人の世の毀誉褒貶〔乙〕(後)
柚明さんの報道陣への意思表明は、わたくしが到着する前に終っており。奈良さんや羽
藤さんから聞かされた内容と、帰着後に胆沢や斎藤から聞き取った内容が、殆どを占める。
柚明さんは午前中、自ら記者団に進み出て。
【わたしへの取材を目的に来ておられる記者さん達への、お願いです。これを、どうぞ】
奈良さんは早く着いてその情景を見た様で。
柚明さんは詰めかけた報道陣に、バスケットに入れたクッキーとプリントの束を持って。
取材についての彼女の方針とお願いを述べて。
「いやー、考えたものだわ。ユメイさんも」
【みなさんもお仕事お疲れ様です。連日わたしの様な者を撮る為に、雨風に晒されつつ】
羽藤さんも昨日の疲れは残ってない様で。
血色の良くはきはきした応対に安心した。
【自治会長さんにお願いして、隔日で朝8時から暫くここ、アパート前をみなさんとの質
疑応答の場に、使わせて頂く事になりました。今後はそこで集まって頂いた各社のみなさ
ん全員に、受け答えしたいと考えています…】
各社に同じ内容を繰り返し聞かれるよりも。時間指定して集まってもらい一度で済ませ
る。隔日で確実に答えるから、逃げ隠れも取材拒否もしないから。報道陣も常に張り込ん
だり、見かける度にマイクを向ける必要が薄れると。
更に未成年の羽藤さんやその友人にマイク向けないで、勝手な写真掲載は止めてと願い。
隣家の敷地に不法侵入しての私生活盗撮も重ねて禁じ。今後は本人に取材してと。その場
を設けた以上他の人に迷惑を及ぼさないでと。
唯拒み嫌っても報道陣も仕事だから、取材を止める訳にはいかない。だからその道筋や
方法を整える事で、犯罪や非道な取材にならない様に。合意できる地点を求めてお願いを。
【これはわたしからみなさんへの気持です。
不束者ですが、宜しくお願い致します…】
柚明さんは挨拶代りに手作りクッキーを彼らに配り。個人的な信頼関係も作ろうと試み。
今話した取材の取り決めの紙も配り。かなりの人数いたけど、柚明さんはその場の報道陣
のみならず、各社の編集部の人の分も渡して。
のみならず。柚明さんはご近所にも、再度ご迷惑掛けますとの挨拶込みで、クッキーを
配る気で。クッキーの山はわたくし達にも振る舞われたけど。総量は十キロを超えたとか。
この願いに込めた想いも、羽藤さんの御為か。手作りなこの人の腕力も気力も並々ならず
…。
報道陣やご近所それぞれの、立場や気持を考えて、みんなが納得行く様に。警察に届け
出たり訴えたり、会社に苦情や抗議する前に。合意の途を探す辺りが本当に柚明さんらし
い。
報道陣も、柚明さんの柔らかな受け答えに雰囲気は良好だった様で。この『会見』が報
道されなかったのは、現場レベルではなく上層部の意向らしい。結局彼らも雇われだから、
結べた信頼も報道に大きく影響させられず…。
黒髪長い熊谷記者も、背の低いスポーツ刈りの内川記者も。黒髪ショートの大島記者も、
二十歳代後半の細身な中山記者も。屈強な体躯の権田記者と相方の宮下記者も。怯えも嫌
悪もなく配る柚明さんから、クッキーを貰い。
先日柚明さんに後ろから抱きついた、因縁深い縮れた黒髪長く眼鏡の平塚寧々も。羽藤
さんを表に出さないのは彼女が居る為だろう。松原伸江もその脇で、無言で受け取ってい
た。
「流石お姉ちゃん、妙案だね。記者さんもこれで、無茶な取材はしてこなくなるよっ…」
羽藤さんはそう言っていた。平塚記者の件もあり、柚明さんに応対を任せ続ける事に不
安を感じていた様で。これでほぼ解決したと、奈良さんと一緒に肩の荷を下ろしていたけ
ど。
「そうかしら?」女の子の涼やかな声が響き。
ノゾミさんは、わたくしと似た見解らしい。
これで一件落着とはとても思えない。いや。
柚明さんもこれで落着とは、考えていまい。
「そうだと良いわね……」柚明さんの答えは。
いつも通り静かに穏やかで笑みを絶やさず。
今ここでそれを掻き回し、羽藤さんに不安を与えても意味は薄い。報道陣との関係を安
定させ信を繋ぐ他に、対応策は実質ないのだ。柚明さんも各社の上層部までは手が届かな
い。そう分るからこそ、ノゾミもそれ以上突っ込みを入れなかった。普段は遠慮なく羽藤
さんをやり込めるけど、肝心な処は抑制し、羽藤さんの心を傷つけない様に乱さない様に
務め。
今はわたくしにも出来る事は少なく、全景が見える訳でもない。不安を煽る事は言わず、
解消の術を見定めて助言すべき。柚明さんはこの程度の措置で安心し油断する人ではない。
今はその賢さ強さ優しさに、暫く羽藤さんを委ねて見守りつつ、わたくしも為せる限りを。
3人で夏休みの宿題を粛々と進めている間。
柚明さんはご近所にクッキー配りに赴いて。
昼頃戻ってきてみんなでその手料理を頂き。
愛に包まれた羽藤さんの食生活は羨ましい。
申し出て奈良さんと皿洗いさせて頂く間に。
羽藤さんと柚明さんは掃除と洗濯を済ませ。
午後も賑やかに時折真面目に勉学に勤しみ。
夏の陽が傾く迄幸せな時間に心浸していた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
柚明さんに関る報道の風向きは、その頃を境に変った様だった。それは彼女の態度や判
断の影響ではなく。報道各社が揃ってその流れに持ち込もうと、予め取り決めていた様で。
柚明さんの凜とした応対が、大きく扱われる事はなく。報道も最初の『拾年行方不明で
死亡認定』『突然発見』『歳を取ってない』『若くて綺麗』と言った事実報道が影を潜め。
なぜ行方不明になったのか、あの夜何があったのか、この拾年どこで何をしていたのか、
どうして今戻って来れたのか等。柚明さんの背景や思惑に推移して。同じ報道を繰り返し
ても、読者の興味を満たせないと言う以上に。落差を強調して人目を惹きたい意図が窺え
た。
「警察が……動いている?」「はい、お嬢」
黒崎が確認した処、その情報は真実だった。
拾年前の羽様では羽藤さんの父が殺められ。
白花さんも柚明さんも失踪し死亡認定され。
事件扱いで警察が関るのも無理はないけど。
「当時は地元紙で少し報道された様ですが」
「すぐ報道が抑えられたのは鬼切部ですね」
はっ。黒崎は東郷邸の中なのに声を潜め。
「若杉の圧で全国紙は事件報道を取りやめ。
地方紙も事故死の疑いと扱いを小さくし」
鬼に関る事件ならそれもやむを得ないのか。
羽藤さんのお母様もそれを望んだのだろう。
柚明さんはオハシラ様になっており、幾ら捜しても発見等出来ず。白花さんも鬼として
斬られるだけで、捜索は無意味だ。事を引きずれば羽藤さんに取材や事情聴取の手が及び、
赤い痛みをぶり返す。それで真相を思い出したなら、今度こそ幼いその心が砕かれたかも。
柚明さんが戻れぬ前提なら、この処置はやむを得なかった。非情でもこれ以外の方法は。
「マスコミは抑えられても、公権力は法律に基づいて動く筈です。人死にが出ている以上、
警察は捜査本部を立ち上げたでしょうに?」
「丁度全国数カ所の県警で裏金問題が発生し。経観塚を管轄する県警もその渦中に置か
れ」
県警全体が、それどころではなくなった。
その煽りを受けて、捜査態勢も縮小され。
その侭事件は迷宮入りし、実質放置され。
「では、今動いている警察というのは…?」
「事件担当した刑事の独自の動きの様です」
担当刑事は職務に抱く使命感責任感が強く。
これ迄も数度羽藤さんの母君に事情聴取を。
拾年大した成果は得られなかった様ですが。
『無理もない。鬼の禍に人の警察では……』
「お母様の逝去と、それ以上に入れ替りで柚明さんが戻り来た事で、打開のチャンスと」
考えた訳ですか。わたくしの問に彼は頷き。
「若杉や鬼切部に妨げる動きはない模様です。組織のバックもない個人的な動きに、鬼の
事件の真相解明は不可能と見ている様で。父上の指示は、その監視でもあった様ですが
…」
羽藤さんや柚明さんが鬼に深く関るなら。
若杉や鬼が2人の抹殺に動く怖れもある。
彼女達はわたくしと奈良さんに、葛さんが財閥の後継者とのみ伝え、鬼切部の総帥と明
かさなかった。鬼切部は情報秘匿を重んじる。漏らせばわたくし達が危ういとの配慮だろ
う。千羽さんが鬼切部と知った処で、既に危険水域だ。わたくしは世間の裏に多少通じる
東郷だから、鬼切部の総帥たる若杉を承知だった。
羽藤さん達は葛さんと絆を結べた様だけど。就任したての子供に巨大組織の隅々迄の統
括は難しい。今迄の動きの惰性で2人に危害を加える怖れはある。その意図があってもな
くても情報収集に、監視員の配置は予期された。
父の心配は。柚明さんがわたくしに害を為す者かどうか以上に。鬼切部の禍が柚明さん
の周囲のわたくしにも及ぶと怖れ。詰めかける者に、若杉が混じってないか見極めようと。
「柚明さんへのバッシング報道に若杉は関っているのですか?」「いえ、我らの知る限り
では若杉はその促しも妨げもしてない様で」
若杉は新たな総帥の正式就任を前に、大きな動きを軒並み停止しており。奇跡の人を巡
る報道についても、今に至る迄特段の動きはなく。既に動き出した総選挙についてのみは、
政権党を支持した様ですが、やや動きは鈍く。
「組織としての若杉は、恙なく新しい総帥就任を済ませ、落ち着きたいと言う辺りかと」
「柚明さんへの過剰な賛美報道も、突然のバッシングも、しつこい取材攻勢も、若杉の関
与しない、報道業界の動きという訳ですか」
「それについて、若干気に掛る情報が……」
その雑誌記事を見せられ情報を耳にしたわたくしは、次の瞬間携帯に手を伸ばしていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「目方さん、辰宮さん、加藤さんも……良くいらっしゃいました、どうぞお座り下さい」
クラスメートの女の子5人をハックに招き。
威圧にならぬ様にわたくしは黒服を伴わず。
6人で対面するけどそれでも彼女達は既に。
言いようのない不安を瞳の奥に潜ませて…。
「東郷さん。突然のお呼び出しは、一体?」
「申し訳ありません。少し気になった事が」
わたくしはスポーツ東京をテーブルに載せ。
表紙を見ただけで彼女達は表情が凍り付き。
「この記事に見覚えありますか?」「…!」
『奇跡の人の拾年ぶりの復活は遺産狙い?』
拾年前に父を喪い、母1人子1人の母子家庭に育った女子高生Kさんが、急な病で母を
喪ったこの夏、入れ替りに現れた年上の従姉。天涯孤独の心の隙に入り込み、唯一の肉親
として振る舞うも、その狙いは膨大な遺産か…。
終始一貫、柚明さんが羽藤さんの遺産を掠め取る為に現れたかの様な誹謗中傷が綴られ。
彼女達は奈良さんやわたくしが、奇跡の人やその妹・羽藤さんと親密な事を分っている。
記事を見せ瞳で問うだけで決着はついた。
「「「「「ごめんなさいっ……!」」」」」
辰宮さん達5人は揃って頭を下げて謝り。
「私達も、こういう内容の話しではなかったって、熊谷さんには何度も言ったんだけど」
岩隈や斎藤の調べは不要な迄に緻密だった。
スポーツ東京の熊谷記者が、目方さん達に。
巧く話しを持ちかけ奈良さん経由で情報を。
女子高生から特別な証言を取る必要はない。
羽藤さんや柚明さんに近しい証言なだけで。
情報に箔が付く。信頼性を装う事が出来る。
