人の世の毀誉褒貶〔丁〕(前)



 朝日が差し込む羽様の屋敷で目を醒ますと、一瞬だけいつの時代にいるのか忘れてしま
う。

『えっと、確か今上は平成天皇だったね…』

 姫様の頃は、訪ねても朝を迎えた事は殆どなかったけど。数度の建て替えを経ても千数
百年あり続けた建物は。笑子さんのお世話になってから、一時住み着いた様な時期もあり。

 じっとしてられない性分を生かし、今の職に就いてからは、仕事場や寝床を都会に持つ
様になったけど。柚明の母や柚明に逢う為に、真弓や正樹に、白花や桂に逢う為に。笑子
さんに逢う為に、ご神木に行く為に。何度となくこの屋敷を訪れ、夜を過ごし、朝を迎え
…。

『お早うサクヤさん』「お早う、笑子さん」

 笑子さんの声が聞えた。空耳だと分っても。
 声で応えたくて。今は周りに誰もいないし。

 未だ柔らかな朝の光の中を、厨房へ歩いて。
 鍋の噴く音や俎板を包丁が叩く音も空耳で。

 愛しい人の気配を錯覚でも感じるのが良い。
 誰もいない厨房は逆に誰もいないからこそ。

『お早う……サクヤ』「お早う……、真弓」
『お早うございます』「お早う……、柚明」

 真弓は二十歳を過ぎてから逢ったので、印象に残っているのは涼やかな大人の姿だけど。
柚明はその母親が生れた時から見てきたから。瞼の裏に浮ぶのは、這い這いする幼子や辿
々しく歩む子供や、愛らしく育ち行く思春期や。様々な柚明があちこちから声を掛けてく
れて。

 立って手を伸ばしても腰に届かなかった幼い柚明。あたしを見上げて肌身を合わせてく
れた小さな柚明。あたしを包み込む様に抱いて頬合わせ、唇も合わせてくれた愛しい柚明。

『お早うございます』「正樹、あやめ……」
『おはよー、サクヤおばちゃ』「桂、白花」

 柚明の母も正樹もそうだったけど。贄の血の持ち主は、中々平凡な幸せに手が届かない。
この屋敷を一歩外に出れば、この拾年桂も痛み哀しみを堪えて微笑む人生だったし。白花
や柚明は更に。この屋敷に居た間だけだった。本当に何の憂いなく確かに心迄守られたの
は。

 葛と烏月と尾花が若杉の迎えを承けて去り。
 桂と柚明とノゾミを町のアパートに送って。

 あたしは再度この屋敷へと引き返してきて。
 桂が心配で放り出した仕事を再開する為に。

「大体良い処は、撮り終えたんだけどね…」

 依頼は夏の山野の木々や草花、鳥獣や蝶々。
 自然に恵まれた羽様は、格好のスポットで。

 ここ数日は夜や昼の好きな頃合に出向いて。
 良く馴染んだ穴場を歩いてカメラに収めた。

 必要な分は大凡撮り終えたから、もう出立しても良い頃だけど。静かに時を刻む羽様の
日本家屋を離れるのに、少し躊躇いがあって。なんて言うか。もう少し微睡んでいたい様
な。

 この拾年幾度かここを訪れたけど。来る度にこみ上げる苦味や酸味に、胸を締め付けら
れて。まともに心休める事出来ず。柚明が宿っていたご神木の前や、屋敷の傍に駐めた赤
兎で夜を明かし。屋敷の中は、拾年前迄の暖かな残像とそれ以降の落差が余りにきつくて。

『柚明……、桂……、白花、真弓、正樹…』

 この手にどうにもする事の出来ない。最早取り返しの効かない悲痛。それを噛み締めれ
ば噛み締める程、暖かな頃の羽様の屋敷を思い返してしまうから。何度柚明に逢いに訪れ
ても、羽様の屋敷で夜も長い時間も過ごせず。

 漸くだった。桂が過去を自ら鎖していた様に。あたしも過去に向き合えてなかったのか。
桂が全てを思い出し、柚明が人の世に戻ってきてくれて漸く。あたしも今の羽様で、過去
の羽様の暖かな想い出に浸る事を己に許せて。

 もう少し。もう少しだけここに居続けたい。
 桂や柚明の新婚生活には、割り込めないし。
 延長して貰った、仕事の納期いっぱい迄は。

 遅い朝餉を軽く済ませ、夏の日差しが強く成り行く中。あたしはカメラと水筒を友にご
神木のある山奥へ、森へとこの足を進ませる。

 屋敷の庭先には数日前に買った新聞雑誌が。
 奇跡の人の記事を開いた侭で置いてあった。


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 桂と柚明を町に送り届けて弐週間が経った。早朝に現れた若杉の迎えを受けて、去りゆ
く葛と烏月と尾花を見送り。朝餉の後で経観塚の町へ赴いて、柚明が独り役場に入って戸
籍の復活を申し出て。壱時間位後、隣の警察署へ行方不明の当人が、現れましたと申し出
て。

 田舎では、行方不明の末に死亡認定された者が、生きて帰って戸籍復活を申し出た例は、
数拾年来絶えて久しく。手続に時間が要ると言われて、ひとまず申し出の書類に記入して、
後は役場や警察の処理や出方を待つ展開に…。

 すぐに戸籍復活できないのは想定の範囲だ。拾年誰も住んでなかった羽様の家は、居住
に適さないから従妹の家に身を寄せると。柚明は桂が住むアパートの住所と電話番号を伝
え。その足で2人を町のアパートへと送り。青珠のノゾミも一緒だけど、柚明なら巧くや
れる。

 あたしは玄関先迄送って任務完了と反転し。
 桂も柚明もあたしを引き留めてくれたけど。
 仕事の締切が間近と弁明して駆け足で去り。

 桂も柚明も最愛の者同士一緒に暮らすのに。
 新婚の2人に余計な物が挟まっては迷惑だ。
 あたしは遠目に2人の幸せを見守るだけで。

 柚明がマスコミに騒がれ始めたと知ったのは一昨日だ。羽様に戻ってからは夜昼構わず
山野で被写体を追い。それ以外は羽様の屋敷で想い出に浸り。数日分の食料物資は羽様に
来る途上で仕入れたので、引きこもりに近く。

 食料物資の買い足しに経観塚の町を訪れて、店先で見かけた女性誌に、目線を細い黒線
で隠した柚明の写真や、遠くからの肖像が載っていて。いつの間にか話題の人にされてい
た。

『拾年行方不明』の末に『突如発見されて』『その間全く歳を取ってない』『奇跡の人』

 注目される要素は揃い踏みか。笑子さんの孫で桂と血の繋った従姉だから、美しさに非
の打ち処はなく。外見が女子高生である上に、たおやかに穏やかに静かで慎ましく優しげ
で。

 だから一度こうして話題沸騰してしまうと。
 後ろ姿や佇まいや答える仕草の一つ一つに。
 一般読者も魅了され夢中になって追い求め。

 飛びつかぬ事が流行遅れの様な空気を醸し。
 騒ぎが人を呼び人が騒ぎを作る循環に入り。
 これは麗しく生れついた者の定めなのかも。

 結果、郵政法案を巡る衆院解散や総選挙の政局ネタに、横から殴り込みを掛けた感じで。
柚明の近況来歴が週刊誌等で報じられ。個人情報保護が謳われるご時世故に、流石に住所
は伏せて仮名KさんYさんだけど。それが本人達も望まぬ事ながら、全国的な反響を呼び。

 あの様子では、桂のアパートには男女多数の報道陣が、詰めかけ張り付きカメラを構え
ているだろう。ルポライターである浅間サクヤとしては、親戚が迷惑を掛けている様で肩
身が狭い。報道は時に人の私生活を掻き乱す。

「バッシングの記事ではないから良いけど」

 怖い程に賛美一色な報道が却って引っ掛る。
 私生活に踏み込み覗き見た様な掲載記事も。

 確かに数奇な経歴を持つ美しい柚明だけど。
 世間的に賞賛に値する事をした訳じゃない。

 桂の生命を鬼から戦い守った話しは内密で。
 一度行方不明になり戻っただけの女の子だ。

 過剰な賛美に戸惑いを憶えた。報道陣は柚明を囃し立て、人工的に有名人を作り出して
いる。柚明や桂の希望より、発行部数を伸ばしたい自分達の都合で。世間に取り上げて欲
しい政治家や芸能人には、望ましかろうけど。静穏な日常を暮らしたい者には、迷惑千万
だ。

 犯罪容疑者の如く常に覗かれ追い回されて。
 桂は『奇跡の女性』の家族だと言うだけで。
 柚明も俗世に戻ってきたと言うそれだけで。

 無遠慮で不躾で無礼極まる報道陣に、張り込まれ続けねばならず。柚明は良く平静を保
っていられる。己以上に桂の心の平静も守り。穏やかに自然な笑みが、実は尋常ならざる
か。

「まぁそんな状況らしいよ。戸籍の復活も未だもう少し時間が掛るし、周囲は何かと騒が
しい様だけど。見て聞いた感じでは巧くやれているみたいだし。あの2人なら大丈夫…」

 柚明に代ってオハシラ様を継いだ、白花の宿るご神木に向けて声を掛ける。柚明の話し
では、答を返す力は当分持てないけど、ご神木の傍迄来れば声は聞え姿も見える筈だから。

 燦々と降り注ぐ日差しは強いけど。小高い山の上の所為か、風は涼しい。微風に揺れる
髪の動きに連動して、槐のご神木も葉を揺らせ花を揺らせてさわさわと音を立て。美しい。

 姫様が千年宿り続けたご神木。柚明が拾年宿り続けたご神木。そして白花が主を還し終
る迄、悠久に宿り続けるご神木。あたしは白花の答を感じ取る術もないけど。当分は言葉
を交わす事も叶わないけど。たいせつに想う気持は変らない。笑子さんに、正樹に真弓に、
柚明に桂に今後も抱き続ける想いと同じ物を。

 だからたいせつな白花にきつい定めを負わせた苦味は。生涯負い続けるのかも知れない。

「又その内来るよ。その頃には、夜に現身を取れる位には、成っていておくれよ。白花」

 蒼く澄み渡る空と涼やかに頬撫でる風の元。
 白花の微笑みの印象を見た様な錯覚がした。


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 麓に降りてきたのは、未だ明るい内だけど。
 羽様の屋敷の傍迄来ると人の匂いを感じた。

 車は見えないけど、微かにガソリンの匂いを感じる。緑のアーチ外側の車道脇に駐めて
きた様だ。戦前はここの地主で神職も兼ねた羽藤に敬意を表す為に、来客は緑のアーチか
ら歩いて訪れるのが儀礼だったと聞いたけど。そんな儀礼を守る者なんて絶えて久しいの
に。

 1人は中肉中背の中年男で、もう一人は随分華奢で背も低く。ノゾミ位の年の女の子か。

 誰かを待っている様だけど、ここで待つと言えばあたし以外にあり得ない。葛も烏月も
彼らの手で回収したのだから。桂も柚明も町のアパートに戻った事は確認している筈だし。

