人の世の毀誉褒貶〔丙〕(前)



 今年の夏は、様々な意味で変化の夏だった。日本にとっても若杉にとっても葛にとって
も。日本の政治経済は大泉総理の郵政解散に伴い。若杉財閥と鬼切部はお祖父様死去に伴
う総帥不在が終って、六拾年ぶりに新たな頭が就き。若杉の宿業から逃げ出した葛は、鬼
切りの頭と財閥継承を受諾し……否、その事ではなく。

 わたしこと若杉葛にとっての本当の変化は。鬼切りの頭と財閥を継承する、意義を理由
を見いだせた事に。桂おねーさんに逢えた事が、心繋げた事が、愛しく想えた事が最大の
変化。

 この人の役に立ちたくて、この人の笑みを守りたく、この人に迫る禍や脅威を防ぐ為に。
一度は全てを投げ出して逃げ出したわたしが、全てを引き受けに若杉を受け容れて戻り来
た。

「……以上が、若杉系列の運送会社・杉本運送とそれを取り巻く業界、及び運輸行政等の
現状報告です……ご質問等ございますか?」

「いえ……ありません。概ねは掴めました」

 右隣に佇む、艶やかなセミロングの黒髪の若い女性に頷くと、彼女はお下がり頂いて結
構ですと促し。やや小さめな執務室で向き合って、若杉の運送部門の現状説明をしてくれ
ていた男女数名が、一礼して引き上げ。室内には彼女と烏月さんとわたしの3人が残った。

「会長……少し、お疲れですか?」「ええ」

 ここ暫く連日連夜、早朝から深夜迄、財閥と鬼切部の主要部門の現状報告を受けるのは。
大人にも苦行だと傍で一緒する彼女も身を以て承知だから。今朝も早朝から4時間近いの
で、少し休みを入れましょうとの進言に頷き。

 斉院恵美さんはわたしの秘書に付けられた、若く美しく明晰で声も良く透る年長の女性
だ。身長百六拾センチの華奢な体は胸も大きすぎず、やや癖のあるセミロングの黒髪は艶
やかで。年長と言っても拾壱歳の当主からすれば、大人は新米も全て年長になってしまう。
歳は未だ二拾六で柚明おねーさんより1つ年下だ。

『オハシラ様を務めた拾年の取るべき歳を取っておらず、ご神木に同化した時の女子高生
の姿の侭で、俗世に戻り来た柚明おねーさんと較べるのも、どうかとは思いますけど…』

 短いわたしの人生経験では、二拾歳代の女性との接触が少なく。葛の乏しいデータベー
スで、比較対象に出来そうな人物と言えばもう1人、外見は若々しく自称二十歳と名乗る、
実年齢千七百歳の女性と最近知り合ったけど。それこそ比較対象にする方が、無意味なの
で。

 冷静沈着に色々と目配りしつつ、そつなく職責をこなす。柚明おねーさんが大人になっ
たら、職場ではこういうタイプになるのかも。

 奨学生として海外留学し、その侭大学へスキップ早々学士号まで取得した、天に二物も
三物も与えられた才色兼備の人だけど。それよりむしろその経歴を経て尚、非合理の塊と
言うべき鬼切部の世界に半分首を突っ込んで、精神の均衡を失わない強さにその真価があ
る。

 鬼や鬼切りのいる現実を目にして尚、ある筈がないと心を閉ざす『合理主義』でもなく。
常識を砕かれ逆に心霊に嵌る脆さとも無縁で。柔軟に目前の現実を見定め、距離感をもっ
て対処できる。この世には分らない及ばない事があると認めつつ、己の職分と適性を知っ
て、必要なだけ関って深入りを避ける賢さを持つ。

「恵美さんもお疲れ様です……烏月さんも」

 わたしの職務に付き合ってくれる2人の美人に、労いの言葉を掛けると、恵美さんは静
かに遠慮がちな会釈で、気持を返してくれて。

「私は葛様の警護が役目ですから、何日でも何時間でも傍にいる事に障りはありません」

 烏月さんは常のクールでやや硬い応対を。
 羽様の屋敷では桂おねーさんを前にして。
 少し柔らかな応対を見せてもいたけれど。

 若杉に来てからは人目を憚ってやや硬く。
 2人きりの時は少し柔らかにもなるけど。
 任務遂行中と言う事もあるかも知れない。

 烏月さんは、流浪中の葛に接触し保護した鬼切部として。正式な鬼切りの頭への就任迄、
身辺警護を任せている。発見し最初に守ってくれた功績に、栄誉ある職で報いた形だけど、
実の所わたしも気心許せた者を傍に置きたく。

 頭として財閥総帥として押し戴かれるとはいえ、知らない者だらけの中に独り居るのと、
傍に同士がいるのでは、心の持ちようが違う。恵美さんも葛の秘書について一週間経って
なく。もー少し馴れれば応対も変ると思うけど。

「紅茶でも飲んで、少し寛ぎましょーか?」

 待機中の組に、こちらが小休止するので報告説明を延期させる旨を、恵美さんが内線電
話で伝え。烏月さんがはいと頷いた時だった。

「会長、監視班から報告が入っております」
「こちらのスクリーンに全部映して下さい」

 誰のいつのどんな内容かを訊く必要はない。わたしが若杉に来てから、配下に自ら命じ
監視させているのは、この世に1人だけだから。

 烏月さんの端正な表情が渋いのには気付かぬふりで。飲物の準備に外そうとする恵美さ
んを呼び止め。それは給仕に頼みましょーと。

「恵美さんにも見て欲しーのです。あなたは若杉財閥の会長秘書のみならず、鬼切りの頭
の秘書も兼ねる以上に、若杉葛の秘書になって貰わねばなりません。わたしのたいせつな
人を一緒に見て貰い、わたしの印象やわたしの視点も、あなたに共有して欲しーのです」

 部屋の右側の壁の大部分を覆う幕が、自動的に左右に引かれて。複数の画面が像を結ぶ。

「わたしの一番たいせつな人と、その一番たいせつな人がこのわたしよりたいせつに、一
番に想っている人を……一緒に見て下さい」


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「目標人物は2時間程前にアパートを出発し、周辺に群がる記者の人垣を越え商店街へ行
き、級友女子1名と合流し文具を購入しました」

 男声の解説の後、画面の中で桂おねーさんが早回しに動く。男女多数の記者にマイクや
カメラに包囲された桂おねーさんが。突如記者の食いつきから解放されるのは。画面には
映ってないけど、背後で柚明おねーさんが姿を顕した為だ。それで報道陣の注意が逸れて。
柚明おねーさんへのカメラワークが不足です。

 動き出していたのに監視班は、わたしへの報告を遅らせた様だ。運送部門の報告最中だ
ったけど、桂おねーさんに関る動きは最優先と指示したのに。事の軽重の判断を誤ってい
る。この動きを指示した秘書室長は更迭です。

「雑誌記者の中に、若杉の手の者を紛れ込ませていたのですか?」「まーそんな処です」

 恵美さんも、桂おねーさんに群がる取材風景の上映に驚いて。若杉はこんな事が出来る
のかと言う驚愕より、ここ迄させますかとの呆れを感じたけど。烏月さんの顔が渋いのは、
桂おねーさんの私生活侵害を気遣ってだけど。既に彼女の私生活は報道陣に侵害され放題
だ。

 顔写真はモザイクかけて、住所は伏せて仮名にしても。既にその私生活は掻き乱されて。
不測の事態に備えた動向把握は不可欠だった。わたしのたいせつな人は贄の血の末裔なの
だ。

「文具店の防犯カメラに侵入を?」「はい……正確には商店街の防犯カメラ網にですね」

 商店街に設置の意向があったので。若杉系列の信用組合が設置費の低利融資をする代り、
維持補修を若杉系列の電気店にさせる契約で。契約書を読み込むと、入手した情報を若杉
が活用する事に、商店街も許諾済になってます。

『そういう事には悪知恵が回るね』等と呟きそうな白銀の髪の豪奢な人も今は傍にいない。
恵美さんも、馴れればその位の突っ込みをできるだろーか。少し高望みかも知れないけど。

 早回しの映像は、何台かのカメラで前後左右から文具店に入る桂おねーさんを追い掛け。
時に望遠で、生き生きとした表情を録る辺り、商店街のカメラ担当は良い仕事をしていま
す。

「奈良陽子、県立紅花女子高等学校2年C組は対象人物と同クラス。同クラスの東郷凜と
並んで、対象人物に一番親しい友人です…」

 2人買い物を済ませ文具店を出て、反転して帰途につく。一度突き抜けてきたアパート
を囲む記者の群を眺めた処で、早回しは終り。

「ここからは、リアルタイムになります…」

 桂おねーさんの溜息は、自宅を取り巻く報道陣に向けて。この人垣を再度突き抜けなく
ば家にも帰りつけない。腰が引けるのも分るけど近付かなければ始らず。近付けば当然…。

「おっ来た」「妹さんだ」「友達も一緒か」

 奈良さんも一緒に報道陣に囲まれた。男性が多いけど女性もいる。恵美さんと同じ年頃
の黒髪ショートの女性記者に、癖のある黒髪の背中迄伸びた大柄な四十歳代の女性記者も。

 群がる報道陣の装備は、若杉が機能を付加して差し替え済だ。カメラの機能はその侭に、
内部構造を若杉の技術力でコンパクトにして、空いた隙間に受信機へ動画や音声を流す機
能を加え。使用する記者もその機能を知らない。スイッチもなく外見も重さも違いがない
ので。

 報道陣の何割かが持つカメラやマイクにその機能が実装されて。報道陣が普通に写真を
撮ったりマイク向けている積りで。それ以上の映像音声が、近くに配置した若杉のダミー
監視班に配信され、この様に中継もされます。

「お帰りなさい……どこに行ってきたの?」
「お友達と一緒で、夏休みの、宿題とか?」
「可愛いね。ちょっとだけこっちも向いて」
「お姉さんについて、少し聞かせてよっ…」

 質問に反応する前に次の質問が連射される。
 各々に自分の訊きたい事に答を求めて迫り。

「時折こういう有象無象を、大量粛清したくなるのは、権力を持つ者の悪い癖ですねー」

 報道陣の目的は実は桂おねーさんではなく。最近同居し始めた柚明おねーさんの方にあ
る。桂おねーさんは同居人として着目された訳で。脇役扱いだから、わたしも即座の介入
は思い止まった。そうでなければ、財閥総帥に正式就任する前でも、影響力を使って処置
をした。

「桂ちゃんの服選びはお姉さんのセンス?」
「携帯番号教えてよ。僕だけに、秘密でさ」
「髪の毛が柔らかくて、良い色合いだね…」
「お姉さんの次の外出って、いつ頃かな?」

 確かに拾年行方不明で、死亡認定された人物が世間に戻り来るのは珍しい。しかも行方
不明の間全く歳を取ってなくて。拾歳違いの桂おねーさんと同年代に見える『奇跡の人』。
世間の注目も集まるのはやむを得ぬ処だけど。

