人の世の毀誉褒貶〔丁〕(後)



 柚明の凜とした応対が、まともに掲載される事はなく。報道も最初の『拾年行方不明で
死亡認定』『突然発見』『歳を取ってない』『若くて綺麗』と言った事実報道が影を潜め。

 なぜ行方不明になったのか、あの夜何があったのか、この拾年どこで何をしていたのか、
どうして今戻って来れたのか等。柚明の背景や思惑に推移して。同じ報道を繰り返しても、
読者の興味を満たせないと言う以上に。落差を強調して人目を惹きたいとの意図が窺え…。

 旅館に酒を配達に来た大伴酒店の主人が。
 旅館の女将さんに話しかける声が届いて。

「奇跡の人は、行方不明中の経観塚高校の女生徒だったんだって? 東京の新聞記者が何
件か、こっちに電話を掛けて来たらしいね」

「まあまあ、じゃあ拾年歳を取ってなかった訳じゃなく。現役の女子高校生だったの?」

 女将さんが長閑な声で相槌を返す昼少し前。
 あたしはその傍で言葉は挟まず耳を欹てて。

「拾年歳を取らないなんてある筈がないって、言われて見りゃそうだよなぁ」「そうね
ぇ」

 柚明の事実に現実感のない事が仇になった。
 これはどうやっても補いの効かぬ処だから。

 報道では経観塚の地名も明示してないけど。
 地元の者は問い合わせの数で察しが付いて。

「夏休み前から行方不明だったって。経観塚は事件も少ない田舎町だけど、最近は郷土資
料館に盗人が入り、学校の先生が不審死して。少し物騒だね」

「でも、親御さんも心配していたでしょうから、見つかったなら一安心」

 それがそうすんなり解決しそうにないのさ。
 大伴酒店の主人はぎらつく陽に汗を拭って。

「本人は自分は現役女子高生じゃない、親御さんに逢っても意味はないって。雑誌の記事
じゃ、町に住む天涯孤独の女子高生の従姉になりすまし、遺産狙いで上がり込んだのがバ
レて、引っ込みつかないとか」「まぁまぁ」

 極力表情に不快を出さない様にして、秀臣の部屋を訪ねる。部屋には既に、讃良もいた。

「経観塚の役場が、柚明さんの戸籍復活を延期した様です」「どういう事だい、それは」

 報道陣の取材には役場は『個人情報は答えられない』『戸籍復活は法律に従う』と通常
の応対を返した様ですが。報道関係者を装った苦情電話が殺到した様で、何かのトラブル
に絡む怖れを感じたらしく。役場は過熱報道の沈静化を待つと、暫く様子見の方針に転じ。

 私見では、役場のその様な応対を招く為に。
 敢て強面な苦情電話を複数者を装って連ね。
 続いた連中は報道と言うより組織工作です。

「柚明さんの信頼を貶めたい人達ですか?」

 讃良は秀臣の考えに首を傾げ。一体誰がそんな事をして喜ぶのか、全景が見えない様だ。

「柚明叩きに走る報道陣には追い風さ。役場が何を言っても、マスコミは分って『戸籍復
活中止』を報じている。更に報道を過熱させ、それに影響されて、本当に役場が戸籍復活
を中止すれば、虚偽報道が事実になる、と…」

「ペンは……真実よりも強いんですか…?」
「若杉のさららが驚くのはやや意外だねぇ」

 でも流石のマスコミも、バッシングの為に組織的にクレーム電話を、本人でもない役場
に掛けるとは考え難い。奴らの体質は承知だけど。部数が増し儲けになるから虚報を連ね、
バッシングしても。柚明に恨み憎しみや別の思惑を抱かぬ限り。無駄な労力や経費が嵩む
だけ。又は柚明が注目される現状に不満が?

「経観塚は大きな町の役場じゃない。マスコミ対応も不慣れだし、それを装った組織的な
クレームへの対応も想定外だろう。普通の勤め人である担当窓口に、罵声怒声の苦情電話
が連続して、家族に害が及ぶと脅されては」

 適当な口実を付けて手続を止める怖れも。
 秀臣の答に讃良は納得行かぬ顔と声音で。

「それこそが、報じるべきニュースではないのですか? 適正な手続を妨げる悪質で組織
的な脅しこそ、世に公表して批判すべき…」

「ところが報道の叩く標的は柚明にあって。
 柚明を貶める悪意な動きは持て囃される。

 日本のマスコミはいつもそうさ。本当に叩くべき相手を放置して、叩くべきでない相手
を非難し、独りよがりの善意に自ら感涙し」

 腹の虫の治まりきらない侭で手に持った。
 スポーツ東京の一面には、これも派手に、

『奇跡の人の拾年ぶりの復活は遺産狙い?』

 拾年前に父を喪い、母1人子1人の母子家庭に育った女子高生Kさんが、急な病で母を
喪ったこの夏、入れ替りに現れた年上の従姉。天涯孤独の心の隙に入り込み、唯一の肉親
として振る舞うも、その狙いは膨大な遺産か…。

「柚明が桂の遺産を掠め取る狙いで、現れた様な印象を与える書き方を……嘘八百だよ」

『従妹Kの親友Y子の語った内容によれば』

 奇跡の人Yは従妹Kのアパートに同居して、Kの母がKに残した遺産を費やして、生活
していく。拾年間まともな職についてないとは、一体どういう行方不明だったのか疑念が
募る。

『本紙も更に究明・調査を進める方針だが』

 YがKに養われる状況に違いはない。その位奇跡を起こして食い繋げと言いたくなるが、
Yは自身の死亡認定時に、己の資産がKの母に渡っているからと、己の権利を頑なに主張。
女子高生で死亡認定されて、どれ程の遺産だったかは知らないが、高利回りな資産運用だ。

「こんな証言をした人が、いるのですか?」

 桂さんも柚明さんも、みんなに愛される心優しい人だと、サクヤさんは話していたのに。
柚明さんが恨まれ憎まれる咎のある人の様な。

 讃良がやや混乱した顔で問うてくるのに。

「桂や柚明に近い者が、そんな証言をする訳がない。捏造か適当な単語の切り貼りだよ」

「蟹は甲羅に似せて穴を掘るもの。損得勘定に生きる者は、羽藤桂さんと柚明さんの関係
にも、利害や打算を読み取るのでしょうな」

『死亡保険金もありその遺産はかなりの額』
『Yが戻らなければKが全て相続していた』
『丁度良い時に戻ってきた物だ、正に奇跡』
『Kの母の死去から動き出した。その逝去を見定めた様なこの挙動には、重大な疑惑が』

「夕刊トップの記事に似てます。柚明さんを、行方不明中の経観塚高校の女生徒だって処
は、スポーツ東京は『遺産狙いの従姉』で少し違う書き方だけど、その他は丸写しっぽい
…」

「バッシングに転じたのも、殆ど業界足並み揃えてだったし。ニュースソースも共通かも
ね。柚明を叩きたい何かの意思に、日本中が操られ踊らされている様な薄気味悪さだよ」

「持ち上げて有名人にした後で、スキャンダルで落すから売れる。無名の人では、幾ら報
道してもニュースにならない。それを分ってマスコミは、最初に気味悪い程に持ち上げて、
お茶の間の有名人にしてからバッシングを」

 一般多数にその印象を刷り込んだ後で叩き。
 落差への驚きと興味から売り上げを伸ばす。

 賛美報道の頃でさえ、報道陣は執拗に付きまとい、踏み込み覗き見・盗撮を為していた。
バッシングに転じた今は、どうなっているか。状況を確かめ励まそうと、桂の家電と携帯
に掛けてみたけど、ずっと通話中で繋らなくて。唯の長電話とかではない。これは、もし
や…。

「あたしは……ここにいた方が良いんだね」

 駆けつけたい苛立ちを噛み殺し、あたしは讃良に問うてみるけど。讃良の関知には尚そ
れ以上の詳細は視えず。唯あたしは羽様にいるべきで、羽様で何かが起こるとしか分らず。

 今はじっと腹の虫を抑えて様子見の時か。


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「そう言えば、若杉は今回の総選挙で、大泉総理や政権党を推す事にしたんだってね?」

 あたしは頭の中身を切り替えて。奇跡の女性と衆目の関心を奪い合っている政局ネタに、
話しを振ると。秀臣も気持を察してくれてか。

「葛様の決裁だそうです。先代の逝去直前から若杉は、大泉総理の『改革』への応対が分
裂含みで。政権党の内紛がそれに拍車を掛け。総理支持と造反組支持と中立に、最悪若杉
は3分裂の危機でしたが。葛様は全ての意見を一蹴した上で、総理や政権党に与すると
…」

 ふーん。選挙や政局に余り興味はないけど。
 葛の指導力が効き始めている事には興味が。

「拾壱の子供に配下が挙って従わされた訳だ。烏月が刃を突きつけて、服従を迫った訳で
もなかろうに。若杉も上役には従順なんだね」

「配下とは、ボスに従うから配下なのです」

 秀臣は一度苦笑してその様に返してから。

「若杉の幹部です。浅間さんもご存じの様に、一筋縄でいく者達ではありません。彼らが
従わされた、彼らを従わせたと言う事は、葛様が若杉を急速に、掌握しつつある証かと
…」

「順調というか予想以上というか。あたしが思っていたより葛は大物だったって事かい」

 葛の話題に入ってから讃良は黙している。

「そうであってくれねば、若杉は立ちゆかない処でした。先代も最期の頃は、情勢判断に
誤りが多かったので……いえ、浅間さんにとっては最初以前から、そうでありましたな」

 そこにはあたしは敢て答えず話しを続け。

「広島の造反組・亀尾衆院議員を応援している若杉は、葛の許諾を得てなのかい? あそ
こには政権党の刺客が立って……球団買収未遂で有名なライフドアのオリエモンだろう?

