白花の咲く頃に〔丙〕(後)



 でも桂さんがそう望み願うなら、桂さんの想いも込めて、千羽烏月が柚明さんを守ろう。

「柚明さんが危難に踏み込むのは多く、たいせつな人が危うい時だ。彼女が身を挟め想い
人を守る、その前に私が出て、敵を退け防ぎ守る。たいせつな人の安全が確かなら、柚明
さんは自ら危険を招く様な人ではないしね」

 柚明さんが大事に想う桂さんが、万全に守られていれば、従姉が危険に陥る怖れは低い。

 手は握りっぱなしだったので、夏の経観塚での様に、指切りは出来なかったけど。この
人の言葉に嘘がないことは、夏の経観塚で分っているから。この掌の感触が、約束を繋ぐ。

「今はゆっくり休む事だよ」「うんっ……」

 お姉ちゃんが帰着したのはほぼ正午だった。


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 柚明お姉ちゃんの作ったお昼ご飯を、烏月さんと3人で頂いて。昼迄床についていたお
陰なのか、体調もかなり復してきた。食後一息着いた頃に、当初予定通り午後にご神木に
行こうよと言ってみると。烏月さんもお姉ちゃんも、わたしを心配して及び腰だったけど。

 お姉ちゃんは特に『未だ明日もあるわ』と。
 でもわたしはお姉ちゃんの感触を分るから。

 望ましくはないけど、どうしてもダメという感じではない。お願いすれば無理も通せる。
これは拾年前以前に慣れ親しんだから分る…。

「わたしが、行きたいの。わたしは大丈夫」

 わたしは、柚明お姉ちゃんが白花ちゃんに寄せる想いの深さを分っている。わたしに注
いでくれたと同じ程強い愛を、美しい従姉はわたしの双子のお兄ちゃんにも抱き。わたし
達2人がこの愛しい人の同着一番と、拾年前以前も夏からも、わたしは何度も聞かされた。

 お姉ちゃんは本当は、夜通し24時間食事も抜きで、ご神木に寄り添い続けていたいのだ。
癒しの『力』の紡ぎ手であるお姉ちゃんなら、それをしても消耗も疲弊もなく。夜風に晒
されても体調崩さず、お兄ちゃんを助けられる。それを為さないのはわたしが傍にいるか
らだ。

 わたしが夜風に当たると体調を崩すから。
 わたしがご神木に添い続けられないから。

 出来る人がその気も満々なのに、わたしを心配する故にそれを為さず。平静を装っても、
心奥で美しい従姉は自身を必死に抑えている。白花ちゃんに抱く想いが、本物であればこ
そ、焦慮は今この瞬間もお姉ちゃんを苛んでいる。でもそれを見せてわたしを心配させな
い様に。美しい従姉は涙も苦しむ姿も微塵も悟らせず。

 この人の願いをわたしの不調が阻むなんて。
 わたしの存在が足を引っ張るのは絶対いや。

 せめて起きて動ける時くらいは行かなきゃ。
 わたしは愛される以上にこの人を愛したい。

 少しでも役立って力になって笑って欲しい。
 出来ることから一つ一つ愛しい人を支えて。

「わたしもご神木に、お兄ちゃんに逢いたい。
 わたしが逢いに行きたいの。お願いっ…」

 それに、わたし何故かご神木の下に、行かなくちゃいけない様な気がするの。心惹かれ
るって言うか、気になって堪らないと言うか。

「体調はお姉ちゃんのお陰で戻っているし」

 烏月さんが一緒してくれるなら心配ないし。
 怖い鬼も顕れないし今は日の照る時刻だし。

「行ける条件は整っているよ。むしろ今が絶好機って位に。白花お兄ちゃんも、きっとわ
たし達に逢いたいと願っている。元気な姿を見せて安心させてあげたいの。……ダメ?」

 柚明お姉ちゃんはこうやって、下から目線で瞳をうるうるさせると、大抵の頼みは聞い
てくれる。拾年前わたしはこれで相当我が侭を通したけど。今のわたしは我が侭じゃない。
お姉ちゃんとわたしの願いを叶える為の……。

「分ったわ。じゃあ、一緒に行きましょう」
「わぁい。やっぱりお姉ちゃん、大好きっ」

 拾年前と同じくわたしは、お姉ちゃんの柔らかな肌にこの頬を触れさせて、両手を回し。
拾年前と違うのは、わたしの両腕がお姉ちゃんの背で繋って、確かに抱き締められる事か。
お姉ちゃんはそんなわたしの抱きつきも柔らかに受け。心を込めて抱き返し、肌を添わせ。

 お母さんにも抱きつくなんて、最近余りしてなかったけど。お姉ちゃんとは拾年が欠落
しているから、羽様のお屋敷にいると、抱きついていた日々が昨日の様で、連続していて
躊躇いがない。わたし、前より心が幼いかも。そう想っているとノゾミちゃんの視線を感
じ。

「今日は私以外にも、観客が居るのだけど」

 そこでわたしはノゾミちゃんではない人の視線を、涼やかな凛々しい人の気配に気付き。

「う……う、う烏月さんっ! 見てた…?
 もしかして今のやり取り、全部見てた?」

 慌てて赤面しつつ、でもお姉ちゃんの柔肌は放したくなく、竦みつつ困惑するわたしに。
艶やかな黒髪を微かに揺らせ、『2人の仲の良さは見ていて本当に羨ましいよ』と微笑み。

 答を返せずあたふたするわたしの傍で、お姉ちゃんは柔らかに頷いて。更に軽く抱き留
めてくれてから、この身を解き放ってくれて。ノゾミちゃんの宿る青珠の付いた携帯を忘
れず持って、わたし達は昼のご神木に再び赴く。


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 高く伸びる木々が、好き放題に枝を伸ばし、空を覆い隠している。わたしの両手でも抱
えきれぬ程太い幹の古木が立ち並び、丈のある草が生い茂る獣道を、わたし達は山奥へ歩
み。

「わぁあ……紅葉がきれい!」「そうだね」

 わたし達の住む町に較べて、東北地方は少し秋の訪れが早くて。葉は赤に黄に色づいて。

「晴れていても、夏の時みたいにギラギラしてなくて、丁度良い日当たり具合だね……」

 少し息は乱れるけど、人は体を動かせば普通そうなる物なのです。お姉ちゃんも烏月さ
んもそうならず、涼やかに静かでいるけれど。

「この辺で、白花ちゃんと間違われて烏月さんに組み敷かれ、刃を突きつけられたっけ」

「あの時は申し訳なかった。まさか彼とあそこ迄よく似た気配が顕れるとは、想定外で」

 わたしは、烏月さんを詰る積りではなく。

「ううん、謝らせる為に言った訳じゃないの。

 あの時烏月さんと再び逢えて、絆を繋ぎ直せて良かったなって……こうしてご神木に一
緒するのも、あの夏の仲直りがあってだもの。あの夜再び顕れたミカゲちゃん達から、わ
たしやお姉ちゃんを助けてくれたお陰も含め」

 改めてその強さ優しさにお礼を述べたく。

「そしてこの今を導けたのは、間違いなく……お姉ちゃんのお陰だよ。前の夜に烏月さん
に維斗の太刀で絆を切られた後で、切られた絆は結び直せば良いって、教えてくれて…」

 この夏の巡り逢いに、心から感謝したく。

「わたしは、桂ちゃんの想いの整理を手伝っただけで……教えたのでもないわ。桂ちゃん
が自身の願いに気付ける様に、促しただけ」

 桂ちゃんが烏月さんを大好きなのは、誰の目にも明らかだったし。烏月さんが桂ちゃん
との関係を、切らなければ断てない程大事に想ってくれていた事も視えたから。お節介を。

「いや……私も桂さんと過ごした時間は暖かく楽しかったし、柚明さんと過ごした時間も
同様に。桂さんと絆を断った時には未練もあったし、繋ぎ直せた事は本当に嬉しかった」

 話しを弾ませつつわたし達は、山道を進む。
 何度も来た道なので、昼なら危うさもなく。
 道なき道も、さほど怖れずに、草を分けて。

 ざあぁっ……。

 急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。
 白花ちゃんの宿るご神木を昼に訪ねるのは。
 夏の経観塚でも、何度か経験はあったけど。

「白花お兄ちゃん……見えているのかな…」

『唯その為だけに、明良さんを僕の運命に巻き込み、鬼に憑かれた度し難い生命を繋ぎと
めてきたんだ』

『桂! 待つんだ! そっちは危ない!』

『違う! 僕は桂を狙ってここに来たんじゃなくて、桂を狙っているのは僕じゃなく…』

『ただ、僕の経験からすると、自分が何をしたかは憶えている筈だ』

 この拾年全て忘れ去っていたわたしに較べ。
 白花ちゃんは拾年自身の罪に向き合い続け。

『桂……君は父親を殺していない!』

『違う。もう分っている筈だ。君は蔵で鏡の封印を解いてしまった事を悔やみ、自ら記憶
を閉ざしたんだ。君があの鬼を解放した事が、十年前から続くこの出来事の発端だから
ね』

『あの鬼が見せているいびつな浄玻璃鏡ではなく、本当のことを思い出すんだ』

『そう、僕たちの父さんを殺してしまったのは、桂じゃなくて、僕なんだ』

『さあ早く起きてゆーねぇを安心させよう』

 それでもお兄ちゃんは過酷な定めに抗って。
 それも唯己が鬼に抗って生きるのではなく。

 お姉ちゃんをご神木から救う為に、鬼を宿したその身で厳しい修行を経て、鬼切りの業
を習得し。残り少ない生命を承知で経観塚を訪れて。烏月さんに追われる中で、ミカゲち
ゃん達に生命狙われたわたしを助けてくれて。わたしのたいせつな人。鬼が遺した暗闇の
繭の悪夢の奥の奥まで助けに来てくれた。わたしの唯1人のお兄ちゃん。今は柚明お姉ち
ゃんから鬼神の封じを引き継いだオハシラ様…。

 周囲は遠慮した様に、若い木も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けていて。だからそ
の側面に、やや新しく掘り返し土を盛った痕は見えて分り。昨夜と違って立ち上る空気に
異質感がないのは、昼の故かな。ご神木の独特な神秘的な気配も、随分減じられているし。

 わたしが述べた印象にお姉ちゃんは頷いて、

「そうね。眠っているのと起きている位の違いかしら。ご神木も鬼ではないけど化外の力
を秘めた呪的な存在。その本性は昼は鎮まり夜に息づく。わたしがオハシラ様だった時も、
わたし達が祀っていた先代のオハシラ様も」

 埋めた良月の欠片に残存していたミカゲちゃんの怨念は、一晩で消失したのかな。昨夜
感じた異質な空気は、素人目に分る程だったけど、今は幾ら目を眇めても全く感じられず。

 柚明お姉ちゃんなら。昨夜わたしに寄り添いながら、並行してご神木にちょうちょを飛
ばして、白花ちゃんを助けていたに違いない。その効果が早くも顕れたと言うことなのか
な。

