白花の咲く頃に〔甲〕(後)



 白花ちゃんに主の分霊が取り憑く事はなく。
 誰1人欠ける事なくみんな今も幸せだった。

「わたしが良月のお札を剥がさなければ、誰も酷い目には遭わなかった! あんな目に遭
う原因を作ったのは、このわたしなのっ…」

 柚明お姉ちゃんが肉の体を捧げ、未来も抛ってオハシラ様になったのも。お兄ちゃんの
鬼を心に宿した過酷な人生も。お母さんが幸せな生活を突如断たれ、傷み哀しみを押し隠
して、過労で死んじゃったのも。お父さんも。全部わたしの所為だよ、全部わたしの為だ
よ。

「なのにわたしは拾年の間、のうのうと幸せに生きて。元気に学校行って、日々お友達と
遊んで愉しんで。独りだけ愛されて人の暮らしを続けていた。全部の原因だったわたしが。

 みんなに守られ庇われて、傷み哀しみを何一つ知らず。ずっと忘れ去っていた。こんな
に近しくたいせつな人を、その人を不幸に陥れて守られて来た事実を、この夏迄ずっと」

 人でなし……わたし、人でなし。鬼だよ!
 どうやって償えば良いか見当も付かない。

 こんな酷い結末を招いてみんなを傷つけ。
 地獄行きだよ。絶対許される筈がないよ!

 けいは半身を起こしても、誰とも視線を合わせられず。布団に突っ伏して号泣し。心の
負荷が限界に近付くと、赤い痛みが動き出す。

「痛い、痛い。赤い、赤い痛いのが、来て」

 けいはこの拾年、甚大な傷み苦しみを忘れる事で回避してきた。本当の傷口である拾年
前の夜を思い出さない様に、『赤い傷み』で思考を遮って。気絶で自傷を止めるのに近い。

「桂さん、しっかり」「桂ちゃん、大丈夫」

 両脇から支えの手が伸びて。特にゆめいはけいの肌身に癒しの力を注いで、赤い痛みを
緩和する。でも、緩和はしても痛み自体を止めはせず。心を添わせてその痛みを共有して。

「わたしが許すわ。この世の何がどうなろうとも、わたしは最後迄あなたを愛するから」

 ゆめいは私と鬼切り役が傍にいると承知で。夜着のけいの左半身に自身の肌身を夜着の
上から重ね合わせ。柔らかな感触と強い声音で。けいを正気に引き戻す。けいの魂を掴ま
える。

「この世の誰1人桂ちゃんを許さなくても。
 桂ちゃん自身許されたくないと願っても」

 わたしが必ずあなたを許す。例えあなたが悪鬼でも、鬼畜でも、わたしの仇でも。あな
たこそがわたしの一番の人。絶対見捨てない。あなたを愛させて欲しいのは、わたしの願
い。何度でも望んで喜んで全て捧げて悔いもない。

 ゆめいはけいに心を添わせ、共に赤い痛みを感じ。痛みを分ち合いつつ、一層強く身を
添わせ。想いを言葉を、肌身に心に浸透させ。

「桂ちゃんが地獄に墜ちるなら共に墜ちる。
 そして必ずあなただけは救い上げるから」

 けいの硬直は、己の地獄墜ちがゆめいも地獄に墜とすと悟れたから。ゆめいは必ずそう
するとけいも夏の経観塚で見て知った。ゆめいはけいの為なら独り微笑んで地獄に赴くし。
けいが地獄に墜ちたなら飛び込んで救い出す。

 けいを右から支える鬼切り役が、言葉を失う気持も分った。拾年槐で鬼神を封じたゆめ
い故に、けいの為に全てを抛ったゆめい故に、その言葉に宿る重みは尋常ではない。ゆめ
いはけいの為ならば、いつでも即座に己に地獄を引き受けられる。望んで笑顔で了承出来
る。

「あなたが幾度過ちを犯しても。あなたが幾ら罪に塗れても。必ずわたしはあなたを愛す。

 鬼でも人でも構わない。咎があっても罪があっても。わたしはいつでもいつ迄も、望ん
であなたを受け容れ許す。そしてもし桂ちゃんに、他の人に犯した重い罪があるのなら…
…わたしが人生を注いで一緒に償うから…」

 だから過去だけじゃなく今から未来を見て。
 あなたの外側に開けている世界を見つめて。

 けいの嗚咽が鎮まり始めていた。泣き疲れたという以上に、ゆめいの無限の許しに受け
容れられて、けいの自責が拡散して薄まって。夜着を通した柔らかな肌身の感触が心も癒
す。

「わたしの桂ちゃんは強く賢く優しい子…」

 その傷み哀しみや悔恨は、桂ちゃんの優しさの証し、強さの証し。凄惨な過去に向き合
う桂ちゃんの意志の作用なの。逃げていた訳じゃない。赤い痛みの防衛本能が何度も現れ
たのは、桂ちゃんがこの拾年、何度も真実に向き合おうとした為で、強さの証し。過去の
悲劇に心を傷め流す涙は、優しさの証し。鬼畜でも人でなしでもない。強く賢く優しい子。

「幼い心を壊されそうになって、本能は正気を守り通す事を選んだ。それは何も悪い事じ
ゃない。幼子が精一杯生き抜こうとしただけ。悔恨に心囚われないで。哀しみの欠片を踏
みしめて、その痛みに涙流しつつ、それでも過去をしっかり抱いて、今を見つめて生き
て」

 けいの嗚咽が止んで、力尽きた様に再び眠りの園に沈んだのは。その少し後の事だった。


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「……暫し場を外します」「烏月さん……」

 けいがぐったり身を横たえる中、何かに気付いた鬼切り役が、握っていたその左手首を
離して立ち上がり。室外へ歩み去る鬼切り役を追いかけて、ゆめいもけいの右手首を離し。

「ノゾミちゃん……桂ちゃんを少しお願い」

 鬼切り役は、屋敷の外に人の気配を感じて、場を外した様だけど。ゆめいは鬼切り役の
動きを案じた様だけど。今の私には外野の動きなどどうでも良かった。所詮彼らは常の人
だ。夜にここへ踏み込んできてもどうとも出来る。

 それより私はけいの様子が気懸りで。けいは起きているとは言えないけど、眠っている
とも言えない感じで。心が夢と現の境界線を。

「……ノゾミちゃん……」「……けい……」

 己の所行の結末だった。ミカゲと共に主さまの為に為した拾年前の結果が、これだった。

 あの時は、けいを大事に想う時が来るとは、思いもよらなかった。千年慕った主さまの
為なら、誰を何人どんな手段で殺めても平気だった。唯空腹を満たす為に人を襲って血を
貪った。無力な人の怯えや悲嘆等嘲笑していた。まさかこんな苦味を味わう日が来ようと
は…。

 けいは私を認識できてない。譫言で私を呼んだだけだ。鬼切り役やゆめいが外した事も、
今のけいは把握できてなく。起きながら夢を見ているに近い。その視線は虚空を彷徨って。

「……ごめんね、ノゾミちゃん」「……?」

 だからこそその一言は、私の胸を貫いた。
 それがけいの真の想いであると分る故に。
 けいは夢の中で私に何を謝っているのか。

『わたし、拾年前の夜にノゾミちゃんを解き放った事を悔いている。あれがなければノゾ
ミちゃんと知り合う事は出来なかったのに…。

 あの夜ノゾミちゃんを解き放たなければ良かったって、思っている。ノゾミちゃんが拾
年前、封じられた侭なら良かったって思って。わたしが罪から逃れたくて。ノゾミちゃん
のせいにしている。わたしって酷い子だよ…』

 それはけいの所為ではなかった。紛れもなく私が、ミカゲと共に羽藤や人の世に悪意と
敵意を込めて為した。主さまを封じて安穏を得た羽藤や人の世など、主さまを解き放つ苗
床になれば良い。確かにそう想って為した過去の行いが、今私のたいせつな人を苦しめて。

 なのにそのけいは私を責める事を悔やみ。

 最も深く酷く害を受けた者であるけいは。
 拾年前私の復活を望まなくて当然なのに。

 私をたいせつな人にしてしまったが故に。
 私の復活を望まなく思った自身を責めて。

 焦れったい程の甘さ優しさが却って辛い。

「けい……あなたは、私を責めても良いのよ。鬼切部でも術者でもなく、何も知らない幼
子だったあなたがこの拾年、自身で記憶を鎖さなければならない程辛い想いを経てきたの
は。あなたの所為じゃない、紛れもなく私の所為。

 私など滅んでいれば良かったのにと。ミカゲと共々未来永劫良月に封じられ、甦らなけ
れば良かったのにと。私など存在しなければ良かったのにと。罵って良いの。あなたはそ
の資格を持っている。八つ当たりでも何でもなく、けいは私を禍の元凶と非難できる…」

『力』は使わず。でも夢現のけいの心にはこの声は届いているかも知れない。それを見込
んで私は、間近で身を横たえたけいに、そう囁きかけ。正面から非難された方が、憎悪を
叩き付けられた方が未だ私が救われる。それで少しでもけいの鬱積が吐き出されるのなら。

 なのにけいは、私の想いが届いているのかいないのか。夢心地でその双眸に涙を滲ませ。

『お父さん、お母さん、お兄ちゃん、柚明お姉ちゃん、ごめんなさい……わたしのせいで。

 それと、ノゾミちゃんもごめんね。わたし、たった独りのノゾミちゃんを、わたしがミ
カゲちゃんから引き剥がして独りにしたノゾミちゃんを。わたしの罪悪感の逃げ道にしよ
うとして……ノゾミちゃんを恨んでも憎んでも、拾年前わたしのやった事に違いはないの
に』

 みんなが受けた傷み哀しみは変らないのに。
 取り返しの効かない事は変えられないのに。

『罪悪感から逃れたくて、誰かのせいにしようとしている。わたしが原因なのに。一番辛
く悲しい想いをした人は、間近にいるのに…。

 苦しい哀しいを言える立場じゃないのに。
 ノゾミちゃんのせいにして楽になろうと。

 こんなわたしじゃ、みんなに守ってもらう値がないよ。一瞬でも人の不幸を願うなんて。
それもこの拾年でわたしが掴めた、数少ないたいせつな人に。ノゾミちゃん、ごめんね』

 けいは私に、顔向けできないと迄呟いて。
 顔向けできないのは、どう考えても私だ。

 憎しみや敵意をぶつけてくれた方が、未だ楽だった。けいは私をたいせつに想った故に、
私に向けるべき非難迄も己の中に呑み込んで、呑み込もうとして更に心傷め。信じられな
い。

 こんな苦味を感じる日が来ようとは。主さまだけがたいせつで、他はどうでも良かった
頃は想像もつかなかった。敵を倒せば済む問題ではなかった。励ませば良い訳でもないと
分る。けいは己の罪に戦いている。許す資格など私にはない。それはけい以外に誰も拭い
ようがない。私は添えば添う程に重荷になる。けいが私をたいせつに想う事がけいを苛む
…。

