白花の咲く頃に〔乙〕(前)



 経観塚へ向かうローカル線の、鈍行列車の行程も半ばを過ぎ。朝の出立からほぼ一日経
った。傾いた日が照す車内は私達の他に客もなく。赤い世界は瞼を鎖しても、心の中迄染
め上げて。到着迄は、未だもう少し時が掛る。

 通路側に座す私の隣で、この右肩に左頬を載せて安らかに眠るは、明るいブラウンの髪
長い女の子。私のたいせつな人。この愛らしい人に肩を貸し、一緒に微睡むのは心地良く。
私も共々その夢の園に身を任せ、心も委ね…。

「……」

 中途から気になったのは。現に醒めるのは少し留まり、彼女の肌身の感触で様子を窺う。
その朗らかに楽天的な笑顔に影が差して見え。

 勿論人は、常に笑って過ごせる訳ではない。怒り哀しみ困るのも人の常だけど。良くな
い夢に魘される事はある話しだけど。でもこの肌身に悟れた感触は、常の夢とは異なる様
な。私は感応の力がないので、深く分らないけど。

『柚明さんは動いてない。悟ってはいる?』

 向いの席に座して微睡む蒼髪の美貌の人も。起きてはいないけど、慎重に様子を窺う感
じだった。この人は夢にも入り込める。愛しい人に禍や害が及ぶなら、即座に妨げ防ぐ筈
で。肉を持たぬ霊の鬼や夢幻は彼女の得意領域だ。

『きっとノゾミも、桂さんの様子の微かな変化には気付いている。私は物理的な危害に警
戒しつつ、もう少し桂さんの様子を伺うか』

 そう思った頃合に桂さんの携帯電話が鳴り響き。マナーモードに設定し忘れていた様だ。
結局何があるのかないのかは見定められぬ侭。

「やっほーはとちゃん」「あ、陽子ちゃん」

 外部からの刺激で、桂さんは目を醒まし。
 和やかににこやかに日常の会話を交わす。

 車内での通話がマナー違反という以上に。
 私は桂さんの様子をもう少し見定めたく。

 その良く変る仕草と表情を間近で見守り。
 携帯の通話が途切れてしまうのを待って。

「どうやら、圏外になってしまった様だね」

「う……う、う烏月さんっ! 見てた…?
 もしかして今のやり取り、全部見てた?」

 桂さんは寝ぼけ眼で電話に出て、奈良さんに話しの流れを握られ、周囲に注意を向ける
余裕がなく。通話が切れて漸く自身を取り巻く現況に気付き、驚きで一瞬表情が固まって。

「私達以外に車内に誰もいなかったから、取りあえず通話のお邪魔はしなかったけど…」

 頬を染めるのは、私的な話しを聞かれてしまったという意識の為か。私も聞く気はなか
ったのだけど、この近さでは耳に入ってきてしまい……未だに肩を寄せ合っている訳だし。

「もう少しだけ、周囲にも気を配る様に努めた方が良いと思うよ。桂さんは可愛いから何
かと人目を惹き易いし」「う、烏月さんっ」

 赤面した桂さんが視線を逸らす正面には。

「安らかに眠る桂ちゃんも、恥じらいに頬を染める桂ちゃんも、両方とても可愛いわ…」

 今回の経観塚行きはノゾミを含めて4名だ。

 奈良さんとの電話から、流される侭に様々な愛らしさを、プリズムの様に展開させる桂
さんは。柚明さんにも全てが筒抜けだと悟り。言葉も応対も詰まる愛しい人に私は助け船
を。

「経観塚へ着くには未だ少し時間があるよ。
 疲れているならもう少し眠った方が良い」

「だ、だだ、大丈夫です。もう随分寝たし」

 動転する桂さんを、もう少し鎮めようと。
 私は、意図して間近から平静に涼やかに。

「そうかい。では私はもう少し、桂さんの隣で寝かせて貰おうかな。……桂さんと肌身を
合わせていると、とても心が安らぐのでね」

「はっ、はいどうぞ。膝枕でも抱き枕でも」

 そこで青珠に宿る小鬼が声音を挟ませて。

「けいやゆめいは兎も角、あなたは眠りこけていては拙いのではなくて? けいの警護の
為に羽様に付き纏うのに」「ノゾミちゃん」

 鬼が存在を露わにする事は好ましくない。
 私は敢てノゾミには応えず桂さんを向き。

「眠っていても変事には即応できる。同じ車両内に他に人の気配がない事も掴んでいるし、
何者か来るか顕れれば、自動的に悟れて起きて備えられる……心配は要らないよ桂さん」

「四六時中最大の緊張感で身構え続けるのは、却って非効率なの。今が平時か戦時かを見
極めて、適度な注意力を保つ事が大事なのよ」

 柚明さんも柔らかな微笑みを湛えていて。

「烏月さんに寄り添って頂ければ、桂ちゃんの護りは万全です。やはり守る人と守られる
人は、気心が通じている事が理想的ですね」

 柚明さんは桂さんを赤面させて愉しんで。
 愛らしい頬に朱の通う様は私も好ましい。

 前回経観塚へ赴いた時の心境との雲泥の違いに、時折戸惑う自身もいるけど。これが今
私の護りたい物だった。これが今私が鬼切りを為す理由だった。私のたいせつな人だった。

 私が鬼切りを為すのは、憎悪の故でも恨みの故でもなく。この生き生きとした笑みを守
る為に。この何でもない暖かな時間を保ちたいから。心和ませる人の平穏を支えたいから。

 ごとん、ごとん−−
 がたん、ごとん−−

 多少のやり取りがあった後桂さんはやはり。
 この規則的な揺れに眠気を誘われ瞼を落し。

 ごとん、ごとん−−
 がたん、ごとん−−

 私は、この安らかな眠りを守り支える為に。
 兄さんの目指した途を、終生歩み続けよう。

 ごとん、ごとん−−
 がたん、ごとん−−

 愛しい人と肌身を合わせる幸せに浸りつつ。
 目を鎖しても黄昏の赤光を肌身に感じつつ。

 いよいよ目線の高さに迄落ち込んだ夕日は。
 私の瞼の裏側も、朱一色に染め上げていき。

 私は再び夢を見た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 葛様を通じて柚明さんから、桂さんとの経観塚再訪に招かれたのは、秋の初めの夜更け
だった。柚明さんは、昼間葛様が激務で電話に出られぬ状態なのを察し。桂さんも寝静ま
った後を選んで直通電話で。今流行りの『サプライズ』を見込み、桂さんに内緒にしつつ。

「桂おねーさんと、経観塚に……それで烏月さんも一緒に行けたならと? ほぉーお…」

 桂さん達と夏の経観塚で別れて以降、私は葛様の直接指示で特別警護の任に就いていた。
行方不明だった葛様を、夏の経観塚で最初に見つけ、保護した功績への報償たる臨時職で。
葛様が若杉財閥総帥と、鬼切りの頭に正式就任する選挙明けの初秋迄、24時間身近警護を。

 葛様も、気心の知れた者が殆どいない巨大組織に、頭として独り降り立っても。手足が
なくては不自由を極めると、見て取れたので。

「そうですねー。烏月さんの特別警護の任も、漸く解ける様になりましたし。わたしは財
閥総帥と鬼切りの頭の激務が待つので、当分己の身の自由も確保できそーにないですけ
ど」

 鬼切り要員である私に、鬼切りを指令する鬼切りの頭や、政治経済に深く関る若杉財閥
について、助言できる事は少ないけど。傍で雑談に応えるだけで葛様が心和む事もあるし。
年若な葛様を軽侮する者がいれば、私が考え直させる事も叶う。実力行使迄はしなくても。

 本来、羽藤白花を切る命を受けて出た私は、成功でも失敗でも結果の言上に、千羽へ戻
らねばならない。特に私は奴、否、彼を切り損ねた。でも鬼切りの頭直々の命で、功績に
栄誉で報いられた形では、千羽党も私も断れず。取りあえず携帯で、千羽館に報告はした
けど。

 以降2ヶ月私は恵美さんと共に葛様に添い。
 夜も昼も厠を除いて風呂も褥も3人一緒し。

 女同士だから問題ないと言えば言えたけど。
 葛様は奔放だから逆に問題だった様な気も。

『烏月さんに、警護の任をお願いしたく…』

「なる程……柚明おねーさんらしーですね」

 夏以降私が葛様の傍を離れたのは。マスコミが柚明さんを奇跡の人と騒ぎ始める少し前。
葛様の命で桂さんを訪ねた一度だけ。友人の奈良さんといた桂さんの、背後間近から電話
を掛け。こんな他愛もない悪戯を思いつける様になった、己の心境の変化は大きいのかも。

 桂さんの日常を知っておきたくて、奈良さんも含めてカラオケボックスへ行き。その後
桂さんのアパートを訪ね、柚明さんに夕飯を馳走になって。ノゾミが今の世に巧く馴染み、
桂さんと暮らせている事を確かめ。柚明さんが人の世に馴染み、安定しつつあると確かめ。

 選挙も終り、葛様が人の関心を集めて良くなって、財閥総帥に就いた頃合に。粘着質に
『奇跡の人』の非難中傷をしていた報道陣も、刑事ややくざも、桂さんのアパートから離
れ。柚明さんは、嵐が過ぎるのを待っていたのか。

「分りました。わたしから烏月さんに、桂おねーさんの警護を命じましょー。わたしも鬼
切りの頭に就任したので、これ以上千羽の役付きを特別警護に留めるのも難しーですし」

 柚明さんが葛様に話しを通したのは、私の事情を察してか。唯誘われても私は、千羽へ
の結果言上を優先させた。桂さんに伴う事は好ましいけど、私には千羽の鬼切り役として、
党首としての責務がある。己の欲求に走る訳に行かない。でも葛様の直接命令が下るなら。
桂さんも柚明さんも、濃い贄の血の持ち主で、万が一にも鬼の手に落ちる事があっては拙
い。

「命令とあれば異議はありません。……私も、桂さんや柚明さんを警護できる事は嬉し
い」

 翌朝柚明さんは、改めて私に電話を繋ぎ。
 桂さんの前で了承を取って見せて驚かせ。

『烏月さんも経観塚に一緒してくれるの!』

『葛ちゃんに確かめたら、財閥総帥就任に伴って、身辺警護の任務は終ったと聞いたから。
わたし達の経観塚行きへの同行をお願いして、承諾を貰えたの。勿論、烏月さんの承諾
も』

「心を込めて警護させて貰うよ。宜しく…」

 経観塚は僻遠の地で、行きも帰りも移動に一日を費やす。3日以上は必要だった。桂さ
んの学校が、金曜は行事の振替休日で、月曜は祝日なので丁度良く。私は葛様の特別警護
の為に、病気名目で長期に休みを取ってある。

