白花の咲く頃に〔乙〕(後)
桂さんは『力』を扱えず修練もないから。
野外で寝起きすると体調に響きかねない。
柚明さんがこの状態の桂さんを置いて、ご神木に没入できる性分ではない事を、桂さん
も分っている。双方大事に想っても、柚明さんは修行を経た彼より、鍛錬のない桂さんに
重きを置いている。桂さんは、自身を案じてご神木に行かないのでは、ここ迄来た意味が
ないと考え。体調の許す限りご神木に行きたいと。己が往く事で従姉の願いを叶えたいと。
「わたしもご神木に、お兄ちゃんに逢いたい。
わたしが逢いに行きたいの。お願いっ…」
それに、わたし何故かご神木の下に、行かなくちゃいけない様な気がするの。心惹かれ
るって言うか、気になって堪らないと言うか。
「体調はお姉ちゃんのお陰で戻っているし」
烏月さんが一緒してくれるなら心配ないし。
怖い鬼も顕れないし今は日の照る時刻だし。
「行ける条件は整っているよ。むしろ今が絶好機って位に。白花お兄ちゃんも、きっとわ
たし達に逢いたいと願っている。元気な姿を見せて安心させてあげたいの。……ダメ?」
柚明さんは従妹にそうして迫られると弱い。
そして何よりも了承可能な範囲だったから。
「分ったわ。じゃあ、一緒に行きましょう」
「わぁい。やっぱりお姉ちゃん、大好きっ」
桂さんは幼子の如く抱きついて、従姉の柔らかな肌身に頬を埋め。その感触に眼を細め
て堪能した末に、私の視線の存在を思い返して赤面し。2人の仲の良さは見ていて本当に
羨ましいよと、私は素直に受容を述べたけど。言葉に詰まる桂さんの傍で柚明さんは頷い
て。
私達は揃って山奥のご神木へ、再度赴く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
高く伸びる木々が、好き放題に枝を伸ばし、空を殆ど覆い隠している。私の両手でも抱
えきれぬ程太い幹の古木が立ち並び、丈のある草が生い茂る獣道を、私達は山奥へ進み往
く。
「わぁあ……紅葉がきれい!」「そうだね」
私達の住む坂東に較べて、奥羽は気候が冷涼で秋の訪れが早く。葉は赤に黄に色づいて。
「晴れていても、夏の時みたいにギラギラしてなくて、丁度良い日当たり具合だね……」
桂さんは少し汗ばみつつも体調は良好で。
「この辺で、白花ちゃんと間違われて烏月さんに組み敷かれ、刃を突きつけられたっけ」
「あの時は申し訳なかった。まさか彼とあそこ迄よく似た気配が顕れるとは、想定外で」
改めて手荒な真似を謝る私に、桂さんは。
「ううん、謝らせる為に言った訳じゃないの。
あの時烏月さんと再び逢えて、絆を繋ぎ直せて良かったなって……こうしてご神木に一
緒するのも、あの夏の仲直りがあってだもの。あの夜再び顕れたミカゲちゃん達から、わ
たしやお姉ちゃんを助けてくれたお陰も含め」
柔らかに朗らかに、語る仕草が愛らしい。
そしてこの今を導けたのは、間違いなく。
「お姉ちゃんのお陰だよ。前の夜に烏月さんに維斗の太刀で絆を切られた後で、切られた
絆は結び直せば良いって、教えてくれて…」
「わたしは、桂ちゃんの想いの整理を手伝っただけで……教えたのでもないわ。桂ちゃん
が自身の願いに気付ける様に、促しただけ」
桂ちゃんが烏月さんを大好きなのは、誰の目にも明らかだったし。烏月さんが桂ちゃん
との関係を、切らなければ断てない程大事に想ってくれていた事も視えたから。お節介を。
柚明さんが、私に謝る姿勢を見せるのに。
「いや……私も桂さんと過ごした時間は暖かく楽しかったし、柚明さんと過ごした時間も
同様に。桂さんと絆を断った時には未練もあったし、繋ぎ直せた事は本当に嬉しかった」
絆を断った時は少なからず寂しくて。繋ぎ直せた時は、過ちを取り返せた気分だった…。
話しを弾ませつつ私達は、山道を登り進む。
何度も来た道なので、昼なら危うさもなく。
道なき道も、さほど怖れずに、草を分けて。
ざあぁっ……。
急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。
周囲は遠慮した様に、若い木も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けていて。だからご
神木の側面に、やや新しく掘り返し土を盛った痕は見える。昨夜来た時と違って、立ち上
らせる空気に異質感がないのは、日中の故か。ご神木の神秘的な空気も幾分減じられてい
る。
桂さんが同様の感想を述べると柚明さんは、
「そうね。眠っているのと起きている位の違いかしら。ご神木も鬼ではないけど化外の
力を秘めた霊的な存在。その本性は昼は鎮まり夜に息づく。わたしがオハシラ様だった時
も、わたし達が祀っていた先代のオハシラ様も」
埋めた良月の欠片に残存していたミカゲの怨念は、消失したのだろうか。昨夜感じた異
質な空気が欠片も感じられないのは。昨夜の内に柚明さんが、何か手を打っていたのか…。
柚明さんは昨夜、桂さんに肌身添わせつつ、夜中『力』の蝶を飛ばせていた。多分彼の
宿ったご神木に。彼が為す鬼神の封じの助けに。それは朝の陽が昇る直前迄。私と2人で
左右から桂さんの傍に添って、その心を支えつつ心身にも癒しを及ぼつつ、同時並行で。
それは彼女にも、相当の負担だっただろうけど…。
『それでも直に触れるより【力】の伝播は弱い筈だ。柚明さんは触れて彼を助けたいだろ
うけど。今はそれをさせる訳には行かない】
今回は桂さんも、意識してご神木に触らない様に、近付きすぎない様に務め。ミカゲの
怨念の痕にも近付かぬ様に。その為なのか特段の問題は生じず。爽やかに晴れた秋空の下、
涼やかな秋風に肌を晒して髪を靡かせ、赤や黄の紅葉を見渡して。その彩りを愉しんで…。
暫くの後に私達は帰途に就いたけど。日が暮れる前に帰着出来る様にとの動きは、当初
予定通りだったけど。柚明さんが最後迄ご神木に直に触れなかったのは、桂さんに触らな
いでと頼んだ立場の故か。それとももしや?
日中に訪れても、直に触れねば『力』を注ぎ足す事は叶わず。彼との感応も困難で、力
にはなれず。ここに来ても柚明さんは、彼よりむしろ桂さんの様子を心配げに窺っていて。
桂さんも、ご神木の中の彼に語りかけてはいたけど。微妙に勝手が違う印象で。何と言
うのだろう。昨夜の再来を期待していた様な。彼女自身、何がどう己の期待と違うか掴め
てない感じで、でも拍子抜けした印象は拭えず。
彼を感じ取るには夜の方が望ましいけど。
「また来るね……白花お兄ちゃん」
桂さんも夜のご神木を所望なのだろうか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「五右衛門風呂……、入れるの?」「ええ」
柚明さんはその分も考えて薪拾いしており。山登りで少し汗ばんでいた桂さんは、その
提案に瞳を輝かせ。さかき旅館の日帰り入浴は昼のみで、今から行っても着いた頃に時間
切れになる。桂さんは今日の入浴を諦め、近くの川で冷水浴でもしようかと考えていた様
で。
「わたしがお夕飯の支度をしますので……」
「分りました。私が風呂の釜を見ましょう」
柚明さんに休んでいる様に促され、桂さんは元気なのにと呟きつつ。昨夜の事もあるし、
今日も山登りで疲れていたから。私も重ねて促すと、桂さんは西日の差す部屋で待つ事に。
ノゾミが見てくれればと想ったけど。夕刻だから顕れても良い頃だけど。呼び出す迄は
要らないかと思い留まり。桂さんもそこ迄重ねて心配されると、逆に重荷に感じるだろう。
風呂の釜に火を付けて、その火勢から暫く目を離さないでいたけど。不意に感じたのは。
『維斗に、誰か近付いている……桂さん?』
私の気配を察する術は、並の武道の達人の延長線で。感応の『力』程詳細に広く悟れは
しない。それでも状況や場によって、五十メートル範囲なら察せる事もあって。特に維斗
は私と強く繋った呪物だから、敏感に悟れる。
維斗よりも桂さんが危うい。万が一刃でケガでもしたなら。桂さんが私の寝所にした部
屋に無断で入り込み、維斗に触れるとは想定外だった。慌てて邸内に入り、廊下を馳せて。
「けい、ちょっとお待ちなさい。そこは…」
ノゾミが現身で浮いて桂さんに話しかけて。
柚明さんはわたしよりも僅かに早く室内に。
桂さんは魅せられた様に維斗に手を掛けて。
持ち上げようとして重さでバランスを失い。
持ち上げた維斗を手放しつつ前に倒れ掛け。
鞘に入った侭だけど、素人には危ない物だ。
「けいっ!」「桂さん!」「桂ちゃん……」
私が桂さんの右半身を両手で支えた時には。
ノゾミがその左半身を引っ張り支えていて。
柚明さんが従妹の手放した維斗を身に抱え。
万が一にも刃が桂さんを傷つけぬ様に庇い。
桂さんは、脱力して抗う様子もなく無事で。
この3人で桂さんを共に守る日が来るとは。
「けい、あなた何を為しているか分って…」
そこ迄言いかけてノゾミも、桂さんの反応が虚ろな事に気付き。夢現の侭で動き出した
感じで。私達に触れられ支えられて、声掛けられ問われて、その表情が微かに反応を示し。
桂さんは魅せられた様に維斗に手を掛けて。
握って持ち上げ確かめようとした様だけど。
柚明さんが抱え込んでいた維斗を返してくれて。桂さんが届かない部屋の隅に置き直す。
ノゾミが桂さんを抱えて居間へと連れて行き。その間に桂さんは我に返って、事を思い返
し。
「ごめんなさい! わたし、こんなっ……」
とりとめもない事を考えている内に、烏月さんの事を思い返して。烏月さんが重い太刀
を意の侭に揮っているのを見て、あの太刀はどの位の重さなのかなって。現実感がなくて、
これは夢なのかもって思ったら、ついつい…。
「癒しを及ぼしすぎたのかも知れないわね」
柚明さんは従妹の心身を気遣って、ご神木からの帰着後も桂さんに癒しを及ぼしたけど。
それは疲れや緊張を拭うと同時に、心身を弛緩させ、夢と現の境を崩す副作用も伴うのと。
大人しくしていたり眠るなら問題はないけど、動き回る時には不都合があるから使い難い
と。
「一部の感冒薬の様な物でしょうか? 眠気を招く怖れがあるので、運転する時には服用
