夏が終っても〔丙〕(前)
私は、果たして自由になれたのだろうか?
私は、真の望みを叶えられたのだろうか?
『桂! わたしは自由になりたいのよっ!』
良月を桂に割らせた時、私はこの世の全てのしがらみから解き放たれたと思った。でも、
そんな私を桂の必死の願いが現世に繋ぎ止め。否、それは、私の望みだったのかも知れな
い。
『どうして私みたいな鬼の為に泣いたりできるの? 出会ったばかりで、あなたを傷つけ
た鬼でしかない私の為に……もう、充分よ』
本当に、愚かな程に甘く優しい、私の憎むべき羽藤の裔。主様を封じたハシラの血筋で、
拾年前漸く還したハシラの後を継ぎ、封じの綻びを再び塞いだ、恨み骨髄な継ぎ手の血縁。
その桂がなぜ、私の消失に涙を流すのか?
でも桂は私の問に答える心の余裕もなく。
『鏡がなくなったんだから、今度こそわたしの血を飲んで元気になったりしないかな?』
何て甘い。甘すぎる。でも好ましかった。
私の心はもうこのハシラの裔に囚われて。
『そうね……だけど、霊体だけでは長くもたない事を知っていて?』
【良月という器に移る事で、藤原望という器の破損から、彼女を彼女たらしめる力の形を
守った様に。適当な器さえあれば、ノゾミちゃんは、ノゾミちゃんの侭でいられる……】
桂の想いは悟れたけど。感じ取れたけど。
『良いのよ、桂。何にだって依り憑ける訳ではないの。……あの良月は幼い頃からずっと
呪いの文言を吐き続けてきた物だし、あの鏡自体が元々呪物であった物だし。それに代る
都合の良い物なんて、そうそう落ちていたりする物ではないでしょう?』
自身の消失に間に合うとは、到底想えず。
『それじゃあ桂』『ノゾミちゃん、これっ』
桂に差し出された青珠を目の前に見ても。
疲弊しすぎた己を繋ぎ直す余力などなく。
意識が薄れ混濁して行く中で囁きが耳に。
最早二度と聞える筈のない懐かしい声が。
『これは何と好都合な……』『ミカゲ…?』
確かめる余裕もなく意識を戻した時には。
私は羽藤代々のお守りである青珠に宿り。
大好きな主様を、封じて削る憎き羽藤の。
裔である桂を守る存在に生れ変っていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
私のここ数日の変転は、とても言葉に言い尽くせない。上古から主様を好いて慕い、そ
の解放の為にミカゲと共に動き続け、鬼切部に敗れ封じられ千年を経て。拾年前に一度解
き放たれ、封じの要は還せたけど再び切られ、現身を為す力を蓄える迄更に拾年。その末
にこの数日で私は、主様もミカゲも捨てて桂を選び。依代も千年宿った良月から青珠に移
し。
仇敵だったハシラの継ぎ手の癒しを受けて。
観月の娘や鬼切り役の前で桂に抱きつかれ。
桂は私を、死なせも封じもしたくはないと、
散々害を為し傷つけ弄んだ私を、守り庇い。
『……死ぬなんて言わないで。絶対分って貰えるから。今のノゾミちゃんを、烏月さんも
葛ちゃんもサクヤさんも、分ってくれるから。そうでなかったら。ユメイさんが生命を分
けてくれる筈ないから。だから諦めないで!』
たいせつな人は失いたくない。もう1人も。
『お願い! 烏月さん、葛ちゃん、サクヤさん、ユメイさん。ノゾミちゃんを、許して』
継ぎ手が私を切る事も封印もさせず、桂の傍に居る事を受容したのは、驚きだったけど。
むしろ驚天動地はその直前に。良月からの力の供給をミカゲに止められ、衰弱し疲弊の極
みにあった私を。辛うじて青珠に自身を憑かせても、朝迄も保てず消失し掛っていた私を。
幾ら桂の頼みでも、継ぎ手が観月の娘や鬼切り役から守り庇い、生命を注いで助けた事に。
【……あなた、山の森で、桂と……けい?】
【今、こちらに向っているわ。安心なさい。
あなたが守ってくれたお陰よ。有り難う】
【……私は何も、あなたの為に桂を助けた訳ではなくてよ。……あなたは私にとって八つ
裂きにしても憎い仇で、あなたから見てもそうの筈っ。何を真顔で穏やかに礼なんて……。
私を捉えて、どうする気なの。嬲る積り?
やるのなら、さっさとやりなさいなっ!】
【……では、遠慮なくやらせて頂くわ……】
彼女は私に躊躇いもなく生命を注ぎ込み。
柔らかに暖かな心地よさについ心が弛む。
【継ぎ手、あなた、一体、何を考えて……?
私を、滅ぼさない……それは、情け…?】
【あなたへの情けじゃない。これはわたしの真の望み。わたしの目的はあなたではない】
『わたしの一番は常に、たいせつな人の守りと幸せ。敵を倒す事ではない。恨みを晴らす
事ではない。この身に滾る憎しみを返す為にわたしは今、現身で顕れている訳じゃない』
【私を助ける理由の方は、あるのかしら?】
【それが、たいせつな人の真の望みだから】
あなたの為じゃない。あなたへの想いではない。桂ちゃんの哀しむ顔を見たくないだけ。
【わたしの哀しみや憎しみは問題じゃない。
わたしは唯、桂ちゃんを想う心の侭に…】
継ぎ手は私への敵意を捨てた訳ではない。
私が継ぎ手に抱く憤懣を捨てられぬ様に。
桂のたいせつな人だとは知っていたけど。
己の生命の恩人だとは、分っていたけど。
私のたいせつな人は桂だ。彼女ではない。
心通わす必要も恩に思う必要も特にない。
彼女は所詮槐の樹を離れられぬし、離れて存在できぬのだ。力量は彼女の方が上だけど、
桂をたいせつに想い桂にたいせつに想われた私に、彼女は最早手出し出来ない。出来るな
ら、消え掛っていた私を救わず放置した筈だ。
勝敗は決していた。もう私は桂の生命を欲しないから、戦いは桂の心の奪い合いだけど。
己の手足を縛った継ぎ手が私に勝つ術はない。桂の哀しみを厭ってその記憶を取り戻させ
ず、私を桂の傍に置く事を、観月の娘や鬼切り役や鬼切りの頭に伏して願うお人好しに。
勝者から見下ろすと、その一途に過ぎる尽くし方が哀れにも想えたけど、全ては彼女の選
択だ。私が全てを捨てて桂を求めた様に継ぎ手も又。
私が桂を守ればいい。私が桂を好いたのだ。
その上桂も私を好いてくれた。問題はない。
私は今後も青珠に取り憑き、桂に付き添う。
観月の娘も鬼切り役も、桂にたいせつに想われた私は討てぬ。私は今後も桂の傍にいる
事を許され、長く共に過ごせると想っていた。桂が拾年前の記憶を、取り戻してしまう迄
は。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
青珠毎ゆめいの掌に握られて、私が羽様の屋敷に着いたのは、陽も昇り終えた頃だった。
屋敷の三和土で桂とゆめいを迎えたのは、
「葛ちゃん! もう起きても大丈夫なの?」
「体調は良さそうね。よく眠れたかしら…」
前日夕刻にミカゲの傀儡の術を受け、操られ疲弊し倒れ、眠り込んでいた鬼切りの頭で。
「桂おねーさん、ユメイおねーさん。無事で良かったです。本当に、無事で良かった…」
本当に互いを案じて想い合っていると分る。
羨みたくなる程熱い3人の抱擁は暫く続き。
その内子狐が目を醒まして姿を現し。子狐は一昨日私が切り落したその四肢を、ゆめい
の癒しで復し終えた直後の昨日夕刻。ミカゲから桂を戦い守る為、失血や疲弊の残る中で
無理をして。鬼切りの頭共々寝込んでいた…。
ゆめいは桂と鬼切りの頭の為に朝餉を作る。
桂がゆめいに添うのは傍に居たい故だけど。
鬼切りの頭が添うのは桂の傍にいたい故で。
更に言えば他人の調理を信用してない故で。
食事に毒を仕込まれてないか否か、ゆめいの仕草を己の目で確かめなくば信じられぬと。
ゆめいはそれを知って知らぬふりで、桂の心を騒がせぬ為か、そぶりにも見せず受容して。
「あの鬼の少年は、どーなったのですか?」
鬼切りの頭が口に上らせた時だけ、ゆめいは暖かな笑みを尚崩さず、でもやや哀しげに、
「……心配頂いて有り難う。彼は今、ご神木にいます。暫くご飯の心配は要りません…」
ゆめいが朝餉を用意する間も、食事の間も、桂は鬼切りの頭に昨日夕刻以降の経緯を身
振り手振り、時に私やゆめいの仕草や声音も真似て語り。今の処、桂の容態は良い様だけ
ど。
その元気も一時的な物だ。桂自身も分っている。その失血は致死量を遙かに超えている。
本来死すべき身を保たせているのは、ゆめいが千羽の業を盗用して、桂に生気の前借りを
させた故で。意識のない桂にそれをさせる為、ゆめいは私の傀儡の技も盗用して桂の心身
を操っていた。それも桂に疲労を残す。幾重に無理を重ねた以上反動や代償は不可避だっ
た。
だから私が(ゆめいが)今桂に望むのは、
「ご飯を食べてしっかり休んで」「はぁい」
食事と睡眠。健全な方法で身を保てる処迄、早く戻したい。まだ私に桂の癒しは叶わな
い。ゆめいの癒しでも本来は届かない状態にある。私は、桂の守りも助けも為せない存在
だった。
観月の娘も鬼切り役も起きられず、私は昼の間は顕れられないので、朝餉は桂達3人で。
「「「いただきます」」」3人同時に唱和し。
未だ涼やかな空気の中で各々に箸を動かし。
人の食事風景に興味などない。興味は桂に。
私は鬼なのだ。人の生活など今更望んでも。
でも愉しそうに弾む言葉がなぜか気に掛り。
美味しいとか嬉しいとかの声に心を牽かれ。
「……そこでね、お姉ちゃんが主の分霊に左手をこう、すっと伸ばして『それだけはさせ
ません』って。凛々しく力強かったんだよ」
その強さに守られた桂は心から嬉しそうだけど。強さを誇る性分ではないゆめいはやや
恥ずかしそうで。鬼切りの頭は桂に見とれて。
「ノゾミちゃんも、疲れ果てて青珠に戻った直後なのに、わたしを守る為に顕れてくれて。
『……桂、私とゆめいがあなたを守るから』って緊迫した顔で強く確かに言ってくれて」
烏月さんと白花お兄ちゃんの立ち合いもね、緊張感で周囲の空気迄ぴりぴりする感じで
…。
「って、あれ? わたし、昨日深夜の烏月さんの立ち合いや、白花お兄ちゃんの鬼切りを
揮う瞬間は、見てない筈なのに。あれれ?」
桂が見てきた様に語る自身に首を傾げて考え込むのに、ゆめいも多少の困惑を交えつつ、
「生命も想いも重ね合わせてしまった為ね」
主様の分霊と相殺し還りかけたゆめいを救う為、桂と私は血と力を持ち寄って互いを繋
ぎ止めた。合わせても1に満たぬ生命を分ち合い。結果昨夜の記憶も一部流入し合って…。
「あ、葛ちゃん。ほっぺたに米粒」「へ?」
桂の右手が不意に伸び、鬼切りの頭の左頬に軽く触れ。気付いた時には米粒は、桂の右
手から唇へ移っており。生き生きした語りと、愛らしい身振り手振りに私迄が心を奪われ
た。
「すみませんです。少し、恥ずかしーです」
でもその恥じらいの共有に私は分け入れず。
ゆめいの様に傍で見ている他に術が無くて。
昼の間は私に桂と一緒の時間は過ごせない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「わたしは洗い物の後で、サクヤさんの様子を看るから。尾花ちゃんのお見舞をお願い」
「はあぁい」「尾花の事はお任せ下さいー」
ゆめいは2人に子狐の朝食を渡して見舞を頼み、自身は別室に。他に起き出す者もなく。
現身を取る事も叶わない私は、1人残され…。
窓から差し込む夏の日差しは強く眩しく。
車も通らない田舎の屋敷は静謐に包まれ。
耳に届くは草木の風に靡く音と鳥の羽音。
良月に封じられていた頃も、外の音や絵図は朧に伝わって来た。今の私は青珠に宿って
いるだけで、封じられてはいない。青珠から見える範囲や聞える範囲の物は見聞きできる。
でも基本的に陽の照す外界に力は及ぼせぬ。良月も日中は私は動かす事さえ叶わなかっ
た。発したい問も伝えたい想いも、届かせられぬ。
私は、果たして自由になれたのだろうか?