 敵と言ってもおかしくない浅間サクヤ以外、今ここで迎えるべき者が若杉にいる筈はな
く。でもその割に、緊張感が薄いのは少し奇妙で。あたしに手を下すにしては人数が少な
すぎる。

「浅間さん、お久しぶりです……」「……」

 敢て下草を掻き分け、足音を立てて屋敷に近付くと男は柔らかに会釈し。あたしは不快
や警戒を顔に出したのに。それを見て分っても不快を返さない。それに今日は連れもいる。

「あんたかい秀臣。生きて再び逢えるとは」

 若杉秀臣は鬼切りの頭若杉の一族で一員で。
 拾八年前に真弓に関る件で知り合った男だ。

 日本人の成人男性では標準的な百七十五センチの背丈は、あたしと同じ。特に筋肉質で
もなく武術や剣技の冴えもない。美男だけど、拾八年前の時点で、結婚済で子持ちと聞い
た。気配を隠す術に優れるけど、あたしは匂いで存在を察知できるし。年齢は四拾六歳の
筈だ。

 今はやや長めの黒髪に、白髪が交じり始め。
 穏やかに佇むその姿には、緊張感が欠如し。

 最後に逢ってから、随分年月が経ったけど。
 変った部分と変らざる部分が自然に同居し。

 上手に年を重ねて見せられると何か悔しい。
 あたしがいつ迄も熟成できてない様な気が。

「……?」秀臣の左隣で同じように会釈する。

 黒髪ショートの、小学校高学年か中学生か。
 あたしを見つめてなぜか瞳を見開いて驚き。

 容姿は悪くないけど少し表情や姿勢が固い。
 初見だけどここにいるならこの娘も若杉か。

「あたしの帰りをここで待っていたのかい」

 2人以外に、物音も気配も匂いも感じない。羽様の屋敷の前で、秀臣が持っていた棒状
の物は2本の傘で。経観塚が時折激しい通り雨に見舞われると、彼も拾八年前で承知だか
ら。

「中に入って待つ選択肢も、あったろうに」

「羽様の屋敷は、羽藤の血筋と浅間さんの想い出の宿る空間です。若杉が断りなく入るの
は憚られて……外でお待ちしておりました」

「若杉の癖にそう言う処は気が利くんだね」

 はい。秀臣はあたしの憎まれ口も柔らかに受けて頷き。女の子にあたしへの挨拶を促し。

「初めまして。若杉さららです」「んっ…」

 短い自己紹介にどう返して良いか瞬時迷う。

 若杉に好意的である必要は、これぽっちもないあたしだけど。秀臣にもぞんざいに答え
るあたしだけど。明らかに年下の女の子には。微かに戸惑うあたしに向けて、さららは更
に。

「讃嘆の讃です。賛成の賛にごんべんをつけた讃に、発育良好の良で、讃良と読みます」

 若杉讃良。胸も尻も発育途上だけど。ショートの黒髪に大人しげなその容貌は悪くない。
髪型は違うけど、拾数年前の柚明を思い出す。つぼみになる前の段階の、清く青い苗の様
な。

 若杉は、因縁深い浅間サクヤのきつい応対の緩和に、年若な女の子を持ち込んできたか。
そう感じつつ、女の子相手では邪険に出来ず。

「浅間サクヤだよ。山神の眷属で化外の鬼である観月の民で、永遠の美人独身二十歳さ」

 千七百歳だけどね。若杉で物心ついた年の娘なら。鬼切部の任務で訪れた秀臣の連れ相
手なら。人を装う必要はない。むしろ浅間サクヤの正体を晒して反応を窺ってみる。これ
で嫌悪を露わにし、敵意や猜疑の目線を向けてくるなら、あたしもスッキリ心隔てられる。

「噂は何度か伺っていました」「そうかい」

 案の定というか、さららの反応はやや硬く。
 元々固いのが更に強ばると言う程ではない。

 初対面に緊張しているだけかも知れなくて。
 これはこれで何とも言い難い微妙な反応だ。

「一応言っておきますが、讃良は私の娘ではありません。私が預っているのは確かですが、
仕事上のパートナーとも言い切れず、でもその素養を役立てて貰いたい配置で……養女兼
若杉見習いと言う処でしょうかな」「へえ」

 向うにも向うで、色々事情があるらしい。

 そこは敢て深く突っ込まず。立ち話も何だから、屋敷に入ってはどうかと招くと。秀臣
はあたしにさかき旅館への同宿を勧めてきた。

 どうやら秀臣は、葛の指名であたしの監視役になった挨拶に、相方の讃良と一緒に来て。
監視対象に挨拶という発想も奇特だけど。さかき旅館に2人泊っていて、資金はあるから、
あたしも温泉宿に招いてゆっくり話したいと。

「良い酒を用意しました。もてなしますよ」

 温厚に理知的に招く姿勢に、嘘は感じないけど。そうやって平気で人を騙すのも若杉だ。

「素戔嗚尊が八岐大蛇を、八塩折之酒で酔わせて討ち取った様にかい?」「滅相もない」

 私には今現在、あなたを騙して取り返したい姫などいません。大体あなたは今、取り返
されるのを怖れる姫を抱えておられるので?

 秀臣に問われてあたしは僅かに考え込んで。
 柚明も桂も今手の届く処にはいないからね。

「そうだね……。あたしが、そこのさららをくれと言ったりしたら、構図は出来るね?」

 あたしは人外の鬼の観月だし。女でも可愛い娘に欲情し力づくで奪い去ろうとするかも。

 視線の合った讃良が、驚きに目を丸くするけど。秀臣は大人しい語調も声音も変えずに、

「讃良では櫛稲田姫には未だ荷が重いでしょうな。それに讃良が櫛稲田姫なら、私の役は
素戔嗚尊よりも、むしろ手名槌・足名槌です。

 最近数日の、羽藤家の近況を土産代りにお持ちしました。お風呂上がりに一献傾けつつ、
それをご覧になるというのは如何ですか?」

 柚明や桂の情報を、週刊誌で断片的に知った直後なので。相思相愛な2人の間には割り
込めないけど、気になって堪らぬ保護者代理としては。若杉が何の情報をどの位把握して
いるかも気になって。招きに応じる事にした。


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 若杉秀臣との出逢いは拾八年程前。あたしが真弓と真剣の諍いをして和解した時に遡る。

 鬼を切るのは鬼切部各党が為すけど、事前準備や後始末は主に若杉が担う。情報収集や
命令伝達や、鬼切部の現地活動の下地を整え。食料調達や宿泊先や移動手段や日程調整や
…。

 先日の烏月の経観塚来訪時も、烏月が羽藤やオハシラ様の祭りの関係者と言う噂を流し。
維斗を祭祀用の飾り刀と印象づけて、銃刀法違反に当たらないと錯覚させるなど。恐らく
地元県警への根回しも済ませていたのだろう。

 小学3年の柚明が鬼に襲われ、守り庇った父母がその生命を落し。家族を喪った柚明が
羽様に移り住んだ拾八年前の夏。あたしはその落ち着きを見届けて、笑子さんと正樹に委
ね、かねてから計画していた長期取材に挑み。

 終戦間近の新月の夜に行われた、鬼切部千羽党による観月の里の虐殺を。数少ない証拠
や、偶々襲撃直後を訪れた者の目撃証言から、丹念に事実を掘り返し。口止めされた事実
や、見てはならぬ物を見た者の末路、後始末等を。

 進む内に鬼切部に勘付かれ、まず若杉が口封じに来て。買収や脅しが効かないと分って、
実力行使で来た連中や依頼を受けた裏社会を退けた時点で。あたしは鬼切部案件に昇格し。

『鬼切部千羽党が鬼切り役・千羽真弓が、千羽妙見流でお相手仕る。覚悟願います…!』

 何人かの強者を退けた後で、千羽党の当代最強と対戦する羽目になり。この時は本当に
生命落しかけたけど。その中であたしを追って関ってきた若杉の下っ端の1人が、秀臣だ。

 当時は未だ弐拾歳代だった彼は、他の者達に使い回される立場で。何度か顔も合わせた
けど、幸い殺し合う事にはならず。若杉は戦闘力が高くないので戦いを挑む事は多くない。
向い合えば足早に逃げるか、守りを固め救援を呼ぶ。勝てそうな時は戦いを挑む様だけど。

 この時が実はそうだった。千羽党の当代最強を投入した時点で、若杉はあたしを半ば倒
した気分で。真弓があたしに深傷負わせた処で横から止めを刺すとか、あたしの死に様を
嘲笑うとか。真弓への協力を名目に勝ち馬に乗って勇み立ち。功名心を抱いて割り込みを。

 でも、あたしもやられる訳には行かなくて。諍いは『短日中に真弓が圧勝』との下馬評
を覆し、攻守を入れ替え延々続き。騒擾は遙々経観塚に迄持ち込まれ、正樹を巻き込んだ
後で漸く引分の末の和解という形で決着し。そこで出逢った正樹と真弓が結ばれる訳だけ
ど。

 真弓の援護を当て込んで、疲弊したあたしを後一撃と侮って。止めを刺しに来た奴らを
返り討ちする中で。秀臣は功名心に囚われず、近付きすぎる事もなく。距離を置いて冷静
に情報収拾と発信を続けて、最後迄生き残り…。

 真弓があたしと和解したと知って、算を乱して逃げ出す若杉の多数や上役に置き去られ。
彼はその敗戦処理を担い。そうでもなければ、武技にも秀でた処がなく、特殊な『力』も
術も使えぬ若造が、この重責を任されはせぬか。

 若杉の先代も幹部も、この時はパニックに陥った様だ。当代最強の剣士も倒せない鬼が、
若杉や千羽の暗部を握り、公表しようとして。口封じの術がない上に。その為に遣わした
当代最強剣士が、真実を知って若杉に背き千羽を離れ。真弓とあたしが2人若杉本邸や千
羽館を襲撃に来ると、連中は妄想し震え上がり。

 現場の上役は逃げ去るか打ち倒されており。後方の幹部や鬼切りの頭が、罪悪感と妄想
でパニックに陥る中。前線に1人残った秀臣は、持ち前の奇妙な平常心で休戦交渉を進め。
秀臣は、真弓とあたしの片方も倒せないと見切れたその眼力以上に。互いの利害の一致点
を見いだす交渉能力に、この男の真価があった。

『千羽は真弓さんと絶縁と言う事で、話しが纏まりそうです。今後互いは無関係の他人同
士だと。浅間さんを切る命を返上し、鬼切り役も返上し、千羽党を抜けた真弓さんを。千
羽党は討伐しないとの判断を、頂けました』

 当代最強を誰が討伐できると言う事は脇に置いても。千羽党が裏切り者と迄非難した真
弓を、絶縁のみに留めた事は凄いけど。絶縁を『討伐しない』と読む彼も又只者ではない。

 若杉の誰もがこの時に至る迄、気付いてなかった秀臣の才覚は、真弓と若杉の約定にも
発揮され。真弓は緩い行動制限を受けるだけで、特段の罰も代償もなく鬼切部を抜け、若
杉の鬼切りの頭の命に背いた事も実質不問で。

