人の世の毀誉褒貶〔乙〕(前)
夏休みを3分割すれば中盤の後半、2分割すれば後半の始めに当たる、夏の盛り。大泉
総理ご執心の郵政改革法案が与党議員の一部造反で否決され、国会解散、総選挙、造反議
員の公認取消と、それでも立候補する造反議員への刺客候補擁立で、世間が騒いでいた頃。
羽藤さんの周辺も多少の騒ぎに包まれていた。正確には羽藤さんと言うより、羽藤さんが
連れ帰った新しい家族が、世間の注目を浴びて。
「もうすぐ到着です」「やはり居ますね…」
自動車の後部座席からの風景で、羽藤さんのアパートへの接近は悟れる。運転する黒崎
がわたくしに声を掛けたのは、近辺に報道陣が多数張り付いている事へ、注意を促す為だ。
わたくしがその事を気に留めていると承知で念の為に、くどくならない様に間接的に促し。
参拾弐歳の黒髪短い男性で、機敏で良く気付き胆力もある。黒服では比較的スマートな
容姿の持ち主だけど。わたくしは今殿方に興味が薄い。だから父も彼を傍に配属したのか。
世の注目を集めた羽藤さんのアパート周囲には、報道陣が多数見え隠れして。訪れる者
に注視を向けるけど、黒塗りのこの車は対象外と思っているのか。気に掛ける様子はなく。
アパートの前を通り過ぎると思わせて急停止し。ドアを開かせる程浮世離れしたお嬢様
ではないので、自らドアを開けて降りたって。
「有り難う、黒崎。帰る時には連絡します」
「いってらっしゃいませお嬢」と短い返事。
走り去る車を見送らず、その侭アパートに入っていく。そこで漸く報道陣は、このアパ
ートへの来客で、女子高生ならば羽藤さんに逢いに来た者だと悟った様だけど、もう遅い。
「ごめん下さいませ」「いらっしゃい……」
室内から聞えたのは羽藤さんではない声音。
飾り気のない普段着の上にエプロンを纏い。
柔らかくも透き通った声の主はドアを開け。
「……来てくれて有り難う、お凜ちゃん…」
出迎えてくれた蒼髪柔らかに艶やかな人は。
わたくしと変らない女子高生の外見を持つ。
でも中身は拾歳年長の静かな笑みを湛えた。
信じ難い程に過酷で数奇な定めを経た女性。
「先日は急な泊りでご迷惑おかけしました。
本日もお邪魔させて頂きます、柚明さん」
羽藤さんが先日訪れた田舎から連れ帰った若く麗しい従姉。羽藤さんは『お姉ちゃん』
と呼んでいるけど、わたくしにも本当の姉の様に、自然に優しくたおやかに接して下さり。
頭を下げて挨拶するわたくしの両手を握り。
胸の前に持ち上げて穏やかな声で親しみを。
「迷惑なんて思ってないわ。どうぞ上がって……桂ちゃんは陽子ちゃんと文房具のお買い
物で、そろそろ帰って来る頃だと思うの…」
この人の数奇な経歴が、マスコミの興味を惹いて、羽藤さん共々派手に騒がれ注目され
る現状を招き。それは少なからず柚明さんや羽藤さんや、ご近所の迷惑でもあるのだけど。
今はテーブルを前に座して麦茶を頂いて。
俗世の騒擾を静謐な室内から暫し眺める。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
事の始りは夏休みの少し前。羽藤さんの唯一の家族だったお母様が急逝されて。羽藤さ
んは母子家庭で、祖父祖母も親戚縁者もなく。葬儀を司ったのも、お母様の友人でサクヤ
さんという白銀の髪の豊かに豪奢な女性だった。
不幸中の幸いか、羽藤さんのお母様は死亡保険や貯蓄も含め、愛娘が大学卒業できる程
のお金を遺された様だけど。お金で埋め合わせの利かない物は、この世に意外と多くある。
唯一の肉親の喪失への悲嘆は尋常ではなく。サクヤさんに涙拭われる姿を前にわたくし
も奈良さんも、通り一遍のお悔やみ以上は述べられず。今後の身の振り方を問う事も憚ら
れ。
傍に誰もいない状態に、羽藤さんを独り置く事に不安は感じたけど。わたくしも夏休み、
外せない所用が異国にあり。わたくしに出来たのは夏休み迄の間、叶う限り傍で語りかけ。
「あたしがついているから、安心しなって」
「奈良さんがいらっしゃるから、不安です」
不在の間を奈良さんにお願いする事だけで。
わたくしや奈良さんに、唯一の肉親を喪った悲嘆と寂寥を、埋める術などないと承知で。
今は奈良さんに後事を託す他になく。夏休みに入った翌日、ひとかたならぬ心残りを胸に
抱きつつ、わたくしは瑞穂の国を暫し離れ…。
その間に羽藤さんも父方の実家がある田舎を訪れていたと聞いたのは、帰国直後だった。
逢って話したい想いも山々だったので。奈良さんと一緒に羽藤さん宅を訪れたわたくしは。
彼女の数奇な経験を聞かされ見せられ。喪われた拾年前以前の記憶を、取り戻せたらしい。
過去を思い起こす度『赤い痛み』に苦しむ羽藤さんの姿は何度か見た。幾ら思い出そう
としても思い出せない、お母様以外の家族全てを喪った小学1年生の夏以前。わたくし達
の小学校に転入する前の、奈良さんも知らない羽藤さんを。彼女は遂に夏の経観塚で思い
出し。実の兄を、従姉の柚明さんを思い出し。
幼い過ちが鬼神の封じを綻ばせ。柚明さんは羽藤さん達家族全員を守る為に自身を捧げ、
鬼神を封じるオハシラ様になった。肉の体を喪ってご神木に宿り、未来永劫お役目を遂げ
るだけの、朧に曖昧な霊の存在に。羽藤さんの最大の成果は、その生き別れになった姉を
取り戻せた事、連れ帰れた事にあるのだろう。
結果柚明さんは肉の体を喪う前の女子高生の姿が、拾年を経て老いも成長もなく。その
綺麗さは数奇な経歴と相まって人目を惹いて。
「どうかした? お凜ちゃん」「いえ……」
つい細い指先に、滑らかな手首に、首筋に胸元にうなじに唇に、この視線が舐める様に。
2人きりでいると自身にもごまかしが利かず。整った美しさと穏やかな落ち着きが好まし
く。
「美しいので、見とれていました」「…?」
羽藤さんもそうだけど。柚明さんも自身の美しさに過小評価というか、気付いてない感
じがあり。目の前で言われても瞬時、それが誰の抱く誰に対しての印象か分ってない様で。
少し経って漸くそれが自身への賞賛と気付き。
「……有り難う、お凜ちゃん。わたしには自分などより陽子ちゃんやお凜ちゃんの方が可
愛く見えて仕方がないのだけど。お凜ちゃんには、お凜ちゃん自身は見えてないものね」
「本当に可憐なのです。羽藤さんはどちらかというと可愛い感じで。柚明さんは落ち着い
た綺麗さや、たおやかに慎ましやかな処が」
まさか自身と同じ印象を返されるとは思ってなくて。わたくしはやや慌てて己の想いを
言い募る。柚明さんのペースに乗せられてしまうと、恥じらいが頬も耳も赤くしてしまう
ので。それも決して不快ではないのだけど…。
むしろこの人の甘やかさ優しさ柔らかさは、どこ迄も身も心も委ねてしまいそうで、自
堕落になりそうで怖い。もうじき羽藤さんが帰着すると自身に言い聞かせ、抱きつき抱か
れたく欲する己を抑え。話題を変えようと試み。
「透き通る様な美しさが、衣を通じて光り輝く様で。本当にこの世の物と思えない程…」
「……未だ完全にこの世の物ではないから」
え……? 一瞬だけ考え込むわたくしに。
「お凜ちゃんは鋭いから、勘付いているのね。未だわたしは完全に人の身を取り戻せてな
い。肉の体は今も再生途上で完成度合は6割弱」
柚明さんの肉の体は、拾年前ご神木に同化して、その養分として吸い上げられ消失した。
今彼女がここに居られるのは、羽藤さんの双子の兄・白花さんが鬼神の封じを継いだ為で。
でもそれはご神木に宿り続ける必要が消えただけで、柚明さんが肉の体を戻す事とは別だ。
霊体は実は非常に儚く、人か物か確かな物質に寄り憑かない限り、その形状を保ち得ず、
風に散らされ消失する。陽光に削られる事のない夜でも長く保たない。柚明さんもオハシ
ラ様でいた間は、ご神木が依代だったと言う。
「今のわたしは霊能者には霊と視える。お凜ちゃんは『やや視える』人だから分るのね」
白花さんが柚明さんに代ってオハシラ様を継いだ際、彼は心をご神木に寄り憑かせつつ、
肉の体を柚明さんに『力』の形で譲り渡した。羽藤さん並に濃い贄の血と一緒に。柚明さ
んは譲られたその力を使い、まず陽の光に照されても消失しない程に濃い、霊の現身を作
り。
次に陽の届かぬ内側から、羽藤の贄の血の力・治癒の力を応用し、自身の体を再生させ。
再生と言っても最初の1がなければ増やしようがないけど、幸い羽様の屋敷に柚明さんの
へその緒が残されており、再生が可能だった。
それでも、六拾兆と言われる細胞で構成される肉の体を1から再生するのは、生易しい
事ではない。柚明さんはそれ以降昼夜兼行で、肉の体を再生させる作業は今尚継続中と語
り。
「腕や足や、お凜ちゃんに見えて触れる処は未だ霊体。濃い現身は陽の光を浴びても消え
ないだけで幽霊と同じ。この世の物とは…」
「済みません。わたくし、柚明さんの美しさを表現したかっただけで。決して柚明さんの
現在の微妙な状態を、露わにする積りは…」
「良いのよ。わたしも隠す気はないし、素養のある人にそう視えた事は誰も何も悪くない。
幸い、わたしは後少しでこの状態は脱せられるから。視えた人にはむしろ、積極的に話し
て安心して貰う方が良い。桂ちゃんが心開き、桂ちゃんに心開いてくれたお凜ちゃんに
は」
余計な事を口走ってしまったと気付いて。
謝らねばと焦るわたくしの右手を取って。
柚明さんはすっと自身の胸へ引き寄せて。
「この心臓はもう肉の体。霊体でいた時にはこの鼓動も必須な物ではなく、人の時に動か
していた惰性で、動かしていただけだった」
白花ちゃんと桂ちゃんの生命を注がれて再生できた肉の体。わたしの生命。そう呟いて、
「この乳房は未だ霊体の現身よ。人の体に似せているけど、わたしの意思が潰えれば消失
する儚い部分。骨や内蔵・神経は概ね再生できたけど、筋肉や皮の部分は未だ霊体なの」
内側から作り行けば順番的にそうなる訳か。
偽物とは思えない豊かな膨らみを感じつつ。
柔らかな肉感や蠱惑的な鼓動に頬染めつつ。
でもそこでふと思い浮んだ疑念が口をつき。
「ノゾミさんの様に現身を解いてしまったら、今尚半ば霊体である柚明さんはどの様
に?」
ノゾミさんは、新しく依代となった羽藤さんの携帯に付いている青珠に戻れば良いけど。
肉の体と霊が混じり合う今の柚明さんは…?
