人の世の毀誉褒貶〔丙〕(後)



 柚明おねーさんの報道陣への意思表明には、わたしも呆気にとられました。訓辞の効果
で、配下も桂おねーさんやその周辺状況を、逐一葛に報せる様になり。報道陣とのやり取
りをリアルタイムで、興味深く見せて貰いました。

 柚明おねーさんは朝8時過ぎにアパート玄関前に1人進み出て、群がってきた報道陣に、

【わたしへの取材を目的に来ておられる記者さん達への、お願いです。これを、どうぞ】

 烏月さん恵美さんも興味津々眺める中で。

【陽子ちゃんいらっしゃい。今日も来てくれて有り難う。桂ちゃんはもう起きているわ】

 丁度奈良さんが桂おねーさんを訪ねており。奈良さんが室内に入るのを見送りつつ、柚
明おねーさんはバスケットとプリントを報道陣に示し。入っているのは手作りのクッキー
で。

【みなさんもお仕事お疲れ様です。連日わたしの様な者を撮る為に、雨風に晒されつつ】

 この人は、己や家族の私生活を覗き見し脅かす仕事に励む者にも、柔らかに丁寧に心か
らお疲れ様ですと会釈して。この底抜けな人の良さは、本当に桂おねーさんの身内ですね。

【自治会長さんにお願いして、隔日で朝8時から暫くここ、アパート前をみなさんとの質
疑応答の場に、使わせて頂く事になりました。今後はそこで集まって頂いた各社のみなさ
ん全員に、受け答えしたいと考えています…】

『一社一社に似た事を繰り返し聞かれるより、時間指定して集まって貰い、一度で済ませ
た方が効率的、と言う事でしょうか? 葛様』

 烏月さんの言う効用は誤りではないけど。

『隔日で確実に応対するから、逃げ隠れも取材拒否もしないから。報道陣も常に張り込み、
見かける度にマイクを向けなくても良くなる。今後止めて欲しい、と言う辺りでしょう
か』

 恵美さんの言う効用も誤りではないけど。

【未成年の桂ちゃんやそのお友達を、勝手に写真に撮ったり掲載したり、マイクを向けな
いで頂きたいのです。お隣さん等の私有地に不法侵入しての撮影も、盗撮盗聴も。見かけ
たら家の人や交番に通報するのは勿論、その社の方の質問には答えないという措置を執ら
せて頂きます。今後の取材は、受け答えの場を設けた以上、羽藤柚明本人にして下さい】

 柚明おねーさんは取材拒否ではなく、正当な方法を整える事で。無法取材を抑えよーと。
そしてその真の意図は、桂おねーさんや友達に取材しないでと。柚明おねーさんに応対を
集約させる事で、他の負担を軽減しよーとの。

 桂おねーさんや奈良陽子さんが強引な取材に困惑した状況を踏まえての、彼女の答です。

 でもこの人の性分が最も良く顕れたのは。

【これはわたしからみなさんへの気持です。
 不束者ですが、宜しくお願い致します…】

 柚明おねーさんは、焼きたてのクッキーを報道陣に配り。今話した取材についての取り
決めの紙も配り。かなりの人数いた様だけど、彼女はその場に来ている報道記者のみなら
ず、戻った各社の編集部の人の分も作ってあって。

【んっ……頂くか】【美味しいわね、これ】

 黒髪長い熊谷記者も、背の低いスポーツ刈りの内川記者も。黒髪ショートの大島記者も、
二十歳代後半の細身な中山記者も。屈強な体躯の権田記者と相方の宮下記者も。怯えも嫌
悪もなく配る柚明さんから、クッキーを貰い。

 先日柚明おねーさんに後ろから抱きついた、縮れた黒髪長く眼鏡の平塚寧々も。松原伸
江もその脇で無言で受け取り。今わたし達が3人で食しているのは、実はそのお裾分けで
す。松原伸江と宮下太一には、他社の編集部への持ち帰り分よりも多く、クッキーが手渡
され。

「つまりは恵美さんや烏月さんの分という事です」「『葛様の分』が抜けておりますが」

 たはは。烏月さんの返しに苦笑してから。

「彼女は若杉の監視配置を見抜いているという事ですか?」「そーいう事になりますね」

 恵美さんの表情は、渋く考え込む感じに。

「柚明おねーさんは報道陣の他に、ご近所へクッキー配りしたその足で。東郷の監視員や
ウチのダミー監視班、それに県警刑事にもクッキーを渡した様で……悉くお見通しです」

「会長が仰る程賢い女性なら……柚明さんは見抜いているのでは? 幾ら現場記者と関係
を結べても、各社上層部の判断で報道の風向きは定まってしまい、殆ど効力はないと…」

 ええ。そーでしょーね。わたしは、無駄と見えている事をなぜ為すのかと、表情で問う
恵美さんに、頷きを返し。実際この会見は報道もされず、良好な雰囲気は紙面に影響せず。

 記者も雇われだから、上層部の意向には逆らえない。結べた信頼は現場レベルに留まり。
それを平気で裏切る様な報道は繰り返される。それを承知で柚明おねーさんは関係を望ん
だ。

「彼女にとって、信頼関係は役に立つか立たないかではないのです。目の前に関りのある
者がいれば、力になりたく想い絆を結びたく願う。それは彼女の習性の様な物であって」

 これで解決とは、柚明おねーさんも考えてない。葛の分迄クッキーを作って託したのも、
全て把握しているから大丈夫と言う彼女のメッセージで。安心も油断もしてないと。だか
らわたしも若杉を動かしての直接介入をせず、マスコミの暴走に近い動きを模様眺めに留
め。

 桂おねーさんは心迄しっかり守られている。葛はサポートの準備で良いと。己が活躍し
て役立ちたい欲求を抑え。桂おねーさんに喜んで貰いたい願望を抑え。遠くから事を見守
り。

 この頃を境に柚明おねーさんに関る報道は。
 賛美からバッシングへ梶を切り始めていた。


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「スポーツ東京と週刊レディが、動きだしましたね……週刊深長と夕刊トップに続いて」

 わたしが読みかけの紙面を放り捨てると。
 烏月さんが拾い上げてその内容に憮然と。

「スポーツ東京、熊谷記者の記事ですか…」

『奇跡の人の拾年ぶりの復活は遺産狙い?』

 拾年前に父を喪い、母1人子1人の母子家庭に育った女子高生Kさんが、急な病で母を
喪ったこの夏、入れ替りに現れた年上の従姉。天涯孤独の心の隙に入り込み、唯一の肉親
として振る舞うも、その狙いは膨大な遺産か…。

「柚明さんが、羽藤桂さんの遺産を掠め取る狙いで現れた様な印象を与える記事ですが」

『従妹Kの親友Y子の語った内容によれば』

「奈良さんの名前が使われた様ですね。今頃彼女も怒り心頭でしょー。発言を切り貼りし
て抜き出され、好き放題に使われて、自分が好いた人を非難している様な感じにされて」

 奇跡の人Yは従妹Kのアパートに同居して、Kの母がKに残した遺産を費やして、生活
していく。拾年間まともな職についてないとは、一体どういう行方不明だったのか疑念が
募る。

『本紙も更に究明・調査を進める方針だが』

 YがKに養われる状況に違いはない。その位奇跡を起こして食い繋げと言いたくなるが、
Yは自身の死亡認定時に、己の資産がKの母に渡っているからと、己の権利を頑なに主張。
女子高生で死亡認定されて、どれ程の遺産だったかは知らないが、高利回りな資産運用だ。

「熊谷記者の解釈や表現に悪意を感じます。
 本当は異なる言葉の連なりなのでしょう」

 烏月さんの印象に恵美さんは頷きを返し。

「人は己の物差しで他者を測ります。損得勘定に生きる者は、羽藤桂さんと柚明さんの関
係にも、利害や打算を読み取るのでしょう」

『死亡保険金もありその遺産はかなりの額』
『Yが戻らなければKが全て相続していた』
『丁度良い時に戻ってきた物だ、正に奇跡』
『Kの母の死去から動き出した。その逝去を見定めた様なこの挙動には、重大な疑惑が』

「夕刊トップは、彼女を行方不明中の現役女子高生、半澤優香だと報道を展開中で。時期
で言えばこちらが最初で『天涯孤独の羽藤家に遺産狙いに潜り込んだ』設定を流用し、各
紙一斉に同様のバッシングに転じた様です」

「恵美さん。それは間違いではないですけど、各紙はバッシングに移る時を待っていまし
た。夕刊トップは先陣を切ったに過ぎないです」

「持ち上げて有名人にしなければ、袋叩きに報道しても売れない。だから最初に意図して
気味悪い程持ち上げて理想の人に報道し…」

 一般多数にその印象を刷り込んだ後で叩き。
 落差への驚きと興味から売り上げを伸ばす。

「報道業界には、鬼より鬼畜な者が棲む…」

 烏月さんの読解は明晰で過ちではないけど、それだけでもない。わたしは2人に向き直
り。

「このバッシングには、未だ裏があります」

 調査によればこのバッシングは、総理や政権党を支持する側からの働きかけに依る物で。

 最高幹部が葛の流浪を伏せる為に、柚明おねーさんの情報を流す様に指示し。若手幹部
の式部さん清経さんがそこに便乗し、総理や選挙への関心を散らす為に報道を煽り。柚明
おねーさんは全国的な反響を呼んで、反総理の成果となってしまい。若杉が総理や政権党
に敵視される危機を招いたのは、周知の通り。

 一般多数に広がり好奇心抱かれた報道を抑える力は、若杉にも政権党にも政府にもなく。
野放しな現状を桂おねーさん達に謝った事も。

 それを快く思ってない政権党・総理周辺が、柚明おねーさんへの注目をいー加減減じた
く。世間の評価を下げよーとバッシングを画策し。頃合を見計らっていた報道各社は一斉
に乗り。柚明おねーさんへの誹謗中傷が堰を切ったと。

「家隆さんが誰の指示か調べてくれました」

 若杉配下は総理や政権党についても、柚明おねーさんの誹謗中傷等させはしない。でも。

「松中財閥、松中勝家とその孫娘、靜華…」

 警備業を柱に伸びてきた新興財閥で、若杉にも敵対的競争を仕掛けている怖い物知らず。

 自社の警備員に麻酔銃やペイント銃を装備させたいと、銃刀法改正を主張し。警備業の
海外展開も図りたいと武器輸出の解禁も求め。自由貿易だ規制緩和だと。その過激さを一
部野党議員から『戦争主義者』と罵られ。マスコミの風当たりを躱す為に、突然女子大生
の孫娘を社長に据えて、好意的な話題を呼んで。

 今回選挙でも、新興企業集団ライフドアや、投資家集団浦上ファンドと3人4脚で、大
泉総理の『改革』を更に推し進めよーと。政権党支持勢力の中でもやや穏健な、商工会や
農協漁協、医師会、東郷や若杉と色彩が異なり。

