
桂を襲い。良月から持ち越した『力』の全てを投入し、ゆーねぇと戦い破れ、滅び去った。
夜更けに炸裂する暗闇の繭の詛いを桂に遺し。

 最後の戦いの少し前、ミカゲを弔いに良月の欠片を埋めに行く時、桂の問にゆーねぇは。

『埋めても大丈夫なの?』

『ええ。その子の分ぐらいなら大丈夫よ。ハシラの封じには影響がないわ』

 ミカゲの怨念が欠片程残っていたとしても。
 最早思念を紡げる程の濃さも持てない筈で。

 実際僕に宿った分霊との最後の戦いの時も。
 天王山でミカゲは何の動きもできなかった。

「ご神木間近の結界は、悪鬼や魑魅魍魎を寄せ付けないの。ミカゲの怨念が幾ら滞っても、
夜に現身を取れない程の『力』では、独りではご神木の封じを揺るがす事も叶わない…」

「敢て様子を見ていたと、言う訳ですか?」

 言葉を選びつつ烏月さんが意図を問うのに。
 少し心配そうな桂を横目にゆーねぇは頷き。

「白花ちゃんの封じの継ぎ手としての資質は、封じを維持できるか否かの下限にありま
す」

 血の濃さで桂と僕は、ゆーねぇを凌ぐけど。封じの要の資格は、血の濃さのみに左右さ
れる訳ではなく。拾年前に僕も桂もハシラの継ぎ手になれなかったのは、『力』を扱えな
かった為だ。そして今尚修練のない桂は、その資格を持たず。修練した僕はその資格を持
つ。

 でも主の分霊を内に宿した僕は、『力』扱えても封じの要の資格を持てず。奴を封じの
要に置く様な物だから。明良さんも母さんも、何度か主の分霊を切ろうとしてはくれたけ
ど。

 分霊も巧妙に、僕を表に出して鬼切りの効果を逃れ。隙を見て裏返ろうと蠢き。僕も分
霊の自由にさせなかったけど。逆に僕が自由に分霊を表に出して、切らせる事もできず…。

 夏の経観塚で完全に裏返った主の分霊を。
 ゆーねぇが、一度で焼き尽くしてくれて。
 漸く僕はオハシラ様を担える資格を得た。

 でも戦いの為・鬼切りの為に修練した僕の『力』の扱いは、封じに不向きで。否、違う。
男という僕の在り方その物が封じに不向きで。これは僕には予想外だった。男である事が
ハシラの継ぎ手になる上で、望ましくないとは。

「白花ちゃんの『力』の操りは、敵の討伐を想定し、集約と炸裂に重きを置いています」

 それは敵を倒す戦いでは有効だけど。敵を倒す必要がなく、保ち続ける事・在り続ける
事を求められる封じには、効果が薄い。むしろ夜昼構わず、寝ていても起きていても、24
時間常に一定の強さで『力』を紡ぎ続ける事が求められる。必要な力の素養が全く違うの。

「わたしと同じ位血が濃くて、『力』の修練も経ているお兄ちゃんだけど、封じの継ぎ手
を担う素養では、お姉ちゃんより不向き?」

「男の子と女の子の違いもあるわね。敵に打ち勝つ強さでは、一般に男の子が女の子を上
回るけど。傷み苦しみに耐え続ける強さでは、一般に男の子より女の子が勝る。女の子は
生れつき出産に耐える事が想定されているから。

 人柱や生贄に女の子が多いのは、神や魔物が年若い娘を好む以上に。過酷な定めに耐え
続ける資質で女の子が勝るから。在り続ける事、耐え続ける事、保ち続ける事が必要な封
じの要は、男の子に不向き。白花ちゃんは」

 心の強い子だから、桂ちゃんと並ぶ比類なく濃い血の持ち主だから。こなせているけど。

「封じの要はこなせているけど、ミカゲの怨念を還すには及んでない。手が回ってない…
…そう言う事ですか。それを見極める為に」

 烏月さんは涼やかな目元をゆーねぇに向け。
 でもその意識はむしろ僕を見極める感じで。

「否、むしろその事実を彼に知らしめる為に、ですね。彼も羽藤の、桂さんと同じ血筋な
ら、相当の意地っ張りに違いない。柚明さんの察しが正しくても、事実を見せねば認めな
い」

「ゆめいなら、ミカゲを早く還せていた?」

「わたしがハシラの継ぎ手を務めていたなら、桂ちゃん達が羽様に滞在していた数日の間
で、ミカゲの怨念を還し終えていたでしょう…」

 封じの要を引き継ぐ前に、『力』の扱いを伝えて置けばと、ゆーねぇは呟いていたけど。
伝えるだけなら感応の『力』を持つゆーねぇは今でも叶う。僕に、ご神木に触れば一瞬で。

 ゆーねぇが敢てそれを為さなかったのは。

「継ぎ手を交替してから数日、わたしはかなりの量の『力』をご神木に注ぎました。サク
ヤさんや桂ちゃんを初めとするみんなを癒しつつ、己の肉の体を再生する。それに最低限
必要な分だけを残して、全ての『力』を…」

 瞬間桂が身震いしたのは、その真の意味を悟れた故に。桂はゆーねぇの在り方を拾年前
以前もこの夏も、肌身に感じ続けてきたから。全て聞かせられずとも、その言葉の真意を
察せられる。僕が即座にそれを察せられた様に。

 ゆーねぇは一度触れれば、唯『力』の扱いを伝えるに留まらない。僕を想う気持の侭に、
『力』を生命を注ぎ込む。僕の美しい従姉は、たいせつな人の為なら己を盾にして守り庇
い、生命を削っても助け救う。むしろそうしてしまう自身を止められないのが、この人だ
った。

 拾年前の夜ゆーねぇは、僕と桂が犯した過ちの埋め合わせに、愚痴一つ言わず己を捧げ。
夏の経観塚でも、主を抑えつつ桂を守る為に何度も滅び掛けて尚僕を癒し、この身に宿る
主の分霊も相殺し。その上で桂の願いに応えて幾度も仇のノゾミを助け、サクヤさんの生
命も繋ぎ。この人は、一体どれ程の傷み苦しみを望んで選び取ったか。そう言う人だから。

 全ての戦いが終った後、肉の体を作らねば、儚い存在に逆戻りしかねない状態でもゆー
ねぇは。封じの要を継いだ僕を案じ、その生命を注ぎ。その時もこの人が自身に残す
『力』は最低限だった。彼女がご神木に触れたなら。