瞬間、微かに言い淀んだ感じがあったけど。
麗しい唇は、静かに穏やかに答を紡ぎ出す。
「今現身を解けば室内に、作りかけのわたしの血肉や臓物がばら撒かれてお終いね。霊体
は残るけど、生命を喪って崩れ腐る臓物に依り憑く事は叶わないから、遠からず消失する。
生命を宿し始めてはいるけど、胎児より無防備で、それ自体では生命を繋ぎ続ける事の叶
わない肉の体。それが今のわたしの現状…」
濃い現身が肉の体を代行し、出来かけの臓器や血管を繋いで補完し、漸く生命を保てて
いる。とても脆い存在なの、今の羽藤柚明は。
「イザナミは、独りで己を再生させねばならず、待ちきれない夫にその途上を覗き見られ。
腐敗して蛆虫が湧き八柱の雷神が宿るその様を怯え嫌われ逃げられて、永遠の離別に至っ
たけど。女神に遙かに及ばぬわたしは、桂ちゃん白花ちゃん、一番たいせつな人の生命を
受け、愛しい人の助けで肉の体を取り戻す」
この人は、羽藤さんが死して腐敗しウジ湧いて八柱の雷神が宿っても。喜んで肌身添わ
せ愛おしむに違いない。己が同じく腐れると分っても、望んで手を繋ぎ黄泉へ往くだろう。
本当に幸せな微笑み浮べ。この人は己の肉の体を取り戻す喜び以上に。そこ迄白花さん
羽藤さんに愛され、生命注がれた事を喜んで。そこ迄させてしまった苦味や哀しみの陰り
も宿し。羽藤さんの生命を危うくし、白花さんに鬼神の封じを継がせた自責を、朧に感じ
た。
「ごめんなさいね。自分の感傷に浸ってしまって。それに、余り爽やかな話しでなくて」
言い淀んだのは、問への答で自身の状態を、腐乱した女神になぞらえて語らねばならな
い不快にではなく。それを語る事で、わたくしの心を乱す事への気遣いだった。でもそれ
は。
「気になさらないで下さい。訊いたのはわたくしです。こちらこそ申し訳ありません。答
えにくい事を尋ね、逆に気遣わせてしまい」
繊細で甘く優しく賢くて。でも過酷で孤独な定めにも打ち拉がれず、受け止めて折れず、
尚人を支えられる。わたくしの様な者に迄心を配り。愛した者の為には己を抛ち、望んで
危難に進み出せる。幾ら強さを見せられても、この人に危うさ脆さ儚さを感じるのは当然
か。羽藤さんの為でも自身の未来を抛つ人なのだ。
その全てがわたくしには好ましく。わたくしの好いた羽藤さんを心底愛してくれる事も。
羽藤さんに本当に信頼され愛されている事も。この人でなければ母を喪った羽藤さんの悲
嘆を埋め合わせる事は叶わない。この人にこそ羽藤さんの涙を笑みに導き、守り支えられ
る。
そして羽藤さんを一番に想いつつ、この人はその周辺にいるわたくし達をも深く想って。
肌身を交えて慈しみを注いで分けて下さって。暫し2人で親密に、身を触れ合わせている
と。
「……柚明さん?」「帰ってきたみたい…」
ゆっくり抱擁を外すのは、わたくしが合意の上で身を離す様に。この人は特に女性及び
女子に甘く無理に引き剥がす事がない。羽藤さんと触れ合う時も離れる意思を待つ感じで。
「ちょっと待っていて……桂ちゃんと陽子ちゃん、表で記者さんに捕まっているみたい」
玄関迄追随していたわたくしに柚明さんは。
ここで待っていてと、この両肩を軽く抑え。
何の気負いも怯えも嫌悪もなくすっと外へ。
タイミング計るとか、様子窺うとかもなく。
開いたドアの向こう側は、夏の日差しが容赦なく刺す、報道陣の喧噪の音も響く空間で。
静かに佇むこの人には不似合いな場に思えた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お帰りなさい桂ちゃん。陽子ちゃんもいらっしゃい、今日も暑いわね」「ユメイさん」
ドアの外で柚明さんの柔らかな声が響く。
報道陣の注目を集める為に良く通る声を。
効果は一瞬で現れた。羽藤さんと奈良さんに詰めかけていた報道陣は硬直し。次の瞬間、
「ユメイさんだ」「出てきた」「こっち!」
報道陣の流れが変る。羽藤さんと奈良さんに詰めかけて、肩を掴んで手首握って、スカ
ート引っ張ってでも答を貰う感じだったのに。
「何やっている」「こっちこっち」「早く」
柚明さんに向き直り、地響きを立てて走り来る。奈良さん達に詰めかけていた報道陣は、
見る間に引き剥がされて一息ついて。でも…。
「ユメイさん、おはよーございますっ…!」
「経観塚での拾年のお話を聞かせて下さい」
「従妹さんと再会できた時の、状況を少し」
「エプロン姿可愛いね。ここでは主婦役?」
詰めかける男女多数に、華奢な姿は忽ちかき消され。アパートの入口前は人混みで。柚
明さんも身動きできないと思った瞬間だった。
柚明さんが人垣をすっと抜け。あり得ぬ筈の動きがごく自然に。数拾秒も掴まってない。
報道陣は男女多数で群がり来て。真ん中辺りは後から詰めかける仲間に押され、彼ら自身
身動き取れないのに。華奢な肢体は、自分より大きな人達の群れを、必死でも汗だくでも
なく、すいと躱して。神速は見せず、むしろ緩やかなのに。並の達人にも叶わない動きだ。
柚明さんは、奈良さんの右隣の羽藤さんの正面に来て。華奢な両肩に軽く手を差し伸べ、
愛おしみ。女の子同士の抱擁もとても自然に柔らかく。奈良さんは唯呆然と見守るのみで。
漸く奈良さんと羽藤さんが我に返った頃に。
報道陣の群れも我に返って反転し殺到し…。
「ユメイさあぁぁん」「インタビューをっ」
『さあ、問題はこれからですよ、柚明さん』
柚明さんは迫り来る報道陣に向き直り、ゆっくりな歩みで距離を縮め。左右に大きく迂
回して、こちらに走り来る羽藤さんと奈良さんを気に掛ける記者は居ない。全員本命であ
る柚明さんに一直線で。彼女の意図は悟れた。
「掴まえたっ、スリーサイズ測らせてよ…」
眼鏡を掛け、縮れた黒髪の長い四十歳代後半と思われる女性記者が。女性同士ならセク
ハラもやり放題と思ってか、柚明さんを後ろから抱き竦め。両腕でその乳房を揉んで掴み。
殺意を抱いた。わたくしの柚明さんに軽々しく触り、あまつさえ彼女の合意もない侭に、
胸を掴んで揉んで困らせ。柚明さんの繊手に導かれ、漸く遠慮がちに触れたあの膨らみを。
無造作に踏み躙る者は男でも女でも許せない。
でもその動きの停止をチャンスと見て、他の多数も殺到し。柚明さんは奈良さん達が迂
回する少しの間、捉まって時間稼ぎを考えたのか。でも本当にがっちりと身を固定されて。
「可愛いねぇ、どう見ても女子高生だよ…」
「その若さの秘訣を、少しだけ教えて頂戴」
「すべすべで気持いい肌ね、感触も柔らか」
「この花の甘い香りは……何の香水かな?」
女性でも相手は大柄で腕も長く太い。更に男性多数にしがみつかれて。引き剥がせない。
羽藤さんと奈良さんも、アパート入口でやや心配そうに様子を伺う。身の危険はないけど、
力の加減なく身を掴まれ無遠慮な質問されて。
「今は彼氏も居なくて、拾年なんだよね?」
「経観塚にいた頃には、恋人とかいたの?」
「黒髪綺麗だね。下のヘアもこんな感じ?」
「答えてくれないとおっぱい揉んじゃうよ」
体中の血が逆流する。初見の女の子に発すべき問ではない。この連中は一体何を考えて。
間近の奈良さんと羽藤さんの回収を忘れ。
お2人も玄関に入る事を忘れて佇み続け。
「下着の色を教えてよ、黒、白、ピンク?」
「この拾年どこで何していたか、教えてよ」
「ずっと男とご無沙汰で寂しくなかった?」
「今もまだ彼氏居ないの? 都会に出てからも夜は1人で済ませているの? その辺を」
漏れ聞える質問の無神経さに、羽藤さんが顔色を変えた時だった。やはり何の前触れも
なく、人混みから柚明さんはすっと抜け出て。人垣は割れてもないし崩れてもいない。柚
明さんが出てくる前も出てきた後でも、そこは密集した人垣で。記者さんは身動き取れず
に。入り込めそうにも抜け出られそうにも見えず。
なのに柚明さんは極めて自然に歩み来る。
必死な様子も逃げを意識した様子もなく。
羽藤さん達の傍迄来て報道陣を振り返り。
「済みませんが……女の子の秘密に関る事を、初見の皆さんに軽々にお話しは出来ませ
ん」
柔らかでも明確に、答えないと意思を伝え。
穏やかな姿勢には怒りも怯えも涙もなくて。
この人は報道陣のあの非礼にも我を失わず。
その挙動の隅々にまで整った美しさを宿し。
集団相手でも確かに自身を保ち続けられる。
充分だった。わたくしは背後から声を掛け。
「羽藤さん、柚明さん……お疲れさまです」
「お凜さん」「あんた、先に着いてたの?」
柚明さんの答が終えた処で、内側から間近にいた3人を招き入れ。欲望や好奇心や功名
心の交錯する俗世から、暫くの間隔絶される。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
羽藤さんが夏休みに入って即の田舎行きから帰着して十日程経った。その身に起きた諸
々を、聞いて見て呑み込まされたわたくしだけど。その真相は他人に明かしてはいけない
と言うより、誰に話しても信じて貰えず逆に、わたくしの精神の均衡を疑われる様な内容
で。
『黒髪のすっごい美人の一夏のアバンチュールと、家出童女の財閥令嬢と、白銀の髪の長
い自称二十歳の女性ルポライターと、外見は中学生なのに千三百歳の夜にしか出られない
可愛い鬼と、拾年行方不明でその間全く歳を取ってない奇跡の女性と、もう全員が羽藤さ
んとラブラブで深い仲……ですか? はぁ』
奈良さんの説明は、日本語不足以前に羽藤さんを巡る情景を見る視点が歪んでいたけど。
羽藤さんは山奥で崖から落ちて、一度生命を落しかけており。外見は女子中学生でも実
年齢は千を超える肉を持たぬ霊体の鬼、ノゾミとミカゲに、一度ならず生き血を吸われ生
命狙われ。浅間サクヤさんや、世界有数の富豪・若杉財閥後継者の家出童女・葛さん、鬼
を切る鬼切り役の千羽烏月さんや、ご神木に宿るオハシラ様の柚明さんに、幾度も救われ。
鬼や鬼切部なんて単語を、表の世界の住人たる羽藤さんから、聞かされる事になろうとは。
しかも話しは更に錯綜し。その数奇な体験は決して偶然の出逢いなどではなく。彼女が
生れる前から遠祖からの宿縁で。羽藤さんの父祖は、贄の血と呼ばれる鬼や神に力を与え、
故に良く好かれ狙われる血筋だった。拾年前の夜もこの夏も、一本の赤い糸で繋っている。
遠い昔、羽藤さんの遠祖である竹林の姫の血を欲し、ご神木に封じられた鬼神を解き放