 今回は、わたしも意識してご神木に触らない様に、近付きすぎない様に努める。もう大
丈夫とは思うけど、ミカゲちゃんの怨念の痕にも同様に。君子危うきに近寄らずと言うし。

 その故か今回は特段の問題も生じず。爽やかに晴れた秋空の下、涼やかな秋風に肌を晒
し髪を靡かせ。たいせつな人と赤や黄の紅葉を槐の傍から見渡して。その彩りを愉しんで。

 お姉ちゃんはわたしに触らないでと求めた為か、自身もご神木に触れず。切ない瞳を向
けていたけど、昼はちょうちょも飛ばせない。やはりご神木は夜に来ないと意味薄いのか
な。

 しばらくの後わたし達は山を下りることに。
 陽が落ちる前に帰着できる行程は予定通り。
 明日は午前中と夜ご神木を訪れる予定です。

「また来るね……白花お兄ちゃん」


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「五右衛門風呂……、入れるの?」「ええ」

 柚明お姉ちゃんは昨夜ちょうちょを飛ばし、その分も考慮に入れた薪拾いを済ませてい
て。山登りで汗ばんでいただけに、お風呂に入れると思うとそれだけで嬉しくなる。さか
き旅館の日帰り入浴は昼のみで、今から行っても着いた頃に時間切れになる。だからわた
しは今日の入浴を、諦めようかと考えていた処で。

「わたしがお夕飯の支度をしますので……」
「分りました。私が風呂の釜を見ましょう」

 お姉ちゃんがお夕飯を作り、烏月さんが風呂のお湯を沸かす間。わたしは2人に休んで
いてと促され。わたし元気なのにと呟きつつ、今日は山登りで疲れたのも事実だから。わ
たしは西日の差す部屋で、少しの間待つことに。

 でも黙っていると微睡み掛けて。この部屋は夏の経観塚で、ミカゲちゃんがわたしを捉
えてお姉ちゃん達と対峙した。拾年前以前の懐かしさより、わたしにはその方が印象深く。
変な夢を見て魘されると、又みんなに迷惑掛ける。もう少し起きてないと。体を動かそう。

「もうすぐお風呂やお夕飯なのに眠っちゃ」

『陽子ちゃんに、定時連絡でもしようかな』

 携帯を求めて居間に行ったわたしは。なぜかその隣室に心惹かれ。襖に鎖された向うが
見える筈はないし、物音が聞えた訳でもない。武道の達人でもなく感応の『力』もないわ
たしだけど。気配を感じた気がした。わたしを誘うかの様に、何かがあると発信する気配
が。

『ここは烏月さんが寝室に使っている部屋』

 ノゾミちゃんの声が聞えた様な気がした。
 でもなぜかそれは耳の上を滑って行って。

 聞き取れている筈なのに意味が分らなく。
 理解できる思考が働かず夢見心地の侭で。

「けい、ちょっとお待ちなさい。そこは…」

 意識は夢現なのに、気配の所在はすぐ悟れ。
 やはり人ならざる独特の空気は維斗の太刀。

 わたしに握り締めてと言うが如く存在感を。
 魅せられた様にわたしは太刀を手に握って。

 その侭持ち上げようとしてバランスが崩れ。
 持ち上げ掛けた太刀を手放しつつ倒れかけ。

「けいっ!」「桂さん!」「桂ちゃん……」

 気付くとわたしは、ノゾミちゃんに左半身を引っ張られ。右半身を烏月さんに支えられ。
この手から取り落した維斗の太刀は、柚明お姉ちゃんが身に抱え。みんなに守り支えられ。

 自由意志によらない行動の気分をわたしは味わいました。酔っ払って暴れた人が、翌日
自己嫌悪の嵐に見舞われるなんて話しは良く見聞きするけど。白花ちゃんも、或いは拾年
前の夜のわたしも、こんな感じだったのかな。

「けい、あなた何を為しているか分って…」

 現身で顕れたノゾミちゃんの声が、ようやく耳に入ってきて。そこでわたしも自身が何
をやってしまったのかを悟り。気付くとわたしはノゾミちゃんに支えられて、隣室にいて。

 烏月さんの大事な維斗に、不用意に触れた。
 これはわたしが危ない以前に悪いことです。

「ごめんなさい! わたし、こんなっ……」

 とりとめもない事を考えている内に、烏月さんの事を思い返して。烏月さんが重い太刀
を意の侭に揮っているのを見て、あの太刀はどの位の重さなのかなって。現実感がなくて、
これは夢なのかもって思ったら、ついつい…。

 まるで何かに操られていたか、乗り移られていたかの様に。わたしの意志が働かなくて。
ううん、わたしの意志が、操られていた様な。でもそんな言い訳は意味がないし。わたし
自身確かに説明しきれないので、口には出さず。

 そんなもどかしさを察してくれたのかな。
 お姉ちゃんは、わたしを心配する感じで。

「癒しを及ぼしすぎたのかも知れないわね」

 お姉ちゃんはわたしを気遣って、ご神木から帰り着いた後、癒しを及ぼしてくれたけど。
それは疲れや緊張を取り去る一方で、心身を弛緩させ、夢と現の境を崩す副作用も伴うと。
大人しくしていたり眠るなら問題はないけど、動き回る時は不都合があるから使い難いの
と。

「一部の感冒薬の様な物でしょうか? 眠気を招く怖れがあるので、運転する時には服用
を控えて下さいという」「そうですね……」

 幸い烏月さんも、強く叱る語調ではなく。
 繰り返さない様に注意してくれる感じで。

「機械や炎を扱う作業や、高所への往来などは避けた方が良いと思います。少しうたた寝
していてくれればと思ったのですけど、わたしの見立てが甘くて……申し訳ありません」

「それは、あなたが謝る事ではありません」
「そうだよ。これはわたしが悪かったのっ」

 お姉ちゃんを謝らせてはいけない。自身がやってしまったことの責任を、人に被せては。
拾年前の夜も今年の夏もずっとそう。わたしはせめて、自身が為した過ちは自分で収拾し、
自分で謝って、自分で償える様になりたいの。

「烏月さん、ごめんなさい。大事な鬼切りの太刀に、不用意に触って。お姉ちゃんにもノ
ゾミちゃんにも、心配させてごめんなさい」

「全くけいは、私がいないと何をやり出すか分らない。本当に世話の焼ける小娘だわ!」

「うう、今回ばかりは返す言葉がないです」

 そこで烏月さんが平静な声をわたしに向け。

「維斗は鬼切部の破妖の太刀で、先代から受け継いだ千羽党の重宝で、余人に触れさせる
物ではないけど。それ以上に桂さんが身を傷つける怖れがあるから……見たいなら、言っ
てくれれば間近で抜いて見せても良いけど」

 桂さんの安全の為に私に話しを通して貰う。
 強い意志を優しさ涼やかさで包んだ声音に。

「はい。もう勝手に触る事はいたしません」

 わたしは平身低頭して了承を返し再度謝り。
 烏月さんもみんなも受け容れてくれたけど。

『でも、どうも腑に落ちない……わたしに』

 改めて五右衛門風呂に浸かりつつ思い返す。
 わたしは、自分が自分でなかったかの様な。

 お姉ちゃんの、癒しの過剰のせいではない。
 誰かがわたしを、邪視で操った訳でもない。

 わたしは元々維斗に触りたいなんて、思ってなかった。烏月さんの大事な物に、勝手に
触るとか断りもなく手を伸ばすとか。思いつく筈がない。でもわたしは夢心地の無意識に、
あの独特の気配に心惹かれ、誘われる侭に…。

「言っても、しようがないか……でも……」

 お姉ちゃんの癒しの過剰が、わたしの夢現を招いても。その先にわたしの意志がなくば、
わたしはその場で微睡んで終った筈で。わたしを促す何かがなければ、あの様に動くこと
はなかった筈で。無心のわたしのあの動きは。

「未だ落ち込んでいるの、けい?」「わわ」

 突然お風呂場の頭上間近に、ノゾミちゃんの現身が顕れて。わたしの思索を中断させる。

 ノゾミちゃんは、わたしのアパートのお風呂でも、湯に濡れると分っていつもの衣姿で、
わたしが湯に浸かって良い気持の時に顕れて。強引に湯船に割り込み入浴を一緒したがっ
て。素肌を見られるのも、大きくない胸やその他を見られるのも、未だに馴れてなく恥ず
かしいけど。わたしもそんなノゾミちゃんに、今様のお風呂の入り方を教えたり、衣を剥
がしてその細身を洗ったり、髪を濯いだりもして。

「風呂に入って自身をよく見つめれば、けいはもっと他に落ち込む要素があるのではなく
て? 夏と較べて余り進歩のない体型とか」

「の、ノゾミちゃんに言われたくないよっ。

 わたしはまだ成長期だし、お母さんの娘で柚明お姉ちゃんと血の繋った従妹なんだから。
これからもうすぐ、おっきくなる予定なの」

「けいの母ならわたしも拾年前遭っているけど、大きいとは言えなかったわね。ゆめいも
大したことないし、贄の血筋は揃って慎ましやかなのかしら? 観月の娘はおろか、凜や
鬼切り役にも勝つのは至難の業だと思うけど。慰めの友は鬼切りの頭と陽子かしら。でも
鬼切りの頭は今後が、望みのある年頃だし…」

 見て確かめているのでしょ? あなたも。
 言われてわたしはのぼせた以上に赤面し。

 さかき旅館で烏月さんやサクヤさんとお風呂を一緒した時や、学校の宿泊交流でお風呂
を一緒したお凜さんや陽子ちゃん。生命を喪い掛けて素肌で手足を絡ませ合った、柚明お
姉ちゃんを思い出すと。顔から火が出そうで。

「私はあなたが小さい方が、むしろ好みよ」
「それは嬉しいけど……覗き込まないで!」

 ノゾミちゃんが心配してくれていることは分る。これ以上ノゾミちゃんを、形のはっき
り分らない不安で、振り回すのも良くないし。わたしは2人一緒のお風呂に頭を切り換え
て。

 後から思い返せば、気付くべき材料は転がっていた。拾年前の夜からこの夏の経観塚や、
昨夜やこの夕刻に至る迄わたしの傍に様々に。でもわたしはそれを見えて視ず聞いて聞か
ず。

 遂に自力では真相に到る事が叶わないで。
 記憶の内に真実を沈ませた侭夜を迎える。


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 経観塚の夜はテレビもなく静かに涼やかで。

 お風呂から上がって、陽子ちゃんに定時連絡した後。4人で和やかに時を過ごしてから、
いつもよりやや早めに就寝する。今日は午後から山登りで結構疲れたし、明日も朝と夜に
ご神木に行く予定だから。体力は温存したい。自分で紡げない癒しの『力』に頼るのは良
くないし。お姉ちゃんは『力』を注ぐべき人がいる。己のことは出来る限り自力で為す様
に。

