白花の咲く頃に〔甲〕(前)
木。
たくさんの木。
高く伸びる木々それぞれが、好き放題に枝を伸ばし、空のほとんどを覆い隠してしまっ
ている。深い……林か森か。幹の太い古木が立ち並び、たけのある草が生い茂る狭い道を、
わたしは走っている。私ではなく、わたし?
振り返ると、瓦の並ぶ屋根が見えた。
時代劇で見る様な、立派な構えの門はないけれど、それは見事なお屋敷だった。
平屋の大きな日本家屋。
離れに見えるのは蔵かも知れない。
涼しげな鈴の音に、わたしは前へ向き直る。
ぐっと誰かに手を引かれ、わたしはさらに足を速める。道の勾配がだんだん急になる。
ああ、ここは山なんだ。
手を引かれるままに、わたしは山道を登る。
舗装されていなかったとはいえ、まだ道らしい道だった道を外れて、わたしたちは草を
分ける様にして進む。
速く、早く、はやく、はやく……。
わたしを引く手が強くなる。
私が手を引く力を強くする。
誰かに追いかけられでもしているのか。
そう、私は追われ討たれる立場にいた。
何をそんなに、急いでいるのだろう。
贄の子を取り返されては拙いと急ぐ。
足元の草を踏みしめて急ぐ。
幼い歩みの限界迄急がせる。
ざっざっ、ざっざっ。ざっざっ、ざっざっ。
ざあぁっ……。
急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りか。
そこには見上げる程大きな、数百の歳月を雨風と共に過ごしたといった趣の、大きな大
きな樹が根を下ろしていた。他の木はこの樹に遠慮しているのか、辺りは少し開けている。
この景色には、見覚えがあった。
『私には千年忘れ得ぬ情景だから』
それがどこかは、知らないけど。
『私はそれがどこかを知っている』
テレビか映画で見たんだろうか。
『『いや、違う』』
そうじゃないということは……分っていた。
これは。この景色は。これはわたしの私の。
【たいせつな人が、いなくなってしまった】
風にもがれた花びらが、蝶の様にひらひらと舞っている。あの忌まわしかった蝶の様に。
奇妙な既視感と喪失感。
何だろう、この感覚は。
そして今迄気にしていなかったけど。
……この景色は。この世界は。
赤いインクを落とした水槽越しに見る景色のように、重くて、遠くて、揺らめいていて。
私の心の奥底の、憎しみ恨み、無力感や孤独を凝縮した様に、重く赤く遠く揺らめいて。
いったん気になり出すと、気になってしようがなくなってしまう。
見るほどに、赤は濃くなり、視界を遮る。
それでも見ようと、懸命に目を凝らすと。
今迄にない鮮烈な赤が、目の奥を焼いた。
自身の憎しみや恨みに、自身が灼かれる。
何だろう、この感覚は。
駄目……。
警告されているような気がした。
その警告は、今や私にも向けて。
駄目……。
呼ばれている。誰かに呼ばれている。
その制止は以前呼ぶ側だった私にも。
駄目……。
ここにいては……いけないんだ。
『その過去に、招いてはいけない』
向こうに行ってはいけないんだ。
『向こうに、行かせてはいけない』
するとわたしは、戻るほかなく。
『今や私にとっても戻って欲しく』
そこで繋っていた夢は一気に覚めて断たれ。
わたしは私ではなく、わたしはけいで私は。
私はノゾミ、鬼のノゾミ。肉体を喪って千数百年を経た、けいの青珠に宿る霊的存在…。
けいと夢を共有し、一緒に深い処へ沈んでいた意識が。けいの目覚めに伴って、上に向
って浮上して行く。否、現実に向けて意識が浮上して行くのはけいだけで。私は、繋って
いたけいの心から無意識に押し出されて行き。
未だ陽が沈んでないので、私は顕れられぬ。
夕刻なので、多少の無理をすれば叶うけど。
現実に向き合う為に、心は無意識に内側を整理する。覚醒に伴って押し出されるのは仕
方ない。私は青珠に潜んだ侭、けいの動向に注視して。けいの眺める世界を一緒に眺める。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『まなーもーど』に設定を、切り替え忘れていたという焦りが、午睡の余韻を吹き飛ばし。
けいは慌てて両手を使い『けーたい』を捜させて、少しの後……右手がそれを探り当てる。
「はい、もしもし?」
「やっほー、はとちゃん」
「あ、陽子ちゃん」
顔の見えない電話越しの一声で、概ねの人となりが視えてしまう。けいの級友・奈良陽
子だった。彼女がけいにつけた通称は、名前ではなく苗字に由来する。無害な鳩の印象が、
羽藤桂の名から来る印象よりも相応しいとか。
「元気だったぁ?」「何とかねー。色々とバタバタしていたのも、一段落ついたし……」
千年の間に人は様々な発明をした。陰陽師にも困難な遠話の術を、どんな仕組かは分ら
ないけど、何の術も力もない娘が使いこなし。
「そ? なら、丁度良かった。さすがはあたし、絶妙なタイミング」「……あはは……」
陽子の心境は感応の『力』で探りを入れる迄もなく視えてしまう。それはけいも同じく。
『それはどうかなぁ……? 本当に絶妙なら、寝た子を起こしたりはしないと思うけど
…』
「にしてもはとちゃん。久しぶり」
「昨日も学校で一緒だったのに?」
「はとちゃんラブのあたしとしては、一夜逢えないだけで久しぶりなの。分るでしょ?」
「分る様な、分ってはいけない様な」
『夏の経観塚から、帰って以降も色々あって。普通に学校通って帰宅して、残り時間をの
どかに過ごすってのも、暫くなかったし。陽子ちゃんも一日が長く感じられているのか
な』
けいの実感は私のそれでもあった。ミカゲと共々千年鏡に封じられ、拾年前けいの手で
解き放たれて。主さまの封印を解く宿願は成就したけど、けいの母に切り捨てられて更に
拾年鏡に逼塞し。漸く現身を取れたこの夏は、再び訪れたけいを狙い、主さまの封印を繕
ったゆめいを詛い、鬼切り役や観月の娘とも戦って。でも、不思議な経緯でけいは私と心
通わせ。私はけいを護り庇ってミカゲと訣別し。
「でぇ、はとちゃん今、ヒマ?」
「暇といえば、ひま……かな?」
今はけいの守りの青珠に宿り、ゆめいとも生命と想いを重ね合わせ。けいに憑いた状態
の侭、千年経った人の世に住み着いて。何もかもが目まぐるしくて、時折今が幻に思える。
最近数日、けいの家で静かに落ち着いた時を過ごしていると、私は己が一体何者なのか、
自身の立ち位置を見失いそうで。ほんの少し前が、遠く朧に思えてしまうのはむしろ私…。
「よーそろ。それは良かった。てっきりお邪魔だったかと」「……?」
「心のステディ陽子さんが、はとちゃんの為だけに送る愛の電波放送でも始めようかなー、
とか思って電話したんだけどねー」「うん」
長閑に朗らかなけいの日常を眺めていると。私に幾度も生命脅かされたのに、拾年前に
は家族も幸せも喪わされたのに。一度二度生命を助け守り庇った位で、心を全て開け放っ
て。なくてはならない護りの青珠に鬼を宿らせて、憂いも怖れの影もない太平楽な笑みを
浮べて。
本当に、贄の血筋は何を考えているのやら。
でも今は、そんなけいやゆめいが愛おしく。
「寝てたでしょ、はとちゃん」
「わ……なんでわかったの?」
『寝ぼけ声にはなってない筈。もしやわたし、さっき考えてたこと口に出したりして
た?』
「まったく、大口ぽかーんと開けて寝てるんじゃないわよ。いい若い子が、はしたない」
「ええー!? わたし口なんて開けてた?」
けいはすっかり電話に気を取られ、周囲の情景が視えてない。はしたない大声を上げる
様を、間近で見ている者がいる事も失念し…。
「哀しいけど、自分のことが一番見えないものなのよね……ほら、よだれの跡をふいて」
けいが慌てて口元に手を運び、ハンカチを探す。陽子の声も『けーたい』から漏れ聞え
ていて、傍の2人も話しの流れは掴めている。
「そっちじゃなくて、逆サイド」
言われる侭に、けいは反対の頬をこする。
「取れた?」「……くくっ、再びの大成功」
『陽子ちゃんの噛み殺した笑い声。まさか』
「ぷはーっはっはっ……! 夏に続いてっ」
『騙された?』【漸く気付いたみたいね…】
『よく考えたら、仮によだれの跡があったとして(あくまで仮の話として)見えてる筈が
ない。電話なんだから』【まったくけいは】
「よ・ぉこ・ちゃーん? 性懲りもなく…」
「いやいや、はとちゃんってホント面白いねー。さっすがあたしのおもちゃ1号認定機」
『……ひどい言われようだった。
この電話……切っちゃおうか』
「……それで? 何の用?」
今度は憤りで、けいはやはり周囲が見えない侭で。私はともかく、他の視線もある事を。
そろそろけいに気付かせてあげるべきなのか。
「そうそう。今ヒマだったら明日もヒマでしょ? あたしもヒマだし、一緒にどっかに遊
びに行こーよー」「無理」
けいの冷たい語調を聞くのは珍しいので。
私はもう少し様子を見守り蛇の生殺しを。
「……」「無理です」
怯む陽子に、けいは更に他人行儀の敬語で。
互いの間を、少しの緊迫と沈黙が行き交う。
「……うわー、いじけた? ムカついた?」
「ムカついた」
「ごめんごめん。明日奢るから許してちょ」
『よしっ!』桂の心の叫びが聞えた様な気が。
この展開も実はけいは初回ではないらしい。
「そこまで言うんなら、許すのもやぶさかじゃないんだけど……」
「サンキュー、はとちゃん愛してるー。フンパツしてお昼にデザートまでつけちゃうよ」
「景気がいいね、陽子ちゃん」
けいの興味はやはり顔の見えない陽子へと。
「雑誌報道の件ではとちゃん家に謝りに行った目方さん達から、あたしもごめんなさい料
を頂いたの。最初は断ったけど、受け取らないと加藤さん達も気が済まないって……最後
ははとちゃん達に倣って、気持を頂きますって半分だけ。元々は、はとちゃんとユメイさ
んに迷惑掛けて発生したごめんなさい料だし。はとちゃんに奢るのは正当な使い途でし
ょ」
「うん……まぁそれはそうとも言えるけど」
「じゃ決まり。明日十時に駅前ハックで…」
常日頃のけいはこうして陽子に流される。
でもこの時に珍しく流されなかったのは。