私は、真の望みを叶えられたのだろうか?
微かな呟きを発した時、桂と鬼切りの頭が戻り。でも桂の焦点は青珠にも私にも向かず。
親鳥からはぐれた雛の様にそわそわし始める。ゆめいを視界の内に収めないと安心できず
に。
桂の意識を私以外に引く存在は、疎ましい。鬼切りの頭が隣室に続く襖が少し開いてい
ると、桂に伝えるのを暫く迷った気持も分った。同時にそれは鬼切りの頭と私の競合関係
も示すのだけど。ゆめいは桂が探しに掛ると察し、『少し探せば気付く』足跡を残してい
た様だ。
「柚明おねぇ……わ」「これは、まあ何と」
襖を開けて首を挟んだ2人が、言葉を失う。
寝室の状況は、私の視点から見えないけど。
朝から言葉に惑う程に濃密な交わりらしい。
彼女の癒しを肌身に受けた私は推察も叶う。
深傷を負った観月の娘に素肌で添った昨夜。
わたしの問にゆめいは静かに確かに頷いて。
『たいせつなひとを直に感じ取れる事は、喜びよ。確かに生きていると、生命の温かさを
感じ取れる事は、幸せよ。この息遣いを繋ぐ為に注ぎ足したわたしの生命を感じ取れる事
はとても嬉しい事。素肌と素肌を合わせて息吹や温もりを感じたいのは、それを好むのは
確かにわたしの真意よ。間違いじゃないわ』
『実際にはね、蒼い衣はわたしの身を包み守る為に織りなした物だから、現身の一部と言
っても力を防ぎ遮る性質を少し持っているの。直に肌を合わせる程に早く、癒しの力は浸
透させられない。そういう事情もあるけど…』
一糸纏わず、相手の衣も取り去って。手足を絡め、肌身を添わせ、愛おしむ想いを注ぎ。
生命を分けて相手を死の淵から掬い上げる艶やかな仕草は、私の魂も捉えたけど。桂や鬼
切りの頭の、視線も気配も釘付けにした様で。
「桂ちゃん……葛ちゃん」「「は、はい」」
柔らかな声音に、私迄揃って怖じ気づく。
身動きできず、心迄固まった私達に向け、
「ごめんなさいね。もう少し、待っていて」
「いえ、こちらこそ」「お気になさらず…」
見ないでとか、見たのかとか、問いもせず。ゆめいは平静さを保ち、観月の娘を抱き続
け。2人が居間に戻って来たのは、何分後なのか。結局ほぼ最後迄、彼女達の交わりを凝
視して。
美しさと濃密さに圧倒されたのか、2人共冷やかし一つ挟めなかった。桂も鬼切りの頭
も、彼女が観月の娘を抱き終え、離れようとした時点で、漸く慌てて隣室に退散し。2人
はちゃぶ台に並んで正座で共にゆめいを待つ。
「ごめんなさいね、見苦しい処を見せて…」
継ぎ手の衣を纏い直したゆめいは、一言も窘めや叱責もなく。目の毒になったと頭を下
げ。でも弁明すべきは、観月の娘の深傷の癒しに不可欠な所作を為していたゆめいではな
く、覗き見をした桂や鬼切りの頭の方では?
「う、ううん。気にしないで……少しびっくりしたけど、お姉ちゃんの癒しの力は肌身に
分っているし、サクヤさんも酷い状態だし」
応えつつ桂の頬が赤く染まる。それはついさっきの絵図を思い返してか、桂自身がゆめ
いに癒され治された時を思い浮べてか。声音は段々先細り。そこで私も桂の心情を察せた。
「わたしは、気にしてないから、大丈夫…」
頭では分っているとの答に、賢い従姉は。
桂の微かな羨みも求めも、お見通しだと。
謝ると言うよりその仕草はあやすに近く。
左に添って手を握り頬を寄せて瞳を覗き。
「桂ちゃん。……本当に、ごめんなさい…」
理屈ではなかった。ゆめいは桂の誤解や嫉妬を招いた事を謝っている。謝罪は近しく触
れ合う口実で、蟠りを除く為で。桂の欠乏を愛で満たす行いで。教え諭し叱るのではなく、
幼子の我が侭を受け入れる様な信じ難い甘さ。
ゆめいは桂が観月の娘の癒しを了承しつつ、その密な触れ合いに心平静ではいられぬと
知悉している。了承済の事情を諭し窘め叱っても意味は薄い。それで尚騒ぐ心を鎮めるの
は、理屈ではなく心情や感触だと。肌身に触れて、間近に見つめ合い、優しい言葉で満た
されなさを補って。ゆめいは更に、鬼切りの頭にも、
「葛ちゃんにも不快な思いをさせて、ごめんなさいね」「いーえ、お気になさらず。こっ
ちこそ眼福で、いー目の保養になりました」
鬼切りの頭は羨み混じりに、ゆめいの羞恥を突いてきたけど。むしろ動揺は、桂の方に。
「つ、葛ちゃんっ。あれはね、サクヤさんがおお、大けがを負ったから仕方なくでね…」
ゆめいは平静に話しの推移を見守っていて。
「お姉ちゃんの癒しの力は、葛ちゃんも知っているでしょう? わたしの大けがも治して
くれたから。昼は蒼い力も外に出せないから、サクヤさんを治すには、触れて注ぐ必要
が」
決して淫らな行いじゃないんだよ。大人同士で肌身を合わせる様は、一見衝撃的だけど。
「サクヤさんも、柚明お姉ちゃんも昔から」
羽様のお屋敷で家族の様に暮らしていたの。
大事に想い合っていた仲だから出来た訳で。
決してそう言う関係では、ないんだよ……。
「葛ちゃんもケガした時や熱出た時に、お母さんに抱き留めて貰った事が、あるでしょう。
それに似た感じ。お姉ちゃんはわたしも抱き留めて治してくれたし、ノゾミちゃんも…」
「わたしはそんな事された経験ないですから良く分りませんけど、やっぱり少々違う趣な
のではないでしょーか?」
重ねた問と視線にゆめいは静かに頷いて、
「そうね……。肌身を添わせたのは癒しを注ぐ為だけど。葛ちゃんや桂ちゃんにそう見え
て無理はないわ。愛しい想いを込めたから」
鬼切りの頭に正視を返し穏やかな笑みで、
「浅間サクヤはわたしがこの世で二番目にたいせつな人。強く賢く美しいわたしの憧れ」
一度ならずわたしの心を救い支えてくれた。
白銀の長い髪が艶やかな心底愛しく想う人。
この生涯を生命を注いで尽くしたく願う人。
「サクヤさんは一番に想う人が別にいるから、わたしの想いなんて迷惑かも知れないけ
ど」
だからわたしも心を込めて癒しを及ぼす以上は為してないけど。想いを届かせようとは
欲さないけど。肌身を添わせてたいせつな人の力になれて、役立てる事は、わたしの喜び。
鬼切りの頭も私も継ぐべき言葉を失った。
ゆめいに多少羞恥はあれど乱れは少なく。
「サクヤさんは胸も大きいし髪も艶やかだし、人が羨む素晴らしいスタイルだけど。わた
しは貧弱で、人を魅了できる容姿ではないから。目の毒だったでしょう。ごめんなさいね
…」
たおやかに優しげに見つめる様は淑やかで。
「勿論葛ちゃんもわたしのたいせつな人よ」
両の手を両の手で握り、胸元に持ち上げて。
「若杉葛はわたしのたいせつな人。わたしの一番たいせつな桂ちゃんを大事に想い、心通
わせてくれた愛しい人。この身を尽くして守り支えたく想い願う、賢く元気に可愛い子」
鬼切りの頭の魂を、視線で細腕で絡め取り。
「わたしはどんな葛ちゃんでもたいせつよ」
ゆめいはこの様に桂の心も絡め取ったのか。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
私は捨て置かれていた。注意を向けてくれる者もなく。昼でも傍なら声位届かせられた
けど。注意も向けてくれぬ相手に己から声を掛けるのは、負けの様で。私は問を敢て抑え。
ゆめいは自身のへその緒から、治癒の力の応用で肉の体を再生する。ゆめいが体を取り
戻せば、肉を持たぬ鬼は私だけで。昼に顕れられぬのも私だけ。私は取り残されて行く…。
桂が生気の前借りの効力切れで元気を失い、ゆめいに再び添い寝される。奥の部屋に去
る様を心で追いつつ、身動き叶わぬと思っていたら。自然と青珠が3人を追って転がり始
め。
そうだった。良月は大きなかねの鏡で、動かす事が叶わなかったけど。青珠は小さな丸
い玉で、内部で力を作用させ重心を変えれば、傀儡を使う必要もなく多少の身動きなら叶
う。
桂とゆめいの添い寝を見送り、奥の間に背を向けて歩み来た鬼切りの頭の足に触れた時。
彼女は私とのこれ迄の経緯を思い出した様で、
「いーでしょう。わたしもあなたとは、お話ししなければならないと、思っていました」
子狐の眠る部屋に連れて行かれる。窓は布に覆われて、昨日夕刻前の様に室内は薄暗い。
「怯えず恐れず、私の話しの求めに応えてくれて、感謝するわ。鬼切りの頭」「いえ…」
子狐がぴくと動いたけど、何もなかった様に微睡みに戻る。敵ではなくなったと分って
いる様だけど。鬼切りの頭と同様に、無警戒ではいない。それは私も咎める積りはなくて。
見下ろす効果を狙って浮いて対峙する私に。
鬼切りの頭は立った侭正対して少し見上げ。
「昨日夕刻は……申し訳ありませんでした」
冒頭深々と頭を下げてきたのは意外だった。
ミカゲの傀儡となって私に鏃を振り下ろした事を素直に謝り。鬼切りの頭が、鬼の私に。
桂と心繋ぐ前なら、問答無用に赤い紐で切り刻んで報復したけど。今の私にその気はなく。
私は少しの蟠りを残しつつ平静さを保って。
「ゆめいも桂も、あなたを許して頂戴と…」
私は贄の姉妹程に甘くはないけど。鬼切りの頭は、桂のたいせつな人でもある。報復も
拒絶も、桂の心を騒がせて、その身の回復を遅くする。積極的に許したくはなかったけど。
「私の一番たいせつな桂と、私の身代りになってくれたゆめいの言葉だから仕方ないわ」
昨夜桂とゆめいの願いに、私はそう答え終えていた。霊体の鬼が一度言霊にした想いを
曲げる事は至難な以上に。私に想いを曲げる積りはないので、鬼切りの頭への答も同じく。
「……私も、あなたに謝っておいた方が良いのよね、きっと。その前日にはあなたの大事
な子狐を殺めかけ、あなたの血潮を貪った」
あなたが私に恨みを抱くのも無理はない。
今なら私もあなたの憤怒を肌身に分るわ。
「あなたの鏃は、結局私を傷つけなかった」
私はゆめいに守られて苦痛もなく。でもあなたはわたしに歯を立てられて苦痛を受けた。
連れの子狐を傷つけられ生命迄奪われ掛けた。
「一昨日の夜はあなたにまともに謝る事も叶わなかったし」「謝られてもわたしが受け入
れませんでした。加害者になって、漸く過ちを犯した者の気持も分るのかも知れません」
私も、心通わせた桂をミカゲに脅かされて、漸くたいせつな物を害される怯えや痛みを
実感した。この感触は主様を封じられた時以来か。桂の甘さが移ったかも。でも今はその
甘さが心地良く。千年を生きても謝った経験は少ないので、巧くできたか自信なかったけ
ど。
「わたしの一番たいせつな桂おねーさんと、尾花を救ってくれたオハシラ様の言葉です」
鬼切りの頭は、尚やや硬い声音と表情で、
「本当に心を開くのはもう少し先になると思いますけど、そうする様に努めます。同じ人
を一番に想う者同士、宜しくお願いします」
傷つけ合って痛みを知って、罪悪感迄感じて人は、漸く他者を理解できるのかも知れぬ。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
桂とゆめいが起きてきたのは正午過ぎか。
鬼切りの頭が待ちかねた様に駆け寄って。
3人はゆめいの作った昼食を食して休み。
青珠や私など存在を忘れ去ったかの様に。
今後桂の傍にいても、陽の照す間私はこの様に、忘れられた様な時を過ごさねばならぬ。
良月に封印されていた千年は、ミカゲと夜昼なく一緒で、果てしなく問と答を重ねたけど。
今私を常に見つめ心に留めてくれる者はなく。私は居ないかの如く外界は他の者は動き続
け。
私は、果たして自由になれたのだろうか?