とうと。拾年前ノゾミとミカゲは、羽藤さんと双子の兄・白花さんを操り、鬼神の封じを
解れさせ。柚明さんは家族を守る為に己を捧げ、オハシラ様となって封じの解れを繕った。
白花さんは封じの隙間から漏れ出た鬼神の分霊に憑かれ体を操られ、父を殺めて失踪し。
羽藤さんは、操られてでも羽藤の家族を瓦解させた自責に堪えられず、自ら記憶を鎖した。
父の生命喪わせ、兄の人生喪わせ、姉の未来も喪わせた禍の源が、己自身だと知ったら。
赤い痛みどころではなく心壊れていただろう。お母様が拾年明かせなかった苦衷が忍ばれ
る。柚明さんを取り戻せた事が光明で救いだった。そうでなくば心優しい羽藤さんは、自
責に心苛まれ、終生暗闇の繭に籠もったかも知れぬ。
紆余曲折の末ノゾミは羽藤さんと心通わせ、ミカゲから守り庇って戦って。羽様の屋敷
で羽藤さんは兄や従姉を思い出し。柚明さんは幾度も消失の危機を越えてミカゲを倒し、
白花さんに憑いた鬼神の分霊を倒し。最後は鬼神の封じを白花さんが継いで。オハシラ様
を中途で辞した柚明さんが、羽藤さんと帰着し。
裏の世界に多少通じる家のわたくしは、鬼や鬼切部も承知だけど。比較的視える体質の
わたくしは、肉を持たぬ霊の話しも分るけど。その内容は突き抜けていて。羽藤さんが虚
言を弄ぶ人ではないと知るから。柚明さんがいて夜にノゾミが顕れて。信じるに至ったけ
ど。
羽藤さんはノゾミと柚明さんとこのアパートに住み続け、2学期以降も紅花女子高校に
通い続ける。ほっと胸をなで下ろした。転校位ならわたくしも、同じ学校に追って行ける
けど。夏休み前の様子では、自暴自棄に塞ぎ込み、学校に通わなくなる怖れも感じたので。
ノゾミとの同居には、不安より不満だったけど。羽藤さんは時折自身に害を為す者を見
極めきれず、懐に招き入れてしまう処がある。生き血を啜り人を魅惑し簡単に殺める
『力』を持つ鬼との同居は、口で言う程楽ではない。
羽藤さん1人でそうするなら、反対と言うより、羽藤さんの為に霊的対策を講じた処だ
けど。ノゾミは信じられないし、羽藤さんもその善意は分っても力量や判断に不安が残る。
でも柚明さんが了承し、同居して目を光らせるなら。ノゾミはどうやら相当強い鬼らしく、
わたくしの手の届く範囲の手段や人材では対処不能で。柚明さんには掣肘可能な様だけど。
慎ましく大人しく穏やかな人だけど、この人は色々な意味でわたくしの想定の枠を越える。
唯、その清く賢く優しく美しい柚明さんも、実質神様と言える元オハシラ様も。神をも
畏れぬ好奇心丸出しな報道の、無粋に不躾に無遠慮な騒々しさは、中々掣肘が難しい模様
で。
『拾年行方不明』の末に『突如発見されて』『その間全く歳を取ってない』『奇跡の人』
注目される要素は揃い踏みだ。その美貌に加えて、外見がわたくし達と同じ年頃に見え
てしまう。これはどう繕っても誤魔化せない。
一度火が付くと騒がれた事が話題となって。
飛びつかぬ事が流行遅れの様な空気を醸し。
騒ぎが人を呼び人が騒ぎを作る循環の中で。
郵政法案を巡る国会解散や総選挙の政局ネタに、横から殴り込みを掛けた感じで。柚明
さんの近況や来歴が、スポーツ紙や週刊誌で報道され。住所は伏せて仮名KさんYさんだ
けど。それが望まぬながら全国で反響を呼び。
男女多数の報道陣が、アパート傍に詰めかけ張り付きカメラを構え。ご近所の迷惑も羽
藤さん達の困惑も気に掛けず。バッシングでなくてさえ、報道は時に人の生活を侵害する。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ふぅ。漸く帰着できた羽藤さんは、真夏の日差しや暑さよりあの人混みにややお疲れで。
「おうちを出るのも帰るのも、一苦労だよ」
「お疲れ様ですわ。まずは冷たい飲み物を」
柚明さんから託された氷入りのジュースを手渡すと、羽藤さんは、ぱあっと顔を輝かせ。
お凜さんありがとうと、美味しそうに飲み干して。わたくし達も一緒に居間に腰を下ろし。
「お凜は先に着いてたんだ? あの包囲網をくぐり抜けるの、結構大変じゃなかった?」
奈良さんの問にわたくしも飲み物頂きつつ、
「わたくしは家の車でアパートの入口傍迄送って貰いました。報道陣も車での来客は想定
外だった様です。羽藤さんも歩いて出かけたので、帰りも歩きと思っておられた模様で」
「あー、はいはい。お金持ちは羨ましいね」
「でも、流石柚明さんです。羽藤さんのお帰りを遠くから察し、お迎えに出られるとは」
あ、そう言えば。奈良さんも気付いた顔で。
「ユメイさんは注目の人だから、外ではとちゃんを待っていれば、記者さん達が寄ってく
るものね。さっきも何気なく現れたけど…」
玄関の外で待っていては、報道陣に捕まる。
羽藤さん達が近付く頃に、出るのでなくば。
それが柚明さんの、オハシラ様の『力』か。
千年を経た鬼のノゾミをも、遙かに上回る。
経観塚で羽藤さんに関った人以外で事情を知るのは、今の処奈良さんとわたくしだけだ。
極秘扱いの事柄を、わたくし達に話して良いのかは、気になったけど。もう明かされた後
である以上に、柚明さんも咎めてなかったし。これもある意味、信じ難い判断だったと思
う。
隠し事の下手な羽藤さんはともかく。贄の血筋の家に育ち、その故に酷な定めを経た柚
明さんは。その事情を明かす危険を知っている筈だ。わたくし達は信頼されたのだろうか。
勿論わたくし達は誰に明かす積りもないけど。
ごく自然に、でも意外と尋常ではあり得ない事を為してしまう、羽藤さんの『新妻』は。
「お買い物に行って、陽子ちゃんとお昼前に帰ってくる予定は知っていたから。頃合だっ
たし、傍の記者さんのざわつきも感じて…」
注意力と推察を働かせれば、人知を越えた『力』を使わずとも概ねの事に対応できると。
静かに語って微笑む柔らかさが只者ではない。
「……私が、けいに群がるあの有象無象共に『力』を及ぼそうとしたのも、察したのね」
そこで不納得な感じの女の子の声が聞えて。
でもそれはこの場に見える誰の声でもなく。
夏の経観塚で羽藤さんが得た、最も奇特な成果。肉の体を持たない霊体の鬼、ノゾミだ。
その外見は、ミニスカートの様に短かな裾に袖長な黒と赤鮮やかな和服に。涼やかな音
を立てる金色の鈴を右足首につけた、中学生位の華奢な女の子で。少し気が強そうで見下
した感じの言葉遣いと姿勢が、生意気に映る。
昼の間は現身を取れず、取り憑いた羽藤さん以外に、霊感のない者やわたくし程度の素
養では、視る事も声を聞く事も難しく。黙している事が不得意で。羽藤さんに突っ込みを
入れる他に、時々わたくし達にも声を届かせ。
経観塚では羽藤さんの生き血を欲し、柚明さん達と敵対し。どの様な経緯でか羽藤さん
を気に入って、生命がけで守り庇い。今は羽藤さんの携帯ストラップの青珠に宿り。だか
ら羽藤さんとは柚明さん以上にいつも一緒で。さっき羽藤さん達が囲まれた状況も承知で
…。
「記者さんに害を為そうとしたのですか?」
陽の照す間は『力』の及ぶ範囲も効果も限定されるけど。近場で短時間ならノゾミ程に
強い鬼なら、多少の無理も利かせられる様で。周囲の者に時々肉声を届かせるのもその一
つ。
「私のけいに無遠慮に近付く愚か者達に、相応しい報いをくれてやろうとしただけよ…」
ノゾミは当然という感じで反駁するけど。
羽藤さんと共に生きる積りがあるのなら。
せめて今の世の仕組みを分って貰わねば。
「羽藤さんや柚明さんに迷惑が掛りますわ」
『力』で人を傷つける所行が良くない以上に。
鬼の力で報道陣を撃退したり惚けさせても。
意味がないどころか逆効果になるばかりだ。
「今の世は多くの人達が複雑に絡み合って生きています。羽藤さんに群がる記者を打ちの
めしたり魅惑して惚けさせても、仲間や会社の同僚が後を埋め、真相究明に掛るでしょう。
繰り返せば繰り返す程、羽藤さんの周囲で起こる異変に人の好奇心が集まってしまいます。
『力』の事やノゾミさんの事を気付かれでもしたら、それこそ大変な騒ぎに」「うっ…」
ノゾミも羽藤さんに似て、後先考えない性分で。わたくしの指摘に、じゃあどうすれば
良かったのよと返すけど。あの侭報道陣に張り付かれて、暫く耐えるしかないのが正答だ。
マスコミの扱いを誤れば波紋は全国的になる。ノゾミもその意図が伝わったのか『力』で
心を読み取ったのか。青珠の輝きがやや弱まり。
ノゾミも羽藤さんの不快や困惑を除いて助けたく、役立ちたくて『力』を使おうとした
のだろうけど。柚明さんが迎えに出たのは…。
羽藤さん達の接近を察しただけでなく。報道陣に囲まれ困惑や不快に陥る事も察し。ノ
ゾミがそれを『力』で突破しようとする事も読み。それを未然に防ぐ為に。報道陣を守る
事は今回、巡り巡って羽藤さん達の為に繋る。
「わたしがアパート入口に出たのは、ノゾミちゃんの『力』の行使を止める為だけど…」
察する『力』以上にその洞察に感心していたわたくしの傍で、柚明さんがノゾミに答を。
「ノゾミちゃんは青珠に憑いて未だ日が浅い。しっかり馴染む前に『力』を使うと、疲れ
易いの。青珠に籠もっていても、日中『力』を外に及ぼす無茶をすれば、弱ってしまう
わ」
ノゾミは夏の経観塚で、依代の鏡『良月』を羽藤さんに叩き割らせ、自身共々ミカゲを
倒して羽藤さんの生命を救い。結果依代を失ったノゾミは羽藤さんの青珠に宿り。でもそ
れは家の引っ越し等とは違い、仇や最愛の人を乗換える様な物で。安定する迄時間が掛る。
「ノゾミちゃんは桂ちゃんの最後の守りである以上に、わたし達のたいせつな人。桂ちゃ
んの危機以外で不用意に『力』を使って消耗し苦しむ事は、桂ちゃんもわたしも望まない。
桂ちゃんや陽子ちゃんを、大事に想ってくれる気持は有り難いけど、無理はしないで…」
「ゆめいあなた。私の為にあの場に現れ?」
柚明さんは報道陣や羽藤さんに及ぶ迷惑の他に、ノゾミをも深く案じ。この人の思慮の
範囲はわたくしの知識や経験を遙かに超える。羽藤さんも奈良さんもノゾミも瞠目する中
で。
「ノゾミちゃんはわたしのたいせつな人よ」
その嘘も誇張もない気持がまっすぐ伝わり。
みんなが心洗われ爽やかさに浸っていた時。
柚明さんは僅かに眉を顰めて立ち上がった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
柚明さんが開け放った窓の外にはカメラを構えた男性がいて。家の中を盗撮していた?
