夏が終っても〔丁〕(前)



 意識の混濁を悟れるのは、己を取り戻しつつある為か。混濁の向うの安楽に移りつつあ
る為か。視界が闇なのは夜ではなく瞼を開けない為だ。でも浮ぶ幾つかの像は己の回想か。

 激しい痛みと息苦しさはあの時に似ている。
 故郷を鬼切部に焼き討ちされた新月の夜に。

「……姫さま……あたしを還しに、……顕れてきて、くれたんですか……?」

 観月の仲間を残らず虐殺された。祖父さんは生命を張って、あたしを庇ってくれたけど。
あたしを守った為に生命を落し。生き残れたのはあたし独り。行く処も帰る処も、喪って。
長久を一緒してて来た同胞を誰1人守れずに。

 深傷と失血に死を覚悟した冬の夜。あたしは一目会いたくて。最後に一声交わしたくて。
もしや答があるかもと。感応の力のないあたしは、千年訪れても感触も悟れなかったけど。
ずっと姫様の親愛は届いていたから。例え最期迄何も答を分らなくても。それで良いから。

『いつでもいらっしゃい。わたしは、いつでもここにいるから。どこにも行ったりはしな
いから。いつ迄も、いつ迄も、いつ迄も…』

 優しげにそう言って下さったから。姫様は約束を守って、千年在り続けて下さったから。

 あたしは姫様の下で身罷りたくて。姫様に看取られたくて。ご神木の下で土塊に還れば、
姫様と一緒になれるかも知れない。そうして辿り着いた羽様の山で、こんな暗闇に沈んで。

「姫さまと違って、あたしは全然様子が違うから、分りませんか? 良く里を抜けて、姫
さまに会いに行ってた、浅間のサクヤです」

「ね、やっぱり人違いじゃないかしら…?」

 愛しい姫様に生き写しの綺麗な唇が動いて。

「わたしは笑子よ、羽藤笑子」

 あたしのこの世で二番目にたいせつな人が。
 視界の全てを埋め尽くして微笑んでくれて。

 姫様を一番に想うあたしは、生命と心の恩人の笑子さんを、遂に最期迄一番には出来ず。
あたしはとうとう何も返す事が出来なかった。強く深く想ってくれたのに、愛していたの
に。

 あたしは酷い女だった。でもそんなあたしに、一番だって想いを未来永劫返せないあた
しに笑子さんは。血塗れで倒れていた、瀕死の見知らぬ女に怖れも警戒もなく寄り添って。

「わたしは、家の中でも特別『視える』性質だから、すぐにピンときたの。あなたは普通
の人とは違っているんだなって。
 オハシラ様があなたを助ける為に、わたしを連れてきたんだなって」

「ふと、羽藤の血筋に流れている、特別な血の事を思い出したのよ。本当に効くかどうか
も分らなかったのだけれど、口に含ませたらお腹を空かせた赤ちゃんの様に、必死になっ
て飲んでいたわ。お茶碗一杯分くらい」

「他の生き物の生命を奪ってまで、物を食べたりするのは、生きるための行為ですから」

 サクヤさん、あなたはちゃんと生きたいって思っているんですよ。そう語りかけられて、

「そんな事ある訳……だって、あたしはもう1人なんだよ。なのにあたしに生きろだなん
て。みんなあたしを残して逝ってしまったのに、あたしにだけ残れだなんて、そんなの」

「それじゃあ、はい。サクヤさん」

 笑子さんの極上の笑みと小指が瞼に映り。

「わたしが元気でいる間は1人じゃないから、心配しないで」

 喪っても全てが終りじゃない。誰かがいるなんて空虚な気休めではなく、ここに私がい
るから、ここに羽藤笑子がいるから浅間サクヤは独りじゃないと。独りにはしないからと。

 この人には鬼と人の違いなんて、観月と贄の民の違いなんて。手を伸ばせば繋げる程の、
小指を絡めれば通い合える程の隔りで。でも、

「だけど、あんたもあたしを置いて行くんだろう。……あたしはまた、1人になるんだ」

 観月の民の長寿は、たいせつな人との別離、看取る事を前提とする。大切な人が出来て
も、出来れば出来る程、百年経たずに永訣は巡る。大切な人を作っても、己が傷つき苦し
むだけ。

「ふふふ、それはどうかしら。わたしは長生きする積りだもの。だから、その頃にはきっ
と、孫辺りがわたしと同じ事を言うんじゃないかしら……サクヤさん?」

 想いは受け継がれる。受け継ぐ人がいる限り、体は尽きても想いは終らない。訣れはあ
っても次の世代が繋れば、孤独にはならない。笑子さんはあたしの絶望の出口を指し示し
て。

 人は、たいせつ人がいる限り、望んでくれる人がいる限り、希望を抱いて生きて行ける。
別離は哀しむけど、全てを喪わない限り続きはある。たいせつな人がいる限り想いは続く。

「ずるいじゃないか、そんなの」

 ここであたしは、生命を繋ぐと言うより運命を繋げ換えた。生きる希望を繋ぎ止めた…。

 笑子さんはその約束を終生果たし続けて。
 桜花の民の短い時を瞬く間に過ごし行き。

「サクヤさんには、柚明と正樹達を含めたみんなを、見守って欲しいの。……それぞれに
強さと弱さを併せ持った、わたしが愛したたいせつなひと達。……愛する物を見守る事は、
愛する者の死の看取る事にも繋るけれど…」

 桂や白花の様に新しい生命は生れ出てくる。

「暖かな想い出は残るでしょう。そしてこの想いを受け継ぐ人達が、更に続いてくれる…。

 約束は、守りましたからね。私の子や孫が、貴女を決して独りにはしませんから」

「分ったよ。笑子さんの大切なひとたちの幸せは、あたしが守るよ。必ず、守るからさ」

 でもその姫様を、笑子さんの子々孫々を。
 あたしは拾年前の夜、守る事も叶わずに。

「あたしは……また、間に合わなかった…」

 最後の笑みをあたしは裏切った。最後の願いにあたしは応えられなかった。最後の約束
を果たせずに、幸せをこの手の内から零して。あたしはいつも間に合わず手が届かないの
か。

 固く誓った筈なのに。正樹と真弓と柚明の前で。それぞれに笑子さんと最期の言葉を交
わし約束を交わし、想いを重ね合わせたのに。

「あたしは何度手遅れを見れば良いんだ!」

 姫様が還され、正樹が死んで。柚明は鬼神の封じを継いでご神木に宿って、肉の体も未
来も喪い。白花は封じの綻びから漏れ出た主の分霊(わけみたま)に憑かれて行方不明で。
桂はショックで記憶を失い、想いだそうとすると赤い痛みに苛まれる為、過去に繋る羽様
に住めず。真弓は桂と街に移り住み、女手1つで桂を守り育てて、過労の末に寿命を縮め。

 あたしが見守りたかったたいせつな人達が。
 あたしの心の闇に光を灯してくれた人達が。
 あたしに生きる値と目的をくれた人達が皆。

 この時もあたしを我に返らせてくれたのは。
 あたしに生きる値と目的を再び示したのは。
 真弓や幼い桂であり、オハシラ様になって。

《有り難う……来てくれて……嬉しい……》

 姫様の跡を綻んだ封じを継いだ柚明だった。

「血が……あんたの血が、あたしの中に流れていたんだ。あんたはあたしの中で息づいて
いる。そうかい、そう言う事かい。ああ!」

 あたしは柚明の血を呑んでいた。あたしの中に流れる柚明の血を介して、心が伝わって。
千年の間叶わなかったご神木との交感が叶い。瞼の裏に浮ぶは、強く柔らかに穏やかな笑
み。

 希望を失って尚、柚明は強く優しく美しく。桂に忘れ去られても、守られた事も共に過
ごした日もその存在も、なかった事にされて尚。誰からも何も報われぬ無為の長久に己を
捧げ。

《誰に知られなくても、わたしが知っていれば良い。誰に忘れ去られても、わたしが守り
通せれば良い。返される想いなんて求めない。わたしが、たいせつなひとを守りたかった
の。

 わたしは、わたしが愛したから為しただけ。気持を返して欲しいなんて、思わない。憶
えていて欲しいとも、感謝して欲しいとも…》

「……せめて、あたしは、忘れないから」

 あたしは、悠久にあんたと過ごすから。

 誰が朽ち果てても、誰が干涸らびても、あたしはあんたを忘れない。ずっと、ずっと同
じ時を生き続ける。今こそあたしはあんたと一緒の時間を生きられるんだ。あたしだけが。

「全てが終る、長い時の彼方の滅びの日迄。
 主を還し終ってあんたも還る最期の日迄」

 その柚明が必死の決意を更に越えて。人の生を差し出す行いを更に踏み越えて。拾年経
って再び羽様を訪れた桂の危機を察し、人の現身を取ってご神木から抜け出して守り戦い。
千年の間、姫様にも叶わなかった無茶を為し。日の照る昼に顕れ、消失も怖れずに桂を救
い。

 その美しい容貌が緊迫に引き締まるのは。
 その深く黒い瞳が覚悟に見開かれるのは。

「だめぇっ!」

 白花を庇って柚明が烏月の太刀を受けに。
 喪われる。柚明迄もあたしを置き去りに。

 これ以上独り取り残されるのは、沢山だ!

 考える暇などない侭体は動き出していた。
 あぁこの激痛と苦しさと暗闇はその故に。

「これ以上、柚明にばかり、生命を張らせ続ける訳にも、行かないだろうに……ぷふっ」

 あたしは白花と柚明を庇いに。身動き取れぬ白花の前に出て、自ら太刀を受けに身を挟
めた柚明を突き飛ばし。羽様の屋敷の中庭で、烏月の刀をまともにこの身で受けたのだっ
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 漸く記憶が繋ってくる。瞼の裏が真っ暗なのも、何となく分った。瞳を開けてないのだ。

 笑子さんや真弓や、姫様の声を聞いたのも。
 過去の回想が、重複して幾つも視えたのも。

 生死の境を彷徨っていた故か。夢と言うよりも、あたしは冥土に渡り掛けていたのかも。

 肺に達した傷から空気が漏れて息が出来ず。
 吹き出す鮮血は激痛と共にこの身を苛んで。

 この傷では日没を待たずにあたしも終りか。
 観念しかけた時、柔らかな細腕が身を支え。

『何て事を……、何て無茶な……!』

 柚明はこの深傷を治そうと。血塗れのあたしに、笑子さんの様に寄り添って、癒そうと。

『それをやろうとした……あんたに、言われたくないね。……あんたの受けてきた痛みは、
この比ではなかった筈だよ……。柚明……』

 幼い頃から懐いてくれた黒髪の柔らかな子。
 笑子さんに生き写しの優しく華奢な女の子。

【うん……。サクヤおばさんが元気で綺麗な侭帰ってきてくれたらいい。わたしにとって、
一番綺麗な人は、サクヤおばさんだから…】

【綺麗だったから頂戴ってお母さんにお願いしたの。でももう少し大きくなってからって。
 この髪飾りを付けて、綺麗になった柚明を是非見せてあげたい、見て貰いたい誰かが現
れる時迄、もう少し待っていなさいって…】

 幼い愛の告白を受けたのは、柚明が家族全てを喪う過酷な定めに揉まれ始めた頃だった。

【サクヤおばさん! わたし、この髪飾りを、貰います……この髪飾りを付けて、綺麗に
なったわたしを是非、見せてあげたいの、見て貰いたいの……サクヤおばさんに、わたし
の一番大切な、特別な、サクヤおばさんに!】

 大切なだけじゃなく特別な人。
 特別なだけじゃなく一番の人。
 この世に唯1人と、思える人。

【わたしにはそれは、サクヤおばさんです】

【わたしはわたしが好きだから言っただけ。同じ気持を返して欲しいなんて、思わない】

 柚明も桂と同じくその身に宿した血の故に。
 多くの哀しみや苦痛に向き合わざるを得ず。

【わたしが、いけなかったの?】

【わたしが、わたしが鬼を呼び寄せたの?】

【わたしのこの血が、濃い血が鬼を呼び寄せ、お父さんやお母さんを、死に追いやっ
た?】

 青珠を渡さなくても、母さんは病院で眠っていれば生命は助かっていた。おなかの妹も。
わたしが何もしなけばあんな事には。わたしを守る為に、鬼に刺し殺されたお父さんも!