 そこで烏月さんは珍しく声に不快を宿し。

「痛みを負わない場所にいる者程、気安く戦いを謳い上げます。鬼も人も切る私が申し上
げるのも何ですが、松中財閥会長の勝家氏も、息子の安弘氏も孫娘で女子大生の靜華社長
も、戦いや武道・それを扱う者を将棋の駒と見なしています。彼らは戦いを貶める者達で
す」

『それは若杉にも拭い難くある傾向ですね』

 そう感じつつも黙して耳を傾けていると。
 烏月さんの渋い表情に恵美さんも頷いて。

「確かに松中靜華は、拾弐年前の山田里奈から始って、フェンシングや剣道の強者女性を、
玩具の様に掻き集め。高額報酬でファースト警備保障の広告塔にした後、歳を取ると使い
捨てにし、次の強者女性を漁る繰り返しを」

「最近はその強者女性を芸能界に売り込んで、歌って踊るアイドル少女剣士隊を目指すそ
ーですね。『靜華だけの7本槍』とか言って」

 取り巻きと一緒に繁華街を巡り、剣を振るって悪者をやっつけるショー紛いの事をやり。

「残業させないと残業代廃止を強行し、警備代が下がって顧客には好評ですが、業界は大
混乱で。若杉系列の警備会社も、数カ所で価格競争に敗れています。ファースト警備保障
の従業員の間では、実際にやった残業もタダ働きになると、不平の声も聞いていますが」

「恵美さん。追い風の時はやりたい放題好き放題です。問題は追い風が止まった時、向か
い風の時に、どう凌ぐかで。今は総理と政権党を支える盟友です。金持ちケンカせずです。
こちらも若杉の足下固めに未だ忙しーので」

 烏月さんと恵美さんは揃って頷いたけど。

「……ですが、柚明さんへのバッシングはどう致しますか? この侭放置する訳には…」

 何らかの手は打つべきと、烏月さんが食い下がるのに。わたしもそれは当然と頷き返し。

「松中勝家も靜華も情報制御に失敗しました。今更彼らをどーにかしても得る物はない
…」

 そこ迄言って2人ははっと気付いた表情に。

「確かにその通りです。賛美報道は終りましたが、バッシングの過熱で逆に柚明さんの注
目度は高まっています」「賛美報道よりスキャンダルに人の耳目は集まり易い。松中靜華
は柚明さんを貶めて存在感を消し、総理や選挙から人の関心が散らない様に企んだけど」

「逆に柚明おねーさんは、一層注目を浴びてしまいました。松中財閥、痛恨の一撃です」

 つまりこの状況は彼らの想定を越えており。
 彼らに働きかけても効果は期待できないと。

「ウチの最高幹部が若手に足を掬われた様に。
 松中勝家も靜華も報道に足を掬われました。

 マスコミは政権党や総理周辺から、柚明おねーさんのバッシング報道を公認された錯覚
で燃え盛っています。既に一般多数に広がり、好奇心を抱かれた報道を抑え込む力なん
て」

 若杉にも出来ない事が松中に叶う筈もなく。

 鬼切りの頭の権限を使えば、柚明おねーさんに関る記事を、消し去る事は可能だ。でも、
一般大衆の欲求は消し得ない。なぜ載せない、なぜ書けないと、必ず問い糺され。若杉が
情報を止めていると明かされる。それは報道に手を加える若杉の存在を世間に晒す事に繋
り。成功の見込がない上に、失う物が大きすぎる。

 他のどの対策も効果は薄いと、柚明おねーさんは知っていて。ばたばた動いて失敗した
り副作用を残す位なら、動くべきではないと。あの女性はじっと耐えるべき時を心得てい
る。

「対策は、選挙報道を総理の願い通りもっと盛り上げる事でしょーかね。政権党の目玉候
補になりそうな、文化人やスポーツ界の人が、政界進出を承諾する様に若杉がお膳立て
を」

 既に造反組で著名な岐阜1区戸田聖子氏に、料理評論家近藤ゆかり氏を対抗馬にして
『女同士の戦い』と注目され。静岡7区の造反組木内実氏に、現役女性官僚の片山やよい
氏を当て。造反組巨頭の1人亀尾元運輸大臣には、ライフドア織江貴文氏が刺客となって
激戦を。

 選挙や政局が盛り上がれば盛り上がる程に。
 柚明おねーさんへの関心は相対的に薄まる。

 迂遠で即効性に乏しいけど今はこの位しか。
 松中財閥は本当余計な事をしてくれました。


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「こちらは○○県××市、今話題の奇跡の女性と同居する、従妹の自宅アパート前です」

 テレビのワイドショーも、連日柚明おねーさんの一挙一動を評論し。住所氏名は伏せ顔
はモザイク掛けるけど。最早報道陣に遠慮もなく。報道陣も数が増えれば、先頭でなけれ
ば答が貰えず、いい写真も撮れぬと押しかけ。

「財産目的に従妹の家に入り込んだって本当ですか? 母が死ぬのを待って現れたって」

「そもそも拾年行方眩ましたのは、Kさんの母に顔向けできない事情があったんでしょ」

「従妹を虐待し衰弱させているって噂があります。真相を答えて」

「隣家に文句言われた腹いせに、花畑を踏み荒らしたって本当?」

「田舎の屋敷と山林を、勝手に売ってお金に換えたそうだね。従妹は承知しているの?」

 応えてもまともな答は誰もそれを拾わない。
 自分達が掲載したい追及中の絵のみを撮り。
 連続して問い詰めて言葉で討ち取る勢いで。

「今日はお約束した応対の日ではありません。時間も違います。アパート入口はわたし達
の専用空間ではありません。自治会長さんとの約束が守れないと、近隣の方々の迷惑に
…」

「お前が応対悪いからだろう」「こんな特ダネ放っておけるかよ」「お前の約束なんか知
ったことか」「とっとと答えろ、あばずれ」

 背の高い成人女性や屈強な男性が密に群がる中心で。彼女は懇切丁寧に応え続けるけど。
1つの答を終る前に次の問が来て、早く答えろ答えられないのかと野次り煽る声が混じり。

「お前の配ったクッキー喰って、病院運ばれた人がいるんだ! ここで土下座して謝れ」

 熊谷記者の罵声が響く。報道陣は大勢で顔も映らないから言い放題だ。周囲から一斉に
『へー』と声が漏れ。次の瞬間再び柚明おねーさんに、フラッシュと冷たい視線が集中し。

 生放送で即答が必須だけど、求めに応じても応じなくても、曖昧でも非難が集まる問に。

 瞬時鎮まった中、綺麗な声は静かに強く。

「その方の入院先を教えて下さい。わたしが状況を確かめて、直に謝りに伺います……」

 この応対の妙は、女子高生どころか一国の代表にも匹敵する。関知や感応の力を持って
いても、否持っていればこそ逆にこの悪意の群れに囲まれて、平常心を保てる事が驚愕で。

 彼らは今迄多数のスキャンダルを追い続け、答を迫り、鎖す口をこじ開けてきたプロ達
だ。その彼らを前に一歩も引かず、怒りにも怯えにも囚われず。自然に柔らかな答を保ち
続け。

 でも周囲は窮地を切り抜けた柚明おねーさんを。更に四方八方から罵詈雑言で崩そーと。

「そんなこと市民は求めてないんだよ。今すぐここで全て認めて、頭下げれば良いんだ」

「悪いことしたらごめんなさいすると、親に習わなかったのか。あんた、酷い育ちだな」

「拾年行方不明の間に、一体何やっていたんだあんた。男漁りか、それとも女漁りか?」

「従妹さん見せてくれ。クッキーで倒れているんじゃないのかー」

「従妹さんが死んだら、遺産は全部あんたの物だよな、柚明さーん」

「アパート周辺は酷い状況ですね」「はい」

 最後はテレビ中継からスタジオに戻って。
 コメンテーター達のどうでもいー雑談に。

「他人事の様に中立顔で、非難される姿しか映さないテレビ局こそ、酷い情報操作です」

 烏月さんより先に恵美さんがそー語るのに。

「今に始った事ではありません。これでも大泉総理のお陰で随分風穴が空いた方ですし」

 報道表現の自由なんて、責任逃れの自由と、抗弁の術を持たない弱者を踏み躙る自由位
で。

「好き勝手と訳した方が良いのでしょーね」

 手元にあるのは、週刊レディの最新号で。

『奇跡の人と従妹Kの淫らに香るレズの園』

 少し前迄可愛いのお淑やかの嫁にしたいの、柚明おねーさんの容姿や仕草や言葉遣いを
褒めまくっていたのに。ここもバッシングに転じて。どの社も歩調を合わせ業界秩序を守
り。自由競争や実力主義を賛美する、報道業界も。

『女子校育ちで無菌飼育の従妹Kは、十歳年上の淫らなYには格好の獲物』『日々のスキ
ンシップの濃密さから、夜の激しさは窺い知れる』『最近のKのお疲れは夜の忙しさ故』
『不純同性交遊で退学にならないよう祈る』

 平塚寧々の妄想で、桂おねーさんと柚明おねーさんの夜の営みが、濃密に執拗に描かれ。

『本紙女性記者が背後から胸を揉んでも反応は微弱だった。掴み掛った男性記者を触らせ
もせず退けるのに較べ、信じられない程隙だらけな応対は、女好きを想像させるに充分』

 柚明おねーさんは、女性には手加減してしまうから。身を抑えられたり体を掴まれても。
痛い思いさせて振り解く位なら、敢て暫く為される侭になる方を選んだり。甘過ぎと桂お
ねーさんにも苦情を言われて、謝っていた……ぴったりと肌身を添わせて、頬寄せ合って。

『血の繋った従妹に鬼畜の爪が立てられる』
『男を知らぬ乙女同士の愛の園は甘く香り』
『もう2人の間に男の分け入る余地はなし』

「このレズ疑惑も他紙が騒ぎ立て、無責任に増幅される。夕刊トップで柚明おねーさんが、
経観塚で行方不明の現役女子高生・半澤優香で、羽藤家の資産狙いに現れた偽物と報じた
事が、他紙で増幅され『遺産狙い・金目当ての従姉』にされて行った様に。酷い物です」

「桂さんが最近余り外に顔を見せていません。平塚寧々との接触ではかなり消耗した模様
で。奈良さんや東郷さんを招き、一度は元気を戻した様でしたけど……外出が減っていま
す」