 外は丸く大きな月が昇っているけど、夜更けと言うには未だ早い。でも近隣数里に民家
のない日本家屋は、文明の光が瞬いても闇の大海に浮ぶ孤島で。テレビもないので静謐で。
耳に届くは風の音か、枝葉の擦れ合う物音で。

 わたしがそろそろ寝ようかなと言った時。
 柚明お姉ちゃんは、烏月さんにお願いを。

「烏月さん、お願いです……今宵も、桂ちゃんの眠りに寄り添って頂きたいのですけど」

「お姉ちゃん?」「柚明さん」「ゆめい…」

 確かに昨夜はお姉ちゃんもノゾミちゃんも烏月さんも、夜の半ばから悪夢に魘されたわ
たしの眠りに、寄り添ってくれて。朝迄この身に触れてくれて、安心を与えてくれたけど。
でもあんなことは、特に烏月さんにああやって朝迄付き添わせるなんて、特例中の特例で。

 夏の経観塚でさかき旅館の夜、烏月さんはミカゲちゃん達を『魂削り』で撃退した後で
倒れ込み。腕力のないわたしは、烏月さんを自分の部屋の布団に寝かせ、それで寝床を喪
ったわたしはその横に潜り込んで、朝迄同衾したけど。柔らかな肉感が心地良かったけど。
でもそんなことを普通の夜に望むのは流石に。

 早くも顔に血の気の熱が集まる始める中。
 お姉ちゃんは烏月さんにお願いを続けて。

「わたしとノゾミちゃんは、時折桂ちゃんの夜に添っていますし。烏月さんと一つ屋根の
下を夜も一緒出来る貴重な機会です。悪夢を見ない様に、少し『力』を及ぼしますけど」

 お姉ちゃんはわたしが何か言うよりも先に。
 正面から烏月さんに両手を継いで額づいて。

「承知しました。桂さんさえ良ければ、今宵は私が、朝迄桂さんに寄り添いましょう…」

 凛々しい人は、お姉ちゃんの願いを受け止めつつ。わたしの意志の答を欲し。その通り。
これは本当はわたしがお願いするべきことで。耳朶迄赤く染まり行く熱を感じつつわたし
は、

「ふつつか者です、よろしくお願いします」

 わたしは1人様々な妄想に心が躍り出し。
 不埒な女の子と気付かれては大変なので。

 お手洗いを名目にして少しその場を外す。
 身の火照りはお風呂上がりの故ではなく。

 わたしは麗人との夜に一体何を期待して?
 静かに昇り行く月の輝きで体も心も鎮め。

「烏月さん、桂ちゃんを……お願いします」
「任されました……無理は為さらない様に」

 中身は分らないけど、烏月さんとお姉ちゃんのお話しが、丁度納得の末に終った頃合で。

 わたしは涼やかな人と同じ屋根の下、同じ部屋の中、一組しか敷かれてない布団の上で。

 朝迄の秋の夜長を、幸せと共に過ごします。


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 秋の経観塚の3日目は、朝方から雨が滴り。
 悪夢も見なかったし目覚めも良かったけど。
 午前中のご神木行きは、中止せざるを得ず。

「雨に濡れて体を冷やすと、風邪を引くわ」

 お姉ちゃんの心配も分る。修行を経てないわたしは、雨に濡れた獣道を登るのが難しい。

「この降り方では、午後から日が照っても夕方迄に、地面が乾くかどうかは微妙だね…」

 烏月さんに賛同する様に、テーブルの上の青珠も、同感という感じで、蒼く強く輝いて。
天の動きは、人にはどうすることも出来ない。

 わたし達は3人で、屋敷の縁側に座して。
 烏月さんを右隣に、お姉ちゃんを左隣に。

 静かに肩を寄せ合って、秋の長雨を眺め。
 花を手折り枝葉を曲げて雫は垂直に落ち。

 風は殆どなくて、空気は湿って霞が掛り。
 光景は千年変らぬ風情を漂わせ涼やかで。

「明日には、帰っちゃうんだね」「そうね」

 漸くここの生活に馴れて、落ち着いた気がしていたのに。畳のお座敷も、白花ちゃんと
わたしの名前を刻んだ柱も、動かないけれど趣のある柱時計も。やっと馴染んできたのに。
お姉ちゃんから聞いたり思い返せた拾年前の、ここでの日々に、実感が伴い始めてきたの
に。

「ここで明日も明後日も、こうしてみんなで暮らして行ければ……って思っちゃった…」

 烏月さんだけじゃなく、葛ちゃんやサクヤさんや、陽子ちゃんやお凜さんともこうして。
禍や鬼の心配もなくのどかに時を過ごせれば。ノゾミちゃんは鬼でももう悪い鬼じゃない
し。

「そうは行かないって分ってるんだけどね」

「わたしはいつも、桂ちゃんの心にいるわ。
 わたしがいつも桂ちゃんを心に抱く様に」

 お姉ちゃんは柔らかな肌身を触れさせて。
 心に抱けば孤独感を拭うことが出来ると。

「桂ちゃんとわたしが烏月さんを想う様に。
 烏月さんが桂ちゃんを想ってくれる様に」

「うう、烏月さんが、わたしを、想って?」
「そうだね。確かに、強く想っているよ…」

 烏月さんは唯お姉ちゃんに合わせてくれたのか、わたしをのぼせ上がらせ愉しんでいる
のか、それとも本当に? わたしは、わたしは天に昇る程嬉しいけど。一緒に登ったご神
木の山より高く、心が舞い上がっているけど。

「わたしも、嬉しいです……大好きな人…」

 例え中々逢うことが難しくても。鬼切りの定めを負って、普通の庶民であるわたしと簡
単に交わり合えぬ定めを負っていても。わたしの想いは変らない。わたしのたいせつな人。
生命の恩人である以上に、心の支えに力になりたい、凛々しく涼やかに愛しい人。そう言
えば、お父さんも鬼切り役だったお母さんと恋に落ち、その定めを承知して想いを遂げた。

「出逢いが別れの始りなら、別れは出逢いの始りと、夏の経観塚で柚明さんは言っていま
した。私達は訣別する訳ではない、又逢える。逢いたい想いを抱く限りきっと逢えると
…」

 烏月さんはお姉ちゃんの言葉を復唱して。
 左からわたしの首筋を抱き寄せてくれて。

「逢えない間も、愛しい人は心に抱けば胸を温めてくれる。想いを、紡ぎ続けましょう」

 お姉ちゃんはわたし達の絆に微笑み浮べ。

「想いを確かに抱くなら、心は常に温かい」

 手に届かない陽が身を温めてくれる様に。
 手の届かない人がわたしを温めてくれる。

 生きても死んでも、たいせつに想う事は出来る。癒しも励ましも届かなくても、隔てら
れ断ち切られても、わたしが想う事は出来る。微笑みや感謝は望まなくても、その人の想
いを守る事や、その人の大切な物を守る事なら。

『手の届かない人……烏月さんのことの様な、白花ちゃんのことの様な、サクヤさんのこ
との様な、お父さんやお母さんのことの様な』

 そのどれでもあって、全てであるのかも。

「わたしは人の力になる術を持つ今が幸せ。
 身を尽くしたい人がいてくれる今が幸せ」

 従姉の想いは深い上に、広大無辺だから。

 わたし達はもう少し、縁側で3人一緒に秋の長雨を眺めて時を過ごした後。お屋敷の中
で未着手だったお部屋の掃除を始めることに。

 昼過ぎには長雨も上がって日が照り始め。
 わたし達は3人川の字に並んでお昼寝を。

 1人先に起きたお姉ちゃんが、お屋敷の外へ歩み行くのを見て。気付いたらわたしも後
を追っていた。お姉ちゃんはご神木や森の方ではなく、バス停のある車道へ降りて行って。

「……ここ、わたしも来たことがある……」


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 拾年前以前の記憶が朧に残っていた。経観塚に住んでいた頃に通っていた田舎の小学校。
わたしは拾年前の夏の時点で満6歳の小学1年生で。拾年前のあの夜を迎える迄、数ヶ月
この小学校に通っていた。その頃はずっと経観塚で、みんなで暮らして行くのだと疑わず。

 都会の学校を見慣れたわたしには、決して大きいと言えない校舎や体育館。土地代が安
い為か、不相応な程に広いグラウンド。でも休日のせいか、学校に人の気配や物音はなく。

 お姉ちゃんはその侭校舎に入り。誰にも断った様子はないけど、卒業生は関係者だから
良いのかな。ならわたしも元在校生で関係者だ。生徒玄関に置かれたお姉ちゃんの外靴に、
勇気づけられてわたしも廊下をそろそろ進み。

『建物に入ると見通しが狭まって……お姉ちゃんを見失ったかも。ノゾミちゃんにしつこ
くお願いして、来てもらえば良かったかな』

 青珠付きの携帯を持ち歩くのは習慣なので。お姉ちゃんを追う時に触れたけど、ノゾミ
ちゃんは虫の居所が悪いのか、ぴりっと拒否の感触を。尋ねたり説得していると見失いそ
うなので、経観塚は安全と思い直して走り出し。

 だから今初めて、お姉ちゃんを見失うとわたしは地理不案内な異境で、独りだと気付き。

 昼間だけど学校は休日の故か、生徒も先生も1人もおらず。というより生徒用の靴箱に、
上靴が一つも入ってない。この学校はまさか。

「廊下の風景は、見覚えがあるんだけど…」

 人の気配が全くないのが、昼でも明るくても心細く。お姉ちゃんでなくても、子供でも
誰か居れば随分違うんだけど。今更引き返す気にもなれず、お姉ちゃんを求めて前へ行く。

『……静かすぎて、声を出しづらいよね…』

 お姉ちゃんの足音でも聞えればいいのに。
 無風で風の音もないのが不安を増します。

 校舎の廊下を歩むけど、休日だから誰もいないのか、通う人のいない学校なのか。何と
なく次第に後者の様な気がしてきて。人気のない田舎の廃校なんて、恐怖漫画の素材だよ。

 廊下前方に尋ね人が見えないと言うことは。
 曲り角を曲がったか、脇の部屋に入ったか。

 無人であることを確かめる感じでわたしは。
 一つ一つの教室の前で足を止めて覗き込み。

 教室はしばらく使われた気配もなく。わたしは関知や感応の『力』がないから、断言は
出来ないけど。そう言えば、夏の経観塚からわたしは『何となく感じる』ことが多い気が。

 登下校時に霊の欠片に目を留めて、ノゾミちゃんに尋ねられ、視てもらって『大したこ
とないわよ、あんなの』と言われたり。お凜さんに気付かれ『羽藤さんもお気づきになり
ました? 危険はないと思いますけど』とか。

 確かに視えるとか、声が聞えるとか言う訳ではないのだけど。お姉ちゃんが『素養を眠
らせている』というのは、こういうことかな。夏の経観塚以降、いつもではないけど、通
常ではない心霊絡みのモノに、心惹かれる様に。そう言う感覚がなくても。生命と想いを
分け合ったたいせつな人の存在は、悟れたけど…。