 その手を握る資格さえ、私にはないのかも。


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 ゆめいは少しの後に、けいの元に戻り来て。
 右手首を握ってけいを『力』で眠らせつつ。
 現身を消しても私の気配を察して手招きし。

「あなたも辛かったでしょう……己の過去の行いの結果を、ああいう形で見せられると」

 促しに添って現身の浮く高さを近づけると
 ゆめいは躊躇なく右腕に私を抱き頬合わせ。

「でもあなたには、羽様に来て貰う必要があった……あなたに複雑な想いを抱かせると分
って。あなたのたいせつな桂ちゃんの為に」

 あなたは今や、桂ちゃんの唯1人の同胞よ。
 覗き込んでくる双眸は、儚くも悲哀を秘め。

「桂ちゃんは、拾年前の夜の加害者という罪の意識に苛まれている。償う術の見えない重
い現実に、今も正気を脅かされている。幾らわたしが手を伸ばしても、救いきれない…」

 わたしは桂ちゃんの過去に深く根差すから。桂ちゃんはわたしを見る度に、暖かな過去
と繋って拾年前の傷み哀しみを思い出し。優しさの故に、わたしに罪の意識を抱いてしま
う。

「桂ちゃんにとっては、わたしは拾年前の夜の被害者で、幾ら願っても同じ立場に見て貰
えない。わたしが望んで引き受けた結果でも、桂ちゃんは己の所為と悔いて自身を責め
る」

 過去はやり直せない。わたしは桂ちゃんと同じ罪を負って同じ処に立つ事を許されない。
本当の意味で、桂ちゃんの同胞にはなれない。その深く重い孤独を解きほぐす事が叶わな
い。

「あなただけよ。桂ちゃんが認める同胞は」

 それを求める事が、あなたにどれ程辛い事かを分った上で。本当の原因者であるあなた
こそ、今本当に居たたまれないのだと承知で。わたしは敢てあなたに求める。責任を取っ
て。

「最期迄桂ちゃんの傍に添って頂戴。あなたにしか叶わない『同じ罪を持つ者』として」

 その声には私への憎悪や怒りは露程もなく。
 むしろ慈しみや申し訳なささえ感じられる。

 私に負荷が掛る事にゆめいは心傷めていて。
 私が仇である事などゆめいには些事であり。

 たいせつな人の心を支え保つ事が最優先で。
 けいの為に私に負荷を求むと敢て心を鬼に。

 ゆめいは夏の経観塚でも。けいが私と心を繋げて受け容れた後で、拾年前の夜を思い出
して倒れ、別室に観月の娘達と集った夕刻前。最早許される筈ないと、斬られるか消され
るかを望んだあの時。裂帛の気合で私を叱責し。

『捨てられる迄桂ちゃんの側に留まりなさい。

 桂ちゃんの怒りも哀しみも憎しみも全て甘受なさい。因果の報いを受けなさい。桂ちゃ
んの悔いも涙も受け止めて、その上で捨てられたのなら去っても消えても良い。それ迄は、
桂ちゃんの理解も納得もなく、その想いも見届けず逃げ去る事は、わたしが許さない!』

 鉞で殴られた様な衝撃に魂を打ち抜かれた。

 私を許そうとするには厳しすぎ。でも私を拒もうとしては見えずに。観月の娘も鬼切り
の頭も、ゆめいの意図が分らず言葉も挟めず。

 私もゆめいの真意を見定められず問い返し。

『桂が私を許してくれるかもってこと…?』

 でもゆめいの意図は私の推測を超えていて。
 ゆめいの様な思考発想を持たねば悟れない。

『そうじゃないわ。例え許されない事でも』

 あなた自身が、全身全霊で向き合いなさい。
 あなたの所作に抱いた桂ちゃんの想いなの。

 それが憎しみでも怒りでも涙でも拒絶でも。
 桂ちゃんの真の想いをその身に受け止めて。

 それが今為せるあなたの唯一の償いで贖い。
 逃げ去る事は桂ちゃんの救いにはならない。

 憎悪でも、愛情でも、許しでも、絶縁でも。
 あなたへの想いに、行き場がなくなるだけ。

 桂ちゃんに、長く悔いと喪失感を残すだけ。
 それは、あなたが自身から逃げているだけ。

『桂ちゃんがあなたの消滅を望むなら消えなさい。絶縁を望むなら去りなさい。尚関係を
望むなら留りなさい。あなたの意志ではなく、あなたが大切に想う人の意志に添いなさ
い』

 己が辛い時こそ誰が真に辛いのかを見よと。
 己より愛しい人の傷み哀しみを優先せよと。

『最後に桂ちゃんがあなたの消滅を望むなら、わたしの想いで包んで消してあげるから
…』

 あなたをわたしの中に受け容れて、一緒になってあげる。わたしの桂ちゃんを愛する気
持に混ぜ合わせてあげる。愛される保証はないけど、愛するだけなら悠久に出来る。最期
迄、あなたの行く末にはわたしが責任を持つ。哀しみにも悔恨にも、絶望にも付き合うか
ら。

「過去にも桂ちゃんにも怯まず向き合って」

 厳しい言葉で絶対人を見捨てず、優しい言葉できつい事を求む。憎らしいのに憎めない。
ゆめいは私に抱く筈の、底知れぬ憎悪や敵意を露程も見せず、唯たいせつな人を想い続け。

 私の心に掛る負担に申し訳ないと陳謝して。
 私を抱き留め肌身に癒しの『力』を注いで。

 元々私が蒔いた種の末の傷み哀しみなのに。
 甚大な悲痛を負ってきたゆめいに癒される。

 桶に冷水と絞ったタオルを持って戻り来た。
 鬼切り役の唖然たる顔には私も同意だけど。

 この柔らかさ心地良さは手放したくなくて。
 けいもゆめいも贄の姉妹は揃いも揃って…。

 主さまも、羽藤の贄の血ではなく、この愚かしい迄の甘さ優しさを欲したのかも知れぬ。


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 翌朝のけいの寝覚めは、やはり余り良くなかった様で。悪夢に魘され、赤い痛みを招き、
ゆめいの癒しを受けて再度眠りはしたけれど。体調は兎も角未だ心が復調しきってない様
で。

「昨夜及ぼした癒しと痺れが未だ少し残っている様ね」
「ごめんね、お姉ちゃんも烏月さんもノゾミちゃんも。迷惑掛けて」
「気に病む事はないよ。私達は夏の経観塚で互いの事情に深入り済だしね」
「謝らなくて良いから、今は己の心身を復する事だけ考えなさいな」

 けいは朝餉に湯でほぐしたかっぷ麺を半分程食し。でも起きて動き回るのは早計と、ゆ
めいは午前の買い物にけいを伴わず、屋敷で休んでいてと促し。けいの残念そうな表情が、
ゆめいは一番きついのだけど。心を鬼にして。

「烏月さんにお屋敷に残って添って貰うわ」
「桂さんにはあなたが添っていた方が良い」

 買い物は私がしますと述べる鬼切り役に。

「わたしは役場に顔を出す必要もあるので」

 ゆめいは取り戻せた自身の戸籍を確かめる必要があり。住民登録をけいの住む町に移す
手続もせねばならない。本来役場は土曜日休みだけど、ゆめいの事情を汲んで担当の者が
休日出勤し時間指定で待っているとか。それは誰にも代行できぬ以上、買い物もついでに。

「桂ちゃんのこと、お願いします」

「任されました」

 私はけいのけーたいに、青珠毎結わえ付けられ、日中は顕れる事も出来ぬ。布団に寝か
しつけられたけいが、鬼切り役に手を握られて、暫しの2人きりを喜び恥じらい静養する。
その様を隣室で感じつつ、敢て邪魔する気にもなれずに私は、暇な時間を過ごし。でも…。

 私の心がざわめくのは。ここが羽藤の館だという以上に、昨夜のけいの状態が気懸りで。
ゆめいはけいにかなりの量の癒しを注ぎ込んだけど。逆に言えばそうして備えねばならな
い程、けいの状態は重篤なのか。体より心が。私は未だに癒しの『力』を操る事が出来な
い。

 不可能ではない筈だけど。思い切り集めて弾けさせる戦いの『力』の扱いと違い、一定
量を保って乱さず及ぼし続けるのは、予想以上に気力や神経を浪費する。経観塚の夏の夜
に一度だけ、消滅しかけたゆめいに私の現身を為す『力』を癒しに変えて流し込んだけど。

 あれは私がゆめいから与えられた『力』を、時をおかずに返したから出来た一種の奇術
で。強すぎず弱すぎず、及ぼす他者の状態を視て慮り、及ぼす箇所と及ぼし方にも細かく
気を配り……。とても今の私には出来そうになく。けいに試みてみる気にもなれず。この
資質が封じの要に必要なら、なる程けいの兄が困難を極めるのも分る。正にゆめいの得意
領域だ。

 今の私はけいを救う何の役にも立てない。

 唯けいの傍に添う事しか出来ず、けいが私の関った過去で、もがき苦しむ様を見ている
しか出来ず。けいをたいせつに想う様になった今の私に、それは生殺しに近い拷問だけど。

 過去の私が為した事には向き合わなくば。

 鬼切り役が、寝付いたけいの手を傍で握り続けるだけで、私に言葉も掛けぬのは。それ
に触れる事が、責める事になると気遣ってか。

『昨夜のけいは、私の知る限りかなり深刻な状態だった。ミカゲの作用で暗闇の繭に落ち
た経観塚の夏の夜は別として、本当に正気を失う淵迄追い詰められたのは、初めてかも』

 ゆめいと、けいのあぱーとに移ってからも。幾度かけいは夜に発作に似た感じで悪夢に
魘され。過去を思い出せた故に拾年前の夜を夢に見て、泣き叫び己を責め苛むけいも、ゆ
めいが鬼切り役に答えた通り、何度か見たけど。

 いつもなら『お父さん、お母さん助けて』で始り『白花お兄ちゃん、柚明お姉ちゃん』
と続き、傍のゆめいを肌身に感じて落ち着く。目覚めてゆめいを傍に感じて尚暫く泣き叫
び、絶望を漏らすけいを見たのは、初めてだった。ミカゲの効果もない以上、過去に繋る
この屋敷の存在や空気が、けいに作用しているのか。記憶の想起を妨げ防ぐ赤い痛みが、
徐々に薄らぎつつある今、けいの心を保ち通す術は…。

 ゆめいが帰着したのは、ほぼ正午だった。


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 ゆめいは昨夜の内に蝶を飛ばせ、薪を集めていた様で。買ってきた食材を調理して3人
で昼餉を食し。私は青珠からその様を見守る。

 昼餉を終えて一息ついたけいは、当初予定通り午後に槐へ行こうと言い出して。けいの
状態を慮って、鬼切り役もゆめいも及び腰だったけど。未だ明日もあるわと言うゆめいに。

