夏が終っても〔丙〕(後)
私が求め欲したのは桂との何でもない時間。巡り来る日々。過ぎ行く歳月。それが手に
入れられぬ様な生命には、今更未練は抱かない。
【鬼切り頭の先祖に封じられた時は、ミカゲと2人だった。今となってみれば妹でもなか
ったミカゲだけど、封印の薄闇の中でも1人でなかった事は心の支えになったわ。そのミ
カゲをこの手で殺めて、1人になって、そこ迄して求めた桂に二度と逢えないと分って封
じられるなんて、今の私には耐えられない】
でもふと思い当たった疑念は。今心の内に浮んだ予測は。仮に万が一の僥倖で、私が封
じられず桂の傍にいる事を許されても、所詮結末は同じなのではなかろうかとの、推察で。
私は千年を生きて老いもしない霊体だけど。
桂は散りゆく桜花の民で百年も生きられぬ。
私は数拾年後に桂の終焉を看取るのだろう。
その後に私は長久の空しさと寂しさを得る。
ミカゲも主様も切り捨てて得た、桂を喪い。
その後に私は未来永劫独り。何も残らない。
花は咲いてもいずれ散り月も欠けては沈む。
心に抱き手を伸ばし叶えた望みもじき終る。
手に入れて私は、己の幸せが始ったが故に。
いつか訪れる終りに怯え、身も心も竦ませ。
私は、果たして自由になれたのだろうか?
私は、真の望みを叶えられたのだろうか?
内なる囁きは心が毒に犯される錯覚を伴い。
陽は既に中天を過ぎて低く赤く傾いていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
夕餉の支度の始めは、昨日より遅めだった。鬼切りの頭が手伝うのは、最早毒殺の怖れ
を拭えないからではなく。桂の夕餉を作りたく、ゆめいの傍に添ってその役に立ちたいか
らで。
「桂おねーさん達、少し遅いですね。バス時刻からすれば、もう着いて良い頃ですけど」
「大丈夫よ。もうすぐ元気に帰って来るわ」
私は青珠に籠もった侭で、2人を見守る。
未だ青珠との繋りは不完全だ。桂が来てからの時間に長く出ていたいから、今の自由を
私は少し我慢して。己の内の迷いを気取られたくもなかった。そんな私の目の前で、鬼切
りの頭はゆめいから、料理を教わり。イモの皮むきに挑んで肌身を添わせ、親身に接して。
「出来ました!」「お上手。葛ちゃん器用ね。これなら、羽様にいるあと数日の間に、幾
つかお料理を憶えられるかも、知れないわ…」
「本当ですか? お屋敷にいる間に桂おねーさんに、葛の手料理を、食べて頂く事も?」
穏やかな視線と言葉は答を溌剌と弾ませて。
見上げる幼子の期待にゆめいは確かに頷き。
「ええ。葛ちゃんの想いを込めた手料理なら、桂ちゃんも喜ぶわ。わたしも手伝うわね
…」
羨ましい。問と答を返し、言葉と視線と姿勢で想いを交わし、肌身合わせて共同作業を。
それも桂の役に立つ事を、2人で愉しそうに。
「桂ちゃんが、帰ってきたみたい」「……」
感応の力でゆめいは私より優れているけど。
桂に関する察しの良さでは特にその傾向が。
3人で迎えに出向くけど、ゆめいは三和土で私達を留め。自身も留まって待ちの姿勢に。
「少し……待ってあげましょう」「「?」」
ゆめいはその左頭上に浮く私に軽く触れて、癒しの力を流し込み。その心地よさに私は
己の自由を止められた不快も流されて。巧く丸め込まれた。それは右手で肩に軽く触れら
れた鬼切りの頭も同様なのか。抗う様子がなく。
桂は屋敷の外の間近にいる。でも鬼切り役と2人、気配は暫く動かず。感応で探りを入
れようとしたけど、ゆめいが及ぼす癒しに心が弛緩して、集中できない。むしろこの癒し
が心地良く、いつ迄もこうしていたく。引き戸が開けられる音で、漸く現実に立ち戻った。
「お帰りなさい、桂ちゃん。烏月さん……」
ゆめいは2人の語らいも遅い帰着も問わず。
柔らかな微笑みで桂と鬼切り役を出迎えて。
「ご飯の用意が丁度出来た処です。どうぞ」
「おねーさんお帰りなさいです」「桂っ…」
鬼切りの頭は桂の右手を取って、中へ導き。
私は桂の左頭上間近に浮いた侭、寄り添い。
「葛ちゃん、ノゾミちゃん……もうっ……」
食卓には何の予告もなく食器が5人分ある。
桂もそれが当然と何1つ問わず席について。
「「「「「いただきます」」」」」
鬼切り役が桂の左、鬼切りの頭が右に座し。ゆめいと私が向いに並んで座して夕餉を食
す。夕餉ができた時に、2人が帰着したのは偶然ではない。準備の始めも遅くて良いと、
ゆめいは鬼切りの頭と心ゆく迄肌身添わせていた。
「中々いけるわね、千年後の人の食物は…」
それは今の世の食材の力以上に、ゆめいの調理の腕の故で、ゆめいの想いが宿る故でも。
「烏月さんも桂ちゃんも、お腹空いているでしょう。お代りはありますから、遠慮なく」
「はぁあい」「わたしもお手伝いしたです」
「そうなの? うん、おいしいよ葛ちゃん」
鬼切りの頭に桂の注意が惹かれるのが癪で。
「実際やっていた事は鍋の火加減を見る事と、味見の手伝い位だった様だけど」「たは
は」
鬼切りの頭は苦笑いしたけど。その余裕は。
ゆめいや桂と、しっかり心通じているとの。
「でも、初めてやってみたにしてはイモの皮むき、上手に出来ていたわよ。筋が良いわ」
桂ちゃんが今食べている、煮物のイモよ。
言われて視線を、皿の煮物に落した桂が、
「これ?」「はいっ。わたしの会心作です」
「あなたは一つ二つ切っただけで、その他の全ての行程をやったのは、ゆめいじゃない」
「たはは……そーなんですけどね」「うん。おいしい。とってもおいしいよ、葛ちゃん」
「もう少し慣れてくれば、もっと上手に出来る様になるわ。葛ちゃんは賢くて飲み込みが
早いから、きっとお料理上手になるわよ…」
「そー言って貰えると嬉しーです」「わわっ、わたしもおイモ切ってみる。お姉ちゃん
っ」
ゆめいの笑みに、桂が妙な危機感を露わに右の拳をぎゅっと握る。鬼切りの頭がゆめい
に習って桂より料理上手になる事に、なのか。鬼切りの頭がゆめいに近しい事に、なのか
…。
「そうね。では、明日の夕ご飯の時にお願いしましょうか?」「うん、わたし頑張るっ」
「ユメイおねーさんがいるから大丈夫だとは想いますけど、刃物は危ないので、気をつけ
て下さいね?」「だだっ、大丈夫だよっ…」
わたしのお母さんは烏月さんの親戚で、元鬼切り役だったんだもの。刃物を扱う事にか
けては、きっと眠らせている素養がある筈で。
鬼切りの頭の指摘は良い線を突いていた。
「野菜ごと指を切らない様にね、桂。鬼でも何でも切ってしまいかねないのよ、刃物や鬼
切部と言う物は」「うっ、そ、それはっ…」
それは不用意な一言だったかも知れない。
桂達の会話に割り込み釘を刺したい余り。
鬼切りの頭が拙いという顔を見せたけど。
でも鬼切り役は俯きも激昂もせず平静に。
「大丈夫だよ、桂さん。刃物も鬼切部も時に誤って、切ってはいけない物迄切ってしまう
事もあるけど……しっかり気をつけて挑めば、桂さんなら必ず適正に扱える様になれる
よ」
「そ、そうだよねっ。きっと出来るよねっ」
「何度か失敗する事はあるかも知れないけど、私は桂さんを信じているよ。必ず出来る
…」
桂に涼やかな視線を向けてその心を惹く鬼切り役に、割り込めず。不用意な口撃は己の
手足を縛る様だ。それは時に桂に不安を与え、哀しませる。少しは他の者達も気遣うべき
か。あくまでも、桂を哀しませない為に、だけど。
鬼切り役は、ゆめいが2人の帰着に合わせて夕餉を作れた事を問うていたけど。この程
度の遅れは、ゆめいの読みの内だったらしい。
「温泉でのぼせて倒れる事は、想定していませんでしたけど。烏月さんと一緒なら、大事
に至る事はないと想っていました。……桂ちゃんを看て下さり、有り難うございました」
「あ、いえ……その。当然の事をした迄です。私は桂さんを頼まれ、引き受けましたか
ら」
鬼切り役が頬を染めるのは、素直なゆめいの感謝に対してより。温泉でのぼせた桂を素
肌で抱き上げ、身を拭いた事を思い返してか。それを知られた羞恥でか、桂は耳迄真っ赤
に。
「日が落ちれば桂ちゃんの気配は経観塚にいても悟れます。こちらに向かってきている事
は分ったので、到着に合わせて調理を進め」
槐を離れて尚、ゆめいの索敵範囲は広大で。
その状況予測や対応は、正確な上に柔軟で。
旅館の夜の戦いは力の量で押し切れたけど。
今や力の量で優劣の差が明瞭である以上に。
同じ力の量で対峙しても勝てる気がしない。
鬼切り役が一瞬身を震わせた気持を悟れた。
「だったら、わたしも昨日桂おねーさんと温泉旅館に一泊してくれば、良かったです…」
そーすればわたしも烏月さんの様に、桂おねーさんとお風呂一緒して介抱も出来たのに。
「つつっ、葛ちゃんっ。今日のはね、あくまでも緊急避難で。通り雨に烏月さんが濡れて
体冷やしちゃって、それを暖める為にっ…」
桂が慌てる姿を前に私は口を挟みたくて。
やはり私はじっと黙すのは性に合わない。
「あなたは昨夜桂に添い寝して、身も心も暖められていたじゃない」「ノゾミちゃんっ」
でも慌てた桂の弁明が発されるより早く。
「ノゾミさんは昨夜桂おねーさんの五右衛門風呂に乱入して、身も心ものぼせさせられて
いた様ですけど?」「つ、葛ちゃんっ…!」
口を挟めばミカゲと違い反撃も返る事が。
「ああっ、あれは。……のぼせてなんかっ」
「そー言えば、ユメイおねーさんの入浴にも乱入してのぼせさせられてもいましたねぇ」
反撃どころか追い打ち迄される事もある。