 ゆーねぇは自身の暴走を留め得るだろうか。
 ゆーねぇは桂には欠く事できない人だけど。

 この人は僕も同着一番に想ってくれている。
 桂の瞬間の強ばりは僕も感じた怖れだから。

 ハシラの継ぎ手は独りで充分だ。頭数が多くいても意味はないし。僕に譲る積りもない。
でもゆーねぇも本当に強情な羽藤の裔だから。

「でも……幾ら力を注いでも、彼の不足を補い切れない。彼が封じの要を担う限り、根本
的な改善は望めない。白花ちゃんの素養を試すと言うより、これはわたしの注いだ『力』
がどの程度白花ちゃんを支えられるのかを」

 今のゆーねぇならこの位の怨念すぐ還せる。
 でも外から『力』及ぼして祓うのではなく。

 僕に『力』を注ぐ事でご神木が満たされて。
 僕がオハシラ様として祓える様になってと。

 でも2ヶ月経って来てみると、この状況で。
 僕の適性の低さ、男である事の不利の証か。

 そもそも封じの要が人形で現れる事が想定外と、サクヤさんも言っていた。先代のオハ
シラ様・竹林の姫も、千年人形で顕れた事はなく。夢見に蝶を贈って危機を訴える位だと。

 それを乗り越えて、現身で顕れたゆーねぇの想いの強さが、どれ程凄まじい物だったか。
一体幾つ世界の法則を突き抜けたのか。自身が肉の体を喪って、しみじみ思い知らされた。

 本当に何もできない。鬼神を包んで唯あり続けるだけで。夜に現身で顕れる事も、蝶を
飛ばす事も夢のまた夢で。夜に近しい人の夢に声を届かせる事さえも。間近のミカゲの怨
念の欠片一つ還せず。ご神木の枝葉や幹の外に力が出ない。ゆーねぇにはできた事なのに。

「一定の答は出た様ですが、この怨念はどう致しますか? 祓いますか、切りますか?」

 維斗の太刀を突き立てればすぐ滅ぼせると。
 烏月さんに問われたゆーねぇは否定の答を。

「お姉ちゃん……?」

 ノゾミが微かに竦んだ気配を、察したのか。
 それを感じ取った桂の気持を、慮ったのか。

 桂はノゾミにもミカゲにも『ちゃん』づけする等、妙に脇の甘い処があって。滅んだ後
の想い迄、根絶やしにするのに躊躇いを見せ。『たいせつなひと』に想い想われたノゾミ
の、今尚情を断ち切れない『千年の妹』だからか。拾年前の夜の経緯を、全て思い出した
上で尚。

 羽藤の甘さ優しさは贄の血の甘さの如くか。
 明良さんの肩を竦めた呟きも分る様な気が。

「もう少しご神木に『力』を注いでみます。その結果を見定める為にも暫くはこの侭で」

 烏月さんがゆーねぇの答に了承したのは。
 ミカゲの怨念は脅威でもないと視た訳か。

 ゆーねぇは念入りに、良月を埋めた処へは、手の届く範囲以内に近付かないでと桂に求
め。

「桂ちゃんは素養を眠らせているから、影響を受けてしまうかも知れない。叶う限りご神
木にも、独りでは来ない様にして頂戴……」

 念には念を入れた用心に桂は素直に頷き。
 少しの心残りを感じさせる表情と声音で。

「うん……わたし、ご神木には1人で来ない。
 さっきお姉ちゃんと約束した事もあるけど。

 何だか、引き寄せられそうな気もするから。
 白花お兄ちゃん……じゃあ、また来るね」

 波乱は出逢の時よりその後に待っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 それは桂の悪夢であると同時に僕の悪夢だ。
 忘れようにも忘れられぬ幼い幸せの断絶が。

 しみが広がっている。
 しみが広がっていく。

 赤く歪む世界の中で、雫の滴る音に誘(いざな)われ、しみがどんどん、広がっていく。
桂の両頬を伝った雫が、顎で交わり滴り落ち。

 僕は桂と一緒に泣いていた。
 僕は涙を流せずに心の内で。

 ゆがむゆがむ、世界が歪む。
 泣いているから、歪むのか。

 この沢山の染みは僕たちの。

【どうしてこんなに泣いているんだろう?】

 しみが広がる。だけどだけど、涙だけで、こんなにしみは広がるだろうか。まるで水溜
まりの様に、夜空に浮ぶ月を映して……。

 水よりも重い音。月は歪んでいる。

 それは視界を阻む涙の所為でもあって。
 止めどなく滴る、雫の所為でもあって。

 ひとときたりとも円い姿を映さずに、ゆらと揺れては幾つにも別れ、歪んだ月の偽物が、
熱の失せた光を投げる。分らない。今夜空に浮んでいる月は、本当に丸いのだろうか。

 僕は、この顔を上げられない。

 ぱたっ……雫が桂の頬を叩く。
 ぱたっ……雫が桂の額を叩く。

 これは違う。僕の涙じゃない。

『僕はこの時、泣く事さえもできなかった』

【考える迄もないことだ。降ってくる以上雨に決まっている。耳を叩く雨垂れの音。そう
言えば、夕方にも雨が降っていた。あれ…?

 雨は上がって、わたしは月を……。

 そうそう雨が降っているんだっけ】

 月が出ているのに雨が降っているなんて不思議だ。出ているのが太陽なら狐の嫁入りだ
けど、お月さまの場合はなんて言うんだろう。

 ぱたっ……飛沫が僕と桂に掛る。

【雨だろうか……雨だろう。
 そう言えば今は夏だった】

 だからこんなに雨が暖かいのか。
 熱い位の雨の滴が、ぱたぱたと。

 つうっと滑った頬の雫が、唇の端から滲む様にじんわりと口中に広がった。

 ほんの少し、しょっぱい味で。

 ほんの少し、甘い芳香を含んでいて。

 ほんの少し、たった一滴だったにも関らず。

 それが雨でも涙でもなく、もっととろりと濃いものである事が、分ってしまった。かあ
っと身体が熱くなり、そのくせ芯はぞっと冷たく、そのむせ返る匂いにくらりと……。

 歪む歪む、世界が歪む。
 赤く歪んだ世界の中で。

 この赤は、この雫の赤は。

 指の短い、頼りない程に小さい、あの夢で《視た》子供の頃の桂の手が、僕の手が……。

 その両手のひらが、べっとりと……。

 赤く赤く、濡れ輝いていた。

【あ……】細く幼く怯えに掠れた、桂の悲鳴。

 それが僕の意識を微かに呼び起こしたけど。
 でももう僕は、鬼を身に憑かせ終えていて。
 取り返しの付かない過ちを犯し終えた後で。

【やだ……】

 血塗れの手を否定したくて、桂が目を瞑る。

 助けて、お母さん……。
 あぁ、僕の声は出ない。
 僕の体は既に鬼の物だ。

 いつもいつも、桂や僕を守ってくれた強く優しい母さん。でも僕に助けを願う資格など。
父さんを殺めてしまった僕に、最早救いなど。頭が鬼に塗り替えられて行く。体が鬼に…
…。