 わたしが余計な事をしなければ、みんな楽しく暮らしていけたのに。お母さんも元気に
退院できたのに。数ヶ月もすれば妹も生れて名前を付けられ、一緒に暮らしていけたのに。

【わたしは酷い子です。悪い子です。禍の子です。わたしは、わたしは、みんなの…!】

 ぎりぎりの処で柚明が心鎖さなかったのは。
 宿命に未来に己に向き合う事が出来たのは。

 その血を宿す先達、笑子さんがいたお陰か。

 そうでなければ、柚明は桂を守る力も心も。
 望む事さえ出来ず打ち拉がれて終ったかも。

 あたしはあの時も何の役にも立てなかった。

【わたしが、力を……誰かを守る、力を…】

【わたし……なります。必ず……なります。
 わたしは生きて、幸せになります。
 わたしは誰かの為に尽せる人になります。
 わたしは誰かを守り通せる人になります】

 でも柚明は己の力の限り、定めを受け止め。
 苦しみ悩みを糧に換えて、挑んで乗り越え。

【有り難う、サクヤおばさん。笑子おばあさんにも正樹叔父さんにも、お礼言わなきゃ】

 聞かされて大丈夫な位迄、柚明は強くなりました。みんなのお陰です。だからもう抱え
続けないで打ち明けて。本来わたしの話なのだもの。わたしもみんなと一緒に事に向き合
って重さを負う。一緒に羽藤の家を支えたい。

 まっすぐに柔らかに、たおやかに強く賢く。
 白花や桂や他の者をも、強く深く愛し守り。

 己の犠牲や尽力を喜びに出来る娘になって。
 優しく強く、清く綺麗に愛らしい女の子に。

【たいせつな人に尽くせる事が幸せ。愛する事で満たされる。幸せに報償は要らないの】

【答は視えています。幾ら悩んでもわたしの答は変らない。変えられない。わたしは羽藤
柚明です。血の定めを逃れる途を選べない以上、進んで受け容れるのがわたしの正解…】

 柚明の心が流れ込むのは、柚明の気持や印象が悟れるのは。柚明に抱かれてその癒しを
受けている為なのか。柚明があたしの癒しの為に、刀傷から観月の血を口にした為なのか。

 苦痛を和らげる暖かみが、肌身を通じて流れ込む。この身に寄り添う華奢な体を。浅間
サクヤを冥府に渡すまいと絡みついた手足を。唇や間近な息吹を感じつつ。心は闇をたゆ
たって、その故に過去の絵図が声音が心に映り。

『悪いね、白花。柚明には桂とあんたは同着で、一番たいせつな人だけど、あたしには一
番が桂で二番が柚明で、あんたは三番なんだ。一番じゃないあんたの守りに身体は張れて
も、生命は張れなかった。代りに刃を受ける事を考えつかなかった。柚明が危うくなる迄
はさ。あたしはそんな奴だよ。ごめん、白花……』

 それは白花への謝りと同時に柚明への謝り。柚明から託された白花の守りに、全身全霊
を注げず。柚明が刃に身を晒す様に事を導いた、己自身の中途半端な応対への、慚愧と悔
恨を。

『だから、柚明があんたの前に飛び出すまで、これを思いつけなかった。最初からこうし
て、維斗を抑えておけば、良かったんだ。これなら、白花を斬る事もできないだろう。烏
月』

 身に食い込んだ刃を抜こうとする烏月に、

『この刃を抜いてから、どうする気だい?』
『白花や、白花を庇う柚明を斬る積りなら』
『この刃はここに刺さった侭抜かせないよ』

 これ以上たいせつな人は傷つけさせない。

 これ以上間に合わずに、天寿も迎えない内に目の前から大切な人が消えていくのは嫌だ。
見てられないんだよ。あたしが耐えられない。

 あたしの柚明と白花を死なせる訳にはいかないんだ。桂が、桂が哀しむじゃないかい…。

『彼を斬らないから抜かせてくれって言うなら、抜かせても良い。でもね、これ以上あた
しのたいせつなひとに向ける様な刃なら、あたしの生命を断ってからにしておくれ。あん
た達が斬り残した、最後の観月だ。斬るべき鬼、なんだろう。じっくり斬ると良いさ…』

『あんたが飛び出した瞬間、想ったんだよ』

『何も一番の人にしか、生命を張れない訳でもないだろうってさ。二番でも三番でも、本
当にたいせつなひとの為なら、生命も張れる。長生きは、してみるもんだねぇ。千年かけ
て、漸くその位は悟りを得た感じだよ。ごふ…』

 柚明の顔は泣きそうな程に崩れていたけど。
 取り乱す寸前で必死に我を保ち癒しを紡ぎ。

『もう話さないで。喋らないで』

 怒りも悲哀も苦痛も越えて、今為さねばならない事を、しっかり見据えて確かにこなす。
力を制御して癒しを大量に迅速に流し。柚明は昔からそう言う心の強さに秀でた娘だった。

『あんたが本当にたいせつだったから。桂のすぐ次にたいせつだったから。……あたしの、
叶う限りを尽くして守りたい愛した人だったから。せめて、この位は、受けないとさ…』

 あんたが今迄に受けてきた痛みに較べれば。
 あんたが今迄に為してきた無理に較べれば。

『斬らないって、約束してくれないと、抜かせられないねぇ。あたしが生命を張ったんだ。
見合う成果もなしに、唯抜かせる訳には…』

『サクヤさん、ふざけた事を言っている場合ではない。早くその手を外さないと生命が』

 あたしはこの侭生命尽きても、白花と柚明に向きかねない刃を止められればそれで良い。

『命懸けで言っている事を、おふざけとはきついね、あんたも。下手をすると、遺言にな
りかねないってのに……さ、今朝方ノゾミがやった様に、お約束しておくれ、この場で』

『あなたは死の押し売りをする気ですか?』

 あたしは生命を先払いした。後は烏月がそれを受けるか否かだ。それで足りないという
なら、死を先払いするだけ。正に押し売りか。

『……私の名は千羽烏月。維斗の太刀を担う千羽党の鬼切り役……斬るべき鬼を斬らない
等と、約束する事は……できない……』

『じゃ、この太刀も、抜かせられないね…』

 死の覚悟と言うより、身は既に死んでいた。そんなあたしの肌に響く声は、烏月に刃を
引かせようとの。この身の刃を抜かせようとの。柚明の気迫は肌に肉に伝わって傷に響く
程だ。

『烏月さん……! これ以上』
『桂ちゃんをこれ以上、哀しませないで!』

『今だけで良いの、彼を斬らないと約束して。そうしないと、サクヤさんが、サクヤさん
が、刃を……たいせつな人を、死なせないで!』

『桂ちゃんのたいせつなひとを。そして』
『……わたしの、たいせつなひとをっ!』

 柚明の両腕が背中に回る様が分る。細く華奢な身が寄り添い張り付く様を感じる。癒し
の力を注ぎに素肌に素肌を押しつける感触が。拾年前に体を喪う直前の高校2年の娘の侭
で。

 抱き寄せられる侭に想いを強く重ね合わせ。
 擦りつけられる侭に生命を深く重ね合わせ。

 一昨日柚明は桂にこれを為し。昨日はノゾミにも為した筈だ。これ程の深傷を癒される
のは六拾年前。やはり千羽の刃で深傷を負い、ご神木の前で笑子さんの血に救われて以来
か。

 何度も受け止め唇も寄せた可愛い頬。
 何度も抱き留められてくれた細い体。

 あたしを見つめて微笑んだ黒い双眸。
 想いを告げ何度も合わせてくれた唇。

 天地終る迄悠久の時を共に過ごすと約束し約束された、浅間サクヤの特別たいせつな人。

 肌身を合わせた娘の心が消えかけた生命の炎に。どんどん風を送り込み、次々薪を藁を
放り込み、燃え立たせ。死ぬ事を許さないと。姫様にも笑子さんにも渡さないと。己の母
と諍い真弓と戦ってでも、絶対に引き留めると。

 素肌を重ね合わせ、手足を絡みつかせ、体温を交わし合う。生命を流し合い、想いを伝
え合い、赤い糸を互いの定めに結びつかせる。死の淵から、柚明があたしを引っ張り上げ
る。

 この身の内には柚明がいる。そして今や柚明の内にもあたしがいる。姫様も笑子さんも、
いつもあたしに天寿の限り、生きて欲しいと、望んでくれた。約束を違える事なく、柚明
を桂を残してくれた。絶対独りにしないからと。

 あたしは未だ望まれている。独りじゃない。
 そしてあたしも尚生きる事を、望んでいる。
 生きてたいせつな人を守り支え、愛したい。

 それで己の何かを喪い心傷む事があっても。
 それで尽きぬ悔恨を心に刻む事があっても。
 生きてたいせつな人との約束を果たしたい。

 カーテンの隙間から漏れ入る朝日の眩しさに目を細めた時、あたしは意識を戻していた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「……、……ん、……、……め、い……?」

 声が出なかったのは、数日何も食わずにいた衰弱より、深傷の故の疲弊よりも。一糸纏
わぬ己の体に、やはり華奢に柔らかな一糸纏わぬ乙女の体が、張り付く肉感を肌触りを温
もりを悟れた故で。初めてではなかったけど。おむつの頃から肌身を合わせてきた仲だけ
ど。

 柔らかに滑らかな感触に、あたしがドキドキした印象が。逆に繋げた肌身に伝わってい
るのではないかと、隠せないと怖くなって…。

 でも柚明はあたしのそんな印象を知ってか知らずか。あたしが意識を取り戻した事に総
身で歓喜を溢れさせ。抱き合う肌身を更にぴっちり手足で締めて。頬も唇も合わせてきて。