を控えて下さいという」「そうですね……」
注意はするけど叱る気はない。でもその原因は把んで次を防ぎたい。不用意や不注意は、
人を傷つけ生命も奪う刃だからこそ防ぎたい。そんな私に柚明さんは頷いて更に話しを続
け。
「機械や炎を扱う作業や、高所への往来などは避けた方が良いと思います。少しうたた寝
していてくれればと思ったのですけど、わたしの見立てが甘くて……申し訳ありません」
「それは、あなたが謝る事ではありません」
「そうだよ。これはわたしが悪かったのっ」
烏月さん、ごめんなさい。大事な鬼切りの太刀に、不用意に触って。お姉ちゃんにもノ
ゾミちゃんにも、心配させてごめんなさい…。
「全くけいは、私がいないと何をやり出すか分らない。本当に世話の焼ける小娘だわ!」
「うう、今回ばかりは返す言葉がないです」
ノゾミの叱責は無事だった安心の反動か。
怒りつつ顔が綻びかける感触が見て分る。
「維斗は鬼切部の破妖の太刀で、先代から受け継いだ千羽党の重宝で、余人に触れさせる
物ではないけど。それ以上に桂さんが身を傷つける怖れがあるから……見たいなら、言っ
てくれれば間近で抜いて見せても良いけど」
桂さんの安全の為に私に話しを通して貰う。
私は声音を平静に厳しくならない様に努め。
「はい。もう勝手に触る事はいたしません」
桂さんは、平身低頭に近い感じで頭を下げ。
柚明さんもノゾミも私も、受け容れたけど。
私はこの時に、微かな不審を見逃していた。柚明さんの癒しの過剰が、従妹の夢現を招
いても。その先に桂さんの意志がなくば、あの部屋に移動はしない。癒しの過剰は彼女を
無心にしただけで。無心になった桂さんは潜在意識の侭に動き出した。何かに促される侭
に。
後から思い返せば気付くべき材料はあった。夏の経観塚や昨夜や今も、桂さんの周囲に
様々に。私もそれを、彼女と共に見て感じて来た筈なのに。見えて視えず、この目は節穴
で。
私は遂に自力では真相に到る事が叶わず。
彼女の内に真実を沈ませた侭夜を迎える。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夕飯の後で湯に浸かり。桂さんが早く床に就くのは、昨夜の影響より午後の山登りの故
だろう。私や柚明さんは疲労にも耐性がある。
外は丸く大きな月が昇っているけど、夜更けと言うには未だ早い。でも近隣数里に民家
のない日本家屋は、文明の光が瞬いても闇の大海に浮ぶ孤島で。テレビもないので静謐で。
耳に届くは風の音か、枝葉の擦れ合う物音で。
都会と違って田舎の夜は、静かに過ぎ行く。
桂さんがそろそろ寝ようかと言った頃合に。
「烏月さん、お願いです……今宵も、桂ちゃんの眠りに寄り添って頂きたいのですけど」
「お姉ちゃん?」「柚明さん」「ゆめい…」
昨夜は私もノゾミも柚明さんと共々、桂さんに朝迄寄り添い続けた。でもあれは桂さん
が悪夢に魘されたからで。しかも3人で寄り添ったから、誰とも2人きりにはなってない。
柚明さんが予めそれを私に頼むと言う事は。何もなければ今宵彼女は従妹に添わぬ積り
か。でも、何もない事が前提でも、昨夜あれ程魘された桂さんに自ら添わず、私に委ねる
とは。
「わたしとノゾミちゃんは、時折桂ちゃんの夜に添っていますし。烏月さんと一つ屋根の
下を夜も一緒出来る貴重な機会です。悪夢を見ない様に、少し『力』を及ぼしますけど」
柚明さんは桂さんの同意より先に、正座から両手をついて額づいて。桂さんは驚きでど
うするべきか、分らない感じで戸惑い。私は、
「承知しました。桂さんさえ良ければ、今宵は私が、朝迄桂さんに寄り添いましょう…」
柚明さんの、桂さんや私を想う気持は嬉しいけど。これは私と桂さんで決めねばならぬ。
柚明さんの真意は、私と桂さんが意思を表し易くなる様に、流れを導いたと言う処なのか。
桂さんも耳朶を赤く染めつつ小さな声で。
でも彼女自身の意志で確かに心を決めて。
「ふつつか者です、よろしくお願いします」
言葉尻を追えば柚明さんは、私に桂さんの眠りに添ってと頼んだだけで、同衾もそれ以
上も求めてない。昨夜為した様に眠る桂さんの傍に座し、手を握り続けるだけでも要件は
満たすけど。それ以上を承諾した様にも聞え。
桂さんはその様々な可能性に考えが及んで、体温が数度上がった様だけど。血行を増進
し、従妹の思索を特定の方向に向けて悪夢を事前に防ぐ。これは柚明さんの、桂さんの心
身に為した一種の措置か。桂さんは頬を朱に染め。
「ちょっと、おトイレに、行って来ます…」
桂さんが外してくれたのは好都合だった。
「……柚明さん。感じましたか?」「はい」
ノゾミも私が感じた人の気配を察している。最終バスが通り過ぎて随分経った田舎道か
ら、緑のアーチの夜の闇を抜け。成人男性が複数接近し。車道の脇に車を駐めて歩み来る
のは、接近を悟られない為か。では不意打ち狙い?
「夜更けに人里離れた家を男が訪ねるとは」
「大丈夫です。彼らにこの刻限を指定して招いたのは、わたしですから」「ゆめい…?」
彼女はこの事態を予期していた。と言うよりこの事態を設定した様だ。だがわざわざ夜
に彼らを羽様の屋敷に招くとは。まさか柚明さんがここを再訪したのは、彼らの件・彼ら
との関りに、決着を付けようと考えてなのか。
『でも、柚明さんはどんな決着を考えて?』
柚明さんは桂さんが寝付いた後、彼らが着く様に時間設定した様だけど。相手の来訪が
やや早かった様で。でも大きな障りはないと。彼らは予定より早く着いた為、屋敷を前に
様子を窺っている。否、その様に導いている?
「ゆめいあなた」「柚明さん……」
「心配は不要です。彼らはわたしや桂ちゃんの生命を狙っている訳でもなく、害する意図
も持ってない。誠意を込めてお話しすれば」
桂さんの願いに押されて、午後のご神木行きを容認したのは。桂さんを適度に疲労させ
て早く寝せ、夜の案件に絡めない意図も潜ませていたのか。そして今柚明さんが望むのは。
「烏月さん、桂ちゃんを……お願いします」
『その代りわたしが来訪者を引き受けます』
彼らが敵なら絶対この役割分担は認めない。
私が先頭に立って引き受け、撃退するけど。
話し合いなら柚明さんが、応対するべきか。
小さく頷き戻り来た桂さんには何も報せず。
それが柚明さんの意図なら今はそれに随い。
彼女に危難が生じれば割って入る腹は固め。
「任されました……無理は為さらない様に」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
桂さんは眠りの園にいる。柚明さんの癒しの効果か、悪夢を見ている様子はない。布団
に添った私の右手を右手で軽く握って放さず。整った顔立ちは、無心であるが故に無防備
で。
「夜分遅くに、失礼しますよ」「はい……」
玄関から男の野太い声が響いても、その表情に変化はなく。暫くの後、足音が隣の部屋
に入って行って、話しは始る。ノゾミは現身を解いて身を潜めており。話しに割って入っ
たり、勝手に幻覚等を及ぼす積りもない様で。
訪れた刑事は気配通り2人だ。初老の沢田槙久と、四拾歳過ぎの川口一博。2人とも先
月から報道陣ややくざに紛れ、桂さんのアパート傍に潜み、柚明さんの様子を窺っていた。
日本では今、1人の人間の死の扱いが重い。若杉の裏の力でも使わねば、真相追及を逃
れる事は困難だ。羽藤白花の様に行方不明なら兎も角、桂さんの父は死亡を確認されたの
だ。
「粗茶ですが」「これはご丁寧にどうも…」
柚明さんは鬼や霊の絡む話しを、警察にどこ迄明かす積りなのか? 贄の血の事情は軽
々に口外すべきでないし、鬼の話しは鬼切部が公にされる事を厭う。そもそも今の世では、
霊や鬼は存在しないという公式見解があって。刑事は仮にそれらを聞いても、職務上聞き
入れる訳に行かず。第一彼らとて信じはすまい。
両者のやり取りは襖を越えて、漏れ聞える。
荒事になれば即座に割って入る積りだけど。
出番を見誤ると逆に大変な失態なので私は。
ノゾミ同様に息を潜め耳を欹て形勢を窺う。
「桂ちゃんはこの夏に、拾年唯一の肉親だった叔母さんを喪ったばかりです。不要に過去
の傷み哀しみを掘り返させたくない。今宵はお2人が納得行く迄わたしが応えますので」
桂ちゃんへの事情聴取は、お止め下さい。
柚明さんは戦いに臨む程の気合に満ちて。
「今宵はどうか、最後迄お付き合い下さい。
俄には信じ難い中身もあると思いますが。
羽藤柚明が全身全霊お相手申し上げます」
隣室に隔たっていても尚柔らかく清冽で。
屈強の刑事2人が気圧される様子が分る。
「拾年前の夜ご神木の前で、一体何が起こったのか、それから拾年お嬢さんがどこで何を
していたのか、じっくり聞かせて頂こうか」
初老の男の促しに柚明さんは頷いた様で。
「郷土資料館には竹林の姫の説話が展示されていた筈です。羽藤の遠祖でもある伝説が」
羽藤の血筋は、代々贄の血を宿しています。
鬼や神に甘く香って誘い招く、特殊な血を。
それを得た神や鬼に膨大な力を与える源を。
「叔父さんは未検証な異説や出所の不確かな伝承の採用に消極的でしたので。竹林の姫が
高貴な人々や鬼神に迄望まれ欲された理由を、姫の美しさとのみ記していますが。本当は
その身が宿す類い希な程濃い贄の血を、望まれ欲されたと聞いています。鬼神が贄の血を
手に入れて、更に強大になると怖れた者達によって、鬼神は戦い敗れ封じられましたけ
ど」
『柚明さんは、最も隠さねばならぬ核心を。
彼女は一体、どの様な見通しを持って…』
「お2人が、何度も訪れて頂いたご神木には。封じの要の人柱と封じられた鬼神が、今も
宿り続けています。羽藤の家は代々封じの要を、オハシラ様と呼んで祀ってきました。そ
の宿るご神木が、長い歳月を掛けて強大な鬼神を封じつつ、徐々に力を吸い上げて虚空に
還す。その副次効果で、贄の血の匂いを紛らせる結界が、ご神木を中心に拾里四方に巡ら
され」
代々の羽藤の者を、唯見守ってくれるのみならず。確かに守ってくれていました。贄の
血を宿す羽藤が、以降神にも鬼にも狙われる事なく血筋を繋げてきたのは、そのお陰です。
「あんたも贄の血持ちと、言いたい訳かね」