唯被害は私よりも桂の方が多かった様で。
「葛ちゃん、ノゾミちゃん、お姉ちゃ…!」
妄想を呼ぶ絵図を幾つ瞼に思い描いたのか。
桂は箸を止め顔を真っ赤にして言葉続かず。
私もそれを前にして頬に血が巡るのを抑えられず。見るとゆめいも頬を朱に染めていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「ふぅっ、思ったより食べてしまったわね。
人の食物で満腹感なんて、千数百年ぶり」
未だ腹の中でこなれていない食物の感触に触れつつ、私が箸を置いた頃が夕餉の終りで。
鬼切り役が当然と言う感じで己の器を持って、
「皿洗いを手伝いましょう」「わたしもっ」
「わたしもさせて下さいですー」「私も…」
競う様な申し出に、私も最後に声を挟ませ。
どう為すか分らない故、申し出も控えめに。
「嬉しい悲鳴ね。でも、人手が多すぎても」
「では、柚明さんが誰か1人選んで下さい」
朝と同じ鬼切り役の提案にゆめいは頷き。
少し考えてからこちらを向いて私を選び。
「私……で、いいの? ゆめい」「ええ…」
お手伝いを申し出てくれた気持は嬉しいわ。
浮いた侭困惑する私の手を正面から握って。
柔らかな視線で頼まれるともう断りがたい。
その様は察しの良い者なら見透かせるのか。
「ノゾミさん、皿洗いななんてやった事あるのですか?」「別に、皿洗い位簡単よっ…」
鬼切りの頭の問に一応強気に応えるけど。
「ノゾミちゃん、本当に大丈夫?」「桂…」
桂に迄心配されてしまうなんて情けない。
確かに私は鬼になる前に、一度も皿洗いなどした試しがないし。鬼になった後も当然に。
でも今更引っ込みがつかない私に。ゆめいはお気楽な笑みを浮べ。贄の血筋って本当に。
「大丈夫よ、ノゾミは聡い子だし、感応の力もあるから。すぐに慣れるわ……」「関係な
い者達はあっちへ行って。作業の邪魔よっ」
外野を追い払って後、私はゆめいに皿洗いを教わる。初めての作業だけどゆめいも私も
感応使いだ。感触は伝わり合えて大凡悟れる。
二人羽織の様な感じで多少作業に役立ち。
その後もゆめいは私に寄り添い癒そうと。
ちゃぶ台を見ると桂は1人で。鬼切部2人は別室か。桂は遠方の友に無事を伝えに、鬼
切り役から『けーたい』と言う小さな箱を借りて手に持って、顔に貼り付け話しに夢中で。
「ちょっとゆめい、抱き留め迄する必要は」
そこ迄重篤な状態ではないと躊躇う私に。
正面から抱き留め肌身合わせてゆめいは。
「人の食物は胃にもたれるでしょう。特にあなたは長いこと人の生き血だけだったから」
確かに、未だ胃袋の中で食べ物はこなれつつ形を残している。今現身を解いたら、食し
掛けの食べ物が、床にまき散らされる状態で。独力で取り込むには尚少し時間が必要だっ
た。
「あなたの青珠への繋りも補助したいの…」
ゆめいの言う事は分らないでもないけど。
それなら日中青珠を握って力をくれれば。
昨夜就寝後には、蝶で癒しの光を降り注がせてくれたけど。彼女自身は鬼切り役に添い。
私は結局ゆめいの中で後回しなのかも知れぬ。
なぜか少し苛立って、私ではなく青珠に力を注げば良いと、私が桂に添うのを阻みたい
のかと、口を尖らせて問うてみた。大人しく穏やかな普段のゆめいは、千年叱責し続けた
ミカゲに印象が重なって、つい問い詰めたく。ゆめいの大人しい答は私の求めの反映なの
か。
「青珠に力を注いでも最終的な効果は同じよ。でも青珠に力を注ぐと、あなたとの軋轢も
一時的に増して、あなたが苦しむの。あなたに直接癒しを注げば、あなたの中身が青珠に
馴染み易く癒され補充され、苦痛も少ないわ」
私が桂の傍を望んでゆめいを邪魔者扱いし避け続け。不調に陥り青珠に戻り。ゆめいは
他に癒すべき者を抱えていて。現身の私を癒す機会は中々巡らなかったと。皿洗いの助手
に私を指名したのは、肌身に添って癒す為で。
「早く青珠に馴染んでくれれば、早く安心して桂ちゃんが持ち歩ける。あなたは桂ちゃん
の最後の守り。あなたの在り方の安定にはわたしも力を尽くすから。今少し、頑張って」
ゆめいは今後も、私を桂に添わせる気で。
滅ぼす積りも封じる積りも欠片もなくて。
身も心も包み込む優しげに暖かな感触は。
ミカゲにも桂にも一度も感じた事のない。
主様に出会うより昔の遙か遠く懐かしい。
切なくも満たされるこの錯覚は、まさか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
私はゆめいを好いた訳ではない。私の一番は間違いなく桂だ。ゆめいは私が必要に思う
から、肌身を添わせる事を許しているだけで。でも心の内に育ち始めた奇妙な感触は一体
…。
ゆめいは桂と鬼切りの頭の添い寝を導き。
暫く鬼切り役と見つめ合って語り合って。
観月の娘を抱き留めて癒す為に場を外し。
鬼切り役は青珠に瞳を言葉を向けて来て。
「あなたが私に用なんて、どういう風の吹き回しかしら? 二組の添い寝を前にして、己
の肌身が寂しくなったから呼び出した、等の下手な冗談はお断りよ。千羽の鬼切り役…」
現身を取って話しに応じた私に鬼切り役は、
「冗談でもその様な事を口にするのは、お前がその寂しさを感じている故ではないのか」
拾年前に私とミカゲで桂と桂の兄を唆して。綻ばせた封じの隙間から漏れ出た主様の分
霊。それの宿った桂の兄の故に、鬼切り役は実兄を喪ったと聞いた。主様と敵対した鬼切
部で、私を拾年前に切り捨てた桂の母の縁戚。近日の旅館では夜、何度か桂の血と生命を
狙って動いたミカゲと私を戦い阻んだ因縁深い間柄。
身構え合う関係は鬼切りの頭の時以上かも。
「私には桂がいるもの。あなたと違って今後も人肌寂しくなる心配は要らなくて結構よ」
「青珠が呪力を保つだけで良いなら、私が注ぐ事も、柚明さんに頼む事も出来るが…?」
彼女は涼やかに、痛い処を鋭く突いてくる。
「桂かゆめいに訊いてみなさいな。それで良いかどうか。答は訊く迄もないと想うけど」
「問題はお前の利用価値の有無ではない。お前の在り方だ。鬼切り役である私は、人を脅
かす鬼は切らねばならない。お前が桂さんや柚明さんや、他の人を害し生命脅かすなら」
旅館の夜に対峙した時とは、状況が違った。
彼女はあの夜の桂の兄との立ち合いを経て。
何かを得た様で。確実に力量が増している。
刀も真言もなしに彼女は私を討つ事も叶う。
それを察した心が体が、無自覚に後ずさる。
鬼切りは鬼の天敵か。でも尚強気を捨てず。
「威勢だけは良いのね。主様の器に敗れたから落ち込んでいるかと想ったら、相変らず」
「柚明さんの癒しで既に体も心も復している。
もう一度戦えば、今度こそ打ち破る処だが。
お前の方こそ、まだ本調子ではない様だな。
下手に人の血を狙って蠢かない事だ。人に危害を加えたなら、次こそ見逃しはしない」
お前が桂さんのたいせつな人だから、私が手出しを控えると思っているなら、間違いだ。
鬼切り役は、蒼い輝きを左の瞳に込めて。
「私の名は千羽烏月。維斗の太刀を担う千羽党の鬼切り役。人に仇なす怪異を討つのが、
我ら鬼切部の使命。千羽党当代の鬼切り役としての勤め……葛様が桂さんの願いを受けて、
お前の処分をどの様に決めるかは未定だが」
心の浮動を抑えた語調が逆に迫力を増す。
「その前にお前が人を傷つけ脅かしたなら。
私は葛様の命を待たず即座にお前を切る」
「しないわよ、別にあなたに言われなくても。
桂の贄の血さえあれば、充分足りるもの…。
今更普通の血なんて飲めた物ではないし」
私の気持は既にその積りでいるのだけど。
大人しく従うのも癪なのでそう応えると。
一瞬瞳に殺気を宿してから闘志を和らげ。
「私が切るべき悪鬼には、ならないで欲しい。
人を害する鬼を私は、見過ごす訳に行かぬ。
桂さんはお前を大事に想っている。お前と語らう時の桂さんは見ていて微笑ましい……。
お前を大事に想う桂さんの為にも。人を害しない鬼で、人を傷つけぬ鬼であって欲しい」
その答には、私の方が眼を見開かされた。
鬼切り役は心底桂を想うから。桂がたいせつに想う私も受け容れようと。人に害を為さ
ない限り、私を受容する用意があると伝えに。最早自身の兄の仇とか原因だとかは責めぬ
と。その瞳は悲哀を越えて強い意志を宿して光り。
強く清く美しかった。一瞬心を奪われた。
鬼切部にも彼女にも、思う処は多いけど。
この申し出は拒むべきでないと思うので。
素直にはなりきれず一度左を向いてから。
「桂を哀しませるのは、私も望まないから。
少しは心に留めて、あげても良くてよ…」
私の真意は彼女に伝わった感触があった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
欠け始めても尚大きな月夜だけど。鬼切り役との話しを終えて、私は再度青珠に籠もる。
全ての者が寝静まり、起きているのは観月の娘に添うゆめい位だけど、夜中癒しの最中で。
夜も昼も私は独り。夜の多くは人の眠る時間で、人の動き回る昼に私は出られず。間近
にいても心の間合は遠い。ミカゲの様に四六時中傍にいて、私だけを見つめてくれて、問
えば即答を返してくれる者はいない。桂も…。
互いの想いを確かめ合う時間が、一日の間で余りに少なく感じられ。もっと桂の日々に
入り込んで、桂と全てを共有できると思っていたのに。触れ合うどころか声届かせる事も。
私は、果たして自由になれたのだろうか?
私は、真の望みを叶えられたのだろうか?