 声音はむしろあたしの傷を慮って、叶う限り平静を装おうとして、尚溢れる喜びに震え。
素肌で抱き合った侭正視を交わし、穏やかに。

「お早うございます……目覚めて良かった」

 柚明は霊体に睡眠が不要な以上に、夜中一睡もせず、ずっとあたしを癒し続けていたと。

 左肩から胸に達し、肺を裂いた筈の刀傷が、致命傷が治りかけていた。尚苦痛は残るけ
ど、繋ぎ切れてない筋肉や神経は軋むけど、生命の危機は脱しており、動ける程になって
いた。観月の快復力を考えても信じ難い治癒だった。

 烏月の維斗は、あたしの様な化外の物を切る霊刀だ。物理的な破壊力以上に、人知を越
えた回復を阻み、浸透してそう言う力を駆逐する効用を持つ。だから鬼切部の武器は掠り
傷でも、重ねれば鬼には毒に近い。柚明の癒しも鬼ではないけど、人を越えた化外の力だ。

 柚明は月の未だ大きい時期とは言え。千羽の宝刀の力を逆に駆逐して、鬼切り役の烏月
の気合を凌駕して、この身に癒しを及ぼして。死の淵からあたしを救い出したと言うのか
…。

『柚明は一体、どれ程の量の力をあたしに』

 崖から落ちた桂の生命を繋ぎ止めるに近い。
 消失し掛けたノゾミを賦活するに近い程の。

 幾ら贄の血を得ても力は無限ではないのに。
 柚明は己を顧みず惜しみなく与えてばかり。

 叱るか諭すか試みたけど、巧く声が出ない。
 睨み付けようと正視して心が竦み固まった。

『何と柔らかに綺麗に、健気に淑やかな…』

 喉が渇いていたと言うより、暫く声を発してなくて不慣れと言うより。間近に黒く瞬く
双眸の、喜びと安堵に潤む様に言葉が止まる。美しさと愛しさと心地良い感触に心が踊っ
た。あたしが男だったなら躊躇いなく体を繋げた。否、女でも後少し誰も入って来なかっ
たなら。

 柚明はむしろ。それを喜んでいるのかと想える程に、あたしの懐に身を委ね、頬を預け。

「柚明、あんた……」「サクヤさんっ…!」

 深傷に体は痛んでも、心は躍り出していた。
 あたしの生存を心底喜び涙する愛しい娘の。

 心にあたしは体を返す事しか、眼中になく。
 力の限り締め付けて、二度と放したくなく。

 瞬間だけ他の誰も桂さえも棚上げしていた。
 己の衝動を抑えず、抱く素肌をきつく締め。

 暫くあたしは蝶を絡め取る毒蜘蛛になろう。
 そんな邪心には天罰が下る物なのだろうか。

「この鬼め、柚明さんに一体何を……っ!」

 滾る怒りの侭に襖は開け放たれて鋭い声が。
 己の毒牙から愛しい柚明を、守ってくれた。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 あの衝動は観月の食欲と性欲の綯い交ぜか。

 数日何も食しておらず、深傷の故の疲弊で、体は滋養を欲していた。柚明の癒しは生命
を繋いだけど、大きな月は観月の回復力を高めるけど、活発な代謝には燃料が要る。柚明
は若く美しい贄の娘だ。山神の眷属である観月の体が取り込みたく望むのも、無理もない
か。

 回復したてで空腹と言うより、本能を抑える理性が未だ鈍く。それより素肌の柚明の艶
やかさ滑らかさに、理性のたがが吹き飛んで。あたしは柚明を喰らおうと、或いは貪ろう
と。

 柚明にそれを嫌う兆しが、なかったのは?
 あたしが心惑わされた様に、柚明も実は?

 乱入した烏月のお陰で、2人の世界は壊されて。烏月の疾風の動きがカーテンを揺らせ、
背の窓から日が差すと、浴衣姿の烏月の前で、一糸纏わぬあたし達の密な抱擁が露わにさ
れ。

 懐の柚明に回した両の腕が、あたしの両の乳房も隠すけど。柚明は正面をあたしに抱か
れているから、背中や尻は烏月に見えている。気分は妻を寝取って夫に踏み込まれた愛人
だ。

 でもこの状況で、一番平静だったのは多分。

「烏月さん。刀を収めて下さい。もう一度サクヤさんを切りたい訳では、ないでしょう」

 柚明は、意図してあたしを庇っているのか。より強くこの素肌に頬を潜らせ。確かにあ
たしは病み上がりでまともに動けず喋れず、烏月は頭に血が上っていたので、助かったけ
ど。

 烏月はあたしが桂を奪った訳でもないのに頭に血が上り。己の恋人を穢された様に憤り。
今迄も桂を巡らなくても天敵同士だったけど。まるで真弓に刀を突きつけられている様な
…。

 烏月が冷静さを戻し、柚明が安堵して身を剥がし、脇に脱ぎ置いたオハシラ様の蒼い衣
を纏い直す。柚明の手であたしが浴衣に袖を通された頃、騒ぎに気付いた桂と葛が現れて。

「……申し訳ないっ……。重ね重ねに…!」

 布団に座したあたしの前で、烏月が平身低頭する。烏月は己の思いこみが誤解で、あた
しと柚明が親愛を交わしていたと、思い直し。

「柚明さんの嬉し涙を勘違いして。あなたを、癒しの恩義に欲情の仇を返して涙させる、
獣の所行と勘違いして。斬り掛ろうとして…」

 実の処無実ではなく、あたしに関してなら烏月の直感は正解だったけど。望んで肌身を
添わせたと、柚明に直に言われては、烏月も了承せざるを得ず。あたしは少し黙っておく。

 左に静かに座した柚明は、あたしの欲情をどう感じていたのか。最期迄嫌悪も抵抗もな
かったけど。遂に未発に終った後は、烏月の刃と追及からあたしを庇い。あたしの欲求は
悟れただろうに、敢てそれを口には上らせず。

 右側にやってきた桂と葛が2人座したけど。
 あいさつも烏月の平身低頭の後回しにされ。
 喋ろうとして肺を動かすと未だ各所が痛い。

「あぁ、その刃とは本当に因縁深いからねぇ、あたしは。真弓にもその刃で散々世話にな
ったし、その前の代の鬼切り役にも……っと」

 真弓が双子の母で千羽の出身で、烏月の兄の前に鬼切り役だった事は、桂も知ったけど。
あたしが鬼で山神の眷属で、巌の時を生きる観月の民だと言う事は、未だ話してない。六
拾年前の惨劇に繋る、真弓以前の話し迄は口外できない。話せる事が大幅に増えた分だけ、
線引きを変えた対応に慣れるのが難しいかも。

 とりあえず大丈夫と視線を向けると桂は、

「もう動いて大丈夫? ご飯食べられる?」

「多少ならね。食べた方が回復にも良い筈だから。インスタントや脂っこい物はまだ少し
勘弁だけど。どうせ食い物は殆ど柚明の手料理なんだろう、このメンツなら」「たはは」

 羽様の厨房で柚明の手料理を食えるなんて。
 拾年前の夜に再びあるまいと諦めた幸せだ。

 あれからあたしはどれ程の物を喪い守れず。
 今に至ってむしろ守りたい娘に生命救われ。

「また、間に合わなかったんだね。白花の肝心な時に、桂と柚明の生命を左右する瞬間に、
あたしは助けも守りも出来なかったんだ…」

 あたしが倒れた後の概況は、この深傷の治癒の間、ずっとあたしに肌身を添わせ続けた
柚明から流れ込む感応で大凡悟れた。ミカゲや主の分霊が打ち倒された決着も。ここに白
花がいない理由も。桂が生命の危機を承知で、ノゾミと一緒に柚明の生命を繋ぎ止めた事
も。

 左間近で静かに正座している柚明を向き、

「済まなかったね。桂の事といい、白花の事といい、何もかもあんたに任せっきりでさ」

 柚明はかぶりを振ってから、あたしの肌身に手を伸ばし。軽くあたしの傷口に触れつつ、

「これはわたし一人で掴み取れた成果ではありません。この深傷も白花ちゃんを、わたし
を庇って、刃を受けた末ではありませんか」

 この滑らかで艶やかな肌を肉を、刃に晒すなんて。サクヤさんには何一つ咎はないのに。
わたしなんかを庇って無茶を。何という酷い。

 瞬間、柚明の怒りを肌身に感じた。感応の力のないあたしだけど、添わせた肌の高ぶり
は感じ取れる。柚明はあたしの致命傷を招いた烏月の行いを、本気で怒り、憎悪していた。

 でも柚明はその憤激を本当に瞬時で抑え。
 桂の心を乱したくないと。悟られぬ様に。

「この成果は、烏月さんや葛ちゃんやノゾミ、桂ちゃん白花ちゃん、サクヤさんの助けが
あっての物。完全に満足な結末ではないけど」

 今はゆっくり身も心も休めて、掴み取れた・守り抜けた幸せを確かに感じ取りましょう。

「助かってくれると信じていたけど。嬉しい……起きて言葉を返してくれて、本当に…」

 今にも嬉し涙が溢れ出そうな程に喜び震え。
 肌身合わせて漸く分った微かなその震えは。

 歓喜以上にあたしを喪う事への怖れであり。
 今になって震え出すのも本当に柚明らしい。

 愛しさを抑えきれずに左腕を伸ばして絡め。

「桂……済まなかったね。真弓の事、柚明の事、白花の事、正樹の事、笑子さんの事、そ
して幼い頃のあんた自身の事。今迄伝えてやれずに、肝心な時に役に立てずに、本当に」

 右を向くと、手を伸ばす動きを察して桂は。
 自らこの腕に巻き取られ逆にあたしを支え。

 あたしは尚たいせつに想われ頼られている。
 俯いた頬を瞳から一筋の雫が伝っていった。

「あんたや柚明に、何もしてやれなかった」

 姫様にも笑子さんにも、真弓にも正樹にも。
 合わせる顔がなかろうに、この有様じゃあ。

「そんな事ないよ……こんな酷いケガ迄して。生命がけで、お姉ちゃんと白花お兄ちゃん
を守ってくれたのに。すごく心配だったんだよ。お姉ちゃんが治してくれたから良かった
けど。生命落さずに済んで良かったけど。もしもの事があったらどうしようって。お母さ
んを亡くしたばかりなのに、サクヤさん迄なくしちゃったら、わたし、本当にっ……」
「桂…」

 あたしを案じてくれる想いが肌身に分り。
 あたしは胸も喉も詰まらせて声も発せず。

 暫くは両手に感じる娘達の感触を確かめ。
 互いの繋げた生命を未来を、喜び合って。

「サクヤさん……助かってくれて良かった。
 今迄色々、ありがとう。たいせつな人…」

 桂の歓喜に柚明が頷き、あたしはたいせつな人を取り戻せた幸せを実感し。朝日の眩し
さに浸りつつ、抱き寄せた肌身の心地よさに身を預け心を委ね。あたし達の日々は今始る。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 烏月のあたしへの正式な謝罪は数分の後で。
 端正な正座姿は整って目の保養になる上に。
 見下ろして許しを出す立場も中々心地良く。