「わたしが、行きたいの。わたしは大丈夫」

 けいは、ゆめいがけいの兄に寄せる想いを分っている。ゆめいには、けいとけいの兄の
双方『一番たいせつな人』で。けいに寄せる想いと同じ想いを、けいの兄にも抱いている。
ゆめいは夜通し一日中、食事も抜きで槐に添い続けていたい。『力』の紡ぎ手であるゆめ
いにはそれが叶うし、封じの助けにもなれる。

 その願いをけいは己が阻んでいると察して。
 己の存在が足手纏いになっていると感じて。

 せめて体調の悪くない時位槐に行きたいと。
 けいは『力』を扱えず修練も経てないから。

 野外で寝起きすると体調に響きかねないし。
 食を抜いても24時間起き続けても衰弱する。

 ゆめいがけいを置き去りにして、槐に行ける性分でない事を、けいも分っている。双方
一番たいせつな人だけど、ゆめいは心も修練を経たけいの兄より、より心折れ易いけいに
重きを置いている。けいを案ずる余り槐に行けぬのでは、ここ迄やってきた意味がないと。
けいは己の体調と体力の許す限り槐に行くと。己が往く事でゆめいを槐に行かせようと考
え。

「わたしもご神木に、お兄ちゃんに逢いたい。
 わたしが逢いに行きたいの。お願いっ…」

 それに、わたし何故かご神木の下に、行かなくちゃいけない様な気がするの。心惹かれ
るって言うか、気になって堪らないと言うか。

「体調はお姉ちゃんのお陰で戻っているし」

 烏月さんが一緒してくれるなら心配ないし。
 怖い鬼も顕れないし今は日の照る時刻だし。

「行ける条件は整っているよ。むしろ今が絶好機って位に。白花お兄ちゃんも、きっとわ
たし達に逢いたいと願っている。元気な姿を見せて安心させてあげたいの。……ダメ?」

 けいはゆめいに、下から見上げ瞳をうるうるさせて訴えかける。それはけいがゆめいに
やや我が侭な願いを通したい時に良く見せる。ゆめいはけいを、今も幼子扱いしているか
ら。

「分ったわ。じゃあ、一緒に行きましょう」
「わぁい。やっぱりお姉ちゃん、大好きっ」

 けいは幼子の如く抱きついて、ゆめいの柔らかな肌身に頬を埋め。その感触に眼を細め
て充分堪能した末に、鬼切り役が傍にいると思い返して赤面し。2人の仲の良さは見てい
て本当に羨ましいよと、素直に感想を述べる鬼切り役に。答にならない答しか返せないけ
いの間近で、ゆめいは頷いて肯定の答を返し。

 昼なので、私はけいのけーたいの青珠に籠もった侭、全員揃って山奥の槐の封じへ赴く。


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 高く伸びる木々が、好き放題に枝を伸ばし、空を殆ど覆い隠している。私の両手でも抱
えきれぬ程太い幹の古木が立ち並び、丈のある草が生い茂る獣道を、けい達は前へ進み往
く。

「わぁあ……紅葉がきれい!」「そうだね」

 京や坂東に較べても、みちのくは気候が冷涼で秋の訪れが早く。葉は赤に黄に色づいて。

「晴れていても、夏の時みたいにギラギラしてなくて、丁度良い日当たり具合だね……」

 少し汗ばみつつもけいの体調は快調らしく。

 この辺で、白花ちゃんと間違われて烏月さんに組み敷かれ、刃突きつけられたと。けい
が言うと鬼切り役は困惑し。改めて謝る鬼切り役にけいは、謝らせたくて言ったのではな
いと。そこで鬼切り役と絆を繋ぎ直せた事が、心底良かったと思い返したのと語り。一緒
に歩める今も、その日の和解があってこそだと。

「お姉ちゃんのお陰だよ。前の夜に烏月さんに維斗の太刀で絆を切られた後で、切られた
絆は結び直せば良いって、教えてくれて…」

「わたしは、桂ちゃんの想いの整理を手伝っただけで……教えたのでもないわ。桂ちゃん
が自身の願いに気付ける様に、促しただけ」

 桂ちゃんが烏月さんを大好きなのは、誰の目にも明らかだったし。烏月さんが桂ちゃん
との関係を、切らなければ断てない程大事に想ってくれていた事も視えたから。お節介を。

「いや……私も桂さんと過ごした時間は暖かく楽しかったし、柚明さんと過ごした時間も
同様に。桂さんと絆を断った時には未練もあったし、繋ぎ直せた事は本当に嬉しかった」

 話しを弾ませつつ3人は、山道を登り進む。
 何度も来た道なので、昼なら危うさもなく。
 道なき道も、さほど怖れずに、草を分けて。

 ざあぁっ……。

 急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。
 主さまを封じる槐の大木を、昼に見るのは。
 けいの青珠に宿って以降知った光景であり。

『これがけいを一番に想う私の視点なのね』

 霊体の鬼である私は、青珠に宿って初めて昼の槐を訪れられる。鬼切りの頭の祖に封じ
られる前も、ミカゲと主さまを解き放とうと動き出す前も、夜の槐しか訪れられなかった。
昼の槐を見る私は、主さまを解き放つ願いを諦めた私で、けいを一番たいせつに想う私だ。

 周囲は遠慮した様に、若い木も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けていて。だから槐
の側面に、やや新しく掘り返し土を盛った痕は見えて分り。昨夜来た時と違って、立ち上
らせる空気に異質感がないのは、日中の故か。槐の神秘的な空気も、随分減じられている
し。

 けいが似た様な感想を述べるとゆめいは、「そうね。眠っているのと起きている位の違
いかしら。ご神木も鬼ではないけど化外の力を秘めた呪的な存在。その本性は昼は鎮まり
夜に息づく。わたしがオハシラ様だった時も、わたし達が祀っていた先代のオハシラ様
も」

 埋めた良月の欠片に残存していたミカゲの怨念は、消失したのだろうか。昨夜感じた異
質な空気が欠片もないのは、ゆめいの所作か。

 ゆめいはけいに寄り添いつつ、夜中槐に蝶を飛ばしていた。蝶の形を取った『力』を届
かせ、けいの兄が為す主さまの封じを助けに。それは朝の陽が昇る直前迄、鬼切り役と2
人けいの傍に添って、けいの心を支えつつもその心身に癒しを及ぼす行いと、同時に並行
し。それはゆめいにも相当の負担となる筈だけど。

 今回は、けいも意識して槐に触らない様に、近付きすぎない様に務め。ミカゲの怨念の
痕にも、近付かない様に。その為か特段の問題は生じず。爽やかに晴れた秋空の下、涼や
かな秋風に肌を晒し髪を靡かせ、赤や黄の紅葉を槐の傍から見渡して。その彩りを愉しん
で。

 暫くの後に私達は帰途に就いたけど。日が暮れる前に帰着出来る様にとの動きは、当初
予定通りだったけど。ゆめいが槐に触らないのは、けいに触らないでと頼んだ立場の故か。

 日中に訪れても、直に触れねば『力』を注ぎ足す事は叶わず。けいの兄と感応する事も
難しかろうに。ゆめいはむしろけいの様子を心配する様に窺っていて。鬼切り役も同様に。

 そのけいも、槐の中の兄に語りかけたりしていたけど。微妙に勝手が違う印象で。何と
言うのだろう。昨夜の槐を期待していた様な。けい自身、何がどう己の期待と違うか分っ
てない感じで、でも拍子抜けした印象は拭えず。

「また来るね……白花お兄ちゃん」

 けいは夜の槐の方が好ましいのだろうか?


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「五右衛門風呂……、入れるの?」「ええ」

 ゆめいはその分も考えて薪拾いをしてあり。帰着して少し汗ばんでいたけいに、その話
しをするとけいは瞳を輝かせ。さかき旅館の日帰り入浴は昼のみで、これから行っても着
いた頃に時間切れになる。けいは今日の入浴を諦め、冷水浴でもしようかと考えていた様
で。

 ゆめいが夕餉の支度をし、鬼切り役が風呂を焚く火を見る間。けいは2人に休む様にと
促され。元気なのにと呟きつつ、ゆめいや鬼切り役が案ずる気持も分るから、そこそこ消
耗したのも事実だから。けいは西日の差す部屋で、座って待つ内に暖かさに微睡み掛けて。

「もうすぐお風呂やお夕飯なのに眠っちゃ」

 拙いよねと呟いて、けいは寝ぼけ眼でそろそろ這い進み。夕刻だから現身は取れたけど、
半ば無意識なけいの動向が読めなくて。私は暫く敢て現身を取らずに、状況を眺め続ける。

『陽子ちゃんに、定時連絡でもしようかな』

 けーたいを求めて居間に行った筈なのに。
 居間のテーブルにあるけーたいを見ても。

 見えて認識できてないのか見向きもせず。
 その隣の鬼切り役の寝室へけいは向かい。

 けいは何故自分と関りもない部屋へ。或いは拾年前以前に何か想い出があるのか。勝手
に入っては拙いと声掛けたけど。けいは視線が虚ろで、声が耳に届いても心に響いてない。

「けい、ちょっとお待ちなさい。そこは…」

 必要があれば、現身を取ってけいの動きを阻む。その積りで室内へ続いて入ると。視界
ではけいが鬼切りの太刀に手を伸ばしていて。あれは鬼だけでなく人も切れる、本物の刃
だ。鞘には入っているけど、誤って抜けば危うい。

 けいは魅せられた様に鬼切りの太刀に手を。
 握って持ち上げ確かめようとした様だけど。

 太刀の重さに体のバランスを大きく崩して。
 持ち上げ掛けた太刀を手放しつつ倒れかけ。

「けいっ!」「桂さん!」「桂ちゃん……」

 私がけいの左半身を引っ張り支えた時には。

 その右半身を現れた鬼切り役が支えていて。
 ゆめいがけいの手放した太刀を身に抱えて。

 この3人でけいを一緒に守る日が来るとは。

「けい、あなた何を為しているか分って…」

 そこ迄言いかけて私も漸く、けいの視線が虚ろな事に気付き。眠ってないけど寝ぼけ眼
というか、夢うつつで動き出した感じなのか。私の声にけいの表情が微かに反応を返し始
め。

 ゆめいが鬼切り役に太刀を返し、それを鬼切り役が部屋の隅に置き直す間。私がけいを
抱えて居間のテーブル迄連れて行き。その間にけいは目が醒めて、何を為したか思い返し。

「ごめんなさい! わたし、こんなっ……」

 とりとめもない事を考えている内に、烏月さんの事を思い返して。烏月さんが重い太刀
を意の侭に揮っているのを見て、あの太刀はどの位の重さなのかなって。現実感がなくて、
これは夢なのかもって思ったら、ついつい…。

「癒しを及ぼしすぎたのかも知れないわね」

 ゆめいはけいの心身を気遣って、槐からの帰着後もけいに癒しを及ぼしたけど。それは
心身の疲れや緊張を取り去る一方で、心身を弛緩させ、夢と現の境を崩す副作用も伴って。
大人しくしていたり眠るなら問題はないけど、動き回る時は不都合があるから使い難いの
と。