 浦上ファンドと松中の全面支援を受けた」

 全国的には若杉も政権党支援で動くから。
 直接葛に影響が及ぶ事はないと思うけど。
 若杉を心配する今の立場を妙に感じつつ。

「勝手な造反で、想定外の処で葛が躓くのは、今のあたしにとっても好ましくないから
ね」

「私も全て把握している訳ではありませんが、どうやら葛様の内諾を得ての動きの様で
す」

 きちんと統制が取れているなら良いけど。

「オリエモンは閃きで生きる太平楽な青年実業家だし、そこに資金を回す浦上ファンドは
少し目先の利く口の巧い男に過ぎないけど」

 そのバックにいる松中財閥は結構厄介だよ。
 若杉は松中の危険をどの位掴んでいるのか。

「戦争主義者でしたかな? 松中財閥の長で、ファースト警備保障の社長も兼ねていた松
中勝家氏。自社警備員へのペイント銃や麻酔銃を配備したいと、銃刀法改正を主張し。警
備業の海外展開の為に、武器輸出の解禁も求め。

 去年集中的に批判され。批判を躱す為に孫娘の女子大生・靜華氏に社長職を譲って…」

「それで報道が一転して好意的になるのも酷い展開だよ。実質は何も変ってないってのに。
それ迄の批判は、何だったんだって話しさね。批判的だったライターが、何者かに重傷を
負わされ、家を放火された件の追及も、中途半端だし。多少綺麗で写真写り良いからっ
て」

 靜華はともかく、安弘や勝家は怪しいのに。
 そこを追及して究明するのが、報道なのに。

「確かに、会社の実権は尚勝家氏とその息子、安弘氏にある様で、靜華社長はお飾りです
な。

 彼女の業績と言えば、実際やった残業代も払わない残業代廃止の強行と。自社の広告塔
に掻き集めた、剣道やフェンシングの強者女性を引き連れ、町でチンピラや不良をやっつ
ける、ショー紛いの演出で。強者女性に踊りや歌を覚えさせ、歌って踊れるアイドル少女
剣士隊の、芸能界デビューは失敗でしたな」

「『靜華だけの7本槍』は時期が悪かったよ。売り出そうとした時に、政局は郵政で盛り
上がり、奇跡の女性報道で世間の関心は沸騰し。夕刊でもスポーツ紙でも、影が薄くなっ
て」

 それも若杉の所為であり柚明の所為だと。
 松中財閥や靜華から見ればそう映るのか。

「松中の支援選挙区に、靜華社長が7本槍と応援に赴いたとか……扱いは小さいですな」

「政局に関心を持つ層が見たいのは、キャピキャピした娘の肌見せや、下手な踊りや辿々
しい歌や、競技用の拙い剣技じゃないから」

 葛がすぐに財閥を継承しないのも。血筋だから即なれる『お飾りの社長』ではないって、
違いを印象づける為なんだろ。靜華社長の悪い例に倣って見られない様にって。選挙中に
話題を攫いたくないとの意図も、悟れたけど。継承準備の勉強って名目が、皮肉に聞える
よ。祖父の思いつきで即日社長にされ、一年経っても世間知らずな女子大生社長との対比
はさ。

「物が違いますから。若杉の血を引くのみならず、蠱毒を制した葛様と。どこぞの名も知
れぬ神の血を引くと自称しても、財閥家の温室で何不自由なく二十歳迄育てられた娘…」

 辛うじて、容姿が比較対象になり得る位で。
 それも葛様がもう5年も経てば敵ではなく。

「わたし……ちょっと、外しますっ……!」

 讃良が突然部屋を去る。引き留める暇も声を掛ける暇もなく。小学生の足なら、余り遠
くへも行かないと思うけど。あたしは秀臣に。

「葛様の話しは、やはり讃良には未だ耐えられませんでしたかな」「あんた、分って話し
ていただろ。困ったもんだね。さららが葛に抱く恨みを分って。有間皇子の様に叛意を口
に出させ、先手を打って処断する積りかい」

 話しの流れで、葛にも触れざるを得ない処はあったけど。最後の人物比較と持ち上げは
意図的だ。讃良を怒らせる為に聞かせた様な。

「私の意図は逆です。関知や感応使いとして生きて行くにも。讃良に早く、内心を制御で
きる様になって貰いたく。これから葛様が亡くなる迄、讃良は若杉で葛様に仕え続けます。
直接逢う機会があるかどうかは分りませんが、葛様の指示や噂、情報は厭でも耳に入りま
す。

 その一つ一つにあんな応対を見せていては、その意図がなくても反逆と見なされかねな
い。若杉には蠱毒ではない時でも、身内を売って報償を得たい者がいます。拾った生命を
無駄に縮める以上に、讃良を預った私も禍を被る。愛の鞭である以上に私も保身に必死な
のです。せめて表情や声音や仕草に出さない様に…」

 秀臣も爆弾を預けられたに近い状態だと。
 何とか不発弾位にしたい事情は分るから。

 あたしもそれ以上強くは彼を責められず。

 あたしは尚経観塚から離れる訳に行かぬ。
 何があるかも分らない侭信じて待つしか。

 人の世は、どれも中々巧くは行かないね。


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「さららの様子を見てくるよ。あんたの話しに乗った以上、あたしも少しは責任あるし」

「若杉の者相手に、優しいですな。やはり讃良が年端も行かぬ、女の子だからですか?」

 珍しくやや棘のある秀臣の問に、あたしは敢て答えず讃良を追って外へ出て。でも黒髪
ショートの女子小学生を捜すより早く、この鼻が嗅ぎ付けたのは。若く大柄な男性3人で。

 物陰に隠れて様子を窺う。彼らは近くの別の宿の前に車を駐めて。経観塚に泊る積りか。
背広を着て会社員の出張に見せようとしているけど、どう見てもその筋の物にしか見えぬ。

「サクヤさん、どうし……?」「しっ…!」

 背後から声を掛ける讃良に、あたしは慌ててその口を塞ぎ。幸い向うはこっちに気付い
てない。先に気付けて幸いだった。騒ぎは起こしたくないし。でもあいつら一体何の用で。

「あの男の人達、一体何者なんですか…?」

 暫く様子を窺っても、彼らは宿に入って動きがないので。讃良と静かにその場を離れて。

 讃良はさっきの憤りを漸く抑え込めた様で。
 それより今のこの緊迫感を優先したのかも。

「ん……秀臣に頼んで若杉に、調べて貰った方が、良いのかもねえ。あいつらの正体は」

 こんな処で奴らに巡り逢ってしまうとは。
 裏社会、ヤクザや暴力団とか言う奴らさ。
 そう応えると、讃良はやや目を丸くして。

「サクヤさん、若杉の他に暴力団とも諍いを抱えているんですか?」「こっちが仕掛けた
訳じゃないよ。若杉の場合もそうだけどさ」

 今年の初夏に友人のライターから相談を受けたんだ。そいつは、ファースト警備保障の
残業代廃止の経緯を追っていて。実際残業している警備員に、不平不満が渦巻いていると。

 警備の実務に就かないフェンシングや剣道の強者女性を、広告塔にする為に大金払って
掻き集め。その資金捻出に、実際働く警備員の賃金を最低賃金以下に下げ。単価を下げて
大量の仕事を受注し、残業を強いつつ残業代を廃止し。財閥首脳は豪華絢爛な生活を送り。

「そいつがファースト警備保障の取材を始めてから、身辺に危険を感じる様になったって。
経観塚の役場に来た様な、執拗な嫌がらせ電話や。本人への投石や家への放火や。……ま
もなくそいつが車に撥ねられ、重傷負って」

「ファースト警備保障の口封じ、ですか?」

 証拠はないけどね。あたしは頷きつつも。

「財閥ってのは若杉に限らず、都合悪い報道されそうになると、似た反応を返すのかね」

 安弘か勝家か、幹部の誰かか分らないけど。面倒な事を探る奴の口を鎖せば、他の者も
怯えて口を噤むと、考えるらしく。その翌週さ。

「まさか、サクヤさんも襲われたのですか」

 讃良が身震いしたのは、関知と感応能力者の鋭さか。現代日本の夜の町は女子供が一人
歩き出来る程安全だから。ほろ酔い気分でいた処を、男拾人位に突如囲まれ。その時は何
が何だか分らなかったけど。あたしも松中の暗部を探ろうとしていると、誤解された様で。

「生命を取る気はなさそうだったけど、あたしはいい女だから、操の危険はあったね…」

 観月の力で粉砕しても良かったけど。鬼が人を傷つけたら、鬼切部の討伐対象になるし。
真弓が体調崩した頃で面倒を起こしたくなく。力加減を誤って重傷負わせても寝覚め悪い
し。

「その時は観月にならずに何人かを叩き伏せ、活路を切り開いて遁走したけど。ほとぼり
を冷ます必要を感じて、都市部を離れた田舎で出来る、フォトグラファーの仕事を探し
…」

 真弓を喪い悲嘆に沈む桂は心配だったけど、傍にいるとあたしの禍に桂を巻き込みそう
で。そうしたら、桂が羽様の屋敷の存在を知って、独り列車で検分に行ったと、税理士か
ら聞かされて。一日遅れで急遽経観塚へ追いかけて。

「千羽の烏月さんと共に、ノゾミやミカゲと戦い、柚明さんや桂さんを守ったのですね」

「あたしは余り役に、立てなかったけどね」

 讃良は瞳をキラキラ輝かせ。あたしは確かに桂や柚明より背も高く、腕も太く長いから。
あたしが娘2人を背後に庇って戦い守ったと、想像するのは自然だけど。あの経緯であた
しが活躍して2人を救ったと語れば、嘘になる。

「奴らの正体は探らなかった。若杉と通じてない観月の鬼が、常の人を叩きのめしては拙
いし。ほとぼりが冷めるのを待って、向うがこれ以上仕掛けてこないならそれで良いと」

 こんな処で見かけるとは全く予想外だった。
 あたしを追ってきた訳ではないと思うけど。

「あたしは銀座通を暫く出歩かないか、羽様の屋敷に戻った方が良いかも知れない。こそ
こそするのは好きじゃないけど、秀臣やさららを巻き込む怖れもあるし」「わたしを?」

 さかき旅館の入口を再度潜りつつ。あたしは見上げてくる黒髪ショートの女の子の顔を、
見つめ返し頷き返し、軽くその髪を掻き回し。

「撃退できるかどうかより、大事なさららをあたしの禍に、巻き込む訳には行かないよ」

 その頬が微かに染まり俯いて。あたしの胸辺りで視線は止まり。声にならなかったけど、
その唇が小さく『ありがとう』と動いていた。


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 午後のワイドショーは、時折新聞の番組欄の記載と異なる内容を映す。桂のアパート周
辺がテレビで流されると、秀臣に情報が入り。彼の部屋で3人、奇跡の女性の動静が流さ
れるのを待つ間。手に取って眺めた女性誌は…。

『奇跡の人と従妹Kの淫らに香るレズの園』

 少し前迄可愛い、お淑やか、嫁にしたいと。柚明の容姿や仕草や言葉遣いを、褒めまく
っていたのに。ここも柚明バッシングに転じて。

『女子校育ちで無菌飼育の従妹Kは、十歳年上の淫らなYには格好の獲物』『日々のスキ
ンシップの濃密さから、夜の激しさは窺い知れる』『最近のKのお疲れは夜の忙しさ故』
『不純同性交遊で退学にならないよう祈る』

 桂と柚明の濃密な夜の営みが妄想で描かれ。
 奇跡の人と実質特定した内容は人権侵害だ。

『本紙女性記者が背後から胸を揉んでも反応は微弱だった。掴み掛った男性記者を触らせ
もせず退けるのに較べ、信じられない程隙だらけな応対は、女好きを想像させるに充分』

 柚明は女に手加減してしまう。身を抑えられ体掴まれても。痛い思いさせ振り解くより、
敢て為される侭でいて。甘過ぎと桂にも苦情を言われ謝っていたっけ……肌身を添わせて。