「あたしは、後悔してないよ……。例え生命を落しても、あの時白花を柚明を切らせる訳
には行かなかったから。危険は承知で、刃の振り下ろしに飛び込んだんだ。仕方ないさ」

 互いに譲れない想いがあった。あたしは、

「あんたは白花を切らないと言ってくれた。
 それで充分だよ。約束は、守っておくれ」

 賠償や代償を求めても大した物は望めない。千羽は戦闘に特化した連中で財力溢れる程
でもなく。若杉は鬼切部各党の失態の尻拭いはしても、賠償や代償の面倒は見ない。千羽
の烏月に出来るのは、人的貢献や情報提供位だ。

 あたしは鬼切部に守って貰いたく等ないし、鬼切部の過ちを明かす事への協力も望み薄
だ。なら、白花を切らない約束を貫徹させた方が。

 烏月は何を言われても従う腹を括っていて。
 この控えめな求めに却って驚き面を上げて。

「サクヤさん……」「あたしの生命を賭けた約束だ。あんたも武士なら二言はなしだよ」

 それと引き替えのこの深傷だ。それならあたしも文句は言わない。甘んじて痛み苦しん
でから、もう少し柚明に添って治して貰うよ。

「奴は、いや彼は、柚明さんの代りに槐のご神木に……」「分っているよ。それでもさ」

 あたしのたいせつな人が、あたしの家族が。笑子さんの孫が、真弓と正樹の子が、桂の
双子の兄で柚明の一番たいせつな古い馴染みが。血も繋った千羽に生命狙われ続けるって
のは。

「哀しく辛い事だろうさ。誰も幸せにならないよ。事後でも和解しないよりはした方が」

 いつっ! 声を出すだけで未だ傷口が痛む。

「彼との関係は未精算ですが。もう一度立ち合いたいとは思っていますが。生命のやりと
りをする積りはありません。彼はもう仇ではない。いや、彼は元から仇ではなかった…」

 私は、桂さんを哀しませる事は、しない。

「その上で謝らせて下さい。私はあなたの生命を危うくさせて、桂さんや柚明さん達の哀
しみを招いた。あなたのたいせつな人達を」

 傷の痛みを隠しきれぬあたしを見て烏月は。
 憂いを早く除いて話しを終らせようとして。

 あたしがそれを受け容れて頷きを返した時。
 桂の胃袋に住まうもう一人の桂が声を上げ。

「桂おねーさんなら、そろそろかなーと思っていました……丁度わたしもお腹が空き始め
ていましたので」「つっ……葛ちゃんっ!」

「朝ご飯にしましょう。サクヤさんは病み上がりなので別メニューを作りますね」「んっ
……その前に1つ、頼みがあるんだけどね」

 体は未だ話すだけでも悲鳴を上げるけど。

「ご神木に、白花に逢いに、行きたいんだ」
「サクヤさん、そんな体で。まだ無茶です」

 ご神木は逃げはしません。もう少し体調が復してからでも遅くはないわ。傷に障ります。

 愛しい柚明が傍で強く諫めてくれるけど。

「同じ事をやろうとした、否、やったあんたに言われたくはないね……あんたの耐えてき
た痛みは、この比ではない筈だよ。柚明…」

 生命に障る訳じゃない。誰かと戦う訳じゃない。ご神木に、白花に逢いに行きたいんだ。

「あんたなら、この気持は分るだろう…?」

 意思を込めた双眸を向けると、あたしの気持も察せる柚明は反対を貫けず。俯き加減に、

「分りました。朝ご飯を食べて一休みした後でご一緒します。午後は通り雨が来そうです
から、昼前にお屋敷に帰ってこれる様に…」

 済まないね。余計に力使わせて。あんたの蒼い癒しは、傷んで疲れた身に良く効くんだ。
あんたに肌身添わせると本当に心地良いんだ。特にオハシラ様になったあんたは、ご神木
の、姫様の香り迄纏わせて。甘く香る花の匂いが。

 柚明の了承に頷きを返した時、右から桂が、

「わたしも、一緒して良いかな……。この拾年ずっと離ればなれで。近くにいるのに昨日
も一昨日も逢ってなくて。町に帰ってしまったら、白花ちゃんには暫く逢えなくなるし」

 サクヤさんも柚明お姉ちゃんが添えば大丈夫だと思うけど、やっぱり心配だし。わたし
は生命の危険もなくなったし。水筒持ったり、少しは役に立てると思うよ。うん、少しな
ら。

 桂も少しでもあたしに、役立ちたいと望み。
 正樹や真弓や笑子さんの、優しさを継いで。

「私も一緒しましょう。事の末を確かめる為にも、ご神木になった奴……彼には一度会っ
ておきたい。それに荷物持ちなら私の方が」

 やや余計だけど烏月も深い関りを持つし。
 復調傾向の桂の参加には柚明も前向きで。

「分ったわ。では、みんなで行きましょう。
 葛ちゃんも一緒して貰って良いかしら?」

「ユメイおねーさん。わたしも、ですか?」
「今このお屋敷にいる者はみんな関係者よ」

 ご神木や白花に面識のない葛は、この件に深入りしすぎぬ方が良いかと、立ち位置を探
して寡黙だったけど。柚明はそんな葛の躊躇や気遣いを知って。関って欲しいと逆に願い。

「そして今ここにいる者はみんな桂ちゃんをたいせつに想い、桂ちゃんにたいせつに想わ
れた人達。桂ちゃんに深く関る事の末を見届ける権利があるし、立ち会って貰いたいの」

 葛ちゃんは、わたし達のたいせつな人よ。
 優しげに苦笑浮べる烏月の気持が悟れた。

 柚明は若杉や千羽の、あたしとの過去を全て承知で。烏月や葛の桂との絆や想いを繋ぎ
たいと。否、それだけではない。桂の申告に、

「お姉ちゃん、あのね……」「ええ、ノゾミにも来て貰うわ。青珠は桂ちゃんが持って」

 柚明は懐から青珠を取り出して桂に手渡す。喜ぶ桂を見つめていると、間近の葛と視線
が合って、互いに肩を竦め合い。正面の烏月も苦笑気味にそれを受け容れ。桂のたいせつ
な人は、尾花も含めてみんなたいせつな人か…。

 桂の胃袋に住むもう一人の桂の再度の抗議に、朝飯後みんなでご神木へ行く事になった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「わざわざ済まないね」「お気になさらず」

 サクヤさんの助けはわたしの願いでした。

 2人きりの寝室で、柚明がスプーンに載せた粥をあたしの口元に運ぶ。朝飯は烏月の手
伝いで柚明が作ったけど、あたしは病み上がりだと別メニューで、柚明が給仕に添う事に。

 襖の向うでは桂や葛達も朝飯の最中だけど。
 年を取らぬ2人でいると拾年前を錯覚する。

「こうしてお粥をふうふう冷まして、サクヤさんの口に運んであげられる日が、いつか来
たら良いなぁと……」「柚明、あんたねぇ」

 抗議しかけたあたしの口を、柚明の粥が巧く鎖す。器や匙を持てないので食わせて貰う。
この近しさも長閑さも好ましいけど。噛む必要の薄い柔らかな料理の心遣いも嬉しいけど。

 柚明が幼い白花と桂にこうしていた様を思い出すと、幼子扱いされた気分に少し複雑で。
そう言えば、六拾年前には笑子さんにもこうして介抱して貰ったし、大昔には姫様にも…。

 あたしの役に立つ事を心底喜ぶ柚明を前に。
 2人きりならあたしは羞恥も一時棚上げし。

 柚明とは昔から幾度も肌身を添わせて来た。
 時に哀しみを、痛みを、心の傷を拭う為に。

 柔らかく静かに穏やかで暖かに綺麗な乙女。
 今はこうして互いを感じ合える事が嬉しく。

「本当にあんたには世話になりっ放しだね」

 柚明は癒しがあたしに馴染む様に、この深傷から流れ出た観月の血をかなり呑んでいた。
あたしが柚明の血を呑んだ以上に、今や柚明の中にあたしがいる。ノゾミが羽藤望と言え
るなら、柚明も浅間柚明と言えた。その事に、

「サクヤさんの血を、頂いてしまいました」

 済まなさそうに謝る言葉を連ねる柚明に。
 あたしは黙した侭で軽くかぶりを振って。

 謝る必要等どこにあるだろう。一番に想う事だけは叶わなかったけど、愛した柚明があ
たしの生命を繋ぐ為、癒しを馴染ませる為に吹き出た後の血を呑んで力に換えた。それは
本来飛び散って終った物だ。それがあたしの生命を繋ぐのに使われた。何も悪い事はない。
あたしは柚明の為ならこの血を全部捧げても。

「勝手に肌身重ねて癒し治してごめんなさい。
 手を繋ぐ位では、わたしの力ではとても間に合わなかったから。肌身添わせ、強く繋げ、
身を摺り合わせ、唇も合わせて……サクヤさんの承諾も得ず、拒めない状態で勝手に…」

 サクヤさんにはわたしは一番ではないのに。
 サクヤさんには、別に一番の人がいるのに。

「何を言うんだい。あんたはあたしを助けたんだ。生命救われて文句の出る筈がないだろ
うに。嬉しかったよ……とても愛おしかった。あんたがあたしに寄せてくれた想いも全
て」

 あたしの方が、あんたに想いを寄せられる資格がないのに。一度も一番に出来なかった。
今もあたしの一番は桂だ。なのにあんたはそれでも、綺麗に清い想いを寄せ続けてくれて。

「肉の体を戻して、人に戻ってくれた事も」

 あたしとの悠久は過ごせなくなったけど。
 ご神木を離れて時を刻む事になったけど。

 触れ合える体で昼に顕れどこへも往ける。
 あたしの一番たいせつな桂に添って貰え。

 その心の痛みを丸ごと受け止めて救える。
 桂の救いはあたしにも大きな喜びだ……。

 柚明は多めに盛ってきた粥を、あたしと交互に自身の口にも運び。ここで一緒に朝餉を
摂る。勿論匙は1つだ。あたしが食した匙で柚明が食し、柚明が食した匙であたしが食す。
何も問題ない。少なくともあたし達の間では。

 拾年ご神木にいて現金を持ってない柚明は、食材を買う為にあたしの財布から現金を抜
いた事にも頭を下げたけど。問題ない。烏月の食にも転用されたけど、逆に恩に着せられ
る。

「ふふん、烏月をつつくのが楽しみだねぇ」
「サクヤさん、瞳の奥から星の輝く音が…」

 とりとめもない話しを挟めつつ朝餉を終え。
 苦痛は若干残るけど我慢すれば歩ける筈だ。

「良かった。これだけ食べられるなら……」

 動いて大丈夫だし、完治の目処も見えたと。
 柚明は安堵の顔で、器を載せた盆を除けて。

「衣の上からで良いので、身を添わせて…」

 食事を取り込める様に、肌身を合わせ癒しを注ぎ、消化器を賦活させるのか。襖一枚向
うに葛達がいると想うと、ドキドキするけど。その親愛を確かに受けて柚明を強く腕に抱
き。肌身の柔らかさは理性を揺らすけど己を堪え。