 そう言えば、ゆめいは私やミカゲとの戦いでも、戦いの最中に己には癒しを使ってなか
った。抱き留めたけいに癒しを及ぼした事はあったけど。けいが戦闘要員でなかった故か。

「一部の感冒薬の様な物でしょうか? 眠気を招く怖れがあるので、運転する時には服用
を控えて下さいという」「そうですね……」

 鬼切り役もけいが無事だったので、注意はする積りだけど叱る積りはなく。でも原因は
把んで次を防ぎたいと。けいに悪意はないと信じる一方、不用意や不注意ならあり得ると。

「機械や炎を扱う作業や、高所への往来などは避けた方が良いと思います。少しうたた寝
していてくれればと思ったのですけど、わたしの見立てが甘くて……申し訳ありません」

「それは、あなたが謝る事ではありません」
「そうだよ。これはわたしが悪かったのっ」

 烏月さん、ごめんなさい。大事な鬼切りの太刀に、不用意に触って。お姉ちゃんにもノ
ゾミちゃんにも、心配させてごめんなさい…。

「全くけいは、私がいないと何をやり出すか分らない。本当に世話の焼ける小娘だわ!」

「うう、今回ばかりは返す言葉がないです」

「維斗は鬼切部の破妖の太刀で、先代から受け継いだ千羽党の重宝で、余人に触れさせる
物ではないけど。それ以上に桂さんが身を傷つける怖れがあるから……見たいなら、言っ
てくれれば間近で抜いて見せても良いけど」

 桂さんの安全の為に私に話しを通して貰う。
 強い意志を優しさ涼やかさで包んだ声音に。

「はい。もう勝手に触る事はいたしません」

 けいは平身低頭に近い感じで了承を返し。
 私もゆめいも鬼切り役も受け容れたけど。

 私はこの時に、物事の根幹を悟れなかった。ゆめいの癒しの微かな過剰が、けいの夢現
を招いても。その先にけいの意志がなくば、その場で微睡んで終った筈で。けいの内にけ
いを促す何かがなくば、この様に動きはしない。ゆめいの『力』の過剰は、けいを無心に
しただけで。無心になったけいは、潜在意識の侭に動き出した。何かに命じられ促される
侭に。

 後から思い返せば、気付くべき材料は転がっていた。拾年前の夜からこの夏の経観塚や、
昨夜やこの夕刻に至る迄けいの周囲に様々に。私もそれを、けいと共に見て感じて来た筈
なのに。見えて視えず、聞いて聞えず、節穴で。

 私は遂に自力では真相に到る事が叶わず。
 けいの内に真実を沈ませた侭夜を迎える。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 夕餉を食して湯に浸かり。けいが早く就寝するのは、昨夜の影響より午後の山登りの故
だろう。鬼切り役やゆめいは修練を経ていて、疲労にも耐性があるから通常に過ごしてい
る。

 外は丸く大きな月が昇っているけど、夜更けと言うには未だ早い。でも近隣数里に民家
のない羽藤屋敷は、文明の光が瞬いても闇の大海に浮ぶ孤島で。届く物音も千年変らぬ風
の音か、枝葉の擦れ合う音で。人の蠢きのない事が、鬼である私には心地良く感じられて。

 けいがそろそろ寝ようかと言ったその時に。

「烏月さん、お願いです……今宵も、桂ちゃんの眠りに寄り添って頂きたいのですけど」

「お姉ちゃん?」「柚明さん」「ゆめい…」

 昨夜はけいに、ゆめいも私も鬼切り役も朝迄寄り添い続けた。でもあれはけいが悪夢に
魘されたからで。しかも私を含め3人が寄り添ったから、誰とも2人きりにならなかった。

 ゆめいが予め、鬼切り役に頼むと言う事は。何もなければ、ゆめいは今宵けいに添わな
い積りか。でも、例えけいに何もない事が前提でも、昨夜あれ程魘されたけいに自ら添わ
ず、鬼切り役とは言え他者に委ねるとは。癒しの副作用で萎縮する様な女では、ない筈だ
けど。

「わたしとノゾミちゃんは、時折桂ちゃんの夜に添っていますし。烏月さんと一つ屋根の
下を夜も一緒出来る貴重な機会です。悪夢を見ない様に、少し『力』を及ぼしますけど」

 ゆめいはけいの同意より先に、やや大仰に正座から両手を突いて額づいて、鬼切り役に
無理を頼む姿勢を。けいが驚きと恥じらいでどうすべきか分らない、と言うよりお願いし
たいけど、そう言い出せないでもじもじする。その困惑の視線に潜む願いを鬼切り役は察
し。

「承知しました。桂さんさえ良ければ、今宵は私が、朝迄桂さんに寄り添いましょう…」

 鬼切り役はゆめいの想いを受けつつ、あくまでけいの諾否を重んじ。投げ返されてけい
はいよいよ困惑するけど、流れは既に出来ている。けいは耳朶迄も朱にしつつ小さな声で、

「ふつつか者です、よろしくお願いします」

 言葉尻だけを追えば、ゆめいは鬼切り役にけいの眠りに添ってと頼んだだけで、同衾も
それ以上も求めてない。昨夜為した様に眠るけいの傍に座して、手を握り続けるだけとも
取れるけど。同衾する事も許容している様に聞え、それ以上を承諾したと取れなくもない。

 けいはその様々な可能性に、妄想が及んで体温が数度上がった様だけど。血行を増進し、
けいの思索を特定の方向に引っ張って悪夢を事前に防ぎ止める。これはゆめいのけいの心
身に為す一種の措置か。けいは麗人とつがいで夜を過ごす事に、既に顔から火が出そうで。

「ちょっと、おトイレに、行って来ます…」

 夜の長期戦に備え、或いは己の動悸を鎮める為に。けいが厠に往くと居間を外した直後。

「……柚明さん。感じましたか?」「はい」

 鬼切り役も、私が感じた人の気配の接近に、気付いた様で。最終ばすが通り過ぎて随分
経った田舎道から、夜の緑の空洞の闇を抜けて。成人男性が複数歩み来て。田舎道の脇に
車を止めたのは、羽藤屋敷の前迄車で乗り付けられるか見切れなかった為か。今様の人の
車も、結局地面がほぼ平らでなければ使えないから。それは彼らがここに馴染みのない者
だと示す。

 鬼切り役は、静かな佇まいに一分の警戒を見せ。私も鬼切り役も憶えのある気配だけど。

「夜更けに人里離れた家を男が訪ねるとは」

「大丈夫です。彼らにこの刻限を指定して招いたのは、わたしですから」「ゆめい…?」

 ゆめいはこの事態を予期していた。と言うよりこの事態を設定した。でも、彼らを鬼の
刻限に羽藤屋敷に招くとは。そもそもゆめいがここを再訪したのは、彼らの件・彼らとの
関りに、決着を付けようと考えてなのか…?

『でも、一体ゆめいはどんな決着を考えて』

 ゆめいは、けいが寝付いて暫く経ってから、彼らが着く様に時間調整したけど。けいの
寝付かせはほぼ予定通りだけど。相手の動きがやや速かった様で。でも大きな障りはない
と。彼らは予定より早く着いた為、屋敷を前に様子を窺っている。ゆめいはそれも察して
いて。

「ゆめいあなた」「柚明さん……」

「心配は不要です。彼らはわたしや桂ちゃんの生命を狙っている訳でもなく、害する意図
も持ってない。誠意を込めてお話しすれば」

 意に添わないながらけいに押され、午後の槐行きを容認したのは。けいを適度に疲労さ
せて早く寝せ、夜の話しに絡めない意図も潜ませていたのか。そして今ゆめいが願うのは。

「烏月さん、桂ちゃんを……お願いします」
『その代りわたしが来訪者を引き受けます』

 彼らが敵であるなら鬼切り役も、絶対その役割分担は認めないけど。自身が先頭に立っ
て戦い退ける処だけど。今回は戸籍年齢のみでも大人であるゆめいの応対が、望ましいと。

 納得させられた頃合に、けいが戻り来て。
 けいはこの、短い間のやり取りを知らず。

「任されました……無理は為さらない様に」

 ゆめいはけいに何も報せず事を終える気か。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「夜分遅くに、失礼しますよ」「はい……」

 野太い中年男性の声が響く。大声は意識せずとも自らの到着を屋敷の奥迄届かせようと。

 彼らは職業柄、全て認めます出頭しますと言った者が、突如翻意し逃げ去ったり否認に
転じる様を、幾度も見ており。その瞬間迄逃げられたり、居留守される怖れを考えている。
聞えなかったと言われぬ様に腹から声を出し。彼らの『仕事』は署を出る前から始ってい
る。

 一抹の不安を抱きつつ、引き戸を開けて三和土に顔を覗かせた彼らを、ゆめいは出迎え。

「久しぶりって程でもないかね。今日の午前中も署に顔を出したと聞いたが」「前にお逢
いしてからほぼ一月です。昨夜は間近をすれ違ったけど、お話しは叶わなかったので…」

「なんだ、気付いていたのか。流石鋭いね」

 訪れた男は気配の通り2人だった。初老と言って良い、白髪薄い中肉中背の男が『沢田
槙久』と言う名で。相方の少し若い、と言っても四拾歳過ぎの長身な細身の男が『川口一
博』と言う名で。2人は先月から『きしゃ』『やくざ』の他に、けいのあぱーとに住み着
いたゆめいの様子を窺っていた『けいじ』だ。

 それも、経観塚の刑部省出先『警察署』に勤める下っ端ではなく。周辺を含む県全土の
国府がある『県庁市』の刑部省出先『県警本部』に勤める重職で。それはけいの父の死・
1人の殺しが、今この国では重く扱われている事を示す。同時にその嫌疑を受けたゆめい
が、容易な事では彼らの追及を躱せない事も。

「休日ですがわたしの手続の為に、午前中役場を開けて頂きまして。隣が警察署なので伺
ったけど、お2人が不在でしたので『今宵お待ちしています』と伝言をお願いしました」

 役場はゆめいの為と言うより、ゆめいが平日に訪れる事で、ますこみの注目を再度招く
事を怖れた様で。休日にかけて経観塚を再訪したゆめいの事情と、偶々合致した訳だけど。

「お嬢さんが昨夜経観塚に着いた事は、こちらも把握していたけどね。伝えてくれた予定
通り動いて、待っていてくれた事は嬉しい」

 年輩の男は良く語りかけゆめいに応えさせ、少しでも情報を引き出そうと努め。一方若
い男は微かに訝しげな様子だ。どうやら霊体で潜んでいる私の存在を『何かいる?』と感
じた様で。少し『視える』らしい。彼は己の資質を『非合理』と捉えて信じてない様だけ
ど。