『血の繋った従妹に鬼畜の爪が立てられる』
『男を知らぬ乙女同士の愛の園は甘く香り』
『もう2人の間に男の分け入る余地はなし』

「羽藤桂さんと柚明さんは、そう言う仲なのですか?」「さぁね、マスコミの言う事さ」

 拾年前は桂は6歳だったし、今は出逢って未だ一月で。あたしは既に半月2人と逢って
ない。生命を分け合って深く繋った仲だけど、その先を答えられるのは当事者だけだろう
ね。

「真偽どっちでも今のマスコミには同じ事さ。このレズ疑惑も他紙が『情報によると』と
騒ぎ立て、無責任に増幅される。夕刊トップが柚明を、経観塚で行方不明の現役女子高生
で、羽藤の資産狙いと報じた事が、他紙で『遺産狙い・金目当ての従姉』と増幅された様
に」

「薄気味悪いです。どの新聞雑誌も一致して、褒める時は挙って褒めて、こき下ろす時は
揃ってこき下ろし。各社独自の考えで動いていると言うより、そう動かされているみた
い」

「若杉が情報操作する時も、こんな感じだけどね。結局、若杉が挟まっても挟まらなくて
も、この国のマスコミはこんな物なのかい」

 そこで秀臣が、テレビの画面を指さして。

「こちらは○○県××市、今話題の奇跡の女性と同居する、従妹の自宅アパート前です」

 住所氏名は伏せて顔はモザイク掛けるけど。報道陣には遠慮もなく。彼らも数が増えれ
ば、先頭でなければ答が貰えず、写真も撮れぬと迫り縋り。柚明でなければ押し倒されて
いた。

「財産目的に従妹の家に入り込んだって本当ですか? 母が死ぬのを待って現れたって」

「そもそも拾年行方眩ましたのは、Kさんの母に顔向けできない事情があったんでしょ」

「従妹を虐待し衰弱させているって噂があります。真相を答えて」

「隣家に文句言われた腹いせに、花畑を踏み荒らしたって本当?」

「田舎の屋敷と山林を、勝手に売ってお金に換えたそうだね。従妹は承知しているの?」

 柚明がまともに答えても誰も答を拾わない。
 自分達が掲載したい追及中の構図を撮って。
 自分達が連続して問い詰めてやりたい放題。

「今日はお約束した応対の日ではありません。時間も違います。アパート入口はわたし達
の専用空間ではありません。自治会長さんとの約束が守れないと、近隣の方々の迷惑に
…」

「お前が応対悪いからだろう」「こんな特ダネ放っておけるかよ」「お前の約束なんか知
ったことか」「とっとと答えろ、あばずれ」

 背の高い成人女性や屈強な男性が群がる中心で。柚明は丁寧に応え続けるけど。1つの
答を終る前に次の問が来て、早く答えろ答えられないのかと、詰り野次り煽る声が混じり。

「お前の配ったクッキー喰って、病院運ばれた人がいるんだ! ここで土下座して謝れ」

 男性記者の罵声が響く。報道陣は大勢で顔も確かに映らないから言い放題だ。周囲から
一斉に『へー』と声が漏れ。次の瞬間再び柚明さんに、フラッシュと冷たい視線が集中し。

 生放送で即答が必須だけど、求めに応じても応じなくても、曖昧でも非難が集まる問に。

 瞬時鎮まった中、綺麗な声は静かに強く。

「その方の入院先を教えて下さい。わたしが状況を確かめて、直に謝りに伺います……」

 何人もの手練れの政治家が、報道陣の揚げ足取りで大臣辞任に追い込まれた。この国の
記者の悪質な問を、柚明は想像以上の賢さで凌ぎ。謝罪自体は否定せず、でも即謝罪せず。

 彼らは今迄幾多のスキャンダルを追い続け、答を迫り、鎖す口をこじ開けてきたプロ達
だ。その彼らを前に一歩も引かず、怒りにも怯えにも囚われず。自然に柔らかな答を保ち
続け。関知や感応の『力』の持ち主なのに、この濃密な悪意の群れに囲まれて、平常心を
尚保つ。

 でも情勢は圧倒的多数の敵意に包囲され。
 戦って退ける訳には行かず応対は尚続き。
 報道陣は罵詈雑言の限りを尽くし放題で。

 柚明はこうして報道陣に応える方が、盗撮盗聴や電話攻勢をある程度抑えられると見て
ているのか。あたしなら家に籠もるか姿を眩ますか、ホースで水かけて撃退する処だけど。

「そんなこと市民は求めてないんだよ。今すぐここで全て認めて、頭下げれば良いんだ」

「悪いことしたらごめんなさいすると、親に習わなかったのか。あんた、酷い育ちだな」

「拾年行方不明の間に、一体何やっていたんだあんた。男漁りか、それとも女漁りか?」

「従妹さん見せてくれ。クッキーで倒れているんじゃないのかー」

「従妹さんが死んだら、遺産は全部あんたの物だよな、柚明さーん」

 桂は最近殆ど外に出てない様で。この報道の所為もあるだろうけど。動静が知れなくな
った為に。虐待受けたとか、クッキーで食中毒とか、従姉に犯された後遺症とか報じられ。

「アパート周辺は酷い状況ですね」「はい」

 最後はテレビ中継からスタジオに戻って。
 コメンテーター達の雑談に移るその瞬間。

 あたしは秀臣の懐に左腕を伸ばしていた。

「秀臣……あんたの携帯、貸して貰うよ…」

 秀臣も讃良も即応できず、驚きに目を見張る前であたしは、携帯にある番号を入力して。

「はい、葛です。何か?」帰って来る声に。

「つづらっ! あんた一体何やってんだい」

 葛が椅子から飛び上がる様が脳裏に浮んだ。


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「サクヤさん。一体どーやってわたし直通の電話番号を知って、繋ぐ事が出来ました?」

 葛の声も流石に驚きでやや上擦って大きく。
 漏れ出る声は秀臣や讃良にも届いているか。

「蛇の道は蛇さ。こっちはあんたの祖父の代から若杉に、散々接触されているんだ。糸を
辿ればその根に至るのは理の必然だろうに」

 己の携帯を使わないのは、先代の頃からあたしの番号は、繋らなく設定されていたから。
葛になった今は繋るかも知れないけど、不確かな推察に頼るより、確実な携帯があるなら。

 用件を問おうとする葛の声を先に制して。

「言われる迄もなく分っているんだろうに」
「はい……桂おねーさん達の報道、ですね」

 若杉幹部が勝手に柚明の件を、マスコミに流し。民衆が興味を抱いて、情報制御が効か
なくなり。選挙から注目を散らされて困った総理サイドの松中財閥が、柚明叩きを指示し。
その効果が現れすぎて、誰も止め得ぬ暴走状態にあると。葛はこれ迄の経緯を解き明かし。

 即効性のある方策はなく、選挙を過熱化させる事で人目を逸らす迂遠な手しか、術がな
いと。今はそれに全力を注いでいると述べて。

「もーしわけありません。今の処桂おねーさんにも柚明おねーさんにも、目に見えた危険
が及んでない事は、把握しているのですが」

「当たり前じゃないか。そんな事が起きそうなら、烏月や尾花を遣して守って貰わないと。
柚明は力量があっても戦いに不向きな娘だし。こっちはあんたが桂の守りを担うと思うか
ら、やりかけの仕事を片付けに遠く迄出たんだ」

 しかも今暫くはあたしはここを動けない。

「柚明おねーさんから、若杉の動きを止められてまして。おねーさん達の件と特定しない
形で、報道業界や交番等の指導は強化を…」

 柚明おねーさんがしっかり対応できている状況は、把握しています。必要とあれば若杉
財閥のみならず、鬼切部を投入する積りです。打てそうな手は全て打つのでどーかお許し
を。

「サクヤさんのたいせつな桂おねーさんは。
 葛の一番たいせつな愛しい女の子ですし」

 ふむ。葛はそこそこ事を把握できている。
 そこであたしは声のトーンを低く落して。

「分ってはいるよ、あんたはあんたでいっぱいいっぱいだって事も。拾壱歳の子供が突然、
若杉財閥の総帥と鬼切りの頭になって、巨大組織の中枢に座っても、即座に全部を自在に
動かせる訳じゃない。却って思い通りにならない事の方が、多い頃合なんじゃないのかい。

 あんたが桂や、桂のたいせつな柚明を大事に想っている事は、あたしも疑ってないさ」

 葛がほっと胸をなで下ろす様子も聞えた。

「唯あんたの反応を、確かめておきたくてね。あんたに直接訊けば概ね事情も分ると思っ
ていたし。桂や柚明に最近電話が繋らないんだ、羽藤の家電にも桂の携帯にも。何者かが
取材、ってより揚げ足取り狙いで柚明をキレさせようと、夜昼嫌がらせ電話掛けているら
しい」

「それは、松中勝家氏や安弘氏の手配らしーと調べが付いた処です。柚明おねーさんを心
理的に追い込み、精神病院に入れるなりして世間から隔離し、報道されなくしよーと…」

 彼らも失点を取り返したくて、必死らしーですけど。酷い手に出てくれました。触れて
はいけない葛の大事な物に、最も拙い方法で。

『松中の奴ら、あたしに害を為すのみならず、柚明や桂にも禍になっているのかい。全
く』

「裏社会を通じての動きですけど。若杉もそこは裏を使って阻みます。少しお待ち下さい。
単なる報道被害以上の動きは、柚明おねーさんにも話しを通し、葛が迅速に処置します」

 葛はすぐ指示を出しそうな勢いだったので。
 あたしは声音を低く変えて一度動きを留め。

「流石若杉は調べが迅速で確かだね。でも。
 松中には気をつけな……あそこは危ない」

 なら経観塚の役場に執拗な苦情電話を掛け。
 柚明の戸籍復活を伸ばしたのも多分奴らだ。

 やり口が判で押したかの様に同じなんだよ。
 頭数を投入した苦情電話、誹謗中傷や投石。

 初夏にあたしが相談された、話しによると。

「松中のファースト警備保障も、不穏さが半端じゃない。麻酔弾やペイント弾を警備員に
使わせたくて、銃刀法の改正を主張中だけど。実際は法改正に先行して、違法でも、一部
に刃物や実弾を配備済らしい。裏社会や警察との癒着の接点だって噂も、聞いているよ
…」

 鬼切部を従える若杉が、後れをとるとは思わないけど。やるなら千羽党の本気を投入す
る位の構えでないと、痛い目を見る。あんた、未だ若杉の全部を掌握しきれてないんだ
ろ? 桂が大事な気持は分るから、準備不足な侭松中に手を出してしまわないか、気にな
って。

「……もー少し詳細に、対策を立てた方が良さそーですね……お心遣いに、感謝します」

「なに、桂や柚明を大事に想う物同士、必要な情報や意見の交換は、しておかないとね」

 この仕事の後には、松中について本腰を入れて調べてみようかね。多少の因縁もあるし。

「取りあえず桂や柚明が大丈夫な状況を、確認できて良かった。後、あんたが悪戦苦闘し
つつ急速に若杉を掌握しつつある事も。今回選挙で若杉が、大泉総理や政権党を支持する
って突然の表明は、あんたの判断だろう。先代は総理と疎遠だったし、突然の方向転換は、
あんたが若杉に戻ってすぐだったからね…」