『申し訳ありません。お忙しい御身に無理を頼む形になって』「いえ、お気遣いなく…」

 桂さん達と朝9時に、首都圏外れの特急駅で合流する事になり。30分以上早く現地に着
いた私だけど、桂さん達の到着は更に早くて。

「待たせてしまって申し訳ない。待ち合わせ時間より、かなり早く着いた積りだけど…」

「烏月さんは悪くないよ。わたし達が早く着きすぎちゃったせいだし。お姉ちゃんも早く
烏月さんに逢いたいって、言っていたから」

 予定より早く出ようと言ったのは柚明さんらしい。でも幾ら早く家を出ても乗り込む列
車が同じ以上、駅での待ち時間が増えるだけ。桂さんならともかく、全てに周到なこの人
が。

「はい。わたしも桂ちゃんに同じく、烏月さんに逢えるのが嬉しく。早起きして準備が終
ると黙っていられず……申し訳ありません」

 微かな違和感を感じたのは出立のこの時か。
 でもその違和感を彼女は滑らかに流し去る。

「破妖の太刀に掛けた呪は、効いている様ですね……」「ええ、とても助かっています」

 夏の経観塚で過ごした最後の夜、柚明さんが維斗に掛けてくれた呪は。その存在感を紛
らせ、刀剣所持を目立たなくさせる術だった。

『烏月さん……お願いが、あるのですけど』

『烏月さんには、桂ちゃんの生命を何度も助け守って頂き、わたしも助け守って頂きまし
た。願わくば、少しでも想いを返したく…』

 サクヤさんや葛様を含めた夕飯後の寛ぎの中で、整った正座姿から改めて柔らかに頭を
下げ、維斗に関る許しを請う彼女に対し私は。

『私は、あなたに返される程の事は為せていません。むしろあなたには私が心救われた』

 重荷に思う事はないし、無理に返す必要もない。私があなたに返す物を持たぬ事が残念
なのにと。面を上げて貰い、手を触れ合わせ、葛様やサクヤさんやノゾミの前で見つめ合
い。桂さんの食い入る様な視線は、私が柚明さんと親しすぎた事への羨みだったのかも知
れぬ。

 私は彼女に返礼を望む積り等なかったけど。
 拒み続けるのも逆に頑なで他人行儀に感じ。
 みんなの前で柚明さんの申し出を伺う事に。

『明日以降、烏月さんは葛さんという公人の警護で、人前に出る事も多いかと思います』

 柚明さんは、維斗の存在感を埋没させる呪を掛けたいと。夏の経観塚では、途絶えてい
た祭りを再開させる地元の機運に乗じ、私を祭りの関係者だと、維斗を祭具の飾り刀だと
錯覚させ。刀剣所持を疑われぬ様にしたけど。

 財閥総帥となる葛様の警護では、様々な場所に随伴する。経観塚の地域事情は使えない。
人の不審を招かぬ為には維斗を持ち歩けまい。護衛上の戦力低下も維斗を誰かに預けるの
も問題で。鬼切部なら滅多な事はなかろうけど。

『わたしは贄の血の匂いを気取られない様に、衆に紛れさせる術を心得ています。その応
用で烏月さんの維斗の存在感を周囲に紛らわせ、人目に意識させない様に導く事も。烏月
さんの許しが得られればの、お話しですけど…』

『確かにそれが叶うなら有り難いが、私はあなたの負担が心配です。大丈夫なのですか』

 柚明さんの話しでは、人の認識に働きかける術は技術が重要で、力の量はさほど要らず。
サクヤさんや桂さんの治癒と並行し、自身の肉の体を再生しつつ、後任の封じの要を支援
する柚明さんでも、殆ど負担にならないとか。

『最初だけ少し【力】を使いますけど、後は持ち歩く烏月さんの肌身から漏れ出る鬼切り
の【力】で、呪を維持する様に術を組みます。幾ら力を注いでも長く保たせるのは難しい
し。わたしが添って力を継ぎ足す訳にも行かないので、他から充填がなくても機能する様
に』

 呪を維持するには、どこかから『力』を用立てねばならぬ。私から漏れる『力』を使っ
て維持されるなら、低コストで長く保つ。漏れ出る程の『力』なら私にも負荷は殆どない。

『ではお言葉に甘えて』『お借り致します』

 柚明さんは座した姿勢から私に躙り寄ってきて。私が渡した鞘に入った維斗を受け取り。
その場で愛おしむ様に胸に抱く。刀の鍔を左頬に軽く当て、左肩から左胸に、心臓に腹に
維斗の鞘が抱かれて。暫くは身動きもせずに。

 それは、あたかも私を抱いているかの様な。
 私がこの艶やかな人に、抱かれている様な。

 心を込めて呪を掛けているのだと分るけど。
 嬉しそうに微笑み浮べつつ抱き続ける様は。

 私は維斗に嫉妬していたのだろうか。サクヤさんもノゾミも葛様も、桂さん迄もそれを
見守り続けて言葉もなく。それは維斗に癒しを注ぐ様な。私がこの女人に肌身に癒しを注
がれた時も、こういう情景だったのだろうか。

 暫く経って。柚明さんは深い吐息と同時に、呪を掛け終った様で。夢心地の双眸を見開
いてから私に向き直って、彼女は両手で剣を献上する姿勢を。私も両手で維斗を押し頂い
て。

『……柚明さんの温もりや感触が心地良い』

『つたない術を披露し恥ずかしい限りです』

 柚明さんの頬が、少し血色良い様な気が。

『未だわたしの注いだ【力】が、織りなした呪の多くを占めていますから。じきに烏月さ
んから漏れ出る鬼切りの【力】と入れ替わり、今迄の感触に戻るでしょう』『そうです
か』

 それはそれで少し残念な。日夜手放す事のない維斗で、日夜柚明さんを感じ取れたなら。
あの様にかき抱かれた維斗を、いつも握り抱いて……そんな内心を努めて平静に隠し通す。

『多くの人は維斗の存在を、誰かに気付かされる迄見落すでしょう。見ても認識できない。
唯、呪を見抜ける人や、物の見方が常と異なる人や、盲目の人には通じない事があります。

 他に、常の人でも維斗に触れると、その人は呪の有効範囲を外れます。逆に言うと、維
斗を認識させたい人には、直に触れさせれば、これが刀であると認識できる様に出来ま
す』

 世の人は、私が持ち歩いている事は分っていても、何を持ち歩いているかに気を止めぬ。
今も桂さんと柚明さんの前で、街中で隠さず維斗を持ち上げて。それでも傍を行く人々は、
誰もそれを刀だと気付く様子もなく通り過ぎ。

「今もこの様に持ち歩いても、誰も不審に思う人がいない。今迄若杉が様々に人目をごま
かす為に苦心してきたのが、拍子抜けです」

「僅かでもお役に立てたなら、幸いでした」

 柚明さんが静かに穏やかに反応を返す隣で。
 桂さんが改めて彼女の術の効果に感心して。

「本当に、誰も気付いてないみたいだね…」

「桂ちゃんは予め維斗の太刀を知っているから。経観塚の結界が贄の血の匂いを隠しても、
予め答を知っているノゾミちゃんは、さかき旅館や羽様のお屋敷に、桂ちゃんを訪ねて来
たでしょう?」「確かに……そうだったね」

 話しが自然に脇へ脇へと逸れて行った為に。
 感じた僅かな違和感を尋ねる契機を逃がし。

 以降は特に異変もなく列車を数度乗り継ぎ。
 私は再び月明りの照す経観塚の駅を訪れた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「わたし達が最初に逢ったのは、この駅のホームだったよね」「そうだね。あの時は…」

 運命とは、こういう事を指すのだろうか。
 夏の経観塚でも、同じ列車に乗り合わせ。

 車両は違ったので降りた時、初めて互いの存在を知って。定めを絡め合わせる事になり。

 記憶を鎖す事で拾年前の夜を忘却し。お母さんの逝去で、遺された羽様の屋敷を見に訪
れた桂さんと。同じ拾年前の夜から始る懸案、鬼の憑いた少年を兄さんの仇と追い、決着
を求めて訪れた私と。私達の住む世界は別々で、表面的な交わり以外、共有する物もない
と思えていた。二月前の出逢が今は遠い昔の様だ。

「桂さんが私を穴の空く程見つめて来て…」

「だ、だって。烏月さん、月明りに照されて綺麗だったから。長い黒髪も独特の気配も」

 桂さんは鬼に甘く香る贄の血の持ち主で。
 鬼に『力』を与えては拙いという以上に。
 私は心からこの人を守りたいと強く想い。

 鬼を切りたいのではなく人を守りたいと。
 憎む故に刃振るうのではなく愛する故に。
 人の心を繋ぐ為に悪しき因縁を断つ剣を。

 しかも桂さんは私が負う彼の双子の妹で。
 彼に辛い定めを強いた鬼との因縁を持ち。
 それは兄さんを通じて私との因縁も繋ぎ。

「同じ宿に泊っていると知った時は、少し嬉しかったよ。自己紹介は夕飯の時だったね」

「わたしも。烏月さんに見とれる内に最終バスを逃して、その日の内にお屋敷に行く事は
叶わなかったけど……お屋敷は電気も通らない廃屋だから、却って正解だったし。そのお
陰で烏月さんと同じ屋根の下で……って!」

 再び赤面し、言葉が途切れ掛る桂さんに。

「今回はバスを逃さなくても、想い人と一つ屋根の下よ。遅れない様にしましょうね…」

 柚明さんの促しで私達も改札口へ小走りに。
 出立前のバスに乗り込む時に悟れた気配は。

『中年男性2人は……確か県警の刑事……』

 物陰に隠れているので、桂さんは気付いてないけど。気付いてない筈がない柚明さんは、
自然体でバスに乗り込み。知って知らぬ振りと言う事か。私も気付いてないふりを装って。

『目的は柚明さんか。奇跡の人報道でマスコミが殺到していた時も、それに紛れる感じで、
桂さんのアパートを様子伺いしていたけど』

 選挙が終りマスコミが引き潮の如く去って。
 嫌がらせを為すやくざ達も去ったその頃に。
 彼らも張り込みを止めて、引き上げていた。

 彼らの管轄はこの県だけど、彼らは県庁市の県警本部に勤める者だ。他の事件捜査の為
でなければ。彼らは柚明さんを目的に来た?