 諏訪に蟄居した建御名方神や幽界に隠棲した大国主神の様に。又は封じられた主の様に。

『羽藤真弓は、若杉の事前承認なしに県外には出ないこと。仮に承認なく県外に出たら』

 若杉は真弓もあたしも敵と見なし、羽藤の家族を足止めの駒に扱う。笑子さんも正樹も
柚明も人質だ。でも今後田舎で専業主婦になる真弓が、県外に出る必要は低く。幽閉の範
囲は広く快適だ。破った場合のペナルティはきついけど。破らなければ問題ない。むしろ。

 この条件は、羽藤や真弓に甘すぎに見えて。本当に良いのか問い糺した。和解を偽り不
意を襲う罠ではないのかと。でも秀臣は鷹揚に。

『今の若杉の戦力からして、あなた達にこれ以上求められはしませんよ。でもあなた達も
これ以上を求めるのは、難しいでしょうね』

 この男は互いの譲れる処と譲れぬ処を冷静に見据え、妥協点を見定めていた。真弓はこ
れ以上自由を得ても、それを使う見込が薄い。

 真弓は当代最強だけど、若杉は頭数がある。正面激突ではなく、四六時中隙を狙う様な
戦いを為されれば、あたし達はともかく、笑子さん達を守り通すのは至難の業だ。真弓に
も、千羽党や鬼切部を離脱した後ろめたさがある。一定の代償は受ける覚悟で話しに臨ん
でいた。

『良いわ。その条件は、呑みます。その代り、条件を守る間は若杉も、わたしやわたしの
たいせつな人達に、一切手出ししないで頂戴』

 真弓の求めは至極当然で。秀臣も頷き受け容れたけど。そこにはあたしの条項が入って
ない。あたしは何の縛りもなく、真弓が求めた『真弓のたいせつな人』として手出ししな
い対象に含まれる。それで良いのか若杉は?

『ルポライターでフォトグラファーを生業とする浅間さんに、行動制限は受け容れられな
いでしょう。今回の私の任務は羽藤真弓との休戦です。それ以上の責任は負いかねます』

 あっさり応える秀臣に、こっちの方が目を白黒させ。真弓も正樹も驚きに瞳を見開く中。

『だって真弓との休戦条件で、あたしは若杉の標的から外れる事になるのに。あたしはあ
んた達の所行を曝きに動き回っても、良いのかい? 何も縛りがなくて、良いのかい?』

 浅間サクヤを野放しにする脅威を、若杉が認識してない筈がない。その為に真弓を遣わ
した程なのに。顔を近づけそう問い糺した処。

『若杉は既に行動制限で、真弓さんを県内に縛り付けています。真弓さんがそれを破れば、
不在の間に若杉が、羽藤の皆さんを確保する。だから真弓さんは約定を破らない、破れな
い。そう言う担保があるから約定は成立します』

 仮に若杉が約定を破れば、真弓さんと浅間さんを同時に敵に回す事になる。それは今の
若杉には危険な冒険でしょうね。どちらか片方なら、未だ何とか出来るでしょうけども…。

『浅間さんに行動制限を掛け、それが破られたとして、若杉は羽藤の皆さんを確保できる
でしょうか? 真弓さんが行動制限でここにいる事が確実な今、それはほぼ不可能です』

 行動制限による脅しは、1人にしか掛られない。成功して誰かが行動制限を受容すれば、
他への脅しは意味を失う。秀臣は、真弓とあたしが同時に若杉に敵対しなければ御の字と
語り。若杉幹部や先代にこの約定を納得させ。

『いいのかい? あたしの動きは野放しで』

『そうは言っていません。浅間さんを直接処断できなくなっただけで、真相の公開を阻む
方法は、他にもありますよ……ご心配なく』

 唯いい人ではない辺りが却って信頼できた。
 若杉が慈善事業を為す事は考えられぬので。

 一方的に優位な条件は、何か裏で企みが進んでいる、その偽装と考える方が正解だから。

 以降若杉は出版業界に圧をかけ、あたしを干し上げる方針に転じ。あたしは真相を公表
する場を見いだせず、特ダネならばどんな案件も扱うと噂の八木博嗣に、話しを持ち込み。

 でも出版前日にページが差し替えられた上、八木も怪奇雑誌に配置換えされ。意地にな
った八木は、怪奇雑誌であたしの記事を公表したけど。怪奇雑誌では信頼性に疑問があっ
て、有効な打撃にならず。八木は通勤電車で若杉に痴漢冤罪をでっち上げられて、職を失
い…。

 秀臣の動きは真弓やあたしの最低限の求め、羽藤の家族の安全を保証しつつ。若杉の最
低限の求め、鬼切部の存在や暗部を隠す事も満たし。双方の妥協点を探って話しをつける
彼の手法は『鬼や邪魔者は全て殲滅する』若杉先代や幹部には不評だった様だけど。他の
者が蹉跌した中で、唯一結果を残した秀臣は暫く、羽藤の監視員に昇進して経見塚に留ま
り。

『今回、若杉の人事異動で別任務に就く事になりました。真弓さんにも正樹さんにも、笑
子さんにも浅間さんにも、色々お世話に…』

 監視に付くと挨拶に来た奴も初めてだけど。
 監視を外れると挨拶をされたのも初めてだ。

『後任については教えてくれないのかい?』

『どの様な監視手法を採るかは、人それぞれですから。私は監視してますと相手に示して、
約定の遵守を促しますけど。後任には後任のやり方があるでしょう。そこはご勘弁を…』

 秀臣自身が思う若杉としての一線は譲らず。
 でも目的に叶う限り良いのかと疑う程柔軟。

 力も技もないけど、奇妙な平常心と賢さで。
 若杉では葛に次いで、嫌いじゃあない奴だ。

「葛の指示だね。きっと、今迄の羽藤やあたしと接触した若杉の監視員の中で、一番良い
関係を保てた者を、あたしの監視に付けた」

 多分葛は、桂と柚明にも監視をつけている。それは悪意ではなく、あたし達に若杉の末
端が害を及ぼしてないか見る為で。若杉内部への牽制だ。烏月を若杉に連れ帰ったのも、
命令に反した若杉を処断できる刀を見せる為で。処断の意思と力と示さねば脅しにならぬ
から。

『あたしの方には、秀臣が付いた訳かね…』

 もう片方の娘は初見で、全く分らないけど。
 そう言う場に来る以上、唯の子供ではない。

 取りあえず害される心配は少ないと考えて。
 促しに従いあたしはさかき旅館の客となる。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「いらっしゃい、浅間さん。お久しぶり…」
「余り長くない間に、何度も世話になるね」

 最早顔馴染みになった女将さんの柔らかな声に導かれ、あたしは温泉旅館の暖簾を潜り。

「私の部屋はこの奥です。まずは温泉に浸かって汗と疲れを落した方が宜しいでしょう」

 秀臣は独り男湯に。あたしは讃良と女湯に。

「ふぅ……」「……」

 若杉の者とこうして向き合う日が来るとは。特に相手が子供という展開は予想外で。ご
く近日にこの露天風呂へ葛と一緒に入ったけど、あの出逢いも予想外だった。あたしは手
探りな感じで、間近で湯に身を浸す娘を視線の隅で窺い。空は日が傾いて空気も湯も赤く
染め。

「あの……浅間、さん……?」「ん……?」

 烏月位大人になっていて、鼻っ柱が強かったなら、色々突っ掛ってあげられるんだけど。

 讃良の視線はあたしの首筋から下に向き。

「おっきくて、綺麗です。浅間さんの、胸」
「女の子の考える事は、若杉も変らないね」

 笑子さんにも羨ましがられたこの肢体は。

 柚明の母にも柚明にも、桂にも何度もまじまじ覗き込まれ。同性の羨望の視線は悪い気
がしないけど。あたしは実は大きい事に特別な意味を感じてなく。羽藤の血筋の慎ましや
かな乳房も、きめ細かな肌も好いたあたしは。

「さららの素肌も滑らかで、悪くはないよ」

 小さいのは未だあんたが成長期前だから。
 大きくなる前は小さいのがこの世の理さ。

「そう言えば、あんた何歳だい?」「拾弐」

 小学6年か。葛より一つ年上で、ノゾミの肉体年齢より一つ下か。桂が小学校の修学旅
行で、初めて2泊以上真弓と別に過ごすのに、本人も周囲もやきもきした頃で。柚明なら
…。

「今は夏休みかい。学校は、行っているんだろう?」「行ってない、2年近く前から…」

 へぇ。若杉は金に不自由しない立場なのに、学校に行かない子供が結構多いんだね。最
近知り合った、あんたより一つ年下の女の子も。

「つづら様、ですか?」「ああ、そうだよ」

 大きく報道されてないけど、行方知れずだった若杉財閥後継者の家出童女が、見つかっ
た話しは一般にも流れている。それ以前に若杉の者なら、この話しは当然知っている筈で。

 その反応の硬さは、畏れ多いとは少し違う。

 真意を悟られたくない応対は、若杉だけど。
 俯き加減の侭少し考え込んだ後で、讃良は。

「……浅間さんは、若杉を……憎んでいると聞きました……家族を、失わされたと……」

「若杉なら、あたしの監視に付くなら、そのくらいの情報は、知らされていて当然かね」

 この娘の硬さは、己を若杉の一員と自覚し、若杉を憎むあたしを前にした故の緊張なの
か。でも年端もいかぬ娘が、どこ迄真実を知っている? 観月の里の虐殺も知る故の罪悪
感か。或いは単にあたしという敵を前にした怯え?

