人の世の毀誉褒貶〔甲〕(前)
夏休みを3つに分ければ中盤の後半、2つに分ければ後半の始めに当たる、夏真っ盛り。
大泉総理のゆーせい法案や国会カイサン等で、世間が騒がしかった頃。あたしやはとちゃ
んの周辺も、ちょっとした騒ぎに包まれていた。
はとちゃんは確かに人目を引く程可愛いし。夏休み前に唯一の肉親だったお母さんを喪
い、他に親戚もない状態で、悲劇のヒロインだったけど。今の注目はその一挙一動にでは
なく。
でも今回の騒ぎの遠因はやはり。はとちゃんのお母さんが、突然亡くなる事なかったら。
はとちゃんも、存在さえ知らなかった田舎のお父さんの実家を訪れる事もなく。色々な危
難や様々な出逢いも一生なかっただろうから。
はとちゃんが帰着して1週間少し過ぎた頃。
夏休みの宿題を一緒にする為に、ノートを買いに出たはとちゃんと、文具店で合流して。
これはデート? 控えめに言っても添い歩き、と思いつつ、はとちゃんの家の近くへ来る
と。
「す、すごい人だかり」「うわ、まだいる」
カメラやマイクを持った、数多くの人達は。
はとちゃんのアパートの窓や入口を見張り。
口々に、がやがやお話ししながら待ち構え。
「いつもこんな感じなの?」「ここ最近は」
この人垣を一度突き抜けて来たはとちゃんは溜息を。この人垣を再度突き抜けなければ、
家にも帰りつけないのだ。腰が引けるのも溜息出るのも分るけど、近付かなければ始らず。
近付けば当然記者さん達もあたし達に気付き。
「おっ来た」「妹さんだ」「友達も一緒か」
数多くの記者さんに囲まれた。男性が多いけど女性もいる。黒髪ショートの女性記者は、
取材対象になる位綺麗な人だけど。スターの様にもみくちゃになる経験はあたしも初めて。
「お帰りなさい……どこに行ってきたの?」
「お友達と一緒で、夏休みの、宿題とか?」
「可愛いね。ちょっとだけこっちも向いて」
「お姉さんについて、少し聞かせてよっ…」
質問に反応する前に次の質問が連射される。マイクはあたしにも向いたけど、あたしが
答えられる事は余り多くない。それははとちゃんにしても同じ事で、幾ら詰めかけられて
も。
「桂ちゃんの服選びはお姉さんのセンス?」
「携帯番号教えてよ。僕だけに、秘密でさ」
「髪の毛が柔らかくて、良い色合いだね…」
「お姉さんの次の外出って、いつ頃かな?」
記者さん達の目当てははとちゃんではなく。はとちゃんが夏の里帰りで連れ帰ってきた
お姉さん、本当は従姉のユメイさんで。この夏迄行方不明で、死亡認定もされた綺麗な人
だ。
しかも行方不明の拾年の間、全く歳を取ってなく。拾歳違いのあたし達と同年代に見え
る『奇跡の人』。だから週刊誌やスポーツ紙の注目も集まる訳で。あたし達に向けられる
マイクも、ユメイさんとの関りを問う物で…。
「夜はいつも2人何時頃迄起きているの?」
「今朝の朝ご飯の、メニューを教えてよ?」
「お姉さん美容の秘訣は何か言っていた?」
「2人で一緒にお風呂とか入っているの?」
どうでも良い問や真実を答えちゃ拙い問や。
答を求めてはいけない様な問迄遠慮もなく。
人垣に包まれ目を白黒させるあたしを前に。
はとちゃんも困った顔で立ちつくしていて。
「週刊誌で騒がれ始めたって聞いていたけど、毎日こんな感じなの?」「ここ数日は、
ね」
記者さんはあたし達への質問以上に、互いのポジション争いで、怒鳴り合い啀み合って。
退けろだの痛いだの待てだの動けだのと喚き。
少し遠目には、はとちゃんのご近所さんが、主に奥さん達が何事があったかと顔を覗か
せ。明らかにこの混雑を好ましく思ってない感じ。それはあたしもはとちゃんも全く同感
だけど。
「お姉さんとの馴れ初めを、お話ししてよ」
「経観塚でのお話を……拾年前も含めてさ」
「お姉さんとの思い出話し、何かないの?」
「どうやって再会できたのか詳しく教えて」
記者さんは詰めかけあってぶつかり合って。
巧くはとちゃんにマイク合わないどころか。
「ちょっと、通して……っていうか、せめてこのぎゅうぎゅう詰めを、何とかしてっ…」
はとちゃんとの密着は好ましいけど。柔らかな肉感を味わえるのは僥倖だけど。それ以
上に記者さんのごつい感触との密着も、はとちゃんがそれに密着されるのも好ましくない。
「ちょっと押さないで、私が今質問をして」
「そっちこそ質問の横取りは止めてくれ!」
「だから肩を掴むなってのに、このっ……」
「痛い! 足踏まないで。……そこ、邪魔」
後に下がる事も横にずれる事も出来ず。押しくらまんじゅう状態で、真ん中から動けず。
「あの……ちょっと……」「あたし達、はとちゃんの家に入るんです。どいて下さい!」
困り顔のはとちゃんに代って、あたしが強く声を出してみるけど……ちっとも届かない。
「少しでも良いからお話ししてよ拾年前の」
「拾年間お姉さん不在で寂しくなかった?」
「最近お母さんを亡くしたって聞いたけど」
「いい加減にして、ちょっとここ通してよ」
最後の声は、あたしです。記者さんは外から外から中心のはとちゃんに、押しかけてく
るから、身動きできない以上に息が苦しいの。
とにかくはとちゃんを、この人垣から出さなきゃと思ったけど。奈良陽子では力不足で。
うわ足踏まれた。肩掴まれはとちゃんから引き剥がされようと。スカート引っ張らないで。
でもそんな記者さんも、すし詰めで動けない。
「煩わしいわね……有象無象が私のけいに」
間近で女の子の声があたしの耳に届いた。
涼やかな鈴の音と冷気が背筋に纏い付き。
その語調が宿す不快・苛立ちを拙いと感じたはとちゃんが。慌てて制止の声を出すけど。
「ノゾミちゃんダメだよ、今はまだ昼で…」
大勢の声にかき消されそうなはとちゃんの言葉の意味を分るのは、ここではあたしだけ。
それははとちゃんが、夏の経観塚で体験した数奇な諸々の一つで、多分最も奇想天外な…。
何かが起きる、起こってしまう。そんな流れにも気付かずに押しかけ続ける大人達の動
きを。大人達を凍り付かせようとの密かな動き迄を。纏めて一瞬で一声で押し止めたのは、
あたし達や人垣からは少し離れた処に現れた。
「お帰りなさい桂ちゃん。陽子ちゃんもいらっしゃい、今日も暑いわね」「ユメイさん」
はとちゃんの最愛の従姉で唯一の肉親で。
全国的な注目を浴びつつある『奇跡の人』
飾り気ない普段着の上にエプロンを纏い。
蒼髪が艶やかに滑らかな美しい人だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ユメイさんだ」「出てきた」「こっち!」
記者さんの流れが変る。あたしやはとちゃんに詰めかけて、肩を掴んで手首握って、ス
カート引っ張ってでも、一言欲しい感じだったのに。突然押しくらまんじゅうは停止して。
ユメイさんは特段大声でもなかったけど。
良く通る綺麗な声で衆目の注意を引いて。
あたし達への密集は瞬時で消失したけど。
それは代りにユメイさんがこの群衆の標的になると言う事で。いや、この群衆の本当の
標的はユメイさんだから。これはハイエナの群れに子ヤギが飛び出す様な物では? あた
し達は助かるけど。ユメイさんは身代りに…。
「何やっている」「こっちこっち」「早く」
今迄以上の人の群れが、地響きを立て走り行く。あたし達に詰めかけていた人達も、見
る間に引き剥がされ減ってほっと一息。でも。
「ユメイさん、おはよーございますっ…!」
「経観塚での拾年のお話を聞かせて下さい」
「従妹さんと再会できた時の、状況を少し」
「エプロン姿可愛いね。ここでは主婦役?」
詰めかける男女多数の前で、華奢な姿はたちまち見えなくなって。アパートの入口前は
すごい人だかりに。はとちゃんも近寄れずに。
「ユメイさん、大丈夫かな……あ、あれ?」
身動き取れない筈のユメイさんが、人垣をすっと抜けてきた。あり得ない筈の動きがご
く自然に。数十秒も掴まってない。記者さんは男女多数で群がり来て。真ん中辺りは後か
ら詰めかける仲間に押され、記者さん自身も身動き取れない状態なのに。そう見えたのに。
落ち着いた薄青の普段着に、白いエプロンの華奢な女性−否あたし達と歳の女の子だよ
−は。自分より大きい人達を、汗だくな様子も必死な感じもなく、ごく自然にすいと躱し。
少年マンガのボクシングで、買い物の奥さんや下校時の生徒が混み合う夕刻の商店街を、
ぶつからずに走り抜ける特訓って読んだけど。それを実際見せられた感じ。目にも止まら
ぬ早さでもなく、ごく自然に軽快に隙間を縫い。
息が切れた様子もなく、ユメイさんはあたしのごく間近、隣のはとちゃんの正面に来て。
華奢な両肩に軽く手を差し伸べ、愛おしんで。女の子同士の抱擁も、とても自然に柔らか
く。はとちゃんも迷いなくユメイさんに身を委ね。
はとちゃんを抱き締めたい欲求は常々隠さないあたしだけど、2人共綺麗だから、これ
はこれで間近にいい物を見させて頂きました。納得させられたと言うか眼福でしたと言う
か。
「お疲れさま……暑かったでしょう。冷たい飲み物を用意してあるから、早く上がって」
こくっとはとちゃんが頷くと、ユメイさんは次にあたしにも微笑みかけて。あたしもそ
の時点で、現れた時点の動きから間近な美しさ迄、自分がずっと見とれていたと悟らされ。
ちょっと慌てて頭を下げてごあいさつする。
ちょうどその頃記者さん達の群れが反転し。
「ユメイさあぁぁん」「インタビューをっ」
わ、どうしよう。再び囲まれたら、ユメイさんはともかくあたしやはとちゃんは、ぎゅ
うぎゅう詰めを自力で抜けられない。そんな印象ははとちゃんの顔にも出ていたみたいで。
「大丈夫よ……桂ちゃんも、陽子ちゃんも」
ユメイさんはあたしとはとちゃんに簡潔な指示を出してから、迫り来る記者さんに向き
直り。ゆっくり群衆との距離を縮め。それを横目に見つつあたしは左にはとちゃんは右に。
記者さんを迂回してアパート入口へ小走りで。
「掴まえたっ、スリーサイズ測らせてよ…」
眼鏡を掛け、縮れた黒髪の長い年輩の女性記者が。女性同士ならセクハラも許容される
と思ってか、ユメイさんを後ろから抱き竦め。両腕をクロスさせ、ユメイさんの乳房を掴