若い刑事の問い返しを、柚明さんは肯定し。
幼い彼女の血の匂いに導かれた鬼の話しを。
父母が生命を抛って彼女を庇った旨を語り。
故に柚明さんは、羽様の祖母に引き取られ。
羽藤に嫁いできた先々代に双子が生れると。
守り庇う強さを欲して、武道の修練を願い。
「その鍛え上げた武技で叔父を殺め、双子の片割れを攫って逃げたのかい? あんた…」
若い刑事は武道と言う言葉にのみ着目して。
ここが真相の吐かせ時だと一気に畳みかけ。
桂さんは死んだ様に熟睡して身動きもない。
「拾年前の夜あんたの叔父・羽藤正樹は、何者かに腹を抉られ殺された。自殺でも事故で
もない。状況は明らかに他殺を示している」
現場にいた人物は限られている。普段人が踏み入らぬ禁忌の山。通り魔や物取りが山奥
を通り掛る事は考え難い。幼い双子を除けば、人を殺められる意思と力を持つ者は3人だ
け。
「殺された羽藤正樹が犯人の筈はない。なら、もうホシは残りどちらかでしかあり得な
い」
「……拾年行方不明で、羽藤真弓の死の直後に現れたあんたの方が、余程怪しい。あんた、
真弓に顔向けできない事情があったんだろう。
あんたが羽藤正樹と男女の仲になり、妻を含めた三角関係の縺れで彼を殺め、幼子の片
割れ、羽藤白花を攫って逃げた。違うか!」
「違います……それは真実ではありません」
謂われのない嫌疑にも柚明さんは尚冷静で。
激昂を誘う大声の追及も彼女には通じない。
「わたしは叔父さんも叔母さんも、愛していました。賢く優しく強い人で、わたしの一番
たいせつな白花ちゃんと桂ちゃんの父母です。愛した人を哀しませる事は、望みません
…」
でもその様な嫌疑自体が、彼女の心を苛む。
穏やかに平静に応じても負荷は掛っている。
「姪でも年頃の娘だ。若い妻が居るとは言え男なら、食指を誘われるかも知れん。あんた
も近隣は家もなく寂しい一軒家で。男を欲する歳になれば、目の前には独りだけだろう」
「叔父さんは大好きな人でした。幼い頃から憧れた、賢く頼れる優しい父の様な人でした。
でも、否だから例え彼に惚れても。若く美しい奥さんがいる叔父さんと男女の仲になって、
家族の絆を壊したいとは望みません。後悔を招くと分ります。叔父さん叔母さんを哀しま
せます。白花ちゃん桂ちゃんを涙させます」
そこへ年輩の男が同情的な声を脇から挟み。
彼の示唆は、桂さんの父が柚明さんを養っている立場を笠に着て、姪の操を奪ったので
はという疑念で。柚明さんが武道に長けていても、不意を突かれたり弱味を握られれば話
しは別だ。柚明さんが穢されたと知った先々代が、夫を問い糺したのが拾年前の夜ではな
いかと。柚明さんが桂さんの父を殺めたのも、先々代が拾年沈黙を保ったのも、その故だ
と。
「犯罪は、悪意や物欲だけで起きる物じゃあない。時には愛や情けや、責任感の故に生じ
る悲惨な事件もある。一家心中とかね……」
一方が、下世話な話しに踏み込んで自白を強い。もう一方が同情的な姿勢で、鎖した心
が解けるのを待つ。北風と太陽の寓話の様に。
「叔父さんは、その様な事を実行に移す人物ではありません。わたしもその様な事をさせ
はしません。御両名の推測は外れています」
彼女は挑発にも優しげな問にも動揺はなく。
刑事の抱いてきた疑念を訊いて否定を返し。
「わたしはここ数百年で稀な程、贄の血が濃い様です。望んでそう生れた訳ではありませ
んけど。その故に鬼に目を付けられ、父母の悲運も招きましたけど。白花ちゃんと桂ちゃ
んは、わたしを越えて更に贄の血が濃く…」
笑子おばあさんは、わたしを導いてくれました。わたしより更に血の濃い幼子を導く素
養は、この身の内に眠っている。わたしが進める限り先へ進んで、愛しい幼子を導きたい。
守り庇い尽くし捧げ愛したい。元々この生命は生命を抛って遺された物で、誰かに捧げ尽
くす為に、暫くわたしが預っているだけの物。この血の濃さが逆に幼子の道標になるのな
ら。
「拾年前のあの夜幼子達は、入ってはいけないと言ってあった蔵に入り。訳が分らない侭
に鬼を封じた古鏡・良月の封印を引き剥がし、鬼を解き放ってしまいました。ご神木が封
じる鬼神の配下で、ご神木の焼き討ちを企てた為に、数百年前に陰陽師に封じられた鬼
を」
良月の名に刑事が反応したのは。それが夏の経観塚で郷土資料館から盗まれた物だから。
ミカゲ達が鹿野川という教諭を、魅惑で操ってそうさせた上で、最後は殺め。良月は桂さ
んが叩き割り、その破片はご神木の根元に埋められて。公式には今も行方不明扱いだけど。
柚明さんの口から古鏡を巡る輻輳した経緯が語られる。拾年前の夜の直前迄良月は羽藤
家にはなく。桂さんの父の尽力で正当な保管者の元に戻った事が、事件の引き金になった。
柚明さんは呪物の返却・蔵に置かれた事を把握しておらず。良月は厳重に封印されており、
蔵は結界の作り故に柚明さんにも察せられず。拾年前の運命の夜に、幼い双子は蔵を訪れ
…。
だが違う。刑事2人が我を失う程の驚愕は。
話しの内容ではなく。それ以上に伝え方が。
「なん、だ。これは」「瞼の裏で絵が動く」
柚明さんは『力』を刑事2人に直接及ぼし。
私も聞いて知った拾年前の夜の真相を視せ。
「2人は鬼に魅惑されて、ご神木への山道を歩まされ。叔父さん叔母さんも、わたしも後
を追いました。夏でも山の朝夕は冷え込むし、時折雨も降ります。幼子が一晩外で過ごす
だけで危ういのに、人を魅惑し殺める鬼が伴う。その目的はご神木の封じを破り、鬼神を
解き放つ事で。甦った鬼神が幼子の贄の血を欲した時は、誰もそれを止める事は叶わない
…」
ご一緒下さい。柚明さんはその場を動かぬ侭で、玄関へ繋る離れた襖を開き。自動ドア
等ではない。『力』を見せつける様に行使し。光の蝶も刑事2人に視えてしまう様に舞わ
せ。
「わたしは、お2人に害意を抱いていません。わたしの話しを信じて頂けなくても。この
腕に手錠を掛けられたとしても。お2人に何の危害も加えはしませんし、その身に何か危
難が生じた時には、わたしがお守り致します」
『彼女はノゾミや私の介在を改めて不要と』
「この先のわたしの言葉に耳を傾ける値があると思われたなら、ご神木へお越し下さい」
柚明さんは、その侭屋敷の外へと歩み行く。
刑事2人は僅かに躊躇して、結局後を追い。
成り行きは気になったけど。心配だけど…。
ノゾミが霊体で彼らに追随する感触が悟れ。
『私は桂さんの守りを柚明さんから託された。
彼女が一番たいせつに想う双子の片一方を。
私が一番たいせつな人の心の支えと守りを。
柚明さんは愚者ではない。軽々に己を抛って、想い人を哀しませる人でもない。刑事2
人とどの様な展開を経ても、若杉幹部が怖れる事態は生じない。常の人を伴う事で、逆に
彼女の行動は強く縛られる。悪人ではないと言った刑事2人を、巻き込み踏み躙る事を望
まない。むしろ彼らを守り庇う位の事をする人だ。今宵は葛様の第二の命は、発動不要』
桂さんの手を強く握り締めて、己を抑え。
『ノゾミは柚明さんから、何の指示も受けてない様だけど……その真意は察せてなくても、
柚明さんを案じる想いは疑いない。今は柚明さん達を信じ、桂さんの心を支え守りつつ』
私はこの選択を、己を信じて帰りを待つ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
柚明さんと刑事の下山を気配で察せたのは、夜明け前の最も闇の濃い頃で。屋敷の前を
通り過ぎて3人は、緑のアーチを共に歩み行き。連れ去られるかと瞬間緊張に身を固めた
けど。
柚明さんは彼らを見送りに出ただけらしい。そう悟れてほっと胸を撫で下ろす。桂さん
の手を放して、柚明さんの下に走るべきか否か。動かなかった今の判断は一応正解だった
けど。
「あの人は、危難を被りに行く人だから…」
車が走り去った後も、柚明さんの気配のみは闇に佇み続け。それは少しでも武道を囓っ
た者なら分る程に濃密な気配で。柚明さんは自身の存在を見せつけるが如く『力』を纏い。
『柚明さんは刑事の去った後で一体何を?』
屋敷の中で桂さんの手を握り握られた私は、室外の状況を気配で推察する他に方法がな
い。ノゾミがいるなら様子を見て欲しい処だけど。
『まさか柚明さんは、若杉の出先が刑事2人に手出しをしない様に、牽制している…?』
葛様の指示で2人には、身辺調査が行われ監視もついて。直接手出しは禁じられたけど。
その意が末端に浸透しているか否かは微妙で。私の見た限り若杉の多くは、未だ新しい頭
の指示より今迄の惰性で動いている。葛様から遠ざかれば遠ざかる程に。巨大組織は方向
転換に時間が掛ると、葛様もぼやいておられた。
鬼切部は、己や鬼の存在を世に伏せており。曝こうとする者には、容赦ない制裁や口封
じが為されて来た。公には存在せぬ筈の我々が、鬼や鬼に荷担した人も超法規的に処断す
る現状では。世の平穏を守る為にやむを得ない処置だけど。鬼切部には手段を選ばぬ者も
多い。
『柚明さんは2人についた若杉の出先の妄動を阻む為に、【力】を視せて示威行為を?』
私が聞けた範囲では。柚明さんは葛様が鬼切りの頭との事実は、伏せたけど。若杉財閥
の幼い後継者が、夏に経観塚で発見・保護された事は、報道されているので隠さず。良月
に宿った双子の鬼の名は伏せ。鬼切部の存在は伏せて私を、桂さんの母方の遠縁と説明し。
本来は全て隠すべきだけど。桂さんが奈良さん東郷さんに、かなりの真相を話した事を、
柚明さんは容認している。私も完全に納得した訳ではないけど、柚明さんは桂さんとはや
や違って。葛様が鬼切りの頭である事は伏せ。鬼切部や千羽、私や桂さんの母の素性も伏
せ。
【……話しを信じて頂けなくても。この腕に手錠を掛けられたとしても。お2人に何の危
害も加えはしませんし、その身に何か危難が生じた時には、わたしがお守り致します…】
刑事が柚明さんとの話しで、鬼切部についてどこ迄知ったかは、若杉も容易には分らな
いだろうけど。その故に彼らは逆に勇み足で、一気に処断に進みかねない。その事を危ぶ
んで柚明さんは、近隣に潜む若杉の出先に向け。口封じに出ぬ様に敢て『力』を見せつけ
た?
