人の世の毀誉褒貶〔甲〕(後)
色々あるけど元気だよ。お姉ちゃんもノゾミちゃんの様に変りなしって、伝えてって」
『変りなし、かい。用意周到に良い答だね』
携帯から漏れ聞える声は聞き覚えある様な。
呑気に話している処を見ると知り合いかな。
はとちゃんは血色良く眠そうな感じもなく、電話の応対もしっかりして。大丈夫そうだ
わ。人の通話に聞き耳を立てるのもどうかと思ったので、扉の向こうのユメイさんに聞き
耳を。
「自治会長さんにお願いして、隔日で朝8時から暫くここ、アパート前をみなさんとの質
疑応答の場に、使わせて頂く事になりました。今後はそこで集まって頂いた各社のみなさ
ん全員に、受け答えしたいと考えています…」
へー。一社一社似た事を繰り返し聞かれるより。時間指定して集まってもらい、一度で
済ませた方がいいと。隔日で確実に受け答えするから、逃げ隠れも取材拒否もしないから。
記者さんも四六時中張り込んだり、見かける度にマイクを突き出す必要が、薄れますよと。
更に未成年のはとちゃんやその友達たるあたし達にマイク向けないで、勝手に写真撮っ
て載せないでとお願いし。隣家の敷地に不法侵入しての撮影も、私生活盗撮もダメですと。
今後は本人に取材して欲しいと。その場を設けた以上その他の人に迷惑を及ぼさないでと。
取材拒否ではなく。方法を整えることで。
記者さんのお仕事にも配慮して、最後に。
「これはわたしからみなさんへの気持です。
不束者ですが、宜しくお願い致します…」
ユメイさんは、焼いてあったクッキーを記者さんに配り。今話した取材についての取り
決めの紙も配り。かなりの人数いた様だけど、ユメイさんは今来ている記者さんのみなら
ず、戻った各社の編集部の人の分も作ってあって。
それだけじゃない。ユメイさんはご近所さんにも、再度ご迷惑掛けますとのごあいさつ
込みで配る積りでいた様で。はとちゃんが摘み食いしても一向に減らない台所のクッキー
の山が、ユメイさんの意気込みを示していた。
記者さんやご近所さんの、立場や気持を考え、みんなが納得行く様に。警察に届け出た
り訴えたり、会社に苦情や抗議するより前に。合意の途を探す辺りが、ユメイさんらしい
…。
「んっ……頂くか」「美味しいわね、これ」
黒髪長い熊谷記者も、背の低いスポーツ刈りの内川記者も。黒髪ショートに艶やかな大
島記者も、二十歳代後半の細身な中山記者も。屈強な体躯の権田記者と、相方の宮下記者
も。怯えも嫌悪もなく配るユメイさんから、クッキーを頂き。先日ユメイさんに後ろから
抱きついた、縮れた黒髪長く眼鏡の女性記者にも。
後でユメイさんから女性週刊誌『週刊レディ』の平塚寧々記者だと教わりました。背は
百七十センチ近くあり、肩幅が広く手足もやや太くて、何より胸が大きな四十歳位の女性。
まともに組み合えば、胸以外でもユメイさんに勝ち目がなく見えるけど。世の中は不思議。
戻ってきたユメイさんと3人でテーブルを囲み。アパートの周囲で蠢く記者さんの数が、
減った様な気もするけど、気のせいかな? 暫く寛いで、お凜の到着を待つ。ユメイさん
はご近所さんへ、クッキー配りに赴く準備を。
「流石お姉ちゃん、妙案だね。記者さんもこれで、無茶な取材はしてこなくなるよっ…」
はとちゃんも本当は、記者さんの動きは気に掛けていて。ユメイさんが前面に出て柔ら
かに対応するから、任せて心配を顔に出さない様に努めていたみたい。でもこれでほぼ解
決したよと安心し。あたしもそれに頷くのに。
「そうかしら?」女の子の涼やかな声が響き。
ノゾミちゃんは穏便な対処に不満なのかな。
その先は続けずに青珠を数度光らせるのみ。
「そうだと良いわね……」ユメイさんの答は。
いつも通り静かに穏やかで笑みを絶やさず。
日差しが強くなり始めた頃にお凜が着いて。
3人で夏休みの宿題を一斉攻撃している間。
ユメイさんはご近所さんにクッキー配りを。
昼頃戻ってきてみんなでその手料理を頂き。
はとちゃんは本当にいい食生活しているわ。
お凜と2人申し出て皿洗いさせて頂く間に。
はとちゃん達姉妹は掃除と洗濯を済ませて。
午後も賑やかに時折真面目に勉学に勤しみ。
夏の陽が傾く迄愉しい時間を満喫しました。
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ユメイさんに関る報道の風向きは、その頃を境に変った様だった。ユメイさんの態度や
判断の影響ではなく。新聞雑誌が揃って予め、その流れに持ち込もうと決めていたみたい
で。
ユメイさんの凜とした応対が、大きく扱われる事はなく。その報道も最初の『拾年行方
不明で死亡認定』『突然発見』『歳を取ってない』『若くて綺麗』と言った事実報道から。
なぜ行方不明になったのか、あの夜何があったのか、この拾年どこで何をしていたのか、
どうして今戻って来たのか、など。ユメイさんの背景や思惑にシフトして。同じこと繰り
返しても、読者の好奇心を満たせないのかな。
あたしを守る為に権田記者を退けた頃迄は。
どの社もユメイさんを支持してくれたのに。
その後から徐々に各社の力点や論調が乱れ。
真偽取り混ぜでその行動や意図を探る様に。
「はい、ならよーこです……目方、さん?」
目方さんから会いたいと連絡が入ったのは。特に約束してないから、午前中書店に行っ
て、ユメイさんの記事に目を通し。午後それを成果にはとちゃんを訪れようと思っていた
朝9時頃で。美人姉妹は注目の人だから、報道陣に付き纏われて気易く書店にも行けない
のだ。
毎回毎回約束すると、はとちゃんを縛る感じがして。はとちゃんに悪いし、あたしも後
ろめたい。縛ってないと逃げられそうな自信のなさ、に思えるのが自分でも嫌だし。だか
らお凜と3人で動く時以外、あたしは予告なくはとちゃんを訪れる様にしている。空振っ
た時は、あたしの空振りで済ませられるから。
そう言う訳で、出来るだけ早く会いたいとの目方さんの誘いに。あたしの側に予定はな
いから。じゃ今からって感じで、前回お昼を奢ってもらったハックで待ち合わせ。昼ご飯
には早すぎるけど、シェイクやポテト位なら。
でも、軽い気持で出掛けたあたしに。向き合った目方さん達5人は、すっごい緊張して。
叱られる悪戯を先生に自白に来た生徒みたい。
「まず、このスポーツ新聞見て欲しいの…」
加藤さんが見せたのは、今朝のスポーツ東京だ。スポ東は日刊紙だから、これが最新…。
「ちょ、ちょっと。これ、何……まさか?」
『奇跡の人の拾年ぶりの復活は遺産狙い?』
拾年前に父を喪い、母1人子1人の母子家庭に育った女子高生Kさんが、急な病で母を
喪ったこの夏、入れ替りに現れた年上の従姉。天涯孤独の心の隙に入り込み、唯一の肉親
として振る舞うも、その狙いは膨大な遺産か…。
「どういうこと? ユメイさんが、はとちゃんの遺産を掠め取る為に現れた様な書き方」
「私達も、こういう内容の話しではなかったって、熊谷さんには何度も言ったんだけど」
「熊谷さん……って、まさかスポーツ東京の記者の、熊谷直弘さんのこと……なのっ?」
想像もしない場面で聞いた単語が出てきて。
あたしは少し思考が追いつかなかったけど。
「「「「「ごめんなさいっ……!」」」」」
辰宮さん達5人が、揃って頭を下げるのに。
あたしも漸く、ことの流れを掴めましたよ。
「あなた達……スポ東の熊谷記者に頼まれて、あたしからユメイさんの情報を引き出して
いたんだ……前回の奢りも、加藤さんや辰宮さん達のお財布じゃなくて、熊谷さんのお財
布からだったんだ。あたし、何も知らないで」
はとちゃんに近く接していたから。得られた些細なことや重要な情報や諸々を。求めら
れる侭にいい気になって流してしまい。問題ない処しか話してないけど。幾つかの単語や
言葉尻を抜き出され、あたしの証言にされて。
『従妹Kの親友Y子の語った内容によれば』
奇跡の人Yは従妹Kのアパートに同居して、Kの母がKに残した遺産を費やして、生活
していく。拾年間まともな職についてないとは、一体どういう行方不明だったのか疑念が
募る。
『本紙も更に究明・調査を進める方針だが』
YがKに養われる状況に違いはない。その位奇跡を起こして食い繋げと言いたくなるが、
Yは自身の死亡認定時に、己の資産がKの母に渡っているからと、己の権利を頑なに主張。
女子高生で死亡認定されて、どれ程の遺産だったかは知らないが、高利回りな資産運用だ。
ひどい。何倍になったとかお得だったとか。
損得勘定をあの姉妹の間に持ち込まないで。
『死亡保険金もありその遺産はかなりの額』
『Yが戻らなければKが全て相続していた』
『丁度良い時に戻ってきた物だ、正に奇跡』
『Kの母の死去から動き出した。その逝去を見定めた様なこの挙動には、重大な疑惑が』
「わたし達も、羽藤さんの綺麗なお姉さんのこと知りたくて」「記者さんも悪意ある感じ
じゃなかったから」「ちょっとしたお小遣いだよって。どうせお話し聞きたかったし…」
加藤さん達の顔色には、騙された、申し訳ない、どうしよう、大変なことしちゃったと、
後悔や怯えや罪悪感が滲み出ていて。声音も。
「「「「「ごめんなさいっ……!」」」」」
「記事の内容違うから、訂正してって頼んだけど、もう直しは効かないって断られて…」
最初からその積りなら、直す気なんてない。
最初から曲解して、こう載せる積りだった。
ユメイさんを中傷誹謗する根拠が欲しくて。
あたしや辰宮さん達は名義を使われたのだ。
「熊谷さんにお金返して、羽藤さんに謝らなきゃ」「でも、受け取ってくれない処か会っ
てもくれなくて」「携帯も通じないの」「どうしよう、わたし達こんな事になるなんて」
うろたえて、互いを見つめ言葉を交わして、判断を下せない女の子を見て。自分のミス
を埋め直す術のない女の子を眺め。あたしは妙に気力が抜ける。それは正に今の奈良陽子
だった。あたしに彼女達を叱る資格なんてない。
「いいよ……目方さん達は、謝らなくても」
足下を掬われた、騙された、踊らされた。
そう分って、沸騰していた怒りが冷める。
怒りはなくなった訳じゃない。憤怒は腹をねじ切る程だけど。今も身を震わす程だけど。
これはあたしの、奈良陽子の失敗だった。
他の誰に責任を被せても、正解じゃない。
「目方さん達に、悪意はなかったんだもの」
既に報道された中身でも、話して障りのない部分でも。あたしが軽々に話してなければ、
先に加藤さん達の背景を詳しく聞いておけば。こんな事にはならなかった。でもまさかこ
んな手段で情報収集するとは。あんな歪めた形で記事を掲載するとは。大人って、汚い
…!