私は、真の望みを叶えられたのだろうか?
『果たしてこれで、良かったのだろうか?』
ゆめいは2人に食材の手配を頼んだ。千年経った人の世では、どの様に食材を得るのか、
私は分らないけど。ゆめいは未だ霊体だし拾年前迄ここの住人で、顔見知りに逢ったなら
衆の不審を招く。桂は再度為した生気の前借りと癒しの効果で、もう一昼夜元気を保てる。
今後の血肉の再生には人の食事が不可欠だと。
「わたしも漸く、少しは役に立てるんだね」
「特売品の購入は、頭数も重要ですしねー」
「サクヤさんの車を使えないから、バスに頼る事になるけど。大凡のダイヤは分るから…。
確か今日から経観塚はお祭りだったわね。
桂ちゃんと2人、ゆっくり楽しんできて」
見送りの後、ゆめいは暫く観月の娘に肌身を添わせ、生命を癒しを注ぎ込み。日が暮れ
る迄、そうして添うのかと思ったら。朝の様に短時間で切り上げ、鬼切り役や子狐の様子
を見て、最後に私を見つめてから屋敷を外し。
「日暮れ迄に戻ってくるわ。万一桂ちゃんが早く帰って行く先を尋ねたら、ご神木と…」
多少身動きは叶っても、小さな珠では思う侭に動けない。桂の出立時にゆめいは、経観
塚では青珠は不要でしょうと外されて。私は他に動く者もない屋敷に、夕刻迄置き去りに。
ミカゲといた頃も経験のない空白だった。
日中でも封じでも良月にはミカゲがいた。
誰にも構われないと言う事は。否、誰かに声かけようと想っていないと言う事は今迄は。
主様を喪って、ミカゲが顕れる迄の間位しか。私は一体何を思い出し、何を欲しているの
か。自由の末にミカゲと主様を諦め、桂との日々を選んだのに。今になって私は何を望ん
で…。
どうですか姉さま。昨日夕刻もミカゲは、
【もう一度こちら側に戻ってきませんか?】
【私は元々姉さまを良月に憑かせ鬼にする為に主さまが及ぼした力の欠片です。戯れでも
気紛れでも、主さまの姉さまを哀れみ慈しんだ心が私の核です。故に今尚姉さまを慕う】
【ここに私が贄の血を確保しました。姉さまが心苦しいならそこで見ているだけで結構で
す。汚れ仕事はミカゲがやります。その後で、ハシラの継ぎ手達を滅ぼした後で、私の元
に戻りきて下さい。主さまの元に、私の元に…。
そこで動かないで居て下さい。それだけで姉さまは私の味方です。どうか私達と共に】
【ふざけないで! 動かなかったら、桂は】
ミカゲとの応対は自問自答の錯覚に陥る。
逆に自問自答はミカゲとの問答にも似て。
【桂は私達の餌です。でも姉さまが願うなら、贄の血は啜っても生命は奪わず、主さまに
一緒に飼い慣らす事を、お願いしても良い…】
ミカゲがそこ迄譲歩するとは想わなかった。主様の元で桂を飼う選択には、心動かされ
た。私はミカゲに絆を断たれたけど、自ら断った訳ではない。桂には心絆されたけど、主
様を捨てる事は慮外だった。主様に私は情を残していて、ミカゲに捨てられた末に悔いも
あり。
主様との絆を戻せると。ミカゲとの仲を戻せると。私の切り捨てられた過去を戻せると。
桂を得た侭でそれは叶うのだと言われた時に。それは生唾を呑み込む程に甘く真剣な誘い
で。
【姉さまお願いです。千年の悲願と姉さまと、私は全部揃って欲しい。欠けて欲しくな
い】
ミカゲに願われた事等、主様に願われた事等、千年前にも一度もなかった。たいせつな
人に真剣に欲される。願われ頼まれ望まれる。妹でなくても、ミカゲが主様の分霊なら正
に主様の願いを叶えられる好機に、私は心躍り。
【鬼が人の世界に行っても、幸せにはなれません。桂がどうしても欲しいなら、桂を私達
で飼いましょう。主さまの元で姉さまは自由を楽しんだではありませんか。そこに桂も混
ぜれば良いのです。姉さまが行く事はない】
ミカゲも主様も、桂を贄の血としか見ない。
問答し語らい心通わす相手と、見なすのが。
私だけなら、私は桂の心を永劫独占できた。
桂に憑いて人の世に移り住んでも、私は鬼切り役や鬼切りの頭と、桂を分ち合うだけで。
桂を得る代償に過去の全てと切り離されても、桂の時間のほんの一部を共に過ごせるだけ
だ。
【私は姉さまを許します。再び受け容れます。
長久に楽しい日々を、取り戻しましょう】
『千年の封じの中では常に傍にミカゲがいた。
今となっては妹でもなかったミカゲだけど。
呼べば常に応えるミカゲは私の支えだった。
私には今誰もいない。主様を心に抱いていた様に、桂がたいせつな想いは確かだけど』
私は己が桂を好いたから、桂も己を好くと疑わなかった。私が一番好いたなら、桂もミ
カゲの様に私を一番好いてくれると信じ込み。己が桂の何番目かで何分の一かで、全てで
も唯一でもない怖れ等、考えてなく。己を置いてどこかに行ってしまう怖れ等、漸く初め
て。
私は、果たして自由になれたのだろうか?
私は、真の望みを叶えられたのだろうか?
陽は中天を過ぎ、徐々に低く傾いて行く。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
ゆめいの帰着は、夕日が差し込む頃だった。ミカゲとの戦いや末路を思い出させる一面
朱の世界で、継ぎ手の蒼い衣を纏ったゆめいは。
「ただいま。待たせてしまったわね」「…」
ゆめいは子狐と鬼切り役の様子を見てから。
蝶を出しつつ青珠に宿った私を覗き込んで。
「桂ちゃんの夕食や湯浴みの釜にくべる薪が入り用なの。手伝って貰いたいのだけど…」
ゆめい自身は、観月の娘に肌身を添わせる。
昼の間、私はずっと無為を持て余していた。
桂の為なら断る理由もない。私は数羽の蝶と山に赴き、共に薪を探し回る。人だった千
年前も私は、薪拾いなんてやった試しもないけど。蝶が薪を探し選びする様子を見て倣い。
昔ミカゲや主様と過ごした山林は、千年経ってもその侭で。一昨日夕刻はミカゲと共に
鬼切りの頭の喉に吸い付き、桂の喉にも食いついて。主様を慕った日々は近いのに、何と
遠く隔たって。私の心が主様から離れた故か。
一抱えの薪を持ち帰った私や蝶を、ゆめいは中庭で迎え。淑やかに静かな佇まいはミカ
ゲを連想させた。封じられる前は、人の血を求め又は暇潰しに外に出て、帰ってミカゲの
迎えを受けた。別行動を取った時も大抵ミカゲの方が要領が良く、私は迎えを受ける方で。
「お疲れ様。沢山取れたのね、良かったわ」
「殆どあなたが取った物よ。私の成果は…」
「個々の成果ではないわ。わたし達の成果よ。あなたとわたしの、桂ちゃんの為の成果
…」
薪を庭先に置いた私の両手を両手で握り。
胸元に持ち上げつつ瞳に瞳を覗き込まれ。
瞳が、頬が、近しすぎる気がした。唇も。
流れ込む偽りのない労りや善意に心が痺れ。
どの位の間触れて見つめ合っていただろう。
薄闇の中ゆめいは淡い輝きを帯びて美しく。
「有り難う。きっと桂ちゃんも喜ぶわ。こっちの山は湯浴みの釜の方に持って行って貰っ
て良い? こっちのはご飯の釜に使うわね」
桂と鬼切りの頭が帰着したのはその頃合で。
感応の力があるから、私も桂の気配の接近は悟れた筈だけど。ゆめいの干渉の故か作業
に気を取られていた故か、引き戸を開けた桂が声を発する迄私は、その帰着に気付けずに。
「お帰りなさい。お疲れ様。お買い物、有り難う……お祭りは、楽しかった?」「うん」
「はい、十二分に楽しませて頂きました…」
ゆめいは桂を三和土で迎え、両手で両手を握って容態を確かめつつ労をねぎらい。私は
生前遂に父様にも母様にも、主様にもして貰えなかった事を……って私は今一体何に羨み
を感じて? 私はゆめいではなく桂の方に?