 でもこの娘が発した問はあたしの想定外で。
 答に惑う以上に奇妙に思って見つめ返した。

「……つづら様を、憎んでおられますか?」

 あたしが讃良を憎んでいるかではなく、葛を憎んでいるかと讃良は問うた。浅間サクヤ
と若杉讃良ではなく、浅間サクヤと若杉葛を。讃良にとって葛は主人だから、気にするの
は一応理が通るけど。微かに腑に落ちない様な。浅間サクヤが初見の自分を憎むか否かよ
りも、葛を憎むか否かを気に掛けるのは、違う様な。

「いえ、何でもありません。失礼しました」

 讃良はそれ以降言葉も姿勢もより固く鎖し。
 そんなに本心を悟られたくないと示しては。
 明かしたくない本音があると示すに等しく。

 風呂を上がり夕餉の後で、あたしは秀臣の部屋で3人で、アルコール入りの密談に及ぶ。
勿論讃良は未成年だから、アルコール抜きで。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 秀臣の部屋には、田舎町では手に入らない駅売り夕刊紙や発行部数の少ない雑誌も含め、
様々な『奇跡の人』の関連の印刷物があって。

「浅間さんがどの程度把握済か分らなかったので、主な物を集めてみました」「ほうぉ」

『二十六歳と思えない初々しさ、奇跡の人』
『取材殺到に困惑しつつ、微笑み絶やさず』
『心こもった受け答え、大和撫子慎ましく』
『拾年の空白を越え、愛しい肉親との同居』

 既に報道されて、桂も柚明も否定せず話した中身では。母を喪った桂が夏休み、遺産と
して羽様の屋敷の存在を知って、見聞に赴き。葛や烏月やあたしと巡り逢い。山森に迷い
込んでご神木の前で眠り込み。朝目が醒めると行方不明だった従姉の柚明、拾年歳を取っ
てない奇跡の女性に膝枕されて、感動の再会を。

 柚明は、拾年前に行方不明になった事情も、今夏戻ってこれた事情も語れず。眠った様
な時間の末に、気付いたらご神木の下で拾六歳に成長していた桂を抱いて目覚めたと。話
し通りなら『現代の浦島太郎』よりも、リップ・ヴァン・ウィンクルの日本版が正しいか
も。

 オハシラ様やその封じた鬼神、ノゾミやミカゲ、鬼切部や白花のことは秘して明かさず。
それでも充分以上に数奇な経歴は注目を浴び。

 桂の携帯で柚明から聞いた話しでは、若杉幹部が葛の流浪生活を恥じ、それから目を逸
らす為に勝手に意図して、柚明の情報をマスコミに流したと。尤も、以降の盛り上がりは、
柚明の魅力への一般読者の好奇心による物で、葛にも情報制御が効かなくなりつつある様
で。

 葛から桂と柚明に謝りの電話があったけど。
 柚明は葛に特段の対処は不要と応えたとか。

 注目されてしまった物はもう仕方ないから。
 後は羽藤家として対処します、大丈夫と…。

 烏月も容姿が整っていて人の注目を浴びそうだけど。世の影で鬼を討つ鬼切部の立場上、
マスコミに着目されない様に処置済みらしく。葛は財閥継承の準備中で。じきに大々的な
プレス発表があると、桂からは聞かされたけど。

「葛様の財閥継承は選挙後でしょう。実質は既に葛様中心の運営で継承は唯の形式ですが。
今は選挙中で、総理も政権党も余計な話題が増えて、世の注目が散る事を好まない。ここ
はウチの失敗です。わざわざ葛様を後ろに下げて選挙に人目を集めようと言う時に、奇跡
の女性の話題を振って、人目を散らせて…」

「いいのかい? 自分の組織の失態を失態と言っちまって」「ここは非公式な場ですから。
本音の部分で、失敗を失敗としっかり受け止められない者に、今後の改善は望めません」

 どうぞ。浴衣姿になったあたしに、同じ浴衣姿の秀臣は酒を勧め。くいと一口でコップ
半分位空けた時には、秀臣はこれも浴衣に着替えた讃良のコップにジュースを注いでいた。
讃良の歳では浴衣で色気を醸すには早い様だ。

「桂と柚明に、興味があるかい?」「……」

 讃良は大人の話しに飽きたのか、途中から数枚ある柚明や桂の写真を熱心に眺めていて。

「きれいな人……この人が、オハシラ様?」

「今はお役目を離れたけどね。先月迄、拾年ご神木に宿って、オハシラ様を務めていた」

 若杉なら、その位の情報は持っている筈で。
 今の問も、柚明の美しさへの讃嘆と確認だ。

 公表された写真は何れも、目に黒線が入ったり後ろ姿だったり、判別の難しい遠景だっ
たり。葛の業界指導で、報道の個人情報保護の趣旨は浸透している様だ。スクープ狙いに
暴走しがちな取材現場は、止め難い様だけど。

 でも秀臣は、若杉の監視員から桂や柚明の写真を別に仕入れていて。それも様々な距離
や角度から撮れているのは、報道陣のマイクやバッグや、時にはカメラに隠しカメラを付
けて、盗撮に近い感じで撮った為だろうけど。この監視が、桂や柚明の安全を担保する上
で、葛が必要と感じた措置なら、不快でも敢て文句言わず。撮り方はともかく被写体は粒
揃いだから、讃良が賛嘆の声を漏らす気持も分る。

「このツインテールの髪の子が、桂さん?」
「ああ、そうだよ。柚明には従妹になるね」

 あたしの好いた桂や柚明が、好評なのは微かに嬉しく。報道されるのも悪い事ばかりで
はない。こうして全国どこでも桂と柚明の元気な姿を見られるし。殺到する報道陣が、桂
や柚明の迷惑にさえなってなければ、だけど。

 でも讃良の次の問はあたしにも予想外で。

「肉の体を喪い、人の世から拾年隔てられ」

 この人は羽藤桂さんを憎んではいないの?

 従妹の所為で人生や未来を喪わされたのに。その従妹と一緒に住んでいるのは、他に行
く処がないから? それとも復讐のため? 付き纏って従妹に罪悪感を感じさせるため
…?

 覗き込んでくる女の子の瞳を見つめ返し。
 あたしはゆっくり言葉と声音を選びつつ。

「柚明は桂をひとかけも、憎んでいないよ」

 拾年前の禍は、桂と白花が鬼に唆された末に起きたけど。2人は無力な幼子で、鬼に心
を操られた結果だった。責められない。桂と白花を操った鬼の事は、強く憎んでいたけど。

「憎しみを晴らすより、今その手で守れるたいせつな人の為に尽くす。そう言う娘さ…」

 讃良の瞳が見開かれるのは、答が想定外だった為か。柚明ではなく浅間サクヤの答なら、
讃良の想定範囲だったかも。あたしにも柚明の生き方は、優しいと言うより甘すぎ、甘い
と言うより焦れったく、想う気持もあるから。

「過去を失わせた連中への拘りを捨てきれないあたしには、真似のできない生き方さね」

 露天風呂で訊かれ、応える前に引っ込めた。
 一度讃良の発した問に、間接に絡めるのに。

「……浅間さんはやはり、若杉を憎んでいるのですか? つづら様の事も許せないと?」

 閃光が視界を掠めた気がした。その閃きは。

 言葉に態度に表す前に、男の声が挟まって。

「讃良、これからは大人の話しになる。今夜はもう良いから、外しなさい」「秀臣さん」

 静かだけど有無を言わさぬ声だった。讃良は何か言いたそうな顔だったけど、反駁せず。
独りこの部屋から引き上げて。少し気まずい雰囲気の中、あたしは秀臣と2人きりになる。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −



「申し訳ありません。讃良は関知と感応使いなのですが『力』を制御しきれなく。浅間さ
んの憎しみに、火を付けようとしてしまい」

「……感じていたよ。と言うより、あれだけ露骨に話しを導けば誰でも分る。術者として
は余りに拙劣で未熟だ。あたしはさららへの怒りを導かれかけたよ。一体何を考えて?」

 そんな話しを振られれば。あたしも抱いた恨みが燻る。そうなれば讃良も秀臣も若杉だ。
こうして理性的に話す事だって出来なくなる。

「あたしを監視するにしても、あたしの怒りをぶり返させる様な応対をされちゃ。あんた
はともかく、さららの適性はどうなのさ?」

「私は若杉ですが、使用に耐える『力』を持ちません。この監視任務は浅間さんの職業柄、
密着して為すのは難しいので。浅間さんの行動や思考発想を辿れる関知や感応能力者を」

「あたしを逃がさない様に、って訳かい?」

「いえ、見失わない様に、です。今回は浅間さんの安否確認の為の、監視任務ですから」

 浅間さんが山奥や離島へ仕事で入って行く時に、私達の足では追い切れない。せめて現
在どの辺にいて、どこへ行くのか位把握して、安否確認が可能な状態は保ちたい。携帯で
一日一回は連絡を取りたいですが、羽様の山奥の様に圏外の処もあるので。讃良の『力』
が。

「それであたしの警戒を招かない様に『力』の持ち主でも、女の子が選ばれた訳かい?」

「はい……。私も讃良も、葛様の選任です」

 一見悪くない配置だ。実績があって顔見知りだけど『力』がない秀臣と。『力』の持ち
主だけど華奢な年下の女の子なら。あたしも邪険に扱いにくい。選任の目論見は分るけど。

 まあどうぞ。秀臣が更に酒瓶を傾けるので。
 あたしはそれをコップに受けて、口を付け。

 毒殺や眠り薬による捕縛の怖れはまずない。
 彼を信じて良い以上に葛がそれを望まない。

「さららは誰かを強く憎んでいる。あんたはその相手が誰かも、推察済じゃないのかい」

 あたしの憎しみを焚き付けようとしたのは。意図してと言うより、讃良自身が憎しみの
業火に包まれているから。無意識に仲間を捜し、あたしも燻る炎を焚き付けられそうにな
った。秀臣はそれに気付いて慌てて讃良を下がらせ。今も襖の外で聞き耳を立てる、少女
の胸の鼓動や息遣いは悟れているけど、敢て指摘せず。

「感応使いは相手の感情に左右される一方で、自分の感情を相手に及ぼしてしまう事もあ
ります。自身の心や力を制御できず、漏れ出る力で相手の心を、自分の感情や考えや印象
に、無意識に染めてしまう事も。讃良は実は…」

「蠱毒で敗れ去った者の近親って辺りかい」

 はい。秀臣の声音は苦味と酸味を帯びて。

「葛様の手の者に、父と母を喪わされたと聞いております……」「それで葛を憎むかい」

 憎むなと言う方が無理でしょうな。流石に秀臣も明言はせず、でも否定しない答を返し。

「若杉では、一代に一度の蠱毒は避けられませぬ。讃良の父が蠱毒に参加させられ、父母
2人讃良の目の前で、生命を断たれたとか」

 露天風呂でも、讃良は浅間サクヤが葛を憎むかと訊いてきた。讃良も若杉なのに。浅間
サクヤが若杉を敵視している事を承知済なら、まず己が憎まれているのかと怖れるべき処
を。讃良が葛を強く憎んでいるから。讃良と同じく浅間サクヤも葛を憎むのかと、問うて
来た。

「讃良が当事者ではなかった事、無力な娘だった事が、生命絶たれなかった要因の様です。
でも蠱毒が終り先代の保護を受ける迄、身寄りのない中で、言葉に出来ぬ辛酸を舐め…」

 借金取りに追い回されて捕まって。金になる『ありとあらゆる事柄』をやらされたとか。
女性のあなたにはお聞かせできぬ様な諸々を。

 秀臣も襖の向うの讃良に気付いているのか。
 個別具体的な描写は語らず匂わせるに止め。

「若杉が金持ちなのは、財閥総帥兼鬼切りの頭になった当主や幹部他、限られた人員だけ
らしいね。あたしも最近分ってきたよ。でもそれにしても、借金ってのは……まさか…」

 そうです。蠱毒を勝ち抜く為に、蠱毒の参加者は皆、若杉の看板を使って誰構わず莫大
な借金をします。生きて勝ち残れば返せると。死んでしまえば返す必要のない借金ですけ
ど。それら負の遺産が生き残った子供に掛る事も。

「蠱毒に入れば参加者は、世界中が敵に見えます。友も身内も信用できない。若杉先代は、
妹君と骨肉の争いの末に当主になりました」

 明日をも知れぬ戦いを、一日一日勝ち抜く為に、安全確保に、膨大な金をつぎ込みます。
食事に飲み水、宿泊、移動、武器や情報入手。幾ら借金しても今日生き抜く事が優先にな
る。