「夜はいつも2人何時頃迄起きているの?」
「今朝の朝ご飯の、メニューを教えてよ?」
「お姉さん美容の秘訣は何か言っていた?」
「2人で一緒にお風呂とか入っているの?」

 どうでも良い問や真実を答えては拙い問や。
 答を求めてはいけない様な問迄遠慮もなく。
 人垣に包まれ2人は身動きできず困り顔に。

「週刊誌で騒がれ始めたって聞いていたけど、毎日こんな感じなの?」「ここ数日は、
ね」

 報道陣のマイクから2人の会話も漏れ聞え。
 画像では近すぎて手足や首筋等が映ったり。

 他のカメラでは少し遠目からご近所さんが、主に奥さん達が何事があったかと顔を覗か
せ。明らかにこの混雑を好ましく思ってない様だ。

「お姉さんとの馴れ初めを、お話ししてよ」
「経観塚でのお話を……拾年前も含めてさ」
「お姉さんとの思い出話し、何かないの?」
「どうやって再会できたのか詳しく教えて」

 報道陣は桂おねーさんへの質問以上に、互いにポジションを争い怒鳴り合い啀み合って。
退けろだの痛いだの待てだの動けだのと喚き。そうである以上2人は身動き取れる筈もな
く。

「ちょっと、通して……っていうか、せめてこのぎゅうぎゅう詰めを、何とかしてっ…」

「ちょっと押さないで、私が今質問をして」
「そっちこそ質問の横取りは止めてくれ!」
「だから肩を掴むなってのに、このっ……」
「痛い! 足踏まないで。……そこ、邪魔」

 一歩も前に進めない。後に下がる事も横にずれる事も出来ず。押しくらまんじゅう状態
で、揉み合う記者さんの真ん中から動けなく。

「あの……ちょっと……」「あたし達、はとちゃんの家に入るんです。どいて下さい!」

 最早細身の女子高生に、どうにか出来る状況ではなく。2人はもみくちゃにされる侭で。

「少しでも良いからお話ししてよ拾年前の」
「拾年間お姉さん不在で寂しくなかった?」
「最近お母さんを亡くしたって聞いたけど」
「いい加減にして、ちょっとここ通してよ」

 奈良さんも、桂おねーさんを庇ったり人垣の外に出そうとしたり、してはいた様だけど。
その腕力と声音と気合では力不足で。足踏まれ肩掴まれ、スカート引っ張られ、逆に桂お
ねーさんから引き剥がされ掛り。そんな報道陣も自身すし詰めで、自分の動きも侭ならず。

 瞬間、左隣に立つ烏月さんの気配が変った。
 今から馳せ参じても間に合わないと分って。

 尚桂おねーさんを案じる、常の感触が突如。
 人ならざる怪異を見定める蒼い眼光を宿し。

「煩わしいわね……有象無象が私のけいに」

 密着したマイクが、女の子の音声を拾えた。
 何の変哲もないけど心に残る鈴の音と共に。

 桂おねーさんが、慌てて制止を試みるけど。
 桂おねーさんに彼女を止める力量はなくて。

「ノゾミちゃんダメだよ、今はまだ昼で…」

 わたしも烏月さんも固まった。白昼でもこの至近なら、彼女程強い鬼に力を及ぼす事は
叶うのか。何も気付かず押しかけ続ける大人達の動きを。その大人達を凍り付かせようと
した密かな動き迄。纏めて一声で押し止めたのは、記者の人垣から少し離れた処に現れた。

「お帰りなさい桂ちゃん。陽子ちゃんもいらっしゃい、今日も暑いわね」「ユメイさん」

 桂おねーさんの従妹で現在唯一の肉親で。
 全国的な注目を浴びつつある『奇跡の人』

 飾り気ない普段着の上にエプロンを纏い。
 蒼髪が艶やかに滑らかな美しい人だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「ユメイさんだ」「出てきた」「こっち!」

 報道陣の流れが変る。桂おねーさん達に詰めかけて、肩を掴んで手首握って、スカート
引っ張ってでも、一言欲しい感じだったのに。突然押しくらまんじゅうは停止して。ノゾ
ミの大人達を攪乱しようとの動き迄も停止して。

 柚明おねーさんは大声でもなかったけど。
 良く通る綺麗な声で衆目の注意を引いて。
 桂おねーさん達への密集は瞬時で消失し。

 でもそれは、代りに彼女がこの群衆の標的になると言う事で。いや、この群衆の真の標
的は柚明おねーさんだから。これはハイエナの群に子ヤギが飛び出す様な物で。まぁ彼女
は常に自身を差し出すか己の身を挟める事で、桂おねーさんを守り庇ってきた人でしたか
ら。

「何やっている」「こっちこっち」「早く」

 今迄以上の人の群れが、地響きを立て走り行く。桂おねーさんに詰めかけていた人達も、
見る間に引き剥がされて、ほっと一息。でも。

「ユメイさん、おはよーございますっ…!」
「経観塚での拾年のお話を聞かせて下さい」
「従妹さんと再会できた時の、状況を少し」
「エプロン姿可愛いね。ここでは主婦役?」

 桂おねーさんに為された事が繰り返される。詰めかける男女多数の前で、華奢な姿はた
ちまち見えなくなって。すごい人だかりになり。これでは桂おねーさん達を迎えられませ
んよ、と呟いた時。恵美さんがやや驚いた顔を見せ。

 身動き取れない筈の柚明おねーさんが、人垣をすっと抜けてきた。あり得ない筈の動き
がごく自然に。数十秒も掴まってない。報道陣も真ん中辺りでは後から詰めかける仲間に
押され、彼ら自身身動き取れない状態なのに。

 落ち着いた薄青の普段着に、白いエプロンの華奢な女性−否、外見はどう見ても高校生
の女の子です−は。自分よりも大きい人達を、汗だくな様子も必死な感じもなく、ごく自
然にすいと躱し。烏月さんの視線は心配ではなくて、達人の為す動きへの興味に変ってい
た。

 息が切れた様子もなく、柚明おねーさんは桂おねーさんの正面に辿り着き。華奢な両肩
に軽く手を差し伸べ、愛おしんで癒しを注ぎ。女の子同士の抱擁も、とても自然に柔らか
く。桂おねーさんも迷いなく従姉の腕に身を委ね。

 2人とも華奢に綺麗な同士なので。これはこれでいい物を見させて頂きました。納得で
すと言うか眼福でした。その後で柚明おねーさんは、ついでに奈良さんにも微笑みかけて。
間近で見とれ惚れ込んでいたと気付くタイミングが、わたしと全く同じですよ、奈良さん。
丁度その頃合で、漸く報道陣の群れは反転し。

「ユメイさあぁぁん」「インタビューをっ」

 さて、己1人なら対応できますけど。桂おねーさんと奈良さんを抱えて、どーしますか。

 柚明おねーさんは、迫り来る記者の群れに向き直り、ゆっくりと距離を縮め。それを横
目に見つつ、桂おねーさん右に、奈良さんは左に、報道陣を迂回してアパート入口へ走り。

「掴まえたっ、スリーサイズ測らせてよ…」

 眼鏡を掛け、縮れた黒髪の長い年輩の女性記者が。女同士ならセクハラも許容範囲と思
ってか、柚明おねーさんを後ろから抱き竦め。両腕をクロスさせ、その若々しい乳房を掴
み。

 動きの停止をチャンスと見て、他の多数も殺到し。柚明おねーさんは2人が迂回する少
しの間、わざと捉まって時間稼ぎを考えた様だけど。でも本当にがっちりと身を固定され。

「可愛いねぇ、どう見ても女子高生だよ…」
「その若さの秘訣を、少しだけ教えて頂戴」
「すべすべで気持いい肌ね、感触も柔らか」
「この花の甘い香りは……何の香水かな?」

 女性でも相手は大柄で腕も太い。更に男性多数にしがみつかれ、引き剥がすのは無理だ。
多数の密着で誰の手か分らないのを良い事に、男の手も遠慮なく、太腿や二の腕を掴んで
逃がさず。思わず身を乗り出してしまう。外見が桂おねーさんと同じ年頃の女の子だけに
…。

「今は彼氏も居なくて、拾年なんだよね?」
「経観塚にいた頃には、恋人とかいたの?」
「黒髪綺麗だね。下のヘアもこんな感じ?」
「答えてくれないとおっぱい揉んじゃうよ」

 最後のは女性だから出せる求めか。男性が発したら絶対に訴えられる。男性が責めづら
い処を責めるには、女性の方が有効なのかも。豊かな胸を揉む掌の動きや、女性記者の卑
猥な笑みと柚明おねーさんの反応も至近で録れ。

「下着の色を教えてよ、黒、白、ピンク?」
「この拾年どこで何していたか、教えてよ」
「ずっと男とご無沙汰で寂しくなかった?」
「今もまだ彼氏居ないの? 都会に出てからも夜は1人で済ませているの? その辺を」

 集団で押しかけていれば責任が分散される。
 自分も身動き取れなかったと言い訳できる。

 答を貰える迄逃がさないと、肌身に迫り押し寄せる男女多数に。恵美さんが心配げな顔
を見せた時だった。やはり何の前触れもなく、人垣から柚明おねーさんはすうっと抜け出
て。人垣は割れてもないし崩れてもいない。彼女が出てくる前も出てきた後も、そこは密
集した人垣で。報道陣が身動き取れない程なのに。

 柚明おねーさんは、極めて自然に歩み行き。
 必死な様子も、逃げを意識した様子もなく。
 桂おねーさんの傍に辿り着いて、振り返り。

「済みませんが……女の子の秘密に関る事を、初見の皆さんに軽々にお話しは出来ませ
ん」

 柔らかでも明確に答えませんと意思を伝え。

 ちょうどその時に背後のアパート入口から、
 既に到着していた東郷凛さんの声が届いて。

 桂おねーさん達は無事アパートへ撤収した。


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 わたしが桂おねーさんに、羽様の屋敷で別れを告げてから、十日が経った。敵も消えて
長閑に伸びやかな一番の人との日々を堪能し、心に刻み込んでから。深夜烏月さんの携帯
で、烏月さんがわたしを発見し保護した旨を若杉に伝えると。翌早朝に迎えの車は羽様に
着き。

 若杉は情報秘匿を優先し、時に恩人も省みない。口封じの怖れもあったので。桂おねー
さん達は葛の生命の恩人だから、手出し厳禁ときつく命じ。実際ノゾミも含め、その時羽
様にいた全員が助け合ってなければ、桂おねーさんもわたしも生き延びられなかったのだ。