ゆめいは続けて、鬼切りの頭にも屈み込み。
両手で両手を握って彼女の労もねぎらって。
「お風呂はこれから湧かすから、もう少し時間が掛りそう。お夕飯が先の方が良いわね」
「わ、これはすごい量の薪っ」「ですねー」
「薪位なら、夕刻になれば蝶を飛ばせて集められるし。ノゾミも手伝ってくれたから…」
「湯浴みの釜の下にも相応の量は置いたわ」
後は火を付け湯を沸かして入るだけ。でも桂は鬼切りの頭と共に、ゆめいの夕餉作りの
手伝いを強く望み。ゆめいがそれを受容したのは、鬼切りの頭の事情への配慮もあるのか。
「分ったわ。では軽めな作業からお願いね」
「うんっ、わたし、頑張る」「頑張るです」
私は何を為して良いか分らず、3人の作業を浮いて見守る。人の生活は鬼に不要な事が
多く、お喋りに花が咲く中、私は脇に置かれ。
「お姉ちゃん、これって……もしかして?」
何の予告もなく並べられた器は4人分だ。
それが何を意味するかは私も悟れたけど。
「私は桂の血さえあれば、人の食物なんて」
瞬間だけ鬼切りの頭の憤りを感じたけど。
ゆめいは怒りも懸念もそぶりにも見せず。
「確かにあなたの霊体を保つのに人の食事は不可欠ではないわ。でも、あなたは桂ちゃん
のたいせつな人よ。生命を想いを重ね合わせて分ち合い補い合った、姉妹より濃い間柄」
穏やかな声音は私の拒絶を包み込む様で。
浮いた私の両手を握って頬も引き寄せて。
「同じ釜の飯を食す事は、仲間である事の証なの。あなたも桂ちゃんがどんな料理を楽し
み喜び好むのかを、感じておいた方が望ましいのではなくて? あなたも桂ちゃんの日常
で共に生きるなら、人に慣れる必要があるわ。人の食事も、多少は『力』に出来るのよ
…」
ゆめいの言う事は分ったけど。でも私は。
躊躇い拒もうとする私の斜め下から桂が。
「ノゾミちゃん。一緒にお夕飯食べようよ」
みんなで食べれば賑やかでお話しも弾むし。
葛ちゃんやお姉ちゃんにもより馴染めるし。
「お互い仲良くなるにはお食事からだよっ」
「食べ物の恨みが深いなら逆も又然りです」
鬼切りの頭が更に同意の声を重ね。ゆめいは私の拒絶を意に介せず、瞳で瞳を覗き込み。
私は無視されてはいない。確かに桂やその周囲の者達に存在を許され受け入れられている。
ミカゲや主様以外に、食事を共にした者はいなかった私だけど。今やそれは過去の物に…。
「……どうしても食べて欲しいって願うなら、口に入れてあげても良いわ。人の食物なん
て千年以上口にした事もないけど、貴族の姫の口を満たす品だと期待しても良いのよ
ね?」
人里離れた一角で、文明の輝きの下、人と人にあらざる者が、同じ釜の飯を一緒に食す。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
「桂おねーさん、湯加減はいかがですか?」
鬼切りの頭が外から問うと、窓の向こうから湯気と共に柔らかな声が『いー加減だよ』
と答を返す。私はゆめいと鬼切りの頭と子狐と、月夜の下で湯浴みの釜の火加減を見てい
た。薪をくべて風を送る作業は、蒼い蝶が傍で数羽はためくので、私達は見ているだけで。
「桂ちゃんがあがったら葛ちゃんが入って」
わたしは洗い物をしてくるから。火加減も薪も、夜なら蝶に任せて心配は要らないわ…。
ゆめいは桂にも声を掛けて去り。子狐は私を一瞥しただけで、その場に座って目を瞑り。
残された鬼切りの頭と私は、応対に惑って互いを窺い。でもこの僅かな気拙さは、まもな
く間近のもっと大きな気拙さに打ち消された。
ざざん、ざざ、ざざっ。ぴちゃ、ちゃっ。
桂の湯浴みの水音が届く。湯浴みなら当然一糸纏わずの生れた侭で。湯に浸かってもあ
がっても、体を洗ってこするのも素肌の侭で。
「うぅーん……、極楽極楽。気持いいぃ…」
子狐は退屈そうに、欠伸をしたのみだけど。
私と鬼切りの頭はやや緊迫した気配を纏い。
桂の放つ水音や声音に心吸い寄せられつつ。
相方の反応を表情を息遣いを、窺っていた。
鬼切りの頭が中の情景を気に掛けて窓を見上げた時に、私は浮いて壁もすり抜けられる
霊体なのだと、今は月夜の下だと漸く気付き。この時は鬼切りの頭の羨みが、心地良かっ
た。
「桂っ」「ひゃあっ、の、ノゾミちゃん!」
私の背丈でも手を届かせるのが精一杯の高さの小窓に、すうっと己を入り込ませ。湯船
で寛いでいた桂の驚きの声や気配にも怯まず、
「そんなに気持よい物なの、湯浴みって?」
「恥ずかしいよ。わたし今、素肌なんだよ」
余り見ないでよ。サクヤさんや烏月さんの様な素晴らしい体型は、持ってないんだから。
胸と女陰を手で隠し抗議する桂は可愛い。
「隠すのは見せるのが惜しい故ではなくて?
恥じらう程に見事な積りでいるの、桂は」
小さくても大きくても、恥ずかしい物は恥ずかしいの。視線だけはまっすぐ向けてくる。
「大きくない事は自覚しているようなのね。
入れさせて貰うわよ。良いでしょう、桂」
「ちょ、ノゾミちゃんを入れるのは少しキツイよ、そんな大きくないんだし……湯船は」
その生意気な可愛さに引き寄せられ私は。
湯の中に入って桂の素肌に肌身を合わせ。
2つの膨らみが濡れた衣越しに心地良い。
「あーあ、ずぶ濡れになっちゃったね……。
せっかく綺麗な着物姿が。可愛い髪型も」
やや呆れ気味に綺麗な瞳が、私を見つめ。
両の腕で触れた両の腕が細く柔らかさで。
この感触こそ、この視線こそ私の好いた。
「わたしノゾミちゃんの着物姿、綺麗で好きなのに。……裾や袖から見える手足の細さや、
首筋やうなじの白さは、羨ましい程だなって。でも、濡れちゃったノゾミちゃんも、水遊
びしている子供みたいで可愛いよ」「桂……」
霊体の服は当人の意思次第で出すも消すも、色や生地やサイズを変えるのも自由自在だ
って、お姉ちゃんも言っていたから。お湯で濡れても乾かしても、特別問題ないと思うけ
ど。
そこで桂は何か思いついた様な顔を見せ。
瞳の奥から星が輝く音が聞えた気がした。
「そうだ。ノゾミちゃん、今の世のお風呂の入り方、知っている? 千年鏡の中だったし、
拾年前もすぐお母さんに切られたし。今回もミカゲちゃんと何度かさかき旅館に来たけど、
他のお客さんの入浴も見てないでしょう?」
今後一緒に暮らすなら、ノゾミちゃんも千年経った人の世に、馴れて貰う方が。入浴剤
とかボディソープとかシャンプーハットとか。
桂はゆめいに倣って私を人に馴らそうと。
何度も身を害し脅かし涙させた鬼の私に。
何と無防備に己の身柄を生命を預け切り。
でもその仕草や声が今の私には好ましく。
「お風呂はね、体に付いた汚れを落としたり、体を温めて健康を増進したり、肌艶を増し
て綺麗の基礎を作ったり、心を安らげ落ち着かせもする、女の子の大事な儀式なんだよ
…」
せっけんやすぽんじやしゃんぷーを初めて手に取る私に、桂は目の前で使い方を説明し。
濡れた私の衣を脱がせ、なぜか目を見開いて頬を染め。瞳を逸らしつつ現身に湯を掛けて。
「ね、ノゾミちゃんも垢や汚れが落ちて綺麗になれるんだよ」「清められる……私が?」
うんと桂は躊躇いなく頷いて、笑みを見せ。
その笑みが嬉しいと同時に、今は心に痛い。
「私の罪は、落す事なんて出来るのかしら」
つい、桂に救いを求める様な呟きを発し。
暫し答はなく互いの間に想い沈黙が蟠る。
聞えるのは風の音と釜の薪の爆ぜる音で。
緊迫に耐えられず、口を開きかけた私に、
「出来ると思う……罪をなくす事は出来ないけど償えば、傷つけられた人に許されれば」
桂は俯き加減になるのを懸命に抑えつつ。
それは己の鬱ではなく私を思い遣る故に。
「罪はノゾミちゃんだけにある訳じゃない。
わたしも、羽藤桂も同じ罪を持っている」
あの夜の原因は、入っちゃいけない離れの蔵に、無理に白花ちゃんを誘って入り、良月
に触ったわたしにある。お父さんやお母さん、白花お兄ちゃんや柚明お姉ちゃんに、堪え
がたい苦痛を与えたのは、他ならぬこのわたし。
わたしも傷つけた側にいる。張本人なの。
だからノゾミちゃんと一緒に償う側なの。
「ノゾミちゃんは、わたしのたいせつな人」
桂は意思の宿る瞳を私にまっすぐ向けて。
桂は傷つけた側傷つけられた側双方の痛みを知っている。許す側でも許しを請う側でも。
だからこそ罪を負う私の想いも悟れると。
「拾年前にはわたしのたいせつな人を傷つけ喪わせ。最近もわたしの血を啜り生命を狙い。
でもわたしの生命助けてくれて、お姉ちゃんも助けてくれた、掛け替えのない人。この拾
年で羽藤桂が得た数少ないたいせつな成果」
拾年前の事が悔しい気持は今でもあるよ。
「あの夜ノゾミちゃん達を呼び出さなければ、お父さんは死ななかった。お姉ちゃんや白
花お兄ちゃんも、苦しみもなく。お母さんだって過労死する事は、なかったかも」「桂
…」
でもあの夜がなかったら、ノゾミちゃんとわたしは出会う事もなく、分り合うきっかけ
もなかった。もう取り返せないと言う以上に、ノゾミちゃんと分り合えた事に後悔はして
ないよ。それに拾年経った経観塚で、ノゾミちゃんがわたしの生命を狙って顕れなかった
ら。
「柚明お姉ちゃんが守りに顕れる事もなく。
わたしは記憶を取り戻せない侭だった…」
たいせつな物を喪った事にも気付けない侭、町の家に帰ってその後の人生を暮らしてい
た。お姉ちゃんを取り戻す事も出来ず、生命を賭けて取り戻したい人を忘れ、その人の犠
牲の上に今のわたしがあるって気付く事さえなく。
禍福はあざなえる縄の如し。わたしがたいせつな人と今を一緒出来るのは、ノゾミちゃ
んのお陰でもあるの。そしてノゾミちゃんもわたしのたいせつな人。特別にたいせつな人。
言葉が切れて、私は抱き留められていた。
素肌合わせ、胸を合わせ、頬を合わせて。
耳元に注ぎ込まれる声音は真剣に震えて。
「一緒に、償おう……ううん、付き合って」
これだけは、柚明お姉ちゃんにも頼めない。
お姉ちゃんは全くの被害者で過失がないの。
わたしと違う。これからの償い迄頼れない。