『果たしてこれで、良かったのだろうか?』
桂にもゆめいにも私は忘れられては居ない。
桂の願いを受け他の者も私を受容しようと。
桂は、私でなければ頼れない事があると迄。
それは嬉しかったけど。心を躍らせたけど。
人と霊体の鬼の本質的な隔ては厳然と残る。
幾ら埋めようとしても、否すればする程に。
その上でミカゲは私の心の最も痛い箇所を。
桂と生きる上で決定的な亀裂を突いて来た。
【桂は記憶を取り戻しました。私達の所作を知っています。桂は、桂の傍の人間達は、姉
さまを受け容れません。許しません。表面上、一時的に、許して見えても、恨みは消えな
い。憎悪は流し去れない。想いの永続を私達は己で良く知っているではありませんか。し
かも桂は数拾年で死に至る人の身です。姉さまの求める想いは束の間の気休めに過ぎませ
ん】
桂は私を強く熱く望んでくれたけど。拾年前に喪った羽藤の家を今尚悼み哀しんでいる。
私が傷つけて壊した過去に悩み苦しんでいる。私の存在自体が桂の悲痛や苦悩の根源だっ
た。
私も主様を断ち切れてなく。ミカゲに尚情を残して。主様の分霊を心底慕っていたから。
それを喪わせたゆめいへの憎悪は、今後も絶対拭えない。桂は血筋と言うだけで、何をし
た訳でもないから、憎悪も恨みも薄いけど…。
想いの永続は、私が一番良く知っている。
たいせつな人を喪わせた、憎悪や恨みは。
愛に根ざす故に、愛が潰えぬ限り永劫に。
幾ら癒しを注がれて肌身を合わせ頬を重ね、唇を繋いでも。親愛がゆめいの全てではな
い。生命も想いも重ね合わせても拭い去れぬ物はある。世には取り返しの付かぬ物がある
様に。
現に私は千年の封じも共に凌いだミカゲと戦い、息の根を止める為良月を桂に壊させた。
桂の為した事も私の為した事も、やり直しの効かぬ物だ。殺めた生命は復せない。鬼切
部2人もゆめいも観月の娘も、私が桂にたいせつに想われたから思い留まっているだけだ。
色々な物達に許しを請い、縋って頼って情けを受け。その上で生かされても私の幸せは
数拾年で終る。桂の笑みは永遠には続かない。私にだけ向く訳でもない。桂の一番が私で
ある保証さえもない。人の想いは移ろい変る…。
この侭私は人の世に、桂について行くべきなのだろうか。それで私は本当に、幸せにな
れるのだろうか。私の望みとは何なのだろう。
どうやっても桂と長久を共に出来ぬのなら。
二度と他の誰にも視線も声音も行かぬ様に。
今桂の血肉を心も余さず、己に取り込んで。
終生共に出来るなら人の世に等行かずとも。
それでこそノゾミの真の望みは叶うのかも。
背筋をぞくっと走り抜ける、何かを感じた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
観月の娘が意識を取り戻したのは、夜明け直後で。鬼切り役の刃を受けて最も重篤だっ
た彼女は、ゆめいの癒しを受けても中々意識を戻せなかったけど。漸く言葉交わせる様に。
微かな物音と気配に鬼切り役が、不審を感じ義憤を抱き。2人の睦み合いに押し入って、
屋敷の一日は始った。彼女は観月の娘の獣欲を誤解して、ゆめいを助け守ろうとした様で。
ゆめいは癒しの為に素肌で抱き留め、観月の娘の覚醒に、歓喜の涙を零して誤解を受けて。
「……申し訳ないっ……。重ね重ねに…!」
鬼切り役の平身低頭は、見ていて愉しい。
騒ぎで起きて来た鬼切りの頭と桂は、夜着の浴衣姿で観月の娘に向って左に座し。ゆめ
いは右間近で蒼い衣を身に纏い。観月の娘は浴衣は羽織っても帯は縛らず、布団に座して。
「柚明さんの嬉し涙を勘違いして。あなたを、癒しの恩義に欲情の仇を返して涙させる、
獣の所行と勘違いして。斬り掛ろうとして…」
乳房は隠しているけど、しっかり前を閉じてないので、胸の谷間は見えている。涼やか
な朝日に照されて、白銀の長い髪も以前に増して艶やかで。少し力強さに欠けるその声は、
「あぁ、その刃とは本当に因縁深いからねぇ、あたしは。真弓にもその刃で散々世話にな
ったし、その前の代の鬼切り役にも……っと」
観月の娘が鬼で山神の眷属で、巌の時を生きる観月の民だと言う事は、桂は知らない…。
「もう動いて大丈夫? ご飯食べられる?」
「多少ならね。食べた方が回復にも良い筈だから。インスタントや脂っこい物はまだ少し
勘弁だけど。どうせ食い物は殆ど柚明の手料理なんだろう、このメンツなら」「たはは」
鬼切りの頭の答を受けてから彼女はふっと。
哀しいとも愛おしいともつかぬ遠い目線で。
「また、間に合わなかったんだね。白花の肝心な時に、桂と柚明の生命を左右する瞬間に、
あたしは助けも守りも出来なかったんだ…」
観月の娘から見て左側に座したゆめいに、
「済まなかったね。桂の事といい、白花の事といい、何もかもあんたに任せっきりでさ」
ゆめいは観月の娘の陳謝に、首を左右に、
「これはわたし一人で掴み取れた成果ではありません。この深傷も白花ちゃんを、わたし
を庇って、刃を受けた末ではありませんか」
この滑らかで艶やかな肌を肉を、刃に晒すなんて。サクヤさんには何一つ咎はないのに。
わたしなんかを庇って無茶を。何という酷い。
瞬間、ゆめいに強い怒りを感じた気がした。
観月の娘を害した行いへの、鬼切り役への。
でもゆめいはその気配を本当に瞬時で抑え。
今は間近な観月の娘への愛しみと励ましを。
「この成果は、烏月さんや葛ちゃんやノゾミ、桂ちゃん白花ちゃん、サクヤさんの助けが
あっての物。完全に満足な結末ではないけど」
今はゆっくり身も心も休めて、掴み取れた・守り抜けた幸せを確かに感じ取りましょう。
「助かってくれると信じていたけど。嬉しい……起きて言葉を返してくれて、本当に…」
今にも嬉し涙が溢れ出そうな程に喜んで。
観月の娘は、その透き通った笑みに頷き。
左腕で寄り添ったゆめいを軽く抱きつつ、
「桂……済まなかったね。真弓の事、柚明の事、白花の事、正樹の事、笑子さんの事、そ
して幼い頃のあんた自身の事。今迄伝えてやれずに、肝心な時に役に立てずに、本当に」
手を伸ばす動きを察して、間近に寄る桂に。
右腕を絡め取られ支えられて、観月の娘は。
俯いた頬に瞳から一筋の雫を伝わせていて。
「あんたや柚明に、何もしてやれなかった」
「そんな事ないよ……こんな酷いケガ迄して。生命がけで、お姉ちゃんと白花お兄ちゃん
を守ってくれたのに。すごく心配だったんだよ。お姉ちゃんが治してくれたから良かった
けど。生命落さずに済んで良かったけど。もしもの事があったらどうしようって。お母さ
んを亡くしたばかりなのに、サクヤさん迄なくしちゃったら、わたし、本当にっ……」
「桂…」
溢れる想いを溢れる涙を、桂は留める術を持たず、今は唯寄り添うのみで。観月の娘は
両手に花の状態で、互いの無事を喜び合って。暫くは他の誰もが、事を見守る他に術がな
く。
「サクヤさん……助かってくれて良かった。
今迄色々、ありがとう。たいせつな人…」
鬼切り役の観月の娘への、鬼切りの太刀で深傷を与えた事への、正式な謝罪はその後で。
「あたしは、後悔してないよ……。例え生命を落しても、あの時白花を柚明を切らせる訳
には行かなかったから。危険は承知で、刃の振り下ろしに飛び込んだんだ。仕方ないさ」
互いに譲れない想いがあった。そう続け、
「あんたは白花を切らないと言ってくれた。
それで充分だよ。約束は、守っておくれ」
「サクヤさん……」「あたしの生命を賭けた約束だ。あんたも武士なら二言はなしだよ」
それと引き替えのこの深傷だ。それならあたしも文句は言わない。甘んじて痛み苦しん
でから、もう少し柚明に添って治して貰うよ。
「奴は、いや彼は、柚明さんの代りに槐のご神木に……」「分っているよ。それでもさ」
あたしのたいせつな人が、あたしの家族が。笑子さんの孫が、真弓と正樹の子が、桂の
双子の兄で柚明の一番たいせつな古い馴染みが。血も繋った千羽に生命狙われ続けるって
のは。
「哀しく辛い事だろうさ。誰も幸せにならないよ。事後でも和解しないよりはした方が」
いつっ! 観月の娘が再び痛みに顔を顰め。
傷口が開いた様だ。まだ長話は無理らしい。
「彼との関係は未精算ですが。もう一度立ち合いたいとは思っていますが。生命のやりと
りをする積りはありません。彼はもう仇ではない。いや、彼は元から仇ではなかった…」
鬼切り役は黒髪を揺らせて再度頭を下げ、
「その上で謝らせて下さい。私はあなたの生命を危うくさせて、桂さんや柚明さん達の哀
しみを招いた。あなたのたいせつな人達を」
観月の娘が、短い頷きを返した時だった。
桂の内に住むもう一人の桂が、声を上げ。
「桂おねーさんなら、そろそろかなーと思っていました……丁度わたしもお腹が空き始め
ていましたので」「つっ……葛ちゃんっ!」
「朝ご飯にしましょう。サクヤさんは病み上がりなので別メニューを作りますね」「んっ
……その前に1つ、頼みがあるんだけどね」
ゆめいの促しに応えつつ観月の娘の求めは、
「ご神木に、白花に逢いに、行きたいんだ」
「サクヤさん、そんな体で。まだ無茶です」
ご神木は逃げはしません。もう少し体調が復してからでも遅くはないわ。傷に障ります。
「同じ事をやろうとした、否、やったあんたに言われたくはないね……あんたの耐えてき
た痛みは、この比ではない筈だよ。柚明…」
生命に障る訳じゃない。誰かと戦う訳じゃない。ご神木に、白花に逢いに行きたいんだ。
「あんたなら、この気持は分るだろう…?」
強い願いにゆめいは徹底して拒みきれず。
「分りました。朝ご飯を食べて一休みした後でご一緒します。午後は通り雨が来そうです
から、昼前にお屋敷に帰ってこれる様に…」
観月の娘の深傷は完治してない。山登りに伴う動きや疲労は、傷に障り体に負担となる。
だからゆめいが添うと。そこに桂が声を挟み。
「わたしも、一緒して良いかな……。この拾年ずっと離ればなれで。近くにいるのに昨日
も一昨日も逢ってなくて。町に帰ってしまったら、白花ちゃんには暫く逢えなくなるし」
サクヤさんも柚明お姉ちゃんが添えば大丈夫だと思うけど、やっぱり心配だし。わたし
は生命の危険もなくなったし。水筒持ったり、少しは役に立てると思うよ。うん、少しな
ら。
「私も一緒しましょう。事の末を確かめる為にも、ご神木になった奴……彼には一度会っ
ておきたい。それに荷物持ちなら私の方が」
「分ったわ。では、みんなで行きましょう。
葛ちゃんも一緒して貰って良いかしら?」
「ユメイおねーさん。わたしも、ですか?」
ええ。鬼切りの頭の問にゆめいは即答で。
「今このお屋敷にいる者はみんな関係者よ」
鬼切りの頭は遠慮気味に寡黙だったけど。
「そして今ここにいる者はみんな桂ちゃんをたいせつに想い、桂ちゃんにたいせつに想わ