 そんな者に金を貸すのは、まともな者ではありません。暴利な上に回収も手段を選ばず。
讃良の父母は生命保険でも返しきれぬ、膨大な負債を遺しました。それらは蠱毒終了後に
若杉当主が引き受けて、その人生も終生買い取ります。あの歳で讃良は借金塗れの人生を。

「若杉の連枝は多くがそうやって、若杉当主に膨大な負債で縛られて、身動き取れない」

 だから蠱毒への参加を拒めず、逆に蠱毒に一発逆転を賭ける者も。讃良の父母も元から
膨大な負債を、先代に握られていたそうです。

「讃良の今の債権者は、蠱毒を勝ち抜いて若杉財閥総帥と、鬼切りの頭を継いだ葛様です。
若杉の歴代当主はその負債を盾に、連枝の多くを意の侭に使い、次の蠱毒へ参加を強いる。
他に行く所もなく頼る身内もなく、資産もない讃良は、任務を拒む術もなく。恐らく人生
を握られ続けた侭、次の蠱毒を迎える事に」

 ふむ。仇に顎で使われると想えば、憎悪の炎も燻る訳か。関知や感応使いなら、そんな
事を言ってあたしがどう反応するか位、視える筈なのに。柚明という優れた関知・感応使
いを見てきたあたしは、讃良の在り方が奇妙に思えたけど。憎悪に目が眩めばそうもなる。
葛は蠱毒の制度を今後も続ける積りなのかね。桂には聞かせたくない様な凄惨な中身だけ
ど。

「じゃ……あんたはどうなんだい、秀臣?」

 秀臣が讃良の事情を話す時に、他人事ではなく沈痛なのは感じたけど。それは単なる相
方への心配ではなく、年端も行かぬ娘への同情だけでもなさそうで。この男も若杉なのだ。

「今ここに生きているって事は、あんたは蠱毒に参加しなかった様だけど。若杉秀臣は」

 襖の裏側の讃良が息を呑む感触を悟れた。

「実は私も蠱毒の対象者でした。先代から蠱毒を外されたのは、己の不徳の致す処です」

 蠱毒には幾つかのルールがあります。参加人員については特に。誰でも彼でも蠱毒に参
加させては、独りしか生き残れないルール上、若杉の血がすぐに先細ってしまう。ですか
ら若杉は常に『今回の蠱毒には参加させない』血のストックを確保しつつ、蠱毒を行いま
す。

「還暦を過ぎた者及び拾歳に満たぬ者は除き、原則として親子及び夫婦の同時参加はな
い」

 還暦を過ぎた者が当主についても、人の寿命はすぐ終る。蠱毒を短い年月に連続しては、
参加者の層が薄くなって蠱毒の成果も薄まる。鬼切りの頭の思考発想なら、そんな処だろ
う。拾歳に満たぬ幼子は蠱毒の意味も理解できなかろうし。葛は早熟だから別括りだろう
けど。

「そんな若杉なら、親子の情や夫婦の愛で蠱毒が鈍るから、なんて甘い理由でもないね」

 それもあるのかも知れませんが。秀臣はあたしの前で、くいっと酒を飲んで勢いを付け。

「兄弟姉妹に縛りはありませんが。親子で諍い親が子を殺めても、未来を塞ぐ物でしかな
いので。夫婦の方は蠱毒開始迄に当主が婚姻を認めた場合、双方が参加人員でも、どちら
か片方で参加です。子を為して未来を紡ぐ仲で殺し合っては、未来を塞ぐと言う考えで」

 羽藤姉妹が蠱毒になったなら、どの様に応対していたでしょうか。少し興味を抱きます。

「薄気味の悪い事は、言わないでおくれよ」

 桂と柚明が殺め合うなんて。悪酔い気味に秀臣の話しを聞き流していたあたしは、一瞬
だけその絵図を想像して、酔いが醒め。真夏なのに背筋に寒いものが走り、ぶるっと震え。

「柚明も桂も、己を抛っても互いを想い合う。蠱毒が不成立になろうと、鬼切りの頭が絶
えようと。絶対に相撃つ事態はあり得ないよ」

 羨ましいですな。そこ迄信じ合える身内が。
 今も間近で互いに触れ合い、護り合える…。
 秀臣はあたしの瞳を一度正視してから外し。

「血を先細らせない為に、兄弟で蠱毒に参加する家は、末子のみ参加を免除されます。2
人兄弟なら2番目が、5人姉妹なら5番目が。一人っ子の場合は血が絶えても強制参加で
…。

 それ以外、当主の子も孫も全て平等に蠱毒参加です。一見血も涙もない制度ですが、本
当に血も涙もない大人には、幾つか逃れる途があると、浅間さんも察せられましたか?」

「ああ。一番簡単なのは結婚かね。予め参加資格者と結婚して、連れ合いを蠱毒に参加さ
せれば、自分はそれを逃れられる。でもこれは相手も同じ目論見だった場合に、困るか」

 還暦をすぎる迄、蠱毒がないなんて運任せには縋れない。逆に幼子は瞬く間に資格年齢
になる。末っ子に生れるかどうかは己で左右できないし。となれば後は『親子条項』かね。

「仮にあんたの父が還暦前で蠱毒に参加していれば、あんたは参加対象を外れる。あんた
の兄弟姉妹もだ。仮にあんたの父が還暦過ぎで参加対象にならなければ、あんたや兄弟姉
妹が末子以外蠱毒の参加対象だけど、秀臣」

 あんた、拾八年前真弓と若杉の休戦を繋いだ時から、既に結婚して子持ちだっただろう。

「あんたの子供を蠱毒に出せば、あんたは参戦を免れる。あんたの子供が1人か3人か7
人かは知らないけど、あんたは己の子供の生命を蠱毒に差し出し……生き長らえた訳だ」

「鬼畜の正解です、浅間さん。その通りで」

 この男に怒りを感じたのは初めてだった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 怒りに任せて殴り飛ばそうと、握った拳が留まったのは。襖の裏に讃良がいるという以
上に。讃良の感応で憎悪を導かれている感触が厭な以上に。何より目の前の秀臣が、一度
も見せた事のない、涙を溢れさせていたから。

 滂沱として流れる涙は、演技で出来るとは考え難く。中年男のプライドも投げ捨てたそ
の様は、真に迫ってあたしの動きを一時留め。それも若杉の策かもと疑いつつ黙している
と。

「秀幸は……息子は、優しい男でした。若杉に育った以上、人並みの冷酷さは身につけま
したが、私にも妻にも良い息子であり、妹にも良い兄でした。その優しさが、こんな結末
を招くなんて……若杉秀臣の、痛恨です…」

 あなたは今、私を殴ろうとしてくれました。息子を蠱毒に捧げておめおめ生き残ったこ
の私を、殴ろうと。天罰を、与えてくれようと。逢った事もない息子の為に、憤って下さ
った。

 そんな事を言われては却って怯む。殴ろうとして燃えた心が、醒めてしまうじゃないか。

「あたしは、神様じゃない。観月で山神の1人だけど、罰を与えて咎人を救う様なご大層
な存在じゃない。今のは……唯の義憤だよ」

 怒りをそぎ取られた感じでそう応えるのに。
 この男は若杉であり同時に秀臣でもあった。

「良いのです。その義憤が有り難い。秀幸の為に憤って頂けた事が本当に。だからお話し
します。聞いて下さい、若杉秀臣の痛恨を」

 私には拾歳になる娘がいます。若杉みづき。
 観月のあなたの強さ美しさにあやかりたく。
 美しい月と書いて『美月』と名付けました。

「生れつき体が弱く、ベッドを離れる日の数が少ない状態ですが、優しく朗らかに良く笑
う娘で。私と妻の、いえ、息子の秀幸にとっても生き甲斐でした。年離れた兄妹なので」

 秀幸は、私が蠱毒には勝ち抜けない事を察していました。そして美月のこの後の人生を
考えた時に、どっちが生き残った方が美月の世話を出来るかと考え。私に何も話さず先代
に己を蠱毒に参加させて欲しいと願い出て…。

「あんたの代りに、息子が蠱毒に出た訳だ」

 末子は免除だから、2人兄妹なら妹の美月は蠱毒には出ないで済む。なる程、考えたね。

「先代は私より秀幸の方が才覚ありと見た様です。先代は『勝ち残るにせよ、負けて肥や
しになるにせよ、強い毒虫の方が良い』と」

 先代に抗議しましたが、決定は覆りませんでした。息子は私達に、特に美月に禍が及ば
ぬ様に、一度は離れて戦いますが。結局蠱毒は家族を巻き込みます。家族を人質に取れば、
秀幸を捉える事も殺す事も出来ると、誰もが考える。私達も1人戦う秀幸を抛っておけず、
最後は一体となって戦いましたが。結果は承知の通り葛様の勝利です。後は言う迄もなく。

「私は息子の生命を差し出し蠱毒を逃れた。
 あなたの思っておられる通り、正に鬼畜」

 それでもこの生命は終らせる訳に行きませぬ。残ってしまったこの生命は、次の蠱毒迄
保たせねば。この生命途絶えれば、次の蠱毒で美月が参加を強いられる。秀幸の想いを無
にしてしまう。それだけは絶対させられない。

「秀幸を殺めたのは、葛様やその配下ではありませんでした。それがせめてもの救いです。
それでも若杉の宿業は憎んでも憎みきれない。若杉の先代は恨んでも恨みきれない。己自
身が若杉に生れた事が悔しくて堪らない。その若杉に反旗を翻す勇気もない自分が、情け
なくて堪らない。私は、軽蔑に値する男です」

 それでも……今は私は、葛様に仕えたい。
 秀臣の瞳にギラリとした輝きが一瞬窺え。

「葛様は先代を憎んでおられる。私が憎悪する先代のやり方を、嫌っておられる。先代の
若杉を否定し改変しようとしていると感じました。なら希望を持てるかも知れない。私が
言われる侭に讃良を付けられ任務に動くのは、何より美月の為であり、次には憎き先代の
若杉が否定され、改変される様を見たいから」

 若杉にも若杉の故の、諸々の苦悩がある。

 あたしには鬼切部全体が仇だけど彼らは。
 自身に身内に仇を感じて生き続けるのか。

 秀臣は大きく深呼吸してから立ち上がり。

「喋りすぎました。私も讃良の感応に己の憎悪を煽られた様で。露天風呂で顔を洗って来
ます。今宵はお休みになっても、羽藤姉妹の資料を見ていても結構です。ノートパソコン
には入手した監視画像も、動画であります」

 その侭部屋を、出て行こうとする秀臣に。

「勝手に見ても良いのかい。若杉の資料を」

 讃良が慌てて廊下を走り去る足音を振動で感じた。人の耳には聞えにくい小ささだけど。

「私が与えられる資料に、重要機密はありません。若杉秀臣が、そう言う物を預けられる
重責にいない事は、分っている積りです…」

 秀臣は讃良の感応で煽られた憎悪も使って、己の内心を明かしてあたしの同情を引こう
としたのかも。身につまされる話しは真に迫るから、聞かされると彼を憎みようがなくな
り。