「あたしから、はとちゃんとユメイさんに謝っておくよ。あたしのミスでもあったから」
きっとユメイさんやはとちゃんの元には報道記者が殺到し。近づける状態じゃない筈だ。
感極まって涙流した女の子が行けば。誤解を招きかねないし、彼らは分って曲解報道する。
辰宮さん達が謝るなら、騒動終った後の方が。
「こんなことしちゃって、わたし達羽藤さんや柚明さんに、許してもらえるかしら…?」
目方さんの問はあたし自身の問でもあった。
そしてあたしにはその答迄おおよそ見える。
「きっと大丈夫。はとちゃんもユメイさんも、優しくて心の強い女の子だから。大丈夫
…」
こんなミスを犯し迷惑掛けても、心優しいあの姉妹は、あたしも目方さん達も許すだろ
うけど。でもだからこそ。そう言う大好きな女の子を貶めてしまった苦味は、拭い去れず。
『……はとちゃんにもユメイさんにも、しばらく顔向け出来ないよ……あたしのバカ…』
ここのハック代は今度こそ、加藤さん達のお財布からの、お詫びも込めた奢りにさせた。
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午後からはとちゃん家に行ってみたけど。
「何て人の混み具合。これ全部記者さん?」
今迄見たことのない数の記者さんが、アパート前の公道にたむろして。人だけじゃなく、
機材を積んだ車が数台停車して道をせき止め。カメラ抱えたあの人達は、まさかテレビ
局?
記者さんは熱気に満ちて、住民の苦情も受け付けず。逆に苦情申し立てたご近所さんが、
ユメイさんの近況を聞き出す取材攻めに遭い、群がり集られ逃げ帰り。記者さんも多くが
あぶれてアパートに近づけず。異常事態だった。
近づくのを躊躇って、少し遠くから様子を窺っていると、その人垣を抜け出てきたのは。
「……この辺からで良い。撮ってくれ内川」
はとちゃんの家を取り囲む、記者さんの騒ぎを。少し背の低いスポーツ刈りの若い男性
記者に、遠景で撮らせていた相方の黒髪少し長い中年男性は。ついさっき話題に出ていた。
「奇跡の女性が今どれ程ドス黒い疑惑を抱かれているかを、騒ぎを撮る事で表現する…」
「熊谷さん、ちょっとあなた!」「んん?」
憤懣の相手が目の前に現れたので。心の準備しきれない内に、あたしは大声出していた。
よう、嬢ちゃん。気易い感じで語りかけてくる中肉中背−と言っても成人男性にしての
話しだからあたしより頭1つ高い−に向けて。
「ヒドイじゃないですか! 目方さんや加藤さんをお金で釣って騙して。ユメイさんがは
とちゃんの遺産で養われているとか、その遺産目当てで戻ってきたとか。嘘八百をっ…」
訂正記事出して下さい。そうでなければ。
詰め寄って、言い募ろうとした時だった。
「××市○○町2丁目3の2、奈良陽子…」
熊谷さんはあたしの住所を突然口に。何を意味するのか解らず、目を瞬かせるあたしに。
彼はあたしの携帯番号をすらすらっと言って。
「辰宮さん達から、聞き出したのっ……?」
「意外とお嬢さん達は口固かったぜ。お友達だけが俺の情報源じゃない。分ったかな?」
目方さん達だけじゃなく。この人は色々な処から、ユメイさんやはとちゃんのみならず、
彼女達に近しい人の個人情報集めていたんだ。
熊谷さんは平然と、あたしの父さんの勤め先を、住所もその部署迄も的確に言い当てて。
あたしの背筋に冷や汗が走る。この人はいつでも個人的に報復に出られるとあたしを脅し。
ユメイさんがやったことに近いけど。ユメイさんは相手の暴走を抑える為にその所属を
憶えただけなのに対し。この人は嘘記事や騙しによる情報収集への抗議を封じ込める為に。
個人情報を掴み相手を脅し引っ込ませようと。
「我が身が可愛いなら大人しく見守る事だ」
「……それが報道記者のやることですか!」
あたしは憤激の余り周囲を気にせず怒鳴ったけど。それは彼には結構目障りだった様で。
脅して引き下がらせようとするのも、表向きは波風を立てたくない彼の立場を表している。
あたしもみっともない姿を衆目に曝すことになるけど、この時は人目も気にしていられず。
「人を傷つけることを飯の種にするなんて」
「おいおい、大声はやめてくれよ嬢ちゃん」
激したわたしを計算で抑えられず、困った様子の熊谷記者に。撮影の邪魔だと内川記者
も振り返って。確かにご近所迷惑だったかも。騒ぎ続けるあたしを2人は、両方から挟ん
で。
「ちょ、なに? どうする気ですかっ…?」
「少し大人しくしてもらわねぇと」「あぁ」
公道から人気のない路地裏に連れ込まれる。抵抗しようとしたけど、成人男性2人は女
子高生の手に余り。あたしはあっさり運ばれて。
「落ち着いてじっくり話そうぜ」「うぅ…」
2人に左右を塞がれ睨まれ、逃げられない。
困ったよどうしよう。そう思った時だった。
「オイこら、そこのゴシップ記者!」「女子高生相手に2人掛りで、一体何やっている」
あたしを助けてくれたのは。こちらも美男とは言えなさそうな、中年男性2人だった…。
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「刑事さん、だったんですか?」「おうよ」
2人の私服刑事に声を掛けられて、熊谷さん達は即座にその場から逃げ去った。一声掛
けられただけで一目散に逃げ出す辺り、彼らも後ろ暗いことをしている自覚はあった様で。
警察手帳見せてもらったので、偽警官ではありません、って映画かドラマの見過ぎかな。
初老と言って良い、白髪の薄い中肉中背の男性が沢田刑事。相方の少し若い、と言って
も四十歳過ぎの、長身な細身の男性が川口刑事。でも2人ともこの県の刑事さんではなく。
「いや、凄い人だかりだ。これじゃ様子を窺うことも出来ない。今迄位の報道陣の密度だ
ったら、逆に森に隠れた木となって潜んでいられたんだが……今日は本当に隙間がない」
彼らは少し前からはとちゃんの家を、記者さんに紛れて張っていた。彼らの目的とは…。
「お嬢ちゃん、奈良陽子ちゃんだったね?」
あたしのことも承知済み。というか、はとちゃんの家を張っている人達の間では、あた
しやお凜のことは既に知れ渡っているらしい。なのであたしもそこは敢て訊かずスルーし
て。
「ユメイさんを探っている刑事さんって…」
あなた達のことだったんですか? 問いかけると、刑事さん2人も驚いた様子を見せて。
「彼女には一度事情聴取しただけだが、何か漏らしていたかね? 我々の接触について」
あたしは迷いなく首をぶんぶん横に振る。
ユメイさんはあたしやはとちゃんを心配させない為にか、刑事さんの話題には触れても
いない。あたしが聞いたのは、さっき刑事さんに追い払われた、熊谷記者からのお話しで。
「ほう……あのゴシップ記者、こっちの動きを先に察していたとは。いや貴重な情報を有
り難う。それに『彼女』の反応についても」
熊谷記者なんてどうでも良いけど。刑事さんは、悪人を掴まえるのがお仕事でしょうに。
「ユメイさんが、警察に何を疑われ取り調べされる必要があるんです? あんなに優しく
綺麗に柔らかな人が、犯罪なんてする筈が」
ユメイさんに抱く無条件の信頼を言い募るあたしに。むしろ言い募らないと不安でしよ
うがない今のあたしに。若い方の川口刑事が、
「捜査の基本は先入観を抱かない処からさ」
「拾年前って、ユメイさんが行方不明になった時ですよね……はとちゃんのお父さんが亡
くなって、双子のお兄さんの白花さんが行方不明になって、はとちゃんも記憶を失った」
1人の生命が喪われ。2人の消息はそこで途絶え死亡認定され。1人の記憶は鎖された。
事情を知るはとちゃんのお母さんは少し前に亡くなって。入れ替りに拾年行方不明で、死
亡認定されていた人が戻ってきた。当夜の生き証人が。警察が再び動き出したのはその為
なのかな。でもあれは、人知を越えた鬼や霊や鬼神の事柄で。警察が解決できる案件では。
「君は……推理小説やドラマを観るかね?」
時々は。とやや曖昧に頷くあたしに対し。
「拾年前の夜、君の親友のお父さん・羽藤正樹は、何者かに腹を抉られ殺められた。自殺
でも事故でもない。状況は明らかな他殺だ」
現場にいた人物は限られている。普段人が踏み入らぬ禁忌の山。通り魔や物取りが山奥
を通り掛る事は考え難い。幼い双子を除けば、人を殺められる意思と力を持つ者は3人だ
け。
川口刑事の導く答は、論理的かつ合理的。
「殺された羽藤正樹が犯人の筈はない。なら、もうホシは残りどちらかでしかあり得な
い」
なぜかこの事件は大きく扱われることなく、本庁もマスコミも揃って事故死に近い扱い
に。捜査本部も立ち上げられる矢先に中止されて。その後は県警の裏金告発の為に捜査が
進まず。
この2人は、その捜査の担当だったんだ。
色々調べて、でも全体での捜査は滞る中。
義憤と使命感と責任感でずっと捜査して。
この拾年ずっと心に留め続けてきたんだ。
ならはとちゃんの、ユメイさんの拾年前迄の日々が、どれ程温かく幸せな物だったかも、
当然把握していて。それが破壊された後の落差も承知していて。放置しておける筈がない。
「ずっと気になっていた。あんな幸せそうな一家を襲った惨劇が、どうしても理不尽で」
幾ら調べても、まともな推論を導けなくて。
事件以降、時折奥さんには事情を尋ねたが。
「完全黙秘だった……誰かを庇うかの様な」
それが生き延びていた奇跡の人を、彼女を庇う為であったなら。庇われる中身とは多分。
「犯罪は、悪意や物欲だけで起きる物じゃないんだよ。時には愛や情けや、責任感の故に
生じる悲惨な事件もある。一家心中とかね」
どうしよう。事実を話してもきっと刑事さんは分ってくれないし。そもそも事実は明か
せない。でも事実を伝えて呑み込んで貰わない限り、刑事さんははとちゃんの家の誰かが
殺人犯だと考えて。今は唯1人残ったユメイさんを疑って、尚も捜査を続けて行くのかな。
「当初最も犯行に近く思えたのは、先日亡くなった奥さんだった。美しく華奢だが武道の
家の出で、彼女も素人ではないらしい。だが調べて行くにつれ彼女から、奇跡の人羽藤柚
明も武道の手ほどきを受けていたと分って」
中学校や高校には、優しく大人しい成績優良児の記録が残っているけど。一部に級友を
庇って無茶をした形跡もあって。本当に誰かを守る時以外争いを避けているのは確かだが。
「屈強なゴシップ記者から君を守る為に…」
「力業で撃退する様も見せて貰ったからね」
報道はされてないけど、『素人ではない』認識は既に共有され。あたしの所為で、あた
しが余計な暴走した為に。華奢で穏やかなユメイさんが、成人男性も退ける強さを持つと、
知られてしまった。その為に疑惑を抱かれて。
「必要な時には、手を下すこともありうる」
「それなりの事情が、あるのかも知れない」
だが真相は究明せねばならない。罪は償われねばならない。その為には哀しい事件でも、
掘り起こさねば。そうでなければ死者が浮ばれない。君の親友の、記憶を鎖した拾年間も。
言い分は解る。確かに何人もの運命を狂わせた拾年前の夜の事件を、有耶無耶に出来な
いのはその通り。でも、この件も警察が究明して良いのかな、と言うか出来るのかな…?