「ちっ、ばれたか」「週刊深長の権田岩男さんと、宮下太一さんですね。困ります……」
柚明さんはやや強い語調で、四十歳過ぎの屈強な中年男を見つめ。この人が権田さんで、
背丈低い五分刈りの三十歳代の男性が宮下さんか。柚明さんは、しつこい取材や強引な記
者への対処として、即座に抗議して相手を怯ませる為に、その顔と名を覚えているらしい。
後ろ暗い取材をする者は、所属氏名を特定されるとかなり怯む。上司や社長に抗議出来
るし。警察への通報や訴えたりも出来るから。この辺りは並の女子高生には出来ない発想
だ。
でも屈強な男性は、優しげな女の子の外見を侮って。正面から咎められても、尚退かず。
「見つかったついでに、正面から一枚頂き」
柚明さんを撮ろうとフラッシュを焚くけど。
一瞬早く柚明さんは右手をその美貌に翳し。
「お断りします」権田さんの意図を挫いて。
相手の撮影は防げないけど。撮られたくないと言う以上に、前に掌を開いて出す事で写
真の価値を減じ。この一瞬の対応力・判断力はすごい。自分の意図を通せなくても、相手
の意図を挫く事は出来る。何と柔軟な発想か。
「一枚位撮らせろよ。減るもんじゃなし…」
「不当な方法に利得を与えては、正当な方法で取材する他の記者さんに不公平になるので。
そういう姿勢を真似られても、困りますし」
正視を返す柚明さんに、男性の声は怯まず。
「へぇ、静かに大人しそうでも、意外と気が強いんだな。流石中身は弐拾六歳って処か」
「この様な取材方法は止めて下さい。わたし達だけではなく、松田さんにも迷惑です…」
そこで漸くわたくしも、権田さん達が足を踏み入れた処が、公道でもこのアパート敷地
でもなく、隣家の中庭だと気付き。彼らは隣の一軒家の庭に侵入し、本来覗けない角度か
ら室内を撮ろうとしたのだ。それは羽藤さん達の迷惑以上に、隣家の松田さんの迷惑で…。
「早く松田さんの敷地から出て下さい。奥さんの不在を狙ったのでしょうけど、もう買い
物から帰る頃です……そして丁寧に謝って」
「ふん、庭に入った位で。減る物じゃなし」
悪びれた様子も罪悪感の欠片もない姿勢に。
「花畑が踏み躙られています。松田さんの奥さんが精魂込めて育ててきたお花畑なのに」
柚明さんの語調が、更に強さを増した気が。
「誰が何をたいせつに想うのかは、様々です。だからこそ、何をたいせつに想うか分らな
い部外者は。無遠慮に他者の奥深くに土足で踏み込む事を慎むべきだと、わたしは想いま
す。
松田さんの奥さんに、奥さんの笑顔を楽しみにするご主人に、あなた達は謝るべき…」
もしあなたがそうしないなら、わたしが松田さんに事情を伝え、週刊深長編集部と深長
社に抗議や謝罪、賠償を求めるお手伝いをします。仮に法的に訴えるなら、証言もします。
そこで漸く、彼らも柚明さんの本気を悟り。
優しげな外見を、舐めて掛っては誤りだと。
「ぐっ……こ、この小娘が、生意気をっ…」
「もうすぐ松田さんの奥さんが帰ってきます。
2人で所属も名乗って丁寧に謝って下さい。
後でわたしも松田さんに、この様な事態を招いた結果を謝りに参ります。その時にあな
た達の謝罪があったかどうかを確かめます」
どこの誰か知れぬ報道記者です、ハイさよならでは済ませられぬと。漸く彼らも実感し。
「ダメですよ、これはこっちが旗色悪いです。権田さん、今日は引きましょう」「う…
…」
進退窮まった権田さんは、宮下さんに引かれ行く。それを見送る暇もなく。彼らが退く
先の公道から、こちらに向けてフラッシュが。
「いい絵を撮らせて貰ったぜ、ユメイさん」
黒い長髪が少し薄い中肉中背の中年男性と。
少し背の低いスポーツ刈りの若い男性記者。
後で柚明さんから聞いた話しでは、四拾歳半ばの男性がスポーツ東京の熊谷直弘記者で、
若い男性が内川貴文記者。家の中を覗き込む角度は取れないけど、窓ぎわに現れ抗議する
柚明さんの立ち姿は、公道からも撮れた様で。こういう処を収める辺りは本当に抜け目な
い。
「屈強な他紙男性記者に一歩も引かず、道理を述べて行き過ぎた取材を諫め。当紙も行き
過ぎた取材は戒めているが、美しく凛々しい被写体を前に、改めて他山の石としたいと」
そこは柚明さんも敢て手を翳す事はせずに。
窓の内に速やかに身を引くけどその時既に。
「スポ東だけに特ダネを撮らせる物ですか」
フラッシュはこの2人組以外からもう一つ。
黒髪ショートな二十歳代後半の若い女性と。
それよりやや年上のでも若く細身な男性の。
夕刊トップの大島桃花記者と中山栄太記者。
「不法侵入し隣家の花畑も被写体の家庭事情も土足で踏み躙る他紙男性記者を、強く制止。
凛々しく美しい横顔を本紙女性視点で接写」
隙あらば柚明さんを収めたい姿勢は、権田さん達とほぼ同じ。明確に犯罪となる一線を
越えるか、そのライン上に留まるかの違いは。撮られる側には実は余り大きな違いではな
い。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お姉ちゃん……大丈夫?」「桂ちゃん…」
窓を閉め、羽藤さんに向き直った柚明さんは既に常の静かな穏やかさで。否、あれ程非
礼な相手に対しても、彼女の自然な柔らかさは微動だにせず。声を荒げてさえいなかった。
「心配は要らないわ。お話ししただけよ…」
羽藤さんを正面に迎えて軽く抱き留めて。
左頬を撫でつつ肌身合わせて安心させて。
しっかり解決出来たから良かったけれど。
並の応対では凌ぐ事も難しい者達だった。
四六時中監視された様な状況は、結構辛い。武道の達人でも霊能者でもないわたくしに
も。家の外で蠢く報道陣の雑音が……感じない?
防音構造でもない普通のアパートの一室で。
間近のざわめきを感じないのはむしろ変だ。
同じ感触を顔に出す奈良さんに答えたのは。
「ゆめいの結界の効果よ。正確には、けいの母がけいの為に張った結界を、ゆめいが繕っ
たのだけど……あの有象無象共が詰めかけた頃から、周囲の気配を遮断する作りに変えた
様ね。けいは贄の血持ちで『力』を眠らせているから、何かの拍子に感じてしまうと…」
足音や話し声や機材の雑音が意識に上らぬ様にして、生活環境を良好に保ち。羽藤さん
の心も確かに支え守り。贄の血という特殊事情を抱える羽藤さんの傍には、理想的な人だ。
なるほど道理で、と幾度も頷く奈良さんに、
「尤も、あなたは結界があってもなくても人の気配なぞ感じ取れないでしょうに、陽子」
「そこはわたくしもノゾミさんに同感です」
「ちょ、お凜。いつの間にノゾミちゃん側に寝返った? あたしとはとちゃんを捨てて」
「わたくしが捨てたのは奈良さんだけです」
「元から捨てられる程の仲だったのかしら」
妙な処でノゾミと巧く連携してしまうけど。
「うわ、陽子ちゃん、2人に言われまくり」
羽藤さんは柚明さんに抱かれた侭傍観者で。
奈良さんは同情されども報われぬ定位置に。
中断された昼食をみんなで賑やかに再開し。
昼食後柚明さんは羽藤さんから携帯を預り。
青珠ごと懐へ。と言う事はノゾミも一緒に。
「青珠に『力』を注ぐわね。夏の陽は依代に宿っていても消耗させられるでしょう。わた
しの想いを『力』と一緒に注ぐ事で、あなたと青珠の繋りを、より強く安定に導けるわ」
昼食後柚明さんは皿洗い、その後は洗濯に移行する。部屋の掃除は、勉強の妨げになら
ない様に、羽藤さんが不在の間に済ませていた様で。その辺の作業の組み立ても見事です。
わたくし達は午後の静謐な環境で心ゆく迄。羽藤さんの愛らしさを愛で、奈良さんに突
っ込みを入れつつ、夏休みの宿題を進め。長い夏の日が傾く迄、愉しいひとときを満喫し
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ふうぅ、結構がんばったぁ」「あたしもかなり進んだわ」「奈良さんの進捗の半分は羽
藤さんの答を見せて貰った結果でしょうに」
夏の陽も沈み窓の外は薄暗く。室内は電気の輝きに満ち。今日はお疲れ様という感じで、
少し砕け。柚明さんが淹れた麦茶に口をつけ。
「半分でしょー半分。残り半分は自力で…」
「自力でお凜さんの答を、覗いていたよね」
「あー、はとちゃん迄あたしを裏切るぅ!」
「元から裏切られる程の仲だったのかしら」
夕刻になれば現身を取れるノゾミはまだ顕れず、昼間の様に声だけ挟む。権田記者の様
な人に撮られると警戒しているのか。見慣れぬ女の子が夜だけ現れると騒がれても困ると。
「ノゾミちゃんも出てきて一緒にお茶菓子食べようよ」「ふぅ、仕方ないわね。けいは」
お泊りせず帰るわたくし達は、自宅で夕食を頂くので。ここではお茶菓子を少し。柚明
さんは、日没後はノゾミを本当に家族扱いし。おやつも夕飯も出し入浴迄も勧めていると
か。
わたくしも一応嫁入り前の娘で、外泊の連続は要らぬ心配を招く。己の窮屈さは良いと
して、家の者が羽藤さんに悪印象を抱いては羽藤さんに迷惑が掛る。羽藤さんの経観塚行
きの話しを聞いた先週は、話しが伸びに伸びて夜を徹し。あの時は電話一本で済ませたけ
ど。あの様な無茶は何度も出来る物ではない。今後も長くお付き合い続けるなら。夏休み
は未だ続く。次のお泊りはもう少し間を置いて。
お茶菓子を5人で頂いて一息ついた頃合に。
迎えの黒い車が近付いてきて本日は終いに。
わたくし達は柚明さん程巧妙ではないから。
携帯にあと何分何秒で到着との報告を受け。
「騒々しい方々が、まだ傍にいる様ですわ」
「わたしは大丈夫、お姉ちゃんと一緒だし」
その答にわたくしも安心できて。羽藤さんの柚明さんへの信頼の深さも、それに応える
柚明さんの優しさ賢さ強さも、全て望ましく。この姉妹が肌身添わせる様は、本当に美し
い以上に羨ましい以上に、微笑ましく愛おしい。
「はとちゃんにはあたしも付いているから」
「奈良さんは羽藤さんや柚明さんの足を引っ張らない様に、頑張って下さいまし」「ぷ」
奈良さんは最後、ノゾミさんの『ぷ』という追い打ちに止めを刺され。好ましくない者
に思っていたけど、なぜかこういう機微は巧く噛み合う。そんな印象は絶対顔色に出さず、
「……それでは羽藤さん、柚明さん、ついでにノゾミさんと奈良さんも、ごきげんよう」
車到着のタイミングを見計らって外に出て。
羽藤さん達の見送りを受けて車に乗り込み。
わたくしの最も尊く美しいひとときが終る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「……黒崎」「何でしょう、お嬢?」
喉の渇きを口実に、帰途の車を道路沿いの自販機前に停車させ。黒崎を追ってわたくし
も降り、飲み物を選んで買う目的を偽装して。それは車載の隠しカメラや盗聴器を躱す為
に。過保護すぎる父を持つと、子は工夫を覚える。
「羽藤さんのアパート周囲に、報道陣に紛れて黒服を、父は何人潜ませているのです?」
黒崎は、一瞬しまったという顔色を見せて。
はったりで真相を引きずり出した訳だけど。
わたくしの読みも勘も間違いではなかった。
やむを得ないと、彼は困り顔で向き直って。
「二組に分れて4人です。羽藤家周辺は報道陣が異常な程に詰めかけているので、やや離
れてなら、その位は目立つ事もあるまいと」
諦めた様に答え。やはり父は動いていたか。
羽藤さんは唯の女子高生で警戒も疑いも不要だ。今迄に不審を抱いた様子もない。ここ
数日で急に何か動くとするなら、その原因は。羽藤さんの傍に近日生じ、わたくしも執心
の。
真夏でも、やや涼しい夜風に身を晒しつつ。
「……柚明さんを父は疑っているのですか?