『従妹Kの親友Y子の語った内容によれば』
奇跡の人Yは従妹Kのアパートに同居して、Kの母がKに残した遺産を費やして、生活
していく。拾年間まともな職についてないとは、一体どういう行方不明だったのか疑念が
募る。
『本紙も更に究明・調査を進める方針だが』
YがKに養われる状況に違いはない。その位奇跡を起こして食い繋げと言いたくなるが、
Yは自身の死亡認定時に、己の資産がKの母に渡っているからと、己の権利を頑なに主張。
女子高生で死亡認定されて、どれ程の遺産だったかは知らないが、高利回りな資産運用だ。
『死亡保険金もありその遺産はかなりの額』
『Yが戻らなければKが全て相続していた』
『丁度良い時に戻ってきた物だ、正に奇跡』
『Kの母の死去から動き出した。その逝去を見定めた様なこの挙動には、重大な疑惑が』
「わたし達も、羽藤さんの綺麗なお姉さんのこと知りたくて」「記者さんも悪意ある感じ
じゃなかったから」「ちょっとしたお小遣いだよって。どうせお話し聞きたかったし…」
加藤さん達の好奇心を刺激し、悪い事じゃないと安心させて、お駄賃を渡し。高額だと
子供も不審に思って怯えるから、少額に抑え。だから彼女達も気楽に、でもお駄賃に義理
を感じて動かされ。基本的に素直な子達だから。
彼女達の顔色には、騙された、申し訳ない、どうしようとの後悔や怯えや罪悪感が滲ん
で。
「「「「「ごめんなさいっ……!」」」」」
「記事の内容違うから、訂正してって頼んだけど、もう直しは効かないって断られて…」
最初からその積りなら、直す気なんてない。
最初から曲解して、こう載せる予定だった。
柚明さんを中傷する名義に、使われたのだ。
「熊谷さんにお金返して、羽藤さんに謝らなきゃ」「でも、受け取ってくれない処か会っ
てもくれなくて」「携帯も通じないの」「どうしよう、わたし達こんな事になるなんて」
うろたえて、互いを見つめ言葉を交わして、判断を下せない女の子を見て。自分のミス
を埋め直す術のない女の子を眺め。わたくしは妙に気力が抜ける。元々わたくしは彼女達
を糾弾しに来た訳ではない。本来なら羽藤さんや柚明さん奈良さんに害を為す者には、批
判や要請ではなく反撃や報復を返すわたくしが。わざわざ辰宮さん達に事情を尋ねに来た
のは。
「わたくしに謝る必要はありません。わたくしには何一つ害は加えられていませんから」
本当に謝るべきは羽藤さん柚明さんだけど。
その前に彼女達には一つ段階を経る必要が。
「奈良さんに、真相を話して謝って下さい」
この一件で、羽藤さんや柚明さんと奈良さんの関係に、ヒビが入る事はないと思うけど。
奈良さんが自責で暫く羽藤さんに、寄りつけなくなるのが心配で。奈良さんが脱落しても
わたくしは、羽藤さんをたいせつに想い続けるけど。出来るなら、もう少し長く競いたい。
これで終りでは羽藤さんも気に病むだろうし。
この誹謗中傷が報道各社の予め想定した流れの一環で。奈良さんや目方さん達に主因と
なるミスがあった訳ではないと。奈良さんに早く伝えたい。それもわたくしからではなく、
奈良さんを嵌める形になった彼女達の口から。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「こちらは○○県××市、今話題の奇跡の女性と同居する、従妹の自宅アパート前です」
テレビのワイドショーも、連日柚明さんの一挙一動を流して評論し。住所氏名は伏せ顔
はモザイク掛けるけど。最早報道陣に遠慮もなく。報道陣も数が増えれば、先頭でなけれ
ば答が貰えず、いい写真も撮れぬと押しかけ。
「財産目的に従妹の家に入り込んだって本当ですか? 母が死ぬのを待って現れたって」
「そもそも拾年行方眩ましたのは、Kさんの母に顔向けできない事情があったんでしょ」
「従妹を虐待し衰弱させているって噂があります。真相を答えて」
「隣家に文句言われた腹いせに、花畑を踏み荒らしたって本当?」
「田舎の屋敷と山林を、勝手に売ってお金に換えたそうだね。従妹は承知しているの?」
柚明さんが答えても誰1人答を拾わない。
自分達が掲載したい追及中の絵を撮って。
自分達が連続して問い詰め攻撃し放題で。
「今日はお約束した応対の日ではありません。時間も違います。アパート入口はわたし達
の専用空間ではありません。自治会長さんとの約束が守れないと、近隣の方々の迷惑に
…」
「お前が応対悪いからだろう」「こんな特ダネ放っておけるかよ」「お前の約束なんか知
ったことか」「とっとと答えろ、あばずれ」
背の高い成人女性や屈強な男性が群がる中心で。柚明さんは懇切丁寧に応え続けるけど。
1つの答を終る前に次の問が来て、早く答えろ答えられないのかと野次り煽る声が混じり。
「お前の配ったクッキー喰って、病院運ばれた人がいるんだ! ここで土下座して謝れ」
熊谷記者の罵声が響く。報道陣は大勢で顔も確かに映らないから言い放題だ。周囲から
一斉に『へー』と声が漏れ。次の瞬間再び柚明さんに、フラッシュと冷たい視線が集中し。
生放送で即答が必須だけど、求めに応じても応じなくても、曖昧でも非難が集まる問に。
瞬時鎮まった中、綺麗な声は静かに強く。
「その方の入院先を教えて下さい。わたしが状況を確かめて、直に謝りに伺います……」
何人もの手練れの政治家が、報道陣の揚げ足取りで大臣辞任に追い込まれた。この国の
記者の悪質な問を、美しい人は想像以上の賢さで凌ぎ。謝る意向を示しつつ即座に謝らず。
拒絶は回避しつつ事実を確かめる迄動かない。
でも周囲は窮地を切り抜けた柚明さんを。
更に四方から罵声怒声の質問で崩そうと。
「そんなこと市民は求めてないんだよ。今すぐここで全て認めて、頭下げれば良いんだ」
「悪いことしたらごめんなさいすると、親に習わなかったのか。あんた、酷い育ちだな」
「拾年行方不明の間に、一体何やっていたんだあんた。男漁りか、それとも女漁りか?」
「従妹さん見せてくれ。クッキーで倒れているんじゃないのかー」
「従妹さんが死んだら、遺産は全部あんたの物だよな、柚明さーん」
「アパート周辺は酷い状況ですね」「はい」
最後はテレビ中継からスタジオに戻って。
コメンテーター達のどうでもいい雑談に。
「他人事の様に中立顔して、非難する姿ばかり映すテレビ局こそ、酷い情報操作ですな」
岩隈が現れたのは、わたくしの依頼の故で。
「今に始った事ではありません。これでも大泉総理のお陰で随分風穴が空いた方ですわ」
お疲れ様。新聞雑誌を運び込む屈強の中年男性に、ねぎらいの言葉を掛けて下がらせて。
彼が気遣って一番下に挟んだ週刊レディは…。
『奇跡の人と従妹Kの淫らに香るレズの園』
少し前迄可愛い、お淑やか、嫁にしたいと。柚明さんの容姿や仕草や言葉遣いを、褒め
まくっていたのに。ここも柚明さん叩きに転じ。
『女子校育ちで無菌飼育の従妹Kは、十歳年上の淫らなYには格好の獲物』『日々のスキ
ンシップの濃密さから、夜の激しさは窺い知れる』『最近のKのお疲れは夜の忙しさ故』
『不純同性交遊で退学にならないよう祈る』
平塚記者の妄想による羽藤さんと柚明さんの夜の営みが、濃密に描かれ。レディスコミ
ックはわたくしも時々読むけど。羽藤さんとの夜も夢想するけどでも。ここ迄載せては人
権侵害だ。奇跡の人と実質特定しているのに。
『本紙女性記者が背後から胸を揉んでも反応は微弱だった。掴み掛った男性記者を触らせ
もせず退けるのに較べ、信じられない程隙だらけな応対は、女好きを想像させるに充分』
柚明さんは、女性に手加減してしまうから。身を抑えられたり体掴まれても。痛い思い
させて振り解く位なら、敢て暫く為される侭にしたり。甘過ぎと羽藤さんにも苦情を言わ
れて謝っていた……ぴったりと肌身を添わせて。
『血の繋った従妹に鬼畜の爪が立てられる』
『男を知らぬ乙女同士の愛の園は甘く香り』
『もう2人の間に男の分け入る余地はなし』
「もしや平塚さんも百合の人……相方の松原さんは、気弱そうで言いなりの人だったし」
意味の薄い思いつきは頭の隅にしまい込み。
目前の羽藤さん達を巡る状況に思索を戻す。
「このレズ疑惑も他紙が『情報によると』と騒ぎ立て、無責任に増幅される。夕刊トップ
で柚明さんが、経観塚で行方不明の現役女子高生・半澤優香で、羽藤家の資産狙いに現れ
たと報じた事が、他紙で増幅され『遺産狙い・金目当ての従姉』にされて行った様に…」
この統一歩調は何なのか。気味悪い程の持ち上げが、突如こき下ろす方向に揃って変じ。
羽藤さんは最近ややお疲れ気味で。この報道の所為もあるだろうけど。表に顔を出さな
くなって。それが虐待受けたとかクッキー食べて食中毒とか、従姉に犯された後遺症とか。
柚明さんは、騒ぎに巻き込みたくないから。
鎮まる迄、暫く逢うのを控えようと言われ。
了承せざるを得なかった。と言うより逆に。
東郷が今羽藤さんの傍にいては迷惑を呼ぶ。
血管が浮き身が震える程駆けつけたくても。
羽藤さん達を密接交際者にはさせられない。
きっと奈良さんはもう、羽藤さんの家に駆けつけていて。柚明さんや羽藤さんと肌身添
わせて、想いを確かめ支え合っているだろう。少しだけ奈良さんが、羨ましく妬ましかっ
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「スポーツ東京の熊谷記者ですね」「ん?」
加藤さんに追い縋る男性を呼び止めたのは、夏の陽も落ち掛る塾帰り。加藤さんの通う
塾がわたくしの通う塾の近くで。帰り時刻が偶々同じく、その加藤さんにしつこく迫る男
性に見覚えがあって。羽藤さんや柚明さんに張り付く記者の主な顔触れは、憶えてしまっ
た。
「未だ羽藤さんや奈良さんのクラスメートの名義を使って、虚報を綴るお積りですか?」
気が弱いと言うより、熊谷記者に負い目があって強く応対しきれぬ加藤さんを背に庇い。
でもこの時わたくしは、加藤さんを庇うより、羽藤さんや柚明さんに間接的に及ぶ被害よ
り。羽藤さんや柚明さん奈良さんを、苦しめ悩ませたこの男への、不快を本人に叩き返し
たく。
「ほう、東郷凜、だったな。これはこれは」
向うも羽藤さんの学友として、わたくしの情報は持っている様で。脇の内川記者に写真
を撮られたけど、わたくしは撮影や掲載に同意していませんと即応し。男性2人に女の子
が単独で対峙するのは、やや無謀だったかも。
「これ以上羽藤さんやその学友に、付きまとうのはお止め下さい。迷惑です」「俺達は記
事にする情報が欲しいだけだからさ。あんたが取材に応じてくれるなら、後ろの嬢ちゃん
とかに付きまとう必要は、なくなるんだが」
断り難く追い込もうとする狡知に対して。
「あなたの記事は事実ではなく、あなたの書きたかった内容でしかありません。……関係
者に取材する必要なんて、ないでしょうに」
「あるコトないコト書き立てる為にこそ、関係者証言って枕詞が必要なのさ、嬢ちゃん」
「その為に……私達を利用したのですか?」
わたくしの背後で、少し心に余裕の出来た加藤さんが問うのに。熊谷記者は嘲笑を返し。
「利用される値打もないよりはマシだろう」
俺達は学校の新聞部じゃない。売る為に記事を書いている。生活の為に記事を書いて居
るんだよ。学生さん達に大人の事情が分る?