あたしは刑事さんの問にも、話して障りない部分を答え、その日ははとちゃん宅訪問を
諦めて家に帰る。はとちゃんの携帯と家電に何度か掛けたけど。両方ずっと通話中だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「こちらは○○県××市、今話題の奇跡の女性と同居する、従妹の自宅アパート前です」
テレビのワイドショーも連日ユメイさんの一挙一動を流して色々評論し。住所氏名は伏
せて、顔はモザイク掛けるけど。群がる取材陣はもう誰にも遠慮なく。報道陣も数が増え
れば、先頭でないと返事がもらえないし、いい写真が撮れないと。全員押しかける感じで。
「財産目的に従妹の家に入り込んだって本当ですか? 母が死ぬのを待って現れたって」
「そもそも拾年行方眩ましたのは、Kさんの母に顔向けできない事情があったんでしょ」
「従妹を虐待し衰弱させているって噂があります。真相を答えて」
「隣家に文句言われた腹いせに、花畑を踏み荒らしたって本当?」
「田舎の屋敷と山林を、勝手に売ってお金に換えたそうだね。従妹は承知しているの?」
ユメイさんが答えても誰も答を拾わない。
自分達が掲載したい追及中の絵を撮って。
自分達が連続して問い詰め攻撃し放題で。
「今日はお約束した応対の日ではありません。時間も違います。アパート入口はわたし達
の専用空間ではありません。自治会長さんとの約束が守れないと、近隣の方々の迷惑に
…」
「お前が応対悪いからだろう」「こんな特ダネ放っておけるかよ」「お前の約束なんか知
ったことか」「とっとと答えろ、あばずれ」
背の高い成人女性や屈強な男性が、機材やマイクを向けて群がる中心で。ユメイさんは
応え続けるけど。今答えることが約束違反で。1つの答を終る前に次の問が来て、早く答
えろ答えられないのかと野次り煽る声が混じり。
「お前の配ったクッキー喰って、病院運ばれた人がいるんだ! ここで土下座して謝れ」
熊谷記者の声だ。記者の方は大勢で顔も確かに映らないから言葉遣いも酷い。周囲から
一斉に『へー』と声が漏れ。次の瞬間再びユメイさんにフラッシュと冷たい視線が集中し。
求めに応じて謝れば、罪を認めたと全国に発信され取り返しつかず。求めを拒めば、己
の罪を認めないと全国に発信され非難される。今問われた事実は、真偽の確かめようがな
い。本当に病院運ばれた人がいたのかいないのか、それがユメイさんのクッキーの所為か
どうかも確かめられず。でも即答が必須で。答えなければ答が曖昧なら、その姿勢が非難
される。進んでも引いても、答えなくても地獄行きだ。
この一撃が致命傷になる。記者さんも瞬時罵声や怒声を抑え、ユメイさんの答を見守る。
だから綺麗な声は静かに力強く良く透り。
「その方の入院先を教えて下さい。わたしが状況を確かめて、直に謝りに伺います……」
そんなことある筈がない。現にクッキーを食べたあたしも元気だし、熊谷記者も他の記
者さんも元気だ。他の要因があるに違いない。でも今それを言っても誰も聞き入れないか
ら、後で伺うと。それに仮にクッキーで倒れたなら謝る相手は報道陣ではなく本人だ。こ
こで謝らず、でも謝罪は拒まず。ユメイさん賢い。
でも周囲は窮地を切り抜けたユメイさんを。
更に四方から罵声怒声の質問攻めで崩しに。
「そんなこと市民は求めてないんだよ。今すぐここで全て認めて、頭下げれば良いんだ」
「悪いことしたらごめんなさいすると、親に習わなかったのか。あんた、酷い育ちだな」
「拾年行方不明の間に、一体何やっていたんだあんた。男漁りか、それとも女漁りか?」
「従妹さん見せてくれ。クッキーで倒れているんじゃないのかー」「従妹さんが死んだら、
遺産は全部あんたの物だよな、柚明さーん」
「アパート周辺は酷い状況ですね」「はい」
最後はテレビ中継からスタジオに戻って。
コメンテーター達のどうでもいい雑談に。
「酷いのはあんた達だよ。散々中継してあの罵詈雑言を、止めもしないで……いや……」
酷いのはあたし、奈良陽子か。大好きな優しく美しい人が困難の極みにいるのに。はと
ちゃんのたいせつな人が、今大変な目に遭っているのに。こんな処で安穏と動かずにいて。
手に持っていた女性週刊誌をベッドに放る。
お母さんが昨日買って来た週刊レディは…。
『奇跡の人と従妹Kの淫らに香るレズの園』
少し前迄可愛いのお淑やかの嫁にしたいの、ユメイさんの容姿や仕草や言葉遣いを褒め
まくっていたのに。ここもユメイさん叩きに転じて。どの社も歩調を合わせたみたいで怖
い。
『女子校育ちで無菌飼育の従妹Kは、十歳年上の淫らなYには格好の獲物』『日々のスキ
ンシップの濃密さから、夜の激しさは窺い知れる』『最近のKのお疲れは夜の忙しさ故』
『不純同性交遊で退学にならないよう祈る』
記者さんの妄想によるはとちゃんとユメイさんの夜の営みが、濃密に描かれ。レディス
コミックはあたしも時々読むけど。はとちゃんとの夜も妄想するけどでも。ここ迄載せち
ゃ拙い。奇跡の人と実質特定しているんだし。
平塚記者だっけ。縮れた黒髪長く、見事な体躯に眼鏡かけた中年女性。真っ先に思い浮
んだ。ユメイさんを背後から胸掴んで揉んで喜んでいた感じだったし。或いは彼女こそ…。
『本紙女性記者が背後から胸を揉んでも反応は微弱だった。掴み掛った男性記者を触らせ
もせず退けるのに較べ、信じられない程隙だらけな応対は、女好きを想像させるに充分』
ユメイさん、女性には手加減しちゃうから。身を抑えられたり体掴まれても。痛い思い
させて振り解く位なら、敢て暫く為される侭だったり。甘過ぎだって、はとちゃんに苦情
を言われて謝っていたっけ……肌身を添わせて。
『血の繋った従妹に鬼畜の爪が立てられる』
『男を知らぬ乙女同士の愛の園は甘く香り』
『もう2人の間に男の分け入る余地はなし』
うぅ。叩かれ始めたユメイさんには、笑い事じゃないよ。それにこの雑誌報道をネタに
他の新聞雑誌で、異常者扱いされて叩かれる。何か今迄の気味悪い程の持ち上げが、突然
こき下ろす方向に。こっちも全く抑制効かなく。
はとちゃんは最近ややお疲れ気味で。この報道陣の所為もあると思うけど。表に顔を出
さないで。虐待受けたとか毒クッキーにやられたとか従姉に犯されて精神失調なったとか。
「……、……、……、……、……行こう!」
のしのしのしのし、部屋の中を歩いて回り。
ぐるぐるぐるぐる、頭を捻って考えまとめ。
結局あたしは、余り賢くないと思い知って。
今どうしたいかを、自分自身に問い直した。
はとちゃんからは、ユメイさんのお願いで。騒ぎに巻き込みたくないから、鎮まる迄暫
く逢うのを控えようと言われて、了承したけど。でもそれじゃ、あたしの気持が収まらな
いの。
記者さんの人垣を掻き分けて、はとちゃんの元に行こう。帰りもその人垣を掻き分け自
宅に帰ろう。記者さんは、どこ迄行ってもカメラやマイクを向けるだけだ。四六時中記者
さんに、動静を監視され迫られ問い詰められる、今のはとちゃん達の大変さに較べれば…。
「あたしは……奈良陽子は、はとちゃんとユメイさんに逢いたい。逢って愛したいの!」
連絡は入れず、突然行くのがあたし流だ。
未だ陽も高い夕方4時過ぎ、陽子の時間。
あたしは逢いたい人の元へと走り出した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
はとちゃんのアパート周辺は、ワイドショーの時間終っても、テレビクルーが残り続け。
記者さんも尚ユメイさんを、放さず逃がさず。
生放送ではなくなって、記者さんは暴言や無礼が直に映らないと意気軒昂で。でも多分、
ユメイさんに弱味怯みや逆ギレが僅かでもあれば、そこは繰り返し報道される。いい加減
警察が、騒ぎを静めに来て良いと思うけど…。
「2年C組、半澤優香さん!」その女声は。
「わたしはその人物に、面識がありません」
夕刊トップの大島さんの問に、ユメイさんは静かに否定を返すけど。その姿勢が弱いと。
「経観塚の役場が羽藤柚明の戸籍復活を中止すると表明しました。ご感想は如何です?」
「先ほど電話で通知頂きました。報道が過熱しているので沈静化を待つとのお話しです」
「それは逆です。あなたに疑惑があるから役場が戸籍復活を中止し、私達がそれを報じて
いる。卵と鶏をひっくり返さないで下さい」
「あなたの仰る事が事実と異なります。役場は報道の過熱を見て、あなた達の問い合わせ
の殺到に困惑し、少しの間戸籍の復活を待つとしただけで、中止した訳ではありません」
多分ユメイさんの反論は記事にならない。