【助けて……】

 愛しい人の顔がふっと浮んだその時。
 父さんの後ろ姿が桂の両肩を包んだ。

 その両手は大きく骨張っていて、桂も僕も思い浮べた人の手ではなかったけど。僕の目
の前に、ぽっかり空いた穴があった。父さんの胴を背中から、僕の手が貫いてできた穴が。
桂はその穴の向こう側、父さんを挟んで前にいて。でもその距離は二度と縮まる事はなく。
人と鬼の隔り、人と咎人の隔り。人の世を生きる桂と、最早人の世に生きられぬ僕の隔り。

 父さんの胴の傷口から流れ出た血が、地面に大きな血溜まりを作っている。尚も吹き出
る贄の血の飛沫が、ぱたっと桂の顔に掛った。

【いや……なんで……】

 桂はむずかる様に身体を揺すって、両肩に掛る手を振り落す。するりと、力をなくした
両手が落ちた。父さんは、もう助からない…。

 ずるりと、生命をなくしかけた体が傾いで。

【桂……】

 最期に、桂の名前を呼んで、崩れ落ちて。

 桂の手から滴った血が、僕の手から滴った血が、血溜まりに落ちて雨垂れの音を作って。

 桂の正気が悪夢に浸食されて鎖され行き。
 僕の未来が鬼の血の色に塗り替えられて。

「いやあぁあぁあぁぁっ!」「けい! 起きなさい、けい!」「桂さん!」「桂ちゃん」

 今の僕は、夜でも目覚めた桂に心繋げない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 僕の手で届かない感応が直後に繋ったのは。

 ゆーねぇが僕に想いを繋げてくれたからで。
 僕は心を鎖す事もできず情景を眺め続ける。

「お父さんを……お父さんが、お父さんのお腹に穴が空いて、空いて向こう側が見えて…
…お父さんが、お父さんが死んじゃった!」

 わたしの所為で。わたしの為に。わたしが。
 入っちゃいけない離れの蔵に夜に忍び込み。

 鏡のお札を破ってノゾミちゃんを呼び出し。
 ご神木の封じもわたしが解いちゃったから。

「わたし、ダメって言われた蔵に入ったことを怒られたくなくて、ノゾミちゃんにそれを
願って。そうしたら本当に、お父さんは怒る事がなくなった……笑う事も。わたしが!」

 桂の膨大な傷み哀しみが僕を震わせるけど。
 同時にゆーねぇの深甚な愛しみは僕に迄も。
 唯その為に、僕を哀しませて終らせぬ為に。

「叔父さんを殺めたのは桂ちゃんじゃない」

 でもその声は桂の耳に届いても心に響かず。
 真相を思い出せてしまった桂は己を責めて。
 この世には真実が最も辛く哀しい事もある。

「お父さんを殺めたのは、わたしじゃない。
 お父さんを殺めたのは、お兄ちゃんだよ」

 でも……でもそもそもわたしが、あの夜に。
 蔵へお兄ちゃんを連れて行かなかったなら。

 白花ちゃんに主の分霊が取り憑く事はなく。
 誰1人欠ける事なくみんな今も幸せだった。

「わたしが良月のお札を剥がさなければ、誰も酷い目には遭わなかった! あんな目に遭
う原因を作ったのは、このわたしなのっ…」

 柚明お姉ちゃんが肉の体を捧げ、未来も抛ってオハシラ様になったのも。お兄ちゃんの
鬼を心に宿した過酷な人生も。お母さんが幸せな生活を突如断たれ、傷み哀しみを押し隠
して、過労で死んじゃったのも。お父さんも。全部わたしの所為だよ、全部わたしの為だ
よ。

 優しい桂は幼い己の過去の失陥を責め呵み。
 自身が膨大な損失に心傷め続けてきたのに。

 致命的な罪や咎は桂ではなく僕にあるのに。
 桂は拾年記憶を鎖さねばならない程苦しみ。

 取り戻せた後は取り戻せた真実に尚呵まれ。
 僕は……僕は肝心な時にいつも役立たずだ。

「なのにわたしは拾年の間、のうのうと幸せに生きて。元気に学校行って、日々お友達と
遊んで愉しんで。独りだけ愛されて人の暮らしを続けていた。全部の原因だったわたしが。

 みんなに守られ庇われて、傷み哀しみを何一つ知らず。ずっと忘れ去っていた。こんな
に近しくたいせつな人を、その人を不幸に陥れて守られて来た事実を、この夏迄ずっと」

 人でなし……わたし、人でなし。鬼だよ!
 どうやって償えば良いか見当も付かない。

 こんな酷い結末を招いてみんなを傷つけ。
 地獄行きだよ。絶対許される筈がないよ!

『違う。桂は悪くない。ああなるとは誰も思ってなかった。幼子に悪意はなかったんだ』

 号泣は僕の心にも強く共鳴し。桂の後悔は、痛憤は、過去の自身への憎悪は、取り返す
術もなく。そして心の痛みの炸裂に、やや遅れ。

「痛い、痛い。赤い、赤い痛いのが、来て」

 桂はこの拾年、甚大な傷み苦しみを、忘れる事で回避してきた。本当の傷口である拾年
前の夜を思い出さない様に、『赤い痛み』で思考を遮って。気絶で自傷を止めるのに近い。
でも夏に記憶を取り戻せた桂は、思い出す事が容易になり、赤い傷みが後追いで来る様に。

 ノゾミが桂を慮りつつ、言葉も出せずに浮いて硬直する様が一瞬視えた。その硬い表情
には、罪悪感より後悔より哀しみの色が濃く。烏月さんも声を掛け、桂の半身を触れて支
える以上の事はできず。取り返しの付かぬ過去を自ら責め呵む桂を救うなど、誰にできよ
う。

「桂さん、しっかり」「桂ちゃん、大丈夫」

 左右から支えの手が伸びて。烏月さんの滑らかな繊手が、桂の正気を強く支え。ゆーね
ぇも肌身に癒しの『力』を注ぎ苦痛を和らげ。ゆーねぇは、唯桂に向けてのみならず僕に
も、

