白花の咲く頃に〔丙〕(前)
木。
たくさんの木。
高く伸びる木々それぞれが、好き放題に枝を伸ばし、空のほとんどを覆い隠してしまっ
ている。深い……林か森か。幹の太い古木が立ち並び、たけのある草が生い茂る狭い道を、
わたしは走っている。
振り返ると、瓦の並ぶ屋根が見えた。
時代劇で見る様な、立派な構えの門はないけれど、それは見事なお屋敷だった。
平屋の大きな日本家屋。
離れに見えるのは蔵かも知れない。
涼しげな鈴の音に、わたしは前へ向き直る。
ぐっと誰かに手を引かれ、わたしはさらに足を速める。道の勾配がだんだん急になる。
ああ、ここは山なんだ。
手を引かれるままに、わたしは山道を登る。
舗装されていなかったとはいえ、まだ道らしい道だった道を外れて、わたしたちは草を
分ける様にして進む。
速く、早く、はやく、はやく……。
わたしを引く手が強くなる。
誰かに追いかけられでもしているのか。
何をそんなに、急いでいるのだろう。
足元の草を踏みしめて急ぐ。
ざっざっ、ざっざっ。ざっざっ、ざっざっ。
ざあぁっ……。
急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りか。
そこには見上げる程大きな、数百の歳月を雨風と共に過ごしたといった趣の、大きな大
きな樹が根を下ろしていた。他の木はこの樹に遠慮しているのか、辺りは少し開けている。
この景色には、見覚えがあった。
これは。この景色は。これはわたしの……。
【たいせつな人が、いなくなってしまった】
風にもがれた花びらが、蝶の様にひらひらと舞っている。
奇妙な既視感と喪失感。
何だろう、この感覚は。
そして今迄気にしていなかったけど。
……この景色は。この世界は。
赤いインクを落とした水槽越しに見る景色のように、重くて、遠くて、揺らめいていて。
私の心の奥底の、憎しみ恨み、無力感や孤独を凝縮した様に、重く赤く遠く揺らめいて。
いったん気になり出すと、気になってしようがなくなってしまう。
見る程に赤は濃く深くなって、視界を遮る。
それでも見ようと、懸命に目を凝らすと…。
今迄にない程鮮烈な赤が、目の奥を焼いて。
身も心も竦んで縮んで強ばった、その瞬間。
携帯電話の着信音が、不意に耳元に注がれ。
わたしは半ば強制的に夢から現へ戻された。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
マナーモードに設定を、切り替え忘れていたという焦りが、居眠りの余韻を吹き飛ばし。
わたしは慌てて両手を遣いに出して、携帯電話を捜させて。少しの後、右手がそれを探り
当て。これ以上鳴り響かない様に通話を受け。
「はい、もしもし?」
「やっほー、はとちゃん」
「あ、陽子ちゃん」
聞き慣れたその声にひとまずほっとする。
「元気だったぁ?」「何とかねー。色々とバタバタしていたのも、一段落ついたし……」
この夏は、最初から最後迄色々あったから。
こうして平穏に過ごせる今が実は奇跡かも。
なんてのどかに語るわたしに陽子ちゃんは。
「そ? なら、丁度良かった。さすがはあたし、絶妙なタイミング」「……あはは……」
『それはどうかなぁ……? 本当に絶妙なら、寝た子を起こしたりはしないと思うけど
…』
「にしてもはとちゃん。久しぶり」
「昨日も学校で一緒だったのに?」
そこは一応、突っ込みどころの筈だった。
陽子ちゃんはやはりその問を待っていて。
「はとちゃんラブのあたしとしては、一夜逢えないだけで久しぶりなの。分るでしょ?」
「分る様な、分ってはいけない様な」
『夏の経観塚から、帰って以降も色々あって。普通に学校通って帰宅して、残り時間をの
どかに過ごすってのも、暫くなかったし。陽子ちゃんも一日が長く感じられているのか
な』
経観塚へ行く原因にもなったお母さんの突然の死から、この夏は多くの事がありすぎて。
出逢いも別れも、喜びも悲しみも。新たに絆繋げた人も、漸く取り戻せたたいせつな人も。
全て思い返していると、目の前の陽子ちゃんとのお話しが疎かになってしまう位、色々と。
「でぇ、はとちゃん今、ヒマ?」
「暇といえば、ひま……かな?」
自分の思索に嵌りそうになるのを抑えて。
「よーそろ。それは良かった。てっきりお邪魔だったかと」「……?」
今は陽子ちゃんの導く話しに耳を傾ける。
「心のステディ陽子さんが、はとちゃんの為だけに送る愛の電波放送でも始めようかなー、
とか思って電話したんだけどねー」「うん」
陽子ちゃんの言葉に頷いていると、突然。
「寝てたでしょ、はとちゃん」
「わ……なんでわかったの?」
『寝ぼけ声にはなってない筈。もしやわたし、さっき考えてたこと口に出したりして
た?』
「まったく、大口ぽかーんと開けて寝てるんじゃないわよ。いい若い子が、はしたない」
「ええー!? わたし口なんて開けてた?」
「哀しいけど、自分のことが一番見えないものなのよね……ほら、よだれの跡をふいて」
急いで口元に手をやるわたし。
えーと、ハンカチ、ハンカチ。
「そっちじゃなくて、逆サイド」
言われる侭に、反対側の頬をこする。
「取れた?」「……くくっ、再びの大成功」
陽子ちゃんの噛み殺した笑い声。まさか。
「ぷはーっはっはっ……! 夏に続いてっ」
『騙された? ……よく考えたら、仮によだれの跡があったとして(あくまで仮の話とし
て)見えている筈がない。電話なんだから』
「よ・ぉこ・ちゃーん? 性懲りもなく…」
「いやいや、はとちゃんってホント面白いねー。さっすがあたしのおもちゃ1号認定機」
……ひどい言われようだった。
この電話……切っちゃおうか。
「……それで? 何の用?」
「そうそう。今ヒマだったら明日もヒマでしょ? あたしもヒマだし、一緒にどっかに遊
びに行こーよー」「無理」
出来るだけ冷たく言ってやった。
「……」「無理です」
さらに駄目押し。他人行儀の敬語口調。
流石に少し、怯んだ様な感触があった。
「……うわー、いじけた? ムカついた?」
「ムカついた」
「ごめん御免。明日おごるから許してちょ」
『よしっ!』思わず心で軽くガッツポーズ。
「そこまで言うんなら、許すのもやぶさかじゃないんだけど……」
「サンキュー、はとちゃん愛してるー。フンパツしてお昼にデザートまでつけちゃうよ」
「景気がいいね、陽子ちゃん」
ちょっと気になったので、話しを振ると。
「雑誌報道の件ではとちゃん家に謝りに行った目方さん達から、あたしもごめんなさい料
を頂いたの。最初は断ったけど、受け取らないと加藤さん達も気が済まないって……最後
ははとちゃん達に倣って、気持を頂きますって半分だけ。元々は、はとちゃんとユメイさ
んに迷惑掛けて発生したごめんなさい料だし。はとちゃんに奢るのは正当な使い途でし
ょ」
「うん……まぁそれはそうとも言えるけど」
「じゃ決まり。明日十時に駅前ハックで…」
いつもならそこで流される処なんだけど。
「ごめん。やっぱ明日は無理」「なんでよ」
「今そっちにいないから。言うなれば留守中?」「へ? ……はとちゃん今どこに?」
「電車の中。ごとごと言ってるの聞える?」
轍のレールごしに枕木を蹴る震動が、心音みたいにリズムを刻む。寝入ってしまったの
は、このゆりかごの様な心地よい揺れのせいかも。それとも、単に疲れていたんだろうか。
「聞えないなら、床に携帯近づけるよ…?」
「いや、いい。何となく聞えた……でも電車の中にしちゃあ……やけに静かじゃない?」
ってまさか! そこで電話の向うが大声に。
「その一車両独占みたいなローカル線。隣の車両を見ても、はとちゃん達以外誰も乗って
ないって展開でしょう?」「陽子ちゃん?」
『確かに、携帯電話を使って、あまつさえ普通のトーンでおしゃべりをしたりできるのも、
この貸し切り状態あってこそ、なんだけどね。
わたし羽藤桂は、電車内での迷惑電話に反対しまーすっと、それはさておき』
「名前も分らないすっごいローカル線で、今日はもうずーっと電車に乗りっぱなしでっ」
「陽子ちゃんすごい、見えてない筈なのに」
『おかげでお尻、ちょっとだけ痛いかも…』
「又あたしを置いて経観塚行っちゃって!」
陽子ちゃんの大声に、思わず瞼を鎖すけど。
閉じても開けても、窓から注ぐ赤い夕日は。
わたしの視界を埋め尽くし、染め尽くし…。
『ちょっと耳がキーンとしたのも。夏の経観塚に行く列車の途上で、こうして陽子ちゃん
からの電話を受けた時と、印象が被るかも』
わたしのやや特殊な事情を、陽子ちゃんは知っていたから。わたしの家はお父さんがい
なくて、拾年顔も思い出せず。わたしの家は母子家庭だった。『だった』と過去形なのは。
『あの時は、お父さんの実家に行くって言ったら陽子ちゃん、わたしが田舎に引っ越すと
早合点して大声に。母子家庭のわたしが夏休み前にお母さんを喪って。羽様の実家が機能
していれば、移り住んで養われるのもあり得る話しだったけど。羽様の屋敷は廃屋で…』
親族と言える人がほとんどいなかった為に。お父さんの実家が、わたしの相続財産に載
ってきて。税金関係とか色々あるから、相続するか手放すかを早めに決めなきゃいけない
と。
取りあえず見に行く感じで経観塚へ出立し。
その気紛れがわたしの人生を大きく変えた。
巡り逢えた大事な人、取り戻せた愛しい人。
そして自ら忘れ去っていた過去を取り戻し。
わたしの感慨を察する様子もなくて大声は。
陽子ちゃんの大口がすぐ耳元にあるみたい。
「あの時もぉ! 『暇だし夏だし、休みだし。言ってくれれば付き合ったのに』ってあた
しが言ったの、はとちゃん憶えているー?」
「あ、そうだったね。あの時も確か『その手があったか』って、ぽんと膝を打った事が」
あの時も陽子ちゃんを誘っていればって。
思った過去をその大声で漸く思い返して。
わたしは改めてこの場でぽんと膝を打つ。
「もー! 一言声掛けてくれれば、懐に余裕のある心のステディ陽子ちゃんは、はとちゃ
んの生れ故郷へ、ご挨拶に赴いたのにーぃ」
「ご挨拶って、おじいちゃんもおばあちゃんもいないお屋敷だよ。何のご挨拶かは敢て訊
かないけど、陽子ちゃん、わたしの唯一の肉親で家族には、日々挨拶しているでしょ?」
「うっ。そこは敢て訊いて欲しい処です…」
陽子ちゃんの大声が少し怯んで、わたしも前回の列車長旅の情景を思い返す余裕が出る。
「あの時は、知らない場所に1人で行くのに、けっこう緊張していたからねー」
「あっはは、緊張してる人はよだれ垂らして眠りこけたりはしないんじゃないかなー?」
「だから、よだれなんて……って、あれ? 陽子ちゃん? 陽子ちゃーん?」
しーん。電波が届かない処に入ったらしい。
とりあえず、電話をかけなおしてみるけど。
駄目だった。
ふぅ……。溜息を一つ。西日の射す窓に目を向けると、すでに景色が大きく違っていた。
太陽はとっくに傾いていて、緑とオレンジが混じった深い色合いが広々と広がっている。
「どうやら、圏外になってしまった様だね」
涼やかな女声が耳に入るに到ってようやく。わたしは今回の経観塚行きが、一人旅では
ないと思い返し。お守りの青珠に宿るノゾミちゃんが、常に憑いている以上に。今回の旅
は。
凛々しく優しいわたしのたいせつな人が。
左隣間近から静かにわたしを眺めていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「う……う、う烏月さんっ! 見てた…?