大島さんは問の攻め手を緩ませる事なく。
「経観塚から半澤さんのご両親が、あなたを見に来る意向だそうです。会われますか?」
「来ても益はないでしょう。わたしは半澤優香ではありません。行方不明のお嬢さんを持
つ両親の心を騒がせる報道は、罪作りです」
「逢うか逢わないか訊いているんだバカ女」
今のは大島さんの相棒の中山記者の声か。
大島さんが罵声は控えてと一応釘を刺す。
夕刊トップは一昨日からユメイさんを偽物扱いし。その正体を経観塚で現在行方不明中
の女子高生『半澤優香』だとキャンペーンを。財産目当てで従姉に化けて、母を喪ったは
とちゃんの家に潜り込んだって。大島桃花さん、仕事熱心で賢くて、悪い人じゃないんだ
けど。
「DNA鑑定受けてみる気はありますか?」
必要になれば、との静かな答に中山君の。
「今ヤラないでいつヤルんだよ。早くヤレよ、さあ早く。髪の毛でも血でも皮膚でも出せ
よ。出して検査してとっとと偽物だって曝かれろ。教師との援交ばれて町逃げ出した半澤
優…」
ユメイさんの右手一本指が、中山君の唇で停止していた。瞬間音が消失し。彼の声だけ
じゃなく、周囲のざわめきやシャッター音や野次や嘲りが全て止まり。ユメイさんの強い
制止の意思を感じた。怒りではなく、意思を。
叩くとあたしも周囲も思ったけど。でも叩けば叩かれた側が、ケガしたの賠償だの騒ぐ。
打撃の図が撮られて更に叩かれる。権田さんを退けた時は好意的だったけど。今や状況は
全く違う。だからユメイさんは、彼の不適切な喋りを止め。でも殴打はしないこの妙手を。
「女の子が秘したい事柄を軽々に語る男に。
わたしは何も答えたくはありません……」
凜とした強さ優しさ美しさに魅せられた。
ユメイさんにみんなも石にされたみたい。
「陽子ちゃん、来てくれたのね。有り難う」
呼びかけられて我に返り麗しい人の元へ。
それでみんな呪縛が解けた様に動き出し。
でもさっきよりも明らかに勢いは陰って。
相手が弱いと見れば嵩に掛り、強いと見れば怯んで誰かの背に隠れ、流れが変る時を待
つ。何て汚い。男も女も揃ってあなた達、大人でしょうに。女の子1人に気圧されて全く。
「オイこら、半澤優香」「中山君待って!」
大島さんは、ユメイさんが半澤優香であってもなくても、今の追及は非礼だと彼を窘め。
今は追及が大事だと、反論する彼を更に窘め。結果記者さんの悪意の波が、一時少し乱れ
て。
「邪魔だ夕刊トップ、前を空けろ」「退け」
そんな群れた集団を前に、独り気高く美しい人は我を失わず。あたしの肩を抱き留めて。
「また誤解されて好き放題に叩かれますよ」
喜々として焚かれるフラッシュに注意を促すけど。ユメイさんは分ってぎゅっと肌身を
添わせ。躊躇いなく頬を合わせて想いを語り。
「承知の上よ。今は陽子ちゃんの方が大事」
視線にも声音にも、仕草にも感触にも、愛の溢れる人だから。本当に勘違いしそうだよ。
「騒ぎに巻き込みたくなかったのだけど……陽子ちゃんは、桂ちゃんを心配して来てしま
うかもと思っていた。ごめんなさい、大変な事に巻き込んで。わたしが頼りない所為で」
いえ、そんなことないです。あたしは強く。
答えつつ、この人の愛しい仕草に己を委ね。
軽く抱かれ、触れる肌身はとても柔らかく。
甘いお花の香りが漂っていて、心落ち着く。
「ユメイさんがいればはとちゃんが大丈夫なことも、ユメイさんが大丈夫なことも分って
いたけど。騒ぎの一部はあたしの失敗が原因だし。たいせつな人が大変な時こそ、何も出
来なくても励ますだけでも、心寄り添わせたくて。はとちゃんやユメイさんにも、この気
持伝えたくて。ごめんなさい! あたし…」
ユメイさんとはとちゃんに、あたしの失言で迷惑掛けた。なのに顔向けできないって言
う自分の事情で、この大変な時に寄り添わず。大事な人なら、愛した人なら、自分が酷い
目に遭わせたからこそ。しっかり謝って向き合わないといけなかったのに。なのにあたし
っ。
あたしの言葉を止めたのは、一層強い抱擁。
言葉だけじゃなく仕草で感触で愛を交わし。
何もかも受け止めて、全部を委ね伝え合う。
「陽子ちゃんはわたしと桂ちゃんのたいせつな人。心の賢く強く、優しく清く可愛い子」
悔いと喜びに感極まった、あたしの涙声に。
この人は決して乱れず静かに優しく答紡ぎ。
詰めかける記者さんの前であることよりも。
奈良陽子の心を抱き留めることを、優先し。
「謝る事は何もない。あなたは失敗も過ちも犯してない。陽子ちゃんは桂ちゃんとわたし
を大事に想ってくれている。それはとても嬉しく有り難いこと。彼らは陽子ちゃんの行い
がなくても同じ事をした。気に病まないで」
例え陽子ちゃんが失敗や過ちを犯した結果、桂ちゃんやわたしに害や禍が及んだとして
も。誤解やすれ違いの末に異なる想いを抱いても。長い時の果てに対峙を強いられたとし
ても尚。
「わたしのあなたへの想いは悠久に変らない。その位で解れる様な脆い絆じゃないわ。羽
藤柚明と奈良陽子は」「ユメイさんっ……!」
はとちゃん、少しの間だけごめんなさい。
あたし、この愛しさに心の枷を外されて。
幼子の様に恋人の様にその胸元に頬埋め。
暫くの間、呆けた様にこの抱擁を見つめ黙していた記者さんは。再び突っ込み入れ始め。
「オイお前、半澤優香の悪口言われたから手が出たんだろう。違うか? 引っ掛ったなぁ。
お前やっぱり半澤優香だ」「もう止めなさい中山君……済みません、非礼なこと言って」
「イイ感じで抱き合ってるわぁ。従妹だけじゃなくその親友も喰っちゃうんだ、性的に」
平塚寧々記者の舌なめずりした様な問に。
答に窮し固まるあたしを、強く抱き留め。
耳元で発される声は凜として強く、でも。
激怒に乱される事なくしっかり抑制され。
「女の子が秘したい事を軽々に語る女にも。
わたしは何も答えたくはありません……」
そこで背後の扉から現れたのは。その声は、
「お姉ちゃん……独りで、だいじょうぶ?」
「……桂ちゃん」「……はとちゃん……!」
具合悪いと一目で分る、真っ青な顔で足下ふらついたはとちゃんが、無理を押して現れ。
ユメイさんは受け答えの強制終了を決断した。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「逃げるのか!」「未だ話しは終ってない」
「ちゃんと答えて」「疑惑をその侭書くぞ」
記者さんは中断された答に、はとちゃんのげっそりした様子に、追及の機を感じて怒鳴
り煽るけど。窓の外で動き回る影もあるけど。
ユメイさんはもう一切他に答える事をせず。
はとちゃんを奥の部屋の布団に寝付かせて。
「もう少し寝てないと……無理をしないで」
「ごめんなさい。お姉ちゃん大変そうだったから。心配だったし少しでも励ましたくて」
お姉ちゃん、もうどこにも、行ってしまう事ないよね? 記者さんが来てもテレビ局が
来ても、連れ去られる事は絶対ないよね? 再びあたしの手の届かない処に行く事はもう。
はとちゃんの絞り出す様な声が胸に迫る。
はとちゃんの本当の怖れとは、悪夢とは。
「わたしは大丈夫、どこにも行かないから」
はとちゃんも近日の、ユメイさんへのバッシングを心配しているみたい。でも人前に出
て行けない現状に、苛々悶々しているらしく。夏風邪か夏バテに近い様子は見て分ったけ
ど。
ユメイさん叩きが連日、繰り返される中で。
アパートに報道陣が大勢、詰めかける中で。
心の方が耐えられず、体が底値の状態でも。
ユメイさんを庇いたくて無理に現れたんだ。
虐待や食中毒の疑い掛けられている中では。
はとちゃんのこの姿は逆効果に近いけど…。
報道陣ははとちゃんのやつれた姿を撮って、一層勇み立っている様だけど。そこ迄考え
が及べないのが、体調不良の今のはとちゃんか。ユメイさんはその効果や事実は一言も語
らず。唯その行いが宿す想いに応えて肌身を添わせ。
「有り難う。その気持は確かに伝わったわ」
はとちゃんの顔色が安堵に弛み意識が沈む。その気持が実感できた。この人の優しさ柔
らかさは、決して折れない強さに裏打ちされて。肌身繋げている限り大丈夫だって思えて
くる。
「はとちゃん最近、時折あんな感じで随分疲れたって言うか、やつれた感じになっていま
すよね。病院に診せなくて大丈夫ですか?」
居間に移ったあたしは一応、ユメイさんに尋ねてみた。報道陣を何とかしなきゃ、診察
受けても様々に憶測書き立てられそうだけど。
夏休み前には、健康に全く不安のなかったはとちゃんが。少し心配になる。はとちゃん
のお母さんも、あんなに健康でしっかりしていたのに。少し体調崩して入院と思ったらあ