 烏月さんは桂おねーさんをよく見ています。
 恵美さんがそれに応える形で報道陣の噂を。

「虐待されたとかクッキーで食中毒になったとか。レズ疑惑の延長線上で精神失調になっ
たとか、出られない、出して貰えないとか」

 報道陣がバッシングに転じた事も、一因と思われます。羽藤桂さんが従姉に心を寄せて
いるなら、報道陣は味方とは言えませんから。

「そーですね。仮に桂おねーさんが元気でも、今は外に出ない方がいーとわたしも思い
…」

 そこで電話の着信を報せるランプが付いて。
 内線と思い何気なくスピーカーで繋げると。

「つづらっ! あんた一体何やってんだい」

 多分日本でこの世で唯1人、若杉葛を頭ごなしに叱りつけられる、実年齢は千数百歳だ
けど自称二十歳の女性の良く透るがなり声に。葛は思わず、執務室の椅子から飛び上がっ
た。


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「サクヤさん。一体どーやってわたし直通の電話番号を知って、繋ぐ事が出来ました?」

「蛇の道は蛇さ。こっちはあんたの祖父の代から若杉に、散々接触されているんだ。糸を
辿ればその根に至るのは理の必然だろうに」

 傍では烏月さんも恵美さんも目を見開いて。
 繋る筈のない外部からの直接通話に驚いて。

 慌てて発信場所の逆探知に入っていたけど。
 一応用件を尋ねると憤懣をやや抑えた声は。

「言われる迄もなく分っているんだろうに」
「はい……桂おねーさん達の報道、ですね」

 配下が勝手に柚明おねーさんの件をマスコミに流し。一般多数が興味を抱いて、報道の
制御が効かなくなった。それで注目を散らされた総理サイドの松中財閥が、柚明おねーさ
んのバッシングを指示し。その効果が現れすぎて、最早誰も止められぬ暴走状態にあると。

 一応今迄の事実を簡潔に説明し。即効性のある方策はなく、選挙を過熱化させる事で人
目を逸らす迂遠な手しか、術がない事も述べ。

「もーしわけありません。今の処桂おねーさんにも柚明おねーさんにも、目に見えた危険
が及んでない事は、把握しているのですが」

「当たり前じゃないか。そんな事が起きそうなら、烏月や尾花を遣して守って貰わないと。
柚明は力量があっても戦いに不向きな娘だし。こっちはあんたが桂の守りを担うと思うか
ら、やりかけの仕事を片付けに遠く迄出たんだ」

 近くにいればあの人は、ここへ怒鳴り込みに来たかも知れぬ。万事に行動的な人だから。

「柚明おねーさんから、若杉の動きを止められてまして。おねーさん達の件と特定しない
形で、報道業界や交番等の指導は強化を…」

 柚明おねーさんがしっかり対応できている状況は、把握しています。必要とあれば若杉
財閥のみならず、鬼切部を投入する積りです。打てそうな手は全て打つのでどーかお許し
を。

「サクヤさんのたいせつな桂おねーさんは。
 葛の一番たいせつな愛しい女の子ですし」

 そんな葛の答に、受話器の声は少し黙し。

「分ってはいるよ、あんたはあんたでいっぱいいっぱいだって事も。拾壱歳の子供が突然、
若杉財閥の総帥と鬼切りの頭になって、巨大組織の中枢に座っても、即座に全部を自在に
動かせる訳じゃない。却って思い通りにならない事の方が、多い頃合なんじゃないのかい。

 あんたが桂や、桂のたいせつな柚明を大事に想っている事は、あたしも疑ってないさ」

 突然声のトーンが落ちて印象が落ち着いて。
 恵美さんも烏月さんも少しほっとした顔に。
 わたしの回答は概ね正解だったらしーです。

「唯あんたの反応を、確かめておきたくてね。あんたに直接訊けば概ね事情も分ると思っ
ていたし。桂や柚明に最近電話が繋らないんだ、羽藤の家電にも桂の携帯にも。何者かが
取材、ってより揚げ足取り狙いで柚明をキレさせようと、夜昼嫌がらせ電話掛けているら
しい」

「それは、松中勝家氏や安弘氏の手配らしーと調べが付いた処です。柚明おねーさんを心
理的に追い込み、精神病院に入れるなりして世間から隔離し、報道されなくしよーと…」

 彼らも失点を取り返したくて、必死らしーですけど。酷い手に出てくれました。触れて
はいけない葛の大事な物に、最も拙い方法で。

「裏社会を通じての動きですけど。若杉もそこは裏を使って阻みます。少しお待ち下さい。
単なる報道被害以上の動きは、柚明おねーさんにも話しを通し、葛が迅速に処置します」

 そう応えた時だった。やや砕けていたサクヤさんの声音が、再び引き締まって低く変じ。

「流石若杉は調べが迅速で確かだね。でも。
 松中には気をつけな……あそこは危ない」

「サクヤ、さん?」思わず問い直したのは。

 若杉の表裏を知る彼女が心配するなんて。
 恵美さんも烏月さんも顔を見合わせる中。

「松中のファースト警備保障も、不穏さが半端じゃない。麻酔弾やペイント弾を警備員に
使わせたくて、銃刀法の改正を主張中だけど。実際は法改正に先行して、違法でも、一部
に刃物や実弾を配備済らしい。裏社会や警察との癒着の接点だって噂も、聞いているよ
…」

 鬼切部を従える若杉が、後れをとるとは思わないけど。やるなら千羽党の本気を投入す
る位の構えでないと、痛い目を見る。あんた、未だ若杉の全部を掌握しきれてないんだ
ろ? 桂が大事な気持は分るから、準備不足な侭松中に手を出してしまわないか、気にな
って。

『この人は葛を心配して電話くれたですか』

 確かに葛も、安易な動きと感じていたので。教訓を垂れる意味で桂おねーさん宅や携帯
に、執拗な嫌がらせを続ける者へ、裏での処置を考えていた。サクヤさんの電話はその直
前で。

「……もー少し詳細に、対策を立てた方が良さそーですね……お心遣いに、感謝します」

「なに、桂や柚明を大事に想う物同士、必要な情報や意見の交換は、しておかないとね」

 桂おねーさんの夏の経観塚に寄り添った為に、中断された仕事の再開に、田舎へ赴いて
いたサクヤさんは。その終了後には、少し腰を入れて松中財閥を調べてみようかと呟いて。

「取りあえず桂や柚明が大丈夫な状況を、確認できて良かった。後、あんたが悪戦苦闘し
つつ急速に若杉を掌握しつつある事も。今回選挙で若杉が、大泉総理や政権党を支持する
って突然の表明は、あんたの判断だろう。先代は総理と疎遠だったし、突然の方向転換は、
あんたが若杉に戻ってすぐだったからね…」

 政治に興味はないけど、あんたの指導力や判断が若杉で効き始めているって悟れたのが、
あたしの収穫さ。桂の未来もあたしの過去も色々込みで、あんたには頑張って欲しいから。

 若杉財閥の総帥と鬼切りの頭を兼ねた葛を、拾壱歳の子供の様に頭ごなしに叱りつけら
れるのは。烏月さんにも恵美さんにも桂おねーさんにも叶わず、この世に1人かも。これ
は実は、暴走しがちな権力者には貴重な重石で。

「激励有り難うございます。年長者の助言は心に沁みます。年を重ねていればいる程にそ
の有り難みも増す様で……」「つづらぁ!」

 だからつい、からかってみたくなるのです。


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 サクヤさんと電話で話す間に、桂おねーさんのアパートの入口では、動きがあった様で。

「奈良さんが衆目の前で柚明おねーさんと抱擁? 知らない人には刺激的でしょーけど」

「はい。私達にはそれ程奇特な展開では…」

 一緒に報告を受ける恵美さんも、葛の感触に馴染んでくれて嬉しーです。それでもやは
り早回しの実況を眺める3人は、揃ってやや頬が赤く。奈良さんは耳迄赤く染まっていて。

『また誤解されて好き放題に叩かれますよ』
『承知の上よ。今は陽子ちゃんの方が大事』

 その応対は業界を駆け巡っているらしい。

『ユメイさんがいればはとちゃんが大丈夫なことも、ユメイさんが大丈夫なことも分って
いたけど。騒ぎの一部はあたしの失敗が原因だし。たいせつな人が大変な時こそ、何も出
来なくても励ますだけでも、心寄り添わせたくて。はとちゃんやユメイさんにも、この気
持伝えたくて。ごめんなさい! あたし…』

 ユメイさんとはとちゃんに、あたしの失言で迷惑掛けた。なのに顔向けできないって言
う自分の事情で、この大変な時に寄り添わず。大事な人なら、愛した人なら、自分が酷い
目に遭わせたからこそ。しっかり謝って向き合わないといけなかったのに。なのにあたし
っ。

『陽子ちゃんはわたしと桂ちゃんのたいせつな人。心の賢く強く、優しく清く可愛い子』

 夕刊トップの男性記者の酷い罵声も。週刊レディの平塚寧々の、舌なめずりした追及も。
この人の静かな甘さ優しさ麗しさを、打ち崩せず。奈良さんの心を庇う姿はむしろ輝いて。

『謝る事は何もない。あなたは失敗も過ちも犯してない。陽子ちゃんは桂ちゃんとわたし
を大事に想ってくれている。それはとても嬉しく有り難いこと。彼らは陽子ちゃんの行い
がなくても同じ事をした。気に病まないで』

 例え陽子ちゃんが失敗や過ちを犯した結果、桂ちゃんやわたしに害や禍が及んだとして
も。誤解やすれ違いの末に異なる想いを抱いても。長い時の果てに対峙を強いられたとし
ても尚。

『わたしのあなたへの想いは悠久に変らない。その位で解れる様な脆い絆じゃないわ。羽
藤柚明と奈良陽子は』『ユメイさんっ……!』

 そこへ桂おねーさんが病身を押して現れて。
 げっそりやつれたその様子はやや心配です。

 柚明おねーさんは報道陣の応対を切り上げ、女の子2人と室内に入り。奈良さんはその
侭、報道陣に包囲監視された桂おねーさん宅にお泊りを。事が動いたのは、正にその夜遅
くで。

 翌朝報告を受けました。でも朝迄報告を遅らせた新任の秘書室長は早くも更迭対象です。
桂おねーさん達は鬼に膨大な力を与える贄の血の持ち主なのに。わたしのたいせつな人な
のに。もしもの事があったら一体どーします。

「……柚明さんが、女性記者を庇う為に深夜外に飛び出し、刃物持ちの不審者を戦って退
けた? 夜昼なく自身のスキャンダルを狙われて、盗み見られているに近い状況で、四六
時中嫌がらせ電話を受け続けているのに、追及する側の女性記者を不審者から守って?」

 恵美さんが葛に代って、目の前で報告を受けて状況確認するけど。柚明おねーさんの甘
さ優しさに、呆れて物が言えないとその顔が。微かに震える肩に烏月さんの繊手が軽く触
れ。

「それが羽藤柚明と言う人です。恵美さん」
「……なるほど、会長が着目する訳です…」

 得心行ったという感じで深く息を吸い込み。
 突然恵美さんの口は機関銃の連射となって。

「女性記者を襲い、柚明さんに刃を向けた不審者を捜させなさい。警察署にも巡回強化と、
報道陣の張り付き排除に本腰を入れる様に指導を。報道業界へ取材の安全重視を指示!」

 恵美さんは葛に代って対策を次々と指示し。
 若杉の名を直接表に出さない限界の対応を。

 秘書の彼女が葛の意を呈して指示下すのは、わたしの意思と一致する限り許容範囲だけ
ど。でも今回のそれはまるで、柚明おねーさんの危なっかしさを見ておれぬ、世話女房の
様な。或いはそこ迄もわたしの意を呈してくれて?