 あたしは彼の部屋に、独り取り残されて。

「そう仰るなら、見せて頂くとするかね…」

 雑誌や写真は自室に持ち帰る事も叶うけど。ノートパソコンは流石に持ち帰るのも憚り
あるし。コピー取るのも問題を残しそうなので。この場で動画を見せて頂く。千数百年を
経た鬼のあたしが、最新機器を扱う様は滑稽かも。

 壱時間半経っても秀臣は戻って来ないので。

 あたしは桂や柚明の記事写真を少し拝借し。
 一升瓶を片手に今宵は自室へと引き上げる。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「昨夜は……済みませんでした」「ん…?」

 朝餉の場で讃良に頭を下げられて、一瞬何の事か分らず。昨夜讃良があたしの憤りに触
れてきたと思い返し。渋い顔になるあたしに、

「浅間さんのたいせつな人に、失礼な事を」

 あたしの憎悪を煽ったのは、無意識だから讃良自身気付けてないのか。だとすればそれ
を彼女に気付かせるのは難しそうで、改めさせるのはもっと難しそうで。爽やかな朝だし。

「良いよ……もう、気にしちゃいないから」

 あたしの憎悪に触れないでくれれば。讃良があたしのたいせつな人への礼儀を意識して、
憎悪を煽るのを止めてくれればそれでも良い。浅間サクヤに、讃良の憎悪を拭い取る事や
癒す事は出来ないし、適任じゃない。桂や柚明なら、お節介に関りを望むかも知れないけ
ど。

「今日も羽様の山奥に、お仕事ですかな?」

 秀臣は大の男が泣き顔を、晒した事を恥じらって、昨夜は顔を合わせられなかったのか。

「概ね撮る物は撮り終えたから、もう少し別の野山に行こうか、これで切り上げて依頼主
に成果を渡そうか、考えていたんだけどね」

 依頼主に会うには首都圏へ赴く事になる。
 桂や柚明の状態が酷い様なら様子を見に。
 日帰りで訪れて励ます事も考慮に入れて。

 泊りや長居はしない。あたしは2人の甘々な新婚生活に割り込む無粋は好まない。身近
に長く接すれば、鬼という人外の物の存在を知った桂に、観月の正体を勘付かれかねない。

 都市部なら常に携帯も繋る。山奥より秀臣達もあたしを捕捉し易い。その気になれば今
から走れると、朝餉の後で見通しを述べると、

「浅間さんは、ここにいた方が良いです…」
「何か、視えたのか?」「確かな物は未だ」

 彼らは尚数泊する予定で、部屋を引き払う体勢になく。人目に付かぬ様に秀臣の部屋で
話しを聞く。と言っても讃良が視たのは満月の照す羽様の屋敷を前に、あたしが佇む姿だ
けで。何があるか誰が何を為すかも不確かで。

「それでは曖昧すぎて、何をどうすれば良いのか見当が付かん……どうしたものやら…」

 秀臣が表情や声音に困惑を滲ませるのに。

 讃良も促されるが如く俯いてしまうのは。
 これも感応使いの感受性の鋭さの故かも。

 あたしはそれを自覚させ励ます為に声を。

「そんなもんだよ、関知や感応なんて物は」

 要因が定まってない時や、近くない未来や、己に疎遠な物は視え難い。柚明も全ては見
通せなかった。『力』の扱いに必須な心の制御が未熟な讃良に、思い通り視ろとは望めな
い。

「取りあえず羽様近辺にいれば良いんだろ」

 延長した仕事の納期迄はもう少しあるし。
 もう少し讃良に未来がよく視える迄待つ。

「わたしの能力を信用してくれるのですか」

 少し驚いた表情を見せた讃良にあたしは。
 年相応の女の子の素の顔を見た気がして。

「能力よりも、若杉さららを信じてみるよ」

 正視すると、頬を染める辺りは可愛いね。
 そこで脇から秀臣が、言葉を挟んできて。

「昨日はお話しできませんでしたが、見て頂いた資料から、状況は更に進んでいる様で」

「桂や柚明が、アパートの外に出る度に囲まれて密着されて。女記者に柚明が乳房をぎっ
ちり掴まれ、揉まれる様も昨夜は見たけど」

 太腿や二の腕掴んでかなり卑猥な質問して。女の子に問うてはいけない様な事も白昼堂
々。屈強な男性記者が隣家の敷地に不法侵入して、アパート覗き見を試みて柚明に阻まれ
るとか。

「もっと悪化しているって、言うのかい?」

「残念ながら。当初報道が一巡りした段階で、各社共に新しいネタが欲しい頃合らしく
…」

 桂が友達と図書館に行った帰り、週刊レディの女記者に捕まって、心の傷に触れる事を
言われ。ノゾミが鬼の『力』で女記者に魅惑をかけ、友達と連携して躱し、脱出したとか。

 別の友達が、週刊深長の屈強な記者が桂のアパート盗撮を試みたのを咎めて逆に絡まれ、
柚明が力づくで撃退して助けたとか。スポーツ東京の記者がそこに挟まり、仲裁の紛い事
をして、桂の家に上がり込んだとも聞かされ。

「動画資料は、明日にも届くと思いますが」

 相手は手を変え品を変え、自分達の好き勝手な時に、隙を窺い不意を狙う。柚明は桂を、
寝ても起きても常に庇い守り続けねばならず。一手一手対応できてもいつ迄保たせられる
か。

 報道されている記事は未だ賞賛が多いけど。
 取材現場では柚明のアラ探しが始っていて。
 叩きに転じそうな不吉な前兆が感じられて。

「東郷の監視? なんだいそりゃ」「羽藤桂さんの級友の父上が、その筋の人らしく…」

 柚明さんの件が騒がれてから、詰めかける報道陣より遠くで、全体を俯瞰している様で。
柚明さん桂さんに直接危害を及ぼすには、遠すぎる配置なので、危険はないと思いますが。

「当たり前だよ。葛が安否確認と保護を兼ねるって言うから、若杉の監視に文句を言って
ないんだ。報道陣はともかく、不審者や通り魔等からは、しっかり守って貰わないとね」

「推察では、東郷氏も娘と仲良くなった柚明さんの騒動を気に掛けて、様子見を命じてい
るのではないかと。娘大事な親らしいので」

「下手に桂の家の周辺で抗争を始められても、敵わないからねぇ。葛には末端の統制をし
っかりする様にって、伝えておいておくれよ」

「私の任務は、浅間さんの言葉を葛様に伝える事ではないのですが……やってみます…」

 高度に分業していると、必要以上の権限を持たされないから、予想外の時に困るのかも。
でもあたしが若杉の流儀に従う必要はないし。

「刑事が報道陣に紛れ、桂のアパートに張り込みしている? それもここの県警が向う迄
出張って? それって、まさか拾年前の…」

 入ってくる情報は、余り良い物ではなく。
 讃良も脇で言葉を発さず耳を傾けている。

「拾年前の件は人死にが出ておりますから」

 ノゾミとミカゲに心を操られた幼い桂と白花が、鬼神の封じを綻ばせ。姫様を、オハシ
ラ様を還してしまい。絶望的な強さの鬼神の復活を止める為に、柚明は己の人生を未来を
捧げて、ハシラの継ぎ手となって綻びを塞ぎ。でも僅かな綻びから漏れ出た主の分霊(わ
けみたま)は白花に憑いてその腕が正樹を殺め。

 1人の生命が喪われ。2人の消息はそこで途絶え死亡認定され。1人の記憶は鎖された。
唯一事情を知る真弓はこの夏逝って。入れ替りに拾年行方不明で、死亡認定されていた柚
明が戻った。当夜の生き証人が。警察が動いたのはその為なのか。でも人知を越えた鬼や
霊の事柄を、警察に解決できるとは思えない。

「当時は地元紙で少し報道された様ですが」
「すぐ報道が抑えられたのは若杉だろう?」

 はい。秀臣は室内なのに少し声を潜めて。

「若杉の圧で全国紙は事件報道を取りやめ。
 地方紙も事故死の疑いと扱いを小さくし」

 鬼に関る事件ならそれもやむを得ないか。
 真弓もそれを承諾というか希望していた。

 肉の体を喪った柚明は、幾ら捜しても発見等見込めず。鬼に憑かれた白花も人の理では
裁けない。事を引きずれば桂に事情聴取の手が及び、赤い痛みをぶり返す。それで真相を
思い出したなら、今度こそ幼い心が砕かれた。

 柚明は、未来永劫封じの要を務める予定で。二度と戻れぬ前提なら、この処置はやむを
得なかった。非情でもこれ以外の方法はなくて。

「丁度この頃に全国数カ所の県警で、裏金疑惑が騒がれて。経観塚を管轄する県警も、そ
の渦中に置かれ……立ち上げた捜査本部も開店休業の侭、迷宮入りになったらしいけど」

「では、尚動いている警察というのは…?」

 讃良の問に答えたのは秀臣の静かな声で。

「事件を担当した刑事の独自の動きらしい」

 担当刑事は職務に抱く使命感責任感が強く。
 組織的な動きは停止しても尚捜査を続けて。

「真弓の処には何回か、刑事が事情を尋ねに来て……完全黙秘を通したって聞いたね…」

 正樹の死因は腹を抉られた外傷と、記録にも残され。状況は明らかに他殺を示していた。

 現場にいた者は限られている。普段人が踏み入らぬ禁忌の山だ。通り魔や物取りが山奥
を通り掛る事は考え難い。幼い双子を除けば、人を殺められる意思と力を持つ者は3人だ
け。当人の正樹を除けば犯人は真弓か柚明になる。

 熱心に綿密に、地道に捜査した刑事なら。
 桂や柚明や真弓達の、拾年前迄の日々が。

 どれ程温かく幸せだったかも、把握済で。
 その後の落差も承知なら、放置出来まい。

『こうなると、真弓が真犯人の柚明を庇って、完全黙秘したと思われても不思議はないっ
て辺りかね。行方不明になっても生存を知るから口を閉ざしたと。なら刑事達が疑うの
は』

 心停止を確認された真弓の死は動かせない。白花はオハシラ様になって未来永劫出てこ
れないし。桂も当時幼子だった。刑事達が疑う相手も事情を尋ねる相手も、柚明しかいな
い。

 事実を話しても、現代の科学文明社会に生きる彼らが信じる筈もなく。そもそも事実は
明かせない。でも事実を呑み込ませない限り、刑事は柚明を殺人犯と疑って、今後も捜査
を。

 刑事も報道陣も、真弓が武道の家の出身で、素人でない事位は周知の筈だ。柚明が真弓
に師事して、武道の手ほどきを受けていた事も。既に屈強の男性記者を力づくで退けても
いる。

 柚明の強さが報道されないのは、その姿勢や体格や雰囲気が、どう見ても戦う人のそれ
ではなくて。文字に書いても写真に撮っても、説得力に欠ける為なのか。でも刑事達はそ
れを知って、合理的に拾年前の事件を推論する。

 若杉はどうなのさ。あたしの問に秀臣は。

「葛様は特段の対処は不要と、監視と情報収集のみ命じたそうです。彼らは法律に縛られ
て動く者達で、組織のバックもない常の人の、個人的な動きでは鬼の事件は解明できまい
と。妨げる動きが逆に関りを残す、今暫くは見守る様にと……職場や家族の個人情報の収
集を命じたのは、報道陣への対応と同じです…」