っと言う間に。そんなことはないと思うけど。
ユメイさんは視線を伏せてやや哀しげに、
「桂ちゃんの不調の原因は、心身の疲労なの。霊の鬼が取り憑いた負荷みたい。桂ちゃん
は資質があるし、ノゾミちゃんも濃い贄の血を得れば、憑いた人に負荷は掛らない筈だけ
ど。取り憑いて未だ日が浅いから、状態が安定する迄に少し時が要るの……ごめんなさい
ね」
ユメイさんは、今のはとちゃんに休息が必要なので、起こしてあたしに応対させられな
いことに申し訳なさそうで。叶う限り寄り添って、癒しを及ぼしているのだけど、と語り。
「ノゾミちゃんも、叶う限り夜でも青珠から出ない様に努めている様だけど。陽子ちゃん
達にも最近は声を届かせてないでしょう?」
「……そう言えば」あたしもふっと思い出し。
最初の内ははとちゃんに良く語りかけて答をもらい、あたし達の会話にも割り込んでい
たのに最近は。暫く視ない内にノゾミちゃんって本当にいたのかどうか、微かに不安にな
って。霊の鬼は何も証を残さないから。あたしの幻覚じゃないよねって、お凜に尋ねたら、
『全員で幻覚視た可能性も』と返されたけど。
「書かれ放題ですよ。はとちゃんの不調に伴う虐待や食中毒の疑惑も、相続や財産処分も、
本人が出て応えられないのを良いことに…」
記者さんの追及も。最初ははとちゃんも一緒に答えたり、良く出歩いていたりしたのに、
最近顔を見ない事への疑念も込みで。でも霊的な事情でお疲れですとは、応えられないし。
日中はユメイさんも離れて『力』を及ぼすのは困難なので。はとちゃんに肌身を添わせ
ねばならないけど、記者さんに応対する間はそれが出来ない。2人で一緒に応対に出れば、
はとちゃんにもきつい質問が来るかも知れず。
はとちゃんは未だ昔を想い出すと、赤い痛みが来るみたい。夏休み前迄程酷くないけど、
想い出せたから抱く自責や後悔が痛いらしく。拾年前や羽様は未だデリケートな話題らし
い。
「今は暫く耐え凌ぐのみ、ですか」「ええ」
記者さんのバッシングは、最早女子高生が対応すべき状態じゃない。今は療養に専念し、
元気を戻すことが最優先だ。ユメイさんは飽きられる迄、追及に向き合い応えると微笑み。
「生命を取りに、来ている訳ではないもの」
報道陣は普通、生命を取りに来ないです。
「来てくれて有り難う。桂ちゃんはわたしが記者さんの応対に外す少しの間も、1人にな
るのを怖れて。わたしが又いなくなってしまうのではないかと……意識の底でわたしは桂
ちゃんに、儚い存在と思われているみたい」
何もなくても、時には目の前を外すだけで、はとちゃんはユメイさんを捜し始め。離れ
離れだった以上に、存在も忘れていた自責なのかな。壱分壱秒問いかけて反応を求め、常
に視界に入れて確認せねば、平静でいられなく。
実際肉の体を失ってご神木に宿り、永劫オハシラ様を担う筈だった。今の幸せの方が夢
幻に思えて不思議じゃない。忘れる事に怯え、見て触れて想い続けねばと自身を急かすの
も。
「陽子ちゃんやお凜ちゃんが、わたしやノゾミちゃんの、霊や鬼の話しを受け容れ、桂ち
ゃんと共有してくれた事が、桂ちゃんを安定させているの。夢じゃない、幻じゃないって。
陽子ちゃんはお凜ちゃんと並んで、桂ちゃんの日々の幸せの象徴だから。陽子ちゃんと
繋る限り羽藤柚明も幻ではない、儚く消える夢の存在ではないと。今の眠りが深く落ち着
いているのは、陽子ちゃんのお陰。本当に心身の疲れを拭い去れる良い眠りになれそう」
感謝の想いを双眸に浮べて正視されると。
あたしの方が恥じらい照れてドキドキし。
「あたし……そんなにはとちゃんの役に立てています? 特別な『力』もないし、剣術も
腕力もなく、賢くもない唯の女子高生だから。足引っ張り役だと思っていたんですけど
…」
「陽子ちゃんは掛け替えのない人よ。それは桂ちゃんにとってのみならず、わたしにも」
この人はあたしに騒動の禍が及ばない様に。
来ない様に促しつつ実は待ち焦がれていた。
あたしを深く想い案じ、あたし自身も気付いてないあたしの効用を承知で。でもあたし
に負担を求められないと、一言も漏らさずじっと堪えて、独りではとちゃんを支えていた。
記者さんの酷い追及や集団の悪意に対しつつ。本当にこの人は何もかも自分で背負い込ん
で。
「暗くなってきたわね……陽子ちゃん、お夕飯食べていく? これから作るのだけど…」
「あたしが役に立てるなら、今晩泊めて頂いていいですか。はとちゃんの役に立つ為に」
どうせ周辺は凄い人垣で、帰るのも大変だ。はとちゃんの家なら父さん母さんも異論な
い。雑誌やテレビの報道より、実際逢って話したユメイさんの人柄を信じてくれている様
だし。
「あたし、ユメイさんの役にも立ちたい!」
「有り難う……甘えてしまって良いかしら」
あたしは答の代りに、お互い座り込んだ侭だったこの身を更に、ユメイさんに深く寄せ。
むしろあたしがユメイさんに甘えている様な。でもユメイさんもこうして肌身合わせるこ
とを好んでくれている様で。親密な触り合いを。
ユメイさんの厨房を手伝って、はとちゃんを起こしノゾミちゃんも含めた夕ご飯を頂き。
少しの時間を共に過ごした後、ノゾミちゃんは青珠に、はとちゃんは隣室の布団に戻って。
蠢く報道陣を纏いつつアパートの夜が更ける。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
テレビで遅い時間のニュースが流れる夜更け。2人の夜が始ると思えた時ユメイさんが。
「どうしました?」「陽子ちゃんちょっと」
外すからここに居て。と言って真顔のユメイさんは、居間を駆け出し、玄関で靴を履き。
あたしはユメイさんの動きに引っ張られて。ここに居てとの指示を忘れ去り、その背を
追って。結果、アパートの外に2人駆け出して。
突然だったので記者さんも即応できず。近隣の苦情を受けて、路地の影に大人しめに待
機して居た様で。暗闇に潜む姿は目立たない。夜は人数減ったかも。テレビ局も居なかっ
た。
自転車位しか通れない、細い路地に駆け込むユメイさんを追う。背丈と同じ位の高さの
ブロック塀に左右を挟まれて、闇もより濃く。不安に足が止まりかけるけど。止まらなか
ったのは、ユメイさんが入った事実があるから。
独りなら立ち止まった。竦んで引き返した。でもこの時は先を行くユメイさんが気懸り
で、とにかく付いて行こうと。はとちゃんのユメイさんを見失うことへの怖れが、乗り移
っていたかも。ここがはとちゃんのアパート入口を窺える好位置だと、気付いたのは帰り
です。
狭い路地は左右が塀で、窓の光も届かないけど。ユメイさんは短距離走の如く疾駆する。
あたしはユメイさんの帯びた、淡く蒼い輝きのお陰で視界が効いて。転ぶこともぶつかる
こともなく。引き離されつつ何とか追随して。
ユメイさんは狭い路地を、左に曲がってすぐに急停止し。そこも自転車しか通れない細
い路地で。つまり路地の十字路。その叱声は、
「大島さんから離れなさい!」「さん…?」
路地裏のブロック塀から首を覗かせると。
こっちは行き止まりになった路地の奥で。
夕刊トップの大島さんが、見知らぬ男性に組み敷かれ。ユメイさんは男性の行いを咎め
妨げ問い詰めて。その姿は権田記者からあたしを守ってくれた時の様に、強く凛々しく…。
男性は1人だけど、明らかに女の子より肩幅広く手足太く。ストッキングを被って人相
は分らないけど。体の張りや動きは若い感じ。
盲点を突かれた。ユメイさんを覗き見て動向を探る人は多いけど。その他に注視を向け
る人はいない。大島さんは服装を地味にしても充分以上に美しく。こんな美人記者が夜も
いれば、それを餌に食いつく不心得者も出る。
ショートの黒髪艶やかな人の、肩口や胸元は破られかけて、下着や素肌が見え。苦しげ
に汗ばんだ姿は、ドキドキする程色っぽくて。
「ちぇあぁぁ!」「っっ」『ユメイさん!』
男性は起き上がってユメイさんにナイフを向け。背後は行き止まりで、逃げるにもユメ
イさんを突っ切らねばならず。のし掛る重みが消えた大島さんは、微かに身動きするだけ。
男性は逃げ場のない路地裏で、大島さんにヒドイことしようとしていた。その状況はユ
メイさんに出口を塞がれ一転、逃げ道のないネズミ状態に。でもそこで男は窮鼠になって。
何か大声を叫ばなきゃいけないと思っても。
あたしは刃を見て声を上げる喉も凍り付き。
こういう時に限って、しつこくユメイさんに追い縋る記者さんが付いて来てない。刑事
さんは来てないの? お巡りさんの巡回は? この侭じゃユメイさんの身が危ないよ…!