「紙面が売れなきゃ俺達の給料も下がっちまうし、最悪の場合は会社が潰れて解雇される。
死に物狂いで面白い記事書いて、家族を必死に養っている連中も居るんだ。遊びじゃねぇ。
生活を賭けて人の娯楽を創っている。他紙を出し抜き、より多く売り上げて、給料たくさ
ん稼ぎ出す為に。綺麗事じゃねえんだよ!」
内川記者が頷く姿を見た瞬間。わたくしの抑制は消失した。彼らは自分達の事情が全て
らしい。周囲の者にもそれぞれに事情があると知ろうともせず、斟酌もせずに踏み躙って。
いい年の大人なのに。否、大人だからこそか。
「綺麗事ではないのはこちらです。あなた達の生活の為に、羽藤さんや柚明さんはどれ程
生活を侵害されて、酷い目に遭わされたか」
誹謗中傷を鵜呑みにして、柚明さんに石を投げる人もいた様で。柚明さんは避けると他
の人に当たると敢てそれを受け。お店や他の買い物客の迷惑になると、外出を控える様に。
激化する報道に迷惑して、柚明さんにこの近辺から立ち退いてくれという人もいたと聞く。
彼らは自分が困らない為には、周囲の誰を幾ら困らせても良いと、放言しているだけだ。
そんなのは子供の言い訳にもならない。彼らは社会に出て今迄一体、何を学んで来たのか。
「大人の事情は逃げ道になりません。人の不幸をメシの種にするならまだしも、あなたは
メシの種にする為に人の不幸を作っています。人の幸せを叩き壊し、その欠片を己の生活
の下敷きに持ってこようとして。違いますか」
男性記者2人が反駁の言葉を失い黙り込む。
彼らは仕方ない事をしているのでさえない。
やってはいけない事を仕方ないと言い換え。
読者の興味をより劣悪な方に煽情し誘導し。
それを読者の嗜好と言い繕っているだけだ。
「望んでも居ないのに柚明さんを、各社一斉の賛美報道で有名人に押し上げたのは。この
様に各社揃ってこき下ろす為だったのですね。有名でもない唯の人を幾ら叩いても、人は
注目しない。ニュースとして売れない。だから一度賛美報道で有名にしてから、叩き落
す」
柚明さんの賛美報道は未だ充分売れていた。
そもそも郵政選挙絡みで新聞雑誌は好調で。
敢て奇跡の人を取り上げる必要は薄かった。
「あなた達のやりそうな手口です。それで今迄一体何人の、平凡な庶民をその気にさせた
末にこき下ろし破滅させ、使い捨ててきたのですか。あなたの生活の為に、あなた達の会
社の存続の為に、何人の人生を狂わせ幸せを壊してきたのですか。あなたは家族に、人の
生き血で育てたと全て話しているのですか」
「ぐ……この、極道娘が。お前の周囲に怪文書バラ撒いてやろうか。こっちはお前の知ら
れたくない事情まで、全部把握済なんだ…」
背に加藤さんが息を呑む様は、感じたけど。
今ここで怯む事は出来ない。見せられない。
わたくしの住所と携帯番号と、更に実家の営む業種迄も詳細に述べて下さる熊谷記者に、
「ご心配は嬉しいですけど。羽藤さんも奈良さんも、承知でお付き合い頂いております」
その程度の情報で動揺すると思ったのなら。
あなたも最近の女子高生を甘く見すぎです。
必殺技が利かなかった様な顔の熊谷記者に、
「熊谷直弘、○○市○○町2丁目4−8○○マンション9号室、携帯番号は一つ目が…」
彼の個人用携帯と社用携帯と、更に自宅の家電番号も述べ、家族構成も語り。小学6年
の息子と小学3年の娘が1人ずつ。学校名や所属学級のみならず、出席番号も。妻が1人
に浮気相手が1人。新潟に年老いた父と母が、山梨に妻の父母がそれぞれ健在で。兄弟は
…。
「ちょ、ちょっと待て! お前それ調べたのか。どうやってお前」「あなたがやっておら
れた事を、お返しただけですけど。何か?」
彼は他人の個人情報を様々な手段で把握し、それを示す事で相手を脅し、更に繋る者の
情報も引き出して、今迄多くの取材対象にも迫ってきたけど。己がそうされるとは想定外
で。
わたくしは、右の人差し指の第二関節を唇と顎の間の窪みに添え、その手の肘を左掌で
支えつつ。傍にいる内川記者にも視線を向け、
「あなたの言い分は弁明にもなっていません。必要だからやりたい事をやるのなら、わた
くしもそれをその侭返して良いとなりますけど。あなた達が調査済の、東郷の総力を挙げ
て」
実力行使を匂わす答でわたくしは事の幕引きを図る。彼らは所詮末端で蠢く者で、聞き
出したい情報も殆ど持ってない。加藤さんや辰宮さん達への手出しを止めさせれば充分だ。
「他社と低劣な趣向を競うのではなく、他社の低劣な趣向を存分に批判なされば宜しいの
に……あなた達は社会の公器なのでしょう」
生活の為に他者の生活を踏み躙る様な者に。
情を掛け手を緩める程東郷凜は優しくない。
言葉で敵わないと感じた彼らは引き上げて。
「東郷さん、有り難う。その……今日聞かされた事は……他の人には、言わないから…」
「別に公表しても構いませんけど……そうですわね。加藤さんの判断に、お任せします」
加藤玲さんが今聞いた東郷の稼業を秘するとの申し出は。友情の故でもなければ恩返し
の故でもなく。明かせば報復が待つと怖れる故だ。羽藤さんや奈良さんの受容とは異なる。
話しが進む内にこの背から遠ざかり、今も触れない様に努める仕草で分る。それでも心遣
いを受け容れて見せる位には、大人の積り…。
元々わたくしもこの人を守る為に分け入った訳ではない。彼女達を通じて奈良さんや羽
藤さんに及ぶ害を、元から絶つのが主目的で、本当はあの男への憤怒が原因だから。自ら
選んで為した事なら、この結果もやむを得ない。
それでも本当は、加藤さんに心隔てられた結果は寂しく。奈良さんや羽藤さん柚明さん
の暖かさが、より一層尊く愛しく感じられた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「奈良さんが衆目の前で柚明さんと抱擁?」
はい。胆沢の報告とその様を収めた写真に、わたくしは思わず苦笑を浮べ。本当に親愛
の強さが目に見える抱擁だから。奈良さんは羨ましい。柚明さんもこういう時は大胆だか
ら。わたくしにも幾度か肌身触れて下さったけど。
『また誤解されて好き放題に叩かれますよ』
『承知の上よ。今は陽子ちゃんの方が大事』
その応対は業界を駆け巡っているらしい。
『ユメイさんがいればはとちゃんが大丈夫なことも、ユメイさんが大丈夫なことも分って
いたけど。騒ぎの一部はあたしの失敗が原因だし。たいせつな人が大変な時こそ、何も出
来なくても励ますだけでも、心寄り添わせたくて。はとちゃんやユメイさんにも、この気
持伝えたくて。ごめんなさい! あたし…』
ユメイさんとはとちゃんに、あたしの失言で迷惑掛けた。なのに顔向けできないって言
う自分の事情で、この大変な時に寄り添わず。大事な人なら、愛した人なら、自分が酷い
目に遭わせたからこそ。しっかり謝って向き合わないといけなかったのに。なのにあたし
っ。
『陽子ちゃんはわたしと桂ちゃんのたいせつな人。心の賢く強く、優しく清く可愛い子』
柚明さんの無尽蔵な愛の強さが感じ取れて。
奈良さんの零れ落ちる愛しさの涙が視えた。
『謝る事は何もない。あなたは失敗も過ちも犯してない。陽子ちゃんは桂ちゃんとわたし
を大事に想ってくれている。それはとても嬉しく有り難いこと。彼らは陽子ちゃんの行い
がなくても同じ事をした。気に病まないで』
例え陽子ちゃんが失敗や過ちを犯した結果、桂ちゃんやわたしに害や禍が及んだとして
も。誤解やすれ違いの末に異なる想いを抱いても。長い時の果てに対峙を強いられたとし
ても尚。
『わたしのあなたへの想いは悠久に変らない。その位で解れる様な脆い絆じゃないわ。羽
藤柚明と奈良陽子は』『ユメイさんっ……!』
「そこへ羽藤さんが病身を押して現れ、柚明さんは奈良さんを伴い室内に? 奈良さんは
報道陣に囲まれたアパートで夜を越すと…」
「週刊レディは『奇跡の人は鬼畜の女、従妹Kのみならずその親友Y子に及ぶレズの爪』
と題して、3人お泊り愛を粘着質に描き…」
ふぅ。濃密な描写の精読は後回しにして岩隈に預け。彼らは所詮室内の絵は撮れてない。
幾ら好き放題に描いても勝手な妄想に過ぎぬ。最近羽藤さんがお疲れ気味で外に顔を見せ
ず。性的虐待や食中毒を噂しているけど。一因が報道にあると記者は気付いているのだろ
うか。
「……柚明さんが、女性記者を庇う為に深夜外に飛び出した? 夜昼なく自身のスキャン
ダルを狙われる状況で、盗み見られているに近い中、女性記者を不審者から守る為に?」
奈良さんに絡んだ屈強の男性記者を撃退したと、報告は受けていたけど。柚明さんが体
術の面でも素人でない事は、その過去を洗い出した報道陣の、共通認識になっていたけど。
あのたおやかに大人しげな印象と違いすぎて、報道に適さないと、一般には伝えられてな
い。
でも報道陣も黒服もそれは『女にしては』との認識で。本物の害意を持たぬ記者になら
多少抗える程度かと。刃物持ちの不審者を得体の知れぬ力で撃退しては拙い位、柚明さん
も承知だ。故に彼女は女性記者を庇いに出て『力』を使わず不審者を撃退し。優しい以上
に甘すぎて、甘い以上に無謀すぎ、無謀な以上に危険すぎる。この人は、傍に危うい者が
いれば、敵味方も関係なく己を捧げ救うのか。
思わずわたくしの表情が苦味に締まるのに。
目の前の胆沢と岩隈はなぜか深々と畏まり。
「申し訳ありません。咄嗟の事で我々も助力に入れず……」「父があなた達を割って入れ
ない位置に置いたのです、やむを得ません」
叱責はなかったけど父も不機嫌だった様で。
わたくしも彼らを責められない事は承知だ。
「以降もう少し接近して、危急の際には割って入れる体制を取っております」「……?」