「ごめん。やっぱ明日は無理」「なんでよ」
「今そっちにいないから。言うなれば留守中?」「へ? ……はとちゃん今どこに?」
「電車の中。ごとごと言ってるの聞える?」
轍のレールごしに枕木を蹴る震動が、心音の様に拍動を刻んでいる。けいと共々私まで
もすっかり寝入ってしまったのは、このゆりかごの様な心地よい揺れのせいかも知れない。
「聞えないなら、床に携帯近づけるよ…?」
「いや、いい。何となく聞えた……でも電車の中にしちゃあ……やけに静かじゃない?」
ってまさか! そこで電話の向うが大声に。
陽子は察しが良いので、概ねを悟れた様だ。
「その一車両独占みたいなローカル線。隣の車両を見ても、はとちゃん達以外誰も乗って
ないって展開でしょう?」「陽子ちゃん?」
『確かに、携帯電話を使って、あまつさえ普通のトーンでおしゃべりをしたりできるのも、
この貸し切り状態あってこそ、なんだけどね。
わたし羽藤桂は、電車内での迷惑電話に反対しまーすっと、それはさておき』
「名前も分らないすっごいローカル線で、今日はもうずーっと電車に乗りっぱなしでっ」
「陽子ちゃんすごい、見えてない筈なのに」
『おかげでお尻、ちょっとだけ痛いかも…』
「又あたしを置いて経観塚行っちゃって!」
大きすぎる陽子の声が、けいの耳から溢れ出て、私のみならず傍の2人の注視をも惹く。
外は経観塚に向う列車の窓から、陽は赤く世界を染めて、山の際へと差し掛りつつあった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
『ちょっと耳がキーンとしたのも。夏の経観塚に行く列車の途上で、こうして陽子ちゃん
からの電話を受けた時と、印象が被るかも』
けいの想起は夏の経観塚に来る時の事か。
『あの時は、お父さんの実家に行くって言ったら陽子ちゃん、わたしが田舎に引っ越すと
早合点して大声に。母子家庭のわたしが夏休み前にお母さんを喪って。羽様の実家が機能
していれば、移り住んで養われるのもあり得る話しだったけど。羽様の屋敷は廃屋で…』
でも正にけいの父方親族が誰もいない為に。
けいの相続財産に羽様の屋敷も載ってきて。
『税金の話しも色々あるから、相続するか手放すか、早めに決めなければならなくて…』
取りあえず見に行く感じでけいは経観塚に。
その気紛れがけいと私を再び巡り合わせた。
それは同時にけいとゆめいをも巡り合わせ。
私とけいやゆめいを繋ぎ合わせる今に繋り。
人の世の先行きは神にも鬼にも読み切れぬ。
感慨に耽る私に構わず陽子の大声は尚続き、
「あの時もぉ! 『暇だし夏だし、休みだし。言ってくれれば付き合ったのに』ってあた
しが言ったの、はとちゃん憶えているー?」
「あ、そうだったね。あの時も確か『その手があったか』って、ぽんと膝を打った事が」
あの時も陽子を誘っていれば良かったと。
思った過去を陽子の大声で漸く思い出し。
改めて、その場でぽんと膝を打つけいに。
「もー! 一言声掛けてくれれば、懐に余裕のある心のステディ陽子ちゃんは、はとちゃ
んの生れ故郷へ、ご挨拶に赴いたのにーぃ」
「ご挨拶って、おじいちゃんもおばあちゃんもいないお屋敷だよ。何のご挨拶かは敢て訊
かないけど、陽子ちゃん、わたしの唯一の肉親で家族には、日々挨拶しているでしょ?」
「うっ。そこは敢て訊いて欲しい処です…」
けいは時々無意識な侭残酷に話しの芽を摘み取る。陽子にはその位が丁度良いのだけど。
「あの時は、知らない場所に1人で行くのに、けっこう緊張していたからねー」
「あっはは、緊張してる人はよだれ垂らして眠りこけたりはしないんじゃないかなー?」
「だから、よだれなんて……って、あれ? 陽子ちゃん? 陽子ちゃーん?」
けーたいの電波が届かぬ処に入ったらしい。
流石に千年後の利器も万能とは行かぬ様で。
けいはとりあえず、かけなおしてみるけど。
駄目らしく。諦めて溜息を漏らしたけいに。
「どうやら、圏外になってしまった様だね」
そこで漸くけいは今回、秋の経観塚行きが一人旅ではなかった事を思い返し。青珠に宿
って常に私が随伴する以上に、今回のけいの旅には、肉の体を持つ人間が2人添っている。
その1人がけいの左隣で通路側に座して。
静かな佇まいでけいの所作を眺めていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「う……う、う烏月さんっ! 見てた…?
もしかして今のやり取り、全部見てた?」
けいは経観塚への旅の車中を、夢心地で無意識に、一人旅だった前回に重ね合わせてい
た様で。今回は他に添う者がいる事を失念し。目が醒めてからも、陽子に話しの主導権を
握られ放しで、周囲に注意を向ける余裕がなく。散々やり取りした末に、通話が途切れて
漸く。
「私達以外に車内に誰もいなかったから、取りあえず通話のお邪魔はしなかったけど…」
黒髪長い、鬼切り役の美貌がけいに間近い。その近しさにけいは頬を染め、まなー破り
の車内通話を見られた事にも耳が朱に。その通話内容を聞かれた事にも赤面し、今迄肩を
寄せ合って眠っていた事も思い返して茹で蛸に。
「もう少しだけ、周囲にも気を配る様に努めた方が良いと思うよ。桂さんは可愛いから何
かと人目を惹き易いし」「う、烏月さんっ」
『ううー全部聞かれちゃったよぉ。ヨダレは垂らしてなかったけど、それだけは回避でき
たけど。無様に無防備な寝顔も見られ放題で、その上陽子ちゃんとのやり取りも筒抜け
に』
けいは視線のやり場をなくし、左隣の通路側の鬼切り役から瞳を泳がせ、正面を見ると。
「安らかに眠る桂ちゃんも、恥じらいに頬を染める桂ちゃんも、両方とても可愛いわ…」
正面の窓側座席にはゆめいが座して笑み。
今回の経観塚行きは私を含む4名編成だ。
翻弄される侭に赤面し通しのけいは、ここに到って漸くゆめいにも全てが筒抜けと悟り。
幾ら話しの主導権を握れず流され通しだとは言え、今回の旅に添う者の存在を忘れるとは。
前回の経観塚行きが、余程印象深かったのか。
最早言葉も出ず、耳まで真っ赤に染まったけいに、鬼切り役は間近で静かに微笑みかけ。
「経観塚へ着くには未だ少し時間があるよ。
疲れているならもう少し眠った方が良い」
涼やかな声でそう言われて、けいは今迄彼女と肩を寄り添わせ眠っていたと、今更なが
ら思い返し。鬼切り役やゆめいがその恥じらいを愛でていると、けいに悟れる余裕はなく。
「だ、だだ、大丈夫です。もう随分寝たし」
『どうしてこんな美人の隣で、眠りこけるなんてできてしまったんだろう。わたし、そこ
まで大胆な女の子じゃなかった筈なのに…』
その動転を知ってか知らずか鬼切り役は、
「そうかい。では私はもう少し、桂さんの隣で寝かせて貰おうかな。……桂さんと肌身を
合わせていると、とても心が安らぐのでね」
「はっ、はいどうぞ。膝枕でも抱き枕でも」
けいが余計な事を口走っては更に頬を染め。
鬼切り役を喜ばせるのは私が好まないので。
「けいやゆめいは兎も角、あなたは眠りこけていては拙いのではなくて? けいの警護の
為に羽様に付き纏うのに」「ノゾミちゃん」
『桂の警護って、ノゾミちゃん、駄洒落?』
鬼切り役も少し前まで、けいと肩を寄せ合って眠っていた。それはゆめいも同じだけど。
「眠っていても変事には即応できる。同じ車両内に他に人の気配がない事も掴んでいるし、
何者か来るか顕れれば、自動的に悟れて起きて備えられる……心配は要らないよ桂さん」
怒るでもなく嗤うでもなく、淡々と涼やかに応える鬼切り役に。けいの正面でゆめいが、
「四六時中最大の緊張感で身構え続けるのは、却って非効率なの。今が平時か戦時かを見
極めて、適度な注意力を保つ事が大事なのよ」
2人共さっき迄眠りの園にいたけど。けいが拾年前の夢に入った頃から、身動き一つせ
ぬ侭に、それとなく注視を始め。何者の作為も感じなかったけど、以前私とミカゲが為し
た効果に似ているのが気に掛った。けいがあの夢を見たのは、前回と同じ行程を辿ってい
る故か。思い出したい記憶ではない筈なのに。
夏には私とミカゲの感応の『力』で、経観塚周辺にあの夢を広く撒き、反応を誘って探
った。起きていて意識の定かな者は気付けない、眠っていて無防備な者なら夢に見て気付
きそうな弱い力を。あれとは違うと思うけど。
「烏月さんに寄り添って頂ければ、桂ちゃんの護りは万全です。やはり守る人と守られる
人は、気心が通じている事が理想的ですね」
ゆめいの言葉に、けいが更にあたふた何か反応を返すその脇で。私は青珠から列車の窓
の外へ視線を向けて。西日の差す赤い世界は、鮮烈な迄の朱に彩られていた。ミカゲが滅
びて消失した経観塚のあの夏の日の夕刻の様に。
私達を乗せたこの乗物の終着も遠くはない。ガラスとコンクリートとアスファルトの硬
い世界に馴染み始めた私だけど。千年変らぬ田舎の様子は、やはり懐かしく心の琴線に響
く。
私も昔へ、少し前の過去へと浸りたいのか。
私の心の核を為してきた、大多数の年月に。
主さまを想い、ミカゲを伴として過ごした長い封じの年月に。ハシラや羽藤を憎んだ歳
月の上に立って、私は今ここにある。過去を懐かしむ事は、今の私を否定しかねないけど。
それも己自身なら捨て去る事等叶う筈もなく。都合良く忘れ去る事等更に出来よう筈もな
く。
でもけいがさっき視ていたあの夢はむしろ。
過去を取り戻し乗り越えたけいより私の…。
ごとん、ごとん−−
がたん、ごとん−−
多少のやり取りがあった後でけいはやはり。
この規則的な揺れに眠気を誘われ瞼を落し。
けいのけーたいに結わえられた青珠の中で。
私は為す術もなく列車の揺れに身を任せる。
ごとん、ごとん−−
がたん、ごとん−−
ミカゲは消失した筈なのに私は何を怖れて。
主さまに近付く事に怯えているのだろうか。
主さまを一番に想った頃の、己に戻る事を。
けいを餌、ゆめいを仇としていた頃の己に。
ごとん、ごとん−−
がたん、ごとん−−
でも目を鎖しても黄昏の世界は消えなくて。
いよいよ目線の高さに迄落ち込んだ夕日は。