「わたしが許すわ。この世の何がどうなろうとも、わたしは最後迄あなたを愛するから」

 美しい従姉は、感応の『力』で桂の心に踏み入って、赤い痛みを共有し。魂を魂で抱き
包まれた様な感触を、ご神木の僕にも伝えて。

「この世の誰1人桂ちゃんを許さなくても。
 桂ちゃん自身許されたくないと願っても」

『この世の誰1人白花ちゃんを許さなくても。
 白花ちゃんが許されたくないと願っても』

 わたしが必ずあなたを許す。例えあなたが悪鬼でも、鬼畜でも、わたしの仇でも。あな
たこそがわたしの一番の人。絶対見捨てない。あなたを愛させて欲しいのは、わたしの願
い。何度でも望んで喜んで全て捧げて悔いもない。

 柔らかな感覚が心地良い。槐の甘い香りが心の傷を塞ぎ行く。静かに強く確かな声音が。

 ゆーねぇはこれを伝えようと。桂のみならず僕にも同じ想いを、深甚な愛を伝えようと。

「桂ちゃんが地獄に墜ちるなら共に墜ちる。
 そして必ずあなただけは救い上げるから」

 僕と桂の硬直は、自身の地獄墜ちがこの美しい人の地獄墜ちに直結すると悟れたからで。
ゆーねぇの言葉に嘘はない。桂が地獄に堕ちたなら、ゆーねぇは桂を助ける為に、地獄の
底にも望んで墜ちる。そこにゆーねぇ自身の助かる見込が、あろうがなかろうが関係ない。

 自身の傷み苦しみで躊躇う事のない人だと、桂も僕も夏の経観塚や拾年前の夜やその以
前から、この人生全てで見て聞いて知ってきた。その積み重ねが桂の号泣を凍らせた。桂
が塞ぎ込み続ける事・立ち直らない事が、この愛しく綺麗な人にそれ以上の負担を強いる
から。

 例え桂や僕が嫌っても拒んでも、この人は成果も報いも求めず欲せず、何度でも望んで
僕達の為に全てを捧げる。桂や僕が応えなくてもゆーねぇは、諦めずいつ迄も捧げ続ける。

『わたしがこの想いに応えなければ、優しい従姉を更に苦しめる。それだけは絶対ダメ!
 わたしの為に人生を棒に振った人を、更にわたしのせいで。何があってもそんなこと』

「あなたが幾度過ちを犯しても。あなたが幾ら罪に塗れても。必ずわたしはあなたを愛す。

 鬼でも人でも構わない。咎があっても罪があっても。わたしはいつでもいつ迄も、望ん
であなたを受け容れ許す。そしてもし桂ちゃんに、他の人に犯した重い罪があるのなら…
…わたしが人生を注いで一緒に償うから…」

 だから過去だけじゃなく今から未来を見て。
 あなたの外側に開けている世界を見つめて。

 耳から注がれる強い想いは、肌身に伝えられる確かな想いは、暗闇の繭に籠もり掛けて
いた桂を、現へと引き戻す。幾ら辛く哀しく苦しく罪深い現実でも己自身でも、向き合わ
ねばと。桂が自身の心の強さの限界を超えて。それをゆーねぇは、僕にも望んでくれてい
る。

「わたしの桂ちゃんは強く賢く優しい子…」

 その傷み哀しみや悔恨は、桂ちゃんの優しさの証し、強さの証し。凄惨な過去に向き合
う桂ちゃんの意志の作用なの。逃げていた訳じゃない。赤い痛みの防衛本能が何度も現れ
たのは、桂ちゃんがこの拾年、何度も真実に向き合おうとした為で、強さの証し。過去の
悲劇に心を傷め流す涙は、優しさの証し。鬼畜でも人でなしでもない。強く賢く優しい子。

 桂の嗚咽が、鎮まり始めていた。泣き疲れたという以上に、ゆーねぇの無限の許しに受
け容れられて、桂の自責が拡散して薄まって。夜着を通した柔らかな肌身の感触が心も癒
す。この感触もしっかり伝えてくれて。今は幼子でなくなったこの僕には、嬉しすぎて困
る位。でも全て承知でゆーねぇはそれを躊躇もなく。

「幼い心を壊されそうになって、本能は正気を守り通す事を選んだ。それは何も悪い事じ
ゃない。幼子が精一杯生き抜こうとしただけ。悔恨に心囚われないで。哀しみの欠片を踏
みしめて、その痛みに涙流しつつ、それでも過去をしっかり抱いて、今を見つめて生き
て」

 無限の愛に桂と僕の悔恨が吸い尽くされる。
 無尽の愛に桂と僕の絶望が染め変えられる。

『わたしは、生きていても良いのではなく。
 生きなければならない。少なくとも今は。

 最も愛しい人の想いを無駄にしない為に』

 僕も最も愛しい人の未来を幸せを繋ぐ為に。
 ご神木で千年万年鬼神を封じ還し続けよう。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 主は最近、全く身動きしなくなった。僕から語りかける事も、向うから語りかけてくる
事も、多くなかった関係だけど。最近は一層寡黙になって、向う向きに座ったり寝転んで。

 ご神木に存在の根である『想い』『力』を吸収され、還され行く中では。暴れて封じの
内側を幾ら傷つけても、オハシラ様を虐げても。破れぬ以上は無駄に『力』を消耗するだ
けで、主は徐々に衰え行く。身じろぎしても声を発しても考えに耽っても、それは同じだ。

 何か所作をする度に、否、何もしなくてさえも、主は『力』を奪われ行く。だから主は
封じの中では、ゆーねぇと戦い勝って虐げても衰える一方で。ゆーねぇの正気を壊したり、
封じから逃亡させたりすれば、意味は出てくるけど。竹林の姫やゆーねぇを、戦ったり犯
したり愛したりする行いに、実は意味は薄い。

 尤も主は膨大で、その様に『力』を放散して失っても、損耗は微々たる物でしかなくて。
主は全て分っている。それらは主の退屈を紛らす『遊び』に過ぎない。気紛れに為したり、
時に為さなかったりもするのは、その為だ…。

 そんな暇潰しの為に、愛しい人を虐げ犯し、傷め苦しめ哀しませた事は、本当に許せな
いけど。僕のたいせつな人の幸せを鎖した事は、心底許せないけど……今後はもう二度と
させないから。僕が全て受けて、防ぎ止めるから。