 わたしの求め人は3年生4年生合同教室で。
 数個のイスと机があるだけの閑散たる中で。

 そのイスの一つに独り腰掛けて黒板を眺め。
 艶やかな蒼髪を日に照されつつ静かに佇み。

「いらっしゃい、桂ちゃん。羽様小学校へ」

 わたしを穏やかな声で室内に招いてくれた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「羽様小学校は明治の学制公布の折に、羽藤の援助で建てられ寄付された経緯があるの」

 柚明お姉ちゃんは長く経観塚で暮らしてきたので。羽藤の過去を大昔から最近迄熟知で。
わたしを室内に招き入れてくれて、笑子おばあちゃんもお父さんも、お姉ちゃんのお母さ
んもお姉ちゃん自身もお友達と通ったのよと。日の照す窓の外を、もっと遠くを眺める瞳
で。

「桂ちゃんも白花ちゃんと、3ヶ月と少し」
「通っていたんだね。少し思い出せてきた」

「夏の経観塚で戦いが全て終った後、桂ちゃんやサクヤさん達の療養に、暫く留まり続け
た間。わたしは一度ここを訪ねたのだけど」

 お姉ちゃんは席を立ってわたしに寄り添い。
 わたしの今迄の心細さを埋め合わせる様に。

「廃校になった事実は、オハシラ様として羽様に居続けていたから分っていたけど。実際、
人の気配もない校舎が残された様を見るのは、何とも言えない淋しさがあるわね」「…
…」

 全ての戦いが終った後で一度だけ、ご神木じゃない方向から、車道側から帰着したサク
ヤさんとお姉ちゃんの2人を、お屋敷で出迎えたことを思い出す。あの時は、お姉ちゃん
がご神木以外の処から帰って来たのが珍しく、未だ傷が痛む筈のサクヤさんの遠出も驚き
で。

「廃校ってことは、もう誰も通ってない?」
「3年前、わたしが死亡認定をされた頃に」

 お姉ちゃんは行方不明の侭、死亡認定されて一度は戸籍から削除された。廃校とは直接
関係ないと思うけど、世間との関りが徐々に断たれ行く感覚を、味わっていたに違いない。

 わたしにも忘れられた侭、誰の助けも望めない中、いつ終るとも知れぬオハシラ様に身
を捧げ。否、鬼神を封じて還すなんてことは、限りある人の身には未来永劫を意味してい
て。

「わたしは元々、羽様の外に嫁いだお母さんから生れたから。ここの育ちではなくて…」

『伯父さんと伯母さんは、お姉ちゃんがまだ小さかった頃に亡くなっている。伯母さんは
経観塚を離れてお嫁に行った人だから、贄の血を狙った鬼に襲われたという可能性も考え
られなくはない。今にして思えば。

 そして柚明お姉ちゃんは、お祖母ちゃんに引き取られてこのお屋敷で暮らす事になった。
それはまだ、お父さんとお母さんが結婚するよりも前のこと。ずっとずっと前のこと…』

「両親を喪って笑子おばあさんに引き取られ、羽様小学校に転入したのは。桂ちゃんと白
花ちゃんが生れる前年、小学3年生の2学期で。己が招いた禍への罪悪感と、たいせつな
人を喪った喪失感に、幼い心が押し潰されそうで。サクヤさんに頬を叩かれ、笑子おばあ
さんに諭されて、漸く生きる事を了承したけど…」

 わたしは生きる値打も感じ取れずにいた。
 わたしは生きる目的も探し出せずにいた。

 唯いるだけで、唯動くだけで、何を考えて良いのかも分らず、毎日が過ぎゆくだけで…、

 その心境はわたしも憶えがあった。否、正にわたしにこそ。取り返しの付かない過ちで、
羽藤の家の幸せを絶ってしまったわたしこそ。

 この人も同じ絶望の淵にいたのだろうか。
 これ程賢く強く優しい人にも暗闇の繭が。
 そんな想いに駆られ耽っていた時だった。

「わたしに望みをくれたのは桂ちゃん達よ。
 わたしを生かしたのはあなた達双子なの」

 ゆっくり静かに、でもこれ以上なく確かに。
 柚明お姉ちゃんは想い出を今に直結させて。

「桂ちゃんが生れる迄この闇は拭えなかった。
 桂ちゃんの笑みがこの心を甦らせてくれた。
 わたしに生きる意味と喜びを与えてくれた。

 わたしは暖かでふよふよした2つの生命を、新しい息吹に途方もない嬉しさを感じた
の」

 生命とはこれ程愛らしい物だったのかと。
 生命とはここ迄守りたい物だったのかと。

「愛らしさは無限大だった。愛しさは無尽蔵だった。この気持は無条件だった。わたしは、
この微笑みを曇らせない。この笑顔を泣かせない。この喜びの為に尽くしたい。この生命
に迫る、この世の全ての危険から守りたい」

 わたしの身を、正面から軽く抱き寄せて。

「誰かに尽くせる人にって言うのはお父さんの口癖だったの。誰かの役に立てる人に、誰
かの力になれる人にって。お母さんはわたしに生きて幸せになってと。でも、わたしには
そんな人はいなかった。尽くしたい人はいたけれど、わたしがいても足を引っ張るだけで。
わたしは生きる値も己の幸せも自力で見つけられず。ずっと禍の子で、役立たずの子で」

 桂ちゃん達が、わたしをわたし自身の闇から救い出してくれた。希望を灯してくれたの。
あなたがいなければわたしの今はあり得ない。わたしがこの先の全てを桂ちゃんに捧げて
も、それで漸く釣り合う位に、あなたが愛しい…。

 お姉ちゃんが、廃校になった羽様小学校を再び訪れたのは。わたしを招いてくれたのは。
自身の想い出に浸りたかった以上に、わたしに伝えたかったのだ。その胸に抱いた想いを。

「大切なだけじゃなく特別な人。
 特別なだけじゃなく一番の人。
 この世に唯1人と、思える人」

 わたしにとって、それはあなた達2人よ。
 西日の差す教室でわたしは強く抱かれて。

「桂ちゃん、白花ちゃん。あなた達が一番」

 この侭唇を奪われても良いと思えた。求められたら捧ぐ積りだった。望まれればその更
に先だって、この綺麗な従姉になら。わたしの為に傷み哀しみを負い続けたこの人になら。

 でもその柔らかな頬はこの頬に触れるだけ。
 唇はわたしの間近でこの唇に決して触れず。

 情愛は強く深くまっすぐでも慟哭に彩られ。
 涙は流さないけどその瞳は溢れそうに潤み。

「ごめんなさい……わたしが、拾年前に…」

 拾年前わたしがあなたに、添ってあげられなくて。あなたの心を支えてあげられなくて。

 こうして自身の過去の暗闇を、思い返せば。
 どうやってそこを脱せられたか振り返れば。
 何をしてあげるべきだったかは明白だった。

「わたしが心の太陽に出来た人を、桂ちゃんは持てなかった。記憶を鎖さなければ正気を
保てなかった。それは桂ちゃんの所為でも何でもない。そう言う状況しか用意出来なかっ
たわたし達大人が、力不足だっただけなの」

 こうして小学校の想い出に浸ると。桂ちゃんがどれ程わたしの支えだったかが、改めて
分るわ。なのにわたしは、一番たいせつな人の最も辛く哀しい時に、寄り添って心支える
事も叶わず、その欠乏を拾年補う事も出来ず。わたしの受けた分を返すのにも遙かに及ば
ず。

「それは、お姉ちゃんがわたしのせいでオハシラ様になっちゃった為で、お姉ちゃんのせ
いでじゃない。お姉ちゃんは悪くないよ…」

 でもわたしの想いをこの人は全て分って。

「許してとは望まない。唯、これ以上その優しい心に全ての罪を背負うのは止めて。あな
たは何も悪くないわ。唯一生懸命生きただけ。その心に痛み苦しみを強いたのはわたし
…」

 そしてもしこの想いに報いを望めるなら。
 仮に桂ちゃんが何かを返してくれるなら。

「憂いのない満面の笑みが、わたしの願い」

 この人は本当にわたしを支えに生きている。
 わたしがこの人を支えに生きている以上に。

 百万言を返すより、謝罪より己の笑顔が従姉の心を照す。そうであるならわたしの答は。

 夕日の暖かさを遙かに凌ぐ人肌の温もりが。
 わたしに今日を生きる気力を刻んでくれた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「お姉ちゃんに、お願いがあるんだけど…」

 出立前にわたしがお姉ちゃんに望んだのは。
 お兄ちゃんと2人きりでお話しをしたいと。

 わたしはご神木に、触れる事ができないし。
 感応も使えず、お兄ちゃんの心を読めない。

 お兄ちゃんも感応が得手とは言えない様で。
 現身で顕れる事も想いを伝える事も叶わず。

「内緒話なんて無意味でしょうに。私もゆめいも、あなたの夢に入り込める。その気にな
ればいつでも無意識の奥も覗ける。けいは唯でも顔を見れば内心が概ね悟れる様な娘だし。
それを分って隠したがる意味が分らないわ」

 ノゾミちゃんは、自身がのけ者にされると思ったのかな。現身で浮いた侭、戸口の方へ。

「ノゾミちゃん?」「ちょっと涼んでくるわ。今宵は素晴らしい望月だし。どうせけいは
内緒話だから、私は一緒できないのでしょ?」

 止める暇もなく屋敷の外へと消えてしまう。
 羽様は昼でも人の寄り付かない僻地だけど。

 夜のノゾミちゃんに心配はないと思うけど。
 そんなわたしに語りかけ慰めてくれたのは。

「大丈夫。ノゾミちゃんは、少し拗ねているけど、強く怒ってはいないわ。桂ちゃんと誰
かの胸の内にだけ、秘めておきたい話しもあると分っている。その誰かに今回自身がなれ
なかったのは、残念だと想っているけど…」

 今宵は中秋の名月。日中の長雨で空気も清められて、空は雲一つない星空と月夜だから。
桂ちゃんと添い遂げられないなら、1人出歩くのも悪くない、と想えてくる程の夜だもの。

 言われてわたしも窓から大きな月を見上げ。
 本当今宵の月は大きくて人を吸い込みそう。

「確かに、本気で怒ったって言うより、それを口実に出て行った様な感じもあったけど」

「町と違って近隣に人がいないから、現身を見られる心配もなく夜歩きできる。ノゾミも
羽を伸ばせる気分でいるのかも知れないね」

 烏月さんの言葉にわたしも頷く。特に少し前迄は、報道の人ややくざさんがアパートに、
24時間張り込んで。迂闊に現身を取って、室内を撮影されたら拙い状況だった。自由を好
むノゾミちゃんが、夜も人の視線を気にして、自在に現身を取れない状態は、辛かった筈
だ。