れた人達。桂ちゃんに深く関る事の末を見届ける権利があるし、立ち会って貰いたいの」
葛ちゃんは、わたし達のたいせつな人よ。
柔らかに深く強く絆を絡め合わせる脇で。
「お姉ちゃん、あのね……」「ええ、ノゾミにも来て貰うわ。青珠は桂ちゃんが持って」
桂もゆめいも私を忘れてない。大事な時と場には私も欠かせない一員だと。それには誰
からも異議はなく。苦笑いはあった様だけど。もう一人の桂の再度の促しで、朝餉の後で
私も含む全員で、山奥の槐へ向かう事になった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
高く伸びる木々が、好き放題に枝を伸ばし、空を殆ど覆い隠している。私の両手では抱
えきれぬ程太い幹の古木が立ち並び、丈のある草が生い茂る狭い道を、私達は前に進み行
く。
ふと後ろを振り返ると、少し離れて開けた処に瓦の並ぶ屋根が見えた。建て替えは経て
も、主様が欲した竹林の姫の住処で、私が憎み恨んだ羽藤の住処で、私を切った桂の母や
桂やゆめいが拾年前迄暮らしていた家だった。
離れに見える蔵は、私とミカゲの宿る良月を所蔵して、桂の記憶をこの拾年封じていた。
「頭を厚く覆うこの葉っぱのお陰で、日差しもそこそこ和らげられて、ちょうど良いね」
強すぎる日差しも桂には心地良い感じで。
少し汗ばみつつも表情も声音も元気そう。
「緑のフィルターを通した光は爽やかだし、木々の香りを含んだ空気は清々しいし……」
「私は、桂さんの元気に歩く姿が嬉しいよ」
「ううっ、烏月さんっ! ……ありがとう」
「爽やかですけど、暑いですねー。昨日の雨の所為でしょーか? むしむししますっ…」
不快さはないけど、羨む鬼切りの頭の声に。
ゆめいと観月の娘の苦笑と親しみが悟れた。
道の勾配が段々急になる。羽様の山の森を、山道を登っていく。獣道でもまだ道らしく
開けていた処を外れ、草を分ける様に進み行く。
ミカゲと共にこの辺で、鬼切りの頭と子狐を見つけて襲い、血を啜ったのは4日前。そ
のミカゲの弔いに、良月の破片を持つゆめいと桂に添って、夜道を歩んだのは一昨昨日で。
そのミカゲの最期の怨念で暗闇の繭に落ちた桂を救う為に、桂の兄とゆめいと私はここを。
遙か昔には主様と歩き、封じられた主様を解き放つ為にミカゲと共に歩き回った途だった。
感傷と物思いに浸りつつ、暫く歩き進むと。
ざあぁっ……。
急に視界が開けた。恐らく山の中腹辺りで。
そこには見上げる程に大きな、数百の歳月を過したといった趣のある槐の大木が根を下
ろしていた。周囲は遠慮した様に、若い木も丈の高い草も生えず、辺りは少し開けている。
主様を封じ還す為に、竹林の姫が千数百年宿った槐の樹。私がミカゲと拾年前、桂と桂
の兄を操り綻ばせた封じ。その綻びの繕いに、ゆめいが継ぎ手となって宿り、今は桂の兄
がそれを継いで。通り過ぎるそよ風に、咲き誇る無数の白花が、ゆらりと揺れて幾つか散
る。
「白花、お兄ちゃん……」「……白花……」
槐を見上げ桂と観月の娘が呟く。他の3人は黙した侭槐を見つめ。でも応える声はなく。
千年ミカゲと一緒に入り込む事さえ叶わなかった。一昨昨日の夜、ミカゲの弔いに桂や
ゆめいと来て漸く入れた時は、皮肉にも私は桂を一番に想っていて、入り込む意味も薄く。
『私は、本当に主さまと切れてしまった…』
言葉に余る程の想いが、呟きも中途で留め。鬼にして新しい生命をくれた恩、悠久の懐
かしさ、仄かに淡い好意、己の所為で封じられる事になった申し訳なさ、千年解放できな
かった無力感、今は立場を変えてしまった苦味、でも尚たいせつに想う気持、過去への訣
別…。
様々な想いを込めて、込めて、込めきれなくて。それでも精一杯向き合って。それはそ
の根本に埋められた良月の破片やミカゲにも。
暫くは全員黙した侭でご神木を見上げて。
こみ上げる想いは、複雑に心を乱すけど。
今は心を整えて、藤原望の想いを伝える。
『主様……それとミカゲ……さようなら…』
ミカゲには一昨日夜の弔いで告げたけど。
【出来の悪い妹で、主さまの分霊だったけど、最後は敵対し煮え湯を飲まし飲まされたけ
ど、あなたは紛れもなく千年私の妹だった。主さまを一番に想った長い年月、最愛の友だ
った。
桂を一番に想うわたしは共に歩めなくなったけど、あなたと滅ぼし合う末を招いたけど、
悔いは胸を突き刺すけど、あなたを選べなかった事は哀しいけど、尚私のたいせつな人】
あなたをいつ迄も胸に刻んで生きるから。
そして主様。私に生命を与えてくれた人。
『あなたが居て下さらなければ、私は千年昔に野垂れ死んで、桂に逢う事も叶わなかった。
これから先私は主様ではなく、桂を一番に想うけど。桂の為には主様にも抗うノゾミにな
るけど。感謝しています。いつ迄も私のたいせつな人。夏が終っても、私の想いは終わな
い。主様はずっとノゾミのたいせつな人…』
【絶対に忘れない。愛も憎しみも怒りも哀しみも寂しさも全部、この千年に抱いた想いは
全部私が、限りなく持ち続けて行くから…】
今はここにもう一人思いを届けたい者が。
『あなたにも、礼を述べておくわね。私のたいせつな桂を守ってくれた。あなたのお陰で
今の私達はある。拾年前から今迄あなたには、私は常に疫病神だったけど……せめて今後
は、桂や桂のたいせつな人をその私が守るから』
蒼く澄み渡る空と涼やかに頬撫でる風の元。
桂の兄の微笑みの印象が返された気がした。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
屋敷に帰り着いたのは、ほぼ正午頃だった。
鬼切り役がゆめいを手伝い、昼餉を作って。
観月の娘は未だ重篤なので。朝もゆめいが寝室に、朝餉を持って入って食べさせたけど。
『柚明お姉ちゃん、サクヤさんにどうやってお粥とか食べさせているのかな?』『スプー
ンにご飯を載せて、あーんしてって感じでしょーか? それとも、もしや口移しとか…』
私迄余計な妄想をかき立てられ心乱される。
昼餉時ゆめいは妄想呼ぶその役を桂に頼み。
「大丈夫なのですか?」「サクヤさんの容態のこと?」「あ、いえ、その、桂さんの…」
鬼切り役の危惧を、お気楽な羽藤の裔は理解してないのか。問い返されて危惧の中身を
口ごもる鬼切り役に、鬼切りの頭が助け船を。
「看護に慣れてない桂おねーさんでは、深傷のサクヤさんに、逆に負担になるのではと」
ゆめいには観月の娘が贄の血を欲する危惧もなく。脳天気な程穏やかに笑みを絶やさず。
「大丈夫よ。桂ちゃんが寄り添う事で、サクヤさんの気力も増すし。サクヤさんの治りが
早まる様を見て、桂ちゃんも力づけられる」
通り雨が地を叩き始めた頃、桂が観月の娘の寝室から出て。代りにゆめいが、肌身を添
わせに襖の奥へ。ゆめいが出てきたのは雨が上がって、鬼切り役の皿洗いが終えた頃合か。
桂の心の乱れを案じて、短く切り上げた様だ。
照りつける陽光が再び戻り来た昼下がり。
「今日は買い物もないから、のんびりだね」
そーですねー、と鬼切りの頭が応える前に。
既に桂は瞳が意識が落ち掛り。鬼切り役が、
「午前中の山登りで疲れた様だね」「うん」
「生気の前借りも、切れてきたのではありませんか? 昨日のお話しではもーそろそろ」
ええ。ゆめいは鬼切りの頭に頷きつつも、
「でもこれ以上生気の前借りは、止めるべき。桂ちゃんはその方法を知らないから、傀儡
の術で心と体を操る事になる。二重の負担になってしまう。桂ちゃんは食事と休息で、血
の量も復しつつあるわ。生気の前借りは必ず後に反動を招く。既に桂ちゃんは3回もそれ
を為した。1度目の反動は3度目の生気の前借りで相殺したけど、谷間はこの後2回来
る」
これ以上は弊害の方が大きくなる。借金を続ける限り借金体質は改善できない。後は少
し不調が続いても、蒼い癒しや休息・食事で補うべき。桂の体調はそれで保つ処迄復して
きた。食材は未だあるので暫く外出も不要だ。
「となれば、お昼ですし」「昼寝、ですか」
鬼切部2人の問に、ゆめいは穏やかに頷き。
中庭を見渡す一室で、4人並んで横たわり。
何とも太平楽に気の抜けた絵図だったけど。
この様に何もない安穏が桂やゆめいの願い。
昼間は何も出来ず見ているだけの私の前で。
無為だけど長閑に穏やかな時が過ぎてゆく。
ゆめいが睡眠中の桂に、肌身を添わせ癒しを注ぐ様は分った。その気配に目を醒ました
鬼切り役と、2人で場を外した少し後。鬼切りの頭がふと目覚め、何か思い当たった様に
歩み去り。桂を起こしても何も出来ない私は、鬼切りの頭がゆめい達を探す方が気に掛っ
て。
そこで知れた真実は、やはり私の推察通り。
覆水が盆に返らぬ様に過去もやり直せない。
想いの永続は私よりゆめいの方が強いかも。
夕餉作りは桂が手伝おうとしたけど、足腰が萎えて為せず。鬼切り役が手伝う事になり。
生気の前借りの反動の第2波が、来たらしい。通常なら直接生命に障る程ではない筈だけ
ど。
「今の桂ちゃんは回復途上で、血も足りず疲労も拭い切れてない。癒しの力を注げば症状
は改善するけど、今宵は安静を保つべきね」
鬼切り役が桂をお姫様だっこして奥の間へ。
夕刻になればゆめいは蒼い蝶を出せるので。
鬼切りの頭と子狐が心配そうに寄り添う中。
寝込む桂の上に滞空させ光の粉を注がせて。
鬼切りの頭は、ゆめい自身が素肌を添わせなくて大丈夫か尋ねていたけど。そこ迄する
程に危機的な状況ではないらしい。夕餉にもゆめいに添われつつ自力で起きて、食を摂っ
て部屋に戻り。なのでこちらも未だ身動き叶わぬ観月の娘への夕餉の給仕は、鬼切り役が。
鬼に対して常に涼やかに冷やかなあの美人が、一体どんな表情で観月の娘に添ったものや
ら。
ゆめいが一番たいせつな桂に添わず、蝶を遣わし癒すのみに留めた訳は、食後に分った。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
瞼の裏に絵図が浮ぶ。それは遙か遠い昔の。ミカゲと共に主さまを、槐の封じから解き
放とうとしていた頃の。良月に封じられる前の。
目の前でミカゲは私を向いてやや俯いて、
「ですが姉さま。主さまの魂は、封じの槐が花を散らす度に、少しずつ削られています」
それが役行者の封印だ。遠い未来、主さまはなくなってしまう。ミカゲの言いたい事は、
「それの邪魔なら、できると言うのかしら」
「はい……」
そうだ。それ位の事なら。それにしても、ミカゲの方からこんな事を言い出すだなんて。
「あなたも、主さまの事が好きなのね」
私に新しい生命の形を与えて下さった主さま。強く優しく無口な主さま。きっとミカゲ
もそうなのだから、なら答えは決まっている。
「はい……」
そうだ、私達で主さまをお助けしなければ。
そして私達は封じの槐の木を弱める為に力を使い始めた。だけれど、私達ではあの木に