 改めて篤くお礼をしなければいけないけど。
 今は若杉継承とその統括や把握が最優先だ。
 愛しい人を守れる手段の確保が何にも優る。

 桂おねーさんの監視を命じたのは、その身に害が及んでない事をわたしが確かめる為で。
桂おねーさんではなく実は配下の動向監視だ。

 傍に烏月さんを置いたのは、命令に反した者を切れる刀があると示す為で。若杉が内部
の処刑迄素直に指示に従うか不安だったので。やれる意思と力と示さねば脅しにもならな
い。

 烏月さんを伴い若杉本部に戻ったわたしは。
 その警護を受けつつ財閥継承の準備に入り。

 なので烏月さんはずっと千羽に戻ってない。
 夜も同じ褥で一緒に眠って貰っているし…。

 入浴時も侍女の他に烏月さんも当然一緒に。
 身辺警護で同性だから問題はないでしょー。

 烏月さんも任務の為に経観塚を訪れており。結果の言上に、千羽館へと帰らねばならな
い処だけど。携帯で事情を伝えるだけでは済まない筈だけど……葛の我が侭で、押し切っ
た。

 故に烏月さんは恵美さんと同様、互いの用便以外常に傍にいる。葛の見た物聞いた物は、
この2人の見た物聞いた物で。わたしの指示命令は、この2人も見て聞いて知っていると。

「葛様……余りにも報道陣の無法が過ぎます。現場に若杉の者がいるなら、彼らを使って
報道陣の動きを掣肘出来ないのでしょうか?」

 烏月さんの顔色には、桂おねーさん達の元へ駆けつけたいと書いてあった。生命の危険
はなくても、今の柚明おねーさんの様に身を掴まれたり胸を揉まれたり。愛した人の不快
を呼ぶ状況を、捨て置けない気持は分るけど。

「直接やっては、若杉の者が報道陣で浮いてしまいます。彼らは情報収集に特化して気付
かれぬ事が重要……報道各社の編集部を通じ、報道陣に取材方法の適正化を促すべきか
と」

 恵美さんの進言は、迂遠だけど妥当だった。烏月さんの主眼が桂おねーさんの現状改善
なのに対し、彼女は全体のバランスを見ている。それ故に直接さや即効性が薄まるけど。
桂おねーさん達は今生命の危機にある訳ではない。

「そーですね。促した結果を確かめる為にも、若杉の者は尚報道陣に、潜ませ続ける必要
がありますし。その旨指示しておいて下さい」

 柚明おねーさんに人の注目が集まったのは。
 葛の意図ではないけれど若杉の所為だった。

 葛が発見された事実を、大きく扱われたくなかった幹部達が。柚明おねーさんの情報を
流して報道各社を誘導し。葛が財閥の後継を嫌って逃げ出し、一文無しで流浪していた事
実が彼らには恥であるらしく、極力隠そーと。

 人の耳目を集める情報を一般に広く流すと、若杉にも情報制御は難しく。業界には取材
ルールを守る様に周知したけど。芸能人でも政治家でも競技者でもない、市井の庶民たる
桂おねーさん達の本名や住所を晒さない様にと。世間は取材対象の人権保護や報道被害に
目を向け始めており、その流れで理解された様だけど。取材現場のルールは未だ野放しに
近く。

『拾年行方不明』の末に『突如発見されて』『その間全く歳を取ってない』『奇跡の人』

 注目される要素は揃い踏みだ。桂おねーさんと血の繋った従姉とあって、美しい人だし。
見た目は女子高生、桂おねーさんと同じ年頃なのに、たおやかに穏やかで静かに慎ましく。

 だから一度こうして話題沸騰してしまうと。

 後ろ姿や佇まいや答える仕草の一つ一つに。
 報道陣も皆魅了され夢中になって追い求め。

 飛びつかぬ事が流行遅れの様な空気を醸し。
 騒ぎが人を呼び人が騒ぎを作る循環に入り。

 これは麗しく生れついた者の定めなのかも。

 結果、郵政法案を巡る衆院解散や総選挙の政局ネタに、横から殴り込みを掛けた感じで。
柚明おねーさんの近況や来歴が、スポーツ紙や週刊誌で報道され。それが本当に本人達も
望まぬながら、全国的な反響を呼んでしまい。

 男女多数の報道陣が、アパート傍に詰めかけ張り付きカメラを構え。ご近所の迷惑も桂
おねーさん達の困惑も気に掛けず。バッシングでなくてさえ、報道は時に生活を侵害する。


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 騒がれ始めた頃柚明おねーさんに、若杉が情報を流した事を謝りに。何かの対処が必要
なら今の葛に出来る範囲で為したいと、一度電話を掛けたけど。柚明おねーさんは『気に
しなくて良い、特に介入は不要』との答えで。

 重ねて尋ねてみた処『今の処は黙って見守って欲しい、助力が必要になった時はお願い
する』と応えて、桂おねーさんに電話を回し。つまり今の処、若杉の助けが要る程困った
状態ではないと、あの人も見ているという事で。

「烏月さんは映像越しでも悟れましたか?」

 それよりも今は、烏月さんの感触を尋ね。

「はい……葛様は?」「わたしは烏月さんの緊張を見て勘付いた口です」「……会長?」

 恵美さんは気付いてない。わたしも直接察知は出来なかったけど。烏月さんを見たから。

「ノゾミさんが桂おねーさんに張り付く報道陣を振り払う為に『力』を使おーとしたので
すよ。そーですよね、烏月さん?」「はい」

 恵美さんも既にある程度、鬼や鬼切部の事は呑み込み済だ。でも霊体の鬼を直に見た事
がなければ、実感が湧かないのは無理もない。

「ノゾミさんは日中でも、鬼の『力』を使えるのですか? 魅惑を及ぼしたり、かりそめ
の物質で蛇を作ったり、ピアノ線より強く硬い『赤い紐』で人の血肉を寸断したりは?」

 烏月さんは怜悧な双眸をわたしに向けて、

「経観塚でノゾミとミカゲは、小学校教諭を魅惑して依代の鏡を持ち出させ、自由を得て
います。夜昼問わずその魅惑は利いて、小学校教諭は2人の支配下にあった様なので…」

 蛇や赤い紐を作れるか否かは分りませんが、日中でもあの間合なら、魅惑を及ぼす事は
可能かと。ノゾミは霊体の鬼でも飛び抜けて旧く強い。消耗覚悟ならあの数を惚けさす事
も。

「直接人を傷つけずとも、鬼の『力』を人に行使しただけで、鬼切部は黙っていられない
処でした……今のは寸止めで助かりました」

 烏月さんの瞳に、微かに安堵が窺えたのは。桂おねーさんが報道陣を、無事切り抜けら
れた事より。ノゾミが衆目の前で『力』を行使する状況が、未然に留められた事への安堵
で。

「葛が動かなくても、鬼切部のどこかが動いていたでしょーからねぇ……ノゾミさんにも、
もー少し人前での装いに、馴れて貰わねば」

「私には正直、感じ取れませんでしたけど」
「私も『力』で察した訳ではありません…」

 恵美さんの素直な感想に烏月さんも頷き。

「私も桂さんの声や様子を見て察せただけで、『力』を画像で把握した訳ではありませ
ん」

 烏月さんも、桂おねーさんとノゾミを承知だから推察が及んだ訳で。未然に防ぎ止めら
れた以上、鬼切部でもこの画像では、ノゾミの存在や『力の充填前』は読み取れぬ。その
意味でも柚明おねーさんの対処は絶妙だった。

『力』を扱い馴れているから、それを察する術も、それを気取らせず潜ませる術も熟知し。
青珠に憑いたあの鬼を掣肘するのは、並の術者にも難しいけど、この人ならそれも叶うか。

 報道陣はおねーさん達のアパートを囲んで。
 次の外出は当分ないと分って張り付き続け。

「次の部門の説明を呼びましょうか? 休止はやや長めに取りましたけど、羽藤桂さんも
自宅に入って、暫く動きもないでしょうし」

「そーですねぇ……ん? ちょっと待って」

 報道陣に潜ませた、何人かのカメラの内。
 一つの画像が羽藤家の、アパート裏側に。

「あのカメラ、音声録れますか?」「はい」

 やってみますと、恵美さんは。内線電話で、羽藤家の窓へ近付き行くカメラを問い合わ
せ。

「ちょっと権田さん、ここ隣家の敷地で不法侵入ですよ。良いんですかー?」「うっせえ。
お前はマイク持って付いてくりゃ良いんだ」

 屈強の体躯を持つ四十歳過ぎの男性記者は、相方の制止も聞き入れず。ずんずんカメラ
は隣家の敷地に入って行く。公道からは撮れない角度で、桂おねーさんの室内を覗く積り
か。他社に潜む者のカメラが、屈強の男性と引きずられる様に隣家敷地に入る相方の姿を
映す。相方は三十歳代の背丈低い五分刈りの男性だ。

「週刊深長の権田岩男です。強引な取材手法で幾つかスクープを収めた、名物記者らしい
ですけど。相方の宮下太一は若杉の者です」

「葛様、現場に連絡して即座に阻止を…!」

 この侭では桂さんの私室が覗き見されます。
 写真や音声は一度流出すれば回収が困難に。

「そーですね。恵美さん、週刊深長を……」

 烏月さんの求めを受け指示を出すより早く。

 覗き見ようとしていた窓が突如開け放たれ。
 柚明おねーさんが権田記者を正視していた。


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 権田記者が向けた画像には、窓を開け放つ柚明おねーさんと、その肩越しに奈良陽子さ
んの顔が映り。室内の盗撮を喝破された様だ。画像の揺れは、権田記者の心の動揺をも示
す。

「ちっ、ばれたか」「週刊深長の権田岩男さんと、宮下太一さんですね。困ります……」

 柚明おねーさんはやや強い語調で、画面中央を権田記者を見据え。彼女はしつこい取材
や強引な記者への対処として、即座に抗議して相手を怯ませる為に、その人相と所属氏名
を憶えているらしい。これは意外と妙手です。

 後ろ暗い取材をする者は、所属氏名を特定されるとかなり怯む。上司や社長に抗議出来
るし。警察への通報や訴えたりも出来るから。この辺りは並の女子高生には及ばない発想
か。

 わたしも出しかけの指示を止めて、烏月さん恵美さんと暫し画面の展開に魅入る。この
人は報道記者の気配も察知できる。覗き見される怖れはなかった。むしろ問題はこの先に。

 屈強な男性は、優しげな年若い女の子の外見を侮って。正面から咎められても尚退かず。
相方の宮下が裾を引くのも無視し傲岸不遜に。

「見つかったついでに、正面から一枚頂き」

 その美貌を撮ろうとフラッシュを焚くけど。
 一瞬早く奇跡の女性は華奢な右手を翳して。

「お断りします」権田記者の意図を挫いて。

 シャッターを押す手は防げないけど。撮られたくないと言う以上に、前に掌を開いて出
す事で写真の価値を減じ。一瞬の対応力・判断力が光ります。自分の意図を通せなくても、
相手の意図を挫く事は叶う。発想が柔軟です。