『でも、今日この時刻に着くと、予め確信してなければ、ローカル線の駅で待つなど…』

 彼らが追っている案件は。拾年前のあの夜、ノゾミとミカゲが桂さんと彼を操って、ご
神木の封じを解いた為に。漏れ出た主の分霊が彼に宿って、桂さんのお父さんを殺めた件
だ。

 霊の鬼を信じない警察は、あの夜あの場にいた羽藤の者から、犯人を探し出そうとして
いる。桂さんの父母は鬼籍に入り、桂さんと彼は当時幼く人を殺める術がないと見なされ。
疑いが残るのは、柚明さんのみという状況に。

「3人でバスって初めてかも」「そうだね」

 刑事2人はバスの出立を見送る姿勢で、乗り込んでは来ない。乗客の殆どいない車両に、
屈強の男性が乗り込めば、桂さんが見ても目立つ。認識される。それを嫌ったのか。でも、
こちらの動向を把握されている印象も感じた。行き先は分るから泳がせても良いと言う様
な。

「ノゾミちゃんも、もう少しだよ」「……」

 ノゾミも気付いているのだろう。桂さんは自身長旅で疲れているから、ノゾミの硬い反
応を、疲れや退屈の故と思っている様だけど。ノゾミも彼らの動向を、気に掛けているの
か。

 葛様の指示で恵美さんが調べた資料では。

 マスコミも県警も事故死扱いで。報道も地元紙が当初少し取り上げた他は、全く触れず。
その後は県警が裏金告発でそれどころではなくなって。本格的な捜査は為されず今に至る。

 背後に若杉の組織的な工作は窺えたけど。

 事件を掘り返されれば、桂さんにも取材や捜査の手が及び、凄惨な過去が想起され心が
砕かれたかも知れず。柚明さんの封じの要も、中途で戻れる類の物ではなく捜索は無意味
で。桂さんの母も、やむを得ず了承したのだろう。柚明さんが戻ってきた事は正に想定外
だった。

 柚明さんを逮捕等あってはならないけど。
 その様な事態を見過ごす積りもないけど。

『葛様は暫く様子見で、手出しは不要と…』

【2人組の刑事ですね。責任感から捜査体制が縮小され迷宮入りしても諦めず。ドラマの
様な話しが本当にあるとは。彼らは法律に基づいて動く者です。桂おねーさんの件は常の
人には解明できない……監視は続けて下さい。

 刑事の職場や家族等の情報は調べて下さい。手を組むにも取引するにも、脅すにも口封
じするにも。相手の情報は有用です。アパートに張り付く報道陣の情報と同じ位きっち
り】

 下手に脅したり左遷したり、失職させたり抹殺したりして、若杉の痕跡を残したくない。
彼らは唯職務に忠実に捜査をしているだけだ。鬼の禍を常識で捜査しても真相には迫れま
い。

 その意図は悟れたけど。桂さんや柚明さんに今にも刑事が接触しそうな状況は、好まし
くない。柚明さんはマスコミに張り付かれた晩夏に、刑事にもクッキーを渡していたけど。

 柚明さんは状況を把握している。その上で桂さんには事情を伝えてない。現状をどの様
に受け止めていて、どんな解決を考えているのか。桂さんが外した時にでも尋ねてみるか。

「本当にここで良いのかね、お嬢ちゃん達」
「大丈夫です、ありがとうございましたー」

 羽様で停めたバスの扉から、私達は闇へ降り立つ。バスの運転手は、年若な娘が人里離
れた、お化け屋敷や神隠しの噂もある羽様へ、日没後に訪れる事を案じた様だけど。独り
ではないので、渋々納得という表情で見送られ。

 エンジン音とライトが遠ざかると、周囲は太古の昔から変らない、夜の漆黒に包まれた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 月と星が照す道端から、羽藤の屋敷へ連なる緑の空洞に目を向けると。森には全く光が
届かず照されず。先に羽藤の屋敷があると分っていても。女の子なら不安を感じて当然か。
夜は鬼の刻限で、桂さんは鬼の好む贄の民で。その中でも類い希な程に濃い血を持ってい
る。

「やっぱりこの辺は真っ暗だね」「そうね」

 夜の森の深さに竦む様に桂さんが呟くと。

 暗闇の中に白く淡い輝きが浮び上がって。
 大きな蝶の形を取ってはたはた羽ばたき。

 光の粉を散らせつつ足下を先行きを照し。

「ちょうちょ……お姉ちゃん?」「ええ…」

 オハシラ様の『力』は、ご神木と言うよりも太古に宿った竹林の姫の贄の血の『力』で。
ご神木から離れて肉の体を取り戻せた柚明さんは、己の血に宿る贄の血の『力』を使える。
桂さんの類い希な程濃い贄の血を呑んだ時には及ばないだろうけど、今の彼女はご神木が
吸い上げた『力』に頼っていた頃よりも強い。

 私と青珠のノゾミに、緊張が走ったのは。
 各々の生い立ちから来る反射的な対応か。

 強大な化外の力は、悪鬼ではなくても警戒すべきと鬼切部では教えられており。ノゾミ
の硬直は、二月前迄千年敵対してきた憎悪や恨みの故だろう。ノゾミも私も、光の蝶を前
にした桂さんの小さな驚きに紛れさせたけど。柚明さんは全て承知で敢て何も触れずに流
し。

「桂ちゃん。荷物はわたしが預るから……」

 柚明さんは私に向き直って頭を下げつつ。

「烏月さん、桂ちゃんの手を握って羽様の屋敷へ、導いて頂けますか」「承知しました」

 柚明さんは荷を預って手が塞がっている。

 恥じらいや躊躇いを見せては、桂さんが私の手を握り難いので。私は動揺を見せず手を
差し伸べて、桂さんが握り返すに任せ。蝶の先導に従って、桂さんの歩みを考えつつ進み。

 森を抜けて開けた空には月が大きく。
 日本家屋を囲む森は鬱蒼と生い茂り。

「昔話や怪談に出てくる【迷い家】みたい」

 桂さんが漏らす言葉に柚明さんが応えて。

「そうね、人が住んでいればかなり雰囲気も違うのだけど、人が常住していなければ…」

「それでも、二月前には私達が起居しましたし、その後もサクヤさん達が居た様なので」

 気配は全くの廃屋と違う。声を挟める私に。
 柚明さんは、特段気に掛けた様でもなくて。

「笑子おばあさんが生きていた頃から、民話や伝説に出てくる様なお屋敷だったから…」

「けいの地雷を踏みつける才能は一級品ね」

 現身で顕れたノゾミの言葉に、私は心の中だけで頷いて。初秋の涼やかな夜風に髪がそ
よいで心地良い。大きな月に、夏を思い出す。

「屋敷の周囲に油を撒かれたと聞いたけど」

 ノゾミにも油の匂いを感じ取れない様だ。

「葛様の手配で油は除去された筈だからね」

 一月前にこの屋敷へ、やくざが火を掛けに来た事は、葛様から桂さん達も報されている。
松中財閥が背後にいた話しは、不安を引きずるので、柚明さんが桂さんに伏せた様だけど。
郵政選挙から人の話題を逸らす『奇跡の人』を潰そうと。バッシングに中々崩れない柚明
さんや桂さんの、心を砕く目的でやくざ達が。

 でも奴らはサクヤさんに撃退されて、葛様の手で処断され。その本拠だった北関東の某
やくざ事務所は、直後にサクヤさんの襲撃を受けた後で強制捜査が入って壊滅し。柚明さ
んへの嫌がらせが消失し、謂われのないバッシングが下火になったのもその頃か。松中財
閥はトカゲの尻尾切りで、追及を免れたけど。

「経観塚は時折激しい通り雨が降るの。外壁や周囲に撒かれた油は、例え僅かに残ってい
たとしても、全て流された後なのでしょう」

「確かに夏もすごい降り方していたものね」

 奴らが容易に動けない状態だという以上に。
 奇跡の人の報道が沈静化したという以上に。

 選挙も終った今では彼らも、彼女達に害を為す意味が失せたので、危険はない筈だけど。
心には、中傷や暴力・悪意や敵意への怖れや不安が残る場合もある。柚明さんが私の警護
を望んだ理由の一端は、それらの払拭なのか。

 松中財閥の標的は桂さんよりむしろ柚明さんだった。柚明さんは敵の襲撃への備えより、
桂さんの不安を拭う為に。自身の武力を従妹に納得させるより、鬼切り役の警護を頼む方
が早いと考えたのか。確かに柚明さんは並々ならぬ技量を持つにも関らず、その挙措が自
然に柔らかに穏やかすぎて。鋭さを感じない。美しさ優しさが滲み出る一方で、強さ硬さ
は。

「柚明さんも察し済みと想いますが、周囲に不審な者はおりません。安心して良いかと」

 私は桂さんの手を引いて共に先頭を進み。
 連れだって羽藤屋敷の戸口の前迄行って。

 柚明さんの蝶が私達を待つ感じで、屋敷の戸口で滞空している。待っているのではない。
光の蝶は入れないでいるのだ。事情を知る私は右手で鞘を持った維斗の柄を、戸口に当て。

 きぃぃぃいいいん。音にならない音が響く。

 否、それは音ではなく霊的な結界の波紋で。

「?」事情が分らずに立ちつくす桂さんに。

「もう大丈夫……中に入っても問題ないよ」

「羽藤屋敷には、若杉の術者が結界を張ってあった様ね……不審者の侵入を察する程度の、
微弱で殆ど何の役にも立たない結界だけど」

 ノゾミの桂さんへの説明を柚明さんが繋ぎ。

「お屋敷に掛っていた結界を、烏月さんが解いてくれたの。掛けられた鍵を開けたのよ」

 常の人でも簡単に破れるけど。侵入を察して報せるだけの脆い結界だけど。破ったと知
れれば若杉が確かめに来る。それを私が為す事で、不審者ではなく鬼切部だと報せる事で、
若杉末端の介入を抑える。柚明さんはこれを承知して、私に桂さんを繋ぎつつ先行させた。

『葛様や柚明さんが任務にしてでも、私を桂さん達の経観塚行きに、随伴させたのは…』

 羽様の屋敷は桂さんの過去を秘め、柚明さんが生れ育った場だ。好意的かどうかも分ら
ぬ初見の若杉が挟まるより、私が傍に添う事で鬼切部の監視の代りになるなら。桂さんに
掛る不安も怖れも払拭できて、守りにもなる。葛様や柚明さんの意図に添う事が私の正解
か。


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「電気も水道も、問題なく使えて良かった」
「ですが、ガスはやはり使えなさそうです」

 柚明さんは夏に葛様が電気を使える状態にした侭な事を喜んでいたけど。若杉はやくざ
に放火されかけた時に油を除去し、その後も結界を張る等関っていた。もう少し生活基盤
が改善されていても良い処だけど。桂さんの手で電気のスイッチが入れられて、屋敷は広
大な闇の中で一点のみ、文明の光に包まれる。

「ようやくノゾミちゃんと一緒にお弁当頂けるね」「私は別にけいの贄の血さえあれば」

 居間のテーブルに柚明さんと2人で弁当を広げ、桂さんが持参の小型電気ポットの電源
を入れて。粉末のお吸い物をその湯で溶かし。

「真夏ではないから、朝に作った弁当が悪くなっている心配は、ないと思うのだけど…」

「だいじょうぶだよ。お姉ちゃんがずっと贄の血の『力』を、通わせ続けていたんだし」

 今日の3食はお互いに、持ち寄った弁当を分ち合って。朝は合流した駅構内のベンチで、
昼は経観塚へ進む列車内で。柚明さんが作った量は、3人の3食分にしても多かった気が
するけど。その上で私も、3人の3食分以上は用意して来た。柚明さんや桂さんに食べて
貰えると思うと、つい作るのが楽しくなって。