 政治に興味はないけど、あんたの指導力や判断が若杉で効き始めているって悟れたのが、
あたしの収穫さ。桂の未来もあたしの過去も色々込みで、あんたには頑張って欲しいから。

「激励有り難うございます。年長者の助言は心に沁みます。年を重ねていればいる程にそ
の有り難みも増す様で……」「つづらぁ!」

 鬼切りの頭と財閥総帥を兼ねる葛を、拾壱歳の子供の様に、大声で叱りつけるあたしを
前に。秀臣も讃良も、暫く言葉を失っていた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「柚明が深夜、女性記者を庇う為に外に出て、刃物持ちの不審者を戦って退けた? 夜昼
なく自身のスキャンダルを狙われ、盗み見られているのに、常時嫌がらせ電話を受け続け
る中で、追及する側の女性記者を守る為に?」

 柚明らしいよ。あたしの反応は秀臣や讃良には意外だったかね。もっと怒るか苛立つか
すると期待されていた様だけど。あたしは柚明の技量を知っているし、その甘々な性分も。

 心配なのは違いないけど。無事に撃退し終えた後だ。今度訪れた時に雷を落す。己にそ
う言い聞かせる事で、泡立つ血管を抑え込み。

「サクヤさん……コップが、震えています」

 バレていても強がりを通し平静を装って。

 柚明が桂の同級生の、ショートヘアの子を抱き留めている写真を眺めつつ。涙ぐむ女の
子を抱き留めるその絵図は、写真から親愛が滲み出ていて、眺める讃良が頬を染める程で。

「夕刊トップの女性記者の相方男性が共犯で。同僚を陥れようとインターネットで、足の
付かない実行犯を募った様です。事が発覚した相方男性は、解雇された上告訴されました
が、実行犯は警察の捜査にも関らず未発見で…」

「柚明はその構図迄察して助けに出たんだ。
 女記者の間近に潜む禍を発覚させる為に」

 自分を偽物だと追及してくる記者を助ける。
 優しいとか甘いとかじゃなく愚かに近いよ。
 傍にいられないあたしが言うのも何だけど。

「その甘さが思わぬ副産物を生んだ模様で」

 秀臣が見せた夕刊トップの最新号一面は。

【本誌痛恨ミス! 奇跡の女性Yは、行方不明中の現役女子高生Yとは、別人と判明…】

 これにはあたしも、流石にかなり驚いた。

「へぇ……自分のミスや誤報には知らん顔で、次の嘘を重ねるのがマスコミの常套手段だ
けど……小さくどこかにアリバイ程度に載せるんじゃなく、正面から過ちを認めるかい
…」

 それどころか夕刊トップは、激化する柚明バッシングの嵐の中、唯一紙その立場を翻し。
自ら主導した『奇跡の女性は半澤優香』説を撤回し、一面トップでミスを認め正式謝罪を。
東京近郊で女子高生は保護されて、既に両親に面会して本人確認済であり。現在桂のアパ
ートにいる柚明が、彼女であり得る筈はなく。

 でも驚きはむしろその事実より。事実を事実ときちんと報じた夕刊トップの姿勢の方に。
当たり前かも知れないけど、今の日本に当たり前を出来る報道機関が幾つあるか。柚明の
行いの効果は、時折人の想定を越えて来る…。

『柚明は、柚明であり続けている。大丈夫』

 そうメッセージを発していると分るから。
 あたしはここで為すべき事を見極めよう。

「でも、所詮夕刊トップは、駅売夕刊紙の一つに過ぎない。猛烈なバッシングの嵐の中で、
一紙が反旗を翻しても、効果は限定的です」

 秀臣の言う事も正解だ。柚明は報道業界の、談合的な横並び体質に風穴空けたけど。個
人では充分すぎる一矢を報いたけど。でも所詮、個人の手が届く範囲は限られる。マスコ
ミという化け物は巨大すぎ、打ち倒す事も出来ず。『力』を使ってもどうにも左右出来な
かろう。柚明は果たしてこの先に、何か見通しを持っているのだろうか。逆転の妙手や切
り札を…。

『逮捕も間近か。奇跡の人に迫る司直の手』
『従妹の虐待、なぜ保健所は動かないのか』
『クッキー食中毒4報、奇跡の女性の悪意』
『追い詰められて開き直り、曝かれた素顔』

 バッシングの勢いは、尚一層強まっている。
 それは終着点が、予想出来ない程に苛烈で。

 報道を真に受けたのか、買い物に出た柚明に石を投げた者もいる様で。避ければ店の人
や他の客に当たると、柚明は敢て避けずに受けたとか。柚明も心配だけど、桂に及ぶ悪影
響も心配で。最近外に姿を見せてない様だし。

 桂のアパートの家電も携帯も、最近暫く繋らない。ひっきりなしに嫌がらせ電話が繋っ
ていると言う事か。まともな応対等期待せず、心壊して追い込む為に、暴力団を使って夜
も昼も。外部の味方を遮断し孤立感で苛む気か。報道陣はアパート周辺に居座り覗き見を
続け。普通の精神の持ち主なら耐えられぬ。柚明はむしろ関知や感応で、常の人より繊細
なのに。

 あたしの周囲に待ちに待った動きが生じたのは、一月ぶりに満月を迎える日の朝だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 事の発端は朝餉の場で女将さんが、経観塚の役場の窓ガラスが、投石で割られたと語り。
最近役場は執拗な苦情電話で、業務に障りが出ているとか、女性職員が気味悪がっている
とか。そこで讃良の関知が閃きの尻尾を掴み。

「あの人達です。サクヤさんと一緒に見た」

 あたしを襲った事もある暴力団。近くの宿に泊り込み、何をしに来たかと思っていたら。

「松中の依頼で経観塚の役場に、柚明の戸籍復活を妨げる圧を、掛けに来ていた訳かい」

 苦情電話だけではなく。カミソリや脅迫文送るだけでもなく。石を投げガラスを割って、
物理的な恐怖を感じさせる。柚明をバッシングする側も、手詰まりに近い状態で。実際柚
明に非難に値する事実は、何もないのだから。

 叩くネタも本当はなく。捏造してもすぐ尽きて。クッキー食中毒も、誰がどこに入院し
たのか遂に分らず。他の非難にも何一つ根拠はない。あるとすれば、経観塚の役場が報道
の過熱を見て、戸籍復活を延期した事実のみ。ここを犯罪絡みとか虚偽申告とか責めるに
は、役場が戸籍復活をしてしまっては都合が悪く。何とか延期の延期、又は中止に追い込
もうと。

 関東であたしを襲った暴力団が、地元を離れ遙々ここ迄来たのも。役場を脅す為なのか。
顔を出さず正体を現さず、誰もいない夜に石を投げてガラスを割って。讃良は関知で事の
繋りを辿れたけど、手袋を嵌めて石を投げれば指紋も残らず。田舎の夜には目撃者もなく。

「上役に伝えて対処して貰います。我々は浅間さんの監視役なので。讃良が悟れたのは幸
いですが、事件への応対は任務を越えます」

 若杉が分業制を取っていて。秀臣達の職務はあたしの監視で。暴力団の排除や撃退では
なく、役場の防護や柚明の名誉守護でもない。情報収集する者と指示を出す者と対処に動
く者は別々で、互いの特性を生かして連携する。それはあたしも分るから。焦れったいけ
ど報告すれば、最後は葛が迅速に対応してくれる。そう納得して頷いたけど昼過ぎに問題
が生じ。

 暴力団との鉢合わせを避け、外には出ず旅館に留まり。秀臣も讃良もあたしの監視なら、
同じ屋根の下で適当に過ごす中で。秀臣の携帯に入った若杉の電話が、朝の報告に対して
讃良を含め、2人を賞賛する中身だった事に。

「あの人になんか、褒められたくないっ!」

 通常は幾人かの幹部経由で指示が下されるので、葛と直に口を利く事は秀臣達も少なく。
秀臣は葛直々の賞賛に感激した声を。それが葛に複雑な想いを抱く讃良の勘に障った様で。

 電話は終った後だけど。讃良は葛との接触自体に機嫌悪く、秀臣が低姿勢なのにも憤り。
葛から自分も『褒めて頂けた』事が厭であり、それに秀臣が2人分『感謝した』事もが厭
で。暫く見せてなかった恨み憎しみをぶちまけて。

「褒められた事を嫌う物じゃない。少し落ち着きなさい、讃良」「落ち着きたくない!」

 讃良の声は大きくて、隣室にいれば観月でなくても聞えてしまう。他の誰かの耳に入っ
ては拙かろうと、あたしも顔を覗かせたけど。

「浅間さん。済みません」「サクヤさん…」

 あたしを意識して讃良の憤激がやや収まり。
 そこで漸く話しを届かせられると、秀臣は、

「恨み憎しみを抱くなとは言わん。忘れろとも言わん。唯胸の内に抑える事を憶えるんだ。
己を抑えられねば関知も感応も鈍って使えぬ。表情や声音や姿勢に表すだけが能じゃな
い」

「出来ないよ……ガマン、できないよっ…」

 若杉でも讃良は未だ拾弐歳、女子小学生で。
 両親を失ってから、1年経つか経たずかで。

 それも通常の事故や病死や、自殺でもなく。
 身内である若杉同士の凄惨な殺し合いの末。

 その勝者たる葛に顎で使われねばならない今の立場さえ、讃良には素直に受け容れ難い。
話題に上げる事さえ過敏になるなら、直接接触は刺激が強すぎ。褒められた事は逆効果か。

「あの人は、あの人はわたしの仇なのにっ」

 生き残れたって今更わたしに何が残ると。
 嬉しくなんかない、有り難くなんかない。

「父さんも母さんもあの人に殺されたのに」

 蠱毒に参加した人はみんなわたしの仇だ。
 若杉は1人残らず、わたしの仇の親族だ。

「忘れない。わたし絶対、忘れないから!」

 あなたも蠱毒で、大事な人を喪わされた訳ではないの? あの人が勝利に笑うその脇で、
大事な人を殺められた訳ではないの? 秀臣さんは今の状況を受け容れているの? 本当
に本心から恨み憎しみを抑え切れているの?