み。
動きの停止をチャンスと見て、他の多数も殺到し。ユメイさんはあたし達が迂回する少
しの間、わざと捉まって時間稼ぎを考えた様だけど。でも本当にがっちりと身を固定され。
「可愛いねぇ、どう見ても女子高生だよ…」
「その若さの秘訣を、少しだけ教えて頂戴」
「すべすべで気持いい肌ね、感触も柔らか」
「この花の甘い香りは……何の香水かな?」
女性でも相手は大柄で腕も太い。更に男性多数にしがみつかれて、引き剥がすのは無理。
アパート入口で合流し、入れば終りの状態になったあたしとはとちゃんは、やや心配で様
子を伺う。記者さんに悪意はないだろうけど、力の加減なく身を掴まれ無遠慮な質問され
て。外見があたし達と同じ年頃の女の子だけに…。
「今は彼氏も居なくて、拾年なんだよね?」
「経観塚にいた頃には、恋人とかいたの?」
「黒髪綺麗だね。下のヘアもこんな感じ?」
「答えてくれないとおっぱい揉んじゃうよ」
最後のは女性だから出せる求めかも。男性がやっていたなら警察に捕まって訴えられる。
だから新聞や雑誌記者にはやや多めに女性もいるのか。男性が責めづらい処を責める為に。
「下着の色を教えてよ、黒、白、ピンク?」
「この拾年どこで何していたか、教えてよ」
「ずっと男とご無沙汰で寂しくなかった?」
「今もまだ彼氏居ないの? 都会に出てからも夜は1人で済ませているの? その辺を」
漏れ聞える質問の無神経さに、はとちゃんが顔色を変えた時だった。やはり何の前触れ
もなく人垣からユメイさんはすっと抜け出て。人垣は割れてもないし崩れてもいない。ユ
メイさんが出てくる前も出てきた後でも、そこは密集した人垣で。記者さんは身動き取れ
ず。入り込めそうにも抜け出られそうにも見えず。
なのにユメイさんは極めて自然に歩み来る。
必死な様子も逃げを意識した様子もなくて。
あたしとはとちゃんの傍に着いて振り返り。
「済みませんが……女の子の秘密に関る事を、初見の皆さんに軽々にお話しは出来ませ
ん」
柔らかでも明確に答えませんと意思を伝え。
ちょうどその時。背後のアパート入口から、
「羽藤さん、柚明さん……お疲れさまです」
「お凜さん」「あんた、先に着いてたの?」
既に到着していたお凜の出迎えで、あたし達は揃ってはとちゃんの家に入れてもらって。
波乱含みな外界から、暫くの間隔絶される。
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はとちゃんが、夏休み入って即の田舎行きから帰り着いて、十日が経った。その身に起
きた諸々を、聞いて見て呑み込まされたあたしだけど。お凜に説明するには語彙が足りず。
やはり聞いて見て確かめて貰う他に術がなく。
『黒髪のすっごい美人の一夏のアバンチュールと、家出童女の財閥令嬢と、白銀の髪の長
い自称二十歳の女性ルポライターと、外見は中学生なのに千三百歳の夜にしか出られない
可愛い鬼と、拾年行方不明でその間全く歳を取ってない奇跡の女性と、もう全員が羽藤さ
んとラブラブで深い仲……ですか? はぁ』
はとちゃんは山奥で崖から落ちて、一度生命も落しかけており。外見は中学生位の双子
の鬼・ノゾミちゃんとミカゲちゃんに、一度ならず生き血を吸われ生命を狙われ。はとち
ゃんのお母さんのお友達・浅間サクヤさんや、若杉グループ後継者の家出童女・葛ちゃん
や、鬼を切る鬼切り役の千羽烏月さん、ご神木に宿るオハシラ様のユメイさんに幾度も救
われ。
紆余曲折の末にノゾミちゃんとも心通わせ。自ら鎖した拾年前の記憶を取り戻し、双子
のお兄さん・白花さんやユメイさんを思い出し。最後はユメイさんお持ち帰りという超大
技を。
お凜もあたしも、内容は奇天烈だったけど、疑いもせず聞いて頷き。ゲームやマンガで
神話や伝説に馴染んだお陰かな。はとちゃんは巧妙に壮大な嘘をつける子じゃない。実際
拾年歳を取ってないユメイさんが柔らかな笑みを浮べ。夜に至るとノゾミちゃんも顕れた
し。
あたしとお凜に一番重要だったのは。お母さんを亡くし、親戚もなく天涯孤独と思われ
たはとちゃんが。どこかに引っ越す事もなく、このアパートで『孤独ではない』生活を続
け。今後も一緒に県立紅花(べにばな)女子高等学校に通い続けてくれる事で。お凜はと
もかくあたしはその為にここへ進学したのだもの。
ユメイさんやノゾミちゃんの同居もむしろよし。お母さんを喪って間もないはとちゃん
は、家族が欲しい状態だし。賑やかな位が良いと思う。幾らあたしがはとちゃんラブでも、
女子高生の恋人宅連泊は倫理的に問題でしょ。唯ここ数日は、そう言う好ましい賑やかさ
に、あたし達の外側から妙な騒々しさが加わって。
『拾年行方不明』の末に『突如発見されて』『その間全く歳を取ってない』『奇跡の人』
注目される要素を揃えた上に、はとちゃんと血の繋った従姉とあって、すごい美人だし。
見た目はあたし達と違わない女子高生なのに、たおやかに穏やかで静かで慎ましく柔らか
で。
だから一度こうして話題沸騰してしまうと。
後ろ姿や佇まいや答える仕草の一つ一つに。
記者さんも魅了され夢中になって追い求め。
あたしでも見とれて気になってしまうもの。
そう言う訳でお盆間近な今日この頃。大泉総理を巡るゆーせい法案や国会緊迫の情報に、
横から割り込み殴り込む様に。ユメイさんの近況や来歴が、スポーツ紙や週刊誌に掲載さ
れ始め。個人情報保護が謳われるご時世故に、流石に住所は伏せて仮名KさんYさんだけ
ど。それが日本中で反響を呼びつつあるみたいで。
男女多数の記者さんが、アパートの傍に詰めかけ張り付きカメラを構え。ご近所さんの
迷惑も構わず、はとちゃん達の困惑も気に掛けず。妙な空気が勝手に作られ始めていた…。
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ふぅ。無事アパートの一室に辿り着けたはとちゃんは、真夏の厳しい日差しと暑さより、
あの人だかりに揉まれた為に、ややお疲れで。
「おうちを出るのも帰るのも、一苦労だよ」
「お疲れ様ですわ。まずは冷たい飲み物を」
お凜さんありがとう、と答えつつ氷入りのジュースを、はとちゃんは美味しそうに飲み。
あたしもユメイさんも、居間に腰を下ろして。
「お凜は先に着いてたんだ? あの包囲網をくぐり抜けるの、結構大変じゃなかった?」
「わたくしは家の車でアパートの入口傍迄送って貰いました。報道陣も車での来客は想定
外だった様です。羽藤さんも歩いて出かけたので、帰りも歩きと思っておられた模様で」
「あー、はいはい。お金持ちは羨ましいね」
「でも、流石柚明さんです。羽藤さんのお帰りを遠くから察し、お迎えに出られるとは」
あ、そう言えば。あたしもジュースのストロー吸うのを一瞬止めて。思い返してみると。
「ユメイさんは注目の人だから、外ではとちゃんを待っていれば、記者さん達が寄ってく
るものね。さっきも何気なく現れたけど…」
本当は現れた時点で足止め喰らう筈だった。
あたし達が近付く頃合を察して現れた訳か。
まるで超能力。或いは霊能力? でもユメイさんは拾年、ご神木に宿る神様だったっけ。
彼女の拾年の失踪はその為で、今ははとちゃんの双子の兄・白花さんがそれを担っている。
経観塚ではとちゃんに関った人以外で事情を知っているのは、今の処お凜とあたしだけ。
極秘扱いの話しを、幾ら近しくてもあたし達に明かして良いか、気になったけど。もうお
話しされた後だし、ユメイさんも咎めてなかったし。それも意外とすごい判断だったかも。
用意周到を座右に刻んでも、尚ぽややんとしたはとちゃんはともかく。贄の血の持ち主
故に数奇な十年を経たユメイさんは、それを明かす危険を知り尽くしている筈だし。あた
しとお凜は、信頼されたって事で好いのかな。
ごく自然に、でも意外と普通じゃない事を、平然と為しちゃうはとちゃんの新しい家族
は、
「お買い物に行って、陽子ちゃんとお昼前に帰ってくる予定は知っていたから。頃合だっ
たし、傍の記者さんのざわつきも感じて…」
注意力と推察を働かせれば、人知を越えた『力』を使わずとも概ねの事に対応できると。
柔らかに静かに語って微笑んで。何というか、綺麗で穏やかな以上に只者ではないわこの
人。
「……私が、けいに群がるあの有象無象共に『力』を及ぼそうとしたのも、察したのね」
女の子の声がやや不納得な感じで耳に届く。
でもそれはこの場に見える誰の声でもなく。
夏の経観塚から、はとちゃんが連れ帰った数奇な経験の中でも、最も奇特な成果の一つ。
肉の体を持たない霊体の鬼、ノゾミちゃんだ。
その外見は、ミニスカートっぽく短かな裾に長い袖の黒く赤い和服に。りんと涼やかな
音を立てる金色の鈴を足につけた、中学生位の華奢な女の子で。少し気の強そうで見下し
た感じの言葉遣いと姿勢が、またかわいーの。
昼の間は現身を取れないので、取り憑いた状態のはとちゃん以外、霊感のない人は声を
聞く事も視る事も難しいけど。黙っている事が不得意で。はとちゃんに突っ込みを入れる
他に、時々『力』であたし達にも声を届かせ。
経観塚でははとちゃんの生き血を欲し、ユメイさん達と敵対もしたと聞いたけど。紆余
曲折の末にはとちゃんを気に入って、生命がけで守り庇い。今やはとちゃんの携帯ストラ
ップの蒼い珠・青珠に宿り。だからはとちゃんとはユメイさん以上にいつも一緒で。さっ
きあたし達が囲まれた状況も、全部承知で…。
「記者さんに害を為そうとしたのですか?」
お凜がやや気懸かりな感じで詰問調なのは。
人の世に馴れていない鬼のノゾミちゃんが。
『力』で記者さんを傷つけてしまわないかに。
陽光の照す間は『力』の効果も限定される様だけど。近場で短時間でノゾミちゃん程に
強い鬼なら、多少の無理も利かせられる様で。あたし達に時々肉声を届かせるのもその一
つ。
「私のけいに無遠慮に近付く愚か者達に、相応しい報いをくれてやろうとしただけよ…」
「羽藤さんや柚明さんに迷惑が掛りますわ」
『力』で人を傷つける事が良くない以上に。