もしかして今のやり取り、全部見てた?」
わたしは経観塚への旅路を、夢心地で無意識に、一人旅だった前回に重ね合わせていて。
今回は一緒する人がいることを失念し。寝ぼけ眼で電話に出て、陽子ちゃんにお話しをリ
ードされ。周りに注意を配る余裕がない侭で。通話が切れてようやく状況を見つめ直すと
…。
「私達以外に車内に誰もいなかったから、取りあえず通話のお邪魔はしなかったけど…」
黒髪長い、烏月さんの整った美貌が間近い。その瞳の深さに思わず心を奪われて、頬が
染まり。マナー破りの車内通話を見られた事にも耳が熱く。通話内容を聞かれた事も、今
迄肩を寄せ合って眠っていた事も思い返して茹で蛸に。胸が高鳴って言葉が詰まるわたし
に。
「もう少しだけ、周囲にも気を配る様に努めた方が良いと思うよ。桂さんは可愛いから何
かと人目を惹き易いし」「う、烏月さんっ」
『ううー全部聞かれちゃったよぉ。ヨダレは垂らしてなかったけど、それだけは回避でき
たけど。無様に無防備な寝顔も見られ放題で、その上陽子ちゃんとのやり取りも筒抜け
に』
やり場がなくて、視線を正面に泳がせると。
正面には、わたしの全てを知っている人が。
「安らかに眠る桂ちゃんも、恥じらいに頬を染める桂ちゃんも、両方とても可愛いわ…」
お姉ちゃんは何もかもお見通しな微笑みを。
いよいよ逃げ場がなくなって赤面して俯く。
そんなわたしに左隣間近から涼やかな声は。
「経観塚へ着くには未だ少し時間があるよ。
疲れているならもう少し眠った方が良い」
「だ、だだ、大丈夫です。もう随分寝たし」
『どうしてこんな美人の隣で、眠りこけるなんてできてしまったんだろう。わたし、そこ
まで大胆な女の子じゃなかった筈なのに…』
わたしのそんな心の内を、覗き込む様に。
烏月さんはその深い双眸を、更に近づけ。
「そうかい。では私はもう少し、桂さんの隣で寝かせて貰おうかな。……桂さんと肌身を
合わせていると、とても心が安らぐのでね」
「はっ、はいどうぞ。膝枕でも抱き枕でも」
『わたし、更に余計なこと口走っているよ』
そこで声挟めてくれたのは姿の見えない。
「けいやゆめいは兎も角、あなたは眠りこけていては拙いのではなくて? けいの警護の
為に羽様に付き纏うのに」「ノゾミちゃん」
『桂の警護って、ノゾミちゃん、駄洒落?』
烏月さんもさっき迄は、一緒に眠っていたらしい。わたしと肩を寄せ合って……って!
「眠っていても変事には即応できる。同じ車両内に他に人の気配がない事も掴んでいるし、
何者か来るか顕れれば、自動的に悟れて起きて備えられる……心配は要らないよ桂さん」
烏月さんはノゾミちゃんの突っ込みにも。
怒りも笑いもせず凛々しい声音で淡々と。
「四六時中最大の緊張感で身構え続けるのは、却って非効率なの。今が平時か戦時かを見
極めて、適度な注意力を保つ事が大事なのよ」
それに正面からお姉ちゃんの声が続いて。
のどかに静かに穏やかに、笑みを浮べて。
「烏月さんに寄り添って頂ければ、桂ちゃんの護りは万全です。やはり守る人と守られる
人は、気心が通じている事が理想的ですね」
「お姉ちゃん! それ……それって……っ」
体中の贄の血が顔に集まった様な感じの中。
お姉ちゃんと烏月さんの微笑みが漏れ聞え。
何というか、お姫様と女武者の好一対です。
しばらく経って、胸の高鳴りも収まって…。
ふと列車の外に視線を向けると、前回印象深かった光景が今回も。西日の差す赤い世界
は鮮烈な朱に彩られ。ガラスとコンクリートとアスファルトの、硬い世界を見慣れたわた
しには、二度目でも心奪われる景色が広がっていて。終着駅への到着も、もう少しの筈だ。
いつか来た道だから思い返す事も叶うけど。
だからいつか見た夢を再び見てしまうのか。
ごとん、ごとん−−
がたん、ごとん−−
シートに深く座り直し、揺れる電車に身を任せる。左にたいせつな人の存在を感じつつ。
ごとん、ごとん−−
がたん、ごとん−−
ゆさりと眠気をもよおす規則的な列車の揺れに、わたしはとろんと瞼を落す。でも……。
目を閉じても黄昏の世界は消えず。いよいよ目線の高さに落ち込んだ夕日は、瞼の裏に
走る血の色を透かし、世界を朱に染め上げて。
わたしは再び夢を見た。
わたしは赤い夢を見た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
事の発端は秋の始めのお休みに。わたしもお姉ちゃんも、白花ちゃんをたいせつに想っ
ているから。それは特に劇的な展開でもなく。
拾年行方不明だった以上に、お姉ちゃんは取るべき拾年分の歳を取ってない。だから一
時期、現代の浦島太郎とか神隠しの不思議とかマスコミに騒がれ。注目されすぎた為にバ
ッシング迄受けてしまい。アパート傍に24時間雑誌記者に張り込まれ、やくざさんの嫌が
らせも受けて。やっと周囲が落ち着いたのは。
「んんーっ、天高く馬肥ゆる秋だよねぇー」
『気持のいい秋晴れの下を、大好きな人とショッピングと洒落込む、休日の午後の幸せ』
「そうね、食べ物の美味しい季節だけど……、桂ちゃんは大丈夫かしら?」
買い物籠を持つお姉ちゃんは、若奥さんと言うよりも、見かけがわたしとほぼ同年代で。
背丈もこの拾年でかなり迫った。胸の大きさは尚及ばないけど、お姉ちゃんも余り大きく
はないので、望みはある。体重は、体重は…。
『抱えた買い物袋の重さは、幸せのバロメーター。体重計が示すのもそうだと思いたいけ
ど』「ううっ、桂馬つながりで桂肥ゆる秋にならないように、気をつけます……」
『因みに晩ご飯の材料を買いに行くのだって、ショッピングと言えば立派なショッピン
グ』
「……だけど、今夜は目黒のさんまだよー」
「はい、焼き魚ね。油を抜いてお吸い物にした方が、太らなくて済むんじゃないかしら」
「駄目駄目、そんなの勿体ない。お姉ちゃんなら、お吸い物にしても美味しく作れるかも
しれないけど、食材も適材適所じゃないと」
『笑子おばあちゃん直伝の和食メニューの数々は、お母さんとは姉妹弟子の関係にあたる
だけあって、わたしの好みにぴったりです』
ノゾミちゃんも夕ご飯限定だけど一緒して。色々言っても、お姉ちゃんのご飯に満足な
様子は見えて分った。お母さんが死んだ直後の、語りかける相手の居ない食事風景は、も
う過去の物だ。わたしにはたいせつな人達がいる。しばらく逢えない人もいるけど、二度
と逢えない訳じゃない。逢おうと想えば必ず逢える。その心強さ温かさに支えられて、わ
たしは…。
「……あ、何だかいい匂いが」
「さっそく、どこかでさんまを焼いているのを嗅ぎつけたのかしら?」
「違う、違うよ。食べ物じゃなく花の香り」
「そういえば……金木犀の花かしら。もうそんな季節になったのね」
お姉ちゃんがしみじみと語るのに頷いて。
「もう半月で十月だもんねー」
「ええ、紅葉の季節ね。経観塚の山もすっかり色づいている頃でしょうね」
「そうなんだ」
「とても綺麗なところよ。少し遠いけれど、今度のお休みにでも足を伸ばしてみる?」
経観塚には白花ちゃんがいる。拾年存在を忘れてしまっていた、わたしの分身。柚明お
姉ちゃんからオハシラ様を引き継いで、鬼神の封じを努めてくれている、たいせつな人…。
「そうだね。わたし達の誕生日ももうすぐだし、白花お兄ちゃんにあいさつに行こうか」
「そうね……」
わたし達は2人、想いを合わせ言葉を揃え。
この様に、肩を寄せ合える幸せを噛み締め。
「「わたしたちは、ちゃんと幸せに暮らしていますって」」
そこから話しはとんとん拍子に進み。お姉ちゃんが葛ちゃんを通じて、烏月さんの経観
塚行きをお願いして了承取れたのは、嬉しい予想外で。どうやらお姉ちゃんはわたしを喜
ばせ驚かせるサプライズに、前日深夜に葛ちゃんに電話で、了承を取り付けていたらしい。
烏月さんは夏の経観塚で別れて以降、24時間葛ちゃんの身辺警護についており。聞いた
話しでは危険な職ではなく、行方不明だった次の財閥総帥兼鬼切りの頭を、最初に見つけ
て保護した功績に報いる為の、名誉職だとか。
本当は、知らない顔ばかりの巨大組織に戻って心細い葛ちゃんが、心許せる人を傍に留
めておきたかったのではないかなと。最近葛ちゃんが財閥総帥を継いだとニュースで見た。
「烏月さんに、警護の任をお願いしたく…」
「烏月さんも経観塚に一緒してくれるの!」
あれ以降烏月さんとは一度しか逢えてない。マスコミがお姉ちゃんを『現代の浦島太
郎』と騒ぎ出す直前位、ノゾミちゃんが人の世に、羽藤家に馴染めているかどうか、家庭
訪問に。陽子ちゃんも含めてカラオケボックスに行き、その後お姉ちゃんが作ったお夕飯
を、ノゾミちゃんも顕れて一緒して。本当に楽しかった。
あの涼やかに凛々しい人と、長旅を一緒出来るなら。その出逢いの舞台だった経観塚に、
もう一度一緒出来るなら。心強いし心が躍る。でもまさかそんなお願いが叶っちゃうなん
て。
「葛ちゃんに確かめたら、財閥総帥就任に伴って、身辺警護の任務は終ったと聞いたから。
わたし達の経観塚行きへの同行をお願いして、承諾を貰えたの。勿論、烏月さんの承諾
も」
「心を込めて警護させて貰うよ。宜しく…」
「わ……。すごい……すごい、すごい……」
「何をだらしのない顔をしているの、けい」
ノゾミちゃんの声音は冷やかだったけど。
「え? だらしないって?」「顔から締まりという締まりが消え失せてしまっていてよ」
自然ににんまり笑顔になっていたみたい。