私が感じ取れなかったので、彼らの潜むのは私の気配の察しでは悟れぬ範囲なのだろう。
刑事の尾行は難しいので若杉も、機械や式神を使い、一定の距離を置いて泳がせると言う。
『柚明さんも、若杉を敵に回しかねない事を。確かに葛様は手出し厳禁・様子見を指示し
たけど。柚明さんの行いはその意図に添うけど。超法規で動く若杉は、己の命令系統以外
からの制約を嫌う。結果的に正解となっても……決して若杉の出先から好印象は抱かれな
い』
柚明さんは、若杉の多くの不興を買うと承知で、自身を捕らえる怖れを秘めた刑事を守
り庇うと。若杉の介在を阻むとの意思表示を。なるほど葛様や私との連携が重要になる訳
だ。一つ間違えば彼女が鬼として処断されかねぬ。葛様が案じたのは、彼女のこの甘さ優
しさか。
帰り来たら苦言の一つも述べたかったけど。
柚明さんは日の出迄羽様の道端に佇み続け。
桂さんが起きる直前に漸く屋敷に帰着した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
秋の経観塚の3日目は、朝方から雨が滴り。
見込では桂さんも熟睡で疲れも取れていて。
午前中と夜にご神木へ赴く予定だったけど。
「雨に濡れて体を冷やすと、風邪を引くわ」
桂さんを心配させない為に隠し通したとはいえ、朝露や雨に濡れた柚明さんの台詞では
ないと思うけど。修練のない桂さんは、雨に濡れた斜面を登る事から難しい。柚明さんは
ご神木行きに消極的で。それには私も頷きを。
「この降り方では、午後から日が照っても夕方迄に、地面が乾くかどうかは微妙だね…」
桂さんの前では刑事との応対や、それに関連した若杉末端への対処について、柚明さん
と語らう事はできぬ。ノゾミは日中の故か青珠に籠もって殆ど声を発さない。昨夜は結局、
彼女の帰着を確認できなかった気がするけど。いる事だけは、気配で悟れたので良しとし
て。
私達は3人揃って、屋敷の縁側に座して。
桂さんを挟み、私が右に柚明さんが左に。
静かに肩を寄せ合って、秋の長雨を眺め。
花を手折り枝葉を曲げて雫は垂直に落ち。
風は殆どなくて、空気は湿って霞が掛り。
光景は千年変らぬ風情を漂わせ涼やかで。
「明日には、帰っちゃうんだね」「そうね」
漸くここの生活に馴れて、落ち着いた気がしていたのに。畳のお座敷も、白花ちゃんと
わたしの名前を刻んだ柱も、動かないけれど趣のある柱時計も。やっと馴染んできたのに。
お姉ちゃんから聞いたり思い返せた拾年前の、ここでの日々に、実感が伴い始めてきたの
に。
「ここで明日も明後日も、こうしてみんなで暮らして行ければ……って思っちゃった…」
烏月さんだけじゃなく、葛ちゃんやサクヤさんや、陽子ちゃんやお凜さんともこうして。
禍や鬼の心配もなくのどかに時を過ごせれば。ノゾミちゃんは鬼でももう悪い鬼じゃない
し。
「そうは行かないって分ってるんだけどね」
「わたしはいつも、桂ちゃんの心にいるわ。
わたしがいつも桂ちゃんを心に抱く様に」
柚明さんは桂さんに心添わせて答を紡ぎ。
でもその静かな答はやや意味深長な気が。
「桂ちゃんとわたしが烏月さんを想う様に。
烏月さんが桂ちゃんを想ってくれる様に」
柚明さんは、明日には私と別離する桂さんの心中を慮っているのか。或いは自身が桂さ
んと離別する日の到来を、意識しているのか。柔らかな右手で、桂さんの心臓に軽く触れ
て。
「出逢いが別れの始りなら、別れは出逢いの始りと、夏の経観塚で柚明さんは言っていま
した。私達は訣別する訳ではない、又逢える。逢いたい想いを抱く限りきっと逢えると
…」
桂さんも柚明さんも、私の復唱に頷いて。
桂さんが私の左肩に首を寄せてくれる中。
「逢えない間も、愛しい人は心に抱けば胸を温めてくれる。想いを、紡ぎ続けましょう」
柚明さんは私の想いを受けて言葉を繋ぎ。
「想いを確かに抱くなら、心は常に温かい」
手に届かない陽が身を温めてくれる様に。
手の届かない人がわたしを温めてくれる。
生きても死んでも、たいせつに想う事は出来る。癒しも励ましも届かなくても、隔てら
れ断ち切られても、わたしが想う事は出来る。微笑みや感謝は望まなくても、その人の想
いを守る事や、その人の大切な物を守る事なら。
『この人には生者も死者も関係ない。一度たいせつに想った人は永遠にたいせつな人…』
「わたしは人の力になる術を持つ今が幸せ。
身を尽くしたい人がいてくれる今が幸せ」
私達は暫し縁側で3人一緒に過ごした後。
屋敷内で未着手だった部屋の掃除を行い。
昼過ぎには長雨も上がって日が照り始め。
私達は心地良い疲れに3人並んで昼寝を。
1人先に起きた柚明さんが外へ出て、桂さんも後を追って行ったけど。ご神木ではなく、
車道方面だったので。姉妹の時間に挟まるのは憚られたし、2人の話しに耳欹てるのは躊
躇われたから。私は少し距離を置き、行き先を確かめるに止め、彼女達の帰りを待つ事に。
ノゾミも顕れた夕飯の後、満月の蒼光に彩られた夜空の元で、私達は三度ご神木へ赴く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お姉ちゃんに、お願いがあるんだけど…」
出立前に桂さんが柚明さんに望んだのは。
兄と2人きりで話せる方法はないかとの。
桂さんはご神木に触れる事ができないし。
感応も使えないので彼の心を読み取れぬ。
彼も感応の『力』を得手とは言えぬ様で。
現身を取る事も想いを伝える事も叶わず。
「内緒話なんて無意味でしょうに。私もゆめいも、あなたの夢に入り込める。その気にな
ればいつでも無意識の奥も覗ける。けいは唯でも顔を見れば内心が概ね悟れる様な娘だし。
それを分って隠したがる意味が分らないわ」
ノゾミは柚明さん以上に、本当に桂さんと24時間一緒だから。隠し立てされる事自体に
不納得で、己を信じてないのかと。青珠付きの携帯電話を持って、戸口へ浮いて進み行き。
「ノゾミちゃん?」「ちょっと涼んでくるわ。今宵は素晴らしい望月だし。どうせけいは
内緒話だから、私は一緒できないのでしょ?」
止める暇もなく屋敷の外へと消えてしまう。今宵は刑事が潜む気配もなく、若杉の気配
もないけど。困惑した顔の桂さんに柚明さんが、
「大丈夫。ノゾミちゃんは、少し拗ねているけど、強く怒ってはいないわ。桂ちゃんと誰
かの胸の内にだけ、秘めておきたい話しもあると分っている。その誰かに今回自身がなれ
なかったのは、残念だと想っているけど…」
今宵は中秋の名月。日中の長雨で空気も清められて、空は雲一つない星空と月夜だから。
桂ちゃんと添い遂げられないなら、1人出歩くのも悪くない、と想えてくる程の夜だもの。
言われて桂さんも窓から大きな月を見上げ。
「確かに、本気で怒ったって言うより、それを口実に出て行った様な感じもあったけど」
「町と違って近隣に人がいないから、現身を見られる心配もなく夜歩きできる。ノゾミも
羽を伸ばせる気分でいるのかも知れないね」
特に少し前迄は、マスコミや刑事ややくざがアパート傍に四六時中張り込んで、柚明さ
んの動静を窺っていたから。ノゾミも迂闊に現身を取って、室内を撮影されたなら困る状
況だった。自由を好むノゾミが、夜も自由に現身を取れない状態は、かなり辛かった筈だ。
最近は夜なら現身を取れる様になったけど。都会は尚ある程度人目を気にせねばならな
い。桂さんや柚明さんと、一緒に生きて行く為に、迷惑を掛けない為に、やむを得ないと
は言え。羽様なら彼女を放し飼い出来るのかも知れぬ。
「桂ちゃんがご神木から帰る迄、ノゾミちゃんも月明りの元で夜を過ごす積りでいるわ」
好奇心の塊だから、傍にいれば耳を欹ててしまう。自身の性向を分るノゾミは、桂さん
を気遣って暫く遠ざかった。柚明さんはそれを読み解ける。この3人は表面で幾ら摩擦が
生じても、深い処で心が繋って。桂さんが誰かと内緒話を望めば、その想いを汲み取って。
「わたしはできるだけ、視たり聞いたりしてしまう事のない様に努めるわね」「うん…」
従姉の穏やかな語りかけを桂さんも疑わず。
心を寄せ合い預け合う姿が羨ましく眩しい。
残念だがこの絆に挟まる資格は今の己には。
『柚明さんにも秘したい、2人だけの話しとは……まあ桂さんなら、ご神木に触れる事も
葛様の想定範囲だ。問題は、柚明さんだ…』
柚明さんがご神木と桂さんに触れて仲立ちすれば、従妹の願いは安全に叶うけど。彼女
をご神木に触れさせる訳に行かぬ私は、硬さを見せない様に心掛けつつ、その判断を窺う。
柚明さんは少し考え込んで、懐から青珠程の大きさのガラス玉を、一つ取り出して見せ。
「青珠に何かあった時の為に『力』を注いで呪物にしたの。桂ちゃんの身から漏れ出る僅
かな『力』を受けて、血の匂いを隠す様に」
数日程度持つ、青珠の代用品と言う処か。
その輝きに心惹かれる桂さんを前にして。
「これに桂ちゃんの血を付け、烏月さんの手でご神木に触れさせて貰って。わたしの補助
に桂ちゃんの濃い贄の血を加える事で、白花ちゃんも現身を取れる。わたしは離れた処で
『心を鎖して』お話しの終りを待っているわ。
桂ちゃんの身を傷つける事は望まないのだけど、今の白花ちゃんはそうでもしなければ、
満月の夜でも希薄な現身さえ取れないから」
柚明さんが桂さんに、そう応えた後で私を向いたのは。維斗で桂さんの指先を切ってと
の願いだ。カッター等で桂さん自身がやっても良いのだけど。桂さんは素人だから手元が
狂って傷が大きくなる怖れがある。刃物を適正に扱える者に、最小限の傷を穿つ事を頼み。
ご神木の側面は、私も心に留めていたけど。
鬼の怨念は抜け殻に近い迄に弱まっていて。
柚明さんは昨夜も、彼の支援に蝶を多数ご神木傍で舞わせたのだろう。直に触れる程の
効果はないけど、鬼神の封じを破る力はないけど、鬼の怨念を消失させたのか。だから柚
明さんも桂さんを、鬼の刻限に独りに出来た。
「桂ちゃんのこと、お願いします」
「任されました」