『これが、烏月さんの千羽妙見流お料理の奥義』『おにぎりだよ、喰らって貰えるかな』

 喜んで! と桂さんがかぶりついてくれる横で。柚明さんも『このおにぎりは最強無敵
です』と食して笑みを浮べ。柚明さんの作ったお弁当に較べれば、確実に見た目も香りも
味わいも劣るのに。私も2人の想いを込めたお弁当を分けて貰い。ノゾミは夕食限定とは
言え、毎日彼女達と同じ竈で飯を食えるのか。

『朝に続けて烏月さんのおにぎりを受け続け。
 わたしの体や心にどんな鬼が潜んでいても。
 これなら絶対生き残れないから安心だね』

『私の想いを宿すおにぎりが、桂さんを守り支えた事は嬉しいよ。修行の甲斐があった』

 贄の癒しは使い方次第では雑菌を繁殖させ、逆効果にもなる様だけど。柚明さんは
『力』を及ぼす対象と、それ以外を峻別できる様で。弁当は尚食すに適した色と香りを保
ち。この人は直接戦いに役立たない『力』の扱いにも優れる。というよりむしろそれが本
職なのか。

「私が吟味しましょう。ノゾミには、千羽の弁当の吟味を頼む」「……どうして私がっ」

 ノゾミが一言目で従わない事は、桂さんや柚明さんとの応対を見ていて分るから。私は、

「これも今朝私が作った物で、桂さん達と昼に一緒に頂いたし、合流して以降柚明さんの
『力』を受けているので、食しても大丈夫だとは想うけど、万が一の事があっては困る」

「私なら、万が一の事があっても良いと?」

 非常時でもない限り、ノゾミは二言目でも中々従わない。それが拗ねているのではなく、
言葉の受け答えを愉しんでいるのだと。柚明さんに耳打ちされて、私も漸く得心が行った。

「桂さんの家を訪ねた時は、桂さんに先んじて柚明さんの作りたてを摘み食いする姿も見
かけたが。今回は公認で先に食べられるよ」

 言葉のやり取りで押されると、ノゾミは良く斜め向きになる。整った横顔で口を尖らせ、

「鬼切りの手を経た食べ物なんて……しかも鬼である私に『おにぎり』を勧める積り?」

「柚明さんの弁当のおかずは『お煮しめ』だけど、それは食する気満載で良いのかな?」

 テーブル上の弁当の煮物を、己の器に運んでいたノゾミの匙が止まる。桂さんは和食党
で和食は煮物が多い。接頭語の『お』を附せば、大抵の献立が鬼関係になる。柚明さんは、

「芋の『お煮っ転がし』もノゾミちゃんの好みだったから、夜の献立に加えたのだけど」

「だいじょうぶ。お姉ちゃんの想いと力が効いているから。みんなで仲良く食べようよ」

 桂さんは意図せず何かの地雷を踏む一方で。
 意図せず誰かに助け船を出していたりする。

 お座敷に腰を落ち着け足を伸ばし、温かい飲物で桂さんも気力体力をかなり復し。光の
下で安らぐと、己も昼の生き物だと実感させられる。鬼の刻限に鬼を切りに出向く鬼切部
も、本質はやはり桂さんと同じ人の身だと…。

「思い出すよねー。ちょうど2ヶ月前にこのお屋敷で、この居間で。サクヤさんや葛ちゃ
んも含めて寛いだのが、昨日のことみたい」

「そうね……本当に今が夢のよう」「……」

 夕飯を終えて一息ついた私達は、柚明さんの光の蝶の先導に従って、夜のご神木へ往く。


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 高く伸びる木々が、好き放題に枝を伸ばし、空を殆ど覆い隠している。私の両手では抱
えきれぬ程太い幹の古木が立ち並び、丈のある草が生い茂る狭い道を、私達は前に進み行
く。

「烏月さんと夜のご神木に行くのは、初めてだね」「そうだね。私は鬼切部だけど、桂さ
んは昼を生きる常の人だから。鬼の刻限たる夜に、出歩く事は本来勧められないけど…」

 事情が事情だし、付き添う者の守りも堅い。
 桂さんも常の人だけど関係者ではあるから。

「烏月さんがいてくれるから、安心だものね。わたしもお姉ちゃんも、ノゾミちゃんも
…」

 頷きつつも、無垢な信が微かに後ろめたい。
 私が今回葛様から受けた命は、やや異なる。

 桂さんが第壱の優先順位は間違いないけど。
 第弐の優先は実は、柚明さんではなくて…。

 後ろを振り返ると、少し離れて開けた処に瓦の並ぶ屋根が見えた。サクヤさんや柚明さ
んの話しによれば、太古主が封じられるきっかけにもなった竹林の姫の住処だった屋敷で。

 鬼を切る命を返上し、鬼切り役も返上した先々代が嫁いだ館。柚明さんや桂さんや彼が
生れ育った場所でもあり。離れに見える蔵は、ノゾミやミカゲの宿る良月を、千年以上所
蔵して、桂さんの記憶もこの拾年間封じていた。

 兄さんの仇と思って追ってきた、彼の妹を。
 この様に愛しく想い手を繋いで山道を行く。

 彼女を脅かし、敵対もした小鬼と左右から。
 守り庇いつつ、光の蝶に先を示され導かれ。

 それは本当に私へ、光の途を示すかの様に。
 彼の姉たる柔らかな女人との関りも運命か。

 道の勾配が段々急になる。羽様の山の森を、山道を登っていく。獣道でもまだ道らしく
開けていた処を外れ、草を分ける様に進み行く。道が険しくなって桂さんが話す余裕がな
くなった事は、嘘を得意としない私に幸いだった。

 ざあぁっ……。

 急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。

 そこには見上げる程に大きな、数百の歳月を過したといった趣のある槐の大木が根を下
ろしていた。周囲は遠慮した様に、若い木も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。

 鬼神を封じて返す為に、竹林の姫が千年宿ったというご神木。ノゾミとミカゲが拾年前、
桂さんと彼を操って綻ばせた封じ。その綻びの繕いに柚明さんが己を捧げ、今は彼がそれ
を継ぎ。通り過ぎる秋の夜風に、無数の緑色の葉が闇の中、ゆらりと揺れて幾つか散って。

 桂さんが既視感に固まるのはむしろ当然か。
 私も柚明さんも、ノゾミも暫く何も語らず。
 月明りの照す巨木を、4人見上げて佇んで。

 丸く大きな月が化外の『力』を強めていて。
 私達を『力』で浸し満たし行く様な錯覚が。
 桂さんが夢心地の表情で前へ進み出た瞬間。

「触らないで……。桂ちゃん、お願い…!」

 無意識にご神木へ歩み寄っていた桂さんが。
 柚明さんに、背後から抱き締められていた。


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「烏月さんには警護の役を命じます……が」

 柚明さんの依頼に了承を返し、電話を切り終った後で葛様は、間近の私を見上げて声を。

「私の命じる守りは、烏月さんの想定している守りとは、少し違うかも知れないので…」

 確かめておいた方が、いーですね。葛様は、飲物を持ってきた恵美さんも招き寄せ。私
達2人で葛様の前に、片膝をついて話しを伺う。

「葛様の壱番たいせつな人が、桂さんである事は分っております。同時に桂さんは私の壱
番たいせつな人です。第壱に優先し、犠牲や手段を厭わず守り通す事に、違いはないと」

 恵美さんの前だけど、私は葛様の真意も己の想いも率直に述べ。葛様はそれに頷きつつ。

「桂おねーさんの守りは、いつでもどんな時でも第1優先です。そこに異論はありません。
ですけど問題は2番目以降の優先順位です」

「……葛様の弐番目にたいせつな人も、私の弐番目にたいせつな人も、同じだと思ってお
りましたが……葛様にとって弐番目の優先は、柚明さんの守りではないのでしょうか
…?」

 葛様と私の優先順位は一致していると思っていた。桂さんを壱番優先して守り、柚明さ
んを弐番目に守る。その上で桂さんと柚明さんにとってたいせつな人であるノゾミも、人
に害を及ぼさず、鬼神の封じを脅かさない限りにおいて、守り庇う。ノゾミへの対処は監
視含みになるけど、桂さん柚明さんや人の世に、害を為さない事が彼女の生存条件だから。

 勿論鬼切部として、他に世の人が鬼に脅かされている状況に遭遇すれば、助け守る。そ
れは彼を追って辿り着いた経観塚で、想定しない鬼に脅かされていた桂さんを助けた様に。
ご神木の封じを破ろうとする者や、羽様の屋敷に火を掛ける者がいれば、退ける。羽藤の
件は人の案件ではなく鬼の案件に含むべきだ。

 でも葛様の想定は私と微妙に異なる様で。

「人で言うなら、葛も2番目にたいせつな人は柚明おねーさんです。烏月さんと同着2番
にしたのは、烏月さんが葛をあの人と同着2番にした事へのお返しです。深い意味はあり
ません。唯、今回の経観塚行きでの優先は」

 1番たいせつな人を脅かす鬼神の封じが関ってきます。元々1番の人と2番の人が一緒
に行動する以上、1番の人を最優先するには、2番の人を2番に守る事が難しいのですけ
ど。

「葛様……?」「第1優先が桂おねーさんの守りである事は正解です。ですが今回の経観
塚行きで、烏月さんが第2に優先する守りは、柚明おねーさんではなくて鬼神の封じで
す」

 柚明おねーさんもノゾミも、その後になります。分りますね。鬼神の封じを解こうとす
る者は、誰であろうと退けなければならない。

「柚明さんより鬼神の封じの守りが優先?」

 恵美さんが葛様の言葉をオウム返しに呟く。
 自身に葛様の意図や思考を浸透させる如く。

「確かに鬼神の封じが解かれては、贄の血を欲する鬼神の脅威に、羽藤桂さんも柚明さん
も一瞬で死に瀕する。鬼神の封じは解かせないのが最善ですけど……それを桂さんに次ぐ
二番に持ってくると言う事は」「恵美さん」

 不吉な想定を述べそうになって口を鎖す恵美さんと、視線が合った。恵美さんはそれを
口の端に載せたくないと、首を左右に振って。でも強い視線で見つめ返してくる事で、私
の抱いた危惧を抱いていると、無言で伝えて…。

「桂おねーさんに経観塚の封印を解く『力』はありません。その贄の血は類い希な程に濃
くても、修練のない桂おねーさんは『力』を紡げない。その点で桂おねーさんは大丈夫」

 では、大丈夫ではない者とは? 贄の血が桂さん程に濃くはなくても、修練を経ていて
経観塚の封印を解く『力』を持つ者とは? 羽藤白花はご神木に同化して肉の体を喪った。
主の分霊も消失した今、主をご神木の封じから解き放てる『力』を持つ者とは、もしや…。

「柚明さんはその事について何か触れて?」

「何も。烏月さんが聞いた通りです……でも、あの人は烏月さんに何の警護を頼むのか、
明言しませんでしたよね? 何も分ってないで、桂おねーさんを喜ばせる為だけに、烏月
さんの随行をわたしに頼む人だと想いますか? 用意周到が服を着て歩いている様な人が
…」