 私は更に気配を鎮め見つからぬ様に潜む。

「今夜こちらを訪れれば、拾年前の真相を教えてくれると、聞いたのだけどね」「はい」

 ゆめいは怖れも敵意も警戒もなく静穏で。

「わたしの話せる限りをお伝えしたいと思います。……どうぞお上がり下さい」「うむ」

 ゆめいは鬼や霊の絡む話しを、けいじにどこ迄明かす積りなのか? けいの贄の血の事
情は衆に明かすべきでないし、鬼の話しは鬼切部が公にされる事を好まない。そもそも今
の世では、霊や鬼は存在しないという公式見解が固まっていて。その下で動くけいじ達は、
それらを聞いても職務上聞き入れる訳には行かず。第一彼らとて信じるか否か怪しいのだ。

 拾六、七の娘にしか見えぬゆめいが、その年齢に不相応な落ち着きで、屋内へ促すのに。

「若い娘が、刑事とはいえ屈強の男を2人も、夜に家へ招き入れてしまう……中々の度胸
の持ち主か。或いは人を信じ易い楽天家か…」

 けいじはゆめいの話しを聞きに訪れた以上。
 促しに応じて速やかに屋内に入るだろうと。

 その予測を外し動揺を誘おうとする処から。
 けいじの真相に迫る事情聴取は始るらしい。

「あんた、武道の心得があるから。状況次第では男2人を夜更けに招き入れても、どんな
展開になっても対応できる気で。時には口封じする気で、招いている訳ではないのかね」

 若い方の川口と言う男が、値踏みする様に。

「あんたの戦果は知っている。女子高生を脅す様な低劣な雑誌記者や、女記者1人襲い損
ねた不審者を、撃退できた程度で。本職の刑事をどうにか出来るとは思ってなかろうが」

 熊手の様な凶器を使えば、成人男性の腹を抉り取る事も可能かな。尤も標的が2人とな
るなら、状況は随分変ってくると思うけどね。もしもの事態を想定済の、警察官が2人で
は。

 そこで初老の男が若い男の行きすぎを窘め。

「カワ、少し言葉選びに気をつけろ……申し訳ないお嬢さん。こいつも長年追い続けてき
た事件の真相を前にして、少々気が急いていてね。失礼があったら許して欲しい。だが」

『拾年前のけいの父の死因を匂わせ、ゆめいの動揺を誘っている? 反応を見ている?』

「年頃のお嬢さんが男を夜に自宅へ招くのは、事情があるにせよ好ましいとは言えない
な」

 そこ迄言っても、ゆめいには微かな緊張も硬直もなく。自然に穏やかに受け止めるのに、
若い男は逆に想定外な印象を。隠していても、私は夜になれば人の隠した内心位読み取れ
る。

「ご忠告、痛み入ります」

 ゆめいは静かに頭を下げて忠告を聞き入れ。
 己の武力を彼らが周知でいる事は受け流し。

 それはゆめいも今迄特段隠してこなかった。
 静かに穏やかに淑やかな、仕草や応対から。

 その身に宿した強靱さが想像し難いだけで。
 知られている事は、ゆめいも既に想定済だ。

「人の世の治安を守り、法規を守る事において民の模範となる警察の方が、過ちを犯すと
は考えておりませんでした。お2人とは既に面識もあるので、ご無体などある筈がないと。

 ご覧の通り、わたしは齢弐拾六でも色香に乏しく、その種の危難に実感は薄いですけど。
取るべき歳を重ねてない未成熟な身が、殿方を惑わせるのは罪なこと。気をつけます…」

 ゆめいの整った応対は、けいじ2人に簡単には崩せないとの印象を与えた様だ。弱みを
突いて綻びが見えれば、一気に畳み掛けて拾年前の真相を話させる。その選択も考慮に入
れていた彼らだけど、容易には行かぬと悟り。ゆめいも、話しの主導権を手放す積りはな
い。

「今宵は事情が事情だけに、夜に招かざるを得ませんでした。昼に招いて同じ話しをして
も、実感できない事も多いと思いまして。お2人に夜の勤務を強いた事はお詫び致します。

 拾年前のわたしが何を為し、今のわたしが為そうとしているかは、これからその目でご
覧下さい。職務に忠実で善良な殿方に対して、手荒な対応は考えておりません。ご安心
を」

 ゆめいはけいやその兄に、害を及ぼす気のない者には常に丁重だ。否、けいやその兄に
害を及ぼす者を退ける時は、正に全身全霊で。振り返れば、手を抜いた対応を見た事がな
い。

 戸籍年齢でも弐拾六、見かけは拾六、七に映るゆめいを、独り無援と見て動揺を誘った
様だけど、見事に肩透かしを食らい。若い男は毒気を抜かれ、年輩の男に肩を叩かれつつ。
2人は気を取り直して羽藤屋敷に上がり込む。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「粗茶ですが」「これはご丁寧にどうも…」

 電灯の照す屋敷の居間で、ゆめいはテーブルを挟んでけいじ2人と面談する。鬼切り役
は隣室で、安眠に就いたけいの手を握り握られつつ、気配を隠し物音を潜め、耳を欹てて。

「桂ちゃんは今日の午後に、ご神木へ行ってきた疲れで早く休んでいます。声を潜めてと
迄は言いませんが、大声を出すのはお控え下さい」「拾年前に事件のあったご神木ねぇ」

 ゆめいは若い刑事の分りきった問に頷き。
 拾年前を抉られてもその平静は崩れない。

 若い男はゆめいに追及口調で、それが詰まると初老の男が場を取り持つ様に話しを繋ぐ。

「昨夜はもう一人同行者がいた様だったけど。かなり別嬪の」「烏月さんです。夏にここ
でわたしや桂ちゃんと知り合って、仲良くなってくれて……今日は3人でご神木に行って
来ました。今は桂ちゃんと一緒だと思います」

 拾年前の事柄についてのお話しであれば。

「拾年前に幼子だった桂ちゃんや、当時その場にいなかった烏月さんと、刑事さんが話す
必要は薄いと思いまして。桂ちゃんが寝静まった後に、時間を設定させて頂きました…」

「ふむ……従妹さんの前では、拾年前の話しを蒸し返したくない、かね? 確か従妹さん
はこの夏迄、ここを訪れる迄、拾年記憶を失っていたと聞いたが。お嬢さんの存在迄忘れ
去っていたと。それはやはり心の傷に…?」

 初老の男はゆめいの話しを巧く引き出す。

「はい。拾年前の夜の件は、幼い桂ちゃんに甚大な痛手を与えました。記憶喪失は、その
心身を守る為の防衛本能なのでしょう。わたしもあの夜に深く関っています。わたしの拾
年間の失踪も、あの夜に起因していますから。

 桂ちゃんの心の傷は、今も癒えていません。漸く事実を思い出し、心の傷口に向き合え
て、完治へ歩み始めた処です。ですからわたしは夏にマスコミが殺到した時も、桂ちゃん
への直接取材は極力避けてと、お願いしました」

「それで色々な憶測も呼んでいたね。従妹への虐待を隠しているとか、資産を奪う為に隔
離して洗脳中だとか、女同士で乳繰り合っていたと言う噂まで……あの時はマスコミが調
子に乗りすぎた為に、勇み足で自爆して追及が有耶無耶になった面もあった様だが…?」

 若い男へのゆめいの頷きは、そんな報道もあったとの肯定で。事実認定の意味ではない。
女同士で乳繰り合っていたという噂も、書いたきしゃは直に見てないと言う点で、憶測だ。

「桂ちゃんはこの夏に、拾年唯一の肉親だった叔母さんを喪ったばかりです。不要に過去
の傷み哀しみを掘り返させたくない。今宵はお2人が納得行く迄わたしが応えますので」

 桂ちゃんへの事情聴取は、お止め下さい。
 ゆめいは戦いに臨む程の気合に満たされ。

 手を突いて額づく姿は柔らかくも清冽で。
 けいを庇い守る真摯さは、肌身に伝わる。

「我々2人に、お嬢さん独りでお相手してくれるかね。凛然たる気配は只者ではないが」

 けいじは2人とも、武道の修練を経ている様で。達人迄は行かずとも、玄人とは言えた。
なのでゆめいの華奢に柔らかに自然な挙措に隠れた強さに、今になって目を見張り。達人
ならもっと早い段階で気付いたのだろうけど。

「例え人が常住していたとしても、民話や昔話に登場する鬼婆の住処と変らない廃屋へ」

 よくお越し下さいました。ゆめいの語りは。

『俺がついさっき、外からこの屋敷を眺めて、サワさんに語りかけた言葉の並びその侭だ
……この娘、どこかで俺達の到着を待ち受けて、聞き耳立てていたのか。それとも盗聴
器?』

 動揺を、隠しきれない若い男には構わずに。

「昔話や民話に登場する鬼婆は、一見無力な老婆だったり、たおやかな女人の皮を被って。
野山に迷い込んだ旅人を迎え持てなし、油断したり寝静まった頃を身計らって、包丁で斬
り掛り、その生命を奪おうと致しますが…」

 旅人がお侍の場合、鬼婆を撃退する事もある様ですので。お2人は人の世の治安を守る
警察の方、言ってみれば今の世のお侍様です。2人もいらっしゃれば、人里離れた廃屋を
夜に訪れても、わたし如きを怖れる必要もなく。

「今宵はどうか、最後迄お付き合い下さい。
 俄には信じ難い中身もあると思いますが。

 羽藤柚明が全身全霊お相手申し上げます」

 ゆめいは全てを明かし正面突破を図る気だ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 ゆめいは本当に何をどこ迄明かす気なのか。
 立ち上らせる気配は封じの要の頃に劣らず。

 若い男はやや視えるので目を瞬かせている。
 年輩の男にも淡い輝きは電灯の下で視えて。

「拾年前の夜ご神木の前で、羽藤家に一体何があったのか。それはわたしが何者なのかを
お話しする中で、お伝えできると思います」

「あんたは、殺人者ではないと言うんだね」

 若い男が話しの主導権を己に引き戻そうと、単刀直入に迫るのに。ゆめいは確かに頷い
て。

「わたしは生を受けてから未だ、1人の人の生命も殺めてはいません」「未だ、かね?」

 初老の男は気付けたと思っているけど、ゆめいの誘導に引っ掛った。ゆめいは人を殺め
た事がないだけで、分霊の主さまやミカゲを滅ぼしている。鬼の生命は奪っている。その
真相を潜ませつつ、けいじ2人の焦点を『未だ』に惹いて。ゆめいは虚偽は語っていない。

「わたしの生はこの後にも伸びていますので。誰も殺めたくないと思っても、その通りに
生きられるか否かは、終ってみる迄分りません。今宵わたしが応えられるのは、見聞きし
た過去と今の想いと、今後の見通しだけです…」

「充分だよ、お嬢さん。過去が無実ならね」

 ゆめいはけいの父の殺害を否定した。それは2人にも伝わったけど。けいじは他者の証
言を鵜呑みにしない。彼らは後で問い糺す時に備え、論理矛盾を見極めつつ、一つ一つゆ
めいの言質を取って積み上げている。言葉が増えれば増える程に、虚構は保ち難くなると。