 最近は記者さんもやくざさんも引き上げたけど。それでも都会はある程度人目を気にせ
ねばならない。人の世に馴染んで一緒に生きて行く為に、仕方のない話しだけど。隣家ま
で数キロを隔てて人のいない経観塚なら、ノゾミちゃんももう少し自由に暮らせるのかな。

「桂ちゃんがご神木から帰る迄、ノゾミちゃんも月明りの元で夜を過ごす積りでいるわ」

 好奇心の塊だから、傍にいれば耳を欹ててしまうと。自身の性向を分るノゾミちゃんは、
わたしの願いを気遣って暫く遠ざかったのと。お姉ちゃんにそう明かされて、わたしもや
っと得心が行った。ノゾミちゃんが怒った様な印象を残して行ったのは、一種の照れ隠し
か。

「わたしはできるだけ、視たり聞いたりしてしまう事のない様に努めるわね」「うん…」

 お姉ちゃんの言葉に疑いは不要だ。大体疑っても、読まれているなら意味がないのだし。
わたしの愛しい人は見え透いた嘘は言わない。口に出せば必ずその通りする様に努める人
だ。

 烏月さんも興味深そうに視線を向ける中。

 お姉ちゃんは少し考え込んで、懐から青珠程の大きさのガラス玉を一つ取り出して見せ。

「青珠に何かあった時の為に『力』を注いで呪物にしたの。桂ちゃんの身から漏れ出る僅
かな『力』を受けて、血の匂いを隠す様に」

 数日程度持つ、青珠の代用品と言う処か。
 青珠に似た不可思議な気配に心惹かれた。

「これに桂ちゃんの血を付け、烏月さんの手でご神木に触れさせて貰って。わたしの補助
に桂ちゃんの濃い贄の血を加える事で、白花ちゃんも現身を取れる。わたしは離れた処で
『心を鎖して』お話しの終りを待っているわ。

 桂ちゃんの身を傷つける事は望まないのだけど、今の白花ちゃんはそうでもしなければ、
満月の夜でも希薄な現身さえ取れないから」

 お姉ちゃんがわたしに応えた後で、烏月さんを向いたのは。維斗でわたしの指先を切っ
てと願う為で。カッター等で自身で切っても良いのだけど。わたしは素人だから手元が狂
って傷が大きくなる怖れがあると。刃物を適正に扱える人に、最小限の傷を穿つ事を頼み。

 ご神木の側面はわたしも気にしていたけど。
 ミカゲちゃんの怨念は見る影もない程薄く。

 お姉ちゃんは昨夜もちょうちょをご神木に、多数差し向けていたに違いない。それが鬼
の怨念を滅ぼしたのか、助けを得たお兄ちゃんが鬼の怨念を還したのか。わたしを独りに
しても大丈夫な様に。お姉ちゃんは用意周到だ。

「桂ちゃんのこと、お願いします」
「任されました」

 ご神木の前に着いてから、柚明お姉ちゃんは烏月さんに頭を下げ、元来た闇に歩み去り。
時折2人の絆はわたしとの絆より強く見える。

『わたしと白花ちゃんを2人きりにするお約束はともかく、お姉ちゃんもお兄ちゃんが顕
れるのを待って、少し位逢っても良いのに』

 本当に現身を取れる時間に余裕ないのかな。
 わたしは維斗を抜いた烏月さんと向き合い。

「桂さん、力を抜いて」「うん」

 満月の輝きを帯びて息づくご神木の間近で。
 蒼光を照り返した刃が右手薬指を軽く切り。

 滴る贄の血を、蒼いガラス玉に塗りつけて。
 その間近さにドキドキする鼓動を抑え込み。

 烏月さんがガラス玉でご神木の幹に触ると。
 幹に吸い付いた様にガラス玉は落ちてこず。

 ご神木の輝きが、更に増した様な気がした。
 幹の息遣いが、更に生々しく躍動する様な。

「私はぎりぎり声の届かない範囲にいるから、話しが終ったら大声で呼んで欲しい。でき
るだけ兄妹水入らずの話しに、分け入る事はしない積りだけど。余り長くなる様だった
ら」

 様子を窺いに、来てしまうかも知れない。

「うん……ありがとう」「では、少し後に」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 柚明お姉ちゃんのオハシラ様が、ちょうちょを連れた幻想的な衣姿だったから。封じの
要を継いだ白花ちゃんは、どんな姿で顕れるのか。少しだけ気になっていたわたしだけど。

「……やぁ。余り期待に添えなかったかな」

 白花ちゃんは、心霊番組の再現ドラマに良くある半透明に透けた体で。体には衣を何も
纏わず。裸を見てしまう羞恥が生じないのは、その存在感が余りに希薄で現実感がない為
で。

 さかき旅館に顕れたわたしの血を呑む前の『ユメイさん』より遙かに薄い。今にも消え
てしまいそうな程、その色合も薄く透き通り。

「未だご神木に憑いて二月だから。ゆーねぇは拾年ご神木に依り続け、しっかり根付いて、
ご神木の『力』を横取りして現身を取れたけど。僕は新米過ぎてとてもそこ迄は、ね…」

 お姉ちゃんの衣は、実は主から贈られた物だそうです。お姉ちゃんも当初は力に欠乏し、
服を作る余力もなく。敵なのに見かねた主が、自分の敵に相応しい身なりを求めてお仕着
せしたとか。生地や色合やサイズを憶えたお姉ちゃんは、夜になればいつでもあの衣を作
れる様だけど。あの衣が主の趣味と思うと複雑で。わたしは好ましかっただけに。お姉ち
ゃんも嫌ってないだけに。わたし主に嫉妬を?

「うん……でも、出てきてくれて良かった」

 顔だけ少し色彩が濃くて、お兄ちゃんと分るけど。そうでなければ気配で分るしかなく。
わたしは霊感もなく、武道の達人でもないし。でも、双子の近しさか、夏以降の変化の故
か。わたしは朧でも白花ちゃんを、感じて怯えず。

「わたし、お兄ちゃんにお願いがあるの…」

 時間に余り余裕がないことは見えて分った。
 だからわたしも躊躇いや迷いは振り切って。

「もう出来るだけ、羽様にお姉ちゃんを来させない様にして……お姉ちゃんを過去に縛り
付けない様に。ご神木に呼び招かないで!」

 白花ちゃんを大事に想う柚明お姉ちゃんの前では、これは絶対言えない。告げられない。
お姉ちゃんを大事に想う白花ちゃんに、これを告げる自体が、相当酷いことではあるけど。

 でもわたしは言わなければならなかった。
 それがわたしのエゴに取られるとしても。

「もう柚明お姉ちゃんに傷み哀しみは負わせたくない。悩みや不安や、負担や疲労は負わ
せたくない。お姉ちゃんには平穏な人の世で、伸びやかに生きて笑って欲しい。その為
に」

 白花お兄ちゃんが、人に気易く助けを求める様な、弱い人じゃないことは分っているよ。
でも、お姉ちゃんは白花ちゃんをいつも気に掛けている。わたしと並んで一番たいせつに
想っている。生命を絞ってご神木に『力』を注ごうとする。望んで好んで自身を削ろうと。

 お姉ちゃんはもしかしたら、もう一度オハシラ様を代ろうと思っているのかも知れない。

『お姉ちゃんをもう一度喪うのは絶対イヤ』

 その為に白花ちゃんにオハシラ様を担わせる末を招いても。双子の片割れに辛く哀しい
定めを強いても。わたしの非道は分っている。わたしのせいで始ったことで、咎のない白
花ちゃんが苦難を負う。その罪深さを承知して、わたしは再びお姉ちゃんを喪うことは絶
対に。相手が神でも鬼でも、双子のお兄ちゃんでも。

「出来るだけお姉ちゃんの助けは受けないで。
 お姉ちゃんが触れようとしたら弾き返して。

 お姉ちゃんに近付かず早く帰る様に促して。
 余り頻繁に経観塚には来ない様に伝えて」

 わたしは正真正銘の人でなしだ。それでも。

「わたしがお姉ちゃんと一緒に暮らしたいからじゃないよ。結果そうなるし、わたしもそ
れを望んでない訳じゃないけど。お姉ちゃんにのどかに平穏な日々を過ごしてもらうには、
鬼神の封じとの繋りを絶って、遠ざける必要があるの。そうしないとお姉ちゃんは必ず」

 拾年前以前を思い出せたわたしは、柚明お姉ちゃんがどれ程自身を削って、他人に尽く
してきたかも思い出せた。あの人は甘く優しく愛深すぎて。特にわたし達双子は濃い贄の
血の故か、幼い頃から妙に多くの危難に遭い。お姉ちゃんはその度に自ら危難に踏み込ん
で。

 拾年前の夜が、全ての始りではなかった。

 あれは行き着いた結果に過ぎず、始りは。
 実はわたし達が生れたことにあるのかも。

 今はゆっくり考えている余裕はないけど。

「お姉ちゃんは、災いの元に関ってはいけない人なの。関れば関る程深入りしてしまう」

 優しさが危難の中心にお姉ちゃんを導く。

 阻むには防ぐには、そうさせない為には。
 近づけず繋らせず触れさせず交わらせず。

 今羽藤が抱える最も大きな災難の要素は。

「鬼神が宿るこのご神木、と言う訳だね?」

 白花ちゃんの涼やかな声にわたしは頷く。

 お姉ちゃんの代りに封じの要を引き受けた。
 大事なお兄ちゃんに言えることではないと。

 分ってわたしは敢て求める……望み欲する。
 わたしは、自分勝手でも極悪非道でも良い。

 この願いが従姉の不幸せを絶つと信じて。

「お姉ちゃんの『力』以外にも、ご神木やお兄ちゃんを助ける方法はきっとある。葛ちゃ
んや烏月さんに尋ねれば、答は出ると想う」

 柚明お姉ちゃんが心の支えのお兄ちゃんには、申し訳ない話しだけど。酷い話しだけど。

「これ以上お姉ちゃんに、辛い想いをさせたくない。傷み哀しみや悩み苦しみに触れさせ
たくない。あの人は辛い想いをしている人を捨てておけないから。踏み込んでしまうから。
無理をさせない為には遠ざけるしか方法が」

 わたしも血の『力』の扱いを習って、お兄ちゃんやご神木を助けられる様になる。強く
なるよ。そうなる迄の間でも、わたしの贄の血をいっぱい注ぐから。そしてゆくゆくは…。

「わたしがオハシラ様を継いでも良いから」

 わたしの愛しい人にはもう二度と、厳しい定めが巡り来ない様に。切り離したいのっ!