 葛も巨大権力の使いどころに、迷っている感じだね。下手に手を染めて関りを繋ぐより、
排除の必要の有無をもう少し見極める感じか。

『出来れば訪れて、直に逢って様子を確かめ励ましたいけど……さららの関知もあるし』

 今は己をいつでも動ける状態にして、動くべき時を見極めるか。報道陣も東郷も県警刑
事も、桂や柚明の生命を脅かす物じゃあない。

 羽様の荷物を回収してくると、独り旅館を出たあたしは、桂の携帯に電話を掛けてみた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「あ、サクヤさん? ちょっとおひさだね」

 桂は語調も声音も長閑で。女記者の不躾な質問が心の傷に触れたと聞いたけど、尾を引
いてはいない様だ。拾年前以前を思い返すと、時折『赤い痛み』は来るらしいけど。夏休
み前とは違って耐えられる物になっている様で。後は時間を掛けてほぐして行くと、柚明
も…。

「こっちは相変らず暑くて、気軽に外に出ると熱射病になりそう。良く記者さんも、バテ
ずに張り込み続けられるよ……経観塚は?」

「うん、まあ暑いかな。ご神木の辺りに迄行けば、山の上で風もやや涼しいんだけどね」

 桂は改めて、あたしが仕事を投げ出す形で、独り経観塚に赴いた桂を追いかけた心配へ
の礼を述べ。2人を町のアパートに送った時に、家に上がらず即反転する為に口にした理
由を、気に掛けていた様だ。桂を案ずる余りあたしが仕事を脇に避けた事に『大丈夫な
の?』と『ごめんなさい』を兼ね、あたしの近況を問うのに。あたしは気にする程の事じ
ゃないと。

 仮に違約金や損害賠償が発生しても。あたしは、たいせつな人を見守る為に生きている。
生きる希望をくれた人を愛でる為に生きている。仕事は生活の糧を得る術に過ぎない。ど
ちらを取るか迫られれば、答は決まっていた。今回は幸い依頼主が納期の延長に応じてく
れたから、助かったけど。例えそうでなくても。

「……こっちは仕事も順調だよ。そっちはどうだい? 週刊誌とかで、柚明が持て囃され
たり叩かれたり、結構騒がしい様だけど…」

 どうやら、柚明はすぐ傍にはいない様だ。
 桂の友達らしき女の子の声は聞えたけど。

「今もお姉ちゃん、詰めかけた記者さん達の応対しているの。合意して決めたルールに従
って取材して下さいって。多くの人は納得してくれたけど。ご近所の敷地に勝手に入って、
ウチの窓を覗き見てお姉ちゃんやわたしを撮る人もいて。ウチよりご近所に迷惑だから…。

 色々あるけど元気だよ。お姉ちゃんもノゾミちゃんの様に変りなしって、伝えてって」

「変りなし、かい。用意周到に良い答だね」

『桂にその答を託しておく辺りも、本当に』

 桂の話しではもうすぐ戸籍が復活し、柚明も携帯を持てそうだとか。いつあたしが再訪
できるか問われ、少し仕事が詰まっているからねと言葉を濁し。桂との通話を切り上げて。

「報道記者に、クッキー付きでお願いとは」

 私的な仲を結べば報道で加減を望める等と、甘い見込を抱く柚明ではない。それでも誠
意を込めれば、不法侵入や盗撮をある程度抑止できると。隔日で報道陣に自ら応対する事
で、報道陣の暴走を防ぎ。取材ルールの合意で未成年の桂やその友達への、無法な取材の
波及を防ぐ。何より報道陣も仕事で来ているなら、出来る事は協力するというその発想が
独特で。

 乳房を掴んで揉んだ女記者や、力づくで退けられる迄己を省みない強引な記者や、様々
な策動で人の隙に入り込む記者や。彼らに好意的である必要など、あたしは全く感じない
けど。甘いのか聡いのか柚明は時々分らない。

 まあ、桂も元気に過ごしている模様だし。
 柚明も柚明なりに応対できているのなら。

 讃良に確かな像が視える迄もう暫くの間。
 あたしは経観塚に留まって様子を窺うか。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


『サクヤさん、縁側へいらして下さいな…』

 正樹も柚明も、真弓さんもいませんから。

 真弓が嫁いできてからは、笑子さんはあたしの恥じらいを察し。念入りに人目を避けて、
中庭を見渡す縁側にあたしを招く。銀座通のスーパーへ柚明達が買い物に行き、幼い双子
が薄い毛布を纏って抱き合い微睡む昼下がり。

 笑子さんは縁側に座布団を敷いて座り込み。
 あたしは日向ぼっこする猫の様に横たわり。

 膝枕してくれて、あたしの額に手を置いて。
 頬を頭を撫でる感触に逆らわず、目を細め。

『艶やかで長い髪が、柔らかく心地良いわ』
『笑子さん、恥ずかしいしくすぐったいよ』

 髪を梳く感触にぞくっとしつつ逃げ出さず
 笑子さんの柔らかさを身震いして感じ取り。

『誰も見てないから、少し位良いでしょう』
『笑子さんが見てるじゃないかい。姫様も』

 くすぐったがって蠢く事で笑子さんが喜ぶ。
 互いに肌身触れ合わせる事が楽しく嬉しく。

『姫様に見つかったら……怒られちまうよ』
『オハシラ様もきっと喜んで下さってるわ』

 笑子さんの膝枕に身を預ける様になって幾拾年か。笑子さんの旦那も正樹達姉弟も、浅
間サクヤのこの様は、語らぬ内に知られ、知って触れぬ公然の秘密で。柚明に知られたの
はいつの頃か。真弓には隠し通せた筈だけど。

 暖かな日の照す静かな縁側で。脱力して横たわるあたしの頭を膝に載せ。滑らかな指は
優しげにこの頬を撫で、額に触れ、髪を梳き。くすぐったさや恥じらいに、身じろぎする
と。笑子さんもころころと箸が転がった様に笑み。

 本当に、全ての憂いを忘れて2人心を開き合い。笑子さんは大昔、姫様がして下さった
様に、あたしが望み願う侭に膝枕してくれて。何年も、何拾年も、最期を迎える前の晩秋
迄。

 太古、姫様に逢いに羽様の屋敷を訪れては。姫様には縁側で膝枕して貰った。優しく滑
らかな手はこの頬を撫で、髪を梳き額に触れて。幼かったあたしを丸ごと受け止めて下さ
った。

 人から厭われ嫌われる化外の観月でも独り。
 四つ足にもなれない半端な己に塞ぎ込んで。

 行く当てを見失ったあたしを姫様は拒まず。
 疲れ果ててその膝で眠り込んだのが始りで。

 姫様とお話ししたく、喜ばせたく、膝枕して欲しく。あたしは面白い話しや、美味しい
木の実や、珍しい玉石を手にしては、屋敷の人に時折迷惑な顔をされつつも、通い詰めて。

 姫様は静かに優しく穏やかで。あたしを見下しも嫌いも隔てもせず。肌身を合わせてお
話し聞いて下さって。微笑みかけて下さって。時に触れ合い一緒に眠り、時に背に負い羽
様の山頂の景色を見せ、時に膝枕され寝物語を。

 あたしはその感触を千年忘れる事が出来ず。鬼切部に里を襲われて、仲間を全て殺され
て。自身も深傷に死を覚悟した、終戦間際の新月の夜に。笑子さんに生命救われ、心救わ
れたあの時に。柔らかな膝枕に心と体を預けきり。

 笑子さんは、桂や柚明程じゃないけど贄の血が濃く。関知や感応を使いこなせ。その血
を呑んで、強く心繋げた浅間サクヤの内心は、何となく悟られて。幼いあたしが姫様に願
って望んだ膝枕を、尚忘れ得ぬと察してくれて。

 流石にこの姿に育ったあたしは、千数百年経た今になって、膝枕もないだろうと躊躇っ
たけど。笑子さんは姫様譲りの満面の笑みで。恥ずかしがる事はないわ、今は誰も見てい
ないのだし、と誰もいない場面を用意して招き。笑子さんはあたしが逆らい難いと分って
いる。

 誰かに見られたら言い訳出来ない恥ずかしさも。互いの頬を染め仲を熱く繋いでくれる。
されているのが自分でなければ、この様を写真に撮って、終生突っ込みを入れる処だけど。
笑子さんは乙女の頃から人妻になり母になり、夫を喪い娘を喪い、孫を得ても尚清く優し
く。

『わたしは、オハシラ様を錯覚させる位しか出来ないけど』

『姫様を思い起こさせる肌だけど、あたしは笑子さんだから嬉しいんだ』

 最初は忘れ得ぬ姫様の感触に似た肌触りに、笑子さんの申し出に甘え。別の女を思いつ
つ肌身を繋ぐ非礼を、承知と言うより笑子さんは望んで申し出た。あたしの心の傷を埋め
ようと、この心を満たす事を喜びとしてくれて。

 もう姫様を思い描いてではなく、笑子さんを感じ取りたく。全力で膝枕される様になり。
一番にだけは出来ないけど。最期迄一番は譲れないけど、本当にたいせつな人。優しく静
かに賢く強い、浅間サクヤの生命と心の恩人。

 笑子さんは、羽藤笑子としてあたしを愛しつつ、最期迄、姫様の代役の立場も手放さず。
あたしの一番の人だと分っているから。太古、姫様があたしを愛でた様に。あたしが姫様
に欲し望んだ様に。あたしの渇仰に応える事を喜びとして。この人は終生自身の欲求より
も、あたしを満たす事を望み。子や孫の幸を願い。

『もうすっかりしわくちゃで、昔の様な張りも艶もなくなったけど』

『長い年月を一緒に積み重ねてきたと思えるこの肌が愛しいよ』

 その老いが心から愛おしく思えたと同時に。どうしてあたしは、みんなと一緒に老いら
れないのか。この時は観月の生れが悔しかった。姫様をいつ迄も待てる巌の寿命は、瞬く
間に笑子さんを、真弓を正樹を鬼籍へと隔て去る。山神でも鬼でも、浅間サクヤは余りに
無力で。誰も残ってくれない。誰1人引留められない。出逢いは必ず数拾年後に、哀しい
最期を導く。

『……サクヤさんには、柚明と正樹達を含めたみんなを、見守って欲しいの。それぞれに
強さと弱さを併せ持った、わたしが愛したたいせつなひとたち。愛する者を見守ることは、
愛する者の死の看取る事にも繋るけれど…』

 桂や白花の様に新しい生命は生れ出てくる。

 柚明の様にそれを目の当たりにする事で視野が開ける人もいる。わたしはここ迄だけど。

『暖かな想い出は残るでしょう。そしてこの想いを受け継ぐ人達が、更に続いてくれる』

『約束は、守りましたからね。わたしの子や孫が、貴女を決して1人にはしませんから』

『サクヤさん、正樹、真弓さん、柚明、白花に桂。繋っていくのね。わたしが終ってもわ
たしの想いは終らない。思いやる心が、引き継がれ。そう信じて逝けるわたしは幸せ者』