 一見若い男がゆめいに挑戦的で、年長者が融和的・同情的で。初老の男が時折窘めたり
叱りつけ、若い男が不満を見せたりするけど。2人の間に齟齬はない。追及者と宥め役を
役割分担しているだけだ。若い男は鋭く追及してぼろを出させようとし、年長者はゆめい
に心開かせてぼろを出させようと。較べて何れか片方を信じ頼れると思った時は、相手の
術中だ。勿論ゆめいは最初から、それを承知で。

「拾年前の夜ご神木の前で、一体何が起こったのか、それから拾年お嬢さんがどこで何を
していたのか、じっくり聞かせて頂こうか」

 初老の男の問にゆめいはゆっくり頷いて。

「経観塚の郷土資料館には、お2人も幾度か行っておられると思います。あそこの展示の
多くは、叔父さんの監修が入っていますから。叔父さんの誠実で緻密な人柄の滲み出た
…」

 若い男は口を挟もうとして。初老の男に無言で目線で止められた。『少し話させて泳が
せよう』との意図に、若い男も聞き役に転じ。

「郷土資料館には竹林の姫の説話が展示されていた筈です。羽藤の遠祖でもある伝説が」

 羽藤の血筋は、代々贄の血を宿しています。
 鬼や神に甘く香って誘い招く、特殊な血を。
 それを得た神や鬼に膨大な力を与える源を。

「叔父さんは未検証な異説や出所の不確かな伝承の採用に消極的でしたので。竹林の姫が
高貴な人々や鬼神に迄望まれ欲された理由を、姫の美しさとのみ記していますが。本当は
その身が宿す類い希な程濃い贄の血を、望まれ欲されたと聞いています。鬼神が贄の血を
手に入れて、更に強大になると怖れた者達によって、鬼神は戦い敗れ封じられましたけ
ど」

 ゆめいは、一番隠さねばならない核心を。
 事もあろうに国府に繋るけいじに明かし。

 鬼切部が背景にいると安心しているのか。
 それで無謀に走る女では、ない筈だけど。

 襖の背後で鬼切り役が緊迫する様が悟れた。
 私もいつでも分け入れる体勢で潜み続ける。

「お2人が、何度も訪れて頂いたご神木には。封じの要の人柱と封じられた鬼神が、今も
宿り続けています。羽藤の家は代々封じの要を、オハシラ様と呼んで祀ってきました。そ
の宿るご神木が、長い歳月を掛けて強大な鬼神を封じつつ、徐々に力を吸い上げて虚空に
還す。その副次効果で、贄の血の匂いを紛らせる結界が、ご神木を中心に拾里四方に巡ら
され」

 代々の羽藤の者を、唯見守ってくれるのみならず。確かに守ってくれていました。贄の
血を宿す羽藤が、以降神にも鬼にも狙われる事なく血筋を繋げてきたのは、そのお陰です。

「あんたも贄の血持ちと、言いたい訳かね」

「はい。笑子おばあさんがそうなので。叔父さんもわたしも桂ちゃんも。鬼を招き『力』
を与える贄の血の濃淡には、個人差がありますけど。……お2人は捜査の中で、小学3年
の頃にわたしが連続少女殺傷の犯人に狙われ、父母を殺められた顛末もご存じと思いま
す」

「お嬢さんのお母さんが、笑子さんの長女で正樹さんの姉で……贄の血を狙われたと?」

 ゆめいは問にゆっくり首を左右に振って。

「母は血の匂いを隠す術を修練していました。血に宿る『力』を鍛えれば、血の濃さにも
よりますけど、様々な技を扱える様になれます。母は血が薄いので、殆ど『力』は使えま
せんでしたけど、血の匂いを隠す術は扱えました。

 原因はわたしです。修練のなかった幼いわたしが、血の匂いを隠すお守りを手放して」

「あんたね、連続少女殺傷の犯人なら3年後に捉まっている。中学校教諭で、鬼じゃない。
子供の遊びと違うんだ! 全て調査済なんだよ。適当な作り話で罪を逃れようとしても」

 話しに虚偽を見つけたと、勇んでまくし立てようとする若い男に、ゆめいは尚も整然と。

「その犯人は模倣犯です。真犯人ではありません。わたしの父母が殺められた件も、逮捕
追及はされても、立件には到ってない筈です。わたしの父母以外にも、何件か迷宮入り
が」

 警察の資料には、わたしの父母が殺められた時の、警官隊に狙撃されて、何発拳銃の弾
が命中しても倒れず、飛ぶ様に走り逃げ去った真犯人の記載は残っていませんか? 捕ま
った中学教諭に、その傷痕はありましたか?

「鬼とは、そう言う者です。欲した者や己の執着の為には、傷みも哀しみも踏み躙れる」

 虚偽と思って突っ込んだ箇所が、逆にゆめいの言葉を補強する。2人は調査済であるが
故に、ゆめいの読み解きを即座に否定できず。

「そんな鬼の手から、生命を抛って守られたわたしだから。この生命を、誰かの守りに役
立てたい。愛し尽くし支えたい。父母の死後、ここに移り住んだわたしの希望となったの
は。生き延びた事を正解と感じさせてくれたのは。桂ちゃんと白花ちゃん、一番たいせつ
な人の誕生でした。それ迄は、叔父さんや叔母さん、笑子おばあさんの愛に包まれても、
わたしが愛し守り役立つ術を見いだせなかったので」

「お嬢さんの武道の修練は……その為かね?
 たいせつな幼子を守る強さを掴みたいと」

 初老の男は、ゆめいの話しに流されつつも、必要と思う処をしっかり訊いてくる。ゆめ
いの肉体的な強さや、けいの母の強さを、彼らはある程度知っており。けいの母が鬼切部
だと言う事迄は、流石に掴めなかった様だけど。千羽の家が世を忍ぶ為の仮の姿迄は隠せ
ない。

「叔母さんは武道の家の出なので。血の力の修練と並行し、愛しい人を守れる強さを欲し
て、武道の修練も願い出ました。『力』は昼の間は陽光に散らされて減殺されます。霊や
鬼が日中殆ど顕れないのも、その為ですけど。危険は鬼や悪霊に限らない。獣も悪意な人
も、災害も時に愛しい人を脅かします。どんな時でも即座に確実にたいせつな人を守れる
様に。

 日中は基本、触れて流さねば『力』は効果がないので、身のこなしはより一層重要に」

「それだけ鍛えても拾年前には、たいせつないとこは守れなかったのかね? それとも」

「その鍛え上げた武技で叔父を殺め、双子の片割れを攫って逃げたのかい? あんた…」

 初老の男の問にゆめいが答えるより早く。
 若い男が真相を吐かせようと畳み掛ける。

「拾年前の夜あんたの叔父・羽藤正樹は、何者かに腹を抉られ殺された。自殺でも事故で
もない。状況は明らかに他殺を示している」

 現場にいた人物は限られている。普段人が踏み入らぬ禁忌の山。通り魔や物取りが山奥
を通り掛る事は考え難い。幼い双子を除けば、人を殺められる意思と力を持つ者は3人だ
け。

「殺された羽藤正樹が犯人の筈はない。なら、もうホシは残りどちらかでしかあり得な
い」

 羽藤真弓はこの拾年事情聴取にも、完全黙秘を続けてきた。情報提供が捜査を進展させ、
行方不明者なあんたと幼い息子の発見に繋ると説得しても、頑として拒み。あんたの生存
を知って庇う様にだ。その隠された中身とは。

「幼い娘を養い育てる為とはいえ、拾年世間に身を置き続けた羽藤真弓が犯人の線は薄い。
それより拾年行方不明で、羽藤真弓の死の直後に現れたあんたの方が余程怪しい。あんた、
真弓に顔向けできない事情があったんだろう。

 あんたが羽藤正樹と男女の仲になり、妻を含めた三角関係の縺れで彼を殺め、幼子の片
割れ、羽藤白花を攫って逃げた。違うか!」

「違います……それは真実ではありません」

 畳み掛ける川口の声にゆめいは整然と応え。
 ドラ声でゆめいの激昂を誘う策は通じない。

「わたしは叔父さんも叔母さんも、愛していました。賢く優しく強い人で、わたしの一番
たいせつな白花ちゃんと桂ちゃんの父母です。愛した人を哀しませる事は、望みません
…」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 下世話な話しに踏み込んで問う若い男に。
 ゆめいも泥に塗れて尚崩れず応じ続ける。

「姪でも年頃の娘だ。若い妻が居るとは言え男なら、食指を誘われるかも知れん。あんた
も近隣は家もなく寂しい一軒家で。男を欲する歳になれば、目の前には独りだけだろう」

「叔父さんは大好きな人でした。幼い頃から憧れた、賢く頼れる優しい父の様な人でした。
でも、否だから例え彼に惚れても。若く美しい奥さんがいる叔父さんと男女の仲になって、
家族の絆を壊したいとは望みません。後悔を招くと分ります。叔父さん叔母さんを哀しま
せます。白花ちゃん桂ちゃんを涙させます」

 でもその様な嫌疑自体がゆめいの心を苛む。
 穏やかに平静に応じても負荷は掛っている。

 そこへ年輩の男が同情的な声を脇から挟み。

「俺は、お嬢さんは被害者じゃないかと思っているんだ。お嬢さんが叔父との禁断の仲を
望んだのではなく、叔父に強要されたのではないかとね。羽藤真弓の沈黙は、明かせばお
嬢さんが報復に幼い娘に危害を加えに来ると、怖れてなのかも知れないが。お嬢さんに同
情したから、語らなかったのではないかとも」

 年輩の沢田の示唆は。けいの父がゆめいを養っている立場を笠に着て、ゆめいの操を奪
ったのではないかとの。ゆめいが武道に長けていても、不意を突かれたり弱味を握られれ
ば話しは別だ。ゆめいが穢されたと知ったけいの母が、夫を問い糺したのが拾年前の夜で
はないかと。ゆめいがけいの父を殺めたのも、けいの母が拾年沈黙を保ったのも、その故
と。

「犯罪は、悪意や物欲だけで起きる物じゃあない。時には愛や情けや、責任感の故に生じ
る悲惨な事件もある。一家心中とかね……」

 一方が下世話な話しに踏み込んで、強硬に白状を強い。もう一方が同情的な姿勢で、心
が解けるのを待つ。北風と太陽の寓話の様に、彼らは役割分担し密接に連携している。で
も。

「叔父さんは、その様な事を実行に移す人物ではありません。わたしもその様な事をさせ
はしません。御両名の推測は外れています」

 ゆめいは挑発にも優しげな問にも動揺せず。
 彼らの抱いてきた疑念を訊いて否定を返し。

「わたしはここ数百年で稀な程、贄の血が濃い様です。望んでそう生れた訳ではありませ
んけど。その故に鬼に目を付けられ、父母の悲運も招きましたけど。白花ちゃんと桂ちゃ
んは、わたしを越えて更に贄の血が濃く…」