「うふふっ……でも、桂ちゃんにはそう言う笑顔の方が似合うわ」「え、わたし……?」
お姉ちゃんに迄指摘されてしまったけど。
それでも期待に胸が躍るのを止められず。
「サクヤさんや葛ちゃんは一緒出来ないけど……4人で経観塚に行けるねノゾミちゃん」
サクヤさんは、仕事の打合せで関西にいて。
今回の経観塚行きに、日程が合わないとか。
そこでノゾミちゃんがおずおずと問を発し。
「私も一緒で、構わないの?」「もちろん」
過去にどんな経緯があっても、ノゾミちゃんは今わたしのたいせつな人だ。むしろノゾ
ミちゃんこそ経観塚も羽様もご神木も、感慨深いに違いない。拾年前わたしが甦らせる迄、
千年良月に封じられて羽藤の蔵にいた訳だし。背く結末になったけど、千年慕い続けた主
もいる。ご神木の傍にはミカゲちゃんを弔った。
良いよねお姉ちゃん、と一応問うてみると。
ノゾミちゃんは躊躇いがちに、視線と声を。
「ゆめい……私は、経観塚に行っても良いのかしら。しかも、けいやあなたと一緒に…」
わたしにはその答が視えている。わたしのお姉ちゃんがこんな時に、返す答は決まって。
「ご神木にはあなたのたいせつな人がいる。
今はその根にあなたの妹も眠っているの。
何よりもあなたは桂ちゃんの最後の護り。
一番の人にしっかり寄り添い守って頂戴」
青珠に宿るノゾミちゃんには、わたしと一緒にいて貰わないといけない。ノゾミちゃん
もわたしの贄の血で満足し、他の人を襲ってしまわない様に。離れ離れにはなれないのだ。
「仕方ないわね。私がいなければ心細くて堪らないというなら、憑いて行ってあげるわ」
照れ隠しに強気な声音のノゾミちゃんに。
わたしは撫で撫でしたい感触で頷き返し。
「うんうん。ノゾミちゃんがいないとわたし、心細くて寂しいよ。たいせつな家族だも
の」
「本当どうしようもないわね、贄の血筋は」
当日朝はお姉ちゃんも、烏月さんに逢えると早く起きすぎ。お弁当を作り終えちゃうと、
じっとしてられず。烏月さんに早く逢いたい想いは、わたしも同じだったから、文句のあ
ろう筈もなく。ノゾミちゃんが宿る青珠付きの携帯をしっかり握り。いつか来た道を再び。
それは夏の経観塚を拾年前を振り返る旅。
何度でも心に刻んで想いを確かめ直す旅。
アナウンスの声に起こされて、3人で電車を降りると、既にとっぷりと日は暮れていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「わたし達が最初に逢ったのは、この駅のホームだったよね」「そうだね。あの時は確か、
桂さんが私を穴の空く程見つめて来て……」
言われてわたしはあの時の拙かった応対を思い出し。確かに初対面の人に非礼なことを。
「だ、だって。烏月さん、月明りに照されて綺麗だったから。長い黒髪も独特の気配も」
綺麗に歩く人だった。単に姿勢がいいとかの問題じゃなく、まるっきり雰囲気が違って
いた。檜舞台を踏む役者の様な−−はっと息を呑んでしまう様な、日常とは切り離された
空気を付き従えて。わたしは魅せられていた。
一目惚れしていたのよ、と柚明お姉ちゃんに言われたけど。そうだったのかも知れない。
乗り降りする人とていない田舎の駅の静謐は、烏月さんの大人びた雰囲気にぴったり合っ
て。
「同じ宿に泊っていると知った時は、少し嬉しかったよ。自己紹介は夕飯の時だったね」
「わたしも。烏月さんに見とれる内に最終バスを逃して、その日の内にお屋敷に行く事は
叶わなかったけど……お屋敷は電気も通らない廃屋だから、却って正解だったし。そのお
陰で烏月さんと同じ屋根の下で……って!」
誤解を招きそうな言葉に流れ掛るわたしに。
足が止まって想いに浸ってしまうわたしに。
「今回はバスを逃さなくても、想い人と一つ屋根の下よ。遅れない様にしましょうね…」
お姉ちゃんの促しに頬を染めつつ頷いて。
わたしは烏月さんと小走りで改札を通り。
駅の近くで出立を待っていたバスに乗り。
「3人でバスって初めてかも」「そうだね」
中は年輩のおじさんが運転席にいるだけ。
乗るお客はわたし達だけですぐ動き出す。
これなら夏に乗り逃がしてしまった訳だ。
「ノゾミちゃんも、もう少しだよ」『……』
一応人目を憚って小声で語りかけたけど。
ノゾミちゃんは青珠を一度瞬かせるのみ。
車は街灯もない田舎道の闇を縫って走り。
「次で降りまーす!」
羽様の夜は街灯もなく、付近数キロには民家のない田舎なので、静まりきった夜の闇で。
「本当にここで良いのかね、お嬢ちゃん達」
「大丈夫です、ありがとうございましたー」
運転手さんは、年若な女の子が人里離れた、お化け屋敷や神隠しの噂もある廃屋へ、夜
に訪れることを心配していた様だけど。ここがわたしの生家ですと納得してもらう迄もな
く。独りではないから、頼れる人達が一緒だから。わたしも大丈夫ですと答えて、バスを
降りて。
頼りなくても現代文明との繋りだった、ライトとエンジン音が遠ざかると、わたし達は
太古の昔から変らない夜の闇に取り残された。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
秋に入って夜にもなれば、風も涼やかで。
長く外にいると身を冷やすかも知れない。
月と星が照す道端から、羽藤のお屋敷へ連なる緑のアーチに目を向けると。森には全く
光が届かず照されず。この先に日本家屋があると分っていても。少し怖さを感じてしまう。
千年変らぬ夜の森、静寂の時。天を駆ける月も星も、ここではずっと昔から在り続けて、
いつ迄も終ることなく。人工の光に満ちた都会の夜に馴れたわたしには、今も尚感慨深い。
「やっぱりこの辺は真っ暗だね」「そうね」
わたしの呟きにお姉ちゃんは答と同時に。
暗闇の中に白く淡い輝きが浮び上がって。
大きな蝶の形を取ってはたはた羽ばたき。
光の粉を散らせつつ足下を先行きを照し。
「ちょうちょ……お姉ちゃん?」「ええ…」
オハシラ様の『力』は、ご神木と言うより、ご神木に宿った先代のオハシラ様の贄の血
の『力』で。肉の体を取り戻せたお姉ちゃんは、自身の血の『力』を使える。わたしや白
花ちゃん程ではないけど、お姉ちゃんの贄の血も数百年来稀な濃さで。修練を経てもいた
から。
お姉ちゃんはわたしの荷物を預って烏月さんに、わたしの手を握って導いてとお願いを。
拾年前以前に近しい仲だった以上に、この夏に生命も想いも交わり合ったこの美しい人は。
わたしが何に喜び何を望むのかを全て分って。わたしが思いつく前からその状況を用意し
て。
わたしがもじもじと言葉を継げずにいると。月明りに黒髪艶やかな麗人は、承知しまし
たと左手を差し伸べてくれて。わたしも恥じらいを隠して右手を伸ばすと、滑らかな繊手
がわたしの手を確かに握り締め。ちょうちょの先導を受けて、2人一緒に暗い闇へ歩み出
し。
森を抜けて開けた空には月が大きく。
日本家屋を囲む森は鬱蒼と生い茂り。
「昔話や怪談に出てくる【迷い家】みたい」
思わず口をついて出た呟きにお姉ちゃんが、
「そうね、人が住んでいればかなり雰囲気も違うのだけど、人が常住していなければ…」
「それでも、二月前には私達が起居しましたし、その後もサクヤさん達が居た様なので」
烏月さんの気遣う言葉でようやくわたしは。
その迷い家に縁の深い人の存在を思い返し。
ここに拾年前迄暮らしていた人は柔らかに。
「笑子おばあさんが生きていた頃から、民話や伝説に出てくる様なお屋敷だったから…」
「けいの地雷を踏みつける才能は一級品ね」
こう言う時に顕れますかノゾミちゃんは。
現身で先にお屋敷の間近へ浮いて進んで。
「屋敷の周囲に油を撒かれたと聞いたけど」
わたしにも油の匂いは感じ取れなかった。
サクヤさんなら反応していたかもだけど。
「葛様の手配で油は除去された筈だからね」
烏月さんの言葉にわたしも頷く。一月前このお屋敷へ、やくざさんが火を掛けに来たこ
とは、葛ちゃんやお姉ちゃんを通じて知った。若杉の人達やサクヤさんに撃退されたこと
も。
『奇跡の女性』の報道に不満な人がいた様で。お願いして報道してもらった訳でもないの
に。後半は、酷いバッシングが大多数だったのに。それも記者さん以外に、お姉ちゃんの
心を叩き折って、世間から隔離を望む人がいた様で。
お姉ちゃんは甘く優しく応対柔らかいけど、理不尽には譲らない処もあって。陽子ちゃ
んを脅かした屈強の男性記者を退け、桃花さんに夜に襲った不審者を撃退し。その故なの
か、一時は相当酷いバッシングも受けた。石を投げられたり、カミソリ郵送等の悪質な悪
戯も。
でもそれが引き潮の様に去った先々週から、記者さん達の張り付きも去った今月初旬か
ら、ぱったり途絶え。葛ちゃんもお姉ちゃんも安心して良いと。故に経観塚再訪もできた
訳で。
「経観塚は時折激しい通り雨が降るの。外壁や周囲に撒かれた油は、例え僅かに残ってい
たとしても、全て流された後なのでしょう」
荒らされた形跡でもあれば、不安だったかも知れないけど、その欠片もなく。わたしの
見知った夏の羽様のお屋敷が、その侭だったから。お姉ちゃんの推測に頷きつつ安堵して。
「確かに夏もすごい降り方していたものね」
「柚明さんも察し済みと想いますが、周囲に不審な者はおりません。安心して良いかと」
烏月さんは一言述べてからこの手を引いて。
連れだって日本家屋の戸口の前迄歩み至り。
ちょうちょが数頭、わたし達の到着を待つ様に、戸口の前で滞空している。2人で辿り
着いた戸口の目で足を止め、烏月さんは維斗の鞘を持って、太刀の柄をその戸口に当てて。