 何一つまともに役立つ事出来なかったけど。
 貰いっ放しで、何も返せていないからこそ。

 せめてその願いを自分の願いにして叶える。
 その位は約定して、少しでも心安らかに…。

『分ったよ。笑子さんの大切なひとたちの幸せは、あたしが守るよ。必ず、守るからさ』

 姫様……寂しいよ。白花や桂が残ってくれても。幾ら想いを継いでくれても。笑子さん
に抱いた想いは笑子さんへの想い。真弓や柚明への想いじゃ替られない。柚明への想いが、
他の誰への想いでも替えが効かせられぬ様に。笑子さんを喪って再び逢えないのは哀しい
よ。

 みんなあたしを置いて行く。愛しい想いは続くけど、終らないけど。哀しみも永久にな
くならないよ。残るのは姫様だけだ。姫様は、千年経っても万年経っても、決していなく
ならないよね。姫様は悠久にご神木に宿って…。

『ごめんなさい。こうして現身で出て来られたのが、わたしでしかなくて。サクヤさんが
一番逢いたい人ではなくて。わたしが守って、受け継がなければならなかったのに…
…!』

 髪に触れる手の感触が、随分若々しく張り艶があるのは。笑子さんに、姫様の手に良く
似た柔らかさ優しさだけど、微妙に異なって。

 笑子さん亡き後、姫様の代役のみならず笑子さんの代役迄兼ねて望み。あたしの喪失感
を埋めようと、懸命に肌身を添わせてくれた。あの夜迄の短い間、幾度か膝枕をしてくれ
た。

「ゆめい……あんたかい、済まないね……」

 その顔は浮ぶのに。その声は届くのに。でも今あたしに触れるこの掌は、いつの柚明か。
当時高校生だった柚明の手より指より、もう少し細く華奢で。感触もやや力強さを欠き…。

「柚明? 姫様? 笑子さん? ……桂?」

 どの感触でもない様な気がして考え込むと。
 急速に微睡みからあたしの意識は覚醒して。

「……お目覚めですか? ……浅間さん…」

 羽様の屋敷の縁側で、身を横たえたあたしの額に髪に触れていたのは、若杉讃良だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「さ、さらら……聞いていた?」「はい…」

 縁側で寝込んだあたしを膝枕して、髪を梳き頬を撫で額に触れていたのは、讃良だった。
あたしはびくっと身を縮め、慌てて飛び起きようとして、もう既に遅しと悟らざるを得ず。

 一番間の悪い処を見られた。よりによって、若杉の感応使いに。讃良の感応の『力』が
どの位かは分らないけど、羽様の屋敷で想い出に浸っていたあたしは、完全に心も無防備
で。

「いつから、視て……?」「少し前から…」

 あたしの目覚めに驚いた讃良は、やや強くこの髪を抑え。無理に跳ね起きれば讃良を引
きずってケガさせかねない。恥ずかしい様を見られたのは、取り返せないと割り切る他に。

「あんた、どうしてここに」「関知の像で視えた羽様の屋敷に直に来れば、もう少し詳し
く確かに、見通せるのではないかと考えて」

 秀臣さんに連れてきて貰いました。その答にあたしは、秀臣にもこの様を見られたかと。
びくっと縮まるあたしの内心を讃良は察して。

「大丈夫です。秀臣さんは緑のトンネルの外の道路脇に、車を駐めて待機してますから」

 若杉が浅間さんの想い出に触れるのは差し出がましいから、用のない自分は車で待つと。

「わたしも深入りを避ける様に言われたので、玄関から入らず中庭に回ってきたのです
が」

「あたしが、寝転がっていたって訳かい…」

 はい。拾弐の娘の瞳があたしの真上で頷き。
 その顔色が日頃より柔らかな気がするのは。

「あたしは何か言っていたかい?」「はい」

 讃良はあたしを正面真上から見つめつつ。

「柚明さん、桂さん、真弓さん、笑子さん、姫様、寂しい、哀しい、愛しい、嬉しい…」

 耳迄血が巡って行くのが分る。己の鼓動が聞き取れる。讃良は感応使いだ。言葉に込め
た想いもあたしの夢も、ある程度視えている。あたしの監視に付くなら、柚明も桂も承知
で、真弓も笑子さんも姫様の事も知っているかも。

「愛されているんだなって感じました。浅間さんは羽藤の皆さんを深く想い、羽藤の皆さ
んに強く想われている……羨ましいです…」

 茹で蛸になって行く熱を急に冷ましたのは。
 間近な讃良の寂しさを堪えて歪んだ表情で。

「わたしには、誰もいません。蠱毒を経てしまったわたしには、身内は全て敵に見えます、
仇に見えます。次の蠱毒で滅ぼす相手に映り、逆に常にこの生命を狙われている気がし
て」

 この娘もとてつもない孤独を背負っていた。
 父に母に取り残されて誰にも心を開けない。

 一族と言っても血縁と言っても、ない方が良い位の、血で血を洗った惨劇の末の関係だ。

「羽藤の人は、身内で殺し合う事はしないのですね。騙し合い貶め合う事も、潰し合い啀
み合う事も、しないのですね。羨ましい…」

 讃良には、桂や柚明や浅間サクヤが眩しいのだ。互いを身命を賭けて助け合い想い合い、
癒し合い励まし合う。笑子さんや真弓の様に鬼籍に入る事はあっても。殺し合った末でも
憎み合った末でもない。それは若杉の讃良が永遠に手に入れられぬ『身内』かも知れない。

 讃良があたしを膝枕し続けたのは。敵になりうる浅間サクヤの、内心を覗く為ではなく。
この醜態を嘲笑う為でもなく。羨ましく微笑ましく、視つめていたかったのだ。あたしを
愛してくれた人達を。あたしが愛した人達を。

 秀臣さえも讃良には、潜在的な敵で仇で。
 葛を憎むなら葛に怯えるのも理の必然で。

 心開ける者は誰もいない。その心細さが。
 溢れそうな双眸の雫があたしを動かした。

「あんたも、身内が欲しいのかい」「え?」

 とても見てられなかった。若杉は敵だと百も承知だけど、今尚憎しみは拭えてないけど。
目の前で素直に瞳を潤ませ、あたしの愛しい人達を羨む娘を。冷たく突き放す事が出来ず。

「さららは……化外の民である観月の浅間サクヤを、友に迎えてみる気は、あるかい?」

 もしあんたが望むなら。あたしの意図は告げる前に、感応使いの讃良には伝わっている。
驚きに目を丸く開くのは、悟れているからだ。

「可愛い娘が憎しみに歪んだり、悲嘆に心鎖したり、それを悟られない様に俯いて無表情
保ったり。見てられないんだよ。こうして巡り逢ったのも何かの縁だ。あんたがあたしの
たいせつな人を害しない限り、害する側に回らない限り、あんたをたいせつに想いたい」

 膝枕されながら言う台詞でもなかったかね。
 でも今はこの距離感を離さない事を選んで。

 正面真上間近で拾弐歳の女の子は固まって。
 一度綻ぶ顔が締まるのは糠喜びを怖れての。

「わたしは、若杉です……若杉讃良、サクヤさんの仲間の仇で……血塗られた毒虫です」

 葛が、桂に恋い焦がれながら、どこか躊躇い踏み出しきれなかった訳を悟れた。桂が柚
明を一番大事に想っている事への遠慮以上に。葛は己が蠱毒に染まり人を不幸に陥れ、詛
いを力に換えてきた、若杉だという自覚の故に。桂の清さ優しさを愛する故に、手を伸ば
す事を憚り。桂を己の色に染めてしまう事を怖れ。讃良が眩しさに怯えて進み出せぬのと
同様に。

「あんたは唯の若杉じゃない。若杉さららだ。あたしはさららを若杉と分って友に迎えた
い。

 あたしは、観月の仲間を虐殺した千羽の出である真弓とも、大切に想い合う仲になれた。
桂と白花はその子供さ。真弓が観月の仲間を殺した訳じゃない、直接の仇じゃない。さら
らも同じだ。さららが観月の虐殺を命じた訳じゃない。真弓はあたしと真剣の戦いを経た
けど、分り合えたら心強い友になってくれた。さららは未だあたしを害しに来た事もな
い」

 条件は真弓よりずっと良いと思うけどね。
 そう語りかけて答を待つと暫くの沈黙が。

 答は仕草でも言葉でもなく、零れた雫で。
 正面真上の、讃良の双眸から溢れた涙で。

「良いんですか……わたしは、わたしは若杉なのに。葛様の命に逆らえないのに。若杉の
指示一つで、浅間さんやそのたいせつな人に、害を為すかも知れない、そんなわたしを
…」

「桂や柚明を巻き込むのは、止めて欲しい処だね。でも、葛も桂を深く好いてくれている。
敵対する事にはならないよ。そうなった時の覚悟は出来ているけど……叶う限りそうなら
ない様に努めるさ。さららも含めてあたしのたいせつな人が、啀み合う様は見たくない」

「わたしも含めて?」「さららも含めてさ」

 あたしは掌を伸ばして、讃良の頬に触れ。

「若杉さららは浅間サクヤのたいせつな人だ。一番にも二番にも出来ないけど、叶う限り
大事に想う。本当は可愛いのに、いつ迄も年不相応に固まっていたら、折角の可愛さが台
無しだ。烏月の様に表情も考え方も硬くなる」

「千羽の鬼切り役って、考え方も表情も硬いのですか?」「ああ、コチコチの石頭だね」

 本当にもう、ロボットの様な冷徹さだよ。

「可愛さが、台無しなのですか?」「ん…」

 そこで頷くと、烏月が可愛いって、認める事になっちまうじゃないかい。そう応えると。

「有り難うございます。千羽の烏月さんは写真で見た事がある位だけど、凄い美人だから。
較べて貰えた事が嬉しいです」「なっ…!」

 答に困るあたしの頬に額に、間近な讃良から次々に雫が落ちてくる。その暖かさが讃良
の心の解れ具合を、示している様にも思えて。

「嬉しいです。わたし、ずっとこうして人とまともにお話しした事がなくて。ずっと敵か
仇か他人にしか見えなくて。憎くて怖くて」

 浅間サクヤは、若杉さららのたいせつな人。
 観月でも鬼でも、化外の民でも山の神でも。

 毒虫で若杉のわたしを大切と言ってくれた。
 心から膝枕してあげたいきれいな女性です。

 結局讃良が新たに見通せた像はなく。あたし達はお互いの気持を繋げた事だけを成果に、
さかき旅館に引き返し。心に大きな浮動があると、喜びでも驚きでも関知や感応の妨げに
なると、柚明も言っていたから。今回は諦め。秀臣は讃良の印象の変化に目を丸くしてい
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 柚明に係る報道の風向きは、この頃を境に変じたらしい。それは柚明の態度や判断の影
響ではなく。現場記者の印象や関係では手の届かない処で、新聞雑誌が揃ってその流れに
持ち込むと、予め業界示し合わせていた様で。


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