 讃良は己の憤激の侭に。目の前の他者の憤激も煽り。唯の娘ではなく、讃良は感応能力
者で、人の心を読み込めると同時に、人の心に影響を与えられる。憤激を相手に伝播させ、
抑えきれない憎悪で相手の憎悪を煽る事も…。

「私も絶対恨み憎しみは忘れないよ、讃良」

 それは温厚さを努めて保つ秀臣の、拳を声を震わせて。言わせてはいけない返答を招く。
蠱毒は讃良にも秀臣にも、お互い様という以上に。語調は奇妙な程静かに抑えられ、讃良
を正視した双眸は潤み。居住まいが正されて。

「私の息子の秀幸は、私の代りに蠱毒に参加して、君の父母に殺されたんだ。私にとって
葛様は蠱毒の参加者という意味で敵だったが、君の父母を倒して我が息子の仇を取ってく
れた恩人で……君は我が息子の仇の娘なんだ」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 讃良の顔から血の気が失せる様が見えた。

 讃良は今迄、父母を喪わされた蠱毒の被害者意識が強く。蠱毒はお互い様という事実認
識は薄く。己の父母が誰かを殺めた可能性を、思い描いた事もなく。誰かを恨む理由を認
められるなら、讃良の父母も讃良も誰かに恨まれていて不思議はない背景を、見落してい
て。

 否、讃良も理屈では分っていたのだろう。
 でもまさか、間近の秀臣が、そうだとは。
 己が責められる側であるとは、想定外で。

「誰かを呪わば穴2つ。我ら若杉は互いに同じ様な地獄を経てきている。抱いた恨み憎し
みを、叩き付け合っても何の益もないと…」

 己に思いこませねば、私も生きては行けぬ。

「わたしの父さん母さんが仇……わたしの父さん母さんが、秀臣さんの息子さんを殺めて
いた……わたしは、若杉讃良は秀臣さんの」

 秀臣は最早、讃良の反応を窺う余裕もなく。

「まして、若杉でもなく関係も薄いのに、蠱毒のとばっちりを受けて、親族全てを喪わさ
れた人が間近にいるのに。己の恨み憎しみにのみ拘って、憤激を煽って誰が喜ぼうか?」

 そこで讃良は、若杉でもないのに蠱毒の所為で若杉の所為で村ごと虐殺された、観月の
あたしの存在に気付き。恐る恐る、秀臣から逸らす視線が、震えた侭あたしに向けられる。
なまじ心開き合った後だから。讃良はあたしへの罪悪感に囚われて、この瞳を正視できず。

 次の瞬間、涙ぐんだ讃良は部屋を飛び出し。
 居たたまれない状況と気持は、悟れたけど。

「さらら、お待ちっ!」「行かせましょう」

 秀臣は己の憤激を抑え込むのに必死な様で。
 呼吸は尚乱れ、握り締めた拳は震え続けて。

「私も今讃良に向き合っては、己を抑えきれず……罵倒してしまいそうです」「秀臣…」

 未だ私も、若いというか至らないというか。
 葛様の打診を受け承知で讃良を預ったのに。
 讃良を窘める資格を手放して……情けない。

 そこには恨み憎しみ以上の配慮が確かに窺えた。秀臣は決して讃良を恨み憎むが故に引
き取った訳ではない。責め苛む目的でもなく。秀臣は誠実に、讃良の父を代行しようと努
め。

「浅間さんも今は心平静ではないでしょうし、今の讃良は私にも浅間さんに顔向けしづら
い。頭を冷やす時間を与えた方が、宜しいかと」

 秀臣はあたしが讃良の感応で憤激を煽られた怖れより。讃良があたしに顔向けできない
のではと。今は敢て追わない方が良いと述べ。秀臣自身が、あたしに顔向けできない気分
なのも、悟れたので。頷き返して部屋を出て…。

 でもやっぱりあたしは、讃良が気になって止まず。大人の秀臣と違って、讃良は年端も
行かぬ娘だからさ。可愛い女の子が独り涙零して誰にも縋れないなんて、見てられないし。

 顔を合わせずとも様子を窺う位しようかと。
 あいつらに見つからない様に少し気をつけ。

 やや間をおいて銀座通を出歩いてみたけど。
 田舎町にも関らず女子小学生の姿は見えず。

 歩き回る内に、経観塚特有の通り雨が来て。
 激しい雨が叩き付けた後は、匂いも辿れず。

 夕刻になっても、讃良は戻って来なかった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「どうしたもんかね」「どうしたものか…」

 夏の陽が傾いても讃良は戻らず。行く宛もない筈だから。顔を合わせられなくても自室
には戻るだろうとの、あたし達の推測は外れ。

 あたしも秀臣も数分おきに、讃良の部屋を訪れては不在を確かめ。数秒ごとに携帯のメ
ールや着信を見て。何度か女湯に行ったけど、入った様子もなく。銀座通は探索し尽くし
た。

 多くない道端の店の一軒一軒に入ったけど。
 鉄道の駅やバス待合所も行って尋ねたけど。

「若杉の行方不明は、警察には届け出られないのかい?」「いえそんな事はありません」

 讃良の身元引受人は私になっていますし。
 警察に発見して貰えるなら届け出ますが。

「田舎の警察がどの程度、事件性の分らない子供の半日行方不明を取り上げてくれるか」

「実際、事件性はないのかね? 讃良はそんなに愚かな子供じゃない。感情が先走っても、
他に帰る処がないし、勝手にどこか行っては拙い事も分っている筈だ。帰りたくないんじ
ゃなくて、帰れない状態じゃあないのかね」

 外は既に薄暗くなり、満月が空に上り始めている。白花を庇って烏月の刃の前に立ちは
だかった柚明を突き飛ばし、維斗の太刀に切られて生命を落し掛けた夜から、もう一月か。

 結局あたしは、桂と柚明の一番大事な危うい時に居合わせられず。役に立つ事も叶わず。
柚明に肌身添われて癒しを受けて生命を繋ぎ。葛や烏月と繋いだ仲が周囲の状況を変転さ
せ。

『人の世の諸々は、川や風の流れにも似て』

 時に全く予想もつかぬ方向に転がるけど。
 あたしが若杉を心配する事になるなんて。

「もう少し外を探してみます」「そうだね」

 急速に濃さを増す夕闇の中、田舎町の人工の輝きは大人しめで。空には星を圧して丸い
月が、天空を駆け上りつつあり。つい見上げてしまうのは、あたしが観月の民である故か。

 今宵は天気予報も朝迄晴れで、良い満月の夜になりそう。羽様の屋敷の縁側で眺めれば。
共に肩身を寄せ合って、又は柔らかな膝枕で。

「秀臣……讃良の関知では、あたしは満月の下で羽様の屋敷を眺めているんだったね?」

 ふと、心に引っ掛った事を口にしてみる。

「その様に聞いていますが……もしや…?」
「そう、今夜は満月。讃良の関知した像は」

 今夜あたしが羽様にいると、示していた。

 今のあたしは讃良の捜索を最優先している。そんなあたしが羽様で屋敷を眺めているな
ら、羽様近辺に讃良がいるという事ではないのか。あたしが羽様へ讃良を探しに行った結
果では。

「ですが、讃良が羽様の屋敷に、一体何の用があって? 浅間さんはこちらにいるのに」

 讃良の関知は一枚絵の様に、浅間さんが羽様の屋敷を満月の下で眺める像を見ただけで。
何が起こるか何があるか、誰が何をするかも悟れませんでした。何日も前の曖昧な像です。
数日経って別要素で事の流れが変っている怖れもあり。変ってないとしても、讃良が視え
た訳でもない。視えたのは浅間さんだけです。

「関知が今尚全て正解で、浅間さんが讃良を探して羽様に行った時の絵図だったとしても、
讃良を探し出せた像は視えていません。空振りで別の所に探しに行く、その途上かも…」

 秀臣は銀座通周辺で、讃良がケガか何かで動けぬ状態の可能性が濃いと、見ているのか。

「あんたの言う事は分るよ。これは一つの賭けになる。羽様は遠いし。別の処に讃良がい
れば、探して帰って来る間が丸々ロスになる。

 でも、あたしは優れた関知と感応使いの娘を識っていてね」「羽藤柚明さんですか?」

 ああ。あたしは月を眺めつつ考えを紡ぎ。

「関知は見た本人に関連のない物は視え難い。関連の深い物はよく視えて、関連の浅い物
は中々視えない。讃良が満月の下で羽様の屋敷を眺めるあたしを視たと言う事は、それら
に讃良も多少の関連があると見て良い筈だよ」

 そこに讃良が居合わせるからこそ、讃良はその絵を視れたのではないか。讃良も今宵羽
様にいて、満月の下で屋敷を眺めるあたしを傍で見かけるのではないか。そうでなければ。

 讃良が最近数度訪れただけの羽様の屋敷と。
 あたしと初めて逢った翌日に浅間サクヤを。
 関知で視るのは関連が薄くて難しいのでは。

「……なる程。確かに、理は通っています」

「何より今宵は満月だ。観月の民であるあたしにはツキが来ている筈で。賭には絶好機」

 秀臣はなぜか、最後の理由に一番納得し。

「承知しました。では羽様へ参りましょう」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 結論から言うとあたしの読みは正解だった。

 秀臣を乗せ赤兎で参拾分弱走ると、羽様の屋敷に繋る緑のアーチの間近のバス停辺りに、
ライトを消した乗用車が2台、駐まっていて。近くの宿に逗留中の、あたしと因縁深いや
くざの車だ。構わずその侭傍迄乗り付けたけど。

 車から出てくる者はなく、周囲にも誰もおらず。全員どこかへお出かけか。唯、灯油の
匂いが凄い。車だからガソリンの匂いはある程度分るけど、まるで灯油を運んでいた様な。

「私も感じます。なぜこれ程灯油の匂いが」

 観月は鼻や耳が利くから。不意に強い匂いの源に行くと逆に、己の感覚の鋭さにやられ
る事がある。手で鼻を隠しつつ車に近付くと。

「……浅間さん、こっちです」「さらら!」

 2台目の車の後部座席に、女子小学生と思しき華奢な娘が、縛られた状態で転がされて
いて。ぐったりしている。気絶しているのか。秀臣がドアに手を触れるけど鍵が掛ってい
て。

「くそ、開かない……」「秀臣、どきな!」

 人目に付かない処で夜だし。讃良も秀臣もあたしの正体は分っている。あたしは観月を
隠さずに、後部ドアの取っ手を掴んで全力で。

 ぬん! 鍵を壊しつつドアをこじ開ける。

 開いたドアに滑り込んだ秀臣が、讃良を抱いて引っ張り出す。あたしも間近に屈み込み。
讃良は気を失っていた様だけど、一連の動きで目覚めた様で。虚ろな視線が、生気を戻し。
その口に巻かれていたガムテープを剥がすと。

「い、そいで……奴ら、羽様の屋敷に火を」

 讃良は何があったかを語るより、切迫した声音と双眸で、間近のあたしの顔を覗き込み。
観月の姿に、怯えも惑いも嫌悪も警戒もないのは、前知識がある若杉の故か、心を繋げて
くれた故か、緊迫の状況を前に己を抑えてか。

「羽藤柚明さんと桂さんの心を砕く為に、羽様の屋敷に灯油をまいて、火を付けて燃やす
んだって……ごめんなさい。わたし、サクヤさんや秀臣さんの気持を分らず、己の事情し
か考えてなくて……謝りに帰ろうと思いつつ、情けなくて格好悪くて。少し躊躇って町を
歩いていたら、奴らを見かけて気になって…」