けいの心も私の心も、朱に染め上げていき。
わたしは、私は再び夢を見た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
事の発端は秋の始めの休みの日に。けいもゆめいも、けいの兄をたいせつに想っている
から。それは特に不思議な成り行きでもなく。
死した事にされていた以上に、ゆめいは取るべき拾年分の歳を取ってない。故に一時期、
現代の浦島子とか神隠しの不思議とか、ますこみに騒がれて。漸く周囲が落ち着いたのは。
「んんーっ、天高く馬肥ゆる秋だよねぇー」
『気持のいい秋晴れの下を、大好きな人とショッピングと洒落込む、休日の午後の幸せ』
私も一応、けいの大好きな人に含めては貰えている様だけど。傍を歩むゆめいが応えて、
「そうね、食べ物の美味しい季節だけど……、桂ちゃんは大丈夫かしら?」
『抱えた買い物袋の重さは、幸せのバロメーター。体重計が示すのもそうだと思いたいけ
ど』【今時の娘は色々と気になる物なのね】
生前、病で太る事が出来なかった私には。
だいえっとに拘る女心が、分らないけど。
「ううっ、桂馬つながりで桂肥ゆる秋にならないように、気をつけます……」
『因みに晩ご飯の材料を買いに行くのだって、ショッピングと言えば立派なショッピン
グ』
「……だけど、今夜は目黒のさんまだよー」
「はい、焼き魚ね。油を抜いてお吸い物にした方が、太らなくて済むんじゃないかしら」
「駄目駄目、そんなの勿体ない。お姉ちゃんなら、お吸い物にしても美味しく作れるかも
しれないけど、食材も適材適所じゃないと」
『笑子おばあちゃん直伝の和食メニューの数々は、お母さんとは姉妹弟子の関係にあたる
だけあって、わたしの好みにぴったりです』
夕餉だけは現身で顕れて食しているけど。
ゆめいの味付けは実は私の好みでもあり。
最近は夕餉に顕れるのが密かな愉しみに。
「……あ、何だかいい匂いが」
「さっそく、どこかでさんまを焼いているのを嗅ぎつけたのかしら?」
「違う、違うよ。食べ物じゃなく花の香り」
長閑に朗らかに、他愛もない話しを続ける。
こんな日々が、ゆめいやけいの願いだった。
「そういえば……金木犀の花かしら。もうそんな季節になったのね」
「もう半月で十月だもんねー」
「ええ、紅葉の季節ね。経観塚の山もすっかり色づいている頃でしょうね」
そう言えばこの千年、私もあの地の紅葉を見ていない。主さまが封じられた直後に槐を
訪れ、結界に弾かれ逃げ帰ったあの頃以来か。最早瞼の裏に浮ぶあの頃の記憶も遠く霞ん
で。
「そうなんだ」
「とても綺麗なところよ。少し遠いけれど、今度のお休みにでも足を伸ばしてみる?」
【経観塚に……羽様に、槐に、行くの…?】
それは一体私には喜びなのか、怖れなのか。
逢いたい人であると同時に顔向けできぬ人。
懐かしく愛おしいけど苦味を伴う遠い過去。
心のざわつきを抑え私は成り行きを見守る。
「そうだね。わたし達の誕生日ももうすぐだし、白花お兄ちゃんにあいさつに行こうか」
「そうね……」
けいとゆめいは2人心を合わせ言葉を揃え。
肩を寄せ合う華奢な姉妹の姿は美しいけど。
「「わたしたちは、ちゃんと幸せに暮らしていますって」」
そこから話しはとんとん拍子に進み。ゆめいは深夜けいに秘して、鬼切りの頭に電話で、
鬼切り役の経観塚行きへの随伴を頼み。悟られぬ様に密かに準備して、相手を驚かせつつ
喜ばせる企みを『さぷらいず』と言うらしい。
「桂おねーさんと、経観塚に……それで烏月さんも一緒に行けたならと? ほぉーお…」
鬼切り役は経観塚で別れて以降、夜昼なく鬼切りの頭の身辺警護を続けている。夏に経
観塚で桂と巡り逢った時、実は鬼切りの頭は血生臭い職責を厭って逐電中で。鬼切り役は、
行方不明の主君を最初に見つけ保護した訳だ。
鬼切りの頭はその功績に栄誉ある職で報い。
財閥総帥と鬼切りの頭への正式就任迄の間。
彼女に最も間近で特別の身辺警護を任じた。
鬼切りの頭も、知らぬ者揃いの巨大組織に頭として乗り込む上で。少しでも気心の知れ
た者を、傍に置きたかった事情もあった様で。
本来鬼切り役はけいの兄を斬る命を受けて、千羽を出立した。成功でも失敗でも、結果
の言上に千羽へ戻らねばならぬ。それも許されず二月近く、常に鬼切りの頭に随い。夜も
昼も風呂も褥も。女同士だから問題ないと言えば問題ないけど、別の意味で問題の様な気
も。
鬼切り役が夏の経観塚以降、主君の傍を離れたのは。ますこみが騒ぎ出す前、鬼切りの
頭の命令で、このあぱーとを訪れた一度だけ。けい達が私という鬼と共に生きる状況を査
察する為だった。けいとゆめいの元で私が暴走せず、人の世に溶け込めるか否かを見定め
に。
「そうですねー。烏月さんの特別警護の任も、漸く解ける様になりましたし。わたしは財
閥総帥と鬼切りの頭の激務が待つので、当分己の身の自由も確保できそーにないですけ
ど」
せんきょも終り、ますこみの騒擾も去った秋の初め。鬼切りの頭の財閥総帥就任をてれ
びで見た頃。ゆめいがけいに経観塚へ行く話しを振ったのも。その頃合を見定めてなのか。
「烏月さんに、警護の任をお願いしたく…」
「なる程……柚明おねーさんらしーですね」
ゆめいの話しの振り方は少し大仰に思えた。鬼切りの頭は既に役職に就き、特別警護を
いつでも解ける。鬼切りの頭に別命を出させずとも、任の解けた鬼切り役に直接頼めば良
い。
『頭の堅い鬼切り役は、千羽に諸々の言上に赴く事を考えるから、主君の別命が要る?』
確かに鬼切り役は義理堅く、職務に忠実な性分だから。経観塚行きを任意同行にすれば、
千羽への経観塚の夏の結果言上を優先しかねない。主君たる鬼切りの頭に命じさせたのは。
「命令とあれば異議はありません。……私も、桂さんや柚明さんを警護できる事は嬉し
い」
傍にいた鬼切り役が、電話を替って返した声音が、喜びを素直に出していたのは、その
配慮の故か。翌朝ゆめいは改めて鬼切り役に電話を繋ぎ、けいの前で了承を取って驚かせ。
「烏月さんも経観塚に一緒してくれるの!」
「葛ちゃんに確かめたら、財閥総帥就任に伴って、身辺警護の任務は終ったと聞いたから。
わたし達の経観塚行きへの同行をお願いして、承諾を貰えたの。勿論、烏月さんの承諾
も」
「心を込めて警護させて貰うよ。宜しく…」
けいの護りなら、私がいる以上にゆめいが寄り添う。鬼切り役の出る幕はない筈だった。
ますこみに騒がれていた頃は、『きしゃ』の他に『けいじ』や『やくざ』があぱーと傍
に現れ、時にゆめいに嫌がらせも為したけど。生命脅かす動きはなかったし、誰1人ゆめ
いに傷一つ与える技量もなく。石投げられたり掴み掛られていたのは、ゆめいの側の思惑
で『そうさせていた』だけで。その上でゆめいの護りは自身よりむしろ周囲の者に強く及
ぶ。
鬼切り役の護りを願い求める必要は薄い。
ゆめいは唯けいを喜ばせたいだけなのか。
「わ……。すごい……すごい、すごい……」
「何をだらしのない顔をしているの、けい」
堪りかねてわたしがやや強く声を挟むと。
「え? だらしないって?」「顔から締まりという締まりが消え失せてしまっていてよ」
けいは自身の変貌に全く無自覚な様子で。
「うふふっ……でも、桂ちゃんにはそう言う笑顔の方が似合うわ」「え、わたし……?」
ゆめいに言われて漸く己のにやけ顔を悟り。
頬を染めて言葉続かなくなるけいは置いて。
「急な話しで申し訳ありませんが、今週金曜日の朝に出立しようと考えています。土日に
続いて月曜日も敬老の日ですから。金曜日が、桂ちゃんの学校の体育祭の振替休日なの
で」
「桂さんが4連休を取れるという訳ですね」
経観塚はけいのあぱーとから遙かに遠く。
行くにも帰るにも一日を費やしてしまう。
だからまともに経観塚を訪れるには最低。
3日以上の日程を確保せねばならなくて。
「わたしはともかく、桂ちゃんの学業に障りがない様に……烏月さんに金曜日、休講を強
いてしまう事は、申し訳ありませんけど…」
「あ、そう言えば。紅花女子高は良いけど」
鬼切り役の通う学舎はけいと異なり、行事日程も違うから、振替の休みも同じではない。
ゆめいが勤めや学舎の事情に左右されぬから、けいも余りその辺りは考えてなかったらし
く。
「烏月さんは大丈夫? 北斗学院付属高は」
「私の事なら大丈夫だよ。葛様の身辺警護の為に、実家から長期の病気休養を願い出てあ
るから。数日延びた処で差し障りはないさ」
けいの表情や瞳の動きを見ていれば、感応の力を使う必要もなく心の浮動が見えて分る。
『病気休養……クラスメートや先生には、烏月さんは病弱だって、思われているのかな』
鬼切りに出向くのに鬼切り役は今迄、幾度か休みを取っており。今回も少し長いけど今
更差し障る事はないと。学業成績も優秀らしく、休講しても殆ど響かない様で。けいのう
っとりとした溜息に、なぜか悔しさを感じた。
「申し訳ありません。お忙しい御身に無理を頼む形になって」「いえ、お気遣いなく…」
けい達は鬼切り役と、朝9時に首都圏外れの列車の駅で合流する事にして。私が憑いて
いくべきか否かには、若干躊躇があったけど。経観塚・羽様・ご神木には、主さまがいる
…。
ゆめいがけいに寄り添えば、贄の血の匂いは消せる。経観塚に着けば槐を中心に血の匂
いを隠す結界が広くあるから、寄り添う必要も失せる。鬼切り役をけいの警護に招いたの
は、私を外す為か、私に備える為か、或いは。
「サクヤさんや葛ちゃんは一緒出来ないけど……4人で経観塚に行けるねノゾミちゃん」
観月の娘は、仕事の打合せで関西にいて。
今回の経観塚行きに日程が合わないとか。
ゆめいからその旨を聞いて、けいは少しだけ残念そうだったけど。問題はそこではなく。
「私も一緒で、構わないの?」「もちろん」
けいは何も考えてないのか。全て承知済なのか。時々その呑気過ぎる仕草や声音に苛立
ちを憶える。それを叩き直さないゆめいにも。私を、鬼を疑いも警戒もしないその在り方
に。
良いよねお姉ちゃん、と問うけいの視線に誘われて。私もゆめいに視線を向ける。私が