そこでわたくしは、胆沢達が柚明さんを助けに入れなかった事に、妙に沈痛だと気付き。
女子高生の外見で静かに大人しげな柚明さんに、好意を抱くのは無理もないけど。唯堅気
の婦女子を守れなかったという以上に彼らは。
「女性記者を襲い、柚明嬢に刃を向けた男は、今も不明です。夕刊トップも警察に届け出
た様ですが手掛りが少なく。調査を続けます」
「中山記者はその男を使って女性記者を貶めようと考えていた様で。他にも不祥事があり、
解雇されています」
「警察も巡回強化と共に、報道陣の夜の張り付きを牽制し始めていますが、追っても追っ
ても蝿の様に舞い戻るのと、マスコミ相手に強く出られぬ様で」
「柚明嬢は派出所の巡査達とも懇意になった様です」
「まさかあなた達も柚明さんのクッキーを」
「はっ、は。その」「美味しく頂きました」
柚明さんは、報道陣の張り付き取材を遠方から俯瞰する為に、少し離れていた黒服にも。
ご近所への挨拶回りの際に、潜んでいた彼らを難なく見つけ、言葉を掛けて微笑みかけて。
「事務所で待機している斎藤達の分迄頂き」
「たおやかで可憐な姿に感銘を受けました」
黒服が柚明さんに手懐けられていたとは。
父はおろかわたくしにも予想外の事態だ。
義理人情に生きる事を仕込まれた彼らは。
金や野心には釣られないけど真心に弱い。
最早黒服はわたくしの指示も不要に、柚明さん羽藤さんの安否を気遣う様になり。受け
た依頼の故に真意を明かさぬ父より、お2人を気遣うわたくしに自発的に情報を持ち込み。
柚明さんはお仕事お疲れ様です、その侭励んで下さいと言い残したとか。唯見抜かれてい
た以上に、あの人は本当に想像を越えてくる。
『その魅力に夕刊トップも、女性記者を通じて会社ごと、惚れ込まされてしまったと?』
一番上に乗っている駅売夕刊紙の一面は。
【本誌痛恨ミス! 奇跡の女性Yは、行方不明中の現役女子高生Yとは、別人と判明…】
夕刊トップは激化する柚明さんへのバッシングの中で、唯一紙その立場を翻し、自ら主
導した『奇跡の女性は半澤優香』説を撤回し、一面トップで大きくミスを認め正式な謝罪
を。
黒髪ショートの美人記者を助けた礼に、誹謗中傷を止めたのか。そんな甘い業界ではな
い筈だけど。羽藤さん宅の家電も携帯も最近暫く繋らないので。どこの社か分らないけど、
ひっきりなしに取材名義の、嫌がらせ電話を掛け続けている様だ。或いは各社提携してな
のか。まともな応対を期待せず、心壊して追い込む為に、専用アルバイトを雇い夜も昼も。
或いはわたくし達外部の味方を遮断する為か。
そう遠くない距離なのに。羽藤さん達とお話しする事も逢う事も叶わず。テレビや雑誌
で偽情報と抱き合わせで見る他に、術がなく。
「でも、所詮夕刊トップは駅売夕刊紙の一つに過ぎない。津波の前の小波です」「は…」
柚明さんは心折れずに羽藤さんを支え続け、目の前の記者と個人的な信頼を繋ぐ事で、
相手方の切り崩しを図る積りか。確かにそれで、業界横並びの体質に風穴は空けたけど。
個人では充分すぎる一矢を報いたけど。でも所詮。
個人の手が届く範囲は限られる。東郷の手も届かないマスコミという化け物は巨大すぎ。
『力』を使ってもどうにも左右出来なかろう。柚明さんは果たしてこの先に何か見通しを
持っているのだろうか。逆転の妙手や切り札を。
『逮捕も間近か。奇跡の人に迫る司直の手』
『従妹の虐待、なぜ保健所は動かないのか』
『クッキー食中毒4報、奇跡の女性の悪意』
『追い詰められて開き直り、曝かれた素顔』
バッシングの勢いは一層強まっているけど。
それは終着点が予想出来ない程苛烈だけど。
そこでわたくしは胆沢の口から、意外な人物の名を耳にして、暫し考え込む事になった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「荻田総司さん、ですか?」「はっ、はい」
岩隈の弁明によれば、盗聴は東郷が為した訳ではない。マスコミに取り上げられて以降、
羽藤さん宅に上がり込んだ部外者は。夕刊トップの女性記者とその相方に、スポーツ東京
の熊谷記者と内川記者も。屈強な男性記者に絡まれた奈良さんに肩を貸して入室した事が。
「無線盗聴器らしく、受信機を近隣に置いて周波数を合わせれば、室内の音声が傍受でき
ます。我々も暫く気付きませんでした。柚明嬢がクッキーを配った頃からと思われます」
車が羽藤さん宅の傍を通る度に、車載無線機に雑音が入るので。周波数を合わせてみる
と、羽藤さん宅の音声が拾えたと。なぜ早く言わなかったのかと、咎める視線を向けると。
「柚明さんの買い物等の外出が、妙に特定の記者に狙い撃ちされるのが気に掛り。追い縋
るのではなく予測した様な展開なので。もしや事前に察し、回り込まれているのではと」
不審に思い、考えを巡らせ、遅まきながら、漸く盗聴されているとの結論に行き着いた
と。
羽藤さんは最近の柚明さんへのバッシングを不安に思っている。疲れ気味でご自身は余
り外出できず、出るなら柚明さんに限られる。羽藤さんはきっと行き先を尋ねるし、柚明
さんはどこに行くか告げる。音声さえ拾えれば、柚明さんの行き先や進路で待ち伏せも出
来る。
「その特定の記者は?」「スポーツ東京の熊谷内川組です。先週から、柚明さんの数少な
い外出の全てで直接接触に成功しています」
お父上には報告しましたが、羽藤家に悟られぬ様に監視している立場上、盗聴されてい
る事を知る筈もなく、伝えられまいと。重ねてお嬢のたいせつな人の事ですと進言した処、
お嬢に相談してみるので暫く待てとお答えを。
「岩隈……よく言ってくれました」「いえ」
「我らのお嬢のたいせつな人です」「胆沢」
わたくしは良い大人達に支えられている。
その事に、彼らに深く頷きつつも本題は。
「そこで偶々傍受できた、電話の音声が…」
「荻田総司と……名乗ってきたのですか?」
傍受中羽藤さんの家電に電話が掛って来て、岩隈達の耳にも入ったと。今の羽藤家の家
電に繋る事自体が尋常ではない。東郷の名を出して繋がせる事は叶うけど。つまり柚明さ
んが取った久々のまともな電話は、東郷かそれ以上の力を持つ者が、その意志で繋がせた
と。
「はっ。録音もしましたが確かにその様に」
「分っているのでしょうね? その名前は」
東郷も義理や縁の深い、でも今は選挙で敵になった郵政造反組の巨頭、平河元通産大臣
の第三秘書だ。百七十五センチの中肉中背に、端正だけど印象の薄い容貌の、温厚な人物
で。平河議員は父と懇意だったから、何度か東郷邸を訪れており。わたくしも彼と面識は
ある。
でもどうしてその荻田さんが羽藤さん宅に。
どの様に電話番号を調べたのかはともかく。
「一体柚明さんや羽藤さんに何の用があって……最後迄聞いたのですか。そのお話しは」
盗聴である事は最早確定だ。それは羽藤さんと柚明さんに伝えて謝らねばならぬ。でも
今は、東郷と関りや義理の深い者が、羽藤さんに接触を求めた、その意図の方が気懸りで。
胆沢達もそれを分るから、悪いと分って尚傍受を続けたのか。柚明さんを心配に思う故に。
「処罰は受けます。逃げはしません。賠償が要るなら東郷に頼らず個人で払います。今は
この事案を見過ごす事が出来ず……申し訳ありません、お嬢!」「いえ、良いのです…」
決して褒められた行いではないけど。勧められない所作だけど。でも、その行動の奥底
にわたくしや、柚明さんへの好意があるなら。その罪や罰は、首魁としてわたくしが受け
る。
「良くやってくれました。あなた達のお陰で、わたくしは柚明さんを助け、羽藤さんのお
役に立つ事が叶うかも知れない。あなた達もわたくしも、今は留るより進むべき局面で
す」
把握できる限りの情報を呑み込んで。必死に思索を巡らせて。柚明さんに相談したかっ
たけど、東郷凜では電話は繋らず、この身が訪れれば羽藤さん達にご迷惑になる。今は父
の名を口に出して、繋がせる訳には行かない。
「……岩隈、胆沢……黒崎を呼んで下さい」
例え家の稼業に打撃を招く事になろうとも。
例え父の立場を失陥させる事になろうとも。
自身が勘当されこの身が路頭に迷おうとも。
東郷に混乱を呼ぶ事になっても強行せねば。
柚明さんが再び誰かの為に自らを捧ぐ様を。
今度はわたくしも羽藤さんと見過ごす事に。
そんな結果にだけは絶対させない許さない。
わたくしは腹に覚悟を定めて動く時を待つ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
テレビ画面では、郵政造反組の巨頭の1人、亀尾元運輸大臣が新党結成の記者会見を行
っていた。決して美男ではなく、むしろ悪役顔だけど、喋ると妙な愛嬌がある。その彼が
…、
「庶民新党。大泉総理の構造改革に喘ぐ庶民の声を、郵政改革の痛み・地方切り捨てに抱
く庶民の怒りを、結集させる党であります」
党代表には年長者の渡貫元衆院議長が就き。
亀尾元大臣は幹事長で党ナンバー2となる。
一緒に新党結成に参加した国会議員が数人。
新聞各社のカメラのフラッシュに照されて。
「大泉総理の独裁的なやり方について行けないという者は多い。出発は6人ですが、これ
から続々参加者が続いて膨れあがりますぞ」
自信なのか虚勢なのか、朗々と述べる彼に。
記者の質問は飛び。今日は政局ネタの日か。
「郵政法案に反対し公認を取消された『造反組』は衆議院議員だけで三十八人です。その
内6人というのは少し寂しい気がしますが」
「私ども庶民新党は、大泉総理の『採算に合わない』という理由での地方切り捨てに反対
する、郡部・田舎の声の代表者であります」
女性記者の質問に、亀尾氏は自信満々に、