 柚明達が皿洗いをする間、あたしは流された癒しを身に馴染ませて、消化と治癒を進め。
羽様の屋敷を出立したのは拾時少し前だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 高く伸びる木々が、好き放題に枝を伸ばし、空を殆ど覆い隠している。あたしの両手で
も抱えきれぬ程太い幹の古木が立ち並び、丈のある草が生い茂る獣道を、あたしも前に進
む。

 ふと後ろを振り返ると、少し離れて開けた処に瓦の並ぶ屋根が見えた。建て替えは経て
も姫様が住んでいた羽様の屋敷。笑子さんが臨終を迎えた羽様の屋敷。真弓や正樹や柚明
や桂や白花が拾年前迄住んでいた羽様の屋敷。

 離れに見えるのは蔵だった。羽籐の歴代の遺物が収蔵された、外見より奥行きの深い蔵。

「頭を厚く覆うこの葉っぱのお陰で、日差しもそこそこ和らげられて、ちょうど良いね」

 強すぎる日差しも桂には心地良い感じで。
 少し汗ばみつつも表情も声音も元気そう。

「緑のフィルターを通した光は爽やかだし、木々の香りを含んだ空気は清々しいし……」

「私は、桂さんの元気に歩く姿が嬉しいよ」
「ううっ、烏月さんっ! ……ありがとう」

 声を挟んでやろうかと思った正にその時。

「爽やかですけど、暑いですねー。昨日の雨の所為でしょーか? むしむししますっ…」

 不快さはないけど、羨む葛の声が挟まって。
 柚明の苦笑と親しみを感じ取れ、あたしも。

 道の勾配が段々急になる。羽様の山の森を、山道を登っていく。獣道でもまだ道らしく
開けていた処を外れ、草を分ける様に進み行く。少し辛いけど、柚明の癒しで緩和されて
いる。

 遠い昔この獣道を伝って姫様に逢いに来た。
 祖父さん達が主を倒す夜の覗き見にも通い。

 六拾年前この獣道を辿って笑子さんに逢え。
 羽藤の祭りの関係で、正樹や柚明の母とも。

 柚明とも何度も夜に昼に、足を運んだっけ。
 柚明がオハシラ様になって以降柚明を求め。

 今はその柚明と共に桂と一緒にご神木へと。
 感傷と物思いに浸りつつ、暫く歩き進むと。

 ざあぁっ……。

 急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。

 そこには見上げる程に大きな、数百の歳月を過したといった趣のある槐の大木が根を下
ろしていた。周囲は遠慮した様に、若い木も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。

 鬼神を封じて還す為に、姫様が千数百年宿り続けたご神木。ノゾミ達が拾年前に桂と白
花を操って解かせた封じ。その綻びの繕いに、柚明が継ぎ手となって宿り、今は白花がそ
れを継ぎ。通り過ぎるそよ風に、咲き誇る無数の白い花びらが、ゆらりと揺れて幾つか散
る。

『白花にはあたし達の声は、聞えるのかい?
 あたし達に答を返す事は、叶うのかい?』

 出立前に問うと柚明は、微かに寂しげに。

『話しかければ声は届きます。中から外の情景を見る事も叶うので、傍に行けばわたし達
の到来は悟れます。ご神木に確かに馴染めば、繋りが深い人の気配なら、経観塚の町を越
えて所在も掴めますし、羽様に居れば心の表層を知る事も、顔色で機嫌を窺う様に可能で
す。でも彼から答を貰う事は、至難でしょう…』

 ノゾミと同様、依代との繋りが不足らしい。
 今の白花は、外に想いを届かせる術がない。

『お姉ちゃんの様に、現身を取る事は…?』
『夜でも贄の血を与えても、暫くは無理ね』

『そもそもオハシラ様が外に人形を為して顕れる事自体が、封じの想定外でしょーから』

 桂の問に柚明と葛が答えるのに補足して、

『元々のオハシラ様も、封じの要を努めた千年の間、一度も姿を現さなかったしね。夢見
に蝶を送るのが精々で。笑子さんと出会った時に、寝付けず起きていた笑子さんの現に蝶
を送ったのが、無理に無理を重ねてだって』

『じゃ、お姉ちゃんがわたしを助けに顕れてくれたのは、やっぱり凄い事だったんだ…』

『凄いというか無茶苦茶だよ。牛に空を飛べとか、草木に歩けとか言うに近しい話しさ』

 その柚明や姫様が宿っていたご神木は今、

「白花、お兄ちゃん……」「……白花……」

 桂の呟きに続けてあたしも、声を漏らす。
 烏月も葛も柚明も暫くは、黙して語らず。

 答はなく、微風に乗って槐の白花が散る。
 千年前も拾年前も長久にそうだった様に。

【それでは、わたしが人柱になりましょう】

【もとよりわたし1人が狙われていたのです。
 どうぞわたしを、その木の柱として下さい。
 遠き地より皆様方が集まって下さったのは、あの方がわたしの血を得る事で、より大き
な被害が出ることを憂えてのことでしょう?】

【元凶は主ではないのです。わたしなのです。山の神を封じても、わたしが屋敷に戻れば
元の通り。わたしを巡る諍いは繰り返されます。わたしの血は濃すぎました。わたしは国
中に知れ渡りました。山の神が言った通り、わたしは大本の静かな日々には戻れません…
…】

『そんなのいやっ! 姫さま、姫さまぁっ』

 あれから千年の月日が流れて世は移ろい。

《わたしは……幸せです……今でも尚……》

 たいせつなひとの幸せを護れれば。
 その人に忘れ去られても構わない。

 誰1人、わたしを知らなくなっても。
 誰1人、わたしを憶えていなくても。

【わたしが大切な人の為に尽くせているなら。
 わたしが大切な人の幸せを支えているなら。
 わたしはその事実で幸せ。とても、幸せ】

【わたしのたいせつな人、特別にたいせつな人、生命の終りが訪れる迄想い続けたい人】

 間近にいても隔たっても、生と死の境、人と鬼の境を越えても。この想いに限りはない。
わたしの赤い糸がサクヤさんの中を生命となって巡り続ける様に、この想いも巡り続ける。

【一番にはできなかったけど、サクヤさんへのわたしの想いは、未来永劫に、久遠長久に、
天地の終りのその果て迄も、尽きる事なく】

『なんで……なんであんたが、あんたがっ!
 望んでなっただなんて。そんな、そんな』

 それからも様々な変転と紆余曲折を経て。

【駄目だ、ゆーねぇ、絶対に死なせない!】

【生きていてくれるだけで良い。
 そこにいてくれるだけで良い。
 僕の唯一の願いなんだ。最期の望みなんだ。

 僕の為に、ゆーねぇを愛する僕の為に、生きて貰いたい。悪鬼でも良い。血を啜る鬼で
も良い。人に害を為しても罪深くても構わない。僕の生命が必要なら全部あげるから!】

 その罪は全部、僕の血が受け止めるから!

【苦しみばかりの生命を繋がせるのかも知れない。哀しみの多い生を、縛られたハシラの
継ぎ手の余命を強いるだけかも知れないけど、この僕の為に。僕の為に死なないでく
れ!】

 白花が封じの要を担い。笑子さんの葬儀の時は泣き虫の子供だった白花が。桂を守り柚
明を守り、こんなに強く凛々しく。みんな強く賢く、立派になって、あたしを置いて行く。

 新しい生命は残すけど、想いは受け継がれるけど。あたしはいつ迄も見守る事しかでき
ない。姫様の裔を、笑子さんの孫を。希望は残っても。哀しみは重なり続けるじゃないか。

 笑子さんは約束果たしたけど。姫様に抱く想いを笑子さんに抱く想いで換えられぬ様に。
笑子さんを好いた想いも、真弓や正樹を好いた想いでは換えられぬ。桂に抱いた想いは桂
への想い、柚明への想いで換えられはしない。希望は続くけど寂寥も永遠に終らないよ。
孤独じゃないけど、桂も柚明もいてくれるけど。あたしは結局みんなの天寿を看取る事に
なる。

「ずるいじゃないかい。笑子さん、あんた」

 分った上で、笑子さんは答えてくれたのだ。全てを満たす事は出来ないけど、笑子さん
は叶う限りの事をすると。初見のあたしに笑子さんは夫にもしない程の情愛を注いでくれ
て。

 そうされた以上、あたしも約束を守る他になく。約束を守る限りあたしは孤独になれず。
寂寥は消し得ないけど、拭えないけど。あたしは今に未来に希望を抱いて、生きていける。
羽様の屋敷で共に過ごす日々が終っても、夏が終っても、桂達と共に刻める時が終っても。
むしろその後に悔いを残さぬ為にも、あたしは今からを、最高に輝かしく甘い時にしよう。

 蒼く澄み渡る空と涼やかに頬撫でる風の元。
 白花の微笑みの印象を見た様な錯覚がした。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「サクヤさんお昼ご飯だよ」「済まないね」

 ご神木から帰着したのはほぼ正午位だった。
 昼飯の給仕には桂が添ってくれる事になり。
 2つの盆には昼食2人分が載せてあるけど。

「はい、あーんして」「あたしは幼子かい」

 でも桂にそうされるのも悪い気分ではない。
 匙で粥を口元に運ばれて朝の様にぱくっと。

「おいしい?」「ん……中々いけるねぇ…」

 柚明の飯は愛がこもっているから、ひときわ旨いんだ。真弓の飯も悪くなかったけどね。

「街に帰っても毎日この飯を食えるあんたは幸せ者だよ、桂。何より魂に効くねこれは」

「サクヤさんのケガの治りも早まりそう?」
「愛は心にも体にも良く効く薬だからねぇ」

 桂が風邪を引いたりした時に真弓と2人で。
 いつも面倒見ていたのはあたしだったのに。

 今はあたしの面倒を見る程に大きく育って。
 胸の育ちは柚明より尚少し物足りないけど。

 一口二口とあたしが食べ進んだ処で、桂は。
 己の昼飯の盆に匙がないと、気付いた様で。

「もう一つ貰って来よう」「別に良いさ…」

 あたしのを使えばいいよ。あたしも桂の使ったのを使えば。器や匙の足りない頃は男女
問わず里のみんなで使い回した。太古を思い返しつつ応えたあたしに、桂は頬を赤く染め、

「で、でもそうだとわたし、サクヤさんと」

 間接キス、等という今様の言葉が頭に浮んだのは、桂の躊躇い恥じらう仕草を見た後で、

「何言ってんだい。桂と真弓と3人で、何度も一緒に鍋もつついているし。あたしが風邪
引きの桂に粥を食わせた時だって、あたしも同じ匙に口付けたりしていたじゃないかい」