ゆめいの立場なら、主さまの眷属だった過去を持つ鬼を、その主さまの封印がある経観塚
に同伴させない。青珠ごと置いて行くべきだ。私が抜けてもけいの護りは幾らも減じない
し、それを補って余る護り手も確保できた今なら。分って尚行きたいのは私の我が侭に過
ぎない。
「ゆめい……私は、経観塚に行っても良いのかしら。しかも、けいやあなたと一緒に…」
なのにゆめいの答は常と変らず柔らかに。
私が肌身で識った静かに優しげな感触で。
「ご神木にはあなたのたいせつな人がいる。
今はその根にあなたの妹も眠っているの」
ゆめいもけいも、私が今尚主さまを慕っていると承知で。ミカゲの姉である事も承知で。
経観塚に向かうのに、わたしを置いて行く事など想定になく。何と太平楽に隙だらけな…。
「何よりもあなたは桂ちゃんの最後の護り。
一番の人にしっかり寄り添い守って頂戴」
「仕方ないわね。私がいなければ心細くて堪らないというなら、憑いて行ってあげるわ」
私はこの贄の姉妹の甘さ優しさが危なっかしく。愛しい2人の娘の先行きを捨て置けず。
主さまを解き放つ事など考えにない。今の私は主さまではなくけいが一番たいせつな鬼だ。
「うんうん。ノゾミちゃんがいないとわたし、心細くて寂しいよ。たいせつな家族だも
の」
「本当どうしようもないわね、贄の血筋は」
けいの寄せる無垢な信も、ゆめいの寄せる全幅の信も、愛おしい。鬼であり仇でもある
私の経緯を全て知って、尚どこ迄も受容する。その懐の深さ甘さ優しさに私は惹かれたの
だ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
出立の朝にゆめいは。鬼切り役と一緒出来ると、こちらも早起きした桂と。予定より早
く出立し。ゆめいも鬼切り役に早く逢いたく、早く羽様に近付きたいと。でも万事に用意
周到なゆめいが、朝の気分で予定を変えるとは。
幾ら出立を早めても、乗り込む列車は同じなので、羽様への到着時刻は変らない。意味
のない変更だった。でも、けいも気が急いていて。鬼切り役に早く逢いたい想いも同じで。
だから承知で頷いて、恋人の如く手を携えて。
近くのばす停に歩み行くけいのポケットに、けーたいごと青珠も押し込まれ揺らされて
いると。近くを大きな車がすれ違う音と振動が。
不意に危険を感じた。遮蔽してはいたけど、敵意や闘志に近い何かを。気配を隠せる以
上只者ではない。私は感応使いだから気付けたけど、並の達人には全く悟れなかっただろ
う。
しかもその人数は弐拾名近い。一瞬で過ぎ去ったので。とらっくの箱に隠れていたのか。
呪術的な遮蔽の感触も微かに漂い。私が感じ取れた以上、ゆめいが気付いてない筈はない。
「引越屋さんのトラックかな……わたし達のアパートに向かって行くみたいけど、この時
期に朝早くからご苦労さんだね」「そうね」
ゆめいはさらっと応えたけど。その心中は推し量れないけど。微かに『力』の発動を感
じた。ゆめいは自身や私を含むけいの存在を、他者に気取られぬ様に周囲に埋没させてい
た。
その表情には硬さの欠片もなかったけど。
その仕草には緊張も警戒もなかったけど。
『あの連中は鬼切部なの……? 向うも気配を隠していて、確かには悟れなかったけど』
鬼の私はともかく、鬼切りの頭と深い信を繋いだけいやゆめいが、今更鬼切部に襲われ
る理由はない筈だった。私という鬼と共に生きる事も鬼切りの頭が明言して承諾し。条件
に科された鬼切り役の査察も受けた。今日の同行も、けいは知らずとも査察の側面を持つ。
そんな油断を狙い不意を突いて、約定を破って鬼を討つのも、鬼切部だけど。少なくと
もけいやゆめいを、鬼切りの頭が裏切るとは考え難い。では彼らは鬼切部ではないのか?
本当に、一瞬すれ違っただけだったので。
相手も気配を遮蔽し息を潜めていたので。
けいとゆめいの長閑な語らいに心誘われ。
私も、彼らの存在は漸く気付けた程度で。
ゆめいの遮蔽の展開も、私の感応の精度を落していた。ゆめいは私も含めた3人の存在
を周囲に埋没させたけど。正にその為に滞留させたゆめいの『力』が、私の『力』を妨げ。
『ゆめいは、けいには何も告げていない…』
けいは鬼切り役に暫くぶりに逢えると、気が急いていて。ゆめいは仕草にも声音にも気
配にも一部の乱れもなく。ゆめいがけいに告げないのは、心配させたくない為か。ならそ
の真相は、聞けばけいが心配する中身になる。即問うてけいに事を悟られるのは愚策とし
て。
けいに聞かれぬ時にでも尋ねておくべきか。
私も千年以上、良月に封じられていたから。
今尚外界の事情を知悉したとは言い切れぬ。
予定では、朝9時発の列車へ乗り込む駅に。
ばすで行くけい達よりも、鬼切り役の方が。
到着が早く、四半時位待つ感じだったけど。
一時(いっとき)その出立を早めた結果…。
逆にけい達が半時と少し、待つ事になって。
やや早めに来た筈の鬼切り役は、目を丸く。
「待たせてしまって申し訳ない。待ち合わせ時間より、かなり早く着いた積りだけど…」
「烏月さんは悪くないよ。わたし達が早く着きすぎちゃったせいだし。お姉ちゃんも早く
烏月さんに逢いたいって、言っていたから」
けいが恥じらい隠しに、鬼切り役に早く逢いたかったのはゆめいも同じと。頬を染めて
話しを振るのに。ゆめいはその想いを隠さず。
「はい。わたしも桂ちゃんに同じく、烏月さんに逢えるのが嬉しく。早起きして準備が終
ると黙っていられず……申し訳ありません」
鬼切り役も、けいではなくゆめいが予定破りして、大幅に早く着いた事に少し違和感を
覚えた様だけど。駅の傍の茶店で時間を潰し、予定通り列車に乗った後は、特に異変もな
く。
私達を乗せた列車が経観塚の駅に着いたのは、秋の陽もとっぷりと暮れた後の事だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
けい達が語らいつつ駅のほーむに降り立つ。
その姿を照すのは夜空を昇り行く月の蒼光。
明後日の夜が満月……と言う事は、ゆめいとけいと私が、想いと生命を重ねて補い合っ
たあの夜から、2ヶ月経つと言う事か。ミカゲや主さまの分霊(わけみたま)の消失から、
私の主さまへの背信からも未だ2ヶ月なのか。嵐の様に過ぎ去って思えた日々だけど、で
も。
『随分歳月が経った様にも、思えていたわ。
余りにも、色々ありすぎたお陰かしらね』
日も暮れて既にいつでも現身は取れたけど。夜でも未だ人目がある状況なので、もう少
し青珠に潜み。人工の灯りが行き渡ったこの数拾年で、人は夜も活発に蠢く様になってい
た。
人工の光なんて、幾ら明るくても所詮日輪の紛い物だけど。私程明確な現身を持てない、
切れ端の様な霊体には、脅威にもなるらしく。
『でんき的な物と霊の力は干渉し合う』とゆめいは言っていた。でんきの光の下で現身を
取れば、陽の光程ではないけど圧を感じるし。てれびやでんき器具の傍では、現身を削ら
れる感触はある。けいやゆめいの贄の血を頂く今の私は、一晩現身でいても障りもないけ
ど。
それより多くの人が、夜も平然と出歩く事が、私には驚きで。家の中でもでんきの下で、
談笑したりてれびを見たり。私の生前は多少灯りの術はあってもその輝きは貧弱で。陽が
落ちれば、人は身を潜めて朝を待つ物だった。
『夏の時はこの辺りに来た事はなかったけど、あの老いた駅員は只者でないわね。それ
に』
駅の影で中年男が2人こちらを窺っていた。
けいはその存在に気付いていない様だけど。
鬼切り役も、ゆめいも知って知らぬ振りか。
けいのあぱーとに、少し前迄張り込んでいたけいじだった。目的はゆめいか。きしゃが
引き上げた頃に、彼らも引き上げていたけど。元々彼らの管轄が、この県だという話しは
聞いていたけど。でも今なぜ彼らがこの場所に。
『まさか、こちらの動きに先回りされて?』
けいじとは罪を犯した者を捉える刑部省の下部職らしい。けいに尋ねても『十手持ち』
『岡っ引き』を例に説明されて今一つ分らず、結局ゆめいに訊く事に。ゆめいは先代のハ
シラと交感済で、千年前の物事も多少分るので。
彼らが追っている案件は。拾年前のあの夜、ミカゲと私がけいとけいの兄を操り、主さ
まの封じを解いた為に。漏れ出た主さまの分霊がけいの兄に宿って、けいの父を殺めた件
だ。
霊の鬼を信じない今の世は、あの夜あの場にいたけいの家族から、罪人を見つけようと
して。けいの父母は既に亡く、けいとその兄は当時幼子で人を殺める術がないと見なされ。
尚疑いが残るのは、ゆめいのみという状況に。
「3人でバスって初めてかも」「そうだね」
けい達はその侭最終ばすに乗る。けいじはばすの出立を見送るのみで乗り込んで来ない。
乗合とは言え殆ど乗客のいない車両に屈強の男がいれば目立つ。それを嫌った感じだけど。
こちらの動向を把握されている印象も感じた。行き先が分るから追う必要を感じてない様
な。
「ノゾミちゃんも、もう少しだよ」『……』
犯人とされれば、時には疑いだけで。ゆめいは彼らに連れ去られる。私の生前も罪人は
親族と隔てられ、拷問や虐待の末に牢に入れられたり、遠方に流されたり死罪に処された。
でも、あの件ではゆめいに何一つ咎はない。けいの父を殺めたのは、けいの兄に宿った
主さまだ。ゆめいをこの侭捉えさせ、けいから引き離し、けいに寂しい想いをさせる訳に
は。
私の思索を察したのか、ゆめいは『桂ちゃんに内緒』に加え『もう少し静かに見守って
頂戴』と求め。私が何か為すなら鬼の『力』を使う他に術もない。ゆめいはそれを好まず。
この二ヶ月で私も多少今の世を見て知った。今の世は、目先の1人や2人を威かして退
けたり幻覚で惚けさせたり、生命奪って口封じした処で。それで終りには出来ない。むし
ろ。
『羽藤さんや柚明さんに迷惑が掛りますわ』
けいに寄り付くきしゃ多数を『力』で退けようとして不発に終った後で、凜に言われた。
『今の世は多くの人達が複雑に絡み合って生きています。羽藤さんに群がる記者を打ちの