 関知に引っ掛る、何かを感じたの。満月の夜に羽様の屋敷を見上げるサクヤさんの像の、
視えたくて中々視えなかった、詳細が視えてきそうな気がして。表通りから奥まった処で
話す声に、そっと近付いて耳を欹てていると。

『羽様の屋敷を燃やした後で、役場にも火を付けると脅せば。経観塚の役場も怯えて戸籍
復活を取りやめる。羽藤柚明や桂の気持を叩き折る事も出来て、脅しにもなり一石二鳥』

 人里離れた廃屋なら放火しても死者も出ず、警察の捜査も余り厳しくならず。現実の放
火の脅威は、役場の職員の心に刻みつけられる。松中の指示か暴力団の立案かは分らない
けど。

「でもわたし近付きすぎていて、奴らの話しを聞いた事を悟られて、捕まっちゃって…」

 縛られて連絡も出来ぬ状態に。車に運び込まれた後で、経観塚の通り雨が挟まった為に、
匂いがかき消され、あたしも後を追えなくて。放火の事実を知った讃良を、奴らはまとも
に帰す筈はなく。この侭闇に葬られる処だった。

 本当に危ない処だった。帰す積りのない讃良はこの侭では、奴らに何を為されていたか。
幸い、未だ縛られた以上に何かをされた様子はなかったけど。年頃の乙女には少し至らな
い讃良だけど、男の好みは色々だし、何をやり出すか分らないから。讃良は両親を喪った
後で借金取りに捉まり、女の子には口に出来ない様々な事を、やらされたとも聞いたから。

「無事で良かったよ」「早く、はやくっ!」

 秀臣が縄を切ろうとする間も、讃良は焦れったいと声を上げ。奴らはもう羽様の屋敷に
踏み込んで行ったらしい。車内は灯油の臭いが充満していたけど、灯油のタンク等はなく。

「警察か消防署を呼びましょう」「待ちな」

 秀臣が携帯を取り出すのを一度押し止め。

「あたしが叩きのめしてくる。逆にそうでないと間に合わない。今は夜で、しかも満月」

 奴らは羽様の屋敷が今誰も住んでないから、真っ暗だと考え、作業には満月が好都合と
踏んだのだろうけど。それはあたしの好都合だ。

「奴らには借りがあるし。人のたいせつな物を壊しに来たなら、相応の返礼をしないと」

「サクヤさん、相手は男の人が4人もっ!」

 讃良が不安そうな声を上げるけど。観月の侭であたしは讃良を間近に正視して、今宵の
あたしは鬼切り役でも切り倒せはしないよと。語りかけてから、肌身に抱いて頬を合わせ
て。

 讃良の震えはあたしの変貌に怯え驚いてか、未だ緊張状態を抜けてない故か。どっちで
も良い。観月が人と違い怯えられるのは当然だ。でも肌身を繋げた讃良の反応はむしろ良
好で。

「柔らかいけど、力強い。これが観月…?」
「ああ、化外の民、人外の鬼、山神の一族」

 あたしは観月でも、満月の夜も四つ足になれない、半端物だけどね。それでも今なら常
の男の拾人や弐拾人は、簡単に踏み躙れるよ。

 あたしは讃良の額に唇を軽く当て『だから大丈夫』『少し待っていておくれ』と告げて。

「讃良を頼むよ、秀臣」「承知しました…」

 月光の届かない漆黒のアーチを疾駆する。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 讃良の視た関知の絵図は、この状況だったに違いない。漆黒のアーチを抜けたあたしは、
満月の輝きの下で羽様の屋敷を見つめて佇み。

 次の瞬間その傍に、懐中電灯を持って蠢く男達の存在を悟り。今宵が満月という以上に、
観月は眼も耳も鼻も利く。灯油のポリタンクを数個持ち込み、羽様の屋敷の外壁に注いで
掛けて、正に火を付けようしていた処らしく。

「人間の癖に……人間以下の鬼畜共がっ!」

 あたしは走り寄る勢いも込みで、手近な1人の顔を思い切り殴りつけ。吹っ飛ばして彼
らがたった今撒いた灯油の中に、叩き沈めて。これで安易に火を付ければ、仲間を同時に
焼き殺す羽目になる。奴らの放火は暫く封じた。

「何だてめぇ」「こいつ、ルポライターの」

 奴らの間に走る動揺は、単に放火の様を見られ気付かれただけじゃなく。一度はあたし
を囲んで襲ってやり損ねた、顔馴染みの故の。何でこんな処にと、問う声に先駆けあたし
は。

「美人独身二十歳を憶えていてくれたかい。
 じゃあもう一つしっかり憶えて貰おうか」

 この屋敷はね、浅間サクヤのたいせつな人達の想い出が籠もった大事な建物だ。桂や柚
明や、真弓や正樹や、姫様や笑子さんの想いが宿った尊い場所なんだよ。お前らの汚い手
で触って穢して良い処でもなければ、壊したり燃やしたりして良い処でもないんだよっ!

 灯油塗れな1人が、頬を抑えて起き上がる。あたしも初撃には、灯油の海に吹っ飛ばす
事を優先して、威力を込めなかったから。でも。

「ここからは、浅間サクヤの戦いだ。生命を取らない程度に手加減はしてやる積りだけど、
今のあたしは怒りでぶち切れている。生命を落してしまった時は、運命と諦めておくれ」

 観月のあたしが鬼の力で人を傷つけては。
 鬼切部の討伐対象になる怖れはあるけど。

 葛や烏月、今の若杉や千羽が話しを分ってくれそうという以上に。讃良の分迄含めあた
しは腹の虫が収まらず。今迄の柚明や桂への汚い工作や執拗な嫌がらせも。松中やこいつ
らに叩き返したい憤懣は堪っている。あたしは浅間サクヤだ。羽藤じゃない。笑子さんや
柚明や桂の様に、優しく甘く強く賢くはない。

「力づくで敵を傷つけ退けなければ、たいせつな人を守る事の出来ない、不器用者だよ」

 車2台で運べる程の人員だから、余り大人数ではないと予測は出来た。隣家は数キロ離
れており、人目に隠れて灯油を撒いて火を付けるだけで、邪魔者も想定してない。男4人
がナイフを取り出したとしても、敵じゃない。満月のあたしは烏月の剣だって見切れる
よ!

 灯油の匂いは鼻をつくけど、感覚が鋭い分あたしが少し不利だけど。手加減しても尚…。

「サクヤさんっ……!」「終った様ですな」

 讃良は周囲の無事を確かめた秀臣から解き放たれて、あたしの下に駆け寄って。思い切
り抱きついて、この胸に頬を埋めて。男4人と戦ったあたしが完全に無事かどうか、肌身
を合わせないと安心しきれないという感じで。

「良かった。無事で……サクヤさんはとても強いって聞いていたけど、知っていたけど」

「百聞は一見にしかずって、事もあるかね」

 今は安心できる迄、心満たされる迄讃良の求めに応じ続け。抱き留めて抱き留められて。
少し前の桂を思い出す、もう少し前の柚明も。そのもう少し前の柚明の母も。あぁあたし
はいつもこうやって、大事な人に恵まれてきた。

 灯油の匂いは鼻をつくけど、悪党は当分起き上がれない程叩きのめし。羽様の屋敷も間
一髪で無事だった。今は強く讃良と肌身を合わせ、安堵を共有してその心鎮まるのを待ち。

 満月が青く清くあたし達を照し出していた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 あたし達の抱擁の間、秀臣は男4人を縛り上げ。讃良とあたしが充分抱き終えた頃合に、
秀臣の作業も終って。歩み寄ってきて秀臣は。

「讃良には、なぜ私が讃良を引き取ると決めたのか、話してなかったね」「秀臣さん…」

 屈み込んで、目線の高さを讃良に合わせる姿勢が、正樹や柚明を思い起こさせた。讃良
がその話題に怯える様は、繋げた肌身で感じ取れたけど。あたしは背後から讃良を軽く抱
き支え、その心を支え保ち。これは秀臣が告げねばならず、讃良は聞かねばならなかった。

「私の息子の秀幸が、君の父母に殺められた話しはしたね。秀幸は妹の美月を庇い、君の
父の拳銃の前に飛び出して生命を落し、その時に私も右肩を撃たれて死にかけた。だが」

 君の父母は秀幸を殺めたが、美月と妻と私の生命は奪わなかった。拳銃の照準を合わせ
られた時に。君の母がその銃口を下げさせて。

『わたし達も同じ年頃の女の子がいる。それを思うと、幾ら心を鬼にしても、殺せない』

 君の父も頷いて、銃口を私達に向け直さず。

 秀幸は生命を断たれ、蠱毒の資格も喪った。

『これ以上敵対せず、代理参戦もしないで欲しい。蠱毒は負けても勝ち残っても地獄の制
度だ。憎まれるのは承知の上だが、これ以上憎しみを増やす側には、ならない方が良い』

 蠱毒には、敗れた者の妻や子が、負債や資産や無念と共に、蠱毒参加の資格も継ぐ代理
参戦の制度がある。葛様も蠱毒の当初は年齢面で参加資格を持たなかったけど、近親の無
念と負債を継いで、代理参戦したと聞いたよ。

「秀幸を殺められた悔しさは、血を沸騰させたけど。私は代理参戦せず、他の蠱毒参加者
の配下について、息子の仇討ちもしなかった。秀幸は蠱毒に勝ちたくて参戦したのではな
い。家族の為に外れくじを引いたのだ。息子が仇討ちを望むとは思えない。意気地無しと
罵られても、情けないと囁かれても。私は美月の為に、秀幸から託された娘を守る為に、
憎悪に踊らされ戦いの輪に入る選択は取れず…」

 それこそが秀臣の本当の悔恨かも知れない。
 どんな理由でも憎悪を晴らす術を手放した。

 それが子の死を受け入れた様に思えるから。
 秀臣は自身をこの世で最も許せないのかも。

「母さんが……父さんが、そんな、ことを」

「君の父母は息子の仇であると同時に、娘や妻や私の生命の恩人でもある。君の父母と言
うより、むしろ君がだ讃良。君がいてくれたから、君の父母は美月や私達を殺める手を思
い留まった。希望を断たないでくれた。息子が蠱毒を引き受けても守ろうとした美月を」

 蠱毒が終って、葛様が失踪して戻り、浅間さんの監視任務の為に、私を呼び出した時に。

「私は葛様に君の行方を訊いて、預りたいと申し出た。葛様が勝利した時点で、君の父は
生命がなく。母も同時に息絶えたと報され」

 でも葛様はすぐにそれを承諾せず。なぜと、私の真意を尋ねてきた。葛様は私が、息子
の仇の娘である讃良を、恨み故に引き取り憤怒を向けて虐待するのではと、案じておられ
て。

「つづら……様が、わたしの、身を案じ?」

「葛様も葛様の孤独と苦味を抱えておられる。君の父母が語った通り、蠱毒は負けても勝
ち残っても地獄の制度だ。そして葛様は、少し年上の女の子を、苦手と感じておられると
か。