お姉ちゃんはわたしの罪迄望んで負うけど。
咎人のわたしがそれを頼ってはいけないの。
「罪の重さに心が竦んで、今尚思い返す事も辛いわたしだけど。返せる処から気持を返し
たい。償う気持を手放さない処から始めたい。でもわたし、心強くない自分は分るから
…」
同じ境遇の人同士なら、心を支え合えるよ。
同じ辛さを抱く人なら、痛みも分ち合える。
「わたしも昨夜拾年前に、自身に漸く向き合えた。ノゾミちゃんとスタートラインはほぼ
同じ。ノゾミちゃんが一人悪い訳じゃないの。わたしにした事は、わたしが許せる。わた
し、ノゾミちゃんを許せる様に頑張るよ。だから。ノゾミちゃんが居てくれないと、わた
し…」
そこから先を語ると、私に頼りすぎになると桂は敢て口を鎖し。ここ迄喋ってしまえば、
私も感応の力も不要にその中身は悟れたけど。桂はやや強引に、少し話しの行く先を変え
て。
「ノゾミちゃんはわたしのたいせつなひと。
お屋敷で暮らす日々が終っても、この夏が終っても。ノゾミちゃんへの想いは終らない。
償いを一緒したいだけじゃない。悲痛や苦味や後悔を分ち合いたいだけじゃない。わたし
は喜びや幸せも一緒して増やし合いたいの」
ノゾミちゃんの気持もわたしが支えるから。
生命の限り精一杯助けて償う場を守るから。
桂は、私と日々を共にする未来を疑いもしていない。鬼と、害を為し多くの物を喪わせ
心傷つけた私と。否、逆にその私だからこそ。咎人という出発点を共に出来て支え合える
と。
弱い様でいて強く儚い様でいて粘り強い。
これが私の心の底から好いた、桂だった。
私の答は、問われる前から決まっている。
「桂は私の、ノゾミの、一番たいせつな人」
大好きな主様を封じて削るハシラの血筋で。拾年前に主様を再び封じ、ミカゲや分霊の
主様の仇であるゆめいの血縁で。でも今は私が最もたいせつに想う、まっすぐ強く可愛い
子。この千年で、初めて私の為に涙してくれた人。
生命も想いも分ち合った仲なら、罪も罰も償いも。桂は私の所行を今尚許し切れてない
様だけど、私をたいせつに想うから、許せる様になりたいと、本当の本音を語ってくれた。
私が必要だと、私でなければならないのだと、熱く強く求めてくれた。それは私も望む処
だ。
桂は私を守り傍に置く事を、当然と考えてくれている。私もその想いに応えたい。私も
桂に許され桂と一緒に償う事をノゾミとして。終生桂を守り、桂の想いを支え助け続けよ
う。
夏が終っても。私の想いは終生終らない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
霊体は釜の炎や湯や気流から力も得るけど。
同時に大きく霊体を揺さぶって掻き乱すと。
察せて私はすぐ上がる事はせず暫く留まり。
「ふー、いい湯だったぁ」「お疲れ様です」
「お疲れ様。ノゾミは少し、のぼせた様ね」
湯上がりの桂は上機嫌だったけど。正直私は上がる迄付き合うのが精一杯で。湯浴みは
霊体の鬼にとっては鬼門かも。ゆめいは桂が人の如くあって欲しく望むから、不要な食事
も敢て摂るし、湯浴みも入る積りの様だけど。
「の、のぼせてなんか、いないわよ……ところで桂、あなたもさっきから言っていた『の
ぼせる』って、一体どうゆうことなの…?」
夜になれば家庭の電灯位なら、私は顕れても消耗もない筈だけど。己の姿勢を保てない。
ゆめいはそんな私の首の後ろを右手で掴むと、左手の青珠に軽く当て。やや強制的に青珠
に戻らされ。悔しいけど逆らう気力が湧かない。
「少し青珠で休んだ方が良いわ」「……っ」
鬼切りの頭は桂に続いて、湯浴みに行って。
桂とゆめいは2人、縁側に座して涼むけど。
鬼切りの頭が戻り来てゆめいに次を促す迄。
私は、再び顕れる力も割り込む余裕もなく。
「もう、良いの? 葛ちゃん」「はいです」
鬼切りの頭は桂との時間を欲し、ゆめいと桂の時間を怖れ、速攻で戻り来た様だけど…。
2人は縁側で並び座して月夜を眺めていで。
しっとりと情を絡め合わせ肌身も添わせて。
でも近親の禁忌を犯す迄には至っておらず。
霊体に湯浴みは不要だと、分ってゆめいは。
従姉に『人の如く』あって欲しく望む桂の。
言葉にもしてない願いに応えて湯浴みへと。
「ふうっ、漸く醒めてきた……この私が大人しく閉じこめられると思ったら、大間違い」
「ノゾミちゃん?」「見てなさい、ゆめい」
敢て力で浮かず足音を潜めゆめいを追う。
桂達の後を付けてくる気配は感じたけど。
今は捨て置いて、壁をすり抜け背後から。
湯船のゆめいに気付かれる前に絡み憑き。
「……ん、ノゾミ?」「反応が、遅いわよ」
「ひゃっ」ゆめいの短い悲鳴と水音が響いて。
「他愛のない、あなた」完全に不意を突けた。
警戒する前に、身構える前に。柔らかな背中に張り付いて、掌でゆめいの両乳房を掴み。
「桂は守れても己の守りはおざなりなのね」
脱衣所には継ぎ手の衣が置かれてあった。
『人の如くあって欲しい』桂の願いを叶える湯浴みなら、ゆめいは一糸も纏わぬ珠の肌だ。
わざわざ人の様に脱ぎ置く必要もないのに…。
その無防備と不用意に付け込み踏み込み。
「そんな大きくない湯船に入れたと言う事は、あなたが小さいと言う事で良いのかし
ら?」
急所を掴んで力を込めれば、ゆめいも容易に解けない。間接を逆に極めたに近い感じだ。
状況は力の差よりも体勢の優劣が反映される。唇から漏れる短い叫びがこの上なく心地良
い。
体を再生中のゆめいは、今現身を解き難い。私が肌身に張り付いた以上剥がすのは至難
で。霊体は肉の体と違うけど、水が器に従う様に、人の生き方もモノの在り方も形に縛ら
れ易い。人の形になった以上、現身を取る間は彼女も人の体と似た構造を持ち、人の理に
縛られる。
背後から両足をゆめいの両太腿に絡ませて、右の乳房を左手で、左の乳房を右手で掴ん
で。胸板が密着した背も、頬が接したうなじや首筋も、柔らかに滑らかで甘い花の香りが
匂う。それを捉えて弄り回す愉しみに心踊らせつつ、
「湯浴みがこんなに霊体に響くとは思ってなかった。桂に当てられた以上に熱にやられた。
でもそれは、一糸纏わぬあなたにこそ強く響く筈。私を子供扱いで青珠に放り込んでくれ
たけど、あなたも熱に揺らされればあの様に、情けない醜態を桂や鬼切りの頭の前で晒
す」
ゆめいは湯浴みが、霊体に与える影響を知っていた節がある。人の生活に慣れるべきと、
私に夕餉を勧めたけれど、湯浴みは勧めなかった。私が桂の湯浴みに入り込む事も、読み
の内だったのか。なら、のぼせてふやけた醜態を、桂や鬼切りの頭に迄晒した展開も読み
の内という事で。全てが掌の上の様で悔しい。
ゆめいは人の如く軽く湯に浸かって上がる気だった様だけど。隙を見せたのが生命取り。
まぁ私も今更ゆめいの生命を取る積りはない。唯少しのぼせてふやけた様を晒すと良い。
ゆめいはここ数日私の前で、強く優しく美しすぎる。少し無様を晒さないと帳尻が合わな
い。
「味方になっても困り弱るあなたを見るとなぜか溜飲が下がる。これは贄の血との相性か
しら? 桂やあなたを責め苛むのは愉しい」
子供っぽい気もしたけど。自由を一時封じられた仕返しは、相手の自制を一時崩す事で。
ゆめいは己を律する事を好むから、丁度良い。
身を捩って離そうと試みるのは、拙いと感じている証拠だ。その程度では引き剥がせな
いと、ゆめいが最も良く分っているだろうに。殺気のない相手に、ゆめいは本気で挑めな
い。
「まだ離さないわ。あなたが本当に乱れる迄離さない。どこ迄その涼しい顔を保てるかし
ら。既に体が火照って堪らないのではなくて。頬が紅いのは恥じらいだけでないでしょ
う」
ノゾミ、放してと頼むゆめいは可愛くて。
胸の弾力や身悶えを、心ゆく迄堪能する。
私は今尚主様を好いているから、主様への途を閉ざしたゆめいへの憤りや蟠りを拭えて
なく。苛みにも結構力を込めているのだけど。だから羽藤の末裔を嬲り弄ぶのは愉しいの
か。
「私の『力』に今少し抑え付けられて大人しくなさい。あなたの方が『力』は大きくても、
技が決まったこの体勢から短時間で拘束は解けないわ。そして時間が経てば断つ程、あな
たは私よりも強く早く熱に犯されて行く…」
壁を隔てた脱衣所で、鬼切りの頭と桂が耳を欹てる気配を感じた。ゆめいの羞恥を晒す
観客は、却って好都合だ。その存在はゆめいも悟れている。大声を出し難い事情は悟れた。
『私はあなたより希薄でも、力で織りなした衣を纏った侭。素足も胸元も肌を晒して見え
ても、多少は守られている。それでも長湯すると、さっきの様にのぼせるけど。今のあな
たは素っ裸。昼の陽にも揺らがぬ濃い霊体も、一糸纏わねば衣の防御もない。こうして抑
えればあなたは身動きも叶わず、熱や気流に霊体の核を揺さぶられる。私より乱れは早
い』
適度な間合を保てば霊体を満たす『力』にも取り込めるけど、強すぎる薬は毒に等しい。
衣を新しく纏うにも、密着した異物である私が干渉し阻めば、肌の外を守る衣は作れない。
「いい加減、気持良くなってきたでしょう。
そろそろ、視線が虚ろになってきたわよ」
私に熱が伝わる以上、ゆめいは尚危機的な筈だ。抗いの弱まりは、無駄を悟ったと言う
より、抗う余力が失せて、集中が崩れた為か。
「ノゾミ、放して。あなたがのぼせるわ…」
ゆめいは強がっても声音や気配が弱々しく。
逆にそれで私はゆめいの窮地を察し取れた。
両乳房を掴まれて身悶えするのが精一杯か。
もう少しこの体勢を保てばふやけてのぼせたゆめいが見られる。鬼切りの頭や桂の前で、
だらしなく情けないはだかの姿を晒し放題に。今度こそ年相応の立場を肌身に思い知らせ
る。
否、尚強情に耐え続けてくれるなら。もう少し滑らかな肌に肉に張り付き、意外と弾力
のある両乳房を揉み続けて苛むのも。止めたくない程心地良いので、むしろその方が私は。
「幾ら辛抱しても、私の方が、長く辛抱できるのは、自明の理なの。もう諦めなさい…」
この両胸は数日前、ミカゲがハシラの青と相反する朱で抉り貫いた。ミカゲはその直前、