 笑子おばあさんは、わたしを導いてくれました。わたしより更に血の濃い幼子を導く素
養は、この身の内に眠っている。わたしが進める限り先へ進んで、愛しい幼子を導きたい。
守り庇い尽くし捧げ愛したい。元々この生命は生命を抛って遺された物で、誰かに捧げ尽
くす為に、暫くわたしが預っているだけの物。この血の濃さが逆に幼子の道標になるのな
ら。

 けいじ2人は暫く黙して耳を欹てている。

「拾年前のあの夜幼子達は、入ってはいけないと言ってあった蔵に入り。訳が分らない侭
に鬼を封じた古鏡・良月の封印を引き剥がし、鬼を解き放ってしまいました。ご神木が封
じる鬼神の配下で、ご神木の焼き討ちを企てた為に、数百年前に陰陽師に封じられた鬼
を」

 良月の名にけいじが反応したのは。夏の経観塚でそれは、郷土資料館から盗まれた為で。
私とミカゲが鹿野川という教諭を、魅惑で操ってそうさせたのだけど……実は私達の依代
は、拾年前の直前迄長く羽藤屋敷になかった。

「あれは三拾年以上前から郷土資料館の展示物で、元々の持ち主は羽藤じゃなく鴨川だ」

 夏に盗まれた古鏡の行方は未だ分ってない。
 あんたは、その事件にも絡んでいるんだね。

 尚も食い下がり、問い続ける若いけいじに。
 ゆめいは関りを肯定して小さく頷きを返し。

「上古から良月は羽藤の家が預っていました。呪物は『力』を扱える羽藤の家が管理すべ
き。都からも遠く陰陽師が常駐しない鄙ですから、その処置は妥当だったのかも知れませ
んが」

 数拾年前、羽藤と鴨川の関係が悪化した頃。両家の間に介在した沢尻が、鴨川の歓心得
たさに良月を、羽藤の蔵から無断で持ち出し鴨川の名で寄贈した。羽藤は当時家計が苦し
く、沢尻との財政的繋りを重んじたけいの祖母は、それを黙認し。けいの父はそれに納得
行かず。拾年前、沢尻に良月の返却と謝罪を求めて…。

「沢尻は郷土史研究家である叔父さんへの遺物の調査名目で、良月を羽藤に渡した様です。
沢尻の無断持ち出しは認めたくない。正当な所有者が羽藤と知れ渡ると困る。調査の為に
預ける名目で、実質返却して済ませたいと」

 良月が数拾年ぶりに返却された事、蔵に呪物が置かれた事を、わたしは把握していませ
んでした。元々良月は厳重に封印されており。蔵は『力』を封じ、霊や鬼の気配を隠す結
界の作りで。幼子の気配も外からは悟れません。

『返還された数日後の夜。私達に、或いは良月に誘われる様に、けいは兄を伴い蔵を訪れ。

 ……ちょ、ゆめい。あなたまさか……?』

「なん、だ。これは」「瞼の裏で絵が動く」

 ゆめいは『力』をけいじ2人に使っていた。
 幻覚を見せて騙したり操ったりするのなら。

 ここ迄事実を明かす必要などありはしない。
 でも私もその状況を詳細に視て更に驚愕し。

『ゆめいは2人に拾年前の夜を視せている』

 この夏けいが取り戻した記憶と自身の記憶から。幼いけいとその兄が夜に蔵に入り込み、
良月に触れて指を切り。けいの僅かな贄の血で現身を取れた鬼の姿が、ぼやけているのは。
私やミカゲをけいじが知る必要はない為か…。

「2人は鬼に魅惑されて、ご神木への山道を歩まされ。叔父さん叔母さんも、わたしも後
を追いました。夏でも山の朝夕は冷え込むし、時折雨も降ります。幼子が一晩外で過ごす
だけで危ういのに、人を魅惑し殺める鬼が伴う。その目的はご神木の封じを破り、鬼神を
解き放つ事で。甦った鬼神が幼子の贄の血を欲した時は、誰もそれを止める事は叶わない
…」

 ご一緒下さい。ゆめいは手を差し伸べつつ、触れずに玄関へ繋る離れた襖を開き。自動
どあではない。『力』を見せつける様に行使し。その身を彩る蒼い輝きも隠さず抑えず。
蝶を数羽けいじ2人に、視えてしまう様に舞わせ。姿もいつの間にかハシラの継ぎ手の衣
を纏い。

「わたしは、お2人に害意を抱いていません。わたしの話しを信じて頂けなくても。この
腕に手錠を掛けられたとしても。お2人に何の危害も加えはしませんし、その身に何か危
難が生じた時には、わたしがお守り致します」

『ゆめいは私や鬼切り役の拙速を望んでない。あくまで話しを全て聞かせる積りでいる
…』

「この先のわたしの言葉に耳を傾ける値があると思われたなら、ご神木へお越し下さい」

 ゆめいはその侭山へ森へ歩み行く。2人のけいじは互いの目線を見つめ合い、頷き合っ
てその後を追い。私も成り行きが気になって。

『鬼切り役は、けいの守りを頼まれたけど。
 私は特段、何の指示も願いもされてない』

 鬼切り役はゆめいが頼る程度には役に立つ。
 少しの間ならけいを鬼切り役独りに任せて。

 私もゆめいとけいじの後を追って槐へ赴く。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 槐は月明りの照射を受けて淡い輝きを帯び。
 ゆめい達を前にして生き物の如く息づいて。

 それだけで常ならざる幻想的な光景だけど。
 けいじ達は槐を眺めて呆然と立ちつくして。

 その耳目は今の光景や状況を見聞きしつつ。
 その脳裏には拾年前のあの雨の夜が流され。

 けいの母に切られた後なので、私は見る事の叶わなかった、ゆめいとけいの父母の話し、
ゆめいがハシラの継ぎ手を担う情景が私にも。

 傍で倒れ気を失っているのは幼い贄の双子。
 封じの解けた槐を前に会話はけいの父母の。

『駄目ね。もうこの木の中にオハシラ様はいないわ。彼女は還ってしまった』『そうか』

『奴が出てくるのは時間の問題よ……私が抑えてみるけど、きっと何時間も保たないんじ
ゃないかしら。本当にどうしましょう』

『真弓……私が、私がオハシラ様を継ぐことは出来ないだろうか?』

 けいの父にもハシラと同じ血は流れている。
 彼が封じのハシラを担えば綻びは繕えると。

『ええ、そうね。だけどそれは出来ないわ』

『貴男を愛しているから。……なんて理由だけなら良かったんだけど、もっと現実的な問
題なの。貴男じゃ力が足りないの』

 けいの父は長い羽藤の歴史の中で、最も贄の血が薄く。けいとけいの兄は幼子で。全員
『力』の操りを知らない。封じの要を継げるのは、拾年前の羽藤の家には独りしかおらず。

「封じの要を告げたのはわたしだけでした」

『わたしは笑子おばあさんから、力の使い方の手ほどきを受けていますから』

 けいじ2人もゆめいの印象から、主さまの強大さを感じている。今の世の凄まじく発達
した兵器や軍勢でも、神を殺す術などありはすまい。警察の手に負える存在ではなかった。

 防げない、倒せない、敵わない、抗えない。主さまを止める選択肢が浮ばない。主さま
の強さは人知を超える。そして主さまは甦ればほぼ間違いなく、双子の血を啜り生命を奪
う。

『柚明ちゃん、君は、オハシラ様になる事が、それが一体どういうことか、分って…
…?』

 けいの父は、贄の血は薄いけどけいの祖母の血の力を介し、槐と感応はしていた。故に、
封じのハシラになるという事、主さまと永劫神木に依り続けるという事を、分っている…。

【だが姫よ、人の形を為して現れるなど、そうそうできることではないぞ。封じの柱に出
来るのは、唯見守ることのみと思って良い】

 役行者が竹林の姫に告げた通り、封じの要はここに唯居続けるだけ。できる事と言えは
見守り続ける事で、意思を示す術も殆どない。

 終わる時も知れず、世の中から切り離され、知った人の全てが息絶える永劫の時の彼方
迄。悠久の孤独、永劫の無為、久遠に唯あり続け。それは人の幸せの全てを抛つよりも、
場合によっては死よりも厳しい終りの見えぬ定め…。

【ええ。わたしが生命尽きる迄捧げる積り】

 凄絶な覚悟だった。けいを深く愛する故に、ゆめいもけいと時を重ねたい想いは強く深
い。その想いを分る今の私故に、それを抛ってけいの未来の為に自身を封じの要に捧げる
のは。己にその瞬間が訪れた時を想うと身震いする。その決をゆめいは瞬間で下し終えて
微笑んで。

【だから、全てを捧げ尽くし、干涸らび朽ち果てても、あの2人がそれを苗床に元気に巣
立って行っても、悔いはないの。幸せなの】

 けいが過去の己に抱く悔恨と殺意が窺えた。
 私も拾年前に戻って己とミカゲを葬りたい。

『桂ちゃん、白花ちゃん。わたしは、いつでも、ここにいるわ……いつ迄も、いつ迄も』

【わたしに真に大切なのは、わたしが生きる値であるあの双子の微笑みで、わたしが生き
る目的であるあの双子の守り。その為ならわたしは何度でも命を捧げられる。その為なら
わたしは悠久の封印も耐えられる。わたしは本当に血の一滴に至る迄、その最後の一滴に
至る迄、生贄の一族の思考発想の持ち主だ】

 桂ちゃんと白花ちゃんがこの世で1番たいせつなひと。わたしの全てを捧げ尽くすひと。

『人が1人突然いなくなるので、学校とか住民票とか、問題が出るかも知れませんけど…。

 叔父さん、叔母さん、お願いします』
 でも主さまの蘇りは彼らの予測よりも早く。
 ゆめいは家族に更に酷な願いを発する事に。

『最後のお願い……。わたしを、斬って!』

 この侭じゃ時間が掛りすぎる。主が、主が出てこようとしているの。主が出てきてしま
った後で封じを立て直しても、意味がないわ。

『わたしの生命力を低下させて、同化を急かすの。それしか間に合わせる術はない。その
破妖の太刀で、わたしを斬りつけて!』

 どちらにせよ槐と同化して失うこの身体。
 これからは同化して一つになるこの生命。

『わたしの一番の幸せは、わたしの大切な人がみんな、涙を零さず笑みを絶やさず、日々
を暮らして行く事だから。桂ちゃんと白花ちゃんが陽光の下で微笑んで過ごす事だから』

 でもけいの母にゆめいを切る事は出来ず。
 ゆめいは代りにけいの父を促し切らせて。

 それが致命的な結果を招いた。ゆめいの致命傷が、羽藤の家の命脈を絶つに近い結末を。

『お父さんが、ゆーねぇを、斬った。
 お父さんが、大好きなゆーねぇを』

『ゆーねぇを、叱らないでって言ったのに。
 ゆーねぇ悪くないのに。悪くないのにっ』

『はくかは、いくらでも謝ったのに。
 はくかはいくらでも叱られたのに。

 どうして、ぼくのたいせつな人を!
 嫌いだ。お父さん、大っ嫌いだぁ』

 憤怒と憎悪が幼い心を染め抜いて、鬼の心に共鳴した。主さまは、全て出る事は叶わな
かったけど、封じの外に引っかけた『手』に当たる部分が漏れ出でて。それは、先んじて
外に出ただけあって、主さまの中でも最も外に出たい、封じを外したい想いの結晶の様な。