 それが白花ちゃんにどれ程負担を強いるか、わたしは分って。お姉ちゃんに人の世の安
息を提供出来るのは、今の処わたしのアパートだけだ。これはお姉ちゃんを愛するわたし
に、一方的な利益に映る。でもそれはわたしの為ではなく、柚明お姉ちゃんの為に。わた
しの為に人生を抛った優しい従姉へのせめてもの。

 わたし自身の望みには、振り回されない。
 わたしは、愛しい女の子の微笑みの為に。

 でもその為に、愛しい人の微笑みの為にわたしは双子の片割れに、大事なお兄ちゃんに、
いつ終るとも知れぬオハシラ様を任せ、その最愛の人との交わりを絶つことを欲し。心底
わたしは酷い人間だと、自己嫌悪に陥りつつ。

「お願い! わたしの我が侭を聞き届けて」

 深々頭を下げたのは、視線を合わせられないから。お姉ちゃんを助けてくれて、わたし
を何度も救ってくれた、優しいお兄ちゃんに。後ろめたさと申し訳なさに身の竦むわたし
に、

「愛の盲目には、叶わないね」

 白花ちゃんの了承の答は実にあっさりと。

 どんな難詰や叱責が、返るかと想っていたのに。白花ちゃんは平静に涼やかに、やや困
った感じで。渋々という感じでさえなかった。わたしの我が侭を愛でる様に気配も穏やか
で。

「まず、桂に余計な気遣いをさせてごめん。

 僕は元々桂に言われなくても、そうしようと想っていたし、そう努めていた積りなんだ
けど。力不足でゆーねぇの心配を招く今になってしまった。それで桂も心配させて。でも。

 大丈夫、封じの要はこなせつつあるから」

 白花ちゃんも柚明お姉ちゃんに、負荷を掛けたくない想いは同じで。出来るだけご神木
には来て欲しくないと。嬉しいけど、心の力になるけど。それでお姉ちゃんがお兄ちゃん
を助けようとして、無理したり身を削る姿は見たくないと。近付かないで欲しいと。でも。

「ゆーねぇも、強情な羽藤の血筋だから…」

 白花ちゃんの求めや促しは、中々聞いて貰えないのだと、苦笑いを。きっと一昨日羽様
を訪れた時から、2人はそう言うやり取りを、余人に気付かれず続けていた。そうと分る
と、2人の絆の強さがわたしもしみじみ実感され。

「ちょっと羨ましい」「ははは、ごめん…」

 少し拗ねてみせると、お兄ちゃんは苦笑い。わたしがのけ者になった気分は、さっきの
ノゾミちゃんに近いのかな。お兄ちゃんや柚明お姉ちゃんに、悪意などないという情景迄
も。

「僕は桂の願いがなくても、ゆーねぇに平穏な人の世で、幸せに暮らして欲しい。僕が未
だに力不足で、ゆーねぇの心配を招いているけど、馴れていけば何とかなる。僕の事なん
か忘れて幸せを手に入れて欲しい……桂も」

 辛い願いを口にさせてごめん。もう少し早く僕がもっと強くなっていれば、桂に辛い哀
しみを負わせることはなかったのに。母さんにも無理させず、ゆーねぇを取り返せたのに

 そこで白花ちゃんの現身が一度揺らいで。
 もう限界なのか。未だ月は天に高いのに。

 雲に隠れる様子もなく、蒼光は眩いのに。
 その存在感がどんどん薄れ行くのが分る。

「だから、僕は僕の想いで、ゆーねぇにご神木への助力は止めて欲しいし、触れても欲し
くない。近付いても欲しくなく、経観塚にも来て貰いたくないと。何度か告げたし、これ
からも。だから桂は自分を責める必要はない。これは、僕が既にやっている事なんだか
ら」

 唯、そこに桂の想いを重ね合わせ。もっと強くゆーねぇに向けて。この意志を表すよ…。

 わたし達は同じ事を考えていた。愛しい柚明お姉ちゃんの、微笑みを願うという一点を。

「唯、桂の願いを受ける以上、僕も桂に願いを出して良いかな。交換条件と言うことで」

 白花ちゃんは爽やかな笑みを保った侭で。

「ゆーねぇの心を支えてあげて。それはご神木に宿り続ける僕には、叶わない事だから」

 僕の一番たいせつな人。幼い頃から慕い続けた最愛のひと。恋し愛し憧れた綺麗な従姉。

 白花ちゃんは万感の籠もる視線を遠くに。

「ゆーねぇはとてつもなく心強いけど、絶対折れない人だけど。折れないからこそ折れる
人より、深く傷を負う事も疲れ果てる事もある。心壊れてしまえば、泣き喚いてしまえば、
楽になれる処を。誰かを守り庇う為に心を抉られても退かず、敵意や悪意に対し続けて」

 ゆーねぇの心の太陽は僕と君だって。君と僕が生きて微笑むことが、ゆーねぇの生きる
意味だって。だから僕は己自身を鬼に渡せなかった。体を主に奪われた侭、己も失ってい
れば、痛みも哀しみもなくなったけど。ゆーねぇはそれを望まない、僕が僕であることを
願っていると、明良さんが教えてくれたから。

「僕は目的の半分は果たせたよ。ゆーねぇをオハシラ様から解き放ち、その禍の元を絶つ。
禍の元とは未だ付き合うから、僕は桂やゆーねぇと、人の生を謳歌する事は出来ないけど。

 だから桂に頼みたい。人の世間でゆーねぇの傍で、長閑に楽しく笑って過ごして、僕の
最愛の人の心を照して欲しい。僕たちは、ゆーねぇと違って血が濃い以上に、2人なんだ。
片手間に鬼神を抑え、もう片方で愛しい人の心を支えられる。賢い役割分担だろう…?」

「役割分担ってお兄ちゃん、辛いと楽の分担だよ。天国と地獄の分担だよ。わたししばら
くお兄ちゃんに、何の助けも出来ないのに」

「桂。僕は桂の助けを受ける積りもないよ」

 僕は僕でこっちをしっかり受け持つから。
 桂は桂でゆーねぇに全身全霊向き合って。

「ゆーねぇは、僕の助けの片手間に相手できる様な女の子じゃない。それは桂こそが、そ
の肌身でよく分っている筈だと、想うけど」

「確かに、柚明お姉ちゃんの愛に包まれると、わたしも体当たりでないと負けちゃう様
な」

 白花ちゃんは笑みを浮べつつやや苦しげに。

「こっちは男同士で話しを付けるから。桂は桂で、思い残しのない様に、幸せな日々を」

 もう少し語らいたかったけど。夜通し語り合っても時間は足りない位だけど。懐かしさ
と愛しさは胸を締め付けたけど。白花ちゃんは満月の元で、わたしの贄の血を付けてお姉
ちゃんの『力』を受けても尚、現身を取り続けるのは限界に近く。その形が崩れ薄れて…。

「ゆーねぇを、頼むよ。僕のたいせつな桂。
 そして、桂も長閑に元気で幸せな人生を」

 白花ちゃんの現身は消えてしまったけど。
 ご神木が宿した想いはもう悟れないけど。

『逢えない間も愛しい人は、心に抱けば胸を温めてくれる』との柚明お姉ちゃんの言葉が、
静かに清らかな月明りと一緒に、心に染みた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしを呼ぶ声……。

 わたしを呼ぶ声が聞える。

 それはどこから聞える誰の声?

 わたしは今、わたしを呼ぶ声に導かれ、入っちゃいけないと言われた蔵に、2人で来て
いる……幼い兄弟、白花お兄ちゃんと一緒に。

「本当に入るの?」白花ちゃんの躊躇う声に。

「入るよ。おくらの中には、きっと宝物がいっぱいあるんだよ」わたしは興味津々でいて。

『わたしの内側の何かが引っ張られている』

 ノゾミちゃんに手を引かれた夜より前から。
 化外の物の独特の気配にわたしは心惹かれ。

【好奇心を抑えるな。化外の物に興味抱け】

 禁じられずとも人の寄り付かぬ蔵や山奥へ。
 禁じられても幼いわたしは夜に進み出して。

『ここ、子供が来たら駄目だって。勝手に入ったらバチ当たるって……でも気になって』

 こっそり鍵を持ち出して、顔を真っ赤にしながら2人で重い扉を開き、蔵の中に入った。

 蔵の中には箱があった。

 箱の中には何かが入っていた。

 見えているのはほんの一部分だけだったけど、それが宝物だと言うことは一目で分った。

【歩み出せ。近付いて良く覗き、手で触れ】

 どうして一部分しか見えないのかというと、へんな紙がぺたぺた貼られていたから。へ
んな紙には、筆と墨とで書いた様な文字がびっしり並んでいた。ひらがなやカタカナだけ
じゃなく、漢字もたくさん読めて偉いねと、幼稚園の先生に褒められた事があるわたしに
も、全然読めない。読めないのはきっと字が汚すぎるせい。蛇がぐにゃぐにゃ踊った跡の
様な、きちんとしてない『読めない字』なんだもの。

【興味の侭に、好奇の侭に。己を抑えるな】

「こんなの剥がしちゃおう」

「いいのかな……」

「大丈夫。いいから剥がしちゃおう」

 後でちゃんと戻しておける様に、綺麗に剥がそうとしたけど、びりっと破れてしまった。

「あーあ、知らないよ」

 もういいや。気にせずにびりびりと破る。

「あいたっ」

 指の先に、痛みを感じた。とげが刺さってしまったのか、紙の端で切ってしまったのか。

「バチが当たったんだよ」

 わたしは構わず紙を剥がしていった。さっきより乱暴に、びりびりびりびり破いていく。

「わ、きれい……」

 出てきたのは、ピカピカ光る金属製の円盤だった。わたしは、それが何だか知っていた。

【化外の物は面白いぞ。深く関るが良い…】

「これは、ずっと昔の鏡だよ」

 鏡を覗き込むと、ぼんやりわたしの顔が映った。綺麗だけど、ちゃんと映らないのでダ
メな鏡だと思った。

「あ、そうだ」汚れているだけかも知れないので、服の裾でごしごしとこする。

「はぁ……」冬に窓ガラスを曇らせて遊ぶ様に、息を吹きかけながらこすっていると。

「ふふふふふふ……」

 知らない女の子の声がした。きょろきょろとあたりを見回しても、女の子なんていない。

「だ、だあれ?」「わたしは、ノゾミ……」

 わたし達とノゾミちゃんやミカゲちゃんの、拾年前の夜の出逢い。でもあの日はお母さ
んが午後に体調を崩して倒れ。お姉ちゃんが肌身を添わせ癒しを注ぎ。夜にようやく起き
られたけど……危うい状態は幼心に分った筈で。

『そもそもどうして、わたしは拾年前の夜』

 お母さんが倒れて間もない時に蔵に行く。
 普通の子供はそんな行動を取るだろうか?