「一枚位撮らせろよ。減るもんじゃなし…」

「不当な方法に利得を与えては、正当な方法で取材する他の記者さんに不公平になるので。
そういう姿勢を真似られても、困りますし」

 正視し抗議の姿勢を保つ柚明おねーさんに。
 権田記者は微かな不快を大人の余裕に包み。

「へぇ、静かに大人しそうでも、意外と気が強いんだな。流石中身は弐拾六歳って処か」

「この様な取材方法は止めて下さい。わたし達だけではなく、松田さんにも迷惑です…」

 柚明おねーさんは見るべき処はしっかり見、言うべき処はしっかり言う。優しげに静か
な声音も、お淑やかにたおやかな仕草も、女子高生の外見も、必要な鋭さの妨げにはなら
ず。

「早く松田さんの敷地から出て下さい。奥さんの不在を狙ったのでしょうけど、もう買い
物から帰る頃です……そして丁寧に謝って」

「ふん、庭に入った位で。減る物じゃなし」

 悪びれた様子も罪悪感の欠片もない姿勢に。

「花畑が踏み躙られています。松田さんの奥さんが精魂込めて育ててきたお花畑なのに」

 柚明おねーさんの語調が強さを増した気が。

「誰が何をたいせつに想うのかは、様々です。だからこそ、何をたいせつに想うか分らな
い部外者は。無遠慮に他者の奥深くに土足で踏み込む事を慎むべきだと、わたしは想いま
す。

 松田さんの奥さんに、奥さんの笑顔を楽しみにするご主人に、あなた達は謝るべき…」

 もしあなたがそうしないなら、わたしが松田さんに事情を伝え、週刊深長編集部と深長
社に抗議や謝罪、賠償を求めるお手伝いをします。仮に法的に訴えるなら、証言もします。

「ぐっ……こ、この小娘が、生意気をっ…」

「もうすぐ松田さんの奥さんが帰ってきます。
 2人で所属も名乗って丁寧に謝って下さい。

 後でわたしも松田さんに、この様な事態を招いた結果を謝りに参ります。その時にあな
た達の謝罪があったかどうかを確かめます」

 どこの誰か知れぬ報道記者です、ハイさよならでは済ませられぬと。漸く彼らも実感し。

「ダメですよ、これはこっちが旗色悪いです。権田さん、今日は引きましょう」「う…
…」

 進退窮まった権田記者は、かなり頭に血が上っていた様だけど、宮下に引かれて公道へ
戻り行く。それを見送る暇もなく。2人が退く先の公道から、室内に向けてフラッシュが。

「いい絵を撮らせて貰ったぜ、ユメイさん」

 黒い長髪が少し薄い中肉中背の中年男性と。
 少し背の低いスポーツ刈りの若い男性記者。

「四拾歳半ばの男性がスポーツ東京の熊谷直弘で、若い方が内川貴文。熊谷の方はゴシッ
プ狙いの記者として名が通っている様です」

 男声で短く解説が入るのに、頷いておく。

 アパートの中を覗き込む角度には行けないけど、窓ぎわに現れて抗議する柚明おねーさ
んの立ち姿は、公道からも撮れた様で。こういう処を収める辺りは、本当に抜け目のない。

「屈強な他紙男性記者に一歩も引かず、道理を述べて行き過ぎた取材を諫め。当紙も行き
過ぎた取材は戒めているが、美しく凛々しい被写体を前に、改めて他山の石としたいと」

 そこは柚明おねーさんも手を翳す事はせず。
 窓の内に速やかに身を引くけどその時既に。

「スポ東だけに特ダネを撮らせる物ですか」

 フラッシュはこの2人組以外からもう一つ。
 黒髪ショートな二十歳代後半の若い女性と。

 それよりやや年上のでも若く細身な男性の。
 男性は気弱そうで女性に引っ張られる感じ。

「不法侵入し隣家の花畑も被写体の家庭事情も土足で踏み躙る他紙男性記者を、強く制止。
凛々しく美しい横顔を本紙女性視点で接写」

「夕刊トップの大島桃花と中山栄太。大島は昨年全国紙で、汚職官僚を追及しすぎて官庁
の怒りを買い、圧力を受け系列の夕刊トップに左遷されました。中山は大卒の就職浪人で、
役員の縁故で拾われた様です」「ほーほー」

 隙あらば柚明おねーさんを収めたい姿勢は、権田記者の同類で。明確に犯罪となる一線
を越えるか、その線上に留まるかの違い等実は。撮られる側には余り大きな違いではない
かも。


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 もーいーですと、わたしは画面から体の向きを変え。椅子に背中を預けつつ右斜め上に、

「でも、想像以上に柚明おねーさんが、しっかり対応できているので、安心しましたー」

 あの人は戦時よりむしろ平時の人ですから。
 報道陣が凄いので大丈夫か気になったけど。

「杞憂に終って何よりです」「確かにそれはその通りですが……あの報道陣は何とかした
方が良くはありませんか? 始終あれでは」

 烏月さんは、桂おねーさんが心配だから。
 柚明おねーさんに掛る負担も、厭うから。

「幾ら若杉に情報制御の力があると言っても、やりたい放題好き放題な訳ではありませ
ん」

 下手な操作が逆効果を生む事もあれば、中途半端な措置が思わぬ副作用を伴う事もある。

「大きな力を使う時こそ、慎重でなければならないのは。刃物を扱い鬼も人も切る権限を
持つ烏月さんこそ、理解できると思います」

 今迄の様な指示では、迂遠で当たり障りのない効果に留まる怖れが高いけど。劇的効果
を求め、直接介入に切り替えるには躊躇いが。

「恵美さん……若杉の報道部門の概要説明は、どの辺りに挟まっていますか?」「すぐ次
は金融部門、その次が土木事業、その次が航空部門で、説明要員は待機しています。報道
部門は、明日の6番目になっておりますが…」

「明日の最初に差し替えて下さい。そこで若杉が今迄、取材や報道に対しどんな指示を出
して、どんな効果や副作用が生じたか、成功例や失敗例を示して説明して貰いましょー」

 今迄散々若杉を嫌って逃げていたわたしは、財閥や鬼切部に人脈がない。蠱毒で知り合
った者は、その所在から探索を始めねばならず。右も左も分らぬ内に拙速な指示をして失
敗しては、重鎮達に足下を見透かされる。必ずしも意の侭に従わぬ先代からの側近を使っ
ているのも、今のわたしに近衛部隊がいない為だ。

 取りあえず烏月さんの繋りで、千羽党を近衛部隊に扱い。若杉の術者にも私的に繋りを
持ち。それとこの様に各部門の概要説明を受ける中で、これはと思う人物がいれば抜擢し。

 取りあえず人材と時間が足りない。巨大な組織を動かす為の手足が欲しい。全てを把握
しない内に、鬼切りの頭や財閥総帥の通常激務が迫り来る。今迄通りにやりたいと配下か
ら言われた時に、情報が少なくて判断に困る。

「報道部門の説明を受けた後で。桂おねーさん達を巡る状況に対し、葛が今一体どんな事
が出来て、どういう影響が出るのか、概ねを知ってから、考えましょー?」「……はっ」

 権力者が何かをしようと思えば、やりたい好き放題に出来るけど。何かを巧くやろうと
思えば、途端に自由度が減ってしまう。過去の権力者もこの矛盾に頭を抱えたのだろーか。
悩みのない人生は庶民の方にこそあるのかも。


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「桂おねーさんおひさです」「葛ちゃん!」

 桂おねーさんの可愛らしい声を聞けたのは、久しぶりです。前にお話しできたのは一週
間近く前でしょーか。長閑に伸びやかな年頃の女の子の声は、小さな胸に心に染み渡りま
す。

「少し前に、陽子ちゃんとお凜さんが帰った処なの。お姉ちゃんとお夕飯作っていたんだ
けど、お姉ちゃん途中で火を止めて居間に歩いて行って、そしたら電話が鳴り出して…」

 桂おねーさんの家電に掛けると、高い確率でまず柚明おねーさんが出る。それも殆どコ
ール無しで。彼女は掛ってくる電話を察する術を持つ様で。盗聴による逆探知に備え、長
く発信し続けるのも控えねばならない葛には、待たずにワン取りで出てくれる事は有り難
く。

 最も話したい相手は、桂おねーさんだけど。周辺状況を聞き取って、必要な対処を尋ね
る為にも、柚明おねーさんとの会話も不可欠で。先に必要な用件を済ませて、時間いっぱ
い愛しい人とお話しできるこの手順が今は最良か。

『はい、羽藤柚明です』『どーも、葛です』

 柚明おねーさんは桂おねーさんに『葛ちゃんからの電話よ』と告げ『少し待っててね』
と加え、わたし達の用件に入る。漏れ聞える桂おねーさんの反応や息遣いが愛らしーです。

 こちらは執務室の椅子に背を預け、烏月さんと恵美さんが傍で待機し。恵美さんが時折
時計の針を見るのは、制限時間を気にしてだ。音声はスピーカーにして2人に届かせてい
る。

『報道陣は相変らず、凄い混み具合ですね』

 この人は報道陣に若杉の者が潜伏する事もお見通しだ。悟ってない筈がない。酷い取材
を掣肘せずに、情報収集に徹している実情も。それを分って咎めず指摘もせず、桂おねー
さんにも伝えないのは。彼女達の無事を保ちたい葛の意図が、理解されている故と信じた
い。

『はい、少し困って居ますけど……じき彼らも引き上げると思います。人の噂も七拾五日。
いつ迄も、何の変哲もない市井の庶民の動向を追い続ける程、彼らも暇ではない筈です』

 拾年オハシラ様を務めた人には、報道陣の無法も、雨風の鎮まりを待つ様な感覚なのか。
嵐に幾ら立ち向かっても、吹き飛ばされ押し返されるだけ。じっと終りを待つのが最善と。
この人は、柔らかでも決して折れぬ柳の様な。

『こちらにできる事があれば、何でも言って下さい。所詮人の集団ですから限界もありま
すけど、若杉財閥と鬼切部の力で叶う限りの事はしよーと思っています』『有り難うござ
います。今の処は桂ちゃんも大丈夫ですし』

 静かに優しげな声は、落ち着いたトーンで逆にわたしの心を鎮め行く。この人はわたし
や烏月さんが、何かせねばとウズウズする状況や心理を察して、落ち着かせよーとして?