はとちゃん達に迷惑になるとお凜は応え。
確かにはとちゃんに近付いた人達が、突然吹っ飛ばされたり気を失ったりしては。はと
ちゃんに何かあると疑われる。世の耳目を集める事を好まないはとちゃん達には逆効果だ。
「今の世は多くの人達が複雑に絡み合って生きています。羽藤さんに群がる記者を打ちの
めしたり魅惑して惚けさせても、仲間や会社の同僚が後を埋め、真相究明に掛るでしょう。
繰り返せば繰り返す程、羽藤さんの周囲で起こる異変に人の好奇心が集まってしまいます。
『力』の事やノゾミさんの事を気付かれでもしたら、それこそ大変な騒ぎに」「うっ…」
ノゾミちゃんもはとちゃん同様、意外と後先考えないみたい。何百年も鏡に封じられて、
今の世を分らないし、仕方ない処はあるけど。
お凜の指摘に、じゃあどうすれば良かったのよと返すけど。あの侭記者さんに張り付か
れて暫く耐えるしかないのが答かな。ノゾミちゃんもお凜の意図が伝わったのか『力』で
読み取ったのか。青珠の輝きがやや弱くなり。
ノゾミちゃんもはとちゃんの不快や困惑を分って。それを除いてはとちゃんを助けたく、
役立ちたくて『力』を使おうとしたのだろうけど。止めに出たユメイさんの判断が正解か。
はとちゃんやあたしの困惑を察し。それに苛立って『力』を行使しかけた、ノゾミちゃ
んの気配を察し。記者さんが酷い目に遭わない様にと。この人は、万事に用意周到だから。
「わたしがアパート入口に出たのは、ノゾミちゃんの『力』の行使を止める為だけど…」
そこでユメイさんがノゾミちゃんに答を。
「ノゾミちゃんは青珠に憑いて未だ日が浅い。しっかり馴染む前に『力』を使うと、疲れ
易いの。青珠に籠もっていても、日中『力』を外に及ぼす無茶をすれば、弱ってしまう
わ」
ノゾミちゃんは依代の鏡『良月』をはとちゃんに割らせ、自身共々ミカゲちゃんを倒し、
はとちゃんを助け。結果依代を失ったノゾミちゃんは、はとちゃんの青珠に宿り。でもそ
れは家の引っ越しと違い、仇や最愛の人を乗換える様な物で。安定する迄時間が掛るとか。
「ノゾミちゃんは桂ちゃんの最後の守りである以上に、わたし達のたいせつな人。桂ちゃ
んの危機以外で不用意に『力』を使って消耗し苦しむ事は、桂ちゃんもわたしも望まない。
桂ちゃんや陽子ちゃんを、大事に想ってくれる気持は有り難いけど、無理はしないで…」
「ゆめいあなた。私の為にあの場に現れ?」
ユメイさんは、記者さんやあたしやはとちゃんだけじゃなく。ノゾミちゃん迄を深く想
って、守り支えたいと。お凜やはとちゃんが瞳を見開く気持を、あたしも実感できました。
「ノゾミちゃんはわたしのたいせつな人よ」
その嘘も誇張もない気持がまっすぐ伝わり。
みんなが心洗われ爽やかさに浸っていた時。
ユメイさんは僅かに眉を顰め立ち上がった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
窓を開け放つユメイさんの肩越しに見ると。窓の外にはカメラを構えた屈強な男性の姿
があり。家の中を、あたし達を盗撮しようと?
「ちっ、ばれたか」「週刊深長の権田岩男さんと、宮下太一さんですね。困ります……」
ユメイさんは少し強い語調で、四十歳過ぎの屈強な中年男性を見つめ。この人が権田さ
んで、脇の背丈低い五分刈りの三十歳代の男性が宮下さんか。でも、ユメイさん良く人の
顔と名前覚えているね。覚えていればこそ即座に抗議でき、相手を怯ませられる訳だけど。
後ろ暗い取材をする者は、氏名会社を特定されると、幾ら剛胆でもやや怯む。上司や社
長に抗議出来るし。警察に通報したり訴えたりも出来るから。この応対は子供の及ばない。
ってユメイさんは拾年ご神木でオハシラ様で、世間の事なんて高校生半ば迄しか知らない
筈。条件はあたしやはとちゃんと同じ筈なのに…。
この様子だと、さっき群がった週刊誌やスポーツ紙の記者の名前や顔も、覚えていそう。
ユメイさんはこれを『力』を行使せず、しつこい取材や記者を退かせる方法だと考えて?
でも屈強な男性は、優しげな女の子の外見を侮って。正面から咎められても、尚退かず。
相方の宮下さんが、その裾を引くのも無視し。
「見つかったついでに、正面から一枚頂き」
ユメイさんを撮ろうと、フラッシュを焚くけど。一瞬早くユメイさんは右手を顔に翳し。
「お断りします」権田さんの意図を挫いて。
相手のカメラに手は届かないから、撮影は防げないけど。撮られたくないと言う以上に、
前に掌を開いて出して置く事で、写真の価値を減じ。この一瞬の対応力・判断力はすごい。
自分の意図を通せなくても、相手の意図を挫く事は出来る。ユメイさんって、発想が柔軟。
「一枚位撮らせろよ。減るもんじゃなし…」
「不当な方法に利得を与えては、正当な方法で取材する他の記者さんに不公平になるので。
そういう姿勢を真似られても、困りますし」
正視して、抗議の姿勢を保つユメイさんに。
権田さんは、その不快を大人の余裕に包み。
「へぇ、静かに大人しそうでも、意外と気が強いんだな。流石中身は弐拾六歳って処か」
「この様な取材方法は止めて下さい。わたし達だけではなく、松田さんにも迷惑です…」
そこであたしも漸く、権田さんと宮下さんが足を踏み入れた処が、公道でもこのアパー
トの敷地でもなく、隣家の中庭だと気付けた。彼らはお隣の一軒家の庭に侵入し、本来覗
けない角度から、この室内を撮ろうとしたのだ。
それははとちゃん達の迷惑以上に、隣の松田さんの迷惑で。さっき詰めかけた記者さん
に対してよりも応対が硬い訳だ。さっきはすり抜けただけで、撮影を咎めも妨げもしてな
かった。相手の出方で応対を変える。不思議ではないけど、この人はそれを即座に柔軟に。
「早く松田さんの敷地から出て下さい。奥さんの不在を狙ったのでしょうけど、もう買い
物から帰る頃です……そして丁寧に謝って」
「ふん、庭に入った位で。減る物じゃなし」
悪びれた様子も罪悪感の欠片もない姿勢に。
「花畑が踏み躙られています。松田さんの奥さんが精魂込めて育ててきたお花畑なのに」
ユメイさんの語調が更に強さを増した気が。
「誰が何をたいせつに想うのかは、様々です。だからこそ、何をたいせつに想うか分らな
い部外者は。無遠慮に他者の奥深くに土足で踏み込む事を慎むべきだと、わたしは想いま
す。
松田さんの奥さんに、奥さんの笑顔を楽しみにするご主人に、あなた達は謝るべき…」
もしあなたがそうしないなら、わたしが松田さんに事情を伝え、週刊深長編集部と深長
社に抗議や謝罪、賠償を求めるお手伝いをします。仮に法的に訴えるなら、証言もします。
そこ迄言って漸く彼らも拙いと感じた様で。
そこ迄言わなきゃ分らないかとも想うけど。
「ぐっ……こ、この小娘が、生意気をっ…」
「もうすぐ松田さんの奥さんが帰ってきます。
2人で所属も名乗って丁寧に謝って下さい。
後でわたしも松田さんに、この様な事態を招いた結果を謝りに参ります。その時にあな
た達の謝罪があったかどうかを確かめます」
どこの誰か分らないマスコミ記者ですハイさよならでは済ませられない、済ませないと。
記者さん達の名前や顔や所属を覚えているって言うのは、思ったより大きな武器なのかも。
「ダメですよ、これはこっちが旗色悪いです。権田さん、今日は引きましょう」「う…
…」
威嚇や嘲りではユメイさんを怯ませられず。進退窮まった権田さんは、宮下さんに引か
れ行くけど。かなり頭に血が上っていた様な…。
その時だった。その権田さんが行く先の公道から、こちらに向けてフラッシュが焚かれ。
「いい絵を撮らせて貰ったぜ、ユメイさん」
黒い長髪が少し薄い中肉中背の中年男性と。
少し背の低いスポーツ刈りの若い男性記者。
後でユメイさんに聞いた話しでは、四拾歳半ばの男性がスポーツ東京の熊谷直弘記者で、
若い男性が内川貴文記者。家の中を覗き込む角度は取れないけど、窓ぎわに現れ抗議する
ユメイさんの立ち姿は公道からも撮れた様で。こういう処を収める辺りは本当に抜け目な
い。
「屈強な他紙男性記者に一歩も引かず、道理を述べて行き過ぎた取材を諫め。当紙も行き
過ぎた取材は戒めているが、美しく凛々しい被写体を前に、改めて他山の石としたいと」
公道と隣家の敷地との、境界ぎりぎりに迄踏み込んで、覗き込む取材を悪びれない処も。
そこはユメイさんも敢て手を翳す事はせず。
窓の内に速やかに身を引くけどその時既に。
「スポ東だけに特ダネを撮らせる物ですか」
フラッシュはこの2人組以外からもう一つ。
黒髪ショートな二十歳代後半の若い女性と。
それよりやや年上のでも若く細身な男性の。
男性は気弱そうで女性に引っ張られる感じ。
後でユメイさんから、夕刊トップの大島桃花記者と中山栄太記者だと教わりました。本
当にユメイさん、自分目当てでこの辺に張り込み中の記者さんを、概ね把握している様で。
「不法侵入し隣家の花畑も被写体の家庭事情も土足で踏み躙る他紙男性記者を、強く制止。
凛々しく美しい横顔を本紙女性視点で接写」
隙あらばユメイさんを収めたい姿勢は権田さん達とほぼ同じ。明確に犯罪となる一線を
越えるか、そのライン上に留まるかの違いは。撮られる側には余り大きな違いではないか
も。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「お姉ちゃん……大丈夫?」「桂ちゃん…」
窓を閉め、はとちゃんに向き直ったユメイさんは既に、常の静かな穏やかさで。ううん、
あれ程に非礼な相手に対して毅然と応じても、ユメイさんの自然な柔らかさは微動だにせ
ず。声を荒げてさえいなかった。本当にこの人は。
「心配は要らないわ。お話ししただけよ…」
はとちゃんを正面間近に軽く抱き留めて。
左頬を撫でつつ肌身合わせて安心させて。
滑らかに解決されたから良かったけども。
あたし達ではこれ程巧くは凌げなかった。
こうして四六時中人目を気にせねばならない状況は、結構つらいかも。武道の達人でも
霊能者でもないあたしだけど。家の外で蠢く記者さん達の雑音が感じ取れて……来ない?