近寄る事ができない。さて……。
「それなら、人を使いましょう」
「ああ、そうね。私の力は人に暗示を与える事ですもの。それ位なら簡単よね」
「はい、姉さま……」
目についた村人を操って、封じの木を弱らせる様に糸繰りをした。
暗示で捕らえた村人の内の何割かには、食事になって貰い、私たちは力を蓄えていった。
それで少し良い気になりすぎたかもしれない。
暫くすると『神隠しが起こる村』だなんて変に名前が知れてしまった物だから、鬼切部
の鬼切り役がこの地へと遣わされた。そして、良月が依代である事を知られて。主さまの
封じを綻ばせに来た私たちが、封じられてしまうだなんて、木乃伊取りが木乃伊も良い処
だ。
私たちを封じたのは、若杉某とか言う鬼切部の陰陽師だった。頭ではないものの、かな
りの地位にいるらしい。
唯封じられるのは癪だったので、一つだけ暗示を試してみる。強い暗示をかけると、す
ぐに気取られ解かれてしまうので、弱い暗示をかけてやる。夢の様なさほど影響力のない
形で、慢性的に繰り返される暗示を。幻影をよくする私には珍しい、言霊による暗示を…。
それは遅効性の毒。
「あなた達は鬼切部。鬼を斬るのはその役目。だから観月の民も切らなくては」
主さまを封じた役行者と観月の民……。
役行者は人と大差ない刻を生きて死んでしまったけど、あいつらはまだ生きている。鬼
切部に尻尾を振って、未だ生き長らえている。だから切られてしまえば良い。例え鬼切部
が返り討ちにあったとしても、それはそれで私の仇を討った事になる。
共倒れになってくれるのが一番だけど、そこ迄は望まない。ただ、この暗示が掛りさえ
すれば。この若杉某が行動に移さずとも、上手く掛ってくれさえすれば。言霊による呪は
子から孫へと語り継がれていくだろう。言葉は親から子へ、子から孫へと継がれていく物
だから。余り期待してはいないけど、この毒が上手く回ってくれると良い。長く待つのは
苦手だから、できれば封印されている間に。
ああ、向うの封じが完成する……。
私たちは、暗い闇の中に閉じこめられた…。
どれ位の時が経過したのだろう。
「ほんとうに入るの?」「入るよ。おくらの中には、きっと宝物がいっぱいあるんだよ」
小さな子供の声が聞えた。
封じの札の向うから声が聞えた。
「こんなのはがしちゃおう」「いいのかな」
「大丈夫。いいから剥がしちゃおう」「…」
封じの札が剥がされていく。剥がれた隙間から、心地よい薄闇が流れ込んでくる。私の
様に人である事を止めた者にとって、真昼の光は毒だけど、漆黒の闇も頂けない。鏡とい
う物は、跳ね返す光がなくては無意味な物だ。
同じ顔の子供が2人良月を覗き込んでいる。
私は鬼の嗅覚で、この子供達が贄の血の持ち主だと知った。これはハシラの血筋の子だ。
まさか、良月の封印の解れと贄の血の陰陽揃いが同時に訪れるなんて。私は嬉しさの余り、
「ふふふふふふ……」
知らず、笑い声を漏らしていた。幼い問は、
「だ、だあれ?」「私はノゾミ……」
その名の通り、私の望みは叶えられる。主さまを助け出して、私と話しをして貰うのだ。
札の重要性も分らず剥がしてしまう子供に暗示をかける等、容易い事に思えた。さて……。
私たちと主さまを解放してくれる、この間抜けた生け贄の名前を聞いておくとしようか。
「あなた、名前は?」「けい、はとうけい」
ゆめいの導く夢は終った。照明を落し、月明かりのみが照す、羽藤の屋敷の居間で現代、
桂を除いて集った私達は、全員我を取り戻し。私の為した事も記憶も皆で、分ち合ってい
た。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「なるほど……鬼切部が六拾年前の新月の夜、あたし達を焼き討ちして皆殺ししたのに
は」
「……そーゆー背景が、あった訳ですかー」
観月の娘と鬼切りの頭が、瞳と言葉を私に。
鬼切り役は黙した侭、鋭い視線を私に向け。
即座に怒り喚き出さないのが、却って重い。
感応の力を解いたゆめいは、座して動かず。
私は答も考えつけず唯浮いて固まっていた。
夕餉の後、ゆめいは桂を別室で寝付かせ蝶で癒し。観月の娘をちゃぶ台に招き手を繋ぎ、
直に癒しを及ぼしつつ。鬼切り役と鬼切りの頭も呼んで。私もゆめいの促しで現身で顕れ
て浮き。照明が落されているのは、桂が睡眠中な以上にゆめいの意向だった。化外の力を
使おうとしているとは、察し取れたのだけど。
ゆめいの継ぎ手の蒼い衣が、欠け始めた月明りを受けた以上に、力の輝きを帯びていた。
『今から皆さんに感応の力を及ぼして、夢を見て頂きます。是非とも見て欲しい絵図を』
それは桂が私の心を覗いた時の。ゆめいは桂と深く繋っているから、私の奥底迄承知か。
でもそれを皆に明かすのは。感応で皆に伝えてしまうのは。桂は観月の娘の正体を知らな
いから、その繋りを悟れてないけど。でも…。
冷たい敵意を全員から感じた。一昨昨日夕刻ミカゲとの対峙以降。桂にたいせつに想わ
れた者として、桂をたいせつに想う者として。私は屋敷に桂の傍に居場所を黙認されて来
た。今後街の家に帰る桂に、桂の青珠に憑いて行く事も、共に生きる事も許されるかも。
今後に抱く淡い希望を根刮ぎ断ち切る隔絶だった。
「ゆめいあなた、これは一体どういう事!」
やはりゆめいは桂の傍に、私が添う事を許せないのか。今後の桂の人生に、鬼が絡む事
を認められないのか。柚明は私を憎み恨んで、又は桂の心を奪い合う恋仇として妬み嫌っ
て。
桂を眠らせた場で他の者を皆招いたのも。
昨日今日鬼切部と想いを交えてきたのも。
観月の娘が意識を戻し皆が揃うのを待ち。
全てこの不意打ちの為の布石だったのか。
ゆめいは私を恨み憎んでいる。それは私が主様やミカゲを滅ぼしたゆめいを恨み憎むの
と同じ。私は千年前から羽藤の者に牙を剥き、近日も桂を傷つけ哀しませ生命の危険に陥
れ、防ごうとしたゆめいを消滅寸前迄追い詰めた。それは取り返せず、やり直せない私の
過去だ。
ゆめいは桂とは違う。咎人の桂は、己を許されたくて私の咎も許し受容してくれたけど。
幾ら甘く優しくても、否、その愛の深さ故に、ゆめいは愛した物を害した私を絶対許さな
い。
ゆめいは桂の昼寝中鬼切り役に語っていた。
鬼切りの頭の立ち聞きの脇で、私もそれを。
『わたしは、ノゾミを受け入れましたけど。
ノゾミの所行を許した事は、ありません』
『……肉の体を喪っても戻しても、わたしは過去に心を囚われた存在です。抱いた恨み憎
しみを、手放す事は叶いません……』
言われてみればこの数日、ゆめいは桂の願いを受けて。私を受け入れる為に様々な思索
を紡ぎ、鬼切部や観月の娘とも色々話してきたけど。一度も許すとは言ってない。むしろ。
【ノゾミのやった事は、決して許さない!】
ミカゲから桂を守るのに憔悴し、良月を桂に割らせて力尽きかけたあの夜も。ゆめいは、
【でも、桂ちゃんの想いがそれを望むなら】
以降ゆめいは幾度私の生命を心を救っても。
桂の想いを受けて私の受容を皆に願っても。
私の過去の所行を許すとは一言も口にせず。
今日日中知れた真実はやはり私の推察通り。
私が抱く怨恨憎悪はやはりゆめいも抱く物。
覆水が盆に返らぬ様に過去もやり直せない。
槐の封じから解き放たれて、己が桂に添える今。ゆめいに私を伴う必要はない。血を啜
らねば存在できぬ私は桂の害に映って至当だ。
ゆめいの声音は静かに穏やかに柔らかでも。
憎悪怨恨の所在等欠片も感じさせないけど。
優しげな笑みが消えただけで真意は窺えた。
何者をも受容する日常の穏やかさは失われ。
『恨み憎しみの内訳を述べる事はしませんが、わたしが彼女に抱く憎悪の深さは、鬼の故
に身内を喪った烏月さんこそ、ご理解頂ける筈。わたしは未来永劫、ノゾミの所行を許す
事はないでしょう。それは、拾年前に喪ったたいせつな人達への、愛に由来する物ですか
ら』
叶うならこの手で握り潰したい。その想いは心の片隅に常に抱きつつ。桂ちゃんのたい
せつな人で、己自身がたいせつに想ったから。
「やはり私を滅ぼす積りなの? 最大の危機を凌げれば、後は私も用無し? 丁度良いで
しょうね。青珠に憑く私を消し去れば、あなたは傍で桂を独占できる。今なら私も切り捨
てられる。やはりあなたは私を恨み憎んで」
黙したゆめいに斜め上から言い募る私に、
「……あんたを憎み恨んでない奴なんて、今この屋敷に誰が居るのかね?」「……っ!」
観月の娘の噛み殺した低い声が挟まって。
私は言葉を失いゆめい以外の3人を見る。
千年前の主様の件で竹林の姫を喪わせて以降桂に至る迄、私は観月の娘が愛した羽藤の
者を憎み続けた。六拾年前観月の里が鬼切部に滅ぼされたのも私の所為だ。その鬼切りの
頭の喉に牙を立てて血を啜り、相棒の子狐の四肢を落し。鬼切り役の兄を失わせた遠因も。
恨み憎しみを責める事など、誰に出来よう。
背信を責める資格は、少なくとも私にない。
庇ってくれる桂も居ない。ミカゲも居ない。
私は独り、彼女達の憤怒を受ける他になく。
「その言霊が代々若杉を蝕んで、六拾年前炸裂したという訳かい?」「影響がなかったと
は言えないでしょーね。結果はこの通りですから」「千羽は若杉と通婚しており、私も薄
くはありますが、若杉の血を引いています」
私が不意にサクヤさんに敵意を憶えるのも。
鬼切り役が観月の娘に横目を向け呟くのに。
「「それは2人の相性によると思います」」
鬼切りの頭とゆめいは、同時に応えてから。
四対の視線は、再び浮いた侭の私に集まり。
「で、これをあたしらに視せて、どうする気なんだい、柚明は?」意図を問う観月の娘に。
ゆめいは感応と癒しの為に繋げた手を放し、
「明日の夕食の後、桂ちゃんを含めた全員の前で、ノゾミの今後の処遇を話したいと考え
ていました。その前に、桂ちゃんを含めず皆さんに、特にサクヤさんにこの過去は視て欲
しかった。ノゾミの所行を知って貰い、その上で判断を下して欲しく」「「「……」」」
ゆめいの語調はこの時も静かに穏やかで。
「柚明さんは、ノゾミを青珠に付けた侭、桂さんに添わせ続ける事を、彼女の守りを望ん
でいるのではありませんか? 宜しいのですか? ノゾミに不利な情報を私達に伝えて」
意図を訝しんだ鬼切り役の問にゆめいは、
「サクヤさんも烏月さんも葛ちゃんも、わたしのたいせつな人。一番には出来ないけど心
底支え尽くしたく願う愛しい人。皆さんの判断の下地を整えるのは、愛した者の当然です。
わたしが望む答が出る様に、情報を止めたり加工したり偽ったりするのは、桂ちゃんを
たいせつに想ってくれる皆さんの為にはならない。桂ちゃんの為にもならないわ。わたし
は皆さんの、真の想いを支え守りたいの…」
ゆめいはやはり私を愛してくれないのか?