『多少の困り事や差し障りは、日常生活に付き纏う物です。一々葛さんのお手を煩わす程
の事ではなく、充分対応可能です。お願いしたい事が出来た際は、改めて連絡致します』

 暫く静かに見守って欲しいと彼女は語り。

『そーですか……承知しました。重ね重ねですけど、わたしで役に立てる事があれば遠慮
なく仰って下さい。桂おねーさんも柚明おねーさんも、わたしのたいせつな人ですから』

『お心遣いに感謝します。葛さんは本当に賢く優しいですね……桂ちゃんに、代ります』

 そんな会話の末に愛しい人に代って貰い。

「……お姉ちゃんに、お料理教えてもらっていたんだよ。早く上手になって、葛ちゃんに
食べさせてあげられる様に」「楽しみです」

 そこで突如、別の女の子の声が挟まって。

「さっきは『鬼切り役に食べさせてあげられる様に』って、けいは言っていた様だけど」

「ノゾミちゃんっ……烏月さんにもそうだけど、葛ちゃんにも食べさせてあげたいのっ」

 脇の烏月さんは豆鉄砲を喰らった表情で。
 ノゾミの肉声は恵美さんにも聞えている。

「あなたは大人しく私に、贄の血を食させてくれればそれで良いの……まぁ、けいが心を
込めて作った料理を食して欲しいと望むなら、食してあげるのもやぶさかではないけれ
ど」

「贄の血は昨夜あげたでしょ? 暫くはお預けだよ。それより今夜はわたしの力作を……
って、お姉ちゃんもう全部作っちゃった?」

 受話器から口を離しても声は筒抜けです。
 少し遠くで柚明おねーさんの長閑な答が。

「ごめんなさいね。作りかけで食材を放置してはおけなくて……こちらはほぼ出来たから、
心おきなくお話しして良いわよ、桂ちゃん」

「うぅ、一番大事な味付けを見逃したよ…」

「私はゆめいの手料理を、嫌いではないから、困らなくてよ。それであなたの血が美味し
くなれば尚結構」「お料理修練は毎日出来るわ。また明日、頑張りましょうね。桂ちゃん
…」

 はぁいとやや活きの下がる桂おねーさんに。

「奈良さんと言いノゾミさんと言い、楽しそーで羨ましーです、桂おねーさんの周辺は」

 元気な人の話題を振るとこの人も生き返る。

「結構大変なんだよぉ、今の女子高校生って。

 お凜さんと3人で一緒に夏休みの宿題やろうって集まったのに。陽子ちゃんはノゾミち
ゃんとお喋りしてテレビ見て。わたしやお凜さんの答を写そうとして『まだ出来ないの』
って急かすし。ノゾミちゃんはテレビのワイドショーを見て、選挙とか新党とか郵便局と
か一つ一つ尋ねるから、答えるのに大変で」

 夏休み前半を羽様で過ごしたから、用意周到が座右の銘のわたしも、計画的に宿題片付
けられなくて、追い込まれて大変なんだから。

「って葛ちゃんこそ大変なんだっけ。財閥総帥と鬼切りの頭に同時就任だものね。きっと
お仕事いっぱい堪っている状態で、何から何迄憶えなきゃならない初めての事だらけで」

「まー桂おねーさんと似た様な大変さです」
「わぁ大変だ。それはちょっときついかも」

 ちゃんと眠れている? 3食きちんと食べている? 若杉財閥だから美味しい食事は出
ると思うけど、心の状態も食欲を左右するよ。尾花ちゃんと遊んであげているの? 尾花
ちゃん、突然環境が変って体壊してないかな…。

 傍で烏月さんと恵美さんが、何と言って良いか分らない顔で沈黙を保っている。烏月さ
んに桂おねーさんの声を聞かせるのは、彼女への配慮で。恵美さんに聞かせるのは、この
親密さを秘書として分って貰いたいからです。

「そっちには烏月さんもいるから、独りぼっちではないと思うけど……もしかして傍にい
る?」「いいえ、今わたしの目の届く処には。若杉本部には詰めて貰っているのですけ
ど」

 烏月さんが首を横に振るので、わたしは麗しい人を視界から外すように少し向きを変え。
通話相手が増えれば『葛のための時間』が減ると、烏月さんはわたしに気を遣ってくれて。

「そう……烏月さんとも暫く話せてないから。
 葛ちゃんとも、まだ電話で2回目だものね。

 経観塚のお屋敷で『また逢おうね』って言って2週間弱だけど、随分経った気がするよ。
烏月さんも葛ちゃんも、まだ当分は逢えないんだよね? 葛ちゃんが若杉を継ぐ迄は…」

 若杉継承迄の葛の警護に、烏月さんがつく事は桂おねーさんにも話した。それ迄烏月さ
んは千羽館にも帰れず、葛の所在を隠す為に外部への連絡も限られ。誰がどこにいるかの
情報秘匿も、漏らして報せるのも、公表し周知するのも、全てに若杉が挟まるから難しい。

「はい。残念ながら、もー少しは……じきに大々的なプレス発表があると思いますです」

 時期を明言しないのは、込み入った事情の故だ。形だけ継ぐなら即座に可能なのだけど。

「もう少しかぁ。でも、もうお互いに生命の危険は、ないものね。逢おうと思えば、時間
は掛っても必ず逢えるものね、わたし達…」

 はい。桂おねーさんの言葉にわたしは頷き。
 言霊に出す事で、その日を近く引き寄せる。

「出会いが別れの始りなら、別れは出会いの始りだと、柚明おねーさんが言っていました。
わたし達は訣別した訳じゃありません。又逢える。逢いたい想いを胸に抱く限りきっと逢
える。今はもう、再会の喜びへの途中です」

『逢えない間も、愛しい人は心に抱けば胸を温めてくれる。想いを、紡ぎ続けましょう』

 その言葉が今の葛の一番の心の支えです。
 うんと頷く桂おねーさんの柔らかな声も。

「そーゆー訳で、桂おねーさんの手料理を頂きに伺うのは、少し先になりそーです。ゆっ
くり修練を進めて結構ですよ」「あはは…」

 無邪気に長閑な、何の思惑も欲得もない微笑みが瞼の裏に思い浮ぶ。心を清く蘇らせる。

 桂おねーさんに出逢えなければ、わたしは何者にもならず、葛の侭であり続けて終った。
血塗られて詛われた若杉を拒み、逃避行の途中で巡り逢えた子狐一匹を相棒に、行く当て
もなく人に逢う事を厭って、世間の隅を彷徨い続け、どこかで野垂れ死ぬ生を送っていた。

 自分の為だけなら、それで良かった。最早己の幸せ等、望んでもいなかった。枯れ果て
た心を休ませる為に、誰もいない静謐だけを望み欲し。人目につかぬ山野や廃屋を彷徨い。

 でも巡り逢えてしまったから。心から守りたく想う人に、心から愛しく想う人に。どん
な泥沼に苦行に踏み込もうと、逃げられない。日々の労苦も、今迄逃げていた罰と言うよ
り。桂おねーさんを守る力を手に入れる為の鍛錬と思えば。進む先にしか葛の生に輝きは
ない。

 また連絡しますと最後に言うと、桂おねーさんは烏月さんにも宜しく、早く逢えても大
丈夫な様にお料理修練頑張ると、通話を終り。椅子に背を預けつつ暫くその余韻に心を浸
す。


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「会長……報道部門の概要説明の前に、若杉財閥の幹部達が、面会を願い出ております」

 幹部にねじ込まれたのか、恵美さんが困惑を浮べつつ、話しを取り次いだのは翌早朝で。

 烏月さんは財閥の職務に直接関らないので、間近に立っていても、尾花の様な無口を保
ち。いつもはきびきび動く恵美さんが、今朝は少し気重に見え。わたしが了承の返事を返
すと。

「申し訳ありません。会長の予定を崩して」

「気にしないで下さい。あなたには敢て誰の指示が優先か示しませんでした。この様な時
に備えてです。どーしても急ぎ面会をと望む者が現れた時の判断は、恵美さんに委ねます。
恵美さんが取り次いでも、わたしが却下するかも知れませんが……この面談は必要です」

『そろそろ来る頃だと、思っていましたよ』

 新聞雑誌の報道は現在、奇跡の人Yさんと、大泉総理による衆院解散・総選挙の政局ネ
タに二分されている。若杉は戦後日本の復興を支えた経緯から政権党と関り深く。今回の
その内紛は、若杉に深刻な影響を及ぼしていた。

 大泉総理の唱えた『改革』は。既得権を持つ会社や団体の談合による利益分配が、行き
詰まり相対立した間隙を突いて、始められた。談合ではなく実力主義・結果主義で規制緩
和、自由競争という考えが、世の閉塞感を一点突破出来る光明と感じた人もいて。支持を
受け。

 唯現実にそれが進むと、様々な軋みも生じ。実力主義・結果主義は、運不運や早い者勝
ち、狡い者勝ちの側面もあり、公平や公正とは異なる。業界秩序が崩れ混乱に陥る者もい
れば。競争に敗れた者はこんな筈でなかったと。それは日本経済の何割かを占める若杉も
同様で。

 いち早く『改革』に乗って今迄にない発展を見せた分野もあれば。収支悪化に危機感を
抱く分野もあり。続けて規制緩和を望む分野、逆にそーして欲しくない分野の意見が交錯
し。選挙に突入しても、若杉内で総理を推す者と、中立を保つ者や造反組を支援する者に
分裂し。

 幹部や部門の意見が割れて収拾が付かず。
 最高決裁者であるわたしの出番になった。

 そーでもなくば、良い年の大人が子供に重大事の決裁を仰ぎはしない。否、幹部に決済
を仰ぐ積り等なく。多数意見を押し通し少数派を黙らせる偽装に、葛が決を下した形が欲
しーだけ。本当は葛の判断等望まれていない。

「葛様っ」「葛様ぁ」「つづら様、どうか」

 恵美さんが扉を開けるや否や、三拾歳過ぎのスーツ姿の男女が数名、執務室に雪崩れ込
んで。先にわたしに近いポジションを取ろーとした様だけど。瞬時に烏月さんがその前に
立ち塞がって、彼らの熱情を気合で凍らせて。この辺の制止は、恵美さんには望めない処
だ。

「お控え下さい。話すだけなら、それ以上の接近は無用な筈です」「「「……っ!」」」

 若手の男女数人が、食い止められた処で。
 入口から改めて入ってきて、窘めるのは。

「いい加減になさい……いい大人がはしたない」「全く、若造の暴走にも困った物だな」

 若杉最高幹部9人は、最高齢の定家さんが七拾五歳だけど、最年少の上杉滝子さんは四
拾弐歳で、決して老人集団ではない。それを敢て年寄りと扱う事で、自らを次世代と印象
づけ、その椅子を伺う若手幹部は、男女合わせて8人で。最高幹部の配下拾名も含め、余
り大きくない執務室は、混雑した状態になり。

「申し訳ありません、葛様」「お許しを…」

 先手を取るのに失敗し、葛の心証を悪くしたと怯む若手に対し。最高幹部は焦らず敵方
の自滅を見守る姿勢で悠然と。どちらもわたしを子供と侮る本心は同じ。彼らの敵手はお
互いで、葛は決裁の形を装う装置に過ぎない。

「まーいーでしょー……それよりお話しを」

 桂おねーさんを思い描く暇も中々与えられないのは、己の選択で仕方ないけど。せめて
彼らの葛を侮る姿勢は改めて貰う。それにはまずこの様な局面で、彼らを刮目させなくば。