きぃぃぃいいいん。音にならない音が響く。
否、それは音ではなく霊的な結界の波紋で。
「もう大丈夫……中に入っても問題ないよ」
「羽藤屋敷には、若杉の術者が結界を張ってあった様ね……不審者の侵入を察する程度の、
微弱で殆ど何の役にも立たない結界だけど」
「お屋敷に掛っていた結界を、烏月さんが解いてくれたの。掛けられた鍵を開けたのよ」
烏月さんの言葉に、ノゾミちゃんとお姉ちゃんが付け加え。若杉はお屋敷に霊的な警報
装置を付けてくれておた様だ。それが今破れたと言うことは、今迄に不審者の侵入はなく
室内は安全と。鍵を開けたのが烏月さんなら、若杉から不審者侵入と間違われる心配もな
い。
烏月さんのお陰でわたし達も、若杉の手を煩わすことなく、寛いで羽様の時を過ごせる。
身を守る術を持たず、不安に陥り易いわたしの為に。お姉ちゃんはこの警護を頼んでくれ
て、烏月さんはこの警護を受けてくれたのか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「電気も水道も、問題なく使えて良かった」
「ですが、ガスはやはり使えなさそうです」
烏月さんは若杉が関りを持った以上、もう少し生活基盤が改善されていても良いのにと、
残念そうだったけど。お姉ちゃんは、夏の経観塚で使えた水と電気が使えれば充分ですと。
わたしの手でスイッチを引っ張ると、お屋敷は隣家迄数キロ隔たった広大な闇の大海の中、
一点のみ、頼りないけど文明の光に包まれる。
「ようやくノゾミちゃんと一緒にお弁当頂けるね」「私は別にけいの贄の血さえあれば」
居間のテーブルに烏月さんとお姉ちゃんが、両家のお弁当を広げ。わたしが小型電気ポ
ットのコンセントを差し込みお湯を作る。持ってきた粉末のお吸い物を、お湯で溶かして
…。
「真夏ではないから、朝に作った弁当が悪くなっている心配は、ないと思うのだけど…」
「だいじょうぶだよ。お姉ちゃんがずっと贄の血の『力』を、通わせ続けていたんだし」
今日の3食はお互いに持ち寄ったお弁当を。朝は合流した駅構内のベンチで、昼は経観
塚へ進む列車内で一緒に頂いて。両家がそれぞれに作った分量は、3人の3食分にしても
尚多かった気がするけど、意外と消化は順調で。
『これが、烏月さんの千羽妙見流お料理の奥義』『おにぎりだよ、喰らって貰えるかな』
喜んで! とわたしがかぶりつくその隣で。
お姉ちゃんも心から幸せな笑みを浮べつつ。
食して『このおにぎりは最強無敵です』と。
たいせつな人の笑みはわたし迄幸せにする。
『朝に続けて烏月さんのおにぎりを受け続け。
わたしの体や心にどんな鬼が潜んでいても。
これなら絶対生き残れないから安心だね』
『私の想いを宿すおにぎりが、桂さんを守り支えた事は嬉しいよ。修行の甲斐があった』
贄の『力』は鬼を滅ぼし敵を退ける一方で、心を癒し体も治す。癒しの技も精度が低い
と、病原菌も賦活させてお弁当でも雑菌を増やし、逆効果になるけど。お姉ちゃんは
『力』を及ぼす対象とその他を、詳細に峻別できる様で。お弁当は今尚食べ頃の色と香り
を保ち続けて。柚明お姉ちゃんは直接戦いに使えぬ『力』の扱いに優れる。というよりそ
れが本職の人だ。
「私が吟味しましょう。ノゾミには、千羽の弁当の吟味を頼む」「……どうして私がっ」
しかも、わざわざ千羽の『おにぎり』をっ。
でも烏月さんはノゾミちゃんの抗議を流し。
「これも今朝私が作った物で、桂さん達と昼に一緒に頂いたし、合流して以降柚明さんの
『力』を受けているので、食しても大丈夫だとは想うけど、万が一の事があっては困る」
「私なら、万が一の事があっても良いと?」
「桂さんの家を訪ねた時は、桂さんに先んじて柚明さんの作りたてを摘み食いする姿も見
かけたが。今回は公認で先に食べられるよ」
烏月さんの涼やかな受け答えは、脇で見ていても目の保養です。愛らしいノゾミちゃん
の少し拗ねた応対は、照れ隠しの様にも思え。それも険悪ではなくつんけんなのが良い感
じ。
「鬼切りの手を経た食べ物なんて……しかも鬼である私に『おにぎり』を勧める積り?」
「柚明さんの弁当のおかずは『お煮しめ』だけど、それは食する気満載で良いのかな?」
テーブル上のお弁当の煮物を、器に運んでいたノゾミちゃんの匙が止まる。羽藤家はみ
んな和食党なので食事も和食が多く、和食には煮物が多い。接頭語の『お』を附せば、大
抵の献立が鬼関係になってしまう。この時に至ってようやくそう気付いたノゾミちゃんに、
「芋の『お煮っ転がし』もノゾミちゃんの好みだったから、夜の献立に加えたのだけど」
「だいじょうぶ。お姉ちゃんの想いと力が効いているから。みんなで仲良く食べようよ」
お座敷に腰を落ち着けて足を伸ばし、温かい飲物等で気力も体力もかなり復し。光の下
で安らぐと、わたしはやっぱり昼の生き物と実感して。と同時に、生き血を持つ人として、
ノゾミちゃんの役に立てるのだと実感もして。
「思い出すよねー。ちょうど2ヶ月前にこのお屋敷で、この居間で。サクヤさんや葛ちゃ
んも含めて寛いだのが、昨日のことみたい」
「そうね……本当に今が夢のよう」「……」
「ずーっとこうして、大好きな人とのどかに朗らかに、何も心配することなく、みんなで
平和に日々を過ごして行ければいいのにね」
夕食を終えて一息ついたわたし達は、お姉ちゃんのちょうちょの先導に従って、夜のご
神木へ、白花お兄ちゃんへごあいさつに往く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
木。
たくさんの木。
高く伸びる木々それぞれが、好き放題に枝を伸ばし、空のほとんどを覆い隠してしまっ
ている。深い……林か森か。幹の太い古木が立ち並び、たけのある草が生い茂る狭い道を。
わたしはたいせつな人と月夜の下で歩み行く。
「烏月さんと夜のご神木に行くのは、初めてだね」「そうだね。私は鬼切部だけど、桂さ
んは昼を生きる常の人だから。鬼の刻限たる夜に、出歩く事は本来勧められないけど…」
事情が事情だし、付き添う者の守りも堅い。
桂さんも常の人だけど関係者ではあるから。
「烏月さんがいてくれるから、安心だものね。わたしもお姉ちゃんも、ノゾミちゃんも
…」
振り返ると、瓦の並ぶ屋根が見えた。
時代劇で見る様な立派な構えの門はないけど、拾年前から変らない見事なお屋敷だった。
拾年前より昔から、笑子おばあちゃんが生れるより前から、主がご神木に封じられるより
更に前から。羽藤の贄の血筋はここで生きて。
平屋の大きな日本家屋。
離れに見えるあの蔵は。
ノゾミちゃんとミカゲちゃんの封印された依代を、千年所蔵し。わたしが拾年前の夜に
入り込んで甦らせ。この夏にミカゲちゃんが、わたしを邪視で誘い導き。ノゾミちゃんと
の絆を断つ為に、わたしの記憶を甦らせ。でもわたし達の絆は解けず、逆にわたしはどう
しても思い出せなかった拾年前の夜を、甦らせ。
その拾年前の夜に始る白花ちゃんの定めを、絶とうとしてこの夏訪れた烏月さんと。そ
の拾年前の夜、若い身空も人の生も捧げ、オハシラ様になったお姉ちゃんと。その拾年前
の夜からの因縁を、絆に変えたノゾミちゃんと。こうして4人、同じ途を同じ目的で共に
歩む。
道の勾配がだんだん急になる。舗装されていなかったとはいえ、まだ道らしい道だった
道を外れ、草を分ける様にして、山道を進む。
ざっざっ、ざっざっ。ざっざっ、ざっざっ。
ざあぁっ……。
急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。
そこには見上げる程に大きな、数百の歳月を過したといった趣のある槐の大木が根を下
ろしていた。周囲は遠慮した様に、若い木も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。
鬼神を封じて還す為に、羽藤の祖先が太古、一緒に宿ったご神木。笑子おばあちゃんや
お父さんお母さんや柚明お姉ちゃん、代々の羽藤が祀り続けて。拾年前の夜にわたし達が
還してしまい。そのせいで今は白花ちゃんが…。
通り過ぎる秋の夜風に、無数の緑色の葉が。
ゆらりと揺れて幾つか散って、闇に消えて。
しばらくは誰も言葉を発さずその場に佇み。
月明りに照されて輝く巨木を4人で見上げ。
「夏も昼には何度か、来た事があったけど」
夏の夜と同じく丸い月が地を照し天を走る。
その真ん中に鎮座して空を支えるかの様に、
「やっぱり違う。ご神木が、息づいている」
日中のご神木が死んでいる訳ではないけど、それは別の生き物だった。眠っているのと
起きているのとの違い。贄の血の『力』も鬼の『力』も、昼より夜に強く働くと聞いたけ
ど。
『オハシラ様も、不可思議なもの。贄の血の【力】や、鬼に近しいもの。日中より、夜に
その真の姿が見えるのも、自然なのかな…』
お姉ちゃんが宿っていた頃からそうだった。
お姉ちゃんが宿る前からもそうだった様な。
『わたしの内側の何かが引っ張られている』
ノゾミちゃんに手を引かれた夜より前から。
ご神木の独特の気配に幼いわたしは導かれ。
『ここ、子供が来たら駄目だって。勝手に入ったらバチ当たるって……でも気になって』
禁じられずとも人の寄り付かぬ蔵や山奥へ。
禁じられても幼いわたしは夜に進み出して。
『そもそもどうして、わたしは拾年前の夜』
お母さんが倒れて間もない時に蔵になど。
普通の子供はそんな行動を取るだろうか?