 葛様が夏に経観塚で発見・保護された事で。

 若杉内部では鬼神の封じが再認識され始め。
 その復活が目前だった事実は危機感を招き。

 怖れの余り不穏な囁きや呟きを漏らす者も。

「柚明おねーさんもきっと全て承知で、わたしを通じて烏月さんの守りを頼んでいます」

 葛様の真意を聞いた時、私はこの経観塚行きを鬼切部の他の誰でもなく、千羽烏月が為
さねばならない役だと悟った。これは正に運命であり天命だった。桂さんの為に、柚明さ
んの為に、葛様の為に。私は今為せる限りを。


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 桂さんの動きは無意識に自然で。ノゾミも千年の因縁を持つご神木に、想う処があった
のか。その夢心地な所作を見落して。ご神木に近付くだけと私も思っていたから。触れよ
うとした桂さんを止めたのは柚明さんだった。

「お願い桂ちゃん。ご神木には触らないで」

 声音は静かだったけど同時に真剣だった。
 桂さんの表情は夢心地と言うより虚ろで。

「桂ちゃんは贄の血が濃すぎるの。修練がなくても『力』の操りを知らなくても、羽藤の
遠祖が千年宿ったご神木は、白花ちゃんの意図に関らず桂ちゃんと感応を始めてしまう」

 彼女は桂さんの両腕ごとその身を抱き包み。

「修練もない素養だけでのご神木との感応は、堤防もなく濁流を招くに近いの。ご神木の
千年の想いが、見た事も聞いた事も感じた事も全て無秩序に流れ込む。良い物ばかりでな
い。哀しい事、悔しい事、様々な想いが渦を巻き。己を律する修練を経ないと奔流に己を
見失ってしまう。膨大な想いの洪水が混乱を招く」

 知りたい事も知りたくない事も、順番も準備もなく流し込まれる。知ってはいけない事、
知る事が哀しみに繋る事迄も。だから、ご神木に子供は近づいてはいけない。濃い贄の血
を持って修練のない人や、夢と現が定かではない子供は、膨大な情報で正気を危うくする。

『夏の経観塚で、サクヤさんや葛様も含めて訪れた日中も、桂さんはご神木を見上げるだ
けで、触ってなかったのはその為なのか…』

「桂ちゃんは夏の経観塚で、多くの辛い過去を思い出したわ。今尚解きほぐせてない記憶
はあるけど、徐々に取り戻せている。ご神木に触れて濁流を招かなくても、必ず全て思い
出せる。わたしも力を尽くすから、だから…。

 ご神木に直接訊くのはしないで、お願い」

 柚明さんの危惧を秘めた静かで強い声音に。
 桂さんは瞳を閉じた侭静かにゆっくり答を。

「お姉ちゃんの願いって、いつも願う人の為の物だったよね……自分自身の願いは脇に置
いて、わたしや白花ちゃんの為に、わたし達が傷つかない為に、わたし達にお願いって」

 腕の締め付けを解かず緩め、桂さんはその場で振り返り、従姉と向き合う。唇が頬が触
れそうな間近で、桂さんからも柚明さんの背に腕を回して抱き留めて、互いを見つめ合い。

「どうしてとか、何の為にとか、説明がなくても、お姉ちゃんの願いは受け容れる。だっ
てお姉ちゃんは、わたしのそんな願いを幾つも幾つも、心傷めながら叶えてくれたもの」

 わたし、ご神木には触らない。白花ちゃんとはお話ししたかったけど。お姉ちゃんの願
いを振り切って哀しませても、自分の願いを貫きたいとは、やり遂げようとは、思わない。

「お姉ちゃんに、本当にのんびり微笑んで欲しい。幸せになって欲しい。これ以上わたし
やわたし以外の誰かの為に、傷みや哀しみを負う必要はないよ。厳しい戦いは終ったんだ
から。烏月さんの様に強く美しく正しい人が、わたし達を助けて守って、くれるんだか
ら」

 桂さんも柚明さんの技量を分りつつ、尚本質が戦いに向かないと見抜いていて。それで
も危難に遭っては怯まず前に進み出て、己を盾にして禍を防ぐ、従姉の気性を悟っていて。

「わたし、お姉ちゃんを心配させることはしない。お姉ちゃんの願いはいつも、わたし達
願う人の為だから。わたしお姉ちゃんの言葉に従う以上に、気持を汲み取れる様になって、
お姉ちゃんにいつ迄も笑っていて欲しい…」

 この夏迄、拾年この人がいた事も忘れていた。未来を犠牲にして守られていた事さえも。
事もあろうに、こんなに近しく愛しい存在を。その歳月は取り返せないけど、それを笑っ
て受容する優しい人に、無限大の慈しみに少しでも報いたい。未来で報いる事はできるか
ら。

 暫し黙して見守る私の前で羽藤の姉妹は。
 抱き合って頬を合わせて愛しみを交わし。

「有り難う。その気持だけで、満たされる」

 桂さんの頭の上に柚明さんの右手が乗って。
 柔らかくぽんぽん頭を叩く仕草は愛が溢れ。
 桂さんが幸せそうに眼を細める様子が分る。

 惜しみも照れも躊躇もなく、従妹に愛を注ぐ柚明さんの在り方に、羨ましさを感じる一
方で。愛される桂さんを羨ましく想う己もいて。でもその様を見ると頬が緩んでしまい…。

 満月に近い程大きく丸い月と星明りの元で。
 肌身添わせ合う女の子を暫く黙して見つめ。

 この愛しい2人を私は末永く守り支えたい。


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 私にはご神木に過去を懐かしむ要素がない。桂さん柚明さんやノゾミと違って、昔から
の関りもなく、初めて訪れたのも二月前で。本来この地は相馬党の管轄だ。サクヤさんや
先々代の絡みで千羽が関りを持ったけど。羽藤白花の件がなければ、私は今も部外者だっ
た。

 その彼が宿ったご神木は、柚明さんや桂さんやノゾミが間近に来ても、反応を見せずに。
人ならざる気配を漂わせつつ、唯在り続けて。どうやらそれは封じの要の在り方と言うよ
り。

『反応を返さないのではなく、返せない?』

 彼は桂さんと贄の血の濃さが同程度で、柚明さんよりも濃く、『力』も扱え。封じの要
の資格を持つと本人は言っていたけど。私は兎も角、桂さん柚明さんの前で顕れぬのは…。

 ノゾミを弾かないのは、桂さん柚明さんの受容を分っている故か。ノゾミもご神木を前
に見上げるだけで。情は残していても、桂さんを壱番に想う今の小鬼は主を解き放とうと
せぬ。そんな動きがあれば、私が退けるけど。維斗の出番は無用な事が今の私には望まし
い。

 宿る封じの要の交代で、ご神木は印象が若干違って感じられる。以前は清々しく暖かに
柔らかな柚明さんの印象だったのに、今は爽やかさに強さを感じさせ。敵対していた時は
憎々しかったけど、よりによって兄さんに教わった剣を使って来て、腹立たしかったけど。

 冷静になれば彼の感触はむしろ心地良く。
 桂さんや柚明さんにも通じる伸びやかさ。

『今になって想えば、お前も必死だったのだな……兄さん以外誰1人頼れる者もなく、内
に鬼を抱えて、寝ても覚めても抑え続けねばならず。その兄さんを、ああいう形で喪って。

 犯した罪に、塞ぎ込む事さえ自身に許さず、愛した人を助ける事に、残り少ないと分っ
た生命を注ぎ込み……為景さんや楓さんが半ば分って見逃した気持が、今なら分る。兄さ
んが助け匿い、鬼切りの剣迄も教えた心境も』

 私は兄さんを敵に回した様な、兄さんを奪われた様な、兄さんの敵になった己が悪であ
るかの様な焦りに憤激し。相手の背景や内心を見てなかった。相手を知ろうとしなかった。

 相手の心を見据えその執着や欲望を切る事こそ、鬼切りなのに。その肉体を切る事に執
心し。表に顕れた動きに振り回され。己の未熟さの故に、たいせつな人の命運を分つ本当
に大事な夜に、傍にいて役に立つ事が叶わず。

『今度こそは、私がこの手でたいせつな人を守る……葛様から受けた使命を完遂させて』

 今の私が鬼を切るのは鬼を屠る故ではなく。
 人を脅かす鬼を切ってその執着を断ち切り。

 人の定めを繋ぎ、笑顔を守り抜きたいから。
 その上で鬼にも救いとなる刃に出来るなら。

 お前のたいせつな人は私のたいせつな人だ。
 桂さんも柚明さんも私が心を注いで守ろう。

 最早切る事が出来なくなったけど。最早切るべき者でもなく。桂さんや柚明さんを哀し
ませると言う以上に、人に害を為さない鬼は、鬼切部にとっても私にとっても敵ではない
…。

 剣士として再度挑みたい想いは隠さずに。
 淡い光に包まれるご神木を見上げ続けて。

 ふと間近に、ご神木の根元の一角に不吉な気配を感じ取れたのは。清冽なこの場の雰囲
気に不相応な感触に、体が無意識に警戒して、後から意識が追いついた。近くでノゾミも
桂さんも、何となく気付いた様で目を眇めつつ。

「烏月さん、お姉ちゃん。あの揺らぎはまさか、良月を埋めた……」「やはり、そうか」

 経観塚の夏の満月の夜、桂さんと柚明さんがノゾミと為した良月の埋葬場所か。私は正
確な場所は報されてなかったけど、今見て悟れた。ご神木の側面の根元の土がやや盛り上
がった場所から、明らかに異質な鬼の気配が。

 彼に憑いていた主の分霊も、柚明さんに滅ぼされ。ご神木の封じは有効で、主の『力』
が漏れた形跡もなく、他の鬼が訪れた形跡もなく。考えられるなら、良月に尚残存した…。

「柚明さんに討たれたミカゲの怨念が、鏡の欠片に残り、地縛霊となって滞っている?」

 静かな声で応えてくれたのは柚明さんで。

「良月を埋めた時は、わたしがオハシラ様を続ける積りでいたから、ミカゲも還せる見込
だったけど。白花ちゃんには難しいみたい」

 と言う事は、柚明さんは夏の経観塚からミカゲの怨念を放置し続けていたのか。桂さん
もノゾミも、彼女の答からそれを察した様で、僅かに訝しむ表情を見せて。私は単刀直入
に。

「祓ってしまわなくても大丈夫なのですか」
「夜でも再び現身を取る力はないでしょう」

 あの夏の夜、ミカゲの弔いに良月の欠片を埋めに行く直前に、桂さんの問に柚明さんは。

『埋めても大丈夫なの?』

『ええ。その子の分ぐらいなら大丈夫よ。ハシラの封じには影響がないわ』

 ミカゲの怨念が欠片程残っていたとしても。
 最早思念を紡げる程の濃さも持てない筈で。

「ご神木間近の結界は、悪鬼や魑魅魍魎を寄せ付けないの。ミカゲの怨念が幾ら滞っても、
夜に現身を取れない程の『力』では、独りではご神木の封じを揺るがす事も叶わない…」