防音構造でもない普通のアパートの一室で。
間近のざわめきを感じないのはむしろ変だ。
「ゆめいの結界の効果よ。正確には、けいの母がけいの為に張った結界を、ゆめいが繕っ
たのだけど……あの有象無象共が詰めかけた頃から、周囲の気配を遮断する作りに変えた
様ね。けいは贄の血持ちで『力』を眠らせているから、何かの拍子に感じてしまうと…」
多少の物音も意識されなくなる様に。足音や話し声や機材の音も失念できる様に。生活
環境を良好に保ち。ううーん、ユメイさんって本当に理想的だわ。贄の血なんて特殊事情
を抱えるはとちゃんの傍には、欠かせないっ。
「尤も、あなたは結界があってもなくても人の気配なぞ感じ取れないでしょうに、陽子」
「そこはわたくしもノゾミさんに同感です」
「ちょ、お凜。いつの間にノゾミちゃん側に寝返った? あたしとはとちゃんを捨てて」
「わたくしが捨てたのは奈良さんだけです」
「元から捨てられる程の仲だったのかしら」
ノゾミちゃんもお凜も妙な処で巧く連携し。
「うわ、陽子ちゃん、2人に言われまくり」
ユメイさんに身を預けた侭のはとちゃんは。
同情してもらえても縋り付く隙間もなくて。
あたし余されている。空気にされているよ。
そんなこんなで中断した、昼ご飯を再開し。
ユメイさんははとちゃんから携帯を預って。
開く事はせずストラップの蒼い珠ごと懐へ。
「青珠に『力』を注ぐわね。夏の陽は依代に宿っていても消耗させられるでしょう。わた
しの想いを『力』と一緒に注ぐ事で、あなたと青珠の繋りを、より強く安定に導けるわ」
夏休みの宿題がないユメイさんは、お昼ご飯の後はお皿洗い、その後は洗濯に移行する。
部屋のお掃除は、勉強の妨げにならない様に、はとちゃんが不在だった間に済ませていた
模様で。その辺の作業の組み立ても鮮やかです。
昼ご飯を終えたあたし達は、静謐な環境で心ゆく迄。はとちゃんの愛らしさをお凜と奪
い合いつつ愉しんで、夏休みの宿題を進めて。長い日が傾く迄、一緒のひとときを満喫し
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ふうぅ、結構がんばったぁ」「あたしもかなり進んだわ」「奈良さんの進捗の半分は羽
藤さんの答を見せて貰った結果でしょうに」
夏の陽も沈んで窓の外は薄暗く。室内は電気の輝きに満ちている。今日はほぼお開きと
いう感じで、あたし達も少し砕けた雰囲気で。ユメイさんが淹れてくれた麦茶に口をつけ
て。
「半分でしょー半分。残り半分は自力で…」
「自力でお凜さんの答を、覗いていたよね」
「あー、はとちゃん迄あたしを裏切るぅ!」
「元から裏切られる程の仲だったのかしら」
陽が落ちなくても夕刻になれば姿を取れるノゾミちゃんだけど、まだ姿を現さず。昼間
の様に声だけ挟む。権田記者の様な人に撮られると警戒しているのかな。見慣れない女の
子が夜だけ現れると騒がれても困ると。でも。
「ノゾミちゃんも出てきて一緒にお茶菓子食べようよ」「ふぅ、仕方ないわね。けいは」
お泊りせずに帰るあたし達は、自宅で夕食を頂くので。ここではお茶菓子を少し。ユメ
イさんは、日没後はノゾミちゃんを本当に家族扱いし。おやつもお夕飯も出しているとか。
お凜はいい家の娘だから、外泊を心配される様で。はとちゃんの田舎行きの話しを聞い
た先週は、お話しが伸びに伸びて夜を徹したけど。その時はお凜は電話一本で済ませてい
たけど。暫く猫被りですわと苦笑いしていた。
あたしも一応嫁入り前で親の心配は理解できる。はとちゃんに新しい愛妻が出来た以上、
単独では2人の夜に割り込めないし。夏休みはまだ続く。お凜も休み中にお泊りする積り
でいるし。はとちゃんとの夜は次の機会にと。
お茶菓子を5人で頂いて一息ついた頃合に。
お凜の迎えの黒い車が着いて本日はお開き。
「騒々しい方々が、まだ傍にいる様ですわ」
「わたしは大丈夫、お姉ちゃんと一緒だし」
そう応えるはとちゃんが可愛い。ユメイさんに寄り添う姿も寄り添われるユメイさんも。
本当に好き合って肌身添わせる様は、羨ましい以上に納得ですというか目の保養というか。
「はとちゃんにはあたしも付いているから」
「奈良さんは羽藤さんや柚明さんの足を引っ張らない様に、頑張って下さいまし」「ぷ」
お凜の冷やかな返しは想定範囲だったけど。
ノゾミちゃんの『ぷ』って一体何ですかぁ。
でもその抗議を届かせる暇はあたしになく。
「……それでは羽藤さん、柚明さん、ついでにノゾミさんと奈良さんも、ごきげんよう」
車到着のタイミングを見計らって外に出て。
さっと乗り込んで去って行くお凜を見送り。
それでも後追いでフラッシュ焚かれていた。
こっち側にも詰めかけてきそうだったので。
あたし達は一度室内に戻り沈静化を待って。
遅くなりすぎない内にはとちゃん宅を辞し。
「気をつけてね、陽子ちゃん。家の近くには記者さんの目がいっぱいだから、却って変質
者とかは現れにくいと思うけど」「うんっ」
はとちゃんの気遣いと視線に、頷きを返した時だった。ユメイさんがこの両手を握って。
「今日はとても愉しかったわ。有り難う。わたしは余りおもてなしできなかったけど…」
また訪れてくれると嬉しい。澄んだ瞳で。
正視されて告げられると。まるで告白で。
心底喜んで望んでくれていると分るから。
あたしも頬染めて頷き返し腕を握り返し。
はとちゃんに微笑みかけ、ユメイさんを正視して。姿を顕さないノゾミちゃんも込みで、
また明日って手を振って。何気ないあたしの一日、愛しのはとちゃんとの愉しい時は終る。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ユメイさんの家の人じゃないあたしには。
流石に記者さんも群がり来る事はなくて。
玄関出た時はフラッシュも焚かれたけど。
あたしだって知るとみんなスルーに転じ。
静けさに包まれた夜の住宅街を独り歩む。
あたしを呼び止める女性の声は物陰から。
男声ならあたしは、記者さんでも足を止めず振り切っていたかも。流石に夜だし。でも
女声だったから、つい足が止まって。大人っぽい声に、一瞬だけユメイさんかと錯覚して。
良く聞けば全然違うのに。呼び止めてくれたかなと、呼び止めて欲しいと、思っていた
かな。はとちゃんやノゾミちゃんともう少しお話ししたかったし。そんな想いを察してく
れていたかもと、都合いい錯覚抱いちゃった。
「羽藤さんのクラスメート、奈良陽子さん」
艶やかな黒髪ショートに、落ち着いた色柄のタイトスカートの女性記者だった。確か夕
刊紙の大島さん。後ろには相方の男性記者も。
「何か用ですか」あたしが少し不機嫌なのは。
勝手にユメイさんを期待して外れた事への。
自身のバカバカしさへの八つ当たりだけど。
大島さんは、女子高生が夜道で呼び止められて、反応が少し硬いのは当たり前と微笑み。
「少しお話し聞いて貰っても良いかしら?」
お話し聞かせてと来たら断る積りだった。
その想定を外されて明確に拒めない内に。
「時間も長くは取らせない。あなたの家はどっち? そう、じゃ一緒に歩きながらでも」
肩を並べて歩き始め。走ったりする記者の故かヒールは履いてないけど。並んで歩くと
頭半分位高く。仕事中を意識してか、服の色も地味だけど、凛々しくて綺麗。相方男性は
彼女から『待っていて』と置き去られ。あたしを怯えさせない為かな。一対一で、女同士
で安心できる状態を作り、大島さんは冷静に。
「あなた、羽藤桂さんの家に住み込んでいる彼女を、本当に羽藤柚明だと思っている?」
素っ頓狂な事を訊かれたあたしは、目を瞬かせるのみで答が出ない。でもそれが冗談で
も何でもなく、この女性記者の抱く至当に自然な疑念なのだと、間をおいてあたしも悟り。
「拾年歳を取らない人間が本当にいると…」
あなたは思っているの? と問われてあたしも首を傾げてしまう。はとちゃんの言う事
だから、あたしも特に疑わず呑み込んだけど。
「拾年行方不明な人間が見つかる事はあるわ。借金や痴情の縺れが原因で、誰にも何も告
げず突然いなくなる事も時折ある。事件事故で死亡して、見つからず拾年放置される例も
あるけど。意外とどこかで暮らしている事も」
そこでも巧く行かなかったり、元の生活が恋しくなってふらっと戻ってきたり、何かの
拍子に見つかったり。7年過ぎて死亡認定された後で、見つかる事も多少あるわ。でもね。
「その拾年全く歳を取らず、女子高生の外見の侭戻ってくるなんて、あり得ると思う?」
強く答えられないのがもどかしい。ユメイさんの存在は、事実でも嘘みたいなんだもの。
「羽藤柚明は拾年前の行方不明時点で今のあなたと同じ歳、高校二年生よ。それから拾年
を経て、現在戸籍年齢は二十六歳、誕生日を迎えれば二十七歳……私と同期の筈なのよ」
そう言われて改めて、わたしは間近の大島さんを見つめてしまう。綺麗とか整っている
と言う以上に仕事をこなす大人の女性だった。容貌もスタイルも完成されて。はとちゃん
もユメイさんも勿論可愛いし、時折色香を感じるけど、この人の大人の色香とは質が異な
る。
「彼女が私と同じ歳だって、信じられて?」
信じられる根拠はある。でもそれを話しては拙い。あたしは、霊の鬼のノゾミちゃんや、
ユメイさんの『力』を実際見た。でもそれを抜きに考えれば、確かに大島さんの言う事は。
「あたしははとちゃんの言葉を信じてます」
この人を納得させるのは無理だ。客観性や合理性を満たす答なんて、はとちゃんの夏の
経観塚にはない。霊や鬼や鬼切部や。答えきれない以上に、あたしが答えちゃあ拙い物だ。
自分の信じた想いを答える他に方法がない。
少し心を鎖す感じで足を速め掛るあたしに。
「私も羽藤桂さんの言葉に嘘はないと思っているわ。少し接しただけだけど、素直で優し
くてややおっとりした、とっても良い子よ」
あたしの一番の人を褒められると嬉しくて。
速める足がつい鈍ってしまうあたしのバカ。
「でも羽藤桂さんが騙されているとしたら?