「あ、あれはっ、小学6年生のお話しで…」

「中学2年の時もだよ。こんな感じで寝込んだ桂に添って、ふうふう冷ました粥を食わせ。
あたしもそれを頂いて、交互に口に運んで」

 言っている間にこっちの頬が染まってくる。
 唇が触れるか触れないかなんて今更の話し。

「羽様の屋敷にいた時なんか、あたしがすっぽんぽんのあんたや白花を風呂に入れていた。
記憶を取り戻したなら、思い出したんだろう。柚明もあんたもおむつの頃から何もかも
…」

 柚明の名を出すと、桂は一層色々な事が頭に思い浮んで、妄想に制御が掛らない様子で、

「お姉ちゃんも、朝ご飯サクヤさんと1つのスプーンで? それともまさか、まさか!」

 柚明は桂の生命を繋ぐ為にここ数日、何度も素肌で素肌を抱き留めていた。特に昨日一
昨日柚明は意識のある桂とそれを為しており。あたしと柚明の行いも容易に想像がつく様
で。桂の『まさか』が何を示すかは分らないけど。

「柚明は難なくあたしの使った匙に口づけていたけどねぇ。まあ、そこは桂に任せるよ」

 柚明は姿形はあんたと同年輩でも、齢二拾六の大人の女だし。あたしとの付き合いもそ
の分あんたより長い。9歳で両親双方喪って、その後も色々あったから。真弓がいたあん
たより、心の距離感が短いのは自然な流れだし。

 そう投げかけると、なぜか桂は対抗意識を。
 あたしと柚明の近しさが、気に掛ったのか。

「……、……、……、わたし、頑張るっ!」

 そこ迄気合を入れる程の事でもないと思うけど。桂は決意して頬染めた侭あたしの使っ
た匙を握り締め、粥を載せて自身の口に運び。

 だけど。あたしと柚明の近しさが気掛りで、桂があたしに深く踏み込んで来ると言うの
は、少し考えれば辻褄が合わない気もする様な…。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 桂が盆を重ねて寝室から退出した後。柚明が癒しを注ぐ為に交代で入ってきて。烏月に
皿洗いを、桂と葛に尾花の昼食を任せた様だ。

「済まないね、もう少し世話になるよ……」

「気に病まないで。わたしや白花ちゃんを庇って受けた深傷です。本当はわたしが受けな
ければならなかった傷。例えそうでなくても、愛しいサクヤさんの傷はわたしが癒した
い」

 浴衣を脱がせてくれる細い指が、心地良い。真夏だから寒くないけど、素肌を外気に晒
す感触は涼しく頼りない。柚明も蒼い衣を脇に脱ぎ置き、一糸纏わぬ素肌になって深傷を
受けた左半身に添い。滑らかな感触が理性を飛ばしそうだけど、辛うじて己の欲情を抑え
る。

 拾年前も、柚明は綺麗に儚く艶やかだったけど。こうして濃密に肌身を合わせた経験は
多くなかったので。憂いや哀しみを抱き留めるのではない添い寝は、多くなかったので…。

 柚明は欲情を感じてないのだろうか。或いはあたしの欲情を気に掛けてないのだろうか。

 布団に2人横たわり。柚明が左胸に小作りな手を重ね、胸を当てて頬合わせ。肌を緊密
に添わせて癒しの力のロスを減じ。同時に柚明はあたしを強く感じて、想いの力も増すと。

 雨粒が屋根を叩く音が聞える。経観塚名物の通り雨だ。湿気があたし達をより緊密に繋
ぐ錯覚を抱く。そしてそれを抱けば抱く程に、

「桂が気に掛けているよ。あんたがあたしに近しすぎる事に……無理もないけどね……」

 拾年前の記憶を全部戻してしまったから。
 桂は真弓とあんたにべったりだったしね。

 柚明と誰かが近しい事が桂に波紋を呼ぶ。
 柚明も桂の心の浮動は感づいていた様で。

「日暮迄肌身添わせる積りで居ましたけど」

 ここは短く終らせ桂に向き合う事を選び。

 癒しを肌身に短時間で大量に注いで溜め。
 身の内側でほぐれて徐々に作用する様に。

 必要な所作は、しっかり為しておいて尚。

「治す迄添い続けられなくてごめんなさい」

 柚明は己が添い続けられない事に謝って。
 全身全霊を注げない事を、申し訳ないと。

「義理堅いにも程があるよ、あんたはさ…」
「義理堅いのはむしろサクヤさんの方です」

 赤子の肌の暖かみにも似た熱が伝わる中。
 柚明はあたしの瞳を間近から覗き込んで。

「一番たいせつな人を拾年見守り助け支えて。
 一番たいせつだって想いを伝える事もせず。

 サクヤさんはこの侭、桂ちゃんに本当の想いを伝えないでいて、良いのですか……?」

 今となっては、柚明にあたしの真意を伝えてしまった事は、失策だったのかも知れない。

【あたしにも、生きてある限りこの身を捧げて尽くしたい人がいる。守りたい人がいる】

 大切なだけじゃなく特別な人。
 特別なだけじゃなく一番の人。
 この世に唯1人と、思える人。

【桂が、あたしの一番たいせつなひとだ…】

 ごめん、柚明。あんたは尚一番じゃない。

 他ならぬあんたの気持ちには、叶う限り応えたいんだけど、こればかりは許しておくれ。
あたしの一番は、この世に1人だけなんだ…。

【桂なんだ。あたしの一番は、桂なんだっ】

 病室で泣き叫んであたしの腕を掴んできた小さな腕が、真弓と2人きりで身を寄せ合っ
て暮しあたしが訪れると弾けた様に喜ぶ姿が、記憶も想い出もなくして強ばった顔が徐々
にほぐれて笑みを取り戻す様子が、あたしには何にも替えられないたいせつな物だったん
だ。

 分ったんだ。寂しかったのはあたしだって。あたしが桂を慰めたんじゃなく、あたしは
桂に慰めて貰っていたんだ。桂の笑みが、あの瞳が、声が、あたしに尚希望を残してくれ
た。

【あんたじゃない。あたしには桂が、桂が】

『あんた、桂を昼飯の給仕に付けたのは、それをあたしに自覚させ、告白を促す為…?』

 この娘は常に自分の欲求より、他人の願いを叶える事を望み。常に己の幸せより、間近
の誰かの幸せを支え守ろうと。あたしの一番の人が桂だと知って、柚明はあたしと桂の絆
を結ぼうと? 愚かしい程に甘く優しい乙女。

「あんたは人に戻れたけど、あたしは元々が鬼で、人に戻るって訳に行かないからねぇ」

 観月の真相を隠した侭で深く絆は繋げない。
 そしてあたしは観月の正体を桂に報せない。

 ここ迄深く桂が柚明と心を体を繋げた以上。
 今更2人の間に割り込む積りにもなれない。

 一番ではないけど柚明も心底たいせつな人。
 桂を惑わせ柚明を悩ませる事はしたくない。

 2人が相思相愛ならばあたしはその幸せを。
 少し遠目に見守る選択が最善だと想うから。

 あたしは桂に近しすぎては拙い。若杉に睨まれたあたしが傍に添う事は。だからあたし
は夏迄主に真弓と関り、桂とは真弓を通じて関る様にしてきた。鬼と贄の民はどう見ても
食い合わせが悪い。あたしは所詮化外の民だ。

 今回は桂が心配で、仕事も放り出して駆けつけたけど。今後も今迄同様、あたしは陰で
桂を支えるだけで良い。柚明や烏月や葛迄が揃うなら、真弓が抜けた穴も充分埋めは利く。

「桂は姫様とは違う。皮肉にも姫様はオハシラ様になってしまったから、長久に想いを寄
せる事が出来たけど。例え一番に想い合う奇跡が叶ったとしても、桂と巌の時を共に過ご
す事は叶わない。むしろ今は柚明の方が、桂と桜花の時を共に過ごせる立場になった…」

 あたしにも柚明と桂の幸せは嬉しい話しさ。
 間近で瞬く深い双眸を見つめて愛おしんで。

「あたしはもう、生命の危機は脱したんだ。
 後はあんたが一番の人に向き合うと良い」


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 柚明が癒しを注ぎ終えて寝室から出たのは、通り雨が上がった頃だった。桂が生気の前
借りの失効で脱力した様だけど。柚明は生気の前借りをこれ以上重ねても、弊害が大きい
と。後は食事と休息と蒼い癒しに委ねたい意向で。

 隣室で烏月と葛と4人昼寝を。太平楽に長閑な絵図だろうけど。生命の削り合いも涙や
憎しみの応酬もない、こうした平穏な時こそが柚明の望みだった。あたしも柚明の残した
暖かみが体を巡る中、もう少し眠りについて。

 身を起こしたのは低く差し込む赤光の中で。
 夕飯を作る物音や足音が厨房から漏れ聞え。

「よりによって、あんたが給仕とはねぇ…」
「私とて、好んで申し出た訳ではないっ…」

 2つの盆を持って入ってきた烏月に声を掛けると、烏月もあたしの見解に同意見らしく。

 桂が生気の前借りの失効で、柚明が添って癒しを注ぎ続けないと、日常生活が難しい状
態なので。夕餉は向うでノゾミも含む4人で摂る。烏月は柚明の指名らしいけど、この傷
が烏月の故なので、断るに断れなかった様だ。

「あなたに深傷を負わせたのは事実だから」

 治る迄は責がある。早く治って貰わねば。
 やや固い声音にあたしはにんまり笑みを。

「ふふぅん……そうかいそうかい。確かに」

 あたしがこうなって身動き取れないのは。
 紛れもなくあんたの所為だからねぇ烏月。

「無駄口は良いから早く食べて休んで治…」

「粥をふうふう冷ましておくれ、熱くて食べられたもんじゃない。それとちゃんと口元迄
匙で運んで貰わないと。誰かさんのお陰で暫くまともに器も匙も持てなくなったんでね」

「……あ、あなたは、幼子ですかっ……!」

「なんだい。昨日はさかき旅館の温泉でのぼせた桂のすっぽんぽんを抱き上げて、体拭い
て、自分の浴衣着せて布団に寝せる迄して」

 あたしにもその位サービスしてくれたって、良いだろう? そう煽ってみると烏月は一
層頬を赤らめて。その反応は面白い程に明瞭で。

「ど、どこの誰から、そんな話しをっ…!」

「あんた自身が語っていたじゃないか。観月は嗅覚だけじゃなく、地獄耳も利くんだよ」

 精神的に優位に立った。烏月は桂が倒れたのでやむを得なかったとか、何とか色々弁明
していたけど。促しもしないのに弁明する事自体が、後ろめたい下心の所在を示している。

「保護者代理のあたしがいる以上に、今後は柚明も桂の家に共に住むんだ。桂の心を奪お
うとしても、簡単には行かないと覚悟おし」

「それは、承知の上です……あ、いえその」

 やっぱり烏月も確信犯か。誘導尋問とも言えない振りだったけど、引っ掛ったのは桂の
案件だからだろう。恋は人を盲目にするから。でも逆にこの言葉が、烏月に次を促したの
か。