めしたり魅惑して惚けさせても、仲間や会社の同僚が後を埋め、真相究明に掛るでしょう。
繰り返せば繰り返す程、羽藤さんの周囲で起こる異変に人の好奇心が集まってしまいます。
【力】の事やノゾミさんの事を気付かれでもしたら、それこそ大変な騒ぎに』『うっ…』
けいと同じ歳の娘の指摘に答が出なかった。
確かにけいやゆめいに近い者が、相次いで倒れたり惚けたり、死んだりしては。けいや
ゆめいに何かがあると疑われる。その上で後任の者が欠員の穴を埋めるなら、意味がない。
『ノゾミちゃんは桂ちゃんの最後の守りである以上に、わたし達のたいせつな人。桂ちゃ
んの危機以外で不用意に『力』を使って消耗し苦しむ事は、桂ちゃんもわたしも望まない。
桂ちゃんや陽子ちゃんを、大事に想ってくれる気持は有り難いけど、無理はしないで…』
ゆめいの心配は、それだけではなかった。
『飼い慣らされた鬼』として存在を許された私が。ゆめいやけいを守る為でも『力』で常
の人を操ったり傷つける事は、鬼切部に討伐の口実を与える。鬼切りの頭とけいは私的な
な信を繋いだけど、油断できない事は私も分る。
ゆめいは諸々を考えて、どの方面にも波風を立てない様に事を運ぶ。ますこみの殺到し
た少し前にも、ゆめいは敢て強い反撃はせず、嵐の過ぎるのを待つ如く、じっと堪えて機
を窺い。彼らを退ける力量なら持っているのに。
欲情込みで抱きつかれても石投げられても、夜昼なく謂れのない罪を責められ、弁明を
無視されても、冷静に柔らかに応対し。最後は引き波の如くきしゃが去り。悪しき噂は噂
した側の信頼失墜で終息し。撃退せずとも望む結果は導ける。それは私には驚天動地だっ
た。
『ゆめいは今の世を私よりも良く識っている。多少まどろっこしく思えても、暫くゆめい
の手法に委ね、私は見守る側でいるべきかしら。幻惑や口封じなら、いつでも出来るのだ
し』
興味はあったから、けいじの表層心理を探ったけど。きしゃの目もある中では、夜でも
現身で顕れて問い質す訳に行かず。ましてその心の内を探りに『力』を及ぼす事は出来ず。
「本当にここで良いのかね、お嬢ちゃん達」
「大丈夫です、ありがとうございましたー」
羽藤の屋敷の近くでばすを止めて、けい達は闇の中へ降りたつ。ばすの御者は、うら若
い娘が人里離れた羽様を、日没後に訪れる事を案じた様だけど。独りではないから。頼り
ない人工の灯りを纏わせたばすが走り去ると、周囲は月と星のみが照す夜の漆黒に包まれ
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
月と星が照す道端から、羽藤の屋敷へ連なる緑の空洞に目を向けると。森には全く光が
届かず照されず。先に羽藤の屋敷があると分っていても。けいが不気味を感じても当然か。
千年変らぬ夜の森、静寂の時。天を駆ける月も星も幾久しく在り続けて悠久に終らない。
太古の昔から永劫不変の暗闇は、ミカゲと一緒に良月へ封じられていた千年を連想させて。
「やっぱりこの辺は真っ暗だね」「そうね」
夜の森の深さに圧倒されたけいが呟くと。
暗闇の中に白く淡い輝きが浮び上がって。
大きな蝶の形を取ってはたはた羽ばたき。
光の粉を散らせつつ足下を先行きを照し。
「ちょうちょ……お姉ちゃん?」「ええ…」
ハシラの継ぎ手の『力』は、槐と言うよりも槐に宿った竹林の姫の贄の『力』で。肉の
体を取り戻せた今のゆめいは、己の血に宿る『力』を使える。桂の濃い贄の血を呑んだ時
には及ばないけど、今のゆめいの『力』は槐の吸い上げた『力』に頼っていた頃より強い。
瞬間、私と鬼切り役に緊張が走ったのは。
各々の生い立ちから来る反射的な対応か。
私は千年恨んだ竹林の姫や、拾年憎悪したゆめいの蝶への反射的な敵意で。鬼切り役は
強大な化外の力を前にした、鬼切部としての反射的な警戒で。私も鬼切り役も、光の蝶へ
のけいの小さな驚きに紛れさせたけど。ゆめいは全て承知だから、敢て何も触れずに流し。
ゆめいはけいの荷物を預り、鬼切り役にけいの手を握って導いてと頼み。承知しました
と鬼切り役が差し伸べた左手を、けいは恥じらいつつ握り返して、お願いしますと。蝶に
先導され進み出す、2人の後をゆめいが歩み。
森を抜けて開けた空には月が大きく。
日本家屋を囲む森は鬱蒼と生い茂り。
「昔話や怪談に出てくる【迷い家】みたい」
けいの率直な物言いに、ゆめいが頷いて、
「そうね、人が住んでいればかなり雰囲気も違うのだけど、人が常住していなければ…」
「それでも、二月前には私達が起居しましたし、その後もサクヤさん達が居た様なので」
気配は全くの廃屋と違う。その辺の違いを見抜ける以上に、鬼切り役は拾年前迄ここに
住んでいたゆめいを気遣い。今更ながらに気付いたけいに、ゆめいは気にした様子もなく。
「笑子おばあさんが生きていた頃から、民話や伝説に出てくる様なお屋敷だったから…」
「けいの地雷を踏みつける才能は一級品ね」
私も現身で外に顕れ。初秋の夜風は涼やかで心地良い。周囲に人の気配は感じなかった。
鬼切りの頭を通じてゆめいから。一月前にこの屋敷へ『やくざ』数人が火を掛けに来て、
観月の娘に撃退された話しを。けいと共々聞かされた。せんきょも終った今では、奴らも
けいやゆめいに害を為す必要が薄らいだので。何かされる怖れは殆どないと聞かされたけ
ど。
だから多少過剰でも、ゆめいは鬼切り役の警護を頼んだ訳か。夜はともかく日中は私も
『力』を外に及ぼし難い。多数を敵に回せば、ゆめい独りでけいを守りきるのはやや難し
い。
「屋敷の周囲に油を撒かれたと聞いたけど」
私の鼻では油の匂いを感じ取れないのに。
「葛様の手配で油は除去された筈だからね」
「経観塚は時折激しい通り雨が降るの。外壁や周囲に撒かれた油は、例え僅かに残ってい
たとしても、全て流された後なのでしょう」
「確かに夏もすごい降り方していたものね」
「柚明さんも察し済みと想いますが、周囲に不審な者はおりません。安心して良いかと」
鬼切り役は先頭に立ってけいの手を引き。
連れだって羽藤屋敷の戸口の前迄行って。
ゆめいの蝶がけいと鬼切り役を待つ感じで、屋敷の戸口で滞空している。待っているだ
けではない。ゆめいの蝶は入れないでいるのだ。鬼切り役が何かに気付いた様子で、右手
で鞘を持った鬼切りの太刀の柄を、戸口に当てて。
きぃぃぃいいいん。音にならない音が響く。
否、それは音ではなく霊的な結界の波紋で。
「……?」何か分らずに立ちつくすけいに。
「もう大丈夫……中に入っても問題ないよ」
「羽藤屋敷には、若杉の術者が結界を張ってあった様ね……不審者の侵入を察する程度の、
微弱で殆ど何の役にも立たない結界だけど」
私の言葉にゆめいが頷き、けいに向けて、
「お屋敷に掛っていた結界を、烏月さんが解いてくれたの。掛けられた鍵を開けたのよ」
常の人であるけいでも、無意識に破れる術だけど。誰かの侵入を察して報せるだけの結
界だけど。その故に破ったと知れれば、早速若杉の者が状況を確かめに来る。それを鬼切
り役にさせる事で。不審者の侵入ではなく想定内の事象だと報せた。ゆめいが鬼切り役に
けいを抑えさせ、先に行かせたのはこの為か。
『鬼切り役を随伴させた真意とは……予め鬼切りの頭に告げてあれば、若杉も妨害はしな
いだろうけど。確認や監視はあり得た。ここはやくざに放火され掛った以上に、主さまの
封じを解く力を持つゆめいに縁のある館…』
鬼切り役が、若杉の最高戦力が監視している事実が、その他の若杉の介在を無用にした。
ゆめいは実は、やくざより若杉の出先対策に、鬼切りの頭や鬼切り役の介在を求めたのか
も。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
羽藤の屋敷はやはり今一つ心落ち着けない。
それが己の過去の所行の故だとは分るけど。
太古に主さまを喪わせる原因となった竹林の姫の生家で。私やミカゲを千年良月に封じ
こめた羽藤の住まい。拾年前に私を切り捨てたけいの母の住処で、この拾年主さまを封じ、
主さまの分霊も滅ぼしたゆめいの心の拠り所。そのゆめいに妹・ミカゲが討たれ絶命した
処。
そして私がゆめいに運び込まれ生命繋がれ。けいに抱きつかれて生命を救われ。全ての
戦いを終えた後はゆめいの癒しや夕餉を受けて。今の私に生れ変る基盤、拠り所ともなっ
た処。
「電気も水道も、問題なく使えて良かった」
「ですが、ガスはやはり使えなさそうです」
ゆめいは、夏の経観塚で使えた設備を使えると満足そうだけど。鬼切り役は若杉が介在
した以上、生活基盤が改善されていても良い筈と、やや残念そう。けいの手ででんきのす
いっちが入れられて、屋敷は広大な闇の中で一点のみ、頼りないけど文明の光に包まれる。
「ようやくノゾミちゃんと一緒にお弁当頂けるね」「私は別にけいの贄の血さえあれば」
居間のてーぶるに鬼切り役とゆめいが弁当を広げ、けいがでんきぽっとのこんせんとを
差し込み。でんきで水を湯に変える。持ってきた粉末のお吸い物を、その湯で溶かして…。
「真夏ではないから、朝に作った弁当が悪くなっている心配は、ないと思うのだけど…」
「だいじょうぶだよ。お姉ちゃんがずっと贄の血の『力』を、通わせ続けていたんだし」
けいもゆめいも鬼切り役も、今日の3食は持ち寄った弁当を分ち合い。朝は合流した駅
構内のべんちで、昼は経観塚へ進む列車内で。とても3人分と思えなかった分量も、3人
の3食分なら納得が行く。その上で鬼切り役も、3人の3食分らしき弁当を用意して来た
けど。鬼切り役もこの随伴に期する処があった様だ。
贄の癒しは使い方次第では雑菌を繁殖させ、逆効果になると聞いたけど。ゆめいは
『力』を及ぼす対象と、それ以外を峻別できる様で。弁当は尚食すに適した色と香りを保
ち。ゆめいは直接戦いに役立たない『力』の扱いに優れる。というよりゆめいはそれが本
職らしく。
「私が吟味しましょう。ノゾミには、千羽の弁当の吟味を頼む」「……どうして私がっ」
しかも、わざわざ千羽の『おにぎり』を。