彼女が真相を知らされてないとしたら?」
羽藤柚明を名乗っているあの女の子が実は。
羽藤家と縁もゆかりもない別人だったなら。
「ちょ……ちょっと待って下さい。それっ」
考えてもなかった疑いを吹き込まれるのは。
真っ白な布に汚泥を塗りつける行いに似て。
洗っても完全に拭い取れず染みが残る様に。
大好きな人への疑いが僅かでも心に根付き。
「大変な事になってくるのではなくて? あなたのたいせつなお友達の家に、親戚も他に
いない天涯孤独の独り住まいに、その従姉を詐称する悪意な存在が同居しているなら…」
「ユメイさんはそんな人ではありません!」
その侭言わせておけなかった。否定しなければ、その言葉を止めさせなければ、あたし
がその疑いを了承した様に思えて。あたしがどんどん疑いに、心侵されていく様に思えて。
考えても見なかったよ。だってユメイさん。
あんなに柔らかく、穏やかに静かに優しく。
はとちゃんのことを心から、愛し愛されて。
「羽藤柚明はそんな人ではないかも知れない。でも今羽藤家に居着いているあの女の子
は」
「ユメイさんが羽藤柚明さんでないなら、一体あの人を誰だと言うんです、あなたは?」
劣勢を感じたあたしの問は想定されており。
大島さんは理知的な声ではんざわゆうかと、
「半澤優香、県立経観塚高校の2年に在籍」
ここ暫く行方不明で、捜索願の出ている女の子よと。大島さんは一枚の集合写真を示し。
男性教諭を中心に三十人位が映っているけど。おかっぱな黒髪の女の子は真ん中やや右位
に。でも写真の顔は小さすぎて、髪型は似ていたけど、ユメイさんだとも違うとも言い切
れず。
「地元の出身なら羽藤家の事情も承知かも」
羽藤家が拾年前に何かの事情で家族の大半を失い、遠くに移り住んだ事も。その時羽藤
柚明という女子高生が行方不明になった事も。
「この人がユメイさん、になりすまして今現在はとちゃんの家に住み着いていると、あな
た……大島さんは、言いたいんですか…?」
「人間が拾年歳を取らず、成長も老いもせずに行方不明から戻ってきたと、言うよりは」
余程説得力のある話しではない? そう見つめられると胸の内を見透かされそうで怖い。
はとちゃんが信じて明かしてくれた経観塚の、ノゾミちゃんや烏月さんユメイさんの事情
を、見抜かれそうで。急に生じたユメイさんへの微かな疑いを読み取られそうで。瞳を逸
らし。
「一体、何の目的があって他人になりすます必要なんてあるんですか。ユメイさんでもな
い人が、ユメイさんですって嘘言ってはとちゃんの家に住み着いて、何の利得があると」
後ろ向きな問はむしろ彼女の思う壺だった。
あたしはそこでこの女性記者の真の意図に。
「羽藤桂さん、先日唯一の肉親のお母さんを亡くしたわよねぇ。親戚も兄弟家族もなくて
天涯孤独。遺産は桂さん1人が全部を相続」
羽藤さんのお母さんは、結構な貯金と死亡保険金を遺した様ね。父方の実家には、広大
な山林と文化財並に立派な日本家屋が残って。桂さんが唯一の相続人なら全部だけど、柚
明さんが戻ってきたとなれば相続は二分される。
遺産狙い……。考えたくないことを考えさせられ、言いたくないことを言わされ。若く
ても相手は百戦錬磨の大人だった。人の考えがその方向に流れる様に材料を用意してくる。
「合理的に考えればそこに行き着くと思うわ。でも、今の報道は彼女の見かけの美しさ愛
らしさに引きずられて、賛美報道一色だから」
あたしももう少し周辺情報仕入れないと。
冷やかに涼やかにショートの黒髪揺らせ。
「お父さんの実家の日本家屋、所有を諦めて手放そうとしているでしょ、羽藤の2人は」
「そんな話しどうして知っているんです?」
あたしはちらっと聞かされたけど。別に隠す様なことでもないと。でもそれは本人達の
間の話しで、外部に漏れる中身ではない筈だ。
ユメイさんは、はとちゃんは拾年暮らしたこっちで今後も暮らすべきだって。はとちゃ
んがユメイさんと離れて暮らすことは考えられないし。そうなれば向こうは誰も住まない。
遺されたお金は貴重だから、相続税はお屋敷や周辺の土地を物納で。結果手放す形になる。
「私の推測から導けばそうなるの。彼女は面倒な屋敷や土地より現金を残したがる筈よ」
何も変ではない。はとちゃんのお母さんは、はとちゃんが大学に行ける位のお金を遺し
たと聞いたけど。相続税を払ったら、今稼ぐ手段を持たないはとちゃんのお金が減る。ユ
メイさんという同居人も出来たなら困る話しだ。戸籍上大人のユメイさんは、社会復帰し
て職に就く積りだけど、すぐには収入望めないし。今現金を崩したくない答は正解だと思
うけど。
「家や土地は手続を経ないとお金に出来ない。現金なら詐欺師でも口座から引き落せる
わ」
あなたも、違和感を感じてない訳ではないのでしょう? お母さんを亡くして一人きり
になった女の子の元に、突然拾年行方不明だった従姉と名乗る人物が、入れ替りに現れる。
その従姉を従姉だと、証言できる人はいない。
羽藤桂さんも拾年前は6歳で記憶が曖昧よ。人寂しい時に、昔の想い出っぽい一般的な
話しをされたら、ころっと騙される怖れもある。一体誰が彼女を羽藤柚明だと言い切れる
の?
「役場もまだ戸籍復活させてないのでしょ」
「滅多にないことで、田舎の役場では事例がないから、手続が遅れているだけだって…」
「本当にそうかしら? 行政機関は確証のない内は、無難な答を返すかも知れないけど」
そうやって、間違った判断を出さない様に。
周辺情報を集めているのかもね。私の様に。
「まあいいわ。聞けるだけの情報は聞けた」
いつの間にか、あたしの家が間近だった。
「私も悪意がある訳じゃないの。あなたや羽藤桂さんを心配だから、取材情報を一部打ち
明けた。今後も何か情報を得られたらお話ししても良い。あなたも知りたい事があったら
遠慮なく尋ねて。大抵の事は調べられる…」
携帯番号入りの『夕刊トップ・大島桃花』の名刺を渡され。あたしの携帯番号は訊かれ
なかった。まずあたしがアクション起こせば、携帯を掛ければ着信に記録が残る。一歩踏
み出すか踏み出さないかの判断は任された感じ。
ガツガツ踏み込んでくる様でいて、どこか抑制の利いた、誠実の欠片を残した応対は嫌
いじゃないけど。綺麗で賢く頼れるお姉さんっぽい人だけど。この女性の囁きに耳を傾け
てはいけない。ユメイさんは疑いたくないよ。
でも一度汚れた布は完全な清さを戻せなく。
あたしの心にはべっとりと疑いの根が残り。
あたし明日ははとちゃんに向き合えないよ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
朝はとちゃんから、図書館で3人お勉強の誘いを受けたけど、用事があるのって断った。
本当はなかったけど、何となく顔向けできず。嘘で断る応対に鬱になったけど、少し後で
クラスの目方さんから『ちょっと会いたい』と携帯がきて。少なくとも用事は本当になっ
た。気分転換に違う人と会って話すのも悪くない。
でも何の用事かな。ハックでお昼をって誘いだから午前中に暇がある。居間で見つけた、
昨日父さんが買ったらしい駅売夕刊紙と、母さんの女性週刊誌にユメイさんの記事があり。
『二十六歳と思えない初々しさ、奇跡の人』
『取材殺到に困惑しつつ、微笑み絶やさず』
『心こもった受け答え、大和撫子慎ましく』
『拾年の空白を越え、愛しい肉親との同居』
はとちゃんとユメイさんの氏名を伏せても。
同じ町に住んでいれば誰にでも分る状態だ。
「バッシング記事じゃないから良いけど…」
芸能人や犯罪容疑者の如く四六時中追い回され。はとちゃんは奇跡の人の家族と言うだ
けで、ユメイさんも戻ってきたと言うだけで。一日中監視されて。大島さんの様に疑う人
や、権田さんの様に隣近所の迷惑も構わない人に。
脇にいて、余波を被った位のあたしがこうなら。中心に近いはとちゃんや、本命たるユ
メイさんは、もっと大変なのかな。痛い顔も辛い顔も見せず。いつも穏やかに微笑むけど。
自然な姿勢を保つって実はすごい事なのかも。
「ユメイさん、あたし達以外には黒髪だ…」
携帯やデジカメで撮っても、そうだけど。
実は暫くの間、違和感なく見ていたけど。
事情を深く知る人の肉眼にしか、髪が蒼く映らないみたい。はとちゃんもあたしの指摘
で漸く写真の髪の色に気付いた様で。隣の松田さんや自治会長さんや、あたしの父さん母
さんには、ユメイさんの髪は黒く見えている。
ユメイさんに訊くと髪の色は黒なんだけど、『力』を持つ人やユメイさんの『力』のこ
と、オハシラ様の事情を知る人には、蒼く映ると。ユメイさんは贄の血の匂いを隠す為に
常時血の力を通わせていて。周囲に『認識洗浄』を及ぼしていると言っていた。それが及
んでない人には髪が蒼く視えるらしく。ざっくり言うと、ユメイさんの正体を知る人・見
抜いた人には、髪は蒼です。正体見抜いた証の様な。
各紙に目を通し、全部好意的な記事だと安心した辺りで正午近く。外行きに着替えてや