 蠱毒参加者に、葛様より4つ年上の女の子がいた様で。葛様も相方の娘も当初は誰の目
にも勝ち目の見えぬ泡沫候補で、日々を生き抜く為に手を組んで、力を貸し合い助け合い、
幾度かの危機を乗り越えたとか。だが蠱毒は、最後の1人になる迄殺し合わねば終らな
い」

 葛様は、一時は蠱毒に勝者無しとなっても、自身が生命絶えても、相方の子を助けたい
と、思われた様だが……結局その相方と血で血を洗う戦いになり、ご自身で決着を付けた
とか。裏切りと憎悪と恨みと憤怒の凄惨さに飽いて、葛様は若杉を嫌って流浪に出たと聞
いている。

「だから葛様は歳の近い、少し上の女の子に、苦手意識というか、大事にしたいけど触れ
難い感覚をお持ちの様で。どう対処して良いのか正直分らないと語って、私の真意を訊い
て。私が讃良を暫く預る事に了承頂いたのだよ」

 憎しみは永遠に拭えないけど。喪ったたいせつな物への愛に起因するこの憤怒や恨みは、
終生拭う積りもないけど。地獄は己独りではない。独りではないからこそ、救いにもなる。

 そこであたしが讃良の耳に唇を近づけて。

「憎しみをいつ迄も抱き続ける事は、とても辛く苦しい事さ。忘れ去った方が心軽くなれ
るのにって、讃良も思った事はないかい?」

 喪った大事な人への愛に由来する憎悪や恨みを、あたしも忘れ去れなかったけど。でも、
それのみで人生を費やすのは、余りに寂しい。出来る事なら、あたしもあんたには笑みを
浮べていて欲しい。若杉讃良は可愛い拾弐の女の子じゃないか。あたしの里の仲間を殺し
たのは、殺す指示を出したのはさららじゃない。

 そこで秀臣に喋る順番を再度戻すと……。

「秀幸を殺めたのも讃良ではない。讃良はいてくれた事で、美月や妻や私の生命を繋いで
くれた。その君が父母を喪って身寄りのない状態にあるなら、その恩は私達が返したい」

 讃良を……私達の娘に、家族に迎えたい。

「若杉讃良は、若杉秀臣のたいせつな人だ」

 秀臣の想いを宿したその声に、瞳に姿勢に。
 讃良は瞬きも忘れ、暫し呆然と立ちつくし。
 次の瞬間、しゃがんだ侭の彼に抱きついて。

「……秀臣さん……わたし、わたしっ…!」

 何も考えていなかった。誰の事も見ないで、自分だけが哀しくて辛くて酷い目なんだっ
て。世界から見放されているって。喜びは全部なくなったって。まだあった。ここにあっ
た!

「サクヤさんや、秀臣さんや……未だわたしを想ってくれる人はいた。逢えて嬉しい人や、
一緒にいて楽しい人は、未だいたんだっ…」

 空を駆け去る満月の下、あたし達は暫くおのおのの想いに浸った後で。後片付けに入る。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 奴らは屋敷の外側から灯油を掛けただけで、中には足を踏み入れてなく。こいつらを捉
えた以上、羽様の屋敷も経観塚の役場も、投石や放火は為されまい。応援が来る怖れはあ
るけど、その前にこいつらを警察に突きだせば。組事務所も捜査され誰の依頼かも調べが
及ぶ。

 鬼のあたしがこいつらを叩き伏せた事を。
 秀臣の携帯から葛へと直通電話を繋ぐと。

「分りました。今回の件でサクヤさんに非はありません。鬼切部に不介入を厳命します」

 葛は事情を分って低音の答を返し。あたしが偶々ここにいて、讃良の関知を気に掛け留
まったから対応できたけど。そうでなければ、羽藤の屋敷は焼け落ちていた。それが桂に
どれ程の衝撃を与えるか。それを葛も分るから。

「それと、そのヤクザ達を警察や消防に突き出す必要はないです……若杉で処断します」

 間近でスピーカー状態で聞いていた秀臣も讃良も、一瞬で息を呑む程声音は低く凍結し。

「生命を奪わないでくれて良かった。わたしのたいせつな桂おねーさんを傷つけて、その
想い出を砕こーとした奴らに。簡単に死を与えて終らせては、わたしの気が済まないので。
彼らには死にたくなる目に遭って貰います」

 それは若杉に任せるよ。それよりも……。

「やくざ達の頭目の携帯に『羽様の屋敷は燃えているか?』ってメールが入っていてさ」

 軽く尋問したら、叫び声混じりに教えてくれたよ。所属の組やボスの名や、今回柚明や
桂への嫌がらせの前進基地に使っていた賃貸事務所の住所を。今からご挨拶に行って来る。

「若杉が動く必要はない。あたしがやるよ」

 瞬間、秀臣の顔色にも惑いが浮んだけど。

「あんたが人を害した鬼を、その事情に関らず全て処断する先代の考えを継ぐなら、あた
しを処断すると良い。若杉の動かない事が桂の最善と柚明が言うなら、動かないが良いさ。
あたしは若杉じゃないから。たいせつな人の為に生き、たいせつな人の為に戦うだけだ」

 柚明は葛の動きを止めたけど。あたしの動きには何も触れてない。柚明はそう言う処に
うっかりを残す女ではない。ファースト警備保障に関るあたしの事情を、関知で察してか。
あたしの憤怒は、抑えられないと見てなのか。あたしの動く時は、やむを得ないと考えて
か。

「サクヤさんは千年生きても熱いのですね」

 葛はそれを意識した、脱力し醒めた声で。

「さっきも述べた通りです。今回の件でサクヤさんに非はありません。鬼切部に不介入は
厳命しました。後はサクヤさんのご随意に」

 唯、北関東の暴力団の賃貸事務所には、明日朝6時に、銃刀法や麻薬取締法違反容疑で、
県警の強制捜査が入る予定に、今なりました。日の出迄に決着して離脱した方がいーです
よ。

「あんた、今から県警を叩き起こしてガサ入れさせる気かい。あたしがぶちのめした後を
巧く攫い、奴らを逮捕して報復するかね?」

「お巡りさんの日夜の精励に敬意を表し、成果を上げる場の情報を、提供するだけです」

 決して警察に恩を売りたいとか、松中財閥の依頼を受けた裏組織は消えるという噂を流
したいとか、そー言う思惑はありませんので。

「極悪お子様だね。親類の顔が瞼に浮ぶよ」

 あたしは、讃良と秀臣に視線を移しつつ。

「分った。こっちは直ちに挨拶に行くから」

 あたしは携帯を秀臣に返し。あたしは今から走るから、やくざ達の監視と引渡を頼むと。

「我々は浅間さんの監視役です。やくざ共の応対は任務外なのですが」「なら、さららに
付いてきて貰う。しっかり監視しておくれ」

 秀臣の困惑は葛にも漏れ聞えていた様で。

「そーですね。秀臣さんは若杉の者が引取に行く迄、やくざの見張りを命じます。讃良さ
んはサクヤさんの監視に励む様に。やくざに攫われた失点はあるけど……羽様の屋敷の焼
失を防ぎ止めた。今宵の働きは見事でした」

 葛の声に、一瞬讃良は表情を固めたけど。
 しっかり面を上げて、意思を込めた答を。

「ありがとうございます、つづら様……これからもサクヤさんを、しっかり見守ります」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 あたしの車で来た秀臣に足はなくなるけど。
 若杉の者は数時間程で到着する模様なので。

 あたしは赤兎でその侭ここを発つ。夜道を激走し丑三つ時には、北関東の某賃貸事務所
に到着する。満月の夜なら、刃や銃を持っていても常の人など、五拾人単位で踏み躙れる。

「讃良を、お願いします」「大丈夫さ、あたしもさららを戦場に連れ込む積りはないよ」

 讃良はあたしのお目付役だ。離れて見ていてくれればそれで良い。そう言って黒髪ショ
ートの髪を撫でると、讃良は身を寄せてきて。

「しっかり見守ります」「気をつけてな…」

 赤兎は夜道を疾駆する。高速道路に乗る迄暫くは、舗装が剥がれていたり凸凹だったり、
急な曲り角に標識も街灯もなく直前迄気付けなかったり、高速で走るのは結構危ういけど。

 道筋は完全に憶えているし、危ない処には勘が働く。特に今は夜で満月だ。赤兎は高速
道と変らない早さで、闇を切り裂き突き進む。深夜でも月光が照す青い薄闇は良く見通せ
る。

「拾弐の女の子を助手席に乗せるのは、久しぶりだね」「羽藤桂さんですか、それとも」

 柚明の方だよ。あの時は、父方の従姉が事故で負った顔の深傷を治そうと。癒しの力を
迷信に偽装して、及ぼそうと考え。柚明は自分の父母を奪った鬼を仇討ちする為の力より、
己のたいせつな人を癒し守る力を望み願った。

『これは運命への復讐戦です。あの夜たいせつな人を失ったあの場所で、今わたしはたい
せつな人を守る。あの鬼は倒せなかったけど、わたしは仇を倒して心満たされる訳じゃな
い。

 哀しみの定めを、痛みや涙を、笑顔に書き換える事がわたしの望み。怒り憎しみを仇に
叩き返すのではなく、たいせつな人の笑みを守り取り戻す事こそ、わたしの復讐戦です』

「わたしには、真似の出来ない生き方です」

 わたしは仇を許す気持になれない。お互い様で、己も誰かの仇と思い知らされて。漸く
他人を責められないと自身を納得させたけど。許すなんて無理。装う事が精一杯で思い返
せば今も血が滾る。わたしは終生忘れられない。

 率直な讃良の言葉にあたしも率直に応え。

「過去を喪わせた連中への拘りを捨てきれないあたしにも、真似のできない生き方さね」

 でも、柚明も全て許せた訳じゃないんだ。

「桂は記憶を喪って、拾年前の悲劇を招いたノゾミを己の仇とも知らぬ侭、助け助けられ
絆を繋ぎ。過去を思い出せた後も、繋いだ絆を断ち切れなかった例外だけど。柚明は違う。

 拾年前の全てを承知で、己の仇で桂の仇だと分った上で。桂の望みを受けてノゾミを庇
い生命を繋ぎ。一言も文句言わなかったけど、誰にも迷いも躊躇も見せなかったけど。で
もだからこそ、柚明の割り切りは明快だった」

『ノゾミのやった事は、決して許さない!』
『でも、桂ちゃんの想いがそれを望むなら』

「桂さんが望むなら、柚明さんは全て受け容れる? 己の仇で桂さんの仇でも」「ああ」

 相手が信じられるか否かは、問題じゃない。
 一番たいせつな桂が、信じ込んだ相手なら。

 棘だらけの外れでも、一緒に信じ手に掴み。
 傷みも失敗も悲哀も絶望も、共有しようと。

「柚明は終生ノゾミを許さない。憎しみ恨みを手放さない。あたしやさららと同じ様に」

 その恨み憎しみは、喪ったたいせつな人に抱く愛に由来する物だから。なくす事も忘れ
る事も叶う筈がない。久遠長久に抱き続ける。どれ程辛く重く苦くても。それが幸せな想
い出に繋っている以上。手放せる筈がないから。