 桂さんが少し心配そうな顔を見せている。
 だから私は逆に柚明さんの答を導く事で。

「敢て様子を見ていたと、言う訳ですか?」

「白花ちゃんの封じの継ぎ手としての資質は、封じを維持できるか否かの下限にありま
す」

 血の濃さで桂さんと彼は、柚明さんを凌ぐけど。『力』の扱いを知らぬ桂さんは、封じ
の要になる資格を持たず。修練した彼はその資格を持つ。でも戦いの為・鬼切りの為に修
練した彼の『力』の扱いは、封じに不向きで。

「白花ちゃんの『力』の操りは、敵の討伐を想定し、集約と炸裂に重きを置いています」

 それは敵を倒す戦いでは有効だけど。敵を倒す必要がなく、保ち続ける事・在り続ける
事を求められる封じには、効果が薄い。むしろ夜昼構わず、寝ていても起きていても、24
時間常に一定の強さで『力』を紡ぎ続ける事が求められる。必要な力の素養が全く違うの。

「わたしと同じ位血が濃くて、『力』の修練も経ているお兄ちゃんだけど、封じの継ぎ手
を担う素養では、お姉ちゃんより不向き?」

 ええ。柚明さんは桂さんの問に頷き返し。

「男の子と女の子の違いもあるわね。敵に打ち勝つ強さでは、一般に男の子が女の子を上
回るけど。傷み苦しみに耐え続ける強さでは、一般に男の子より女の子が勝る。女の子は
生れつき出産に耐える事が想定されているから。

 人柱や生贄に女の子が多いのは、神や魔物が年若い娘を好む以上に。過酷な定めに耐え
続ける資質で女の子が勝るから。在り続ける事、耐え続ける事、保ち続ける事が必要な封
じの要は、男の子に不向き。白花ちゃんは」

 心の強い子だから、桂ちゃんと並ぶ比類なく濃い血の持ち主だから。こなせているけど。

「封じの要はこなせているけど、ミカゲの怨念を還すには及んでない。手が回ってない…
…そう言う事ですか。それを見極める為に」

 否、この人の力量ならその位は推察が叶う。
 彼女は自身の推察を確かめるという以上に。

「否、むしろその事実を彼に知らしめる為に、ですね。彼も羽藤の、桂さんと同じ血筋な
ら、相当の意地っ張りに違いない。柚明さんの察しが正しくても、事実を見せねば認めな
い」

 課題を示して新たな封じの要の力量を試し。
 彼が全力を尽くしても届かない結果を得た。

「ゆめいなら、ミカゲを早く還せていた?」

「わたしがハシラの継ぎ手を務めていたなら、桂ちゃん達が羽様に滞在していた数日の間
で、ミカゲの怨念を還し終えていたでしょう…」

 彼が封じの要を継ぐ前に、もう少し『力』の扱いを伝えて置けばと、柚明さんは呟いて
いたけど。事の本質はそこにはない。伝えれば良いだけなら、彼女は今でも伝えられる…。

「継ぎ手を交替してから数日、わたしはかなりの量の『力』をご神木に注ぎました。サク
ヤさんや桂ちゃんを初めとするみんなを癒しつつ、己の肉の体を再生する。それに最低限
必要な分だけを残して、全ての『力』を…」

 桂さんが瞬間びくっと反応したのは。誰かの為なら自身を盾にし、己の生命を削って他
者に注ぐ、彼女の性分を承知だから。ご神木に注いだ力が、柚明さんの肉の体を作るのに
差し障る程だったと、察せた故で。この人がそう言う時に己に残す『力』は常に最低限だ。

「でも……幾ら力を注いでも、彼の不足を補い切れない。彼が封じの要を担う限り、根本
的な改善は望めない。白花ちゃんの素養を試すと言うより、これはわたしの注いだ『力』
がどの程度白花ちゃんを支えられるのかを」

 見定める為にその手で祓う事を避けた訳か。
 ではミカゲを還せなかった結果は失敗を…。

 今の彼は夜に現身で顕れ答を返すどころか、蝶を飛ばす事も叶わず。夢に声を届かせる
事さえが夢で。内向きに封じの要を務めるだけで精一杯な、彼の窮状は私にも見えて分っ
て。

「一定の答は出た様ですが、この怨念はどう致しますか? 祓いますか、切りますか?」

「お姉ちゃん……?」

 問うと柚明さんは、左右にかぶり振って。

 桂さんの反応が、今この場でミカゲの怨念を滅ぼす事に、躊躇を見せた事に反応してか。
桂さんはノゾミの心中を慮ったのだろうけど。ノゾミにとって、ミカゲは最後に敵対した
とは言え千年の妹で。良月に封じられた長い間を共有した唯1人の伴であり。主に抱いた
想いと同様、情を断ちきれない背景も分るけど。

 鬼相手に甘さや弱味を見せては、足下を掬われ己が危難に瀕する事位、柚明さんも承知
の筈だ。それが桂さんの生命の危難に直結しかねない事も。特にミカゲは唯の鬼ではなく
主の分霊で。千年を経た老獪に狡猾な悪鬼だ。

 でも柚明さんは直ちに滅ぼす決は下さず。

「もう少しご神木に『力』を注いでみます。その結果を見定める為にも暫くはこの侭で」

 直接は触れず、光の蝶を夜中ご神木の周囲に遊弋させて、月の輝きをより多く照り返し
てご神木に流し込み、取り込ませ。柚明さんの想いの『力』もより多く注ぎ。夜中彼女が
ここに留まれば、最も効果が見込めるけど…。

 そうなれば桂さんも伴う事になって、常の女子高生の体調に好ましくないと、柚明さん
は長居を望まず。ご神木に直接触れないのは、桂さんに触れないでと頼んだ立場の故なの
か。

 柚明さんがいつ迄もご神木の傍にいれば。
 若杉内で余計な疑念を増やすだけになる。

 今は羽様の屋敷に引き上げる事が最善だ。
 ミカゲの怨念は最早夜でも脅威ではない。

 柚明さんは桂さんに、良月を埋めた処へは、手の届く範囲より近くに行かない様にと求
め。

「桂ちゃんは素養を眠らせているから、影響を受けてしまうかも知れない。叶う限りご神
木にも、独りでは来ない様にして頂戴……」

 念には念を入れた用心に、桂さんは頷き。
 少しの心残りを感じさせる表情と声音で。

「うん……わたし、ご神木には1人で来ない。

 さっきお姉ちゃんと約束した事もあるけど。
 何だか、引き寄せられそうな気もするから。

 白花お兄ちゃん……じゃあ、また来るね」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 電気を消せば、月明りの他には灯火もなく。風の音や木々の枝葉の擦れる音以外、車の
動く音も聞えない、千年変らぬ静寂を保つ羽様の屋敷の夜の闇で。人は寝静まって朝を待
つ。

 しかしこの深夜に心騒がす気配の乱れは。
 苦しげな声が漏れるのは桂さんの寝室か。
 尋常ならざる気配の起伏に私も起きだし。

「いやあぁあぁあぁぁっ!」「けい! 起きなさい、けい!」「桂さん!」「桂ちゃん」

 駆けつけた時にはノゾミも柚明さんもいて。
 桂さんの叫びに3人布団の間近に寄り添い。

「お父さんを……お父さんが、お父さんのお腹に穴が空いて、空いて向こう側が見えて」

 桂さんは傍の私が見えても心に映ってなく。
 視た悪夢を外に吐き出さねば心壊れそうで。

「お父さんが死んじゃう。お父さんが、お兄ちゃんの腕にお腹を貫かれて。ううん、違う。
わたしを見つめて、腕を突き出したあの人は、体は白花ちゃんだけど、瞳は真っ赤に輝い
て。

 白花ちゃんの伸ばした腕が、わたしに届かない様に、お父さんが立ち塞がったけど…」

 お父さんの胴体に背中から穴が空けられて。
 わたしの頬にぽたぽた血の滴が落ちてきて。

「お父さんが、お父さんが死んじゃった!」

 わたしの所為で。わたしの為に。わたしが。

 入っちゃいけない離れの蔵に夜に忍び込み。
 鏡のお札を破ってノゾミちゃんを呼び出し。

 ご神木の封じもわたしが解いちゃったから。

「桂ちゃん、落ち着いて」「気をしっかり」

 ノゾミが傍で硬直するのが、分ったけど。
 今は桂さんが優先だ。細い右手首を握り。
 肌身に想いを込めて壊れそうな心を支え。

「わたし、ダメって言われた蔵に入ったことを怒られたくなくて、ノゾミちゃんにそれを
願って。そうしたら本当に、お父さんは怒る事がなくなった……笑う事も。わたしが!」

「叔父さんを殺めたのは桂ちゃんじゃない」

 柚明さんが正気を戻そうと声を張るけど。
 その声は従妹の耳に届いても心に響かず。

「お父さんを殺めたのは、わたしじゃない。
 お父さんを殺めたのは、お兄ちゃんだよ」

 でも……でもそもそもわたしが、あの夜に。

 蔵へお兄ちゃんを連れて行かなかったなら。
 白花ちゃんに主の分霊が取り憑く事はなく。

 誰1人欠ける事なくみんな今も幸せだった。

「わたしが良月のお札を剥がさなければ、誰も酷い目には遭わなかった! あんな目に遭
う原因を作ったのは、このわたしなのっ…」

 柚明お姉ちゃんが肉の体を捧げ、未来も抛ってオハシラ様になったのも。お兄ちゃんの
鬼を心に宿した過酷な人生も。お母さんが幸せな生活を突如断たれ、傷み哀しみを押し隠
して、過労で死んじゃったのも。お父さんも。全部わたしの所為だよ、全部わたしの為だ
よ。

「なのにわたしは拾年の間、のうのうと幸せに生きて。元気に学校行って、日々お友達と
遊んで愉しんで。独りだけ愛されて人の暮らしを続けていた。全部の原因だったわたしが。

 みんなに守られ庇われて、傷み哀しみを何一つ知らず。ずっと忘れ去っていた。こんな
に近しくたいせつな人を、その人を不幸に陥れて守られて来た事実を、この夏迄ずっと」

 人でなし……わたし、人でなし。鬼だよ!

 どうやって償えば良いか見当も付かない。
 こんな酷い結末を招いてみんなを傷つけ。

 地獄行きだよ。絶対許される筈がないよ!