ご神木の前に着いてから、柚明さんは私に一度頭を下げて、元来た闇に歩み去る。2人
の話しを邪魔しないのは兎も角、彼が顕れるのを待って少し逢う位して良いのでは、と思
ったけど。彼女は分って敢てそうしないのだ。彼の力不足で本当に時間的な余裕がないの
か、彼を前にすると柚明さんが平静を保てぬのか。私は兄である彼の前で桂さんと2人向
き合い。
「桂さん、力を抜いて」「うん」
私は維斗を抜き放ち。満月の輝きを帯びて息づくご神木の間近で、彼の見ている前で桂
さんを少しだけ傷つけ。右手の指の腹を切り、滴る血潮を蒼いガラス玉に塗りつけて。絆
創膏で傷口を塞ぎつつ、維斗を鞘に収めてガラス玉を受け取り、ご神木の幹に触れさせる
と。幹に吸い付いた様に、ガラス玉は落ちてこず。
ご神木の輝きが更に増した様な気がした。
幹の息遣いが更に生々しく躍動する様な。
成功を感じたので私も速やかに場を外す。
私は彼に逢っても次ぐ言葉が分らぬので。
「私はぎりぎり声の届かない範囲にいるから、話しが終ったら大声で呼んで欲しい。でき
るだけ兄妹水入らずの話しに、分け入る事はしない積りだけど。余り長くなる様だった
ら」
様子を窺いに、来てしまうかも知れない。
「うん……ありがとう」「では、少し後に」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ご神木から離れる時に、柚明さんの後を追う歩みになったのは偶然ではない。私は葛様
から、柚明さんがご神木に直に触れる事を阻む様に命じられており。今回の警護は柚明さ
んとノゾミについては、監視も兼ねてだった。必要に応じて、実力で阻止せよとの命も兼
ね。
柚明さんが軽挙妄動する人ではないと、葛様も私も分るけど。この人の在り方は奇跡的
すぎて他の者に理解させる事が難しい。人を欲得で考える若杉には得心の難しい処だろう。
『桂さんが自ら外れた今、昨夜の県警刑事への応対について訊ければと思ったのだけど』
木々が生えておらず、下草のみで開けた空間に、蒼光の下で佇む柚明さんの姿を遠目に
見下ろしたのは、数分歩いた後だった。でも私がその侭歩み寄るのを僅かに躊躇したのは。
ノゾミちゃん……。そう唇が動いて見えた。
風は吹いてないけど、夜の森は静謐だけど。
私がいる木影から柚明さん迄、三十メートルはある。囁きや呟きは聞き取り難い。でも
月明かりが清冽なので、憂いを秘めたその美貌は良く見えて。唇の動きも見て取れた気が。
「だがあれは、本当にノゾミなのか……?」
私から見て柚明さんの更に向う。開けた一角の反対側の木影から、浮いて顕れた現身は、
確かに小鬼だったけど。白い陶器の様な素足に、赤い鼻緒の草履履き。左足首には金の鈴。
でもその姿には、不吉な赤い霧が纏い付き。
蒼光に照された下草の一角で異様に目立つ。
美しさ清浄さに対比して危険な禍々しさが。
それは夏の経観塚で敵対していた頃の様な。
ノゾミは夏の経観塚以降、確かに悪鬼ではなくなって。赤い紐や霧を使う事はあっても、
澄んで良く透る透明な赤だった。でも今その表情が窺えぬ程濃密な、濁った赤は毒々しく。
ノゾミは柚明さんの姿が見えてないのか。
大人の頭の高さ程に浮いて揺らめきつつ。
ご神木を桂さんを目指してこちらへ進み。
柚明さんが進路を阻む様に立ち塞がって。
その背が私に向いた時、ノゾミの思念が。
感応の『力』が少し離れた私に迄及んで。
『ハシラの継ぎ手……主さまを阻む者……』
太股が見える程着物の裾が短く、袴は膝に届く程長く。非対称の振り袖は右が薄紅で左
が鳩羽鼠に花の染め抜きで。色の薄い、毛先が少し外向きに撥ねたかぶろ髪に、表情は気
弱そうな俯き加減。それは夏の経観塚で見た。
「ゆめい、逃げて……私、何か変なの…!」
ノゾミの叫びが届いた時、既に事は動き出していた。赤い霧を纏う少女の現身が、浮い
た侭左右に揺れつつこちらへ進み来て。私に背を向けた柚明さんが、それを阻む様に佇む。
2人が交錯したと見えた瞬間、柚明さんは両手でノゾミを抱き留めて。ノゾミはその侭…。
柚明さんの右首筋に口を寄せ。それは接吻ではなく、噛み付きだ。それも甘噛み等と言
う物ではなく、思い切り肉を食いちぎる様な、血も生命も啜り取る様な。清冽な月明りの
中、柚明さんの血潮が舞い散る様が映えて美しい。
柚明さんの体が勢いに押されて倒れ込む。
それでも座り込んだ侭ノゾミを抱き留め。
ノゾミは右首筋に食いついた侭離れない。
禍々しい赤い霧が柚明さんを包みかけて。
『一体、何がどうなって……柚明さん…?』
維斗に手を掛けて走り出そうとした私に。
柚明さんの右手は介入を留める様に伸び。
それは確かに、私に向けた彼女の意志だ。
ノゾミに悟られぬ様に、でも確かに私に。
『柚明さんは私の分け入る事を望んでない』
柚明さんは右首筋から鮮血を滴らせつつ。
ノゾミに食いつかれつつ座して尚崩れず。
ノゾミを抱き留めて蒼い輝きを纏い続け。
その気配は慈しみで戦いの拒絶ではなく。
今更ノゾミが逆意を抱くなど。桂さんも柚明さんも心を寄せ、信じ合う関係に到った筈
のノゾミが牙を剥くなど。想定してなかった訳ではないけど、正直忸怩たる想いは拭えず。
とても合意して血を分け与える様には見えぬ。ノゾミは月夜に狂わされたのか、それとも
…。
でも柚明さんは介入不要と、密かに繊手を私に向けて動きを留めるので。確かな意志で
救援を不要と示すので。私は木陰から、下草の上で月明りの下で為される2人の光景を暫
く窺い。柚明さんはこれを戦いではないと示している。だがこれを戦いではないと読み取
って正解なのだろうか。ノゾミは加減もなく柚明さんの血肉を、食いちぎる仕草に見える。
柚明さんの私に向けた右腕も、ノゾミを抱き留める左腕も力は失わず。その身を包む蒼
い輝きは、ノゾミの赤と絡み合い。失血が余り目立たぬのは、ノゾミが食いついている状
態だからで。歯を外せば鮮血が噴き出る筈だ。かなりの贄の血がノゾミに呑まれている筈
で。
『柚明さんの血が減れば、紡ぐ【力】も弱まる筈だ。ノゾミはその血を得て強化される』
故に贄の血の持ち主は、余程の事情がない限り、『力』を扱えても鬼と戦うべきでない。
何かの失策で鬼に血を呑まれれば、鬼の強化と自身の弱体化が同時進行する。優位にいて
ても容易に大逆転があると、サクヤさんも…。
『流石に、気易く思い通りになりませんね』
それはノゾミから届く『声』だけど、決してノゾミの思考ではなく。印象は夏の経観塚
で敵対していた頃の小鬼に近いけど、異なる。内気に見せかけて冷静に周到に狡猾な悪意
は。
「……ゆめい、だめ……逃げて、弾いてっ」
ノゾミの声が微風に乗ってここ迄届いた時。
柚明さんの右首筋から唇を離したノゾミが。
鮮血の滴る唇を、正面から柚明さんの唇に。
両腕で身を絡め取って唇を重ね、強奪して。
『何と清楚かつ妖艶な、一枚絵なのか…!』
それはノゾミが柚明さんを貪る様にも見え。
柚明さんがノゾミに自身を捧ぐ様にも見え。
ノゾミを包む禍々しい朱が徐々に引き始め。
柚明さんを包む清冽な蒼い光も弱まり行く。
残されるのは丸い月の照す蒼光のみになり。
2人は脱力して、互いに自身を預け合って。
『ノゾミを包んでいた禍々しさが消えている。
左足に付いていた筈の金色の鈴が右の足に。
朱が消えた時の小鬼の衣も微妙に柄が違う。
先程迄の小鬼の装いに違和感を感じたのは。
もしや先程迄の彼女は夏の経観塚で見た』
「ゆめい……ごめんなさい、あなたを傷つけて……その、大丈夫?」「ええ、大丈夫よ」
そのやり取りが唇の動きで分った。ノゾミは少し離れて様子を窺う私に気付いておらず。
柚明さんの両腕をもう一度掴んで、その瞳を見つめるけど。それは彼女を案じての行いで。
今の小鬼には先程迄の毒々しさが欠片もなく。柚明さんを案ずる想いの強さは声音で悟れ
た。
尚柚明さんの右首筋からは、噴き出す程ではないけど出血が続いている。先程の禍々し
い赤を柚明さんは、口移しに受け容れる事で、ノゾミを助けた様にも視え。同時にノゾミ
の現身の内側が、柚明さんの『力』に満たされ補われ。禍々しい赤を駆逐して行った様に
も。
「傷口はすぐ塞げるけど、塞ぐ迄に出た贄の血はノゾミちゃんが呑んで『力』に変えて」
「でも、ゆめい。私はたった今、あなたを」
ノゾミが気弱に躊躇いを見せる様は珍しい。
それを柚明さんは静かに柔らかに抱き包み。
「ノゾミちゃんはわたしのたいせつな人…」
その傷も失血も、致命の物には到らぬ様で。
どうやら今回は、維斗の出番はなさそうだ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
きびすを返した頃に、桂さんの私を呼ぶ声が届き。既に彼は、ご神木に戻った後だった。
少し遅れて青珠を持った柚明さんが1人顕れ。その右首筋は既に噛み傷の痕もなく。切な
い視線を暫く送って後、周囲に何頭もの光の蝶を舞わせた侭で、帰りましょうと静かに述
べ。
帰り着いた桂さんが、夜の山登りで疲れて熟睡するのは想定内だ。私は柚明さんに視線
を送り、2人だけの話しを望み。明日は帰りの移動で一日みんな一緒なので、機会は今宵
しかない。ノゾミは青珠に籠もった侭だった。
話しの邪魔にならない限り、ノゾミに聞かれる事はやむを得ないか。桂さんの寝室を隣
に控えた居間のテーブルで、私は愛しい人と向き合って。柚明さんは尚桂さんの安眠を気
に掛けている筈だ。回りくどい話しは不要と、
「右首筋の傷は、大丈夫ですか?」「ええ」
単刀直入に心配を伝えた私に、柚明さんはたおやかに頷き返し。柔らかな正視を返して、
「今宵は満月ですから。あの程度の傷や失血は、今のわたしに大きな障りにはなりません。
ご心配を掛けて、申し訳ありませんでした。それと、今宵のノゾミちゃんとの事を桂ち
ゃんに伏せてくれて、有り難うございました」
この人は時に他人行儀と思える程に丁寧で。
想いを込めて頭を下げる姿は清楚に可憐だ。
「私も、桂さんに余計な心配を掛けたくない柚明さんの気持は分るので……ですが、それ