「保護者代理のサクヤさんに、お願いです」

 両手を突いて頭を垂れる烏月は初めて見る。
 千羽の鬼切り役が鬼のあたしに頭を下げて。

「桂さんと柚明さんは、千羽烏月のたいせつな人です。……今後も桂さんを、柚明さんを
支え守る事を、私にも許して頂きたい……」

 あの2人が、私の見失った生きる値や目的を灯してくれた。兄さんの遺志に向き合わせ
てくれた。生涯を掛けて恩を返したい。守らせて欲しい。柚明さんの技量の高さは分るが、
彼女は戦いに向いた人ではない。今後贄の姉妹に降り掛る禍があるなら私が戦い守りたい。
私は戦い守る事でしか、恩を返せぬ無骨者だ。

 己が未熟者である事は承知の上で。羽藤白花との立ち合いで己に刻んだ強さを、その想
いを、彼のたいせつな人の守りに生かしたい。それが奴の、羽藤白花の願いでもあると思
う。

「この屋敷で共に過ごす日々が終っても、夏が終っても。羽藤桂と羽藤柚明は私の特別に
たいせつな人。絆を繋ぐ事を、心を通わせる事を、危険から庇い守る事を許して欲しい」

「……、……、……、……仕方ないねぇ…」

 もう少し、話しを引っ張りたかったけど。
 未だ数回、その頭下げさせたかったけど。

「あたしも仕事柄桂に始終ついては守れない。今迄は真弓がいたから心配してなかったけ
ど。あたしが直ちに動けない時、あんたでなくても千羽の強者が桂を守り柚明を助けてく
れるなら、有り難い話しだね。柚明の技量は相当な物だけど、桂に似て優しく甘い娘だか
ら」

 旅館で柚明を切り捨てようとしたあんたには、あたしが殺気立ったけど。あたしに深傷
を与えたあんただけど。今ならば信用出来る。

「桂と柚明だけじゃない。白花にも礼を言っておいてくれ。あんたの兄を喪わせた原因で
もあるけど、白花は白花で精一杯だったんだ。結果で評価するなら、あんたが今こうして
あれるのは、白花のお陰でもあるんだから…」

 幾らからかっても、怪我人のあたしに烏月は強く出られない。勝敗の見えた舌戦は面白
くないので、適当に絡んで弄んでから給仕に従って夕飯を頂く。あたしの夕飯を終えた後、
脇で烏月が夕飯を摂る様を見つめていると…。

「どうしました? お代りを所望ですか?」
「いや……そう言う訳じゃないんだけどね」

 確かに桂や柚明が見とれるのも理解できる。
 黒髪艶やかに端正で、姿勢も仕草も流麗で。

 若き日の真弓に少し似ていたかも知れない。
 堅苦しい程にまっすぐ潔癖で義理堅い処も。

 真弓も千羽を離れて羽藤に来て暫くの間は。
 鬼を切る以外には何も出来ない困った嫁で。

 あたしや笑子さんが家事全般を色々仕込み。
 柚明や正樹と過ごす中で少しずつほぐれて。

 白花や桂を生み育てる母に妻になれたっけ。
 鬼切りは閉鎖された世界に籠もりがちだし。

 烏月も桂や柚明と心を繋げば、真弓の様に。
 柔軟に強い、本当に人を守れる鬼切りに…。

 欠け始めても月の輝きが涼やかな夜だった。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 瞼の裏に絵図が浮ぶ。それは遙か遠い昔の。ミカゲと共に主さまを、槐の封じから解き
放とうとしていた頃の。良月に封じられる前の。この像は、私の夢であってあたしのでは
なく。

【ノゾミとミカゲはこの頃から、主を解き放つ為に封じを怖そうと、姫様を還そうと…】

 暗示で捉えた村人の何割かを、食事にして力に変えて、2人は力を蓄えて行く。でもそ
の故に、暫くすると『神隠しが起こる村』と名前が知れ渡り、鬼切部がこの地へ遣わされ。
良月が2人の依代であると知られて。主の封じを綻ばせに来たノゾミ達が、逆に封じられ。

 2人を封じたのは、若杉某とか言う鬼切部の陰陽師で。葛の先祖なのだとあたしは分る。

 封じられる際にノゾミは一つ暗示をかけた。強い暗示だと、すぐに気取られ解かれてし
まうので、弱い暗示を。影響力の弱い夢の形で慢性的に繰り返される暗示を。ノゾミには
珍しい言霊による暗示を。それは、遅効性の毒。

「あなた達は鬼切部。鬼を斬るのはその役目。だから観月の民も切らなくては」

【まさか、その言霊が若杉を動かして…?】

 主さまを封じた役行者と、観月の民……。

 役行者は人と大差ない刻を生きて死んでしまったけど、あいつらはまだ生きている。鬼
切部に尻尾を振って、未だ生き長らえている。だから切られてしまえば良い。例え鬼切部
が返り討ちにあったとしても、それはそれで私の仇を討った事になる。

 共倒れになってくれるのが一番だけど、そこ迄は望まない。ただ、この暗示が掛りさえ
すれば。この若杉某が行動に移さずとも、上手く掛ってくれさえすれば。言霊による呪は
子から孫へと語り継がれていくだろう。言葉は親から子へ、子から孫へと継がれていく物
だから。余り期待してはいないけど、この毒が上手く回ってくれると良い。長く待つのは
苦手だから、できれば封印されている間に。

 ああ、向うの封じが完成する……。

 私たちは、暗い闇の中に閉じこめられた…。

 どれ位の時が経過したのだろう。

「ほんとうに入るの?」「入るよ。おくらの中には、きっと宝物がいっぱいあるんだよ」

 小さな子供の声が聞えた。

 封じの札の向うから声が聞えた。

【あぁこの幼子は。あぁこの夜は拾年前の】

 あたしが関る事も出来なかった運命の夜。

「こんなのはがしちゃおう」「いいのかな」
「大丈夫。いいからはがしちゃおう」「…」

 同じ顔の子供が2人良月を覗き込んでいる。

 私は鬼の嗅覚で、この子供達が贄の血の持ち主だと知った。これはハシラの血筋の子だ。
まさか、良月の封印の解れと贄の血の陰陽揃いが同時に訪れるなんて。私は嬉しさの余り、

「ふふふふふふ……」

 知らず、笑い声を漏らしていた。幼い問は、

「だ、だあれ?」「私はノゾミ……」

 その名の通り、私の望みは叶えられる。主さまを助け出して、私と話しをして貰うのだ。
札の重要性も分らず剥がしてしまう子供に暗示をかける等、容易い事に思えた。さて……。

 私たちと主さまを解放してくれる、この間抜けた生け贄の名前を聞いておくとしようか。

「あなた、名前は?」「けい、はとうけい」

 柚明の導く夢は終った。照明を落し、月明かりのみが照す羽藤の屋敷の居間で今宵、桂
を除き集ったあたし達は、全員我を取り戻し。姉鬼の為した事も記憶も皆で分ち合ってい
た。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


「なるほど……鬼切部が六拾年前の新月の夜、あたし達を焼き討ちして皆殺ししたのに
は」

「……そーゆー背景が、あった訳ですかー」

 あたしに続いて葛の視線が、ノゾミを向く。
 烏月は黙した侭、ノゾミを見定める感じで。

 即座に怒り喚き出さないのは重すぎるから。

 感応の力を解いた柚明は正座の侭で動かず。
 ノゾミは宙に浮いた侭固まって言葉もなく。

 夕飯の後、柚明は桂を別室で寝付かせて蝶で癒し。あたしをちゃぶ台に招いて手を繋ぎ、
直に癒しを及ぼしつつ。烏月と葛を呼び招き。ノゾミも柚明に促されて現身で浮いて顕れ
て。照明を落したのは、寝付いている桂への配慮と言うより、『力』を使おうとしていた
故で。

 オハシラ様の蒼い衣が、欠け始めた月の光を受けた以上に、力の輝きを帯びて美しい…。

『今から皆さんに感応の力を及ぼして、夢を見て頂きます。是非とも見て欲しい絵図を』

 それは、桂が覗いたノゾミの心の内らしい。柚明は桂と深く繋っているから、全て既に
一度視た絵図なのだろう。でも明かされた内容は衝撃的だった。桂はあたしが観月だと知
らないから、その繋りを悟れてないけど。でも。

 ノゾミに非好意な視線が集まり行く。その1つはあたしだった。一昨昨日夕刻は柚明と
共に、桂を守ってミカゲと戦って。桂にたいせつに想われ、桂をたいせつに想う者だから。
柚明も烏月も葛もあたしも、ノゾミが羽藤の屋敷に、桂の傍に居る事を黙認してきた。桂
も含む全員で最終判断を下す迄、追い払う事も滅ぼす事もしない、との消極的許容だけど。

 桂がたいせつに想う以上。今後町の家に帰る桂に、桂の青珠にノゾミが憑いて行く事を
阻むのは難しい。ノゾミが桂と一緒に人の世を生きる事もありか。そう思い始めた矢先の、
微かな受容の雰囲気を断ち切る断絶感だった。

「ゆめいあなた、これは一体どういう事!」

 裏切られたと言う驚きを込めた非難の声は。
 むしろノゾミの柚明への依存を示していた。
 ノゾミが桂の傍に添えるのは柚明のお陰だ。

 柚明がノゾミを即抑えられる技量を持って、保証人を担わねば。桂がノゾミと共に生き
たいと望み願っても。残る3人は認めなかった。桂は贄の血を持つだけで力も鍛錬も何も
ない。

 ノゾミが牙を剥いても抗う力はなく。邪視で心や記憶や感覚を操られても防ぐ術がなく。
今迄敵方だったノゾミは、千年羽藤に害を為したノゾミは、信用できず危険すぎた。技量
の面でノゾミを制し得て、常にノゾミの先々に手を打てる柚明が、強く庇い守らなければ。
この屋敷でもノゾミは青珠に封じられていた。

 柚明は桂がたいせつに想って以降、一貫して桂の意思に添い、姉鬼を受容し続けて来た。
ご神木を離れられず今後の桂を守れぬ柚明が、少しでも桂の守りを多くと望むのは分るけ
ど。封じの要を白花に奪われ肉の体を取り戻す今後も。桂に己が添って守れる様になった
今も。柚明の受容の姿勢には、変化は窺えなかった。

 烏月や葛も、一応ノゾミを受け容れたけど。
 最終結論を得る迄の暫定措置という以上に。

 それは桂の願い以上に柚明の担保のお陰で。
 絶対に切らせないとの決意も潜ませて漸く。

 悪鬼だった過去も間近いノゾミを鬼切部が。
 封じも切りもせず間近にいる事を放置して。

 今やその生存も受容も柚明の匙加減1つだ。
 柚明が居なくばノゾミはここに居られない。

 その上で、ここには千年の因縁と拾年前の怨念を抱くあたしがいる。六拾年前に繋る今
の暴露がなくても、この手で滅ぼしたい仇だった。あたしの手を留めたのも桂よりむしろ
柚明だ。桂の願いのみなら、あたしは桂の涙も悲痛も承知で、後の憂いを消す方を選んだ。

 今更敢てノゾミを滅ぼす気はなかったけど。明かされた事実は血潮を滾らせた。長年抱
き続けた恨みと憎悪を、想起させる悪夢だった。

 だからその公表を拙いと思うのは分るけど。
 柚明が裏切ったと思うのも理解できるけど。

「やはり私を滅ぼす積りなの? 最大の危機を凌げれば、後は私も用無し? 丁度良いで
しょうね。青珠に憑く私を消し去れば、あなたは傍で桂を独占できる。今なら私も切り捨
てられる。やはりあなたは私を恨み憎んで」

 浮いた斜め上から柚明に言い募るノゾミに。

「……あんたを憎み恨んでない奴なんて、今この屋敷に誰が居るのかね?」「……っ!」

 ノゾミが沈黙を強いられたのは、あたしだけではなく、烏月や葛の冷たい怒りも感じた
故か。己の憤り以上に、己に憤りが集まっているのだと、ノゾミも漸く気付いて固まって。

 あたしのたいせつな姫様にオハシラ様の千年を強いた主の手下で。拾年前に姫様を還し、
笑子さんのたいせつな家族を瓦解させた仇で。正樹も、白花も、柚明も桂も真弓も。こい
つさえ居なければこんな事になってなかった!