わたくしに害を為す怖れがある者だと…」
「明言はなかったので私には何とも。指示の方は、羽藤家に張り付く報道陣の動きも良く
見張っておくように、言い付かっています」
『も』ですか。主目的はやはり柚明さんに?
鋭くなるわたくしの声音に彼は考えつつ。
「私の推測では、不測の事態を防ぐと言うより情報収集が主目的ではないかと。斎藤達へ
の指示も、報道陣と羽藤家の動きを外縁で俯瞰する感じで。何かあった時に身を挟めて防
ぎ関るには、間に合わないポジションです」
心配しているのか、疑っているのか、又は。
父も時折わたくしの想定を越えてくるけど。
「良いでしょう……それは、続けて下さい」
黒服の雇い主は父であり、その動きの最終決定権は父にある。わたくしの命に従うのは、
父の許しの範囲内か、想定の範囲外で禁じられてもいない事か。彼らの職務遂行を子供に
は止められない。わたくしは所詮雇い主の娘に過ぎぬ。止めさせるなら、父に求めるべき
だけど。求めても多分聞き入れまい。だから。
「その上で追加指示をします。羽藤さんの周辺情報を父に伝えた際には、同じ情報をわた
くしにも教えて下さい。父の反応と共々に」
わたくしに、父を止める事は叶わないけど。
父の意図は知っておきたかった。柚明さんに父がどの様な印象を持ち、危惧を抱くのか。
何を注視し、何に力点を置き、何を量るのか。それを追う事で、父の意図や考えが分るか
も。
父の打つ手が分れば、先回りする事も叶う。
「ですが……」「貴方達の職務遂行は妨げないと言っているのです、問題ないでしょう」
彼らはわたくしに気付かれない様にわたくしの周辺、柚明さんの周辺を監視する様に言
われていた。わたくしに気付かれた時点で既に失態だけど。多分柚明さんも気付いている。
既に父の叱責を受ける立場にあり、この上で父に流す情報や父の反応迄わたくしに横流し
して、発覚した時を思い煩う気持は分るけど。
「わたくしに情報を流す事は内密です。父にはそう求められたけど、断り通したと答えて
下さい。その方が貴方達も叱責は軽く済む」
「その事が発覚した後の方が怖ろしいです」
黒崎は古風で職責に誠実な人物だ。父の指示に多少の疑念を抱きつつ、せねばならぬと
監視任務を務めており。その上でわたくしが、雇用主の娘という立場で指示を追加するの
は、ややこしくも好ましくないと推察できるけど。
わたくしも、柚明さんへの監視を止めさせる事が出来ぬなら。せめてどんな監視をして
いるのかチェックして、酷い行いなら止めさせねば。その為にも情報入手ルートは必須で。
「もっと怖ろしい目に遭わせましょうか?」
この指示は父の許しの範囲ではなく、父の想定を越えた事だ。禁じられては居ないけど、
言ってすんなり動かせる内容ではない。だからそれを気乗りしない黒崎にさせるには、単
なる雇い主の娘の指示を越えた強制力が要る。
「今貴方にわたくしの唇を重ねて、事実を全て父に伝えても良いのですけど」「お嬢!」
胆力のある黒崎が動揺を見せた。父はわたくしに過保護だから、わたくしが黒崎と唇を
重ねた等と知ろう物なら。仮に合意の上であったとしても、唯では済まされぬと予見でき。
「わたくしはそうしてでも柚明さんと羽藤さんに父が抱く印象を、為そうとする事を知り
たいのです。お2人を、守り支えたいのです。
今頼れるのは貴方だけなのですよ、黒崎」
少しだけ、柚明さんの在り方を意識して。
優しくたおやかに語りかけてみたところ。
脅しより気迫よりこれが決定打になって。
「お嬢、仕方ありません。あくまで内密に」
猫撫で声も出してみる物か。己の可愛さや女らしさには、自信の希薄なわたくしだけど、
意外と色気で落す事も不可能ではないのかも。これが殿方以外に通用するならわたくしも
…。
否、わたくしは既に落されて。すっかり魂を奪われていたのだと、己の現状を思い返し。
肩を竦めて動き出す車の座席に身を預けた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お父様、少し宜しいですか?」「凜か…」
日差しも未だ涼しい朝食後。わたくしは父に、黒服を柚明さんを監視させた訳を尋ねた。
どうせ父は黒崎から、黒服の配置を喝破された報告を受けた筈だ。そこ迄は明かして良い
とわたくしも言ったので。黒崎がわたくしの指示通り、父への報告内容をわたくしに流せ
との密命を、隠した侭か否かは分らないけど。
「羽藤さんは、わたくしのたいせつな方です。柚明さんもそれに準じて。お父様と言えど
も、お2人を苦しめ困らせる事は看過しません」
直接切り込んで砕ければ、わたくしの羽藤さん達に抱く気持を伝えられるし。その程度
しか思いつけない、まだ子供と侮って頂ける。父が現段階で何を考え、何を怖れ、何をし
て、又はしようとしているのかも訊いておきたく。
「一体どの様な意図で、羽藤さんの宅の周辺を監視しているのですか? 教えて下さい」
「私はお前を心配しているが……報道陣のあの騒ぎに巻き込まれないか、奇跡の女性なる
人物は本当に凜に無害安全なのか。……だが、黒服に監視させた理由はそれだけではな
い」
過保護の故もあるけど。それ以上に何らかの事情があって、柚明さんの監視を外せない。
否、それは実は周囲の報道陣への監視なのか。でも一体何の為に? 過保護以外の要因っ
て。
『誰かに監視を頼まれた? 仕事として請け負ったなら、父の一存で止めると言えない』
東郷の黒服は訓練されていてそこそこ使えるので、探偵の様な仕事も請け負う。選挙運
動員の貸出やイベントの下働き等も。本業は東郷の子会社所属で警備員となっているけど。
「彼女達の身に直接触れる様な事を為す積りはないから、安心なさい」「当たり前です」
ここで伝わったのは、監視を今後も続けるという父の意思だったけど。過保護の負い目
があるのか、背景事情が多少窺えた様な気が。
誰の依頼かは訊いても答えてくれなかろう。
そう言う処は職業倫理というより義理堅い。
父はわたくしを大人の世界と隔てているし。
充分満足の行く答を得たとは言えないけど。
人員配置の距離から実力行使は考えてない。
それを確かめただけで今回はよしとしよう。
「柚明さんは監視に気付いています。わたくしに気付けた物をあの人が察せられない筈が
ない。その事は考慮に入れておくべきかと」
一応父なのでそれ位は助言して、慎重な行動を促し、自室に下がろうとするわたくしに。
「良いのか? 監視を、止めさせなくても」
「言って止めて頂けるなら、願いますけど」
「うむ。……それは、難しいな。難しい…」
わたくしの勘気に触れたかと気に病む父を。
わたくしも敢てそこは追及せず話題を変え。
「斎藤が頭を悩ませていました。今回の選挙、ウチはどっちを支持すれば良いのかと。主
流派と造反組、東郷は双方に関りが深いので」
新聞雑誌の報道は現在、奇跡の人Yさんと、大泉総理による衆院解散・総選挙の政局ネ
タに二分されている。父は有力とは言えぬけど、長年義理人情を旨として政権党の人物を
推しており。今回はその内部分裂に困惑を隠せず。
父はわたくしを、経営や人事・渉外など大人の世界に混ぜ込む気はない様で。わたくし
も差し出がましくそこに口を挟む積りはなく。その様な諸々より美しく尊い物が間近にあ
る。唯、時折父がわたくしに悩みを漏らす時には、わたくしも己の拙い見解を述べる事が
あって。
「林前総理と大泉総理に、亀尾元運輸大臣と平河元通産大臣。特に関りの深かった方々が、
真っ二つですから。早めに判断せねば東郷は、両陣営から味方に非ずと見なされ、立ち竦
み揺らいでいると見透かされ、狙われ引き抜かれ草刈り場にされます。羽藤さん宅の監視
より、選挙運動に黒服が忙しくなるのでは?」
政権党の一部議員が衆議院で、大泉総理ご執心の郵政法案に反対票を投じ。それでも衆
議院では造反は少数で、野党の反対と合わせても大勢を覆すに至らなかったけど。参議院
では造反組と野党を合すると、反対多数になって否決され。即日総理は衆議院を解散した。
否決したのは参議院だけど、参議院は解散が出来ない。総理は直接国民の声を聞きたいと。
選挙では政権党は大泉総理らを前面に出し、勝って郵政法案再可決を目指す。政権党で
造反した議員は、それで選挙を戦う訳に行かず、党内に居所を失った。賛否を明示せず棄
権や白票だった議員は、総理の気勢に屈する感じで『選挙後の国会で郵政法案に賛成す
る』念書を書いて、全員政権党に留まる事を許され。
造反議員は選挙で政権党の公認を外される。
それでも無所属で立候補する者も多数いて。
基盤が同じ者同士で啀み合えば共倒れして。
野党第一党が政権奪取するのではと囁かれ。
劣勢でも苦戦でも義理堅く力を尽くす父も。
今回どちらを支持するか迷いが生じる処で。
「悩ましい処だが総理を支持する。総理の郵政法案は疑問だが、林(前)総理が支持して
いるから。東郷はあの人に最も義理がある」
「そうですか。では、出来るだけ早く確実に、東郷の皆にその判断を周知徹底しなけれ
ば」
わたくしは父の考えに判断を下す立場にはないし、それ程深い知識も持ち合わせてない。
決めたなら、迷いを払って迅速に行動するべきと。娘という立場だから、生意気に言える。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「これで全部です。駅売夕刊紙4紙、週刊誌8誌、女性週刊誌3誌と写真週刊誌3誌…」