『主が寡黙になったのは。身動きしなくなったのは。力の浪費を防ぐなんて小さな了見で
はない筈だ。主にはご神木の【力】の削りも、千年経っても深刻な痛手になってない様だ
し。そもそもそんな緻密な性分でなさそうだし』

 最初の内は何度かやり合って、徹底的に打ちのめされた。鬼切りは、太刀がなくても気
力さえあれば振るえるけど。充分以上の威力で放つ事ができたけど。封じの中で主に叩き
付けてみて漸く、ゆーねぇが言っていた主の強大さ・甚大な力量の隔りを、肌身に感じた。

【それが貴様の、今様の鬼切部の必殺技か】

 みんなが引き上げた後の、晩夏のご神木で。

 僕は確かに鬼切りで、主に傷を与えたけど。
 それは皮一枚裂いて僅かに流血させた位で。

 致命傷どころか、まともな痛打にも程遠く。
 全ての『力』を結集してもここ迄が限界で。

 封じを解かなかったゆーねぇが正解だった。

 こんな化け物を、大昔の役行者達はどうやって倒し封じ込めたのか。一度解き放ったな
ら最後、明良さんでも母さんでも手の打ちようがない。千羽党の総力を注いでも敵うまい。
若杉の総力を注いでも、近代兵器の全てを投入しても、神を殺す術などある筈もないのか。
僕の見立ては誤りだった。ゆーねぇが言っていた通り、これは解き放ってはいけない物だ。

【全く、効かない……ぬぅ、ぐあああぁ!】

【ぬんっ……何だ、掴んだだけで貴様も腕が千切れるのか。脆い。脆すぎる。これでは贄
の娘と大して変らないではないか。もう少し愉しませてくれるのではないのか。ああ?】

 主は僕を睨むだけで威圧が入って闘志萎え。
 気合を入れ直しても、魂に怯えが刻まれる。

 全力を込めた鬼切りを更に数度当てたけど。
 主は避けずにワザと当てさせて威力を測り。

 薄皮一枚だけでも裂けたのは1度目だけで。
 主が気合を入れればその皮の上で弾かれて。

 主は躱す事も防ぐ事もいつでも悠々できた。
 そして反撃に転じれば神速な上に強靱無比。

【うぶぉぉぉおっ!】【何だ、この程度か】

 主は心底物足りなさそうな声で肩を竦めて。
 主には僕もゆーねぇも殆ど変らぬ弱さだと。

 鬼切りもその他の千羽の業も何一つ効かず。
 防ぎに手を出せば腕が砕け、弾けて灼かれ。

 鬼切りは限界迄力を溜めて叩き付ける業で、気軽に何度も出せはしない。その鬼切りで
も、主の皮一枚切れるか否か。主の拳や蹴りは防ぐ事が不可能で。主の出す蛇でさえ、鬼
切りでなくば倒せない。主は隔絶して強大だった。人の手に余る存在、それは正に鬼神だ
った…。

【これはどうだ、こっちは】【えぐおっ!】

 腕を砕かれ、足を潰され、腹を貫かれ。
 肌を焼かれ、骨を折られ、肉を貪られ。

【もうダメか。もう終りか】【ぐがぁお!】

 まともな戦いになるのは最初の数秒のみ。
 後は全て、主の思うが侭の嗜虐に過ぎず。

 防ぎ得ない。躱しても蛇は躱しきれない。
 後は唯苦痛に耐えて、のたうち回るだけ。

 明良さんに教わった全てが何も効かない。
 そこには神の鬼の主の意志があるのみで。

 どの様に為すかのも、いつ迄やるのか止めるのかも。全部が主の気紛れに、委ねられて。

 痛みさえ感じ取れない程の苦しみ。脳を破壊され、それでもご神木の治癒の力で徐々に
治り行く。治り行くから、死ぬ事がないから、治り終える迄死ぬ程の苦しみは終る事がな
く。いっそ死んでしまえば楽なのに。己の意識が終らないから、治っても再び主に虐げら
れる。

 良くゆーねぇは、この勝機の見えない地獄を耐えられた。これは引分なんて物ではない。

 封じの中にいる限りご神木の支援で、僕は致命傷でも息絶えず、緩慢に治癒が進むけど。
それは倒れる事を許されず、殴られ続けるサンドバッグだ。ゲームセットのない侭負け続
け砕かれ続ける永遠の牢獄だ。無尽の力を持つ主は、片手間に気紛れに僕を幾度も粉砕し。

 意識などなくなってしまえばいいと思えた。
 誰を想う事も考える事も忘れる程の激痛が。
 体のどこかではなく全身を内側を襲い続け。

 余りの苦痛に思わず逃げようと、ご神木の内側境界に手を触れたけど。僕は適性が低す
ぎて、簡単にご神木を抜け出す事も許されず。僕に主導権がない。ご神木が封じの要を求
めていて、資格者が他にない以上。ご神木は僕を手放す事をせず、僕はそれを振り切れな
い。

【思ったよりは良い声を出すな。だが、贄の娘に較べれば色香もなく、面白味も欠く…】

【うぼおごおぉおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!】

【威勢の良いのは始る迄か。ならばもっと威勢良く悲鳴を上げるが良い。贄の娘の如く】

【ぬぅがああぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁ…】

 何日虐げられたのか。体をバラバラに引きちぎられ、玩具の如く挽き潰され。抉られ削
られ、人の正気の強さを試す様な所作の末に。ある時主は僕への興味を失って、あっち向
きに座したり寝転んで、日々を過ごす様になり。

 余りに勝負にならなくて、興醒めしたのか。
 主の情けというか気紛れで、最近は平穏に。

 でも到底納得出来る様な現状ではなかった。

 剣士の誇りを木っ端微塵に砕かれた以上に。
 今迄の努力や苦労の全てを砕かれた以上に。

 虐げられるだけの存在は余りに情けなくて。

『間近のミカゲの怨念の残り火さえ還せず。
 ゆーねぇをまた心配させてしまったな…』

 子供の頃から心配ばかり掛けていた気が。
 僕が桂をしっかり見てられなかったから。

 僕が非力で幼く、役に立てなかったから。
 この手が償う術のない重罪を犯した為に。

 最愛の人を哀しませる事になってしまい。
 もう二度と、愛しい人を哀しませないと。

 何の憂いもない笑顔浮べていて欲しいと。
 そう願い求めて修行にも励んできたのに。

『今はせめて、鬼神の封じに全力を尽くし。
 今後も担い続けられると、見せなければ』

 ゆーねぇにも桂にも僕にも、再会出来た秋の経観塚は、苦い展開になってしまったかも。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 翌朝の桂の寝覚めは、やはり良くはなかった様で。陽が照ると今の僕の関知や感応では、
所在は悟れてもその詳細は見て取れず。気配が少し小さく、元気がない感じは分ったけど。
烏月さんや気配もある事が悟れる位で。ノゾミは青珠にいるのか察知出来ず、ゆーねぇは。