「私どもは顔や容姿が余りスマートではないからね、余り都会の有権者に受けない。そこ
は都会で貧富の格差に喘ぐ人々の声を受ける仲間が、別の新党を結成してくれたから…」
郵政法案反対のネットワークを全国規模で作る。今日の新党結成はその波の一つに過ぎ
ないと。選挙で政権党を過半数割れさせ大泉総理を辞任に追い込み、郵政法案を二度と日
の当たる所に出させないと、亀尾氏は断言し。
確かに参議院議員で郵政造反組の新井氏らが、マスコミ受け良い長野県の棚加前知事と
新党『震撼日本』を結成し。都市部の郵政法案反対派の結集を進めており。都市部と郡部
で戦線を分けて連携するのは理解できるけど。
「震撼日本も現職議員は4名で、合わせても郵政造反組の結集には遙かに及ばないかと」
「同じ造反組の、岐阜1区の戸田聖子議員も、静岡7区の木内実議員も、参加してません
ね。それに岡山3区の平河赳夫元通産大臣も…」
平河氏は亀尾氏の弟分で近しい仲と言われ。新党結成には真っ先に参画すると見られて
いただけに。ここに姿がないどころか、名前が載ってない事に。流石に亀尾氏も答えきれ
ず。
「これからですよ、これから。……見ていて下さい。どんどん膨れあがって来ますから」
亀尾氏は余裕を取り繕っていたけど。それが虚勢に見えたのは、わたくしだけではない
と思う。政権党は大泉総理の指揮の下、続々と造反組の選挙区に刺客と呼ばれる対抗馬を
立て。それもかなりの有名人を政界の外から、改革の為に・日本の為にと投入し。対する
造反組は各個バラバラで提携が弱い。野党第一党もこの政権党の内紛に、存在が翳みがち
で。
「亀尾幹事長の選挙区では、ライフドア織江氏が政権党の全面支援を受け、猛追中との選
挙情勢も流れていますけど?」「あんたね」
そこは彼が焦りを感じているから、勘に障ったのかも。政界に入って何拾年も経歴を重
ねた人物が、昨日今日政治に口を出し始めた、実業家としても数年の実績しかない若造に
猛追され肉薄され、敗れるかも知れぬとなれば。
「ライフドアだかオリエモンだか知らないが、そんなポッと出の若造に騙される程、広島
県民は愚かではありません! 舐めるのもいい加減にして貰いたい。仮にこの選挙で破れ
る様な事があれば、私は政界を引退します…」
柚明さんへの追及も、これの半分位でも節度を持ってやって貰えれば、羽藤さん達もど
れ程心の負担が少ないか。マスコミの追及は、権力や財力の所持に比例して甘くなるらし
い。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「元気そうだなぁ、羽藤柚明……昔と全く変ってねえじゃねえか。取りあえず、戻って来
れておめでとうって処か」「おかげさまで」
以降、無線盗聴器で傍受できた音声は東郷で全て録音している。録りミスを防ぐ為に2
つの機械で、取り終えて内容確認した段階で片方を確実に廃棄し。もう一つはコピー厳禁
として、父にも知られぬ様わたくしが秘蔵し。一区切り付いた段階で、柚明さん羽藤さん
に全て明かし、謝って処分せねばならないけど。今は密かな動きに対応し未然に阻み守る
為に。
だから、ごく稀に柚明さんに繋った通話の内容も確かめられた。聞いた事のない男声だ
ったので、斎藤達も思わず首を捻り。互いに名乗りも確かめもせず話しが進むのは。彼女
の知人なのか、『力』で相手を特定した故か。
「お久しぶりです。再び編集長に就任されたそうで……ご出世、おめでとうございます」
相手をマスコミ人と分って答は穏やかで。
「よせやい。あんたのバッシング報道でかなり儲けさせて貰っているのに。当のあんたに
祝福されちゃあ、こっちは立つ瀬がないぜ」
馴れ馴れしいと言うか、ふてぶてしい声の感じから、大胆不敵な中年男の印象を抱いた。
「そこは大人の事情ですから。今このアパートを囲んでいる記者さん達も、個人的に仲良
く出来ても。社の方針や業界の縛りや営業の都合上、書くべき事を書けず、書いても載せ
られず。様々な葛藤を抱えている様なので」
互いに譲れない物はあるけど。それはどうにも出来ないとしても。それ以外の処で繋げ
る関係は大事にしたい。記者さん達にもそれぞれ人生や生活があると分ります。わたしが
譲れぬたいせつな人を、胸に抱いている様に。
柚明さんは奥深く尋常ならざる答を返し。
静かに穏やかにそう語る様が脳裏に浮ぶ。
「理解が深いのか、途方もなく甘いだけなのか。拾壱年経ってもあんたは読みにくいな」
「かなめちゃんは、お元気ですか?」「ああ、あんたの大事ないとこ達と同じ年齢だから
な。今のあんたと姿格好の変らない女子高生だ」
そう言う話しをしに、電話をかけた積りじゃないんだが。やや男性の声は怯んだ感じで。
聞いた情報では通話時刻は丑三つ時で。柚明さんとて取材電話の攻勢に、疲れ果て弱り果
てて当然な頃合なのに。その応対は柔らかで。男性の方が肩透かしを食らって、調子外れ
に。
「ウチだけじゃなくマスコミ各社から、総攻撃を受けている割に、ちっとも弱ってなさそ
うだな。ウチも少し叩き足りなかったか?」
「批判報道にも心遣い頂いていた様で、有り難うございます。わたしは叶う限り、自身の
真相や心情を伝えたいと願っていますけど」
あなたにもあなたの事情がおありでしょう。
無理を為さらずあなたの判断の侭にどうぞ。
あなたが宿した報道記者の魂の赴くが侭に。
わたしも自身に叶う限りの応対を致します。
柚明さんにマスコミ各社の方針を、どうにかする権力はない。それを分って柚明さんと
旧知らしきこの男性は、柚明さんを嘲笑いに電話を繋いだのか。何かの取引を持ちかける
積りか。決して良い取引ではなさそうだけど。
男性は含み笑いを浮べて暫く黙し。柚明さんの静かに揺らがぬ応対に、満足したのか残
念なのか。不敵に真意の窺えない平静な声で。
「来週の週刊ロストを楽しみにしててくれよ。ドカンとでかい花火を打ち上げるから。き
っとあんたにも、気に入って貰えると思うぜ」
マスコミは更に何か、柚明さんを追い詰める手を打つ積りなのか。全国に大衆に情報を
発信できる権能を独占し、自分達の都合で他者の人生を幸せを狂わせ壊し。その上で尚こ
の可憐に美しい人を、虐げる積りでいるのか。
何をする気かは分らないけど。これで柚明さんは追い詰められた。己自身より羽藤さん
の為に、愛しい従妹の為に。この人は何度でもその身を捧げ、今後も捧げ続ける人だから。
せめて今回位はわたくしの手で救いたい。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
父は午後から泊りの仕事に、黒服を伴い外出し。わたくしも夕刻前から、懐柔に成功し
た黒服数人と車で出立し。傍受した電話では、羽藤さん宅への迎えは夜拾時と聞いていた
ので。当日夜7時に変更された時は正直慌てた。
「最初からこうする予定でいたのですね…」
「外出予定を盗聴で把握される怖れを、考えていたのでしょうか? 気付いてないふりで
今迄やり過ごし、肝心な時に出し抜く気で」
居ても立っても居られず。わたくしも夕刻5時に外で軽食を済ませ。未だ早いと承知で、
羽藤さん宅の近辺に車で潜んだ為に、間に合えた。そうでなくばわたくし達も、スポーツ
東京の熊谷・内川組と同様、置き去りにされて。肝心な場に身を挟める事は叶わなかった。
スポーツ東京の2人組は、折角電話の盗聴に成功しながら、時間通り夜遅くに動くと思
い込み。景気づけの夕食に赴いて肝心な時におらず。行き先は迎えの運転手お任せなので、
出立から尾行せねば、どこに行くか分らない。
「追って下さい。三拾分早く羽藤さん宅に着いて、柚明さんにこの車を迎えだと誤認させ、
こちらに載せて連れ去る予定でしたけど…」
傍受した通話内容では。会見を申し込んだ荻田さんに、柚明さんは誰と会うか確かめず、
場所も交通手段も迎えの時刻もお任せと述べ。荻田さんはその答を受けて車を用意する、
行き先は運転手が知っている、迎え到着は夜拾時頃と告げ。早くなるかも知れないと追加
し。
最後の一言追加が味噌だった。振り返れば出立時間は確定しておらず、文脈を読み込め
ば迎えに行った時点が、出立時間という事だ。でもまるで盗聴者を想定し騙し躱すかの様
な、高度な言葉のアイコンタクトは、初見の者同士に出来るだろうか。柚明さんが贄の血
の感応の『力』を持つ事は承知だけど、相手の荻田さんは特段の『力』を持たない普通の
人だ。
「スポ東の奴らの、悔しがる顔が浮びます」
「気を引き締めて……会場に乗り込みます。
気付かれない様に、かつ見失わない様に。
頼みますよ、黒崎、杉田、篠原、胆沢…」
「難しい指示ですがお嬢の為に実行します」
「お嬢と柚明嬢の為です」「お任せをっ!」
『未だ夜早いけど、羽藤さんは癒しの【力】で寝付かせたのでしょう。ノゾミさんがいれ
ば夜の守りに不安はない。でも問題は、深夜に人目を忍んで2人が面談したその後に…』
この車は鬼切部対策で、呪術的な隠蔽措置も為してある。幾ら柚明さんでも簡単には気
付けまい。そもそも岩隈達が盗聴を疑って周波数を合わせ傍受したその時に、一番大事な
通話内容を聞けたのは天佑神助で。少しでも傍受が遅れていれば。斎藤達が事の重大さに
気付けなければ。わたくしと柚明さんを深く思い案じて踏み越えた判断を下してなければ。
何も知りようもなくこの様な展開もなかった。
「天の時も人の和も、こちらにあります…」
柚明さんはわたくし達の尾行を想定できず。悪意な追走者は脱落し。岩隈達が柚明さん
に心酔した事も、父の指示を踏み越えてわたくしの行いに助力してくれた事もみな想定外
だ。これは正に、今宵の柚明さんを阻止する為の。