 これで宜しかったでしょうかと、最後に我に返った恵美さんに尋ねられて、頷き返して。

 女性記者が襲われた夕刊トップからも、交番に届け出があって。暴行傷害未遂事件とし
て捜査も始ったけど。実行犯の特定は難しく。世間は中々望ましー方向へは、動きません
ね。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 テレビ画面では、郵政造反組の巨頭の1人、亀尾元運輸大臣が新党結成の記者会見を行
っていた。決して美男ではなく、むしろ悪役顔なのに、喋ると妙な愛嬌がある。興味深い
人物だけど、今回選挙では敵方の大将の1人だ。

「庶民新党。大泉総理の構造改革に喘ぐ庶民の声を、郵政改革の痛み・地方切り捨てに抱
く庶民の怒りを、結集させる党であります」

 党代表には年長者の渡貫元衆院議長が就き。
 亀尾元大臣は幹事長で党ナンバー2となる。

 一緒に新党結成に参加した国会議員が数人。
 新聞各社のカメラのフラッシュに照されて。

「大泉総理の独裁的なやり方について行けないという者は多い。出発は6人ですが、これ
から続々参加者が続いて膨れあがりますぞ」

 桂おねーさんも柚明おねーさんも、中々外出しなくなったので。監視班も愛しい人の映
像や音声が録れず。各部門の概要説明の合間に何気なくテレビを見ると、政局ネタが流れ。

 朗々と述べる亀尾氏に女性記者の質問が。

「郵政法案に反対し公認を取消された『造反組』は衆議院議員だけで三十八人です。その
内6人というのは少し寂しい気がしますが」

「私ども庶民新党は、大泉総理の『採算に合わない』という理由での地方切り捨てに反対
する、郡部・田舎の声の代表者であります」

 私どもは、顔や容姿が余りスマートではないからね、余り都会の有権者に受けない。そ
こは都会で貧富の格差に喘ぐ人々の声を受ける仲間が、別の新党を結成してくれたから…。

「郵政法案反対のネットワークを全国規模で作ります。今日の新党結成はその第一波です。
選挙で政権党を過半数割れさせ、大泉総理を辞任に追い込み、我々がキャスティングボー
トを握る。郵政法案を二度と日の当たる所に出させない。総理の改革は我々が止めます」

 確かに参議院議員で郵政造反組の新井氏らが、マスコミ受け良い長野県の棚加前知事と
新党『震撼日本』を結成し。都市部の郵政法案反対派の結集を進めており。都市部と郡部
で戦線を分けて連携するのは理解できるけど。

「震撼日本も現職議員は4名で、合わせても郵政造反組の結集には遙かに及ばないかと」

「同じ造反組の、岐阜1区の戸田聖子議員も、静岡7区の木内実議員も、参加してません
ね。それに岡山3区の平河赳夫元通産大臣も…」

 平河氏は亀尾氏の弟分で近しい仲と言われ。新党には真っ先に参画すると言われていた
だけに。記者会見に姿がないどころか、名前が載ってない事に。流石に亀尾氏も答えきれ
ず。

「これからですよ、これから。……見ていて下さい。どんどん膨れあがって来ますから」

『虚勢ですね、意外に新党参加者が少ない』

 政権党は大泉総理の指揮の下、続々と造反組の選挙区に、刺客と呼ばれる対抗馬を立て。
郵政法案の賛否を問うとの言葉の侭に。それもかなりの有名人を政界の外から、改革の為
に日本の為にと投入し。賛同し易い基盤を整えたのは、若杉だけど。対する造反組は提携
が弱く。野党第一党も政権党の内紛に注目が集まって、攻勢の積りでいたのに存在感薄く。

「亀尾幹事長の選挙区では、ライフドア織江氏が政権党の全面支援を受け、猛追中との選
挙情勢も流れていますけど?」「あんたね」

 あそこは若杉でも清経さんが、造反組を支援している処で。織江氏側に松中財閥の系列
の人員物資が、集中投入されていると聞いた。

「ライフドアだかオリエモンだか知らないが、そんなポッと出の若造に騙される程、広島
県民は愚かではありません! 舐めるのもいい加減にして貰いたい。仮にこの選挙で破れ
る様な事があれば、私は政界を引退します…」

 本気になった松中財閥のやり口・手法を見定めるには、ここが最適な舞台かも知れない。


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『逮捕も間近か。奇跡の人に迫る司直の手』
『従妹の虐待、なぜ保健所は動かないのか』
『クッキー食中毒4報、奇跡の女性の悪意』
『追い詰められて開き直り、曝かれた素顔』

 柚明おねーさんのバッシングは尚も激しく。報道を真に受けて、買い物に出た柚明おね
ーさんに石を投げた者もいると聞いた。柚明おねーさんは、避ければ店の人や他の買い物
客に当たると、敢て避けずに石を受けたとか…。

 個人の手が届く範囲は所詮限られる。マスコミという化け物は巨大すぎて。幾ら特異な
『力』の持ち主でも、どうにも左右は出来なくて。報道陣はアパート周辺に居座り覗き見
を続け、嫌がらせ電話や投石は昼も夜も続き。

 それでもこの女人は心折れずに平静を保ち。
 特異な『力』に頼らず若杉の助けに縋らず。
 その均衡が破れた様に見えたのは数日の後。

 柚明おねーさんの夜間の外出を知ったのは、翌朝だった。あれだけ周囲に報道陣が詰め
ていて。アパート内に盗聴器を仕掛け、その動静を把握して待ち伏せ取材した者迄いたの
に。

 後になって聞かされました。監視任務に盗聴器の発見報告は含まれてないから、使える
者は使って傍受し、役立てていたと。なのに。その使える筈の情報がまるで役に立ってな
く。

 ものの見事に外された。柚明おねーさんは報道陣の盗聴を逆用し、誰もその行方を追い
切れず。若杉も行く先を見失い。東郷の車のみ尾行した様だけど、その末は見届けられず。

「若杉の情報網は、完璧だったのではありませんか?」「は、はっ。その筈でしたが…」

 どこか葛を軽んじて、女子高生2人の監視位片手間で出来るとの姿勢でいた時平さんは。
わたしの前で、冷や汗は出ても答は出せずに。

「柚明おねーさんが、無事帰って来たから良かったけど……彼女の身に何かがあった時は、
あなたの生命では償いきれないと。この任務を命じた時に、告げましたよね」「はっ…」

 今すぐに彼を処断したい衝動を必死に抑え。

「……全力で失陥を補って下さい。桂おねーさんと柚明おねーさんは、若杉にも葛にもた
いせつな人です。粗雑な扱いは許しません」

 震え上がらせて従わせるのも一つの手法だ。

 おじーさまの人材を、全てすげ替えてはやっていけないし。何とかとハサミは使い様だ。
能力差より意欲の差が大きな事も時にはある。時平さんは失態を恥じる意識もあって、以
降は気合を込めて情報収集に励み。その成果が。

「羽藤家に電話を掛けた人物が、判りました。
 荻田総司は平河衆院議員の、第三秘書です。

 東郷の力を借りて、一時的に松中の嫌がらせを中断させて、電話を繋いだらしく。彼の
招きに羽藤柚明が乗ったのは、傍受した会話の記録でほぼ確かです。平河議員や東郷の周
辺を探り、密会した料亭も特定できました」

「東郷は林前総理との繋りを重んじて、大泉総理や政権党の支援に回った筈ですが……」

 烏月さんが首を傾げるのに、恵美さんが。

「若杉が造反組や野党第一党にも、将来の保険込みで手を回している様に。彼らにも切ろ
うとして尚切れぬ『縁』があるのでしょう」

「選挙で敵方に付いた償い、でしょーかね」

 でも東郷は平河議員に一体何を償いに捧ぐ。
 この流れを見ると東郷が償いに捧げた物は。
 まさかとは思いますけど、柚明おねーさん。

「密会の主題迄は分りませんでした。料亭の女将は何れも口が硬く、情報を中々漏らさな
いので。幾ら金を積んでもどうにもならず」

 でも。時平さんは興味深い情報を収穫に。

「東郷凛さんが料亭に黒服を連れて乱入?」

「平河議員や羽藤柚明の傍には、東郷の当主や警備の黒服が多数いて、一時は黒服同士で
軽い揉み合いにもなったとか。大きな騒ぎになる前に鎮まったそうですが」「ふむ……」

「何が話されたか気になりますか、会長?」

『あの人は強く賢い人だけど……同時に誰かの為に己を捧ぐ事に躊躇いのない人だから』

 恵美さんの問には即答せず、時平さんに。

「監視員が手に入れた羽藤家の盗聴器による録音を全て提出して下さい。直に聴きます」

「葛様。外に出た桂さんや柚明さんの姿や声を隠し撮りするならともかく。悪意な者が家
の中に置いた盗聴器に耳を傾けるのは、我々もその私生活盗聴の共犯になってしまい…」

「分っています。分っています。でも…!」

 これ以上何もせず、黙ってはいられない。
 烏月さんの直言に、耳を傾けつつ退ける。

「共犯になりたくないなら、葛の傍を外していーです。直接の手出しを出来ない今のわた
しは、こーして柚明おねーさんの動向や桂おねーさんの無事を、間接に確かめるしか…」

 わたしはもう己の苛立ちに抑えが効かず。
 一気に葛の自制も解き放ってしまいたく。

「恵美さんも厭うなら、外していーですよ」

 そう告げた時。2人は左右同時に跪いて。
 葛と同じ目線の高さでこの瞳を覗き込み。

「「では、お付き合いさせて頂きます!」」

 2人は葛を独りで暴走させられはしないと。
 わたしはこの美しい2人迄罪に引き込んだ。


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「酷い有様ですね……」「良く平静に応えられます」「深夜も切った途端に次の電話が」

 柚明おねーさんは、桂おねーさんが起きている間は電話の電源を切る。桂おねーさんは
夏バテか夏風邪か、疲れ気味で日中も昼寝が多く。奈良さんが訪れた時に元気そーなのは、
柚明おねーさんの癒しの効果だと推察できた。

 桂おねーさんが寝付いた後に、電源を繋ぎ。それは誰の電話を待っているのか。来るの
は嫌がらせばかり。時折悪意な報道陣の追及も。卑猥な嘲りや無言電話や罵詈雑言や。投
げつけられるそれらを静かに、夜も昼も受け続け。

「これらの電話の末に、荻田秘書の電話を受けたとゆー訳ですか」「悪意な人以外が繋る
可能性もある、その途を縁を切りたくない」

 そう言う判断なのでしょうか。烏月さんが唖然とした顔で、わたしの脱力に応えるのに。

「羽藤桂さんの心は乱したくないから、従妹の起きている間は切っておき。いつ誰からど
んな用件が繋るか分らないから、従妹の寝ている間は全部繋いでおいて、自ら受ける?」

 恵美さんも、1人で聴いていては耐えられない酷い内容の連続に、消耗した顔を隠さず。

「これは傍受する側の精神に負荷が掛ります。柚明さんは盗聴を退ける為に、毒を毒で制
する積りで、嫌がらせ電話を利用しているのではないでしょうか?」「かも知れません
ね」

 夜間外出に出た前日の夜明け前の電話は。

『元気そうだなぁ、羽藤柚明……昔と全く変ってねえじゃねえか。取りあえず、戻って来
れておめでとうって処か』『おかげさまで』

 柚明おねーさんはこの相手を知っている?
 それとも感応や関知の『力』で特定した?