が本当に余計な心配なのかどうかを確かめておかねば、私や葛様が余計な心配を抱く…」
この事は葛様の耳に入れると言外に示し。
その真相を説明して欲しいと求めた私に。
「あの時のノゾミは、ノゾミちゃんではありません。ミカゲの怨念が取り憑き、その意志
と『力』を乗っ取った状態でした。烏月さんもお気づきと思います。ご神木のミカゲの怨
念が、抜け殻に近い迄に消失していた事を」
「確かに、最早何もないに近い状態になっていましたが、あれは昨夜の柚明さんの助力や、
ご神木に宿った彼の所作ではなかったと?」
はい、と柚明さんは頷いて。後から物事を辿って漸く分った事ですけど、と前置きして。
「昨夜ノゾミちゃんは、わたしと刑事さんがご神木に行った時に付いてきた様で。その後
少し残って鬼の怨念に囚われた様です。彼女はミカゲと縁が深いので、影響を受け易かっ
たのでしょう。満月ではないけど月の丸い夜でしたし、ミカゲも最後の機会でしたから」
今を逃せば次はいつ誰が来るかも分らない。最早外界にミカゲや主に味方する者はいな
い。誰かの到来迄に、彼がご神木により馴染んで、怨念を還しに掛る可能性が高い。その
前に柚明さんがその気になれば一瞬で祓える。時間は我らの味方だ。良月を砕かれ『力』
の大半を喪った状態でも、否、その状態だからこそ、ミカゲも潜み続ける訳には行かなか
ったのか。
「ノゾミちゃんの霊体に取り憑き、その気配に紛れ、機会を窺っていた様です。その為に、
良月の欠片に残った想いと『力』を空にして、全てを注ぎ込んで勝負に出た。でも滅んだ
後であれ程の事が出来るとは……わたしも彼女の想いの強さを、読み切れていませんでし
た。
ノゾミちゃんも、自身が誰かの邪視に掛るのは、想定外だったのでしょう。日中から夕
方に掛けて、違和感を感じていた様ですけど。ミカゲも巧く幻視で惑わせつつ寄生を進
め」
今日ノゾミが大人しかったのは。一昨日夜の桂さんの乱れを見て、彼女が自責の淵にい
たのも確かだけど。それに紛れる事もミカゲの計算だったのかも知れぬ。今宵ノゾミが独
りになったのは、私や柚明さんの目の届く傍を外れたのは、ミカゲの絶好機になった訳か。
主の分霊が彼に寄生して、彼の意志と体を乗っ取り、思う侭に操っていた様に。ミカゲ
は姉に寄生し、その意志と『力』を乗っ取り、思う侭に操ろうと。本当の姉でないとは言
え、千年同じ依代に憑き続けてきた絆は濃く深い。柚明さんや彼がご神木に宿るより簡単
だろう。
ミカゲは桂さんの血を呑んで『力』を増し。
ご神木の封じを破りに掛る積りだったのか。
「柚明さんがそれを察したのは一体いつ?」
「今宵ご神木の前で桂ちゃんと別れ、あの状態のノゾミちゃんを見た時でした。それ迄は
事を見通せてなく。たいせつな人に生じた異変を悟れず。己の不明を恥じるばかりです」
「いや……それは私も悟れていませんでした。ノゾミとミカゲは元々姉妹で、気配が近し
く見分ける事は難しい。術者にも見極めるのは至難の業だ。でも、突如あの状態に直面し
て事を読み解き、対処を考え、即断出来た…」
柚明さんは、打ち破ったり祓ったりしては、ノゾミも消失させてしまうと考え。ノゾミ
を癒しの『力』で満たす事で、その霊体からミカゲだけ駆逐する事を試み。それは羽藤白
花の肉の体から、主の分霊という霊体を駆逐するより、難しいかも知れぬ。そして何より
も。
一瞬でそこ迄考えられる。危険や困難を分っても助け守る。それは常々柚明さんがノゾ
ミを大事に想ってなければ叶うまい。この人は本当に、桂さんの大事に想った者を愛して。
「しかし何と危なっかしい。一つ間違えば」
あなたは一方的に贄の血を啜られ死に瀕し、ミカゲは更に『力』を増して、鬼神の封じ
を破って桂さんを、生命の危機に至らしめたかも知れない。私に報せて任せて貰えたなら
…。
声がやや強くなる私に彼女は首を横に振り。
「鬼切りや魂削りでは、霊の鬼であるノゾミちゃんを傷めるかも知れない。他の鬼切りの
業では、ノゾミちゃんを切る事になります」
桂ちゃんのたいせつな人を喪わせたくない。
特に桂ちゃんがたいせつに想う烏月さんが。
同じくたいせつに想うノゾミちゃんを切る。
それは何より桂ちゃんの心を深く傷めます。
「ミカゲはわたしが妨げれば、わたしを倒そうと考える。この血を啜れば邪魔者を排除し、
同時に『力』を増せると考える。それは読めました。そしてわたしの血が今のミカゲには、
最大の武器である事も。今の彼女は残り火です。風は、炎を煽る前に吹き消してしまう」
「血は力、想いも力。だから、力は心……」
私は夏の経観塚で、何度か彼女が口にしていた言葉を復唱し。間近な彼女の頷きを前に、
「ノゾミを想い、ミカゲや主に力を与えないと強く念じている柚明さんの血潮は、ミカゲ
が啜っても『力』に出来ないどころか、害になると。毒を与えた様な感じだったと…?」
鬼が人を傷めつけ怯えさせて血を啜るのは。人の心を萎縮させ意志を弱らせ、血に宿る
心を支配する目的も兼ねる。それで屈せぬ強い心も、鬼が取り込んでしまえば、大抵時を
掛けて従わせるけど。この人は血に宿る『力』を扱える。取り込まれても、その血は暫く
ミカゲの意志に抗って、容易に『力』を与えず。
ミカゲの中にはノゾミが残っていた。ミカゲはそれを失念したか見くびったのか。柚明
さんの血に宿る想いは、ミカゲに取り込まれる前に、その内に潜むノゾミに『力』を与え。
「食あたりという言葉が、近いのかも知れませんね」「桂さんや柚明さんの贄の血を糧に
得ているノゾミが聞いたら、怯えますよ…」
緊張が綻んだ処で柚明さんは私を正視して。
「ミカゲの怨念の一件は、わたしの摘み残した禍で、その処理はわたしの責任です。ノゾ
ミちゃんを助ける為にも、鬼切りの業に委ねる訳に行きませんでした。烏月さんには事情
が見通せぬ侭、助けて下さる善意を拒む行いをしてしまい、本当に申し訳ありません…」
「それは、あなたが謝るべき事柄ではない」
畳に額づいて、感謝と謝罪を述べる彼女に。
私はその必要はないと両手で面を上げさせ。
この人は他者の想いへの応対が丁寧すぎる。
私の心配や善意等にそれ程の値はないのに。
その柔らかさ真摯さ美しさは私も好むので。
これは私の方が矛盾していると言えるけど。
柚明さんの面を上げさせる為に、手に手を触れ合った結果、期せずして間合が一気に縮
まって。今更距離を置き直す気にもなれずに。唇が触れ合う程の間近で、互いを正視し合
い。
私は桂さんの眠る隣室を少し気に掛けつつ。
手の触れ合う程間近で瞳を見つめ合いつつ。
この美しい人と尚少し夜を共にし語らいを。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「昨夜の県警刑事との対応についての、柚明さんの見解を、聞かせて頂きたいのですが」
鬼切部の存在は伏せたけど。葛様が鬼切りの頭である事は伏せたけど。柚明さんは刑事
に贄の血や鬼の事実を話し。夏以降桂さんが、奈良さんや東郷さんに、葛様が鬼切りの頭
である事以外を、殆ど隠さず話した事も了承し。
奈良さんも東郷さんも、誰にも事実を漏らしてない様だけど。今の処桂さんの人を見る
目が正しいと言えたけど。でも一つ間違えば、奈良さん東郷さんやその家族友人、桂さん
柚明さんにも若杉の禍を呼びかねない。薄氷を踏み渡る行いで。絶対口外禁止の案件なの
に。
柚明さんは桂さんと違って、鬼切部や千羽党の存在は明かしてない。でも若杉は鬼の存
在を世間に伏せ、報道にも目を光らせていて。公にそれを認める者の口は、容赦なく封じ
る。柚明さんの行いも禍を招きかねない物だった。
「あのお2人は、羽藤の家を心から悼んでくれましたから。職務への責任以上に、拾年前
以前の羽藤の家の温もりに心を寄せてくれて、あの夜の結果に心傷め、心底憤ってくれ
た」
彼らは捜査過程で羽藤の内情を丹念に調べ。
彼女達の清さ強さ暖かさ甘さ優しさを知り。
愛に包まれた在り方の突如の断絶を哀しみ。
痛恨の結末をこの侭捨てて置けぬと憤慨し。
真相を突き止めて必ずや事件を解決すると。
幼子の涙や桂さんの父の死に絶対報いると。
「年輩の沢田刑事の下の娘さんは、事件当時わたしと同じ歳で、今は結婚し6歳の男の子
と5歳の女の子、お孫さんがいます。少し若い川口刑事の娘さんは、桂ちゃん白花ちゃん
と同じ歳で、今は高校2年生です。お2人は『他人事に思えなかった』と語ってくれて」
色々な事情があって捜査態勢が縮小されて。
時間を掛けても、新たな動きも証拠もなく。
時が経つにつれ、事件は風化し忘れ去られ。
新たに解決せねばならない事案も生じる中。
「お2人は迷宮入りにさせまいと、粘り強く捜査を続けて下さいました。桂ちゃんや白花
ちゃん、叔母さんや叔父さん、そしてわたしに起きた真相を解明し。喪われた生命や踏み
躙られた想いに、無念に何とか応えたいと」
夜も昼も、何度もご神木を訪ねて下さって。
わたしは応えに顕れる事叶わなかったけど。
強い怒りの底に宿した優しさが嬉しかった。
羽藤のみんなに寄せてくれた想いが暖かく。
「彼らはわたしが口を鎖しても、事件捜査を継続するでしょう……若杉が妨げない限り」
真相に到る術のない彼らの捜査を、葛さんは妨げないでしょう。わたしも善意な人達に、
脅迫や抹殺はして欲しくない。でもその結果、彼らは究明不能な捜査に更に、歳月と労力
を注ぐ事になる。人生を棒に振らせてしまう…。
「あの夜からもう拾年の月日が流れています。その間に幼子だった桂ちゃんは高校生にな
り、叔母さんは生命喪いました。この先もう拾年、或いは更に長い歳月、解決しないと視
えた案件で、善意な人の人生を浪費させたくない」
彼女にとって刑事達との関りは、夏の経観塚からではなく。彼らにとっても先々代への
事情聴取や捜査で関った拾年前からで。拾年前と言えば、私は漸く物心ついて、兄さんを
目指して、剣の修行の入口に立った頃だった。
あれから今迄。鬼切りの剣の意味を教わり、力を技を心を鍛え、鬼と戦い。兄さんの反