追跡は近すぎては悟られるので、時折離れ、離れすぎて見失わない様に近付きを繰り返
し。高層ビル街に近いけど、やや緑の多い一角へ。
「料亭ですか……わたくしも久しぶりです」
目的地への到着時に、近すぎては尾行を悟られるので。少し遅れ、やや離れた脇の闇に
車を駐めて、わたくし達が降り立った時には。柚明さんの乗っていた車は、空になってい
て。
わたくしは暫し、闇に浮ぶ瀟洒な日本家屋の窓や玄関から漏れる電気の灯りに目を細め。
「お嬢……?」「いえ、何でもありません」
ここで引き返せば、父の勘気を買う怖れはない。東郷に混乱を招く事も、大事な相手に
対しての不義理・不面目も回避できる。でも、それでは柚明さんを救えない。羽藤さんを
哀しませる結末を、見過ごす事になってしまう。
大人の事情に子供が口出しすべきではないけど。それが分らぬ程子供ではない積りだっ
たけど。今だけは分らず屋の幼い子供に戻り。
「強攻します。付いてきて下さい」「はっ」
ここ迄来れば一蓮托生か。少しの緊張感を漂わせつつ、黒崎達も腹を決めて付き従って。
「ごめん下さいませ、失礼します」「はい」
正面玄関から入ると、女中さんらしき若い女性に出逢った。誰何される前にこちらから、
「平河先生いらっしゃいますね、通ります」
短く告げて靴を脱ぎ、黒服も皆それに続き。
止める暇も与えずに、板張りの廊下を進む。
料亭は多く要人の密談に使われ、霊的な者の襲撃を防ぐ結界の機能も有する。故に誰が
どこにいるのかを、わたくしの微弱な『力』では把握は無理だけど。父に随伴し何度かこ
の様な場所に出入りしたわたくしは、この様な建物の概ねの構造を分る。どこが一番高価
で大事な客を迎える間であるか、大凡悟れる。
「お客様?」「済みませんが押し通ります」
慌てる女中さん達を、勢いと黒服の眼光で押しのけ。離れの一室を視界に収める。草木
の彩る庭に半島の如く突きだした離れの庵は、会見用の奥座敷と控えの間が隣り合ってお
り。
歩み行くとまず面する控えの間の、障子を両手で開け放つ。控えの間に座して待機して
いたのは、父と拾人程の黒服だ。ここに現れたわたくしに父が瞳を見開いて、次に声を発
しようとする。それに取り合わず、わたくしは父の前を直進し奥座敷の障子に手を掛けて。
黒服が2人左右から、わたくしの手元を抑えようと駆け寄ってくるけど。杉田と篠原が
身を挟め、妨げの手を妨げて。でも黒崎や胆沢を含めても、人数はこちらが劣勢だ。時間
を掛けていられない。今は早さのみを重んじ。
「凜、どういう事だ、黒崎達もこれは一体」
咎める声に一度だけ、わたくしは答を返し。
今迄溜めに溜めていた、不審と疑念を全て。
「お父様こそ、ここで柚明さんに平河先生と、深夜に何をさせようとしておられたので
す」
「凜さん、落ち着いて……」「あなたは?」
その時反対側から届く、聞き慣れた男声は。
平河議員の秘書、荻田さんの静かな佇まい。
そこには、邪悪さも卑猥さも窺えないけど。
「お嬢、こちらは数が少ない」「お早く…」
胆沢達の献身を無にする訳にはいかない。
今はここを突き抜け、柚明さんの無事をこの目で確かめねば。柚明さんの身を捧ぐ行い
を何としても防がねば。そしてこの夜の一件に関る者達に、東郷凜の身命を掛けた弾劾を。
「凜、待ちなさい!」「今は、待てません」
父の声に耳を傾けている時間はない。わたくしは奥座敷の鎖された障子を一気に開いて。
柚明さんと平河議員の対面を、皆の目に晒し。
2人は未だ服を纏って向き合っていたけど。
互いの手を絡め合って見つめ合う間近さで。
本当に間に合うかどうかのぎりぎりだった。
双方共に開いた襖に物音に目を向けて来て。
父や他の黒服や荻田さんの視線も感じる中。
わたくしは覚悟を決めて声を強く振り絞り。
「柚明さんお止め下さい。例え羽藤さんの為でもこれ以上、その身を捧ぐ事はないのです。
あなたのたいせつな羽藤さんを、哀しませるではありませんか。例え一切報せず知られる
事がなくても、その身の犠牲を知りもしない事が、羽藤さんの真の哀しみになってしまう。
あなたも分っていらっしゃるのでしょう?
賢明なあなたが分っておられぬ筈がない。
あなたの痛み哀しみは羽藤さんの痛み哀しみで。わたくしの痛み哀しみでもあるのです。
羽藤さんを守り支える強い決意は分りますが、あなたが一身に必要以上に犠牲を受ける事
が、羽藤さんの幸せに繋るとは、思えません…」
何かを言おうとする父を、平河議員を、荻田さんを、黒服を、柚明さんを、喋らせずに。
「あなたを奪わせる事など、あなたを穢させる事など、羽藤さん以外の誰にも許しません。
あなたはわたくしの大事な羽藤さんのたいせつな人で……東郷凜のたいせつな人です!」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
報道陣の酷い取材攻勢に、疲弊し困り果てた柚明さんの弱味に、平河議員が付け入った
のか。元々この酷い取材攻勢が柚明さんを疲弊させ、この様に追い込み誘い込む為の平河
議員の仕込みだったのか。子細迄は分らない。
今現在分る事は、この酷い取材攻勢に柚明さんが、想像以上に追い詰められていた事で。
それは恐らく自身の為ではなく、羽藤さんの心を乱す現状を、どうにも出来ない悔しさか。
平河議員のこんな誘いに応じてしまうなんて。国会議員が一声を発すれば、マスコミの取
材攻勢は鎮まると。少なくとも私生活を脅かし、人権侵害になる程の取材の暴力は収まる
と…。
権力に逆らう姿勢だけは、派手に演じるマスコミだけど。実際はその裏で権力に縋り擂
り寄り、僅かなおこぼれに群がって尻尾を振っている。彼らが政治家を叩くのは、叩いて
も大丈夫だと、見極めを付けた後でしかない。
柚明さんは、連日アパートの周囲で聞えよがしに大声を上げ、近隣住民に迷惑を掛けて、
羽藤さんの生活を立場を悪くする報道陣を何とか抑えねばならないと。平河議員の助け船
に乗る決意を固めた。自身を捧ぐ覚悟を固め。報酬は、柚明さん自身を捧げる以外にない
…。
議員の本当の意図は、柚明さんを身も心も従わせる事で、その『力』を自在に使い回し。
選挙を政治を勝ち抜こうと迄考えているのか。どんな理念や事情があるのかは分らないけ
ど。東郷が深い義理と恩のある相手と承知だけど。柚明さんをそんな汚い手法で従わせて
得られる成果に、何の意味があると思っているのか。
父も父だ。わたくしの身を危ぶんで過保護に監視をつけたなら、未だ許せたけど。堅気
の女の子の身売りに近い行いを、妨げるどころか手筈を整える側になるとは。見損なった。
権力を嵩に着た欲望と野望に満ちた行いを助ける側に回るとは。今迄黒服に口を酸っぱく
して言っていた義理人情とは、何だったのか。こんな行いに連なる事が、義理と人情なの
か。
父が政権党と造反組の板挟みで、悩んでいた事は分っている。政権党を支援すると決め
た結果、義理のある亀尾議員や平河議員を応援できなくなった苦衷も推察できた。でもだ
からと言って、こんな処で譲って良い話しではない。こちらにも1人の女性の未来が掛っ
ているのだ。その背後には羽藤さんの未来も。
わたくしのたいせつな人だと知って、父がそれを断行するのなら。わたくしも己の真の
想いを貫き通す。父や東郷の体面に泥を塗り、深い付き合いの相手に不面目・不義理を刻
む。内向きに、家の中で済ませられる不祥事ではない。勘当に値する行いだろう。それで
も尚。
柚明さんを穢す助けを為す父ならば、それは東郷凜の父ではない。明日から路頭に迷う
とも、斎藤達を道連れにする事になろうとも。わたくしは何が何でも今宵の密会を阻止す
る。
わたくしは柚明さんに、このほぼ同年輩に見えるけど拾歳年上の美しい女人に、強さ賢
さ優しさ愛しさを強く感じつつ。それ以上に危うさ儚さを拭いきれなかった。それは肉の
体の再生途上である故の揺らぎもあったけど。羽藤さんから聞かされた拾年前の、或いは
それからこの夏に至る迄の。自身を捧げて羽藤さん達を守り通した話しの故でもあったけ
ど。
それ以上に、この人はそう言う人なのだ。
たいせつな誰かを守る為には己を省みず。
己自身を捧ぐ事に、躊躇のない人なのだ。
だから常に危うく儚く感じられてしまう。
幾ら強く賢く『力』や武技に長けていても。
その事はこの人の盤石を何一つ保証しない。
この人は常に傍の誰かに及ぶ危難を防ぎに。
先頭に立って自身を挟めて立ち塞がるから。
美しすぎて愛おしすぎて、凄絶に過ぎる。
羽藤さんが柚明さんの傍に居たがるのは。
傍に居なくば安心できず探し始めるのは。
きっと昔の儚さが、今も変ってないから。
柚明さんが自身を捧げて議員の力に縋れば、全ては良い方向に傾くだろう。平河議員は
政権党を追い出されたけど、彼の選挙地盤は盤石で、再選は九分九厘間違いない。その要
請を撥ね付けたらどうなるかは、報道各社がよく承知だ。或いはそれを柚明さんに見せつ
ける為に、夕刊トップにだけ先行して圧を掛け、追及を控えさせたのか。丑三つ時の週刊
ロスト編集長からの電話は、ダメ押しの脅迫か…。
末端の女性記者を1人助けた位で、編集部やその上の経営陣が、紙面の論調や追及方向
を全面的に変えるなんて。出来すぎた美談だ。平河議員は柚明さんの『力』を手中にした
手柄を持って、意気揚々と新党に乗り込むのか。或いはそれを核に己の新党を立ち上げる
のか。
唯静かで平穏な日々が望みの柚明さんや羽藤さんを。どうして世間は放って置いてくれ
ぬのか。諸々の憤りをわたくしは冷静さの仮面に隠し。事を為すには想いを秘す。羽藤さ
んと柚明さんに抱くこの愛しさを、その故に為す今宵の企みを、父に絶対気付かれぬ様に。