『ノゾミちゃんがわたしを呼べた筈はない』

 良月はあの時も尚封じの札に巻かれていて。
 わたしの贄の血が付いてやっと声を出せた。
 わたしは誰に何に呼ばれて蔵に行ったのか。

『森で遊んでいた幼いわたしも、道に迷い』

 あの夜より前にもわたしはご神木を訪れて。
 それは実は偶然の様に見えて偶然ではなく。
 佇む幼い白花ちゃんとわたしを留めたのは。

【桂ちゃん、白花ちゃん。近付いてはダメ】

 わたしはお姉ちゃんの発した化外の『力』に心惹かれ、目前のご神木の化外の気配との
間で迷って、少しの間躊躇して助けを待てた。

 今のわたしの様に幼いわたしも、無自覚に。
 幼いわたしの様に今のわたしも、夢心地で。

 夢の情景は脈絡もなく、一瞬で赤く変貌し。

 しみが広がっている。
 しみが広がっていく。

 赤く歪んだ世界の中で、雫の滴る音に誘われ、しみがどんどん広がっていく。両の頬を
伝った雫が、顎で交わり滴り落ちた。

 なぜかわたしは泣いていた。
 ゆがむゆがむ、世界が歪む。
 泣いているから、歪むのか。

 このたくさんの、しみはわたしの……。
 どうしてこんなに泣いているんだろう。

 しみが広がる。

 だけどだけど、涙だけで、こんなにしみは広がるだろうか。まるで水溜まりの様に、夜
空に浮かぶ月を移して……。

 赤い、赤い……。赤い風景が、視える……。
 十年前……失われた記憶……途切れた糸…。

 糸が繋る。記憶が繋る。これは前にも見た夢だ。けど前より鮮明な夢。取り戻せた記憶。

 お父さんの掌が、わたしの両肩を包んだ。

 お父さんのお腹から噴き出す血飛沫が、びしゃびしゃとわたしにかかる。

 お父さんのお腹には大きな穴が開いている。

 お父さんの体は、もう持たない。
 この傷が原因で、死んでしまう。

『わたし、ダメって言われた蔵に入ったことを怒られたくなくて、ノゾミちゃんにそれを
願って。そうしたら本当に、お父さんは怒る事がなくなった……笑う事も。わたしが!』

 真相を全て思い出せてしまったわたし故に。
 真実こそがこの世で最も残酷で辛いことも。

『お父さんを殺めたのは、わたしじゃない。
 お父さんを殺めたのは、お兄ちゃんだよ』

 でも……でもそもそもわたしが、あの夜に。
 蔵へお兄ちゃんを連れて行かなかったなら。

 白花ちゃんに主の分霊が取り憑く事はなく。
 誰1人欠ける事なくみんな今も幸せだった。

 どうしてわたしはあの夜、蔵に行ったのか。
 わたしを呼ぶ者なんていなかった筈なのに。

『入るよ。おくらの中には、きっと宝物がいっぱいあるんだよ』【わたしは何かいいもの
があるに違いないと、脈絡もなく信じ込んで。ご神木の時もそう、烏月さんの刀の時も
…】

 わたしはあの夜、ようやく起き上がれたお母さんと夕ご飯を一緒して。その後テレビで
『附子』を見て、隠された処には宝物があるのだと思い。お母さんの体を良くする魔法の
薬を求め、蔵に足を。後から考えれば、そんな物があれば大人が先に使っていただろうに。

 否、それも後付けの理由で、わたしは不思議な気配漂う羽藤の蔵に、行きたかったのだ。
大人の注意の薄れを肌身で好機に感じ取って。

 幼いわたしは倒れたお母さんの心配もせず。
 その報いはわたし以上に家族みんなに及び。

「そうだよ、桂。君が蔵に入った為に全てが。
 君が良月の封じの札を剥がした為に全てが。

 僕の人生を奪ったのも、たいせつな人の人生を終らせ狂わせた原因も、全て君なんだ」

 お兄ちゃんの声が冷厳にわたしの罪を告げ。

「そうだ、桂。お前がきっかけを作ったんだ。
 お前の好奇心が父さんを殺すきっかけを」

 お父さんの静かな声が、わたしを断罪する。

「そう、桂がやったの。あなたの興味本位が。
 おかげでわたしは家族みんなの仇を、拾年も育てなくちゃいけなくなったの。独りで」

 少し前に失ったばかりのお母さんの声迄。
 そして何より誰よりわたしに近しい人の。

「わたしがオハシラ様を継ぐ羽目になった原因が、あなたの気紛れにあっただなんて…」

 そんな……わたしの、気紛れな好奇心が?

「君の好奇心に引っ張られ、僕は人生を棒に振ったんだ。鬼を内に宿した苦しく辛い人生
を……君のせいだ、間違いなく桂の所為だ」

「桂の興味本位で……あの夜わたしは旦那様を喪い、羽様の幸せな日々を絶たれたの?」

「鬼の禍なら仕方ないが、そもそも禍は桂の行いじゃないか。僕の生命が絶たれたのも」

「大好きな叔父さん叔母さん、愛した白花ちゃん。全てを喪い、わたしがオハシラ様を強
いられた真因は、あなたの気紛れだったの」

「酷い……桂、僕の人生を返してよ、桂!」

「桂、何か応えなさい。この拾年のわたしの砂を噛む様な人生と、過労の末の早死にに」

「愛に仇を返し、好奇心で禁じられた物を覗き見て、お前は一体何を得たんだね、桂?」

 ぐるぐる回る。たいせつな人の声が、わたしに罪を突きつけ問い詰め。わたしに逃げ場
はない。わたしに救いはない。わたしが全てを失わせた。お父さんの生命も羽藤の家の幸
せも、白花ちゃんの未来もお姉ちゃんも全て。原因は、わたしの気紛れな興味本位の好奇
心。

「父を殺して」「母の生命を縮めて」「姉を鬼神に捧げて」「兄も鬼神に喰らわせて…」

「やってしまったのね」「やってしまったんだ」「まさか気紛れで家族を滅ぼすなんて」

 今にも昔にも居られなかった。ようやく思い出せた昔の温かな日々を、破壊したのが自
身の興味本位や気紛れな好奇心だったなんて。

 お兄ちゃんやお姉ちゃんにも向き合えない。
 お父さんにもお母さんにも顔向け出来ない。

 死んでもお詫びにならないし、生き存えることが償いになるとも思えない。わたしは過
去にも今にも、彼岸にも此岸にも居所がない。聞えるのはわたしを責める声。届くのはわ
たしを苛む意思。受け容れを願える場所はない。許しを望める人はいない。どこにも、誰
にも。

 わたしの罪がわたしに目を開けと迫りくる。
 わたしを恨む叫びが耳を傾けろと迫りくる。

 たいせつな人がわたしに真実を問い糺して。
 わたしは心を鎖す。わたしは己に深く潜る。

 誰も来られない夢の奥へ。
 誰も声届かない己の奥へ。

 わたしは暗闇の中をたゆたっている。

 ここには何もない。
 ここには何もない。

 ここには、光も音もなく。
 わたしを責める声もない。

 だからわたしはここにいる。

 羊水の様な居心地のいい闇に全てを任せて、わたしは闇に溺れている。

 その闇の中に蒼い光が射し込んだ。
 何もない闇に慣れていたわたしは。
 眩しさに耐えきれなくて顔を背け。

「桂ちゃん……」

 誰かの声がする。

 わたしの名前を呼ぶ声は……。
 きっと、わたしを責める声だ。

 お父さんをお兄ちゃんに殺めさせ、お姉ちゃんを鬼神の生贄にして、お母さんを早死に
させた、わたしの気紛れや好奇心を責める声。

「桂ちゃん、わたしの手をつかんで」

「……いやっ」

 わたしはむずがるように身悶えをして、伸ばされた手を払いのける。だってその声に耳
を傾けようとすると、その光を見つめようとすると。それより先に間近で声が湧き出して、

「父を殺して」「母の生命を縮めて」「姉を鬼神に捧げて」「兄も鬼神に喰らわせて…」

 これはわたしの罪だから。わたしが生命ある限り、わたしが心壊れない限り、永遠に逃
れることが叶わない。忘れた侭なら、いっそ拾年前の真実なんて、思い出していなければ。

「……いや。わたしはいや。何も見たくないし何も聞きたくないし、何もしたくないの」

「桂ちゃん……」

 声が追いかけてくる。尚も追いかけてくる。
 その声よりも、間近に蟠る複数の声がある。
 それは少しでも、外を上を向こうとすると。

「桂ちゃんがやったの」「桂のせいだぞ…」
「桂が悪いのよ」「原因は桂の興味本位に」

 駄目だ。もっと深くへ潜らないと、駄目。
 誰の声も届かない、もっと深い闇の中へ。

「……」

 声が遠ざかって、わたしは少し安心する。

 ここならきっと大丈夫。

 だからわたしはここにいよう……。
 ずっとずっと、ここにいよう……。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 わたしは独り暗闇の繭をたゆたっている。
 上も下も右左もない、何もない闇の中を。

 最早何も要りはしない。最早何も望めない。
 願う資格も持たぬわたしには闇が相応しい。

 わたしは全てを喪ったのではなく。何者かに全てを喪わされたのではなく。この手で全
てを壊して手放し、喪わせたのだ。たいせつな人達の、たいせつな幸せも、もろともに…。

 わたしは絶対許されない。わたしは絶対責め苛まれる。最早わたしが愛される筈はない。
だってあんな酷い結末を、拾年前に招いたその真因が、わたしの気紛れや好奇心だなんて。

『なのにわたしは拾年の間、のうのうと幸せに生きて。元気に学校行って、日々お友達と
遊んで愉しんで。独りだけ愛されて人の暮らしを続けていた。全部の原因だったわたしが。

 みんなに守られ庇われて、傷み哀しみを何一つ知らず。ずっと忘れ去っていた。こんな
に近しくたいせつな人を、その人を不幸に陥れて守られて来た事実を、この夏迄ずっと』

 わたしは人でなし。鬼畜以下の存在だった。
 あの惨劇の真因が好奇心や興味本位なんて。

 償う術も見いだせず心は凍えて闇を彷徨い。
 己が己を許せない。わたしは絶対地獄行き。

「地獄墜ち……わたし、地獄に堕ちるの?」

 さっと心の中を風が吹き抜けた気がした。
 闇の中に一瞬蒼い輝きが視えた様な気が。

 少し上を外を見つめようとする。でもそうすると、たちまちわたしの間近で淀んだ声が。

「桂ちゃんがやったの」「桂のせいだぞ…」
「桂が悪いのよ」「原因は桂の興味本位に」

 光に向く前にわたしを闇に追い立てようと。

「好奇心で己が為した結果を見なさい、桂」
「気紛れな興味本位が傷つけ喪わせた者を」
「なぜ桂は未だ元気に楽しく生きているの」

 ぐるぐる巡る声はわたしに執拗に取り憑き。

「鬼の所行を気紛れと好奇心で為した桂が」
「未来永劫、誰にも許される筈のない桂が」

 わたしは許されない、誰からも愛されない。生きている値がない。生きて行く喜びもな
い。わたしを求めてくれる人はいない。迎えてくれる人も、どこにもいない。いる筈がな
い…。

 その闇の中に蒼い光が射し込んだ。

 月の光の様なそれはひらひらと瞬いている。

 それは自ら輝く蝶だった。
 なぜか涙が溢れ出てくる。

 美しい以上に、そのはためきは全身全霊で。
 答があることを最期の最期迄信じて止まず。

 止まらない震えは、怖れでも怯えでもなく。
 わたしの奥底から何かが噴き出そうとして。

 蝶に手を伸ばそうとした時、またしても周囲に蠢く囁き声が湧き出でて。責め苛む声が。

「許される筈がない」「愛される筈もない」
「悪鬼以下の鬼畜だよ、桂」「地獄墜ちね」

 地獄墜ち。愛しい声にそう弾劾されても。
 否、愛しい人は絶対そんな弾劾はしない。

「ニセ物……この声は、全部ニセ物だよ!」

 わたしにまとわりついた気配がざわめく。
 驚き慌て、更に何か喚こうとするけれど。

「わたしのたいせつな人は、そんなことは絶対言わない。わたしの愛しい人は、そうして
人を責めることは絶対しない。わたしの柚明お姉ちゃんは、いつもわたしの幸せを望んで
愛を注いでくれた。守り庇ってくれた。導き諭し、わたしが生きる事を望んでくれた…」

 どんなに重く取り返しの付かない過ちでも。
 その真因が気紛れや好奇心や興味本位でも。

 柚明お姉ちゃんはわたしの絶望は願わない。暗闇の繭に籠もる人生を求めない。絶対迎
え入れてくれる。それがお姉ちゃん自身を傷つけても。何度も踏み躙ってしまったわたし
が分る。わたしの美しい従姉は、報いがなくても恩に仇返されても、羽藤桂を愛してくれ
た。

「だからこの声は柚明お姉ちゃんじゃない!