柚明さんの記事が掲載された媒体を、今全て買い集めるのは、結構大変なのかも知れぬ。
「お疲れ様でした、岩隈」「いえ、お嬢の為ならこの程度、いつでもお任せ下さい……」
厳つい中年男が女性週刊誌をレジに持ち込むのは、意外と勇気が要るらしい。それらを
自室に運ばせた彼をねぎらい下がらせ。柚明さんの動静の報じられ方や記事の傾向を読む。
『二十六歳と思えない初々しさ、奇跡の人』
『取材殺到に困惑しつつ、微笑み絶やさず』
『心こもった受け答え、大和撫子慎ましく』
『拾年の空白を越え、愛しい肉親との同居』
既に報道されて、羽藤さんも柚明さんも否定せず明かした中身では。羽藤さんが夏休み、
お父様の実家を見に経観塚という山奥に赴き。浅間サクヤさん、家出童女の財閥令嬢・若
杉葛さん、拾年ぶりに執り行う祭りの関係で訪れた千羽烏月さんと巡り逢い。山森に迷い
込んでご神木の前で眠り込み。朝目が醒めると行方不明だった従姉の柚明さん、拾年歳を
取ってない奇跡の女性に膝枕され感動の再会を。
柚明さんは拾年前行方不明になった事情も、今夏戻ってこれた事情も語れず。眠った様
な時間の末に、気付いたらご神木の下で拾六歳に成長していた羽藤さんを抱いて目覚めた
と。話しの通りなら『現代の浦島太郎』よりもリップ・ヴァン・ウィンクルの日本版が正
確か。
オハシラ様やその封じた鬼神、ノゾミやミカゲ、鬼切部や白花さんについては明かさず。
葛さんは財閥継承の準備中で、じきに大々的なプレス発表がある、と羽藤さんは言って
いたけど。選挙が終って騒ぎが鎮まるのを待っていると、父から聞いた。既に政局ネタが
熱い処に割り込んでも、人の注目が分散する。政権党は今政局ネタに国民の耳目を集めた
い。大泉総理は郵政法案の是非を国民に問いたく、特ダネが連発して政局ネタから国民の
関心が逸れる・分散する事を望まないらしい。柚明さんの報道が既に暴走気味なのは、果
たして。
「バッシングの記事ではないから良いけど」
怖い程に賛美一色な報道が却って引っ掛る。
私生活に踏み込み覗き見た様な掲載記事も。
確かに美しく数奇な経歴を持つ女性だけど。
そこ迄賞賛される程何かをした訳ではない。
羽藤さんの生命を戦い守った話しは内密で。
公には行方不明になって戻っただけの人だ。
過剰な賛美に戸惑う気持も分る。報道陣は柚明さんを囃し立て、勝手に高みへ押し上げ
人工的に有名人を作り出している。世間に取り上げて欲しい芸能人には望ましかろうけど。
静穏な日常を暮らしたい者には、迷惑千万だ。
犯罪容疑者の如く常に覗かれ追い回されて。
羽藤さんは奇跡の女性の家族と言うだけで。
柚明さんも俗世に戻ってきたと言うだけで。
無遠慮で不躾で無礼極まる報道陣に、対し続けねばならず。張り込まれ続けねばならず。
柚明さんは良く平静を保っていられる。しかも己のみならず羽藤さんの心の平静をも守り。
穏やかに自然な笑みが、実は尋常ならざるか。
「柚明さんを蒼髪と書く記事はないですね」
どうやら写真で黒髪に写るのみならず、わたくし達以外には、彼女は黒髪に見える様で。
わたくし達とはわたくしと奈良さん羽藤さん、それにノゾミも。つまり夏の経観塚の事情
を深く知る者の肉眼にしか、蒼髪には映らない。
羽藤さんも、奈良さんの指摘で写真の髪の色に気付いた様で。報道陣や父や黒服にも彼
女は黒髪に見えている。柚明さんの話しでは、実際には黒髪だけど。彼女が贄の民である
事やオハシラ様だったと知る者、『力』を持ちその事情を喝破した者の肉眼には蒼く映る
と。
柚明さんは贄の血の匂いを隠す為に、常時『力』を通わせて、周囲に『認識洗浄』を及
ぼしており。それが及ばない者には蒼髪に見えるとか。彼女の正体を知る人、見抜いた人
には髪は蒼い。わたくし程度の視る『力』にその喝破が叶う筈もなく。初めて逢った時か
ら彼女はわたくしや奈良さんに、無条件の信を寄せていた。正体を隠す積りもなかったと。
ただ度外れて甘いのか。確かに人を見極めているのか。羽藤さんの身内だけの事はある。
わたくしの器ではとても量りきれないのかも。
各紙に目を通し終えた辺りで丁度正午近く。
外行きに着替えてやや曇り気味な空の元へ。
本日は羽藤さんと市立の図書館でお勉強だ。
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羽藤さんは前回、詰めかけた報道陣がわたくし達に迷惑掛けたと考え、別の場所でしよ
うと。わたくしの家でも良かったけど、羽藤さんは報道陣が付いてくる事を案じ。公共の
場なら流石に彼らも騒げまいと。羽藤さんは奈良さんも誘った様だけど、奈良さんには先
約があったらしく、本日は不参加という事に。
羽藤さんが単独で、アパートを囲む報道陣を突破するのは、初動から疲弊を強いるので。
黒崎の車でわたくしが迎えに赴きさっと拾い。報道陣の傍に岩隈達が潜んでいるから、彼
らの弛緩を狙って動くのは難しくない。誤情報等で、注意を逸らす迄の措置も要らなかっ
た。
図書館前で下ろして貰い、車は一度返してわたくしの帰宅時に再度迎えに来て貰う事に。
「ありがとう、お凜さん。助かったよぉ…」
「困った時も困ってない時もお互い様です」
間近でこの方の長閑な笑みを見られるわたくしがお礼を述べたい位。この華奢に可憐で
愛らしい羽藤さんを、大勢の有象無象で取り囲んで無造作に肌へ触れるなど。名画を汚れ
た靴で踏む愚行だ。考えるだけでも厭わしい。
「記者さん達も流石に追いかけてこないね」
「黒崎もかなり飛ばしましたから。羽藤さんのお宅には車がないので、基本的に車でどこ
かに出かけるとは想定外だったのでしょう」
「彼らの本命はゆめいなの。家族に過ぎない桂には、馬を駆って追う程の値がないだけ」
2人きりに見えるけど実は2人ではない。
わたくしにも聞える様に挟まれた声音に。
「馬を駆るって、生れた時代が分っちゃうよノゾミちゃん」「それよりも……他の人が通
り掛る外で日中、話しかけるのは如何かと」
そこで羽藤さんも周囲に人の視線がないかどうか気に掛けて。幸い、間近に人はおらず、
わたくしも居たので怪しまれてはいない様だけど。四六時中羽藤さんに密着し、夜に好き
放題出来る鬼には、日中位黙っていて欲しい。
そんな想いも込めて突っ込みを入れると。
羽藤さんもそうだと思い出して声を上げ。
「もう、ノゾミちゃん。話しかける時は鈴を鳴らすか、電話って言ってよ」
わたくしの指摘は却って泥沼を招いたかも。
ノゾミはノゾミで己の想いに素直で自由で。
「だって、面倒なんですもの。……別にその『ケータイ』とかいう道具を使うフリなんて、
しなくても良いじゃないの」
「そんな、普通の人にはノゾミちゃんの姿は見えないんだから……わたしが独り言を言い
ながら歩いているみたいで、恥ずかしいよ」
私は恥ずかしくないもの。ノゾミの返事は爽快な迄に高飛車で、なぜか憎らしさを欠く。
「ううっ……わたしが恥をかくと『どうしてあなたはいつもそうなの。私に恥をかかせな
いで頂戴』とか言うくせにぃ」
「それはそれ、これはこれ、だもの……大体、あなたが弁えていれば済む問題でしょ
う?」
羽藤さんはノゾミさんにやり込められる立ち位置らしい。おませで口の達者な妹に、好
き放題に甘えられ、我が侭言われる姉の様な。半月前にその生命を生き血を狙った鬼とは
思えない。これが羽藤さんや柚明さんを欺く偽装なら、相当質の悪い鬼と言う事になるけ
ど。
羽藤さんが返す言葉をなくした頃合だった。携帯のストラップに付いている、鳴らない
筈の、舌の付いてない鈴が涼やかな音を響かせ。
「話したい時は、それを鳴らせば良いのでしょう?」「……ノゾミちゃん……」「……」
羽藤さんが忘れていた様に。ノゾミも未だ新しい習慣が身についてなかったという事か。
色々言いつつも決まり事は守ろうとしている。強大な『力』を持ち気紛れに禍を振りまく
鬼だけど。全く信に値しない訳ではないのかも。
「図書館で静かにお勉強だから、ノゾミちゃんも騒いだり悪戯したりしちゃダメだよ?」
わたくし達は暫くの間、誰に邪魔される事なく涼やかな一室で長閑に愉しい時を過ごす。
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帰途にハックへ寄ったのは、羽藤さんが小腹空いたねと申し出た為で。羽藤さんは経観
塚で相当疲弊や消耗を強いられ。柚明さんの癒しで回復はしたけど、活性化した新陳代謝
の為に今尚燃料不足気味で。暫くは太る心配もなく、間食やおやつも食べ放題が望ましい。
夏の陽は長く、既におやつには遅い刻限だったけど。わたくしは帰宅後満腹で夕飯が食
べられなくても、このひとときを優先したく。普段立ち寄る事も少ないファストフード店
に。
でもこの選択は不正解だったかも知れない。
図書館を出てまもなく尾行の気配を感じて。
「お凜さん?」「いえ、何でもないですわ」
取りあえず店に入って予定通り軽食を頂き。
店の近く迄、黒崎に迎えに来て貰えば良い。
羽藤さんに知らせても、その心を乱すだけ。
ノゾミがさっきから沈黙しているのも多分。
「いらっしゃいませー」
でもわたくしのその見込さえ未だ甘かった。
相手はわたくし達の席の向いに勝手に座し。
「こんにちは奇跡の人の『妹』羽藤桂さん」
縮れた黒髪長く、背が高く肩幅広く腕も足も長い、見事な体躯に眼鏡かけた中年女性は。
取材をするとも言わず、名乗りもせず、馴れ馴れしく話しかけて来て。背後に相方と思し