『ノゾミちゃんがわたしを呼べた筈はない』
良月はあの時も尚封じの札に巻かれていて。
わたしの贄の血が付いてやっと声を出せた。
『森で遊んでいた幼いわたしも、道に迷い』
あの夜より前もわたしはここを訪れていた。
それは実は偶然の様に見えて偶然ではなく。
佇む幼い白花ちゃんとわたしを留めたのは。
心に直接響いた柚明お姉ちゃんの『声』で。
【桂ちゃん、白花ちゃん。近付いてはダメ】
拾年前の夜以前からお姉ちゃんは『力』を扱えて、時折不思議な業を見せており。幼い
わたしはそれを不審にも思わず、日常に受け容れていた。この時も声の届く範囲にいない
柚明お姉ちゃんが、頭の中に直接話しかけて。
【離れて。ご神木から離れて……そこでじっとしていて、動かないで。前に出ないで!】
深まる夕闇の中、わたしは頼れる物を求めていた。全てが色合いを失う中、確かな何か
に触れたかった。目の前の巨木の太い幹は正に頼れる確かな物で。それに触ることでわた
しは、触れた己も確かにしたく。そうしないと闇にわたしも呑み込まれ、消え去りそうで。
お姉ちゃんやお母さんが迎えに来る迄、確かに残っていたかった。そしてそれ以上にわた
しは、ご神木の不思議な雰囲気に心を惹かれ。
【ごしんぼく……?】
今のわたしの様に幼いわたしも、無自覚に。
幼いわたしの様に今のわたしも、夢心地で。
「触らないで……。桂ちゃん、お願い…!」
ご神木の間近に進み出て、その幹に触れようと、己が両の腕を伸ばしていたと、わたし
が気付けたのは。お姉ちゃんの繊手に背後から、強く抱き締められ我に返った瞬間だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『わたしは一体、何をしようとしていたのだろう……無意識に、ご神木へ手を伸ばし…』
「お願い桂ちゃん。ご神木には触らないで」
声音は静かだったけど、同時に真剣だった。
「桂ちゃんは贄の血が濃すぎるの。修練がなくても『力』の操りを知らなくても、羽藤の
遠祖が千年宿ったご神木は、白花ちゃんの意図に関らず桂ちゃんと感応を始めてしまう」
繊手はわたしの両腕ごと背後から抱き包み。
「修練もない素養だけでのご神木との感応は、堤防もなく濁流を招くに近いの。ご神木の
千年の想いが、見た事も聞いた事も感じた事も全て無秩序に流れ込む。良い物ばかりでな
い。哀しい事、悔しい事、様々な想いが渦を巻き。己を律する修練を経ないと奔流に己を
見失ってしまう。膨大な想いの洪水が混乱を招く」
知りたい事も知りたくない事も、順番も準備もなく流し込まれる。知ってはいけない事、
知る事が哀しみに繋る事迄も。だから、ご神木に子供は近づいてはいけない。濃い贄の血
を持って修練のない人や、夢と現が定かではない子供は、膨大な情報で正気を危うくする。
「桂ちゃんは夏の経観塚で、多くの辛い過去を思い出したわ。今尚解きほぐせてない記憶
はあるけど、徐々に取り戻せている。ご神木に触れて濁流を招かなくても、必ず全て思い
出せる。わたしも力を尽くすから、だから…。
ご神木に直接訊くのはしないで、お願い」
夏の経観塚でもわたしはそうお願いされた。
夢心地に虚ろな侭で鈍い思考は記憶を辿り。
あの時もお姉ちゃんは自身の願いではなく。
わたしの心が砕かれないようにと配慮して。
「お姉ちゃんの願いって、いつも願う人の為の物だったよね……自分自身の願いは脇に置
いて、わたしや白花ちゃんの為に、わたし達が傷つかない為に、わたし達にお願いって」
腕の締め付けを解かない侭緩め、その場でわたしは振り向いて、美しい従姉と向き合う。
唇が頬が触れそうな間近で瞳を覗き込みつつ。わたしからも滑らかな細身に腕を回し絡ま
せ。
「どうしてとか、何の為にとか、説明がなくても、お姉ちゃんの願いは受け容れる。だっ
てお姉ちゃんは、わたしのそんな願いを幾つも幾つも、心傷めながら叶えてくれたもの」
『無意識に夢心地に、足が出て手が伸びてしまっていたけど。たいせつなお兄ちゃんが宿
るご神木だけど。あの夜も今も、わたしはご神木に魅せられた様に歩み寄っただけで……
触ってどうしようか考えていた訳でもなく』
「わたし、ご神木には触らない。白花ちゃんとはお話ししたかったけど。お姉ちゃんの願
いを振り切って哀しませても、自分の願いを貫きたいとは、やり遂げようとは、思わない。
お姉ちゃんに、本当にのんびり微笑んで欲しい。幸せになって欲しい。これ以上わたし
やわたし以外の誰かの為に、傷みや哀しみを負う必要はないよ。厳しい戦いは終ったんだ
から。烏月さんの様に強く美しく正しい人が、わたし達を助けて守って、くれるんだか
ら」
もうこの人を手放しはしない。最も近しく愛しいこの人と、二度と離れ離れになること
は許さない。もちろん忘れることも。どんな鬼や神が行く手を塞いでも、わたしは絶対に。
「わたし、お姉ちゃんを心配させることはしない。お姉ちゃんの願いはいつも、わたし達
願う人の為だから。わたしお姉ちゃんの言葉に従う以上に、気持を汲み取れる様になって、
お姉ちゃんにいつ迄も笑っていて欲しい…」
この夏迄、拾年この人がいた事も忘れていた。未来を犠牲にして守られていた事さえも。
事もあろうに、こんなに近しく愛しい存在を。その歳月は取り返せないけど、それを笑っ
て受容する優しい人に、無限大の慈しみに少しでも報いたい。未来で報いる事はできるか
ら。
届かせられる限りの想いを、言葉には出し切れない想いを、肌身に伝えて尚伝えきれず。
そんなわたしに、この柔らかに静かな女性は、
「有り難う。その気持だけで、満たされる」
わたしの頭の上に、柚明お姉ちゃんの右手が乗った。お母さんがしてくれた様に、いや
昔柚明お姉ちゃんが幼いわたしにしてくれた様に、ぽんぽんと柔らかく頭を叩いてくれる。
幸せだった。お姉ちゃんには途方もない負担を掛けたけど、大変な回り道を通ったけど、
想い出せた今はとても。拾年の喪失は大きかったけど、その末にこの滑らかな手触りを取
り戻せたなら無駄じゃない。この温もりの懐かしさの意味を分る今が、それを絶対に手放
さず掴み取れた今が、この上なく幸せだった。
満月に近い大きく丸い月と星の明りの元で。
たいせつな人としばらく肌身添わせ合って。
これからもこうして一緒に生きて行きたい。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
今は白花ちゃんが宿るご神木は、わたし達が訪れても、何の変化もなく。人ならざる不
思議な気配を漂わせつつ、何の意志も見せず。
『反応を返さないのではなく、返せない?』
白花ちゃんはわたしと血の濃さが同程度で、『力』も扱え。お姉ちゃんよりも封じの要
の資格を持つと、言ってはいたけど。最愛の柚明お姉ちゃんを前に顕れられないのは。ご
神木がきちんと機能している様子は、分るけど。
疑念を抱き注意力が増した為か。周囲の様子が気に留まる様になり。ご神木の側面・根
元の一角に、ノゾミちゃんの視線が向いていると悟れ。気付けば烏月さんもお姉ちゃんも。
何となく見える気がした。否、視える気が。
そこはわたしも夏の経観塚で、憶えている。
「烏月さん、お姉ちゃん。あの揺らぎはまさか、良月を埋めた……」「やはり、そうか」
烏月さんは、わたし達で為したミカゲちゃんの弔い、良月の正確な埋葬場所を知らない。
それを示す様に、ご神木側面の根元の土が盛り上がって。明らかに周囲と違う気配が漂い。
拾年前の夜白花ちゃんに憑いて、お父さんを殺めた主の分霊は、お姉ちゃんに討たれた。
鬼神の封じは有効で、主の『力』が漏れた形跡もない様で。外からの救援も望めないなら。
「柚明さんに討たれたミカゲの怨念が、鏡の欠片に残り、地縛霊となって滞っている?」
烏月さんの冷静な声にお姉ちゃんが頷いて。
「良月を埋めた時は、わたしがオハシラ様を続ける積りでいたから、ミカゲも還せる見込
だったけど。白花ちゃんには難しいみたい」
そこで烏月さんがお姉ちゃんに直截に問を。
「祓ってしまわなくても大丈夫なのですか」
「夜でも再び現身を取る力はないでしょう」
わたしは夏の経観塚で、ノゾミちゃんとミカゲちゃんの共通の依代である良月を割った。
依る呪物が壊れぬ限り、滅びない霊の鬼も。
呪物を喪えば、又は呪物との繋りを喪えば。
浮遊霊となって拡散し薄まって消えて行く。
それを承知でノゾミちゃんは、わたしを守る為に自身も宿る良月を、ミカゲちゃんを倒
す為にわたしに割らせ。わたしは守りの青珠を差し出し、ノゾミちゃんを繋ぎ止めたけど。
ノゾミちゃんには青珠に憑く『力』もなく。良月の『力』を持ったミカゲちゃんが、ノ
ゾミちゃんを青珠に憑かせつつ。隠れて自身取り憑いたのは、ノゾミちゃんの生命も繋い
だ。でもその翌日夕刻に、わたしの贄の血と生命を吸い尽くしに顕れたミカゲちゃんは。
良月から持ち越した『力』の全てを投入し、柚明お姉ちゃんと戦い破れ滅び去った。その
夜に炸裂する暗闇の繭の詛いを、わたしに遺して。
ミカゲちゃんがあれ以上の『力』を残しているとは考え難い。あるなら全て注ぎ込んで、
戦いに勝とうとした筈で、残す事情なんて…。
あの夏の夜も、ミカゲちゃんの弔いに良月を埋めに行く前、お姉ちゃんはわたしの問に。