 だからこの声は、白花お兄ちゃんでもお父さんでもお母さんでもない。全部ニセ物っ」

 周囲に蠢く声を見つめ返す。自身の罪を直視した上で、自身の過去を見つめ直した上で、
それを言い募る者達をもしっかり見つめ返す。わたしを責める為にたいせつな人を装う声
を。

「柚明お姉ちゃんは、そんなこと言わない」

 幾度この心を抉られ削られ、砕かれても。
 わたしは己の地獄行きを厭い嫌う以上に。

『わたしが許すわ。この世の何がどうなろうとも、わたしは最後迄あなたを愛するから』

【そこ迄愛されて尚、暗闇の繭に沈んでは】

『この世の誰1人桂ちゃんを許さなくても。
 桂ちゃん自身許されたくないと願っても』

 わたしが必ずあなたを許す。例えあなたが悪鬼でも、鬼畜でも、わたしの仇でも。あな
たこそがわたしの一番の人。絶対見捨てない。あなたを愛させて欲しいのは、わたしの願
い。何度でも望んで喜んで全て捧げて悔いもない。

【わたしの愛しい人を、哀しませてしまう】

『桂ちゃんが地獄に墜ちるなら共に墜ちる。
 そして必ずあなただけは救い上げるから』

【わたしの地獄墜ちはお姉ちゃんを伴うの】

『あなたが幾度過ちを犯しても。あなたが幾ら罪に塗れても。必ずわたしはあなたを愛す。

 鬼でも人でも構わない。咎があっても罪があっても。わたしはいつでもいつ迄も、望ん
であなたを受け容れ許す。そしてもし桂ちゃんに、他の人に犯した重い罪があるのなら…
…わたしが人生を注いで一緒に償うから…』

 償えるかどうかは最早問題じゃなかった。
 償いきれなくても、購う術などなくても。

 わたしは闇に沈んではいけない。絶対生きて微笑み返さないと。わたしの生命を魂を繋
いでくれたこの人の想いに、生きて応えねば。

 羽藤桂は……生きなければ、ならないの!

 例えどれ程の悔恨を抱え罪を背負っても。
 悪鬼でも鬼畜でも地獄行きでもあの愛に。
 応えなければ、その愛を無にしてしまう。

 それだけは、それだけは自身に許さない!

『大切なだけじゃなく特別な人。
 特別なだけじゃなく一番の人。
 この世に唯1人と、思える人』

 わたしにとって、それはあなた達2人よ。
 西日の差す教室でわたしは強く抱かれた。

『桂ちゃん、白花ちゃん。あなた達が一番』
『憂いのない満面の笑みが、わたしの願い』

 この人は本当にわたしを支えに生きている。
 わたしがこの人を支えに生きている以上に。

 わたしがその深く強い想いに応えるには…。
 まとわりつく声に抗い光の蝶に手を伸ばす。

 顔を上げて上を外を見つめて前に歩み出し。
 蒼く輝くちょうちょに触れて、胸に抱いて。

「やっと……やっと繋った……桂ちゃん…」

 瞼を開くと視界では、わたしの愛しい人が。
 肌身を重ね唇合わせ贄の癒しを注いでいた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 目を醒ましたわたしは、布団に横たわり。
 烏月さんとお姉ちゃんに左右から抱かれ。

 頭上にはノゾミちゃんが思い詰めた顔で。
 電気は点いてないけど、月明りは眩くて。

「柚明お姉ちゃん。わたし、また……」

 何か言いかけるけど、声が続かない。
 そんなわたしから美しい人は唇離し。

 魂の奥も見通す程深く潤んだ双眸で。
 今にも再び唇繋ぎそうな程間近から。

「良かった……帰ってきてくれて……。
 必ず心甦ってくれると、信じていた」

 烏月さんが申し訳なさそうな顔で俯くのは。
 わたしが危うい目に逢った事への責任感か。

「ごめんなさい。わたし、又みんなに迷惑」

「違うわ……桂ちゃん」柚明お姉ちゃんは。

 瞳で瞳を覗き込みつつ、かぶりを振って。

「桂ちゃんは、白花ちゃんの助けがなくても、わたしの願いに応えてくれた。自身の力で
目覚められた。己に勝って暗闇の繭を振り払い。

 賢く強く優しい子。わたしの最愛のひと」

 烏月さんに半身抱き支えられたわたしを。
 お姉ちゃんはその目の前で再度頬合わせ。

 2人の必死さと歓喜が強く強く感じ取れ。
 それは傍に浮いたノゾミちゃんの瞳にも。

 それだけじゃないの。尚わたしは声を発す。告げなければ。どこ迄もわたしを信じ愛し
てくれたみんなに、拾年前の禍を招いた真因を。その禍は烏月さんのお兄さんも喪わせた
のだ。償えなくても取り返せなくても、嫌われ憎まれようとも、せめて真実を明かして謝
らねば。

 でもそんなわたしをお姉ちゃんは軽く抑え。

「桂ちゃんも、今ならもう、思い出せる筈よ。

 拾年前の夜の真因を。入ってはいけないと言われた蔵に、幼い桂ちゃんが白花ちゃんを
伴って、入り込んだ本当の原因を。あなたを蔵に呼び招いた声の存在を。ノゾミちゃんで
もミカゲでもない、あなたの内なる声を…」

 あなたは導かれていた。誘い招かれていた。
 それは心の奥に植え付けられた、強い暗示。

「拾年前の夜の数ヶ月前。銀座通の幼稚園に通っていた桂ちゃん白花ちゃんが、卒園間近
だった早春の日。わたしが原因で生じた禍に、あなた達をわたしが巻き込んでしまった
の」

 一緒に思い出しましょうとの柔らかな声に。
 わたしは既に思い出せていることに気付き。

「おにきりべそうまと……鬼切部、相馬党」

 口を滑り出た台詞は声になって実感を伴い。
 そうだった、十年と数ヶ月前にわたし達は。

 お姉ちゃんに遺恨抱く者達の人質に囚われ。
 半日経たずにわたし達は救い出されたけど。

 お姉ちゃんが生命削って助けてくれたけど。
 そこで何かをされたのだ。あぁそれこそが。

 邪視と違うけどあれは過去ノゾミちゃんも。
 繋った夢で使っていた言霊による暗示の術。

【好奇心を抑えるな。化外の物に興味抱け】
【歩み出せ。近付いて良く覗き、手で触れ】
【興味の侭に、好奇の侭に。己を抑えるな】
【化外の物は面白いぞ。深く関るが良い…】

 幼い記憶は全て緻密には憶えてない。でも。
 思い出せたわたしは初めて、全てに得心が。

 禁じられずとも人寄り付かぬ蔵やご神木に。
 お父さんに怒られお母さんが倒れた夜に迄。

 蔵に行ったのは唯の好奇心や気紛れでなく。
 幼いわたしが既に操られ促されていたと…。

 それは今に至る迄。夏の経観塚や今回滞在でも、わたしは化外の物や『力』に心惹かれ。

「羽藤の家は、贄の血や化外の『力』を持ち。叔母さんは破妖の太刀を扱う鬼切部の強者
で。『力』や呪物は身近にあった。青珠もご神木もわたしの『力』も。良月は封じられて
いても、羽藤の遺物を収蔵する蔵が結界の作りで、化外の物で。桂ちゃんがそれらを日常
に受け容れてくれている事に、わたし達も不審を抱かなかったけど……だからこそ、化外
の物や『力』への興味を抑えられないと言う暗示は、ずっと心の奥に潜み続け気付かれる
事なく」

 多くの病が発作や症状のない時に、見極めるのが至難な様に。後催眠や術の暗示も発動
している時でなくば、存在自体に気付き難い。見極めは至難を極めるのとお姉ちゃんは語
り。

 なぜノゾミちゃんのみならず、烏月さん迄が申し訳なさげに俯き加減だったのか、今悟
れた。この麗人は、千羽党ではなくても鬼切部として負い目を感じ。千羽党でもなく十年
も前のことなら、彼女の責任の範囲外なのに。

「その事については、私が申し訳ない。他党の話とは言え鬼切部の同胞が、鬼でもない柚
明さんや何も知らぬ幼い桂さん達を、逆恨みして襲い攫う等、武士の風上にも置けぬ…」

 黒髪長く美しい女の子は、過去の経緯への苦々しさを呑み込んで、わたしの瞳を覗き込
み。せめてこれからで償わせて欲しいと述べ。頷くわたしの間近で、柚明お姉ちゃんは尚
も。

「改めて言うわ。桂ちゃんは何一つ悪くない。拾年前の夜も、蔵に入り込んで良月の封じ
を解いて招いた悲劇も、幼いあなたにはどうする事も出来なかった。防ぐのも気付くのも
大人の役目、大人の責務。桂ちゃんは唯わたしの禍の余波を受けて、逆らえぬ侭禍に導か
れ、その中で必死に生き抜こうと頑張っただけ」

 不思議な物に興味を抱くのは幼子の当然で。
 それが日常に散見されれば受け容れて当然。

 当然でなかったのは時折、大事な時でも好奇心や興味本位に抑えが効かなかったことで。

 それは羽藤桂の性格に起因する禍ではなく。
『力』や術を持つ者達にそう導かれたのだと。

「拾年、気付けなかった。あなたに暗示が掛けられた侭だった事に……ごめんなさい…」

 真相に辿り着いた美しい双眸は溢れそうで。
 そこにどれ程の悔恨が込められているのか。

 だから今はわたしがこの人の心の力になる。
 今こそわたしは美しい従姉を愛し支えよう。


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