き少し年下の三十歳代の女性を立たせた侭で。
「直にお話し聞いて見たかったの。拾年歳を取ってない見かけは女子高生の従姉と、同居
する事になった現役女子高生の、私生活を」
『女性週刊誌、週刊レディ記者の平塚寧々。
気弱そうな黒髪長い女が同僚の松原伸江』
斎藤や胆沢から、羽藤さん宅に張り付く報道陣の所属氏名は聞いている。人相風体や趣
向や勤務態度迄。それに彼女は先日柚明さんの胸を掴み揉む非礼を為した、忘れ難き女だ。
「2人で鍋つつき合ったりしている? 洗濯は交替でやっているの? お姉さんの下着と
か洗っちゃっている? それともお姉さんがあなたの下着を、手揉み洗いしているの?」
「あ、あのぉ」羽藤さんが答える暇も与えず。
「お風呂も一緒に入っている? 2人で抱き合って寝ているの? 日中人目のある処であ
の密着ぶりだもの。憧れるわぁ、あんな綺麗で若いお姉さんに、貴女も本当可愛いから」
羽藤さんの青珠の光がやや強くなった気が。
「トイレ掃除はどっちがしているの? お姉さんが使ったトイレだって思いながら、擦っ
たり拭いたりしている? お姉さんもきっとあなたの使ったトイレだから、悶々して…」
「あなた失礼です」私もつい語調が強くなり。
勢いに呑まれた羽藤さんの助け船と言うより、彼女の取材対象への向き合い方が不快で。
「羽藤さんは未だ、取材を受けるとも話しに答えるとも言ってません。勝手に目の前に座
り込んで、自分の話しを好き放題されても」
困ります。羽藤さんはわたくしとの時間を過ごしています。お下がり下さいと告げると。
「答えてくれても良いじゃない。減るものじゃなし。取材の自由と報道の自由は、日本国
民全員に付与された基本的人権なのよぉ…」
彼女はわたくしに答えるのではなく、そう言う事で羽藤さんを逃さないと。視線を一瞬
もわたくしに向けず、羽藤さんを見つめ続け。羽藤さんは困惑を顔に出しつつ、強く拒絶
しきれず。まだ話せば分ると思っている感じだ。
でもこの人物は。初見でここ迄迫って問う図々しさから考えても。配慮や善意が凶と出
るタイプだ。羽藤さんの人の良さも鷹揚さも、独特の嗅覚で分って縋り付こうとして。苛
めっ子が苛められて抗わぬ子を嗅ぎ分ける様な。
「聞かせてよ。全国の女性は貴女達の百合百合な関係を、舌なめずりして見ているの…」
「お下がり下さい。羽藤さんとわたくしの私的な時間に、割り込むのは止めて頂きます」
制止にも彼女は怯まず。視線も言葉も羽藤さんのみに向け。それはわたくしへの無言の
挑発も兼ねるのか。むしろ店の中に響く様に、
「奇跡の女性とその家族は今や、全国的な知名度を持つ有名人よ。プライベートを理由に
取材から逃れる事は出来ないわ。読者多数の知的好奇心を満足させるのは、報道の使命」
『勝手に有名人にした癖に……羽藤さんも柚明さんも、そんな事は願ってもいないのに』
拒むなら、大声で他人の視線を引き寄せると脅し。羽藤さんの答を引きずり出す構えだ。
「人の迷惑を考えないのですか」「人に聞かれて拙い話しなら場所を変えても良くてよ」
それは、取材を受けると答えるのに等しい。
羽藤さん。わたくしは、困った表情の羽藤さんに、強い意志で拒絶してと視線で訴えた。
当人ではないわたくしが幾ら拒んでも、彼女に退く気配はない。当人が強く拒まなければ。
でもその答を待たず女性記者は言葉を続け。
「今を答えられないなら拾年前でも良いのよ。拾年前の家族の間のドロドロを。貴女拾年
前以前の記憶を、この拾年の間ずっと忘れていたんですって? どうしてか覚えてい
る?」
今従姉にされている事を、幼い貴女は既にされていたのではなくて? とても子供には
耐えられず、忘れてしまいたい諸々の過ちを。貴女の『大好きなお姉ちゃん』に。だから
…。
「わたしは今迄に答えて報道されている以上は、憶えていません。拾年前は幼かったし」
きつい応対を返すと、後で柚明さんへの取材でその『返礼』が返ると羽藤さんは心配し。
非礼な対応にも丁寧に答えようと。でもその弱味をきっと承知で、女性記者は厚かましく。
「貴女に姉が居たって事さえも、お母さんは語ってなかったのでしょ? なぜだと思う?
そう言えば貴女、双子の兄が居た事も忘れていたのよね。今も行方不明の羽藤白花…」
羽藤さんの表情が硬く変る。それを女性記者は食いつく好機と感じた様で。宜しくない。
羽藤さんは拾年前以前を思い返すと、今も尚。
「人の不幸を稼ぎの手段にするのはお止め下さい。失礼も限度があります、松原さんも」
繰り返しの制止にも彼女は怯まず。その相方は意思を持たぬ人形の如く傍に佇むのみで。
「私は真実を究明したいの。奇跡の女性と唯一の同居人・女子高生の、拾年前から今に至
る赤裸々な全ての所行を真実を人目に晒し」
あの綺麗に優しげな仮面の裏に宿る魔性を。
大人しげに楚々とした姿の影に潜む真相を。
「貴女達兄妹は揃って、拾歳上の姉に身も心も弄ばれていたのではなくて? 大人になっ
ても鬼畜の所行だけど、子供の頃から既に貴女達は彼女の思う侭に。幼児虐待とも家庭内
暴行とも、近親相姦とも言えるけど。隣家が数キロも隔たる田舎なら、家族さえ騙すか見
過ごすかされれば、誰にも何も発覚しない」
この女性は一体何を言おうとしているのか。
長い黒髪を揺らせ彼女は口から泡を飛ばし。
「それが発覚し、貴女の父母に問い糺されて。従姉は貴女の父を殺め、兄を連れ去り、貴
女に記憶を失う程の傷を与え逃げ去った。一体何を為したのかしらねぇ。彼女の報復を怖
れ、貴女の母は貴女を連れて町に移り住んだ…」
経観塚とは縁もゆかりもない町中に。仮に彼女がここを知って追い縋っても、町なら隣
家もあって不審な女が寄り付けば人目に付く。拾年貴女が忘れざるを得ず、母が口を閉ざ
したのは、その過去が酷かったからではなくて。
「思い出して。貴女がお姉ちゃんと呼ぶ人物は、本当は貴女に何をしたの? 拾年前も今
も貴女は何をされているの? そして羽藤白花は本当は、もう既に彼女の手に落ちて…」
「……もう、言わないでっ!」
店内に響く悲鳴は羽藤さんの。微かに身を震わせつつ、両手で耳を塞いで平塚寧々の言
葉は聞きたくないと姿勢に示しつつ、大声を。
「お姉ちゃんは、わたしにも白花ちゃんにも何一つ酷い事はしていません! 知りもしな
いで勝手な憶測を語らないで。お母さんともお父さんとも最後迄本当に仲良くて、みんな
とても暖かで幸せでした。ああなったのは」
そこから先の真相は語ってはいけない処だ。
それを分るから羽藤さんも思わず言い淀む。
その言い切れぬ処に彼女は踏み込んできて。
羽藤さんは赤い痛みを堪えつつ守勢に回る。
「じゃ、どうして『ああなった』のか、貴女は分っている訳だ。ふぅん……そうなの?」
何がどうなったのか教えて欲しいわねぇ。
それと貴女達が今どうなっているのかも。
刑事も貴女達の身辺を、嗅ぎ回っているって話しだし。他紙も既に食指を伸ばしている。
貴女の従姉の実態が白日の下に晒される日ももう間近ね。全ての罪を曝かれるその瞬間が。
「全部あの従姉の掌の上で操られる貴女の言い分を、ぜひ聞かせて頂戴。違うというなら、
言って証を立てないと、好き勝手な憶測を記事に載せられちゃう……マスコミは怖いの」
貴女の母は亡くなった。貴女以外にあの従姉の真を証言できる者はいない。都合良く独
り身になった貴女の前に、彼女は再び現れた。そして貴女は完全に取り込まれ心も蕩かさ
れ。この出来すぎな展開や拾年前の事件の裏側に、何があるのかあったのか教えて頂戴。
羽藤柚明の真実や、貴女との間の真実を全部余さず。
「甘くて良い匂いだったわよぉ、貴女のお姉ちゃんは。華奢に細身で柔らかく暖かく…」
彼女の焦点が目の前の羽藤さんから、脳裏に浮んだ何かの像へ、移ったと思えた瞬間に。
青珠から何かの気配が立ち上る様を、『力』の発動を感じつつ。わたくしは羽藤さんの手
を強く引いて席を立ち、2人一気に外へ駆け出して。黒崎の車は既に到着して待っていた。
ハックの会計は終えている。片付け出来ず、2人の女性記者に押しつけた形になったけ
ど。
「出して頂戴。羽藤さんのお宅迄」「はっ」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
羽藤さんは何が何だか分らない内に、引っ張られて車に連れ込まれ。走り出して暫くし
てから、ほっと一息ついた頃に我を取り戻し。少しの時間を掛けて状況の変転を思い起こ
し。
「……お凜さん、ありがとう……」「わたくしだけでは、ありませんでしたわ。今回は」
黒崎に聞かれない様に全ては語らないけど。
ノゾミは羽藤さんにのみ聞える様に事実を。
平塚寧々の思考を妄想に誘導したのは、ノゾミの魅惑の『力』だ。羽藤さんが限界迄追
い詰められたと見て。日中でも多少無理して『力』を行使しても助けるべきと。前回の人
混みの真ん中と違って、多数の視線の集中する前ではなかったし、今回だけは責められぬ。
わたくしも羽藤さんの手を引いて走り出そうと、女性記者の隙を窺っていたけど。彼女
は出口を塞いだ形で座し。強行突破しても袖を掴まれた。ノゾミが魅惑の『力』で彼女の
妄想を導き、隙を生じさせたから走り出せた。
昼間外に力を及ぼす事が至難なノゾミには、あの至近でもあの程度の『力』の行使が限
界だったらしく。羽藤さんは赤い痛みを堪えるのに手一杯で、手を引かれないと走り出せ
ず。車の後部座席で数度深呼吸して漸く落ち着き。
「ごめんね、お凜さんにまで迷惑掛けて…」