『独りで羽様を離れる。方向は、銀座通方面……ダメだ、もう小さすぎてその先は、ある
事を感じ取れるのが、今の僕には限界か…』

 左右前後のどこに向けて動いているのか。
 どの程度の早さか元気なのかさえ悟れず。

 烏月さんは憔悴した桂に添っているのか。
 空はこんなに青く突き抜けて明るいのに。

 その陽光こそがたいせつな人と僕を隔て。
 ご神木を育てて封じを生かす陽光こそが。

 ゆーねぇの帰着は日が中天に至る頃だった。
 今日は桂達は日中にご神木を訪れる模様で。
 羽様にいればみんなの所在や動きは悟れる。

 それ以上に桂を中心とした会話が、表層心理が視えて聞えるのは、僕の『力』ではなく。
僕に桂の伸びやかに元気な普段の姿を見せて、安心し喜んで欲しいとの、ゆーねぇの配慮
か。主はやはり向う向きに座して動かず。人の世の動きに、僕の縁者の動きに興味はない
のか。

 桂は紅葉に目を輝かせ、夏の経観塚での出逢いを思い返し、拾年前以前の印象に想いを
馳せ。過酷な定めを経ても尚、明るく強く生きてきた、妹の前向きな今の姿が微笑ましい。
それを叶えられたのは間違いなくゆーねぇが、寄り添い救い支えたからで、今後も又同様
に。

 何度も来た道なので、昼なら危うさもなく。
 道なき道も、さほど怖れずに、草を分けて。

 ざあぁっ……。

 急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。
 夏の経観塚でも、何度か桂達は訪れたけど。

「白花お兄ちゃん……見えているのかな…」

 ああ、見えてはいるよ。可愛いいもうと。
 ご神木の前に佇む3人の姿は明瞭に見え。

『あのー、つかぬ事をお尋ねしますけど、千羽烏月さんをご存じですか?』

『今の質問、忘れて貰えませんでしょうか』

『はい、全国的に山田さんを圧倒して多数を占める、佐藤さんの佐の字を、千羽さんの羽
の字とお揃いにして、羽藤です。桂は将棋の桂馬の桂、ってあれ? どうかしました?』

 昔から地雷を踏むのが得意な妹だったっけ。
 元気で好奇心旺盛で、傍にいると楽しくて。

『鬼の木。死者の魂の木。
 魂を運ぶ、蝶の形をした白い花……』

『小さいわたしがここに来た夢を【忘れろ】って。わたしはその頃の事を、憶えてないん
です。だから、あの夢の記憶だけがわたしの昔の記憶なのに、それを忘れろって……。

 ここで、何があったのか。わたしが忘れてしまっている何かが。何か……』

 鎖された過去や自身の拠り処に惑いつつも。
 元気に伸びやかにみんなの愛を受けて育ち。

『それじゃケイ君お邪魔しました。それとお祭りの準備、頑張ってくださいね』

『女の子の夢に勝手に入るなんて失礼だよ』

『……だけど白花ちゃん、まだ柚明お姉ちゃんのこと、そう言っているんだ』

 周囲は遠慮した様に、若い木も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けていて。故にその
側面に、新しく掘り返し土を盛った痕は見えて分り。昨夜と違ってミカゲの怨念は存在感
に乏しく。今が昼の故なのか、ゆーねぇの昨夜の支援の効果か、或いは潜んでいるだけか。

 間近なのに確かに分らないのは僕の力不足。
 ご神木の幹の皮の上は外界で手が届かない。

「そうね。眠っているのと起きている位の違いかしら。ご神木も鬼ではないけど化外の力
を秘めた呪的な存在。その本性は昼は鎮まり夜に息づく。わたしがオハシラ様だった時も、
わたし達が祀っていた先代のオハシラ様も」

 今回は、桂も意識してご神木に触れぬ様に、近付かぬ様に努める。ミカゲの怨念の痕に
も同様に。君子危うきに近寄らずは世の真理だ。

 その故か今回は特段の問題も生じず。爽やかに晴れた秋空の下、涼やかな秋風に肌を晒
し髪を靡かせ。桂はみんなと、赤や黄の紅葉をご神木から見渡して。その彩りを愉しんで。

 ゆーねぇも桂に、僕に触らないでと求めた為か、自身もご神木に触れず。何度か切ない
視線を向けていたけど、昼は蝶も飛ばせない。

 桂も微妙に勝手が違う様子で。昨夜の幻想的な雰囲気を、期待していた様な。桂自身も、
何がどう己の期待と違うか掴めてない感じで。そう言えば桂は拾年前以前も、夕刻の生々
しく息づき始めたご神木に心惹かれていた様な。

「また来るね……白花お兄ちゃん」

 桂はどうして夜のご神木を好むのだろう?


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


『貴様から拾年体の主導権を奪えなかったとは、我が分霊(わけみたま)も情けない…』

 主に思う侭に打ち砕かれ、手足も内蔵も引きちぎられ。顔も潰され目玉も右しか機能し
ない状態にされ。これ以上虐げるには、一度僕の回復を俟たねばならないと、主は責め手
を一時止め。どっかと座して話しかけて来て。それは……確か先月の満月の夜だったと思
う。

『お前の分霊だからだろ。尤も、明良さんや為景さん達の目があったし。お前の分霊が裏
返っても、即座に倒されていた。それが分る程には、お前の分身も賢かったって事かな』

 首も引きちぎられて、声も出ない筈だけど。想いが織りなすご神木の内側の仮想現実で
は、想いを紡げば届かせられる。致命傷が治る迄終らぬ苦痛は棚に上げ、減らず口を叩く
のに。主は、飛び散った僕の右足首を踏み潰しつつ。

『この状態でまともに口答えするとは、良い根性だ。流石に贄の娘の近親か。我が分霊も、
簡単には体の主導権を奪えなかった訳だ…』

 主は拾年の間この様な虐待をゆーねぇにも。
 男相手なら兎も角女の子に迄こんな非道を。

 心を沸騰させる激甚な怒りを必死に抑えて。
 主への効果的な返しは憤怒ではなく挑発だ。

 それで主を怒らせれば、少しでもその力を削れる。激怒して報復に動いてくれれば更に。
僕は幾ら砕かれても良い。主を早く滅ぼせば。桂達の生命ある間は無理でも、千年先を九
百九十九年先に縮めるだけでも。意味はあった。