や曇り気味な空の元へ。はとちゃんと一緒じゃないから、少し気持の張りは足りないけど。
目方さん達はハックで仲良し5人で待っていた。授業で女子を班にする時、4人組にな
ることが多く。あたし達が3人で彼女達が5人なので、人数の貸借でお互い様の関係で…。
「今日は誘ったわたし達の奢りだから、何でも言ってよ」「うわ、辰宮さん太っ腹だね」
「その代りって言っては何だけど。話せる処迄でいーから教えてよ、羽藤さんのお話し」
まあ、後輩でもなく特に親しい仲でもないから、何か交換条件はあると思っていたけど。
今旬な話題って言うと、やはりその辺なのね。
「あたしは別にイヤじゃないけど。はとちゃんの話しなら、はとちゃんに訊けばいいじゃ
ない。あたしを通した又聞きより確実だよ」
思いついた侭に問うあたしに加藤さんが。
「訊きに行ける状態なら、訊きに行っているわよ。奈良さんも分るでしょ……羽藤さんの
アパート周辺のあの混み具合を」「確かに」
あの人垣に割り込む迄はしたくない。けど大きな注目を浴びている状況は気になるので、
情報を知りたい訳か。あたしなら記者さんに追い回される心配もなく、こうして会えるし。
あたしとお凜には、本来極秘扱いの鬼や霊の話し迄、明かしてくれたはとちゃんだけど。
それはあたしとお凜が口が硬いと言う前提で。あたしも喋っていけないこと迄は喋りませ
ん。
どの辺り迄喋っても構わないかって言うと。
はとちゃんが夏休み、お父さんの実家を見に経観塚って山奥の田舎町に行って。十年ぶ
りに再開されるお祭りの関係者として訪れた、『黒髪の長いすっごい美人の一夏のアバン
チュール』や『白銀の髪長な自称二十歳の女性ルポライター』と『家出童女の財閥令嬢』
と巡り逢って。最後は山の森に迷い込んだ末に、行方不明だった従姉ユメイさん、拾年歳
を取ってない奇跡の女性と、ご神木の下で感動の再会をして、めでたくお持ち帰りしまし
たと。
ユメイさんは拾年前行方不明になった事情も、今戻ってこれた事情も語れず。眠った様
な時間の末に、気付くとご神木の下で十六歳になったはとちゃんを膝枕した状態で目覚め。
現代の浦島太郎とか、リップ・ヴァン・ウィンクルの日本版とか、言われるのはその為で。
まあそんな感じ。それでも充分数奇でしょ。
オハシラ様やノゾミちゃんには触れません。
葛ちゃんは財閥継承の準備中で。じきに大々的なプレス発表があると思う、と聞かされ
たけど。それ迄は人々の注目はユメイさんに。
烏月さんもすっごい美人で人の注目浴びそうだけど。世の影で鬼を討つ鬼切部の立場上、
マスコミに着目されない様に処置済みらしく。サクヤさんは取材する側の為か。グラビア
アイドル顔負けの美人でもなぜか注目度は低く。
この辺はユメイさんも記者さんに一通り答えていて、既に全国的に周知済の内容だけど。
「すごぉい」「感動的ねぇ」「涙の再会…」
あたしの事じゃないにも関らず何か嬉しい。
目方さん達がお話しを喜んでくれたことも。
はとちゃんのハッピーエンドであることも。
ユメイさんが、はとちゃんのアパートに移り住む話しに、進んだ時だった。辰宮さんが、
「柚明さんは羽藤さんの家で、羽藤さんのお母様が羽藤さんに残した遺産を分けて頂いて、
使って暮らしていくことになりますの…?」
拾年行方不明で、その間職に就いておらず。技能もない女の子が、生きて行くのは難し
い。だから羽藤さん宅に同居する事情は分るけど。それは柚明さんが暫く羽藤さんに養っ
て貰う訳で。羽藤さんのお母様が羽藤さんの為に遺した遺産を、一部頂いて暮らして行く
ことに。
「死亡認定の時、ユメイさんの財産ははとちゃんのお母さんがもらったんだって。戸籍が
復活すればそれはユメイさんに戻るみたい」
遺産の何割かはユメイさんのお金って事になる。お金に色が付いている訳じゃないけど。
ユメイさんがはとちゃんに、唯養ってもらう訳じゃない。見た感じではその様に映るけど。
「羽藤さんが受け取る遺産の一部が、柚明さんに行く訳なんだ」「2人で山分け位かな」
「死亡保険金もあるから大金でしょうけど」
遺産相続だの大金だので、声が弾みがちな目方さん達を。加藤さんは少し窘める感じで、
「羽藤さんのお母さんが亡くなった為の相続ですものね。本当は、めでたくなんかない」
ユメイさんが帰ってきても、帰ってきてくれたからこそ。はとちゃんのお母さんも一緒
に出迎えてあげられれば、どれ程良かったか。そこに思い至ってしゅんとなる辰宮さん達
に、
「まぁ、今回のことははとちゃんのお母さんが亡くならなければ、始らなかったことだし。
はとちゃんは『実家は火事で焼け落ちた』って聞かされて、その存在も知らなかった訳で。
お母さんが亡くなって遺産整理で、ようやく経観塚に家と土地があると知って。それでも
自ら経観塚行かなかったら、色々な人に出会うこともなく、ユメイさんを思い出すことも
なく、助けて連れ帰ることも出来なかった」
何も知らず思い出さずお母さんと暮らしていた方が幸せか。お母さんを喪ってもユメイ
さんと暮らす方が幸せか。答なんて出ないけど。全ての始りははとちゃんのお母さんが亡
くなったことにある。手放しで喜べるお話しじゃなかったよね。あたしも失念していたわ。
「人の世は複雑ですのね」「全く本当に…」
あたし達のこの語りが、後々はとちゃん達の迷惑になるとは。この時は誰も予測できず。
しんみりした空気を変えようと、ポテトやドリンクを追加しつつ。あたしはユメイさんと
はとちゃんの、甘々な新婚生活を再現実況し。食べて喋って謳ってと、青春を謳歌してい
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
目方さん達とカラオケに行って、軽く盛り上がった後、解散して家への帰途途上だった。
『週刊深長の最新号、今日発売日なんだ…』
男性の読む週刊誌を手に取ることは、ほとんどないあたしだけど。権田記者を思い出し。
きっとこの最新号にも、ユメイさんの情報が。
『成算見えぬ解散、政権交代は目の前か?』
『郵政造反組で、新党結成の動きが進行中』
冒頭は、お堅い政治や経済の話題なのね。
少しページめくっていくと、ありました。
『当社取材に激しく反撥。取材班が表現の自由・取材の自由を丁寧に説明し、納得頂く』
え?
その記述には、あたしも流石に固まった。
権田記者が隣家の敷地に不法侵入し、はとちゃんのプライバシーを盗撮しようとした記
載がなく。ユメイさんが伸ばした掌で中央が塞がれた写真を敢て載せ、拒んだユメイさん
が悪い様な書き方を。しかも最後は権田記者が道理を述べて、ユメイさんが納得した様な。
これって、ありなの?
その隣には、権田記者と相方が2人堂々と胸から上のツーショットで。ユメイさんが掌
で顔を隠す写真と対比させ、悪いことしてないから顔出しましたって感じに映り。ひどい。
これを読んだ全国の人がユメイさんを誤解しちゃう。あたしは居ても立ってもいられなく。
「ありがとうございましたー」
週刊深長を一冊買って。こんな嘘記事嘘雑誌にお金を払うのは腹立たしいけど。とにか
く今はこの中身を、ユメイさんに見せなきゃ。
何となく顔向けできない気分も吹っ飛んで。
今は唯はとちゃんとユメイさんに逢いたく。
女子高生の健脚で数キロの道のりを早歩き。
はとちゃんのアパート近くで見かけたのは。
相方と2人で又もや隣家の敷地に入り込み。
窓の中をカメラで覗く権田記者の姿だった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ちょっとそこ、何やっているんですか!」
直したと見て分る花畑を再び踏み荒らして。
窓からはとちゃん家の中を撮ろうと構える。
彼らをあたしは叱りつけたい衝動に駆られ。
「あー?」指さし確認状態で問うあたしに。
権田記者は何を文句言うんだという感じで。
睨む視線を投げかけ、お前誰だという顔で。
彼にはあたしは取材対象でもなかったっけ。
「この前ユメイさんに言われたじゃないですか! 犯罪紛いの方法で取材は止めてって」
相方の若い男性は怯むけど、権田記者は、
「うるせぇな。こっちはこれでおまんま喰っているんだ。仕事の邪魔せず引っ込んでろ」
大の男が叱りつければ、女の子は怯えて逃げ散ると思っている。普段のあたしなら怯え
が入って、強い応対には出られなかったけど。
「不法侵入して盗撮して、週刊誌にまた嘘八百の記事書くんですか? あなたの仕事って、
嘘書いて読者をだますことじゃないですか」
「何だとぉ、てめぇ。言わせておけば…!」
「家の人に言いつけます。警察呼びますよ」
権田さんに関りのない鬱屈から、権田さんの書いた記事への憤懣も含め。あたしの中に
苛立ちが堪っていて。強い対応に強い対応を。
「俺が何をしたって言うんだ、俺が一体…」
「だから人の家の敷地に勝手に入り込んで」
歩み寄ってくる屈強な体に、僅かに怯む。
彼が公道に出ようと思えばこっちに来る訳だけど。むしろあたしを気にくわなくて、こ
っちに来る様に感じられるのは、気のせい?