『お久しぶりです。再び編集長に就任されたそうで……ご出世、おめでとうございます』

 相手をマスコミ人と分って答は穏やかで。

『よせやい。あんたのバッシング報道でかなり儲けさせて貰っているのに。当のあんたに
祝福されちゃあ、こっちは立つ瀬がないぜ』

 相手は馴れ馴れしくふてぶてしい男声だ。

『そこは大人の事情ですから。今このアパートを囲んでいる記者さん達も、個人的に仲良
く出来ても。社の方針や業界の縛りや営業の都合上、書くべき事を書けず、書いても載せ
られず。様々な葛藤を抱えている様なので』

 互いに譲れない物はあるけど。それはどうにも出来ないとしても。それ以外の処で繋げ
る関係は大事にしたい。記者さん達にもそれぞれ人生や生活があると分ります。わたしが
譲れぬたいせつな人を、胸に抱いている様に。

 この人は優しいのか甘いのか長閑なのか。
 静かに穏やかにそう語る様が脳裏に浮ぶ。

『理解が深いのか、途方もなく甘いだけなのか。拾壱年経ってもあんたは読みにくいな』

『かなめちゃんは、お元気ですか?』『ああ、あんたの大事ないとこ達と同じ年齢だから
な。今のあんたと姿格好の変らない女子高生だ』

 そう言う話しをしに、電話をかけた積りじゃないんだが。やや男性の声は怯んだ感じで。
通話時刻は丑三つ時だ。嫌がらせに疲れ果て弱り果てて当然なのに、その応対は柔らかで。
男声の方が肩透かしを食らって、調子外れに。

『ウチだけじゃなくマスコミ各社から、総攻撃を受けている割に、ちっとも弱ってなさそ
うだな。ウチも少し叩き足りなかったか?』

『批判報道にも心遣い頂いていた様で、有り難うございます。わたしは叶う限り、自身の
真相や心情を伝えたいと願っていますけど』

 あなたにもあなたの事情がおありでしょう。

 無理を為さらずあなたの判断の侭にどうぞ。
 あなたが宿した報道記者の魂の赴くが侭に。

 わたしも自身に叶う限りの応対を致します。

 男性は含み笑いを浮べて暫く黙し。柚明さんの静かに揺らがぬ応対に、満足したのか残
念なのか。不敵に真意の窺えない平静な声で。

『来週の週刊ロストを楽しみにしててくれよ。ドカンとでかい花火を打ち上げるから。き
っとあんたにも、気に入って貰えると思うぜ』

「週刊ロスト、男性週刊誌ですね」「はい」

 でも、あの雑誌は選挙や政局報道が中心で、『奇跡の女性』報道は出遅れた為に、余り
力を入れてなかった筈です。恵美さんはやや首を捻り、今更これから後追いでバッシング
に、本格参入する積りなのでしょうか? と呟き。

「週刊ロストの編集長……調べておきます」

 これも松中の策動なのか。平河議員の企図なのか。或いはそれらと関係ない報道業界の、
又は週刊ロスト独自の動きなのか。どちらにせよ、彼女達を巡る状況が更に揺れる。この
電話の後で、柚明おねーさんは議員と密会を。

 その中身は分らないけど。桂おねーさんにも報道陣にも、若杉にも隠し通した中身とは。
それが東郷凛さんの行動を呼び、料亭で黒服同士の小競り合いを招いた。平河議員と東郷
の父が、柚明おねーさんを挟んで一体何を?

 あの人は早まった事はしないと思うけど。
 葛が信じ桂おねーさんの一番愛した人が。

 愚かな選択に走る筈がないと、思うけど。
 それなら先に葛を頼るに、決まっている!

 マスコミの、柚明おねーさんの叩き方は最早尋常ではない。否、それは既に選挙や政局
に巻き込まれ、裏社会込みの凄惨な情報戦争に移りつつある。普通の人には対処は無理だ。
普通ではないあの人はその位お見通しの筈…。

 以降、東郷や平河議員に特段の動きはなく。
 黒服は桂おねーさん宅の監視を尚も続行し。

 凛さんは心折られたか自宅で静謐な日々を。
 東郷の者が今訪れられない事情は分るけど。

 報道陣のおねーさん宅への張り付きは続き。
 松中の依頼による嫌がらせの電話は止まず。

 完全に欺かれて尾行も阻まれた夜の密会は、どこにも出なかったけど。誹謗中傷は執拗
で。マスコミは、全国に大衆に情報を発信する権能を独占し、己の都合で他者の人生も幸
せも狂わせ壊し。可憐な人を儲けの為に虐げる…。

 酷い連中ばかりでも、ないかも知れない。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「こーゆー事も、あるのですね」「「は」」

 烏月さんも恵美さんも、それ以上の言葉が続かず、わたしが手に持つ駅売夕刊紙を眺め。

【本誌痛恨ミス! 奇跡の女性Yは、行方不明中の現役女子高生Yとは、別人と判明…】

 夕刊トップは激化する柚明おねーさんへのバッシングの中で、唯一その立場を翻し、自
ら主導した『奇跡の女性は半澤優香』説を撤回し、一面トップでミスを認め正式な謝罪を。

 黒髪ショートの美人記者を助けた礼に、誹謗中傷を止めたのだろーか。そんな甘い業界
ではない筈だけど。続けて入った情報にわたし達は再度耳を疑い、両の目を見開かされた。

「柚明さんが、夕刊トップ大島桃花記者の独占取材で、拾年前以前の過去も含め質疑応答
に応えつつ、自身の所感を述べるそうです」

 まず最初の数回は、柚明さんを半澤優香だと報じた事への懺悔も込みで、夏の経観塚か
ら帰還して以降の話しを、語るそうですけど。

「バッシングの内容が単調になり始め、進展がない状態なので。柚明さん擁護の立場が夕
刊トップ一紙だけな事もあって。夕刊トップの売上が、鰻登りに伸びている模様です…」

 彼女の答を丁寧に拾えば、叩く側の悪意や拙劣が露わになる。だから誹謗中傷する側は、
疑惑を報じつつ柚明おねーさんの答は殆ど載せず。切り貼りして悪意に改竄して。でもそ
れでは状況の変化に追いつけず。昨日、今日、明日と続く応答の筋が、繋らなくなって行
く。

 夕刊トップは、謝罪の意味も込めかなりの紙面を割き。柚明おねーさんの発言を丹念に
拾い、疑問は率直に尋ねて答を貰い。奇特に突飛な面白さはないけど、読めば腑に落ちる。
この正統さが、低劣な叩きに飽きた者や、彼女の静かさ穏やかさを信じる層の反響を呼び。

「賢く強い人とは思っていましたが、まさか最も厳しく指弾した相手を味方にするとは」

 烏月さんも恵美さんも、揃って頷く以上に言葉が出ない様で。全体の発行部数を見れば、
夕刊トップ一紙ではバッシング勢力の総計に及ばないけど。でもその注目度合は凄まじく。

「強い敵は味方にすれば心強い。怨霊を神に祀って恩恵を貰う発想の延長でしょーけど」

「だからこそ危険を承知で、女性記者を助けたのでしょうか? こうなる事を見込んで」

 報告する時平さんの問に否定を返したのは。
 わたしでも烏月さんでもなく、恵美さんで。

「彼女はクッキーを配った時も、この様な展開を見込んでなかった筈です。人の危難を捨
ておけないのは彼女の習性で。結果結べた絆が役に立っただけで……愛しい愚か者です」

 桂おねーさん宅の家電も携帯も、繋らない状態は続くけど。葛直通の番号は誰の妨げも
関係なく繋る。柚明おねーさんは真に必要な時は、このホットラインに掛けてくる。それ
が尚来ないのは、充分対応できているからで。

 急に心が軽くなり、椅子に背を預けた時に。
 柚明おねーさんからの直通電話が、繋った。


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 柚明おねーさんから明日逢いたいと告げられた時、わたしは承諾の答を出し終えていた。

 電話の音声も盗聴されている。なので気心も知れたわたし達の会話は短く簡潔で。柚明
おねーさんは、場所も交通手段も迎えの刻限もお任せと。時平さんが録音して残していた、
荻田秘書からの会見申込の時の応対をなぞり。

 違うのは、どっちから申し出たか位です。

 わたしも荻田秘書の応対をなぞり。車を用意する、行き先は運転手が知っている、迎え
到着は夜拾時頃と告げ。早くなるかも知れないと加え。今回もこれが盗聴されているなら。

 このやり取りでは出立時間は未確定。文脈を読み込めば、迎えに行った時点が出立時間
となる。前回これで空振りさせられた連中は、今度も7時か、或いはもっと早いかと備え
るだろーけど。柚明おねーさんはそれを予測し。

 彼女から明日逢いたいと、切り出したのは。どっちから言い出したか程度の違いに、埋
没させた真意が宿る。彼女が敢て、前回成功した手法を漫然と使った様な偽装を見せたの
は。その真意を葛なら察せられると信じてくれて。

「車と会見場所を用意して下さい……今夜」

「「葛様?」」流石に烏月さんも恵美さんも。

 わたしの指示に首を傾げるので傍に招いて。

「明日は0時から始ります。柚明おねーさんの真意は、明日の夜ではなく、今宵夜更けか
ら繋る明日0時に迎えて欲しいとの申し出」

 あっ! 2人は漸く事情を悟って声を上げ。

 前回をほぼ踏襲しつつ。文脈を読み込めば、今回違う箇所は2つ。柚明おねーさんから
申し出と日付指定があった事で。明日とは。明日の夜十時より早い可能性を、午後7時や
5時や3時等を匂わせつつ。範囲には弐拾時間以上早い、感覚的には今夜の深夜0時も含
み。