『僕は鬼神の本体であるお前を倒そうとして、鬼切りを修行してきたんだ。その分霊如き
に好き放題に、この身を操られて堪る物かい』

 実際には幾度か体の主導権を奪われたけど。
 ゆーねぇの様に神本体を抑えた訳じゃない。
 先代や先々代の封じの要に較べれば僕など。

『心に寄生されたなら、貴様の心の内で貴様に対峙した分霊は、紛れもなく鬼神その物だ。
贄の娘や竹林の姫に条件は近い。贄の娘も竹林の姫も、一度もわたしを解き放たなかった
結果は、何度か裏返った貴様より上だが…』

 仏の教えが伝わる課程を『瓶の水を残さず移し替える』と形容されるのに較べ。神々の
伝播の課程は『火が燃え移る』と形容される。聖火ランナーの炎の様に、様々な依代を経
ても、炎はその性質を変えず炎の侭で。元の炎と何ら異なる事はないと。僕に憑いた主の
分霊は、主その物と同じだと。それは千羽で修行していた頃、明良さんにも教えてもらっ
た。

【天照大神を始め多くの神も、全国各地の神社で、分霊が祀られている。神の分霊が宿る
から、摂社でも末社でも人は敬い頭を垂れる。神職は尊び祀り、時に願いが届き神威も示
される。天照大神は伊勢が本拠だけど、各地の神社にも分霊が、神がいる。違うのは器
だ】

 相応しい器を得なければ、神の真価は発揮出来ない。逆に言えば、神の真価に耐えられ
る器などそう簡単にはなく。機体の性能が操縦者について行けないと言う、マンガにあり
がちな設定は、神や鬼の世界にも通じる様だ。

 各地の神社さえ本拠の神社程の力を持てぬ。各地の神社は本拠程の器ではないから。そ
れと同じで僕は鬼神の器には足りず。だから分霊は明良さんに掣肘される程の存在に留ま
り。

【仮に今、千羽の鬼切りの業を全て知る俺が、白花の体に乗り移っても。修練途上の白花
の体では、揮えない業がある。俺の腕力なら倒せる相手も、白花の体では倒せない場合
も】

 鬼神の分霊も受け容れる器の大小で、実際に使える業や威力に、戦力に制約が掛るんだ。

【鬼神の戦いを白花の体で為しても、ついて行けず逆に白花が壊れてしまう。分霊も白花
の限界でしか動けない。その代り奴は白花を限界迄酷使するから、修行を経た白花より強
靱になる。人は修行を重ねても百%の力は出し切れない。鬼は執着や欲望の侭に、痛みや
後の反動を怖れず、肉体の限界迄戦うから】

 鬼神の性質に変りはない。主も分霊も同じ。
 元の炎と燃え移った炎が同じ炎である様に。

 問題は燃え移った炎を燃やす芯の方にある。
 炎の燃え移った先が蝋燭か松明か油田かで。

 炎の大きさも寿命も左右されてくるのだと。
 つまり分霊は宿る体に制約されて発現する。

 僕に憑いた分霊は、偶々僕以外に憑く機会がなく、係累を増やせない侭ゆーねぇに灼き
尽くされたけど。展開次第では、分霊に心を塗り替えられた人が、巷に溢れる悪夢もあり
得た。火は燃え移っても減りはしない。触れた松明や蝋燭に移って、次々と増えて行く…。

 だから僕は『力』の扱いや心の強さを学び。
 主の分霊を身の内に封じる事から修行して。

『貴様の師の詞はほぼ正しいが。人と神の違い、元々の規模の違いも行く末を分つ。燃え
移る際も、蝋燭の炎より山火事の炎を移される方が影響が大きい。蝋燭と違って、山火事
は一気に屋敷も町も舐めてしまえるからな』

 燃え移った後で器に制約されるというのは、その通りだ。当初は炎が大きくても、時の
経過と共に徐々に器の規模に炎が収まって行く。それにはやはり相応の時間を要するが。
例えば貴様に憑いた分霊は、かなりの規模だった。

『贄の娘は、良くあの分霊を独力で還せた』

 主の分霊も鬼神だけど。人の身に根付いた以上、人の限界に縛られる。だから鬼切りで
倒せる程度の強さ、人の手が及ぶ位の存在で。明良さん達の目を逃れて裏返ろうとしてい
た。

『だがそれは外界に向けての話しに過ぎぬ』

 槐の中でわたしが千年鬼神であり続け、拾年贄の娘を踏み躙った様に。今も貴様を虐げ
ている様に。貴様の中で貴様と対峙した分霊は、少なくとも貴様には紛れもなく鬼神だっ
た。槐の封じの支援もなく、鬼神に抗い続けた貴様は、確かに只者ではないのかも知れぬ。

 贄の娘と言えども、槐の助けもない中で分霊に寄生されてしまえば。最終的には鬼神を
抑えきれず暴走するか、疲弊して死に至るか。鬼神も分霊も同じ存在ならば効果も同じ訳
だ。

『ご忠告有り難いけど、僕はもう手遅れだし、ゆーねぇには分霊の方が手遅れだ。もう外
界にお前の味方はいない。僕に憑いた分霊もミカゲも滅び去り、ノゾミも桂と絆を繋いで
その守り手になった。これからは、僕がお前を、僅かな分霊も漏れ出させず、しっかり封
じて還すから。安心して悠久を過ごすと良いさ』

『減らず口を叩くなら、わたしに叩き潰される程度迄、肉体を復してから言うのだな…』

 外界の脅威をゆーねぇが、全て滅ぼしてくれたお陰で。僕は安心して鬼神と悠久戦える。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 山登りで疲れた為か、桂は早く休んだ様だ。
 天空は満月前夜で大きく丸い月が昇り行き。

 悪夢に魘された様子もない安らかな感触は、夜だから悟れ。烏月さんやノゾミや、ゆー
ねぇの様子も概ね掴め。でも同時に感じ取れたたのは、屋敷に近付く男性の気配で。彼ら
は。

『サクヤさんが言っていた、拾年前の夜の事件捜査を続けている県警刑事か。でも…!』

 父さんを殺めたのはこの僕だ。掴まえるならこの僕を、と叫び掛けて固まった。僕は悠
久にご神木を離れられぬ。真実を語る事もゆーねぇの無実の証明も、逮捕される事も牢に
入る事も叶わない。ゆーねぇを助け出す事も。

 人である事を喪うとはこういう事だった。

 僕は己の罪を明かす事も、謝る事も償う事もできず、愛しい人を庇う事さえも叶わない。
その末に愛しい人が囚われても救う術もなく。人でない者は人の世の行く末に関われぬの
だ。

 ゆーねぇはどう応対する積りなのだろう。
 まさか僕の罪を身代りに償う積りでいる?