でも鬼切り役は、私の抗議等意に介さず。
「これも今朝私が作った物で、桂さん達と昼に一緒に頂いたし、合流して以降柚明さんの
『力』を受けているので、食しても大丈夫だとは想うけど、万が一の事があっては困る」
「私なら、万が一の事があっても良いと?」
「桂さんの家を訪ねた時は、桂さんに先んじて柚明さんの作りたてを摘み食いする姿も見
かけたが。今回は公認で先に食べられるよ」
鬼切り役の怜悧な瞳は、見つめると思わずはっとさせられる。けいやゆめいが心奪われ
惚れ込む気持も、分らないではない。だから私は決して見とれてなんかいないと横向きに。
「鬼切りの手を経た食べ物なんて……しかも鬼である私に『おにぎり』を勧める積り?」
「柚明さんの弁当のおかずは『お煮しめ』だけど、それは食する気満載で良いのかな?」
テーブル上の弁当の煮物を、器に運んでいた私の匙が止まる。けいは和食党で、和食は
煮物が多い。接頭語の『お』を附せば、大抵の献立が鬼関係になる。涼やかな表情の鬼切
り役の横で、ゆめいが少し気拙そうな声音で、
「芋の『お煮っ転がし』もノゾミちゃんの好みだったから、夜の献立に加えたのだけど」
返答に窮した私への助け船は、そうとも意識してない呑気なけいの、お腹の虫の促しと。
「だいじょうぶ。お姉ちゃんの想いと力が効いているから。みんなで仲良く食べようよ」
火を使わずとも水を湯に変えられる道具のお陰で、温かい茶も呑め。けいも気力体力を
かなり復し。確かに人はこの千年で進歩した。けいの町では時に夜を昼に変える程光が溢
れ。人の世界が蠢きが、夜を犯し行く印象もある。
僻遠の羽様では今尚変らぬ夜の闇の大海に、孤島の如く文明の輝きが一つ瞬くのみで。
闇に蠢く鬼たる私は、奇妙にほっとしてしまう。
夕餉を終えて一息ついた私達は、ゆめいの蝶の先導に従って、夜の槐へあいさつに往く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
高く伸びる木々が、好き放題に枝を伸ばし、空を殆ど覆い隠している。私の両手では抱
えきれぬ程太い幹の古木が立ち並び、丈のある草が生い茂る狭い道を、私達は前に進み行
く。
後ろを振り返ると、少し離れて開けた処に瓦の並ぶ屋根が見えた。幾度の建替は経ても、
主様が欲した竹林の姫の住処で、私が憎み恨んだ羽藤の住処で、私を切ったけいの母やけ
いやゆめいが拾年前迄暮らしていた羽藤屋敷。
離れに見える蔵は、私とミカゲの宿る良月を所蔵し、けいの記憶をこの拾年封じていた。
その恨み憎んだ羽藤のけいと、山道を進む。
鬼の敵たる鬼切り役と共に左右を護り庇い。
主さまを封じ続けたゆめいの蝶に先導され。
千年変らぬ羽様の夜の森を歩む己の変貌よ。
道の勾配が段々急になる。羽様の山の森を、山道を登っていく。獣道でもまだ道らしく
開けていた処を外れ、草を分ける様に進み行く。
この様に、けいやゆめいとミカゲの弔いに、良月を埋めに夜の槐に赴いた。そのミカゲ
と共に、あの夜幼いけいとその兄を連れ出して、主さまの封じを解いた。その主さまを訪
ねた太古、槐に赴いた私は結界に弾かれ逃げ帰り。主さまが健在の頃はこの山林で語らう
日々を。
私はかつて一体何度この夜道を槐に赴き。
この後一体何度この夜道を槐に赴くのか。
感傷と物思いに浸りつつ、浮いて進むと。
ざあぁっ……。
急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。
そこには見上げる程に大きな、数百の歳月を過したといった趣のある槐の大木が根を下
ろしていた。周囲は遠慮した様に、若い木も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。
主様を封じ還す為に、竹林の姫が千年宿った槐の樹。私がミカゲと拾年前、けいとその
兄を操って綻ばせた封じ。その綻びの繕いに、ゆめいが継ぎ手となって宿り、今はけいの
兄がそれを継ぎ。通り過ぎる秋の夜風に、無数の緑色の葉が、ゆらりと揺れて幾つか散っ
て。
けいが既視感に固まるのはむしろ当然か。
私もゆめいも鬼切り役も暫く何も語らず。
月明りに照される巨木を暫く4人見上げ。
丸い月が化外の鬼の『力』を強めていて。
私と強く繋っているけいの心が流れ込む。
否、私がけいの心に流れ込んでいるのか。
『わたしの内側の何かが引っ張られている』
ノゾミちゃんに手を引かれた夜より前から。
ご神木の独特の気配に幼いわたしは導かれ。
『ここ、子供が来たら駄目だって。勝手に入ったらバチ当たるって……でも気になって』
禁じられる前から人も来ない蔵や山奥へ。
禁じられても私やミカゲと夜に歩み来た。
『そもそもどうして、わたしは拾年前の夜』
お母さんが倒れて間もない時に蔵になど。
普通の子供はそんな行動を取るだろうか。
『ノゾミちゃんがわたしを呼べた筈はない』
良月はあの時尚封じの札に巻かれていて。
けいの血が付かぬ限り声も外界に出せず。
『森で遊んでいた幼いわたしも、道に迷い』
あの夜より前もわたしはここを訪れていた。
それは実は偶然の様に見えて偶然ではなく。
佇む幼い白花ちゃんとわたしを留めたのは。
心に直接響いた柚明お姉ちゃんの『声』で。
【桂ちゃん、白花ちゃん。近付いてはダメ】
【離れて。ご神木から離れて……そこでじっとしていて、動かないで。前に出ないで!】
あの夜以前から、ゆめいは贄の血の『力』を扱えて、その優しさ美しさ以上に、けいの
心を惹き付けていた。幼いけいはそれを忌み嫌いも訝しみもせず、日常に受け容れ。森に
迷い込んだこの夕刻前も、声の届く処にいないゆめいの、頭の中へ直接響かせた声に頷き。
【そう、その侭動かないで。ご神木に近付かないで、そこを動かないで。今行くから…】
けいは深まり行く闇の中、頼れる何かを求める以上に、間近の槐に魅せられて。槐から
漏れ出る尋常ならざる気配に、けいの何かが吸い寄せられる。近付きたくて、触りたくて。
ゆめいの奇妙な『力』に一瞬気が散ったけど、目の前にあるハシラの存在感に心を囚われ
…。
【ごしんぼく……?】
今のけいの様に幼いけいも、槐に進み出し。
幼いけいの様に今のけいも、腕を伸ばして。
「触らないで……。桂ちゃん、お願い…!」
無意識に槐の間近に歩み寄っていたけいが。
ゆめいに背後から強く抱き締められていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
鬼切り役も、けいの兄や主さまに思う処があり。私もけいの心の動きに流され。その無
意識な動作を見落していて。槐に触れようとしたけいを止めたのは、今宵もゆめいだった。
「お願い桂ちゃん。ご神木には触らないで」
声音は静かだったけど同時に真剣だった。
『わたしは一体、何をしようとしていたのだろう……無意識に、ご神木へ手を伸ばし…』
「桂ちゃんは贄の血が濃すぎるの。修練がなくても『力』の操りを知らなくても、羽藤の
遠祖が千年宿ったご神木は、白花ちゃんの意図に関らず桂ちゃんと感応を始めてしまう」
ゆめいはけいの両腕ごとその身を抱き包み。
「修練もない素養だけでのご神木との感応は、堤防もなく濁流を招くに近いの。ご神木の
千年の想いが、見た事も聞いた事も感じた事も全て無秩序に流れ込む。良い物ばかりでな
い。哀しい事、悔しい事、様々な想いが渦を巻き。己を律する修練を経ないと奔流に己を
見失ってしまう。膨大な想いの洪水が混乱を招く」
知りたい事も知りたくない事も、順番も準備もなく流し込まれる。知ってはいけない事、
知る事が哀しみに繋る事迄も。だから、ご神木に子供は近づいてはいけない。濃い贄の血
を持って修練のない人や、夢と現が定かではない子供は、膨大な情報で正気を危うくする。
「桂ちゃんは夏の経観塚で、多くの辛い過去を思い出したわ。今尚解きほぐせてない記憶
はあるけど、徐々に取り戻せている。ご神木に触れて濁流を招かなくても、必ず全て思い
出せる。わたしも力を尽くすから、だから…。
ご神木に直接訊くのはしないで、お願い」
ゆめいの柔らかだけど、強く確かな声音に。
けいは瞳を閉じた侭、静かにゆっくり答を。
「お姉ちゃんの願いって、いつも願う人の為の物だったよね……自分自身の願いは脇に置
いて、わたしや白花ちゃんの為に、わたし達が傷つかない為に、わたし達にお願いって」
腕の締め付けを解かず緩めて、その場でけいは振り向いて、ゆめいと向き合う。唇が頬
が触れそうな間近で、けいからもゆめいの背に腕を回して抱き留めて、互いを見つめ合い。
「どうしてとか、何の為にとか、説明がなくても、お姉ちゃんの願いは受け容れる。だっ
てお姉ちゃんは、わたしのそんな願いを幾つも幾つも、心傷めながら叶えてくれたもの」
わたし、ご神木には触らない。白花ちゃんとはお話ししたかったけど。お姉ちゃんの願
いを振り切って哀しませても、自分の願いを貫きたいとは、やり遂げようとは、思わない。
「お姉ちゃんに、本当にのんびり微笑んで欲しい。幸せになって欲しい。これ以上わたし
やわたし以外の誰かの為に、傷みや哀しみを負う必要はないよ。厳しい戦いは終ったんだ
から。烏月さんの様に強く美しく正しい人が、わたし達を助けて守って、くれるんだか
ら」
けいもゆめいの技量を分りつつ、尚本質が戦いに向いてないと見抜いていて。それでも
危難に遭っては怯まず前に進み出て、己を盾にして禍を防ぐ、ゆめいの気性を悟っていて。
「わたし、お姉ちゃんを心配させることはしない。お姉ちゃんの願いはいつも、わたし達
願う人の為だから。わたしお姉ちゃんの言葉に従う以上に、気持を汲み取れる様になって、
お姉ちゃんにいつ迄も笑っていて欲しい…」
この夏迄、拾年この人がいた事も忘れていた。未来を犠牲にして守られていた事さえも。
事もあろうに、こんなに近しく愛しい存在を。その歳月は取り返せないけど、それを笑っ
て受容する優しい人に、無限大の慈しみに少しでも報いたい。未来で報いる事はできるか
ら。
暫し黙して見守る私の前で羽藤の姉妹は。