「二度同じ手を使う人ではない筈と、思っていましたが」「こんな手を使うとは、いえ」

 烏月さんの呻きに続けた恵美さんの声は。

「会長は良く、彼女の真意を悟れました…」

「柚明おねーさんの側に、葛のどんな答も受け止める準備があるだけです。彼女は人の強
さ賢さ優しさを、引き出す術に優れている」

 彼女は午前0時に限らず、午前3時でも5時でも、朝8時でも9時でも、夕刻の5時で
も7時でも、受容する構えで申し出たのです。

「わたしはその想定範囲の極みを行くだけ」

 次に問題になったのは若杉内で。柚明おねーさんに逢う事への心配を、押し切るのに多
少手間取った。葛にもしもの事があっては大変だと。相手は元オハシラ様で神様で、鬼じ
ゃないのに。幹部は今更何を案じているのか。

 わたし達は、夏の経観塚を一緒に過ごした。お風呂も添い寝も桂おねーさんとのみなら
ず、烏月さんサクヤさんや柚明おねーさんとも為した。今更逢う事に危険が伴うなんて。
千羽の鬼切り役が警護に付くと納得させ。それでも会見室の壁裏には警備員弐拾人が息を
潜め。

 今回は最初から諦めていたけど、これではとても桂おねーさんを招けない。長閑に柔ら
かなその心を笑みを凍らせる。ここは次回本当に桂おねーさんを招く時迄に、解決します。

 葛が若杉系列のホテルに出向いて、彼女と面談する。迎えの車の桂おねーさん宅到着が、
丁度深夜0時。シンデレラの馬車と違い、カボチャに変じる事もなく。姫君と逢えたのは。

「……お久しぶりです、柚明おねーさん…」
「お久しぶりです、葛さん……烏月さん…」

 深夜1時を過ぎた頃だろうか。一応東郷の尾行も振り切れたけど。一日位時間をおけば、
若杉の動きと車のナンバーで悟られるだろう。事後なら東郷には悟られても問題ない。利
害対立している仲ではないし。相手がマスコミなら、何を書かれるか分った物ではないけ
ど。

 会見室は、五拾人規模の食事会に使われる洋風に煌びやかな縦長の部屋で。長テーブル
の端と端で対面すると、静謐な中でも腹から声を出さないと届かない。この一呼吸で間合
を詰められぬ距離が、幹部の目に叶った訳か。

 窓はないし外部の音声も入ってこないので。
 人工の輝きを照り返すシャンデリアの下で。
 ここがどこで今が何時かも分らない状態だ。

 東郷の時と違い、柚明おねーさんは移送中目隠しされて。事前に聞いていればそんな愚
行は止めたのに。この人に汎用品で『力』を封じる対策等しても効果がない。結局目隠し
されても、何の差し障りもなく歩いていたし。

「もーしわけありません、酷い非礼を…!」

 元々椅子に座っても座高が足りず、目線の位置は低いけど。一層低く俯く葛に奇跡の女
性は、静かに柔らかでも良く透る声を届かせ。

「お気になさらず。彼らを責めないで下さい。若杉の方達も職責に忠実なだけです。葛さ
んを大事に想っての行いで、害意はないから……信頼頂ける迄の間、わたしは構いませ
ん」

 それを苦にも屈辱にも思わず、この人は素直に目隠しに応じ、外された今も自然に笑み。
どこに連れ去られるか己の先行きを案じた様子もなく、非礼な処遇に身を委ね憤りもなく。
長閑なのか寛大なのか忍耐強いのか、本当に。羽藤の血には、時々底知れぬ深みを感じま
す。

 室内には、わたしと柚明おねーさんの他に、葛の左斜め後ろに立つ恵美さんと、右斜め
後ろに立つ烏月さん。他に縦長な左右の壁の裏で弐拾人が息を潜め。彼女が葛に害を為そ
ーとすれば、即殺する体制と聞いたけど。烏月さんと違って彼ら等、柚明おねーさんがそ
の気になれば盾にもなれまい。配下を説得する時間を惜しんだので今回は。会見が静粛に
穏便に進む内は、手出し厳禁を引替に了解した。

 柚明おねーさんなら桂おねーさんと違って。
 その位知って知らぬ顔で話しを進められる。

 同室で逢うにしてはかなり距離感あるけど。
 烏月さん恵美さんも含め心はもっと近い筈。

「本当は桂ちゃんも一緒したかったのだけど。桂ちゃんも、葛ちゃんや烏月さんに逢いた
い気持は募っていたし。葛さんや烏月さんもきっと、桂ちゃんに逢いたかったと思うの
で」

「いえ。こちらも桂おねーさんを招ける状態ではないので。今回は用務優先という事で」

 柚明おねーさんの周囲も葛の周囲も、お互い平常時には程遠い。桂おねーさんと、本当
に何の不安もなく笑い合うには、もう少し時が必要で。桂おねーさんも体調不良気味だし。

「互いの懸案を片付け終れば……桂おねーさんと面会できる日も近くなるです」「はい」

 敢て言霊にしてその日を近くへと招き寄せ。
 わたし達はいよいよ今宵の本題に取り掛る。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「まず最近のわたしを巡る騒動で、葛さんや烏月さんを始め皆様に、己の至らなさの為に
不安を与えた事を、誠に申し訳なく思います。

 特に桂ちゃんをたいせつに想うお2人には。わたしの招いた報道被害が桂ちゃんに迄及
び、それを完全に防ぎきれず。桂ちゃんの心身に負荷が掛る有様に、心配を抱かせてしま
い」

 柚明おねーさんの用件は。ここ数週間無法な取材と報道により。わたし達が桂おねーさ
んを心配し、苛立ち焦った結果への謝罪から。それは実は彼女が謝るべき瑕疵ではないけ
ど。

 柔らかに静かに端正な佇まいは、経観塚で一緒に過ごしたあの時の侭で。あれ程酷いバ
ッシングに晒されて、夜昼構わぬ嫌がらせを受け続けて尚。この人は穏やかにたおやかに。

「次に、葛さんがそんな状況でも、わたしの願いに応え、羽藤柚明を信じて下さり、若杉
の直接介入を思い留まり続けて下さった事に、お礼申し上げます。有り難うございまし
た」

 深々と頭を下げる麗しい女性にわたしは。

「その言葉を聞けて、漸く安堵しましたー」

 見ていられなくなって、財力も権力も持ち合わせた葛は何度、直接手を下そーとしたか。
烏月さんに言われなくても、烏月さんが言うより先に、わたしは何度己の内で、若杉財閥
や鬼切部の介入を己に進言し、却下し続けてきたか。桂おねーさんを守りに動かない事が、
動けない事が自身に苛立たしく。時に己の正解を疑い、直ちに手を下してしまいたくなり。

 恵美さんの制止では、とても利かなかった。柚明おねーさんの願いだから、桂おねーさ
んを心底想い、全てを見通せるこの人の求めだから。わたしは辛うじて介入を踏み止まっ
た。

「葛の動かない事が正解だと言って貰えて」

「優しい葛さんには、桂ちゃんの周囲の騒ぎで幾度心痛めさせたか。力不足で不完全なわ
たしの応対を、じっと見守り頂いて本当に」

 背後で烏月さんと恵美さんも安堵の溜息を。
 それは間違いなくわたしと同じ意味で出た。

「若杉葛は桂ちゃんのたいせつな人で、羽藤柚明のたいせつな人。今回は、その優しさ強
さ賢さに頼って、無理を強いる事になり…」

 この人はわたしの苛立ちも焦りも承知で。
 桂おねーさんに抱く確かな想いも承知で。
 役立って褒められ絆を確かめたい気持も。

 だからそれを抑えた今迄の展開に感謝を。
 葛の自制を、正解でしたと褒めてくれた。
 それが今宵の、最大の収穫で成果だった。

「そして本日は、今後暫くのお願いに参りました……今後も葛さんには、桂ちゃんを含む
わたし達の状況を、若杉財閥及び鬼切部としての介入をせず、見守り続けて頂きたく…」

 状況は酷いけど、柚明おねーさんは確かに応対できている。不介入に平静でいられぬ葛
の心を鎮める為に、柚明おねーさんは今宵会見を望んだ。今迄の若杉の不介入は正解だと、
彼女の願いを受けたわたしの不介入の今迄は正答だと。そして今後も尚不介入を望む為に。

「それでいーのですか」「はい、願わくば」

 答える声音や姿勢に迷いも躊躇いもなく。
 この人の心の強さは賛嘆に値する。けど。

「桂おねーさんは、それで大丈夫ですか?」

 わたしの一番の関心事は、今目の前で受け答えする華奢に美しい人ではない。この人が
一番大事に想う従妹こそ、葛のこの世で一番たいせつな守りたい人で。桂おねーさんに負
荷を掛けて迄、不介入に徹せねばならぬのか。それで桂おねーさんの心は確かに守れるの
か。

「最近桂おねーさんの外出が少ない様ですね。体調が優れない日が、多いみたいですけ
ど」

 この人の美貌が憂いに曇るのは。桂おねーさんに僅かでも不快や害が及ぶ事への苦衷で。

「桂ちゃんの不調の原因は、霊の鬼が取り憑いた負荷による心身の疲労です。報道陣の行
いも影響はあるけど、主因ではありません」

 桂ちゃんは資質があるし、ノゾミちゃんも濃い贄の血を得れば、憑いた人に負荷は掛ら
ない筈だけど。取り憑いて未だ日が浅いから、状態が安定する迄には少しの時間が必要で
…。

「記者の張り付きや報道や、嫌がらせ電話は桂ちゃんも少し知っていますけど。負荷にな
らない様に過小に伝えています。それもいつ迄も続く物ではないと思うので。2学期が始
る頃には桂ちゃんの状態も安定し、取材も報道も嫌がらせも全て終っていると思います」

 この騒ぎは選挙に連動した物で。いつ迄も市井の庶民の動向を追っても、売れるニュー
スにはなりません。選挙が終れば、市井の庶民が幾ら話題を呼んでも問題はなくなります。
生命危うい訳でもない。終りは視えています。

「あなたはこの件が、郵政選挙に絡んだ動きと知っていたですか?」「確かに知ったのは、
先日の平河議員との話しに依りますけど…」

 若杉が葛の流浪を隠そーと、彼女の情報を流した事に始り。反総理派が選挙から話題を
散らす為に彼女を持ち上げ。賛美報道で有名人化した後でスキャンダルで貶め儲ける、マ
スコミのやり口に繋り。選挙の話題が霞む事を嫌う総理支持の松中財閥による、裏社会を
使った汚い煽動や、執拗な嫌がらせへ移行し。どれも個人の手に届かない事ばかり。なの
に。