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 桂おねーさんも巻き込んだ大々的な『奇跡の女性』の報道は。葛の意図ではないけど若
杉の所為で、大泉総理の郵政選挙を妨げる真意をも潜ませていると悟れたのは。柚明おね
ーさんの美しさや数奇な経歴に世間が注目し、最早取り返しの付かなくなった後の事だっ
た。

 当初この解散は勝算が薄いと言われていた。政権党で郵政改革法案に反対した造反議員
と、共通する基盤を持つ同士で啀み合った侭、野党とも選挙を戦う。野党第一党は政権交
代のチャンスと攻勢を強め。腹背に敵を持ち味方を減らした総理の勝算は、彼自身の言葉
通り『郵政改革法案について国民に信を問う』一点にしかなく。国民の注目が最低条件だ
った。

 新聞雑誌やラジオテレビにインターネット。
 政権党は総力を挙げてメディア戦略を進め。

 流石に選挙となれば一方の雄たる政権党は、そこそこ注目を浴び一定の成功を収めたけ
ど。その報道に横から突如殴り込みを掛けたのが。柚明おねーさんの『奇跡の女性』報道
だった。

 お堅い全国紙や言論誌は踏み止まったけど。
 売れれば良い夕刊や雑誌は遠慮会釈もなく。
 柚明おねーさんの経歴や近況を執拗に報じ。

 政権党は今、報道を全て選挙一色、総理一色に染めたく。柚明おねーさんも桂おねーさ
んも望まない現状は、大泉総理や政権党も厭う物で。一刻も早く注目を外れて欲しーけど。
一度情報を流してしまうと、世間の好奇心は、政権党や若杉や政府でも制御する事が困難
で。

 最高幹部は外聞に拘り。葛が若杉を嫌って逃げていた事や、空き家を転々として野草根
菜を食する生活を送った事を、伏せる目的で。柚明おねーさんの件をマスコミに流し。選
挙から世の注目を逸らし、総理を打倒したい下級幹部の清経さん家隆さんに、足を掬われ
た。

 わたしが即座に財閥継承せず、継承準備の勉強を名目に非公式の立場でいるのも。選挙
や総理から話題を攫ってしまわぬ為で。選挙が終る秋口迄は、マスコミの取材どころか公
式な場には顔を出さない様に、徹底したのに。

 拙劣に動いた末に、たいせつな桂おねーさんに報道被害を及ぼし、政権党や総理の選挙
戦略に影響を与え。『若杉は総理と敵対するのか?』との憶測を呼び。肯定でも否定でも、
早急に明快な若杉の態度表明が求められて…。

「今こそ大泉総理を支援して、若杉も改革に全面的に乗りましょう」「規制緩和と自由競
争こそ、資本力の大きな若杉には優位です」

「反対です。今こそ日本の秩序を守る英断が求められます」「若杉の今迄築いた資産や人
脈が崩壊の危機に瀕しています。ご決断を」

 若手幹部の時平さんは三拾五歳、清経さんは三拾四歳、式部さんは女性で四拾歳だけど。
後ろに控えた藤原秀幸さんや壬生家隆さんは五拾歳過ぎで。出世街道を外れた者の逆襲に、
若手が乗ったか踊らされたかいう印象もあり。後方に未だ佇む最高幹部の視線は皆冷やか
だ。

 しかも若手は、大泉総理や林前総理ら政権党に乗る側と、亀尾元運輸大臣や平河元通産
大臣ら造反組に乗る側に、若手の中で分裂し。だからわたしの鶴の一声に縋りたいと。彼
らの誰にも若杉全体を御する事は出来なかろう。

「漸く鎮まりましたか」「騒がしいですな」

 暫く若手に語らせた後で。わたしが即答せず熱心に問を向ける事もしないと見えた後で。

 最高幹部の中堅、六拾歳過ぎの国清さんと靖彦さんが声を発し。議長役である三好康長
さんが前に出て。葛を除く今の若杉では康長さんが首座だ。でも七拾弐歳という高齢より、
彼は特別な主張も技能も野心もない調整型で。おじーさまの生前はその意を受けて、その
死後は幹部の妥協と合意の元で話を纏めており。

 つまり妥協や合意できない場合が不得手で。強力なトップの補佐や、現状維持すれば良
い状況のトップなら、適材だったのだろーけど。

 現状の若杉の混乱は、単に最高幹部対若手幹部の対立ではなく。若手の中で意見が纏ま
らない様に、若杉の中枢を占める最高幹部にも意見の相違があり。収拾が付けられなくて。

「若杉は今回の選挙を、政権党内の権力争いの延長と見なし、関与すべきではないと…」

「先代も、大泉総理の改革には懐疑的でした。先頭に立って憎まれ役にはなりたくない
と」

 最高幹部若手の上杉滝子さんと孝弘さんが、多数意見を述べる。女性最年長の貞子さん
も、国清さん靖彦さんもそれに頷き。康長さんはここで葛の裁可を得て『今回総選挙で若
杉は中立』としたい様だけど。最高齢の定家さん、中堅の律子さん、若手の篁さんが頷い
てない。正面切って反論しないけど彼らの真意は別か。

 最高幹部が一致すれば、若手や下級幹部など抑え込める。それを困難と康長さんが見て、
葛が決を下す形を欲したのは。最高幹部にも若手や下級幹部の異論に賛意の者がいる故で。

「おじーさまは何か言い遺していましたか」

 聞いた話しでは、おじーさまは前総理の林衆院議員と懇意だったけど、今の大泉総理と
はソリが合わなかった様で。昨年の参院選挙で若杉は、特に懇意な議員の応援にのみ動き、
組織としては中立を保ったらしい。それで政権党は劣勢となり、『総理も若杉の存在を見
直さねばなるまい』と満足げに漏らしたとか。でも以降も総理はおじーさまと和解に動か
ず。

「先代は『大泉総理は郵政法案を否決されても衆院解散等できず、辞任する他に途はない。
若杉が三行半を叩き付けずとも、総理は党内で総裁を罷免される。混乱の後で誰が総理に
なろうとも、弱体化した政権基盤を固め直す為に、向うから若杉に頭を下げてくる』と」

 康長さんが中立の立場で事実を述べるのに。

「先代は大泉総理の改革を、世の秩序を乱しかねないと懐疑的に見ておりました」「総理
の側も必ずしも若杉を重んじる姿勢でなく」

 国清さんと靖彦さんが代る代る言い募り。

「汚い権力争い等、若杉の関与すべき物ではありません。卑俗な諍いに若杉を巻き込む愚
行は、避けるべきと考えます」「貞子さん」

 俗世間の諍いや争いを見下す傾向の強い女性最年長者に、わたしは向き直って低い声で。

「若杉の所管は卑俗な諍い、鬼の禍です。権力欲や野心、愛憎の絡みで鬼となった者の処
断が若杉や葛の承けた鬼切部の目的……それらから目を逸らしては、鬼切りは為せません。

 若杉財閥は鬼切りを行う人員と資材を担保し、人目を忍ぶ仮の姿です。先代、おじーさ
まも良く政治介入していましたけど、貞子さんは反対意見を述べたのですか?」「いえ」

 まずは最も感傷的な、今迄の若杉の延長上にもない考えを窘め。葛は愚者ではない位の
印象を、貞子さんよりむしろ周囲の者に与え。

「最高幹部の多数意見は今回も中立ですか」

 康長さんを向いて問う。烏月さんも恵美さんも左右に佇んで、ずっと沈黙を保っている。

「先代の御遺志を軽んじるべきではないと」

 彼は自身の見解を述べる際も明言を避ける。
 責任回避が本能として備わっているらしく。

 言われた者の読解と判断に委ねると感じで。
 でも今回わたしはそのスタイルを逆用する。

 康長さんは、葛が多数意見を通すと思っている。総理支持の意見も造反組支持の意見も
少数で、若杉全体を統べるには力不足だ。片方に寄ればもう片方が反撥し、若杉が分裂す
る。子供が見ても真ん中の多数意見を選ぶと。

「組織は継続性も重要ですからね。今迄の流れと違う動きをするには、度胸が要ります」

 わたしは賛否の異見を尚唱える下級幹部に、静粛を保つ様に命じ。従わねば放り出すと
警告を。烏月さんの睨みで場は静粛を取り戻し。

「鬼切りの頭、若杉葛の裁決を下します…」

 わたしは一度言葉を切って深く息を吸い。

「おじーさまの遺志を考慮に入れた上で、若杉は今回選挙で大泉総理を全面支援します」

 今日夕刻に全若杉へその旨を伝達なさい。

「これで決裁は終了です、お疲れ様でした」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「宜しいのですか、葛様?」烏月さんが脇で。

 女性週刊誌や写真週刊誌、夕刊紙を多数置いたベッドへダイブする葛に渋い表情だけど。

「桂おねーさんも、お勉強の合間には気晴らしが必要と、言っていましたし」「正午位迄
なら宜しいかと。今朝は早くから難しい話題に相対し、大きな政治判断迄しましたので」

 恵美さんは珍しく、わたしの自由時間を許容した。政治の話題が加熱して尾を引きそー
だったので、彼女は報道部門の概要説明も午後に回した様で。今更繰り上げ呼び寄せても、
ロスが増えて実が少ないと、午前中は休みに。

「恵美さんも、少しは話しが分る様になってくれて嬉しーです」「有り難うございます」

 その律儀なお礼の返し方が、未だ今一つ……でもないかも知れませんね。柚明おねーさ
んなら、自然にそう返しているでしょーから。

 そう思いつつ『私は石頭です』と無表情を保つ烏月さんも呼び招き。共に雑誌の海を泳
いで、奇跡の人の記事を探す。本当は関連記事で載る桂おねーさんの写真を探すのだけど。

 既に報道されて、桂おねーさん達も否定せず明かした中身では。桂おねーさんが夏休み、
父方の実家を見る為に、山奥の寒村へ赴いて。サクヤさんや烏月さんやこの葛とも巡り逢
い。

 山の森に迷い込み、ご神木の前で眠り込み。朝目醒めると、拾年行方不明だった従姉の
柚明おねーさん、拾年歳を取ってない奇跡の女性に膝枕されて、感動の再会を。これは概
ね事実です。ざっくり省略した箇所や、語ってない箇所はあるけど、虚偽は述べていませ
ん。

 柚明おねーさんは、拾年前行方不明になった事情も、この夏戻ってこれた事情も語れず。
眠った様な時間の末に、気付いたらご神木の下で、拾六歳に成長していた桂おねーさんを
抱いて目覚めていたと。話しの通りなら『現代の浦島太郎』よりもリップ・ヴァン・ウィ
ンクルの日本版が正確か。オハシラ様やその封じた鬼神、ノゾミやミカゲ、鬼切部や鬼切
りの頭若杉葛、白花さんについては隠し通し。