いいえと首を振って間近に瞳を覗き込み。
愛しい人に自責の必要は何もないと答え。
「わたくしこそ羽藤さんの心を守り通せず」
相手の無礼度合を見誤った。羽藤さんの赤い痛みを導く話題に迄踏み込むと予測できず。
もっと早い段階で、遮断しておくべきだった。ノゾミが居てくれて、連携出来て助かった
…。
「大丈夫ですか? 視線が、虚ろですけど」
「大丈夫……だけど、少し疲れたみたい…」
赤い痛みは治まった様だ。夏休み前程に酷い苦痛ではないらしいけど、体力と気力を削
ぐ事に違いはなく。額には未だ珠の汗が残っている。どちらにせよ、この先更にどこかに
寄る予定はなかった訳で。家に直行が正解か。
「この侭お送り致します」「うん、お願い」
羽藤さんの意識が沈み掛るのを見ていると。
『あなたも少しはやるじゃない……。あの女に魅惑を掛けて、けいに走り去る様に勧めよ
うとしたのだけど。けいがあの有様だから』
ノゾミはこの耳に、辛うじて届く小声で。
『もう少し無理して傀儡の術で、けいを操る事も考えたけど。日中はきついから……少し
だけ役に立ったわ。あなたも』『ノゾミさんの為にした行いではありませんけど……褒め
て頂けると、悪い気は致しませんわね……』
ノゾミも前回、わたくしに『力』の行使を咎められ。柚明さんにも気遣われて、その不
行使を正解と納得したのに。羽藤さんを守り庇う為に、それらの経緯を承知で踏み越えて。
それもしっかり『力』の使い方を絞り込み。
人を傷つけたくない羽藤さんの意向に添い。
わたくしは携帯で羽藤さん宅に電話をかけ、大まかな経緯を述べて迎えの用意をお願い
し。発熱や大ケガならわたくしも添って、柚明さんが為す介抱のお手伝いした処だけど。
羽藤さんの今は疲労だから多分寝せるだけで良い。他の者が混じっていると却って気を遣
わせる。
柚明さんは正に車が到着する頃に外に現れ。
報道陣が群がるよりも早く羽藤さんを抱き。
「お凜ちゃん、有り難う。お世話になってごめんなさいね」「いえ、こちらこそしっかり
羽藤さんを守り通せず、申し訳ありません」
後の事はお願いしますと告げると。全て承知の黒い瞳が間近で瞬き頷いて。羽藤さんを
抱き留めてなくば、わたくしが抱かれたかも。羽藤さんは柚明さんの腕の中で意識を取り
戻したけど、未だ朦朧としていて言葉を発せず。
異変の気配を察した報道陣を振り切る為に。
柚明さんは羽藤さんを支えて家に引き上げ。
発進した車の少し寂しくなった後部座席で。
「黒崎……少し調べて欲しい事があります」
わたくしは今迄形に出来なかった不安が形を為して行くのを感じ。所詮は女子高生に過
ぎない己を承知で。羽藤さんの為に柚明さんの為に、己に今何が出来て何が出来ないのか
知る処迄辿り着かねば。己自身に得心行かず。
父の指示で動く斎藤や胆沢達に、独自に追加指示を出し。雇用主の娘に過ぎないわたく
しの余計な指示を、彼らがどこ迄納得して実行するか。羽藤さんや柚明さんには余計なお
世話になる、出過ぎた真似だとも承知しつつ。
報道陣の間では柚明さんへの賛美は終り。
過去と今の彼女を叩く動きは始っている。
状況を掴んでせめて心の準備を促さねば。
盛夏の遅い落日は赤く不吉に感じられた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
今朝も晴天で日差しは眩しく。今日の予定は午前遅めに羽藤さん宅を訪れ、昼食を跨ぎ
奈良さんと3人、夏休みの宿題を進める積り。
朝食を終えデザートを頂いている時だった。
「亀尾先生は新党を作るらしい……無所属なら未だ選挙後に政権党へ戻る可能性も残るが、
無所属では付いてきた造反組の一部が選挙でかなり危うい様で。仲間を捨て置けないと」
父は政権党の分裂選挙に頭を悩ませており。柚明さんの報道と並んで、どの新聞雑誌も
テレビも取り上げない日がない程の騒ぎだけど。却って過剰な情報に、振り回されている
様な。
「新党となれば完全にケンカ別れ。選挙後も関係修復は難しい。平河先生はこの動きに追
随するのかどうか」「亀尾先生の選挙区には、政権党があの人を刺客に立てると報道で
は」
父がわたくしに話しを漏らすのは、結論や助言を欲してではない。考えの整理に独り言
呟く様な物で。故にわたくしは世間で報道されている、父も既に承知の内容を凡庸に返す。
父は眉間の皺を更に深くして溜息をつき。
「ライフドアの若造、織江貴文か。ぽっと出のIT企業で、幾ら稼いだか知らんが全く」
野球球団を買うとか、放送局を買うとか色々物議を醸した、新興企業集団の若きトップ。
確か三十三歳か。新聞雑誌やテレビ報道される事で世間に名を売り。知名度の増が商売の
幅を広げ株価を上げて収益も増し。個々の商売を頑張るのではなく、株価を上げる話題作
りにばかり力を注いでいると、陰口も囁かれ。でも上り調子の今はそれも強い批判になら
ず。
柚明さんや羽藤さんの様に、報道される事に困り悩む人もいれば。こうして報道される
事を力に変える人もいる。静かにそっと置かれる等、織江氏は疎外されたと感じるだろう。
彼は大泉総理の『改革』支援に、郵政造反組を叩き潰す刺客に、政界の外から志願し乱
入し。それが東郷と親交深い亀尾元運輸大臣の選挙区で。政権党が刺客を立てる事は予期
されたけど、著名人相手では苦戦が予測され。
「亀尾先生は地元では、元々余り選挙に強くないからな。弟分の平河先生は、東郷が動か
なくても盤石なのだが」「織江さんにはファースト警備保障の松中財閥や、浦上ファンド
等が全面支援して、激戦が見込まれるとか」
浦上世彰(よしあき)氏は四十五歳。人々から出資を募り、集めた大金で株や資産を売
買して儲け、配当を出資者に返して尚余る利益を上げて自身も儲ける、投資集団の代表だ。
新聞雑誌やテレビの報道で株価を上げて、紙の上の数字で利益を出すライフドアと同類で。
人や物を実際に動かして利益を出す、東郷の様な『実業』と色合の違う『虚業』と言えた。
ライフドアの増収傾向に乗って、資金提供して蜜月状態だけど。その出資には国内外の
怪しい資金が含まれると噂され。浦上氏も未だ五十前で若すぎて、世間の信頼は今一つで。
その足らざる処を補う様に。警備業を柱に伸びてきた新興財閥、松中勝家氏が最近バッ
クに付いた。ライフドアに出資する浦上ファンドの資金の多くは、松中財閥の出資だから。
出所不明の資金ではないと。財閥が推した事で浦上ファンドもライフドアも信頼性を増し。
松中勝家氏が七十五歳と高齢な事が、ここでは逆にプラスの要因に働いた。松中財閥は
ファースト警備保障という実業を営んでおり。この辺でも『虚業』への胡散臭さを緩和し
て。
「松中財閥は悪質だ。唯警備業で商売仇と言うだけではなく、政治に金以上に口出しする
以上に、どうにもその在り方が胡散臭い…」
自社の警備員に麻酔銃やペイント銃を装備させたいと、銃刀法改正を主張し。警備業の
海外展開も図りたいと武器輸出の解禁も求め。自由貿易だ規制緩和だと。その過激さを一
部野党議員から『戦争主義者』と罵られ。マスコミの風当たりを躱す為に、突然女子大生
の孫娘を社長に据えて、好意的な話題を呼んで。
その孫娘も、フェンシングや剣道の女性有段者を、大金を費やし玩具の様に掻き集めて、
広告塔にして。残業はさせないと先に残業手当を廃止し。取り巻きと一緒に剣を振るって、
町の悪者をやっつけるショー紛いの事をやり。父がわたくしを東郷の実務に関らせないの
は、彼女の在り方を不快に感じた為だと聞いた…。
それでも今マスコミに取り上げられて上げ潮にいるこの3者が手を組めば、激烈な勢い
となる。大泉総理を支持する側の勢いが増す。
「渡貫元衆議院議長、亀尾元運輸大臣、平河元通産大臣は、郵政法案造反組の3巨頭です。
お三方が自身の選挙に掛りきりで、仲間の応援に行けなくなれば、造反組は危ういかと」
「だが、もう東郷は政権党を推す事に決めた。今更亀尾先生の支援に出る訳にも行かん
…」
結局、父は愚痴を漏らしたいのだ。決めた以上、行動は総理や林前総理の勝利に向け徹
底せねばならない。そこで情を殺した分だけ。どこかで父も、鬱積を口に出さねば収まら
ず。それは身内で口の硬い者であれば誰でも良い。唯その程度でもわたくしは父に信じら
れ悩み打ち明けられている。否定すべき事ではない。
だからわたくしは多少時間を掛けて、父の呟きに応じ続けていたのだけど……この朝は。
「だからこそ、直接選挙に影響しない処では、義理のある人の依頼は一層断りにくくて
な」
微かに心に引っ掛ったのは、虫の報せか。
正式な選挙は未だ公示もされてないけど。
公示時点で選挙は終盤戦というのが世間の常識で。東郷も父が決を下して以降、政権党
の勝利に向けて、黒服は次々と事前運動に投入され。つまり『直接選挙に影響しない処』
で東郷が今断れずに、果たしている依頼と言えば。羽藤さん宅の監視以外にほとんどなく。
羽藤さん宅の、柚明さんへの監視・情報収集は。東郷の義理ある人からの依頼で。この
文脈で出た郵政選挙に関連する人達の誰かだ。しかも父は政権党の造反組を支援しない事
の、償いの意味を込めて断れぬと言っているなら。
『渡貫議員は造反組の重鎮だけど、東郷との義理や縁は薄い。思い当たるのは亀尾議員か
平河議員だけど、でも一体何がどう絡んで』
東郷で父の他に、今回の件に深く関る者はいるだろうか。その詳細を知る者は。柚明さ
んを巡る状況の背景は、予想外に根深い様だ。