それを炸裂させるのは、それを全てさらけ出すのは。彼らの思惑を全て明かし、柚明さ
んを助け出し、その夜を挫き終えたその時に。
そして今宵この時、遂にその瞬間は訪れた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ここから脱出しましょう。車は用意してあります。アパートに戻るのが問題なら、羽藤
さんと別部隊で合流できる用意も。この様な場に長居する必要はありません。あなたの」
これ以上の犠牲は不要です。わたくしは、
「あなたに羽藤さんと幸せになって欲しい」
甘く優しく美しい柚明さんに、わたくしは出逢った時から惚れ込んでいた。羽藤さんと
いう人がいなければ、己が禁忌に踏み出した。この人の儚くも凄絶な半生を報され聞かさ
れた時、わたくしはこの人の前で、羽藤さんの前で奈良さんの前でノゾミさんの前で、不
覚にも涙を零し。その悲哀にではなく、その悲哀を越えて尚羽藤さんを守り抜けた心の強
さ、掴み取れた幸せに、感動に心打ち震わされ…。
この人はもう来世の分迄苦難を受け終えた。
後はその褒賞を受け取るだけの人生で良い。
羽藤さんの為でも、これ以上負担や苦衷に苛まれる必要はない。羽藤さんも大きな悲嘆
や苦痛を越えてきた。この2人にはもう良い加減、何の憂いもない日々が巡って良い筈だ。
なのにどうして、この人の世は。鬼の禍を越えて辿り着けた幸せを、覗き見根性で壊し
に掛る。人の幸せを妬み嫉んで疑いを撒いて。己の目先の儲けの為に、無辜の者を踏み躙
る。
「もう良いのです。あなたが己を捧げずとも、あなたや羽藤さんをたいせつに想い力を尽
くしたい者は大勢います。もっと他者を信じ頼って。いえ、頼って欲しい。わたくしも
…」
頼れる筈なくて無理もない。当のわたくしの父が、この様な行いに手を染めていたなら。
この世の全てが汚穢に感じられて無理はない。それでもこの人は誰も恨まず塞ぎ込みもせ
ず、犠牲を承諾し己を捧げ、羽藤さんを守ろうと。
たおやかに、優しく綺麗に愛おしく儚くて。
わたくしが伸ばす手の方が汚れているけど。
今はこの汚れた手だから麗しい人を救える。
東郷だから、その目論見の中枢にいたから。
父が、父と懇意な者が、父の配下が。わたしくのたいせつな美しい人を、壊し穢そうと
した。羽藤さんを哀しませようとした。その償いはわたくしの手で。せめてこの手で為さ
なければ。わたくしは密会の間に座す柚明さんに歩み寄り。その繊手を握って強く引いて。
「行きましょう! 幸せは戦い取る物です」
情景は結婚式場の花嫁強奪か、駆け落ちだった。要人の物になる乙女を奪うわたくしも
唯では済まぬ。素戔嗚尊が櫛稲田姫を助けた様に、巧くは行くまい。それは良い、最後迄
巧く行かずとも。わたくしは仲介者で充分だ。わたくしに羽藤さんから柚明さんを奪う積
りはないし、その逆も然り。わたくしはこの姉妹を結びつけられれば、役に立てればそれ
で。
「羽藤さんの微笑みの為に、立って下さい」
驚きの故か、柚明さんの動きは鈍い。いつもこの人は静かに穏やかだけど。この時ばか
りは想定外の展開に、応対が鈍く感じられた。
平河議員は間近で座した侭動かず。父の黒服や荻田秘書は、胆沢達が何とか抑えており。
わたくし1人が何とか柚明さんの元に辿り着けたけど。この状況は数十秒も保たせられぬ。
「お願いです、柚明さん。わたしはあなたに生きて欲しい。羽藤さんと幸せを分ち合って、
憂いなく笑って日々を過ごして欲しい。……せめて東郷の所為であなたを、羽藤さんを哀
しませたくはないのです!」「お凜ちゃん」
今は気合で、柚明さんを引っ張り上げる。
その勢いに、華奢な人は遂に腰を上げて。
逆にわたくしを正面から強く抱き留めて。
柔らかな肉感と甘い香りが心を安らげる。
「有り難う、お凜ちゃん。落ち着いて……その気持だけで充分だから」「柚明さんっ!」
この人が意志の強さと同時に意外な頑固さをも持ち合わせると、何となく感じてはいた。
羽藤さんと同じく、心を決めたら揺らがない。それはたいせつな人の為の所作なら尚のこ
と。肉の体を失い希望も手放すオハシラ様を勤めた人だ。でも今ここでそれを発揮されて
は…。
滑らかな肌触りと温もりに心蕩かされる。
静かな声音と間近な美貌に心満たされて。
今それに耽ってはいけないと、必死に心奮い立たせ。抜け掛る気合を身に通わせるけど。
それは皆触れた肌身に吸い取られて行く様で。
「まずは座りましょう。落ち着いて。黒崎さん達も森川さん達も、荻田さんも揉み合う必
然はありません。この場に諍いは不要です」
「柚明さん、速く逃げねば血路が塞がれ…」
「有り難う、お凜ちゃん……わたしの為に」
愛しい抱擁から身を外そうと、外してこの手を引っ張り走り出そうともがくけど。柚明
さんはこの身を予想外に、しっかり抱き留めてきて動けない。逆にわたくしは乳房の感触
が伝わる抱擁に、頬を沈められ気力も抜けて。
「心配は要らないの。たいせつな人の為なら、羽藤柚明は己がどうなっても耐えられると
いう以上に、今回は特に苦痛や悲嘆を伴う事ではないから。誤解を抱かせてごめんなさ
い」
杉田さん達もどうか落ち着いて。わたしは望んでここに赴いたという以上に、ここは皆
さんが思っている様な、女の子が権力者に身を捧ぐ事で、何かをお願いする場ではないの。
わたしは平河議員の相談に応えに来たけれど。
「わたしが殿方の目に止まる魅力的な容姿を持たない事は、分っています。拾年歳を重ね
てない以上に、十六、七の女の子にしても」
この身は貧弱だから。柚明さんは静かな声音と柔らかな血肉でわたくしの昂ぶりを鎮め。
でもこの感触は愛おしさは、むしろこの後で、わたくしが渇仰で寝付けなくなりそうな気
が。
いつの間にかわたくしは、柚明さんの胸元に頬を埋めた侭畳の上に2人座り込んでいた。
お父様や黒服や平河議員の目の前で、女の子の腕に抱かれ濃密な抱擁を交わし肌身を繋げ。
耳に注がれる穏やかな声音は心に痺れを。
「今宵の会見は、羽藤柚明の体や『力』が求められたのではなく、経観塚の夏で若杉の葛
さんと知り合えた立場を求められての物…」
桂ちゃんでもこなせた役かも知れないけど。平河議員や荻田さんは拾年前以前にわたし
と面識があって、わたしに求めが来たの。桂ちゃんは難しい案件への応対に馴れてないか
ら、わたしがお話しを伺った方が良いでしょうと。
「平河さんは確かに今様々な点で、難しい局面におられるけど。その打開に、堅気の女の
子を貪り従える事で得られる『力』や効果を、欲し望む人ではないわ。あなたのお父上も
黒服の皆さんも、その様な企てに力を貸す方達ではない。安心して良いのよ、お凜ちゃ
ん」
周囲では既に黒服同士の諍いも終えており。
荻田さんも平河議員も父も落ち着いていて。
料亭の女中さん達も、安堵した気配で居て。
わたくしは、柚明さんの柔らかな胸の内で暫く抱き留められて動けず。どうやらわたく
しは、とんでもない勘違いをしていたらしい。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
荻田さんは、元々羽藤さんのお父様の大学時代の親友で。拾年前以前に著述家で雑誌寄
稿もしていたお父様の文を、荻田さんが雇い主の平河議員に紹介していた。お父様の著作
の出版記念祝賀には柚明さんも同席し、そこでこの4名は、互いに顔見知りになっていた。
何も知らなかった。拾壱年前なら柚明さんはオハシラ様になる前年で高校一年生。大人
としてではなく正樹さんの随伴で、非公式な立場だった。でもその明晰さと愛らしさは人
目を惹いて。記憶に深く刻まれていたらしく。
そう言う過去があるなら。単に数奇な経歴を経た美人というだけで目に留めて、卑猥な
欲望や下劣な野心を抱いた訳ではないのなら。わたくしは不用意に大人の世界に首を手を
突っ込んで、余計な事をして人の所作を妨げた。
「申し訳ありませんでした。わたくし…!」
平河議員を、父を、父に従った黒服を、誤解して勝手に見損なっていた。柚明さんの意
図を見誤り、出過ぎた真似をして混乱を招き。結果東郷の体面に泥を塗り、外部に対し不
面目と不義理を。それこそ責任を取りきれない。
マスコミの柚明さん叩きを、平河議員は促しも妨げもしておらず。今宵の席で議員は柚
明さんに、余り酷い人権蹂躙の取材があれば、議員が出版社に注意しても良いと好意で申
し出た様だけど。それは報償を期待しての所作ではなく、身を捧げさせる等考えてもおら
ず。
彼は柚明さんに、若杉への仲介を頼みたい用件があり。財閥総帥就任前を理由に、公的
な場には殆ど姿を顕さない、拾壱歳の子供に何とか話しを繋げたく。その発見の報道を辿
っていくと、その根には拾壱年前に知り合えた柚明さんの情報もあり。消息の途絶えた柚
明さんを、議員も心に留めていて。逢って話したいと。それは柚明さんも断る理由がなく。
「今宵の本題はこれからの予定なのだが…」
静謐な場は壊されて。取りあえず黒服同士の取っ組み合いは鎮まったけど。襖一枚を隔
てただけの会見の間と控えの間は、襖が開かれ繋がれて、拾数人の共有スペースになって。
父が黒服と控えの間にいたのは。平河議員の警護に加え、柚明さんの警護目的でもあり。
議員が柚明さんに手を出せば、割って入る積りもあったのか。父も堅気の女の子である柚
明さんを信用し、心配し、しっかり守ろうと。
「平河先生、本当に申し訳ない。まさか娘が邪魔に入るとは、思ってもおらなんだ……」
父がわたくしの斜め前で正座して頭を下げ。
わたくしの左右背後では黒服全員が同様に。
夕刊トップの方針転換も、週刊ロストの編集長の電話も、時期が重なっただけで平河議