【埋めても大丈夫なの?】
【ええ。その子の分ぐらいなら大丈夫よ。ハシラの封じには影響がないわ】
その柚明お姉ちゃんは穏やかに答を紡ぎ。
「ご神木間近の結界は、悪鬼や魑魅魍魎を寄せ付けないの。ミカゲの怨念が幾ら滞っても、
夜に現身を取れない程の『力』では、独りではご神木の封じを揺るがす事も叶わない…」
「敢て様子を見ていたと、言う訳ですか?」
言葉を選びつつ烏月さんが更に問うのに。
柚明お姉ちゃんは微かに憂いを漂わせて。
「白花ちゃんの封じの継ぎ手としての資質は、封じを維持できるか否かの下限にありま
す」
血の濃さでわたしとお兄ちゃんは、お姉ちゃんを凌ぐけど。『力』の扱いを知らないわ
たしは、ハシラの継ぎ手になる資格を持たず。修行を経た白花ちゃんはその資格を持つ。
でも戦う為・鬼切りの為に鍛えたお兄ちゃんの『力』は、封じには不向きだとお姉ちゃん
は。
「白花ちゃんの『力』の操りは、敵の討伐を想定し、集約と炸裂に重きを置いています」
それは敵を倒す戦いでは有効だけど。敵を倒す必要がなく、保ち続ける事・在り続ける
事を求められる封じには、効果が薄い。むしろ夜昼構わず、寝ていても起きていても、24
時間常に一定の強さで『力』を紡ぎ続ける事が求められる。必要な力の素養が全く違うの。
「わたしと同じ位血が濃くて、『力』の修練も経ているお兄ちゃんだけど、封じの継ぎ手
を担う素養では、お姉ちゃんより不向き?」
ええ。それがお姉ちゃんの憂いの原因か。
「男の子と女の子の違いもあるわね。敵に打ち勝つ強さでは、一般に男の子が女の子を上
回るけど。傷み苦しみに耐え続ける強さでは、一般に男の子より女の子が勝る。女の子は
生れつき出産に耐える事が想定されているから。
人柱や生贄に女の子が多いのは、神や魔物が年若い娘を好む以上に。過酷な定めに耐え
続ける資質で女の子が勝るから。在り続ける事、耐え続ける事、保ち続ける事が必要な封
じの要は、男の子に不向き。白花ちゃんは」
心の強い子だから、桂ちゃんと並ぶ比類なく濃い血の持ち主だから。こなせているけど。
「封じの要はこなせているけど、ミカゲの怨念を還すには及んでない。手が回ってない…
…そう言う事ですか。それを見極める為に」
烏月さんは涼やかな目元をお姉ちゃんに。
「否、むしろその事実を彼に知らしめる為に、ですね。彼も羽藤の、桂さんと同じ血筋な
ら、相当の意地っ張りに違いない。柚明さんの察しが正しくても、事実を見せねば認めな
い」
「ゆめいなら、ミカゲを早く還せていた?」
「わたしがハシラの継ぎ手を務めていたなら、桂ちゃん達が羽様に滞在していた数日の間
で、ミカゲの怨念を還し終えていたでしょう…」
封じの要を引き継ぐ前に『力』の扱いを伝えて置けばと、お姉ちゃんは呟いていたけど。
伝えるだけなら感応の『力』を持つお姉ちゃんは今でも出来るし。ご神木に触れば一瞬で。
でもお姉ちゃんはなぜか、それを選ばず。
「継ぎ手を交替してから数日、わたしはかなりの量の『力』をご神木に注ぎました。サク
ヤさんや桂ちゃんを初めとするみんなを癒しつつ、己の肉の体を再生する。それに最低限
必要な分だけを残して、全ての『力』を…」
瞬間わたしはなぜかが分って身震いした。
柚明お姉ちゃんは一度触れれば、唯『力』の扱いのコツを伝えるだけではなく。同時に
自身の『力』を生命を注ぎ込む。わたしの美しい従姉はたいせつな人の為なら、自身を盾
にしても守り庇い、生命を削っても助け救う。むしろそうする自身をこの人は止められな
い。
実際拾年前お姉ちゃんは、身を捧げてオハシラ様になって、わたし達を助けてくれたし。
夏の経観塚ではわたしやノゾミちゃんの生命を繋ぎ、サクヤさんの致命傷を治し。その間
お姉ちゃんは何度消失し掛けたか。どれ程の傷み苦しみに自ら望んで進み出たか。白花ち
ゃんはわたしと並ぶお姉ちゃんの一番の人だ。
お姉ちゃんは夏の経観塚で、自身の体を作らないと消失してしまう状態で。鬼神の封じ
を継いだ白花ちゃんに、自身の生命を注いだ。そう言う時にこの人が自身に残す『力』は
常に最低限だ。この人がご神木に触れたなら…。
お姉ちゃんは、戻って来ないかも知れない。
その侭ご神木に張り付いてわたしの元には。
そう想って間近な女人の静かな受け答えを眺めると、憂いを秘めた仕草も気配も儚くて。
「でも……幾ら力を注いでも、彼の不足を補い切れない。彼が封じの要を担う限り、根本
的な改善は望めない。白花ちゃんの素養を試すと言うより、これはわたしの注いだ『力』
がどの程度白花ちゃんを支えられるのかを」
見定める為に直接祓うのを避けた訳ですか。
白花ちゃんに即座に害にはならない様だし。
お姉ちゃんならこの位の怨念はすぐ還せる。
でも外から『力』及ぼして祓うのではなく。
ご神木に『力』を注ぎ白花ちゃんを満たし。
白花ちゃん自身の力で祓える様になってと。
でも2ヶ月経って来てみると、この状況で。
世の中は、中々全てが巧く行かない物です。
【白花にはあたし達の声は、聞えるのかい?
あたし達に答を返す事は、叶うのかい?】
そう言えば、夏の経観塚でサクヤさんが。
問うた声に柚明お姉ちゃんは残念そうに。
【話しかければ声は届きます。中から外の情景を見る事も叶うので、傍に行けばわたし達
の到来は悟れます。ご神木に確かに馴染めば、繋りが深い人の気配なら、経観塚の町を越
えて所在も掴めますし、羽様に居れば心の表層を知る事も、顔色で機嫌を窺う様に可能で
す。でも彼から答を貰う事は、至難でしょう…】
そもそも封じの要が外界に人形で現れることが想定外と、サクヤさんも言っていたっけ。
先代のオハシラ様も千年の間、人形で顕れたことはないと。それを乗り越え、人形の現身
を取れた柚明お姉ちゃんが、どれ程すごいか。お兄ちゃんの現状を見て、改めて知らされ
た。
今の白花ちゃんは夜に現身で現れることも、蝶を飛ばすことも出来ず。夜にわたし達の
夢へ声を届かせることさえ、難しいとか。内向きに封じの要を努めるだけで、精一杯みた
い。
「一定の答は出た様ですが、この怨念はどう致しますか? 祓いますか、切りますか?」
維斗の太刀を突き立てればすぐ滅ぼせると。
烏月さんに問われてお姉ちゃんは否の答を。
「お姉ちゃん……?」
わたしの微妙な印象を察してくれたのかな。
ノゾミちゃんが微かに竦んだ気配を感じて。
滅んだ後の想い迄根絶やしにするのは。わたしにも躊躇があった。主の分霊だと分って
も、ノゾミちゃんにはミカゲちゃんは千年の妹で、情を残しているだろう。ノゾミちゃん
の言い出せない立場を、お姉ちゃんも分って。
「もう少しご神木に『力』を注いでみます。その結果を見定める為にも暫くはこの侭で」
烏月さんがお姉ちゃんの答に了承したのは。
わたし達のその感触を分ってくれたのかな。
烏月さんの目で視ても、ミカゲちゃんの怨念は、もう脅威ではないと言うことなのかも。
お姉ちゃんはわたしに、良月を埋めた槐の根元へは、手の届く範囲より近付かないでと。
「桂ちゃんは素養を眠らせているから、影響を受けてしまうかも知れない。叶う限りご神
木にも、独りでは来ない様にして頂戴……」
念には念を入れた用心に、わたしは頷き。
わたしが山奥のご神木へ来れば、嫌でもお姉ちゃん達を心配させる。呼び招く。ここ迄
来て今になって、お姉ちゃんをご神木に近づけるのは、不安が生じ。自身矛盾は感じてい
るけど。わたしは望んでご神木にお姉ちゃんを伴って訪れたのか、お姉ちゃんを1人でご
神木に行かせたくなくて、一緒に訪れたのか。
それで尚ご神木に心惹かれてしまうのは。
お兄ちゃんやご神木に抱く親近感以上に。
「うん……わたし、ご神木には1人で来ない。
さっきお姉ちゃんと約束した事もあるけど。
何だか、引き寄せられそうな気もするから。
白花お兄ちゃん……じゃあ、また来るね」
わたしは今も昔も、一体何に心惹かれて?
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
【ここは一体どこだろう】
しみが広がっている。
しみが広がっていく。
赤く歪む世界の中で、雫の滴る音に誘(いざな)われ、しみがどんどん、広がっていく。
両の頬を伝った雫が、顎で交わり滴り落ちた。
なぜかわたしは泣いていた。
ゆがむゆがむ、世界が歪む。
泣いているから、歪むのか。
この沢山の染みはわたしの。
【どうしてこんなに泣いているんだろう?】
しみが広がる。だけどだけど、涙だけで、こんなにしみは広がるだろうか。まるで水溜
まりの様に、夜空に浮ぶ月を映して……。
水よりも重い音。月は歪んでいる。
それは視界を阻む涙の所為でもあって。
止めどなく滴る、雫の所為でもあって。
ひとときたりとも円い姿を映さずに、ゆらと揺れては幾つにも別れ、歪んだ月の偽物が、
熱の失せた光を投げる。分らない。今夜空に浮んでいる月は、本当に丸いのだろうか。
わたしは顔を上げようとする。
ぱたっ……雫が頬を叩く。
ぱたっ……雫が額を叩く。
これは違う。涙じゃない。
考える迄もないことだ。降ってくる以上雨に決まっている。耳を叩く雨垂れの音。そう
言えば、夕方にも雨が降っていた。あれ…?