 桂さんは半身を起こしても、誰とも視線を合わせられず。布団に伏して号泣し。心の負
荷が限界に近付くと『赤い痛み』が蠢き始め。

「痛い、痛い。赤い、赤い痛いのが、来て」

 桂さんはこの拾年、甚大な傷み苦しみを忘れる事で回避してきた。本当の傷口である拾
年前の夜を思い出さない様に、『赤い傷み』で思考を遮り。気絶で自傷を止めるのに近い。

「桂さん、しっかり」「桂ちゃん、大丈夫」

 思わずその細い身を支えに腕が伸びていた。
 柚明さんが左側から桂さんの肌身に添って。

 癒しの『力』を注ぎ込んでいると分るけど。
 私も傷み苦しむ桂さんを見ていられなくて。

 癒しの『力』を持たぬ己の無力が恨めしい。
 私は今、愛しいこの人の役に立てていない。

 そんなわたしの間近で柔らかな声音は強く。
 全身全霊を注ぐのは正にこの人の在り方で。

「わたしが許すわ。この世の何がどうなろうとも、わたしは最後迄あなたを愛するから」

 柚明さんは私やノゾミが傍にいると承知で。夜着の桂さんの左半身に、自身の肌身を夜
着の上から重ね合わせ。その感触と強い声音で。桂さんの正気を引き戻す。その魂を掴ま
える。

「この世の誰1人桂ちゃんを許さなくても。
 桂ちゃん自身許されたくないと願っても」

 わたしが必ずあなたを許す。例えあなたが悪鬼でも、鬼畜でも、わたしの仇でも。あな
たこそがわたしの一番の人。絶対見捨てない。あなたを愛させて欲しいのは、わたしの願
い。何度でも望んで喜んで全て捧げて悔いもない。

「桂ちゃんが地獄に墜ちるなら共に墜ちる。
 そして必ずあなただけは救い上げるから」

 桂さんの硬直は、己の地獄墜ちが柚明さんも地獄に墜とすと悟れた故か。彼女は必ずそ
うすると、桂さんも夏の経観塚で見て知った。柚明さんは従妹の為なら、独り微笑んで地
獄に往くし。桂さんが地獄に墜ちたなら、飛び込んででも救い出す。拾年そうしてきた様
に。

 拾年鬼神を封じた柚明さん故に、いとこのの為に幾度も己の全てを抛った柚明さん故に、
その言葉に宿る重みは尋常ではない。この人はたいせつな人の為ならば、いつでも即座に
地獄を引き受ける。望んで笑顔で了承出来る。故に若杉幹部に危惧を抱かれているのだけ
ど。

「あなたが幾度過ちを犯しても。あなたが幾ら罪に塗れても。必ずわたしはあなたを愛す。

 鬼でも人でも構わない。咎があっても罪があっても。わたしはいつでもいつ迄も、望ん
であなたを受け容れ許す。そしてもし桂ちゃんに、他の人に犯した重い罪があるのなら…
…わたしが人生を注いで一緒に償うから…」

 だから過去だけじゃなく今から未来を見て。
 あなたの外側に開けている世界を見つめて。

 桂さんの嗚咽が鎮まり始めていた。泣き疲れたという以上に、従姉の無限の許しに受け
容れられて、桂さんの自責が拡散して弱まり。夜着を通した柔らかな肌身の感触が心も癒
す。

「わたしの桂ちゃんは賢く強く優しい子…」

 その傷み哀しみや悔恨は、桂ちゃんの優しさの証し、強さの証し。凄惨な過去に向き合
う桂ちゃんの意志の作用なの。逃げていた訳じゃない。赤い痛みの防衛本能が何度も現れ
たのは、桂ちゃんがこの拾年、何度も真実に向き合おうとした為で、強さの証し。過去の
悲劇に心を傷め流す涙は、優しさの証し。鬼畜でも人でなしでもない。賢く強く優しい子。

「幼い心を壊されそうになって、本能は正気を守り通す事を選んだ。それは何も悪い事じ
ゃない。幼子が精一杯生き抜こうとしただけ。悔恨に心囚われないで。哀しみの欠片を踏
みしめて、その痛みに涙流しつつ、それでも過去をしっかり抱いて、今を見つめて生き
て」

 愛しい人の嗚咽が止んで力尽き、再び眠りの園に沈んだのは。その少し後の事だった…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……暫し場を外します」「烏月さん……」

 想い人の涙を前に、為す術のなかった私は、己の無力に苛立っていた。鬼を討つ刃を幾
ら鍛え修めても。今目の前で、自身の罪悪感に苛まれる愛しい人の、魂を救う術は私にな
く。

 正にそんな頃合だった。屋敷の外に複数の男性らしき気配を感じ取れたのは。夜更けに
隣家迄数キロもある僻地で人の家を誰が窺う。若杉の者なら私の随伴を承知の筈で、監視
も様子見も不要だし。そうでなければ尚不躾だ。

『問い糺し、場合によっては追い払う…!』

 漸く己の出番が来た。愛しい人に役立てる。敵を退けるなら私の得意領域だ。桂さんの
守りなら夜はノゾミがいるし、その心の支えたる柚明さんもいる。敵に対するのは私の役
だ。

 桂さんの柔らかな左手首を、静かに離し立ち上がり。室外へ出た私を、柚明さんが即座
に追ってきたのは、予想外だった。彼女なら、明日の朝迄従妹の傍を離れないと思ってい
た。

 ノゾミが居るとは言え、桂さんの状態は良好と言い難く。屋敷の外の気配が私の敵手に
値しない者である事は、この人も察せる筈だ。ならこの人は私に用があるのか。向き直る
と。

「屋敷の外にいる人達は敵ではありません」

 若杉の者でもなく、やくざでもないと気配で私も掴めたけど。廊下に出て、県警刑事2
人かと察せられたけど。でも深夜に他人の屋敷を窺う行いは、詰問に値する。警戒を抱き
つつ邸内を窺う姿勢も含め、存念を窺うべき。

 言外に出さずともその想いは通じており。
 柚明さんはそれを察して私を止めようと。

「彼らは下見に来ただけです。彼らはこの夏迄拾年、何度もこの屋敷や山奥のご神木へも、
事件捜査に訪れていました。悪意はないの」

 彼らは決して邸内に踏み入りません。少しの間様子見して、今宵は引き上げる積りです。

「彼らは欲得や悪意で動く者ではありません。
 わたし達を脅かす意図も持ってはいません。

 葛さんの傍にいた烏月さんなら、既に彼らの素性はある程度ご存じと思います。しっか
り向き合って話せば、想いの通じない人ではない。手荒に退ける必要のない、烏月さんの
手を煩わせる必要のない人です。お願い…」

 彼らの事は、わたしに任せて頂けませんか。

 柚明さんは疲弊した桂さんの傍に添うより。
 彼らを問い糺そうとした私の阻止を優先し。

 彼女はそれ程彼らへの応対を重く見ている。

 唯退けるだけならば彼女にも充分叶うのに。
 撃退せずとも片手間で、感応で幻惑できる。

 でも敢て柚明さんはそれを為さず。桂さんのアパート傍に、報道記者に紛れて張り付か
れた晩夏、彼らにも手作りクッキーを配って面識を繋ぎ。桂さんには何も報せてないけど、
桂さんへの接触は防ぎつつ。彼女は自身を疑い訝しむ刑事2人と、気脈を通じようと試み。

「今ここで彼らと揉めて、あの状態の桂ちゃんを起こし、不安や怯えを与えたくないの」

 愛しい女人は穏やかな声で静かに頭を下げ。
 そこ迄されては私が逆に応対に惑う展開に。

 私は、桂さんや柚明さんの役に立ちたくて。
 彼女達を困らせる為に、動いた訳ではない。

「分りました……彼らが屋敷の中に踏み込んでこない限り、桂さんに直接接触してこない
限り、私は柚明さんの判断に従いましょう」

 県警刑事への対応はそれでも葛様の意図の範囲にある。桂さんが第壱優先なのは同じだ。
私が了承を返すのに、柚明さんは丁寧に礼を。

「有り難うございます。そして、折角わたし達を思って動いて下さったのに、善意を無に
する様な事を言って、申し訳ありません…」

「それは、あなたが謝る事ではありません」

 結局私は今宵、柚明さんや桂さんを守る上で役に立てそうにないけど。せめて勇み足等
の失策で、余計に愛しい人に負担となってしまわぬ様に。叶う限りその心を支え励まそう。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 桂さんの前を外せた事で、桂さんの耳に入れては拙い話しも多少は出来る。柚明さんも
私も、桂さんの心を支える為に、その傍に添いに戻るので。それ程多くの時間はないけど。

「桂さんは毎夜こう言う感じなのですか?」

 桂さんのアパートには、ノゾミの状態の査察を兼ねて一度訪ねたけど。就寝前に引き上
げたので、桂さんの夜の過ごし方は見てない。故に今宵の桂さんのあの有様は衝撃で。己
の無力への焦りを抑えつつ、問わずにはおれず。目の前の女人は、沈痛な表情で静かに頷
きを。

「経観塚から帰着して以降、月に数回程の割合で……今宵は特に激しかった様ですけど」

 何とか己を保てているけど。一つ応対を間違えば、僅かでも想いが足りなくば。最早誰
かの悪意も不要で、桂さんは暗闇の繭に逆戻りする。桂さんのアパートに移り住んで以降、
柚明さんは幾度か瀬戸際で。桂さんの生きる意志を繋ぎ止め、心の自死を食い止めて来た。

「羽様の屋敷が、桂さんの記憶を揺さぶっているのですか? 取り返しの効かぬ過去が」

 柚明さんは兎も角、桂さんの経観塚再訪は早計だったのかも知れぬ。悲惨な過去を経た
桂さんには、ここは懐かしい生家であると同時に、全てを喪失した過ちの場で。柚明さん
さえ桂さんの被害者だ。桂さんが自責の淵に沈んだ時、その心を呼び戻すのは至難の業…。

 過去を思い出せた故の副作用かも知れない。

 だが柚明さんならそれも見通せていた筈で。
 敢て桂さんを伴ったのには事情がある筈だ。

 彼女は私の視線の意図を察して言葉を続け。

「桂ちゃんは心を壊さない為に、拾年記憶を鎖して来ました。過去を思い出しかけると防
衛本能の赤い痛みが思索を遮り、向きを変え。それは、桂ちゃんの心を守る為の作用でし
た。

 経観塚の夏で記憶を取り戻せたけど、正にその故に桂ちゃんは、傷み哀しみの本体であ
る拾年前を、全て思い返せる様になりました。赤い痛みの回数は一時的に増しているので
す。その心の傷み哀しみを、全て即座に拭い去れないわたしの力不足は、申し訳ないけれ
ど」

『それは、あなたが謝るべき事ではない…』

 彼女の語りを阻むのは本意でないので、敢て口は挟まないけど。柚明さんは何故かこう
言う時に限って、私の真意を読んでくれない。

「過去を取り戻した桂ちゃんは、もう再び忘れる事も叶わない……夏迄の、記憶を取り戻
す前の桂ちゃんになら。わたしも無理に過去を思い出さないでと、勧めていましたけど」

 記憶を戻せた桂さんは、過去に向き合わざるを得ない。己の咎に、罪に、結果に。だか
ら柚明さんは桂さんの傷み哀しみに寄り添い。感応の『力』で一緒に傷み哀しみを感じつ
つ、従妹に自らの気力で赤い痛みを乗り越えてと。

 赤い痛みの更に奥、思い出せた以上否が応でも、向き合う事を強いられる拾年前の夜を、
怯まず受け止め馴れたなら。防衛本能たる赤い傷みは役目を終えて、自然に薄れ消失する。