ユメイさんが素人じゃないとは知ったけど。鋼の刃は掠めても肌や肉を切り刻む。脅し
の積りでも、間違えて刺さる場合もある。艶やかな肌や美しい顔に、傷でも残したら大変
だ。
二度三度小さく刃を振って前に出る男性に。
ユメイさんは応じる様に2歩3歩後退して。
怯え竦んでいる様には、見えなかったけど。
反撃に出られず武器も奪えてない。危ない。
『何とか、声を出さなきゃ。声出さなきゃ』
ユメイさんに加勢しようとか迄は考えない。
唯の女子高生にそんなこと出来る筈ないし。
飛び出せば逆にユメイさんの足を引っ張る。
傍には声の届く範囲に記者さんがいる筈だ。声を出せばここに来る。それで余計な報道
されそうな気はするけど。それにあたしが声を出せば、男性が勝手に逃げ出してくれるか
も。
あたしに背中を向けるユメイさんは後退し。
刃を振った男性はその分徐々に前に進んで。
ブロック塀から首覗かせた侭、身動きできず固まるあたしに。ユメイさんの背が近付い
てきて。ユメイさんが押されている、危ない。
「負けないでっ! ……ユメイさんっ…!」
タイミングや状況を見る余裕もなく、あたしは渾身の大声を発し。ユメイさんがあたし
の追走を知らない可能性も見落し。背後に想定にない人の大声が響いたら、驚くとの考え
もなく。逆にそれは男性に格好のチャンスを。
「ちゃあああぁ!」「っ」「ゆめいさ…?」
男性はユメイさんに、ナイフを横振りしつつ走り来て。柔らかな背の後退が止まるのは、
ブロック塀に左肩が付いた為じゃなく。その少し後ろにいるあたしへ危害及ぼさない為に。
振り返ればユメイさんは、終始大島さんとあたしを守り庇う動きだった。あたしの追走
も分っていた様で。退いたのは、男性を大島さんから引き離す為で。左斜めに退いたのは、
潜むあたしを背に庇う為に。ユメイさんが片側に寄れば、逆側が通り抜けられそうに映る。
逃げるなら、男性はあたしから遠い右側を走り抜ける。戦うなら、男性に対しユメイさ
んが実質あたしの盾になる。怖い程に戦略的。どう転んでも2人とも守り庇える様に。柔
らかに甘く大人しく華奢な人だけど。こういう時の機敏さ・冷静さ・胆力は、只者じゃな
い。
男性は逃げを選んだけど。ユメイさんはその逃走を放置せず。常にあたしに背を向けて、
あたしと男性の間に身を置いて。むしろ前進し彼の振るう白刃と、手首を掴んで捻り倒し。
この人は『力』使えるから人を戦い守る訳じゃない。強いから人を庇い通す訳じゃない。
心から望み願うから、大事に想う人の苦痛や恐怖を心底厭うから。身を挟めても助け救う。
その侭縺れ合えば、ユメイさんが彼を組み伏せるとあたしにも悟れた。華奢で身が軽く、
一見接近格闘に不利だけど。動きの流麗さと鋭さは想像を超えて。この男相手なら充分に。
「大丈夫か! きみっ」「なっ?」「……」
大島さんの相方の若い男性が、縺れる2人を引き剥がす。ユメイさんが組み敷かれると
誤解したのか。結果不審男性を逃がすことに。
「……ちっ」「ふう……」『まぁ、いいか』
不審男性は舌打ちして走り去り。ユメイさんを引き剥がし、その細腕に振り外された中
山記者も。ユメイさんにも大きなケガはなく。
「危ないじゃないか。ナイフを持った不審者に立ち向かって揉み合うなんて。僕が来たか
ら良かった物の、ケガでもしたらどうす…」
中山君がユメイさんを叱りとばすより早く。
ユメイさんは倒れた女性に駆け寄って抱き。
「しっかりして、大島さん!」「うっん?」
あたしも間近に見ましたよ。優しく柔らかなユメイさんが、黒髪ショートの若い女性を、
肩を抱き胸に耳を当て呼吸を確かめ、耳元へ息吹と声を注ぐ様を。両の腕を回し密に触れ。
眼福です。ユメイさんとはとちゃんの娘同士の抱擁も綺麗で良いけど。十歳離れた働く
大人の女性を包み込むユメイさんの包容力は。虚ろに無警戒な大島さんの美しさと相まっ
て。胸がドキドキうずうずして今夜は眠れないよ。
「気がつきましたか?」「あ、あなた…?」
漸く意識を取り戻した大島さんは、痛みで自身の直前状況を思い出し。思わず怯えに身
を竦め震わせる柔肌を、ユメイさんの、女の子の感触が受け止めて、包み込んで和らげて。
正面から胸と胸を軽く潰し合い、頬に頬を合わせて肌身を重ね。大丈夫の実感を及ぼし。
それは幼子に為す様に恋人に為す様に濃密な。
漸く追いついた他の記者さんを振り切って。
あたし達は大島さん達をアパートに迎える。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「上がって休んで行って下さい。重いケガはないけど、手当てした方が良いでしょう…」
マスコミにこれだけ責められている中で尚。
大島記者と中山記者をアパートに招き入れ。
ユメイさんを、行方不明の経観塚高校の女子生徒・半澤優香が、はとちゃんの遺産狙い
に潜り込んだ偽物と指弾する、夕刊トップの。
「桂ちゃんは疲れ気味なので、起こしたくありません。お静かに願います」「はい……」
女の人が酷い目に遭ったなら手当は要るし、心身を休ませるにも外は不適で。それでも
家に上げるのは甘過ぎに感じたけど。タクシー呼んで帰らせるか、病院行かせても良いの
に。ユメイさんは全部承知で、2人を家に上げた。
記者さん2人も驚き惑い。ユメイさんの意図を測りかねつつ、入手できる情報は見て覚
えておくと言う感じ。写真撮影は断ったので。それでも中山君は携帯で撮っていた様だけ
ど。
警察への通報は2人とも嫌った。夜遅くに人の家を張っていた事実は、褒められた行い
ではないし。危険を避けるよう指導されては張り込み難しくなると。だからユメイさんは、
「明日正午迄に通報されてなければ、こちらから交番に通報します。ご承知おき下さい」
ああいう不審者が記者さんに紛れていては。あたしもはとちゃんも安心して外を歩けな
い。あの場で中山君がユメイさんを引き剥がしてなければ。後に不安残さなかったのに、
もう。
4人静かに居間のテーブルを囲んで座り。
「助けて頂いて有り難う。あなた強いのね」
大島さんのお礼は苦味を含んで聞える様な。背丈も胸の大きさも上回る働く大人の女性
が、指弾中の女子高生に守られた。忸怩たる想いがある様で。受けた災難は苦く、救われ
た結果も素直に喜べず。結局加害者も野放しだし。
「拾年前の羽藤柚明と繋りを感じますか?」
ユメイさんの答に、大島さんは俯き加減で。記者2人も拾年前以前のユメイさんの情報
を持ち、素人ではないと既に承知なら。唯の女子高生・半澤優香に出来ないことは見て分
る。
「羽藤桂さんの母に教わった、武道の技?」
「先日も屈強な権田を撃退していたね、君」
今日のことから自分のことから『ユメイさんについて』へ巧く入ろうとする2人の問に。
「わたしがなぜ、叔母さんに護身の技を鍛えてと申し出たか。その事情をお話しすること
があるかも知れません。半澤優香では知り得ない、経観塚に移り住む前の羽藤柚明を…」
2人は追及と質問の好機と思っただろうけど。実はユメイさんにも解答と陳述の好機で。
酷い記事書いた相手を嫌って拒むのではなく、逢って話しを聞いて応え、繋りを掴む積り
で。この人の発想は本当に柔軟。でも最後の段の。
「今は話してくれないの?」「わたしのことを信じて頂けた時にお話しします」「…?」
中山君が首を捻る気持はあたしも同感で。
「信じて貰う為に話すんじゃなく、信頼された後で話す? あんた疑われて居るんだよ」
記者さんに信じて貰い、疑惑の記事を何とかして貰う。その目的の為の今ではないの?
あたしの左隣で奇跡の女性は静かな声を、
「わたしを信じない人に、わたしの言葉を幾ら発しても意味は薄いでしょう。受け手にも、
聞き入れる心の状態を整えて貰わなければ」
信じる気もなく、疑いの目線で矛盾を暴き立てる視点でしか見ない者に、幾ら大事な話
しを伝えても通じない。とそう言うことかな。
「今宵は大島さんが少し休む為に、ここに上がって頂いただけです。簡単な会話には応じ
ますけど、込み入ったお話しは次の機会に」
「私達に機会を、設けてくれるのかしら?」
知的な目元は働く大人の女性の鋭さに輝き。
ユメイさんはそんな大人に平静に応え頷き。
「あなたの状態が整ったと、判断できれば」
「何だよそれ、あんたの好き勝手な判断じゃねぇか。こっちは記事を書かなきゃならねぇ
んだ。疑惑は燃え盛って居るんだ。あんたが応えないなら、こっちはこっちで勝手に…」
「静かにして、中山君……」「でもさぁ!」
折角のチャンスを逃しかねない。焦りを宿して声大きくなる中山君を、大島さんが窘め。
「経観塚に移り住んで以降の話しなら、幾つか訊いても宜しいですね? 今からでも…」
「わたしに応えられる部分なら、叶う限り」
一応それで中山君も納得した様で。と言うか不満でも大島さんに従わされ。それでも結
構大きな声を上げ、大島さんに更に咎められ。この好機を逃すまいと焦っている感じだっ
た。
この辺は、取材対象とそれなりの信頼を繋ぎたい大島さんと肌が合わない感じ。年格好
も同じ位だけど、見ていると仕事の主導も大島さんで、中山君は不満そう。メモ帳とペン
を出して取材体勢に入る彼に、ユメイさんは。
「大島さんの手当が優先です。今宵お二人にここに上がって頂いたのは手当と休息の為」
「良いわよこの位。掠り傷だし後で自分で」
その時中山さんの胸ポケットの携帯が鳴り出して。彼が慌てた感じでそわそわし始める。
大事な相手からみたい。彼女かな? 夜通しの仕事って、浮気の口実にも使えそうだしね。
職場に大島さんの様な美人がいれば心配だよ。この場では取って話せず困り顔を浮べる彼
に、
「玄関で通話して良いですよ。こちらも大島さんに上着脱いで貰う必要があるので、少し
の間男性の視線はない方が望ましいですし」
ユメイさんの促しに、中山さんはさっき迄の罵声とは一転し、助かった顔を見せ。居間
を出て扉を鎖し、声音を潜めつつ少し離れて。それを最後迄見守らず、ユメイさんは大島
さんに上着を脱いで貰って傷の応急手当をする。
「慣れた手つきね」「本当、てきぱき早い」
大島さんの問は何かを探る感触を兼ねつつ。
本当にその的確さに舌を巻いた様でもあり。
「桂ちゃんは幼い時は元気すぎる位に元気で。中庭から続く森に入っては、膝擦り剥いた
り手を木の幹でこすったりして。こうして叔母さんやわたしに手当てされることを喜ん
で」
陽子ちゃん、少しここ抑えて貰って良い?
あ、はい。あたしも少しそのお手伝いを。
「何か、思い出します。小学校の頃、転んで膝すりむいたはとちゃんが、おばさん、はと
ちゃんのお母さんにこうやって手当されて」
「わたしの手当のやり方は叔母さんに教わったの。似ていると言われると嬉しい。真弓叔
母さんはわたしの憧れで目標なの」「……」
大島さんが口数少ないのは。ユメイさんを尚半澤優香と疑い、巧い作り話しで偽りだと
思っているのかな。心を込めて過去の幸せを語る様は本当に慈母で。姿形は女子高生でも、
あたしはこの優しい声音を信じたくなるけど。
手当は手早く数分で終り。玄関ではまだ電話が続いている様で、中山君は戻ってこない。
「有り難う」「どういたしまして」「てっ」
大島さんが頭を下げて、お礼を述べるのに。ユメイさんが柔らかに応える脇で、あたし
は照れが入って巧く応えきれず。怜悧に整った顔立ちが大人の色香に彩られ綺麗なんだも
の。落ち着いた処で、大島さんは思い出した様に、
「よく悟れたわね。私が不審者に路地裏へ引きずり込まれた事を、絶妙のタイミングで」
だって周囲は真っ暗闇で。記者さんも明かりを自粛するから、光源は頼りない街灯や星
明りしかなくて。大島さん達が潜んだ箇所は、アパートの中からも台所の窓から一応様子
を窺えたけど。夜になれば暗くて見通し利かず。
分って見つめ直しても潜む姿は見えるかな。しかも彼女は一瞬で背後の闇に引き込まれ
た。口を塞がれ叫びも上げられなかったと言うし、アパートの中迄届くなら他の記者さん
が気付いた筈だ。でも結局大島さんの危急に気付けたのも駆けつけたのも、ユメイさん唯
1人で。
大島さんはユメイさんが、家の中から監視カメラで周囲を見ていたかと考えた様だけど。
合理的に考えれば、その辺に行き着くよね…。
「気配で分るって言う奴? 羽藤真弓から学んだ武道の技とでも答える気?」「わたしは
夜目が利く方なので。わたしの取材に周囲を張っている方々の概ねは、把握しています」
他の記者さんは、ユメイさんの動きに驚き導かれ駆けつけた。それでも中山君の動きよ
り遅く。結局唯の賑やかしにしかならなくて。
何よりも一番すごいのはその即断に。自身を誹謗中傷する夕刊トップ記者の大島さんを、
身を挟めて守る決断を瞬時に下し躊躇もなく。あたし達は張り込まれ迫られる側で。記者
が襲われるのは想定外で、大島さんにも青天の霹靂で。ユメイさんこの大人しげな外見で
決断力ありすぎ。と言うか優しすぎて甘すぎ!