逆を知り、兄さんを切って羽藤白花を仇と憎み、経観塚を訪れて桂さん柚明さんと分り合
い…。
その拾年の月日・あの夜からの歳月を捜査に注ぐ程羽藤を想ってくれた者に。同じくそ
の拾年の月日を、あの夜からの歳月オハシラ様を努め続けたこの人は。何とか報いたいと。
「叔母さんは、刑事さんの事情聴取に黙秘を通したそうです。門前払いする事で、家に上
げず桂ちゃんに接触させず。その赤い痛みを回避し、拾年前も思い出させず、その心を守
り通す選択でした。鬼や贄の血の事情を明かせないとは言え、善意で訪れる刑事さんを追
い返す行いに、心を痛めていたでしょう…」
刑事は幼子を抱え世間に居続けた桂さんの母が、犯人の可能性は低いと見ていた。だか
ら事情聴取も拒み通せた。でも柚明さんは刑事から最も疑われている。桂さんの母の死去
直後に人の世間に戻り来た経緯も、拾年行方知れずだった事も。直接関係はないけど、取
るべき拾年の歳を取ってない事も不審を招き。
接触を拒んでも、アパートを日々訪れたり、周囲の人や桂さんに事情聴取するかも知れ
ぬ。桂さんを不安に陥れる事は、彼女の不本意だ。それを防ぐには、無実を納得させる他
にない。
でも、あった事は証明出来ても、なかった事の証明は至難の業だ。まして拾年前の夜の
真相は、鬼や贄の血の話し。明かせぬ以上に、明かしても信じて貰えない。罪を逃れる為
の偽りか、精神を病んでいると思われるだけだ。
だから柚明さんは、刑事を最も納得させ易い夜の羽様へご神木へ招き。警察組織にでは
なく、刑事2人に限って真相を話し。警察は既に、拾年前の事件を迷宮入り扱いしている。
それでも刑事達は羽藤を悼み義憤を抱く故に、捜査を続けてきた。彼らが捜査を止めれば
事は終る。それには彼らを得心させねばならず。
「わたしは彼らの拾年の労苦を、無にする事を願いました。法の守り手に、法を外れるか
も知れない事を望みました。彼らが羽藤を想って為してくれた行いに、仇で報いる事を」
柚明さんの瞳が微かに愁いを帯びるのは。
刑事達の拾年の労苦に想いを馳せた故で。
「わたしにはお2人に何も返せる物がない。
たいせつな人に寄せて貰えた気持に対し。
この到らぬ身に為してくれた労苦に対し。
せめて気持の上ででも何か返したかった」
思わずその細身を抱き締めたくななった。
この人は余りにも情が深くて危うすぎる。
柚明さんは鬼切部が動けば、刑事2人の失職も抹殺も簡単だと分って。それを伝えて脅
す事もせず。自身が更に疑われる事も、笑い飛ばされる事も、囚われる事さえも覚悟して。
彼らの善意を信じ、世間には伏せた拾年前の夜の真相を伝え。夏に彼が封じの要を継いだ
経緯も、葛様や鬼切部千羽党の存在や桂さんを脅かした鬼の名を伏せつつ、ある程度話し。
「拾年前の夜に羽藤家に起きた悲劇の真相は、お2人の心の内にしまい、これ以上の捜査
をお止め頂く様にお願いし、了承頂きました」
彼女を抱き留めたい熱情を辛うじて抑え。
私は自身を冷静な思考へ無理に引っ張り。
「彼らの返答を、無条件に信じるのですか」
「沢田槙久と川口一博は、羽藤柚明のたいせつな人。わたしの愛した人に起きた悲劇に心
を痛め義憤を抱き、真相に挑み続けてくれた。信じ難い鬼の話しに耳を傾け、拾年の歳月
や労苦を抛つ無理な願いを、了承してくれた」
この身を捧げて力になりたく想う人達です。
この人はどこ迄も透徹して甘く優しいけど。
「全ての人があなたの様に、優しさと強さを兼ね備えた侭、在り続けられる訳ではない」
彼らは俗世を生きる人間です。刑事とて気の迷いが生じる事もあれば魔が差す事もある。
一度あなたの清冽さを見て心を震わされても、それで終生秘密を守ってくれると信じるの
は。
あなたの信じる心の強さに疑いは抱かない。あなたの人を見る目も確かだと信じたい。
でも相手の心を操る事は叶わない筈だ。彼らがこの先も心変りしないと断言できるのです
か。
「一度だけの関りで、彼らにこの先ずっとあなたや桂さんの弱味を秘密を握らせるのは」
危うすぎる。思わず声音が強くなる私に。
この人は柔らかに強い意思を込めた瞳で。
「一度だけではありません。わたしは彼らを拾年の間に何度か見てきましたし、これから
も又。捜査は止めて貰ったけど、わたし達は関りを絶った訳ではありません。彼らはわた
しのたいせつな人、今後も関りは続きます」
な。思わず私は声が詰まって仰け反った。
己に害となる怖れのある刑事と、今後も?
確かに事件捜査を止め逮捕もせぬのなら。
柚明さん達に害にならぬとは言えたけど。
「たいせつな人との関りを、大事にするのは当然です。夏に烏月さんやノゾミちゃんと絆
を繋げた様に、それ以降陽子ちゃんやお凜さんと心交えた様に。沢田さんや川口さんもわ
たしのたいせつな人。家が遠いので足繁く通う事は難しいけど、想いは終生抱き続ける」
この人の考えの幅は私のそれを越えている。
発想の基礎が違うと葛様は言っていたけど。
「沢田さんの上の娘さんが、宗教団体と諍いを抱えている件は、烏月さんも若杉の調べで
ご存じと思います。川口さんの弟さんが霊的な障りや病で困窮している事も。わたしは」
「恩義を返す事で関りを深め、今後も良好な印象を保ち、秘密を保持して貰いたいと?」
結果はそうでも彼女の力点は違った様で。
頷く仕草の微妙な違いが漸く悟れて来た。
「わたしはたいせつな人の守りが望みです」
恩を返すとか、秘密保持を頼む対価に労役を供するとかではなく。彼女はたいせつに想
った人に尽くしたく、その力になりたいのだ。困っていれば助けたく想うのは彼女の当然
と。たいせつな人の善意を信じるのも、当然だと。
「幾つか助言迄は行かないですけど、わたしの見方考え方を伝えて。人は意外と今迄見て
きた物や、それ迄の考えに囚われ易い。違う物の見方考え方を告げ、気付いて貰うだけで、
心の在り方は随分柔軟になります」「……」
それは、正に今この時点の千羽烏月だった。
この人は関る人を全て信じる愚者ではなく。
関る人を全て信じ得る者へと変える賢者だ。
柚明さんの真の値は贄の『力』等ではない。
技や力抜きでも他者に尽くしたく想う心が。
その麗質は桂さんにもしっかり引き継がれ。
「近い内にお宅を訪れ事を詳細に視て聞いて、最善の対処を尽くしたいと考えています
が」
大事に想い想われた人が、特段の事情なく秘密を約して裏切る事は、彼女の想定になく。
「……あなたは本当に、桂さんの血縁だ…」
その意味を彼女が悟れぬのは世の不思議か。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「今回柚明さんは、一度もご神木に触れていませんけど……私の事情を承知なのですか」
隠し通す積りは元々なかったけど。最早話しを引き延ばす気にもなれず。私は葛様から
受けた今回の警護の命の全てを明かす。葛様が敢て守秘を命じなかったのは。こうして私
が柚明さんに、事を明かすと見込んでなのか。
抱き合える程間近で向き合う美しい人に。
「葛様にも私にも、壱番たいせつな人は桂さんで、弐番目にたいせつな人は柚明さんです。
しかし今回の経観塚行きで受けた警護の命は、壱番は桂さんの守りでも弐番目の優先は
…」
「鬼神の封じを保ち、破らせない事ですね」
彼女は一瞬言い淀んだ私の言葉を継いで。
驚きも怒りも疑念も見せぬ澄んだ双眸に。
「その意味をあなたは分っておられるので」
「わたしの意向より、わたしの守りより、わたしの生命より、鬼神の封じを保ち、破らせ
ない事を優先する。桂ちゃんの身を守る為に、妥当な判断だと考えます」「柚明さん
…!」
思わず大声になりかけて、慌てて桂さんの眠る隣室の様子を探る。桂さんは熟睡してい
る様で、その気配に特に動きはなく。柚明さんも動く様子はなく、青珠は強く瞬くのみで。
「ここには、桂ちゃんを脅かす鬼神が封じられています。元々一番の人を最優先するには、
二番の人を二番に守る事は難しい。焦点をぼかせば一番の人の守りが疎かになる怖れも」
この人は、葛様と同じ考えを辿っていた。
「鬼神の封じを解こうとする者は、誰であろうと退ける……それが羽藤柚明であっても」
そう言う事なのでしょう、との静かな問に。
私は緊迫を隠せず、黙して頷き肯定を返す。
その通りだった。鬼切部の怖れは、葛様の危惧は、羽藤白花を封じの要から助ける為に、
柚明さんがご神木の封じを破る事だ。彼を夏にご神木へ近づける訳に行かなかった以上に、
今はこの人をご神木に近づける訳に行かない。
でもこの人の読みはその更に先を行って。
「そして、烏月さんが抱いている危惧は…」
わたしがご神木の封じを破る事その物より。
それを過剰に怖れ蠢いてしまう若杉の出先。
「そこ迄お察しでしたか。いえ、あなたなら読み解けない筈もない。ご明察の通りです」
鬼神の封じを保ち、破らせない為に。若杉の出先が過剰に反応して、柚明さんや桂さん
に手出ししてしまう事を防ぎたい。柚明さんに実力行使や、その動きを止める為に桂さん
を拐かすなどの過ちが生じない様に。その為には、あなたがご神木に近付きすぎては拙い。
特に直に触れる事は絶対に許されぬ。それらの疑念を招かぬ為にも、鬼切部の監視が要る。
私が随伴したから、ご神木の傍迄往く展開が許された。千羽党の鬼切り役を前にしては、
若杉の出先も口を挟めなかった。そして柚明さんはご神木を間近にしても、直に触る事も
せず、鬼神の封じを破る構えも見せなかった。私の見立てと葛様の信に彼女は応えてくれ
た。
「最初から分っていたのですか? 桂さんの経観塚行きへの私の随伴を、わざわざ葛様に
頼んだ時から、こうなる事は予想出来た?」
否、違う。私の経観塚随伴を頼んだのが柚明さんなら、彼女こそこの事態を望み招いた。
柚明さんの静かな頷きは、私の推察のどこ迄を肯定したのか。不快も憤りも欠片もなく。
「常に最優先で守るべきは、桂ちゃんの安全です。その為にも鬼神の封じを破る訳には行