抱き合って頬を合わせて愛しみを交わし。
「有り難う。その気持だけで、満たされる」
けいの頭の上に、ゆめいの右手が乗る様は。
私もゆめいに何度か為されて感触を憶えた。
柔らかくぽんぽんと頭を叩かれる心地よさ。
けいが心底幸せそうに眼を細めるのが分る。
私が逢った事もない妹を羨み妬み、憎み恨んだのに較べ。けいの姉はどこ迄も愛に溢れ。
妹の所為で幾度傷み哀しみを経ても、愚痴一つ漏らさず微笑み返し。未来を犠牲にして守
った事を忘れ去られても、自身の仇である私の受容を願われても、必ず受け容れて。ミカ
ゲを妹と思いこみ、千年姉を続けた私だけど。姉としての在り方の強さではとても及ばな
い。
けいをそこ迄深く愛せるゆめいの在り方に、悔しさを感じる一方で。時折ゆめいに妹扱
いされて嬉しい己もいて。千年感じた事のない『妹』の立場は意外と快く。けいがゆめい
に愛される様を見ると、何故か悔しく羨ましく。でもその様を見ると頬緩めてしまう己も
いて。
満月に近い大きく丸い月と星の明りの元で。
肌身添わせ合う娘2人を暫く黙し見守って。
これが私の今後の在り方なのかも知れない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
けいの兄が宿った槐は、私が間近に浮いていても、弾くそぶりも見せず。人ならざる気
配を漂わせつつ、何の意志も発さず。けいやゆめいや鬼切り役や、文句の一つ二つでは留
まらぬだろう私を前にしても、反応を見せず。
『反応を返さないのではなく、返せない?』
けいの兄はけいと贄の血の濃さが同程度で、『力』も扱え。ゆめいより封じの要の資格
を持つと、本人は言っていたけど。私は兎も角、ゆめいやけいの前で顕れる事も出来ない
のは。
弾かれないのは、桂をたいせつに想い想われる様になった私を、分ってくれてか。槐の
間近の、鬼を弾く結界は機能している。ゆめいは夏の経観塚で、けいとこの槐へ来た私に。
『今のあなたは、桂ちゃんにも柱の封じにも害意を抱いてない。青珠に宿り、青珠を受け
容れ、桂ちゃんの血とわたしの生命が魂を満たしているあなたを、結界は弾かないわ…』
私は今や主さまではなくけいを一番に想い。
主さまに抗ってでも、けいを守り通す鬼だ。
最早槐の封じを解こうとは思わない。主さまの衰滅を見届けるに任せ。幾ら切なく愛し
く想っても、滅びへの途を妨げには動かない。千年主さまを想い続けた日々が今は遠く霞
み。
「主さま……壮健に封じられておりますね」
けいの為に、封じられている事が嬉しい。
主さまが、尚あり続けている事も嬉しい。
それは喜ぶべきではないかも知れないけど。
溢れ出る想いは自身で律しきる事が出来ず。
鬼にして新しい生命をくれた恩、悠久の懐かしさ、私の所為で封じられる事になった申
し訳なさ、千年解放できなかった無力感、今は立場を変えてしまった苦味、今尚慕う気持、
でも選び取った過去への訣別。様々な想いを込めて、込めて、込めきれなくて、だからこ
そ精一杯向き合って。槐の中の主さまに届け。
『又参ります。主さまのしもべではなくなりましたけど、主さまの為に何一つ出来なくな
った私ですけど。それでも今でも、けいに及ばずとも主さまは、私のたいせつな人です』
届かせても意味の薄い、言い訳の様な所作と分って。でも止める事が出来ずに暫く続け。
ふと槐の間近に、その根元の一角に不吉な気配を感じ取れたのは。傍でやはり己の想い
に耽っていた鬼切り役が、その存在に反応を見せたのに気付けた故で。鬼切り役の視線の
先に、けいも朧に気付いた様で目を眇めつつ。
「烏月さん、お姉ちゃん。あの揺らぎはまさか、良月を埋めた……」「やはり、そうか」
鬼切り役は、ゆめいとけいと私で為したミカゲの弔い、良月の正確な埋葬場所を知らぬ。
鬼切り役にそれを報せる感じで、槐の側面の根元の土がやや盛り上がった場所から。槐の
気配と明らかに異質な、主さまの気配が漂い。
分霊の主さまもゆめいに討たれ、槐の封じは有効で主さまの『力』が漏れた形跡もない。
「柚明さんに討たれたミカゲの怨念が、鏡の欠片に残り、地縛霊となって滞っている?」
鬼切り役の冷静な声にゆめいは頷き返し。
「良月を埋めた時は、わたしがオハシラ様を続ける積りでいたから、ミカゲも還せる見込
だったけど。白花ちゃんには難しいみたい」
ゆめいは夏の経観塚から、それを放置し続けていたのか。けいも鬼切り役もゆめいの答
からそれを察した様で、僅かに訝しむ表情を。
「祓ってしまわなくても大丈夫なのですか」
「夜でも再び現身を取る力はないでしょう」
私は夏の経観塚でけいに、私とミカゲの共通の依代である良月を割らせた。良月が宿す
『力』の殆どを握っていたミカゲは、私に隠れて共々けいの青珠に取り憑き。ゆめいとの
戦いで、その持ち越した『力』を使い切った。青珠はけいを脅かすミカゲには、力を回さ
ず。
【血は力、想いも力。だから、力は心……。
歴代の贄の血の力の使い手が、笑子おばあさんが、叔母さんが、わたしが想いと力を注
ぎ込んだ青珠が、桂ちゃんを害する者に力を与える筈がない……青珠は良月とは違うわ】
敗れた以上に、あの時のミカゲに『力』など残ってなかった。その最期を私もあの夕刻、
間近でこの目で視て確かめた。ミカゲは最期の足掻きでゆめいの左腕に刺した鏃と、けい
の心に掛けた罠に、己の生命を注いで果てた。
鏃はあの直後、分霊の主さまに繋ってゆめいの血肉を弾けさせ。けいの心に掛けた罠は
夜に炸裂し、けいの心を殺める寸前まで到り。何れもミカゲらしい、身を捨てた渾身の一
撃だった。満月の夜を控えて、勝負の時を前にして、余計な『力』を布石に残した筈がな
い。
あの夏の夜も、ミカゲの弔いに良月の欠片を埋めに行く前、けいはゆめいに尋ねて答を。
【埋めても大丈夫なの?】
【ええ。その子の分ぐらいなら大丈夫よ。ハシラの封じには影響がないわ】
ミカゲの怨念が欠片程残っていたとしても。
最早思念を紡げる程の濃さも持てない筈で。
この槐の下で分霊の主さまがゆめいに滅ぼされた夏の夜も、ミカゲは何も出来なかった。
今更ミカゲの脅威が残っている筈はない。
脅威になる存在をゆめいが残す筈がない。
「ご神木間近の結界は、悪鬼や魑魅魍魎を寄せ付けないの。ミカゲの怨念が幾ら滞っても、
夜に現身を取れない程の『力』では、独りではご神木の封じを揺るがす事も叶わない…」
「敢て様子を見ていたと、言う訳ですか?」
言葉を選びつつ鬼切り役が意図を問うのに。
少し心配そうなけいを横目にゆめいは頷き。
「白花ちゃんの封じの継ぎ手としての資質は、封じを維持できるか否かの下限にありま
す」
血の濃さでけいとけいの兄は、ゆめいを遙かに凌ぐけど。『力』の扱いを知らぬけいは、
ハシラの継ぎ手になる資格を持たず。『力』の扱いを修練したけいの兄はその資格を持つ。
でも戦いの為・鬼切りの為に『力』を修練したけいの兄の『力』の扱いは、封じに向かず。
「白花ちゃんの『力』の操りは、敵の討伐を想定し、集約と炸裂に重きを置いています」
それは敵を倒す戦いでは有効だけど。敵を倒す必要がなく、保ち続ける事・在り続ける
事を求められる封じには、効果が薄い。むしろ夜昼構わず、寝ていても起きていても、24
時間常に一定の強さで『力』を紡ぎ続ける事が求められる。必要な力の素養が全く違うの。
「わたしと同じ位血が濃くて、『力』の修練も経ているお兄ちゃんだけど、封じの継ぎ手
を担う素養では、お姉ちゃんより不向き?」
ええ。ゆめいはけいの問に心底残念そうに。
「男の子と女の子の違いもあるわね。敵に打ち勝つ強さでは、一般に男の子が女の子を上
回るけど。傷み苦しみに耐え続ける強さでは、一般に男の子より女の子が勝る。女の子は
生れつき出産に耐える事が想定されているから。
人柱や生贄に女の子が多いのは、神や魔物が年若い娘を好む以上に。過酷な定めに耐え
続ける資質で女の子が勝るから。在り続ける事、耐え続ける事、保ち続ける事が必要な封
じの要は、男の子に不向き。白花ちゃんは」
心の強い子だから、桂ちゃんと並ぶ比類なく濃い血の持ち主だから。こなせているけど。
「封じの要はこなせているけど、ミカゲの怨念を還すには及んでない。手が回ってない…
…そう言う事ですか。それを見極める為に」
鬼切り役は怜悧な視線をゆめいに向けて。
「否、むしろその事実を彼に知らしめる為に、ですね。彼も羽藤の、桂さんと同じ血筋な
ら、相当の意地っ張りに違いない。柚明さんの察しが正しくても、事実を見せねば認めな
い」
「ゆめいなら、ミカゲを早く還せていた?」
「わたしがハシラの継ぎ手を務めていたなら、桂ちゃん達が羽様に滞在していた数日の間
で、ミカゲの怨念を還し終えていたでしょう…」
彼が封じの要を継ぐ前に、もう少し『力』の扱いを伝えて置けばと、ゆめいは悔いてい
たけど。事の本質はそこにはない。伝えれば良いだけなら、ゆめいは今でも伝えられる…。
「継ぎ手を交替してから数日、わたしはかなりの量の『力』をご神木に注ぎました。サク
ヤさんや桂ちゃんを初めとするみんなを癒しつつ、己の肉の体を再生する。それに最低限
必要な分だけを残して、全ての『力』を…」
けいが瞬間びくっと反応したのは。誰かの為なら自身を盾にし、己の生命を削って他者
に注ぐ、ゆめいの性分を承知だから。けいの兄に注いだ力が、ゆめいの肉の体を作るのに
差し障る程だったと、察せた故で。ゆめいがそう言う時に己に残す『力』は常に最低限だ。
「でも……幾ら力を注いでも、彼の不足を補い切れない。彼が封じの要を担う限り、根本
的な改善は望めない。白花ちゃんの素養を試すと言うより、これはわたしの注いだ『力』
がどの程度白花ちゃんを支えられるのかを」
見定める為にその手で祓う事を避けた訳か。
今のゆめいならこの位の怨念はすぐ還せる。
でもゆめいは外から自らが祓うのではなく。
槐に『力』を注いでけいの兄が満たされて。
槐から溢れさせた『力』で祓う事を願って。
そうならなかった事実は、ゆめいの失敗を。
【白花にはあたし達の声は、聞えるのかい?