あの暖かさも柔らかさも、全て得られぬ。
絶対に手に入らぬ虚像で、騙しだったの?
言葉を挟む気力を失う私の前で話は進み。
「あたし達が怒りに震えて、ノゾミを絶対許せないと、言い出す怖れも承知なんだね?」
「はい。それがサクヤさんの真の想いなら」
最も怒り狂うのが観月の娘とは推し量れた。協力してきた鬼切部に生れ故郷を襲われ、
同胞を全て喪わされたのだ。鬼切部2人も、呪を掛けられ操られた不快は、あるだろうけ
ど。
「ノゾミさんを滅ぼす決意を私が固めたなら、あなたはそれに手を貸した事になります
が」
桂おねーさんを哀しませる末になっても。
それを晒して私達の真意を訊くのですか?
鬼切りの頭が、ゆめいの覚悟を問うのに。
「ノゾミの処断には、桂ちゃんの了承が必要です。ノゾミは桂ちゃんのたいせつな人…」
この過去が原因でノゾミを許せないとお考えなら、桂ちゃんにそう伝えねばなりません。
心に抱いた強い怒りを、その事情を明かさなければ、桂ちゃんは絶対納得しないでしょう。
「サクヤさんが山神の眷属である観月の民である事も、観月の里を六拾年前の新月の夜に
焼き討ちし虐殺したのが鬼切部である事も」
3人の瞳が同時に見開かれたのが分った。
桂は観月の娘が人ではない事を知らない。
鬼切部が観月を虐殺した過去も知らない。
私の言霊が彼女達の禍になったと桂に報せる事は。鬼切部の過去の暗部を桂に報せる事
であり。観月の娘の真実を桂に報せる事でも。
「いきなり桂の前で話しを振られたら、答に困る処だね。あたしの正体も鬼切部の過去も、
真弓の過去迄関って来る。熟考の時間を与えられた感じかい。夜を越させて怒りを収める
のも、あんたの目論見かも知れないけど…」
一晩で怒りが納まるかどうかは分らないよ。
観月の娘が即座に激発しないのは、他の者の前と言うより、深傷が治りきってないと言
うより、私をたいせつに想う桂への気遣いか。
「桂さんには、サクヤさんもたいせつな人だ。桂さんも過去の千羽の非道に心を痛め、そ
の因となったノゾミに強い怒りを抱き、処断を了承するかも知れない。その時あなたは
…」
鬼切り役が言い淀むのは、それが千羽の彼女と桂の心を、引き離す怖れを噛み締めてか。
「桂おねーさんが了承したら、あなたも処断に賛同ですか? 今のあなたはノゾミさんを
消す事も封じる事も、できるでしょーけど」
むしろ今迄この3人の怒りや不信から私を庇ってきたゆめいに対し。私の処断をゆめい
が了承できるのかと、鬼切りの頭が問うのに。
「桂ちゃんは……処断に応じるかも知れない。
サクヤさんは桂ちゃんのたいせつな人。その生きる望みや生命を絶ち掛けた禍の背後に、
ノゾミの所行があったと知れば、深く強く怒り哀しみ、ノゾミの処断を、了承するかも」
桂の判断が私の生命を繋ぐ。生命だけではない。桂にたいせつに想われなくなったなら、
私の心が絶たれたも同然だ。生きる意味など。
「仮に桂ちゃんがノゾミの処断を了承し、又は進んでノゾミを処断しようと言った時は」
ゆめいは最早私の反応など確かめもせず。
3人に向けて三つ指突いて額づいてから。
「諸々の過去も罪も全て承知でお願いします。
ノゾミを、私の傍に置く事をお許し下さい。
ノゾミは今や桂ちゃんにとってのみならず。
わたしにとって特別にたいせつな人です」
ゆめいは3人に、私の助命を願っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
どういう事? 私を恨み憎んでいる筈の。
ゆめいの想いや考えが私には理解できず。
それは観月の娘や鬼切部2人も同じ様で。
暫くはゆめいの言葉が、流れ出るに任せ。
「最早桂ちゃんのたいせつな人だから、だけじゃない。わたしも生命と想いを重ね合わせ、
彼女に生命を救われました。ノゾミの孤独を、優しさ・強さ・脆さを肌身に感じ取りまし
た。
今後ノゾミは人に害を為しません。私がさせません。桂ちゃんを脅かす事も。鬼切部が
切るべき悪鬼の要件は満たさせない。ノゾミは聡い子です。人の世にも必ず適応できます。
桂ちゃんがノゾミと絆を断ったなら、わたしのたいせつな人として、ノゾミを守り支え
たい。これがわたしの真の願いで真の望み」
ゆめいは、私を滅ぼしたい訳ではないの?
鬼の私を、桂と遠ざけたい訳ではないの?
ゆめいは両手を額を、畳に擦りつけた侭。
「ノゾミの受容が皆さんの心を踏み躙る事は、分っています。たいせつな皆さんに害を為
したノゾミへの憤怒や恨みは、承知でノゾミと絆を繋ぐわたしも被ります。今後ノゾミが
負うべき罪も罰も償いも、わたしが負います」
生命を差し出す事だけは、一番たいせつな人を別に抱くわたしに叶いませんけど。それ
故にわたしは終生、ノゾミとその罪を償える。
「なんでです……どーしてあなたは、そーやって他人の苦難迄、望んで背負いたがるので
す? そこ迄尽くしてあなたに何が返されるのです? あなたを傷つけ哀しませた鬼を」
相手は桂おねーさんではない。桂おねーさんをたいせつに想い、たいせつに想われた者
でも。数日前迄桂おねーさんの生命を脅かし、傷つけ涙させてきた張本人を。桂おねーさ
んに絆絶たれたその後迄、守り庇う必要なんて。
「……わたしが言う事でも、ありませんね。
あなたは全て承知でそう応えたのですし」
次に鬼切り役がゆめいに正視を向け直し。
「千羽や若杉の怒りも、観月の恨み憎しみも、情愛の深いあなたこそよく分る筈だ。その
償いや罰や報復が、どれ程の物になるか分って、あなたはそう応えているのですね」「は
い」
最早誰も私の反応等気にしてない。私がこの時点で虚を突いて暴れ出す等考えてもなく。
桂を人質にとって抗い戦う等、考えてもなく。
鬼切り役は両目を閉じ、瞑想とも沈思とも分らない姿勢に入る。それを前に観月の娘が、
「それは、あたしや桂を敵に回しかねない答だよ。あたしがノゾミを絶対認めないと応え
れば、あたしとあんたの進む道が分れるんだ。桂がノゾミの処断を望んであんたが拒んだ
ら、桂とあんたの進む途が別れる。良いのかい?