員との関りはなく。わたくしは柚明さんの力量を見誤っていた。この人はあり得ない事を
時々自然にやってしまうから。その背景に善意以外の思惑を、つい読み取れた気になって。
この人は、必須な時には己を捧ぐ事に躊躇ないけど。決して自己陶酔や自暴自棄で己を
抛つ様な人ではない。この人の危うさ儚さは、常に非常時の覚悟を抱いているだけで、そ
れを時も場も考えずに行う程に、愚かではない。
分った積りでわたくしは愛しい人を見誤り。
身売りしたと見なす酷い非礼を為したのに。
「わたしからもお願いします。どうかお凜ちゃんを、黒崎さん達を、お許し下さい……」
柚明さんも平河議員と荻田さんに正座から。
美しく艶やかな額を畳につけて平謝りして。
わたくしの所為で、己の愚かしさと誤解の所為で、父や黒崎達や柚明さんに迄も迷惑を。
本当にわたくしはどうしようもない未熟者だ。
「私がその様な人物ではないと分って貰えて、良かったと思うべきなのかな」「はい多
分」
平河議員と荻田さんは苦笑いを浮べつつ。
「大事な人の為に突っ走る行動力・決断力も、東郷の黒服を従えて妨げに入れる統率力も
子供の物とは言えないな。東郷さんは良い跡継ぎを持たれたと言う処か」「滅相もない
…」
「たいせつな人の為に身命を尽くす。間近に良い見本が居ますから、感化されたのかも」
父が恐縮する前で、荻田さんが雰囲気を沈めすぎぬ様に気遣って、やや明るい声を挟み。
「たいせつな女性を守りたいという想いには、鬼気迫る物があった。一瞬だがたじろいだ
よ。私も正にこの様に、生命がけで選挙を戦い抜かねばならないのだと、見せつけられた
…」
平河議員はわたくしの無礼を許して下さり。父も黒服も柚明さんもわたくしの為に頭を
下げて下さり、荻田さんの口添えもあったので。今宵のわたくしは赤面のし通しで。人生
の羞恥を全て使い果たした。羽藤さんはともかく、ノゾミや奈良さんにこの事を知られた
なら…。
平河議員の許しを頂けた後で今度は、わたくしと杉田達は父に平謝りを。父や父に随伴
していた森川達に、頭を垂れるわたくし達に、柚明さんが添って一緒に頭を下げて下さり
…。
「どうか、お凜ちゃんや篠原さん達を責めないで下さい。全てはわたしを想ってのこと」
そこ迄強く案じて貰えていた事に、気付けなかったのが今宵の真因です。盗聴されてい
る中でもあり、桂ちゃんはわたしが夜に家を外すと思うだけで心乱すから、行動を秘匿し
たのですけど。そこに判断ミスがありました。
「お凜ちゃんをそうさせた責任の一端は、わたしにあります。罰が要るならわたしにも」
「あなたは頭を下げなくても宜しい」「その通りです」「柚明嬢、我らの為にそこ迄…」
父が慌て、わたくしが同調し、胆沢達が驚き感動に打ち震える中で。柚明さんは自身を
想って為した事だからと、寛大な措置を願い。非礼な妄想で突っ走ったわたくしを責めず
に。むしろ包み込んで守って下さろうと。本当に。
「大人の世界に口を差し挟んだ事には、本来少し厳しい対処が要る処だが。平河先生や荻
田さん達が許してくれた上で、羽藤さんがその様に言ってくれては、許さぬ訳に行くまい。
杉田や篠原達も、今回に限りお咎め無しだ」
苦々しさの中にも愛情を感じられたのは。
愛しい人を守る為に身命を賭ける覚悟や。
胆沢達を懐柔できた力量を褒められてか。
隠しても父が瞠目していたと感じ取れた。
「反省致します。申し訳ありませんでした」
その後平河議員の提案で、わたくしと父も柚明さん達の夕餉に同席させて頂く事になり。
わたしも父も遠慮したけど。議員はここ迄踏み込んだ以上、互いの関係を見て分って貰う
為に必要と重ねて勧めて下さり、断り切れず。黒服も控えの間で、軽食を振る舞われる事
に。
5人の夕餉では、羽藤さんのお父様と荻田さんの関係や、荻田さんと平河議員の出逢い、
拾壱年前の柚明さんの印象や関りが語られて。
食後の本題は議員と柚明さんの2人のみで。
わたくしは父や黒服と控えの間で時を待つ。
一体何が話されたかは分らないけど。羽藤さんを哀しませる内容でない事だけは確かで。
夏の夜空は静かに月を星を走らせて行った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「では、平河先生は亀尾氏の『庶民新党』にも棚加氏の『震撼日本』にも参加せず、無所
属で選挙を戦い抜くと?」「その通りです」
テレビ画面では平河議員が記者の質問に答えている。政権党から公認を取り消され、刺
客候補を立てられても、平河赳夫は長年政権党で生きてきた、簡単に他党には移れないと。
「兄貴分の亀尾先生とは、袂を分つと…?」
「亀尾先生には、先生のお考えがあると思う。私には私の事情や考えがあると言う事で
す」
東郷は政権党を、大泉総理や林前総理を推す方向で動いている。若杉財閥や松中財閥と
くつわを並べ。わたくしは女子高生でそれらに関る術を持たぬ。テレビは別の話題に移り、
「政権党武井幹事長は、亀尾元運輸大臣の選挙区に立候補予定のライフドア織江貴文氏を、
政権党として公認しない方針を表明しました。これは織江氏の『政党色に染まりたくな
い』意向を受けた措置で、実質は全面支援と…」
政権党は造反組の選挙区に、相次いで刺客候補を投入し勢いづいているけど。ここだけ
は政権党の公認がなく、若干状況は違うかも。
眺める内に、テレビ画面もワイドショーの話題も、奇跡の女性を巡る騒擾に移って行き。
「奇跡の女性が同居する従妹のアパート前は、今日も人だかりですね……すごい騒ぎで
す」
柚明さんは平河議員の善意を受けなかった。国会議員の一声で、取材手法にある程度縛
りを掛ける事は可能だけど。己で対処できる事に他者の助けを借りたくないと。柚明さん
にはこの酷い取材攻勢も充分に対処できる物で。
わたくしの心配など不要だった。この人はそれ以外に打開策がない時は、自身を捧ぐ心
の強さを持つけど。そうせねばならない時とそれ以外を確かに見極め、凌ぎ続け耐え続け、
機を窺う心の強さも持っている。鬼神の封じを為せた人が、下劣な俗人の取材攻勢如きに
追い詰められて、判断を狂わされる筈がない。
あの夜以降数日を経て。マスコミの風当たりは相変らず理不尽な程に柚明さんへ厳しく。
報道陣は、羽藤さんのアパートを囲んで騒ぎ。電話も満足に繋らない状態は、続行中だけ
ど。わたくしは心でお2人と強く繋っているから。
「柚明さん……羽藤さんの、一番愛しい人」
平河議員と荻田秘書が引き上げた料亭の夜。東郷は柚明さんの護送を任され、父は料亭
の女将に今宵の騒ぎを、秘して貰う要請の為に席を外し。黒服は全て控えの間にいて。父
はわたくしの為に、暫しの時間を用立てたのか。
『お凜ちゃん……有り難う、わたしの為に』
柚明さんの抱擁は、慰めと言うよりわたくしを守り庇うかの様に、温もりが伝わる程で。
『ごめんなさいね。わたしの為に、お父様を誤解させて、叱られる様な事に踏み出させ』
『いえ、柚明さんは何も全く、謝る事など』
全てはわたくしの勝手な思い込みで。羽藤柚明という人物の強さ賢さを見誤り。この程
度の事柄の解決を、議員に縋って身売りする様な軽い存在だと、見なした己が愚かだった。
衆目の前で奈良さんを抱き留めた時も、女性記者を庇って刃物持ちの男を撃退した時も。
酷い取材と報道を繰り返すマスコミに対峙しても。この人は乱れる事も我を失う事もなく。
終始冷静に賢明に穏やかで。羽藤さんを支えるには、真に愛しい人を守り庇い通す為には、
『力』より何より、心が強くなければならぬ。
この人を信じ切れなかったわたくしが不明だった。そんな子供の未熟さを、愚かさをこ
の人はむしろ好み愛して包み守り。この底なしの優しさ甘さが、もどかしくも愛おしくて。
どこ迄貪っても底知れぬ、正に無尽蔵の愛が。この人に一番に愛される羽藤さんが、本気
で羨ましく口惜しい。そして同時にこの人に一番に愛される羽藤さんが、本当に愛おしい
…。
『わたしは確かに強く見えないし、実際余り強くも賢くもないけど……それでたいせつな
人に不安を与えた事もある。お凜ちゃんは人物や物事の真を見抜くから。相変らず視える
人には、わたしは頼りなさげに視えるのね』
でも。柚明さんはわたくしに向き直って、
『そこ迄強く想ってくれた事は嬉しかった』
自身の立場を抛っても、お父様や東郷の名に泥を塗っても、わたしや桂ちゃんの哀しみ
を食い止めようと。最後は本当に体を挟み声を手を差し伸べてくれた。強奪され掛ったわ。
『その熱い想いは本当に尊く有り難いもの』
今のわたしに返せるものは何もないけど。
せめてこの想いを肌身を繋げて伝えたい。
胸と胸が潰し合い、左頬が重なり合う程の抱擁は。わたくしの抱く想いへの返礼だった。
この人は例え害になったとしても、自身を想い慕う人に愛を返してしまう。そう言う人だ。
わたくしもそれを納得させられ呑み込まされて。その甘さ優しさに心浸して満たされて。
『困った時も困ってない時もお互い様です』
生意気を承知で羽藤さんに応えた様に応じ。
わたくしの抱く想いは長く変らないと伝え。
愛しい抱擁に込められる限りの想いを宿し。
槐の花の甘い香りが理性の奥迄浸透し行く。
例え週刊ロストや報道陣が、どれ程無法に非道な取材や報道を繰り返しても。柚明さん
は決して心折れる事なく、しっかり羽藤さんを心迄含めて守り抜く。わたくしもお2人の
その強さを信じて助け支えると、腹を決めて。
世間を騒がし父を悩ます政局や選挙や財閥の動向よりも。わたくしには愛しい贄の姉妹
の動静の方が遙かに気懸りで。羽藤さん柚明さんとわたくしの、心通わせた夏は未だ続く。