 僕の生命を引き継いだと言っていたのは。
 僕の罪や受けるべき罰迄も受ける積りで?

 僕の罪は僕だけの物だ。僕の罰も又同様に。
 誰にも、ゆーねぇにも引き継がせはしない。

 でも、ゆーねぇの想いの深さ強さ優しさは。
 本当に尋常ではないから逆に、不安が兆す。

 否、ゆーねぇには未だ桂がいる。僕の罪を購う為でも。その間桂に寄り添って守る事が
できなくなるなら、話しは違ってくる筈だ…。

 僕の関知も感応も、未熟で麓に届かない。
 一つ屋根の下にいる事以外何も分らない。

 幾ら身を乗り出しても、ご神木の内側の仮想空間の外に出られない。槐の花びらの白に
輝く丸い円筒状の空間から、外に出る術がなくて。殴りつけても蹴りつけても、境界はゴ
ムの様に引っ込むだけで、突き抜けられない。封じの要とは主と共に封じられた存在なの
だ。

『僕はゆーねぇの役に立ちたくて、幸せになって欲しくて、オハシラ様を引き受けたのに。
僕の犯した罪をゆーねぇが引き受けて、その未来が鎖されるのでは、僕は一体何の為に』

 透明な境界の膜を、何度殴りつけただろう。
 気がつくと、ゆーねぇの気配に動きがあり。

『ご神木へ歩み来る? それは好いけど……ゆーねぇだけじゃなく、この気配は刑事達』

 夜なのに、鬼の刻限なのに、ご神木が月明かりを受けて息づく頃合に。否、違う。ゆー
ねぇは刑事2人を夜のご神木へ、導き招いて。

『一体、何を考えて……まさかゆーねぇは』

 ゆーねぇは麓の屋敷で応対していた時から、『力』を隠さず放散し。拾年前の夜の真相
を、鬼や羽藤の贄の血の話しを、ゆーねぇは彼らに明かす気か。話しを聞き入れ、信じて
くれる可能性は低い。刑事は世俗を生きる者達だ。

 だから『力』の効果が目に視えて分り易い、夜に彼らを呼び招いたのかも、知れないけ
ど。それでも現代文明の元で育ち、数十年を経た大人が、まともに耳を傾けるか否か。逆
にそれを不用意に部外者に報せては拙い筈なのに。彼らがそれを信じてしまった場合も拙
いのだ。

『刑事はサクヤさんから聞いていた若杉の調べ通り2人。初老と言って良い、白髪薄い中
肉中背の沢田槙久で。相方の少し若い、と言っても四拾歳過ぎの長身な細身の川口一博』

 人相などの詳細な情報は、ゆーねぇの物だ。ゆーねぇは僕に事情を呑み込ませる為に、
事前知識や今迄の経緯を織り込んで、僕に伝え。ゆーねぇは道すがら、刑事にも関知や感
応の『力』を及ぼして拾年前の経緯を真相を伝え。

『ゆーねぇはこれで解決に繋ると本当に?』

 ご神木に至った刑事は呆然と立ちつくして。
 その耳目は今の光景や状況を見聞きしつつ。
 その脳裏には拾年前のあの雨の夜が映され。

 ミカゲの邪視で気を失っていた僕には、見る事の叶わなかった、ゆーねぇと父さん母さ
んの話し、ゆーねぇが封じの要を担う情景が。それこそが僕の本当の悔い。千年万年かけ
ても償えない、羽藤白花の取り返せぬ罪だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 倒れて気を失っているのは幼い僕と桂で。
 傍で交わされる父さんや母さんの会話は。

『駄目ね。もうこの木の中にオハシラ様はいないわ。彼女は還ってしまった』『そうか』

『奴が出てくるのは時間の問題よ……私が抑えてみるけど、きっと何時間も保たないんじ
ゃないかしら。本当にどうしましょう』

『真弓……私が、私がオハシラ様を継ぐことは出来ないだろうか?』

 父さんにも羽藤の贄の血は流れているから。
 封じのハシラを担えば綻びは繕える筈だと。

『ええ、そうね。だけどそれは出来ないわ』

『貴男を愛しているから。……なんて理由だけなら良かったんだけど、もっと現実的な問
題なの。貴男じゃ力が足りないの』

 父さんは長い羽藤の歴史の中で、最も贄の血が薄く。僕も桂も幼子で。全員『力』を操
る術を知らなかった。封じの要を継げるのは、拾年前の羽藤家にはゆーねぇ独りしかおら
ず。

「封じの要を告げたのはわたしだけでした」

『わたしは笑子おばあさんから、力の使い方の手ほどきを受けていますから』

 刑事達もゆーねぇの印象から、主の強大さを感じている。今の世の凄まじく発達した兵
器や軍勢でも、あの鬼神を殺す術などありはすまい。警察の手に負える存在ではなかった。

 防げない、倒せない、敵わない、抗えない。主を止める選択肢が浮ばない。主の強さは
人知を超える。そして千年糧を得てない主は甦ればほぼ間違いなく、双子の贄の血を欲す
る。

『柚明ちゃん、君は、オハシラ様になる事が、それが一体どういうことか、分って…
…?』

 父さんは贄の血は薄いけど、笑子おばあさんの血の力を介して、ご神木と感応していた。
だから封じのハシラになるという事、主と永劫ご神木に依り続けるという事を分っている。

【だが姫よ、人の形を為して現れるなど、そうそうできることではないぞ。封じの柱に出
来るのは、唯見守ることのみと思って良い】

 役行者が竹林の姫に告げた通り、封じの要はここに唯居続けるだけ。できる事と言えは
見守り続ける事で、意思を示す術も殆どない。今刑事がゆーねぇを連れ去ろうとしても害
しようとしても、妨げる術もない。止めろと声を上げる事さえ叶わない。全く、無力だっ
た。

 終わる時も知れず、世の中から切り離され、知った人の全てが息絶える永劫の時の彼方
迄。悠久の孤独、永劫の無為、久遠に唯あり続け。それは人の幸せの全てを抛つよりも、
場合によっては死よりも厳しい終りの見えぬ定め…。

【ええ。わたしが生命尽きる迄捧げる積り】


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