あたし達に答を返す事は、叶うのかい?】
そう言えば、夏のあの夜以降も観月の娘が。
【話しかければ声は届きます。中から外の情景を見る事も叶うので、傍に行けばわたし達
の到来は悟れます。ご神木に確かに馴染めば、繋りが深い人の気配なら、経観塚の町を越
えて所在も掴めますし、羽様に居れば心の表層を知る事も、顔色で機嫌を窺う様に可能で
す。でも彼から答を貰う事は、至難でしょう…】
そもそもハシラが外界に人形を為して顕れる自体が、役行者の想定外で。竹林の姫もハ
シラを務めた千年の間、姿を顕した事はなく。
今の彼は夜に現身で顕れ答を返すどころか、蝶を飛ばす事も叶わず。夢に声を届かせる
事さえが夢で。内向きに封じの要を務めるだけで精一杯な、けいの兄の窮状が私にも悟れ
た。
「一定の答は出た様ですが、この怨念はどう致しますか? 祓いますか、切りますか?」
鬼切りの刀を突き立てればすぐ滅ぼせると。
鬼切り役に問われたゆめいは首を横に振り。
「お姉ちゃん……?」
脇で私が微かに硬直した様をけいが見て。
ゆめいはけいを慮ったか私を気遣ったか。
けいはミカゲの想いの残り火迄、滅ぼす事に躊躇いを感じた様で。私が今尚ミカゲに情
を残している事を察したらしい。けいはああ見えて意外と鋭いから。そして私やそんなけ
いの内心は、ゆめいには言わずとも筒抜けで。
「もう少しご神木に『力』を注いでみます。その結果を見定める為にも暫くはこの侭で」
ゆめいの願いに鬼切り役は了承し。彼女が視ても、ミカゲの怨念は脅威たり得ない様だ。
ゆめいはけいに、良月を埋めた槐の根元へは、手の届く範囲より近くに行かない様にと求
め。
「桂ちゃんは素養を眠らせているから、影響を受けてしまうかも知れない。叶う限りご神
木にも、独りでは来ない様にして頂戴……」
念には念を入れた用心に、けいは頷いて。
少しの心残りを感じさせる、表情と声で。
「うん……わたし、ご神木には1人で来ない。
さっきお姉ちゃんと約束した事もあるけど。
何だか、引き寄せられそうな気もするから。
白花お兄ちゃん……じゃあ、また来るね」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
電気を消せば、月明りの他には灯火もなく。風の音や木々の枝葉の擦れる音以外、車の
動く音も聞えない、千年変らぬ静寂を保つ羽様の屋敷の夜の闇で。けい達は既に寝静まり
…。
否、けいは未だ、寝静まってはいなかった。
起きている訳ではないけど、夜更かししている訳でもないけど、静かに眠っているとは。
【ここは一体どこだろう】
しみが広がっている。
しみが広がっていく。
赤く歪む世界の中で、雫の滴る音に誘(いざな)われ、しみがどんどん、広がっていく。
両の頬を伝った雫が、顎で交わり滴り落ちた。
なぜかわたしは泣いていた。
ゆがむゆがむ、世界が歪む。
泣いているから、歪むのか。
この沢山の染みはわたしの。
『けいはどうして、今更こんな悪夢を見て』
【どうしてこんなに泣いているんだろう?】
しみが広がる。だけどだけど、涙だけで、こんなにしみは広がるだろうか。まるで水溜
まりの様に、夜空に浮ぶ月を映して……。
水よりも重い音。月は歪んでいる。
それは視界を阻む涙の所為でもあって。
止めどなく滴る、雫の所為でもあって。
ひとときたりとも円い姿を映さずに、ゆらと揺れては幾つにも別れ、歪んだ月の偽物が、
熱の失せた光を投げる。分らない。今夜空に浮んでいる月は、本当に丸いのだろうか。
わたしは顔を上げようとする。
『けい、思い出すのを止めて。心を鎖して』
ぱたっ……雫が頬を叩く。
ぱたっ……雫が額を叩く。
これは違う。涙じゃない。
考える迄もないことだ。降ってくる以上雨に決まっている。耳を叩く雨垂れの音。そう
言えば、夕方にも雨が降っていた。あれ…?
雨は上がって、わたしは月を……。
そうそう雨が降っているんだっけ。
月が出ているのに雨が降っているなんて不思議だ。出ているのが太陽なら狐の嫁入りだ
けど、お月さまの場合はなんて言うんだろう。
ぱたっ……飛沫がわたしに掛る。
雨だろうか。雨だろう。
そう言えば今は夏だった。
だからこんなに雨が暖かいのか。
熱い位の雨の滴が、ぱたぱたと。
つうっと滑った頬の雫が、唇の端から滲む様にじんわりと口中に広がった。
ほんの少し、しょっぱい味で。
ほんの少し、甘い芳香を含んでいて。
ほんの少し、たった一滴だったにも関らず。
それが雨でも涙でもなく、もっととろりと濃いものである事が、分ってしまった。かあ
っと身体が熱くなり、そのくせ芯はぞっと冷たく、そのむせ返る匂いにくらりと……。
歪む歪む、世界が歪む。
赤く歪んだ世界の中で。
この赤は、この雫の赤は。
指の短い、頼りない程小さい、あの夢で《視た》子供の頃のわたしの手が……。
その両手のひらが、べっとりと……。
赤く赤く、濡れ輝いていた。
【あ……】『けい……お止めなさい、夢を』
細く幼く怯えに掠れた、まるで他人の様な悲鳴。わたしの物とは思えない悲鳴。
【やだ……】『けい……聞えないの、夢を』
血塗れの手を否定したくて目を瞑る。
助けて、お母さん……。
いつもいつも、わたしを守ってくれたお母さん。でも、お母さんはもういなくて。
【助けて……】『ちょっとゆめい、けいが』
愛しい人の顔がふっと浮んだその時。
手のひらが、わたしの両肩を包んだ。
その両手は大きく骨張っていて、あの人の手ではなかったけど、何だかとても安心でき
て。誰だろうと目を開くわたしの前に、ぽっかり空いた穴があった。人の胴を貫いた穴が。
そこから流れ出た血が、地面に大きな血溜まりを作っている。尚も吹き出る血の飛沫が、
ぱたっとわたしの顔に掛った。
【いや……なんで……】『けい、ダメ……』
わたしはむずかる様に身体を揺すって、両肩に掛る手を振り落す。するりと、力をなく
した手が落ちた。お父さんは、もう虫の息だ。
ずるりと、生命をなくした身体が傾いで。
【桂……】
最期に、わたしの名前を呼んで崩れ落ち。
わたしの手から滴った血が、血溜まりに落ちて雨垂れの音を作った。
わたしの身体は痛くはない。痛くないのは、これがわたしの血ではないから。
「いやあぁあぁあぁぁっ!」「けい! 起きなさい、けい!」「桂さん!」「桂ちゃん」
自身の叫びでけいは悪夢からは覚めたけど。
夢は終ってもけいには辛い現が待っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お父さんを……お父さんが、お父さんのお腹に穴が空いて、空いて向こう側が見えて」
けいは傍の私達が見えても心に映ってなく。
視た悪夢を外に吐き出さねば心壊れそうで。
「お父さんが死んじゃう。お父さんが、お兄ちゃんの腕にお腹を貫かれて。ううん、違う。
わたしを見つめて、腕を突き出したあの人は、体は白花ちゃんだけど、瞳は真っ赤に輝い
て。
白花ちゃんの伸ばした腕が、わたしに届かない様に、お父さんが立ち塞がったけど…」
お父さんの胴体に背中から穴が空けられて。
わたしの頬にぽたぽた血の滴が落ちてきて。
「お父さんが、お父さんが死んじゃった!」
わたしの所為で。わたしの為に。わたしが。
入っちゃいけない離れの蔵に夜に忍び込み。
鏡のお札を破ってノゾミちゃんを呼び出し。
ご神木の封じもわたしが解いちゃったから。
「桂ちゃん、落ち着いて」「気をしっかり」
ゆめいと鬼切り役を前に、私は息が詰まる。
それはけいと言うより、私の所作の結末だ。
「わたし、ダメって言われた蔵に入ったことを怒られたくなくて、ノゾミちゃんにそれを
願って。そうしたら本当に、お父さんは怒る事がなくなった……笑う事も。わたしが!」
「叔父さんを殺めたのは桂ちゃんじゃない」
ゆめいが正気を戻そうと強く声を張るけど。
その声はけいの耳には届いても心に響かず。
「お父さんを殺めたのは、わたしじゃない。
お父さんを殺めたのは、お兄ちゃんだよ」
でも……でもそもそもわたしが、あの夜に。
蔵へお兄ちゃんを連れて行かなかったなら。