 それでも桂おねーさんが、奈良陽子さんや東郷凛さんに、事実を概ね話したと報された
時には唖然とした。否むしろ、柚明おねーさんやノゾミがそれを許容した事に。流石に葛
が鬼切りの頭である事は口止めした様だけど。

『陽子ちゃんとお凜さんなら大丈夫だから』

 桂おねーさんが、そう言うのはともかく。
 柚明おねーさんが、それを許容するとは。

 鬼切部千羽党の烏月さんや、千年を経た霊体の鬼であるノゾミ、白花さんの話し等は世
間の表に生きる人に聞かせるべきでないけど。今の処何の障りもないのは、柚明おねーさ
んの想定内か、桂おねーさんの勘が正解なのか。

 それを桂おねーさんはわたしに電話で伝えてくるし。この電話、多分若杉の何系統かで
傍受されています。そーいう処には妙に気が回り、頭にも報せず策を巡らす連中ですから。

 配下が警戒する傍受は外部の物で。若杉葛の所在や鬼切部本部の住所を、逆探知で突き
止められる怖れで。内部の傍受は気にもせぬ。

『二十六歳と思えない初々しさ、奇跡の人』
『取材殺到に困惑しつつ、微笑み絶やさず』
『心こもった受け答え、大和撫子慎ましく』
『拾年の空白を越え、愛しい肉親との同居』

「賛美一色の報道が、気味悪い程ですね…」

 烏月さんの指摘は、少し賢く俯瞰して眺める視点を持つ者なら、誰でも抱く印象だけど。

「柚明おねーさんは、美点を数多く備えた人ですし。拾年の行方不明から戻って来た人を、
最初から疑っても報道側が悪者に映ります」

「……と言う事は、やはり葛様も柚明さんへの賛美は、一時限りの流行りにすぎぬと?」

「唯飽きて忘れ去ってくれるなら、有り難い結末ですけど」「尚悪い結末があると言われ
るのですか? つづらさ……いえ、会長は」

 恵美さんの問にわたしは首を左右に振って。

「その先は言わない方が良いでしょー。仮にでも言霊に出して、それが現実になった様な
展開を辿った日には……寝覚めが悪いです」

 それに今桂おねーさんを困らせているのは。今後の不安ではなく、現在の報道陣の取材
攻勢だ。既に所轄の警察署を通じ近くの交番へ、報道記者の張り付き排除を促したけど。
官憲はマスコミを敵に回したくないと、及び腰で。報道各社に取材手法の是正を求めても。
スクープを撮れば許される業界の体質は根深くて。

 鬼切部や裏社会を使い、追い払う手も考えたけど諦めた。今の処柚明おねーさんが対処
出来て、桂おねーさんの生活は守られている。関与しすぎて、副作用や過剰な効果を呼ん
でも拙い。権力者の介入の匙加減は難しーです。

 あたかも犯罪容疑者の如く、常に覗かれ追い回されて。桂おねーさんは奇跡の女性の家
族と言うだけで。柚明おねーさんも唯俗世に戻ってきただけで。無遠慮で不躾で無礼極ま
る報道陣に張り込まれ、対し続けねばならず。

 己の平静を保つだけならまだしも。桂おねーさんの心も守るのは、中々に困難な話しで。
穏やかに自然な笑みが、実は尋常ならざるか。

「柚明さんを蒼髪と書く記事はないですね」

 写真や映像で黒髪に映るのみならず、わたし達の肉眼以外には彼女は黒髪に見えている。
経観塚にいた頃から、感じてはいたのだけど。この人の正体を知る者か『力』を持って喝
破した者の肉眼にしか、その髪は蒼く映らない。

 肉の体を戻せば柚明おねーさんも、鬼に甘く匂い好まれる贄の血を持つ。桂おねーさん
が青珠の『力』でその匂いを隠す様に、彼女も『力』で常時匂いを隠す。その副次効果で。

 教えられてでも、柚明おねーさんの『力』や贄の血の話し、オハシラ様だった事を知っ
た者は。その正体を『力』で見破った者と同じく。周囲に及ぼす思い込み『認識洗浄』の
効果を外れた者となり、彼女の髪は蒼く映る。

「東郷は、監視に留めているのですね? 桂おねーさん達への手出しはせずに」「はい」

 監視部門の中年男性の声を、内線電話をスピーカーにして、烏月さん達にも聞かせつつ、

「報道陣や我々のダミー監視班の動向を見守る様です。配置の距離感からして、羽藤桂さ
んやその家に直接何かする意図は薄いかと」

「……なら、そっちはいーです。今後も気付かれない様に彼らの動向も見張って下さい」

 東郷凜さんは桂おねーさんのお友達だけど。
 その父は政権党に繋りを持つその筋の者だ。

 組織は若杉より小さいけど縁故の結束固く。
 仮に敵対するとなれば少し厄介な相手かも。

 凛さんがどの程度、若杉や東郷の桂おねーさんへの監視配置を知っていて、関っている
のか分らない。桂おねーさんを哀しませたくない立場としては、杞憂に終る事を祈るのみ。
何がって? それは言霊にしたくないのです。

「○○県警の刑事も監視で宜しいですか?」

 経観塚を管轄する県警の刑事も、桂おねーさんのアパートの傍に潜み。取材の暴風を厭
いつつ、接触する事が桂おねーさん達に誤解を呼ぶと気遣って、様子見を続ける様だけど。

「2人組の刑事ですね。責任感から捜査体制が縮小され迷宮入りしても諦めず。ドラマの
様な話しが本当にあるとは。彼らは法律に基づいて動く者です。桂おねーさんの件は常の
人に解明できない……監視は続けて下さい」

 刑事の職場や家族等の情報は調べて下さい。手を組むにも取引するにも、脅すにも口封
じするにも。相手の情報は有用です。アパートに張り付く報道陣の情報と同じ位きっちり
と。

 一番たいせつな人の身辺の措置を、確かめ指示を出し直してから、葛は通常業務に戻る。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 午後から報道部門の概要説明に来た男女の感触が、緊張で微かに固いのは。葛が総理の
郵政解散に臨む若杉の大方針を、あっさり下した事よりも。幹部がそれに従った事の方に。

 わたしが簡潔に決を下し終えて数拾秒後。

『つ、葛様?』『つづら、様』『葛さま…』

 最高幹部もその側近も、若手幹部も恵美さんも、わたしの言葉の意味を理解できながら。
簡単に明言しすぎた為にそれは本気なのかと。目の前で康長さんは、1人沈黙を保ってい
た。

 何度か逢って話しもして。葛が唯の子供でも愚鈍でもないと、理解した康長さんだから。
常識的な判断を求めて決裁を願いに来たのに。わたしがそれをひっくり返した事に目が丸
く。

『若杉は今回、大泉総理を全面支援します』

 それが葛が即決で下した最終判断だった。

『おじーさまの遺志を考慮した上で、これが当代鬼切りの頭にして若杉財閥総帥たる葛の
決定です。正式就任前でも蠱毒の最終勝者のわたしは、既に若杉の大権を持っています』

 あなた達はそれに従うべく、わたしの決裁を求めにこの部屋へ来たのではありませんか。

 わたしが彼らのざわつきを逆に問い返すと、漸く大多数の反対意見が吹き出して。中立
を保ちたい最高幹部の多数に、大泉総理を打倒したい若手幹部の半数程が加わって問を発
し。

『先代は最期迄大泉総理に対して否定的で』
『現状若杉は政権党と余り良好とは言えず』
『選挙は既に走り出しています。今回は…』
『先代の御遺志を蔑ろには、出来ますまい』

 総理の改革に乗りたい若手幹部の半数程は、わたしに賛意を示す前に、あっけにとられ
て。次の瞬間大多数の反対に圧倒されて、わたしの風よけにもならなくて。元々わたしは
彼らを頼りにも思ってないから、いーのですけど。

『……葛様の御存念を、聞こうではないか』

 最高齢の定家さんが、ゆっくり最前列に出てわたしに背を向け、振り向き幹部達を鎮め。
わたしのお手並み拝見と言う、意思を感じた。

 それこそ正に葛の望む処だったので頷いて。
 彼のお陰で静謐を取り戻した室内で解答を。

『おじーさまの読みは、既に外れています』

 おじーさまの、大泉総理は負ける公算の高い解散総選挙に出られない。立ち往生して自
滅するか、身を引くとの読みは破綻しました。既に国会は解散されて、総選挙は始ってい
る。

『現状はおじーさまの想定外にあります。おじーさまの意図を越えた状態における判断は、
おじーさまの意図を外れる物と考えません』

 林前総理はおじーさまの遺志を承け、負ける可能性の高い選挙より、政敵でも政権党で
長く一緒だった亀尾元運輸大臣や平河元通産大臣と、妥協の道を探り。大泉総理に進言し。
そこ迄はおじーさまの読みの通りだったけど。総理は前任者の進言も聞き入れず。前総理
は、若杉を敵に回して良いのか迄言った様だけど。

【日本の首相は若杉の誰でもない。私です】

 国務大臣を指名するのも、国会を解散するのも。日本の政治に責任を負うのも首相です。

 総理の答は簡潔明瞭だった。底にどんな真意を隠していても。その正しさは否定できぬ。

【若杉に限らず何者でも、己の望む方向に政治を動かしたいなら、その手で総理の座を掴
めば宜しい。私がその機会を差し上げよう】

 目前の前総理に、あなたも敵対するならどうぞと言わんばかりの気迫だったとか。結局、
林氏は総理説得を諦め、若杉よりおじーさまの遺志より、その鬼気迫る意志の強さに添い。
造反組を放逐して揺れる政権党を纏めに動き。以降若杉は、政権党とのパイプが急速に細
り。

『鬼切部の存在意義を、思い返して下さい』

 人に仇なす怪異を討って、世の平穏を保つのが、我ら鬼切部の使命。安部、土御門から
受け継いだ、表と裏、過去と現在、現界と幽界……2つの世界を繋ぐ橋として。鬼切部を
束ね、政財界との折衝を行う鬼切りの頭です。

『我々は権力者ではありません。若杉は権力者の手足です。我々の持つ権限は著しく大き
いけど、これは若杉財閥の利権確保に使うべき物ではなく。人の世を守る鬼切部・鬼切り
の頭の目的遂行の為に、預けられた物です』

 若杉が権力者を左右できると思った時点で。
 おじーさまも本来の在り方を逸脱していた。

『今迄の事はやむを得ません。しかしわたしが若杉を継いだ以上、これ以上若杉の、若杉
が継いだ鬼切りの頭の、本来の在り方からの逸脱は許しません……速やかに修正します』

 大体今回中立を保った先に、あなた達は日本や若杉の未来をどう描く積りでいました?