雨は上がって、わたしは月を……。
そうそう雨が降っているんだっけ。
月が出ているのに雨が降っているなんて不思議だ。出ているのが太陽なら狐の嫁入りだ
けど、お月さまの場合はなんて言うんだろう。
ぱたっ……飛沫がわたしに掛る。
雨だろうか。雨だろう。
そう言えば今は夏だった。
だからこんなに雨が暖かいのか。
熱い位の雨の滴が、ぱたぱたと。
つうっと滑った頬の雫が、唇の端から滲む様にじんわりと口中に広がった。
ほんの少し、しょっぱい味で。
ほんの少し、甘い芳香を含んでいて。
ほんの少し、たった一滴だったにも関らず。
それが雨でも涙でもなく、もっととろりと濃いものである事が、分ってしまった。かあ
っと身体が熱くなり、そのくせ芯はぞっと冷たく、そのむせ返る匂いにくらりと……。
歪む歪む、世界が歪む。
赤く歪んだ世界の中で。
この赤は、この雫の赤は。
指の短い、頼りない程小さい、あの夢で《視た》子供の頃のわたしの手が……。
その両手のひらが、べっとりと……。
赤く赤く、濡れ輝いていた。
【あ……】細く幼く怯えに掠れた、まるで他人の様な悲鳴。わたしの物とは思えない悲鳴。
【やだ……】
血塗れの手を否定したくて目を瞑る。
助けて、お母さん……。
いつもいつも、わたしを守ってくれたお母さん。でも、お母さんはもういなくて。
【助けて……】
愛しい人の顔がふっと浮んだその時。
手のひらが、わたしの両肩を包んだ。
その両手は大きく骨張っていて、あの人の手ではなかったけど、何だかとても安心でき
て。誰だろうと目を開くわたしの前に、ぽっかり空いた穴があった。人の胴を貫いた穴が。
そこから流れ出た血が、地面に大きな血溜まりを作っている。尚も吹き出る血の飛沫が、
ぱたっとわたしの顔に掛った。
【いや……なんで……】
わたしはむずかる様に身体を揺すって、両肩に掛る手を振り落す。するりと、力をなく
した手が落ちた。お父さんは、もう虫の息だ。
ずるりと、生命をなくした身体が傾いで。
【桂……】
最期に、わたしの名前を呼んで崩れ落ち。
わたしの手から滴った血が、血溜まりに落ちて雨垂れの音を作った。
わたしの身体は痛くはない。痛くないのは、これがわたしの血ではないから。
「いやあぁあぁあぁぁっ!」「けい! 起きなさい、けい!」「桂さん!」「桂ちゃん」
自身の叫びでわたしは悪夢から覚めたけど。
悪夢は終っても待っていたのは現実だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お父さんを……お父さんが、お父さんのお腹に穴が空いて、空いて向こう側が見えて」
お姉ちゃんや、ノゾミちゃんや烏月さんが、わたしを心配して寄り添ってくれているこ
とは感じていた。わたしの正気を取り戻そうと取り縋る感触も、声音も気配も悟れたけれ
ど。
わたしは心がいっぱいいっぱいで。視てしまった悪夢を吐き出さなければ正気を保てず。
「お父さんが死んじゃう。お父さんが、お兄ちゃんの腕にお腹を貫かれて。ううん、違う。
わたしを見つめて、腕を突き出したあの人は、体は白花ちゃんだけど、瞳は真っ赤に輝い
て。
白花ちゃんの伸ばした腕が、わたしに届かない様に、お父さんが立ち塞がったけど…」
お父さんの胴体に背中から穴が空けられて。
わたしの頬にぽたぽた血の滴が落ちてきて。
「お父さんが、お父さんが死んじゃった!」
わたしの所為で。わたしの為に。わたしが。
入っちゃいけない離れの蔵に夜に忍び込み。
鏡のお札を破ってノゾミちゃんを呼び出し。
ご神木の封じもわたしが解いちゃったから。
「桂ちゃん、落ち着いて」「気をしっかり」
お姉ちゃんと烏月さんの腕が左右から、わたしの体より心を掴まえようとして。でも…。
「わたし、ダメって言われた蔵に入ったことを怒られたくなくて、ノゾミちゃんにそれを
願って。そうしたら本当に、お父さんは怒る事がなくなった……笑う事も。わたしが!」
「叔父さんを殺めたのは桂ちゃんじゃない」
お姉ちゃんがわたしに語りかける強い声も。
真相を全て思い出せてしまったわたしには。
「お父さんを殺めたのは、わたしじゃない。
お父さんを殺めたのは、お兄ちゃんだよ」
でも……でもそもそもわたしが、あの夜に。
蔵へお兄ちゃんを連れて行かなかったなら。
白花ちゃんに主の分霊が取り憑く事はなく。
誰1人欠ける事なくみんな今も幸せだった。
「わたしが良月のお札を剥がさなければ、誰も酷い目には遭わなかった! あんな目に遭
う原因を作ったのは、このわたしなのっ…」
柚明お姉ちゃんが肉の体を捧げ、未来も抛ってオハシラ様になったのも。お兄ちゃんの
鬼を心に宿した過酷な人生も。お母さんが幸せな生活を突如断たれ、傷み哀しみを押し隠
して、過労で死んじゃったのも。お父さんも。全部わたしの所為だよ、全部わたしの為だ
よ。
「なのにわたしは拾年の間、のうのうと幸せに生きて。元気に学校行って、日々お友達と
遊んで愉しんで。独りだけ愛されて人の暮らしを続けていた。全部の原因だったわたしが。
みんなに守られ庇われて、傷み哀しみを何一つ知らず。ずっと忘れ去っていた。こんな
に近しくたいせつな人を、その人を不幸に陥れて守られて来た事実を、この夏迄ずっと」
人でなし……わたし、人でなし。鬼だよ!
どうやって償えば良いか見当も付かない。
こんな酷い結末を招いてみんなを傷つけ。
地獄行きだよ。絶対許される筈がないよ!
想いを言葉に表し切れない。後悔は、痛憤は、過去の自分への憎悪は、とてもわたしの
持つ言葉と呼気では出し切れなくて。号泣する他に術がなく。そして心の痛みにやや遅れ。
「痛い、痛い。赤い、赤い痛いのが、来て」
この拾年わたしは、心の傷み苦しみを忘れることで回避してきた。真の傷口である拾年
前の真実を思い出さない様に、『赤い傷み』で過去に伸びて行く思考を遮って。紛らして。
経観塚の夏以降、赤い痛みは過去を思い出した後に来る様になっていた。記憶を取り戻
し、思い出せる様になった結果、妨げる赤い痛みの発動が、間に合わなくなっている様で。
徐々にその痛みも薄らいで来ているみたいで。でもそれは今尚わたしには、かなりの苦痛
を。
「桂さん、しっかり」「桂ちゃん、大丈夫」
両脇から支えの手が伸びて。烏月さんの滑らかな繊手が、わたしの正気を強く支えてく
れる。柚明お姉ちゃんも肌身に癒しの『力』を注いで、わたしの苦痛を和らげてくれて…。
「わたしが許すわ。この世の何がどうなろうとも、わたしは最後迄あなたを愛するから」
美しい従姉は、感応の『力』でわたしの心に踏み入って、赤い痛みを共有してくれてい
る。魂を魂で抱き包まれた様な錯覚を感じた。
「この世の誰1人桂ちゃんを許さなくても。
桂ちゃん自身許されたくないと願っても」
わたしが必ずあなたを許す。例えあなたが悪鬼でも、鬼畜でも、わたしの仇でも。あな
たこそがわたしの一番の人。絶対見捨てない。あなたを愛させて欲しいのは、わたしの願
い。何度でも望んで喜んで全て捧げて悔いもない。
柔らかな感覚が心地良い。槐の甘い香りが心の傷を塞ぎ行く。静かに強く確かな声音が。
「桂ちゃんが地獄に墜ちるなら共に墜ちる。
そして必ずあなただけは救い上げるから」
身の硬直は、自身の地獄墜ちがこの美しい人の地獄墜ちに直結すると悟れたから。お姉
ちゃんの言葉に嘘はない。わたしが地獄に堕ちたなら、この人は必ずわたしを助ける為に、
地獄の底にも望んで墜ちる。そこにお姉ちゃん自身の助かる見込が、あろうとなかろうと。
己の苦痛で躊躇うことのない人だと、わたしは夏の経観塚や拾年前の夜やその以前から、
この人生全てで見て聞いて知ってきた。その積み重ねがわたしの号泣を凍らせた。わたし
が塞ぎ込み続けること・立ち直らないことが、この綺麗な人にそれ以上の負担を強いるの
だ。
例えわたしが嫌っても拒んでも、この人は成果も報いも求めず欲せず、何度でも望んで
わたしの為に全てを捧げる。わたしが応えなくてもこの人は、諦めずいつ迄も捧げ続ける。
わたしがこの想いに応えなければ、優しい従姉を更に苦しめる。それだけは絶対ダメ!