「桂さんと羽様を再訪したのはその為ですか。過去を思い出し、赤い痛みに耐えて馴れて
薄れさせ、心の強さも鍛えようと。あなたがいれば、桂さんの傷みを防ぎ癒す事も叶う
…」

 納得できる答を得た積りでいた私だけど。
 この人の真意は近似にあって若干異なり。

「それもありますけど。わたしは桂ちゃんに、障りなく過去を思い出せる様になって欲し
い。笑子おばあさんや叔父さんや白花ちゃん。桂ちゃんの誕生を喜び、育つ様を愛で、笑
いあって日々を共にした人を。思い出せないのは、思い出す度に傷み苦しむのはつらい事
です」

 桂ちゃんは拾年ずっと、己が何者なのかを定められず彷徨ってきました。常に自身の居
所に惑い、拠り所を喪った感触を拭えず、捜し求め続けてきました。それを漸く思い出せ
た今は、もう再び忘れ去る事が叶わない今は。

「何より桂ちゃんが、自身の幼い日々を見つめ返せる己自身でありたいと、望んでいます。

 桂ちゃんの真の想いが、わたしの正解…」

 己の瞳が心眼と共に見開かれ往くのが分る。
 この人の真意は感応使いでも読み取り難い。

 それは彼女の如き思考や発想を持たなくば。
 常の人には思いつく事も困難な境地だから。

「桂ちゃんは賢く強く優しい子。赤い痛みが待つと分っていても、その先に真の哀しみが
あると分っていても。過ちも哀しみも含めた暖かな過去を、正視したいと願っています」

「桂さんの為であるという以上に、桂さんの真の願いだから、叶える為に心添わせる…」

 柚明さんは従妹の心の強さを信じ、彼女に傷みを科すと承知で、その願いに応えようと。
桂さんの痛みを緩和しても消し去らないのは、彼女が乗り越えるべき壁だからだ。でも必
須な事情があって尚、彼女に傷みを強いる事に、この人は心傷めている。桂さんの痛みを
感応の『力』で共有したのは、柚明さんの己自身への罰か。或いは『共に戦う』との励ま
しか。

「……人を守るという事は、その心を哀しみや不安からも守る事。心も温め抱き留める事。
その深奥に踏み入って何もかも受け止める事。代りに己の心も開け放ち、踏み入らせる
事」

 いつかの柚明さんの言葉を私は再度復唱し。
 この人の在り方は正にその言葉通りだった。

「あなたの様な姉を持てた桂さんは幸せだ」

 溜息は桂さんに寄せる愛の深さへの諦めか。
 又は桂さん以外誰も得られぬ愛への羨みか。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 翌朝の桂さんの寝覚めは、やはり良くはなかった様で。悪夢に魘され、赤い痛みを招き、
柚明さんの癒しを受けて再度眠りはしたけど。体調は兎も角未だ心が復調しきってない様
で。

「昨夜及ぼした癒しと痺れが未だ少し残っている様ね」「ごめんね、お姉ちゃんも烏月さ
んもノゾミちゃんも。迷惑掛けて」「気に病む事はないよ。私達は夏の経観塚で互いの事
情に深入り済だしね」「謝らなくて良いから、今は己の心身を復する事だけ考えなさい
な」

 桂さんは朝食に、カップ麺を半分程食して。でも未だ起きて動き回るのは早計と、柚明
さんは午前の買い物に桂さんを伴わず、屋敷で休んでいてと促し。残念そうな表情の従妹
に、

「烏月さんにお屋敷に残って添って貰うわ」
「桂さんにはあなたが添っていた方が良い」

 買い物は私がしますと申し出たのだけど。

「わたしは役場に顔を出す必要もあるので」

 柚明さんは取り戻せた自身の戸籍を確かめる必要があり。住民登録を桂さんの住む町に
移す手続もせねばならず。本来役場は土曜日休みだけど、彼女の事情を汲んで担当の者が
休日出勤し時間指定で待っているとか。それは誰にも代行できぬ以上、買い物もついでに。

「桂ちゃんのこと、お願いします」「任されました」「行ってらっしゃい、お姉ちゃん」

 桂さんは午前中布団に身を横たえて静養し。
 私は愛しい人の間近に座してその手を握り。
 安心を与えつつ心と体の自然な復調を待つ。

 ノゾミは日中であると言う以上に、桂さんの傷み哀しみに負い目を感じてか声も発さず。
青珠は静かに置物として在り続け。秋の日は暑すぎず寒すぎず、静かに涼やかに時を流し。

 私は桂さんを癒せる『力』を持たず。退ける敵がいない今、鬼切りの業も役には立たず。
唯傍に添うしかできない。その気力と体力の回復を見守るしか。だから今は己に叶う限り
を。万が一の不審者の接近や侵入に備えつつ。

「わたし、烏月さんに……お願いがあるの」

 桂さんは差し伸べた私の手を握り返して。
 真顔になって私の視線を覗き込んできた。

「烏月さんにお姉ちゃんを守って欲しいの」

 意を決した表情で、私の一番愛しい人は。

「お姉ちゃんは無理する人だから。夏の経観塚でも、わたしを守る為に無理を幾つも踏み
越えて。出来ない事を無理に叶えて。1人で傷み苦しみを抱え。それでもわたしを心配さ
せない為に、どんな時も柔らかに微笑み続け。

 わたし、お姉ちゃんを喪いたくない。もう誰1人、たいせつな人は喪いたくないの…」

 お姉ちゃんはわたしより賢く、色々な事を知っていて、強く優しく気配りできて。先が
見通せて、忍耐強く想いが深く。わたしが気付いた時には、危険を引き受け終っていたり。
気付けた傷み哀しみが、ほんの一部だったり。そもそもわたしが気付けてなかったり。わ
たし今迄、何度お姉ちゃんを踏み躙っていたか。

 わたしがそんな子だから、お母さんの生命も縮めちゃった。なのにわたしはお母さんを
喪った自分の哀しみに涙して。本当に辛い想いを経て、誰かの為に流す涙も堪えて微笑み
続けていた人もいるのに。その守りや支えの上にわたしの人生があったのに。何も知らず。

「烏月さんは強いから、鬼や化外の力や武道を沢山知っていて大人だから。わたしよりお
姉ちゃんの考えや悩み苦しみを、推し量れると思うの。その上で守り庇って支える事も」

 お姉ちゃんは、わたしの為だと何でも引き受けちゃうから。わたしが受けるべき報いや
しっぺ返し迄、前に出て受け止めちゃうから。

「わたし、当代最強って言われたお母さんの血を引いても、鬼切りの業を究めたお兄ちゃ
んの妹でも、何も出来ない。贄の血があっても血の『力』を扱えなくて、迷惑ばかり掛け
ている。強くならなきゃいけないのに、しっかりしなきゃいけないのに。夢に魘され…」

 守る側になれない。役に立てない。お姉ちゃんの負担や傷み哀しみを、分けて持つ事が
出来ないどころか、その源になってもいたり。その事にさえ、気付けてないかも知れない
の。

「拾年前の夜も忘れた侭、ノゾミちゃんと心繋いで、受け容れてって望んたり。酷いよね
……ノゾミちゃんと心繋げた事は、悔いてないけど。でもそれを、わたしに言われた時の、
お姉ちゃんの気持を考えると」「桂さん…」

 経観塚から帰ってきた後も、マスコミの張り付きや酷い記事や、やくざの嫌がらせに迄
遭って。わたしがノゾミちゃんを憑かせた事が原因で不調だった暫くの間、お姉ちゃんは
独りで全てに対し続け。厳しい戦いは終ったのに。屈強の記者さんを退けて陽子ちゃんを
守ったり、刃物持ちの不審者を退けて桃花さんを助けたり。詰めかけられて石投げられて。

「これ以上お姉ちゃんに負担を掛けたくない。
 もうこれ以上戦ったり心傷める必要はない。

 烏月さんにお姉ちゃんを、守って欲しいの。
 無理しない様に見張って防ぎ止めて欲しい。

 お姉ちゃんは強いけど、元々戦いに向いた人じゃない。平穏無事に微笑む姿が似合う人。
闘う凛々しさよりのどかなお昼寝が似合う人。でもわたしには、守り庇う力も賢さもなく
て。

 烏月さんも柚明お姉ちゃんを、大事に想ってくれている、その気持に、甘えちゃうけど。
わたしじゃ手が届かないの。首を挟めても却ってお荷物になる。お願い烏月さん。わたし
もわたしに出来る限りの、お礼をするから」

 切なく見上げてくる瞳に一瞬胸が高鳴った。
 その侭唇を重ねて奪いたく、鼓動が早まり。
 握るこの手に力を込める事で、平静を保つ。

「大丈夫。桂さんの願いがなくても、柚明さんは私にとって桂さんの次にたいせつな人だ。
私と桂さんは、私と柚明さんは、願いに応え守るのに、お礼を必要とする仲じゃないよ」

 でも桂さんがそう望み願うなら、桂さんの想いも込めて、千羽烏月が柚明さんを守ろう。

『今回の任務の優先順位では、柚明さんは弐番でもないけど……結果として柚明さんも守
る事になる筈だ。例え表向きそうではない経緯を辿ろうと、望まぬ結末を迎えようとも』

 松中財閥の息の掛ったやくざや鬼や、鬼に近しい報道陣等。桂さんに危難が迫った時に、
私がこの手で退け守るのと同様に。柚明さんに危難が迫った時は、私がこの手で退け守る。
桂さんの言う通り彼女は戦いに向いた人ではない。技量はあっても敵を退けても、諍いや
戦いに踏み込む事があの人の優しい心を削る。

「柚明さんが危難に踏み込むのは多く、たいせつな人が危うい時だ。彼女が身を挟め想い
人を守る、その前に私が出て、敵を退け防ぎ守る。たいせつな人の安全が確かなら、柚明
さんは自ら危険を招く様な人ではないしね」

 柚明さんが大事に想う桂さんが、万全に守られていれば、従姉が危険に陥る怖れは低い。

「今はゆっくり休む事だよ」「うんっ……」

 柚明さんが帰着したのはほぼ正午だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 昼食を終えて一息ついた桂さんは、当初予定通り、午後にご神木へ行こうと言い出して。
桂さんの状態を慮って、柚明さんはやや及び腰だったけど。明日もあるわと、言う従姉に。

「わたしが、行きたいの。わたしは大丈夫」

 桂さんは、柚明さんが彼に寄せる想いを分っている。柚明さんにとっては、桂さんと彼
の双方が『一番たいせつな人』で。桂さんに寄せる想いと同じ想いを、彼にも抱いている。

 柚明さんは本当は、夜も昼も食事も抜きで、ご神木に添い続けて彼を助けたい。『力』
の紡ぎ手である彼女にはそれが叶うし、鬼神の封じの助けにもなる。実は葛様の命令で私
は、それを見過ごす訳には、行かないのだけど…。

 桂さんは従姉の願いを己が阻んでいると。
 己の存在が足手纏いになっていると感じ。

 体調の復した日中位ご神木に行きたいと。


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