まあ、そのお陰で大島さんの操は守られた。こういう時に守り庇うべき中山君がトイレ
に外した、少しの間を狙われた不運を埋め合わせる幸運で。誹謗中傷する記者を守り庇う
取材対象に出逢う幸運なんて、滅多にないよね。
着替え終ったと中山君に、伝えに行こうとする大島さんを。ユメイさんは無言で仕草で
押し止め。突然メモ用紙にペンで何かを記し。
『中山記者に気をつけて下さい。彼は危険』
向うはまだ電話中だけど。それが理由ではない。ユメイさんが彼女に伝えたい中身とは。
『今宵のあなたの危難は偶然ではありません。彼があなたの傍を外した直後に不審者が訪
れたのは、綿密な打合せと準備の上での展開』
「……あなた、一体何を」「ユメイさん?」
彼女とあたしの思わず上がる声に、ユメイさんは唇の前に指を立てて、しーっと静めて。
『聞かせては拙いので会話は何気ない物に』
「あなたの言う事が信じられると思って?」
うわ、大島さん。取材の追及に巧く似せ。
「信じて頂けるかどうかはあなた次第です」
ユメイさんも平静に巧く、答返す。すご。
「どうしてそんな事が、あなたに分るの?」
「それはお答えできません。ですから信じてと迄は求めません……どうか聞いて下さい」
2人の会話は緊迫感を帯びつつ、巧妙に連携し。いつ向うの電話が終って中山君が戻っ
てくるか分らない状況で。あたしは言葉を紡ぐ以前に思考が巧く紡げず、聞き役に徹する。
「でも、どうしてそんな行動に出たと…?」
『彼はあなたに、嫉妬の炎を燃やしています。彼より年若く有能で仕事を任され、気品あ
って堂々として、時に自身を掣肘する女性への強い憤怒……彼の目的はあなたの失脚で
す』
『でも彼がこれを為しては捕まりますから』
『インターネットを介し、女性を穢す縁のない実行犯を求めた。今の彼の通話先はその実
行犯からです。わたしに妨げられた事が想定外なので、巧く行かなかった事への苦情を』
「えっ!」思わず驚きに声が漏れるあたしに。
ユメイさんではなく、大島さんがしーっと。
その上で、ペンはさらさらメモ用紙を進み。
『あの場所に隠しカメラが3台置かれていました。あなたの陵辱の様を撮り、あなたが大
きな顔出来ない様に脅すか、闇に転売して儲けるか、夕刊トップにスクープ掲載するか』
『彼がわたしに組み付いてきたのは、あそこで犯人が捕まると全て露見してしまうから』
『2人で深夜の張り込みを続ければ、数日の内に彼は再び同じ行いに及ぶ。彼の情報端末
や個人資料を探れば、証拠は掴める筈です』
ユメイさん、もしや2人を、と言うより大島さんを家に上げたのは、これを伝える為に。
今の危難を防ぐ以上に、その再発を防ぐ為に。自身を疑い誹謗中傷する大島さんを守ろう
と。自身の『力』を知られる危険や、不審者の刃に直面する危難を承知で。この人の甘さ
って。
中山君が戻ってくると、あたしが不自然な対応を返す前に、ユメイさんはあたしに疲れ
たでしょうと、隣の部屋で休んでと促してくれて。演技を巧く出来ないあたしは助かった。
というか、女の人を犯し穢す策動をした男を前に、平静に取材者と被取材者を進められ
るあの2人は只者じゃない。あたしは隣室で少し心楽になりつつ、息を潜めて様子を窺い。
ユメイさんは夕刊トップの独占取材に暫く答え。丑三つ時位に切り上げると、タクシー
を呼び。2人きりで歩かせる状況は招かない。
その後はユメイさんに肌身添われて、癒しの力で疲れを拭ってもらって。むしろ心の緊
張を拭ってもらえたのかな。いつの間にか意識が落ちて。気が付いたら明るくなっていて、
はとちゃんは元気そうにもう起き出していた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
その後も新聞雑誌にテレビも加えた、取材の嵐と誹謗中傷は続き。夕刊や週刊誌が好き
放題に疑惑を書き立て騒ぎを起こし、テレビは中立な顔でその騒ぎを映して広め役を担う。
疑惑は幾らかき立てても、何も確かな証拠がない侭に、騒ぎだけ上滑りしてお祭りの如く。
夏の日差し照りつけ始める朝9時過ぎに。
「嬢ちゃん、今日も桂ちゃんとお勉強かい」
はとちゃんのアパートを訪ね、傍に張り付いた記者さんに声を掛けられるのももう日課。
スポ東の熊谷さんの問いかけに、ティッシュ配り並の応対で、ほとんど無視して通り過ぎ。
「良いのかよ。あんたも桂ちゃんも、毒クッキーや財産狙いで騒がれている女と、いつ迄
も付き合っていると、周囲の評判を落すぜ」
一度だけ立ち止まり、腹に空気を込めて。
「その言葉、ちゃんとスポ東に掲載するんでしょうね……苛められっ子に関ると苛められ
るぞって言い方。子供の教育に悪いですよ」
何度か同じ事を言われているので。あたしも返す言葉は練っていた。言い捨てて、結果
は見ずにその侭はとちゃんの家に上がり込む。習い事のあるお凜は今日は参加できないけ
ど。
「おはよー、陽子ちゃん」「いらっしゃい」
和やかに迎えてくれる2人がいれば充分だ。
はとちゃんも今日は体調とても良好らしく。
でも分って敢てその額に掌で触れ熱を測り。
「んー、あたしにお熱って感じ?」「えー」
陽子ちゃんヤブ医者。はとちゃんの反応に。
その位返せるなら。あたしはやや偉そうに。
「まぁ元気って診断できるかもね」「もー」
はとちゃんは居間で、人数分のジュースをお盆に載せてくる美しい同居人に視線を向け。
「わたしはお姉ちゃんがいるから、もう医者いらずでいいの」「はいはい、そーでした」
こんなに綺麗なお姉さんと、毎日お医者さんごっこ出来て、はとちゃん本当羨ましーわ。
「べっべつに、お医者さんごっこなんて……確かにお医者さんしてもらってるけど、淫ら
に肌身合わせている訳じゃ、ないんだからね。必要があって、素肌を合わせている訳で
…」
ユメイさんの癒しは、普通の医療でもない。
思い返すと、はとちゃんも頬が赤く染まり。
「お姉ちゃんも、必要だからそうしてくれているだけで。それはお姉ちゃんの優しさでっ。
そうしてもらえたわたしは、嬉しいけど…」
今はとちゃん結構重大なこと口走った様な。
しどろもどろに最後口ごもるはとちゃんの。
後を受けたのはユメイさんの静かな語りで。
「わたしは桂ちゃんの役に立てる事が喜びよ。それで桂ちゃんが喜んでくれるなら尚嬉し
い。肌身を添わすのは桂ちゃんの為で、己の欲求を満たす為ではないけど……可愛い桂ち
ゃんに寄り添う事も、寄り添って役に立てる事も、寄り添って喜んで貰える事もわたしの
幸せ」
この人は特段隠してない。はとちゃんへの想いを素直に綺麗に明快に言い切って恥じず。
右隣のはとちゃんの肩を軽く抱き寄せ愛しみ。それは幼子を愛す様に恋人を愛す様に堂々
と。
「陽子ちゃんを何度か癒したのも同じ事よ」
でもその最後の一言は流石に余計ですよっ。
あたしの動揺以上にはとちゃんの鋭い声が。
「ああ、あたしもですか」「陽子ちゃん!」
あたしが悪い訳じゃないのと弁明する脇で。
ユメイさんはこういう時迄静かに大人しく。
軽く抑えたはとちゃんの身を再び抱き包み。
桂ちゃんが一番な事に変りはないわと囁き。
あのーユメイさん、全部聞えていますけど。
あたし空気です。全く気にされていません。
そこでユメイさんははとちゃんを抱き留めた侭こっちを向いて。忘れてないよと微笑み。
「陽子ちゃんは桂ちゃんとわたしのたいせつな人。困難な時も嵐の時も、わたし達の心を
暖め力づけてくれる陽の光の様な愛しい子」
はとちゃんもあたしもこの人の掌の上です。
でも掌で転がされる今がこの上なく嬉しく。
周囲の喧噪から隔絶されて心安らげた頃に。
玄関のチャイムを鳴らして訪れた人物は…。
「夕刊トップの大島です。今日は取材ではない話しに参りました。上げて頂けませんか」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
居間のテーブルを囲む座布団には4人が着座し、はとちゃんの左隣にユメイさんが、右
隣にあたしが座って、大島さんの話しを伺う。ユメイさんが大島さんを不審男性から守っ
た話しははとちゃんも承知だ。夕刊トップがユメイさんを偽物扱いし、財産狙いと書いた
ことも。大島記者がそれを追及してきたことも。
「……まず、申し訳ありませんでしたっ!」
話しは大島さんの手を付いた謝罪で始った。
深々と絨毯に額を擦りつけて美しい女性は。
「あなたが半澤優香だという嫌疑は完全に晴れました。疑って書き立ててごめんなさい」
良かったけど。嫌疑は晴れたけど、でも。
「どうやって疑惑は晴らされたんですか?」
はとちゃんが、あたしも浮んだ問を発し。
「その事について、更に申し訳ありません」
DNA鑑定を行ったと。先日大島さんを助けた時に、中山君はユメイさんに組み付いて
髪の毛を持ち帰った様で。中山君はスクープ取れると、羽藤の誰の承諾も得ず、編集部に
も秘密裏に大学病院に検査を頼み。入手済みの半澤優香さんの資料と、照合したその結果。
逆に違うと明らかになって。夕刊トップの編集部は一様に青ざめた。中山君が独断で本
人の承諾も無しにそんな無謀に走ったことも。
「中山は解雇されました。個人資料から私を襲う手だてや連絡の証拠も見つかりました」
実行犯の方は未だ誰か分っていませんが。
貴女には、二重三重に助けて頂きました。
「上司たる私の監督不行き届きです。DNA鑑定も、警察でない私達は、本人同意を得な
ければダメだったのに……ごめんなさい!」
大島さんも、DNA鑑定は欲していたけど。
ユメイさんに何度かそれを求めていたけど。
勝手にやってしまう積りはなかった。同意が不可欠だったから、何度も求めた訳であり。
「更にもう一つ、今朝入った情報で……東京近郊で半澤優香さんが保護されたそうです」
既に両親とも面談して本人である事は確認済で。つまりユメイさんは彼女であり得ない。
「私達の報道は間違いでした。済みません」
大島さんは持参した、昨日の夕刻発刊の夕刊トップをテーブルに載せて。その一面には、
『本誌痛恨ミス! 奇跡の女性Yは、行方不明中の現役女子高生Yとは、別人と判明…』
「うわ、堂々とスクープ」「文字大きいね」
「中山君の暴走も、編集部の意図ではなかったとはいえ、監督不行き届き。各紙の先頭を
切ってあなたの疑惑を報じた私達が、やってはいけない事をやった末に、ミスを思い知ら
され……本日は諸々を謝りに参りました!」
「確かに、そうですよね」「陽子ちゃん…」
はとちゃんも、ユメイさんも強い姿勢を見せないので。あたしが大島さんに厳しい声を、
「確かに誠意は感じます。今迄散々ユメイさんを非難したその一面に『自分が間違ってた、
ユメイさんは半澤優香じゃない』と載せたのはすごい。多くの雑誌や新聞は、叩くだけ叩
いて、それが冤罪や過ちだった時にも、知らん顔か小さく訂正記事出して終りだから…」
今回のことがあって、あたしも報道被害とか誤報虚報について、少し調べてみましたよ。
テレビや新聞も結構大きな間違いやらかして、知らん顔しているの。それで政治家や軍人
の過去を責めて『誤りを正す』とかよく言うわ。
「でも、夕刊トップが火を付けたユメイさんへの中傷は、この訂正記事一本では止らない
でしょ? 夕刊トップは謝罪しても、他社は疑惑を興味本位に好き放題に書き立てるでし
ょ? それは誰にも止められないでしょ?」
最早夕刊トップで収拾できる事態ではなくなっていた。スポーツ東京も週刊深長も週刊
レディも、新聞テレビもユメイさんの疑惑を報じ続ける。根拠が消えても印象で。クッキ
ーで入院した人がどこの誰かも分らない侭に、はとちゃんへの虐待も遺産狙いもレズの噂
も。叩く姿を騒ぐ姿を報道し合って増幅し合って。
こびりついた汚い印象は容易に回復しない。いや、今も現在進行形で傷つけ汚され。今
も他社の記者さんは、ユメイさんの誹謗中傷を。
「責任取れないじゃないですか! ユメイさんや、ユメイさんを大事に想うはとちゃんが、
どれだけ辛い想いをしたか。ユメイさんの説明をまともに聞き入れず、疑いの目で見て」
その結果がこれだ。報道を鵜呑みにしてユメイさんに石を投げる人もいたらしい。ユメ
イさんは、避けると他の人に当たるからと敢てそれを受けて。買いに行った店や他の買い
物客の迷惑になると、外出を控える様になり。
普通の人なら心壊れている。はとちゃんも、外に顔を出す度に『まだ羽藤柚明を信じて
いるのか』『騙されていると気付かないのか』の連呼に閉口し。外出しなくなったのは、
報道陣が取り巻いている所為だと気付いてよ!