手が届く辺り迄、権田さん達は歩み来て。
「……おう、そうだったか。じゃ、出るわ」
強面な反応が軟化して、ほっとする。歩み来たのは敷地外に出る為か。随分踏み荒らさ
れた後だけど、居続けるよりは出た方が良い。そこで彼はあたしに無造作に左手を伸ばし
て、
「嬢ちゃん、引っ張ってくれ」「あ、はい」
それを罠だと知ったのは、握った左手首を思い切り引っ張られ。身の軽いあたしが松田
さんの中庭に、彼の傍に入り込まされた後で。すごい腕力だ。触ればその腕の太さも固さ
も。
「さて、これで嬢ちゃんも同罪だ」「え?」
「ぴーぴー騒いでくれたけど、こうして写真に収めれば……不法侵入は、嬢ちゃんの方だ。
俺はそれを咎め叱る正義の記者と。ちょっと腹に据えかねたから、お仕置きもしねぇとな。
ん? 何だ、もう怯えているのか。困ったな、これからしっかり怯えさせてやるっての
に」
警察に行っても好いんだぜ。証拠写真は俺のだけで証人は宮下だ。果たして嬢ちゃんの
言い分が採用されるかな。子供の証言と大人の証言。こっちは百万部の雑誌の信用がある。
「う、そんな、こと。言われても、ずるい」
『呆れた女子高生、不法侵入の絵』とでも銘打てば、全国に情報発信できるからな。お前、
夏休み明けには退学になるかも知れないぞぉ。
「殴ったりはしねぇよ。女子高生を傷つけたらこっちの印象が悪くなる。男ならバシーン
と一発引っぱたいて、黙らせている処だが」
言いながら間近に迫るの、本当に怖いです。
屈強な体に厳つい顔から、見下ろす目線で。
「今時の娘は生意気盛りで……謝れえっ!」
いきなりの大声に、腰が抜けそうになる。
左手首は握った侭で、離してくれないし。
もうどうなっちゃうか分らなく涙滲んで。
怒鳴られる侭に謝ろうかと思ったその時。
「陽子ちゃんから離れなさい!」
聞き慣れた人の、でも一度も聞いた事のない、清冽に強い意思を込めた声が響き渡った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ユメイさん……」「柚明チャンですよっ」
宮下記者が、驚きに眼開いて暫く黙する権田記者の袖を引っ張るけど。あたしはむしろ
権田記者の気持が理解できた。駆けつけたユメイさんの気配も姿勢も整って凛々しいこと。
その声もいつもの柔らかな感じとは異なって。優しさを残しつつも、毅然と相手を威圧し
て。
「華奢な女の子を脅しつけて、一体何を望むのですか? 早く陽子ちゃんを解き放って」
権田記者は暫くの間、ユメイさんに見とれて我を失っていたけど、漸く状況を思い返し。
それでも太い男性の腕は振り解けず。大人の男性と女の子の腕力差は、想像以上に大きい。
「で? その後あんたも俺に、この中庭から出ろと、お説教下さるのかね」「勿論です」
権田さんは仕方ねぇなと応えて、あたしの左手首を掴んだ左手を放し。毅然と言われれ
ば素直に従うんだ。立ちつくすあたしの前で権田さんは、ユメイさんに右手を伸ばしつつ。
「そっち出るから。ちょっと手を引いて…」
その瞬間、さっきの情景と被ってあたしは。
「! ユメイさん、危な……」間に合わない。
ユメイさんはあたしと同じく、従う振りをした権田さんの絶妙の誘いに嵌り。伸ばした
右手首をがっちり握られ、中庭に引きずり…。
「っ!」「ユメイさんっ!」「まんまと…」
引っ張り込まれる、と思えた瞬間。権田さんの動きが止まり。彼の意思で止めた訳では
ない。ユメイさんが、力づくで引っ張り込もうと目論む彼の動きを、力づくで引き止めて。
「わたしも中庭に引き込む積りでしたか?」
引きずり込まれない。背も高く肩幅も広く筋肉隆々な、体重では2倍以上ある屈強な男
性に。華奢な右手首をがっちり掴まれても引っ張り返して、尚崩れずその体勢を保ち続け。
「力で決着付く迄納得行かないですか。己と相手の強弱を分らないと得心できませんか」
「ぬぐっ、この。小娘の癖に、なかなか…」
想像以上だった。経観塚ではとちゃんを鬼の脅威から戦い守ったと、聞いてはいたけど。
外見はあたしと同じで手足も細く。静かに穏やかな応対に、戦う人の鋭さ強さは感じられ
なかったので。目の前で見て尚信じられない。
「くそっ、これなら……おっとととっ…!」
引っ張り合った末、体勢を崩した権田さんがユメイさんの方に倒れ掛る。と思えた次の
瞬間、権田さんは逆に体を反らせ、全体重を掛けて反動を使い、一気に中庭側に体を引く。
気の抜けたユメイさんを渾身の力で引っ張り。
「なぁんてなあぁぁ。……どうだあぁっ!」
思わず目を閉じる。見ていられない。一気にユメイさんが中庭に引きずられ、投げ飛ば
されて土に汚れ、押し倒される様子まで瞼に浮んで。一度倒れ掛って油断させて体勢崩し、
あの体重と筋肉で、強靱なバネ使っては絶対。華奢で身の軽いユメイさんが無事で済む筈
が。
『あたし、自分の憤懣を抑えきれなかった所為で、ユメイさんまで揉め事に巻き込んで』
間近で人の体が大きく動かされる風を感じ。
人の倒れるどさっと言う物音に肌身が震え。
抑えた悲鳴・呻き声が聞えた様な気がして。
心臓潰される思いで、恐る恐る瞳を開くと。
「ユメイさん……だいじょうぶ、なの…?」
ユメイさんは何事もなく公道脇に独り佇み。
掴まれていた筈の手首は自由を取り戻して。
その繊手を引っ張った太い腕の男性記者は。
公道側に投げ転がされ呻き声を上げていた。
ユメイさんはどうやら『一度力を抜いて相手を油断させ体勢を崩し、次の瞬間一気に反
対側に引っ張る』権田記者の所作を、その侭返したみたい。引っ張り合いから突如力を抜
いてユメイさんを油断させ体勢崩し、その隙を狙い次の瞬間渾身の力で中庭側に引っ張る。
ユメイさんはその剛力に一瞬だけ身を任せ。引っ掛った様に見せ、次の瞬間踏ん張り逆
に彼を引っ張り返す。読んだ積りが全て読まれ、逆に彼が引っ張り込まれ。でもあの豪腕
に耐えるとは。あの筋肉質に重い体を投げるとは。
誰もこの一瞬は撮れなかった様で。悔しげな呟きが聞えた。華奢なユメイさんが屈強な
権田さんを退けるのは想定外で。腕を掴まれた時はフラッシュもあっだけど。結局どこの
雑誌夕刊にも、この記事は掲載されなかった。記者仲間の権田さんへの『武士の情け』か
も。
「宮下さんも早く中庭を出て下さい」「あ」
権田記者は暫く起き上がれず。ユメイさんは正面からあたしを軽く抱き包み、もう大丈
夫よとこの頬に頬を合わせてくれて。あたしが何より欲しかった柔らかな感触を。この人
はやはり、敵を退けるより心を守る人なんだ。
周辺では慌ててフラッシュが焚かれている。『絶好の機会を逃した!』と思いつつ、そ
の麗しい立ち姿だけでも、掲載の為に残そうと。あたしも一緒に撮られちゃった。これは
役得。
蹲った侭呻き声が唸り声に変る権田記者に。
タックルの隙を伺う様な彼にユメイさんは、
「あなたが陽子ちゃんを無理に中庭に引っ張った事は、わたしが証言できます。わたしの
証言がなくても、中庭から撮ったその写真があなたの不法侵入を物語っています。警察に
申し出ればあなたの罪も明らかになりますが、深長社社員のあなたは宜しいのですか
…?」
その通りだった。ユメイさんの証言以上に、公道を背にしたあたしの写真は、権田さん
達の不法侵入を示す。その上写真の位置関係は、彼が引き込んだとのあたしの主張の傍証
にも。彼には前科があって、前回も今回も確信犯だ。
「陽子ちゃん、大丈夫よ。あなたが故意に他人の花畑を踏み躙る子じゃない事は、みんな
が分っている。謝ればきっと許してくれる」
権田さんが百万部の雑誌を背景にしても。
世の中に読み物は週刊深長だけではない。
「ここでわたし達を撮って一部始終を見た他者の記者さんは、あなたや深長社の意向に関
らずに、事実を配信してくれるでしょう…」
一社だけ違う報道しても、これ程明快な事実誤認は記者の恥になるのみ。それでも強行
するなら、わたしに配信は止められないけど。
後であたしも見せてもらった。週刊深長はあの通りでも、スポーツ東京と夕刊トップは。
『屈強な他紙男性記者に一歩も引かず、道理を述べて行き過ぎた取材を諫め。当紙も行き
過ぎた取材は戒めているが、美しく凛々しい被写体を前に、改めて他山の石としたい…』
『不法侵入し隣家の花畑も被写体の家庭事情も土足で踏み躙る他紙男性記者を、強く制止。
凛々しく美しい横顔を本紙女性視点で接写』
世の中には話しの通じない人もいるけれど。
話せば分ってくれる人も決して少なくない。
「くそ……! この、生意気な小娘がっ…」
権田さんは頭に血が上っていた様だけど。
まだ掴み掛る隙を探す目つきだったけど。
今掴み掛られたら、ユメイさんはあたしを抱き留めているから即応できない。この柔ら
かな感触を手放したくないけど。微かに不安になって、彼の動きを見つめ直したその時に。
「権田さん、この辺にしておきましょうや」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
声を挟めたのはスポーツ東京の熊谷記者だ。
左耳に何事か囁くと権田さんは不満ながら。
「引き上げてくれたぁ……」「陽子ちゃん」
去りゆく2人を見送ると、急に腰が抜け。
ユメイさんに、尚深く身を預ける感じに。
濃密な触れ合いも存分に接写されたけど。
「あんたも女だろ。無茶は大概にしておけ」
「助かりました。やや興奮しておられたので、中々お話しを通じ合わせることが出来ず
…」
ユメイさんは全く独力で権田記者を退けた。
熊谷さんは最後に来て彼を帰らせただけで。
何も危険を負ってないし強さも見せてない。
でもユメイさんは彼にも丁寧に頭を下げて。
結果まるでこの黒髪長い中年男性が、あたし達を守り庇った様にも映る。そう見せかけ
るのがこの男性の目論見なのかも。恩人に似た立場になって、ユメイさんに近付こうとの。
「戸籍上の年齢は二十六でも、見かけはそこの嬢ちゃんと同じ女子高生だ。大人の積りで
話すとどうしても生意気と取られる。ここは拾年歳を取らなかったことの、損な面かな」
あたしにも『女子高生のくせに』って姿勢だったもんね、権田さん。歳を取らないこと
も利点ばかりじゃない。そう言われて気をつけますと、素直に頭を下げて了承を返すのが、
ユメイさんの真似できぬ大人な処なんだけど。
「そこの嬢ちゃんは、少し休ませた方が良いな……肩を貸そう」「いえ、大丈夫ですっ」
それは善意ではなく。あたしを口実に女の子の家に上がり込む企みだ。そうはさせない。
この人は唯の見知らぬ男性じゃなくマスコミの人だ。口実の根を断とうとあたしは、大丈
夫を示す為に、ユメイさんの支えを解くけど。
「あ、あら……」まだ足下がふらついていて。
「陽子ちゃん危ない」ユメイさんに気遣われ。
「ほら言わんこっちゃない。無理は禁物だ」
熊谷さんの両腕に体を支えられることに。
「有り難うございます、熊谷さん。……陽子ちゃん、お願いだから無理をしないで……」
余計なことしたかも。支えられた侭でいれば、熊谷さんの申し出を断れた。あたしの失
敗ではとちゃんの家に男性を招き入れる状況を導き。でも間近に優しい双眸の今の憂いは、