 他の部分と切り離されても、それは主さまの分霊として宿るべき依代を捜す。けいの兄
は怒りに心を囚われていた。その怒りに加勢し便乗して、その侭心に入り込んで浸食して。

 赤く輝く視線で空腹を満たそうと周囲を見れば、贄の血が同じ位濃い小さな獲物が1人。

「止められなかったのは、わたしの落ち度」

 この時のゆめいに落ち度等あろう筈がない。
 ゆめいは槐に同化途上で全く動けなかった。

 けいの兄の身を使って、主さまの分霊が右腕を凶器と化して伸ばす。けいの兄の腕は小
さく短いけど、鬼の力を受けて熊の腕程に強化されており、けいは全く無防備で動けない。

 その前に立ちはだかったけいの父の腹部に。
 幼い右腕は抉る様に食い込んで鮮血を噴く。

 けいは鬼の気に当てられてその場で気絶し。
 けいの母が駆け寄った為主さまは一度退き。

 幼子の体では流石に戦い難いと走り去って。
 けいの母に彼を追う余力はなく傍を視れば。

『貴男、しっかりして。あなたあぁぁっ!』

 けいの兄は主さまを宿した侭失踪し。けいの父はこの深傷が元でまもなく身罷り。けい
は心の深傷を赤い傷みに鎖して、全てを忘れ。過去を思い出すと心壊れるけいを育てる為
に、けいの母は経観塚を離れる。賑やかだった羽藤屋敷は廃屋と化す。私の為した結末だ
った。

 ゆめいは山奥の槐に独り残され、無情に過ぎ去る月日を主さまと共に過ごす。人として
の幸せや自由や未来と引替に。護る物を半ば以上喪って尚、期限も見えぬ封じの要を続け。

 その拾年やこの夏の経緯も、ゆめいは2人にかなりを視せ。ゆめいの宿る槐の視点には、
槐を何度も捜査に訪れたけいじ達も映されて。ゆめいには、2人は初見の人物ではなかっ
た。

「封じの要はこの夏から白花ちゃんが継いでいます。わたしの力不足と不甲斐なさの故に、
本来はわたしが為さねばならないお役目を」

 いつの間にか男達の頬は涙で濡れていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 過去を開き終えたゆめいの前で、けいじ2人は我に返り。羽藤のこの拾年の凄絶な歩み
や、彼らの槐を訪れた姿迄見せられて。人の世の諍いや禍を見てきた彼らの想定さえ越え。

「拾年前に叔父さんを殺めた腕は、白花ちゃんの腕でした。でも、彼に罪はありません」

 少年法を云々する以前に、心神喪失を云々する以前に。彼の体は、彼の物ではなかった。
多重人格などではありません。彼に全くその意図がなくても、体を奪われ逆らえなかった。

「鬼の禍は人の法では裁けない。ご神木に手錠を掛ける事も、法廷に呼び出す事も、牢に
入れる事も出来ない様に。この罪に裁きや罰や償いを求めるなら、その相手は彼の体を生
命を力に変えて託された、このわたしです」

 でも、わたしは桂ちゃんを支え守る事を彼に託されました。彼には叶わない妹の守りに、
愛しい彼の願いに、わたしは己を尽くしたい。桂ちゃんは、拾年来の心の深傷を癒す途上
にあります。拾年寄り添ってあげられなかった。涙止めてあげられなかった。たいせつな
人に。

「我々に、捜査から手を引けと?」「はい」

 ゆめいは男2人に深々と頭を下げて。この真相を公に明かさず、迷宮入りにしてと願い。

 沈黙は彼らの迷いを示していた。彼らもゆめいに視せられた像に少なからず心揺らされ。
真実を隠そうと、虚偽でごまかそうとも、その隠し方や嘘の付き方に人となりが顕れると、
ゆめいは言っていた。けいじ達が感じたのも。

「あんた、何で俺達にそこ迄真相を話す?」

 それらは話しちゃ拙い以上に、話しても信じて貰えない中身だろう。頭の硬い警察から、
罪を逃れようとしているとか、精神的におかしいとか、負の印象しか持たれない様な事を。

 若い刑事が低い声音で訝しむ様に問うのに。

「お2人が、羽藤の家を真剣に悼んでくれたからです。……職務への責任以上に、拾年前
以前の羽藤の家の温もりに心を寄せてくれて、あの夜の結果に心傷め、心底憤ってくれ
た」

 色々な事情があって捜査態勢が縮小されて。
 時間を掛けても、新たな動きも証拠もなく。

 時が経つにつれ、事件は風化し忘れ去られ。
 新たに解決せねばならない事案も生じる中。

「お2人は迷宮入りにさせまいと粘り強く捜査を続けて下さいました。桂ちゃんや白花ち
ゃん、真弓さんや正樹さん、そしてわたしに起きた真相を解明して。喪われた生命や踏み
躙られた想いに、無念に何とか応えたいと」

 夜も昼も、何度もご神木を訪ねて下さって。
 わたしは応えに顕れる事叶わなかったけど。

 強い怒りの底に宿した優しさが嬉しかった。
 絶対真相に辿り着き解決しようとの意志が。

『ゆめいがけいじの的外れな推測を、話させてから否定したのは。的外れだと分って彼ら
の迂遠な話しを、敢て阻まなかったのは…』

 今宵の追及も、真相の究明が死者や生者の救いに繋るとのお考えであるなら。それを受
けて諾否を返すのが礼儀と思い、伺いました。そしてわたしは、わたしの知る限りの真実
を。

「わたしはお2人の拾年の労苦を、無にする事を願っています。法の趣旨を外れるかも知
れない事を望んでいます。お2人が羽藤を想って為してくれた行いに、仇で報いる事を」

 わたしにはお2人に何も返せる物がない。
 たいせつな人に寄せて貰えた気持に対し。

 この到らぬ身に為してくれた労苦に対し。
 せめて気持の上ででも何か返さなければ。

 ゆめいは鬼切部が動けば、2人の失職も抹殺も簡単に叶うと分って。それを伝えて脅す
事もせず。マスコミにも明かしてない拾年前の夜の真相を話し。陽子や凜には伝えたけど。

「お願い申し上げます。拾年前の夜に羽藤家に起きた悲劇の真相は、お2人の心の内にし
まい込み、これ以上の捜査をお止め下さい」

 けいじ2人が拾年前の夜の一件の『迷宮入り』を了承し。ゆめいと連れだって山を下り
ていったのは。それから拾数分後の事だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 結局あのけいじ2人は、迷宮入りになりかけたあの夜の件を。羽藤の家の温かさを知っ
て、捨て置けないと義憤に駆られ捜査を続け。彼らを止めるには、脅しや騙しや抹殺より
も。真相を伝えゆめいの心情を訴えて、事情を分って貰って。彼らの意志で引いて貰うべ
きと。

「羽藤の甘さ愚かしさは底が知れないわね。
 自分を疑って捕まえに来た者にゆめいは」

 あなたもそう想っているのではなくって?

 月明りを受けて輝く槐に声を掛けてみる。

 けいじと山道を降り行くゆめいは追わずに、私は槐の傍に漂って。鬼の存在は明かして
も、けいじに現身姿を見られるのは好ましくない。彼らはその侭夜の道を銀座通の宿へ帰
る気だ。その気になれば、私は一瞬で青珠に戻れるし。羽様を彼らの車が出立する頃迄こ
こにいよう。

 槐が答を返せる状態にない事は知っているけど。聞かせる事なら叶う。己の為した事は
分るから、彼と仲良くなる迄は求めないけど。私はあの愚かな程の甘さ優しさに惚れたの
と。

「為した事の償いには届かなくても、この手の及ぶ限り、けいとゆめいを愛し守るから」

 今の私に抱ける限りの想いと決意を伝えて。
 答は期待せずに槐を見つめ返した時だった。

『なに……、この、主さまに似た気配は?』

 槐の清冽な気配や淡い輝きはその侭だけど。
 その間近で側面で根元から立ち上る気配は。

『良月の欠片に残っていたミカゲの想い?』

 確かに昨夜もその辺だったけど。槐の封じに影響なさそうだけど、違和感は蟠っていた。
でも今宵の違和感は、昨夜の比ではない禍々しさで。否、そうであるならゆめいも、私も
もっと早くに気付いていた。この違和感はゆめいが去ってから急に自己主張を始めたのだ。

「どういう事? 尚意志を残せているの?
 ゆめいのいる間は猫でも被っていたと?」

 明日の夜は満月で、それに向け鬼の力は段々強くなるけど。この変化はそれでは説明つ
かない。気配を潜ませ、気配を顕す位の違い。平時と戦時位の……そこには意志が伴う筈
だ。

 青珠に宿ったミカゲは、『力』を使い尽くした末に討ち果たされた。怨念も使い尽くさ
れた筈だった。良月に幾らか執着が残っても、最早夜に薄い現身を取る『力』もなく。血
は力で、心も力で、力が心である以上。纏まった思考も意志も持てず、消え行く欠片の筈
だ。

 ゆめいの見解を尋ねようかとも思ったけど、未だけいじと下山途中だ。この程度の物な
ら、今宵即座の危険は少なかろう。もう少し詳細に視て調べ、鬼切り役の意見も訊いてみ
るか。

 槐が一層輝きを増す中で。私はその側面に現身で浮いて回り込み。良月を埋めた所に立
ち上る気を見定めようと。力の量は大きくない。でも良月から滲み出る怨念や執着は、私
が千年抱き続けた想いでもあって馴染み易く。

 その瞬間だった。微かな兆しに心が騒ぎ。

【待っていました……満月には一晩早いけど、千載一遇の機会を。姉様が近付くこの時
を】

 何かの声が心に響く。聞いた事のある懐かしい。それはこの夏まで千年常に伴ってきた。

 誰かに見られている。
 ふと……目があった。

 呪詛のこもった血の色に光る瞳。人を縛る呪いの視線。かつて私も扱った執着と怨念と
憎悪を込めた、絶対外させないとの赤い呪縛。

 目を逸らせてもどの方向にも赤い瞳がある。世界は真っ赤な真っ赤な一色の世界。私の
意識を染め尽くす様に、全ての方向に赤い眼が。

 目……。目……。目……。

「ふふふふふふふ」

 百もの視線がこの身を貫く。
 哄笑を上げながら、崩れていく瞳。

 それが穿つ小さな穴から、毒のような赤が染み込んで、悪意の微笑みの波動に共鳴する。

 頭の中が、掻き回される。
 眩暈がする、気持が悪い。

「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ
ふふふふふふふふふふふふふふふふふふ…」

 私の意識はそこで途絶えた。


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