捉えたこの両乳房を掴んで弄んだけど。ミカゲがゆめいに拘ったのは、何度も主様の復活
を、特にミカゲの所作を阻まれただけではなく。主様が籠絡された気持が分った気がした。
『抱き寄せて私の口を封じようとするのなら、考えがあるって事よ。吸い付いてやるか
ら』
一昨日夜ゆめいは私を抱き留め癒し。される侭を嫌った私は左の乳房に吸い付いたけど。
『……どうぞ、ご自由に』ゆめいは私の唇を、先程咥えた己の左乳房の先に押し当て黙ら
せ、
『子供を産んだ事はないから乳は出ないけど、それで良いなら好きになさい』『あな
た!』
『あなたなら、そこから力も多少吸い取れるでしょう。わたしは拒まないから、どうぞ』
あの感触は決して悪い物ではなかったけど。
この感触はむしろ手放したくない物だけど。
いつ迄も溺れていては、私が熱に犯される。
「ほら、我慢しないで。熱いんでしょう…」
ゆめいの喘ぎや身悶えをより強く感じたく。
私の苛みの成果をより深く肌身で確めたく。
私は感応を更にゆめいに深く繋げ絡ませ…。
気がついたら間近で発された優しげな声は。
「桂ちゃん、葛ちゃん。お願いがあるの…」
そこで見ているのでしょう、の確認もなく。
壁の向こうで耳を欹てている、2人に向け。
「青珠を持ってきて欲しいの。……ノゾミが再びのぼせてしまった様だから」「「え」」
私はゆめい以上に充分熱に、犯されていた。
衣で防いでいる筈なのにと、心で呟く私に。
「肌身を添わせて感応を繋げば一心同体なの。
例え衣で防いでもわたしを通じ熱は伝わる。
弾き隔てて抑え込めば違ったでしょうけど。
条件が同じなら、霊体として希薄なあなたの方が、先に揺さぶられのぼせてしまう…」
静かな声は怒りも嘲笑もなく残念そうに。
「過剰な感応は相手に引きずられ揺さぶられ、己を失わされる危険も持つの。千年を生き
たあなたも、霊体の鬼と深く交わった事は少なかった様ね。もう少し早く離れてくれれ
ば」
拘束を解いて私を抱き直し湯から上がり。
桂が持ってくる青珠を素肌で正座で待ち。
私はゆめいの左手で首筋の後ろを掴まれ。
逆らう術がないというより気力が湧かず。
肌身に癒しの力を流し込まれ補われつつ。
月夜なのに再度青珠に押し込まれていた。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
私が三度現身を取ったのは、鬼切りの頭の桂の気を惹く企みを察せた為で。桂は湯浴み
で肌艶も元気も増し、誰かが誘えばついて行きそうで。ゆめいは桂を案じても、他の誰か
と心通わす所作に警戒薄く、頼りに出来ない。
鬼切りの頭が取り出す透明な手提げには。
棒状・筒状の物がぎっしり詰め込まれて。
「……花火?」意外そうな顔を見せる桂に。
「しかもお徳用です」鬼切りの頭は頷いて。
「やっぱり夏と言えば花火だと思ったんですよ。さっそく川原へれっつごーです」
「今から行く積りなの? 夜は鬼の刻限よ」
花火がどんな物なのかよく分らないけど。
夜の桂は私の物だ。私が挟まっているのではなく、鬼切りの頭が私と桂の時間に割り込
んでいるのだ。彼女は日中も桂との2人きりを謳歌したではないか。私の問に対して桂は、
「今からって、普通花火は夜にする物だよ」
「それに、こちらの庭はこの有様ですから」
私以外の3人は花火を知っているらしい。
危険でもない限りゆめいは桂を留めない。
「じゃみんなで行こうよ。ノゾミちゃんも」
「私は、別に構わないけど」「じゃ決まり」
桂は私を忘れていない。やや無理しても出ていて良かったと、この時はそう思ったけど。
やや欠け始めた月の瞬く夜の下、私は一番好いた桂の傍で、初めて花火という物を見た。
人は千年の間にこんな娯楽を作り出したのか。
桂の左隣に添う鬼切りの頭に対抗し、桂の右斜め上、手を伸ばせば届く処に浮いたけど。
桂に話しかける余裕は少なく。鬼切りの頭が話しかけ、桂の視線も意識もそっちに向き…。
屋敷に帰着した直後、私は三度青珠に戻る事にした。力は余る程あるのだけど、それを
制御する気力を乱され崩され、抑えきれずに。戦いでもあるなら、無理して顕れ続けるけ
ど。
桂を心配させたのは結構な心残りだけど。
逆に桂に心配されるのは嬉しくもあって。
「……ノゾミは青珠に憑いて日が浅いから」
まだ繋りが弱くて安定度合が足りないの。
ゆめいは伏し目がちに静かに桂に応えて。
「今迄羽藤を害する側で反対属性だったから、順応に時が掛るの。わたしが癒しを及ぼす
わ。黙っていても、数週間で馴れると思うけど」
大丈夫、ノゾミは千年を経た強い鬼だから。桂ちゃんを想う気持も本物だから。必ず青
珠は受け容れてくれる。馴れれば夜なら電灯の光の下で、一晩中現身でいても障りない筈
よ。
「そうなる迄の少しの辛抱。不安定を抱えているから、夜でも長く出続けたり、気流水流
の渦巻く処は良くないと忠告したのだけど」
ゆめいが湯浴みの場で私に離れる様に促したのは。自身の醜態を晒される羞恥の故では
なく、私の疲弊を招きたくなかった故なのか。それが桂の心配を呼び招く事を厭い嫌って
…。
桂と鬼切りの頭はゆめいの勧めで同衾し。
ゆめいは己は鬼切り役に添って癒しつつ。
分身(わけみ)の蝶を観月の娘や子狐や。
私の上に滞空させて癒しの光を注がせて。
翌朝、ゆめいが肌身を添わせ癒していた鬼切り役が目を醒まし。桂の歓喜と抱擁を受け。
桂に占める私の割合は一層小さく薄くなった。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
眩しい朝日は、私を依代に閉じこめ封じる。
私は動き出した桂達の前には、顕れられず。
ゆめいは桂や鬼切りの頭達の、朝餉を作る。
「お手伝いします、柚明さん」「お姉ちゃんわたしもっ」「わたしもさせて下さいです」
「嬉しい悲鳴ね。でも、余り手の込んだ品を作る訳ではないし、厨房に人が多すぎても」
鬼切りの頭や鬼切り役が、桂に近しく語りかけ、微笑みを呼び招き、時を共有する様を、
見て割り込めない己が悔しい。昼に出られぬ鬼の身を、分って桂に憑いた私だけど、でも。
「烏月さんもお料理できるの?」「ああ…」
「上手と言う程ではないけどね。兄さんがいた私は千羽では、いつか嫁に出される予定だ
ったから。剣を振るう事ばかり憶えて、料理も出来ない猪武者になってはいけないと…」
柔らかに確かな鬼切り役の微笑みが悔しい。
あんな爽やかな笑みを向けられては私迄が。
好ましく心奪われる。恋心を掴み取られる。
「それじゃわたし、猪武者にもなれないよ」
「桂さんは綺麗で優しい。それで充分だよ。
その柔らかな笑みに、叶う者はいないさ」
「ううっ、うっ、烏月さん。恥ずかしいよ」
そんな綺麗な目で正視されて真剣に言われたら、わたし信じてのぼせ上がっちゃうよっ。
「私は嘘や冗談は苦手な方でね。桂さんは千羽烏月のたいせつな人。柔らかな笑みの可愛
らしい、勇気と優しさに満ちた愛しい人だ」
誰か、誰か割り込まないと。ゆめいはこの非常時に、何で間近でにこやかに微笑むのっ。
幸いに、鬼切りの頭が同じ思いを抱いた様で。
「わたしは鬼切部はエナジーメイト等の栄養補助食品に、頼っていると思っていました」
やっと鬼切り役の視線が、桂から離れた。
「千羽党は古風な集団で、年長者を中心に最近の品物である栄養補助食品には懐疑的です。
鬼切部の戦いは時に月も跨ぎます。山野で食せる物を捌いて血肉と為す術を知らねば、鬼
切りは為せない。味の自信はありませんが」
でもその両手は桂の両手を、握った侭で。
「店頭で売られる品は、山奥や離島では手に入らない時もあります。そう言う時も食せる
草や肉を自ら峻別し、捌いて血肉と為す…」
「叔母さんも、桂ちゃんのお母さんもわたしと一緒に、笑子おばあさんやサクヤさんに料
理を教わったの。料理出来ない訳ではなかったのだけど、味や食べ易さに支障があって」
4人の食卓は昨夜と同じでも私の席はなく。
それでも桂が生き生き元気な事に心が騒ぐ。
桂の瞳が言葉が誰かに向く度に心が乱れる。
朝餉の後、桂は鬼切りの頭と子狐の見舞に行き。ゆめいは鬼切り役と2人で皿洗いの後、
観月の娘を癒しに。鬼切り役はその部屋に繋る襖を背に、姫の名誉を守る騎士の如く座し。
青珠の私を見つめてきた。鬼切り役も鬼を見定める目を持つので、宿った私も見えている。
睨むと言う程ではなく、確かめる感じで私を見つめ、何も語らず視線を外し。涼やかな
顔で緑茶を口にして時を待つ。端整な佇まいは拾年前に、私を切った桂の母を連想させた。
桂と鬼切りの頭が戻り来たのは暫くの後で。
桂は殆ど無自覚にゆめいを視線で追い求め。
「柚明お姉ちゃ……、烏月さん……あ……」
襖と鬼切り役を見てから昨日を思い出して。
鬼切りの頭と共々邪心を見抜かれた錯覚に。
反射的に背筋を伸ばし3人緑茶を一緒して。
「……烏月さん。有り難うございます……」
鎖された襖が開いたのは、四半時程の後で。
鬼切部2人の前で、桂の両手を両手で握り。
「桂ちゃん。もう少し癒しを注ぎたいの…」
良いかしら? と願う様に求める従姉に。
桂は頬を染めつつ厭う姿勢も表情もなく。
何を為すか知らない者はこの場にいない。
でも分って誰も、何一つ異議を挟まずに。
「う、うん。その、よろしくお願いします」
桂が周囲の了承を、視線で願うよりも早く。
ゆめいは正座の侭、三つ指突いて額づいて。
「正午位迄掛ると思います。暫くの間、桂ちゃんをお任せ頂きたく」「承知しました…」
私の桂を、一番たいせつな桂をゆめいが。
私はそれを前にして声を発する力もなく。
役に立つ術もなく唯いる事しか叶わない。
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
贄の姉妹は正午過ぎに起きて、鬼切部2人と昼餉を食し。ゆめいは今日も桂に食材の買
い出しを頼んだ。昨日のは幼子と非力な娘が持てる分量に限った様で、買い足しが要ると。