「あなたが無事であってくれることが大事なの。それさえ保てれば、わたしは良いから」
あたしは熊谷記者に肩を支えられ、内田記者とユメイさんと一緒に、はとちゃんの家へ。
ご近所の奥さん方が遠巻きに、アパートを囲む記者さんにだけじゃなく、ユメイさんや
あたしに迄、困惑というか迷惑というか、厭う視線を向けて来ているのを、微かに感じた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「も、もう大丈夫です」「おう、そうか?」
玄関で、あたしは男性の腕の支えを解いて。ユメイさんは全員を居間へ招き。男性2人
は、夏休み前から女所帯の室内を珍しげに眺め…。
私生活の撮影はご遠慮下さいと、ユメイさんが先に釘を刺してなければ、彼らはきっと
撮っていた。家の中に上げてインタビューに応じる今は、彼らもその指示には素直に従い。
ユメイさんの招きに従って左隣にあたしが座り、テーブルを挟んで男性記者2人が座る。
早速内川記者が間近でフラッシュを焚くのに、顔写真の掲載はお止め下さいと再度釘を刺
し。既に週刊誌やスポーツ紙に掲載されているのは、遠くから隠れて撮られた非公認の写
真だ。
インタビューに応じたから、彼らも今は従うけど。心許せる関係じゃない。そう思うと、
砕けた口調で親しみを示してくる男性にも心で身構えなきゃならなくて、気疲れしそうだ。
「まず……陽子ちゃんのハンカチを拾って下さって、有り難うございます」「へ……?」
その中身には誰よりあたしが驚かされた。
慌ててポケットを探ったけど成果はなく。
捜し物は目の前に座る熊谷記者の手から。
「しゃーねーな」「あ、ありがとうござ…」
この時は気付かなかったけど。あたしが権田記者と揉めた時に落したと思っていたけど。
後から考えれば、これは熊谷記者があたしのポケットから掠め取っていた物で。『落し物
を届ける』名目でこの部屋に上がり込む為に。
ユメイさんはそれを察し、どっちにせよ部屋に上げざるを得ないと考え、彼らを招いた。
そしてここで返してもらう事で、今後に糸を引かない様に。虚々実々の、駆け引きです…。
返してもらえた後は、ユメイさんはあたしに隣室で寛いでと促して。取材はユメイさん
が受ける物だから、あたしは直接関係ないと。
ジュースを渡された時に、耳打ちされて。
「桂ちゃんはお昼寝中なの。ごめんなさい」
「あ、はい。妨げない様に、静かにします」
余力があればあたしも挟まりたかったけど。
権田さんとの経緯であたしもややお疲れで。
好意に甘えて襖一枚隔てた隣室に引き取り。
図書館から帰って来たはとちゃんは、もう一つの隣室でお昼寝らしい。ノゾミちゃんも
記者さんの来訪を察して出てこないだろうし。少し気分が楽になったあたしは、隣室のイ
ンタビューに耳を傾ける。記者さんの取材なら掲載される内容で、聞いても良いと思った
し。
「あんた、素人じゃないな。あの権田に竦まない処は、実年齢が女子高生じゃないって以
上に武道をそこそこ習ってないと……亡くなった叔母、羽藤真弓の仕込みか?」「護身の
技です。叔母さんは武道の家の育ちなので」
「じっくり聞かせて貰おうかな」「はい…」
ユメイさんは声も潜めず質問に淡々と答え。拾年前の夜の、既に何度か公表された内容
を。幼子だったはとちゃん達が、なぜか夜の山にフラフラ出歩いて。ユメイさんやはとち
ゃんの両親が探し追い掛け。豪雨の中、ユメイさんはご神木の傍で気を失い……目覚める
と拾年経っていて、同じご神木の元で、拾六の乙女になったはとちゃんに抱かれて目醒め
たと。
「拾年の間はまるで体を喪って、ご神木の中にいた様な感じで、何もかも定かではなく」
ユメイさん、一応嘘は言ってない。ざっくり省略したり言い換えた処はあるけど、全部
を報されたあたし達から見ても、それは決して偽りでも間違いでもなく。ある意味すごい。
「季節の移り変りを見ていた様な気がします。ご神木の中からの視点で森の緑の移ろい
を」
幾ら訊いても、拾年の間の答は巧く引き出せないので。熊谷さん達は拾年前の夜以前と、
はとちゃんに抱かれ戻ってきて以降の話しに。それなら、余り奇異なこともないから大丈
夫。
それでも綿密に、問を発して答をもらうと。
今話題の人だけに、良い記事になりそうで。
あたしもうつらうつらしつつ聞いていると。
いつの間にか夏の日も傾いて視界も染まり。
そろそろ終りと思えた頃にその話題は突如。
「○○県警の刑事さんは訪ねてきたかい?」
いいえ、と言うユメイさんの答に淀みはなかったけど。刑事さんがユメイさんに用事?
「記者に紛れ張り込んでいる。俺も職務質問されて漸く分った。見慣れない顔だとは思っ
ていたんだが、ここの所轄の刑事じゃない」
「経観塚を管轄する県警の刑事さんですね」
そう言うことだ。熊谷さんはユメイさんの理解が早いことに、満足した様な声で続けて。
「拾年前の事件は人死にが出ているからな」
はとちゃんのお父さんが生命を落し。双子のお兄さんの白花さんも行方不明で、世間的
には実質そこが最期の生存情報と言うことに。はとちゃんのお母さんは無事だったけど、
ユメイさんも行方不明で一度は死亡認定されたし、幼いはとちゃんも記憶を失う惨事だっ
た。
確かに警察が放置する事件じゃない。でもそこを掘り返されたら、捜査されたら。はと
ちゃんやユメイさんは、どうなっちゃうの…。
「お蔵入りになっていたけど、あんたが戻ってきたことで捜査が再び動くのかも知れない。
この辺の事情も気に掛る処だが……本当に憶えてないのかい? 何か思い返した事は?」
「残念ですが、お話しした以上のことは…」
答えられませんと、ユメイさんが会釈をする様が、耳に入る声だけで瞼の裏に思い浮ぶ。
でもこの時は、熊谷記者も尚食い下がり。
ユメイさんの、唯一の弱点を突いてきた。
「仕方ねぇな。じゃ後は妹さんに訊くかな」
「桂ちゃんは未成年です。取材はお断りします。カメラもマイクも向けないで下さい…」
「それはあんたの答え方次第ってことかな」
まぁいいさ。熊谷さんは自白を強要せず。
ユメイさんも尚声も姿勢も乱れないけど。
攻める側の強みと守る側の弱味が窺えて。
「こっちももう少し周辺情報探って、良い問をぶつけることにするよ。妹さんに問わない
代りに、あんたには尋ねて良いんだろう?」
ユメイさんが拒めない様に、問を発する。
これが取材のプロなのか。それに対して、
「こちらも取材への答え方を、考えさせて頂きます。今日はそのきっかけを頂けました」
真相を暴き立てたい者と守り通したい者。
お互いの求める物が衝突した瞬間だった。
権田記者の無法が未だ可愛く見えてくる。
あたし、挟まらなくて良かった助かった。
唯の女子高生に過ぎないあたしが、あんな処に挟まって、下手な失言でもしよう物なら。
鬼の闘いに挟まったはとちゃんの様な物だよ。きっとユメイさんの足引っ張って迷惑掛け
た。
襖の向うでは本日の応酬はこれで終りと。
最後迄相手の意図を探り合う展開の末に。
「じゃあ……また来るわ」「お手柔らかに」
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
熊谷さん達が引き上げた後で、あたしはユメイさんに抱き留められて。癒しの力で疲れ
を拭ってもらい。あたしが言うのも何だけど、大丈夫って尋ねると。頬を合わせ大丈夫よ
と、あたしが一番欲しかった答を静かに柔らかに。この人の意志は本当にどんな時でも崩
れない。拾年オハシラ様を務められた強さを実感した。
静かな侭のもう一つの部屋に視線を移すと。
ユメイさんはあたしの瞳を瞳で覗き込んで。
「桂ちゃんはお疲れなの。ごめんなさいね」
夏バテなのかな。記者さん達が詰めかけたりする事情もあって、毎日は逢えてないけど。
逢えた時は元気そうだけど、携帯掛けて繋った時には、以前よりお昼寝が多い様な印象が。
ユメイさんは、今のはとちゃんに休息が必要なので、起こしてあたしに応対させること
が出来ないと、そのことに申し訳なさそうで。そこ迄気遣わせたことが、逆に申し訳ない
位。
「いえ、ユメイさんがちゃんと把握してくれているなら、ちっとも問題ないです……逢っ
てお話ししたかったなって、少しだけ、少しだけ思っちゃったけど……また逢えますし」
深刻な状況ではないんですよね? と尋ねると、ユメイさんは深く頷いてこの手を握り、
「肌身添わせて癒しを注いで、ノゾミちゃんにも力を注いで、明日には元気に応対できる
様にして置くわ。また来てもらって良い?」
はい。綺麗で優しく甘く柔らかく、でも必要な時には断固として賢く強く。大人の男性
の本気相手にも一歩も引かずに。この時は夢の園のはとちゃんが、本気で羨ましく思えた。
その後ユメイさんに付き添われ、隣家の松田さんご夫妻に、事情を話し謝って。悪いの
は権田さん達だから、奥さんも憤懣を抑え気味だったけど。でもその原因が生じなければ、
ユメイさんが来てなければって感じが窺えた。
権田さん達は一度も謝りに来てない様で。
ご主人は電話で深長社に苦情を述べたと。
奥さんは明日警察に被害届を出すと言い。
「あなたに言っても仕方がない事なのだけど、何とかして貰いたいわ。いい加減毎度毎
度」
他にもご近所さんは迷惑を蒙っている様で。報道陣は朝も夜もはとちゃんの家を張り続
け。時に近所の人にも事情を尋ね。大人だけじゃなく子供にも遠慮なくマイク向け。その
上その騒擾に便乗した不審者が、塾や仕事で帰りの遅い女の子や女性をつけ回していると
か…。
当初は若く綺麗で、物腰柔らかな良い隣人が来たと。女の子1人のはとちゃん家を守る
『主婦』が出来て良かったと。好印象で始ったのに。印象が暗転しつつある状況を感じた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
今朝も早くから頭上は抜ける様な青空で。
日差しが強くなりすぎない内にと、歩いて向ったはとちゃんの家で。正確にはその傍で。
今朝も記者さんの人垣が出来ている。ご近所の奥さん達がやや遠目に、今度は何が起きた
のかと窺う様子を横目に見つつ。近づくと…。
「わたしへの取材を目的に来ておられる記者さん達への、お願いです。これを、どうぞ」
陽子ちゃんいらっしゃい。今日も来てくれて有り難う……桂ちゃんはもう起きているわ。
入ってと言われてあたしは、記者さんを掻き分け掻き分けアパート入口へ。そこではユ
メイさんがプリントとバスケットを手に持ち。バスケットの中からは焼きたての良い香り
が。これはクッキー? ユメイさんの、手作りか。
「みなさんもお仕事お疲れ様です。連日わたしの様な者を撮る為に、雨風に晒されつつ」
あたしはユメイさんの促しに従って、その侭玄関へ。玄関の中では、はとちゃんが外の
様子を窺いながら、携帯で誰かと話している。あたしの来訪を見て、おはよーと唇が動い
た。
「今もお姉ちゃん、詰めかけた記者さん達の応対しているの。合意して決めたルールに従
って取材して下さいって。多くの人は納得してくれたけど。ご近所の敷地に勝手に入って、
ウチの窓を覗き見てお姉ちゃんやわたしを撮る人もいて。ウチよりご近所に迷惑だから…。