ノゾミが桂を脅かさなくても、あんたが桂から絆を絶たれるかも知れない。そこ迄尽く
して守り庇う値はあるのかい? ノゾミに」
「……ノゾミは……わたしの、妹です…!」
観月の娘が息を呑む。否、鬼切部2人も。
ゆめいは今迄3人に下げていた面を上げ。
「わたしが生命を注ぎ込み、桂ちゃんの血と心が通ったたいせつな人。桂ちゃんの生命を
助け、わたしの生命も助けてくれた愛しい人。切り離せない。わたしと桂ちゃんの血や想
いを混ぜ合わせたノゾミは今や、羽藤望です」
わたしが一度たいせつに想った人は、いつ迄もたいせつな人。どの様に変り果てても愛
しい人。一度抱いた想いは果てる事も尽きる事もない。夏が終っても、秋を冬を迎えても。
「桂ちゃんは、ノゾミと深く心通わせました。サクヤさんの悲嘆を知って哀しみ涙し、ノ
ゾミとの絆を断っても。今度はその事に長く悔いを抱く。再度ノゾミとの絆を望むかも知
れない。もうノゾミはそれ程に桂ちゃんのたいせつな人になっています。そうさせたのは
桂ちゃんでありノゾミであり、わたしです…」
ノゾミが桂ちゃんに絆されたのが、始りだけど。そのノゾミをたいせつに想い庇い、絆
を繋ぎ続けたのは桂ちゃんです。拾年前を思い出して尚、その絆は切れなかった。そして
桂ちゃんの願いを受けて、わたしもノゾミに生命を注ぎ、肌身も想いも重ね合わせました。
桂も4日前の夜にこの部屋で、皆を前に。
【ノゾミちゃんには、生きて欲しいから!】
ずっと幸せも自由も得られずに、病と閉じこめられるだけの人生で、鬼に成っても千年
近く封印されて、たいせつな人に会えないで、その上今夜はそのたいせつな人に捨てられ
て。
わたし分っちゃったから。ノゾミちゃんの辛さや哀しみを分ったから。捨てておけない。
その一部はわたしの所為、わたしがノゾミちゃんを主から引き剥がした所為でもあるから。
【ノゾミちゃんと分りあえた事、後悔してないよ。でもその所為で、ノゾミちゃんがミカ
ゲちゃんに絆を切られ、今のこの状況になった。ノゾミちゃんがわたしを選んだから。わ
たしを選ばせたから。わたしが誘ったから】
妹だと千年信じていたミカゲちゃんの真実。
慕っていた主に要らないと宣告された悲哀。
捧げ尽くす対象をなくし生きる目的を失い。
【わたしがそうさせちゃったから。一途で純真で強かったノゾミちゃんを、曲げさせたの
はわたしだったから。だからわたし責任を】
責任を取らないと、わたしがノゾミちゃんの人生を奪った事になっちゃう。大好きだっ
たのに、たいせつな人だったのに、その人を哀しませて滅ぼす事になっちゃう。嫌だよっ。
【わたし、ノゾミちゃんが好きだからっ!】
桂もゆめいも私の心を求めてくれた。不利を背負っても、心に逆らっても、結んだ絆を
切り捨てず、変らずたいせつに想ってくれた。
「ノゾミはわたしのたいせつな人。一番にも二番にも出来ないけど、だからこそその範囲
で叶う限りの想いを注ぎたい。ノゾミを生かす事については、わたしが責任を持ちます」
妹の犯した罪は姉が償う。家族が犯した罪は羽藤として償う。償いきれぬなら一層共に
償う者が必要です。罰も報復も分ち合いたい。たいせつな人が犯した罪で過ちならわたし
に償わせて欲しい。これはわたしの望みで願い。
「わたしは桂ちゃんの捨てた想いも抱き締めたい。いつか桂ちゃんが拾いたいと想った時
に差し出せる様に。遂に拾われる事なく終えるにしても、一度でも桂ちゃんに大事に想わ
れた者・心繋いだ者を粗略に扱えない。桂ちゃんをたいせつに想う者は、捨ておけない」
【一度たいせつに想った物は、いつ迄も…】
「覆水を盆に戻す為に、溜めて置くですか」
鬼切りの頭の問にゆめいは小さく頷いて、
「たいせつな人に尽くすと言う事は、常に傍に寄り添い、その指示に従う事とは違います。
時に耳に痛い諫言を為し、望まぬ所作も促し、守る為にその人を突き飛ばし刃を受ける事
も。涙流して拒まれても服せない事もあります」
心は変る。恋は冷める。想いは褪せる。
それは責めるべき事とは想わないけど。
でも例え一時でも真剣に心繋いだなら。
「わたしはその想いもたいせつにしたい」
ゆめいは私を恨み憎んでいる。その上で尚。
ゆめいは私を、心からたいせつに愛し守り。
「切れても切れ端を握っておけば、再び絆の糸を繋ぐ事も叶う。一度は切れた烏月さんと
の絆を、桂ちゃんが再度繋げられた様に…」
ゆめいは私と桂の絆を繋ぐ事を望み願って。
鬼切り役が継ぐべき言葉を失う様が見えた。
「わたしは、桂ちゃんとノゾミに繋いだ絆を両方解かない。交わした想いは手放さない」
わたしにはサクヤさんも烏月さんも葛ちゃんもノゾミも、いつ迄もたいせつな人。己を
捧げて守り支えたい愛しい人。桂ちゃんをたいせつに想い、たいせつに想われた人だけど。
それ以上にわたしがたいせつに想い続けたい。
「夏が終っても、秋が冬が訪れても悠久に」
いつの間にか敵意も憎悪も鎮まっていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
理屈ではなかった。ゆめいは理屈を越えていた。その強い想いがこの結論を導いたのか。
「あなたの甘さ優しさに果てがないのは分っていた積りだが……桂さんもノゾミと絆を絶
つ事はないでしょう。あなたが羽藤である様に桂さんも羽藤だ。幾ら哀しみ怒り憎しみ恨
みを抱いても、愛を抱く限り絆を保つ人だ」
鬼切り役は涼やかな眼差しを私にも向け。
「これは主に観月の問題です。千羽はこの事案を以てノゾミの受容か拒絶かを判断はしま
せん。但しそれはノゾミを許し受け容れる事とは違う。明日桂さんの前で話す際に、この
話題を蒸し返す事はしない。それだけです」
「若杉はそれ程簡単な者ではありませんよ」
わたしの先祖はその詛いを承知で身に纏い、鬼を討つ力に転用していたのでしょー。観
月の民と敵対した時に使う為に温存したのかも。観月の里の襲撃はおじーさまの事情と意
思によります。言霊だけに左右される程生易しい人ではないです。影響はあったでしょー
けど。
「決定的な要素でもありません。若杉はこの件でノゾミさんを許せないとは、考えません。
わたしにはむしろ、葛の一番たいせつな桂おねーさんを傷つけ哀しませた事や、尾花の件
の方が遙かに大きいですよ。明日の話しでも、簡単に受け容れるとは思わないで下さい
ね」
鬼切りの頭が素っ気ない声音で答を返し。
「柚明あんた、こうなる末を知っていたね。
あたしが桂に観月の正体を伝える事を好まないと分って。だからこの事を理由にあたし
がノゾミを断固拒む事は、出来ないと分って。了承し難いノゾミの過去を、ここで明かし
て実質呑み込ませてしまおうと……桂の為に」
苦虫を噛み潰した様な表情で観月の娘は、
「これ以上、桂やあんたを余計に哀しませる事は、あたしに出来る訳がないじゃないか」
過去を理由に、ノゾミを拒む事はしないよ。
それで良いだろ。とその美貌を顰めて答え。
私は己の所行をゆめいによって皆に晒され。
自身の今後をゆめいに庇われた形になった。
私はこの流れをどう捉えて良いか分らなく。
3人が寝室に引き上げた後で、問い糺した。
「あなた、一体何を考えて私の過去をっ…」
私を桂の傍に置き続けたく望むなら。受容する積りなら。鬼切部や観月の娘に余計な話
しを伝え私の立場を危うくするべきではない。
私を恨み憎んで排除したく望むなら。拒絶する積りなら。鬼切部や観月の娘に余計な話
しを伝え私を守り残そうとするべきではない。
「報せなければ知らずに通っていた話しを」
どっちにしても中途半端。唯あの3人に私の真実を伝えて怒らせ、事をこじらせただけ。
或いはゆめいは私に、恩を感じさせようと?
意図が分らず、浮いた現身で答を迫る私に、
「これが最善だと思ったの。あなたにもわたしにも、桂ちゃんにも他のみんなにも……」
この様に直接報される以外の方法で、サクヤさんや烏月さんや葛ちゃんに真相を知られ
るよりは、遙かにましな結末だと、思うから。
私の顔が蒼く変じて声が固まるのが分った。
それこそがつい先程迄抱いて拭えなかった。
私の最大の怖れで懸念で、悪夢だったのだ。
桂は私をたいせつに想ってくれている。でも桂のたいせつな人は私1人ではない。桂の
傍にはゆめいも鬼切り役も鬼切りの頭もいる。特に観月の娘は、私が遠い昔に掛けた言霊
で一族同胞を全て喪い、天涯孤独になっていた。
桂が拾年前の夜を思い出して尚、私との絆を望んでくれた一昨昨日の夕刻以降、私の怖
れはこの一点に絞られていた。他の者は桂程甘く優しくはない。唯では済まない筈だった。
「でも明かさなければ、秘密にし続ければ良かったじゃない。真相を知っているのは、あ
なたが明かす迄私とあなただけだった。口を閉ざしておけば、問題は生じなかったのに」
言い募る私に、ゆめいはかぶりを振って、
「わたしもサクヤさんもあなたも口を閉ざしていたけど、桂ちゃんの記憶は戻ったわ…」
それも悪意な者の手で。秘密にしたい真相は多く、悪意な者に晒される。結果不信と疑
念で絆が解れる。この様な過去は信を掴めた段階で、知って貰うべき。烏月さんも葛ちゃ
んも、不快でも致命傷にならなかった。先に話したから。誰かに先に事実を晒されたら?
「桂ちゃんは繋りを知らないけど、その心にあなたの過去は漏れ出ている。今後誰がどの
様な手段で、あなたも含むわたし達の絆を断つ為に、この事を探り当て晒してくるか…」
桂ちゃんには、サクヤさんが観月の民と知られる事を望んでないから、明かせないけど。
確かに、確かにそうではあるけど。でも。
「こんな甘い結末を、最初から期待して博打を打った訳ではないでしょうね? 鬼切り役
も鬼切りの頭も、悪鬼の過去を持つ私に心は許してない。観月の娘はあなた以上に千年を
経た仇敵の間柄。桂に縋る様な訳に行かない。
勝算も見えずに突撃する様な愚かな女には、危うくて桂の守りは任せられないわよ
…!」
尚食い下がる私に、ゆめいは答を続けて。
「勝算はあったわ。人の優しさに付け込む事になったけど。サクヤさんは桂ちゃんの心痛
を招く行いは好まない。巌の寿命を持つ観月の民と知られる事も。桂ちゃんはあなたと深
く繋った。絆は容易に切れないわ。仮に…」
あなたが拒まれたその末には、わたしがあなたを引き受ける。サクヤさんや桂ちゃんに
絆を断たれても、わたしがあなたを独りにしない。わたしがあなたの終り迄寄り添うから。
ゆめいは一昨昨日の夕刻も似た様な事を。
【最後に桂ちゃんがあなたの消滅を望むなら、わたしの想いで包んで消してあげるから
…】
【あなたをわたしの中に受け容れて、一緒になってあげる。わたしの桂ちゃんを愛する気
持に混ぜ合わせてあげる。愛される保証はないけど、愛するだけなら悠久に出来る。最期
迄、あなたの行く末にはわたしが責任を持つ。哀しみにも悔恨にも絶望にも付き合うか
ら】
ゆめいの愛は優しさや甘さだけではない。
その愛は己にも相手にも時に峻烈な程で。
故に拾年前の悲劇の因たる私に抱く憎悪は甚大だけど。近日桂やゆめいと交わした想い
も愛も又膨大で。片方だけでも収めきれず胸がはち切れそうな想いを、双方絶対手放さず。
ゆめいは桂の昼寝中鬼切り役に語っていた。