きません。仮にその『力』があっても、今のわたしには白花ちゃんを救い守る術がない」
今の柚明さんは、ご神木に触れれば封じを破れる。若杉の多くの危惧は正鵠を射ていた。
でも、その後に望みがない事を、若杉の誰より葛様より私よりも、彼女が一番分っている。
甦った鬼神を倒す力量に遠く及ばない上に。
霊の彼に肉の体を与える程の『力』もない。
彼は封じの要を柚明さんに譲る積りはなく。
打ち破れば彼女が彼を、消失させてしまう。
柚明さんには、外から封じを助ける以外打つ手がない。彼が柚明さんと封じの要を替っ
ても、今度は桂さんが悲嘆に沈む。柚明さんが彼の代りを出来ぬ様に、彼に柚明さんの代
りも出来ぬ。鬼神を解き放っては対処の術がなく。この人以外彼しか封じの要は担えない。
「葛様も私も、彼よりあなたが大事です。そして桂さんを想う上でも、桂さんのたいせつ
なあなたを鬼神の封じに戻す訳には行かない。彼への恨み憎しみも今はない私ですが、こ
こは私も葛様も鬼切部も譲れない。あなたも」
それは承知の筈と、葛様も私も信じていました。だから、最後の夜迄あなたの在り方を
見せて頂いた。あなたは彼も一番に想いつつ、桂さんを一番に愛している。今己を捧ぐ事
は不適切だと分る筈だ。その推測は正解でした。
私があなたを監視して見せる事で、若杉の出先の蠢動を妨げ。過剰な反応や、それを口
実に功名稼ぎしたい連中の介入を未然に防ぐ。桂さんには何一つ不安や怖れを気付かせず
に。
「今回の経観塚行きで、若杉の出先も幹部もあなたの人柄を、ある程度理解したでしょう。
今後も若杉や鬼切部の信を積み重ねて行けば、鬼切部の随伴も不要にあなたも、自在にご
神木に通える様になる。僻遠の地なので、日々訪れるという訳には、行かないでしょう
が」
若杉の懸念がなければ私が添う必要もなく。
姉妹水入らずで羽様の初秋を過ごせた物を。
若杉の無粋を残念に思い呟きを漏らす私に。
柚明さんはゆっくり間近でかぶりを振って。
「……わたしには、烏月さんに随伴頂く必要がありました。松中財閥の手の者ややくざを
怖れるよりも。若杉の出先の介入を阻みたかった以上に。千羽党の鬼切り役たる烏月さん
に添って頂く事が、わたしには必須でした」
柚明さん? 今迄になく真剣で深刻な声に。
思わず私は彼女の瞳をまじまじと覗き込み。
「烏月さんは葛さんが本当に、わたしを危惧してないとお思いですか。烏月さんは本当に、
わたしが白花ちゃんを鬼神の封じから解き放つ行いに走らないとお思いですか。先行きが
視えなくても、今の彼の苦しみを止める為に、わたしがご神木の封じを破る事はない
と?」
瞳の圧力が今迄の比ではなかった。抑えに抑えた情念が、弾け飛びそうな程に詰まって。
この人は今迄欠片も見せなかったけど。ご神木を前にしても片鱗も感じさせなかったけど。
「わたしの、一番たいせつな人。
わたしの為に戦ってくれた人。
身体も失ってご神木に宿り、儚い霊体だけの存在になったわたしを想い続けてくれた人。
確かに生きているとも言えない状態のわたしを、鬼を身に宿して尚救けに来てくれた人。
最後にはわたしが望んで負うた鬼神の封じを、その若い身空に引き受けてくれた人…」
鬼気迫る程の強い愛に思わず心が怯み掛け。
腹を据え直してこの膨大な想いに対峙する。
この人が彼の現身に向き合えなかったのは。
向き合ったら想いが溢れて止められぬから。
その侭鬼神の封じから彼を引き抜きかねぬ。
出来るか否かではなく動き出してしまうと。
「わたしは、無力です。白花ちゃんをご神木から救い出す事が出来ない。封じの要を白花
ちゃんから奪い返す術もない。主を倒すどころか、この身は叔母さんにも遠く及ばない…。
一番たいせつな人に悠久の責め苦を負わせ、己は豊かで平安な人の世を過ごし。寝てい
る時も起きている時も戦い続ける彼を、その優しさに守られたわたしは助け守る術がな
い」
彼に封じの要を奪われた事は、この人には真の悔いだった。人の身を戻し、桂さんと共
に日々を過ごせる喜びに、間近で守り愛する幸せに身を浸しつつ。正にその結果彼に封じ
の要を負わせた事に、この人は心底哀しんで。桂さんと過ごす幸せと同じ程、強く心を軋
ませて。私もこの瞬間迄考えも及ばなかった…。
『葛様にもノゾミにもサクヤさんにも私にも、桂さんは一番だったけど。柚明さんには彼
も同着一番だった。彼女が桂さんに抱く想いと同じ想いを、彼にも抱いているなら……彼
女はご神木の中を、封じの要の実情を唯一知っている。それがどれ程の地獄かを。その辛
苦を拭い去りたい想いは、尋常ではない筈だ』
己の手の及び得ぬ処で最愛の人が傷む様を。
己の為に承けたその苦痛を見守る他になく。
今の日々はこの人には幸せと同時に地獄か。
従妹に気取られずその幸せに影落さぬ為に。
静かな笑みを浮べその悲嘆を繕い隠しつつ。
彼女はこの拾年より今が辛いのかも知れぬ。
この人は本当に己を誰かに抑えて欲しいと。
そうでなければその想いを抑えきれないと。
『桂おねーさんに経観塚の封印を解く【力】はありません。その贄の血は類い希な程に濃
くても、修練のない桂おねーさんは【力】を紡げない。その点で桂おねーさんは大丈夫』
今更ながらに葛様の言葉が耳に脳裏に甦る。
では、大丈夫ではない者とは? 贄の血が桂さん程に濃くはなくても、修練を経ていて
経観塚の封印を解く『力』を持つ者とは? 羽藤白花はご神木に同化して肉の体を喪った。
主の分霊も消失した今、主をご神木の封じから解き放てる『力』を持つ者とは、この人だ。
『あの人は烏月さんに何の警護を頼むか、明言しませんでしたよね? 何も分ってないで、
桂おねーさんを喜ばせる為だけに、烏月さんの随行をわたしに頼む人だと想いますか?
用意周到が服を着て歩いている様な人が…』
葛様は、柚明さんが鬼神の封じを破ろうとした時は、柚明さんを実力行使で退けてでも、
桂さんの安全の為に封じの要を守るようにと。私に命じはしたけど。私もそれは受けたけ
ど。そうなる怖れはほぼあるまいと、思っていた。葛様もそう想っておいででは、なかっ
たのか。
「ノゾミちゃんでは、わたしを止められない。白花ちゃんへの想いが暴走した際に、わた
しを実力で止められるのは、サクヤさんか烏月さんだけ。万一の時は、桂ちゃんの為に烏
月さんが、わたしを妨げ食い止め、打ち倒して。
その刃を意識して、わたしは暴走を思い留まれる。肉も霊も絶つ破妖の太刀が怖いから
ではなく。あなたと桂ちゃんを哀しませる事への怖れ・怯えがわたしを思い留まらせる」
烏月さんには、絶対にご一緒して貰わねばなりませんでした。そう語って、頭を下げる。
柚明さんは己自身から桂さんを守ってと。
自身が暴走した時は実力行使で妨げてと。
葛様の真意を聞いた時、私はこの経観塚行きを鬼切部の他の誰でもなく、千羽烏月が為
さねばならない役だと悟った。これは正に運命であり天命だった。桂さんの為に、柚明さ
んの為に、葛様の為に。私は今為せる限りを。
でもそれがこれ程に危うい局面だったとは。
この人がそれ程に懊悩し呻吟していたとは。
そしてそれを桂さんに欠片も感じさせずに。
その自制の強さも又、私には信じ難いけど。
『柚明おねーさんもきっと全て承知で、わたしを通じて烏月さんの守りを頼んでいます』
「あなたは、救い出せないと分って尚、今後も彼の助けに通い続ける積りなのですか?」
柚明さんが桂さんを伴って、又は伴わずともここを訪れる時に。随伴する事は構わない。
私の随伴で彼女が己を抑えられるなら。不本意でも、深手与えずに打ち倒し最悪の事態を
防げるなら。この人の彼への愛は止められぬ。私しか監視や警護を担えぬのなら望んで担
う。他の鬼切部には、絶対この役を担わせられぬ。
でも、絶対助け出せぬと分って。決して救い出せぬと承知で。その傷み苦しむ様を己に
刻み付ける為に、柚明さんはご神木に通い続ける積りなのか。それは己に対する罰なのか。
従弟に過酷な定めを強いた自身が、平安を享受する事に了承できないと。許されないと…。
『人でなし……わたし、人でなし。鬼だよ!
どうやって償えば良いか見当も付かない。
こんな酷い結末を招いてみんなを傷つけ。
地獄行きだよ。絶対許される筈がないよ』
桂さんの号泣が、脳裏に甦った気がした。
羽藤の血筋は、その在り方迄も近似して。
この人も又、その限界迄心を傷めていた。
「わたしは必ず、白花ちゃんを助け出します。主の禍を防ぐ術を掴み、霊になった彼の肉
の体を創り直し、必ず彼の責め苦を終らせます。桂ちゃんを守りつつ、必ず白花ちゃんを
も」
それでもこの人は塞ぎ込む事を己に許さず。
己の限界を超えても必ず届かせると心定め。
「わたしが戦い続ける限り全ては終らない」
柚明さんは先々代の言葉を烈々と胸に抱き。
届かせる術も見えぬ遙かな願いに挑み続け。
私が心震わされたのは、その底知れぬ闘志になのか。果ての見えない深い情愛になのか。
たおやかで静かな女人なのに。その紡ぐ意志はとてつもなく強く。そもそもこの人が今
ここにある事が奇跡なら。この人は生ける奇跡を体現し続け、願いに歩み続けるのだろう。
「諦めない限り、挑み続ける限り、当事者の片方であるわたしが手放さない限り、望みへ
の途は残っている。諦めた瞬間、全ては終る。手放した瞬間、望みは消える。わたしは
…」
もうそれ以上の言葉は不要だった。私は間近な細身を抱き締めて、強く強く肌身を重ね。
「分りました。今後羽藤柚明の経観塚行きは、必ず千羽烏月が警護します」「烏月さん
…」
羽藤柚明は千羽烏月の弐番目に愛しい人で。
そして私の最愛の桂さんが強く深く想う人。
その在り方を守り支えたいのは私の願いだ。
有り難う、嬉しいと。答えつつ彼女の繊手は私の体を強く抱き返し。それに勝る事を意
識して、私はその細い身を更に更に強く締め。
『人を守るという事は、その身体や生命と同様に、その心も守る事。その人の想いも守る
事。その人の大切な物迄守る事……ならば』
「叩き伏せてでも、私があなたを守り通す」