ゆめいが町に行けぬ事情は相変らずだ。なら、
「分りました。桂さんに私が付き添います」
桂は昨日の食事や休息等で、血も相当復していて。さっき三度為した生気の前借りの切
れる明日が危ういけど。もう少し癒しを注ぐ必要があるけど。生命の危機は脱しつつある。
鬼切部2人は桂がゆめいに癒されていた間、別室で話し込んでいた。鬼切り役が私の気
配を察する以上に、私が彼らに所用はない。私が気になるのは桂の動向だ。瞳を向けて耳
を欹て、声を掛けて寄り添って欲しいのは桂だ。
その桂が又夕刻迄、私の前から居なくなる。
せめて青珠を持たせてくれれば、私も桂と。
この時は、外出を勧めるゆめいが恨めしく。
「葛ちゃんも来る?」「いえ、わたしは…」
鬼切りの頭が桂の招きを断ったのは、意外だった。彼女が挟まらなくば、桂は鬼切り役
と2人きり。それを見過ごす様な甘い性分ではない筈だけど。理由は色々言っていたけど。
ゆめいは鬼切りの頭と2人で桂を見送り。
「今日は経観塚のお祭り2日目だったわね。
桂ちゃんと2人、ゆっくり楽しんできて」
鬼切りの頭は、桂を抜きにゆめいと対峙する為に屋敷に残った様だ。夏の陽が照りつけ
る昼下がり、戦いに挑む様な気配を身に纏い。座したゆめいを見下ろす為に敢て立った侭
で。
「白花さんを看に行かなくていーのですか」
冷然と言葉を叩き付ける、鬼切りの頭に。
ゆめいは驚きもなく、穏やかに向き合い。
鬼切りの頭は、見た訳でもないゆめいの昨日の所作を当て、先制攻撃で動揺させようと。
「夜に行かなかったのは、烏月さんを癒す必要以上に、桂おねーさんが目覚めてあなたの
不在に気付くと、不安を抱かせてしまうから。おねーさんがわたしとお屋敷を外した昼な
ら、夕刻迄好きなだけ彼に寄り添えますしねー」
桂の兄の話しを振って。部外者の顔で土足で踏み込み。年少者が全てお見通しと生意気
な語調を使って。ゆめいの心を掻き乱そうと。
「夜ならあなたは蝶を飛ばせ、遠隔から彼を助ける事も心通じ合わせる事も叶う。サクヤ
さんや尾花やノゾミさんにした様に。昼間桂おねーさんが屋敷を外す様に事を導いたのは、
おねーさんのリハビリや食材調達より、烏月さんやわたしにも餌を与えて遠ざけ、あなた
が白花さんに寄り添う為だったのでしょー」
『でもそれは桂おねーさんに気付かれずとも。
オハシラ様の一番の人への裏切りに当たる。
この人は桂おねーさんに一番に想われていながら。おねーさんを一番に想っていながら。
おねーさんへ寄せたに近い程深く強い想いを、白花さんにも注いでいる。おねーさんの不
安や怖れを招きたくない配慮と同じ程に、そこ迄して彼に寄り添いたい強く深い想いが
…』
鬼切りの頭の憤りが、何となく分ってきた。
ゆめいが桂とその兄に、二股かけていると。
鬼切りの頭が心底愛した桂の、その桂の好いたゆめいが桂に愛の全てを注がない。それ
は二重に鬼切りの頭に悔しくて。納得行かないと。どっちかはっきりせよと。今山の槐に
歩み行くなら、桂ではなく桂の兄を一番に好いたと見なすと、鬼切りの頭は選択を迫って。
「あなたのたいせつな人、なのでしょう?」
隔意を感じさせる語調で重ねられる問に。
ゆめいは頷いてから、首を左右に振って。
「今は葛さんの想いに応える事が優先です」
ゆめいは示された選択肢のどれも取らなかった。槐に行かなかっただけではなく、屋敷
に残ったのも桂のみを一番にした訳ではなく。鬼切りの頭の想いに応えて心通わせる為だ
と。ゆめいは鬼切りの頭の問を察して待っていた。
鬼切りの頭は急襲失敗を悟ったけど。即体勢を立て直し。なら一気に決着を付けようと。
「では応えて頂きます。あなたの一番たいせつな人は誰ですか? あなたの行いはその人
に抱く想いへの裏切りになっていませんか」
罪悪感の源を復唱させる。事実を確かめゆめい自身にも確かめさせる。裏切りの根を言
葉にさせて表に晒す。直裁で強力な問だった。
「わたしの一番たいせつな人は、羽藤桂と羽藤白花。己の生命を生涯を捧げて尽くし守り
たい愛しい人。この世に唯1人と想える人」
心を込めた静かな答に鬼切りの頭は更に、
「矛盾を承知で言っていますね、オハシラ様。
唯一の人が2人だなんて、複数一番なんて。
桂おねーさんとは女同士になる事はこの際棚上げします。近親の禁忌もとりあえず黙過
します。でも尚あなたは甚大な矛盾を抱えている。2人が幼子ならそれで良かったかも知
れない。唯好きで、守り支えたいで。でも…。
あなたは白花さんと桂おねーさんから同時に求愛された時、どちらを選ぶ積りですか?
迷えばどちらも喪う極限状態で、片方しか救えない時、どっちを捨てられますか? 2
人の内、何れが真に最愛の唯1人ですか?」
鬼切りの頭はゆめいを退けて桂を掴もうと。
ゆめいが幾ら深く強い情愛を抱いていても。
一途さで、唯一無二の想いで優れば良いと。
2人に分けた半分の想いにならば勝てると。
それはゆめいの致命的な弱味を突いていた。
ゆめいは桂と同等に桂の兄をも愛している。
それはこの数日で羽様の誰もが分っていて。
故に今更曲げる事も隠す事もごまかす事も。
選べるなら今迄に選び切り捨てていた筈だ。
でもゆめいは己の生命を注いで双方を想い。
決してどちらか片方を諦め手放す事はせず。
その愛の深さを皆が見て知っているだけに。
本当に鬼切りの頭はどんな手段を使っても。
勝ちに行く。勝ちに行ける。考えて為せる。
問に一撃必殺の気迫を込めた鬼切りの頭に。
見下ろされた正座の姿勢でゆめいは静かに。
「桂ちゃんも白花ちゃんも、2人ともわたしの一番たいせつな人。何れか1人は選べない。
どちらかへの想いが優り、もう片方への想いが劣ると言う事はありません。2人ともこの
生命を生涯を注いでも、尽くし助け守りたい、幸せを掴み取って欲しい愛しい子、いと
こ」
答は正面突破だった。それも無茶苦茶な。
ゆめいの答は答になってない。にも関らず、その覚悟は想いは鬼切りの頭を、たじろが
せ。理屈ではなかった。彼女は理屈を超えていた。訊かれた事を返すのみが答ではない。
正解は選択肢にのみあると限らない。静かなゆめいの答に、鬼切りの頭は言葉を失い眼を
見開き。
「迷えばどちらも喪う極限の場で、片方しか救えない時……わたしは結局、選べないでし
ょう。より遠く危うい片方を助けて後、再度手を伸ばす事に全力を注ぐと想います。及ば
ない結果が出る迄、諦めきれず。その末に」
及ばなかった結果は、終生受け止めます。
「羽藤桂と羽藤白花は双方一番たいせつな人。
わたしの生に光を当てて蘇らせてくれた人。
わたしに生きる値と目的を与えてくれた人。
漸く巡り逢えた、愛しさ限りない一番の人。
どちらか片方ではないの、わたしの心の太陽は。双方への裏切りになっても、この想い
は止められない。それが2人を哀しませるのなら。罪も罰も、責めも報いも身に受けます。
もし白花ちゃんと桂ちゃんが、真の想いでわたしを欲し求めてくれるなら……わたしは、
全身全霊で応えます。答が受容でも拒絶でも、真剣に考えて、この身と心の全てを注い
で」
まず相手の想いを受け止める。そして全身全霊の答を返す。それは桂に対してのみでは
なく、私にも鬼切りの頭にもそうだった様に。
「そしてもし桂ちゃんと白花ちゃんが、別に一番の人を見いだしたなら。わたしはその願
いが叶う様に助け、その想いが届く様に支え、その求めが満たされる様を見守りたい。わ
たしとの今迄の経緯に囚われる事なく、自由に伸びやかに幸せな未来を掴み取って欲し
い」
瞬間私も鬼切りの頭と一緒に呆然として。
それに続いた激昂は私のそれでもあった。
「あなたは桂おねーさんの、一番でなくても良いというですか! そこ迄愛していながら、
そこ迄尽くしておいて、一番の想いを一番の人から返されたいと、求めないのですか?」
鬼切りの頭の震えは、彼女が手に入れられぬ桂の一番を、掴めるゆめいが掴み取らずに
手放す様な、軽んじる様な答への憤激以上に。見通せないゆめいの内心への、未知への怖
れ。
ゆめいが今迄その手で掴み取らず。鬼切り役や鬼切りの頭と、桂の絆を導き望んだのは。
羽様から離れられない槐の封じの故ではなかったのか。桂の兄に槐を奪われて肉の体を戻
すゆめいが、なぜ今その手で掴み取らないのか? 理解できなかった。納得行かなかった。
問い糺す鬼切りの頭に、ゆめいは静かに、
「その望みは、わたしの最優先ではないの。
わたしの願いは常に一番の人の幸せです」
わたしとの幸せではありません、と応え。
「仮に桂ちゃんが白花ちゃんがわたしを望んでくれるなら、その想いを受ける事がその幸
せに繋るなら、わたしは全身全霊で応えます。でもそれはわたしの幸せという以上に、た
いせつな人の望みだから。わたしがその願いを叶える事が先々たいせつな人の涙に繋るな
ら、幸せを紡げないのなら、わたしの答は1つ」
わたしの幸せは、たいせつなひとが日々を笑って過してくれる事。確かに明日を見つめ
て暮してくれる事。自身の生命を精一杯使い切って、悔いなく今を進み行く事。だから…。
桂ちゃんが誰を愛しようと、誰を一番に想おうと自由です。わたしは喜んでその人の為
に尽くします。その人もわたしのたいせつな人になるの。サクヤさんもノゾミも烏月さん
も。葛さん、あなたもわたしのたいせつな人。
「わたしは恩義で桂ちゃんの想いを縛る気はありません。過去で未来を繋ぎ止める積りも
ないの。桂ちゃんはわたしの独占物ではない。その心を掴みたければどうぞ。わたしは桂
ちゃんを愛する事とその身の幸せだけが必須」
わたしの望みは桂ちゃんの幸せ。桂ちゃんとの幸せではない。その幸せの相手が誰であ
っても良い。わたしは嬉しいし、心から祝う。今はあなたもその幸せの一部なの、葛さん
…。
「あなたは、桂おねーさんや白花さんの想いが返る事さえ、必須ではないと言うですか」
その問にゆめいは柔らかに確かに頷いて。
愛させて欲しい、愛する事が願い、想いを注ぎたいだけと。返される想いを求めず愛す。