鬼切りの頭の立ち聞きの脇で、私もそれを。
【鬼切部が鬼を容易に信用せず、共に生きる事に懐疑的な背景は分ります。だからこそ鬼
切部の懸念を拭い、その了承の上で、桂ちゃんとノゾミが幸せを掴める途を、探したいの。
後日正式にお願いする積りですが、烏月さん、知恵と力をお貸し下さい。お願いです】
ゆめいは私と桂の為に、頭を下げていた。
己が添えば私等残す必要は薄いと知って。
【たいせつな人が誰かの真剣な想いを受けて答を返す事を、望み願い応援するのは当然よ。
それがどこの誰への答でも、どの様な答でも。わたしの望みを断ち切る答でも。たいせつ
な人に誰かが抱く本当の想いがあるなら、届く様に導き助けるのは、たいせつな人の為
…】
私はゆめいの隠した膨大な怨恨憎悪に目が眩んで、それを尚上回る愛や守りを見落して。
ゆめいが私を恨み憎んでいるのは事実だけど、それ以上にゆめいは私を愛し守り庇ってき
た。
【その上で、わたしのたいせつな烏月さんや、葛ちゃんやノゾミやサクヤさんが、桂ちゃ
んに抱く真の想いを届かせられる様に導きたい。導く助けになれれば、それはわたしの幸
せ】
一番にも二番にも、想う事は叶わないけど。
身を尽くして守り支えたい、たいせつな人。
【心に騒ぐ嫉妬や羨みは、わたしが桂ちゃんを愛すればこそ。この想いが強ければ強い程、
波風高く荒れるのも当然のお話し。桂ちゃんと誰かが心を繋いでいる証で、桂ちゃんが誰
かと幸せを紡いでいる証で、わたしの幸せ】
「その上であなたの行く末にはわたしが責任を持つわ。桂ちゃん以外のあなたの全てを奪
い去ったわたしが、叶う限りあなたに償う」
黒い双眸は、私への愛以上に哀傷を湛えて。
たいせつな物を喪った私の悲哀への共感を。
「桂ちゃんの為とは言え、あなたとわたしの一番たいせつな人の為とは言え。あなたの千
年の妹を滅ぼして、千年の希望も断ち切った。わたしは、あなたの妹や仕えた主君の仇
よ」
因果の報いはいつか、わたしにも巡るわ。
「それが今夜なのか、拾年後なのか、千年後なのかは分らないけど。待てないなら、間近
にあなたがその手で報いを、くれて良い…」
視線を落し私は、ゆめいの2つの膨らみに衣の上から掴む。ミカゲが近日貫いた両の胸、
私が近日吸い付いた左乳房、一昨日は背後から両手で弄り苛んだ。桂のよりは大きく鬼切
り役のよりは小さいそれを、弾力が分る程に。
ゆめいは逃げず躱さず、掴んだ私の掌の上に己の掌を重ね。それは振り解く為ではなく、
私に承諾を示す為の。ミカゲがやった様に憎悪の朱で両胸を貫く事さえ、受け止めるとの。
「わたしは今後も桂ちゃんを守り続けたいから、滅ぶ事だけは出来ないけど。哀しみも怒
りも、憎しみも恨みも、この身で受け止める。打ち据えても刺し貫いても良い。消滅は出
来ないけど、その代り好きなだけあなたの想いを頂戴。わたしは、受け止められるから
…」
ぎりっと、柔らかな胸を握る両掌に力を込める。爪を立て蒼い衣の下の肉に痛みを与え。
ゆめいは動かない。密着して掴んだこの体勢が容易に振り解けぬ以上に。ゆめいは私をた
いせつに想うから、私の憤怒も憎悪も害意も殺意も受けると。受け止めて私を守り愛すと。
この侭衣を引き裂いてその現身を貫きたい。
ゆめいの青に相反する朱を胸に霊体に注ぎ。
ミカゲの様に胸を貫き、主さまの様に辱め。
悶え苦しむ様を導き怨恨憎悪を晴らしたい。
ゆめいに抱く暗い衝動も又真の想いだから。
我知らず力がこもって。生唾を呑み込んだ。
「今あなたのたいせつな物が桂ちゃんだけになったのは、わたしが主を封じその分霊を倒
し、あなたの千年の妹の息の根を止めたから。桂ちゃん以外あなたの全てはわたしが奪っ
た。
因果応報。その責任は、取らないと……」
言葉に出来ない甘さだった。でもその甘さが心底愛おしく。間近に添うと甘い花の匂い
が届く。惜しいけど、その両胸から手を外し。
「馬鹿な事言わないでよっ。今更桂を一番たいせつに想う私が、桂のたいせつな人である
あなたを、傷つけられる訳がないでしょう」
ミカゲは敵だったの。主さまの分霊も。桂の生命を脅かし、あなたや私を滅ぼそうとし、
この心を何度も何度もかき乱した敵だったの。敵を討ったあなたを恨む道理が何処にある
と。
素直になれず言い募る私の唇に、ゆめいは右人差し指を当てて心を鎮め。この展開は一
昨昨日夕刻、ミカゲの最期を看取った後に…。
「敵であっても、よ」
絶対に和解できない敵であっても。天地終る迄身を削り合う関係であっても。一番の人
を守る為に、共に天を戴かざる者であっても。最期の最期迄滅ぼし合う他に、術がなくて
も。
「たいせつな人は、たいせつな人。違う?」
一番に出来なくても、その人をたいせつに想う事は出来る。決して譲れなくても、何一
つ力になる事も出来ず苛み合う関係でしかなくても、たいせつに想う事は出来る。想う他
に何もできない哀しい繋りかも知れないけど。
「一番たいせつな人を守る為に、それ以外は切り捨てなければならない時もあるわ……」
ゆめいの哀しみは、時に私の心を満たす。
楽しみや愛のみならず、哀しみの共有も。
後悔や喪失感の共有も、絆を強めるのか。
「覚悟は出来ても、それは辛く哀しい物よ。その痛みも哀しみもあなたの本当の心だから。
踏み越えた後で悔いや寂しさに肩を震わせるのも、確かにあなたの想いだから……過去は
直せないけど、最早変えられないけど……」
だから今更やり直せぬ過去には、その侭向き合いましょう。あなたは千年主を慕い続け、
ミカゲを妹と信じて、たいせつに想ってきた。そう想ってきた自分自身に向き合って。た
いせつな人の死を悼み哀しむ事は過ちじゃない。その死を招いた者に抱く怨恨憎悪も正解
なの。
どんな理由があっても、どんな事情があっても、大切なひとを奪った者に憎悪や恨みが
生じない筈がない。わたしがそれを分るから。わたしがこの身で痛い程に、分っているか
ら。
「だからその哀しみも受け止められる。その涙も嗚咽も、叩き付けたい程の恨みをも…」
ゆめいは己の愛に由来する怨恨憎悪を消し得ぬ様に、私が同じ怨恨憎悪を抱く事を分り。
その全てを承知で私を愛し守ると確かに語り。
「ノゾミはわたしのたいせつな人。わたしの一番たいせつな桂ちゃんを強く愛し、深く想
われた愛しい子。桂ちゃんの血とわたしの癒しから生命と心を得て生れ変った可愛い妹」
「ゆめい、千年生きた私を、子供扱い…?」
千数百も年下の娘に、妹扱いされるなんて。
抗議の問を発したけど、驚く程声音が弱い。
甘え縋った様な声に、己が恥ずかしくなる。
ゆめいはそんな私を、胸の内に抱き寄せて。
「水が器に従う様に、人の生き方もモノのあり方も、形に縛られ易いものなのよ。こうし
て人の形になった以上、わたしもあなたも人の理に縛られたりするわ。外見上の年齢に」
肌身合わされると柔らかに心地良いので。
今暫くは強く抗議せずに流されておこう。
私が望んで肌身を許すのは桂のみだけど。
される物を断る程私も狭量ではないから。
私は、果たして自由になれたのだろうか?
私は、真の望みを叶えられたのだろうか?
ミカゲといる錯覚を伴う自問自答だけど。
『私はもう、とっくに決を下し終えていた』
ミカゲが私の影でもあるなら、私は終生己の内なるミカゲと問答を続けて行くのだろう。
それは一昨昨日の夕刻、ミカゲに向けて、
【私は桂を選んだの! 主さまではなく、ミカゲではなく、千年共に過した時間を捨てて、
桂と生きる途を選んだの! 例えそれで桂に許されない末路を迎えても、私が壊した羽藤
の家の憎しみを受けても、滅ぼされても、それで本望なの。それが本当のノゾミなの!】
主さまとの時間は、断ちがたかった。
ミカゲとの関係は、切りがたかった。
【私のたいせつな人だったから。楽しい日々だったから。手放しがたい繋りだったから】
でも今は桂が一番なの。私は桂の血を飲んで桂の事を分ってしまった。繋ってしまった。
【桂が私の事を分った様に、私も桂に母や父や、兄やあなたとの日々があったという事を。
楽しく伸びやかな時があったという事を。それを壊したのが、私だったという事を。啜り
取った血の一滴一滴で、分ってしまったの】
主さまの為にと、主さまの為にと、何人もの人を害してきた。……こうなって私はおの
のいた。己の所行におののいた。私は多くの人のたいせつな物を奪い貪ってきた鬼だった。
こう感じてしまうのは、桂の心の所為かしら。今更だけど後悔は尽きないわ。尽きないけ
ど。
【でも、そう感じる私を今はとっても好きよ。桂に好かれ、桂を好いて、桂と共に生きる
私を私は選び取った。間違いなく選び取った】
私は今や桂の生命があれば良い訳ではない。
体や血があれば満たされる訳でもなかった。
桂が桂らしく日々生き生きと幸せに過ごし。
視線を声を返してくれる。その日々こそが。
ミカゲの下で桂を飼っても、ゆめいや観月の娘を喪った桂に希望は残らない。私の望み
は生ける骸の桂ではない。私の好いた桂でいて貰うには、人の世で生きる事が必須なのだ。
私の主さまとの日々は終り。
私はもう主さまとは生きられない。
そしてミカゲ、あなたとも共に行けない。
【私の一番たいせつな人は、桂なのだから】
例えどれだけ悔いを刻んでも、例えこの後で桂に憎まれて因果の報いを受けても、私は
主さまではなく、桂を一番たいせつに想うっ。
【桂を助けたい。桂を守りたい。愛したい】
【だから一緒に戦って、お願い、ゆめい!】
主さまに抱くたいせつな想いは今も変らず。
それはミカゲにも、分霊の主さまにも同じ。
それを喪わせたゆめいを深く恨み憎みつつ。
一緒に桂を一番に愛し、ゆめいも深く想い。
【例え数拾年しか、一緒にいられなくても】
【千年の想いを凌ぐ強い絆がここにあるの】
【この想いを心に抱けるなら、この先もう千年生き続けても退屈しない。充分に幸せよ】
憎悪も恨みも取り去れぬ。喪った生命を取り返せぬ様に。過去をやり直せぬ様に。愛に
由来する憤怒は、捨てる事も忘れる事も叶わない。己の最期の瞬間迄、心に伴うべき物だ。
その膨大な怒りは心に確かに抱きつつ、ゆめいと私はお互いを、肌身を合わせて愛おしみ。
この感触は、遠い昔。主さまに出会う前の、父様や世話役に暗い部屋に閉じこめられる
前。私を抱き上げて、撫でて、さすって下さった。柔らかな肌触り、愛しい肉感、穏やか
な気配。夢に見る事さえ忘れていた。わたしが口にも出してない、願う事さえ忘れ果てた
遠い望み。
『……母さま……?』
心が溢れるとは、こういう事を指すのか。
胸が喉が息苦しくなる程の歓喜は初めて。
「羽様で過ごす日が終っても、夏が終っても。
桂ちゃんが終りを迎えてもわたしが添うわ。
わたしはあなたの悠久にも付き合える…」
ゆめい、あなたまさか……? 最後迄発しきれず、敢て止めた私の問に、ゆめいは頷き。
答は言葉ではなく仕草で、抱擁で返されて。
感応で、言葉の意味の概要は報されたけど。
それで充分だった。私は数拾年先の懸念よりも、今はこの情愛に身を委ねる方を優先し。
桂が天寿を終えた後も、未だ当分は私は。
心通わす相手を喪う心配は、不要らしい。
夏が終っても。私の想いは悠久に終らない。