「夕刊トップで他者の取材陣を引き上げさせられますか? 今迄に受けた損失取り戻せま
すか? あなたの手ではとちゃんやユメイさんの静かな日々を回復できますか? 謝って
くれたのは良かったけど、それだけじゃ!」
大島さんは答えられず。下げた頭のショートの黒髪は微かに震え。新聞雑誌は人を持ち
上げることや傷つけることは出来ても。傷つけた印象を戻すことも損失を補うことも出来
ない。今進む他社の疑惑追及を止めることも。そんなことに力を注いでも収益には繋らな
い、そう言う大人の事情も分らないではないけど。
「幾ら謝ったって、ユメイさんに何も戻って来ないじゃないですか。はとちゃんにも!」
そんなあなたを、ユメイさんは身を挟めて守り庇ったのに。あなたは何を返せますか!
言い募る程に想いが増して激昂する。この憤りを肌身で抱いて止めてくれたのはやはり。
「有り難う、陽子ちゃん……もう良いわ…」
後ろからこの身を抱きこの右頬に頬重ね。
「わたしを想ってくれる、熱い心は分った」
一呼吸、二呼吸。あたしの憤りが静まる迄抱き留めて。他の2人が驚きに固まるけれど、
ユメイさんは動じず。肉感が分る程の強い抱擁で、あたしの憤りを肌身に受けて吸収し…。
「わたしの為に、それ以上心を乱さないで。
解決は、わたしに絡む事だからわたしが」
ユメイさんは、あたしの落ち着きを見極め。
はとちゃんとも、一度視線を交わしてから。
「あなたは、本当に誠実で正直な方ですね」
納得できない物は放置しない。どこ迄も調べ追及する。結果過ちだった時は素直に認め、
全力で謝り償う。社内を仲間を説得し、小さな謝罪記事ではなく『自社の過ち』というス
クープで疑惑を大々的に否定して。あなたの出来る限りの責任の取り方、夕刊トップに出
来る限りの責任の取り方、見せて頂きました。
「編集部を説得するのは大変だったでしょう。一社だけ過ちを認めれば、他社から袋叩き
にされ兼ねない。下手をすれば読者に見放され、廃刊の怖れもある。それで日々の糧を得
ているあなた達は、家族の生活迄掛っているのに。編集長も同僚の方も、いい人だったの
ですね。全国紙も中々やれない、記事の信頼性に関る最も触れたくない自社の過ちを晒す
なんて」
有り難うございます。ユメイさんは静かにそう言って。大島さんに顔を上げる様に促し。
「わたしへの誹謗中傷は、夕刊トップだけではなかった。だからわたしは償いの全てをあ
なたや夕刊トップに求める気はありません」
あなたはあなたに叶う限りの、それ以上の事をしてくれた。誠意を尽くしてくれました。
幸いわたしにも桂ちゃんにも大した被害はない。この位の騒ぎでわたし達の絆は壊れない。
言い切るユメイさんは優しい以上に力強い。
この人は激怒も罵声もないけど本当に強靱。
「あなた達は過ちを認め、謝り償ってくれました。決して簡単な事ではない。大きな怖れ
を乗り越えた行いを、わたしは歓迎したい」
ユメイさんははとちゃんに視線を向けて。
「人は誰しも過ちを犯すわ……でも、己の過ちに気付いて認め、謝って償おうとする者は、
わたしは出来るだけ許して迎え入れたいの」
青珠が何かを主張する様に数度強く瞬く。
その意味はあたしには分らなかったけど。
どうかしら? と問われてはとちゃんは。
「うん……謝る様子を見ていると、桃花さんが悪い人じゃないって分って来ちゃったし」
はとちゃんが静かだったのは。綺麗な女性の真摯な謝罪を、強く責められない心境にな
った為らしいけど。羽藤の人間はどうしてこんなに揃いも揃って甘ったるいの。特に女に。
「一番被害を受けたのはお姉ちゃんだから。
お姉ちゃんが許して良いなら、わたしは」
許した上で、桃花さんとも仲良くなりたい。
ゆっくりはとちゃんは、心を込めた判断を。
「これが羽藤桂の真の想いです」「正解よ。それが桂ちゃんの真の想いなら、全て正解」
これがこの姉妹の繋りなのだと、あたしは。
呑み込まされました。この通じ合いを見て。
「わたしが半澤優香ではない事は分っても尚、わたしが羽藤柚明であるかどうか、あなた
は未だ疑っているのでしょう?」「……はい」
ユメイさんは大島さんの両手を取って語りかけ。滑らかな女性同士の手の触れ合う様が
蠱惑的に美しい。大島さんが尚自分を疑っていることに、不快の欠片も見せず微笑み浮べ。
「その疑いをどこ迄明かせるか、試してみる気はありませんか? あなたの独占取材で」
ユメイさんの意図は、大島さんも流石にすぐには呑み込めなかった様だけど。その美貌
が唖然と驚くのに、そう長い時間は掛らずに。
「約束通り、経観塚に移り住む前のわたしから、お望みの過去を叶う限りお話しします」
私がどの様な者か。事実関係以上に仕草や語調や姿勢で、読者に判断頂ける機会を設け
て欲しい。それが夕刊トップの償いや謝罪になる以上に、新しい目玉記事に出来るなら…。
「夕刊トップは羽藤柚明から撤退しますか? 過ちに挫けて怯え、他社が誹謗中傷で暴利
を稼ぐ主戦場から、逃げ出しますか? それではわたしを巡る状況も改善されず、夕刊ト
ップもじり貧です。むしろこの過失を奇貨として、お互い力を合わせませんか? 誹謗中
傷に信頼で反撃し、凌駕してみませんか?」
今のあなたなら心の準備も整っていると思います。否定のみに偏らず、否定と信頼が適
度に均衡して、柔軟に物事を受け止められる。
「わたしは己の想う処と語れる物を語ります。あなた達は、あなたはその眼力で疑いを述
べ、信頼した処はそう書いて読者の期待に応える。目先の目標は違っても、一般多数に真
実を訴えたい願いは同じはず……如何でしょう?」
ユメイさんはすごいこと考えていました。
大島さんは怜悧な瞳を輝かせて考え込み。
「私の追及で、あなたへの誤解や中傷が激化するかも知れません。私は仕事に手を抜かな
い主義なので。甘い見逃しや追従はできない。元々私は追及しすぎて夕刊紙に左遷された
組。
どこ迄も疑問に思えば食らいつく。それを承知で、謝罪してハイさよならではなく、取
材対象と記者で関ると言うなら。例え恩人でも手は緩めない。それが報道記者の覚悟…」
宜しいのですか。静かに問い直す美人に。
「承知しました……わたしも真剣勝負です」
2人の間に信頼と、それ以上に火花が散って見えたのは気のせいじゃない。この2人は
互いを認め合いつつ必殺の攻撃を出し合える、強敵と書いて『とも』と読めちゃう熱い仲
で。
はとちゃんが声を挟めない気持が分った。
ユメイさんが言った通りこれは真剣勝負。
相手は目の前同士だけではなく、他紙他社だけではなく、全国の一般多数・読者さんで。
「不束者ですが、宜しくお願い致します…」
誹謗中傷は続行中で。この試みがどの程度成功するかは未知数だ。猛烈なバッシングの
嵐の中でユメイさんの声が、夕刊トップ一紙がどこ迄抗えるのかは見当も付かない。でも。
でも大島桃花さんはこの失敗さえ糧にして。
報道記者として更にキャリアを積んで行く。
そしてユメイさんはこの誹謗中傷の嵐にも。
ユメイさんらしさを失わず静かに柔らかに。
はとちゃんを気遣い守り支え、癒し愛し…。
世間を騒がすゆーせい法案や国会カイサンよりも、あたしにはこっちの方が遙かに熱く。
はとちゃんや、ユメイさんとの夏はまだ続く。