わたしの為に人生を棒に振った人を、更にわたしのせいで。何があってもそんなことは。
「あなたが幾度過ちを犯しても。あなたが幾ら罪に塗れても。必ずわたしはあなたを愛す。
鬼でも人でも構わない。咎があっても罪があっても。わたしはいつでもいつ迄も、望ん
であなたを受け容れ許す。そしてもし桂ちゃんに、他の人に犯した重い罪があるのなら…
…わたしが人生を注いで一緒に償うから…」
だから過去だけじゃなく今から未来を見て。
あなたの外側に開けている世界を見つめて。
耳から注がれる強い想いは、肌身に伝えられる確かな想いは、暗闇の繭に籠もり掛けて
いたわたしを、現実に引き戻す。幾ら辛く哀しく苦しく罪深い現実でも己自身でも、向き
合わなければ。この人が受けてきた傷み哀しみに較べれば、わたしの苦しみや辛さなんて。
「わたしの桂ちゃんは強く賢く優しい子…」
その傷み哀しみや悔恨は、桂ちゃんの優しさの証し、強さの証し。凄惨な過去に向き合
う桂ちゃんの意志の作用なの。逃げていた訳じゃない。赤い痛みの防衛本能が何度も現れ
たのは、桂ちゃんがこの拾年、何度も真実に向き合おうとした為で、強さの証し。過去の
悲劇に心を傷め流す涙は、優しさの証し。鬼畜でも人でなしでもない。強く賢く優しい子。
この人は、自身の傷み苦しみは語りもせず。その存在を露程も感じさせず。それより遙
かに気易く軽々しい、人の世の諸々に一喜一憂してきたわたしを、愛おしんで愛でてくれ
て。
「幼い心を壊されそうになって、本能は正気を守り通す事を選んだ。それは何も悪い事じ
ゃない。幼子が精一杯生き抜こうとしただけ。悔恨に心囚われないで。哀しみの欠片を踏
みしめて、その痛みに涙流しつつ、それでも過去をしっかり抱いて、今を見つめて生き
て」
無限の愛にわたしの悔恨が吸い尽くされる。
無尽の愛にわたしの絶望が染め変えられる。
わたしは、生きていても良いのではなく。
生きなければならない。少なくとも今は。
最も愛しい人の想いを無駄にしない為に。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
傍にノゾミちゃんが居る様に錯覚するのは、夏の経観塚からのわたしの日常だ。場を外
すことも時折あるけど、大抵声が届く処にいる。だから夢でも現でも傍に気配が漂う様な
気が。
お姉ちゃんとは、時々別行動にもなるけど。学校に行く時も、陽子ちゃんお凜さんと出
かける時も。青珠も携帯も身につけて離さないから、ノゾミちゃんとは本当にいつも一緒
で。
「……ごめんね、ノゾミちゃん」
だからわたしは夢心地で、ノゾミちゃんを半ば感じつつ半ば意識せず。空気があること
や重力があることに、普段人が無自覚な様に。
『わたし、拾年前の夜にノゾミちゃんを解き放った事を悔いている。あれがなければノゾ
ミちゃんと知り合う事は出来なかったのに…。
あの夜ノゾミちゃんを解き放たなければ良かったって、思っている。ノゾミちゃんが拾
年前、封じられた侭なら良かったって思って。わたしが罪から逃れたくて。ノゾミちゃん
のせいにしている。わたしって酷い子だよ…』
わたしが拾年前の夜を悔いることは、あれがなければ良かったと想うことは。その経緯
の上に経観塚の夏で絆を繋いだノゾミちゃんが、居なければ良いと願うことだ。どんな経
緯が過去にあっても、わたしの生命の恩人で、わたしも生命助けたく願ったたいせつな人
を。わたしはその不幸を願う、酷い女の子だった。
ノゾミちゃんを責めるのは、己が楽になりたいから。ノゾミちゃんに全ての責任を被せ、
自分が被害者になれば、わたしが心軽くなれるから。でもそれは本当は気休めに過ぎなく。
あの夜にわたしが為したことは、もう思い出した。忘れられない。取り返しも付かないし、
逃げられもしない。終生わたしに付きまとう。その気休めの為に、わたしはたいせつな人
を。
『お父さん、お母さん、お兄ちゃん、柚明お姉ちゃん、ごめんなさい……わたしのせいで。
拾年前の夜は、ノゾミちゃんのせいじゃない。わたしがこの手で、白花ちゃんを引っ張っ
て、蔵に入ってノゾミちゃんを甦らせてご神木に。誰かのせいにしようなんて、わたし醜
いね…。
それと、ノゾミちゃんもごめんね。わたし、たった独りのノゾミちゃんを、わたしがミ
カゲちゃんから引き剥がして独りにしたノゾミちゃんを。わたしの罪悪感の逃げ道にしよ
うとして……ノゾミちゃんを恨んでも憎んでも、拾年前わたしのやった事に違いはないの
に』
みんなが受けた傷み哀しみは変らないのに。
取り返しの効かない事は変えられないのに。
『罪悪感から逃れたくて、誰かのせいにしようとしている。わたしが原因なのに。一番辛
く悲しい想いをした人は、間近にいるのに…。
苦しい哀しいを言える立場じゃないのに。
ノゾミちゃんのせいにして楽になろうと。
こんなわたしじゃ、みんなに守ってもらう値がないよ。一瞬でも人の不幸を願うなんて。
それもこの拾年でわたしが掴めた、数少ないたいせつな人に。ノゾミちゃん、ごめんね』
明日起きたら、ノゾミちゃんは出られないけど。青珠に向けて謝らなきゃ。心から、心
からごめんなさいって。それと烏月さんやお姉ちゃんにも、ずいぶんと迷惑掛けちゃった。
ある程度予測できたとはいえ、翌朝の目覚めは、やはり余り良い物ではなかったです…。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
爽やかな日に照されて、目覚めはしたけど。
烏月さんもお姉ちゃんも一晩中一睡もせず。
この身に添って、両側からこの手を握って。
わたしを深く強く、想い案じてくれていた。
そのことに、嬉しさと安らぎを、感じつつ。
身を起こそうとすると、無理はしないでと。
滑らかな手でやんわり布団へ再度沈められ。
確かに心も体も未だ完全には復調してない。
「昨夜及ぼした癒しと痺れが未だ少し残っている様ね」
「ごめんね、お姉ちゃんも烏月さんもノゾミちゃんも。迷惑掛けて」
「気に病む事はないよ。私達は夏の経観塚で互いの事情に深入り済だしね」
「謝らなくて良いから、今は己の心身を復する事だけ考えなさいな」
近くの青珠からノゾミちゃんの声も届いて。
今はそのつんけんした答のあることが救い。
尚わたしを大事に想ってくれていることが。
わたしは自分の値以上に人に恵まれている。
烏月さんが持ってきてくれたカップ麺を…。
布団の上で見守られながら、半分程食べて。
でもまだ起きて動き回るのは早計と、お姉ちゃんは午前中に予定していた、経観塚銀座
通へのお買い物にわたしを伴わず。独りで行くから、わたしにはお屋敷で休んで居てと…。
病人扱いに、残念そうな顔色が視えたのか。
「烏月さんにお屋敷に残って添って貰うわ」
「桂さんにはあなたが添っていた方が良い」
買い物は私がしますと申し出た烏月さんに。
「わたしは役場に顔を出す必要もあるので」
お姉ちゃんは、経観塚の役場で復活した自身の戸籍を確かめる必要があり。住民票をわ
たしのアパートのある町に移す手続も必要で。本当は役場は土曜日休みだけど、こっちに
住んでいないお姉ちゃんの事情を汲んでくれて、担当の人が休日出勤で待っているとか。
それは他人で代行できぬ以上、買い物もついでに。
わたしはそれ程深刻な状況ではなく。黙ってお屋敷で寝ているだけなら、敵もいない今、
1人で2人を見送って、その帰りを待つ選択もあったけど。何となくそれは言い出せず…。
「桂ちゃんのこと、お願いします」「任されました」「行ってらっしゃい、お姉ちゃん」
三和土で柚明お姉ちゃんを2人で見送って。
再び布団に戻るわたしに烏月さんは随伴し。
身を横たえて静養するわたしの手を握って。
整った正座姿で凛々しい姿でわたしに侍り。
「眠いなら少し眠った方が良いよ」「うん」
烏月さんはわたしを気遣って物音を立てず。
ノゾミちゃんも青珠から出て来られない中。
田舎の秋の日は涼やかに静かに過ぎて行く。
「わたし、烏月さんに……お願いがあるの」
どの位2人の時間が経ってからだったろう。
わたしは烏月さんの手を強めに握り返して。
「烏月さんにお姉ちゃんを守って欲しいの」
涼やかな目元を引き寄せて、覗き込みつつ。
わたしはお姉ちゃんに聞かせられぬ想いを。
「お姉ちゃんは無理する人だから。夏の経観塚でも、わたしを守る為に無理を幾つも踏み
越えて。出来ない事を無理に叶えて。1人で傷み苦しみを抱え。それでもわたしを心配さ
せない為に、どんな時も柔らかに微笑み続け。
わたし、お姉ちゃんを喪いたくない。もう誰1人、たいせつな人は喪いたくないの…」
お姉ちゃんはわたしより賢く、色々な事を知っていて、強く優しく気配りできて。先が
見通せて、忍耐強く想いが深く。わたしが気付いた時には、危険を引き受け終っていたり。
気付けた傷み哀しみが、ほんの一部だったり。そもそもわたしが気付けてなかったり。わ
たし今迄、何度お姉ちゃんを踏み躙っていたか。
わたしがそんな子だから、お母さんの生命も縮めちゃった。なのにわたしはお母さんを
喪った自分の哀しみに涙して。本当に辛い想いを経て、誰かの為に流す涙も堪えて微笑み
続けていた人もいるのに。その守りや支えの上にわたしの人生があったのに。何も知らず。
「烏月さんは強いから、鬼や化外の力や武道を沢山知っていて大人だから。わたしよりお
姉ちゃんの考えや悩み苦しみを、推し量れると思うの。その上で守り庇って支える事も」
お姉ちゃんは、わたしの為だと何でも引き受けちゃうから。わたしが受けるべき報いや
しっぺ返し迄、前に出て受け止めちゃうから。
今のわたしには、柚明お姉ちゃんの傷み哀しみ苦しみを分ち合う力量や修練がない。力
不足で足手纏いで、お姉ちゃんの負担を増やすだけになる。幾ら愛しい人の役に立とうと
想い願っても、今のわたしにはその術がない。
「わたし、当代最強って言われたお母さんの血を引いても、鬼切りの業を究めたお兄ちゃ
んの妹でも、何も出来ない。贄の血があっても血の『力』を扱えなくて、迷惑ばかり掛け
ている。強くならなきゃいけないのに、しっかりしなきゃいけないのに。夢に魘され…」
守る側になれない。役に立てない。お姉ちゃんの負担や傷み哀しみを、分けて持つ事が
出来ないどころか、その源になってもいたり。その事にさえ、気付けてないかも知れない
の。
「拾年前の夜も忘れた侭、ノゾミちゃんと心繋いで、受け容れてって望んたり。酷いよね
……ノゾミちゃんと心繋げた事は、悔いてないけど。でもそれを、わたしに言われた時の、
お姉ちゃんの気持を考えると」「桂さん…」
経観塚から帰ってきた後も、マスコミの張り付きや酷い記事や、やくざの嫌がらせに迄
遭って。わたしがノゾミちゃんを憑かせた事が原因で不調だった暫くの間、お姉ちゃんは
独りで全てに対し続け。厳しい戦いは終ったのに。屈強の記者さんを退けて陽子ちゃんを
守ったり、刃物持ちの不審者を退けて桃花さんを助けたり。詰めかけられて石投げられて。
「これ以上お姉ちゃんに負担を掛けたくない。
もうこれ以上戦ったり心傷める必要はない。
烏月さんにお姉ちゃんを、守って欲しいの。
無理しない様に見張って防ぎ止めて欲しい。
お姉ちゃんは強いけど、元々戦いに向いた人じゃない。平穏無事に微笑む姿が似合う人。
闘う凛々しさよりのどかなお昼寝が似合う人。でもわたしには、守り庇う力も賢さもなく
て。
烏月さんも柚明お姉ちゃんを、大事に想ってくれている、その気持に、甘えちゃうけど。
わたしじゃ手が届かないの。首を挟めても却ってお荷物になる。お願い烏月さん。わたし
もわたしに出来る限りの、お礼をするから」
わたしの想いが届いた様な感触があった。
元々この人は清く優しく美しい人だけど。
慈愛の眼差しがいつもよりも更に温かく。
その侭唇が降りて触れてくれそうに思え。
「大丈夫。桂さんの願いがなくても、柚明さんは私にとって桂さんの次にたいせつな人だ。
私と桂さんは、私と柚明さんは、願いに応え守るのに、お礼を必要とする仲じゃないよ」