 その上で、観月の里を鬼切部が焼き討ちし虐殺した、六拾年前の新月の夜も。この鬼の
差し金だと言うなら。こいつの所為で里のみんなも祖父さんも生命を奪われたと言うなら。

 あたしはノゾミに、どれ程の怒りを抱けば足りるのか。どれ程の憎悪を叩き付ければ心
晴れるのか。どれ程の代償を報いをその身に与えれば、あたしは己の悔いを拭えるだろう。

 憤怒の大きさにあたしは暫く身動き出来ず。
 言葉を紡ぐ限り冷静さを保てる錯覚の下で。

「その言霊が代々若杉を蝕んで、六拾年前炸裂したという訳かい?」「影響がなかったと
は言えないでしょーね。結果はこの通りですから」「千羽は若杉と通婚しており、私も薄
くはありますが、若杉の血を引いています」

 私が不意にサクヤさんに敵意を憶えるのも。
 烏月があたしに横目を向けて、呟くのには。

「「それは2人の相性によると思います」」

 葛と柚明の否定の答がぴったり重なって。
 四対の視線は再び浮いた侭のノゾミへと。

「で、これをあたしらに視せて、どうする気なんだい、柚明は?」

 敢て気の抜けた声音で問うあたしに、柚明は感応と癒しを兼ねて繋げていた手を放して、

「明日の夕食の後、桂ちゃんを含めた全員の前で、ノゾミの今後の処遇を話したいと考え
ていました。その前に、桂ちゃんを含めず皆さんに、特にサクヤさんにこの過去は視て欲
しかった。ノゾミの所行を知って貰い、その上で判断を下して欲しく」「「「……」」」

 柚明の語調は、心の起伏を感じさせない。

「柚明さんは、ノゾミを青珠に付けた侭、桂さんに添わせ続ける事を、彼女の守りを望ん
でいるのではありませんか? 宜しいのですか? ノゾミに不利な情報を私達に伝えて」

 その意図を訝しんだ烏月の問に、頷いて。

「サクヤさんも烏月さんも葛ちゃんも、わたしのたいせつな人。一番には出来ないけど心
底支え尽くしたく願う愛しい人。皆さんの判断の下地を整えるのは、愛した者の当然です。

 わたしが望む答が出る様に、情報を止めたり加工したり偽るのは、桂ちゃんをたいせつ
に想ってくれるみんなの為にならない。わたしは皆さんの、真の想いを支え守りたい…」

 包み隠す積りはないと。偽り繕う積りはないと。柚明はノゾミを庇う為にあたし達を蔑
ろに扱う積りはないと。それは烏月や葛やあたしへの強い情愛の故で。それは分ったけど。

 柚明の間近に浮いたノゾミは沈黙していた。
 ノゾミには柚明の酷薄や背信に思えるのか。

 でも今のあたしにノゾミの心中を気遣う余裕はなく。滾る血潮を尚もう少し、抑えつつ。

「あたし達が怒りに震えて、ノゾミを絶対許せないと、言い出す怖れも承知なんだね?」

「はい。それがサクヤさんの真の想いなら」

 答は冷静に真剣に、正視と一緒に返されて。

 柚明は桂の想いを何より優先する。ノゾミをみんなに受容させる為に、柚明が体を張っ
たのは桂の頼みの故だ。柚明は羽様の家族を心底愛したいせつに想っていた。それを瓦解
させ喪わせたノゾミを、柚明は絶対許さない。あたし以上に、柚明の愛も憎悪も又限りな
い。

 にも関らず、柚明は桂の願いがあったから。
 桂が、ノゾミと共に生きたいと望んだから。

 今迄の諸々も、今の危険と不安も、先々の困難も、全て承知で呑み込んで、ノゾミを受
容し続けてきた。それこそ桂を先導する如く。

 状況は今も変ってない。柚明の意図の全容は掴めてないけど、桂がノゾミをたいせつに
想い続ける以上、柚明の想いも変りはすまい。

「ノゾミさんを滅ぼす決意を私が固めたなら、あなたはそれに手を貸した事になります
が」

 桂おねーさんを哀しませる末になっても。
 それを晒して私達の真意を訊くのですか?
 柚明は葛に向き直り幼子の瞳を覗き込み。

「ノゾミの処断には、桂ちゃんの了承が必要です。ノゾミは桂ちゃんのたいせつな人…」

 この過去が原因でノゾミを許せないとお考えなら、桂ちゃんにそう伝えねばなりません。
心に抱いた強い怒りを、その事情を明かさなければ、桂ちゃんは絶対納得しないでしょう。

 あっ……。

「サクヤさんが山神の眷属である観月の民である事も、観月の里を六拾年前の新月の夜に
焼き討ちし虐殺したのが鬼切部である事も」

 柚明が、桂を交えずにこれを視せたのは。

 桂はあたしが巌の時を生きる観月の民で。
 主に近しい山神の眷属であると知らない。

 鬼切部が観月を虐殺した過去も知らない。

 ノゾミの言霊が、あたしの禍になっており、絶対許せないのだと桂に明かす事は。鬼切
部の過去の暗部を桂に明かす事であり。あたしの真実を正体を全て桂に明かす事でもあっ
た。

 そこ迄報せて良いのかと。それを桂に報せる事になっても、ノゾミを許せないと考える
のかと、柚明はあたし達の真意を問うたのだ。

 驚きと思索で、体に溜まっていた憤怒が抜ける。己の心の重点が、喪った懐かしい物か
ら今守るべき物へ移ろわされる。柚明も姫様や笑子さん譲りに、話しの運びが巧くなった。

「いきなり桂の前で話しを振られたら、答に困る処だね。あたしの正体も鬼切部の過去も、
真弓の過去迄関って来る。熟考の時間を与えられた感じかい。夜を越させて怒りを収める
のも、あんたの目論見かも知れないけど…」

 一晩で怒りが納まるかどうかは分らないよ。

 柚明はあたしの深傷の未完治も分っている。
 傷に響かない様な話しや結論を導く積りだ。

 でもその思惑通りに激発を回避できるのか。
 あたしの腹の虫を宥め賺す事が出来るのか。

 何度も肌身を添わせた仲だけど。唇も頬も合わせた間柄だけど。弐拾数年の付き合いで。
あたしという女を、羽藤柚明はどこ迄分っている物か。ここは暫くそのお手並みを拝見か。

 あたしが口を鎖すと次に口を開いたのは、

「桂さんには、サクヤさんもたいせつな人だ。桂さんも過去の千羽の非道に心を痛め、そ
の因となったノゾミに強い怒りを抱き、処断を了承するかも知れない。その時あなたは
…」

 烏月が珍しく言い淀むのは、それが千羽の彼女と桂の心を引き離す怖れを噛み締めてか。

「桂おねーさんが了承したら、あなたも処断に賛同ですか? 今のあなたはノゾミさんを
消す事も封じる事も、できるでしょーけど」

 今迄あたし達3人の、怒りや不信からノゾミを庇い守ってきた柚明だから。ノゾミの処
断を了承できるのかと葛が続ける。その際には柚明の手で為すべきだとも、匂わせる問に。

「桂ちゃんは……処断に応じるかも知れない。

 サクヤさんは桂ちゃんのたいせつな人。その生きる望みや生命を絶ち掛けた禍の背後に、
ノゾミの所行があったと知れば、深く強く怒り哀しみ、ノゾミの処断を、了承するかも」

 それはノゾミを処断せねばならぬ哀しみか。
 処断を了承する桂の心痛に寄せる哀しみか。
 あたしの憤怒を理解できるが故の哀しみか。

「仮に桂ちゃんがノゾミの処断を了承し、又は進んでノゾミを処断しようと言った時は」

 柚明はそうなった事の末迄見据えて答を。
 あたし達に向けて三つ指突いて額づいて。

「諸々の過去も罪も全て承知でお願いします。
 ノゾミを、私の傍に置く事をお許し下さい。

 ノゾミは今や桂ちゃんにとってのみならず。
 わたしにとって特別にたいせつな人です」

 柚明は桂とも決裂しかねない途を選んだ。


− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 葛も烏月も声を挟まず。ノゾミもあたしも、柚明が考えを述べ終る迄は、暫く耳を傾け
て。

 柔らかな声は想いを込めてややゆっくりと、

「最早桂ちゃんのたいせつな人だから、だけじゃない。わたしも生命と想いを重ね合わせ、
彼女に生命を救われました。ノゾミの孤独を、優しさ・強さ・脆さを肌身に感じ取りまし
た。

 今後ノゾミは人に害を為しません。私がさせません。桂ちゃんを脅かす事も。鬼切部が
切るべき悪鬼の要件は満たさせない。ノゾミは聡い子です。人の世にも必ず適応できます。

 桂ちゃんがノゾミと絆を断ったなら、わたしのたいせつな人として、ノゾミを守り支え
たい。これがわたしの真の願いで真の望み」

 柚明はノゾミを弁護しなかった。今後の桂や周囲に害はない。ノゾミは悪鬼でなくなっ
たと述べ。ノゾミを人の世に置き続けるには、今迄以上に今後の不信や疑念の払拭が必須
だ。

 柚明は両手を額を畳に擦りつけた侭動かず。
 ノゾミが驚きが抜けず宙に浮いた侭なのに。
 ノゾミの為と言うより己の為の願いの如く。

「ノゾミの受容が皆さんの心を踏み躙る事は、分っています。たいせつな皆さんに害を為
したノゾミへの憤怒や恨みは、承知でノゾミと絆を繋ぐわたしも被ります。今後ノゾミが
負うべき罪も罰も償いも、わたしが負います」

 生命を差し出す事だけは、一番たいせつな人を別に抱くわたしに叶いませんけど。それ
故にわたしは終生、ノゾミとその罪を償える。

 柚明はそう言う娘だった。一度たいせつに想った者は決して見放さず。どんな碌でなし
でも裏切り者でも、自業自得に想える結果にも必ず寄り添い、己の叶う限りの想いを注ぐ。


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