槐の封じから解き放たれて肉の体を取り戻し、一番の人の記憶が全て戻った今も尚変らず
に。
「わたしはたいせつな人である葛さんが、桂ちゃんに抱く想いを支えたい。葛さんだけで
はなく、烏月さんやノゾミやサクヤさんの想いも支えたく願う事は、申し訳ないけど…」
柔らかな繊手が鬼切りの頭の両の掌を包み。
声音も視線も暖かに注がれその心を満たし。
「わたしを口封じしなくて宜しーのですか」
鬼切りの頭は崩れ怯む心を鎖して己を保つ。
そうせねば抱き留められて終ってしまうと。
鬼切りの頭はゆめいを嫌い、嫌われたかったのかも。桂を奪い求め合う間柄は敵同士だ。
どんな手を使ってでも追い落そうとするなら、ゆめいを好いてしまう訳には行かない。先
に絆を断って嫌われる事で退路を塞ぎ、敵対関係になって嫌いたいと、嫌わねばならない
と。
でも、そこ迄心を鎖し固めねばならないと言う事は、鬼切りの頭は既にゆめいの事も…。
「わたしが桂おねーさんに抱く想いはあなたも承知でしょう。同時にわたしが恋敵である
あなたに抱く想いも。……一昨日夕刻ノゾミを庇ったあなたに突き刺した鏃に込めたのは、
ノゾミへの憤りだけじゃない。おねーさんの願いを受けてノゾミを受容した、あなたへの
嫉妬も籠もっていた。桂おねーさんの心に一番近く寄り添うあなたへの堪え難い嫉妬が」
妹鬼に踊らされた葛の憎悪や嫉妬は、あなたを身の内から灼いて苦しめた。もうお分り
でしょー。わたしはコドクの最終勝者で触れば腐る程の毒虫です。幼子と甘く見て手を拱
いていると、次は腕では済まなくなりますよ。
鬼切りの頭を見つめ返すゆめいは和やかで。
発した言葉の意味を悟ってない様にも思え。
鬼切りの頭は本物の苛立ちに演技も混ぜて。
「わたしは桂おねーさんを愛したから、あなたが一番邪魔なんです。おねーさんの一番で
あるあなたが一番目障りで除きたいんです」
この侭生かして若杉に戻せば、権力財力を使い放題なわたしが、今後どう出るか分りま
せんよ。鬼切部が必ず贄の民の味方とは限らない。贄の血は鬼を呼び、鬼に力を与えるの
ですから。烏月さんが外した今は最後の機会。
「わたしが一番に想うのは桂おねーさん独りです。だから葛は迷わない。あなたがおねー
さんの害になるなら、葛の想いに邪魔になるなら、いつでもどんな手段でも排除できる」
特にわたしは、歳の近い従姉という存在に遺恨があります。痛恨の想いを味わわされた。
平将門や源頼朝が示す様に、身内にこそ敵が潜むのが世の常です。優しく甘く脳天気な桂
おねーさんの傍に唯一人の年長の身内。まな板に鯉を載せて出す様な物です。あなたはお
料理上手だ、捌くのもあっという間でしょー。わたしがそれを座して見過ごすと想います
か。
「わたしを始末しないと、その内わたしがあなたを排除します。いーのですか? 折角の
一番の人との日々が、潰える前に先にわたしを除いておかなくても」「それはわたしが望
まない以上に、桂ちゃんが望みませんから」
ゆめいは首を左右に振ってから、軽く握った侭だった繊手を解き、背中に回し頬合わせ。
「有り難う。葛さんは、優しい子」「っ!」
ノゾミに抱いた憎しみも、わたしに抱いた嫉妬心も、ミカゲに唆される迄じっと堪えて
くれていた。桂ちゃんをたいせつに想うから、桂ちゃんがたいせつに想った人達に、向け
るべき想いを向けられず。辛かったでしょうに。
「な、何を言っているのです、あなたっ!」
「鏃でわたしはあなたの想いを受けました」
だからあなたの辛さも少しは分る積りです。
あなたが抱いた憎悪はわたしの憎悪であり。
あなたが抱いた嫉妬はわたしにもあります。
それは桂ちゃんを心からたいせつに想う故。
そしてわたしやノゾミを、桂ちゃんを想う故に、表に出さない様に必死に堪え。弾け散
る迄受け止めてあげられなくてごめんなさい。鬼に踊らされた事も、わたしを傷つけた事
も謝る必要は何もない。子供の整理しきれない想いは、整えられる様に大人が導くべきな
の。それを成せなかったのは、わたしの落ち度…。
「突き刺された鏃で漸く、わたしは若杉葛の真の想いに向き合えた。分り合うきっかけを
貰えた。悔いる事は何もない、全て受け入れたから。あなたの桂ちゃんに抱く愛の強さも。
嬉しかった。心から有り難う。それがあなたに罪悪感を残したなら、逆にごめんなさい」
この甘さを表現する言葉を私は持ってない。
ゆめいは鬼切りの頭の嫉妬を愛し。害した者に礼を述べ。頭を下げて抱き留めて。理屈
を超えていた。そして鬼切りの頭も私同様に、その理屈を超えた情愛が好ましく包まれた
く。
その上でゆめいは唯愛に溺れる女ではない。
「葛さんが桂ちゃんを守る為に、必要と判断した時には、わたしを切り捨てて結構です」
静かな声音と柔らかな肌身を決して崩さず。
「鬼切部が葛さんの想いだけで動かせる組織ではない事は、承知しています。鬼切りの頭
の故に、どうにもならない時もあるでしょう。迷えば何もかも失う極限状態で、1つしか
救えない時も。桂ちゃんを守る為に葛さんが必要だと想う時には、わたしはいつでも己を
捧げます。その唇で告げて下さい。従います」
ゆめいは桂の幸せの為なら、再度ハシラの継ぎ手を担う位の覚悟を抱いて。その時の為
に鬼切りの頭や鬼切り役と桂の絆を繋ごうと。
「若杉葛はわたしのたいせつな人。わたしの一番たいせつな桂ちゃんを大事に想い、心通
わせてくれた愛しい人。この身を尽くして守り支えたく想い願う、賢く元気に可愛い子」
否、ゆめいはそれ以上に、鬼切りの頭を。
桂が好くのと同等かそれ以上に深く愛し。
「わたしはどんな葛ちゃんでもたいせつよ」
桂を一番に想う以上他への愛は不純の極み。
自身で先程ゆめいに憤激を叩き付けたのに。
よりによって桂の間近の最強の競合相手を。
奪い合う他にあり得ぬ恋敵を好いてしまい。
鬼切りの頭も二股になると悟って怖れ厭い。
己の想いを抑えつけゆめいを嫌おうとして。
嫌われようと無理に敵意を装う迄したけど。
知れば知る程、話せば話す程愛しさは深く。
桂への想いは確かに抱きつつ、ゆめいへの想いを断つ事は出来ないと。断ち切れないと。
その頬に頬合わせ、注がれる愛しい声は、
「夏が終っても、羽様で過ごす日が終っても、わたしの想いは終らない。たいせつな人
…」
桂を寝取られた訳でもないのに、なぜかこの抱擁が好ましくも妬ましい。恨めしく苛立
たしい。どうして私以外の女と深く心を通わせるのか。私が置き去られている事が痛恨で。
見せつけられて何も為せない事が悔しくて…。
私は今、一体何に羨みを感じたのだろう?
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
通り雨の去った後は、夏の陽が差し込んでも少しの間そう暑くはなく。陽の照す縁側で
ゆめいは鬼切りの頭と2人、寄り添い昼寝を。
「……本当にご神木に、白花さんの助けに行かなくて、宜しーのですか? 彼の助けにな
れるのは、ユメイおねーさんだけなのに…」
鬼切りの頭は、隔意を除いた穏やかな声で。桂にもゆめいにも一番ではない己に時間を
割くのは、ゆめいの本意ではないのではないか。昼の時間、桂が帰って来る迄の時は有限
だと。ゆめいの所作の優先順位を案じた問いかけに。
「心配頂いて有り難う。彼に添いたい想いはあるけど。今はこうして葛ちゃんに添う事が、
羽藤柚明の真の想いで真の願いで、真の望み。桂ちゃんもわたしも特別にたいせつに想っ
た葛ちゃんと、深く確かに心を通わせたいの」
鬼切りの頭の言葉にも出してない望みを願いを察してゆめいは、幼子の身を抱き寄せて。
腕の中に、胸の内に、包む様に肌触れ合わせ。鬼切りの頭はもう気遣う事も隔てる事もせ
ず、身を委ね心を任せ。2人は微睡みの内に沈み。
日の照す間は私は言葉も視線も向けられず。
私が忘れ去られた訳でない事は承知だけど。
あの様に抱き留め囁きかけられる事もなく。
千年共に封じの無為を堪え忍んだ妹も喪い。
否、この手で断ち切り敵として殺めたのだ。
桂を守り救う為に。私の真のノゾミの為に。
でも私は半身を喪う想いを経て、尚己の行く末を己で決められず。他者の手に握られて。
鬼切部やゆめいの慈悲に縋らねば、存在も許されぬ。好いた人に寄り添う事も認められぬ。
『果たしてこれで、良かったのだろうか?』
【……鬼が人の世界に行っても、幸せにはなれません。……姉さまが行く事はない……】
ミカゲの言葉は、私を己の側に戻したい思惑はあったけど、虚偽ではなかった。人と鬼
の在り方は違う。血を餌とし想いを核として、執着を叶える為にあり続ける霊の鬼と。食
事や睡眠が必須で肉の体を持ち、必ずしも執着には縛られぬ人と。欲求も願望も大きく違
う。
ゆめいは拾年前迄人で、今の世に馴染んでおり、肉の体を戻しつつある。観月の娘は鬼
でも肉の体を持つ。霊体の鬼は私だけとなる。霊体の鬼の故に青珠に宿り、夜昼なく桂と
一緒できる思っていたけど。ゆめいが肉の体を戻す今、事情は激変した。鬼切部はゆめい
が寄り添い守る桂の傍に、霊の鬼が居続ける事を許すだろうか。ゆめいは受容するだろう
か。
桂が望んでくれたとしても。桂の願いでも。
私は桂のたいせつな物を多く壊し傷つけた。
ゆめいや鬼切り役でも青珠に力は満たせる。桂の血を啜る迄して、私が満たす必要はな
い。むしろ桂の身を害する私を生かす理由は薄い。今私がここにいる事を許される理由は、
桂の願いの一点だ。私は仕方なく生かされている。他に術があれば人の血を啜る鬼を鬼切
部は放置しない。封じるか滅ぼすかが妥当な判断だ。
【主さまは、私が何百年封じられても鬼神の長寿か悠久の封印で、助けを待って下さった。
でも桂は散り急ぐ桜花の民なの。数拾年経たずに土塊に戻ってしまう人の身なの。病や怪
我であっという間に生命尽きる人の身体…】
今度封印されても、私に希望はない。望みはない。解き放たれるかどうか分らないより、
その先で桂に逢う事が二度とできないのなら、封印されても生命を繋がれる、意味がない
…。