 彼女は全て分って他者に縋らぬ対処を望み。先日の東郷設定による平河議員との会談で
も、本題の前に無法取材・虚偽報道の酷さは話題になり。反総理派でもそんな報道戦略と
無縁な議員の、出版社に注意して抑えよーかとの善意を。この人は感謝を表しつつ断った
とか。

 どー思っているのだろー? 禍は桂おねーさんの日々にも及ぶ。選挙は尚半月続くから、
松中の策動も半月は続く。終りは視えているけど、そこ迄して堪えねばならないだろーか。
受け続けるのではなく、もー少し反撃しても。

「若杉財閥や鬼切部を使えば、状況は多少改善できます。取材や報道はともかく、繰り返
される嫌がらせ電話や投石を止める位なら」

 相手が裏社会を使い非道な企てを為すなら。
 当方もそれなりの反撃で痛みを思い知らせ。
 安易に手出しできぬと知らしめるべきでは。

「若杉や鬼切部を使うのは葛です。対価や報償は求めません……それでも、鬼切部や若杉
に借りを作るのは、好ましくないですか?」

 この人は葛や烏月さんを強く信じてくれている。葛に関しては実態以上に甘く美化して。
貸しを根拠にわたし達が、桂おねーさん達に対価や報償等を迫る怖れは、多分抱いてない。

 柚明おねーさんがわたしの助力を拒むのは、葛が若杉や鬼切部を統括出来てないと見て
か。確かに巨大組織に入って間もなく、内部全てに威令が届く状態ではないけど。松中財
閥と全面戦争する訳でも無し。桂おねーさん達に害を為す者を退ける位なら、すぐ為せる。
今の葛は一週間前の葛ではない。それは感応や関知の力に優れた彼女こそ分る筈だ。では
…。

「若杉財閥や鬼切部、葛さんや烏月さんに迷惑が掛ります。直接介入は悪手と考えます」

 心理的に、借りを作る事を望まないのか。
 確かにこの人は強くまっすぐな人だから。
 誰かの助けに縋るのは潔くなく映るかも。

 でも、好みで現実の脅威を捨て置くのは。
 逆に、柚明おねーさんらしくない発想だ。
 桂おねーさんの守りが最優先なこの人が。

「わたし達は全く迷惑だと思っていませんよ。桂おねーさんを守って役に立てる事は、わ
たしの喜びです。柚明おねーさんがそーである様に。烏月さんもそうでしょー?」「は
い」

 若杉が本気で桂おねーさんの守りに動いたと知れば、大抵の処は手を引くし。手を引か
なければその報いを受ける。その後も含めて、若杉にせよ鬼切部にせよ全く迷惑は掛らな
い。

「失敗どころか損害も殆ど出ないでしょー。
 残るのは心地良い疲労感位で迷惑なんて」

 この女人が抱く危惧を、本音を探りに掛る。

 それを露わにした上で克服すれば、葛も直接桂おねーさんに助力が出来る。役立ちたい。

 柚明おねーさんは、やや伏し目がちになり。

「若杉や鬼切部が羽藤を守りに出たと知れ渡れば、そこが急所だと裏社会に認識されます。
それは桂ちゃんを危うくすると同時に、葛さんや烏月さんにも後々迄迷惑を掛けます…」

「「「あっ!」」」3人同時に、呻いていた。

 目の前で柚明おねーさんは静かに答を紡ぎ。

「若杉や鬼切部を敵視する者の、標的となってしまう。桂ちゃんを抑えれば、不当な要求
も通ると錯覚させる。若杉や鬼切部が常に戦力を配置して、守らねばならない状況を招く。
若杉や鬼切部に負担を強いてしまう。葛さんや烏月さんが、桂ちゃんに及ぶ報復を気遣う
余り、為さねばならない処断を躊躇う事も…。

 若杉や鬼切部が、既に密かに桂ちゃんの周囲に守りに配されている事は、察しています。
守られていると、誰にも知られぬ状態で保たれる現状が最良で。今がその最良を崩さねば
ならない状況だとは、わたしは思いません」

 この人は。若杉や鬼切部が名指しで守れば。桂おねーさんが、若杉や鬼切部の守る値を
持つと晒すと。若杉の敵から狙われる怖れが付随し。若杉はその無事を保つ措置を強いら
れ。葛が反撃の怖れのある者を処断し難くなると。

 今の若杉はそー見られてない。葛の恩人で繋りあるけど。若杉は葛の流浪を伏せる代り、
柚明おねーさんの件をマスコミに流しており。業界や警察への要請は一般的な指導に留ま
り。

「……なるほど、そーゆー事でしたか……」

 若杉は羽藤と親密ではないと、見なされている。だから松中財閥の指示でも、裏社会が
気軽に嫌がらせや投石を為せた。多分誰もそれが若杉に弓を引く事になるとは感じてない。

 それらに晒される事、若杉や鬼切部の守りなく柚明おねーさんが、それらを受け続ける
事に意味があった。そして彼女は桂おねーさんを確かに守り通せる。逆に今裏社会や鬼切
部を使って反撃すれば、桂おねーさん達は若杉の庇護下と見られ。気易く手出しされなく
なるけど、逆に常に警戒せねばならなくなる。

「葛が明言しない事が、見えない守りなのですね。迂遠で即効かない手段にも、相応の効
果があると。恵美さんの進言は正解でした」

 力が抜ける。この人が表で打たれ叩かれ続ける事が、そこに若杉が直接介入しない事が、
真の意味で桂おねーさんを守る事に繋るのだ。わたしは何も出来ない己に苛立っていたけ
ど。そーではない、重要な事なのだと、葛に伝え支える為に、柚明おねーさんは今宵の会
見を。

「葛さんの善意を形に為す機会を縛る事になり、本当に申し訳ありません。今少し優しい
心に辛い想い、苛立ちや焦り後ろめたさを強いてしまうけど。どうかお許しを」「……」

 考えてみればこの人が、自身に関る事柄で、桂おねーさんに及ぶ禍を気に病まぬ筈がな
く。若杉に頼って解決するのが最善ならそーした筈で。敢て為さないのには相応の理由が
あり。それは報道陣の無法取材や虚偽報道、松中の暴力団を使った所行を越える重みを持
つ筈で。

 桂おねーさんの守りには、やはりこの人の存在が欠かせない。その事を再々噛み締めて、
己の未熟を実感しつつ、彼女の申し出を受け入れたのは。丑三つ時を少し過ぎた頃だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「わたしの聞きたかった話しは終りました」

 わたしは葡萄ジュースのグラスを手に持ちつつ、対面に遠く離れた美しい人を眺め。夜
の密談ではアルコール、葡萄酒が映えるけど、わたしと烏月さんは未成年だし。恵美さん
と柚明おねーさんは、合法かも知れないけど…。

 この女人には、事前に桂おねーさんの件とは別に、彼女の頼み事があると言われていた。

「平河議員からの申し出です。先日わたしが夜に家を外し、東郷が設定した料亭での密会
に臨んだ事は、葛さんもご存じと思います」

 柚明おねーさんが平河議員に招かれたのは。

 凛さんは無法取材や酷い報道、嫌がらせを防ぐ為に、身を捧げ国会議員の権力に縋ろー
としたと誤解し、阻止に乱入した様で。それは勘違いだったけど、凛さんの気迫と行動は
凄い。唯の裕福なお嬢さんではない様ですね。

 平河議員は柚明おねーさんと、拾年前以前に面識があり。同時に彼女がわたし、若杉葛
に直に面談できる数少ない人物という事情で。今宵この様に話しを繋いで欲しいと願う為
で。

「簡潔に申し上げます。平河議員は若杉に政権党への仲介を求めています。内容は、今総
選挙中の亀尾議員の対抗馬となるライフドア織江氏を、政権党として公認しない事。これ
を受け容れてくれたなら、平河議員は、郵政造反組の新党『庶民新党』『震撼日本』の何
れにも属さず、無所属を貫く……以上です」

 今最もホットな選挙や政治の話題ですね。
 少しの沈黙の後でわたしは静かに呟いて。

「平河氏は選挙地盤が盤石だから、新党に参加してもしなくても自身の当選に影響はない。
でも織江氏に猛追されている亀尾氏は危うい。選挙情勢は全国的には、柚明おねーさんの
話題で注目が散ったけど。総理の訴えや造反組の選挙区への刺客候補擁立が、そこそこ人
目を集め。政権党が優位を掴みつつあります」

 今からでも造反組の新党に平河氏が参入すれば、造反組は結束し勢いづくかも知れない。
でも、自身が新党に加入して造反組を勢いづかせたとしても、広島では松中財閥の全面支
援を受けた織江氏が勝つと、平河氏は読んだ。だから政権党の公認を外して勝利の芽を残
す。

 郡部では、新興企業のライフドアや山中財閥の名より、昔から引き続く政権党公認の方
が人心を引く。その有無が大きく影響すると分るから、平河議員もこの申し出をしてきた。

「兄貴分だからですか。義理人情ですねー」

 実際苦戦している亀尾氏の求めではなく。
 それを見ていられぬ平河氏が窮余の策を。

 未だ財閥を継いでおらず公の場に出る事もない葛は、所在不明で逢う事も出来ないから。
繋りをつけられる人として柚明おねーさんが。

「平河議員には、若杉が仲介を受けない可能性を伝えてあります。葛さんのお考えで若杉
として仲介を拒む選択も、あると考えます」

 柚明おねーさんは、旧知の人で、桂おねーさんの父の旧友である議員秘書や議員の窮状
を知り。成否はともかく話してみると繋いだ訳か。なる程これを話すには報道陣は邪魔だ。

「葛様……ここは話しを承って後日回答を」

 旧知の人との話ではなく。政治は若杉の根幹も揺るがす案件だ。大事をとって、時間を
掛けて考えようと促す恵美さんに、わたしは、

「その必要はありません……了解しました」

 柚明おねーさんを通じた平河議員の仲介の申し出を、若杉葛がたった今、承知しました。

「つ、葛様……」「……つづ、ら様。え?」

 烏月さんも即答に驚き確認してくるけど。
 わたしは恵美さんの進言を今回は退けて。

「若杉は総理や政権党支持に回りました。内側でかなり自在に動けます。公認漏れより本
人が辞退した形がいーですね。公認されて政党に縛られると、当選後の活動が制約される、
とオリエモン氏や側近に囁きます。松中の全面支援で、当選確実と思っている今の内に」

「宜しいのですか? 総理を支持している若杉が、政権党の敵を助ける結果になって…」

 烏月さんが困惑した表情で問を発するけど。

「若杉でも敢て造反組に走らせた者もいます。全体として総理の勝利になれば、一つや二
つ議席を落しても。それに平河議員が新党に参加せず、郵政造反組の気勢が落ちれば、全
体の勝利にはそちらの方がプラスになります」