 誰にも味方しない者は、誰の味方とも見られない。造反組が勝っても、野党第一党が政
権奪取しても、若杉に味方はない。権力者の手足たる若杉が、権力を離れて好き勝手出来
ると、あなた達は本当に思っているのですか。

『中立という判断はあり得ません。叶う限り勝ち馬に乗る、或いは乗った側を勝たせる』

 諄々と説くと、幹部はそう理解の難しくない内容に眼を見開き。葛は誰も理解できぬ天
才の理論を披瀝する気はない。誰もが承知で、つい見落した要点を思い出させる。配下が
納得して動かねば、巨大組織の舵取り等出来ぬ。

『後はどっちに与するかです。若杉は大きな組織だから、改革が進んでも遅滞しても失敗
しても、必ずどこかに軋みが出る。政策の是非は問わず、対応の必要な若杉の部門ごとに、
個別に権力に話しをして解決を求めます…』

 郵政民営化にせよ、規制緩和にせよ自由競争にせよ。部門ごとの個別の話しを願うには、
より密接に権力と繋らなければ。手を拱いて後ろ向きに中立では、若杉は分解してしまう。

『では、総理を打倒する勢力に付けば…!』
『若杉のお陰で権力を掴めれば、正に恩人』

 最高幹部の多くが納得させられ始めた中で。
 若手で総理に反したい者の声が上がるけど。

『反総理派には司令塔が居ません。政権党の造反議員や野党各党の間に、何の連携もない。
数は多くても各個撃破されます。総理の優位が見えるより早く若杉は勝ち馬に乗ります』

 苦しい時の友は真の友と思って貰える様に。若杉が政権党や総理を勝たせたと思われる
様に。かくして若杉は権力との亀裂を修復する。そーせねば桂おねーさんを守る力を保て
ない。

『一方で、選挙による議会政治を続ける限り、日本に政権交代の可能性は常在します。若
杉はいつでも、権力の手足として政権と密接でなければならない。政権交代した時の保険
に、野党や郵政造反組とのパイプも必要でしょー。

 家隆さん達の部門には、反総理陣営の支援に動く密命を与えます。本日夕刻6時の若杉
全体の方針公表迄に、反総理陣営に動くと公表した部門は、若杉の全体方針に背く形にな
っても懲罰は免除します。あなた達の力量でどの程度纏められるか、やってみて下さい』

 それで造反組や野党第一党が勝利する事があれば、若杉の主流はあなた達に傾きますよ。

『は、ははっ』『お任せを』『必ずや…!』

『宜しいのですか、会長? ……結局若杉は、分裂含みになってしまいますが』『ええ
…』

 恵美さんの囁きに、わたしは頷きを返し。

『誰が最終責任をとるかも明快でない侭、若杉の各部門がバラバラに進む事が最悪でした。
しっかり全てを統括する者がいる限り大丈夫。多少の矛盾は、大きな組織には付き物で
す』

 他の者達は総理と政権党を全面支援すべく、各部門の取りまとめに動いて下さい。夕刻
6時のプレス発表以降に、若杉の全体方針に背く動きをした者への締め付けは、徹底しま
す。

『本当はわたしが記者会見をして表明したいけど。財閥継承した幼子が表に出ては、イン
パクト強すぎて、再び総理の存在感が霞んで仕舞いかねないので……そこは遠慮します』

 報道部門に若杉が政権党を、総理を支持する旨を大規模に公表する様に求め。出来れば
柚明おねーさんの件から目が逸れる位鮮烈に。でも向うも相当加熱しているから難しーか
も。

 白河法皇が意の侭にならぬと愚痴った物は、賽の目と山法師と鴨川の水流だけだったけ
ど。やや若すぎる葛には、結構沢山ありそーです。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 若杉財閥と鬼切りの頭を継承するわたしは、護衛なく出歩く事を許されず。欲しい情報
の入手は人を介し。自ら様子を見聞に行けない。落ち着いたら、この体制は変えねばなる
まい。

 柚明おねーさん達の情報は、真偽含め新聞雑誌で大量に出回っている。でもそれは人に
読ませる目的の為に、取捨選択した末なので。報道陣が見落したり、重大ではないと考え
た情報は載ってない。だから情報の洪水に漬かっても、わたしは若杉の監視員の情報も欲
し。

「週刊深長掲載の柚明さんについての記事が、報道業界や読者の失笑を買っている様で
す」

 恵美さんの開いたページをわたしも眺め。
 今日も烏月さんと3人少しの休憩時間を。

「先日の違法取材を自己正当化し、強弁したあれですか? あれは酷い虚報でしたから」

『当社取材に激しく反撥。取材班が表現の自由・取材の自由を丁寧に説明し、納得頂く』

 権田記者が隣家敷地に不法侵入し、桂おねーさんを盗撮を試みた記載がなく。柚明おね
ーさんの掌で中央が塞がれた写真を敢て載せ、拒んだ彼女が悪い様な記事を。しかも最後
は権田記者が道理を述べ彼女が納得した展開で。

 隣には、権田記者と相方が2人堂々と胸から上のツーショットで。柚明おねーさんが掌
で顔を隠す写真と対比させ、悪い事してないから顔を出したと言う感じに。これだけ読め
ば全国の人は、彼女を神経過敏と誤解するか。

「他紙が事実報道しているので、文面が余りに違うと一般読者でも話題になったらしく」

 烏月さんは、夕刊トップとスポーツ東京の、同じ日の同じ展開を記した部分を読み返し
て。

『屈強な他紙男性記者に一歩も引かず、道理を述べて行き過ぎた取材を諫め。当紙も行き
過ぎた取材は戒めているが、美しく凛々しい被写体を前に、改めて他山の石としたい…』

『不法侵入し隣家の花畑も被写体の家庭事情も土足で踏み躙る他紙男性記者を、強く制止。
凛々しく美しい横顔を本紙女性視点で接写』

 両紙とも柚明おねーさんを凛々しく撮って。
 大きく載せて全国配信する気持が分ります。

「ネットでも柚明さんを巡る話しはかなり盛り上がっている様で」「世間ではまだ選挙よ
りも、奇跡の人の方が注目度は高い様です」

 烏月さんも恵美さんも表情がやや渋いのは。
 総理や選挙への注目度合が伸びない事より。

 柚明おねーさんが賛美でも、大々的な報道を喜ぶ人でないと分るから。彼女は桂おねー
さんの為にも静謐を望む人で。応対できている事と、目立つ報道を求め願う事は全く違う。
本当にこの現状は当事者の誰も望まないのに。

「柚明おねーさんが権田記者と諍いを…?」

「はい。隣家に再度不法侵入した権田記者に奈良さんが憤激し、逆に絡まれ。柚明さんは
彼女を助けに割って入り、彼を撃退したと」

 烏月さんの答に恵美さんが驚くのは当然か。
 女性でも大柄とは言えぬ柚明おねーさんが。
 女子高生の平均的な肢体で屈強の男を退け。

 報道陣のカメラやバッグの隠し機器で、複数視点から見たけど。彼らも美しい被写体に
心奪われている時に、己が使う機材でそんな絵が撮れているとは想うまい。華奢で可憐な
佇まいに潜む技量の一端を、盗み見させて貰いました。この位彼女は想定済でしょーけど。

「衆目の前での活劇にも関らず、どの週刊誌も載せてないですね。写真どころかその事実
さえ載せないのは、奇妙に思えますけど…」

 恵美さんがやや不審そうに首を傾げるのに。

「決定的な瞬間を、撮り逃がしたのでしょー。大人しく佇む姿を幾ら撮っても、屈強の男
性を素手で撃退できる人には、映りませんし」

 烏月さんやサクヤさんの様に、身構えれば只者じゃなく映る人はいるけど。静かに穏や
かに優しげな人の強さは。文字で幾ら書き立てても、動画を流さなければ読者も信じまい。

 報道陣は、柚明おねーさんの拾年前以前も、調べ始めた様だけど。彼女が武道を学んだ
旨の記事が一紙もなく。そもそも報道陣が信じてなくて、撮影の心の準備もなくて。あの
人は強さを見せつけもしないし。所詮女の子の手習いの一つ位に、思われていたのでしょ
ー。

 奈良さんを抱き留める柚明おねーさんも麗しい。本当に大事に想っていると、周囲にも
見えて分る。その柔らかな腕に毎日抱かれる、桂おねーさんが羨ましーです。唯その流れ
で桂おねーさん宅に巧く入り込んだ記者2人は。

「熊谷記者は要注意ですね。権田記者の様な力押しのみならず、様々な汚い手を使える」

 権田記者の様に、相方に若杉の者がいれば、今何をしているかも把握できて好都合だけ
ど。

「その少し前に羽藤桂さんは、東郷凛さんと2人図書館へ、勉強に行っていた模様で…」

 恵美さんが注意を促すのは、桂おねーさん達をハック迄尾行し、無遠慮な取材をした平
塚寧々についてだけど。あの人は良い。桂おねーさんを怒らせ、迷惑掛けた罪は重いけど。

「彼女の相方の松原伸江は、若杉の者です」

 少なくとも今何をしているかは、相方を通じて把握できる。権田記者と扱いは同じです。

 若杉の監視員は存在感を隠す為に、個性の強い者に添う事が多い。個性の強い者に引っ
張られ様々な動きが出来、個性の強い者を盾にする事で己の印象を薄く出来、非難も躱す。
基本相方に追随し、その動きを妨げはしない。若杉の監視員は監視専門で、報告を承けて
判断する者や、命令を受け処置に動く者は別だ。

「そー言えば、東郷も政権党支持を決めたそーですね。亀尾元運輸大臣や平河元通産大臣
とも、縁が深かった様ですけど」「はい……林前総理との縁の深さが、決定打になった様
です。東郷の判断基準は義理人情ですので」

 恵美さんの、怜悧な受け答えに頷きつつ。

「相変らず桂おねーさんのアパートを、監視し続けているのですか? 東郷の監視員も」

「はい。多くの者は政権党の事前運動に投入された様ですが、羽藤桂さんのアパートの監
視だけは、引き抜かれず残っている様です」

『東郷にとっても柚明おねーさんが重要という事ですか? それも選挙に劣らない程に』

「監視を続けて下さい。東郷も報道陣も県警刑事も。わたしは柚明おねーさんの要請がな
い限り、特段動かないと約束しましたけど」

 既に動き出していた監視の継続は、約束破りではない。業界への取材や報道の適正化指
導は彼女の件限定ではなく、一般的な周知で。交番への治安強化要請も一般的な指導に止
め。故に即効性も目に見えた効果も薄いのだけど。

 この先に踏み込むには、若杉葛が羽藤の2人を守る意思を、世間の表裏に明示する必要
があるけど。柚明おねーさんはそれを断って。確かに彼女は、しっかり対処できているけ
ど。

『彼女は若杉に、借りを作りたくないのでしょーかね……葛はともかく、若杉財閥や鬼切
部の援助に頼り縋るのは危険だと思って?』

 更に続く若杉の主要部門の概要説明を受け。
 その中でこれはと思う人物を面接し抜擢し。

 若杉内外の人々の、動きや囁きに耳を傾け。
 葛の課題も中々大変ですよ、桂おねーさん。


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