 その上で尚、柚明は桂が想い桂に想われたノゾミをたいせつに想い続ける。心から癒し
庇い支え救う。桂を愛す如く、桂を守る如く。柚明はノゾミを、自身の妹だと言い切った
よ。

「柚明にとっては、己の憎しみよりも、己が桂やノゾミに抱いた愛の方が、優先なのさ」

 あたしにはとても叶わない生き方だけど。

「その柚明が一番に想う桂も含めて。心から守り愛し支え力になりたい女の子だろう?」

 讃良は、その全てに納得できた感じではなかったけど。大いに興味を引かれた顔つきで。

「はい……一度、逢ってみたくなりました。
 そこ迄深く強い愛を抱かせた桂さんにも」

「惚れ込まない様に注意をし。柚明の最愛は桂と白花で不動だし、明言はないけど桂にと
っても一番は柚明だから」「気をつけます」

『人の世の諸々は、川や風の流れにも似て』

 時に全く予想もつかぬ方向に転がるけど。
 讃良との仲も良い方向に転がると良いね。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 様々な意味で激しく騒々しかった夏は終り。

「選挙は政権党の圧勝で、今も報道は熱気を帯びた侭だけど、奇跡の女性ネタはすっかり
影を潜めたね。選挙も終ったから総理の敵にも味方にも、利用価値が失せたって訳かい」

 爽やかな秋風の中、あたしは携帯に向けて。

「その前にあんたの処の週刊ロストの、柚明叩きの内情曝きがあって、急速にマスコミの
バッシングが勢いを失った様だけど。どういう風の吹き回しなんだい、八木? 慈善事業
に手を染める顔には、見えないあんたがさ」

「……俺は注目されて儲けになるネタと思ったから、手を出しただけだ。ウチの社は奇跡
の女性報道で出遅れたから。後からバッシングに乗っても『その他大勢』で注目されない。

 それよりバッシングの背景や構造を抉って晒して。マスコミ不信を煽った方が面白そう
だっただけで。余計な勘ぐりは御免被るぜ」

 くどくど理屈を述べた否定が、その嘘を証している。八木は拾壱年前の柚明の所作への
返礼で、理不尽なバッシングに横槍を入れた。柚明叩きを命じた奴に睨まれる危険を承知
で。素直にそう言わぬのは中年男の見栄や照れだ。その上で儲けにも繋げる処が並ではな
いけど。

「今は熱が冷めたから取り上げないだけだ」
「分ったよ。そう言う事にしておくからさ」

『【奇跡の人】報道に見る報道業界のマッチポンプ。無法取材と捏造の連鎖が招いた報道
被害。真実を騙るマスコミの暗部を抉る…』

 週刊ロストには、マスコミ各社が最初から、奇跡の人の誹謗中傷で儲ける為に、元々無
名な奇跡の女性を、敢て賛美報道で有名人化した経緯が、他紙記事を克明に追って記され
て。

 権田岩男の隣家敷地に侵入した違法取材も。バッシングに転じた時、それを敢て主客取
り違えて報じ、柚明叩きに使った各誌の姿勢も。夕刊トップ・大島桃花が事実に基づいて
全面謝罪し、唯一奇跡の人叩きを抜け、擁護に回った経緯も。熊谷直弘がアパートに盗聴
器置いた事も。彼が報じたクッキー食中毒虚報が、当事者達から否定された事実も。平塚
寧々のセクハラ取材や、柚明や桂への暴言の数々も。

 報道業界の裏話を続々曝いて注目を引き。
 マスコミの虚偽と隠蔽の庇い合いを責め。

 のみならず暴力団の関与迄匂わせて報じ。
 経観塚の役場への戸籍復活阻止の脅迫も。

 桂のアパートへの嫌がらせ電話や投石も。
 全て明かし柚明叩きの異常さを暴き立て。

 バッシングを真っ向否定し、その勢いを雲散霧消させて、読者の目も醒ます。若杉にも
松中にも、あたしにも驚愕の内容だったけど。『編集長氏名・八木博嗣』を見て納得出来
た。柚明という娘を識るから八木の思索を辿れた。

「……次は、選挙に大勝した政権党を探るさ。勢いに乗って、苦労もなく当選した大泉チ
ルドレンは隙だらけだし。松中財閥は尚も銃刀法改正や、武器輸出解禁を求めて不穏だ
し」

「娘の事を考えて取材しなよ。オリエモンは落選したけど、政権党の大勝で松中系の議員
は増えている。松中は権力にも裏社会にも繋って、手段を選ばないし」「分っているさ」

 松中の息の掛った暴力団が、夏の終りに突如何者かに叩き潰され、追い打ちで強制捜査
を喰らって壊滅状態と聞いたぜ。松中はトカゲの尻尾切りで、何とか捜査を逃れた様だが。

 八木はあたしの動きを、分っているのか?

「松中系の議員は増えたが、大勝した政権党の中で比率はむしろ減っている。日本国は若
杉と松中だけで、動かしている訳じゃない」

 当分お宅達に関る事はなさそうだ。売れそうなネタを見つけた時は、又取材に食いつく。
何か面白そうなネタがあったら教えてくれよ。

 電話は向こうの方からブツッと切られて。

「どこ迄も可愛げない。柚明に恩を返したく、義憤で横槍を入れたと白状すれば良いの
に」

 そうでなければ、あのバッシングの背景を承知して、危険な真っ向勝負に出る筈がない。

 あたしは膝枕してくれる讃良のショートの黒髪に、左手を伸ばして軽く触れて撫でつつ。

「どうだい桂? そっちは落ち着いたかい」

 讃良が桂や柚明の声を聞きたいと願うから。
 話しても良いよと言ったら、恥ずかしいと。

 暫くは、あたしとの会話を聞かせてと頼み。
 代りに膝枕するからと羽様の屋敷の縁側で。

「うん、少し前迄の騒ぎが嘘みたい。家の傍に張り付く人もいないし、出歩いても寄って
くる人もいないし。今もお姉ちゃんに取材に来ている、夕刊トップの桃花さん位かな…」

 いつも電話とFAXで記事の内容を相談しているけど、週に2回位訪れてお話しするの。

 桂のアパート傍に詰めかけていた報道陣が、引き潮の如く去るより早く。北関東のヤク
ザの賃貸事務所に、警察の強制捜査が入った後。柚明に石を投げる者も、執拗な嫌がらせ
電話も消失し。一時はアパート入口に汚物や火の付いた新聞紙を投げつけられ、カミソリ
も郵送されたけど。今はすっかり平穏を取り戻し。

 夕刊トップは今も柚明の来歴を、インタビューの形で載せて。バッシングは終ったけど、
柚明の綺麗さ柔らかさ優しさに、固定読者がいる様で、一時期程ではないけど好評だとか。

「経観塚の役場からお姉ちゃんの戸籍復活の電話があって。それが決定打だったみたい」

 経観塚の役場に来ていた嫌がらせ電話や脅しの手紙も、あの夜以来途切れ。柚明が半澤
優香でないと分った時以降、取材電話も途絶えており。役場は粛々と戸籍復活に動き出し。

「台風一過って感じだよ」「そうかい……」

 この前は烏月さんが来てくれて、陽子ちゃんとノゾミちゃんと、おうちで5人でお姉ち
ゃんの作ったお夕飯を一緒したの。とっても素敵で楽しかった。烏月さん達が帰った後で、
少し疲れて居眠りしたら、わたしの代りにお姉ちゃんが、ノゾミちゃんに贄の血を上げて。

 なぜか少し桂の声がモジモジ恥じらった後。

「サクヤさんはお仕事終った? 手が空いたら一度来てくれるって、お話しだったけど」

 もうこっちはすっかり騒ぎも鎮まったから。
 詰め寄られる心配もないしいつでも良いよ。

「急用が出来てね。首都圏に成果を納めに行ったけど、又やや離れた処に来ていてさ…」

 羽様に又戻ったと言いづらく。それなら少し立ち寄る暇位あるのではと、言われそうで。

 暴力団の前進基地は潰したけど。まだ一件落着と言えず。奴らは警察に締め上げられて
いるけど、潜伏した者もいる様で。暫くあたしも潜伏し。桂や柚明との接点を今見せては
拙い。観月の正体を桂に悟られる心配もある。

 柚明が葛に述べた通り。鬼切部の守りは監視の形で桂の周囲に配置済で。それが真に必
要な時迄は、世の表にも裏にも伏せてオブラードに包まれた『ステルス状態』が望ましい。

 松中の指示による暴力団の執拗な嫌がらせにも、柚明は遂に若杉を動かさず、受けて受
けて受けきって。最後はあたしが羽様の屋敷の放火を妨げ、暴力団を叩き潰したけど。柚
明は羽様の屋敷が灰にされても、心折れずに事実を受け止め、最善を尽くし続けただろう。
哀しんでも傷ついても桂を支え守り愛おしむ。柚明の意志の強さは実はその甘さをも上回
る。

 柚明が桂に出来る柚明の最善を尽くす様に。
 あたしは桂と柚明に出来る己の最善を為す。

 柚明が傍で桂を見守り愛し抱き支える様に。
 あたしは遠目に桂と柚明を見守り愛しよう。

「わたしも普通に学校に通っているし。ノゾミちゃんも毎日元気だよ。お姉ちゃんからは
『羽様のお屋敷を見て頂いて、ありがとうございます』って伝言を預ってます。それと」

『膝枕お願いします』だって。お姉ちゃんもサクヤさんに甘えたい時とか、あるのかな…。

【それはあたしが柚明に膝枕される事だよ】

 笑子さんを喪った後、柚明が羽様の縁側で。今讃良がしてくれている様に、何度かあた
しを膝枕して。柚明は羽様の屋敷を守った礼に、あたしを膝枕したいと、桂に分らぬ様に
主客を違え。町の家を訪ねてと伝えるのが真意か。

 あたしは桂達に、羽様の屋敷が放火されかけた話しはしてない。電話でも桂としか話せ
てないし。あたしと絆を繋いだ柚明は、関知の力でお見通しかも知れないけど。と言う事
はまさか柚明は、讃良との膝枕の今も承知か。気分は妻に浮気を見抜かれていた良人だっ
た。

 思わずびくっと身が固まり、それを今膝枕してくれる讃良に気付かれ。不思議そうな顔
をされるけど、事情を知らない桂は声音穏やかで、讃良の察しもその真意には届かぬ様で。

 実の処、あたしもなぜ狼狽えるのか、確かに応えられないのだけど。柚明は桂のアパー
トを、訪ねて欲しいと言伝託しただけなのに。桂と讃良の前で、慌てふためく姿を晒して
…。

 長閑に穏やかな声のやり取りを、尚も続け。
 柔らかな笑みが、更に他の人の笑みを誘う。
 今はこの日々の幸せに、心を浸し続けたい。


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