 同じ政権党支持でも、松中の支援する議員は1人でも少ない方が良い。桂おねーさん達
に危害を加えた奴らを、わたしが好む筈がないでしょーに……今日の味方は明日の敵です。

「織江社長の周辺人脈をチェックし、働きかけを始めます」「後は恵美さんに任せます」

 恵美さんは葛が見通しを持って決定すると、それに従い必要な手続を始める。切り替え
が早い。向き直ると柚明おねーさんが頭を下げ。

「お聞き届け頂き、有り難うございました」

「いえいえ、わたしは自分に有益な申し出に乗っただけです。柚明おねーさんの申し出に
応えたい。そんな下心もありましたけど…」

 あなたに報償を求める積りはありません。
 搾り取るべき処は他にもっと、沢山ある。
 これで話すべき事は終りかと思えた時に。

「若杉財閥について、視えた未来の像があります。助言申し上げて宜しいでしょうか?」

 柚明おねーさんの語調が、恵美さんのそれに重なって聞えた。桂おねーさんの幸せが主
眼の彼女が、俗世の事柄に触れるのは珍しい。葛は好奇心の侭に頷いていた。恵美さんの
反応が硬いのは、柚明おねーさんが旧知の仲を越え、若杉財閥の領域に踏み込んできた為
か。

「残業手当を値切ったり、全く払ってない部門が若杉にもある様ですが、今の内に体質改
善に務めるべきです。ファースト警備保障の後を追えば、一緒に奈落へ落ちかねません」

 恵美さんに視線を向けると、恵美さんはわたしの意を察して警備部門の現状を説明する。

「確かに、ファースト警備保障が仕掛けて来た敵対的競争に対抗して、経費縮減の為に若
杉でも、残業代の不払いや値切りが進んでいる旨、報告を受けています。自由競争と規制
緩和の元で、経費を縮減せねば利益を保てず、業界で生き残れない。やむを得ない措置
と」

 従業員を大事にするなら、法令を守るなら。残業代は払わねば。でも、それを守らない
社が続出し、業界秩序が規制緩和と自由競争で混沌と乱れる中で。独り法規を守り続けて
も、若杉のみが経費が嵩み価格競争で不利となる。自由競争や規制緩和のもたらした影の
面です。

 その事情は、柚明おねーさんにも分る筈だ。今の恵美さんの説明で。彼女に視線を戻し
て、その背景を踏まえて、話しの続きを求めると。

「人の世の諸々は、風や川の流れにも似て」

 時折向きを変えます。柚明おねーさんは。

「今は良くも悪くも規制緩和や自由競争が持て囃され、勝者や成功者に光が当たっていま
すけど。影にされた者の怨嗟は募っています。

 選挙で大泉総理が勝っても負けても、この流れは遠からず一度逆転します。その先どう
なるのかは未だ視えませんけど。現在栄華を謳う者、勝利に酔う者は強い反動を受けるで
しょう。逆風に晒された時に、法律違反や不当な行いが発覚すると、その傷は深く大きく
なります……未然に防ぐ事をお勧めします」

 勢いのある時や追い風の時は、法律も非難の声も無視できるけど。逆風の時には全てが
差し障る。損害賠償や訴訟費用や、罰金や監督官庁の制裁や、企業イメージ悪化や。彼女
の進言はそれらのリスク回避の忠告で。事業を長く続けるには、必要な経費は出すべきと。

「ファースト警備保障に限らず、一社の不法違法が発覚すれば、同業他社にも注目は及び
ます。若杉は規模が大きいので、代表格で非難されるでしょう。非難されてから行いを改
めても、世間の目は冷たいもの。非難を招く要因は事前に摘み取って置く事が最良です」

 恵美さんは若杉の現状を把握しているけど。
 柚明おねーさんは若杉の未来を案じている。

「大手には妬みも集まりますしね。同じ違法不法を犯しても、新興の松中財閥より若杉の
方が、目立ってニュースになり易いですし」

 人の世は毀誉褒貶が常です。どんな状況の変転にも備え、体制は整えておくべきですね。

「残業代の満額支給を、通知致しますか?」

 恵美さんの問にわたしは再度前を向いて。
 柚明おねーさんにどうでしょーかと尋ね。

 女子高生と見紛う外見から返されたのは。
 その姿形に不似合いな怜悧に的確な答で。

「過去の分はやむを得ないけど、根本的な対策が必要と考えます。斉院さんの言葉通り残
業代が経営を圧迫するなら。残業を生じさせないのは、経営側の仕事で責任となります」

「なる程。残業自体を減らしコスト縮減するのは、雇い主の経営戦略ですか。そーせねば、
将来の危機の前に今、松中に敗れますしね」

 鋭い指摘だった。残業代を踏み倒すのではなく、漫然と払うのでもなく。柚明おねーさ
んは根本の解決を指摘した。残業代を踏み倒しても、残業する限り電気代や暖房費は嵩む。
勤務時間内に仕事を終らせる段取りや意識改革で、残業を減らし経費を圧縮する。この人
は可憐に柔らかな外見で、賢さもずば抜けて。これは今後拾年位、若杉の指針の一つにな
る。

「貴重なご助言、ありがとーございます…」

 この人は平河議員の仲介に応じた応報など、意識してない。唯わたしの力になりたく役
立ちたくて、視えた懸念を伝えただけだ。先にこれを述べ葛の心証を良くし、又は『貸
し』を意識させて頼むのが、世間の段取りなのに。愚かなのか甘いのか、全てが読みの内
なのか。

 羽藤の血には時折底知れぬ深みを感じます。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「では、平河先生は亀尾先生の『庶民新党』や棚加氏の『震撼日本』には参加せず、無所
属で選挙を戦い抜くと?」「その通りです」

 テレビ画面では平河議員が記者の質問に答えている。政権党から公認を取り消され、刺
客候補を立てられても、平河赳夫は長年政権党で生きてきた、簡単に他党には移れないと。

「兄貴分の亀尾先生とは、袂を分つと…?」

「亀尾先生には、先生のお考えがあると思う。私には私の事情や考えがあると言う事で
す」

 政権党は総理を前面に出し、造反組との諍いを派手に演出して、野党第一党の存在感を
霞ませ。若杉等の支持基盤を固め、選挙を優位に進めている。新聞雑誌の話題は尚奇跡の
人と2分状態だけど。日本の話題がこの2つに集約なら概ね成功だ。画面は話題が移って、

「政権党武井幹事長は、亀尾元運輸大臣の選挙区に立候補予定のライフドア織江貴文氏を、
政権党として公認しない方針を表明しました。これは織江氏の『政党色に染まりたくな
い』意向を受けた措置で、実質は全面支援と…」

 政権党は造反組の選挙区に、相次いで刺客候補を投入し勢いづいているけど。ここだけ
は政権党の公認がなく、清経さんも善戦中で。松中は人員資材を投入中だけど。広島の地
元裏社会組織への礼を欠いて、他県の裏社会組織を使った結果、逆にややこしい事態に陥
り。

 眺める内に、テレビ画面もワイドショーの話題も、奇跡の女性を巡る騒擾に移って行き。

「奇跡の女性が同居する従妹のアパート前は、今日も人だかりですね……すごい騒ぎで
す」

 あの夜以降数日を経て。マスコミの風当たりは尚も理不尽に、柚明おねーさんへ厳しく。
報道陣は桂おねーさんのアパートを囲み続け。電話も満足に繋らない状態は、続行中だけ
ど。外に出た柚明おねーさんに再度石投げた男は、巡回中の警官に見つかって、その場で
逮捕された。どーやらその男1人ではない様だけど。

 取りあえず害する連中のやり放題ではない。
 徐々にでも日本の官憲は確かに機能し始め。
 夕刊トップはおねーさん擁護で部数を増し。

「柚明さんは、大丈夫そうですね」「ええ」

 烏月さんの少しほっとした声に頷き返し。

 葛の心配は杞憂だった。柚明おねーさんは、他に打開策がない時は己を捧ぐ人だけど。
それが必須な時を確かに見極め、凌ぎ耐えて機を窺う心の強さも持つ。鬼神の封じを為せ
た人が、俗人の取材攻勢に追い詰められる筈がない。大人の狡知など、あの人の想定範囲
だ。

 外していた恵美さんが、一冊の雑誌を手に執務室に戻ってきたのはその時で。それは…、

「週刊ロスト最新号の試し刷りです。余りに酷い内容なら、羽藤桂さんや柚明さんを貶め
る中身なら、この一冊だけでも発行差し止め、或いはページ差し替えの判断もあると思
い」

 恵美さんもその配下も、葛の指示も不要に桂おねーさん達を大事に想う様になっており。

「すぐに見ます! 他は全部後でいーです」
「はい。柚明さんの記事は……ありました」

 烏月さんも含め3人で、食い入る様に文字を追うけど。大仰なタイトルで始るその内容
は、確かに驚愕の一言に尽きる物だったけど。それは葛の想定の極みの範囲も、遙かに外
れ。

「こーゆー事も、あるのですね」「「は」」

 目を通したわたしも烏月さんも、恵美さんも暫く驚きの余り言葉がなく。迅速な処置は
不要になったから、惚ける時間はあったけど。

『【奇跡の人】報道に見る報道業界のマッチポンプ。無法取材と捏造の連鎖が招いた報道
被害。真実を騙るマスコミの暗部を抉る…』

 誌面には、マスコミ各社が最初から、奇跡の人のスキャンダルで儲ける為に、元々無名
な奇跡の女性を、敢て賛美報道で有名人化した経緯が、他紙記事を克明に追って記されて。

 権田記者の隣家敷地に侵入した違法取材も。バッシングに転じた時、それを主客取り違
えて報じ、非難に使った各誌の姿勢も。夕刊トップ・大島桃花が事実に基づいて全面謝罪
し、唯一奇跡の人叩きを抜け、擁護に回った経緯も。熊谷記者がアパートに盗聴器置いた
事も。彼が報じたクッキー食中毒誤報が、当事者達から否定された事実も。平塚寧々のセ
クハラ取材や、桂おねーさんへの暴言の数々も全て。

 報道業界の裏話を続々曝いて注目を引き。
 第2弾・第3弾が続くと明示した記事は。

 柚明おねーさんへのバッシングを、真っ向から否定する。葛にも晴天の霹靂の内容で…。

「これも柚明さんの想定内なのでしょうか」

 烏月さんの呟きに恵美さんも黙して佇み。
 わたしも余りの事態急転に考えが回らず。

「柚明おねーさんは、本当に底が知れない」

 不穏な松中財閥も。総理も政権党も、造反組も野党第一党も、概ね動きは予測付くけど。
この人は想定の範囲を時折越えて来る。政局や選挙や財閥の動向より、葛には愛しい贄の
姉妹の動向が興味深く。桂おねーさんや柚明おねーさんと、緊密に絆繋げた夏は未だ続く。


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